とっかえひっかえっ娘。
<第1話>
「あーあ、たいくつだなぁー」
とある町の、ごく普通の家に生まれたごく普通の女の子、よっすぃー。
「どうしてこんなに、たいくつなんだろう?」
よっすぃーは寝る前になると決まって部屋の窓を開け、星空を眺めながら独り言を言うのです。
どうしてこんなにたいくつなんだろう、どうしてこんなにたいくつなんだろう。
明日だってきっと今日みたいに、たいくつでつまらない一日に決まっている。
「私だけなのかなぁ?あややは、たいくつだなぁーとか思わないのかな?」
机の上のラジオからは、さっきからずっと、よっすぃーが大好きな『あやや』の歌が
流れています。
「ももいーろぉの、かたおもーい♪」
大好きな『あやや』の歌を口ずさむのが、よっすぃーの唯一の退屈しのぎの方法でした。
「ルルルルル、マジマジとララララーラ。むねがキュルルン♪」
大好きですが、歌詞はうろ覚えです。
「あーあ、どうしてこんなに、たいくつなんだろう」
そう言うとよっすぃーは、深いため息をつきました。
「それはね。ともだちが、いないからだよ」
寒いので窓を閉めようとしたよっすぃーは、どこからか聞こえてきた声に
ハッとしました。
半分閉じた窓をまた全部開けて、窓の外をキョロキョロと見回しますが、
辺りには誰もいません。
「あれぇ?女の子の声が聞こえたんだけどなぁー」
曲が終わり、ラジオからはよっすぃーが大好きな『あやや』の声が聞こえています。
ラジオの声だったのかも知れない。気味が悪いので、そう思うことにしました。
「あややにしては、あんまりカワイイ声じゃなかったけど…まいっか」
「可愛くなくて悪かったな」
「えっ!?」
後ろから聞こえた声に振り返ると、なんとよっすぃーのベッドの上に、一人の女の子が
寝ているではありませんか。
びっくりして後ろへ飛びのいたよっすぃーは、机の脚に右足の小指をぶつけてしまいました。
「誰だ、おまえっ…!」
よっすぃーはうずくまって小指の痛みに耐えながら、声を絞り出します。
「あいぼんです」
ピンクのトレーナーに赤いミニスカートで、真っ赤なランドセルを背負った少女は、
ベッドの上に寝転んだまま答えました。しかも土足です。
「なんで私にともだちがいないって、わかったの?」
「あんたのことなら何でも知ってるから」
二人は並んでベッドに腰掛けると、まるで昔から知っている間柄のように気安く、話し始めました。
「すっごいんだよ、あいぼんは魔法使いなんだぜ」
「うっそ、マジで!?」
びっくりして大声を上げてしまったよっすぃーの口を、あいぼんが慌てて両手で塞ぎます。
やがて呼吸困難に陥ったよっすぃーの鼻が、大きく膨らみました。
鼻呼吸を強いられたよっすぃーの鼻息が、部屋中に響き渡ります。
「ともだちかぁ…。ともだちがいれば、たいくつじゃなくなるかな?」
よっすぃーは、気を失いそうになってやっと、口を塞がれた手を放してもらえました。
あいぼんは、よっすぃーが白目を剥いているのを見てやっと、事の重大さに気が付いたのでした。
「自分、名前は?」
「私のこと何でも知ってるのに、名前は知らないの?」
「むぅっ…!うるさいなー!」
「…!」
よっすぃーは再び、呼吸困難に陥りました。
今度はさっきよりも少しだけ、危険な状態でした。
けれどもよっすぃーは奇跡的に、一命をとりとめたのです。
「吉澤ひとみ。でも、真里ちゃんは私のこと『よっすぃー』って呼んでる」
「『真里ちゃん』って?」
「お隣さん。小さい頃から仲良しなの」
「なんやぁ、あんた友達おったんか…ああ、またやってもーた。
ウチのリサーチが甘かったんかなぁ…どーしよ、また中澤さんにドヤされるワ」
あいぼんは暗い表情でブツブツと独り言を繰り返しながら、頭を抱えています。
「ともだちじゃないよ。おさななじみ、だよ。真里ちゃんが言ってた」
「幼馴染だって友達には変わりないじゃん。どっちも似たようなモンだよ」
「違うよ、真里ちゃん言ってたもん。ともだちは、作らない方が良いんだって」
思いがけない言葉に、あいぼんは不思議そうな顔でよっすぃーの顔を覗き込みます。
「なんで?友達は、いた方が楽しいに決まってるのに」
「ううん。ともだちは裏切るから、いない方が良いんだよ。ともだちは、信じちゃいけないんだよ」
「真里ちゃんが、そう言うたん?」
「うん」
(真里ちゃんって、どんな子なんやろ)
『ともだちは、作らない方が良い』
あいぼんには、魔法使いの先輩の中澤さんや平家さん、それから他にもたくさんの友達がいます。
そしてそのたくさんの友達がいるおかげで、あいぼんは毎日をとても楽しく過ごしているのです。
ですから、あいぼんには『真里ちゃん』の言うことが、不思議で仕方ありませんでした。
「幼馴染は良くて、友達はアカンの?」
「うん」
そして、『真里ちゃん』の言うことを信じてともだちを作ろうとしないよっすぃーのことが、
あいぼんにはとても可哀想に思えるのでした。
――
「で?今度は大丈夫なんやろな」
大きな会社のとても偉い人が座るような大きな机に肘を突き、大きなイスに
腰掛けてふんぞり返っているのは、あいぼん直属の上司、中澤さんです。
中澤さんは仕事中ですが、ワインでほろ酔い気味です。
「裕ちゃん…社長のイス勝手に座って、怒られんで」
呆れたように言ったのは、先輩魔法使いの平家さん。
「まっかしてください!今回ばかりはこのあいぼん、自信満々でー、ございます!!」
胸を張って言うあいぼんの赤いランドセルからは、クリーム色のタテ笛が顔を覗かせています。
このタテ笛は、あいぼんが魔法使い試験に合格したお祝いに平家さんがくれたものでした。
『なんやコレ、小学生のタテ笛やんかー。
中学生のタテ笛言うたら普通はアルトリコーダーちゃうんかいな。シケー』と、
照れ隠しに毒づいてしまった、ちょっぴり切ない思い出の品なのです。
『え、だってアンタ、中学生やのにランドセル背負ってるやん…。
ランドセル言うたら普通は、ソプラノリコーダーやん…』
あの時の平家さんの哀しげな瞳は、今でもあいぼんの胸に焼き付いています。
「部下の不始末は、上司であるアタシの責任になるんやからな。
今度中途半端な仕事してみぃ、腕立て伏せ五万回よりもっとスゴイことやらしたるで」
例えが凄すぎて、あいぼんには想像することができませんでした。
あいぼんが中澤さんの下で修行を積み、晴れて魔法使いになってから一年が
経とうとしていますが、未熟なあいぼんは『誰かの願い事を叶える』という仕事を
まだ一度もやり遂げたことがなかったのでした。
「みちよも、連帯責任やで」
「えっ、なんで!?ウチ関係あれへんやん、部署かてちゃうし!
ウチ裕ちゃんの部下でも何でもないのに…!」
平家さんは、焦りました。
あいぼんは、自分には関係ないので黙っていました。
「ちっくしょー。絶対出世してやる…会社のカネを億単位で動かす女になってやる」
平家さんは魔法使いですが、なぜか経理部に所属しています。
(今度こそ、ちゃんとやり遂げるんや。よっすぃーに、ともだち作ってあげるんやから)
こうしてあいぼんは次の仕事を、『よっすぃーを退屈から救い出すこと』に決めたのでした。
――
次の日、あいぼんは昨夜と同じ時間によっすぃーの部屋へ行きました。
自分がよっすぃーの願い事を叶えるための手伝いをすることを、伝えるためです。
「えっ、ともだち?」
「うん。だって、もう退屈なのは嫌なんでしょ?」
「そうだなぁー、確かにたいくつはもう、嫌だね」
二人は昨夜と同じようにベッドの上に並んで腰掛け、昨日初めて会ったばかりとは
思えない気安さで、楽しそうに話すのでした。
「だから、ウチがよっすぃーと仲良くなれそうな子を選んで、よっすぃーに会わせてあげる。
友達ができれば、毎日退屈しなくて済むでしょ?」
「そうなの?よく、わかんないけど」
「そういうモンなの。友達っていうのは、楽しいモンなんや」
「ふーん…でもやっぱり、信用できないかも」
「えーっ、もぉー、どないしよ」
あいぼんは、疑り深いよっすぃーの態度に、ほとほと困り果ててしまいました。
「じゃあさ、もしもだよ?
もしも、よっすぃーが友達を作るとしたら、たとえばどんな子がいい?」
「えーっ。急に言われたって、そんなのわかんないよ」
そう言うとよっすぃーは、下を向いて考え込んでしまいました。
そもそもよっすぃーは『ともだち』を作ったことがないのですから、
急に聞かれたって、わからないのは当然のことなのです。
「じゃあさ、どんな子とお話してみたいって思う?
たとえば『優しい子』とか『面白い子』とかさ、あとは何やろー、聞き上手な子とか?
ああ、コレはけっこー、重宝やな、うん。つまらん話でも、笑ってくれたらうれしいやん?」
腕組みをして考え込んでいるよっすぃーは、あいぼんの話をまるで聞いていませんでした。
「そうだなぁー、カワイイ子かな」
「えっ」
思いがけないよっすぃーの言葉に、あいぼんは驚きました。
「カワイイというのは、見た目が?」
「もちろん」
そしてあいぼんは、よっすぃーのおっとりとした喋り方やその優しい表情から、
よっすぃーのことを心のどこかで『外見より性格重視な人間』だと勝手に
思い込んでいた自分の甘さに、気付かされたのでした。
「ねぇ、あいぼん。ともだちは、裏切ったりしない?」
「うん。しないよ」
「ともだちは、私に嫌なことや、悪いことをしない?」
「するわけないじゃん。だって友達だもん」
「…そっか」
あいぼんには隣に座るよっすぃーの横顔しか見ることができませんでしたが、
頬にかかった髪越しに見えるよっすぃーの口元がうれしそうに緩んだのを、
あいぼんは見逃しませんでした。
「だから、あんまり深く考えないで軽い気持ちでさ。ねっ?ホラ、ドンドンいこー!」
あいぼんは、最後の仕上げに入りました。
少しずつですがよっすぃーは、『ともだち』という存在に興味を持ち始めているのです。
あいぼんとしてはもちろん、この機を逃す手はありませんから、ここぞとばかり
よっすぃーに畳み掛けます。
「ってゆーか、『カワイイ』だけじゃアレだからさ、もっと条件絞り込んでくれると
こっちとしても有難いんだけど。他にはたとえばどんな娘がお好みなのかなー?」
あいぼんは、一体よっすぃーに何を紹介したいのか、自分でもわからなくなっていました。
「えっとねー。
あややみたいにカワイくて、あややみたいに歌が大好きで、
あややみたいにカワイくて、あややみたいに歌が上手くて、
あややみたいにカワイイ子がいいかな」
よっすぃーの頭の中は、『あやや』のことで一杯なのでした。
「…それって、あやや本人連れてくるしか道ないんとちゃうか」
「えっ、あややに会えんの!?うそ、マジで!?」
まさか本人に会えるとは思ってもみなかったよっすぃーは
あいぼんの独り言を聞きつけると、あいぼんに掴みかかりました。
「わっ!?ちょっ、ちょっと落ち着きぃや、まだ連れてくるって言うてへんやろ!?」
「なんだぁ…。もぉー、びっくりさせないでよ、あいぼーん」
「こっちはオマエにびっくりやわ」
よっすぃーに思いっきり引っ張られたせいで乱れたシャツの襟を正しながら、
あいぼんが呟きました。
「確認するから、ちょっと待っててな」
あいぼんはそう言って立ち上がると、ランドセルから携帯電話を取り出しました。
この携帯電話は、あいぼんが魔法使い試験に合格したお祝いに中澤さんがくれたものでした。
中澤さんが五年間使っていたお古の携帯電話を、あいぼんに譲ってくれたのです。
もちろんメール機能も付いていませんし、内蔵の着メロはどれもあいぼんの知らない曲ばかりでした。
『ウチの携帯な、きょーび着メロも作られへんねんでー。まいるワー』と、
クラスメート相手に半ば自虐的な笑いを取ろうとしたあいぼんでしたが、
『あいぼん、いまどき着メロ自分で作るヤツなんかいないよ』と、
別の意味で嗤われてしまった、ちょっぴり哀しい思い出の品なのです。
(いまどきの中学生は、既製の着メロを『ダウンロード』して使うのだそうです)
それでも、新しい機種を買うお金はありませんでしたし、
なにより、大好きな中澤さんにもらった携帯電話ですから、
あいぼんはそれはそれは大切にしていたのです。
「あ、もしもし、みっちゃーん?あんなぁ、ちょっと相談あんねんけどぉー」
あいぼんの電話の相手は、平家さんでした。
よっすぃーに会わせるのが普通の女の子ならば全く問題はないのですが、
なんといっても『あやや』は超人気アイドル。
スケジュールをおさえるのも一苦労です。
ましてや『あやや』ほどの人気者になると、どうしてもお金の問題が絡んできますから、
そういう場合にはやはり、経理担当の平家さんに相談する必要があったのです。
『はあー?なに言うてんの、アンタ。そんなんできるワケないやろ、なんぼ要る思てんねん』
あいぼんが『あやや』の名前を出した途端、平家さんの声が不機嫌になりました。
あいぼんが考えていたよりもずっと、よっすぃーに『あやや』を会わせてあげるのは
難しいようです。
『そらまぁ、アンタが自腹切るっちゅーなら、交渉したってもええけど?』
もちろん、あいぼんにそんなつもりはありませんでした。
「ゴメン、よっすぃー。あややは、無理みたい」
「……そっかぁ、そうなんだ。でも、仕方ないよね…うん。仕方ないよ」
よっすぃーは、心の底から残念そうでした。
「ゴメンなぁ、よっすぃー」
「平気だよ。だって、
あややみたいにカワイくて、あややみたいに歌が大好きで、
あややみたいにカワイくて、あややみたいに歌が上手くて、
あややみたいにカワイイ子はきっと、世界中にたくさんいるはずだもの。
そうだよね、あいぼん?」
大きな目をキラキラと輝かせて、よっすぃーが言いました。
「前向きやなー。まっ、良いことだけどね!」
あいぼんはそう言ってランドセルを開けると、平家さんにもらったタテ笛の隣に、
携帯電話をそっと仕舞いました。
そしてあいぼんはよっすぃーのために、
『あややみたいにカワイくて、あややみたいに歌が大好きで、
あややみたいにカワイくて、あややみたいに歌が上手くて、
あややみたいにカワイイ子リスト』を、
平家さんに頼んで発注することにしたのです。
「あややみたいにカワイイ、ともだちかぁー。ああ、なんかワクワクしてきたぜいっ!」
「おまえ…ぜったい、友達以上のモン探そうとしてるやろ」
あいぼんは、友達とか言ってこいつホンマはカワイイ娘を
『とっかえひっかえ』したいだけちゃうんか、と、思いました。
――
「おーい、帰ったでえー!おいこらー!加護ぉー!おらへんのかー!
おらんワケないやろー!開けんかコラアアアアアアアアーーー!!!」
あいぼんにとって忘れたくても忘れられない声が、家の外から大音量で聞こえてきました。
布団からもぞもぞと顔を出し、枕元の目覚まし時計を見てみると、
時計の針は午前3時30分を指しています。
「聞こえんフリしよ…」
あいぼんは再び頭から毛布を被って、布団の中へ深く深く潜り込みます。
あいぼんは小学校に上がるとすぐ、魔法の修行をするために中澤さんの家に居候を始めました。
中澤さんとの暮らしももうすぐ丸八年になりますが、平家さんと夜遅くまで飲み歩いて
真夜中に帰宅し、あいぼんを叩き起こすという習慣は八年前も今もちっとも変わっていません。
すると、平家さんは成人する前から中澤さんに付きあわされていた計算になります。
ああ、なんという恐ろしいことでしょう。
「なんや、寝たフリしてんちゃうかー?ああん?
そっちがその気やったらな、こっちもそれなりのアレやでー。イナズマとか隕石とか落とすで」
中澤さんは、攻撃魔法の使い手なのです。
「あいぼおおおおおおおおん!!後生やから、後生やから出てきてえええええーっ!!」
平家さんの泣き叫ぶ声がちょっと普通ではなかったので、あいぼんはしぶしぶ布団から抜け出しました。
「やっと出てきたか。この寝たフリ坊主が」
鍵を外し、ガラガラと戸を開けると、あいぼんの顔を見るなり中澤さんが悪態をつきました。
「裕ちゃん、なかなか帰ろうとせえへんから大変やったわ」
「どうせなら朝帰りしてくれたら良かったのに…」
だって中途半端な時間に帰ってこられるのが、あいぼんには一番迷惑だったのです。
「加護ぉー、ちょっと聞いてえや。あんなー、道行く人が親切やってん」
中澤さんは意味不明なことを言いながら、玄関に座り込んでしまいました。
「あーあ、好きな人にやさしくされたいなあああああ……」
中澤さんは、玄関の冷たい床の上で眠ってしまいました。
「…知らんがな」
あいぼんの呟きが、夜の闇にとけてゆきます。
――
「ともだちかぁ…」
よっすぃーはあいぼんが帰った後も、あいぼんが会わせてくれるという
『ともだち』のことを考えると、うれしくてなかなか寝付けずにいました。
まだ見ぬ『ともだち』といろんな話をしたり、いろんなものを見たり聞いたりすることを
想像すると、それだけでうれしくて楽しくて、なんだかとても不思議な気持ちになるのです。
こんなにたいくつでない夜は、いつの日以来でしょう?
「メグ・ライアンみたいに素敵な子だといいなぁー。アントニオ・バンデラスも、かっけーなぁ」
未来の『ともだち』に、よっすぃーの夢は膨らむばかりです。
「おやすみ、真里ちゃん。おやすみ、あいぼん」
よっすぃーはいつも、ベッドに入って目を閉じるとき、大好きな人におやすみを言って
眠ることに決めていました。
(今までは真里ちゃん一人だけだったけど、昨日からあいぼんが加わった。
そして明日か明後日かわからないけれど近いうちにきっと、新しい誰かにもおやすみを言うんだ)
今夜は楽しい夢が見られそうな、うれしい予感を抱きながら、
よっすぃーはゆっくりと目を閉じました。
<第2話>
「全部で三人の予定やけど、とりあえず一人分だけ渡しとくわ。
後の二人は資料が出来次第、あんたに渡すさかいな」
平家さんはそう言って、ホッチキスで綴じられた数枚の資料を
あいぼんに手渡しました。
「さんきゅー、みっちゃん」
「いいえー、どういたしましてぇ」
平家さんはペコリとおじぎをして、ふざけたように、わざと大げさに言うのでした。
「なあ、裕ちゃんは?」
「んー?今日は午後出勤だって」
あいぼんは、自分の席に座って資料に目を通しながら答えました。
「二日酔いか…」
「うん。さいっこーきゅーに気分悪そうでした」
あいぼんが言うと、平家さんは肩を竦めて苦笑いです。
「よぉーし!早速よっすぃーのトコ行ってこよ。学校もないし、家におるやろ」
平家さんにもらった資料をランドセルに詰めて椅子から立ち上がると、
あいぼんが言いました。
「学生サンはええなぁー、春休みがあって」
しみじみと呟いた平家さんの顔を、あいぼんがジロリと睨みつけます。
「んっ?ああ、そっかそっか。アンタは休みちゃうもんなー」
平家さんが言うと、あいぼんは満足そうに、うんうん、と頷くのでした。
ごく普通の高校生であるよっすぃーと違って、魔法使いと中学生を両立しているあいぼんは、
放課後や学校のない日は中澤さんのオフィスで仕事をしなければなりません。
ですから、あいぼんにとっては春休みも夏休みも冬休みも、無いのと同じことだったのです。
「忘れモンないか?」
平家さんはあいぼんが仕事に出かけるときに居合わせると決まって、こう聞くのです。
「だいじょーぶ。それでは加護亜依、行ってまいります!」
あいぼんは右手で敬礼すると、元気良く言いました。
「頑張ってなー」
平家さんに見送られながら、あいぼんはよっすぃーの家へと向かいました。
――
その頃、よっすぃーは何をするでもなく、部屋の中をウロウロと歩き回っていました。
一昨日会ったばかりのあいぼんのことや、あいぼんが会わせてくれると言った
『ともだち』のことを考えると落ち着かなくて、居ても立ってもいられないのです。
(今日は、あいぼん来ないのかなぁ?もしかして夜になったら、来るかな)
「えへっ、あややですっ!よっすぃー大好きっ!」
「!」
突然後ろから声がして、よっすぃーはぴたりと足を止めました。
(あややがこの部屋に!?まさかまさか…あいぼん、ありがとーっ!!)
「あやや…!ひとみって呼んでくれて構わないよっ」
よっすぃーは、大好きなあややによく似たその声に胸を躍らせました。
「今日のあややぁ、よっすぃーのためにぃ、いつもより3cm広めにおなか、あけてますっ!
見て、よっすぃー!いや、ひとみーっ!!」
よっすぃーが振り返ると、両手でトレーナーの裾を捲り上げたあいぼんが、
土足でベッドの上に立っていました。
「……仕舞えよ、太鼓腹」
期待外れのものを見せられて、よっすぃーはとても怒っているようです。
「でも、ちょっと似てたでしょ?」
いつも手品や小話で学校の友達を楽しませている芸達者なあいぼんですが、
中でもモノマネは、あいぼんがもっとも得意としている芸の一つなのです。
「似てません。ってかオマエ、靴脱げ」
あいぼんの足元を指差して、よっすぃーが冷たく言いました。
「うわぉ、イキナリ命令口調?よっすぃーったら、めっちゃフレンドリーやーん」
笑って誤魔化しながら、あいぼんは二度とよっすぃーの前で『あやや』の
モノマネをしないことを、固く心に誓うのでした。
「まぁ、今日はこんなコトしに来たワケじゃないんだけどね」
あいぼんはスニーカーを脱いで床の上に揃えると、ベッドの上に腰掛けて言いました。
よっすぃーも、その横に並んで座ります。
「写真見たけどなぁ、めっちゃカワイイ子やで」
「マジっすか」
よっすぃーは、うれしくて思わず身を乗り出しました。
「友達は、楽しいモンや。あいぼんがそれを証明してあげまーっす!」
あいぼんが得意そうに言うと、なぜかよっすぃーは突然暗い顔になって、
下を向いてしまいました。
「でもやっぱり、真里ちゃんが…」
あいぼんの言葉を聞いて、よっすぃーは幼馴染の真里ちゃんのことを
思い出してしまったのです。
ともだちは裏切るから、作らない方が良い。
ともだちは、信じちゃいけないんだよ、よっすぃー。
二人がまだ小さい頃からずっとそう言っていた真里ちゃんだから、
自分が友達を作ったことを知ったら、きっとものすごく怒るに違いない。
そう考えるとよっすぃーは、途端に気が重くなってしまうのでした。
「真里ちゃんって、家にいるの?」
あいぼんが尋ねると、よっすぃーは下を向いたまま、首を横に振りました。
「今日は学校行ってる。来年受験だから、忙しいんだよね」
よっすぃーが言うと、あいぼんは小さな声で、よっしゃ、と呟きました。
「最近ぜんぜん、会ってないなぁ…」
寂しそうに呟いたよっすぃーの声は、張り切るあいぼんの耳には
まったく届いていないようです。
「やるなら今や、今しかない。春休みに思い出つくっとこ!
思う存分、とっかえひっかえするチャンスやで、よっすぃー!!」
あいぼんは立ち上がると、こぶしを高々と振り上げて言いました。
「とっかえひっかえ、って?」
よっすぃーは側に立つあいぼんを見上げて、きょとんとしています。
「知らんの?もーぅ、イマドキの高校生はモノを知らんなー、まったく」
「あいぼん、なんかオヤジっぽーい」
あいぼんは少しムッとしましたが、これも仕事の内ですから仕方がありません。
『お客様の失礼発言は聞き流せ』
中澤さんの言葉を思い出し、あいぼんはじっとガマンするのでした。
「とっかえひっかえ、ってゆーのは、いろんな子と仲良く…
つまり、よっすぃーみたいな人のコトだよ。今よっすぃーがやりたいと思ってるコト。
すごくすごーっく、立派な行いのことを言うのですっ」
「へぇー」
あいぼんの言葉に込められた皮肉に、よっすぃーはまるで気が付かないのでした。
「でもさぁー、真里ちゃんが聞いたら、やっぱり怒ると思うんだよね」
「言わなきゃ良いんじゃん。こーゆーのは、バレなきゃ良いのさぁ。
『やったけどバレなかった』のは、『やってない』のと同じことなんだから」
あいぼんはいつか中澤さんに教えてもらった言葉で、必死によっすぃーを説得するのでした。
さらにあいぼんは、バレたらバレたで開き直れば良い、とも教わっていたのです。
「秘密にするの?なんか嫌だなぁ、そーゆーの」
「……なんやねん、昨日はとっかえひっかえする気満々やったくせに。
イザとなったら怖じ気付きやがって、この甲斐性なしが。
あーあ、めっちゃカワイイのになぁ。残念やったな、あーあー。
そんじゃ、お邪魔しましたあー」
あいぼんはよっすぃーの気を引くためにわざと大きな声で言い、部屋の窓を開けました。
「待って」
窓から外へ出ようとしたあいぼんの腕を掴んで、よっすぃーが言いました。
「ホントに、バレないと思う?」
不安そうなよっすぃーに、あいぼんは爽やかな笑顔で頷くのでした。
――
二人は、よっすぃーの家から電車で一時間ほどの所にある、大きな公園に来ていました。
よっすぃーは、所持金のほとんどをよっすぃーの家までのタクシー代に使ってしまった
あいぼんの代わりに、二人分の電車賃を払わなければなりませんでした。
『魔法使いのくせに電車で移動するの?』
来る途中よっすぃーに尋ねられ、あいぼんは何も言えずただ俯いていました。
あいぼんは魔法使いですが、移動系の魔法はあまり得意ではなかったのです。
あいぼんに出来ることといったら、せいぜいよっすぃーの家の玄関先から
二階のよっすぃーの部屋へ瞬間移動することぐらいでした。
あいぼんの上司であり魔法使いの先輩でもある中澤さんは
攻撃魔法の使い手ですし、自称『癒し系』である平家さんは
回復魔法を得意としていますが、あいぼんにはこれといって
人に自慢できるような特技が無かったのです。
『魔法使えんでもモノマネ得意なら、ええやん』
平家さんはそう言ってくれますが、あいぼんの気持ちが晴れることはありません。
だって平家さんの気持ちはうれしいのですが、そういう問題じゃないのです。
「すっごい、キレイ…」
公園に着いて、しばらく言葉もなくただ上を見上げていたよっすぃーが、
ぽつりと言いました。
「すごい、満開だねぇ」
背伸びをして枝を揺らすと、薄桃色の花びらが、あいぼんの上に
ひらひらと舞い降ります。
三月も終わりに近づき、よっすぃーやあいぼんが住むこの町でも、
いろいろなものたちが春の訪れを告げていました。
あいぼんが近くの土手で見つけた、つくし。
よっすぃーが開け放しにしていた部屋の窓から迷い込んできた、タンポポのわたげ。
そして、さっきから二人が見上げている、空いっぱいの桜の花たちも。
「これだけ咲いてるとさ、空が青いの、忘れちゃいそうだよ」
花びらのカーテンは二人が見ている真上の景色を覆いつくし、
まるで空全体が桜色に染まってしまったかのようです。
「よっすぃー、大げさだよー」
あいぼんはそう言って笑いましたが、本当は、よっすぃーの言うとおりだと思っていました。
「今がいちばん、キレイなときなんだろうね」
そう言った後、よっすぃーは少しさみしくなりました。
美しく咲いた桜は、またすぐに散ってしまう。
咲いてしまった桜は、あとはもう散るのを待つばかりなんだ。
そう考えるとよっすぃーは、胸の奥がきゅっと締め付けられるような、
なんとも不思議な気持ちになるのでした。
「この先へ、行ってごらん?ともだちが、待ってるから」
よっすぃーがぼんやりしていると、不意に後ろから声がしました。
「あいぼん…?」
よっすぃーはすぐに振り返りましたが、あいぼんの姿はもう
どこにもありません。
(よし、先へ行ってみよう。ともだちが、待ってるんだから)
よっすぃーは、どきどきする胸をおさえて大きく息を吸い込み、
ゆっくりと足を踏み出します。
公園を出て長い桜並木を歩いていると、よっすぃーは遠くの方に一人の女の子が
立っているのを見つけました。
よっすぃーはまるで何かに吸い寄せられるように、ぼんやりと桜の木を見上げている
その少女の元へ走り出しました。
(あいぼんが言ってた『ともだち』って、このコなのかな?
どうしよう、何て話しかけたらいいんだろう…)
女の子の側へ走って来たまでは良かったのですが、ともだちのいないよっすぃーには
はじめて会った人にどうやって話しかければ良いのか、全く見当がつきませんでした。
しかも女の子は桜を見ることに夢中で、両手をもじもじさせているよっすぃーに
なかなか気付いてくれません。
(キレイな人だなぁ。サクラの花が、よく似合ってる)
口元に微かな笑みを浮かべて桜を見上げている少女の横顔に、しばらくの間
よっすぃーは話しかけようとしていたことも忘れて見とれていました。
心地良いそよ風が、少女の短い髪をそっと揺らしています。
よっすぃーは、やはり勇気を振り絞って、女の子に話しかけてみようと思いました。
下を向いて一度深呼吸してから顔を上げると、桜の花を見ていたはずの少女が
今度は不思議そうな顔で自分のことを見ていたので、よっすぃーはとても驚きました。
「はっ!?はっ、はじ、はじっ、」
よっすぃーは、はじめまして、と言おうとしたのですが、どきどきして
上手く話すことができません。
背筋をピンと伸ばして口をパクパクさせている、機械仕掛けの人形のような
動作のよっすぃーを、目の前の少女は訝しそうに見ています。
(ああ、どうしよう…完全に怪しまれてるよぉー)
「なに?」
よっすぃーの顔を覗き込みながら、少女が言いました。
「あっ、いや、あの、えっと…えっと、なんだっけ」
まんまるの綺麗な瞳でじっと見つめられて、よっすぃーの胸の鼓動は
みるみる速くなってゆきます。
「あのさ、もうちょっと落ち着いて喋ったら?」
「あっ、あの、あの、あ…うん」
「あはっ、なんか、へんなコだねぇ」
始めは怪訝な顔をしていた少女も、慌てふためくよっすぃーの様子を見て
だんだん楽しくなってきたようです。
「あなたも、お花見してるの?」
「えっ?ああ、うん。そう!そうなの、お花見してんの」
本当はともだちに会うために来たのですが、よっすぃーはとっさにそう答えました。
「そっかー。ホント、綺麗だもんね」
そう言ってにっこりと笑う少女の顔を眺めていると、よっすぃーはとても幸せな気持ちになりました。
温かくて優しくて、くすぐったいような、初めて感じる不思議な気持ちです。
あいぼんの言っていた『ともだち』が本当にこの子だったら、どんなにいいだろう。
よっすぃーは、心からそう思いました。
「なっちね、ココはじめて来たんだけど、すごく気に入っちゃった」
「なっち、っていうの?」
女の子はよっすぃーと話すのに、無意識に自分のことを名前で呼んでいたことに
気が付いて、あっ、と小さく声を上げると、照れたように笑いました。
「自分のコト『なっち』って言うのね、くせなの」
「なっち、ってなんか、変な名前だね」
もちろんそれが本当の名前でないことぐらい、よっすぃーにもわかっていましたが、
よっすぃーは彼女のことを少しからかってみたかったのです。
「なに言ってんの、あだ名に決まってるっしょ?」
「うん、知ってるけどね」
よっすぃーが言うと、女の子はわざと頬を膨らませて怒った振りをしてみせました。
その大げさな素振りが可笑しくて、思わずよっすぃーはふきだしてしまいました。
「私も、みんなには『よっすぃー』って、あだ名で呼ばれてるよ?」
よっすぃーのことを『よっすぃー』と呼ぶのは、真里ちゃんとあいぼんの二人だけでしたが、
よっすぃーはさも世界中の人々からそう呼ばれているかのようにうそぶくのでした。
「そっちのが全然ヘンじゃん。『なっち』の方が全然マシですぅー」
唇をとがらして言う『なっち』を見てよっすぃーは、今度は声を出して笑いました。
ほんの少し前、彼女に話しかけた時にはあんなにどきどきしていたのに、
今はもう話をするのが楽しくて仕方ないのです。
よっすぃーはたくさん話をして、『なっち』のことをもっとよく知りたいと思いました。
「本当の名前は、なんていうの?」
よっすぃーは、もうあまり緊張することもなく言いました。
「なつみ、だよ」
さらりと言ったその声が、よっすぃーにはとても美しい響きに感じられました。
(なつみ、か。この人の顔にも、声にも、すごく似合っている気がする)
「なつみ」
自分で声に出してみると少し印象が違っていて、何だか違う人の名前のようです。
「誰も呼ばないけどね。だって自分でも『なっち』って呼んでるくらいだから」
なつみは、そう言って笑いました。
「でも、なんかそっちのが良くない?
なつみ、って本当の名前で呼んでもいい?」
「そう?そんな風に言われたの、はじめてだなぁ」
よっすぃーの言葉が、なつみには少し意外だったようです。
「じゃあ、なっちもよっすぃーのコト、本当の名前で呼ぼうかな。
よっすぃーは名前、なんていうの?」
よっすぃーは自分よりも少し背丈の小さい、初めて会ったばかりのこの少女が
自分のことを『よっすぃー』と呼んでいるのが不思議で、なんだか可笑しくて、
そんなことを考えながらなつみの声を聞いていると、
「よっすぃーってば」
「あっ、ゴメン」
ついボンヤリして、なつみに怒られてしまいました。
「名前はね、ひとみ」
「ひとみ、かぁ…良い名前だね」
なつみが心から言ってくれたような気がして、よっすぃーはとてもうれしくなりました。
(こういうときは、ありがとう、って言うのが普通なのかな?)
そう思いましたが、結局、照れくさくて言えませんでした。
「なつみ」
「なに?」
なつみに聞き返されて、よっすぃーは慌てました。
けれども、なつみにしてみれば自分の名前を呼ばれたのですから、
返事をするのは当然のことなのです。
「あ、ううん。ちょっと、呼んでみたかっただけ」
「なにそれ。へんなの」
(なつみ)
よっすぃーは、本当はうれしくて何度も口に出して呼びたい気持ちでした。
だってよっすぃーにとって、初めてできた『ともだち』の名前なのですから。
けれども、なつみが変に思うかも知れない、そう思ってよっすぃーは心の中でだけ、
その名前を繰り返し呼んでみるのでした。
「風、強くなってきたね。もしかして早く散っちゃうかな」
よっすぃーが言いました。
なつみが急に黙り込んでしまったので、気まずくなって無理に話しかけたのです。
真里ちゃんと話しているときは会話が途切れることもありませんし、
あいぼんは一人で勝手に喋っていますから、よっすぃーにとって
こんなことは初めてでした。
「サクラの花は、春に降る雪みたい。だから、好きなんだ」
花びらが風に吹かれて舞い散るのを見ながら、なつみが、ぽつりと言いました。
桜の花と、雪。暖かい春と、凍えるような寒さの冬。
よっすぃーは、どうしてなつみは正反対の二つのものを比べたりするのだろうかと思いました。
「なっちの生まれたトコは、すごく寒くてさ。
サクラが咲くのだってここよりずっと遅いし、なによりさぁ、とにかく雪がいっぱい降るの」
「ああ、そっか」
(なつみは空から降ってくる雪に似た花吹雪を見て、生まれたトコを思い出してんだ)
聞けば、なつみは遠く離れた町からよっすぃーの住むこの町へ、
たった一人でやってきたばかりだと言うのです。
「なつみは、寂しくないの?お父さんとかお母さんとか、それから…
ともだちと、離れるのが寂しくなかったの?」
よっすぃーはまるで自分のことのように泣きそうな声で、なつみに尋ねました。
「そりゃあ、寂しいさぁ。でもね、」
と言ってなつみは空を見上げましたが、その視線の先にあるものは桜ではなく、
どこか遠くの方を見つめているようでした。
風が木を揺らして、空や、それから二人の足元でも、たくさんの花びらが踊っています。
「それでもなっちは、好きなモノを追っかけてこの町へ来たんだ。
大好きなモノを追っかけてきたらさ、ここに、たどり着いちゃったんだよ」
そう言ったなつみは寂しいという言葉とは反対に、とてもうれしそうに見えました。
「好きなモノって?」
「歌。なっちは、歌うことが何よりもイチバン好きなの。だから、寂しいけど平気」
「そっかぁ」
とは言ったものの、よっすぃーにはなつみの言うことがよく分かりませんでした。
ともだちと一緒にいることよりも大切なことが、この世にあるものだろうか。
なつみと過ごしている今が本当に楽しいからこそ、よっすぃーは強くそう思うのです。
「じゃあ、そろそろ行くね」
二人で桜を眺めていると突然、なつみが言いました。
「えっ、待って。もう行っちゃうの?」
「うん。なっちはこう見えても、色々と忙しいんだからねっ」
慌てるよっすぃーの様子が可笑しくて、なつみはからかうような、
おどけた口調で言うのでした。
「でも、また会えるよね?」
よっすぃーはとても不安そうな顔で、なつみに尋ねます。
「うん。なっち、この場所気に入ったから、また来るかも知れない。
同じ時にひとみもここへ来てたら、もしかしたら会えるかもね」
なつみは少し困ったように、でも優しく笑って、言いました。
「じゃあ私、毎日ここへ来るね。そしたら、なつみがいつ来ても絶対に会える」
さよならを言えばもう二度と会えないかも知れない、
よっすぃーは、何とかしてなつみを引き留めなければと思いました。
しかし、よっすぃーが必死になればなるほど、なつみはますます困ったような顔をするのでした。
「あのね、うれしいけど、そんなことしないで。
だって、なっちは来るかも知れないし、もしかしたらもう来ないかも知れないんだもん」
なつみは少し俯いて、言いました。
そして、黙り込んでしまったよっすぃーに、続けてこう言ったのです。
「来るか来ないかわからない人を待ち続けるのは、ひとみが辛いだけなんだよ?」
それから、なつみが『またね』と言っても、よっすぃーは何も言いませんでした。
「あっ!よっすぃー、おかえりー!」
公園に戻ると、あいぼんが木の下に座り込んでよっすぃーのことを待っていました。
よっすぃーが近くへ行くと、あいぼんの靴下やスカートにはなぜか土がいっぱい付いていました。
「どうしたの、あいぼん?泥だらけじゃん」
「ああ、ちょっと落とし穴にね…ってゆーかよっすぃー、さっさと行っちゃうんだもん、ひどいよ!」
「うそぉー。魔法で消えたのかと思ってたよ」
ヘラヘラと笑うよっすぃーに、あいぼんは少しムッとしました。
(『この先へ、行ってごらん?ともだちが、待ってるから』)
カッコよく言ってよっすぃーの背中を押そうと足を一歩踏み出した瞬間、
あいぼんは心無い誰かが掘った落とし穴に、まっさかさまに落ちてしまったのです。
30分かかってやっと穴から這い出した後であいぼんは、この程度の距離ならば
自分の実力でも十分瞬間移動できたことに気付いて、間抜けな自分を笑ったのでした。
そんなあいぼんを指差しながら、近くにいた何人かの子供たちは大笑いしていました。
「それで、会えた?カワイかったでしょ?」
「うん…」
あいぼんに聞かれて、途端によっすぃーは暗い気持ちになりました。
よっすぃーは、なつみにちゃんとさよならを言えなかったことを後悔していました。
明日から毎日あの場所へ行ってなつみを待っていようかとも思いましたが、
なつみが言ったように、待ち続けて辛い思いをすることは、恐くてとても
できそうにありませんでした。
「なつみは、サクラの花みたい」
とても美しく咲いて、見る人の心を躍らせて、けれどまたすぐに散ってしまう。
桜の花はなつみによく似ていると、よっすぃーは思ったのでした。
そしてそれきりよっすぃーは、なつみのことを話そうとはしませんでした。
なつみが、あの場所へはもう来ないかもしれないと言ったこと。
来るか来ないかわからない人を待ち続けるのは、辛いだけだと言ったこと。
さみしい気持ちや悲しい予感は、誰かに話すと本当のことになりそうで、
よっすぃーは恐かったのです。
「うわぉ!メロメロやなぁー、よっすぃー」
案の定、あいぼんは勘違いしてしまいました。
「もちろん、携帯番号とか聞いたんやろ?」
「…あっ」
あいぼんの言葉に、よっすぃーはハッとしました。
そして、なぜ自分を送り出す前にそれを言ってくれなかったのか、
なぜ落とし穴に落ちる前に一言それを言ってくれなかったのかと、
あいぼんを責め立てたい気持ちで一杯になるよっすぃーでしたが、
なつみとすごしたあの空間はとてもそんな無粋なことを聞ける
雰囲気ではなかったこともまた、事実なのでした。
「えーっ。基本やん」
「……っ」
「いや泣かれても。自分、高校生やろ。おかしいで」
よっすぃーのやりきれない気持ちは、涙となって溢れ出しました。
「わー、小学生が大きいお姉ちゃん泣かせてるぅ。すげーなぁ、超こえーよー」
近くで遊んでいた子供たちが、あいぼんを野次り始めました。
「違うもん!よっすぃーが勝手に泣いたんやもん!」
それ以前に、あいぼんはランドセルを背負ってはいますが、小学生ではありません。
「そうだ、よっすぃー。帰りの電車賃も、貸してね?」
「…っ、おまえっ、ふざけん、な、よっ……ひっく」
よっすぃーはその場に座り込んで、また泣くのでした。
<第3話>
その夜、よっすぃーはベッドに入ってもなかなか寝付けませんでした。
目を閉じようとすると、今日会ったばかりのなつみのことが頭に浮かんで
なかなか消えてくれないのです。
「おやすみ、真里ちゃん。おやすみ、あいぼん。おやすみ、」
なつみ、と言おうとして、よっすぃーは口ごもってしまいました。
来るか来ないかわからない、もう二度と会えないかも知れない、
そういう人を『ともだち』と呼ぶのだろうか。
ともだちと一緒にいろんな話をしたり、いろんなものを見たり聞いたり、
そんな楽しい日々を想像していたよっすぃーですから、
もう会えないかも知れないなつみの名前を口に出そうとすると、
とても暗い気持ちになってしまうのでした。
(あいぼんは、ともだちは楽しいもの、って言った。
けど、それはやっぱり違う気がする。
ともだちは、楽しいばかりじゃ、ない)
「あーっ、もう!おやすみ!!」
よっすぃーは投げやりに言うと、ベッドに潜り込んでしまいました。
――
その頃、あいぼんは少し夜更かしをして中澤さんの帰りを待っていました。
あいぼんは仕事で遅くなるという中澤さんのためにカレーを作り、
おなかが空いて食べたいのをじっと我慢しているのです。
すると、居間の戸がガラガラと開いて誰かが中へ入ってきました。
「あっ。ケイさん、おかえりぃー」
あいぼんが言いました。
「ニャ」
入ってきたのは、中澤さんの家で飼われている、黒猫の『ケイさん』でした。
ケイさんは短くて事務的な鳴き声を上げると、あいぼんの前をスタスタと
横切ってテレビの前に座りました。
長方形の箱のような体勢で座るケイさんは、時々警戒するような目つきで
ちらちらとあいぼんの様子を窺っています。
ケイさんがあいぼんを敵視していることは、誰の目から見ても明らかでした。
出会った頃はこんなネコじゃなかった…あいぼんはティッシュの箱のような
体勢で座るケイさんを見ながら、昔のことを思い出していました。
ケイさんは、あいぼんが小学一年生で中澤さんの家に居候を始めたばかりの頃、
ひとりぼっちで中澤さんの帰りを待つあいぼんが寂しくないようにと平家さんが
ペットショップで買ってきてくれた、生まれたばかりの可愛い黒猫でした。
あいぼんとケイさんはすぐに仲良くなり、外へ遊びに行くのも一緒、寝るのも一緒、
プールへ行くのも一緒、スノボへ行くのも一緒、とにかくいつでもどこでも一緒でした。
ケイさんには魔法使いに飼われる猫にありがちな、人間の言葉を理解できたり
人間の言葉を喋れたりといった類の特殊能力は一切ありませんでしたが、
夕暮れ時に商店街を散歩中のケイさんが突然『ナーゴォォ』と不吉な鳴き声を上げると
次の日には決まって大雨が降るので、ケイさんは『お天気ネコ』と呼ばれ、
たちまち商店街の人気者になりました。
町の人気者はやがて日本のスターとなり、あいぼんが高学年になる頃には
ケイさんは既に『世界のケイさん』と呼ばれるほどの地位を築き上げていたのです。
しかし人間の言葉を理解できないケイさんにはそんな自覚もありませんから、
自分の人気に驕ったりすることなど全くありませんでした。
あいぼんとケイさんは変わらず仲良しの二人(一人と一匹?)で、
毎日をとても楽しく過ごしていたのですが、今から三年前の冬、
その事件は起こりました。
当時、世界中のテレビや雑誌に引っ張りだこだったケイさんの存在が
あるアラブの石油王の目にとまり、なんとケイさんを買い取りたいと
言ってきたのです。
お金に目のくらんだ中澤さんは泣き縋るあいぼんを魔法の力でねじ伏せると、
二つ返事でケイさんを売り飛ばすことを承諾してしまいました。
それからというもの、あいぼんは毎日毎日、家でも学校でも泣いてばかりいました。
小さい頃からいつも一緒だったケイさんと離れ離れになるのが、あいぼんには
とても悲しかったのです。
自分が売られそうになっていることなど全く知らないケイさんも、泣いてばかりの
あいぼんを心配して、いつも傍に来てはあいぼんの頬をペロペロと舐めていました。
そして、ようやくあいぼんの気持ちの整理がついた頃、
中澤さんはあることでとても悩んでいました。
それは、あいぼんの『牛乳嫌い』です。
それまで全く気がつかなかったのですが、ある日、
学校から電話があってこう言われたのです。
『中澤さんのお宅でしょうか?
わたくし、加護さんのクラス担任の飯田圭織と申しますが…
実は亜依さんがいつも給食の牛乳を飲まずに持ち帰ってしまうので、
お家でちゃんと飲んでいるのか気になったものですから。
もしかして亜依さん、お家に持って帰ってこっそりハムスターに
あげているんじゃないかと、わたくしは睨んでいるのですが』
『いいえ。うちはハムスター飼ってませんから』
中澤さんがそう言うと飯田先生は簡単に納得してくれたので
その場は丸く収まったのですが、中澤さんは、あいぼんが持ち帰った
牛乳をハムスターではなくケイさんにあげているのではないかと
直感したのです。
牛乳を飲まない子供は大きくなれない、そう信じ込んでいた中澤さんは
何とかしてあいぼんに牛乳を好きになってもらいたいと毎日悩みました。
そして悩みに悩んだ末、牛乳にもアレンジが必要だろうという結論に達した
中澤さんは、あいぼんのためにホットミルクを作ってあげることにしました。
牛乳が嫌いな人にとって、加熱した牛乳が冷たい牛乳と比べて
いかに飲み辛いものであるかということを、中澤さんは知らなかったのです。
『おいで、加護ぉー。ねーさんが美味しい飲みモン作ってあげたでー』
自分のことを呼ぶ中澤さんの声にあいぼんは胸をワクワクさせて、
二階の部屋から大急ぎで居間へ下りていきました。
『うっ…!』
それを見た瞬間、あいぼんの全身から血の気が引きました。
差し出されたマグカップから立ち昇る、冷たいそれより何倍も強調された
ミルクの匂いが、あいぼんの鼻を容赦なく突き刺します。
そして次の瞬間、あいぼんは自分の目を疑いました。
なんと目の前のミルクには、加熱しすぎて表面に膜が張っているではありませんか!
ああ、なんということでしょう。
あいぼんは飲み干した振りをしてカップをいそいそとキッチンへ持って行くと、
そこに居たケイさんに、こっそりそれをあげてしまったのです。
あいぼんのことを信頼しきっているケイさんですから、当然いつもの通り
冷たいパック牛乳をくれたのだろうと勢いよくカップに口を付けたところ、
ケイさんの時が止まりました。
とても熱いものや反対にとても冷たいものに触れた瞬間というのは
一体それが熱いのか冷たいのかわからなくなってしまうものですが、
その時のケイさんはまさに、その感覚に襲われてしまったのです。
そして、それが『ホット』ミルクだと悟った瞬間のケイさんの動き、
今でもあいぼんの目に焼きついています。
前足でカップをひっくり返して走り出したケイさんは、
途中立ち止まって口に張り付いた白い膜を取ろうと激しく首を振るものの
なかなか取れず、床に流れ出したミルクが後ろ足に触れたのに驚いて
走り出そうとして滑ってしまい、ミルクでびしょ濡れになりながら
再び走り出したところでキッチンに入ってきた中澤さんと激突して、
気を失ってしまったのです。
それ以来ケイさんは必要以上にあいぼんを警戒するようになり、
それどころかお天気すら予報してくれなくなってしまいました。
さて、困ったのは中澤さんです。
だってケイさんをアラブの石油王に売り渡す約束の日が迫っているのに、
ケイさんはまったくお天気を予報してはくれないのですから。
それから何度か大雨が降りましたが、ケイさんが『ナーゴォォ』と
鳴くことはありませんでした。
一方、ケイさんが天気予報をしなくなってしまったという噂を聞きつけた
アラブの石油王はカンカンに怒り、たくさんのボディーガードやメイドを
連れて自家用ジェット機で緊急来日しました。
石油王は中澤さんの家に着くなり、よくわからない言葉で中澤さんを
責め立てました。
とうとう追い詰められた中澤さんは、あいぼんや平家さん、
それから近所の野次馬たちの目の前で、泣きながら土下座をして
『ごめんなさい』と謝ったのです。
すると、泣きじゃくる中澤さんを可哀想に思ったのか、石油王は
それ以上何も言わず、アラブへ帰って行きました。
こうしてケイさんは今まで通り、中澤さんの家で暮らすことになったのでした。
「ねぇねぇケイさん、ウチのコトまだ許してくれへんの?」
あいぼんが言いました。
「ニャ」
ケイさんは事務的な返事をするだけで、決してあいぼんに近付こうとはしません。
あいぼんは、ケイさんにあの時ホットミルクを飲ませてしまったことは
本当に悪かったと反省していますが、そのショックでケイさんは
天気予報をしなくなったために売られずに済んだのです。
ケイさんと離れ離れにならずに済んだことを、あいぼんは心から
うれしいと思っているのに、人間の言葉を理解できないケイさんは
あいぼんのことを、自分に嫌なことをする『嫌な人間』だと思い込んで
しまっているのです。
あいぼんはいつの日か自分が『動物と話ができる魔法』を発明して、
ケイさんに自分の気持ちを伝えられたらいいな、と、思うのでした。
「加護ぉ、帰ったでー」
「平家ですぅ。おじゃましまーす」
玄関の戸が開く音がして、中澤さんと平家さんの声が聞こえてきました。
「あっ、帰ってきた!」
あいぼんはそう言って立ち上がると、玄関へ走りました。
「みっちゃん、いらっしゃーい。今日はなぁ、カレー作ってん」
「ホンマ?いやーん、来て良かったわぁ」
玄関で靴を脱ぎながら、平家さんが言いました。
平家さんの家は会社からとても遠いところにあるため、電車の終わる時刻が
信じられないほど早いのです。
ですから仕事や飲み会などで帰りが遅くなったときには、
決まって中澤さんの家へ泊まりに来るのでした。
「ああ、もぅ…しんどー、おなか空いたー。加護ぉ、早よ何か食べさして」
玄関に座り込んで靴を脱ぐ中澤さんは、仕事でとても疲れているようでした。
「わっかりましたあー!!」
あいぼんは元気よく言うと、今度はキッチンへと走ります。
「美味しい!あいぼんは料理が上手やなぁー」
あいぼんが作ったカレーライスを一口食べて、平家さんが言いました。
「えへへ」
平家さんに誉められて、あいぼんはとてもうれしそうです。
「中澤さん。おいしいですか?」
あいぼんは、目の前で黙々とスプーンを口に運んでいる中澤さんに話しかけました。
「うん」
中澤さんは素っ気ない口調でそう答えると、黙って、また食べ始めました。
中澤さんは普段からあまり愛想の良い人ではありませんでしたが、
あいぼんが聞くと大抵、『美味しい』の一言ぐらいは言ってくれるのです。
今日の中澤さんはよほど疲れているのだと、あいぼんは思いました。
「あーあ…料理も掃除も洗濯もアイロンがけも、全部やってくれるダンナ様が欲しいなぁー」
中澤さんが、食べる手を休めてしみじみと言いました。
「いや、アンタそれ全部あいぼんにやらしとるやないか」
あいぼんは、平家さんの言うとおりだと思いました。
「ウチ、新しいおとーさんなんか要らんで」
あいぼんが言いました。
するとその言葉が気に入らなかったのか、中澤さんは不機嫌そうに
カレー皿をスプーンでコンコンと二回叩きました。
あいぼんは、お行儀が悪いなぁ、と思いました。
「冗談やないわ。アタシかて、ナンパとか合コンとかお見合いとか結婚とかしたいもん」
「ありとあらゆるモン言うたなー」
感心したように、平家さんが言いました。
「なんやねん…。中澤さん、ぜんっぜんわかってへん…」
寂しそうに呟いたあいぼんを、黒猫のケイさんが挑むような目つきで見ています。
「あっ、このコやろ?あややって」
平家さんが、テレビを指差して言いました。
画面には、ピンクの可愛らしい衣装を着て歌う『あやや』の姿が映し出されています。
「そうそう。よっすぃーがなぁ、めっちゃ好きやねん」
「確かにカワイイもんなぁー…カワイイけど、『あやや』ってちょっと言いにくくない?」
「うん。でもよっすぃー、めっちゃスラスラ言えてたよ?」
「どうせアレちゃうのぉー?寝ても覚めても『あややぁ、あややぁ』言うてんちゃうのー?」
「ああ、そうだね。絶対そう。よっすぃー、アっホやなぁー」
「ホンマやな」
「「ハハハハハハハハハ!!」」
―
「っくしゅん!やばっ。風邪はひき始めがカンジンって、真里ちゃん言ってたっけ…
おかあさーん!風邪薬どこだっけー!!」
あいぼんと平家さんの噂話のせいで、ようやく眠りにつこうとしていたよっすぃーは
まったく飲む必要の無い薬を、服用してしまうのでした。
―
「あややぁー、下北にも慣れたしぃー、ジーパンだって0.2秒で
はけちゃうんですよぉー。平家さん、大好きっ!」
「あはは!あいぼんは芸達者やなぁー」
あいぼんは、よっすぃーの前では二度とやらないと誓った『あやや』の
モノマネで、人生に疲れた平家さんを楽しませてあげるのでした。
「なぁ、加護ぉ……」
あいぼんがおへそを出そうとパジャマに手を掛けたちょうどその時、
中澤さんがぽつりと言いました。
「アンタさっき、『おとーさん要らへん』って言うてなかった?
なんでアタシのダンナ様がアンタのお父さんになんのよ」
「は…?」
中澤さんは一体何の話をしているのだろうかと、あいぼんは不思議に思いました。
「裕ちゃん、ツッコミ遅すぎやで。大丈夫か?」
そして平家さんの言葉で、ようやくあいぼんの記憶が甦ったのです。
「ああ。ウチ、ボケ拾ってもらえんでめっちゃ悲しかったんですけど」
あいぼんは、忘れちゃった人はお手数ですが2レス前を
もう一度お読みください、と、思いました。
「なんや、ボケてたんか。ああ、ゴメンゴメン」
抑揚のない声でそう言うと、中澤さんは席を立ちました。
きっとこれから、お風呂に入るのでしょう。
その後はきっと、ビールで一杯やるのでしょう。
「裕ちゃん、よっぽど疲れてんのやろな」
「うん…」
(中澤さんがお風呂からあがったら、マッサージしてあげよ)
あいぼんは戸を開けて出ていく中澤さんの後姿を見ながら、
早く立派な魔法使いになって中澤さんを助けてあげようと思いました。
「ニャ」
あいぼんが一人前になる頃にはきっと、ケイさんとの仲も
少しは良くなっているのかも知れません。
<第4話>
『…よっすぃー、よっすぃー』
よっすぃーは夢の中で、遠くから自分のことを呼び続ける
小さな声を聞いていました。
『誰…?どこにいるの…?』
しかしよっすぃーはそれが自分の見ている夢だとは気付かずに、
声の主を探して周りを見回しますが、近くには誰もいないようです。
そこは辺り一面に霧がかかっていて、よっすぃーは歩きにくそうにしながら
一歩ずつゆっくりと、声のする方へ近付いて行きます。
『ともだちは、作っちゃダメだって言ったのに。
どうして約束破ったりするの?よっすぃー、サイテー』
濃い霧の向こうから今度ははっきりと聞き取ることができましたが、
その声が自分の知っている人に良く似た声だったので、よっすぃーは驚きました。
(この声…真里ちゃん!?)
『違うんだよ!聞いて、真里ちゃん!
あのね、これは『とっかえひっかえ』って言って、すごーっく立派なことなんだよ。だからね、』
真里ちゃんに内緒でともだちを作ろうとしていることをずっと後ろめたく思っていた
よっすぃーは、そのことが発覚した途端に、愚かな言い訳を始めるのでした。
『ともだちは、信じちゃいけないんだよ』
しかし、まるでよっすぃーの声がまったく耳に届いていないのかのように、
真里ちゃんは少しも調子を変えずに言うのでした。
『だけど、なつみだって、あいぼんだって、すごく良い子じゃない!
二人は真里ちゃんが言うみたいに、私のことを裏切ったりしないよ!』
強い口調で、よっすぃーが言いました。
よっすぃーは、なんだかなつみやあいぼんのことを悪く言われたような
気がして悔しかったのです。
『ともだちは、信じちゃいけないんだよ。
なぜなら、ともだちは仲良くなったように見せかけて、
油断したオマエを大きな口でペロリと喰っちまうからさ。
ペロリとな!砂糖醤油でな!!』
そう言うと真里ちゃんは、突然大きな声で笑い出しました。
『真里、ちゃん…?』
ひょっとしてこの人は真里ちゃんではないのではないだろうか、
こんな人が真里ちゃんのはずはない、いや真里ちゃんであっては困る、
でも世の中に一人ぐらいこんな真里ちゃんがいても面白いかもしれない、
と、頭の中に様々な思いが浮かんでは消え、よっすぃーは混乱していました。
『そしてともだちはオマエをペロリと喰っちまった後、
にっこり笑ってこう言うだろう』
真里ちゃんが喋り始めたのと同時に周囲の霧が少しずつ晴れてきて、
よっすぃーの目の前にぼんやりと人影が現れました。
顔はまだはっきりとは見えませんでしたが、自分よりもだいぶ背丈の低い
その人は、きっと真里ちゃんに違いないと、よっすぃーは思いました。
『ごちそうさまでした、と』
しかし、次に聞こえてきた声は、真里ちゃんのものではありませんでした。
いつの間にか霧はすっかり晴れて、よっすぃーの目の前に立っていたのは、
真っ赤なランドセルを背負ったあいぼんだったのです。
『あいぼん!?』
よっすぃーはびっくりして、大声で叫びました。
そして、驚いた拍子に目を覚ましてしまいました。
「なんで春休みなのにランドセルなの!?」
目覚めて間もないよっすぃーは、自分がまだ夢の中にいるような
気分でそう言ってしまいましたが、それも仕方のないことでした。
「ほっといて」
だって目が覚めてもよっすぃーの前には、夢の中と同じように
赤いランドセルを背負ったあいぼんが立っていたのですから。
「じゃあ、行こっか。よっすぃー」
ベッドに寝ているよっすぃーを見下ろして、あいぼんが言いました。
「はあ?どこ行くの…?」
眠そうに目をこすりながら、よっすぃーが言いました。
「友達んトコに決まってんじゃん」
ベッドの側に立っているあいぼんはやっぱり今日も土足でしたが、
よっすぃーは寝ぼけていてそのことにまったく気付いていないようです。
「なに言ってんだよ、こんな夜中にいきなり来てさぁ…
昼間だってずっと待ってたんだからね…あいぼんのバカヤロー…
こんな夜中じゃ、ともだちだってもう寝てるでしょー……寝てる…寝て…」
よっすぃーは、終わりの方はもう消え入りそうに小さな声で言いながら、
目を閉じて再び眠りに落ちていきました。
今日のよっすぃーは朝からずっと、あいぼんが来るのを心待ちに
していたのですが、いつまで待ってもあいぼんが来てくれないので、
待ちくたびれてとうとう眠ってしまったというわけなのでした。
「もぅ…なに規則正しい生活送っとんねん、春休みのくせに」
すっかり眠ってしまったよっすぃーを見て、あいぼんが言いました。
仕事と学校を両立しているあいぼんにとって、春休みはないのと
同じことですから、あいぼんにはよっすぃーが羨ましくもあり、
せっかくの春休みなのにいつもと同じ時間に寝てしまうなんて、
なんてもったいないことをするのだろうと、あいぼんは思うのでした。
「すーっ…すーっ…」
「あーあ、気持ちよさそうに寝やがって。いいなぁ…。
むぅっ、こっちは春休みでも仕事してんのにっ…!」
あいぼんの中で、よっすぃーを羨ましいと思う気持ちが
よっすぃーへの怒りに変わるまで、そう時間はかかりませんでした。
「仕事しに来たんやから、ちゃんと仕事して帰らななぁ」
ふふふ、と笑いながら、あいぼんはランドセルから携帯電話を取り出しました。
「あ、もしもし、りんねちゃーん?あんなぁ、ちょっとお願いあんねんけどぉー」
あいぼんの電話の相手は、北の大地に住む、お友達のりんねさんでした。
りんねさんは魔法使いですが、なぜか牧場に勤務しています。
『なんだよ、あいぼーん。りんね、とっくに寝てたんだからねー』
電話の向こうから聞こえてきたりんねさんの声は、
とても今起きたばかりとは思えないほど爽やかなものでした。
「ゴメンゴメン。あんなぁ、馬一頭送ってくれへん?」
牧場で働くりんねさんが、こんな夜中に起きているはずがないことは
あいぼんにもよくわかっていたのですが、これも仕事のためですから
仕方ありません。
『もぅ、しょうがないなぁー。どこに送ればいいの?』
りんねさんが言いました。
りんねさんはとても良い人なので、あいぼんの無理なお願いを
いつも快く引き受けてくれるのです。
『オッケー。じゃあ、3分だけ待ってて』
あいぼんの居場所を聞くと、りんねさんはそう言って電話を切りました。
「りんねちゃんが友達で、良かったなぁ…」
あいぼんは、日ごろの感謝の気持ちを込めて今年の夏こそは
りんねさんに暑中見舞いを出そうと思いました。
暑中見舞いも年賀状も、いつももらってばかりのあいぼんが
こんな気持ちになったのは初めてのことです。
人間は、いつも誰かに支えられて生きているんだな、
人という字は人と人が支え合って出来ているんだな、
と、あいぼんは、小学校時代に担任の飯田先生が
朝のHRで言っていた言葉を思い出したのでした。
『なんだよ、それー。キンパチせんせーのパクリじゃねーかよー』
クラスのみんなを笑わせたい一心で、つい大声でそう言ってしまった
あいぼんでしたが、まさかその一言が飯田先生の心を深く傷つけて
しまうだなんて、その時のあいぼんは少しも考えていなかったのです。
『違うもん…。カオ、キンパチせんせーからパクったわけじゃないもん…。
漢字の成り立ち、っていう本から引用しただけなのに…ひどいっ…』
暗い顔で呟いた飯田先生の悲しみに満ちた瞳は、今でもあいぼんの
目に焼きついています。
『飯田先生、ゴメンなさい』
飯田先生の悲しそうな顔がずっと頭から離れなかったあいぼんは
その日の放課後、職員室へ行って飯田先生に謝りました。
すると飯田先生は今にも泣き出しそうなあいぼんに優しく微笑みかけると、
読んでいた学級日誌をパタンと閉じて、こう言ったのです。
『加護さんの面白いところは先生すごく好きだけど、
それが時には誰かを傷付けてしまうこともあるってこと、
ちゃんとわかってほしかったんだ』
『…はい』
あいぼんは、それは誰かを笑わせることだけではなくて、
きっとどんなことにも当てはまるのだと、思ったのでした。
『でね、カオリ思ったのね。
カオも加護さんみたくダジャレとか連発して、もっと授業を面白くしようかなって』
今までの話の流れから、なぜ飯田先生がそのような結論に達したのか、
あいぼんには全く理解できませんでした。
さらに、あいぼんには自分がモノマネでみんなを笑わせたりすることはあっても、
ダジャレなんて連発した覚えは、これっぽっちも無いのでした。
『それじゃ、失礼しました』
『うん。さようなら、加護ンザレス!』
『!』
職員室を出ようとしたあいぼんは、後ろから聞こえた
飯田先生の言葉に度肝を抜かれました。
今のはダジャレ?ゴンザレスって誰?コレって、笑うべき?
ほんの一瞬の間に、あいぼんはいろいろなことを考えました。
算数のテストの時でさえこんなに考えたこと無かったのに、です。
『はっ、ははっ、わはははははは!飯田先生、おっもしろーい!!』
それは、あいぼんが自分なりに一生懸命考えた、『やさしさ』でした。
自分の心無い言葉で、これ以上飯田先生を傷つけることは
絶対に良くないと、あいぼんは思ったのでした。
『うそっ、カオリ面白い?マジで!?よぉーっし!!』
あいぼんの言葉を素直に受け止めてしまった飯田先生は、
拳を突き上げてうれしそうに言いました。
その様子を赤いジャージ姿の稲葉先生が、バスケットボールを
磨きながら優しく見守っていました。
それ以来、飯田先生は時と場所を選ばず、いつでもどこでも
ダジャレを言うようになりました。
酷い時には授業時間の半分以上をダジャレに費やすという
有様だったので、この問題はしばしば職員会議の議題にも
採り上げられましたが、未だに解決していません。
『飯田先生、一体どうしちゃったんだろうね?』
クラスメイトたちがそんなことを話しているのを耳にするたび、
あいぼんは思ったものです。
『やさしさ』ってなんだろう、って。
「ヒヒィィィィィィーーーンン!!ヒヒヒヒヒィィィィィーーンン!!!」
あいぼんが床に座ってぼんやりしていると突然、
窓の外から馬のいななきが聞こえてきました。
「うおあっ!?びっくりしたー!!そっ、その甲高い声はもしかして…!」
あいぼんはそう言って立ち上がると、窓の側へ駆け寄りました。
大急ぎで窓のカーテンを開けると、よっすぃーの家の前に
一頭の黒い馬が、二階の部屋を見上げているではありませんか。
「チャーミー!!」
あいぼんは思わず叫びました。
りんねさんが送ってくれた馬は、りんねさんの牧場にいる馬の中でも
あいぼんが一番好きな『チャーミー』だったのです。
チャーミーはあいぼんがりんねさんの牧場へ遊びに行くと、
決まってあいぼんを駅まで迎えに来てくれるのでした。
チャーミーは、行き先の地図を見せるとその場所まで連れて
行ってくれるという特技を持つ、とても賢い馬だったのです。
『そんなのタクシー使えば済むことじゃねえか』
牧場主の田中さんの冷たい一言に愕然としたりんねさんでしたが、
舗装されていないデコボコ道を行くにはやっぱりチャーミーだよね、と
チャーミーを、そして自分自身を励ましながら頑張る毎日です。
「やばっ、ご近所さんたちが起きてもーた!」
近所の家の灯りが次々と点っていくのを見て、あいぼんが言いました。
チャーミーがあんなに大きな声で啼いたのですから、近所の人たちが
目を覚ましてしまうのは当然のことなのですが、よっすぃーだけは
相変わらず安らかに眠り続けています。
「生きてんのかな、コイツ?」
心配になったあいぼんは、眠っているよっすぃーの頬を突付いてみました。
「んだよっ…!」
よっすぃーはあいぼんの手を払いのけながら、うるさそうに言いました。
よっすぃーの生存が確認できて安心したあいぼんは、よっすぃーの頭に
右手をかざして小さな声で呪文を唱えました。
すると、よっすぃーの姿がベッドの上から跡形もなく消えてしまったのです!
「よっしゃ、これだけ縛っとけば大丈夫やろ。行くで」
よっすぃーはまだ眠ったまま、自分の家の前で、
馬の背中にロープでしっかりと縛り付けられていました。
あいぼんはベッドの上のよっすぃーをチャーミーの背中へ
瞬間移動させた後、よっすぃーの体をロープで固定すると、
自分もチャーミーの背中に乗ったのでした。
「運転手さん、ここまでお願いします」
そう言って、あいぼんはチャーミーの鼻先に地図を突きつけました。
あいぼんの後ろで、チャーミーの背中に縛り付けられている
よっすぃーは、全く目を覚ます気配がありません。
「ヒヒィィィィーーンン!!」
「おわあっ!?」
雄叫びを上げたチャーミーがいきなり走り出したので、
あいぼんは思わず後ろへのけぞりました。
手綱を握っていなかったら、間違いなく振り落とされていたでしょう。
「チャっ、チャーミー速すぎ!速すぎるってえええーーっ!!」
あいぼんの絶叫は風の音に掻き消されて、街路樹や電柱を
薙ぎ倒しながら走るチャーミーの耳には届きません。
チャーミーが激しく動くので、よっすぃーを縛り付けたロープも
緩み始めています。
「はあ…。無事着いて良かった…」
あいぼんはぐったりと倒れこんで、チャーミーの首に抱きつきました。
チャーミーは地図に赤い丸印で囲んであった、ある一軒の家の前まで
あいぼんたちを運んできてくれたのです。
「もぅ…相変わらずチャーミーは直球勝負やなぁ」
チャーミーは、よっすぃーの家を急発進してから目的地まで
一度も止まることなく走り続けたのでした。
そのスピードもさることながら、曲がり角に差し掛かったときの
チャーミーの動きは、中澤さんから頭上に雷(本物)を落とされた時
以来の衝撃を、あいぼんに与えたのです。
ギリギリまで全速力で走り、あと数センチで壁にぶつかるというところで
少しもスピードを落とすことなく直角に曲がるという、かつて経験したことのない
コーナリングに、あいぼんはまるで生きた心地がしませんでした。
「よっすぃー、着いたよ。よっ…あれ?」
一息ついたあいぼんが振り返ると、チャーミーの背中に固定していたはずの
よっすぃーの姿がありません。
ロープはチャーミーの背中にしっかりと巻きついているのですが、
よっすぃーだけがどこにも見当たらないのです。
「うわあ、どっかに落っことしたかなぁー」
さっきのチャーミーの走りならばそれも無理はないかと、
あいぼんは思うのでした。
「あれぇー?ここどこー?」
足元からくぐもった声が聞こえて、あいぼんはチャーミーの上に乗ったまま、
チャーミーのおなかの辺りを覗き込みました。
「なんか、あったかいよぉー?」
チャーミーの動く振動で少しずつ下の方へずり落ちていたよっすぃーは、
振り落とされまいと無意識にチャーミーのおなかにしがみ付いていたのです。
「よっすぃーが全然起きないから、わざわざ運んできてあげたんだからね。
ほーら、目が覚めたらそこはもう、おともだちの家でしたー!
こういうの、至れり尽くせり、って言うんやで」
チャーミーの背中を降りながら得意そうに言うあいぼんを、チャーミーの
おなかに貼りついたよっすぃーは、びっくりした顔で見上げています。
「ともだちの家って、まだ夜中じゃん。その子だって、もう寝ちゃってるよ。
っていうか、早く降ろしてよ。苦しいよ」
「わかったわかった。いっぺんに言うな」
あいぼんは面倒そうな顔をしてそう言うと、よっすぃーとチャーミーの体を
結んだロープを解いてあげました。
「大丈夫だって。ほら、あの部屋、電気ついてるでしょ?」
家の二階の窓を指差して、あいぼんが言いました。
あいぼんの言うとおり二階の部屋には、明々と電気がついています。
「わかんないよ?電気つけたまま寝るヒトかも知んないじゃん」
「チッ」
寝起きのくせに割と頭の回転が早いよっすぃーの
もっともな言い分に、あいぼんは少しムッとしました。
「なに?なに今の?舌打ち?」
一方、寝ている間に馬で知らない場所へ連れ去られてしまった
よっすぃーもまた、あいぼんの強引なやり方にムッとしていたのでした。
「寝てたら無理やり起こして友達なったらええやん。
友情って、そーゆーもんやで」
あいぼんは今日の仕事を終わらせて早く家に帰りたかったので、
何も知らないよっすぃーに、いい加減なことを教えてしまうのでした。
「そっかぁー。でもね、あいぼん。
正直言って、私…ともだち作るの、少しこわいんだよ」
チャーミーに寄りかかって両手をもじもじさせながら、
よっすぃーが言いました。
新しいともだちがすぐ近くにいるというのに、
よっすぃーはまだ、昨日会ったなつみのことが
気になっていました。
そして、新しいともだちができても、もしかするとまた
なつみの時と同じような思いをすることになるのかも
知れないと思うと、どうしても勇気が出ないのでした。
「なんやぁ、あの子にケイタイ聞き忘れたぐらいでー。
またあの公園に行ったらええやん。会えるって」
よっすぃーの肩をポンポンと叩きながら、あいぼんが言いました。
「…わかんないじゃんか、そんなの。なつみは、きっともう来ないよ」
そう言った後でよっすぃーは、やっぱり言わなければ
良かったと思いました。
なつみはきっともう来ない、と心の中で思うだけよりも、
それを声に出して自分の耳で聞くといっそう、
その言葉はよっすぃーを辛い気持ちにさせるのでした。
「あんなぁ、よっすぃーの気持ちはわかるけど…
あんまし恐がってばっかりやったら、アカンと思うよ?」
あいぼんは何とかしてよっすぃーに友達を作ってあげたいと
思ったものの、自分の言ったことに自信はありませんでした。
なぜなら自分もよっすぃーと同じようなことになったらきっと、
今のよっすぃーと同じことを言うだろうと思ったからです。
「やっぱり帰ろう、あいぼん」
そう言うとよっすぃーは、チャーミーの背中に跨りました。
よっすぃーが上に乗ると、心なしかチャーミーの鼻息が
荒くなったように、あいぼんには感じられました。
「ヒヒィィィーン!!」
よっすぃーが手綱を握ると、チャーミーはあいぼんを置き去りにして
走り出そうとしました。
「ううん。ウチは、行った方が良いと思う」
よっすぃーの顔に右手をかざして、あいぼんが言いました。
あいぼんが短い呪文を唱えると、よっすぃーの体はその場から
すっと消えてしまいました。
「ゴメンなぁ、よっすぃー」
二階の窓を見上げて、あいぼんが呟きました。
(けど、やっぱり恐がらんと新しい友達作った方が、絶対良いに決まってるもん)
「馬……?」
チャーミーの声を聞いて、少女が顔を上げました。
持っていたペンを机の上に置くと、椅子から立ち上がって
ゆっくりと窓際へ歩み寄ります。
すると突然ドサッと大きな音がして、少女は後ろを振り返りました。
「誰……?」
「わあっ!?えっ、ここどこ!?やっ、どうしよ…!」
あいぼんによって見知らぬ人の部屋のベッドの上に
瞬間移動させられてしまったよっすぃーは、突然の
出来事に慌てふためきました。
ベッドの上でじたばたするよっすぃーの様子を、
少女は訝しそうに見ています。
「ねぇ、アンタどっから入ってきたワケ?」
怯えたり、よっすぃーのことを責めたりするでもなく、
のんびりとした口調で少女が言いました。
「ゴメンなさい!すぐ出て行くから!!」
よっすぃーは少女の顔を見ようともせず、まっすぐに窓の方へ向かいました。
二階から飛び降りるつもりなのでしょうか?
「あれっ?吉澤さん…?」
自分の名前を呼んだ少女の声に、よっすぃーはぴたりと足を止めました。
「よっしゃ。行くで、チャーミー」
よっすぃーが戻ってこないことを確認したあいぼんはチャーミーの
背中に跨ると、手綱をぎゅっと握りました。
するとチャーミーは二三歩後ろへさがって、ゆっくりと助走し始めたのです。
「おいおい、なに助走つけとんねん。
自分、馬として何かおかしいで。
なぁ、もう帰るだけやからゆっくりでええって。なぁ?」
震える声で、あいぼんが言いました。
カツカツと蹄を鳴らしながらたっぷりと助走をとるチャーミーの背中で、
あいぼんはここへ来るまでの恐かった道のりを思い出していました。
この静かなる助走は、ジェットコースターで頂上へ昇っている途中の
感じに似ていると、あいぼんは思いました。
手綱を持つ手が、ぶるぶると震えています。
「ヒヒヒヒヒィィィィーーンンン!!!」
「おごわあっ!?ゆっくりでいいってばああーーっっ!!」
チャーミーのいななきと、ドドドドドド…という激しい蹄の音と、
あいぼんの絶叫が、夜の闇を切り裂きます。
「ひぃっ!りんねちゃん!たすけてえええーーっっ!!」
りんねさんは今頃きっと、夢の中にいることでしょう。
<第5話>
「なんで吉澤さんが、ウチにいんのー?」
少女が、足を止めて振り返ったよっすぃーを見て言いました。
「…あ、もしかして」
よっすぃーはどうやら自分のことを知っているらしい少女の顔を
しばらく見つめて、ハッとしました。
少女がよっすぃーのことを知っているように、よっすぃーもまた、
少女の顔には確かに見覚えがあったのです。
(この子、確か同じクラスの…)
「辻さん?」
少女の顔を指差して、よっすぃーが言いました。
「後藤だよ」
少女は少し不機嫌そうな顔をして、言いました。
「一年間同じクラスだったじゃん、ひどいよー」
後藤さんはそう言いましたが、それはもう怒っている風でもなく、
よっすぃーをからかうような口調に変わっていました。
「そっかぁ、辻さんじゃなかったんだ。えっ、じゃあ辻さんって誰?」
後藤さんは春休みになる前までよっすぃーのクラスメイトでしたが、
よっすぃーは後藤さんのことを一年間ずっと、『辻さん』だと思っていたのです。
「えー?知らないよ。ウチのクラスには、いなかったと思うけど」
「うっそぉ。誰だろ、辻って」
「えー?なんか怖いよ、そーゆーの」
「だよねだよね。えーっ、誰だぁ、辻って……」
しばらく二人で考えてみましたが、『辻さん』が誰だったのかは
とうとうわからずじまいでした。
「まぁ、辻さんのことはどーでもいいんだけどさ。
吉澤さんはココで一体何してるワケ?ドロボー?」
パジャマ姿のよっすぃーを怪しむような目で見ながら、後藤さんが言いました。
「えっ!?ああっ、いやあのそれはえっとだから」
よっすぃーは後藤さんにここへ来た訳や、どうやってこの部屋へ入ったのかを
説明しなければと思いましたが、ひどく慌ててしまって上手く言葉になりませんでした。
「えーっと、起きたら馬に乗ってて私は帰ろうって言ったんだけど
あいぼんが魔法でムリヤリ、そしたらえっとベッドの上に、」
よっすぃーは自分の身に起こった出来事を思いつくままに並べ立ててみましたが、
頭の中が混乱してしまってやっぱり上手く話せません。
後藤さんは慌てふためくよっすぃーの様子を見て、くすくすと笑っています。
「なんだよ、魔法って。ちょっと落ち着きなよー」
楽しそうに笑って、後藤さんが言いました。
よっすぃーは自分が笑われていることに気が付くと、
急に恥ずかしくなって俯きました。
「あとさー、気になってたんだけど、どっから入ったの?」
ベッドに腰掛けながら、後藤さんが言いました。
「えっと……窓から」
よっすぃーは両手をもじもじさせながら少しの間考えて、後藤さんに嘘をつきました。
よっすぃーは、ついさっき自分が魔法でこの部屋へ来たことを説明しようとして、
後藤さんに笑われたことを思い出したのです。
よっすぃーは、魔法でこの部屋へ入ったなんて言ったって信じてもらえるはずがない、
さっきみたいに笑われるだけだと、思ったのでした。
「えー?窓開いたの、ぜんぜん気付かなかったけどなー」
不思議そうに首をかしげて、後藤さんが言いました。
よっすぃーは、何か上手い言い訳をしなければと思いました。
「いや、ウチってさぁ…おじいちゃん、忍者だから」
よっすぃーは、我ながらずいぶんとバカバカしい言い訳をしてしまったものだなぁ、と思いました。
こんな怪しい言い訳をしてしまっては、泥棒と疑われても仕方がありません。
よっすぃーは、覚悟を決めました。
警察に突き出されるかも知れないけれど、まあ良いじゃないか。
もしかしたら、取調室でカツ丼が食べられるかも知れないじゃないか。
そんなことを考えながら、ふふ、と自嘲気味に笑うよっすぃーを、
後藤さんはびっくりしたような顔で見上げています。
「すごい…。忍者って、えっ、なに流!?」
ベッドに腰掛けたまま、身を乗り出して後藤さんが言いました。
後藤さんは、誰にも気付かれることなく窓から入ることができたのは
自分が忍者の血をひいているからだというよっすぃーの言い訳を、
簡単に信じてしまっていたのです。
(うわぁ、信じてるよ、この人…)
よっすぃーは戸惑いました。
「…ああ、はがくれ流、だったかな。確か」
よっすぃーは、警察に捕まるのはやっぱり気が進まなかったので、
後藤さんが信じてくれたのをいいことに口からでまかせを言いました。
「へぇー、すごいねぇ。だから気付かなかったんだ…。
あっ!そっかー、だから馬に乗ってきたんだ!ああ、なるほどねー」
彼女の中で、全てに合点が行ったのでしょう、
後藤さんはベッドの上でとても満足そうに微笑んでいます。
「うん。なかなか乗り心地イイんだよね、あの馬」
よっすぃーは、適当に話を合わせました。
(馬に乗ってる忍者って、あんまり聞いたことないけどなぁ…)
そんな目立つことをする忍者なんていないと、よっすぃーは思いましたが、
せっかく後藤さんが納得してくれたので黙っておくことにしました。
「でもさー、吉澤さんとこんなに喋んのって、初めてだよね」
両手をベッドの上について足をぶらぶらさせながら、後藤さんが言いました。
後藤さんはとてものんびりとした調子で喋るので、その声を聴いていると、
よっすぃーはとても落ち着いた気持ちになるのでした。
「こんなに、っていうか、一回も喋ったことないよね…」
よっすぃーが言いました。
「えー?そうだっけ」
目の前に立っているよっすぃーを見上げて、後藤さんが言いました。
よっすぃーは少し横を向いて、後藤さんと目が合わないようにしました。
(後藤さんには、ともだちがたくさんいるもん。
私と話をしたことがあるかどうかなんて、そんなことどうだって良いに決まってる)
「でも、ごとーは吉澤さんと喋ってみたいって思ってたよ?
あー、だからかな?喋ったことあるつもりになってたのかもね」
「えっ!?」
後藤さんがさらりと言った一言に、よっすぃーはとても驚きました。
ともだちをたくさん持っている後藤さんが、まさか自分と話をしてみたいと
思っていたなんて、よっすぃーにはとても信じられないのでした。
「どうして!?どうして私と喋ってみたいって!?」
後藤さんの肩を掴んで揺さぶりながら、よっすぃーが言いました。
「べつに、なんとなく」
後藤さんが言いました。
慌てるよっすぃーとはまったく反対に、後藤さんはとても落ち着いています。
「…へぇ、なんとなく、ね。そっかぁ、そっかそっか」
そう言って、よっすぃーはくすっと笑いました。
後藤さんの答えに少しがっかりしたものの、ともだちのいないよっすぃーにとって
後藤さんが自分と話をしてみたかったと言ってくれたことは、やっぱりうれしかったのです。
「ねぇ、立ってないで座れば?」
ベッドの側にぼうっとして立っているよっすぃーを見て少し呆れたように、
後藤さんが言いました。
「あ、うん……あの、どこ座ったらいいかな?」
部屋の中を見回しながら、よっすぃーが言いました。
「ああ」
そう言うと後藤さんは、ベッドの上にあぐらをかいて座りました。
「んじゃ、ココ」
そして自分の隣を右手でポンポンと叩いて、言いました。
「ああ、はい」
よっすぃーはベッドの上に乗ると、後藤さんの隣にちょこんと正座しました。
それから二人はしばらく何も喋らずにぼうっとしていましたが、
不思議なことに、よっすぃーはなつみとそうなった時に感じたような
気まずさを少しも感じていませんでした。
(後藤さんといると、何も喋らなくても、話をしているような気分になる。不思議だなぁ)
よっすぃーは後藤さんの真似をして自分もあぐらをかいて座ると、
部屋の中を今度はじっくりと見回しました。
後藤さんの部屋は物があまり置いていなくて、すっきりとした部屋でした。
いろんな物がたくさんあってそれらがきちんと整頓されているよっすぃーの部屋とも、
たくさんのぬいぐるみが机の上や棚の上やベッドの枕元や、とにかくいろんなところに
散らばっている真里ちゃんの部屋とも違っていて、よっすぃーはとても興味深く
後藤さんの部屋の様子に見入るのでした。
(世の中にはいろんな人がいるけれど、どんな部屋に住んでいるのかだって、
みんなそれぞれに違うんだなぁ)
それはとても当たり前のことだと、よっすぃーにもわかっていましたが、
それはとても当たり前のことのように見えて本当はとても大切なことなのだと、
よっすぃーは思いました。
この部屋の様子から後藤さんがどんな人なのかも、もしかしたらわかるかも知れない。
隣に座る後藤さんの横顔を見ながら、よっすぃーはそんなことを考えていたのでした。
そうしてしばらくぼんやりしていると、ふいに、後藤さんが何かの歌を口ずさみ始めました。
「歌、好きなんだ?」
「うん」
よっすぃーが聞くと後藤さんは歌うのをやめて、うれしそうに言いました。
「今の、後藤さんが好きな歌?」
「うん。でも、もともとは、友達が好きだった歌なんだけどね」
後藤さんはあぐらをかいていた足を伸ばして座りなおすと、壁にもたれました。
「それって、クラスの子?」
「ううん、違うけど。すごく、大切な友達だよ」
そう言った後藤さんの、とてもうれしそうな横顔を見ていると、
よっすぃーはなんだか寂しい気持ちになりました。
「でも、ずっと前に引っ越してっちゃったんだけどね。
だから、ぜんぜん会えないんだけど」
後藤さんは一瞬寂しそうな顔をして、けれどまたすぐに笑って、言いました。
よっすぃーには、後藤さんの言うことがよくわかりませんでした。
(会えないのに、『大切なともだち』だなんて…どうしてそんなことが言えるんだろう?)
「いつになったら、会えるの?」
よっすぃーが言いました。
「わかんない。手紙出すんだけど、あんま返事来ないし。困ったもんだねぇー」
後藤さんは、少しふざけたような調子で言いました。
「メールじゃないんだ、手紙なんだ」
よっすぃーは後藤さんのおどけた言い方につられて、後藤さんのことを
からかうように言いました。
「なにそれ、バカにしてんの?むかつくぅー」
後藤さんが大げさに怒ったフリをして、そして二人は笑いました。
「でもさー、本当に大切な人だったら、メールより手紙かなぁ。
なんか、そんなカンジしない?」
よっすぃーはまだ笑っていましたが、後藤さんは少し真剣な顔になって言いました。
「えっ、どうして?」
「なんとなく。メールだとさぁ、間違えたトコ消したり、間にあとから書き足したりとか
簡単にできるけど、手紙ってそういうワケいかないじゃん?
だから間違えないように書こうって思うとさ、その人のこと、ちゃんと考えようって思うもん」
後藤さんが言うとよっすぃーは、ふーん、と気のない返事をするだけでした。
「今もちょうど書いてたトコだったんだけどね。
したら、いきなり馬の鳴き声がしてさー、吉澤さんが忍び込んできたってワケよ」
よっすぃーがベッドの上から身を乗り出すと、机の上に書きかけの便せんが
置いてあるのが見えました。
便せんの上には、青色のペンが転がっています。
「だけど、そんだけ考えて書いたって、返事は来ないんでしょ?」
よっすぃーは、こんなことを言って後藤さんが沈んだ気持ちにならないか不安でしたが、
思い切ってそう言いました。
「まあ、10回に1回は来るかな」
よっすぃーの不安をよそに、後藤さんは相変わらずふざけたような調子で言いました。
「後藤さんって、気が長いんだねぇ」
「ごとーがねぇ、しょっちゅう出しすぎなんだよね。
こないだ返事来たんだけどさ、勉強もそれぐらいちゃんとやれ、って書いてあったよ」
後藤さんはそう言うと、本当に楽しそうに笑うのでした。
(後藤さんは、返事をくれるかくれないかわからない人のために、手紙を書き続ける。
それは、来るか来ないかわからない人を待ち続けることと、同じことかもしれない)
『来るか来ないかわからない人を待ち続けるのは、ひとみが辛いだけなんだよ?』
なつみが言ったとおり、そんなことを続けるのはとても辛いはずなのに、
どうして後藤さんはこんなに楽しそうに笑っていられるのだろうかと思うと、
よっすぃーは不思議でなりませんでした。
「後藤さんは、どうして手紙を書くの?」
「どうして、って?」
「だって、その人はいつ会えるかもわかんないし、手紙書いたって
返事くれるかどうかもわかんないんでしょ?
どうして、そんな人を待っていられるの?」
よっすぃーが言うと、それまで笑っていた後藤さんは急に真剣な顔になって言いました。
「信じてるから」
よっすぃーはじっと待っていましたが、後藤さんはそれ以上何も言いませんでした。
「どうして、信じられるの?」
しばらくして、よっすぃーが言いました。
「えー?わかんないよぉ。あんま難しいコト聞くなよー」
すると後藤さんはもう、さっきまでのおどけた口調に戻っていました。
「信じてれば、会えるかな。
もう会えないと思ってた人にも、もしかしたら会えるのかな」
よっすぃーが聞くと後藤さんはにっこりと笑って、うん、と言ってくれました。
よっすぃーはなんだかほっとして、そして、なつみがいたあの場所へ、
もう一度行ってみようと思いました。
(信じることを止めなければ、もしかしてなつみに会える日が来るのかもしれない)
「あのさー、ヒマじゃない?ゲームやろっか」
よっすぃーが考え事をしていると、後藤さんが言いました。
後藤さんはよっすぃーが答えるのを待たずにさっさとベッドから下りると、
押入れからテレビゲームを出してきて、準備を始めました。
「ほら、一人でやってもつまんないからさー、吉澤さん来てくれて良かったよー」
よっすぃーは、なぜ自分がこの部屋へやってきたのかということについて
一切触れようとしない、正確には最初に触れたきりすっかり忘れている後藤さんが、
何時そのことに気が付くだろうかと内心ヒヤヒヤしながら、床に座り込んでいる
後藤さんの隣に腰を下ろしました。
「やっりぃー!またホームランだああーー!2ランだよ、2ラン、ねぇ、後藤さん!!」
よっすぃーが叫ぶと、隣でコントローラーを握ったままうとうとしていた後藤さんが、
目を覚ましました。
二人は夜中に野球ゲームで遊び始めましたが、夢中で遊んでいるうちに
すっかり夜は明け、窓の外はもう明るくなっていました。
「んあ?あー、またやられちゃったか。なんか、ホントうれしそうだね、吉澤さん」
後藤さんは眠すぎて、よっすぃーにホームランを打たれたことも、
自分が一体どんな球を投げたのか、それ以前に本当に自分が
投げたのかということすらも、まったく記憶にありませんでした。
後藤さんは、我ながらこんなに眠くてよくストライクが入ったものだなぁと、感心するのでした。
「だって、真里ちゃんとやる時は、ホームラン禁止だから…」
よっすぃーは、コントローラーを見つめて、ぽつりと呟きました。
しかし、よっすぃーの悲しい告白は、うとうとと眠りの国へ誘われている
後藤さんの耳にはまったく届いていないようでした。
よっすぃーは、真里ちゃんともたまに野球ゲームで遊んだりすることがありますが、
よっすぃーがホームランを打つと、真里ちゃんは決まってリセットボタンを押してしまうのでした。
よっすぃーが怒ると真里ちゃんは、『だって今のはズルだから』と、よくわからない
言いがかりをつけるのです。
ホームランのたびにリセットされるので、一試合終えるのに8時間かかったこともありました。
ですから後藤さんの家で放ったホームランは、言わばよっすぃーの初ホームランだったのです。
よっすぃーはもううれしくてうれしくて、隣で眠る後藤さんを無理やりにでも
叩き起こしてハイタッチしたい気分でしたが、いくら温厚な後藤さんとはいえ
そんなことをしてはさすがに嫌われてしまうかも知れないと思って、我慢するのでした。
「ああ、すっごく楽しいなぁ、こういうの」
「んあー、吉澤さん、いま……何回?」
外はとても良い天気で、チュンチュンという鳥のさえずりが、一日の始まりを告げていました。
――
その頃、あいぼんは後藤さんの家の近くまで、よっすぃーを迎えに来ていました。
昨夜、チャーミーの背中で臨死体験にも似た感覚を味わったあいぼんは、
今日は始発を待って、電車でここまでやって来たのです。
「よっしゃ。お豆ちゃん、よろしく頼むでぇ」
「クルックー」
あいぼんが、足に小さな紙切れを結びつけると、伝書鳩の『お豆ちゃん』は
元気よく答えました。
あいぼんは伝書鳩の『お豆ちゃん』を後藤さんの家まで飛ばして、
自分がここへ来ていることをよっすぃーに知らせようとしているのです。
「これはちょっと重たいかもわからんけど、がんばってな」
あいぼんは、お豆ちゃんの首にストラップを掛けました。
もちろんその先には、携帯電話がくっついています。
「クッ…!」
羽根を広げて飛び立とうとして、お豆ちゃんが目を見開きました。
いくら最近の携帯電話は軽量化が進んでいるからといって、
お豆ちゃんは鳩ですから、その重みは相当なものなのです。
「ああ、さすがにケイタイは重かったかなぁー。がんばって、お豆ちゃん!」
「クッ、クルッ、クルックゥゥ…!」
あいぼんの期待に答えようとするかのごとく、お豆ちゃんは
足を踏ん張って何とか飛び立とうと頑張ります。
「お豆ちゃん、ゴウッ!」
「クルックゥゥゥゥゥーーーーーッッ!!」
あいぼんの掛け声に合わせて、お豆ちゃんは大きく羽根を広げ、
広い大空へ向かってはばたきました。
「うおおーっ!お豆ちゃんが飛んだあああーーっ!!」
右手を高く揚げて叫ぶあいぼんの大声で、再び後藤さんが目を覚ましました。
「あー?なんか声したよね、外で」
後藤さんはゆっくり立ち上がると、部屋の窓を開けました。
するとものすごいスピードで、伝書鳩の『お豆ちゃん』が飛び込んできました。
「うわっ!?なに!?ハト!?ハトだよ!!」
後藤さんが、びっくりして叫びました。
お豆ちゃんは後藤さんの顔をかすめて、まだコントローラーを
握り締めているよっすぃーの肩に止まりました。
「んっ?何だ、この紙切れ」
よっすぃーはお豆ちゃんを自分の腕に止まらせると、結び付けてあった
小さな紙切れを抜き取りました。
「もしかして伝書バトってやつ?すごいねー。吉澤さん、やっぱ忍者なんだー」
感心したように後藤さんが言いました。
よっすぃーは、小さく折りたたまれた紙切れを開きました。
―
よっすぃーへ。
外でまってます。帰る前に電話番号とかいろいろ聞いとけ。
あいぼんより。
―
「あいぼんからだ」
「なんて書いてあったの?」
「ともだちが、外で待ってるみたい。私、もう帰るね」
よっすぃーは紙切れを元のように小さく折りたたむと、ポケットの中に仕舞いました。
(あっ、そうだ。電話番号…)
よっすぃーはあいぼんからの伝言を思い出してふとお豆ちゃんを見ると、
お豆ちゃんが首に携帯電話をぶらさげているのが目に留まりました。
お豆ちゃんが首からさげているのは、よっすぃーの携帯電話でした。
(あいぼん、ありがとう)
「クルックゥ…」
お豆ちゃんとしては伝書よりも先に、こちらに気付いてほしかったのですが。
「後藤さん」
お豆ちゃんの首から携帯電話を取ると、もじもじしながら、よっすぃーが言いました。
「なにー?」
お豆ちゃんの頭を撫でながら、後藤さんが言いました。
「あのぉー、ケイタイ、教えてもらってもいい?」
よっすぃーはもうどきどきして、終わりの方は消え入りそうに
小さな声でやっと言いました。
「うん、いいよぉー」
後藤さんは事もなげにそう言うと、机の上から自分の携帯電話を取りました。
よっすぃーはうれしくて、携帯電話をぎゅっと、胸に抱きしめました。
「吉澤さんのも教えてよ。あと、メールも」
「うん!」
そして二人は、電話番号とメールアドレスを交換しました。
春休みの間にまた会おうね、と約束して、よっすぃーは後藤さんの家を
今度はちゃんと玄関から、後藤さんに見送られて出て行きました。
「よっすぃー、お豆ちゃん、おかえりぃー」
あいぼんは、後藤さんの家から少しだけ離れたところでよっすぃーを待っていました。
「ただいま、あいぼん」
よっすぃーが言いました。
「クルックー」
よっすぃーの肩にとまっていたお豆ちゃんが、鳴きました。
「あ、着替え持ってくれば良かったね」
目の前に現れたよっすぃーを見て、あいぼんが言いました。
よっすぃーは寝ている間に連れてこられたために、服はパジャマのまま、
靴も履いていなかったのです。
そこでよっすぃーは帰り際、後藤さんに靴を借りることにしたのですが、
『忍者なんだから、ビーサンの方が草履っぽくて良いよね』という
後藤さんのありがた迷惑な心遣いによって、よっすぃーは
パジャマにビーチサンダルという、ラジオ体操に出かけるときの
小学生のような格好で家まで帰らなければなりませんでした。
「どうだった?」
あいぼんが、おそるおそる言いました。
あいぼんはよっすぃーがなつみのことで落ち込んでいることに気が付いていたので、
昨夜はずっとそのことが気になっていたのでした。
「うん、すっごく楽しかったよ!」
「えっ、ホンマにっ!?」
よっすぃーの答えを聞いた途端、あいぼんの顔がぱあっと明るくなりました。
「そっかぁー、良かった」
あいぼんは、昨日は少し強引だったけれども、よっすぃーをともだちに
会わせてあげて本当に良かったと思いました。
「ねぇあいぼん、どっかで朝ゴハン食べてこうよ。おごるからさ」
よっすぃーは心がうきうきして、自分がお財布を持っていないことも忘れていました。
「ホント?やったあー!」
二人は楽しそうに笑いながら、駅までの道を歩いていきます。
「ビバ!べーグルぅぅ」
よっすぃーは、このまま何もかもが上手くいきそうな、
うれしい予感で胸がいっぱいになるのでした。
<第6話>
「天気は良いし、おなかも一杯だし、ホント良い朝だなぁー。
あいぼん、ごちそうさま」
両手をあげて伸びをしながら、よっすぃーが言いました。
「どういたしまして!!」
あいぼんが怒鳴りました。
「怒んなよぉー。また今度おごるからさ。ねっ?」
よっすぃーが言うと、あいぼんはしぶしぶ頷きました。
後藤さんの家を出て朝食を済ませたよっすぃーとあいぼんは、
よっすぃーの家までの道を並んで歩いています。
あいぼんに朝ゴハンをおごってあげる、と胸を張って言ったよっすぃーは
おなか一杯食べ終えてレジでお金を払う時になって自分がお財布を
持っていないことに気付き、とっさに後ろから歩いてきたあいぼんの腕を掴みました。
何も言わず泣きそうな顔で、濡れた瞳で何かを訴えかけてくるよっすぃーを見て
全てを悟ったあいぼんは、仕方なくランドセルから自分のお財布を出して、
よっすぃーの代わりにお金を支払ったのでした。
これであいぼんの今月のお小遣いは、底をつきました。
「てめえ、つじーーっ!!今度やったら牛乳1リットル一気飲みだからね!!」
突然大きな声がしたかと思うと、一人の女の子が角を曲がって
ものすごいスピードで二人の方へ走ってきます。
二人はこちらへ向かって突進してくる女の子を避けて、道路の端の方へ寄りました。
あいぼんと同じくらいの背丈の女の子は、遠くの方まで全速力で走っていくと
突然立ち止まり、くるりと後ろを振り返りました。
「へっへーんだ!ばーかばーか!ピンボケやぐちーっ!!」
女の子はよくわからない捨て台詞を残すと、再び全速力で走り出しました。
「真里ちゃんち、またやられてるよ…」
みるみる小さくなっていく女の子の後ろ姿を見送りながら、よっすぃーが呟きました。
「やられてるって?」
よっすぃーの隣で、走り去っていく女の子を見ながら、あいぼんが言いました。
「ピンポンダッシュ。あっ、そっかー!あの子が辻さんだったんだ」
あいぼんに答えながら、よっすぃーは後藤さんの家でどうしても思い出せなかった
『辻さん』のことを、ようやく思い出すことができたのでした。
――
「はあ、はあ、はあ」
ここまで来れば大丈夫だろう。辻さんは立ち止まって、あがった息を整えます。
今日も上手くいった、そして明日も明後日もその次も。そう、きっと永遠に。
「朝ゴハンは、三丁目の揚げパンにするか」
辻さんはそう呟いて空を見上げ、太陽の眩しさに思わず目を細めました。
辻希美さんは、よっすぃーや真里ちゃんと同じ町内に住む、中学二年生の女の子です。
おだんごに結った髪と幼く可愛らしい外見からご町内のアイドル的存在だった
辻さんはある日を境に、ご町内ではお尋ね者、しかし学校では英雄という、
いわゆるダークヒーローとして生まれ変わったのでした。
それは辻さんが中学二年生になったばかりの頃、
クラスでピンポンダッシュが大流行したことがありました。
もともと流行などにはあまり感心のなかった辻さんですが、
遊び半分で一度やってみたところ、その鮮やかな手つきや
逃げ去り方などがクラスメイトたちの間で大絶賛され、
辻さんはたちまちクラスのヒーローになってしまったのです。
可愛いアイドルよりも、かっこいいヒーローに憧れていた辻さんにとって、
それからの毎日はまさにバラ色の日々でした。
そう、あいつがやって来るまでは。
『新潟から来ました、小川麻琴。特技はピンポンダッシュです。よろしくお願いします』
一学期の終わりに辻さんのクラスに転校してきた小川さんは、
自己紹介でそう言い放ちました。
クラスのみんなも、それから隣に立っていた担任の夏まゆみ先生(体育科)も、
びっくりして思わず目を見開きました。
『辻さん。あなた良いダッシュ見せるって聞いたけど、いつもどこの家狙ってんの?』
転校二日目、ダッシュ王である辻さんの噂を聞きつけた小川さんが、
辻さんに話しかけてきました。
『高等部の、矢口センパイんちだよ』
小川さんに対してライバル心を剥き出しにしていた辻さんは、
自分が標的にしているお宅の中でもっとも難易度の高い家とされている
矢口先輩、つまり真里ちゃんの家を、小川さんに紹介したのでした。
ピンポンダッシュを志す者たちの間で、なぜ真里ちゃんの家が
狙い難かったかというと、その秘密は真里ちゃんの自転車の腕前にあったのです。
真里ちゃんは三歳の頃から補助輪なしの自転車を自由自在に乗りこなし、
そのテクニックもさることながらスピードにかけてはまさに超一流で、
町内で彼女の右に出るものはいない、というほどの腕前を誇っていました。
ですから辻さんのクラスでは、矢口先輩の自転車から逃げ切れた者こそが
王と呼ばれるに相応しいとされ、ただ一人それを成功させたことのある辻さんは、
まさに英雄としての名声を欲しいままにしていたのです。
ミニスカートがめくれるから嫌だ、という理由から当時はもう全力で走ることを
やめてしまっていた真里ちゃんですが、それでもそのスピードは恐るべきもので、
辻さんはいつも命からがら、真里ちゃんの追撃を逃れるのでした。
矢口先輩が真の実力を発揮したとき、おそらく自分に勝ち目は無い――。
それは辻さんにとって、虚しい勝利でした。
なぜならそれによって得られるものは、勝てば勝つほどに大きくなっていく、
真里ちゃんへの敗北感だけだったのですから。
『小川さんが矢口先輩の家を、やったらしい』
そんな噂が辻さんの耳に飛び込んできたのは、
小川さんが転校してきて三日目の朝でした。
現場を目撃したクラスメイトの話によると、小川さんは早朝、
新聞を取りに外へ出てきた真里ちゃんの目の前でチャイムを鳴らし、
自転車で追ってくる真里ちゃんを余裕で振り切ると風のように爽やかに、
見ていたクラスメイトに向かって、『おはよう、先行くねっ!』と
あいさつする余裕すら見せながら走り去ったと言うのです。
寝起きで体が鈍っていたことを考慮しても、矢口先輩はパジャマ姿のはず。
ミニスカートがめくれることを気にせず走れるから、差し引きゼロで
いつもの実力とトントンってとこか、と、そこまで考えて、辻さんは青ざめました。
自分がいつも必死の思いで矢口先輩の自転車を振り切るのに対し、
小川さんは風のように爽やかに、先輩の自転車をいとも簡単に
かわして走り去っていった――。
それは、小川さんの実力が辻さんのそれより遥かに上回っているという、
辻さんにとってこの上ない屈辱的な事実を意味していたのです。
絶望した辻さんはそれきりピンポンダッシュをやめてしまい、
自然、英雄の座は転校生の小川さんに引き継がれることとなりました。
転校早々クラスのニューヒロインとして君臨することになった小川さんは、
地球は自分のために回っているのだというような類の愚かな錯覚に陥り、
次第に自分の実力に溺れていきました。
小川さんは何度やっても自分のことを捕まえられない真里ちゃんを
完全になめてかかり、矢口先輩はまるで牙の抜けた虎だ、と、
スカートの裾を気にしながら走る真里ちゃんを馬鹿にして笑うのでした。
クラスメイトたちに自らの武勇伝を語る小川さんを横目で見ながら辻さんは、
矢口先輩は牙の抜けた虎なんかじゃない、鋭い爪を隠している鷹なんだ、と、
かつての宿敵である真里ちゃんに、尊敬にも似た思いを寄せるのでした。
一方、夏休みに入って毎日のように小川さんのピンポンダッシュの
被害に遭っていた真里ちゃんは、既に我慢の限界を超えていました。
どうすればミニスカートの裾を気にせず思いっきり走ることができるだろうか、
毎日そればかり考えて勉強も手につかないほど悩んでいた真里ちゃんは、
とうとう、ある禁断の方法を使って小川さんに挑むことを決意したのです。
『ミニスカートはかなきゃ良いんじゃないの?』
そんなよっすぃーの助言にも真里ちゃんは、
それは自分のプライドが許さない、と言って
決して耳を貸そうとしませんでした。
『だいじょうぶ。これは、見えてもいいパンツなんだから』
よっすぃーへというよりは、まるで自分自身に言い聞かせるかのように
そう言って真里ちゃんは、他人の目に晒されても平気なパンツ、
世間一般で言うところの『見せパン』を身に着けて、
小川さんとの勝負に臨む決心をしたのです。
そして、夏休みも終わりに近付いたある日のこと、
いつものように小川さんが真里ちゃんの家へやって来て、
右手の親指で軽やかに玄関のチャイムを鳴らしました。
ピンポーンという浮かれた電子音が周囲に鳴り響いたのを確認して
小川さんがスタートダッシュを切った瞬間、待ち構えていたように
玄関のドアが開き、中から真里ちゃんが矢のような勢いで
外へ飛び出しました。
ここまではいつもと変わりませんから、小川さんはすっかり油断して
後ろをちらちら振り返る余裕すら見せていましたが、
何度目かに振り返った瞬間、小川さんの表情が凍りました。
『たっ、立ちこぎ!?なんで!?パンツ見えてんじゃん!!』
自転車に乗って驚異的なスピードで迫ってくる真里ちゃんの姿を
見た瞬間、小川さんは思わず素っ頓狂な声を上げていました。
その時小川さんが見た真里ちゃんの走りは正確には立ちこぎではなく、
競輪選手などがそうするように、前傾の姿勢のまま腰だけを浮かすという
スタイルのものでした。
『牙の抜けた虎なんかじゃない。矢口先輩は、まるで豹だ』
全身に風を受けて、髪をなびかせながら見せパン全開で走る真里ちゃんの姿を
電信柱の影から盗み見ていた辻さんが、呟きました。
もしかして小川さんの敗北の瞬間が見られるかも知れない、
辻さんは今日ここへ通りかかった偶然を、神に感謝するのでした。
小川さんは腕を振って全速力で逃げながら、やっぱり矢口先輩は強かった、と、
矢口先輩ゴメンなさい、と自分の驕りを深く反省しましたが、時すでに遅し。
後ろからシャツの襟を掴まれた瞬間、小川さんの夏は終わりました。
『…っっ、うっうっ、ゴメっ、ゴメン、なさ、いっ…もう、しま、せんっ』
『今度やったら、アゴ立て伏せ100回だからね』
『小川さん…』
しゃくり上げて泣きながら真里ちゃんのお説教を受けている小川さんを
電信柱の影から見ていた辻さんの目に、自然と涙が溢れてきました。
どうしてわたし泣いてるんだろう、という戸惑いと、
アゴをどうやって立てたり伏せたりするんだろう、という疑問が
心の中で複雑に絡み合い、辻さんを苦しめました。
しかしその時はっきりとわかったことは、辻さんの涙は小川さんへ対する
同情のそれではなく、友が打ち負かされたことへの悔し涙だということでした。
あの強かった小川さんが、自分の目の前でまるで臆病な兎のように小さく震えている――。
辻さんは、矢口先輩許すまじ、マコっちゃんの仇はののがとる、と、固く心に誓ったのでした。
『あっ、あご、あごは、許してくださ、くださいぃぃぃ…っ』
『冗談だってば。もー、泣かないでよねー、あたしが悪いみたいじゃん』
真里ちゃんにしてみれば、辻さんの決意は逆恨み以外の何物でもなかったのですが。
翌日から辻さんは、真里ちゃんとの対決に備えて
担任の夏先生の下で筋トレ、合唱部の高橋先輩の下で
ボイトレに励みました。
トレーニングは過酷を極めましたが、全ては小川さんとの
友情のためと、辻さんは辛い修行にも必死で耐えるのでした。
そして、ついに決戦の日が訪れました。
正々堂々戦おうと心に決めていた辻さんは家を出る前に
真里ちゃんへ電話で、異例の『ピンポン予告』をしたのでした。
『もしもし』
『あ、矢口センパイですか。どうも、中等部の辻っす』
『辻?ああ、あのピンポン小僧ね。最近来ないじゃん、どしたの?』
『あのー、これからセンパイんちのチャイム鳴らしに行くんでー、
見せてもいいパンツでも用意して待っててください』
辻さんの挑発的な物言いに気分を悪くしたのか、真里ちゃんはしばらく黙って、
そして深いため息をつきました。
『辻、アンタなんつった?
見せてもいいパンツなんて、あたしそんなモンはいた覚えないんだけど』
『え?』
矢口先輩は見せパンをはいていた事実を隠そうとしているのだろうか、と
辻さんは思いました。
それともあの時のは、ホンモノ?と。
『ヤグチは見えてもいいパンツははいても、見せてもいいパンツなんてはかないの!
見ず知らずの他人に、”見せてもいい”なんて思ってる女の子いるワケないでしょ?
だから、”見せてもいいパンツ”なんて、本当はこの世に存在しないんだよ。
好きな人以外にはね?』
真里ちゃーん、パンツパンツって言いすぎだよぉー、やめなよー、という
よっすぃーの声が、電話の向こうから聞こえていました。
『へぇー。だったらなんで、”見せパン”なんですか?
矢口センパイの言うことが正しいなら、”見えてもいいパンツ”を略して
”見えパン”って言うべきなんじゃないんですかあー?』
辻さんはわざと憎らしい言い方をして、真里ちゃんを挑発しました。
『なっ!?あのさー、”見せパン”ってのはね!!
見せたくないけど万が一見えちゃった場合でも大丈夫なパンツ、の略なんだよ!
”見せパン”の”見せ”は、”見せたくない”の”見せ”なんだよ!
そういう、ちょっと悲しい意味が込められた言葉なんだよおっ!!』
電話の向こうの真里ちゃんが本気で怒っているようだったので、辻さんは慌てました。
『わっ、わかりました。じゃあその、見えてもいいパンツ、お願いします。
ホント、すいませんでした』
辻さんは、後輩らしく素直に謝りました。
『まっ、わかればイイんだけどね。でも、絶対負けないからね』
『こっちだって負けませんもんねー。
今日は朝からメロンパン12個、オニ喰いしてきたんだもん。
胃は口ほどに物を言い、って言いますからねー』
そう言うと真里ちゃんに、オマエ意味わかんねーよー、
と大笑いされたので、辻さんは少しムッとしました。
それから15分後、辻さんは真里ちゃんの家の前に来ていました。
辻さんは、志半ばにして倒れた小川さんの技を受け継ぎ、
右手の親指で軽やかに玄関のチャイムを鳴らしました。
ピンポーンという浮かれた電子音が周囲に鳴り響いたのを確認して
辻さんがスタートダッシュを切った瞬間、待ち構えていたように
玄関のドアが開き、中から真里ちゃんが矢のような勢いで飛び出しました。
真里ちゃんが外へ出た瞬間、辻さんは立ち止まって後ろを振り返りました。
真里ちゃんに一瞬激しい視線をぶつけて、再び辻さんは走り出します。
『真里ちゃん、がんばれ!』
『辻、許さないっ…!』
よっすぃーが見守る中、真里ちゃんは自転車に跨ります。
『真里ちゃん、待って。カメラ持ってくるから』
『いらないよ、バカ!』
よっすぃーが見守る中、真里ちゃんは腰を浮かせて走り出します。
辻さんは、夢中で走りました。
真里ちゃんは、夢中でペダルをこぎました。
よっすぃーは、夢中で真里ちゃんを後ろから追いかけました。
この中で一人だけ、しなくても良いことをしている人がいます。
結果は、辻さんの圧勝に終わりました。
苦しかった筋トレ、厳しかったボイトレ、そんな辻さんの
血のにじむような努力が、ようやく実を結んだのです。
こうして辻さんは誰もが認めるクラスの英雄として返り咲き、
夏先生も合唱部の高橋先輩も、それからうれしいことに
かつてのライバル小川さんまでもが、辻さんのことを温かく
祝福してくれたのでした。
辻さんは、今では黒板右隅の『日直』の欄に自分の名前を書くとき、
『辻”ピンポンダッシュ”希美』と書き記すほど自信に満ち溢れた
学校生活を送っています。
――
「ちょっと、つじーっ!待てっつんてんでしょー!!
アンタ、いったい何ヶ月続けるつもりーっ!?」
大声をあげながら角を曲がって走ってきた一人の少女が、
あいぼんとよっすぃーの前に現れました。
「真里ちゃん、おはよー」
よっすぃーが言いました。
二人の前に現れた少女は、よっすぃーの隣の家に住んでいる
幼なじみの真里ちゃんだったのです。
「きゃあっ!?」
辻さんを追いかけてきた真里ちゃんは、突然よっすぃーが
目の前に現れたことに驚いて思わず悲鳴を上げました。
辻さんに敗れたあの日以来、自転車を物置に封印していた真里ちゃんは、
走って辻さんを追いかけてきたのでした。
「よっすぃー、なにやってんの?」
真里ちゃんが言いました。
起きたばかりの真里ちゃんはパジャマにスニーカーで、
右手には今朝の朝刊を持っています。
「おそろいのパジャマだー!なになに?二人はどーゆー関係?」
真里ちゃんとよっすぃーの顔を交互に見ながら、あいぼんが言いました。
真里ちゃんとよっすぃーは二人とも同じ、紺色のチェックのパジャマを着ていました。
「よっすぃー。なんなの?その小学生」
不機嫌そうに眉をひそめて、真里ちゃんが言いました。
「小学生ちゃうもん!どこに目ぇつけてんねん!!」
あいぼんが怒鳴りました。
その振動で、背中のランドセルから覗いたタテ笛が揺れています。
「この子はね、あいぼん。すごいの、あいぼんは魔法使いなんだよ!」
よっすぃーが言うと、あいぼんはびっくりして飛び上がりました。
「こらーっ!」
そして、飛び上がった勢いでよっすぃーを横から激しくどつきました。
「痛っ!なにすんだよ、あいぼん!」
あいぼんに叩かれた右腕をおさえながら、よっすぃーが言いました。
「オマエ、なに普通にバラシとんねん!!」
「えっ、ダメなの!?そんなの最初から言ってよ!」
あいぼんが魔法使いであることは他の人には内緒だということを、
あいぼんはよっすぃーに言い忘れていたのでした。
「真里ちゃん、あいぼんは小学生でも魔法使いでもなくって、
中学二年生なんだよ、休み終わったら三年だけど。ねっ、あいぼん?」
よっすぃーが言い直すと、あいぼんは満足そうに、うんうんと頷きました。
「そんなこと聞いてるんじゃない」
真里ちゃんが言いました。
その声がとても冷たい響きを持った音のように感じられて、
よっすぃーは思わず、びくっ、と肩を震わせました。
「真里、ちゃん…?」
よっすぃーはおそるおそる、その名前を呼びました。
けれども真里ちゃんは下を向いてしまって、何も答えてはくれません。
(どうしよう…。よくわからないけど、真里ちゃん、すごく怒ってる)
「真里ちゃん、ねぇ、真里ちゃん」
よっすぃーは、考えました。
どうして真里ちゃんは、怒っているのだろう。
自分はなにか真里ちゃんを怒らせるような悪いことを、してしまったのだろうか。
けれどいくら考えても、思い当たることがありません。
「その子は、よっすぃーの何なの、って、聞いてるの」
真里ちゃんは下を向いたまま、さっきよりもずっと冷たく暗い声で言いました。
よっすぃーは、また少し考えて、ハッとしました。
(ああ、そうか。真里ちゃんはきっと、あいぼんのことを、)
「この子は、あいぼんは、」
よっすぃーが喋り始めると、真里ちゃんは顔を上げて、
よっすぃーの顔をじっと見つめました。
(真里ちゃんはきっと、あいぼんのことを、私のともだちだと思ってる)
(真里ちゃんが怒ってるのは、私が真里ちゃんの正しいと思うことと
反対のことをしたからなんだよね?)
(私が、ともだちを、作ってしまったからなんだよね?)
「あいぼんは、私の、」
よっすぃーは本当はどきどきして、すぐにも逃げ出したい気持ちでしたが、
真里ちゃんの目をまっすぐに見つめて、あと少しの勇気を振り絞るために
こぶしをぎゅっと握ると、大きく息を吸いました。
(真里ちゃんは、きっとものすごく怒るに違いない。
それでも私は、やっぱり、言わなきゃいけないんだ)
真里ちゃんに向かってそれを言うのにはとても勇気がいりましたが、
たとえば真里ちゃんを怒らせないために他の言葉を使ったとしたら、
それはあいぼんを裏切ることになると、よっすぃーは思ったのでした。
「ともだちだよ」
よっすぃーはどきどきして、でもきっぱりと、言いました。
「それから、なつみって子と、後藤さんって子も」
よっすぃーが言うと、あいぼんは、あっ、と小さく声を上げて、
「バラしてもーたぁ…」
と言いました。
「ともだちは作っちゃダメって、真里ちゃんずっと言ってたでしょ?
だから言えなかったけど、でも本当はすごく言いたかったよ、ホントだよ?」
あいぼんはとても困ったような顔をしていましたが、よっすぃーは
真里ちゃんに自分の気持ちをきちんと話したいと思っていました。
だって小さい頃からいつも一緒だった真里ちゃんに、
よっすぃーは大切なこともそうでないことも、どんなことだって
みんな隠さずに話してきたのですから。
けっして、そうしなければならないと思っていたのではないけれど、
ともだちのことを秘密にしていたこと、
そのことで真里ちゃんに心からすまないと思っていること、
それだけはどうしても伝えたいと、よっすぃーは思ったのです。
「真里ちゃん、私ね、」
「もういいよ」
そう言うと、真里ちゃんはきゅっと唇を噛みました。
よっすぃーには、それは泣き出しそうになるのを
じっとがまんしているような、とても悲しい顔に見えました。
「何が、いいの?私、まだ何も言ってないのに…」
よっすぃーが言うと真里ちゃんはそれには答えずに、
くるりと後ろを向いて自分の家の方へ歩き出しました。
「えっ…」
よっすぃーは、しばらくはわけがわからずに、
真里ちゃんの歩いていく姿をぼうっと見送っていましたが、
そのうちにハッとして、
「真里ちゃん、待ってよ」
と言って、走り出しました。
「ねぇ、」
「来ないで」
後ろから走ってきたよっすぃーが、真里ちゃんの肩を掴もうと
右手を上げかけたちょうどその時、真里ちゃんが言いました。
よっすぃーが行き場を失った右手を自分の胸元に引き寄せると、
よっすぃーの右手は、真里ちゃんとおそろいのパジャマの、
クリーム色のボタンに触れました。
祈るようにぎゅっとそれを握ると、前を歩いていた真里ちゃんが
ぴたりと足を止めてこちらへ振り返ったので、よっすぃーは驚きました。
そして、それは単なる偶然だったのかも知れないけれど、
きっと真里ちゃんと自分の間にだからこそ起こり得た偶然なのだと思うと、
よっすぃーはなんだかうれしくなるのでした。
「もういいよ」
よっすぃーとしばらく見つめ合って、真里ちゃんが言いました。
真里ちゃんの冷たい声は、よっすぃーのうれしい気持ちを
少しずつゆっくりと、冷ましてゆきます。
よっすぃーは、なんだか頭がぼうっとしてきて、
目の前に立っている真里ちゃんのパジャマの
胸ポケットのあたりを、ぼんやりと眺めていました。
そしてよっすぃーは、お正月に真里ちゃんが家に泊まりに来て、
春から受験生になる真里ちゃんのために神社でもらってきた
お守りをあげた時のことを思い出しました。
真里ちゃんは、気が早いよ、と言って笑いながら、
でもとてもうれしそうに、今着ているよっすぃーとおそろいの
パジャマの胸ポケットに、それをしまったのでした。
「よっすぃーなんか、もう、いらない」
真里ちゃんはそう言ってよっすぃーに背を向けると、また歩き出しました。
よっすぃーは、もう真里ちゃんのことを追いかけようとはしませんでした。
始業式の朝、真里ちゃんの鞄に自分のあげたお守りが
ぶらさがっているのを見つけてとてもうれしかったことを、
よっすぃーは、ぼんやりと、思い出していました。
<第7話>
あいぼんは、とても困っていました。
真里ちゃんを見送ったまま道の真ん中でぼうっと立ちつくしているよっすぃーに、
何と言って声をかけたら良いのか、わからないのです。
(とりあえず、励ました方がいいよねぇ…)
あいぼんはどきどきしながら、よっすぃーに後ろからゆっくりと近付きます。
そして、よっすぃーの背中をぽんぽんと叩いて
「カワイイ子は真里ちゃんだけじゃないって!ドンマイ、ドンマイ!!」
と言いました。
しかし、よっすぃーはまるであいぼんの言葉など耳に入っていないかのように、
真里ちゃんが歩いて行ってしまった先をぼんやりと眺めているだけです。
「ほらあー、真里ちゃんなんか放っといてぇー、あややと一緒に歌おうよぉー。
行っくよぉー、せーの!トド色の片想ぉーい♪ラララララ♪」
あいぼんはよっすぃーを元気付けようと、よっすぃーが大好きな『あやや』の
モノマネを始めました。
「似てないからやめて」
しかし、よっすぃーは元気になりませんでした。
「よっすぃぃぃぃぃ…」
あいぼんは、気の抜けたような、情けない声で言いました。
「おっ」
あいぼんが途方に暮れていると、ランドセルの中で携帯電話の着信音が鳴りました。
「はいはいはい、ちょっと待ってなぁ」
あいぼんは独り言を言いながら、ランドセルから携帯電話を取り出します。
そして表示画面を見た途端、あいぼんの表情が曇りました。
(中澤さんや、どないしよ…無視するか。でも、あとで怒られるよなぁ…)
あいぼんは何となく嫌な予感がして気は進みませんでしたが、
無視すると後が恐いので、仕方なく電話に出ることにしました。
「もしもし」
『アンタ、どこほっつき歩いとったん!?』
中澤さんは、あいぼんが電話に出るといきなり怒鳴り声を上げました。
寝起きの中澤さんにありがちな、冷たくて信じられないほどテンションの低い声を
想像していたあいぼんは、その取り乱した声に驚きました。
「わあっ!ごっ、ゴメンなさい!あの、今よっすぃーと一緒でっ」
『もぉぉ、起きたらアンタがおらへんから、アタシは、アタシわああ…』
中澤さんはさっきの怒鳴り声とは打って変わって弱々しい涙声になって、言いました。
「中澤さん…」
中澤さんはきっと自分のことを心配して電話をくれたのに違いない、
そう思うとあいぼんは、じんとして涙がこぼれそうになりました。
そして、何も言わずに家を出てきてしまったことを、心から反省するのでした。
『朝ゴハン食べ損ねたやないか。どないしてくれんの?』
中澤さんはさっきの涙声とは打って変わって抑揚の無い冷たい声で、言いました。
「え?」
その言葉に自分の耳を疑ったあいぼんは、中澤さんに思わず聞き返しました。
『え?じゃないでしょおー。おなか空いてんのやで、ねーさんは』
あいぼんは、どうやら中澤さんが自分に今すぐ帰って朝ごはんを作ることを
望んでいるらしいことを、察しました。
「いや、でも今、手が放せないんで…」
あいぼんがやんわり断ろうとすると中澤さんは、ああん?と、
とびきり不機嫌そうな声を出しました。
『アンタ知らんの?
おなか空いたの放っといたら、おなかと背中がくっついてしまうんやで。
最愛の中澤さんがそんなことになってもええんか。悲しないんか?
あああ、冷たい子ぉやで、加護ちゃんは。
そんなことやから、いつまで経っても一人前なられへんねん!』
「………」
あいぼんは、いやだから自分は一人前になるために今ココにいるんだけど、
と思いましたが、これまでの経験から寝起きの中澤さんに逆らうのは
利口者のやることではないとわかっていたので、何も言いませんでした。
『聞いてんの!?ええから早よ帰って来い、ナマケ坊主が!!』
ナマケ坊主はお前の方だ、と、あいぼんは思いましたが、恐くて言えませんでした。
「…はあい」
あいぼんはもうすっかりあきらめて、言いました。
『じゃあ、二度寝するから。ゴハン出来たら起こしてな?おやすみー』
「りょーかいしましたあ」
暗い声でそう言うと、あいぼんは電話を切りました。
「ゴメン、よっすぃー。ウチ、ちょっと家帰ってくる。朝ゴハン作らなアカンねん」
あいぼんが帰ろうとすると、よっすぃーは急に慌てて
「行かないでよ、あいぼん」
と言って、あいぼんの腕を掴みました。
よっすぃーは真里ちゃんとあんなことになって一体どうしたら良いのかわからないのに、
その上あいぼんまでいなくなってしまって一人ぼっちになるのが心細かったのです。
「だいじょうぶ、すぐ戻ってくるって!」
よっすぃーがあまりに不安そうな顔をするので、あいぼんは帰るべきか迷いましたが、
中澤さんとの約束を破るだけの勇気は、あいぼんにはありませんでした。
あいぼんは手を振ると、心細そうに立っているよっすぃーを一人残して
中澤さんの待つ家へと帰って行きました。
「なんで行っちゃうんだよ…」
よっすぃーは、なんだか世界中で一人きりになってしまったような気がして、
とても寂しい気持ちになるのでした。
「真里、具合悪いって部屋から出てこないのよ」
よっすぃーは、ゴメンね、と謝る真里ちゃんのお母さんに
ううん、と言いながら首を横に振ると、ドアを開けて外へ出ました。
あいぼんと別れてすぐに、よっすぃーは真里ちゃんの家を訪ねてみたのですが、
真里ちゃんはお母さんが呼んでも部屋から出てきてはくれませんでした。
あきらめきれないよっすぃーは、真里ちゃんの家の塀に寄りかかって
胸ポケットから携帯電話を取り出すと、真里ちゃんの携帯番号にかけてみました。
(『よっすぃーなんか、もう、いらない』)
真里ちゃんを呼び出している間、よっすぃーは真里ちゃんが別れ際に
言った言葉を繰り返し思い出していました。
もう何度聞いたのかわからなくなってしまった頃に、呼出音は女の人の
メッセージに切り替わり、よっすぃーは携帯電話を耳から離しました。
二階を見上げると、真里ちゃんの部屋のカーテンは閉まっています。
よっすぃーはがっくりと肩を落とすと、真里ちゃんに会うことをとうとうあきらめて、
とぼとぼと自分の家へ帰っていくのでした。
――
「ケイさん、おはよう。これから散歩?」
「ニャ」
自分の家に戻ってきたあいぼんは、門の前で黒猫のケイさんとすれ違いざまに
簡単な挨拶を交わしました。
ケイさんは、中澤さんが勝手口のドアの隅っこに作ってくれたケイさん専用の
小さな出入り口から、いつも自由に出入りしているのです。
「たしか冷蔵庫に鮭あったよなぁ」
あいぼんは玄関で独り言を言いながら靴を脱ぐと、台所へ向かいました。
「あっ。あいぼん、おかえりー。こんな時間にどこ行ってたん?」
あいぼんが台所へ入ると、平家さんが出迎えてくれました。
右手にお玉を、左手に小皿を持って立っている平家さんは、
ちょうど何かを味見していたところのようです。
「えっ、なんでみっちゃんがおんの?」
あいぼんが尋ねると平家さんは悲しそうな顔をして、ひどいわあ、と言いました。
「お行儀悪いでしょー。ちゃんと部屋に置いといで」
そして、ランドセルをおろして床に置くと、平家さんに叱られてしまいました。
そのうちにあいぼんは、お味噌汁の良いにおいがしているのに気が付きました。
「もう出来るから、ついでに裕ちゃん起こしてきて」
ランドセルを持って出て行こうとするあいぼんに、平家さんが言いました。
「はあーい」
少し投げやりな返事をして、あいぼんは台所を出ました。
階段を上りながらあいぼんは、どうして平家さんがここにいるのだろうかと考えました。
昨日の夜は中澤さん一人で帰ってきて、平家さんは泊まりに来なかったはずだし、
もしかして自分の帰りを待ちきれなかった中澤さんが平家さんを呼びつけたのだろうか、
などと、いろいろ考えてみましたが、さっぱり分かりません。
「ってゆーか、みっちゃん来てるんやったら、ウチ帰らんでも良かったんやん」
部屋に入るなりあいぼんは、ベッドの上に乱暴にランドセルを放り投げました。
ぷうっと頬を膨らませて一人で怒っていると、ふいにあいぼんは
自分と別れるときの、よっすぃーの不安そうな顔を思い出しました。
(よっすぃー、一人でだいじょうぶかなぁ…)
「中澤さんのアホぉ」
ぼそりと言って、あいぼんは自分の部屋を出ました。
平家さんに頼まれたとおり、これから中澤さんを起こしに行かなくてはならないのです。
「中澤さん!起きて!ゴハン!」
そう言うとあいぼんは、仰向けに寝ていた中澤さんのおなかの辺りを、
布団の上から何度か軽く叩きました。
「あー?誰、アンタ」
あいぼんが、とどめをさそうと両手を大きく振り上げたとき、
中澤さんが眠そうに半分だけ目を明けて言いました。
「加護です!」
「ああ、加護さん…ツケの件?あー、お金ないんで…来月にしてもらえます?」
中澤さんは寝ぼけているようでした。
「もおっ!朝ゴハンやって!起きろーっ!」
「あー?ああ、加護やんか。おはよー…」
あいぼんが強く揺すると、ようやく中澤さんは起きてくれました。
「中澤さん、ひどいよ!!
なんでみっちゃん来てんのに、ウチのこと呼び出すんですかぁ!?」
あいぼんは早速、起き上がった中澤さんに抗議しました。
しかし中澤さんは、何のことかわからない、という顔であいぼんを見ています。
「みっちゃん、来てんの?」
「えっ、知らんの?」
「うん、知らんで」
中澤さんが言って、二人は腕組みしてしばらくの間、考え込みました。
「「…あっ!」」
二人は顔を見合わせて、声をあげました。
それは昨日の夕方、中澤さんのオフィスで、中澤さんとあいぼんと平家さんの三人で
お話をしていたときのことです。
あいぼんが、公園でよっすぃーと見た桜がとてもきれいだったという話をすると
中澤さんが、そう言えば今年はまだお花見をしていない、行きたい、飲みたい、と言い出し、
平家さんが、だったら明日は日曜だし三人で行こう、と言うので、
三人はお花見に行く計画で盛り上がったのでした。
『せやったら、みっちゃん、朝ゴハン作りに来てよ。
そんで、お昼はみっちゃんの作ったお弁当食べながら、お花見するでしょー。
ほんで、家に帰ってみっちゃんの作ったおつまみとビールで、巨人戦観るでしょー。
最後は、みっちゃんの作った晩ゴハン食べながら、”あるある”観て終わり。
ってコレ、完璧なプランやんかー!』
平家さんに向かってこんなひどいことを言ったのは、もちろん中澤さんです。
うわー晩ゴハン遅っ!と、うれしそうに突っ込むあいぼんの隣で
『ウチは裕ちゃんの何?飯炊き女か?』と深刻な顔で言う平家さんに向かって
中澤さんは、『えっ、ちがうの?』と真顔で逆に問い返したのでした。
「そういや、お花見行こうって言うてたな…」
寝ぐせのついた髪を手で押さえながら、中澤さんが言いました。
「すっかり忘れてましたよねぇ……んっ?」
そう言いながらあいぼんは、なにかの気配を感じて後ろを振り返りました。
すると恐ろしいことに、あいぼんが入るときに半分ほど開けてそのままにしていた
ふすまの向こう側に、出刃包丁を持った平家さんがゆらりと立っているではありませんか!
「みっ…!」
みっちゃん、と言いかけて、あいぼんは驚きのあまり言葉を失いました。
「忘れてたんか、二人して。じゃあウチは、来ても来んでも良かったんやな…。
つまりウチは、この家におってもおらんでも、ええんやな…」
平家さんは出刃包丁を持つ右手をだらりと下に垂らし、死んだ魚のように
輝きを失った目でじとりと、あいぼんたちを見ています。
「いや、ほらあ、アレやん。みっちゃんは、空気のような存在やから」
苦し紛れに、中澤さんが言いました。
「それどういう意味やねん。言うてみぃ」
中澤さんに歩み寄って包丁をちらつかせながら、平家さんが言いました。
「はい。あの、目には見えへんけど、なかったら困るモン、です」
平家さんに包丁で左の頬をぴたぴたと打たれている中澤さんは、今にも泣き出しそうです。
「よろしい」
平家さんは、ふふふ、と満足そうに笑うと、部屋を出て行きました。
あいぼんは、いいのか?目には見えないって言われたんだぞ、と思いましたが、
せっかく平家さんが機嫌を直してくれたので何も言わないことにしました。
「「いただきまあーす」」
中澤さんとあいぼんは、お行儀よく手を合わせて言いました。
食卓には、平家さんが用意した美味しそうなおかずたちが並んでいます。
「ご先祖様に感謝してなあ、残さず食べるんやで」
平家さんがそう言うので、あいぼんは自分のご先祖様の顔を思い浮かべようとしましたが
どんなに頑張っても思い出せるのは、ひいおじいちゃんまででした。
「あ、今日ウチ、お花見行かれへん。よっすぃーのトコ戻らな」
あいぼんが言うと、それまでにこやかに笑っていた平家さんが突然暗い顔になりました。
「日曜ぐらいええやんかー、せっかく三人で行こって言うてたのに…」
「ゴメンね、みっちゃん」
寂しそうな平家さんを見て少し胸が痛みましたが、あいぼんは何よりも
よっすぃーのことが気にかかっていたのです。
「しゃあないやん。花見より仕事の方が優先や」
それまで黙ってご飯を食べていた中澤さんが、ぼそりと言いました。
「ちがうもん…仕事とか関係ないよっ!」
あいぼんは怒ったように乱暴にはしを置くと、中澤さんに向かって言いました。
あいぼんは、よっすぃーにともだちを作ってあげることは確かに『仕事』ではあるけれども、
中澤さんに自分がよっすぃーのことを心配する気持ちまでも『仕事』だと言われたような
気がして、なんだかくやしかったのです。
「仕事でしょ。勘違いしたらアカンで」
中澤さんは冷たく言って、自分のことを睨みつけるあいぼんと目も合わせようとしません。
「仕事やない!よっすぃーは友達や!」
あいぼんはますますくやしくなって言い返しましたが、中澤さんは何も言ってはくれませんでした。
もうたまらなくなって、あいぼんは立ち上がりました。
「あいぼん、まだ残ってるで?」
出て行こうとするあいぼんを、平家さんが引き留めました。
お皿の上にはあいぼんの大好きな玉子焼きもまだ半分くらい、残っています。
鮭はまだ諦めがつくとしてもせめて玉子焼きだけは食べてしまってから席を立てば良かったと、
あいぼんは心の底から後悔しましたが、もう後にはひけません。
「もういらへん!!」
つい大きな声を出してしまって、あいぼんは平家さんに悪いことをしたと思いました。
そして、あいぼんはせっかく平家さんが作ってくれた、まだ口もつけていない
お味噌汁を見て、いっそう辛くなるのでした。
「加護」
あいぼんのお皿に乗っていた玉子焼きを横取りしながら、中澤さんが言いました。
あいぼんは本当にもうくやしくて、涙が出そうになりました。
「ランドセル忘れたらアカンで」
中澤さんはそう言うと、あいぼんの玉子焼きをぱくっと食べてしまいました。
その瞬間あいぼんは小さな声で思わず、あっ、と言ってしまいました。
「中澤さんのアホっ…!」
「あいぼん、待って!」
平家さんが止めるのも聞かずに、あいぼんは部屋を飛び出しました。
――
その頃、自分の部屋に戻ってきたよっすぃーは床に座り込んで、
子供の頃からの写真がたくさん入っているアルバムを見ていました。
その中には家族だけで写っているものや、学校の集合写真などもありましたが、
ほとんどは真里ちゃんと二人で写っている写真ばかりです。
(本当に今までの私には、真里ちゃんしかいなかったんだなぁ)
「あーあ」
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
よっすぃーはさっきから何度も何度も同じことを考えて、けれどもわからなくて、
そのたびに深いため息をつくのでした。
「真里ちゃん…」
一枚の写真を見て、よっすぃーが呟きました。
それは去年の夏祭りによっすぃーの家の前でお母さんが撮ってくれたもので、
写真の中の二人は浴衣を着て、とても楽しそうに笑っています。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
本当は、よっすぃーにもわかっているのです。
真里ちゃんが怒っているのは自分がともだちを作ってしまったからだということ、
だから、ともだちさえ作らなければ、こんなことにならずに済んだのだということ。
もしも時間を戻すことができるならば、もう二度と、ともだちなんか作らない。
もしもあいぼんが初めてここへ来た日にまで時間を戻せるのならば、もう二度と。
どんなにたいくつだって、真里ちゃんと会えないことに比べたらその方がずっとましだと、
よっすぃーは思いつめるのでした。
そしてアルバムの次のページをめくろうとすると、後ろでドサッという音がしたので、
よっすぃーは振り返りました。
するとベッドの上には靴を履いたままのあいぼんが立っていましたが、
あいぼんが突然ベッドの上に現れることにはもう慣れていたので、
よっすぃーは特別驚いたりすることもありませんでした。
ただひとつ違っていたことは、昨日まではあいぼんが来るのを
心待ちにしていたのに、今はそれを少し迷惑に感じていること。
「ゴメンゴメン!待ったあ?」
ベッドからぴょんと飛び降りると、あいぼんが言いました。
よっすぃーはただでさえ、ともだちを作ったことを後悔しているのに、
自分にそうさせたあいぼんがいつものようにふざけた調子で言うので、
そんなあいぼんを憎らしくさえ思うのでした。
「よっすぃー?」
あいぼんが、座り込んでいるよっすぃーの顔を覗き込もうとすると、
よっすぃーはぷいっと横を向いてしまいました。
「よっすぃー、ウチが帰ったこと怒ってんの?なぁ、」
「真里ちゃん、家に行っても会ってくれないし、電話にだって出てくれない」
あいぼんの言葉を遮って、よっすぃーが言いました。
「そっかぁ…」
あいぼんは、よっすぃーが自分が帰ったことを怒っているのではないと思って安心しましたが、
自分のいない間よっすぃーがどんなに心細かっただろうと思うと、よっすぃーにすまない気持ちで
いっぱいになるのでした。
「あのさ、真里ちゃんだって、今は怒ってるかも知れないけど、」
「あいぼんのせいじゃん」
真里ちゃんだって、今は怒ってるかも知れないけど、話せばきっとわかってくれるよ。
あいぼんは、よっすぃーにそう言いたかったのです。
けれども、よっすぃーはあいぼんに最後まで言わせてはくれませんでした。
「あいぼんが、ともだち作れなんて言うから、こんなことになったんだよ?
私、真里ちゃんとこんなことになるんだったら、ともだちなんかいらなかったのに…
なのに、みんな、あいぼんのせいじゃんか!!」
よっすぃーはもう腹が立ってどうしようもなくて、床に広げたアルバムを両手でバンと叩きました。
あいぼんはびくっと体を縮こませて、もう何も言いませんでした。
「ともだちは裏切ったりしないって、あいぼん言ったよね?」
しばらくして、よっすぃーが言いました。
「ともだちは私に嫌なことや悪いことをしないって、言ったよね?」
あいぼんはよっすぃーに何も言い返さず、ただ、何かを我慢するように
ぶるぶると肩を震わせています。
よっすぃーは、あいぼんが自分にひどいことを言われて、
きっとものすごく怒っているのだろうと思いました。
けれどもそれには構わず、よっすぃーは言葉を続けました。
「でも、そんなの嘘だよ。だってあいぼんは私のこと、裏切ったんだもん」
よっすぃーは、言いたかったことは全部言ってしまったけれども、
これで本当にあいぼんの心を傷付けてしまったような気がしました。
「また、来るね」
あいぼんはそれだけ言うと、よっすぃーの部屋から姿を消しました。
もう来なければいい、と強く思った後でよっすぃーは、
でも本当に来なかったらどうしよう、と、全く反対のことを考えていました。
「……っ、…くぅっ、っく…っ、ぇっ」
外へ出て、走って角を曲がると、あいぼんは堰を切ったように泣き出しました。
あいぼんは、よっすぃーに言われたことはとても悲しかったけれども、
自分が泣き出したらよっすぃーはびっくりしてどうして良いかわからなくなってしまうと思って、
泣きたいのをずっと我慢していたのでした。
そして、ここまで来ればよっすぃーの部屋からも自分の姿は見えないだろうと思ったのです。
「…っ、もっ、もぅ、いやや、もぅ、いや、やぁっ…」
あいぼんはその場にしゃがみ込んで、泣き続けました。
よっすぃーが言った言葉や、中澤さんとケンカしてしまったことや、
平家さんのお味噌汁を残してしまったことや、いろんなことが、
あいぼんの頭の中でぐるぐると渦を巻いていました。
<第8話>
「あいぼん」
あいぼんは、誰かに自分の名前を呼ばれて顔を上げました。
するとそこには、竹ぼうきを持った平家さんが立っていました。
塀の上には、お魚くわえたケイさんの姿もあります。
下を向いてとぼとぼと歩いているうちにあいぼんは、
いつの間にか自分の家にたどりついていたのでした。
「おかえり。えらい早かったなぁ」
平家さんは、家の前を掃除している途中だったようです。
「うん…」
あいぼんは小さな声で返事をしましたが、それはほうきで掃く音に消されて、
平家さんの耳には届いていないようでした。
平家さんはとてもうれしそうに、「一緒にお花見行けるなぁ」と言いましたが、
あいぼんは黙っていました。
「まったくもー、玄関は家の顔なんやから。いつもキレイにしとかなアカンで?」
平家さんはほうきでごみを集めながら、呆れたように、でも少しうれしそうに言いました。
「玄関じゃないもん、門の外じゃん。うちの土地じゃないじゃん」
あいぼんは下を向いて、平家さんに聞こえないように、小さな声で言いました。
「どないしたん?なんか元気ないなぁー」
平家さんは心配そうにそう言ってあいぼんに近付くと、その顔を覗き込みました。
あいぼんはなんだか胸が熱くなって、泣き出しそうになるのを一生懸命にこらえました。
楽しいことを考えたりして、溢れてくる涙を止めようとしましたが、やっぱりだめです。
「あいぼん?」
「ふぅっ…みっちゃ、みっちゃああーん!!」
あいぼんはとうとうこらえきれなくなって、平家さんにすがりついて泣きじゃくりました。
平家さんはその手であいぼんが泣き止むまでずっと、あいぼんの髪をやさしく撫でていてくれました。
「そっかぁ、それはちょっと可哀想やったなぁ」
あいぼんの話を一通り聞き終えて、平家さんが言いました。
あいぼんは平家さんに、よっすぃーと初めて会った時のことから、
ついさっきよっすぃーの部屋で起こった出来事までを全て話したのです。
「ウチ、よっすぃーに嫌われてもーた。もぅ終わりや…」
「大丈夫やって。ケンカしたら、仲直りしたらええやん。
友達やったら、そんなん普通のコトやろ?」
平家さんはそう言ってくれましたが、あいぼんはやっぱり不安なのでした。
「友達、かぁ…」
(よっすぃーはウチのこと、まだそんな風に思ってくれてるかな)
真里ちゃんの前であいぼんのことを『ともだち』だと言ってくれたよっすぃーですが、
真里ちゃんとあんなことになってしまった今でもそう思ってくれているのかといえば、
あいぼんにはその自信がなかったのです。
「どっちにしても、その、『真里ちゃん』って子が問題やなぁ」
「うん…」
あいぼんは腕組みをしてしばらく考えた後、急にぱあっと明るい顔になって言いました。
「ねぇねぇ!みっちゃんって、魔法で誰かの心の中覗いたり、できるよねっ?」
「まさか、魔法で真里ちゃんの気持ち探れって言うんか?」
平家さんは少し困ったような顔になって、言いました。
「ダメぇ?」
あいぼんは胸の前で両手を組んで、平家さんを上目遣いでじっと見ています。
こうしてお願いすると平家さんが絶対に断れないことを、あいぼんは良く知っていたのです。
平家さんはうーんと唸って、ますます困ったような顔をしました。
「真里ちゃんの心の中がわかったら、どうすれば二人が仲直りできるか、わかると思うねん」
あいぼんは平家さんの力を借りて、真里ちゃんが怒ってしまったわけや、
どうすればよっすぃーのことを許してくれるのかを知ることが、
二人を仲直りさせる近道だと思ったのでした。
けれども平家さんは困ったような顔をするばかりで、なかなか、うんと言ってくれません。
「あいぼん」
突然、平家さんが真剣な顔になって言いました。
「みっちゃんは、あいぼんが大好きやで?
せやから、あいぼんの頼みやったら何でも聞いてあげたいけどな…もうちょっと、よぉ考えてみ?」
「なんだよー!なんでダメなの?」
あいぼんは怒ったように言って、平家さんの顔をじっと見ました。
「他人の心がわからへんのは、当たり前のことやろ?楽したって何の得もあらへん。
苦労してわかるから、その人が自分にとって大切な人になるんやないかな」
「…それって、どーゆーコト?」
あいぼんが聞くと平家さんは、にっこりと笑って言いました。
「ほな、逆に質問するで?
へーけさんはめっちゃスゴイ魔法使いなのにも関わらず、
なぜあいぼんや裕ちゃんの心を読むことをしないのでしょーか?」
「アホやから」
「なんでやねん。真面目に答えなさい」
「えーっ…」
あいぼんは平家さんに言われたとおり少し真剣に考えてみましたが、さっぱりわかりません。
もしも中澤さんやあいぼんの考えていることが簡単にわかったとしたら、
それは平家さんにとってとても都合が良いはずなのに、なぜそうしないのだろうか?
考えれば考えるほど、謎は深まるばかりです。
「わかんない」
あいぼんは、すぐにあきらめてしまいました。
「正解は、あいぼんや裕ちゃんと話がしたいからでした」
平家さんは、得意そうに言いました。
「そんなん、気持ちがわかったら話なんかいらへんやん」
いっそ言葉なんて無い方が、面倒な誤解や争いが生まれずにすむのかも知れないのに。
あいぼんは、そんな風にも思うのでした。
「そんなことないよぉ。心と言葉は違うもん。
たとえばさ、気持ちは決まってても、それを言葉にするのってめっちゃ難しいやろ?
ちゃんと最後まで言えへんかったり、余計なウソついたりしてさ。
せやから考えて考えてやっと出てきた言葉は、たぶん、心より何倍も重みがあんねん」
平家さんはあいぼんが真剣な顔で自分の話に聞き入っているのに気付いて苦笑いすると、
「ほらぁ、やっぱそんな貴重なモン聞き逃す手はないしぃー?」
と、冗談めかして言うのでした。
「まっ、裕ちゃんとかあいぼんレベルのウソやったら、魔法なしでも楽勝で見破れるけどな」
「おおぅ…!」
あいぼんの胸が、ズキンと痛みました。
けれどもあいぼんは、もうすっかり元気を取り戻していました。
そして、そうなれたのはきっと平家さんと話をしたからなのだと思うと、なんだか
ずっと考えていたことへの答えが見つかったような気がして、うれしくなるのでした。
「ウチ、よっすぃーのトコ行ってくる」
よっすぃーだって、きっと誰かに落ち込んだ気持ちを打ち明けたいのに決まっている。
そう思うとあいぼんは、居ても立ってもいられないのでした。
「みっちゃん」
よっすぃーの家へ行こうとニ三歩歩き出したところで、あいぼんは突然立ち止まりました。
「ん?」
「あの…おみそ汁、残してゴメンなさい」
あいぼんがもじもじしていると、平家さんはくすっと笑って、ううん、と首を横に振りました。
あいぼんはほっとして今度は少し早足で歩き出しましたが、
しばらく歩いて何かを思い出したように、また立ち止まりました。
「みっちゃん」
平家さんの側へ駆け寄って、あいぼんが言いました。
「なに?忘れモン?」
「あの…お金、貸してくれる?電車賃ないねん」
今朝よっすぃーに朝ごはんをおごったので、あいぼんはもうあまりお金を持っていなかったのです。
「えーっ。アンタ、こないだ貸したばっかりやんかー。
教科書買うとか言って、ちゃんと買ったんやろなぁー?」
「買ったよ」
メロン記念日のCDをね、と、あいぼんは最も大切なことを心の中でだけ告白するのでした。
「ホンマぁ?」
もっとも、教科書は学年の始まりに学校から支給されるものなのですから、
簡単に騙されてしまった平家さんにも問題はあるのですが。
「わーい!ありがとう、みっちゃん!」
あいぼんは平家さんにお金を借りて再び歩き出しましたが、しかしまたすぐに立ち止まりました。
「みっちゃん」
「もー!今度はなによ?」
平家さんは不機嫌そうです。
「ウチも、みっちゃん大好き」
あいぼんはそれだけ言うと、逃げるように走り去っていきました。
平家さんはぼうっとして、だんだんと小さくなっていくあいぼんの後姿を見送っていました。
「ちょっと、ケイさん聞いた?みっちゃん大好きー、やって!!ねぇ、ケイさん!」
はしゃいだ声で平家さんが言うと、塀の上のケイさんは大きなあくびをして、家へ帰っていきました。
平家さんはぼうっとして、だんだんと小さくなっていくケイさんの後姿を見送っていました。
ケイさんが座っていた場所には、ケイさんが残した魚の骨や頭などが散らばっています。
平家さんがそれらを片付けようと塀の上に手を伸ばすと、家の中から中澤さんが出てきました。
「みっちゃーん、ビデオわかれへん。ビデオの、予約の仕方がわかれへんねん。もぅさっぱり」
中澤さんは何かのリモコンを手にしていましたが、それはビデオデッキのリモコンではなく、
エアコンを操作するためのものでした。
それじゃ一生予約は無理だよ、と、平家さんは思いました。
「ちょっと後にして。魚の残骸、片付けてるから」
「ええやんかあ、ビデオ先にしてよ。なああー、ビデオ、先、して!!」
平家さんは、世界広しと言えどもここまで聞き分けの無い大人も珍しい、と、感心するのでした。
――
(あいぼんは、もう来てくれないのかな。
あんなに酷いことを言ってしまったんだもの、きっと、ものすごく怒ってるよね…)
「表が出たら来る、裏なら来ない」
独り言を言ってよっすぃーはお財布から1円玉を取り出すと、親指に乗せてはじきました。
宙を舞った1円玉は天井まで高く上がったかと思うとあらぬ方向へ飛んでいき、
タンスの後ろに落ちてしまいました。
「1円じゃ軽すぎたか。いいや、表が出たコトにしちゃおう」
占いの結果を都合良くねじまげると、よっすぃーはもうすることが無くなって、
ベッドの上に倒れこみました。
「え…」
よっすぃーがごろりと寝返りを打って仰向けになると、天井にぴたりと貼りついて
自分のことを見下ろしているあいぼんと目が合いました。
「あ…」
あいぼんはよっすぃーの部屋に瞬間移動したものの勇気が無くて、
しばらくの間天井に貼りついて上からよっすぃーの様子を窺っていたのでした。
「パンツ、見えてるけど」
「えっ!?」
とっさにミニスカートの裾を押さえようとしてバランスを崩したあいぼんは、
まっさかさまに下へ落ちてしまいました。
「いってぇー…」
「よっすぃー、だいじょうぶ!?」
落ちてきたあいぼんの下敷きになってしまったよっすぃーは、
おなかを押さえてしばらくの間うめき声をあげていました。
「びっくりしたよぉ、あんなトコにへばりついてんだもん」
ようやく痛みの和らいだよっすぃーはベッドの上にあぐらをかいて座ると、天井を見上げて言いました。
隣にはあいぼんが足を投げ出して座っています。
「違うのっ!これから華麗に降り立つトコやったんやもん…」
あいぼんがしゅんとして言うと、よっすぃーは楽しそうにくすっと笑いました。
「でも、あいぼんの本当の名前って、加護亜依ちゃん、って言うんだね」
「えっ?なんで…あーっ!見たなーっ!!」
よっすぃーはもうこらえきれずにくっくっと笑って、「しっかり書いてあったよ」と言いました。
よっすぃーはあいぼんが天井に貼りついているとき、あいぼんのパンツに
黒い文字で『加護亜依』と名前が書かれているのを見つけたのでした。
「あわわわわ…」
あいぼんはもう恥ずかしくて、真っ赤になってしまいました。
「ちゃうねんちゃうねん、中澤さんが勝手に書いてん!
プールんとき失くしてもすぐ見つかるようにってさぁ。
でもさでもさー、そぉゆーときって、なおさら身元隠したいと思わへん?」
一生懸命に言い訳をするあいぼんを見て、よっすぃーはとても楽しそうに笑っています。
「失くしたコトあんの?」
「ないよーっ!あるわけないじゃん!失くさんようにめっちゃ気ぃつけてる。
だって名前入りのパンツなんか見られたら、恥ずかしくて学校行かれへんもん!」
あいぼんがまくしたてると、よっすぃーはうんうんと頷いて、「だからじゃない?」と言いました。
よっすぃーの言ったことがよくわからなくて、あいぼんはきょとんとしています。
「ほら、ぜったい見つかりたくないからさ、失くさないように気をつけるでしょ?
そしたら、ぜったい無くなんないじゃん」
「ああ、そっかぁー」
中澤さんもちょっと上手いこと考えるなあ、と、あいぼんは感心するのでした。
「あれっ?」
それまで楽しそうに笑っていたよっすぃーが、突然何かを思い出したように言いました。
「なに?」
「そういえば、ウチらケンカしてたんじゃん。パンツの話してたら忘れてたよ」
「ホンマや。パンツさまさまやなあ」
二人はけらけらと笑って、しばらくするとよっすぃーが真剣な顔になって言いました。
「あいぼん」
「ん?」
「ゴメンね」
「…ううん。こっちこそ、ゴメン」
あいぼんはちっとも悪くないのだから謝ることないのにと、よっすぃーは思いました。
「良かった。もう来てくれないと思ってたから…」
「だって、また来るって言ったやん」
「もう、ずっと一緒だね」
うれしそうによっすぃーが言うと、あいぼんは少し困って、「ああ、うん」と曖昧な返事をしました。
「あのさ、よっすぃー。真里ちゃんの、コトだけど、さ…」
話を逸らすようにそう言いかけて、しかしこちらもまた触れにくい話題だったため、
あいぼんは言いよどんでしまいました。
「あいぼん、私ね」
よっすぃーは言葉に詰まってしまったあいぼんに助け舟を出すように、ゆっくりと話し始めました。
「真里ちゃんがどうして怒ってるのかって、それはわかってるんだ。
真里ちゃんが怒ってるのは、私がともだちを作ったからなんだよね」
「うん。やっぱり、そうだよねぇ」
「だけど、じゃあどうしてともだちを作っちゃいけないのかって、それがどうしてもわかんなくて。
だってあいぼんやなつみや後藤さんは私のこと裏切ったりしないし、
そりゃあ世の中にはいろんな人がいて、真里ちゃんが言うみたいに
誰かのこと裏切ったりする人もたくさんいることはわかってる。
けどね、それでもやっぱり…真里ちゃんは、間違ってるって思うんだよ、私」
なんとなく真里ちゃんのことを悪く言っているようで気がとがめましたが、
よっすぃーは、あいぼんに自分の正直な気持ちを話したいと思ったのでした。
「あんなぁ、魔法で真里ちゃんの心の中覗いたりとか、できんことはないんや。
ウチにはまだ無理やけど、友達のみっちゃんとかに頼めば、できんことないんや。
けどな、ウチ考えたんやけど…そういうのは、よっすぃーが真里ちゃんに会ってちゃんと聞いた方が良いと思う。
ケンカしたあとは、自分らでちゃんと仲直りせなアカンねん。
それは、友達でも幼なじみでも、なんでも一緒なんや」
「…うん。そうだね」
本当にそうだ。よっすぃーは心から、あいぼんの言うとおりだと思いました。
「よっしゃ!そうと決まったら、さっさと真里ちゃんのトコ行こ。
てれぽーてーしょんなら、あいぼんにドーンとまかせとけ!」
あいぼんはベッドの上に立ちあがると、自分の胸をドンと叩いて言いました。
「…なんか、不安だけど」
「よっしゃー、ドンドンいこー!」
あいぼんのはりきりようは、よっすぃーをいっそう不安な気持ちにさせるのでした。
「ありがとう、あいぼん」
よっすぃーが急に真剣な顔で言うので、あいぼんは照れくさくなって、ぶんぶんと首を横に振りました。
「いっ、いいってことよぉー!おっけー、おっけー!」
あいぼんはうれしくて、ベッドの上を土足で何度も飛び跳ねました。
よっすぃーは、暴れるなよーベッド壊れるだろぉ、などと言いながら
しばらく笑っていましたが、やがて立ち上がると、ベッドからおりました。
「あいぼん、お願い」
よっすぃーはあいぼんの前に立つと、背筋をぴんと伸ばして言いました。
(怒られても嫌われてもいいから、真里ちゃんに会いたい。
会って真里ちゃんが考えていることも、私が考えていることも、ちゃんと話をしなくっちゃ)
「行くよ」
あいぼんはまだベッドの上に立ったままで、よっすぃーの頭に右手を当てました。
あいぼんが小さな声で呪文を唱えると、よっすぃーの姿は消えてなくなり、
部屋にはあいぼん一人きりになりました。
「おぉスゲー、あややだらけやん。けっ、あいぼんの方がよっぽど可愛いっちゅーねん」
一人ぼっちで暇を持て余したあいぼんは、退屈しのぎに部屋の中を物色するのでした。
<第9話>
「えっ…ちょっと、なに、ココ…」
よっすぃーの呟き声は、やけに大きく響きました。
辺りはしんとして真っ暗で、何も見えません。
よっすぃーはあいぼんに真里ちゃんの部屋へ移動するための魔法をかけられ、
少しの間気を失っていましたが、気が付くと暗闇の中で膝を抱え込むようにして、
一人ぽつんと座っていたのでした。
(ココは、真里ちゃんの部屋…?)
押入れの中にでも飛ばされたか、と、よっすぃーは中腰になって手探りで出口を探し始めました。
「ひゃあっ!?」
ふいに手が生温かいものに触れて、思わずよっすぃーは声をあげました。
「な、なななななな」
逃げようと後ずさりするとすぐ後ろはもう壁で、これ以上逃げられません。
よっすぃーはあわてました。
「なになになになに、やだやだやだ、やだあっ…!」
よっすぃーは(そもそも見えないのだけれど)もう見ていられなくて、両手で顔を覆いました。
「………わん」
よっすぃーがぶるぶる震えていると、闇の中から小さな声がしました。
「……こんこん?」
よっすぃーは、声のした方へおそるおそる呼びかけました。
さっきの鳴き声には確かに、聞き覚えがあったのです。
「……わんわん」
よっすぃーが呼びかけてから少し間が空いて、暗闇から頼りなげな返事が返ってきました。
そしてガサガサと何かが動く音がしたと思うと、それまでその生き物が出入り口を塞いでいたのでしょう、
隙間から外の光が差し込んできました。
「こんこんだったんだー! ああ良かったぁ…」
体中の力が抜けてへたりこんでしまったよっすぃーの側へ、一匹の犬が近付いてきました。
「……わんわん」
よっすぃーを驚かせた鳴き声の主は、真里ちゃんの家で飼われている、
シベリアンハスキー犬の『こんこん』だったのです。
こんこんは、真里ちゃんが5歳になったばかりのある冬の日に、
真里ちゃんの家にもらわれてきました。
その日はとてもひどい大雪で、パパが子犬をもらいにいくのは明日にしようと言うのを、
真里ちゃんはどうしても嫌だと言ってきかなかったのです。
『パパとママがね、まりのすきななまえ、つけていいって。いっしょにかんがえよ?』
その日真里ちゃんはよっすぃーを家に呼んで、二人は一緒に子犬の名前を考えることにしました。
よっすぃーが行くと、小さな子犬は真里ちゃんの家に来たばかりだというのにもうすっかり安心して、
ぐっすりと眠っていました。
ソファーの上の可愛らしい寝顔を眺めながら、二人はああでもない、こうでもない、
と知恵を絞って子犬のための名前を考えるのでした。
『ねぇ、”こんこん”っていうのどう?』
『それじゃあ、キツネさんみたいだよ、よっすぃー』
『ちがうの、あのね、ゆーきや、こんこん♪あーられや、こんこん♪ってあるでしょ?』
よっすぃーは幼稚園で習ったばかりの、大好きな歌の歌詞を思い出したのでした。
『あ、そっかー。きょうは、ゆきがたくさんふったんだもんね』
『そう。あのね、ゆきがたくさんふったひに、まりちゃんのおうちにきたから、”こんこん”』
『うん、そうしよう。ねっ、こんこん』
真里ちゃんが呼びかけると、こんこんはまだ眠ったままで、小さな耳をぴくりと動かしました。
『きこえてるのかな?』と言って今度はよっすぃーが、こんこんの耳元で小さくその名前を呼んでみました。
すると目を覚ましたこんこんは大きくてまんまるな目をぱっちりと開けて、よっすぃーの顔をじっと見ています。
『こんこん』
よっすぃーが、こんこんに向かって呼びかけます。
『……わんわん』
こんこんが、よっすぃーの目を見て答えます。
『こんこん』
『……わんわん』
『こん、こん』
『……わん、わん』
『こん!こん!』
『……わん!わん!』
こんこんは、よっすぃーの後に続いて、よっすぃーの言ったとおりの調子で鳴きました。
そしてもう自分の名前を覚えたらしく、真里ちゃんが少し離れたところから『こんこん』と手招きすると、
こんこんは尻尾を振りながら真里ちゃんの方へ走って行くのでした。
『ゆーきや、こんこん♪』
『……わんわん』
真里ちゃんが歌う後に続いて、こんこんが小さく鳴きます。
『あーられや、こんこん♪』
『……わんわん』
よっすぃーが歌う後に続いて、こんこんが小さく鳴きます。
二人はすっかり感心して、すごいすごい、と手を叩いてこんこんを誉めてあげました。
その時でした。
『オウ、マイ、ガアアアアアアアアアアーーーーーッッッド!!!(おお、神よ)』
突然女の子の絶叫が聞こえたので、二人はびっくりして後ろを振り返りました。
すると後ろには、近くのアパートに住むハワイからの留学生、ミカさん(当時4歳)が立っていました。
ミカさんは真里ちゃんのママに返すために持ってきたポン酢を手に、泣きじゃくっています。
『ミカちゃん、ねぇどうしたの!?』
真里ちゃんは駆け寄って問い掛けましたが、ミカさんは俯いて絶望したように、
『Oh
my god…Oh my
god…』と小声で繰り返すばかりで要領を得ません。
『なにかかなしいことがあったの?』
よっすぃーが側へ行くと、ようやくミカさんは落ち着いた様子でその言葉に頷きました。
『こんこんじゃない、こんこんじゃないっ…!』
そう言うとミカさんは、悔しそうに唇を噛みました。
真里ちゃんとよっすぃーは、顔を見合わせて首をかしげました。
こんこんは『こんこん』という言葉に反応して、小さく『わんわん』と鳴いていました。
『正しくは、ゆーきや、こんこ♪あーられや、こんこ♪なのよっ!
”こんこん”ではなく、”こんこ”が正しいのデスよォ!!』
『へぇー、そうなんだあー。まりちゃん、しってた?』
『ううん。ミカちゃんって、にほんのことよくしってるんだねー』
二人はすっかり感心して、すごいすごい、と手を叩いてミカさんを誉めてあげました。
『でも”こんこ”より、”こんこん”のほうがかわいいから、これでいいや』
真里ちゃんが言うと、よっすぃーも『こんこんのほうがかわいいもんね』と言って頷きました。
ミカさんは、オゥ日本人って超イイカゲン、モーやってらんないわこんな国、というような
意味のことを母国語で言い残し、ハワイへ帰って行きました。
『『こんこん』』
『……わんわん』
真里ちゃんとよっすぃーはこんこんとすっかり仲良しになり、
真里ちゃんはパパに頼んで子供がニ三人は入れるほどの大きな小屋を、
こんこんのために作ってもらったのでした。
二人は幼稚園から帰ると、こんこんのいる犬小屋をまっさきに覗きました。
そして、二人はこんこんにいろいろなことを話して聞かせたのです。
『ひとみはねぇ、おおきくなったらニワトリになるんだ。そしてたまごをうむの。
そんでねー、そんでねー、ゆでたまごにしてたべるんだよ。すごいでしょ?
こんこんは、おおきくなったらなにになりたいの?』
『こんこんはおおきくなったら、プーさんになるんだよ。
だって、こんこんはシベリアンハスキーなんだもの。ねっ、こんこん?』
もしもこんこんに人間の言葉がわかったとしたら、二人の自由な発想に苦笑いしたことでしょう。
『……わんわん』
こんこんはとても心のやさしいシベリアンハスキーだったので、
知らない人を見ても決して吠えようとはせず番犬には不向きでしたが、
それでも二人にとっては心を癒してくれる、とても大切な存在になったのでした。
「やっぱり…嫌な予感がしたんだよね」
犬小屋の隅で膝を抱えて、よっすぃーが言いました。
こんこんは、よっすぃーにぴたりと寄り添っておすわりをしています。
『てれぽーてーしょんなら、あいぼんにドーンとまかせとけ!』
あいぼんは胸を張ってそう言っていましたが、ドーンとまかせた結果よっすぃーは、
真里ちゃんの部屋ではなく真里ちゃんの家の庭に作られたこんこんの小屋に、
瞬間移動させられてしまったのです。
あいぼんの移動魔法は、移動できる距離もせいぜいよっすぃーの家の玄関先から、
二階のよっすぃーの部屋ぐらいまででしたが、その上、正確さにも欠けていました。
「よし、もっかいチャレンジ」
そう言うとよっすぃーは四つんばいになって、小屋の入り口まで這っていきました。
部屋に戻って、もう一度あいぼんに魔法をかけてもらおうと考えたのです。
「こんこん、ゴハンだよー。こん…」
よっすぃーが犬小屋から顔を出したとき、上から聞き覚えのある声が降ってきました。
「よっすぃー?」
「あ…」
四つんばいのままで顔を上げると、そこにはドッグフードの袋を抱えた真里ちゃんが立っていました。
「真里ちゃん、待って!」
走り出そうとした真里ちゃんの腕を、よっすぃーが掴みました。
真里ちゃんが投げ出した袋からは中身のドッグフードが飛び出し、小屋の周りに散乱しています。
「はなして」
「もう逃げない? だったらはなしてあげる」
「…逃げないよ。だからはなして」
よっすぃーはしっかりと掴んでいた手を、真里ちゃんの腕から放しました。
二人は向かい合って、よっすぃーは真里ちゃんのことをじっと見ていましたが、
真里ちゃんは下を向いてしまってよっすぃーと目を合わせようとはしません。
よっすぃーは静かに、切り出しました。
「私がともだちを作ったこと、怒ってるんだね」
「……だから、もういいって言ったでしょ。勝手にしなよ」
不機嫌そうな声で、真里ちゃんが言いました。
真里ちゃんはやっぱりすごく怒っているんだ、そう思うとよっすぃーはとても悲しくなりましたが、
ここで引き下がってしまっては、きっともうずっと真里ちゃんとはこのままだと思いました。
「勝手になんかしたくないよ。だって、それじゃ何もわからないままじゃない。
私、真里ちゃんとこのままでいるの嫌だもん。仲直りしたいよ。前みたいに、一緒にいたいよ」
「……あたしと一緒じゃなくたって平気じゃない。だって、よっすぃーには、ともだちがいるんでしょ?」
「でも、真里ちゃんはたったひとりだよ。
どんなにたくさんともだちがいたって、真里ちゃんは世界中でたったひとりだもん。
あいぼんだって、なつみだって後藤さんだって、世界中でたったひとりだもん。
そんなの比べたりできないよ」
真里ちゃんは相変わらず下を向いたままで、言いました。
「どうして急にそんなこと言うの? あの子のせい? あの子に、何か言われた?」
「あいぼんのせいじゃない、あいぼんのこと悪く言うなよっ!!」
よっすぃーは、ついかっとなって怒鳴りました。
真里ちゃんはその声に驚いて、びくっと肩を震わせました。
「……ゴメ、ン」
「あっ、ゴメ…真里ちゃん!?」
「……よっすぃー、あたし、ゴメン、ゴメンね。ゴメンね、よっすぃー」
かすれたような声で真里ちゃんが言いました。真里ちゃんは、泣いているようでした。
よっすぃーはあわてて、でもどうして良いかわからずに、ああ、とか、えっと、などと言いながら、
真里ちゃんの顔を覗き込んだりしていましたが、しばらくして言いました。
「真里ちゃん、ねぇ、泣かないでよ。怒鳴ってゴメン、ゴメンね」
「だってよっすぃーは悪くないの。よっすぃーは、ぜんぜん悪くないんだよ」
「どうして?」
「どうしても」
「わかんない。どうして私は悪くないの? 真里ちゃんは、どうして私に謝るの?」
「どうしても」
「わかんないってば」
「……どうしても、だよ」
「もぅ…」
真里ちゃんが頑固な態度をとるので、よっすぃーはすっかり途方に暮れてしまいました。
(言おうか、でも、また泣かせちゃうかもしれない…)
真里ちゃんの顔を覗き込むと、その瞳はまだ涙で濡れていました。
けれどもよっすぃーには、どうしても言わなければならないことがあったのです。
「あの、あのね、真里ちゃん。私、ずっと言いたかったことがあって…えっと、あの、言うね」
よっすぃーは心臓が破けそうなくらい、どきどきしていました。
「真里ちゃん、ともだちは作らない方が良いって、ともだちは裏切るから信じちゃいけないって、言ったでしょ?
あれはさ、違うと思うんだ。私は、違うと思うの。だって私のともだちは、そんなんじゃないし…。
ねぇ、ねぇ真里ちゃん。ともだちは裏切ったりしないし、ともだちは、信じていいものなんだよ」
よっすぃーが言うのを、真里ちゃんは俯いてじっと聞いていました。そして、言いました。
「知ってる」
よっすぃーが、えっ、と小さく言うと、真里ちゃんは「だから謝ったの」と言葉を続けました。
「なに、それ…。知ってる、ってどういうこと!? じゃあどうして、あんなこと言ったんだよ!」
「…ゴメン」
真里ちゃんが涙声で言うので、よっすぃーはまた、かっとなってしまったことを悔やみました。
「ねぇ、真里ちゃんは、どうして私にあんなことを言ったの?」
よっすぃーは、今度はもう少しやさしい声で言いました。
「……言いたくない」
「聞きたい」
「だってすごく自分勝手な理由だもん。言ったらよっすぃーはきっと、あたしのこと嫌いになる」
「ならないよ」
「なるよ」
「嫌いになんかならない」
「なるよ、ぜったい」
「だったら言ってくれない方が、嫌いになっちゃうかも。言ってくれない方が、私、真里ちゃんのこと、」
「好きなの」
真里ちゃんが顔を上げて、二人ははじめて、目を合わせました。
「す、き…?」
ぱちぱちと瞬きをして、よっすぃーが言いました。
「よっすぃーが、大好きだから」
真里ちゃんは、きっぱりと言いました。
「真里だけの、よっすぃーにしたかったから」
よっすぃーははっとして、なんだか胸がぎゅうっとしめつけられる思いがしました。
「ね、嫌いになったでしょ?」
よっすぃーは真里ちゃんに何と言ったら良いかわからなくて、
けれどもそうでないことだけは伝えたくて、ただ首を横に振りました。
「本当のこと教えてあげる」
真里ちゃんは今にも泣き出しそうな顔で無理に笑って、言いました。
「信じちゃいけないのは、あたし。よっすぃーのこと裏切る悪いともだちは、本当は、真里なんだ」
「真里ちゃん、」
真里ちゃんは悪いともだちなんかじゃない、そう言おうとして、よっすぃーは言葉に詰まりました。
「ゴメンね、よっすぃー。本当に、ゴメンなさい」
そのうちに真里ちゃんはとうとうこらえきれずに、ぽろぽろと涙を流して泣き出してしまいました。
「だいじょうぶだよ。うん、だいじょうぶ」
よっすぃーはまるで自分自身にそう言い聞かせるようにうんうんと頷きながら、
だいじょうぶ、と繰り返しました。
「だって真里ちゃんは最初から、ともだちなんかじゃないもん」
「……そっか。そうだよね、こんなヤツ」
「真里ちゃんは、私の、おさななじみだもん」
よっすぃーは自分でもなんだかへんてこなことを言っていると思いましたが、
他に考えつかなかったのですから仕方がありません。
「あ、だから、真里ちゃんは悪いともだちじゃないってこと」
よっすぃーは泣くことも忘れてしまったようにきょとんとしている真里ちゃんを見て、
やっぱり変なことを言ってしまったと、急に恥ずかしくなるのでした。
「どうして怒らないの? あたし、よっすぃーに酷いことしたんだよ?」
真里ちゃんが言うとよっすぃーは、「なんだ、そんなことかあ」と笑って、
「大好きだから、やっぱり、嫌いになるのは難しいや」と言いました。
「私、わかんないコトとかあったらちゃんと聞く。間違ってると思ったら、ちゃんと言うしさ。
だから、いっぱいケンカしよ。その方が、真里ちゃんのこともっともっと好きになれそうな気がする」
よっすぃーが言うと真里ちゃんはその目にまだ涙をいっぱい溜めて、けれども笑って、頷きました。
よっすぃーも、ほっとして笑顔になりました。
真里ちゃんがずっと心の奥にしまっていた気持ちも、
よっすぃーがなかなか言えずにいた、新しいともだちのことも。
大切なことを話すときはとても辛くて大変だけれども、そうする前よりも今の方がずっと、
真里ちゃんに近付けたような気がして、よっすぃーはうれしくなるのでした。
(私たちに足りなかったのはきっと、話をすることだったんだね、あいぼん)
「じゃあ、さっそく言わせてもらいますけどー、矢口さん」
よっすぃーは腕組みをして、大げさに言いました。
「ホームランのとき、リセットすんの止めて」
「はあ?」
真里ちゃんはきょとんとして、よっすぃーのことを見上げています。
「だからぁ、ゲームやるとき。私がホームラン打ったら絶対リセットしちゃうじゃん、あれ止めてほしいの」
「あーれーはあ、よっすぃーがズルするからでしょ。あれはブチられて当然なの」
「なんでーっ!? それがわかんないって言ってんだよ!」
「よっすぃーがバカ力でボタン押すからホームランになるんでしょー。バカ力の分ハンデくれたっていいじゃん」
「それぜったい違う。ぜったい間違ってる、それ」
「間違ってませんー」
「間違ってますー」
「間違ってないっつってんじゃん!」
「間違ってるって! バカ力とかぜったい関係ないもん」
「あるもん!」
「ないもん!」
「……わんわん」
「こんこんは黙ってなさい!」
「こんこんに当たるコトないじゃん! だいたい、こんな凶暴なヒトが飼い主じゃ、こんこんが可哀想だよ!」
「あのねー、真里っぺみたいに、ちょーっカワイイコに飼われてるんだから、幸せに決まってんでしょー!」
「あー…それはそうかもしれない」
「うわっ、納得されると逆に恥ずかしい。むかつく!!」
「なにアレ、めっちゃケンカしてるやん…」
よっすぃーの部屋の窓から何気なく外を見ていたあいぼんが、
真里ちゃんの家の庭で言い争っている二人の姿を見つけて呟きました。
「っていうか、なんで庭?」
自分はよっすぃーを真里ちゃんの部屋に瞬間移動させたはずなのになぜ二人は庭にいるのだろうか、
と、あいぼんは首をかしげました。
「テメーコラ表出んかい、みたいな展開になったんかなぁ…なんか、真里ちゃんってコ、恐そうやし」
おおコワ、と、あいぼんは震え上がりました。
「とにかく、ホームランは禁止。口惜しかったらバカ力治して出直してきな」
「うあっ! くうーっ!!」
「……わんわん」
唇を噛んで口惜しさに耐えながらよっすぃーは、この世の中には、
話をしたところでどうにもならないこともあるのだということを知ったのでした。
<第10話>
「そっかあ。良かったね、仲直りできてさ」
「あいぼんのおかげだよ。ありがとね」
「いやあーん、照れるやんかあ」
あいぼんは恥ずかしそうに両手をもじもじしながら、腰をくねらせました。
無事に真里ちゃんと仲直りすることができたよっすぃーは、
すぐに部屋へ戻ってそのことをあいぼんに伝えたのでした。
「あいぼんって、ホントすごいよね。
アレ、真里ちゃんが外に出てくるの知ってて私のコト庭に飛ばしたんでしょ?」
あいぼんは「えっ?」と明らかに身に覚えがないという表情の後、すぐにピンときて、
「あ、ああ、まあね。ちょっとした予知能力ってヤツだけどね」
と、真っ赤なウソをつきました。
「予知能力かぁ。あいぼんって魔法使いってゆーか、超能力者みたいだよね」
「ああ、ま、まあね…あっ、そうだ。ウチ、ちょっと帰ろうかな、ははは。
ほっ、ほら、友達、もう一人紹介する約束やったやろ?
もしかしたら、みっちゃんが資料持ってきてくれてるかもしれへんし」
予知能力についてこれ以上問い質されては困ると思ったあいぼんは、
話を逸らそうと必死になるのでした。
「ねぇ、前から聞こうと思ってたんだけどさ、あいぼんってどこに住んでるの?」
ランドセルを開けたり閉めたり特に意味もないことをしているあいぼんに向かって、よっすぃーが言いました。
それを聞いたあいぼんがにやりと笑って「知りたい?」と言うので、よっすぃーは黙って頷きました。
「驚いたらアカンで? ココや」
ココ、と言いながらあいぼんは、自分が立っている真下を指差しました。
「えっ!? あいぼん、うちに住んでるの!?」
よっすぃーは、驚きのあまり素っ頓狂な声をあげました。
「あ、そうじゃなくてぇー。
ウチが住んでる魔法の国はな、この世界の真下にあんねん。地下にあんの」
「えっ!? あいぼんって、地底人だったの!?」
よっすぃーは、驚きのあまり素っ頓狂な声をあげました。
「え…ああ、うん、まあね」
あいぼんには地底人がどんなものなのかは良くわかりませんでしたが、
地下深くに住んでいる人間をそう呼ぶのならば自分は地底人ということになるのだろうかと、
半信半疑ながらも仕方なくよっすぃーの言葉に頷くのでした。
「ウチのトコからは、よっすぃーの世界のコトは何でもわかんねん。
テレビもラジオも、この世界から電波パクって放送してるしぃ」
「へぇー、魔法の国なんてあるんだ。
てっきり私、この世界で普通に生活してるモンだと思ってたよ」
あいぼんの学校生活のことや家族の話を聞く限り、魔法使いと言っても、
ごく普通の中学生と変わらないんだなあ、と思っていたよっすぃーにとって、
あいぼんの話ははっきり言って寝耳に水でした。
「じゃあ、その魔法の国では、みんながあいぼんみたいな魔法使いなの?」
「個人差はあるけどいちおう、みんな魔力を持って生まれてくるんだけどね。
魔法を使いこなすには、ちゃんと修行せなアカンねん。
だからたいていの人は、魔力持ってても魔法使えへんの。
コレがまたキツイ修行やねん…。とくに、中澤さんみたいなオニ師匠に弟子入りした日にゃあ…」
辛かった修行の日々を思い出しながら、あいぼんは少し涙ぐみました。
「そうなんだ…頑張ったんだね、あいぼん」
よっすぃーにとっては初めて聞くことばかりで、寝耳にホースで水を浴びせられたような気分でした。
「じゃあさ、じゃあさ、魔法の国からは、うちらの世界と自由に出入りできるワケ?」
よっすぃーの好奇心は一度走り出すともう止まりませんから、
あいぼんに向かって立て続けに質問します。
「自由にってワケにもいかんのだなぁ、コレが。ってゆーか、スゴイでスゴイで。驚くでっ!」
だんだん調子に乗ってきたあいぼんは、土足で床の上を飛び跳ねました。
「世界中に出入口があってぇー、係の人にパスポート見せなアカンねん」
「へぇー」
「日本では、四大ドームのピッチャーマウンドが出入口なってんねんで! スゴイやろ!!」
「…すごいのかな。なんか、よくわかんないんだけど」
何故そのような目立つ場所に出入口を作ってしまったのだろうか、という疑問と同時に、
あいぼん話作ってない?という疑念が、よっすぃーの中に生まれました。
「スゴイやん! 四大ドームやで!
東京ドームに大阪ドームに名古屋ドームに広島市民球場やで!!」
「最後のは四大ドームじゃねーよ」
それどころかドーム球場ですらありませんが、そこまで指摘する余裕は、
よっすぃーにはありませんでした。
「だけど、あんなトコからどうやって出てくんのさ?」
「ここだけの話、マウンドの下にマンホールあんねん」
あいぼんは辺りを大げさにキョロキョロと見回した後、声を潜めて言いました。
「えーっ、ウソだぁ」
よっすぃーは口ではそう言ったものの同時に、もしかしたらマンホールあるかも、
言われてみればマンホール埋まってそう、と、あいぼんの話を信じる気持ちも芽生えていました。
「ひどーい! ウチいっつも、自分の家から東京ドームの真下まで電車で行くでしょー。
そんで地上に出て、また電車でよっすぃーの家まで通ってるんだよー?」
あいぼんはそう言うと、怒ったようにぷうっと頬を膨らませました。
「ホントにー?」
あいぼんがムキになる様子がおかしくて、よっすぃーはわざと信じない振りをするのでした。
「チェッ、なんだよ…いっつも泥だらけになってさ、掘り起こした後のマウンド元に戻してるのにさっ。
どうせなら、甲子園の土の方が青春っぽくて良いのにさっ…」
「ああもう、わかったよ。信じるってば」
あいぼんが床にしゃがみ込んで落ち込んでしまったので、よっすぃーはあわてて言いました。
「でもさぁ、そんなこと私に話しちゃっていいの? 誰かに喋っちゃうかもしれないよ?」
よっすぃーが言うと、膝を抱えて座っていたあいぼんは顔を上げました。
あいぼんが魔法使いであることは、決して他の人に知られてはならないのです。
もちろん、よっすぃーにはあいぼんとの約束を破るつもりなどありませんでしたが、
あいぼんが魔法のことを何もかも洗いざらい教えてくれるので、少し不思議に思ったのでした。
「…ああ、うん。それは、だいじょうぶ」
あいぼんはそれだけ言うと、また下を向いてしまいました。
「もしかして私、めちゃめちゃ信用されてる? やっばー。うれしーなぁ」
よっすぃーは本当にうれしそうに笑って、「絶対に言わないから安心して」と、続けました。
けれどもあいぼんは下を向いたままで、にこりともせず、どうも様子が変です。
「あいぼん、ねぇ、どうしたんだよ?」
不思議に思ったよっすぃーは、あいぼんの隣に座ると、その顔を覗き込みました。
「ウチ、ウチなぁ…この仕事が終わったら、よっすぃーの記憶、消さなアカンねん」
あいぼんの声は、かすかに震えていました。
「記憶…消すって、どういう、こと?」
あまりに突然のことで、よっすぃーにはあいぼんの言うことが理解できませんでした。
「魔法使いは、この世界の人間と会って話をしたら、その人の記憶消さなアカンの。
そして二度と、その人間に会って話をしてはならない。ってゆー、決まりなんや」
そう言うとあいぼんは、ぎゅうっと膝を抱きました。
「そう、なんだ。ああ、だから、何でも話してくれたんだ。そっか」
よっすぃーは急に落ち着きがなくなって、言いました。
「ちがうよ、よっすぃーのこと信じてるのは本当だよ!」
「あっ、うん、わかってる。わかってるよ、ゴメン」
よっすぃーがそう言ったきり、二人は何を言って良いのかわからずに、黙ってしまいました。
二人には、目覚し時計がカチカチと時を刻む音がいやに大きく感じられました。
ぴたりと並んで座る二人は、あいぼんが動くとよっすぃーがびくっと身を震わせ、
よっすぃーが動くとあいぼんがびくっと縮こまる、というようなことを繰り返し、
何も話さないまま、ただ時間だけが過ぎてゆきました。
あいぼんは、よっすぃーに記憶を消すことを言わなければ良かったと後悔していました。
そうすればよっすぃーが寂しい気持ちになることも無かったのに、と思った後で、
けれども記憶を消してしまえば、よっすぃーにとっては今日のこんな気持ちも、
すべて無かったことになるのだと思うと、あいぼんはなんだかわけがわからなくなるのでした。
よっすぃーは、一体どうすればあいぼんと離れずに済むだろうかと考えていました。
自分がわがままを言えばあいぼんはすごく困るだろうけれど、ずっと一緒に居てほしいと言えば、
きっとあいぼんはそうしてくれるに違いない。
けれどもそう思った後で、よっすぃーはすぐに、あいぼんがとても大変な思いをして、
やっと魔法使いになれたのだという話を思い出しました。
もしも『決まり』を破ったら、もうあいぼんは魔法使いではいられないのだろうと思うと、
自分のわがままな気持ちは決して口に出してはいけないのだという気がするのでした。
二人はそれぞれ、何をどうするのが最も良い方法なのかわからなくてただ黙っていましたが、
とうとう、よっすぃーが言いました。
「私は、あいぼんを忘れるの?」
あいぼんは、黙って頷きました。
「最後に、よっすぃーにもう一人の友達、会わせてあげるから。そしたら、」
「だったら、あいぼんにする」
あいぼんは「えっ?」と小さく言って、よっすぃーを見ました。
「最後の一人は、あいぼんにする。いいよね?」
あいぼんの目をまっすぐに見て、よっすぃーが言いました。
「でも、よっすぃーはウチのこと、ぜんぶ忘れちゃうんだよ?
最後の一人なのに、せっかくの友達が…ウチで、いいの?」
あいぼんには、どうしてよっすぃーがそんなことを言うのか、わかりませんでした。
よっすぃーは不安そうな顔をしているあいぼんに笑いかけると、うん、と言いました。
「だってさ、」
よっすぃーが言いました。
「あいぼんは、覚えていてくれるんでしょ?」
ああ、と、あいぼんは思いました。
――
あいぼんが帰る頃には、もうすっかり日が暮れていました。
家に帰ると平家さんが晩ごはんを作って待っていてくれたので、今度は残さずに食べました。
そしてお風呂に入ってすぐに自分の部屋へ入ったきり、そこから出ようとはしませんでした。
あいぼんがベッドに寝転んでしばらくすると、きっと平家さんが帰っていったのでしょう、
外で門の開く音がしました。
「あーあ…なに話そっかなぁ」
あいぼんはそう言うと、深いため息をつきました。
三人のともだちのうち、最後の一人はあいぼんが良いとよっすぃーが言うので、
あいぼんは明日もう一度来ることを約束して、よっすぃーの家を出たのです。
あいぼんがよっすぃーと一緒にいられる時間は、もうあと一日きり。
最後の日に、あいぼんはよっすぃーにどんな話をしようかと考えてみましたが、
それはとてもむなしいことのようにも思えて、すぐにやめてしまいました。
だって、よっすぃーに話したいことは本当にたくさんあったけれども、
それらはすべて、よっすぃーの記憶の中に留まってはくれないのですから。
「加護、起きてる?」
あいぼんがぼうっと天井を眺めていると、中澤さんがいきなり部屋の中へ入ってきました。
中澤さんがノックもせずに部屋へ入ってくるのはいつものことなので、
あいぼんはそのことについては気にしませんでしたが、今朝家を飛び出してから、
中澤さんとはまだ一言も言葉を交わしていなかったのです。
あいぼんはなんとなく気まずかったので返事はしませんでしたが、
そのかわりにベッドの上でむくっと起き上がりました。
「みっちゃんに預かった資料、ココ置いとくで」
中澤さんは特に怒っている風でもなく言うと、大きな封筒を学習机の上にぽんと置きました。
「…もういらへん」
小さな声でぼそりと、あいぼんが言いました。
「ん? なに?」
部屋を出て行こうとしていた中澤さんは、足を止めて振り返りました。
「よっすぃーが…最後の一人は、ウチが良い、って」
あいぼんが言うと中澤さんは、ふーん、と言いました。
「ほな、明日返しとこ」
中澤さんはそう言って、机に置いた封筒を再び手に取ると、部屋を出て行きました。
あいぼんは、灯かりを消してベッドに潜り込みました。
「う…がああー、アカン。寝られへん。どうしよ」
突然、あいぼんはふとんを剥いで起き上がりました。
ベッドに入ってどれくらいの時間が過ぎたでしょう、よっすぃーのことが気になって、
ちっとも寝付けないのです。
(中澤さん、もう寝ちゃったかなぁ…)
ナイター観ながら瓶ビールをごくごくとラッパ飲みしていたし、と、あいぼんは思いました。
あいぼんの記憶ではその後、熱燗に移行してさらに気分が良くなった中澤さんは、
平家さんに対してセクハラまがいの行為を繰り返してこっぴどく叱られていたはずです。
今宵の中澤さんの酒量から考えると、もう気持ちよく眠っていてもおかしくない時間帯でしたが、
こんなに寂しい気持ちのまま一人でいることは、あいぼんにはとても耐えられそうにありませんでした。
あいぼんは決心して枕を胸に抱くと、部屋を出ました。
「あのぉー、中澤さん」
あいぼんはふすまの前に立って呼びかけましたが、返事がありません。
「中澤さーん、寝てますか?」
「寝てますよ」
「ああそうですか失礼しましたあー、って、起きてるやん!」
あいぼんは思わず、ふすまを開け放ちました。
「寝られへんのか、ヒヨッコが」
あいぼんが中へ入るなり、中澤さんが言いました。
中澤さんはふとんに入っていましたが、まだ眠ってはいなかったようです。
「…一緒に寝ても、いいですか?」
おそるおそる、あいぼんが言うと、中澤さんは何も言わずに掛け布団をめくりました。
あいぼんは、へへ、と笑って、中澤さんの隣に潜り込みました。
「アンタ寝相悪いからなー。気ぃつけてや」
「はあーい…」
「おやすみ」
そう言うと中澤さんは、あいぼんに背中を向けて寝てしまいました。
「…おやすみなさい」
あいぼんは中澤さんによっすぃーのことを話そうと思っていたのに、言えませんでした。
口から出るのは言葉ではなく、大きなため息ばかりです。
あいぼんは目を閉じて無理に眠ろうとしましたが、やっぱり眠れそうにありません。
「アンタが泣こうが喚こうが、間違いなく明日、あの子の記憶消すからな」
あいぼんが何度目かのため息をついたとき、中澤さんが言いました。
「よっすぃーはウチのこと、もう二度と思い出してくれへん。
ウチはよっすぃーのこと、ぜったい一生忘れへんのに、よっすぃーにとってウチは、
最初からおらへん人になるんや」
中澤さんはあいぼんに背を向けたまま、何も言ってはくれません。
「忘れてしまう人と、忘れられてしまう人と、どっちが可哀想?」
あいぼんは、中澤さんの背中に、言いました。
「さあ、どっちやろな」
中澤さんはあいぼんの問いには答えず、「子守唄がわりに昔話したげるわ」と言って、
いろんな話を聞かせてくれました。
中澤さんの知っている、ある魔法使いたちの話です。
地上の世界で初めてできた友達の記憶を消そうとして何時間も思い切ることができずに、
それでも最後はその子の記憶を消してしまった魔法使いの話や、
地上の人間と恋をして、恋人の記憶を消さなくてはならなかった魔法使いの話。
あいぼんは、どうして中澤さんは自分にそんな話をするのだろうかと思いました。
他の魔法使いだってみんな同じように辛い思いをしているということはわかったけれど、
そのことはあいぼんにとって、慰めにはなりませんでした。
「さっき言うてたことやけど。アタシは、覚えてる人の方が、幸せやと思う」
一通り話し終えた後、中澤さんが言いました。
「どうして?」とあいぼんがたずねると、中澤さんはあいぼんの方へ向き直り、
にっこり微笑んで、こう言いました。
「だって覚えてたら、こうやって、アンタにお話してあげられるやろ?」
「……そっか」
あいぼんが頷くと、中澤さんは「おやすみ」と言って、また背を向けてしまいました。
あいぼんは、中澤さんがしてくれた『ある魔法使いたちの話』は、
本当はぜんぶ中澤さんの話だったのかもしれない、と思いました。
(ウチも、いつか誰かによっすぃーのこと、お話してあげられるのかな)
目を閉じるとよっすぃーの顔が浮かんで、まるであいぼんが眠るのを邪魔しているようです。
あいぼんはふとんの中に潜って、中澤さんの背中に額をこつんと当てて、目を閉じました。
不思議なことにあいぼんは、小さい頃から、こうすると良く眠れるのです。
結局、あいぼんが自分の部屋から持ってきた枕は使われることなく、ぽつんとそこにありました。
――
「おやすみ、真里ちゃん。おやすみ、なつみ。おやすみ、後藤さん。おやすみ…あいぼん」
大好きな人におやすみを言って眠るのは、よっすぃーのいつもの習慣です。
けれども、明日の夜おやすみを言うときは、もうあいぼんの名前を呼ぶことはないのだと思うと、
なんだか不思議です。
「加護亜依、14歳、中2。加護亜依、加護亜依、あいぼん、あいぼん、あい」
よっすぃーは急に恐くなって、呪文のようにあいぼんの名前を繰り返し唱えました。
(だけどこんなことしたって、魔法にかかればぜんぶ吹っ飛んじゃうんだよなぁ…)
「そうだ」
よっすぃーはベッドから抜け出すと、部屋の電気を点けました。
そして、部屋の隅に置いてあったカバンから一冊のノートを取り出すと、
あわただしくそれをめくり、白紙のページを開きました。
(忘れないようにあいぼんのこと、書いとけば良いんじゃん!)
よっすぃーはペンを持って机に向かいましたが、ノートに文字を書こうとしてすぐにやめてしまいました。
(こんなことがもしバレたら、あいぼんは…)
忘れる、ってどういうことだろう。
明日が終わったら、次にもしあいぼんの姿をどこかで見かけたとしても、
自分はその子があいぼんだと気づかないまま通りすぎてしまうのだろうか。
忘れる、っていうのはきっと、そういうことだ。
今こんな風に思っていることだって、明日が終わったらぜんぶ消えちゃうんだ。
あいぼんの顔も、声も、関西弁も、それからぜんぜん似ていないあややのモノマネだって。
「会いたい、会いたくない」
考えれば考えるほど恐くて、こんなに恐いと思っている今のこの気持ちすらも、
明日になれば全て消えてしまうのだと思うと、よっすぃーはわけがわからなくなって、
いらいらして頭をかきむしりました。
『あいぼんは、覚えていてくれるんでしょ?』
(どうしてあんなこと、言ったんだろう)
ちょっとカッコつけすぎたかな、と、よっすぃーは思いました。
ふいに体の力が抜けて、広げたノートの上に、ぽたりと涙の雫が落ちました。
きっと自分のことをずっと忘れないでいてくれるあいぼんのために、
明日は絶対に泣かないでいよう、と、よっすぃーは思いました。
<最終話>
「ん…」
窓から差し込むやわらかな朝の日差しを浴び、鳥たちのさえずりを聞きながら、
よっすぃーは目覚めました。
こんなにもさわやかな朝なのに、なぜか気分は最悪です。
「…う、あっ…首が痛い…」
よっすぃーは、起きたばかりだというのに、また机の上に突っ伏してしまいました。
昨夜、机の前に座って考え事をしたりしているうちにいつの間にか眠ってしまっていたのです。
「…あー、こんなことしてる場合じゃないや」
よっすぃーは、またすぐに顔を上げて椅子から立ち上がると、
ふらふらとした足取りで部屋を出て行きました。
机の上には表紙に『数学』と書かれたノートが置かれていて、
傍らには一本のペンが転がっています。
顔を洗って部屋に戻ってきたよっすぃーは、窓を開け外を見ながら、
あいぼんがやってくるのを待ちました。
時間を決めていたわけではありませんでしたが、よっすぃーは、
あいぼんはきっと早い時間に自分に会いにきてくれるはずだと思っていました。
「ももいーろぉの、かたおもーい♪」
よっすぃーは大好きな『あやや』の歌を口ずさみながら、あいぼんを待ちました。
そういえばあのときもこうしていたんだっけ、と、よっすぃーは、
あいぼんと初めて会った夜のことを思い出していました。
それほど昔のことではないはずなのに、なんだかとても懐かしく感じるから不思議です。
きっといろんなことがありすぎたせいだろうと、よっすぃーは思いました。
(あいぼんに会ってから、毎日がたいくつだなんて感じていたことも、忘れていた。
あいぼんは私をたいくつな毎日から助け出してくれたけど、
だったら私はあいぼんに何をしてあげられたんだろう?)
弱気なことを言ってあいぼんを困らせてしまった自分。
酷いことを言ってあいぼんを傷つけてしまった自分。
思い出すのはあいぼんに悪いことをしてしまった自分の姿ばかりです。
「あっ!」
よっすぃーが、角を曲がって現れたあいぼんを見つけて声を上げました。
よっすぃーは、窓からあいぼんの様子をこっそり窺うことにしました。
あいぼんはいつもいきなり部屋に現れてはよっすぃーを驚かしていましたから、
よっすぃーが先回りしてそれを見つけたのは今日が初めてだったのです。
重い足取りでこちらへ歩いてくるあいぼんは突然立ち止まると、ランドセルから何かを取り出しました。
「もう…なにやってんだよ、アイツ」
あいぼんは立ち止まって、取り出したコンパクトで前髪をチェックしていました。
コンパクトを近づけたり離したり、顔の角度を様々に変えたりして、なにやら入念です。
あいぼんの持っているコンパクトは魔法使いの持つコンパクトにありがちな、
呪文を唱えると変身できるといった類の特殊な機能は一切備わっていない、
どこにでもあるごく普通のコンパクトです。
あいぼんはしばらく自分の姿を眺めた後、だいじょうぶ今日の私も可愛い、とでも言いたげに
満足そうな笑みを浮かべると、コンパクトをぱたんと閉じてランドセルの中に仕舞いました。
前髪を整え終えたあいぼんは再びゆっくりと歩き出し、よっすぃーの家の前で立ち止まりました。
あいぼんが二階を見上げたので、よっすぃーはあわててカーテンの陰に隠れました。
するとドサッという音がして、いつものようにあいぼんが土足でベッドの上に立っていました。
「ちょっとー、もし寝てたらどうすんだよ。危ないなぁ」
何の躊躇も無く直接ベッドの上に降り立ったあいぼんを見て、よっすぃーが言いました。
あいぼんは「ゴメンゴメン」と笑いましたが、そんなことないくせに、と思っていました。
だってあいぼんには、よっすぃーが今日は早起きして自分を待っていてくれるだろうことが、
ちゃんとわかっていたのですから。
「なにしよっか? 最後だし、なんか最後っぽいコトやんなきゃだよね」
よっすぃーが言いました。
気持ちとはまったく反対の明るい声は、なんだか自分の声ではないような気がして、
よっすぃーは少しだけ落ち込みました。
「へへ、いいモノ持ってきたんだー」
そう言って、あいぼんはランドセルの中を手探りしました。
「ジャーン!」
中から出てきたものは、一個の使い捨てカメラでした。
「そっか、一緒に写真撮ったことなかったもんね」
「ウチ、どうしてもよっすぃーと一緒の写真が欲しいねん」
よっすぃーのことを思い出す手がかりは、ひとつでも多い方が良い。
出来あがった写真をよっすぃーに見せてあげることは出来ないけれど、
せめて全てを忘れないでいられる自分はいつでもよっすぃーのことを思い出せるように、
あいぼんはどうしても二人の写真を残しておきたかったのです。
「ちょっと貸して」
よっすぃーはあいぼんの手からカメラを受け取ると、「ふたりで撮りっこしよう」と言いました。
「いいねぇー、やろやろ!」
あいぼんはぴょんぴょんと飛び跳ねると、早速ベッドの上でポーズをとり始めました。
「なんか、カメラマンになった気分。楽しい!」
よっすぃーははしゃいだ声でそう言うと、床に寝そべってカメラを構えました。
「ちょっと犯罪チックなアングルやなぁー。パンツ見えてないよね?」
ベッドの上に立ってよっすぃーを見下ろしながら、あいぼんが言いました。
今日のあいぼんは、テレビアニメで大活躍中のワカメさんもびっくりの超ミニスカート姿です。
「うん。びみょーだね」
何が『微妙』なのかあいぼんにはよくわかりませんでしたが、
よっすぃーが一体どんな分野の写真を撮影するカメラマンになった気分に浸っているのかは、
あいぼんにもなんとなくわかったような気がしました。
「あーっ、ホンマに撮りやがった! なにすんねん、人のパンチラ勝手に撮りやがって!!」
いきなりシャッターを切る音がしたので、てっきり冗談だと思っていたあいぼんは怒りました。
「だいじょうぶ。見えてそうで見えてなかったから」
事も無げにそう言うと、よっすぃーはけらけらと笑いました。
「もう、次はよっすぃーの番!!」
あいぼんは楽しそうに笑っているよっすぃーの手から、カメラを奪い取りました。
「かわいく撮ってね?」
「おっけー。カメラマンあいぼんにまかせとけ!」
あいぼんはベッドから飛び降りると、カメラを構えました。
「おっ、いいねいいね、ひとみちゃん。かわいいよぉー。もうちょっと、誘ってるカンジで」
「こう?」
「いいねいいね、せくしーだねぇ」
つい調子に乗ってしまった自分の口調が、酔っ払って平家さんに絡むときの
中澤さんのそれに酷似していたことが、あいぼんに少しばかりの衝撃を与えました。
「いいよぉ、ひとみちゃん。もっと、お花畑にいるカンジで」
「こう?」
「いいねいいね」
カシャ。カシャ。カシャ。
あいぼんは、よっすぃーを激写しました。
「いいよぉ、ひとみちゃん。もっと、サウナにいるカンジで」
「こう?」
「いいねいいね」
カシャ。カシャ。カシャ。カシャ。
あいぼんは、よっすぃーをさらに激写しました。
「あいぼん、だいじょうぶ? フィルムなくなっちゃうよ?」
よっすぃーに言われたすぐ後も、あいぼんはつい弾みでシャッターを切ってしまいました。
「あーっ! あと一枚しかない!」
残り枚数の表示を見て、あいぼんが叫びました。
「一人ずつの写真ばっかになっちゃったね…」
「アホや…。ウチら、ほんまもんのアホや…」
あいぼんは、がっくりと肩を落としました。
「そんなに落ち込まなくても…あと一枚残ってるんだからいいじゃん。ふたりで撮ろ?」
よっすぃーに励まされると、あいぼんは小さな声で「うん」と言いました。
よっすぃーはカメラを受け取ると、あいぼんの肩を抱き寄せました。
「撮るよー?」
よっすぃーは腕を精一杯伸ばして、カメラを自分たちの方へ向けました。
「いいよぉー」
あいぼんの答えを待って、よっすぃーがシャッターを切りました。
それからしばらくの間、よっすぃーはカメラをこちらへ向けたまま、
二人はそのままの格好でいましたが、そのうち、どちらからともなく離れました。
それから二人は、いろんな話をしました。
よっすぃーは、あいぼんの家族のことや学校のことをもっと知りたいと言いました。
あいぼんは、遠く離れた故郷の家族のことや、中澤さんのこと、平家さんのこと、
ケイさんのこと、それから牧場のりんねさんやチャーミー、伝書鳩のお豆ちゃんのこと、
小学校でお世話になった飯田先生や稲葉先生のことなどを、よっすぃーに話してあげました。
あいぼんは、よっすぃーのともだちのことをもっと知りたいと言いました。
よっすぃーは、真里ちゃんのことや、シベリアンハスキーのこんこんのこと、
後藤さんのこと、それから今までずっと言えなかった、なつみのことを話しました。
あの日、なつみにちゃんとさよならを言えなかったこと。
なつみが、あの場所へはもう来ないかもしれないと言ったこと。
来ないかもしれない人を待ち続けることが恐くて、あの場所へはもう行くまいと思っていたこと。
けれども後藤さんと話をして、自分ももう一度なつみに会いにあの場所へ行こうと思えたこと。
「あいぼんに会わなければ、ぜんぶ、無かったことだね」
よっすぃーが言って、二人は少ししんみりしました。
太陽が高く昇り、二人はあいぼんの作ってきたお弁当を食べました。
中澤家の家事の一切を任されているあいぼんにとってお弁当作りなど訳も無いことでしたが、
よっすぃーは「おいしい!」と言って、とても感激している様子でした。
「ってゆーかさぁ、あややってホントかわいいよねー」
お弁当を食べ終えてのんびりしていると、ふいによっすぃーが言いました。
またあややかよ、と少しムッとしたあいぼんがつい口走った、
「あややのどこがイイの?」という発言が、よっすぃーに火をつけてしまいました。
「どこって、そんなのいっぱいあるさぁ」
それからおよそ一時間、よっすぃーは『あやや』の魅力について余すことなく語り尽くし、
「人類の歴史上、一番かわいい」の一言で締め括られる頃には、いつしかあいぼんも、
あややってちょっとイイかもしれない、と思い始めていました。
「じゃあ、もしウチが、あややだったらどうする?」
「んー? ぜったい逃がさない」
「…あっそう」
あいぼんは怒りに震えるこぶしを抑えながら、ふいに、机の上に置いてある時計を見て、
小さく、あっ、と言いました。
『三時に、表で待ってる』
今朝あいぼんが家を出るとき、中澤さんはそう言っていました。
時計の針は、約束の午後三時を三十分も過ぎたところを指しています。
(中澤さん、待っててくれてるんや…)
もうすぐ、あいぼんは魔法でよっすぃーの記憶から自分の存在を消さなくてはなりません。
けれども、魔法使いとして未熟なあいぼんにはまだその魔法を使うことができないので、
代わりに中澤さんがその役目を果たすことになっていたのです。
「あいぼん? どうしたの?」
突然深刻な顔になったあいぼんを見て不思議そうに、よっすぃーが言いました。
「んっ? あ、うん、なんでも…ない」
あいぼんはとっさにそう答えました。
よっすぃーは、「ふーん」と言って気にも留めない振りをしていましたが、
あいぼんの様子から、そのときがすぐそこまで近付いていることを感じていました。
「そうだ、あいぼん」
よっすぃーは立ち上がると、机の上に置いてあった数学のノートを持ち出し、
「これ、あいぼんにあげる」と言って、あいぼんにそれを手渡しました。
「なに、コレ…?」
「ダメ! 後で読んで」
あいぼんがノートを開こうとすると、よっすぃーがあわてて言いました。
きょとんとしているあいぼんに、よっすぃーは肩を竦めて苦笑いすると、言いました。
「実はさぁ…昨夜ちょっとズルしようと思って、後で思い出せるようにあいぼんのこと、
いろいろノートに書いとこうって思って」
そう言った後でよっすぃーはあわてて、「でもすぐに止めたよ?」と付け加えました。
受け取ったノートの表紙に『数学』と書いてあるのを見て、あいぼんは、
そんなことを数学のノートに書いちゃうなんてよっぽどあわてていたんだな、と思いました。
「でも後になって、ズルとかそういうんじゃなくて、あいぼんのこと思いつくだけ書いてったんだ。
あいぼんがはじめてうちに来た日から昨日までのこと思い出して、1コずつ書いてたらさ、
なんかすごく楽しかったよ。本当に、楽しかった、今日まで」
よっすぃーは自分にお別れを言おうとしているのだと、あいぼんは思いました。
「ありがとう、あいぼん」
あいぼんは、泣き出すのを無理にこらえたせいで、喉の奥でひゅうっと変な音がしました。
「ウチぜったいよっすぃーのこと忘れへん。ぜったいや」
あいぼんはノートをぎゅうっと胸に抱いて、もうよっすぃーの顔を見ることができませんでした。
「ねぇ、あいぼん」
あいぼんはやはり下を向いたまま、
「忘れることは、消えることじゃないよね?」
よっすぃーの言葉に頷くことしかできませんでした。
「もう行かな。中澤さんが、待ってんねん」
あいぼんは何か言うと泣き出してしまいそうでしばらく黙っていましたが、とうとう言いました。
すると、よっすぃーは短く、そっか、と言いました。
「だいじょうぶだって!
私には真里ちゃんだって後藤さんだってなつみだって、あと、これからもたくさん、
だから、あいぼんの一人や二人いなくなったって、ぜんぜん」
よっすぃーは無理に明るい声を作って、無理に笑いました。
だって、今日は絶対に泣かないと決めたのですから。
あいぼんのことをたくさん困らせたし、せめて最後ぐらいは泣かないでいようと、決めたのですから。
「…さよなら、あいぼん」
よっすぃーが言いました。
「…さよなら、よっすぃー」
あいぼんは顔を上げると、涙声になって言いました。
そして後ろへ一歩下がると、大きく息を吸い込んで、目を閉じました。
「あいぼん!」
「…っ!」
あいぼんの短い呪文は、よっすぃーの声に遮られて途切れました。
あいぼんは、よっすぃーに抱きすくめられていました。
「よっ、すぃー?」
「…や、だ、嫌だ、嫌だよ私、あいぼんのこと、忘れたくない!」
よっすぃーは、泣いていました。
「ゴメン、ゴメン、泣いちゃってゴメンね。だけど、」
泣かないって決めてたけど、これが本当の気持ちなんだ。
あいぼんと離れることも、あいぼんを忘れることも、本当は嫌で嫌でたまらないんだもの。
よっすぃーは、何度も何度も「ゴメン」と繰り返しました。
「ううん。ありがとう、よっすぃー」
心からそう言うと、あいぼんは、再び目を閉じました。
よっすぃーは、いつまでもいつまでも泣いていました。
あいぼんは、この世に『よっすぃーの涙を止める魔法』があったらどんなにいいだろう、と思いました。
「こんな日に限って、なんでこんなに遠くまで飛べちゃうんだよ」
あいぼんは、よっすぃーの家から少し離れた場所に着地しました。
よっすぃーの部屋の窓が、いつもより小さく見えます。
これまでで最も長い距離の瞬間移動に成功したのに、今日に限ってはちっともうれしくありません。
「遅いで」
いきなり聞こえてきた声に振りかえると、あいぼんの後ろには、
不機嫌そうな顔をした中澤さんが立っていました。
「ええな」
中澤さんの言葉にあいぼんは少し躊躇して、そして、頷きました。
中澤さんが長い呪文を唱えている間、あいぼんはよっすぃーにもらったノートを読んでいました。
そこには紫色のインクで、あいぼんに関するいろいろなことが、びっしりと書きこんであります。
あいぼんの本当の名前、学年、好きな歌、モノマネのレパートリー、などなど、本当にたくさん。
『あやや』の後に括弧付きで『(似てない)』と書かれているのを見て、あいぼんは、くすっと笑いました。
そうして何枚かをめくると、最後の数行が空白になっているページが現れました。
これで最後かな、と、読み終えてページをめくると、
そこには真ん中に一行だけぽつんと、文字が書いてありました。
―― あいぼん。 ずっと、ともだちでいよう。 ひとみ
「よっす…よっすぃー!!」
「加護!」
中澤さんが止めるのも聞かずに、あいぼんは走り出していました。
こんな日に限って遠くまで飛べてしまったことをうらめしく思いながら、
あいぼんは、よっすぃーの家を目指して全力で走りました。
そしてあいぼんが家の前に立つと、二階の窓が開いて、よっすぃーが顔を出しました。
よっすぃーはしばらくきょとんとしていましたが、やがて、あいぼんを見てにっこりと微笑みました。
「あ…」
(もう、忘れてしまったんだ)
あいぼんは口をつぐみ、かわりに、笑顔で手を振りました。
知らない女の子が自分に向かっていきなり手を振るので、よっすぃーは驚きましたが、
けれどもすぐに笑顔になって、手を振り返しました。
あいぼんは思いを断ち切るように、よっすぃーに向かって大きく手を振り続けました。
「オマエなぁ、反則やで」
息を切らして走ってきたあいぼんに向かって、中澤さんが言いました。
「…ゴメンなさい」
「まあ、話してへんのやったら、ええか」
そう言うと、中澤さんはあいぼんを置いて歩き出しました。
中澤さんは、よっすぃーが最後にあいぼんの姿を見た記憶を消さずにおいてくれるようです。
あいぼんは、あわてて中澤さんの後を追いかけました。
「ねぇ」
中澤さんの手を握って、あいぼんが言いました。
「よっすぃー、笑ってたよ」
「そうか」
あいぼんは家に着くまでずっと、中澤さんの手を離しませんでした。
――
「一日中、写真眺めて…ほとんどストーカーやな」
平家さんの言葉に、あいぼんは頬をぷうっと膨らませて怒りました。
あいぼんがよっすぃーとお別れをしてから数日後、中澤さんのオフィスには、
中澤さんとあいぼん、そして経理部の平家さんが仕事をサボって遊びに来ていました。
「アンタな、あの子にはもう会われへんて言うてるやろ」
「それはわかってますけどぉー…」
写真眺めるぐらい良いじゃんか、とぶつぶつ言いながら、
あいぼんはランドセルに小さなアルバムを仕舞いました。
「せや。今晩、裕ちゃんち行ってもええ?」
何かを思い出したように、平家さんが言いました。
「なんで? またタダ飯食べに来んの?」
中澤さんは、平家さんにとても酷いことを平然と言い放ちました。
「ちゃうわ。あいぼんのお祝いせなアカンでしょー」
「やったー! あんな、ウチな、手巻寿司がいい! あとはステーキでしょー、メロンでしょー」
ごちそうを指折り数えながら、あいぼんの夢は膨らむばかりです。
「加護。そんな庶民的なごちそうやなくて、もっとスゴイモン言いなさい。みっちゃんのオゴリなんやから」
「ちょっと! 誰もオゴるて言ってないでしょー!」
「ほらなー、やっぱタダ飯のつもりやったんやないかい!」
「極端やボケ! ワリカンのつもりや!」
中澤さんと平家さんの小競り合いは、それからしばらく続きました。
「さてと、ちょっと外回り行ってくるわ」
お祝いパーティーの食事代が割り勘で落ち着いたところで、中澤さんが席を立ちました。
「あっ、加護も行きまーす」
あいぼんはランドセルを背負うと、あわてて中澤さんの後を追います。
「アンタは一人で行き。今日からは、一人で仕事探してくるんや」
「……はいっ!」
あいぼんは、ぱあっと明るい顔になって言いました。
「良かったなぁ、あいぼん。もう一人前やて」
「アホ、まだまだ一人前のワケないやろ。五万分の一人前ぐらいや」
「小っちゃ」
平家さんが言うと、中澤さんはけらけらと楽しそうに笑いながら出て行きました。
「ウチも行ってこよ」
「待って、あいぼん」
出て行こうとしたあいぼんを、平家さんが呼び止めます。
「なにー?」
「コレ、裕ちゃんから預かったんやけどな」
平家さんは中澤さんのデスクの上に置いてあった小さな紙袋を、あいぼんに手渡しました。
「仕事が成功したお祝いやて。ったく、自分で渡したらええのになぁー」
平家さんは、そう言って肩を竦めました。
「あっ! ケイタイやあ」
中澤さんがくれたプレゼントの中身は、最新型の携帯電話でした。
今まで中澤さんが五年間使用していたお古の携帯電話を使っていたあいぼんにとって、
うれしいことこの上ない、素敵なプレゼントです。
「また、お古か?」
「ううん、新しいやつ! やったー!!」
これで今日からは着メロもメールも、思いのままです。その気になれば出会い系だって。
あいぼんは、うれしくなってぴょんぴょんと飛び跳ねました。
「うんうん、良かった良かった。ホンマによぉ頑張ったなぁー、あいぼん…ぐすっ」
まるで我が子の成長ぶりを見ているような気になって、平家さんは涙しました。
「それでは加護亜依、行ってまいりまっす!」
あいぼんは平家さんに向かって敬礼すると、大げさに言いました。
「忘れモンないか?」
平家さんは、あいぼんが仕事に出かけようとすると決まってこれを言うのでした。
「だいじょーぶやって。もー、みっちゃんは貧乏性やなぁ」
「こらこら、それを言うなら心配性やろ」
「おー、ナイスつっこみだぁ、みちよくん。おーっす、加護亜依、行ってまいります!」
あいぼんは気を取り直してもう一度言うと、ドアを開け元気良く出発しました。
「でもちょっと心配」
外に出るとすぐ、あいぼんはその場にしゃがみこんでランドセルの中身をチェックし始めました。
「ケイタイでしょー、タテ笛でしょー」
あいぼんの赤いランドセルの中には、
中澤さんにもらった携帯電話と、平家さんにもらったタテ笛と、
よっすぃーにもらったノートと、よっすぃーとふたりで撮った写真。
ねぇ、あいぼん。
忘れることは、消えることじゃないよね?
それは消えたのではなくて、ただ忘れてしまっただけ。
そう思えるようになるのにはまだ、あいぼんにはもう少し時間が必要でした。
「ずっと、友達や」
けれども、写真の中のよっすぃーに笑いかけられる今の自分は、
これからもきっとだいじょうぶだと、あいぼんは思うのでした。
「よっしゃー、カンペキ! 加護ちゃん天才! 加護ちゃん最高!!」
あいぼんは立ち上がって、ランドセルを背負いました。
「こらっ、廊下でさわぐなー!」
「やばっ、みちよや!」
あいぼんは走り出しました。
すぐさま後ろから、廊下を走るなー、という平家さんの大声が聞こえてきました。
(ウチ、めちゃめちゃ頑張るからな、よっすぃー)
あいぼんは背中のランドセルを揺らしながら大きく腕を振って、廊下を駆け抜けました。
――
「もう、桜も終わりだねぇー」
「桜もいいけどさ、新緑の季節ってやつ? ヤグチはそっちのが好きだなぁ」
「まだだよ! まだちょっとは残ってんじゃん!」
むきになるよっすぃーを見て、真里ちゃんも後藤さんもくすくすと笑っています。
三人は、よっすぃーの家から電車で一時間ほどの所にある、大きな公園の近くに来ていました。
なつみと会った、あの場所です。
よっすぃーは真里ちゃんと後藤さんを誘って、なつみに会うために再びここを訪れていたのでした。
「あのさぁ、よっすぃー」
「どしたの? ごっちん」
よっすぃーと後藤さんは、もうお互いを気安い呼び方で呼んでいました。
堅苦しく名字で呼び合っていた二人に、真里ちゃんが提案したのです。
後藤さんと真里ちゃんはとても気が合うらしく、よっすぃーが二人を会わせると、
二人はすぐに仲良くなったのでした。
「もっかい、花咲かせるとかできないの? ほら、お得意の忍法でさ」
もうほとんど花が散ってしまっている桜の木を見上げて、後藤さんが言いました。
後藤さんは、相変わらずよっすぃーが忍者の末裔だと信じて疑わないのでした。
「いや、それは無理。たぶん歴史とか、変わっちゃうから」
よっすぃーは、口からでまかせを言いました。
よっすぃーは、なぜあの夜、自分が後藤さんの家に居たのかどうしても思い出せずにいるのですが、
侵入の手口について聞かれ、自分は忍者であると言ってしまったことだけは、はっきりと記憶していたのです。
同じく真里ちゃんも、あいぼんに会ったことはすっかり忘れてしまっているようでした。
「ほぉー、歴史かぁー。なるほどねぇ」
後藤さんは、頷きながらしきりに感心しています。
「やぐっつぁーん、さすがに歩きながらは危ないよぉ?」
後藤さんが、自分の少し後ろを歩いている真里ちゃんに向かって言いました。
「だいじょーぶだよ。道まっすぐじゃん、ココ」
真里ちゃんは自分の手元を見たまま言って、顔を上げようとはしません。
真里ちゃんは電車の中でも、こうして三人で並木道を歩いている間も、
決して参考書を手放そうとはしないのでした。
「真里ちゃん、勉強ばっかしてるとロクなオトナになんないよ?」
「よっすぃー、勉強しなさすぎるとロクなオトナになんないよ」
「いいのいいの、勉強なんか。うちらは大リーグ行くんだから。ねっ、よっすぃー?」
後藤さんの言葉は意味不明でしたが、よっすぃーは、今年はもう少し勉強を頑張ろうと思いました。
「見て見て、よっすぃー。キレイでしょー?」
「あーっ、ごっちん! 勝手に枝折っちゃって知らないよー!?」
「ねぇ、二人とももう少し静かにしてくれる?」
花びらを踏みながら、三人はずんずんと、並木道を進んでいきます。
「あっ!」
突然、よっすぃーが立ち止まりました。
「どしたの? よっすぃー」
「もう、静かにしてってば」
「あ、あ、あ、」
遠くの方になにかを見つけて、よっすぃーは駆け出しました。
よっすぃーが地面を蹴り上げるたびに、蹴散らされた花びらが低く舞います。
よっすぃーは、そこへたどり着くまで待ちきれずに、大声で叫びました。
「なつみーっ!!」
<おわり>