しあわせですか?
石川さんと吉澤さんは、とっても仲良しです。
去年の、ある夏の日、二人はペットショップで子犬を一匹ずつ買いました。
石川さんは自分の買った白いオスの子犬に『よっすぃー』と、
吉澤さんは自分の買った黒いメスの子犬に『梨華ちゃん』という名前を付けました。
「ねぇ、梨華ちゃん。子犬の名前、何にした?」
「えっ? え、えーっとね、ポチ。よっすぃーは?」
「あたし? え、ええーっとねぇ…た、タマ、だよ」
二人とも、自分の子犬にお互いの名前を付けたことは内緒にしていました。
それから一年の月日が流れ、吉澤さんはすっかり大人になった『梨華ちゃん』を
ダンボール箱に入れて電車を乗り継ぐと、河原へ散歩に行きました。
梨華ちゃんを連れて土手を歩いていると、ジョギング中のおじさんやおばさん、
それから学校帰りの小学生や様々な問題を抱えた3年B組のなかまたちが、
梨華ちゃんを見ては「可愛い、可愛い」と言って頭を撫でてくれるのでした。
そしてしばらく行くと、向こうの方から石川さんが犬を連れて歩いてくるのが見えたので、
吉澤さんは大きく手を振って、石川さんの名前を呼びました。
「梨華ちゃ――ん!! 奇遇だねぇー!」
「よっすぃー!! 埼玉からわざわざ来たのー?」
吉澤さんの姿に気付くなり、石川さんは犬と一緒に走り出しました。
「よっすぃー!? よっすぃー、やめて! お願い、止まってえええ!!!」
石川さんがあまりにも必死の形相で猛然と走ってくるので、吉澤さんは、
そんなに自分と会えたのがうれしいのかな、と思いましたが、どうやらそうでもなさそうです。
「きゃあああ――!!」
石川さんは自らの意志で走っていたのではなく、飼い犬の『よっすぃー』に引き摺られるようにして、
吉澤さんの元へ走らされていたのでした。
「きゃあっ!?」
「梨華ちゃん!?」
力尽きた石川さんは、よっすぃーのリードを放すと、勢いあまって土手を転げ落ちてしまいました。
吉澤さんがあわてて、石川さんの元へ走ります。
「だいじょうぶ!?」
吉澤さんが駆けつけると、石川さんは土手の下で、膝を押さえてうずくまっていました。
「痛っ、よっすぃー、やだ、そこ痛いっ…」
「あっ…梨華、梨華ちゃん、ちょっ、すごい…こんなになっちゃってる……ねぇ、ねぇ触っていい?」
「ダメ、やだ、、、やだってば、よっすぃー、そんなトコ、あっ…」
「うわあー。コレはたぶん、カサブタになるね」
擦りむいた膝の傷口には、血が滲んでいました。
「そんなに見ないで、見ない…きゃあーっ!? 見て、よっすぃー!!」
突然、石川さんが悲鳴をあげました。
「んっ? げっ!? うっそおおおお――――っっ!!!」
吉澤さんが見上げると、土手の上では飼い主の手を離れた梨華ちゃんとよっすぃーが、
ちょっと人には言えないような、大変な行為をしている最中でした。
「よっすぃー!! やめなさい、よっすぃー!!」
石川さんが、慌てて土手を駆け上がります。
「あああ、梨華ちゃんが…梨華ちゃんが…梨華ちゃんが…」
吉澤さんは、石川さんが必死で犬たちの間に割って入る様子を、ただぼんやりと眺めていました。
そんなことがあって、その日、二人はなんとなく気まずいまま別れました。
それから一ヶ月が経ったある日のこと、レコーディングスタジオで石川さんが、
メンバーの小川さんや新垣さんに歌唱指導をしていると、
時間よりも少し遅れて、吉澤さんがやって来ました。
「おはようございます…」
吉澤さんの挨拶には覇気がなく、いつもの吉澤さんらしくありません。
しかも顔色は真っ青、すり足でうつむき加減に歩く姿は、まるで亡霊さながらです。
只ならぬ様子の吉澤さんのことが心配になった石川さんは、二人きりのときを見計らって訳を尋ねました。
「梨華ちゃんに、子供ができたみたいなんだ」
吉澤さんは俯いて、震える声で言いました。
「子供…?」
石川さんは、しばらくは意味がわからずにぼんやりしていましたが、
そのうちに、ひと月前の河原での出来事が脳裏に甦りハッとしました。
「あのとき、間に合わなかったんだ…」
自分が引き離したときには、すでに…今度は石川さんが、蒼ざめる番でした。
「でもお母さんが、これ以上、犬は飼えないって…それであたし、どうしたらいいかわかんなくって。
ねぇどうしよう、梨華ちゃん、赤ちゃんどうしよう、ねぇ」
吉澤さんは、ひどくうろたえていました。
「落ち着いて、よっすぃー」
石川さんの背に、『責任』の二文字が重くのしかかりました。
だって梨華ちゃんのお腹の子の父親は、九割方、よっすぃーに間違い無いのですから。
責任能力の無い父親(犬)に代わって、飼い主である自分が責任を取るのは当然のことだと、
石川さんは思い詰めるのでした。
「子供は、私が引き取るから。だから、よっすぃーは何も心配しないで」
石川さんはとうとう、覚悟を決めました。
「ホントっ!? 本当にいいの!?」
涙ぐむ吉澤さんに、石川さんは優しく微笑むのでした。
「ゴメンね、梨華ちゃん。なんか、迷惑かけちゃって」
「ううん。よっすぃーが謝るコトじゃないよ。だって悪いのは全部、ウチのよっすぃーなんだから」
「ううん。ウチの梨華ちゃんだって、ぜんぜん嫌がってなかったもん。どっちもどっち、ってカンジだよ」
つまり梨華ちゃんとよっすぃーは、お互いに愛し合っていたっていうことだね。
つまり梨華ちゃんとよっすぃーの子供は、望まれてこの世に誕生するっていうことなんだね。
こうして、半ば強引に都合の良い結論を導き出した二人は、一人暮らしの石川さんの部屋で、
やがて生まれてくる梨華ちゃんの子供を育てる決心をしたのでした。
「あたし、これからはもっと仕事がんばるよ。
赤ちゃんが美味しいモノをたくさん食べられるために。赤ちゃんが大きく育つように」
「うん。二人で、立派に育てようね」
「梨華ちゃんには、なに食べさせてあげたらいいのかな? やっぱり、たくさん食べる?」
「うん…やっぱり、自分のと赤ちゃんのと、たくさん食べるんじゃない?」
「ねぇ、なにが好き? 梨華ちゃん、なにが食べたい? レモン? みかん? はっさく? お酢?」
よっすぃーは頭の中が混乱して、自分でも訳が分からなくなっていました。
「落ち着いて、よっすぃー。赤ちゃんできたの、私じゃないんだから。聞かれたってわかんないよ」
すると吉澤さんは、ふうっ、とため息をつきました。
「梨華ちゃん、なんて名前、付けるんじゃなかった。紛らわしくってしょうがないよ」
「私も。だって、まさかこんなコトになるなんて思わないもん」
「「どうして、」」
同時に言いかけて、二人は顔を見合わせました。
どうして、そんな名前を付けたの?
「なんとなく、かな」
吉澤さんは、石川さんの問いを最後まで聞かずに、言いました。
「私も」
そう言うと石川さんは、くすっと笑いました。
それから一ヵ月後、梨華ちゃんは吉澤さんの家で、無事に5匹の元気な赤ちゃんを産みました。
可愛い5匹の子犬のうち、4匹は保田さんにもらわれていきました。
「いやあー、やっぱ家に生き物がいるって良いよねぇ〜。守るべきモノがあるってさぁ、たまんないわよ。
なんつーか、心が癒されるっつーか、生活にハリが出るっつーか、仕事頑張ろうって気になるよねー」
子犬を飼い始めてからの保田さんは、なんだかとっても幸せそうです。
「圭ちゃん、わかってる? 子犬っつーのはね、そのうち、でっかくなるモンなんだよ?」
子犬たちのあまりの可愛さに我を忘れた保田さんは、矢口さんの忠告も聞かず、
石川さんと吉澤さんに勧められるがままに、4匹もの子犬を一手に引き受けてしまったのでした。
「家の中に赤ちゃんがいるって、なんか幸せなカンジ」
「うらやましい?」
「んー、でも、やっぱりウチじゃあ飼えないからなぁ」
二人は、5匹のうちで一番後に産まれた子犬を、石川さんの部屋で飼い始めました。
白をベースに、ところどころ黒い毛が混じったその子犬を、二人は『パンダ』と名付けました。
「ねぇ、いっそのこと、よっすぃーもココに住んじゃえば?」
「んー、それもいいかもねぇ」
吉澤さんは、笑って言いました。
「あのね、ひとりって、本当はすごく寂しいんだよ? だから私は子犬を買ったんだもん」
だからよっすぃーって名前にしたんだよ、と、石川さんは急に真剣な顔になって言いました。
笑ったりして悪かったなあ、と、吉澤さんは思いました。
そこで吉澤さんは、自分も少し真剣になって想像してみました。
石川さんとよっすぃーとパンダの住むこの部屋で、自分と梨華ちゃんが一緒に暮らすことについて。
すると、いろいろとやっかいな問題があることに気が付きました。
「でもさぁ、あたしが梨華ちゃん連れてきたらね、すごいコトになるよ、この家」
「そっか、梨華ちゃんとよっすぃーが二人ずつになっちゃうんだもんね」
吉澤さんは石川さんのことも、それから梨華ちゃんのことも『梨華ちゃん』と呼ぶし、
石川さんは吉澤さんのことも、それからよっすぃーのことも『よっすぃー』と呼ぶので、
一緒に住むとなると二人はお互いの呼び名を変えなくては、紛らわしくて仕方がありません。
「あと、二人で住むんだったらもっと広い部屋のが良いし、引越しのこととかも考えないといけないし」
よっすぃーは指折り数えてみましたが、片手では足りないぐらい、
二人と三匹が一緒に暮らすにあたって、問題は山積みのようです。
「ねぇ、よっすぃーって、そういうの考えるの、嫌いなヒト?」
パンダの頭を優しく撫でながら、石川さんが言いました。
「ううん。楽しいヒト」
パンダは石川さんの膝の上で、静かな寝息をたてています。
「だったら、そういうのが、幸せっていうんじゃない?」
「あ」
吉澤さんは、目から鱗が落ちました。
「今度は、梨華ちゃんも連れてくるからね」
吉澤さんが言うと、石川さんの膝の上で、パンダがぴくっと耳を動かしました。
「っていうか、アイツはなに? ずっと寝てばっかじゃん」
ソファーの上で眠っているよっすぃーは、吉澤さんの声にぴくりとも反応しません。
「気にしないで。よっすぃーって、いっつもあんなカンジだから」
「ちょっと無責任なんじゃないの? 梨華ちゃんにあんなコトしといてさぁ」
吉澤さんは、大切な梨華ちゃんがよっすぃーにあんなコトをされたことを、まだ根に持っているのでした。
「ねぇ、さっきからウチのよっすぃーだけが悪いみたいな言い方、やめてくれる? ああいうコトは、お互い様でしょ!」
一方、このような状況でどうしても不利な立場に立たされるのはオス側の飼い主であり、
石川さんも例に違わず吉澤さんに対して負い目を感じていたため今まで何も言えずにいたのですが、
そろそろ我慢の限界でした。
「ま、いっか。できちゃったモンは、しょうがないし。っていうかもう、生まれちゃったし」
事も無げに吉澤さんが言うと、石川さんはまだ何か言い足りなさそうでしたが、渋々頷きました。
「パンダに罪はないもんね」
安らかなパンダの寝顔を見ながら、石川さんの怒りもどこかへ飛んで行ってしまったようです。
石川さんがいて、よっすぃーがいて、パンダがいて。
次に来るときは必ず梨華ちゃんも連れて来てあげよう、と、吉澤さんは思いました。
ひとりだけ仲間はずれじゃあ、可哀想だもの。
「よっすぃー」
「んー?」
「しあわせ?」
「もちろん」
何はなくともまずは、お互いの呼び方を考えなくっちゃあ。
それは次に会うときまでの宿題にしよう、と、吉澤さんは思うのでした。
<おわり>