ファーストブレイク
プロローグ
残り21秒。タイムアウトでベンチに戻り、中澤監督が最初に発した言葉。
「ここまで来たら、あとは、吉澤と心中しよう」
その言葉と共に、吉澤は一瞬この三年間のことを思い出したが、すぐに頭の隅に追いやった。
ガード陣がボールを運ぶ。
一点差。
最後の最後の、最後のチャンス。
味方とボジションチェンジを繰り返し、マークの石川を振りきろうと試みていた。
石川としても、ここまで来て負けるわけにはいかない。
相手が誰であろうとも。
スクリーンをファイトオーバーで外しながら、吉澤を逃がさない。
このチームを一年間引っ張ってきた重圧。
最後の大会で、負ける気はない。
観衆達の、仲間達の声援が、広い東京体育館にこだまする。
その中で、フロアの上の十人が動き回る。
時計は、残り十秒を切った。
「はい! あいた!」
ローポストから、外に動いた吉澤が声を出す。
わずかに、石川との距離があいた。
その隙に、ボールが吉澤に渡る。
すぐに、石川も吉澤に対し正対するポジションに入った。
残り七秒。
一瞬、二人は視線をぶつけると、吉澤がシュートモーションに入った。
第一部
「新入部員なんかいりません。帰って下さい」
「保田!」
「中澤先生はバスケのこと何にも分からないんですから黙ってて下さい」
保田の剣幕に、中澤はすごすごと引き下がるしかなかった。
「わるいな、吉澤」
「全然話が見えてこないんですけど」
「ちゃんと説明するは」
職員室まで戻ってきた中澤は、転校初日、不安を抱えて学校生活を送りはじめた吉澤を前に、語りだした。
「見て分かったと思うけど、うちのチームには今部員は五人しかおらん。で、そのキャプテンが
さっき怒鳴ってた保田な。あいつをはじめ、五人全員が二年生」
「一年生は誰もいないんですか?」
「おらん。四月にな、何人か入部希望者はおったけど、全部保田が断った」
グレーの安っぽい椅子に座り中澤は肩を落としている。
その中澤が続ける言葉を、吉澤は直立不動で待っていた。
「チームが出来たのは去年の四月。保田と、今は留学してていない市井が駆けづりまわって
部員を集めてチームを作った。その二人以外バスケの経験者はおらんかったんけどな。それで、
顧問の先生ってのもなりてがなくて、赴任したてで手の空いてた私が、バスケ全然知らんのに
頼まれて形だけの顧問になったわけや」
遠い昔を懐かしむように中澤が語る。
とは言っても、実際はたかだか一年半前のこと。
しかし、新人教師として初めて先生らしく頑張りはじめた出来ごとだけに、中澤にとっても感慨深い。
「いいチームだったんよ。みんな練習頑張ってな、一年目にして新人戦ではベスト8にまで
進んで。まあ、東京から来た吉澤にとっては、島根の山奥でベスト8なんて言っても大したこ
とあらへんかもしれんけど」
「そんな、そんなことはないです」
転校前の学校では、試合に出るどころかベンチに入ることすらなかった吉澤からすれば、これは本音だ。
「それで、今度は優勝だー、インターハイだー、なんてもりあがっとたらな、市井が三月
になって、イギリスに留学する言い出したんや」
吉澤から視線を外し、中澤は窓の外を見る。
市井さん、どんな人なんだろうか? 吉澤はそんなことを思った。
「市井は、誰にも一言も相談しなかったらしくてな。しばらく保田はふさぎこんでたよ。
二人は、小学校からの親友だったらしいから、話してもらえなかったのがショックだったん
やろ。それでも、最後に市井が旅立つ時は駅まで見送りに来てな。そこで市井が言ったわけ
よ。今のままのバスケ部を守って待っててねってな」
中澤の机には、ユニホームを来た六人の写真が飾られている。
吉澤は、中澤の言葉を聞きながらその写真に目をやった。
「保田は、なんか勘違いしちゃったんだろうな。今のまま守っててのを。新入部員断って、
五人でやっていくって言い出した」
「それって、なんか違うんじゃないですか?」
「私もそう思う。でもな、何も言えんのよ。あいつらが作ったチームで、自分は飾り物って
負い目があるから。なあ、吉澤、なんとかしてくれんかこの状況。私には、あんたが救いの女神
になるんやないかって、そんな気がしてるんよ」
「そんなこと言われても。どうしたらいいんですか?」
ため息まじりに吉澤が問いかける。
「とりあえず、体育館に通うなりなんなりして、保田にやる気を見せてくれないか。そしたら
あいつの方も折れるかもしれないし」
そんなもんだろうか?
期待薄な感じ、と思い、それをあからさまに顔に出しつつも、吉澤はうなづいた。
「まあ、今日は転校初日やし、帰ってええで。やる気見せ作戦は明日からってことで」
「・・・はい、それじゃ、失礼します」
次第次第にトーンが落ちて行く吉澤は、そのまま職員室を後にした。
「昇降口は階段下りて右やからな」という中澤の言葉を背に。
吉澤の転校初日は、これからの二年半の高校生活に不安を感じさせるものだった。
「よっすぃー、なんか暗いよー」
「転校初日から、あんな言われたら暗くもなるって」
その夜、吉澤は東京の友人に電話を掛けていた。
「メール魔のよっすぃーが、全然連絡よこさないから心配してたらそんなことになってた
とはねー」
「転校生だから、休み時間なんかに露骨に前の学校の友達にメール送ってるってのもまず
いかなってね」
「私ならやめちゃうかな。背高いんだし、バレーでもいいかなって思うし」
ベッドに横になり、転校生としての緊張から解き放たれてリラックスした吉澤は、さっき
までと違い明るい口調で話していた。
「せっかくやってたしねえ」
「そんなこと言ってよっすぃー、ベンチにも入ってなかったじゃーん」
「ごっちんきつい」
電話の向こう側から、後藤の笑い声が伝わってくる。
「なんかさ、楽しかったんだ。入部してすぐは何も出来なかった私が、パス、ドリブル、
シュートって一つ一つ出来るようになってって、それでも先輩達には全然追いついてないん
だけど、雲の上だった先輩達が、どうすごいのかってのがちゃんと分かってきて」
「キザだねえ」
「茶化すなよ。でもさ、そういうの全部教えてくれた矢口先輩と約束したから。バスケ続
けるって」
「矢口先輩って、普段はその辺にいるバカギャルのちび版って感じなのに、バスケやって
るとすごいのか」
吉澤のいた高校は、都内ではかなり上位の力を持つ学校だった。
「とりあえず、頑張ってみるよ」
「元気そうでほっとした。まあ、どうにもならなくなったら東京に帰ってこい。よっすぃー
一人くらい後藤の家で暮らさせてあげるよ」
「そっかあ。ごっちんの家で暮らして弟君と仲良くなるのもありかな」
「それはなしですー」
五百キロの距離を越えて、二人の笑い声がつながる。
「また電話して来い。頑張れ」
「オッケー」
ベッドに横たわる吉澤は、すっかり笑顔だった。
翌日、授業が終わると吉澤は体育館へと向かった。
「なんか用?」
「練習しに来ました」
「部員以外とは練習しないの」
「じゃあ部員にして下さい」
「断るから帰りな」
保田はにべもない態度を取る。
「帰りません」
「まあ、好きにしな。部員にする気はないけど」
予想通りのリアクション。
吉澤は黙って体育館の隅に立つ。
こんなやりとりがしばらく続くんだろうな、と思いながら練習を見つめていた。
このチーム弱い。
一目見た吉澤の感想。
単なるディフェンス無しのドリブルでもぽろぽろミスが出る。
ツーメンでの速攻でも、まったくスピード感がない。
フリーでのランニングシュートも入らない。
吉澤が一番危惧していた、無理やり押しかけて入ったはいいけど、下手すぎてかっこ悪い、
という事態だけは免れそうだった。
ただ、あまりの覇気のなさにがっかりはさせられた。
部活の時間になったから体育館へやって来て、時間になるまでここにいる、そんな感じに映る。
ほとんど会話もなく、吉澤から見て保田も寂しそうに見えた。
一対一の練習でも、保田の相手になれる部員がいない。
そこにいる誰もが、つまらなそうだった。
「何、まだいたの?」
練習終りに、保田が吉澤に声をかける。
「はい」
「時間の無駄だと思うけど」
「いえ、私はバスケ部に入るんで」
「しつこいやつだな」
左手でタオルで汗を拭う保田は、犬を追い払うかのように右手を動かした。
「今日は帰ります。でも、明日も来ます」
「好きにしな」
保田は去って行く。
吉澤も体育館を後にした。
一週間近くそんな日が続いた。
体育館へ行き練習を見つめる日々。
この人、ホントに寂しそうだな。
吉澤は、ますます保田についてそういうイメージを持っていく。
そして、ようやく動きがおきた。
中澤が吉澤を職員室へと呼び出した。
「そろそろ飽きてきたんやないか? 練習をただ見てるのも」
「最初っから飽き飽きですよ」
「それで感想は? 見てていろいろ思ったやろ。こんなチームに入っても面白くないかも
とか。そんなんあれば、今からでも他の部紹介するけど」
背もたれによりかかり、吉澤を見あげて中澤が言う。
吉澤は、一瞬考えてから言った。
「バスケやります」
「意地になってるだけやったらやめたほうがええで」
「確かに意地になってる部分あるかもしれないけど、でも、バスケやりたいから。このまま
引き下がれないって言うか、あんな無視されて、それでじゃあバレー部とか、そんなむかつく
し、なんか、そんな感じです」
そういうと、中澤は笑いながら言った。
「まさしく意地になってるだけやんか。まあええは。今日から吉澤はバスケ部員な。保田
は文句言うだろうけど、たまには顧問らしい顔してやるは」
「はい。よろしくお願いします」
二人で体育館へ向かう。
吉澤の転校初日と同じく、二人を保田が冷たい顔で出迎えた。
「なんか用ですか?」
「改めて紹介するは。今日から新しく部員になった吉澤ひとみさん」
「先生、チームのことは私が決めるって言ったじゃないですか。新入部員なんか入れないって」
保田の形相は、まるで狛犬のようで、吉澤は思わず一歩後ろに下がった。
「不満があるなら顧問辞めようか? 試合出られんで。チームなくなるで。他に顧問のな
りてなんかおらんのやから」
中澤が、教師の伝家の宝刀を抜くと、さしもの保田もそれ以上何も言うことは出来ない。
「じゃあ、吉澤頑張れよー」
それだけ言い残して、中澤は職員室へと帰っていった。
「よろしくお願いします」
吉澤が頭を下げる。
保田以外のメンバーは、保田と吉澤の二人のことを遠目に見ている。
ため息を一つついて、保田は言った。
「じゃあ、ランニング」
吉澤に、直接言葉を返すことはしなかった。
まあ、部員になってしまえばこっちのもんだ。
あとは、なんとかなるだろう。
吉澤はそんなことを思いながら、最後尾をついて走っている。
コートを五周ほど回った後、フットワーク。
保田が笛をならし、三人×二列でフットワークをこなす。
吉澤が毎日見ていた練習風景そのもの。
オールコートのダッシュでも、吉澤は自分の列で一番速い。
市井さんってひとの代わりを求められても困るけど、試合には出られるかなあ?
明るい考えが吉澤の頭に浮かんでいたが、すぐに、そんな甘さは忘れさせられることになった。
「じゃあ次、三角パス」
保田の号令で、部員達は三ヶ所に散っていく。
吉澤もその一ヶ所へ向かおうとするところを後ろから呼び止められた。
「吉澤」
「はい?」
「あんたは外ランニング」
「へ?」
「外、学校の周り二十周」
「なんで、私だけ?」
保田の言葉に目をぱちぱちさせ、人差し指で自分を差す。
そんな吉澤に、保田は冷たく言い放った。
「嫌ならやめて良いよ。練習メニュー決めるのは私。入りたての一年生と同じメニューな
んかできないの」
冷たい視線を受けて、吉澤は視線を落とす。
「はい、みんなは三角パスね。吉澤は勝手にしな」
二回手を叩き、保田はコートに入って行く。
その背中を睨み付けた後、吉澤は体育館を出ていった。
「そんな言われてホントに走っちゃったわけ?」
「うん」
「よくやるよねえ。そんなのサボったってわかんないじゃん」
「だってさー、なんか、サボったら負けな気がして」
「負けって何がさ?」
「保田さんに」
転校しても、遠くにいても、何かがあれば電話する。
吉澤にとって、後藤真希はそんな相手。
「言ってることわけわかんないよ」
「なんか、試されてる気がしてさ。追い出したいってのが本音なのは分かるんだけど。
そう言われて、はいそうですかって辞める気は無いし。だからって、外でサボってるもの
悔しいでしょ。いじめられてますって感じで。そんで、頭きたから走ってやった」
「走ってやったって、どんだけ距離あるわけ?」
「一周一キロだから二十キロかな?」
「頭大丈夫? 体大丈夫?」
乾いた声でからかわれた吉澤は、笑い声を交えながら答えた。
「大丈夫だよ、そりゃあきつかったけど。で、走り終わって体育館戻ったら、ちょうど練
習終わってて、一年生片付けといてだって」
「はあ? それで、文句も言わずに片付けやったわけ?」
「いや、そうじゃないけど」
「文句言ったんだ?」
「いや。みんな帰っちゃったから、片付けやらずにシューティングしてた」
受話器を口から離し、呆れたため息を後藤が漏らす。
それでも、明るく後藤が言った。
「あんたも好きねえ」
「からかわないでよ」
「ごめんごめん。でも、よくやるよね」
「やるなと言われるとますますやりたくなるのですよお代官様」
「そちも悪よのお」
「笑わせないでよ」
「そっちが先に振ったんでしょー」
電波を通して笑いを共有する。
吉澤の癒しの時。
ベッドで仰向けになり、天井を見つめたまま後藤と言葉を交わす。
電話を切ると、そのまま眠りに落ちた。
DEAR 圭ちゃん
元気かい?
市井は元気にやってるぞ。
イギリスに来て半年、もう半分が過ぎてしまいました。
最近は、さすがに毎日が新しいことだらけです、とはいかなくなってきたけれど、刺激的なことはとても多いです。
ホストファミリーとはまあ、仲良くやってる。
でも、ちょっと意思の疎通が厳しいかな。
英語は難しいは。
そして、久しぶりに日本語を書くと、それはそれでまた難しい。
そっちはどう?
バスケ部はどうなった?
私が戻ったら見知らぬ新入部員がたくさんいたりするのかな?
インターハイは出られなかったみたいだね。
ネットで見たよ。
やっぱり市井がいないときついかな(笑)
でも、県予選の詳しい結果はどこ探してもみつからなかったんだよなあ。
どこまでいったのかな?
まあ、圭ちゃんを筆頭に、新一年生達も含め、きっと頑張ったのでしょう。
市井は、圭ちゃんがバスケ部を守り育ててくれてると信じてるぞ。
もうすぐ選抜予選や新人戦もあるだろうし、まあ、頑張ってくれたまえ。
私は、あと半年こっちで頑張るさ。
私が帰るまで、元気でいてくれよ。
みんなによろしく。
それから、まだ見ぬ一年生に市井紗耶香の名前を覚えさせといてね。
また手紙送ります。
バイバイ。
SAYAKA
部屋で立ったまま読み終えた保田は、手紙を机に置きベッドに横になる。
一年前と今。
大きな違い。
「どうしろって言うんだよ」
誰もいない自分の部屋で思わず漏らす。
窓の外から照らす夕日が、保田の顔に光を当てる。
体を起こし、カーテンを閉めた。
「なんでこんなことになっちゃったんだろう?」
そう言って保田は、膝を抱えた。
吉澤は、保田の言う通りのメニューをこなしている。
日々そのメニューはすこしづつ異なっていた。
練習時間中ひたすらドリブルをつかせたこともある。
背が高いからリバウンドの練習、と称して一時間近くタップをやらせ続けたこともある。
ディフェンスフットワークで倒れるまでしごいたこともあった。
それでも、吉澤は保田の言う通りのメニューをこなしていた。
「吉澤」
「はい」
「今日は、外三十周ね」
「はい、わかりました」
顔色も変えず吉澤は体育館を出て行く。
それを見送った保田は、手に持っていたボールを、何度かコートで弾ませた後、壁に向かって投げつけた。
体育館での練習は、淡々と進んだ。
いつもどおりの五人の練習。
声はなく、ボールの弾む音だけが響く。
三角パス、ツーメン、1対1
2対2と3対2のあと、幻のディフェンスを相手にフォーメンションの確認をして練習が終わった。
「あとは、片付け、あー、いや、いいや。終わり」
保田が、練習の終わりを告げた。
それぞれにストレッチをして、三々五々荷物を抱えて引き上げていく。
一番最後まで念入りにストレッチをしていたのは保田だった。
誰もいなくなった体育館で転がっているボールを一つ持ち立ち上がる。
右手でドリブルしながらフリースローラインへと向かいシュートを放つ。
五本打って一本しか入らなかった。
リバウンドを拾い、ボールを小脇に抱え体育館入り口へ向かう。
保田のバッシュがフロアを踏みしめる音が体育館に響く。
ボールを壁に軽く投げ当て、跳ね返ってきたところをキャッチする。
入り口の扉を開けると、外は陽がほぼ沈み薄暗くなっていた。
体育館の入り口に立ち、あたりを見回す。
校門へと続くロータリーには、制服を着て帰って行く部活上がりとおぼしき生徒達の姿が見える。
体育館の側に向かってくる姿は見当たらなかった。
扉を閉め体育館の中へ戻る。
ボールを床に置き、椅子代わりにして座る。
ぼんやりとそうして過ごしていたが、やがて立ち上がり自分のカバンを拾った。
再び体育館入り口の扉を開ける。
そこで、ロータリーの方をしばらく見つめてから、女子バスケ部室へと保田は引き上げて行った。
体育館には吉澤の荷物と乱雑に転がっているボールだけが残されていた。
吉澤が体育館に戻ったのは、すっかり陽が暮れて外が真っ暗になった頃だった。
へろへろになって、階段を這いつくばるようにして上って行く。
体育館の入り口に立つと、 呼吸を整え、髪を直し、顔も自分では確認できないながらも、無表情を作ってから扉を開けた。
中には誰もいず、電気だけが煌々とついていた。
「なんだよ、誰もいないのかよ。気張って損した」
そう吐き捨てて自分の荷物の所まで戻ると、フロアに寝ころがった。
静かな体育館。
自分の心臓が動いていることがはっきりと感じられるくらい静かな体育館。
手探りでタオルをつかみ汗を拭く。
やがて、体を起こすとあたりを見渡した。
「誰もいないし、いいかな? 大丈夫かな」
カバンからTシャツを取り出すと、共学校にも関わらず、汗に濡れたTシャツを脱ぎその場で着替えた。
駅までの帰り道の途中で保田は突然立ち止まった。
「バッシュ忘れた」
明日から中間テストに向けて部活動停止期間に入る。
しばらく練習が無いので持ち帰って手入れする、というのはよくあること。
保田は、立ち止まりすこし考えてから学校へと道を戻りはじめた。
部室まで戻りバッシュを回収する。
保田は部屋の中を見回すが、吉澤が戻った痕跡はなかった。
「あいつ、鍵持ってなかったや」
二年生五人は、それぞれ部室の鍵を持っているが、吉澤には渡していない。
着替えとかどうするんだ? と頭に浮かんだが、気にしないことにしようと自分に言い聞かせ部室を出た。
「保田じゃないか。ずいぶん遅いな」
「先生。ちょっとバッシュ忘れちゃって」
部室を出たところで保田に声を掛けたのは中澤だった。
「帰って勉強せなあかんで。私のテストで赤点とったら部活動停止にしたるよ」
「先生、じゃあ、問題教えてくださいよ」
「無茶言うな」
吉澤のことでぶつかりはしたが、基本的には二人の仲はいい。
「ああ、そうそう。せっかくだから体育館の戸締りしてきてくれへんか? テスト問題作るのに急がしいんよ」
「どの辺が、せっかく、なんですか。意味わかんないですよ」
「まあ、細かいこと気にせんと、頼むは」
中澤に鍵を差し出され、保田は顔をしかめつつも受けとった。
体育館にはまだ電気がついている。
保田が入り口までやって来ると、ボールが弾む音が漏れ聞こえてくる。
扉を開けると、中では吉澤がシューティングしていた。
靴を脱ぎ、靴下で中に入って行く。
吉澤は、ちらっと保田の方を見たが、すぐに視線を外しリングへと目を向けた。
放たれたシュートは、リングに弾かれ保田の方へとボールは跳んできた。
「吉澤」
「なんですか?」
「何してんの?」
「シューティングですよ。練習終わりの」
無機質な顔をして吉澤は答えを返す。
右手を伸ばし、ボールを要求すると保田は片手で叩きつけるようなバウンドパスをよこした。
「あんた、練習終わった後のって、三十周走ったの?」
「ええ、ちゃんと走りましたよ、三十周。帰って来たら誰もいなかったけど」
「それで、シューティングしてたわけ?」
吉澤は左45度付近からジャンプシュートを放つ。
ボールはリング手前に当たり吉澤の元へ戻ってきた。
「やっぱ、練習終わりのシューティングって大事じゃないですか。うまくなるためには当然です」
跳ね返って来たボールをつかんで、保田の方を見てにっこり笑ってそう言ってまたシュートを放った。
ボールはリングに吸い込まれる。
点々とボールが跳ねる音が体育館に響く。
転がるボールを保田が拾い上げた。
「あんたさあ、なんでそこまで頑張れるの? 私があんたのために特別に練習メニュー組
んで鍛えて上げてるとでも思ってるわけ? いじめられてるのが分かってないわけ? 追い
出そうとしてるのが分かってないわけ?」
五メートル程度離れた二人の距離。
吉澤は、じっと保田のことを見ていた。
「なんなんだよ、やめりゃいいじゃねーか。三十キロ走るなんてバカバカしいと思うだろ!
何が楽しくてそんなに耐えてるんだよ! なんでそんなにバスケがしたいんだよ。 あれだけ
走れるんだった陸上部でもいいじゃないか。身長生かしたいならバレー部でもいいじゃないか
! なんでだよ! いい加減私を苦しめるのはやめてくれよ!」
保田は、持っていたボールを叩きつける。
吉澤は、そんな保田をじっと見つめていた。
跳ね上がったボールが落ちてくる。
フロアをボールが叩く音が体育館に響いた。
ボールが点々とする中、吉澤が語り出した。
「わたしは、ここでやって行くって決めたんです。保田さんが、市井さんって人と約束し
たように、私にもバスケットを続けて行くって約束した人がいます。向こうではベンチにも
入れないダメな選手だったけど、その人はそんな私に、絶対うまくなるからやめちゃダメだ、
いつかまた一緒にやろう。その時はきっと吉澤のがうまくなってるよ。そう、言ってくれま
した」
落ち着いた声だった。
保田の激高した声とは対称的に、落ちついた声だった。
「バスケの楽しさを教えてもらったから。そんな先輩をがっかりさせたくないから。私は、
ここでバスケがしたいんです。自分でも、こんなに意思が強いなんて思わなかった。ひとごと
だったら、三十キロも走らされるなんて信じられない。でも、やめたくなかった。私は、うま
くなりたいんです」
別に、バスケに深い思い入れがあるわけじゃなった。
ちっちゃいのにすごいなーって、ちょっとだけ憧れてた矢口先輩。
そんな人に言われた言葉だから、心にちょっと残っていた。
小さな大切なものが奪われそうになって、初めてむきになってみた。
「あんたすごいよ。あんたは正しい。ああ、正しいさ。だけど、正しいことが全部通るとは限らないんだよ!」
「それは、わかります。でも、私は、私の望みを通したい」
「あー、もう、あんた見てるとやっぱ腹立ってくるは。帰る。鍵、渡しとくから、中澤先生に返しといて」
保田は鍵を山なりに投げ、背を向けて入り口に向かって歩き出した。
その鍵を吉澤はキャッチすると、保田の背中に向かって言った。
「保田さん!」
「なんだよ、しつこいな」
「私、やめませんから」
それには答えること無く、保田は体育館を出ていった。
保田が扉を閉めたのを確認して、吉澤も座り込む。
そのまま仰向けになった。
「あー、疲れた」
保田が、こっちに向かっているのが見えたから。
ただ、見栄でシューティングをしてみた。
本当は、そんな余裕なんかもうなかった。
保田は、入り口の扉を閉めると、そこによりかかり空を見上げた。
ロータリーはライトが照らし明るくなっているが、それでも、空には上弦の月と、こと座のベガが輝いている。
荒くなっていた呼吸を落ちつけた。
「そういや、練習終わりのシューティングなんて、昔はやってたな」
月を見ながら、そんなことを思った。
テストが終わった。
吉澤にとって、ある意味バスケ部以上に深刻な問題だったテストが終わった。
テストは、終わったその日には返って来ない。
終わってから返却までの間、ある意味一番幸せな時期。
そんな日にも部活はある。
練習前のストレッチ。
二年生がなんとなく輪を作っている中から外れ、吉澤は一人で体をほぐしている。
時折、様子をうかがうそぶりはあるけれど、基本的には気にしない振りをしている。
ただ、二年生の側も、保田以外のメンバーは吉澤の方をちらちらと見ていた。
「ランニング」
保田の穏やかな声。
のそのそとメンバーは立ち上がる。
コートの周りを、六人の部員達がゆったりと走っている。
そんなところへ、顧問の中澤が顔を出した。
中澤の担当科目の試験は初日にあった。
答案の採点は八割方終わっている。
バスケのことが分からないため、普段の練習にはほとんど出ない中澤だが、気分転換も兼
ねて顔を出していた。
ただ、今日は別の理由もある。
顧問という立場上、吉澤のことが気になっていた。
試験前最後の練習の日、中澤は、吉澤が一人で体育館にいることを知っていて、保田に鍵
を渡した。
転校生がやたらと走らされてるみたいだけど、と他の部の顧問に通報されて、吉澤が受け
入れられていないのは聞いていた。
教師二年目の中澤は、どうしたらいいか、などとそう簡単には分からない。
試験前最後の練習日、ヘロヘロになった吉澤が、体育館に戻って行ったのを職員室から見
ていた。
話だけでも聞いて見るか、と思って体育館に向かう所に保田が現れたのだ。
とっさに、二人にしてみよう、と思って鍵を渡した。
どうなったのか、いまいち自信がない。
どうにかしなきゃいけない、そんな気持ちで、練習に顔を出していた。
ランニングを終え、コートの端に三列に並びフットワーク。
いつもどおりの流れ。
普段どおりの練習。
試験明けで動きが鈍いメンバーがいることを除けば、なんら変らない光景があった。
「次、対面パス!」
アップに当たるフットワークが終わり、保田の指示が飛ぶ。
吉澤は、保田の方を一瞥すると、コートの隅の水筒を取り、口へと持って行った。
保田は、そんな吉澤の元に歩み寄る。
「吉澤」
「はい?」
水筒を持ったまま吉澤は振り返る。
「あんたは私と」
「へ?」
「だから、あんたは私とだって言ってんの。水なんか飲んでないで早くボール持ってきな」
「今日は何やらせようっていうんですか?」
「だから、対面パスだってさっき言っただろ。はやくしな」
「は、はい」
対面パスは通常の基礎練習。
いつもならこのタイミングで何かをやらされるのに、今日は無いのかな? と戸惑いの顔
を吉澤は見せる。
転がっているボールを拾い上げ、吉澤が保田に渡した。
保田はボールを受け取ると、吉澤にサイドラインに立てと、顎で指示し、自分も立ち位置
に向かう。
それから、言葉は交わさないものの、互いにボールを投げ、受ける。
そんな光景を見て、中澤は何も声を掛けること無く体育館を後にした。
練習は進む。
吉澤も皆に混じって通常の練習をこなしていた。
ハーフコート一対一。
保田のディフェンスにつくのは吉澤。
右サイドにいる保田に、中央からボールが入って一対一スタート。
左にワンフェイク入れて、右へドリブルをつく。
吉澤がついて来ると見るや、ロールターンして左へ動きハイポストの位置へ。
必死に吉澤はついて行く。
保田は、そのまま突っ込むと見せて、そこで止まりジャンプシュートを放つ。
吉澤の体は流れ、空中でフリーの状態になった保田の放ったシュートは、リングに吸い込まれた。
攻守交替。
今度は、吉澤がオフェンスでそのディフェンスに保田がつく。
中央からボールを受けた吉澤は、単純にドリブルをついてハイポストの位置まで動く。
保田は当然ついて行くが、ここで吉澤はゴールに背を向けた。
右か? 左か?
吉澤の背中に保田は貼りつく。
フリースローラインのややうち側、吉澤は右へ肩でワンフェイク入れ左にターンしシュート
モーションに入る。
保田は、それに反応してチェックに跳んだ。
しかし、シュートモーションも、またフェイク。
保田が落ちてくるのを見計らって吉澤はジャンプする。
ノーマークで撃ったジャンプシュートがきれいに決まった。
リング下で弾むボールを保田が拾う。
拾ったボールを吉澤に軽く投げて言った。
「やるじゃんか」
ボールを右手でキャッチし吉澤も言葉を返す。
「いえ、まあ」
涼しい顔をしつつも、吉澤は内心かなりほっとしていた。
吉澤は、いつ、何か起こるか? と内心ずっと考えていたが、結局そのまま何事も起きず
に通常の練習を六人で普通にこなしてその日の練習は終わった。
「石川! 戻りが遅い!」
五対五の練習中、レギュラーチームに入った石川に罵声が飛ぶ。
石川の放ったシュートが決まらず、リバウンドを取られたあげく、石川本人が戻りきれず
五対四が出来て、控えチームにゴールを決められていた。
エンドからボールが入る。
ガード陣がフロントコートまで運び、セットオフェンスになった。
ゴール下、平家を壁に使い石川が外へ切れてくる。
マークマンが追いきれず、スイッチしてインサイドのプレーヤーが石川につく。
その石川にパスが入った。
間髪入れず、中でミスマッチになっている平家へボールを送る。
ターンして簡単にシュートを決めた。
練習なので、このワンプレーで動きが一旦止められる。
「シュート打って打ちっぱなしじゃダメだろ。入らなかったって一瞬落ち込む間に
ボールは動いてるんだよ」
先輩の平家が冷静にたしなめる。
フリースローライン付近に集まったレギュラーメンバー五人が、動きの一つ一つを
チェックする。
「柴田もさ、戻った時に、こっちが一枚足りて無いのが分かってるんだからマンツーつ
く前に、ゾーン気味にして押さえて戻りを待たないと」
「はい」
「よし、切り替え意識してもう一本行こう」
五対五のセットオフェンス。
ガード陣がボールを繋ぐ。
一旦外に開いてきた平家にボールが渡り、またガードに戻す。
石川が逆サイドからディフェンスを振り切ってハイポストに入ってくる。
そこにボールを落とすと、スピードに乗ったままドリブルシュートを決めた。
「戻り!」
レギュラーチームのディフェンス。
今度はマークマンをきっちり押さえ、控えチームの速攻を許さない。
平家を中心としたインサイドのディフェンスが厳しく、外でまわさざるをえない状況を作り出している。
シュートクロックが刻まれ、残り五秒を切った所で、石川のマークマンにボールが渡った。
強引に切り込んでくる。
石川は、真っ直ぐ突っ込まれ一瞬体が引いたタイミングで横にかわされ振り切られる。
そのまま、ゴールにねじ込まれた。
「切り替え! 走れ!」
平家がボールを拾い、すぐに入れる。
ガードにボールが渡り、さらに前を走る柴田へ。
戻っていた一人のディフェンスをバックチェンジで振りきり、そのままゴールを決めた。
「石川、ほんとディフェンスざるなのな」
「すいません」
一対一で、控えメンバーにあっさりと抜き去られた石川はうなだれる。
9-1くらいの割合で、能力がオフェンスに偏っている石川。
ボールを持った時の破壊力は抜群なので、一年生にしてレギュラーメンバーに入っているが、
受けに回るともろい。
プレイヤーとしてはまだ欠点だらけなので、練習中に罵声を浴びる場面が多かった。
練習が終わり、石川と柴田の二人が、見学に来ていた記者に呼び止められた。
「ちょっといいかな、二人」
「何かおごってくれれば」
「なんだ、凹まされてたけど余裕あるじゃない」
「そうでもないですよ」
体育館入り口の自動販売機前。
石川のたかりに、記者は答えて小銭を入れる。
「何にすんの?」
「うわー、だから稲葉さん好きですー」
「その調子でコメントも頂戴よね」
石川も柴田も、飲み物を手にする。
体育館入り口の階段状の所に、ジャージを羽織って二人は座った。
「私達でいいんですか? 先輩達じゃなくて」
「先輩達は先輩達で聞くけど、一年生特集組むから、二人じゃないと。メインだから、楽しい答え期待してるよ」
稲葉は、バスケ雑誌の記者として二人のインタビューに訪れていた。
「えー、じゃあ、表紙になったりします?」
「そうねえ、二人は見映えもするから、もしかしたら、なるかもしれないね」
稲葉の横にはカメラマンも控えている。
その、カメラマンの方を見ながら石川が言った。
「ちょっと鏡見て来ていいですか?」
「写真とる前には準備させて上げるから、その前にコメント頂戴よ」
腰に手を当て、不満ですという素振りを稲葉はしてみせる。
それを石川と柴田は微笑んで見ていた。
「どう? 三冠のかかったチームの一員として、プレッシャーとかある?」
インターハイ、国体、冬の選抜、高校生の三大大会。
石川達の高校は、インターハイと国体を制し、今シーズンすでに二冠を飾っていた。
「そういうのはあんまりないかなー。先輩達はわかんないですけどー、私なんかは、試合
に出るのに必死だからー、三冠とかあんまり考えたことないですー」
優等生の入った石川の答え。
隣で柴田は微笑んでいる。
「自分では出られると思う? 二人とも国体ではスタメンだったでしょ」
「それは先生に聞いてくださいよー」
「口調以外は全部模範解答だなあ。本音を聞きたいんだよなあ」
「本音ですよー」
記事としてはあまり面白みのない答えが並ぶ。
しかも、答えているのは石川ばかりで、隣の柴田は微笑むのみ。
「じゃあ、ライバルは誰?」
「バスケットやってるみんながライバルです」
「まあ、いいや。そのしぐさも解説文付で載せるから」
石川は、両手を胸の前に合わせて小首をかしげぶりっ子モードで答えていた。
絵柄としてはなかなか面白い図になっている。
「柴田さんは? 本音の答えで、ライバルは誰?」
「うーん」
「あんまり考え込まないで、直感でいいから」
「やっぱり梨華ちゃんかな。よく1対1練習するしね」
「大体ボール持つ方が勝つんだよね」
顔を見合わせて微笑む。
そんな姿をカメラが押さえた。
「ちょっとー、写真は鏡見てからって言ったじゃないですかー」
「表紙候補は別に取るから。今の二人の感じも良かったよ」
「そうですかー?」
乗せやすい子、と心の中で稲葉はほくそえむ。
「一年生で有力チームのスタメンって言えば、滝川山の手の藤本さんと里田さんもいるけ
ど。何か意識する部分はある? インターハイで当たったよね。準々決勝で」
「二人とも、きれいだし、可愛いし、バスケうまいし、すごいなーって思います」
「石川さんは最後までその口調で行くの? ホントに記事に載せちゃうけどいいの?」
「あ、あの、じゃあいまのなしで。まじめに答えると、負けたくないなって思いますよ。
中学の時もよく当たったし、高校でも三年間当たるわけだし」
初めて真顔になって石川が答えた。
「柴田さんはどう?」
「インハイの時は、藤本さんにマークついたけど、やられっぱなしで代えられちゃったんで、
今度やる時は負けたくないなって思います」
答えが堅いなあ、と思いつつメモを取る。
石川も柴田も、スーパー一年生として、試合で活躍はしても、まだまだ取材には慣れていない。
足繁く通って、顔なじみになった稲葉だからこそ、ようやくこれだけのコメントが引き出せている。
「今後の目標を教えてもらえるかな? 目の前の試合に向けてでも、ずーっと先のでもいいから」
稲葉の最後の問い掛け。
柴田は目線をそらし、石川は斜め上を見つめて考える。
先に答えを返したのは石川だった。
「誰にも負けない。どんなディフェンスが来ても、二人でも三人でもかわして行って点が
取れる、そんなプレイヤーになって、チームの為に貢献出来たら良いなって思います」
「梨華ちゃん、ディフェンスは?」
夢を語る石川の隣で、柴田が真顔で問いかける。
石川は柴田の方を見て不満の声を上げた。
「もー、なんでそう言うこというのー」
そんな微笑ましい光景をぱちりと一枚。
柴田の答えははっきりとは出て来ずにあいまいなままインタビューは終わった。
ちゃんとした写真を取るために、二人は鏡を前に髪を直す。
スポーツ雑誌にジャージ姿で載るから、化粧はしないけれどそれでも女の子。
ちょっとでもよく映りたいと二人とも必死。
「もしかしてさあ、ミキティ達と私達で、映りのいい方が表紙とかかなあ?」
「あー、それは負けられないかも」
鏡を正面から斜めから、何度も見つめ、くしで必死に髪型を整える。
稲葉とカメラマンが待ちくたびれた頃、ようやく二人は戻ってきた。
「遅い!」
「しょうがないじゃないですかー」
「じゃあ、どんな格好でとる?」
「決めていいんですか?」
「うん。二人の感性に任せるよ。条件は、ボールを使うことで」
シュートのポーズ、ドリブルのポーズ。
いろいろやってみるけれど、どうも格好がつかない。
早くしなさい! とせかされ、結局二人は背中合わせになり、それぞれの手の平にボール
を乗せて、逆の手は腰に当てる。
スポーツ専門のカメラマンは、二人のカメラ目線にドキッとしながらも、何枚かの写真を
撮影した。
「いつですか? いつ載るんですか?」
「載せるかどうか分からないって言ったでしょ。載せることになったら送るから二人のと
こと学校に」
「ホントですか?」
「ただし、最低条件として、予選は勝ってよね、って特定のチーム応援しちゃいけないん
だけどさ、でも、勝たないと写真はつかえないから」
高校生三大大会のラストを飾るウインターカップの県予選が間近に迫っている。
とは言っても、まだまだ気楽な一年生。
二人は、自分が雑誌の表紙になる夢を見ながら、気分良く帰っていった。
「いちごパンツ?」
「こら、藤本。ひろげないの」
「あべなつみ、って名前書いてあったりするんじゃないですか?」
両手で広げ仰ぎ見る。
イチゴ模様が描かれたパンツ。
白地にイチゴ、よごれはない。
「さっさと洗濯行きなさい」
「はぁーい」
洗濯かごを抱えて部屋を出た。
階段を下りて一階の一番奥へ。
二台並んだ洗濯機の前には先客が二人いた。
「それまだかかる?」
「今入れたばっかり」
「追加できない?」
「無理」
「冷たいなー」
洗濯機の前にいるのは同じ一年生の里田とあさみ。
藤本はかごを置いて隣に座った。
滝川山の手高校。
北海道のほぼ中央部に位置する。
学校自体は家からの通いの生徒が多いが、女子バスケ部に限っては全寮制になっていた。
「それ誰の?」
「なつみさん」
かごの一番上に置かれたイチゴパンツを里田が目ざとく見つける。
藤本は、またそれを拾い上げて広げて見せた。
「ホントにあるんだ、そういうのって」
「覚えやすくていいんじゃない?」
「間違えがなくていいか」
先輩達の服を洗濯する。
たくさんの先輩達の洗濯物。
名前など書いてあるはずも無く、一年生は全部どれが誰のものか覚えなくてはいけない。
そういう意味では、これくらい分かりやすいと楽だった。
「なつみさん、パンツまで平和なんだねえ」
あきれたように里田がそういいながら、パンツから目線を外せない。
そんな里田の姿を見ながら、藤本が口を開いた。
「あんなに平和で来年キャプテンとか出来るのかなあ?」
藤本の顔をあさみと里田が見る。
洗濯機の回るモーター音が聞こえた。
「なつみさんって決まったわけじゃないでしょ」
「でも、なつみさんでしょー」
「頼りがいはりんねさんのがあるかも」
「二人とも、まだ今の代しばらくいるんだよ」
里田がたしなめる。
冬の選抜大会の予選がもうすぐ、さらに一ヶ月後に本大会。
今の三年生の代がそこまでプレイする。
来年のキャプテンがどうこう、というのはその先の話だった。
「でも、今の三年生、あんまり頼りにならないかなあ」
「まあ、それは確かにねえ。スタメンもいないし」
「二人は自分がスタメンだからそういうこと言えるんだよ」
「あさみだってりんねさんがキャプテンがいい、とか言ってるじゃない」
他愛も無い雑談でありつつ、チームの将来についての真剣な話でもありつつ。
会話の中身に関係なく、二台の全自動洗濯機は回る。
「私の場合は、キャプテンがどうとかの前に、試合でなくちゃなあ・・・」
あさみのため息。
ベンチに入ってはいるものの、この三人の中ではただ一人控え選手になる。
それでも、他の一年生と比べれば高いレベルにはいた。
「冬はあさみの出番も結構あるんじゃない? そこのポイントガードが無駄に手を出してファウルトラブル結構おこすし」
「どういう意味よ」
あさみの今のポジションは、藤本あるいは安倍とかぶる。
その二人を乗り越えてスタメンを確保するのはあまりにも難しい。
可能性が高いのは、途中交替で出る、という方だった。
「なんでもいいから、試合出たいよホント。」
控え選手の切実な想い。
スタメンに入る藤本、里田には、それ以上は何も言えない。
なんとなく三人でため息をついていると、洗濯機のブザーがなった。
「終わり? 終わり?」
「あさみのは終わりみたいね」
「はいはい。早く取り出して」
「もう、わかったからー」
あさみをせかして洗い物を取り出させさせる。
その横で、藤本は自分の担当の洗濯物を手に取った。
「いちごかぁ・・・」
しみじみ眺める藤本を、里田が微笑んで見ていた。
翌日の練習。
稲葉が練習を見に来ていた。
ここに来るのは国体前以来のこと。
試合の取材をあわせると、もう一年生たちともずいぶん顔をあわせている。
練習を一通り全部見て、それから終了後、藤本と里田を呼んだ。
呼ばれて出て行く二人の背中をあさみは見ていた。
「飛行機なくなりますよ? こんな時間までいると」
「大丈夫。札幌で泊まって帰るから」
「泊まるんなら滝川で泊まっていきましょうよ」
藤本の言葉に稲葉も苦笑い。
稲葉にとって、滝川は宿泊する場所としての選択肢に入っていなかった。
もちろん、滝川にも宿泊施設はあるのだが・・・。
「調子はどう?」
「みたままですよ」
藤本、少し機嫌が悪い。
それが言葉と顔に出ている。
「チーム状態とかは?」
「悪くないですよ」
稲葉は言葉を向ける先を里田に変える。
里田は、藤本の雰囲気を感じ取って自分で答え始めた。
「もうすぐ選抜の予選だと思うけど、何か特別な準備とかしてる?」
「予選に向けては何もないですね」
「じゃあ、本戦に向けては?」
「あっても秘密だし、無くても秘密ですよ、それは」
「そっか」
一年生らしからぬ落ち着いた答え。
そんな里田の隣で、藤本はつまらなそうにバッシュのひもをいじっている。
「目標なんかはある? 目の前のでも、遠い先のでもいいから」
「うーん、目標はー・・・、一戦一戦頑張ることかな?」
「藤本さんは?」
話を向けられて藤本は顔を上げる。
稲葉はぶつかった視線を思わずそむけた。
「とりあえず、滝川山奥高校って言わせないことかな」
思わずふきだしそうになるのを稲葉はこらえる。
それでももれでた息の音に藤本は冷たくにらんだ。
「あー、でも、この辺平地で別に山奥じゃないしねえ」
学校も寮も、決して山奥にあるわけではない。
学校はまだわりと市街地に近く、寮に至っては草原の真ん中のようなイメージの場所にある。
ただ、学校は市街地近くではありつつもアップダウンの厳しい坂道が近くにあり、それが
かろうじて山と言えなくはなかった。
もっとも、山奥高校、と呼ばれるのはそういう問題ではなく、ただ単に滝川という場所の
イメージと山の手と言う単語をもじっただけのものではあるが。
「ライバルみたいな人はいるかな?」
冷たい視線を変えない藤本が怖い。
稲葉は里田の方を見て話を振った。
「富ヶ岡の石川さんには勝ってみたいですね。ボール持てば勝てるんですけど、そうじゃ
なくて、あの突破を止めてみたいなって。インハイの時はファウル以外じゃとめられなかったし」
インターハイ準々決勝。
ぶつかった両チーム。
そのときは100点ゲームで石川たち富ヶ岡が勝っている。
「藤本さんは?」
「なんでしたっけ?」
「ライバル」
「ああ、あんまり考えないですね」
藤本はそっけなかった。
最後に写真を撮る。
藤本と里田、二人の写った写真。
「おなかすいたからさっさと終わらせましょうよー」
「美貴、だったらちゃんと笑って。お願いだから」
もう三枚取った。
だけど、明らかにどれも使えない。
現像する前から分かる。
里田に突っ込まれて、さすがに藤本自身も理解する。
最後には、二人ともが自分の頭の上にボールを置いて直立不動のポーズをとり、その姿勢
で笑顔を見せる、という少しシュールな写真が出来上がって撮影は終わった。
稲葉は、なんだかやたらと疲れて滝川の町を後にした。
島根でも、ウインターカップに向けての予選が近づいてきた。
吉澤が転校して来てから二ヶ月、チームにちゃんと入ってからは一ヶ月。
個人の能力的には、吉澤は保田と並んでこのチームの中では高い位置にあった。
元々いたチームが都内でもトップクラスだっただけのことはある。
ただ、試合経験の無さと、チーム内での連携が、保田に取っては不安だった。
大会の近づいたある日の練習終わり。
中澤が体育館に顔を出した。
集合してメンバーを座らせ、一枚のシートを回覧する。
「またこいつかよー・・・」
受け取ったシートを見た保田がそう言ってため息をつく。
隣にシートを渡し、そのまま仰向けになって天井を仰いだ。
「なんか強いとこいるんですか?」
一番端で、最後に吉澤がシートを受け取る。
記されているのは選抜のトーナメント表。
自分達の学校名の上、一つ勝ちあがれば対戦する、ナンバーワンシードにあたる位置に、
出雲南陵という名前があった。
「去年からインハイも選抜もずっと代表なとこ。去年ベスト8であたってさあ、百点ゲーム
でふきとばされた。センターの飯田ってのがすごいのよ。マークついたんだけど、まるでとめ
らんなくて一人で五十一点取られた」
「五十一点ですか?」
一人で二十点取れれば上出来。
三十点取れたら大活躍である。
五十点オーバーは、得点力のある男子でもめずらしく、女子でこの点数は尋常ではなかった。
「その前の一回戦はどうなんですか?」
吉澤は、トーナメント表が記されたシートをじっと見つめている。
この一ヶ月で、普通に会話が出来る程度にはチームの中に馴染んでいた。
「やってみないと分からないけど、そんなに強くはないよ、たぶん」
「そうなんですか。あー、なんか、学校名見ても、どこにあるのかも強いのかどうかも
さっぱりわかんないや」
「しょうがないだろ、それは」
「まあ、とりあえず、五つ勝てば優勝ってことっすね」
「おめでたい奴だな」
「なんだ保田。吉澤くらいの意気込みはないのか?」
座っている六人の部員達を見ながら、立ったままの中澤が保田に突っ込みを入れる。
吉澤が、持っていた組み合わせシートを中澤の方に手渡した。
「優勝とか考える余裕無いですよ。またあの飯田と試合するのかと思うと」
げっそりした表情で保田が答える。
一人で五十一点を取った、飯田という名の凄そうな人。
どんな人なんだろう? と吉澤は想像する。
吉澤にとって、初めてベンチ入りして初めて試合に出られそうな大会。
期待と不安が入り混じって感覚が、なんだかこそばゆかった。
金曜日、選抜予選が始まる。
シードのつかない一回戦からのチームは、学校を休んで平日に試合が組まれている。
勝ち上がって行けば、土曜日に二回戦と準々決勝。
さらに日曜日には、準決勝と決勝が待っている。
「聞いてるか、吉澤?」
試合直前のミーティング。
他のメンバーは、ユニホームの上に来ているTシャツを脱ぐなどしながらリラックスモード
で保田の話しを聞いている。
そんな中、吉澤だけは直立不動で固まっていた。
「吉澤!」
「は、はい」
たよりない反応に保田は頭をかかえる。
「お前大丈夫か? スタメンなんだぞ。びびったりしてないよな?」
「びびってなんかいますよ」
「びびってるんじゃだめだろ・・・」
保田の突っ込みに周りは笑い声を上げるが、吉澤だけはまだ固まったまま。
その姿を見て、保田も小さくため息を漏らす。
「しょうがないやつだな。一年生にでかいこと期待したりなんかしないから、ファウルアウト
にだけはなるなよ」
「は、はあ」
まともな反応が帰って来ない吉澤に、保田はさじを投げ、他のメンバーへと指示を送った。
試合が始まる。
スターティングメンバーがセンターサークルに集まるが、吉澤だけが出遅れる。
ぎりぎりまでユニホームの上に着ていたTシャツを脱ごうとして、頭のところで引っ掛
かってもがいていた。
「慌てるなって。やってやるから」
ベンチの中澤が歩み寄って、吉澤のTシャツに手をかける。
黒いユニホームの上にTシャツが顔を覆う形になっていて、それでもがいている姿は
周囲の失笑を誘う。
センターサークル付近で保田はまたも左手で頭を抱えていた。
「吉澤、意外に緊張しいなんやな。こんな山奥のちっぽけな大会の一回戦に出る中の一人
の一年生なんてだーれも見てへんし、期待もしてへんって。いつもの吉澤みたく好き放題や
ったらええんちゃう?」
まるで園児をあやす保母さんのように、中澤は吉澤に言い聞かせる。
ゆっくりとTシャツを脱がせ、吉澤の顔が中澤の前に現れた。
「たのしくやってき」
そう言われても吉澤は、あいまいにうなづくだけだった。
「白、津和野、黒、市立松江で。それじゃ、フェアプレーでお願いします」
レフリーと、保田と相手キャプテンがそれぞれ握手を交わす。
そして、両チームがサークルを囲みそれぞれのマークマンについた。
「吉澤!」
保田が吉澤を怒鳴る。
「吉澤!」
「はい?」
「お前ジャンプだろ」
チーム最長身の吉澤が当然ジャンプボールを飛ぶ。
吉澤は保田のマークマンにつこうとうろうろしていたところ、頭をはたかれ中央に押し
込まれた。
試合が始まる。
重心を下げて吉澤も構える。
レフリーがボールを投げ上げた。
身長では吉澤が5cmほど高かったが、ジャンプのタイミングが合わず相手がボールを
コントロールした。
ボールは前に飛び、一人が走る。
そのままワンマン速攻の形になったが、シュートが外れリバウンドを保田が拾った。
試合展開はのんびりしたもの。
なかなか点は入らない。
二分過ぎ、保田が相手マークとの一対一から一本きめて先制。
それに対して津和野は、吉澤がマークについた相手が外に出てボールをもらいジャンプ
シュートを決めて同点に追いついた。
ゲームの流れより、さらにのろいのが吉澤の流れ。
センターポジションなら、基本的注意事項、三秒オーバータイムを二度も取られる。
最初のクォーターで、早くもファウルは二つ。
緊張すると足が動かなくなり、でも、なぜか手だけは反応して動くので、ファウルになってしまう。
得点はゼロ。
得点するどころか、保田の位置取りと重なって、邪魔になるケースさえあった。
総合力で見ると松江の方が上。
二クォーターに入って、点差が開き始めた。
その流れにも吉澤は乗れない。
自分が外したシュートのリバウンドに跳び、三つ目のファウルを犯した所でブザーが鳴った。
「吉澤」
保田が肩を叩く。
吉澤が振り向くと、保田はベンチを指差した。
「しばらく外から見てろ」
吉澤はそれに答えることなく、うなだれたままベンチに歩いて行った。
メンバーが替わり、市立松江は吉澤が加入する前の五人に戻る。
トップレベルとはいかないまでも、それなりのレベルのそれなりのプレイ。
慣れているリズムが戻ってくる。
一つ力が抜けている保田をはじめ、力で上回る松江が加点していく。
前半は25-12とリードして終えた。
吉澤はベンチでぼんやりとしていた。
そこに保田達が戻ってくる。
中澤のもとにあるペットボトルをそれぞれに手に取る。
「こういう時、タオルかなんか持って出迎えるもんじゃないのか?」
保田はそう声を掛け吉澤の隣に座った。
「あ、すいません」
「いいよいまさら」
立ち上がる吉澤に、保田は軽く言い放つ。
ペットボトルのお茶を一口含んだ。
「無茶無茶気の強い奴かと思ってたら、可愛いとこあるんだな」
保田はペットボトルを置き立ちあがった。
タオルで顔を拭く。
隣の吉澤は、座ったまま保田を見上げる。
「言い訳を一言どうぞ」
「言い訳ですか?」
保田が自分に何を言わせたいのか、イメージが出来ない。
戸惑ったまま保田の顔を見つめる。
「後半出たい?」
「そりゃあ、まあ」
「そう」
「使ってくれるんですか?」
「いや、最初はベンチ。試合展開見ながら考えるよ」
「そうですか」
それっきり言葉がつながらない。
保田は、転がっているボールを拾い吉澤の隣に座る。
コートでは、次の試合のチームがアップをしていた。
それを見つめたまま、二人とも沈黙。
まだ、なんでも話せるほどの人間関係は出来ていなかった。
まともに入部して一ヶ月。
それ以前のいろいろなぶつかり。
保田の方からは、一度も謝ってはいない。
初スタメンで硬くなった吉澤に、保田も何と言ってやれば良いのか分からなかった。
「三分前!」
ブザーが鳴り、レフリーがハーフタイム終了三分前を告げる。
同時に、アップをしていたチームが引き上げて行った。
保田は抱えていたボールを二回三回と弾ませてから立ち上がる。
「必ずどこかで使うから、体温めとけよ」
「はい」
それだけ言って保田はコートに出てシューティングをはじめた。
吉澤はそれをベンチで見送っていた。
三クォータースタート。
高校生の試合は十分かける四クォーター。
残りは二十分。
出だしもたついて十点差まで迫られるが、そこからはまたすこしづつ点差が開いて行く。
吉澤は中澤の隣で、そんな試合の光景を見つめていた。
「どうや、初ゲームの感想は?」
ベンチに座る中澤が、隣の吉澤に声をかけた。
「もうちょっと出来ると思ってたんですけどね」
「なんや、まともに会話できるやん」
吉澤は、意味が分からず中澤の顔を見つめる。
「いや、試合前とか、会話にならんくらいわけのわかんないこと言ってたから、それと比
べれば大分落ち着いたなって」
「そんなひどかったですか?」
「覚えてへんの? びびってなんかいますよって」
「そんなこと言ったんですか」
「ああ。もう爆笑やったで」
吉澤自身はそんなことを思いだせず、不満な気分でコートに視線を移した。
「何でも緊張するタイプか? 受験とか」
「受験は、そうでもなかったですけど。なんだろう。受験は別に、落ちても自分だけの問題
だし。だけど、試合はそうはいかないから」
「ええやつやなあ、吉澤って」
「なんですか突然」
「いや、言ってみただけ。まあ、そんなに気負わんでやれることやったらええんと違うか?」
三クォーターも残り三分という頃、保田がミドルレンジからのジャンプシュートを決めた。
点差が十八点に開く。
「ほら、なんか声ださんか。味方がナイスシュート決めたんやから。黙って見てないで」
「私、もう一回使ってもらえるんですかね?」
中澤の言葉とまるで関係無い問いを吉澤が返す。
フロアでは、味方ディフェンスがはじいたルーズボールを保田が必死に追いかけてベンチ
に突っ込んで来た。
中澤と吉澤の間くらいの位置に跳んで来たボールめがけ保田が飛びつくが一歩及ばない。
ちょうど二人の真ん中に倒れ込むような形に保田はなっていた。
「ナイスファイトです」
吉澤が腕を貸し引っ張り上げる。
保田は、にこりともせずにディフェンスに戻って行った。
「さっきの話しやけど、保田がまた出すって言うんなら出るんやないか?」
「でも、あれだけミスしといて」
「しゃーないやろ。初めて試合出た一年生なんやし。ただ、必死にやらんといかんのと違うか?」
「必死にですか」
「素人目だからわからんけど、なんかぼーっとしてる様に見えたで自分」
フロアでは、相手シュートのリバウンドを拾って、そこからの速攻が決まり点差が二十点
に開いたところで相手チームのタイムアウトとなった。
「お疲れ様です」
控えのつとめ。
飲み物とタオルをもって出迎える。
タオルを受けとって、顔の汗を拭った保田が言った。
「吉澤、行こう」
「私? メンバーチェンジですか?」
「なに驚いてんだよ、体動かしとけって言っただろ」
「はあ」
タイムアウトは一分。
慌てて吉澤はストレッチを始める。
「点差はあるから、気楽に。わかるな。気楽にだぞ」
「分かってます。大丈夫です」
さっきと違い、これからゲームに出るという場面でもちゃんと会話は成立している。
「三つやってるからファウルだけ気を付けて。あとは好きにやっていいぞ」
「分かりました」
「よし、それじゃ行こう」
三クォーター残り一分半。
二十点リードの場面で吉澤は再びコートに立った。
相手ボールでゲームは再開。
吉澤はインサイドのディフェンス。
相手の一番背が高い選手につくが、身長では五センチほど勝っている。
吉澤のマークマンにボールが渡ることはなく、相手のミスがあってマイボールとなった。
ガードがボールを運ぶ間に吉澤は上がってインサイドにポジションを取る。
明日以降を考えると、吉澤が使える目処を立たせたい保田は、吉澤に点を取らせようと
必死にお膳立てをする。
自分へディフェンスを引き付けたり、壁を作ったりして、なんとか吉澤をフリーにしよ
うとする。
今度は吉澤も、そんな動きにそれなりに合わせることが出来、ゴール下でノーマークに
なった。
そこにボールが入る。
ボールを受け、ジャンプシュートを打とうとした所に、少し離れた位置からディフェンス
がチェックに飛んでくる。
指先が軽く接触しながら放たれたシュートはリング根元に当たり落ちる、しかし笛が鳴り
相手ファウルでフリースローとなった。
「外していいからな。点差あるし。エアボールにならなければいいよ」
保田はそう言って吉澤の背中を軽く叩く。
エアボールとは、リングにもボードにも何も当たらずにシュートを外すこと。
これは普通のシュートでもやるとかっこ悪いし、ましてやフリースローでエアボールなど
恥ずかしいことこの上ないプレイである。
吉澤はフリースローラインに立ち、ボールを二度三度とつく。
一本目、リング手前に当たりボールは吉澤の元に跳ね返ってきた。
「ワンスロー」
残りは一投。
審判が人差し指一本を立てて、後一本であることを示す。
フリースローの練習は、何度もやってきた。
得意とはとても言えないが、練習での成功率は五割ちょっと。
二本打てば一本は入るはず。
一本目は短かったからすこし長めに。
そう、明確に意識して二本目のシュートを放った。
両手でしっかりと放たれたボールは、今度は奥のボードに当たり跳ね返ってリングに吸い込まれた。
吉澤の公式戦初得点は、本人の意図とは少し違う軌道を描いたボールで獲得した。
「よく決めた」
「ただのフリースローですよ」
「余裕出て来たじゃないか」
ディフェンスに戻りながら保田が吉澤に向かって左手を高い位置に差し出す。
吉澤はそれに答えて右手をパチンと合わせハイタッチを交わした。
「ディフェンス!」
「ハンズアップ」
戻った吉澤は声を出す。
それに呼応して保田も声を出す。
点を取り、欲が出て来た吉澤は、ディフェンスでも動きが積極的になり、パスカットを狙って行く。
ところが、今度はその勢いがあまって、四つ目のファウルを犯すことになった。
「よしざわ!!! ノーファウルノーファウル」
保田に怒られ、吉澤は肩をすくめ舌を出す。
後ファウル一つで退場。
それでも、ミスをしても、笑える余裕は出て来た。
三クォーターは43-20と大きくリードして終わる。
吉澤は最終クォーターに入ってもそのまま出場を続けた。
動きは序盤と比べて格段に良い。
このメンバーの中では頭一つ高いため、ボールはよく集まる。
それもあって、さきほどのフリースロー以外に、流れの中からフィールドゴールも二つほど
上げていた。
点差はさらに開く。
気分の良くなった吉澤は、ボールを受けると必ずゴールを狙うようになった。
リングからやや離れた位置でボールを受けた吉澤は、左へワンフェイクいれてからドリブル
で突っ込んで行く。
自分のマークをかわし、フォローが来た所で止まってジャンプシュートを放った。
ボールはリングに当たり高く跳ねる。
自分が打ったシュートのリバウンドに吉澤は飛びついて行くが、位置が良くない。
相手の肩にのしかかるような形になり笛が鳴った。
「黒9番、プッシング」
毎度のごとく、保田は右手を腰に当て左手で頭をかかえる。
吉澤自身は、バランスを崩して座りこんでいたコートの上で、寂しい笑みを漏らしていた。
ファイブファウル退場。
出場時間22分、得点5、リバウンド3、アシスト1、ファウル5。
吉澤の公式戦初ゲームはこうして幕を閉じた。
残りの六分間、ベンチから見つめていた試合は、結局58-32で勝ち、二回戦へと駒を進めた。
翌日。
一つ勝ち上がった所で待っている相手は、今年のインターハイに出ている出雲南陵。
去年、保田や市井が百点ゲームで負けたところである。
チーム内でただ一人、その強さを間近に見たことの無い吉澤は、コートでのアップが始ま
ると、相手サイドばかり見ていた。
「向こうばっかり何ずっと見てるんだよ」
ボールを小脇に抱えて保田が横に立つ。
視線の先には、シューティングをしている飯田がいた。
「どれですか? 五十一点」
「傷つくだろ。五十一点言うなよ」
「それで、どれなんですか?」
「一番でかいの」
やっぱりあれか、と吉澤は長い髪を後ろで束ねた長身選手を眺める。
ゆったりとしたモーションで、ミドルレンジからのシュートを何本も決めていた。
「今日は落ち着いているな」
「いつもは暴れてたりするんですか?」
「そうじゃなくて、吉澤がだよ」
「わたし?」
保田の方を向き、小首をかしげて自分を指差す。
「昨日のあがりっぷりと比べると、まともに会話出来るし、一試合でずいぶん違うもんだな」
「あー、なんか、強いとことやるのってわくわくするじゃないっすか」
「おーおー。頼もしいことで。まあ、あいつをマークするのは吉澤なんだから頼むよ」
「それは、無理かも」
飯田を見ていた吉澤の率直な感想だった。
当たり前である。
飯田は、全国レベルのプレーヤー。
対して吉澤は前日が初ゲームで、しかもファイブファウルで退場している選手。
まともに比較しようという方が間違いだった。
「ま、体、温めとけよ」
吉澤の肩をぽんぽんと叩いて、保田は去って行った。
改めて飯田を見つめる。
それから、逆サイドでシューティングをしている自分のチームと見比べる。
向こうは十二人、こちらは自分を入れて六人。
シュートはよく入る、こっちはたまに入る。
半笑いで首を横に振り、吉澤は自分達のコートに戻りシューティングをはじめた。
「今日勝ったら飲みに行くで」
試合開始直前、メンバーが集まったミーティングで中澤が言う。
あまりな言葉に、笑みを浮かべつつ保田が突っ込んだ。
「先生、この試合勝ったら、もう一試合あるんですよ今日。それに明日もあるんですって」
「細かいことはええから。まあ、頑張りや」
メンバーから笑いが漏れる。
相手は強敵。
だけど、試合を前にしての雰囲気は悪くない。
保田の仕切りで、掛け声と共に、スターティングメンバー五人がフロアに上がった。
試合が、始まる。
「よろしく」
飯田が保田に握手を求めてきた。
保田は飯田の顔をじっと睨み、握り返すが、飯田はどこ吹く風であっさりと手を離し、
今度はレフリーと握手を交わす。
一方は大一番、もう一方には長い道乗りの中のただの初戦。
保田も、飯田から目線を外し、レフリーと握手を交わした。
サークルの中央、ジャンプボールに構えるのは飯田と吉澤。
レフリーがボールを上げた。
ボールをコントロールしたのは飯田。
前線にはたく。
ガードが走っているが、保田はそれを読んでいてボールを奪った。
逆速攻の形で、保田はボールを前に送る。
そのまま五番をつけたガードがランニングシュートを決めた。
市立松江が先制した。
保田達はディフェンスに戻る。
速攻を警戒していたが、相手ガードはゆったりとボールを運んできた。
インサイドの飯田には吉澤がつく。
ハーフコートのマンツーマンディフェンス。
市立松江には、ディフェンスのオプションは他に無い。
出雲南陵側は、簡単にボールを回し、最後はインサイドの飯田に繋いで来た。
吉澤は、ボールが渡らないように前に出たい所だが、飯田に完全に背負われてその圧力
で何も出来ない。
ボールを受けた飯田は、ターンしてジャンプシュートを放つ所に、吉澤がすこし遅れて
チェックに跳んだ。
ジャンプシュートはボードに当ててきれいにリングに吸い込まれる。
さらに、吉澤のハッキングが取られ、フリースローが一本与えられた。
「吉澤、ノーファウル」
保田に言われ、すまなそうに右手を軽く上げる。
昨日のファイブファウル退場がチラッと頭をよぎった。
このチームで得点力が高いのはやはり保田と吉澤の二人。
そこにボールを集めたいのだが、そうするとインサイド勝負ということになる。
ゴール下にある飯田の壁。
それを越えてシュートを決めることが出来ない。
時折単発でミドルレンジからのシュートが決まることはあるが、それ以外に加点するこ
とが出来ずじりじりはなされて行く。
一クォーター残り二分を切る頃、飯田へのパスを無理にカットに行った吉澤が二つ目の
ファウルを取られた所でタイムアウトを取った。
出雲南陵リードで20-6
「やっぱ強いっすね」
おてあげ、という感じでベンチに座る。
周りのメンバーも同じ感覚だったが、保田だけが平然とした態度で発言した。
「まあ、わかりきってたことだけどな。やるまえからそれは」
「でも、どうしたらいいんですか、あんなの。ほとんど化け物ですよ。リングのお化けに似てるし」
吉澤の軽口で、周りのメンバーにも笑いが生まれ場はなごむ。
「二人でとめるか」
「保田さんと?」
「ダブルチームつけばなんとかなるだろ」
一人のオフェンスに二人でマークにつくことをダブルチームと呼ぶ。
一人に二人がつくと、当然、他の所にノーマークが出来る。
「一人フリー出来ても、あれをとめないとどうしようもないからな」
「オフェンスはどうします? 点とらないと追いつくのは無理っすよ」
「吉澤が飯田を連れて外にでて、広くなったインサイドで私が勝負でどう?」
「ついてこなかったら?」
「そしたら、吉澤に回してミドルから撃てばいいだろ」
このチームにはスリーポイントシューターがいない。
去年なら市井がシューターだったが、今は外から撃てる人がいない。
自然インサイドで勝負する必要が出てくるため、飯田のような絶対的なセンターがいる
チームは、とにかく苦手でもあった。
何とか立て直そうと試みる。
十四点差はまだ勝負にはなる点差。
お手上げ心理から少しは解放されたメンバーは、再びコートに散って行った。
飯田はフリースローの一本目だけを決めて点差は十五点に広がる。
二本目は、吉澤がリバウンドを拾った。
戻りが早く速攻は出せない。
セットオフェンスになり、タイムアウト時の指示どおりの形になった。
吉澤は外に開き、ゴール下をあける。
保田はハイポストの位置でボールを受けた。
ターンしてゴールに向かう。
シュートフェイクを入れた後ドリブルでディフェンスをかわした。
ノーマークになってゴール下に駆け込んだが、肝心のシュートを外してしまった。
「ディフェンス戻って!」
あまりに簡単なシュートを外したショックが一瞬保田の動きをとめる。
チームメイトの言葉が届くよりも、相手の上がりのほうが速かった。
戻りが遅れた分をつかれ、速攻を決められる。
十七点差。
残り一分を切る。
もう一度セットオフェンス。
同じ形を試みる。
しかし今度は、吉澤が外に開いても飯田はついて来なかった。
シュートそのものは外したが、保田の一対一の突破力は、インターハイレベルのチームから
見て警戒に値したということにはなる。
マークが離れている吉澤にパスが通る。
飯田がチェックに来る前に吉澤はジャンプショットを放った。
ボールはリング手前に当たり跳ね上がる。
落ちてきたボールを飯田が取るが、そこに吉澤が遅れて飛ぶ。
当然ファウルを取られ、出雲南陵ボールとなった。
「だから、ノーファウル言ってるだろ!」
前日の五つ目のファウルとまったく同じパターン。
シュートを外して、遅れてリバウンドに跳んでファウル。
センタープレーヤーの最もやってはいけないパターン。
これで、早くも三つ目のファウルとなった。
一クォーター、結局さんざんにやられ、27-8とリードされて終わる。
その上、保田がファウル二つ、吉澤に至っては三つもファウルを犯していた。
ベンチに戻ったメンバーの空気が重くなる。
ばっちり作戦にはまったプレイで保田がシュートを外したのがかなり悪影響を与えていた。
「次も同じように行こう。今度は決めるから」
そう言うのが精一杯だった。
二クォーター。
実力差がある上に流れもつかみ損ねている。
点差は開くばかり。
ただ、三分過ぎに二十五点まで開いた所で、飯田がベンチに下がった。
そこで少しだけ余裕が生まれる。
ゴール下の攻防が楽になった分、オフェンスもディフェンスも保田、吉澤が自信を
持ってプレイしだす。
そこからの五分間に二人で十点を決め、さらに他のメンバーのゴールも決まり十七点
まで点差を詰める。
しかし、そこまでだった。
飯田が再度コートに出てきて、流れが止まる。
一クォーターの終わりと同じ、ダブルチームの作戦でなんとかとめにかかる。
点差が開いた分飯田も無理には攻めて来ないが、簡単にはとめられない。
二クォーターの間に保田も吉澤も一つづつさらにファウルを犯し、保田が三つ、吉澤は
四つまでファウルを積み上げていた。
結局、48-25と大きくリードされて前半を終えた。
ベンチに戻ってくるメンバーの表情は暗い。
それぞれが無言で汗を拭きドリンクを口にする。
ボトルを足の間地面に置いて、うつむいたまま吉澤が口を開いた。
「保田さん、フリーのゴール下は決めて下さいよ」
別に、大した意味はなかった。
ベンチに座ってタオルを拾い上げて最初の軽い言葉。
誰かが何かしゃべった方が良いかな、と思って何となく口にしただけだった。
「うるさいな。あんただってフリーのミドル何本も外しただろ」
ベンチに座り、両ひじを膝に置いて保田はうつむいていた。
うまくいかない苛立ちが、そのまま言葉に乗っている。
保田の言葉のきつさに、吉澤も表情を変え、眉をひそめて保田の方を見た。
「なんすか、それ。保田さんが最初に外したから、こっちもリズム合わなくなったん
じゃないですか」
「人のせいにしてんじゃないよ。大体、ディフェンスも無駄にファウルがかさむばっか
りで全然止められてないじゃないか」
「化け物みたいのが相手なんだからしょうがないじゃないですか」
そこまで言って、吉澤はタオルをベンチに叩き付けてから立ちあがった。
「どこ行くんだ?」
「顔洗って来ます」
売り言葉に買い言葉、険悪さが増していく会話を、吉澤は打ち切った。
更衣室に向かった吉澤は、言葉の通り洗面台で顔を洗う。
それから、頭を突っ込んで直接水をかけた。
いらいらを頭から追い払いたい。
頭を冷やして冷静になって、なんとかしたい。
水をかぶる。
頭から水をかぶる。
やがて、洗面台から顔を上げた。
鏡に映る自分の顔をじっと見る。
水びたしで髪も乱れた吉澤の顔。
鏡の向こうの自分に向かって小さくうなづく。
それから、タオルで顔を拭いて、髪を後ろへと持って行く。
短めの髪をオールバックにした吉澤が鏡に映った。
そのままコートへと戻る。
吉澤が戻ると、レフリーが一分前を告げていた。
「遅いぞ」
保田はそう言ってから吉澤の顔を見て、チラッと表情を変える。
それ以上は何も言わなかった。
後半が始まる。
メンバーは前半とかわらない。
出雲南陵も、飯田を再びコートに送り込んできた。
開始直後から出雲が攻めたてる。
元々の実力差、さらに、ファウルがかさんでいる吉澤や保田では止める手立てがない。
オフェンス面は、保田がなんとか個人技で得点する場面はあるが、吉澤の方はまったく
決めることが出来ずにいた。
あまりのなすすべの無さにいらいらがつのる。
五分過ぎ、点差が三十点に開いた所でタイムアウトを取った。
ベンチに戻ってきた吉澤は、受け取ったタオルで汗を拭くと、苛立ち紛れに椅子にタオル
を投げつける。
頭をかきむしりつつ落ち着かない様子で歩き回っていた。
「何やってんだよ、話し聞いてるか?」
「聞いてますよ」
「じゃあ、なんて言ったか言ってみろよ」
保田の話など聞いているはずもなかった。
「うるさいですよ一々一々。保田さんの言うとおりにやったって、全然うまく行かない
じゃないですか!」
「じゃあ、何とか言ってみろよ! うまく行く方法があるなら言ってみろよ!」
「ちょいまち。もめてる場合じゃないやろ二人とも」
「先生は黙ってて下さい!」
メンバー全員フラストレーションがたまっていた。
争いを止めに入るものはいない。
中澤も、結局名前だけの顧問であって、信頼を置かれていないため、試合の最中に何を
言っても無駄なだけだった。
チームが崩壊した状態のまま試合は再開される。
エンドラインからガードがボールを運ぶ。
吉澤は、何かを叫び出したいような感情を抱えたままゴールしたで飯田のマークを受けていた。
そこからアウトサイドへ出てきて、大声でボールを要求する。
呼ばれたからという理由だけで、無意図に供給されたボールを受け、吉澤はターンし飯田に正対する。
シュートフェイクを一つ入れて、右でドリブルを付き切れ込んだ。
飯田はしっかりと対応し付いて行くが、吉澤は感情の赴くままにかまわず突っ込んでいく。
ショルダーチャージのような形で、飯田を押し倒し、自分もバランスを崩した所で笛が鳴った。
「オーフェンス、チャージング! 黒9番」
フロアの上に吉澤は座り込む。
先に体を起こした飯田が手を差し伸べ、吉澤を立ちあがらせる。
ファウルを受けた側がした側を助け起こす不思議な光景。
吉澤は、それでも礼さえも言うことはなかった。
「黒9番、ファイブファウル退場になります」
そう宣告され、吉澤はふてくされた表情をしたままベンチに向かう。
そんな吉澤を慰めたりいたわったりするメンバーはいなかった。
代わりの選手が入り試合は続く。
吉澤はベンチにぼんやりと座りほとんど見ていなかった。
飯田のマークには保田がつく。
しかし、その圧力にどうすることも出来ず、四クォーターの四分過ぎに吉澤に続いて
ファイブファウルで退場となった。
吉澤はこの時初めてまともに顔を上げると、ベンチに戻ってきた保田に言った。
「自分だって大したこと出来ないんじゃないですか」
保田は、それには何も答えなかった。
試合は松江のメンバーが四人になって続き、最終的には103-47の大差で敗れた。
終了後、試合に出ていた出雲南陵のメンバーがベンチサイドに挨拶に来る。
試合終了時の慣例。
そこで、四番を付けている保田を前に飯田が言った。
「去年四番付けてた子どうしたの? 二年生ですよねまだ?」
自分を見下ろしてそう聞かれ、保田は飯田の胸元あたりに目線を落として答えた。
「今は、留学してていない。来年春に戻ってくる」
「そうなんだ」
それだけ聞いて、飯田達はベンチに帰って行く。
保田は、目の前に転がっているボールを蹴りつけた。
試合後のミーティング。
他のチームの行きかう廊下の隅で行なわれる。
試合を見ていなくても、勝ったか負けたかは、通って行く人には一目瞭然な空気が覆う。
キャプテンの保田は、重い口を開いた。
「もうちょっと、なんとかなるかと思ってたけど」
口は開いたけれど、言葉が続いて行かない。
何を言っていいのかわからない。
感情の整理もつかない、
そんな負け方だった。
「あー、なんかある人いる?」
誰からも反応はない。
どの顔もうつむいていて、保田と目線を合わせるものはいなかった。
「吉澤、なんかない? こうしたらよかったとか」
「無いです。別に」
「なんだよ、その言い方」
足元を見たままはきすてるように言う吉澤に、保田も突っかかる。
「最後のファウルはなんなんだよ。ストレス発散でバスケやってるんじゃ無いんだぞ。
あんなプレイしたらファウルになるの分かりきってるだろ!」
「保田さんだって、退場になったじゃないですか」
「そういう問題じゃ無いだろ!」
「人のこと言うんだったら、自分が出来てから言ってください」
保田は吉澤から視線を外しため息をつく。
舌打ちを一つしてから言った。
「お前もう来なくて良いよ。そんなことしか言えないんだったら」
「ああ分かりましたよ。来ませんよ。頼まれたって来るもんか」
「ちょっと待ち二人とも。なんでそんなに内輪でもめなあかんのや」
「先生は、何にもわかんないんですから黙ってて下さい!」
「去年は意見は別れてもそんなけんかにはならんかったやろ」
「先生まで紗耶香がいなきゃだめって言うんですか! 私じゃダメだって言うんですか!」
「なにもそんなこと言ってへんやろ」
感情がそのまま表に出て来た保田の声。
中澤が止めに入っても火に油を注ぐだけだった。
「もういい、ミーティング終わり。解散」
投げやりにそう言って自分のカバンを持ち保田は去って行った。
メンバーも口を開くことなく三々五々に引き上げて行った。
試合から三日が過ぎた。
吉澤は、体育館に一度も現れない。
以前のような五人での練習が続いている。
すこし変わったのは、中澤が顔を出す時間が増えたこと。
練習中、保田は自分から吉澤のことを口にすることは無かった。
「なあ、ええんか? このままで」
練習終わり、中澤が保田に声をかけた。
「何がですか?」
「吉澤のこと」
「練習出て来ない奴なんかどうでもいいですよ。それより先生、ちゃんとバスケ覚えません?」
「あー、そやなー。保田に負担かけすぎやしなあ。なんとか采配出来るくらいには頑張ってみたいんやけどな」
保田と中澤は、試合後のミーティングで互いに嫌なことも言っていたが、何事もなかったように会話を交わしている。
それぞれに気にはしていたが、それを引きずってしまわない程度には大人だった。
吉澤は、練習に出ずに帰宅する日が続いていた。
転校して来て、すぐにバスケ部に押しかけるようになった。
そんな吉澤には、部活をせずに一緒に帰るような友達はいない。
引っ越してきて二ヶ月足らず、一人で町を歩くにも当てがない。
家に帰ってぼんやり過ごすしかなかった。
暇だ・・・。
ベッドにころがってそうつぶやく。
ゲームを引っ張り出してきてやってみたけれど、それも三日で飽きた。
することがない。
机に手を伸ばし、携帯を取る。
ポタンをいじりつつ液晶画面をみつめた。
家の電話も持ってくると、やがて、一人の相手を選んで液晶に映った番号を家の電話でかけた。
「よっすぃー?」
「おー、ごっちん元気かー?」
「あれ? 練習は?」
まだ五時前。
部活をやっていれば普通に練習がある時間。
「うーん、ちょっとねー」
「あはは、なんかあったな」
あいまいにごまかそうとする吉澤に後藤は鋭く突っ込む。
吉澤は、電話を片手にしたまま頭を掻いた。
「いやー、あははは」
「笑ってごまかそうとしてるな。まあいいや。そう、試合どうだった?」
後藤は話題を変えてみる。
しかし、吉澤としては、全然話題が変っていない。
「あー、負けた」
「そっかあ。どこまで行ったの?」
「二回戦」
吉澤の口は重い。
そんなことを話したくて電話したんじゃない、という気持ちが強かった。
「なんだよー、優勝して東京行くからなんて言ってたくせにー」
「そんなに簡単じゃないんだよ!」
優勝すれば県の代表として、東京体育館で開かれる選抜大会に進むはずだった。
後藤のなんの気ない言葉に、吉澤は次第に不機嫌になっていく。
「試合でなんかあったの?」
後藤の問い掛け。
吉澤の答えが帰って来るまでにすこし間があった。
「二試合続けてファウルアウトした」
ぼそぼそと答える。
思い出したくもないこと。
「相手強かったんだ」
「強かった。どうにもならなかった。勝つ負ける以前に全然試合にならなかった。先輩に
は怒られるし、だけど怒ってる先輩も何も出来ないでやられてるだけで、なんであんたなん
かにそんな言われなきゃなんないんだって腹立つし」
「うんうん」
思い出したくなかったけれど、誰かに聞いてほしかったこと。
誰かに話したかったこと。
後藤は、ときおり相槌を入れながら吉澤の話しを聞いていた。
「チームはボロボロに負けて、雰囲気最悪で、それはかなり私のせいで、その上けんかも
してもう来るなとか言われて」
そこまで話して言葉に詰まる。
後藤は、静かに吉澤に言った。
「それで練習行ってないんだ」
まさにその通り。
吉澤は答えを返すことが出来ない。
「かっこわる」
吐き捨てるように後藤が言う。
吉澤は、あまりの言葉に、何も言えなかった。
「気持ちは分かるけどさ。あれだけさんざんいじめられても練習行ってたよっすぃーがど
うしたの? って感じだよ」
「ほっといてよ。ごっちんにはわかんないよ! スポーツも何もやってないんだし」
そう言われて、後藤も言葉をつなげない。
黙りこんだ電話の向こう側に、吉澤は少し冷静さを取り戻して言った。
「ごめん、言いすぎた」
「あー、ごとーも言いすぎたかも」
それだけ言って、お互い電話を持ったまま黙り込んでしまう。
言葉をつなげられなかった。
「ごめん、なんか他の話しよう?」
「いや、いいや、ごめん。またかける」
「ごめんね、余計なこと言って」
「うん、ごめん」
互いに謝る言葉ばかりが出てくる。
雰囲気の悪いまま、電話を切った。
吉澤は大きなため息をつく。
持っていた携帯をテーブルに置いた。
立ち上がり、家の電話を充電器へ。
戻ってくるとベッドにうつ伏せになり、ふわふわの枕に顔をうずめた。
夜、中澤は一人で暮らす部屋に帰った。
京都出身でいながら、教員採用試験の倍率が低そうという理由で島根を受験し、目論見どおり合格した。
慣れなかった一人暮らしも二年目に入り、ようやく板について来ている。
それでも、一人の夜に電話が手放せなかった。
今日も、番号を手繰る。
いつもはかける相手を迷いながら選んでいるが、今日は迷うこと無く一人の友人にかけた。
暇つぶしではなく、今日は目的があった。
「裕ちゃん?」
「おお、裕ちゃんやでー」
「もう酔ってるの?」
「失礼な、シラフやっちゅーねん」
確かに、酔って電話することも多いが、今日の場合は正真正銘、一滴も飲んでいない。
「めずらしいな、シラフで電話して来るなんて。結婚の報告でもあるんか?」
「アホ。ちゃうわ」
「なんだ。ただ暇なだけか。こっちは、締め切りで忙しいんやけど」
「ああ、いや、ちょっと相談があったんやけど、忙しいんか?」
「うーん、原稿書いてるのは確かだけど、家におるからちょっとくらいなら大丈夫やで」
中澤は、その言葉を受けてすこし考えたあと切り出した。
「あんなあ、バスケ部の顧問やってる言うたやろ、名前だけやけど」
「なんや? 生徒に手だしたんか?」
「アホ、違うは。大体女子部やから」
「年下の同性に手だしたんか? 裕ちゃん見境なしやな」
「アホ・・・ もう言葉もないは」
「悪い。悪い。ホントのこと言ったらあかんかったな。それで、相談って?」
なかなか本題に入れない。
長い付き合いが、会話に遊びを生みすぎる。
それでも、ようやくまともな話しに入った。
「あっちゃん、スポーツ雑誌の記者やっとるんやろ?」
「うん。まあな」
「うちなあ、名前だけの顧問やんか。なんかな、それが生徒に負担かけてるみたいで。
ちゃんとな、指導とか試合の采配とかな、出来るようになりたいんやけど。どうしたらえ
えんかな思ってな」
この前の試合後、保田に言われたことがどうしても気になっていた。
「バスケのこと分からないから黙ってて下さい」
理不尽な言葉ではあったが、中澤としては耳の痛い言葉。
力になってやりたいと思った。
「ルールくらいは頭に入ってるの?」
「三歩歩いたらあかんとか、その位は」
「厳しいなあ・・・」
三歩歩いたらトラベリングと言う反則。
バスケのルールの初歩の初歩。
一番有名なルール。
それしか分からない人間が、ちゃんとした顧問になるには道乗りは遠い。
「とりあえず、分かり安いルールブックと、うちの雑誌のバックナンバー見繕って送るは」
「ありがとー、恩に着るはあっちゃん」
「何年かかるか分からんけどな、頑張りや。付きあったげるから」
「たすかるはー」
「そのかわり。新コーナー考えちゃった。ルールも知らない新米教師がチームをインター
ハイ制覇に導くまでの連載コラム。これで、一発当てて、人気ライターになるぞー」
「勘弁してや。インターハイて・・・」
電話の相手は、雑誌記者の稲葉だった。
高校のトップレベルともきちんと人間関係を作って取材が出来る記者である。
最初に、中澤が名ばかりとは言え顧問を引き受けた時も、その影では稲葉が強く中澤を
説得していた。
「あのね。いいこと教えてあげるよ。選手経験が無くても指導者になることも出来るの。
テニスやゴルフのトッププロ、親がコーチのことが結構あるけど、その親はただの素人なこ
ともあるし。高校だと、新任で押し付けで陸上部の顧問やらされた英語の先生が駅伝で全国
制覇したこともあったかな。何年もかかったけどね」
スポーツで生徒を集めるような学校以外では、部活動の顧問は、教師の片手間で、ある種
の善意で運営されているようなことが多いのも現状。
そんな中、一教師が実績を積み上げていくと、そんな例が生まれることもある。
「頑張りや。今度取材に行くは。まあ、一回戦とかじゃ困るけど、上のラウンドまで来れ
ば取材費も出ると思うから。勝ちあがってよ」
「そればっかりはなあ・・・。うちやなくて生徒達次第やから」
「何言うてるんよ。名前だけじゃない顧問になるんやろ。裕ちゃんもがんばらな」
「ああ、そうかあ。そやなあ」
力なさげな中澤の言葉。
自信一、不安九十九といったところ。
それでも、自分もやってみよう、頑張ってみようという気持ちにはなっていた。
稲葉は、書籍の送付を約束し、原稿が忙しいからと電話を切った。
電話を置いた中澤は、早速冷蔵庫に向かい、冷やしていたビールとグラスを取り出していた。
翌日も体育館に吉澤の姿はなかった。
二年生五人がストレッチをしている。
今日も顔を出していた中澤が保田に声をかけた。
「落ち着かないみたいやな?」
「何がですか?」
「入り口ばかりさっきから見てるのは気のせいか?」
「気のせいですよ」
冷たく答える。
中澤の目は見なかった。
「このままでええんですか? キャプテンの保田さん」
「何がですか?」
「とぼけるねえ。吉澤のこと」
「知らないですよ、練習出てこないやつなんか」
「意地はらんほうがええんと違うか? 心配なんやろ」
「知らないですってだから。はい、ランニングー」
何かにせかされるように、保田は練習開始を指示した。
そのころ吉澤は体育館の入り口にいた。
先輩達がいなくなった頃を見計らって部室へ行き着替え、ここまで来た。
だけど、なんとなく入りづらい。
閉じられた鉄の扉をぼんやりと見つめる。
体育館の中からは、ボールの弾む音が聞こえている。
吉澤はため息をついて背を向けた。
二階にある体育館入り口から、グラウンドをながめる。
手すりによりかかった見つめる先では、陸上部がランニングしている。
グラウンドの端の方からは、ソフトボール部の掛け声が聞こえてきていた。
突然、扉が開いた。
扉が開く音で吉澤が振り向くと、そこには中澤が立っていた。
「よしざわ・・・」
中澤が声を上げる。
吉澤は、視線を落とした。
しばらく二人ともそのまま硬直していたが、やがて中澤が吉澤の手を取った。
「中、入りや」
左手首をひっぱり、体育館の中へ引きずり込む。
吉澤は、何も答えず少しよろけながら中澤に引かれ体育館に上がった。
「よしざわ・・・」
アップの足を止めて保田がやってくる。
吉澤は、保田の目も見れなかった。
うつむいて立ち尽くす。
二人ともそれっきり無言。
そばに立つ中澤も何も言わない。
最初に口を開いたのは保田だった。
微妙に吉澤から視線を外して言った。
「悪かったな」
そう言われて、吉澤が顔を上げた。
「あー、あのー。うん。私も、いろいろ言いすぎた。負けていらついてたとかあって、当たる
ようなことも言ったし。うん。悪かったな」
持っていたボールを右手に左手に持ち替えたり、落ち着かない様を見せながら保田が言う。
すこし沈黙がある。
吉澤は、また視線を落として何も言わない。
そんな吉澤の背中を、中澤が軽く叩いた。
「なんかあるやろ、吉澤も」
中澤に促され、吉澤はうつむいたまま言った。
「下手なのに、生意気言ってすいませんでした」
ぼそぼそと、やっと聞き取れる程度の声。
それだけ言ってまた黙り込んだ吉澤に保田が語りかける。
「練習するか?」
吉澤は、小さくうなづいた。
すこし暗い顔をしながらも練習を始めようとする二人。
そこに中澤が口を挟んだ。
「ちょっと待ち。いい機会だから、保田からもう一言詫びてもらおう」
「私ですか? あ、先生には、うん、ちょっと」
「うちにやなくて、吉澤に」
何を? と理解出来ない顔で二人は中澤の方を見る。
「吉澤が来た時のこと」
中澤の言葉で、保田は何度もうなづく。
吉澤に、一言侘びを言った直後なので、素直に言葉を出すことができた。
「あれも、私が悪かった。謝るよ。って、なんか、謝ってばかりで私、極悪非道みたいだな」
自虐的な笑みを浮かべる。
吉澤も、それに答えるように薄く笑った。
「じゃあ、ついでに私も。名ばかりの顧問で悪かったな。特に、保田には負担掛けて。
どこまで出来るかわからんけど、バスケの勉強することにしたから」
二人は中澤の方を見る。
さっきまでと違う視線を受けて、中澤はすこし照れながら言った。
「だから、そんな期待した目で見るなって。どこまで出来るかわからんて言うてるやろ」
「いやいやいや。先生、期待してますから」
「あんまりプレッシャーかけるなや」
へなへなと、力の抜けて笑いを見せる中澤に、空気が和む。
メンバーそれぞれの顔に笑顔が戻った。
「はい、じゃあみんなすっきりしたとこで、練習始めや」
「そうですね。新人戦もしばらくしたら始まるし、練習しよう。改めてランニング!」
保田が、吉澤が、各メンバーが走り出す。
チームは、一ヶ月先にある新人戦に向けて、新しいスタートを切った。
その夜、久しぶりの練習にぐったりし、ベッドに横になっている吉澤のもとに電話が入った。
「はいはいはいはい、今取りますよ」
ぶつぶつ言いながら、ベッドに横になったまま腕を伸ばし、テーブルの上の携帯をとる。
仰向けになり、左手に電話を持って、液晶画面を確認することも無く通話ボタンを押した。
「はい、もしもし」
「おー、よっすぃー、元気かー」
「や、やぐちさん!」
吉澤はベッドから跳び起きた。
「久しぶりー。元気かー」
「はい、お久しぶりです。吉澤は元気にやってます。やぐちさんこそお元気ですか?」
「ははは、そんな硬くなるなって」
ベッドから立ち上がった吉澤は直立不動。
別に、すごく体育会系というようなチームではなかったけれど、久しぶりに聞く矢口の声
に、吉澤はなぜか緊張していた。
「そっちはどう? バスケやってる?」
「はい。楽しく生きてます」
吉澤が転校してからの初めての連絡。
矢口の声も明るい。
「どおなのよ島根って。田舎ってイメージしかないけど」
「田舎っすよー。東京とは違いますよー。でも、結構私は好きですね、こういうのも」
「そうかー。練習は? ちゃんと出てる?」
「えー、あははー。今日も練習してきましたよー。もうぐったりっす」
くちごもりながらも、嘘ではない。
「ホントかー? 練習サボってたりとかするんじゃないのかー?」
「いやー、あははー」
あまりに図星過ぎる質問に、返す言葉もない。
「今日はどんな練習したんだよ?」
「えー、いやー。基礎っすよ基礎。三角パスとか、ツーメンとか、五人速攻とか。選抜
予選負けちゃったから、チーム建て直し中っすね」
「あー、うそじゃないみたいだなー。今日練習出たっていうのは」
「えー、嘘じゃないっすよ。当たり前じゃないですか。矢口さんに嘘つけるわけない
じゃないですか」
「あー、あのさー」
矢口の言葉が不意に途切れる。
電話の向こうで表情が見えないだけに、吉澤もリアクションが取れず、続きの言葉を待った。
「後藤って子に聞いたんだよね」
「え? ごっちん?」
「あー、ごっちんって言うんだ、あの子。あの子にねえ、よっすぃーがなんかあったらし
いって聞いたんだよね」
「ごっちんのやつ余計なことを。矢口さんにまで迷惑かけてすいません」
「んなことはいいんだよ。それより、ちゃんと練習出るようになったんだな」
「はい。今日練習出て、ちゃんと仲直りしました」
「よし、それでこそ私のよっすぃーだ」
「私のってなんすか」
「あはははは」
矢口は笑ってごまかす。
ポジションはまったく被ることのありえない二人は、良い先輩と後輩だった。
「でも、心配したんだぞホントに。元気そうで良かったよ」
「すいません」
「いや、私はいいけどさ。後藤って子がすごい心配してたぞ」
「矢口さんのとこに行ったんですか?」
「うん。なんか、すげー可愛い子だな。矢口は気に入った」
「じゃあ、勉強見てやって下さいよ。ごっちん、あんまりそっちの方、うーんって感じだから」
「よっすぃーが言うなって感じだけどな」
「そうっすね」
バスケだけでなく、勉強の面でも吉澤は矢口先輩に頼っていた。
保田さんは、そのへんどうかな? なんて、矢口と話しながらちょっと考える。
久しぶりの師弟の会話は弾んだ。
小一時間ほど話した頃、電話の向こうで矢口が親に何やら言われ、ぶつぶつ言いながら電話を切った。
ベッドに座って話していた吉澤は、電話を置くと立ち上がる。
「吉澤ひとみ、16歳。これからも頑張ります!」
誰もいない部屋で、手を上げて宣誓する。
それだけしてから、なんだか恥ずかしくなってベッドに飛び込み、顔を枕で覆った。