忘れないで

 

「飯田さんは、運命とかって、信じます?」
帰り支度をしていると、よっすぃーが突然言った。
他のメンバーはとっくに帰ってしまって、楽屋には私とよっすぃーの二人きり。
彼女は私のことを待っていてくれているのか、自分の支度が終わってもまだ、
ドアの側に立ったまま楽屋から出ようとしない。
「なに? いきなり」
こんな風によっすぃーは、たまに突拍子も無いことを言い出したりする。
もっともカオリもあんまり他人のことは言えないから、いつだって真剣に聞いてあげるようにしてるんだけど…。
「友達と占い行ったんですよ。なんかそこ、すごい当たるらしいんですけど」
「ふーん」
占い、か…もうだいぶ前のことになっちゃったけど、レギュラーで占いの番組やってた頃はホント興味あったんだけどなあ。
今はあの頃よりもずっとずっと忙しくて、たまに雑誌の星占いとかチェックする程度だもんね…なんて感傷に浸りながら、
「で、なんて言われたの?」
私が何気なく尋ねると、
「うん。アンタ明日死ぬよ、って言われちゃいました」
よっすぃーは、実にあっさりと言い放った。

「はあっ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまったけれど、でもそれってすごく当然のコトじゃない!?
なんでこのコったら、自分が”明日死ぬ”とか言われたって話を、ごくごく普通のトーンで話せちゃうワケ!?
信じらんない、コイツぜったい普通じゃないよっ!!

……と、心の中でひとしきり慌てた後で、はたと気付く。
そっか、もしかしたらよっすぃーが言ってるのはもう何日も前の出来事なんじゃない?
だって彼女、友達と占いに行った、って言っただけで、なにも今日行ってきたなんて一言も言ってないもん。
そうだよ、たとえば…
『一週間前に占いで”あなたは明日死にます”って言われたんだけどほらヨシザワ、
今日もこの通りピンピンしてるじゃないですかあ。案外アテになんないモンですよねぇー、占いなんて』
みたいなオチなんだよ!
なんだあ、それならそうと早く言ってよもう…慌てふためいて損しちゃったよ。

「って、っていうか…い、いいい、いつ行ったのよ、それ」
自分では平静を取り戻したつもりだったんだけど、喋りだすと何故かしどろもどろになってしまった。
お願い、よっすぃー、”今日じゃない”と言って!!

「今日ですけど」
うそっ…!?
「じゃあ”明日”って、明日じゃん!!」
「うん。そうですね」
私の突っ込みをものともせず、よっすぃーはいつもの呑気な笑顔でまるで他人事みたいに言ってのける。
「なに呑気なこと言ってんの!? あああ、そういうのって誰に相談したら良いんだろう…」
警察? 神父さま? 神主さん? 巫女さん? ううん違う、近いけど違うよカオリ……
あっ、そうだ、お坊さんだ! お寺で除霊っ! ビンゴ!!
「相談っていうか、飯田さんにしか話してないんですけどね。たかが占いだし、あんま気にしてないし」
「気にしてよ! そういうのは気にした方が良いってば!」
「飯田さんって心配性だよねぇ。んなコトあるワケないじゃないっすか」
慌てふためく私の様子がおかしかったのか…よっすぃーは、あはは、と楽しげに笑うと、
「でも、もしもホントだったら…飯田さんだけはヨシザワのコト、忘れないでくださいね」
急に真剣な顔になって言った。

「なに、言ってんのよ」
「なぁーんてね。じゃっ、先帰ります」
妙な胸騒ぎがした。
よっすぃーの言うとおりカオリは心配性だし、占いとか運命とか、そういうのもわりと信じちゃう方だし、だからってワケじゃないけど。

忘れないでください。
よっすぃーの言ったコトバは、なんだかとても切実で、真剣で、ずっとカオリの耳を離れなかった。

「んーじゃ、おつかれっしたぁー」
「待って!」
「はい?」
私を置いて出て行こうとしていたよっすぃーが、振り返る。
っていうか、今までカオリのコト待っててくれてたんじゃなかったの?
なかなか帰ろうとしないから、てっきり待っててくれてるんだとばかり思ってたんだけど…
もしかしたらよっすぃーは単に占いのこと、誰かに話したかっただけなのかも知れない。
だとしたら、口では『気にしてない』なんて言ってるけど、本当はかなり気にしてるんじゃないだろうか?
っていうか、いくら占いとはいえ突然、”あなたは明日死にます”なんて宣告されたら、普通は物凄く気にすると思うんだけど。

「明日、どうやって過ごすつもり?」
緊張から、声が震える。
けれどよっすぃーは相変わらずの呑気顔で、
「久しぶりの休みだしなぁ…映画でも行こっかな」
「ダメだよ! 家に居なさい!」
「えーっ、だってせっかくのお休みなんですよぉ? もったいないじゃないっすかぁ」
「ダメ!! 明日は絶対にダメっ!!」
もーっ、ホントにわかってないんだから、コイツはっ!!
自分の置かれてる状況を全く解ってないよっすぃーの態度に、自然と語気も荒くなる。
「はあーい。わっかりやしたぁー」
心底やる気の無さそうな口調で、よっすぃーが答える。
ダメだ…このコってばぜんっぜん、わかってない。

「待って」
「はい?」
再び出て行こうとしたよっすぃーを、呼び止める。
「帰っちゃダメ」
「え?」
「うちに来て。明日が終わるまで、ずっとうちに居るの」
「うち、って?」
「カオリの、おうち」
よっすぃーは、『どうして?』って顔でじっとカオリのこと、見てる。

「カオリ、明日が終わるまで、よっすぃーのコト見張ってる」
「…もしかして、死なないように?」
よっすぃーの問いに、黙って頷く。呑気面のあんたと違って、カオリはいたって真剣なんだから。

私もよっすぃーも、明日は久しぶりのオフ。
たかが占いだなんてよっすぃーは言うけれど、あんな話聞かされて、このまま黙って帰す訳にはいかない。
いくら部屋の中でじっとしてたって、危険はいつどこに潜んでいるかわからないんだもの。
よっすぃーのことだもん、一人っきりで部屋に居たりしたら、滑って転んだりとか、机の角に頭ぶつけたりとか、
その程度の些細なきっかけでうっかり死んじゃったりするかも…ってああっ、ダメダメ!
縁起でもないコト想像しないの、カオリっ!!

「飯田さん。もしかしてあたしのコト、すごく心配してくれてます? なんかちょっとうれしいんですけど、そーゆーの」
「ねぇ、よっすぃー。他には何か言われなかった? 何かに気をつけろとか…何でもいいよ、水とか、火、とか?」
「やぁ…なんも。とりあえずねぇ、なんか『アンタ死ぬよー』みたいな、ごく軽いノリでしたね」
「嘘でしょ…。なんて無責任な占い師なの…」
「いやぁ仕事柄、お泊りセット持ち歩いててよかったぁ。こーゆーコトあるかなぁと思って、いつも三日分は用意してるんですよね」
「あっそう。良かったね」
とにかく。
危機感ゼロのこのコを、一人っきりで野放しにしておく訳にはいかない。
一人の友人として、先輩として、そしてなにより、モーニング娘。の頼れるリーダーとして。
このコの命は、私が必ず守ってみせるんだから!

「へへ」
「ちょっと…なんでそんなに緊張感ないワケ?」
「だって、飯田さんちにお泊りすんの、初めてじゃないっすか。なんかぁ、ひとみ照れちゃ〜う、みたいな! えへっ♪」
「あのねえ」
占いっていうか…その前にこのコ、カオリが自分の手でうっかり殺しちゃったらどうしよう。

すぅ、すぅ。
彼女の規則正しい寝息を背中越しに聞きながら、ページを捲る。
だけどお気に入りの小説は文字を目で追っているだけで、内容なんかちっとも頭に入らない。
今日が終わったら今読んでるトコ、もっかいちゃんと読み直さなくっちゃね…。
時計の針は、1時30分のあたりを指している。
午前1時30分。つまり今は、運命の一日が始まって、ようやく1時間と30分が経過した、ところ。

カオリずっと起きてるから、よっすぃーはもう寝ちゃっていいよ。
そう言ったのは、カオリだけど。
でも、さ…。
「こんなときに、よく寝れるよね」
呆れを通り越してむしろ感心、ううん、尊敬の念すら抱いてしまう。

『えーっ』
よっすぃーは、ホラおいでよ、とか言いながら呑気に手招きなんかしてたけど、答える代わりに私は、
彼女が寝ているその傍に腰を下ろした。
だって眠らないつもりでもベッドに入ったら最後、疲れた体に容赦なく睡魔が襲ってくるのは目に見えていたから。
『せっかく来たのに…つまんないの』
『あのねえ』
せっかく来たのに、って一体なにしに来たのよあんたは。
怒りでぷるぷると震える右のコブシを左手でどうにか抑えつつ、私は喉元まで出掛った言葉を呑み込んだ。
だってもし殴り合いのケンカにでもなったら最後、腕力は彼女の方が勝ってるとしても、滑って転んだりタンスの角に頭ぶつけたり、
万が一そういう不慮の事故が起こらないとも限らなかったから。
『ねぇ、飯田さん』
『なに?』
『淋しくて死んじゃうってのは、アリ?』
よっすぃーの口調があまりに寂しげだったから一瞬、騙されそうになったけど、
『もう、バカなこと言ってないの』
はあーい、と少し不貞腐れたように返事して、よっすぃーは、
『あの、眠くなったら寝てくださいね、マジで』
と言い残すと、やがてすやすやと幸せな眠りについたのだった。

「ふぁっ…ふわぁ〜ああ」
彼女の呑気なあくび声を背中越しに聞きながら、ページを捲る。
だけどお気に入りの小説は文字を目で追っているだけで、内容なんかちっとも頭に入らない。
今日が終わったら今読んでるトコ、もっかいちゃんと読み直さなくっちゃね…。
時計の針は、10時30分のあたりを指している。
午前10時30分。つまり今は、運命の一日が始まって、ようやく10時間と30分が経過した、ところ。

「よく寝たぁー。っつか寝すぎ? うぁヤベ、アッタマ痛てぇー」
「12時間も眠ればね」
彼女が完全に眠りについたのを確認したのは、昨夜の午後10時30分。口惜しかったからよく覚えている。
「ぁ…おはよーございまぁ〜す」
ようやく私の存在に気が付いたらしいよっすぃーが、気だるそうに言う。
「早起きですねぇ、飯田さん。おばあちゃんみたい」
「あのねえ」
早起きじゃなくて寝てないんだっつーの! っていうか、おばあちゃんってなに!?
私は舌先まで出掛った言葉を、辛うじて引っ込めた。
こらえて、カオリン。ケンカはダメ。
だってこのコはいつどんなきっかけで、死んでしまうかわからないんだから。

「さてと。わらわは起きますぞよ」
は…?
「とりゃっ」
なんなの、このテンション…。
「ぅあぁもぅマジ寝すぎー。タイムマシン欲しー」
適度な睡眠時間が経過した時点まで時を遡りたいという意味かしら…?
「顔洗ってきまぁーす」
ダルそうに頭をかきながらてくてくとバスルームへ向かって歩いてゆくよっすぃーの後ろにぴったり憑いて、カオリもてくてく。

「わあっっ!?」
タオルで顔を拭きながら、鏡越しに目が合った瞬間、よっすぃーが突然悲鳴を上げる。
つられて私も、「キャアアアア」とド派手な悲鳴を上げてしまった。
「な、なによ、いきなりっ!?」
「そっちこそ! 幽霊みたく立ってないでくださいよ! あー、心臓止まるかと思った…」
ええっっ!?
「うそっ、大丈夫!? 止まってない!?」
私は思わず、よっすぃーの両肩を掴んで力いっぱいユサユサ。
まさか本当に、カオリがこの手でよっすぃーの息の根止めちゃうなんて…!?
「見りゃわかんでしょ…止まってませんよ」
ホッ…良かった。

「飯田さんって、料理うまいですよねー」
フォーク片手にしみじみと、よっすぃーが言う。
「パスタ茹でただけじゃん…」
食卓に並んだメニューは、レトルトパスタとよっすぃーの好きなゆでたまご、あと、果汁100%のオレンジジュース。
本当ならもう少し凝った手料理をご馳走してあげたいところだけど…今日に限ってはやっぱり、包丁とか使うの恐いし。
何かのはずみでこのコのこと、うっかり刺殺しちゃったら大変だもんね。
「そうだけど、料理のセンスって盛り付けとかにも出ちゃうんですよねー。ホラこの、きざみ海苔の位置とか絶妙だもん」
「…ありがと」
この人…生きるか死ぬかの瀬戸際に居るはずなのに、こんな呑気で良いの? きざみ海苔の位置とかに感心してる場合?
壁の時計を見遣る。午前11時15分。
呑気に惰眠をむさぼってくれた彼女のおかげで、こんな時間に私たちは遅い朝食というよりちょっと早い昼食の真っ最中。
「で、今日はどうするんですか? どっか出かけます? 天気いいし」
ゆでたまごに塩をふりながら、よっすぃーが言った。

それにしても、なんという愚問かしら…一体、何のためにあんたをココにかくまっていると思ってるのよ。
彼女のあまりにも脳天気な質問に、あんたはむしろ進んで死にたいのかと逆に問い返したくなる。

「言ったでしょ? 今日は、今日が終わるまでずっとココにいるの。ここに」
「ここにいるぜぇ! なんつって」
「あ…」
それ、今カオリが言おうと思ったのに…。
「怒りました? すいません、もうふざけませんから」
「ホントだよ、もうっ。ふざけないで!」
小さく、はあーい、と言うとよっすぃーは、少ししょげた様子でゆでたまごにパクっとかみついた。
「あ、こっちもおいしい」
お出かけ、したかったのかな、よっすぃー。
でも、今日だけはガマンしてね。
外の世界には危険がいっぱいなの…あなたを守るためには、この閉じた空間に軟禁するしか方法は無いのだから。

「飯田さんって、なんでこんなに料理うまいんですか?」
言いながらよっすぃーは、食べかけのたまごにまた塩をフリフリ。

「最初から得意だったワケじゃないよ。一人暮らし長いし…だんだん慣れてきたっていうか。うん、単なる慣れよ、慣れ」
「じゃあこのたまごは、飯田さんの歴史なんだ。飯田さんの、歴史の味」
「おいしい?」
最後の一口を放り込んだ瞬間に尋ねると、よっすぃーは口をモゴモゴさせながら、
「んー、おいひぃ」
「じゃあ、誉めてもらってばっかじゃ悪いからさ、次はもっとちゃんとしたの、ごちそうするね」
「やりぃ」
にんまりと笑う。
「ねぇ、よっすぃーは? 慣れたこととか、上手になったこととか」
「んー…」
私が何気なく尋ねると、よっすぃーは頬杖をついて考え込んでしまった。
「普通に喋れるようになったコト、かな。飯田さんと、こんな風に」
しばらく考えた後で、よっすぃーが言った。
「飯田さんって、なんか他の人とはちょっと違うっていうか…みんなの中にいても一人だけ物静かだし、自分の世界、
ってやつを持ってるっていうか…とにかく話しかけづらいオーラがバシバシ出てて、苦手だったんですよね、実は」
私が黙り込んでいると、よっすぃーは慌てて、「もちろん、今は平気ですよ」と付け加えた。

「最初から得意だったワケじゃない、ってことか」
圭ちゃんとか矢口にも、最初は怖そうな人だと思ってた、なんて言われたことあったけど、
やっぱりよっすぃーも始めはそうだったんだ…私は思わず苦笑い。
「それって、カオリのお料理と同じだね」
「ですね。上手かどうかは、わかんないけど」
「上手だよ。だってカオ、よっすぃーといると楽しいもん」
「ホント?」
うん、と無言で頷く私。
「よっしゃ」
よっすぃーが、大げさにガッツポーズする。
それから私たちは、いろんなことを話した。
私たちが出会う前の私たちのことや、よっすぃーが娘。に入ったばかりの頃に悩んでたことや、とにかく、いろんなこと。

「で、飯田さんは、だいじょうぶですか?」
「なにが?」
「いや、メンバーも増えたし、いろいろ大変かなって」
「…うん、カオリは大丈夫だよ。小っちゃいコの扱いには慣れちゃったし。お料理と一緒で、ね」
カオリが曖昧に微笑むと、よっすぃーは少し寂しげに笑った。

どこにでもある、穏やかな昼下がり。
だいじょうぶだよ。
このままきっと何事もなく、今日が過ぎてゆくのに決まってる。

「気をつけてね。くれぐれも、滑ったりしないように」
「はあーい」
「シャワーだけでガマンするんだよ? 良い?」
相変わらず呑気な生返事のよっすぃーに、念押しする。
「えーっ、ゆっくりしたいのにぃー」
案の定、不満の声を漏らすよっすぃー。
夕食を終え、時刻は午後9時を回ったところ。

ソファーの上でテレビ観ながらゴロゴロするよっすぃーをじっと監視したり、
トイレに立ったよっすぃーをドアの前で待ち伏せしたり、
洗面所で歯みがきをするよっすぃーを背後からそっと見守ったり。
カオリンの涙ぐましい努力の甲斐あって…運命の日終了までついに3時間を切った今、
私はお風呂にゆっくりつかりたいと主張するよっすぃーと、バスルームの前で押し問答というワケ。

「ダメ! 溺れたりしたらどうすんの!?」
「あのねぇ…なにをどーやったら溺れるんすか。幼稚園児じゃあるまいし」
「ダメだってば! 何があるかわかんないんだよっ!?」
「ふーん」
よっすぃーが、にやりと笑う。何かを企んでるみたいな、含みのある笑顔。

「そんなに心配なら、いっしょに入ります?」
「はあっ!?」
イキナリなに言い出すのよ、コイツはっ!?
今はツアー中でもないしココは温泉でもないのよっ、このトシでお友達と二人っきりで仲良く混浴なんて…!

……と、心の中でひとしきり焦った後で、ハッとする。
そうよ。足を滑らせて頭打ったり、湯船で溺死したり、シャンプーが目に入ったり、お風呂には危険がいっぱい。
だから今日だけは特別。よっすぃーを守るためだもん、恥ずかしがってる場合じゃないよね…。

「いい、けど…変なコトしないでよね。カオリはあくまで、よっすぃーを守るために…」
私はついに覚悟を決めて、言った。
数々の危険からよっすぃーを守るためだもん。やむを得ないよね、うん。
「冗談ですよ」
「えっ」
「シャワーだけにしときます」
実にあっさりとした口調で言うと、よっすぃーは着替えを持ってバスルームへと消えた。
「あっ、そう」
取り残された私はなんだか、拍子抜け。
けれどすぐに気を取り直すと、壁にもたれ、持参していた本を開く。
シャワーの水音をバックにお気に入りの小説を読みながら、よっすぃーの帰りを待つ。

「うあっ! ビビったぁー!」
お風呂上がりのよっすぃーが出てくるなり、ドアの前に座り込んでいる私を見て奇声を上げた。
だけど私はというと、彼女のこのリアクションにはもうすっかり慣れっこ。どんなに驚かれたって気にしない。
だって今日は一日中よっすぃーのコトつけまわして、何度びっくりされたことか知れないのだから。
「だって、心配だったから」
「…ああ、どうも」
少しは感謝してくれているのか、申し訳なさそうによっすぃーが言う。

「うぁ暑っちぃー」
白地に細いグレーの線が入ったストライプ。
まるで俗世間にくたびれ果てたお父さんたちが着ていそうな柄のパジャマを身に纏ったよっすぃーは、
「エアコンガンガンにしてゴロゴロしよ〜っと」
怠け者のお手本みたいな台詞を吐きながら、私の前を通り過ぎてゆく。
…って、ちょっと!
「待って!」
「はい?」
いきなり腕を掴まれて、よっすぃーはキョトン顔。

「行かないで。カオリが出てくるまで、ここにいて」
「えーっ」
私の懇願に、とびきり面倒臭そうな顔で答える。
「お願いだから、今日だけは言うこと聞いてよ。普段はシカトしててもいいから、今日だけはお願い」
「…べつに、いつもシカトとかしてないじゃん。被害妄想だよ、それ」
「いいから。ここにいて」
「…はいはい。いますよ、いりゃあイイんでしょ」
なんとなく渋々ってカンジだけどよっすぃーが頷いたのを確認すると、私は彼女と入れ替わりにバスルームのドアを開けた。
お風呂上がりにエアコンガンガンにしてゴロンゴロンしたい気持ちはよく解るけど、
このコを一人きりで部屋に置いといたら何をしでかすかわかったモノじゃない。
一緒に入れないのならせめて少しでもカオリの目の届く場所に居てもらわなくちゃ、
何かあったときによっすぃーのこと、守ってあげられないもんね。

「ねぇ、いいださーん」
よっすぃーの、どこか間延びした穏やかな声を聞きながら、コックを捻る。
心地良いシャワーの雨が、私の自慢の黒髪に降り注ぐ。
この時間は私にとって、慌しい日常の中で心安らぐ数少ない大切な瞬間の一つ。
目を閉じて水の音だけを聞きながら、長い髪に少しずつお湯が浸透してゆくのを、ゆっくりと感じるの。
ほんの一瞬だけど嫌な現実を忘れられる、幸せなひととき…。

「それさあ」
ドア越しに聞こえてきた更なる間延び声に、突然不吉な現実に引き戻される。
「12時過ぎてからじゃダメなのー?」

「…なんでそれを早く言わないのよ」
顔全体を覆いつくすほど長く伸ばした前髪が、ぐっしょりと濡れて貼りつき、顔全体を覆いつくしている。気持ち悪い。

そうね。要は、今日を乗り切れば良いんだもんね。
二人とも明日の午前0時を過ぎてからにすれば良かったんじゃん、おフロ…。

「おかえりなさい」
急いでシャワーを済ませて出ると、よっすぃーが顔を上げて言った。
床にあぐらをかいて、呑気に雑誌なんか読んでる。
「…ただいま」
いきなり、『おかえりなさい』なんて言われて…訳もなく照れてしまう。なんか、変なカンジ。

「なんか冷たいモン飲んでいーっすか? ノド乾いちゃった」
「待って!」
とっさに私は、冷蔵庫を開けようとしたよっすぃーの腕を掴んだ。
「は?」
「カオリやるから。よっすぃーは座ってて」
「だいじょーぶだよ。冷蔵庫あけてジュース飲むだけだよ?」
冷蔵庫あけてジュース飲む『だけ』?
はあっ…思わず溜息が出てしまう。
まったくこのコってば、ホント何にも解ってないんだから。
「ドアで手、挟んだらどうするの」
「平気だって。ってゆーか、もし挟んだとしても……死なないでしょ」
「わかんないじゃん、そんなの!!」
カチンときて、つい怒鳴ってしまった。
「…はいはい。わかりましたよ、もぅ」
ようやく引き下がってくれたけど…なによ、これじゃあまるでカオリの方がワガママで悪いコみたいじゃない。

「あのさぁ」
グラスに注がれたオレンジジュースを飲み干して一息つくと、よっすぃーが言った。
「なによ」
さっきの件でかなりムッとしていた私は、当然素っ気ない口調になる。
「飯田さんってもしかして、ヨシザワのこと好きですか?」
「はあっ?」
あまりにも唐突な質問に、私はムッとしていたのも忘れてつい素っ頓狂な声を上げてしまった。

「だってあたし、どんな死に方するかわかんないんですよ?
あたしと一緒に居たら、飯田さんだって危険な目に遭うかもしれないじゃないですか。
たとえば、火事とか、部屋の窓にヘリが突っ込んできたりとか…不慮の事故、ってやつ?
そーゆーので飯田さんのコト、巻き込んじゃうかもしれないじゃないですか。
なのに飯田さんは、それでもあたしのコト、守ろうとしてくれてますよね」
窓からヘリコプター、か、なるほどね。その事態は予測してなかったかも。
ちらりと、窓の方へ目を遣る…うん大丈夫、変な音も聞こえないし、今のところその危険はなさそう。
っていうか、そんなことより…

「なに言ってんの。好きに決まってるでしょ? 大事なメンバーなんだから」
「じゃあ、誰にでもこうしてたってコト?
今日死ぬのがあたしじゃなくて、ののとかあいぼんとか梨華ちゃんとか、他のメンバーだったりしても」
よっすぃーは、やけにくってかかってくる。
「そんなの当たり前でしょ。誰でも、そうしてたよ」
するとよっすぃーは、ふてくされたように目を伏せると、
「ふーん」
唇を尖らせた。

「ちょっと…」
思わず絶句。なんなのよ、その態度は。まさか、ヤキモチ?
だとしたら、まったく…いくらたかが占いだからって、死ぬなんて言われてこんなときになに呑気なこと言ってるのよ。
私が黙っていると、やがてよっすぃーは私の顔色を窺うように恐る恐る顔を上げると、言った。
「あたし、運命ってあると思うんですよ。あたしが飯田さんに逢えたのも、こうやって今ここにいるのも、やっぱり運命なんだと思うし」
「なに、それ」
だからもしあたしが今日死んじゃったとしても、それはきっと運命なんです。
そう言いたいわけ?

「だいたい、運命ってなに? よっすぃーが言ってるのは、ただの結果だよ。
うちらが出会えたのだって、よっすぃーがオーディション頑張ったからじゃん。
みんな、よっすぃーが自分で作ってきた結果でしょ? そういうのは、運命って言わないの」
「…なんか、飯田さんにしてはめずらしく現実的だよね。実は無理してるでしょ」
ううっ…!
「そんなことっ、ないもん…」
鋭い指摘に動揺しつつも、なんとか否定する。
確かによっすぃーのご指摘どおり、カオリは占いとか運命とかとっても信じやすい部類の人間。
とくに、人と人とが出会うことに関してはすべて運命なんだとか、思っていたりもする。
だけど、大切なひととお別れすることまで神様に決められるのなんて、カオリはそんなの絶対に嫌。
いくらたかが占いだって、そんなこと、絶対に許さないんだから…

そうよ。
いくらたかが占いだって、当の本人に向かってそんな残酷なこと告げるなんて、一体どういう神経、
「もう、いーです」
「えっ?」
「止めましょ、このハナシは。どっちみち、あと1時間しかないんだし」
言われて、壁の時計を確認する。
時刻は午後10時45分。

「そう、だね」
答えて私は再び時計を見、そしてよっすぃーを見た。
けれどよっすぃーは私と目が合うとすぐに逸らし、
「すいません…おかわり」
おずおずと、空になったグラスを差し出した。
「ああ、うん」
彼女の手からグラスを受け取ったその瞬間は、一瞬にも、永遠にも思えた。
運命の日が終わるまで、あと1時間と15分。
どうしよう、私、すごく緊張してる。
ここからの時間は、今までよりもずっと長く感じてしまいそうな気がする。

キッチンに立ちながら、彼女の様子をそっと窺う。
テーブルに肘を付いて前髪を弄っている、頼りない横顔。
今すぐ駆け寄って、ぎゅうって抱きしめてあげたい衝動に駆られる。
ふっ、と、彼女が私の視線に気付いて微笑む。

占いとか運命とかそういうの信じやすい性質のカオリだけど、生まれてこのかた、
神様に助けを求めたことだけは一度だって無い。
私は到底無理だと思える難問でも神頼みなんかしない、全て自分の力で解決してきた。
でも、今日だけは。
一生のうち、今日だけでいいんです。助けてくださいますか、神様、

お願い。
どうか、私からこのひとを奪わないで。

カチ、カチ、カチ、カチ。
しんとした部屋で、時間を刻む針の音がいやに大きく聞こえる。
前髪を弄ったり、ときどき溜息をついたり、伸びをしてみたり。
さすがのよっすぃーも時間が経つにつれてだんだん、落ち着きがなくなってきたように見える。

「なんか、落ち着かないね」
「んっ?」
私の問いかけによっすぃーが、びくっと反応する。
どうやら上の空だったらしく、”なに?”って顔で私の言葉を待ってる。
私は”何でもない”と首を横に振ると、彼女の隣に腰を下ろした。

「手、出して」
「は?」
「いいから」
キョトン顔のよっすぃーに命令する。
「…こう?」
戸惑いぎみに左手を差し出して、よっすぃーが訊いてくる。
私は彼女の手のひらに、自分の右手を重ねた。
「だいじょうぶ。なにも、起きないから」
よっすぃーへというより、自分自身に言い聞かせるみたいに。
けれど私の声はその強気な言葉とは裏腹に、少し震えていたと思う。
「…うん。わかってる」
私の手をそっと握り返しながら、よっすぃーが言った。

「あのね」
しばらくして、私は思い切って切り出した。繋いだ手にも、自然と力が入る。
「さっき、よっすぃーが言ってたこと」
「え?」
「カオリはね、いいことが起こったときにだけ、運命だと思うことにしてる。
たとえば、よっすぃーと…みんなと、会えたこととかね」
私たちが出会ったのは運命なんかじゃないって嘘ついたこと、私は正直に告白した。
無理してるでしょ、ってよっすぃーに言われたことが胸の奥で少し、引っかかっていたから。

「やっぱりね。そうだと思った」
よっすぃーは、うんうん、と満足そうに頷いていたかと思うと突然「ん?」。ぴたりと固まった。
「だったら、悪いことは?」
「悪いことは、ぜんぶ自分のせいにする。
だってカオリが自分で決めてやった結果なら、失敗したって後悔しないじゃない?
そういうのまで、神様に決められた運命だと思うのって、なんか口惜しいもん」
するとよっすぃーは、くすっと笑って、
「なんか、飯田さんらしいね」

「そう?」
「普通は逆じゃないですか。悪いことのほうが、誰かのせいにしたくなる」
「そうかな」
それって、カオリが普通じゃないってこと?
「うん」
私が尋ねると、よっすぃーは実にきっぱりと答えてくれた。
「そっ、か」
でもいいの。普通なんかじゃなくたって。
だって、良くないことを誰かのせいにして逃げるの、カオリ昔っから大嫌いなんだから。

「なんか、疲れません? そういうのって」
「どういう意味?」
「やぁ、なんてゆーか、もっとさぁ…誰かのせいにしたりさ、誰かに頼ったりとか、もっと、しても良いんじゃないかな」

「……そんなの、」

そんなの、考えたこともなかったよ。
カオリが言うと、よっすぃーはまた、「飯田さんらしい」と笑った。
午後11時25分。運命の日が終わるまで、あと30分と、すこし。

よっすぃーがぽつりと何か言って、カオリがそれに答えて、しばらく間が空いて今度はカオリの方から話しかけると、
よっすぃーが一言二言短い答えを返して、また沈黙に逆戻り。
長続きしない会話の合間に長い空白を挟みながら、ゆっくりゆっくり、本当にゆっくり時間は過ぎてゆき、
運命の日終了までようやくあと2分30秒、ってところでいきなり、繋がれていた手が解けた。
ハッとして隣を見ると、さっきまですぐ側にあったはずの横顔が、もうそこには無い。
「ちょっと、どこ行くの?」
傍に立つ彼女を見上げて問う。
「トイレ」
私の顔を見もせずに、しゃあしゃあと言ってのける。
「ダメっ…!」
私はさっきまで繋いでいたよっすぃーの左手を掴もうとして、スカッ。空振り。
代わりに、彼女のパジャマの裾を掴んで引き留める。
「あと2分だよ? お願いだからじっとしてて」
「心配ないって。すぐ、戻りますから」
よっすぃーは困ったような顔で微笑むと、裾を掴んだ私の手をそっと剥した。

「やだ、ちょっと待っ」
後を追おうと立ち上がりかけた私に、
「ホントに、だいじょうぶだから。そこにいて」
振り返って念押しする。
「……もぅ」
なんとなく取り付く島が無くて、私は渋々腰を下ろした。

「………」
行き場を失くして膝の上に乗せた右手で、トントン、とリズムを刻みながら、よっすぃーを待つ。
効きすぎた冷房のせいか、ほんのついさっきまで彼女の体温を感じていた右の手のひらだけが、なんだかすごく冷たい。

トントントントントントントントン。
カオリの人差し指のリズムは、秒針が一秒を刻むのより何倍も早い。
運命の日終了へのカウントがひとつ進むたびに、胸の鼓動は少しずつ速さを増してく。
壁の時計を見上げる。あと1分と10秒、9、8、7、

「飯田さん」
戻って来たよっすぃーは、けれど部屋の中には入ろうとせず、開け放ったドアの向こうから、私の名前を呼んだ。

「あっ、ねぇ、もうあと1分、」
「やっぱ、一緒には居れないや」
斜めに視線を外して、ぶっきらぼうに言う。
「はあっ?」
思わず声が、上ずってしまう。心臓は、これ以上ないくらいの速さで脈打ってる。
「圭織」
「えっ…」
よっすぃーは、今度はちゃんとまっすぐに私の目を見て、
「さよなら」
いきなり、頭の中が真っ白になる。
そして我に返ったとき、彼女の姿はもうそこには無かった。
ややあって、ばたん、と、ドアの閉まる音。
「ちょっ」
と、なによそれ。なんなのよ、ちょっと、

「よっすぃー!!」
靴も履かずに玄関を飛び出す。

勢い良くドアを開けるとそこには、よっすぃーが立っていた。
私と目が合うなり下を向いて、なんだかバツが悪そうにしている。
「よっ…」
てっきりもっと遠くへ逃げ出してしまったと思っていた私は少し、拍子抜け。思わず気の抜けた声が出てしまう。
そして、ヘナヘナとその場にへたり込みそうになるのをなんとか抑えつつ、歩み寄ると、
「飯田さん、あの、」
俯いたまま何か言いかけたよっすぃーが最後まで言い終わらないうちに、私は彼女を抱きすくめていた。
彼女の体が、一瞬びくっと反応する。
「じっとしてて、って、言ったでしょ」
「…すいません」
消え入りそうな声で、よっすぃーが言う。
「すいませ…」
「もういいよ」
さらに謝ろうとするよっすぃーを遮って言い、私は彼女の背中に回した手を緩めた。
「もう、いいから」
もう一度、私は言った。
もういいよ、全部終わったんだから、もう、だいじょうぶだよ。そういう意味を込めて。

確か最後に時計を確認したとき、今日が終わるまでにはあと1分も無かった。
よっすぃーが部屋を飛び出してからどれくらいの時間が経ったのか、正確なところはわからないけれど…
カオリの勘によると、あれから少なくとも1分以上経過しているのは間違いない、ハズ。
ということは、つまり…運命の一日は何事もなく、ごくごく平和に終了、ということになる。

「すいません、飯田さん…」
運命の日が終わってもまだ不安なのか、それとも終わったことにまだ気が付いていないのか、
私が腕を緩める代わりに今度はよっすぃーが、私の背中にしがみつくようにきつく抱き締めてくる。
「ちょっと、ねぇ、もう大丈夫だから。今日はもう、昨日になっちゃったんだから、ね?」
私が必死になだめるも、よっすぃーは抱きついたまま離れようとしない。
しきりに、すいません、を繰り返している。
「ねぇ、よっすぃーってば」
何がそんなに不安なの? 何をそんなに怖がるの?

よっすぃーが死を宣告された運命の日は、とっくに終わりを告げているはずなのに…それだけは、確信がある。
いーち、にぃーい、さぁーん。
と、1秒がこれくらいの長さだとして。
カオリの勘によると、あれから少なくとも60秒は経過していることだけはたぶん間違いないハズ、なのに。

「っていうか、そんなに謝んなくたって、さ」
”すいません”が、”ホントすいません”に格上げされた瞬間、私は思わず口を挟んでいた。
そもそも一体このコは、何に対して謝ってたんだっけ?
さっぱり思い出せないけれど、少なくとも、さっぱり思い出せないくらい些細な理由だったことだけは間違いない。
「よっすぃー、ちゃんと生きてたんだし、カオリはそれで十分…」
「なーんつって。ウソでしたあー」
耳元で、あの、ノーテンキな声が、言った。

「え…?」
ウソ…? なに、が…?

「とか言ったら、怒ります…よね」
意味が解らず呆然とする私を抱いたまま、さっきの呑気な口調とは打って変わって恐る恐る、よっすぃーが尋ねる。
「え? え?」
怒る? カオリが? どうして??
それは何か怒られるようなことを、よっすぃーが私に、したっていうこと?
嘘をついたこと? そもそも、嘘ってなに? カオリに謝ったこと?

意味が解らずさらに呆然とする私をきつく抱き締めたまま、よっすぃーは、
「ってゆーかそんなの、わかってても言わないって、普通」
ボソボソと遠慮がちに言った。

「なに、が?」
私の質問は、ほとんど懇願に近かった。
もう、何が何だかワケがわかんないよ。
お願いだから、カオリにちゃんと解るように説明してよ、よっすぃー。

「ほら、実際、そういうの予言できちゃうヒトっているじゃないですか。
でもそういうヒトは、あなたはいつ死にますとかって、わかってても絶対言わないんだって」
耳元で淡々と語るよっすぃーの声を聞きながら、なんとなく…ううん、はっきりと、解ってしまった。
よっすぃーがついた”嘘”は、カオリに謝ったことなんかじゃなくて、それよりもずっと前。
占いで、明日死ぬ、って言われたこと。
つまり…はじめっから全部、嘘だったってこと。

「当たり前、ですよね。
だってもしそんなこと言われたら、あたしだったら、そっからどうやって生きてけばいいかわかんないもん」
体中の力が抜けて、膝からガクンと崩れ落ちそうになる。
よっすぃーが支えてくれていなかったら、間違いなくそうなっていたんだろうけど…
この場合、支えてくれているのがその原因を作った張本人だというのが、何とも憎たらしい。

「…それは、信じたカオリが、バカだって言いたいわけ?」
ちょっとした放心状態の中、私はようやくそれだけ言った。

「そうは、言ってないけど…」
「言ってるよ! そうとしか聞こえないじゃん!」
カッとなってつい、声を荒げてしまった。

確かに、よっすぃーの言うとおりだとは思う。
たかが占いだからって、本人に向かってそんな残酷な宣告するなんて一体どういう神経してるのよ、って少し不審に思ったことも確か。
今になって冷静に考えてみると、彼女の言葉を鵜呑みにしてしまった私の方にも責任が無かったとは言い切れないと思えないこともない。
彼女の言い分についてもっと追求していれば、そんな嘘、すぐにボロが出てこんな風に大騒ぎにはなっていなかっただろうし。
本人の態度にしたって、今日(っていうか昨日)は一日、占いとはいえ死を宣告された人間とは到底思えないほどの呑気さ加減だったし。
見抜けなかったカオリはバカなのかも知れない、それは認める。
けど、でも、悪いのはどっちよ?
誰がどう見たってこの場合、悪いのはアンタの方でしょうが…!

「ホントに、バカだなんて思ってません。素直すぎるとは、思うけど」
どちらかと言うと、けなされているんだと思う。少なくとも、誉められてんじゃないことだけは確か。

「わかったから、とりあえず……離れてくんない?」
私は彼女の耳元で、とびきり冷たく言った。
ふと我に返って今さら気付いたけど、この期に及んでコイツは、なんだってまだしつこく抱きついているのよ…まったく、図々しいにも程がある。
「殴んない、って約束してくれたら」
「………」
まさか、そんなくだらない心配事のための抱擁だったなんて……
「バカじゃない?」
「えっ?」
「どうして、そんな嘘つくのよ」
「どうして、って…」
「嘘ついてカオリのこと騙して、カオリのこと困らせるのがそんなに楽しい?」
すると、よっすぃーは少し怒ったように、んっ、と短く息をつくと、
「ちがうよ」
ぶっきらぼうに言った。
「だったら、なによ」
つられて私も、ムッとした言い方になる。
それでもよっすぃーはまだ、腕を緩めてはくれない。

「なんか最近、飯田さん、ヨシザワのコト忘れてんじゃないかなぁって思って……軽い気持ちで、つい」
それは、予想もしない答えだった。
私は、彼女の背中を思いっきり叩いてやろうと振り上げていた腕を、ゆっくりと下ろした。

「ああいう風に言ったら、飯田さん、どんな反応するかなぁって」
「あのねえ」
あ、やばい、ちょっとやばい、かも…。
「悪い冗談」
言葉では彼女を責めつつも、思わず頬が緩んでしまう。
私は抵抗するのを止めて彼女に身を預けたまま、もう少しだけこのままでいられたらいいのにと思っていた。
だって嬉しそうな顔を、見られたくなかったから。

『飯田さんは、だいじょうぶですか?』
よっすぃーに聞かれたとき、つい、大丈夫だよ、なんて強がっちゃったけど…本当は全然、大丈夫なんかじゃなくて。
新しいコたちが入ってこの頃とくに、メンバーに注意したり時には厳しく叱ったりするのが私の役目だから、
みんなきっとカオのこと恐がって敬遠しているに違いない、なんて疑心暗鬼にとらわれて落ち込むこともあった。
だから、(騙されたのは口惜しいけど)少なくともよっすぃーは私のことシカトしないでちゃんと見てくれているのかな、
なんて思うと、不本意ながら嬉しくなってしまったのだ。
もっとも、”シカトされてる”っていうのも、彼女曰く私の被害妄想らしいのだけれど。

「でも飯田さん、あたしのコト引き止めてくれたし守ろうとしてくれたし…追っかけてきて、くれたし」
朝から晩まで、ホントに、朝から晩まで。
いっぱいいっぱい振り回されて、心配して心配して心配して、あんなに心配したのに。
許せないと思う気持ちより、今はそれよりももっと、温かい感情の方が勝ってる。
なんだろう、ただ”嬉しい”とも違う、もっと別の……。

「今日は、ずっとあたしのコトだけ考えててくれたでしょ? それはなんか、すごく、うれしかったとゆーか」
確かに最近の私は、彼女のことちゃんと見ててあげられなかったかも知れない。
けどそれは、よっすぃーならカオリが見てなくたって、もうとっくに大丈夫だと思ってるからなんだよ?
そう言ってあげたかったけど、(たぶん)よっすぃーも予想してなかったぐらいのイキオイでまんまと騙されてしまった挙句、
これ以上彼女を喜ばせるのは癪だったから、
「ねぇ。殴んないから、イイカゲン放してくれる?」
私はわざと冷たく言ってやった。
「えっっ」
びっくりしたよっすぃーが手を緩めた隙に体を離すと、私は彼女に背を向け、歩き出した。

「あのー、ハナシ聞いてました? いーださぁーん」
すぐ後ろにくっついているくせに、まるで遠くから呼びかけているみたいに言いながら、よっすぃーがついてくる。
「あ…」
ドアを開け、靴を脱ごうとして、はたと気付く。
そうだ、私、裸足で飛び出したんだっけ…。
っていうか私たち、こんな夜中に廊下で言い争いなんかしちゃって…ご近所迷惑になってないといいけど。
「ねぇ、待ってよ、飯田さん」
ばたん、と背中でドアの音がして、よっすぃーがたぶん立ったまま、
一方のかかとでもう片方のかかとを踏みながらスニーカーを脱いでいるらしい音と気配を感じたとき、突然、涙が溢れた。

「………」
ヘンだ。
どうして泣くんだろう、私……騙されたのが、そんなに口惜しかった?

ううん、違う、違うよ。
いきなり泣けてきちゃったのは、口惜しいからとかじゃなくて。

「本当は、ものすごく怒ってるんだからね」
本当はもう、少しも怒ってなんかいないのに。
泣いてるのがバレないように彼女に背を向けたまま、私は精一杯のつよがり。
よっすぃーは、何も言わなかった。

「でも本当は、嘘で良かったとか、思ってるの」
朝から晩まで、ホントに、朝から晩まで。
いっぱいいっぱい振り回されて、心配して心配して心配して、あんなに、心配した。
でも、すべては嘘だった。それなのに。
「飯田さん」
よっすぃーは、くすりと笑って、
「どっちが、ホントなのさ?」

ただ”嬉しい”とも違う。
日付が変わっても、よっすぃーは変わらず、カオリの側に居てくれたこと…すべてが嘘だったことに、心からほっとしてるんだ、私。

「良かった、本当に、嘘で、良かった」
理由が判った途端、待ってましたとばかりに涙がぼろぼろ零れてきて、困った。
「いーださん?」
よっすぃーが、背中をかがめて怪訝そうに覗き込んでくる。
そして私の泣き顔を見た瞬間、
「げ…」
驚いたように目を見開いて、呟いた。

「コレって最高の贅沢だと思いません? うぉ…さむっ」
よっすぃーが、ぶるっ、と体を震わせた。
「朝起きてノド痛かったら、よっすぃーのせいだからね」
「じゃあ、そんときはノド飴ぐらいオゴりますよ」
そういう問題じゃないでしょ、ってツッコもうとして、止めた。こらえてカオリン、こいつは、わかってて言ってるのだから。

私が泣いているのを見てようやく自分のしでかした事の重大さに気が付いたらしいよっすぃーは、
あれから、私が泣き止むまで何度も何度も謝り続けた。
本当に何度も、ゴメンなさい、って。
いつもみたく、すいません、って言われるよりも、なんとなくそっちの方が心が篭っているみたいな気がして、嬉しかった。
もっとも私が泣き止んでそろそろ寝ようかって段になった頃には、よっすぃーはまるで何もなかったようにケロリとしていたけど。
すっげー凍えるくらいエアコンガンガンにしてぶ厚い布団にくるまって寝たいんですけどいーっすか飯田さん。
と言うよっすぃーのリクエストにお応えして、私たちは毛布と冬用のぶ厚い掛け布団を引っ張り出してきて、
カオリのベッドで一緒に寝ることにしたのだった。

「ねぇ」
「んー?」
のんびりと、よっすぃーが応える。私は思わず微笑んだ。
電気を消したばかりでまだ暗闇に目が慣れないうちはとくに、隣に誰かが居るとすごく安心する。
「やっぱり、偏ってると思う?」
「なにが?」
「だからさ、どうしても小っちゃいコたちに目が行っちゃうの。でも、それはどうしようもないことなのね」
「しょーがないんじゃないっすか、それは」
よっすぃーは、しゃあしゃあと、まるで他人事みたいに言う。
ちょっとちょっと。
そもそもアンタは、カオリに構って欲しいからってあんな嘘ついたんでしょうが…!
軽くカチンときたものの、私はどうにか怒りを抑えつつ、
「だからって、よっすぃーのことも石川のことも、あと矢口とかなっちのことだって、別に忘れてるわけじゃないからね」
「忘れてるよ」
徹底的に、カチンときた。
カオリに構って欲しがってたくせに、偉そうに「しょーがない」なんて言ってみたり、かと思えば今度はまたやっぱり、「忘れてる」?
よっすぃーの言うことは、矛盾だらけ…なにそれ、まるで子供じゃない。

私は思わず起き上がり、
「もうっ、子供みたいなこと言わないでよね! 構ってあげられないからって、」
「そーじゃなくて」
よっすぃーはゆっくりと体を起こすと、
「もっと、頼って欲しいっつってんだよ」
不貞腐れたように言い、訳が解らず呆然とする私に向かって、さらに続けた。
「だから、うちとか梨華ちゃんのコト、もっと頼って欲しいって言ってるんです。
そんなに頼りないですか、うちら……ってゆーか、あたしって」
「あ、そういう意味」
その言葉の意味を、私はようやく理解した。
そうだ。
何だって自分ひとりで解決したがる私に、あのとき、よっすぃーは言った。

『誰かのせいにしたりさ、誰かに頼ったりとか、もっと、しても良いんじゃないかな』
いつだって、私がやらなきゃ、って。私さえガマンすれば良いんだ、って。
新しいコが増えてゆくたびに、ますます自分が孤立していくような気に、勝手になってた。
圭ちゃんも居なくなって、カオリの相談相手はもう誰も居ないんだなんて、勝手に決め付けちゃってたけど…
本当は、ちっとも、そんなことないのかも知れない。

「なんかあったら言って欲しいです。一緒に悩むぐらいだったら、あたしにもできるし、だから、」
短く息を吸って、よっすぃーは続けた。

「忘れないでください」
あ…

「飯田さんには、ヨシザワがいる、ってこと」
あのときと、同じだ。

忘れないでください。
真っ暗な部屋の中で聞いたよっすぃーの声は、なんだかとても切実で、真剣で。
私は、自分がどうしてあんな嘘にあっさり騙されてしまったのか、解ったような気がした。
あのときよっすぃーが言ったことのほとんどは嘘だったけど、あのコトバだけは、真実だったから――。

「ありがとう」
なんだか胸が一杯で、それしか言えなかった。

「ぁ、さむっ」
よっすぃーは短く言うと、再びベッドに潜り込んでしまった。
「ちょっと…」
うん、わかってるよ、寒かったのはカオリの台詞じゃなくて、凍えるくらいエアコンガンガンにしてるせいだって、わかってるけど、さ…。

「でもさー、この24時間で、飯田さんもよぉーくわかったんじゃないっすかね」
「なにがよ」
「飯田さんが、どんだけヨシザワのコト、あいしてるか」
「…あのねえ」
私は、昨日からもう何度目、ううん、何十度目かの溜息を吐いた。
昨夜は一睡もしてないし、怒ったり呆れたり、いろんなことがありすぎて疲れたから…今日は、ホントゆっくり眠れそう。
「カオリは、みんなを平等に愛してるの。だってリーダーだし」
「あっそ」
よっすぃーは素っ気なく言うと、ベッドの中でなにやら手をモゾモゾ…と思ったら、左手にあったかい感触。

「や、寒いかなぁーと思って」
「ねぇ、うちらバカみたいじゃない?」
よっすぃーの手を握り返しながら問うと、
「バカじゃない! 電気代もったいないとは、思うけど」
だからバカなんじゃん。と思ったけど、口に出すのはやめにした。
カオリが他人のボケにツッコめるチャンスなんて滅多に到来しないけど、ここは涙を呑んでガマン。
適当につめたくて、適当にあったかくて、ここちよい。
こんな素敵な空間を、むやみなツッコミでぶち壊したくないもの。

「あのー、今さらなんですけど」
「なに?」
「嘘でしたって、言わないほうが良かったですか?」
「え?」
「やぁ…言わなかったらもしかして、”何もなくて良かったねー”って、それで終わってたのかなって」
「……うん、終わってたね、きっと」
よく考えてみると、確かに…あのとき彼女がわざわざ白状しなければ、全ては丸く収まっていたような気がしてならない。

「なんで言っちゃったんだろ」
「そうだよ、なんで言っちゃったのよ」
「わかんない…」
正直者がバカを見る、とは、よく言ったものだけれど。
ゴォォーッ、と音がして、しばらく静かだったエアコンくんが再び息を吹き返した。
ちょっと寒くなってきたけど、エアコンくんに罪はない。彼は彼で、室温を常に与えられた設定温度に保とうと必死なのだから。

「飯田さん」
「ん?」
「やっぱ、ちょっと…寒い」
「うん。カオリも、そう思ってたトコ」
片方の手は繋いだまま、私は、枕元のリモコンに手を伸ばした。

<おわり>