ファーストブレイク
第三部
「福井の春江四中出身の高橋愛です。希望のポジションはポイントガードです。石川梨華さんに
憧れてここに来ました。頑張りますのでよろしくお願いします」
おー、と先輩メンバーの中からどよめきが起きる。
注目を浴びた石川は、照れた笑みを見せていた。
「じゃあ、次」
「は、はい。えー、えーと。新潟の、柏崎南中から来ました。おが、おがわ、まことです。
えっとー、希望のポジションは、えっとー、ポイントガードです。あ、あのー、柴田さん、
に、憧れてます。チームの中心になれるように頑張ります」
もう一度、おー、とどよめく。
先輩メンバーの中にいた柴田は、笑みを浮かべながら、右のコメカミをぽりぽりと掻く。
「よろしくね」
恥ずかしそうに、柴田がそう言うと、小川は何度もうなづいていた。
富ヶ岡高校に新しく入ってきた一年生の中で、地方から出て来たのはこの高橋と小川の二人だけ。
県立高校である富ヶ岡は、これまでは近隣の生徒達だけで練習を積んで結果を出してきた。
二人は、初めての地方出身のメンバーである。
親元を離れてまでバスケをしにくることはない、とコーチである和田は最初は二の足を
踏んでいたのだが、結局最後には受けいれた。
決め手は、二人のプレーぶりだった。
新チームではガードが弱い、というのが分かっている中で、ポイントガード希望の即戦力
の一年生が入ってくるという誘惑に、結局和田は打ち勝てず、二人を受け入れることとなっ
た。
高橋と小川の二人は、和田のつてで同じアパートにそれぞれ一人暮らしを初めている。
一年生を迎えての最初の練習は、いつもと空気の動きが違う。
一年生は張り切ったり硬かったり。
上級生はどうしても一年生を意識する。
特に、二年生はそうだった。
初めて迎える後輩達。
いつもと同じ気持ちで練習に入りこめるわけがなかった。
「なんか、いつもの倍疲れたよね」
練習終わり、フロアにモップがけしながら隣に並ぶ柴田に向かって石川が言った。
「高橋さんのこと、すごい意識してたでしょ」
「柴ちゃんこそ、小川さんだっけ? 意識してたでしょ」
「まあ、ねー。そりゃあ、ちょっとはさあ」
そんな会話を交わしながらモップがけをする二人のもとに、高橋が走ってやってきた。
「あ、あの、私やります。モップがけやります」
「いいよ。まだ、一年生は本入部じゃないから。仮入部期間は雑用もまだ二年生がやるし」
「いえ、私、絶対入部しますから」
「まあ、そりゃあ、入るだろうとは思ってるけど、でも、ルールだから」
石川がやさしい先輩を演じて高橋にそうさとしていると、今度は小川がやってきた。
「モップがけやります」
「いや、だから、いいって一年生はまだ」
「やります。やらせて下さい」
「いいから。二人はシューティングでもしてなさい。それか、1on1でもやったら?」
今度は、柴田が優しいお姉さん。
目の前の小川が、自分に話しているのに、視線がちらちらと高橋の方を見ているのが
おかしくてたまらなかった。
先輩に丁重に断わられた二人は、それぞれにボール拾い、別々のリングに向かってシューティングをはじめた。
「熱いねー、二人とも」
「早くも、火花バチバチって感じ?」
先輩になった二人。
初々しい一年生を見て笑みを浮かべる。
一年生にばかり練習させてられないと、モップがけを手際よく片付け、自分達もシューティングをはじめた。
「はい、今日からみなさんは二年生になりました。それで、えー、転校生とは違うのですが、
紹介したい人がいます」
全国どこでも四月になれば一つ学年が上がり新学期が始まる。
二年生になった吉澤の最初のホームルーム。
めずらしく吉澤が起きて聞いていると、新担任がそんなことを言い出す。
廊下から教室に入ってきたのは、セミロングの髪で芯の強そうな少女だった。
「初めまして、な人とそうでない人といますが。一応。初めましてってことで。一年間
イギリスに留学してて、三年生として帰ってくるはずだったのですが、まあ、勉強の方が
ちょっと不安感じたので、二年生をちゃんとやることにしました。市井紗耶香です。よろ
しく」
出席番号一番最後、廊下側一番後ろで聞いていた吉澤の目が点になる。
これが市井紗耶香か・・・。
ある意味では、ここに転校して来て苦労させられた元凶とも言える存在。
一年間、不在の存在感を撒き散らしていた人である。
帰ってくるのは分かっていたが、まさか一学年降りて自分のクラスに来るとは想像もしていなかった。
なんて呼んだらいいんだ???
取り扱いの切実な問題。
先輩なのか同級生なのか。
新学期早々、頭の痛い問題が吉澤に降りかかった。
午前中だけの始業式が終わり、午後は普通に部活がある。
当然、市井紗耶香もそこに参加してくる。
八人での練習は、一年生が入って来るまでのわずかな期間。
すこし遅れて体育館に向かった吉澤は、フロアに足を踏み入れた時に、なんだかいつもと
違う感覚を覚えていた。
「ねえねえ、よっすぃー、市井さんと同じクラスなんでしょ?」
「うーん、まあね」
吉澤が少し遅れて体育館に入っていくと、市井を囲む三年生の輪に入れず、一人外れていた
あやかが駆け寄る。
「どんな感じの人なの?」
「まだ、わかんないよ。話しもしてないし」
クラスでは、市井に対して話しかけることも名乗ることもしなかった。
体育館の隅でストレッチをしながらあやかと二人、市井とそれを囲む輪を見つめる。
保田が上機嫌だった。
しかめっ面の多い保田が、笑顔をふりまいていた。
いつもと違う感覚はこれか、と吉澤は気づく。
自分が見られていることに気づいた市井が、二人の方へと歩み寄ってきた。
「初めまして。名前位は聞いてると思うけど、市井紗耶香です。よろしく」
「吉澤です」
「木村あやかです」
仏頂面をしたまま吉澤は軽く頭を下げる。
私はあなたの品定めをしています、という心理が表情にもろに現れていた。
「じゃあ、みんなそろった所で練習始めようか」
「あー、私、別メニューでいいかな?」
満面の笑みで指示を出す保田に、市井が言う。
「一年間何もして無いからさあ、いきなり合流はきついんだよね」
「じゃあ、紗耶香は任せるよ」
「うん。アップだけ一緒で、後は抜けるから」
楽しそうな二人の会話を、吉澤は冷ややかに見ていた。
ランニング、フットワーク、いつものメニューをこなして行く。
そこまで終えると市井が抜けて、結局いつもと変わらない七人での練習に。
自分のメニューをこなしながら、吉澤は常に市井を目で追っていた。
市井は、中澤に相手してもらいながらボールの感触を確かめるような練習をしている。
対面パス、ドリブル、ランニングシュート。
どれも基礎の基礎で、入りたての一年生が行うようなメニュー。
それを淡々とこなしている市井を見つめながら吉澤は思う。
うまい、ような気はするけど・・・。
トリッキーなプレイを市井は見せていた。
ランニングシュートで、腰の周りでボールを一周させてからシュートする。
ドリブルで、背中を通すバックチェンジを軽やかに入れる。
対面パスではノーモーションで手首だけでパスを返している。
確かに、吉澤には出来ないプレイもあり、技術はありそうで、うまいんだろうなあ、とは思わされる。
ただ、理由は分からないけど、なんとなく、インパクトを感じなかった。
観察しているのは吉澤だけではない。
市井の方も同じだ。
市井は、吉澤とは違い、ちらちら見るようなことはなく、堂々と自分の手を止め、メンバー達
の練習を見つめる。
その見つめる先は、まだ未知の二年生、吉澤とあやかだった。
見られている、という意識が吉澤のプレイを硬くしミスを増やす。
インサイドでのプレイは、三年生をはるかにしのぐ迫力があるし、確かにうまいけど、でも、
今日なら勝てるかな、というのが市井の印象だった。
練習終わり、保田と笑顔で言葉を交わしながら、ボールを抱えた市井が吉澤に近づいて行く。
怪訝な顔をしている吉澤に市井が声をかけた。
「うまいじゃん」
いきなりそう言われ、吉澤は戸惑った表情を見せつつ答える。
「いや、そうでもないっすけど」
「圭ちゃんに聞いたよ。一年生で入ってきた時からチームの中心なんだって?」
「そんなこと、ないと思いますけど」
ぼそぼそと保田の方を見ながら答える。
明らかに警戒している、という素振りが市井には読み取れた。
「ちょっとさあ、市井と1対1やろうよ」
「え? まあ、別に、うん、いいっすけど」
「お、面白そうじゃん」
保田が茶化すように笑う。
吉澤は、緊張した面持ちでポジションいついた。
「オフェンスディフェンス一本勝負ね。オフェンス吉澤からで」
「はい」
「負けた方が、勝ったほうの奴隷ってことで」
「なんですか? それ」
「まあ、いいから、来いよ」
ハーフコートの一対一。
オフェンスから見て右サイドに二人は位置する。
ディフェンスの市井が、吉澤に軽くボールを渡した。
スリーポイントラインのやや外。
吉澤のシュートレンジからはやや遠い。
ドリブル以外の選択肢が無いのを分かっていて、市井は吉澤のドリブルの一突き目を狙い、きれいに叩いた。
はたかれたボールは、ラインの外へ転がり出た。
「よーし、私の勝ちー」
転がったボールは保田が拾い上げ、市井に投げ渡す。
市井はそのボールを吉澤に手渡した。
攻守交替。
今度は吉澤がゴールを背にする。
スリーポイントライン上で、ディフェンスの吉澤がボールを市井に軽く渡し、低く構えた。
「これで私が勝ったら、吉澤は奴隷だ」
にんまりした笑顔で市井が言う。
吉澤は、別メニューで練習していた市井のドリブルをイメージし、体を硬くする。
その瞬間、市井はシュートをはなった。
スリーポイントラインのわずか外。
ボールはボードに当たり、リングに吸い込まれた。
「いえーい、奴隷ゲット」
虚を突いた一瞬の出来事。
吉澤は、転々とはずむボールを、ぽかんとした目で眺めていた。
「やあ、奴隷君。何してもらえるのかな?」
「え? あ? いや」
市井が自分より背の高い吉澤の肩をぽんぽんと叩く。
「まあ、奴隷は冗談だけど、後片付け私パスってことでいいかな?」
「え? ええ、まあ」
同学年になったけれど、先輩風をふかしておく。
満足げにボールを拾う市井に保田が声をかけた。
「さすが」
「まあ、あんなもんよ」
それだけ言って、心地よさげな顔をしてボールを保田に軽く投げ渡した。
実際は際どい所だった。
吉澤のボールを叩けたのも、スリーポイントが入ったのもたまたま。
だいたい、ボードを狙って撃ったわけじゃない。
叩けなくて抜かれても、スリーが入らなくても、余裕ある態度だけ見せようと思っていた。
そうすれば、舐められた、という印象だけが吉澤に残る、そういう計算。
さらにその上、心理的な圧力を掛けての一対一。
市井が勝ったのは、技術面で上回ったというよりも、年の功というものだった。
「圭ちゃん、先上がるね」
「ああ、おつかれー」
シューティングをしているメンバーを尻目に、市井は一人、先に体育館を離れた。
寮の廊下の人口密度が高い。
春になり、暖かくなって部屋にこもらないで外に出るようになった。
そういうことでもなさそうだ。
「何してるの? 美貴」
「へ? そういうあさみこそ」
「私は食事当番だもん」
「あ、食事当番。そう」
藤本は食堂のテーブルつく。
何かを食べるでも飲むでもなく、ただきょろきょろ。
寮の構造上、この食堂からは玄関あたりの物音がよく聞こえる。
あさみが厨房に入って行っても、藤本は手持ち無沙汰に座ったままきょろきょろ。
挙動不審である。
「暇なら手伝ってよ」
厨房からあさみが顔を出す。
休日の夕食作りは、寮の下級生も手伝う。
藤本、あいまいにわらったまま答えなかった。
そんな中で、玄関で物音がした。
藤本が立ち上がる。
首をかしげてあさみが厨房に消えた。
「なんだ、舞か」
「なんだとは何よ」
靴を脱いでいる里田の姿を見かけ、藤本はまた食堂へ戻る。
里田も、部屋に戻らずに食堂に入ってきた。
「一年生じゃなくて悪かったね」
「ち、ちがうから、そんなんじゃないから」
「藤本って結構分かりやすいよね」
背中から声がして、藤本が振り向くとりんねが食堂に入ってきた。
「何言ってるんですか!」
「素直に新しい子たちが気になるって言えばいいのに」
慌てふためいている藤本をからかうように里田が言う。
りんねは笑っていた。
「私も去年そうだったから分かるよ」
「先輩達って、どんな一年生が入ってくるとか聞かされてないんですか?」
「うん。全然知らない。今日あたりから入ってくる、とは聞いてるけど」
入学式後に部活見学と仮入部期間があって、というような流れを経ていく普通の学校とは違う。
滝川では、バスケ部に入る生徒は、基本的に入学式より前に、それぞれのタイミングで寮に入ってくる形になっていた。
「それでりんねさんも気になって部屋から出てきたんですか?」
「私? そうだ、牛乳取りに来たんだった」
奥の厨房へ消えていく。
牛乳だけは、いつでも冷蔵庫に完備している。
「りんねさんも美貴ほどじゃないけど気になってるみたいだね」
「だから、そんなんじゃないって!」
「いつまでむきになって否定してんのよ」
気になる気持ちを認めようとしない藤本に、里田は呆れ顔。
食堂の入り口に立ったままだった里田も、藤本に付き合うように向かいに座った。
「舞だって気になってるんでしょ」
厨房からあさみが牛乳を持って出てくる。
トレイにコップを二つ、隣には自分の分を持ったりんね。
「まあね。それは、気になるでしょ」
里田は素直に認める。
トレイからコップを取った。
「牛乳しかないの?」
「もう一年いるんだからいい加減慣れなさい!」
手厳しいりんね。
藤本は苦い顔をしながらもグラスを取る。
「いっぱい飲まないと背伸びないよ」
「あさみに言われたくないんだけど」
そう言われると分かっていてボケてみたあさみ。
笑っていた。
「一年生が来たからって、玄関前で取り囲んだりしないのよ」
「はーい」
りんねは、そういい残して部屋に戻って行った。
「でも、どんな子来るんだろうね?」
「やっぱり気になってるんだ」
「もう、しつこいなー」
ようやく認めた藤本。
冷静な大人ぶってからかう里田がちょっとうっとうしい。
「どんな子が来て欲しい?」
「石川を止められる子」
「きついなあ」
石川が止められなかった里田、苦笑い。
「舞はどうなのよ」
「じゃあ、いつでも冷静で、流れが悪くても切れることなく適切にゲームを作れるガードとか」
「どうせ美貴はすぐ切れますよ」
互いに傷に塩を塗っている。
あさみは、笑いがこらえられない。
「笑うなよ」
「だってさあ」
「あさみはどんな子がいいのさ?」
「いい子なら、それでいいよ」
「それじゃ面白くないでしょー」
「私は、プレイがどうのって言える立場じゃないからなあ」
一年生の間、結局あと一歩のところでベンチに入ることも出来なかったあさみ。
新入生が入ってくるというのは、仲間が増える、後輩が出来るという意味と同時に、ライバルが増えることを意味する。
うまい子が入ってきてチームが強くなるのはいいけれど、それは自分が試合からますます遠ざかることと同じ意味になる。
藤本や里田と、同じ感覚ではいられなかった。
「飲み終わったら流しに片すように」
コミカルに命令後口調でそういい残して、あさみは厨房に消えていった。
少し不満そうにしながらも、藤本はコップを口に持っていく。
飲めないわけではないが、出来れば牛乳じゃなくて他の飲み物の方が好みだ。
「去年さあ、入ってくるときどうだった?」
「どうって?」
「私、とんでもないとこ来ちゃったなって思った、最初。車から見える景色が田舎すぎて」
「田舎か・・・」
同じ北海道とは言っても札幌から来た里田。
学校周りはともかく、あえて選んで原野の真ん中に立てたような寮の周りの景色は、少し考え込んでしまうものだった。
それに対して、藤本にとっては、なんて言うか、小さなときからの日常の景色だった。
「結構不安だったなあ。先輩にいじめられたらどうしようとか。美貴にはわかんないだろうけど」
「どういう意味よ」
「いじめちゃだめだからね、今度の新入生達」
「みんな、美貴のことなんだと思ってるのよ」
そう苦い顔を藤本がしていると、玄関で物音がした。
おもわず、藤本は立ち上がる。
「あら、美貴様、どちらへ」
「ちょと、ちょっとトイレよ」
「いちいちごまかさなくていいのに」
里田は藤本の背中を見送る。
少し経ったら、タイミングを見計らって自分も見に行こう、なんて思っていた。
何食わぬ顔して玄関前に出て行った藤本。
そこには、期待していた光景はなかった。
がっかりした気持ちを顔に出さないように軽く頭だけ下げる。
なんでなつみさん、このタイミングで寮母さんと話し込んでるんだよ、なんて毒づきながら。
そんな藤本の姿を見て、緊張した面持ちで軽く会釈して寮母さんとの会話を続ける。
横には大きなカバンがあった。
そのままユーターンして食堂に戻るわけにも行かず、階段を上がって二階へ。
その途中、自分と同じような動機で部屋を出てきたと思われる仲間に何人か出会ったが、何も言わずに通り過ぎた。
食堂に残した牛乳が半分残ったコップと、あさみや舞の顔が浮かんでくるけど、気づかなかったことにする。
部屋に戻ると、午前中の練習と、午後の変な気疲れとでその気はなかったのに眠ってしまった。
夕食。
同じ部屋のあさみは、食事当番なので最初からいない。
一人で起きて、時間ぎりぎりに慌てて下に降りていく。
もう全員そろっていて、食器もほぼそろっていた。
新人らしい数名が端に集められている。
見逃した、と思うけれど、食事前に自己紹介が始まりそうな雰囲気が楽しみでならない。
そのせいもあってか、いつもより食堂はざわついていた。
「びっくりしたよね」
「なにが?」
今日の食事当番で食器を並べ終えたあさみが藤本の隣に座ってくる。
藤本の答えは、周りのざわめきにかき消され、びっくりした中身を聞く前に、安倍が両手を鳴らして全体の注意を引いた。
「はい、注目!」
安倍の声で、メンバー達は安倍に、ではなくて、そのそばに居る一年生らしき数名の方に注目する。
一瞬、藤本は理解できない違和感に襲われ、瞬きを数回した。
「今日から一年生が毎日何人か入ってきます。とりあえず、来たらその日の夕食で簡単な自己紹介してもらうんで。みんなちゃんと面倒見るように」
全体で拍手。
安倍は横に引いて、一年生に挨拶を促す。
安倍がいた場所に立った一年生は、安倍と同じ顔。
藤本の違和感の正体。
「室蘭から来ました、安倍麻美です。ポジションはガードをやってました。頑張りますのでよろしくお願いします」
型どおりの挨拶に、型どおりの拍手で一同答える。
あまりのことに呆然としている藤本。
指をさしながら、隣のあさみに問いかける。
「あれって? あれって?」
「なに? あんなに気にしてたのに見なかったの?」
「あれって?」
「妹だよ、なつみさんの」
藤本が寝ている間に、寮生全員に知れ渡っていた情報だった。
自己紹介は他の一年生に移っていく。
藤本の耳には全然入ってこない。
安倍と、その妹を交互に見ている。
妹かあ、という単語だけがあたまを巡っていた。
「はい、全員終わったかな? じゃあ、何か連絡とかある人いる?」
夕食は練習以外で全員がそろう機会。
暮らしに関する諸連絡などがある場合があり、それを安倍が促している。
藤本が手を上げた。
「なに? 藤本」
「目標にする選手とかいますか?」
確かに「何か」だけど、そういう「何か」じゃない。
言ってから、藤本自身もしまった、という顔をしていた。
「ん、んー、じゃあ、一人づつ」
ただの新入部員に聞くのとはわけが違う。
仕切る安倍も、振られる安倍もやりづらい。
戸惑いの色を浮かべている安倍に視線は集まる。
少し考えてから、安倍は口を開いた。
「目標にする選手は、安倍なつみさんです」
はっきりとした答え。
予想していたような期待していたような。
メンバーはうなづきながら、微妙なざわめき。
他の新人たちも、流れで答えていたが、反響がいまいちだった。
「他は、何も無いかな? じゃあ、食事当番」
そう言って、安倍は自分の席につき、新一年生達にも、座るように促す。
全員席に着いたのを見て取って、あさみが声を張った。
「大地の恵みに感謝して、合掌」
全員、手を合わせて目をつぶる。
「いただきます」
そろっての声。
いっせいに、箸を動かし始めた。
藤本は、夕食を食べながらも、少し離れて座る二人の安倍がちらちらと気になっていた。
数日練習をしていれば誰にでも分かる。
富ヶ岡の一年生の中心は、高橋と小川だった。
その二人は、まずいことに希望ポジションが完全にかぶっている。
当人同士が意識しないわけがなかった。
体育会の上を目指そうとするチームなら、自然と実力のあるものの周りに人は集まる。
高橋と小川、二人の周りに一年生が集まるようになる。
しかし、その二人はまったく言葉を交わすことが無かった。
二つの交わらない輪がチームの中に出来つつある。
最初に五対五の練習に呼ばれたのは高橋だった。
練習に合流して三日目。
Bチームの方に入る。
「どんなタイミングでも、ボールくれればなんとかするから、気楽にね」
ディフェンス重視の練習のため、Bチームにまわっていた石川が、本当にお気楽そうに声をかける。
高橋は堅い顔をしたままうなづくだけだった。
ハーフコートのセットオフェンス。
トップで高橋がボールを受けた所からスタート。
入りたての一年生、ポイントガードとはいえ、いきなり指示を出したりはできない。
まずは、隣にいるセカンドガードの選手に軽くパスを送る。
後は流れに従って動いた。
サイドから上がってくるタイミングで高橋にボールが戻る。
ボールを受けるより前の時点で、逆サイドの石川が動き出したのが見えた。
ハイポストの位置に上がって来た石川に、モーション無しでパスを送る。
一瞬のフリー状態にあった石川がボールを受け、ジャンプシュートを決めた。
「だから、何のためのディフェンスだよ。1対1で抜かれても仕方ないけど、フリーでボール持たすな」
5対5は、基本的にレギュラーに当たるAチームのための練習。
Bチームがいいプレーをしても、監督からコメントももらえないこともある。
「ナイスパス」
石川が両手を上げて高橋に近づく。
高橋も手を合わせハイタッチ。
ようやく硬かった一年生に笑顔が生まれた。
「よく見てたね」
後輩が入り、先輩風を吹かせたくてしかたなかった石川が高橋の頭をなでてやる。
高橋は、ただただはにかんでいた。
一年生が練習に合流して五日目。
小川はようやく5対5のメンバーに呼ばれた。
ポジションは、やはりBチームのポイントガード。
二週間後の月末には、もう春の関東大会の県予選が始まる。
メンバーを固めていきたい大事な時期。
それは、一年生とはいえ小川にもよく分かっている。
しかも、対面につくAチームのポイントガードには高橋が一足早く入っていた。
セットでBチームのオフェンスから、一往復半のワンセット。
小川にボールが入り、攻防が始まった。
きつい当たりで高橋がつく。
パスの出し先が見つからない。
ボールを受けに来た三年生に不用意に横パスを出した所を柴田にさらわれた。
そのままワンマン速攻で柴田がボールを持ち込む。
小川は慌てて追いかけたが無駄だった。
リングを通り抜け、転々とするボールを小川は拾う。
すでにセットされているAチームのディフェンスをにらみつつ、セカンドガードの三年生にボールを渡した。
「気にするな、一本くらい」
エンドから、そう言われてのパスを受ける。
高橋のディフェンスにひるんだ自分に腹がたった。
ボールを持ってゆったりと上がって行く。
ハーフラインを超えフロントコートに入ると高橋がつかまえに来た。
そこを縦に突破を試みる。
突っ込まれて一瞬重心が浮いた高橋の横を、小川は抜き去っていく。
カバーに入ったのは柴田。
自分の正面に柴田が付いたのを見て、小川は柴田が付いていたはずの三年生に速いパスを出す。
しかし、意思の疎通が合わず、ボールはサイドラインを割った。
高橋と小川はその後、常に5対5のメンバーとして呼ばれるようになった。
交互にAチームに入るが、一本目には必ず高橋の方がAチームにいる。
小川には焦りがあった。
同じ学年の高橋がスタメンに入れば、三年間自分は控えのままかもしれない。
控えになりに、新潟から出て来たわけはなかった。
「小川は、一人暮らし慣れた?」
カウンセリング、ではない。
ではないが、ほとんどそれと同じようなもの。
語りかけるのは、二年生の柴田。
「いや、まあ、なんとか」
柴田に憧れてここに来たはずの小川は、ありきたりの答えを返す。
「高橋ちゃんとは隣同士なんでしょ、どう? 仲良くやってる? 夜に二人でパーティーとか」
「いや、別に」
そんなことが無いのは分かっていて聞いていた。
一年生の分裂ぶりは深刻なものになっていた。
やや高橋派が多いのは、Aチームを張っているせいだろう。
そんな一年生をなんとかしようと、柴田や石川達二年生は相談した結果、こうして、自己紹介
の時に憧れてます、と名前が出た二人がそれぞれと話しをすることになった。
「チームはどう? 先輩怖いとか? なんかある?」
「いや、特には」
つれない答え。
取りつく島もない小川の受け答えに、結局柴田はなすすべもなかった。
部室で、そんな会話を柴田と小川が交わしてる頃、石川と高橋はまだ体育館にいた。
「お願いします」
コート中央付近で石川にボールを渡す高橋。
腰を落とし、両手を広げ石川の動きを見つめる。
石川は、左にワンフェイクいれて右にドリブルを付く。
そこまでは高橋も反応できたが、その後のバックチェンジにあっさり交わされた。
リングにボールが吸い込まれるまで、石川の背中を見つめるしか出来なかった。
「もう一本お願いします」
「もう、体育館閉まっちゃうから終わりにしよ」
「え、そうなんですか? すいません」
神妙に謝る高橋。
二人はそのままボールをケースにしまうと、かばんを持ってロッカーへと引き上げて行く。
「一人暮らしどう? 慣れた?」
「いやぁ、あまり慣れないです」
柴田とまったくおなじ切りだしで石川が語り出す。
高橋は、小川よりは素直に答えを返した。
「そっかあ。じゃあチームには慣れた?」
「それも、まだ全然ですよ。みんなひってすごいんですもん。もー、ついて行くのが精一杯で」
興奮すると、普段は気を付けているお国訛りが微妙に現れる。
石川にあこがれてここに来たという高橋は、やはり石川に話しかけられるとテンションが上がり気味だった。
「小川ちゃんも同じアパートなんでしょ。一緒にご飯食べたりとかしてる?」
「いえ、全然」
「どうしてー? 地方から出て来た一人暮らし同士、仲良くすればいいのにー」
「なんか、あの子いつも怖いし」
歩きながら話す二人。
石川が続けた。
「三年間一緒にやってくんだから、仲良くした方がいいと思うけどなあ」
「でも、人のことかまってる余裕ないです」
どう言葉を続けたらいいのだろう。
石川が考えてるうちにロッカーについた。
役立たずな先輩だなあ、なんて、ちょっと自分を責めながら石川は服を脱ぎ、シャワールームへと消えて行った。
春は出会いの季節。
制服がまだいまいちしっくり来ない一年生達が入学してくる。
市井が復帰して、全体練習にも混ざるようになった頃、ちらほらと入部希望の一年生達が集まり始める。
その中に、驚く顔があった。
「保田先輩、お久しぶりです」
「うそー、来てくれたんだー」
無表情の一年生に、保田が抱きつく。
一緒に見に来た隣の一年生がひいていた。
「まさか来てくれると思わなかったよー」
「迷ったんですけど、近かったし」
「あはは。なんからしいや」
「一応、試合も見てみて、まあ大丈夫かなって思ったから」
「へー。圭ちゃん、合格点もらったんだ」
抱きつかれても表情を変えない一年生。
二人の会話に市井が口を挟む。
「市井先輩はいなかったですね」
「私留学してたからね。またよろしく」
「はい」
相変わらず無表情で答えた。
保田と市井以外の上級生は、ストレッチをしながら遠巻きに三人を見ている。
知り合いらしい、ということ以外分からない。
周りの様子を見て取った保田は、その無表情の一年生を連れてきて皆に紹介した。
「簡単に自己紹介して」
「福田明日香です。よろしくお願いします」
「それは簡単すぎるでしょ、もうちょっと、なんか」
「いえ、別に」
福田の両隣で、保田と市井は苦笑する。
仕方なく、保田が補足した。
「私と紗耶香のね、中学の後輩。とは言っても、私達が教えたんじゃなくて、この子に
いろいろ教わったって感じかな。身長で分かると思うけど、ポイントガードだから」
「先言っとくよ。この子きついから。みんな切れないように頑張ってね」
保田にさらに市井が付け加える。
保田や市井より、なんか位置づけが上そうな一年生。
何者なんだいったい? という顔を周りはしていた。
さっそく福田は練習に合流する。
先輩たちのペースに対して何の遜色も無い。
周りに合わせて声は出すが基本的には無表情。
プレー自体は、さすがに保田や市井が言うだけあって、それなりのものがある。
ボール扱いはうまいなあ、と吉澤も見ていた。
ただ、それだけでそんなに目立っているわけでもない。
そんな福田が先輩たちに口を挟んだのは三対三の場面だった。
「一対一が三つあるだけの三対三って意味無くないですか?」
入部初日の一年生。
先輩たちに物申す場面でも、声を上ずらせるでも顔をこわばらせるでもなく、普通に。
「何? 何? どうした明日香?」
「位置変えながら一対一やってるだけなんて意味無いですよ」
しゃべりだした福田の元に保田は駆け寄る。
なんだこいつ、と遠目に見てるのは吉澤。
それぞれの様子を伺う市井。
「スクリーン使って崩すとか、ディフェンスにしてもボールが逆サイドにあるときは、
抜かれたらフォローが入れるようにマークマンに開いてついてボールも見るとか、それく
らいはないと」
確かにもっともなこと。
保田はうなづいて聞いている。
保田以外の上級生からは、何も言葉は無かった。
「じゃあ、明日香の言うとおりやってみようか。オフェンスはボール持ってない二人で
スクリーン使ってみたり。ディフェンスの方もカバー意識して」
福田の言葉を粗製劣化して、クリアしやすいレベルにして保田が皆に伝える。
おいおい、なすがままかよ、と腹の中で思ったけれど、吉澤は口には出さなかった。
翌日、また新しい一年生がやってきた。
「松浦亜弥です。ガード希望です。先輩たちの足を引っ張らないように頑張ります。よろしくお願いします」
丁寧に頭も下げる。
顔を上げればにこやかな笑顔。
はきはきとしゃべり、返事も素直。
逆に苦笑いしてしまいそうなくらいの素直な自己紹介。
福田とはあまりにも対称的だった。
「だから、ボール持って静止した状態から普通に一対一やってたら、三対三の練習にならないじゃないですか」
昨日と同じタイミング。
口調の変わらない福田が、淡々と言う。
吉澤が、ボールを持つと徹底して一対一で抜きにかかっている。
今日は吉澤も黙っていなかった。
「あのさ、入ってきたばっかりでそれはないんじゃないの?」
「吉澤!」
「保田さん、なんで一年生の言いなりなんすか? あと先生も。別に意見聞くくらいは
分かるけど、なんで言いたい放題言わせて、全部丸呑みなんすか?」
中澤も、頑張ってみると新人戦後に言ってはみたものの、まだチームを完全に指揮する
ところまでは行っていない。
練習メニューをはじめ、ほとんどのことは保田と相談しながらになる。
福田のようにはっきり言い切る相手には、返す言葉が無かった。
「吉澤の気持ちも分かるけどさ、新しい感覚で練習してみるのもいいんじゃない?
メンバーも私も含めてたくさん加わってきたことだしさ」
「わかりましたよー・・・」
間に入ったのは市井。
吉澤としても、なんとなく市井には逆らいにくい力関係がたった一日で出来てしまった。
その上で、保田に対してほど率直にものを言えるほどは、距離が近くなっていない。
市井の言葉で吉澤もひきさがざるを得なかった。
「ざけんなよヤスダばばぁ、あんなガキの肩ばかり持ちやがって」
「ヤスダばばぁって、よっすぃー・・・」
「いんだよ、別に、いねーんだからここに」
口汚い吉澤と、ちょっとなだめるあやか。
そんな二人を微笑を浮かべて見つめる一年生松浦亜弥。
土曜日、練習終わりに三人は町のコーヒーショップにやってきた。
「松浦さあ、なんとかあいつに勝ってスタメン入ってよ」
「それが出来るならしたいですよー」
はやくも先輩になじんでいる。
入部して一週間あまり。
もう来週末には公式戦が入っている。
結局入ってきた一年生の中でめぼしい力を持つのは福田と松浦の二人だけだった。
ただ、その二人にも大きな力の差がある。
松浦の方は、良くも悪くも一年生らしさがあった。
「トロピカルアイスクリームのお客様」
「はい、はい私でーす」
「松浦、元気だな」
「だってー、先輩のおごりとか言ってもらったら、うれしいじゃないですかー」
爛々と目を輝かせて、目の前に置かれたトロピカルアイスクリームを松浦は見つめる。
そんな店の中に、知った顔三つが入ってきた。
「なんだ、吉澤達もいたのかよ」
「それはこっちのせりふですよ」
「まあ、狭い町だからな」
保田、そして市井。
その二人の間に挟まるように福田の姿がある。
吉澤の口調は、途端にとげが刺さったようなものになった。
「仲いいんすね?」
「ん?」
「他の一年生にも差別しないで接してやってくださいよ」
「分かってるよそれくらい」
「ホントに分かってますか?」
「くどいやつだなあ」
自分のことを棚に上げて、吉澤は絡む。
保田は苦笑いを浮かべ、吉澤たちとは離れたテーブルに三人で向かった。
「松浦、絶対スタメンになれ」
「よっすぃー、わかってないでしょ」
「なにが?」
「ああ、気にしないで」
あきれ声のあやか。
言いたいことがなんだか分かった松浦は微笑を浮かべる。
だけど、それだけで、ひいきされてる身としてはそれ以上何も言わなかった。
滝川に一年生はたくさん集まったけれど、結局初日のインパクトを越える新人はいなかった。
キャプテンの妹。
安倍なつみの妹。
誰も知らされていなかったのだから驚いて当然だ。
「なんで教えてくれなかったのよ」
入学式も無事に終え、新人達もチームの一員という形になってきた頃。
練習終わり、新一年生達がフロアにモップ掛けしているのを見ながら、りんねが安倍に聞く。
「なんでって? なに?」
「妹が来るって」
何か説明してくれるかな、と思って、最初は聞かずに過ごしていた。
だけど、安倍は自分から妹のことを話す気は無いらしい。
何日か観察していて、姉妹で会話しているシーンがまったく無いわけでも無いけれど、姉妹ですという雰囲気も漂っていない。
二年生あたりは聞きたくてしょうがいないのに、安倍に直接聞く勇気は無いらしい。
それでりんねが、仕方なく代表して聞いてみるような、そんな形になっていた。
「別に、わざわざ話すことでもないと思ったし」
「でも妹なんでしょ?」
安倍は、小脇に抱えていたボールをゆっくりと弾ませる。
二人のそばに人はいない。
少し近づきにくい空気をりんねが意図して流している。
「妹じゃないよ」
「え?」
安倍は、ゆっくりとボールを弾ませる手を止めない。
妹じゃない、という安倍の答えにりんねは安倍の方を向いた。
「あの子は、室蘭から来た一年生、安倍麻美。なっちは、このチームのキャプテンで安倍なつみ。それでいいっしょ」
弾んだボールを受け止める。
両手でボールをお腹の前で抱える。
視線の先には、安倍麻美の姿がある。
りんねは言葉を返さずに安倍から視線を外す。
移した視線の先には安部麻美の姿。
他の一年生と並んでモップを掛けている。
「少なくとも、この一年間はあの子はなっちの妹じゃないし、なっちはあの子の姉じゃないよ」
「それでいいの?」
「お正月に家帰ったときに話した。最初はよその学校薦めたんだけどさ。お母さんが北海道からは
出さないって言って。だけど、北海道でちゃんとバスケやってってなると、うちに来るしかないじゃ
ない。なっちはその時点でキャプテンやるって指名されてたし。ホントは妹とかそういうの嫌だった
けど、なっちの都合だけでダメって言うわけにもいかないしさ」
北海道から外に出れば選択肢はいくらでもある。
だけど、北海道の中にいて、それでも全国レベルのバスケットを求めるなら、このチームに来るしかなかった。
このチームとまともに戦えるチームは、北海道の中には無い。
「大変だね、なんか」
「あんまり、いもうといもうとって、なっちが言うなって言っても無駄だろうからさあ、りんねから言ってやってよ、二年生とかに」
「しばらくは無理じゃない? やっぱり気になるもん。でも、結構うまいよね」
「どーかなー?」
「中学のときは一緒にやってたの?」
「夏までだったから三ヶ月くらいだけどね。初心者だったし、うまいも下手もなかったよ」
二人の視線の先に映る麻美は、一年生の中に馴染んでいるように見える。
安倍自身はともかく、りんねにすれば、あまりにそっくりで、一年生に馴染んでる安倍、という不思議な映像。
もうすこし似てなければ、ちょっと違ったかもしれないのにな、と思う。
「一年生は一人じゃないんだからね。りんねまで芸能リポーターみたいなことしないでよ」
「あはは・・・」
ホントは二年生と一緒になって話題にしていたいりんね、笑ってごまかした。
興味を持ったら、とりあえず相手に接触してみる。
相手を知る為にすること。
好きな食べ物は何ですか?
よく聞く曲は何ですか?
そんなことを聞いたって仕方ない。
ここはバスケ部で、バスケをしにわざわざ室蘭から全寮制のチームにやって来た。
やることは一つ。
数日の練習で二年生の間には共通の認識が生まれた。
そこそこうまいけど、なつみさんほどじゃない。
なんとも微妙な位置づけだ。
自分の意思でここに来たのだから、当然それなりにプレイは出来るけど、でも、姉は姉、妹は妹。
同じようには出来ない。
中学と高校ではレベルが大きく変る。
技術的な面はともかく、最初に違いを感じるのがパワーとスピード。
特に女子だと、スピードの違いに戸惑う。
練習メニューの中には、必ず走るパートがあった。
ツーメンやスリーメンと言われる、エンドラインから二人、あるいは三人でパスをつない
でシュートまで持っていく練習。
コートの端から端までの往復を、トップスピードでこなすことが求められる。
基本練習なので、レギュラーも控えもなく全員参加するし、適当に二列あるいは三列に
並んで、順番が回ってきたら走り出すので、誰と組むかはランダムになる。
スリーメンの練習で、中央に藤本が入ったときに、右サイドに麻美が並んだ。
エンドラインからスタート。
藤本から左サイドへパスを出し、そのリターンパスを受ける。
右サイドの麻美はフリーランニングでゴールへ向かっていく。
中央の藤本は、左からのパスをセンターサークル付近で受けて、右へ速いパスを送った。
ちょうど、なつみにパスを出すようなタイミング。
今の麻美の足では追いつけない。
ボールをキャッチしてランニングシュートどころか、触れることすら出来ず、転々と転がって行った。
「おい、二号! それぐらい追いつけよ!」
基本的にせっかちな藤本。
のろい奴にはいらだってしまう。
ましてや、それがなつみ先輩を同じ顔をしていたら。
コートの外に転がるボールを追いかける麻美の背中に言葉を投げつけた。
藤本の言葉に、一瞬メンバーの中に失笑が生まれそうになったが、安倍の方をチラッと見て、笑いを抑える。
一号がキャプテンなだけに、失礼すぎて笑えない。
ただ、安倍自身は無表情。
何を考えているのかはいまいち分からなかった。
「二号のやつ、なつみさんの妹のくせに、あんなに動きが遅いとかありえない」
寮に戻って夕食後、時間があることに慣れてない二年生が集まっている。
最初の一週間ほどは、一年生に仕事を教える為に、あれもこれもやって見せていたが、
それを過ぎて、色々な仕事が一年生に受け渡されてからは、洗濯も、掃除当番も、食事の
後片付けもなくて、夕食後が暇だった。
「二号って、その呼び方、決まりなの?」
「だって、麻美だとあさみとかぶるしさあ、まさか安倍とか呼べないしさあ。いいじゃん、二号で」
「美貴、それさあ、なつみさんのこと一号って言ってるの同じ意味なんだよ。分かってる?」
「しょうがないじゃーん」
あさみのつっこみに、藤本は不満の声だけ上げるけれど、返せる言葉が無い。
一瞬の沈黙の後に、ノックの音がした。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
ドアを開けたのは、麻美だった。
「なに?」
「舞さん。洗濯物取りに来ました」
「ああ、そこの袋にある」
「はい」
麻美が部屋に入ってくる。
里田の指差した袋を回収し、部屋を出て行くまでの間、二年生の会話が止まっていた。
「失礼しました」
ドアが閉まる。
途端に藤本が口を開いた。
「指導係、まいだっけ?」
「うん」
「生意気じゃない? 二号」
「なんでよ。普通でしょ、別に」
二号は二号で押し通すらしい。
まわりも、わざわざ聞きなおしたりとめたりはもうしない。
「下手なくせにBチームには入ってきたりするしさあ」
「生意気とは関係ないでしょ全然。大体、美貴が言うほど下手じゃないと思うけど」
「あのスピードじゃ使い物にならないでしょ」
「まあ、スピードはそうだけどさあ・・・」
姉と妹、確かに似ているけれど違うところもある。
姉には特殊な力があった。
周りの選手のいいところを真似て、すぐに昔からの自分のプレイのようにこなせてしまう。
それが強み。
妹には、そういう貪欲さのようなものがまだ無いかもしれない。
スピードが無いのは、実際は姉も同じなのだが、経験とか、その他の部分でそれを補っていた。
「シュート力なんかはあると思うよ」
「うん、私、ハーフの一対一で、突破止めにかかったら、外からジャンプシュート決められたもん」
「それはあさみがだらしないの」
「美貴はそうやって簡単に言うけど、みんな美貴みたいに出来るわけじゃないんだよ!」
いまいちぱっとしきれないあさみ。
誰かの妹とか、そういう問題じゃなくて、有望な一年生が入ってきたのはちょっと自分に
とって大きな障害となっている。
簡単に、だらしない、と言える藤本には反発もしたくなる。
「でもさあ、みんなよく見てるよね」
「何を?」
「他にも一年生いるのにさ、あの子ばっかり。私も気づかないようなとこよく見てるよ」
「実際どうなの? 指導係やってみて」
「普通だよ。うん、ああ、なつみさんほど天然じゃないし。普通だと思うよ」
「まいの言う普通は、当てにならないからな」
「どういう意味よ!」
ベッドの上に座っていた里田は、手元にあった雑誌を藤本に投げつける、ふりをする。
藤本も、笑ってよけるふりをした。
「あさみが普通って言えば、当てになるんだけどね」
「どういう意味よ!」
床の上に座っていたあさみは、手元にあったリストバンドを藤本に投げつける、ふり、じゃなくて本当に投げつけた。
「おこるなよ」
「普通で悪かったね」
「もう、あさみすねちゃった」
すねた顔して、テーブルに置かれた牛乳の入ったコップを口に持っていく。
藤本は里田の顔をうかがうと、里田は呆れ顔で首だけ動かして、謝るように促した。
「ごめん、あさみ」
「事実を言っただけだから謝る必要なんかないですよーだ」
「あさみー・・・」
ベッドを降りてあさみの手を取る藤本。
あさみは機嫌が直らないで、自分の左手を握ってぶらぶらやっている藤本を無視した。
「なつみさんの妹だからって、なんか気使うところとかある?」
あさみはベッドの上の里田に問いかける。
相変わらず藤本はあさみの左手をぶらぶらしてるけど、目も向けてもらえない。
「最初はね、ちょっとあったけど。でも、気にしてもしょうがないし」
「なつみさんも、妹なんか呼んじゃって。あんな風にかわいがっちゃてさあ。他の一年生に示しがつかないっての」
「どこがよ。普通でしょ、なつみさんは。どっちかと言うと突き放してると思うよ」
「五対五のとき、あの子はBチームなのに、なつみさん、ディフェンスの位置取りとか指示しちゃって」
「それは、一年生が分かってなかったからってだけでしょ。妹とか関係なく」
藤本は、あさみの左手を握る両手は変わらないけれど、言葉は真剣だ。
里田はため息を一つはく。
「美貴、しつこい」
いいかげん、左腕がうっとしくなったあさみが藤本を振りほどく。
不満そうな顔を見せながら、藤本はベッドの上に戻った。
「気にしすぎだよ。なつみさん、公平だと思うよ」
「でもさー。最近、美貴と一対一の相手してくれないし、シューティングも付き合って
くれないしさあ。なんか、一年生の指導しなさいとか言って」
里田もまわりも皆、苦笑い。
なんとなく、藤本が麻美にからむ意味と気持ちが分かった。
「美貴も大人になりなさいってことよ」
「何よそれ」
「そうそう。大人になりなさいってこと」
「あさみには言われたくないんだけど」
「なんでよ」
部屋は、笑いに包まれていた。
「私をAチームでやらせて下さい」
5対5の組み分け。
監督がそれを告げた直後、小川が直訴した。
何事かと、注目が集まる。
高橋は、マネージャーから受け取ったドリンクを手に、小川をじっと見ていた。
「お願いします。Aチームでやらせて下さい」
前日練習の一本目でAチームを組むメンバーが明日のスタメンになるのは想像に難くない。
それが分かっているから小川は直訴した。
「まあ、そんなに言うならやってみろ。高橋とチェンジ」
和田監督が、片手をひねりチェンジのポーズを示す。
高橋は、表情を変えずに、はい、と返事し、Bチームを表すビブスをマネージャーから受け取った。
Aチームのオフェンスで始まる一本目。
高橋が小川にボールを渡してスタート。
ボールを受けた小川は、左の柴田にパスフェイクをいれて、右にドリブルをついた。
高橋はついて行くが、小川は一旦ストップしてそこから再度加速すると高橋を抜き去った。
ゴール下、Bチームセンターがカバーに入る。
小川はそこで平家にパスを送りゴール下の簡単なシュートが決まった。
「すいません」
高橋が頭を下げる。
対称的に小川は、平家と軽く手を合わせていた。
二本目。
小川は、右にフェイクを振ってから左にドリブルを付いた。
今度は高橋も完全にコースを切って振り切らせない。
抜ききれない小川はパスをさばく。
石川−柴田−平家−柴田と経由し、再び小川へ。
ボールにミートした小川は、そのままのスピードで高橋をかわすと、右0度の位置からジャンプシュートを決めた。
「小川」
「はい」
「高橋と交代」
顔色が変る。
一瞬の沈黙の後、小川が言った。
「なんで? なんでですか?」
高橋さんを続けて抜いたのに。
そう口にしそうになったけど、そこまで直接的なことはさすがに言えなかった。
「小川は、中学でもポイントガードだったんだよな?」
「はい」
「その中学に、石川はいたか? 平家はいたか? 柴田はいたか?」
質問の意味が分からない。
小川は返せる答えがなかった。
「小川の中学には、小川よりうまいフォワードはいたか? 小川より点の取れるフォワードはいたか? センターはいたか?」
「いえ」
意図の分からない問い掛けに、口ごもりながらなんとか答える。
なんで替えられるんだ?
一対一で続けて勝ったのに。
高橋さんに勝ったのに。
その思いが小川の頭にはある。
「最初だから分かりやすく説明しておこう。小川が中学の時にやってたのは、ポイント
ガードじゃ無いんだよ。監督だな、言ってみれば。自分より能力の劣るメンバーを引っ張
って引っ張って、なんとか点を取る。でも、周りはそんなに点が取れるわけじゃない。仕
方ないから、自分でがんがん突っ込んで点を取って行く。違うか?」
返す言葉が無かった。
新潟の片田舎のチーム。
五人の中で光っていたのは小川だけだった。
仲間達は今も、新潟で普通の高校に通い、普通に暮らしているはずだ。
「ここではそんなこと求めてないんだよ。石川がいれば平家がいる、柴田だっている。
他のメンバーだって点は取れる。そりゃあ一対一に強いに越したことはない。だけど、
ポイントガードに求めてるのはそこじゃないんだよ。五対五で最初から二本続けて、最初
からドリブルで一対一なんかされたら練習にならないんだよ。分かったら高橋と替われ」
小川は、何も言わなかった。
何も答えず、唇を噛み締めて高橋の元に近づく。
高橋は、控えであるBチームを示すビブスを脱ぎ、小川に突き出した。
小川は手を伸ばすが、受け取り損ね、コートにビブスを取り落とす。
はっとして小川は高橋の顔を見るが、高橋は無表情。
すぐに慌てて視線をそらし、小川はビブスを拾い上げて、高橋の目の前でそれを身に付けた。
翌日の試合、スタメンに使われたのは高橋だった。
小川はベンチに座っている。
四月のこの大会、ほとんどのチームの一年生は登録が間に合わず、参加していない。
小川や高橋のように、あらかじめ入部が分かっているような選手でないと使えない。
そういう意味では、ベンチに座っているということは、なんら恥じることではなかった。
全国トップのチームの県大会初戦。
実力的な差は大きくある。
それでも、高橋の胸のドキドキは収まらない。
やや堅い出だしだったが、チーム力の差もあり、一クォーターは33-9と大きくリードして終えた。
二クォーター、順調に加点していくが、高橋の足がやや重くなる。
中学生は一クォーター七分の四ラウンド、それに対して高校生は一クォーターが十分に伸びる。
三分の違いは慣れるまでは大きい。
二クォーター五分過ぎ、高橋に代わって小川が入った。
「七番」
すれ違いざま、高橋がそう一言だけ言っていく。
自分のついていたマークの確認。
メンバーチェンジの際の伝達必須事項。
小川はうなづくだけ。
必要最低限の会話しかしない。
試合はその後、点差が開く一方。
石川、平家ら主力も適度に休み、125-41で圧勝した。
小川は、二クォーターの半分と、四クォーターの中盤五分間に出ただけだったが12点を取った。
それに対し、高橋はその他の三十分間試合に出ていたが、7点にとどまった。
翌日の二回戦・三回戦も百点ゲームの完勝で勝ち進む。
同じ様に高橋スタメンの、小川がサブ。
高橋の疲れもあって小川の出番はすこし増えたが、立場は変らなかった。
この時期に試合があるのは富ヶ岡に限らない。
全国各地で春の大会が行われる。
当然、松江でもそれは同じだった。
一年生が加入して、ほんの二週間余り。
春の中国大会の県予選の、さらに一次予選トーナメント。
吉澤達は新人戦ベスト4の実績からシードが付いていて、二つ勝てば決勝リーグに進める。
多くのチームが二三年生のみの編成で望む中、元々人数が少ないこともあり、吉澤達は福田、松浦ら一年生もベンチに入っていた。
このチームでの初ゲーム。
さらに、中澤がコーチとしてスタメンからなにからすべて自分で采配をふるうのもこれが初めてである。
相手は明らかな格下であったが、チーム内には緊張感が感じられた。
スタメンは、福田、市井、保田、吉澤、あやか。
復帰間も無い市井を使うことに、多少のためらいを感じてはいたが、それでも中澤に市井を外す選択は出来ない。
留学前の、チームを引っ張る姿が頭にこびりついていた。
試合は、出だしから個人の力の差を見せつける展開になっていた。
ボールを受けた吉澤は、かならず一対一で相手をかわしゴールを決める。
あやかにしても同様だった。
ただ、福田のパスとの呼吸は明らかに合っていない。
何度か、意思の疎通が無く、誰もいない所にパスが飛んでいく場面があった。
五分を過ぎた頃、13-2とリードして相手がタイムアウトを取った。
「それじゃダメですよ」
「何がダメなんだよ」
汗を拭きながら無表情に言う福田に、感情的な言葉を吉澤が返す。
「このレベルに吉澤さんの1on1が止められないのは分かり切ったことですよ。今はそう
じゃなくて、もっと先を見て、どう合わせて行くかのチェックが必要だと思うんですけど」
「先を見てとか言ってられるほど余裕あるのかよ。相手に失礼だろ」
また始まった。
そういう風に周りには見える。
間に入ったのは市井だった。
「現実に点差は開いてるんだしさ。高い目標もつのは悪くないよ。だけど明日香、相手を
舐めちゃいけないっていう吉澤の主張も間違ってないだろ」
お互いを立てて、とりあえずその場を収める。
不承不承ながら、吉澤も福田もうなづいた。
結局、それだけで具体的な約束事は何も決まらないまま、タイムアウトが明けた。
とにかく相手が弱い。
保田でも市井でも、あやかでも吉澤でも、どこを取っても個人の能力ではこちらが上。
チーム内に統一された決めごとが確立されていない状態であっても、点差は開いて行くばかりだった。
後半は主力を下げて一年生を多く使う。
福田のところに入った松浦も、あまりにすかすか抜けてしまう為、ポイントガードという
立場を忘れてどんどん自分で点を取りに行ってしまう。
そんな松浦の十五得点も含めて、121-41の大差で勝利した。
「いぇーい、かんぱーい」
午前の試合が終わり、次の試合までは時間が大分ある。
お昼を買いにコンビニへ向かった吉澤達は、体育館まで戻って来ずに、そのままコンビニの駐車場でお弁当を広げた。
「松浦デビュー戦、大活躍おめでとう!」
「いぇーい、かんぱーい」
吉澤にあやかと松浦。
ぶつけているのはもちろんビールではなく、単なる午後の紅茶である。
当然酔ってはいないが、酔っているように見えなくはない。
「でも、すごいよね。デビュー戦であれだけ出来るんだから」
「そんなことないですよー。吉澤さんなんか、前半でかるーく流しただけなのに、あんなに
活躍してたじゃないですかー」
「そうかー? まあな」
とりあえず先輩は褒めておく。
これが普通の一年生の処世術。
それにすぐ乗せられてしまうのが吉澤という人だったが、その処世術をまったく使わない一年生が
いるので、余計松浦のことを可愛がってしまうのは無理からぬことでもあるかもしれない。
「おい、そこの酔っ払いおやじ。一年生いじめてるんじゃないよ」
「市井さんも飲みます?」
「ばか言え」
ジャージ姿で財布だけ持った市井が、呆れ顔で駐車場に座る吉澤たちに声をかけた。
保田や福田と反目している吉澤も、なぜか市井にはそういう感情を持っていない。
わだかまりは無く会話が出来た。
「めずらしいですね、一人で」
「ああ、コンビニ弁当は体に悪いって怒られたよ」
「あいつにですか?」
「そんな嫌そうな顔するなよ」
露骨に吉澤は表情を変える。
あまりの分かりやすさに市井は苦笑いするが、内心はそうでもなかった。
「明日香の言うことはさ、耳に痛いけど大抵間違ってないから、ちょっとは聞いとけよ」
「正しければなに言ってもいいんですか?」
「吉澤のが先輩なんだから、広い心を持ってだな」
「保田さんにも言っといて下さい。他の一年生に示しがつかないから、あんまり優遇する
ような真似しないでくれって」
「分かったよ。それは言っとく」
同じ学年だけど先輩、という微妙な位置にいる市井。
ある意味では、中間管理職のような役割になっている。
あまり引っ張りたくない話題だったので、話しを別の方向へ振った。
「松浦さん、さっき良かったね」
「ありがとうございます」
「私もポジション取られないように頑張らないとな」
「そんな、とんでもないです。市井さんになんて全然かないません」
優等生の先輩に対する模範解答。
福田とのあまりの違いに、市井はまたも苦笑する。
どちらが良いとか、そういうことはないにしろ、あの明日香にこの松浦じゃ、吉澤達が
明日香に反感を持つのはしょうがない流れかな、と市井は思った。
「食いすぎて動けませんとかなるなよな」
市井は、そう言い残して店の仲へ消えていった。
「何なんですか。みなさんやる気あるんですか?」
例によって、感情を押さえた声で福田が発言する。
タイムアウトで戻ってきたチームの雰囲気は最悪だった。
「ゾーンで中を固められてるところに無理やり個人技で持ち込もうとして。なんとかなって
るならともかく、止められてるじゃないですか」
「簡単に言うなよ。プレッシャーきついんだから。抜いても抜いてもカバーは来るし」
相手の東松江は、新人戦の準々決勝で勝った相手。
その時も、四番を付けていた大谷にてこずったが、今日も同じようにやらている。
失点は、その時とほぼ変わらないが、得点が激減していた。
「当たり前じゃないですか。ゾーンなんだから。パスまわしとボール無い所の動きとで崩してフリーをつくらないと」
「んなこというけどさあ」
今度ばかりは吉澤の旗色が悪い。
第三クォーターの残り三分の時点で、ビハインドは十九点。
がちがちの2-3ゾーンディフェンスに、インサイドの吉澤とあやかがつかまり加点出来ないのがその大きな要因だった。
「勝負に行って、ダメなら少なくとも外に出して下さい。中同士で繋げれば一番いいけど」
「スリーとか撃って、ちょっと広げてよ」
外からのシュートが入り出すと、ディフェンスは警戒してゾーンの領域を広げるので、インサイドに余裕が出る。
「悪い。入る気しないんだ。撃ってはみるけど」
練習不足で、シュート力も体力もなくなっている市井、ぺろっと舌を出して悪びれずに言う。
「まだ、捨てたらあかん。時間はあるんやから」
こういう場面で、技術的な指示が送れるほどの知識が中澤にはまだ無い。
精神的な、あたり前のことしか言えなかった。
今、このチームの監督は、福田だった。
「吉澤さん、木村さん。フリーになる動き、心がけて下さい」
「分かったよ」
不満はあった。
吉澤としても、福田に従うのは屈辱的だったが、ここまで押さえられるとしかたない。
大きくリードされたことで、皮肉にもようやくチーム内の統一した意識が芽生えてきた。
タイムアウトあけ、流れがかわりだす。
福田が運んだボールを、市井、保田、福田とつなぎ、スクリーンを使ってフリーになったローポストの吉澤へ。
吉澤がターンしてシュートを試みると、カバーが付きに来る。
それにより逆ゴール下でフリーになったあやかへバウンドパスを送ると、簡単なジャンプシュートをあやかが決めた。
「ナイスよっすぃー」
ディフェンスへと下がりながら、あやかと吉澤がハイタッチをかわす。
東松江は、単純に大谷の一対一で勝負。
市井が抜かれたが、ゴール下で吉澤とあやかが挟んでつぶす。
外へこぼれ出たボールを保田が拾った。
逆速攻は、戻りが早く決まらない。
再度セットオフェンス。
固めたゴール下から決められたことで、さらにゾーンが狭くなる。
吉澤とあやかがどう動いても、ゴール下にスペースは見つからない。
外からのシュートが欲しい所だが、市井はボールを受けても練習量の不安から、どうしても外から撃てない。
そこを打開したのは、結局福田だった。
リターンパスを受け、自分でスリーポイントを放つ。
シュートは入らなかったが、リバウンドを吉澤が拾いそのまま決めた。
これで少し、東松江ディフェンスが考え始める。
外が無くはない。
また、リバウンドを吉澤がしっかり拾ったことから、市井も決めないと撃っちゃいけない
という変なプレッシャーから解放され外から撃ち始める。
ディフェンスが広がれば今度はインサイド。
さらに、福田は自分でドリブル突破もはじめた。
第三クォーターは、十二点のビハインドまで詰め寄って終わった。
「自分で突破出来るなら最初からやりゃあいいのに」
「ガードが自分で攻めて行くのは最後の手段ですよ」
最終クォーターまでの二分間のインターバル。
吉澤と福田が言葉を交わす。
口調は変わらないが、吉澤の心証は少し変わっていた。
福田の提案どおりに動いてそれなりにうまく行ったこと。
さらに、ドリブル突破を何度か鮮やかにして見せ、一対一での個の力を見せたこと。
吉澤の方も口だけじゃないのか、というのが実感として分かったので少し嫌悪感が薄れていた。
「外からの本数、もう少し増やしたいんで、吉澤さんあやかさん、リバウンドお願いします」
「わかったよ」
「市井先輩、もっと撃って下さい」
「オーケー」
一年生がチームを支配する。
このチームの骨格がもうすこしで組み上がりそうな所まで来ていた。
最終クォーターに入る。
東松江はディフェンスを変えてきた。
ゾーンをやめてマンツーマンへ。
福田に自由にボールを持たせる危険性を感じてのこと。
しかし、これは個の力で上回る吉澤達には好都合だった。
福田を起点に、各メンバーが得点を重ねる。
福田自身での飛び込みもあり、攻め手が豊富になってきた。
残り五分、吉澤がもらったバスケットカウントで四点差にまで迫る。
しかし、そのフリースローは外れた。
この辺の、点差を詰めていきたいところでフリースローを外してしまうのは、彼女の課題でもある。
東松江の速攻。
戻れたのは、速攻を想定していた福田だけ。
フリースローという、ディフェンスをセットする余裕がある状態から速攻を返されるのはかなり恥ずかしいこと。
ボールを持った大谷は、かまわずドリブルで抜きにかかる。
左に振って、右へバックチェンジ。
大谷の自信のあるプレイだが、福田はしっかり離れない。
抜き去るつもりで突っ込んだ大谷は、福田の体にもろに当たって行きオフェンスファウルを取られた。
「やるじゃんか」
多少苦々しげながらも、吉澤がそう言いながら倒れた福田に手を貸す。
しかし、起き上がった福田はなぜか異常に狼狽していた。
目をぱちぱちさせ、きょろきょろと周りを見回し落ち着きが無い。
「おい、どうしたんだよ?」
「コンタクト。コンタクトが無い」
「コンタクト?」
吉澤がそう言って足を動かすと、バリッっという嫌な音が周囲に聞こえた。
恐る恐る足を上げ、くつの裏を確認する。
吉澤は、持ち上げた足をゆっくり戻すと、すまなそうに上目遣いで福田の方を見た。
「すいません。交代お願いします」
福田が手を交差し、×をベンチの方に示した。
「ちょっと、まて、交代はないだろこの展開で」
「見えないんじゃ無理ですよ」
「だからって、この大事な場面で引っ込むとかありえないだろ。それともあれか。コンタクト割った私へのあてつけか」
「コンタクトないと、ボールの輪郭もちゃんと見えないんですよ。だから無理です」
「おい、ちょっと待てって!」
淡々と吉澤に説明をして福田は表情も変えずにベンチへ下がって行く。
突然のことに、ベンチはあたふたするも、中澤は福田の代わりに松浦を選んだ。
「一年生にはプレッシャーかかる場面やけど、遠慮せずにやってみろ」
「はい。先輩達を信じて頑張ります」
ここでも、優等生の百点満点解答を返す。
松浦は、確かに福田を除く一年生の中では頭一つ以上抜けた存在ではある。
そして、本人もポイントガード志望と言っているので、中澤は彼女を福田の代わりに選んだ。
しかし、松浦がポイントガードとしてこのメンバーと組んだことは練習でも一度も無い。
彼女の力量の問題以前に、周りとの連携の面で、勝負所でのこの器用には無理があった。
松浦に代わったことで東松江はディフェンスをゾーンに戻す。
こうなると前半と同じ流れになり、インサイドの吉澤、あやかが捕まってしまい、結局
四点差から詰めることができずタイムアップ。
決勝リーグに進出できずに新チーム最初の大会は幕を閉じた。
* * *
* * *
* * *
入りたての一年生は、とりあえず身近な先輩に頼る。
一番頼りやすい先輩に。
滝川のように、指導係が明確に決まっていればなおさらだ。
「ちょっとつらいかもしれないです」
乾いた洗濯物を届けに来た麻美を、里田が部屋から帰さずに捕まえた。
そろそろ慣れた? やっぱりまだ大変? そんな里田の振りへの麻美の答え。
「美貴?」
里田が優しい笑みを浮かべて麻美の方を見る。
先輩の悪口とかそういうのは言いたく無いんだけど、でも、ちょっと気づいて欲しいし、
だけど、なんだか、とか何とか思いながら、視線を外しつつ麻美はうなづいた。
「ほっとけばいいのよあの子は」
つまらなさそうに里田は言う。
そうは言っても、藤本が麻美をほっとかないのであって、麻美としてはほっときようがないのだ。
あいまいにうなづくけれど、そういう問題じゃないんだよという気持ちがある。
麻美が困った顔をしているのを見て取った里田は続けた。
「麻美が悪いわけじゃないからさ。あの子、なつみさんにかまって欲しいだけだから。
どうにもなんないのよ」
そう言われてしまうと、もうどうしようもない。
ここに来る前から分かっていたことではあったけれど。
「麻美は、なんでここに来たの?」
「あの、洗濯物・・・」
「そうじゃなくて。うちのチームにさ」
「ああ、はい。あの、バスケやるにはここしかなかったんです。北海道は出ちゃダメって
親に言われたから」
「なつみさんのこととか、気にならなかったの?」
「気になりましたけど、それは、どうしようもなかったんですよ」
姉がいるチーム。
気にならないはずがない。
だけど、どうしようもないこと。
「まいさん」
「なに?」
呼びかけて言葉をつながない。
里田が答えてから麻美は続けた。
「わたし、やっぱり扱いずらいですか?」
問いかけられて、じっと視線を向けられる。
里田は腕を組んで視線を外すとちょっと考えてから答えた。
「最初はね。うわって思ったよ。麻美の指導係やれって言われて。でも、実際やってみたら
そうでもないかなって思う。なつみさんも、麻美のこと特別扱いしないし。麻美も、悪い子
じゃないみたいだしさ、なつみさんにやたら頼るとかそういうところもないみたいだし。まだ、
猫かぶってるだけかもしれないけど?」
そう言ってちょっと微笑む里田に麻美は苦笑する。
猫かぶってるのかなあ、なんて里田は考えるけど、時間が経てばそれは分かること。
いい子ってことに、とりあえずしておこうと思う。
「二人でいつも一緒、みたいなことされると扱いにくいなって思うけど。そうでもないから、
どっちかっていうと、私たちより、なつみさんや麻美の方が気使って大変なんじゃないの?」
里田に自分の方を見られて、麻美は視線をそらす。
窓の方を見て答えた。
「私は、しょうがないかなって思ってますけど。でも、なんか・・・」
「なんか、なに?」
持ってきた乾いた洗濯物を、カラーボックスにしまい終えて、カーペットの上に座る麻美。
その姿をベッドの上から里田は見つめている。
似てるけど、態度は全然違うな、とか思いながら。
当たり前か、なつみさんは先輩で、麻美は後輩なんだから、とか思いながら。
「扱いづらいのはしょうがないけど、嫌われちゃうのはちょっとつらいです」
「たとえば、誰に?」
「いや、あの、誰にとか、そんなんじゃなくて」
「いいよ。はっきり言いなよ」
初めて自分の下についた後輩。
心配もするし面倒を見てやりたくもなる。
不安を抱えているならなおさら。
それに、その原因はほとんどはっきり見えていた。
「あの、わかんないですけど。私の気のせいかもしれないですけど。あの、美貴さんに、なんか、
その、嫌われちゃってるような気がします」
「あの子ねえ。素の顔がもう怖いから。一年生なんかだと嫌われちゃってるように感じる子
も出てくるかもしれないなあ、なんて思ってたけど。うん。麻美の場合は、気のせいとか勘違い
じゃなくて、実際、美貴、おかしいからねえ」
「下手で怒られるのはしょうがないと思うんです。確かに、美貴さんうまいし。私は、
そんなでもないし。だけど、なつみさんと比べてとか言われても、困るし。出来ない私が
いけないんだけど、でも、それ以外にもなんか、美貴先輩。いや、あの。わかんないです
けど」
先輩が、なんとなく同意を示してくれたから、思わず、思っていたことをいろいろ言い始めてしまった。
でも、途中で、勢い込んでしゃべりすぎだと気がついて、言葉を濁す。
美貴先輩とまい先輩は、結構仲よさそうだったし、あんまりいろいろ言ってしまうと、あとで自分に
跳ね返ってくるかもしれないし。
なつみ先輩の妹というのもなかなか大変だ。
「あの子、なんか過剰反応だよねたしかに最近。元々、愚痴とか不満とかはっきり言う子
だけど、なんか最近のは違う感じで。叱るとか指導するって言うんじゃなくて、当たってる
だけに見えるときあるし」
ただの二年生部員なら、まだそんなに問題は無いかもしれない。
だけど、藤本は中心選手であって、その上あの風貌は後輩からしたら、絶対に敵に回しては
いけない存在である。
「そんな顔するなって」
心配顔の麻美。
まい先輩がどれくらい頼れるのかはまだよく分からないし、美貴先輩がなんか怖いし。
キャプテンが姉だし、入ってすぐで比べられたって困るだけだし、かといって、仲良し姉妹
です風に前面に押し出して、なつみさんに教えてもらうなんてことはできないし。
気苦労が絶えないのだ。
「美貴には、ちょっと言っとく。なんとかするから、そんな不安そうな顔しないの」
「でも」
「大丈夫。麻美が悪いんじゃないんだから」
実年齢より上に見られやすい里田。
お姉さんぶるのは、ちょっと気分が良かった。
別に普通でいいらしい。
一年生が入ってきて、しばらく経つと周りもそう感じるようになった。
キャプテンの姉と結構うまい妹。
特別扱いする必要は無い、頭で分かっていても、なかなかその通りに出来ないこともある。
それでも、なるべくそうしよう、と言うのは伝わってくる。
ただ、それが、扱いづらいと思われている、と受け取る側は受け取るのだろう。
麻美の不安を聞いて、里田が改めて周りを見渡してみた感想がそれだった。
ただ、やっぱりなんか変なのが一人いる。
「きたねーファウルするんじゃねーよ!」
「すいません・・・」
五対五の練習中。
ボールを持った藤本が一人かわして中に切れ込んでくる。
そのカバーに入ったのが麻美。
藤本のスピードに足がついていけずに手が出てしまう。
試合でもよくあるシーンで、藤本が好んでするプレイでもある。
止め切れなかったことは叱るポイントかもしれないけれど、汚いファウルと罵られるようなプレイではなかった。
はたから見ていて、里田には藤本が何を気に入らないのかいまいち分からない。
どうにも意識過剰に見えるのだ。
麻美の側から藤本に何か接触していくことは基本的にほとんど無い。
せいぜい、ゲーム練習の後にビブスを片付ける為に受け取るとか、食事の配膳をするとか、その程度のものだ。
だから、麻美が何かをした、というのではなくて、もう、麻美という存在自体が気に入らないのだろう。
そうすると、やっぱり、なつみさんとの関係のことなのかな、と思う。
ともかく、藤本がどんな感覚で絡んでくるのかはいまいちわからないけれど、麻美のために、一言言っておかないと気がすまなかった。
その日の夜だった。
寮の廊下ですれ違って、里田が藤本を呼び止めた。
「美貴」
「どうしたの?」
「ちょっといいかな?」
「いいけど」
折りよく周りに人もいない。
里田はそのまま廊下で話し出した。
「美貴さあ、なんで麻美にああやって絡むわけ?」
「はぁ? 別に何もしてないでしょ。仲いいじゃんあさみとは」
んん?
一瞬理解できなくて、だけどすぐに理解して、変な間がそれほどは開かずに里田が続ける。
「あさみじゃなくて、麻美。一年生の」
「ああ、二号?」
「もう、別になんて呼んでもいいけどさ。あんまり変に絡まないでよ」
「何が?」
「何がじゃなくてさあ」
噛みあわない会話。
里田から見ると、藤本がわざとかみ合わせないようにしているように見えていらだたしい。
「練習中とか、無意味に絡んでるでしょ。出来ないプレイの注意とか、そういうのなら何も問題ないけど、美貴
のはただ、文句言う理由無理やり見つけてるように見えるんだけど」
「はあ? 知らないよそんなの。気のせいでしょ、まいの」
「麻美、悩んでるんだからね。自分の姉がキャプテンってだけでもいろいろ考えるのに、美貴にあんな絡まれて
。いづらくなってやめちゃったりしたらどうするのよ」
「別にいいんじゃないの? いたっていなくたって関係ないでしょ、あんな子」
うっとうしそうに藤本は里田の横を通り抜けていこうとする。
里田は、かちんときて藤本の肩に手をかけた。
「ちょっと、その言い方は無いんじゃないの」
「何むきになってんの? ああ、二号を可愛がってなつみさんに取り入ろうとかしてるんだ」
里田の手を払いのける藤本。
あまりの言い草に、里田も怒鳴りつけた。
「ふざけないでよ!」
藤本も冷たくにらみ返す。
熱くなる里田に対して、藤本は冷たく冷たく返す。
「後輩が出来たからって舞い上がっちゃって」
「その後輩をいじめてるのはどこの誰よ! 舞い上がるとか、そういう問題じゃないんでしょ! 先輩になった
んだから、しっかりしなきゃダメでしょ私たち!」
「あー、はいはい」
「聞きなさいよ!」
「ちょっと、なにやってんの!」
里田が藤本を怒鳴りつけている。
その声は廊下を通じて寮じゅうに響いていた。
ただならぬ剣幕に、各部屋から寮生が出てくる。
二人の間に入ってきたのはあさみだった。
「んー? 別に。なんか、まいが絡んでくるんだよね」
「絡んでくるって何よ!」
「やめて! いいから、もう。分かったから」
「何が分かったのよ!」
止めに入るあさみの、中途半端な介入までも里田は気に入らない。
そうこうするうちに、周りに人が増え始めた。
「どうしたのよ一体。なにがあったの?」
集まった人が二つに割れる。
間を通って来たのは安倍だった。
「なんか、まいと美貴が」
「なんでもないです」
「なんでもないってことないでしょ!」
「いい加減にしなさい!」
安倍が一喝。
いきり立っている里田のような激しい声ではなくて、はっきりしているけれど穏やかな声。
さすがに、里田もおとなしくなる。
「二年生にもなって、なにやってるのよまったく」
「美貴が」
「美貴がじゃない。人のせいにしない。あとで、二人以外の二年生だれか。報告に来なさい」
「はい」
小さな声で、あさみだけが答えを返す。
安倍は、まったくもう、とかなんとかぶつぶつ言いながら部屋に戻って行った。
その光景を、麻美は一年生の隅で見ていた。
春の県大会を順調に勝ち上がる富ヶ岡。
次の試合は次週末。
準決勝と決勝が待っている。
決勝まで行ったとしても、県内には富ヶ岡と互角に試合出来るチームは無い。
しかし、一年生達にはそんなことは分からなかったし、それどころでもなかった。
平日の練習。
どうも空気が悪い。
その空気は一年生が作り出している。
高橋派と小川派、一年生が割れている。
五対五の練習を見守る、参加出来ない一年生。
その輪が、交わること無く二つ出来ているのが、気になってしかたなかった。
「ライバル心があるのは悪いことじゃないんだろうけどねー」
二年生が再び話しあう。
険悪な空気の中で暮らすのはたまらない。
「すぐ側に住んでるんだし、もうちょっと仲良くなってもいいと思うんだけど」
一年前の一年生も、石川と柴田という二人の頭一つ抜けた選手がいた。
たしかに、石川、そして柴田それぞれを中心にグループは出来かけたけれど、今年のように対立する空気はなかった。
理由は簡単。
石川、柴田の当人同士が、やたらと仲良くなったからだ。
同じ地域の別の中学。
二人は、それぞれのチームのエースで、お互い顔を良く知っていて、試合をしたこともあった。
チーム力の差もあり、石川のチームがいつも勝っていたが。
そんな関係もあり、ライバル心は持ちつつも、柴田の方が素直に一歩引いて石川を立てていた。
今でも、梨華ちゃんに勝ちたい、という気持ちは持ちつつも、二人の関係は非常に良好だ。
「周りもねえ、煽っちゃってるからねえ」
「二人を煽る前に、自分が頑張れよ、って思うんだけどねえ」
まこっちゃんのが点取ってるじゃんねえ。
周りを使えないガードが何言ってんだか。
訛り全開の指示なんか聞きとれないよ。
一対一しか出来ないんじゃゲームを仕切れるわけがない。
試合に出られない、ベンチに入れない一年生達。
二手に割れて出来上がった派閥が、足を引っ張りあっている。
明らかに良くない傾向だった。
「影でごちゃごちゃ言ったって、先生が聞く耳持つはずないのにね」
石川の召集で、二年C組の教室に集められた二年生。
石川柴田のような、雑誌の表紙になる選手から、ベンチに入ることも無くスタンドで応援する立場の選手まで。
立場は違えど、富ヶ岡というチームの一員で、このチームが好きでここにいる。
「とにかくさあ、二人を仲良く指せちゃえばいいわけでしょ」
石川がきり出す。
他のメンバー達は、軽くうなづきながら、石川と柴田を交互に見た。
石川と柴田が仲がいいから、この二年生はうまく行っている。
「だからさあ、こういうのどうかな?」
石川がメンバーを手招きして額を寄せ合う。
小さな作戦と、その後のこまごまとした展開を語る石川の言葉を、二年生達は、首をひねりながら聞いていた。
「なんか、ありえなくない?」
「そんなうまくいかないでしょー」
「ていうか、子供じゃないんだからさー」
批難轟々。
困った顔をして、石川は柴田の方を見た。
「うーん、ちょっとねー、ありえないかも」
「そんなー、みんなひどいよー。せっかく考えたのにー」
誰にもフォローしてもらえずに拗ねる。
あまりにもいつもの光景過ぎて、メンバー達は苦笑した。
「いや、でも、そんな簡単じゃないと思うよ」
「もう、柴ちゃん嫌い」
こういう時なだめに入るのはいつでも柴田の役目。
「あーでも、失敗しても、別に問題ないし、悪くはないのかも」
「でしょー、そうでしょー」
簡単に機嫌は治る。
治った後がまた大変だったりするが。
「この作戦で行こうよ! ね!」
「いや、それは、ちょっと・・・」
「だって、みんな賛成なんでしょ!」
そこまでは言っていない。
しかし、石川をなだめることは出来ても、とめることは誰にも出来なかった。
「よーしけってーい! じゃあ、今から作戦かいしー」
一人でテンションの上がった石川に、メンバー達は苦笑しながらも、悪くはないか、とその言葉に従い教室を出て行った。
金曜日、翌日が試合のため帰りが早い。
まだ陽が出てる頃、小川達は部室を出た。
「また明日ねー」
校門を出た所で仲間と別れる。
電車組が駅に向かうのに対し、小川は近所のアパートに住む。
帰り道は一人になることがほとんどだった。
スポーツバッグを肩から提げて歩く。
試合出たいなあ・・・。
スタメンで出たいなあ・・・。
そう思って歩く小川の視線の先には高橋がいる。
同じ時間に練習が終わり、同じアパートに帰るのだから、同じ道を同じような時間に通った。
仲が良ければ追いついて声をかける所だけど、小川は、距離を保ったまま付かず離れず高橋の後ろを気づかれないように歩く。
前にいる高橋が目ざわりでしかたない。
かといって、他の道を回って帰れるほど、このあたりに馴染んでいない。
前を歩く高橋がスーパーに入った。
買い物カゴを抱え、生鮮食品売り場に入って行くのが店の外からも見える。
料理自分でするんだ。
横目でその姿を見て、そんな風に思いながら、小川は店を通り抜けた。
前に壁がなくなったので、歩く速度が上がる。
小川はアパート近くのコンビニに入った。
雑誌コーナーに向かい、情報誌をめくる。
地元では全然コンビニエンスではなかったコンビニ。
今は、部屋から歩いて二分。
小川のお気に入りの場所。
ここなら、一人ぼっちを感じない。
映画情報、音楽情報、素敵なスイーツショップ。
ページをめくるときらびやかな世界が小川を呼んでいる。
しかし、練習続きの毎日は、そんな世界へ行くことを許してくれない。
コンビニ前を高橋が通り過ぎるのが見えた。
これで、店を出た直後に鉢合わせすることもない。
小川は雑誌を置き、お弁当コーナーへと移動する。
のり弁のり弁幕の内、オムライス、そぼろにカレー、コロッケ弁当。
ここ一週間のメニュー。
スーパーに入って行った高橋の姿が頭に浮かぶ。
料理覚えようかな・・・。
そう思いながらも、今は目の前のお弁当棚から選ぶしかない。
結局、真新しさから、新発売らしい豚からあげ弁当を選んだ。
レジに向かう途中に、スイーツコーナーがある。
どうしても目に止まる。
どうしてもそこで立ち止まってしまう。
小川をひきつけてやまないかぼちゃプリンの魅惑。
食べたらふとる、太ったら動けなくなる、動けなくなったら試合出られなくなる、でも練習一杯したし、いやだめだ、でも、明日試合だし。
またも頭に浮かんだのは高橋の顔。
試合に出て、ハーフタイムに戻ってくる時に石川に頭をなでられて微笑んでいる高橋の顔。
小川は、何度も首を横にふり、かぼちゃプリンの前を離れた。
コンビニのポリ袋に豚からあげ弁当を一つ下げてアパートへと帰る。
階段を上がり、高橋の部屋の前を通り抜け自分の部屋で。
自分で鍵を開けるのもようやく慣れてきた。
「ただいま」
いつもそう言ってみるけれど、帰って来る声はもちろんない。
ワンルームプラス二畳のキッチンつき。
台所にお弁当を置き、小川は奥の部屋へ。
制服を脱いで私服に着替えた。
私服と言ってもただのジャージ。
そのジャージを着てベッドに横になりテレビをつけた。
まだ六時過ぎ。
やっているのはニュースばかり。
小川が興味を持って見るようなものは何もない。
暇だ・・・。
見るものがない。
ご飯にはまだちょっと早い。
話し相手もいない。
電話をして話そう、と思うほどの友達はまだいなかった。
ふるさとに電話する気にもならない。
携帯はまだ、上京するときに買ってもらったばかりで、メールを使いこなすところまで習慣化していない。
「明日の準備でもするか」
そう言って起き上がる。
一人暮らしをして、ひとり言が増えた。
タオル三枚、Tシャツ三枚、靴下三組、小川の一日一試合の時の標準装備。
それにバッシュとユニホームが入る。
今日、学校で受け取ったユニホームをカバンから取り出した。
「あれ? 14?」
取り出した白のユニホームには、大きく14の文字。
小川の番号は13番。
背番号14なのは、高橋だった。
ユニホームを手にしばし考える。
別に今日渡さなくても、試合会場で会うんだし、そこで渡せば問題ない。
だけど、ない、ないって、慌ててるんじゃないだろうか?
いや、それ以前に、私の13番がない。
でも、きっと明日持ってくるだろうし、いいんじゃないかな。
まてよ、13番を向こうが持ってるとは限らない。
そうすると、ユニホームがなくて試合出られないとか・・・。
部室に置いてきた? いや、間違い無くカバンに入れた。
だけど、入れたそれがこの14なんだから、13がどこにあるかはわからいなし・・・。
探さなきゃ!
今一番可能性があるのはやっぱり・・・。
小川の中で結論は下る。
しかし、なかなかそれを持って動き出そうとはしなかった。
ユニホームを両手で掲げ見つめる。
持って行かなきゃ、しょうがないよなぁ・・・。
覚悟を決めてようやく立ち上がった。
高橋の部屋の前。
インターホンを押せずに、ドアに前に立つ。
どんな顔して言えばいいんだ?
ユニホーム間違えた。
ごめん?
謝るのか?
まあ、私が悪いんだろうし。
でも、向こうが先に間違えたかもしれないし。
はぁ・・・。
別に、小川は高橋愛という人間が嫌いなわけではなかった。
好きも嫌いもない、ほとんど会話を交わしたことも無いのだから。
ただ、同じポジションを争うライバルであるのは間違いない。
今は、小川の方が一歩遅れているが。
それでも、そう意識して、さらに周りから煽られることで、日に日に話しづらくなっているのは確かだった。
別に怖がること無いじゃんか。
ユニホーム渡して、向こうが持ってれば受け取って帰ればいい。
それだけのことだ。
インターホンに手を伸ばす。
押せない。
もう一度考え込む。
そんなことをしていると、ドアが開いた。
「あっ、いや、あの、ユニホーム」
「火!火! 火事!」
「え?」
小川の前にはパニック状態の高橋がいた。
「火! 火! 油! 助けて!」
高橋が小川の手を引く。
分けも分からず、ユニホームを持ったまま小川は高橋の部屋に入った。
玄関すぐの台所の上に、フライパンがある。
そのフライパンに張られた油から火が出ていた。
黒い煙と共に、煌々と油が燃えていた。
「消さなきゃ! 消さなきゃ! 水!」
パニック状態の高橋が、右往左往しながらそう叫んでいる。
小川も、見たこともない状態にパニックを起こしそうにはなったが、目の前にこれ以上ない
ほどパニックになっている高橋を見て、逆にすこし冷静になった。
「消火器は?」
「消火器! 消火器! どこか、足元に!」
玄関から、見渡す。
入ってすぐの所に消火器はあった。
小川はそれを拾い上げる。
重くて支えられない。
「使い方分かる?」
「わからん! 分からん!」
黒い煙は台所を充満し始める。
炎は高らかと燃えていた。
小川にも使い方は分からない。
目の前の炎が焦りを誘う。
よくわからないままに、ピンを引きレバーを握る。
ノズルから粉が飛び出した。
押さえていなかったノズルが踊り、粉をあたりに撒き散らす。
小川は、必死にノズルを取り上げ、粉をフライパンに向けた。
やがて、炎を泡が覆い、煙も、火も消えた。
「はぁー・・・」
大きくため息をつく。
台所も、二人も、粉だらけにはなったが、火が燃え広がることも無く、ぼやで消し止めた。
ほっと一安心。
力が抜ける。
二人は、粉だらけのまま床に座りこんだ。
夕方、ほとんど陽が落ちた時間。
ぐちゃぐちゃになった台所も静寂がおとづれている。
肩を寄せ合い座る二人。
修羅場を超え、安心した高橋が、突然泣き出した。
「おがぁーさーん・・・」
声を上げ、しゃくりあげながら泣く高橋は、小川に肩を寄せる。
好きも嫌いもない。
黙って受け止めるしかない。
隣で肩を寄せられた小川は、戸惑いつつ、視線をうろうろさせる。
高橋の方を見たり、粉だらけのキッチンを見たり。
「がえりたいよぉー・・・」
子供のように泣きじゃくる高橋に、小川もつられて涙を流した。
声を上げたりはしないけれど、ふるさとを思い出して泣いていた。
気づけば二人は肩を寄せ合って泣いていた。
しばらくしてようやく落ち着いた高橋が、鼻をずるずるさせながらも顔を上げる。
小川も顔を上げた。
一しきり泣いても、台所の惨状は変わらない。
着ている服も粉でざらざら。
悲惨な状況のままである。
「シャワーでも浴びないとダメだね」
小川がそういうと、高橋はうなづいた。
部屋に戻り、粉まみれのジャージを脱いでシャワーを浴びる。
なんだったんだいったい・・・。
思いだそうとするけれど、疲れが増すだけなのでやめた。
ユニホームを渡しに高橋の部屋に行ったことはかろうじて思い出す。
着替えて、再び高橋の部屋を訪れた。
高橋はまだシャワーを浴びているらしく、台所の惨状はそのまま。
ユニホームは玄関にころがっていた。
シャワー浴びるなら玄関の鍵くらいかけろよ、と思うけれど、突っ込む相手はそこにはいない。
待つこと数分、高橋が出て来た。
「とりあえず、片さなきゃね」
「うーん」
高橋の反応は鈍い。
疲れきっているのが見るからに分かった。
片す気力も出て来ないのだろうことは小川にだって察しはつく。
「先に、うち来てご飯食べる?」
仕方なくそう言う小川に、高橋は弱弱しくうなづいた。
ご飯を食べる、と言っても高橋の晩ご飯は粉の中。
改めて買いなおさないといけない。
二人でコンビニに行く。
行きも帰りも無言だった。
インスタントのお味噌汁や、麦茶を小川が二人分用意する。
その間、高橋はずっと奥の部屋に座っていた。
「ありがと」
麦茶をテーブルに置くと、高橋がそういった。
ベッドを背に、テレビがよく見える位置に座る高橋に、そこは自分の定位置なのに、と
思うけれど、小川は主張できずに、向かい合う場所に座った。
会話のない食卓。
二人、無言でコンビニ弁当を食べている。
重たいなあ・・・。
そう、はっきりと言葉で、小川は頭の中で思う。
しかたなく、小川の方から話題をきり出した。
「さっきさあ、何作ってたの?」
高橋は、箸を動かす手を止めて顔を上げた。
口の中の物を飲み込み、小川の顔をじっと見ながら答えた。
「カツ丼」
単語じゃなくて、もうちょっと広げてよ・・・。
という思い半分、カツ丼か、手の混んだもの作ろうとしてたんだな、という思い半分。
「料理得意なんだ」
当たり障り無く褒めておく。
「ううん。全然出来ん」
今度は、小川が箸の手を止め顔を上げた。
「出来ないの? じゃあ、なんでいきなりカツ丼なんてすごそうなものを」
「どうしても食べたかった」
ふーん、っという感じで小川がうなづく。
食い意地貼ってそうなタイプには見えないけど、と思いながら高橋の顔を見つめる。
「でも、どうしても食べたかったら、どこでも食べられない? そば屋さんのチラシ来て
なかった? 出前頼めば、あんな目にあわなかったのに」
「違うんよ。こっちのカツ丼はカツ丼と違う。卵がかかってなんか変や」
「カツ丼は卵かかってるでしょ」
「そうじゃないんよ。うちはおかーさんのカツ丼が食べたかったん」
高橋の声のテンションが上がる。
神奈川のカツ丼は福井と違う。
ソースがかかってるのがカツ丼だ。
違うよ、そっちのがかわってるよ。
会話が弾み出す。
福井で、いつも食べていたカツ丼が食べたかったと、高橋は言う。
それから、ふるさと自慢が始まった。
ふるさと自慢なら、同じく地方出身の小川だって黙っていられない。
空気がきれい、お米がおいしい、新潟には新幹線来るよ。
お互い、段々ヒートアップしてきて、向きになって地元を主張する。
身をのり出して話しているうちに、お互いの額がぶつかった。
「いったーい」
高橋がオーバーに頭を押さえて痛がる。
顔を見合わせて、お互いに声を出して笑った。
後片付けをして、高橋が部屋に帰る。
小川もほっと一息ついた。
ユニホームは、結局やはりお互いが反対のものを持っていた。
小川の13番は、今は手元にある。
受け取ったユニホームをカバンにしまうと、そのままベッドに横になった。
私と変わらないんだ、たいして。
訛りはひどいけど。
話してみて、そんなことを思った。
はっと気づいて体を起こす。
高橋の台所の惨状を見捨てて、ユニホームだけ受け取って戻って来てしまった。
ちょっと考える。
でも、手伝いに行くのは明らかにめんどくさい。
そこまでする義理は無いか、とまた、体を横たえた。
小川は、そのまま歯を磨くこともせず、ベッドの上で眠りについた。
里田と藤本の喧嘩のこと。
翌日、安倍の下に報告に訪れたのはあさみだった。
「何、そんな理由なの?」
「そんなって言いますけど、二人にとっては深刻なんですよ」
「まさか、あの子が原因になってたとはねえ」
「麻美さんは別に悪くないですよ」
「さんをつけない。さんを。あさみは二年生なんだから、一年生に変に気を使わないの! あの子はただの一年生」
「はぁ」
「あ、でも、あさみは名前一緒だから呼びづらいか」
そういう問題でも無いけど、そういう問題もちょっとあるからなんとも答えにくい。
「あんまり気にしないで欲しいんだよね、麻美のこと。普通に、一年生としてさ、接してやって欲しい。それが、あの子のためだと思うし、みんなの為だと思うしさ」
はい、とは言いづらい。
出来るなら、とっくにそうしている。
そうしようと思うけれど、それでもなんとなく気にしてしまうから難しいんだ。
そういうあさみの気持ちは、安倍に伝わったのか伝わらなかったのか。
少し、別の話題に飛んだ。
「美貴とまいって、結構仲良くなかったっけ? 出て行ったら、その二人だったからびっくりしたんだけど」
「あの二人、仲はいいですけど、最近は結構やりあってますよ」
「やりあってるって?」
「なんか、バスケの意見が合わないみたいで。まいって、結構ボール持つとすぐ一対一で勝負するじゃないですか。美貴は、それが納得いかないみたいで、もっと崩してから勝負するべきだみたいな感じで」
「ああ、美貴の感覚分かるなあ」
安倍の部屋、後輩から報告を受けるときは、格好をつけるためにちゃんとテーブルに備え付けのイスに座っている。
報告に来る後輩は立ったまま。
背の低いあさみとは、座っていてもそれほど視線の高さに違いを感じない。
そんなあさみの顔を、安倍はうんうんとうなづきながら見ている。
「動きでね、ディフェンスが崩れた一瞬にそこにパスを通すのが、ガードとしては気分いいもんね。確かに、理屈の上だと、崩してから勝負したほうが勝ちやすいわけだし。それで、あさみはどう思うの?」
「え、私ですか? えー。うん。なつみさんがそういうなら、やっぱり崩してからのがいいんじゃないんですか?」
「そうじゃなくて、自分で考えなきゃ」
腕を組み、背もたれに寄りかかって、ちょっと偉そうな態度を見せながら安倍が言う。
立ったままのあさみは、なんとも答えにくそうな顔で安倍の胸元を見る。
「美貴はこう思う。まいはこう言った。じゃあ、あさみは? って話にならないの? その場にいるんでしょ、あさみも」
「でも、なんか、バスケのそういう話だと、私、蚊帳の外って感じで。やっぱり、スタメンで出てる二人に、ベンチにもはいってない私からは意見しにくいですよ」
「あさみもさ、穏やかに人の話し聞くのは大事だけど、自分の意見も主張しないと。どこにいるのかわかんない目立たない選手で終わっちゃうよ」
小首を傾げて困った顔。
藤本や里田がいて、二年生がいて、そんな中であさみの立ち位置は聞き役。
いつも一歩引いた位置にいる。
「って、わざわざ報告に来たのにお説教されちゃ割に合わないか」
そう言って安倍は笑う。
あさみとしては、言葉が返しにくくて、あいまいに微笑んでおく。
「まあ、いいや。ありがと、お疲れ。下がってよし」
時代劇の殿様風におどけてみせる。
あさみは、笑いながら頭を下げ、部屋から出て行った。
その背中を見送って、ドアが閉まったのを確認し安倍はつぶやく。
「キャプテンって大変・・・」
次の日の晩、今度は里田が安倍の部屋を訪れた。
滝川の寮は基本的に二人部屋。
ただし、キャプテンだけは例外で一人部屋を与えられている。
「どうしたー? めずらしいねえ」
わざわざ好き好んでキャプテンの部屋に出入りする者はあまりいない。
少し前の藤本みたいなのがいないではないが。
安倍なつみ、という人間は特別怖くは無いけれど、キャプテンの一人部屋というのは、
下の学年にとっては用がないのにわざわざ出向いていくところでは決して無い。
そこにわざわざ来たのは、用があるからということは安倍にも分かりきっている。
「ちょっと、いいですか?」
「うん」
にこやかにうなづく。
昨日の今日、どんな話題で来たかの想像は容易につく。
ただ、それについて、どんなことを言いに来たのかはちょっと分からない。
「あの、美貴のことなんですけど」
「うん。なんだい?」
ちょっと幼児をあやす口調が入るのは安倍の癖。
里田は表情を変えずに続けた。
「なんとかして欲しいんです」
「なんとかって?」
「麻美に、あの、一年生の麻美に、変に絡まないように言って欲しいんです」
「んーー・・・」
腕を組んで考える。
考えながら、意外にこの子もストレートに物言っちゃうんだなあ、なんてことも思う。
「そういうのは、二年生同士で解決するといいんじゃないかな?」
「それが出来ないからお願いしてるんですけど」
「大体、なんで藤本はそんなんなっちゃたのよ」
「それが、よくわかんないんですよ」
ちょっと会話が止まる。
ともかく、藤本がなんだか機嫌が悪いのは分かる。
「そういえば、最近、結構ぶつかってるって聞いたけど、麻美以外のことでも。どうなの?」
「美貴とですか?」
「そう」
背が高めの里田は、座っている安倍の前に立つと見下ろす位置関係になる。
着ている服もジャージで、ちょっと威厳のなさを感じた安倍は、足を組んで座りなおす。
「ちょっと、バスケに関して意見が合わないなって感じはしますけど。でも、やりあうってほど、別に、ないですよ」
「意見がぶつかったりしないの?」
「それは、ぶつかりますけど。しょうがないじゃないですか。そういう話、しないよりした
ほうがいいと思うし。バスケの話でそういうのはいいんです別に。ただ、麻美のことは、やっぱ
り、納得いかないんで」
里田の言葉に、安倍が考え込んでしまう。
組んでいた足を解いて、今度はイスの上にあぐらをかく形に座りなおした。
むずかしいのだ。
麻美は一年生。
麻美は妹。
自分はチームのキャプテン。
自分は麻美の血のつながった姉。
どうすれば公平で、どうすれば公平じゃないのか。
正直、それを考えるのが面倒なときは、麻美に不都合な方を選択しようとしている自分がいる。
そう、自覚していて、それもちょっとよくないなと思って。
むずかしいのだ。
「麻美、なんか言ってた?」
「えーと、なんか、あの、美貴が怖いって言ってましたけど」
里田は里田で難しい。
麻美は自分の後輩で。
指導係についていて、そうすると自然に大事な後輩になってきていて。
だけど、その後輩の姉はキャプテンで。
可愛がりすぎると、特別扱いするなといわれそうだし。
厳しく接すれば、私の妹なんだけど、と言われそうだし。
たとえ勘違いでも、キャプテンに取り入る為にやさしてるんだとか、藤本みたいに言い出す人がいるかもしれないし。
里田は里田で難しい。
「それを、受け止めてあげるのが指導係の役割なんじゃないの?」
「それは、そうかもしれないですけど・・・」
「里田とさ、麻美。あと、藤本と、三人で解決できないの?」
安倍にそう迫られて、里田はちょっと言葉を返しづらい。
納得した、のではなくて、ごまかされてるようなそんな気分。
解決できないからここに来たのだ。
はい、とは言えない。
里田が答えに窮していると、安倍が続けた。
「安倍麻美はさ、里田が指導係についたんだから。全部任せるから、責任持って面倒見てあげなさい」
そういうことじゃない。
そうじゃないんだ。
そう思う里田は、ふと気づいた。
「麻美は、あの子のことは、確かに、私が責任持たなきゃいけないんだと思います。
だけど、だけど、なつみさん、美貴の指導係じゃないですか。キャプテンとか、麻美の
お姉さんとか、そういうことじゃなくて、指導係として、美貴に何とか言ってくれませ
んか?」
里田にそう言われ、安倍は腕を組んで考え込んでしまう。
キャプテンじゃなくて指導係として。
虚を突かれた一言。
なんとなくもっともらしく聞こえる。
視線も里田からそらして、どうしたものかと考え込む。
「美貴って、我が強くて、私たちが言っても聞かないし、でも、なつみさんの言う事なら
ちゃんと聞くから。だから、なつみさんから何とか言ってもらえないですか?」
「あの子、聞くかなあ? なっちの言うこと」
「聞きますよ。絶対。なつみさんの言う事なら聞きます」
ようやく思惑通りの展開になってきた里田。
どうにか押し切ろうと必死である。
「言ってみてもいいのかなあ?」
「試合でも、美貴が変なときにまともな方に持っていけるのってなつみさんだけじゃないですか。だから、お願いしますよ」
「うーん。しょうがないなあ。話してみるよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします。失礼します」
「あ、あ、うん」
安倍に承知の言葉だけ言わせて、それ以上続けさせずに里田は出て行った。
「あ゛ぁー。麻美のことには関わらないようにしてたのにー・・・」
ドアが閉まったのを確認して、一人の部屋でそうつぶやくと、安倍は机に突っ伏した。
ちょっと考えて、ため息をついて顔を上げる。
顔を上げてから、もう一度ため息をついた。
それから、机の脇にかかった内線表を取り出す。
学校には電波は届くが、寮では携帯は圏外になる。
寮、備え付けの電話を回した。
「もしもし」
「もしもし。なっちです。どっち?」
「りんねだけど」
「りんねか」
「何? 尋美?」
「ううん。りんねでいいや。ちょっと部屋来てくれない?」
「なんか、どっちでもいいやって感じが気に入らないけどわかったよ。待ってて」
安倍がかけたのはりんねと尋美の二人部屋。
誰かに相談しようと思ってかけたので、どっちか出た方に頼ろうと思った。
それに、たまたま当たってしまったのがりんね。
なんとなく、自分がそういう役回りなことをりんねも自覚していて、文句は一言だけで安倍の部屋にやって来た。
「何? どうしたの?」
部屋に入ってくるなりのりんねの一言。
安倍は、ベッドにうつぶせになって寝ていた。
「りんねー」
「だから、どうしたのさ」
うつ伏せから体をくるっと回してりんねの方を見るけれど、またすぐに、枕を抱いて丸くなる。
後輩ではなくて、同学年のりんねが相手なので、イスと机を背景に、権威を見せ付ける必要も無い。
リラックス過剰な、緊張感の欠片も無い体勢で出迎える。
「んー、里田に怒られた」
「なんて?」
「美貴を何とかしてください! って」
まったく似ていない声真似をする、枕を抱いたままの安倍。
りんねは、さっきまで安倍が座っていたイスに、逆向きに座った。
「それで、どうするの?」
「なんとかするって言っちゃった」
「じゃあ、何とかするしかないんじゃない?」
今度は、抱きしめていた枕をぽふぽふと安倍が叩いている。
どっちがチームのキャプテンなんだかよく分からない部屋の雰囲気。
突然、安倍は体を起こす。
抱えていた枕を、りんねの方に放った。
「藤本、なんで最近あんな機嫌悪いのかな?」
「いきなり突き放したりするからでしょ」
りんねは枕をナイスキャッチ。
自分のおなかとイスの背もたれの間に置いて、クッション代わりにする。
「だってー。キャプテンが一人だけとべったりなのはまずいかもって思ったし。それに、あの子も二年生になったんだから、一年生をしっかり見るように仕向けた方がいいかなーって」
「確かにそうだけどさー。ちゃんと説明したの? 本人に」
「してない」
「それじゃ機嫌も悪くなるでしょ」
ふーっとため息を吐いて、安倍はベッドに仰向けになる。
りんねが続けた。
「あの子、思ったことが全部顔と口に出るからねえ。でも、まだいいんじゃないの? おなかの中に貯められるより」
「うーん、その思った感情が前に出てくるからさあ、そっちにばっかり目が行っちゃって。どうしてそう思ったのか、みたいなこと言ってくれないから、結局よく分からないときがあるんだよね、あの子」
「いや、分かってないのなつみだけだから。なつみに突き放されていらいらしてて、手近なところに獲物の麻美がいたってとこでしょ。それで、まあ、麻美のことは、最初はともかく、今はもうただ引っ込みつかなくなっちゃったって感じだけど」
「そうかなあ?」
「あの子もバカじゃないんだから、なつみが、もうやめろって言って、それから、突き放したって言うか、いつも一緒みたいな感じにしなくなった理由みたいなのをちゃんと説明してあげれば、落ち着くんじゃないの?」
りんねは、それ以上は続けずに、黙って安倍の言葉を待つ。
安倍は、仰向けになったまま言った。
「いまさら説明するのもなんかなあ」
「一言叱ってから説明すれば、いまさらっていう感じも無いんじゃない?」
「うーん・・・」
いまいち気乗りしない。
冷静に誰かを叱る、というのは安倍は苦手だ。
「215かな」
「えー。やだー」
「やだじゃないでしょ」
「だってー」
「だってじゃないの」
りんねが安倍の方に枕を投げ返す。
安倍は、キャッチするとそのまま仰向けになった。
「なっち、後輩叱るのとか苦手だよー」
「しょうがないでしょ、そういう立場になっちゃったんだから」
「何にも考えずにバスケだけやってたかったんだけどなー」
安倍の言葉に、りんねは小さく微笑む。
三年生、りんねは別にキャプテンじゃないけれど、スタメン組でもあるし、いつのまにか責任を感じる立場になって来てしまった。
重みは少し軽いけど、安倍の言葉に共感できる。
静かな時間が少し流れる。
安倍がベッドから体を起こした。
「りんね、立会いしてもらえる?」
「215?」
「うん。215」
「しょうがないなあ」
自分から提案したのだから、ある程度予想はしてた。
しょうがないかと、言葉どおりに思う。
「もういい?」
「えー、帰っちゃうの?」
「帰っちゃうのって、用済んだでしょ?」
「さみしいー。なっち、さーみーしーいー」
キャプテンになったからという理由で与えられた一人部屋。
一人でいるのは気楽は気楽だけど、さびしいはさびしいのだ。
「駄々こねないの」
「さみしいー。さみしいー」
「分かった。分かったから」
結局、りんねは安倍に付き合って部屋にいてやる。
無駄話して無駄話して、お風呂に入って無駄話して、夜は更けていった。
合宿をしよう。
突然そう言い出したのは中澤だった。
決勝リーグの予定が、負けてしまってぽっかりと無くなったゴールデンウィーク。
三泊四日で合宿を組んだ。
「なんかー、あんまり面白く無くないですか?」
「なにが?」
「なにがって・・・」
「はい、スキップ」
「え? 私か」
畳に座布団敷いて、三人で座っている。
吉澤、あやか、松浦。
「じゃあ、ドローフォー」
「吉澤さーん」
「なんだよ、四枚取れよ」
「あ、じゃあ、私もドローフォーで」
「じゃあ、私も」
「ドローツー乗せるのなし?」
「無しです」
「あーそう」
吉澤が山から十二枚取る。
一枚一枚数えてる間に、また、松浦が口を開く。
「UNOって三人でやってても面白くないんですけどー」
「十二枚取らされた私が一番面白くないっての」
「あやかさん、色は?」
「うーんとねえ、黄色かな」
「じゃあ、UNOでリバースです」
「おまえ、一番楽しんでないか?」
「ゲームは勝たないと意味ないですから」
吉澤の冷たい視線を受けて、松浦はにひひと笑う。
十二枚増えたカードを畳で軽く叩いてそろえ、吉澤はカードを手元で広げた。
「よし、ドローフォー」
「私に四枚取らせてどーすんの、よっすぃーは」
「吉澤さん、色は?」
「松浦、お前の好きな色はなんだ?」
「ピンクですけど」
「無いだろ、ピンクは。その持ってるカードの色を言え。何にしてほしい」
「そんなの言ったらゲームにならないじゃないですかー」
「ち。しょうがねーなー。緑にしとくか」
「上がりでーす」
「なんだよ、つまんねーなー」
持っていたカードを床に投げつけて、吉澤は仰向けになった。
「松浦、ゲームとかやると性格変わるタイプかよ」
「そんなことないですよー」
「よっすぃーが弱すぎるだけだね」
「うっさい、あやかまで」
両手を広げ、足まで広げ、大の字で仰向けになっただらしの無い格好。
あやかと松浦は、ちょっと呆れ顔でそんな姿を見ている。
「あのー、そろそろ行っていいですか?」
「どこ行くんだよ?」
「いや、だって、あの、私も一年生ですし、その入部して一ヶ月くらいで、あの、ほら、やっぱりそういう一年生のコミュニティーみたいなのって大事じゃないですか?」
「なんだよ、コミュニティーって」
「一緒に、先輩たちのTシャツなんかをお洗濯して、吉澤先輩ってやっぱり素敵だねー、とかそんなお話をするのが大事なわけですよ」
吉澤は、体を起こしてじーっと松浦を見つめる。
見つめられた松浦は、あいまいに照れた笑いを浮かべ、あやかの方に視線を送った。
「かわいがるのはわかるけど、解放してあげたら」
「別に監禁してるわけじゃないんだけど」
「あんまり困らせるのもかわいそうでしょ」
あぐらを組んで座りなおした吉澤が松浦に向かって言った。
「福田もいるの? そのコミュニティーってやつに」
「明日香ちゃんは、なんか一年生って感じがあんまりしないです」
「明日香、ちゃん?」
「ダメですか? 明日香ちゃんって呼ばれたときの、ちょっと困ったような表情がかわいいんですよ」
「ああ、もうわかったから。行け行け」
「じゃあ、失礼しまーす」
松浦が部屋を出て行った。
背中を見送って、吉澤はため息をついた。
「よっすぃー、福田さんのこと意識しすぎだよ」
「なんか、むかつくじゃんか」
同級生のあやかにだけは、オブラートゼロの表現で話してしまう。
吉澤の愚痴は続いた。
「一年生の癖に仕切りやがってさあ。確かにうまいかもしんないけど、なんか、やさしさってもんがないんだよ、松浦みたいに上を立てるみたいな、そういうのもないしさあ。かと思えば、試合ん時は妙にさめててさあ、気合っつーの? そういうのが見えないし」
延々続く吉澤の愚痴。
笑って聞いていたあやかが口を挟んだ。
「そうは言ってもさ、この先二年、一緒にやってくしかないんだし。どう見たって、あの子がガードでスタメンでしょこの先ずっと。ちょっとづつ馴染んでいくしかないと思うよ」
「んなことはわかってんだけどさー」
吉澤はまた仰向けになる。
そんな姿を、あやかは微笑を浮かべて見ていた。
翌日、初の一日練習。
午前中は走るメニュー中心。
戦術的なメニューが入るのは午後になってから。
お昼過ぎ、体育館に稲葉が姿を見せた。
「ホンマに来たん?」
「あたりまえや。じっくり練習見させてもらうからな」
「そんな、練習まで見るほどの大層なチームやないと思うけどなあ」
稲葉はため息をついて右手で頭をおさえる。
怪訝そうに見つめる中澤に向かって、稲葉は語った。
「あのね、分かってないみたいだから言わせてもらうは。チーム自体は、県の決勝リーグにも残れなかったみたいやし、まだ、たいしたことあらへんはな。だけどな、一年生の福田さん。あの子がおるから、練習だけでも見に来る価値はあるの」
「そんなすごいんか? 明日香って」
「全国トップのガードよ、この世代じゃ。あの子とタイマン張れるとしたら、一つ上だけど滝川の藤本さんとか、それくらいじゃないかな。そんな子がいながらね、インターハイや選抜に出てこないとか、認められないからね」
「まじ?」
「まじです」
真顔で稲葉に見つめられ、中澤がおびえた表情を見せた。
「なんで福田さん、裕ちゃんのチームなんか選んだかな・・・」
中澤は返す言葉が無かった。
午後の練習が始まる。
フットワークにツーメン、軽く体を動かしてから午後一杯使ってじっくりとセットオフェンスの練習をする。
三対三と五対五。
今日のテーマ、とにかく意志の疎通をしっかりとすること。
部員がそれほどいるわけではないから順番が回ってくるのが早い。
三対三は、三ヶ所に分かれて順番待ち。
部員が十四名なので、組み合わせが少しづつずれてくる。
吉澤は、そのずれを見ながら福田と同じ組にならないように巧みに調節する。
一時間におよんだ三対三の練習の間、一度も吉澤は福田と組むことは無かった。
五分の休憩を挟んで次は五対五。
これは、選手指定なのでそうはいかない。
スタメン組みに当然福田も吉澤も呼ばれる。
否応無しに同じ組にされた。
スタメン組みに福田、市井、保田、吉澤、あやかと入る。
松浦は市井のマッチアップについた。
福田のサブのガードとしてよりも、自分で点が取れるので、フォワードのオプションにしようという保田の考えでのものである。
松浦自身は、福田からよりも市井や保田のポジションのがとりやすいかな、と思ったりもしたが、そんなことはまったく表情に出さず、「頑張ります」と答えていた。
スタメン組みがオフェンスのハーフコートセット。
特別な指示もなく何度かやってみるが、個々の実力差がありすぎて一対一で突っ込めばレギュラー組が勝ってしまう。
吉澤のポジションがその傾向が顕著だった。
「一対一無しでやりません?」
「なんだよそれ?」
「いや、だって、動きというかあわせというか、そういう練習をする時期だと思うんですよ」
「一対一だって、大事な武器だろ」
「それはそうですけど、でも、ここでそれやっちゃうと練習にならないじゃないですか」
福田と吉澤のやり取り。
また始まった、という周りの空気。
空気を読んでか読まずか、福田は続ける。
「一対一やれば勝てるからこっち側にいるわけじゃないですか。それを磨くのは別の場面でいいはずです」
「わあったよわあった。やりゃいいんだろ、一対一なしで」
引いたのは吉澤の方。
一対一禁止というあいまいなルールを入れて再度五対五が始まる。
途端にゴールが決められなくなった。
動きの中でフリーが作れない。
打開策は、苦し紛れのジャンプシュートしかなかった。
うまく行かないとストレスがたまってくる。
かりかりしながらの練習。
切れるきっかけは簡単だった。
ボールをまわしてまわして、福田に戻ってくる。
吉澤は外にディフェンスを一瞬振って中に切れ込む。
しかし、福田もフェイクに引っかかり、誰もいないアウトサイドへボールが飛んでいった。
「ちゃんとパス出せ、馬鹿!」
吉澤が怒鳴りつける。
福田はそれにはどこ吹く風。
軽く手を上げてわびる。
「それで終わりかよ、自分でミスしといて。連携が大事だって言ったの誰だ?」
「すいません」
「それだけかよ?」
「吉澤、あんた何様だ?」
間に入ったのは保田だった。
「カリカリしてないでワンプレーワンプレーに集中しろボケ!」
保田の一喝が入り静まり返る。
隣のコートで練習している中学生の甲高い掛け声が重たい空気の中に爽やかに響いた。
「次行くよ次」
保田に口を挟まれると、吉澤もそれ以上は言いにくい。
何かを言いたそうなそぶりは見せたものの、自分のポジションに戻った。
中学のときからつながりのある福田と、市井保田の間はともかく、吉澤やあやかといったインサイドの二人と福田の連携は、いまひとつ改善が見られないままで練習が終わった。
「なんか感想ある?」
生徒たちが後片付けする体育館を出て、中澤は稲葉に語りかけた。
「大変やな」
「もう、どうしたらええんかわからんは」
「まあ、何とかなるんちゃう?」
「他人事やと思って」
中澤はため息。
つかれきったそんな姿を見て、稲葉は少し笑みを浮かべて言った。
「裕ちゃんがもっとしっかりすればね。ホントは裕ちゃんが負うべき役目を、保田さんなり、福田さんが負っちゃってるからさ」
「それ言われるとかなわんのやけど」
「吉澤さんだって、裕ちゃんとか、せいぜい保田さんとか、自分より上の人ならともかく、入ったばっかりの福田さんにいろいろ言われるのは面白くないでしょ」
「そやけどなあ・・・」
「まあ、なんとかなるって。福田さんも吉澤さんもあほじゃなさそうだから」
「吉澤は、わりとあほやけどな」
「一番アホは裕ちゃんや」
返す言葉の無い中澤。
苦笑いして、ため息をついた。
「それはそうと、ちょっと三十分ばかし福田さん借りていい?」
「借りてどうするん?」
「インタビューに決まってるでしょ。取材に来たんだから」
「あの子だけそんなしたら、ますます浮いちゃうやろが」
「高校バスケを始めた福田さんに話し聞くのが今日の主目的なんやから、仕方ないでしょ。これがうちの仕事なの」
「分かったよ。ちょっとまってなここで」
中澤は、体育館でシューティングをしている福田を呼び出し、外へとつれてきた。
「稲葉さん、どうもお久しぶりです」
「あいかわらずっぽいね」
「ええ、まあ」
福田が頭を下げる。
二人の会話に、中澤が口を挟んだ。
「知り合いなん?」
「中学のときから、何度かお世話になってます」
「二年の全中の時が最初やったかな?」
「確か、そうでしたね」
「へー。まあ、ええは。風邪ひかん程度にな。あっちゃん、宿のバスが来るまでにしといてや」
「りょーかい」
なんか、すごい子預かっちゃったんだな、と改めて認識させられる。
体育館に戻ると、隅のほうで吉澤が仰向けに寝転がっていた。
翌日も稲葉がいないくらいで、後は同じように練習が進められる。
午後に入り、三対三では、やはり吉澤は福田を避け続けた。
昨日と変わったのはその後。
五対五が始まるタイミング、中澤がメンバーを呼び集めた。
「試合をやる」
みな怪訝な顔。
五対五をやめて紅白戦にするのかな? と考える。
そんな顔。
「となりの中学生と練習試合をやる」
「となりって、あれですか?」
「そう、あれ」
吉澤が、隣のコートを指差すと、中澤はうなづいた。
昨日から同じ体育館で練習しているのは見かけている。
「なんで中学生と?」
「向こうがお願いしてきたんでオーケーした。たまには目先かえるのもええやろ」
「そんな、泣いても知らないですよ」
「おっ、言うたな吉澤。泣かしてもええけど泣かされんなよ」
「ないないない。中学生相手にそんなの」
にこやかに、右手で否定する。
他のメンバーも、明らかに緩んだ空気だった。
「よし、スタメンは、福田、市井、保田、吉澤、あやか」
本気のスタメン。
手を抜く抜かない以前に、このメンバーの練習を兼ねている。
中学生たちがこちら側のコートに移ってきた。
明らかに小さい。
技量の他に、高校生と中学生の間には完全に身長差も見られた。
「なるべく一対一無しで行きましょう」
「試合でそれはつまんねーだろ」
「吉澤さん、中学生相手に力見せつけてもしょうがないじゃないですか」
「まあ、そうだけどよー」
さすがに、相手が中学生なだけに吉澤も福田の言うことに従った。
「よろしくおねがいしまーす」
たまたま出会ってのたまたまの練習試合。
かしこまったことは何もないけれど、中学生たちの挨拶がフロアに響いた。
ジャンプボールで吉澤がコントロールし、はたかれたボールを保田が拾ってそのままゴールを決めた。
ハーフコートのマンツーマンディフェンス。
そこに向かって中学生のガードがボールを運んでくる。
福田と身長の変わらない中学生。
無謀にもそのまま突っ込んできた。
顔フェイクを右に入れてボールを左に持ち代える。
福田が簡単に引っかかるはずもなくしっかりついていく。
そこからバックターンでかわそうとするが、正面にきっちりつかれ、あわててボールをファンブル。
こぼれたところを市井がさらい、そのままドリブルで上がりシュートを決めた。
「かごー! ワンオンワンで勝てると思ってるのかアホ! ボールまわせ!」
先生からの怒鳴り声。
怒鳴られたかごは、ぺろっと舌を出してまたボールを運ぶ。
フロントコートまで上がってくると福田がつく。
さすがに今度は突っ込んでこないだろう、と少し油断したところに、またかごは突っ込んだ。
虚を衝かれ、一瞬反応は遅れるが何とかついていく。
振り切れずに、そのまま強引にジャンプショットを放つ。
身長差のない二人。
福田がきれいにブロックショットでボールをはたいた。
こぼれだまを吉澤が拾い、前の市井につなぐ。
そのまま簡単に速攻が決まった。
笛が鳴ってタイムアウト。
中学生チームがベンチへ戻る。
ガードの小さな二人が言い合いを始めた。
「あいぼん、一人で突っ込んでいかないでよ!」
「うっさい、福田さんなんだから勝負してみたいって」
「じゃあ、つぎののに攻めさせてよー」
「福田さんはうちのほうが手ごわいって思ってうちについてるんだから、ののが攻めたいって言っても、福田さんつかないし」
「あいぼん二回攻めてダメだったんだから今度はののにやらせてよー」
言い合う二人の頭でごつんと鈍い音。
「いい加減にしろ! 加護! 辻! お前ら二人のために練習試合していただいてるんじゃないんだ。ちゃんとボールまわせ」
そんな光景を逆サイドから見ていた高校生。
始まったばかりで、タイムアウトといっても特に受ける指示もない。
「ガキだな、ありゃ」
「吉澤も大分ガキだけどね」
「いや、あれほどじゃあ・・・」
保田に突っ込まれても余裕の表情。
確かに、さすがにあれほどガキではない。
「明日香、せっかくだからマーク変わってあげれば?」
「マークですか?」
「もう一人のちっこいのが明日香とやりたそうじゃん。練習だし、組んであげれば?」
「市井先輩がマーク代わりたいって言うならそれでもいいですけど」
市井の遊び心からの提案。
福田が了承しマークを代える。
そんな、和やかな会話だけでタイムアウトがあけた。
中学生チームボールでゲーム再開。
ボール運びが変わって、今度は辻が持ち上がる。
ハーフラインを超えて、それについたのは福田。
中学生の目の色が変わる。
隣で加護がパスを要求するのは無視した。
自分で突っ込んでいく。
簡単に、福田が下からボールをさらい、ワンマン速攻でシュートを決めた。
「辻! もう一度同じことしたら、加護と二人で日本海に沈めるぞ!」
先生の怒声。
中学三年生のガード二人はびくっと反応する。
「のの、うちが運ぶ」
加護の要求に答え辻はボールを送る。
そこからようやくまともなゲームが動き出した。
中学生が、一対一で高校生にはかなわない、と身の程を知ったバスケを始める。
ボールをまわしてまわして、何とかフリーを作ってシュートまで。
ゲームを作るのは、二人のガードのうち、福田がついていない方。
時折気を利かして、練習だからと福田と市井でマークを入れ替えるが、そうするたびに、組み立ての主人公が変わる。
そんな形でオフェンスは何とか組み立てたが、ディフェンスはなかなかとめられない。
五分三本のショートゲームで、三十一対十九のスコアで高校生チームが勝った。
「なんか、意外とてこづりましたよね」
「ちゃんとまわすようになってからは、結構強かったかも」
二年生二人の感想。
それに保田が答えた。
「でも、あんたたち二人とも、さすがにインサイドの一対一は全部止めてたじゃない」
「そりゃそうですよ。身長も勝ってるし、パワーだってこっちのがあるんだから」
「その割には、点は取られてなかったか? けっこう」
「なんか、あわせあわせで、マークはずされるんですよ。やりにくくてしょうがない」
「一対一無しで攻める練習の価値、分かった?」
「あ・・・」
保田の望んでいた回答を、見事に吉澤は自分の口から出してしまう。
苦い顔で福田の方に視線を送るけれど、福田はなにも言わない。
「あ、じゃないわよ。なんか言いなさい」
「わかりましたよ。やればいいんでしょやれば」
「あんたも素直じゃないがきだねー」
返す言葉もなく、吉澤は頭をかきむしった。
「あのー、練習してくれませんかー?」
高校生たちの中に入ってきた中学生二人。
福田に向かって話しかける。
「練習?」
「福田さんと一対一やりたいんです」
「やりたいんです」
「先生、この後の練習は?」
「ああ、ええよ。後ストレッチして終わり」
「おねがいします」
「おねがいします」
「じゃあ、まあ、やる?」
「はい」
中学生が、身長のかわらない高校生を連れて行った。
「明日香は人気者だねー」
「この辺の中学生でそこそこうまい子は、明日香のことはやっぱり知ってるのかな」
「あの子たちも結構うまかったもんね」
ドリンクを飲みながら市井と保田。
連れ去られた妹分を見ながらストレッチをする。
吉澤も、それに並んで福田の姿を見ていた。
「なにやるの?」
「一対一」
「どっちから?」
「うち!」
「ののが先!」
つれてきておいて目の前でもめる子供が二人。
つれてこられた福田が自分で事態を収拾する。
「じゃんけんでどっちが先か決めたら」
福田の言うことを素直に聞く。
じゃんけんはパーを出したかごが勝った。
福田をディフェンスにおいて、順々に一対一をやっていく。
大体がとめられる。
時折ジャンプシュートを決めて派手に喜ぶ場面もあるけれど、福田を抜き去ることは出来ない。
「ちょっとさあ、無駄なドリブルが多いかな?」
「無駄?」
「クロスオーバーとかさ、派手に見えるけど、あんまり意味が無いことが多いんだよね」
「意味ないですか?」
「うん。位置動かないでボール持ち替えてるだけだから怖さがないの。ディフェンスとしてはシュートが一番怖くて、次に抜かれるのが怖い。ボール持ち帰るのとかは割りとどうでもいいから。もっとシンプルにやったほうが良いよ」
「わかりましたー」
素直な子供。
福田の顔もほころぶ。
「私、ずっとディフェンスだけなの?」
「かわりましょう。のの、ディフェンスやー」
「おっけー」
攻守交替。
福田がボールを持つ。
シュートフェイク一つ入れて、簡単に抜き去った。
「すげー・・・」
一歩も反応できなかった辻。
呆然と転がるボールを見ている。
「細かい技術じゃなくて、一歩のスピードがね、大事なのよ。わかる?」
こくこくとうなづく二人。
レベルが違った。
一対一を延々繰り返す。
誘った辻加護のほうが先に集中力をなくしてきた。
福田オフェンスで加護ディフェンスの一対一。
加護が福田にボールを預ける。
福田が構えると、ボールをはたかれた。
辻だった。
「いえーい、もらいー」
「あ、こら。なにするの!」
「えーい、福田さんから取ったー」
「こら、返せ」
「あいぼんパス!」
「なにすんの」
福田を間に挟んで、辻と加護でボールを受け渡す。
なぜかむきになって福田もボールを取り返そうとしていた。
やがて、福田が加護をボールごと捕まえる。
「つかまったー」
加護が笑っている。
それにつられ、福田も笑みを浮かべていた。
遠くからその様子を吉澤が見ている。
そんな顔も出来るんじゃないか、と遠くで思っていた。
その夜、吉澤を保田が呼び出した。
「ちょっとコンビニ付き合ってよ」
七人部屋の一番奥、布団の上に寝転んでいた吉澤。
部屋の入り口に立つ保田のほうをチラッとだけ見て答えた。
「一年生に行かせりゃいいじゃないですか」
「完全に私物だから頼みにくいのよ」
「何買うんすか?」
「シャンプー」
思わず体を起こし、保田のほうを吉澤は見る。
「なによ」
「なに買ったって一緒じゃないっすか?」
「いいから、付き合いなさい」
吉澤はしぶしぶと立ち上がった。
ジャージに宿のサンダルを突っかけて出かける。
きちんと靴を履いた保田に突っ込まれた。
「あんたねえ、けが防止に靴下は履くもんでしょうが」
「まあ、いいじゃないっすか」
二人は宿を出て行った。
陽はもう暮れている。
街道沿いの道は、それなりに車も通り、そのたびに光は射すが歩く人影は無い。
コンビニまでは十分余り。
めんどくせーなー、と思いつつ歩く吉澤の前で、保田が背中を見せたまま語りかけた。
「なんか、いろいろ悪かったな」
「何がっすか?」
「明日香のこと」
「ああ」
二人の距離感は変わらない。
保田の後ろに吉澤。
保田の背中を見つめるように歩く。
「ちょっとね、特別扱いしすぎたかなって反省してる」
「ちょっとどころじゃないですよ」
「そっか」
「そうですよ」
保田の歩く速度が落ちる。
それに合わせて、吉澤も速度を落とした。
二人の距離感は変わらない。
「でもさ、吉澤もちょっと、明日香の言うこと聞いてやってくれないかな?」
「あいつ、むかつくんですよ」
「なんだよそれ」
ストレートな表現に、保田は思わず振り向いて立ち止まる。
吉澤は歩みを止めずにその横を通り過ぎる。
保田は、その吉澤の隣に並んで歩き出した。
「下級生にいろいろ言われるとむかつくじゃないですかやっぱり。保田さんだって、私にあれこれ言われてむかついたこともあったでしょ」
「そりゃあね。でも、明日香は間違ったことは言わないぞ基本的に」
「だから余計むかつくんですよ。間違ってるなら、くそ生意気なアホガキって片付けられるのに、正しいこと言われると逃げ場ないんすよ」
「大人になって、聞いてやれってくれよ。明日香だけが上のレベルを知ってるんだから」
吉澤は答えない。
二人で無言のまましばらく歩く。
車が二台、横を通り抜けていった。
「保田さんが言ってくれますか?」
「なに?」
「保田さんが言うことなら聞きます」
「なんだよそれ」
バイクの明かりが二人を照らす。
風が林の木々を揺らし、バイクが通り抜けていく。
「あいつの言いたいこと、なるべく保田さんの口を通じていってもらえますか?」
「私の口から?」
「チームのキャプテンの言うことなら聞けます。だけど、年下から、あのままの口調で言われることを素直に聞けるほど吉澤は立派な人間じゃないです」
「そうか。分かったよ。明日香と話してみる」
夜道を歩く。
小さな橋があった。
下に流れる小川は、暗くてよく見えない。
保田はそこに立ち止まり、橋の欄干にもたれかかる。
それに気づいて、吉澤も立ち止まった。
「吉澤さあ、明日香のこと見てやってくれるか?」
「何をですか?」
「あいつ、浮いてるだろ」
吉澤も、保田の隣に並ぶ。
空は雲がかかり、月明かりは隠れている。
「私とさ、紗耶香はともかく、他の子と練習以外でほとんど話してないだろ、明日香のやつ」
「まあ、多分そうじゃないっすか」
「なんとかさ、溶け込むようにしてやってくれないか?」
「なんで、私に言うんすか? 一番仲悪いのに」
「吉澤が歩み寄れば、チームに溶け込めるような気がするんだよ」
「だから、なんで私なんすか?」
欄干に両手を置き、ほっぺをそこに乗せたまま吉澤は保田のほうを見る。
保田は、暗闇の向こう側の川を見つめながら答えた。
「吉澤が中心だからな、このチーム。なんだかんだで吉澤の周りに人集まるだろ。その輪の中に、明日香も入れてやってよ」
「そういうの苦手なんすよねー」
今度は吉澤が保田から視線をはずす。
暗くて見えない真下を見つめた。
「松浦のがいいっすよそういうの」
「松浦?」
「ええ。あいつ、あんな顔だからお姫様タイプかと思ったけど、そうでもなくて気配りっつーかおだてっつーか、まあ微妙だけど、そういうチームの和、っていうんすか? なんかそういうの作るのに向いてるかもしれないっすよ」
「松浦がねえ」
「それに、明日香ちゃん、とか呼んでたし」
「明日香がちゃんづけか」
「そう呼んで、ちょっと困ったみたいな表情がかわいいとか言ってて。それ聞いたときは、ありえねーとか思ったけど」
「けど?」
「え、ああ、いや。なんか、今日、試合終わった後、中学生に遊ばれてたじゃないっすかあいつ」
「うん」
「いや、なんかちょっと、かわいいとこあるんじゃんか、とか思った」
吉澤がそこまで言うと、保田は声を上げて笑い出した。
「なに笑ってんですか?」
「だってさあ、小学生の男の子みたいなこと言ってんだもん」
「馬鹿にしないでくださいよ」
「まあ、なんでもいいから。明日香のこと頼むは」
保田は、笑いがこらえきれないというような表情で、吉澤の頭を軽く二回叩くと、またもとの道を歩き出した。
その背中を不機嫌そうにひとにらみしつつも、吉澤は保田についていく。
コンビニは、もうすぐそこだった。
店に入る。
とりあえず向かうのは日用品の売り場。
シャンプーが並んでいるけれど、保田が手に取る様子が無い。
「買わないんですか?」
「なんかねえ、いつも使ってるやつがないのよねー」
「一緒ですよ、なに使ったって」
「私みたいにデリケートな人間はねえ、シャンプーはきっちり選びたいの」
「はあ?」
「うっさいわねー。みんなにお菓子でも買って帰るわよ」
「保田さんのおごりっすか?」
「わりかん」
「けちくせーなー」
「うるさいわねー。早く選びなさい」
数百円分のお菓子を、正確に二人で折半して買った。
帰り道は、割とバカ話をして帰った。
宿に帰ると、半分以上のメンバーが集まってUNOをしていた。
そこにお菓子を持って入った二人はいい餌食。
もともとそのつもりで買ってきたから問題はないが。
「他の一年生は?」
「洗濯じゃないかな?」
保田の問いかけに、市井が答える。
部屋の入り口に立ったままの吉澤に保田が言った。
「ちょっと見てきてよ」
「えー、私ぱしりっすかー?」
「私行ってきます」
「松浦はいいから。吉澤、見てきて、暇そうなら呼んできてよ」
「わかりましたよー」
部屋を出て、洗濯場に行く。
一年生が数人で洗濯機の前に座っていた。
終わったら、部屋に来いとだけ伝える。
あと一人、先生以外でまだ見ていない顔がある。
どうすっかなー、と考えながら、人の集まっていない部屋の側へ行くと、吉澤の予想通り福田が一人でいた。
「なにしてんだよ?」
入り口から声をかける。
福田は、奥の端に集められた布団を背もたれに横になっていた。
「本、読んでます」
「暇か?」
「本読んでますけど」
「そういうのを暇って言うんだよ。ちょっと来い」
「なんですか?」
「みんなでUNOやるんだよ。お菓子も買ってきた」
「いいですよ、私は」
横になったままそう答えを返した福田は、また本に視線を戻す。
吉澤はスリッパを脱ぎ、部屋に入っていった。
「いいから来い」
「なにするんですか」
本を取り上げられた福田の当然の抗議。
吉澤は、その本を布団の上に投げ捨てた。
「いいから、たまには付き合え」
無理やり引っ張り出す。
福田はしぶしぶ吉澤についてきた。
部屋には十人が集まる。
吉澤と福田は、入り口側に二人並んで入った。
じゃあ、始めようか、ということになる。
そこで口を開いたのは福田だった。
「あの、ルールは?」
「ルールって、UNOはUNOでしょ?」
「なんか、いろいろ細かいルールが人それぞれ違ったりするじゃないですか。最初にすり合わせたほうがいいかなって思いますけど」
「お前いちいち細かいなー」
隣の吉澤から突込みが入る。
フォローしたのは保田だった。
「明日香のルールってどんなの?」
「基本は一緒なんですけど、ドローフォーが出たところに、色さえ合えばドローツーとかリバースとかも乗せられるんです」
「それ乗せてくと、一度にすごい枚数取ったりしない?」
「はい」
「なんか、おもしろそうだな」
福田の提案に乗ったのは吉澤。
昨日、ドローフォー三枚にドローツーを乗せようとして却下されていた。
「じゃあ、それで行こうか?」
「さんせーさんせー」
保田と市井が同意。
他のメンバーが嫌と言えるはずもなく、そのルールに決まり。
それぞれに五枚づつカードが配られる。
ゲームは順調に進んだ。
時折ドローツーが出ても二枚取るだけで終わる無風状態。
皆が残り三枚になったあたりで、吉澤がドローフォーを出した。
「色は?」
「福田何持ってる?」
「まあいろいろと」
「ち、言えよー。 まあいいや。赤」
「じゃあ、スキップで」
スキップ、ドローツー、ドローフォー、リバースリバーススキップ、ドローツー、ドローフォー、ドローツー。
再び吉澤に巡ってくる。
「何だよ十八枚も取るのかよ! って言うと思った?」
そう言って、にんまり笑うとドローフォーを出した。
「ついでにUNO!」
「色は?」
「顔色変えろよー、面白くないやつだなー。内心どきどきなんだろ」
「それで、色はなんですか?」
「お前何持ってんだよ。言ってみろよ」
「まあいろいろと」
「しょうがねーなー。じゃあ、黄色で」
「UNOでリバース」
「ぎゃー!!」
吉澤がひっくり返った。
部屋が笑いに包まれる。
仰向けになった吉澤を見て、福田も笑みを浮かべていた。
「なんだよそれー・・・」
山から二十二枚のカードを取ろうとするが足りない。
場に出たカードの下のほうを切りなおして再度山にする。
取らされる吉澤が自分でやるので、あまりに空しかった。
ゲームは、そのまま福田がトップで上がり、当然のように吉澤が最下位だった。
「本読みたいんで、部屋戻っていいですか?」
「勝ち逃げする気かー?」
「別に、そういうんじゃないですけど」
「明日香ちゃん勝ち逃げだー、ずるーい」
「いや、だから、そうじゃなくて」
松浦の横やりを聞きながら、吉澤は、明日香ちゃんって呼ぶとほんとにうろたえるんだこいつ、などと思っている。
あたふたしている福田の頭を吉澤はつかんだ。
「いいから、次行くぞ! 勝つまでやるからな」
「勘弁してくださいよ」
結局、福田も交えたままゲームは続く。
ゲームは続いたが、吉澤は一度も福田に勝てなかった。
でも、福田も、ゲームが解散になるまで、ずっと参加はしていた。
小火騒ぎの翌日、ちゃんと自分のユニホームを持って試合に向かう。
お隣同士の小川と高橋。
仲良しなわけじゃないから、すぐそばに住んでいても、一緒に出かけたりはしない。
だけど、目的地が同じで集合場所が同じで、住んでる場所が同じ。
駅へ向かう道すがら、前を高橋が歩いているのが見えた。
声かけた方がいいのかな。
駅までずっと考える。
よし、駅に着いたら声をかけよう。
そう決めて駅につく。
改札に近い側の券売機で切符を買う高橋を見ながら、一番遠い券売機へ。
先にホームに入った高橋を追うように中へ。
電車に乗ったら声をかけよう。
ホームで本を呼んでいる高橋を遠目に見て思う。
あれは、雑誌とかマンガじゃなくて普通に本っぽい。
真面目に本を読むのか、と思いながら観察する。
やがて電車がホームに入ってきた。
比較的空席もある。
入って目の前が開いているので小川は座る。
駅に着いたら声をかけよう。
そう、高橋が遠くで座ったのを確認して思う。
結局、そのままずっと声を掛けず、試合のある体育館までついてしまった。
試合は準決勝。
スタメンに小川の名前はない。
またもベンチスタート。
ポイントガードとして試合に出るのは高橋。
一クォーターから、25-12と大きくリードした。
「二クォーター、スタートは一クォーターと一緒。小川、体動かしとけ」
「はい!」
いつもと同じ出番。
試合の行方を見ながら体を動かす。
三分過ぎ、ベンチから呼ばれ交代を告げられた。
コートに入って行く。
当然、高橋との交代。
「八番ね」
「オッケー」
「ドリブル、右にしかついてこないから」
すれ違いざまに確認される、必要最低限のマークの受け渡し。
それ以外の言葉が、不意に高橋から出て来たので、小川は驚いて高橋の方を振り向いた。
ベンチに歩いて行く高橋の後ろ姿があるだけだった。
ゲーム再開。
小川麻琴、今日の方針、とにかく攻撃的に。
改めてそう思っているだけで、周りから見れば何も変わらない。
パスを散らして、戻ってくるボールをフリーで受けて自分で切り込んで行く。
短い出場時間の間にも、確実に得点を加えた。
それでも、残り二分のところで、交代を命じられた。
「ナイッシュー」
代わりに入ってくる高橋が右手を上げている。
一瞬ためらってから、小川もパチンと手を合わせハイタッチを交わした。
「八番ね八番」
「おっけー」
いつものマークの確認。
付け加えて何か言おうかと思うけれど、小川の頭には何も思いつかない。
そのままベンチに下がった。
前半は、47-21とリード。
第三クォーターはさらにリードを広げて81-42で終わる。
小川の出番はなかった。
最後のインターバル。
最終クォーターに出る選手を、和田監督がコールした。
「高橋、小川、柴田、石川、平家」
戸惑う顔が二つ。
監督を挟んで対角線の位置にいた高橋と小川が顔を見合す。
同じポジションの二人は、練習でも同じチームに入ったことはなかった。
「一番が高橋な。だからボール運びは高橋が主で、小川はサポート。ゲームメイクは高橋に任せて小川は自由に攻めていいから」
ポジションを数字で表すことがよくある。
基本的に、数字が小さい方が背の低い人がやるポジションというのが大雑把な感覚としてある。
「え、でも、私どうすれば?」
「大丈夫だよ。ボール運び以外はいつもと一緒で」
「そんな、やったことないポジション柴田さんみたいに器用に出来ないですよ」
「なんとなかなるから」
使う側から使われる側へ。
いくら言っても、自分で攻めて行く小川を別のポジションで使ってみようという監督の思いつき。
小川一人であたふたしたまま、第四クォーターが始まった。
点差が開いて、余裕があることもあり、やってみるとそれなりにとうまくいく。
ガードの立場の時と変わらぬプレイぶりで、1対1の突破力を生かし、加点して行く。
ただ、問題は高橋とのコンビだった。
欲しいタイミングでボールがもらえない。
小川の動き出しのタイミングが分からないので、結果、誰もいない所にボールが出てしまうこともある。
また、最終クォーターに入り、相手ディフェンスが前からあたり出してきて、高橋の神経の使いどころが増えて、ミスが目立ちはじめた。
四分過ぎ、和田監督がタイムアウトを取った。
「高橋、集中しろ」
「すいません」
「小川と合わないのはまだしょうがないから。ボール運びだけはしっかり」
表情が不安げになって行く。
小川とパスのタイミングが合わないプレイにしても、高橋にすれば、自分のパスミスの意識がある。
おろおろしている所に声をかけたのは石川でも柴田でも無く、小川だった。
「柴田さんにボール入れてもらって、二人で運ぼう」
「えっ、でも」
「多分、高橋さんの方に二人つくからさ、それで、私がボール受けられたら、ドリブルで行けるとこまで行くよ。ダメなら、高橋さんに出すか、柴田さんに戻すかするし」
小川にすれば、ボール運びで安定感を見せればポイントガードのポジションを取り返せるかもしれない、という想いは無くはない。
ただ、それよりも、リードはしているものの、流れの悪いこの現状を打開したい、という気持ちでの発言だった。
「ボールもたなかった方は、ボールよりも後ろにいよう。そのドリブル止まった時もボール受けやすいし、取られてもフォローきくし」
「そんなんせんでも、一人で大丈夫やから」
二人が、コートの上で単語以上のまともな会話をしたのは、これが初めてのこと。
高橋にすれば、ちょっと責められているような気分にもなる。
任されたポジションは一人でこなしたい。
そんな意地がある。
しかし、柴田が小川を支持した。
「小川ちゃんの言う通りでいいんじゃない? 平家さんは完全に上がっちゃって、梨華ちゃんは真ん中まで上がって、場合によってはボール受けに行くってかんじで」
「そうだな。それで行こう。先生どうですか?」
平家がまとめて和田監督にふる。
監督は高橋の方を見て言った。
「それでいいか、高橋?」
「はぁ・・・」
不満は残るが、全員一致では、普通は一年生が逆らえるはずがなかった。
タイムアウトあけ、早速、富ヶ岡エンドからのゲーム再開。
石川と平家が上がり、柴田がエンドでボールを持つ。
高橋に二人小川に一人マークがついた状態で、二人はそれぞれボールを受けに走る。
柴田の目の前まで来て小川がボールを受けた。
そのままドリブルをついていくと、高橋についていた一人が小川の方に来てダブルチームの形になる。
高橋は、右サイドからコートを斜めに切り上がって行く。
ディフェンスを背負う形になった高橋に、小川がパスを入れた。
高橋がドリブルで上がって行き、ディフェンスラインを突破、フロントコートでのセットオフェンスに持ち込んだ。
時折ディフェンスに引っ掛かることはあるものの、それなりに無難に二人はボールを運んでいった。
セットオフェンスになれば、相手とレベルの差があるので、多少連携が崩れても、個の力で点が取れる。
さらに点差を広げ、111-52で勝利した。
ミーティングを終え帰り支度。
ロッカーに引き上げ、着替えている小川に、高橋が声をかけた。
「ちょっと戸惑っただけで、一人で全然運べたのに」
Tシャツを脱ぐところで、布が顔を覆っている状態でそんなことを言われても、小川としては何も言える状態にない。
早く言い返したくてもがいたら、顎にひっかかってなかなか脱げなかった。
「そんなにきついディフェンスでもなかったし」
やっとTシャツが脱げた小川は、高橋の方は見ず、カバンを探りながら答える。
「でも、ばててたでしょ。それでスピード死んでたから、一人はきつかったと思うよ」
「確かにばててたけどー、でも、一人でいけたし」
「私も運ぶようになって、マークが割れて楽になったからでしょー」
「そうだけど、そうだけどー」
とにかく不満そうな高橋。
着替えを終え、外に出てもとまらない。
「パスのタイミングがあわん」
「それはパス出す方があわせてよ」
「小川さん、先輩達より動き出しのタイミングが遅いんやもん」
延々続く二人のやり取り。
他の試合に出ていない一年生達は、あまりに入りづらく遠巻きに見ているしか出来ない。
同じように、すこし離れた所から二年生達も見ていた。
「絶対、作戦成功したんだよー」
「違うと思うけど。仲良くなったっていうか、言いあいしてるだけだし」
石川と柴田。
言いあいしている一年生二人が微笑ましくてしかたない。
「ああやって仲良くなっていくんだよ。だから成功!」
「はいはい」
高橋と小川のユニホームを入れ替えたのは、石川達二年生だった。
ユニホームを入れ替える、家を訪ねて相手のを渡す、ありがとうと言って家に上げ、お茶を飲みながらいろいろ話しをして仲良くなる。
石川の立てた作戦。
あまりにありえない展開イメージに、二年生みんなから笑われた。
だけど、小火のおかげで、ある意味それに近い展開になっている。
「そういえば、何このぶりっ子、ってのが梨華ちゃんの第一印象だったなあ」
「うそー、そんなひどいこと思ってたの?」
「柴田は大人だから、口には出さなかったけどねー。でも、その第一印象は当たってたなあ」
「ひっどーい」
ぶりっ子と言われて、石川は、いつもに輪をかけて、ぶりっ子の口ぶりを見せた。
「だからー、高橋さんがいつもトップにいると、スペース開かないから、もっと動いてさあ、自分で切れ込んだりすれば、攻め手も増えるし」
「ガードが自分で点とるのは、最後の手段やし。スリーは打つけど、自分でつっこんどったら、中狭くなるだけやから」
「そうじゃなくてさー・・・・」
帰り道、どこまでも続く二人のバスケ談義。
別に仲が良いわけじゃないから、まだ、高橋さんと小川さん、と呼ぶ距離間。
それでも、話してみたらなんてことなかった。
「でも、でも、最後一本いいパスとおったでしょー」
「ああ、まあ、確かにあれはねー。うん。ここしかないってタイミングだったかも」
「明日も、小川さん二番で入るのかな?」
「私は一番やりたいんだけどー」
結局、バスケの話しをしたままアパートまで帰ってきてしまった。
二人で階段を上がる。
「また、明日ね」
「うん。バイバイ」
軽く手を振って、それだけで別れる。
わざわざ夕ご飯を一緒に食べたりはしない。
別に、仲良しとかじゃないから。
だけど、手を振って別れる時は、二人とも笑顔だった。
富ヶ岡はその後の決勝も簡単に勝ち関東大会に進んだ。
関東大会まで来ると、相手のレベルが少し上がる。
夏のインターハイ、秋の国体、冬の選抜大会。
高校生の三大大会に向けて、多少の流動性は持たせつつも、早い時期にスタメンを固めてチームを熟成させていきたい。
春の関東大会は、それを固めて行くための絶好の機会となる。
初戦は東京二位で通過した、東京聖督大付属だった。
「あんまり上の大会まで来たことないらしくて、情報も無いけど気を抜かずに、いつもどおりのバスケをするように」
「はい!」
簡単な指示。
技術的なものではなくて、精神的な部分のみ。
あとは試合を見ながら。
負けるなんて発想も無い。
また、上の全国レベルにまでつながった大会でも無いので、負けてもあまり差支えが無い、とも言える。
ともかく、和田コーチとしては、現在のチーム力と選手ここの力をチェックする為の試合という位置づけになっていた。
とはいえ、富ヶ岡と戦うことになる相手は真剣である。
試合前、センターサークル付近に向き合って並ぶ。
正面からの挑みかかってくるような視線、高橋、思わず目をそらす。
そらした先にも相手チームのメンバーがいるのだが、ふと、なごんだ。
「ちっちゃ」
思わず口に出る。
そのちっちゃな四番が歩み出てきた。
キャプテン同士の握手。
「よろしく」
軽く手を出した平家、強く握り返された。
ジャンプボール。
平家はサークルに入るが、相手のキャプテンは高橋の元に歩み寄ってきた。
「おまえ、ちっちゃ、って言っただろ」
「え、え、いえ、言ってませんて」
「サルのくせに」
「な、なに、なんですか!」
そんなことをしているうちに、ジャンプボールが上がる。
平家がコントロールして、ガードの高橋に落としたつもりが、集中を欠いていてボールを確保できない。
そこを、ちっちゃな四番にさらわれ、ワンマン速攻で決められた。
「何をやってるんだアイツは・・・」
ベンチの和田コーチ。
叱責する気にもなれず呆れる。
首だけひねって、特に指示を出すことはなく座ったまま。
エンドから柴田がボールを入れて高橋が運ぶ。
バックコートから、もう、このちっちゃな四番があたってきた。
「サルがドリブルついて運ぶのか。サル。ほら、サル。ウキーってやってみろ」
なんだこいつは?
ちょっと見下ろして高橋、思う。
むかついたから、とりあえず抜きにかかってみた。
雰囲気で左に振って、右にドリブル、すぐにターンして左へ。
県大会までなら、この程度で抜きされたが、このちっちゃな四番はそこまで簡単では無いらしい。
正面をふさがれ抜ききれず、柴田にパスを落とした。
そこからつないで、右零度の位置の石川へ。
石川は一対一で切れ込んで行くが、珍しくかわしきれず、平家についていたマークマンまでカバーに来て一対二の体勢になる。
それでもさすがにバウンドパスをフリーの平家に送り、簡単なジャンプシュートが決まった。
「サル。ボール欲しいか? サル。取ってみるか?」
ボールを運びながら、またちっちゃな四番。
うるさいうるさいうっとうしい、と頭に血が上って手をだすと、パチンといい音がした。
開始一分、高橋愛、ハッキングでファウル一。
「いきなり無駄にファウルするな!」
ベンチから叱責の声。
怒られて当然である。
高橋の苛立ちをよそにゲームは進む。
サルサル言われて、一人だけリズムがボロボロであるが、相手のチーム力自体はそれほどたいしたことは無い。
石川が少してこずっているが、それでも他に攻め手はいくらでもあるのが富ヶ岡の強み。
順調に点差は開いて行く。
「そんな、怒るなよ。悪かったよサルサル言って。な。サルなんかじゃないな。オランウータンのオラだな。謝る。間違って悪かった。オラ。オラ」
出来れば、顔をグーで殴ってやりたいと高橋は思う。
出来ないけど。
その代わりにファウルが一クォーターの間にもう一つ増えた。
頭を冷やせと一クォーターと二クォーターの間のインターバルで諭される。
フロアに戻った高橋、近づいてきたちっちゃな四番に先制パンチを放った。
「ちび」
はぁ? という顔で一瞬にらんで、それから鼻で笑う。
「ちび」
「サル」
「ちび」
「オラ」
子供のけんかである・・・。
先に切り上げたのは高橋。
ボールを受けに行く。
大人だから、ではなく、サル言われるむかつきに耐え切れなくなったから。
何はともあれ、二クォータースタート。
子供のけんかはともかく、その他の展開は特に変わらなかった。
点差は順調に開く。
そろそろ出番と、小川はコートサイドでアップを始める。
調子がいまいちの石川がファウルをして、相手十番のフリースローとなった。
シューターやセンター陣は、ゴール付近に集まっているが、ガード陣は大分離れた位置にいる。
高橋の後ろにちっちゃな四番。
うっとうしくて仕方ない。
ディフェンスとして、ではなくて、人としてこのちびがうっとうしい。
うろうろ歩いて離れようとするのだが、その後ろをぴたりとはなれない。
「アーイアイ♪ アーイアイ♪ おさーるさーんだよー♪」
歌まで歌い始める。
高橋はキッと振り返ってにらむが、ちっちゃな四番はニッコリ笑ってどこ吹く風。
高橋の名前がアイだということまで知っているわけではないが、クリティカルな部分をヒットしていた。
十番のフリースロー。
一本目は外れるが二本目は決まる。
高橋は自分に張り付いているちっちゃな四番を、軽く右手で突き飛ばしてボールを受けに走る。
エンドからボールが入った。
マークは離れない。
ボールを受けてそのままトップスピードに。
サイドラインぎわを駆け抜けようとするが、ちっちゃな四番も付いてきて抜ききれない。
いらだって、スピードを変えないままにバックチェンジで左手にボールを持ち替え中央に方向転換。
その、方向転換した先のコースを切ってちっちゃな四番が立ちはだかる。
高橋、かわしきれない。
そのまま体当たりのかたちになり、もつれ合って倒れた。
笛が鳴る。
どこから誰が見ても、異議のつけようの無いオフェンスファウルだった。
「ちっ、小川!」
不機嫌そうに和田コーチがベンチで小川を呼んだ。
ジャージの上を脱ぎ捨てて小川は走ってくる。
レフリーが、高橋のファウルをテーブルオフィシャルにコールしていた。
前半にして早くも三つ目のファウル。
レフリーのコールを聞き終えて、和田コーチがブザーを鳴らした。
「高橋!」
大声で呼ばれ、びくっと振り返る。
ベンチから和田コーチが帰って来いと手で呼んでいる。
屈辱感にまみれ、うなだれてベンチに戻る高橋の背中に、追い討ちの声が飛んだ。
「見え見えなんだよバーカ」
高橋の耳にはっきりと届いていたが、返す言葉もなくとぼとぼとベンチに帰る。
こんなはずじゃ・・・、と頭で思うけど、もう、手遅れだった。
ベンチの隅に下がろうとすると、和田コーチに止められる。
「頭冷やしてここで見てろ」
長いすが三つ並べられたベンチの一番中央側、コーチのすぐ隣の席を指差す。
高橋は、何も答えずにただそこに座った。
「なんだ? サルの次は? 姿を現した怪獣ヒバゴンか?」
今度は小川に向かって口撃を始めるちっちゃな四番。
しかしながら小川は怪訝な顔。
怪獣ヒバゴン言われても、ヒバゴンが何のことだか分からない。
接頭語に怪獣と付いているから、あまりいい意味ではなさそうだが。
とりあえず、気にせずマークにつく。
東京聖督ボールでゲームは再開。
サイドからちっちゃな四番にボールが入る。
そこから、外を回して回して、もう一度戻ってきたボールをインサイドの十番に。
石川を背負った形でハイポストでボールを受けた十番は、ターンして簡単にジャンプシュートを打った。
これが決まる。
フリースローを含めての相手エースの連続得点。
小川を投入してすぐのタイミングだったが、和田コーチはここでタイムアウトを取った。
「石川! お前のところだけやられてるぞ」
石川だって言われなくたって分かっていた。
元々ディフェンスはざるだった石川。
最近、少しは改善されてきていたが、それでもまだまだ。
県大会レベルならともかく、関東大会レベルまで来ると、チーム力としてはともかく、それぞれエース級の選手が一人や二人は富ヶ岡とも対等にやれてくる。
東京聖督で言えばちっちゃな四番と、ボーっとした感じの十番。
そういったエース級相手だと、まだ石川のディフェンス力では一対一で止め切れなかった。
「小川は突っかけるなよ。自分で勝負する必要ないから。すかすかの頭の上通してパスさばけ」
「はい」
「オフェンスは、石川はちょっと外に開け。中のスペースを広げて平家に勝負させろ。もしくは、柴田あたりがそこに飛び込んで行ってもいいし」
「簡単にボール入れちゃっていいから。あとはこっちで何とかするし。たまには主役にさせてよ」
平家の言葉に周りのメンバーも笑みが浮かぶ。
キャプテンとは言っても、ぐいぐい引っ張る感じではなく、縁の下の力持ち的な存在。
ゲームで目立つシーンは少ないのだが、後輩たちの尊敬を集めていた。
一方、東京聖督ベンチ。
得点で言えば、19-36とかなりのビハインド。
そこだけ見れば暗くなってもおかしくないのだが、雰囲気はやたら明るい。
「やぐっつぁん、なにやったのさ?」
ボーっとした感じのエース十番がちっちゃな四番に問いかける。
このチームには登録上の名目的コーチはいるが、指導は一切せず、ただ座っているだけの化学の先生である。
実質的には、キャプテンのちっちゃな四番が全て仕切っていた。
「ああ? 別になんもやってないよ」
「なんか、ぶつぶつやってたじゃん」
「あれは、あいつがちっちゃ、とか言うからさ」
「気にしてるんだ?」
「気にしてないけどさー、むかつくじゃんか言われると」
それを気にしてるって言うんだよ、と一同思うが、口にはしなかった。
「ともかく、勝てる相手じゃないけど、最後までやれるだけやるからな」
「やぐっつぁん、けんかにならないようにね」
「うるさいよ。なるわけないだろ」
大丈夫なんだろうか?
試合展開より、自分達のキャプテンがちょっと心配なメンバーであった。
ゲーム再開。
ちっちゃな四番と小川のマッチアップ。
相手が変っても、矢口の口撃はとまらない。
「おい、ヒバゴン。ヒバ。ドリブルつけるなんてすごい芸だな。ヒバ。ヒバ」
これに高橋さんはやられたのか、とわりと冷静に思う。
たしかにうっとうしい。
ヒバの意味は分からないけれど、ひたすらにうっとうしい。
それでも、ボールを取られないことだけに注意して、無理に抜きにかからずにフロントコートまで上がる。
そこからは、身長差を生かして、手の届かないところでのパス回しをしておけば、何とかなる相手だ。
「おい、怪獣のくせに逃げるのかよ。勝負してこいよ勝負」
挑発されても相手にしない。
小川は、高橋のように単純に反応したりはしなかった。
相手にされないのを見て、ちっちゃな四番は少し方向性を代える。
「あ、お前控えなんだろ。チャンスじゃんか。一対一で抜きに来いよ。控えって言っても富ヶ岡でベンチ入ってるんだから、おいらなんか簡単に抜きされるだろ」
単純な悪口、ではなくて、相手の置かれた立場からの挑発。
小川、答えない。
答えないけれど、ちょっと心が動いた。
そうなのだ。チャンスなのだ。
高橋が攻略できなかった相手を一対一で屈服させれば、それは大きなアピール。
もともと攻撃的で、自分で勝負するのが好きなタイプだ。
だけど、ベンチからの指示は、一対一は避けてパスをさばけというもの。
それに、最初は外で見ていた分よくわかっている。
このちっちゃな四番は、口だけじゃなくてそれなりにちゃんとうまい。
気軽に勝負するとヤケドしてしまう。
高橋の二の舞は避けないといけない。
小川は冷静にボールをさばいてゲームメイクする。
これまでの弱い相手との対戦でどうしても自分が自分がと持ち込んでしまうのとは違う姿を見せていた。
「やれば出来るんじゃないか小川も」
高橋の隣で和田コーチがつぶやく。
両ひじをひざに置き、頬杖をついて試合を見つめる高橋は何も言わない。
その高橋にはっきり聞こえるように和田コーチは言った。
「ガード陣のスタメンが固められないなあ」
顔はそれぞれコートに向いていて、視線を合わせないけれど、高橋の神経は和田コーチの声に全て向いていた。
試合展開としてはその後、富ヶ岡が着実に点差を開いて行く。
東京聖督も、ちっちゃな四番を中心に必死に抵抗するが、チーム力の違いは明白で、百点ゲームでの圧勝だった。
高橋一人、浮かない顔でベンチを後にする。
大会自体も、決勝まで順調に勝ちあがって優勝した。
ポイントガードの一番ポジションには、小川と高橋、交互に使われていた。
滝川の寮では、キャプテンがすなわちイコールで寮長も兼ねている。
それとは別に、いろいろ面倒を見てくれる大人の寮母さんもいるが、基本的な運営は生徒達自身で行っていた。
バスケ部員イコール寮生なので、寮の運営と部の運営の区別はあいまいだが、ともかく、生徒達自身でいろいろと運営する。
「藤本美貴さん。後で、もう一人連れて、八時半に215号室に来なさい」
寮内での伝達が必要な事項は、夕食後にミニミーティングのような形でキャプテンすなわち寮長から伝えられる。
用があって部屋に呼ぶなら、「藤本、後で寮長室来て」ですむところ。
名字と名前とセットで、さらに敬称までつけて、寮長室ではなくて215号室に呼ぶのは、寮生に対してはそれだけで通じる別の意味も含まれていた。
「わかりました」
メンバーたちの視線を集めた中、藤本は心外だというような表情をしながら答えた。
夕食後ミニミーティングはこれで終わった。
「あー、気が重い気が重い。いやだー」
「なによ、自分が呼び出したんでしょ。巻き込まれたこっちの身にもなってよ」
「りんねが215かなって言ったんでしょ」
「そうだけど、自分で決めたんじゃないの」
安倍とりんね、二人は215号室にいた。
ここは、いわゆる寮の説教部屋である。
この部屋に呼ばれるのは怒られるということなのは、全員が知っている。
藤本が来るのを待っていた。
「なっち、怒ったりとかそういうの苦手なんだよー」
「キャプテンやってていまさらなに言ってるのよ」
「頑張ろう! とかそういうのは言えるんだけど、あれダメこれだめ、こらー! とか無理」
「しらないよそんなの。私は黙って見てるからね」
「りんねー」
「知りません」
安倍がりんねの腕を引っ張るけれど、りんねはそっぽを向いて無視。
あきらめて腕を放すと、安倍は頬杖をついてため息を吐いた。
説教部屋に上級生が下級生を呼ぶときは、基本的に指導係の他にもう一人が同席する。
一対一になって責めすぎないようにするための配慮として出来た制度。
逆に、呼び出された側も、一人連れてきて同席させることが出来る。
後輩を一人だけ呼び出す、という形は場合によってはいじめの温床になってしまうので、それを避ける為にこういう形をとっていた。
「あー。いやだー」
そうつぶやいてテーブルに伏せる安倍。
隣のりんねは呆れ顔で見ている。
もうちょっとしっかりしてくれるといいのになあ、と思っているところでノックの音がした。
「はい」
「藤本です」
安倍が体を起こして答える。
「入りなさい」
「失礼します」
藤本が部屋に入ってくる。
連れてきたのはあさみだった。
ドアを開けて足を踏み入れたところで、正面に座るりんねと目が合う。
ある程度予想していたあさみは表情を変えなかったが、りんねの方は少し驚きの色を見せた。
ただ、二人ともオブザーバーの身である。
言葉は交わさず、すぐ視線を外した。
「座りなさい」
「失礼します」
藤本が安倍の正面に、あさみがりんねの正面に座る。
座っているのはいわゆるパイプイス。
そこにジャージ姿で四人が座って向かい合っている。
ここに呼ばれるというのがどういう意味か分かっているから、お互いに普段と比べて十割り増しで上下関係をはっきりさせた言葉遣いになっていた。
「藤本美貴さん。今日、ここに呼ばれた理由は分かっていますか?」
両手をテーブルに置き、じっと藤本の目を見る。
藤本は視線をそらさずにぶつけたまま答えた。
「わかりません」
怒られるから、というのは分かっている。
分からないのはその理由、というのはヘリクツで、藤本にだって分かっていた。
分かっていないのではなく、納得していないだけだ。
「自分の胸に手を当ててみて、思い当たるところはありませんか?」
隣で聞いていて、相変わらず回りくどいな、とりんねは思う。
もったいぶっていると言うより、言いよどんでいるのが見て取れる。
呼び出しておいて、話し始めておいて、それでいながら、まだ、先延ばしにしようとしている。
それに、自分の口から言いたくないのだ。
なつみは、いい子でいたがるタイプだからな、なんて冷静に思う。
「何もありません」
強い口調。
藤本は安倍のことをじっと見つめている。
安倍は、隣のりんねの方を見るが、見られているのを分かっていながらりんねは無視する。
あさみの方を見ても、うつむいていて視線が合わない。
あさみからすれば、こんな席に呼ばれるのは飛んだとばっちりである。
先輩も怖いが、きつい口調の藤本も怖い。
顔を上げて回りの様子を見る余裕なんか無い。
安倍は、仕方なく藤本と向き合う。
「藤本美貴さん」
「はい」
「あなたは二年生になりました」
「はい」
「そのことの意味が分かりますか?」
何を言い出すんだ?
藤本のそんな顔。
この期に及んで、まだ回りくどく行ってるよ、とりんねは思う。
胸に手を当てて思い当たったことと、違う方向から攻めて来られて、藤本は首をかしげる。
「あなたは、もう、後輩を指導する立場にあります」
「わかってます。それくらいのことは」
「では、その役目を全うしていると胸を張っていえますか?」
返事に詰まる。
さっきから、胸、胸、うるさいよ、と少し関係ないことも思った。
「一部の一年生に対して、冷たく当たるような行動、発言が見られるというはなしをきいています」
「そんなことありません!」
藤本の強い口調に、思わず安倍は身を引く。
それでも、思い直して言葉を続けた。
「いいえ。練習のときに見ていても分かります。藤本は、一年生に対しての指導が出来ていません」
「出来てます!」
「出来ていません。うまくプレイできない一年生を口汚くののしっているだけです。あれは指導なんてものではありません」
「はっきり言ったらどうなんですか!」
藤本の口調がさらに強くなる。
正直、安倍もこう言う口調の藤本は怖い。
それでも、りんねやあさみの手前、引っ込みはつかない。
オブザーバーを同席させる、というのにはこういう影響力もある。
「何を?」
「はっきり言って下さい。妹が大事だから手を出すなって」
強い視線、強い口調、必死な姿の藤本。
隣で見ていて、りんねがふっと笑みを漏らした。
「何がおかしいんですか!」
藤本がりんねの方に顔を向ける。
やっぱり迫力があって怖い。
りんねは笑みは消したけれど、それでも余裕を持って答えた。
「なつみの言うことを聞きなさい」
ここは、先輩が後輩を指導するために呼ぶ場所。
先輩が話を聞けといったら、後輩は聞かなくてはならない。
藤本は素直に黙った。
「安倍麻美は大事な一年生です」
はっきりそういわれると、藤本も返す言葉は無い。
むかついたような、悔しいような、複雑な藤本の表情が、りんねには可愛く見える。
ああ、気が強くて素の顔が怖くても、この子も自分の後輩なんだと思う。
「私の妹だからではありません。チームにとって大事な一年生です。あなたが大事な二年生であるのと同じように。分かりますか?」
藤本は答えない。
安倍にじっと見られて視線もそらした。
「二年生はそれぞれ一年生の指導係につけます。だけど、藤本、あなたはそれにつかなかった。なんでか分かる?」
「わかりません」
視線を合わせないまま答える。
嘘でも、藤本のが大事だよと言って欲しかった。
「まず、一年生より二年生のほうが多かったから、これが一つ」
指導係が指導される人数より多かったら余りが出る。
だから、外した。
単純な理屈。
「そして、もう一つ、というかこっちが本来の理由だけど、藤本には一年生全体を見てもらいたかったのね。一年生から試合に出てさ。チームの中心で、当然二年生の中でも中心で。だから、その中心として、もっと広い視野を持ってさ、一年生を見て欲しかったんだ。それで、個別の指導係からは外した。ちゃんと、最初に説明すればよかったんだけどね」
「いえ・・・」
答えにくそうに、藤本が言葉を返す。
指導係なんか、別になりたいとは思っていなかった。
だから、それにならなかったのは、ラッキーと思っていたし、理由なんか考えていなかった。
「それがさ、こんな風じゃさ、困るのね、藤本。一人の一年生にこだわって、指導するならともかく、いじめるような形でさ」
「いじめとか、そんな、そんなつもりじゃないです」
「ならいいけど。それともあれ? スタメンとられちゃうんじゃないかって、怖いの?」
「そんなわけないじゃないですか!」
長く真面目な話をしてきて、少し安倍の方もだれてくる。
ずっと真剣な口調だったのに、ここにきてからかい口調が入って藤本に反発された。
「あ、いや、まあ、藤本にはまだ全然負けてる感じだけどさ、あの子も。だけど、負けちゃうかもって危機感感じてるならともかく、自分が絶対勝ってると思うなら、色々教えてあげなさい。私の妹とか関係なく、チームの後輩として」
「はい・・・」
視線を落として藤本が弱弱しく答えた。
最初から分かっているのだ、自分が悪いのは。
ただ、良い悪いと、好き嫌いは別の感覚であって、正しい振る舞いができるかどうかは別のはなし。
「藤本」
「はい」
「藤本はチームの柱なんだから、全体のことをよく見て、頼むからね」
「はい」
答えは、あまり力強くはなかった。
分かってくれたのだろうか? と不安はあるが、言う事は言ったので、安倍は切り上げる。
「よし。じゃあ、なっちからはこれで終わり。りんね何かある?」
晴れ晴れした笑顔。
後輩を呼び出して叱る。
叱られる方も嫌だが、叱る方はもっと大変だ。
「分かってると思うけど、なつみはちゃんと公平だよ。みんなに」
「はい・・・」
「藤本にはちょっと甘いけどね」
「ちょっと、りんね!」
安倍の苦情も微笑んで受け流す。
りんねの方が余裕があるように見える。
「良くも悪くも、藤本は影響力大きいんだから、あまり困ったことしないでよね」
「はい・・・」
「あと、あさみ」
「は、はい」
突然振られて、驚いて顔を上げる。
自分は、ただの藤本の付き添いで、関係ないはずだった。
「あさみも指導係につけて無いけど、だからって、一年生気分のままじゃ困るのよ」
なんて返事したらいいんだろう?
そんな表情を浮かべて、りんねの方を向いている。
「二年生になったんだから、先輩べったりじゃなくて、チーム全体のことを見て動きなさい」
「それは、りんねにも責任あるんじゃないのー?」
「ちゃちゃ入れない」
「でも、実際そうでしょ?」
隣から安倍が口を挟む。
自分の仕事が済んで、気分はすっかり晴れやかだ。
先輩達のやりとりを見つめる藤本は、不機嫌な顔を隠さない。
あさみは、自分の最近の姿勢を思い出す。
「とにかく。自覚を持ちなさい。試合に出るメンバー、ベンチに入るメンバーだけがチームじゃないの。もちろん、試合に出られるように努力するのは大事なことだけど、ベンチに入れない子達もやれることがあるし、それに」
りんねが藤本の方を向く。
突然自分に視線が集まり、藤本はりんねと安倍の顔を交互に見た。
「この子が暴走するときに止めるのも、あさみの役目になりそうだし」
「どういう意味ですか!」
「わかるでしょ、あさみ」
「ちょっと、なつみさん、何とか言って下さいよ」
「あさみ、まかせた」
あさみは、藤本の方を見る。
藤本もあさみの方を見ると、あさみは視線を外して、先輩達の方を向いた。
「私一人じゃちょっと」
「なにさ、あさみまで」
ふてくされた顔の藤本に、先輩達二人は笑みを浮かべる。
「ともかく、藤本もあさみも、先輩になったっていう自覚を持つこと」
「はい」
力強くは無いけれど、二人の素直な返事ではあった。
「よし。いいよ、もう帰って。あさみは、なんかとばっちりみたいで悪かったね」
「付き添いで来て、私まで怒られるとおもいませんでしたよ」
「りんねはお説教好きだからねー」
「なつみがしっかりしないからいけないんでしょ」
「はいはい」
まったくもー、な顔をするりんねに、安倍はどこ吹く風。
二年生二人は席を立った。
「じゃあ、失礼します」
「失礼します」
「ご苦労さま」
部屋を出て行った。
「あー、疲れたー」
安倍、大きく伸びをしてそれからテーブルに倒れこむ。
腕を伸ばしてほっぺたがテーブルについて、だらしの無い格好。
「やっぱり、やだねー、こういうの」
「もうー。りんねと違って、なっちはやさしいからいやなんだよな」
まったくどっちがキャプテンかわかんないよ、と口には出さないけれどりんねは思う。
テーブルにふせっている安倍を横に見ながら、りんねは立ち上がった。
「ちょっと、外出てくる」
「外?」
安倍は、だらしない格好のままりんねの方を見る。
「シューティングしてくるよ」
「もう、寒いんじゃない?」
「ちょっと、気晴らしくらいにさ。打ってくるよ」
「カゼひかないようにね」
「うん」
りんねは、それほどきついことを言った訳ではない。
体育会の部活なら、もっときついことを言う先輩はいくらでもいるし、りんね自身も言われたことだってある。
それでも、変な疲労感が残る。
りんねは215号室を出てつぶやいた。
「先輩やるのって疲れる・・・」
ため息は深かった。
りんねの一番得意なシュートはフリースロー。
調子のいいときは、二十本くらい続けて決められる。
練習でだけじゃない。
息が切れていたり、プレッシャーがかかる場面もある試合でも、りんねのフリースローはいつでも決まる。
派手なことは得意じゃない。
チームの中でも、藤本や里田のほうがよっぽど目立つ。
だけど、地味にリバウンドを拾って、地味にフリースローをきっちり決めて。
それがりんねの役割で、それをこなすことがチームのためだと信じている。
バスケの才能、という面ではあまり自信が無い。
藤本にも、里田にも、同学年の安倍よりも、才能では劣っていると思っている。
だけど、練習が好き、というのも才能の一つだと言うならば、それほど負けてないのかな、と思う。
「珍しいね、一人で。いつもあさみがくっついてるのに」
りんねが振り返ると、尋美と梓の二人がコートに入ってきた。
滝川の寮には屋外バスケットコートがある。
冬は寒く雪がつもり、春、夏は風が吹きすさぶ屋外コート。
簡単な、屋内のウエイトトレーニング設備もあるので、わざわざこのコートで練習する者はほとんどいない。
だけど、りんねは、この外の風がなんだか好きだった。
「別に、一人になることくらいあるわよ」
二人を無視して背を向ける。
フリースローラインで、一回、二回と軽くドリブルをつく。
右足を少し前に出して、半身の形でのワンハンドシュート。
軽く放ったボールは、弧を描いてリング奥に当たりネットを通過する。
回転も掛かっていたボールは、フリースローラインに立つりんねの元に戻ってきた。
「よく言うよ、いつもべったりだったくせに」
「そうかな?」
そうだな、と思いつつ、そう言う。
また、ボールを弾ませ、シュートの構え。
同じようにシュートを放ち、同じように手元に戻ってきた。
「なんかもうさあ、一心同体って感じだったじゃない」
「おねーさま! りんねお姉様。 ああ、妹よ。二人は熱く抱き合い、口付けを・・・」
「やめてよ! 気持ち悪い」
一人抱き真似で、目を瞑り、首を突き出して唇を舌でベロベロやっている仲間に、りんねが本当に嫌そうに言う。
ボールを弾ませ、もう一度フリースローを打つ。
今度は、シュートが長くなり、リング奥に当り跳ね上がって戻ってきた。
「あーあー、力はいっちゃって」
「意識しちゃって」
「うるさいよ!」
痛いところをつかれた。
もう一度ボールを弾ませるけど、もはや集中なんか出来やしない。
あきらめて二人の方を向いた。
「でも、ホント珍しいね。けんかでもした?」
「そろそろ親離れしなさいって言ったのよ」
「子離れできないのに?」
「うるさいなあ」
さっきから痛いところを突かれすぎる。
なんとなく、顔を見れなくて一つ二つとボールを弾ませて、その動きを目で追っていた。
「二人も練習しなさいよ」
これ以上からかわれてもたまらないので話題を代える。
顔は上げないで、弾むボールを眺めたまま。
「外でシューティングやってもなんかねえ」
「感覚違うよね」
「そういうこと言って、数こなさないからスタメン定着できないのよ」
「うわっ、りんねきつ!」
「手厳しいなあ」
そう言って二人は、コートサイドにあるベンチに座る。
りんねは、フリースローラインから離れて、そちらに歩み寄りながらパスを放る。
そのボールを受けて、尋美が手に持っていたペットボトルを差し出した。
「ありがと」
受け取って、キャップをあけて一口飲んでから首をひねる。
「コンビニ行ってきたの?」
「うん」
寮には、水と牛乳しか飲み物は常備されていない。
それ以外の飲み物が欲しければ、七キロ離れたコンビニまで行くしかない。
「自転車往復で疲れたからシューティング出来ないとか言うんじゃ無いでしょうね」
「そんな、いじめないでよ」
りんねににらまれて、尋美は隣の梓へボールを送る。
梓は、ボールをりんねにチェスとパスで返した。
「もうー。三人でスタメンになるって、入部したとき誓ったでしょ」
「りんねだけ、向こう側の人だもんなー」
「だーかーらー! そういうこと言わないの!」
りんねはスタメンで、梓や尋美は控え。
それが最近の練習では定着してしまっている。
「あと一年切ったんだよね」
尋美が、急にトーンを落として真面目な声で言った。
「うん」
「もう残りはこのメンバーで。先輩が抜ければポジション開くとか、そういうの期待もしちゃいけなくて。私はなつみを超えないとスタメンにはなれないし、梓ならまいかな。あの子に勝たないとスタメンはなくて。結構きついよね」
最後の一年。
ここに暮らすメンバーは、ともに戦う仲間でありつつ、試合出場を争うライバルでもある。
「二人との付き合いもあと一年か」
梓がぽつっと漏らして手を伸ばす。
手に持っていたペットボトルをりんねは返した。
「わかんないよ。意外と、卒業しても同じチームでバスケやってたりして」
「やだー。もうバスケはいいよ」
「尋美、卒業したらどうするの?」
おなかにボールを抱えてりんねが問う。
尋美は、りんねを見て、梓を見て、またりんねを見て、それから少し笑って答えた。
「んーとね。東京行って、専門入って、合コンして、彼氏つくって、バイトして、ハワイに旅行行って」
「はいはい」
「夢は寝てから見ようね」
「ちょっとー。ひどくない?」
不満の声を上げる尋美の声に二人から笑い声がこぼれる。
尋美も、結局つられて笑っていた。
「でもさ、バスケは、高校までのつもりだから、ホント頑張らないとな、とは思うよ」
「はい!」
「はい、りんねさん」
「その頑張りが全然見えません」
「りんね先生厳しいです」
尋美が頭を抱えると、また二人で笑った。
「でも、実際勝負だよね、インターハイまでが」
「出番はあるはずだしねえ」
三年生が抜けて新チームが結成されて、インターハイまでに八ヶ月ほどの時間がある。
このチームには昨年のスタメンに三年生がいなかったので、ほとんど変更は無いのだけど、一年生が加わったことも有り、北海道レベルの地区大会では、控え選手に多くのチャンスが与えられる。
そこで、各選手の力量が見極められて、その後のチーム編成の構想が固まって行く。
スタメン以外にまで、コーチの視野が広がっている間に、できるだけアピールしておきたい。
「口だけじゃなくて練習しなさい練習」
「もう、りんね先生厳しいなあ」
二人でりんねを見上げる。
りんねは、口調は厳しかったのに、結局笑顔を浮かべてしまった。
尋美が立ち上がって、梓もそれに続く。
「りんねは、まだ打ってくの?」
「うん。もうちょっとね」
「体冷やさないようにね」
「なんか、冷えてきたから私たちは部屋戻るは」
じゃあね、とばかりに手を上げて、二人は建物に戻っていく。
りんねは、それを見送って一つため息をつくと、ボールを弾ませながらコートに戻った。
フリースローを続ける。
センターポジションのりんねは、試合でもフリースローを打つ場面が多いのだ。
簡単なシュートではあるけれど、常に練習をしておきたい。
こういう地道な練習を積み上げることで、自分はやっと、安倍や藤本のような才能についていけているんだ、と感じている。
だから、手が抜けない。
何本も繰り返し。
フリースローラインからシュートを放ち、自分で拾う。
狙い通りに決まれば、自分の手元に戻ってくるように調節できるが、コントロールがうまく行かないともどってこないでとりに行くことになる。
ふと、気配を感じて振り返ると、ボールを抱えた小さな姿があった。
あさみだった。
「どうしたの?」
小首をかしげる。
うつむき加減で、視線を合わせようとしないあさみに、小首をかしげる。
「練習しに来ました」
なんだか思いつめた顔。
場違いな表情に、りんねはふき出してしまう。
「なに、どうしたのよ。そんな顔して」
「別に、りんねさんべったりだから来たわけじゃないです。練習しに来たんですから」
「わかった。わかったわよ」
もう、おかしくてたまらない。
さっきの自分の言葉をよほど気にしてたのが分かる。
その上での、ここに出てきたいいわけとしては合格だ。
練習しに来たのだったら、何も文句は言えない。
「好きにしなさい」
笑みを浮かべたままりんねはフリースローラインへ戻る。
あさみは、ボールを弾ませながらそのりんねの後ろに立つ。
りんねはフリースローの一本目を決めて、ボールを手元に引き戻したけれど、二本目はシュートは決まったけれどゴール下で弾んでいる。
それを取りにりんねが向かうと、あさみがフリースローラインに入った。
りんねはボールを拾い上げて振り向く。
「違うでしょ」
「はい?」
「そこじゃないでしょ」
りんねはあさみのところまで行き横に並ぶ。
あさみが、不思議そうにりんねの方を見ると、りんねはあさみの着ている青いパーカーの首元をつかんで後ろに引っ張った。
「うわっ、うわっ! 何するんですか?」
「あさみはここでしょ」
りんねが引っ張って連れて行ったのはスリーポイントラインの外側。
ラインとゴールと、りんねの顔をあさみは交互に見つめる。
「ここ?」
「そう、ここ」
言われても、また、ラインとゴールを交互に見る。
それからりんねを見ると、顔が打ちなさい、と言っていた。
考えつつも、プレッシャーを感じてボールを二度三度弾ませる。
両手で構え、ゴールを見て。
またボールを弾ませて。
半分右足を前にして、スリーポイントシュートを打ってみた。
方向は良かったが、少し短く、リングに当たって跳ね返ってきた。
「90度でも45度でもいいから、数こなしなさいよ」
「えー。その前にフリースロー教えてくださいよ」
「あさみ。あなたねえ、フリースロー練習しても意味無いでしょ」
「なんでですか?」
「控えがフリースローうまくても何のアピールにもならないでしょうが」
ドリブル突破が強いとか、マンマークに優れているとか、スクリーンアウトがきっちり出来るとか。
そういう部分が、練習でスタメン組を相手にしたときのアピールポイントになる。
フリースローがいくら入っても、それを見てもらう場面はあまりない。
大体、あさみのポジションでは試合でもフリースローを打つことはあまり多くなることはないのだ。
「じゃあ、どうしたら入るのか教えてくださいよ」
「練習しなさい。いっぱい」
「そうじゃなくてー。なんか、コツみたいなのとか」
「私に分かるわけないでしょ。スリーなんか打ったこと無いんだから」
りんねとあさみはポジションが大分違う。
普段の生活面でいろいろ指導することはあっても、バスケのプレイという面では、あまり教えられることはない。
センターポジションのりんねがスリーポイントを打つことは、安倍とジュースを賭けて遊ぶときくらいしかない。
もちろん、勝ったこともないし。
「けちー」
「けちとはなによ、けちとは」
返ってきた言葉があまりにおどけてたので、りんねは笑いながらまぜっかえす。
あさみは、90度の位置で構えてみたけれど、なんとなく気分が乗らないので、45度まで移動してシュートを打ち始める。
りんねはフリースローラインから、あさみはスリーポイントラインの外から。
ぽんぽん決めるりんねと、いまいち入らないあさみ。
あさみは、もう途中で手が止まってりんねのシューティングを見てしまう。
ああやって次々に入るのを見せ付けられると、その外でシュートを打とうという気にはなれない。
「あさみ、手、止まってるよ」
「だってー」
「だってじゃないの」
「やっぱりフリースロー教えてくださいよ」
「教えるって、いくらなんでもそういうレベルじゃないでしょ、あさみは」
あさみだってフリースローくらいは普通に入る。
シュートの打ち方から教えるようなレベルではない。
「そうじゃなくて、その、自分のとこに戻ってくるの」
「戻ってくる? ああ、リングの奥にバックスピンかけて当ててるだけだよ」
あさみが小走りにりんねのところに駆け寄る。
りんねもなんとなく場所を空けて、あさみがフリースローラインの前に立った。
「あ、片手で打つの?」
「ダメですか?」
「いきなりフォーム代えないの」
普段は両手でシュートを打つあさみ。
りんねの真似をしようとしてみた。
片手で打てば、リリースポイントが高くなる分、ブロックされる危険が低くなって有利ではある。
しかしながら、女子では筋力の問題から、特に小さな選手が外の位置からシュートを打つ場合には両手で打つことが多かった。
普段両手でシュートするのに、フリースローだけ、それも、今日から突然片手でシュートするのも変な話である。
「奥って、あの根元ですか?」
「そう、この辺」
リング下からジャンプしてその辺を指し示す。
あさみは、二度ボールを弾ませると、シュートを放った。
ボールはリングを通過して、あさみの方に進んでは来るけれど、ゆっくりで手元までは帰ってきてくれない。
「ちゃんとピンポイントに当てないと戻ってこないのよ」
そう言って、りんねが拾い上げてあさみに返してやる。
もう一度あさみがシュートを放つと、今度はきちんと手元まで戻ってきた。
「そうそう、そんな感じ」
もう一本打つ。
今度は長すぎて、シュートそのものが入らない。
「入らないんじゃどうしようもないでしょ」
「はは」
笑ってごまかす。
いつのまにか、りんね先生のフリースロー教室になっている。
さすがに途中で気づいたけれど、楽しそうなあさみの表情を見ていると、まあ、いいか、と思ってしまう。
「確かに、子離れできて無いかも」
「りんねさん、どうかしました?」
「なんでもない」
そう言って、コート脇のベンチに座る。
あさみの姿を見つめながら、尋美たちが置いていったペットボトルを口に持って行く。
あと一年かぁ・・・。
ここで過ごす時間は、あと、一年。
先輩になり、後輩が入ってくる、というのは自分の残り時間が減って行くということ。
勝つために練習して、試合に出る為に練習して。
試合という、大会と言う目標があって。
それに向かって毎日を過ごしている。
今のため、ではなくて、少し未来のある時のために、つらく苦しい今に耐えて、頑張っている。
そう、周りは言うし、偉いよね、すごいよね、立派だよね、と褒めてくれる人もいる。
だけど、ちょっと違うかな、と感じてる。
練習はつらいけど、でも、未来だけじゃなくて、今も十分に楽しい。
こんな毎日が続いていくのも悪くない。
悩みが無いわけじゃない、困ったことが無いわけじゃない。
それでも、もしかしたら、今のこの環境って幸せって言うのかもしれない。
そんなことを思いながら、りんねはフリースローを打つあさみのことを見ている。
「りんねさん、いつまで座ってるんですか!」
「あさみが十本続けて入るまで」
「一年くらいそこに座ってます?」
「入れなさい」
この子が試合に出られるようになる日は来るのだろうか。
りんねの今の心配の種の一つ。
こうやって、心配する後輩がいるのも、幸せなことなのかもしれない
そう思いながら、なんで私は突然こんなに感傷的なんだろう、と一人で苦笑い。
あと一年、頑張ろう、そう、頭の中で思って立ち上がった。