エスパー真希
第1話 シンガーソングライターになりたい
萌える草木を横目に見て、私は勾配の急な登山道をひたすら歩いていた。
もう少しで頂上だった。しかし、私は道を逸れて草の上にへたり込んだ。
「ここで休憩しようよ。5分でいいから」
私の声に、前を行くふたりは立ち止まって、呆れ顔で振り向いた。
「一番若いくせに」
「ねえ」
お構いなしに、私は背負っていたリュックサックを下ろし、水筒を出した。
乾いた喉を、冷たい飲茶で潤した。
「ああ、生き返った」
「しょうがないなあ」と言いながら市井ちゃんが私の横にきた。「さっき
休んだばっかじゃん」
「飲む?」と言って私は水筒を差し出した。
市井ちゃんは受け取ると、一気に飲み干しそうな勢いで飲みだした。
「あ、ちょっと待ってよ」
「もう、いい加減にしてよ」と圭ちゃんが眉をつり上げてどなった。
「こんなんじゃ、いつまで経っても着かないでしょ」
「着くよ、そのうち」と市井ちゃんが言った。「そんな怒んないで、圭ちゃんも
こっち来て座りなよ」
市井ちゃんは私の味方になったようだ。圭ちゃんはしばらく憮然としていた
けれど、やがて、私たちのそばにきてリュックを置いた。
雲に隠れていた太陽が顔を出し、光を降り注いだ。草と土の香りに包まれて、
私は新鮮な空気を大きく吸い込んだ。
「来て、良かったでしょ?」
「うん」
「まあね」
山に登りたいと最初に言ったのは私だった。おととい、学校の連休を利用して
どこかへ行こうという話になったとき、海に行きたいと言った圭ちゃんに対し、
私は山がいいと言った。
結局、市井ちゃんが決めることになって、山になった。
「登山なんて、この先しないだろうから」と市井ちゃんは言っていた。
私たちは3人とも合唱部で、それぞれ学年が違っていたけれど、いつも
一緒に行動していた。
太陽がふたたび雲に覆われて、私たちの場所に陰ができた。風がひんやりと
して気持ちよかった。
「それじゃあ、夢でも語り合いますか」と市井ちゃんが言った。
「なんだ突然」
「市井の夢はシンガーソングライターになることです」
市井ちゃんはそう言って、自分で拍手をした。山の空気がそうさせたのか、
市井ちゃんはやけにご機嫌だった。
「圭ちゃんは?」
「えっと、そうだな」ちょっとの間、考えてから圭ちゃんは答えた。「吉澤
ひとみになりたい」
「は?」
「吉澤ひとみって?」と私は訊いた。
「知らない? ほら、日曜9時のドラマに出てる、女優の」と市井ちゃんが
教えてくれたけど、私は「知らない」と言った。
「でも、なんでまた?」
「だって、あの顔にあのスタイルだったら、それだけで」
と途中で言葉を切って、圭ちゃんはひとりでうんうんと頷いた。
「市井は市井のままでいいな」
「私も私がいい」
「それで?」と圭ちゃんが言った。「後藤の夢は?」
「え〜、なんだろう」
私はずいぶん悩んだあげくに「長生き」と答えた。
20分ほど休憩したので、私はすっかり元気を取り戻した。
「あと少し、がんばっていくぞ」
と言って真っ先に立ち上がり、先頭を歩き出した。
そんな私を見て、ふたりともくすくす笑っていた。
しばらく歩きつづけると、木々の生い茂る小道を抜け、見晴らしのよい
場所に出た。いくつもの峠が望め、私たちが目指す頂上もついに見えた。
道が開けていて傾斜も緩やかなところだった。
緊張が薄れた私は、幅の広がった道の端に進み、崖の下を覗いてみた。
底は深く、見えなかった。足を踏み外すとどうなるか、考えるまでも
なかった。しかし、私はそこを離れなかった。
「……吸い込まれそう」
後ろからついてきていたふたりが、ようやく追いついた。
「おい、危ないぞ」と市井ちゃんが私を見るなり叫んだ。
私はふたりの方を向いて両手を振った。
「私は今、崖っ縁に立ってまーす」
市井ちゃんは急に真顔になって私に向かって走ってきた。
そのとき、私はこの状況で最もやってはいけないことをやってしまった。
足を滑らせた。強風に煽られたというわけでもないのに。
買ったばかりのトレッキングシューズを履いた私の足が地から離れた。
その瞬間、いろんなことが頭を巡った。
長生きしたいと言っときながら、私は何やってんだ、とか。
吉澤ひとみってそんなに美人なんだろうか、とか。
私がもしトム・クルーズだったら、とか。
私が死んだら合唱部から一年生部員がいなくなるな、とか。
落ちていく私を、崖の上から見ている市井ちゃんの顔が見えた。
次の瞬間、落ちていく私が見えた。
「ごとぉ―――!」
圭ちゃんが私の隣に駆け寄ってきて崖の下に向かってそう叫んだ。
私は、空を見上げた。雲が綿菓子のように見えて、とても美味しそうだった。
第2話 市井紗耶香のカラダ
「真希ちゃんの笑顔はいつも私たちに勇気をくれました。真希ちゃんと過ごした
日々を、私たちは一生忘れません」
合唱部の部長の安倍さんが悼辞をのべていた。葬儀に参列した生徒たちが皆、
私のために泣いていた。一度も話したことのない人まで泣いていた。
私はそのなかに圭ちゃんの姿を探したけれど、見つからなかった。
式から帰った私は、制服のままベッドに倒れ、眠った。そして、夢を見た。
夢の中で、私は市井ちゃんと会った。「長生きしろよ」と市井ちゃんは私に微笑んだ。
「市井を殺して生きてんだから」
目が覚めると、目の前にお母さんの顔があった。
「大丈夫?」と訊かれた私は「何が?」と言ってベッドから起きた。
「夕飯できてるから、着替えてきなさい」
「は〜い」
お母さんはドアの前で立ち止まり、私を振り向いて「紗耶香」と言った。
私は「何?」と表情をつくった。お母さんは私をじっと見つめたあと、
「何でもない」と言って部屋から出ていった。
私は制服を脱いだ。折れそうなくらい細い腕に、しばらく見とれていた。
次の日の学校で、私はいつも通り合唱部の練習に参加した。慣れない
市井ちゃんのパートに戸惑いながらも、なんとかこなすことができた。
圭ちゃんはきてなかった。圭ちゃんと同じクラスの安倍さんによると、
授業も休んだらしかった。
正直に言って、圭ちゃんが私の死でそこまで落ち込むとは思っていなかった。
そして、市井ちゃんが死んだのに、思いのほか冷静な自分にも驚いていた。
しかし、それはきっとこのカラダが市井ちゃんのカラダだからだろう、と私は
窓ガラスに映る姿を見て思った。
市井ちゃんは死んだけど生きている。だから私は落ち込まないのだ、と私は
心でささやいた。
私が死んでから一週間目の夜、携帯が鳴った。圭ちゃんだった。
「元気?」と圭ちゃんは言った。
「そっちこそ」と私は言った。
圭ちゃんの声は意外に明るかったので、私は安心した。それから私たちは
顧問の先生の悪口とか、最近聴いている音楽のこととか、他愛のない話を
延々とつづけた。
「なんか紗耶香、しゃべり方が後藤みたい」と圭ちゃんが言った。
「ちょっとね……真似してんだよ」
私がそう応えると、しばらく圭ちゃんは黙ってしまった。それから「そういえば、
山降りるとき、紗耶香ひと言も話さなかった」と言った。
「そうだっけ」
「そうだよ」
下山中のことは、よく覚えていなかった。意識が飛んでいたのだろう。
「ねえ紗耶香」
突然、圭ちゃんの声が重たくなった。
「私ね、こんなこと言うの変だと思うし、言っちゃいけないってわかってるんだけどね、
でもね、なんか私、後藤がいなくなってね……」
「何?」
「……ホっとした」
私は小さな声で「うん」と言った。そして、「明日、学校くる?」と訊いた。
「昼休み、一緒に弁当食べようよ」
圭ちゃんは「いいよ」と答えた。
真希が死んでから1ヶ月が過ぎた。私は紗耶香としての生活にも慣れ、学年トップ
だった市井ちゃんの成績を維持することはできなかったけど、それなりに
がんばっていた。私の周りにはいつも人がいて――それはかつて市井ちゃんがつくった
友達だったが――私は誰に対しても市井紗耶香を演じて接しつづけた。
その日、私は後藤家にお邪魔した。線香をあげた仏壇の前で手を合わせた私は、
真希のお母さんに、つまり私のお母さんに「この顔、ボーっとしてますよね」と言った。
お母さんは遺影をいとおしそうに見つめた。
「その写真ね、あの子がとても気に入ってたの」
「そうなんだ」
そんなことはない。あいかわらずいい加減なことを言う親だ、と私は思った。
日曜の夜、私は市井ちゃんが高校に入学した日からつけていた日記を見つけた。
私はそれを、読むか読むまいか迷うことなく読みはじめた。
一年生のころの市井ちゃん。それは私の知らない市井ちゃんだった。
何もかもがうまくいかなくて悩みつづけたこと、合唱部に入って圭ちゃんという
信頼できる友達ができたこと、明るく振る舞う毎日のなかで新しい自分を
見つけたこと、などが書かれていた。
一日を大切に生きていた市井ちゃんを知った。
二年生になった市井ちゃんが、私と会う日に近づいてきた。私はいったんトイレに立ち、
用を済ませてからつづきを読んだ。
「5月21日。晴れ。合唱部にやっと一年生が入ってきた。名前は後藤真希。
初日からいきなりやる気なさそうな態度をみせた。顔はまあまあ」
私と初めて会ったときのことは、そう書かれていた。
私はさらに読み進んだ。「後藤」という文字が頻繁にあらわれた。
後藤は遅刻が多い。後藤はわたしが教えたことを本当にわかっているのか。後藤は
一年前のわたしだ。後藤は――。
「明日は山登り。楽しみで今夜は眠れそうにない」
日記を閉じたとき、空はすでに明るくなっていた。
私は「頭が痛い」という理由で学校を休み、昼過ぎまで眠った。
第3話 死なない私の未来はどうなる?
私のなかの「市井ちゃんを殺した」という罪の意識は、校舎の窓から見える
紅葉の向こうに遠退いていた。
市井ちゃんは助けてくれたのだ。いつの間にか私は、そう思うようになっていた。
昼休みの廊下を歩いていた私に近寄ってきたのは、圭ちゃんだった。
「よう」と圭ちゃんが言ったので、私も「よう」と言った。
「ちぇけらっちょ」と圭ちゃんが言ったので、私は無視して歩きつづけた。
「紗耶香、今日ひま?」
「何で?」
「服、買いに行くんだけど、一緒に行かない?」
「練習があるもん。圭ちゃん勉強は?」
圭ちゃんは受験のためにやめたけれど、私はかわらず合唱部だった。
「いいじゃん、たまには息抜きしないと」
私は「だ〜め」と言って廊下を走り、階段を飛び降りた。
放課後、私は街にいた。圭ちゃんの後ろをついて、メインストリートを
歩いていた。
「あんだけ迷っといて、結局買わないんだもんなぁ」
「だからごめんって」
本当に申し訳なさそうに言う圭ちゃんに、私は笑った。
「何か食べて帰ろうよ。もちろん圭ちゃんのおごりで」
「はいはい、わかりました」
私を振り向いた圭ちゃんは、私のうしろに何かを見たらしく、「紗耶香、うしろ
うしろ」と言った。
横断歩道の向こうで、人だかりがしていた。
「何だろう」
「行ってみようよ」
私は信号を無視して走った。すれ違う人に「何かあったんですか?」と訊いた。
「人が倒れてるみたい」
それを聞いて、私の胸はおどった。
「圭ちゃん、はやく」
と言った瞬間だった。私の前を歩いていた人が突然、糸が切れたように倒れた。
私の周りにも人が集まってきた。
「こっちでも倒れてるぞ」
「ねえ、死んでるんじゃない?」
「救急車まだ?」
そして私は信じられない光景を目にした。ひとり、またひとりと倒れていく人。
私は首をかいた。このわけがわからない感じは、市井ちゃんと入れかわったとき
に感じたものと同じだった。
「紗耶香逃げよう」と圭ちゃんが言った。私は呆然としていた。
「私……真希だよ」
「何言ってんの」
街はパニック状態に陥った。逃げ惑う人々が、車の流れを乱していた。
うしろから突き飛ばされて、私は転んだ。膝をすりむいて我にかえった。
「紗耶香、こっち」
圭ちゃんが叫んだ。私は立ち上がり、圭ちゃんの方へ走った。私を追い抜いた
人が、目の前で崩れた。次は私の番かもしれない。私は本気であせった。
そのとき、一台の車が歩道に乗り上げ、走っていた私をはねた。痛くはなかったけれど、
「ああ、死んだ」と思った。
次の瞬間、私の手はハンドルを握っていた。足はブレーキをかけていた。ラジオで
ドリカムの「未来予想図」が流れていた。
生きている……。私は車に乗っていた。顔をあげると、市井ちゃんの体を抱え、
悲鳴をあげている圭ちゃんが見えた。
私ははねられる寸前、運転していた男のカラダに移っていたのだ。
この曲が入ってるアルバム、市井ちゃん持ってたなぁ、と私はラジオのボリュームを
上げ、バックミラーで顔を確認した。
このカラダの持ち主は市井ちゃんのカラダに移ったのだろう。そして、たぶん
助からないだろう。私はシートベルトを外し、車を降りた。
通りを埋めるように人が倒れていた。それによって道を阻まれた車は、無駄と
わかっているのか、クラクションを鳴らすことなく、ただ止まっていた。
圭ちゃんが涙を流しながら私を睨みつけた。
「ここは危ないから、離れよう」
私がそう言うと、圭ちゃんは声をあげて私に掴みかかった。
「あんた自分が何したかわかってんの? ねえ!」
そんなこと、わからない。
「わからないよ……」
圭ちゃんは私の頬を思い切り殴った。
「紗耶香を返して」
その言葉は私に深く突き刺さり、私はもう何も言えなくなった。
圭ちゃんの視線から逃げるように顔を逸らした私は、私を見つめる
別の視線にぶつかった。3才くらいの女の子だった。女の子のそばには、
その子の母親と思われる女が仰向けに倒れていた。
吸い込まれそうな瞳だった。私は女の子の瞳をじっと見つめることで、
私をなじる圭ちゃんの言葉を遠くへ追いやっていた。
そして、3度目の「入れかわり」が起きた。
「謝ってよ! 許さないけど謝ってよ!」と怒鳴って、圭ちゃんは男を突き
飛ばした。男はのけぞるように倒れ、まるで幼児のように泣き出した。
いや、幼児だ。外見は30代の男だけど、中身は3つくらいの女の子だ。
そう、私は私を見つめていた女の子と入れかわっていたのだ。
「あんた何泣いてんの?」
圭ちゃんはなおも男に迫り、その胸ぐらを取っていた。
その間に、私は市井ちゃんのカラダのそばにいき、まだ血の通っている
頬にそっと口づけした。
「さよなら」
市井ちゃんのカラダに、圭ちゃんに、私のせいで不幸な人生を送るで
あろう女の子に言った。そして、狭い歩幅を伸ばして走った。
すべてを置き去りにして、私はそこから消えた。
私は日本中を旅して、様々な人間とカラダを入れかえた。長身の女、暴走族の男、
鼻ピアスの女、青いスポーツカーの男、舌足らずな女、安倍さん似の痩せた女、
銀杏な女、牧場の女――。秋が過ぎたころには40人くらい過ぎていた。
5人目からは大した罪悪感を抱かず、意識的に入れかえていた。入れかわった人の
その後を気にすることもなかった。長身の女から厚底を履いた女にかわったときなど
感謝してほしいと思ったくらいだ。
10人目くらいからはコツを覚えて簡単になった。唇を噛むのだ。そうするとなぜか
強く念じなくても入れかわれた。
距離もかわった。はじめは30メートルが限界だったけれど、慣れるうちに300メートル
離れた人とも入れかわれるようになった。
しかし、合意の上での「入れかわり」は一度もなかった。私がこんな能力をもっている
ということは、私以外知らなかった。そして、これからも教えるつもりはなかった。
人に自慢できる能力とは思えなかったからだ。教えたとしても誰も信じないだろうし。
私は時々、死について考えた。そして、いつも「私は永遠に死なない」という結論に
辿り着いた。不治の病に冒されたとしても、そのカラダを捨てればいいのだから。
この先私が老いを憂うことはないだろう、と私は思った。精いっぱい生きても、
投げやりに生きても、どんなに成功しても、どんなに失敗してもリセットできる
私の人生は、ひどくつまらないもののような気がした。
永遠の命を手に入れた私は、かわりに何かを失っていた。
太陽を囲む雲がドーナツに見えた。本物の加護亜依は今ごろ豪邸で何を食べてんだろう、
と思いながら、加護亜依のカラダをもった私は午後の公園に入り、ベンチで昼寝を
しているサラリーマンのとなりに座った。
「いい天気ですね」と私は言った。
男は反応しなかった。熟睡しているようだ。
私は男と入れかわった。財布を出し、中を見ると7万7千円入っていた。
「こんなに持ってたら、落としたとき困りますよ」と言って、私はとなりで寝ている
亜依の手に7万6千円を持たせた。千円を残すのは私のこだわりだった。
幼い顔してるな。しばらく亜依の寝顔を眺めたあと、私は亜依のカラダに戻った。
それから公園を出て、パスタが美味しいと評判の店に行き、空腹を癒した。
第4話 真っ赤なりんごと梨華との遭遇
亜依のカラダに棲むようになってから13日目の土曜日、私は朝から公園に行き、
子供たちと一緒に頭を空っぽにして遊んだ。そして「人生って素晴らしい」と思った。
夕方になり、子供たちが帰ってしまうと、公園の風は急に冷たくなった。
ひとりになった私は、鉄棒で逆上がりをし、砂場の砂を蹴り、ブランコで揺れ、
滑り台を駆け上がり、シーソーにただまたがった。そして、ジャングルジムの
一番高いところに登った。
そこで綺麗な夕焼けを眺めていた私の視界に突然、丸い物体が割り込むように入った。
私は、私に向かって飛んできたそれを両手で捕まえた。――りんごだった。
「ナイスキャッチ!」と声がした。見ると、拍手をしながら女がベンチに座っていた。
私がジャングルジムを降りて、その女に近寄ろうとすると、女は「ストップ!」と
言って「ヘイ!」と手を前に出した。
投げろってこと? 私はちょっと考えてから10メートルほど離れた女に向かって
りんごを投げた。女は胸の前で、それを捕った。
「ストラーイク!」
そう叫んで女はまた私にりんごを投げた。そして、私が捕ったのを見て、また
「ヘイ!」と言った。
何だかよくわからないが、私は前よりも力を込めて投げた。
「ストライクツー!」
女はにっこりと笑った。その笑顔を見て、私は「あと一球!」と思った。
振りかぶって投げたりんごは、美しい弧を描いて女に届いた。「やった」と私は思わず
笑みをこぼした。しかし女の判定は「ボール」だった。
「りんご1個分外れてる」と言って女は球を投げ返した。
まあ、いいだろう。たしかボールってのは3回までいいんだ。余裕をみせて私は次を
投げた。しかし、ボール。その次もボールだった。
「ツースリー!」と言って女は笑った。「フォアボールになるよー」
言われなくてもわかってるよ。最後の一球、私は女の顔を狙って投げた。
私の手を離れたりんごは、ストレートに女の胸に収まった。
「どっち?」と言ったけれど、私はストライクとしか思えなかった。
女は無言でベンチに座り、バッグからナイフを出してりんごの皮を剥きはじめた。
「ねえ、どっちよ?」私は女に駆け寄った。「ストライクでしょ?」
女は答えず、りんごを私に差し出した。
「このりんご、美味しいんだよ」
私は受け取って、一瞬ためらったあと、一口かじった。口の中に甘酸っぱさが
ひろがった。
「美味しい」
「ねっ?」
「うん」と言って私は女のとなりに座った。女は、バッグとは別に脇に置いてあった
紙袋からもうひとつりんごを出し、皮を剥き、豪快にかじりついた。
「いっぱいあるから、どんどん食べて」
女は、これでもか、というぐらいの笑顔で言った。
私は「ありがとう」と言った。ちょっと照れ臭かった。顔が赤くなってるかもしれない。
「私、梨華。りかっちって呼んでいいよ」
呼ばないだろうけど、私は「うん」と言った。
「あなたは?」
「え?」
「名前、なんていうの?」
一瞬口ごもった。名前を聞かれて「真希」と答えていたのが随分昔のことのように思えた。
「紗耶香」
市井ちゃんの名前を言った。もうこの世にはいない市井ちゃん。でも、私の記憶の中には
たしかに存在していた。
市井ちゃんを消したくない。そんな思いがあって自然と市井ちゃんの名前が出た。
「紗耶香かぁ。いい名前だね」
「うん」
市井ちゃんが褒められた気がして嬉しかった。
「さやりんって呼んでいい?」
梨華は例の笑顔で言った。
私は「嘘。本当は亜依」と言った。
「亜依かぁ。それもいい名前だね。あいぼんは私の名前好き?」
梨華の質問に私は戸惑った。リカ――特になんとも思わない名前だ。それより「あいぼん」
ってなんだ?
私はとりあえず「大好き」と答えた。
「本当? 嬉しい」と梨華は喜んだ。そして、りんごをもうひとつ袋から出した。
「見て」
そう言って、梨華は夕焼けの空にりんごを投げた。なんで? と私は思った。
そのときだった。りんごが空中でぴたりと止まった。
信じられない光景だった。驚きで言葉を失った私を見て、梨華はにやりと笑った。
さらに信じられないことに、動きだしたりんごが空中に「あいぼん」と描いて
梨華の手に戻った。
「どう?」と梨華は自信たっぷりに言った。
私は梨華の手からりんごを取り、「これ、食べられるの?」と訊いた。
「食べられるよ」
梨華は私の手からりんごを取り、ベンチに座って皮を剥きはじめた。慣れた手付きだった。
「あいぼんはお小遣いいくら貰ってるの?」
また、唐突な質問だった。この状況で質問するのは私のほうだろう、と思いながら
「先月はなんだかんだで90万くらいかな」と答えた。
「すごーい。私なんて2千円だよ」
「それもすごいね」
「あいぼんっていくつなの?」
「15」
私は思わず本当の年齢を言ってしまった。本当の亜依は12歳だっけ?
「じゃあ私と同い年だ。見えないねー」と言いながら梨華は私にりんごを渡し、
バッグから小銭を出した。100円を1枚と10円を2枚。
「見て」
梨華は公園の出口に設置されてあった自販機に向けてそれを1枚ずつ投げた。
「え? なにやってんの?」
もったいない、と私は思った。
梨華は次に足元の石を拾い、それも投げた。すると、自販機からゴトンと音がした。
梨華は私を向いて「どう?」と言った。その口元には微笑が浮かんでいた。
私は財布から120円を出して「飲茶楼」と言った。
私からお金を受け取り、梨華は同じようにそれを1枚ずつ投げ、最後に石を投げた。
そして自販機は同じようにゴトンと音をたてた。
「あいぼん、テレキネシスって知ってる?」
「テコキデスシ?」
「そう、テレキネシス。念動力のこと」
私は「知らない」と言った。
「私ね、超能力少女なんだ」と梨華は言った。「信じない?」
信じないわけがない。立て続けに能力を見せられたのだから。
「信じるよ」
「そうだよね。だってあいぼんも持ってるもんね」
そう言って梨華は微笑んだ。
「何を?」
「超能力」
梨華は知っていた。私以外、誰も知りえないことだと思っていたのに。
「なんでわかった?」
「だって感じるもん」と梨華は言った。「この公園の前を通ったとき、すぐにわかった。
チカラを持った人がここにいるって」
「はあ」
「あいぼんは私に感じないの?」
たしかに言われてみれば、梨華はどこか人と違う。
「ちょっと、感じる」
「でしょ?」
「あっ」と私は言った。「りんご……」
「そう。あなたとお話がしたかったから私はりんごを投げた。きっかけが欲しかったの」
普通に話しかけてきてもよかったのに、と思ったけど「なるほど」と頷いた。
「それで、あいぼんのはどんな能力なの?」
「あれ? 知ってるんじゃないの?」
「知らないよー。チカラを持ってるのはわかるけど、それがどんなチカラかまでは
わからないよ」
「そうなんだ」
「で、どんなの?」
「えっと……」
言いたくなかった。私の能力なんて本当に仕様もないものだ。梨華の能力を見た
あとだけに、なおさらそう思った。
「なんて言ったらいいかな……こう、遠くに行ったりするやつ」
「テレポテーション?」
「そう、それ」
「すごーい」
私はそれが嘘にもかかわらず「まあね」と言った。
「やってみて」
「それはちょっと……」
しまった、と思った。予想できた展開なのに、予想できなかった。
やむを得ず、私は「ただいま」と言った。
「え?」
「今、行って戻ってきたんだよ。わからなかった?」
また幼稚な嘘をついた。しかし梨華は「わからなかった……。どこに行ったの?」と
言った。
「えーと、北海道」
「すごーい。そんな遠くまで」
「まあね」
「で、どうだった?」
「寒かった」
「そっか〜」
そう言って、梨華は熱い眼差しで私を見つめた。
私は無理やり話題を変えようと「それより梨華ちゃんの超能力のこと教えてよ」と言った。
「梨華っちでいいよ」
「うん」
「私のチカラは、こんなふうに手で触れたものを自在に操れるってもの」と言って
梨華はりんごに触れ、それを宙に浮かせた。
私は「すごいね」と言いながら、りんごをちょいと触った。すると、りんごは
ストンと落ち、私の足元を転がった。
「何かにぶつかったらそこで終わりなんだ」と梨華は言った。
「なるほどね」
「どうかな、私のチカラ?」
「すごい」
それしか言葉が出なかった。
「あ、私に触ってよ。空、飛んでみたい」
「ごめん。重いものは動かせないんだ」
「私、軽いよ」
「う〜んとね、バスケットボールくらいが限界なんだ」
バスケットボールと聞いて私は「あっ」と思った。
「バスケの選手になりなよ。絶対入るでしょ? シュート」
梨華は頷いた。
「入るよ。どこに投げてもね。体育の授業でバスケやったときなんか、ひとりで
33点取ったんだよ」
「33点? もっと取れたんじゃない? ボールがまわってきたらすぐシュートして」
シュートを打つ真似をしながら、興奮して話す私を見て梨華は苦笑した。
「なに?」
「ボール、まわってこなかったんだ。途中からぜんぜん」
「どうして?」と訊いてすぐ、私は何となくその理由がわかった。そして、梨華がそれを
言葉にした。「シュートが絶対入るから」と。
「暗くなっちゃったね」
私は夜空を見上げ、言った。
「19時33分」梨華が腕時計を見て言った。
「帰らないと、叱られる?」
私は「大丈夫」と答えた。帰る家がない私を叱る人などいない。
「じゃあ、もうちょっと話そう」
「うん」
「あいぼん、あれに乗ろうよ」
突然、梨華は言ってブランコのほうに走った。
しばらく黙ってブランコを振り動かしたあと、私は「ソフトボールは?」と言った。
これがあった。りんごでキャッチボールをやったのに忘れていた。
「ピッチャーやったらいいと思う。どんなボールでも投げられるでしょ?」
「漫画より非常識な変化球も、ランディ・ジョンソンが子供に思えるくらい
速いストレートも」と言って梨華は笑った。
「だったら」と私が言いかけると、梨華は遮った。
「ねえあいぼん、私はいくつ三振を取ればいい? 簡単に取れるストライク。
三振ばかりじゃ飽きるからたまに緩い球を投げてヒットを打たれようか?
バスケのフリースロー。目を瞑って投げて、外す。そうしたらゲームは面白くなるかもね。
バレーボールの試合。私のサーブだけで終わっちゃったら他の選手に気の毒だから、
わざとネットに引っ掛けたりして」
「……梨華ちゃん?」
「私ね、もうやめたけどテニスやってたんだ。200kmのサーブを打つ女って
テレビや雑誌で騒がれたりしてたの、知らない? 200km出すって、ヒンギスだって
ダベンポートだって無理なのに、私は平気な顔で打ってたの。出そうと思えば
もっと出せたけどね。300kmでも400kmでも。けっこう難しいんだよ。サーブ打つとき、
ラケットに当てないって」
梨華は声を荒らげてつづけた。
「私のサーブは面白いように決まった。面白くなかったけど。でもね、相手にサーブ権が
あるゲームはほとんど取られたから、試合はいつも接戦だった」
「もういいよ」と私は言った。「スポーツは向いてないんだよ、きっと」
「じゃあ私のこのチカラ、何に使えばいい?」
それは難しい質問だった。私はしばらく考えたあと、言った。
「夜、ベッドに寝転んで小説を読んでたとして、そのとき睡魔に襲われたとする。
でも大丈夫。チカラを使えば、わざわざ立たなくても本を本棚に戻すことができる」
街灯が、梨華の横顔を照らしていた。頼りなく笑うその横顔は、切り取って
永遠に残したいと思うほど美しかった。
「超能力なんて、べつに無理して使わなくていいと思う。使わなかったら
普通の人間なんだし」
「今さらそんなことできる? あいぼんだって使ってるんでしょ?」
「私は……」使ってるけど。
「ほらね」
「でも、むなしい。梨華ちゃんもそうだからテニスやめたんでしょ?」
梨華はブランコから降りた。
「私たちは特別な人間なんだよ」
そう言って足元の石を取ると、「バン!」と叫んでそれを飛ばした。いや、撃った。
街路樹に命中した石は、枝を折って闇に消えた。
「私の手は高性能の拳銃なんだ」と梨華は言った。「たまに人を撃って遊んでる」
何も言わない私を見て、梨華はにこっと笑った。
「私、前にも超能力を持った女の子に会ったことあるんだ。この話、聞きたい?」
私が頷くと、梨華は話しはじめた。
「そのときは、その子のほうから私に話しかけてきたの。あなた、チカラ持ってる
でしょ? って。その子もチカラを持ってるせいで孤独だったみたい。私たちは
すぐに友達になった。でも、その子は3日も経たないうちに私の前からいなくなった」
「なんで?」
「その子が持ってた能力はリーディング。人の心を読む能力だった」
どういうことかわからず、私は首を傾げた。
「所詮、私とつり合うほどその女は孤独じゃなかったってこと」
つまり梨華は「私は誰よりも孤独だ」と言いたいのだろうか。
「あいぼん」
「なに?」
「りんご、最後の一球、ストライクだったよ」
なんだ今ごろ、と私は思った。
「私たち、友達だよね」
梨華は消え入るような声で、ささやくようにそう言った。
一瞬、脳裏に市井ちゃんの顔が浮かんだ。私は梨華の顔を見つめ、低い声で穏やかに
「違うんじゃない?」と言った。
梨華は微かに笑みを浮かべ、「ねえ、もう一度キャッチボールしようよ」と言った。
そして、「もう暗いから無理だよ」と言う私の言葉に「大丈夫。私がコントロール
いいこと、知ってるでしょ?」と返して、りんごの入った袋が置かれたベンチに走った。
やれやれ。本当に瞬間移動が使えたら、と私は思った。ここから逃げ出したい。
「いくよー!」
そう叫んだ梨華の手は、りんごではなくナイフを握っていた。遠目にもそれは見えた。
「ああそういうことか」と思ったときには、ナイフは既に梨華の手を離れ、亜依の喉に
刺さっていた。正確に、そして深く。
梨華のコントロールは本当にすごい、と妙に感心した。そして、私は喉の乾きを覚えた。
自販機の中には、リンゴジュースと飲茶が1本ずつ入っていた。私は何故かリンゴ
ジュースを取った。リンゴジュースを飲みたい気分、だったのだろうか。
タブを起こした缶に、ゆっくりと口をつけた。喉を通ったそれは、まだ少しだけ冷たさを
残していた。
第5話 美しき殺人鬼
腹痛は昼下がりに街をうろついていた私を突然襲い、世界をモノクロに変え、
全ての音を遠ざけた。
ああ、これだから人生は嫌になる。すれ違う人が皆、幸せそうに見えた。
私はうずくまり、しばらくじっとしていた。
やがて第1の波が過ぎ、街に色が戻ってきた。
トイレに行くのは今しかない! 私は風を切って走った。行き交う人の間を強引に
抜け、とにかく走った。しかし、1分も経たないうちにまた腹がうねりだした。
人にぶつかった。背後から「おいちょっと待て」と聞こえたけど、私は無視して走った。
しかし簡単に追いつかれた。
「ぶつかっといて逃げる気?」
私の肩をつかんでそう言ったそいつは、高いのか安いのかわからないサングラスと、
思わず「風邪ですか?」と訊きたくなるようなマスクで顔を覆っていた。
「謝れよ」とそいつは言った。
「ぼーっと歩いてたお前が悪い」と思ったけど「めんごめんご」と言って謝った。
もめている場合ではないのだ。
しかしそいつは「すいませんでした、だろ?」と言って私を放さなかった。
私は人生で初めて殺意を覚えた。カラダを入れかえてこの痛みを教えてやろうか?
そいつを突き飛ばし、私は再び走り出した。過去にこれほど一生懸命走ったことがあった
だろうか? こんなに必死になったことがあっただろうか?
「いらっしゃいませ」
ファミリーレストランの店員は愛想のない笑顔でそう言った。
「お手洗いをお借りしたいのですが」などと言う余裕もなく、私はトイレに駆け込んだ。
そして全てから解放され、「人生って素晴らしい」と思った。
生き返った私は過去を水に流し、未来への扉を開けた。そこにはあいつが立っていた。
「謝れよ」
「しつこいよ」
私たちは睨み合った。相手はサングラスとマスクのままだった。
それから約3分後、今度は見ず知らずの女が私に「あのぉ」と声をかけた。
「何か?」
「2名様でよろしいでしょうか?」
それは店員だった。私は「はい。できれば奥のほうの席で」と答えた。
「ご注文をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「これは何ですか?」
私はメニューの一番下を指して訊いた。
「そちらはお子様ランチになっております」
「それじゃこれと、あとリンゴジュース」
それを聞いて、向かいに座った馬鹿は笑った。
「ねえねえ、お子様ランチってあんたいくつよ?」
しまった、と思った。「いいじゃん、べつに」と言ったけど、私は普通にお子様ランチを
頼んだ間抜けな自分を恨めしく思った。
「お客様は?」
「ん? あ、えっと、ベーグル」
そんなのあるわけないじゃん! 私がそう言おうとすると、店員が「申し訳ございません。
ベーグルはただいま切らしておりまして」と言った。
「そう。じゃあレモンティー」
「かしこまりました」
店員は私たちに確かめてからメニューをさげた。
「では確認させていただきます。ののたんこっきあるよ〜をおひとつ、リンゴジュースを
おひとつ、レモンティーをおひとつ。以上でよろしいでしょうか?」
「大体なんで私があんたのランチに付き合わないといけないわけ?」
私ってことは女か……。
「それはこっちが訊きたい」
「でもあんたさぁ、運がいいよ」
「なんで?」
「だってそうでしょ? この私にぶつかって謝らなかったうえに突き飛ばして逃げる
なんて、もし今日私が機嫌悪かったらさぁ、あんた死んでたよ」
「ふ〜ん」
「さらに私とお昼を一緒に食べれるって、ついてる証拠じゃん」
この女バカだな、と思った。あんまり深く関わらないほうが良さそうなので、私は
「そうだよねぇ。私ってラッキー」と言った。
「あんた今、この女バカだなって思わなかった?」
「思ってないよ」
「ならいいけど」
そう言うと女はマスクを外し、サングラスを取った。
「驚いた?」
「驚いた」
正直驚いた。バカのくせに、こんな天才的にかわいいとは。
「言っとくけどサインはお断りだから。握手くらいならしてやってもいいけど」
ハァ?
「何で握手すんの?」
「あれ?」
「ん?」
「あんたもしかして私のこと知らない? ほら、私、私」
「誰?」
女は信じられないといった顔になった。
「吉澤ひとみ、知らないの、ねえ? あんた日本人? ほら、どっすーん」
「吉澤ひとみ?」
「CM見たことない? 湯上がりゆでたまご肌の吉澤ってやってるじゃん、化粧品の」
どこかで聞いたことがあるような気がしたけど、私は「知らない」と言った。
「あんた、変なやつだね」と吉澤ひとみは言って、レモンティーを一口飲んだ。
「よっすぃーには負けるけど」と私は言って、リンゴジュースを一口飲んだ。
「よっすぃーって何よ?」
「あんたの名前。吉澤だからよっすぃー」
「ああ、なるほど」
よっすぃーは納得した。そしてお子様ランチを食べる私をまじまじと見つめた。
「何? 食べたいの?」と訊いた私に、よっすぃーは「あんたの名前は?」と訊いた。
名前を訊かれて「亜依」と答えたのは3日前だったな。そう思いながら私は答えた。
「梨華。りかっちって呼んでいいよ」
私はよっすぃーに特別な何かを感じた。もしかしてこれは、梨華が私に感じたもの
と同じものかもしれない。つまりよっすぃーは――。
「超能力、持ってる?」
私はずばり、訊いた。よっすぃーは目を見開いて、「なんでわかった?」と言った。
やっぱり。超能力者同士は引かれあう運命にあるのかも?
私は笑って「だって私も持ってるもん」と言った。
「ホント? なら私が何年か言ってみてよ」
「私が何年って?」
「私があと何年生きるか、わかるでしょ?」
「わからないよ、未来なんて」
よっすぃーは、おや? という顔をしたあと、「あー、超能力持ってるって、私と同じ能力
持ってるってことじゃないのか」と理解した。
「よっすぃー、わかるんだ?」
私がそう言うと、よっすぃーは外の景色に目をやった。ファミレスの前は交差点に
なっていて、そこには人と車のせわしない往来があった。よっすぃーは横断歩道を
歩いていた女を指差し、「あの不細工、10秒後に死ぬよ」と言った。
「え?」
私はよっすぃーの顔を見た。目を細め、微かに笑っていた。2秒後、死ぬと言われた
女を見た。普通に歩いていて、特に変わった様子はなかった。2秒後、腕の時計を見た。
秒針が3つ進んだ。2秒間、目を閉じた。何も見えなかった。
そして目を開けて、また女を見た。女はパタンと倒れた。
「……死んだの?」
「死んだよ」
そう答えたよっすぃーの声は冷たく、透き通っていた。
私は首をかいた。かゆかった。
「死因は?」私はリンゴジュースを飲みながら訊いた。
よっすぃーは「さあ」と答えて笑った。
外はちょっとした騒ぎになっていて、ファミレス内の客や店員たちはそれを興味深げに
見ていた。
私は騒ぎには構わず、よっすぃーに訊いた。
「私は、あとどれくらい生きる?」
この質問に答えはあるだろうか。そう思って訊いた。
受け皿の縁をなぞっていたよっすぃーは指を止めて、私の顔を睨みつけるように
見つめた。そして「結構しぶとい。80年」と答えた。
「ホントに?」
永遠に続くと思われた私の人生に、あと80年という期限が付いていたことが意外だった。
「正確に言うと78年と90日、12時間34分56秒、55秒、54、53……」
80年後、私は超能力を使えなくなって死ぬのだろうか。それとも――。
「この梨華ちゃんのカラダがあと80年ってこと?」
「は? 何言ってんの?」
よっすぃーは眉根を寄せた。
私はリンゴジュースを飲み、「何でもない」と言った。
「でもね」よっすぃーはにやりと笑った。「たった今、80年から24時間に変わりました
ですです」
「それは……どういうこと?」
「こういうこと。あんたは24時間後、さっきの不細工とあの世で会えるってこと」
つまり死ぬってこと。
「マジで?」
「マジで」
どうしよう。会っても話すことないんだけど、と私はちょっとあせった。
「でも、なんでよ? なんで80年が24時間になった?」
「変えたから」と言ってよっすぃーは髪をかき上げた。「私は人の寿命がわかるだけ
じゃなく、それを変えることができる」
「それじゃ、さっきの不細工も……」
よっすぃーは頷いて「100年を10秒に変えてやった」と言った。
そのとき、市井ちゃんのカラダを失った日の映像が鮮明に脳裏に蘇った。
「紗耶香、こっち」と叫んだ圭ちゃんの顔は恐怖で歪んでいた。
電池でも切れたかのように動きを止め、パタパタと倒れていく人々。その中を私は走った。
車が歩道に乗り上げて、私をはねた。「死んだ」と思った。でも、生きていた。
――店内に「未来予想図U」が流れだした。よっすぃーはレモンティーを飲みながら、
「信じない?」と訊いた。
あの日、圭ちゃんと買い物に行った日に起きた事件は、連日のようにニュースや
ワイドショーで流れ、世間の関心を惹いた。今はあまり見なくなったけど。
「123人がほぼ同時刻に原因不明の死を迎えた。これは超能力者の仕業としか思えません」
テレビで誰かが言ってたな、と私はリンゴジュースを飲み干した。
「信じるよ」
よっすぃーはコーヒーを追加注文した。それから私に「怖い?」と訊いた。
「怖いというか……なんで私殺されるんだろ?」
「それはね、ぶつかって謝らなかったから」
まだ根に持っていたようだ。
「でもさっき、私のこと運がいいって言った」
「言ったねぇ。だけどほら、人の心は移ろうものでしょ?」
「気分屋なんだ。で? 123人殺した日は機嫌悪かったとか?」
よっすぃーは一瞬止まったが、すぐに笑みをこぼした。
「ああ、その日はね、そう、機嫌悪かったかな。演技に命懸けてる女優がいてさ、
私のこと顔だけの女優って言ったのよ。もちろんそいつは殺した」
よっすぃーの言葉を聞いていたら、なんだか命がとても軽いもののように思えてきた。
私はお子様ランチの旗をまるめながら、「今まで何人殺した?」と訊いた。
「そんなのいちいち数えてないよ」よっすぃーは即答した。「何しろ目醒めたのが
11のときだから」
「今いくつ?」
「15」
「あ、同じだ」
「だから?」
「べつに」
うーん。冷めてるというか、乾いてるというか……。超能力者はこんなやつばかり
なのだろうか? それともこんなやつだから超能力者になれたのだろうか? どっち
でもいいけど。
とにかくよっすぃーは非情だ。しかし魅力的だ。そして私の死は24時間後だ。
「ひとつ、助かる方法があるけど」「何?」「聞きたい?」「うん」「ど
うしようかな〜」「じゃあ、いいや」「ぶつかって逃げたことを謝り
なさい。そしたら解除してあげる」「そんなことできるの?」「でき
るよ」「なんかビデオのタイマー予約みたいだね」「あ、コーヒー持
ってきた」「そういえばあのとき私謝らなかったっけ?」「あれは謝
ったとは言えない」「え〜、いいじゃん」「だめ」「じゃあ、ゴメンチ
ャイチャイチャイニーズ」「あんた死にたいの? 謝るってのはね、
ごめんなさい、またはすいませんでした。これ以外は認めないから」
「すんまそんは?」「それはセーフ」「え、いいの?」「特別にね」「ふ
〜ん。でも言わない」「そう。別にいいよ。あんたが死ぬだけだから」
「すいません」
「はい?」
「リンゴジュースお代わりお願いします」
「かしこまりました」
店員はよっすぃーの前にコーヒーを置き、私の前からお子様ランチの皿を取り、そそくさ
と厨房に戻って行った。
よっすぃーはコーヒーを飲みながら「その強がり、いつまで続くかね〜」と言った。
強がりではなかった。ただ何となくだけど、死ぬ気がしなかったのだ。今までも何度か
死にそうな目にあった。でも切り抜けてきた。今度も大丈夫なんじゃないか、と私は
楽観していた。
しばらく沈黙がつづいた。私は2杯目のリンゴジュースをちびちびと飲みながら思案を
巡らせた。謝って助かるか、謝らずに死ぬか、普通なら二択だけど普通じゃない私には
このカラダを捨てて助かる、という選択肢もあった。
よっすぃーがコーヒーを置いた。私はすかさず「ちょっと寿命見てもらいたい人がいるん
だけど」と言った。
「誰?」
「メグ・ライアン」
「え?」
「を意識してるか知らないけど、金髪でカラコンしてる居酒屋が似合いそうなおばさん」
そう言って私はよっすぃーの斜め後方に視線を送った。
「あそこで独り、お子様ランチ食べてる人」
よっすぃーがそっちを向いた瞬間、私はいつものように下唇をちょっとだけ噛み、
ちょうどハンバーグを口に運んでいたそのおばさんと入れかわった。
本日2度目のハンバーグ。私はよっすぃーの視線を感じながら味わった。
2秒後、よっすぃーはまた梨華のほうを向いた。私はそれより一瞬だけ早く梨華のカラダ
に戻った。
「どうだった?」
「38年。短命と言えるかも」
「そっか」
38年か。24時間じゃなくて38年……。つまり24時間後に死ぬのは梨華のカラダであって
私ではないということだ。
「で、そんなこと聞いてどうすんの?」
「べつに。ただ知りたかっただけ」
24時間以内に誰かと入れかわれば助かるとわかり、私は安心した。これで謝らなくていい。
「あのおばさん、殺してほしいの?」よっすぃーは真顔で言った。
「違う違う。そんなんじゃないって」
まったくとんでもない女だ。人を殺すことにためらいはないのだろうか?
……待てよ。そうだ、よっすぃーと入れかわればいい。そうすれば私が助かるだけでなく、
この女の快楽殺人を止めることができる。これは名案だ。私って頭いい〜。
そんな私をおばさんが不思議そうな目で見ていた。しかし見つめ返すと下を向いた。
何が起こったか、おばさんはわかってないだろう。2秒だけだったし、超能力も信じなさ
そうな感じだし。ハンバーグがなくなっていることには気付くだろうけど。
そうだ。よっすぃーと入れかわるとしたら、この梨華のカラダが死を迎える直前じゃ
ないといけないのだ。
もし今入れかわったなら、よっすぃーは私が移ったカラダ――それはよっすぃーの
カラダなのでよっすぃーは何もしない可能性もあるけど――に死を設定するだろう。
今度は24時間後なんて余裕を与えず、秒殺するかもしれない。
そして自分のカラダになった梨華のカラダの設定を解除するだろう。
つまり、よっすぃーに状況を把握する時間を与えてはいけない。とすればカラダを
入れかえるのは死の1秒または2秒前ということになる。
「何さっきからボーっとしてんの?」とよっすぃーが言った。
私は「ボーっとするの、趣味なんだ」と言ってアハハと笑った。
「今、どうなってる?」
「何が?」
「私が死ぬまでの時間。正確に教えて」
「だから〜、謝れば解除してやるって言ってんでしょ」
「だから〜、謝らないって」
よっすぃーは頬を膨らませて「23時間44分33秒、32、31」と言った。
「え、も1回言って」
「23時間44分27秒」
「27秒? とか言ってる間に26秒? 25秒? 24?」
「21」
「あのさ、もっとわかりやすいほうがいいんだよね。例えば12時ぴったりに死ぬとか」
「はぁ?」
よっすぃーは不審者を見るような目で私を見た。
「あ、だってほら、自分でもわかってたほうがいいじゃん。そしたら盛り上がれると思う。
あと10秒だ〜、とか。わかるでしょ? この乙女心」
よっすぃーは「わかる」と言った。「で、何時に死にたいのよ?」
「えっと、そうだな〜。じゃあとりあえず午前0時ってことで」
「で、今何時よ?」
私は秒針まで正確な梨華の腕時計を見た。
「15時3分39秒、40秒、41秒……」
「ちょっと見せて」よっすぃーは私の腕をとった。そして私の顔と時計を交互に
見て「はい、完了。0時に死ぬようセットしたから」と言った。
「ありがとう。助かるよ」
23時59分59秒、私はよっすぃーとカラダを入れかえる。よっすぃーは自分の
身に何が起きたのか、わからないまま0時を迎え、死ぬ。
よっすぃーがこの先奪うであろう何百の、いや何千の、ひょっとしたら何万もの
命を、私は救うことになるのだ。
そんなことを知る由もないよっすぃーは、涼しげな顔でコーヒーを飲んでいた。
私は天才なんじゃないだろうか? どこにも穴がない完璧な計画に、私の口元は
ゆるんだ。この素晴らしいシナリオを誰かに聞いてもらいたい、と思った。
「ねえ、ちょっと聞……」
「何?」
私はリンゴジュースを飲み干し、「何でもない」と言った。
「そんじゃ私、行くわ」
そう言うと、よっすぃーは席を立った。
「え、なんで? コーヒーまだ残ってるし」
「飲みたいなら飲んでいいよ」
困った。私はコーヒーが苦手なのだ。
「ねえ、私の死ぬとこ、見とかなくていいの?」
「言っとくけど私は忙しいの。あんたみたいに暇じゃないの。芸能人だから」
そう言い残してよっすぃーは店を出た。金を払わずに。私の計画はいきなり暗礁に
乗り上げたようだ。
「ちょっと待って」
私はそう言って、黄信号で横断歩道を渡ろうとしていたよっすぃーの肩をつかんだ。
よっすぃーは私が追ってくるとわかっていたかのように振り向き、「おやおや」と
言った。「やっと謝る気になった?」
私は首を振って「コーヒー代出してよ。なんで私が払うのよ」と言った。
「どうせ死ぬんだからいいでしょ?」
たしかに、どうでもいい。私がよっすぃーの代わりにコーヒー、それからレモンティー
の料金を払ったことなんて、どうでもいいのだ。
「いいよ。でも」
「ん?」
「遊園地、行こう」
ジェットコースターは150分待ちだった。そんなに待ってまで乗りたいとは思わない、
と思いながら私はよっすぃーと列の最後尾についた。
16時16分だった。残り7時間44分の命。その3分の1をこれで費やすことになるよっ
すぃー。ちょっとかわいそうかも、と思ったけど、人生ってこんなものかもしれない、
とも思った。
「あー、もー、むかつくー。なんでこの私が並ばないといけないのよ?」
「順番だからね」
「前のやつら全員殺したい」
「そんなことしたら逆に乗れなくなるよ」
そう言って私は笑った。冗談か本気かわからないよっすぃーの言葉にスリルを感じた。
まるでジェットコースターに乗っているような気分だ。
「そういえば誰もよっすぃーに気付かないね」
サングラスをかけてるわけでもないのに。本当に芸能人なんだろうか、と思った。
よっすぃーもそれを気にしていたのか、少し引きつった顔で「まさかこんなところに
本物がいるとは思わないんでしょ」と言った。
「ホントに有名なの?」私は思わず口にした。
「あんた勇気あるねー。寿命縮めるよ」
それは助かる、と思ったけど「それは困る」と言った。そして一応あわててみせた。
あまり落ち着いているとさすがに怪しまれるだろうから。
「お、やっと本音が出た。なんだかんだ言ってもやっぱ怖いんだね〜。早く謝れば
いいのに」
笑いながらそう言ったよっすぃーに、私は「謝らないよ」と本当は謝りたくないけど
謝りたそうな顔をして言った。
梨華のカラダは酔いやすいのだろうか。コーヒーカップでクルクル回ったあと、
私はトイレに入って吐いた。それからベンチで横になった。お化け屋敷を背景にして。
こうしている間にも時は過ぎていると思うと、どうにもいたたまれなかった。
「大丈夫?」
よっすぃーはそう言うと、私を押しのけるようにしてベンチに座った。
「食べる?」
「買ってきたの?」
「うん」
私は「ありがとう」と言ってベーグルを受け取った。「ねえ今よっすぃーさ、大丈夫って
言ったよね?」
「言ったけど」
「心配してくれてんだ」
私が覗き込むように見つめると、よっすぃーは頬を赤くして「べつに。ただ言ってみた
だけ」と言った。
いつの間にか日は沈んで、イルミネーションが園内の各アトラクションを飾っていた。
私は腕時計を見た。
「19時33分」よっすぃーが私を見て言った。
「ちょっと人を時計代わりにしないでよ」
「ごめんごめん」と言ってよっすぃーは笑った。「なんか早くない? 時間経つの」
「うん。私も思った」
本当にそう思った。
「あ!」
「ん?」
「そういえば超能力持ってるって言ってなかった? 今、急に思い出したけど」
よっすぃーの言葉によって、私の完璧な計画にまたもほころびが見えた。
「……そんなこと言ってないよ」
言ったけど。
「それで? どんな能力?」
「いや、だから……」
ここで本当のことを言ってはいけない。なぜなら完璧な計画が完璧でなくなるから。
「なんて言うか、その、未来が見えるんだよね、私」
「ホント?」
嘘だった。しかし嘘をついた瞬間、私は未来が見えた。それは、よっすぃーが「日本の
未来は?」と私に訊く、というものだった。
「なら教えてよ。日本の未来を」
私は「明るい」と答えた。
「本当だって。本当に超能力少女なんだよ」
よっすぃーがベーグルを食べ終えるまで、私はずっとそう言いつづけた。
それでもよっすぃーは「はいはい」と言うだけで全く取り合おうとしなかった。
もちろん計画を進めるにはそのほうが良かった。ただ、嘘つきと思われることは
嫌だった。
「どうする? 行く?」とよっすぃーが言った。
「あ、最後にあれ乗ろうよ」
私が観覧車を指して言うと、よっすぃーは笑った。
「何?」
「私も乗りたかった」
相乗りすることなく乗れたゴンドラは、ゆったりとした空間だった。私たちは向かい
あって座り、互いの顔を見て、微笑んだ。
「何笑ってんの?」
「自分だって笑ってる」
不思議だった。今日はじめて会ったというのに、もう何年も前からの友達のように
思えた。よっすぃーを、なのに私は殺そうとしているのだ。
「よっすぃー」「ん?」「こんな話があるんだけど」「どんな?」「聞きたい?」「うん」「どうしようかなー」「言いたいんでしょ?」「この観覧車のてっぺんで」「ちょっと待って」「何?」「キスはしないから」「なんだそれ」「違った?」「違うよ」「なんだ。私の美しさに惚れたのかと思った」「よっすぃーは梨華っちのかわいさに惚れた?」「自分でかわいいって言うな」「まあ、それはいいとして。キスすれば恋がうまくいくとかそんなありきたりの話じゃなくて」「ありきたりで悪かったね」「うん」「それで?」「てっぺんまでいったら叫ぶの。ヤッスーって。一緒に」「ヤッスー?」「そう。そしたらふたりは永遠に変わることのない友情を得られんの」
「そんなの初めて聞いた」と圭ちゃんが言った。「絶対今つくった話だ」
「なんでわかった?」と言って市井ちゃんは笑った。
「だいたいヤッスーって何よ。普通ヤッホーでしょ? というより観覧車で
叫ぶってのが普通じゃない」
「ねえ、今ちょうどてっぺんだよ」
そう言って私は「ヤッスー」と叫んだ。
「ヤッス―――!」
市井ちゃんも叫んだ。
「圭ちゃんもほら、ヤッスー」
「バカみたい」とよっすぃーは言った。「私、永遠とかそういう言葉、嫌いだから。
そんなこと言う奴は信用しないことにしてる」
「よっすぃーはリアリストなんだ」
「そっちはロマンチスト? だとしたら友達にはなれないね。それこそ永遠に」
もう少しでてっぺん、観覧車を時計に見たてていうと11くらいのところまできていた。
ロマンチストな私は夜景を見下ろして「綺麗……」と呟いた。夜の街を彩る無数の明かり。
その先に拡がった夜の海は蛸の墨のようで、星が瞬く空との境界線をはっきりと
引いていた。
私は乾いた唇を舐めた。
「よっすぃー」
「なに?」
「もうやめようよ。人殺すの」
よっすぃーは私を見据えながら「やめるつもりはない」と言った。
「何で殺してんの? 理由は?」
そう言って私は時計に目を落とした。20時57分。
「理由ならとっくにわからなくなってる」目にかかっていた前髪を横にやって、
よっすぃーは言った。「1人目は嫌いな奴だった。たぶんそいつに対する憎悪が原因で
この能力に目醒めたんだと思う」
「それが11歳のとき」
「そう。そして次の日。2人目。そのとき一番仲のよかった子を殺した」
よっすぃーは少し間を置いてから「どうしてやったのかは今でもわからない」と言った。
「で、それ以降、理由をなくしている。3人目は女だったか男だったか。それも忘れた」
「理由がないならやめればいい」
「やめる理由もない。私は死ぬまでつづける」
「悪魔だね」
「人間だよ」
そう言ってよっすぃーは天使のような笑みをたたえた。
「せっかくこんな能力持ってんだから、使わないと意味ないし。それは美しいから
芸能人やってるのと同じことで」
「延ばすことはできないの? その能力で。寿命。縮めるんじゃなくて」
「どうかな」
「やったことない?」
「あるよ。私、ホントは66歳で死ぬんだったけど、150まで延ばした」
「できるんじゃん」
「でも66越えないとわからないから。うまくいったのか。だから」よっすぃーは、
はにかんで笑った。「50年後に確かめにきてよ」
私は頷いた。そして、会いにいくよと言った。
50年後の私はどうなっているだろう。想像できなかった。チカラを使えば
いくらでも若くなれるし、皺の数を気にすることもない、けど――。
私はよっすぃーと一緒に歳を重ねていきたいと思った。目を見ただけで相手の
考えてることがわかるような、そんな仲を、よっすぃーと築きたい。
でも、150歳まで生きるとしたら50年経ってもまだ若いかも。よっすぃーだけ。
ずるいな。
「3時間しかないよ」よっすぃーが言った。「早く謝らないと」
一瞬、何のことかわからなかった、けどすぐに思い出した。まだ続いていたのだ。
既に意味をなくしてるような気がする――最初から意味などない気もする――死の
ゲームが。
あまりにもくだらなくて、私は笑った。
「わかったよ。謝るよ。でもその前に約束してほしい」
「何を?」
「もう誰も殺さないって」
「無理」
即答だった。そして、私たちは笑った。
一体、何をやってるんだろう?
「じゃあ、謝らない」
一周して同じとこに来てしまった。
「……バカ?」
掴みかけていたものが、手の平をかすめて逃げていった。ファミレスで飲んだ
リンゴジュースのしつこい甘さが舌に蘇った。
言ってくれると思った。もうやめるって。チカラ使うの、私がやめるんだから
よっすぃーだってやめないとダメだ。
「バカはどっちよ? ヒトゴロシのくせに」
てっぺんにいたと、過ぎてから気付いた。その瞬間の景色を、眺めることができなかった。
よっすぃーを見ていた。少しも変わらないその表情を。「ヤッスー!」もできなかった。
「そのとおり」よっすぃーが沈黙を破った。「だから早く。本当に殺すよ」
私は首を横にふって「約束してくれないと、謝らない」と言った。
謝れば良かったかもしれない。命を繋いだあとに、時間をかけて説得すれば良かったの
かも。それに、約束などしたところで、チカラがなくなるわけではないのだから、この先
ぜったいに使わないとは限らない。
それでも、やっぱり言ってほしかった。殺しをやめると、今、私の死が迫っているときに、
聞きたかった。
「勝手にすればいい」よっすぃーは言った。
友情を分かち合えると思ったのは、私の思い過ごしだったのか。よっすぃーは私の命より、
自分のチカラのほうが大切なようだ。50年後に会いにきて、と言われて私がどんなに嬉し
かったか。それも、よっすぃーにはどうでもいいことだったのだ。
「こっちのセリフ。あんたこそ勝手にしなよ」
私は吐き捨てるように言った。このままだと……殺すしかない。ファミレスで立てた計画
のとおりに。
人を殺すなんてことが、はたして私にできるだろうか?
無理。できない。
「できるでしょ」
よっすぃーが、一瞬、市井ちゃんに見えた。
だって市井を殺したじゃん。梨華も殺したしね。あれは正当防衛って? ふーん。
まあいいや。けどファミレスではフツーに思ったでしょ? 吉澤を殺そうって。
これはどう言い訳すんの? 後藤は才能あるよ。人殺しの――。
市井ちゃんは、やけに詳しかった。まあ、私の起こした幻覚なんだけど。
「謝るくらい。ごめんのひと言でいいんだか」
よっすぃーが言い終える前に、私は彼女を抱きしめた。
「ら?」
「ちょこっとだけ、このままで。いい?」
私たちを乗せたゴンドラは、どこへ向かうのだろう。よっすぃーの背中を掴んで、
私はそんなことを思った。
円を描いた観覧車を降り、私たちは遊園地を出た。そして、どこへ向かうでも
なく夜の待ちに入った。21時14分。
私たちは並んで歩いた。離れそうになると、どちらからともなく寄り添った。
数分前まで見下ろしていた光を見上げながら、私はよっすぃーにかける言葉を
探した。けど見つからなかった。ふたりとも無言で歩いた。
途中、何度も時計を見た。時間が嘘みたいに速く流れていた。人の群れも同じ
ように流れていた。それと擦れ違うたびに、私は揺れた。
いざとなれば、この中の誰かと入れかわればいい、明らかに矛盾してるけど
よっすぃーが死ぬよりまし、そうだ、だいたい、なんで、私はやめさそうと
してるんだ、誰が死のうと、いいじゃん、でも、よっすぃーは、本当はやめた
がってる、はず、だから、私が、やめさせてあげないと、いや、よっすぃーは
きっと、自分からやめるって、そう言ってくれるって、私は信じて、疑わない、
でも――。
考えれば考えるほど、訳がわからなくなった。そのまま歩きつづけ、気が付いた
とき、私は海に出ていた。23時48分21秒。
静かな海面に月が映っていた。闇の中で小さく揺れるそれを、私は砂浜に立って
見つめていた。
「まだ光ってる」
よっすぃーの声に振り向いた。よっすぃーは観覧車を見ていた。それは遠く離れて
しまっていたけど、ともったままのイルミネーションで確認できた。
「うん。閉園まで点灯してるから」
「まだやってんの?」
「うん。12時まで、だったかな」
あそこから海を見ていたのだ。それから3時間も歩き続けてここまで来たとは思え
なかった。まるで時間と距離をテレポテーションで超えたような錯覚を起こした。
「あと10分」
10分で何ができる?
浜辺に私たち以外の人影はなかった。引き返して身代わりを探すには少なすぎる時間。
見つからなかったら終わりだ。もう謝るしかない、かもしれない。
「いいかげん謝りなって」よっすぃーが私の肩を叩いて言った。「もうほんと、シャレ
にならんよ。死ぬよ」
「約束してよ」
「またそれ? だからできないって」
よっすぃーは苦笑した。私は黙った。
「そんなの勇気でもなんでもないって。バカなだけ。死んだら意味ないじゃん。命より
大事なものってある?」
「ない」と言って私は砂を蹴った。「命の大切さわかってんならなんでそれ奪ってんのよ?」
よっすぃーは黙った。
「私を殺したらよっすぃーは絶対後悔する」
「すごい自信」
「わかってんだよ。よっすぃー本当はやめたいんでしょ? 私にはわかる、というか
私にしかわからない」
よっすぃーは首を振った。
「人殺すのやめたら、私が私でいられなくなる」
殺しつづけることでしか自己を肯定できないよっすぃーがかわいそうだった。彼女が
ずっと抱えている痛みを私はそばにいて少しでも和らげることができるだろうか?
「やりなおせばいい。何もなかったように。過去を捨てて」
「女優が他人を演じるように?」
「そう」
「過去が染みついたこの顔で?」
「そう」
よっすぃーは単純な笑みを浮かべて「簡単に言うね」と言った。私はその顔から目を
逸らすことができなくなった。
沈黙がつづくなか、片方の腕だけがやけに重かった。
死がどこまで近づいているのか分からなかった。
よっすぃーの眼差しに縛られて、私は時計を見ることさえできなくなっていた。
あと3分くらい?
あでもさっき10分あったからまだ5分は残って――。
「1分、切った」とよっすぃーが言った。
時計を見た。
23時59分03秒。
思ったよりぜんぜん進んでた。
あせった。
半分寝ながら受けてた学校のテスト。
「その顔が嫌なら、私がいくらでも変えてやるよ」
終了間際で答をひとつ思いついたようにあわてた。
よっすぃーは笑った。
ねえねえ、お子様ランチってあんたいくつよ?
「冗談はいいから早く謝れ」
私とお昼を一緒に食べれるって、ついてる証拠じゃん。
私たちは似てる。
あんたもしかして私のこと知らない?
「私は信じてるから」
あんた、変なやつだね。
「よっすぃーは約束してくれる」
よっすぃーって何よ?
確信してる。
たった今、80年から24時間に変わりましたですです。
「しないよ」
だけどほら、人の心は移ろうものでしょ?
私はよっすぃーを信じる。
何さっきからボーっとしてんの?
秒針が5を指した。
なんか早くない? 時間経つの。
観覧車がいつの間にか消えていた。
私も乗りたかった。
よっすぃーは「わかった」と言った。
キスはしないから。
「もういいよ」
私、永遠とかそういう言葉、嫌いだから。
「謝らなくていい」
そっちはロマンチスト? だとしたら友達にはなれないね。
折れてくれた?
やめるつもりはない。
よっすぃーは溜息をついた。
そのとき一番仲のよかった子を殺した。
「今日はありがと」
どうしてやったのかは今でもわからない。
残り19秒。
それ以降、理由をなくしている。
「けっこう楽しかった」
私は死ぬまでつづける。
よっすぃーの声は低かった。
人間だよ。
私はよっすぃーを信じてる。
「私はよっすぃーを信じてる」
よっすぃーは微かに笑った。
あと10秒。
私はよっすぃーを。
「バイバイ」
7秒。
よっすぃーは目を閉じた。
私は。
4秒。
3秒。
に。
カラダをかえた。
午前0時。
梨華が私を見つめていた。
1秒経過。
私は梨華のカラダに戻った。
動悸が始まった。
悪魔なのは私だった。
よっすぃーは解除していた。
恐ろしく静まりかえった浜辺で私は何かが崩れる音を聞いた。私が壊したものの。
よっすぃーが違う生き物を見るような目で私を見た。一瞬の「入れかわり」に
気付いたのだ。
「……ホントだったんだ。超能力少女」
「あ……」
「すごいチカラ、だね」
私は言葉を失った。こんなとき、何て言えばいい?
そんなすごくないよ?
だから言ってたじゃん?
解除ありがとう?
もはや何を言っても無駄だろう。空っぽで、軽すぎて。私の偽善者ぶりを引き立てる
のに役立つかもしれないが。
もう昨日の2人には戻れない、って殺そうとしといて私は何を期待してるんだ。
終わってる。
「遊園地……」
よっすぃーが言った。
「また行こうよ。次は朝から」
やわらかな声が胸に響いた。
私は詰まりそうになる言葉を絞り出すように「ジェットコースター何度も乗ろう」
と言った。
「いいよ」
微笑んでくれた。吸い込まれそうな瞳だった。
「りかっち……」
その瞬間、未来がすっとよぎった。
なんでこんなこと考えたんだ。
そんなことしたら本当に終わりだ。
でも。
私はやった。もう一度よっすぃーのカラダに移った。
ほぼ同時だった。梨華の膝が、音も立てずに折れた。
バラバラになった月が浮かんでいた。私はそれを見つめながら、すんまそんと呟いた。
胸に残ったよっすぃーの鼓動は、梨華のカラダで感じていたよりも速く大きなもの
だった。
やがてそれもやんだ。
私は梨華を抱き起こし、その頬についた砂をはらった。
第6話 私が死んだ日に
燦々と降る日の光が、萌える草花に溶けていた。あの日と同じ緑の道。
喉の渇きを覚えた私は、リュックからペットボトルの飲茶を出した。
立ち止まらず、飲みながらも歩を進めた。
何を急いでいるんだろう? 頂上はかわらずそこにあるのに。
眩暈がしてよろめいた。ほとんど寝ていないせいだろう。最近の私は1日
1、2時間の睡眠が当り前になっていた。眠る時間がもったいないのだ。
永遠の命を持つ私がそんなことを思うのは変だけど。
私はしかし半年以上チカラを使っていなかった。顔を鏡で見るたび吐きそうに
なるというのに、このカラダを捨てることができなかった。
命を磨り減らすように毎日を生きていた。これで150まで持つのかってくらい、急ぎ。
ぽっかり開いた穴があった。あらゆるものを詰めたけど、それは広がった。セックスで
は到底埋まらない穴だった。
過去についた染みを洗い流そうともがくたび、私は汚れた。身体が日に日に軽くなって
いるような気がした。
このまま消えるんじゃないか? それもいいかもしれない。
逃げ道を残しながら破滅を願ってみたりした。
読みかけの小説はページを破って閉じた。りんごの皮をむくのがうまくなった。次から
次に後悔が押し寄せ、いつか悲観するのが面倒になった。それでも最後は人生の素晴ら
しさに凭れた。
「休憩しようよ」
背後からの声に立ち止まった。
「5分でいいからさ。疲れたよ」
私は笑顔で振り向いた。
「死人のくせに?」
「あんただって似たようなもんでしょ?」
市井ちゃんがペットボトルを指に引っかけ、振っていた。
「あ、それ私の」
「飲む?」と言って市井ちゃんは笑った。
「しょうがないなあ」
私たちは日陰に入り、飲茶を回し飲みした。
「はあ、生き返った」
市井ちゃんが草の上に寝転んだ。
「死んでるのに?」私は草をちぎった。
「あんたに殺されたんだけど」
「それは言わない約束じゃん」
「そんな約束いつしたよ?」
私たちは笑った。
「シンガーソングライターになりたい」
急に真顔になって、市井ちゃんが言った。
「ビッグになってやる」
私は笑った。
「なんだよ?」
「いやー、市井ちゃん変わってないなーと思って」
「後藤も、変わってないよ」
市井ちゃんは体を起こし、真っ直ぐに私を見つめた。私は耐えられず、目を逸らした。
変わってないよってそんなことないよ。
「私は、変わったよ」
たった一年で何もかも。市井ちゃんと夢を語り合ったあの日の私は、影も容もなくなった。
今ここにいるのは、まったくの別人になった私だ。
「いーや、相変わらず魚ってる」
「ウオ?」
耳を疑った。私が魚?
「そんな筈ないよ。だってこの顔だって、頬はこけたけど、よっすぃーだし」
「後藤は後藤だよ。何も変わってない」
「嘘」
「ほんと」
「嘘だ」
「ほんとだって」
市井ちゃん、私が何人の人生を狂わせたか知ってんの?
「嘘だ」
私は半分叫んでいた。そんな優しい目で見ないでよ。変わってないなんて言わないでよ。
「愛してるなんて言わないでよ」
「いや言ってないけど」
市井ちゃんが顔を近づけてきた。
「ほら、見てみ」
息が触れる距離で、私は市井ちゃんの瞳を覗きこんだ。
「ほんとだ……」
「ね?」
魚ってる。
山の空気がスーっとリアルになった。目を開き、うつぶせになっていた身体を
起こして、私は辺りを見回した。緑が微風に揺れていた。一年前と変わらない
景色だけがそこにはあった。
ペットボトルが倒れていた。コポコポ音を立ててこぼれる飲茶が土に染みていた。
私は泣いた。
よっすぃーは何で150にしたんだろう。もっと延ばすことだってできただろうに。
暫定的にそうしてたのか、それとも、そんなに長くは生きたくなかったのか。
私はどうするんだろう。このカラダで150歳まで生きたとして、そのあとは――。
あの崖に来た。ここに来れば何かある、なんて期待はなかったけど、あまりにも
何もなく、ちょっと拍子抜けした。あの日との違いといえば「危険」と書かれた
標識が立っていること、申し訳程度のロープが張られていることくらいか。
雲は、あのときと同じように、綿菓子だった。
ふっと息を漏らし、ロープを掴んだ。とりあえず生きてこう、と思った。綺麗な着地
など、はじめから望んではいなかった。
ヤッス―――!
私は叫んだ。叫びはしかし木霊しなかった。ざらついた足元を均し、もう一度叫んだ。
背後から「はい」と返ってきた。振り向くと、圭ちゃんがいた。
「何やってんの?」私は言った。
「山、登ってます」と言って圭ちゃんは笑った。「びっくりしました。こんなとこで
何してんのかなーと思って見てたら、突然叫びだすから。あ、私、保田っていいます」
圭ちゃんは軽く頭を下げて「はじめまして」と言った。
久しぶりに会う圭ちゃんは、髪が短くなっていた。そして、妙に大人びて見えた。
「はじめまして」私は笑みを返し「そりゃびっくりしますよね」と言った。
「そうですよ」
「ところでヤッスーさあ」
「え?」
「なんか飲み物もってない?」
「あ」と言って圭ちゃんは水筒を出した。「これ……」
「飲んでいい?」
圭ちゃんは頷いた。私は受け取って、カラカラのカラダを潤した。
「ありがとう(
」
「うん」
「私、よっすぃー」
私たちは、そこに転がっていたまるでベンチのような岩に並んで腰掛けた。
「よっすぃー、は、山登りはよくするの?」
「しないよ」
「そう」
私はいきなり途切れそうになる会話を繋げるように「でも一年前に登ったよ」と言った。
「あ、私もそう」
「ほんとに?」
「うん」
「偶然だね」と言って私は立ち上がった。「ねえ、一緒に頂上まで行こうよ」
「え?」
「頂上。一緒に」
圭ちゃんは不意を衝かれたといった表情で「いいよ」と答えた。
「どうしたの?」
「あ、いや、私この場所に来るのが目的だったから」
「え?」
「でも、いい、うん、一緒に登ろう」
「何?」私は訊いた。「この場所に、何があったの?」
圭ちゃんはふうっと息を吐いた。
「はじめて会った人にこんな話していいか分からないけど」
「聞きたい」
圭ちゃんは頷くと、立ち上がってロープの前に進んだ。
「一年前、この崖から落ちた子がいてね、今日がちょうどその日なんだけど」
「友達?」
「だったかな。向こうはどう思ってたか知らないけど」
「それで?」
「文句言いに来たの」圭ちゃんは笑って言った。「なんで自殺なんかしたんだーって」
「自殺?」
「ん?」
「自殺だったの?」
「どうして?」
私は首を振って「何でもない」と言った。
「自殺に決まってる」圭ちゃんは言った。「だってあいつ、あそこに立って、私たちに
手、振ったんだから」
そういえばそんなバカなことしたな、と思い出した。
「自殺じゃないのに普通そんなことする?」
「しない」
圭ちゃんは、分かればいいのよって感じで笑って、話を続けた。
「今、私たちって言ったけど、そのときね、もうひとり、一緒に登ってた子がいて」
「友達?」
「親友だった。紗耶香っていって」
「いい名前だね」
「うん」
圭ちゃんは本当に嬉しそうに笑った。それから泣きそうになった。
「その子もね、死んだの」
「車にはねられて」
私が言うと圭ちゃんは驚愕の表情で反応した。
「何で?」
「いや何となく」
圭ちゃんは俯いて「全部、私のせい」と言った。
「こういうの、超能力っていうのかな。私ってなんか、周りの人を不幸にする力を
持ってるみたい。紗耶香だって、私といなかったらあんな」
「違うよ」
「ねえ、ワンツースリー事件って覚えてる?」と言って圭ちゃんは苦笑した。
「街で123人がそろって死んだ?」
「そう。あのとき私、そこにいたんだ。もうほんと、何の映画の撮影かと思った。
目の前で起こってたことが信じられなかった」
「うん」
「でも、あとで冷静になってから、思った。あれも私の力のせいだったんだって」
私は「違う」と言って圭ちゃんの腕を取った。「ヤッスーのせいじゃないよ。強いて
言うならよっすぃーのせい」
「変な慰めかた」と言って圭ちゃんは笑った。「べつにいいよ。同情してもらいたくて
言ってるんじゃないし」
「じゃあ何?」
私は圭ちゃんを掴む手に力を入れた。圭ちゃんはそれを振りほどいた。
「私の気持ちなんて、誰にもわからない」
私は「わかるよ」と言った。
「わからないよ」
「わかるって」
「嘘」
「ほんと」
「嘘」
「ほんと」
「それよりさ、なんで引退したの?」
「え?」
急に話が変わった。
「ほんとの理由きかせてよ。会見で言ってた新しい自分を探すってあれ、嘘なんでしょ?」
「私のこと知ってたんだ」
「あんなに有名だったんだから、知らないわけないよ」
「そっか」
「私、ずっとあなたに憧れてた。『春のせいかな』なんて4回も観たし」
「私も観た。あの演技は最低だった」
「え?」
「我ながら」
「ねえ、きかせてよ」
圭ちゃんが狂気をはらんだ目で私に迫った。
「興味ないからやめた。それだけ」
「簡単に捨てんだね」圭ちゃんははき捨てるように言った。「なんかよっすぃーって
後藤に似てる」
その言葉に、私は動揺した。なんか、見透かされたみたいで。
「その、飛び降りた子に。何をやってもうまくいっちゃうって感じの子だった。本人は
そんな気なかったかもしれないけど。それが余計に」
「その子が死んで嬉しかった?」
私が言うと、圭ちゃんは微笑んだ。
「あの日に戻れたらって何度思ったかわからない。あの日、あの瞬間、紗耶香は変わった。
まるで後藤が乗り移ったかのように人が変わってしまって、そのまま――」
ごめん。私は心で囁いた。
「ここからすべてが狂ったんだ」
圭ちゃんがロープをくぐった。
「ふたりだけ……ずるい」
ギリギリのとこまで進んで、圭ちゃんは両手を振った。私に背中を向けたまま。
「今、私は崖っ縁でーす」
「そこは危ないから」
私を無視して、圭ちゃんは叫んだ。
「ごとお―――! きこえるかあ―――!」
崖の下に向かって。
「バカやろお―――!」
何度も繰り返した。
叫び終えても、圭ちゃんはそこから離れようとしなかった。私はロープを越えた。
圭ちゃんは一年前の私だ。
「圭ちゃん」
私は呼んだ。
「私」
圭ちゃんが、そっと振り向いた。
「真希だよ」
「なに言ってんの?」
その瞬間、未来が見えた。ていうのは嘘で、本当はなんとなくそう思っただけ。
そして予想したとおりの展開。圭ちゃんがお約束のように足を滑らせた。
次の瞬間、私の意識は飛んだ。
そこは、市井ちゃんの部屋だった。
机の上で開きっぱなしになっていた日記帳。
「明日は山登り。楽しみで今夜は眠れそうにない」
笑顔の3人が並んでいた。市井ちゃんが栞代わりに使っていた写真。
それは、私も気に入っていた1枚だった。
意識が戻ったとき、視界にはまだ、死に向かって落ちて行く圭ちゃんが残っていた。
私は笑って唇を噛んだ。