shooting star
晴れた夜には、二階の窓をいっぱいに開けて、いくつもの流れ星を見つけた。
誰に聞いたのか星が流れてしまうまでに願いごとを三回唱えると叶うっておまじないを、
私たち子供はみんな常識みたく知っていて、だから挑戦するんだけど、
いつだって三回言い終わらないうちに、あっけなく星は消えてしまった。
都会では星が見えない、って聞いたことはあったけど、暮らし始めてみるとそれはやっぱり本当のことで、
ここでは流れ星どころか、たったひとつの星さえも見つけることは出来ない。
全体を薄い雲に覆われてしまったような灰色の空に、薄ぼんやりとしたお月様がぽつんと浮かんでいるだけの、なんだか味気ない景色。
始めは曇ってるから星が出てないんだと思っていたのに、次の日も次の日もその次の日にもやっぱり見えなかったから、
上京して一週間くらい経ってようやく私は、ああアノ話は本当だったんだ、とか、思ったのだった。
私にとってそう遠くない未来にやってくるはずのその瞬間のことを想像してみるとき、
それは、生まれ育ったあの町をひとり出て行くときの気持ちと少し似ていて。
だからかな。
近ごろやたらとあの頃のことを思い出したり考えたりするのは、たぶん、そういうわけなんだと思う。
なんて、眠りにつく前にそんなふうなことをぼんやり考えているうちにいつの間にか寝ちゃってるってのが、
ここんとこお約束のパターンなんだけど……
あーあ。
どうして今日に限って、いつまでたっても眠くなんないんだろ。
考えごとなんかしてないでとっとと寝ちゃってればよかった、なんて、今さら後悔したってもう遅い。
「……っ、…く」
耳を塞ぐ代わりに目をかたく瞑って、コブシをぎゅっと握って、心の中で繰り返し、唱える。
”流れ星みたいには、なりたくないから”
いきなりパッ、って瞬いて、夜空にすーっ、って線を引いたかと思うと、あっという間に消えちゃうあの、流れ星みたいに。
そんなふうに終わるわけにはさ、いかないんだよ、なっちは。
それなのに、さ。
「っ…」
生まれ育ったあの町を出て行くときみたく、またひとりに戻るだけなのに。
うれしいはずなのに、どうしてこんなに切ないんだろう?
うれしいはずなのに、泣きそうになっちゃうのは、どうしてだろ。
「………っ、」
こんな気持ちになったり、自分以外の誰かをこんな気持ちにさせたりするぐらいなら、
はじめからひとりの方が良かったのかも知れない。
彼女に声をかけるべきかどうか迷っている間に、そんなことを考えた。
合わせた背中越しに、小さな震えが伝わってくる。
矢口は、声を殺して泣いていた。
最近、彼女はうちによく泊まりに来る。
たいていは私から誘うんだけど、今日はめずらしく彼女のほうから、
『今日、なっちんトコ行っていい?』
って聞いてきて、こっちもとくに予定とか無かったから、
『いいよ。おいで』
って答えた。
みんなにあのことを告げてから、二ヶ月。
何にでも”終わり”があるっていうのは悪いことばかりじゃないんだなって、最近しみじみとそう思う。
だって、卒業したら矢口ともあんまり会えなくなっちゃうから今のうちにいっぱい遊んでおこうとか、
下のコたちにもいろいろ教えてあげようとか相談にも乗ってあげなきゃとかそんなコトで頭がいっぱいで、
近ごろの私は本当に、”残された時間”ってやつを有意義に使えてるなあって実感してるから。
「矢口」
呼ばれてとっさに振り向いた彼女は、振り向いてからしまったと思ったのか、
「ひぅっ」
しゃっくりみたいなヘンな声を出すと、すぐにまた背中を向けてしまった。
「どしたの?」
わざとノーテンキに尋ねてみる。
こっそり泣こうとしてるのにわざわざ声をかけたのは、彼女が泣いてるのがたぶん、私のせいだから。
というのも、仕事帰りに二人でちょっと遅めの晩ゴハンをしつつ、彼女がうちに来たいと言ったことについて、
『なっちともうすぐ離れんのが寂しいんでしょー』
私がからかうと、矢口は、ふっといきなり暗い顔になって、
『寂しいに決まってんじゃん』
と言った。なんだか、ママに叱られて拗ねてる子供みたいだった。
いつもだったら、『寂しいけど…』って、”けど”の後ろに何かしら前向きなフレーズをくっつけてよこすくせに。
投げやりな彼女の態度に困った私は、
『ちょっとぉ、いきなり素直になんないでよね』
そう言ってごまかすとすぐに話題を変えたものの、お店を出るまでお互いなんとなく気まずかったのだった。
「ねぇ、矢口ってばさ」
もう何度目かの呼びかけにも、泣いてる彼女は首を横に振るばかりで何も答えてはくれない。
「ずっと、起きてたの?」
尋ねると、ややあって、こくん、と頷いた。
「なっちも起きてたんだよ? なんか、眠れなくってさ」
はい、と目の前にティッシュを置いてあげると、矢口は布団からもぞもぞと手を出し、箱から数枚抜き取った。
相変わらず、背中はこっちに向けたまま。
「なんか言いたいコトあるんだったら、さ。なっち、明日になったら忘れてるから、何でも言いな?」
「……言ったって、どうにもなんないし」
ぼそりと言う。
「ふーん」
矢口の言いたいことは、”言ったってどうにもなんないコト”。中身はなんとなく、想像がついた。
「そんなの言ってみなきゃわかんないじゃん。だいたいさ、言ったってどうにもなんないコトは言っちゃいけないんだったら、
世の中のたいていのコトは、言っちゃいけないコトなんじゃないの?」
「なにそれワケわかんない」
「言って、ってこと。だって気になるから、ねぇ、言って」
すると矢口は諦めたように、短いため息を吐いた。
「じゃあ言うけど、明日になったらちゃんと忘れてよね」
「いいよ」
「絶対だからね」
「わかったってば」
念押ししてくる彼女に答える。
矢口の言いたいこと、大体は予想がついてるけど…そこまでしつこく念を押すほど恥ずかしいコトなんだろうか?
ごくりと唾を飲み込む。
私はちょっぴり緊張しつつ、彼女の次の言葉を待った。
ずぅっ、とハナをすすると、
「ひとりにしないで」
矢口は言った。
「え…?」
卒業しないで。とか、言うのかと思ってたのに。
とたんに、ワケがわからなくなる。
「なんで?」
だってさ、だって、
「一人になんの、なっちの方じゃんよ」
「…ちが、う」
独り言みたいに、矢口が呟く。
「いっつも、ひとりっきりで置いてかれんの、おいらの方だもん」
彼女の言葉が胸に、ずしん、と響いた。
私はなんだか急に胸がドキドキしてきて、彼女に何か言いたいんだけど言うべき言葉が見つからなくて、
三回ぐらい口を開けては閉じを繰り返したけど、結局何も言えなかった。
すごく動揺してる。私も、そしてたぶん、矢口も。
もうすぐ一人になる今の私が、うれしいのと怖いのと寂しいのと、いろんな気持ちになるのと同じように、
見送る彼女の中にもきっと、うれしいのや怖いのや寂しいのや、いろんな気持ちが同居しているんだろう。
私のソロデビューが決まったとき誰よりも喜んでくれたのは矢口だったし、だからきっと、うれしいのや、
怖いのや寂しいのや、それからもしかすると、ううん、もしかしなくても……羨ましい、って気持ちも、たぶん。
今まで同じ数だけ仲間を送り出してきた私たちだけど、次は私が、彼女に送られる。
なんだかすごく、不思議な気がした。
「なっちが、してほしいコト何だってしてあげるし。なっちが欲しいモノ、何だってあげる。
だから、お願いだから、もう、ひとりにしないで」
ちょっとの間泣き止んでいた小さな背中が、また震えてる。
長い時間をかけて必死に考えた言い訳や強がりが、こんなにもたやすく揺らいでしまうものだなんて知らなかった。
どんなことにも”終わり”があるっていうのは悪いことばかりじゃないんだって、やっとそう、思えるようになったのに。
思えるようになったんじゃない、言い聞かせてるだけじゃん、って、今はもうそんなふうに思ってる。
強がってはまた揺らいで。
私たちっていつまでたってもそんなことの繰り返し。だけど、それもきっとすぐに忘れるから、平気だよ。
「ねぇ矢口」
「…な、によ」
矢口が、涙声で途切れがちに答える。
「どんだけぐちゃぐちゃに泣いたって、しばらくすると涙が乾くのと同じようにさ。寂しいのだって、いつかは薄れてくよ」
矢口が欲しいのはこんな言葉じゃないってコトぐらい、わかってる、でも。
もしも、私たちの心の中にある悲しみや寂しさが、いつまでも同じ重さとカタチでずっと消えずに残っているものだったとしたら、
私たちは今ごろとっくに押し潰されているんだろう。
だけど、うちらは知ってる。
悲しくて悲しくて、まるで世界の終わりみたいに悲しんでた出来事でも、時間が経つにつれてそれは少しずつ小さくなって、
やがて心の奥の引き出しに仕舞われて。
そしてときどき思い出したように引っ張り出してきては、あんときはほんと悲しくていっぱい泣いたよね、なんて、
カメラの前とかでしみじみ言えちゃったりするときが、必ずやって来ること。
けど、それはさ。
それはけっして悪いことじゃないと、なっちは思うんだ。
「なっちがいないのもさ、すぐに、当たり前になるよ」
「…わか、っ、てる、てば」
「そうだよね、ゴメンね」
そっか。
矢口はぜんぶわかってるから、だから泣けてきちゃうんだよね?
「でも、矢口ってホント泣き虫だよねぇー。今度から、むし、って呼ぶよ?」
「……前から呼んでるくせに」
「っていうかさー、さっき、モノで釣ろうとしたよね? なっちは何者だい」
「るっさいなあ。ってゆーかだから、言ってもどうにもなんないコトだっつったじゃん!」
「やっ…!?」
やっとこっちを向いてくれたと思ったら、至近距離から私の顔めがけて丸めたティッシュを投げつけてきた。
「ちょっとーっ!」
私が投げ返そうとすると、彼女は布団を頭から被って、まんまと隠れやがった。
「むし。おーい、むしさんむしさん、出っておいでっ♪」
「むし言うなっ!」
くぐもった声で抗議する。
ゴメンね、矢口。
矢口が言いたかったことはやっぱり、言ったってどうにもなんないコトだったけど、約束は守るから安心してね。
だって、なっちに出来ることがあるとしたら、矢口が泣いたことやなっちに言ったことぜんぶ、
明日になったらちゃんと忘れてあげることぐらいだもんね。
「こっちってさぁ…ホントにお星様、見えないよね」
「えー? なに言ってんの突然」
矢口は、とりあえず泣き止んでくれた。
晴れて、”泣きむし”から単なる”むし”に昇格(この場合、降格って気もするけど)したってワケ。
彼女はときどき思い出したようにずずっ、とハナをすすりながら、目が冴えて寝付けなくなってしまった私の話に付き合ってくれてる。
「なっちさぁ、ホントびっくりしたんだ最初。噂には聞いてたけどさ、ホントに1コも見えないんだもん。
ホントなんだあ、ってホテルで圭織と騒いだ覚えある。なんかすっごい覚えてんのそん時のこと」
「噂って…。でも、うちの近所はかろうじて見えるよ」
「なっちの家の近くなんかホントすごいんだって! でもすっごいキレイなんだけどさ、ずっと見てるとなんか怖くなんだよね。
いっぱいありすぎて、もう空じゅうが星でさ、見てるとどんどん迫ってくるカンジすんの。
なんか、星空に押し潰されちゃいそうな気がしてくんだよね」
「ああ、すっごい地方とか行くとそんなカンジだよね。流れ星とかバンバン飛んじゃってんでしょ?」
「飛んでるねー。ビュンビュン飛んでるね」
「願いゴトとかすんの? やっぱり」
「したねー。アレってさ、消える前に三回言わなきゃいけないとかって言うじゃん。
だからさぁ、見つけたときのために早口で言う練習したりしてたもん、なっち」
「わー。バカだねー」
「なんでっ? やんない? ねぇやんない?」
「やんないよー。まず流れ星じたいあんま見たことないし…ってゆーか、ほとんど記憶ないかも」
「そっかぁ」
やっぱり、都会のコは星とか見て遊んだりしないのかな…ゲーム好きな矢口のコトだから、
きっとテレビゲームばかりやってる子供だったんだろうな、なんて想像してみる。
「そんなんだから大っきくなれなかったんだよ…」
「…いしたの?」
「えっ?」
無意識に独り言を呟いていた私は、彼女の言葉でハッと我に返る。
「だからー、なんてお願いしたの?」
どうやら、さっきの話の続きらしい。
「なんだろうね。もう忘れちゃったよ」
ふーん、と、つまんなそうに言うと、矢口はまた思い出したようにハナをすすった。
「いいなぁー。なんか見つけたくなったもん、今さら」
「でも、実はあんま好きじゃないんだよね」
「流れ星?」
「うん」
と私が答えると、矢口は意外そうに、
「なんで? キレイじゃん。ってゆーか嫌いなくせに願いゴトとかすんの? そりゃあ怒るよ、星だって」
「うん、でもさ、キレイだけどすぐ終わっちゃうじゃん。なんかアレ、すごい寂しいなって」
「そっかなー。それがイイんじゃないの? なんか、はかなげなトコロが?」
どうも、矢口にはあまりピンとこないらしい。
なにしろ、ほとんど見た記憶が無い、のだから当然といえば当然なんだろうけど。
「なっちは星座とか見てる方がいいな。いつもそこにあって、ずっとキラキラしてんの見てる方が、なんとなく好き」
「でも、願いゴトはするんでしょ?」
「まぁ、それは一応ね」
ずるいよー、とか言いながら、矢口は笑った。
「だからさ、なっちもさ。流れない星みたく、いっつもそこにあって、ずーっとキラキラしてたいなぁ、とか思うワケさ」
いつもそこにある星だって、いつかは流れ星になるんだよ。
いつもの矢口にだったら、そうツッコまれそうだけど、
「なるほどねぇ。そっかそっか。それが言いたかったか」
彼女はそれだけで、あとは何も言わなかった。
「矢口、ほら、寝ちゃう前に顔洗ってきなよ」
どうやら眠くなってきたらしくいきなり喋らなくなった彼女を、揺り起こす。
「…あー、そだね」
「行ってらっしゃい」
スタンドの灯りを点けると、眩しくて頭がくらくらした。
「わ、まぶしぃー」
矢口は両手で目を擦りながら、ダルそうに起き上がると、二三歩進んだところでよろけた。
「矢口、おじいちゃんみたいだよ? ヤバイよ動きが」
「うるさい」
「あっ、ねぇ、来るときお茶持ってきて。ノド乾いちゃった」
「えーっ…もう」
ぶちぶちと不満を呟きながら部屋を出ていく後ろ姿を見送って、私はまたごろりと横になった。
「ねぇ矢口」
今ごろきっと冷蔵庫を漁っているはずの、小さな背中を思い浮かべながら、呟く。
ねぇ、やぐち。
子供の頃にした、たくさんのお願いゴトは、もう覚えていないけど。
もしもこの街でナガレボシを見つけることができたら、願いゴトはもう、決めてあるんだ。
少し長いから、三回唱えるのはちょっと難しいかもしれないけど、そんときはなっちと矢口と圭織とで、せーのでいっしょに言おっか。
したら、三回言ったのと同じことになるっしょ?
そんなんズルだよー、って、矢口だったらそんなふうに言いそうだけどさ。
”ずっと、輝いていられますように”
なっちー、お茶なんかないよー。って、眠そうな声で矢口が呼んでる。
「うそぉ?」
ベッドをおりると、さっき矢口がそうなったのと同じ辺りでなっちもよろけた。
「そんじゃあ買いに行こうよやぐちー」
やだよー、こんな時間に。
とかなんとか、ぶちぶち言ってる矢口の手を引っぱって、真夜中の散歩に出かけた。
昼間あんなに晴れていたのに、見上げると今夜もやっぱり当たり前のように、
灰色の海に薄ぼんやりとした冴えないお月様がぽつんと漂っているだけの、つまんない景色が広がっている。
「星が1コも見えないってのは、なんだかさあ」
ふいに、矢口が言った。
「願いごとは自分で叶えなさい、って、言ってるみたいじゃない?」
ちょっとばかし、ぐっときた。
矢口って、がんばることの天才だ。
「あぁー、なるほどね」
「どうよどうよ、今の」
「んー。ザブトン一枚?」
「えぇー、一枚かよー」
私たちは笑った。
灰色の空が、さっきよりも少し、澄んで見えるような気がした。
<おわり>