ファーストブレイク

 

第四部

内地では梅雨と呼ばれる季節。
北海道ではまだ肌寒さが残る日の出来事だった。

「嘘!」

藤本は、テーブルを叩いて立ち上がった。

「落ちついて。柳原さんも安倍さんも、2人とも病院に運ばれて、今出術中だって」
「嘘だ! 嘘だ嘘だ!」

藤本は、部屋を飛び出して行った。

玄関まで走り、靴をつっかける。
走りながらつま先を地面に叩き、靴に足を押し込む。
つまづいて、よろめきながら道まで出た。
先輩たちは、7キロ先のコンビニへ行ったはず。
自転車で出かけて、自転車でちゃんと帰ってくるはず。
嘘だ、嘘だ。
藤本の頭の中を駆け巡る。
思わず外に飛び出していた。
先輩たちを迎えるために走っている。
息も切れ切れになりながら走った。
信じられなかった。
信じたくなかった。

後先考えずに寮を跳び出してきた。
闇雲に走って来たので息が続かない。
確かめなくちゃ、それだけで走っている藤本の後ろからクラクションの音が聞こえた。

「美貴! 乗って! 早く!」

寮の管理人が運転するワゴンには、りんねやあさみ、里田たちが乗っている。
藤本も、後ろの座席に乗り込む。
ドアが閉まる間も無く、車は動き出した。

6月の北海道でも、闇雲に走れば汗をかく。
となりに座るあさみが、黙ってハンカチを渡してやった。

「ありがと」

ハンカチを受けとって、藤本は汗を拭く。
まだ、呼吸が整わない。
重苦しい空気の車内に、藤本の呼吸音だけが聞こえる。

汗を拭き、呼吸も整い、ようやく落ちついて来る。
少し、冷静に考えられるようになった。

「先輩たち、帰ってくるよね」

藤本の言葉に、誰も答えない。
みな、ただうつむいているだけ。

「ねえ、ホントなの? 嘘だよね。事故とかって嘘だよね。途中で飛び出して来ちゃった私の勘違いだよね」

懇願するように、藤本が言う。
帰ってきたのは冷たい言葉だった。

「美貴うるさい!」

あさみを挟んで藤本と反対側に座る里田が怒鳴った。
重苦しい空気に、さらにささくれだった雰囲気が混ざる。
苛立ち、不安、恐怖、相混ぜになった感情が、車の中で渦巻く。
前の席に座るりんねが、痛々しい空気の中で言った。

「ひろみとなつみ、2人は、帰りに車にはねられた。今は2人とも病院で手術中。どっちか1人は運ばれた時意識がなかった。分かってるのはそれだけだよ」

シートに深く身を沈め、フロントガラスの向こう側をりんねはぼんやりと見つめている。
もう、誰も口を開くこともなかった。

車は病院へ向かう。
夕日が、西の空へと消えていく。
夕闇の一本道を車はひた走った。
藤本は、ただ、窓の外を見つめていることしか出来なかった。

車はやがて、病院へとたどり着く。
停止するのも待たずに、りんねたちは飛び出した。
病院内へ走る。
受付で場所を聞いて、手術室へと走った。

「2人は? 2人は?」

手術室前には梓が1人、座っていた。
りんねの問い掛けに、梓は何も答えない。
ただ、視線を点灯するランプへと向けるだけだった。

点灯する赤いランプ。
光っているのは手術中の文字。
駆け込んできた藤本たちもそのまま、たちつくす。
蛍光灯の光だけが照らすその場所は、静寂に包まれる。

りんねは、梓が座る壁際のナイロン製の長椅子に座った。
あさみも隣に座る。
藤本は、落ち着き無くあたりを歩き回っている。
里田は、手術中の文字を見つめていた。

時間だけが過ぎて行く。
ランプは消えない。
りんねは、祈っていた。
膝にひじを置き、合わせた両手を額に当て、ただ祈っていた。
あさみも祈る。
落ち着き無く歩き回る藤本。
いつまでも、いつまでも歩き回る。

どれくらいの時間が過ぎたのだろうか?
ほんのわずかのような、永遠の時のような。
立ち尽くしていた里田が言った。

「消えた」

みな、顔を上げる。
手術中の赤いランプが消えていた。
りんねもあさみも立ち上がる。
扉が、開いた。

最初に出てきたのは、白衣の上に青い手術用の服を着た中年の男性だった。

「先生、2人は? 2人は?」

皆で駆け寄る。
張り詰めた、冷たい空気が覆う中、医師は答えた。

「お1人、安倍さんの方は両足を複雑骨折していまして重態です。ただ、意識はしっかりしてましたので麻酔が切れれば目覚めると思います」

複雑骨折、重態、重い言葉が続く。
生きている安堵、大きな怪我の悲しみ、動揺と言う形で感情が出てくる。
それでも、皆、さらに続く医師の言葉を待った。

「もうひとかた、柳原さんの方は、残念ながら・・・」
「ひろみー!!」

りんねが、絶叫して泣き崩れた。

「こちらに運ばれた時点で意識がありませんでした。全力をつくしたのですが」

医師は、うつむいてそれっきり言葉をつながなかった。

手術室からストレッチャーが出てくる。
看護婦たちが押しているストレッチャーに乗っていたのは、安倍だった。

「なつみさん!」

藤本が駆け寄った。
ストレッチャーに取りすがろうとするところを、看護婦に静止される。
それでも、なつみさん、なつみさん、と叫び続ける。

もう1つのストレッチャーが出て来た。
その上に寝かされている柳原尋美の顔には、白い布がかけられていた。

「なんで、なんで・・・」

あさみが、そう何度も言いながら、ふらふらとストレッチャーに歩み寄る。
泣き崩れていたりんねの肩を里田が抱く。
りんねは立ち上がり、ひろみのもとへ向かった。

「ひろみ・・・」

白い布を取れなかった。
どうしても取れなかった。
布を掛けられたひろみを、ただただ見つめている。
やがて、看護婦たちがストレッチャーを押して去って行った。

長い、夜になった。
安倍は、麻酔で眠っている。
まだ、面会出来る状態にない。
そして、ひろみは、永遠の眠りについていた。

藤本が霊安室の扉を開けて中に入ると、そこにはりんねがいた。
作法もよく分からないまま、焼香らしきことをして、りんねの隣に歩み寄る。
りんねは、ひろみの顔を見つめていた。

「きれい、だよね」

りんねが見つめたまま言う。
隣の藤本は、黙ってうなずいた。

「ひろみって、こんなにきれいだったっけ? 別人だよ。絶対、ひろみじゃないんだよ」

そう言って、白い布をかけ、壁際のスチール椅子に座る。
藤本は、布越しにひろみの顔を見つめていた。

「寮に入ってさ、最初に話したのがひろみだった。すごい不安で、やっていけるのかな? ってカバン抱えて部屋に入って行った時に、前の日に入寮してたひろみが、1年生ですか? って、声掛けてくれて」

何でもない会話。
どこにでもある出会い。
だけど、忘れないでいること。

「夢見てるときってさあ、歩いても歩いても、なんか感覚無いよね。空飛んでる感じで。なのにおかしいよ。なんかちゃんと地面を踏みしめてる感じがする」

線香の匂いが薄く広がっている霊安室。
藤本がりんねの方を振り向く。
暗い部屋だった。

「1年生の頃からずっとひろみに頼ってた。1人じゃ何も出来ない私だったけど、ひろみがいれば、ひろみがいてくれれば大丈夫な気がしてた」

認めたくない現実。
少しづつ現実に馴染んで行く心。
行ったり来たりのゆりもどし。
感情が揺れている。
ひろみは、もう、いない。

「ひろみ、幸せだったかなあ」

りんねのつぶやき。
藤本には、何も答えられない。

「卒業したら、東京行って、彼氏作って、とかそんな話もしてたんだけどね。ひろみは、もう、出来ないんだよね、全部。歩けない、バスケも出来ない、話も出来ない、恋も出来ない」

りんねは立ち上がり、ひろみの枕元へ。
薄暗く、線香の匂いが香る部屋。
吸い込まれそうな静寂の中央で、ひろみは眠る。
ひろみの顔を覆っている白い布をりんねははずした。
この上なく美しく感じられるその顔を見つめる。
りんねは、ひろみの唇に自分の唇を合わせた。

「ごめんね、私なんかで。でも、誰とも出来ないよりいいよね。ひろみに、私の初めての口付け、ささげて上げる」

それだけ言ってりんねは、また、声を上げて泣きはじめた。
隣の藤本にすがりつく。
りんねを抱きとめる藤本も、声は上げずに涙を流していた。

札幌の、ひろみの自宅近くの斎場で通夜と告別式はしめやかにとりおこなわれた。
バスケ部員は、授業を休み両日とも出席する。
ただ1人、安倍なつみを除いて。
安倍は、意識は取り戻していたが、外出出来る状態にはほど遠かった。

通夜の晩から告別式まで、線香を枯らしてはいけない。
そんな、しきたりがある。
その線香番も部員たちが担当した。

「みなさんで、ひろみを送ってやって下さい」

娘を失った母親の気丈な言葉。
見送りに、こうやって集まってくれる友がいることで、娘は幸せだったのだと自分に言い聞かす。
その言葉に甘えて、同級生の梓とりんね、後輩のあさみと里田、4人で徹夜の線香番をした。

通夜の後に振舞われた、すし、てんぷらといった料理が残っている。
高校生の女の子が深夜に4人集まっているというのに、会話が弾むこともない。
ぼんやりと点いているテレビには、芸能人の自殺のニュースが流れていた。

「人って、簡単に死んじゃうんですね」

口を開いたのは里田だった。
畳に敷いた座布団の上に座り、テーブルにほっぺたをつけ顔だけテレビに向けている。
映っているのは、マンションの映像。
フェンスがクッションになり無事でした、とアナウンサーは言っている。

「いらないんだったら、かわりに分けて欲しいよね」

りんねは、そう言ってテレビから視線を外した。
生き残った自殺者の話なんか、不愉快でしかたない。
麦茶のコップに手を伸ばした。

「なんでこんなやつが生き残って、ひろみさんが・・・」

あさみは、テーブルに両ひじをついて頭をかかえる。
真夜中の斎場の控え室。
隣の部屋に、ひろみのための祭壇がある。
皆、昨日から、まだ、ひろみが生きていた昨日から、ほとんど寝ていなかった。
今日も、これから徹夜。
眠くないわけじゃない。
だけど、眠れなかった。

「私のせいだ」

3人から離れ、1人、壁によりかかりひざを抱えていた梓が口を開いた。
梓の言葉に、3人は視線を集める。

「私がもっと早く救急車呼べてたら・・・」

そう言って、抱えたひざの上に額を乗せ、泣き出した。
誰も何も言えない。
テレビからの無味乾燥したニュースと、梓の泣き声が部屋を包む。
りんねが立ち上がり、梓の隣に座った。

「梓、梓が悪いんじゃないよ」

そう言って肩を抱く。
梓が、安倍やひろみと3人でコンビニにでかけたことはみんな知っていた。
そして、梓1人無傷で、病院で1人だけで待っていた。

「痛いよ、痛いよ、って、ひろみ、言ってた。なつみも動けなくなってた。轢いたトラックは逃げちゃうし、どうしていいかわかんなくて」

なんとか言葉をつないだけれど、それ以上つながらない。
ひざを抱えて肩を震わせる。
りんねは、さらに強く肩を抱いた。

「なつみが、救急車、救急車っていうから、走ったの。必死に走ったの。だけど、死んじゃう死んじゃうって怖くて、今にして思えば自転車のが速かったのに」

滝川の寮生は携帯なんか持っていない。
救急車を呼ぶために電話するには走るしかなかった。

「コンビニまで戻って電話したけど、場所とかちゃんと説明できなくて」

あさみも里田もうつむいて聞いている。
痛かった。
ただただ痛かった。

「もっと早く呼べれば、もしかしたら」

聞いているあさみの方が泣き出した。
梓の言葉が、あさみに先輩の死を改めて認識させる。
あさみの泣き声に混ざって部屋に聞こえているテレビの音。
テレビの向こうのイラクの空で、人が何人死のうと、全然関係なかった。

「私がかわりに轢かれれば良かったんだ」
「そういうこと言わないの!」

梓の言葉に、肩を抱いているりんねが声を荒げる。
梓が、温かかった、
りんねは、梓の肌のぬくもりを感じていた。

「ひろみじゃなくて、私なら、きっとこんなに悲しむ人もいなかったし」
「だからやめてよそういうこと言うの!」

目の前で、友が死んだ。
自分は何も出来なかった。
どうしようもなかった。
責める相手は、自分しか、いなかった。

りんねは、梓を強く強く抱きしめる。
体の震えが伝わってきた。
梓は、りんねにもたれかかってくる。
りんねはすべて受け止めてやった。
髪をなでる。
梓の髪をりんねがやさしくなでる。
りんねの胸で、梓はただただ震えていた。

「おちついた?」

梓の震えが止まった頃、頭をなでながらりんねがいう。
それに答えるかわりに、梓は顔を上げた。

「ちょっと寝た方がいいよ」

りんねの言葉に梓は首を横に振る。
それでも、りんねは薄い笑みを見せながら言った。

「疲れてるとろくなこと考えないからさ。ちょっと眠ったほうがいいよ」

梓は何かを言いたそうにするけれど言葉が出てこない。
りんねは、向かい合う梓の頭をなでた。

「いい子だから。ね」

梓は弱弱しくうなずいた。

布団はない。
部屋の隅にあった座布団をいくつか持ってきて敷き布団がわりにする。
そこに梓を寝かせる。
りんねは隣に座り梓の左手を握ってやった。
両手で、梓の左手を包んでやった。

丸2日近く、ほとんど眠ることの出来なかった梓。
横になり、友に手を握られることで、少し安心感を得て眠りについた。
梓の、規則正しい寝息が、りんねには心地よかった。

「あさみも大丈夫?」
「泣き疲れて寝ちゃったみたいです」

りんねの問い掛けに、答えは里田から帰ってくる。
予想しない声に顔を上げると、あさみの隣には頬杖を付いた里田が座っていた。

何となくついていたテレビを、里田が消す。
部屋には梓の寝息が聞こえた。

「お線香、かえよっか」

梓の手を離し立ち上がる。
ふすまを開けて隣の部屋へ。
里田もりんねにつづいた。

祭壇には、制服を着て微笑むひろみの写真がある。
その写真をしばし見つめてから、りんねはろうそくに火をつけた。

 

真面目でわらわなく、実力があって、先輩にもずけずけ物を言う福田明日香。
明るくていつもにこにこ、実力はそれなりにあって、先輩はいつも立てる松浦亜弥。
こんな1年生の2人は割と仲が良い。
松浦が一方的になついているだけ、に端から見えるような関係ではあるが、福田も松浦を追い払ったりはしない。
自分の後ろをついてくれば、特に抵抗もせず素直に部屋に上げた。

「よく新聞なんか読めるよね」

机に向かって新聞を広げている福田に、ベッドに座る松浦が声をかける。
お友達様が遊びに来てあげているのに、なんでこの人はそれを無視してそんな態度が取れるかな?
そう、松浦の顔は訴えているけど、振り向かない福田には届かない。

「朝は、お父さんが読んでるから」
「そうじゃなくてさー」
「高校生になったんだから、松も世の中のこと、少しは知っておいたほうがいいと思うよ」

そんなことを言う福田を偉いとは思う。
福田が読み終えた朝刊が足元にあったので、松浦はそれを拾い上げて読んでみた。
松浦にとっては、新聞イコールテレビ欄。
アニメと音楽番組だけチェックして、それからなんとなく福田のまねをしてページをめくった。

「あ、すごい。バスケ部員交通事故だって」
「どこの?」

福田が振り返る。
あまり興味なさそうな、でも、バスケ部員という単語は気になるような。

「北海道」

顔を上げた松浦と視線が合う。
ちょっと考える。
福田は、机を離れて松浦の元に歩み寄り隣に座った。

「なんか、かわいそうだね。寮でまで暮らして頑張ってるのに、こんなの」

左側に座った福田に紙面が見えるように、新聞の右側だけもって福田のほうに送る。
左側は福田が持って、2人で仲良く1枚の紙面を見る。

「ウソ・・・」

該当する記事の部分に目が行って、福田がそうつぶやいた。
新聞を全部引き取って手元に抱え込んで読む。

「どうしたの? 急に。知り合いか何か?」
「ちょっと」

社会面、ではなくスポーツ欄の記事。
北の高校生の悲劇、と銘打たれた記事が小枠2段、およそ200字程度に描かれている。
中央には亡くなった生徒の写真。
買い物の帰り、寮に帰る途中に車にはねられた、ひき逃げ、とある。
社会面、政治面、経済面は目を通すけれど、スポーツ面だったので気づかなかった。
福田はその部分を読み終え松浦に新聞を押し付けると、そのまま仰向けにベッドに転がった。

「友達? 知ってる人?」

座っている松浦が仰向けになっている福田の顔を見下ろす。
福田は、少し考えてから答えた。

「滝川って知らない?」
「たきかわ?」
「インターハイとかいつも出てくるとこ」
「知らなーい」

ちょっと気の無い返事をして松浦は福田から視線を外して記事に目をやる。
福田は、仰向けに天井を眺めたまま続けた。

「大体ベスト8くらいで負けちゃうんだけど、毎年いいチーム作ってくる」
「そうなんだ」

松浦、あんまりよそのチームに興味は無い。
実際のところ、高校の強いチームなんて、まだよく知らない。

「かわいそうだねえ」

他人事感たっぷりの松浦の言葉。
福田は答えずに目を瞑る。
松浦は、新聞をとじて足元に置いた。
音楽もかけず静かな部屋。
2人が黙ると物音もなくなる。
福田は目を開かない。
手持ち無沙汰にされてつまらない松浦は、福田の唇に指を当てる。

「あ、起きた」

福田も目をあける。
松浦が手を離すと、また目を閉じる。
松浦、また、指を唇に当てる。
今度は福田はその手を右腕で払った。
懲りずに次は鼻をつまむ。
福田はその手を払いのけて目をあけた。

「うざい」
「もー・・・」

遊びに来たのにかまってもらえない。
松浦にはあまりなかった経験である。
本当に寝ているのなら寝かせてあげなくもないのだが、起きていて目を瞑っているだけだから、こっちをかまって欲しいと思う。
福田は、仰向けのまま大きく1つため息をついて体を起こした。

「起きた」
「ご飯は? 食べてくの?」
「いいの?」
「悪いなんて思って無いくせに」
「へへへ」

松浦が福田の家に来て晩ご飯を食べて行くのは初めてのことではない。
福田は、うざいとも言わず、手を払いのけたりもせず、松浦が食べたいといえば、晩ご飯も家で食べさせてやる。

「ちょっとお母さんに言ってくるから」
「よろしく〜」

福田は部屋を出て階段を降りて行った。

他人の部屋に一人ぼっち。
構ってくれないにしても、部屋の主はいないよりいたほうがまだいい。
誰もいないと、本当に手持ち無沙汰だ。
あまり意味もなく立ち上がって部屋をうろうろしてみる。
本棚には小説と参考書とバスケ雑誌。
こっそり1冊恋愛指南書が混ざっていたのはこれから先ネタにしてやろうと思う。
恋愛指南書は置くとして、他に松浦が手を伸ばせるとしたらバスケ雑誌くらいだけど、あまりそんな気にもならない。
机には横に片付けて教科書が置いてあった。
これも、どうあっても手が伸びる対象にはなりえない。
ただ、その隣にはノートが置いてあった。

「練習日誌?」

几帳面な黒ペンの楷書で表紙にそう書いてある。
手にとって少し考える。
青の35行100枚キャンパスノート。

「私も部員だし、いいよね」

誰にともなくつぶやく。
日誌、ならさすがに開かなかった。
練習日誌、だったから、バスケ部員の自分は開いてもいいかな、と思った。

「すごーい」

松浦が、そして福田が、高校のバスケ部に入って2ヶ月ほど。
日数にして六十日あまりにもかかわらず、100枚ノートがほとんど埋まりかけている。
1ページ目の、先生、二・三年生の印象に始まって、昨日の練習分まで。
今日の分は、松浦が帰ってから書くのだろうか?

「練習のための練習になっている部分がある。特に、決められた動きの確認のところでそれが目立つ。5人速攻で、アーリーオフェンスの選択になってから、4人目が走りこんでくるまでが遅い。実戦だったら確実にディフェンスが戻ってきているタイミングになる。その上で、ミドルで受けてのジャンプシュートの意識も低い。実際に、2人目3人目で決められるファーストブレイクの形が出せる場面は少ないのだから、意識の改革が必要かもしれない。特に、レギュラー組の吉澤さんや市井先輩にその傾向がある」

日付、練習メニュー、自分のプレイの調子、チーム全体の調子、練習で見つかった課題、こまごまと記されている。
見ていいのかな? という最初の少しのためらいなんかあっという間に消えて、松浦は食い入るように読んでいる。

「シューティング 90度スリーポイント 14/20 右45度 15/20 1本外すと2本3本続くのがくせになっている。実戦では、同じ場所から打ち続けて慣れていく、という事は出来ないし、私は何本も打つポジションじゃなくて、試合のポイントとになる場面で1本か2本打つ立場なのだから、それをしっかり決められるようにしないといけない。個人練習で解決するべき私の課題だと思う」

福田個人の課題についての記述。
チームのことだけでなくて、自分自身についても冷静な目で見つめていると読み取れる。
松浦も、自分のことはよく分かっているつもりだけど、明日香ちゃんと比べると自分に甘いかも、とも思ってしまう。

「松の成長が目立つ。最初はガードを希望してたみたいだけど、フォワードとして使って正解だと思う。私の控えにするのはもったいない」

メンバーについての記述。
「明日香ちゃん、自信たっぷりだ・・・」
松浦のつぶやき。
成長していると言いながらも、自分とポジションかぶった場合に負けるとは思っていない文面。

「性格的に自分で点を取る主役が向いているんだと思う。松のスリーポイントは大きな武器になりそう。だけど、スタメンには先生は使いづらいかもしれない。その辺は意見した方がいいのだろうか? 難しいところかもしれない」

練習日誌を見つめたまま考え込む。
自分のことだ。
そういう風に見てたのか、というのを実感。
福田から、そういう、うまくなったねみたいな褒められ方をしたことはなかったから、プレイヤーとしての自分をどう見てるのかは分からないでいた。
人としては、追い払われないんだから実は結構好かれてるんじゃないか、と思っているけれど。

「なに見てんの?」

立ったまま練習日誌を見つめる松浦に、戻ってきた福田が声をかけた。

「え? あ、これ」

悪びれず、ノートの表紙、練習日誌の文字を福田の前に両手で突き出してかざす。
自分についての記述を見ていたので、階段を上ってくる福田の足音には気づかなかった。

「よく平気でみるよね、そういうの」
「あ、うん。ごめん」
「別にいいけど」

人のものを見た、という点では松浦もちょっとは気にしたらしい。
福田は軽くなじっては見たけれど、それでもノートを取り上げたりはせずにベッドに座った。

「ご飯、30分くらいかかるって」

いつもと変わらない顔でいつもと変わらない口調。
特に怒っているとかそういうことでは無いらしい、と松浦は解釈する。
福田の机のイスに松浦は座った。

「私、うまくなったって思われてるんだ」

ノートを抱えたまま松浦は福田の方を見て言う。
福田は、ちらっとその顔をうかがったけど、特に表情も変えずに答えた。

「自覚してるんじゃないの?」
「なんで?」
「5対5のとき、やけに市井先輩相手に勝ち誇ったプレイ振りなのは気のせい?」
「にゃはは」

笑ってごまかす。
身に覚えはあるらしい。
でも、その意識をあらわにするのは抵抗があるらしい。

「うまくなったっていうか、慣れただけかもしれないけど」
「えーー」

やっとまともに福田が答えだす。
松浦は、今度はちょっと不満そうだった。

「高校生のスピードとかパワーに慣れた感じかな。元々中学のときは1人で全部勝手気ままにやってたんでしょ?」

福田の言葉に松浦は曖昧に笑う。
昔のことまで全部お見通しらしい。
県内では福田のほうは有名人で、松浦はよく知っていたが、自分のことを福田が目で見て知っていたかどうかは分からない。

「だから、元々の力を出してるだけなのか、高校に入ってうまくなったのかは、ホントはよく分からないけど、でも、2ヶ月くらい控えでやってたのは、最初からスタメン組にいるよりよかったんじゃないの?」
「なんで?」
「スタメン組にいると相手が控えだけど、控えでやってるとスタメン組が相手のマッチアップだから。いろいろ慣れるのにちょうど良かったでしょ。なんか、自分のがうまいって自信も付いちゃったみたいだし」
「明日香ちゃん、なんか今日とげとげしいよー」

困ったような顔をする松浦に、福田もかすかに笑みを浮かべる。
今日に限らないんだけどな、という困惑も少し。
松浦は、真面目な顔をして続けた。

「入ったときよりはうまくなったかなって思うよ、自分でも。それが慣れただけなのかもしれないけど。でも、スタメン組に入れてもらえないー」

真面目な顔は一瞬。
今度は膨れ顔。
それが全部可愛く見えるってずるいよな、と思いながら福田は黙って松浦のことを見ている。

「どうしたらいいのー?」

イスに逆向きに座って、背もたれに顎を乗せる。
手には福田の練習日誌。
目をくりくりさせてベッドに座る福田のことを見ている。

「自分ではどう思うの? スタメン入る力あると思ってる?」
「明日香ちゃん確かにうまいしさー、保田さんはー、うーん、なんか、みんなに頼られてる感じがあるから、やっぱり、試合出てなきゃダメな人なのかな、って気がするよ。でもさー、ねー、ほらー」

ガードを最初に希望した松浦は、そのポジションにいる福田のことは認めている。
目だって身長が高いわけでもないから、吉澤やあやかを押しのけて試合に出ることは無い。
プレイ面はともかく、キャプテンとしての保田の存在は認めているらしい。
残っているのが誰なのかは明らかにわかるのだけど、その名前をはっきり出して自分のがうまいと言うほど、まだ素の感情は表に出さない。

「明日香ちゃんさあ、正直、私に何が足りないの? わかんないよ」

不満声の松浦に、福田はきっぱりと即答した。

「信用が無い」
「そんなこといわれてもさー」

答えではあるけれど、それだけだと何の解決案にもなっていない。

「準備整えて、さあ、1対1で勝負しましょうってやったら、松はたぶん、十回やったら7回くらい市井先輩に勝つと思う。だけど、先生は市井先輩をスタメンで使うと思う」
「信用が無いから?」
「うん」

そう言われて、松浦も言葉がつなげない。
小さくため息をついて、少し間が空いてから言った。

「市井さんってそんなに信頼されてるの?」

福田はひざに腕を置いて頬杖をつく。
最近のこと、昔のこと、いろいろ思い出しながら答えた。

「いざって言うとき、ここが勝負って言うときに、何とかしてくれそうな、そんな気がする。市井先輩って」

福田の言葉を聞いて、松浦はちょっと首をかしげる。
同意とか反対とかではなくて、福田の口から、気がする、という曖昧な言葉が出るのがめずらしかった。

「何とかしてくれたの? いままで」

松浦亜弥から見た市井紗耶香。
少し流した感じで練習している。
ディフェンスでスカッと抜かれても、シュートがはいらなくても、余裕がある顔をしている。
やたら保田キャプテンに頼られてる。
先生にも肩に手を回してみたり、対等な感じで接している。
練習中に、自分よりうまいと思ったことは、1度も、ない。

「なんとか、してくれてた・・・気がする」

また、気がする。
松浦は小首をひねって、その先の福田の解説を待つ。

「私、中一のときから今と一緒で、あれこれ生意気に口出して、偉そうにしてた。そのときのキャプテンは市井先輩で、保田先輩が副でいて。2人とも、バスケがうまいからって言うよりは、人柄で周りから押されてそうなって感じだった」

福田の語る昔話。
松浦は黙って聞いている。

「バスケの理論とか、作戦面とかは、私の方が絶対に知識があったし。だけど、私がどれだけ理屈を積み上げて説明するよりも、市井先輩の、根拠の無い、大丈夫だよ、っていう一言のほうがみんな安心するみたいで」

松浦は、福田の言葉を聞きながら視線は手に持つ練習日誌の表紙。
市井や保田の中学時代をイメージしてみる。

「実際私も、試合でどうにもならなくなったら最後にパスを送るのは市井先輩だった」

3年ほど前のこと。
ある意味ではつい最近のことで、ある意味では遠い昔のことで。

「それで、決めてくれたの?」
「それなりに」
「それなり?」
「覚えて無いんだよね、あんまり。ただ、なんとなく、市井先輩なら何とかしてくれるっていうイメージは覚えてるんだけど。実際、先輩たちの代は、最後は保田先輩にパス入れたら決められなくて負けちゃったし」
「そうなんだ」

昔の話。
そんな、イメージの姿と比べられても困る。
福田の話は中3の市井紗耶香だけど、高1の市井紗耶香も同じで、中澤先生にもそう見えているのかもしれない。
それだと自分にはどうにも出来ないんじゃないかと松浦は思う。

「だけど・・・」

言葉を漏らしてからちょっと考える。
福田の迷いに松浦が問いかける。

「だけど?」
「だけど、今もそうかは、わからない」
「そっか・・・」

福田は、まだ、なんとなく、市井先輩なら何とかしてくれる、というイメージを持っている。
ただ、松から見た市井先輩は、ただの人に見えるんだろうな、とも思った。
だから、今は分からない、と続けた。
福田だって、時には少しくらい気を使う。

「でも、松だって出番はあると思うよ。下の回戦はいろんな人使うと思うし、上の方だと、得点力が欲しい場面なんかもあるだろうから」
「出番っていうかー。スタメンで最初から出たいよー」
「松は、信頼どうこうの前に、40分走る体力があやしいし。その辺は私も人のこと言えないんだけど」

中学生と高校生の大きな違い。
それもまた、スターティングメンバーに入るための1つのネックではある。

「出たいー出たいー。試合出たいー」

イスに座ったまま手をバタバタ足をバタバタ。
福田は苦笑するしかなかった。

 

富ヶ岡にとって、県予選を勝ち抜けることは特に問題になるものではない。
このチームにとっては、普段と違うメンバーを相手にした新鮮な実戦練習、という程度のもの。
各メンバーにとってはそれよりも、ベンチに入ること、あるいは試合に出ること、試合でどれだけ活躍出来るか、そういったことが問題になる。
登録は、割と早い時期に終えているのだが、和田コーチはそれをぎりぎりまで伝えない。
試合の前日にコーチ自らユニホームを渡すのがこのチームの儀式だ。
キャプテンの平家が4番をもらうのは常であるが、他は、その時々の調子で入れ替わる。
練習終了後、石川は7番、柴田が九番、高橋は12番を受け取り、小川には16番が渡された。

「高橋さんの方が期待されてるって感じだなあ」
「へへへ」

数字が若ければ良いというわけでもないが、若い方がなんとなくよさそうに見える。
そんなもの。
実際は、ユニホームサイズと身長等の体型との都合などなどいろいろあるのだが。

「私、16番かあ。春より大きくなっちゃったよ」
「番号遠いから、間違わなくてすむね」
「ああ、あったねー。私のユニホーム高橋さんが持って帰っちゃったこと」
「違うよー。小川さんが私の持って帰ったんでしょ」

そんな会話が、少し離れたところにいる石川に聞こえてくる。
ある意味、耳が痛い。

「私がそんなどじするわけ無いでしょ。高橋さんのほうがそういうどじしそうじゃない?」
「そんなことせんって」

こんなことでもめられたら石川が困る。
近づいて行って割って入った。

「あなたたち、仲良くなったのにまださんづけなの?」

突然やってきた先輩。
どちらがユニホームを間違えたのかはもはやどうでもよくなる。
というか、やってきた先輩が犯人なのだが。

「いや、なんか、それで馴染んじゃったから」
「馴染んじゃったからじゃないでしょ。さんづけのままだと深い仲になれないよ」
「深い仲ってどういう仲ですか?」

高橋愛の素直な質問。
石川が割って入って行ったこのやり取りを、遠くで柴田が笑ってみている。

「私と柴ちゃんみたいな仲です」
「へー・・・」

普通に納得して、目の前に立つ石川と遠くの柴田の顔を順に見る小川。
柴田は、石川の言葉に反応して近づいてきた。

「ちょっとちょっと。何を言ってるの梨華ちゃんは」
「えー。違う?」
「違います」
「それはともかく。あなたたち、いつまでもさん付けじゃなくて、別の呼び方しなさいよ」

またお姉さんモードに入ってるよこの人は、と柴田は隣で呆れ顔。
仲はいいが、勝手に深い仲にされても困るのでやってきたが、呼び方なんかどうでもいいだろと思っている。

「例えば?」
「普通に名前で呼んでみるとか。愛、麻琴って」
「うーん」
「いいから言ってみなさいよ。高橋から。はい」

1年生の頃は全然イメージしていなかった。
柴田から見て石川は、頼りなさげな妹キャラ。
それが、後輩が入って変わった。
変わったのか、見知らぬ1面だったのか分からないけれど、柴田としては、ちょっとした驚き。

「麻琴。いや、なんか恥ずかしい」

小川の目を見て麻琴と呼んだ高橋は、やけに照れて顔を覆う。
呼ばれた小川も、頭をポリポリ。

「次、麻琴。ほら」
「え、えー、あの。あー、愛」

言ったはいいけど、いまいちぴんと来ない。
頭をポリポリ。
2人は一瞬視線を合わせるけれど、恥ずかしそうに微笑んで、また視線を外した。

「何やってるのよ。見てる方が恥ずかしいわよ」
「だってー」
「高橋さんが照れるからー」
「また、高橋さんになってる!」

ほっといてあげればいいのに、と柴田は思う。
そんな石川を見ているのは嫌いではないのだが。

「急に無理ですよー」

ペタンと座ってストレッチをしている小川は、石川を見上げて言う。
石川は、右手にボールを持ち、左手は腰に当てて威厳高々に言った。

「そんなことじゃ、私と柴ちゃんのような深い仲にはなれないわよ」
「だから、深くないから、別に」
「ちょっと、冷たくなーい?」
「普通だから」
「もう!」

怒ってます、の顔をする石川に柴田は苦笑。
高橋と小川も、2人の姿を見上げて微笑んでいた。

「いいもん、別に。高橋」
「は、はい」
「ちょっと付き合いなさい」
「はい」

ボールを弾ませながら石川はコートに向かって歩いて行く。
高橋は慌てて立ち上がってその後を小走りに追いかけた。

「まーた、ワンオンワンか、あの2人は」
「いっつもやってますよねー」

足を伸ばして柔軟。
小川の体はそれなりに柔らかく、足を伸ばしてつま先をつかめば、胸が太ももにつく程度には曲げられる。

「仲間に入りたいんじゃないの?」
「1対1なら、高橋さんには負けないんですけどねえ。ちょっと、石川さんに相手してもらいたいなあ、って思ったりはしますよ」
「じゃあ、混ざってくればいいじゃない」
「いいですよ、私は。なんか、邪魔するのもイヤだし」

そう言って小川は、手元に置いてあったボールを拾って立ち上がる。
左手の人差し指にボールを乗せて回しながら歩き出した。

「シューティングしてきます」

柴田は小川の背中を見送った。
さて自分も、と、ボールを弾ませながら、空いていそうなゴールを探す。
迷っていたら後ろから声をかけられた。

「石川は、また高橋の相手か」

声をかけられたから振り向く。
だけど、顔を見なくても当然声だけで分かる。
平家だった。

「なんか、お気に入りになっちゃったみたいで」
「憧れてます、って言われて有頂天になるとか石川らしいな」
「ですよねー」

さすが先輩分かってくれる、と言いたげな柴田。
ただ、平家の方は、目が笑っていなかった。

「高橋の相手ばかりしてるのも、良し悪しなんだよな」

そう言って1つため息をつくとタオルを片手に引き上げて行く。
柴田は、良し悪しって何だろう? と思いつつその背中を見送った。
ひいきになるってことかな? なんて思いながら石川と高橋の方を見る。
石川が、ロールターンしてそのままジャンプシュートを決めていた。

「さて、私も」

一言つぶやいて、1番すいているゴールに向かう。
右六十度あたりの位置から、スリーポイントを打ち始めた。

 

ひろみの死からわずか5日、告別式を終えてから3日。
インターハイの北海道予選がもう始まった。

突然の事故死。
キャプテンは負傷入院中。
気持ちを切り替えて弔い合戦として挑む、なんて、新聞雑誌が喜びそうなことなんかできやしない。
ぽっかりと穴が開いた状態で、誰も練習に集中できない状態で大会を迎える。

大会の選手登録は、すでに済ませてある。
登録メンバーは最大15人。
ベンチ入りも15人。
数日前までエントリー変更は可能だった。
それをコーチはしなかった。
そんなことが頭に浮かぶ余裕がなかったのだ。
試合には、十三人で臨むことになる。

「美貴、早くしてよ! 時間過ぎてる」
「いいよ、行きなよ」
「そんなことできるわけないでしょ」

試合会場までは寮から直接学校のバスで向かう。
その出発の時間になっても、藤本は荷物を詰めたバッグを枕に部屋で横になったまま動かない。
同室のあさみとしては、叩き起こしてでも連れて行くのが義務のような感じになってしまった。

「試合なんかする気分じゃないよ」
「それはみんなそうだけどさー」

あさみはすでにドアの前。
カバンは床に置き、腰に両手を当てて、困った顔で藤本を見ている。
当の藤本は、目を瞑って動かない。

「美貴」

あさみの言葉に帰ってくるのは静かなため息が1つだけ。
もっと深いため息をはきつつ、あさみは藤本の下へゆっくりと歩み寄る。

「なつみさんだって、ひろみさんだって、ちゃんと試合したいと思ってると思うよ」

あさみの言葉に呼応するように、藤本は寝返りを打つ。
あさみに背を向ける方に寝返りを打つ。

「そういう問題じゃないんだけどな」
「もう、美貴」

藤本、力なく体を起こすけれど、それでもあさみに背中を向けたまま。
そんな背中をあさみは見つめる。

「気持ちは分かるけどさあ。私だって試合とかそんな気分じゃないけどさあ。行かないわけにいかないでしょ」

常識人の普通の言葉。
心に響くわけじゃないけれど、聞き流すわけにも行かないまっとうな言葉。
藤本はゆっくりと立ち上がり、荷物を引きずるように歩き始めた。

まだ早朝に近い時間。
夏至を過ぎたばかりの時期とはいえ、北海道の日の出は早くはない。
冷たさの残る風が吹く朝、砂利の敷かれた玄関前にバスは止まっている。
重い足取りで藤本たちがバスに乗り込んでも、まだ空席が目立っていた。

「集まって無いんですか?」
「うん」

あさみの問いに気の無いりんねの答え。
集合時間はとっくに過ぎている。
それでも、誰も文句を言わないし、呼びに行く姿も無い。
集団生活、団体行動、規律の取れた寮生たちにはめずらしい姿。
ぼんやりと外を見つめ座っている。
1人、2人とばらばらと、重そうに荷物を抱えバスに乗り込んでくる。
出発予定時刻を15分過ぎて、ようやく全員集まった。
最後に乗り込んできたのは梓だった。

会場までのバスの道のり。
1番最初に通るのは、あの、事故現場。
多くの花束が置かれている。
速度を落とすこともなくバスはその場所を通り過ぎていく。
祈るもの、うつろに花束を見つめるもの、涙を浮かべるもの、目をそむけるもの。
感情が、それぞれに動かされていく。
ひき逃げ犯は、まだ捕まっていない。

バスはやがて高速に入る。
試合会場までは2時間の道のり。
車内は静かなものだった。
話し声も無く、タイヤが車道のつなぎ目を通るときの振動だけが、それぞれの体に響く。
まだ朝の早い時間だからかもしれない。
試合前ということで緊張感があるのかもしれない。
規律が守られているからかもしれない。
車内は静かなものだった。

今回の会場は旭川。
2年生以上のメンバーにとってはなじみの場所だ。
今の時間、試合の時間を確認して会場に入る。
試合と言うのは1つのイベントではあるけれど、今の彼女たちにとってはルーティンワークの1つに過ぎない。
淡々と着替え、淡々とアップをし、淡々と試合へ。
初日の1回戦、2回戦、力の差がありすぎる相手。
5対5ではなくて3対5くらいで試合をしても勝てるような相手。
苦もなく簡単に勝ちあがった。

夕方まで試合で、2時間かけて帰ってきて寮で夕食を取る。
道内の試合ではよくあること。
よくあることであるが疲労感がやたらとある。
たいした相手でもなかったのに。

「ベンチに十三人しかいないってさあ、なんか少ないんだよね」

夕食後、ベッドの上で壁にもたれていた藤本が唐突につぶやいた。
床に座りマンガを読んでいたあさみは、顔を上げて藤本の方を見る。
藤本は、一瞬あさみの方を見て視線を合わせて、またぼんやりと前を向く。

「アップのときとか、3角パスやってて、なんかパス出す相手が変わるんだよね。あれ? って感じでお互い顔見合わせて。それで気づくんだ。2人いないんだなって」

ベンチ入りは15人。
3角パスをすれば、15人なら3で割り切れるので、いくら回しても同じ相手にパスを出すことになってずれることは無い。

「タイムアウトで戻ってくると、なんか一瞬静かなの。それで、あっ、て気づいてりんねさんがいろいろ話始めるんだけどさ。いつもは、なつみさんが指示とか出してたから」

あさみは漫画を横に置いてひざを抱える。
ベンチに入ったことも無いけれど、藤本の言っていることは分かる。
スタンドから見ていても伝わってくるベンチの雰囲気。
何かがずれている。

「なんか、もう、そういうのが全部イヤなの! いない。いない。いない! って、一々感じるのが、もういや!」

抱えたひざに額を乗せて、あさみはうずくまる。
どうしてあげることも出来ない。
あさみだって、同じようにイヤだ。

「なんでバスケなんかやってるんだろ。なんで試合なんかやってるんだろ、私たち」

あさみは答えない。
物音1つしない部屋。
外から、廊下から、声が聞こえてくることも無い静かな部屋。
藤本は、自分の座っているベッドの枕を拾い上げて両手で自分の足に叩きつける。
ボスッとくぐもった音が乾いた空気を伝わった。

翌日。
同じように早朝からバスで会場に向かう。
勝利を求める雰囲気は、ここにはない。
3回戦、レベル差はまだ十分にある相手のはず。
だけど、点がなかなか伸びない。
シュートが入らなかった。
58−40
勝つには勝ったが、こんな下の回戦での点数じゃない。

夕方に準々決勝。
もう、限界だった。
肉体的な疲労の蓄積、すり減らして行く神経。
上がらない士気に、集中力の欠如。
今のこのチームには、勝って何かを得ようという意欲は無い。
得られる何かに価値を感じられない。
あるのはただ、喪失感だけ。

藤本がボールをさばけずにいた。
いつもの試合とは明らかに違う雰囲気。
いつものパスのタイミングに、足の動かないメンバーがついてこれない。
どうしよう。
無意識のうちに、安倍の姿を探すがフロアにいるはずがなかった。

第3ピリオドを終えて、37−45と8点のビハインド。
このレベルでこんな試合をしたことはこれまでにないことだった。

「みんな集中して。大丈夫。大丈夫だから。しっかり走ろう」

最後のピリオドに向けての2分間のインターバル。
ベンチで語るのはりんね。
チームの柱、精神的なマザーシップがここにはいない。
中心となる3年生たちは、崩壊している。
りんねが1人、ぎりぎりのところで踏みとどまっていた。

そんなりんねに答える声はない。
しっかり走る? 何のために?
仲間を失った悲しみを糧に、強敵に打ち勝つ?
そんな風に切り替えられるほど、1週間という時間は長くはなかった。

暗い空気のまま最終ピリオドへ。
どうにもならなかった。
ひろみのことは、大会に出ている誰もが知っている。
だからといって、誰も同情して勝たせてくれるわけもない。
相手だって、滝川に勝って決勝リーグへ行けるなんていう大金星をつかむために必死だ。
流れは、最後まで変わることはなかった。

試合は、50−57で敗れた。
メンバーたちはベンチに帰ってくる。
ほとんどの選手は、悔しさも何もなかった。
終わった、それだけだった。
口を開くものはいない。
無言のまま、荷物を拾いそれぞれに控え室に消えていった。

 

インターハイの地区予選は全国各地で行われている。
吉澤たちも同じだった。
ここは、金・土・日の3日間。
春の地区大会で勝ちあがれなかったので1回戦からのスタートになる。
初日に1回戦、2日目に2回戦と準々決勝、最終日に準決勝と決勝。
勝ち上がっていけば3日で5試合。
なかなか厳しい日程だ。

「部員が少ないっちゅうんは、こういう時つらいもんなんやなあ」
「いままではあまり感じなかったんですけどねえ」

3日で5試合の日程を厳しいと感じるのは、3日で5試合戦う予定のチームだけである。
これまでは、そんな予定を持てるチームではなかった。

「こういう時って、どういうスタメン組むもんなんや?」
「スタメンは普通でいいんじゃないですか? 交替を増やす感じで。私やあやかはなるべく最初の方は休みたいかな。吉澤は体力バカだから出ずっぱりでもいいですけど」
「福田はどうするんや?」
「ああ、明日香かあ。あの子、体力的にはどうなんだろ。本人に聞いてみます?」
「本人になあ・・・」

中澤はそうつぶやいて苦笑する。
練習前、保田と中澤、県大会にどう立ち向かうかを相談していた。

「どうしたんですか?」
「いや、私、相談してばっかりだなって思ってな。普通、誰を使うかとかそういうのって、コーチが自分で決めるやんか」
「しょうがないんじゃないですか? 先生だってまだ初心者なんだし」
「そうなんやけど。なんか、役に立ってへんってのが」
「じゃあ、テストの問題教えてくれるとか」
「それとこれとは違うやろ」
「はは。ばれたか」

今度は保田が苦笑い。
保田も3年生、次の大会、負ければそこで引退する身。
そろそろその先の、進路とか何とかも気になるし、進学を考えているので、テストの重みも自分の中で増している。

「でも、あんたらすごいって。ろくなコーチもおらんのに、県大会優勝すること考えてるんやから」
「いるじゃないですか、コーチは」
「明日香か?」
「ああ、あの子もそうだけど。でも、よくうちに来てくれましたよね」
「保田の人徳やろ」
「だったらいいんですけどね」

少し自嘲気味。
なんとなく、そうは思えなかった。

「ともかく、うちは言う事聞くから。保田のやりたいようにやってええよ」
「なんですかそれ。コーチ役は先生に任せるって、もう前に決めたじゃないですか」
「でも、負けたらこれで最後なんやし。思い残すことないように、好きにやったらええって」
「負けませんよ。負けない。明日香が来てくれたから、絶対決勝まではいけるし、決勝も、吉澤が、絶対あのむかつく飯田のこと止めてくれて、優勝してインターハイです」
「自分の名前が無いぞ」
「私は、もう、今のチームじゃおまけですよ。ただのおまけ」

少しさみしそうな、少し頼もしそうな。
虚勢も遠慮も謙遜もない、保田の本音。

「そんなことないやろ。あんたが作ってここまでしたんやし」
「作ったのは紗耶香ですよ。私は、それに乗っかっただけだし。でも、最初から全部見てるっていうのはありますよ。だから、私自身はもうおまけにすぎないけど、でも、それでも、このチームで勝ちたいなって」
「いいなあ、熱くて」
「熱いですよ。負けっぱなしで終われませんから。また、あの飯田に負けたら、私、冬までやりますよ」
「おお。言うたな」

普通の学校の高校3年生は、このインターハイ予選を最後に引退する。
一握りの強豪チームだけは、冬の選抜大会まで3年生が残る。
一握りの強豪チームの場合、バスケで進学出来るので、受験勉強の代わりのようなものでもある。
保田は、今は、普通に受験勉強しての進学を考えていた。

「いや、まあ、冬までやるかは、あの、別にして。勝ちますよ。絶対。だから、先生も、私のこととか気にしないでやってくださいよ」
「分かった分かった。でも、保田の意見も尊重しないと、うちとしては、自信もてへんからさあ」
「あんまりぐちゃぐちゃ考えてもしょうがないし、練習行きましょうよ」
「まったく、あんたは練習してれば考えんでいいかもしれんけど、こっちは練習の間中考えないとあかんのやで」

ぐちゃぐちゃ悩むよりまず動く、が保田の基本。
ぶつぶつ言いながらも中澤は、書類に埋もれた机から立ち上がる。
高く積まれた生徒の提出した宿題プリントをばちっと叩いた。

「まあ、いこか」
「はい」

2人で体育館に向かった。
インターハイ予選はもう翌日である。

練習自体は軽めにすませた。
疲れを残さないことが大切。
気分よく、練習を終わらせた。

帰り道、普段は1年生も巻き込んでわーわー言いながら帰るけれど、今日はなんとなく2人で帰ることにした。
あやかにとってはなんとなくだけど、実際は吉澤が、そうなる風に動いたのだが。

「試合かー」
「いやそうだね」
「いやじゃないけどさあ。まあ、いろいろあるじゃない」
「いろいろ?」
「いろいろ」

吉澤が曖昧なままだからあやかはつっこまずに黙り込む。
スポーツバッグを背負い歩く2人。
中には、今日受け取ったユニホームも入っている。

「ボール持っていかなくていいのはいいね」
「ああ、あれ邪魔だよね。なんか目立つし」

2年生になって最初の4月の試合は、1年生はまだ仮入部期間という名目で、雑用は吉澤たちがやっていた。
そこから解放されて最初の試合、ではある。

「あたしらさあ、まだ、下っ端じゃなくなったばかりだよね」
「まだ、2ヶ月ちょっとだっけ」
「それで、インハイの予選なんだよね」

そろそろあやかも、吉澤が何を言おうとしているのか分かってくる。
それでも、あやかの方からは話を振ろうとはしなかった。

「予選だねえ」
「負けたら、保田さん引退するのかなあ」
「するって言ってたねえ」

前を向いて歩いていた2人。
吉澤はあやかの方を見た。
あやかは、1度吉澤を見返したけれど、すぐに視線を前に向ける。
横顔を見ていても答えは返してもらえない。
吉澤は言葉にしてみた。

「保田さん引退したら、キャプテンどうするんだろうね?」

まあ、そういう話がしたかったんだろう、と吉澤がもったいぶってるあいだにあやかは気づいていた。
気づいていてはいたけど、どう答えていいのかはちょっとすぐには分からない。

「やっぱり、あやかかなあ」
「いや、それは違うでしょ」

ここは即答。
それは絶対に無い、とあやかの方は思っている。
そんなことを振られるとは思っていなかった。

「なんで?」
「私がやるならよっすぃーでしょ。どう考えても?」
「なんで?」
「私なんか、よっすぃーを取り囲む輪のなかの1人だもん。輪の中の1人がやるよりは、輪の中心がキャプテンやる方が自然でしょ」
「そうかなあ?」
「そうだよ」

突き放すような声でのあやかの言葉。
吉澤は首をひねって考え込んでいた。

「市井さんは?」

考えながらポツリとつぶやく。
2年生は自分とあやか、それともう1人いて、それが市井。
ただ、留学して1年いなくて年が1つ違う、というのは、チームの中での位置づけとしてどこに置いていいのか、皆迷っているような部分もある。

「どうなんだろうね、市井さん。なんか、あんまり引っ張って行くとかそういうタイプには見えないけど」
「でも、チーム作ったのあの人でしょ」
「練習見てるとさあ、いつもなんか、飄々とした感じしない?」
「ひょうひょう?」
「とらえどころがないとか、こだわりがないとか、そういう意味」
「あやか、難しい言葉知ってるねえ」

簡単な言葉を知らないのに難しい言葉は知っていたりする。
言葉を勉強で覚えると、そんなことが起きたりする。

「どっちにしても、キャプテンって感じじゃなく無い?」
「でも、うまいじゃん」
「よっすぃー、最初にやられちゃったもんね」
「なんか、頭あがんない感じ」
「それはあれだったけど、でも、リーダーシップって意味ではよっすぃーのがいいと思うけどなあ」
「どこが? 私、そんなのないよ」
「あるある。あるから。あるからああやって人が集まるんだし」
「だったらなんで福田はあんなふうに言いたい放題言えるんだよ」
「それはまた別でしょ」

自分がむいてない理由を集めようとしている吉澤に、ちょっとあやかはいらだった口調になる。
あやかにとっては、次のキャプテンに吉澤がなるのはもはや自明なことなのだ。

「大体さあ、決め方も決まってないよね?」
「決め方?」
「先輩の指名なのか、先生の指名なのか、それとも、私たちで決めるのかとか」
「そういえばそうだよね」

1度、吉澤は保田に聞いてみたことがある。
保田は、後で考えよう、と言うだけだった。
保田からすれば、キャプテンを決めると言うのは、負けて引退ということになる。
県大会で負けたときのことは、考えたくなかった。

「保田さんが冬までやればいいんだよ」
「受験勉強させない気?」
「だってさあ。先輩いないと不安じゃない?」
「それはそうだけど」
「とりあえず、優勝すれば引退は先送りだよね」
「優勝はともかく、よっすぃーはもうちょっと自覚持ったほうがいいよ」
「なんでー。私がそうなら、あやかもそうじゃん」
「私とよっすぃーは違うの」
「なんでかなあ」

不満声の吉澤。
あやかから見れば往生際が悪すぎる。
でも、そうはいっても、吉澤としては、自分がリーダーになる、という覚悟を持てる段階じゃなかった。

そうこうするうちに駅にたどり着く。
自動改札も無いので定期を駅員に見せてホームへ。
乗る線が違い、ホームが違うのでここでお別れ。

「まあ、頑張ろうよ、まず、試合」
「勝てば何の問題もなしか」
「そうそう」

勝ちさえすれば、優勝さえすれば、キャプテン問題はインターハイまで先送り。
自覚がないのが問題かどうかは、また別の話。

「じゃ、明日ね」
「バイバイ」
「バイバイ」

軽く手を振って、笑顔で分かれた。
決戦は、明日から始まる。

初日の1回戦は、部員全員出場し100点ゲームの圧勝だった。
2日目2回戦。
ここも前半の間にスタメンを下げる余裕を見せ、ダブルスコアで勝ち上がる。
そして準々決勝は、春の大会で敗れた第4シードの東松江が相手。
2ヶ月前に同じメンバー構成で負けた相手なので、緊張感をはらんだ出だしとなる。
ただ、その頃とはチームの完成度が違った。
相手は春と同じように2−3のゾーンを引いてくる。
そこに、単純に個人技で突破するのではなくて、パスで崩して行く。
なんだかんだと言いながらも、吉澤やあやかと、福田のコンビはそれなりに合うようになってきていた。
2人でインサイドから加点して行く。
そして、問題の相手エース大谷には保田をつける。
キャプテン対決で今度は保田が押さえて見せた。
一二年生が目立つチームになっているが、保田自身も成長を見せている。
相手エースが怖いので、それに張り付く保田は下げられないが、他のメンバーはここでも休ませる余裕を見せながら、それでも77−51と圧勝で勝ち上がった。

翌日に準決勝以降の試合を控えた帰り。
中澤は保田を車に誘った。

「スタメン、誰にしたらええか迷ってんねん」

中澤が心情を吐露する。
大事な大事な試合だった。
準決勝と決勝、勝てばインターハイへの出場権を得られる。
負ければ、その場限りでチームは解散することになる。
3年生は引退、2年生たち、次の代へと引き継いで去っていくことになる。
まともにチームを率いる立場になって、試合で采配を振るうようになって、まだ間も無い中澤には、1人で決断するにはどうしても不安がある。

「それを選ばれる側の私に相談しますか?」
「他に、相談出来る人おらんもん」

懇願するような中澤に、保田は苦笑するしかない。
ハンドルを握り、前を見つめたまま中澤は続ける。

「普通に考えれば、明日香に、紗耶香保田、インサイドは吉澤とあやかのいつものメンバーで決まりなんやろうけどな、松浦のスリーポイントってやっぱり欲しいやん。特に、決勝残った場合。インサイド、多分あの飯田とか言うのに押さえられるやろうから、外から撃てるのが2枚あると得点力上がるし」

市井と松浦、同じポジションをこなせる2人の評価は、中澤の中では理屈でなく無条件に市井が上だった。

「そうですねー。飯田相手だと、吉澤もあやかも点を取って行くのは難しそうですね。ディフェンスに力使うだろうし、2人がかりでも、止められるかわかんないですしねー」
「まさか、明日香を外すわけにもいかんしなあ。松浦がポイントガードも出来るって言ってもな。もう、頭痛いは。6人使ったらあかんかな」

6人フロアにいても、レフリーが気づかなければプレイオンで、ルール上は気づかれるまでの得点も加点されるが、そんなことはまずありえない。

「簡単じゃないですか」

助手席に埋もれる保田は言う。
中澤の考えに、保田が意見を補足して試合展開とメンバー構成を語った。

「本気か? ホンマにええんかそれで?」
「先生、前、前見て、怖いから」

直線で周りに車の無い状況でも、助手席に座る保田にすれば、運転手にこちらをむかれるのは怖い。
中澤は、保田の顔色が変わったのを見て、少し笑みを浮かべて前を向いてから続ける。

「ホンマにええんか? それで」
「いいと思いますよ。たぶん、それが勝つための1番の近道じゃないかな。わかんないですけど。最後は先生決めて下さいね。お前の作戦のせいで負けたー、とか言われても困るんで。シュート外して負けた、とかなら責められてもいいですけど」
「誰も、責めたりせんよ、勝っても負けても。でも、負けたら最後なんやな」

しみじみそう言う中澤に、保田は言葉を返さなかった。

午前中に準決勝。
相手は、新人戦の3位決定戦で敗れた北松江である。
あの時はミカに好き放題やられたが今日は違う。
福田がいた。
ミカは、確かに優れたプレイヤーではあるが、それでも福田明日香の方が全面的に1枚上手である。
メンバーがフリーになった絶妙のタイミングでミカがパスを供給する、というのが北松江の得点パターン。
この、パスの出所を止めてしまえば一気に得点力はなくなる。
フリーの瞬間ではなく、正対した状態からの1対1なら、いまの吉澤たちなら簡単にはやられない。
前半から15点のリードを奪った。
後半、決勝のことを考えると福田を休ませたいところだが、ミカに張り付いているため中澤としては代えづらい。
第3クォーターの相手のタイムアウト。
ベンチに戻ってきた福田に中澤が声をかける。

「疲れてへんか?」
「大丈夫ですけど」
「あと15分やないで。あと15分プラス40分考えたとき、いま、疲れてへんか? って聞いてるんやけど」

あと15分は、この試合の残り時間。
プラス40分は、勝った後の決勝一試合分の時間。
このチームのこの大会の目的は、その決勝に勝つこと。
県の決勝という舞台は、簡単に立てるものでは無いけれど、そこに立つことが目標なわけじゃない。

「でも、あの九番は抑えないと危険ですよ」

先のことまで考えた場合、疲れてないと言い切れるほど、体力面では福田は自信を持っていない。
それが、こういう答えになっている。
そんな中に、思わぬ方向から声が飛んできた。

「先生。私が九番につきます」

すでに、市井と替わって入っていた松浦だった。
予想外の言葉に視線が集まる。
控えの1年生から出る言葉としては意外すぎて、一瞬誰も反応できない。
松浦が続けた。

「大丈夫です。松浦が頑張って、明日香ちゃんにゆっくり休んでもらいます」

それぞれが様子をうかがうように互いを見る。
賛成、の声も出てこないが、特に否定する言葉もない。

「明日香、どう思う?」

中澤が本人に聞いた。
まだ、自分1人で決断を出す自信は無い。

「別に、いいんじゃないですか」

冷たい顔。
表情は変わらない。
出来るでも出来ないでもない。
ただ、無理と思ったら無理だとはっきり言うのが福田流なはず。

「よし、じゃあやってみろ。明日香は下がって」

積極的に控えを使ってみよう、というよりは、ダメなら福田を戻せばいい、という発想。
リスクは少ないしいいか、といったところ。

「オフェンスは、まあ、自由にやればいいよ。明日香下がっちゃったから1対1で勝負しないといけないところも増えるけど、みんな十分勝てるから。ディフェンスはしっかりね」
「松浦、あんまり気負わなくていいからな。外で自由にやらせなければいいから」

スタメン組でまだフロアに残っている保田と吉澤、それぞれの言葉。
この試合、相手も十分強いのでこの2人は最後までフロアにいる予定にはなっている。

「頑張るんでフォローお願いします」

ミカを止める自信があるんだか無いんだか分からない元気な声で、松浦が言うとタイムアウトが開ける笛が鳴る。
メンバーはフロアに戻って行った。

「明日香! 明日香!」

ベンチの自分から遠い方へ去っていこうとした福田を中澤が呼びつける。
福田は、自分のタオルとドリンクを確保してから中澤の隣に座った。

「あいつ、自己主張したりするんやなあ」

ドリンクを1口飲んで福田は、不思議そうに中澤の方を見る。
答えがかえって来ないので中澤が補足した。

「松浦」

福田は中澤から視線を外しコートを見つめる。
北松江のシュートがはずれ、吉澤がリバウンドを拾ったところだった。

「自己主張くらいしますよ」
「いや、でも、なんかいい子風で、上の人の言う事をちゃんと聞きますみたいなタイプかと思うとったから。いや、自己主張するのが悪いっていうんやないで。イメージとしてな。イメージとして」

自己主張しないのをいい子と定義すると、福田は悪い子になってしまう。
慌ててそれを否定する中澤に、福田は特に気にする風もなく言った。

「ああいう子ですよ。みんなわかってないみたいですけど」
「そういや、あんたも、松浦とは結構仲いいみたいやな」
「別に、そうでもないですけど」

相変わらずクールな奴だ、と中澤は思う。
福田の表情は変わらない。
少し休んで、流れる汗も落ち着いてきた。

「九番止めるの、松浦で大丈夫か?」
「大丈夫じゃないですか?」
「ダメそうなら、また出てもらうことになると思うけど」
「止められるかどうかって意味なら、止められると思います。ただ、こっちも組み立てが出来なくなって点は伸びないと思いますけど」
「そうか」

それっきり、2人は話をするでもなく、フロアに目を移す。
ディフェンス戻れ、展開しろ、スクリーン気をつけろ、外あいた、二十四秒。
プレーへの指示をそれぞれ飛ばし、ゲームに集中する。

試合は、福田の予想通りに松浦はしっかりとミカを押さえ込み、福田の予想とは違い、1対1の強さから得点は伸び、75−53で勝利した。

「決勝か」
「決勝だね」
「後1つですね」

チームとして始めての決勝進出。
だけど、そこにたどり着くのが目標ではなくて、そこで勝つこと。
そう、それぞれの頭にある。

「何回戦でも関係ないよ。また、あれみたいだし」

最終日は、コート二面で同時進行で行われている。
もう1つのコートでは、準決勝のもう一試合が先に終わっていたようだ。
出雲のメンバーがコートサイドでこちらを見ている。
飯田が保田に手を振っていた。

「余裕みせやがって」
「顔覚えてくれただけよしとするか」
「はいはい。外野はええから。さっさと着替えて休んで飯を食う」
「先生、気楽でいいですね」

ボソッと保田が一言。
ここまで余裕を見せながらの決勝進出だけど、飯田の顔を見て現実を思い出した。
チーム結成以来、飯田のチームには4戦して4敗。
1番点差が小さかった試合でも、冬の新人戦での15点差。
それに勝たないと先は無いのだ。

「なーに挑戦者が戦う前から暗い顔してんのや。そんな顔してもしゃーないやろ。まずはめしめし」
「まあ、そうですね。じゃあ、着替えて、軽く食事ね。ハーフのアップは、さっきのスタメンは自由参加でいいや。4クォーター入ったら体動かすから。とりあえず解散」

それぞれにベンチの荷物をまとめて引き上げて行った。

決勝までの間に、男子の準決勝が1試合入る。
およそ2時間のインターバル。
勝てばインターハイ、負ければ3年生引退、そんな試合までの2時間のインターバル。
お昼を挟んだ時間帯なので、メンバーはそれぞれに軽い昼食を取っていた。
何度も時計を気にしながら、おにぎりやサンドウィッチを流し込む。
時間が開いたことで、冷静に自分たちの置かれている状態を認識することになる。
勝てばインターハイ、負ければ3年生が引退、新チームへ。
そんな試合までの2時間の時間。

1番、そわそわと落ち着かないのは保田だった。
チーム結成3年目。
その3年間、先頭に立ちこのチームをここまで引っ張ってきた保田。
初めてのチャンス。
そして、ダメなら最後のチャンスになる。
大げさでは無く、比喩でもなく、彼女に取ってはこれまでの人生最大の勝負だった。

保田に釣られるように、吉澤たち2年生も空気が堅い。
前の試合からの集中を切らしたくないという思いもあり、黙々と食べ物を口に運んでいる。
高校生の女の子が数人集まって無言で食事をしている姿は、ちょっと異様でもあった。

そんななか、1年生たちはいつもと変わらない。
松浦を中心に取り囲むように、わいわいとにぎやかにお昼を食べている。
輪の中では唯一中心選手として試合に出ている松浦も、緊張感は見られない。
インターハイに出る、確かにすごいことだけど、まだ彼女たちに取っては、自分ごとではなかった。
先輩たちのおともといったところ。
試合に出ている松浦にしても、ここまで来た苦労、といったものがあまり無いため、それほど大きなプレッシャーを感じたりはしない。

そして、福田明日香は、1年生の輪からも1人外れ、男子の準決勝を見ていた。

「なんや、彼氏でもおるんか? あん中に」

チームから遠く離れ、1人で時間を過ごしている福田に中澤が声をかける。

「別に、そんなんじゃないですけど」
「ちょっとはみんなと馴染むとかしたらどうなんよ。いきなり松浦みたいに愛想ふりまけとは言わんけどさあ」
「なんか、雰囲気おかしいんですよ。それで抜けて来ました」

普段なら共にいる、保田も市井も、緊張感でおかしな雰囲気になっている。
福田には居心地が悪くてしかたなかった。

「県大会の決勝やもん。そりゃあ雰囲気も変わるやろ。試合に出るわけでもないうちかてちょっとなんか緊張するしな。でも、あれやな。明日香はどんな時でもかわらんのな」
「別に、そうでもないですよ」

そう答える福田の声は、とても落ち着いている。
視線は、相変わらず試合を追っていた。

「なあ、ぶっちゃけ、決勝勝てると思うか?」
「いつもどおり普通にやれば」
「普通にか。えらい自信やな」
「うちのが攻め手が多いから。強気とか、そんなんじゃなくて、普通にやればうちのが強いって思ってますよ」
「じゃあ、普通に出来ると思うか?」

中澤の質問に、今度は少し答えに詰まった。

「立ち上がりは、うん、ちょっと、無理っぽいですね。どの程度で立て直せるかだと思います」
「無理か」
「あの雰囲気だと・・・」

2、3年生の、特に保田の空気の重さが気になった。
県の決勝、という舞台は福田以外のメンバーに取っては初めて上がる高み。
学年は下でも、福田の方が経験は豊かだった。

「そろそろ、体動かしたいんで、行っていいですか」
「ああ。ええよ。頼むで明日香。あんたが1番の頼りなんやから」

福田の去り際、中澤がそう声をかけると、福田は振り向いて言った。

「保田先輩とは、もう少し一緒にバスケがしたいですから」

それだけ言って去っていく。
その福田の背中を、中澤は、クールな奴だ、と半ば呆れつつも頼もしく見ていた。

男子の準決勝が終わる。
保田たちチームのメンバーは、観客席からフロアーへと降りた。
試合開始まで15分。
アップを始める。
すでに1試合こなしていて体の準備はほとんど出来ている。
ランニングシュートと3対2で軽く体を動かした後は、フリーシューティングで各自感触を確かめていた。

「ここまで来たんですね」

ベンチ入りメンバーたちがそれぞれシューティングしている輪を、外から見渡す位置に立つ保田に、吉澤が声をかけた。

「ここからだよ。ここから」

自分に言い聞かせるように保田が言う。
問題は、上がってきたラウンドじゃない。
1回戦か、決勝か、そんなことはあまり関係無く、目の前にいる相手は、また飯田だった。
この相手に勝たなければ、今までと同じ。

「勝ちたい、ですよね」
「勝ちたいな」

吉澤にとって3回目、保田にとっては5回目の挑戦。
飯田は、島根県内だけでは無く、全国でも屈指のセンター。
その高い壁を破らない限り、インターハイはない。
負ければ、このチームはここで解散である。
2人が話しこんでいると、レフリーが3分前をコールした。

「よし、行こうか」
「行きますか」

2人を始め、チームのメンバーたちはベンチに引き上げた。

「集合」

保田の指示で、ベンチ入りの12人が中澤のもとへと集まる。
集まった所で、中澤はスタメンをコールした。

「上から、明日香、松浦、紗耶香、吉澤、あやか」

呼ばれた者はそれぞれに返事をする。
ちょっとした違和感に、それぞれが思考する一瞬の間が開いてから、吉澤が口を開いた。

「保田さんは?」
「作戦の都合上外した」
「えー、でも、保田さん抜きって、そんな」
「吉澤、ちょっと黙って聞け」

話題の中心の保田が、うろたえる吉澤をたしなめる。
不承不承の吉澤を黙らせ、中澤が指示を伝えた。

「序盤は、松浦、そして紗耶香。2人のスリーで攻める」
「外中心にってことですか?」
「そう。インサイドは相手の4番の圧力が強いだろうから、外で攻める。外が警戒されて、ディフェンスが広がってきたら中からも攻めていく。それまでは吉澤とあやかはディフェンスに力を割いてくれ」
「でも、それなら、保田さんより私を外した方がいいんじゃないですか?」

どうしても、保田を外す所が引っ掛かる吉澤。
それには保田が説明を加えた。

「私じゃ外は打てないし、リバウンドも取れない。吉澤とあやかは、向こうの高さを考えるとどうしても必要なんだよ。わかるだろ」

吉澤は答えない。
ただ、中澤と保田を交互にみつめるのみ。
保田は続けた。

「吉澤。吉澤がこのチームの中心になるんだ。この構成の時は吉澤が中心になるんだ。私は、これに勝っても、あと少しでいなくなる。そしたら、吉澤が引っ張って行くんだ。わかるな」
「はあ・・・」

頼りない・・・。
そう、保田の目には写る
だけど、それでもなんとか吉澤は返事をした。

「よし、みんな頼むよ。真打はクライマックスに登場するから」
「圭ちゃん、自分で真打とか言わないの」
「紗耶香、あんたのスリーに勝負かかってるんだからね」
「そうだよ松浦」
「隣にふるなって」

自分へ向けられて責任へ、隣の1年生を向ける市井。
保田がそれに突っ込むと、チームに笑いが起きた。
インターバル中の硬さが薄れ、やわらかさが戻ってきた。

「確かに、今日は大きなものが賭かってる。だけど、それは忘れて、強いチームに挑戦出来るんだって気持ちで戦って行こう」

保田が最後に締める。
レフリーが30秒前をコールした。

「よし、行こう」

県大会の決勝。
観客は関係者ばかりだけど、島根のローカル局のカメラも入っている。
夢を賭けたそれなりの舞台、ということでそれなりの演出もされることになっている。

「両チームのスターティングメンバーをお知らせします」

アナウンスが流れる。
NBAばりにチアリーダー付き、とは行かないまでも、体育館にアナウンスが流れる。
いわゆるプロのDJではなくて、地元高校生によるアナウンスなので、多少寒い部分が無いでもないが、細かいことは気にしない

「黒、市立松江女子高校。九番 市井紗耶香」

スタメンに3年生がいないので、いきなり九番まで番号が飛ぶ。
市井は、ベンチメンバーと1人1人ハイタッチを交わしながら、コートに飛び出して行った。
ちょっと照れも入りながら、コートの真ん中まで出ると観客に手を上げて拍手に答えた。

「十番 木村あやか」

地味な存在ながら、チームを支えるセンター。
彼女がいるから、吉澤が生きてくる。
長い髪を後ろで結んで作ったポニーテールを揺らして、コート中央に駆け上がる。

「十一番 吉澤ひとみ」

チームを変えた彼女。
ある意味では、チームを作った保田や市井よりも苦労して来たのかもしれない。
今日のマッチアップは飯田につくことになっている。
吉澤が彼女を1人の力で上回れば、チームはぐっと勝利を引き寄せられる。

「14番 福田明日香」

まだ1年生。
だけど、ただ1人上の舞台を知っている。
保田や市井に、中学時代にちゃんとしたバスケを吹き込んだのが彼女。
本当の意味でこのチームを生み出したのは福田なのかもしれない。
今日も、冷静にチームを動かす。

「15番 松浦亜弥」

ここまで途中出場が続いた彼女が、ついにスタメンの座を得た。
いつも明るくチーム1の人気者。
同じ1年生の福田とは、性格もプレイぶりも対称的。
ボールを持ったら自分で勝負、というのが基本的な身上だ。
コートの真ん中まで出ると、多少照れが入っていた市井とは比べものにならないほど、両手を広げ観客たちに手を振っていた。

「監督、中澤裕子」

軽く手を上げて、頭を深々と下げる。
ようやく、少しづつ監督業が板についてきた。
迷いながらも中澤自身の決断で、最終的に今日のスタメンは決めている。
生徒たちの夢の賭かった1戦。
自分の采配が試合を左右するのか、と考えるとプレッシャーは大きい。
それでも、やるしかなかった。

保田は中澤の隣に立っている。
次々とアナウンスで仲間たちの名前がコールされている。
センターサークルに集まる仲間たちを見て、自分も、スタメンで出たかったな、そう、思う。

対戦相手の出雲南陵高校の選手たちも、アナウンスに従ってセンターサークルへと出てくる。
両チームがそろった。

「松江、ゲームキャプテンは?」

レフリーが問いかける。
チームのキャプテンというのと別に、試合運営の上でコート上のメンバーの中でゲームキャプテンというものを決める必要がある。
普通は、実際のチームのキャプテンがなるのだが、今日は保田がベンチにいた。
実質的に権限を発揮することはほとんど無く、誰でもかまわないのだが、キャプテン、という単語がついているので、雰囲気でおのずと決まってくる。
フロアーに立つメンバーは、いっせいに吉澤の方を見た。
見られた吉澤はまたうろたえる。
ベンチに指示を求めた。

「吉澤。ゲームキャプテン吉澤。十一番です」

保田に横からささやかれた中澤が吉澤とレフリーにそう告げる。
自分を指差し首をひねる吉澤に、中澤は何度もうなづきながら、おまえだから、と指差していた。

決戦が始まる。
センターサークルの中に入りジャンプボールを飛ぶのは吉澤と飯田。
互いにゲームキャプテンとして握手を交わした。
2人は低く構えてボールを待つ。
レフリーがサークルに入りボールを投げ上げた。

ジャンプボールは、およそ中指1本分、飯田が高い位置に手を伸ばした。
後ろに落としガードがボールをキープする。

相手ボールになり、吉澤たちはすぐに後ろへ引いた。
それぞれにマーク相手をピックアップする。
いつも通りのハーフコートマンツーマン。
飯田には吉澤がついた。
その飯田にハイポストでボールが入る。
飯田に背負われた形の吉澤は、その圧力に押され、押さえられない。
ゴールに背を向けたままドリブルをつき、じりじりとゴールに近づくとターンしてシュートをはなった。
飯田のオープニングシュートはボードに当たり、勢いよくリングに吸い込まれた。

吉澤は、圧力でバランスを崩し、腰砕けの状態で床にしりもちをつく。
ゴールを決めて戻って行く飯田を見上げてる形になった。
あやかが手を差し伸べ引き起こす。

「つえー・・・」
「1本返そう」

あれはどうしたらいいんだ・・・。
あやかの方もそんなことを思いつつも吉澤の背中を軽く叩く。

松江のオフェンス。
福田がボールを持って上がる。
吉澤とあやかはインサイドへ。
吉澤には飯田がついている。
比較すればあやかの方がマッチアップとしては楽だ。
ただ、どちらも動きは堅い。
パスが受けられないほど抑えられてはいないが、ボールを受けてすぐシュートが打てるほどフリーにもなれない。
とりあえず外で回してから、福田はローポストのあやかにパスを入れる。
ディフェンスは背負っているが、ゴールへ振り向くタイミングがつかめない。
外に開いている松浦のディフェンスもあやかを挟んでボールを取りに来た。
ダブルチームの形で圧力を受けるあやか、勝負は出来ずに、松浦にパスを送る。
あまりいいパスではなかったが、一瞬のフリーで松浦はためらわない。
スリーポイントラインの外、得意の四十五度の位置から、ディフェンスがチェックに入る間も無くシュートを放つ。
ベンチの、「スリー」と叫ぶ揃ったコールの中、ボールはきれいな弧を描き、リングを通過した。

3対2、、1ポイントリード。
序盤の序盤、点差に意味のある時間帯ではないけれど、いつもやられっぱなしの相手に、初めて一瞬ではあってもリードした。

「度胸あるなあ、あいつ」
「序盤は外からとは言うたけど、いきなり決めよった」

決勝の舞台。
初めてのスタメン。
いきなり攻撃の要をまかされて、最初のシュート、それも外からのスリーポイントを決める。
なかなか出来ることではない。

第一クォーターは、松浦と飯田が点を取りあう展開。
ただ、外一辺倒だと、確率がやや低くなる。
その分を3点入ることで補ってはいるが、徐々にリードを奪われる。
大体、2本3本と続けて打てば、スリーポイントは露骨に警戒されるものだ。
2枚3枚あればまた少し違うが、市井はあまり攻撃参加せず、スリーポイントも打っていない。
インサイドの2人、特に吉澤は決勝のプレッシャーか、飯田のプレッシャーか、動きが堅かった。
早くも2つのファウルを犯している。
流れ事態はそれほど悪く無いので、タイムアウトはとらなかったが、1クォーターは12−17と出雲南陵がリードした。

「吉澤、そろそろ目覚ましてくれるか?」

ベンチに戻ってきたメンバーに、保田がかけた言葉がこれだった。

「そう簡単に止まらないですよ、あれは」
「止めろとまでは言わないけどさ。でも、そろそろ、勝てない、つよい! みたいな感覚は捨てなって」
「いやあ、でも強いっすよ。あれに勝たなきゃインターハイが無いのかと思うと」
「ストップ。それは忘れろ」

横から、中澤が一喝する。
静まり返ったメンバーに続けた。

「勝ったらどうとか、ここが決勝だとか、そういうの全部忘れろ。今、目の前にいる相手だけ考えろ。あの強いチームに、あの4番に、勝ちたいんだ、勝つために戦ってるんだ、それだけ考えろ。あんたらはみんな挑戦者や。負けても無くすもんなんかなんもない。余計なこと考えるな」

そこまで言って、相手ベンチを見る。
ベンチにどっかと座る飯田の姿がそこにあった。
選手たちも、中澤と同じ様に、飯田の方を見つめる。

「あいつに勝ちたいやろ。それだけ考えろ。次は、吉澤、あやか、あんたらもインサイドで勝負してみろ。あと、紗耶香。遠慮しないでもっと撃て」

ブザーが鳴る。
第2クォーターの始まり。

「前半のうちに追いついて来い」
「はい!」

メンバーたちがコートに飛び出して行った。

最近ルールが変わり、第2クォーターの始めにはジャンプボールを行なわない。
センターラインの延長線をまたいで、松江のスローインで試合が始まる。

「なあ、あんなんでええんかな?」
「なにがですか?」
「いや、インターバル中の指示」

試合展開から目を離さずに、声だけ不安そうに中澤がこぼす。
フロアでは、あやかがミドルレンジからジャンプシュートを決めていた。

「いいと思いますよ。うん、私もちょっと、頭ん中、インターハイちらついてましたもん。そうですよね。先のこと考える前に、あれぶちやぶりたいですよね」

保田の目に映るあれ、飯田圭織。
身長もあるが、それだけのせいでなく、存在感の強さからとても大きく見える。
その、あれが吉澤を強引に交わしてゴール下からシュートを決めた。

「保田、どこで入れたらええかわからん展開になってきたな」
「それは先生に任せますよ。私が言うことじゃないし」
「遠慮せんでええって。出たかったら出たいって言わんと」
「じゃあ、1個だけ。走れないのが出て来たら、そこで交代ですね」

保田の出番は、まだやってこない。

2クォーターに入り、松浦が捕まり出した。
ボールを持つと、どの位置でもシュートを警戒されフリーで撃たせてもらえない。
まだ、マークを抱えたままスリーを決めるだけの力はなかった。
それでも、松浦中心にオフェンスは組み立てられている。
スリーをフェイクにして、カットインで切り込んで行き、1人を抜き去る、あるいはその1人を引きずりながらの勝負になる。
自分で決めたり、吉澤やあやかにさばいたりと忙しい。

対称的に目立たないのが市井だった。
ボールを持ってもシュートが打てない。
ディフェンスの警戒心が松浦に向いているので、比較的フリーになり易い立場にある。
福田も、市井にパスを供給するのだが、受けたボールはつなぐだけ。
シュート気配が無い。

吉澤とあやかは、どうしても飯田を押さえられなかった。
パワーが違う、高さも負ける。
技術も経験も及ばない。
せめて、気迫だけでも負けてはいけないところだが、圧倒されてしまって、それどころではなかった。

福田がボールを運ぶ。
右サイドの松浦にはたく。
受けた松浦はシュートの構えに入るが、ディフェンスがチェックへ。
シュートをフェイクに中へ切り込んで行く。
インサイドのセンターがカバーに来たので、ハイポストで開いたあやかへ。
今度は外からヘルプが入ったので、左サイドで完全にフリーになった市井へパス。

「打てー、さやかー」

ベンチから声が飛ぶ。
ボールを受けた市井は、一瞬考えたあと、1つドリブルをついた。
マークが戻ってきてディフェンスに付く。
中のあやかへパスを送ろうとしたところをカットされた。

「アホ! なんで撃たんのや!」

中澤が市井を怒鳴りつけるのは、1年生のときに「25過ぎたら女は終わり」と言われて以来人生で2度目だ。
座っているだけのコーチだった中澤が、チームの大黒柱を叱り飛ばすなんてありえなかったこと。
それが思わず怒鳴っている。

出雲の逆速攻。
戻れたのは福田だけ。
3対1の構図になり、簡単にゴールを決められた。
中澤がタイムアウトを取った。
得点は、20−28と8点のビハインド。
負けてはいるが、これまでを考えると十分に健闘しているとも言える点差ではある。

「紗耶香、なんで打たんのや」
「ごめんなさい。なんか、余裕ありすぎて色気出しちゃった」

意味がありそうでいて、よく分からない弁明。
市井は、ただ単に、自信が持てないでいた。

「あいたら打っていいから。リバウンド、確かに不安かもしれないけど、吉澤とあやかを信じてやれって」
「はい」
「ちょっと、吉澤とあやか、不安とか言われて、黙ってないでよ」

保田が隣から口を挟む。

「いや、でも、確かに拾えてないし」
「そんな顔してるようだと、ポジション関係無く私が入るわよ」

保田にそう言われ、吉澤は何も言えずに唇をかむ。
自分から話題が移ったのを見て、市井は1年生からドリンクとタオルを受け取り、汗を拭いていた。

「ディフェンスは、あの4番にボール入ったら、吉澤とあやか、2人がかりでついて」
「カバーは?」
「外3人でなんとかして。もう1人のセンターに多少やられるのはいいから。とにかくあのデカイのを止めよう」

2人でうなづく。
保田が続けた。

「それでも止められなかったら私が入る」

2人は黙ってうなずいた。

「そんなに気後れするほど力の差はないと思いますよ」
「おまえ、またそうやって。自分がマーク付かないから、そんなこと言えるんだよ」
「吉澤さん、自分で思ってるよりうまいですよ。たぶん」
「褒めたって何も出ないぞ」
「とめてさえくれれば、別に」

いちいち引っ掛かる福田の言葉。
吉澤も、真顔だ。
軽口にしてみたり、弱気な言葉にしてみたり。
それでも、心のうちでは戦っている。
逃げちゃだめだ、何とかしなきゃ、自分が何とかしなきゃ。
まだそれを表に出して、自分が何とかします、と言えるほどは強くない。

「紗耶香。打ちなよ」
「わーったから。圭ちゃんまでもう。心配すんなって」

タイムアウトが終わる。
市井は、タオルを保田に押し付けてコートに戻って行く。

エンドから市井がボールを入れ、福田が運ぶ。
1番後ろに位置する市井からは、フロア全体と自分以外の九人が見える。
市井は、ここにいることに、ここに帰って来たことに自信が持てなかった。

2年前、市井はチームのエースだった。
チームのすべてを背負うエースだった。
保田と2人で作ったチーム、その真ん中にいることが心地よかった。
自分が中心にいて、保田も自分に従って、他のメンバーも当然市井を尊重して。
自分で作ったチームだから、先輩なんかいなくて、1年生だけどキャプテン。
バスケを知らないクラスの友達からも、すごいね、カッコいいねと言われる。
負けることは多かったけれど、なんとなく、自分には何でも出来るんじゃないかって、そう思っていた。
いきがって、なんか留学とかしてみた。

今は違う。
自分のことを知る人のいない外国では、ただの日本人。
誰も、自分を崇めてなんかくれない。
帰ってきてみたら、保田はすっかりうまくなっていた。
自分がいない間に入った2年生の2人は、しっかりとチームを支えている。
1年生の福田は、かつて頭の上がらなかった相手。
松浦の個人としての能力は、あとは経験さえ積めばチームのエースとなって行きそうに見える。
自分の居場所が感じられなかった。
自分はもしかしていらないんじゃないかと、不安だった。

ボールは、福田から松浦を経由して中の吉澤へ。
ゴール下に入れない吉澤は外へボールを戻す。
受けたのは市井。
すぐに福田まで返す。

「紗耶香! 勝負! 勝負!」

ベンチの保田の声が聞こえる。
市井は、表情を変えずに中のあやかのマークにスクリーンをかけに動く。
ボールは福田から周り、最後は松浦がミドルからシュートを放つが外れ、リバウンドを飯田が取った。

この試合、もし負けたら3年生はそこでチームから引退する。
市井は、自分も引退しようかと考えていた。
今なら、かっこよくいなくなれる。
そんなことも考えている。
だけど、もう1度輝ける、輝いてると思える、そんな自分が欲しい。
そう思うのも確かだ。

ディフェンス。
ボールは展開される。
それでも、かなりの高確率で最後に飯田に送られるのは目に見えている。
ゴール下、飯田の圧力を受けながら吉澤は耐えていた。
予想通り、飯田にボールが入る。
すかさず、あやかもヘルプに入った。
囲まれて慌てた飯田がボールをファンブルする。
こぼれたところに福田が飛び込んでさらった。

スリーポイントは元々得意だった。
中学の頃、保田と遊びで競って、勝ち続けたのが気持ち良くて、よく打っていた。
保田に勝った自信でシュートを打つと、試合でもよく入った。
他にシューターがいないというのもあった。
今は、他にもシューターはいる。
松浦のスリーポイントはチームの大きな得点源になった。
もし、自分が打って入らないようなら、松浦と比べて劣る証明になってしまう。
そこまではっきり考えたわけではないけれど、怖くてシュートが打てなかった。

8点のビハインド。
ここは何としても詰めておきたい。
と、思うのはこちらの勝手であって、相手としてもリードを拡げ一気に勝負を決めたいところ。
なかなか攻め手が見つからない。
二十四秒計が数字を刻んでいく。

「5,4,3・・・」

出雲ベンチのカウントダウン。
ゼロまでにシュートが打てなければディフェンスの出雲ボール。
出し所が無いボールを福田が市井に送る。

「紗耶香、打って!」

マークはいる。
それでも、撃たなければ無条件に相手ボールになる。
市井は、シュートを打つ、というよりはイメージ的にはゴールの方向にボールを投げた。

入らなくても、市井が背負う責任は何も無い。
この場面は、打たない方が問題だ。

普段のシュートと違う軌道でボールは跳んでいく。
ボードに当たったボールはリングに吸い込まれた。

「さやかー!」

追いこまれた場面でのスリーポイントにベンチが沸き上がる。
市井も、条件反射でガッツポーズをしていた。
本人の実力とは無関係な得点であるけれど。

「吉澤! あやか! 後はあんたたちが仕事しなちゃんと!」

保田の両手を叩きながらの檄が飛ぶ。
とにかく飯田をとめたい。
ラッキーゴールが、チームの士気を上げ吉澤の活力も増やす。
飯田の前に立ち、パスコースを遮断する。
当然、ゴールサイドの裏が開くが、そちらはあやかがカバー。
前に立つのは激しい動きが必要になるが、それでも吉澤は前に付いた。

外からの苦し紛れのシュートが放たれるが、リングに大きく弾かれる。
落ちてきた所を市井が拾った。
逆速攻、とはいかないけれど攻め上がる。
チームの空気がいい。
福田を起点にボールがよく回る。
中から出て来たリターンパスを市井がノーマークで受ける。
今度は迷わなかった。

「スリー!」

ベンチが立ち上がる。
今回は、美しい軌道でボールはリンクに吸い込まれた。
連続スリーポイントで一気に2点差。
チームは盛り上がる。
そして、スタンドも盛り上がる。
地味なゴール下よりも、スリーポイントの連発の方が観客は盛り上がる。

どんなレベルのチームでも、雰囲気に飲まれるというのはよくあること。
この場面の出雲がそうだった。
簡単なパスをキャッチミスでこぼす。
それを吉澤が拾い上げ福田に送った。

「スタート!」

逆速攻。
福田、松浦、市井の3線速攻の形になる。
人数は3対2。
自分で突っ込むか、ゴール下に駆け込む松浦に送るか、外に開いた市井に預けるか、3択。
2枚のディフェンスは、自分の目の前とゴール下に戻っている。
福田は外に開く市井にパスを送った。
ノーマーク。
速攻からのスリーポイントをためらいなく放ち、それが決まった。
市井の3連続スリーポイントで1分足らずの間に一気に逆転。
ブザーが鳴り、出雲南陵がタイムアウトを取った。

「紗耶香! 紗耶香!」

ベンチから紗耶香コール。
私を見ろ! とばかりに右手を高々と突き上げてベンチに帰ってくる。
乗せたらどこまでも止まらない、それが市井紗耶香。

タイムアウト後、さすがに市井にマークが貼りつき外からは簡単に打て無くなった。
今度はインサイドの出番。
飯田は確かにすごいが、1人で2人は止められない。
広がったインサイドで、少し距離を取って吉澤とあやかが連携を取る。
ゴール下は支配出来ないけれど、ミドルからなら、なんとかそれなりに加点出来ていた。
前半、34−32と2点のリードで終えた。

ハーフタイム、控え室に上がった出雲とは対称的に、保田たちはベンチに残る。

「なんか、私の出番なくなってきたなあ」

1年生から受けとったスコアブックを見ながら保田がこぼす。
松浦13点、市井11点、吉澤とあやかが4点づつで、福田も2点取っていた。

「どうしたんすか?」
「ん? ああ、いや」

勝つためには、自分がいないメンバーでスタートするのが良いと思ってはずれた。
だけど、実際にそれでチームが機能してしまうと、それはそれでさびしいものがある。
ただ、そんな胸のうちまで吉澤相手に語れるわけもない。

「なんだよ吉澤。あんたは途中までぼこぼこにされてたじゃんか。前半だけで18点やられてるよ、4番に」

飯田の18点は、一試合通算の得点でもおかしくないもの。
それでも、以前の一試合51点、と比べれば大分ましな方だ。

「だって、しょうがないじゃないっすかー」
「あんたねえ、やられちゃうのはある程度仕方ないにしても、弱気な姿勢見せたらただじゃおかないからね」
「まあ、いいんじゃないの。前半は予定通りいったんだし」
「あとは、インサイド勝負で勝てるかどうかではあるんですけどね」

市井と福田が口を挟む。
予定通りにいって、ようやく2点のリード、これをよしと見るか苦しいと見るか。
前半、期待以上の大活躍を見せた松浦は、ベンチに座りにこにことその光景を見つめていた。

ハーフタイムは十分間ある。
戦術などの指示だけでこの時間が使いきられるわけではない。
あいている時間の使い方は人それぞれ。
集中しようとしている者、ボールに触っている者、雑談している者。
このハーフタイムをきっかけに流れが変わって行くこと、というのはよくある。

「これ勝ったらさあ、ほんとにインターハイ出るんだよね」

保田の隣に座り、汗を拭きながら市井が言う。
座ったままボールを付いていた保田は、ドリブルを止め市井の方を見た。

「そうやって先のこと考え出すとろくなことないよ」
「いやあ、勝つかどうかはわかんないよ。でも、勝った方がインターハイって試合をやってるんだよね。あのチームと」

飯田一人に51点とられて負けたのは1年半前のこと。
あの時のメンバーで、前半試合に出てたのは市井だけ。
ハーフタイム、一息ついてなんとなく昔の感慨に浸ってみた。

「思えば遠くに来たもんだってか?」
「圭ちゃん、表現が一々おばさん臭いんだよね」
「うるさいわねー」

持っていたボールを市井の頭にぐりぐりと押しつける。
立ち上がって、少し離れた位置に座っている松浦の後ろから近づくと、両肩に手をおいた。

「めずらしいな、1人でボーっとしちゃって」

いつも、誰かにからみついている松浦。
それが今日は、1人でベンチに座りぼんやりとコートを見ている。
突然に肩をつかまれて、驚いて振り向いた。

「そういえば保田さん。今年のインターハイってどこでしたっけ?」

保田のかけた言葉と相関の無い話をしだす。
振り向いた松浦の顔はいつものように笑顔。
保田は、松浦の肩をもみながら答えた。

「どこだっけ? 紗耶香知ってる?」
「四国のどっかじゃなかった?」
「えー、東京がいいですよー」
「そんなこと言ったってしょうがないだろ」

無邪気な1年生に保田の顔もほころぶ。
となりで市井も笑顔だった。

「後半、大丈夫か?」
「大丈夫です。松浦が先輩たちをインターハイに連れて行って上げます」
「おっ、言うねえ」

松浦は、どこまでも優等生スタイルだった。

吉澤はタオルを首にかけてトイレに来ていた。
個室には入らずに洗面台へ。
水を流しっぱなしにして鏡と向かい合う。
顔を洗って、タオルで拭かずにそのまま鏡を見つめる。
水は流しっぱなし。
鏡を見つめて、思い出したように顔を洗って、また鏡を見つめて。
ため息を吐く。

「どうしたのよ」

声をかけてきたのはあやか。
吉澤は鏡越しにその姿を確認する。

「んー、なんとなく」

鏡を通して目を合わせて、また視線を切って今度はタオルで顔を拭いた。

「もうあんまり時間ないよ」

あやかも、吉澤の隣に立って洗面台で、顔と腕を洗う。
20分動いて汗に濡れたカラダ。
簡単に洗える部分だけでも洗ってすっきりしたいという感覚はある。

「あやか」
「なに?」
「あたし、逃げたいは」
「何を言い出すのよ」

思わずあやかは、鏡越しじゃなく直接に吉澤の方を見る。
吉澤は、鏡に映る自分を見ていた。

「冬に試合したとき、結構やれた気がしてた。だからなんとかなるかな、なんて思ってたけど、全然甘いは。1人じゃどうにも出来ない」

冬の新人戦、それなりの試合ではあったけれど、常時十点以上の点差があり、相手に余裕のある状態だった。
そのときに吉澤が見たのは、本気の欠片に過ぎなかったのかもしれない。
今日は、福田、松浦、市井という、冬にいなかったメンバーがそろって、その分競った試合になっていて。
飯田圭織にだって、余裕は無い。

「逃げちゃいけないのは分かってるんだけどさ、でも、ホント、もう逃げ出したい。このまま着替えて帰りたい」

そう言って、流しっぱなしの水を掬い、顔をぬぐう。
そのまま、両肘を洗面台について、手で顔を覆う。

「あんなのに、ホントに勝てるのかなあ?」

隣に立つあやか。
鏡越しの吉澤、直接隣の吉澤、交互に見つめる。
何かを言うべきだろう。
だけど、なんと言うべきか。
そんなあやかの方を、吉澤は洗面台にひじを付いたまますがるように見上げた。

「あ、あのさあ。すげーはずかしいんだけど。うん。あやかにしかこんなこといえないんだけどさ」
「なに?」
「あの、手、握ってくれないかな?」
「へ?」

あまりの意外な言葉に、あやかの声も裏返る。

「変な、変な意味とかじゃなくて。だから、その、とにかく、いいからちょっと握ってくれって」

変なことを言っておいて、照れた風に取り繕う吉澤がおかしくて、あやかは微笑む。

「分かった。よっすぃー、変な意味できれいだから、握ってあげるよ」
「だから、そういうことじゃなくてー」
「ファンの子たちに怒られそう」
「どんな子だよ」
「ハートの目をして見てる子たち」

会話はわけの分からない方向に進み始めたが、ともかく、吉澤の右手をあやかはそっと両手で包んだ。
直接、ではなくて鏡越しに視線を合わせる。
変な意味は無いはずだけど、変な意味を感じて2人でやたらに照れて視線をそらす。
それでも、あやかは自分が言うべきだと思ったことを言った。

「大丈夫。たぶん、大丈夫だから」
「たぶんかよ」
「よっすぃーなら大丈夫。よっすぃーなら。それに、みんないる。私もいるから」

あやかは、包んだ吉澤の右手を見つめながら言う。
そんなあやかを、吉澤は鏡越しに見つめていた。
左手のこぶしを握り締めて、それから自分の顔を見つめた。

「あやか」
「ん?」
「足引っ張ったらごめんな」
「だから、大丈夫だって」

吉澤の見つめる先は、鏡の向こうの自分。
今ある自分の姿をじっと見つめる。

「そろそろ行きますか」

あやかは顔を上げ鏡に映る吉澤の方を見た。

「ファンの子が期待してるよっすぃーが戻ってきたね」
「どんなだよ」
「きりっとした感じの、自信たっぷりな王子様」
「30秒で粉々かもしれないけどね」

水を止め、洗面所を出て行く。
吉澤は、歩きながらタオルで顔を拭いた。
2人は、コートに戻った。

後半が始まる。
メンバーは前半と変わらない。
保田はまだベンチに控えている。

出だしはこう着状態だった。
前半と同じパターン、松江は松浦中心に、出雲は飯田を中心に。
若干、出雲のマンツーマンディフェンスが、ボールの無い所でも松浦市井には厳しく当たるようになったのが変わった程度のもの。
しかし、3分を過ぎた頃、明らかに流れが傾き始める。
厳しいマークに松浦がボールを受けられなくなった。
普段なら、1歩の速さで、瞬間だけでもノーマークを作りボールを受けられるところ。
それが、その隙を作れない。

市井の動きも、よくなかった。
スリーポイント3連発による自己催眠作用はもう切れている。
勝てばインターハイ。
早すぎる皮算用が動きも硬くする。

それでも、福田は松浦に、市井にボールを供給しようとしていた。
その2人の部分は、明らかに1対1で見ればこちらが勝っているところ。
勝ち目が多い部分で出来るだけ勝負したい。
とはいえ、市井はともかく前半出だしから飛ばして来た松浦は、もうそろそろ限界だった。
中学の試合は7分の4クォーター、高校に入ってからは控えでの出場で長い試合の経験はない。
今日はその上、午前中に明日香ちゃんを休ませるとか言って、かなり厳しい相手を押さえ込んだのだ。
技術的には高くても、まだ40分戦いきる力が彼女にはなかった。

第3クォーター残り4分、50−59と9点ビハインドの場面で、松江ベンチがタイムアウトを取った。

「松浦、お疲れ」

保田が、戻ってきた松浦の肩を叩く。
本人も、分かっていたのだろう、小さくうなずいた。

「松浦の代わりに私が入る。紗耶香、ポジションチェンジ。ボール運びフォローして」
「OK」
「吉澤とあやかは、もっとチャレンジしろ。オフェンスでもディフェンスでも。特に吉澤。あんたは私にくってかかった時位の勢いでなんでプレイ出来ない」

2人はぐうの音も出ない。
保田はさらに続ける。

「明日香ももっと自分で行っていいよ。切りこんで崩してさ、それからならパスのだしどころも多分増える」
「そうですね」

こんな試合でも、明日香だけは変わらない。

「先生、後のベンチワークは頼みますよ、っていうか、ここまで私ばかりでしゃばってごめんなさい」
「悪いな、負担掛けて。あとはなんとかする」
「よし、絶対逆転するよ。飯田をひざまずかせてやるんだ」

残り時間は通算で14分。
ついに、真打(自称)の保田がコートに立った。

松江ボールでの攻めあがり。
福田から市井、吉澤を経由して保田に戻る。
ボールを受けた保田は、パスフェイクを入れてドリブルで切り込もうとした。
体はディフェンスを抜き去ったが、ボールがいない。
自分の足に当ててしまい、点々としたボールを拾われて、逆速攻を受け決められた。

「ごめん」

いきなりの凡ミス。
両手を合わせ、チームメイトに謝る。
1年生からスタメンだった保田は、控えメンバーとして試合の途中で入って行くという経験が無い。
集中に少し欠けていた。

ボールは市井、あやかと経由され、福田に戻る。
今度は、ゴール下を通過して外へ出て来た保田はフリーだった。
そこにボールが送られる。
そのままドリブルで突っ込み、中からカバーが来た所、バウンドパスをあやかへ。
ゴール下、フリーであやかがシュートを決めた。

「ナイスパスです」
「ディフェンス、ディフェンス」

軽くハイタッチを交わしディフェンスへ戻って行く。
ベンチにいるより、ゲームに出ているほうがずっと楽しい。

相変わらずインサイドは負けている。
外も、市井は自分自身では攻め切れていない。
どうしても福田はボールを保田に集めざるを得ない。
それでも、疲弊していた松浦よりは、後半に入り体力満タンで入ってきた保田は強い。
さらに、市井−松浦、というラインは少し連携が取れていない部分があったが、市井−保田、というラインは万全だ。
市井は自分では攻めきれていないが、保田にいいタイミングでボールが送れているので、チームとしてはなんとか機能している。

保田の加入で生き帰った松江は、第3クォーターを6点差まで詰めて終えた。

「悪くない! 悪くない!」

フロアに上がって4分。
エンジンがかかり、テンションが上がってきた保田が、手を叩いてそう言いながらベンチに戻ってくる。
この十分の間に逆転されたのは事実。
今まで1度も勝ったことの無い相手に、30分過ぎて6点差でいるのも事実。
全部踏まえて、悪くない、と保田は思っている。

「圭ちゃん1人で元気だから、全部圭ちゃんに預けちゃう?」
「まだ、一本調子で行くには早いですよ。市井先輩も自分で勝負したり、吉澤さんも中で頑張らないと」
「簡単に言うけど、ありゃつええよ」
「ディフェンス頑張ってるんだから、オフェンスも勝負してくださいよ。吉澤さんなら体力余裕あるはずなんですから」
「はいはい。どーせ私は体力しか能が無いですから」

吉澤はそう言うが、チームのスタメンクラスの人間にとって、体力という能はかなり大事なものである。
実際、あやかや福田は、3クォーターが終わって戻ってくるなり、ベンチに座り少しでも疲労を回復させようと必死だが、吉澤は立ったままタオルで汗を拭き、暑いは暑いが涼しい顔である。

「4番は、とにかくボール入れさせないようにしような。それでもダメでボール入っちゃったら、あやかもカバーで。2人がかりで」
「私がばてるかもとか、そういう前提はないんすか?」
「ない」
「あ、あ、そ、そうですか・・・」

センターに対するディフェンスで、相手の前に立ってパスが入らないようにするというのは、体力を非常に使う。
たまには気遣って欲しいなあ、と思ったりもしなくはない吉澤だったりする。

「先生も何とか言って下さいよ」
「ん? 楽しそうでええんやないか?」
「もー。しっかりしてくださいよー」

保田は、戦術的な何かを期待しているので不満がある。
ただ、中澤は違うことを考えていた。
逆転はされたけれど、このチームは、今、目の前の相手に勝つことだけを考えている。
自分は余計なことを言わないで見ていたほうがいいんじゃないかと思った。

最終クォーターに入る。
メンバーはいじらない。
この期におよんで、ようやくインサイドの吉澤とあやかがオフェンス面で多少機能しはじめた。
やられっぱなしではいたが、頑張って飯田についていた価値はある。
1人でチームを引っ張り、得点源となっていた飯田の疲労の蓄積が大きい。

マンツーマンで飯田に付かれる吉澤。
疲労の色濃いとは言っても、ゴール下での勝負では劣る。
そこで、飯田を外にひきづり出しての勝負に持ち込む。
新人戦の時と同じパターン。
フォワードライクな1対1なら、十分に勝負が出来る。
足が動かなくなって来た飯田は、ファウルが目立ちはじめた。
ただ、それでも飯田の代わりなどいない。
飯田を外せば、そのまま出雲の負けにつながる。
島根県内では勝ち続けてきた飯田たち。
ここまで来て負けられない。

残り6分を迎える頃、3点差にまで迫った。
ただ、吉澤もここまで。
疲労の色が濃くても飯田は飯田。
吉澤が勝負してくるのを見て取るや、ディフェンスでの集中力を高めた。
疲労の色が濃い場合、全てに100%は出来ない。
ここでは、オフェンス時に多少さぼって体力を回復させつつ、ディフェンスをきっちりやって、吉澤が好きに出来ないようにしている。
その分、出雲も得点力が落ちる形になった。

3点差からがつまらない。
どちらも、点が入らなかった。
5分を切る。
点が入るどころか、シュートまでたどり着かない。
3点差から点が動くと、1点差か5点差か。
ここの2点は重い。
取られたくない、その意識が互いにディフェンスに集中させる。
そして、ボールを奪うとほっとして、オフェンスは甘くなる。
点が入らない。

出雲は、当然飯田に集めたいのだが、吉澤のマークを振り切れずボールが受けられない。
他の攻攻め手はフリーになりきれず、1対1では勝ちきれず、点に結びつかない。
松江は松江で、似たような状態だった。
インサイドではボールを受けてからゴールの側に振り向くことも出来ない。
市井は全てのプレイにためらいがある。
保田は、途中で入り十分に元気だが、こいつがキーマンだとばかりに警戒されて思うようにプレイできない。

飯田へのパスの供給を押さえ込んで、二十四秒オーバーでボールを取れば、松江も松江でパスが回せず二十四秒でボールを取り返される。
パスをスティールしたと思ったら、今度はキャッチミスでこぼれたところをさらわれる。
スコアボード、得点がずっと動かない。
重い展開。
プレイしているメンバーにもストレスがかかる。
根比べ。
ただ、時間の消費は、追う側にとって次第に重荷になってくる。
それに耐えて、得点を動かせるかどうか。

「1本! 1本! じっくり!」

残りは1分少々。
3点差。
タイムアウトで意思の統一を図りたいところだが、ルール上時計が止まらないとタイムアウトが取れない。
スリーポイント1本で追いつくか、じっくり2点をとりにいくか。
1番、感覚が分かれるタイミング。
保田が叫び、4人の顔を見て、簡易的に意思の統一を図る。

福田が持ち上がり、市井に落とす。
インサイドはパスが入れられる状態に無い。
上の福田へ。
今度は逆サイド保田に落とそうとするが、ディフェンスが厳しく出せない。
パスの出しどころが無く、仕方無しにドリブルで切れ込む。
かわしきれずにマークを引きずりながら中へ。
カバーに飯田が来ては、福田の身長では勝負できない。
少し外に開いた吉澤へ送る。
ノーマークの吉澤だが、パスまで呼んでいた飯田がすぐにチェックに入りシュートは打てない。
スリーポイントラインの外にいる保田へ。
外からは打てないし、切れ込むにも中は込んでいるし、どうしようもなく上に上がった市井へ繋ぐ。
市井はすぐに逆サイドに下りた福田へパスを送った。
ローポストでディフェンスを背負うあやかへと福田がバウンドパスを入れたが、あやかは勝負できずにバウンドパスを福田に戻すのみ。
二十四秒計が刻む。
福田は上の保田へパスを戻した。
時間が無く、他に選択肢が無くて保田は無理やりにスリーポイントを投げた。
ボールはリングに当たり大きく跳ね上がって、落ちてきたところを飯田が取った。

「戻って! ディフェンス!」

残り時間50秒。
ここで決められて5点差になると試合が終わってしまう。
希望を繋ぐには絶対に止めなくてはいけない。

出雲オフェンスがボールを持って上がってくる。
マークを捕まえて吉澤は感じていた。
4クォーターに入ってからさっきまでの飯田と、今度のオフェンスの飯田は違う。
肌で分かる。
最後まで持つように、さっきまではスタミナをコントロールしていた。
今度は違う。
ボールを持っていない段階でも分かる。
つないでさばくんじゃない。
自分で、決めに来る。
勝負を決めに来る。

左ローポスト、飯田は吉澤を背負ってゴールに背を向けた形でボールを待つ。
スリーポイントの外にいたフォワードから、保田の小脇を通してバウンドパスが飯田へ送られる。
ハイポスト、もう1人のセンターについていたあやかも飯田に押さえに入った。
ここまではこれまでの約束事の通り。
もう1人。
点を取らせたくない。
ここでは絶対点を取らせたくない。
そう思ったら、後先約束事考えずに体が動いた。
吉澤、あやか、保田、3人で飯田を取り囲む。

飯田はパスを受けて最初の選択肢はターンして即シュート。
そう動こうとしたが、吉澤は押さえきれていないし、あやかの寄せも早かった。
次の選択肢を考える。
論理的思考で追っているわけじゃない。
体が覚えていて体が考える。
ほんの一瞬の間。
ボールが下がるのが飯田のくせだった。
不用意に腕が下がり、ボールが下りてきたところを、外から寄せた保田がはたいた。

ボールは中を舞う。
ルーズボール。
混戦の中に落ちる。
保田が自分で飛び込んで倒れながら拾った。

「サイド!」

横に開いた福田の声が飛ぶ。
フロアに転がったまま保田はパスを送る。
福田の足元に届く、あまりいいパスではないが拾い上げる。
すぐに開いてガードが福田に取り付いた。
ドリブルで上がって行く。
右手からバックチェンジで左手に持ち返る。
その左側に相手ディフェンスの重心を寄せておいて、ロールターンで右へ。
1人かわす。

「はい!」

市井が前を走っていた。
市井のマークがボールを持つ福田に寄せてくる。
2対1。
ひきつけてひきつけて、フリーになった市井へパスを送る。
ノーマークのランニングシュート。
簡単に決めた。

残り35秒、1点差。

残り時間、単純にはオフェンスディフェンス1回づつ。
1本止めて、次のオフェンスで決めれば勝てる。
勝つために必要なことは見えた。

出雲はなかなか攻めて来ない。
まだ1点リードしている。
時間ぎりぎりまで使おうという作戦。
それが分かっているから、松江側も激しく当たってボールを取りに行くが、どうしても取れない。
そして、時計は時を刻んでいく。
二十四秒計が5秒を切る頃、ボールが飯田に入る。
分かりきっていた。
吉澤も、あやかも、飯田にボールが入るのは十分に分かっていた。
ここでも保田が飯田を押さえに来る
止めたい。
さっきは止まった。
今度も止めたい。
止めて、逆転して勝ちたい。
止めたい気持ちはある。
だけど、さっき3人で止めた分、3人ともが頭の片隅に1つのイメージがあった。

パスをさばくかもしれない。

誰に決められても2点は2点。
パスをさばかれたら、そこへカバーに行かなくてはいけない。
それを頭に置きながらのディフェンス。
だけど、飯田の方はまったくパスは考えていなかった。
今度は吉澤にもあやかにも構わずにターンしてゴールの方を向いてくる。
2人も止めようとするが、飯田はその間に足を伸ばし入り込んだ。
そしてそのままジャンプ。
吉澤、あやかもブロックに飛ぶが、飯田の右手の方が高い。。
ゴール下、強引にねじ込む。
残り十三秒、再び点差が3点に開く。
松江ベンチがタイムアウトを取った。

大詰めではあるけれど、時計が止まって大きくため息が出るところ。
点が動いたことで、重い空気は払拭され、会場もざわつく。
39分、変わることなく試合に出続けたメンバーは、多少疲労の色を浮かべながらベンチに戻ってきた。

「すいません」

うなだれる吉澤の肩を保田が叩く。

「一々、気にするな」

直前の出来事であっても、ここまでの展開を振り返っている余裕は無い。
十三秒で3点取る。
その必要なことをするためにどうすればいいか?
保田の頭はそれしかない考えていない。

「それより先生、松浦を入れてくれませんか?」

十三秒で3点差を追いつく。
そのためのやり方は通常2つ。
2点づつ2回決めるか、スリーポイント1発で追いつくか。
普通は、スリーポイントに賭ける。

「誰と代わるんですか?」
「そりゃ、私だろ」
「だめですよ、ここで保田さんひっこめられるわけないじゃないですか。私が下がります」

現実論と感情論。
最後の場面で、保田を下げたくない。
そう、吉澤は言う。
2人は中澤の顔を見た。
頼りなくても指揮権は中澤にある。

「吉澤、下がれ」
「先生!」
「保田はまぐれでもスリーあるだろ。吉澤じゃまぐれすらない」

中澤の言う言葉が1番妥当だった。

「松浦がおとりで紗耶香勝負かな」

保田が言う。
それでいくしかないかな、という雰囲気が固まりつつある所に中澤はめずらしく戦術的に口を挟んだ。

出雲のベンチもあわただしかった。
県内でこれだけの競った試合をするのは久しぶりのこと。
3点リードしているとは言え、ずいぶん追いこまれた空気も流れてもいる。

「九番徹底マークね。あと、入って来たら14番。多分入ってくると思うけど」

九番、市井紗耶香、14番、松浦亜弥。
スリーポイントを今日決めてきた2人にはシュートを打たせたくない。

「2点は打たせていいよ。適度のプレッシャーかけるだけで。圭織も手は出さないから。ファウルだけ気を付けて」

仕切るのは飯田。
珍しく分かり安い指示。
遠まわしに話している余裕はない。
指示を出しながら、飯田は、何かを忘れているようなそんな気がしてしかたなかった。

オフィシャルのブザーがなった。
メンバーたちがコートに戻って行く。
残り十三秒の攻防。

市井がボールを入れて福田が運ぶ。
時計が動き始めた。
市井と松浦には厳しいマークが付いている。
十秒を切る。
福田はまずハイポストのあやかにボールを入れた。
ゴール側になる背後にはディフェンスが立っているが当たりは厳しくない。
福田は左に下りていき市井のディフェンスにスクリーンをかける。
市井は福田を壁に使いディフェンスを振り切り上に上がってくる。
あやかから市井へ。
ディフェンスはスイッチ、福田に付いていたマークが市井につく。
身長差のミスマッチで頭の上は空いているが、スリーポイントは打てない。

残り7秒。
松浦はゴール下を抜けて左サイドへ。
ディフェンスをゴール下の混戦に引っ掛けて外へ。
市井からパスが入る。
フリーで受けてターンしゴールを向く。
シュートモーションに入るが、ディフェンスが横から飛び込んでくる。
一瞬動きを止めてやり過ごす。
また前が開いたが、すぐに次のディフェンスがカバーに来た。
打てない。

残り4秒。
ハイポストの保田に入れる。
飯田が付いているが、ゴールの側に立っているだけで特に対応しない。
松浦が左サイドから上に上がってきた。
それとは逆に、保田はドリブルで左ローポストのあたりまで下りて行く。
松浦はトップの位置にいる福田のマークにスクリーンをかけた。
福田は肩越しに左サイドへ下りて行く。
福田のマークは、松浦が壁になりついていけない。
スイッチするべき松浦のマークは、序盤の松浦のスリーポイントのイメージがあるので、松浦を捨てて福田につくことが出来なかった。
左コーナー、福田、ノーマーク。
保田から丁寧なバウンドパスが送られる。
飯田が壁になっている保田にひっかかりながらも、シュートを防ぎに入ろうとする。

スリーポイントラインの外側。
右足をわずかに前に出したスタンス。
両手で構え、福田はシュートを放った。
飯田が飛び込んでくるがわずかに及ばない。
そして、ゲーム終了ブザーが鳴る。
会場全体の視線を集めたボールは、美しい放物線を描いてリングを通過した。
ここで、レフリーの笛も鳴った。

「白4番、イリーガルユースオブハンズ カウント!」

シュートが打たれたのはタイムアップ前で有効。
飯田が飛び込んでいったプレイが、手を使って相手をはたいてしまうファウル。
そのファウルとシュートが同時として認定される。
スリーポイントが有効で同点に追いつき、さらに1本のフリースローが与えられた。

会場に沸きあがる歓声。
ベンチの興奮。
今日、初めて打ったスリーポイント、それをきっちりと決めた。
松浦が、保田が、福田に飛びついて行く。
自分よりも大きな2人に抱きつかれ、さらには頭までポカスカ叩かれ、それでも、珍しく福田も素直な笑顔だった。
その横で、飯田は座り込んでいる。
トップレベルのポイントガードなのは分かっていたのに、スリーポイントを打ってくる可能性が頭から抜けていた。

75−75
40分戦い切って同点。
最後のタイムアップの時点でのファウルで福田に1本のフリースローが与えられている。
こういった場合、シューターの福田以外の両チームのメンバーは全てベンチに引き上げる。
フロアにたった1人残ってフリースローを放つ。

「大丈夫」
「気楽に」
「私まだ動き足りないんだよね」

あやか、市井、保田、それぞれに福田に言葉をかけてベンチに下がって行く。
福田は、フリースローラインに立ち、ゴールを眺めた。

「肩もんであげようか」

後ろから松浦。
福田は少し苦い顔して振り返る。

「邪魔だって」
「決めたらご褒美のチュウしてあげるよ」
「別に、いらないから」

福田はゴールの方を向く。
その背中をちょっと困ったように見つめてから、松浦もベンチに下がっていった。

決めてくれ。
外してくれ。
相反する2つの想いが、それぞれのベンチから福田に飛ぶ。
自陣から遠い側のゴール。
福田明日香は1人、ゴールと向き合う。

レフリーからボールを受け取った。
リングを見上げる。
右足を半歩前に出し、いつものように2度3度両手でボールを弾ませる。
ボールをつかみ顔を上げた。
構える。
少し間をおいて、もう1度ボールを弾ませる。
小さく息を吐いて、額にボールを当てた。

決める。

ボールをもう1度弾ませて構えた。
そして、両手でシュートを放つ。
運命のフリースローは、リングの根元に当たり、小さく跳ね上がってから落ちた。

ノーゴール。

会場をため息が覆う。
決着はつかず。
2分間のインターバルを挟んで延長戦に入る。
無表情に戻った福田がベンチに戻ってきた。

「先輩においしいところを残しておくなんて、可愛いところあるじゃんか」
「別に、そんなんじゃないですよ」

吉澤の言葉に視線を合わせずに福田は冷たく答える。
ボケにまじレス。
吉澤は、居心地悪く保田の方を見る。
フリースロー、入ればいいなと思ってはいたけれど、外れて帰ってきたときになんて声をかけようか、そうずっと考えていた。
苦笑いを浮かべつつ保田は、分かってるよとばかりに吉澤の背中を軽くぽんぽんと叩いた。

「オーケーオーケー。追いついた追いついた」

市井は、福田の頭をくしゃくしゃと撫でる。
福田は答えないし抵抗もしない。
スリーポイントを決めて追いついたのも事実。
フリースローを外して勝ちきれなかったのも事実。
重みがどちらにあるかは、それぞれ感覚が違う。

「それにしても先生の作戦当たりましたねー」

最後に福田のスリー、というのは中澤の意見だった。
スリーポイントが打てるのは、2人だけやないやろ、その一言で決まった。
もっとも、そのシュートがゼロ秒ぎりぎりまで打てないとまでは考えていなかったが。

「うちをおだてても何もでえへんよ」
「またまた。それで、延長はどんな作戦で」

保田が中澤をいじる。
今までは指揮権を持っていてもなんとなくお飾り的雰囲気があった。
指示を出すにしても、保田や福田の顔を見ながら恐る恐るといったところ。
それが、これでようやく中澤も戦力になった。

「じゃあ、そうやな。向こうの4番、最後のファウルで4つやろ。だから、ここはインサイド勝負で行ったらええんとちがう?」
「そうですね。吉澤とあやかに最後位ちゃんと働いてもらいましょうか」

中澤の言葉に保田も同調する。
吉澤とあやかもうなづく。

「外は紗耶香は、打てる時に打って行く。保田もどんどん勝負しよう」

市井と保田、2人の名前まで出たところで、松浦は気づかれないように輪の後ろへ下がっていく。
中澤が語っている間中、福田はドリンクを手に片隅で汗を拭いていた。

オフィシャルのブザーが鳴った。
改めて決戦の時。
5分間の攻防。
選手たちがまたコートに上がっていく。

松江ボールでサイドからのスタート。
ボールは市井が入れて福田に預ける。
吉澤とあやかにボールを集め、次のファウルで退場となるため厳しいディフェンスの出来ない飯田の所を攻める。
この作戦が、肝心な人間の頭に入っていなかった。
福田は保田へパスを落とす。
作戦以前に、飯田のフォーファウルも頭に入っていない。
頭の中では、先ほどのフリースローの反省が続いている。
決める、と自分に言い聞かせようとした時点で平常心じゃなかった。
平常心じゃなかったことを反省している今の現状が、まさしく平常心では無い。
ボールさばきは相変わらずに見えるが、いつもの冷静さに欠けていた。

ボールを受けた保田は、1対1を試みる。
保田は40分出ずっぱりの他のメンバーとは違う。
まだ、出場時間は15分程度。
体が温まってきて動き頃。
あっさりとディフェンスを交わすと、ミドルレンジからのジャンプショットを決めた。

まだ足りない。
まだ足りない。
保田は更なる手ごたえを求める。
次のオフェンスでも決めて4点差。
そんな保田に続いたのが吉澤だった。
もし飯田からファウルをもらえれば退場させられる。
飯田が退場になれば、このゲームは実質そこで終了だ。
そんな意識が、ここへ来てようやく吉澤を積極的にさせる。
少し遠目の位置から飯田と勝負してゴールを決めた。
福田が生きたパスを出せなくなっているが、それでもそれぞれ個の力で勝負し、加点している。
優勝するのに十分なチーム力を備えていた。

出雲も反撃はするが単発に終わる。
ファウル4つ、さらには延長にまでもつれ込んだため、スタミナ面で非常に厳しくなってしまった飯田が攻守に精彩を欠いてしまっている。
残り1分を切って松江の5点リード。
とどめを刺すために保田が攻める。
中からのリターンパスを左サイドで受けた保田は、シュートフェイクを見せて右へドリブル。
疲労の色濃いディフェンスはついていけない。
インサイドから飯田がカバーにつく。
今度は、ペネトレイトで突っ込むと見せかけてロールターンする。
腰高になった飯田はファウルが怖くて手が出せない。
さらにもう1人カバーに来るが、ドリブルを止め、ステップでかわした。
1人で3人を抜き去り、ゴールに背を向けた状態でのバックシュート。
保田のとどめの一撃がリングに突き刺さった。

時計は刻まれて行く。
出雲も、飯田が意地で2本ゴールを決め3点差にまで迫るがそこまでだった。
ボールをまわして時間を稼ぐ。
最後は吉澤がジャンプシュートを決め、86−81で市立松江が勝利。
保田、市井がチームを作って3年目にして初のインターハイ出場を決めた。

試合の決着がつく時、コートには必ず2つの色が生じる。
賭けている物が大きい時ほど、その色の違いは鮮明になる。
ブザーが鳴り、疲労と徒労感で飯田はコートに座りこんだ。
うつろな目で見つめる先では、保田を取り囲む輪が出来ている。
控えのメンバーたちもコートに飛び出して来て、胴上げが始まった。

保田が中を舞う。
続いて中澤が。
さらに、恥ずかしいと逃げ回った福田も捕まり空中に投げられた。
福田も、いやがりながらも笑顔はあった。

飯田の肩が叩かれる。
振り返ると、チームメイトたちがいた。
何かを言いたそうに飯田を見つめているけれど、言葉が出てこない。
飯田は、自分で立ちあがった。

「まけちゃったね」

そう言って見つめる先では、今度は市井が抱え上げられている。
飯田たちはベンチへ戻って行った。
監督が、控えのメンバーたちが、戦い終えた選手を出迎える。
飯田は、ベンチに座ると頭からタオルをかぶった。

コートに出来た、2つの色の鮮明な違い。
その、色の違いは次に試合がある時まで消えはしない。
短いような長いような、2年半の時。
何もなかったこのチームが、ついにインターハイの切符を手にした。
飯田が、タオルを被ったまま控え室へ消えていく間、保田たちは、地方紙や専門誌の記者たちに囲まれ、写真撮影をされていた。

翌日、島根中央新報スポーツ面

創部3年目の悲願かなう

インターハイ予選、女子バスケットボール決勝は、延長までもつれ込んでの決着となった。
4年連続15回目の出場を目指す出雲南陵と、創部3年目で初出場を目指す市立松江女子の対戦。
前半は松江が1年生松浦と2年生の市井のスリーポイントでリード、しかし、後半に入り出雲の大エース飯田がインサイドで次々と加点し逆転する。ところが、最終クォーターに入り疲れの見えた飯田は、松江の吉澤、木村というセンター陣を崩せず、突き放しきれない。
3点差で終盤を迎え、残りゼロ秒、松江の1年生ガード福田のスリーポイントで追いつくと、延長では4ファウルで飯田の得点力が落ちた出雲を振り切り、創部3年目にして市立松江女子がインターハイ初出場を決めた。

中学から選手を集めたわけでもなく、コーチも素人。そんなところから始まったこのチーム。キャプテンの保田を中心に地道に練習を積み、わずか3年での悲願達成。これは、コーチまで含め、全員が成長してきたことが大きいだろう。
延長のタイムアップの笛とともに、選手たちは喜びに泣き崩れる。そんな中、1人1年生のゲームメーカー福田だけが冷静だった。試合後の彼女のコメントが印象的だ。「このチームはこんな程度じゃないです。どこが相手でも、負けないチームになれるはずです」 起死回生の同点スリーポイントを放った1年生。それでも試合後、自分のプレイとしては、その後のフリースローを外したことを「決めて当たり前のものを外して恥ずかしい」とまで言い、しきりに悔やんでいた。
インターハイ本戦までは1ヶ月。このフレッシュなチームが全国の舞台でどこまで出来るのか期待したい。

 

県大会というのは、ほとんどのチームにとっては目標となる本番の舞台。
ただ、1部のチームにとっては、通過点の調整ゲーム。
勝つことが目的ではなくて、スキルアップやレギュラー争いの実戦練習。
相手がいつもと違うのと、学校ではないところへ行くのが新鮮なのとで、少し気分が浮つくところが違うくらいだ。
富ヶ岡はそんなチームの代表のようなものである。

神奈川の県大会システムは独特だ。
強豪4チームはシード扱いでベスト8からの登場になる。
二百校以上の出場校があるのに、予選もなしでベスト8からという扱いをするのは全国でもここくらいのもの。
その準々決勝にあたる試合を勝ち抜くと、4チームでのリーグ戦となる。
準々決勝は、富ヶ岡と試合をすることを目標に頑張ってきたチーム相手に、100点ゲームで大勝する。
試合後、「記念に握手してください」「写メ撮らせてください」、という声にも2年生以上は慣れた感じで答える。
ブロック予選から通して7回勝って、ベスト8まで残って、全国ナンバーワンチームと試合をして3年間を終えるというのは、普通の学校の選手にとってはいい思い出だ。
石川たちは、そういった普通の選手から憧れ目線で見られる立場である。
本人は、点は取れたけど、マークについた相手にも同じように取られて、その上、試合の決まった後半も、他のスターティングメンバーがベンチに下がるのに、1人ずっとフロアに残されて少々不機嫌ではあったが。

翌日は決勝リーグの1日目。
100点ゲームになるのは前日と同じであるが、この日は失点が目立って多かった。
113−75
普通の試合で、女子のゲームで、75点も失点したら苦戦の類に入るし、下手をすれば負けている。
圧倒的な攻撃力があったので問題なく勝ってはいるが、先のことを考えればこの失点は問題だ。
ただ、和田コーチにはその原因ははっきりと見えていた。
見えている上で、手を施さずに放っておいた。

準々決勝が土曜日、リーグ戦初日が日曜日。
残りの2試合は、1週空いて、次の土日になる。
大会期間中でも、特に変わらず普通に練習はあった。

「また高橋の相手か石川は」

練習終わり、コートの隅でストレッチをしている柴田に、キャプテン平家呆れ顔で声をかけた。

「梨華ちゃんがあんなにお姉さんキャラになると思いませんでしたよ」
「まったく、よわっちいガキのくせに、先輩面しやがって」
「高橋がまた妹キャラだからいけないんですよ」
「あいつ、顔大人ななのにしゃべると田舎の子供になっちゃうんだよな」

実際、ちょっと前まで田舎の子供だったのだから仕方ない。
ただ、その言い様に、柴田は笑った。

「田舎の子供って・・・」
「ちょっと言いすぎかな?」
「でも、事実だしいいんじゃないですか?」

そんな会話をしながらも、2人の視線は石川と高橋へ向いている。
石川がオフェンスの1対1。
左に振っておいて、右にドリブルで突っ込む。
ついてきたところをターンしてそのままジャンプ。
高橋は、横の動きにはついていけたが、飛ばれてしまえばそこまで。
石川のジャンプシュートが決まった。

「田舎の子供、うまくなったよな」
「なかなか抜かれなくなりましたもんね」
「あれだけやってれば慣れるわな、さすがに」

飛べば高さでフリー。
という形で石川がジャンプシュートを決めたが、普通のレベルならその前に抜き去られている。

「柴田、あれ出来る?」
「あれって?」
「突破しようとして、前押さえられたらそのままターンしてジャンプシュート」
「そりゃ出来ますよ。梨華ちゃんほどのスピードは無いですけど」
「ちょっとやってみてよ」
「いいですけど」

平家がポンとボールを柴田に送った。
真意がいまいち分からない。
柴田にボールを持たせ平家がディフェンスする。

「1対1やるんですか?」
「ちょっと気分転換にね」
「はぁ・・・」

柴田と平家ではポジションがあわない。
柴田はわりとどこでも出来るので、平家にあわせてセンター的なプレイで1対1をしてもいいのだが、リクエストは石川的プレイらしい。
やれば出来るけど、平家さんなにがしたいんだ? と柴田はいまいち腑に落ちず。

リクエストなのでやってみた。
左にワンフェイク入れて右にドリブルで突っ込む。
平家はそれについてきたので柴田はターン。
そのままジャンプシュート。
このターンのタイミングに平家はついていけずに柴田がフリーでジャンプシュートを決めた。

「さすがに速いね」
「そうでもないですよ」
「ちょっとフリーで何本か相手してよ」
「平家さん、柴田のポジションでも取るつもりですか?」
「そんなんじゃないから。遊びよ遊び」

なんなんだろう、と思いながら柴田は平家の相手をした。
さすがにゴールから離れた位置からの1対1なら、ボールさばきで大体勝てる。
だけど、何度も繰り返すうちに平家も動きに対応出来るようになり、最後の方は何本かしっかりと止められたりもした。

何本か止めて、それなりに満足したのか平家が切り上げようと言い出す。
平家が先輩、柴田が後輩。
止められた後のタイミングでそんなこと言われても、ちょっと不満は不満なのだが、先輩の言う事に従わざるを得ない。
高橋と石川はまだ続けてるなあ、というのを見つつも、先に体育館から引き上げた。

「1人暮らしはどーですか?」

練習終了後、体育館前にぼんやり座る姿。
かばんを抱えて誰かを待っている風の小川に、柴田が声をかけた。

「あ、柴田さんお疲れ様です」
「お疲れ様」

柴田も制服姿で小川の隣に座る。

「で、どーなのよ?」
「あー、たのしくやってますよー」

ぼんやりした答え。
柴田が黙って小川の方を見ると、小川は続けた。

「最近、晩御飯ちゃんと作るようになったんですよー。高橋さんと一緒に」
「なんか、すごいものが出来そうだよね」
「失礼な。そんなことないですよー、たまにしか」
「たまにはあるんだ」
「あはは」

笑ってごまかす。
柴田もつられて微笑む。

「でも、楽しいですよ。うまくいってもいかなくても」
「どっちが料理は上手?」
「うーん、どっちだろう」

ぼんやりと、深刻にではなく考える。

「それで、高橋待ってるんだ?」
「あー、そうなんですよー。最近、いっつも石川先輩と残って練習してて、私待たされて」
「自分も練習すればいいじゃない」
「そうなんですけどー」

柴田の正論。
先輩にそんな風に言われると、さっさと練習切り上げたのがちょっとばつが悪くなる。

「1度、小川にちゃんと聞いてみたかったんだよね」
「何ですか、急に」

小川麻琴、警戒の姿勢。
柴田はじっと小川と視線を合わせて続けた。

「入ってきた最初のときさあ、覚えてる? 自己紹介」
「あー、覚えてるような覚えてないような・・・」
「柴田さんにあこがれてます、って言ったよね」
「そんなこと言ったような言わないような」

曖昧な笑みを浮かべて、小川が視線をそらす。
柴田のほうは視線をそらさずに、小川の方を見つめたまま続けた。

「あれ、本当なの?」
「いや、本当って言うか、あの」
「本当なの!」
「ごめんなさい。思いつきで言いました」

小川はそう答えて頭を両手で抱える。
隣で柴田はため息をついた。

「なんか、おかしいとは思ったんだよねー。誰かにあこがれられるとか慣れてないからさあ、どんなもんなのかわかんなかったけど、明らかに小川の私に対する態度って、高橋の梨華ちゃんに取る態度なんかと違うし」

小川はなにも答えない。
何も言えない。

「高橋が梨華ちゃんに憧れてます、って言ったから、それで、なんか、対抗するために無理やり私の名前出したでしょ?」
「あ、いや、その、あの。負けちゃいけないと思って・・・」

柴田がため息をつく。
予想はしていたけれど、ちょっと哀しい答え。

「そんなとこで張り合ってどうするのよ。でも、入ってきたとき、小川と高橋って、すごいライバル感ばちばちだったよね」
「先生に聞いてたんですよ。私のほかにもう1人地方からきた子が入るって。それで、あ、この子かと思ったら、なんかなんでも負けちゃいけないと思って」
「だからって、私の名前なんか出さなくてもいいのに」
「他に知ってる人いなかったから」
「消去法かよ!」
「いや、だって、あの。でも、知ってるってことは、すごいじゃないですか。柴田さんのことは、入る前からちゃんと知ってたってことじゃないですか」
「まあ、そうか」

ちょっと柴田も納得する。
顔を上げると、遠くの空には満月。
もう、すっかり外は暗くなっている。
2人はぼんやりと座っていた。

「麻琴! ごめん。着替えてくるから待ってて」

背中から声がかかる。
振り向くと、体育館から出てきた高橋だった。
後ろには石川もいる。

「練習あがり?」
「うん。柴ちゃんはやかったねえ、今日は上がるの」
「なんとなくね」

石川も、柴田のほうに軽く手を上げて部室に向かった。

「小川もすっかり高橋と仲良くなったね」
「いつの間にかでした」
「いつの間にか、か」

本人たちは知らない。
石川を中心に2年生がした高橋と小川へのいたずら。
そんなきっかけがあったことは、2人は知らない。

石川と高橋が去って、体育館からは物音が消えた。
夏の近づいた夜。
ぼんやりと体育館前の階段に座り込む。
たまに吹き抜ける風が心地いい。
部室から、靴を突っかけながら出てくる高橋の姿が見える。
小川も、立ち上がった。

「小川」

まだ座ったままの柴田が声をかける。
小川は、柴田の方を向いた。

「ぼやっとしてると、高橋においていかれるぞ」
「はい」

そう答えて、小川は高橋のほうへ駆けて行った。

「わかってるのかなあ、あの子」

1人になって、柴田はそうつぶやく。
視線の先には、部室から出てくる石川がいる。

「誰か、本気で憧れてくれないかなあ・・・」
「なにぶつぶつ言ってるの?」

柴田の独り言。
近づいてきた石川には、言葉までは聞き取れない。

「ぼやぼやしてると置いてくよ」

そう言われて、柴田は思わず石川の左腕をつかむ。
石川は、きょとんとした顔。
柴田は、そんな石川と目が合って、思わずとった自分の行動が恥ずかしくなり、うつむいて少し笑った。

「どうしたの? 急に」
「いいの。帰ろう」

柴田が先に立って歩く。
石川も慌てて後を追いかけた。

決勝リーグ2戦目、土曜日の試合も順当に勝った。
93−57
ここ2試合よりは得点力が落ちたが、それは控えメンバーに代わる時間が早かったためで仕方ない。
平家などは、前半の途中からベンチに座っていた。

最終日の3戦目。
リーグ戦2勝同士の対戦。
神奈川はインターハイの出場枠は2チームあるので、勝っても負けても出られるし、もはや消化試合なのではあるが、自分たち以外では1番強い相手なので、1番緊張感を持って楽しめる相手ではある。

「ディフェンス意識してな。合わせで崩されたら仕方ないけど、単純な1対1でやられるなよ」

全体への指示。
だけど、顔は石川を向いている。
2年生になってスタメン定着し始めてからの課題、ディフェンス。
点だけ取っていれば許された1年生の頃とは違う。

「高橋、ゲームメイクは好きにしていいから。熱くなりすぎるなよ」
「はい」

ある意味1番の不安要素だったりする。
力量があっても、精神面でむらがあると、監督コーチとしては怖いものである。

試合は、意外と苦戦した。
出場枠が2つあるという事は、2番手のチームもインターハイクラスのチームであるということ。
そうなると、頼れるエースの1人や2人ちゃんといるのだ。
そのエースにつくマッチアップに、ディフェンスの苦手なタイプが当たってしまったりすると、そこから失点しててこずることになる。
体格で石川に勝る相手エースは、ハイポストあるいはローポストで石川を背負う形でボールを受けて、そのまま押し込んでゴール下でシュートを決める、というパターンで得点を伸ばして行く。
36−24と、まだ勝負にはなっているというような点差で前半を終える。

ハーフタイムのミーティング。
うろたえたりはしないが、和田コーチは、このレベルの試合ではめずらしく試合に勝つことを意識しての指示を出した。

「3クォーター勝負ね。うっとうしいから試合決めてきて」
「はい」
「前から当たって、集中力切らさないように。キャッチアップ早くな。シュート決めたらすぐピックアップしろよ。それで石川と平家は戻る。ロングパス通ったらおまえらのせいだからな」
「はい」

まだ12点差。
主力を下げるには少し怖いし、実習にはちょうどいい点差でもある。
後半も、スタートと同じメンバーで入った。

マイボールで始まる。
外で回して、動きの中でフリーになった石川に送り、切れ込むとカバーが来たので、空いた平家に渡しゴール下のシュートを決めた。

「当たれ!」

全国ナンバーワンチームが、県大会レベルでプレスディフェンスを敷く。
ある意味大人気ない。
高橋、小川、柴田。
前3人のディフェンスは強力だ。
前半はノーマルのハーフコートディフェンスだったのに、突然こんなのに前から当たられたら、ガード陣はパニックに陥る。
ボールを入れられずに、どうしようもなくロングパスを入れようとすると、石川にさらわれた。
こういった形でボールを奪うと、ディフェンスがセットされていないので点も取りやすい。
3本続けて似た形でボールを奪い、18点差まで離した所で相手タイムアウトが取られる。

タイムアウトでプレス対策を落ち着いて取っては来るが、自分たちより強い相手に一気に点差を開かれると、その精神的ダメージは対等な相手のときよりも大きい。
ボールが運べても、その先の攻撃力が落ちて点が入らなくなる。
3クォーターだけで一気に30点近い差を広げる。

最終クォーターに入り、主力を下げたあたりで、また互角の展開に。
石川がゴール下で押し込まれてどうにも押さえきれない。
なんで私だけずっと出されるんだろう、という疑問も頭を悩ませフラストレーションがたまる。
それでも、ここまでの貯金が効いて、最終的には二十八点差をつけて勝利した。
決勝リーグ3戦全勝での優勝。
二十八年連続二十八回目のインターハイ出場、ということになる。
地方ローカル神奈川テレビのインタビューを監督とキャプテンと受け、なんとなく胴上げとかしてみるけれど、このチームにとっては年中行事の1こま、といったところ。
涙して喜んだりとか、そんなことはない。
家に帰ってからの食事が、ちょっといつもよりはおいしく感じられるとか、その程度のものだった。

翌日、余韻も何も無く、達成感なんてものも当然無く、いつもどおりの通常練習。
それがこのチームの当たり前。
試合直後で疲労がたまってとか、そんな配慮などありえない。
走る練習をこなし、組み立ての練習をこなし、5対5をやって、ゲーム練もやる。
普段の流れで全体練習が終わると、普段の流れのままに石川は高橋の相手をしはじめた。

「あいつ、自分が置かれた状況全然わかって無いのか?」

コートの隅で平家が柴田に問いかける。
柴田は、なんと答えていいのか分からない。

「昨日の反省があるなら、やるべきことは違うはずなんだけどな」

そういう意味か、と理解する。
理解はしたけど、やっぱり答えは返さなかった。

平家はフロアに座り込みストレッチをしている。
じっくりゆっくりストレッチ。
視線は石川と高橋に向けたまま。
柴田は、なんとなく離れて行ってはいけなさそうな雰囲気を感じて、隣りに座ってストレッチを始めた。

石川と高橋は、最初は2人で交互にスリーポイントを打っていたけれど、しばらくすると1対1をはじめた。
石川がボールを持つオフェンス。
どちらが楽しいかと言えば、オフェンス側が楽しいと感じる量が多いので、先輩がオフェンス役をやるパターンが多い。
しばらく1対1が続いて、2人の息が切れてきた頃を見計らって平家が立ち上がり2人に歩み寄っていった。

「高橋」
「はい」
「石川借りていい?」
「ええですけど・・・」

平家に答えながら高橋は視線を石川に向ける。
貸すとか借りるとか、自分が決めることじゃないようなという疑問の視線。

「なんですか?」

小首をひねって石川。
自分に声をかけてくるのは割と珍しいので、単純に驚きの感覚が強い。

「なんか勘違いしてるみたいだから体で分からせてあげようと思って」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味」

口には出さないが、顔には出して石川はちょっとむっとする。
勘違い、言われて不愉快にならないはずも無い。

「柴田!」
「あ、はい」
「その辺からパス入れて」

突然巻き込まれ柴田も立ち上がる。
その辺、と平家が手で示したあたりでボールを受け取った。

「なにするんですか?」
「お前が高橋としてたのと同じことだよ」

要するに1対1をやろうということらしい。
石川のほうも、なんだか知らないけどやってやろうじゃないの、くらいの気にはなった。

まずは平家がオフェンスでの1対1。
ローポストで石川を背負った形で柴田からのボールを受ける。
あとは簡単。
背中に圧力をかけてじりじりと押し込んで、ターンしたらゴール下。
簡単にジャンプシュートを決めた。

「いてもいなくてもかわらないな、そのディフェンスじゃ」

冷たく平家が言い放つ。
石川は、きつい目で平家を見た。
攻守交替。
今度は石川がオフェンス。
ディフェンスは苦手だけど、オフェンスは得意。
ボールさえ持てば負けるとは思っていない。

右サイド石川は外に開く。
ボールを受ける前から当たってくるかな? と思ったけれど、平家は少し離れてついたので余裕を持ってボールを受けられた。
スリーポイントが打てるシチュエーションではあるけれど、石川としては絶対に抜き去ってやると思っているのでその選択肢は無い。
左にワンフェイク振って、右にドリブルで突っ込んで行く。
平家はきっちりついていきぬかせない。
ゴールに近い位置まで来て、石川は左にバックターンした。
トップスピードからの急激な方向転換だけど、平家はしっかりと反応する。
石川はそのままジャンプシュートを放った。
しかし、ほんの一瞬後から飛んだ平家のブロックショットにボールは弾き飛ばされた。

飛ばされたボールは転々とし、柴田の足元へ。
そっとしゃがんで拾い上げる。
石川は、弾き飛ばされてボールを見ていたが、ふと平家の方に目を向けて、視線が合うとすぐにそらした。

「飛べばフリーなんて甘い考えは、自分より小さい相手にしか通用しないんだよ」

不機嫌そうな平家の声。
そういわれて石川は、チラッと高橋の方を見てうつむいた。
離れたところにいる高橋は、心配そうに高橋と平家と、さらに柴田も交互に見つめていた。

「2年生になって後輩が出来て、「石川さんに憧れてます」とかなんとか言われていい気になってるから、こんなことになるんだよ。昨日、なんで前半苦戦したか分かってるのか?」

先輩風吹かせたがりの石川に、本物の先輩風を平家が吹かしている。
梨華ちゃん相当へこむだろうな、と柴田は冷静に思っていた。

「どっかのバカが、ディフェンスで役に立たなくてゴール下でやられまくったからだろ。仕方ないから3クォーターに前から当たって、そこまでボールまわらないようにして試合終わらせたけど。ったく、おまえは反省するとか、そういう感覚は無いのかよ」

何も答えを返さない石川に、平家は苛立ちを隠さない。
頭に来ても悔しくても、自分よりも強い立場の人に、内容が正しいと思えることを言われてしまうと、石川は何も言い返せなかった。

「自分より小さい相手のマークにつくことが試合であるか? 弱い相手ならあるだろうけど。高橋の相手してて、石川になにが身につくんだよ」

ディフェンスうまくなったもん。
早い動きの子にも抜かれないで止められるときがあるようになったもん。
そう、思っていても、口に出す勇気なんかない。

「高橋の相手するのが悪いとは言わない。だけど、自分もただのへたくそだっていうのを忘れんじゃないよ」

そこまで言って、平家は石川に一瞥くれて去っていく。
柴田の方に左手を伸ばし、パスを受け取った。
高橋が石川のところへ駆け寄って行く。
梨華ちゃんに向かってただのへたくそなんて言えるのは、平家さんだけだな、と柴田は思っていた。

「すいません、なんかあたしのせいで」
「高橋の問題じゃないよ」
「でも」
「梨華ちゃん、今日は帰ろ」

高橋の呼びかけにも柴田の対応にも、石川は言葉も無い。
柴田は、石川の背中を押して無理やり歩かせる。
高橋のことは追い払った。
後輩の前ではいい格好したい石川だから、へこんでいる姿は見せないですませてあげたい、と思って追い払った。

夜九時近い。
学校から帰る時間としては、普通の高校生よりはかなり遅いが、予備校通いの生徒と比べれば、まあ標準的。
そんな時間帯。そんな町の空気。
アップルジュースとオレンジジュースに、2人で1つのポテトS
2人で三百円で済むメニューを乗せたトレイを抱えて、2人で駅前で寄り道してみた。

「なによ! ただのへたくそって! もう!」

いまさらながらに怒り心頭な様子をたたえながら手はポテトに伸びる。
体育館を出て、シャワーを浴びて、着替えて、駅までの道を歩く。
徐々に凹みから凸みに変化してきて、しゃべりだしたら収まらなくなってきて、電車に乗る気になれなくて店に入った。
なんとなく、こうなるんだろうな、と柴田は思っていた。

「私だって考えてるわよちゃんと。ディフェンス下手な自覚があるから、高橋みたいなちゃんとドリブルの技術はあるけど、頑張れば手に負えそうな子の相手して、一緒に上手になろうと思ってるんじゃない」
「でも、実際、梨華ちゃん、高橋みたいな小さいののマークにはつかないよね」
「だから、順序があるんだって!」
「どんな?」
「もう、柴ちゃんのイジワル」

ある程度慰めようという方向で接するはずだったのだけど、意外に回復が早いのであしらいが冷たくなってしまった。
順序とか、石川の頭の中にあったわけ無いのだ。

「昨日のは悪かったと思ってるわよ」
「ちょっとやられすぎたよね」
「平家さん、さっきのオフェンス、昨日やられた形と同じだったのはわざとかなあ?」

そんなの聞くまでも無いだろ、と思ったけど、そうは答えずにポテトに手を伸ばす。

「分かってるんだけどさ、私だって。ディフェンスはちゃんとしなきゃいけないって。でもね、昨日はあんなだったけど、おとといとか、ちゃんと抑えたでしょ。それを分かって欲しいなって思うの」

昨日は、相手のエースがたまたま石川がマークにつく相手で、それがたまたま自分より背が高くて、たまたまインサイドでセンターっぽいプレイをする相手だったから止められなかった。
一昨日は、自分より小さな相手が外から勝負しようとするタイプで、高橋よりもレベルが落ちるので止められた。
そう言いたいらしい。

「だから、梨華ちゃんに必要なのはそこじゃないって平家さんは言いたかったんでしょ」
「そこって?」
「小さい相手を止めても意味無いって」
「意味無くは無いでしょ」
「無くは無いけど、あんまりないって」
「うーん・・・」

自分が、出来るようにならなきゃいけないと思っていることを、出来なくてもいいと主張して論破して行くことはなかなか難しい。
どうしたらいいんだろう、という答えは見つからなくて、思考を違う方向に向けて少し逃げてみた。

「でもね、私としては、平家さんに止められたことの方がショックなのよ」
「そうだよねー・・・」
「ポストから背負われて簡単にシュート決められたのはしょうがないけど、自分より大きい人をぬき去れなかったのはショックだよー・・・」

飛べばフリーという考えは甘い、と言っていたけれど、身長もあって、梨華ちゃんのスピードにもついていけるなんて普通いないよ、と柴田は聞きながら思っていた。
図に乗るから石川には言わないけれど。

「あー、もう、明日、高橋の顔見れない」
「なんで?」
「だって、あんな恥ずかしい。先輩に叱られるとこなんか見せて」
「気にしすぎだって。怒られることくらいあるでしょ」
「でもさー。なんか高橋には見せたくないの」
「梨華ちゃんは高橋の憧れの先輩だもんね。あ・こ・が・れ・の!」
「なんで柴ちゃんが怒ってるの?」
「知りません!」

柴田は、ポテトSの最後の3本をいっぺんに口に運んだ。

「あ、ずるい!」
「ずるくないの!」
「3本いっぺんに取るのずるい!」
「いいの。帰るよ!」

最後は、石川より柴田の方がなんだか怒っていた。
ちょっと、キーワードに自分で触れてしまったらしい。
なんだかんだで騒がしく2人は帰って行く。
まあ、梨華ちゃんあっさり元気になったからいいか、と1人になってからの電車の中で柴田は思っていた。

 

インターハイが始まろうとしているちょうどその頃。
インターハイに出ないチームも時が止まっているわけではない。
ただ、動かせないときの中に立ち止まっているチームもある。

夏休みに入り、普段の年ならインターハイに向けてチームを固めて行く時期。
それが、今年はその必要も無い。
滝川のメンバーたちにとっては、目の前に目標が見えにくい形になっている。

キャプテンも欠けたチームは、副として梓が一応仕切っていた。
ただ、やっていることは、キャプテン、というよりも、号令係、というレベルのもの。
チームを引っ張る存在にはなっていない。
安倍は、事故の後、札幌の病院に転院していた。

寮と体育館の往復の日々。
目標も活気もない練習は、ただのルーティンワークになっている。
日課だから練習をする。
特に、目的は無い。
ただ、それぞれに思うところはあった。
こんなチームを見たら、きっと尋美は悲しむ。
そう、個人個人が思うことと、練習に活気が戻ってくることは一致はしない。

そんなある日のことだった。

「今日限りで、監督を退任することになりました」

練習の最後に、唐突に監督が言いだした。
メンバーたちは、それほど驚きと言うのはなかった。
ただ、困惑の色は浮かべている。

「申し訳ない。こんな形になって申し訳ないけれど、君たちには頑張って欲しいと思う」
「なんで先生が辞めなきゃいけないんですか」

詰問調の藤本の声。
部員の寮生が自転車で2人乗りしていて、コンビニに向かっていてトラックに轢かれた。
監督不行き届きを責められているという話は、うわさでメンバーたちには届いていた。

「仕方ないんだ。申し訳ないと思っている」
「関係ないじゃないですか! 先生は」
「申し訳ない」
「逃げないでくださいよ! ゲーム中に逃げるな!ってよく言ってたじゃないですか!」
「仕方ないんだ。監督不行き届きなのも事実だから」

誰かに責められたから苦しいんじゃない。
生徒が死んだ理由が、もしかしたら確かに自分にもあったのかもしれないと考えることがつらい。
公式には辞任、だけど、中身として本人の意思なのか、周りからの弾劾のせいなのか、よく分からない形で監督はチームを去っていった。
後任は決まっていない。

3年生が集まって今後のことを検討する。
とりあえず、このまま続けていってもどうにもならないということで、2日間練習を休むことにした。

翌日、寮で穏やかに過ごすもの、駅近くの繁華街と呼ぶにはやや微妙な規模の町へ出てぶらぶら過ごすもの、人それぞれさまざま。
そんな中で、りんねは麻美を連れて、安倍の病室を訪れた。

「美貴・・・」

病室には、藤本がいた。
ベッドにこもったままの安倍を藤本は見下ろしている。

「なつみさん! そんなこと言わないでください! 帰ってきてくださいよ!」

りんねが入ってきたことにも気づかずに、藤本は叫んでいた。
なつみに向かって、感情をぶつけていた。

「ごめん、もう無理」

安倍は布団を頭からかぶる。
藤本は、納まらなかった。

「なんで! なんでそういうこと言うんですか! なつみさんは、なつみさんは! 生きてるんですよ!」

布団を剥ぎ取ろうとする。
安倍は、布団に包まったまま、じっと耐えていた。
入り口に立っていたりんねが、藤本に歩み寄り、その手を止めた。

「何やってるの! 怪我人に向かって」
「なつみさんのばか!」
「ちょっと、美貴!」

藤本は、りんねの咎める声も無視して、出て行った。

「何があったのよ」

りんねの問いかけに安倍から答えは帰ってこない。
布団に包まって、鼻をすする音が聞こえてくる。

安倍なつみは生きている。
この病院で、このベッドの上で。
だけど、重傷だった。
はねられた衝撃、それも、自転車ごとはねられた衝撃で、両足を複雑骨折している。
しばらくは車椅子生活。
リハビリをすれば歩けるようにはきっとなるだろう。
だけど、どこまで走れるようになるかは、それはわからない。
その事実は、本人も、仲間たちも聞かされて知っていた。

「なつみの好きなね、ロールキャベツ作ってきたんだよ。あんまり上手じゃないけどね」

おだやかなりんねの声。
顔を見せない安倍に語りかける。
かばんからトレイを取り出すと、テーブルに置いた。

「うん、まあまあいけるかな。なつみも食べようよ」

箸でつまんで1口食べる。
初めて作ったけれど、それなりには食べられる味。
おだやかに安倍に語りかけるけど、返ってくるのは冷たい言葉だった。

「帰って」
「なつみ」
「帰ってよ!」

布団に包まったままの安倍。
くぐもった声がりんねに響く。

「なつみ、顔見せてよ」
「なちねえ!」
「帰ってよ! お願い、帰って!」

枕が飛んできた。
りんねはそれを受け止める。
安倍は、一瞬だけ顔を見せたが、また布団に包まった。
鼻をすする音が聞こえてきた。

「ごめん。また来るね」

枕をベッドの隅に置き、りんねは部屋を出た。

藤本は病院の待合室に座って待っていた。

「どうでした?」

藤本の問いかけに、りんねは首を横に振って答える。
麻美は、りんねの後ろでうつむいていた。
3人で病院を出た。

札幌から、滝川の寮までは2時間近くかかる。
正午過ぎのこの時間、3人はお昼ご飯を札幌で食べていくことにした。
めったにない、町での食事。
普段の彼女たちなら、店を選ぶだけで一仕事、なところだけど、今日はそんな気分ではない。
目に付いたファミレスに入る。
適当に注文も済ませた。

「何、もめてたの? さっき」

りんねから切り出す。
視線を落とした藤本。
目の前のコップの辺りを見たまま語りだす。

「早く、早く、戻ってきてくださいよ、って言ったんです」

ぽつりぽつり。
いつも威勢のいい藤本が、力なく発する言葉。
りんねは黙って聞いている。

「そしたら、無理だって言われて。でも、リハビリ頑張ればすぐですよ、って私が気楽に言ったんです。そしたら、ばちが当たったから足は2度と動かないって言い出して、私は、そんなことない、よくなるって言って、そしたら、足は動いちゃいけないんだって。自転車運転してて、ひろみさんを殺しちゃったのは自分だからって」

りんねもうつむく。
事故の現場には3人いた。
逝ってしまったひろみ、体は無傷だった梓、そして、安倍。
生き残ったものは、みな自分を責めている。

「私は、元気になって、ひろみさんの分までバスケ頑張ってくださいよって言ったんです。そしたら、そんなこと出来ないって。バスケなんかしちゃいけないって。私は、ひろみさんはそんなこと望んで無いですよって言ったら、そしたら、なつみさん、なつみさん、自分が死ねばよかったって。運転してた自分が死ねばよかったんだって。それで、それで」
「もういいよ。わかったから」

藤本は顔を覆う。
言葉をつなぎながら顔を覆う。
りんねは、それ以上言葉をつなぐのを押しとどめた。

高校1年生、高校2年生、高校3年生。
3人の女の子がファミレスで座っている。
携帯をいじるでもなく、雑誌を広げるでもなく、テーブルには水の入ったコップが3つあるだけで、3人は黙って座っている。 
向かい合ってうつむいて、会話が無い。
そんなところに、注文した料理が運ばれてくる。
3人は、無言で料理を口にした。
何もしゃべることなく、料理を口にした。

店員が皿を下げて、またテーブルには水の入ったコップだけが残る。
ぼんやりと座っている3人。
藤本がポツリとつぶやいた。

「私たち、どうなるんでしょう・・・」

先輩が死んだ。
キャプテンはベッドの上で壊れている。
インターハイ予選では簡単に負け。
監督はいなくなった。
バスケどころの状態じゃない。
どこに向かっていいのかわからない。

「かえろっか」

藤本のつぶやきには答えず、りんねは席を立った。

3人が寮まで戻ると、そこではまた騒ぎが起こっていた。
玄関には、かばんを抱えた梓と、それを引きとめようとするメンバーたち。
特に、梓になついていた2年生のあさみが必死に止めている。

「りんねさん! 梓さんを止めてください」
「どうしたの?」
「やめるって。バスケやめるって。学校もやめるから出てくって」

輪の中心で、梓がうなだれている。
メンバーたちはりんねを見ていた。
3年生が、何とか引き止めてくれることを期待していた。

「どうしたの? 急になんで?」
「ごめん。もう無理、ここにいるのは」
「なんで?」
「眠れないんだ。毎晩、ひろみの声がする。痛い、助けてって。何もして上げられない。ここにいると、ひろみのことが頭から離れない。もうだめなんだ。あの時、助けて上げられなかった私が確かに悪いと思う。だけど、だめなんだ。苦しいんだよ。ごめん。もう解放して。お願い」

何も言えなかった。
通夜の晩、自分の腕の中で震えていた姿をりんねは思い出す。
梓の前に、ただ、りんねはたちつくす。

「ごめん。さよなら」

小さなかばんを1つ抱え、ほとんど着の身着のまま、梓が出て行った。
走って去っていく梓を、誰も引き止められなかった。
その背中を見つめることしか出来ない。
その背中を遠くに見ながら、りんねは肩を震わせた。
肩を震わせ、声を上げて涙を流した。
誰も、声をかけられなかった。

りんねは、そのまま部屋に閉じこもった。
夕食も口にせず、部屋にこもる。
2人部屋、そこに暮らすのはりんねともう1人、ひろみ。
ひろみの暮らしの跡は、あの頃と何もかわらずそのままに残されている。
電気もつけず、ベッドの上でひざを抱えぼんやりとしていた。
夜、暗い部屋、外から虫の声が聞こえる。
短い命の虫の声が聞こえる。

ノックがあった。
りんねは答えない。
何も答えない。
ひざを抱え、じっと座っている。
ドアが開き、廊下の光が差し込んでくる。
入ってきたのは2年生のあさみだった。

部屋の電気をつける。
りんねは、何も反応しなかった。
あさみの方を見るでもない。
ベッドにぼんやりと座る。
あさみも、りんねに声をかけず、椅子に座った。

虫の声が聞こえる。
部屋に電気が点いても、外の様子は変わらない。
明かりは点いたけれど静かなままの部屋。
2人は口を開かない。

どれくらいの時が経ったのだろうか。
りんねが顔を上げた。
ぼんやりと座っているあさみの方を見る。
視線がぶつかった。

「どこにも行かないでください」

視線がぶつかって、口を開いたのはあさみだった。

「りんねさんは、りんねさんだけは、卒業するまでどこにも行かないでください」

視線をはずし、りんねはまたうつむく。
ひざを抱え、うずくまる。

亡くなったひろみと1番仲が良かったのはりんねだった。
寮生活は、ほとんど生徒たちだけでなんでもこなす。
1年生は、炊事も洗濯も、当番制で回ってくる。 
同室のりんねとひろみは、いつも一緒だった。
1年後、後輩が入ってくる。
1人1人に、指導役の先輩がつく。
あさみの指導役はりんねだった。
そんな関係もあり、あさみはよくこの部屋で過ごしていた。
ひろみとりんねとあさみと。
藤本や里田という目立つ同学年に挟まれて、少しおとなしいあさみは1歩引いた位置にいる。
もっと前に出ろ、なんて、りんねにしかられ、もっと積極的にアピールしなさいってひろみにしかられ。
そんなひろみが、亡くなった。
逝ってしまった。

「あの、おやすみなさい」

それ以上、言葉を続けられなくて、あさみは出て行った。
明かりはつけたまま。
りんねは、あさみの背中を見送る。
扉が閉められると、りんねはベッドに仰向けになった。

「みんな・・・」

ひとことつぶやく。
その夜は、眠れなかった。

翌朝。
いつも起きる時間に、きちんと部屋を出た。
朝食をとりに食堂へ。

「おはよう」

普通の朝の挨拶。
普通の朝の挨拶を交わす。
眠い目をこすっているあさみもいる。

「おはよう」
「おはおうございます」

いつもの朝だった。

今日までは練習は休みにしている。
1日全部自由時間。
りんねは、梓の部屋へと入っていった。
この部屋も、今はあるじがいない。
元々は安倍と梓の2人部屋。
安倍がキャプテン部屋に移ってからは梓が1人で暮らしていた。
りんねは、残されている荷物をまとめる。
出て行った梓。
呼び戻したいけれど、それが出来る自信は無い。
それに、余計に苦しませてしまうような気もする。
後で手紙を添えて、残っていた荷物を送ってやることにした。

それから、キャプテン部屋へ。
入院している安倍。
事故からずいぶん日がたった。
必要なものは当然家族が用意している。
だけど、親には分からない、心の癒やしになるようなものは、全部ここにある。
それらをまとめて、送ってやろうと思う。
安倍の入院は、前日の面会の様子だと、怪我とそれ以外との理由で、まだまだ長引きそうだった。

そして、その安倍の荷物から、1つ、りんねは自分のポケットに入れて部屋を出た。

寮の玄関、りんねが靴を履いているとあさみが顔をのぞかせた。

「どこ行くんですか?」
「ちょっと」
「どこいくんですか?」

答えるまで放しません、そんな顔。
荷物も持っていないりんね。
出て行くはずも無いけれど、不安にならないはずも無い。

「お昼までには戻るよ」
「どこ行くんですか? 私も行きます」
「ごめん。1人で行かせて」

目線をあわす。
そらさない。
やんわりとではなく、はっきりと断った。

「お昼も食べるから」
「はい、分かりました」

あさみも、納得して引き下がった。

りんねは自転車に乗って出かける。
町へ。
町まで出かけて花を買う。
花束を買った。
自転車でまた戻る。
あるところで、自転車を止めた。
事故の現場だった。

別に喪服なんか着ていない。
ジーンズにパーカー。
ラフな格好。
それでも、夏の北海道の風が吹き抜ける道に、花束を抱えて立つりんねの姿は荘厳だった。

「ひろみ。」

花束を置く。
事故の痕跡に残るのは、そこに置かれた花束の類。
それが無ければ、ここはただの一本道。

「みんな、ばらばらになっちゃったよ」

置いた花束の前に座り込む。
位牌があるわけでも無い、墓があるわけでもない。
だけど、ここで語れば何かが届くような、そんな気がしてる。
そんな道の片隅で、りんねはポケットからリストバンドを取り出した。

「ひろみ」

左の腕に黒いリストバンドをつける。
安倍の机から取り出した。
試合のときにキャプテンがつける。
代々伝わってきたキャプテンの証。

「私なんかに、こんな役目出来るかわかんないけどさ。もう、他にいないんだ。だから、ひろみ、助けて」

答えは返ってこない。
だけど、決意は誓った。
草原の風が、2人の間を吹きぬける。
りんねは、髪をそよめかせながら立ち上がった。
左腕のリストバンド、道に置かれた花束、交互に見つめる。
ひろみの顔が見えた。
そんな気がした。

寮には、あさみとの約束どおりお昼ご飯前に戻る。
残っていたメンバーとお昼を済ませてから、りんねは3年生の部屋を1つ1つ回っていった。
午後、そして夕食後までかけて、全員と話をする。
自分1人で勝手に決められることでもない。
自分の思い、これからのこと、メンバーたちに気持ちを伝え、了承を得る。
みんな、りんねに任せると言ってくれた。
自分で思っているよりも、りんねは周りから信頼されていた。

翌日、寮生全員がそろっている朝食後、りんねが前に立って呼びかけた。

「みんな聞いて」

今まで、3年生の中では決して目立つとはいえない位置にいたりんね。
そんな彼女の呼びかけ。
全員の視線がりんねに集まる。

「なつみは、安倍キャプテンは、もうしばらく入院が必要です。復帰がいつになるかは、はっきり言って分かりません」

誰もがある程度知っていること。
知っているけれど、公のような場所では話題にしてこなかったこと。

「今、このチームは、誰かが引っ張っていかないといけないと思う。そうしないと、壊れてしまうんじゃないかと思う。だけど、引っ張るべき位置にあるキャプテンがいません。キャプテンはまだしばらく戻って来れない」

それぞれにうなづいている。
壊れそうな、少しづつ壊れ始めた、大事なものを失ったチーム。
このままじゃいけないんじゃないか、誰もが持っている思い。

「キャプテンが戻ってくるまでの間、私がこのチームを引っ張ります」

右手で、黒のリストバンドを皆に見せる。
それから、左手にそのリストバンドをつけ、こぶしを握り、高く掲げた。

「不満のある人がいれば、今なら聴きます。私がキャプテン代理になることに不満のある人、いる?」

答えは返ってこない。
それぞれが互いを見ているけれど、不満の声は上がってこない。
全員の視線が、りんねに戻った。

「承認ってことでいいね。じゃあ、今日の午後から練習を再開します。解散」
「はい」

返事がそろう。
30人以上いるメンバーの、返事がそろう。
メンバーたちは、三々五々に散っていく。
1年生は後片付けを、2年生以上は自室に引き上げていった。

朝食後、しばらくして、りんねは寮の屋外コートにいた。
ボールを抱え、ゴールと向き合う。
フリースロー。
りんねの放ったシュートは、リングの奥に当たり、その反発とボールの回転とでそのまま手元に帰ってくる。
帰ってきたボールをまたシュートを放ち、それが再び手元へ。
1本1本繰り返し。
ゆっくりと繰り返し。
りんねにとって、これはもう、練習ではなかった。
練習ではない何かだった。

屋外コートは寮の1部の部屋の窓からも見える。
あさみは、フリースローを打っているりんねの姿を、自室の窓から見ていた。
りんねさんがいるから自分も出て行こう、なんていう雰囲気では無い。
近づきがたい何かが、2階の窓のこちら側までも伝わってくる。

「りんねさんどうするつもりなんだろう」

今日の午後から練習は再開される。
コーチはいないし、本来のキャプテンもいないけれど。
これからどうなるのだろうと、なんとなく2年生たちは中心となる藤本の部屋に集まっていた。
窓の外を見つめるあさみに里田が声をかけている。
あさみの後ろに立っても、里田には窓の外のりんねが見えていた。

「練習メニューなんかも、りんねさんとか3年生が決めるのかな?」
「メニューがどうとかって状態じゃない気するけど」

里田の言葉に、藤本は自分のベッドに転がったまま投げやりに答える。
中身の問題ではないのだ。

「でもさー、なんにしても、このままじゃダメでしょ。ひろみさん絶対悲しむっていうか怒るでしょ」
「そんなの分かってるけど」
「とりあえず、りんねさんに従ってやってみようよ」
「別に、イヤだとか言うわけじゃないけどさ」

里田はベッドに横たわる藤本の方を向いて座る。
あさみは、窓の外をじっと見つめていた。

「なんかもう、力抜けちゃってさあ。先輩たちいなくなるし、先生までいなくなるし。なつみさんも帰ってくる気なさそうだし。これからどうなるんだろとか、何でこうなっちゃったんだろとか、大体、バスケなんか何のためにやってるんだよとか、いろいろ考え出すと、もうぐちゃぐちゃなんだもん」

ベッドに沈み、仰向けになって天井をぼんやり見つめたままの藤本の言葉。
2年生の多くがこの部屋にいるけれど、答えは返って来ない。
ここにいる誰もが、似たようなことを考えてはいた。

「いちばんつらいのは、りんねさんなんじゃないかな」

窓の外、屋外コートを見つめたままのあさみ。
りんねのフリースローが、また1本決まった。

「ひろみさんとは同室でずっと一緒で、梓さんとか、なつみさんとかとも仲良くて。なのに、こんなことになって。絶対、すごくつらくて、苦しいはずなのに。キャプテン代理やるなんていいだして。私は、今度はりんねさんがつぶれちゃうんじゃないかって心配だよ」

四六時中友に過ごすという環境で、2年間暮らしてきた仲間。
同期の絆というのは、周りから見えるよりも濃いものがある。
りんねを見つめながらのあさみの言葉を、2年生たちは黙って聞いている。

「だけど、りんねさんが頑張るって言うなら、りんねさんがチームを引っ張るって言うなら、私は、それについていきたい」

誰からも、言葉での答えは返って来ないけれど、黙ってうなづく姿があちこちに見られた。
窓の外では、りんねがボールを弾ませていた。

午後、体育館に集まる。
3日ぶりの練習。
だけど、1年生が準備を始めようとすると、りんねが言った。

「ボールはいらない」

1年生たちは顔を見合わせる。
りんねは詳しい説明はせずに、ストレッチして体動かせるようにしときなさいとだけ言った。
何かが起きるんだな、という予感がメンバーたちの胸に宿る。
しばらくしてからりんねが中央に立ち、皆を見回した。

「今、1時半だね」

体育館の時計を見やる。
視線が自分に戻ってくるのを確認してから、りんねは言った。

「今日は、ひたすら走ります。ただ走ります。体力強化とか、そういう問題じゃなくて、ただ走ります。外のいつものコース。靴履き替えて、5時になるまで。頭真っ白になるまで走ります。はい、準備して」

手をぱちんと鳴らす。
それぞれが会話も無く散っていく。
バッシュを脱ぎ、靴を履き替え体育館の外へ。
いつも走っているジョギングコース。
滝川といっても、富良野や日高に程近いこの場所。
アップダウンが適度以上にあるコースをいつも走っている。
メンバーたちはいつものこのコースのスタート地点に集まった。

「ばらばらでいいから、自分のペースで。最後まで。とにかく走って。いいね」
「はい」

体育会特有のそろった返事。
2列に並んで、走り出した。

北海道と言えども、真夏が近づいてきた季節。
湿度は低いものの、空からは容赦なく陽が照りつける。
1周目、2周目、まだ、全員がついてくる。
3周目に入ると、1人1人遅れ始めた。
午後2時、午後3時、炎天下、程近い高原から吹き降りてくる風に汗をはじかせながら走る。
走り初めて2時間も過ぎると、もう完全にばらばらになった。
1周2キロのコース上にメンバーが散り散りになる。
誰もが、ただ、黙々と走った。
汗を落とし、息を荒げ、髪を振り乱し、走る。
次第に、足が動かなくなってくる。
次第に、目も開かなくなってくる。

走っている、というには程遠い状態になってきた。
里田も藤本も、ただ、ただ、棒のように硬くなった足を前に動かす。
足を止め、横になりたい欲求を追いやって、あさみが前に進んでいく。
ぼろぼろになりながら、前を向いてりんねが進む。
頭の中から意識が消えていく。
まともな意識が消えていく。
まともな思考が消えていく。
残るのは、ただ、休みたい、終わりたい、それだけ。

3時間半、ただ、無意味に走った。
意味も無く、走り続けた。
5時になる。
滝川地域1円に届く、5時のチャイムがなる。
ばらばらに散っていたメンバーたちが、次々と体育館前にもどってきた。
ふらふらになって戻ってきて、ばったりと倒れこむ。
起き上がれないでいるメンバーたちの真ん中に、戻ってきたりんねが立った。

「はい、みんなお疲れ様。明日からは通常練習に戻ります。ちゃんとストレッチして、体の疲れを取るように。解散」

答えは返ってこない。
解散と告げたりんねも、その場にへたりこんだ。
仰向けになり、西に傾いた太陽が照らす空をぼんやりと見つめる。
風で流れていく雲が見えた。

止まっていた時を、りんねが無理やり動かした。
無理やり、動かした。
まだ、どこへ向かっていくかは分からないけれど、とにかく、再び動き出した。

 

県大会とインターハイ、時間的には1ヵ月半ほどある。
長いようで短い時間。
この間にやるべきこと、生じること、というのはいろいろとある。
初出場なので取材が来たり、組み合わせが決まり対戦相手が分かったり、雑誌に自分たちの姿が載ったり。
宿の予約もしないといけないし、前日の練習場所も確保しないといけないし、移動手段の確保も必要だ。
慣れていればなんてこともないけれど、そこは初出場チームの未経験さ。
特に、各種手配をしないといけない中澤先生は大変だ。
ただ、人使いのうまさというのがある。
ノウハウは、取材で顔の広い稲葉を頼って同業者に聞いてみた。
中澤から見て年上の男性が多いコーチ業界、そういう人間を手のひらの上で動かすのは得意だった。

そんな稲葉から雑誌が送られてきた。
インターハイ特集号。
職員室で、中澤と保田、2人で眺めてから体育館に向かった。

「はい、集合集合」

体育館に入ってきて、保田が手を叩きながらメンバーを集めた。
雑誌を抱えた中澤と連れ立っている。

「稲葉さんから月バスが届きました。組み合わせ表とか載ってまーす」

中澤が雑誌を広げるとメンバーがそれを取り囲む。
立って抱えたままだと見ずらいので、拡げて床に置いた。
1冊の雑誌を十数人で輪になって眺める構図だ。

「星2つっすか?」

星。
チーム力の評価を5段階で表す。
バスケ雑誌の大会前の定番だ。
星2つ、それは5段階で下から2番目を意味する。
トーナメント表には、この星と簡単なチーム紹介も併記されていた。

「今は、こんなもんじゃないですか?」
「明日香ちゃん冷めすぎ」

1冊の雑誌を輪になって覗き込む。
福田の隣には松浦。
2人の位置からは、文字は上下逆になるけれど、星の数くらいは簡単に読み取れる。

「つーか、こう書かれると、私、立場無いんだよね」
「決勝だけ見て書いたんだと思いますよ」

トーナメント表の簡単なチーム紹介。
そこには、「初出場、一二年生主体の若いチーム。#14福田を基点とした攻撃力で初戦突破を目指す」と記されていた。

「圭ちゃんまで含めて若いって扱いしてもらってるってことで」
「紗耶香、あんたはダブってるんだから若くないでしょ」
「うわっ。ひでー。留学をダブったいうのやめてくれる?」
「ダブったがいやなら、留年で」
「圭ちゃん、なんでそんなに絡むのよ」

保田は微妙に機嫌が悪い。
引退間近の最上級生というのは年を気にしてしまうものなのかもしれない。

「相手は3つ半なんですね」
「中の上ってとこやな」
「桜華学院?」

組み合わせはもう少し前に決まっていて、中澤のところまでは届いていたが、生徒たちには見せなかった。
チーム名以上の情報が無かったからだ。
もっとも、福田あたりはネットで自分で情報を取っていたが。

「留学生のソンを中心とした安定感のあるチーム。3年ぶりの栄冠を目指す」

チーム名横の紹介文を松浦が声に出して読み上げる。
逆さの位置からなのに起用に読んだ。

「3年ぶりの栄冠って、3年前の優勝高かよ」
「知らないんですか? 富ヶ岡の前はここがずっと強かったんですよ」

福田にとっては常識、吉澤にとっては未知の世界。
他のメンバーも、知識的には吉澤と大差ない。

「つーかさあ、留学生ってずるくね?」
「仕方ないんじゃないですか。地方のうまい子が遠く離れた強いチームに留学みたいにするのは常識で、寮まで供えた学校があるんだし。それがちょっと距離が遠くなって韓国から来たってだけで。男子なんかみたいに、弱い学校がアフリカから子供つれてきて、その1人だけで突然強くなるとか、そういうのはどうかと思うけど。桜華の場合、元々強いんだし」

高橋や小川が地元を離れて神奈川の学校に進んだ。
藤本はともかく、里田や安倍のような少し離れたところの出身の生徒が集まって寮に住む。
そんな常識の延長だと福田は言う。

「じゃあさ、なんで福田うち来たの? もっと強いとことか行けたんじゃねーの? よく知らないけど」

吉澤の素朴な疑問。
視線が自分に集まったのに気づいて、福田はふと顔を上げて周りを見回す。
それから、視線を雑誌の上に落として答えた。

「別に、別に、近かったから」
「素直に、先輩がいたから、とか言えよ」
「市井先輩いなかったじゃないですか」
「明日香、可愛くないね」

市井は苦笑して福田の方を見る。
福田はその苦笑に答えもせず雑誌に視線を落としている。
それにしても、近かったからはこいつの性格では無いだろ、と吉澤は思っていた。

「2つ勝てば、富ヶ岡なんですね」
「勝てばな」
「そこまでは行きたいなー」

第1シード、星5つ、富ヶ岡高校。
1年生のガード陣にもろさが出なければ磐石か? 連覇を目指す。
そんな、紹介文。

「また、特集で載ってたりするんすか?」
「ん? ああ、あったあった。でも、うちらのページもあるよ」
「ホントに載ったんですか?」

インターハイ予選後、稲葉が1度取材に来ていた。
各学年1人づつ、という形で保田吉澤福田の3人でインタビューを受けている。
それから、チーム全体写真を撮っていた。

「ちっちゃ」
「でも、載ってんじゃん。雑誌に、うちらが」

男女、それぞれの優勝候補チーム。
それぞれの注目チーム、と紙面で続いた後に、初出場チームの1つとして1ページの6分の1のスペースに写真と簡単な紹介記事が載っている。

創部3年目。今年のチームが歴史の全て。県大会決勝、残りゼロ秒での同点劇は圧巻だった。
外3枚から乱れ飛ぶスリーポイントが大きな魅力。まだまだ発展途上のチームで伸び代も多い。「上級生下級生の区別無く、誰でも意見が言えて、互いに刺激しあいながら練習しています」とキャプテン(#4)保田さんのコメントがあったが、それを裏付けるように、練習中も1年生の福田さん(#14)が、二三年生に指示を飛ばす場面も見られた。
組み合わせとしてはかなり厳しい山に入ったが、本人たちの言葉にもあるように、まだまだ未完成のチーム。大物食いに期待したくなる雰囲気がある。

「保田さん、こんなこと言いましたっけ?」
「言いたいことみんな言ってるとは言ったけど。ずいぶんきれいな表現にはしてくれたね」
「大物食い。出来たらいいっすねえ」
「富ヶ岡にまで勝っちゃいますか」
「それは・・・」

大きく出てみた市井だけど、周りは乗って来なかった。
冗談でも、全国ナンバーワンチームには勝てる気がしないらしい。

「あとな、こっちにも載ってるんやで」

中澤がページをめくる。
続いて出てきたのは注目選手のコーナー。
富ヶ岡の石川に高橋、桜華学院のソニン、などに混じって見知った顔。

「明日香ちゃん!」

福田が写っていた。
写真は、県大会決勝のもの。
バックチェンジでディフェンスをかわそうとするところを捉えた、見栄えのする写真である。

「なんかカッコいいな」
「ゲームを支配する1年生だって」
「あんまり、スリーポイント強調されたくないんですけどね」

ゲームを支配する1年生
1年生ながら老獪にゲームコントロールし流れを作り出す。それだけでなく、必要なら自分で点を取る能力も兼ね備えており、県大会決勝では土壇場に彼女のスリーポイントで同点に追いつくなど勝負強さも持っている。先輩たちを従えてゲームを支配する脅威の1年生だ。

「これいつの写真?」
「多分、決勝の残り1分切って速攻かけてるとこだと思う。市井先輩で1点差に追いついた時」
「明日香ちゃんって、バスケしてるときが1番カッコいいタイプだよね」
「それ、どういう意味?」
「輝いてるってことでしょ」

微妙に一言多かった松浦のフォローを保田がする。
福田は表情は変えないが、隣の松浦はちょっと失敗したかな、の苦笑いを浮かべている。

「私たち、確かに明日香に支配されてるよね」
「紗耶香は自由奔放って感じだけど」
「なんか私、とんでもない生き物見たいな書かれ方してませんか? これ。老獪とか支配とか」
「いいじゃんかよー。みんなで写ってちっちゃな1枚なのに、1人でページ半分収まってるんだから」
「はいはい! その辺にしーや。切りが無いから。練習練習。後で好きなだけ見てええから」
「じゃあ、始めよう。ランニング」

自分たちのことが掲載された雑誌。
中学の頃からトップ選手だった福田以外のメンバーにとってはこんな経験初めただ。
そんなものを目の前に置かれたら、練習なんかいつまでたっても始まりやしない。
とりあえず、見せるべきページはだいたい見せたので、中澤は練習開始を促す。
保田が仕切って、練習は始まった。

「なんか、いいよな、みんな盛り上がっちゃって」

帰り道。
ポツリと漏らしたのは吉澤だった。

「自分だって盛り上がってるじゃないの」
「そりゃあ、一応さ、みんなの前で盛り下がるわけにもいかないでしょ」

あやかと2人の帰り道。 
最近はあやかと吉澤が2人だけで連れ立って帰ることが多くなった。
1年生が入った当初は、松浦を従えて、さらにはその松浦の周辺メンバーも含めてわいわい帰っていたが、松浦が福田になつくようになってからは、2年生2人だけの帰宅路になることが増えている。
1年生を相手にしなくてよくなると、吉澤も虚勢を張ることなく、本音が出てしまうらしい。

「なに、盛り下がる必要あるの?」
「だってさー。インターハイ言われても、なんていうか、私だけ、出ていいの? って感じだし」
「なんかいけないの?」
「みんなはさあ、勝ったけどさ。私、負けたじゃない。感じとして」
「負けたって?」
「いや、飯田さんにさあ」

試合に勝つことと、個人的に納得いくプレイが出来ること、というのは違う。
他のメンバーはともかく、自分のところは個の力では完全に負けていたと感じている。

「でも、しかたないんじゃないの? だって、飯田さん、すごいじゃない。ホントに」
「まあ、そうだけど。今度もまたすごいのだろ。なんだっけ? 留学生。あれ、私がつきそうな感じじゃん、ポジション見ると。なんでこう、毎回毎回、私のとこにすごいの来るかなあ?」
「エースだから」
「誰が?」
「よっすぃーが」
「ありえないって」
「もうー。自覚してよ。そろそろさあ」

頼れる先輩3年生がいて、スーパー1年生扱いの後輩がいて。
そんな上下に挟まれた2年生。
奔放にも振舞いにくいし、中心選手という自信も持ちにくい。
県予選の勝ち方が勝ち方だっただけに、吉澤としては苦しいところだった。

「練習さあ、今までと変わらないじゃん。いいのかな? インターハイ向けの練習とかしなくて」

あやかの言葉には答えずに話題を変える。
あまり突っ込んでもいじけるだけかな、と思い、あやかも新しい話題に乗った。

「変えるならどう変えるの?」
「1回戦の相手の対策とか?」
「どんなチームかわからないのに?」
「それをどうにかしてさあ」

実は、どうにかする方法というのはある。
強豪高ならば、前年の冬の選抜大会で、上の回戦まで残れば、試合の模様がビデオDVDで販売されている。
それ以外にも、各県の決勝レベルなら、割と多くの地域で地方局で放映されているので、つてを頼って手に入れることができなくはない。
しかしながら、どちらもこのチームの発想にはないもの。
結局、1回戦の相手は、メンバー表にある名前と身長と、雑誌のチーム紹介のレベルで終わってしまう。

「どうすりゃ、強くなれるのかな?」
「どうしたらいいんだろうね?」

誰もが抱える永遠の課題を胸に、2人は駅へたどり着く。
考え込んだまま、軽く手を振って別れた。

結局、5対5を多少増やすとか、試合前の調整レベルでの変化はあったものの、特定の相手を見据えての対策のようなものは何も打たずに、大会前日を迎える。
ある意味では準備不足であるし、ある意味では平常心で普段着のバスケットを心がけるための一方法である。
前日練習も、開催地にある初めて使う体育館、という以外では特に普段と大げさに違う内容のことはしなかった。

「この2つは、対等に並べていいんすか?」

前日練習を終えて、宿にたどり着いての吉澤の最初の一言。

歓迎・インターハイ女子バスケットボール出場、県立富ヶ岡高校様(神奈川)
歓迎・インターハイ女子バスケットボール出場、市立松江女子高校様(島根)

歓迎の縦看板が宿の玄関口に2枚並んでいる。
前年度3冠チームと、初出場チーム。

中澤が、各種手配のノウハウを聞くのに稲葉から紹介してもらったのは、富ヶ岡の和田コーチだった。
前日練習の場所はどう確保したらいいか?
大会期間中の宿はどこに取るか?
そんなことを教えてもらう、だけではなくて、便乗してやってもらってしまっていた。
和田コーチ、大人の女性だけどまだ十分若い、という存在に弱いらしい。
頼み込まれて仕方なく、というのでもなく、同じ宿で顔をあわせて親しく慣れたら・・・、という下心があるかもしれないが、生徒たちには秘密だ。
そんなわけで、吉澤たちは富ヶ岡と同じ宿に泊まることになる。

「試合するまではどのチームも対等なのよ」

事前に先生から聞いていた保田は、そう言って吉澤の背中を叩くと、荷物を抱え宿のフロントに入って行く。
他のメンバーたちもそれに続いた。

インターハイは翌日から始まる。
松江の初戦は、韓国人留学生のソニンを中心とした桜華学院。
2つ勝つと、3回戦で富ヶ岡と当たることになっている。
風呂上り、吉澤が団扇を片手に歩いていると、見覚えのある顔が売店近くの椅子に座っていた。

足を止め考える。
名前は出てこなかったけど、その顔と今いる場所から、何で見たのかは思い当たった。
さて、どうしようか。
当然面識は無い。
もし勝ちあがって行ったら試合をする相手。
ためらいはある。
それでも、吉澤の好奇心がためらいに勝利した。

「どうもー」

うちわを振って微笑みかける。
相手も微笑を返してくれた。

「あの、富ヶ岡の方ですよね? 雑誌で見たことあります」
「あ、ありがとうございます」
「名前、なんでしたっけ?」
「はい、石川って言います」

初対面。
唐突に声をかけられて硬めの石川。
何とか話を広げるきっかけを探したい吉澤。

「すごいですよね。1年生からレギュラーで、雑誌なんかに載って、それでこんな強いチームで」
「いえ、そんなことないです」

石川はちょっと伏目がち。
立ったままの吉澤と視線を合わせてくれない。

「明日は試合無いんでしったけ? シードついて2回戦から?」
「ええ」
「いいですねー。うちなんか、明日から強敵で。いや、石川さんから見ればたいしたことないのかもしれないですけど」
「選手の方なんですか?」
「拙者、市立松江の吉澤と言います」

おどけた物言いに、石川も笑い出す。
笑いが収まって、顔を上げたとき、やっと吉澤と目線を合わせてくれた。

「2つ勝てば3回戦で当たるんですよ。だから覚えといてくださいね」
「はい」

目線が会ってほっとした吉澤は、持っていた団扇でまた扇ぎだす。
そこに、石川と同じジャージを着た子が通りかかった。

「高橋、買出し行くの?」
「はい。洗剤とか買ってきます」
「慣れない町なんだから気をつけなさいよ」
「はい」

高橋が小走りに去っていった。

「そうだ、うちも1年生に買出し行かせないと」
「吉澤さんは3年生ですか?」
「2年です」
「そうですか。明日頑張ってくださいね」
「はい。拙者、頑張るしかとりえが無いですから。 切腹! じゃかじゃん!」

吉澤はギターがわりに団扇を奏でると、走って去っていった。
たいして突っ込んだ会話もない初遭遇だった。
なんか、面白い人、という印象だけが石川に残る。
そして、微妙にちょっと古いよねギター侍、と思った。

県大会と全国大会では格がまったく違う。
雰囲気がまったく違う。
家から出かけて試合をし、その日に家に帰るのが県大会。
家から出かけて、宿泊し、試合をして、宿舎に帰って、負けても家に帰るのは翌日なのが全国大会。
関係者と友達が観客なのが県大会。
関係者と全国の高校スポーツマニアと、専門誌の記者が観客なのが全国大会。
よほど鈍感か、よほど図太いか、どちらかでないと、いきなりその空気の違いには慣れない。
それに、なにより、ここに来るために努力を重ねてきた場である。
硬くなるな、という方が普通は無理がある。

「インターハイは人がいっぱいいて、なんか気持ちいいですよねー」

試合直前のミーティング。
ベンチに戻ってきた松浦の言葉が視線を集める。

「おまえ緊張するとか、そういうの無いのかよ」
「え? 緊張感はありますけどー、なんか、注目浴びてる感じが気持ちいいじゃないですか」

それどころじゃない先輩たちの冷ややかな目。
そんな空気を察しつつも松浦はひるまない。

「これで注目浴びて、アイドルにスカウトとかされちゃったらどうしよー、なんて思うじゃないですか」
「アイドルになりたかったら東京行ったほうがいいんじゃないの?」

先輩たちがまともに絡めない中、珍しく福田が突っ込んだ。

「明日香ちゃん冷たいよー」
「先生、スタートはどうするんですか?」
「明日香ちゃーん!」

とりあえず、空気だけは和らいだ、ように見えなくもない。

スタートは、福田、市井、保田、吉澤、あやか。
オーソドックスなメンバー。
安定した力を発揮してくれる、と中澤がイメージしている組み合わせ。
実際にどうなのかはわからない。

ジャンプボールはあやかが飛ぶ。
ソニンには吉澤がついた。
やけにガタイがいい。
吉澤の見た印象。
身長は吉澤のがやや高いが、がっちりとした肩幅がパワープレーをイメージさせる。

出だしは完全に桜華学院のペースになった。
コートサイドで落ち着いていても、フロアに上がればまた違う。
松江の5人で普段どおりのプレーが出来ていたのは福田だけ。
なにより、ワンプレーワンプレーの切り替えが遅かった。
ターンオーバーからの速攻を連発される。
4分でいきなり10−0
あまりのことにタイムアウトを取った

「あんたら、レベルが上がると緊張でがちがちになるパターンはそろそろ卒業してくれへんか?」

相手が強いとかどうとかというよりも、気がついたら10−0だった、そんな感じ。
動きがどうのこうの以前の問題である。

「切り替えよくしよう切り替え。うちら負けて元々なんだから、がちがちになんかなることないって」
「保田さんが1番緊張してましたよねー」
「うるさい! 松浦。自分が試合出てないからって」

半分笑みを浮かべながらではあるが、保田が怒るとちょっと怖い。
そんな光景を見て、中澤が口を挟んだ

「松浦、行ってみようか」
「私? 私ですか?」

ふとした思いつき。
プレッシャーとか皆無の人間を投入する。
タイムアウトを取った時点ではあまり考えていなかったこと。
今思って今決めた。
市井とメンバーチェンジ。

これが当たる。
いまだに動きがこなれない先輩たちを尻目に、福田松浦の1年生コンビが外からのシュートを決め始めた。
さらに、この上2人がしっかり戻るので、相手の速攻が出せなくなる。
1クォーターはそこからこう着状態に入り、25−15の十点ビハインドで終わった。

2クォーター、1クォーターとは展開が変わる。
速攻が出せなくなり、セットでのオフェンスを余儀なくされた桜華学院は、エースのソニンにボールを集めてきた。
ソニンにつくのは吉澤。
なんで私ばっかりこういう相手なんだ・・・、と思いつつも懸命に対応する。
ソニンは、県の決勝でてこずった飯田とは違い、外に開いてボールを受けるフォワードタイプ。
吉澤の本来イメージするポジションに近い。

エンドライン際、スリーポイントラインやや外でボールを受けたソニン。
吉澤は半身に構える。
シュートフェイク後、右に重心を移し、さらにもう1度シュートの構え。
吉澤はすべて対応する。
ソニンは、シュートの構えから、中央寄りの左側へドリブルをついて突っ込んだ。
フェイクにはかからず吉澤はついていく。
そのままソニンはハイポストの位置へ。
手前に立っていたのは桜華学院のオフェンス。
これが壁になり、吉澤はソニンに付ききれない。
ハイポスト、ちょうどフリースローラインの位置からソニンはジャンプシュートを決めた。

単純な1対1なら吉澤もそうそう簡単に抜き去られているわけではない。
飯田が相手のときよりはまともに対応している。
ただ、それでもソニンの経験が1枚上手だった。
周りをうまく使っている。
人生経験、山あり谷あり。
異郷に暮らし、チームの中心として戦うソニン。
先輩に守られてプレイしている吉澤は、ソニンから見ればまだ甘ちゃんに過ぎない。

「あれ、なんかうまいです」

ハーフタイム、ベンチに戻ってきた吉澤の一言。
飯田のときのように、ゴール下でやられているという印象は無いのだが、持ち込むと見せかけて外から、外からと見せかけてボールをさばく、さばくかと思えばゴール下に入ってくる。
ガタイからして、がちがちのパワープレイをイメージしていた吉澤としては少々肩透かしを食った気分になる。

前半は、52−34 かなり厳しいがまだ勝負にはなる点差。
2クォーターで開いた点差は、そのままソニンと吉澤の差でもある。

「無理そう?」
「いやいやいや。やりますよ。絶対ぶちのめしてやりますよ」

戦意はまだまだ高い。

「吉澤さんはおとりにして、保田先輩や松で勝負のがいいですよ」
「私は信用できない?」
「相手との力関係の問題ですよ。吉澤さんは十分力があるけど相手が悪いです」

最近、福田も少しは気を使うようになった。
吉澤相手には、事実認識を少し膨らませてしゃべる。

「保田さん勝負で行けば勝てるのか?」
「それはやってみないと」
「勝てないのか? どうすりゃ勝てるんだよ」

吉澤も福田を認めてはいる。
素直ではないが。
多少むかつく相手ではあるが、勝ちたい、という思いが今は強い。

「速攻を出させないこと。オフェンスは吉澤さんが勝負するときはインサイドで勝負すること。基本は外を広げて保田先輩が勝負。あと、あの十番に自由にボールを持たせない。単なる1対1なら吉澤さんで十分対応できます。ボールをもらうとき、もらってから、どっちの場面でも周りと合わせてかわされてるんです。だからそれに気をつけて、出来れば周りから保田先輩とかあやかさんとかもカバーに入る」

フロアにいながらも冷静に見ている。
フロアの外、まだ頼りなさの残る中澤監督も1言添えた。

「リバウンドをしっかり取るのも必要やな。ランニングリバウンドで外からさらわれるのが目立ったから」

まともなコメント。
頼りなくても当てには出来る。

「しっかしあついっすねー」
「夏だしな」
「保田さん、近寄りたくなくなるくらい汗かいてますよ」
「うるさいわねえ。そういうこと言うと肩組むわよ」

冷房の無い体育館は蒸している。
じゃれあっている保田と吉澤。
市井はベンチにぼんやりと座り2人を見ている。
福田は、松浦に引っ張られ手洗いに消えていく。
あやかは、壁に向かってフリースローのイメージでボールを放っていた。

後半、福田の提案と中澤の指示通りに動く。
大体は目論見どおりに行き追い上げ始める。
しかし、それが続いたのは出だし5分までだった。
作戦的には問題は無い。
問題は、スタミナ。
最初に動けなくなったのは保田とあやかだった。
序盤、吉澤も含め硬かった上級生。
緊張は体力を奪う。
しかもこの真夏の蒸した体育館での試合。
気力だけでは足が動かない。
元々スタミナに問題のある松浦も動けなくなってきた。

攻め手が無くなって、福田が自分で持ち込み始める。
さすがに突破力があり加点するが、桜華学院も福田の突破力は承知済み。
ファウルで止めにかかる。
フリースローを得るのだが、これが入らなかった。
福田に出来てしまった弱点。
あの、県の決勝、ゼロ秒でのフリースロー以来、ほとんど入らなくなっている。

動けなくなるとオフェンスもきびしいが、もっと悲惨なのがディフェンスだ。
ボールを奪われたらすぐにディフェンスに戻る。
基本的なことだけど、体力的にきつくなってくるとこれが出来ない。
戻れないと速攻を出され、点差が開いて行く。
どうにか止めてセットオフェンスにさせても、ボールを回されてそれに足がついていかなくて、手だけが出てファウルになる。
自分の持っている100%の能力から、どんどん遠く離れたものになっていく。

3クォーター、結局79−52と大きなビハインドを背負った。

最終クォーター。
疲れ果てた松浦に代えて市井を投入するが流れは変わらない。
得点源は自分で持ち込む福田と、ソニンと対峙する吉澤の2箇所。
しかし、かなめになる福田もまだ1年生。
技術的には全国トップでも、体力面は並の選手だった。

残り5分、中澤がタイムアウトを取った。
点差は35点。
もはやどうにかなる点差ではない。
メンバーがベンチに戻ってきたところで、こう告げた。

「おつかれ。保田以外交代」

レギュラーメンバーに代えて、負ければ引退の3年生を入れる。
吉澤たちは、黙ってそれを受け入れた。

体力的にフレッシュな3年生の投入。
最後の一勝負、やる気十分でフロアに上がって行く。

頑張る力というのは、ディフェンス面では技量を補って多少効いてくる。
真夏の暑い最中、35分走ってきたのだから、相手メンバーだってスタミナ面でダメージの蓄積が大きい。
それに、点差も開くとどうしても集中力は薄れてくる。
戻りを早く、ピックアップを早く、ボールにくらいつく、単純なことだけど、ここまで来るとそれだけで得点力を低下させられる。
そしてオフェンス。
セットオフェンスではどうしても攻撃力に欠けるけれど、切り替えを早くすることで速攻をそれなりに成立させた。
完全なフリーとは行かないけれど、3対2、4対3の場面を作り出してどうにか得点を加えて行く。

だからといって、大勢に影響を与えるほどのことは出来ず、結局、101−71でゲームを終えた。
全国デビューは、1回戦であっけなく終わった。

口数はどうしても少なかった。
楽な相手ではないのは分かっていた。
とはいえ、100点ゲームでの惨敗。
まったく手も足も出なかったわけではない。
福田は相手よりも技量は上だったし、吉澤はソニンが相手でも4−6程度まではやれていた。
あやかもリバウンドをそこそこ取れていたし、松浦だってスタミナ万全な前半は外で自由にプレイできていた。
保田のチーム掌握力は相手に引けを取るものではない。
それなりにやれることはやった。
なのに、大差がついていた。

重苦しいミーティング。
中澤と保田がそれぞれ何かを言っていたが、メンバーにはほとんど頭に入っていなかった。
疲れきって、会話もなくバスに乗りこんで宿舎へ。
ただただバスに揺られて、宿まで帰りついた。

「最後まであきらめたくなかったなぁ」

吉澤のつぶやき。
残り5分、大差がついてから代えられた。
返ってくる言葉は無い。
吉澤は、あやかたちと自室に入って行く。
福田と松浦は、その奥の1年生部屋のカギを開け部屋に入った。
他の試合に出ていない1年生は、荷物の整理などでまだ部屋には戻ってこない。
2人だけになる部屋に入って行くと、福田は抱えていた荷物を両手で床にたたきつけた。

「何があきらめたくなかっただ!」

突然のこと。
後ろにいた松浦は、驚いているしかできない。

「私たちは何をした! 先輩たちが入ってラスト5分。逆に点差は詰まったじゃないか! 技術は私たちのが確かにあるけど、でも、実際先輩たちが出てから点差は詰まったじゃないか! 最後まであきらめたくなかった? そんなこと言う資格、私たちにあるのか! なんだあのシュートは! なんだあのディフェンスは! なんで足が動かない! なんでフリースローが入らない! なんで! なんで!」

めずらしく福田が荒げた感情をストレートに表に出している。
松浦にとっては初めて見る光景。
驚きながらも後ろからそっと抱きとめた。

「もういいよ、分かったから」
「よくない」
「もういいよ。また頑張ろ。また頑張ればいいよ。また」

福田の言葉が止まった。
興奮したせいか、肩で息をしている。
もしかしたら、泣いているかもしれないな、と松浦は思ったけれど、顔は見ないであげた。

風呂から上がり、吉澤は売店に座っている。
なんとなく、ここにいれば待ち人が来るようなそんな気がしていた。
昨日、ほんの少し話しただけ。
別に、大して親しくなったわけでもない。
それでも、なんとなく聞いて欲しかった。

「試合、どうでした?」

後ろから声がする。
振り向くと練習から戻った石川がいた。

「柴ちゃん、先行ってて」

だあれ? という顔を隣に見せる柴田に、石川は言う。
ちょっと怪訝な顔をしながらも柴田は荷物を抱え先に部屋にもどって行った。

石川は、吉澤の隣に立つ。
自分の隣のスペースをぽんぽんと軽く叩き、吉澤は石川を座らせた。

「練習ですか?」
「はい」
「石川さんたちの大会が始まる前に、もう負けちゃいました」

顔は合わせない。
顔は合わせないで、同じ方向を向いたまま吉澤は語った。

「100点ゲームのぼろ負けでした。手も足も出たけど、それでも、なんかよく分からないうちに点差はなされて、負けちゃいました。通用するとかしないとか、なんか、それ以前のよくわけのわからないうちに負けちゃいました。2つ勝てば、石川さんたちに挑戦できたのに」

吉澤はうつむく。
うつむいて、両のこぶしを握った。

「また、冬に、また、来年に試合しましょう」

大して話したことも無い。
プレイ振りを見たことがあるわけでもない。
だけど、この隣にいる悔しそうにしてる、昨日愉快だった人とバスケをしてみたいなって、石川は思った。

「ミーティングもあるんで、行きますね」
「石川さんは、あ、いや、言われなくても当たり前なんだろうけど、その、頑張ってください」
「はい」
「また、今度、挑戦します」

ナンバーワンと、戦ってみたかった。
けれど、それは叶わなかった。

翌日、松江のメンバーは1日の休みを中澤から与えられた。

「うーみー!」
「見たまんまじゃねーか」
「海見ると叫びたくなりませんか?」
「ならないね」

夏だしどこに行く? とアンケートをとったら、ほぼ全員一致で海。
そんなわけで、メンバーそろって海にいる。
おおはしゃぎの松浦は、意外と冷静にしている吉澤につっこまれていた。

「とりあえず泳ぎましょーよー」

そう言って海に駆け込んでいく。
昨日の敗戦はどこへやら、真夏の高校生の雰囲気が前面に出ている。
男子がどこにも見当たらないところだけが、多少違うが。

「おい、福田、何1人で落ち着いてんだよ」

1年生集団の中で唯一人海に入らず、浜辺でのんびり座っている福田に吉澤が声をかける。

「いいですよ私は」
「おまえ、日焼けがどうとか気にする柄じゃないだろ」
「そんなんじゃないですけど」
「なんだよ、歯切れわりーなー」

理路整然とバスケ理論を解く福田の姿が見られない。
1人輪に入ってこない福田のほうへ松浦も近づいてくる。
福田は、顔を背けて小声で言った。

「泳げないんですよ」
「え?」
「いや、いいです」
「もう1度言ってみろよ」
「いいですって」
「松浦聞いたか?」
「いえ、聞こえなかったですけど」
「こいつ泳げないんだって」
「聞こえてるんじゃないですか」

福田は一瞬吉澤をにらんですぐ目をそらす。
吉澤のにやけ顔を松浦は横からじっと見ていた。

「おい、1年生手貸せ」

そう言って、吉澤は福田の後ろに回りこむ。
背中からがっちり押さえ込んだ。

「やめてくださいって」
「足持て足」
「やめてくださいって」
「あばれるなこら」

じたばたする福田を吉澤と松浦を中心にした1年生で抱え上げる。
そのまま海へ。
福田が暴れても、抱えたまま浜の上を運び、そのまま海へ。

「せーの!」

海の中まで入っていく。
左右に振ってそのまま投げた。

海に投げ出された福田。
もがいている様が立っている吉澤たちには丸見え。
腹を抱えて笑っていると、咳き込みながら顔を出した。

「げほっ 何するんですか」
「投げただけだよーだ」
「泳げない人にそんなことしておぼれだら、げほっ」
「普通、足が立つとこから投げられたんだから、自分だって足立つのくらいわかるだろー」

普段の冷静さが、かけらも見られなかった。

「明日香ちゃん、パース」

松浦がビーチボールを福田に投げる。
髪が額に張り付いて、それが気になっていじっていた福田はボールをキャッチミス。

「あー、明日香ちゃん、基本のボールキャッチが出来てないー」
「これは、だって」
「だって、とか言い訳してるー」

松浦に遊ばれる福田。
海の中ではみんなのおもちゃ状態だった。

「あいつ、泳げないなんて意外やなあ」
「明日香は運動神経抜群とかそういうタイプじゃないですからねえ。バスケ以外のスポーツはほとんど出来ないはずですよ」
「へー。海の中じゃあいつも形無しやな」

浜辺で、中澤と保田はくつろいでいる。
視線の先には海の中ではしゃぐ後輩たち。
それをのんびりと眺めながら、年上風な会話。

「保田、どやった、2年半、このチーム」
「そうですねー。楽しかったですよ。ただ、半年無駄にしちゃったなってのがありますけど」
「半年?」
「吉澤が来るまでの」
「ああ、あれな」

2人の視線は吉澤へ。
1年生を指揮して、自分とあやかをそれぞれの大将に、海中ドッジボールをしている。

「あやかとか、あの時来てくれた1年生には申し訳ないことしたなって気持ちがありますよやっぱり」
「こればっかりはなあ、もう取り返しつかんやろし」
「あの半年が無かったら、どんなチームが出来たんだろうって、そんなこと考えるときもありますもん」
「わたしも、あのころはなんもせんと、ダメな顧問やったしなあ」
「先生はしょうがないですよ。顧問引き受けてくれただけでも感謝してます」
「そんなチームが、インターハイまで来たんやなあ」

初戦で負けはした。
それでも、県のたった1校の代表である。

「まあ、おつかれさん」
「しっかし、元気ですねえあの子ら」
「もう、あそこに混ざる若さはあらへんか?」
「そんなことないですよ」

保田は立ち上がり、海に向かって歩き出した。

「あんたたち、私も混ぜなさいよ」
「じゃあ、保田さんを鬼にした鬼ごっこで」
「どういう意味よー!」

海で騒ぐ生徒たちを、浜辺で中澤は見つめる。
真夏の太陽が照らす明るい砂浜。
ビールでも1杯やりたい気分だった。

1日、普通の高校生として夏を謳歌した松江のメンバー。
その夜、宿では打ち上げパーティーが開かれた。

「まあ、今日は1日自由って言ったから、これも、好きにやったらええは。ただし、酒、禁止。タバコは当たり前やけど禁止。それと、どこの誰であろうと男呼び込むのは禁止」
「先生は守らなくてもいいんですよ、男呼び込まないルール」
「うっさいは!」

始まる前から盛り上がっているパーティー。
アルコールは無いけれど、あとは高校生視点では豪華に見える料理が並ぶパーティー。
中澤の、あまり偉そうでない訓示が終わってとりあえず食べる。
そして食べる。
そしてさわぐ。

ひとしきり盛り上がった後、3年生たちから1人1人コメントをもらうことになった。
それぞれにこのチームが出来てからの思い出を語る。
今の1年生が入ってきてからはほとんど出番も無かったけれど、それでもこの3年生がいなければこのチームは出来なかった。
そんな存在。
そして最後に、キャプテンである保田が前に立った。

「なんか、こうやって改まって前に立つのって恥ずかしいな」

視線が集まる。
保田は、それぞれを見渡した。
不思議な静寂。
前からちょっと考えていたこと。
今日1日、深く考えていたこと。
ここに立つまで結論が出なかったけれど、全員を見渡して結論が出た。

「あのさ、こういう風にセッティングされて言うの、あれなんだけど、冬までやっていいかなあ?」

しんと静まって聞き入っていたメンバーたち。
一瞬、保田の言葉がはっきりと理解できない。

「半年ね、後半年。やらせて欲しいんだ。インターハイに出てくるようなとこってさ、なんか、みんな3年生、夏でやめないで冬までやるみたいじゃない。うちもさ、インターハイ出たことだし。続ける権利あるかな、なんてさ」

ぽりぽりと頭を掻く。
ちょっと照れくさくいいわけじみている。
周りを見渡しても、言葉が返ってこなかった。

「なんとか言いなさいよ。結構勇気いるんだからね、こういうこと言うの。吉澤! あんた、言いたいことあるでしょ。おばさんはさっさと出てけとか、これからは自分がチームを絞めるんだから3年生は出てけとか、いろいろあるでしょ」

保田に指名された吉澤に今度は視線が集まる。
吉澤は、顔を背け、首筋を掻きながら考える。
苦そうな顔をして、保田のほうを見、口を開いた。

「いいんじゃないっすか? やりたいなら続ければ」
「不満そうだなあ。吉澤がいやだって言うなら、私は素直にこれで引退するよ」
「別に、そんなこと言ってないじゃないですか。好きにすればいいって」
「よっすぃー、ホントはうれしくてしょうがないくせに」
「黙れ! あやか」
「何度か相談されたんですよ。先輩たちいなくなったら不安とか何とか」
「うっさいって!」
「保田さん残ってくれないかなあって」
「黙れって、もうあやかは、そんなこと言ってねーだろー」

立ち上がって吉澤はあやかのもとへ。
後ろから口を押さえこまれ、あやかはもごもごやっている。
そんな2年生の姿を周りは笑って見ていた。

「1年生はどう? 明日香なんか、もうそろそろ私の顔は見飽きたんじゃない?」
「いえ、昨日は私の出来も悪くて負けたけど、保田先輩がいれば冬には勝てると思うし」
「明日香ちゃん、先輩のために勝ちたいって素直に言っちゃいなよ」
「いや、別に、そんな」

口ごもる福田。
県大会の決勝前、中澤にはポツリと言っていた。
「保田先輩とは、もう少し一緒にバスケしたいですから」
シャイな福田が、全員メンバーが集まったところでそんなことを言えるはずも無い。

「ええんちゃうか?」

横から、中澤が口を挟んだ。

「保田がやりたいって言うんなら、それでええんちゃうか? 保田が自分で思ってるより、大分人望あるみたいやし。なあ、吉澤」
「私に振ることないじゃないですか」
「みんなもええか? よかったら拍手でこたええ」

ほとんど全員拍手する。
周りの様子を伺って、唯一最初は手を動かさないでいた吉澤も、納得したように拍手する。

「なんか、無理強いしたみたいで悪いけど、あと半年よろしく」

引退するはずだった保田が残る。
チームを背負うような覚悟を少しだけ持っていた吉澤にとっては肩透かし。
でも、良かったなと思っていた。

「良かったねえ、よっすぃー」
「別によかねーよ」
「またまたー。吉澤はいつまでもおむちゅがとれないでちゅねー」
「気持ちわるいっすよ」

あやかと保田にもてあそばれる。
インターハイは初戦で負けたけれど、チームは分裂することもなく平和だった。

 

翌日、地元に帰る前に試合を見に行く。
3回戦、富ヶ岡vs桜華学院。
優勝候補の筆頭と、自分たちに勝ったチームの試合。
それを観客席から見つめる。

「どっちが勝つと思う?」
「富ヶ岡かな」
「やっぱり強いかな?」
「優勝候補だし」

あやかと吉澤。
吉澤も、富ヶ岡の強さをよく分かって言ってるわけじゃない。
ただ、優勝候補という評判を知っているだけ。
だけど、なんとなく、優勝候補というチームには力の差を見せて欲しかった。

試合開始。
富ヶ岡のスタメンは、高橋、小川、柴田、石川、平家。
県予選の上のラウンド、いくらかの真剣さが必要なレベルに入ってからは不動のオーダー。
松江のメンバーとは違い、出だしから硬さはまったく見られない。
高橋や小川といった1年生にとっては慣れない舞台なはずだが、意識が違う。
勝って当たり前、ただの通過点、というつもりでの試合では硬くなろうはずもない。

強さは圧倒的だった。
桜華は強豪チーム。
それでも、歯が立たない。
1対1を止める止めない以前に、1対ゼロのシチュエーションを作られてしまう。
逆に富ヶ岡がディフェンスの場面では、外3枚が自由にボールを回せず、フリーが作れない。
そうなると、攻め手は自然とソニン1枚になる。
さすがにソニンのオフェンスは破壊力があり、ディフェンスも人並みになったとはいえ石川だけで簡単には止まらない。
ただ、いかんせん、1枚だけでは富ヶ岡に対抗するには厳しかった。
前半終わって、55−30と富ヶ岡リード。

「やっぱ違うは、なにかが」
「だから、合わせの問題ですよ。あのレベルでフリーでボールもらったら決めますもん」
「おまえそればっかりな」
「でも、なんか、すごい強いっていうインパクトはあんまり感じなくない?」

あやか、吉澤、福田の順に座っている。
明日香の講釈を聞きながら試合を見ろ、と保田が強引に座らせた。
そうでもなければ吉澤が進んで福田の隣に座ろうはずも無い。

「あんなもんじゃないですよ、まだ」
「福田は知ってるの? このチーム」
「今の2年生以上の試合は見たことあります。1年生だと高橋さん、あの14番のガードの子は試合したことあります」
「あんなもんじゃないってのは?」
「勝負を決めに行くときの爆発力はすごいです。それに、1対ゼロばかり出来るから見えてないだけで、1対1でも相当うまいですよ」
「爆発って、これよりもっと点が開くのかよ。考えたくねー・・・」

吉澤は頭を抱えてのけぞった。

後半スタート。
メンバーはかわらない。
ジャンプボールを平家がコントロールすると、ボールを高橋がキープ。
セットオフェンスの形から、柴田石川柴田と回って、フリーの高橋にボールが戻ってスリーポイントが決まった。

「前から!」

オールコートのゾーンプレス。
ボールがプレスの網にかかる。
高橋小川柴田、前3人の圧力でボールが運べない。
山なりのロングパス1本で飛び越そうとすると、待ち構えていた石川や平家にボールをさらわれる。
石川は1対1のディフェンスは苦手だが、半ルーズボール状態のロングパスを奪うのは、スピードもあるし気分いいし、結構得意だ。
そうした形でリードはさらに開いて行く。

「爆発って、このことか」
「前から当たられるだけでもいやなのに、それぞれのディフェンス能力が半端じゃないから、いやなんですよ」

タイムアウトを取り、桜華はガード陣を落ち着かせる。
それでなんとか運べるようにはなっていったが、点差をつめるには至らない。
前から当たるのは5分程度で終わり、ハーフコートディフェンスに戻ったが、この段階で勝負はほぼ決した。

オフェンス面でも、ヒートアップしていた。
外で石川が高橋からボールを受ける。
ソニンが正対して前に付いた。
スリーポイントのフェイクを入れて、左にドリブルをつくと、簡単にソニンを抜き去る。
カバーに来たディフェンスはロールターンでかわした。
3人目、ゴール下のセンター。
トップスピードから一転、ストップしシュートフェイクで相手を飛ばせる。
ディフェンスが中に浮いたところを、ピボットでかわし、ゴールに背を向けてジャンプし、手首でボールコントロールしてシュートを決めた。

「すげー。なんだあれ・・・」

ぽっかーん、と口をあけてしまう。
石川梨華の個人技。

「これでもインパクト無いですか?」

福田の冷めた言葉。
吉澤は返す言葉も無い。

「あれくらい出来る選手でも、基本は、周りとのあわせで1対ゼロを作って攻めるんですよ」

目の前のプレイに圧倒されて、福田の言葉に反応できなかった。

試合はそのまま富ヶ岡ペースで進む。
最終的には121−63とダブルスコア近い点差で終わった。

「帰って、練習すっか・・・」

試合が終わって、吉澤の口からやっと出た言葉がこれ。
自分たちに100点ゲームで勝ったチームがダブルスコアで負ける。
上には上が、いくらでもいる。
そんな光景を目の当たりにして、言葉は少なかった。

挑戦する夏が終わっても、まだ夏は続く。
挑戦も続く。

 

インターハイの決勝は、NHK教育テレビで全国放映される。
北海道滝川、田舎といわれる場所でも、NHK教育テレビは見ることが出来る。
午後の練習開始を遅らせて、視聴覚室に集まって全員で見る。
本来なら自分たちがいるべき舞台。

「1年が2人もいるのかよ」
「石川、スタメンに定着したんだね」

半年前の冬、最後に対戦したのは卒業生がいた旧チーム。
新チームになってからは初めて見ることになる。

「石川、ちょっとディフェンスうまくなったんじゃない? って、言ったそばから抜かれるなよ」
「うまくなったって言うか、やる気になっただけじゃない? 前とって抑えようって頑張ってみました、な感じで。裏とおされたらだめなんだし、それに、やっぱり外に開かれると簡単に抜かれてるし」
「まいには問題ない?」
「裏取ったところで、美貴がきっちりパス入れてくれれば問題ないですよ。ただ、多分そこは平家さんがカバーってルールになってるだろうから、りんねさんがひきつけて外に出るとかして。それでも平家さんがこっちのカバーを優先するなら、りんねさんがミドルあたりから決めないとだめだけど」
「私の問題になるのか」

サッカーの国際試合でよくあるパブリックビューイング。
一見、それと同じような光景だけど、本人たちの感情移入の方向性が違う。
自分ならどうするのか、自分たちならどうするのか、どうすれば勝てるか。
誰に言われなくても、試合に出るメンバーはそれを意識しながら見てしまう。
本来なら、自分たちがテレビに写っている側であるべきなのだ。

「めずらしいよね。決勝まで来るチームでボックスワンって」

富ヶ岡に対する中村学院がしいたディフェンスシステム。
ボックスワン。
5人のうち4人がボックス型のゾーンディフェンスを敷き、残りの1人がマンツーマンでマークにつく。
マンツーマンでつくところが、相手チームの要になるところになる。
決勝までこの形で上がってきた、と解説が述べていた。

「マンマークついたからって、石川は簡単に止まらないでしょ」

最前列中央に座る藤本のいやそうな顔。
イヤだろうがむかつこうが、石川のオフェンス力は藤本だって認めざるを得ない。
それをどう止めるのかは大きな課題である。

「フェイスでついたからって、そうそう1試合とめられるものでも無いでしょ」
「だからって、ずっとダブルチームやってるわけいかないんだし。これ以上の選択はないんじゃない?」
「まいならとめられるの? あれで」
「私は、わかんないけど。でも、この7番うまくない?」

会話の中心は藤本と里田。
チームの中心がこの2人だから、戦術トークはこの2人が中心になる。
本人たちはあまり意識していないけれど、少し離れた位置に座るりんねは、2人がこんな風に真剣にバスケの話をしているのを見るのは久しぶりだな、と感じていた。

「面取れなくてボール受けられて無いよね、石川」
「あの状態のところに出して取られるのは、出す方がはっきりバカだな」

高橋が無理やり石川に出そうとしてボールをはたかれている。
ルーズボールを拾いなおして事なきを得ているが、リズムに乗りづらい。

「ああいうのってどうやって崩せばいいの?」
「横断パスでも出してサイド変えればいいんじゃないですかねえ。あれだけディフェンスがディナイしてると、サイド変えられたら普通ついていけないから」

ボールの側に立ってオフェンスに被さってしまうようなディフェンスをディナイという。
被さってしまっているのだから、ボールが逆サイドに行ってしまうと状況が逆転して、ボールの側にオフェンスが来る形になる。
とは言え、インサイドにいるという前提でしかあまり意味が無いが。

「あさみ、どっち勝つと思う?」
「え? 私? 私ですか?」

突然りんねに振られ、あさみはうろたえる。
藤本や里田のように中心選手なら、自分のポジション視点で中に入り込んで試合を感じられる。
だけど、あさみは、どっちもすごいなー、というだけで、あまり考えてみていなかった。
なんとなく、そんな気がしたりんねが、ちゃんと考えながら見なさいよ、という意味で名指ししたら予想通りの対応だったわけである。

「1年がまともなら富ヶ岡が勝つんじゃ無いですか?」
「なんで?」

藤本が横から答える。
足を組んで腕を組んで、上から目線でテレビを見つめながら。

「中村は結局7番しかいないじゃないですか。富ヶ岡は、石川がこの7番につかまったにしても、平家さんも柴田も点は取れるし」
「ボックスで固められて平家さんにボール入れられなくなったら?」
「だから、1年がまともならって条件がついちゃうんですよ。中固められたときに、外の1年2人がまともにスリーが打てれば、それに対応してディフェンスは拡がらないといけないから。そしたら今度は中が広くなるし」
「まともじゃなくあって欲しいけどね」
「富ヶ岡で1年でスタメンで出てくるんだから、それなりには出来るんじゃないですか?」
「藤本が手に負えないくらい?」
「それはない・・・はずです」
「美貴、その間は何」
「うるさいよ」

テレビ画面では、安易な横パスを高橋がスティールしてワンマン速攻を決めている。
負けない自信はあるけれど、楽勝とはとても言えない。

「2年生なんか、知らない? この7番」
「聞いたことないですよ」

テレビではテロップで、#7 是永美記、と記されている。
全国レベルのプレイヤーだと、同じ学年なら会ったことも無いのに互いに知っていたりするが、藤本にも里田にも、聞いたことの無い名前だった。

「こんな子いたんですね」
「オフェンスだけならまだしも、ディフェンスが、なんか、石川完全に押さえちゃってるし」
「ひょっとしたらひょっとするのかなあ?」
「石川以外もなんか、点取れて無いですよね」
「14番が、なんかやけに石川にこだわるから悪いんだよ。石川もむきになって勝負してるし」
「藤本もそういう時あるよね。実際試合してると」

りんねに突っ込まれて、藤本は苦笑い。
周りの、口に出さないけれど醸し出されているそうだよね、な雰囲気にも、反論はちょっと出来ない。

前半は29−25 富ヶ岡の4点リードで終えた。

「石川、何点?」
「4点、かな? フリースロー2本入れても」
「点が伸びないわけだ」

前半を両チーム20点台で終えるというのは、かなりロースコアな展開である。

「代えればいいのに。どうせディフェンスは使えないんだし」
「そうもいかないでしょ」
「なんで?」
「石川下げたら、7番は次に平家さんか柴田あたりにつくでしょ。そうやって1人1人つぶされていったら攻め手がなくなるもん。それこそ14番の1年、どこにパス出していいかわかんなくなるって。だったら石川はフロアに置いといて、7番と消えてもらって、ボックス相手に4対4でやった方がずっといいって」
「でも、相当へこんでたよね、石川」
「あの顔はテレビじゃなくて目の前で見たいんだけど」

本当ならば、こんなところでテレビで見ているべき試合じゃない。

ハーフタイムが明け、両チームのメンバーが出てくる。
顔ぶれは代わっていなかった。
石川もフロアに上がってくる。

ただ、マークは代えていた。
前半は是永に石川がついて、1人に16点奪われていたが、後半は柴田をマッチアップにつける。
ボールを持たれてからでは勝負にならないと、パスコースを消す形でマークにつく。
周りのカバーを捨ててでも、自分と7番と相殺でボールと関係ないところへ消えられるのがベスト、というやり方。
毎日石川を相手にして暮らしているのだ。
ここまで1人だけに集中してディフェンスすれば、ある程度は抑えられる。

「ちょっと開き始めたかな」
「これをどう対処するのかなんだよね」
「なんでもないですよこんなの」

富ヶ岡が前からディフェンスで当たってプレッシャーをかける。
その網にはまってボールが自由に運べず失点してしまう。
対戦するとしたら、自分がそのボールを運ぶ立場になる藤本。
なんでもない、と言うけれど藤本はこういう受けに回る場面が少し苦手だ。

「なんなんだろうね? 前から当たるのは別に、うちなんか40分前からあたりっぱなしなんだけど」
「ディフェンスの質の問題なんですかね?」
「それはありえないでしょ。石川も混じってるんだよ。あの中に」

藤本的には、石川のディフェンスは0点で、それはちょっとうまくなっても変わらない認識で。
でも、自分のマークに付かれる、という前提で見ている里田としては、ちょっとうっとうしいレベルにはなってきたなという認識で。

ただ、決勝まで来るチームは、さすがにこの一撃だけで試合終了とはいかない。
富ヶ岡が外と中、小川柴田と平家の使い分けで加点して行くのに対し、中村学院は是永が柴田を引きづりながらのドライブインで、もう1人ディフェンスをひきつけて周りにさばくという形でなんとかついていく。
十点差近辺から離れない。
3クォーター終わって47−36
十分勝負になる点差である。

最終クォーター。
十点前後の点差が詰まって行ったのは残り5分を切ってから。
是永がゴール下でボールを受けるようになった。
ここまで外からの勝負を中心にしていたのを大きく方針転換する。
これに柴田が対応しきれない。
ディフェンス面でも是永以外のボックスディフェンスがかなり頑張った。
インサイドの平家は狭く囲まれ、是永のマークに神経使いきった柴田はオフェンスまで手が回らず、小川はスタミナ切れと攻め手が見当たらなくなっていく。
3連続ゴール下で決めて残り3分で5点差まで迫ってくる。

タイムアウトの取りどころであったのだけど、和田コーチはまだここでは取らなかった。
小川がボールを入れて高橋が運ぶ。
ボックスディフェンスはすぐに引くし、是永は石川をキャッチアップする。
フロントコートへのボール運びはほぼフリーで行える。
半径6.25mのスリーポイントラインの外、エンドラインに対して90度の位置までボールを運ぶ。
まだボックスのディフェンスは寄って来ない。
そこから展開、ではなくて高橋はシュートを選んだ。
これがきれいに決まる。
会場では歓声が、視聴覚室ではため息が漏れた。

「空気読めよ!」

藤本が思わず突っ込んだ。
別にひいきのチームとか無いのだけど、なんとなく最後まで競って欲しいし、なんとなく富ヶ岡にまた勝たれるのは癪に障るし。
滝川のメンバーたちが口には出さないけれどなんとなく思っていたことがため息の形で漏れた。

「そこでいきなりシュートかよ」
「ありえないでしょ」
「もう、せっかく傾いた流れがぶち壊し」

高橋としては、別に奇をてらったわけでもなくて、平家さんもダメ、柴田さんも微妙、麻琴はばてばて、石川さんには出せない、じゃあ自分が、というだけのこと。
とは言え、比較的常識人の藤本からすれば、ポイントガードが1本もパスを出す前にいきなり自分でシュートという選択肢は考えられない。
十一点差からの3連続ゴールで5点差、それに対して1本返しただけならともかく、スリーポイントとなると追い上げる立場からすれば心理的に大きなダメージだ。
高橋、流れに乗るのはあまり得意じゃないけれど、流れを壊すのは大得意だった。

試合はここからもう1度流れが生まれることはなく、69−60で富ヶ岡が勝ち優勝した。

「結局富ヶ岡かよー」
「1人ダメでも他があるからねえ」
「あの空気読まない14番、なんかやだな」
「いやでも美貴がつくしかないんだからね」
「分かってるけどさー。美貴、空気読まない女嫌いなんだよね」
「そういう問題じゃないでしょ

足を組んだまま藤本は首をひねる。
ひねりながらも画面を見ていてふと思った。

「あれ、石川後半いた?」

優勝して、和田コーチを胴上げ。
その輪の中、高橋や柴田が中心近くにいるのに、石川は1番外側でおざなりに周りに合わせている。

「いた、いた・・・よ。うん。いたはず」

記憶を手繰り寄せる。
どの場面でどんなプレイをした石川がいたか? 思い出せない。
でも、理屈の上では、柴田にも平家にも高橋にも小川にも、是永のマークがついていなかったのだから、石川がフロアにいてマークに付かれていたはず。
だから、いた・・・はず、なのだ。

「消されてたよね、完全に」
「なんなの? あの7番。オフェンスもディフェンスも。とんでもないレベルじゃんか」
「名前がいいんだよ。ミキだから」
「はあ? じゃあ、ミキティって呼んどく?」
「それかぶるでしょ」
「じゃあなんにする?」
「コレティかな」
「美貴って、いつもいつもしょーもない呼び名つけるよね」
「しょーもなくて悪かったですね」

チームの中心2人のやり取りに、微妙な和やかムードがつつむ中、放送が終了した。

「はい、冬にあっち側に行けるように練習練習。3時半開始にするから。スタートが後ろにづれるだけでいつもの午後練のメニューのつもりで。1年、ここ片付けて用意して」
「はい」

それぞれメンバーたちがパイプイスから立ち上がる。
片付けに入る1年生、部屋を出て行こうとする上級生。
真夏だけどクーラーがよく聞いた視聴覚室の喧騒。
1番最後に大きく伸びをしてから藤本が立ち上がった。

 

インターハイが終わると休みを2日取るのが滝川のチームの恒例だった。
だけど、今年はインターハイ自体に出ていない。
それでどうしようか、とりんねは少し考えたけれど、便宜的に決勝の日の翌日と翌々日に休みを入れることにした。
メンバーたちは、実家に帰るものあり、寮で過ごすものあり、それぞれ思うままに過ごす。

藤本は、滝川のターミナルから気づいていた。
滝川から室蘭まで行くには大きく分けて2通りある。
高速バスを乗り継ぐか、列車を乗り継ぐか。
列車は、特急を利用すれば早く着くことが出来るが、お金が倍近くかかってしまう。
高校生が、自分のお金で移動することを考えたとき、どちらを利用するかは考えるまでも無い。
イヤなものが見えたからって、バスを回避して列車で行く、というわけには行かなかった。

7月の終わりごろ、安倍が札幌から室蘭の地元の病院に転院したと連絡があった。
室蘭も、それなりには大きな町であり、病院等の施設はちゃんと整っている。
それと、回復しない原因は、主には体のほうではないですよ、ということで、地元でゆっくりと治療することになった。
藤本は、休みを利用して、そこへお見舞いに行こうとしていた。

滝川から札幌へ、そこでバスを乗り継いで室蘭へ。
夏の帰省ラッシュの直前のタイミング。
夏休み期間中ということもあり、札幌へ出るバスは、自分たちと近い年代でそれなりに席が埋まっていたが、札幌から室蘭へ向かうバスは、まだ午前中ということもあり空席が目立つ。
藤本は後部座席の窓側に座った。
後輩が比較的前の方に座っているのが分かっていながら、そこを素通りして。
りんねでも、まいでも、あさみでも間違いなく声をかけただろうけれど、麻美には声をかけようとはまったく思わなかった。

滝川から札幌へ、そこでバスを乗り継いで室蘭へ。
夏の帰省ラッシュの直前のタイミング。
夏休み期間中ということもあり、札幌へ出るバスは、自分たちと近い年代でそれなりに席が埋まっていたが、札幌から室蘭へ向かうバスは、まだ午前中ということもあり空席が目立つ。
藤本は後部座席の窓側に座った。
後輩が比較的前の方に座っているのが分かっていながら、そこを素通りして。
りんねでも、まいでも、あさみでも間違いなく声をかけただろうけれど、麻美には声をかけようとはまったく思わなかった。

藤本は、安倍が入院している病院の名前しか知らない。
1人で来たなら地図を見るなり誰かに聞くなりするところ。
だけど、すたすた歩いて行く麻美の姿を確認できたので、それに少しはなれてついて行くことにした。

麻美にとってここは地元。
地図など見る必要もない。
目的地に向かって迷いなく歩く。

少し距離を離れてついて行く藤本は、それがちょっと苦痛だった。
普段からきびきび動く藤本、1人でいるなら歩く速度は麻美よりもだいぶ速い。
それが、距離を保ったまま歩かなくてはいけないのは微妙にストレスがたまる。
後輩のストーキングをしているみたいでばかばかしくなって、よっぽど声をかけてしまおうかとも思うけれど、それもそれでうっとうしいと思いとどまる。

十分、15分くらい歩いただろうか。
ずいぶん住宅地に入り込むんだなあ、と思いつつ後ろをついて行く。
角を曲がって、一瞬姿が見えなくなることにも慣れてきて、慌てることなく藤本も角を曲がると、麻美がこちらを向いて立っていた。

「あ、お、おう」

お前も来てたのか。
偶然だなあ。
一緒に行くか?
なんだよ。
言葉の選択肢はいくつかあったけれど、藤本がそのどれかを選ぶ前に麻美のほうが口を開いた。

「こっち、病院じゃないですけど」
「へ?」
「うちです。こっちにあるの」

鳩が豆鉄砲を食らう、まさにそんな顔を藤本はしてしまう。
実家のある地元なのだから、まずは家に帰る。
そんな当たり前の発想が、藤本から抜け落ちていた。

「あ、いや。なつみさんちも見てみたいなあなんて」

何を言ってるんだ私は・・・。
そう、思いつつも、ごまかすべき適当な言葉が出てこない。
麻美は、くすりと笑った。

「見て行きますか? うち」
「ん? ああ。いいよ」

戸惑っている間に、安倍家同行が決まってしまっていた。

そこからさらに徒歩3分。
半歩前を麻美が歩いて、横には並ばない。

どこから気づいていたんだ?
病院はどっちにあるんだ?
家は近いのか?

何か会話を繋ごうかと、藤本は頭の中でシミュレーションするけれど、結局口は開かない。
そのまま無言で、安倍家へたどり着いた。

「ここです」
「へー」

うちよりだいぶでかい、と藤本は思ったが言葉にはしなかった。

麻美が門を開けてインターホンを鳴らす。
自分の家なのにインターホン鳴らすのか、と若干のカルチャーショックも感じる。
これくらいの家なら、中に盗まれて困るものもあるんだろうな、なんて思っていると扉が開いた。

「ただいま」
「ああ、おかえり」
「えっとー、美貴さん。2年生の先輩」
「あら。娘がいつもお世話になって」
「いえ、とんでもないです。2年生の藤本です」

こいつのお世話は、何もしてないな、と顔には出さず思う。
なつみさんのことは、洗濯とかお世話してたけれど。

「どうぞ、上がってください」

安倍家母に促され、玄関に入る。
中に入って改めて思う、いい家住んでるんだなあ、と。

「おじゃまします」
「どうするの? 麻美の部屋行く? それとも、リビングに上がっていただく?」
「うーん」

問いかけられた麻美が、藤本の顔をチラッと見る。
迷いの色が藤本には見えた。

「私の部屋で」
「じゃあ、お茶とか後で持って行くから」
「いいよ、それよりご飯用意しといて」
「はいはい」

麻美はそれだけ行って2階へ階段を昇って行く。
藤本も、軽く会釈してそれに続いた。

2階へ上がると部屋が3つあるのが分かる。
1つが麻美の部屋だとすると、もう1つがなつみさんの部屋で、残りが親の寝室なんかだろうか?
だいたい、2階に部屋が3つあること自体が、藤本家の感覚で言えばためいきものだった。

「何も無い部屋ですけど」

麻美に案内されて部屋に入る。
ベッドと机と、それに部屋の真ん中には、冬ならコタツになるのであろうテーブルが置かれている。
部屋を見渡して見るべきものは、壁の高い位置に張られた2枚の賞状があった。

「それ、室蘭の大会でベスト5に選ばれたときのです。ただの小さな地区大会なんですけどね。うちの親、大げさだから」

小さな地区大会の成果が、額縁入り賞状か・・・。
さっきから、少し家庭環境の違いを意識させられてしまう。

部屋には他に見るべきものは特に無い。
ぼーっと立っていても仕方ないので、座ろうと思うけれど、どこに座っていいのかも分からない。

「あ、座ってください」

麻美がクッションをコタツ用テーブルの横に差し出してきたので、藤本は大人しくそこに座った。
なんで私はこんなところに来ちゃったんだろう、と思うけれど、それと同時に、こいつにとっても災難なんだろうな、とも思う。
自分が、怖がられていることの自覚くらいは藤本にもちゃんとある。

座ったはいいけれど会話が無い。
藤本と麻美。
同じチームになってそろそろ半年近くなってくるが、2人だけで和やかに会話、などしたことがないのだ。
どうにも座りが悪く、間が持たない。

「あ、あの、なつみさんの部屋でも見ますか?」

藤本の顔色をうかがうように麻美が問いかける。
少し考えて、テーブルに頬杖をついて藤本が答えた。

「自分の家まで帰ってきて、なつみさんはないんじゃないの?」
「え?」
「なちねえ、って呼んでたっけ? 自分の家なんだから、先輩後輩しないで、姉と妹でいいんじゃないの? なちねえならなちねえで」
「じゃあ、あの、なちねえの部屋見ますか?」
「本人にいないのにいいのかな?」
「大丈夫ですよ。半分私の部屋みたいなもんですし」

ベッドに座っていた麻美が立ち上がる。
藤本も、ここに座ってたら居心地悪いままだ、と思うので立ち上がった。
思っていた通り、隣にあったのがなつみの部屋だった。

「意外にシンプルな部屋なんだな」

入って最初の藤本の印象。
もっとがちゃがちゃと、いろいろなものが置いてあるイメージだった。
だけど、ベッドと机、それに、麻美の部屋にはなかった本棚とCDラックが加わるくらいで、落ち着いた印象を受ける。
他には、麻美の部屋同様に額縁入り賞状が数枚あり、さらにぬいぐるみが2ついるくらいだった。

「なちねえ、もう2年以上いないから」
「そうか。そうだな」

ここには年に一二度戻るだけ。
暮らしの中心は滝川の寮なのだ。
今は、病院ではあるけれど。

「半分お前の部屋ってどういう意味?」
「本とかCDとかはこっちに置いてるんです。なちねえの部屋の方が広いから、ものはこっちに置くことにしてるんです」

賞状は、室蘭市の大会もあったけれど、北海道レベルの大会のベスト5のものもあった。
そして机にはメダルも飾ってある。

「なちねえは、中学でベスト4まで残ったからメダルもらえてるんです。私は、16で負けちゃったから何も無いけど」

藤本は、同じ系統でもう少し大きなメダルを持っていた。
2年続けて2位に入っていて、全国大会に進んでいる。
家にあるはずの藤本のメダルは、きっと机の奥に放り込まれている。
そんなこともぼんやりと思い出した。

今度は座り込んでCDラックを眺める。
最近のものは、なつみさんはいないはずだから麻美が買ったのだろう。
そうすると、古い方がなつみさんの方だろうか。
そんな風に思いながら見ていると、麻美が解説してくれる。

「なちねえ、ジュディアンドマリーが好きで、いつも聞いてました。なんか元気が出るって。後で持って行ってあげようかな」

古い曲がすきなのは、なんだかなつみさんらしいな、って思う。
それと同時に、そういうなつみさんの話を自分は聞いたことがなかったな、とも思った。
自分のことは結構なつみさんに話したような気がする。
バスケの話は、なつみさんと結構したような気もする。
だけど、なつみさんの普段の生活みたいな、そういう話は、ほとんど聞いていない。

そうこうするうちに、階段の下からごはんできたわよ、の声が届く。
なんとか間が持ったことに、藤本もほっとしたし、麻美もほっとしているように藤本から見えた。

お手製チャーハンとスープ。
藤本が来たのは突発的な出来事のはずなのに、予定通りのことのように普通にお昼として出てきた。
そういえばなつみさん料理結構上手だったかな、なんて思い出す。
食卓で1番しゃべっているのは、藤本でも麻美でもなく、安倍母だった。
娘が友達を連れてくる、遠く離れている今はめったにありえない機会である。
あれもこれも聞いてみたい。
第3者から見た自分の娘の暮らしぶり。
だけど、藤本と麻美の仲の実際は・・・。
などということを伝えられるわけもなく、2人は今だけそれなりに仲のいい感じを演出する共犯者になる。
藤本のほうは言葉に詰まりながら答えるのに大変だが、麻美の方は簡単だった。
娘の伝家の宝刀、「お母さん、うるさいしつこいあっち行って」で全てを済ませればいいのだ。
せっかく親の目の届かないところにいるのに、そこでの暮らしぶりを聞かれるのは、実際問題、うるさいしつこいあっち行け、と言いたくなる事柄ではある。

そんな、かしましいお昼を終えて、2人は安倍母の車に乗って病院へ向かった。
今日室蘭まで来たのは、安倍家の家庭訪問ではなくて、病院へのお見舞いが本当の目的である。
安倍母は外で待っていると言う。
お昼ごはんにあれこれ娘のことは聞いても、娘同士、あるいは友達同士と言うか先輩後輩同士の、大人が入らない方がいい対話もある、というのが分からない人ではない。
藤本と麻美は、安倍の病室に2人で入っていった。

「寝てますね」
「うん」

昼下がり。
北海道とはいえさすがに暑い季節であるが、それを和らげる冷房が効いた部屋。
太陽の光が持つ強いエネルギーが、適度に中和されてこの空間に与えられている。
病院特有の、じめじめした雰囲気を感じないでいられる穏やかな雰囲気を纏った1人部屋。
その部屋のベッドの上で、安倍なつみは静かに眠っていた。

「起こしますか?」
「いいよ。そのうち起きるでしょ」

そう言って藤本はベッドの横の丸いすに座る。
麻美は、花瓶の花とその水を代えるために、部屋から出て行った。

「いつ見ても寝顔は天使なんだよなあ」

布団から顔だけ出して眠る安倍。
時々寝息が漏れる。
無防備な、そんな姿が、どうにも天使のように見える。
麻美が花瓶を持って戻ってきた。

「よく寝ちゃってますね」
「なつみさんってやっぱり、平和だよなあ」

穏やかな表情が安倍には似合うと藤本は思っている。
ヒステリックに、帰れ! と枕を投げつけるような姿は、安倍じゃなくて自分のほうが似合っているはずなのだと。
いつになったら、目覚めている安倍の、穏やかな姿が見られるようになるだろうか?
帰ってきてくれるだろうか?

「退院の見込みはどうなの?」
「もう少ししたら、リハビリさえしっかり通院してやってくれれば退院出来るって先生は言ってるらしいんです」
「リハビリしないんだ」
「なっちは歩けるようになっちゃいけないんだって、言ってるみたいです」
「歩けるようになっちゃいけないか・・・」

安倍が抱えている自罰意識。
そういうことを感じるのは仕方ないかもしれないけれど、でも、それじゃいけないんじゃないかと藤本は思う。

安倍は目覚めない。
藤本は立ち上がって窓際に向かった。
病院の4階。
窓の外からは海が見える。
北海道中央部で生まれ育った藤本にすれば、窓の外から海が見えるというのはかなり贅沢なものに感じる。
安倍姉妹に背中を向けて、藤本は海を眺めていた。

「おはよう。なちねえ」

麻美の言葉に藤本もゆっくりと振り向く。
安倍が目覚めたらしい。
寝起きのぼんやりとした表情で安倍は麻美の姿を認める。
ベッドからずりでて、枕を背もたれにするようにして体を起こす。
そこで気がついた。

「藤本も来てたんだ」

特に咎めるでもなく、反発するでもなく、事実の認識としてそう言っている。
藤本は、窓際に立ったまま軽く頭を下げた。

「ずいぶんいい部屋に入院してるんだね」
「うーん。知らないけど、お母さんが全部決めてくれたから」

とりあえずの一言目。
今日は、いきなり帰れとは言われずにすみそうではある。
前に札幌の病院に言ったときは、麻美の方は、藤本となつみが怒鳴りあった直後に部屋に入っていって、まともな会話もないままに帰ることになっていた。

「日当たりいいし、海見えるし、1人部屋だし、いいじゃない」
「うん、なんか、落ち着いちゃってる」
「だめだよ、ここに居ついちゃったら。早く退院出来るように思ってないと」

薄く微笑むだけで、安倍は妹に答えを返さない。
そんなやりとりを、藤本は窓に寄りかかるように立ち、少し離れたところから見ている。

「でも、体調は悪くなさそうだね。ご飯とかは食べれてるの?」
「別に病気じゃないし。病院のご飯はおいしくないけど、それなりには食べてるよ」
「逆に動かなくなって太ったりしてね。なちねえ、中学で部活引退した後すごい太ったもんねえ」
「そんなこともあったね、そういえば」

やめてよー、とか言われるかと思っていたのに、麻美としては少し拍子抜けな反応である。
言葉を繋ぎきれなくて少し迷っていると、安倍が先に口を開いた。

「2人、仲よくなったんだね」
「2人?」
「藤本と麻美」

2人、と言われて麻身と藤本は顔を見合す。
ちょっと戸惑っている2人のうち、藤本のほうが答えた。

「別に、仲良くなったわけじゃないですよ」
「でも、一緒にここまで来たんでしょ」
「たまたまですよ。偶然こっちで鉢合わせて、それでなつみさんの地元だし、連れてきてもらっただけで、別に仲いいってわけじゃないです」

そこまで言うと藤本は、安倍の横まで歩いてきて丸イスに座る。
安倍と藤本と、2人で麻美の方を見ると、その通りです、という感じでうなずいた。

「気になるんですか?」
「何が?」
「チームのこと。私とこの子が仲悪くてどうとか気になってたなら、チームのこともやっぱり気になるのかなって」

安倍のいるベッドを挟むような形で藤本と麻美は座っている。
藤本に問いかけられて、安倍は視線を外してうつむく。
少しの間を置いてから口を開いた。

「うん。そりゃあ、ちょっとは」
「そうですか。あれから、私が札幌の病院に行ってから、梓さんがいなくなりました」
「なんで?」
「責任感じてたみたいです。それに、ひろみさんの声が聞こえてここにいるのは辛いって。それから、先生も辞めました。責任取るとか取らされるとか、よくわかんないですけど、とにかく辞めました」
「そっか・・・。みんな私のせいなのかな・・・」
「なつみさんのせいじゃないですよ別に。それで、いまはりんねさんが全部仕切ってやってます」
「りんねが?」
「はい。先生いなくなっちゃったし、キャプテンはどっかのベッドでのんびりごろ寝してるから、りんねさんが1人で全部やってます。すごい大変そうだけど、逃げずに、ホントに全部背負って頑張ってくれてます」
「そっかぁ・・・」

遠くを見る目。
うつむいていた顔を上げて、ソファがわりの枕に深く寄りかかって、白い壁とその向こう、遠くに見えない何かを見つめる。

「りんねなら、大丈夫だよ。あの子、責任感あるし、なっちなんかよりずっとしっかりしてるから。だから、支えてあげて」
「ひとごとなんですか?」
「え?」
「ひとごとなんですか? なつみさんは自分が戻ってりんねさんを支えてあげようとは思わないんですか?」

藤本に問い詰められて安倍は目をそむける。
それほど強い口調ではないのだが、藤本がこの表情で迫ってくると責められている気持ちになる。
藤本は、丸イスから立ち上がった。

「なつみさん。私はなつみさんじゃないから、足がどれだけ痛いかは分からない。ひろみさんのことでどれだけつらい思いしたのかも、ホントは分からない。だけど、ここでずっとこうしてたって、誰も喜ばないのはわかります。いつまでもいじけてないで早く帰ってきてください」

藤本の言葉に安倍は答えない。
じっとうつむいて、答えない。

「なつみさん!」

ふとんの上にぼんやり置かれている安倍の手。
自分の言葉に反応しない安倍に少しいらだって、藤本はその手を揺さぶった。

「帰れないよ」

口を開いた安倍。
藤本は安倍の手を離す。

「なっち1人帰れるわけないよ。梓も出て行っちゃったんでしょ。気持ち分かるもん。それに、なっちが・・、なっちがちゃんとトラックよけてれば、ひろみは死なずにすんだんだもん。なのに、なっち一人が元気になってチームに戻ってバスケするなんてありえるわけないよ」
「全然違う。全然おかしい。何言ってるのかわかんない。全部トラックが悪いんじゃないですか。なつみさんが悪いわけじゃない。それにだいたい、1人で罪を背負ったみたいな顔してたって誰も喜ばないじゃないですか。迷惑なだけですよ。余計なことごちゃごちゃ考えてないで、リハビリして、歩けるようになって、早く戻ってきてくださいって。その方がみんな喜びますから。私も、チームのみんなも。ひろみさんだって、きっとそう願ってる」
「出来ないよ。歩けなくなるのはなっちへの罰だから」
「なんでそう悲劇のヒロインみたいに浸ってるんですか! リハビリすれば歩けるようになるんでしょ!」
「うるさいよ! 藤本には私の気持ちなんかわかんないよ! バカ!」

次第に感情が高ぶって、気づけばまた怒鳴りあいになっていた。
麻美もその場にいるのだが、先輩と姉の雰囲気には割って入れない。
相手に怒鳴られて、先にはっとしたのは藤本のほうだった。
今日は落ち着いて話そう、そう思ってここに来たのに、またやってしまった。

「すいません。ちょっと言い過ぎました」
「あ、うん。ごめん。なっちも、怒鳴ってごめん」

安倍も安倍で、相手が大人しくなると自分も神妙になる。
今の安倍のルールでは、自分が誰かに対して怒鳴りつける、なんてことをしていい立場ではないのだ。
自分は誰かに責められたとしても、じっと耐えなくてはいけない。
そんな立場。
全ては自分が悪くて、全てを受け入れなくてはいけない、そんな立場。
どんなにいらだっても、相手を怒鳴りつけてなどしてはいけないのだ。

「でも、これだけはわかってください。ひろみさんがいなくなって、他にもいろいろな人がいなくなって。ばらばらになりそうだったけど、私たちはもう1回頑張ろうって、みんなで決めました。私は、こんないい加減だから、流されるままで、もうダメかなって思ったりもしたけど、りんねさんがもう1回みんなで頑張ろうって言ってくれたから、りんねさんが引っ張ってくれたから、頑張ろうって思えました。みんな、なつみさんのこと待ってます。きっと帰ってくるって。だから、なつみさんはつらいかもしれないけど、私たちや、ひろみさんのために、頑張ってください」

安倍はうつむいて答えない。
藤本の言っている事は分かる。
分かるけれど、答えられなかった。

「私たちは、ひろみさんの分も頑張るって決めました。なつみさんのことは、私たちはずっと待っています。だけど、もう、ここには来ません。なつみさんは、自分の足で寮に、体育館に戻ってきてください」

藤本が語っている間、安倍は視線を合わせてくれなかった。
それでも、話を聞いているのは分かる。
安倍は、結局何も答えてはくれなかった。

「それじゃあ、失礼します」

頭を下げて、藤本は出て行こうとする。
少し慌てて、麻美が呼び止めた。

「美貴さん」
「外の、受付あたりで待ってるから」

それだけ言って扉を開けて出て行こうとするけれど、麻美の困ったような顔を見てもう一言続ける。

「家族だけの会話とかあるだろ。私は外で待ってるから」
「でも」
「ちょっと、私も1人になりたいからさ」

頼りないような、少し疲れたような、それでいて後輩を思いやるような、そんな藤本の薄い微笑み。
麻美は、藤本にそんな風に笑みを向けてもらえるのは初めてだった。

「はぁ、分かりました」
「ゆっくりでもいいから。待ってるから」
「はい」

藤本は麻美を残して病室を出て行った。

扉を閉めて大きくため息。
なつみさんは戻ってきてくれるだろうか?
言いたいことは言った。
だけど、それに対する手ごたえみたいなものはなかった。
自分が来た意味は何もなかった気もする。

階段を1階まで下りて、受付前に並ぶ長イスに座った。
ふとももにひじをついて頬杖をつく。
長い距離を移動して、なぜだか麻美の家に行くことになって、和やか風な食事までして。
体力なら十分にあるけれど、それとは関係無しにちょっと疲れた。
言いたい放題やっているように見えるけど、それでも藤本美貴だって気を使ったりすることもある。
それはずいぶんと疲れること。
言いたいことを言うのも、相手がそれを言われるのはきっとイヤだろうと分かっていながら言うのは、結構疲れること。
天然じゃないから、分かっていてやっているから、藤本美貴も楽じゃない。
ぼんやりと考え事をしていたら、そのまま眠ってしまっていた。

目が覚めたら、隣に麻美が座っていた。
それが分かりながらも、大きくあくびをして、目をこする。
眠い。

「いつからいた?」
「いえ、ちょっと前です」

目をこすりつつ時計を確認する。
藤本が安倍の部屋を出てから40分ほど経っていた。

「なつみさんと結構話して来た?」
「あ、はい。20分くらい」
「ちょっと前じゃないじゃんか。起こせよ」
「なんか、気持ちよさそうに寝てたから」

あまり後輩にいたわられたりしたくない。
ましてや、あまり好きでは無い相手ならなおさらだ。
どちらかといえば、怖くて起こせなかっただけだろうな、とは思うけれど。

「なつみさん、なんか言ってた?」
「美貴さんは強くていいなあって言ってました」
「私のことはどうでもいいんだけどさ。これからどうするとか。そういうのは?」
「なんか、迷ってるみたいです。私は頑張ってもいいのかなあ? みたいなこと言ってました」
「そっか・・・」

迷うところまで気持ちが動いてくれたなら、自分が会いに来た意味はちょっとはあったのかもしれないと思う。
こんな遠くまで来れるような休みは、もう冬の大会が終わる年末まではきっとないだろう。
後は、待つことしか出来ない。

「帰るか」
「はい」

2人は立ちあがった。

麻美が電話で母を呼び、車を出してもらう。
藤本は駅、もしくはバスターミナルへ直行してそのまま帰るつもりだったけれど、安倍母の方は何のためらいもなく家へ車を進めた。
土地勘のない藤本は突っ込みようもなく、気がついたら安倍家前へまた戻っていたという形になる。
仕方ないのでもう1度安倍家に上がった。

今度は直にリビングへ案内されて、紅茶とケーキが出てくる。
今日は1日、育ちの違いとか、家庭環境がとか、そんなことを認識させられてばかりだ。
時計はもう夕方近い時間を指し示している。
ケーキも紅茶もおいしいけれど、あまりゆっくりしていられる時間ではなかった。

「あのさ、もうそろそろやばくない?」
「何がですか?」
「時間。バスの時間」
「あら、藤本さん、泊まっていかれるんじゃないの?」
「へ?」
「麻美と一緒にいらしたから、てっきり泊まっていかれるとばっかり」

藤本は怪訝な顔で麻美の方を見る。

「あ、私、今日はこっちに止まって、明日帰るつもりだったんですけど・・・」

聞いて無いぞそんな話・・・。
冷静に考えれば想像できることだ。
休みが2日あって、滝川と室蘭にはこの距離があって、1日目にここに帰ってきた。
親子の確執とか、そんなものがなければ、普通に考えれば娘は1泊していく。
ただ、一緒に来たからといって藤本まで一緒に泊まって行くという想像は、何かが違うかもしれないが。

「いいじゃない。藤本さん泊まっていきなさいな」
「そんな、ご迷惑ですよ」
「そんなことありませんって。娘がいつもお世話になってるんですし。着替えも、なつみの置いていった服なんかもありますし。ほら、体型も藤本さんと近いし着られるんじゃないかしら。あ、でも、藤本さんの方がスレンダーでスタイルいいから、体型が似てるは失礼かしら」
「そんなことはないですけど」

体型で似てるのは身長くらいで、後のパーツはいろいろと大きさがなつみさんと比べて足りてないような気がしている。
口に出して言ったりはしないけれど。

「じゃあ、決まりね。今日のお夕飯は腕によりをかけて作らなくっちゃ」
「あ、いえ、あの」
「麻美。紅茶足りなかったら、ポットにお湯はあるから自分で作ってね。私は買い物に行って来るから」
「ちょ、ちょっと、あの」

圧倒されて藤本が断りきれない間に、安倍母は本当に買い物に出かけて行ってしまった。
困惑の色を藤本は浮かべるが、麻美の方もどうしたらいいんだか、という表情である。

「美貴、まだ泊まるとか言ってないんだけど・・・」

麻美の方もなんとも答えにくい。
藤本さんと丸1日一緒にいるのは、いろいろな面できびしいものがある。
後をついて来られてるのに気づいたとき、自分だけ家について藤本が途方にくれたらあまりにかわいそうだからと声をかけたが、やめておけばよかったかも、ちょっと後悔したりもする。

「なんか似てるな?」
「なにがですか?」
「なつみさんとおばさん。こうと決めたらいきなり人の話し聞かなくなるところが」

藤本のこの言葉で、麻美がぷっと吹き出す。
ずっと一緒に暮らしてきて、それを1番実感してるのが麻美だった。

「美貴さん、帰るって言ってももう聞いてもらえないですよ多分」
「大体、私、外泊許可とか取ってきてないんだけど」
「りんねさんなら、電話だけでも大丈夫そうですけど・・・」

藤本美貴、ため息1つ。
なんでこんなことに・・・。
麻美の後をついて、ストーカーまがいなことをした自分が情けない。

「2号はいいの?」
「美貴さんが泊まることですか?」
「うん。だって、私のこと嫌いでしょ」
「そんなことないですよ!」

麻美が藤本に対して嫌いだと言ったことは1度も無いし、そんな態度を示したことも1度も無い。
ただ、藤本的には嫌われることをしてきた心当たりがありすぎるので、そういった認識になっている。
これまで、麻美の側が藤本に対して、なんらかの感情を表に出して示す、という機会そのものが1度もなかったのだ。
なのに、嫌い、と断定されるのはちょっと心外だったりする。
苦手であることまでは間違いないのだろうが。

エアコンの冷房の音が少し聞こえてくる部屋の中。
藤本はまたため息1つ。
麻美はティーカップを口に持っていった。
夏なんだからホットじゃなくてアイスの方が良かったな、と少し冷静に思う。
藤本の方は、もう帰れる雰囲気じゃない、と覚悟を決めた。

「電話かして」
「寮にかけるんですか?」
「外泊許可取るよ。しょうがない」

しぶしぶ。
口調も顔も、そう主張している。

「そこにあります」
「番号分かる?」
「寮のですか? ちょっと待ってください」

麻美がカバンから携帯を取り出し、寮の番号を開いて藤本に手渡した。

「携帯持ってるんだな」
「中学の時の、そのまま契約切らずに使ってます」
「使うって使えなくない?」
「学校は電波来るから」
「なんかむかつく」

今時、電波が届かないところに寮がある、というのもすごいことであるが、ともかく、寮と学校の往復で、濃い仲間は全員一緒に暮らしている藤本としては、携帯は無用の長物である。
寮のメンバーも同様にほとんど携帯は持っていない。
中学のときに使っていてそのまま、という麻美のような数人が例外的に持っているだけ。
滝川生まれ滝川育ちの藤本的には、なんとなく都会を見せ付けられた感じで面白くなかった。
室蘭を都会と表現するのは、一般的感覚とはかけ離れているが、相対比較ではそうなってしまう。

「冬とか、遠征の時には連絡係にされるぞ」
「そうかもしれないですね」

ぶつぶつ言いながらも藤本は寮に電話をかけた。
りんねに繋いでもらって外泊許可を取る。
りんねの声がはっきりと、意外だ、という感情を伝えてきたのでさらに機嫌も悪くなるが、それでも外泊許可は取り付けた。

とりあえず、元の席に戻って残りのケーキをつまむ。
セットで出てくるケーキと紅茶は藤本にとっては結構貴重なもの。
最後まで堪能しないといけない。

ゆっくりと味わって食べた。
フルーツタルトは、まあきっと、普通のお店の味なのだろう。
何かを口に運んでいないと間が持たなかった。
少しうっとうしかったけれど、それでも潤滑剤になっていた安倍母の存在。
それがいなくなって麻美と2人にされると、特に会話もなくどうしていいのかこまってしまうのである。

ケーキ皿も空になり、ティーカップも空になり、さていよいよすることがなくなった。
何か話題を振るにしても微妙なものがある。
いきなりフレンドリーになるのも違和感たっぷりだし、かといって冷たい態度を取るなら話題を振ること自体違和感ある。
空のティーカップを手に取ったり戻したり、藤本は落ち着かない。

「暇だし、ゲームでもしますか?」
「ゲーム?」

麻美が口を開いた。
ティーカップを見つめていた藤本が顔を上げる。

「なんか、ゲーム。暇じゃないですか」
「うん、そうね」

どうしていいのか困ってしまっていたのは藤本だけじゃない。
麻美の側からすれば、怖い先輩と2人にさせられているのだ。
それも、ただ怖いのではなくて、自分のことを嫌っていそうな先輩である。
無難に時間を過ごせる方法を考えた結果、これだ、と思い当たったのがゲームだった。

「じゃあ、2階のなちねえの部屋に行っててください。私、紅茶継ぎ足していきますから」
「分かった」

お互いほっと一息。
妙な緊張感から解放された。

藤本はなつみの部屋へ。
なるほど確かにテレビの下にゲーム機が置いてある。
他人の家だし触っちゃ悪いかなと、大人しく待っている。
やがてティーセットをトレイに載せて麻美が入ってきた。

「何やりましょうか」

おもむろにテレビラックを開けてゲーム機を取り出す。
プレイステーション。
そしてソフトも並べる。
選択権は藤本にあるらしい。

「なちねえ、ゲームっ子だったんですよ。こっちにいるときはよく夜中までやってたみたいで。全部なちねえが買ったんです。私が選んだのは1個も無いから、よくわかんないのも結構ありますけど」

ロールプレイングゲームが結構多い。
2人でやるのにこれはなぁ・・・、などと思いながら、ソフトのタイトルを眺める。
1つ、人と人が対戦するのに向いているゲームがあった。
ただ、自分がこれをやるとムキになってしまうかもしれないとも思う。
それを手にとってじっと見つめていると、横から麻美が手を伸ばした。

「金太郎電鉄いいですね。これやりましょうよ」
「うん。いいよ」

やろうというなら嫌がる理由は何も無い。
麻美がソフトをセットしてゲームスタート。

単なる暇つぶしの間つなぎのはずが、始めてみると、やはりはまってしまった。
勝負事はムキになる。
麻美のほうも、先輩だからといって遠慮はしない。
2人の間に、ゲームの中という仮想空間での会話が成立するので、微妙な空気が流れずにすんだ。

夕食の時間になってもゲームは終わらない。
安倍母がいろいろと話を振るのに、適当にあわせるだけで話題が広がらない。
藤本の頭の中は、自分に取り付いてキングビンボーをいかにして他人に擦り付けるかでいっぱいだ。
貧乏はイヤだ。
藤本の人生哲学かもしれない。

食後、ゲーム再開。
キングビンボーは処理に失敗すると一気に奈落の底まで落とされる。
そのダメージを回復させきれず、藤本は麻美にも、適当に混ぜたコンピューターキャラにも負けてしまった。

「あー、むかつく。すげーむかつく」

麻美は隣で苦笑い。
ちょっと勝ちすぎたかも、と思う。
普段、バスケで勝てないのだから、ゲームくらい勝ってもいいよね、とは思うけれど、ちょっと怖い。

ゲームが終わった頃、安倍母がやってきてお風呂に入っちゃいなさいと促す。
先に藤本が入って、入れ替わりに麻美が入る。
藤本が上がってくると、麻美の部屋に布団が敷かれていた。
ここで眠れという事なのだろう。
仲良し先輩後輩じゃないのにな、と改めて藤本は思う。

麻美もお風呂から上がってくる。
まだ深夜という時間ではないが、楽しいお泊り会という趣旨ではないし、普段の生活習慣もあるし、髪が落ち着き次第すぐ眠ることにする。
麻美が、自分のベッドの方を使ってください、と言ったが、藤本は、アンタのベッドでなんか寝たくない、と拒否した。
ただ、口調は柔らかかったし、笑みも混じっていた。

翌日、朝のある程度落ち着いた時間に安倍母にバスターミナルまで送ってもらう。
そこからは2人で滝川の寮までの道のりを帰る。
行きがかり上、ばらばらになるわけにもいかない。
隣り合って座る。
藤本が窓側に、麻美が通路側に。
バスの中では眠ってしまうので、間が持つとか持たないとか、あまり関係なかった。
札幌までついて乗り継ぎ。
ちょうどお昼の時間帯。

「ここでご飯食べて行くか」
「そうですね」
「あと、買い物でもしてくか」
「買い物ですか?」
「買う金なんかねーけどさー。札幌だし」
「そうですねー」

藤本にとってめったに近づけない札幌という街を素通りして帰るなんてありえない。
隣にいるのが口を聞くのも顔を見るのもどうにも耐えられない相手だったりすれば話は違うけれど。
麻美が笑顔を見せると、藤本も薄く微笑んだ。
笑うと、余計なつみさんに似てるんだな、と思った。

 

ひろみへ

今はどこにいるのでしょうか?
天国とか、行ったことないからよくわからないや。
そのうち、私にも行けるのかなあ?
でも、どこかできっと、私たちのことを見ていてくれていると思ってます。

私たちはみんな元気です、とはちょっと言えないかな。
梓は、チームを離れて実家に帰ってしまいました。
なつみは、今もまだ入院してる。
ひろみを後ろに乗せていたのがやっぱりショックみたいです。

なつみのせいじゃないんだけどさ。
それは分かってるけど、でも、気にしないでいいよ、とは言えないんだよね。
起きてしまったことが、起きてしまったことだから。
なつみは、けがのせいよりも、その、責任感じちゃってる部分とかで、帰って来れないみたい。
だから、私たちは、元気、ではありません。

それでも、少しづつ、また歩き始めました。
ひろみがいなくなってすぐの頃なんか、ホントに大変だったんだから。
みんな、誰も、何もする気にならないし。
負けたこと無かったのに、北海道の予選なんかで負けちゃってさ。
先生も、いろんな責任感じてなのか、いろいろ言われてなのか辞めちゃうし。
なにもかもなくなってしまいそうで、とても怖かった。
苦しくて、悲しくて、さびしかった。

それで、なんとかしなきゃいけないって思って。
私が、キャプテン代理みたいな感じになりました。
私がだよ。あの、私が。
人の上に立つとかさ、誰かを引っ張るとかさ、そういうの苦手だったのに。
でも、もう、私がやるしかなかったから。

キャプテン代理にはなったけど、キャプテン部屋には移らずに、元の部屋のままいます。
寮の部屋、狭いなあって思わなかった?
私、最初にきたとき思ったんだ。
うち、別にお金持ちとかじゃないけど、ちゃんと私1人の専用の部屋があって、それが、ここと同じくらいの広さだったんだ。
だから、それを2人で使うって言われて、狭いなって。
でもね、1人になって思うよ。
この部屋は広いなって。

ひろみがいなくなって、最初、眠れなかった。
なんかね、1人なことが不安で、さみしくて、眠れないの。 
おかしいでしょ。
もう、子供でもないのにさ。
でもね、でもね、ずっと一緒にいたじゃない。
高校入ってからさ、遠征のときとか別の部屋になることもあったけど、それでも、1人部屋で1人で寝ることって無かったじゃない。
それがさ、急に、1人で寝ろって言われても、さみしいよ。
最後に電気消すのってひろみだったでしょ。
なのに、今は、私が自分で消して。
それで思うんだ。
ああ、ひろみはもういないんだ、って。

今は、もう、ちゃんと眠れてるけどね。
でも、さみしいです。
カギも今は開けたままだからさ、戻ってこない?
なんて、そんなことが出来ないことはわかっています。
だけど、なんとなく、ひろみが戻ってきてくれるんじゃないかって気がして、部屋のカギは夜も開けたままです。

チームは、冬の選抜に向けて動き出しました。
インハイの予選で、ベスト4にも残れなかったから、今年は国体もなくて、時間をかけてチーム作りが出来そうです。
ずっと、みんなやる気が出なくて、私もそうだけど、何かを目指すなんて気分じゃなかったんだけど、このままじゃいけないって、そう思って、また、練習を始めました。
みんながね、なんとか私についてきてくれるって言うか、後ろから支えてくれるって言うか、してくれるので、何とかキャプテン代理やってます。
もう1度動き出そうって思ったとき、1番気になったのは藤本でした。
うちのチーム、特に、中心になる2年生がさ、藤本の影響受けやすいでしょ。
それで、あの子、やる気ないとすぐ顔に出るじゃない。
だから心配だったんだけど、なんとかやる気は取り戻してくれたみたいです。
おととい、インハイの決勝見てて、空気読めない女嫌い、とか言ってましたし。
かわいい顔してるんだからもうちょっとやわらかい表現すればいいのにね。

今頃はこっちに帰ってくるバスの中かな?
藤本は昨日、なつみのお見舞いに室蘭まで行きました。
麻美とは別々にね。
麻美だけ外泊許可だしてて、藤本は日帰りなのかなって思ったら電話かかってきて外泊許可下さいって言うから、どこ泊まるの? って聞いたら、なつみさんちだって。
目的地同じだから途中ではちあわせたんだろうね。
でも、藤本が麻美の家に泊まるって、どういうシチュエーションでそんな風に決まったんだろ。
電話の声はね、ちょっと不機嫌そうでした。
あの2人が仲良くなってくれればいいんだけど。
帰ってくるのが楽しみなような怖いような。

まいは、ちょっと元気ないかな。
この前、練習終わって、なんか暗い顔して座り込んでるからさ声かけたら、5対5の時、ずっとマッチアップ梓さんだったんですよ、って。
すごいさみしそうな顔して言うんだ。
なんか、何も言えなくなっちゃってさ。
それでね、その後にね、いつまでもそんなこと言ってちゃいけないって分かってるんですけどって。
あの子、年は下だけど、ホントは私なんかよりずっとしっかりしてるんだよね。
だから、自分がしなくちゃいけないことと、自分の気持ちの間に、なんかギャップがあるのが埋められなくて苦しいのかもしれない。
こういうのって、キャプテンはどうして上げるべきなのかなあ?

あさみは、うーん、あさみですって感じ。
あの子はまだ親離れが出来てない。
だけど、ひろみにも言われたけど、それは多分、私が子離れできてないからなんだろうなって思う。
正直、最近、なにかあるとあさみ相手にぐちを言ってしまってる気がします。
あの子、前はそうでもなかったのに、最近は、私のぐちもだまって聞くようになりました。
ありがたいんだけどさ。
でも、なんか、私までいなくなったらどうしようとか、そういうの怖がってるのかもって思う。
あの子やさしすぎるんだよね。
悪いことじゃなないんだけど、バスケの中ではさ、それはちょっといいこととは言い切れないじゃない。
なんかこう、試合に出るんだー! みたいな気合いがなくて、チームが勝てばそれで満足みたいな部分があって。
もうちょっと、きびしく接した方がいいのかな、なんて思ってます。
そのためには、私があさみに頼るのやめないといけないんだけどね。
そっちの方が大変かも。

インターハイが終わって、夏が半分過ぎました。
明日からは練習再開。
しばらくは、インハイ明け恒例のランランランウィークです。
走って走って走って。
今年は、先生もいないから、私が鬼役だよ。
自分も余裕ないのに、怒ったりとか、きびしく練習出来るのかなあ・・・。
ちょっと自信ないかも。

私たちは、まだ、あまり元気ではないです。
だけど、もう1度頑張ってみようと決めました。
ひろみのことは悲しいし、忘れることは出来ないけれど、胸に置いたまま、もう1度、今いるみんなで頑張ってみようって決めました。
私たちは、バスケをするためにここに集まって、バスケをするために3年間過ごしています。
みんな、ひろみも、多分そうだったはず。
だから、悲しんでばかりいないで、もう1度みんなで頑張ろうって。
その方が、ひろみも喜んでくれるんじゃないかって、勝手に思いました。

ひろみは、どこかで私たちのことを見てくれていますか?
天国というところがどんなところか私には分からないけれど、そこで楽しく暮らしていますか?
頑張ってみることにはしたけれど、やっぱり私はひろみにもう1度会いたいです。
でも、きっと、いつか会えるよね。
いつか、私が天国へ行って。
行けなくて、地獄行きとかだったらやだなあ。
そうなったらごめん。
でも、ちゃんと天国へいけたら、また一緒に楽しくバスケしましょう。
それとも、バスケはもういいかな?
あ、今思ったけど、私がおばあちゃんになってから天国に行ったら、ひろみだけ若いままで、私はおばあちゃん?
それ、なんかずるいかも。
ひろみも、天国でちゃんと年を取っていてね。
うん。1人だけ若いのなんて許しません。

いつか、また、どこかで、きっと、会えると信じています。
私は、それまで頑張る。
だから、ひろみは、どこかで、私たちのことを見守っていてください。
ひろみが、天国でいい人を見つけられることを願っています(笑)
それじゃあ、また。

 

りんねは、ペンを置き、自分が書いた手紙を眺めると優しい笑みを浮かべた。
決して、届くことのない手紙。
便箋をたたんで封筒にしまう。
封筒には、ただ、ひろみへ、とだけ記されて。
のりで封をして、シールも貼った。
もう1度両手で持って眺める。
それから、自分の机にしまった。

決して届くことのない手紙。
だけど、きっと、届くんじゃないかな、と、そう思っていた。