ファーストブレイク

 

第六部

国体が終わり1週間が経った。
それぞれがそれぞれの地元に帰り、また、次の目標に向かって歩き始める。
新しい目標に塗り替わる者もいれば、同じ目標へ再挑戦の者もいる。
2度挑んで2度負けた彼女も、日常に戻ってもう1度やり直しである。

「このままやめた方がいいんじゃないのって、お母さんに言われた」
「なんで! もうすぐ怪我治るんでしょ!」
「そうだけど、やっぱり受験もあるし」

日暮れの時間が大分早くなってきた秋。
練習が終われば外はとっくに暗くなっている。
学校から駅までは通常ならば徒歩十分。
時折酔っ払いは姿を見せるものの、基本的には明るく安全な商店街のアーケードを抜けて歩いていく。
是永は、まだ足を引きずる川島を気遣い、ゆっくりと歩いていた。

「受験くらい幸なら大丈夫だよ」
「だったらいいんだけどな」
「なんで、学校でいつも1番の幸ならどこだって受かるでしょ、東大とか言わなきゃ」
「学校で1番なんて学校の数だけいるって、中学校の部活の先生に言われた。それでうちに来たら、本当に学校の数だけ1番がいたよ」
「バスケと受験は関係ないでしょ」
「うち、結構大学行くけど、すごい進学校ってほどでもないし。その中で1番でも自信はもてないよ」
「だからって、まだ2年生だよ。そんな先のこと考えなくても」

中村学院はバスケットボールの名門校。
全国に向かって門戸を開いていて、各地から選手が集まってくる。
是永も、川島も、それぞれその門を叩いた1人であるが、少し立場が違った。
私立なので、バスケがうまければそれだけの推薦で入学でき、それを利用して入ってきたのが是永。
それに対して川島は、一般受験をきちんとしている。
このチームは、基本的にスカウトされるかセレクションを通るかしないと入部は出来ない。
川島は、中学時代にコーチに誘われていたので推薦で入ることも出来たのだが、自分の意思というか親の意思というか、家庭環境の影響で一般受験をした。
中村学院には学科が2つある。
普通科と体育専門科。
是永は体育専門科で、推薦で入る対象はそちらしかないが、川島は一般受験で普通科に入った。
バスケ部員全員の中で川島だけが普通科である。

「自分の力がわからないんだ」
「力って?」
「土曜も日曜も普通に練習あるから模擬テストとか受けたことないし、だから、学校の外の人と比べてどうなのかって全然分からないんだ」

分かるような分からないような。
勉強する、という概念が生活の中にない是永としては、自分の力を試験で計るという感覚が共有できない。

「練習試合にも出たこと無くて、県大とかもベンチに座ってるだけ、学校で練習を積んだだけでインハイの決勝にスタメンで出ろって言われても怖いでしょ。そんな感じ」

これなら是永にも分かる。
返事はしないが何度か小さくうなづく。
川島も、言いたいことが伝わったのが分かったので言葉をつながなかった。

アーケードには放置自転車も置かれ、通路が狭くなっていたりする。
前からも歩行者、そして自転車、時折、居酒屋チェーンの客の呼び込み。
人の出入りも多く、音響が騒がしいパチンコ屋の前も抜ける。
足をかばってゆっくり歩く彼女たちの後ろからも、仕事を終えたおじさまたちが追い越して行ったりする。
2人はしばらく縦になって歩いた。
是永が後ろを何度も振り返りつつ、川島がついてこれているか確認する。
狭い部分を抜け、寂れた店率が多いところまで来て、2人はまた横に並ぶ。

「受験が不安な気持ちは分かった気がするけどさあ、バスケはいいの?」

川島には川島の事情がある。
だけど、だからといって、じゃあ受験頑張って、と言えるほど是永は物分りがいいわけでもない。

「最初から、2年生までで終わりって約束だったからお母さんたちとは。それで、こんなタイミングで怪我しちゃったから、そのまま終わりでいいんじゃないって思ったみたい」
「そうじゃなくてさ、幸はどう思ってるの? 大体、2年で終わりって話も私納得いってないんだけど、このまま終わりなんてありえないでしょ」
「このまま終わりは、私もいやだけど、でも、2年生で終わりっていうのは最初からの約束だから」

高校進学の時点で、川島家ではいろいろな話し合いが行われた。
いわゆる進学校へ進むことを両親が期待している中で、バスケット名門校へ進みたいと主張した川島。
そんな親と娘の妥協点が、部活は2年生までで終わり、という点だった。

「受験ってそんなに大変なの? 私が受けるなら大変なのは分かるんだけどさあ、幸なら全然平気なんじゃないかって思うんだけど」
「わかんない。わかんないけど、医学部はやっぱり難しいと思う」

川島家は開業医の父親と、元ナースの母親と娘の幸の3人家族である。
医学部に進んで医師になる、というのは、川島にとってもっとも自然な進路だった。

「とにかく、このまま終わりは絶対許さないからね」

医学部が難しい、というのは是永にもなんとなく分かる。
それに向かって、幸なら平気だよと言えるほどいい加減な話題でもない。

「私、チームに必要なのかな?」
「なに? なんでそうなるの?」
「美記みたいにうまくないしさ。私いなくても決勝まで行けるんだし」
「決勝で勝つのに幸の力が必要なの。それに、それに・・・」
「それに?」

インターハイ直前の怪我をここまで引きづった川島。
それまではスタメンの1人だった。
何かを言いにくそうにしている是永の方を川島は向くが、是永は何も言わない。
言葉が出てくるまで川島は黙って待った。
前から自転車が来て是永が川島の前によける。
自転車が通り抜けて、2人はまた横に並んだ。
川島はまた是永の横顔を見る。
是永はチラッと川島の方を見て、また前を向いてポツリとつぶやいた。

「幸がいないとさびしいし」

自分の方を見ていなくても、そう言ったときの是永がちょっと仏頂面なのが川島には分かる。
少し微笑んで、川島が答えた。

「そう言ってくれるのは美記だけだよ」
「そんなことないって」

そんなことある、と川島は感じている。
勉強が誰よりも出来て、バスケの面でも同学年の中では是永に次いで、2年生の春からスタメンに入った。
自分ではっきり認識しているわけではないが、標準よりも魅力を備えたルックスをしている。
別に、いじめられたりとかそんなことはない。
無視されているわけでも、嫌われているわけでもない。
同学年との仲は良好ではあって、会話だってちゃんと弾む。
それは分かっているのだけど、同学年のグループの中で、なんとなく、仲間、として入りきれていない自分を感じている。
バスケをするために高校に入った人だけが集まる集団の中で、先にスタメンを勝ち取ったうえ、勉強ができて進学希望先が医学部というのは理解しがたい存在なのだ。
バスケの能力面ではさらに図抜けている是永も、同じような疎外感があって最初に川島と仲良くなった。
ただ、最近は少しづつ溶け込めてきたかなあ、と是永は感じている。
川島が怪我で離脱し別行動が多くなったため、必然的にそうなったということもあった。

「お医者様の診断では、来週くらいから体育の授業に出てもいいらしいから」
「お医者様って・・・」

川島のお医者様は、川島診療所の医院長、すなわち、父親である。
是永や、川島当人にとって大事なのは、部活で本格練習が出来るのか? というところなのだが、父親の言い回しではそれには触れていなくて、体育の授業になってしまっている。
お医者様、という3人称が川島の心境を表していた。

「完治はするの?」
「全力で走ると痛みは多少残るかもしれないって。でも、基本的に思うように足は動かせるって」

川島が故障したのはひざ。
足の故障は体が自由に動かせなくなるので、体力面、特に心肺能力兼持久力への影響が大きい。
冬の選抜までは2ヶ月と少し。
春にスタメンを取ったとはいえ、当落線上ぎりぎりというレベルだった川島。
夏から秋の大事な大会2つに出ない間に、チームとしての完成度も上がってきているという状況で、2ヶ月と少しの間にもう1度その椅子を取ることが出来るかというのはかなり厳しい。
それが、気持ちに関係なく、現実だけを見た感覚からすると、このままやめて方がいいんじゃないの、というところにつながる。

「とにかく、来週からは練習に完全復帰だね」

是永の言葉に、川島は答えなかった。

翌週月曜日。
少し大きなカバンを持って家を出ようとする川島に母親が声をかける。

「どうしたのそのカバン?」
「ん? 着替えとかだけど」
「いつもより多くない?」
「今日から本格復帰だから、部活」
「いまさら無理しないでもいいんじゃないの?」

怪我をしてフロアで練習できない間も、トレーニングルームで上半身の筋トレくらいはしていた。
だけど、フロアで走り回るのと比べれば、汗をかく量は違う。
中村学園は女子高。
コーチも女性となれば、練習の合間にコートサイドで平然と着替えられるので、共学高の女子よりも、必要着替え枚数が多かったりする。

「行ってきます」

川島は、母の問いかけへの答えはせずに家を出た。

コートでの練習は久しぶり。
ここ最近は、朝からトレーニングルームにこもるのがメニューになっていた。
ただ、実際にはメニューをしっかりこなしていたわけでもない。
バスケが好き、という場合、コートの上での練習ならば多少きつくても平気だが、バーベルなんかを相手に練習するのは、周りの目がないとサボりがちになってしまう部分もある。
ただ、久しぶりのコートでの練習だから心高鳴るかといえばそうでもなく、不安の方が大きい。
しっかり走れるのだろうか、しっかりプレイできるのだろうか、そして、先生は自分を認めてくれるだろうか・・・。
もう1つ、親も認めてくれるだろうか。
現在の川島案としては、親の反対はうやむやにして冬の選抜大会まで押し切る、というものだけど、泊りがけの遠征は、当然金銭的負担が生じるため、強硬に反対された場合しっかりと向き合って話をする必要が生じるのだ。 
そして、それを何とか押し切ったとしても、試合に出て満足のいく終わり方をしないといけない。
体が動かせるようになったとはいえ、目の前に立っている壁は何枚もあるのだ。

朝連のメニューは、走るパートが多い。
セットオフェンスなどは午後連に組まれるもの。
朝連でやるのは、せいぜい3対3までだ。
川島のチェックポイントは、どこまでしっかり動けるかという点。
走ってみて足は動く。
痛みはまったく無いわけではないが、特に気になるほどのことも無くしっかりと走れる。
ただ、やはり久しぶりの本格練習。
アップのフットワークの段階から息が切れてしまう。
コート一往復半のダッシュ、ラストの半分はあごが上がる。
弱ってるなあ、と自覚してしまう部分だ。
問題を感じたのはそのあたりの部分くらい。
体力面さえ取り戻せば何とかなる。
初日の朝の川島の感想だ。

「行けそう?」

着替えて授業のために教室へ戻る。
是永が川島に声をかけた。
1人だけクラスの違う川島は、部活の前後くらいしか話をする機会は無い。
階段を3階まで上ったら、右と左にさようならである。

「うん、ちゃんと走れるし。なんとかなりそう」
「完全復活だね」
「まだまだ。すぐ息あがっちゃうし」
「冬にはスタメン復帰して、来年は幸が副キャプテンってことで」

川島は、曖昧に笑ったまま答えない。
じゃあまたお昼にね、と手を振って別れた。

 

北海道の冬の訪れは早い。
外出時にコートを着るようになり、ジャージの上にウインドブレーカーを着るようになり、体育館にも暖房が入るようになる。
女子バスケ部用に用意された寮を持ち、女子バスケ部専用の体育館を持つ彼女たち。
バスケに集中するには、全国的にも恵まれた環境にある。

「やっと、試合が出来るよ」

練習終わり、帰りのバスで藤本が感慨深げに一言。

強豪チームの1年間のスケジュール。
春に県大会プラス各地域大会。
夏前に都道府県予選を経て、夏のインターハイ。
さらにミニ国体が合って、秋に国体。
冬前に予選があり、12月のウインターカップがある。

滝川は、このスケジュールに従って動くレベルのチームだったのだが、今年はインターハイと国体が丸々吹き飛んだので、公式戦は久しぶりになる。

「まだ予選だけどね」
「予選でも公式戦だとなんか、違う気がする」

練習試合は何度かしてきた。
北海道最強チームとして、道内からの申し込みは多い。
だけど、それは、相手は満足できても、こちらとしては物足りないのだ。
道外に出れば、互角に戦えるチームを探すことも出来るが、遠征の負担はなかなか厳しいものがある。
なにしろ飛行機で飛んでいくより他に現実的な方法は無いのだ。
複数チームを集めてイベント的なマッチメークでも出来ればいいのだが、なかなかそうもいかず、結果的に道内のレベルの落ちる相手とのトレーニングマッチだけになった。
歯ごたえの無い予選ではちょっと面白くないなあ、という感覚の里田と、相手が弱くても公式戦なら叩き潰す快感を感じられる藤本。
少々持っている感覚は違うが、試合が近づけば、試合が無いよりも気持ちが盛り上がってくるのは共通だ。

「私は練習試合も結構好きだけどなあ」

立場が違えば感覚はさらに違う。
あさみにとっては、公式戦はまだ縁遠いところ。
練習試合なら、トップチームの試合に出られるかどうかはともかく、2軍戦でも何でも、確実に使ってもらえるのでそちらの方も十分に楽しみという感覚を持っていたりする。

今日、練習の最後に石黒コーチから伝達があった。
3日後、来週の月曜日に北海道大会の登録メンバーを発表する。
藤本や里田のような選手にとっては、試合が近づいてきたことをはっきり意識する場面。
そして、あさみのようなそのレベルでの当落線上のメンバーにとっては、1番緊張感が高まる時期でもある。

自分はチームの中で何番目なのか?
毎日毎日考える。
自分と同じポジション、誰々よりはオフェンス1対1に強い。
でも、ディフェンスは負けてるかも。
シュート力は互角かな?
比較対象は、違うポジションの選手にまで及ぶ。
Cチームで一緒に5対5をすることが結構多いけど、センターのあの子のほうが先にA−Bの5対5に呼ばれることが多いから、順列は向こうのほうが上かな?
フォワードの1年生は普段はDチームだけど、Bチームのフォワードが怪我が多いからそれの補充として優先順位が高いかもしれない。

試合に出ることだけを考えるなら、他のポジションの選手と比較しても仕方が無いのだが、登録メンバーの15人に入ることを考えると、そんなことも考えてしまう。
ウインターカップは3年生にとって最後の大会。
後輩たちにとっても、先輩と同じ時を過ごすことのできる最後の時間だ。
自分はチームの中の何番目なのか? 登録メンバーに入って、試合でベンチに入ることが出来るのか?
授業があって、テストがあって、恋愛もして、進路も考えて。
そんな普通の学校の生徒でも、当落線上にいる選手は結構そんなことを考える。
ましてやここは、3年間をバスケに賭けることを前提にして集まった集団。
今のあさみにとって、それが人生の中のすべて、と言えるかもしれない。

そんな日の夕食後。
毎日行われる簡易ミーティング。
バスケ部としてという面と、寮生としていう面をどちらも兼ねて行われるミーティング。
そこで、キャプテン代行のりんねが1つの提案をした。

「試合の登録メンバーに、ひろみとなつみを入れたいと思うのだけど、みんなはどう思う?」

本来なら、ここにいるべきメンバーだった2人。
実力的には間違いなくメンバーに入るはずの2人。
今は、ここにいない2人。

安倍は、まだしばらく戻れそうに無い、と麻美からの報告は届いていた。
なので、この2人を登録メンバーに入れても実際の戦力とはなりえない。
りんねが言いたいのは気持ちの問題だ。
本来いるべきだった仲間。
それが、不慮の事故によりそばにいない。
名前だけかもしれない、それでも、共にベンチにいるという形にして戦いたい。
りんねが言いたいことは、言葉として少なくても、共に暮らしてきた仲間たちには伝わる。
しかしながら、受け止め方はそれぞれだった。

3年生は、比較的その意見に同調的だった。
りんねが、先に同学年の仲間だけに根回しをしたというわけではない。
ひろみとなつみと一緒に戦いたいという発想は、やはり同学年の間では強く抱いている気持ちである。
それに反対意見を表明したのは藤本だった。

「いない人をベンチに入れても仕方ないじゃないですか」
「美貴は哀しくないの? ひろみやなつみのこと、もういないものとして簡単に考えられるの?」
「悲しいです。悲しいですよ。でも、だからって登録メンバーに入れるっていうのは何か違うと思う」
「冷たいよ、美貴は」
「じゃあ、今いる人はどうでもいいっていうんですか? 今いるメンバーが、登録メンバーの数に足りてないって言うなら、ひろみさんや、なつみさんも登録しようっていうのに美貴だって賛成しますよ。でも、こんなにいるんですよ、うちのチーム。なのに、絶対に試合に出られない人を入れるっていうのは何か違うと思う」

りんねは前に立って黙って聞いていた。
藤本に対して反駁しているのは3年生たちである。
どちらの意見も出てくることはりんねにもなんとなく分かっていた。
だから、藤本のことを冷たい、とは思わない。
ひろみはともかく、安倍に1番なついていたのが藤本だって言うのがりんねには分かっているし、数少ない休みに、わざわざ室蘭まで見舞いに行ったのも妹以外では藤本だけだ。
冷たいから反対しているわけじゃないことはよく分かっている。

「最後の試合は、ひろみともなつみとも一緒に戦いたい。あずさは自分で出ていっちゃったから仕方ないかもしれないけど、2人は、一緒に戦いたい」
「登録メンバーに入れるっていうのだけが、一緒に戦うってことなんですか? じゃあ、ベンチに入れない子たちはうちのチームの一員じゃないってことなんですか? 大体、あの先生が、そんな人の気持ちを考えたような登録メンバーの決め方するわけ無いじゃないですか」

3年生たちは、スタメンで出るような選手から、ベンチに入るのはもう難しいだろうとはっきり思われているメンバーまで、それぞれが2人を登録メンバーに入れたい、という側に立って発言している。
3年生の意見がそろっているところに反対意見を表明できるのは、下級生ではほとんど藤本しかいない。
実際、発言しているのも藤本だけだ。

「先生には、私から言ってみる。O.Kって言うかもしれないし、ダメだって言うかもしれないし。でも、私は、2人を登録メンバーに入れたいのね。みんな、ここではちょっと言いにくい意見もあるかもしれないから、何か言いたいことがあったら、キャプテンルームまで来てください。そこでの話は私の胸だけにしまっておくんで。最後は私が決めます。ここでこれ以上話しててももめるだけで先にすすまなそうだから、ミーティングは終わります。みんなそれぞれ考えてみて。いいたいことがあったらどんなことでも私にぶつけてください」

りんねのこの言葉でミーティングそのものは解散した。

今週の食事係の1年生を残して各メンバーはどこかの部屋へと去っていく。
自分の部屋に帰るというわけではない。
誰かの部屋、どこかの部屋。
特に用が無くたって集まるのだ、こんなときは自然とそれぞれのグループが集まる。

2年生の中心は藤本だけど、集まる部屋は里田の部屋だった。
藤本は、自分の部屋に集まられてしまうと好きなときに抜けられない、というちょっとわがままっぽい理由で、最近はよその部屋に行くことが多い。
以前なら安倍の部屋であり、最近は里田の部屋であり。
その結果、里田の部屋に2年生が多く集まるようになった。

「なんであんなありえないこと言い出すかな、りんねさん」

たとえ本人がいても手厳しい発言をする藤本。
当然、本人がいないところではっきり言いたいことを言わないわけが無い。
ただ、それに答えるほかの2年生は出てこない。

「納得いかないと思わない?」

そう言われてもなんとも言えないのだ。
全員、りんねの気持ちは痛いくらいよく分かる。
2人と共に戦いたい。
この気持ちは、りんねに限らず、3年生に限らず、2年生たちだって当然持っている気持ちである。

「難しいよね」

やっと口を開いたのは里田。
3年生に意見できるのが藤本だけだとするならば、藤本相手に意見できる2年生は里田くらいなものかもしれない。

「何が? 難しいことなんか何も無いよ」
「私さあ、形って大事だと思うんだ」
「形?」
「ひろみさんはもうここにはいない。それは私だって分かるし、りんねさんだって分かってるだろうけどさあ、でも、だからって忘れられるわけじゃないし、私は学年違うけど、りんねさんたちだったら、一緒に最後の試合を戦って一緒に卒業したいっていうのはあると思うんだ」
「それはあるだろうけど、別に登録メンバーに入れること無いじゃん」
「どこかで見ててくれるって思うのは確かにあるけど、でも、それよりも、ちゃんと登録して、ベンチにユニホームがあれば、ひろみさんはそこにいるって。そうはっきり思えるんじゃないかな」

目に見えるものは信じやすい。
古今東西、人は多くの場合墓というものを作ってきた。
愛する人が死んだとき、墓へ埋葬する。
死んでしまってもういない、そう分かっていても、愛する人は墓で眠っているのだ、と考える。
どこかで見てる、そういう解釈をしながらも、死者に何かを伝えたいときに、墓まで出向いて語りかけることもある。
そこに眠っていると信じるから。
目に見えるものは信じやすい。
ベンチにユニホームがあれば、ひろみはここにいるんだ、一緒に戦っているんだ、その実感を持つことが出来やすい。

「りんねさん、さびしいんじゃないかな。ずっと無理してきたように見えるもん。元々人を引っ張るようなタイプの人じゃなかったし。そんなりんねさんが、ああ言うんだもん。ひろみさんにそばについていてほしい って、自分に分かる形で側にいてほしいって。私、反対できないよ」

足を投げ出して壁に寄りかかって座る藤本は、ベッドの上から降ってくる里田の言葉に不満そうだった。
自分は至極まっとうなことを言っているはずだ、と考えているとき、藤本は決して引いたりはしない。

「あさみ、なんか聞いてたりしないの?」
「何も聞いてないよ」
「なんか言ってやってよりんねさんに。やっぱりおかしいって」
「何にも言えないよ、私だって」

あさみはひざを抱えて床を見つめていた。
ひろみやなつみを登録メンバーに入れる。
それはつまり、今ここにいる部員の中からは15人の登録のはずが13人に枠が狭まるということになる。
高校生の単独チームレベルでは、実際のところ14番目15番目に誰が入るかというのは、実戦力への影響は限りなくゼロに近い。
コーチの立場だと、確かに残りの1人に誰を入れようか迷うということはある。
最後の1人に誰を入れるか、それが効いてくるのはたとえば、見込みのある1年生に将来のために経験を積ませるために入れるか。
実力は今ひとつだけど、誰もが1番頑張ってきったと認める3年生をベンチに入れることで、下の回戦でも、早くリードを広げて先輩を試合に出すんだというモチベーションをスタメン組みに持たせるとか。
いずれにしても、重要な試合の直接的な戦力、ではなくて2次的3次的な効果を期待してのものだ。

藤本や里田のようなスタメンで試合に出る人間にとって、14番目15番目に誰を入れるのかというのは、はっきり言えば他人事である。
今いない2人を登録するかどうかは、単に気持ちの問題である。
しかしながらあさみの立場に立つとそれはまったく替わってくる。
自分がベンチに入れるかどうかの瀬戸際なのに、その枠が突然狭められるということになるのだ。
一般的な状況で言えばそこまでで済むが、あさみの場合はさらに複雑な感情を持つことになる。
自分がベンチに入れるかどうかの瀬戸際なのは、誰が見ても分かる、とくにずっと自分を見てきてくれたりんねさんならよく分かっているはず。
それなのに、枠が2つ狭くなるようなことを言ったのは、りんねさんは自分よりもひろみさんやなつみさんを選んだってことなのかな、ということまで考えてしまう。
とてもじゃないけれど、何かを意見するようなところまで行かない。
自分の感情を整理することで精一杯だ。

「もう、なんでみんなわかんないかな」
「別に美貴の言いたいことが分からないわけじゃないよ。でも、なんて言っていいのかわかんないんだよみんな」
「もういい」

空気の重さを嫌って、藤本は部屋を出て行った。

りんねは自室のベッドで仰向けになっていた。
キャプテンルーム、と言ったものの、そこはりんねの自室である。
代替わりしたときに新キャプテンは1人でキャプテン部屋に移る。
この代は安倍がキャプテンルームに入っていたのだが、いまはいない。
りんねもキャプテン代行を始めたときに迷ったのだが元々の自室にとどまった。
通常2人部屋だが、りんねの部屋は1人になってしまっていてキャプテンルームとして不都合がなくなっていた。
それに、安倍はきっと戻ってくると思っていたのでその荷物を追いやって自分がキャプテンルームに入る気にはなれなかった。

いろいろ考えた上での発言だった。
一緒に戦うということの意味も考えた。
藤本の言うとおりだとも思った。
2人を登録することで外れる2人が出てくることも考えた。
その外れる2人にあたるのがあさみなのかもしれないとも思った。
先生に却下されるだけかもしれないとも思った。
全部考えた。
それでも、2人に側にいてほしいと思った。

ノックの音がした。
ベッドから起き上がり、自分の机に向かった椅子に座る。

「どうぞ」

入ってきたのは麻美だった。

「ん、んー、まあ、そこ座って」
「失礼します」

ひろみが以前使っていた椅子に座らせる。
本来のキャプテンルームと違い、ここは他のメンバーたちと同じ配置の部屋。
1メートル離れて壁に向けて並べられた2つの机。
それに備え付けの椅子に座って互いに向き合う。

「私が来たのは意外ですか?」
「え? うん。ちょっとね」

最初に来るのは3年生か、あるいは藤本あたりだと思っていた。
食事当番でなくともそれぞれに仕事を抱えている1年生が1番最初に来るのはまったく想像していなかった。

「私が最初に来ないといけないと思ったから。洗濯は後にして来ました」
「そう」

最初に来るとは思っていなかったけれど、麻美は何か言うかもしれないなとりんねも思っていた。

「ひろみさんのことは、私には何も言えません。一緒に闘いたいっていう気持ちは私もあるし。先輩たちがひろみさんを登録メンバーに入れたいっていうなら私はそれは黙って従います」
「黙って従うことはないよ。言いたいことがあったら言いなさい」
「いえ、私は。どっちが正しいのかよくわかんないし。先輩たちがそう決めたならそれに従います」

りんねは少し考えたけれど、それ以上は突っ込まなかった。
正論はとりあえず伝えておけばいい。
麻美がここに来て言いたいことはそこではないことはりんねにも分かっている。

「じゃあ、麻美の言いたいこと聞こうかな。ちゃんとここだけの話にするから。みんなに、麻美がこういうことを言っていたとか、そういうことは言わないから心配しないで」

机を横に置いて2人で向かい合った形。
改めてこうやってかしこまって話すのは、少々不自然なような気もする。
りんねも、なんとなくそういうことを感じていたが、それでもどうしてもかしこまる。
キャプテンの代わりをやる、そう、自分で決めてから、1人で過ごすとき以外はどうにも肩の力が抜けないでいる。

「なつみさんは、登録するべきじゃないと思います」

麻美は単刀直入だった。
言いたいことを聞く、そう言われると前置きなく言いたいことをそのまま伝えた。

「理由は?」
「なつみさんは、事故の後、ずっと病院にいるだけの人です。ここに戻ってくる努力をしていないし、実際戻ってこれてないし。そんななつみさんを入れるなら、他にもっと頑張っている人を入れるべきだと思います。誰が頑張ってるとか、誰がうまいとか、そんなことは私が言っていいことじゃないと思うけれど、でも、なつみさんは今、私たちのチームでベンチに入るにはふさわしくないと思います」

自分が言わないといけないと思っていた。
ひろみのことは、本当にどちらがいいのか分からない。
亡くなった先輩を登録メンバーに入れて一緒に戦うという感覚は分かる。
だけど、ベンチ入りの登録をするだけが一緒に戦うっていうことじゃないという藤本の言葉も分かる。
どちらがいいなんて麻美には言えない。分からない。
姉のことは違った。
本当に一緒に戦いたいと望むのなら、杖をついてでも車椅子に乗ってでも来ることは出来る。
それをしないのは安倍にその意思が無いから。
麻美は、前に向かって歩くということが出来ていない安倍の姿を知っている。
悲しい気持ち、つらい気持ちがあるのは分かる。
でも、妹として、後輩として、もうそろそろしっかりしてほしいと思っている。

「ベンチに入るのにふさわしいってどういうことなんだろうね?」

りんねの問いかけ。
皮肉めいた意味じゃない。
重箱の隅を突いてみたわけでもない。
半分独り言のような問いかけ。

「わかんないですけど、チームのために頑張れるとか、チームを愛してるとか。なつみさんは、少なくとも今、チームのことは全然考えてないと思うから」
「そっか・・・」

りんねは、自分がキャプテン代行をやると決めてからは1度も安倍の見舞いには行っていない。
安倍のことをキャプテンに向いているとも思わなかったけれど、自分はそれに輪をかけてキャプテンに向いてないと思っている。
今、安倍がどんな風に過ごしているか、ある程度麻美から聞いてはいるけれど、本当の姿は知らない。
りんねにとっては、元気だった頃の安倍の姿というのが、今のキャプテン代行としての自分の支えであり、指針にもなっている。

「なつみってさあ、太陽みたいなところあると思わない?」
「太陽・・・ですか?」
「うん。なんか、そこにいるだけで力をくれるみたいな。でも、ときどきちょっとなんか、ピントがずれてうっとうしくなっちゃうときもあったりして。でも、そのうっとうしいときも、なつみは別に悪気があるわけじゃなくて、天然に力をくれてるつもりなだけでさ。夏の熱すぎる太陽みたいな」

麻美は、わかるようなわからないような、という顔で聞いている。
太陽、という表現はちょっとぴんと来ないけど、りんねの言っている内容自体は納得できないこともない。

「ひろみもそうなんだけど、なつみもね、そこにいるだけで私たちに力をくれると思うんだ。それが、登録メンバーに入れる理由。もちろん、先生がダメって言ったらどうしようもないけど、私は、登録メンバーに入って、ベンチになつみもいるんだって思って試合がしたいんだ。力をくれる存在だからっていうのは、ベンチに入る理由にふさわしくないかな?」

コーチングとか、説得術とか、世の中には上に立つ人間が、自分の下につく人たちを思うように動かすための方法がいろいろと存在する。
りんねは、部員たちを束ねる立場になったけれど、そういった話の技術とは無縁だった。
自分の思いを自分の言葉で伝える。
ただ、それだけだ。

麻美が何かを言おうとしたときにノックの音がした。

「ごめん、ちょっと待っててね」

りんねが席を立つ。
麻美は、ひざをそろえてかしこまっていた足を伸ばして、そのつま先あたりを見つめた。
りんねは、部屋の中が見えないように少しだけドアを開けて外を確認する。

「今、話しててさ。終わったら呼ぶから。部屋に電話入れればいい?」

麻美のところには廊下にいる誰かの声は聞こえない。
訪問者は承諾して帰ったのか、りんねは戻ってきた。

「誰ですか?」
「ん? んー、話した中身だけじゃなくて、誰が来たとか来ないとかも黙っておいたほうがいいかなって思うんだよね、一応」

3年生がほぼ全員賛成している話について、キャプテンルームまで来てわざわざ何かを後輩が言ったというのが拡がると、あまり良くないことがあるかもしれないとりんねは思っている。
現実的には、りんねの部屋にわざわざ訪ねてきて何かを言うような下級生は、それぞれの学年で目立っていることも多く、何を話したかまで仲間内で話してしまう可能性が高いし、廊下を通ってここまでくるのに誰の目にも触れていないなどということもありえないし、あまり影響は無いのだが。

「えーと、どこまで話したっけ。力をくれる存在っていうのがベンチに入る理由にならないかな? ってところかな」

りんねは、にこやかに話しながら自分の椅子に座る。
麻美は足をそろえて座りなおし、もう1度りんねと向かい合う。

「あの、りんねさんの気持ちは分かります。なつみさんがそういう存在だっていうのも分かります。だけど、なつみさんは、ここに来られるのに来ないんです。ひろみさんとは違います。特別扱いしちゃいけないと思うんです。もし、怪我をして、試合に絶対出られないような状態だったら、りんねさんだって、まいさんや美貴さんだって、登録メンバーから外れると思うんです。だから、なつみさんだけ特別扱いしちゃいけないと思います。ちゃんと、いま、頑張っている人をなつみさんじゃなくて、頑張ってる人を登録メンバーに入れるべきだと思います」

自分が言わなきゃいけないと思った。
姉とか妹とか、そういうのなしにここで暮らしていこうと思っていた。
だけど、実際自分は安倍なつみの妹で。
ベンチに入れるかどうか瀬戸際で頑張っている人たちがいる。
自分のすぐ近くにも、先輩たちにも。
それを知っていて、そして、安倍の状況も知っていて。
他の誰もが言いにくいことだから、自分が言わなきゃいけないと思った。
普通の1年生だと言いづらいこと。
妹だから言えること。
なつみさんは登録メンバーに入れるべきじゃない。

「うん。麻美の言いたいことは分かりました。私は、なつみを登録メンバーに入れたいのね。だけど、麻美の意見はしっかり聞きました。まだ、麻美は1人目だし、さっきもう1人来たし。まだまだ他の意見も出ると思うのね。それを全部聞いてから決めます。それでいいですか?」
「はい。生意気言ってすいません」
「別に、生意気とかそんなこと思わないよ。どっちかっていうと、言いにくいこと言わせて悪かったと思ってます」

自分は威厳があったり、見るからに怖いようなタイプではないと思っているけど、キャプテンという立場があるだけで、先輩であるというだけで、1年生からはものを言いづらくなることくらいは分かっている。

「いえ、あの、失礼しました」

麻美は頭を下げて部屋から出て行く。
りんねはその背中を見送った。
なつみよりしっかりしているな、なんてことを思う。

一息ついて、それから電話しようなんて思っていたら、休むまもなくノックの音がした。

「どうぞ」
「失礼します」
「なに、外で待ってたの?」
「はい」

さっきノックをして追い返された藤本だった。

「2号のやつ、何言ってったんですか?」
「それは言えません」
「なんでですか。いいじゃないですか」
「ミーティングのときに言ったでしょ。ここで話すことは私の胸だけに閉まっておくって。そうじゃないと、1年生なんかは言いたいこといえないじゃない」
「言いたいことあればはっきり言えばいいんですよ」
「みんなが藤本みたいにはいかないの。とにかく座って」

りんねとしては、藤本と話すには少し心の準備の時間がほしかった。
意見が違っているという点以上に、自分の方が先輩の立場にありながら、ちょっと怖いという感覚を持っているのが現実だ。
麻美が座っていたイスに今度は藤本が座る。

「りんねさんの言ってることは納得いきません」
「ここでの話は胸に閉まっておくってこと?」
「それは、別にいいですけど。登録メンバーのことです」

りんねの方から話を振る前に、いきなり本題に入った。

「藤本の言いたいことは、もうさっき大体聞いたような気もするけど、話し足りなかったら言ってみて」
「別に、ひろみさんやなつみさんのことを忘れて試合しようなんていうつもりは無いんです。先輩たちと一緒に、っていう気持ちはあります。でも、だからって、メンバー登録する必要あるんですか?」
「私はあると思ってる」
「さっきも言ったけど、ベンチに入る15人だけがうちのチームなわけじゃないじゃないですか。ひろみさんは試合に出たかったと思いますよ。だけど、実際、今はいないんです。ひろみさんは何も悪くないけど、いないんですよ。試合には出られないんです。なつみさんも同じですけど。今いる人をもっと見てあげてください。ひろみさんやなつみさんがいれば、全然問題にならないくらい実力の差はあるかもしれないけど、でも、それでも、ベンチに入りたいって、頑張ってる子がいるんだから、それも分かって上げてください。ひろみさんのことを忘れたりはしません。なつみさんにも感謝してます。2人のために勝ちたいとも思います。だけど、ベンチには、今いる人を入れてあげてほしいです」

藤本の言葉をりんねは黙って聞いている。
自分の気持ちとは違うけれど、藤本の言っていることが間違っているとは思わない。
藤本が言葉をつなごうとするとノックの音がした。

「ごめん、ちょっと待ってて」
「いいですよ、もう。言いたいのは納得いかないってことだけだし。私は、ベンチ入りの登録メンバーは、今ここにいる子たちの中から選ぶべきだと思ってます」
「分かった。ここで聞いたことは私の胸にだけ閉まっておくから」
「いいですよ別に。さっきみんな聞いてるし。それじゃ失礼します」

藤本はあっさりと部屋を出て行く。
外に待っていた誰かをすれ違いに部屋に通した。

それからりんねの部屋には数人の3年生が訪れた。
藤本がここに来たのを知って生意気だという3年生もいた。
性格のきついスタメンの後輩のことを、はっきりとあいつは嫌いだという3年生も中にはいる。
それをかばったりしながら、りんねはやってきたそれぞれの話を聞いていく。
消灯時間間近、最後にやってきたのは里田だった。

「寮長権限で消灯時間破ってもいいですか?」

入ってきて最初の里田の一言。
話し疲れてというか、話を聞き疲れていたりんねにとっては、いきなり重苦しく本題に入られるよりもだいぶ気が楽だ。
笑って、いいよと答える。

「りんねさんと飲もうと思って持ってきたんですよ」
「なんか、セリフと持ってるものが似合わないなあ」
「仕方ないじゃないですか。大人ならお酒なとこなんでしょうけど、そんなのないし」
「ありがと」

里田は牛乳パックを抱えて持ってきていた。
部屋においてあるりんねのマグカップと、自分が持ってきたコップに牛乳を注ぐ。
里田は、りんねの正面に座った。

「大分疲れたんじゃないですか?」
「仕方ないよ。みんなの言いたいこと聞かないと」
「でも、先輩たちはともかく、下級生は美貴くらいなんじゃないですか? ここまで来たの」
「んー、一応秘密」
「律儀ですねえ。まあ、いいや。美貴がここに来たのは知ってます。本人も自分で言ってたし、多分みんな知ってるんじゃないかな」
「そっか」
「まあいいです。秘密は秘密で。そんな、律儀なりんねさん好きだし」
「先輩をからかわないの。じゃあ、そろそろ里田の言いたいことを聞こうかな?」
「別に、言いたいことがあって来たんじゃないんでいいですよ。りんねさんと話したいなって思って。今日なら、消灯時間も破らせてもらえそうだし、それで来たんだから」

どちらが先輩なのかよく分からないくらいの里田のリラックスムード。
ここまで何時間かとげとげした空気と接してきていたりんねにとっては心落ち着ける。

「来るか来ないか、迷ってたんじゃないの? この時間になったってことは」
「いえ、そうじゃなくて、最後に来ようと思ったから。ああ、りんねさん、お風呂も入ってないですよね。大丈夫ですか?」
「そこは寮長権限でほら。広いお風呂を独り占めで」
「ああ、ずるいなあ。私ももう1回入ろうかな。りんねさんと2人お風呂」
「里田と入ると変な劣等感感じちゃうからやだ」
「りんねさん別に気にするような体型じゃないじゃないですか、美貴と違って」
「藤本に怒られるよ」
「ここで話したことはりんねさんの胸の中だけに締まってくれるんですよね」
「もう、都合の悪いときだけこれなんだから」

コップに注いだ牛乳を里田は口に持っていく。
言いたいことがあって来たんじゃないといいつつ、最後に来ようと思ったとも言う。
りんねの方も、ただ雑談するために来たなんて本気で信じてるわけじゃないけれど、疲れもあって穏やかな雰囲気に身を任せている。
そんな中で、里田が本題っぽい方向に舵を切った。

「ひろみさんとなつみさんのことは、どっちがいいとか、こうするべきです! みたいのは私には無いんですよ。正直よく分からないし。さっきのミーティング、先輩たちの言ってたことも分かるし、美貴の言ってたことも分かる。ただ、りんねさんがどうしても、ひろみさんやなつみさんにそばにいてほしいって言うならそれでいいんじゃないかなって思ってます。そこは、りんねさんが決めてください。なんか、キャプテンに全部重荷を背負わせちゃうみたいで申し訳ないけど、私はよくわかんないんで」
「2年生がそこまで責任感じないでいいよ。私、自分で無理やりみんなに納得させてキャプテン代行やってるんだから、重荷を背負うのは仕方ないと思ってるし」
「無理やりじゃないですよ。あの時、りんねさんが引っ張ってくれなかったらもっとがたがたになってたと思うし。いま、みんながこうやって練習して、冬の選抜を目指せてるのはりんねさんのおかげだと思ってます」

「褒めすぎだよ」
「そんなことないです。私には絶対出来ないことだと思ったし」
「いたわってくれるのはうれしいけど、言いたいことがあったら言っていいんだからね。言ってもらわないと私には分からないことっていうのが1杯あるんだから」
「本当に、ひろみさんの登録のことはどっちでもいいんです。ていうか、どっちでもいいけど、りんねさんがこうしたいと思う風にするのが正しいと思ってます。言いたいのはそのことじゃなくて、もうちょっと頼ってもらいたいなって思って」

そこまで言って、里田はまた牛乳のグラスを取る。
りんねは頼ってもらいたい、の意味がちょっと分からなくて里田の次の言葉を待っている。
普通の飲み物と違い、牛乳だと会話の間にのどを潤すのには向いていないのだけど、りんねも空いている手を牛乳の入ったマグカップに伸ばした。

「もうちょっと今いる人を頼ってもいいと思うんですよ。それが後輩だったとしても。あさみ、結構前々から悩んでましたよ」
「あさみが?」
「はい。2年生の方のあさみです。最近りんねさんになんか近づきにくいって。1人立ちしなさいってことじゃないの? って最初は言ったんですけど、そうじゃないって。2年生になった頃と、りんねさんがキャプテン始めてからだと全然違って近づきにくいって。あさみが不満ってだけならいいんですけど、なんか、頑張りすぎてるりんねさんが倒れちゃうんじゃないかって心配してました」
「あさみがねえ」
「愚痴言ってもいいと思うんですよ。ていうか、言ってほしいと思うんですよ後輩の方も。1人で悩んで倒れられちゃったり、出て行かれちゃったりするとほんとにつらいから」
「そっか、里田の指導係あずさだったっけ」

事故のとき現場にいたのは3人。
亡くなったひろみと、いまなお戻ってこない安倍、そして、1人だけ軽傷だったあずさ。
あすざは、軽傷だったことを逆に気に病んで、事故の後、チームを去って行った。
里田は、事故から出て行くまで、あずさから何も話してもらえなかった。

「りんねさんとあさみって、私から見て理想的な先輩後輩だったんですよ。ちょっとべたべたしすぎって意見もあったみたいだけど、私は、いいなあって見てました。私のキャラだと無理だけど、ああやって先輩に甘える感じにもしてみたかったんですよ」

時計は十時をまわった。
寮の消灯時間。
里田はそれに気づいていたけれど、かまわず話を続けた。

「あさみ、今回のことも悩んでましたよ。2年生集まってて、まあもう結構前に解散しちゃったけど、最後まで私の部屋にいて。はっきり言わなかったけど、そばにいる自分よりも、そばにいないひろみさんやなつみさんをりんねさんが頼りにしてるのが、なんか悲しかったみたいで」
「別に、そんなつもりじゃないんだけど」
「でも、あさみからはそう見えるんですよ。あさみ、多分、メンバーに入れるかどうかぎりぎりくらいじゃないですか。それで、頑張って練習してて。あのあさみが珍しく、今回はベンチに入りたいんだってはっきり私に言いましたもん。理由は言わなかったけど、絶対、りんねさんたちの最後の大会だからだと思うんですよ」

りんねは、里田の言葉に答えない。
あさみの気持ちは分からないでもない。
練習に必死さが入り始めたのは感じていた。

「りんねさん的には、あさみに愚痴言って負担かけちゃいけないって思ってるかもしれないですけど、愚痴言ってもらえるのって結構うれしかったりするんですよ。2人だけの秘密って言うか。なんか、言い回し間違ってる気もするけど」

りんねも、個人的にはあさみのことを大分心配していた。
ベンチに入ってほしいとも思っている。
ただ、自分が指導係についているからって、あさみがベンチに入るのに都合のいいように何かをしてやるつもりはなかった。
ひろみとなつみを登録メンバーに入れたいというのは、もしかしたら自分のエゴなのかもしれないなという気持ちも出てきている。
だけど、ここにいることが出来なくなってしまった仲間と、もう1度一緒に戦いたい、その思いを持っているのが自分だけではないこともよく分かった。

「たぶん、あさみはここに来てないと思うし、自分からりんねさんに何かを言うとも思えないんですよ。ひろみさんたち登録したら自分が外れちゃうかもしれない当事者だって分かってるから。だから、りんねさんから何か話してあげてくださいよ」
「でもねえ、私、もう、みんな公平にしなきゃいけない立場だし」
「気にすることないですよ。悩んでる後輩がいたら話を聞く、それが先輩ってものでしょ? 愛の特別指導とかされると引くけど」
「もう、先輩をからかわないの」

笑みを浮かべてりんねは答えるけれど、気持ちは少し揺れていた。

「美貴も、多分ここに来てもきついこといって言ったと思うんですけど、あの子、あさみと部屋一緒で、たぶん私以上にあさみの気持ちをわかってそうだし。それもあって今回のこと結構反発してるんだと思うんですよ」
「反発って言うか、藤本の考え方。別におかしいとは思ってないよ、私も」
「そうですか。ならいいんですけど。どっちがいいかわからないって私が言ったら、なんでわかんないかなって冷たく言われて。それだけでもあの言い方で言われるとカチンと来るから。先輩たちからしたら相当むかついたりするんじゃないかなって思って。でも、美貴の気持ちも分かってあげてください。美貴の意見に従うことは無いと思うけど」
「うん、分かってるよ。大丈夫。藤本は顔としゃべり方が怖いだけで、本当はやさしい子だって分かってるし」
「顔としゃべり方だけって、それだけ怖かったら十分怖いじゃないですか」
「そうだね」

消灯時間を過ぎたキャプテン代理ルームで2人で笑いあう。
深夜に2人で話しこむと、共犯意識のような妙な感覚が生まれて、親密度が増す気がするのはなぜだろう。

「里田はやさしいね。みんなのことちゃんと見てるし」
「当然ですよ。美貴とは違って私は優しいんです。あ、でも、新キャプテンは美貴の方で。私には向いてないですよ」
「そう?」
「そうですよ。私は1人で好き勝手やってる方が向いてますって。みんなを引っ張る役目は美貴のがいいですって」
「藤本も同じようなこと言ってた気がする」
「あの子は、そうやって1人で頑張ることをずっと望みながら集団の先頭で引っ張っていくのが向いてますって」
「それは、考えとくよ」

滝川では次期キャプテンは今期のキャプテンが指名する。
来年は藤本か里田かどっちかだよね、というのが大方の声だし、本人たちも自覚している。
自分からキャプテンをやりたいと手を上げる人間というのはやはり少なく、これくらいの時期になると逆選挙活動が始まったりする。
足の引っ張り合いならぬ、下駄の履かせあいといったところか。

「里田自身は、本当に言いたいことないの? 登録メンバーのこと」
「うーん、やっぱりわかんないですもん。どっちがいいのか。だから、りんねさんがしたいようにするべきだと思います。ベンチに入るだけが一緒に戦うっていうことじゃない、っていう美貴の言葉は重いですよ。美貴も試合に出られない子のことちゃんと考えてるんだなって思ったし。でも、実際、ベンチに、何番にするのかは分からないけど、ひろみさんのユニホームが置いてあるっていうのは気持ちの面で絶対違うじゃないですか。どっちもわかります。だから、言ってることじゃなくて、美貴とりんねさんと、どっちか選ぶとしたらりんねさんかなって」
「なによそれ。私がキャプテンやってるから?」
「うーん、そうって言えばそうだけど。そうじゃないっていうのもあって、あの、悲しさの量を比べるのって変な話だけど、でも、1番悲しかったり苦しかったりして、その上なんかいろんなものを背負っちゃったのってりんねさんだと思うから。そんなりんねさんの最後の大会は、りんねさんの思いを遂げてほしいっていうのがあって。私、こんなこと言ったこと無いですけど、りんねさんのこと好きですもん」
「もう、里田はさっきから先輩のことからかいすぎ」
「からかってるんじゃなくてホントですって。尊敬もしてます」

あまりにストレートに自分の目を見てそんなことを言われ、さすがにりんねは恥ずかしくなり自分の方から視線をそらし牛乳に手を伸ばす。
里田もそれにあわせるようにコップに手を伸ばした。

「里田の言いたいことはそれくらい?」
「あ、あと1個だけ。先輩たちが卒業するまでに、りんねさんから、里田じゃなくてまいって呼ばれたい」
「なによそれ、唐突に」
「なんか遠いんですよ、苗字で呼ばれると」
「仕方ないじゃない。みんなに公平にとか考えるとそうなっちゃうの。今日だって、ちょっと砕けすぎかなって思ってるんだから」
「あさみはあさみって呼ぶじゃないですか。差別だ差別だー。ひいきだー」
「あれは、うーん・・・。木村って呼ぼうかな今度から」
「あ、ダメ。それはあさみが傷つくからダメです。りんねさん堅いんですよー、キャプテンになってから。仕方ないと思うんですけど、人の少ないとこではもっと肩の力抜いてもいいと思うんですよ。さっきも言ったけど、それで頼ってもらって愚痴とか言ってもらえると、意外とうれしかったりするから」
「うーん、その辺は考えてみるよ・・・」

いろいろな意見は出てくるだろうとは思っていたけれど、まさかこういう形の言葉が後輩から出てくるとはまったく思っていなかった。
少し自分でも思っていたところだけに、ある意味藤本の言葉よりも耳が痛いかもしれない。

「これくらいかな? うん。ここでの里田の話は私の胸の中だけに締まっておきます」
「まい、です。まい」
「里田がここで話したことは誰にも言わないから、安心してお引取りください」
「あー、ひどいー。後輩の言葉無視したー」
「いいから、早く部屋戻って寝なさい! もう消灯時間は過ぎてるんだから」
「はーい。愛するりんねさんの言葉に従ってお部屋に帰ってねまーす」

なんだかハイテンションになってきた里田の口調に、りんねはもはや苦笑するのみ
普段ならベッドに入っている時間、世の中基準はともかく彼女たちにとって現在時刻は深夜だ。
こんなときにテンションが上がるタイプというのも存在する。
そんなテンションではありつつも、里田は自分が持ってきたコップを持って立ち上がった。

「すいません、遅くまで」
「遅い時間狙ってきたくせに」
「そうなんですけど。なんか、すいません。失礼します」
「はい、おやすみなさい」

里田は部屋を出て行った。
立ち上がって里田を見送ったりんねは、大きく息を吐いてそのままベッドに大の字になった。
最後に来たのが里田で、ちょっとリラックスした感じで話せてよかったとは思う。
だけど、耳の痛い言葉もあった。
そして、登録メンバーの件どうするか。
決まっていたはずのりんねの気持ちが少し揺れている。
麻美、藤本、3年生たち、里田。
それぞれが言いたいことを言っていった。
本当はあさみとか、ここに来なかったメンバーの言葉を自分から聞きに行くべきなのかもしれない。
天井の模様を眺めながら考える。

体を起こして立ち上がった。
まずはお風呂だ。
それからしっかり考えよう。
この時間だと、もう湯船はさめていてシャワーだけになっちゃうかな、と思った。

 

翌朝。
朝食後の簡易ミーティング。
りんねが前に立ち全員に報告した。

「昨日、みんなの話を聞きました。全員じゃないけどね、私の部屋に来てくれたのはごく1部で、本当は言いたいことがあったのに来づらかった子とかいるかもしれないけど、来てくれたみんなの話は聞きました。それから一晩考えました。自分の気持ち、みんなの意見。いろいろ迷ったけど決めました。決めたって言っても、先生がなんていうかは分からないけど、私の中では決めました。やっぱりひろみは、登録して一緒にベンチに入ってもらいたいと思います」
「納得できません!」
「待って、まず聞いて最後まで」

立ち上がって口を挟んだのは藤本だった。
りんねはそれを押しとどめて話を続ける。
藤本も、納得できないまでも話そのものは最後まで聞こうと、立ったまま黙った。

「なつみの方は迷ったんだけど、登録しない方がいいのかなって思いました。昨日ある人に言われたのね。なつみは、怪我をして試合に出られないからベンチにも入らないっていうそれだけのことなんじゃないかって。確かにそうだとおもった。事故は、なつみは何も悪くないけど、それは私たちが怪我をした時だって多くの場合同じで。なつみは、まだ歩けないみたいだけど、私たちのところに来ようとすれば来ることが出来ないわけじゃないんだから、だから、特別扱いする感じじゃなくて、普通に、普通に怪我をして入院している仲間っていう風にするのがいいのかなって思いました。そばにいてほしいけどね。一緒に試合したいけど、それは、他の誰であっても同じだから」 

全員黙って聞いていた。
りんねの方をしっかりと見るもの。
遠くにいる何かに思いをはせるもの。
視線の落としテーブルを見つめるもの。
さまざまだけど、全員黙ってりんねの話を聞いていた。

「でもね、ひろみは、もう戻ってくることが出来ないから。どうしても戻ってくることが出来ないの。ここに。2度と。ひろみがどんなに望んでも、私たちがどんなに望んでも、もう、戻ってくることは出来ない。だけどさ、私は一緒に戦いたいの。そばにいてほしいの。実際にここにはいないよ。そんなことは分かってる。だけど、そばにいるって思うだけど、そう思えるだけで、私たちに力をくれると思うから。だから、ひろみは登録メンバーに入ってベンチにいてほしい」

りんねの切実な想い。
嘘偽り無い、飾りの無いりんねの想い。
藤本も、立ったままうつむいて聞いていた。
りんねの方は見ないけれど、言葉は耳に入っている。

視線は藤本に集まっていた。
りんねの語った想い。
それを聞いて、藤本が何を言うか、皆の視線が集まっている。
藤本は顔を上げ、りんねの方に視線を向けた。

「ここにいる。ここにいるみんなのことは考えてくれないんですか?」

感情を抑えたような藤本の声。
りんねの顔を見つめる。
しっかりと見つめ返すりんねの視線とぶつかると、思わずそらしそうになったけれど、それでもりんねの目を見つめたまま藤本は続けた。

「ベンチに入ろうと思って必死に練習してる子もいるんです。下手で外されるのは、下手な本人が悪いけど、こんな理由で外されるのは納得いかないです」
「こんな理由って何よ! ひろみのことをこんな理由はないんじゃないの!」

窓際に座っていた3年生が、座ったまま藤本をなじる。
りんねは、何も言わず藤本のことを見つめていた。

「こんな理由は言葉悪かったと思います。だけど、ひろみさんを登録するっていうのは、1人外されるってことなんですよ! そんな、今努力してる子を押しのけてまでひろみさんを登録するのは納得いかないです」
「美貴には私たちの気持ちなんかわかんないんだよ!」
「そういう問題じゃないんですよ!」
「じゃあなんなのよ!」
「もう、やめてください!」

藤本と3年生の、議論を通り過ぎて口論に近いやり取りを、里田が怒鳴りつけて止めた。
騒ぎの後の静寂。
メンバーたちははっとしたように我に返る。
中央で、りんねが顔を覆ってすすり泣いていた。

「外される、外される子のことも、考えた。考えたけど、それでも、ひろみが、私たちには、ひろみが必要だと思ったの」

涙まじりのりんねの言葉。
そこまでがやっとで、それ以上はつながらない。
藤本も、こうなってしまうと何も言い返せずにいる。
後を引き取ったのは里田だった。

「美貴、りんねさんに従おうよ。美貴の言ってることおかしいとは思わないけど。でも、りんねさんに従おう。私たち、りんねさんにいろんなもの背負わせちゃったし。りんねさんのおかげで今こうやってまた練習できるようになったんだし。最後くらい、りんねさんの想いのままにしてあげようよ」

藤本は何も答えられなかった。
朝のミーティングは、そこで解散した。

今日の食事当番の1年生を残し、後のメンバーは部屋に引き上げる。
2年生も、3年生も、それぞれ自室に引き上げる。
あさみは、藤本と共に部屋に戻るのだが、なんとなく声をかけられるような雰囲気でなく後ろを付いて歩いていく。
藤本がドアを開け先に部屋に入る。
あさみがその後ろから部屋に入ると、藤本はまっすぐにベッドに向かっていきそのままうつ伏せに沈み込んだ。

朝食後、朝練に向かうまでのわずかな時間。
あさみとしてはますます声をかけにくくなり、黙々と荷物の準備をする。
やがて、藤本の声が聞こえて振り向いた。
ベッドに臥せったまますすり泣いていた。

「美貴だって、ひろみさんのこと忘れたんじゃないのに・・」

枕に顔を押し付けたままのくぐもった声。
あさみは、準備の手も止めて藤本の姿を見つめる。
なんて声をかけていいのか。
しばらく考えてから、藤本が伏せっているベッドに腰をかけて語りかけた。

「美貴、私とか、ベンチ入れるかどうかぎりぎりの子のためにいろいろ言ってくれたんだよね」
「そんな、そんなんじゃないもん」
「いいよ。無理していろいろ言わなくても。みんなが言いづらいこと代わりに言うのが美貴の役目みたいになってるもんね」
「美貴が言いたかっただけだもん」
「無理しないでいいから。美貴も言ってたけどさ、ベンチ入れなかったら、それは下手な本人が悪いの。枠が1つ狭くなるくらいでベンチ入れなかったら、それは下手だから悪いの。それでいいよもう」

あさみは、藤本の背中をさすってやる。
藤本はもう答えずにあさみにされるがままになっている。
ノックの音がしてあさみが顔を上げると、返事をするより前にドアが開いた。
入ってきたのはりんねだった。

「あ、あれ、藤本?」

藤本は答えない。
あさみも、なんとも言えずにりんねの方を1度見て、それからまた藤本の背中をさする。
りんねは、あさみの隣に立ち藤本のことを見つめる。

「あ、あの、さっき、私泣いちゃって、ちゃんと藤本の話し聞いてやれなくてごめん」
「りんねさんの好きにしてください」

藤本は顔を上げることなく答える。
りんねは戸惑ったまま続けた。

「藤本の言ってることさ、私も分かるよ」
「りんねさんの好きにしてください」
「あ、あのさ」
「りんねさんの好きにしてください」

もう、何を言っても藤本は1つのことしか言わない。
顔は上げず、枕に押し付けたまま。
りんねも、どうすることも出来ず引き下がった。

「朝練、バス出るからね。遅れないでね」
「ちゃんと私が連れて行きますから」
「おねがいね」
「はい」

りんねは部屋を出て行こうとしてもう1度振り向いた。

「あ、あさみ。あの、ごめん」
「え?」
「ごめん。あさみが大事じゃないとか、ベンチに入れない子が大事じゃないとか、そういうことじゃないんだ」

あさみの手が一瞬止まる。
思い直したようにまた手を動かして藤本の背中をなでる。
視線を藤本の頭に向け、りんねの方は見ずに答えた。

「分かってます」

いつものあさみよりも大分低い声。
りんねは、何か言葉をつけたそうかと思ったけれど、はっきりと頭に浮かんでこないし時間もあまり無い。
そのまま出て行こうとすると、今度はあさみの方から声をかけた。

「あ、りんねさん」
「ん? なに?」
「あの、見なかったことにしてください」
「え? ああ、うん。分かってる」

藤本美貴が、3年生になじられたくらいで泣いている。
そんなことはありえないはずのことだった。
自分の、そういう弱さをあまり人に見せたくないのが藤本だとあさみは知っている。
だから一応言っておいた。

りんねは部屋を出て行った。
閉められた扉を見つめあさみは1つため息をつく。
藤本の泣き声はもう聞こえない。
落ち着いたのだろうと、あさみは藤本の側を離れ自分の荷物の準備を始める。
やがて、藤本がベッドから体を起こした。

「嘘泣き終了」

そう言って涙でぬらした枕をあさみの方に両手で投げつける。
あさみはその枕をキャッチしてにっこり微笑んだ。

「時間ないよ」
「分かってる」

大丈夫? とか余計なことは聞かない。
聞いたって藤本は「何が?」とか返すに決まっているのだ。
藤本の優しさは誰にでも分かるようなものじゃない。
だけど、自分がそれを分かっていて、時折分かってるよと伝えてやればいいと思っている。
それが、1年半同じ部屋で暮らしてきたあさみのやさしさでもある。

荷物をまとめた2人は急いでバスに駆け込む。
食事当番の1年生の最後よりは早く乗り込めた。
1部の3年生からは乗り込んできた藤本に冷たい視線も飛ぶ。
だけど、本人はそ知らぬ顔。
日々の暮らしの中で自然と決まってきた定位置、後ろから3列目の右窓側に座った。

朝練終了後、りんねがこの1件を石黒コーチに報告し、登録メンバーの件を頼み込む。
石黒コーチの言葉は、常に無くあいまいだった。
自分が来る前にあった事故のことだから、自分には何とも言いがたい。
ただ、すでに亡くなった人間を登録するということについては、するかしないかの前に、可能か不可能かという問題がある。
まずは協会に問い合わせをしてそれから決めようということになった。
実際には、当日夜に電話で問い合わせたが、協議するので文書で質問状を送ってほしいということになり、回答を待つことになった。

 

体育祭や文化祭、普通の高校生にとってもイベント盛りだくさんなのが2学期。
その中に中間テストや期末テストもあり、さらに部活の試合まであると大変だ。
ましてや、地区大会を勝ち抜いて全国レベルの大会の決勝まで残るようなチームはなおさらである。

「柴ちゃん、テストどうだった?」
「梨華ちゃんこそどうだったのよ」
「私のことはいいのよ、柴ちゃんはどうだったの?」
「忘れちゃった」

練習前、ストレッチをしながらのやり取り。
国体が終わって次に来るのは冬の選抜大会に向けての県大会、より前に中間テストというのが現実だ。
中間テストという敵は、県大会で当たるどんなチームよりも手ごわいというのが彼女たちにとっての現実。
完全なスポーツ専門高ならテストなど気にもしないのだろうが、女子バスケ部以外は普通の学校な富ヶ岡。
周りの空気に触れていると、どうしても自分たちだけ無関心ではいられない。

「忘れたって何よ。じゃあ、1対1やって負けたほうが言うとかやってみる?」
「うーん、やめとこう」

自信が無いのは1対1かテストの点数か。
お互い言いたくないのだから似たり寄ったりな成績なのだろうと想像していて、相手がどうだったのかは気になるけれど、自分より良かったら悲しいから、知りたいけど知りたくないような。
実際のところは各科目バランスよく平均点にちょっと足りないくらいの点数だった柴田の方が、合計では石川よりかすかにいいのだが、そんなことは先生のみぞ知る事実である。

「高橋はどうだったのよ」
「あ、いや、あの。普通です」
「何よ普通って」

モップがけをしていてコート隅でストレッチをしている2人の前を通りかかった1年生の高橋。
石川の2つ目の問いかけには答えずにコートの向こうサイドへ向かってモップを押しながら去っていく。

「なんか、最近あの子そっけないのよね」
「そう?」
「昼休みもシューティング来なくなったじゃない。それだけじゃなくて、練習あとも付き合ってくれないしさあ」
「うざくなったんじゃないの? 半年も梨華ちゃんに付き合って練習してるなんて奇跡だよ」
「なによ。いじわる」

石川、すねた。

柴田にすれば、別にそっけないというか普通に戻っただけな気がしてる。
クラスで浮いてるらしい、と小川から相談を受けて一応気をつけて見てはいたけれど、こちらからどうするというわけにも行かない。
それが、昼休みにお昼を一緒に食べに来たりすることがなくなったのだから、まあ元通り馴染んだのだろうと、理解した。
大体そうやって、自分じゃなくて石川なんかに後輩がなついているのが納得いかないはいかないのだ。
ねたみ、という言葉まではいかないけどうらやましい位には思っている柴田、ちょっと近づいてこなくなったからって贅沢言うなと言いたいところである。

県大会はもう今週末。
実際には大会はとっくに始まっていて、スーパーシードが付いている彼女たちの試合が始まるのが今週末というところ。
それでも、練習メニューは特に変わらない。
このチームにとって、県大会、というものはそれに向けて調整する必要の無い大会なのだ。
ピークは年末、選抜大会の決勝にもってくればいい。

ここのところ、石川はディフェンス面を意識して練習していた。
ランダムメンバーでの1対1や3対3のとき、今まではディフェンスの強い相手のところに自分がオフェンスで入るように並んでいたのに、最近は、自分がディフェンスのときに強いオフェンスが来るように並んでいる。
実質的にはそれは柴田なり高橋といったスタメンでアウトサイドのプレイヤーということになるのだが、どうも高橋は1年生と最近組みたがるので、柴田ばかりが相手する感じになっている。
また、5対5ではBチームに入ることが多くなった。

これは、本人の希望という以前に和田コーチの意向でもある。
対中村学院を考えた場合、フォワードタイプの強力なエースと、その他4人という形のチームと練習したい。
それはまさに、控えメンバープラス石川梨華というのがぴったりだ。
結果として、石川はオフェンス時にはボールが集まり、ディフェンス時には柴田のマークに入って、普段Aチームで5対5の練習をするときよりも、強力な相手と戦う形になり、個人的にトレーニングがつめている。
柴田の立場に立てば、トレーニングの相手としてはいいけど、いつもいつも梨華ちゃんばっかりで飽きてきた、という本音もあったりした。

石川の頭には、自分が是永美記ちゃんのマークをする、というイメージがあるが、和田コーチがそれを認めているのかどうかは分からない。
ただ、せっかくのやる気なので、それを削がないようには気を使っていた。

全体練習終了。
ミーティングの後、各自、好みで追加で練習をする。
うまくなりたいから練習をするのだけど、それだけじゃなくて単純に楽しいという部分もある。
練習は練習だけど、とにかくボールに触っているのが好きなのだ。
それでシューティングを繰り返してシュート力が上がり、ディフェンスつけて練習してオフェンスの突破力が増してきた石川。
最近はうまい子にボール持たせてディフェンスサイドでの1対1というのが楽しい。
突破するだけじゃなくて、止める快感を覚え始めていた。

「高橋」
「は、はい」
「1on1やろ」
「あの、いえ、あの、あたし」
「なによ。はっきり言いなさい」
「ごめんなさい。帰ります」
「えー?」

石川からボールを渡された高橋。
そのボールを石川に返して脱兎のごとく走っていく。
石川としては猿につままれた心境である。

「私、嫌われるようなことしたかな?」
「だから、飽きたんじゃないの、梨華ちゃんしつこいんだもん」

1度始めると徹底的にはまり込む石川。
ディフェンス練習にはまった石川は、しつこいくらい、もう1度、と繰り返す。
だから上達する、というのは確かだけど、相手する方がたまったものじゃないのも確かではある。

「あー、愛ちゃん、合唱コンクールですよ」
「合唱コンクール?」
「ソプラノのソロパート受け持ったらしいですよ。それで、ソロだけじゃなくて、全体でも結構練習してて」
「練習しててって、この時間までやってるの?」
「全員じゃないけど、何人かいるみたいですよ」
「へー、気合い入ってるね」

富ヶ岡の秋のイベントは文化祭と合唱コンクール。
通常は文化祭の方が盛り上がるイベントだが、中には高橋みたいなのもいる。

「あの子、歌うまいんだ」
「音楽一緒ですけど、合唱部でもいいんじゃって思うくらいですよ。石川さんもうまそうですよね」
「梨華ちゃん、歌うまいよね」
「え? うん、当然じゃない」

石川の歌声を小川は知らない。
石川の歌声を柴田は知っている。
石川は歌声についてそれなりに自覚はある。
ある胸張って答えると、本当に自信がありそうに見えるから不思議だ。

「もう、いいや、柴ちゃん相手して」
「たまにはおとなしくシューティングさせてよ。小川、相手してあげて」
「え、石川さんのですか? いや、ちょっと」
「ちょっとってなによ。いいから、かかって来なさい」

石川は小川にボールを押し付ける。
こうなって、断れる小川ではなかった。
柴田としては、助かったという気分である。
ここ数日、高橋がさっさと帰ってしまうので、石川ペースで石川にずっとつき合わされてきたのだ。

柴田は、自分のシューティングもそこそこに、小川と石川の1on1を眺めていた。
これが意外とよく止まる。
小川のよさは思い切りの良いところ。
ゲーム中、迷い無く突破にかかることでディフェンスを振り切るという場面がよくある。
ただ、1on1の場合、最初からパスという選択肢が無い。
なので、ディフェンス側もひょっとしたらシュートは歩けど、基本的には突っ込んでくるはず、という心構えで待っている。
そうすると、思い切りよくも何も関係ないのだ。
それでも以前なら抜けていたのだが、どうも最近の石川は相手の切り返しに対応するスピードが上がってきた。
それで仕方なく、ゴール近いところまで持ち込んで後はフェイドアウェイ気味にジャンプシュート、となるのだが、今度は身長差プラスジャンプ力差が効いてきてブロックされる。
もちろん、100パーセント止められるわけでもないが、小川の方が考え込んでしまう程度にはディフェンスが効いている。

「小川が止まるようになったか」

ぼんやり眺めていた柴田の横にキャプテン平家が歩み寄ってきた。
柴田は、チラッと平家の方に視線をやってすぐにフロアの2人に戻す。

「小川にはいい薬かな」
「あの子、最近調子よくないですよね」
「憧れの柴田先輩何とかしてやりなよ」
「なんですかそれ。あれ、高橋に対抗して言ってみただけみたいですよ」
「その高橋は合唱コンクールの練習だって?」
「あの子も気分屋ですよねえ。文化祭は全然手伝わなかったらしいのに」
「その気分屋の気ままなパスとずいぶん合うようになったんじゃないの? 最近」
「そうですか? ああ、でも、梨華ちゃんがBでやってる分、なんとなく高橋も私を使おうとしてる感じはありますね」

高橋から見てパスを出す相手は4人。
石川のところは、控えメンバーが入ることが多いのでなんとなく使いづらい。
小川も最近は外されることも多く、人がころころ入れ替わるのでなんとなく当てにしにくい。
スタメン組みのAチームで固定されていて頼りになるのは平家か柴田になり、うちは平家外なら柴田、そんな選択をしてしまう場面が多くなる。
フロアでは前に石川に入られた小川が、バックターンしようとしたらボールがコントロールできず、自分の足に当てて転々とさせていた。

「石川の相手してやれば?」
「えーー・・・」
「だって、もう、柴田か高橋くらいだろ。石川の相手できるの」
「高橋にも言ってくださいよ。合唱コンクールもいいけど、自主練もうちょっとやれって」
「あいつ、なんか最近石川と合ってなくないか?」
「そうですか? 梨華ちゃん、しつこいから飽きたんじゃないですか?」
「それならいいんだけど」
「いいんですか?」
「いいってこともないけど、なつきすぎって感じだったから前は。まあ、ちょうどよくなるんじゃないの?」
「そうですかねえ」

平家と柴田、ボールをおなかに抱えて石川小川の1on1を見つめる。
その見つめる先では、石川にブロックに飛ばれ、小川はシュートを打つこともできず着地、そしてバランスも取れずしりもちをついて座り込んだ。

「石川、今度は柴田が相手してくれるって」
「ちょっと、平家さん!」
「柴ちゃん、やろう」
「もう、やだー」
「石川、柴田相手ならディフェンスだけじゃなくてオフェンスもやっとけよ」
「もう、平家さん! 煽らないでください」

2年生3年生のそんな会話を尻目に、小川はシュートを打てずに抱え込んだままだったボールを持って下がっていく。
しかたないな、という顔をしながら柴田はその開いたスペースに替わりに入っていく。
平家は、そんな2年生よりも、1年生たちがなんだか心配だった。

 

本大会という言葉が全国大会に当てはまるチームは数少ない。
多くのチームにとって、県大会という舞台が本大会である。
全国選抜大会の予選。
それが大会の公式な位置づけであるが、多くのチームにとってはこの予選こそが本大会としての意味を持つ。
吉澤たちも、今年2度ほど全国大会の土は踏んでいたが、それでもまだ、この、県大会こそが本大会というレベルを卒業してはいなかった。

夏に優勝したからシードが付いて2回戦から。
2回戦、準々決勝は貫録勝ち、と言えるほどの余裕を見せた。
準決勝からが本番。
今回は、大谷のいる東松江が相手。
さすがにしっかり研究されていて、スリーポイントのある市井に大谷がしっかりと張り付く。
松浦がいれば話は違ったのだろうけれど、怪我が治っていないため今大会では使えない。
福田のスリーポイントも警戒されていて、外が使いにくいという状況を作られる。
ただ、東松江の戦力でできるのはそこまでだった。
外を押さえて不安定な2年生のインサイドが崩れるのを信じて待つ、という戦略だったのだが、吉澤、あやかがしっかり頑張った。
73−47
最終クォーターには吉澤以外スタメンを全員下げての大勝。
決勝に勝ち上がる。

逆サイドでは、飯田の出雲南陵とミカの北松江の準決勝だったが、得点力の違いを飯田が見せ付けてこちらも大勝していた。

「ちょっとは遠慮しろよー2年生」
「そんなこと言われたってこっちも必死なんですから。外押さえられて、中で何とかしなきゃって」
「県選抜のとき、外より内のが不安定だなって思ったから、その線で作戦組んだのに、台無しじゃんか」

敗者の弁。
試合後、大谷が語りかけてきた。
3年生にとっては正真正銘負けたら最後、という試合。
その、負けた後のコメントとしては極めて明るい。
そう、保田が突っ込むと、大谷は笑って答えた。

「やるだけやったしさ。もうちょっと競ってたらわかんないけど、後半入った時点でほとんどダメだって思ったし。最後は、3年間結構楽しかったなあ、なんて思いながら試合してたよ」
「なに、それがラストの、ボール持ったら全部1対1みたいなとこにつながるわけ?」
「だって、夏で引退せずに残った3年私だけだし。残り何分かは好きにやってもバチ当たらないかなって思ったから。まあ、悔しいは悔しいんだけど。でも、正直、明日から受験勉強、みたいな予定立ててたんだから、その時点で負けかなって思うよ。君らにも結構むかついたこととかあったけど、全部いい思い出って感じかな。後は、決勝、楽しく見させてもらうよ」

それだけ言って、大谷は去っていった。
全国大会へ勝ち上がるチームより、負けて去っていくチームの方が圧倒的に多い。

「さて、またあれですか」
「保田さん、何度目ですか?」
「何度目だっけ? でも、決勝では2度目だよまだ」
「そっか」

あれ。
視線の先には飯田がいた。
体育館裏の通路。
反対コートで試合を終えた飯田が、通路の反対側から出てきている。
大谷がそこに歩み寄ってなにやら話しこんでいた。

実際には、保田にとっては6度目の対戦である。
戦績は1勝4敗。
たった1つ勝ったインターハイ予選、前半にスリーポイントシュートで攻撃の中心を担った松浦が今日は怪我で使えない。
その分を何かで補う必要はある。
ただ、保田は当然、明日から受験勉強などという予定は立てていない。
インターハイの後、冬まで部活を続けると決めた。
その冬とは、12月の全国選抜大会であって、今日じゃない。
保田の季節感で言えば、今日はまだ秋である。

「はい。さっさとご飯食べて、男子のハーフで集合ね」

女子準決勝の後は、男子の準決勝がコートで行われる。
その後が女子の決勝。
勝てば全国大会出場、負ければ3年生引退で新チーム結成。
インターハイ予選とシチュエーションは同じである。

チームとしては2度目の県大会決勝。
さすがに、空き時間の雰囲気はインターハイ予選のときとは違った。
女子高生が集団で黙々とはしを動かしての昼食、という異様さはもうない。
経験、とはそういうものなのだろう。
空気としては、1日2試合の日の一試合目と2試合目の間、というただそれだけのもので、特別な気負いは見られなかった。

県大会の決勝。
地方テレビ局にとっては、安上がりで手に入れられる地元向けコンテンツである。
ということでテレビカメラも入り、スタメンは場内アナウンスでコールされる。
インターハイ予選のときは自らスタメンを外れた保田。
今日、カメラを向けられながらアナウンスでコールされる自分の名前を聞いて、夏で辞めずに良かった、と現金に思った。
松浦が使えない今日、スタートは福田、市井、保田、吉澤、あやかである。

飯田と保田、キャプテン同士で握手を交わし、2人のレフリーとも握手を交わす。
最初はこてんぱんにやられた。
いつしか顔を覚えられ、名前も覚えてもらった。
県の選抜ではキャプテンと副キャプテンになった。
選抜の練習のとき、保田家に飯田を泊めて、2つ布団で眠る仲にもなった。
そんな2人の、最後の対戦である。
過去の対戦は関係ない。
今日勝ったほうが、3年間の戦いの勝者。
ジャンプボール、飯田がボールをコントロールし、味方のガードに落として試合が始まった。

飯田には吉澤を当てる。
吉澤にとっても、飯田に挑戦できるこれが最後だ。
転校前、完全初心者だった頃、矢口先輩に初歩を学んだ。
転校してきて、保田さんに試合に出るための心構えを学んだ。
試合に出るようになり、選手として越えるべき壁が見つかった。
それが飯田だ。

出雲の最初のオフェンスはいたってシンプルだった。
ハイポストで吉澤を背負った飯田にパスを入れる。
飯田はターンしてゴール下に入り込もうとするが、吉澤はコースに入り込む。
それでも強引に、と見せかけて飯田はフリースローラインからジャンプシュート。
吉澤はチェックには飛べず、空中でフリーの形になりシュートは決まった。

さすがだな、と吉澤は思ったけれど、悪くないとも思った。
ゴール下に入り込まれたら完全に負けだけど、中にいれずに外から打たせる分には、いくらかの確率でシュートは外れる。
今回はたまたま入ったけれど、このやり方でいいはずだ、と自信も持った。

松江の攻め上がり。
吉澤は、飯田さんは自分につくのかあやかにつくのかどっちだろうか、と思いながら上がっていく。
飯田は自分についてこない。
ああ、あやかのほうが自分より怖いのかな、と少々落胆していたら、ハイポストに入ったあやかには別の人間が付いている。

保田も違和感を感じていた。
自分のマークを振り払うように、ゴール下を抜けて逆サイドへ切れると、マークはついてこなかった。
その代わりに別の人間が目の前にいる。

福田はさすがに瞬時に理解した。
マンツーマンじゃない。1−3−1のゾーンだ。

ディフェンス側の視点に立って、1番前に1人、次の列に3人、1番後列に1人の順に並ぶので1−3−1のゾーン。
ワンスリーワン、と呼ぶ。
トップの1人がガードについて、真ん中の3人はフリースローラインあたりの位置で横に広がる。
後ろの1人はゴール下だ。
大まかな位置はそのように決まっていて、後は相手の動きにあわせて、それぞれの判断で上下にずれたりもする。
飯田はゴール下に入った。
常に1枚しかいないゴール下というのは一見甘そうであるが、ここにいるのが飯田では、簡単にはいかない。

福田以外の4人は、明らかに戸惑っていた。
ゾーンを相手にするのは春の大会の負けた試合以来。
その時点で苦手意識はついていたが、それに対する対策は立ててこなかった。
この大会に向けて考えてきたのは、飯田とどう戦うかということ。
まさか、相手の方が自分たち用の対策を立てて迎え撃ってくるとは想定していなかった。

パスがつながらない。
タイトに当たってくるわけではないので、パスが出せないわけではないのだが、動きの連動性が無いので、1つパスを受けて止まり、次に出しどころを探してまた止まり、の繰り返し。
ディフェンスが崩れる要素がない。
どうしていいのかよく分からないまま、二十四秒近いところで市井がハイポストに入ったあやかにボールを入れる。
しかし、1−3−1でハイポストは十字の真ん中に当たる1番混んでいる位置。
この位置は実はポイントになるのだが、あやかにはそんな自覚はこの時点で無い。
すばやく囲まれシュートも打てず、二十四秒オーバータイムで出雲ボールとなった。

1−3−1は特別変わったゾーンではないので、奇襲という言葉は当たらないが、それでも出雲が虚をついた形になって、序盤を優位に進める。
松江は、福田がボールをキープして持ち上がるまではいいのだが、周りのメンバーがどうにも出来ずにいる。
ボールを手放した福田は、ベンチに向かって腕でT字を示し、タイムアウトを要求する。
ここのオフェンスもエンドラインに近いところでの横断パスをカットされ、そこから速攻を出されて失点した。
1クォーター5分過ぎ、10−0出雲リードで、松江はタイムアウトを取った。

「明日香ちゃん、作戦板」

部員が登録可能数より少ないこのチームは、怪我して出られない松浦もベンチにいる。
片足けんけんで、よろよろしながらも、戻ってくる福田を作戦板を持って出迎える。
誰に指示されたわけでもない。
福田と松浦の以心伝心。
福田はそれを黙って受け取ると、他の4人をベンチに座らせ自分はそれに向かい合う位置にかがみこんだ。

「1−3−1を崩すポイントはコーナーです」
「コーナー?」
「分かりやすいのはこことここ。ローポストで1人がボール受けて、4番が寄ってきたら、逆サイドに通す。そうすればノーマークです」

作戦板にマグネットをおきながらに福田が説明する。
1年生の福田が指示を出すことに文句を言うものはもう誰もいない。
半年の間にこの形は板についてきた。

「もっと開いて0度からのスリーポイントもありです。これを抑えるにはこの位置のディフェンスが当たりに来るしかないですけど、そうしたらここに戻してスリーポイントでもいいです。ワンサイドで2対1を作って外から打つ、というやり方です」

ゾーンディフェンスは守る位置が場所で決められているので、オフェンス側がある地域で2対1を意図的に作り出すことができなくは無い。
ただ、福田がここで言った方法論は、スリーポイントという言葉が2度出てきているように、スリーポイントを打てる人間が2人必要、という手段になる。

「全体的には、ディフェンスが1−3−1なら、オフェンスは2−1−2で攻めます」
「2−1−2?」
「はい。位置としてはこの形。あいているスペースから攻めればいいんです。ただ、真ん中はハイポストの位置に入るのであいているという風にはなりませんけど、逆にここにボールを入れれば、あいている4箇所どこにでも捌けるわけです」
「そこに私かあやかが入るわけか」
「そういう場面もあるし、市井先輩や保田先輩が入って、吉澤さんとあやかさんは、0度の位置にいてどちらもボールを受けられるという形もありです」

1−3−1のゾーンを、人間が両腕を横に広げた形としてみると、両肩の上と脇の下にオフェンスを置き、残りの1人を首に当てる、という形。
○×ゲームの九マスのうち、4つ角と真ん中、という感覚でもいい。

「ゾーンはうっとうしいかもしれないですけど、完璧なゾーンなんてありません。あいているところで勝負すれば崩れます。ただし、ドリブルで持ち込む1対1をしたりはしないことです」
「ふーん、いろいろ理屈があるんだな」
「どんなゾーンでも、一長一短あります。崩す理屈はあるんです。後はそれができるかどうか」
「よし、いきなり十点差はきついけど、やるだけやってみよう」
「うちからも一言ええか?」

保田が締めようとしたところで中澤が口を挟んだ。

「ゾーンの崩し方とか、そういう難しいことは明日香に任せるけどな、あんたら、ディフェンスいい加減やなかった? あ、ゾーンだ、どうしよう。って、思いながらディフェンスしてて、簡単に崩されてたように見えるけど、気のせいか?」

何か1つのことがうまく行かないと、他のところでもその1点を考えてしまうということはある。
オフェンスがうまく行かないとき、守りながらどう崩していいのか考える。
結果、目の前のオフェンスに簡単に振り切られる。
そんなこともある。

「自分たちが守ってるときに、相手がゾーンかマンツーかは関係ないやろ。ちゃんと集中せな」
「切り替え早くしよう。相手にボールを取られたら、その瞬間からディフェンス。ボールを持ったらその瞬間からオフェンス。ボールがルーズになったら飛び込む。まだ出だしだし、点差は気にせず集中していこう」

中澤の言葉を受けて、少々耳が痛い保田が改めて締める。
吉澤やあやかにしても、中澤に指摘されて初めてそこに気がついた。
自分たちがほぼ二十四秒かかって攻撃している割に、5分あまりで十失点というのはいいペースでやられすぎである。
中澤のバスケの知識は、未経験者な分生徒たちにまだ劣るけど、人の心理を見る目は年の功が生きてくる。
伊達に大人やってるわけじゃないし、伊達に教壇に立っているわけでもない。

笛が鳴り、メンバーたちはフロアに戻っていく。
福田は作戦版を松浦に返しながら、松さえいれば、と思った。
松浦がフロアにいれば、市井と並べて怖いスリーポイントシューターが2人いることになる。
しかし現状は市井1枚。
福田も打てるは打てるが、よほど切羽詰るか、余裕があるかどちらかの場面に限られる。
こうなると、ディフェンスが内にこもりやすいのだ。
それが、もし松浦がいれば、飯田がいる出雲からすれば、怖いのは内より外になる。
最初に福田が示した崩し方の1つ、外2人で擬似アウトナンバーを作って、空いたほうでスリーポイントを打つ、というのも可能だ。
同じことをミドルレンジでやろうとすると、カバーが効き易いが、スリーポイントラインの外でやられると、1−3−1のゾーンだと、ケアするのは難しい。
さて、どうしたものかと、思いながら福田はエンドラインの市井からボールを受けてゲームが再開された。

タイムアウトがあけても出雲のゾーンは変わらない。
ここまで完璧に機能していたのだから当然だ。
松江の方は、福田の言葉に従って2−1−2の形に散る。
真ん中の1に保田が入り、吉澤とあやかはローポストへ。
最近、吉澤も含め、みな、福田の言葉に素直に従うようになった。

とりあえず横にいる市井につなぐ。
ハイポストの位置に立つ保田に入れたいが、堅いので左0度に開いてきた吉澤へ。
ディフェンスは付いてこない。
目の前に飯田はいるが、ローポストに当たる位置に立っていて、吉澤に当たっては来ない。
前が開いているので打ちたくなるが、この距離は吉澤のシュートレンジではない。
回ってきた福田に戻す。
福田は、逆0度へ横断パスを送った。
受けたのはあやか。
いつものシュートレンジよりは少し遠めだったが、飯田がチェックに来る前にすばやく打った。
これが決まってようやく初得点である。

ようやく得点は動いたが、流れを引き込むというところまでは簡単にいかない。
あいているスペースで勝負、という形でいると、特に吉澤とあやかの2人が、いつものシュートレンジより遠目から打たされる格好になる。
そうなれば当然、確率は低くなり、得点ペースは上がらない。
ゴール近くで飯田と勝負するのは怖いのだ。
マンツーマンなら、2人のうちのどちらかは飯田ではない相手がマークに付くことになる。
しかし、ゾーンの場合、ゴールに近づくとそこに飯田がいるわけで、吉澤もあやかも、2人ともが飯田を意識してしまう。
一般的に、1人で2人を守る、ということはできないものなのだが、精神的な意味で、飯田が1人で吉澤とあやか、2人を相手に守ってしまっているような格好になっていた。
1クォーターは18−6 出雲のリードで終える。

2クォーターに入るとこう着状態が続いた。
市松は、外から市井が打ち出すが、これがなかなか入らない。
結局0度の位置からのポイントが中心になる。
吉澤やあやかだと、遠目の位置からのシュートは確率的に少々厳しいが、同じ位置に保田が下りてくると、なかなか入る。
出雲はいつものように飯田が中心だが、これは吉澤がかなり健闘した。
ゴール下まで来てボールを持たれるとさすがに厳しいが、ハイポストあたりの位置からの1対1では、ゴール下に踏み込ませない。
それでも、ミドルレンジのシュート力が上がっていて、フリースローラインあたりからのジャンプシュートが意外と決まってしまう。
一気に差が開いたりはしない。
それでもじりじりと離れていく。
前半を、17−32 松江は15点という大きなビハインドを背負って終えた。

「リングが遠い」

戻ってくるなり吉澤がこぼした。
吉澤は、それほど広いシュートレンジなわけではない。
相手のセンターを外に引っ張り出して、ドリブル1対1で持ち込む、というようなことはするが、外からシュートが打てるわけではない。
ゴール下で飯田にでんと構えられると、自信のない位置で勝負をせざるを得ない。

「もう少しゴール下で勝負しましょうよ」
「そうは言うけどさあ、飯田さんきついって」
「ひきつけて捌けばいいじゃないですか」
「お前、簡単に捌くって言うけど、カバーは入ってくるしさあ」
「カバーカバーで動かせば、そのうちいい位置があきますって」
「まあ、やってみるけどさあ」
「それに、普通に自分で勝負でもいいんですよ」
「1対1するなって言っただろさっき」
「ゴール下は別です。外から持ち込んでも意味が無いだけで、ゴール下はそれより後ろが無いんだから、すぐシュート打てるんだし」
「でも、飯田さんだぞ」
「別に、吉澤さん普通に負けずに出来ると思いますけど。それに、無理ならパス出せばいいだけだし」
「ゴシンライイタダイテありがとうございます」

棒読み口調で返す吉澤。
他者評価と自己評価が一致していない。

「紗耶香、スリー決まらないの?」
「なんかさあ、タイミング無いんだよね。圭ちゃん打ってみない?」
「無茶言わないでよ」

ここまでの得点は、リングが遠いといいつつもその遠いところから打つ保田、吉澤、あやかが中心である。
外からの、特に高い位置からのゴールはまだない。

「もうちょっとゴールに近いところでボールもって、何とか下でつないでみない?」
「まあ、できればやるけどさあ。そうだよなあ。真ん中にかまえられるとなあ。どっちかにひきつけたいよね」

吉澤とあやか、外に頼らずに自分たちで崩すとなると中に立つ飯田を何とかしないといけない。
ゾーンをどうやって崩すか、外と中、それぞれに考える。
相手の出雲は控え室に戻っているが、こちらはコートサイドのベンチに残る。
ハーフタイムの十分間。
時間の使い方はそれぞれだ。

割と多くの場合、次の試合をするチームがハーフタイムアップでコートを使っている。
しかし、この後の男子決勝はそれぞれ午前中に1試合こなしたチーム同士の対戦。
この時間からアップをすることも無いらしく、コートは閑散としている。
フロアがあいていて、手元にボールがあればシュートを打ちたくなるのがバスケ部員という人種。
1人1人、なんとなくシューティングを始める。
いまさらながら、遠目の0度の位置でシュート練習をする吉澤の姿があったりする。
福田は、そんなメンバーの姿をベンチに座ってみていた。
隣には松浦がいる。

「私が出られれば、こんな点差なんでもないのにな」
「松もはっきり言うようになったよね」
「何が?」
「前は、もうちょっと遠慮があったような気がするけど」
「そりゃあ最初は。最初から自分はすごいんです、なんて言ったらどこのやな女だよって感じじゃん」
「いいよね、いつでも自信たっぷりで」
「うん。私はいつでもどこでも自分に自信がありますから」

松浦の言葉に福田は小さくため息を吐く。
まあ、誰よりも早く真の松浦の姿は福田が分かっていたことだ。
いまさら呆れなおすことでもない。

「明日香ちゃんだって、自信たっぷりなんじゃないの?」
「どうだろうね」

自分は自分に自信を持っているだろうか?
改めて考えるとそれはわからない。
ただ、自分は、最善を尽くそうとしているだけだ。
自分が最善だと考えた手段で目的を達しようとしているだけ。
松浦と自分は違うと思っている。
バスケの技量は自分の方が高いとは思っている。
だけど、松浦をうらやましいと感じている自分がいることもうっすらと自覚している。

「15点って実際、結構な点差だよね」
「うん」
「どうするの? あややさま抜きで」

あややさまという言葉に、さすがに福田は冷たい視線を松浦に送る。
松浦にとっては柳に風。
ニコニコ笑って福田の答えを待っている。

松浦の自信たっぷりな姿にあきれながらも思うのだ。
松さえいれば、と。
松浦のスリーポイント、これさえあれば全然違う。
ただ、福田はそんなことを思いながら、さらに冷静に気づいたこともある。
そもそも、松浦がいれば1−3−1のゾーンなど敷かないんじゃないだろうか。

「松さあ、怪我いつ治るとか、県大に間に合わなそうとか、飯田さんに話した?」
「ううん。あ、でも、スーパーサイヤ人には言ったよ何度か。言ったっていうかメールだけど」

スーパーサイヤ人と言われ、一瞬意味が分からなかった、それでも、ああ大谷さんのことか、福田は理解する。
飯田に直接は伝えていなくても、大谷を通じて知っていた可能性もある。
たとえそれも無くても、飯田は県の選抜のときに、松浦が怪我をして回復まで時間がかかることを知っていた。
つまり、松浦が出られないのを前提に1−3−1のゾーンを組んだのではなかろうか。
ということは、夏から周到に準備されていたわけではなくて、練習期間は早くとも松浦が怪我をした時からであって、それほど完成度が高いわけでもないのかもしれない。
実際、1番分かりやすいウィークポイントである0度の位置から、自由にシュートを打たせてもらっている。
普通は、そこをどう抑えるか、という約束事にしたがって動きそうなものだが、そんな動きは見えないし、あったとしてもそれは、自由に打たせるという約束事くらいだろう。
そんなことを福田は考え始める。

3分前の笛が鳴った。
出雲のメンバーもベンチに戻ってくる。
本来は、このタイミングでアップをしているチームが引き上げて、そのあいた場所でシュートを打ち始める。
出雲のメンバーたちは、そんないつもの流れに従って、シュートを打ちはじめたが、松江ベンチは違う動きをとった。

「先生、みんな集めてください」
「どうした?」
「いいから。後半の約束事を決めたいんです」
「分かった。集合! みんな集合!」

中澤が両手を鳴らしメンバーを呼ぶ。
怪訝な顔をしながらも、それぞれベンチに戻ってきた。
スタメン組みがベンチに座り、それに向かい合う位置に福田。
タイムアウトのときと同じ位置関係になる。
そして、同じように作戦板を広げた。

「手短に言います。あの1−3−1は崩れます」

マグネットを作戦板に置きながら福田が言う。
前半かなりてこずったものに対して、あまりにも簡単に言うので、吉澤にしろ保田にしろ突っ込みたい気持ちであるが、続く福田の言葉を待った。

「飯田さんは別として、後の4人はおそらく、1−3−1というゾーンに対する理解度は高くありません。だから、少しつつけば崩れるはずです」
「そのつつくってのをどうやるんだよ」
「まず、あやかさん。飯田さんを出来るだけひきつけてください。外に引っ張り出す必要は無いですけど、あやかさんに付かざるを得ない形にしてください。この範囲で」

ゴール周り、左右のローポストのあたりを福田は指し示す。

「分かった」
「吉澤さんと時折代わりながらでいいです。それで、吉澤さんは基本的にハイポストに入ってください」
「この混んでるとこ?」
「はい。そこでボールを受けたら、どこかあいてるはずです。4箇所、上でも下でも、誰かはあいてます。そこにパスしてください。吉澤さんのパスを受けたら、基本はシュートです」
「シュート? どこでも?」
「はい。どこでもって言っても、保田先輩はこの辺に入るように意識してください」

今度は遠めの0度の位置を示す。
前半、1番点を取れていたところだ。

「市井先輩は、スリーポイントを打ちたい位置。ただ、保田先輩と同じサイドがいいです」
「なんで?」
「横に広い3の内の1人が保田先輩を押さえに行ったら、市井先輩はあくはずなので、そこに戻せば打てます。保田先輩からか、吉澤さんから直接か、どっちか中からパスが来たら打ってください」
「なるほど、わかった」
「前半は、外で回ったボールを打つしかなかったのできつかったですけど、ゴールに近いとこから出てきたパスなら、決まりやすいはずですからいけると思います。保田先輩はボール受けて、飯田さんが来たらあやかさん、というか逆サイドに、外のこれが来たら市井先輩、か私かとにかくここに戻してください、」
「オーケー、わかった」

マグネットを動かしながらの福田の言葉にそれぞれが聞き入る。
1つ1つの説明、それなりに納得する。
レフリーの1分前の笛が鳴った。

「でもさ、そんな簡単に崩れるの? 飯田さん以外のメンバーの理解度がどうとか言ってたけど」

吉澤の素朴な疑問。
15点負けている、というのが前半の結果だ。
福田が自信たっぷりに言ったところで、自分まで簡単に自信が持てるものでもない。

「あれはたぶん、見せ掛けのゾーンです。本当にゾーンでやろうとするなら、カバーをどうするか考えないといけないんですけど、あれは、本当に自分の決められたゾーンだけを守ってるんだと思います。だから、今のやり方で行くと、こことここ、それぞれが擬似的に3対2になるんです」

吉澤保田あやか、を示すマグネット、吉澤保田市井、を示すマグネット。
それぞれの3角形を福田は示す。
その3角形に向き合うディフェンスは、確かに2枚だ。

「たぶんですけど、吉澤さんとあやかさんを、飯田さん1人で守ろうと思ったからあのゾーンになって、ゴール下に飯田さんが入る形になったんだと思います。本当は、この真ん中の人が、常に状況判断して、どこにカバーに入るかを決めないといけないから、1番キーになるんですけど、前半思い出すと、あまり大した人でもなかった気がするから」

真ん中が大したことないのは吉澤も感じていた。
福田に止められたからやらなかったが、実は1対1で勝負すれば勝てるのにな、と思っていた。
後半開始の時を告げるブザーが鳴った。

「後もう2つ。吉澤さんは、自分で勝負してジャンプシュート打ってもいいです」
「いいのかよ」
「はい。ゴール下まで持ち込んで、逆に1対2になるようなことにならなければ勝負していいです。それと、リバウンド。ゾーンはスクリーンアウトがしづらいから、オフェンスリバウンドが取りやすいはずです。市井先輩も保田先輩も、全員で取りに行く気持ちで行きましょう」
「よし。3クォーターの間に追いつこう」

マンツーマンディフェンスの場合は、マークを常に捕まえているのでシュートの際にその相手をスクリーンアウトすればいい。
しかし、ゾーンの場合は人についているわけではないので、スクリーンアウトをする対象がすぐ前にいるとは限らない。
それを意識しておくと、オフェンスリバウンドの確率が格段に変わってくるのだ。
レフリーが早くしろ、と促しにこちらの歩いてくるのを見て保田が締めた。

各メンバーがコートに上がっていく。
それなりに説得力あることは言えたかな、福田は感じていた。
ただ、実は言っていない心配点もある。
このやり方は、前半で点が取れた保田の0度からのシュートを、後半は意識して使おうというもの。
それを中心に周りも組んである。
これで、それぞれシュートまではいけるだろう。
問題は、そのシュートが入るのか? ということだ。
飯田が保田のチェックに来て、ゴール下のあやかにつなげられるようなら問題ないだろう。
しかしながら、前半の雰囲気からすると、飯田は出てこずに保田は打たされる。
フリーとはいえ、やや遠めのミドルがしっかり入るのか?
そして、もう1つの主軸として期待したい市井のスリーポイント。
これも本当に入るのか?
2人のシュート力、これが試合の鍵だと考えていた。

後半は出雲ボールでスタートする。
15点の点差を、出だしでさらに離されるのは避けたい。
1−3−1のゾーンを壊すのが3クォーターのテーマだとすると、ディフェンスでしっかり抑えるのが裏テーマだ。
いくら点を取っても、相手に同じように点を取られては、いつまで経っても追いつけない。

市松はいつもどおりのハーフコートのマンツーマン。
飯田をどう押さえるか?
それは散々議論してきたことだけど、結局吉澤が普通にマンマークで付くことにした。
最初からあやかとダブルチームで付く、という考え方もあったし、実は吉澤も、それがいいと主張した。
しかし、周りの見立ては違った。
吉澤一人でもある程度抑えられるはず。
保田は、そう考えた。
まだ決して勝ってるとは言えない。
飯田を相手に1対1で吉澤が点を取れるか、といえば少々厳しいかもしれない。
だけど、吉澤がディフェンスとしてなら、ある程度抑えられる。
県選抜での練習を見ていてそう思った。
福田に相談すると、同意の意見が返ってきた。
レベルの高い相手を練習して、吉澤さん自身が伸びたんじゃないですか? と。
結果、吉澤一人をつけて、ゴール下には踏み込ませない、ある程度距離のあるところからは打たせる、という約束事を決めた。

ところが、この、ある程度距離のあるところ、からのシュートを飯田が決めるのだ。
それがこの15点の点差として出てきている。

ボールは外でまわる。
飯田がローポストへ入ってこようとするのは吉澤が前に入って抑える。
仕方なくハイポストへ上がっていくのは、後ろを付いていく。
ボールはトップから福田の頭の上を通して飯田へ。
ちょうどフリースローラインのところ。
吉澤には迷いがある。
このまま、外から打たせ続けていいのか?
飯田はターンしてシュートの構えを見せる。
抑えたい、そう思った吉澤の重心が動いた。
その脇、飯田は、ドリブルで抜けていく。
足は付いていけず、手だけが出た。
笛が鳴る。
飯田はそのままシュートまで持っていったが、レフリーの判定はシュート前に吉澤のファウル。
エンドからのスローインになった。

「ディフェンス集中せんか! あほ!」

後半のディフェンスは自陣ベンチ前。
中澤コーチの声が飛ぶ。
福田が吉澤に声をかけた。

「外は無理せず打たせましょう」
「大丈夫なのか? それで」
「まだ無理する時間帯じゃないです。吉澤さん1人で全部抑えるのは無理じゃないですか」
「まあ、そうだけどさあ」

ただのファウルでの時間の切れ目。
言葉を交わせるのはこの程度だ。
吉澤も完全に納得したわけではないが、内も外も自分で抑えきれるはずが無いのは自覚している。

エンドからのスローインでゲーム再開。
飯田にボールは入らず、外に送られたボールはそのまま四十五度の位置からスリーポイントを打たれる。
シュートは外れてあやかがリバウンドを拾った。

出雲は戻る。
福田はゆっくりと持ち上がり、相手が前半と同じ1−3−1のゾーンと確認した。
各メンバーはとりあえず2−1−2の形に散る。
ハーフタイムに決めた約束事の形にしたいわけだが、それは動きの中でそうなってこそ意味がある。
福田は左外0度の位置に開く保田に落とす。
スリーポイントライン上、ゴール方面のディフェンスは寄ってこないが、ここからは少々遠い。
福田とポジションチェンジしてきた市井に戻す。
市井には1−3−1の上の1が寄ってきたが無視して、そのまま横の福田に送った。
ハイポスト、3の真ん中を背負ってうまく面を取った吉澤に福田は簡単にバウンドパスを入れる。
ターンしてシュート、の形を見せて吉澤から、ボールは右0度のあやかへ。
ここには飯田が寄ってきたが、その脇の下をバウンドパスで通した。
逆サイド、保田がボールを受け、ゴールまで3メートルほどの距離でジャンプシュート。
これは簡単に決まった。

パスがスムーズにまわれば、比較的簡単にシュートまでいける。
ゴール下、飯田を挟む形でパスをつなげれば楽な位置でシュートが打てる。

問題はディフェンスだ。
飯田の外が入る。
これはある意味、ゾーンを敷かれるよりも想定外だった。
外といっても、スリーポイントというわけではないが、これまでのゴール下でがりがり勝負、というイメージからすると大分遠い位置。
中に入れさせない、という最初の目標は出来ているだけに、対処の仕方が難しい。
無理にそれを抑えに行って、今度はゴール下に入られだすと元も子もなくなってしまう。

相手に点を取られながらも点差を詰めるためには、1度のオフェンスで3点取ればいい。
そういう意味で頼りたいのが市井のスリーポイントなのだが、これがなかなか入らなかった。
ただ、オフェンスリバウンドはよく拾えている。
それも、吉澤やあやかではなく、保田が拾う。
リング近くでのシュートより大きく跳ね上がるスリーポイントは、元々ゴール下以外の人間がリバウンドを拾うことが結構多いが、今回は特に、市井と同じサイドで、スクリーンアウトされることも無くゴールと適度な距離な保田のところにボールがよくはねかえってくる。
それを拾ってそのままシュート、という形で加点する。
結果2点なので、点差は詰まらないが、それでも点が取れないよりは大分いい。

3クォーターも半分を回った頃、29−41と十点差まで詰めたけどまた飯田のミドルを決められて12点差になった場面でタイムアウトを取った。

「なんであれが入るんだよ!」

吉澤はベンチに持ってくるなりそう言うと、1年生が差し出したドリンクボトルを受け取り口に持っていく。
自分は、想定通りに出来ている。
迷いはあるが、それでもイメージしたとおりに出来ている。
なのに、その上を行かれる。

「そうそう続かないんじゃないの?」
「そんなこと言いながら、ここまで決めて来てるよ」

市井と保田、それぞれにタオルを受け取ってベンチに座る。
残り時間は合計14分ほどある。
流れが悪いわけでもない。
ゾーンを相手にしても点が取れているし、わずかづつではあるが点差は詰まってきた。
ここで何かを変えて一気に勝負に行くのは勇気がいるところ。

「明日香はどう思う?」

中澤は福田に振った。
タイムアウトを取ったのは中澤なのであるが、ここでどうするというプランは無い。

「我慢のしどきなのかもしれないですね」
「我慢ねえ」

福田もここでは作戦板を手にすることも無くベンチに座っている。
隣で吉澤が何とか言ってほしそうだが、福田もドリンクボトルを口に持って行き、多くを語る様子は無い。

「気持ちよく打たせすぎんじゃないの?」
「気持ちよく?」

吉澤の反対隣に座るあやかが口を挟んだ。
並んで座っていると暑いのか、保田は汗を拭きながら立ち上がる。

「なんとなく、ブロックに来ないって決めてかかって打ってるように見えるんですよね」
「だって、そう決めてるし」
「ひょっとしたらブロックされるかも、って思わせるだけでも違うんじゃないの?」
「ああ、それあるかも」

あやかと吉澤の会話に、割って入ったのは松浦だった。

「前にディフェンス立ててシュート練習したりするじゃないですか。あれだと入るのに、試合になると入らなくなる人っているじゃないですか。練習と違って、ブロックされるかもって意識が入るからだと松浦は思うわけですよ」

片足でぴょんぴょん跳ね回っている松浦は、吉澤とあやかの正面に立つ。
1番端に座っていた市井は、タオルの替えを取りにベンチ裏の自分のカバンのところに向かう。

「1本、捨ててチェックに飛んでみますか?」
「まあ、やってみるけどさあ。それにしてもなんであんなに入るかなあ?」
「向こうも成長したってことやろ」

吉澤のぼやきに中澤が答える。
誰かに追いつこうと練習していると割と忘れがちであるが、時間が経てば相手も成長するのだ。
時間をかけて想定している相手の立ち位置にまで上りついても、その時にその相手はそこにいない。

「とにかく1本ブロック飛んでみて、後はかわらずやってみよう」
「了解です」

保田が締めて、吉澤が了承した。
4人がフロアに戻り、市井が遅れて入っていく。

タイムアウト明けは市松ボールでエンドから。
福田がボールを持ち上がる。
1分間で話した内容は、飯田のミドルをどうするかということだった。
だけど、それと関係ないところで耳が痛い思いをしたのが市井だ。

あれは、私へのあてつけだったんだろうか。

松浦の言葉。
ディフェンスを前においてシュートする練習、というのはスリーポイントでよくやるものだ。
今日、自分は1本も決めていない。
外からは自由に打てる状態にあるにもかかわらずだ。

保田がリバウンドを拾っているから大きな問題にはなっていない。
しかし、入っていないのは事実だ。
この自分が、チームの足を引っ張っているのか?
この私が、チームを作った自分が、いつでも中心だった自分が。
自分のミスを圭ちゃんにフォローしてもらって、それでやっとフロアに立っているのか?
自分が前、圭ちゃんは後ろ、その関係はいつから変わった?
どこで変わった?

持ち上がった福田は、0度の位置の吉澤に落とす。
外に開きすぎて打てる位置ではない。
ハイポストにいたあやかが、ゴール下に駆け込むがディフェンスが前に入り、飯田に受け渡され放り込むことは出来ない。
あやかがあけたスペースに保田が入ってくるがここも無理。
上に回ってきた市井に戻す。
市井から横の福田へ。
福田からバウンドパスがハイポストに戻ったあやかに入る。
あやかはターンしようとして、視界に入った市井にバウンドパスを送った。
右六十度のあたり、ボールにミートして、いいタイミングで打った。

これが入らない。
高く跳ね上がったボールは、逆サイドまでこぼれていき、吉澤が拾う。
目の前にはボールを追ってきた飯田。
その横をバウンドパスで通し、逆サイドの保田へ。
そのままシュートを打ったが、横から強引なカバーが飛んでくる。
ボールをきれいにブロック、ではなくて手のひらをはたく形になってファウル。
フリースロー2本を得た。

「紗耶香、どんどん打っていいよ。リバウンドは私たちで拾うから」
「分かってる」

違う、そうじゃない。
全部段どってもらって、お膳立てしてもらって、フリーでシュートを打って、リバウンドも拾ってもらって。
そんな過保護にしてもらって、やっと生きられる、そんな弱い選手じゃない。
違う、違う。

保田のフリースロー。
吉澤とあやかがリバウンドポジションに入る。
福田はボールを受けるであろう相手ガードに張り付き、市井は1人センターサークル付近にたたずむ。
保田の1本目のシュートは決まった。

「どいつもこいつもうまくなりやがって」

誰にも聞こえない市井のつぶやき。
もし、松浦が怪我をしなかったら自分は今ここにいただろうか?
考えないようにしていたことが、いまさら頭に浮かんでくる。

保田の2本目はリング手前に当たって跳ね上がった。
リバウンドは飯田がさらう。
出雲はゆっくり攻めあがってきた。
この点差をキープして最後まで行きたいところ。
ボールは外でまわる。
吉澤はこれまでと同じように飯田に付いた。
ローポストではボールサイドに入り、ハイポストでは背中で待つ。
動きの中で、外に切れていくときは深追いはせずに距離を保つ。
左0度、開いたところで飯田にボールが入った。
スリーポイントライン上、さすがにここは遠すぎる。
ボールを上に戻してパスアンドラン。
ゴール下に切れ込みながらボールを受けようとするが、これは吉澤がコースに入る。
逆サイドのフォワードとポジションチェンジして、それから上へ。
ハイポストの位置に飯田は上がっていく。
そこで上からのボールを受けてターンした。
ゆっくり構えてジャンプシュート。
待ち構えていた吉澤がブロックする。
跳ね返ったボールは出雲のガードが拾いなおす。

二十四秒計は5秒を切っている。
ボールを拾ったガードは横に送り、そこからシュートは打たれた。
ボールはリング根元に当たりぽとりと落ちる。
飯田を背負った吉澤がこのリバウンドを拾った。

戻りは早く速攻は出ない。
また同じ形。
もう、1−3−1は怖くない。
外をつないで0度の保田へ。
飯田が押さえに来るところを逆サイドへ通そうとしたが、そろそろこれは読まれている。
上の福田に戻す。
福田は間髪いれずにハイポストの吉澤に送った。
ターンして、見渡すとあやかがゴール下を駆け抜け、保田と反対サイドに市井が開いている。
1番スペースがある市井のところに送った。
コーナーからのスリーポイント。
ディフェンスはいない。
市井がフリーを作ったというよりは、打たせても問題ないという扱いをされている。
いい加減、もう入ってくれ。
祈りを込めて打ったボールは、リング奥に当たって逆サイドに跳ねていく。
このボールはまた保田が拾う。

なんで、なんで!
叫びだしたい衝動に駆られるが、ぐっと抑えて、ゴール下を切れて抜けていく。
ボールは上へ戻ってもう1度ハイポストに入ったあやかへ。
あやかは、ターンせずに横に見えた市井に送った。

目の前にディフェンスはいる。
だけど寄ってこない。
無警戒かこのやろう。
一瞬そう思うが実際はそれ以上だと分かっている。
警戒されていないのではなくて、打ってくれることを期待されている。
出雲ベンチから飛ぶ声も市井には聞こえていた。
スリーポイントを打たせることをとがめる声は聞こえてこない。
聞こえてくるのは、リバウンドしっかりしろ、というものばかりだ。

「リバウンド取れなきゃ打たせても意味無いだろ」

そんな言葉も聞こえた。
舐めやがって。
お望み通り何本でも打ってやろうじゃないか。

棒立ちでボールを受けた。
あまりいいリズムではない。
だけど、前は開いている。
あたしにパスいれるのが悪いんだからな。
そんなことを思いながらシュートを打った。
キタ、と思った。
打った瞬間受けるこの感じはどこから出てくるものなのだろう。
ボールはリングを通過し、レフリーはスリーポイントを示す手の表示をテーブルオフィシャルに示した。

これで8点差。
市井は右手で握りこぶしを作る。
あたしは、誰かに守ってもらう弱い存在なんかじゃない。
あたしが、圭ちゃんをもう1度全国の舞台に連れて行ってやるんだ。

8点差。
3クォーターは残り30秒あまり。
1桁点差で最終クォーターに入れるかどうか?
当然2桁点差にしたい出雲は、1番確率の高いところで勝負してくる。
ハイポストの飯田にボールを入れた。
吉澤は背中についている。
飯田はターンして、シュートの構えを見せた。
吉澤は反応しない。
飯田もシュートは打たなかった。
外の0度の位置のフォワードに送る。
そしてパスアンドラン。
吉澤はコースに入ることが出来ず、飯田にボールが戻りゴール下でランシューが決まった。
もう1度十点差。

残り時間はわずか。
速攻を出そうと走るが、全員に戻られ崩せない。
少ない時間でのセットオフェンス。
ハイポストの吉澤にボールを入れる。
自分のせいでやられた、という意識があった吉澤は、自分で勝負に行く。
ターンしてシュートフェイクを入れてからドリブルで突っ込む。
かわすことは出来たがゴール下の飯田がカバーに入った。
それでもシュート、と行きたいが追いかぶさられて打てない。
仕方なく出した先は、0度で開いた市井だった。
コーナーからのスリーポイント。
難しい位置だが時間も無く迷わず打った。
第3クォーター終了のブザーがなるのと同時にボールはリングを通過した。

7点差にして最後のインターバル。
保田と、吉澤と、あやかと、それぞれにハイタッチをかわしながらベンチに戻ってくる。
中澤も、両手を上げて市井を出迎えた。

何とか1桁点差に出来たのは大きい。
ただ、実際には全体で見れば7の2。
それもほとんどは、ディフェンスが抑える気の無いフリー状態で打ったもの。
これでいいのなら、保田や吉澤でも可能な数字。
偉いのは、決めた市井よりも、その前にオフェンスリバウンドを取り続けたほかのメンバーというのが本当のところだ。
それは分かっていつつも、福田は、市井先輩ってやっぱりすごいのかな、とも思った。
2本決めたことがではない。
7本打ってたった2本なのに、チームにいけそうだという空気を与えたことがだ。
保田先輩とか、市井教の信者みたいなもんだしなあ、と思ったりする。

36−43
この2チームの試合にして、30分かけてこの得点はロースコアな展開だ。
飯田一人に51点取られた、なんていう歴史もある対戦である。
今日の展開はお互いにシュートまで時間がかかることで、スコアが伸びなくなっている。
2点は2点、3点は3点と言うが、100点ゲームの2点と50点ゲームの2点では、実際の重さは2倍違う。
野球で言えば、息詰まる投手戦と、乱打戦では1点の重みが違うというのと一緒だ。
1本のシュートの重みは、常に同じなわけではない。
そして、その重みは、試合終了が近づくにつれて増してくる。

4クォーターは市松ボールでスタートする。
始まる前、フロアに入った時点で全員が理解した。
ディフェンスが変わっている。

「マンツーだよマンツー」
「7番」
「4番」

ゾーンなら、フロアに踏み込んでいっても立って待っているだけ。
それが、マンツーマンだと、ディフェンスは自分の受け持ちの相手に寄ってくる。
そして、ナンバーコール。
両チームそれぞれに、自分の受け持ちの相手をコールして味方に伝達している。
間違えて1人の人間に2人かぶって、逆に1人が浮いている、という様なことを防ぐための基本だ。
開いているコーナーから攻められ、スリーポイントまで決められて、出雲は1−3−1のゾーンを捨ててマンツーマンを敷いてきた。

変えてきた、といってもマンツーマンに変わるのは普通に戻っただけである。
ただ、頭の切り替えが簡単に出来ず、市松の最初のオフェンスはパスがスムーズに回らず、二十四秒ぎりぎりまで使って仕方なく打った保田のシュートがブロックされる。
出雲のオフェンスはいつになっても飯田が中心である。
作戦はあって無い様なもの。
いい形で飯田へつなげ。
それだけだ。
マークに付くのはこれも変わらず吉澤。
ここの1対1は飯田の方が強いは強いが、自由にはやらせていない。
この試合での方針は変わらない。
外からなら打たせる、中には入れさせない。

1度吉澤がブロックに飛んでからは、飯田のミドルは減ってきた。
選択肢の1つ、という位置づけ。
中でボールを受けようともするし、外で受けて勝負してくることもある。
そして、崩してパスを捌くこともある。

市松のオフェンスは、マンツーマンになって最初は戸惑ったが、すぐに慣れた。
残り8分のところでタイムアウトを取って確認した。
基本的な方針は飯田を外に引きずりだして他で勝負すること。
飯田のところ以外は個人の能力で見れば勝っているという見立てだ。
マンツーマンなので、吉澤が外に出てくれば飯田もある程度外まで出てくる。
そうしておいて、他で勝負する。
この場合、1対1からドリブルで持ち込んでも、中に大きな壁がいないのでやりやすい。

急激に点差が詰まるということは無かった。
市井のスリーポイントは、もうフリーで打たせてもらえない。
マンツーマンでしっかりつかれると、オフェンスリバウンドもなかなか取れるものではない。
それでも、1対1で勝負が出来るというのは強みだった。
2点づつ積み重ねていく。
互いにファウルも少なく、時間も早く流れていった。
じわりじわり、差を詰めていく。
3分を切るところで、珍しく自分で切れ込んだ福田のゴールで3点差。
1分30秒少々のところで、保田のミドルが決まって1点差。
残り1分7秒、ハイポストの飯田がゴール下にバウンドパスを通そうとしたボールが吉澤の足に当たってキックボールを取られる。
50−51
1点ビハインドのこの状況で、中澤コーチが最後のタイムアウトを取った。

この時間帯までメンバーチェンジ無しで来た。
慣れないゾーンを崩すのに頭も使い、出来ればゾーンを敷かれる前に速攻を出そうと走り。
メンバーは疲労の色が濃い。
それぞれにゆっくりと歩いてベンチに戻ってくる。
5人がベンチに座り、それに向かい合う位置に立った中澤が言った。

「かおりんをどうつぶすかやな?」

この期に及んで、ワンマンチームがエース以外で勝負してくるとは思えない。
40分戦ってきて、1年生の頃から7戦戦ってきて、結局行き着くところはまた同じだ。
飯田圭織をどう抑えるか?

「吉澤とあやかと2人で付ける?」
「いくらなんでもゴール下にフリー作るの危険すぎません?」
「それはもう仕方ないんじゃないか?」
「いや、ゴール下フリーはまずいです」

吉澤と保田のやり取りに割って入ったのは福田だった。

「じゃあ、吉澤一人に任せるの?」
「いえ、ゴール下フリーはまずいんで、飯田さんに2人付けるなら外からのがいいです」
「外?」
「まず、飯田さんをなるべく中に入れない。ローポストになんか入れちゃいけない。ハイポストとかミドルレンジは、外側にいる人が挟む感じで、飯田さんにボールをいれさせない」
「それだと外はやっぱりフリーが出来るの?」
「スリーは入ったらあきらめましょう。飯田さんのミドルよりは確率低いですよ」

これだけ点の入るスポーツで全部止めるのは土台無理である。
それを決められたらもう仕方ない、と割り切る部分はどうしても出てくる。

「あのさ、中入られちゃったらどうする?」

前提を壊すようなことを言ったのは、飯田に付く吉澤本人だ。

「そしたら、ゴールに近いところにいる人。たぶんあやかさんになると思いますけど、それと吉澤さんと2人で挟みましょう」
「7番のミドルより飯田さんのゴール下のが怖い?」
「そうです」

方針、飯田圭織へボールを入れない。
それ以外にやられたら運が無かったとあきらめる。
これでも飯田圭織にやられたら、力が足りなかったと負けを認める。
わかりやすいと言えばわかりやすい。
ディフェンスに関しては、特に異論は出ない。

「よし、とにかく、かおりを抑えよう」
「待って。オフェンスは?」

締めようとする保田を、市井が止めた。

「残り時間どう使うの? 決めなきゃ」

飯田圭織を止めました。
そうなったとしても、点を取れなければ50−51 1点差で負けてしまうのだ。
残りは1分7秒。
勝っている側は二十四秒1杯に時間を使って攻めてくるので、こちら側はゆっくり攻めると1度しかオフェンスチャンスが無い。
2度のオフェンスチャンスを作るには、早めの攻撃が必要だ。
どちらを選ぶにしても、意思の統一をしないといけない。

「私はとにかく、早くシュートまで行くべきだと思う」
「速攻出せればそれが1番いいですよね。それが無理でも、常にシュート狙う形でいいんじゃないですか?」
「じゃあ、時間はなるべく使わないで決まり?」
「残り30秒切ってマイボールになったら、勝ってても負けてても時間使いきりましょう」
「そうね。分かった」

多くの団体球技の中で、バスケットボールくらい、試合時間が1分を切ってから二転三転する競技は無いだろう。
点が取りやすい競技である上に、1ゴールで2点入るという絶妙さもある。
それだけ、競った試合の終わり方は難しいし、プレッシャーもかかる。

タイムアウトがあけるとき、このチームは割りとあっさりしている。
特に気合いを入れるでもなく、1人1人コートに戻っていく。
それが、今日は珍しく違った。
5人がベンチから立ち上がると、真ん中に座っていた保田が両隣の市井と吉澤の肩に手を回した。

「みんな。あんまりこういうこと言ったこと無かったけどさ。ちょっと言わせて。勝ちたいんだ。今日は、勝ちたいんだ」

保田の言葉を聞きながら、吉澤は自分の右に立つあやかの肩に手を回す。
あやかもその隣へ。
市井も、左に並ぶ福田の肩に手を回した。
福田は松浦へ、松浦は中澤へ、そうして、話が1周つながる。
肩を組んでの円陣。

「私はあんまりいいキャプテンじゃなかったと思うけどさ。でも、みんなとこうやってバスケが出来て楽しかった。だから、まだ、今日で終わらせたくない。勝ちたいんだ。負けたくないんだ」

肩を組んでいて、下を向く格好になる保田の顔は周りからは見えない。
それでも、保田の想いは言葉に乗って伝わってくる。

「まだ、終わりにしたくない。だから、もう1度、みんなの力を貸してください」

タイムアウトが開けるブザーは鳴った。
メンバーたちは、保田の言葉を聞いたまま口を開かない。

「ちょっと、なんとか言いなさいよ」
「言われなくたって、力くらい貸しますよいつでも」
「ブザー鳴りましたけど」
「なんなのよもう、人の気も知らないで」

がっくり力の抜けた保田が最初に肩から手を離す。
それを契機に、円陣は解散した。

「ああ、もう、締まりのないやつらやなあ。いいから、さっさと試合片付けて来や」

少々不満そうにしながらも、中澤に促されて保田たちはフロアに戻る。
円陣組んでも、気合いの言葉が決まっていないとなかなかうまく行かないものだ。
微妙に砕けた空気が一瞬入ったが、それでもコートに上がりマークをピックアップする間に集中は取り戻す。
残り1分7秒、サイドから出雲ボールで試合再開。

飯田は、逆のサイドローポスト付近で吉澤と押し合っていた。
ゴールに近い位置でボールを受けられさえすれば勝てると飯田は思っている。
外のマークの市井が、ボールが遠いので吉澤と2人で飯田を挟むように立っている。
ボールは逆サイドでつながれていた。
最初からあからさまに飯田に入れようとはしてこない。
シュートの素振りを見せたり、ドリブルで抜きにかかると見せたり。
周りは周りでスクリーンを使って崩そうとしたり、それぞれ攻め手を探す。
ディフェンスは堅い。
また、オフェンスの側も実際は時間を使うという意思統一があるのか、わずかなシュートチャンスでは打ってこない。
二十四秒計が5秒を切る頃、飯田はハイポストへ上がった。
吉澤は背負われる形になって、少し離れた。

ボールは保田のマッチアップで九十度の位置。
保田はボールとは離れていて腰の低いディフェンス。
オフェンスは山なりパスで飯田へ入れようとした。
保田が後ろへ下がりながらジャンプ。
ボールは手に当たりもう1度跳ね上がる。
そこに飯田が手を伸ばし、保田も後継になりながらもつま先を伸ばして取りに行く。
同時。
両手で飯田がボールを挟み、保田の伸ばした右手が縦に入る。
引掻くようにして、保田がボールをもぎ取った。
そのまましりもちをついて座り込むような形になる。

ファウルか? トラベリングか?
会場はどよめくが笛は鳴らない。
プレイオン。
残り四十五秒。
出雲は慌てて下がり、市松は上がっていく。
トラベリングが怖くて動けない保田のもとに福田が近づいてきた。
座ったままパスを送る。
福田は、そのまま歩いてドリブルでボールを持ち上がっていった。

「1本!」

落ち着いている。
速攻の場面ではない、ナンバープレイでもない、普通のセットオフェンスで1本決めよう。
そういう意味で「1本」のコール。

外でボールをまわす。
1度ハイポストのあやかへ入れたが、攻めきれず外に戻ってくる。
トップの福田に戻ってきたとき、吉澤が飯田を背負ってハイポストへ上がってきた。
この時間帯に飯田を背負った吉澤に勝負させるのは1番確率が低い。
そこへ入れずに、左30度当たりの位置に開く市井へ。
市井サイドのローポストにいたあやかはボールを受けたいところだがディフェンスにかぶさられて勝負できない。
逆サイドへ切れていく。
市井はトップの福田へ戻す。
あやかは右サイドに開いた保田のマークの背中に付いた。
その動きを心得ていた保田は、自分のディフェンスの肩越しを抜けていく。
ディフェンスは付いていこうとするが背中にはあやか、ぶつかって対応できない。
ゴール下へ駆け込む保田、フリー。
トップの福田から速いパスが飛んでいく。
空中で受け取り、着地せずそのままシュート。
アリウープの形でゴールが決まった。
52−51
1点リード。
残り30秒。

「ディフェンス! ハンズアップ! ノーファウル!」

戻りながら保田が指示を飛ばす。
基本の基本。
分かりきっていても確認する。
それに、何かを叫ばずにいられない心理状態でもある。

普通の競技だと、残り時間わずかでの1点差、というのははっきりと負けているほうが不利だ。
しかし、バスケの場合、1点ビハインドでもボールを持ってさえいれば、不利なのか有利なのかケースバイケースだったりする。

出雲は焦らなかった。
どちらにしても攻撃チャンスはおそらく1度しかない。
だったら、時間1杯使って攻めればいい。
それが、頭で分かっていても、実際にそう出来るのは経験を積んでいないとなかなか出来ない。
このチームは、県レベルでは勝ち慣れていた。
飯田以外のメンバーの個の力は少々低いかもしれない。
それでも、経験値は積んでいる。
どうすることが最善手であるかは分かっていて、その最善手を選ぶことは出来た。

やるべきことは同じ。
時間1杯で飯田に回してシュートを決めること。
ローポスト。
今度吉澤も押し込まれた。
バウンドパスが入る。
福田が外から挟む形でボールを取りに来たが、頭上に上げられると届かない。
飯田はそこから強引にターンし、さらに強く1歩踏み込んでゴール下へ体を入れる。
吉澤は、もう、どうすることも出来なかった。
ファウルをするわけにはいかない。
腰が引けた形になって、そのまましりもちをついた。
飯田のジャンプシュートが決まる。
再逆転 53−52 出雲リード 残り8秒。

ボールを拾ったあやかがすばやく福田へ入れる。
ドリブルで持ち上がり速攻の形にしようとするが、出雲の戻りも良かった。
時計は刻まれる。
会場は歓声とも怒号とも付かない叫び声で満たされる。
スタンドの声、ベンチの声。
具体的な指示などもう、フロアで戦うメンバーには届かない。

8秒だと、セットオフェンスを組んでいる余裕もない。
とにかく開いているところでシュートまで持っていくしかない。
しりもちをついていたことで吉澤が出遅れて、4対5の形になる。
そのせいで、逆に出雲ディフェンスのピックアップがうまく行かず、本来のマークに関係なく目の前の相手を捕まえる形になった。

時計は刻まれる。
5秒、4秒。
3秒をまわったところで、吉澤が上がってくる。
それを捕まえに、とりあえずあやかについていた飯田が動く。
そうすることで逆にあやかが開いた。
残り2秒、市井からあやかへの横断パス。
飯田がそれに気づき戻る。
同時に、従来のマッチアップもあやかにつきに来た。
あやかがボールを受けた時点で目の前に2人ディフェンスがいる。
自然、上がってくる吉澤が開いていた。
ゴール周りの台形の角あたりに駆け込む吉澤へあやかがパスを送る。
残り1秒、吉澤ノーマーク。
ボールにミートしてリズムよくジャンプシュート。
弧を描いたボールは、ネットには吸い込まれずリング奥に当たって鈍く跳ね上がる。
試合終了のブザーがなると同時に、ボールは飯田の手元にこぼれ落ちてきた。

ゲームセット。
53−52
出雲南陵の勝利。
飯田が3年連続で冬の全国選抜大会の切符を手にし、保田の高校生活は今日、終わりを迎えた。

歓声、そして悲鳴。
2つが入り混じる体育館。
飯田は、メンバーたちと抱き合っていた。
より正確には、各メンバーが飯田に抱き付いてきていた。
1度夏に負けた。
再挑戦の冬。
ゾーンまで導入して、挑戦者としての気概で臨んだ試合。
苦しい場面も迎えたがそれでも勝った。
自陣ベンチサイドまで戻り、飯田を胴上げしている。

保田はベンチから遠い側、スリーポイントラインの少し内側、0度の位置で立ち尽くしている。
今日、何度もゴールを決めたその場所。
そこで、ボールがリングから零れ落ちたのを見た。
自分が負けたのを知った。

吉澤が泣き崩れているのが見える。
シュートを打って、決められなかったその場所で、ひざを抱えて泣き崩れているのが見える。
保田は、しばらくその光景をぼんやりと見つめてから歩み寄っていった。
そばには福田も立っている。

「顔上げろ、吉澤」

吉澤は答えない。
鼻をすする音だけが保田に聞こえてくる。
福田と顔を見合わせた。
福田はただ、首を横に振るのみである。

「吉澤」

今度は、頭をくしゃくしゃとなでながら呼びかける。
福田は、声をかけるでもなく、ただとなりに立っている。

「ごめんなさい」

くぐもった声で、かろうじて保田の耳に届いた。

「吉澤が悪いわけじゃない」
「ごめんなさい」

泣き声で、鼻をすすりながら。
ひざを抱え顔を上げることなく、吉澤の言葉が保田の耳に届く。

「細かいこと気にするな。吉澤のおかげで、楽しく3年間過ごせたよ」

そう言って、体育館の高い天井を仰ぎ見た保田。
その胸に去来するものが何なのか、吉澤にはまだわからない。

「ごめんなさい」

もうそれしか答えない後輩の頭を、保田はくしゃくしゃとなでる。
やがて、涙で顔をぐちゃぐちゃにしたあやかの手も借り、吉澤を抱え起こして、市立松江のメンバーは引き上げていった・・・。

 

予選は各地で行われる。
秋まで残った3年生にとって、負ければそこで引退、というのも全国共通だ。
ただ、東京だけは少し条件が違った。
冬の選抜大会、ウインターカップは、各都道府県の代表1校づつが出場する。
そんななかで、開催地である東京は、開催地枠、という形でもう1校出場できる。
なので、実質的に枠は2つ。
開催地枠、というのはバスケに限らず各種スポーツで見られる優遇制度だが、これは、興行的に地元のチームがいた方がいいという理由の他に、日本の都道府県は四十七で、そこにプラス1すると四十八になって、トーナメントも、1次グループリーグも、どちらも作りやすいという理由もあったりする。
とにかく、そんな、少々お得な環境で、矢口は最後のチャンスに賭けていた。
もっとも本人は、学校数少ない田舎のが得だよな、と思っていたりする。

「ゆっくり時間使って1本。決めてもダメでもノーファウルで守りきる」

東京は、ベスト4に残るとリーグ戦で上位2校が代表権を得るシステム。
矢口たち東京聖督は、ベスト4に残り、決勝リーグを1勝1敗で最終戦を迎えていた。
残り二十九秒、1点リードマイボールで相手のタイムアウト。
勝てば3年間で初めての全国大会出場、負ければ明日から受験勉強の日々である。

「いいか、焦るなよ。慌てないでゆっくりパスまわせばいいから。外は開いても打つな。時間使って。点とって3点差になったら、スリーだけケアな。時間無ければ2点は打たせていいから。大丈夫だから。焦らなければ絶対」
「やぐっつぁんが1番あせってないかい?」
「な、なに言うんだよ!」
「らしくないって。リスみたいに動き回っても、頭は冷静で、相手のガードにサルとかはげとかぺちゃぱいとか言っていらいらさせるほうがやぐっつぁんらしいよ」

「それじゃ、おいらがひどいやつみたいじゃんか」
「くちは悪いよね」

一同うなづく。
1点差で残り二十九秒のタイムアウト、とは思えない会話になってきた。
コーチがいる普通のチームならありえない展開だが、ここのコーチは書類上の名目だけの化学の先生。
割ときもい人扱いなのでタイムアウトなどのときもメンバーの輪の中に入れてもらえない。
ベンチの1番オフィシャルテーブル側に黙って座って、じと目でメンバーたちを見つめている。

「ああ、もう。とにかく時間使って攻めて。ディフェンスはノーファウルな。3点差に出来てたら外は打たすなよ」
「はーい」

3年間の総決算となるぎりぎりの場面だが、幸か不幸か肩の力が抜けてフロアに上がっていく。
エンドからのマイボールスローインでゲームが再開される。

ボールはガードの矢口へ。
時間を使わせたくない相手ディフェンスはバックコートから当たってくるが、1人でキープして上がっていく。
フロントコートまであがると、もう1人寄ってきた。
1対2の形。
それでもドリブルは止めない。
ドリブルをとめてしまうと囲まれて大変なことになる。
ドリブルをとめないままパスの出し先を探す。
自分に2人来ているということは、どこかは開いているわけで、そこへまわす。
ボールが移れば、ディフェンスもそちらへ2人行く。
その繰り返しをどれだけ続けられるか、というところだが、東京聖督は何とか持ちこたえた。
残り時間7秒、二十四秒計が2秒を切ったところでスリーポイントラインのはるか外から矢口がシュートを放った。
決まればゲームセット、というところだが、リング手前に当たって大きく跳ね上がる。

リバウンドは相手に取られる。
東京聖督のメンバーはいっせいに戻った。
相手も早い攻め上がり。
ビハインドのある側はゴールに近いところで勝負したい。
ボールはハイポストへ。
矢口は外からそこにプレッシャーをかけた。
ターンする前に挟まれたセンターは外へ戻す。
九十度の位置、もう時間は無い。
スリーポイントラインの外、直感的にシュートを察知した矢口は飛び込んだ。
シュートコースにしっかり入りはしたが、体ごと飛び込んでいて押さえが利かない。
ボールは叩き飛ばしたが、同時に相手の手にも接触していた。
笛が鳴りブザーも鳴った。

「ぐぁー! 待って!待って! 今の無し!」

笛を鳴らしたレフリーのもとへ矢口は詰め寄るが、今の無しといって無しになるほど人生は甘くない。
スリーポイントシュートに対するファウル、と認定され相手に3本のフリースローが与えられた。

タイムアップと同時なので、規定によりシューター以外はすべてベンチに下がる。
現在得点は73−72 東京聖督のリード。
3本中2本決められれば負け、1本だけなら延長、全部外れれば勝ちである。

「あ゛ー、ノーファウル言っといて、なんでおいらがー!!」

頭をかきむしりながら矢口はベンチに戻っていく。
もう後は祈るしかない。
なにやらぶつぶつ言いながら、矢口は両手を合わせつつシューターの方を見ている。

ファウルした矢口もつらいが、こんな場面でフリースローを打たされる方もつらい。
立場は同じ、勝てば冬の選抜大会、負ければ引退という瀬戸際である。
会場全体に見つめられながらの運命のフリースロー。
自分の3年間を賭けて、仲間たちの3年間を賭けて。
こんな重圧に耐えられる選手もそうそういるものではない。

1本目、力が入って長めのシュートになりリング奥に当たってリングの外へ落ちた。
2本目、1本目の反省をして短めに調節しようとしたら、力を抜きすぎリングにも届かずエアボールになった。
とりあえず、この時点で東京聖督の負けは無い。
勝ちか、延長か。
シュート1本ごとにため息をつきながらベンチで見つめる矢口たち。
2本外れて多少気が楽になったところで矢口が言った。

「この世のすべての神様仏様。どうかお願いします。シュートを外させてください。シュートを外してもらえれば後藤の処女をささげます」
「わー! や、やぐっつぁん! 何言ってるのさ!」
「いいだろ、それくらい。ウインターカップかかってるんだよ。後藤の処女くらい」
「ショ、ショジョじゃないもん!」
「おまえ、でかい声でよく言えるなそんなこと」

会場の視線が、シューターではなくて後藤の方に全部集まったような気が一瞬した。

シューターの声に後藤の声が届いたかどうかは分からないが、3本目のシュートはまっすぐ飛ばずにリングの左側に当たって落ちた。
ファイナルスコアは73−72
東京聖督が勝ち、決勝リーグ通算2勝1敗で全国大会の切符を得た。

「勝ったぞ後藤。後藤のおかげだ」
「もう、やぐっつぁんなんか知らないもん」

後藤が神や仏に何かを捧げたのかどうか、捧げるものを持っていたかどうか、真実は誰も知らない。

 

たとえ楽勝の予選であっても、誰もが気楽に臨むというわけでもない。
点差がどれだけ開いていても、切迫した思いをしなくてはいけないこともある。
川島幸にとっての県大会はそんな大会だった。

「試合出られないようなら辞めちゃいなさいよって言われた」
「なんで、そういう話になるかなあ」
「お母さん、バスケとか興味ないもん」

初日の会場に向かう道のり。
体育館行きのバスには、一般人より明らかに平均身長の高い高校生集団がそれぞれ乗っている。
川島と是永は、電車の1番前の車両で待ち合わせた。
1年生の頃は、みんなそろって会場へ行き、会場設営とかモップがけとかオフィシャルとか、大会運営の補佐をしていた。
2年生になるとそれがなくなって、集合時間に間に合うように、めいめいばらばらに会場に来るようになる。
それでも、川島と是永は、なんとなく手前のどこかで待ち合わせて一緒に会場に向かう。

「でも、出られないってことはないんじゃないの?」
「だといいけど」
「Bメンにはいつも入ってるでしょ?」
「うーん」

5対5の練習をするとき、レギュラー組をAとすると、控え組みはBになる。
Bメンと言えば、そのBチームのメンバーとして練習しているということ。
このBチームのあたりで練習していると、15人の登録枠から外される心配はほとんどしなくていいし、実際、川島も、12番のユニホームをもらっていた。
ただ、スタメンではない。
Bメンにも、練習中にAとポジションチェンジするメンバーと、Cから加えられる誰かと交代で外される人といる。
今の川島は、後者だった。

「だいたいさあ、試合出られないからやめなきゃいけないとか、そんなのおかしいって。プロじゃないんだから」
「そうなんだけど」
「とにかく、幸は絶対試合に出す」
「それは、美記が決められることじゃないんじゃないの?」
「いいの! 幸はちゃんとアップして待っててよ」

誰を試合に出すかは、ちゃんとしたコーチがいるチームでは1選手が決められるようなことではない。
だけど、控えメンバーを試合に出す展開というのは2種類あった。
1つは誰かの調子が悪かったり、試合展開がやや苦しくて、レギュラーメンバーと質が違うけど実力はある控えを投入すること。
もう1つは、圧倒的な点差をつけて、経験を積ませるために全員試合に出られる展開にすること。
是永の頭にはその展開がある。
そうするためには、自分が点を取ればいい、そう思っている。

バスは終点の体育館に着く。
同じ目的を持って乗ってきた少女たちが降りていく。
どれだけチームがいても、勝ち残るのは1チームのみ。
実際には、目標ベスト4とか、目標初戦突破とか、それぞれにあって、負けはしたけど思いは遂げた、ということはありえるのだけど、全国選抜大会の予選、という意味合いでは勝ち残るのは1チームだけだ。
是永たちは、その1チームが自分たち以外の誰かになるなどとはこれっぽっちも思っていない。
周りからも同じように認識されている。
この地域では、それくらいこのチームの力は圧倒的だ。

大会は、1次予選を勝ちあがってきた16チームと、シードがついた8チーム、計二十四チームで争われる。
中村学院は当然シードがついていてこの県本戦の2回戦からの登場になる。
インターハイも国体も怪我で欠場した川島にとっては久しぶりの試合だ。
ユニホームに袖を通すのも4ヶ月ぶり。
1番不安なのは体力面だが、これはスタメンを外されてしまったので、逆に心配しなくてよくなった。
もう1つあげると、試合勘も少々不安だ。
そんなものが無くても問題ない相手ではあるが、今の川島にとって戦う相手は対戦相手じゃない。
チームメイトを上回れるかどうか。
自分のポジションを奪った先輩を上回れるかどうか。

2回戦、実力差は明白。
1クォーター34−4 2クォーター37−5
前半終わって71−9
もはや試合になっていない。
控えメンバーはそれぞれアップを始めたりしていたが、ハーフタイムに監督が冷や水を浴びせた。
「この試合はメンバーチェンジはしない」
公式戦は、大事な練習の場だったりする。
自チームのBメン、さらにはCやDより劣る相手ではあるけれど、知らない相手との試合というのは、何をされるか予想できないので、良い練習になったりする。
ナンバープレイに相手が引っかかるかどうかは、自分のチームでやっても確認できないのだ。
なにせ、そのナンバープレイで何をするのかは全員知っているから。
県大会の1回戦くらいだと、たとえば富ヶ岡の偵察も入っていないので、気にせず試すことが出来る。
そんなことをしたり、あるいは、40分しっかり走らせることでメンバーのスタミナを確かめたり、コンビネーションを高めたり。
そういった目的で、この試合はメンバーチェンジなし、という方針を監督は打ち出した。

控えメンバーとしては面白くない。
面白くないが、黙って受け入れるしかない。
試合は、その後も圧倒的な力の差を見せたまま進んだ。
是永も、川島を試合に出すことだけ考えてプレイしているわけじゃない。
打倒富ヶ岡、これが頭にあって、最後の決勝を想定しているから、そのレベルで通じることをしようと真剣だ。
172−16
後半は、相手が控えメンバーに代えてきたこともあり、さらに差が開いて終わった。

3回戦、今度はスタメンそのものを組み替えた。
是永以外の4人はチェンジ。
入れるかな、と思ったけど川島はそこからも外された。
スターティングメンバーが読み上げられた後、是永と川島は目を見合わせてちょっと微笑む。
「大丈夫、心配ないよ」
そんなことを是永が言っているように川島には見えた。

このレベルでは是永1人いれば得点力は十分過ぎる。
県大会では、相手がよく分からないので出だし5分過ぎまではマンツーで付いて、相手のエースは誰だと確定した上で、是永マッチアップのボックスワンに切り替える。
ベンチで見ていて、美記はかっこいいなと川島は思う。
試合には当然出たいけれど、ベンチで是永が戦っているのを見るのは結構好きだ。

控えは控えでも、中村学院の控えでは、県大会レベルでは相手のレベルをはるかに超えている。
前半終わって63−17
勝負は付いている。

「川島」
「はい」
「後半、是永と交代」
「え?」
「自由にやっていいぞ」
「はい」

予想していなかった。
試合に出られるのは悪いことではないけれど。
美記の控え、という扱いだとスタメンは遠いなあ、と考え込んでしまう。

「幸、7番ね」
「うん」
「ちょっといらいらしてたから、怪我しないようにだけ気をつけて」
「わかった」
「これで、来年まで部活辞めないですむね」
「それはまた別の話だから」

2年生までで部活は終わり。
これは川島家の約束。
川島自身は続けたい気持ちもあるけれど、それはまだ両親には伝えていない。
とりあえず、今すぐ辞めろと強く言われることが無くなる、ただそれだけなのだ。

受験のこと、家のこと、是永の代わりとして入ったこと。
目の前の相手ではないいろいろなことを考えながら川島は久しぶりにフロアに立つ。
相手はどうってこと無かった。
復帰後、Bメンとして練習するとき、川島は是永につくことが多い。
そういう意味では、是永の代わりに入るというのは自然なことだ。
そういった形で練習していると、自然、基準が是永美記になる。
その立ち位置で見ると、目の前の7番は初心者同然だ。

とにかく、自分は出来るということは見せないといけない。
ディフェンスは、ボックスから外れるのでアピールの意味があるかは微妙だが、オフェンスはフリーオフェンス。
1対1の強さ、も見せたいけれどそれ以上にボールの無いところでフリーになれる動きを見せたい。
控えメンバーにとって試合の目的は1つ。
勝つこと、では無くて、どれだけ自分が出来るのかをアピールすること。

後半だけだから20分。
20分なら大丈夫だろうとエンジンかけて飛ばした。
速攻もよく走った。
自分ではよく出来たと思う。
試合自体は110−40 考えるまでもなく圧勝。
体力もしっかりもった。

翌日、準決勝と決勝。
さすがに一二回戦ほどの大差とはいかない。
それでも実力差は明白である。
スタメンが40分でずっぱることは無く、控えに適宜交代していく。
川島は今度はボックスの1人として入った。
ボックスの右上、レギュラーだったときにいた場所だ。
2番目に交代で呼ばれた。
先に呼ばれたのはゴール下担当のセンター。
自分とはポジションはかぶらない。
これならスタメンも近いかな、なんて考えながら試合に入る。

準決勝は87−35
決勝は91−40
控えを交えながら申し分の無いスコア。
県大会の優勝、別の立場の人たちにとっては1つの大きな成果であるが、まったく感慨は無かった。
試合が終わり、普通に控え室に引き上げて普通にミーティング。
監督から改善点を指摘され、キャプテンがチームを締め、解散。
練習試合が終わった後、と言われてもうなづくような雰囲気をまとって表彰式に参加した。
一応、トロフィーを掲げたりしてみたけれど、特にうれしさがあるわけでもない。
このチームのメンバーが見ている場所はここじゃない。

川島は家に帰って母親に試合のことを報告した。
母親は、「そう」としか答えなかった。
とりあえず、冬の選抜大会までは黙って見ててもらえそうだと思ったけれど、それから先のこと、自分が思っていること、どうすればいいか、悩みは尽きない。

 

選抜予選のメンバー登録ぎりぎりのタイミングで石黒コーチの手元に返ってきた協会からの回答は、少々眉をひそめてしまうものだった。

本文としては、バスケットボール協会に登録していて、同チーム在籍選手であれば、誰を登録しようが問題は無い、というもの。
その本文の後に追記として、説明文がある。
まず、大会に登録するためには、バスケットボール協会に選手登録している同チーム在籍選手であることが必要であること。
次に、1度協会に登録した選手は、当該年度終了まで、移籍等の手続きがなされた場合以外は、同チームに在籍しているという扱いになること。
3つ目、メンバー登録した人間が試合出場可能かどうかは、監督コーチが判断することであり、協会側は感知しないこと。
最後に、登録した選手以外の人間が、その背番号で試合に出場した場合は、処罰の対象となること。
これらを勘案して問題が無いのならば、誰を登録してもかまわない、という回答文だ。

バスケットボール協会への選手登録というのは、年に1度必ず行われ、随時追加登録も可能だ。
この選手登録をしないと、各種公式戦には出られない。
選手登録では登録料を取られて協会の収入源の1つであったりするが、意味合いとしては、1人の人間は1チームにしか所属できませんよ、ということである。
中学高校などではあまりないが、大学社会人あたりだと2つのサークルを掛け持っていたりする人間がいて、本来はそういった場合、選手として公式戦に出られるのはどちらか1チームでのみである。
移籍等の手続きというのは、中学高校レベルで言えば転校のこと。
引抜を禁止するために注意書きもつくのだが、無名選手が親の都合で転校したときには割りとスムーズにこの手続きは済まされる。
東京から島根へ転校して、早い時期から試合にでた吉澤なんかはこの例だ。
顧問経験の浅い先生が、この手続きを忘れて試合に出られなくなる、というかわいそうなケースもあったりする。
この手続きをしていない、ということはそのままそのチームにいるという解釈になる。

今回のケースのようなことは珍しいが、たとえば、学校では部活をやめたのに、バスケットボール協会には選手登録が残っているというようなケースは日本中にある。
協会としては、1度登録料をもらってしまえば、本人がそのチームで活動していようが、やめていようがどうでもいいし、だいたいそんなこと知る由も無い。
それよりはるかに少ないケースであるが、無名校の無名選手が事故で亡くなっているようなケースだって十分にありえる。
その場合、その選手が今どうしているかなど協会は把握していない。
同様に、有名校の選手であったとしても、公式に報告を受けているわけでなければ、そんな事実は知らないことになりますよ、というのが追記の解釈として可能だ。
手っ取り早く言えば、別に誰も困らないし、自分たちがいいんならいいんじゃない、ということ。
ただし、別人がその名前で試合出場したら、それはルール違反ですよ、と釘はさしている。

「官僚答弁かよ」

便箋を一読して石黒はつぶやいた。
行間を読むと、登録可能という解釈になるが、イエスかノーかの回答自体はしていないのだ。
万が一、問題になったときに、協会はオーケーとは言っていない、ということも可能な文章である。

石黒としては、ノーと言い切ってほしかった。
協会がノーと言うんだから仕方ないだろ、と言えばチームとして対処のしようが無い問題になるので、ある意味で1件落着だったのだ。
それがこのあいまい回答。
石黒が自分で決めるしかない。

まず、問題になるかどうかとしては、問題にはならないだろうと思った。
事故や事件で亡くなった子供たちも、同級生が卒業するときに卒業証書が送られたりするのだ。
その例に倣えば、美談にこそなれ、他者から文句が出るとは考えにくい。
問題は、自分たちのチームの中だ。
藤本の言っていることは正しいと石黒は思っていた。
ただ、りんねの気持ちも分かる。
単純に、チームの士気だけ考えて、実力15番目の選手ではなくて、亡くなった友をメンバーに入れるというのはプラスの価値もあるような気はする。
そんなことを考えながら、死んだ人間をそうやって利用しようと考えている自分に少し嫌気がさした。

プレイメンで甘えがある人間に厳しくすることは出来る。
そのことによって、選手に嫌われたとしても、そんなことは平然と受け入れられる。
だけど、人としての素直な気持ち、高校生の友を思う気持ち、それはどう扱えばいいのか?
答えは出ない。

2年前のシーズンまでは選手として活躍していた。
日本代表とまではいかないけれど、日本のトップのリーグの中堅チームのスタメン。
20代半ば過ぎ、後数年はプレイヤーとしてやっていくつもりだった石黒だが、唐突に選手生活の終わりはやってきた。
怪我でも病気でもないけれど、病院に行って診察を受けなくてはならないたった1つの理由。
妊娠していた。
気がついたのはシーズンが終わった直後。
あれ、来ない・・・、と検査薬を使ったら、分かった。
今の日本の女子バスケットボールは、結婚しても続けられるような環境には無い。
まして、子供を抱えながらでは・・・。
ということで引退。
出産し、子供は手がかかるけど、主婦ってがらじゃないんだよなあ、と思い始めた頃、母校から監督就任要請を受けた。
実は、そんな未来を考えて、大学時代に教員免許も取っていた石黒、夫に反対されながらも了承した。
自分は滝川、子供と夫は札幌、ある種の単身赴任生活である。

自分も同じ体育館で成長し、同じ寮で暮らした経験がある。
3年間ともに暮らすとどういう心理が生まれるかもよく知っている。
りんねの気持ちはよく分かる。

相反する2つの意見について、両方ともが理解できるときに、どういう結論を下せばいいのか。
そして、その下した結論を自信を持って実行するにはどうしたらいいか。
それが分かるには、自分の人生経験はまだまだだと、石黒は思う。
とはいえ、もう時間は無かった。
体育科の教員という形で与えられた自分の机。
その上に置かれたノートパソコンに映し出されるメンバー登録表。
協会からの回答書は横に置き、マウスを動かしてプリントアウトボタンを押した。

「集合」
「はい」

その日の練習終わり。
いつものようにりんねが号令をかけ、石黒の前に生徒たちを集める。
視線が石黒に、そして、持っている紙に集まる。
この時期に自分たちの監督が紙を持っているということの意味は、大体誰もが理解している。

今日の練習についてコメントし、キャプテン、さらに数名の選手に意見を言わせてから、石黒は続けた。

「今度の北海道予選のメンバーを発表する」

前置きはしなかった。

「4番、戸田」
「はい」

登録は15人。
番号は4番から18番まで。
キャプテンは4番、そう決めているのでほぼ自動的にりんねが4番になる。
それから、5番、6番、と名前を呼んでいく。
藤本は7番、里田が十番。
完全学年順に番号が決まるチームもあれば、学年関係なくユニホームが渡されるチームもある。
その場合、4から8がスタメンというチームと、身長とユニホームサイズの関係で番号が決まるチームと、なんとなく中心選手が何番と決まっているチームとがある。
滝川は3つ目と2つ目の中間。
4がキャプテン、7は身長がそれほど高くない中心選手、十はインサイドの中心、あとは身長見ながら適当、というかたち。

「12番、安倍。安倍麻美」
「はい」

麻美もメンバーに入った。
ちょっと藤本がいやな顔をする。
12番は、去年藤本がつけていた番号。
身長が比較的近いというだけの理由ではあるが、つけていた本人にとっては、自分の後を継ぐもの、みたいな意識がわずかではあるがあったりもする。

「18番、柳原。以上」

15人目、ここだけ返事が無かった。
石黒は、亡くなっている、返事をすることの出来ない、柳原尋美をメンバーに入れた。

何か反応はあるかな、と石黒は思っていたが、声は上がってこなかった。
変な間があく。
石黒が自分で言葉を入れた。

「協会からの返事はあいまいだったけど、登録はオーケーという解釈が出来るものだった。だから、柳原はメンバーに入れることにした。これは、ここにいるメンバーたちを軽視しているという意味ではないことは分かってほしい。それと、この15人は、道大会のメンバーで、本大会では入れ替えることもありえる。だから、外された3年生も、一二年生も気持ちを切らさずに練習すること。戦うのはベンチに入る15人だけじゃない。全員で1つのチームだ。わかった?」
「はい」
「ユニホームは、寮で自分たちで確認しろ。解散」

練習終わりのミーティングは終了。
藤本が何か言うかと思ったけれど、何も言ってこなかった。
自分の選択は正しかったのだろうか?
練習終了後のメンバーたちの自主練を見ることなく、石黒は引き上げた。

「あさみの名前、なかったね」

寮に戻るまでの道のり。
バスの中ではずっと無言だった藤本が、部屋に戻ってベッドに座ると口を開いた。

「なかったね」

あさみは荷物を投げ出してベッドに仰向けになる。
メンバー発表のとき、あさみの名前が呼ばれることは無かった。

「頑張ってたのにね」
「しかたないよ」

藤本も自分のベッドに仰向けになる。
それぞれ天井を眺めながら、お互いの顔は見ずに言葉を交わす。

「おなか空いたなあ」

あさみのつぶやき。
早い時間に練習が始まって早い時間に終わる休日以外は、通常の感覚よりやや遅めになる夕食。
すでに出来上がっている食事を今頃1年生たちが配膳しているはずだ。

「あさみは頑張ってたよ」
「いいよ、もう」

あさみは寝返りを打って藤本に背中を向けた。
藤本は大の字になって天井を見つめたまま。
部屋に戻ってくるなりつけた暖房のモーター音が2人の間を流れる。
北海道はもう、冬の季節が訪れている。

「あと1ヶ月。あと1ヶ月ある」

目の前にあるのは北海道の予選。
本大会まで、本大会の登録まではまだ1ヶ月ある。
背中を向けたままつぶやくあさみ。
本大会はメンバーを代えることもありうる、コーチのこの言葉を信じるしかない。

「私、どうしたらいいのかなあ」

体を起こしたあさみが、藤本の方を見ながら言った。
藤本も、あさみの言葉に答えて体を起こす。
だけど、あさみの方は向かずに、ぼんやりと壁の方を見つめながら答えた。

「あさみはボールを持っても怖くない。自分で崩してこないしシュートもあまり無いから。フォワードとして怖くない。かといってガードとしてゲームを仕切るようなタイプじゃない。中途半端なんだよ。頑張って速攻走るのも大事だし、取られたとき頑張って戻るのも大事だけど、それだけじゃ絶対必要な人にはなれない。ディフェンスも、ボールを狙っては来ないから怖くない」
「厳しいなあ・・・」

藤本とあさみでは、大分実力差がある。
いままであまり、あさみのプレイ振りについて藤本がコメントしたことは無かった。
自分と同じチームでプレイする人間に対して、動きなどで要求することはよくある。
それは試合で勝つためであり、すなわち、レギュラークラスの人間に限られる。
それとは遠い場所にいるメンバーたち、ベンチの控えメンバーや、登録もされないような選手に対して、藤本はあまり要求をしてこなかった。
誰かを教え導くようなことに興味は無い。
興味ないし、自分はそんな柄じゃないとも思っている。

「スタメンになりたいなら、幅広くいろいろなことが出来るほうがいいと思う。だけど、そこまで目指すんじゃなくて、とにかくベンチ入りのメンバーになるんだったら、何か1つ得意な分野があればいいと思う」
「何か1つでいいの?」
「他のことはまったく出来ないけれど、誰よりもスリーポイントが入る人は、美貴だったら一緒にスタメンで出るのは怖いけど、点が離されたときにベンチにいてくれるとうれしい。シュートはランシューも入らないとしても、ディフェンスは、相手のエースをマンツーマンで絶対につぶせますってのがいれば、石川みたいのがいるチームと当たるときには役に立つし、ありえないけど、美貴でもボールキープできないようなディフェンスに当たったときに、どんなプレスもドリブル突破できます、なんてのがいれば美貴のサポートで入れてやってもいいよ」
「そんなのいきなり無理だよー」

要求レベルが高すぎて、あさみはまたベッドに仰向けに。
藤本は、そんなあさみを見て少し微笑む。

「でも実際、2号なんか何にも出来ないくせに、スリーが誰よりも入るって理由で12番もらってたし」
「あの子を何にも出来ないなんて言えるの美貴だけだって」

あさみのあきれ声。
藤本の基準はなんとも高すぎて、自分のレベルとは合わなさすぎる。
誰よりも、はともかくとして、藤本の言っていることを自分レベルに翻訳すると、あさみは目立たないからとにかくまずは一芸を持て、ってことかな、と理解した。

「あと1ヶ月ある」

藤本はそう言ってまたベッドに仰向けになる。
天井の先に見えるものは何か?

「私だけなのかな? 18番、納得いってないの」

名前は出さなかった。
18番、尋美に与えられたユニホーム。
石黒コーチがそれを伝えたとき、誰も何も言わなかった。
藤本の、ひとり言とも取れる問いかけに、あさみは答えない。

「みんな、それでいいって思ってるのかな?」

仰向けのままの藤本の方を見ることも無く、あさみはベッドの上でひざを抱える。
もう1つ枠があったら、自分はそこに入っていただろうか?
そう考えても答えは出ない。

あさみは、ここのところりんねと2人で話をすることがなくなっていた。
2年生に上がったあたりから、少し意識的にりんねの方がそれを避けていた部分はあった。
だけど、実際に接触が少なくなったのは、りんねがキャプテン代行の形になってから。
あさみの側から近づき難くなった。
今回のことも、りんねから何も話してもらっていない。
言いたいことがあったら部屋に来てください、と全体で言われたときも、行く気にはなれなかった。

あさみが、抱えたひざにあごを乗せて考え込んでいるとノックがありドアが開いた。

「食事の用意が出来ました」

1年生が一言告げて出て行った。

呼ばれても2人は動かない。
藤本は仰向けのままだし、あさみはひざを抱えたまま。
あさみの耳には藤本の大きなため息が聞こえてくる。
結局、先に動いたのはあさみだった。

「美貴、行こう」

ベッドから降りて立ち上がる。
仰向けのままの藤本を見下ろす形。
藤本は、一目あさみの方を見た後、また、天井に目をやる。
あさみは黙って待つ。
やがて藤本も体を起こした。

「あさみは優しいね」
「なによそれ」
「やさしすぎるよ。やさしすぎる」

あさみの方を向かずに、それだけ言って立ち上がる。
中身の解説はしなかった。

ドアを開けて廊下へ。
寮生たちはすでに食堂に向かったのか閑散としている。
それを気にせず、藤本はのんびり歩き、あさみもそれに合わせた。

14人で臨んだ北海道大会。
元々この地域では図抜けた力を持っている。
久しぶりの公式戦でかみ合わない部分もあり、特に決勝ではややてこづったが、それでも今回はしっかり勝った。
石黒コーチからは、「お前ら0点だ今日の試合」と言われはしたが、それでも冬の選抜大会の出場権は獲得した。

 

ディフェンディングチャンピオンも、無条件で出場権が与えられるようなことは無いのが高校生の大会。
富ヶ岡も、他の全国の高校と同じように、県予選に臨む。
ただ、やはりシードは付いていて、ここではベスト8からの出場になる。
負けることはありえない。
問題は勝ち方、それだけだ。

「高橋! あいたところで頂戴よ!」
「すいません」
「視野広くな。石川うざいかもしれないけど、開いたらちゃんとパス入れてやれよ」
「すいません」

決勝、すでに20点以上点差の開いた後半。
スコア的には楽勝ペースではあるが、石川の機嫌は悪い。
和田コーチも首をひねっていた。
状況としては、控えメンバーに経験を積ませたいところ。
そのための点差は十分あるのだが、なんとも代えづらい。
スタメン組みがいまいちかみ合ってないのだ。
県大会決勝というのは、少し見方を変えると、選抜大会前の最後の公式戦とも言える。
コーチの立場としては、もう少し安心させてほしいと思う。

「速攻が出せたときも、もう少しスムーズにパス捌けない? 自分で勝負も悪くないときはあるけど、3対1出来たらさ、あいてるとこに出そうよ」
「すいません」

平家、石川に次いで柴田まで。
先輩たちに小言を言われ、高橋はひたすらすいませんしか言えずにいる。
スタメン組がいまいちかみ合わない理由は高橋だった。
和田コーチの見立てでは、間が悪い、というところか。
もっとシンプルにやればいいと思うところが、考えすぎるせいでワンテンポ遅くなっている。
特に、持ち前のスピードで一瞬のフリーを作る石川に、その一瞬を掴んだパスが遅れない。

高橋だけ代えてしまおうかと思うが、そうもいかないと思いとどまった。
このチームは石川が攻撃の中心にいる石川のチーム、に一見見えるが、実際はそうでもない。
インターハイの中村学院戦でそうだったように、石川がたとえダメでも、周りの平家や柴田が加点していくことが出来る。
石川の存在は大きいが、選択肢の1つであって、代わりがいるとまではいえないが埋め合わせは何とか利く存在である。
実は、埋め合わせが利かないのは高橋のほうだ。
最初は小川と併用してみてどちらか1人、というような競争のさせ方をしてみたが、小川はガードというよりもフォワードの方が向いていてそちらにコンバートした。
今から戻すことが出来ないわけでもないが、小川の調子自体が落ちているし、和田コーチの見立てでは調子云々以上に実力差が出てきている、とも感じている。
二三年生の控えガードもいるが、それも力は落ちてしまう。
危なっかしさは常に感じているのだが、和田コーチとしては高橋に託すしかない。
もちろんガードがダメでもボールさえ受ければ1対1でどうにでも出来るメンバーたちではあるが、このレベルの試合でそんなことをしても意味が無いので、ボールの無いところでしっかり崩せと指示を出している。
高橋に安定感を求める自分が間違っている気がしながらも、もう少しどうにかならないものか、と腕を組んで考え込んでいた。

試合に戻る。
どうみても個人の能力での差が大きい。
なので、試合の結果に不安はまったく持っていないが、展開は不満だらけだ。
オフェンスのリズムの悪さがディフェンスにまで持ち込まれている。
石川のディフェンスは成長したな、などと準決勝まで2試合は見ていたが、決勝になって悪い点が見え始めた。

「石川! ディフェンス集中しろ!」

思わず檄を飛ばす。
ボールの無いところでの動きが雑だった。
ボールサイドをカバーしようとマークマンから少し離れた場面で、上にあがって行かれそれを見失い、フリーにしたところでパスを受けてのスリーポイントを決められた。
ボール持たれてからの1対1には強くなったが、そこまでがまだまだだ。
1対1の練習ばかりやってるからだ、と言いたいが、それ自体は悪いことではないので文句は言えない。

オフェンス。
パスをつないで左四十五度の柴田へ。
ゆっくりとシュートの構えを一応見せて、上の高橋へ戻す。
高橋は、右に開きかけた石川へパスを送った。
石川は、実際には開かずにゴール下へ駆け込んでいく。
ボールは誰もいないコートサイドへ飛んでいった。

「パサーがフェイクにかかってどーすんだよ!」

石川のかけたフェイントに、ディフェンスがかからずに高橋がかかった。
長く一緒にやっていれば、なんとなく味方の動きというのは分かる。
にもかかわらずこういうのを見せられると、和田コーチとしては不安でたまらない。

試合は64−40
大差で勝利はしたが、誰1人として満足できない結果だった。

帰り道、納得いかないまでも勝つには勝ったので、暗い雰囲気ということは無い。
バスケ部員と言えども女子高生、人数集まれば華やかでかしましい。
それが1人減り2人減り、各自家が近づいてくると、おとなしくなってくる。
試合に出ていたスタメンたちは、疲れもあっておとなしくなる。
周りが落ち着き自分も落ち着くと、冷静な思考も浮かぶ。

「なんか私、高橋とうまく行かないのよね」

帰りの電車、人数が減ってきてそれぞれが空いた座席に座り始めた。
石川の隣には柴田、反対側には知らないおばさん。
仲間たちとは少し離れた場所になる。

「あそこまで合わないのも珍しいよね。もう徹底的に、パスが来ない感じで」
「うーん、なんか、それだけじゃなくてさあ。なんていうかー」
「なに? それだけじゃないって」
「私、あの子に嫌われるようなことしたかなあ?」
「それはもう毎日のように」
「うーん・・・」
「え、本気で言ってるの?」

冗談のつもりだった柴田、石川にまじめに考え込まれてちょっと慌てた。

「なんかさあ、避けられてる感じするのよね」
「そうかなあ? 今までがおかしかっただけじゃないの? パスが来ないのはちょっと変だけどさ。それは、あの子、なんかのきっかけで判断遅くなるときあるし。それでじゃないの?」
「最近会話もかみ合わないのよね。すぐ逃げようとするし」

そこまで言われて柴田も少し考える。
石川と比べて自分にはいいタイミングでパスもそこそこ来たが、全体的には高橋のプレイそのものがあまりよくない感じだった。
自分と話すときは、別に逃げようとしているということでもないと思うけど、でも結構早口だ。
というか、そもそも私語をあまり交わす相手じゃないから比較対象として自分を持ってくるのに無理がある。
他の誰と仲がいいかというと、小川あたりになるが、家がすぐ隣なら一緒に帰っておかしくないし、先輩より同学年に近いのはおかしなことでもないのだろう。
とはいうものの、他の1年生とはどうなんだ?
最初は高橋派小川派なんてあった気があるけれど、あの高橋派はどうなってしまったんだ?
そんなことを考えると、石川の言っていることはやっぱり大げさな気はする。

「考えすぎじゃないの? まあ、いままでみたく、憧れ全開の先輩ってのはなくなっちゃったってことかもしれないし、それだと梨華ちゃんからしたら不満かもしれないけど、でも、私への態度とそんな変わんない気がするよ」
「だったら、パスはくれるでしょ」
「だからそれはたまたま」
「柴ちゃん聞いてきてよ」
「何を」
「なんで石川さんを避けるの? って」
「なんで私が」
「だって、柴ちゃんしかいないじゃない」
「知らないわよそんなこと」
「あの子がおかしいままじゃ、私たち選抜勝てないよ。だから、お願い」

それは確かにそうなのだ。
さっきの試合のあの体たらくでは、選抜ではまともに戦えない。
それはそうなのだが、石川が避けられてるかも、というのとは何の関係も無いんじゃないかと思う。
それこそ、なんで私が? というところだ。

「聞いてどうするのよ」
「どうするのって、気になるじゃない」
「自分で聞きなよ」
「私が聞けるわけ無いじゃない。とにかくお願いね。バイバイ」
「ちょっとー! もー」

駅に着く。
石川はここで降りて普通列車に乗り換え。
柴田は、このまま快速特急に乗ってもう一駅先まで行ってから乗換えだ。
石川は言うだけ言って、去っていく。
一瞬追いかけていって自分も乗り換えようかと思ったけどやめた。

別の仲間が柴田の隣の空いた席に座る。
適当に話をしながら、高橋のことを考えた。
なんで私が、とはやっぱり言いたい。
でも、石川のことはともかく、プレイのかみ合わなさとか、そういうところはちょっと話してみた方がいいのかなとは思った。
何か悩んでたとしても、友達少なそうだしな、なんて考えつつ。
いつもいつも自分ばっかりこんな役割でなんか損だ、とも思う。
そして何より、フロアの上はともかく、通常時の高橋のことが、柴田はなんとなく取り扱いにくくて苦手なのであった。

高橋どうしたの? というのを1番聞きやすい相手は小川だ。
当然最初にそこに探りを入れてから、と柴田は思ったのだが、やっぱりやめた。
小川も変なのだ。
変、というのは言葉として合わないが、他人のことについて相談持ちかけられる状況ではない。
少なくとも柴田にはそう映る。

県大会の3試合、小川はスタメンを外された。
決勝にいたっては、スタメン組の体たらくのせいもあり試合に出てすらいない。
練習中も考え込んでいる場面をよく見かけた。
思い切りの良さが信条のプレイヤーが、頭を悩ませながらプレイしたら持ち味は生かせない。
そしてうまく行かず、また頭を悩ませ、そして、悪循環の堂々巡り。
そこに向かって考えすぎるな、と指示を送っても、考えすぎるなということを考え始めて、もうどうしようもないところへ向かっていく。
こうなると、時が解決してくれるか、偶然何かがうまく行くのを待つか、それしかない。

とにかく、自分のことを考え込んでいる風な小川は当てに出来ない。
では直接、ということなのだが、話を振っていくきっかけがどうにも見つからない。
普段のプレイ以外での接点が無さ過ぎる。
今までは石川を挟んで近い位置にいたような気はしていたが、その石川を外すと、隣接点が何も無いのだ。
同じ部活で毎日一緒に練習してるのに、なんでこんなに話すきっかけが無いんだ? と考えてしまうがそんなものだ。
誰とでもにこやかに、誰とでも仲良く、そんな社交性は柴田は持ち合わせていないし、高橋の方にはもっとない。
さてどうしたものか。

「昼休みちょっと付き合って」

5日考えて、選んだ手段は直接的な方法。
朝練の後に高橋に声をかけた。
先輩が後輩を呼び出す。
後輩からしたら身構えてしまうシチュエーションだということは分かりきっていたが仕方ない。
自然に話を聞きだす、なんてことはあきらめた。
私に頼んだ梨華ちゃんが悪い、と頭の中で毒づきながらホームルームへ向かう。

授業はほとんど聞かずに、高橋愛の傾向と対策を考えた。
なまりだしたら落ち着かせる。
早口は問い直す。
泣いたら放っておく。
逃げ出されたらあきらめる。
そんなことを考えつつも、私は1体何を聞いたらいいんだ? なんて基本的なこともちょっと悩んだ。

お昼休み。
屋上でお弁当を食べた後、石川を体育館へ追いやり自分は近くの公園へ。
部室じゃ人が来るし、屋上は目立つしで、いろいろ考えて選んだ場所だ。
男子を連れてきて告白させる、とか勘違いされそうなシチュエーションだなあ、とも思ったが気にしないことにした。

きちんと外履きに履き替えて、時間の5分前にベンチに座った柴田を、7分待たせて高橋は上履きを履いたままやってきた。

「すいません。ご飯食べ終わらんで」
「いいよ、別に」

待たされたというよりも、来てしまったか、という感覚の柴田。
時間に遅れたことを責める気は無い。
ベンチに座る柴田、斜め前に立つ高橋。
夏よりは大分低くなった太陽は高橋に背負われ、逆光になり柴田には表情が見えなくなる。

「あ、あの、まあ、座って」
「はぁ」

子連れママが集う公園、2人の周りだけ固かった。

足を閉じて、しっかりとスカートを抑えて座る。
ひざまでかかる長さ。
足をもっと出しなさい、なんて石川に言われたりもするが、2人は標準制服を標準的に着ている。
こぶし3つ分距離を開けて座る2人。
冬も近いと言うのに、変な汗が柴田の背中を伝う。

「ごめんね、昼休みなのに。友達とかほっとかせて」
「いえ、あの、いえ、別に」

呼んだ先輩も困るが、呼ばれた後輩はもっと困る。
お昼休みが忙しいタイプかどうかは別として、かしこまって公園のベンチに座って先輩と顔も見ずに会話、というのはなんとも言いがたいシチュエーションだ。

「あー、あの、うん。もう単刀直入に言うわ。梨華ちゃんのこと嫌い?」
「な、な、な、何、何言うてるんですか? 石川さん。好き? あ、嫌い? なんて、そんな、そんなわけないじゃないですか」
「そうか。そうだよねえ。うん。そうだよねえ」

わざわざ公園に呼び出したのだ、自然に話を聞きだそうなんて無理だ、と柴田も観念して単刀直入に聞く。
石川に聞いてくれと頼まれたのはこれだけだったような気がするが、これだけ聞いて終わりというのもいろいろな意味で気持ち悪いので、もうちょっとまともに話をしていく。

「なんかさあ、梨華ちゃん、この前の試合自分にパスがちゃんとこなかったの気にして、そんなこと考えてたみたいよ。でさあ、実際高橋、あんまり調子よくないじゃない。それでさ、なんか悩んでるようなら聞いてみてよって、梨華ちゃんが。自分で聞きなよって言ったんだけどさあ、梨華ちゃん、自分が嫌われてるんじゃないかとか思っちゃってるから、自分は無理、とか言って。それで私が出てきたんだけど、実際どうなの?」

とりあえず1つ山を越えたことで、柴田の口調も滑らかになる。
足を閉じてスカート押さえて前向いて、ではなくて、ちゃんと高橋の方を向いて話す。
高橋は、自分の方に顔を向けられて視線を落とした。

「別に、そんな、嫌いだなんて。そんな、ありえんです。調子悪くてすいません。あたしが下手だから。すいません」
「あやまんなくていいよ別に。梨華ちゃんも妄想突っ走るタイプだから、私だって、高橋が梨華ちゃんを嫌ってるなんて思ってないし。でも、調子悪い方はなんかあるんじゃないの?」
「そんな、そんなじゃないです。調子悪いは調子悪いで。すいません。あたしが下手だから」

高橋にそう答えられ、柴田は腕を組んで考え込む。
私は下手だからの1点張りできたか。
調子のいい悪いはあったとしても、下手な人間がスタメンを勝ち取れるようなチームじゃない。
この答えは柴田には気に入らない。

「なんで調子悪いかは心当たりないの?」
「そんな、わからんですって」
「うーん。そっか、わかってたら解決するもんね。そっか、そうだよね」
「そうですって」

ああ、この子の上ずったテンションが苦手だ、と柴田は思う。
どうにも合わない。
バスケをしているときは気にならないし、それなりに当てに出来るポイントガードだと思っているけど、日常生活では中の良いお友達にはなりづらいタイプだ。
自分がこれ以上聞いても無理かな、と思った。

「うん、なんか、ごめんね。変な話で呼び出しちゃって」
「いえ、そんなことないですって」
「困ったこととか、悩みとかあったら、まあ、私でもいいし、梨華ちゃんとかもいるし、何でも言ってみてね」
「いえ、あたしは、先輩たち頼っちゃいけんです」
「そんなことないよ」
「そんなことあるって。あ、すいません」

梨華ちゃん並みに頑固だなこの子も、と柴田は思った。
高橋は立ち上がり、失礼しますと頭を下げて去っていった。
柴田は、わけわかんない、とため息をつき、高橋の姿が見えなくなってから公園をあとにした。

午後の練習前、とりあえず石川には、嫌われてるわけじゃないみたいよ、と告げる。
石川はそれだけで上機嫌で納得したが、今度はもう柴田の方が納得いかない。
こんなときに1番頼れるのは、やっぱり先輩のキャプテン様だ。

「彼氏でも出来たんじゃないの?」
「えー、それは無いんじゃないですか?」
「だって、私はないけどさ、うちらの年で練習にっていうか部活に集中できなくなる1番の原因ってそれじゃない?」
「でも、あの子、そういうタイプですか?」
「見た目はかわいいし。それに、悪い男にだまされそうな感じだし」
「それは、あるかも」
「なんか最近、あいつ眠そうだよな、結構、練習中とか。1人暮らしだろ、あってもおかしくないんじゃないの?」
「ちょ、平家さん、何言ってるんですか!」
「何って、彼のこと考えて夜も眠れないとかさ。柴田こそ何想像したんだ?」
「もー!」

膨れる柴田を平家が笑っている。
からかわれて不満だが、想像してしまったのは事実なので仕方ない。

「まあ、半分は冗談だけど、半分はちょっとあるんじゃないかって心配は心配だな。合唱コンクール終わったのに、あいつ帰るの早いだろ。友達少ないタイプみたいだし、男にはまるってのもあるんじゃないの?」
「あるんじゃないの? って他人事みたいに。平家さん聞いてみてくださいよ」
「私より柴田や石川のがいいだろ。ちょっと家まで様子見に行ってみたら?」
「家までですか?」
「焼肉パーティーやるぞ! とか言って、アポなし押し掛けで。男の気配があったら報告して」
「怖いですよ、それー」
「まあ、男の気配はともかく、部屋は見てきてよ。なんか、先生もちょっと気にしてるみたいよ。高橋と小川」
「なんで、先生気にしてるなら先生行けばいいじゃないですか」
「いや、俺は男だし、156歳の女の子が1人で暮らす部屋には、とかごちゃごちゃ言ってたよ。でも、田舎から出てきた156歳を預かっちゃってるから、すごい心配はしてるみたい。だから、2人で見てきてよ」
「なんか、私ばっかり損な役回り」
「ははは。柴田はいい子なのにね。って言うか、いい子だから損な役回りになるんじゃないかな?」
「はいはい、分かりましたよ」

こんなのばっかりだ、と思うけれど平家には逆らえない。
なんとなく、平家さんもこうやって、いい子扱いされて苦労した口なんじゃないかなんて思ったりもした。

練習はいつもどおり。
本大会までは時間があるし、組み合わせ発表もまだだ。
まあ、このチームは組み合わせ発表を見て、何か戦略を立てる、というようなチームではなく、来たものを迎え撃つというような立場ではある。
柴田は、意識して高橋の様子を見ていた。
確かに平家が言うように、眠そうな姿を見かける。
集中していればあくびが出るような場面は無いはずなのにと思う。
体力的にもつらそうだった。
入部直後は、さすがに高校レベルの体力が無くきつそうだったが、すぐにある程度慣れていたはずだ。
40分の試合でベンチに1度も下がることなく走り続けることもある。
それが、スリーメンで往復しただけでひざに手を付いている姿がある。

5対5のときも、なんとなく合わない。
合わない、というのは高橋の側だけの問題ということでもないが、ともかく合わない。
うまく行かないことの苛立ちを声に出したりボールにぶつけたり。
その後、1人考え込む、悩みこむ。
うまくいかない。
練習が終わる。

「梨華ちゃん、明日高橋の家に行こう」
「どうしたの?」

ボールを持った柴田、自分の目の前にディフェンスとして立つ石川に言う。
柴田がボールを小脇に抱えたので、石川も構えを崩して普通に立つ。

「やっぱり高橋はおかしい」
「私のこと嫌いってこと?」
「そうじゃない」

柴田による高橋の診断では、男が出来てバスケから心が離れた、という感じではなかった。
彼氏が出来たときにどういう心の動きをするものなのか、残念ながら想像以外の手段で柴田が感じることは出来ないのだが、その雰囲気と高橋は合っていない。
多分、バスケより大事な彼氏がいたとすると、プレイがうまく行かなくていらだったり考え込んだりということは、無くは無いけどもっと弱いのではないかと柴田は思っている。

「どうおかしいの?」
「わかんない。わかんないけど、なんか悩んでる気がする」
「うーん。なんで私に相談してくれないかなあ」
「話しにくいことなんじゃないの?」
「でも、私にくらいは相談してくれてもいいのに」

自分を、「頼りになる先輩」という位置に自信を持って置く石川を目の前に、柴田はため息を付く。

「とにかく、明日練習終わったら、高橋の家で鍋パーティーだから」
「なんで鍋?」
「いいの」

明日は土曜日。
日曜日も練習はあるので、翌日休みというわけではないが、授業が無いので時間はあるのだ。
なんとなく、先輩の言うことそのままそのとおりに実行するのはいやだったので、焼肉を鍋に変えてみた。
もうちょっと何かを聞きたそうな石川を無視して、いきなり踏み込んでドリブルでかわしてランシューを決めた。

「ずるいよー」
「油断する方が悪い」

練習中、他人のことばかり見ていて、なんだか微妙にストレスがたまった柴田。
石川がディフェンスやりたがるのは、今日は好都合だ。
毎日やられると、シューティングしたいときなんかはうっとうしいが、ストレス発散したいときは、1対1で突破する方が気持ちいい。
ただ、止められるとストレス倍増ではあるのだが。
幸か不幸か、この日の勝負は5分と5分、気分よくとはいかなかったが、目の前のディフェンスを抜き去ることに集中できて、余計なことは忘れられた。

翌日、練習後。
高橋が帰ってしばらくしてから行こう、と柴田と石川はひそひそやっていたのだが、案に反して高橋がなかなか帰らない。
昨日は全体練習終了後、1年生担当の片付けをさっさとして帰ってきたのに、今日に限ってシューティングしていたりする。
それを横目に見ながら、今日は柴田も石川もシューティングしていたのだが、高橋がなかなか帰らないものだから、2人はコートの隅に座り込みストレッチを始める。
見ていると、あまり入っていないのが分かる。
シュートが外れ、ボールを拾いにいき、そして考え込む。
シュートが入らない、と考え込んでもそれはどうにかなるものでもないのだが、ボールを見つめ、ゴールを見つめ考えている。
さらに歩き出し、ゴールを見つめ、立ち止まり。
さて、どうするのかなと眺めていると、やがて、左四十五度スリーポイントラインの外で立ち止まり、ボールを額に当てた。
それからじっとゴールを眺め、そして、打つ。
ボールはリングを通過して真下に落ち、高橋は大きなため息をはいた。

ゆっくりと歩いていき、ボールを拾い上げ、高橋は出て行った。

「ある意味、すごい集中力だったのかな?」
「うーん・・・」

石川、首をひねる。
練習で、1本1本集中するのは大事だ。
試合のシチュエーションをイメージして練習する、これは重要なこと。
だけど、今目の前にいた高橋派、集中している、というのとは何か違うものに見えた。
練習終わった後のシューティング、なんでそこまで思いつめた顔をしているの?
石川の頭の中での問い。

「私たちもいかなきゃ」

2人も高橋の後を追って体育館を出て行く。

高橋の家の場所を2人はちゃんとは知らなかった。
大体この辺、ということだけ。
学校の近くなのでなんとなく土地勘はあるが、それでも、あてずっぽうで捜し当てるのは大変だ。
2人は1番簡単な方法、後をつける、を選んで高橋の部屋を見つけた。

「ストーカーにつけられたらどうするのよあの子」

2人で後をつけて、まったく気づかれなかったのをいいことに、石川は高橋の警戒心の薄さをなじる。
そのままインターホンを鳴らしに、ではなくて、いったん近くのスーパーまで戻って買い物。
1時開始の午後練習だったので、食材買い込んで高橋家に向かえば、夕食のタイミングにはちょうどいい。

ポストにはしっかりと高橋、と名前が出ている。
それを見て何号室か確認し階段を上がる。

「麻琴も同じ建物にいるのよね?」
「隣って言ってたかな?」
「じゃあ、後で呼ぶ?」
「場合によっては」

小川はポストに何も出ていないし、玄関に表札も無い。
高橋家は、しっかりドアの横に高橋、とかかっていた。

目の前のインターホン。
石川は柴田の方を見る。
自分で押せよと思うけど、仕方ないなと柴田がインターホンを押す。
中で、音が鳴っているのが外まで聞こえた。
しばらく待つ。
返事も無くドアが開いた。

「無用心だなあ」

あきれ声の石川の前に、驚いて目を見開いている高橋がいた。

「ど、どうしたんですか?」
「鍋パーティーやるから。上がらせてもらうよ」
「へ? え?」
「まあ、そういうことだから」

開いたドアを、柴田が手で押さえ石川が中に入っていく。
あっけに取られる高橋、何も出来ない。
柴田もそれに続いてドアの中へ。
石川はすでに靴まで脱いでいる。

「なに、ちょっと、いい部屋じゃない」

柴田も靴を脱ぐ。
高橋の部屋なのに高橋が1番後ろで部屋に入っていく。
狭いキッチンプラスそのままつながったワンルーム。
不動産区分的にはワンルームではなくて1K という括りになるだろうか。

「高橋、お鍋ある?」
「ないですけど?」
「ないの? なんで無いのよ」
「梨華ちゃん、言ってることむちゃくちゃだって。小川は持ってたりするんじゃない?」
「わ、わからんですけど」
「ちょっと呼んできてよ。4人分の材料くらいあるから。あ、そのとぎかけのお米ストップ。
4人分に変更ね」

スーパーの袋は入り口側のキッチン前において、2人は奥の部屋へ。
ベッドとテレビとテーブルと。
床面はそれなりに片付いているが、女子の1人暮らしだと外に干しづらいタイプの洗濯物が室内にぶら下がっている。
石川と柴田は、さっさとベッドに寄りかかる形ですわり、高橋をぱしりに使った。
なにしろ、体育会の先輩様である。

高橋は言われるがままに外に出て行った。
石川柴田の室内チェック。

「男の影は無いわね」
「こういうのつけてる男かもよ」
「高橋ってそういうのが好きなタイプ?」

2人で顔を見合わせて笑う。
いくらなんでもあんまりである。

テーブルやタンスの引き出しを開けるようなことはしなかったが、見回して見えるところはしっかり観察した。
キッチンの方も見てみた。
誰かと住んでいる雰囲気は感じられない。
歯ブラシもしっかり1本である。

「ちょっと一安心かな」
「やっぱり私のこと嫌いになったってことなんじゃないの?」
「なんで、梨華ちゃんはそういう発想になるかな?」
「だってさあ」

ぶつくさ言っていると高橋が戻ってきた。
困惑顔の小川をつれて。

「どうしたんですかー、2人で」
「ん? 鍋パーティーしようって柴ちゃんが」
「小川、鍋ある?」
「この前お母さんが送ってきたんでありますよ」
「持ってきて」
「いいですけど。どうしたんですか? 急に」
「いいじゃないたまには」
「はあ」

別にいいけど、前もって言ってくれよ、というのが本音だろう・
小川の部屋にはコンビニ弁当とカップ味噌汁がすでに置いてあるのだ。

「高橋、料理得意?」
「得意ってことは無いですけど」
「じゃあ、包丁くらいは使えるね?」
「そりゃ、まあ」
「分かった手伝って」
「私もやる」
「梨華ちゃんは座ってて」
「いいよ、手伝うよ」
「いいから座ってて」

辞書には載っていないが、手伝うと邪魔をするが時には同義語になることもある。
鍋パーティーは単にここに来る口実ではあっても、柴田はちゃんとしたものが食べたかった。

作る人、高橋柴田、食べる人、石川小川。
作る、と言ってもこの程度鍋作りは、手の凝った料理とは決して言えない。
切って茹でるだけの簡単お鍋。
チゲ鍋の素もちゃんと買ってきた。
味がまずかったらチゲ鍋の素の責任である。

プライベートトークを2人でしようとするとぎこちないことになるが、野菜を次々と切っていくような作業なら、変な空気は流れない。
お米も4人分炊いた、野菜も切った、魚も切った。
鍋に足していくお湯も沸かした。
コンロも鍋も小川家から持ってきた。
準備は柴田高橋で進める。

「高橋、卒業アルバム見ていい?」

手持ち無沙汰な石川が、奥の部屋から声をかけた。
机の上に載っていたアルバム。
中学の卒業アルバム。
1人暮らしの部屋への来客が、興味を持つ部屋の装備品ナンバーワンである。

「はい」

包丁を持ったまま石川の方を向いて高橋が答えた。
柴田は包丁を置いて待ったをかける。

「もうほとんど準備できてるんだから、テーブルの上あけてよ」
「いいじゃない。まだ切ってるんでしょ」
「ダメ。じゃましないの」

実力行使。
柴田は切り終わった野菜の1部をテーブルに持っていく。
さらに、ガスコンロも置いた。
アルバムを広げられるスペースをなくす。

「ちょっとー。高橋。柴ちゃんに何とか言ってよ」
「いや、いえ、あのー・・・」
「高橋、コンロつけちゃって」
「もうー、柴ちゃんの意地悪」
「そういうこと言うとお鍋食べさせないよ」

柴田の勝ち。
アルバムは机の上へ。
自分が準備してるのに、石川だけアルバムなんか見てるのはちょっと許せなかっただけだ。
石川も、立ち上がって机の上でアルバムを広げることは出来たのに、それはしなかった。

ちゃんと全部そろえて、ご飯もよそって、高橋も柴田も席に着く。
冬はコタツになります、というタイプの床に直に座るテーブルを4人で囲む。
野菜を入れ魚を入れ、買ってきた肉団子も入れ。
真冬ではないけれど、鍋パーティに必要な要素はちゃんとそろった。

「2人で一緒にご飯とかないの?」
「前はあったけど、最近ないねそういえば」
「うん」

ベッドに寄りかかる側に石川、奥の窓の方に小川が座る。
柴田は、石川と向かい合いテレビを背にして座り、高橋は玄関側で小川と向かい合う。
部屋に干して合った服の下につけるものは、小川をつれて戻ってきたところで、高橋が慌てて片した。
それなりに平和な食卓風景である。

「もういいんじゃないの?」
「野菜なんて生でも平気かな」
「魚も大丈夫じゃないですか?」
「肉団子くらいかな? まだ危ないのは」

鍋奉行らしき生き物はいない。
強いて言えば、先走る石川を押しとどめる柴田が奉行っぽいと言えば奉行っぽいが、場を仕切るところまではいかない。
実際は、親世代抜きで、自分たちだけで鍋を囲むというような機会は、4人ともが始めてだったりする。

「もう待てない。白菜食べる」
「ちょっとー、梨華ちゃん1人でずるいって」
「そういいながら柴田さんもはしのばしてるじゃないですかー」

と言いながら小川もはしを伸ばす。
そんな雰囲気を見ながら高橋も菜箸を伸ばす。

「高橋、細かいこと気にしないで直箸で行きなさいよ」
「はあ」

白菜を口にしながらの石川の言葉に、戸惑いながら高橋も箸を持ち替える。
鍋から取ったのは白菜ではなくて白身魚。
取り皿に置かずにそのまま口に持っていく。

「あふい。ふぁ、辛い」
「当たり前じゃないの。っていうか、魚ずるい」
「ちょっと辛いけど、チゲってこれくらいでいいんだよね?」
「いいんじゃないですか? スープの素入れたんですよね」

鍋は煮えている。
もう生ということも無いだろう。
高校生2人分のお小遣いが予算なので、豪華というわけにはいかないが、それなりに具材はそろっている。
めいめいに好き勝手に箸を伸ばす。

「ちょっと、これ、おいしくない?」
「でしょー。私たちの腕がいいのよ」
「柴ちゃん、切っただけでしょ。味は、チゲ鍋の素のおかげ」
「なによ。私が愛情込めて切ったのよ。高橋も何とか言ってよ、って、高橋魚ばっかり食べないの」
「だって、これ、おいしいですって」
「だからって、1人で食べたら、野菜しか残らなくなるじゃない」

なんか1人黙っているから、柴田は高橋に振ってみた。
答えはまともに返ってくる。
場の空気に入れなかったのか、単に鍋がおいしかったのか。
柴田にはどちらかよく分からなかったけれど、とりあえず話には引き込んだ。

順調に鍋の中身は減っていく。
会話も弾む。
部活のメンバーの話は結構したけれど、バスケの話はしなかった。
高橋や、あるいは小川がその話を振ってきたら、それは話を拡げよう、と思っていたけれど、自分たちからその話は、とりあえず食事中はしないでおこう、来る前に石川と2人で決めていた。
1年生2人は、自分からその話をしては来なかった。

「愛ちゃんのユニホーム、私が持ってきちゃって、それで、しょうがないから渡そうと思って来たんですよ。そしたら、なんか急にドアあいて、「火、火、火事! 助けて!」とか言って。もう、それで中見たらホントに燃えてるし」
「だってー。パン粉つきすぎかな、とか思って少しとろうとかしてたら、急にぼって、ぼって、燃えるんだもん」
「高橋、料理向いてないよ」
「梨華ちゃんが言わないの」
「それで、仕方なく入って行ったら消火器があったんで、何とか消せたんですけど、でも、あの、飛ばすとこがうまくつかめなくて、それで、2人とも粉だらけになっちゃったんだよね」
「麻琴が要領悪いから」
「油燃やした愛ちゃんに言われたくないんだけど」

ユニホーム入れ替えたの自分たちだったなあ、なんて昔話を柴田も石川も思うけれど、その事実を告白したりはしない。
適度に盛り上がり箸は進み、鍋の中身はほぼ尽きる。
残されたのは、多めに炊かれたジャーのご飯だ。

「よし、後は雑炊ね」
「チゲ鍋で雑炊ってするんですか?」
「わかんないけどするんじゃない?」
「ちょっと辛そうだけどいけるでしょ」

辛い成分があろうが、ご飯が液体吸って増えればそれは雑炊だ。
チゲ鍋なんか作ったことないし、ましてやそれを基にした雑炊なんて始めてだが、特に気にせず作ることにする。
柴田と高橋、2人で台所に向かい、ご飯をよそいつつ卵を割ってきた。
ここに刻んだわけぎを用意するほどの周到さは無い。

午後の練習でたっぷり動いた後とはいえ、4人で囲んだ鍋は十分すぎるくらいの量があった。
それを空にして、ご飯を入れて火をかける。
おなかも1杯でほっと一息。
ガスコンロの火が鍋を暖めるのを、ぼんやりと眺める。
盛り上がった後の静かに流れる空気。
閉じたふたの中で、ご飯がスープを吸っていく音も聞こえるような。
あたたかい部屋で、仲間がそばにいて、食欲が満たされ。
豪華なものは何1つ無かったけれど至福のとき。
そんな雰囲気の中、突然高橋がしゃくりあげ始めた。

「どうした? どうしたの高橋?」

しゃくりあげて目をこすって。
唐突に泣き出した高橋に、石川は戸惑いながら声をかける。
柴田も、小川も、怪訝な顔で高橋の方を見る。
高橋は、鼻をぐずぐずさせながら言った。

「だって、だって、なんか、楽しかったんだもん」

意味が分からない。
石川は柴田の方見ると、柴田は首をかしげている。
小川の方を見てみると、小川は首を横に振った。
高橋の言うことが分からないはよくあるが、それでもちょっとこれはわからなすぎる。
鍋は、そんな状況に関係なく、ご飯にスープを吸わせ続けている。

「みんな、いて、なんか、お鍋で。楽しかったんだもん」

鼻をすすって、涙を拭いて。
言ってることは理解できないけれど、とりあえず落ち着くのをまつ。
石川は、座ったまま高橋の側にずりよって、髪をなでてやる。

「どうしたの? 話してごらん」

楽しいが理由で泣かれても訳分からないが、その前に抱える何かがあったのだろう、位のことはなんとなく分かった。
自分が嫌われてたんじゃ、というような発想は石川から消えている。
頭で理解したわけじゃないけれど、一緒にご飯を食べて、わいわい騒いで、そんな発想はどこかへ消えている。
柴田は、結構冷静に、そろそろ卵の入れ時なんだよな、なんて思いながら鍋の火を弱めた。
さすがに、溶き卵を入れているような雰囲気ではない。

石川が頭をなで髪をなで。
暖かい部屋の中で震えていた高橋も、涙が止まり落ち着いてくる。
高橋の正面に座る小川は、あぐらを崩して体育すわりになって正面の高橋を見つめる。
柴田は、なんとなく目の前の卵の入った皿に手をやり、少し動かした。

「16歳は結婚できるんです」

視線は落としたまま高橋が言葉を発する。
しゃべりだしたので石川は髪をなでるのをやめるが、あまりの言葉に柴田と顔を見合わせた。
高橋から手は離したけれど、その腕は中途半端に宙に浮いたまま固まってしまう。
何? なに? 結婚するの? 何事?
頭を駆け巡るけど怖くて誰も聞けない。

「だから、愛も大人になりなさいってばあちゃに言われた」

石川の大きなため息がもれる。
1行目が衝撃過ぎる言葉は、2行目を聞くとまともに理解できた。
小川も体育座りの状態から腕を外して、後ろ手につく。
鍋はコトコトいっている。

「もう、びっくりするじゃないの」
「誕生日、誰も来てくれんで、みんな、神奈川は遠い言って、それで電話して、なんで来んの! って言ったら、ばあちゃに、大人になれ言われるし。でも、あたしはこんなだし」

高橋の誕生日っていつだっけ? と柴田は思う。
小川は、そういえば何もしてあげたりしなかったなあ、なんて思い出す。
もう2ヶ月以上前のこと。
文化祭の準備とか忙しい上にしっかり部活があって、なかなか大変だった頃だ。

「もう結婚できる年なんだ、とか言われて、部活だけじゃなくてしっかり学校生活も頑張りなさいとか言われて。合唱コンクール、ソロパートやったけど、賞取れんし。なんかバスケもうまくいかんし。でも、大人になるには石川さんとか頼っちゃいけんし。ばあちゃもかあちゃも来てくれんし。麻琴の誕生日は、なんか家族来てくれてるのに」

名前を出された小川は、ほっぺたをポリポリ・・・。
石川も、ちょっと突っ込みたいところだったが、最後まで黙って高橋にしゃべらせることにした。

「石川さんとか、いつでも何でも出来るのに、、あたしはこんなで。でも、試合はあるし。学校名変わる前の最後の大会だから、絶対勝ってよね、とかなんか、先生とかに言われるし。でも、あーしは、うまくいかんし。パスもあわんし、夜眠れんし。福井にいた頃は何でも出来たはずやのに。うまくいかんし怒られるし、だれもおらんし、ばあちゃも来てくれんし。もう、かえりたいんよ・」

そこまで言って、高橋は石川にすがりつき、また、泣き出した。
早口で、ところどころ理解できない部分もあったけれど、でも、なんとなく、高橋の頭の中は分かった気がした。
とりあえずしっかりと抱きとめる。
子供泣きをする高橋を胸に受け止め、左手は肩を支え、右腕を後ろにまわし髪をなでてやる。
柴田は、鍋の火をさらに弱めた。

「大人になんか簡単になれないよ」

高橋を抱きとめたまま石川が語りかける。
頭をなで、髪をなで。
何を言うことが正しいのかは迷うけれど、思ったことをそのまま口にする。

「私だって何でも出来るわけじゃないし。大人なんかじゃないしさ。柴ちゃんだって、麻琴だってみんなそう。平家さんとか、私から見たらすごい大人に見えるけど、でも、きっと、毎日悩みながら練習してるんだよ」

小川がまた、ひざを抱える。
生活という部分では、高橋よりしっかりしているのかもしれないとは思うけれど、でも、試合に出られなくなっている自分がいる。
1度は掴んだスタメンが、また、遠のいてる自分がいる。
小川からすれば、高橋は自分より多くのものを持っているのに自分よりも余計に悩んでいるようで、なんだか贅沢だよな、と思う部分がないでもない。

「賞なんか取れなくてもいいじゃない。大会? 優勝? いいよ、別にそんなの。負けたっていいじゃない、しっかり頑張れば。高橋一人で背負うようなことじゃないよ。みんなで頑張って、それで負けたらしょうがないじゃない。頑張らなかったら、私が許さないけど」

高橋は、石川の胸に顔をうずめたまま。
だけど、それでも、石川の言葉はしっかり耳に届いている。

「1人じゃないよ、高橋。みんないるから。福井は遠いよ。それはしょうがないって。簡単には来れないし、簡単には帰れないんじゃない? でも、私たちはここにいるからさ。おかあさんにもばあちゃんにもなれないけど、お姉ちゃんにならなってあげるよ。隣には麻琴だっている。誕生日寂しかったら、祝え! って呼べば、私とか柴ちゃんとか、みんな来るから」

高橋は上京してから1度も実家に帰っていない。
このチームは夏休みも毎日練習がある。
練習が無いのは大晦日と正月3日間だけだ。
福井に帰る暇なんか今日まで1度も無かった。

「あーしみたいのでも、祝ってくれますか?」
「あたりまえじゃない」

高橋が顔を上げる。
石川はうっすらと微笑んで、高橋の頭をなでてやった。
ぐずぐず鼻をすすっている高橋。
石川は、さっきまで背もたれにしていたベッドの上にある赤いタオルに手を伸ばす。
それを拾い上げて高橋に渡してやった。

「ごめんなさい」
「あやまるようなことじゃないよ」

高橋は赤いタオルを顔に当てる。
落ち着いてきたかな、と感じた石川は、そのまま高橋に寄り添わずに、食事のときに座っていた定位置に戻った。

「高橋がさ、福井で中学まで楽しく過ごしてたのは分かるよ。でもさ、毎日卒業アルバム見てても、もう戻れないんだよ。私たちと頑張るしかないの。ここで。私たちじゃ不満かもしれないけど」
「そんなことないです。あたしが悪いんです」
「だから、そうやって、自分が悪いばっかり言わないの」

机の上に卒業アルバムがあること、ちょっと不思議だったのだ。
多分、本来置かれている位置は、テレビの置かれたラックの中。
それがわざわざ出ていたというのは、多分、何度も開いて見ていたんだろうな、と思った。
唐突に石川は立ち上がる。
何をするんだ? という周囲の視線を集めながら、石川は空気マイクを握って上目遣いで言った。

「挑戦! それは、昨日の自分を乗り越えていくこと」
「なによそれ急に」
「石川さん変や」

湿った空気がいきなり消えて、口を挟みやすくなったところで柴田が絡む。
落ち着きを取り戻した高橋も、幼女のような声で突っ込んだ。

「いいじゃないの。おかしなこと言ってないでしょ」
「梨華ちゃん丸ごと変だから」
「もうー!」

石川が膨れて、そのまま高橋のベッドに座る。
部屋に笑いが戻っていた。

「さて、ちょっと冷めちゃったけど、溶き卵入れよう」
「柴ちゃん、火消しちゃったの?」
「しょうがないでしょ。止めなきゃ焦げちゃうんだから」
「だから、柴ちゃんに料理任せると危ないのよ」
「梨華ちゃんのが危ないでしょ」

とか何とか言いながら、柴田は火をつけ、溶き卵をほぐし、鍋に加える。
冷えたタイミングでいいのかなあ? と小川は思ったけれど、それでも、待っていれば、大きな問題はなく雑炊は仕上がった。

「意外といけるんじゃない?」
「意外とはなによ」
「おいしいです」
「でしょー」

だしがいいのであって、料理の腕も何も無いのだが、なんとなく柴田は胸を張る。
周りのメンバーも、味さえ良ければ文句は無かった。

洗い物はみんなでやろう、と石川は言ったけれど、1Kのキッチンには、4人で活動できるようなスペースはなく。
結局準備をしなかった石川と小川が2人で片付ける。
柴田と高橋は、のんびり部屋に残された。

「高橋は1人で全部何とかしようとしすぎなのよ」
「すいません」
「別に私に謝ることじゃないけどさ。悩むのとか仕方ないと思うし、私は、わかんないけど、1人暮らししてれば家とか帰りたくなるのもあるんだろうけど。気になったのはさ、あんまり眠れてないの?」
「眠いんですけど、あんまり・・・。練習して疲れたら眠れるかなって。早く帰って寝不足の分たっぷり寝ようとか思うんですけど、でもやっぱり眠れんです」
「それで、練習終わってすぐ帰ってるのか」
「シューティングとかした方がいいのは分かってるんですけど、今日はしっかり寝て、体力戻して明日頑張ろうとか思っちゃって」
「あんまり無理しないでよね」
「はぁ・・・」

分かっていてもしてしまうのが無理と言うものである。

柴田は、大きく伸びをして首をこりこりと鳴らす。
ここに来た目的は達した。
お鍋はおいしかった。
おなかは1杯だ。
満たされた気分である。

ちょっとぼんやり。
そういえば、卒業アルバム見たいな、とちょっと思った。
友人の家を訪れたときの、メジャーな観光資源である卒業アルバム。
だけど、柴田は言わなかった。
高橋の里心をわざわざ強めるような真似はするもんじゃないだろう、と思う。

夜も大分更けてきた。
終電、というほどではないが、部活でここまではそうそう遅くならない、というような時間。
先輩たちは帰り支度を始める。
洗い物は、結局ちょっと焦げがこびりついてしまった鍋だけは、漬け置き状態で残されているが、後は片付いた。
隣に住む小川も、鍋を置いてひとまず帰る。
部屋を出て行く3人を、高橋は玄関まで送った。

「今日は、なんかわざわざありがとうございました」
「高橋、いい家住みすぎよ」
「麻琴も同じですって」
「ちょっと2人にはもったいない感じよね」
「だったら柴田さんたちも1人暮らししたらいいじゃないですかー」
「大学行ったら1人暮らししたいかな」
「そうだねー」

都内あたりの大学に進むとすれば、十分通えてしまう圏内なのだが、とりあえずはそんな未来を夢見ておきたい時期である。
それぞれ靴を履いて外に出る。
高橋も、ドアを開いて見送る。

「駅まで、暗いとこあるんで気つけてください」
「学校まで戻った方が駅は近いのかな?」
「うーん、もうちょっと近い道もありますけど、それが1番分かりやすいかも」

柴田と高橋の会話。
となりで、なにやら考え込んでいた石川が言った。

「柴ちゃん、私泊まっていくは」
「え? どうしたの急に?」
「いいわよね、高橋」
「へ、はあ、ええですけど」
「よし、決まり。柴ちゃん気をつけて。明日ね」
「ちょっと梨華ちゃん」

柴田が止めるまもなく、石川は高橋の部屋に入って行ってしまう。
高橋も戸惑っていたが、拒むということは無かった。

「まったく、梨華ちゃん勝手なんだから。高橋、よろしくね」
「はい」
「じゃあ、また明日。おやすみ」
「おやすみなさい」

ドアが閉められる。
高橋も部屋に戻っていった。

「まったく、梨華ちゃんらしいは」
「そうですね」

お姉さんにならなってあげる、というのは口からでまかせというわけではないのだろう。
そういうやさしさが梨華ちゃんにはあると柴田は思っている。

「あ、私、駅まで1人なの? ちょっと怖いな」
「送って行きましょうか?」
「そしたら、今度は小川が帰り1人じゃない」
「そうですけど、私は道知ってるし」
「いいわよ。学校まで戻れば、危ない道でもなさそうだし」
「そうですか」

高橋の部屋の隣が小川の部屋。
送っていかないのなら部屋に入ればいいのだが、小川はそうせずに、通路の手すりにもたれかかり外を見ている。
帰っていく恋人を2階からお見送りの図だが、絵になっていない。
柴田も、なんとなく帰りづらくその横に立った。

「小川は、ホームシックとかは無いの?」
「うちは、よくお母さんも来てくれるし、そういうのはあんまりないですかねえ」

新潟と福井。
北陸、というくくりで一緒くたにされがちだが、関東から見た位置関係はずいぶん違う。
新幹線で1本なのが新潟で、飛行機に乗らなければ1度京都圏まで出てから新幹線に乗り換える形になるのが福井。
神奈川で1人暮らしする娘の下へ通うための負担の大きさは、実際には大きく異なっている。

「愛ちゃん、贅沢なんですよ」

小川は、町の光であまり輝いていない空の星の方を見ながら語る。
柴田はも、同じように空を見る。

「スタメンでずっと出てるのに、あれで、全然ダメとか言ったら私なんかどうなるんですか?」

怪我をしたわけでもない。
新しく能力のある新人が入ってきたわけでもない。
なのに、今のこの時期にスタメンを外されるというのは悩ましいことだ。

「スタメンで試合出て、調子悪いときも確かにあるみたいだけど、それでもちゃんと勝ってるし。それなのに、福井に帰りたいとか、贅沢ですよ」

ひょっとしたら、この子は、高橋が何を悩んでるかなんとなく分かってたのかもしれないな、と柴田は思った。
人の不幸は蜜の味、というのとは少し違うけれど、それでも、そんなことで悩んでる高橋のことを、わざわざ助けてあげる気になれなかったのは仕方ないかもしれないと思う。

「柴田さんは、石川さんのこと、うらやましいとか思ったこと無いですか?」

問いかけられて柴田は小川の方を向いた。
小川は、相変わらず空を見つめている。

「雑誌とかでも、なんか石川さんのチームみたいな扱いじゃないですかうち。平家さんはキャプテンってことで結構取り上げられたりもするけど、柴田さんはなんか目立たない扱いで。でも、実際、石川さんのフォローいつもしてるのは柴田さんじゃないですか。インターハイだって国体だって、柴田さんが、中村の、是永さんでしたっけ? あの人を割と抑えたから勝てたって部分あるのに。学校でも石川さんばっかり目立ってるじゃないですか」
「ないとは言えないよ。でも、それが梨華ちゃんと私の役割だから。どうしたって梨華ちゃんのが目立つのは仕方ないよ。私はやっぱり、梨華ちゃんと比べれば地味だしさ」
「石川さんに勝ちたいとか思ったことは無いんですか?」

柴田は、小川から視線を外し少し考えてから答えた。

「そもそも負けてると思ってない」
「なるほど」

ある意味で明確な回答だった。
目立ったほうが勝ち、という世界でもない。

「梨華ちゃんは梨華ちゃん。私は私。高橋は高橋。そして、小川は小川だよ。高橋と同じポジション争うのならそうも言ってられないけど、そうじゃないんでしょ。だったら、自分を信じて頑張るしかない」
「頑張ればそれでいいんですかね?」
「私たちはずっと勝って来たけど、でも、私たちに負けたチームの子たちが頑張ってないとは思わない。頑張ったって結果が出ないことは多分あるよ。でも、私たちに出来るのは、結果を信じて頑張るか、あきらめてやめるか。多分どっちかしかないんだと思う」
「柴田さん、結構厳しいですね」
「そうよ。きついこと言えないと梨華ちゃんの友達はやってられないの」

柴田はそういって笑い、小川もつられて笑った。

「さて、そろそろ帰らなきゃ。それとも、小川もお姉さんほしい?」
「い、いえ、いいですよ、そんな」
「そうよね。小川はそういうタイプじゃないもんね」

手すりから体を離して、柴田は小川の方をむく。
小川も、ポケットから鍵を取り出し、自室のドアに向かった。

「じゃあ、明日ね」
「おやすみなさい」
「おやすみ」

小川はドアを開け部屋に入っていき、柴田は階段を下りていく。
お見送りはなし。
柴田は、私も誰かのお姉さんやってみたいな、とちょっと思っていた。

 

Tシャツ、バスパン、タオルを並べ、市井はつぶやいた。

「どうっすっかなー・・・」

まったく想定外の展開だった。
勝つと思っていて、でも、負けるかもしれないとは思っていて。
そこまでは考えていたけれど、あんな劇的な、自分サイドで言えば悲劇的な負け方をするとは思っていなかった。
言い出すきっかけを失ってしまったのだ。

私も圭ちゃんと一緒にやめるわ。

負けたら、どさくさにまぎれてそんなことを言っちゃおうかなと思っていた。
留学して1年飛んでるとはいえ、高校に入学してからは3年目。
保田と一緒にやめてもおかしくはない。

だけど、そんなことを言い出せる雰囲気じゃなかった。
負けて引き上げた後の控え室。
吉澤は泣きじゃくるし、周りはそれをなだめるのに必死だし。
保田も保田で熱く語っていたし。
先生も、なにやら言っていたっけ。
市井が、口を挟めるような状況じゃなかった。

結局何も言い出せないまま家に帰り、夜が明け、朝になり、目の前には練習用の荷物がある。

壁にかかる時計を見上げると、もう出ないと限界、という時間をさしている。
持っていけばどっちにでも出来るか、と、市井は荷物をカバンに詰めた。

朝練があればもっと早い時間に出るのだが、試合の翌日は無いことになっている。
登校してそのまま教室に向かう。
なんとなく吉澤の姿を探すと、すでに机に臥せっていた。
市井と吉澤は同じクラスである。

自分も適当に挨拶して席に付く。
留学しているのでクラスメイトより1つ年上だ。
どうやって馴染もうか、と最初は少し考えたが、下手に迎合もせず、下手に先輩ぶったりもせず。
基本は対等だけど、時折ネタっぽく年上ぶってみせる、というやり方を選択し、うまくクラスに溶け込んだ。

クラスの中には、学校の外でまで仲良しなグループと、教室内でだけ仲良く過ごすグループと、2通りある。
市井は、基本的に後者のグループに混ざる。
吉澤と同じグループにはいないが、比較的近い位置だ。
1日授業があれば、休み時間は何度もあり、たいていはその中で1度くらいは吉澤と会話を交わすのだが、今日はそれが無かった。
昨日の今日、ちょっと気をつけて吉澤を見ていたが、露骨に自分が避けられているのが分かる。
目を合わせない、近づいてこない。
それでも、その他メンバーとは普通に過ごしているから、まあ、気使うこともないか、と放っておいた。
練習は出てくるんだろうな、 とか思うけれど、自分が心配することでもないか、とも思う。

数学、古典、英語リーダーに化学、午後に入って英語文法と世界史。
みっちり6時間、どれだけ頭に入ったかはともかく、学科ばかり並ぶ1番きつい月曜日の授業を終える。
市井は今週掃除当番の班。
机動かして箒ではいて。
埃集めてちりとりへちゃっちゃ。
1つのゴミ箱を4人で集積所へ捨てに行って戻ってくる。
部活に行く気もない、帰る気もない、そんなメンバーが十人程度残る教室。
市井は、自分のカバンを拾い上げて出て行こうとしたが、思い直して、机にカバンを置きトイレに行く。
なんとなく無駄に時間をかけて、もう1度教室へ。
自分のカバンを拾い上げて、めんどくさいやつだなとため息をついた。

「何、しけた顔してんだよ」

吉澤は1度顔を上げて市井の方を見たが、また、視線を外して頬杖を付く。
市井は、背負っていた荷物を吉澤の頭の上に置いた。

「何すんですか」
「行くよ」

頭にものを置かれ、吉澤は頬杖を外して、その荷物をよけ、市井を見上げるように座りなおす。
市井の更なる呼びかけには答えない。

「バカのくせに、頭使って考えたってしょうがないだろ。行くよ」

今度は横にあった吉澤の荷物を、机の上に乗せる。
頬杖をつくスペースはもうない。
それでも答えない吉澤の腕を、市井は引っ張った。

「世話の焼けるやつだなあ。ほら、行くよ、もう」

腕まで引っ張られて、吉澤はしぶしぶ立ち上がった。

市井の半歩後ろを吉澤は付いて歩く。
3階の教室から階段を下り、昇降口で外履きには着替えて部室へ。
掃除をしていた時間分、他のメンバーより遅かったらしい。
1年生は準備のためか、もうほとんど残っていない。
2人が中に入っていくと、あやかが1番奥に座っていた。

「遅いよ」
「掃除当番なんだから仕方ないだろ」

あやかには市井だけが答える。
戻ってきた当初、吉澤との間には微妙な力関係を作ったが、あやかとは対等にしておいた。
クラスメイトも含め、市井に敬語を使う2年生は、今現在は吉澤だけだ。

ここまで来たら着替えるしかないよなあ、なんていまさらながらに思いつつ、結局持ってきたTシャツ姿になり、その上にジャージを着ていく。
やっぱ、圭ちゃんいないんだよなあ、なんて考えながらバッシュを手にすると、ドアが開いた。

「圭ちゃん、どうしたの?」
「どうしたの? はないでしょ。私がここ来ちゃまずいわけ?」
「いや、まずかないけど、でも、留年でもすんの?」
「なんでそうなるのよ。一応、ちゃんと引継ぎしないとさ。それで体育館行ったのに、2年生はまだです、とか言われたから。まったく、さっさと着替えなさいよ吉澤」

未だ、上はTシャツ下はスカートな吉澤は曖昧にうなづいて、のそのそと着替えを進める。
市井は、部屋の1番奥に腰を落ち着けて座った。

「私物も片さないといけないのよね」
「それはいいんじゃないの? 卒業までに片せば」
「別に人が増えたわけじゃないし、いいんじゃないですか?」
「なんかねえ、そういうのもどうかなって思うのよね。体育の着替えもここでしてたけど、引退したのに部室出入りしてるってのもさあ」
「よその部の3年生も結構見かけるしいいんじゃないですか?」

ここは、校舎とは別の建物になる2階建ての部室棟。
1階が男子部、2階は女子部が集まり、男子が階段を上ることは暗黙の了解で禁じられている。
明文化されていないので本来罰則はないのだが、卒業まで女子全員から無視されるのは恐ろしいことなので、それを破る男子はいない。

「まあ、ぼちぼち片付けていくよ。て言うか、吉澤、さっさと着替えなさいよ」

吉澤は言葉を返さず、ジャージの上のスカートを脱ぎ落とした。。
ボールケースに座っているあやかが、吉澤を見上げ寂しそうに微笑む。
こいつ大丈夫なのか? と思いつつ、市井はバッシュをいじっている。
吉澤が着替え終えるのを待って4人は部室を出た。

体育館では1年生の準備は終わり、それぞれストレッチをしている。
中澤も珍しく練習のはじめの時点から顔を出していた。

「あれ? 制服なん?」
「私は昨日で引退ですって」
「なんか、まだぴんと来ないけどなあ。着替えて練習したら?」
「やめときますよ。今日やったらずるずる卒業までやってそうだから」
「それでええやん」
「そうもいかないですって。勉強だってしなきゃいけないんだし」
「推薦とかAOとか、いろいろあるやろうに」
「うちの方針ですから。大学受験は一生に1度か数度しかないイベントだから、しっかりセンター試験も受けて楽しめってのが」
「1度はともかく数度って、どんな親やねん。保田の親は」
「私の受験が賭けの対象になってますからうちじゃ。父親なんか、全滅浪人に賭けてるんですよ、信じられないですよ」
「じゃ、私は東京落ちて地元に進学に賭けようかな」
「紗耶香! 落ちるに賭けるな落ちるに!」

2人の会話に市井が割って入る。
あやかと吉澤と、ストレッチをしている空間の空気が重過ぎて抜けてきた。
ガキのお守りなんかしてられるかというところだ。

「でも、圭ちゃん、あんまりそういう話してなかったけど、どうするの? 地元? 関西? やっぱり東京?」
「基本は東京で考えてるけどね。関西も、センター出願でどこか出すと思う。地元は、ないかな」
「まあ、どこでもいいけど、とりあえず来年は落ちといてよ。私追いつくから」
「何、勝手に留学してたくせに言ってるのよ。私は春から東京だから」

この時期まで部活をやっている高校3年生というのはかなり少ない。
世の中では、進学がもう決まっていたり、それに向けて勉強中であったり、フリーターでいいやだったり、卒業後へ目が向いている時期。
保田も、今日からその立場になった。

「先生、今日どうするんですか?」
「どうするって?」
「最初は私が仕切った方がいいのかな?」
「あー、ああ。そやな。そうせんと始まらんわ」
「はい、集合!」

試合後のミーティング、保田はいろいろと語りはしたが、きちんと引き継ぎはしなかった。
負けると想定していなかったし、引き継ぎがどうとか言えるような雰囲気ではなかった。
そのまま今になってしまっているので、保田が仕切らないと誰も仕切らない。
保田が集合をかけると、メンバーは集まってきて、市井もその輪の方に加わる。
圭ちゃんはもうそっち側なんだよな、と中澤の隣に立つ保田を見て市井は思った。

「んー、なんか変な感じだけど、まあ、いいや。あの、とりあえず、私は昨日で引退だから。それで、ちゃんと引継ぎしてなかったから、今日出てきたのね。うん。吉澤、あんた今日からキャプテン。よろしく」

一同の視線が吉澤に集まる。
当の本人はゆっくりと首を左右に振り周りの様子を伺っている。
なんで他人事の顔してるんだこのバカは? と市井は思った。

「私、なんですか?」
「そうだよ。問題ある?」
「だって、私じゃそんな、保田さんみたいにキャプテンとか、無理ですよ」
「無理じゃないって。吉澤は私よりいいキャプテンになると思ってるよ」
「なんで、え、保田さんが決めたんですか?」
「んー、先生と相談かな。昨日今日決めたんじゃなくてさ。あの、インターハイの予選の前に、先生とあと、他の3年生とも相談して決めてた。結局、予選勝ったし、インターハイ終わっても私辞めなかったから今日になっちゃったけど、前からずっと決めてたのよ」

市井も実は相談されていた。
3年生ではないが、3年生とは元同学年なので、似たようなものだ。
吉澤でいいんじゃない、と即答した。
紗耶香は自分がなるイメージはないの? と聞かれ、留年してキャプテンじゃかっこつかないでしょ、と自嘲気味に答えていた。

「私、そんな、保田さんみたくみんなを引っ張るとか出来ないし、なんかこう、いつでも強気みたいな、そんなのでもないし。それに、肝心なときにミスする役立たずだし。キャプテンなんか出来ないですよ」
「そんなこと思ってるの吉澤だけだって」
「だって。昨日の、昨日のあんなの、私のせいで、なのに、そんな。保田さんは怒ってないんですか?」
「何を怒るのよ。みんな、ミスの1つや2つするわよ。私だって、3年やってきて、100も二百もミスしてきたわよ。ノーマークでシュート外した事だって数限りなくある。そりゃあ昨日のは、最後の最後、大事な場面だったけどさあ、仕方ないじゃないのよ。それに、キャプテンやることと、試合でミスしたことはまた別の話。いいから受けなさい。1年キャプテンやんなさい」
「市井さんだって、あやかだっていいじゃないですか」
「そりゃあ、紗耶香はこのチーム作ったときキャプテンだったし、あやかだって、チームの中心で、みんなのお姉さんみたいな感じもあって、それぞれ出来ないこともないけどさあ。でも、前にも言ったことあるけど、あんたがこのチームの中心なの。いい加減自覚しなさいよ」

私の言いなりだった圭ちゃん、いつの間にか強くなったよなあ、と市井はこの場とあまり関係ないことを考えていた。
大体いつも、何かをしようとする時は自分の顔色を伺ってきたはずなのに。
自分が、留学とか言っていきなりいなくなって、あれもこれもと背負わせたからかな、なんて思った。

「あやか、なんとか言ってよ」
「あんまり頼りないけど、私も支えるからさ。よっすぃー、キャプテンやんなよ」
「ああ、もう、なんでそうなる。ああ、福田。なんかあるだろ。いつも私に文句ばっかり言うんだから」

唐突に指名された福田は意外そうに吉澤の方を見て、それから保田、中澤と1人づつ視線を送り口を開いた。

「確かに吉澤さんは完璧じゃないけど。でも、完璧な人なんかいないんだし。私は吉澤さんがキャプテンで問題ないと思います」

思うような回答が帰ってこず、吉澤はおろおろしている。
誰に振れば、期待する答えが返ってくるか。
きょろきょろ見回すけれど、いい相手が見つからない。
なんだか滑稽なものに見えて飽きてきた市井が、持っていたボールを吉澤の頭にゴリゴリ押し付けた。

「満場一致だ。そろそろ覚悟決めろ」
「賛成の人拍手」

あやかが声をかけると、部員一同拍手した。

「決まりだな。吉澤、文句無いな」
「なんで私なんですか」
「くどいやつだな。1年かけて自分で考えろ」

保田は突き放す。
もう、吉澤が何か言い返せる雰囲気じゃなかった。

「さて、引き継ぎは以上。後は任せるよ」
「挨拶していきや」
「なんですかそれ」
「けじめはしっかりつけるもんやろ。最後の挨拶、全員の前で」
「いいですよ、昨日ごちゃごちゃ話したじゃないですか」
「照れるなって。一晩経って落ち着いて、言いたいことも出来ただろ」

中澤にそこまで言われて無視するわけにもいかず、保田は不承不承口を開いた。

「んー、言いたいこと1杯あるような、何も無いような、微妙な感じなんだけど。どうしようかな。3年生、みんな夏にいなくなってるから、なんか、行き遅れな感じで、うん、ちょっとうざがられたらどうしよう、とか思ってたんだよね」
「行き遅れでこっち見るなや」
「いや、そんな、悪気は無いんですけど。うん、でもね、3年私だけになっちゃってもさ、結構居心地良くて、みんながどう思ってたのかは分からないけど、私はね、気分よく過ごせたよ」

そうだよなあ、周りが年下ばっかりになるのって居心地悪かったりするよなあ、と市井は思う。

「このチームはさ、何もないところから、ホントに何も無いところから始まって。紗耶香と2人で部員集めて、先生には無理やり顧問お願いして、そんなところから3年かけて今日まで来ました」
「何にも知らない顧問でホンマ悪かったなあ」
「そんなことないですよ。先生、確かに最初はバスケのこと全然分かってなかったけど、それでも、出来たばっかりの部で、体育館の割り振りから外されてたのを交渉して練習できるようにしてくれたの先生だし。結構感謝してるんですよ、これでも」
「そういえば、そんなこともあったけか」
「2年になってからなんか、ほとんど毎日体育館使えるようにしてくれたし」
「それは、あんたらが結果出したからやって」
「でも、先生が押し切ってくれたから、使えたんじゃないですか」
「もう、泣かすこと言うなや」

中澤にしても、初めての部活の顧問。
ただ授業を受け持つよりも、濃い関係がこうやって出来て、それを作り出した本人が去っていくというのは感慨深いときでもある。

「私さあ、多分、私らよりいろいろなこと経験できた子って全国探してもそういないと思うんだよね。昨日は、結局圭織に負けちゃったけど、それでも夏にはインターハイでて。県の選抜チームとかいうのにも選んでもらえたり、それで国体出たら、相手は全国ナンバーワンのチームでしょ。そんなすごいチームと試合出来て。そういうさ、上の方も見られたんだけど、でも、私たち、何も無いところから始めたわけよ。人集めて、顧問の先生探して、部として認めてもらうところからさ。そんな、上から下まで、全部体験できたのってすごい幸せだと思うんだ。私より、いろんな経験積めたのって、留年した紗耶香くらいかな?」

「留年って言うなよ。留学って言ってくれる?」
「はいはい。留学ね。そうやって、友達に突然置いてきぼりにされる経験も積んだのよ」
「ちくちく言わないでよ」
「ごめんって。でも、ホントつらかったんだからね。あんたは突然すぎるのよ。それで、キャプテンやんなきゃいけないし、とにかく今ある形を壊しちゃいけないしとかさあ。もう、私の苦労の半分は紗耶香のせいだ」
「悪かったねえ」
「いや、今となってはもういいんだけどさ。それで、残ったメンバーで活動してたら吉澤がやってきて。よくあれだけぶつかって、吉澤辞めなかったよね。いまさらだけど、悪かったと思ってます。謝ります。それと、辞めずに続けてくれてありがとう。私が今こうやってここにいられるのも吉澤のおかげだと思ってます」

吉澤は軽く頭を下げるだけで何も言わない。
そんな姿を見て、少し微笑んで保田は続けた。

「あやかも、ちゃんと4月に受けいれてあげられれば良かったんだけど、ごめんね。そうだ、あやかが来て、それで初めて県のベスト4残ったんだ。私は怪我して外れたけど。あの時かな、ひょっとしたらインターハイとか出られるんじゃないかと思ったの」

市井は、自分が帰国した時のことを思い出した。
自分がいなくて大変だったんじゃないかと思っていたら、その話より前に、ベスト4に残ったことを聞かされた。
吉澤のことを興奮気味に語っていた保田の顔が鮮明に思い出せる。
それは、あまりいい気分ではなかった。

「それから1年生が入ってきて。明日香が来てくれたときはホントびっくりしたよ。絶対どこか強いとこ推薦で行くんじゃないかと思ってたから」

福田が軽く頭を下げる。
なんでここにわざわざ来たのか、近かったし、という適当な理由がついていたが、本心がいまいち分からない。

「こうやってさ、みんなそろって。インターハイ出たんだよね。体育館も使えないかもしれなかったチームがさ。うん。楽しかったよ3年間。私がこんなに楽しい思い出来たのは、先に辞めてった3年生と、ここにいるみんなと、先生と。うん、みんなのおかげだと思ってます。ありがとう」

保田が深々と頭を下げる。
誰からとも無く、拍手が起きた。

「あー、もう、そういう泣かせることしないでよ」
「絵にならないんだから泣くなよ」
「紗耶香はうるさいのよー、もうー」

制服姿で涙を浮かべ始めた保田の姿は、あんまり麗しい感じじゃないよなあ、と市井は思う。
中学で出会って今日まで5年半。
間1年、自分がイギリスなんかに行った分空白があるが、それでも、中学高校の多くの時間をともに過ごした友人が去っていく。
チームを去り、そしてうまく行けば、春には東京へ。
取り残された気分になってしまうのは、仕方ないことなのだろうか。

「あー、もう、ごめんね。せっかくストレッチしたのに体冷えちゃったよね。吉澤、さっさとアップ始めなさいよ」
「え、いや、あの」

今の今まで挨拶しておいて、それを吉澤のせいにするのはあまりに理不尽ではある。
そんな細かいことは、どうでもいい、という空気ではあるが。
隣に立つ市井が、吉澤の背中を押した。

「ほら、号令かけろ、ランニングって」
「え、あ、ランニング」

押し出された吉澤が、戸惑いがちに昨日までの保田の代わりをする。
保田はそんな姿を見て、半泣きながら笑みを浮かべた。
中澤と保田を残してメンバーはコートを周回し始める。

「まったく、最後に照れて締まりなく終わりよって」
「うるさいですよ先生も」

そんな2人の姿を遠目に見て、市井は心の中で、バイバイ圭ちゃん、とつぶやく。
自分が押し出した結果、吉澤と並んで先頭を走ってしまっている。
この、まだまだふらふらしているキャプテンと、もうちょっと付き合ってやろるかな、と思っていた。

なんで私が?
それが第1感。
だけど、分かってなかったわけじゃない。
あやかでも市井でもなく、次のキャプテンは自分なのだろう、ということくらいは日々暮らしていれば感じ取れた。
それでも思う。
なんで自分が?

県大会の決勝。
夏に延長まで行った相手と、こちらは主力の1人を欠いて戦う。
冷静に状況判断すれば、負けることがありえることは分からないわけでもなかった。
だけど、具体的にイメージ出来ていなかった。
負けたら保田がいなくなる。
負けたら、次の日から自分がキャプテンになる。
心の準備が何も出来ていなかった。
吉澤の感覚としては、あまりにも唐突だった。

「キャプテン板についてきたんじゃない?」
「そうかな?」

練習が終わるとあやかと2人で駅まで帰る。
あやかが入部してきてからの習慣だ。

「なんか、練習の流れがスムーズになってきたし」
「スムーズねえ」
「最初は、あ、私が指示出すんだ、みたいな間があってから声が出てたけど、それもなくなったし」

キャプテンを指名されてから2週間あまり。
慣れただけだと思う。
キャプテンであることに、ではなくて、練習の指示を出すことに。

「コンビニ寄っていい?」
「うん」

駅近くまで来て、吉澤が指差す。
最近の行動パターンになっている。
買い物をするのは吉澤だけ。
あやかは隣を付いてきたり雑誌をめくって待っていたりする。
吉澤は、レモン水とあんまんを買って店を出た。

「もうすっかり冬だよね」
「欲しいの?」
「そんなこと言ってないじゃない」

あんまんを見ながら言うので、吉澤はねだられた気分になる。
あやかは、ただ単に、コンビニのあんまんを見て、本当に冬を感じただけだ。

「よっすぃー、最近結構コンビニ寄って、いろいろ買うけど、お金大丈夫なの?」
「んー、これくらいしか使い道ないし」
「修学旅行は、別口でもらえるの?」
「うん。お土産買って来いとか言われるんだろうけど。つーかさあ、1年前まで向こうにいたのに、お土産もないと思わない?」
「1年前までいたから余計懐かしいとかじゃないの? よっすぃーだって懐かしかったりしないの?」
「まあ、ちょっとはあるけどさ。でも、なんか、こうやって、何の問題も無く行けちゃうのも悲しいよね」

吉澤たち2年生は、3泊4日で東京に修学旅行へ行く。
県予選を通過していたら、冬の選抜まで1ヶ月を切る時期。
あんまりチームを離れたくないタイミングだよね、と1度真剣にあやかと話したこともある。
結局、負けてしまったので、そんな障害も何もなくなっていた。

「こればっかりは仕方ないよ」
「仕方ないか・・・」

ノーマークのシュートを外して負けたこと。
それを仕方ないというのなら、自分は元々、ノーマークでもシュートが入ることを期待されてないってことなのかな、と思ったりもする。
1点ビハインド残り時間ほぼゼロという場面でシュートを外したのはこれが初めてではなかった。
1年生の時の新人戦3位決定戦。
同じように、吉澤がノーマークでシュートを外し負けていた。
そのときは、中国大会の出場権がかかっていた。

「誰も何も言わないんだよね」
「何もって?」
「あんな肝心な場面でシュート外してさ、だれも何も言わないんだよね。保田さんも、先生も。いつもあれこれ文句付ける福田も」
「責めたってどうにかなることでもないし。私だって、あの場面でボール受けたらシュート決められたかなんてわかんないしさ。みんなそうなんじゃないの?」
「なんかさ、それだけじゃなくて。最近、誰からも怒鳴られたりとかしないなあって。前は、怒鳴るまで行かなくても、練習してれば1日に1回は保田さんから、バカだのあほだの、なんか言われてた気がするんだけど、保田さんいなくなっちゃってから、そういうの無いんだよね」

キャプテンに向かってバカだのあほだのいえる人間はそうはいない。
いるとしたらそれはコーチなのだが、中澤も、代替わりしたこのチームの扱いにまだ少し戸惑っていて様子を見ている感がある。

「福田も最近おとなしいしさ」
「気使ってるんじゃないの?」
「あいつがそんな気とか使うか?」
「ああいう頭のまわる子って、きついこと言いながらも結構いろんなこと考えてると思うよ」
「そうかぁ?」

吉澤はあんまんの最後のひとかけらを口に押し込む。
それを横に見ながらあやかは微笑んで手を伸ばす。
吉澤はその手にレモン水を渡し、あやかは口へ持っていく。
1口飲んで吉澤に返した。

「私がキャプテンになってから、練習が静かな気がするんだよね」

吉澤は受け取ったレモン水のキャプを外す。
軽く2度3度と意味なく振ってからいくらか飲んだ。

「ただ練習メニューこなしてるみたいなさ」
「ちょっと、気が抜けちゃった感じはあるかもしれない。なんかこう、目標が目の前から消えちゃったみたいな」
「でも、新人戦はあるんだよね。もう、1ヶ月ちょっとで」
「予選は、南陵いないしねえ」

新人戦は2部構成。
まず、各地区の予選があって、この予選は勝っても負けても、ただの順位シード付けに使われるだけで、全チームが県本戦に進む。
県本戦はトーナメント。
予選は松江地区だけなので、飯田たちのチームはいないし、そもそも、飯田は卒業していくので新チームにはいない。
保田以外の主力が残る吉澤たちからすれば、歯ごたえのある目標、とは言いがたい。

「保田さんなら、こんな雰囲気にはしなかったんじゃないかなあ」
「活入れたりするかもしれないね。よっすぃーもなんかやったら?」
「私じゃ説得力無いって言うか。保田さんだからみんな言うこと聞くんでさ。つーか、保田さんみたいになんか出来ないってマジで」
「別に、保田さんと同じことしなくたっていいじゃない」
「あやかが、保田さんみたいに活入れろっていったんだろー」
「それはたとえでしょ」

吉澤がレモン水をもう1口飲んでため息を吐く。

「あやや、来週から復帰って言ってったっけ?」
「水曜に病院行ってオーケーならって言ってたねえ」
「あいつ、なんか空気変えてくれないかな?」
「来週、私たちいないでしょ」
「そうだ・・・」

松浦の足はようやく回復して、来週から全体練習に復帰する。
その時期に、2年生は東京へ修学旅行へ行くのでチームにはいない。

「去年はどうしてたの? 保田さんたち修学旅行行ってる時」
「私1人だもん。ランニングってことになってたけど、ただの休みだったね。今年は、福田が練習しきるのか。なんか、私よりあいつの方が向いてるんじゃないかと思うよ」
「向いてるって?」
「キャプテン」
「あの子はキャプテンっていうより参謀って感じがするけどなあ」
「頭のいい福田と違ってどーせ私はバカですよ」
「そんなこと言ってないでしょ。確かにバカだけど」

吉澤は答えを返さず、残っていたレモン水を口に持っていった。

「どーすりゃいいのかな?」
「どうしたらいいんだろうね」

空になったレモン水のペットボトルのふたを閉める。
駅に近づき最後になったコンビニのゴミ箱へ。
ペットボトルを捨てるためちょっと離れた吉澤が戻ってくるとあやかは言った。

「やっぱりよっすぃー、キャプテン板についてきたよ」
「どこが?」
「チームのことしっかり考えてるもん」
「そんなのキャプテンじゃなくたって考えるでしょ」
「そうでもないよ。自分のことで必死なこと多いもん。よっすぃー、前から結構チーム全体のこと考えてることあったじゃない。やっぱりキャプテン向いてるって」
「考えるだけなら誰でも出来るって」

解決できなきゃ意味無いよ、とは口にはしなかった。

駅の階段を上がる。
あやかとはホームが違うのでそこでお別れ。
1人で階段を下りると、始発電車待機中。
吉澤はそこに乗り込んだ。

「保田さんみたいにはいかないんだよ・・・」

出発まではまだ時間があり人がまばらな車中。
吉澤はぼんやりつぶやいた。

 

東京は1年ぶりだった。
引越しをして以来初めて。
公的には修学旅行であるが、吉澤にとってはある種帰省のような感覚もある。
初日は、新幹線で到着後、定番コースを学年全員がバスで連れまわされた。
他の生徒はともかく、吉澤にとっては何をいまさら、な東京タワーであり明治神宮であり。
列の後ろをとぼとぼついていき、適当に写真を取って適当に周りに合わせて。
初日はそんな風にして終わる。
夜、吉澤は同室にいる市井に1つのお願いをした。

「明日の班行動、抜け出すから、何とか先生ごまかしてください」

両手を合わせて市井を拝む。
市井は、薄らにやけ顔をつくって吉澤のことを見た。

「男だろ」
「は?」
「東京の男に会うんだろ」
「そんなんじゃないですよ」

吉澤は右手をばたばたと左右に振って否定する。
そんな姿を見て、市井はさらににやけ顔。

「まあ、そんな隠さなくていいから。市井お姉さんにすべて任せなさい。そのかわり、高いぞ」
「だから、そんなんじゃないですってばー」
「とりあえず写真を見せてみろ。プリクラでもいいぞ。お姉さんに見せてみなさい」

勝手にうなづく市井。
しつこさに疲れ、吉澤は冷たい顔になって市井をじっと見る。
吉澤の表情の変化に、少し市井はたじっとなった。

「昼のチェックポイント過ぎたら午後丸々抜けるんで、頼みますから」
「ちっ、分かったよ。うまくいったら写真見せろよ」
「しつこいです」

今度ははっきり口にして、しつこいと言い切る。
市井は、にやけ顔がちょっとひきつっていた。

2日目、午前中は抜け出すそぶりなどまったく見せずに原宿を歩く。
元々、あまり遊び歩くタイプではなかったので、それほど詳しいわけでもないが、島根から初めて出てきたクラスメイトを半日案内するくらいは出来る。
お昼を済ませ、駅前で先生のチェックを受けると吉澤は班を抜け出した。
ちょっと離れた待ち合わせ場所。
そこにいるのは男、ではなくて後藤だった。

「セーラー服似合わないね」
「1年ぶりに会って開口一番それかよ」

私服通学の後藤の高校。
同じクラスに通っていても、吉澤の制服姿を見たことは無い。
転校して、修学旅行に制服でやってきた吉澤の姿は後藤には新鮮だった。

「どこ行くー?」
「あー、とりあえずどこでも」
「じゃあ、お茶でも飲みますか」

適当に店に入る。
1年の空白。
だけど、しゃべり始めればすぐに馴染む。
転校前の学校。
あの子はどうしてる、この子はどうしてる。
よっすぃーどうなのいま?
主に話すのは後藤の方。
再会のうれしさ。
それもあり、後藤の口が滑らかだが、吉澤は対称的に比較的無口。
期末テストの不安を語る後藤の言葉に、唐突にかぶせるように吉澤が言った。

「学校行きたいんだけど」
「学校?」

後藤の声が裏返る。

「うん、学校」
「私、学校サボって抜けてきたのにー」

今日は金曜日。
当然午後の授業はある。
それを全部サボって、後藤は吉澤に会いに来た。

「ごめん。でも行きたいんだ」
「気持ちは分かるけど。うーん・・・」
「お願い」
「しょうがないなー。先生とかに見つかって怒られたら、よっすぃ−が謝るんだからね」

ちょっと膨れ顔。
よっすぃーを独り占めしておきたいのに、という気分もあるのかもしれない。

2人は電車で移動。
学校へ。
ちょうど授業は終わっていて部活が始まるような時間。
吉澤の向かう先は1つだった。

「矢口さん」

体育館。
突然現れた吉澤に、顔見知りの二三年生はざわめきだす。
座ってストレッチをしていた矢口は、背中からの声に振り向くと驚いて立ち上がった。

「よっすぃー。よっすぃーじゃん。えー? なんで?」
「修学旅行で来ました」
「言ってくれよー。なんだよー。なに、後藤だけ知ってたのかよ。なんだよ、よっすぃーにとって私ってそんなもんなわけ?」
「あ、いや、矢口さんたち忙しい時期だし。ホントは会わす顔無いから来るつもりなかったんですけど」

少し視線を落とし、吉澤は頭をかく。
見上げる矢口は首をひねっていた。

「会わす顔って?」
「矢口さんたち、選抜出られたのに、うちの方が負けちゃって」
「ああ・・・。おいらたちもインターハイでられなかったしなあ。残念だったけどなあ」

いつか試合しよう。
吉澤が転校していくときの矢口の言葉。
吉澤たちが予選を勝ちあがれなかったので、その願いは叶わない。

「それで、練習するの?」
「あ、いや、見るだけのつもりですけど」
「そんなこと言うなって。せっかくだからやろーよ」
「そうだよよっすぃー」

横から後藤も口を挟む。

「でも、着替えとか無いし」
「そんなのおいらの・・・、ってそれは無理か、だれかでかいやつ、Tシャツとか貸してやってくれない?」

矢口がメンバーを見渡す。
元々は吉澤にとっても仲間。
Tシャツくらいは貸してくれる人もいる。
バッシュは、なぜか部室には誰のものかわからないものが数足転がっているもの。
大抵は、卒業していったOGたちのものであるが、一足くらいはサイズが合うものがあるはずだ。

「早く着替えてこいよ。よっすぃー来たら練習始めるから」
「いいんですか? 部外者が混じって」
「何言ってんだよ。部外者じゃねーだろよっすぃーは」

矢口が吉澤の方に1歩近づき、背伸びをして頭をなでた。

「おいらのよっすぃーがまた大きくなって帰ってきたんだ。バスケせずに何するんだよ」
「いや、おいらのじゃ・・・」
「おいらのです」

矢口が吉澤を見上げる。
視線が合っていたけれど、吉澤が苦笑して外した。

「いいから、早く着替えてこいよ」

そう言われ、吉澤は少し考える。
周りのメンバーも見回した。
みんな笑顔で吉澤を見ている。

「じゃあ、いっちょやりますか」

吉澤は、後藤を連れて部室に向かいだす。
その去っていくところを矢口が呼び止めた。

「後藤」
「はいな」
「はいな、じゃない。こっちを向け後藤」

矢口の発音が真剣みを帯びている。
ごまかして逃げようとした後藤は、それも叶わず振り向いた。
吉澤も立ち止まって2人の様子を見つめる。

「よっすぃーと遊びに行って練習サボろうとしただろ」
「練習?」

語尾を上ずらせた吉澤。
後藤の方を見た。

「えー、発表します。実はこの後藤真希。じゃんじゃじゃーん、バスケ部なのでしたー」

後藤真希、両手を腰に当てて吉澤ひとみを見つめる。
きょとん。
吉澤は、そんな顔をした。

「バスケ部って、え? バスケ部?」

はてなマークを頭に浮かべ、矢口の方を向く。
矢口は、1つ小さなため息をついてから答えた。

「もうちょっと自覚を持って欲しいんだよな。自分がチームの柱っていうさ」

矢口の言葉に、後藤は白い歯を見せて曖昧に笑う。
そんな2人を吉澤は交互に見ていた。

「さっさと着替えて来い。練習始められないだろ!」
「はーい」

気が抜けた声で後藤が答えを返して、2人は部室に向かった。

「いつからなの?」
「え?」
「バスケ」

驚きは隠せない。
吉澤がこっちにいた頃、後藤はバスケには何の興味も示していなかった。

「あのね、去年の終わり。よっすぃーの話をやぐっつぁんにしたちょっと後くらいからかな」
「なんで急にそんな気になったの?」
「小学校の頃ね、ちょっとやってたんだよね。それで中学でも最初はさ部活入ったんだけど、なんか、先輩とか後輩とか言葉遣いとか? うっとうしくなっちゃって。1年のくせに3年押しのけて試合でてあーだこーだとか」

着替えながら後藤の解説。
口は動かしつつ手も動かす。

「それで、部活はもういーやって思ってたんだけどね。やぐっつぁんが、なんかさあ、やろーっていうから。まあ、やぐっつぁんならいいかなって思って」

あいだをはしょった説明ではあるが、吉澤には十分に通じている。
先輩に当たるのが矢口なら、部活の、体育会の、うっとうしい力関係を感じずにすむ。
力関係がうっとうしくなくても、何かちょっと別のうっとうしいものがあったりするような気がしないでもないが、それはそれ。

「なーんか、ちょっとショックだな」
「なにが?」
「私が誘ったときはまったく興味無しって感じだったのに」

ちょっとうつむいて、着慣れない他人のTシャツのデザインを見たりする。
後藤は、黄色いパーカーを身に着けた。

「だって、よっすぃーも最初は一年生だもん。よっすぃーがダメってわけじゃなくてさー、どんな先輩いるかわかんなかったし、めんどいからやめとこーって」

二人は着替え終わり部室を出た。

「でも、やってたならやってたて教えて欲しかったなあ」
「だって、それ言ったらよっすぃー絶対強引に誘ったじゃん」
「そうだけどー。ていうか、入部したならそれも教えろ」
「ごめんなさい」

そうだけどー、と拗ねたくもなる。
半年だけどかなり親友になった、と思っていたのに、こんなことも知らなかった。
深く傷ついた、ということはないけれど、拗ねるくらいはして見せた。

着替えを済ませ体育館へ戻る。
待ちわびていた矢口がランニングのコールをかけた。

久しぶりなのは後藤や矢口だけじゃない。
元々はここにいた吉澤。
二年生三年生はみな久しぶりの吉澤を歓迎する。
アップのランニングの間は会話が弾む。
それでも、フットワークに移ると、全員表情を引き締め、真剣な練習になった。

松江とは練習メニューが少しづつ違う。
吉澤にとっては新鮮、というよりは懐かしいメニュー。
一つ一つ、このチームの輪の中で違和感無くこなしていく。
練習中盤、一対一。
吉澤は当然後藤を相手に選ぶ。
身長もちょうどいい。

「お手並み拝見と行きますか」
「昔のよっすぃーのままだったら後藤には全然かなわないぞ」

横から矢口が口を挟む。
後藤は、腰に両手を当てて自信たっぷりの姿を見せる。
少し考えてから、吉澤はハイポストの位置に入り、後藤はその背中に付いた。

「いいっすよ」

吉澤が軽く手を上げると、中央にいた矢口がボールを入れた。

センターとしての一対一。
右肩でフェイクを入れて、実際は逆にターンする。
対応してきた後藤に、さらにジャンプシュートと見せかけてからドリブル。
後藤は引っかからずについていく。
そのままゴール下で吉澤は強引にシュートを放つが、ボールは後藤にブロックされた。

バランスを崩してフロアに座り込んだ吉澤が後藤を見上げる。
後藤は、こぼれていたボールを拾い上げた。

「なんか、無茶無茶うまくない?」
「だから言ったろー。後藤はチームの柱だって」

後藤は曖昧に笑うだけでなにも言わなかった。

攻守交替。
今度は後藤がオフェンスで吉澤がディフェンス。
ゴールに向かって右サイドに開いた位置で、後藤は矢口からのボールを受ける。
そのまま、ボールを右手でついて吉澤を抜きにかかる。
吉澤も付いていくが、ライン際まで来たときにバックターンで持ち替えた。
さらにワンドリブル付いてゴール下、吉澤も何とか付いていく。
シュートに対するブロックのタイミングはよく、後藤はシュートが打ち切れない。
ボールはシュートというよりも投げる、という形でボードに飛んだが跳ね返り落ちていった。

「はい引き分けー、二人ともダッシュ!」
「なんすかそれ?」
「最近ルール変わったの。引き分けもダッシュ」
「えー」
「文句言わない」

一対一の練習。
負けた方がコート一往復ダッシュ、というルールがこのチームには前からあった。
そこに、吉澤が転校してから、ルールが厳しくなっている。
不満顔をちょっと見せながらも、後藤と二人顔を見合わせ笑みを浮かべると、素直に一往復ダッシュをこなした。

吉澤は、このチームに普通に馴染んで練習をこなしていた。
松江よりも人数が多い。
キャプテンでもなんでもない、ただのゲスト。
仕切ったり引っ張ったりする必要は無い。
そんなのは矢口の役目。
のびのびと好きなように出来る。
うまくいったりミスをしたり。
久しぶりに、笑顔を見せながらの練習になった。

「あ、あの、矢口さん?」
「なんだよ」
「わたし、そろそろ帰らないと」
「帰る? 練習中になに言ってるのかな?」

戸惑いの色を見せる吉澤の前に立ち、矢口は薄い笑みを浮かべている。

「いや、だって、もう戻らないと」
「そうか。よっすぃーは練習よりも矢口よりも修学旅行が大事なわけか、そうか、そうですか」

小さな体で矢口がすねる。
吉澤は言葉がつなげなくて周りのメンバーに救いの視線を差し向けた。

「やぐっつぁん。ごとーさあ、夜よっすぃーのとこ行くから、やぐっつぁんも一緒に行く?」

後藤がそう言って近づいてきて、子供をあやすように矢口の頭をなでる。
矢口は、その手を振り払った。

「子ども扱いするなー!」
「よっすぃーあとでねー」
「あーもう、練習練習。次三対三」

吉澤は苦笑を浮かべつつ、みんなに手を振って去って行った。

集合場所では市井たち、班のメンバーが待っている。
吉澤は駅から走ってそこに駆けつけた。

「汗かいちゃって、たっぷりお楽しみですかひとみ姐さん」
「ええ、そりゃあ、もう」
「それはよろしゅうございましたなあ。それで、プリクラを」
「しつこい」

吉澤が先にたって歩きだす。
その後ろを、市井もにやけながらついていった。
途中抜け出しがばれることも無く、吉澤たちの班は二日目の日程を終え、宿に戻った。

夜、後藤と矢口が吉澤の宿を訪れた。
市立松江高校、修学旅行時のルール。
夜、宿に訪れて面会が出来るのは身内のみ。
具体的には、いとこや祖父母などになる。
後藤は、いとことして申請を出していた。
そこに、矢口もついてきたという格好になる。

「よちよち、小学生のまりちゃん、ジュースでも飲みまちゅか?」
「幼児言葉使うなー!」

頭をなでる後藤の手を、ここでも矢口が払いのける。
後藤は吉澤のいとこの高校生という設定。
そこに急遽一人増えたので、この人は誰ですか? と先生に問われたところで、後藤はとっさに、小学生の妹です、と答えていた。
その場の状況上、矢口は否定するわけにも行かず、憤慨しながらも小学生ということで通している。
教師の一言、「吉澤さんの親戚なのに小さいのねえ」
話を聞かされて吉澤も当然爆笑。
さらに矢口の機嫌を悪くした。

三人でひとしきり話す。
さっきはバスケをしていたので、お互いの、特に矢口と吉澤の間で最近の話のようなものが出来ていない。
話しているうちに、矢口の機嫌も直ってくる。
しばらくして、雑談ではなくて本題に入りだした。

「よっすぃー、あのさ、頼みがあるんだ」

切り出したのは矢口のほう。
さっきまでと違って真顔で話す。

「なんですか?」
「明日も来てくれないかな?」
「明日もって、練習っすか?」
「そう」

修学旅行の日程は三泊四日。
明日は三日目。
土曜日で、矢口たちは一日練習の日。
ただ懐かしさで吉澤を誘っているわけではない。
それ以上に理由があった。

「組み合わせ見た? 選抜の」
「いや、見れないです」

自分の出ない試合。
自分の出るはずだった試合。
組み合わせがもう決まっていることも今知った。

「うちら一回戦で滝川と当たっちゃったのよ」
「はあ」

そう言われても、吉澤としてはあまりぴんとこない。

「あの、事故のとこ」
「ああ、あれですか」

事故、そう言われれば吉澤にも分かる。
遠い町で起きた、悲しい出来事。

「今年の試合は、あれのせいで全国レベルに出てきて無いし見られて無いんだけどさ、去年のチームのビデオ集めたのね。そしたら、一二年生が中心で、多分そのほとんどが今度のチームにもいてさ。その中でも特に、一番と四番やってるのが図抜けてすごかったのよ」

バスケの話。
さっきまでとは違う。
矢口も吉澤も、そして後藤も真剣な表情。
ホテルのロビーの少し浮ついた空気とは違い、三人の周りだけ少し濃い。

「それで、対策立ててるんだけどさ、その一番と四番、藤本と里田って言ったかな? 二人の仮想役が欲しいのよ。でも、うちのチーム内じゃ、当たり前だけど控えにそんな力のあるやついないしさ。それで、よっすぃーに、明日だけでもその役やって欲しいなって。勝手なお願いだって分かってるんだけどさ、おいらも必死だから」

低い位置にあるテーブルにひじをつき、話す矢口も聞く吉澤も身を乗り出す。
後藤は、テーブルに置かれたオレンジジュースのグラスを口に持って行った。

「でも、私、そんな役出来るほどの力ないっすよ」
「いや、よっすぃーはうまくなったと思う。まあ、入りたての頃と比べるのはいまさらかもしれないけど。今日の後藤とのやりあい見てもずいぶんうまくなったなって思ったし」
「私がうまくなってれば、選抜出られてますよ」

履き捨てるように吉澤が言い、視線を落とした。
最後のシュート、吉澤が外して負けたこと。
そんな細かいところまでは矢口も後藤も知らない。
ただ、決勝で一点差で負けた、という結果だけはインターネットで知っている。

「酷なこと頼んでるのかもしれない。だけど、お願い。ホントお願い。よっすぃーの力を貸して欲しい」

下から覗き込むように矢口が頼み込む。
吉澤は合わせた手の上に額を乗せしばらく考え込む。
考え込んだ上で顔を上げ、答えた。

「分かりました。一度くらい、私も矢口さんの役に立ちたいっすから。たいして役に立てるとは思えないけど、やるだけやってみます」
「さすがおいらのよっすぃー」
「うわぁ、痛い。痛いって」

矢口は吉澤の頭を押さえ込んで何度も叩く。
吉澤は笑みを浮かべながらそれに抵抗していた。

「じゃあ、せっかくだから、うちの他のメンバーも呼んでみますか?」
「そんな、いいの?」
「一番のホントにうまいやつは一年生だから来てないっすけど、突破力のあるフォワードなら一人来てますよ。あと、センター」
「まじ? まじで? お願い。呼んで。ホントに、呼べるなら呼んで。ホントお願い」
「じゃあ、ちょっと呼んでくるんで待っててください」

吉澤は席を離れ、自分の部屋から市井を、隣からあやかをピックアップしてつれてきた。
つれてくる間に大まかな解説だけはしておいた。

「えーと、こっちはあやか。木村あやか。見ての通りセンターです。それで、こっちが市井紗耶香。年齢的には三年生だけど、ダブって二年生」
「ダブってってなんだよ。正確に説明しろよ。一年間留学してていなかったから、二年生やってるだけで、吉澤と違って成績は悪く無いぞ」

市井に頭をはたかれて、吉澤は苦い顔を見せた。

「で、頼みって?」

切り出したのは市井。
大まかには吉澤から聞いているが、やはりちゃんと本人から聞いておきたい。

「修学旅行に来てるのにこんなお願いして申し訳ないんだけど、私達の練習相手になってもらえないでしょうか?」

相手が吉澤ではなく知らない子が二人。
矢口のほうも神妙な表情と言葉遣いになる。

「せっかくの東京なのにわざわざバスケか・・・。どうしよっかなー」

思わせぶりな態度を取る市井に、矢口が事細かに状況を訴えて説得する。
それを聞く市井の態度は、やたらでかかった。

「なるほどねえ」
「どうか、どうかお力をお貸しください。お願いします」
「お願いします」
「とにかく、突破力のある人と練習したいんです。よっすぃーから、市井さんはすごい力のある人だって聞きました。矢口をしごいてください。お願いします」

矢口と後藤が頭を下げる。
その姿を市井が見下ろす。
吉澤は、横から薄笑いをしつつそんな市井を眺めていた。

「問題もいろいろあるんだよねえ。抜け出したのばれないようにするとか、着替えが無いとか、お昼どうするとか」
「お昼は後藤が作ります」
「えー?」

矢口の即答に後藤が驚きの声を上げて自分を指差す。

「後藤、料理得意だろ」
「うーん・・・。じゃあ、みんなの分を後藤が面倒見ますか、手作りで」
「そんなわけで、お願いします。頼りにしてます」
「お願いします」
「しゃーないなあ。吉澤の顔立ててやるか」

矢口と後藤のお願い顔。
その顔に見つめられた市井は、協力を了承した。

少し話して、市井とあやかは先に部屋へ戻り、吉澤が残った。

「すいません、なんか意地の悪いの呼んじゃって」
「でも、乗せやすい子だね、わりと。褒めておだてれば、お願い聞いてくれる感じだった」
「やぐっつぁん、そういうの見抜くから怖いんだよなー」

けらけらと矢口が笑っている。
キャプテンってこうじゃなくちゃいけないのかな、なんてことも吉澤の頭に浮かんだり。

「あー、もう一時間だよー」

面会時間は一時間。
あれこれ話していたらあっという間に過ぎてしまった。

「それじゃ、ごっちん。また明日ね。まりちゃん。夜遅いから、ちゃんとおねーちゃんと手をつないで帰るんでちゅよ」
「だー、幼稚園児扱いするなー!」
「よしよし」

吉澤は矢口の頭をなでる。
後藤はとなりで微笑んでいた。

修学旅行三日目。
今日も班別自由行動で、吉澤たちは最初から別行動を取る。
丸一日抜けてしまうと、もう、ほとんどばれるだろうな、とは思っているが、それぞれ半ば覚悟の上だ。
十時半過ぎ、三人が体育館を訪れた。

「待ってたよー! もう、すぐ五対五できるから」
「無理っすよ、そんな来てすぐ」
「いいから、さっさと着替えてきてアップして。午前の残りと午後全部、五対五やるから」

一年生が三人を部室に案内し、着替えを渡す。
三人は、特に吉澤以外の二人は、戸惑いながら着替える。
それから体育館に戻った。

「なんか、よそのチームで練習するのって新鮮かもな」
「頼みますよ、吉澤に恥じかかせないでくださいよ」
「まあ、心配すんなって」

自信たっぷりな市井。
その背中について、吉澤もあやかも体育館に向かった。
午前中、実際にはいきなり五対五に混じれるはずはなく、松江の三人は軽く体を動かすのみ。
それから、矢口たちの五対五を見学した。

「変わったディフェンスシステムだね」
「あれがやりたくて私たちを呼んだのか」

矢口たちスタメンチームがディフェンスをしている。
吉澤たちはまったく見たことの無いディフェンスシステム。
どうやって崩すんだろう? とぼんやりと考えながら見つめる。
そのまま、午前中の練習は早めに切りあがった。

「ホント、わざわざ来てくれてありがとね」
「弁当おいしくなかったらかえろっかなー」
「後藤、お前の弁当責任重大だぞ」
「大丈夫。自信作だもーん。取ってくるから待ってて」

後藤は一人部室に走って行った。

「ねえ、さっきのディフェンス何なの? 見たことないけど」
「ああ。あれで滝川に勝とうってね。うん、ちょっと考えてみたんだ」

二年生だけど三年生の市井。
相手が三年生の矢口でも対等に話す。

「どのへんがポイントなんですか?」
「よっすぃー。矢口は、最初は自分で考えろって教えたはずだぞ」
「相変わらず手厳しいなあ・・・」

矢口と吉澤。
二人の間には完全な上下関係があって、吉澤は頭が上がらない。
ただ、頭をなでるのは吉澤の側ではあるが。

「とめたいのが二人いるってことでしょ」
「そうそう」
「それで、後は雑魚と」
「雑魚は言いすぎだけどね。私と後藤で二人を止めればあとは何とかなってくれないかな、っていう感じかな」

当たり前のことのように市井と矢口が話していると、後藤が荷物を抱えて戻ってきた。

「おまたせー」
「よし、まずかったら帰るからな」
「絶対おいしもん」

薄笑いを見せる市井に、むきになった顔を後藤が見せる。
周りの三人は、そんな姿を微笑んで見ていた。

五人で校舎の屋上へ。
広い場所でのお昼ごはん。
昨日までは知らないもの同士だった吉澤以外の四人。
それが、違和感無く、後藤の作ったお弁当をつまむ。

「うまいじゃん。やるな」
「だから言ったでしょー」
「参りました」

自信たっぷりに胸を張る後藤。
それに頭を下げる市井を見て、笑いが起きる。
おにぎりをそれぞれ手に取り、あとはから揚げや玉子焼きや、おかず類がいっぱい。
練習の間の食事として正しいものかどうかはともかく、味は間違いなくおいしかった。

「あのディフェンスって、矢口さんが考えたんですか?」
「うん。そだよ。うち、監督名前だけだし。戦術とか全部選手で考えるから」
「ああ、うちも昔そうだったなあ。帰国して、裕ちゃんがチームしきってるの見てびっくりしたもん」
「きついけど、楽しくない? そういうのって。正直、監督がまともな人ならもっと強くなれたかなー、とか思うけどさあ。でも、頭抱えながら、勝つためにどうするかって自分で考えてチーム動かして。それで最後に選抜出られるんだから幸せだなー、って思うよ」

真顔で語る矢口。
市井もあやかも吉澤も、そんな矢口のことを見ていた。
松江にしても、中澤は確かにコーチらしくなってきてはいるが、それでも、選手の手作りチーム感はまだある。

「保田さんも、選抜に出してあげたかったなあ」
「それは言うな、吉澤。もう、どうしようもないことだから」

視線を落とす吉澤の背中を市井が二回ほど軽く叩く。
あやかも、なにも言わないけれどうなづいていた。

五人が集まってするのは結局バスケ談義。
戦術、練習方法、インターハイに出たときの空気、チームのレベル、強いチームについて。
一時間半のお昼休憩。
雑談のような、まじめな話のような。
そんな話ばかりしていた。

「さて、食った分は働くか」

時間。
市井が立ち上がると、周りのメンバーも立ち上がった。

午後、早い時間からの練習。
アップをしてすぐに五対五に入る。
吉澤たちがいられる時間は二時間ちょっとしかない。

「市井さんは、ガード役で周りをこき使いつつどんどん突っ込んできてください。よっすぃーはあのー・・・、名前忘れたけど、外でも中でもどんどん攻めて来るやつ。後藤相手に勝負してやって」

矢口が、滝川でポイントになると思っている二人。
藤本役を市井に、里田役を吉澤に演じさせる。
市井も吉澤も、本物がどういうプレイヤーかは知らないまでも、矢口の指示に従って、そのイメージの実行を試みる。

「あやかさんは、インサイドでとにかく頑張って。具体的イメージが無いんだけど、よっすぃーとなら合うでしょ。それをこっちとしては崩す練習をしたいから、とにかく頑張ってくれればいいや」

市井、吉澤、あやか、の三人に、東京聖督の控え二人が入る。
その五人がオフェンスをし、矢口たちスタメンチームがディフェンスに入る五対五。
藤本と里田を止めるために、矢口が考えた。

藤本役の市井。
指示通りにガンガン突っ込む。
ディフェンスの矢口は、そんな市井をよく止めた。
初対面の一対一は、動きの癖が分からない分、主導権を持つオフェンス側に有利になる。
そのはずが、市井の突破は矢口に止められている。
ただ、ある程度パスを自由に出すことが出来た。
元々ガードでは無い市井は、ゲームメイク、というほどのパス回しは出来ないが、いいところにボールは送れている。
矢口のディフェンスは、確かにうっとうしいものではあるが、二人には十センチ以上の身長差がある。
市井から見て、矢口の頭の上がすかすかだった。

吉澤と後藤はやや後藤の方が強いか。
市井は、顔も知らない東京聖督のメンバーよりも、吉澤の方へよくボールを入れる。
それを受けて役割上勝負しようと吉澤はするが、なかなか簡単にはいかない。
外から一対一をしようとするとしっかりと付いてこられ、内で勝負しようとすると、後藤とさらに他のメンバーにも囲まれる。
囲まれて外に出すが、控えメンバーがレギュラーメンバー相手にしては攻撃力が足りない。
外をボールが回って、また市井から吉澤へ、という流れが多い。

あやかも思うようには出来なかった。
いいパスが来ない、というのもあるが、それ以上にスペースがない。
あやかのいるポジションは狭すぎて、自由に勝負が出来ない。
かと言って、外から打つ力はあやかにはない。

しばらく五対五を続けてから、いったん中断、休憩という意味も無くはないが、外から来た三人に、このシステムに対する考えを矢口が聞きたがった。

「相手の人がよくわかんないし、私じゃたぶん力不足だと思うんですけど、でも、いいと思いますよこれ」

最初に口を開いたのは吉澤。

「ごっちん、外からも止められるのがいい、と言うか困ると言うか。島根にもすごいセンターの人いるんですけど、その人も、外に引っ張り出せば私で勝負できたんだけど、ごっちんはそうもいかないから。インサイドは、ごっちんだけじゃなくてあれだけ固められると、私じゃ太刀打ちできないし」
「インサイドは厳しいよね。私もボールもほとんど受けられなかったし」
「でもさ、矢口は小さすぎじゃない? ガードって言ってもこんなに小さいの初めて見たよ私」
「それはほっといてよ!」

吉澤だけではなく、あやかも、インサイドは十分強力という認識だ。
市井は、いまさらどうにもならない点を突っ込んだが、さらにもう一点指摘した。

「小さいはともかくさ、相手も私よりは小さいみたいだし。でも、外は広いよねこのシステム。私のとこは矢口が付いてるからいいとして、他は、外からは打ち放題なんじゃないの?」

年齢上同学年感覚の矢口相手に市井は、敬語なし敬称なしで話す。
矢口は市井の言葉をうなづきながら聞いていた。

「そうなんだよなあ。多分、一番外から打てるのはガードのやつだから、それを私がつぶせばいいんだけど、もう一人、ちゃんとシューターがいたらまずいはまずいよね」
「そこまでは調べてないの?」
「資料が去年のしかないからさあ。それ見た限りだと、一番のシューターは多分いないんだよ。あの、事故の時、怪我してそのままみたいで。地区大会のメンバー表にも名前無かったから。でも、普通、次が育つよな、強いチームなら」
「ディフェンスもうちょっと拡げたら?」
「それでやってみるか」
「じゃあ、私シューターやるよ。ガードに別の子入れて」
「オーケー」

年齢上位の市井と矢口の話し合いで方針が決まる。
控えメンバーが入れ替わって、五対五を再開した。

矢口、後藤以外のディフェンスを少し外に広げてつかせる。
市井は意識してスリーポイントを打つようにしていたが、ディフェンスが拡がってくると多少気になり確率的にあまり高くない。
インサイドで吉澤は、多少スペースが広くはなったが後藤相手に一対一で勝ちきれない。
吉澤が滝川のエースと同等レベルなら、ディフェンスを広くとっても後藤一人で対処できるということになる。
ただ、中が広くなったことで、あやかが自由にプレイできるようになった。
外からポンと入れて、あやかが勝負してゴールを決める。
それが一番簡単な得点パターンになる。
三本に二本くらいのペースでそのパターンが頻出して、矢口が止めた。

「ダメだ。中が甘すぎる」
「あやかがうまいとかじゃなくて?」
「あやかさんは確かにうまいけど、でも、滝川のスタメンならそれに近いくらいの力はあると思う」
「じゃあ、内に絞る? でもそれ、最初と一緒だよねえ」

矢口は考え込む。
スリーポイントを抑えつつ、インサイドでも自由にさせない形。
このシステムが根本的に間違っているのか?
少しいじれば両立できるのか?
後藤が口を挟んだ。

「やぐっつぁん。内か外かどっちか捨てるしかないよ」
「簡単に言うなよ。もうちょっと考えろって」
「後藤だって考えてるよ。やぐっつぁん。うちら弱いじゃん、たぶん。だから、いろいろ考えて、いい方法考えてるんでしょ。強かったら、マンツーで勝負できるんだもん。それが出来ないから、こんな手の込んだことしてるんだし。だからさ、全部成り立たせるなんて無理なんだよ」
「後藤一人で、よっすぃー、じゃなくてあの、滝川のなんだっけ、あれと、もう一人もゴール下で抑えるって出来ない?」
「出来ないよ。後藤だって、そんなうまいわけじゃないもん。一人抑えるので精一杯だし、それも出来るかわからない。内も外も全部抑えるのは多分無理だよ。どっちか一つ選んで、出来ることをしっかりやろうよ」
「出来ることをしっかりか・・・」
「私も後藤に賛成だな」

市井が後藤に賛意を示す。
矢口は、周りのメンバーも集めて意見を聞いた。
そんな光景を吉澤は懐かしく見ている。
吉澤がいた頃は、キャプテンは矢口ではなかったが、同じようにメンバーが顔を付き合わせてあれこれやっている場面はあった。

「よし、じゃあ、内に絞って少しやってみよう。紗耶香、フォワードで頼むよ」
「オーケー」

元に戻す。
矢口、後藤以外の三人を内に絞った形に置いて、外を広くする。
こうなると、吉澤、あやか、というインサイドはどうしても厳しい。
ほとんど二人で四人を相手にする形になってしまう。
これに対処するには、中でボールを受けて、ディフェンスをひきつけて外へ展開する、という方法を選ぶ。
外、ボールを受けるのは市井。
前が開いていたらシュートを打つ、というのを意識的に狙った。
自分が仕切り屋になる時の市井は強い。
試合でこれくらい入れば、と思うくらいに外からのシュートがよく入った。

「これで、他に強力なガードまでいて、どうやって予選で負けるんだよ」
「うるさいよ。それで、どーすんのさ。あれだけ打ち放題だと、シューターが調子良かったら終わりだよ」

相変わらず場の中心は矢口と市井。
いつの間にか、矢口も敬称をつけなくなった。
特別高度な話をしていると言うわけではないので、周りが付いていけないということではないのだが、なんとなく雰囲気として、それぞれのリーダー同士の会話、という形になっている。

「紗耶香、スリーなしでやってみて」
「そんなのありなの?」
「スリーが無かったらどうかなあって、ちょっと試させてよ」
「わかったよ」

少しアレンジ。
もし、スリーポイントシューターがいなければどうなるか?
それをシミュレーションしてみる。
吉澤、あやか、といったインサイドが込んでいるのはさっきと同じ。
それで困ってボールを外に出しても、スリーポイントは打てない。
少し近づいてミドルの位置まで来てシュートを打つ。
これは、ディフェンスがカバー出来たり出来なかったり。
いい勝負、といったところだ。

「ちょっと集合」

しばらくして矢口が止めて、全員を集めた。

「やってみてどう思う?」

明らかに身内向けの問いかけだったので、市井もここは口を挟まない。
吉澤とあやかも黙って見ている。

「外まで押さえるのはやっぱり無理だよ。今くらいが精一杯だと思う」
「スリーを何とか止める方法ないかなあ?」
「やぐっつぁん、欲張りすぎだって」
「そうかあ?」

後藤が最初に意見を出す。
当初の意見と同じ中身で、矢口はそれを越える何かを求めるが、なかなか簡単にはいかない。
他のメンバーからもいくつか意見は出てくる。
最終的に矢口がまとめた。

「しょうがない。外はあきらめよう。でも、フォワード陣のミドルレンジからのシュートは抑える。そこまでのレベルには持っていこう。それがゾーン三人の目標な。あとは、おいらはあの怖そうなガードを止めて、後藤はインサイドのエースと戦うってとこか」

チームで一番小さな矢口を中心に出来ているミーティングの輪。
吉澤はその輪の隅で、ここにずっといられたら、どんな一年がこれまであって、どんな一年がこれから続くのかな、とぼんやり考える。
転校したから今があり、出逢えた人がいて、だけど、転校しなかったら得られたはずのものが、今目の前にあって。
どちらが良かったのか、答えは出ない。

矢口のまとめで方針は決まり、残りの時間五対五はその形で進行して行った。
終盤はせっかくだからと攻守を入れ替えて、矢口や後藤、本チームがオフェンスとしての五対五も行う。
矢口は、自分よりはるかに背の高い市井をものともせず、自由にボールを捌いた。
ただ、後藤の方は、吉澤だけ相手にしている分にはいいが、そのそばにあやかまでいると、一人では対処しきれずインサイドでは少々窮屈に振舞っている。
そして、吉澤たちの時間にも限りがあり、練習はひとまず終了となった。

「よっすぃー、ありがとね」

タオルを肩にかけた矢口がやってきて声をかける。

「あやかさんも紗耶香もありがとう。すごい助かったよ。おかげで方針が決められた」
「さっきから気になってたんだけどさあ、なんであやかがさん付けで、私は紗耶香で呼び捨てなわけ?」
「細かいこと気にするなって。親愛のしるしだよ、紗耶香」
「まあ、そういうことにしとくか」

市井が矢口の頭をなでる。
その手をむきになって払う矢口の姿に笑いが起きた。

「よっすぃー、わざわざありがと。修学旅行なのにね」
「いいんだよこいつは。別に、元々こっちにいたんだし。それより、私らは東京来るチャンスなんか、こんなときしかないのに、一日バスケなんかさせられて、まったく」
「ごとーのお弁当食べて、食った分は働くかって言ったじゃん。お弁当代だから、いいの」
「んだと、このガキ。よし、じゃあ、もう一つ言わせてもらうぞ。後藤。スリーポイント打て」
「えー、スリー? ごとー、そんなの打ったことないよ」
「いいから打て。センスよさそうだから一ヶ月あればモノになるだろ」
「ごとー、インサイドだよ」
「だから、それが外もあるから強力なんだろ。とりあえず簡単な感覚教えてやるから、後は毎日練習しろ」
「えー、市井ちゃんなんか怖い」
「おまえなー。まずだな、矢口は気にしないみたいだけどなあ、ちゃんと、先輩には敬語使うもんだろ」
「うん、わかった」
「「うん、わかった」って、その時点で全然分かってないだろ。まったく。もういいから、ちょっと来い」

市井が後藤を引っ張ってコートに入っていく。
右四十五度の位置に入って、足元を指差し、ゴールを指差し、あれこれ始めた。

「なんか、最初渋って見せたのに、ずいぶん協力的だな、紗耶香」
「頼られるの好きみたいっすよ」
「しっかし、時間大丈夫なのか?」
「うーん、まあ、ある意味とっくに大丈夫じゃないですし。あやか、先着替えてて」
「オーケー」
「あやかさん、ありがとね」
「いえ。こちらこそ、楽しかったです」

あやかは、一年生部員に案内されて部室に戻っていく。
吉澤は、矢口と連れ立って、コートの側面にあたる体育館のステージに座った。

「ごめんね、ホント。矢口が無理言って、せっかく修学旅行に来たのにさ、こんな風に練習つき合わせて」 
「いいですよそれは。昨日も言ったけど、一度くらい矢口さんの役に立ちたかったし。どれだけ役に立てたか分からないですけど」
「役に立ったよ。十分すぎるほど役に立った。よっすぃー、うまくなっててびっくりしたし。一年で変わるもんなのな」
「それはこっちのセリフですよ。ごっちんがバスケやっててびっくりしたんですから。それもうまいし」
「そこまでは矢口のせいじゃないだろ。よっすぃーに言わなかったのは後藤なんだし」
「そうですけどー」

二人の前で後藤がシュートを打っている。
隣にはボールを脇に抱えた市井が立ち、あれこれ言っている。

「やっぱ、矢口さん、すごいですよね」
「なんだよいまさら」
「しっかり最後の大会で代表になるし。ごっちんも口説き落としてチームに入れちゃうし。それで、有名校相手にどうしたら勝てるか考えて、作戦決めて、練習のために私たちにも協力頼んだりとか。みんなの意見も聞くし。すごいキャプテンだなって思いましたよ。今日も見てて」
「よっすぃーにそこまで褒められるとなんか怖いなあ」
「いや、マジで。吉澤には出来ないですもん。全然。さっきも、私じゃなくて市井さんじゃないですか。いろいろ考えて、あれこれ意見出すの。どうしたら、矢口さんみたいなキャプテンになれるんですか?」

少し前かがみだった吉澤は、後ろ手を突いて遠くを見る。
矢口は、吉澤の方は向かずに答えた。

「別に、矢口だって、大したキャプテンじゃないよ。ただ、先生がうちはほら、あれだから、全然指導とかしてくれないし。されても困るけど。まあ、今回は、なんか頑張って二つ勝てとか言って、練習時間取るのに体育館とってくれたりとかしてちょっと驚いたけどさ。でも、作戦とかメンバーとかは全部おいらたちでやんないといけないし。なんとなく、雰囲気でキャプテンにさせられたから、後は必死なだけだよ。よっすぃー、新チームキャプテンになったの?」
「先輩からの指名で」
「じゃあ、大丈夫なんじゃないの? よっすぃーなりに頑張れば。だって、その、先輩達が、あやかさんでも、紗耶香でもなくてよっすぃーを選んだんでしょ? なり手が無くてよっすぃーになったっていうならちょっと心配だけど、あの二人がいて、それでもよっすぃーを選んでるなら、何も心配することないでしょ。そりゃあ、大変よ、キャプテンは。でも、矢口で出来るなら、よっすぃーにも出来るよ」

吉澤は答えない。
保田が市井でもあやかでもなく自分を選んだ理由は、分かるような分からないような。
市井でない理由は、なんとなく分からないでもないが、あやかでもいいんじゃないかと思っている。
それに、矢口に出来るから自分にも出来る、という感覚はまったくない。
一年離れていて、久しぶりに矢口の姿を見たけれど、追いつけたとはこれっぽっちも思えない。

「そんな不安そうな顔で矢口を見るなって」
「だって、そんな、矢口さんみたいに自信もてないですよ」
「だから、矢口だって自信なんかないっての。みんなの話し聞くのだって自信ないからだもん。それでも、矢口が決めなきゃいけないからさ、超プレッシャーだよ」

視界から消えた吉澤の方を矢口は振り向く。
視線があって吉澤は少し微笑んだ。
保田は保田で一年間大分世話になったが、吉澤にとっての元々の師匠は矢口だ。
矢口の隣にいると、本当に何も出来なかった頃の自分に戻って、弱さも平気で見せられる。

「前のキャプテンがどんな人か矢口には分からないけどさ。よっすぃーはよっすぃーなりのキャプテンでやっていけば大丈夫だよ。人が周りに自然と集まるっていう意味では、矢口なんかよりよっすぃーの方が全然人望あるんだし。困ったら、紗耶香でもあやかさんでも助けてくれるんだろ。何の問題も無いじゃんか」
「そうなんですかねー・・・」

思案顔の吉澤の頭を矢口は軽くでこピンする。
吉澤は文句も言わず、ただ薄く笑った。

「吉澤、そろそろ帰らないとまずいだろ」
「あ、そうだ」

後藤のシュートを横で見ていた市井が吉澤に声をかけた。
規定ルートから外れていることがおそらくばれている、という程度ならともかく最終集合時間に遅れるのは、確認電話がかかってきたり、教師による捜索隊が検討されたりと、更なる不都合が巻き起こる。
そろそろ限界の時間だった。

「矢口さん、今日はありがとうございました」
「何でよっすぃーがお礼言ってるんだよ。お礼言うのは矢口の方だろ」
「いや、なんとなく。とりあえず着替えてきますね」

吉澤はステージから下りて市井の方に歩み寄っていく。
矢口はその背中に声をかけた。

「よっすぃー」
「はい?」

吉澤は振り向く。
矢口は、ステージからぴょんと飛び降りた。

「矢口から一つだけ。あんまり食べ過ぎるな。よっすぃーがキャプテンやるのは全然心配してないけど、矢口はそっちの方が心配だよ」

吉澤は苦笑いを浮かべつつ、はい、と答える。
吉澤は勝手知ったる他校の部室へ市井を連れて着替えに行き、矢口は転がっているボールを拾い上げてシューティングを始めた。

あやかも含めて三人が着替えて戻ってくる。
東京聖督のメンバーは、体育館がまだあいているので全員トレーニングウェア姿のままである。

「私ら協力したんだから絶対勝ってよね」
「相手のシューターが紗耶香並みならね」
「何だとこのやろー」
「まあ、やれるだけ頑張るよ」

一日ですっかり意気投合した矢口と市井。
仲良し、という雰囲気は存在しないが、気を使わない程度の間柄になった。

「後藤、スリーポイント決めろよ」
「やぐっつぁんに教えてもらって頑張るよ」
「んだと。市井がせっかく教えてやったってのに」
「シュートって教えてうまくなるものなの?」
「まあでも、いい発想かもしれない。おいらも後藤はインサイドって頭がちがちに思ってたけど、外から打つのもありだよね」

あやかに突っ込まれた市井のフォローを矢口がする。
後藤はニコニコ微笑んで、それ以上はなんとも言わない。

「あやかさんもありがとう。ホント、助かった」
「いいえ、こちらこそ楽しかったです。矢口さんちっちゃくてかわいいし」
「ちっちゃいからかわいいのか、矢口がかわいいのかどっち?」
「うーん、両方かな?」

真剣に問いかける矢口と、真剣に考え込むあやか。
本音か社交辞令かは読み取れない。

「よっすぃー、よっすぃー」

二三年生は全員知り合いの吉澤。
市井、あやか、矢口、後藤、四人の会話と関係ないところで、昔の仲間と話しているところに矢口から声が飛んだ。

「よっすぃーにはいつかこの借りを返さないとな」
「いいですよ、そんな。矢口さんにはお世話になりっぱなしだったんですから」
「そうそう、こいつはいいの。それより、私たちに借りを返してよ」
「しょうがないなあ。今度東京出てきたら連絡してよ。おいらや後藤がどっか案内するから」
「飯おごりつきでね」
「勝ったらね」
「勝てよ」
「出来たら」
「ったく、やる前からその半端な弱気はなんとかしろよー」

市井がそういって笑う。
それなりの準備をしていくにしても、相手は有名校。
初戦で当たってしまった矢口としては、勝てる、と自信を持って言い切ることは、なんとなく出来にくかった。

「そろそろ行く?」
「そうですね。時間もないし」
「全員整列」

矢口が東京聖督のメンバーを並べる。
三人に対して向かい合う位置に一列に並んだ。

「今日一日ありがとうございました」
「ありがとうございました」

一同でのけじめとしての挨拶。
その声に送られて三人は学校を去った。

結局三人は、それぞれの班のほかのメンバーと合流し、最終刻限前に集合場所にはたどり着いた。
クラスも別で、当然班も別で、通常時優等生扱いのあやかだけは、班からの離脱がばれずに済んだが、市井と吉澤はあっさりとばれており、集合後夕食まで延々説教、プラス反省文、という罰を受けた。

 

組み合わせが発表されると、それぞれいろいろと考え出す。
星勘定とか、ピークの持って行き時とか、知らないこのチームは何者? とか。
優勝を目指すチームも、下の回戦はあまり気にしないでも平気な場合でも、組み合わせが確定すると大会イメージが固まりやすい。
中村学院は第二シード。
抽選前から分かりきっていることではあるが、第一シードの富ヶ岡とは決勝まで当たることはない。
チームナンバー1が富ヶ岡、チームナンバー48が中村学院。
インターハイの結果から上位8シードは決まっていて、特にこの二チームだけは、抽選前から入る位置も決まっている。
目指すは、三大会連続の決勝進出、そして、打倒富ヶ岡。
ただ、その前に、スタメン確保とか、ベンチ入りとか、それぞれ個人の目標もある。

「幸、本当にここで終わりなの?」

二年生で部活は終わり。
家族の方針としてそう決めている川島。
ことあるごとに是永は、同じことを川島に問いかける。

「そういう約束だからねー・・・」
「新人戦までやるとかもだめ?」
「次のチームのための新人戦なのに、来年の本チームに残らないのにそれに出ちゃうのもさぁ・・・」
「そっか」

選抜大会が終わり、年が明ければ三年生が抜けた新チームでの新人戦がある。
川島は、連盟の規定と関係なく、ただ家族の方針で二年生で部活は終わり、と言っているだけなので新人戦に出ようと思えば当然出ることが出来る。
年が明けた時点ではまだ二年生であるし、家の方針を破るものでもない。
問題は、気が引ける、という点だ。
それを分かっていても、是永は少しでも引っ張ろうとする。
新人戦まで残せば、なし崩し的に三年生になっても続けさせられるかも、という計算もある。

「幸が辞めちゃうと、来年のチーム大変なんだけど」
「そんなこと言われてもさあ・・・。高校入るときからの約束だもん」

今のチームは、是永以外の主力は三年生。
春にはスタメンにいた川島も、怪我離脱の影響で現在は、控えの一番手という位置づけにいる。
大会まで二週間あまり、よほどのことが無ければ、スタメン復帰とは行かないだろう。
その川島をのぞくと、ベンチにいるのも三年生がほとんどである。
二年生である是永を擁しているとはいえ、今の三年生が抜けた来年は、中村学院は優勝を狙うには少し苦しい布陣になるだろう、と言われている。

「戦力としてだけじゃなくてさ、私、幸がいなくなっちゃうとさびしいんだけど」
「私だってさびしいよ、そりゃあ」

お昼の中庭。
バスケ部員で一人だけ普通科の川島は、当然クラスが違う。
二人で話すには、こうやってわざわざ場所を探さないといけない。

もう冬とはいえ、日本列島の中で比較的南側に位置する福岡は、晴れた日の昼間ならまだそれなりに暖かい。
そんな陽だまりの中、ぼんやりと中庭の花壇を見つめ二人は座っている。
この話題の時はいつも平行線。
是永が来年までやろうといい、川島は、約束だからと答える。

「先生にもこの前聞かれたんだ」
「聞かれたって、来年までやるかってこと?」
「うん」
「なんて答えたの?」

この話題で、川島の方から話を展開するのは珍しいこと。
是永は花壇に向けていた視線を川島へ向ける。
左側からの視線を感じつつ川島は、正面の花壇を見たまま答えた。

「親との約束なんでって」
「それで先生は?」
「出来ればもう一年、最後までやってほしいって」
「すごいじゃん。先生じきじきに引止めだ」

川島は、短めのスカートがかかっていないあたりの太ももに両肘乗せて頬杖を付く。
何日か前、朝練が終わったあと先生に、昼休みに体育教官室へ来るように言われた。
それで出向くと、連れて行かれたのは進路指導室。
たまたまそこがあいていたからなのか、進路が関わる話だからなのか。
結構長いこと話した。
ほとんど話していたのは先生の側ではあったが。
チームにとってどれだけ川島のことが必要か、ということ。
それはそれとして、医学部に進むのが難しいことはわかるということ。
試験を受けての大学受験という点についての指導は自分には出来ないこと。
だけど、その点は学校側含めてフォローしていくこと。
私立高校として、部活動の全国大会でよい成績を残すことは大きな宣伝になるが、国立大学の医学部へ進学させることも、受験実績として大きな意味がある。
学校側がフォローする、というのは、見せ掛けポーズではなく、理にかなった本音である。
そこまで、川島は聞いた。

「先生にそうやって引き止められて、約束だから、で済んだの?」
「考え直してみてくれないかって言われたから、考えてみますって」
「じゃあ、考え直そうよ」
「でも」
「約束約束ってさあ、幸の気持ちはどうなの? バスケやりたいの? やりたくないの?」

真正面からそう聞かれると、川島としてもなんとも答えにくい。
親との約束だから、今まではすべてそれで逃げてきた。
親との約束だから、そうやって自分を納得させてきた。
改めて問われている。
川島幸はどうしたいのか?

「幸、黙ってちゃ分からないでしょ」

川島の肩を是永が揺さぶる。
川島は、是永の方を見て薄く微笑む。
だけど、そのまま顔は見ていられなくて、視線を外してから答えた。

「できるなら、やりたいとは思う」
「じゃあ、やろうよ」
「そんな簡単じゃないのよ」

単純に受け答えできる是永がうらやましいなあ、と川島は思う。
やりたいからやる、そうできないこともある。
そんなこと、是永の顔を見ながらではとても言えない。

「今からでも説得できないの? お父さんとか」
「何をいまさらって言われるに決まってるよ」
「でも、試してないんでしょ」
「それは、そうだけどさあ」
「じゃあ、試そう」
「そんな、勝手に決めないでよ」
「試す前からあきらめてちゃダメだよ。本当は、言いにくいから言わないで逃げてるだけなんじゃないの?」

川島は答えない。
答えられなかった。
あまりにそのとおりで、答えられなかった。

「じゃあ、私から話す」
「ちょっと、何言ってるの?」
「今日、幸の家に行って私から話す」
「そんな、急に」
「急にって、もう時間ないでしょ。一度言ってダメなら何度でも行く。そのためにはもう時間ないでしょ」

大会まであと二週間あまり。
大会が終わればそのまま引退、ということであれば、確かに残された時間はもうわずかしかない。

「幸、お父さん家にいる? 今日」
「診療時間が8時までだから、それが終わればいるけど・・・」
「じゃあ、練習終わって、それから行けば大丈夫だね」
「ホントに今日来るの?」
「だから、時間無いって言ってるでしょ」

開業医の川島家。
自宅と一続きの診療所形態になっていて、診療が終わればすぐに家に戻れる。
大会までまだ少しは時間のあるこの時期は、調整期前の追い込み期。
夕方に始まる練習は、川島診療所の診療終了と同じような時間に終わる。
着替えて移動、を考えれば、家につくのは川島の両親は食事も終えてくつろいでいる頃である。

「分かった? 今日、幸の家行くから。決まりね」
「ちょっとー」
「じゃあ、後で、またね」

お昼休み、少しまだ時間はあるが、是永は川島に言い訳させないかのように去っていった。
一人残された川島は、花壇を見つめてぼんやりとため息を一つついた。

授業後の練習。
川島の悩みや是永の計画と無関係に、大会に向けて練習は行われる。
中村学院は、部活動はそれなりに盛んである。
ただ、経営者が考えて決めたのか、強い部活、推薦入学可能な部活は分散している。
文化系の吹奏楽部、グラウンド系ではソフトボール。
そして、体育館種目ではバスケ部。
これはつまり、体育館は優先的にバスケ部が使える、と言っている様なものだ。
期末試験が近く、一般の部は活動停止期間に入るこの時期。
コートが三面取れる広い体育館を女子バスケットボール部が全面占拠している。
多数の部員がいるが、五対五をコート三面で行えると、三十人は捌ける。
ハーフコートでやっている時間帯は、さらに倍で六十人。
部員数はそこまではいないので、ハーフの五対五の場面では、全員が練習できる。
強豪校はそうやって層の厚さを保って行ったりするが、残念ながら本当のトップ層はそういった環境だけで生まれてくるものでもなく、運不運もある。
是永をサポート出来る、力のある三年生がいる今年、なんとしてもタイトルを取っておきたい、とコーチは思うし、当然メンバーたちも、目の前の大会に勝ちたい。

広い体育館、あちこちで五対五をやっていても、試合で采配を振るうコーチが見ているのは当然スタメン組みがいるところ。
今の課題は、仮想富ヶ岡をどうやって止めるか、というところ。
下の回戦も知識ゼロで戦うわけではないが、トーナメント表を見て、いや、見る前から、決勝までは勝ちあがれると踏んだ。
ボックスワンの是永マッチアップという基本方針は変わらない。
Bチームは、自分がスタメン組みに入りたいという思いを抱えながら、チームのために仮想富ヶ岡を演じる、というジレンマにさいなまれつつ練習は進む。
川島はBチームにいた。
役割は、外からの得点力もあり、時にはインサイドもこなし、リバウンドも参加するフォワード。
石川梨華である。
控えメンバーの中で一番攻撃力があるのは川島、ということでコーチがこの役割を与えた。
マークに付くのは是永になる。

川島としては悩ましいところだ。
試合を考えたとき、競ったゲームで必要とされて途中で入るのに、交代の対象となる確率が一番低いのが是永である。
苦しいゲームの途中で、あえて是永を外して何かをする、というようなチームではない。
ありえるとすれば、ファウルがかさんで外さざるを得ない、という場面くらい。
そのマッチアップとして自分が練習時に付いているということは、試合に出にくいということだ。
時に攻守を変えて、Bチームがディフェンスになるときは、仮想富ヶ岡として振舞うので、今度はマンツーマンで付く。
その相手も当然是永。
ゾーンディフェンスを採用するチームが比較的少ない理由の一つとして、この、練習時に、ゾーンディフェンスの練習と、通常の普通のチームが採用するマンツーマンを崩すためのオフェンス練習とを使い分けないといけない、というのがある。
マンツーマンだけを採用していれば、AもBも、お互い裏返しなだけなので、練習もしやすいし、控えメンバーとの交代も簡単である。
しかし、マンツーマンでAチームに対するBチームのメンバーは、ゾーンを組む練習が足りなくなるので、ボックスディフェンスに関しての理解度が低くなり、益々、スタメン組みと変えづらくなる。
このあたりを、人によっては頭で、人によっては肌で感じるので、Bチームのメンバーは、多少の焦りやあきらめを感じてしまったりする。
川島も、控えメンバーの中では攻撃力が高く、交代で投入する最初の選択肢、のようなところまで戻ってきてはいたが、それでも、練習すればするほどスタメンとの距離を感じてしまう部分があった。

練習が終わる。
二人で川島家へ直行、ではなくて、まずはシューティング。
是永はミドルレンジでのドリブルまたはワンフェイクつきジャンプシュート、川島は四十五度付近からのスリーポイントシュート。
二人の、部員たちの練習後の日課だ。
体育館が広く、ゴールの数が多いというのは、こういう場面でもいい方に働く。
およそ一時間ほどのシューティングのあと、二人は引き上げて制服に着替えた。

「本当に行くの?」
「当然」
「うち遠いよ」
「大丈夫」
「早めに終わる日曜日とかにしない?」

帰り道、いつものように駅に向かう。
まだ渋っている川島の言葉に是永は足を止める。
川島も二歩先に行ってから気づき足を止め振り向くと、是永が川島の両肩をしっかりと持って言った。

「幸、覚悟決めて。今から幸の家に行って、ご両親を説得する。幸もそのつもりで覚悟決めて。私も説得するけど、幸のことだから。やっぱり幸の口から言わないといけないと思うし。だから、覚悟決めて」

じっと自分の目を是永が見てくる。
見詰め合う、にらみ合う、どちらの表現が適切か分からないくらい、是永が自分を見つめてくる。
川島は、小さくうなづいた。

駅へ。
それから電車に乗り、最寄り駅で降りて川島家へ。
川島は自転車を引き、是永はついて歩く。
二年足らずの付き合いであるが、是永が川島家を訪れるのは初めてのこと。
川島自身、高校の友人を自宅に招いたことはない。

「病院って、駅から遠くても人来るものなの?」
「うちは、電車に乗ってまで来るような人いないよ。近所の人だけ」
「ふーん」
「だから、あんまり、患者さんいないんだけどね。でも、もう少ししたらインフルエンザの人とか結構増えると思う」
「風邪も治して、幸の足も治して、何でも屋さんだね」
「難しいことは、大学病院とか紹介するから。うちで出来るのは、病院ならどこでも出来るようなことだけだよ」

そんなことを話しながら歩いた。
全国トップレベルの部のスタメンクラスの二人の足で二十分あまり。
川島診療所にたどり着く。

「お父さんってどんな人?」

診療所の看板を前に是永が聞いた。

「強い人、かな?」
「強い人、か」

川島は是永を残し自転車をガレージへ。
戻ってきて、診療所の裏へまわった。

「どこ行くの?」
「あっちは診療所の入り口だから。中でつながってはいるけど診療時間も終わってるし。家の入り口はこっちなの」

裏側にも門があって、そこを開けて川島は入っていく。
是永は後ろを付いていった。
インターホンを押すと、答えは返って来ずに、ドアが開いた。

「ただいま」
「お帰り・・・。お客さん?」
「学校の友達」
「こんな時間なのに大丈夫なの?」
「ちょっと用があって。お父さんいる?」
「居間にいるけど。お父さんに用なの? 部活の子? 怪我?」
「違うの、そうじゃないの。上がってもらっていいかな?」
「それはいいけど・・・」

扉を開けたのは川島の母。
突然の来訪者に戸惑い気味。
夜に突然やってくる客イコール急患、というのが開業医家族のイメージだったりするが、是永はもちろんそうではない。
二人は、川島の母に連れられて居間に上がった。

「ただいま」
「おかえり。どうした? 怪我でもしたか?」
「違うみたいよ。そうじゃないけどお友達ですって」

川島が連れてきた是永の姿を見て、ソファに座っていた父親が立ち上がる。
少し離れたところにおいてあった診療所の鍵に手を伸ばそうとしたところで、そういうことではないらしいと理解して、やめた。

「お父さんに用みたいよ。まあ座ってください。お飲み物は何がいい?」
「いえ、あの」
「私麦茶。美紀は、コーヒーは飲まないよね。オレンジジュースか麦茶か、あったかいお茶か。何か飲みなよ」
「じゃあ、あの、麦茶で」
「はい」

母親はキッチンに去っていく。
川島は先にソファに座り、少しもじもじしている是永に、父親が座るように促した。

「お客さん来るの分かってたなら、もう少し部屋片したりしたのだけど。幸も、前もって言ってくれればいいのに」
「いえ、そんな、気使わないでください」

白衣は当然脱いでいて自宅に戻ってくつろいではいるが、ジャージであったりステテコパンツであったりといったおやじくささはない。
すらっと長い足にジーンズを履き、シャツのすそはしっかりしまう年配スタイルではあるが、スマートな体型であることが見て取れる。
ちょい悪オヤジとは方向性はだいぶ違うが、是永は、かっこいい、という分類に川島の父を入れた。

「大分遅い時間ですけど、家の方は大丈夫ですか?」
「はい、あの、遅くなるのはいつもですし、今日も遅いって言ってあるんで」

何しに来たんだろう? という疑問が当然川島父にはある。
家出じゃないよな、というところはなんとなく雰囲気で分かった。
そんな会話の間に、台所から麦茶が運ばれてくる。
川島の母は、飲み物だけ置いて席を外した。
居間には三人が残される。
目の前に置かれた麦茶を口に持っていき、一息ついてから是永が切り出した。

「あの、夜遅くに突然すいません。私は、幸さんの部活での友達で是永美記と言います。同じ二年生です。今日は、幸さんのことでお願いがあってきました」
「幸のことですか?」
「はい」

テレビを中心にして、それを見やすい位置に置かれたソファとテーブルセット。
一人用ソファが二つと三つに分かれてL字型に並べられている。
川島の父は三つ並ぶ側の真ん中に座り、二つ並ぶ方で是永が川島の父に近い位置に座っている。

「幸さんから、部活は二年生の間で終わりにすると聞きました」
「はい、それは、高校に入学するときに家族で決めたことです」

是永は、川島の父は普通に会話が成立するタイプだ、と見て取ったので単刀直入に話を始めた。

「私と幸さんは、高校に入ってから、ずっと一緒のチームでやってきました。幸さんは、今は、怪我のせいもあってスタメンから外れてますけど、とてもチームにとって大事なプレイヤーです。それだけじゃなくて、私たちにとって大切な仲間です。私たちは、全国大会で優勝するためにこのチームに来ました。その、全国大会で優勝することに挑戦するために三年間を賭けようと思って、このチームに来ました。幸さんが、それとは少し違う考えも持っているのは知っています。大学受験して進学するために勉強もしていることは知っているし、部活も勉強も、本当に両立していてすごいと思うし、それは学校でも有名です」

川島の父は是永の言葉を、何度かうなづきながら黙って聞いている。
職業柄人の話を聞くのには慣れている。
これくらいの中身の話を聞けば、是永が何を言いたくてここに来たのかは、大体想像が付く。

「私は、医学部に進学するというのがどれくらい大変なことは分からないです。だけど、バスケで、全国大会で優勝することがどれだけ大変かは知っています。今目の前に大会があります。そこで優勝できるかもしれないし出来ないかもしれない。どちらの結果になるかは分からないけど、それでも、私たちはまた来年も同じことに挑戦します」

川島は、是永の隣で不安そうに話を聞いていた。
是永のことも見れないし、父親の方も見れない。
視線を落として、それでも耳はしっかりと是永の言葉を聞いている。

「私は、来年も幸さんと一緒に挑戦したいんです。幸さんがバスケがうまいから、選手として必要だからだけじゃありません。幸さんと、もう一年、一緒に戦いたいんです。幸さんも、バスケがしたいと言ってくれてます。だから、もう一年、幸さんに部活を続けさせてもらえませんか?」

是永は、川島の父の顔をじっと見る。
川島の父は、何も答えず、その視線をじっと受け止めている。

「お願いします」

是永は、座ったまま頭を下げた。
その隣で、川島は、そんな是永の背中を見つめていた。

「是永さん、と言ったかな?」
「はい」
「顔を上げてください」
「お願いします」
「いえ、そのままじゃ話しづらいんで、まず、顔を上げてください」

頭を下げたまま頼み続ける是永に川島の父は当惑の色を隠さない。
是永は仕方なく顔を上げた。

「是永さんは、それを言いにわざわざうちへいらしたんですか?」
「はい」
「そうですか」

川島の父は、テーブルにおいてあったコーヒーに口をつける。
是永も、麦茶をどうぞと勧められ、戸惑いながらも何度も進められるので一口飲んだ。

「あなたのような友達がいることを私は知らなかった。そういえば、最近、あまり学校でのこと聞いてなかった気がするな」
「私がいつも遅いから」

父親に話を振られて川島が答える。
川島の父は、コーヒーをもう一度口へ持っていってから続けた。

「幸のために、わざわざうちまで来てくれたこと、私はありがたいと思います。是永さんのような友達ができたというだけでも、幸は高校へ行った価値がある。だけど、それはまた別の話です。幸の進路については家族の問題です。申し訳ないのだけど、幸のこれからについては家族で決めることだと思っています」
「それは分かってます。分かってるんですけど、お願いです。幸さんにバスケを続けさせてあげてください」
「是永さん、顔を上げてください」
「お願いします」
「是永さん」
「お願いします」

お願いしますの一点張り。
てこでも動かない、という姿勢の是永に、川島の父は対処しきれない。
頭を上げない是永を置いておいて、自分の娘に話を振った。

「幸」
「はい」
「是永さんが話したのは是永さんの気持ちだ。幸の気持ちじゃない。幸が考えていることは幸の口で言うべきだと私は思う。幸が自分の進路について考えるところがあるなら、また話し合う必要があるでしょう。ただ、もう、こんな時間です。まずは、是永さんを駅までお送りしてきなさい。それから帰ってきてから話そう。それでいいか?」
「はい」

川島は、小さくうなづいて答えた。

「是永さん。顔を上げてください」

今度は是永も顔を上げる。

「是永さん。こういうことですので、後は、私たち家族で話し合います。もう遅いですし、幸に送らせますので、よろしいでしょうか?」
「あの、お願いです。私たちみんな、幸さんと一緒にもう一年バスケがしたいんです」
「是永さん。人にはそれぞれ選ぶ道があります。あなたも高校二年生ですね。17年、私から見たら長くは無いけれど、いろいろな選択の上で今があるのではないですか? 中村学院でバスケをしているからには、小学校、中学校、それぞれの友達と別れてきて今があるんじゃないですか?」

問いかけられて是永は何も答えない。
視線を少し落として、川島父の話を聞いている。

「幸がこれから先、どんな道を選んで歩いていくのか。それは私たち親にも全部は分かりません。是永さんが望むような方向へ幸が進むことは出来ないかもしれないし出来るかもしれない。どちらにしても、これからも幸と仲良くしてやってください。これは幸の父親からのお願いです」
「あ、あたりまえです。幸さんとは、いつまでも友達です」
「今日は、わざわざありがとうございました。幸。駅までお送りしなさい」

場の空気、というのだろうか。
そういったものが、川島の父の作ったものに染まっている。
是永もこれ以上は何も言えなかった。

玄関まで三人で向かう。
どこにいたのか、川島の母も出てきた。

「あら、お父さん、車で駅まで送って差し上げれば?」
「いや、幸に送らせる」
「もう、遅いのに、帰りは幸も一人なんですよ」
「自転車なら大丈夫だろ。暗い道でもないんだし」
「そうですけど」

大丈夫です一人で帰れます、と是永は言いたいところだったが、一人で帰る自信はない。
結局、川島と二人連れ立って家を出た。

「なんか、迫力ある人だった」

自転車を引いて歩く川島の横で是永が言う。
来たのが無駄ではなかったが、説得そのものは失敗だった。

「ごめん、説得し切れなかったよ」
「うん」
「幸、帰ったら家族会議?」
「そうだね」
「負けちゃダメだよ。って、負けた私が言うのはあれだけど」
「負けじゃないよ。負けじゃ」

川島は、友達の家まで行ってその父親にああやって何かを言うことなんか、とても自分には出来ないと思っている。

「ごめん、わざわざ送らせて」
「いいよ。たぶんお父さん、私に考える時間くれたんだし」
「あのおじさんをどうやって説得するかは、結構大変だよね」

夜、川島の自転車のチェーンの音だけが二人の間で鳴っている。
気温は低くなっているが、風がないので比較的過ごしやすい。

「家族会議の結果はメールで教えて」
「うん」
「ダメなら、また私来るから」
「ありがとね、わざわざ」
「いいよ。だって私、幸と一緒に来年もバスケしたいもん」

駅までたどり着く。
二人はそうやって少し話してから、是永を改札に見送った。
川島は自転車を引いて家まで戻る。
乗って帰れば十分の道のり。
それを、三十分近くかけて歩いて帰った。

「おかえり。ご飯食べてからにするか?」
「うん」

なんとなく先延ばしにしたい部分もあり、母親が準備して待っていた夕食を先に取る。
両親は、今のソファでコーヒーを飲んでいた。
普段は、川島に付き合ってキッチンのテーブルにともに座っている母親も、父親とともにソファにいた。

黙々と、ゆっくりと夕食をとった川島は、居間のソファに向かった。

「幸は、いい友達を持ったな」
「はい」
「大事にしなさい。一生の友達として」
「はい」

居間でくつろぐとき、いつもは、二人がけの方に川島が座り、三人がけの川島に近い側に母親、遠い側に父親が座る。
だけど、今日のようなときは、父親の方が川島に近い位置に座る。
幼いときからの繰り返しなので、両親の座り位置が違う時、川島は少し緊張する。

「ああいう友達に出会えただけでも、幸は今の学校に進んだ価値があったし、部活をやってきた価値があったと私は思う。だけど、部活をもう一年続けるかどうか、というのは別の話だ。部活を辞めたからといって友達でなくなる、というような子ではないのだろ?」
「それは、たぶん・・」
「そもそも、部活を辞めたからといって友達でなくなるのは、友達と言わないしな。だから、是永さんと友達でいたいかどうか、というのは、ここでは関係ないんだ。幸。うちの状況は前に話したよな。医者と言うのは金持ちというイメージがあるようだが、そうでもない。こんな小さな診療所はそれほど儲かる商売でもないんだ。悪いけれど、幸を私立の医大へ行かせる余裕はうちにはない。まして、お金積んで裏口、なんてのはもっての他だ。幸が医者になりたいと言うのなら、国立の医学部に行ってもらうしかない」
「はい」
「高校に入るときに約束したな。部活は二年生までって」
「そのときは、それでいいと思ってたから」
「ああ。あの時はお母さんも含めて、三人で納得したよな。ただ、それは、幸が国立の医学部へ行く、という前提の話だ。その気持ちが変わって、医者ではない何かになる、というならまた考え直せばいい。幸は、医者になりたいという気持ちは変わったのか?」
「そんなことは、ないけど・・・」

川島は、自分が誘導尋問に乗せられている、と感じている。
両親とけんかしたことはない。
口ごたえをしたことくらいはあるが、けんかまで行ったことはない。
勝てないのだ、父親に。
親に逆らいたい時は、その場からいなくなる、という方法以外で、自分の意志を通したことはない。
父親を論破して、自分の意思を納得させた、ということは一度も無い。

「幸が今どう思っているかは分からないけれど、私は、国立の医学部へ入るのはとても難しいことだと思っている。部活に入らずに三年間勉強したとしてもだ。失礼な言い方かもしれないけれど、中村学院という学校は、進学校ではないだろ。それが分かってて、幸がそこへ進むのを私は認めたのだけどな。ともかく、今の高校で一番であっても、それで医学部に入って医者になれるっていうわけじゃないのは分かってないといけない」
「それはわかってます」
「そうか。じゃあ、来年も部活を続けた結果、医学部に落ちたとしよう。そのとき幸はどうする?」

父親に視線をぶつけられて、川島はたじろぐ。
どうする? という問いかけには答えられなかった。

「幸。是永さんには、家族の問題だから家族で話すといったけれど、これは本当は幸の問題なんだ。私は父親だし、お母さんも母親だから、幸のサポートはする。だけど、最後は幸の人生だから幸が自分で決めないといけない」

一つの流れが出来ている誘導尋問から、少し離れて聞こえる言葉。
あれ? どうなるの? と思いながら、続きを待った。

「部活を続けて、もし、受験に失敗した時、幸は部活を続けたことを後悔しないか? 部活続けようといった是永さんを恨んだりしないか? そういうことも考えなさい。幸の人生だ。私たちは幸が望む将来を得られるように精一杯支援する。それだけは言っておく。一晩ゆっくり考えて、幸が自分で決めなさい。自分はどうしたいのか。将来どうなっていきたいのか。大事なことは何か。一晩で足りなかったら二晩でも三晩でも。まあ、来年まで考えられても困るけどな。今日はこれくらいにしようか? お母さんは何かある?」
「いいんですか?」
「何が?」
「幸に任せて」
「医者になるっていうのは、ある部分、他人の人生の一部を背負うことでもあるんだ。だったら、自分の人生の岐路くらい、自分でしっかりと決めてもらえないと困るだろ。なあ、幸」

川島は何も答えられなかった。

「よし、終わり。お母さん、お風呂沸いてる?」
「沸いてますけど」
「じゃあ、入ってくるは」

父親は立ち上がり部屋を出て行ってしまう。
母親も、ぶつくさ言いながら、テーブルの上のグラスなどを持ってキッチンへ消えていった。
一人残された川島も、自室へ下がることにした。

一晩ゆっくり考えろ。
そう言われた。
電気をつけただけで、テレビもラジオも何もつけず、音のない部屋の隅にあるベッドの上に仰向けになる。
どうしたいのか?
将来どうなりたいのか?
自分にとって大事なことは何か?

改めて問われると、答えはすんなりと出てこない。

医者になりたい。
そのために医学部へ進む。
勉強をしないといけない。
だけど。
美記と、みんなと、バスケがしたい。
試合に出て、勝ちたい。

自分に、両方出来るだろうか?

父親に言われたこと。
学校で一番だからといって国立の医学部へ入れるとは限らない。
そんなことは、言われなくても感じていた。
ずっと抱えていた不安。
自分の力が分からない。
進学校ではないから、周りとの比較をしても自分の立ち位置が分からないのだ。
予備校へ行く、模擬テストを受ける。
そうやって、自分の力を計る機会が、このまま部活を続けていけば得られない。
普通の部活ではない。
川島がいるのは全国でも屈指のチーム、中村学院女子高校のバスケットボール部なのだ。

自分で決めろ。
まさか、そんな風に突き放されるとは思っていなかった。
でも、思い起こしてみると、今までも最後は自分で決めてきたような気がする。
高校進学もそうだった。
バスケがしたい、といって中村学院に進んだのは川島の意思だ。
それに伴って、形は両親がいろいろと言ってきた。
だけど、それでも、決めたのは川島だ。
体育専門科ではなく普通科にしたこと、部活は二年生までということにしたこと。
誘導尋問だったかもしれないけれど、決めたのは川島だ。
今までは、最後の質問がイエスかノーかだったのが、今回はAかBかの二択になっただけのことかもしれない。
それでも、決めたことの重みは、今までと大きく違うような気がする。

ベッドに仰向けになったまま考える。
自分の進む道。
何が大事か?
どれくらい大事か?
自分が、どうしたいのか?

母親から、「そろそろお風呂入っちゃいなさい」の声がかかる。
それに従って、着替えを持って下に降りる。
お風呂に長く浸かるタイプじゃない。
いつものテンポで、体を洗い頭を洗い湯船に浸かり。
ずっと考えた。
これからの自分のこと。
ドライヤーで髪を乾かしながら考えた。
鏡に、自分の顔が映る。
じっと、その顔を見つめてみた。

「決めた」

ドライヤーを止めて、つぶやいた。
それから是永に、「明日話す」とだけメールを送り、電気を消してベッドに入った。

朝、朝食は三人で取る。
中村学院に入って、早い時間からの朝練があるようになっても、川島家のこの習慣は変えなかった。
早朝、とも言える時間に父親も起きてきている。
母親はさらに早い時間に起きて、娘のためにお弁当まで準備している。
この二年、変わらない風景。

昨日の夜のことは無かったかのように普通の朝食だった。
川島の決断。
朝食の合間になんとなく伝えるには話が重過ぎる。
両親からも何も言われなかった。

学校に向かう。
部室で着替えて体育館に向かうと、先にシューティングをしていた是永が声をかけてきた。

「昨日、どうだった?」
「後で話すよ。お昼休みに」
「そっか」

お昼休み、昨日と同じ場所、昨日と同じ時間。
川島の決断は、両親より前に先に是永に伝える。

練習はいつもと変わらない。
朝練はセットオフェンスの練習などはせず、走るパート中心。
走ることがメインの練習というのは、人によってはきついだけという受け取り方になるが、今の川島には心地よかった。
あまりいいことではないが、頭を使わずに、ただ体を動かせる。
スリーメンなど、トップスピードで走り、パスを受け、シュートする、一連の動きは体が覚えていて、何も考えず、よく言えば無心に練習をこなすことが出来る。

朝練を終え、制服に着替え校舎へ。
一人だけクラスの違う川島は、他のメンバーと違い、クラスだけの友達というのも存在する。
遊びに行くことなど出来ないが、同じ教室の中で暮らしていてそれなりに馴染んでいる。
授業そのものは物足りなかった。
体育専門科よりは多少高度であるが、それでも普通レベルの高校であるので、授業レベルは川島の水準には届かない。
受験に必要のない科目や、レベルがあってない授業にどこまで付き合うかというのも、今の川島の悩みどころだったりする。
今日は、なんとなく聞く気になれなかった。
机に臥せって寝るというようなことはなかったが、一番窓側の席でぼんやり外を眺めていた。

お昼休み。
お弁当は教室で食べる。
それもいつものこと。
勉強が出来て、見た目に映えて、生徒たちの憧れのバスケ部でユニホームを取っている。
そんな川島を妬む存在がいないわけではないが、敬愛目線で見ている生徒の方が多い。
学校は楽しい、クラスは楽しい、部活は楽しい。
だけど、悩み事はでてくるもので。

お昼を食べ終え、約束している場所へ向かう。
時間より早く来たはずだが、それでも是永はもう待っていた。

「ごめんね、待たせて」
「幸、ご飯食べるの遅いからねえ」
「そんなことないよ」
「あるから」
「そっか」

クラスは違っても、遠征で合宿で、一緒にご飯を食べることはしょっちゅうだ。
二年間、大人にとっては短い期間でも、自分たちにとっては大切な時間。

「帰ってすぐ家族会議だったの?」
「ううん。遅かったからご飯食べてから」
「そうだよね。私も、幸の家まで行って帰ったから、おなか空いちゃって」
「ごめんね、わざわざ。うちで食べてってもらえばよかったかな?」
「あ、そういうことじゃないって。うちだって、ご飯の準備してたし」

いきなり本題に入りかけて、でも、踏み込めなくて。
ちょっと間があいて、それから是永が踏み込んだ。

「で、どうだったの?」

中庭のベンチ。
気温は昨日より下がっていて、制服姿で外にいると少し寒い。

「お父さんにいろいろ言われて、それで、最後は自分で決めなさいって」
「自分で決めていいって?」
「うん」
「そっか。じゃあ、続けられるんだ」

川島は答えない。
右側に座る川島のことを是永はじっと見る。
川島は、その顔を一度見て、視線を外し、正面の花壇の方を向く。

「やっぱり、選抜で最後にすることにした」
「なんで!」

是永が川島の肩を掴む。
強制的に是永の方を向かされるが、川島は視線を落とす。

「ごめん」
「ごめんじゃないよ! なんで! 自分で決めていいって言われたんでしょ! なのに、なんで!」
「ごめん」
「幸!」

是永が立ち上がる。
自分の目の前で立ち上がるのは分かったが、川島は視線を落としたまま。
風で揺らめく是永のスカートが、川島の視界に入っている。

「分かって、美記」
「分かんないよ! 一緒にあと一年やろうよ」
「ごめん」
「なんで、幸!」
「分かって」
「分かんない。分かんないよ!」

是永は、それだけ言うと走って行ってしまった。
取り残された川島は、走っていく是永の背中を見つめ、それが遠ざかると肩を落とし、ぼんやり花壇を見つめた。

午後の練習。
メンバー間に何があろうと練習は変わらずある。
五対五。
是永のマッチアップは川島。
普段なら何か言葉を交わすところだが、今日は何もしゃべらない。
メインのテーマは、富ヶ岡のオフェンスをどう押さえるか?
仮想石川という設定の川島だが、今日はまったく何も出来ない。
是永に押さえ込まれ、パスすら受けられない。
攻守交替。
Aチームがスタメンになった時も、是永はアグレッシブだった。
攻撃力があるのはいつものこと。
だけど、それだけではなくて、周りへの指示も、ワンプレーごとに、メンバー内でしっかりと打ち合わせる。
スタメン組みは是永以外全員三年生だが、それでも是永が主導権を持って話している。
Bチームはマンツーマンでの練習、是永に付くのは川島だったが、何も出来なかった。
川島は途中で外された。

練習後。
日課のシューティングをするが、川島は気もそぞろ。
そこに是永が声をかけてきた。

「幸、ちょっといいかな?」
「うん」

是永は自分のパーカーを羽織り、タオルを持って二階へ上がる。
中村学院の体育館には小さいながら二階に観客先が付いている。
そこに上がると、体育館の全体が見渡せるし、普通に話せば一階に声は聞こえない。
川島もドリンクボトルを持って是永について上に上がった。

「幸、練習に集中できてないよ」
「ごめん」
「あんなんじゃスタメンで試合に出るなんて無理」
「うん」

二人で観客先に座る。
一年生の時は、練習試合の会場設営なんかでよく上がったが、二年生になると来ることも無かった。

「ここって、なんか全体見えていいよね」
「うん」
「全体練習終わったのに、みんな練習してて。私たちはここにいるんだなって。ここで練習して、三年間過ごして、試合に出るんだなって」
「うん」
「幸はそれを捨てて、勉強を選ぶんだね」

川島は何も答えられない。
是永は立ち上がって手すりに腕を乗せ、フロアを見下ろす。

「聞かせてよ。さっきは、私が飛び出しちゃったから聞けなかったけど。ちゃんと聞かせて。幸の考えたこと」
「うん」

川島も立ち上がり、是永の横に並ぶ。
体育館のフロアを見つめ、語りだした。

「お医者さんになりたい、って最初に言ったのはたぶん保育園に通ってた頃だと思う。そう言ったら、お父さんはすごく喜んでくれた。周りも、頑張りなねって言ってくれてたと思う。その頃はまだ診療所開いてなかったんだけど、それでも、お父さんが医者だしね。だから、周りも、私がそう言うの普通だと思ったみたいで。それで周りがそういう扱いするとさ、自分も、大きくなったら医者になるんだってごく自然に思えてた。大きくなったら大人になるっていうのと同じくらい、大きくなったら医者になるっていうのが、自分にとって当たり前のことだった」

体育館でボールが弾む音が二人の所まで聞こえてくる。
大勢が練習していて、不規則にシュートが打たれ、入っても外れてもボールが弾む。

「中学入ったころだったかな。医者になるのは当たり前じゃなくて結構難しいらしい、ってのが分かってきたのは。医学部へ行かなくちゃいけなくて、その医学部っていうのは難しいらしくて。それで、塾に通い始めた。土曜日入れて週三日。これが結構楽しくてさ。苦手な科目はやっぱりあるけど、でも、学校と違う授業が楽しいし、学区の外の子とも会えるし。夜なのに親がいないで外にいるっていうのも、ちょっと楽しかったなあ」

川島の隣で是永は話を聞いている。
声は出さないけれど、何度かうなづいていて、それが川島の目には入っていた。

「バスケはさ、小四で始めた。先生に誘われてさ。たまたま担任の先生が顧問だったんだ。男子はさ、サッカーとか野球とか、学校の外に結構クラブがあるのに、女子ってそういう体動かすのないじゃない。バイオリンとか私の柄じゃないし。スイミングスクールなんかもあるんだろうけど、うちの近くに無くて。それでなんか、運動あまりやってなかったんだけど、先生いい人でさ、なんか楽しそうとか思って始めたんだ」

川島の昔話。
是永は、手すりに乗せた自分の手の上に顔を乗せた。
視線の先にはシューティングをしている仲間がいる。

「ミニバスは、四年の終わりで試合に出られるようになって、五年生に上がってスタメンになれた。それからかな、楽しかったのは。六年の時はベスト8まで行ったんだよ。美記はどこまで行ったんだっけ?」
「県代表で、全国のベスト16」

「さすが。でも、私にとっては県のベスト8はいい思い出だったんだよ。それで中学上がってもバスケは続けた。勉強と部活の両立、とかそんな難しいことは考えてなかったんだ。塾楽しいし。部活楽しいし。でさ、三年になって、先生に誘われちゃったのよ。うちにこないかって。初めてだった。医者になることとバスケがぶつかったの。バスケで推薦入学とか、そんなものがあることも分かってなかったもん。どうしようか迷った。親には反対されたし。私も最初はあんまり乗り気じゃなくて。でもね、夏の総体終わって部活引退して。なんかぼんやりしちゃって思ったんだ。挑戦してみたいって。バスケでどこまで出来るか挑戦してみたいって思った」

川島は手すりから離れて後ろの座席に座った。
是永は、振り返って手すりを背にして寄りかかる。
お互い、少し斜めの位置で向き合う形になったけれど、視線は合わない。

「私にとって、バスケって部活なんだ。部活。医者になることは将来の夢、目標。中学に入ったころから、医者になるのは簡単じゃないっぽいぞって分かってきたんだけど、高校に入るともっとそれを感じるようになってきてさ。診療所に来る患者さんを診察するお父さんの姿とか見てて、前はかっこいいくらいしか思わなかったけど、最近は、なんか、いろいろ感じるようになってさ。お医者さんっていうのは大変な仕事なんだって。お医者さんになるには大変な勉強が必要で、簡単なことじゃないって。でも、それが分かってきても、私は変わらなかったんだ。将来医者になりたいっていう気持ちは」

イスに座った川島は正面に目を向けている。
手すりに寄りかかってたっているので是永の方が高い位置にいるのだが、視線は、川島の足元に落ちていた。

「バスケは好きだし、辞めたくない。美記も大事。このチームで勝ちたい。その気持ちはある。バスケがどうでもいいなんてことは絶対無い。だけど、私の夢は医者になることなんだ。両立できたらどんなにいいかって思う。でも、正直言って自信がない。自信がないんだ。このチームは普通のチームじゃない。半端な気持ちじゃついていけないし、やっぱり生活の中心がバスケになるし。その状態の中で、勉強して、医学部へ行けるだけの結果が出せる自信がない。もしダメだったとき、私は、部活を続けたことやバスケそのものをうらんでしまうかもしれない。どちらか一つしか選べないとしたら、私にとって、医者になるっていう方を捨てることは絶対に出来なかったんだ。だから、私は、今年いっぱいで、バスケ部を辞めます。それが結論」

川島が話を締めくくっても、是永はなにも答えなかった。
ただ、ぼんやりと川島の足元を見つめている。
川島が是永の顔を見上げても、反応は無かった。
フロアでボールが弾む音がする。
シュートが入った、入らない、仲間たちの談笑の声も届いてくる。
是永は、ゆっくりと川島の隣のイスに座り、太ももに頬杖付いた。
50センチの距離に据わる二人の間を沈黙が流れる。
やがて、是永が語りだした。

「私の夢は、まず高校で優勝して、卒業したらアメリカに行く。WNBAのセレクションを受けて、ドラフト通って、プロになる。試合に出て活躍して、有名になって、プレーオフの最終戦に、私がブザービーターでスリーポイント決めてチャンピオンになるんだ。それで、日本代表にも呼ばれて、オリンピックにも出る。誰に反対されてもそんなの知らない。親に反対されても、バイトでもしてお金ためてアメリカに行く。セレクション落ちても、向こうでなんでもチーム見つけて練習して何度でも受ける。誰に反対されてもやる。幸に反対されても、寂しいから行かないでって言われても、一緒に同じ大学行こうっていわれても、私はアメリカに行く」

そこまで話して是永は立ち上がり川島の方を向いた。
川島は是永を見上げる。
二人の視線がぶつかった。

「医者になるのが幸の夢で、そのためにどうしてもバスケが続けられないって言うなら、幸がそう決めたなら。私は、幸を引き止めちゃいけないんだと思う」

しっかりと自分を見つめられ、川島は先に視線を外した。

「ごめん」
「謝ることじゃないんだよ、多分」
「でも、ごめん」

川島は立ち上がり、手すりにもたれかかる。
是永も、その隣で同じ体勢になった。

「謝るくらいなら、バスケ辞めるな」
「そうだね」
「まったく、こんなに頭いいのに、まだ勉強しなきゃいけないなんて、医者になるのはどれだけ大変なんだよ」
「うん」

体育館の二階でフロアを眺めて立つ二人。
しばらく、黙ってそうやって過ごした。
いつもなら自分たちも、下に見えている仲間たちと同じようにシューティングしたり一対一をしたりしている。
それを、ぼんやりと上から眺める。

「幸とこうしてられるのもあと二週間か」
「美記、アメリカ行くの?」
「まだ誰にも言ってないけどね」
「親にも?」
「うん」
「それ、美記が自分で決めてるだけってこと?」
「選抜終わったら、先生に言うよ。卒業したらアメリカ行きたいですって」
「親には?」
「まあ、いずれ」
「だめだよーそれじゃー! 早く話して準備しなきゃ」
「うん・・・そだね・・・」

是永はため息をついて後ろの座席に座る。
川島も、隣に並んだ。

「話しづらいの?」
「うーん・・・。将来はこうなりたい! ってそれも、医者なんてすごいのになるってはっきり言える幸がうらやましいよ」
「アメリカ行ってプロになる、の方がよっぽどすごいって」
「幸に言ったの初めてだもん」
「でも、誰に止められても行くんでしょ?」
「うん・・・」
「じゃあ、やっぱり最初は家で話さないと」
「優勝したら、選抜で優勝したら、話そうかな。親にも、みんなにも」
「それがいいよ」

是永が川島の方を見る。
目が合って、笑みを浮かべた。
川島も、笑顔を返した。

「よし、そうと決まったら練習! 行くよ!
「ちょ! まってよー!」

是永が立ち上がって走って階段に向かっていく。
川島も慌てて追いかけた。

 

予選と本大会ではメンバーの入れ替えは可能。
それは至って普通のことである。
三年生にとっては最後の大会。
当落線上に近い位置にいるメンバーは必死だ。
それも、コーチのメンバー発表で一つの結論が出る。

「以上。メンバーに入らなかった三年生にとっては、これでもう、試合に出ることはない、ということになるけれど、それでも、ここに三年間いたんだ、という事実は残るから。最後まで、チームのために何が出来るか考えて、大会まで過ごすように。メンバーに入ったものは、試合に出たくても出られないものがいるということをしっかり受け止めて、全力で試合に臨むように」
「はい!」

滝川山の手高校、冬の選抜大会のメンバー発表。
結局、北海道予選の時とまったく変わらなかった。

メンバー表の提出はもっと早い時点でされている。
プログラムを刷ったり、いろいろとあるので早い時点で必要だ。
ただ、怪我などを理由に入れ替えることは、開幕前日まで可能である。
東京へ立つ二日前の今日の時点で発表したのは、石黒がコーチとして決めたということで、あとはもう、本当に突発的な怪我が起きる以外にはおそらく変更はない。
その日の夕食後、ユニホームはキャプテンが一人一人に手渡す。
全員の前で一人一人が受け取り、大会に向けて一言語る。

「7番、藤本」
「はい」

指名された藤本が席から立ち上がって前へ。
りんねからユニホームを受け取って、メンバーたちの方を向いた。

「頑張ります」
「それだけ?」
「はい」
「もうちょっと、なんか」
「いえ、いいです」

一人一人、長かったり短かったりしながらも、文章、少なくとも文になる程度は話す場面。
一単語で終わらせられて戸惑うりんねを置いて、藤本は席へ下がる。
場にしらけた空気が流れた。
気を取り直してりんねはユニホームを配っていく。

「十番、里田」
「はい」

渡されるのは青のユニホーム。
実際には、白と青の二種類をがあるのだが、ここは一種の儀式なので一種類だけ渡して、残りのもう一種類は一年生が後で配って回る。

「えーと、三つ勝てるように頑張ります」
「なによ、その中途半端なのは」
「三つ勝てば、四つも五つも付いてきますよ」
「そっか。そうだね。ちゃんと石川押さえてよ」
「はい」

三つ。
順当に勝ち上がれば、三回戦で富ヶ岡にぶつかる。
それに勝ちさえすれば、決勝も優勝も見えてくるはずだ。

最後に残った18番を持ってりんねが締める。

「私たち三年生にとってはこれが最後の大会です。この三年間、ううん、この一年間だけでも本当にいろいろありました。だけど、それもこれで最後です。この、今のチームでいられるのはもうこれで終わりだから、最後まで、みんなで戦いましょう」

みんなは誰まで含むのか。
右手に四番、左手に18番、二つのユニホームを持ったりんねが何を思っているのか。
言葉にしなくても、誰もがわかっている。

食後ミーティングはこれで解散。
食事係の一年生が後片付けをし、その他のメンバーは引き上げる。
麻美も、白と青、二着のユニホームを持って自室に戻った。
同室の一年生は食事係でまだ戻ってこない。
ベンチ入りメンバーに選ばれなかったルームメイトが戻ってくる前にそそくさとユニホームはしまう。
目立つところにユニホームを置くのは、良い点数のテストを机の上に広げて置くのに等しい行為だ。

財布を持って部屋を出る。
向かった先は公衆電話。
携帯電波が届かないこの寮では、いまどき公衆電話が頻度高く使われている。
プライバシーまでは考えてくれていないらしく、玄関奥に二台並べて、周りとの敷居も無く置かれている。
麻美は実家に電話をかけた。

出たのは母親。
麻美はいろいろと報告をする。
ユニホームをもらえたこと。
試合に出ることになりそうなこと。
大会が終わったら帰郷すること。
大会が終わるのがいつなのかはわからないこと。

滝川のような部員が全員寮暮らしというようなトップ校は、選抜大会後の年末年始が一年の中で唯一のオフで、実家に帰れるのはそのときだけ、というものが多い。
当然、決勝が終わってから、という風に願っているのだけど、それをかなえるのは大変なことだ。

麻美はそれから、姉に代わってもらおうとした。
保留音にもせずに、受話器を持ったまま二階の姉の部屋へ母親が上がっていくのが受話器越しに麻美に伝わってくる。
ノックをして姉の部屋に入った母が、姉に拒否されるところまで一部始終麻美の耳に届いていた。

「リハビリにも行かないのよ。毎日毎日閉じこもりっきりで」

母の愚痴が始まる。
親の愚痴はうっとうしく感じたりもするが、姉がどうしてるのかを聞くにはこの愚痴の中身から読み取るよりない。
秋に退院して、自宅から通いでのリハビリということだったが、実感できるほどには回復しなかったらしい。
冬に入るころ、そのリハビリにも行かなくなって、引きこもりニート状態になった。
麻美は、母親には適当に相槌をついているだけだったが、頭では、大会が近づいてきたのにチームに戻れそうも無くて、それであきらめちゃったのかな、と考えている。

姉の苦しいところは、自分が自転車を運転していたというのに一番は起因しているが、それだけではなくて、戻ってくる場所がここだというのもあるのかな、とも思っていた。
部員は全員寮にいる。
亡くなった尋美もここにいたのだ。
そして周りのメンバーも。
そんな場所でもう一度暮らす。
さらに言えば、戻ってきたとしても、まだ、練習も出来なければ試合にも出られない。
キャプテンまでなったのに、すでに出席日数も足りなくて卒業も出来ず、来年は後輩たちと暮らすことになる。
どれに引っかかっているかはよく分からないが、自分なら逃げてしまいたいと思うかもしれないな、と考える。

母親の話に付き合うときりもないし、テレホンカードの予備なんかないしで、麻美は適当に理由をつけて電話を切った。

さて仕事。
体育会の部活の生徒が住んでいる寮で、洗濯物が出ない日などありえない。
一年生は毎日毎日毎晩毎晩、試合が近づこうが何があろうが洗濯はする。
財布を部屋に置いて、籠を抱えて、指導係の里田の部屋へ。

「失礼します」

ノックをして、返事が無いな、と思いながらもドアを開けて入っていく。
いつものように里田だけではなくほかの二年生もいるのだが、麻美が入っていくと、動きも会話も止まっている。
こういう空気は麻美にとって初めてではない。
この部屋でたまに感じる空気だった。

「洗濯物取りに来ました」
「そこにあるから」
「はい」

いつもの場所のいつもの袋に里田の洗濯物。
先輩たちの間を割って進んで、袋を取って入り口に戻る。
それから、もう一言挟んだ。

「あさみさん。洗濯物お願いします」
「あ、うん。美貴、あの、鍵、いいかな?」

あさみが立ち上がる。
藤本は、言葉も返さずにポケットから取り出した鍵を持った左手を突き出す。

「ありがと」

鍵を受け取ってあさみは麻美と部屋を出た。
ドアを閉めるとあさみが大きくため息を一つついた。

「また、まいさんと美貴さんですか?」
「うん・・・」

指導係についていないあさみの分の洗濯は、一年生の持ち回り。
今週は麻美の番だ。

「登録のことですか?」
「そう」
「たいへんですね、あさみさんも」
「大変大変って言わないでよ。一年生にまでそう言われると、なんか、疲れてくるじゃない」

里田の部屋に入っていって空気が凍っているのは、藤本と里田がもめたとき。
ここ半年、毎日里田の部屋から洗濯物を回収している麻美は、そんなことを早い時期に学んだ。
どんなにもめていても、ノックをして自分が入っていくと、一瞬それは止まるのだ。

「どうするんですか?」
「どうするって言ってもさあ。どう、思う?」
「どっちが悪いとかないから、難しいですよね・・・」

そんな話をしているうちにあさみの部屋に着く。
鍵で扉を開けた。

「もうすぐ試合なのに、二人でもめてたらどうするんだよ・・・」
「やっぱり、あさみさんが何とかするしかないんじゃないですか?」
「でも、今回私も半分当事者みたいなもんだしさあ・・・」

藤本と里田がもめたらあさみが収拾する。
一年生にまでも認識されている現状だ。

「美貴さ、私とか、ベンチに入れない子達のことも思って言ってくれてるのが分かってるからさ。なんか、どうしていいんだかって」
「でも、なんでまいさんなんですか? 今回別に、まいさんあんまり関係ない気がするんですけど」
「なんだかんだ言って、美貴はまいのこと好きなんだよ。美貴、言いたいこと何でも言ってるように見えるだろうけど、そうでもなくてさ。多分、本当になんでも言えちゃう相手ってまいくらいなんだと思う。だからじゃないかな。まいはまいで、自分の思った答えを素直に返すから、って麻美はまいのことはよく分かってるか」
「いえ、そんなこと」
「でも、美貴が一方的に悪いってことじゃないってのは分かってあげて。麻美は、そりゃあまいの肩持つだろうけど、美貴もさ、ただのわがままで言ってるんじゃないんだ。麻美が入ってきたころのあれは、美貴が全面的に悪いけど」

あさみは、散らかっていた自分の衣類をまとめ、麻美の持つ籠に次々と突っ込んでいった。

「じゃあこれ、よろしく」
「じゃああの、あさみさんも、まいさんと美貴さんのこと、よろしくお願いします」
「そんなの私に頼まないでよー」
「でも、やっぱりあさみさんじゃないですか」
「いい加減誰かこの役割変わってほしいんだけど」

他のメンバーたちならともかく、藤本と里田がもめるというのはチーム全体にとって問題である。
特に、一年を締めくくる大会を目前にしたこの時期、感情的なしこりを抱えたままでは、チームに爆弾を抱えるようなものだ。

麻美が洗濯籠を抱えて部屋を出て行く。
一人残されたあさみは、ベッドに横になった。
里田の部屋に戻る気もしない。
ここに戻ってこない藤本は、まだ里田とやり合ってるのかそれともどこかへ出て行ったのか。
起き上がって窓のそばにたちカーテンを開ける。
屋外の練習コートにはうっすらと雪が積もっていた。

翌日、りんねが練習を休んだ。
この種のチームで部員が練習をサボる、というのはほぼありえない。
あったとしても、仮病でだまして、とか、そういうのなら可能だが、無断で練習に来ない、というのはありえない。
何事もないかのように練習が行われたので、先生や三年生は理由を知ってるみたいだ、とあさみは思ったけれど、自分がその理由を聞いていないのが気に入らない。
前日にメンバー発表があったばかり。
ユニホームがもらえなかったあさみとしては、どうしても練習に対する意識が強まってこない。
スタメンクラスが五対五でいろいろと確認しているのとは別コートで、Cチーム相手の五分ゲームに参加する。
Cチームは、ユニホームがもらえたメンバーがメイン。
主力とは力の差があるが、展開次第で試合に出ることも当然ありえる。
士気の違いに立場の違いを感ぜずにはいられない。
あさみはそんな中、三年生たちの姿に目が行ってしまう。
最後の大会で、自分の力を何とか発揮しようと必死なCチームの先輩。
ユニホームはもらえなかったけど、それでも、練習中から声を出し、自分のレベルで精一杯に練習する先輩。
昨日までは元気だったのに、今日は明らかに身が入っていないのが目に見える先輩。
来年の今頃、自分はどんな姿をしているのだろう。
時折隣のコートを見て、あっちに入るのはちょっと無理かな、とも冷静に思った。

練習が終わり寮に戻る。
夕食の最中にりんねが戻ってきた。
どこかに出かけていたらしい。
食後のミーティングはりんねが主導した。

「あさみ、ちょっと後でいい?」

ミーティングが終わって、部屋に戻ろうとするとりんねに声をかけられた。

「はい」
「じゃあ、私の部屋、来て」
「はい」

部屋に呼ばれるのはいつ以来のことだろう?
いや、こういう呼ばれ方をしたのは、たぶん、入部直後以来だろう。
入部直後の、まだ馴染んでいなかったころは、こうやって呼び出されるような形も多かった。
それが、いつしか距離が縮まってからは、こんな風にわざわざ部屋に呼ばれるようなことは無かった。 

りんねさんと二人で時間を作って話すのはいつ以来だろう。
別に仲が悪くなったとか、そういうことじゃない。
ただ、近寄り難くなった。
いつでも張り詰めているような。
一人でいるのを見かけても、そっとしておかなければいけないような。
そんな雰囲気を感じていた。

「あさみです。失礼します」

ノックをしてりんねの部屋へ入る。
りんねは、ベッドに横になっていた。

「どっか適当に座って」

りんねはそう言うけれど、ちょうど良い場所がない。
備え付けのイスを持ってきて座るにも、床に直に座るにも、りんねの位置は中途半端だ。
あさみが困っていると、りんねがベッドの真ん中から少しずれて、自分の横をぽんぽんと叩いた。
あいたスペースにあさみは上がって、二人は並んで壁に寄りかかって座る。

「久しぶりだね、あさみとこうやって話すの」
「そうですね」
「なんかおちつく」

りんねはおだやかに微笑んでいるが、あさみはそちらは見ないで伸ばしたひざの上に視線を落としている。

「結構私も必死でさ。あさみの方まで見てあげられなくて、なんかごめんね」
「分かってます。りんねさんキャプテンやって大変だったのは」
「それに、あさみと話すとさ、私の方がいろいろ愚痴言って、頼っちゃいそうだし」
「たまには頼ってくれればいいのに」
「まいにも言われたかな、同じこと」

あさみがりんねの方を見る。
りんねも視線をぶつけられて、ふっと笑う。

「まい、りんねさんがまいって呼んでくれないって怒ってましたけど」
「だって、なんか特別な感じになっちゃうから」
「あさみはあさみなのにずるいってって言われましたよ」
「あさみは、いまさら木村って呼ぶほうが不自然だし・・・」
「いいですけど、別に。怒ってるの私じゃなくてまいだし」

りんねは、おちつくと言っているが、あさみの方はなんだか緊張していた。
緊張してる自分に気がついて、でも、なんで緊張してるのか分からなくて、どうしていいのか分からなくてちょっと機嫌が悪い。

「まあ、そのうち呼んであげるよ、たぶん」
「そのうちって、もうすぐ終わりじゃないですか」
「そうだね」
「それで、どうしたんですか? 急に呼び出して」
「うん」

本題。
一拍置いてりんねが語りだす。

「今日、なんで私休んだか聞いてる?」
「知らないです」
「就職決めてきたんだ」
「就職、ですか?」
「そう」

あさみはりんねの方を見るが、りんねは正面を向いたまま。
就職なんて話、あさみはまったく聞いていなかった。
二人があまり話をしなくなってから半年。
それ以前、そういえば進路のことを聞いたことは無かった。

「向こうの都合とかもあってさ、今日しかなくて。それで行ってきた。給料はあまり出せないけど、それでもよければ学校卒業したら来なさいって」
「就職って、何するんですか?」
「牧場」
「牧場?」
「うん。牧場。牛の世話、馬の世話、生き物の世話。観光客とかも来る感じのところで、何とかショー、もやるみたい」
「りんねさんが、牧場、ですか・・・」
「うん。びっくりした?」
「大学行くんだと思ってました」

驚いているあさみの横で、りんねは微笑んでいる。
人を驚かせる快感をちょっと感じた。

「大学はさ、うちじゃ無理だもん」
「でも、推薦で行けるんじゃないですか?」
「行けるとは思うよ。でも、私立に推薦で行って、払える学費はうちにはないの」
「そんな」
「だいたいさ、私がここに来た理由。部員は寮暮らしで、食費まで含めて全部ただだからだもん。バスケ強いだけの学校ならうちの近くにもあったけど、学費はお高いしね」

りんねのような北海道外からここに来る生徒がいるのは、チームの強さだけではなくてこういうところにもあったりする。
実は地元民の藤本にしても、同じ理由で親がここへの進学を必死にプッシュしていたのは本人が認めてはいない事実だ。

「でも、牧場って。なんで牧場なんですか?」
「動物が好きだからかな。獣医さんとか普通はなるんだろうけど、それは頭もお金も足りないし。あとなんだろう、ペットショップ? そういうのはなんか、ちょっと違うかなって。飼いならされてる感じが。牧場も飼いならすって言えば飼いならすなんだけど、でも、野生な感じがペットショップよりはあるじゃない」
「そうですけど・・・」
「牧場の人もね気に入ってくれたんだよ。一つのことを頑張ってきた人間は強いんだ、とか言って。他にも応募はあったみたいなんだけど、私が行ったら決めてくれた。うちのこと知ってたよ。尋美のことだけじゃなくて、その前からちゃんと知ってたって。それで、私、書類選考っていうの? 履歴書見て、滝川でキャプテンやってるっていうんで採用してくれたみたい」

楽しそうに語るりんねの隣で、あさみはひざを抱えて視線を落とす。
あさみは小さな声でもう一つ問いかけた。

「バスケは?」
「バスケ?」
「バスケはどうするんですか?」
「就職したらってこと? うん。終わり、かな。終わり。遊びでなんかやることはあるかもしれないし、ショーでそれっぽいのなんか考えようなんて冗談ぽく言われたけど、真剣にやるのは終わり。今度の大会が最後」

そうなんだ、とあさみは小さく何度もうなづく。
今度の大会が、りんえさんにとってこのチームとしてだけじゃなくて、本格的にバスケをする最後。
あんなにすごいのに、これでおしまいにしてしまう。
そして、自分は、りんねさんと同じ舞台に立つことが、結局一度も出来なかった・・・。

「りんねさんが牧場か・・・」
「似合うでしょ?」
「うーん、似合うような気もする・・・。でも、びっくりした。全然そんなことはなしてくれなかったじゃないですか」
「ごめん」
「いつからなんですか? 牧場で働こうって考え始めたの」
「三年になってからかな。大学は、普通に進むのは無理って前から分かってて。特待生とかなら行けるけど、私、そこまで力ないからさ。プロって言うか実業団って言うか? それも、ちょっと厳しそうだし。それで、就職って考えたんだけど、何にしようとか、いろいろ考えて、でも、夢とか別にないし。いつもの年なら、先生がいろいろ探してくれるんだろうけどさ。今年はあんなことになって・・・」

進路指導のようなことは、普通は学校の担任なり、それなりの担当者が行うところだが、このチームでは部員の進路指導は顧問が行うのが不文律になっている。
バスケ関係での進学、あるいは就職と言うかスカウトと言うかは、特殊すぎて一般の進路指導教員には出来ないのだ。
そもそも、この選手がほしいと思ったら、学校ではなくてまずコーチに話すのが普通のこと。
そういったこともあって、バスケを使って進路を決めるメンバー以外についても、顧問が面倒を見るのが通例になっていた。

「りんねさんなら、欲しいって言うところあるんじゃないんですか?」
「選手として?」
「はい」
「大学ならね。普通に授業料収めれば入れてくれると思うよ。でも、それを免除してまで欲しいって人はいないよ」
「そんなことないですよ」
「あさみは、試合に出たことないから・・・。実際出てみれば分かるよ。同じ高校生でも自分よりすごい人なんか一杯いる。私は、確かにこのチームでスタメンで出てるけど、でも、実際には普通のセンターでしかないよ。うちで言えば、藤本くらいじゃないかな。大学でも、プロ? なんかでも欲しがってもらえるのは。あとは、里田がもうちょっと頑張ればってくらい。それに、石黒先生ってさ、選手辞めるときあんまりいい辞めかたしなかったみたい。だから、その生徒ってなると、ちょっと取るのにためらうってとこもあるみたいよ」
「よくない辞めかたってなんですか?」
「それは言えないよ。私が、たぶん、バスケで生きていけるかもしれないちょっとぎりぎりのところにいるから、先生も話してくれたんだと思うし。内緒だよ、みんなには」

スポーツ選手の、それもチーム競技の世界で、計画的ではなくて無自覚に、子供が出来たから辞めます、というのは周りからすれば迷惑だ。
生徒は全然関係ない、という考え方は当然あるが、石黒としては、進路指導にあたって、そういうこともありえるよ、と生徒に伝える誠実さはあった。

「とにかく。私は牧場で働く。今日決めてきました。それを報告したくてあさみを呼んだの。ずいぶんちゃんと話してなかったしさ。もう、あんまりこういう時間もないから」

三年生は冬の大会で引退する。
寮生としてはどう暮らすか、というのがあるが、年が明けると学校は自由登校になる。
バスケで進学するというような生徒は、新キャプテンの指揮下に入って練習に参加し、五対五なんかでは新スタメンにとっての格好の練習相手になったりするが、バスケに関係なく進学就職が決まっているものは、卒業式ぎりぎりまで実家で過ごすことも多い。
りんねも、自分がいるのは次のキャプテンにとってやりづらいこともあるだろうからと、年が明けたらしばらくは実家で過ごすことにしていた。

「あの」
「ん?」
「私、あの、一度も、りんねさんと同じ、ベンチに入れなくて、あの、ごめんなさい」

あさみはひざを抱えて、その上にあごを乗せた。
りんねは、あさみの方を見るでもなく答える。

「私も、あさみが登録メンバーはいるかぎりぎりなの分かってて、あんな提案しちゃってさ。悪かったって思ってる。でもね。どうしても。どうしても、尋美だけは、あんな風にしていなくなった尋美だけは、チームの中にいさせてあげたいって思ったんだ。自分の言ってることが正しいのかとかよく分からなかったけど、でも、わがままかもしれないけど通させてもらった」
「いいんです。それは。尋美さんは、何も無ければ絶対ベンチにはいる人でしたから。私が下手だからいけないんです。りんねさんに、りんねさんに指導係ついてもらったのに、ベンチにも入れなくて、役に立てなくて、ごめんなさい」

目立ちたいとか、試合に出たいとか、そういうことじゃなかった。
自分が役に立てないことが悲しい。
りんねさんのために、役に立ちたい。

「あさみ」
「はい」
「藤本が言ってたよね。ベンチに入ることだけが一緒に戦うってことじゃないって。私もそう思う。あさみが、たとえベンチに入れないとしても、チームの一員だし、チームのために出来ることはある。役立たずなんかじゃないよ」
「そうかもしれないですけど・・・」
「あのね、お願いがあるんだ」
「なんですか?」
「本当は、キャプテンやってる私がどうにかするべきことなんだろうし、原因は私が作ったことなんだけどさ。藤本と里田。仲直りさせて欲しい」

あさみはりんねの方を見る。
りんねは、寄りかかる壁と背中の間においていた枕を太股の上に置きなおした。

「あの子達、もめたとき分かりやすいね。すぐに周りに伝わる。いつも、それを時間かけてあさみが元に戻してきたんでしょ。でも、今回は時間がないの。最後の大会の直前にこれじゃ困る。私がどうにかしなきゃいけないことなんだろうけど、でも、あの二人のことはあさみが一番だと思う。だから、あさみ、お願い」
「不思議なんですよね、あの二人、というか美貴。元々の原因が全然別のところでも、そのことでまいと意見が合わないと、まいとけんかになるんですよ。今回も、りんねさんが、りんねさんが悪いわけじゃないけど、言い出したのりんねさんじゃないですか。それで、納得いかないって言ってるうちにヒートアップして、意見が違うまいとけんかになって・・・」
「藤本は、別に悪いわけじゃないんだよね。いままでのは、私も全部原因知ってるわけじゃないからなんとも言えないけど、今回のは、藤本が悪いってわけじゃない。だから、悪者にしない形で仲直りさせてあげて欲しいんだ」
「私も、多分まいも、美貴の意見が悪いとは思ってないですよ。でもあの子、言い方とか表情とか、聞いてる方をむかつかせる部分が一杯あるから。結構大変なんですよ、仲直りさせるの」
「うん、分かってるつもり。だけど、お願い。里田ともめてることだけじゃなくて、藤本、なんとなく、集中できてないというか、あって。だから、あさみ、なんとかしてもらえないかな」
「私で何とかできるのか分からないですけど、りんねさんの役に立てるなら」
「おねがい。ホント、おねがいね」

りんねにも、自分の意見を押し通したという負い目がある。
藤本と直接話をして、里田と和解させたり、チームとして勝つことに集中させたりすることに自信が無かった。

「あー、大変だよ、キャプテンやるって」
「りんねさん、もっと早くそうやって愚痴言えばよかったんですよ」
「だって、なんか、ちょっとでもそういうこと言ったら、もう全部逃げ出しちゃいそうな気がしてたから」
「結構寂しかったんですよ、何も言ってくれないの。心配だったし」
「ごめん」

そういってから微笑むりんねの顔が、あさみは久しぶりに見る表情に感じた。
二人はそれから、あまりバスケそのものとも卒業後のこととも関係ない、日々の暮らしで沸いてくる無駄話をして、ゆっくり過ごした。

翌日から、あさみはどうにかきっかけを探そうとするけれど、なかなかつかめない。
同じ部屋ということもあり、藤本とは長い時間一緒にいるのだが、話題を持っていきにくかった。
その話をするな、という雰囲気が藤本の体からオーラのように流れている段階で、そこに踏み込んでいけるほどあさみは強くない。
こういうとき、大抵は時間をかけて、仲直りしなきゃまずいよな、と思い始めた感じが見えてきたころに話を振っていた。
だけど、今回は時間もあまりない。

ただ、チームとして、練習中などにそのせいで問題が生じるということは無かった。
石黒コーチから、集中力に欠けすぎる、と叱られはするが、里田にパスは出さないとか、そういう露骨なことをするほど子供ではない。
それでも、ワンプレーワンプレーの確認などの場面で、同じチーム内にいるりんねとしては、ぎすぎすした部分がはっきりと感じ取れてしまう。

大会のために東京へ出発する前日。
軽めの練習を終えてメンバーたちは花束を持って全員である場所へ向かった。
夏の事故の現場。
ユニホームを与え、ベンチで一緒に戦う、という形になっているが、それはそれとして、これから戦いに行くことを、告げる。
改めてこの場所を訪れると、冷静でいるというのはなかなか難しいこと。
多くの三年生が涙をこぼしている。
あさみは、その輪の一番後ろにいた。
隣には、なんとなく控えめに藤本もいる。
ひろみさんのことをあさみが思い出さないわけではない。
だけど、それよりも今は、里田と藤本の間をどうしよう、ということで頭が一杯である。
そのためもあって、感情はあまり動かされずにその場で見ていると、隣の藤本が涙ぐんでいるのが見えた。

すでに出発の前日の夜。
一回戦は明後日だ。
藤本は、部屋で荷物をまとめている。
ここ数日は、当然ながら里田の部屋に行くということもない。
ノックの音がして、あさみは立ち上がってドアの方へ向かう。
藤本が手を止めて見ているところに入ってきたのは里田だった。

「あさみ、呼んだ?」
「呼んだ。入って」

普段なら、ノックしてそのまま自分で入ってくるところ。
だけど今日は、あさみが招き入れるまで入って来ようとはしない。
藤本も、止めていた手を動かして、荷物のパッキングのパズルに取り組んでいるように振舞う。

「美貴もちょっといい?」
「なに? 私、準備終わってないんだけど」
「なんの用なの? 準備で忙しいのに呼び出して」

藤本は部屋の奥で荷物に向き合い、里田は入り口側、あさみのベッドに座って、早く部屋に戻りたそうにしている。

「美貴、来て」
「なーに! もう。忙しいんだけど」

そう言いながらもとりあえず手は止める。
床にぺたっと座っていた藤本だったが、自分のベッドに座りなおし、目線の高さは里田と同じところになる。
ただ、二人が向き合うかというとそうでもなく、お互いに同じ方向を向いて、あさみの様子を伺っている。

「美貴、まい」
「だから、なに」
「お願い。仲直りして」

単刀直入。
はっきりそう言われると、藤本も里田も、ちょっと二の句はつけられない。

「先輩たちの最後の大会なんだよ。なのに、もう明日は出発なのに、二人でけんかして。それどころじゃないよ。とにかく仲直りして」

藤本と里田、それぞれチラッと互いの方を見るが、一瞬ぶつかった視線はすぐに外す。
あさみの言葉が止まって、先に口を開いたのは藤本だった。

「仲直りって言うかさ、別にけんかじゃないんだよね。私は納得いかないって言ってるの。謝って欲しいとかそういう問題じゃなくてさ。納得いかないのよ」
「いまさらそんなこと言ったってどうにかなることじゃないでしょ。美貴はいつもそうなのよ。どうにもならなくなってもグチグチグチグチ言って」
「いつもってなによ」
「もうやめて!」

珍しく、あさみが怒鳴った。

「なによ二人して! いい加減にしてよ! 二人がけんかしてちゃ試合にならないでしょ! 私たちのことも考えてよ! 試合に出られない私たちのことも! 試合に出る、中心の選手の二人が、そんな風にけんかしてるのがどれだけ腹が立つか分かる! 試合で、勝つために、チームのために頑張れるのがどれだけうらやましいか分かる? なのに、なんで、こんな風にけんかして!」

いつも温和なあさみに怒鳴られて、二人は黙り込む。
けんかしてる場合じゃない、そんなこと頭では分かっている。
だからこそ、里田はあさみに呼ばれて、用件がなんだか分かりきっている上でこの部屋に来た。
だけど、感情が、それぞれの感情が、その理性に従わない。

「先輩たちの最後の大会なんだよ。今年、いろんなことがあって、すごいつらかったけど、でも、それも過ぎて、こうやって最後の大会を迎えてさ。りんねさん、本当にチームのために頑張ってくれたじゃない。りんねさんだけじゃない。先輩たちみんな、最後まで頑張ってきてさ。それを、二人で全部台無しにするの? 美貴、尋美さんの事故の現場で泣いてたよね。美貴が、尋美さんのことがどうでもよくて、ああいう風に言ったんじゃないって分かってるよ。分かる。分かるよ。まいだって分かるでしょ。それに、まいも、別に美貴のことが嫌いで、美貴の意見に反対したんじゃないよ。もうやめようよ。こんなさ。お願いだから!」

りんねさんに頼まれたから。
チームが勝ってほしいから。
それだけじゃない、自分自身の怒りや苛立ちや、いろいろな感情がごちゃまぜになって、口から出てくる言葉が理性的ではなくなってくる。
そんなあさみの姿が目の前にあって、里田と藤本は、少し顔を見合わせた。

「お願い、仲直りして」

半泣きのあさみが、左手で里田の手をとり引っ張る。
里田を立ち上がらせて、あさみは右手で藤本の手をとった。
里田も藤本も、いまさら抵抗することも出来ず、あさみに取られたそれぞれの手を重ねた。

握手、といえば握手。
ただ、藤本も里田も、なんともバツが悪く言葉は交わさない。
手を合わされたから仕方なく握っておく。

「これで、大丈夫だよね?」
「う、うん、まあ、たぶん・・・」

藤本が曖昧に言葉を返すだけで、里田もなんとも答えない。
それでも、とりあえずあさみは納得した。

「まい、ありがと。荷物一杯合って準備大変なのに、ごめんね」
「いや、いいけど」
「ありがと」

里田は、結局言葉少ないまま部屋を出て行った。

あさみはベッドに横になり、藤本は荷物に向き合う。
里田が来る前の姿に戻る。
背中を向けていた藤本が、あさみの方を向いて口を開いた。

「あさみ」
「ん?」
「まいとはさ、けんかしてる場合じゃないっていうのは私だって分かってるよ。でもさ、明日からすぐ何のわだかまりもなく、ってのは難しいよ」
「そんな・・・」
「もちろん試合に影響させたりとかしないけどさ、でも、やっぱり引っかかるもん」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」
「でも、引っかかるものは引っかかるの。今までだってそうだったじゃない。けんかしたら、ちょっとづつ時間かけて元に戻る感じで。だから、心配はしないで」
「でもさあ」
「大丈夫。だから、あんな、なんか無理やりとってつけたみたいな感じのはやめて」

元々のきっかけは、登録メンバーをどうするか、という件だった。
それについては、藤本は、今でも正しくないと思ってはいるが、それをもうどうこうしようという気はない。
それよりも、里田とぶつかった、という事実の方が、藤本の頭に残っている。
なんであんな言い方するかなあ、とか、お互い、そういうレベルの話だ。
藤本は里田が嫌いなわけではないし、多分里田にも嫌われているということはないだろうと思っている。

「本当に、心配しないで大丈夫なの?」
「うーん。じゃあ、心配はしといて」
「なによそれ」
「あさみ、今回に限ってタイミング悪いんだよ。いつもは、こう、なんか、きっかけが欲しいなあって時に、うまくもっていってくれるのに。なんで、今回だけそんなに焦るの?」
「りんねさんに頼まれたんだもん。あの二人何とかしてって」
「それでかー。まったく、主体性が無いんだから」
「なによその言い方」
「あ、ごめん。でも、あんまり心配しないで。なんとかなるから」

それだけ自信持って何とかなるって言うなら、さっさと仲直りしてくれ、とあさみは思ったが、口にしなかった。
藤本は、そこで会話を打ち切って、また、あさみに背中を向け荷物と向き合った。

 

全国の代表校が、選抜大会に向けて最後の調整をしているこの時期、予選で負けたチームは新チームがすでに動き出している。
吉澤たちにとっては、まず、目の前に新人戦の県大会前の地区ブロック予選がある。
昨年よりも一週間スケジュールが後ろにずれて、よりにもよって冬休みに入るクリスマスを含む週での開催になる。
選抜大会と重なる時期。
保田が引退したとはいえ、インターハイ予選優勝時のスタメンが全員新チームに残っている市立松江にとっては、ブロック予選程度は苦もなく勝ちあがっていくことは出来る。
とはいえ、目の前に試合があるのは目標にはなるものだ。
そんな、新チーム最初の公式戦の前日、あろうことか吉澤は練習をサボった。

りんねのように、就職活動だったというわけでは当然ない。
完全な私用。
午前中のみの授業を終えると、さっさと学校を抜け出した。
サボる、とは言いづらかったので、駅まで着いてからあやかにメールだけ入れておいた。
即、返信メールではなくて、電話がかかってきたが、出なかった。
あやかが知らせたのか、市井からも電話があったが出なかった。

吉澤は、電車で一時間揺られて出雲へ向かう。
行きついた先には、目を丸くする飯田がいた。

「あんた、何しに来たの?」
「だから、あの、練習見せてもらえますか?」
「見てどうするのよ」
「いいじゃないですか、それは」
「対戦相手の偵察とかいうのなら分かるんだけど、圭織のいるうちのチームと試合することもうないでしょ?」
「それはいいんです。とにかく、見せてもらえますか?」

吉澤は、飯田たちが練習する体育館へ来て、練習する姿を見せてくれと言っている。
前約束なく、突然やってこられてそんなことを言われても、飯田としては戸惑うばかりだ。

「ていうかさ、せっかく来たなら練習付き合いなさいよ」
「でも、大事な時期に邪魔しちゃ悪いですし」
「ここに来てる時点で邪魔よ。あー、もういいわ。その辺座ってな。大事な時期に怪我させられても困るから。あんたと違って、こっちは明後日から試合だし」
「うちも明日から新人戦のブロック予選です」
「ブロック予選? なにそれ?」
「いいですよ、もう。ここで見てますから、気にしないで練習してください」
「ああ、そう」

新人戦の地区ブロック予選は、選抜大会に出場するチームは参加せずに、第一シード扱いでいきなり県大会にはいる。
三年連続で選抜大会に出場する飯田は、ブロック予選に出たことはないし、そんなものが存在することすら理解していない。

「で、何しに来たの?」
「だ・か・ら、練習見せてくれるんですか? くれないんですか?」
「意味わかんないけど、勝手にすれば」

練習を見に来た、というのはよく分かったのだが、なんでわざわざ見に来たのか、という理由が結局のところ、飯田には読み取れなかった。

タイミング的にはアップのランニングが終わったところ。
珍客は隅において、飯田は練習を再開することにする。

吉澤のことは当然チーム全員顔は知っている。
何をしに来たか、というのは飯田に限らず誰もが気になるところだ。
そんな好奇の視線にさらされながら、吉澤は隅で練習の様子を見ている。

飯田が指揮を取っていた。
試合の時に見かけた先生らしき姿が無いなあと思う。
メニューは軽め。
負荷の軽い練習を終えて、五対五にさっさと進む。

五対五、やっぱりとにかく飯田さんのチームだよなあ、と思う。
ディフェンスがかわいそうなくらいにゴール下の支配力がある。
プレイヤーとして、自分が敵うかといえば、やっぱりちょっと二枚くらい下のような気がしている。

吉澤は黙って練習を見ていたし、飯田たちも吉澤の存在は完全に無視して練習をしていた。
それほど長い時間はかからずに練習は終わる。
ミーティングが終わると飯田が歩み寄ってきた。

「終わったけど。これで満足?」
「ええ、まあ」
「あんた結局何しに来たの?」
「飯田さんが練習してるとこ見てみたいなあと思って」
「なに? 私のファンにでもなった? サインあげようか?」
「別にいいですよ、そんなの」
「ああ、そう」

飯田は無表情に首をひねる。
ここに吉澤がいることが本当に意味不明なのだ。

「暇?」
「まあ、後帰るだけですけど」
「じゃあ、ちょっと付き合って」
「いいですけど」

どこかへ連れて行かれるのかと思ったら、フロアの上に引っ張り出された。

「そこ、両手上げて立ってて」

フリースローラインの少し内側。
吉澤を立たせて飯田がシューティングをする。
ただ立っていてくれる適当な高さの壁、というのは結構ありがたい存在だったりするのだ。

「飯田さん、フェイドアウェイまでやるんですか?」
「うるさいなあ。壁がしゃべらないでよ」
「すいません」

吉澤を黙らせて、同じ位置から何度もシュートを打つ。
入ってゴール下に落ちたボールは吉澤に拾わせて。
忠実な犬のように、吉澤はボールを拾い飯田に届ける。
三本続けて決めた後、飯田が口を開いた。

「あんたと違って、私は明後日から試合だから。二つ勝ってもう一回みっちゃんとやるの。あんたみたいなへなちょこと違ってみっちゃんは簡単じゃないから。ちょっとでも新しいことしないと」

フェイドアウェーシュートというのは、真上にではなくてやや後ろ側へジャンプして打つシュートのこと。
真上に飛ぶよりもディフェンスから離れる分、シュートがブロックされにくくなる。
吉澤は、みっちゃんて誰だ? と思ったが、何も言わなかった。

何十本と繰り返す。
本数は数えていなかったけれど、飽きてきた吉澤は適当にブロックに飛ぼうとしてみたりと動きをつける。
飯田はそれに対して特に文句は言わず、ただシュートを打っていく。
ボールは吉澤に拾わせ、自分は繰り返しシュートを打つ。

五本続けて決めたところで、満足したのか飯田は切り上げた。

「ボール片付けといて」
「いや、あの、片付けてってどこに?」
「その辺にボールケース転がってるでしょ」
「はぁ」

コートの隅にはボールケースが数袋確かに転がっている。
吉澤にボールは処理させ、飯田は自分のタオルを取り上げ汗を拭いていた。

「帰り道分かるの?」
「来た道帰れば駅まで付くんじゃないですか?」
「方向音痴には無理でしょ。道に迷って恨まれてもいやだから待ってれば送って行ってあげてもいいよ」
「いや、別に、方向音痴じゃないっすけど」
「圭織着替えてくるから」

有無を言わさずかよ、と思ったけど言葉を返す余裕もなく飯田は去っていった。
飯田がいなくなると、吉澤にとってはちゃんとした知り合いの誰もいないよその体育館。
居心地悪すぎるので外に出て、入り口の階段に座り込む。

そこまで出ても居心地の悪さは変わらない。
ひとの学校に一人でいる、というのは落ち着かないものだ。
だからと言って黙って帰るわけにも行かない状況になってしまっているのでおとなしく待つ。
やがて、飯田が一人で出てきた。

「シロクマ、帰るよ」
「し、しろくまってなんですか!」
「太りすぎなのよ。圭織に負けるのなんて普通のことなのに、それくらいでストレスためて、食べて食べてぶくぶく太るとか、バカじゃないの?」

意外と、腹は立たなかった。
自分の能力が飯田よりも劣っているということで悩んでいるのか、という点は正確には少し違うような気はするが、あれこれ悩んでいるというのと、食べて太ったというところはその通りだ。
福田とか市井とか、他の人に言われたら腹も立てたかもしれない。
だけど、飯田に言われても、あまり腹は立たなかった。

「それで結局何しに来たの?」
「いや、だから、練習見に」
「圭織のこと見たくなるような理由がなんかあったんでしょ?」
「いや、あの、飯田さんは、どんな風にキャプテンやってるのかなと思って」

飯田は吉澤の方を怪訝そうに見て、また視線を前に戻す。
何も言葉が返ってこなかったので、吉澤は続けた。

「国体の時は飯田さんキャプテンだったじゃないですか。でもあれって、なんか特殊なチームって言うか、一時的なもんだし。それで、いつものチームじゃどうなのかな? と思って。もうチャンスないから、部活サボって見に来たんです」
「そんなの見てどうするのよ?」
「私、キャプテンになっちゃったんで。それで少しでも参考に出来たらいいなと思って」
「ふーん」

面白くもなさそうに飯田が答える。
吉澤は、そんな飯田の方を見て問いかけた。

「驚かないんですか?」
「何が?」
「吉澤がキャプテンになったこと」
「ならなかったほうが驚くでしょ」
「なんで?」
「なんでって、圭ちゃん抜けたら次は吉澤でしょ」

間の説明が何もありえないくらい、あたりまえのこととして飯田は捉えていた。

「でもさあ、参考にするなら圭ちゃんでいいんじゃないの?」
「私じゃ保田さんみたいには出来ないし。かといって飯田さんみたいにも出来るわけはないとは思ってるんですけど、でも、ちょっとはなにか、自分でも出来る部分があるんじゃないかと思って」

吉澤にとっては師匠に当たる人間が三人いる。
最初にある程度まで育ててくれた矢口。
一番長い時間、一番近いところで鍛えてくれた保田。
そして、一番大きな壁として常に目の前にいた飯田。

それぞれの背中を見てきた。
どれも、そのまま自分が同じことを出来るような先輩たちではない。
だとしたらどうしたら良いのか?
自分に出来ることは何か?

「バカなんじゃないの?」

冷たい声で飯田が言う。
吉澤は、やっぱり意外と腹が立たない。

「圭ちゃんみたいな吉澤とか、圭織みたいな吉澤なんて気持ち悪いだけでしょ。好きにやればいいじゃない」
「でも、飯田さんとか保田さんみたく、私、なんでも迷いなく決めてみんなを引っ張るとか、そういうことできないし。なんであんなふうに、自信持って出来るんですか?」
「だからバカだって言うの。圭織や圭ちゃんが、何の迷いも無くて悩みも無くて、いつでも自信たっぷりでキャプテンやってると思ってるわけ? 悩むに決まってるじゃないの。怖いし、つらいし。ダメだったらどうしようって、いつも思うよ。頭禿げそうだよ。いいじゃない、あんたなんか。つらいときにはあやかに言えば慰めてもらえて、試合の時はあややが点取ってくれて、戦術とか難しいことは明日香が考えてくれて。圭織なんか、ほとんど一人で背負ってたんだよ。先生、確かに知識あるけど、でも、最後の練習の日なのに職員会議出なくちゃだめとか、そんなだし。うちのチームは、圭織が点取れば勝ちで取れないと負けってチームで。だから、国体の選抜チーム、圭織と同レベルでいろいろ話せる子がいて楽しかったよ。考えること少なくて済んだし」

淡々と語っているように見えて、言葉の端々から少しづつ感情がこぼれて見える。
確かに自分には、あやかや松浦や福田や、そういう周りのメンバーがいる。
そういうメンバーがいるなかでキャプテンをやることが、自分にとっては重荷に感じていた。
飯田のように、実力でぬきんでた所に自分がいられれば楽なのに、と思っていた。
なのに、本人はそうじゃないと言う。

「あとは、吉澤が決めるだけでしょ」
「なんですか? 決めるだけって」
「自分がキャプテンなんだ! って。チーム背負うって、そう決めれば終わりでしょ。ていうかさ、一ヶ月たってんじゃないの? そっちは、代替わりして。圭織に言わせれば、何をいまさらごちゃごちゃ言ってるの? って感じなんだけど」
「それは、そうなんですけどー・・・」
「別に、立派なキャプテンになろうとか思う必要なんか無いけどさ、自分がキャプテンなんだ! って決めておかないと、ダメダメなチームになると思うわけよ、圭織は」

自分が、宙ぶらりんなままではいけない、それは言われるまでもなく思っていること。
明日、新チームとしての最初の試合がある。
だから、それまでに何とか、そう思って飯田の姿を見に来たという部分はある。
駅に続く階段のところまで来て、飯田は立ち止まった。

「電車の乗り方は分かる?」
「いや、あの、さすがに子供じゃないですから」
「じゃあ、圭織はここで戻るから」
「帰らないんですか?」
「圭織自転車通学だし。ちゃんと部室使うの今日で最後だから、みんなで挨拶もするし」
「わざわざ吉澤のこと送ってくれたってことですか?」
「方向音痴に恨まれても困るから」
「いや、方向音痴じゃないですって」

階段に、一段だけ上がって飯田より目線が高い位置にある吉澤。
大げさに否定してみるが、飯田の無表情は変わらない。

「あのさ、圭織は、吉澤たちと違って明後日から東京で試合なんだけど、応援の言葉とか無いわけ?」
「あ、はい。頑張ってください」
「圭ちゃんに文句言われないような試合はしてくるよ」
「はい、お願いします」
「じゃあね」
「あ、ありがとうございました」

飯田が背中を向けたので吉澤は階段を上っていく。
7段ほど上ったところで飯田の声が後ろから飛んできた。

「ポチ!」

声が飯田だったので振り向く。
自分の方を見ていたので、私? という意味で自分の顔を指差すと、飯田はうなづいた。

「島根の未来はポチに任せる」
「ポチってなんですか?」
「あんたのこと。圭ちゃん以外みんな残る吉澤のところに、うちの一二年じゃ勝てないだろうから、来年は任せるよ」

なんでポチ? と聞きたいが、あまりに当たり前のことのようにスルーされたので、そこは聞けなかった。

「じゃあ、またね。圭ちゃんによろしく」

それだけ言って飯田が去って行こうとするので、今度は吉澤が声をかけた。

「飯田さん!」
「なに?」
「シロクマよりはポチのが大分いいです」
「じゃあね、シロクマ」
「ひどいですよー!」

飯田はもう振り返らずに後ろを向いたまま二度手を振った。
吉澤はその背中に向かって黙って深々と頭を下げた。

翌日、吉澤は試合に向かった。
会場の最寄の駅で出会ったあやかには、なんで昨日休んだの! と抗議を受けたが、曖昧にして答えなかった。
地区予選は8校が参加。
トーナメント形式で行われる。
初戦で負けても、三つ勝って優勝しても、どちらでも県の本大会に進めるが、シード順に影響を与える。
そんな試合。
県大会のさらに前の地区大会で、しかも、負ければ終わり式のものではないので、会場は比較的ゆるい雰囲気になっている。
いつも通り、前の試合のハーフタイムから外でアップを始め、残り三分のところで中澤が呼びに来てコートに向かう。
前の試合はわりと競っていた。
負けても問題ないからといって、適当にやって負けちゃおうという感覚で試合が出来ることはめったにない。
スタンドの上の空気とは関係なしに、コートの上の人間は真剣だ。
そんなコートの上の人間の気持ちに関係なく、待っているチームは無責任な発言も多い。

「お願いだから延長にだけはならないで」

「三十秒で五点あるんだから、タイムアウトなんか取らずにあきらめちゃってよ」

そんな松浦の言葉を聞いて、入部してきた当初は素直なかわいい一年生だったのにな、などと吉澤は思っていた。

試合は延長にはならずに三点差で終わる。
前のチームが出て行くのも待たずに、荷物は隅に置いてコートに出てアップを始めた。

試合前のアップを仕切るのは吉澤も初めて。
次なんだっけ? とあやかに確認したりしながら体を動かす。
いつものメニューをこなして、最後のフリーシューティングの段階になったところで吉澤はコートから上がって中澤の元に向かった。

「メニュー忘れるなや」
「いいじゃないですか、そんな細かいこと」
「まあ、別に、同じことせんでもええしな。吉澤の好きなように代えても文句は無いけど」
「試合前のアップにこだわっても仕方ないですし、あのままやりますよ」

ベンチの隅に座る中澤と吉澤はタオルで汗を拭きながら話す。

「先生、一分だけ私にくれますか? みんな集めてから」
「別に、そんなん断らんでも、好きにしたらええやん」
「いや、先生がコーチですし」
「吉澤の演説聞きたいし、ええよ」
「演説って、そんなたいそうなもんじゃないですけど」
「新チーム最初に試合やから、キャプテンから一言あってもええと思うよ。昨日サボった謝罪は試合の後でもええし」
「いや、それは、勘弁してくださいよ」

コートの中央でレフリーが笛を鳴らし三分前のコールをした。

「集合!」

メンバーがベンチに戻ってくる。
中澤が立ち上がってそれを迎え、輪の中心になる。
吉澤はその中澤の隣に立った。

「今日の試合直接関係無いんだけど、ちょっと、私から、いいかな?」

全員への問いかけ。
特に返事はなく、ああ、なんか語るんだな、とそれぞれが空気を受け止める。
吉澤は、話し始めた。

「キャプテン指名されて一ヶ月。ホントに私で良いのか? ってずっと考えてきました。私は保田さんみたいには絶対できないし、バスケの実力も、飯田さんのような絶対的なエースというような存在でもないし。だいたい、この前の予選、最後に負けたのは私のせいだったわけで。そんな私がキャプテンなんかやっていいのか? ってずっと考えてきました」

目立った反応はない。
吉澤は言葉を切って全員を見回す。
あやかと松浦とは目が合った。
市井はボールを小脇に抱えて聞いているのかいないのかもよく分からない。
福田は隣にいて、近すぎるので目も合わない。

「すげー悩んでさ。市井さんやあやかしかわかんないだろうけど、修学旅行じゃ転校する前の学校行ってみたりとかさ。昨日、サボったのは、実は飯田さんのとこで練習見てきたりしてました。その辺と、保田さんとあわせて、やっぱ、私には、そういう先輩たちと同じようなキャプテンは出来ないなって思いました」

そこまで言うと、何を言い出すんだ? という風に市井も吉澤の方を見る。
隣の福田も、顔を吉澤の方へ向けるが、それでも誰も言葉は発しなかった。

「でもさ、いまさら辞めるってわけにもいかないと思うわけでさ。どうしようかなとか、いろいろ思ったんだけど、私は、保田さんとか、先輩たちみたいにはできないけど、それでも、自分なりに、このチームでキャプテンやっていこうと思う。それでさ、保田さんに指名された形なんだけど、でも、みんなから承認されたわけじゃないからさ、確認したいんだ。みんな、私のことキャプテンとして認めてくれますか?」

全員に問いかけた。
たまたま、そのとき、正面にいた松浦と最初に目があった。

「あたりまえじゃないですかー。松浦は吉澤さんに一生ついていきますよ」
「最近、あややのそういう言葉は信用置けないんだよ」
「そんなこと言って、うれしいくせに」
「じゃあ、私も一生ついていく」
「あやかは本当に一生ついてきそうで怖いんだけど」

吉澤の真剣な問いかけだったのに、一気に場がくだけてしまった。
ため息交じりに市井が言葉を飛ばす。

「おまえ、一ヶ月もたってまだそんなこと言ってるのか?」
「うるさいですよ!」
「明日香もなんか言ってやりなよ」
「吉澤さんがキャプテンにふさわしくないかもって思ってるのは吉澤さんだけですよ」
「いつからそういう回りくどいお世辞言うようになったんだ?」
「私は自分が思ったこと以外は言いません」
「ああ、そう・・・」

真顔で返されると、なんとも二の句をつけにくい。
生徒たちのコメントが一息ついたように見えたところで、中澤が言った。

「いきなり責任背負わされるってのは重いけど、背負う覚悟がやっと出来たっと思ってええか?」
「うーん、たぶん、私一人じゃ背負いきれないです。保田さんと同じ量は。でも、こうやってみんないるから。ゲーム作るのも、点取るのも、試合で頑張るのもみんないるし、私が頼りなくてもあやかもいるし、それに、このチームにはなぜかキャプテンより年上の選手もいるし」
「うるさいなー。まだ何日かはタメだぞ」
「私ひとりじゃ背負えないと思うけど、でも、真ん中は背負おうって決めました」
「そっか」

中澤はうなづく。
吉澤が悩みながら練習していたのは見ていて当然分かっていたが、今日まで特に何も言わなかった。
何を言って良いか分からない、というのもあったが、自分で結論出すまで待つしかないとも思っていた。

「それでさ、今日、一つ決めたいと思うんだ」
「何をですか?」
「目標。私たちの目標。このチームでの」

今日、新チームが結成されてからの初戦。
その開始前に、吉澤は目標を決めたいと言う。
メンバーたちは、吉澤の次の言葉を待った。

「一年後、ここにはいない。一年後は、この、新人戦の地区大会なんかじゃなくて、東京へ行ってウインターカップに出る。そしてそこで優勝する。それがこのチームでの目標。それでいい?」
「大きく出たな」
「夢は大きい方が良いですよね」
「福田、なにか言いたそうだな」
「夢とか思ってる人がいるうちは無理なんじゃないですか?」
「厳しいな」
「私は出来ると思ってますよ」

こうやって自信を持って言い切られると、吉澤は、やっぱり自分よりこいつがキャプテンのがいいんじゃ、と思わないでもない。
それでも、もう、そんなことは口にはしなかった。

「あやかは?」
「私はどこまでもよっすぃーについていくよ」
「答えになってないよそれ」
「十分なってるでしょ」

レフリーが笛を鳴らした。
試合開始の刻限。
相手チームのメンバーはセンターサークルに並びだす。
キャプテンがどう、目標がどう、と言っている時間はもうない。

「吉澤、全部あんたの言うとおりでええは。キャプテンも、目標も。それより、相手さんがお待ちやで」
「はい。じゃあ、まず、今日は勝つ。オーケー?」
「オーケー!?」

いつもの試合前と乗りが違って、なんだか声もそろわずに、そのままスタメン組みがTシャツを脱いでセンターサークルに向かった。
吉澤、あやか、市井、松浦、福田。
来年、新入生が来るまでは、このスタメンで戦っていく。
保田が抜けた新しいチーム。
新人戦の地区予選、三試合とも100点ゲームで簡単に優勝勝ち抜けした。

 

全国からの代表チームは、男女それぞれ四十八チーム。
大会は7日間あるが、女子は初日の一回戦で三分の一に当たる16チームが消えていく。
東京体育館のアリーナで、CSのテレビ中継まで入って、これから一週間にわたる大会の開会式を壮大に行っても、三時間後には大会が終わっているチームもある。
トーナメント戦は、一試合ごとに消えていくチームが生まれるもの。
冬の全国高校選抜大会が開幕した。

「星四つってどんだけ強いのかな?」
「関係ないよ、そんなの」
「そうだな」

一回戦はアリーナで三コート、さらに地下にあるサブコートまで使って、四試合が同時に進行する。
矢口や後藤、東京聖督は、開会式直後に初戦をアリーナの中央コートで戦う。
相手は、バスケ雑誌で星四つの評価が付いた滝川山の手だった。

「なんかさあ、おいらたち、地元のホームのはずなのにアウェーの空気なのは気のせいか?」
「やぐっつぁんが悪役キャラだからじゃないの?」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味だけど。でも、しょうがないよ。ごとーだって、自分たちが相手じゃなければちょっと応援しちゃうかもしれないし」
「カメラ、こっちも写してくれないかなあ?」
「星一つ半じゃ無理だよ」
「星なんか関係ないって言ったの後藤だろ」
「試合には関係ないけど、記事にするには関係あるんじゃないの?」

悲劇を乗り越えての代表権獲得。
ポイントガードの藤本(#7)、フォワードの里田(#10)を中心とした個性の強いチームを、キャプテン代理でセンターの戸田(#4)がまとめる。
順当に行けば三回戦の富ヶ岡戦が山。
藤本の突破で崩し、周りが合わせれば勝機もあるか!

トーナメント表に添えて書かれているチーム評。
稲葉の書いた記事である。
滝川山の手は、その他にも一ページの特集記事があった。
それに対して東京聖督大付属は星一つ半。

大会最小のポイントガード矢口(#4)を中心に、チームワークで初めての全国の舞台を踏む。
初戦から強敵と当たるが、全員バスケで挑む。

同じく稲葉の記事だが、何も言っていないのと等しい。
言っているのは、矢口が小さい、初出場、勝ち目無し。
プラスが何も無い。

「もうちょっと、なんかあるだろ! って突っ込みたくなるチーム評だったよな」
「どうでもいいよ、あんなの」

実績のない東京の第二代表のチーム。
そもそも、このチームの予選大会の試合を稲葉はまともに見ていない。
メンバー表から分かる、この四番ちっちゃ、というだけの情報で、チーム評は書かれた。
注目チーム以外なんてそんなものだ。

「まあでも、実際向こうのが強いもんな」
「やってみなくちゃわかんないよ、そんなの」
「つーかさあ、頼りがいありそうなコーチがベンチにいるのがうらやましいんだけど」
「やぐっつぁん、でも、ああいうチームに入ったら、規律違反とかで追放されると思うよ」
「そうか?」

試合開始直前。
すでにメンバーはランダムシューティングをしている状態で、矢口と後藤はハーフライン近くに立って相手チームを眺めている。
コートサイドに並ぶカメラマンたちは、すべてレンズを向こう側に向けたまま。
自分たちのベンチの隅でしょぼくれて座っている化学教師と、相手ベンチ前に立っている鼻ピアスを比べると、矢口はため息の一つも付きたくなる。

「ま、おいらたちは、できることをやるだけだな」

矢口は、相手チームに背を向けて、二つ三つドリブルを付いてシュートを放った。
後藤は会場全体をもう一度見回す。
お客さん一杯いてすごいよなあ、とのんきに思った。

「集合!」
「はい!」

滝川サイドは、りんねが号令をかけてメンバーたちは駆け足でベンチに戻る。
石黒コーチを中心に輪が出来る。
試合直前ミーティング。
最初に話すのはキャプテンの役目だ。

「みんな」

りんねが石黒の隣に立ち語りだす。
それを取り囲む14人は、じっとりんねのことを見つめる。

「こういうところで試合が出来るって、やっぱりいいよね」

具体的な指示、ではない。
試合の直前、指示は大体コーチが出す。
キャプテンが語るのは、精神的なこと、個人的な想い。

「いろいろあったけど、私たちはここに戻ってきました。ここで試合が出来ることがとても幸せだと思います。だから、勝ちましょう。勝って、もっと一杯試合をしましょう」
「はい!」

りんねが締めて、後は石黒が引き取る。
試合についての具体的な指示。

「立ち上がり、ファウルだけ気をつけろ。落ち着いて入ればいい。足を動かせ、手は出すな。いいか、ノーファウルだぞ」
「はい!」
「安倍」
「はい!」
「あまり気負うな。抜かれても後ろにカバーはいるというつもりでいろ。抜かれるのはかまわない。ただ、無駄にファウルはするな。いいな」
「はい!」

指示は主にディフェンスについて。
このチームはディフェンスからリズムを作っていくチームだと石黒は思っているし、ディフェンスをベースにチームを作ってきた。
そんな中で、ここ最近成長してきた麻美をスターティングメンバーに入れた。
北海道予選のころは控えの一番手、というような位置だった麻美。
高校に入って初スタメンとなる。

「藤本と安倍。二人で前からプレッシャーかけ続ければ、多少中盤までもつれても、最後は突き放せるはずだ。抜かれるのはいいから、とにかくくらいつけ。ただしノーファウルでな」
「はい!」
「オフェンスは、とりあえず自由にやれ。普通にマンツーで来るようなら藤本が自由にゲームを作れ」
「はい!」
「よし、行ってこい!」
「はい!」

石黒はそこまで言って、ベンチに座った。
各スターティングメンバーは、上に羽織っていたTシャツを脱ぎ、ユニホーム姿になる。
りんねは、ベンチの中央においてある遺影の前にかがみこんだ。

「尋美、行ってくるから。見ててね」

18番のユニホームがイスにかけられ、その前においてある遺影。
りんねがそこに語りかけると、自然と輪が出来る。
コートの反対側から、カメラマンたちがフラッシュを炊く光が浴びせられるが、誰も気にはしない。
里田も、りんねに続き、何かを語りかける。
藤本は、何も語りかけはしなかったが、遺影をじっと見つめて、それからコートに上がっていった。

スタンドの上では、今日は試合がなく、時間に余裕のあるチームが見下ろしていたりする。
据付客席数からすれば、収容人数一万人の東京体育館。
男女合わせて96チーム。
各チームに部員と関係者、合わせて三十人もいれば、それだけで三千人だ。
その他、コート整備に借り出された東京地区の高校生やらなにやら合わせると、実際は大会関係者だけで、客席の半数は埋めてしまう。
負けて帰った学校がまだなく、全チーム集まって開会式を行った初日というのは、体育館はほぼ満員なのだが、試合に集中していないものも多く、会場は常にざわついている。
第一シードで、試合は明日からの富ヶ岡も、スタンドの上にいた。

「戻ってきたね、みきてぃたち」
「そりゃあ、普通に出来れば出てくるでしょ」
「勝ち上がってくるかな?」
「来るんじゃない? 普通にやれば」
「でも、あの8番は簡単じゃないよ」
「東京聖督っていつかやったよね?」
「うん。春に試合した」

石川と柴田。
勝ち上がってくれば三回戦で当たる相手。
そういう意味では偵察、となるのだが、感覚的には単なる、観戦、という部分もある。
全国大会レベルの時は常に宿泊体制で臨むこのチームは、神奈川のチームであるにもかかわらず今日も泊まりになる。
朝の開会式に出た後、夕方、近隣の中学校の体育館を借りての練習の時間までが暇だ。
渋谷も新宿もすぐそこ、という場所ではあるが、町に繰り出してカラオケ、とか、そんな発想をする暮らしはしていない。
時間があって、目の前でバスケの試合をしていれば、当然をそれを見ていることになる。

「高橋、プログラム見せて」
「はい」
「12番って、安倍さんだよね?」
「怪我してるんじゃなかったっけ?」
「一年生ってなってる」
「妹とかかな?」
「そうっぽいね。つくとしたら柴ちゃん?」
「うーん、どうだろう? 六番とどっちかな? 見てみないとわかんないかな」

まずはスタメン品評会。
見覚えのあるようでいて実は無かった顔の一年生。
他のメンバーと違って知識が無いので一番先に気になる存在だ。

「梨華ちゃんは、聖督の8番とまい、どっちがいや?」
「うーん、嫌っていうか、聖督の8番はある意味もう一回やってみたい」
「もう一回?」
「うん。なんかさ、近くで見るとすごい無表情な美人で、それがたまになんか表情変わってさ。なんかそういう、空気変わる感じの子って気になるじゃない」
「言ってることおかしくない?」
「えー、でも柴ちゃんだってない? うまいとか下手とかとちょっと違うところで、この子と試合するの楽しい、みたいな子」
「うーん、分かるような気はするけど」

首をひねって腕を組む柴田。
石川は、大会プログラムを閉じて後ろにいる高橋に返した。

「それで結局どっちが勝つと思う?」
「滝川に三百円」
「賭けは成立しないか」

コートでは試合前の挨拶が終わり、両チームのメンバーがセンターサークルの周りに散らばる。
柴田は身を乗り出してそれを見つめた。

サークルに入ってジャンプボールを飛ぶのは里田と後藤。
他のメンバーたちはマークマンをピックアップ。
滝川の四人が相手を選んで、聖督は近づいてくる相手をただ受けた。
藤本は矢口につく。
バスケの世界では藤本もかなり小さい部類に入る。
こんなに自分より小さいのにつくのは珍しいなと思う。
下から煽られるのはうっとうしいだろうな、と少し嫌なものを感じた。

ジャンプボール。
後藤がコントロールし後ろの矢口へ。
立ち上がりの場が落ち着かない状況の中、矢口はいきなり藤本を抜きにかかった。
落ち着けてからゆっくり一本かな、と思った藤本は虚を突かれる。
抜き去られはしなかったが、簡単にトップスピードまで加速された。
一気にゴール下まで駆け込むが、藤本は付いて行っているので、そのままシュートとは行かない。
ゴール左サイドへ抜けていきキープ。
全員が中央にいたので不自然な形ではあるが、動きとしては速攻のイメージ。
遅れて上がっていった後藤へパスを入れる。
里田はしっかり付いているが、後藤はかまわずゴール下へ。
ランニングシュート、とは行かなかったが、ピボット踏んでスペースを作り、里田を動かして、ジャンプシュートを決めた。

ワンプレーだけであるが、里田は、この8番は手ごわい、と感じた。
滝川のメンバーが東京聖督というチームについて持っている情報は、大会プログラムに載っている情報、名前と身長、学年にポジションまでである。
石黒コーチは、東京地区大会のビデオは手に入れていたが、生徒たちには見せなかった。
大会前、試合に向けて想定したのは三回戦で当たるであろう富ヶ岡だけである。
一二回戦の相手についての情報は一つも与えなかった。
それでも勝てる、という想定もあったし、三回戦のための準備をそれほどつまないといけないということもあった。

エンドからボールを受けて藤本が持ち上がる。
ハーフラインまで上がったところで矢口が捕まえに来たのでハーフのマンツーかな、と思ったがパスの出し先を探すと雰囲気が違った。
この四番がトップのゾーンか? と考えてコートを見渡し、1−1−3か? 変わったことするな、とあたりをつける。
横に開いた麻美にパスを送った。
1−1−3だとすると、とりあえず四十五度が空くだろう、とそちらへ動くと四番は付いてくる。
普通にハーフのマンツーか? と思うが、ボールを持つ麻美はフリーだ。
麻美がドリブルで藤本の逆の四十五度まで入っていくと、ディフェンスが捕まえに来た。
自分だけにマークが付いたゾーン?
ボックスワン? いや、ダイヤモンドワン?
戸惑っている間に、麻美はディフェンスの脇を通してゴール下のりんねにバウンドパスを送る。
だが、しっかりとポジションを確保していない状況のりんね。
ボールはりんねにとどかずにディフェンスにさらわれた。

「二号! 不用意にパス入れるな!」

怒鳴るだけ怒鳴って慌てて戻る。
ゴール下でポジション確保できていなかったりんねはよくはないが、そんな状況をかまわずにパスを入れた麻美の方が悪い。
麻美は、藤本の言葉に答えを返す余裕もなくディフェンスに戻る。
ボールは前に走った矢口へ一本長いパスが通るが、藤本が何とか捕まえた。
矢口は一人で勝負、とドリブルのリズムを変えて揺さぶりをかけ、再度加速して抜きにかかる。
フリースローラインのあたり、藤本は左右に揺さぶられながらもコースにしっかり入り矢口を止めた。
二人目のオフェンスが上がってくる。
マッチアップは麻美のはずだが振り切られている。
藤本に止められ、ボールを持っていた矢口は四十五度のあたりから駆け込んでいく味方オフェンスへやわらかいパスを送る。
二対一の状態、藤本はボールを受けたオフェンス側を止めに動くが間に合わず、ランニングシュートを決められた。

開始一分も経っていないが、まずは東京聖督が4−0でリード。
点差がどうとか気にするような時期ではまったくないが、立ち上がりとしては藤本は気分が悪い。

「二号、無駄に攻め急ぐな」
「すいません」
「プレスで当たられてるわけでもないんだから落ち着けよ。り探せばパスの出しどころくらいあるだろ」

相手が決めて去っていき、転がっているボールを拾い上げての短い会話。
麻美がエンドからボールを入れて、藤本がゆっくりと持ち上がる。

さて、あのディフェンスはなんだ?
まず、それを見極めたい。
藤本はフロントコートに入ってもパスを出さずに、ドリブルでキープして全体の動きを確認する。

自分にはチビの四番がついている。
右に左に移動しても付いてくる。
ボールマンだから付いているというのではなく、さっきのオフェンスも考えると、自分へのマンマークと考えていいだろう。
他は全部がゾーンなのか?
麻美あたりがスリーポイントラインの外にいる限りはディフェンスは出てこない。
そのくせ、インサイドはがっちり込んでいて、りんねさんもまいもスペースがない。
形はボックスでもなくダイヤモンドでもない。
聞いたこともないけど、マンマークプラス1−3のゾーン?
ドリブルを付きながら考える。
そのとき、里田が外に開いた。
ディフェンスが付いていく。
まいのもマンマーク?
中を見ると、りんねがハイポストへ上がって、そこのディフェンスにつかれ、ゴール付近は両サイドに二人ディフェンスがいる。

見慣れない形だったので、システムを把握するまで時間かかったがやっと分かった。
トライアングルツー。
ゴール周りに三角形のゾーンを組み、他の二人がマンマークにつくからトライアングルツー。
藤本は一度だけこのディフェンスを見たことはあった。
ただし、それは、漫画の中の世界だ。

どう崩す?
理解できたところでとりあえずパスを落とす。
麻美にボールを任せて自分は0度へ降りる。
ついてくる四番がうっとうしい。
マンマークなのだからディフェンスが付いてくるのは当たり前なのだが、なんだかこの四番はそれ以上の意味でうっとうしい。
藤本は、自分より小さな相手、というのが少なくて慣れていないため、目の前でちょこまか動く存在の目障りさ、というのへの免疫がない。
その上、この四番はボールの無いところでは常に自分の体のどこかへ手を触れている。
ディフェンスの一つのやり方、一つの癖としてそういうのがあるのだが、それも藤本には気に入らない。

ボールはしばらくまわってから藤本のところへ降りてきた。
そのまま右のローポストで面を取ったりんねへパスを入れようとする。
いつもの癖で、右手でバウンドパスを通そうとしたら、相手がいつもより低かった。
バウンドパスはフェイクということにして、左にワンドリブル付いて移動してからりんねへ山なりにパスを入れる。
りんねはターンしてゴール下へ入り込むが、藤本のワンフェイク分時間がかかり、逆サイドからカバーがすでに入っていた。
一対二の形。
シュートが打てる状況で無いので外に見えた里田へパスを出そうとしたが、後藤にさらわれた。

速攻にはならない。
矢口が藤本に張り付いていた分、逆に、藤本もすぐに矢口を捕まえられる。
ボールを受けた矢口は藤本によってスローダウンさせられ、ゆっくり持ち上がりセットオフェンスにするしか選択肢がなくなった。

矢口の側から見れば、今日初めてのセットオフェンスの形。
パスで動かして崩したいのだが、味方がボールを受けられる状態を作れず、矢口がキープする。
速攻もどきのかたちで四点取ったが、こうやってしっかりとディフェンス組まれると、穴は見当たらない。
崩す意図を持ったパスはつなげず、取られないように外でつなぐのがやっと。
二十四秒計が残り五秒を切ったところで、一か八かでインサイドの後藤に放り込むが、これはりんねがさらった。

互いに守りあう展開。
藤本は、インサイドの里田やりんねに入れて勝負させようとするが、一対二の形になってなかなか良い状態でシュートをさせられない。
外に開いている麻美は、スペース的には余裕があるのだが、藤本はまだあまり信用していなかった。
初スタメンの一年生、立ち上がりのプレイ振りを見る限り心理的に余裕がなさ過ぎる。
まともに使えるのは、流れが出来ている中で一本決めさせてからだろう、と思っていた。
矢口は矢口で厳しい。
滝川がディフェンスの堅いチームということは分かってはいたが、それにしても攻め手が少ない。
東京地区の中では、それでも自分と後藤である程度何とかしてきて代表権を取ることが出来たが、今日はそうは行かない。
自分自体が相手のガードに勝てていないのだ。
自分が良いタイミングでパスを出してやって、やっと何とか勝負できるのが周りのメンバー。
なのに、自分がキープするのに精一杯では、滝川ディフェンスを崩すのは難しい。

とにかく点が入らない。
滝川が、外から勝負して後藤を振り切った里田の一本と、麻美のミドルが外れたリバウンドを拾ったりんねの一本で追いつく。
それに対して、後藤が個人技で二本決めて8−4まで突き放す、そこまでで一クォーターも7分あまりが過ぎていた。

うっとうしいのは変なディフェンスと、このチビだけだ。
そう思っても、打開できない状況が藤本にとってはいらだたしい。
時折べたべた体を触られるのもうっとうしい。
言葉がはっきり聞き取れない程度にぶつぶつ言っているのもむかつく。
目が合うと、小馬鹿にしたようににかっと笑うのが目障りだ。

ボールを持った藤本を下から見上げてくる。
腰の低いディフェンスというのは、ボールを持つガードからすると本能的に嫌な存在だ。
0度の位置でボールを持っていた藤本は上に上がっている麻美にパスを戻す。
トライアングルゾーンのトップが麻美を捕まえに動いたあいたスペースへ藤本は走る。
パスアンドラン。
台形のすぐ外、四十五度のところでリターンパスを受けた。
矢口はついているが藤本はそのままジャンプシュート。
ボールはリングに吸い込まれた。

なるほど、これだ、と藤本は思った。
普段の自分、普通の相手だと通用しなさそうなプレイ。
マークが外れていないのにジャンプシュートを打とうとしても、いつもの自分ならブロックされる。
今日の相手は違う。
飛んでしまえばフリーも同然だ。
自分が、フォワードっぽく点を取りに行く、という選択肢がこの試合では高い優先順位に置ける。

ただ、それ一つで崩せるほど簡単ではなかった。
トライアングルゾーンに空いたスペースを作らせないと、そのやり方は成立しない。
さらに遠い位置、スリーポイントの辺りなら、トライアングルはいないが、今度は飛べばフリー理論が通じない。
リリースポイントの高いミドルレンジのジャンプシュートと違い、スリーポイントは低い位置から両手でジャンプはせずに打つ。
相手が小さくても、目の前に付かれたら打つことは出来ない。

滝川のディフェンスは機能しているので大きく離されはしないが、相手のトライアングルツーも崩せないので、得点としては膠着した形になる。
一クォーター残り三十秒を切っても10−8で東京聖督リード、とロースコアな展開。

    最後に一本決めて追いつきたい滝川と、少し楽になりたい聖督。
聖督オフェンスは、崩せないのと、残り時間が少ないのと、二つの理由で外でパスをまわしている。

0度に下りていた矢口が弧を描いて上に上がっていく。
ボールを受けて、そのままの勢いでドリブルを付きゴールに向かって突っ込む。
藤本は当然コースに入るが、矢口はバックチェンジで切り替えた。
足を動かせば付いていける場面、藤本は思わず手が延びてファウルを取られた。

自分が悪いのだが、ここでも思う。
こいつむかつく。
小さくてすばやく動く生き物はうっとうしい。

ゴール裏のエンドから。
残り六秒の状況でボールが入り、後藤が受ける。
右の0度、大きく開いた位置。
目の前には里田、奥にはりんねも見える。
外からのドリブル突破も出来る、というのを感じている里田は腰の低いディフェンスで警戒している。
後藤は、それを見て、ワンドリブルついて後ろに下がると不意にシュートを放った。
0度からのスリーポイント。
これが決まって13−8
ブザーも鳴って一クォーターが終わった。

「まい、今の何?」
「何って、スリー決められたんだよ」

藤本はベンチに戻る途中、遠い側から歩いてくる里田を待ち、声をかけた。

「ステップバックして打ったってこと?」
「自分でワンドリブルついて後ろに下がってスリー。それもワンハンドで」
「ありえない」

インサイドのプレイヤーだと思っていた8番が外からスリーポイントを決めた。
それだけでも脅威だが、その決め方にまた藤本は驚かされた。
女子で、スリーポイントを片手で打つプレイヤーというのはそういない。
片手で打てればリリースポイントが高くなり、ブロックするのが難しいが、女子では腕力の関係で難しい。
そんなシュートを、わざわざ自分でスリーポイントの外側へ出て打ったというのだから、藤本は唖然としてしまう。

「あんなのいるんだ」
「美貴、けんかしてる場合じゃないみたいよ」
「しょうがない。勝ったらまたけんか続行ね」
「続けるのかよ」

コートに立てば、ゲームに支障をきたすようなことは特になかったのだが、せっかくだしと里田の側からわだかまりを解いておく。
藤本も、冗談で返す程度の余裕はあった。

「里田、最後のは忘れろ」
「はい」

ベンチに戻っての石黒コーチの最初の一言がそれだった。

「あんなのはそうそう続かない。外は打ちたければ打たせとけ。ただ、中には入れるな」
「はい」
「一クォーター、トータルで見てディフェンスは悪くなかった。立ち上がりの四点は余計だが、最後のは事故みたいなもんだ。後はよくおさえた」
「はい」
「里田。お前も出来が悪いわけじゃない。向こうは8番しかないから結果的にお前が失点する形にこれからもなると思うが気にするな」
「はい」

戻ってきたメンバーに最初に指摘したのはディフェンスについて。
無名校相手に8−13とビハインドを背負っているが、悪くないと言う。

「安倍、初スタメンとか関係なく、ディフェンスは良かった。どこかのバカと違って無駄なファウルも無かったし」
「はい」

悪かったなバカで、ああ、バカだよ、あれは私が悪かったよ、直接言えよ、と藤本は顔に出しつつ思う。
石黒は、そんな心情を見透かしてか藤本に振った。

「それで、どこかのバカ。どう崩すんだよ、あのディフェンス」
「はい」
「ディフェンスは悪くないんだ。後はあれ崩せば勝ちだろ。どう崩すんだよ」
「はい」
「はいじゃなくて。おまえ、あのディフェンス名前も分かってないとか言うなよ」
「トライアングルツーです」
「それで、どう崩すんだよ」

そう、それが問題だ。
藤本としてもプランが無いわけではない。
ただ、自信を持ってこうです、と言い切れない部分がある。
口ごもっていると、石黒がヒントを投げた。

「一クォーター、オフェンスで暇だったやついるだろ。パスのつなぎがメインで、ディフェンスに付かれてなくて余裕があったやつ。自己申告で手を上げろ」

藤本も、手が上がる前から本人の方を見ていた。
手を上げたのは麻美だった。

「藤本。これが答えだ。甘やかす必要は無い。あとはお前が考えて決めて指示を出せ」

石黒は、メンバーの輪を抜けてベンチのオフィシャルテーブルに一番近い側に座った。

今度は視線が藤本に集まる。
考えていなかったわけじゃない。
ただ、どうにも信用できずにいた。
麻美がどうこう、というのもまったく無いわけではないが、それよりも、一年を締めくくる一番大きな大会で、初スタメンの一年生、というのが不安なのだ。
例え強力なディフェンスが付いているとしても、里田の方が信用できる、計算できる、というのが本音だ。
とは言え、甘やかす必要は無い、というコーチの一言。
藤本も腹を決めた。

「二号」
「はい」
「外から打て。トライアングルゾーンはそれほど外に広がらないいはずだ。スリーポイントを打て」
「はい」
「広がってくるようなら、中にパスを入れればいい。りんねさんでもまいでも。中が広がれば中で何とかしてくれる」
「はい」

インサイドが固められたなら外から攻める。
基本的な対応だ。
藤本も、スリーポイントシュートに関しては、麻美をそれなりに認めてはいる。
不安はあるが、麻美を攻撃の中心に据えることにした。

逆側のベンチは矢口が仕切る。
コーチはベンチの隅に座ったままだ。
戻ってきて最初に口を開いたのも、当然矢口だった。

「後藤、最後の何なのさ」
「んー、なんか、抜ける気がしなかったからシュートにしようと思って。せっかく外にいるんだから二点じゃなくて三点打ってみようって思ったら入った」
「打ってみようと思ったであれが出来るんだから恐ろしいやつだな」
「たまたまだよ」
「あんなのそうそう入ってたまるか」
「でも、スリーを打とうって思ったのは市井ちゃんのおかげかな」
「映像見ないでボックススコアだけ見たら、紗耶香、絶対自分が教えたからスリー入ったとか思うんだろうな。なんかむかつく」

シュートが入ったこと自体はたまたまであるが、そもそも、ああいう場面でスリーポイントを打とうという発想は、普通にスリーポイントを打っていないと生まれるものではない。
後藤のセンスと、市井が与えたきっかけの相乗効果で生まれたゴールだ。

「それより、ディフェンス当たってるね」
「まあな。いつまで持つかわかんないけど」
「どこかから崩されちゃう?」
「いや、後藤はいいし、ゾーンもインサイドは効いてるんだけど、おいらがさ。あの7番きついって」
「やぐっつぁん、ボール運ぶのもきつそうだよね」
「前から当たってくるなっつーの、まったく。あれ、別に、取られるってことは無いんだけど、一回一回気使うから疲れるんだよ」

滝川のディフェンスはオールコートのマンツーマン。
一般のチームが採用するハーフのマンツーマンとの違いは、主にガード陣に生じる。
ハーフのマンツーマンなら、特に障害なくフロントコートまでボールが運べるが、オールコートで付かれると、ボールを運ぶ時点でマークがいることになる。

「とにかく二クォーターは今のままで行こう。あとはおいらがあの7番をどうにかすればいけそうだ」

各上相手に十分過ぎて五点のリード。
チームとしては特に修正点はない。
あとは、矢口が藤本をどうにか出来れば申し分ないという状況だった。

両チームがコートに入っていく。
二クォーターは東京聖督ボールで開始する。
矢口の元には藤本が歩み寄ってくる。
その藤本の顔を見て、矢口は腕を組み、首をひねって、もう一度藤本の顔を見る。
何見てるんだこいつ、という表情を見せる藤本。
矢口はそれにもかまわず、今度は上から下まで全身を観察する。
それから、矢口の側から藤本に一歩近づいてささやいた。

「なあ、あんた、男?」
「は?」

藤本は一瞬聞き取れなかった。
聞き取れなくて、「は?」と言ったが、言ってから頭の中で何を言われたか音声は認識した。
ただ、意味はさっぱり分からない。

「いや、男かって聞いてるの。男にしては背が小さいなあと思って。一応確認してるんだけど。男だよな?」
「はぁ? 何言ってんの? 女に決まってるでしょ」
「女? 女なの? いや、おかしいだろ。確かに、男にしては背が低すぎるけど。でも、それくらいの身長はいてもおかしくないよな。女な方がおかしいだろ」
「何がおかしいってんだよ!」
「女なら胸があるはずだろ」

そこまで言って、矢口は藤本の側を離れた。
笛が鳴り二クォーターが始まる。
サイドラインからボールが入れられ矢口が受けた。
藤本は、文句の一つも言いたいところだが、試合が始まってしまったので何も言えず、矢口をにらみつけるようにマークしている。
バックコート側でボールを受けた矢口。
藤本の顔を見て、にっと笑ってからドリブル突破を試みた。
一度はコースに入られ、一瞬止まって見せるがチェンジオブペース。
再度加速すると、藤本は対処できない。
抜き去られそうになって、それでも無理に止めようとして手が伸びた。
笛が鳴る。
藤本二つ目のファウル。

レフリーにファウルをコールされ、マナーに沿って、手をあげる藤本。
矢口はそれを見て声を出さずに笑っている。
藤本が手を下ろしたところで近づき、また、本人にしか聞こえない程度の声でささやいた。

「あーいてぇ。すげー力、男が女子の試合出るの反則だよな。それとも、元男? だったら、下だけじゃなくて、早く胸も手術しろよ」

藤本は矢口をにらみつけるが、矢口はどこ吹く風。
殴ってやりたい、怒鳴りつけてやりたい、そう、顔に書いてある藤本を見て、この試合いけるかも、とほくそえむ。

もう一度サイドから。
矢口はボールを受けて同じようにドリブルで抜きにかかった。
藤本もやはり同じように一度はコースに入るが、今度はロールターンで矢口はかわそうとする。
ついていけなかった藤本。
ダメだ、手は出すな、ノーファウル、と自分に言い聞かせ、伸ばしかけた手を引っ込める。
矢口は藤本を抜き去りはしたが、この場面では実はあまり意味は無かった。
ミドルレンジまで来てカバーに入った麻美に捕まる。
そこからはあいているオフェンスにパスを落としてセットオフェンス。
矢口は別に、藤本を抜き去ることでチャンスが作りたかったわけじゃない。
ただ、ファウルが欲しかっただけだ。

聖督がセットオフェンスで滝川を崩しきることはほとんどありえない。
ボールをつなぐだけで、シュートにつながるチャンスは作れない。
二十四秒が近いところで無理にシュートを打ち、外れたりバウンドをりんねが拾う。

二クォーターも守りあう展開になった。
滝川はフリーになっている麻美にボールを送るのだが、肝心の麻美がシュートを打たない。
ミドルレンジまで持ち込んで、ディフェンスが来たところで中へつなごうとするのだが、それもうまく行かない。
結果、ターンオーバーで聖督ボールになる。

マッチアップの相手にはぶつぶつ言われ、オフェンスは自分のプラン通りに行かない。
藤本のいらいらは積みあがっていく。
大きな声で相手チームのメンバーに罵詈雑言浴びせるわけにいかないので、ストレスは味方に向かうことになる。

「打てよ二号!」

ノーマークでボールを受けているにもかかわらず、スリーポイントを打とうとしない麻美。
藤本の標的はそこへ行く。
麻美は、なんとも答えない。

加点要素は両チームとも一クォーターと同じになった。
東京聖督は後藤の個人技。
滝川はインサイドの里田とりんねが無理やりゴールをこじ開ける。
藤本も、ストレスがたまる分自分で何とかしようと試みて、ミドルのジャンプシュートを決めている。

クォーター間インターバルで立てた方針通りに行かない。
藤本はベンチをたびたび見るが、石黒はその視線に答えなかった。
タイムアウトをとって立て直したい藤本に対し、自分たちで何とかしろという態度の石黒だ。

藤本が取った判断は、やっぱり初スタメンの一年生は信用しない、というものだった。
当てにするからいけないのだ。
たとえインサイドが狭くても、里田の方が信用できる。
目の前のチビは殺してやりたいが、パスを出すにはこの小ささは助かる。
頭上を通してハイポストに上がってきた里田へ入れる。
マッチアップの後藤と、トライアングルの先端と、二人を相手にした形。
中には持ち込めないと判断した里田は、ターンしてそのままジャンプシュートを放つ。
ゾーンの側のディフェンスがブロックに飛び、里田の手に触れた。
シュートは入らず二本のフリースローが里田に与えられた。

二クォーター五分過ぎ、15−14 東京聖督がまだ一点リードを守っている。

フリースローは、シューターと、リバウンドを取りに入るプレイヤーはゴール周りの台形部分に集まる。
リバウンドに入らないガード陣は離れた場所にいる。
麻美にさじを投げた藤本は、一人センターサークル付近に立っている。
ここにデスノートがあったら躊躇なく名前を書き込むだろう相手が、また、歩み寄ってきた。

「なあ、性転換手術って大変なの? それとも金が足りなくて胸はつけられなかったの? でも、せめてちょっとでも膨らみがないと女に見えないよ」
「うるさいんだよ!」

無視無視、藤本は自分に言い聞かせる。
ゴール付近では里田がフリースローの一本目を放った。
しっかり決めて同点。
矢口は、そんな光景には背を向けて、藤本にさらに絡む。

「なにいらいらしてんだよ。ホルモン注射のストレスか? ていうか、なんで女になろうと思ったの? 背が低かったから?」
「黙れ、くそチビ! お前だって小さいし胸もないだろ!」

感情を抑えきれず怒鳴りつける藤本。
ゴール付近のメンバーがなんだなんだ? と一斉にこちら側を向く。
矢口は、平然とした顔でさらに続けた。

「おー、こわっ。そう怒るなって。女になりかけのあんたに教えてあげてるんだからさ。女は背は小さくてもいいんだよ。胸は、んー、柔らかい。そっちは、うわっ、硬。やっぱ男の胸板だな」

自分の胸を軽く揉んで、続いて藤本の胸に触る。
本当に硬かったのか、やわらかさが実はあったのかは矢口にしか分からないが、藤本はその手を払いのける。
ゴールの方ではフリースロー二本目のボールが里田に渡された。

「触るな! よるな!」
「ちぇ。せっかく仲良くしようと思ったのに」

藤本が矢口を避けサイドラインの方に歩いていく。
それを見送って矢口は、藤本と逆側へ向かった。

里田のフリースロー二本目はリング左にそれて落ちる。
リバウンドは後藤が拾った。

「はい! スタート!」

サイドに下りてきた矢口へ後藤からパスが出る。
しまった、と遠く離れた場所で藤本が思ってももう遅い。
矢口が一人で持ち上がって、藤本まで含めて二対二の状況。
藤本では追いつけないので比較的近い側にいた麻美がマッチアップを捨てて矢口を捕まえに行く。
トップスピードに乗っていた矢口は、それをバックチェンジ一つで抜き去った。
二対一。
自陣ゴール下に向かう藤本。
矢口は右サイドからゴール下へ駆け込もうとする。
藤本が押さえに来たと見て取って左へパス。
反応して藤本がそちらへ向かうと、またパスが矢口へ戻った。
ゴール下へランニングシュートの形。
テンポよく駆け込んだ矢口を藤本が無理に止めにかかる。
身長差で何とか、と藤本は思うが、矢口は藤本から遠い側の右手でスナップを効かせ、ボードに当ててシュートを決めた。
ブロックに飛んだ藤本は体が流れて矢口に体当たり。
むかつく相手は勢いで吹き飛んだが、当然ファウルを取られた。

レフリーが、矢口のゴール、続いて藤本のファウル、さらにフリースロー一本をコールするとオフィシャルのブザーが鳴った。

前半で三つのファウルは、一試合で見るとファイブファウルで退場のペースだ。
ブザーがなった時点で藤本も自覚していた。
ベンチを見て、私? と自分を指差すと、代わりに入ってきたメンバーが藤本の方に歩いてきながらうなづいた。

「お前は感情が表に出すぎなんだよ」

ベンチに戻ってきて石黒コーチに冷たく言われる。
感情が顔に出る、というのはいわれたことがあるし自覚もあった。
別にいいじゃんか、と気にしていなかった。
ただ、今回は、ちょっとまずかったなとは思っている。
仏頂面でドリンクボトルを受け取り、ベンチの一番端に座る。
コートに目を戻すと、矢口が立ち上がりフリースローレーンに向かっているのが見えた。
もっと激しく吹き飛ばしてやればよかった。
今までも、結果として多少ラフなファウルをしたことが無いわけではないが、こんな風に思うのは初めてだった。

藤本が外れることで何が変わったか?
滝川のオフェンス面ではさして変化は無かった。
藤本がいる段階でも、狭いところにいる里田やりんねに、自分で打開して頑張って、という攻め方だったので、藤本自身のシュート力分が減ったくらいだ。
影響が出たのはディフェンス面。
矢口がゲームコントロールできるようになってきた。
矢口としては、藤本ではないにしても、前から当たられるのがうっとうしいことには変わりないのだが、フロントコートに上がってからのコントロールがしやすい。
また、マッチアップの力が落ちたことで、自分でシュートという選択肢が選べるようになった。
元々後藤頼りのチームでは、矢口自身のシュート力というのも、ないとあるでは大違いである。
とは言え、ディフェンスの総合力としてはやはり滝川は強い。
藤本一人が欠けた程度で、東京聖督にちぎられるということは無かった。

藤本が外れてからの四分強で、滝川は里田が個人技で一本、りんねがファウルをもらってフリースロー二本、麻美がゴール下混戦の里田からのアウトレットパスをミドルレンジで決めた一本。
対する東京聖督は、藤本のファウルでもらった矢口のフリースロー一本、回して回して作ったフリーで矢口が決めたスリーポイント、後藤がハイポストで里田との一対一に勝ったのと、オフェンスリバウンドを拾って決めたのの二本。
前半終わって25−21と東京聖督が四点リードした。

それぞれのメンバーがベンチに戻ってくる。
空いたコートでは次の試合をするチームがアップをしている。
ハーフタイム、それぞれのチームはロッカールームで下がっていく。
それよりも前に、里田がメンバーを呼び止めた。

「麻美」
「は、はい」
「なんで外から打たないの」
「すいません」

里田は、藤本が三つ目のファウルを犯してベンチに下がる時、なにやってんだよ、とは思った。
ただ、今負けている原因は、そこにないとは言わないが、もっと大きなものが別にあると思っている。
それが麻美だ。

「入る入らないは仕方ない。スリーは水物だし。続けて落ちることだってある。でも、フリーの状況だったらシュートを打つことは誰でも出来るはずでしょ」
「すいません」
「一年生でも初スタメンでも関係ない。試合に出てるんだったら自分の役目はこなしなさい。それが出来ないなら一人で寮に帰りなさい」
「まい!」
「りんねさんは黙っててください」

里田と麻美の様子が心配で、自分の荷物を持ってそばに来ていたりんね。
強い口調の叱責に、思わず口を挟むが、ここは里田に制された。

「私も、りんねさんも。みんな、自分の役目をこなそうとしてる。チームのために。勝つために。美貴も、ファウルがかさむのはいいことじゃないけど、でも、なんとかしようと向かって行ってるから、ああいうこともある。ベンチのみんなも。スタンドの子達だって、それぞれ役割があるんだ。みんな試合に出たいだろうけど、それが出来なくても、それぞれの役割をこなしてる。なのに、麻美一人逃げることなんて許されない」

麻美は、自分より十センチほど背が高い里田を涙目で見つめている。
他のメンバーはすでにロッカーに向かっていて、コートの隅に残っているのは三人だけ。
額の汗をぬぐって里田が締めた。

「後半、もし外されなかったら、自分の役割をしっかりこなしなさい」
「すいませんでした」

里田は小さくうなづく。
麻美はタオルで涙をぬぐいながら走り去って行った。

「大丈夫なの? あんなにきつく言って」

里田とりんねが連れだってロッカーへ向かう。
りんねの柔らかい言葉に、里田は厳しい表情のまま答える。

「あれだけ言ってダメなら後半は代えられると思うけど、麻美はきっと大丈夫です。だから、りんねさん。リバウンドです。リバウンド。一本目、拾ってやれば、それからも不安なく打てると思うから」
「そうだね。リバウンド。うん。リバウンド」

二人は通路の奥へ消えていった。

東京聖督のロッカールームは明るい空気だった。
強豪校相手に前半をリードで終える。
申し分ない展開だ。
矢口は一番奥のベンチで仰向けに寝転がってタオルをかぶり、メンバーたちの会話を聞いている。
後藤は肩にタオルをかけて地面に直に座っていた。

「なんか調子いいねえ」

のんびりとした声で後藤がつぶやく。
後藤としては矢口の方を見て言ったつもりだが、反応は返ってこない。
周りのメンバーが口々に前半の感想を語るばかりだ。

「ゾーンは効いてる」
「後藤はやっぱりすごい」
「矢口さん、お前も小さいし胸もないだろって、向こうの7番になに言ったんですか?今日は」
「ディフェンスは硬いよね。普通に攻め崩せる気がしない」

試合に出ていたメンバー、ベンチにいたメンバー。
あれこれ語っているが、矢口は聞いているのか聞いていないのか、タオルをかぶったままで目立った反応はない。
顧問は男性の化学教師のこのチーム。
ハーフタイムのロッカールームに顧問が入ってくることはしないので、矢口が仕切らないとしっかりとしたミーティングは始まらない。
後藤が立ち上がって矢口の元に歩み寄り、頭の横に座って声をかけた。

「やぐっつぁん」
「ん?」

直接名前を呼ばれて頭の上で声がしたので矢口はタオルを外す。
心配そうに自分を見下ろす後藤の顔があった。

「後半どうするの?」
「後半?」

矢口は足で反動をつけて体を起こす。
体育座りのような状態になって両手でほっぺたを叩くと、全員に聞こえるくらいの声で言った。

「よし、充電終わり!」

立っていたり座っていたり、さまざまな体勢で自分を見ているメンバーたちの方へ向き直る。
ベンチに座り、後藤を横に控えて立たせ、語りだした。

「7番と十番にマッチアップして、他はトライアングルゾーンで抑える。プラン通り進んで一クォーターで8点、二クォーターで十三点だけだろ、取られたのは。うまくいってるじゃんか。ディフェンスはこのまま行こう。7番が出てきても、九番が後半も残ったとしても、そこにはおいらが付く。九番なら大したことは無いけど、ゾーンが効いてるから、システム代えることもないだろ」

7番を付ける藤本はファウル三つ。
普通は後半最初は出てくるが、仮に、前半に藤本に代わって入った九番が出てきても、矢口はそのまま付くと言う。

「オフェンスは、やっぱ、あいつらディフェンス硬いな。後藤、後半も後藤頼りになると思うけど、頼むぞ」
「んー、何とか頑張るよ」

矢口は隣に立つ後藤を見上げる。
後藤は微笑んで答えた。

「前半みんないい感じだった。今のままの調子で行けば勝てるぞ。ディフェンス、しっかり足動かして、中に入れなければ行ける。なんか、向こうがシュート外すとため息が聞こえたりとか、おいらたち地元なのに観客にもあんまり期待されてないみたいだけど。余計なこと気にしないで、悪役は悪役らしく、田舎町から来たピュアな高校生ちゃんを叩きのめしてやろう」

メンバーたちからは笑いも巻き起こり、いい雰囲気でミーティングを終えた。
ハーフタイムは十分。
何分前までロッカーにいること、などというルールは無いので、ミーティングが終わると三々五々、コートに戻っていく。
矢口はそんな仲間たちの姿を一番奥のベンチに座って見ている。
他のメンバーが出て行ったところで、後藤が声をかけた。

「やぐっつぁん、行かないの?」
「ん? うん。まだ時間あるだろ」

そういって矢口はまたベンチに横になる。
今度はタオルはかぶらない。
後藤もその横に座った。

「あいつらやっぱつえーは」
「あいつらって、滝川?」
「十番は後藤をつけて抑えて。他はトライアングルのゾーンで止めて。7番もてこずったけどファウルトラブルで追い出してさ。こっちのやろうとしたこと、何もかも全部うまくいってるのに、まだ四点差だもんな。どっか一つ崩されたすぐひっくり返るだろ」

仰向けになったまま矢口が語る。
後藤はロッカーの出入り口の方を見ながら聞いている。

「なんか心配なの? ゾーンが崩されるとか、後半シューター入れてくるかもとか、後藤が十番止められなくなるとか」
「ん? うーん」

矢口は右足を折り曲げて両手で抱える。
ストレッチのような格好にも見えるが、ただなんとなく動かしただけだ。
後藤の問いかけ、少し口ごもってから答えた。

「心配なのは、おいらだな」
「やぐっつぁん?」
「後二十分。最後まで持つかどうか」
「調子悪いの?」
「ていうか、単純に疲れた」

矢口の実感として、藤本は自分と比べて口以外は全部上だった。
ディフェンスとしてつく場合はまだいい。
スリーポイントだけは打たせないでいられるので、傷口はそれほど大きくない。
問題はオフェンスだった。
力量が自分より上なだけではなく、それが前から常に当たってくる。
フロントコートにボールを運ぶだけで大変なのだ。
今のところ運べずに奪われるという場面はないが、常に緊張を強いられることもあり体力の消費が激しい。

「後藤、たぶん、いいタイミングで後藤にパスは入らないと思う。おいらもそうだし、みんなもディフェンスきつすぎて動けてない。マッチアップで勝ってるのは後藤だけだ。後半、前半よりきついと思うけど、頼むな」
「やぐっつぁん。なんからしくないよ。もっとこう、えらそうな感じなのがやぐっつぁんでしょ」
「あー? ったく。おいらだってちゃんとなあ、女の子らしくしおらしいことだってあるんだよ。結構きついんだぞ、虚勢張ってみせるのも。なんか、相手が相手だから会場までおいらたちを悪役みたいに見てるし」
「やぐっつぁんが悪役なのは、相手の問題じゃなくてやぐっつぁんだからでしょ」
「おいらの何が悪いって言うんだよ」

矢口の声が本当に悲しそうに聞こえたので、後藤はそれ以上突っ込まずに、ただ笑っておいた。

滝川の控え室は、試合に出ていた選手を奥に座らせて、ベンチメンバーはをそれを囲むように立っている。
座っている選手の後ろで、控えメンバーが一人づつうちわであおいでいた。
前半ラストはベンチにいた藤本も、うちわであおぐことこそしないが今日は立っている側だ。
奥に座っているのは四人。
麻美がいない。
石黒コーチはハーフタイムのロッカーではほとんど何も言わないでいる。
メンバーたちに自由にしゃべらせ考えさせる。
実際にはその言葉を耳に受け、石黒自身も考える。

メンバーたちの話題の中心は、ゾーンをどうくずすかと8番の後藤をどう止めるのかについて。
ここにいない麻美のことについては直接は誰も触れないが、外からのシュートが必要だという意見は大勢を占めている。
藤本はその会話には参加しないで、一人、四番の矢口をどうしたらいいのか考えていた。
技量的には自分が負けているとは思わないが、圧倒的に勝っているとは言いにくい。
圧倒的に勝っていれば、何か言われても負け犬の遠吠えという位置に落とし込めて、何とか腹立ちも抑えられるような気がする。
しかしながら実際の今日の出来は贔屓目に見て五分と五分。
ファウル三つでベンチに下げられた現実を見据えると、出した結果は負けている。
負けている理由は、むかついて思うようにプレイできなかったから。
鶏が先か卵が先か。
むかつくのが先か勝ちきれないのが先か。
堂々巡りの思考である。

「そろそろ行くぞ」

石黒コーチが締める。
その言葉に従ってメンバーたちは部屋から出て行く。
出て行くのにドアを開けようとしたら先に勝手に開いた。
麻美だった。

「あ、あの」
「ミーティングは終わり。ベンチに戻るって」

どこで何をしていたのか。
濡れタオルを持ち髪まで濡れた麻美。
ロッカールームに入ることも出来ず、かといってコートに戻るのも間が合わず、どうしようかと立ち尽くしているところへ里田が声をかけた。

「ほら、行くよ」
「はい」

歩いていく二人を、一番後ろからりんねが見つめていた。

ベンチに戻る。
ぼんやりとボールを弾ませている藤本に里田が声をかけた。

「美貴」 
「なに?」
「麻美にパス出してやって」
「別に出さないって言ってないよ」
「後半、麻美はちゃんとスリー打つから。だから信じて出してやって」
「先生が二号を外さなかったらね。それに、私も入るかわかんないけど。あいつが外から打つのが一番楽なのは確かだし、いいけどさ。でも、たぶん、一本目は私からじゃないほうがいいと思うよ」
「なんで?」
「横から来たボールより、中から出てきたボールにミートして打ったほうが最初はリズムがいいから。まいかりんねさんが一度中で受けたボールを二号に出す方がいいと思う」
「分かった」

里田は藤本の元を離れ麻美のところへ行って声をかける。
藤本はその様子をボールを弾ませながら見ていた。
レフリーが三分前のコールをする。
石黒コーチが選手を集め指示を出し始めた。

「メンバーはスタートに戻す。藤本入れ」
「はい」
「なに言われても気にするな。別に、部員全員の前でバストの値公表とかよりましだろ」

はい、というべき場面だが、藤本、さすがに言葉が出ない。
相手の四番に何を言われているのか具体的には石黒は聞き取れていないはずだが、なんとなく想像は付いているようだ。

「ディフェンスは特に言うことはない。基本的には今のままで良い。8番だけは気をつけろ。周りは常にカバーできるようにしとけ」
「はい」
「安倍」
「はい」
「二つ言うぞ。ディフェンスはいい。今のままでいい。だから代えない。後半も使う」
「はい」
「オフェンスは、打て。それ以上は要求しない。打て。打てばいい」
「はい」

麻美の力強い返事だった。
石黒は麻美の返事に小さくうなづいた。

「里田、戸田。安倍がボールを持ったらシュートだと思え。ボールを受ける動きはいらない。安倍がボールを持ったら、その時点でオフェンスリバウンドを取りに入るんだという意識でいろ」
「はい」
「あと、戸田は、里田がボール持ったらちょっと考えてやれよ。里田にはマンマークが付いてて、その上で狭いゾーンが中にあるわけだから。ゾーンの一人まで里田が気にしなくていいように戸田がひきつけるか、もしくはボール受けられるか、どっちかの状況を作ってやれよ」
「はい」

ここに来てようやくオフェンスに関する指示が増えてきた。
前半、25失点はともかく、二十一点しか取れなかったというのはあまりないことだ。

「まあ、あまり気負うな。一応四点ビハインドか。気にするような点差じゃないな。勝ち方はいろいろある。安倍のスリーポイントが入れば勝ちだし、入らなくてもオフェンスリバウンドが取れれば勝ちだ。安倍が機能しなくても、戸田が相手のゾーンに関係なくゴール下で点とっても勝ち。里田が8番を抑えて失点をなくすのでも勝てる。8番にパスが入らないようにガード陣が頑張ればそれでも勝ちだ。全部やり遂げる必要なんかない。一つでいいんだよ。一つはまればひっくり返せる」
「はい」
「藤本」
「はい」
「一番簡単なのは、お前が冷静になることだ。それだけで十分勝てる。分かるな」
「はい」
「相手と同じレベルに合わせるな。四番は技量の不足を口で補おうとしてるだけだ。ああいうやつはある意味で世渡り上手で、おまえよりもこういう世の中で生きていくのには向いてるのかもしれない。だけど、バスケの技量はお前が上だ。わかるな。向こうのレベルにあわせることはない。言いたいことは言わせておけ。力の違いを見せ付ければそのうち黙り込む」
「はい」
「よし、行って来い」

石黒から、お前の方が技量が上だと言われると、藤本にとってはなんだか説得力があった。
メンバー達はそれぞれハイタッチをかわし、テンションを上げてコートに出て行った。

東京聖督のメンバーも出てくる。
後半は滝川オフェンスでスタート。
矢口はマッチアップの藤本に近づいてくる。

「そういえばさ、なんで言葉通じるの?」
「は?」

近づいてきた時点で、また何か言うな、という予想はついていた。
ただ、何かの中身は、なんだか予想と違うらしい。

「だって、ロシアから来たんじゃないの? 日本語通じるのおかしいじゃん」
「はぁ? なに言ってんの? 意味わかんないんだけど」
「滝川って、シベリアにあるんでしょ。パスポート持って試合に来たんでしょ。日本語も勉強したの?」
「ごちゃごちゃうるさいんだよくそちび」

レフリーの笛が鳴る。
後半開始。
藤本は、サイドラインの麻美からボールを受けた。

低い位置から矢口が見上げる。
藤本は全体を見渡した。
トライアングルツーは変わらないらしい。
だとしたら基本プランは、麻美のスリーポイントだ。
しかし、藤本は少し考えて、そのプランをまずは無視することにした。

左サイドにいた麻美に手で指示を出し、自分の側へ近寄らせる。
そこへ簡単にボールを送る、という姿勢を見せて実際には右手でドリブル突破をはかった。
矢口は反応が遅れ、半歩遅れてついていく。
それでも、トライアングルのトップのディフェンスが藤本を捕らえ、二人で挟む形になるはずだった。
実際には、藤本は一瞬減速し、切り返すと見せることで、トライアングルのトップにいたディフェンスの腰を浮かせる。
その後再加速、そのディフェンスの右側を抜け、矢口は味方とぶつかる形になった。
ゴール下へ駆け込む。
トライアングルの底辺が挟みに来るがそれより早く藤本はランニングシュートを放つ。
身長的にはブロックされてもおかしくない形であったが、うまくくぐりぬけてシュートは決まった。

ゴールを決めた藤本、マッチアップの矢口を捕まえに行く。
ボールが転々としている間に、にらみつけつつ言った。

「滝川はなあ、北海道のまんなからへんにあるんだよ。覚えとけ!」

抜き去られた直後で、何か言い返しても格好が付かない矢口。
嫌な顔をして無視を決め込むしかない。

エンドからボールを受ける。
藤本は手こそ出してこないが、後半も張り付いてくる。
うっとうしいと思いながらも、矢口は気を使いながらボールを運ぶ。
フロントコートまで運んでもそこからが楽ではない。
パスを出すのも一苦労だ。
一本つないで、取られないようにキープして、また一本つないで。
連続してボールが動いて相手を崩す、という形になかなか持っていくことができない。
0度の位置で矢口がボールを受ける。
後藤が反対側から抜けて来て里田を背負う形でローポストに立った。
藤本の脇の下を通してバウンドパスを入れる。
シュートクロックは五秒を切る。
後藤は角度のある側へターンしてシュートフェイク。
里田を飛ばし、落ちてくるのを待ってゆったりとジャンプシュート。
ボードに当ててきっちりと決めた。

エンドからりんねが入れるボールを藤本は受けて走る。
速攻を狙ったが、聖督もしっかり戻った。
三対四の形になり、藤本はキープして味方の上がりを待つ。
セットオフェンス。
藤本は手で麻美を呼び寄せ、今度は本当にパスを送る。
自分はその麻美の前を通って左の0度へ下りていく。
矢口は少し離れた位置取りになっていて、インサイドもケアしている形。
空いている藤本は手を上げて麻美からボールを受ける。
受けた時点で、シュートを警戒している矢口は目の前についていた。
正面ローポストにはディフェンスを背負ったりんね。
藤本は頭上をパスで通す。
りんねは受けたボールをそのまま麻美に出した。
左四十五度、得意の位置。
ボールにミートして、右足を三分の一ほど前にして両手で構える。
ディフェンスはいない。
練習と同じリズムで麻美はスリーポイントを放った。

りんねがゴール下へ入る。
里田も後藤と競り合いながらリバウンドポジションを確保しようとする。
インサイドのプレイヤーが見上げる上で、麻美が放ったボールはリングを通過した。

あいつがシューターなのかよ!
矢口は口には出さずに毒づく。
前半、ずっとフリーだったのに一本もスリーポイントを打たなかった12番。
後半、藤本が入ってスタートメンバーに戻っただけで、シューターらしき人間が入ってこなかったので、トライアングルツーは完全にはまったと思っていた。
それがまさか、前半からいた人間が打ってくるとは思わなかった。

考えている場合ではない。
矢口はボールを受けて運ばないといけない。
オフェンスは後藤頼り。
藤本が出てくれば自分も運ぶだけで精一杯。
攻め手が少なすぎる。
結局、頼みの後藤へボールを送ることが出来ず二十四秒オーバータイム。

ディフェンス。
12番をどうする?
考えてもどうしようもない、というのが練習の時の結論だった。
とはいっても考えずにはいられない。
どこからも指示は出てこないのでディフェンスシステムは変わらない。
また同じ形になった。
左四十五度、麻美がスリーポイントを放つ。
今度は入らない。
ボールは大きく跳ね上がり、後藤がスクリーンアウトで追い出したはずの里田が外側で拾い上げる。
インサイド、崩れた状態の中にいたりんねへボールを送り、ゴール下からのシュートが決まった。
三クォーター二分過ぎ、滝川が逆転する。

ディフェンスをどうするべきかという問題が出てきたが、オフェンスの方は最初からずっと厳しいままだ。
今度は何とかハイポストに陣取った後藤へボールを送り込む。
しかしながら、後藤が一対一に常に勝ちきれるかというと、そこまでの強さはない。
ゴール下まで持ち込むが、里田とりんねに囲まれ、仕方なく外へ出そうとしたところをスティールされた。

ディフェンスどうする?
と思いながらも対処は出来ない。
麻美が左から右へ移っただけで三度同じ形。
今度はリング根元に当たって零れ落ちたところをりんねが拾い、そのままジャンプシュートを決めた。
矢口はたまらずベンチにタイムアウトを取らせた。

一ヶ月考えて対処策が見つからなかったこと。
実際にゲームをしてみて突然生まれる発想というのもあるが、ここでは出てこなかった。
矢口は控えメンバーからタオルを受け取りベンチ中央に腰掛ける。
それを中心に輪が出来た。

「やぐつぁん」

後藤が声をかける。
矢口はそれに答えずに、後ろに立っていた後輩の方を向いて手を伸ばしドリンクボトルを受け取る。
ガラガラと氷を鳴らしながらボトルを回してから一口飲んだ。

「このまま行こう」

ハーフタイムにあった四点のリードがあっという間に逆転されて今は三点のビハインド。
点差はまだしも、最初から弱点だと思っていたところを今になって突かれ、メンバーたちには動揺が広がっている。

「やぐっつぁん、大丈夫なの?」
「わからない。でも、やる前からこうなることはある程度想像してたことだよな。スリーポイントを打たれたらそれ自体は手におえないって。だから、あの12番のスリーが入り続けるならそれはあきらめるしかない。おいらたちにはそれ以上できないって」

一ヶ月前に決めたことの、昨日、大会に望む前に決めたことの、試合開始前に伝えたことの、再確認。
スリーポイントは捨てる。

「12番のスリーポイントは外れるのを祈ろう。それより問題はリバウンドだろ。実際入ったのは最初の一本だけだ。リバウンドは誰かに祈ることじゃない。ゴール下はスクリーンアウトな。外に跳ね出てくるのはおいらも含めて全員で飛びついて取る。リバウンドを取ろう。ポイントはそこだ」

出来ないことは出来ない。
出来ることをやる。
改めてそう確認した。
矢口自身にも迷いが無いわけではない。
それでも、改めて確認して決めた。

一方、滝川ベンチは明るい空気だった。

「やれば出来るじゃねーか」

ベンチに戻った藤本が麻美の頭をはたく。
はたかれる麻美も笑っている。
ついでのように、里田も頭をはたきりんねはなでてやっていた。

「オフェンスはあれでいい」

石黒が入ってきて空気が締まる。
藤本や里田の顔からも笑顔は消えた。

「あのまま外から打て。ディフェンスが拡がってくるようならカットインでもいいし、戸田や里田が中で勝負でもいい」
「はい」
「それはそれとして、後はディフェンスで勝負を決めろ。藤本、安倍」
「はい」
「ここから五分が勝負だ。相手のフロントコートまでボールを運ばせるな」
「はい」
「向こうの鍵は8番じゃない。四番だ。四番をつぶせ。バックコートの間はマンツーを崩してもいい。二人がかりでもいい。とにかくプレッシャー掛けてつぶせ。まわりも、四番が苦し紛れに長いパスを出すようなら狙っていけ」
「はい」

一つこちらの思惑通りに動き出したところで一気に勝負を掛ける。
このチームの柱はオフェンスではなくてディフェンス。
強いところで徹底的に勝負する。

先に滝川のメンバーがフロアに戻り、遅れて東京聖督が入ってきた。
聖督ボールのリスタート。
マークにつく藤本の方が矢口に近づく。
今度は藤本の側から声をかけた。

「弱点突かれてピンチでちゅね。みんなで相談して、なにか対策は見つかりまちたか? おじょうちゃん」
「怖い顔して気持ち悪い声出すなよ」
「ガキの癖に生意気なんだよ。くそちび」

まだ、比較的冷静で、あまりへこんでないように見えるのが藤本は気に入らなかった。

タイムアウトの終わりを告げるレフリーの笛が鳴り、ボールはエンドに立つ東京聖督に渡される。
矢口は、さっきまでとの空気の違い、藤本の立ち位置の違いを感じた。
これまでは自分と自分が進むべきゴールサイドとの間に立っていた藤本。
それが、ここに来て自分とボールの間に入ってきた。
それがどういうことかわからない矢口ではない。

ボールを受けるために動く矢口。
今まではボールを受けることは簡単に出来た。
大変だったのはそこから運ぶこと。
今度はそうも行かない。
ボールと自分の間に藤本が入ってきたので、ボールを受けること自体が難しくなっている。
周りのメンバーも状況は理解できていた。
東京地区にいたころでもこういう状況は無いわけではなかった。
ゲーム終盤、リードした場面では、相手が追い上げるためにこういう形で前からあたって来ることがよくある。
そのレベルでも、ああ大変だどうしよう、という状態なのだが、今日は各上でしかもディフェンスががちがちに硬いのを身に染みて分かっている状況でのこの展開である。
どうしよう、と考えるよりも、どうしようどうしよう、とうろたえるだけで矢口をサポートする動きが出来ない。
エンドからパスを五秒越えて入れられないと相手ボールになる。
それが当然頭にあり、こういうときに限って頭の中の時間は早く進むものであり、矢口が十分にボールを受けられる状態になる前にパスが入った。

藤本を外せない矢口。
エンドからのボールは藤本と矢口の二人の頭を超えて、走りながらボールを受けろという意思を持ったもの。
その、長めのパスは、狙っていた里田が矢口が追いつく前にさらった。
後藤が後ろの事態を把握できずに上がっていたので四対三の形。
しかも、流れの中で里田の目の前に入ったのは矢口だった。
ドリブル突破は出来ようもないが、里田はあいている藤本に頭の上を通してパスを送る。
ボールを受けて藤本はゴールへ直進。
相手ディフェンスが捕まえに来るところで麻美にバウンドパスを送った。
台形のすぐ外側、0度の位置で受けた麻美がジャンプシュートを決める。

このディフェンスは、一度点が入るとまた同じことが出来るのが一つのポイントだ。
オフェンス側、この場合東京聖督は、自力でディフェンスの網を突破しない限り何度でも同じ目にあう。
しかも、タイムアウトがあけたばかり。
時間を使って対策を立てる、ということが出来ない。

エンドから同じ形。
矢口は何とか藤本に対して面を取ってボールを受けたいが、うまくいかない。
一番良いのは、ゴール下あたりの位置を走り抜けながらボールを受けることなのだが、それは出来なかった。
仕方なく、コーナーまで開いてボールを受ける形になった。
ボールを受けた時点で、矢口の加速度は後ろへ向かっている。
そこから向き直って目の前には藤本。
さらに、間髪入れず麻美までついてきた。
コーナーにいるので後ろはエンドライン、横はサイドライン。
ディフェンス二人は当然矢口より身長が高く、パスコースのかけらもないし、ドリブルを突き出すスペースすらない。
ピボットも踏めない中、二人の間から後藤が走りよってくるのがかすかに見えた。
矢口はエンドライン側にジャンプしながら二人の頭の上を越えるパスを出す。
ただ、視野の狭い状況の矢口には、後藤と併走する里田まで見えていなかった。
ボールは里田が奪う。
コーナーで矢口を追い詰めていた藤本は、即ゴール下へ。
里田からパスが出て、藤本のランニングシュートが決まる。

同じことの三本目。
今度は、藤本がゴール下へ向かった分矢口からは離れていた。
しかし、チームとしてのこの時点でのプランをしっかり把握していた麻美が、自分のマークを捕まえに行かずに矢口につく。
藤本は麻美のマークの方へ。
ボールが簡単に矢口へは入れられない。
ただ、藤本よりは麻美は矢口にとって楽だった。
ワンフェイク入れて麻美を動かし、あいたスペースに足を入れて面を取る。
エンドからのボールを受けてドリブル突破を試みた。
麻美はついてきて、かつ、藤本も矢口を捕まえに来た。
一対二。
相手が相手だけに、矢口は突破していく自信が無い。
自陣のフリースローラインあたりで捕まる。
自分に二人来るなら、どこかが一人あいているはず。
それを探すと、エンドから自分にボールを入れた味方が右後ろに見えた。
そこにボールを戻す。
麻美はボールに向かい、藤本が自分に付いた。
矢口は右サイドへ走りながらリターンパスを受ける。
そのままドリブル。
藤本と一対一の形。
振り切れないが、これならさっきまでと何とか同じ形。
バックチェンジで切り返し、中央に向かって進む。
何とかハーフラインは超えた。

状況としては三対三の形。
ここで落ち着けてセットオフェンス一本、と行けば良いところだが、二本続けてボールを奪われ、三本目でようやくここまで運んだ矢口にも焦りがあった。
左サイドに開いた後藤が目に入った。
そこに速いパスを送る。
しかし、マークについていた里田がそれをカットに入る。
実際にはボールを奪いきれずに、手で叩けただけでルーズボールになる。
後藤と里田、こぼれたボールに飛びつく。
同時に掴んで引っ張り合い。
後藤のパワーが過剰に強く、里田からボールを引き剥がすが、自分でも掴みきれずに勢いあまってこぼれた。
点々とするボールはりんねが拾い上げる。

さすがに、仕掛けた側の滝川のメンバーは落ち着いていた。
りんねはボールを確保し、全体の動きを見定める。
東京聖督のメンバーは引いていき、藤本がボールを受けに来る。
りんねは藤本にボールを預けて自分はゆっくりと上がって行った。
藤本がボールを持ち上がる。
ゆっくり時間をかけてセットオフェンスの形。
ここで、矢口が唐突に藤本にプレッシャーをかけに来て、右手を叩いた。
当然笛が鳴る。
矢口は、コールされる前に悪びれずに手を上げ、自分のファウルを認めた。

「ちょっと集まれ」

ボールを奪いたかったわけじゃない。
藤本がむかついたから手をたたきたかったわけじゃない。
時計を止めて間が取りたかった。

「まずおちつけ。慌ててボールを入れるな。五秒は結構長いから。それに、ゴールの目の前でボールを取られるくらいなら五秒で相手ボールになってエンドから始めてもらったほうがましだ」

三クォーターのタイムアウトはすでに使ってしまっているので、コート上での短いミーティング。
矢口が言いたいことだけを伝える。

「ボールを受けるのは二人でスクリーン使って、ディフェンス外そう。一人で何とかしようとするな。スクリーンな。あと、中に入ったら、ボールより後ろに誰か一人残ること。そうすれば、さっきみたいに後ろに戻せるから」

それほど難しいことを矢口は言っているわけではない。
相手からこういった形で当たられる、通称、プレスディフェンスにあった時の対処の仕方としてはごく普通のこと。
ただ、冷静さを失うと忘れがちなことでもある。

「なんとかなるから。あわてずにな」

議論している時間は無い。
レフリーがすでにファウルのコールを終え、サイドラインでボールを持ち、麻美がそこに入っているのを見て矢口は簡易ミーティングを切り上げた。

滝川ボールでゲーム再開。
麻美から藤本にボールが入る。
滝川は普通にセットオフェンスを展開させた。
0度に落として、中に入れて、ダメなら外に戻して。
トップの藤本にボールが戻り、そして、横に開く麻美にボールを回した。
左六十度あたりの位置でノーマーク。
麻美のスリーポイントが決まった。
これで37−27
滝川の十点リードまで開く。

滝川のプレスに対する矢口の打開策は、ある面では当たりある面ではうまく行かなかった。
ある程度の冷静さを取り戻した東京聖督メンバーは、最初のうちはどうにか滝川のディフェンスを潜り抜けてフロントコートまでボールを運んだ。
しかし、たとえそこまで行っても、セットオフェンスで滝川を崩せないのだ。
攻撃は後藤の個人技単発だけ。
これでは十点差を追い上げていく、というのには苦しい。
それに対して、滝川のオフェンスは麻美のスリーポイントを中心に、攻め手が豊富に出てきた。
実際には麻美のスリーポイントは、ノーマークで打てても五本打って二本程度で、あまり決め手にはなっていない。
ただ、そのリバウンドを拾うし、また、ちょっと離れたところでフリーで打たれ続けるのを、本能的に無視できるものでもなく、トライアングルゾーンが無意識にわずかづつに拡がっていく。
その拡がりを藤本がしっかり観察していて、スペースが出来たところで中で勝負させた。
そして一本決めれば、前から当たるのだ。

矢口がボールを運んで何とか持ちこたえていたが、それも網にかかるようになってきた。
滝川が何か新たな策を持ち込んだわけではない。
単純な体力の問題。
前半から前からつかれて、しかもそれが藤本で神経を使わざるを得なかった矢口。
後半、さらに厳しくなって、必死に打開しようとしていたら、技量の前に足が付いてこなくなった。
そうなればあとはディフェンスの網にかかるばかりだ。
矢口も必死に何とかしようとしていた。
藤本は前半で三つファウルをしている。
もう一つファウルをさせて四つにすれば、ファイブファウル退場まで後一つ。
厳しいディフェンスはしにくくなるし、藤本がベンチに下がりさえすれば自分でどうにか出来ると思っていた。

ただ、藤本もそれは100も承知。
矢口がボールを持つと、コースには入るが手は出さない。
ボールを奪いにかかるのは麻美や他のメンバーに任せ、自分は絶対にファウルをしないこと、と方針を決めている。
試合展開として追い込まれ、自分に向かって何かを言うことも出来ないほどに体力的にも厳しくなり、苦痛にゆがむ矢口の顔を見ているのが、なんとも言えず快感だった。

三クォーターを終えて58−33
試合はひっくり返り、25点の差もついた。

「悪くないディフェンスだった」

滝川メンバーがベンチに戻って最初の石黒の一言がこれだった。
試合に出ていた五人はベンチに座り、石黒はそれと向かい合って見下ろす形。
当たられた矢口も疲弊したが、当たる方だって体力的には厳しいのだ。

「四クォーター、ディフェンスは普通に戻す。無駄にファウルはせず、適度にプレッシャーかけていけ」
「はい」
「オフェンスは、あのゾーンは普通はそろそろ引っ込めるところだけど、まあ、あのまま来たらそのまま行こう。マンツーに代えてきたら、サボってた分インサイド勝負してみろ。里田、あの8番はいい練習相手だ。しっかり勝負しろよ」
「はい」

それだけ言って石黒は自分のいつもの席につく。
残り十分で25点差。
試合としては終わったと思っていた。
後は、どこで控えを使うか、というような算段に頭の中は入っていた。

東京聖督のベンチは重苦しい雰囲気だった。
まともなコーチがいるチームなら、点差がどうあれクォーター間インターバルでチーム全体が黙り込む、という状況はありえない。
しかし、ここは、矢口がすべて仕切るチーム。
ベンチに戻ってきた矢口が、両肘ひざについて頭にタオルをかぶって黙り込んでいる状態。
周りのメンバーも、黙ってドリンクを飲み、タオルで汗を拭く。

前半、これはいけるという手ごたえを感じていたばかりに、三クォーターの打ちのめされ方はつらかった。
スリーポイントを打たれるまでは仕方なかったにしても、そこから先、何もかもうまく行かなかった。
前半二十分で二十一点しか取られなかったのが、第三クォーターの十分だけで三十七点も取られた。
精神的にも体力的にも疲弊し、声も出ない。
一応、いつもの習慣で矢口を中心に輪に近い形でメンバー達は集まっているが、指示も意見も出て来はしない。
そんな中で、いつもは輪の後ろに立っている後藤が、割って入ってきて矢口の前に立った。

「やぐっつぁん」

いつもと変わらない後藤の声。
耳に届いているのかいないのか、矢口は答えない。

「やぐっつぁん」

後藤は矢口の前にかがみこみ、高さを合わせてもう一度声をかける。
二度、名前を呼ばれ、今度ははっきり反応があった。
タオルをとって顔を上げる。
ぼんやりと後藤の顔を見た。

「やぐっつぁん」
「なんだよ」

三度目、後藤は矢口の手をとる。
めんどくさそうに答える矢口に、後藤は続けた。

「やぐっつぁん、立って」
「なんだよ」

弱弱しかった矢口の声が、詰問調に変わってくる。
後藤に引っ張られて矢口も立ち上がった。

「やぐっつぁん。ごとーはやぐっつぁんのおかげで一年間楽しかったよ」
「なんだよ急に」

最終クォーターまでの間の二分間のインターバル。
その時間に突然試合と関係の無い話を始めた後藤。
矢口は戸惑いの色を浮かべながら後藤のことを見ている。

「やぐっつぁんが誘ってくれなかったら、ごとーは、のんびりと学校で過ごしてたと思う。それもよかったかなあ、って思うけど、でも、楽しかったよ」
「だからなんだよ。そういうの言い出すのは後にしろよ」
「ごとーは、やぐっつぁんみたいに何でも出来るわけじゃないから、役に立てるかわかんないけど、だけど、ごとーは、やぐっつぁんのために点を取りたいの」
「なに、なに言い出すんだよ」

真剣な顔で語る後藤。
後藤のこんな表情を見るのは、矢口は初めてだった。

「残り十分。ごとーは、やぐっつぁんのために点を取りたい。だから、パスを、ごとーにパスを下さい」

後藤は矢口の手を握っていた。
立ち上がらせるときにつかんだまま、矢口の手を握っていた。
真剣な表情で、矢口を見つめていた。

「なんだよ。なんだよ急に。後藤は、後藤は、そういうこと真顔で言うキャラじゃないだろー」
「だって、言ってみたかったんだもん」
「あー、もう。分かった。分かったから、その手を離せ」

後藤は、はっとして矢口の手を離す。
そのあわてぶりがおかしくて、矢口は笑みを浮かべた。

「おいらも後藤に慰められるようになったらおしまいだな」
「そんなんじゃないよ」

ちょっと拗ねたように矢口から視線を外して後藤が言う。
その、照れた感じが矢口からはかわいく見えた。

「後、十分か」

改めて、全員を見渡す。
矢口がキャプテンとして一年間引っ張ってきたチーム。
勝てば、二回戦に進み、また明日も試合がある。
しかし、負けるとすれば、後十分で試合は終わる。
点差は25点。

「よし、後藤、オフェンスは任せるぞ」
「はいな」
「まわりはとにかく、後藤にボールを入れる。ディフェンス厳しいと思うけど、とにかく後藤にボールを送ろう。そこから先は、後藤を信じる」

全体で崩せないなら、個人技で崩すしかない。
個人技で崩せるのは後藤しかいない。
後藤に任せて後は信じよう。
オフェンスの三段論法。

「ディフェンスは、変えない。トライアングルツーで」
「大丈夫なの?」
「あれでどこまで出来るか挑戦しようって練習してきたんだ。それで最後まで行こう。7番と十番、どっちか下げたらマンツーにする。だけど、二人がいる間は変えない」
「ボール運びは?」
「基本、おいらが運ぶ」
「でも・・・」

三クォーター、一気に離された要因はいろいろあるが、その中でも一番大きな原因はボールをしっかり運べなかったことだと後藤は思っている。
それは矢口も同じことを思わないでもないが、それでも、言った。

「あのプレスを破る方法はおいらにも分からない。だったら、今までやってきたとおりやろう。今まで練習してきて、出来ることをやろう。ボールはやっぱりおいらが基本運ぶべきだ。滝川用に練習してきたんだから、トライアングルツーで最後まで行く。オフェンスは、通用してる後藤で攻める。それでどこまで出来るかわからないけど、やってみよう」

矢口の結論。
ある意味では、勝ち負けを捨てて、自分たちの練習の成果を試す場、という形に試合の中身が変わってきている。
ただ、後十分、自分の力を出してプレイする、という活力は取り戻した。
滝川のメンバーがフロアに上がっていくのが見える。
矢口達も、ミーティングを切り上げフロアへ上がっていく。
後藤は、矢口の足元にあったドリンクボトルを拾い上げて一口飲む。
その間に矢口はタオルを後輩に投げ渡す。
ドリンクボトルを置いた後藤に一声かけた。

「後藤の処女、もう一回捧げたら勝てるかな?」
「もう、ないよ」
「この前捧げちゃった神様からは返してもらってさ」
「だからないって、もう」

起こったように言って後藤はフロアに向かって歩き出す。
矢口もついていった。

「じゃあ、矢口の捧げたら勝てるかな?」

後藤は立ち止まり矢口の方に視線を返す。
矢口がにっと笑うと、視線を外してから言った。

「神様はすべて知っている」
「ちょ、どういう意味だよ!」

もう、後藤は答えず、ゴール下にいる里田の方へ歩いていく。
矢口は、その背中を見て笑みを浮かべた。
向き直って、自分が付くべきマークは藤本である。

「なあ、神様に捧げられるもの持ってる?」
「はぁ? なに?」
「北海道のまんなからへんの学校だもんな。持ってるよな」
「何の話だよ」
「卒業して、東京出て来たら気をつけなよ。変なのに引っかからないように」
「意味わかんないんだけど」

矢口と藤本が何を話そうと、無関係にレフリーは笛を鳴らし、サイドに立つ麻美にボールを渡す。
第四クォーターが始まった。

点差の開いた最終クォーター。
勝負はもう決まったかな、という空気は会場に伝わっている。
とは言え、滝川のディフェンスは厳しいままで、後はのんびりと、という雰囲気はない。
そんなディフェンスを相手に、聖督は、矢口は、とにかく後藤へ、後藤へ、とパスを供給し続ける。
ボールさえわたれば、後藤は里田との一対一には割りと勝っていた。
ただ、ここまで来ると、後藤にボールを集めているのが見え見えになってきているので、里田以外の周りのディフェンスも後藤をケアするようになる。
一対二の状況までも打開できるほどは、後藤は強くないので、少々厳しい。
その場合、空いたどこか一人にパスを捌いて何とかしてもらう、という展開になる。
滝川オフェンスのシュートが続けて何本か外れたこともあり、四分で六点詰めて十九点差になったところで、石黒コーチがタイムアウトを取った。

「死んだかと思ったけど、生き返ってやる気見せてきたみたいだな」

三クォーターの終盤は、見ているベンチにも、相対しているプレイヤーにも、聖督のメンバーの集中が切れているのが感じ取れていた。
それが、インターバルを取って、やる気を取り戻しているのを肌で感じる。

「やってることは単純だな。とにかく8番に集める。ディフェンスは最初から変わらない」

現状確認。
とりあえず石黒は口に出してみて、メンバーたちの反応を見る。
ベンチに座るメンバーはうなづいて聞いている。

「向こうの注文通りやってやるか。戸田、安倍、下がれ」
「はい」
「里田。向こうが8番勝負で来るならこっちもお前にボールを集めよう。オフェンスもディフェンスも8番と勝負しろ」
「はい」
「あの8番はいい選手だ。簡単な相手じゃない。だけど、いい経験だ。試合の点差は考えずに、個人としての勝負だと思え」
「はい」
「あの8番を力で上回れるようなら、どこの誰が相手でも怖くないはずだ。残り時間、徹底的に勝負しろ。そして、打ち勝て。出来るな?」
「やります」

里田は力強く答える。
普通は、試合を度外視して個人として勝負する、というのは推奨されることではない。
しかしながら、この時間帯でこの点差があり、石黒は、上の回戦のことを考えると、里田にここで経験を積ませたかった。

「藤本」
「はい」
「里田をフォローしてやれ。お前が向こうの四番よりうまい分は、まあ、ハンデだ」
「はい」

負けることはまったく考えていない。
後は、勝ち方の問題だった。

ゲームに戻る。
里田まいvs後藤真希。
二年生エース同士の戦い。
石黒は、藤本が矢口よりうまい分ハンデがある、といういい方をしているが、実際には、里田は相手のトライアングルのゾーンもどうにかしないといけない分のマイナスも背負っている。
二人の勝負は五分と五分。
里田が外から一対一で後藤を外してミドルのジャンプシュートを決める。
かと思えば、後藤はローポストでボールを受けてゴール下勝負から得点する。
ミドルレンジの里田のジャンプシュートを後藤がブロックすれば、裏を通してゴール下に落とそうというパスを里田が間でカットする。
一進一退。
時間は過ぎる。
点差は詰まらない。
残り二分を切って69−46 滝川リード。

二分で23点は、五人対三人で試合をしてもひっくり返せないような得点差である。
それでも、東京聖督は後藤にボールを集めていた。
あきらめたらそこでゲームは終了だよ、とか、そういうことですらもはやない。
自分たちに出来ること、自分たちがやるべきこと、それは、後藤にボールを送ること。
矢口も、他のメンバーも、ただ、それを果たす。
そして後藤は、ゴールに向かう、点を取る。

外でぎこちなくボールをつなぐ。
インサイドでは後藤と里田が競り合っている。
パスを入れられる状況でなければ、外でつないで待つ。
中でスペースを得られない後藤は、自分で外に出てきた。
トップでボールを持っていた矢口は、ドリブルで中へ突っ込んでいく。
里田は、外まで開いた後藤とは少し距離をとる。
矢口のドリブル突破は藤本に阻まれたところで、開いた後藤にパスを送った。
抜かれることを警戒して、距離をとってディフェンスを構える里田。
後藤は、その動きを視界に入れつつ、早い動きで両手でスリーポイントを放った。
里田が慌ててブロックに飛ぶが遅い。
ボールはリングを通過する。
二十点差。

エンドから右に開いた藤本にボールが入る。
その不用意なパスを、矢口は下がらずに狙っていた。
飛び込んでさらっていく。
ボールを奪ってゴール側に振り返った場所はコーナー。
パスを入れた側が悪いのだが、気分的には自分が悪い藤本は、慌てて押さえにかかる。
矢口から見て視線の先は一対二。
それでも、味方の上がりを待たずに勝負。
エンドライン側へ入ると見せかけて、バックターンで切り返し中央側へ。
意地として止めたい藤本は、矢口が切り返したボールが、自分に近い側へ出てきたので手を出す。
しかし、矢口がボールをコントロールするのが一瞬早く、藤本の手はボールではなくて矢口の手をはたく形になった。
笛が鳴り、ファウルを取られる。
藤本は四つ目のファウルになった。

ファウルで少し間が空く。
ここで矢口がメンバーを集めた。
残り時間は一分三十三秒。
点差は二十点でマイボール。
肩で息をしながらも、はっきりと指示を出した。

「前から当たろう。やれるだけやってみよう」

相手ボールになったらオールコートで場所に関係なくディフェンスにつく。
今までの、自陣だけでのハーフコートのディフェンスとは違う。
休む間がなく、常にディフェンスをしないといけないのは、非常に体力がいること。
終盤、点差を詰めたい時に前から当たるのは常套手段ではあるが、これだけ疲弊した状態でそれを実行するのは大変苦しいことでもある。

一つの指示を出しただけで簡易ミーティングは解散。
ファウルを受けた矢口は二本のフリースローを打つ。
スコアボード、残り時間、二つを見て矢口は小さな目標を立てた。
二十点差以内で試合を終えること。
自分のマッチアップの7番をファイブファウルで退場させること。
フリースロー、一本目ははずれ、二本目は決まった。

前から当たる。
先ほど一本さらわれていた藤本は、東京聖督の動きを冷静に受け止めた。
当たってくることもあるだろう、と想定していたので慌てない。
矢口に取られない位置関係を作ってボールを受ける。
すばやくドリブルで運んでいこうとすると、矢口は手は出さずに藤本について行った。
前からマークにつかれただけで、一対一の状態なら、藤本としては問題なくボールを運べる。

このままおわれるか。
ふざけるな。
バカヤロー。
ちくしょー。
のろいの言葉が矢口の頭を次々と襲ってくるが、もう、藤本に言葉を投げつけるほどの余裕はない。
ディフェンス頑張る、ボールを後藤に送る。
やれることをやる。

後藤と里田、一対一の繰り返し。
何度でも何度でも、その繰り返し。
繰り返して繰り返して、三十秒を切る。

もはや勝負はついた。
それでも、試合は終わらない。
残り15秒。
エンドから矢口がボールを受ける。
目の前にはあいかわらず藤本。
ファウルをもらって退場させてやる。
そのイメージで罠として藤本が手を出したくなる位置でコントロールしようとしたら、実際にファンブルしてボールをこぼした。
藤本が拾い上げてゴールに向かってドリブルで向かっていく。
矢口は、もう、それを追えない。
無人のゴールに藤本は簡単なランニングシュートを決める。

腰に手を当ててそれを見ていた矢口のところに藤本は戻ってくる。
残り十秒。
最後まで開放はしてもらえないらしい。
エンドからのボールを受けて、今度は余計なことはせずにボールを運んだ。
後藤へ。
後藤へ。
残り五秒。
ハイポストで後藤は里田を背負う。
トップの矢口は藤本の脇を通してバウンドパスを送った。
後藤は左にターンしてシュートの構え。
里田はそれをフェイクと判断する。
ドリブルで抜きにかかった後藤は、里田をかわしきれない。
ゴール下、動きを止めた後藤に里田は上からかぶさる形になってシュートを打たせない。
パスの出しどころもなく、無理やり外側に飛びながらフックシュートのような形でボールを投げる。
ボールはボードに当たりリング手前で跳ね返って落ちてきたリバウンドを里田が拾う。
そのボールを抱えたままタイムアップのブザーが鳴った。

71−50

前半はいい勝負をしていたが、中盤にひっくり返されてそのまま一気に走られた。
自分たちが練習してきたことはある程度出せたが、最終的には完敗ともいえる。

次の試合のチームがすぐにベンチに入ってくるので矢口達はロッカールームに引き上げる。
試合終了直後は疲労が大きく、ほとんど声も出せない状況だったが、戻ってきてようやく少し落ち着いた。

「やっぱ、あいつらつえーは」

スタンドにいた控えメンバーも集まってきてのロッカーでの矢口の最初の一言。
最後の試合、につきものの涙は矢口にはなかった。
悔しい、という気持ちは無いわけではないが、やりきったという思いもある。

「やぐっつぁん、負けちゃったね」

後藤の言葉。
負け試合の直後のミーティング、当然、明るい雰囲気というものは無い。
静かなロッカールームの中で後藤の声がメンバーに届く。

「やぐっつぁん、負けるって悔しいね」
「ん? そうだな。でも、やれるだけやったよな。悔しいは悔しいけど、おいらたちが出来るのはあそこまでだったと思うぞ」
「やぐっつぁん、ごとーは悔しいよ」
「後藤、おい、どうしたんだよ」

後藤が泣いていた。
それは、矢口にとってはじめて見る光景だった。

「だって、だって、悔しいんだもん」

子供のような泣き方の後藤。
矢口はそれを見て小さく微笑んで、それから優しく言った。

「おいらは、自分でやれるだけのことはやったと思う。それで結局負けたけどな。三年生はこれで終わり。今日で終わりだよ。次は後藤。後藤たちの番だ。だから、また頑張れ。また頑張ればいいよ」
「うん。そうだね」
「後藤、後は任せた。後藤が次のキャプテンだ。頑張れよ」
「うん。分かった。頑張る」

矢口にとって最初で最後の全国大会での挑戦は、一回戦で終わった。
言葉は何とかつながるけれど、涙が止まらない後藤を体の小さな矢口が抱きとめる。
矢口は、手を伸ばして必死に後藤の頭をなでていた。

 

勝った方は勝った方で、一息つけるかと言えばそうでもなく。
休養日というものがないので、明日にはすぐに二回戦である。
ミーティングをして、着替えて、スタンドに上がって次の試合を観戦。
滝川の次の時間の試合の勝者が二回戦の相手である。

「あー、疲れた」
「一回戦から走りつかれたの?」
「そうでもないけどさあ、なんか、勝った気分の良さとか無いんだよね。むかつく感じがこの辺に残ってて」
「私、よく聞こえてないんだけどさ、何言われてたの?」
「知らないよ。思い出したくも無い」

里田と藤本。
けんかがどうとかわだかまりがどうとか、一試合終わったらきれいさっぱり消えていた。
きっかけとはこんなものである。

「まいは大分てこずってたよね」
「そんなに負けてたつもりはないんだけどなあ」
「どこが負けてないって? ほら、ほら、よく見なさい」
「あー、もううるさい! 美貴が前半ぐだぐだだからいけないんでしょ」

藤本がスコアブックを里田の顔に押し付けようとする。
後藤の得点31点 里田の得点20点
得点だけ見れば負けている。
公平な味方をするならば、他の攻め手が多いので、里田の方が攻撃チャンスが少ない部分を差し引かなくてはいけないのだが、気に入らない気に入らない。

「それで、このまま行ったら、私、明日もきつい感じ?」
「私は楽そうだな。あれならどっちが来ても」

勝ってしまえば高見の見物。
眼下で行われている試合の勝者が明日の対戦相手となる。
後半に入り飯田の出雲南陵が五点リードしていた。

「みきてぃ! おつかれー。 一回戦勝利おめでとー!」

後ろから自分を呼ぶ声がして、藤本は振り向くが、すぐに視線を前に戻した。

「ちょっと! 無視は無いんじゃないの!」

そう言われてもまるっきり無視である。
後ろの通路からは三段ほど降りたところに座る藤本。
階段際だったのが災いして、声の主は藤本の横まで降りてきた。

「もう! 久しぶりなのに冷たいんだから」
「あんた誰?」
「ひどいよー」
「うざいんだよ、もう」
「まいちゃん、何とか言ってよ」
「美貴にやさしさ求めるのが間違ってるから」
「つーかさあ、石川、明後日試合する相手に気軽に声かけるか? 普通」

通りかかったのは石川だった。
自分の席の隣の階段に座り込まれ、藤本も仕方なく相手をする。

「だって、ひさしぶりだったんだもん」
「久しぶり久しぶり言うな! 夏出て来れなかったことへの嫌味に聞こえるんだよ」

藤本は階段の上に柴田がいることも目で確認する。
確認するだけで、声はかけない。

「えー、でも、久しぶりだったから一回戦から苦戦したんでしょ。四番うるさかったんでしょー」
「別に、四番なんかなんでもなかったよ」
「梨華ちゃん知ってるの? 四番とか、あのチーム」
「うん。春に関東大会で当たったから」
「8番どうだった?」

他愛も無い立ち話、のはずだったけど、里田は思わず真剣な声になった。
石川も、里田を見て真顔で答える。

「ボール持ってるほうが勝ちって感じだったかな。私もディフェンスひどかったころだから。でも、止められた覚えはあんまりないよ」
「そう」

間に後藤を挟んで互いの力関係を計る。
石川の言葉をどこまで正直に受け取っていいか、里田としては考えどころ。
そのまま受け取れば、ディフェンスがうまくなった今なら全面的に勝てるはず、となってしまう。
とは言え、後藤の成長分も入っていないので、実際のところは分からない。

「つーかさあ、試合ないんならさっさと帰ればいいのに」
「時間半端だったんだもん。今から体育館借りて練習なんだけど」
「だったら、さっさと行けって。上で柴田も待ってるぞ」
「うん、そうだね。じゃあ、明後日。クリスマスに梨華サンタが待ってますよ」
「明日負けろ」
「ひどいー」

石川は手を振って去っていく。
里田は苦笑いで振り返したが、藤本は無視した。

「相変わらずのあのテンションは疲れるわ」
「まいもまともに相手するからいけないんだよ」
「私は美貴と違ってやさしいから」
「あーそうですか」

ぶつぶつ言いつつ、二人は視線をコートに戻した。

夜。
広間に集まってミーティング。
題材は当然、明日の試合の対策である。
撮影したビデオを見ながらコーチが対策を解説、というのが一般的な流れだが、滝川はそこまで素直ではない。
後半二十分分の映像をただ流してメンバーに見せて、石黒は黙っている。
映像が終了したところで、改めて話を振った。

「さて、こんな展開で最終的には明日の相手は出雲になったわけだ。どう戦う?」

誰にとも無く言って全体を見渡す。
全体に考えさせる間を置いてから石黒コーチは指名した。

「里田、どうだ? どうするべきだと思う?」
「出雲は間違いなく四番のチームだから、四番をどう抑えるかだと思います」
「そうか。四番には誰が付くんだ?」
「私か、りんねさんか。周りのメンバー見た限り、四番とは比較にならないから、ゴール下入ってきたら私とりんねさんと二人がかりでもいい位だと思います」
「そうか」

テレビを中心に半円状に座っているメンバーたち。
石黒一人がテレビのがわに立ってメンバーを見渡している。

「里田、この四番は今日の8番と比べてどうだ?」
「うーん・・・、今日の8番とは大分タイプが違うと思いますけど・・・。自分がボール持った場合には今日の8番のが嫌です。だけど、ディフェンスすること考えると、身長差があるからこの四番は嫌です。リバウンドも今日の8番相手より厳しそうですし」

里田と後藤は身長で見ればほぼ変わらない。
それに対して飯田の場合、里田からしても見上げる格好になる。
明らかに自分より大きい、という相手はリバウンドを考えて場合かなり嫌な存在なのだ。

「安倍どう思う?」
「今日の8番とこの四番ですか?」
「そうじゃなくて。明日、どうするべきだと思う?」

石黒は里田との話を切り上げて安倍に振る。
スタメンではあったがまだ一年生。
こういうミーティングの場ではなんとなく遠慮して後ろに座っている。
背もそれほど高くなく、埋もれるようになっている中から麻美は答えた。

「やっぱり四番をどう止めるかだと思います」
「どう止める?」
「ビデオ見ていて、四番に二人行った時にボールを捌かれてるように見えたから、つくのは一人でしっかりつけばいいと思います」
「特別なことはしなくていい?」
「まいさんでもりんねさんでも、シャットアウトは出来なくても、しっかり一人で止められると思います」
「リバウンドは大丈夫なのか?」
「高さはあるけど、スクリーンアウトをしっかりすればそれほど取られないと思います」

意見を聞いていくだけで石黒は自分のコメントは挟まない。
石黒は、全体を見回してから、最前列中央に話を振った。

「藤本はどう思う?」
「普通にやればいいんじゃないですか?」
「普通って?」
「別に、四番がどうとか気にしないで、普通に」
「四番は大したことない?」
「四番は大したことあるけど、チームとしては大したことないと思います」
「そうか。じゃあ、明日はポイントも特に無いような試合ってことか?」
「ポイントは、美貴だと思います。あと、二号と」
「インサイドは気にすることは無い?」
「気にはしてもいいと思いますけど、でも、美貴と二号がちゃんとやれば、インサイドとか関係なく前半で勝負決められると思います」
「そうか」

里田や麻美と比べて、はっきりと自分たちが勝つことに自信を持った答え。
四番を抑えることがポイントと答えた二人と違い、藤本は、四番がどうあろうと問題なく勝てると言っている。
石黒は腕を組んでしばらく考えてから言った。

「明日のスタメンは今日と一緒。戸田」
「はい」
「戸田が四番に付け」
「はい」
「あとは、好きに決めていい。ビデオはとりあえず戸田に預ける。まだ見たいのがいれば、一年の部屋でも使ってみればいい。解散」
「はい」

意外とあっさりミーティング終わったなあ、と藤本は思った。
石黒がコーチになってから、大きな大会への遠征はこれが始めて。
昨日は相手チームの情報もないので簡単なミーティングなのは分かるのだが、今日の試合のビデオがある明日の試合のミーティングがこんなにあっさり終わるとは藤本は思っていなかった。

「どうする? 美貴。ビデオ」
「いいよ、もう。見ても仕方ないし」
「なんで? そんな自信もてるの?」
「四番だけのワンマンチームでしょ。別に、怖い相手でもないし」
「でも、ワンマンチームって当たると怖くない?」
「当たらないから大丈夫でしょ」

マークに付けとは言われなかったけれど、インサイドのプレイヤーとして里田はどうしても四番が気になる。
藤本の方は、明日の試合はほとんど問題にならないと思っていた。
問題は明後日。
明日は、いい形でしっかり通過できるか、それだけだ。

里田はりんねと連れ立って一年生の部屋へビデオを見に行ったが、藤本はさっさと部屋に戻った。

翌日。
滝川の試合は第二試合。
午前中に始まる試合なので早めに会場に到着しアップをする。
それより早く動き出す第一試合では富ヶ岡が戦っていた。
第一試合のハーフタイムに第二試合のチームがコートを使ってアップをする。
メンバー達は会場に入っていって最初に得点板に目を向ける。

「もうちょっと参考になるような試合してくれないかなあ」

藤本のぼやき。
前半終わって63−14などというスコアの試合では手の内は何も見えないと思ったほうがいい。

ハーフタイムアップ。
体を動かすアップであって、練習とは違うので、反対側のコートを眺める余裕は十分にある。
相手の実力を見極める、というよりは、単に興味本位で藤本は出雲のアップを観察する。

「確かに、あのでかいのにボール入ったら面倒かもね」
「だから昨日から言ってるのに」
「ビデオずっと見てたの?」
「見てたって言うかついてたって言うか。りんねさんと、カバーとか場合によってはマークの受け渡しとか、その辺の約束事決めてたよ」
「ふーん」

相手を見てる余裕はあるが、長話をするほどの余裕は無い。
パスが飛んできたのでキャッチして、走るところへバウンドパスを送った。
アップの定番ランニングシュート。
藤本はボールを拾い上げて次は自分がシュートの列に並ぶ。

「麻美もそうだったけど、ガード陣はビデオ見に来なかったよね」
「ん? だって、みてもしょうがないもん。向こうのガードなんかブロック予選レベルだし」
「そこまで言う?」
「ブロック予選は言い過ぎかもしれないけどさ、でも、対策がどうとかいうレベルじゃないよ」
「美貴はいいけど、麻美もまだスタメン二戦目なのにずいぶん余裕だな、とか気になったんだよね」

里田がそこまで言ったところで、藤本の番が来てパスを出す。
出雲のアップを眺めたり、里田と話をしたり、集中力のかけらも無いながらも、アップはアップとして、しっかりトップスピードでパスを受けてシュートを決める。
後ろの里田はゆっくりと走って、リズムをずらした形でシュートを打っている。

「二号にはビデオなんか見るなって言ったんだよね」
「なんで?」
「変に今日の相手に合わせると、明日もそれが抜けなかったりしたら嫌だから」

目の前で四番を見ても、それでも藤本は、今日負けるとはまるで思っていない。

「そこ! 話してないで声だしなさい!」
「すいません」
「すいません」

りんねの雷が飛んだ。
話をしている余裕があっても、話をしていいとは限らない。

ハーフタイムアップは後半開始三分前には終わる。
その頃には富ヶ岡もロッカールームから戻ってきていた。
滝川がアップをしているのはその富ヶ岡サイド。
引き上げていくときにすれ違う。
石川が満面の笑みで手を振ってきたが藤本はそれを無視した。
石川だけ無視して、その横で苦笑いしている柴田には軽く手をあげて答えておいた。

ハーフタイムにライバルチームに笑顔で手を振る余裕のある石川達。
富ヶ岡は後半、スタメンを下げて臨んだが、それでも最終的に107−40というスコアで勝利する。
その試合が終わる瞬間を、藤本たちはコートサイドで見ていた。
予想通りといえば予想通りである。
前のチームが上がっていけばすぐに次のチームはアップに入る。
石川達と目が合わないように藤本はコートでベンチの方を向かずにいる。

昨日一試合、なかなかてこづって後半まで力を入れて走っていたが、疲労は残っていない。
体は調子よく動く。
調子よくパスが出るかシュートが入るかは試合になれば分かるだろう。
今のところ不安要素は無い。
周りのメンバーも、藤本から見て動きが悪そうなのはいなかった。
怪我の雰囲気もないし、昨日の今日なので麻美を気にして見てもみたが、緊張でどうのということもなさそうだ。
気分よくアップを終えて、ベンチに戻りミーティング。

「四番のマッチアップは戸田な」
「はい」
「責任持って勝負しろよ」
「はい」

昨日のミーティングで唯一決めたこと。
りんねが飯田のマークに付く。
まずそれを再確認する。

「オフェンスは藤本に任せる。インサイドはでかいのいるから、多少きついのかもしれないけど、まあ気にすることも無いだろ。好きにやってみろ」
「はい」
「それでディフェンス。藤本、昨日、前半で勝負は決められるって言ってたな」
「はい」
「十分で決めろ。一クォーターで。
「はい」

様子見はしない。
出だしから勝負をかけて一気に決める。
それが可能だと石黒は思っていたし、言われた藤本も不可能ではないと思っている。
その他のメンバーにも石黒は各自指示を与え、ミーティングは終了する。
五人はフロアに上がっていった。

センターサークル。
ジャンプボールに入るのは飯田と里田。
里田からしても飯田は見上げる形になる。
実際にプレイをすれば相手の実力のほどは分かるのだが、その前の段階でも肌で感じるものというのがある。
過剰に自分に自信を持っていると、相手を低く見てしまったり、過緊張状態だと相手を過大に見てしまうこともある。
今日の里田はどちらの状態でもない。
サークルに入り、飯田と対峙したところで里田は感じた。
この選手には雰囲気がある。
迫力、というのとは少し違う何か、プレイヤーとして体にまとう何か。
昨日の後藤にも感じたが、それともまた違う何か。
よく使われる言葉で言えば、オーラを里田は飯田から感じ取った。

レフリーが二人の間に入りボールをあげる。
ジャンプボールは飯田がコントロールした。
ボールは出雲が確保する。
昨日の失敗があるので、藤本は出だしでいきなり抜きにかかられることを警戒したけれど、今日の相手はオーソドックスにパスを回した。
一本一本のパスが滝川サイドとしてはあまり怖くない。
ボールマンへのマッチアップが効いていて、さらにボールの無いところもしっかりついているので、速いつなぎが出来なくなっている。
それでもゴール下の飯田につながった。
ここだけは、マッチアップのりんねが抑えられずに、ローポストで完全に背負われる形になった。
飯田はターンして簡単にジャンプシュートを決める。

また今日も先にやられるのか、と藤本は冷静に思った。
エンドでボールを拾った麻美からのパスを受ける。
ゆっくりと持ち上がった。
相手のディフェンスは甘い。
フロントコートまで持ち上がって、全体を見渡したところで普通のマンツーマンだと把握した。
昨日のような奇策を受けることは今日はなさそうである。
四番は里田に付いている。
里田を信用しないわけではないが、この相手なら里田以外のところで勝負した方が明らかに確率が高い。
何しろ一クォーターで勝負を決めて来いと言われて送り出されている。
そのためにはまず一本決めなくてはいけない。

少し左サイドに寄ってから0度に開く九番にパスを落とす。
自分はパスアンドラン。
九番からパスを受けるように走るが、そこではもらえなかった。
ゴール下を抜けて逆側へ切れる。
ボールはトップに上がった麻美へ。
ゴール下を抜けて反対側へ出てきた藤本はそこからのボールを受けた。
そのままバウンドパスでローポストに入るりんねへ。
自分は上に上がり麻美のマークにスクリーンをかける。
ボールの無いところ、ディフェンスはやや緩慢にこのスクリーンを外してついていこうとするが、麻美の動きはすばやかった。
0度の方向へ降りていく。
りんねはゴール下で勝負できずにいたが、降りてきた麻美へパスを戻した。
麻美はそのままミートしてスリーポイントを放つ。
今日は、開始早々でいきなり決めて見せた。

ここまでは上出来。
藤本がイメージしているポイントはここから。
前から当たる。
オールコートのマンツーマンは滝川が常時取る形で珍しいものでもない。
ただ、それは、前から張り付くだけで、直接ボールを奪うことまで狙うのはそれほど長い時間帯ではしない。
昨日の三クォーター後半とか、試合のポイントになる時間帯だけのことが多い。
今日は、出だしから狙っていく。
藤本が麻美を含むガード陣にそう指示を出していた。

出雲はガード陣が脆弱だった。
東京聖督は、まだ、矢口がいたから滝川を相手にしてもゲームが作れたし、前から当たられてもある程度持ちこたえられた。
出雲には矢口レベルの選手がいない。
それは昨日の試合のビデオで藤本にはすぐに分かった。
四番がどれだけすごかろうが別に関係ない、の根拠はここ。
センターはボールが入らなければ何も出来ないのだ。

前から当たる。
滝川がオールコートマンツーを布いてくるのは出雲のメンバーも当然予想はしていた。
ただ、出だしからここまでプレッシャーをかけてくるとは思っていない。
それになにより、例え冷静さを持って対処したとしても、それをどうにかできる実力がそもそも無かった。
パスコースを押さえられ、それでも何とか空いた、と思った場面でボールを入れるが、見方までつながらず藤本にさらわれる。

セットオフェンスにはしない。
ボールを救い上げた勢いそのままでゴール下に駆け込む。
出雲ディフェンスは寄ってくるが、お構いなしにシュートを決める。

ボールが運ばれてきて次は自分たちのオフェンス、というつもりで上がっていた飯田は、その光景をコートの反対側で見ていた。
ボールが奪われて、戻ろうと一瞬したけれど、そんな意味も無いくらいにすばやく藤本がシュートを決めた。
戻る意味が無いので、上がった位置でそのまま待つ。
だけど、またボールは来なかった。
今度は麻美にスティールされ、ミドルからジャンプシュートを決められる。
戻る間も無い。
どうしようか、と思っていたら三本目はボールを入れることも出来ずに五秒オーバータイムとなった。

「落ち着いて! しっかり動けばパスコース出来るから」

戻ってきた飯田がガード陣に声をかける。
その声を聞きながら藤本は、こいつらにそれは無理だよ、と思っていた。

滝川のセットオフェンス。
エンドの麻美が藤本にボールを入れる。
さて、どこから攻めるか。
藤本は、ここでさらに相手に二点以上のダメージを与えたい、と思った。
ハイポストに上がってきた里田にバウンドパスを送る。
マークに付くのは飯田。
里田はボールを受けながらターンし飯田と正対する。
選択肢は普通に三つ、シュート、パス、ドリブル突破。
いい形でボールをもらったのだが、それでも里田はシュートを打てないと感じたし、抜きにかかるのも無理に見えた。
目の前の飯田に圧迫感を感じる。
自分で勝負は避けた。
右0度に開いた麻美へ落とし、自分は逆サイドへ切れる。
麻美は自分の目の前ローポストに入ったりんねに山なりのパスを送った。
ボールを受けたりんねはターンしてジャンプシュート。
リング奥に当たり跳ね上がったが、そのまま内側に落ちて得点になった。

運にも恵まれてもう一度ディフェンス。
今度は相手も準備していて、藤本麻美がマークを捕まえる前にボールを入れる。
それでもフリーでは運ばせなかった。
ボールを受けたところで藤本が捕まえる。
一対二になれば当然きついが、一対一でも藤本のディフェンスにはプレッシャーを感じさせられる。
自分でドリブルで運ぶ自信が無いガードが、パスで逃げようとした。
その慌てたパスは味方との意思が合わず、誰も触れずにサイドラインの外へ。
レフリーの笛が鳴り、さらにオフィシャルのブザーもなって、出雲がタイムアウトを取った。

立ち上がり、二分と経たずに9−2
昨日とはうってかわって順調な出だしである。

「安倍、サイドに出てマイボールになるとしても、取ればワンマン速攻で決められるんだからああいうのは飛びつけ」
「すいません」

タイムアウトに入る直前のプレー。
マイボールになればそれでいい、というところだが、石黒はあえて厳しくそれ以上を要求した。

「始まったばかりで、まだ言うこともそれほど無いけど、集中切らすな。一クォーターで勝負を決めろというのは、冗談でもなんでもない。本気だからな」
「はい」
「藤本、ファウルだけは気をつけろ」
「はい」

問題点は特に無い。
昨日と違い、相手がオーソドックスに入ってきたので、とまどう点も何も無かった。

先に滝川がコートに戻る。
出雲のメンバーはタイムアウトの時間が過ぎてもベンチで粘って話を続けている。
藤本は、手首足首を軽くストレッチ。
体が温まってきて、試合展開も申し分なく、一番元気な状態。
待っているのがもどかしいくらいの感覚だ。

出雲のメンバーが戻ってきてようやくゲーム再開。
プレスの対策話してきたんだろうけど、どうせ無駄だよ、と思いながら藤本はボールを受ける。
滝川のオフェンス。
ボールをつないでつないで、今度は藤本が自分で突っ込んだ。
外からスリーポイントのフェイクを見せて、ディフェンスの重心を浮かせて、その横を突破する。
ゴール下まで駆け込むと、小さい藤本はランニングシュートをブロックされるので、そこまでは入らずにミドルレンジで止まりジャンプシュート。
しっかり決まって11−2

ゲームはそこからもほぼ一方的に流れた。
出雲はとにかくボールを運べない。
タイムアウトで対策は練ってきたが、それが通じるレベルではなかった。
点差はどんどん開いていく。
ただ、ボールを飯田につなげば強かった。
滝川が前から当たる条件は、自分たちが点を取って相手のエンドからゲームが始まる場面。
つまり、シュートを外してリバウンドを取られたら、前から当たるどころではなくて、速攻を出されないように戻らなくてはならない。
そういった場面なら、出雲もフロントコートまでボールを運べる。
そして、飯田にボールを入れれば後は何とかしてくれた。
戸田と飯田、センターとしての力を比べると飯田の方が上だ。
それでも、そこまでなかなかボールがつながらなければ飯田としてもどうしようもない。
一クォーターだけで36−11と大差がついた。

「藤本、ファウルが一個余計だ」
「すいません」
「まあ、それ以外は悪くなかった」

一クォーターだけで25点の差がついた。
一試合換算すると100点差だ。
25点、という点差は、ほぼセーフティーリードと言える。
十分で試合を決めて来い、という石黒の言葉を藤本たちは果たしたとことになる。

「戸田」
「はい」
「三つ言うぞ」
「はい」

この試合、ただ一人苦労していたのだりんねだった。
飯田のディフェンスにつけ。
そういわれてついてみたが、なかなかどうして止まらない。
11失点は飯田のフィールドゴール四本とフリースロー三本である。
すべてりんねのところでやられた。

「一つ、向こうの四番はお前より上だ」
「はい」
「相手が自分よりうまいことを事実として受け入れろ」
「はい」

普通、あまりこういうことは言わない。
相手がうまいように見えるけどそう大差ないはず、とか、試合中にはそうやって鼓舞する方が普通だ。

「二つ、お前はセンターとして、プレイヤーとして未熟だ。未熟だということはまだのびる」
「はい」
「分かるな。お前はまだ完成されてない。発展途上だ。一日一日伸びることが出来る」
「はい」

三年生の最後の大会である。
最後とは言え高校三年生であり、将来は長いのだからまだ伸びるのは事実だ。
しかしながらりんねは、牧場に就職し、バスケは高校でやめると決めているし、それを石黒は知っている。
それでも、まだ伸びる、とあえて言う。

「三つ、今日、あの四番に追いつけ。今日だ。残りの三十分の間に追いつけ。ワンプレーワンプレー、相手から吸収しろ」
「はい」
「それが出来れば、明日が来て、それから明後日も来るだろう。あの四番と対等に出来るようになれば、何も怖いものはない。私は、戸田にはそれが出来ると思ってる」
「やってみます」
「やってみますじゃない。やれ」
「はい」

明日。
三回戦で待つのは富ヶ岡高校。
それに勝たないと、明後日はやってこない。

二クォーターに入る。
ディフェンスは、オールコートのマンツーマンは変えないが、前での圧力は多少緩和した。
そうすることで出雲のガード陣もボールが運べるようになる。
滝川は明後日がどうのと言っているが、出雲の側にすれば、今日滝川に勝たないと明日がやってこないのだ。
とにかく飯田にボールを集める。
マークに付くりんねは、何とか抑えようとするのだが常に飯田が一枚上だった。
中に入られないようにすればミドルレンジから打たれる。
ボールのコースに入ってパスを防ごうと思えば裏を通される。
何とかシュートを外させたと思ったら、リバウンドをさらわれたりもした。

それでもチーム力は滝川の方が上だ。
点差は徐々に開いていく。
三十点まで開いたところで、石黒コーチは藤本と里田をベンチに下げた。

こうなると、里田のマークに付いていた飯田は、控えメンバーは捨ててりんねの方につくようになる。
りんねはオフェンスでもディフェンスでも飯田を相手にしないといけない。
どうすればいい、どうすれば止められる。
圧倒的リードの試合なのに、りんね一人が苦しむ。

滝川がメンバーを落としたところで、出雲の飯田以外のメンバーもそれなりに動けるようになった。
これでようやく一方的な流れは止まり、点差は開かなくなる。
前半を60−29で終えた。

「飯田さんがいてもあそこまで一方的にやられちゃうんだね」
「ガードがね。ミキティたちのディフェンスだとちょっと厳しすぎたし」
「あの、国体でやったメンバー? あのメンバーだったらもうちょっといけたかな?」
「うーん、あのチームなら、高橋が負けてる感じなくらいだったから、ボール運びは問題ないし、もうちょっといけたんじゃない?」

スタンドの上。
自分たちの試合が終わり、ミーティングをして、着替えて上がって来たら二クォーターの途中だった。
ちょうど藤本と里田が下がったところなので、中身は見ていないが、ベンチに入れないで最初から見ていたメンバーから試合の状況は聞いた。

「高橋とミキティってどうなのかな?」
「どうだろうね?」

二人は二つ前の列に座る高橋の頭に視線をやりながら話す。
石川の問いかけに柴田ははっきり答えない。

「いらいらしたミキティ相手なら高橋で十分勝てると思うんだけど」
「パニックになった高橋が先に出たら?」
「どうだろうね?」

高橋がパニックになったら。
石川にも手におえないが、ある意味で、藤本にも手におえなくなって逆にいいのかも、と思わないでもない。
柴田自身は、あわせずらくなるから勘弁してくれ、というのが本音であるが。

「梨華ちゃんはどうなの? まいちゃん相手にして」
「今日ほど簡単じゃないとは思うけどー」
「思うけど?」
「是ちゃんのが怖い」
「そっか」

今日のプレイ振りはまったく見ていないが、昨日を見る限りそれほど負けるとは思わなかった。
今の石川にとっては、里田よりも是永が頭にある。
是永本人に関係なく、富ヶ岡の中では是永は是ちゃんで通っていた。
当然、そう名づけたのは石川である。

「柴ちゃん12番?」
「どうだろう? でもそうかなあ」
「シューターなんだよね?」
「たぶん。でも、その割りに昨日前半全然打ってなかったけど。ディフェンスがすごい感じでもないし、ボール運びもミキティメインだし、やっぱ普通にシューターなのかな」
「高橋がミキティに前から押さえられたら、柴ちゃんサポートだよね」
「うん。多分それは、一対一で当たられるくらいなら大丈夫だと思うけど・・」

柴田から見て、麻美はそれほど脅威には感じていなかった。
自分がボール運びをしなくてはならないシチュエーションになったとしても、普通に疲れるくらいなら問題ないと思っている。
ただ、そうではなくて、一対二にしてでもボールを取りに来る、という姿勢をとられたときに問題なく運べるらはあまり自信が無かった。

「後半もミキティたち出てこないかなあ?」
「たぶんね」

石川も柴田も今日の試合、後半は出ていない。
同じ理屈で言うならば、藤本も里田も出てこないだろう。
麻美を見ている柴田はともかく、石川にとってはあまり実りの無い観戦になりそうである。

滝川のロッカールームは昨日と同じでコーチ抜きでメンバー同士で話し合いが行われていた。
藤本や里田は、もはや涼しい顔で控えで入った後輩たちにダメだしをしている。
そんな中フロアにいる唯一の三年生りんねは、あまり口を挟まずにいた。
控えメンバーのフォローは藤本や里田に任せる。
自分が考えるべきは、今日はそこではなかった。
四番をどう抑えるか。
もはやチームとしての課題ではなく自分の課題になっている。
二人で抑えるとか、自分が抜かれたときのケアがどうとか、そういうのは関係ない話なのだ。
自分でなんとかする、ということが目的。
考えて、そして、それを実行する技量が自分にあるかどうか、そこの問題だ。

「そろそろ行くか」

石黒コーチがロッカールームの扉を開けた。

ベンチに戻る。
藤本と里田は一番後ろからついていった。
今日のプレイヤーとしての役割は終えたつもりでいる。
あとは、代わりに入って行った仲間たちの力にどうなってやるか。
それだけだ。
石黒コーチを中心に、前半ラストのメンバー五人が小さな半円を作り、さらにその外側をそれ以外のメンバー九人が囲む。
尋美の遺影は里田が抱えていた。

「戸田。最後まで代えないからな」
「はい」
「ファウル四つになっても代えない。オフェンスはチャレンジしてみろ。一度やって通用しなかったら、二度目はどうすれば通じるか考えて、それでやってみろ」
「はい」
「ディフェンスも何とかできるはずだ。後二十分、強い相手と一対一で戦えることを楽しめ。そして、乗り越えて見せろ」
「はい」

最初がりんねへの指示。
控えメンバーと違って、将来のための育成ではなく、明日のための育成なので切迫している。

「他のメンバーは今の点数は忘れろ。二十分ゲームだと思って、今から試合開始だと思って戦え。代わりのメンバーはいないと思え。フロアにいる自分たちで戦うんだ」
「はい」

りんね以外は、麻美も含め試合経験の少ないメンバーたち。
アピールのチャンスとして頑張るメンバーがいる反面、苦しくなったらスタメンが何とかしてくれるという意識のメンバーもいる。
そのあたりの感覚はひとそれぞれだ。

「みんな、五対五の練習のときより相手のプレッシャーは少ないから。十分出来るから自信持って」
「はい」

今度はりんねがメンバーたちに言う。
頭の中は自分のことだけで精一杯というのが本当のところであるが、それでもキャプテンとして、控えメンバーたちを導かなくてはいけない。

藤本と里田は口を挟まず後ろで聞いていた。
前半、力を12分に発揮して役割を果たした藤本は、特に今日は気分がいい。
昨日のハーフタイム時の心理状態と比べると大きく違う。

メンバーたちがコートに入って行った。
後半は出雲ボールで再開される。

「四番オッケー」

りんねが飯田を捕まえてコールする。
マンツーマンディフェンスの時の基本。
飯田は、りんねの方を見て言った。

「後半もよろしくね」

右手を差し出されて一瞬きょとんとするが、りんねもその手を握り返す。
プレイヤーとしてではなく、人として、変な間で動く子だな、と思った。

ディフェンス。
滝川がメンバーを落としても、出雲は飯田にボールを集める。
それだけ飯田が突出した選手であるということではあるが、りんねとしてはなめられているようで気分はあまりよくない。
ただ、そんな気分と関係なく、飯田をとめることが出来ていないという事実が目の前にある。

一見すると速さがあるようには見えない。
だからスピードはついていけるかと思うのだが、それも出来ない。
コートの端から端まで走る、というようなスピードなら差が無い感じなのだが、ゴールエリアでのプレイではスピードの差を感じる。
高さは身長差そのままでやはり勝てない。
真上にそのまま飛ばれるだけでも厳しいのに、時には後ろに遠ざかるフェイドアウェーまで出される。
高さで押さえ込むのは無理そうである。
動きの先読みが出来るか?
これも出来ない。
人として変な間で動く子だ、とついさっき思ったが、プレイヤーとしても変な間のことが多い。
何気ないことなのだが、動きが唐突なのだ。
普通の人間は、なんとなく動き出しが見える。
それが、ある瞬間突然動いているという感じ。
とても動きを先読みして止める、ということは出来ない。

どうしたものか。
深く思考する余裕はなく、ボールはハイポストの飯田へ。
背中のりんねは少し距離を置く。
距離があるとスピンターンでそのまま抜き去るということは出来ない。
向き直って正対した飯田は、ゆっくりとシュートの構え。
ブロックに飛ぶ、とりんねの側も見せかけて飯田にドリブルを付かせた。
りんねとしては狙い通りで、コースを押さえようと動くと、飯田はワンドリブルだけで止めてそのままジャンプシュートを放った。
反応出来ないりんねの頭上を通りシュートが決まる。

どうもうまくいかない。
そもそも持っている能力が違いすぎるんじゃないか。
練習しないで一日で追いつくとか無理だ。
りんねの頭の中に負の発想がこだまする。
オフェンスはオフェンスで、ボールをもらえない。
周りの控えメンバーは自分がアピールしたいという感覚も強く、対戦相手の力量もそれほど驚異的ではないので自分たちでシュートまで持っていく。
飯田のマークを受けるりんねへボールを入れよう、という発想はあまり無い。

ゲームとしては、点差が開きもせず縮まりもせず、こう着状態といえばこう着状態。
三十点前後の差で推移する。

出雲の得点源は飯田であることは変わらない。
りんねはローポストやゴール下ではやられないのだが、やや距離のある位置でボールを持たれると手も足も出ない状況になる。
自分がこの四番に勝っている部分は何かあるのか?
わからない。
わからないけれど、逃げるわけにもいかない。
今日勝って、明日も勝って、先へ進むためには、このレベルの相手に自分がしっかりと戦えなくてはいけない。

オフェンス。
りんねはローポストで飯田を背負って立った。
いい場所を確保したい。
外へ押し出そうとする飯田を背中に押し込め、0度からのバウンドパスを受ける。
ゴールに近い位置。
ターンさえ出来れば。
そう思って、背中に力を入れて飯田に圧力をかけた後ターンする。
ゴールを向いたら前があいていた。
飯田がしりもちをついているので、ゴールを目の前にしてノーマーク。
簡単にシュートを決めた。

こんなこともあるのか、と思った。
意外と手ごたえも無かった。
不思議なくらいに。
たまたまかな、とも思う。
だけど、ひょっとしてああいうものなのかな? とも思う。

考えつつもディフェンス。
飯田はゴール下へ入ってこようとするが、いいスペースはとらせない。
体で抑えれば止められる。
ただ、ゴールから離れられると難しい。
ゴール下へ入らせず追い出した、つもりがハイポストまで上がられ横からのパスを受けリズムよくジャンプシュートを決められた。

どうもうまくいかないなあ。
と思ったけど、なんとなく見えてきた。
全部は無理でも、自分のほうが勝っている部分もあるのかもしれない。

攻め上がり。
きれいな速攻にはならなかったが、セットオフェンスに移行するまでの崩れた状態。
りんねは状況が落ち着くのを待たずに飯田を左腕で押さえて右手の側へパスを要求する。
動いて受けられる調度いいところにボールが入る。
背負われた形の飯田はボールサイドには動けず、りんねはフリー。
ターンしてジャンプシュート、は外れた。
リバウンドは奪われ逆速攻の形になるが、意思の疎通がうまく行かずボールはサイドラインを割る。
ここで滝川がタイムアウトを取った。

「戸田、一本決めて、次は外しはしたけどフリーでは受けられたな」
「はい」
「外したのはともかく、動きとしてうまく行った理由はなんだ?」

石黒に問われ、りんねは答えに窮する。
一本目はたまたま。
二本目は一本目のイメージがあって、それに従ってちょっと試してみたらそれはそれでうまく行ったという感じだった。
確信を持って、こうだから、といえるほど考えはまとまっていない。

「戸田の方が勝ってる部分があるから、うまくいったところもあるんだろ」
「はい」
「戸田が、自分の方がここは勝ってるんじゃないか、と感じたのはどんなところだ?」

頭の中にイメージがなくは無い。
先生に問われると、明確な自信は無いのだが、それでもなんとなくそんな気もしてきたので答えた。

「パワー?」
「まあ、そうだろうな。あんなモデル体型のやつにこれから牧場で働こうって戸田が、パワーで負けてるとは思えない」

間違ってはいないのか、とほっとする。
黙って自分を見ているりんねに、石黒が続けた。

「向こうがオフェンスの時に、あまりゴール下に来ないでハイポストとか少し距離のあるところにいるのが多いのは、その辺が得意っていうのもあるだろうけど、中に入るにはパワーで負けてるって部分もあるんだろ。例え一点だけでも、自分の方が強い部分があれば、オフェンスはそこで勝負すればいい。ディフェンスは、向こうが主導権を持ってるからなかなかそうもいかないだろうけど、自分の強みがこうだから、向こうはゴールから少し遠いところで何とかしようとするはずだ、だったら、それをとめるにはどうすればいいか、というのを考えてやってみろ」
「はい」

やや距離のあるミドルからもシュートを決める。
それは自分には出来ないことだし、そういった相手を止める練習も積んでいない。
そんな中で、試合でそういう相手と出逢ってどうやって止めるか?
簡単ではないが、どうにかしたい部分でもある。

タイムアウトが明ける。
例え一点だけであっても、自分の方が強いという部分があると自覚できるのは、気持ちの面でずいぶん違う。
四番と自分の能力が五分と五分とはとても思えないけれど、出てくる結果を五分と五分にすることは可能かもしれない。
そう思いながら飯田と対する。

今までは周りに任せがちだったオフェンスも、自分でボールを要求するようになった。
技術では負けるかもしれないけれど、ゴール下でパワー勝負なら負けない。
押し込んで、スペースを確保して、ボールを受ける。
それでも高さで押さえ込まれることもある。
簡単な相手じゃない。
一本うまく行っても、次の一本は止められる。
何度も何度もチャレンジする。

ディフェンスは、もっと難しかった。
相手がパワー勝負は避けてくる。
主導権を持つのがオフェンス側なのだから当然だ。
高さで勝負されたらかなわない。
高さで負けるなら、前に入ってコースを押さえボールを入れられないようにする。
それがうまく行ったつもりでも、裏にボールを通され失点することもある。
ミドルレンジでボールを持たれたらどうすればいい?
シュートか? ドリブルか? パスか?
相手の動き出しに反応する。
その反応を早くする。
そうしないと止まらない。
それ以前に、ボールが入らないようなディフェンスも効果的なはずだ。

一つ一つ考える。
試す。
結果が出る。

うまく行くときもある。
うまく行かないときもある。
うまく行ったのに次の一本でダメなときもある。

りんねの試行錯誤は続くなか、点差はわずかづつ詰まっていた。
勝負に影響するような点差にまではならないが、一歩一歩、出雲が点差を詰める。

三クォーターを終わって69−43
セイフティリードは変わらないが、あまり気分のいいものではない。

りんねは試行錯誤しながら苦しんでいたが、飯田の方は割合にこの試合を楽しんでいた。
あきらめたらそこで試合終了ですよ。
そんな言葉はよく聞くが、あきらめた先に何かがあることもある。
飯田は、この試合に勝つ、というのはハーフタイムの時点でほとんどあきらめていた。
勝って三回戦、もう一度富ヶ岡に挑戦したかった。
それは思うが、自分にそこまでの力は無かったんだな、とロッカールームで前半の結果を受け入れた。
その現実の中で、自分の力はどこまで通じるのか、それをコートの上で示す。
相手が弱すぎるとそれは面白くないのだが、滝川の四番は飯田にとって適度な相手だった。
試合の勝負はほぼついたけれど、四番との能力のぶつけ合いが楽しい。

練習してきたことは全部出す。
裏を通すパスをそのままアリウープ、難しいんだからもっと会場盛り上がってくれてもいいのに。
フェイドアウェーは富ヶ岡のみっちゃんには通じたかな? どうかな?
シュートのモーションをゆっくり見せるフェイクは、ホントによく引っかかってくれる。
圭織、身長高くて重心高いから、下で踏ん張られると押し込めないんだよなあ。
緊張という感覚でもなく、遊びと言うほど気楽でもなく。
程よい集中力で、飯田はバスケをプレイしていた。

四クォーター途中で滝川はりんね以外のメンバーを、控えのそのまた控えにまで落とす。
メンバーたちに経験を積ませられるのはこの回戦まで。
将来、を見越す立場のコーチは、こういう機会に一年生にも経験を積ませるし、三年生にはある意味で頑張ってベンチに入った褒美を与える。

試合展開に関係なく、りんねは必死だったし、飯田も手は抜かなかった。
パワーだけじゃない、技術的なところでも、何とか一歩でも半歩でも近づいて、何かを吸収して先へ進みたい。
そうりんねが思うのに答えるかのように、自分の力を最大限に発揮して終わりたい飯田もいい動きを見せる。
前半から大差がついた試合の割りに、終盤までコートの上はだれることはなかった。
両キャプテンが、集中力を切らすことなく最後まで戦いぬいた。
85−60
点差が大きく詰まることは無く、このスコアで両チームは終戦した。

試合が終わると、その直後に相手ベンチに向かいメンバーが挨拶をする、というのはよくある光景である。
滝川は基本的に最後に出ていた五人が相手ベンチに挨拶をしてから戻ってくる。
出雲はそれに答える形で、キャプテンの飯田が一人で滝川ベンチに来た。

「ありがとうございました」

滝川ベンチ全体、ということではなくて、こういう場合は大体コーチに対して挨拶をする。
儀礼的なことではあるが、コーチの側が声をかけることもよくある。

「一人で三年間チーム背負ってきたの?」
「背負ったって言えるかは分からないですけど、はい。一年から、試合出てました」
「いいリーダーぶりだったよ。勝負ついても最後まで投げずに。自分で点とって、周りのメンバーも鼓舞して」
「いえ、圭織は、自分に出来ることしただけで」
「ほとんどのやつは自分に出来ることの半分程度しかしてないんじゃないか? 普段の暮らしなんかしらないけど、試合見てれば周りから信頼されてるのがよく分かるよ」
「ありがとうございます」
「おつかれさん」
「ありがとうございました」

石黒コーチの方から手を出し、飯田がその手をとって握手を交わした。
飯田にとっての高校生活最後の試合は終わった。

試合が終わったのは昼過ぎ。
ミーティングの後、届いた昼食を食べ、少し休んでから移動。
近くの中学校を借りて、ベンチに入っていないメンバーを中心に体を動かす。
今日は試合に出ていた時間も短い藤本や里田も参加しておいた。
丸々一試合出ていたりんねは、コートの外で見ている。
五対五や、明日の試合のための練習、というのはしない。
目的は、控えメンバーの体を動かすことと、スタメン組みは調整である。

それから宿に戻った。
すぐに夕食。
リゾートではないので、豪勢な夕食ということも無く、普通の和食。
色気も何も無いな、なんて言いながら、わいわいご飯を食べる。
それからミーティングになった。

富ヶ岡の今日の二回戦の前半のビデオを見る。
今までは、インターハイ決勝のビデオを見て、それをイメージして練習してきた。
そこから、富ヶ岡がチームとしてどう変化したのかを確認する。
相手のレベルがインターハイ決勝とは違い、かなり低いものなのですべてが見えるとは誰も思っていないが、それでもいくらかの情報はある。

「石川のディフェンスは確かに良くなってるんだよね」
「相手の問題なんじゃないの?」
「前は、相手関係なくやられてたよ」
「そうとも言うけどさあ」

藤本と里田。
こういうときは前列中央を陣取る。
中心選手としては当然の席順だ。

「ボール持ってないところでもしっかりディフェンスするようになってるんだよね」
「でも、それって、当たり前のことをするようになったってだけなんじゃないの?」
「そうだけど、でも、元々動きはいいからさあ、その気になられるだけでも嫌は嫌なんだよね。大体、パス入れづらいと思うよ」
「それはこの7番がコース押さえられすぎなだけで、まいならなんとかするでしょ」

どうしても石川のことは否定したい藤本。
里田に同意はしない。

元々は同じポジションで張り合っていた。
試合で合うようになったのは中学のころからだ。
全体のレベルがそれほど高くない時代。
身長的にゴール下は出来ないが、ガードとフォワードの区別は無く、自分でボールを運んで自分でシュートを決めていたころ。
チームとしても個人としても勝ったり負けたりの関係だった。
初めてまともに話をしたのは試合の時ではなくて、中2の時に呼ばれたU−15代表の合宿の時。
声、だけは試合中にも聞いていて、なんだかうざいなあと思っていたけれど、話す内容もうざかった。
それ以来、石川のことは公的には嫌いで通している。

高校でもきっと同じように張り合うんだろうと思っていたが、一年の夏、初めてインターハイで合ったときに立場が違っていた。
藤本はガードのままなのに、石川はフォワードになっていた。
上にも前にも成長しやがって。
ますます石川が嫌いになった。
試合も負けて、さらに嫌いになった。

背景はともかく、明日、石川とマッチアップするのは里田だ。
藤本ではない。
藤本がつくべき相手は一年生の12番である。
下手じゃないと思う。
富ヶ岡でスタメンで出てくるのだから当然だ。
だけど、うまいという感じはなかった。
まして、自分よりもうまいとはかけらも思わない。
自信とか過信とかではないと思う。
冷静に見る実感だ。
ただ、なんとなく嫌な感じはある。
それが、プレイヤーとしてなのか人としてなのかはよく分からないが、藤本は、この12番がなんとなく肌に合わない感じがするのだ。
石川と同種のタイプだったら嫌だな、とぼんやり思った。

前半の二十分。
富ヶ岡のチームとしての強さが目立つ。
藤本は一年生の12番についてだけではなく、チームとしての富ヶ岡も見ていた。
自分が12番を上回ったとして、周りはどうなのか?
里田にはああ言ったが、実際には石川のディフェンスも嫌だな、とのは感じていた。
今までなら里田のオフェンス力なら、石川を問題にしなかったところだが、明日はそうもいかなそうである。
不用意にパスを入れると狙われる。
石川の性格として、ボールを持った里田を押さえるというよりも、里田に入るパスを奪うことを狙ってくる、というのがこのビデオを見ていても感じることだ。
パスを入れる側とすればそれはうっとうしいことでもある。

里田で簡単に行かないとなるとどうするのか?
それもまた難しい。
麻美は今日は良かったが、それは相手との実力差があったからだ。
昨日は初スタメンの硬さがあった、という点を割り引いても、信用するには不安な姿を見せていた。
対富ヶ岡、麻美と比較する対象は柴田になるが、藤本からすれば、全面的に柴田を取りたくなるのが正直なところだ。

センターもつらい。
りんねのことは悪いセンターではないと思うけれど、飛びぬけた存在でもないとも思っている。
飛びぬけた存在というのは、出雲の飯田であり、富ヶ岡の平家であり。
意地と努力と根性とである程度勝負は出来たとしても、持っている自力は相手の方が上だと感じてしまう。
そこで勝負とは行きにくいのだ。

動きで崩す、というのも当然考えることでそれを目指すべきなのであるが、目の前の二回戦のビデオを見る限りではそれもなかなか難しそうだ。
石川という穴があったこれまでは、その穴をつくことを目指して組み立てが出来たが、崩されたときのカバーも出来るようになっている。
全体を見ても、勝っていると言えるのは自分のところだけなのかもしれないと思う。

「これ、裏にボールは通らないのかなあ?」
「平家さん、明らかに裏をケアしてるよね、これ」

里田のつぶやきに藤本は答える。
相手の前に入る石川との頭を越して、裏側、ゴールの側にボールを送ってボールを受けられれば、というのが里田の発想。
藤本は、それを見越して平家がポジション取りをしているのがはっきり見えている。

「じゃあ、りんねさんが外に引っ張り出す? それともりんねさんの方で勝負とか」
「そういうシチュはあるかもしれないけど、りんねさん、シュートレンジはそれほど広くないですよね?」
「うん、あんまりね・・」

藤本から一人挟んでりんねは座る。
先輩に向かって、シュートレンジ広くないですよね、とは失礼な物言いではあるのだが、必要な現状確認だと思うのでりんねは文句は言わない。

前半二十分分のビデオは、富ヶ岡のいい部分を凝縮したような中身だった。
一通り流し終えたところで、石黒が前に入ってきた。

「感想は? 藤本」
「相手が弱くて参考にならないです」
「自分たちは弱くないと言いたげだな」
「あそこまで弱かったら昨日も今日も負けてると思います」
「そうか。だったら、明日の勝ち方も見えたんだな?」

その質問には答えない。
答えるべき答えは見つかっていない。

「どうやって崩すか、いろいろ考えながらビデオ見てたみたいだけど答えは出ないか?」

追い詰めるように同じような質問を繰り返す。
藤本は、この石黒の問いかけがどうにも苦手だ。
苦い顔をして睨み返すことになる。
ここ半年繰り返されてきたやり取りだ。

「はっきり言えば、あれを崩すにはこうやればいい、という答えは無い。昨日のトライアングルツーみたいな偏ったことをしてくる相手には、崩す答えはある。だけど、オーソドックスにマンツーマンでついてきて、それを高いレベルでこなされると、こうすれば勝てる、というような方程式は無い」

だったら最初からそう言え、と腹の中で思う。
それもいつものこと。
古いビデオデッキで巻き戻されていたテープが、一番初めまで戻り止った。

「ただ、それは、イコール勝てないと言うことではない。戸田、うちのチームの強みはなんだ?」
「練習量を積んできたことです」
「それは自信を裏付けるものだな。そうではなくて、試合で直接的に見せることが出来る強い部分はなんだ?」

矛先が藤本を外れてりんねに向いた。
キャプテンとして、このチームを支える、三年間ここにいて一番よく分かっていそうなりんねに石黒は問いかけた。

「ディフェンス?」
「そうだな。今日や昨日の相手と違って、富ヶ岡はディフェンスもしっかりしたチームだ。それほど点も取れないだろう。だけど、ディフェンスの硬さならうちは負けてないはずだ。個人対個人では負ける部分があるかもしれない。それなら、誰かがカバーに入って一対二の状態にすればいい。パスが捌かれても、ローテーションでそれを埋めることが出来るだけの練習は積んできてるはずだ。セットオフェンスだけじゃない。前から当たって、一年生の頼りなさそうなガードからボールを奪える場面もあるだろう」

このチームはディフェンスをゲームの軸としてずっとやってきた。
石黒が選手だったころから、それ以前のはるか昔から続く伝統だ。
シュートはセンスで入れることも出来るが、ディフェンスの硬さを身につけるにはしっかりとした練習が必要だ。
それだけの練習は、このチームは積んできている。

「もう一つ。40分走りきるスタミナ。これもそうそう負けてないだろう。今日、戸田には言ったが、あんなモデル体型でバスケやってる奴にパワーとか体力とかで負けるわけは無いんだよ。それだけの練習もしてきたんだしな。今日のような簡単な試合にはならないだろう。序盤、中盤、離されることもあるかもしれない。それでも我慢してついていけば、終盤までにはチャンスが来るはずだ。そこで、昨日の三クォーターみたいに、よれよれのガードからボールを奪うことになるかもしれないし、ゴール下を支配して着実に点を積み上げて行くかもしれないし。どんなかたちになるかは試合をしてみないと分からないけど、多少点差があっても、必ずチャンスは来るはずだ」

相手のいい部分を認めながらも、石黒は自分たちの強みを繰り返しメンバーたちに言い聞かせた。
かなりの部分を生徒たちに話させた昨日のミーティングとは大分違う。
相手が違うのだ。
生徒たちが自分で考えてそれを実行すればまあ勝つだろう、という今日の相手とは違うのだ。
相手の方が強い。
そう、メンバー全員が思っているところに、それでも勝つチャンスはしっかりあるんだ、という感覚を刻み込まなくてはいけない。

「里田」
「はい」
「攻撃の軸はやっぱりお前だろう。確かに向こうの7番もうまくなっては来てる。前よりてこずることになるだろうとは思う。だけど、お前がこのチームのエースだ」
「はい」
「7番は一対一のディフェンスは確かにインターハイの映像よりうまくなってるように見える。だけど、そこまでの動きはまだまだだ。ボールを受ける前に勝負をつけろ」
「はい」

オフェンスの指示も出す。
中心はやはり里田を選んだ。
不確定要素の多い一年生のスリーポイントや、実力差があるインサイドを軸には据えづらい。

「戸田はリバウンドな。ボールもたれて一対一はある程度やられるところもあるだろうけど、リバウンド、スクリーンアウトしっかりすれば、なんとかなるから」
「はい」
「オフェンスは、里田と合わせな。里田が7番かわして、四番がカバーに入ったようなとき、しっかりあわせろよ」
「はい」

富ヶ岡の四番、平家は個人の力としては全国トップクラスである。
それに、普通に打ち勝てと言ってしまうのは、戸田に対してはさすがに荷が重い。
出来ること、やるべきことを一つか二つに絞り、そこだけはしっかりやれと指示する。

他のメンバーにも石黒は指示を送った。
スタメンは今日と一緒。
同じメンバーで富ヶ岡と戦う。

「六十点台の勝負になればチャンスがあるだろう。50点台前半から40点台に抑えられたら勝ちだ」

ディフェンス勝負。
いかに点を取るか、よりもいかに点を取らせないか、がポイントである、と滝川サイドはとらえていた。

ミーティングが終わる。
部員全員が入れるような大会議室は、予約時間が決まっている。
メンバー達はイスとテーブルを並べなおして出て行く。
スタメン組みは、ビデオを持って一年生の部屋に向かった。
同じ中身をもう一度見直す。
止めたい部分があれば止め、巻き戻して確認。
相手の動きをチェックする。
昨日はマークにつくべき相手、飯田の映像を繰り返し見ていたりんねだったが、今日は早々に部屋を出た。

そのままエレベーターで降り、フロントを通り抜け外へ出る。
冬の東京の夜。
たまたまだけど、クリスマスイブだった。
空気が華やいでいる。
滝川の冬も寒いけど、東京の風も冷たい。
そういえば、クリスマスクリスマス騒いでる一二年生がいたな。
ぼんやりと思い出す。
りんねは、高校三年間、クリスマスイブはすべてこの大会に来ていた。
仲間とのクリスマスイブ。
試合はあるけど、ささやかには祝う。
今年は、そんなことも忘れていた。

勝てる気がしなくて、ビデオを見続ける気になれなかった。
それで、部屋を出てきた。
冷たい風に吹かれながら歩く。
明日で終わりなのかな。
ぼんやりと思う。
暗い夜道を遠くまで一人で歩いていけるほど大胆じゃない。
ただ、なんとなく、外の風に当たってホテルの周りを歩く。
一周する間に、腕を組んでいるカップルを二組見かけた。 
うらやましい、とは思わなかった。
ただ、なんだかさびしかった。

ホテルに戻る。
自動ドアが開いて、中に入るときに感じた暖房の風が、心地よくない。
たいして大きくは無いホテル。
それでもちゃんとフロントはあるし、フロント前にはソファもある。
りんねは、部屋に戻らずにそのソファに座った。
何かをちゃんと考えているわけじゃない。
何かがしたいわけじゃない。
ただ、ぼんやりとソファに座る。
ただ、時間だけが過ぎていた。

エレベーターから人が降りてくる。
りんねは、それを見るでもなく、ソファに寄りかかり座っているだけ。
視線の先はひざの上。
エレベーター前から声がかかった。

「りんねさん」

顔を上げる。
藤本だった。

目線が合うと、藤本はりんねに歩み寄る。
藤本は、ソファ前にあるテーブルの横に立った。

「部屋戻ったのかと思ったら、こんなとこにいたんですか?」
「ちょっと、外散歩してきた」
「なんだ。美貴もちょっと外散歩して来ようかと思ってたんですよ。カップルいっぱいいたりします?」
「うん。いたよ」
「あー、なんかむかつくなあ。もう、いいや。ここいいですか?」

藤本はりんねの隣のスペースを指差す。
りんねは笑顔を見せた。

「藤本がビデオ見ないでどうすんのよ」
「だって、あきちゃったんですもん」
「しょうがないやつだな」

藤本がりんねの横に座る。
ビデオを見ている部屋の喧騒、外の喧騒、とは対称的に、ここは静かだった。

「りんねさんこそビデオ見ないでいいんですか?」
「うーん、なんかねえ」

藤本が自分の方を見て話している。
それが分かっていて、りんねは藤本を見ずに正面に顔を向けていた。

「見れば見るほど勝てる気がしない」

ぽつりともらす。
それ以上ビデオを見ていられなくて部屋を出てきた。
りんねはため息をついた。

藤本はりんねから視線を外す。
正面を、りんねと同じ方を向く。
フロントに従業員の姿は無い。
新しく客が来る姿もなく、二人の言葉以外物音もしない。

「たいしたことないっすよ、あんなの」

藤本の言葉。
あまり、力強くは無かった。

「いいな、藤本は、いつも自信があって」

りんねが藤本をチラッと見て言う。
藤本は、一瞬りんねを見ると、すぐに視線を外して答えた。

「口だけ、かも」

また沈黙。
二人で黙ってソファに座る。
りんねが靴を脱いで両足をソファに乗せる。
ひざを抱えた。

「私は、藤本みたいにセンスとかテクニックとか、個人の能力があるわけじゃない。なつみみたく、黙っていてもみんなをひきつけるような魅力も無い。こんな私みたいのが、キャプテンの代わりやってよかったのかな?」

エレベーターから人が出てくる。
知らないおじさんだった。
黒いコートを着て外へ。
一人でどこへ行くのだろうか。
男が自動ドアから出て行き、藤本が口を開いた。

「りんねさんは、いいキャプテンだと思います。りんねさんが引っ張ってくれなかったら、ばらばらになってたと思うし」
「藤本はなつみになついてたじゃない」
「なつみさんは好きだけど、それとは、なんか違う」

そこまで言って考え込む。
りんねが藤本の横顔を見ていた。

「なつみさんに不満は無かったし、あのまま何も変わらずにずっと入られればよかったと思う。だけど、りんねさんは、いいキャプテンだと思います」
「全然説明になって無いけど」
「あー、もう、難しいんですよ、言葉で説明するのはー。とにかく、りんねさんはいいキャプテンなんです! 自信持ってください」
「いいよなあ、藤本は。なんでもはっきりしてて」
「なんでも言いすぎ、っていつも言われますけどね」

元々、自分はキャプテンには向いていない。
りんねはそう思っていた。
本当は脇役でいるのが似合う自分。
だけど、誰かがやるしかなかった。
周りを見てみたら、もう、自分がやるしかなかった。
この半年、ずいぶん無理をしてきた、と思う。
ちょっと愚痴をこぼしてみたかった。
藤本なら、話せそうだった。

「りんねさん。ごちゃごちゃ言ってないで、明日勝ちますよ絶対」
「強気だなあ」
「当たり前じゃないですか、やる前から弱気でどうするんですか」
「勝てるかなあ」
「勝つんです」

力んで語る藤本。
りんねは少し微笑んだ。

「よし、明日こそ石川の奴ぶちのめしてやる」
「藤本」
「はい?」
「ノーファウルな」
「りんねさんは厳しいなあ・・・」

昨日の試合、矢口に張り付かれた苛立ちからか、ファウル四つで危ないところまで行っていた。
すぐ手が出る悪い癖がなおっていない。
りんねが、ソファから立ち上がった。

「私、部屋戻るけど、藤本はどうする?」
「あー、ビデオ見終わったらミニパーティーするって言ってたから、私も戻ろうかな」
「ミニパーティー?」
「イブですから。りんねさんも来ません?」
「いいよ、私は」

藤本も立ち上がりエレベーターへ。
藤本が降りてきたままなので、ボタンを押すとすぐに開いた。

中に乗り込んでボタンを押す。
藤本はみんなのいる四階、りんねは自分の部屋のある五階。
ドアが閉まって密閉空間。
二人は黙ったまま。
エレベーターを引き上げるために回るモーターの音さえ聞こえる。
到着を告げる、小さな音が鳴り、四階、扉が開いた。

「おやすみなさい」
「おやすみ」

藤本が降りていく。
りんねが、閉、のボタンを押す。
扉が閉まり際、藤本が戻ってきて、その間に手を突っ込む。
扉が開いた。

「何やってるの!」
「りんねさん、やっぱり行きましょう」
「ちょっと」

藤本はりんねの腕をつかむと強引にエレベーターが引っ張り出す。
ちょっとよろめきながら、りんねは外へ降りた。

「まだ行くって言ってないでしょ」
「やっぱ、りんねさん来ないと盛り上がらないですよ」
「明日も試合なのに」
「だから、キャプテンの監視が必要なんですって、ほら」

藤本が軽く背中を叩く。
りんねは、しょうがないなあ、という笑みを見せた。

 

富ヶ岡の宿舎でも、同じようにビデオを見ていた。
映っているのは今日の二回戦ではなく、昨日の一回戦。
中盤まで互角の試合展開だった一回戦の方がいろいろな部分が見える。
滝川が勝ち上がってくるだろう、というほぼ硬い予想があったので、一回戦から映像を取っていた。

「ミキティ何言われたんだろうね?」
「わかりやすいよね、いらいらしてるのが」

観客席から取った映像。
絵はあっても、フロアの上の声までは録れていない。
テレビの画面を囲んで半円状にメンバーが座る構図は、滝川のミーティングと同じである。

「高橋は、聖督とやりたかったんじゃないの?」
「ありえんです」
「昨日、高橋が一番滝川応援してたよね」

柴田と石川にいじられる高橋。
時折挙動不審なことはあるが、最近は暮らしぶりは落ち着いてきていた。
柴田は、東京聖督が勝ち上がってきたとしても負ける気はしなかったけれど、滝川に聖督の四番もいたら、大変なことになりそうだったな、と高橋のことを見て思う。

「この聖督のディフェンス変だけどさあ、それにしても得点力無さ過ぎない?」
「最終スコアいくつだっけ?」
「71−50」

柴田と石川の後ろから平家が口を挟む。
二人が振り向くと、それぞれ頭を捕まれて前を向けさせられた。

「点数自体は入ってるんだよ」
「その割には、なんか、崩せてないですよね」

流れているのは前半の映像である。
滝川のリズムが悪く、東京聖督がリードしている場面だ。

「前半は21点だけだしな」
「えー!? じゃあ、後半は50点取ってるじゃないですか」
「石川、あんた、昨日試合見てたよな」

映像を見ながらの会話。
石川も柴田も平家の方は向かずに、ディスプレイへ視線は向けている。
昨日生で見た試合なので、展開はしっかり頭に入っているはずなのに、記憶がいい加減な石川に平家は突っ込まずにはいられない。

映像は前半を終了し、21−25のスコアを表示したところでいったん切れる。
ハーフタイムを省略し、後半が始まった。

まず、麻美がスリーポイントを決めたシーン。
それから、同じようなシュートが何本かはずれ、タイムアウトを挟んだ後、滝川ディフェンスが矢口を完全に押さえ込んでいくシーンへと続く。

「後半点が入ってる原因はこれだよ」

ボールが運べていない。
矢口へボールが渡らずに、立て続けに滝川が得点するシーンが映し出されている。
石川にとっては、自分が直接関わるポジションで無いので記憶が薄かったが、柴田や、特に藤本とマッチアップする高橋にとっては鮮明な記憶がある。
前からの圧力が大きくなってボールが運べなくなって連続失点して試合の流れが決まった。
ガードの役割をこなす立場の人間にとって、一番演じたくないシーンである。

和田コーチは、単純な一対一が続く四クォーターは省略し、三クォーター終了時でビデオを止めた。

それから、コーチの指示、メンバーの意見とミーティングらしい会話が続く。
出来るか出来ないか、何をすべきか。
相手の力、こちら側の力。
それぞれを計って、明日の試合を見積もる。
最後に、キャプテンの平家が締めになる言葉を語ってミーティングは終わった。

今日はクリスマスイブ。
大会中だけど、女子しかいないけれど、パーティーは開く。
余計な体力は使わない、ちゃんと早く寝る。
この二つさえ守れば、特にコーチから叱られることはない。
女子の高校生のチームの士気のコントロール、というのは、大人中年男性の和田コーチにとって、画一的に振舞えない問題なのだ。
規律は守りつつも、認められる範囲内ではたがは外させる。

パーティー用お菓子飲み物は二年生が買いに行く。
一年生はユニホームや通常着替え等の洗濯の仕事があるから行かせられないし、それになにより、買いに行って選ぶという行為自体が楽しさを含んでいるので最下級生にはなんとなくさせず、真ん中が動く。
スタメンレギュラーにもかかわらず、石川も柴田も率先して買い物組みに入った。
強いチームは背負うものも大きく、勝ちあがっていく中の大会期間中の息の抜き方を知っておくのも、試合に出る人間の大切な能力であったりする。

「ミキティたち、一年ぶりかあ」
「夏も秋もいなかったしね」

昨年は、夏秋冬と三度当たったが、今年は冬の一度しか当たらない。
石川が、藤本と丸々一年対戦しないというのは、中学一年以来無かったことだ。
ただ、柴田にとっては初めて対戦したのは高校に入ってからだ。
石川が、とてもよく知った友人、のように振舞ったので、柴田までまとめて藤本とよく知っているように話すようになったが、実際には試合で三度会っただけ。
それでも、一年で三回、それもそれなりに近いレベルで試合をする相手、というのはなかなかいるものではなく、意識する存在になった。

「三回戦で当たるのはちょっと迷惑だよね、実際」
「うん、でも、大丈夫でしょ」

インターハイでベスト8に残る高校は、シードされて散らばるので準々決勝まで当たらない。
強いのにシードされない学校というのは、シードされる側からとって、低い回戦で当たってしまうと、自分たちがシードされた意味が無く、地雷のようなもので迷惑という部分もある。
柴田は、滝川の存在感をそれくらいに感じていたが、石川は、柴田にとって意外とそっけない。

「梨華ちゃんはなんか、全然平気みたいな顔してるけど、ボール運ぶ方は結構大変なんだよあれ」
「うーん、高橋と柴ちゃん、高橋はちょっとミキティだと危ないかもしれないけど、柴ちゃんは全然平気でしょ。12番くらい。あの、去年いたお姉さんの方だとわかんないけどさ」

二年生集団はコンビニへ向かっている。
石川と柴田はその一番後ろを歩く。
クリスマスイブにはふさわしくなく、全員そろいのチームジャージと、その上に学校名を背負ったウォーマーを着て歩く。

「正直言ってさ、私、もう、是ちゃんとこしか見えてないんだよね」
「中村学院? 決勝しか考えてないってこと?」
「うん。ミキティは友達として私は好きだし、いい選手だとも思うよ。チームも弱くないとも思う。今日みたいにはいかないだろうし。でも、負ける気はしなくてさ。油断とかそういうのじゃなくて。しっかり自分たちのいつも通りのことすれば勝てるなって」
「自信あるんだ」
「自信っていうのかな、なんだろ。不安がないっていうのかな。是ちゃんだと、自分たちが出来ることを全部しっかり発揮してもそれでも負けるかもって怖いんだけど、ミキティたちにはそれがないの。しっかり出来ないと負けるかもしれないけどね、しっかり出来れば大丈夫って」

柴田は、自分と12番の関係だけ考えれば、同じようなことは思えた。
自分はしっかりやれば12番に押さえ込まれることもないし、シュートを好き放題打たれることも無い。
ただ、全体を考えたときが不安だった。
ミキティと高橋の力関係はどうなんだろう?
ミキティが高橋を外して、自分を一対二の形で押さえに来た時、問題なくボールをコントロールできるだろうか?
石川の言っていることは、半ばは理解できるが、もう半分は自信を持って同意は出来ない。

「昨日今日の試合見てそう思った。一年見てなかったからちょっと心配だったんだけどね。でも、昨日今日の試合でそう思った。ちゃんとやれば大丈夫って」

ちゃんとできるかどうか、というのはまた別の問題だったりするのだけど、自分たちの方が強い、と言うことには間違いなく自信を持っているらしい。
柴田から見て、最近の石川は不安定さが少なくなっていた。
より不安定な高橋が間近にいて相対的にそう見えるのか、石川自身が成長したのか。
インターハイくらいまであった、今日の梨華ちゃんは調子がいい、今日はダメそう、という判断を、いちいち試合の序盤に確認する必要、というのがなくなっている。
人として、何か相談事をするのに頼りがいがあるか、というと?だが、プレイヤーとしては、困ったときにボールを預けるだけの信頼性は増している。
それでもどうなるか分からない、という相手は確かに是永くらいなのだろう。
自分はともかく、石川にとって明日の試合はそういう感覚なんだ、と柴田は思った。

「はーあ。今年もこのメンバーでクリスマスかー」
「来年もだよ。きっと」

コンビニにたどり着く。
サンタの仮装をした店員がレジ打ちをしている店内は閑散としていて、なんとなしにうら寂しい。
そこにずかずかと入って行って、お菓子と飲み物を買いあさる。
クラッカーなんかも買ってみた。
赤いサンタ風ハットも買ってみた。
キャラ的に、石川にかぶせてみた。
案外似合う。

石川も柴田も、クリスマス荷物を抱えて、バスケのことは頭から外した。
宿に戻って適当に数部屋へ散らばる。
全員が集まれるようなスペースを持った部屋は無く、数部屋でなんとなく飲んで食べて騒ぐ。
ただ、一般人女子高生が集まったクリスマスイブ、のように深夜まで騒ぐしゃべる、ということはなかった。
大体一時間で終了。
大会期間中のリズムは崩さない。
前日と同じ時間にしっかり眠りについた。

滝川の宿舎でも、明日の試合に備え就寝時間は当然早い。
そんな中で、部屋の電気が消されてからもそもそと動く姿があった。
体を起こして暗い中で部屋を見回す。
まだ眠っていないメンバーもいるだろうと思いつつ、そのままひざを抱えて考える。
暗闇に目が慣れてきたころ、枕元の自分のカバンから携帯を取り出して部屋を出た。

部屋のすぐ外は廊下の真ん中に当たり、なんとも落ち着かない。
エレベーターで下まで降りるのは面倒だし、ロビーまで出て行ったら寒いかもしれない格好しかしていない。
少し考えてから、通路の一番奥、開けたら非常階段に通じるという扉の前まで行ってから電話をかけた。
夜の比較的遅めの時間。
相手はなかなか出ないかとも思ったが、スリーコールで出た。
かけた相手は実家。
かけるかどうか迷ったけれどかけてみた。
寮でユニホームをもらえた報告をして以来の電話。
麻美の生活からすれば、その間隔は大分短い方に入る。
東京に来てからのことを少し報告した。
麻美にとっては小中学校の修学旅行と合わせて三回目の北海道脱出である。
試合以外でも、飛行機に乗るところからして新鮮だ。
そして、試合についても報告した。
二つしっかり勝ったこと。
二試合とも出たこと。
足を引っ張りかけたこと。
引っ張りかけたんじゃなくて、実際引っ張ったのかもしれないこと。

日々の出来事を親に逐一報告するような友達親子をしてきたわけではないし、そういう関係を望んでいるわけでもないけれど、麻美はここしばらくのことを母親に報告した。
それから、姉に代わってもらおうとして、代わってもらえなかった。
なんとなく、そんな気はしていた。

 

明日も試合がある。
明日の試合はテレビ放映されるらしいと伝える。
大会の模様は、エアーパーフェクトTVで三回戦からテレビ放映される。
三回戦、準々決勝は、男女それぞれ選び出された二試合だけの放映だが、滝川と富ヶ岡の試合は注目カードということで生中継されることが決まっている。
安倍家では、それにあわせてエアパーに加入していた。

麻美としては、本当は母はどうでもよかったのだ。
姉に見て欲しい。
そう思って電話した。
姉が居間に出てきて一緒にテレビを見るというのが想像できなかったので、姉の部屋のテレビでも映るようにして、と麻美から母に訴えて、そういう設定にしてもらっている。

簡単な試合には絶対にならない。
勝つにしても大変だし、ひょっとしたら大差で負けるかもしれない。
そんな試合だからこそ、姉に見て欲しかった。
自分もその試合に出る。
自分が出るかどうかに関係なく、姉に見せたい試合だったのだが、自分が出るからには恥ずかしくない姿を見せたい。
そこまで心の内を親には語らなかったが、とにかく、時間だけは姉にしっかり伝えてくれと言って電話を切った。

廊下の隅でため息をつく。
中学の時は北海道レベルの上位までで、全国レベルの大会に出ることは無かった麻美。
高校でも、夏、秋と機会が無かったので、こういう大きな大会で連戦を闘うのは初めての体験だ。
スタメンの中では唯一の一年生。
滝川山の手にとって特別な何かを背負ってしまった大会で、周りの注目も浴びている。
プレッシャーは大きい。
経験不足を解消する、という意図であろうか、今日も大差がついたにもかかわらず後半途中まで試合に出ていた。
動いている時間の量は普段の練習の時の方が長いが、プレッシャーが違うので疲労感は大分感じている。
明日が山場。
家に、姉に、電話をかけるということで部屋を抜け出してきたが、そうでなくてもなんとなく眠りにくかった。

そうも言ってられないので部屋に戻る。
音が鳴らないように慎重に開けたつもりでも、夜の扉は音がしてしまうもの。
静かに、静かに、と言い聞かせつつ自分の布団にもぐりこむ。
ほっと一息ついたところで横から声をかけられた。

「眠れないの?」

となりにはあさみが眠っている。
寮での生活の時は、バスケの技量に関係なく一年生は公平に各種雑用をこなす。
ただ、試合の遠征の時は違った。
ユニホームを持ってベンチに入る一年生は雑用は免除される。
そうすると、雑用をする一年生とは生活のリズムが違ってくるので、一年生部屋には入らない。
ベンチ入りメンバー部屋は三箇所あるのだが、ベンチ入りメンバーだけで埋めるには半端があるので、ベンチに入らない二三年生も何人か同じ部屋にいた。
あさみはその一人だ。

「いえ、家に電話してたんです」
「そっか」

布団から顔だけ出しての会話。
部屋が暗くても、闇に目が慣れてくると隣の人間との距離感くらいまではなんとかわかるようになってくる。

「すいません、起こしちゃいましたか?」
「ううん、起きてた最初から。麻美が出て行くのも見てた」
「すいません」
「他はみんな寝てるみたいだからいいよ。私が寝不足になっても別に、試合出るわけでもないしさ、困らないから」

そういう言い方をされると、一年生の麻美としては言葉を返しづらい。
ベンチ入りのメンバーは能力で選ぶのだから、一年生が先輩に遠慮する必要は無いのだが、そんな理屈は理屈として、頑張っているのにベンチに入れない先輩に対してはなんとなく申し訳ない気持ちというのも持ってしまうのも否めない。

「いや、いじけて言ってるんじゃなくて、ホントにそうだから。試合に出る子達が力を出せるようにするのが私たちの役目だし。私たちは別に、寝不足でも何でもいいのよ。だから、気にしないで」
「昨日、ハーフタイムの時に、まいさんに怒られました。みんなそれぞれ役目をこなそうとがんばってる。なのに麻美だけそれをしないで逃げるなんて許されない。自分の役目をこなそうと頑張れないなら今すぐ寮に帰りなさいって」
「きついなー。試合中にそんなこと言うんだ」
「そう言われて、悔しかったけど、でも、本当に寮に逃げて帰れたらどれだけ楽かなって思いました。それじゃいけないっておもったから、頑張って、入らないけどシュートは打って、タイムアウトの時先輩たちの褒めてもらってうれしかったです」
「昨日の試合はねえ、上で見てても、打てよ! って思ったもん。確かに」

あさみのようにベンチに入れないメンバーは、スタンドの上から観戦することになる。
当然、黙って見ているわけではなく、滝川くらいにまとまった人数がいると、ある程度決まった形で声援を送ることになる。
男子のどすの聞いた声でのコールは、フロアの上の相手チームへのプレッシャーになるが、女子の華やかな声は、通常は相手へのプレッシャーよりも、味方への鼓舞としての効果が大きい。

「でもさ、そうやって、見てると思えるけど、実際自分が試合に出たらどうかなって思うと怖いもん。すごいと思うよ、一年生で試合に出てさ、まいとか美貴とかと一緒にやってるっていうのは」
「全然、一緒にっていうレベルなんかじゃないです、私だけは。引っ張ってもらって、何とか足を引っ張らないようにするのがやっとって感じで。でも、あさみさんとか、試合に出られない人の分まで頑張らないととは思います」
「うん、そう言ってもらえるのはうれしいんだけどさ、私とか、スタンドの上の子達のことまで背負わなくていいと思うよ」

暗闇での会話。
大きな声は出せない、という感覚はあるので、二人とも相手のがわにずり寄って近い距離で話している。
自分の布団に包まったままではあるが、相手の顔は結構近かった。

「ベンチに入れないのはさ、私たちが下手だからいけないんだよ。それを麻美や、試合に出てる子達に、自分の気持ちをあんまり背負わせちゃいけないんだって思う。麻美はさ、まだ一年生なんだし、そんな余計なこと背負い込まないで、目の前の相手のことだけ考えればいいんじゃないかな? 勝ってほしいと思うよ。明日の試合も、これからも。勝ってほしい。勝ちたい。だけど、たとえさ、麻美が、明日、残り一秒で入れば勝ちのシュートを外したとしても、私は麻美を恨んだりしないと思わないし、この下手くそ何やってるんだ! とかも思わないし、多分、みんなも思わないんじゃないかな」

あさみが語る言葉を麻美は黙って聞き始めた。
失敗したらどうしよう。
それは、常についてまわる不安。
自分が負けるというだけじゃない、チームが負けるのだ。
そんな試合で自分がミスをしたら。
シュートが打てない理由も、たぶん、そこだった。

「負けるときはみんなで負けだからさ。誰かのせいじゃなくて。大体、ベンチに入れない私が、試合に出てる子のプレイに文句言う方がおかしいもん。そのレベルのことが出来ないからスタンドにいるんだからさ。だから、もし、麻美がミスして、それがきっかけで負けても、麻美のせいじゃないと思うし。まいじゃないけど、自分の役割、出来ることをしっかりやろうとすればいいんじゃないかな? って、私が偉そうにいえることじゃないけどさ」

別に、プレッシャーで悩んで眠れなかったというわけじゃないつもりだ。
ただ、電話をかけに行くために部屋から抜け出しただけだった。
そういう意味では、あさみがこうやって語るのはある意味でピンとはずれな感じもあるのだけど、麻美としては悪い気はしない。
これまではあまり直接深く関わったことは無くて、美貴さんやまいさんと一緒にいる人、という位置づけだったけど、麻美はあさみのことが結構好きだった。

「試合に出る子達が、本当はどれだけのプレッシャーを背負ってるのかなんて、ベンチにも入れない私には分からないけど、でも、余計なこと考えないで頑張ればいいんじゃない? 特に、麻美なんかはまだ一年生なんだしさ。ミスしたって、美貴やまいがなんとかしてくれるよ」
「そうだといいんですけどね・・・」

自分がミスしても先輩が何とかしてくれるからいいんだ、と本心から思えるようなら、多分試合に出られていない。
そう思えない、自分で責任を背負う意識があるから試合に出られる。
だけど、背負いすぎると重荷になってシュートも打てなくなる。
眠れないほど悩んでいるわけではないが、心の中の重しになっている事柄である。
ただ、一二回戦の自分を、スタンドの上から見ている先輩たちの一人であるあさみから、そういう言葉を聞けたのはほっとした。
自分が押しのける形になってしまった先輩たちからどう思われているのか、というのはとても気になることだった。

「あんまり余計なこと考えずにゆっくりねむりな」
「はい」

あさみが、寝返りをうって麻美の布団から遠ざかる。
麻美も、体を返して仰向けになって目を瞑った。
意識はうっすらと遠ざかっていく。
なんとなく、寮の外にあるコートでフリースローを打っているりんねの姿が頭に浮かんで、それから意識は消えた。

目覚めはさわやかだった。
今日が勝負。
昨日も一昨日も思わなかったことを今日は思った。
今日が勝負。
外の光が白いカーテン越しに部屋へ射し込んで来るが、周りのメンバーはまだ目覚めていない。
寝息かいびきか、どちらの表現がふさわしいか微妙なくらいの音が聞こえる。
りんねは、一人でもそもそと布団から起きだした。

ネグリジェなんて色っぽいものを身につけたりはしない。
練習着としても使うバスパンにTシャツ、その上にパーカーを着込むのがりんねの部屋着姿だ。
そのままでは寒いので、下にジャージを履き、ダウンウォーマーを羽織って部屋を出た。

東京の日の出は冬至前後のこの季節、滝川より早い。
寮ならまだ暗い時間だ。
起床時刻は三十分後だけど、すっきり目が覚めた。
気持ちが高ぶっているのだろうか?
エレベータを使って下へ降りる。
早朝の東京の町へ散歩に出る。

昨夜のクリスマスイブの華やぎは残っていなかった。
雪が降っている、ということもない。
りんねは北海道で三年暮らしたが、ホワイトクリスマスにはめぐり合ったことは無かった。
12月の北海道で雪が降るのはさして珍しいことではない。
ただ、クリスマスは三年とも東京にいた。
東京にいて、仲間と過ごした。
そんな仲間たちとの暮らしは、早ければ今日、遅くても三日後には終わる。

夜と違って、明るい時間帯なら宿から少し離れたところまで一人でも出られた。
三年とも同じ宿。
朝は散歩して、少し体を動かしてから食事を取って会場へ向かう。
三年繰り返せば、多少は地理も覚える。
少し歩けば皇居と呼ばれる建物の周りに出るのは知っていた。
そこまで出ると、この時間でもジョギングをしている人々がいる。
そんな姿を横目に身ながらのんびり歩く。

まさか自分がキャプテンなんて役割をすることになるとは思っていなかった。
なつみの横で、キャプテンを、チームを支えていくのが自分には合ってると思ってた。
だけど、それも出来なくなって、誰かが先頭を歩かないといけなくなって。
気づけば自分しかいなかった。

よく、こんな自分にみんなついてきてくれたと思う。
たぶん、誰でもよかったんじゃないかと思う。
自分でなくても、誰でも、ただ、前を歩いている姿があればきっと良かったのだろう。
自分にリーダーシップがあったからじゃない、周りのメンバーがしっかりしていたから、キャプテンとしてどうにかこうにかやってこれた。

自分に出来たのだから、誰でも出来る。
そう、思う部分はある。
だけど、自分のように最低限のことをするだけの存在ではなくて、本当にチームを引っ張っていくようなキャプテンの方が、本当は良かったのだろう。
次は誰にするか。
りんねが決めて指名しないといけない。

東京に来る前から、大体決めていた。
二人のうちのどちらか、それはずいぶん前から、部員全員の暗黙の了解になっていたけれど、その二人のどちらにするかも、ここに来る前からほぼ決めていた。
万が一にでも一回戦で負けたら、その場で指名しないといけないのだからそれは当然のことだ。
どちらかがふさわしくないというわけでもない。
どっちがキャプテンになっても、しっかりとチームを引っ張っていくだろう。
自分よりは二人ともキャプテンに向いている。

ただ、全体のことを本気で考えて、いつも本音で語れる方に、キャプテンをやってもらおうかな、と思った。

本音で語ると摩擦が起きる。
それは分かっている。
だからこそ、キャプテンにしようと思った。
摩擦が起きても、もう一人がそれを和らげてくれる。
もう一人がきっと支えてくれる。

逆は、なんとなく考えられなかったのだ。
もう一人が、全体のことを考えていないとは思わない。
だけど、それを考えた上で、思ったことを話すのにはオブラートがかかっているように見える。
それは悪いことではないけれど、そこに、オブラートのかかっていない発言が横から出てきたときどうなるか?
こちらの設定の場合、もう一人が支えてくれる、という絵が浮かばない。

なんとなく消去法のようになってしまったけれど、りんねはそんな風にして次のキャプテンを誰にするかは決めた。
早朝の東京でジョギングをする中年たちとすれ違いながら、りんねはそんな考えを反芻する。
断固とした自信があるわけではないが、それでいいと思う。

それを告げるのが今日になるのか、明日以降になるのか。

今日の試合も頭に思い浮かべる。
平家さんは飯田さんと比べてどうなんだろうか?

二日続けて、全国トップクラスのセンターが相手だ。
他チームの試合もここ二日で多少見たが、この二人以外には自分が敵わないと思うほどの人はいなかった。
だけど、この二人は実力として自分よりはっきり上だ。
そう感じずにいられない。

だけど、そんな相手と試合をするのが、昨日はちょっと嫌だったけど、今日は嫌ではなかった。
せっかくの最後の舞台なのだ。
これ以上強い相手はいない、と思えるような相手と戦えるのは幸せなことなんじゃないか。
昨日の試合が終わってそう思った。
そういう相手と試合が出来るところに、自分はたどり着いたのだ。
その上勝てれば、なおいい。

滝川のチームのキャプテンとして、試合の後を初めとして、多くの取材を受けた。
大きな不幸を背負ったチーム。
そういう扱いをされている。
同情してくれる記者の人もいる。
確かに悲しいことはあった。
不幸以外のなにものでもないような出来事はあった。
それは変え様のない事実だし、そんなことは無い方がいいに決まっている。
だけど、自分は三年間ここにいることが出来て、幸せだったと思った。
出会いがあり、早すぎる別れはあったけれど、ここで暮らすことが出来て、幸せだったと思った。

今日も勝って、明日も勝って、最後まで勝って、三年間ここで暮らせて幸せだったと、大きな声で叫びたい。
世界中に届くように、別の世界にも届くように、大きな声で叫びたい。

のんびり歩いてりんねは宿に戻った。
ロビーにはメンバーたちが出てきている。
早朝散歩の時間だ。

「もう、朝起きたらいないから心配したんですよ!」
「ごめん。目、覚めちゃったから」

同じ部屋の里田に怒られた。
里田だけじゃない、他のメンバーたちにも、同じように心配された。
散歩してきたんだ、と、同じ説明を繰り返した。
その同じコースに、今度はメンバー全員で散歩に出た。
一人で歩くのも気分は良かったが、みんなで歩くのも、やっぱり悪くなかった。

男子の二回戦が第一試合に組まれていて、女子の三回戦は第二試合と第四試合に入っている。
第一シードの富ヶ岡の試合は、常に女子の試合の一番最初なので、第二試合の方に富ヶ岡vs滝川山の手は組まれている。
それぞれに準備を終えて、コートサイドで前の試合が終わるのを待っていた。
座り込んで待っていると、視界は狭く、目の前の男子の試合を見ているしかないが、後ろで立っている分には広く見渡せる。
ベンチを挟んで向こう側に富ヶ岡のメンバーが立っているのもよく見えた。
笑顔で談笑しているのも分かる。
やっぱり石川は嫌いだ、と理不尽にもその笑顔を見ながら藤本は思う。

男子の試合が終わった。
引き上げていくのも待たずに、荷物を数名の一年生に預け、レギュラーメンバー達はコートに入りアップを始める。
直前アップは、相手がどこであれ中身が変わるようなものではない。
何も頭を使わなくても動きは体が覚えている。
その合間に相手の表情を伺った。
石川や柴田はこんなもんだろうと思う。
ただ、自分がマークに付く一年生はどんなもんだろうか? と気になった。
自分たちが、自分たちの意思とは関係なしに変な注目を浴びているということは藤本もわかっている。
そういう相手と試合をするのが、経験の少なそうな一年生に何か影響を及ぼさないものだろうか?
そんなことを思って様子を伺うのだが、緊張して硬くなっているような風も無い。

「藤本、相手気にしすぎだよ」
「そうですか?」
「あんなのたいしたことないって言ったの藤本でしょ」

アップメニューが終わって、フリーシューティング。
その輪の外で、相手サイドを見ている藤本のところへりんねが歩み寄ってきた。
声をかけられて藤本が顔を見ると、りんねは微笑んでいる。
口だけかも、って言った自分の言葉はなかったことになってるのかな? と思った。

「頼りにしてるよ」

りんねは藤本の肩を軽く叩いてシューティングに戻っていく。
藤本も、富ヶ岡サイドに背中を向け、その場からスリーポイントシュートを放った。
普段なら決して打つことの無い遠い位置だったけれど、ボールはリングを通過した。
ネットをボールが通り時の、パサッという音が、これだけの人数でシューティングしているにもかかわらず、藤本には聞こえたような気がした。

三分前のコールをレフリーがすると、両チームはそれぞれベンチに戻って行った。

滝川ベンチはいつものように石黒コーチを中心に輪が出来る。
タイムアウトの時のように、出ている選手をベンチに座らせるということもなく、試合開始時には全員が立って輪になる。
昨日、あらかじめ伝えてあったように、石黒が再度スタメンを告げる。
一二回戦と変更は無い。

「とにかく我慢してついていけ。チャンスは必ず来る。それまで我慢してついていけ」
「はい」
「ディフェンス、特に藤本と安倍、最初はプレッシャーかけるだけで手は出すな。無駄なファウルするなよ。プレッシャーかけて、心理的に追い込んでいけ。藤本のマッチアップ、12番は一年生で、それほど経験も無いだろう。圧力かけ続ければ心理的に疲労してくるはずだ。そこまで追い込んだときが勝負だ。そこまで、我慢してついていけ。多少離されても、二桁点差まで行っても、心配はするな。チャンスは来る」
「はい」

ディフェンス勝負。
昨日も一昨日も、勝負を分けたのはディフェンスだった。
ボール運びをつぶして、連続手得点をして一気に勝負を決める。
今日は、そこまで互角でいけるとは限らないし、それだけで勝負を決められはしないけれど、堪えていればチャンスが来るはず、そう、石黒コーチは信じさせる。

「リバウンド、戸田はスクリーンアウトしっかりしろ。里田は、あの7番は変な動きで飛び込んで拾いに来るから、ゴールから遠くてもケアしっかりな」
「はい」
「オフェンスは、藤本、里田中心で組み立ててみろ」
「はい」

厳しい試合になるのは予想している。
それでも、チャンスはあると石黒は思っていたし、メンバーたちも信じていた。

「戸田、なんか言って締めろ」
「みんな、気持ちで負けないで。気持ちで負けると一気に持っていかれるから。一しかない差を十とか100とかの差だと思わないで。向こうの方が実績もあるし、確かに強いのかもしれない。だけど、それは、手に負えない強さじゃないから。ほんの小さな差しかないから。気持ちで負けないで。明日、また、ここでミーティングできるように、頑張りましょう」
「はい」

スターティングメンバーは、ユニホームの上に着ていたTシャツをベンチに置く。
ベンチメンバー一人一人とハイタッチをかわしながら、コートに出て行った。

富ヶ岡ベンチでも、和田コーチが各選手たちに指示を与えていた。

「今日の相手は石川にとってちょうどいい試金石になるはずだ。オフェンスはもちろん、ディフェンスしっかりな」
「はい」
「柴田、ボール運び、様子見ながらだけど、危なそうだったら高橋のフォローまで出来るか?」
「やってみます」
「高橋はとにかく落ち着いてプレイしろよ」
「はい」
「前から当たられても、それほど手は出してこないはずだから。落ち着いて。プレッシャーかけられてもとにかく落ち着いてプレイしろ、いいな」
「はい」

和田コーチの不安点は一点、高橋のところだ。
他は負けていないと思うが、高橋と藤本の力関係だと、やや負けているように感じる。
基点となる高橋が崩されたときが危ない、と和田コーチは思っていた。

「昨日みたいに簡単に点が取れる相手じゃないから。得点動かない時間帯あっても慌てずに行こう」

平家がまとめて、富ヶ岡のメンバーもコートに上がっていった。

センターサークルを挟んで両チームが並ぶ。
一年ぶりの対戦。
メンバーは半分ほど変わっている。
三コート並ぶ体育館の中央コート、会場の視線とテレビカメラを集めて、試合は始まる。
平家とりんね、キャプテン同士が握手を交わし、二人のレフリーともそれぞれに握手を交わす。

「白、富ヶ岡、青、滝川」

レフリーのコール。
ファウルなどのコールの時、チーム名ではなくて色で告げるので、そのコール。
片方は白と決まっていて、もう片方はそのチームのユニホームの色に従う。

「お願いします」

両チーム、挨拶を交わして、サークルに散らばった。
中に入るのは里田と平家。
後はそれぞれ、自分のつくマークの相手をピックアップする。
麻美は柴田を、藤本は高橋を、それぞれコールする。
マークにつく予定の相手がジャンプボールで中に入ってしまっているりんねは、同じ状況の石川ととりあえずつかまえた。

ジャンプボール。
里田と平家、ボールに触れたのは同時。
そのまま、どちらがコントロールする、ということにならず、押し合ったボールは横にこぼれた。
ボールが飛んだ側にいたのはりんねと石川。
りんねが飛びつくが、石川も手を伸ばす。
つかみ合う形になったボールは、りんねが石川から引き剥がす形でもう一度飛んだ。
転々とこぼれたところに藤本と高橋が走る。
一瞬早く藤本が拾い上げ、高橋が伸ばす手をよけるように、ボールを一度自分の背中に回す。
接触してのファウルと、一気に抜き去られることを恐れた高橋が、身を引いて距離をとったところで、藤本が場を落ち着かせた。

「ゆっくり一本」

バックコートで藤本がボールを確保したのを見て、滝川のメンバーは上がっていく。
セットオフェンスが動かせる、そう確認して、藤本はドリブルで持ち上がった。

高橋は手は出してこない。
抜かれない程度に距離をとって様子を見ている。
藤本も全体を見ていた。
オフェンスのそれぞれにしっかりマークがついているな、と確認する。
昨年夏から全国レベルの大会を五連覇中の相手。
自分たち相手に奇策もないだろう、と思うのでハーフのマンツーと理解して問題ない、と確定させる。

インサイドは、りんねが平家を相手にポジションが取れていない。
とてもパスを入れられる状況ではない。
里田は外に開いていた。
石川はボールのあるこちらを意識したポジション取りで、今のままではパスが送れない。
とりあえず藤本は、右にいる麻美へパスを送る。
麻美の目の前には柴田。
シュートも打てないが、静止状態からの一対一でドリブル突破が出来るようにはとても見えない。
困っていると、藤本が手を上げたのでそこへ戻した。
藤本は、石川相手に面を取ってボールを受けられる状況を作った里田へ落とす。
左サイド外側。
インサイドのプレイヤーである里田自身が外へ出てきたので、中は広い。
まずは小手調べ。
ボールを受けて、右、左、と上体だけ動かしてフェイクを見せ、右手でドリブルで突っ込んだ。
ついてきたのでロールターンで左に、持ち返る。
正面をふさがれる、というところまでにはならなかったが、意図するコースには進めない。
ドリブルで持ち込んでいったが、進路をふさがれ、進んだ先はゴールの裏側になった。
ピボットでスペースを作って何とかシュートへ持ち込もうとするが、ディフェンスが硬い。
仕方なく、外の麻美へ出そうとしたが、山なりのパスを柴田にさらわれた。

ボールを奪った後の切り替えは早い。
高橋がサイドへすぐに開いて、柴田はそこへボールを送り走る。
藤本は、ボールを持つ高橋を見ながら、麻美が遅れたのでフリーになる柴田も見つつ、さらに逆サイドの六番まで視野に入れる。
二対三の状態、中にパスか、ライン際を上がるか。
どちらかだと踏んでディフェンスしていると、高橋は自分に向かって突っ込んできた。
スピードを持って自分にまっすぐに向かってこられると、ディフェンスは動きが難しい。
思わず腰高になったところを、中央サイドにボールを持ち替えた高橋に抜き去られた。
三対一の状況になると、滝川としてはどうしようもない。
高橋はそのまま一人で持ち込んでランニングシュートを決めた。
富ヶ岡が先制。

おいおいホントかよ、とシュートを決めて戻っていく富ヶ岡のメンバーを見ながら思った。
まず、里田が石川に止められたこと。
たまたまタイミングが合ってブロックショット、とかならわからないでもない。
そうではなくて、しっかりと一対一をして、ドリブルで勝負して、里田の側にボールコントロールのミスも無かったのに、進行方向を制限されてゴール裏へ追いやられた。
身体能力でどうにかされた、というだけではなくて、ディフェンスというのはどう対処すればいいのか、というのを把握した上での動きでないとああはいかない。
石川のくせに、と思う。
もう一つ、自分のマッチアップ。
そこで抜きに来るか?
三対二だぞ三対二。
三対二の状況なのに、その中であえて一対一を実行する意味が藤本には分からなかった。
パスが読まれていてそのパスコースを塞ぎに来てる、とまで判断した場合にドリブルで持っていくのは分かる。
しかし、今回の場合、頭から一対一で抜き去ろうとしていたように藤本には見えた。
アウトナンバーなのに、わざわざ一対一で勝負する意味が分からない。
その挙句、抜かれた自分にも腹が立つ。

エンドからボールを受けてゆっくりと持ち上がった。
一本目からいきなりエースが止められるのは困ったものだ。
意味のわからない高橋はまだ置くとして、里田が石川に押さえられたというのはいきなり大問題である。
だからといって、他の攻め手は自信が持てない。
麻美にスリーポイントを打たせるにはお膳立てがいるし、インサイドで勝負させるならやっぱりりんねより里田がいい。
自分が、というのも無くは無いが、まだ早いだろう。
出だしから、そこまで手詰まり感満載な組み立てをする気にはなれない。

ひとまず外で回す。
回してる分にはそれを狙っては来ないように見える。
適宜ポジションチェンジしながら、藤本は左の0度へ下りていった。
中ではりんねが石川にスクリーンをかけて、里田がそれに合わせて動く。
ボールが上から藤本に降りてきたところで、里田が逆サイドから切れてきた。
りんねは平家を連れて逆の0度外側へ出ている。
藤本は高橋の脇の下を通してバウンドパスを里田へ入れる。
スペースのあるインサイド。
石川を背負ってボールを受けた里田はターンしてシュートを打とうとすると石川にぴたりのタイミングでブロックに飛ばれた。
フェイクではなくて本当に打つつもりだったのだが、石川の動きに瞬間的に反応できて、里田は飛ばずにピボットで右足を踏み込んで石川をかわす。
ワンドリブルついて中に入り込み、ゴール下のシュートを決めた。

決めた里田も、パスを入れた藤本もほっと一息である。
石川は確かにうまくなったけれど、パーフェクトではない。
完全にお手上げというレベルではなくて、きちんと勝負可能な相手であることが今のプレイで分かった。
ただ、石川がディフェンスなら問題なくそこは勝てる、という一年前とは大違いであるというのも確認されてしまった。
オフェンスは相当苦しくなりそうだ、と思わざるを得ない。

シュートが決まれば前から当たる。
それがオールコートのマンツーマンである。
女子の高校生で、それを40分間基本のシステムとして採用しているのは、全国で滝川だけ。
ボールを運ぶ立場の人間にはこれはうっとうしくてたまらない。
当たる側の藤本も、相手がうっとうしいと感じる、ということはよく分かっていて、そう思われるようにしつこく前からプレッシャーをかける。
手を出してボールを奪いに行くのは決まった時間帯だけで、通常時は抜かれないようにしつこくしつこくついていき、自分で勝手にミスしてくれるのを待つスタンスだ。
藤本レベルの能力があると、抜かれないようについていく、というのはたやすい。

ところが、エンドからのボールを受けた高橋は、あっさり藤本を抜き去った。
あれ? と思うと目の前に高橋はいなかった。
さっきの速攻の時と同じである。
自分に向かってこられて、重心が浮ついたところで抜き去られていた。

ディフェンスは左右の動きはしやすいが、前後の動きはしづらい。
両手両足を広げたディフェンスの姿は、ある種、カニに似たものがあるが、カニと同じで、横には動きやすいけれど、そのまま後ろに下がれと言われても困るのだ。
それで反応出来ないでいる間に、横から抜かれている。

別に前で当たっているところで抜かれても、大抵はそれほど痛手はないのだ。
一時的に四対五になるにはなるが、そのわずかな時間で攻め崩されるということはあまりない。
前から当たってきたのを抜き去ったことで満足して、フロントコートまで上がってそこから余裕を持って展開するのが普通に起きること。
それが、今回は、藤本を抜き去った高橋がそのままゴールに向かっていった。
向かってこられたら誰かが対処しないといけない。
フリースローラインあたりまで来たところで里田がカバーに入る。
高橋はそこで、左ゴール下で開いた石川へバウンドパスを送る。
その石川にはすぐにりんねがつくが、その脇の下をバウンドパスで通し、右サイドの平家が受けてジャンプシュートを決めた。

私、調子悪いのかな?
藤本はそんなことを思う。
試合が始まってまだ二分にも満たない。
そんな短い時間であるが、藤本は思う通りにプレイが出来ていなかった。
相手がうまくて太刀打ちできない、というのとは違う感覚を持っている。
だとすると、問題が自分の側にあるのだから、調子悪いのかな、という発想になる。

オフェンスもディフェンスも、試合前の想定通りに行かない。
里田を中心に攻めれば問題ないだろう、というように思っていたオフェンスは、里田の認識以上に石川のディフェンスが伸びていた。
完全に押さえ込まれるとまでは行かないが、せいぜい五分と五分程度。
そこに頼りきりというわけに行かないので、パスを回して全体を崩すように組み立てを変えた。
一対一ではなくて、一対ゼロを作るようなオフェンス。
それを意識するのだが、パスを出すべき藤本がいいタイミングでボールを入れられない。
目の前の高橋が意外とうっとうしいのだ。
しゃべらない分精神的には矢口よりましだが、プレイの能力という意味では矢口以上に目障りだ。

ディフェンスもさらに苦しんでいた。
個人技でやられてしまうのはある程度仕方ない、という覚悟はあったが、ボールを回されて崩されての失点が目立つ。
基点となる高橋がのびのびとプレイしているのだ。
藤本が高橋に翻弄されている。
前から当たれば抜かれるし、思わぬところで唐突にスリーポイントを打つし、中が込んでいるのに平気でドリブルで突っ込んでくるし。
藤本の感覚からすると、ありえないプレイが多く次に何をしてくるのかの予想がまったく立たない。
自分よりうまい、とはまったく感じないのに手も足も出ない状況になっていた。

一クォーター残り一分を切って滝川のオフェンス。
8−16と出だしから離されているが、6点差に詰めて終わっておきたいところ。
持ち上がった藤本は、サイドに開く里田へボールを落とす。
自分はパスアンドランでゴールに向かって走るが、高橋にパスコースに入られて受けられない。
ゴール下を抜けた先にりんねがいたので、マークにつく平家へスクリーンをかけた。
藤本を壁に使ってりんねはボールサイドへ。
里田がバウンドパスを入れようとすると、平家とスイッチした高橋が横から手を伸ばしてきて、倒れこみながらもそのボールを叩いた。
ルーズボールを石川が拾う。

サイドに柴田がボールを受けに来る。
石川から柴田へ。
麻美は柴田につくが、それに関係なくボールを持ちあがっていく。
二対二の状況、柴田は中へは入らずに、右の0度へ自分で下りて行ってボールをキープし周りの上がりを待つ。
上がってくる平家にはりんね、石川には里田がついてパスは入れられない。
五人目、高橋に付くのは藤本。
これもボールサイドを押さえてパスは入れづらい状態だったのだが、高橋が唐突に止まり、それを読めなかった藤本はゴールサイドへ体が流れた。
ボールは高橋へ。
右六十度の位置、スリーポイントラインの外側でシュートの構え。
藤本は反射的にブロックに飛び込む。
ボールは叩けたが、藤本はその後を考えておらず、高橋に体当たりする形になった。
当然、ファウル。
残り7秒で高橋に三本のフリースローが与えられた。
一クォーター中盤と合わせて藤本のファウルは二つ目。

そこでシュートかよ!
ファウルのコールで手を上げながら、心の中で藤本は毒づく。
速攻の場面で敢えて外からシュート、というのは無いシチュエーションではないが、藤本の感覚としては、選択肢のかなり下のものになる。

高橋はフリースローの一本目と三本目を決めて18−8と富ヶ岡がリードした。
残り7秒での滝川のオフェンスは、有効に生かせず、タイムアップのブザーと同時に、無理な体勢からりんねがフックシュートのような形でボールを投げたが、リングにすら当たらずにコートに落ちた。

二分間のクォーター間インターバル。
メンバー達はベンチに戻ってくる。
石黒コーチにとって、この8−18というスコアは、悪い方ではあるが想定していた範囲内に収まる点差だった。
ただ、大きな誤算もある。
唯一勝っていると思っていた藤本−高橋のところの力関係が、想定通りになっていない。
悪くとも互角と思っていたのに、圧倒的に藤本の方が負けている力関係になってしまっている。

「さすがに強いけど、出だしはこんなもんだろ」

もう少し小さな点差で入れたら、という思いはあるがそれは押し隠して、予定通りで問題ないという顔をしてみせる。
まさかコーチ自身が動揺して見せるというわけにはいかない。

「里田、オフェンス、一人で何とかしようとするな。一対一のディフェンスは相当伸びてる。ただ、まだ合わせには弱そうだからその辺考えろ。ボールもらう前に勝負しろ」
「はい」

ボールをもらって、さあ一対一とやると、石川は里田でも難しい程度の力をつけていた。
ただ、それ以前の動き、あるいは石川自身の周りに対するカバーなどはまだ甘い、というのが石黒の見立て。
おそらく、必死に一対一の練習を積んできたんだろう、と想像している。

「安倍は、スリーポイントは警戒されてるから無理に打たなくてもいいけど、フェイクには使えよ。警戒してる分フェイクには引っかかりやすいはずだから。使える能力は全部使え」
「はい」

一クォーター、フリーで打てたスリーポイントが一本あるがそれは入らなかった。
それでも、怖さは持たれているようで、ボールを持つとシュートを警戒されているのは麻美自身も感じている。

「さて、問題はディフェンスだな」

8点しか取れなかったオフェンスも、決していいとは言えないが、18点取られたディフェンスはとても満足いくものではなかった。
18点、という点数は、10分間で取るには標準的なところだが、この試合のプランからすると、好ましくない展開である。

「シュートを打ちづらいディフェンスをしろ。まずシュートをケア。それがフェイクで抜かれても仕方ないくらいの意識で。後ろは、自分のマークにパスが入ることも当然意識するけど、前のディフェンスがドリブルで抜かれてくることも頭に入れとけ」
「はい」
「藤本」
「はい」
「お前の常識で相手を計るな」

思わず返事の言葉が出ない。
私の常識ってなんだ? と思った。

「この場合はこうするのが正しい。こうするのがセオリーだ、みたいな頭がお前にはあるみたいだけど、そういうのに従わないやつもいる。向こうは、お前の裏をかいてるわけじゃなくて、ただ普通にプレイしてるのが結果としてそうなってるだけだ。頭で考えて理解できる相手じゃない」

いや、そんなこと言ったって、ありえないだろ、と藤本は思う。
普通、あの場面でそういう選択するか? という疑問だらけなのだ。
石黒の方は、そもそも普通じゃないんだから仕方ないだろ、と言っている。
対処するには、その普通じゃない相手と割り切らないと仕方ないのだが、藤本は、その対処の方法を考える前に、あの動きはおかしいだろ、という不快感の方が頭の中を占めていた。

「余計なこと考えずに、体使ってディフェンスしろ。頭じゃなくて、体で」
「はい」

返事はしたが、藤本の表情が不満そうなのは誰に目にも見えていた。

富ヶ岡ベンチは平静そのものだった。
序盤から十点のリードを得て順調そのものである。

「高橋やるじゃない」
「なんか調子いいです」

石川が高橋の頭をなでている。
平和な光景だ。

「柴田、時折中でプレイしてみろ。石川が外に開いた場面なんかで。向こうの方が小さいから」
「そうですね」
「私からスクリーンかけに行ったりしたほうがいい?」
「んーー、いいんじゃないかな。それより、私が中入ったら、梨華ちゃん外でちゃんとつないでよ」
「任せて」

石川の「任せて」は、日常生活では不安だが、コートの上では結構信用している。
柴田の感覚としては、マッチアップで一番勝っているのは自分のところだった。
外勝負でもいいけれど、ゴールに近いところに場所を作ってもらえれば、一気に自分で勝負がつけられるかもという自信もある。

「ボール運び、今のところうまく行ってるけど、いきなりプレッシャーが増しても焦るなよ。落ち着いてな。特に高橋」
「はい」

和田コーチは、一クォーターでしっかり働いた姿を見ても、それでもやっぱり高橋のところが一番不安だった。

二クォーター。
富ヶ岡ボールで再開される。
出だしで離されたが、ここでついていって、十点圏内にいればそのうちチャンスが来る。
それが石黒コーチの感覚であり、それに従うとこの二クォーターでどんな展開を見せるかと言うのは大事なところである。

高橋のマークに付く藤本は、どうしたらいいんだろうか、と悩んでいた。
頭で考えて理解できる相手じゃないと言われて、はいそうですかと頭で考えるのをやめられるほど素直ではないし臨機応変にも出来ない。
最初の十分でわかったのは、この12番は常識はずれなことをする、ということだ。
能力が自分より高いというのとは違う。
スピードや技術が自分より高いというのとは違う。
何かが変なのだ。

高橋はボールを柴田に預け、中へ走りこむ。
そのままゴール下を通り抜けて、左の0度へ開いた。
柴田は右へ開いた石川へボールを落とす。
逆サイドからハイポストへ上がってくる平家へ、石川はそのままボールを入れた。
走りながらボールを受けた平家はそのままジャンプシュートを見せてりんねにフェイクをかけ、実際には左手でドリブル。
りんねはコースに入れずついていくだけになり、それを見た藤本がゴール下カバーに入る。
平家に対して一対二の状態を作り止めることは出来たが、外に開く高橋にボールを捌かれた。
近くにいた麻美が押さえにかかるが、高橋は冷静に柴田へボールを送る。
ミドルレンジでフリーになった柴田はジャンプシュートをしっかり決めた。

一本で決めさせず、しっかりカバーに入り、そこでフリーが出来てもさらにカバーも入るのまでは立派なディフェンスである。
普通の相手なら、その一連の流れの中で、どこかでボールがスムーズに動かなくなり、フリーを消すことが出来るのだが、富ヶ岡のオフェンスはその上を行く。

流れを変えたい。
エンドからのボールを藤本はすばやく持ち上がった。
ディフェンスの硬さが柱なら、チームとしてのもう一つの持ち味はスピード。
速攻を出せれば雰囲気も変わる。
しかし富ヶ岡の戻りも速かった。
三対三の状況にしかならず、フリーは無い。
それでも速攻を決めたいと藤本は高橋を抜きにかかる。
右サイドライン際をドリブルで上がりながら様子を伺う。
バックチェンジで左に持ち替え、中央寄りに向かうと見せかけ、そのままつなぎなしで左から右へもう一度バックチェンジ。
ところが、コントロールがうまく行かず、ボールが右手に収まらず、そのままサイドラインを割った。

「藤本! 出来ないことをやろうとするな!」

ベンチから声が飛ぶ。
バックチェンジとは、ボールを背中の側を通して右から左、あるいは左から右へとドリブルのさなかに持ち代えること。
一度持ち代えるくらいなら、慣れてしまえばなんでもないが、つなぎのドリブルを入れずに二度連続で持ち代えるというのは曲芸に近い遊びレベルでしかあまりやらない技である。
速攻を出すべきスピードの中でこれをやるのはかなり難しい。
それが出来るというのなら別にかまわないのだが、出来もしないのに、あえてそれをしてまで抜きに行くような場面ではなかった。

石黒コーチは思わずベンチメンバーに目をやった。
藤本をベンチに戻して頭を冷やしたい。
そう思って代わりを探したのだが、適任者は見当たらなかった。
フォワードなら、得点力の減少には目を瞑って、いったん頭を冷やさせるというのは出来る。
しかし、ここで藤本を外すとゲームを組み立てる人間がいなくなってしまう。
麻美にそれを任せるには経験不足の不安が大きすぎた。
頭を冷やさせてる間に勝負を決められてはたまらない。
藤本は外せない。

対する高橋は好調だった。
調子がいいと本能に従ってプレイできる。
余計なことを考えない高橋は、ますます藤本の常識では抑えにくい存在になっていく。

藤本以外の滝川のメンバーは、特別調子が悪いということはなかった。
力なりに精一杯戦い、ディフェンスでも力を発揮している。
一つどこかでミスをすればシュートまで持っていけないというプレッシャーを相手に与えている。
それでも富ヶ岡のボール回しが上回ってしまうところがあり、点差は徐々に開く。
高橋がハイポストの石川へボールを入れて、その横を駆け抜けて、石川の壁に藤本をぶつけてフリーになりランニングシュートを決めたところで石黒コーチがタイムアウトを取った。
二クォーター六分過ぎ、28−12 富ヶ岡の16点リードである。

「藤本、まずおちつけ」

藤本がいらいらしているときは誰から見ても分かりやすい。
長い付き合いが無くても分かるし、洞察力なんか無くても分かる。
当然、石黒コーチも見ていて分かるし、さらには、富ヶ岡のメンバーたちにも目に見えていた。
その苛立ちを突かれている、という感じも石黒コーチは感じている。

「お前一人でやってるんじゃないんだ。とにかくおちつけ」

藤本のメンタル、というのはコーチに就任した当初から気になっていた。
だからあえて、いろいろな場面で藤本に絡むようなところがあったのだが、結局今日まで改善しきれずにいた。

「頭で考えるなって言っても無理そうだから、違う考え方で頭使ってみろ。相手を、12番をガードだと思うな。フォワードだと思って対処してみろ。ボールを持ったらどこかにパス、じゃなくて、ボールを持ったらまずシュート、次にドリブル突破、そういう発想の相手だと思って対処してみろ」

フォワードだと思え。
そうは言ってもガードだろ、という思いは頭の中にある。
ただ、言葉の意味は受け取った。

「ディフェンス、カバーカバーはどこまでもカバーしろよ。カバーするのは二つ目までじゃないからな。二つカバーして、またどこか開いたらまたカバーする。足動かせよ。相手より早くだ」

藤本の耳にその言葉は入ってはいるが、頭の中では一つ前の話が残っていた。
フォワードだと思え。
言われた直後は、そんなこと言ってもガードだろ、ととりあえず反発もあったのだが、自分向けの言葉が終わった後で思考を続けると、なんとなく腑に落ちる部分もある。
よく、里田と議論していた。
ボールを持ったらすぐシュートというのはやめろ。
点を取るためのオフェンスなんだから、ボールを持ったら最初に考えるのはシュートであるべき。
ガードとフォワードの立場の違い。
12番は、里田の感覚に近いプレイをしている気がする。
フォワードの感覚に近いプレイ。

そんなのありか? と思う。
ガードなのにフォワードの感覚でプレイするとかありなのか?
試合の後半で、点を取らないといけなくて、一対一の力で勝っているのが自分のところだけ、というようなシチュエーションだと、自分も点を取りに行くことはある。
だけど、まだ前半なのに、しかも余裕を持ってリードしてるのに、そんな感覚なんてありなのか?
疑問に思ったけど、タイムアウトの時間もあまり無かったので、藤本は結論付けることにした。

あの12番はバカなんだ。

バカだから、セオリーを無視してああいうプレイになるんだ。
そう、決め付けた。
相手のことをバカだと決めたことで、少しいらいらは落ち着いた。

富ヶ岡ベンチは少し余裕のあるムードになっていた。
三回戦としては面倒な相手だな、と思っていたのだけど、序盤からそれなりの点差になった。
心配していた高橋のところも、なぜか相性がいいらしく自由にプレイできている。

「シュート決めた後、戻り早くな。常に速攻を狙ってくるはずだから。特に高橋、ピックアップ早くしてスローダウンさせろ」
「はい」

和田コーチからの指示はそれだけ。
シュートを決めた直後に速攻で返されると点差が広がらない。
少し前に、速攻を出されそうな危ない場面があったので、そこだけ注意しておいた。

「高橋、調子いいみたいじゃないの」
「7番、顔が怖いです」
「ミキティが怖いのは仕方ないのよ」

石川と高橋。
石川にとって高橋は一番弟子のような扱いなので、試合中でも先輩風を吹かしたくなる。
全体練習の後、よく二人で一対一を繰り返していた。
石川としては、それは自分のディフェンスの練習。
おかげで里田が相手でも外からの一対一なら全然怖くない程度にまで進歩した。
ただ、それは高橋の側にも影響を与えないわけが無い。
繰り返し繰り返し一対一の練習をすることで、試合中でも一対一を好む癖がついていた。
入部当初には小川に向かって、ガードが点を取りに行くのは最後の手段、と言っていた高橋が、自分で点を取りに行くプレイを試合開始直後からするようになったのは、ある部分で石川による刷り込みの影響が大きい。

「柴田、忘れてるかもしれないけど、もっと中で勝負していいぞ」
「梨華ちゃんがあけたところに高橋が入ってくるから、意外とスペース無いんですよね」
「そういやそうか」

誰かが目立つと誰かが後ろに隠れる。
高橋が目立って柴田が後ろに隠れた。
ただ、柴田は、だからといって高橋に中に入ってくるな、というつもりは無い。
自分が自分が、というタイプではないし、点が取れるならそれが誰でもかまわないと思っている。
それに、まだ出していない攻め手を別に持っている、というのは悪いことではないと思っている。

16点差。
前半のうちにあまりに開きすぎるとワンサイドゲームの様相を帯びてくる。
滝川としてはこれ以上離されたくなかった。
タイムアウト明け、藤本がゆっくりと持ち上がる。
富ヶ岡は攻撃力があるだけではなくてディフェンスもしっかりしている。
どこから攻めるか、迷いながらパスを回す。
外に開いた里田へ。
勝負しようか、と思うが石川の雰囲気に、抜ける気がせずに藤本へ戻す。
麻美が下から上がってきたので藤本は速いパスを送った。
ボールにミートしてそのままシュートの構え。
柴田が押さえに来たのでドリブルで抜きにかかる。
シュートフェイクは効いたのに、それでも抜けなかった。
ゴールに向かっていけない。
ボールを持ったまま、外に開く形になった。

「中! 入れて!」

りんねが平家を背負ってローポストに位置どっている。
平家はそれを追い出そうとするが、りんねは踏ん張って動かなかった。
麻美はそこにバウンドパスを入れる。
右足を軸にターン。
平家は覆いかぶさるようにブロックしようとするが、りんねはそれにかまわずゴールの側に踏み込む。
ゴール下、圧力は感じているはずだが、それでもりんねはジャンプした。
平家の手に当たりながらもゴール下のジャンプシュート。
ボードにあたり、リングでも当たってわずかに跳ね上がった後、ネットを通過した。
笛が鳴り平家のファウルも取られる。
りんねのカウントワンスロー。
今まで、あまりりんねがしないような強引なプレイだった。

滝川のメンバーたちが集まってくる。
りんねは力を込めて両手でそれぞれとハイタッチ。
平家のような、全国トップレベルのセンターから、ファウルつきでシュートまで決めるのはビッグプレイである、という認識を誰もが持っている。

「藤本、気持ちで負けるな!」

りんねが声をかけてくる。
藤本はりんねの顔を見上げる。
りんねは続けた。

「いろいろ考えててもうまくいかないことはある。だけど、いちいちいらいらしないで。考えてダメなら、とにかく足動かしてついていけばいい」

りんねにまで怒られた。
よほど自分がいらいらしているように見えたのだろう。
仕方ない、バカを相手にまともに頭で考えて対処しようとした自分がいけないのだ。
そんなことを思いながら藤本は、りんねの言葉に小さくうなづいた。
コーチの言葉より、キャプテンの言葉の方が、素直に聞けた。

ファウルがコールされてりんねのフリースロー。
藤本は高橋につく。
シュートが入ればディフェンスだ。
りんねの珍しい強引なプレイは、ベンチやスタンドの雰囲気も盛り上げた。
自分たちも続かないといけない。

フリースローはしっかり決まって十三点差。
柴田がボールを拾い上げて高橋へ入れる。
抜きにかかってくるはず、と身構えていると高橋はパスを柴田に戻した。
柴田がドリブルで持ち上がり、麻美が遅れている。
あのバカ、と思いつつ藤本は高橋に付いて走った。
持ち上がった柴田は、そのままアーリーオフェンスは仕掛けず、場が落ち着くのを待つ。
全員が上がりきり、麻美も柴田に追いついてのセットオフェンス。
外に開いてきた石川へまずボールを落とす。
高橋が中へ飛び込んでいくが、藤本はボールサイドを押さえた。
パスは入らない。
その流れのまま高橋がりんねへゴール側からスクリーン。
藤本はしっかり声で連携する。

りんねが高橋を認識しているのが分かった平家は、スクリーンを使わずにハイポストへ上がっていく。
自分のサイドでスペースが出来ていたので石川はシュートフェイクを見せてからドリブルで突っ込んだ。
静止状態からの一対一なら、里田も簡単には振り切られない。
中央側に入られるが、そこにりんねのカバーも来て一対二になる。
石川は平家へパス。
平家には藤本がカバー。
高さの分平家は勝負が出来るところだが、0度で開いている高橋にパスを送った。
シュートの構えを見せたのでゴール下にいた里田がブロックに飛び込む。
高橋は、ドリブルでエンドライン際、里田を交わすと今度は藤本が抑えに来る。
ゴールの裏、シュートは打てない。
逆サイドに開く石川へ。
ここはローテーションで下りてきた麻美カバーに入る。
石川から柴田へ。
シュートクロックがもうない。
近くにいたりんねがブロックに飛び込む。
柴田はシュートが打てず、中央の平家に送る。
滝川もここまでは抑えきれず、平家はフリーでジャンプシュート。
二十四秒のブザーはなったが、シュートは決まる。
滝川のメンバーは全員レフリーの方を見たが、レフリーはカウント、のポーズを示した。

「それでいい! それでいいから!」

ベンチから石黒コーチの声が飛ぶ。
富ヶ岡のつなぎを一つ一つカバーしてシュートを打たせずに行ったのに、二十四秒直前で決められた。
こういうときの心理的ダメージは大きい。
それでも、石黒コーチはそれでいいという。
ここまできれいにパスをつなげられるケースはめったに無い。
最後は決められたが、そこまでのディフェンスに文句は何も無かった。

コーチの言葉で、あれでいいんだ、悪くないんだ、とは思うものの、それでも決めてくるってどうしたらいいんだよ、という思いも滝川のメンバーは抱いてしまう。
相手は強い。
プレイしている本人たちが一番よく分かる部分である。

シュートを決められたボールは里田がエンドから入れて藤本に送った。
藤本は一人で持ち上がる。
ディフェンス時にカバーカバーで大きく動いたため、高橋は近くにいなかった。
速攻を止めに来たのは柴田。
状況は三対二、柴田から離れた麻美が中央をフリーで走っている。
藤本は麻美にパスを送る。
柴田は藤本と麻美と、両方をケアできるような位置取り。
麻美はドリブルで持ち込んでいくが、今度は逆サイドのディフェンスも真ん中に寄ってきた。
右サイドの藤本へボールを送り、自分はゴール下を抜けて逆サイドへ切れていく。
藤本には柴田が寄ってきた。
四人目、里田が上がってくるが石川がコースを塞いでいる。
すぐ後、五人目、りんねが上がってくるが、ゴールに遠い位置でりんねに入れても勝負できない。

セットオフェンスを組みたくなかった。
せっかくいいディフェンスをしたのに最後の最後で決められた。
その失点分は、あっさり簡単に短時間で返したい。
藤本は、ゴール下へ駆け込むりんねへ山なりのパスを入れるというフェイクを見せてからドリブル。
ペネトレイトの格好で柴田に直進し、それからバックターンで中央側へ進んでいく。
柴田は抜き去られないようについていったが、四十五度、台形の少し外でジャンプする藤本には反応できなかった。
そのジャンプシュートが決まりまた十三点差。

激しい攻防。
藤本は、高橋をただのバカ、という認定をして冷静さを取り戻してディフェンスをするようにはなったが、それでも簡単には抑えられなかった。
冷静になったとしても、高橋の行動パターンが分からない。
フォワードのような発想で動く、ということを藤本は考え方の一つとして入れたが、高橋の動きはそれをも外れることが多い。
ただ、それでも足を動かしてついていってプレッシャーをかける、というのは効果は出ている。
ゴール下はりんねが割と健闘していた。
技術では負けるが、パワーで負けていないのでいい場所を取られることが少ない。
平家は、難しい場所からでも決めてくるのでシャットアウトは出来ないが、なんとか勝負にはなっている。

オフェンスは速攻やアーリーオフェンスで決めに行く。
セットオフェンスになると、個人の力の差が効いてきてしまうことが多い。
藤本が早いボール運びをし、場の空気を読んですばやく勝負させることで対処しようとしていた。
自分がボールを持っている場合は、相手の高橋が多少おかしな動きをしても、気にせず置いていけばいいので、ディフェンスをしているときよりは苦手意識は薄くてすんでいる。

それでも点差を縮めることは出来ず、徐々に苦しくなる。
二クォーター残り17秒まで来て36−19 富ヶ岡の17点リード。
りんねが石川のファウルを受けて二本のフリースローを得た。

「藤本、ゆっくり組み立ててもいいよ」
「でも、いけるところは速いオフェンスがいいじゃないですか」
「行けるところはね。でも、無理にアーリーで決めようとしてる感じがあるから。もっとみんなを信じていいよ」

わずかな間にりんねが藤本に声をかける。
個々の力の差を感じて、藤本が早い仕掛けにこだわっているのをりんねは感じ取っていた。
ボールを持てばシュートを考える、というのは里田の発想。
いつもは回して回してしっかり崩してからシュート、という藤本が、速い攻めにこだわるのがりんねには、焦っているように見えた。

「二号、どう思う?」
「りんねさん調子いいみたいですし、セットでもインサイドで勝負できそうだし、ゆっくり攻めるとこもあっていいと思います」
「そうか」

近くにいた麻美に聞いてみた。
フリースローのボールがりんねに渡されている。
簡単な会話だけで、藤本は麻美の側を離れてマークにつくべき高橋の方へ向かった。
一番相手を怖がってるのは、美貴なのかもな、と藤本は自分で思った。

フリースロー、りんねは二本とも決める。
エンドからボールを受けた高橋はドリブルで藤本を抜きにかかってくる。
抜かれない程度に付いていった。
フロントコートまで上がってきた高橋はドリブルでキープ。
残り時間いっぱい使って攻めるのは、この時間帯での常識である。
いつも常識的に動けバカ、と思いながら藤本は高橋に付いている。
残り十秒を切ってハイポストの平家へ。
ボールを確保し、勝負しようかという素振りだけは見せる。
高橋がその横へ走りこむ。
手渡しパスで一気にゴール下、を目指すプレイだがここは藤本が平家との間に割って入ってそれをさせない。
平家は外の柴田へ戻す。
高橋はゴール近くの石川のマーク、里田へスクリーンをかける動きを見せる。
藤本は里田にスクリーンの声をかけた。
高橋という壁を使って石川は中へ。
という動きをして見せて、里田の位置をずらし、実際には高橋を反対側の壁として石川は元いたサイドの外へ開いた。
里田は逆側から高橋に引っかかる。
藤本はそれに気づいて石川の抑えに向かうが遅かった。
柴田から送られたボールを受け石川はスリーポイントを放つ。
ゴール下、リバウンドのポジションを争うが、ボールはリングを通過する。
ほぼ同時にブザーがなった。
39−21 富ヶ岡の18点リードで前半を終えた。

ゴール下に落ちてきて転がるボールは藤本が拾い上げる。
どこかに叩きつけたい心境だったが、レフリーが歩み寄ってきたので手渡した。
12番12番、うっとうしい、と思ってきたが、前半最後は石川にしてやられた。

「むかつく!」

吐き捨てるようにつぶやく。
その藤本の背中を、りんねがぽんぽんと二つ叩いて、ベンチに戻ろうと促した。

最後にスリーポイントを決められるのは手痛かった。
終わり方としては最悪である。
39失点。
滝川のチームの性質を考えると、この39という数字はかなり大きなものだ。
それも満遍なくやられている。
石川が12点 平家は8点 高橋にも10点取られている。
強力なエース一人にある程度やられるのは仕方ないところだが、満遍なく点を取られているというのはディフェンスが全体的に崩されているという印象になる。
オフェンスは、21点
これももう少し取りたいところだった。
ほとんど里田とりんねが取っている。
里田はともかく、りんねが8点取っているのはゲーム前の感覚からすると意外だった。
スコアブック上、平家とりんねは互角ということになる。

「前半はあんなもんだろう」

ロッカールームに戻って石黒コーチが最初に口を開いた。
前半出ていたメンバーは座らせて、自分はその前に立っている。

「点差は結構あるように見えるけど、動き自体は悪くなかった。まあ、終わり方はひどかったけどな。15点差で終わってればほとんどプラン通りだった」

前半終わって15点のビハインド、というのが本当にプラン通りかどうかというのは怪しげなところ。
それでも石黒は、その程度なら想定通りで問題ない、と強調した。
点差が開きすぎてとてもじゃないけど勝てない、とは微塵も思わせてはいけないのだ。
想定の範囲内だからまだまだ大丈夫、そういう心理状態で後半を迎えないといけない。

「インサイド、特に良かった。ほとんど互角に出来てる。リバウンドもディフェンスリバウンドはしっかり取れてたしな」

りんねと里田がうなづく。
りんねは自分自身の前半の出来にはそれなりに満足していた。
平家と飯田、どちらが上かは分からないが、りんねからすると、飯田と違って平家の場合、立っている時の高さのハンデが無い分やりやすい。

「向こうのあわせが良くて止め切れてないけど、ディフェンスは全体的に悪くない。後一歩、後一本抑えられれば、向こうの得点も止まるだろ」

ディフェンスは、こちらがやれる限りのことは大体出来ている。
抜かれてもカバーが入り、開いたところはローテーションで周りがカバー。
相手の方が一枚上、というのが前半の結果だが、そこを責めたりはしない。

「さて、後半勝負だ」

一回戦、二回戦と異なり、ロッカールームでも石黒が仕切ってしゃべる。
メンバーたちに話し合いをさせてそれをゆっくりと聞く、というような悠長なことが出来る状態ではない。

「ディフェンス。前からの圧力を増やそう。藤本、安倍。ボールへ圧力をかけろ。自分のマーク捨ててでも。一対二を作れ」
「はい」
「後ろは、その状態から出てきたボールを狙う」
「はい」

一回戦の東京聖督戦、三クォーターに一気に決めに行った時の形。
ここでは、追いつくためにそれを使う。
普通のチームなら、この形のディフェンスは四クォーターに入って、どうしようもなくなってきた時に一か八かで試みるもの。
しかし、滝川にとってはある程度計算の出来るゲームプランの中の一つである。

「藤本、頭で考えずに体で、足で対処してみろ。考えないでも動ける程度には練習してきたはずだ」
「はい」
「総合力ではお前の方が上なはずだ。自信を持て。迷うな」
「はい」

藤本と高橋の相性。
よりによって、唯一勝っていると思っていたマッチアップのところが、相性が悪く翻弄されているというのは石黒のゲームプランには無かったところだ。

「オフェンスは、まわして崩すのも大事だけど、時には一対一で勝負してもいいぞ。外も含めて。特に、安倍」
「はい」
「警戒されてるってことは、フェイクにはまりやすいということだし、その警戒を上回って決めればダメージも大きいってことだ。分かるな?」
「はい」
「点差があるからと言って、慌ててスリーポイントに頼る必要は無いけど、打てる時は打てよ」
「はい」

石黒コーチからの指示はここまでだった。
後は生徒たちに語らせる。
自分が万能とは思っていない。
自分に気づかないことを、試合に出ているメンバーが気づくこともあるし、ベンチにいるメンバーが感じることもある。
それはすべて表に出させた方がいい。
石黒の考え方だ。
前半が終わって18点差。
決して小さな差ではない。
互角の力のチームでもひっくり返すのは難しいだろう。
まして、今日の相手は全国ナンバーワンチーム。
素直に考えると厳しい情勢。
それでも、あきらめの雰囲気は無かった、
奇跡を信じているわけではない。
まだ、奇跡を夢見るような感覚は出てこず、現実的に逆転可能な点差と、メンバー達は感じていた。

富ヶ岡のロッカールームは生徒たちしかいない。
ハーフタイムに入ってすぐの時間帯は、男性である和田コーチはロッカーには入ってこない。

「高橋、なに? 十点も取って。あなた、ちゃんと私にパスよこしなさいよ」
「パスも出してるじゃないですか」
「いや、そ、そうなんだけど、もっと頂戴よ」
「まあ、いいんじゃないの? 攻め手がいろいろあるのは」

高橋に真顔でまともに答えられてたじろぐ石川のあとを平家が拾う。
汗を拭き、うちわで扇ぎ、体を休ませるハーフタイム。
18点もリードしていれば場の雰囲気は明るい。

「でもちょっと柴ちゃん少ないわよね」
「高橋が中入っていくからさあ、スペース無くて」
「外から打ったら?」
「なんかタイミングないんだよね」

柴田は前半比較的おとなしかった。
調子が悪いというわけでは決して無い。
ただ、周りが乗っていたので自分からは出て行かなかった。

「そろそろ先生入れる?」
「はーい、オッケーでーす」

和田コーチは自分からは中に入ってこない。
控えの一年生が呼びに行って中に招き入れた。

「あのディフェンスからよく39点取ったなあ」
「高橋が自分で点取るから」
「高橋のところ心配してたんだけど、悪くないな」
「はい」

これだけリードしていれば切羽詰ったところは無い。
鷹揚にまずは褒めて入る。

「だけど、まだ勝負のついた点数じゃないからな。一気に追い上げてくる力のあるチームだし」
「スリーポイント打ってきますかね?」
「どうかな? 柴田が12番はしっかり抑えてるから。点差があるから7番が打ってくるかもしれないな。ただ、慌ててスリー一辺倒になってくれば楽になるし、それほど気にすることは無いな」

スリーポイントシュートだけにこだわったオフェンスをすると、無理な状態からでもスリーポイントを打っていってしまう。
遠くから打って難しいから三点なのであって、無理な状態から打つスリーポイントは、大変確率の低いシュートになる。
それでも入ることはあるが、多くの場合、スリーポイントばかりの展開になると、点差は逆に開いてしまう。

「後半、しっかり息の根を止めろ。あれくらいのチーム力があるとこの程度の差だと安心できない。今のメンバーのまま勝負を決めよう」
「はい」
「前から当たれ。7番の戦意がなくなるくらいに厳しくディフェンスしろ。高橋、とにかくくらいつけ。自分でボールをとろうとしなくていい。ボールを取るのは周りだ。高橋は7番にくらいついてくらいついて、苦しい状態でパスを出させるようにしろ」
「はい」
「周りは常にボールを狙うこと。それぞれ一つや二つのファウルなら仕方ない。三つ目は困るけどな。二つ目までは気にするな」

18点リードの場面から、さらに勝負を決めに行く。
このタイミングで前から当たっていくのは、富ヶ岡の定番でもあった。

 

富ヶ岡vs滝川山の手というのは三回戦の注目カード。
スタンドの上も、別コートではなくこの試合を見る目が一番多い。
反対ブロックに入り、当たるなら決勝しかない是永も、自分の試合にはまだ大分時間があるので高い位置から試合を見ていた。

「意外と点差開いたね」
「パスが澱みなくまわるから、滝川もついていけてないよ」
「石川さんはあんまり目立ってるわけじゃないのにね」
「石川さんだけのチームじゃないから。みんな力あるし」
「美紀のお気に入りの石川さん、後半は目立つかな?」
「お気に入りとか、そういうんじゃないってば」

是永の隣には川島が座る。
昨日の二回戦は114−47 ベンチ入りメンバーが全員試合に出る快勝だった。
今日の三回戦、開始予定は二時間後。
バッシュの紐は緩んでいるが、あとはTシャツの上にジャージを来て、アップの準備は大体整っている。

「じゃあ、感想は? 石川さんの」
「幸はどう思う?」
「あんまり自分で勝負しないで、しっかりパスもまわすよね。でも、数少ない勝負するところはきっちり決めてる感じ」
「ふーん」
「なに? なんか違う?」
「オフェンスはね。マンツー相手だし。うちとやる時とは多分違うしさ」

勝負どころできっちり決めるくらいでは是永は驚かない。
インターハイ、国体、二度、40分ずっとマークについてきた。
インターハイは完璧に抑えきった。
国体の時は、自分と直接勝負な形ではなく、うまく周りを生かす動きをされて、チームとして勝てなかった。
国体の時の石川を見ていると、自分が少しでも離れればシュートを決められた記憶がある。
それを思えば、勝負どころでしっかり決めるオフェンス力くらいでは驚かない。

「ディフェンスが硬くなってる気がするんだよね」
「ディフェンス?」
「滝川の10番 多分エース級なんだけど、外からの一対一は石川さんしっかり抑えてるんだよね」
「それが点差が開いた原因ってこと?」
「ああ、そうかもしれない」

富ヶ岡がリードしている理由を考えていたわけではないけれど、川島にそう言われて、是永はそれもあるのかなと思った。
実際に考えていたのは、自分がボールを持ったらどうか? ということ。
自分と石川さんの身長を考えると、中でよりも外から勝負したい。
自分で勝てるかどうか?
自分に石川さんがつくのか、国体の時につかれた九番が来るのか?
滝川が21点しか取れていない富ヶ岡のディフェンス力が気になった。

「でも、面白い試合だよね、レベル高くて」
「もうちょっと競った試合すると思ったのにな」
「一度くらい流れが行けば、一気に詰まるかもしれないけどね」

スタンドの上から見ていて、二人は偵察モードから観戦モードになった。

「里沙ちゃん、ホントにあんなチームに入る気?」
「入れれば・・・」

高校生の大会を見に来るのは、同じ高校生や大人たちばかりではない。
中学生だって小学生だって見に来る。
ただのお手本として見に来ることもある。
ただの興味として見に来ることもある。
自分の、未来の姿がそこにあることを信じて、ここに来ることもある。

新垣里沙は、中学三年生。
神奈川県横浜市で暮らしている。
富ヶ岡高校があるのも横浜市。
新垣の家から自転車通学圏内だ。

「里沙ちゃんもすごいとおもうけどさあ、このチームすごすぎるよ」
「いいの。石川さんとか、柴田さんとか、そういう素敵な人たちと練習できるだけでもいいの」
「素敵なねえ」
「滝川も、本当はキャプテンだった安倍さんとか、素敵な人いっぱいいるから頑張って欲しいんだけどさ」
「よく知ってるよね、選手の人の名前とかまで」

新垣は学校の友達と大会を見に来た。
冬休みに入ったばかりのこの時期。
中学三年生としては受験直前期なのだが、それでも見に来た。

「富ヶ岡って公立でしょ」
「うん」
「里沙ちゃん、受かるの?」
「それが、一番問題なんだよね・・・」

特にセレクションなどをしているわけではない富ヶ岡は、怖がらずに希望すれば、誰でも入部することは出来る。
ただし、それは逆に、推薦では取ってくれないことでもあるので、ちゃんと受験して合格しないといけない。
新垣にとっては、それが一番の問題だった。

負けたチームは翌日には地元に帰るけれど、地元がここのチームというのもある。
負けた二日後、自分たちの出た大会の行く末が気になって見に来ることが出来るというのは地元民の特権かもしれない。

「もうちょっと頑張ってくれよ、おいらたちに勝ったんだから」
「あのディフェンスがあんなに点取られちゃうんだね」
「後藤みたいなのが五人いるチームだもんな」

 

矢口と後藤。
滝川と富ヶ岡、今年、両方のチームと試合をしたことのあるのは彼女たちくらいしかない。

「滝川の7番、富ヶ岡のサルくらいなら抑えると思ったんだけどな」
「やぐっつぁんは滝川の方がいやだったの?」
「あいつにはまともにやったら絶対勝てない感じがした。言葉でいじめていらいらさせて何とか勝負になったけど。富ヶ岡のサルは、素でもそんなに負けないと思う」
「そんなに違うんだ」

ガード同士を比べた矢口の感想。
高校入学直後だった高橋と、今の藤本を比較するのはフェアではないが、矢口の感想としては藤本と高橋の間には差が大分あった。

「そっちはどうなんだよ?」
「んあ?」
「滝川の十番と、富ヶ岡の7番」
「んーと、どっちも嫌かな」
「五分と五分?」
「んー? どうだろう? わかんないや」
「後藤はさ、相手の力がどうとか、そういうのも見れるようになんないとだめだぞ、この先」
「そういうの苦手なんだよなー」

引退した矢口、新キャプテンになった後藤。
二人で試合を見に来た。
大学受験モードになれない矢口と、チームのキャプテンになるんだという重みを感じさせない後藤。
二人で目の前の現実を無視して、少し前の現実を見に来た。
だけど矢口は、チームの行く末も心配で、後藤には目の前の現実にも目を向けさせようとする。

「あ、出てきたよどっちも」
「後半はもうちょっと頑張ってくれよ」

試合の時には散々口汚く罵ったが、負けてみると、そんな相手を応援してしまう矢口だった。

 

両チームがそれぞれベンチに戻り、レフリーが三分前のコールをする。
ハーフタイムアップをしていた次の試合の男子チームがコートから引き上げて行った。
ベンチでは後半に向けて最後の確認が行われる。
滝川は速い時間帯で少しでも詰めて行きたい所。
戦術的な確認が終わり、時間が少し残ったので石黒コーチが語りだした。

「18点差か。結構大きな点差に見えるな」

後半、コートに上がる五人がベンチに座り、石黒はそれに向かい合う位置に立つ。
五人はじっと石黒を見つめ、石黒は五人を順番に見つめながら続けた。

「確かに向こうは強いチームだ。だけどな、強いチームだって18点くらいの点差をひっくり返されるくらいのことはある」

とにかく自信を持たせたかった。
勝てる、その確信を持って試合に臨ませたい。
石黒はその一念で言葉をつなげる。

「去年、世界選手権が日本であったよな。予選リーグの最終戦。勝てば決勝トーナメント進出っていう試合、前半で18点リードしたチームがあった。これは勝ったなって見てて思ったよ。それが終わってみたら逆転負け。唖然とする試合だった。前半と後半、全然違う試合を見てるみたいだった。負けたのは日本代表だ」

滝川のメンバーはその試合は生ではなかったが、教材の一つとして休日の半日練習の後にビデオルームで全員で見ていた。

「日本人ていうのはそういう試合をしがちだ。前半でどれだけリードしても、後半でひっくり返されることもある。バスケをするすべての日本人から選ばれた日本の代表チームでもな。ましてや今日の試合は高校生同士の試合だ。おまえらの実力が不安定なように、向こうの実力だって不安定だ。向こうのメンバーと知り合いのやつもいるんだろ。だったらわかるだろ、いつでも安定して力を出せるようなやつらかどうか。一つでいい。一つの流れで一気に持ってこれるはずだ」

指導者が本気で勝てると思っている。
それを感じ取れれば、選手たちも本気で勝てると思うことが出来る。

「後半に強いのはこのチームの伝統だ。それを今日も見せて来い」
「はい!」

五人はコートに上がっていく。
石黒はベンチの隅に向かっていき、スタンドにいる控え選手たちを見上げた。

「おまえら、後半もっと盛り上げろ!」
「はい!」
「声出せ!」
「はい!」

スタンドの上。
試合に出ることが出来ないメンバーたち。
ハーフタイムもロッカーに行くことも出来ないので、チームの状況も分からずにいた。
18点負けている。
それでも、先生は勝つ気十分らしい。
それが分かるだけでも、スタンドの上は盛り上がることが出来る。

富ヶ岡のメンバーもコートに上がってきた。
後半は滝川ボールで始まる。
富ヶ岡のメンバーがマークマンの確認をする。
両チーム、メンバーは前半から変わらない。
サイドに立つ麻美にレフリーがボールを渡し、後半が始まった。

麻美からのボールを受けた藤本はゆっくりとドリブルを付き全体の様子を探る。
ディフェンスはマンツーマンで変わっていない。
マッチアップも前半と同じ。
特別変わったことをするつもりはないように見える。
普通にディフェンスをしてうまく行っているのだから、それを変えてくるつもりはないというだけのことだろう。
前半と同じディフェンスを見ても、特に違和感は感じない。

自分たちのオフェンスを変えるかどうか。
藤本は考えていた。
今まで通りにやっていて18点の差を詰めることが出来るのかどうか?
スリーポイント六本差。
二点だと九本必要。
だからといって、スリーポイントに頼るにはまだ少し時間が早い。
とりあえず、外に開いてきた里田にボールを落とす。 

ボールを受けた時点で一対一で勝負にいける感覚が里田には無かった。
ゴール下のスペースは開いているが、自分の体勢と、身構えた石川を比べると、ドリブルで持ち込むのは厳しい。
上の麻美へ。
麻美はスリーポイントの構えを見せて柴田をひきつけるとドリブル突破をはかる。
しかし、フリースローラインあたりで捕まり、どうしようもなくなって藤本へ戻す。
藤本は全体の動きを見ていた。
0度からゴール下へ駆け込む里田が見える。
そこにパスを一気に送ったが、逆側から伸ばされた平家の手に当たった。
それによって軌道がずれたボールを里田がしっかりキャッチ出来ずボールはエンドラインを割る。
最後に触ったのが里田なので富ヶ岡ボールになる。

ディフェンス。
ボールが入ってから守る、ではなくて高橋へのパスコースを塞ぎに入る。
三クォーターの出だし、このタイミングでディフェンスが厳しくなることは、富ヶ岡ガード陣はある程度予想していた。
高橋は一瞬どうしよう、という迷いの雰囲気を見せたが、柴田が藤本にスクリーンをかけて動くべき先を指差して誘導する。
それでエンドからのボールを受けられた高橋は冷静さを取り戻し、問題なくボールを運んだ。

富ヶ岡オフェンスはゆっくりボールを回す。
回していればどこかでフリーが出来るはず、という感覚だが滝川ディフェンスも崩れない。
ならば、ということでここでは右四十五度でボールを受けた柴田が一対一で麻美を抜きにかかった。
麻美は止められないがコースは制限して、エンドライン側へ向かわせる。
さらにカバーでりんねがコースに入った。
前をふさがれた柴田は、バウンドパスを平家に送ろうとするがそのコースは無い。
ターンしてゴールに背を向けると、高橋が外に下りてきたのが見えたのでそこに戻そうとする。
しかし、藤本がそれに飛びついてボールはエンドライン側にはじき出された。

シュートクロックが三秒で富ヶ岡ボール。
エンドから入ったボールを高橋が受ける。
藤本はシュートと読んで高橋にきつく当たった。
打てない高橋は仕方なく中の石川へバウンドパスを送る。
そこで二十四秒のタイマーが鳴り滝川ボールとなった。

後半は守りあいのスタート。
どちらもシュートまで持っていけない。
滝川エンドからのゲーム再開。
藤本のところに高橋が寄って来る。
やっぱりここで来るのか、と藤本は思った。
一試合のどこかのタイミングで富ヶ岡が前から当たってくることは藤本は想定済みだ。

そこからしばらくは速い展開でゲームが動いていった。
お互いに前からきつくディフェンスで当たるので、ボールを持っている側も負担が大きくなってくる。
ボールを運んでフロンとコートまであがると、早くそのボールをシュートまで持って行ってしまいたい、という心理が働く。
それで速い攻めで崩せるのならいいのだが、実際には多少苦しい状況でもシュートまで持って行ってしまう、あるいは、無理にパスを通そうとして通らない、という場面が出来てしまう。

後半先に得点を挙げたのは滝川だった。
高橋を早い段階で抜き去った藤本が、そのまま自分で持ち込んでジャンプシュートを打とうとし、ブロックに石川が来たので里田にボールを送る。
里田のシュートは平家がブロックに飛び、その横をバウンドパスで通してりんねがゴールしたのシュートを決めた。
さらに、エンドからのボールを高橋が受け、運ぼうとするのを藤本と麻美の二人掛りで押さえ、苦し紛れのパスを里田がカット。
その崩れた状況のなかで麻美がミドルレンジのジャンプシュートを決めている。

それで点差が詰まったのだが、すぐに富ヶ岡も返してきた。
エンドからのボールを受けた高橋が、藤本をうまく振り切って自分で運び、前が開いているにもかかわらずに止まって打ったスリーポイント。
それからしばらくして、セットオフェンスで時間をかけて最後に平家のゴール下で一本。
44−25
富ヶ岡の十九点リード。

点差は後半開始時からほとんど変わらない。
ただ、滝川のディフェンスは機能していた。
三クォーターに入り、セットオフェンスで富ヶ岡がシュートまでなかなか持っていけなくなっている。
滝川の方も富ヶ岡を崩せていないので点差が詰められないが、柱としているディフェンスはある程度機能していた。
後は前から当たってボールを奪って連続得点が出来れば一気に詰められる。
そんなところなのだが、そこまでうまくはいかない。
高橋が藤本相手に健闘していた。
麻美と二人掛りになると苦しいが、麻美に捕まる前に対処できれば、抜き去ることまでは出来なくても、フロントコートまでボールを運ぶことは出来ている。

三クォーター残り五分十三秒、富ヶ岡がセットオフェンスでボールを回すが、結局シュートまで持っていけず二十四秒オーバータイムとなったところで、富ヶ岡の方がこの試合初めてタイムアウトを取った。

タイムアウトのブザーが鳴って、富ヶ岡のメンバー、特にガード陣はほっと一息という雰囲気でベンチに戻ってくる。
試合時間経過は五分程度でしかないが、お互いに前からディフェンスをしているので運動量は多いし、ガード陣は常時集中を強いられ精神力も使う。

「小川!」

コートに出ていたメンバーが戻ってくる最中、和田コーチがベンチにいた小川を呼んだ。
ゆっくりとコーチを中心にした輪が出来始めた控えメンバーの後ろにいた小川は、慌てて前に出てくる。

「高橋と交代」
「はい」
「高橋、少し休め」

ベンチに戻ってきた高橋に、和田コーチは自らドリンクボトルを手渡す。

点差は拡がらず縮まらず膠着状態にある。
勝っている側としてはこのまま膠着状態を続けていれば問題ないのだが、和田コーチは動いた。
点差を広げるため、というわけではない。

「小川、オフェンスはゲームを少し落ち着けろ。時間かけてセットオフェンスでいい」
「はい」
「ディフェンス、前から当たるのは続けろ。自分でボールを取りに行くまではしなくていい。しつこくくらいつけ」
「はい」

ディフェンスで前からつくというのは非常に体力を消耗する。
逆に当たられるオフェンスの側も、ボールを運ぶ立場のガード陣は体力を消耗させられる。
和田コーチは、高橋をこのまま使うと最後まで持たないと判断した。
余裕のある時間帯に休ませておきたい。

「オフェンスはもう少し一対一でチャレンジしていいぞ」

ボールを回して崩してフリーが出来れば申し分ない。
しかし、滝川のディフェンスの動きが前半に増して良くなっている。
だから一対一で勝負、と聞こえるように和田コーチは言っているが、本音の部分では、高橋を小川に代えるとゲームメイクが難しくなる、という感覚がある。

このチームでの今の小川の立場は微妙だ。
最初は高橋とポイントガードの立場を争っていた。
そこから、自分で点を取るプレイ振りが評価されてフォワードとして試合に出るようになった。
ところが、シュート力、ドリブル突破、周りとのあわせ、いろいろな面で他のメンバーと比べて見劣りするようになってしまった。
体重が増えて動きが悪くなったというのもある。
心理的なものもあるのだろう。
国体のあたりからスタメンのポジションを失うことになった。
だからといって、和田コーチとしては必要ない選手、という判断は下していない。
元々はガードだったのだから高橋の控えという形でもいいし、フォワードとして何らかの形で働いてもらうこともある。
一年の夏でスタメンを取ったのだから、将来的には高橋と並んで中心選手になって欲しいとも思っている。
しかしながら、ここ最近調子を落としているのもわかるのだ。
どこまで信じていいのか不安を感じさせられる。

「小川、ボール運びはサポートするから、一人で何とかしようとしないでいいよ」
「はい」

不安なのは周りのメンバーも同じである。
同じ一年生の高橋も、頼りなさもあるし不安も感じるが、それでも試合ではある程度以上の力は見せてくれる。
今日も、藤本相手にここが穴かも、と和田コーチも他のメンバーも口には出さないまでも思っていたが、コートに立てば互角以上に戦った。
高橋というのは、頼りなさはあっても、頑張っているという姿が周りから見えやすいので、信じてあげたい、という願望が生まれて、そこからさらに希望的観測が生まれて、結果としてなんとかなっている、というのが最近の現状。
小川は、入部当初は高橋への対抗心からか非常にわかりやすく頑張っていたのだが、最近は、頑張っているのかふざけているのかよくわからない、という存在になってしまった。
キャラクターとしては、高橋よりも話をしやすいのだが、コートの上ではどう扱っていいのか周りもおっかなびっくりという感じになってしまっている。

さらに、当の本人だって不安だ。
ベンチに入れない選手がベンチに入るようになって、さらに試合に出るようになってきた、という、上昇の流れで今の位置にいるわけではない。
掴んでいたスタメンを失って控えメンバーになった、というのが今の立場だ。
その上、どのポジションで生きていくのか、というのもはっきりしていない。
コーチもはっきりさせてくれないし、自分でも決め切れていない。
高橋を追い越してガードで試合に出るのか、フォワードとして生きていくのか。
使われ方もあいまいでどうしていいのかわからない。
だけど、スタメンで試合に出たいという思いはある。

「当たり厳しいけど、おちついて。大丈夫だからね」
「はい」

先輩たちから、それぞれ言葉をかけてもらうが、小川は、「はい」以上の答えは返さなかった。

タイムアウトが終わるブザーが鳴る。
先に富ヶ岡のメンバーがコートに上がり、滝川は時間を過ぎてから入ってきた。

「相手替わってる!」

藤本が、多少喜色が混ざったような声を上げる。
相手チームにメンバーチェンジがあったら、それを確認しマッチアップをコールする。
マンツーマンディフェンスの時の常識。
発言自体は常識的なものだが、そこに喜色が混ざるのは本当はおかしかった。

「14番オーケー」

藤本が、マッチアップの確認のための声を出す。
他は変更は無かったけれど、それぞれ確認のために声を出した。
よくある光景なので、レフリーはそれが終わるまでボールを保持して黙って見ている。
場が落ち着いたのを見て、レフリーは滝川にボールを渡した。
自分はなめられてるんだな、と思いながら小川は藤本のマークに付いた。

エンドから。
藤本はすばやく動いて自陣ゴール下でボールを受ける。
小川はついてくるがかまわずドリブルで持ち上がった。
スピードが違う。
完全に抜き去った。
コート中央まで上がって三対二。
りんねと里田がエンドライン際両サイドに開いている。
藤本はそのまま中央をドリブルで持ち込んだ。
抑えに来たのは石川。
りんねサイドに寄っていた平家がそれを見て中央ゴール下のスペースへ移動する。
藤本はパスは出さずに真ん中から石川を引きずりつつゴール下へドリブルで入っていった。
平家が目の前壁になり、石川に挟まれて身動きが出来なくなる、というスペースのぎりぎり手前まで来て左サイド里田にパスを出す。
完全にノーマークの里田がゆっくりとジャンプシュートを決める。

久しぶりに、これはいけそうだと手ごたえを感じる展開だった。
里田のシュート、リングを通過して落ちてきたボールを藤本が叩いて富ヶ岡エンドへ転がす。
ボールを取りに行く時間を相手に作らせて、悠々と自分のマッチアップをそれぞれに捕まえた。

14番は12番より大分楽だ。

今のワンプレーでの藤本の感想。
後は、このディフェンスで簡単に止められる程度の能力だったら、一気にいけるかもしれない。
そう思ってタイトにつく。
エンドからのボールは小川には入らない。
ガード陣の窮状を見てコート中央から慌てて戻ってきた石川へ長めのパス。
里田がカットに入るがキャッチは仕切れずこぼれた。
ルーズボールは柴田が拾い上げそのまま運ぶ。
崩れた形だったが、持ち上がった柴田は速い攻めはせず味方の上がりを待った。

ボールはいったん小川へ。
藤本は低い体勢で下からプレッシャーをかける。
取るぞ、取るぞ、手を出すぞ、という素振りだけを見せて実際には出さない。
その雰囲気で威圧して、パスミスを誘おうとしている。
藤本と小川の雰囲気を見て柴田がボールを受けに来る。
小川はそこへパス。
ゴールから遠すぎて崩すには程遠い。
柴田はいったん0度にボールを落とす。
ゴール下ではりんねと平家がポジション争いをしているが、ボールサイドをりんねが抑えた。
ボールは柴田へ戻される。
柴田はボールにミートしてそのままドリブルで切れ込んだ。
麻美は抜き去られる。
ミドルレンジまで来てカバーに入ったのはりんね。
その横をバウンドパスで抜こうとしたら、それも読んでいて手に当たってはじき飛んだ。
こぼれたボールは里田が拾い上げた。

「スタート!」

藤本が声を上げて左サイドに開く。
里田はすぐさまそこにパスを送った。
目の前に来た小川。
右にワンドリブル、一瞬速度を落として再加速、さらに左にバックチェンジ。
藤本のチェンジオブペースに対応しきれず小川は腰砕けのような形でよろめく。
その横を抜き去ってさらにドリブルで上がる。
富ヶ岡で何とか戻ってこれたのは柴田だけ。
戻りながら藤本へ追いすがるが、藤本はさらに前を走る麻美へやわらかいパスを送った。
まるで速攻の練習のようにフリーでゴール下に駆け込みながらパスを受けて、麻美のランニングシュートが決まる。
鮮やかなファーストブレイク。

二つ続けていい形で得点を挙げ、滝川ベンチは盛り上がる。
スタンドの上でも歓声が沸く。

「ディフェンス! ディフェンス!」

一本決めたら次はディフェンス。
男子は、ディにアクセントがかかり、ィとフェの間が伸びるコールが比較的多いが、女子は、フェにアクセントがかかるコールになることが多い。
スタンドの控えメンバーが一段となってゲームを盛り上げる。
滝川に流れが来た、という空気が会場に流れていく。

速攻を決めると、その後のディフェンスのピックアップもたやすい。
藤本は小川を、麻美は柴田を、しっかりと捕まえた状態で富ヶ岡エンドから。
ここまでの状況を考えて、藤本はあえて小川へのパスコースを消さずについた。
小川はセオリー通り、自陣ゴール下を駆け抜けるようにしてエンドからのボールを受ける。
その動きは藤本の想定通りだった。
ボールを持たせてドリブルで一気に、という動きはコースに入って止める。
上がりきれず、慌てた小川はボールをファンブルし、キープ出来なくなってドリブルを止めた。

「止まった! 止まった!」

一度ドリブルを止めて、もう一度ドリブルをつくとダブルドリブルの反則になるので、小川は持ったままパス先を探すしかない。
絶対に抜き去られることがない、という状況になるので、マッチアップにつくディフェンスは、相手が止まったことを味方に伝達しつつ、さらにタイトとにつくことになる。
ボールが止まったのを見て、近くにいた麻美も小川に当たりに来た。
サイドライン際、藤本と麻美で囲む。
ピボットをつくスペースもなく小川は苦し紛れのパスを頭越しに出す。
その山なりのボールはりんねが奪った。

富ヶ岡のディフェンス陣形が整わないうちに崩したいところ。
しかし、ボールを奪ったりんねに、平家がすぐに張り付いた。
ゴールからこれだけ離れた位置からドリブル突破で勝負していく能力はりんねにはない。
藤本が戻ってきてフォローする。
りんねはボールを藤本に預け、ゆっくりとゴール下へ向かっていった。

「一本!」

平家にスローダウンさせられたから仕方なく、という側面はあるが、ともかくボールを奪ってのセットオフェンスである。
エンドから当たってくるディフェンスを突破して速い攻めを決めた。
硬いディフェンスで相手のボールを奪って速攻を決めた。
ここでセットオフェンスから点を取ることが出来れば、富ヶ岡ディフェンスはもう怖くない。

藤本はまず、ハイポストで石川を背負って面を取る里田に、小川の頭越しにパスを入れた。
ボールを確保し、里田は少し考えるが勝負せずに外の麻美へ戻す。
パスの出しどころを見つけられず、麻美はドリブルでキープして周りを見ながら左0度へ下りていく。
そこに、逆サイドからりんねが入ってきた。
バウンドパスを入れる。
ターンしてシュートを狙うが、平家の壁が厚い。
シュートは打てない。
ゴール下、石川も寄って来て平家と二人でりんねに圧力を加える。
りんねは外の藤本へ出す。

初めからやり直し。
藤本はドリブルを付きながら上に上がる。
シュートクロックは8秒。
あまり時間は無い。
考えた挙句、藤本はそのままドリブルで切れ込んだ。
虚を突かれた小川は反応できない。
カバーに入ってきたのは石川。
石川を抜きにかかってもうまくいってもゴール下は混戦になる。
藤本は里田にパスを捌く。
フリーの里田はジャンプシュートを打とうとするが、平家がブロックに飛んでくる。
それをかわしてエンドライン際をドリブル。
ゴール下に入り込もうとするが逆サイドにいた柴田が抑えに来た。
それによって開いた麻美へバウンドパスを通す。
麻美にはローテーションで石川が当たってくる。
そこに、藤本についていけなかった小川も抑えに来た。
前に二枚、広い壁が出来たが、麻美は冷静に外側で空いていた藤本にボールを送る。
小川が遠く離れていて藤本は完全にノーマーク。
左四十五度、ゆっくりしたモーションでスリーポイントを放った。

流れが来ている中で完全にフリーな状態でのシュート。
それを外すような藤本ではない。
打った瞬間に確信があった。
本人だけじゃない、ベンチも、スタンドの観客も、誰もが入ると核心を持てるシュート。
パサッと音を立ててボールはリングを通過した。

12点差。
一気に滝川が押し返す。
タイムアウトを取ったのは富ヶ岡だったのに、それが明けて滝川が連続得点で追い上げる。

「高橋!」

藤本のシュートが入ったところで、和田コーチが高橋を呼んだ。
タオルを置き、高橋はコーチの元へ向かう。
和田コーチとしてはもう少し休ませておきたいところだったが、そうも言ってられない展開になってきた。
高橋は簡単な指示を受け、オフィシャル横にある交代選手が待つためのイスに座る。

しかし、メンバーチェンジはいつでも出来るわけではなかった。
タイムアウトは、点を取られたときと時計が止まった時はいつでも取れる。
メンバーチェンジは、大雑把に言えば、ファウルか、時計が止まるマイボールの時しか出来ない。
点を取られた場面でメンバーチェンジは出来ないのだ。

富ヶ岡ボールでエンドから。
藤本は当然もう一本同じ展開を狙っている。
小川は、もう、自分でボールを持つのが怖かった。
ガードなのでボールを運ぶ責任はあるのだが、エンドからのボールを受けるのに適切な動き、というのが出来ない。
状況を的確に判断したのが石川だった。
柴田も麻美に抑えられてボールを受けるのが難しい形。
中央の石川が直接エンドからのボールを受けに戻った。
里田は自分の背中に入れる形にして戻ったので、パスは簡単に入る。

後ろに下がりながらボールを受けたのでここからが本当は難しい。
いったん受けて、それからガード陣に渡す、というのが普通の動きだが、石川は向き直るとそのまま自分でボールを運びだした。
里田も、石川ならその選択がありえると思っていたので対応はしたのだが、相手のスピードについていけなかった。
ハーフラインあたりで振り切られる。
残っているのはりんねだけ。
二対一の状態。
りんねは、石川のスピードに対応できないことは自覚していた。
止められるとしたら、まだ平家の方が可能性が高い。
ボールを持つ石川の方へ近づいては行くのだが、どこかで平家へパスを出す、というのに賭けた。
しかし石川は、パスの素振りだけ見せて自分で持っていく。
ゴール下まで駆け抜けランニングシュートを決めた。

一つの流れで一気に一桁点差まで滝川としては詰めたかったところだが、石川がひとまず個人技で押し戻した。
とは言え、流れはまだ消えていない。

藤本はゆっくりと戻ってきてエンドからのボールを受けた。
目の前に小川は付いているが、まったく怖さを感じていない。
ほとんど相手にせず相手にせずにボールを運んでいく。

試合は、時計が止まることなくスムーズに流れていった。
そのため、富ヶ岡ベンチはなかなか高橋を投入できない。
自信を持って自由に動けるようになった藤本は強かった。
それでも、富ヶ岡相手では一気にひっくり返すような展開には出来ない。
どちらも基本的なディフェンスの硬さがあるので簡単には点が取れなかった。
そんな中で、滝川は藤本と麻美が、それぞれ流れで相手を崩してミドルレンジからのシュートを決めて十点差まで追い上げる。
対する富ヶ岡は、石川が個人技で外から切れ込んで一本返す。
そのエンドからのボールを藤本が持ち上がって速攻を出そうとするところを、小川がファウルで止めたことでようやく時計が止まる。
三クォーター残り一分12秒。
48−36と富ヶ岡の12点リードの場面で高橋がコートに戻った。

「7番オーケー」

うつむいて下がっていく小川の方を見ることもなく、高橋は藤本のところにやってきてマッチアップのコールをする。
藤本は、そんな高橋をじっとにらんだ。
戻ってきやがったか、そんな感想を持つ。

残り一分少々。
何とか十点差に、できれば一桁点差にして最終クォーターに入りたいところ。
点差が詰まり、勝負の行方が見えなくなってきたことで、会場の空気も盛り上がってくる。

サイドから入ったボールを藤本はゆっくりドリブルでキープして中央へ。
高橋はステイローでゆっくりと付いていき、ドリブル突破だけはさせないという姿勢。
それを抜きにかかるほど藤本はこの場面で大胆には行けない。
高橋が入ってきた時点で、彼我の力関係を考えた。
それぞれのマッチアップ、どこで点を取るか?
やっぱり確実に自分たちの方が強いと思えるのは自分のところだけだった。
だけど、自分で点を取りにいける場面ではないように感じている。
一時自分たちに来た流れから、相手に耐え切られて高橋が戻ってきた、というのが今の場面のように感じる。
藤本は、ここで確実に点が欲しかった。

「3番! 3番!」

左手で指を三本出して叫びながら、右手でドリブルを付いて移動する。
ナンバープレイ。
一二回戦では使わなかった。
一回戦は、相手ディフェンスが特殊すぎて使えないし、二回戦はそんなことをする必要のない展開だった。
1番でも2番でも、別に何番でも良かったけれど、なんとなく3番を選ぶ。

「何か来る! 何か来るよ!」

外に開いていく里田に付いた石川が叫んでいる。
ナンバープレイで何も来ないわけがないのだが、とりあえず、警戒せよという警報を発しておくのは悪いことではない。

滝川オフェンスは2−1−2の形に広がった。
真ん中の1はりんねで、フリースローラインより少し高い位置にいる。
ゴールから遠いので平家は抑えには行かずにりんねの背中側、50cmほど間をあけて立っている。
藤本はそのりんねにボールを入れた。
ひじを張ってりんねはボールをキープ。
そこに麻美が斜めに駆け込んでいく。
りんねから手渡しパスを受けよう、という動きだが柴田は体を張ってりんねと麻美の間に入り込みそのパスを防ぐ。
麻美が抜けていくと同時に藤本が動いた。
逆側から同じように斜めに。
高橋は反応が遅れコースに入れない。
藤本はりんねの横を抜けていく。
麻美の動きの時点で、手渡しパスでそのままゴール下へという狙いが見えていたので、平家は藤本が駆け込むコースを抑えに動いた。
ところが藤本はボールを持っていなかった。
駆け込む側の藤本は平家の動きが見えている。
目配せされたりんねが、ボールを自分で持ったまま反対側にターンした。
得意のフリースローライン付近。
センターとしてはやや距離のある位置だが、りんねはしっかりとジャンプシュートを決めた。

十点差。
三クォーター、残りは45秒。

「ディフェンス! ディフェンス!」

大事な攻防。
一桁点差に出来るか?
それとも押し戻されるか?

エンドからのボール。
藤本は高橋をしっかり押さえ込みボールを入れさせない。
小川相手の時と違い、高橋相手にはボールを持たれるとそのまま持ち上がられてしまう危険を感じている。
ボールを持たせたくなかった。
ボールを持たせてから追い込むという、小川相手にとったやり方は、高橋相手にはやりにくい。
出来れば五秒、それがダメなら無理なパスをスティールすることでマイボールにしたい。

高橋の方は、自分でボールを運びたかった。
柴田が受けて運ぶことは可能だ。
小川のいたときのように、石川が受けに来てそのまま持っていくことも出来る。
だけど、高橋としては、ボールを運ぶのは自分の仕事だという意識がある。

藤本はボールと高橋の間に入り込む。
高橋は、その藤本を押しのけたい。
その激しいやり取りが続く。
不意に、笛が鳴った。

五秒? と藤本がレフリーの方を振り向くと、自分の方を左手で指差して、右手は7を意味する形に曲げられていた。
ボールのないところではあるが藤本のファウル。

「何? なんで!」
「左手。ユニホーム掴んでる」
「そんなぁ! その前に、あいつだって突き飛ばしてるのにー!」
「美貴、ストップ!」

里田が止めに入る。
厳しい判定、きわどい判定だったかもしれない。
高橋が藤本を押し込んで、それから逆方向に走ってボールを受けようとするところ、藤本がユニホームを掴んで行かせなかった。
押し込んだところはファウルを取られずに、ユニホームを掴んだところはファウルを取られた。

「美貴、三つだよ」
「わかってるよ!」

ゴール下の混戦で、納得のいかないファウルの判定を受けることが里田は結構多い。
そんなときにレフリーに抗議しても、心象が悪くなるだけでいいことが何もないのを里田はよく知っている。
外のプレイヤーの藤本は、比較的わかりやすいファウルが多く、こういう判定に慣れていないし、性格的に納得いかないことは納得いかないと言ってしまうので、里田は慌てて抑えにかかる。
藤本のファウルは三つ目。
黄色い信号が点滅し始めた。

もう一度エンドから。
同じファウルで四つ目になるわけにはいかない藤本。
今度はマークが多少甘くなり高橋にボールが入った。
持ち上がっていくのに付いていくが手は出せない。

富ヶ岡としてはゆっくり一本。
残り一分を切ったこの時間帯ではセオリー通りに動く。
回して回して、二十四秒ぎりぎりにシュートまで。
その目論見は、逆に落ち着きすぎてうまく行かなかった。
滝川のディフェンスは甘くない。
シュートクロック五秒を切るあたりから崩しにかかっても、いい形でシュートまではいけない。
無理な状態で打たざるを得なくなった石川のシュートが、リングにも当たらずにりんねの手に落ちてくる。

二十四秒が見えていたので富ヶ岡の戻りは早い。
藤本も、速攻を出す気はなくてゆっくりと持ち上がった。
すでに三十秒を切っている。
こちらも同じ、シュートクロックぎりぎりでシュートに持っていけばいい。
一桁点差に出来るかどうかという場面。

ここが大事だ、と藤本は思った。
さっきはナンバープレイでうまく行った。
二つ同じことはしたくない。
だとしたら、一番勝ちやすいところで勝負しようと思う。

時間が経つのを待ちはしなかった。
崩すことを意識してパスは回るし人は動く。
その上で、時間は経過して行った。
シュートクロックが五秒を切る。
ローポストでボールを持つりんねはターンを出来る状態にない。
そこに高橋まで寄ってきたので、外に開く藤本へ戻して自分は逆サイドへ切れる。
おあつらえ向き、という状況で藤本はスリーポイントを狙う。
高橋がそこに飛び込んできたのでドリブルでかわした。
ゴール下には平家がいる。
そこまでは突っ込まずにミドルレンジからフリーでジャンプシュート。
これが、入らなかった。

リバウンドを平家が拾うとすぐにサイドの高橋へ。
藤本はそれを捕まえられなかった。
時間のない中での速攻。
三対二が出来る。
左に高橋、中央に柴田、右に石川。
高橋が自分で行くという姿勢を見せたので、中央寄りにいた麻美が捕まえに来た。
ぎりぎりまで持ち込んで中央を走る柴田へ。
フリースローラインあたりでボールを受けた柴田はそのままシュートの体勢に入ると里田がつぶしに来たので石川へボールを落とす。
右サイド石川は、そのバウンドパスを受けてそのままランニングシュートを決めた。

点々とするボールを麻美が拾い上げたところで第三クォーターが終了した。
50−38
富ヶ岡の12点リード。

「よし、予定通り追い上げた」

戻ってくるメンバーたちを、石黒コーチはそう言って迎えた。
残り一分の攻防が残念じゃないわけはない。
だけど、それは忘れる。
三クォーターだけ見れば、17−11と6点分追い上げた。
11失点というのは悪くない。

「後十分ある。ディフェンスだ。ディフェンス。足を動かしていれば必ず追いつける」

このチームはディフェンスが柱。
ディフェンスで流れを作って、連続得点で追いつく。

「向こうの12番、途中で疲れが出てベンチに下がったな。後十分、最後までは持たないだろう。代わって14番が入ってくればそれでいいし、12番が最後まで残っても、へろへろになってればそれでいい」

体力は、ある種根性論に近い部分がないわけではないが、実際に、体力のあるなしは試合展開を考える上での重要な要素だ。
滝川はスタミナには自信があるし、40分間オールコートマンツーというのは、相手のガード陣の体力を消費させる、というための戦術でもある。
後半、特に終盤に強いというのは、理屈にかなっていることでもある。
ただ、一つの心配もあった。

「藤本、もう手は出すな」
「はい」
「ついていくだけでいい。手は出さずにただただついていってプレッシャーかけろ。後は勝手に自滅するはずだ。とにかく手は出すな」
「はい」

藤本のファウルが三つある。
ファウルは五つで退場。
四つ目になると黄色信号が灯るので、マッチアップの相手はそこを中心にオフェンスを組み立ててファウルを誘いに来る。
ファウル三つのまま、最後まで行かないと藤本のところが穴になってしまう。

「周りが、12番から出てくるボールを狙えよ」
「はい」

藤本以外は里田がファウル二つだが、後は一つづつ。
その面では大分余裕があった。

残りは十分。
ベンチは12点の差を追い上げるために、懸命に考えて手を打つことが出来る。
だけど、スタンドの上にいるメンバー達は、直接的に出来ることは何もない。
後半に入って追い上げてきた。
このチームは終盤に強い。
でも、相手は日本一のチーム。
追いつけるんだろうか?
負けたら、今日でこのチームは終わり。

気が気ではない。
何も出来ないのだ。
疲れたメンバーに体力を貸してあげることも出来ない。
気づいたことを伝えることも出来ない。
点を取るために、どうするべきか提案することも出来ない。
具体的なことは、何も出来ない。
ゲームの最中に出来ることは、ただ、声を出すことだけ。
声を出して、味方を鼓舞し、相手を威圧する。
自分たちは何かの力になっているのだろうか?
そう思いながら、声を出すことしか出来ない。

ハーフタイムやタイムアウト、クォーター間インターバルでは、スタンドの上のメンバーたちも一息つく。
滝川が試合をしているのは、三コート同時進行している会場の真ん中。
あさみたちは自分たちのベンチの側、後半は相手が攻めてくる自陣ゴールの後ろ側に集まっている。
ディフェンスするメンバーの後ろ、ゴールよりも高いところから声で後押しする。
大きく区切られたスペースがあるわけではなく、すぐ後ろには一般の観客や、試合を待つ他校の生徒たちもいる。

不安だった。
後12点。
後十分。
りんねさんならきっと。
美貴が何とかしてくれる。
そう思いながら、そう、思い込もうとしながらも不安だった。
クォーター間インターバルの間、あさみは手すりにもたれながら目を瞑り、手を合わせて祈っていた。
まだ終わりたくない。
先輩たちとまだ一緒のチームでいたい。
なんとか、なんとか。

出てきたよ、と仲間に肩をたたかれて目を開ける。
富ヶ岡も滝川も、ほぼ同時にコートに上がってきた。
四クォーターは富ヶ岡ボールで始まる。
滝川のメンバーたちが、自分のマッチアップを捕まえる。
後十分。
あさみはもう一度、何かに祈った。

どちらが先に点を取るか?
十分で12点というのは、格上相手に追いつくにはやはり厳しい点差だ。
それでも不可能ではない。
ただ、ここから広がっていく傾向が見えると、戦意が薄れていき始めるという点差でもある。
逆に、これが詰まって一桁になると、俄然勢いが出てくる。
8点差くらいだと、一つの流れで一気に追いつくことも可能だ。

最初の富ヶ岡のオフェンスはシュートまで持っていけなかった。
外から石川が里田を抜きにかかったものの、かわしきれずゴール裏へ追いこめられる。
りんねと二人に挟まれ、外へ無理やり出したパスがつながらず、サイドラインを割った。

対する滝川は、麻美がスリーポイントを放つが、柴田のチェックが眼に入り、シュートが長めになって外れる。
リバウンドを平家が拾って富ヶ岡が速攻を仕掛けるが、持ち上がった高橋がバウンドパスを出すところを藤本が足で止めた。
藤本のキックボールが取られ、富ヶ岡ボールで再開されるが、セットオフェンスで滝川を崩すに至らない。
二十四秒ぎりぎりまで回してそれでもチャンスがなく、無理やり打った柴田のミドルシュートはリングにも当たらず外れ、りんねがボールを拾う。

サイドに開いてきてりんねからボールを受けた藤本は早い戻りの富ヶ岡を見て、ゆっくりと持ち上がった。
ビハインドのある滝川としては時間を使いたくないのだが、どちらもディフェンスが硬いので一つ一つのオフェンスに時間がかかる。
右の外側に開いてきた里田がボールを受けた。
速い攻めをするのに手っ取り早いのは一対一。
石川相手なら、とも思うが外からのシュートがない里田は、ドリブル突破だけを警戒したディフェンスをされると手が出せない。
りんねが逆サイドから抜けてきてローポストに面を取ったので石川の頭上からパスを入れた。
ターンしてシュートと行きたいところだが、うまい具合にスペースを平家に消されている。
外から石川も挟みに来た。
ボールを確保しているのがやっと、という状態になる。

それでも何とかターンはした。
目の前には平家の壁。
ボールを上に上げ、シュートを試みようとしてみたがとても打てる状態ではない。
そこに後ろから手が伸びてくる。
ボールが叩かれたが笛も鳴った。

石川のファウル。
シュート体勢扱いになって、フリースロー二本となった。
石川もこれでファウル三つ目。
本人は、あれでファウル? と不満はあるのだが、何も言わなかった。

りんねはフリースローを二本決める。
十点差。
少しづつ詰めていくしかない。

「ディフェンス! ディフェンス!」

スタンドの上から声援が飛ぶ。
自陣ゴールを守るメンバーの背中から、声援が後押しする。

富ヶ岡オフェンスはボールをまわして崩しにかかる。
滝川ディフェンスはよく付いていった。
なかなかシュートまで持って行かせない。
一対一で勝負するポイントも見出せない。
それでも石川が里田を背負って立つローポストへボールを入れた。
体勢は不十分でターンしてシュートが出来る状況ではない。
そこに外から麻美が来て挟み込む。
石川は外の柴田へバウンドパスを送る。
ボールを受けて柴田はスリーポイントを放つ。
麻美はよく反応してシュートブロックに飛んだ。

「リバウンド!」

ぎりぎり指の先で麻美が触れたボールは、リングまで届かずに落ちる。
ただ、勢いを失いすぎていて、スクリーンアウトしてリバウンドポジションに入っていた里田のところまで届かず、外に追い出されていた石川の手元にすっぽり落ちた。
石川はボールをいったん外に戻す。

「一本! 一本!」

もう一度組み立てなおし。
高橋はトップまでゆっくりとドリブルをつきながら戻る。
味方の体勢が整うのを待つ。
外のプレイヤーは外へ。
インサイドのプレイヤーはインサイドへ。
それぞれが自分の持ち場へ戻ったのを確認して高橋はドリブルで突っ込んだ。

藤本は虚をつかれて反応できなかった。
ドリブルを付きながらゆっくり上まで戻って一本のコール。
誰かにパスを出してそこから、という発想しか藤本にはなかった。
予想外の高橋の動きに後手を踏む。
自分の左側を抜かれる形になって、とっさに判断した。
高橋をやり過ごし、後ろにまわって、ドリブルをつかれているボールをはたく。
はたから見ると、藤本が高橋に覆いかぶさるような格好になって、右手でドリブルをつく高橋のボールを、後ろから藤本が右手で弾き飛ばした。
ボールはそのまま直接エンドラインを割ったが、その前に笛が鳴った。
レフリーが走り寄って来て、藤本を手で示した。

「なんで! ボールだよ! ボールしか触ってないって!」

藤本のファウル。
確かに、直接ボールを飛ばしたもので高橋の手には触れていない、体と体の接触もないのだが、それでもレフリーは藤本のファウルを取った。
当然納得はいかない。
ここでも止めに入ったのは里田。
レフリーと藤本の間に割って入って、二人の距離を離す。
その間にレフリーはテーブルオフィシャルへファウルを告げに行き、里田は壁になって藤本にそれ以上何も言わせない。

「美貴、四つだからね。わかってる?」
「わかってるよ! でも、あれで取られるんだと、気をつけようがないよ」
「とにかく、ファウルはしないで。何があってもしないで。美貴がいなくなったら終わりなんだから」

藤本は四つ目のファウル。
五つのファウルで退場だから、これでリーチがかかったことになる。
残りは8分十秒。
まだ大分ある。
レフリーのテーブルオフィシャルへのコールが終わったところでブザーが鳴った。
滝川ベンチがタイムアウトを取った。

「藤本、このまま最後まで行け」
「はい」

早い時間帯で、主力メンバーがファウル四つになったら、多くの場合ベンチに下げて勝負どころまで温存する。
石黒もそうしたいところなのだが、十点ビハインドのこの場面で藤本を下げるのは、勝負どころ云々の前に、そのまま勝負が決してしまう危険が高いと感じていた。
基礎能力に関係なく、ファウルが四つになるとどうしてもディフェンスは甘くなってしまいがちだが、控えのガードよりもファウル四つの藤本の方がレベル的にまだ高いとも石黒は考えている。
危険な賭けではあるけれど、藤本をコートに残した。

「もう一つ。ディフェンスは手でするな、足でしろ」
「わかりましたよ! 抜かれた美貴が悪かったですよ!」

ファウルの判定が正しいか間違っているか以前に、後ろから手を出すというシチュエーションになったことが悪い、という指摘である。
藤本は、まだ感情的に高ぶっている。
ファウルの判定には納得していない。

「抜かれても手は出すな。12番から直接ボールをとろうとはするな。足動かして、体張って、コースを抑えるだけ。コースを抑えられなかったら、あきらめて素直に抜かれろ。意地になって手を出したりするな。わかるな?」
「はい」

藤本は不承不承返事をする。
石黒コーチは、藤本に、自分がファウル四つであるという現実を認識させるための時間をとるためにタイムアウトを取った。
苛立ちを抱えたままゲームが続くと、すぐに五つ目のファウルをしそうに見えたのだ。

「戸田と里田。インサイドでもっと勝負してみろ。できればどちらかが中に入ったときはどちらかが外に開いてスペース持つ感じで。特に里田、向こうの7番も三つだ。外からじゃなくてゴール下ならお前の方が強いんだから、怖がらずに勝負しろ」
「はい」

富ヶ岡も石川がファウル三つ。
他のメンバーは二つ以下だが、石川をファウル四つに出来ればマッチアップが里田なので、そこでひたすら勝負して追い上げることも可能かもしれない。
競った試合の終盤は、ファウルの数が試合の流れを決めて行ったりする。

タイムアウトの一分間が終わりブザーが鳴る。
それぞれのメンバーはコートに戻った。
スタンドの上の観客たちも、緊迫してきた空気の中で一息つけた場面。
控えメンバーたちにとっては気が気ではない場面。
残り時間は押し迫ってくる。
点差はまだある。
主軸のポイントガードのファウルが四つになった。
自分たちに出来ることは、声を出すことだけしかない。

「ディフェンス! ディフェンス!」

背中から、仲間を後押しする。
残り、8分十三秒。

サイドからボールが入ってゲーム再開。
受けた高橋は一旦柴田に送って、それをもう一度受けてからドリブル突破をはかった。
手を出してきてファウルがもらえればいいし、ファウルを怖がって甘くなったディフェンスをかわせるのでもいい。
そういう感覚があからさまに見えるプレイ。
今度はしっかり藤本は止めた。
そのまま突っ込んだら明らかにオフェンスファウルを取られる、という程度に完璧にコースを抑える。
どうしようもなくなった高橋は、外に開いた石川へパスを送り自分は逆サイドへと切れていく。
石川の正面には里田、そしてゴール下には平家がいるが、りんねにボールサイドを抑えられている。
上の柴田に戻す。
平家がハイポストへ上がっていったが、相変わらずりんねがボールサイドを抑えた。
ただ、これで逆にゴール下にスペースが出来た。
柴田はそのスペースへボールを入れる。

「裏、カバー!」

平家の前を取った自分の裏。
りんねがそこのカバーを叫ぶ。
里田と藤本が両側から飛び込む形になった。
ボールは、やや長めになって、平家がキャッチしたのはエンドラインぎりぎりだった。
そこにりんねも付いていったので、三人で囲む形になる。
ゴールとの位置関係からシュートが打てる状態にない。
体を傾けて、無理やりに石川へバウンドパスを通そうとする。
しかし、ボールが跳ねたのがエンドラインの外側だったため、笛が鳴り滝川ボールになった。

麻美がボールを入れる。
高橋は引いていたので、藤本はボールに触らずに点々とする後ろを歩いて付いていった。
コート内のプレイヤーの誰かが触らない限り時計は動き出さない。
一秒二秒、わずかな時間であるが、負けている側として、少しでも時間を進ませないでいきたい。
冷静さを失った状態では決して出来ないこと。

ここで一桁点差にしたい。
自信の持てるところで勝負、そう決めて藤本はボールを拾い上げた。
まず、ハイポストでスペースをとっているりんねへボールを送る。
そこに自ら駆け込んだ。
手渡しパス狙いのこのプレイは、高橋が間に入り込む。
藤本はそのままゴール下まで駆け抜けてから右サイドへと開く。
りんねからボールが出てきた。
高橋の背中側から飛んできたボール。
シュート、右手でドリブルと二つのフェイクを見せてから左へ突っ込んだ。
すぐにバックターンをして加速しゴール下へ。
しかし、この動きが読まれていた。
高橋は体を張ってコースを塞ぎこむ。
そのまま正面に体当たりする形になった。
もつれあって倒れる。
高らかに、レフリーの笛が鳴った。

「青7番。オフェンス!」

藤本は、コートに倒れたままレフリーのコールを聞いた。
オフェンスファウルを取られても、そのことに驚きも不満もなかった。
そのまま仰向けになって、体育館の天井を仰いだ。
電灯がまぶしい。
胸が激しく鼓動していた。
五つ目のファウル。
ファイブファウルで退場。
現実感がなかった。
やってしまった・・・。
ただ、そう思った。

先に立ち上がった高橋が手を差し伸べてくる。
藤本はその手は取らずに自分で立ち上がった。
滝川のメンバーたちが藤本を取り囲んでくる。

「すいません・・・」

まさか、オフェンスファウルでアウトになるとは思っていなかった。
悔しいとか、そういう強い感情よりも、喪失感が大きかった。
それでも、自分が退場するという現実は何とか理解しようとする。
藤本は麻美の肩を力無くたたいて言った。

「麻美、後のゲームメークは、まかせた」
「は、はい」

藤本はコートを去って行った。

あまりのことに呆然としてしまうメンバーたち。
それを我に返らせたのはやはりりんねだった。
コート上で簡易ミーティングになる。

「みんな聞いて。点差は十点。残りは7分40秒。藤本が退場した。わかる? わかるね?」
「はい、大丈夫です」

返事をしたのは麻美。
藤本から名前で呼んでもらって後を託されたのだ。
呆けている場合ではない。

「藤本が退場したのは確かに痛いけど、でも、私たちは出来ることをやろう。私たちに出来ることは何?」

りんねが問いかけてメンバーたちを見回す。
目が合って、答えを返したのは里田だ。

「ディフェンス?」
「そう、ディフェンス。私たち一人一人は、確かに富ヶ岡のメンバーにはかなわないかもしれない。だけど、練習だけはしっかり積んできた。最後まで走りきるスタミナも私たちにはある。ディフェンスで激しく当たって、相手を疲れさせて最後には勝つ。それが私たちが今までやってきたこと。残り7分。今日もそれをやろう。私たちに出来ることをやろう」
「ディフェンス」
「そう、ディフェンス」

タイムアウトではなくてゲーム中。
長い時間は取れない。
これだけでりんねは短いミーティングを解散させる。
出来ることをやる。
ディフェンスをしっかりやる。
そして、本当に決めたのは、あきらめないということ。

ベンチの石黒は、レフリーの笛を聞いて、終わった、と思った。
藤本抜きで富ヶ岡との十点差をひっくり返せるとは、冷静に考えれば思えない。
一瞬あきらめかけたが、コートに集まるりんねたちを見て思い直した。
選手が、まだ戦おうとしているのに、自分があきらめてどうする。
代わりの選手をコートに送り込むと、ベンチの隅のスタンドを見上げる位置へと向かった。

「お前らもっと声出せ! 盛り上げろ!」

ベンチに入れない控えのメンバーを煽り立てる。
それから、肩を落としてベンチの一番端に座る藤本の首根っこを掴んで立たせた。

「お前はこっちで見てろ」

ベンチの一番オフィシャル側、自分が座る隣に藤本を連れて行く。
肝心な場面でファウルをして退場してしまったこと。
冷静さを失っていたわけでもなく、普通に抜きにかかって止められてファウルを取られたこと。
藤本は、情けないやら悔しいやら、でも、すべて自分のせいという形で感情の持って行き場がない。
そんな藤本に、石黒は言いたいことは山ほどあったが、具体的には何も言わなかった。
一つだけ。
試合が終わってないのに、一人で勝手に落ち込んでるな。
そう、態度で伝えた。

富ヶ岡ボールでゲームは再開される。
スタンドから、ベンチから、今まで以上に声が飛ぶ。
ただでさえ、相手の方が強く、リードも奪われている状況。
そんな中で、チームの中心藤本が退場になって、絶対的不利を認識させられた。
プレイヤーだけじゃない、ベンチもスタンドの上の控えメンバーたちもみな必死だ。
プレイできないなら、出来ることは声を出すことしかない。

富ヶ岡オフェンスは、後半は滝川ベンチサイドのゴールを攻めることになる。
上から、横から、声が降り注いでくる。
空気の壁が出来てきた。
相手のディフェンスの力にさらに加わってくる、なんともいえない圧力。
崩せない。
ボールは何とかまわすが、効果的に崩すことは出来なかった。
二十四秒ぎりぎりになって高橋が形だけシュートを打つが外れて、リバウンドをりんねが拾う。

救いは、富ヶ岡が前からは当たってこないこと。
藤本が外れても、少なくともフロントコートまでボールを運ぶことは何事もなく出来る。
それでも、上がってからのセットオフェンスは、どうしてもスムーズにパスがまわらなかった。
麻美は、ゲームを組み立てるどころか、目の前の柴田に取られないことで精一杯である。
美貴さんの代わりが自分に出来るのだろうか?
そう、自分に問いかけて、心の内から返ってくる答えは否定的なものばかりだ。

単発のパスでつなぐだけなら、五対五ではなくて、一対一が五つある、という考え方になる。
勝負する勇気があるとこで勝負する。
ボールを受けて、自分で勝負しようと思ったのはりんねだった。

先に点が欲しかった。
藤本が退場して先に相手に点を取られると、やっぱりもうダメなんだという感覚がチームにも会場にも、そして自分にも浸透してしまう。
それを追い払うのに、先に点が欲しかった。
藤本抜きでも点が取れれば、まだいける、チャンスはある、そう、信じることが出来る。

ローポスト。
平家を背負ってボールを受けた。
決して十分な体勢ではないがすばやくターンした。
目の前に壁がある。
それを回り込もうとワンドリブル付いて移動するが、壁もついてくる。
パスを出して逃げる、という発想がここではりんねになかった。
苦しいのがわかっていながら、りんねは強引にジャンプシュートを放つ。
平家のブロックは、そのボールに指先で触れた。
ゴールには向かわずに宙に浮いたボール。
そこにりんねは着地してすぐにもう一度飛びつく。

平家もボールを確保しようと跳んだが、りんねが先にさらった。
着地も先にして、右にワンドリブル付いて移動。
平家と距離をとってもう一度ジャンプシュート。
ボードに当てて、今度はしっかりと決めた。

戻り際、里田としっかりと両手で力強くハイタッチを交わす。
残り六分五十二秒で8点差。

「ディフェンス! 捕まえて! 止めろ!」

りんねが叫んで味方を鼓舞する。
まだ終わってない。
まだある。
コートにいるメンバーも、ベンチにいる控え選手も、スタンドの上も。
それぞれが頭に浮かべる。
ひょっとしたら、もしかしたら。

富ヶ岡は慌てる必要は無かった。
8点リードしているのだ。
相手の中心選手は退場してしまってもう戻って来れない。
一本決められたくらいで慌てる必要は何もない。
想定していたよりは抵抗力はあるんだな、その程度の認識でいい場面。

高橋が持ち上がってセットオフェンス。
ディフェンスは、気持ち厳しくなったかなと感じた。
それを逆手に取ったのが柴田。
距離をとったディフェンスというのは、パスを奪うことは出来ないがドリブル突破に対処しやすい。
逆に、密着したディフェンスは、スティールはしやすくなるが抜き去られやすい。
柴田は、面を取ってボールを受けると、麻美が圧力をかけてきたところをドリブルで抜き去った。
ミドルレンジ、インサイドからディフェンスカバーが来る前にジャンプシュートを決める。

再び十点差。
また、麻美がボールを持ち運ぶ。
藤本が退場した影響は、ディフェンスよりもオフェンスに、より大きく効いてくる。
相手を崩す効果的なパスが出ない。
単発でつないで一対一に託す形になってしまう。
そうなった場合、本来は勝負するならエース格の里田のはずだった。
しかし、今日は違うところへパスが集まる。
今日のゲームに賭ける気迫に吸い寄せられるようにボールが集まる。
りんね。
力関係で言えば、平家はやはりりんねよりも強い。
気迫だけで勝てる相手ではない。
ブロックショットでボールを弾き飛ばされることも間々ある。
それでも、ボールはりんねに集まった。
りんねも、それを拒まなかった。

ブロックショットで二度飛ばされたボールを、二回とも味方が拾い上げての三本目。
ゴール下、強引に放ったシュートは入らなかったが、平家がりんねの手を叩いたという判定になり、フリースロー二本を得た。

フリースローは二本とも決める。
また8点差。
富ヶ岡のエンドから。
滝川は40分間前から当たる。
これは藤本が外れても代わらない。

「ディフェンス! ディフェンス!」

ベンチから、スタンドから、そろった声で、仲間たちの背中を押す。
石黒コーチの隣で、立ち上がって見ている藤本も、控えメンバーと合わせて、ひときわ大きな声を出す。

滝川も必死だったが、富ヶ岡の方も余裕がなくなってきた。
特に苦しいのが高橋。
自分の役目はボールを運ぶこととゲームを組み立てること。
一年生にして富ヶ岡のスタメンになったポイントガードの高橋だが、40分間、どこでも変わらずディフェンスに当たられ続けるというのは初めての経験だった。
インターハイ、国体で、厳しい試合の経験はある。
それでも最後には勝ち抜いてきた。
高橋も最後までフロアにいて、勝利の瞬間に立ちあっている。
そういった、これまでのどの試合よりも、高橋は今日の試合が厳しいものだと感じていた。
一瞬たりとも気が抜けない。
三クォーターに少し休ませてもらえたが、それくらいでは足りなかった。
もはや尽きかけそうな体力を、何とか体の内から搾り出してボールを運ぶ。

終盤に入り、難しい局面で輝き始めたのが石川だった。
滝川のディフェンスは厳しいものだが、先を見ている石川はこうも思った。
是永美記ちゃんの方がずっと厳しい。
石川一人だけ、置いてある標準ラインが他のメンバーと違う。

まわして崩して一対ゼロを作る。
そういうオフェンスを展開することは出来なかった。
シュートクロックは刻まれる。
ゴール下を抜けてきて、右サイド0度、スリーポイントライン付近で石川はボールを受けた。
ターンして里田と正対。
中には逆サイドの平家を見つつゴール下に陣取るりんねも見える。
そんな状況で、石川はドリブル突破を試みた。
終盤、この時間帯まで来ても石川のスピードは衰えていない。
里田はついていけなかった。
すばやくりんねがカバーに入ってくる。
そのカバーが来るよりも手前の位置で石川はジャンプシュートを決めた。

会場からはため息が漏れる。
滝川が点を取っても富ヶ岡に返される。
点差が縮まっていかない。
それに対してため息が漏れる。

十点差になっての滝川のオフェンスは、りんねへつなごうというものだったが、ボールサイドを平家に取られ、裏を通そうとしたパスがつながらずエンドラインを割った。
対して富ヶ岡はゴール下の平家を壁に使って里田を引っ掛けて外に開いてきた石川がボールを受けて、そのままジャンプシュートを決めて12点差。
残りは四分二十秒。
点差は四クォーター開始時と同じところまで戻る。

負けたくない。
負けたくない。
点が欲しい。
誰もが思うところだが、自分が点を取れるかと問われると、自信を持って取れるとは答えがたい。
それぞれのメンバーがそんな思いを抱えながらパスをまわす。
ノーマークを作れれば。
そうは思うけれど、効果的な崩すパスを出せる藤本はもうフロアにいない。
一対一で勝てるのか?
自信が持てなくても、それしか選択肢がないこともある。

「はい! 入れて!」

ローポスト、苦しい体勢ながら何とか面を取ってボールを受けられる形にしたのはりんね。
平家にパスコースを消される前に、麻美がバウンドパスを入れた。
ターンしてワンドリブルをつく。
そのままシュートをしたいのだが、上から押さえ込まれて打てない。
さらに、石川までも挟み込んできた。

「外! 空いてます!」

叫んだのは里田。
りんねさん一人に戦わせてはいられない。
自分よりも明らかに強い相手に挑んでいくりんねさんに、自分たちも続かないといけない。
囲まれた状態からりんねは里田にパスを送ろうとするが、その前に三秒オーバータイムを取られた。

富ヶ岡ボール。
ワンプレーワンプレー、会場から声援が送られ、ため息が漏れ。
そんな中で、滝川ベンチとスタンドの控えメンバーは味方を鼓舞し続ける。

「ディフェンス! ディフェンス!」

スタンドの上のメンバーは、もう声も枯れ始めていた。
それでも、自分たちに出来ることはそれしかない。
ベンチにいるメンバー、特に藤本は、味方の声援に押されることで、疲弊した体も何とか動かせるということを身に染みて知っている。
終盤の押し迫った場面。
声援もヒートアップしてくる。

チームとして、これまでに何度も厳しい戦いを勝ち抜いてきた富ヶ岡。
インターハイでも国体でもこれより苦しい試合はいくつかあった。
だけど、個人として、これほど苦しい状況になったのは、高橋にとっては初めてのことだ。

とにかく休める場面がない。
一息つける瞬間もない。
体力的に限界だった。
その上に、相手の声援の声も耳に入ってくる。
威圧感もあった。
自分はポイントガード。
自分の仕事はボールを運ぶこと、ゲームを作ること。
責任感で必死にここまで来たけれど、もう、限界だった。

エンドからのボールを受けるが、そのままスムーズに持ち上がることが出来なかった。
何とかディフェンスを振り切って、ボールを受ける。
ボールを受けたらドリブルで上がるところ。
その、次への動きの動作がわずかに遅れた。
疲れが出てくると、そういう、細部の動きのスピードが緩慢になってくる。
そこを突かれた。
ディフェンスが当たりに来る。
疲れていても体は動き方は覚えている。
当たってきたらドリブルで抜き去る。
動き方はいつもと同じようになったのだが、スピードがもうなかった。
振り切ることが出来ずに前をふさがれてドリブルを止めてしまう。
ディフェンスがもう一人自分についてきて囲まれる。
ピボットで耐えて、パスの出し先を探すが、それより先にボールを叩かれた。

こぼれたところを麻美が拾う。
そのままゴール下へ一気に駆け込みランニングシュートを決めた。
十点差。
プレッシャーをかけ続けてきたディフェンスが、この時間帯になって効果を発揮し始めた。
滝川はディフェンスのチーム。
この試合に出てくるようなチームの選手はそれをよく知っているし、注目チームであることもあって、専門誌でもそういう論評が出ていて、一般のファンにも周知されている。
そのディフェンスが効いてきた。
前から当たるディフェンスは、効いて来れば連続得点を挙げることが出来て一気に試合展開を覆すことが出来るもの。
会場の、一般の客からも、滝川のメンバーに合わせてコールする声が出始める。

「ディフェンス! ディフェンス!」

疲弊した上にさらに孤立感まで高橋は募ってくる。
それでも責任感はあった。
エンドからのボールを受けようとする。
そこにパスは出てくるのだが、高橋には通らずにディフェンスに叩かれた。
ボールはそのままエンドラインを割る。

残りは三分四十五秒。
和田コーチはタイムアウトを取ろうかとも思った。
しかし、まだ十点リードしている。
タイムアウトは自分たちよりも滝川の方が欲しいのではないかと思いこらえる。
高橋が疲れきっているのは見ていればわかる。
小川に代えるという選択肢は当然あるのだが、三クォーターの小川を見ていると、この状態でコートに送り込んでも雰囲気に飲み込まれるだけなのではないかとも思った。
まだ、見守ることにする。

もう一度エンドから。
高橋の状態は、柴田にも石川にも見えている。
当然フォローしようとするのだが、同じように麻美や里田にも高橋の状態は見えていた。
残り時間はまだある。
プレスにかけ続ければ。
希望。
希望と、会場から降り注いでくる声が、滝川ディフェンスの足を動かさせる。

エンドからボールが入らず五秒オーバータイム。
滝川ボールになった。

休む暇は与えない。
すばやくエンドからボールを入れる。
里田に入れてそのままシュートと行きたいところだったが、そこまで甘くない。
上まで戻してセットオフェンス。
ボールは運べなくなってきても、富ヶ岡のディフェンスは全体で見ればまだ硬い。
ここから点を取らないと逆転はない。
四分を切ったこの場面。
時間をかけずに点を取りたい。

麻美は、藤本に代わって入った九番にパスを入れる。
そのまま、九番のマークにつく高橋の横に走った。

「スクリーン行った!」

柴田が声をかけるが、疲れで視野も狭くなっている高橋は反応できない。
麻美の動きに呼応して九番はドリブルで突破をはかる。
仕方なくスイッチして柴田が九番はカバー。
ドリブルは引っかかったが、麻美がターンして高橋を背負う形になってフリー。
そこにボールを入れて、前が空いている麻美がジャンプシュートを放つ。
これが決まって8点差。

富ヶ岡はもう、高橋をボール運びの中心とはしなかった。
エンドから、滝川にピックアップされる前に、ボールを拾った平家がすぐに入れる。
受けたのは石川。
里田が捕まえに来たところ、無理はせず柴田へパスを送る。
パスアンドラン。
柴田は石川へ戻す。
パスだけでフロントコートまで上がった富ヶ岡は、早い攻めはせずに味方の上がりを待つ。
時間を使いきれば富ヶ岡の勝ち。
それが当然頭に入っている。

滝川ディフェンスも焦らなかった。
焦って手を出してファウルを取られれば、シュートクロックがリセットされてまたゆっくりと時間を使われてしまう。
ファウルして相手のフリースローが外れるのを期待する、という戦術を使うにはまだ早い。

ゆっくり時間をかけて攻めるというのは、簡単に言うが、相手のディフェンスが厳しい場合は、ボールを持っていること自体が重圧になる。
攻め込むのは滝川サイドのゴール。
ベンチから、スタンドから、ディフェンスのコールが降り注いでくる。
会場の雰囲気が、富ヶ岡に圧力をかける。
ボールを持っていても、早く誰かに捌いてしまいたい。
そんな心理が働く。
ディフェンスを押さえ込めていないようなところにもパスを出してしまう。
滝川ディフェンスはそれを捕らえる。

滝川の方も速攻は出せなかった。
こちらも体力は限界ぎりぎりだ。
ボールを取った瞬間、一息ついてしまう部分もある。
持ち上がってセットオフェンスになると、富ヶ岡は硬い。
簡単には崩れない。

堅い守り合い。
派手な点の取り合いも会場を盛り上げるが、迫力のある硬いディフェンスを展開するのも、見るものの目を引く。
前から当たり続けて三十八分。
チームの柱をファイブファウル退場で欠いてから五分。
ナンバーワンチーム相手に戦い続ける滝川に、観客が味方する。

「ディフェンス! ディフェンス!」

声の中心は、スタンドから見つめる控えメンバー。
その声に、引きづられ、いつの間にか一般の観客、他校のメンバーたちも合わせていた。
矢口も、新垣も、是永も、声を合わせてコールする。

富ヶ岡は落ち着いてボールをまわそうとしていた。
二分で8点差。
この点差を後一分保てればほぼ勝ち。
例え自分たちが点を取れなくても、時間を使えればいい。
頭ではわかっている。
わかっているのだけど、周り中から降り注いで来る声の重圧を受けて、冷静にプレイするのは難しかった。
ローポストに入ろうとしてボールサイドを平家が抑えられる。
外でボールを持っていた柴田は、それを見て裏へ送ろうとした。
長すぎず短すぎず、目の前も麻美の圧力も受けながら、適切にパスを入れるのは難しい。
慎重に、と思いながら出したパスは短くなって、手前にいたりんねに拾われた。

「はい! スタート!」

ボールを取ってすぐに走り出した麻美へりんねはパスを送る。
柴田は必死に戻った。
麻美は決してスピードのある方ではない。
何とか前に入り込んで、ワンマン速攻はさせない。
状況としては二対二。
逆サイドに走る九番に、高橋が必死に追いすがっている。
麻美はそちらをほとんど見なかった。
自分で勝負。
柴田もそれを感じて、自分を抜きにかかってくるのをイメージしている。
ゴール下まで持ち込む、というイメージ。
それを見せるようにドリブルで上がっていく麻美は、不意に止まった。
スリーポイントライン際。
柴田はそれに対応できなかった。
タイミング的にはあまりよくはないが、左六十度程度の位置から麻美はスリーポイントを放つ。

滝川のベンチ全員が立ち上がってボールの行方を見つめる。
放物線を描いたボールは、リングへと吸い込まれた。
残り一分51秒 56−51 富ヶ岡の五点リード。
ボールがコートに弾んだところで、大歓声に紛れてブザーが鳴った。
和田コーチが、たまらずタイムアウトを取った。

ベンチに戻ってきた麻美は、仲間たちから頭をばしばしたたかれる。
二日前にはフリーでも怖くてシュートが打てなかったのが、土壇場のこの場面でスリーポイントを決めて見せたのだ。

「麻美! やれば出来るじゃんか!」
「はい!」
「後二本! 後二本決めろ!」
「美貴さん、痛いですって!」

麻美の頭を一番たたき続けているのは藤本である。

「後五点で後二分だ。後二分。走れるな? 足動かせるな?」
「はい」

石黒コーチの表情は変わらない。
追い上げてきた。
盛り上がってきた。
観客は味方に付いた。
それでも、五点差は後少なくとも二本は決めないと追いつけないのだ。
不利な状況であることに変わりはない。

「オフェンスは、多くの場合切羽詰ってくるとエースに頼る。四クォーター、向こうは六点しか取れてない。ここでボールを託すとしたら、四番か7番だろう。戸田、里田」
「はい」
「その二人にボールを入れさせるな。必ず、どこかで無理にでも二人のどちらかに入れようとしてくるはずだ。そこでボールを奪え」
「はい」
「周りもそのつもりでいろ。他にやられるならあきらめるしかない。とにかく、四番と7番だ」
「はい」

五点差。
もう一点もやりたくないのだ。

沸きあがる滝川ベンチとは対称的に、富ヶ岡ベンチはおとなしかった。
まだリードしているので沈んでいるというわけではないが、自分たちに流れが向いていないことを誰もが把握している、という空気である。

「さて、残りはハンデ戦だ。五点リードマイボールでの二分ゲームみたいなもんだ」

五点というのはセーフティーリードとはとても言えない。
とは言え、リードはリードである。
ここまでの流れを無視して、現状だけを考えれば不利な要素は何もない。
和田コーチはまずそれを言った。

「ボールは柴田が中心になって運べ。いいな」
「はい」

肩で息をしていて、床を見つめていた高橋が、和田コーチの言葉で顔を上げた。

「高橋。無理はするな。おまえはオフェンス参加もしなくていい。ディフェンスだけでいい」

自分の役目はボールを運ぶこと、ゲームを作ること。
そう思う高橋としては、反論の言葉を口にしたいのだが、疲労で文章が口から出てこない。
和田コーチはそんな高橋の表情から、言いたいことは理解した。

「今はっきり言えることは、五点取られなければ勝てるということ。そのためにはディフェンスが重要だ。石川との一対一でもそれなりに止めるディフェンス力がある高橋は、だから疲れていてもここでは外せない。わかるな?」

高橋は声は出ないが小さくうなづく。

「もちろんボールを運ぶのは大事だ。ボールが運べなければ相手ボールになるからな。だけど、それは代わりが効く。柴田がドリブルで運んでもいいし、全員でパスでスムーズにつないで持っていければそれでもいい。高橋。お前はここまで十分に仕事をした。残りの時間は、終了間際に必要な仕事を中心に考えろ。わかるな?」

40分間継続して自分の思うとおりのパフォーマンスを発揮できない。
それが悔しいという思いが高橋にはあるが、この場面でそこまでいう余裕はない。
残り時間はやれることをやる。
そう割り切るしかない。

「オフェンスは、平家と石川。二人で勝負だ。外のメンバーは相手の速攻を警戒しろ。中に突っ込むな。平家と石川。二人が勝負。石川は外からでもいいけど、とにかく二人で勝負だ」
「はい」

富ヶ岡は攻め手が豊富なチーム。
エース以外でもどこからでも点が取れるチーム。
それでも、この大詰めの場面ではこの二人を選んだ。

「慌てるのは向こうの役目だ。おちついてやれ。そうすれば問題ない」
「はい」

オフィシャルのブザーが鳴り、タイムアウトの終わりを告げる。
両ベンチからメンバーがコートに上がってきた。

残り一分50秒、富ヶ岡五点リード。

タイムアウトで時間が空いたため、滝川ディフェンスはしっかりとマッチアップの相手を捕まえた状態でゲームが再開される。
エンドからのボール。
簡単には入らない。
柴田が麻美に抑えられ、仕方ないという感じで右のコーナーでボールを受けた。
場所としては囲まれやすく最悪。
そこにフォローに入ったのは高橋。
一分ベンチで休んだ直後。
今、この時だけは走れた。
斜めに走る高橋に柴田がパスを送る。
高橋はパスを受けると、エンドからボールを入れた六番が走っていくのでそこにパスを入れる。
ドリブルなしでパスだけでフロントコートまで上がった。

アーリーで攻める必要は無い。
セットオフェンス。
時間を使う。
ここで一番怖いのはボールを取られてワンマン速攻を出されること。
三点差になると、一本で同点というのが視野に入ってしまう。

インサイドが堅かった。
石川へ、平家へとボールを入れたい。
それが出来ないのだ。
ボールサイドを抑えられているので裏へ通す、という選択肢もあるのだが、そちらもカバーが待っているような状態。
インサイド二人で勝負、という構図が作れない。
トップでボールを持った高橋。
深く考えずに横にいる柴田にパスを送ろうとした。

それを狙っていた麻美。
ものの見事にスティールする。
ワンマン速攻の形。
柴田は追いついて前に回りこむのはどうやっても無理だと感じた。
それでも後ろから追いかける。
ゴールよりも手前の時点で手が届く位置へ。
麻美がドリブルで弾ませるボールを下から弾き飛ばした。
レフリーの笛が鳴った。

柴田のファウルがコールされる。
柴田は素直に手を上げたが、石川がレフリーに噛み付いた。

「なんでファウルなんですか! ボール行ってるじゃないですか!」
「ダメ! 梨華ちゃんダメ!」

柴田は、ファウルを取られるのは覚悟の上だった。
だから、シュートファウルでフリースロー扱いになるよりも前に必死に手を伸ばしたのだ。
チームファウルは、今の柴田ので四つ目。
フリースローにはならない。
ファウルで止めて、全員が戻った状態でゲーム再開というのは柴田の狙ったところ。
的確にボールに触れたのは確かだが、ファウルを取ってもらって何の文句もないのだ。
どちらかといえば、完全フリーの相手に後ろから手を出したというだけで、アンスポーツマンライクファウルを取られ、フリースロー二本プラス相手ボール、という扱いにされるのだけが怖かった。

「ちゃんと説明してください! 納得いきません」
「やめろ、石川!」

レフリーと石川の間に柴田だけでなく平家も入る。
試合終盤。
競った場面で熱くなってきた石川の暴走を止める。
無駄に抗議して、テクニカルファウルを取られたらどうしようもない。

柴田と平家が壁になったことで、石川はそれ以上レフリーに詰め寄れない。
レフリーは、その間にテーブルオフィシャルの方に向かい、ファウルの詳細を告げる。
当たる相手が目の前から消えて、石川の興奮も少し落ち着いた。

「石川、ディフェンス」

平家に言われ、答えも返さずに石川は里田の方に向かう。
同じタイミングで、柴田は高橋に声をかけた。

「こういう小さな間でしっかり休みな」

ひざに手を置き、肩で息をしている高橋も、やはり先輩の言葉に対して言葉で答えを返さない。
柴田はそれは気にせずに続けた。

「ここの一本が勝負だよ。残り一分持たなくてもいいから、ここのディフェンス足動かせ」

答えは返せないが、柴田の言葉は高橋の耳にしっかり届いていた。

残り一分35秒。
サイドからボールが入る。
早く点が欲しかった。
三点差にしておけば、勝負は残り一秒までわからない。
五点差は、どうやっても二本のシュートが必要なので、わずかではあるが余裕をもててしまう点差である。
そういう意味で、さっきのワンマン速攻は絶対に決めておきたい場面だった。
富ヶ岡を、藤本も抜きで、セットオフェンスで崩すというのは至難の業である。

単発でパスがまわる。
時間をかけたくないが、時間をかけないで崩せるディフェンスじゃない。
結局最後に頼ったのはエースの一対一だった。
右ローポスト、石川を背負った里田へボールを入れる。

里田もあまりいい体勢ではない。
エンドライン側へ体を向けた半身の状態にあり、自由にどちらへもターンできるという主導権を握った形には出来ていない。
ボールを受けてすぐに里田はエンドライン際ドリブルをついた。
まわりこんでバックシュートを決めよう、という意思。
対応した石川を振り切れない。
ゴール裏を抜け、バックシュートには出来ずなんとかターンしてゴール側を向いてフェイドアウェーの形でジャンプシュート。
タイミングぴたりで石川がブロックショットを決めボールを弾き飛ばす。

こぼれたボールを拾ったのは柴田。
一人でドリブルで持ち上がる。
滝川ディフェンスは慌てて戻るが、柴田はゴール下には向かわなかった。
右のコーナーへ降りて行ってキープ。
味方の上がりを待ちながら時間を使う。

ファウルゲームで来るかな? と一瞬思ったが、目の前の麻美は手を出してこない。
ファウルで時間を止めて、フリースロー二本が外れることを祈る、というのが試合最終盤のファウルゲームと呼ばれる戦術であるが、滝川サイドにその動きはまだ見えない。

「ディフェンス! ディフェンス!」

会場中からの大コール。
ここで決められるのは崖から突き飛ばされるのに等しい。
柴田が自分で上まであがって行くのに麻美は付いていく。
それでもまだ仕掛けてこないので、ボールに手を伸ばした。
柴田にバックチェンジでさっくりかわされる。
ゴールに近づいていく柴田には二人で抑えにかかる。
里田と、藤本に代わって入った九番。
挟み込む前にボールを外に捌かれた。
受けた石川の方へ。
ここにはりんねが飛び込み、まだ近くにいた里田も圧力をかけにいく。
時間的に追い込まれてきた滝川は、マッチアップに関係なくボールに向かって二人、という形になってきた。

「ディフェンス! ディフェンス!」

ベンチ、スタンド、観客たちの、絶叫に近い声。
富ヶ岡はそれでもボールをまわす。
ゴール下の平家へ。
背負った九番を軸にターンすればシュートが打てる場面だが、外からりんねが取りに来るのを待って、開いている六番へ戻す。
そこへは石川を捨てて里田が当たりに行く。
六番から空いた石川へ。
スリーポイントラインの外、シュートモーションを見せたので、近くにいた麻美が飛び込んだ。
目の前空中を麻美に横切らせて、石川はドリブルで抜けていく。
ゴール下からりんねが出てくるが、それより早くジャンプシュートを決めた。

7点差、五十八秒。
会場からため息の声が漏れる。

滝川はすばやくボールを入れて持ち上がった。
早く攻めるしかない。
ここで一本返せば、突き飛ばされた崖に指先一本だけでもつながっていられる。

早くシュートまで持って行きたい。
そう思うのだが、なかなかシュートチャンスが作れない。
それでも、とにかくシュートが必要だった。
麻美がボールを受ける。
正面には柴田。
ドリブル突破、というフェイクを見せて、相手の重心を下げてから、早いモーションでシュートを打った。
レフリーが右手を上げ、スリーポイントの表示をする。
シュートはわずかに長かった。
リング奥に当たって大きく跳ね上がる。
リバウンド。
先にボールを手にしたのは平家だが、そこにりんねが手を伸ばし、チップアウトで弾き飛ばす。
こぼれだまをもう一度麻美が拾う。

残り四十二秒。
7点差を詰めるには、二点二点三点が必要。
どうやっても三本は必要なのだから、ここで三点にこだわる必要は無い。
しかし、滝川のプレイヤーはここに至ってそこまで頭はまわっていない。
最終盤。
ベンチからの声も、会場の空気も、コートの上をヒートアップさせる。
一本返せば。
一本決めれば。
滝川のディフェンス力なら、まだ、前から当たって連続得点で追いつける。
そんな希望を、選手たちも、ベンチのメンバーも、スタンドの観客たちも、頭に描く。

美貴さんはもういない。
スリーポイントを打つのは自分しかいない、そう、麻美は思っていた。
九番が柴田にスクリーンをかける。
麻美は、それをフェイクにしてゴール下へ、という動きを見せかけてから上へ動き柴田を壁に引っ掛けた。
ハイポストでボールを持った里田が麻美へやさしいパスを出してやる。
右四十五度、シュートモーションに入った麻美の前に柴田が飛び込んでくるが、それをやり過ごして前があいたところでシュートを放った。

さっきと同じだった。
やや長めになったボールは、リング奥に当たって高く高く跳ね上がる。
ゴール下、平家とりんね。
空中でほぼ同時。
平家が両手で掴んだボールをりんねが片手で引掻きだす。
片手でキャッチは出来ず、りんねの目の前へボールは落ちる。
こぼれた先にいたのは石川だった。

一人で持ち上がる。
九番が捕まえに来たので横を走る柴田へと送った。
ファウルゲームにはさせない。
二対一の状況だが、柴田はゴールへは向かわなかった。
左サイド、エンドライン際へ下りていく。
残り二十秒。
麻美が戻ってきたのでまだ距離があるうちにパスを送る。
六番がボールを受け、さらに高橋へつなぐ。
ファウルもさせない。
右サイドで空いている石川へ送った。
残り15秒。
四方から滝川ディフェンスが石川へ迫ってくる。
パスをまわしても、ファウルを待ってもいい場面だが、石川はここでシュートを選んだ。
一番早くコースに飛び込もうとしたのはりんねだったが、それより早く、石川のスリーポイントシュート。
右四十五度から正確な放物線を描いたシュートは、リングに吸い込まれた。

61−51
富ヶ岡の十点リード。
会場全体からため息が降り注いでくる。
残り十三秒で十点差。
勝負の決着はついた。

「ボール入れて!」

転々とするボールを拾い上げたのは麻美。
りんねはすぐに走り出す。
残りワンプレー。
麻美は九番へ入れて、すぐにリターンパスを受けてボールを運ぶ。
富ヶ岡ディフェンスもしっかり戻った。

パスをまわす。
点差が開いても、向かってくる相手には本能的に真剣に対処する。
滝川はシュートまでが遠い。
もう、時間がなかった。
ハイポスト、平家を背負ったりんねへトップから麻美がバウンドパスを入れる。
ターンしてシュート、というフェイクを見せてから、珍しくりんねがドリブルで切れ込む。
ゴール下まで駆け込んでランニングシュートの形。
平家にブロックに飛ばれ接触しながらもりんねがシュートをねじ込んだところで試合終了を告げるのブザーが鳴った。

「白四番、プッシング! カウント!」

タイムアップ。
それと同時にりんねのシュートが入って、それは有効とカウントされる。
61−53
勝負はついた。
富ヶ岡の勝ち。

石川のシュートが入った段階で結末は見えていた。
スタンドの上のあさみは、残りの時間、声を出しながらも泣いていた。
最後の最後、やっぱり富ヶ岡の方が上だったか、という会場全体の空気。
タイムアップのブザーが鳴り、富ヶ岡の選手たちはベンチに戻っていく。
滝川の選手たちも、肩を落とし、麻美などはコートの上で泣いてもいたが、それでもフリースローレーンの付近に全員集まった。

タイムアップと同時に相手のシュートファウルなので、りんねにフリースロー一本が与えられる。
入れば7点差、入らなければ8点差。
どちらに転んでも大差ないといえば大差ない。
試合の結果には何の影響も与えないが、それでも、りんねの高校生活最後のワンプレー。
試合終了までコートに立っていたメンバーは一人一人りんねに声をかけていく。
規定で、タイムアップ時のフリースローは、シューター以外は全員ベンチに下がり、りんね一人がコートに残ることになる。
全員が立ち去り、フリースローレーンにたってリングを見つめるりんねの背中に仲間たちの声も飛ぶ。

富ヶ岡にとっては他人事。
入ろうが入るまいが勝ちは勝ち。
ベンチにいた控えの一年生たちが、ドリンクボトルなどを片して引き上げる準備を始めようとすると、平家が一喝した。

「最後までおとなしく見てろ!」

もっと点差の開いた、自分のマッチアップでもなんでもない相手だったら、平家もそんな風に怒鳴らなかったかもしれない。
だけど、なぜかわからないけれど、平家の気分として、りんねのフリースローは黙って見ていたかった。

りんねはボールを受け取る前にベンチの方を振り向く。
石黒の顔が見えた。
そのとなりには藤本もいる。
里田や麻美や、一緒に戦ってきた仲間たち。
尋美の遺影もあった。
スタンドの上。
ベンチに入れなかったメンバーたち。
泣いているあさみの顔もしっかりと目に入る。
全部見渡してから、もう一度リングの方へと体を向ける。

「ワンショット」

レフリーがコールしボールをりんねへと渡す。
意外と、こういうときも、これまでの三年間のこととか思い出さないもんだなあ、と、冷静にりんねは思った。
二度、三度、ボールを弾ませる。
一つため息をついてもう一度ボールを弾ませた。
ゆっくりと構えてシュート。
幾度となく繰り返し打ってきたフリースロー。
最後のフリースローも、いつもと同じようにリングを通過し、ボールは手元に帰ってきた。

試合終了。
最終スコア61−54
りんねは、拾い上げたボールをレフリーに手渡した。

三年生のほとんどは泣いているし、一二年生の多くも泣いている。
後一歩まで追い詰めたけれど、その一歩が遠かった。
結局届かなかった。
勝った後はロッカールームへすぐに戻るけど、負けた後は戻らない。
そのまま、着替えもせずに通路の隅に集まってミーティング。
選手たちだけでなく、スタンドの上のメンバーも集まるとロッカーには入りきらないのだ。

「みんないる? 集まった?」

周りを見回しながら声をかけるのはりんね。
まったく涙を流すことはなく落ち着いている。
りんねを中心として三年生が並び、それと向かい合う形で一二年生が並んでいる。
石黒コーチはその対面には入らずに、少し離れたところで見ていた。
大会の注目チームの滝川山の手、敗戦の後、カメラも集まっている。
全員がそろったことを確認すると、りんねは語りだした。

「長い、長い三年間でした。そして、その中でも、とても長い一年でした」

一言一言かみ締めるように。
一年生、二年生、一人一人の顔を見つめながら、りんねはゆっくりと語る。

「今年は、本当に長い一年だったね。いろんなことがありました。楽しいことばかりじゃなかった。ううん。たぶん、悲しいことの方が多かったよね。本当は、ここで話をするのも私じゃないはずだったし」

ほとんどのメンバーが泣きながら話を聞いている。
試合に負けたこと。
富ヶ岡に負けたこと。
その、直接的な悔しさと、このチームが今日ここで解散することの悲しさと、どちらに重みがあるかはわからないけれど、ほとんどのメンバーは泣きながらりんねの話を聞いている。

「でも、でもね、私は、ここにいられて、このチームで三年間を過ごすことが出来て、とても幸せでした。それははっきり言えます。悲しい出来事はあったけれど、私は、このチームで三年間を過ごすことが出来て幸せでした」

最後のフリースローの時には、何も思い出さなかったけれど、今になって頭にいろいろと浮かんでくる。
今日までの三年間の暮らし。
試合のことよりも、練習の時の記憶の方が多いかもしれない。
それよりもさらに、寮での日々の暮らしの記憶の方が多いかもしれない。

「私は、先輩にも恵まれました。先生にも恵まれたと思う。ここにいる友達にも。ここにはもういない友達にも。そして、後輩にも恵まれました」

遠くから北海道へ来て馴染めなかった最初の日々。
試合に出られるようになる日は来るのだろうかと思いながら練習を積んだ下積みの日々。
一年が経ち、入部してきた生意気な後輩。
自分が先輩になって、後輩を指導する、なんて立場になってこそばゆかったこと。
初めて試合に出たこと。
先輩たちが引退して、チームを任されたこと。
仲間を失ったこと。
先生が去っていったこと。
自分が、すべて背負って引っ張るしかないと決意した日のこと。

思い出されることは多いけれど、その日々も、今日、終わる。
学校の卒業式よりも重い卒業式。
卒業式の答辞よりも重い後輩たちへの言葉。

「試合に負けたこと。優勝できなかったことはとても悔しいことです。だけど、今日のこの結果が、私たちの三年間で積み上げてきたものの結果だと思います。勝てなかったけれど、決して恥じるような結果ではなかったと思っています」

一人一人の顔がりんねに目に映る。
部員は多いから、全員と深い思い出があるとまではいえない。
それでも、先輩として、キャプテンとして、一人一人のことをしっかり見ようと思ってきた。
それぞれ、どんな子なのかはしっかりわかっている。
未来がある、この子達がうらやましいと思った。

「私は、先輩から指名されたわけでもなくて、代理って形で今日までやってきました。プレイの面でも一二年生に頼りきりな部分が多かったし、練習とか、それ以外のところでも頼りなくて、とてもしっかりしたキャプテンとは言えなかったと思うけど、そんな私に、みんなよく付いてきてくれました」

キャプテン代理をやると決めたのは自分。
だけど、その決めたときも、決めてからも、いつも迷いながらだった。
自分でいいのだろうか?
他にもっといい方法があるんじゃないだろうか?
もっと、しっかりした人がキャプテンはやるべきなんじゃないだろうか。
一つ一つ迷いながらだけど、今日まで進んできた。

りんねは、三年生の列から一歩前へ出た。

「藤本美貴さん」

呼びかけられて、うつむいていた藤本が顔を上げる。
涙をぬぐって、二年生の列の中から一歩前へ出る。
りんねは、その藤本の前に立った。

「藤本美貴さん。あなたにこのリストバンドを託します。このチームを託します」

黒のリストバンド。
去年、安倍が先輩から託された黒のリストバンド。
夏の日、りんねが安倍の机から抜き取って、自分が預かると決めた黒のリストバンド。
このチームを背負うという証。
りんねが左腕からそのリストバンドを外す。
外したまま握った右手を伸ばす。
藤本は戸惑い気味に両手を出した。
その両手にリストバンドを置き、しっかりと握らせた。

「しっかりやりなさい」
「美貴で、美貴でいいんですか?」
「なに言ってるの。藤本は私なんかよりずっとしっかりしてるでしょ」
「でも、今日だって、今日だって・・。肝心なところで・・」

藤本の目から涙があふれてくる。
その涙で濡れた顔を、リストバンドを持った手でそのまま覆う。
りんねは、そんな藤本を抱きしめた。

「一人で全部背負うことはないから。いつでもみんなが支えてくれる。大丈夫。藤本なら、しっかりチームを受け継いでいけるよ。ほら、しっかりしなさい!」

りんねが藤本の背中を軽くたたく。
藤本が顔を上げ、りんねは体を離した。

「先輩たちの、先輩たちの作ってきた伝統を、伝統を、穢すことなく、新しいチームを作って行きたいと思います」
「藤本なら大丈夫だから。来年は、きっと今年よりいいことがある。そして、強いチームになる。そう、信じています」
「はい」
「解散!」

滝川の、代替わりの儀式は終わった。
藤本は、目の前にいるりんねにすがりつく。
りんねもそれを受け止めて抱きしめた。
もう、りんねはキャプテンじゃない。
藤本を抱きしめて、泣いていた。

その夜、稲葉は滝川の宿舎を訪れた。
石黒コーチと連れ立って、宿舎のすぐとなりにあるコーヒーのチェーン店に入る。
試合はもうないけれど、生徒とともにいる以上、石黒は酒を飲む気はなく、コーヒーショップになった。

「どうですか? 半年弱? コーチをやってみて」
「なに、敬語なの?」
「選手の時からそうじゃない。記者モードの時は敬語で接してきたはずだけど」
「そうだっけ?」

年齢で言えば稲葉の方が上。
とはいえ、比較的近い年齢なので、記者と選手という関係が数年続いたうちに親しい関係になっていた。
だけど、記者として話を聞くときは敬語で、と稲葉は一応決めている。
友達から、記者とコーチという関係に変異した中澤との間とはそこが違う。
ただ、実際には話しているうちに、言葉はくだけていく。

「一応言っておくけど、記事になるからね。そのつもりで答えてください」
「堅いあっちゃんは、なんか変なのよね。まあ、いいけど」
「それで、高校生のチームのコーチをやってみた感想は?」
「疲れた」
「それだけ?」
「感想だと、疲れた、の一言かな。もう少し年行ってからだったら、もうちょっとは楽だったかもしれないけど」
「逆じゃなくて? 年行ってる方が楽なの?」
「もう、十年15年年取ってれば、自分が高校生だったころのリアルな記憶は薄れてるだろうから。今はまだ、あの子達の考えてることが手に取るようにわかる部分があって。それって、こんなこと言ったら絶対嫌な顔されるってことまでわかっちゃうからさ。それをあえて言わないといけない場面とか。きついのよ」

石黒は、自身も滝川の寮で三年間過ごした経験がある。
世代が違い、多少の感覚の違いはあるにしても、狭い世界で三年間をともに過ごすことで生まれる連帯感なり息苦しさなり、あるいはプレイヤー同士のいろいろな関係なり、そういったものを自分自身でも経験してきた。
それぞれ個性があるのでまったく同じではないが、大体の部分では生徒たちの感覚はつかめていた。

「記憶が薄れてるより、薄れてないからいいんじゃないの?」
「んー、まあ、そうかもしれないけど、感想としては、疲れたになっちゃうんだよね」
「なるほど」

良いか悪いかは別として、相手の気持ちがわかってしまうとつらい部分もあるのだ。

「三回戦負けっていう結果はどうですか?」
「三回戦っていう回戦はちょっと不満ではあるけど、そこはあんまり関係ないのかな。一回戦でも決勝でも、相手が富ヶ岡だったってだけで。三回戦っていうところにはあまり感想はないな。まあ、学校の宣伝も兼ねてとか、そういうところまで考えると違うんだろうけど、私、悪いけど、そこまで考えてないからさ」
「じゃあ、富ヶ岡に負けたってことについては?」
「妥当な結果だったとは思う。大会に入る前の段階では、十回やって一回勝負になるかどうかってくらいだと思ってたから」

生徒たちには一度も言わなかったが、石黒は普通にやって勝てる相手だとは思っていなかった。

「だから、もう少し後の回戦で当たりたいっていうのはあったかな。初戦で当たってたら、たぶん100点ゲームでやられてたんじゃない。それが、一二回戦でいい相手とやれて、その経験が生きて最後まで勝負になって」
「一二回戦がいい相手っていうのは?」
「うちは、インターハイも国体も出てなくて、今年のチームはトップレベルのチームとの試合経験がまったくない状況でここに来たわけね。その辺の試合経験の無さが気になって、練習でも試合の状況の意識を持たせるようにしてきたけど、それでもやっぱり実戦に勝るものは無いわけで。一二回戦、ものすごくはっきり特長のある相手だったでしょ。そういう相手にどう対処するのか、っていうのはいい経験なわけよ。特に、一年生の安倍なんかは、この大会が初スタメンで。多分初戦が富ヶ岡だったら、私は怖くて使えなかっただろうね。それを一回戦で我慢して使って、あいつの力で局面を打開させられたからさ。ちょっとは自信ついたんじゃないの? 今日も富ヶ岡の、柴田さん? 相手に、まあ、互角っていうには大分遠いけど、それなりに戦えてたし。戸田なんかも、昨日の二回戦で、たぶん、一年ぶりなんじゃないかな、自分より強い相手とマッチアップするの。それを通り抜けての今日だったから、何とか試合になったけど、いきなり今日だったら勝負にならなかっただろうね」

饒舌に語る石黒の言葉を稲葉は時折メモを取りながら聞いている。
友達感覚ならもう少し口を挟むところだが、記者感覚でいるので、話を引き出すためのコメントくらいしか挟まない。

「それでも、最終的には届かずに負けたという格好ですけど。敗因みたいなのは?」
「まあ、普通に見ると藤本の退場になるのかな? 実際、これはもうダメかなって初めて思ったのはあの場面だったし。だけど、その後も追い上げられたし。それほど藤本が退場したこと自体でのダメージは負ってないんだよね。退場する前に向こうの12番、高橋さんだっけ? の体力を十分削ってて、それで追い上げられたってのもあったし。確かに退場しなければラストどうなった? って思う部分はあるけど、そこだけじゃないな。藤本自体、ファウルアウトっていう結果ではあったけど、それまでのプレイ振りは悪くなかったし。相性悪いなりにやるべきことはやってたから」

長く話した石黒が、目の前においてあるコーヒーカップを口に持っていく。
稲葉はメモに向けていた視線を上げた。

「じゃあ、どの辺がもっと直接的な敗因ってことになるのかな?」
「元々あったチームとしての力の差ってのもあるけど、一番痛感したのは、やっぱりゲーム勘の違いかな」
「ゲーム勘?」
「わかりやすいのは、前半のラストと三クォーターの終わりの場面。前半せっかく15点差に詰めたのに、最後に石川さんをフリーにして決められた。しかもスリーポイントで。三クォーターもうちが決めて終われば一桁に出来たところで決められずに、逆に速攻出されてやられたでしょ。そういう、ポイントポイントになる場面でしっかり点が取れたのがあちらさんで、うちは取れなかった。その二つの場面見ると、差し引きで7点でしょ。この7点分違ったら、ああ、一クォーターラストもそうか。こっちが決められずに、向こうにセット組まれて藤本が無駄にファウルしてフリースロー与えてたし。その三つ、もしうまく行ってたら、九点違ってうちの勝ち、ってほど単純な話じゃないだろうけど、それくらい試合展開に影響を与える場面だったと思うのね。その辺の、大事な場面を抑えられる試合勘みたいな部分がうちと富ヶ岡さんでは大分差があったなって思う」

また、石黒はコーヒーを口に持っていった。
稲葉も同じように一口飲む。

「試合勘がしっかりあれば負けなかったと」
「そういうわけでもないけどね。差を感じたのが試合勘の部分だったってだけで。そこの差が埋まれば勝ってたかって聞かれて、勝ってたとは言えない。だけど、五分五分まで行かなくても四−六くらいの差にはなってたと思う」
「じゃあ、来年の課題はその辺ですか?」
「ああ、新チームね。そこは大きな課題だと思う。うちは強い相手と練習試合が組みにくいっていう地理的な不利があるから。そこは出来れば何とかしたいな。たぶん、来年のチームがどうっていうんじゃなくて、北海道のチームの宿命的な課題だと思う。飛行機乗って練習試合に行ってくるくらいの資金があれば別だろうけど。それより前に、どんなチームを作るかっていうのが大きいかな」

北海道に強豪チームがいくつもあれば、その中で試合をすることで経験も積める。
しかしながら、事実上滝川の一強、という状態なので、滝川が試合勘を得ることが出来るような相手、というのが道内にはいないのが現状だ。
その解決には、他の方法を考えないといけない。

「中心選手で抜けるのは戸田さんくらいですか?」
「まあ、たしかにそうで。戦力的にはよその、三年生主力にしてるようなチームほどは弱らないと思うけど。ただ、戸田は、たぶん、歴代見てもかなり偉大なキャプテンだったんじゃないかな」
「おとなしそうで、一見キャプテンタイプには見えないんですけどね」
「実際、キャプテンタイプじゃないんじゃないかな。ただ、うちは、あんなことがあって。チームが、もう本当に空中分解しててもおかしくないところを、何とか纏め上げたのが戸田だから。私なんかはいなくても、別の誰かが何とかしただろうけど、もし、戸田がいなかったら、ここまで来れなかったどころか、滝川山の手のチームとしての歴史はそこで終わってもおかしくなかったんだよね。そういう存在がいなくなるっていうのは、やっぱり大きいかな。それをどうやって埋めるのかっていうのは、チームの戦力の穴を埋めるのよりも重要で難しいかもしれない」
「新キャプテンには藤本さんがなりましたよね」
「あれは、知ってると思うけど、私が関与することは一切無くて、歴代キャプテンが自分で決めて次に受け渡していくのね。まあ、藤本か里田か、どちらかだろうとは思ってたけど。どちらがいいかは私にもわからないけど、戸田から見て、性格的にも考え方も、かなり遠い方にいる藤本を選んだっていうのは、コーチとしてじゃなくて、大人として、一人の高校三年生を見た時に、この子はすごいなって思ったな」

滝川のキャプテン選びにはコーチは関わらない。
キャプテンが、三年生の中で相談することはあるけれど、基本的には自分で決めて次に受け渡していく。
キャプテンは寮長も兼ねるし、生活全般の長、という存在になる。

「新キャプテンには何を期待してますか?」
「ファウルアウトは二度としないでくれ、っていうのは本音だけど冗談として。あいつの場合はちょっと我が強い部分があるから、しっかり周りの話を聞いて欲しいかな。私の話ってことじゃなくて、仲間であったり後輩であったりの話をね」
「その、藤本さんを中心にして、来年の目標なんかは?」
「目標は冬の選抜の優勝。それは、ここに出てくるチームならみんなそうでしょう。そのためには、全体もそうだけど、個人の力がもう少し必要かな。今日の終盤も、個人で打開して一対一で点が取れるようならもう少し違う展開したかもしれないし。そういう意味では、里田にはもうちょっと伸びてもらわないと困るな」
「今日も、石川さん相手にちょっと苦しい感じでしたね」
「苦しいっていうか、あそこのマッチアップだけははっきり負けてたよね。持ってるポテンシャルは高くて、何かのきっかけで一気に伸びるだろうとは思うんだけど。これも、見てる相手の問題なのかな? 彼女にしても、多分一回戦の、誰だっけ? あのマッチアップの相手が、一年ぶりに当たる自分と同等以上の相手だったわけで。リアルに強い相手をイメージできてなかった部分があるんじゃないかな。今大会で、自分が勝てていない相手っていうのに久しぶりに二人出会って。それで何を思ったかで来年はずいぶん変わってくるでしょ。というか、変わってもらわないと困る」

今日の試合で一番目だって無かったのは里田だと石黒は思っていた。
精彩を欠いた、というのとはちょっと違う。
力なりに戦って負けていた、という感じだ。
直接指導はしていなかったが、一年前の映像を見る限り、石川を相手にしても一長一短で勝ち負け、という関係だったのが、今日は勝っている部分が見えないという感じだった。

「最後に一つ。たぶん、臨時みたいな感じでコーチなったんだと思うけど、これからも続けますか?」
「なっちゃったしね。疲れはするけど面白いと思うよ。ちょっと、家で子供が泣いてるだろうなって思うとつらいけど、来年は一年間しっかり続けるよ。出来れば、三年。入学から卒業までの一サイクル分は少なくとも続けたいな。まあ、プロではないけど、結果を出すことを期待されてのコーチではあるから、結果次第でコーチ業は首になるかもしれないけど、私の意思としては続けるつもり」

滝川山の手は私立高校。
軋轢なり何なりを気にしなければ、コーチの首を挿げ替えることはいつでも出来るし、逆に、異動による転任もないので、続けようと思えば定年まで続けることも出来る。
石黒は、自分の意思としてこのチームを率いていこうと思っていた。

「悪かったね、忙しいところ引っ張り出して無理に話し聞いた感じになって」
「別に、もう忙しくも無いよ。私は帰るだけだし。生徒たちは、今頃騒いでるだろうから、それを締める一仕事はあるだろうけど。それより、そっちの方が大変なんじゃないの?」
「速報記事だす立場じゃないからね、文章自体はゆっくり書くよ。ただ、いろいろな人に話し聞くには、何とか捕まえないといけないし、そういう意味では大変だけどね。まあ、明日は、同時進行は二試合だけになるから、ちょっとは楽になるかな」
「うちの試合は全部見てた?」
「注目チームですから」
「富ヶ岡さんが?」
「どっちもね」
「どっちもか」

大きくため息を一つついて、コーヒーカップの残りを石黒は口へ持っていった。

 

そのころ宿舎では、石黒の予想通り、騒がしく盛り上がっていた。
明日、滝川へ帰る。
その後は年明け三日までは短いオフになる。
寮生活をする彼女たちにとっては、珍しいまとまった休みである。
多くのメンバーは、その年末年始に実家へと帰る。
そして、三年生の多くは、そのまま卒業式まで出てこない。
なので、今晩は、三年生と過ごす事の出来るほとんど最後の夜、という意味合いもある。
負けたとは言え、戦い終えて神経の高ぶりもあり、ほとんどのメンバーはおとなしくなどしていられなかった。

そんな中、仲間たちの輪から離れ一人でいたのは藤本だった。

頭には今までのいろいろなことが浮かんでしまうけれど、今、本当に考えようと思っているのは違うこと。
これからのこと。
朝の散歩の時に歩いた道。
皇居の御濠端、石のベンチがあったので座っている。

キャプテンになってしまった。

実はちょっと油断していた。
自分と里田と、二人が候補視されているのは当然わかっていた。
だけど、里田になるだろうな、と思っていた。
理由は、自分の性格。
人をまとめるとか、みんなを引っ張るとか、そういうタイプじゃない。
自分でそう思うし、それはみんなも、特にりんねさんもわかっているはずだと思っていた。
そういうのはまいの方が向いている。
それに、りんねと自分よりりんねと里田の方が明らかに仲がいい。
だから、自分がキャプテンになることは無いだろう、と楽観していた。

なのに、キャプテンに指名された。

どうしたもんだらろうか。
受けない、という選択肢は無い。
バスケの意見の違いは、その意見は違うと先輩が相手でも言えるが、こういうことについては藤本でも、先輩には絶対服従という感覚でいる。
キャプテンを受けるかどうかで迷っているわけじゃない。
キャプテンになる、という前提は不本意だけど変えようがない中で、これからどうするか。

まず、早々に考えないといけないのが副キャプテンの人選だった。
たぶん里田がキャプテンだろう、とは思いつつも万が一が無いわけでもないとは思っていたので、誰を副キャプテンにするかも考えたことが無いわけではない。
普通に考えれば里田にするのだが、それでうまく行くんだろうか、と思っていた。

自分と里田は結構意見が合わない。
だからといって仲が悪いというのとは違うのだが、キャプテンと副キャプテンという間柄で意見が合わないというのはどうなんだろう、と思う。
今まで、里田相手に議論してきたとき、自分は決して引かなかった。
里田の方が引く、というかあきらめるという感じで話は終わる。
実際には話が終わるだけで、藤本の意見通りにことが進むわけではないのだが、周りから見ると藤本が意思を押し通しているように見える。
それを、キャプテンになった自分が副キャプテン相手にそれをやるというのは、周りから見てどう映るだろう。
藤本は、周りからどう見られるかを気にせず振舞っているということはない。
周りからどう見られているかをわかっていないということも無い。
どう見られるか分かっていて、どう見られるか大いに気にしながら、それでも、自分が正しいと思うことを主張してきただけだ。
キャプテンになってしまった場合、自分が主張する、というのが正しいだろうか、と考えてしまう。
かといって、思ったことを言わないでいるのでは、自分という存在の意味も無いと思っている。

もう一つ問題もあった。
安倍なつみのこと。
今までは、戻ってくれば戻ってきたで普通に受け入れればよかった。
キャプテンをどうするかはりんねと安倍とで話し合えばいい。
だけど、これからは、自分の問題になる。
それも、学年は同じになるかもしれないけれど元々先輩、という関係でだ。
今日明日戻ってくることはなさそうではある。
だけど、戻ってこない前提で一年を過ごすのは、藤本としては大いに抵抗がある。
キャプテンより年上がチーム内に存在するのは結構やりにくいものだ。

道行く人を眺めるのに飽きると、藤本は背を向けてお堀の方に目を向ける。
暗くて堀の中は見えないが、正面には石垣が存在感を主張していた。
あまり遅くまで一人でぶらぶらしているわけにも行かない。
二つ目の問題は今考えても仕方ないな、と結論付ける。
一つ目は、直接話をしてみよう、と思った。
藤本は、決めれば動きは早かった。

宿に戻る。
人が集まっている雰囲気のあるところに顔を出した。
予想通り、目的の相手はいた。

「まい、ちょっといい?」
「やだ」
「やだじゃなくて、来てよ」
「しょうがないなあ」

一年生はこんな日にも洗濯など仕事があったりするが、二三年生は後は帰るだけでくつろいでいる。
二三年生が集まるその部屋にいた人間は、藤本と里田のやり取りをしっかり見ていた。
年明けの練習までに副キャプテンはキャプテンから依頼される。
それは当然全員知っていて、今の二年生の人間関係を見ていれば、藤本が里田を呼びに来たというのはそういうことなんだろう、と感じていた。
里田が出て行った部屋では、藤本がキャプテンで新チームどうなるんだろうねトーク、が二三年生で始まった。

藤本は人のいなさそうな部屋へ里田を連れて行った。
実際には自分の部屋。
レギュラー部屋の一つに二三年生が集まっていたので、藤本のいた部屋は空いていた。
畳の部屋の奥、窓際のイスが置かれている部分に向かい合って座る。
里田も、何の話で呼ばれたのかわからないほど愚かではなかった。

「私じゃない方がいいと思うんだけど」
「前置きなしでいきなりそういうこと言う?」
「だって、言われる前に言った方がいいと思って」
「じゃあ、言うよ」
「だから」
「聞いて」

藤本が真剣な顔をしたので里田もそれ以上は続けず口を閉じた。

「美貴も、副キャプテンはまいじゃない方がいいかなって思った」

藤本の口から出てきた言葉は、里田にとっては意外だった。

「美貴とまいは意見が合わないことが多い。それをさ、キャプテンと副キャプテンって関係でやらないほうが良いかなって思ったんだよね」
「うん」
「だから、まいに意見を言うなっていうのはやっぱりおかしいからさ、意見は言うべきだと思うんだ。でも、美貴とまいでそれをやりだすと、たぶん他のみんなは黙っちゃうと思う。止めるのも大変だと思うし」
「美貴怖いからね」
「まいだって、真剣な顔したら相当怖いと思うんだけど」
「そこは、イメージがいいから、私の場合」
「でも、美貴とまいでもめはじめたら、間に入りにくいのは確かでしょ」
「それは、うん、そう思う」

遠い昔のことのような気がするが、一番最近藤本と里田が意見の相違からけんかになってそれがしっかり解決したのは二日前のことである。
その一回だけじゃない。
この二年間、特に二年生になってからは、二人の間にはそういうことが何度もあった。

「だから、副キャプテンはまいじゃない方がいいと思った」
「だったら、最初からそう言ってよ」
「言ったでしょ。ていうか、今最初でしょ」
「じゃなくて、あのタイミングで美貴に呼ばれたら、副キャプテンになってって言われると誰だって思うでしょ。なのに、わざわざ私のこと呼んで、副キャプテンにはならない方がいいって言わなくてもいいのに」
「でも、絶対、まいが副キャプテンになるって周りも思ってるだろうし、まいだってそう思ったでしょ」
「ちょっとは」
「それなのに、何も言わずに他に頼んで、変に考え込まれても嫌だったからさ」
「美貴も気使うようになったんだ」
「何、その言い方」
「わかった。わかったよ。ストップ。私が悪かった」

お互い口調がヒートアップしてきたので、里田が抑えにかかった。
ここで口論を始めても何の意味も無い。

「それで、誰にするの?」
「まいだったら誰にする?」
「美貴は誰にしたいのよ」
「まいがキャプテンに指名されてたら誰にした? ちょっとは考えてたんでしょ?」
「美貴、にしようと思ったりもしたけど、やっぱり同じ理由でダメかなって思ったな」
「じゃあ、誰?」
「私と美貴がもめたときに、必ず止めに入る人」
「珍しく意見が合ったね」
「嫌がると思うよ」
「だろうね」

里田は部屋を出る時に掴んできたペットボトルのお茶を一口飲む。
藤本もそれをせがんで奪い取り、一口飲んでからキャプを締めてテーブルに置いた。

「まいから説得してみてくれない?」
「ダメ。それこそキャプテンの仕事でしょ」
「そうだけどさー。せめて一緒に説得してよ」
「まあ、いいけど」
「じゃあ、呼んできて」
「そこから私がやるわけ?」
「だって、私が呼びに行ったら身構えるでしょ」
「しょうがないなあ」

里田はそういって立ち上がる。
ペットボトルを手に取ろうとしたので、それは藤本が両手で抑えた。
あきれた顔で里田は藤本の方を見るが、すぐにあきらめて出て行った。

先ほどまで自分もいた部屋へ戻って里田はあさみを呼ぶ。
周りは、戻って来たの早いなあ、という感じの声も出ているが、呼ばれたあさみは、何の用だかさっぱりわからない。
副キャプテンになるのにいまさら自分に相談なんかしようとするのかなあ、という意外な感覚を持ちながら里田についていく。
エレベーターに乗って一つ上の五階へ。
オートロックではないので、里田がドアを開けて部屋にあさみを連れて行く。

中に藤本がいたのであさみはびっくりである。
副キャプテンになるかどうかの相談を、キャプテンの目の前で自分にするシチュエーションはどう考えてもおかしい。
ますます自分がなんで里田に呼ばれたのかわからなくなってくる。

窓際のイスは二つ。
一つには藤本が座り、正面のイスにはあさみを座らせた。
里田は仕切られた空間の内側、たたみスペースにあぐらを組んで座る。
あさみとしては、やけに居心地が悪い。
藤本が口を開いた。

「副キャプテン、あさみにしたから。よろしく」
「え、ちょ、ちょっと、何言ってるの? まいじゃないの?」
「うん。あさみにしたから」
「あさみって、麻美? あ、一年生に副キャプテンやらせるの?」
「分かってて逃げてるでしょ」
「だって、待ってよ。まいでしょ。まいにしなよ。まいが嫌がったから? なんで? 私? 違うでしょ。私なら、まだ一年の麻美の方がありえるでしょ」
「ううん。ここにいるあさみが副キャプテンには適任だと思った」

今すぐここから逃げ出したい。
そう思うけれど進行方向には里田がいる。
藤本から視線をそらし、里田の方を見るとしっかりとうなづかれた。
二人はどうやらグルらしい。

「だって、私、スタメンどころか試合に出たことも無いんだよ。ベンチにだって入ったことないし。それで副キャプテンとかありえないでしょ」
「ありえるから」
「ありえないって」
「バスケの力量はどうでもいいんだよ。キャプテンやるならちょっとは関係あるかもしれないけど」

また、あさみは藤本の方を見て、それから里田の方を見る。
里田もまたうなづいた。

「だからってなんで? 私じゃなくてまいの方がどう見たって向いてるでしょ」
「美貴、説明して上げなよ。私じゃダメな理由とあさみがいい理由、それぞれ」

うろたえるあさみに対して、藤本も里田も落ち着いている。
藤本にじっと顔を見られ、あさみは余計に小さくなった。

「じゃあまず、まいじゃダメな理由。美貴とまいがキャプテンと副キャプテンって立場でもめ始めたらよくないから。もめなきゃいいって考え方もあるけど、多分それは無理。意見が違うし。違う意見をぶつけられて平然としてられるほど美貴は大人じゃないし。美貴はりんねさんとは違うから」

そう言われるとそんな気もする。
藤本と里田がもめたらどうするの? というのは里田が藤本に呼び出されて部屋を抜けてからの二三年生の間の話題だった。

「あさみがいい理由。これ、結構あってさ。まず、美貴とまいがけんかになったらいつも止めるのあさみでしょ。まいがあさみがいいって言ったのそれが理由だよね」
「うん」
「たぶん、そんなあさみに、副キャプテンって重みをなんか入れておいた方が止めに入りやすいかなって思ったから。止めるって言うか、まとめるって言うか? なんでもいいけど。それが一つ」

確かに、藤本と里田になにかあると、間に入るのは自分だったような気がしている。
あまりはっきりと、そんなことは無いと口を挟めなかった。

「でね、思ったんだけど。別に、美貴とまいだけじゃないのよ。これだけ人間いるとさ、あっちこっちでぶつかったりするじゃん。美貴は特にそれが多いと自分で思ってます。はい。自覚してます。三年生には結構嫌な目で見られてることがあったのも自覚してます。りんねさんとも意見合わない部分あったしさ。それは、りんねさんの方が大人だったから、ある意味、美貴の言うこと、聞き入れはしなかったけど、ぶつかる感じにはならずに、吸収してくれるっていうか、そんな感じだったけど。とにかく、そういういろんなところでぶつかるのをさ、あさみはやわらげてくれるんじゃないかなって思うんだ」
「そんな難しいこと出来ないよ・・・」
「そうでもないって。自分で気づいてないかもしれないけど、人望は多分美貴よりあるよ、あさみは。一年生あたりには。美貴が言うときつすぎちゃうようなことも、あさみなら和らげて言えるし。同じこと美貴に言われたらむかつくだけだけど、あさみが言うなら聞けるって子もいるんじゃないかな」
「かいかぶりすぎ」
「私も、美貴に言われたら聞けないけど、あさみのいうことなら聞くな」

横から、フォローとも茶々ともつかない形で口を挟んだ里田を藤本がひとにらみする。
里田は、笑って視線をそらした。

「それとさ、美貴、細かいとこに目が行かないってのもあるんだよね。やっぱり勝ちたいし。勝ちたいだけ考えると、悪いけど、下手な子たちまで目が行かないって言うか」
「そんなことないでしょ。この前のベンチ入りメンバーの話の時だって、美貴、よく私たちのことまで考えてくれてるって思ったよ」
「そうは言っても、現実的には、AとBで五対五やってるときに、CとかDとか、ましてやCDの五対五にも入れない子達が何してるかなんて目に入らないもん。どんなことを思って練習してるかとか、そんなのわかんないもん。でも、変な話、あさみならそれがわかるでしょ」
「分かるって言うか、分かりたくもないけど、私のいる位置はそこだけどさ」
「そういうところ、あさみにフォローしてほしいんだ。美貴には手がまわらないから」
「キャプテンが手が回らないって言っちゃダメじゃないの?」
「そうかもしれないけど。でもさ、遠いんだよね」
「遠い?」
「試合に出られない、ベンチにも入れない。練習の時も半分以上は別のコートにいて、CDの五対五にも入れないような一年生から見てさ、美貴って遠くない? 美貴から逆に見て遠いんだけどさ」

藤本に顔をじっと見られてあさみは視線を落とした。
言っていることは、認めたくないけどよく分かる。
ベンチにも入れず、練習も一緒にしているという実感がわきにくい場所にいると、距離感はとても遠い。
自分の指導係についていたりんねでさえ、キャプテンになってからはなんとなく近づきがたいところがあって、あまり話せずにいたのだ。
まして、関係性の薄い間柄なら、何か思うところがあったとしても、何も言えないのが普通だろう。

「チーム全部で強くならなきゃだめなんだ。美貴だけじゃダメ。スタメンだけじゃダメ。上から下まで、チーム全員で、このチームは自分のチームなんだって実感を持って思えて、それでうまくなろうとして、力もつけて、声も出して。それには、ベンチに入れない子たちも必死に頑張ってもらわなきゃ困る。そういう子達も必死に頑張ってれば、試合に出る戦力に直接ならないにしても、私たちに力をくれるし、それでチームは強くなるんだと思う。今日、そう思った。そのためには、まいよりあさみが副キャプテンになった方が、下の子たちにも目が行っていいと思う」
「美貴、そこまで考えてたの?」
「考えてたんじゃなくて、今日思ったの」
「やっぱ、りんねさん、私じゃなくて美貴キャプテンにして正解だ」

畳に座っていた里田は、ペットボトルのふたを開けて、烏龍茶を一口飲んだ。

「あとね、まいだとちょっとバカすぎてさ」
「それ、美貴には言われたくないんだけど」
「美貴に言われたくないってまいに言われたくないよ。でも、実際、あんまり頭はよくないから、美貴も。あさみはそういう点では、美貴やまいより大分まともでしょ。成績とかも。だから、まいより副キャプテン向いてると思うし」
「勉強は関係ないでしょ!」
「とにかくお願い! あさみさん、副キャプテンやってください」
「そんな、無茶だよ! 私に出来るわけないでしょ」
「出来る。絶対出来るから」
「私からもよろしくお願いします」

畳であぐらを組んでいた里田が、座りなおして正座し、あさみに頭を下げた。
それを見て藤本も、椅子から降りて同じように正座し、あさみを拝み倒す。

「ちょっと、やめてよ!」
「お願いします。ホントお願いします」
「もうー! なんで私なの?」
「だから、今説明したじゃないですか」

藤本と里田が正座しているのを椅子に座って見下ろす。
高校に入ってからの二年間で、こんな図は当然初めてである。
あまりに落ち着かず、あさみは自分も椅子から降りて顔を上げてと藤本の肩を揺さぶった。

「お願いします。あさみ様」
「分かった! 分かったから、もうやめてよお願いだから」
「ほんとに? ほんとに副キャプテンやってくれる? あ、やってくださいますか?」
「どうなっても知らないよ」
「大丈夫。決まり? 決まり? これで決まりね。よし、決まり。あー、ほっとした」

藤本は正座を崩してその場にあぐらで座り込む。
自分も思わず正座になっていたあさみも、足を崩して座りなおした。

「なんか、無理やり丸め込まれた気がするんだけど」
「でも、絶対向いてるから大丈夫だって」
「まいは、何もやらないからって気楽に言って。こっちの身にもなってよ」

とても嫌そうな顔をして、あさみは両手を後ろについて足を投げ出す。
その姿を見て藤本が笑いながら言った。

「まいはまいで、来年は、負けたら全部自分のせいみたいな立場になるんだから、楽じゃないんだけどね」
「ファウルアウトした時は、私のせいでいいよ」
「それは言わないでよ・・。悪かったって、今日は。美貴のせいですよ、今日負けたのは」
「しばらくはファウルアウトネタで美貴のこといじめてもいいんだけど、実際には、別に美貴のせいってわけじゃないよね、今日のは。私も最後までコートにいたっていうだけで、石川を抑え切れなかったし。なんていうか、今までで一番、負けたなっていうのを実感しちゃう感じだったな」

藤本は黙ってうなづく。
あさみは、何も答えなかった。

「さて、決めること決めたし、みんなのとこ戻りますか」
「報告する?」
「んー、やめとこう。ちゃんと報告するのは全員そろったとこのがいいよ」

例年、副キャプテンは新年最初にキャプテンが発表する。
実際には、それまでにみんながなんとなく知っている、という感じになっているが、今年も、一二年生にちゃんと発表するのは年明けてからにしよう、ということになった。

「副キャプテンよろしくね」
「よろしくね」
「なんか二人がかりではめられた気分だよ」

三人は立ち上がり部屋を出て行く。
二三年生がほぼそろい、仕事の片付いた一年生も集まり始めた一番の大部屋へと向かった。

試合に負けて、大会が終わり、妙な開放感もあり騒いでいたら、石黒コーチに乗り込まれて解散させられた。
それぞれが部屋に戻る。
消灯時間も過ぎたはずだけど、あさみはりんねを呼び出して外に出ようとした。
実際には、外は寒いということでフロント近くのソファに座る。
今日で最後だし、という理由で呼ばれたんだろうと思っていたりんねに、副キャプテンになった話をした。

「ありえないと思いません?」
「んー、言われてみるとありな気がする」
「何言ってるんですか、りんねさんまで」
「そんなこと言ったって、受けたんでしょ」
「だって、まいと二人で拝み倒すんですもん」
「じゃあ、しょうがない。やるしかないよ」

そういわれてあさみはうつむく。
ソファに二人、並んで座る。
お互いの表情は見えない。

「藤本が言ったことだけどさ、試合に出る人だけのチームじゃないんだよ。試合に出ない子、ベンチに出ない子も全部含めてチームなの。みんなそれぞれ役割あるんだよ。あさみのこれからの一年間は、副キャプテンっていう役割をしっかりこなす。それは、試合に出るとか出ないとか関係なくてさ、重要なことだよ」
「それはわかってますけど」
「ベンチに入りたい、試合に出たいって気持ちは大事だよ。だけど、ベンチに入れないからって引け目感じることなんかないんだよ。お給料もらってるプロだったらそうもいかないんだけど、私たちはただの高校生なんだから。胸張って、チームのために頑張ってますって言えるなら、試合に出れなくたって恥ずかしいことじゃないし。出来るよ、あさみなら。先頭に立って引っ張るのは私と同じで向いてないけど、藤本を支えて、チームの隅々まで目を配るなんて、あさみ向きじゃない」

たとえ、りんねに言われても、自分が副キャプテンに向いているとはとても思えない。
役割の重さと、試合に出ていないということの引け目と、二つが合わさってあさみは少し憂鬱だ。

「大体、副キャプテンって何すればいいんですか? しばらくいなかったじゃないですか。もうなしにしません?」
「そうもいかないでしょ。いないと大変なんだよキャプテン。全部自分で見るのって」

今年の三年生は、本来安倍がキャプテンで副キャプテンは梓だった。
それが、安倍が離脱し、梓もいなくなって、仕方なくという感じでりんねがキャプテンを代行した。
当時、副キャプテンをどうする、というところまで頭もまわらなかったし、その後も、改めて決める気にもならずそのままにしておいた。

「基本的には、キャプテンをサポートする意識を持ってればいいのよ。藤本は、スタメン組みの練習に入れないような下の子たちを見てっていってるんでしょ。だったら、そうすればいいのよ」
「見てって言われても、どうしたらいいんですか?」
「あさみだって、ベンチに入れないにしても入れるかどうかくらいのとこまで来てるんだからさ、もっと下の子たちに教えられることはあるわけでしょ。そういうプレイ面のことでもいいし、あとは、やっぱり、試合から遠いところにいると集中力が入ってない子も出てくるだろうから、そういう子にしっかりしてもらうとか、いろいろあるじゃない」

滝川に限らず、世の中大抵、キャプテンになりそうな人というのはなる前から決まっていて、なりたいかどうかは別として、ある程度、なるかもしれないなという予想なり覚悟が少しはある。
副キャプテンも、ある程度なりそうなイメージもあることが多いし、副は別にやることないしと気楽に構えることも多い。
だけど、あさみの場合は、本当に何の前触れも想像も覚悟も何もなしに、今日急に言われて決められた。

「あー、もういいです。考えない。忘れる忘れる」
「忘れちゃダメでしょ」
「だって、もう、こんな悩んでたら頭はげそう」

りんねは笑ってそれ以上は言わなかった。
今忘れようとして忘れたって、あさみの性格なら冬休みの間に思い悩むに決まっていると思っている。
頭はげるは困るけど、休みの間悩むのは別にかまわないと思っていた。
りんねは、あさみならそれほど問題なく副キャプテンという役割は出来ると思っていた。

「りんねさん、どうでした? 三年間」
「ん? 急にまとめるの? 三年間ねえ。あっという間だったな」
「あっという間ですか」
「うん。すごい長かったんだけどさ。だけど、今になって思い起こすと、あっという間」

今度は、りんねが遠くを見つめる番。
三年間。
試合だけではなくて、寮での暮らしがやけに思い出される。

「後悔とかありますか?」
「後悔? 後悔は、いっぱいあるかな」
「じゃあ、もう一回やり直せるとしたら、今度はどうしたいとかありますか?」 
「今度は、みんなで卒業したいな。みんなで」
「・・・そうですね」

三年間で一番大きなことは、どうしてもそこに行き着く。
それを思い出せば、あさみの声のトーンもどうしても低くなる。

「でもね、ここに来たこと自体は後悔してないよ。試合のあとにも言ったけど。私は、多分よそのどこに行ったとしても、ここで過ごす三年間より楽しくは暮らせなかったと思う。もう一回、高校選べって言われても私はここに来るよ」

りんねの語りをあさみはうなづきながら聞いている。
こういう会話を始めると、先輩たちは本当にいなくなるんだという実感がわきあがってくる。

「私は、あさみにとっていい先輩でいられたかな?」
「いい先輩でしたよ。あたりまえじゃないですか」
「私、途中からはあさみのことあまり気にしてあげられなくなってたよね」
「それは、仕方ないです」
「そこまで余裕なかったんだよね。もう、毎日が必死だった。どうしたらいんだろうって。登録メンバーのことは、やっぱり私のわがままだだったのかもしれないなって思う。なにかにすがりたいって言うか、支えが欲しいっていうか。それであんなこと言い出したのかもしれない。あさみにはホント悪いことしちゃったよね」
「私がベンチに入れなかったのは、私が下手だったからで、私が悪いんです。だけど、誰かに助けて欲しい時は、私だっているし、みんないるし、もっと周りを頼ってほしいなあとは思いました」
「誰かに頼っちゃいけないって思ったんだよね。自分でキャプテンになったんだから、全部背負わなきゃって。それで、自分へのいいわけみたいな感じで、ここにいない人になら頼ってもいいかなみたいな、そんな感じだった気がする」
「だけど、ひろみさんのユニホームがベンチにあるっていうのは良かったと思いますよ」
「そうかなあ?」
「だって、ひろみさんは、やっぱりスタンドの上にいる人じゃないし。いるとしたらベンチかコートの上だから。ベンチで一緒にいてくれるっていうのが一番良かったんだと思います。りんねさん、実際、ベンチで、一緒にいるみたいな感覚あったんじゃないですか?」
「うん。ちょっとね、あったかな。でも、ホントは、ひろみだけじゃなくて、みんないて欲しかったんだ。だから、なつみのユニホームもって最初は言ったんだよね。みんなにそこにいて欲しかった。みんなに」

このチームがこういう形で最後を迎えることになるとは、一年前には誰も想像していなかった。
それくらい、チームのメンバーは変貌していた。
なんとか支えて、ここまでまとめあげてきたのがりんねだった。

「あさみ」
「はい」
「私は、私たちは、今日でこのチームを卒業します。あとは、あさみに、あさみたちに任せます」

座ったままりんねはあさみのほうを向くが、あさみは視線を落として顔を見せない。
りんねが黙って答えを待っていると、あさみはうつむいたまま口を開いた。

「さびしいです」
「そんなこと言わないの」
「泣いてもいいですか?」
「ダメ」
「無理。泣きます」

あさみは両手で顔を覆った。
仕方ないな、という顔をしてりんねはあさみに近づいて肩を抱く。
何も言わずに、しばらく頭をなでていた。
やがて、あさみが落ち着いたころ、りんねはあさみの肩から腕を外す。

「大丈夫?」
「はい」
「もう、先輩はいないんだからね」
「分かってます」
「副キャプテンやるんだからね」
「そこは、微妙に納得いってないですけど」
「つべこべ言わない」
「だってー」

不満な声を上げて自分の方を見るあさみの頭を、りんねは軽くゲンコツで触った。

「あー、もう眠くなってきた」
「12時近いですよ」
「こんな時間まで起きてるのいつ以来だろう」
「りんねさん、消灯時間のない世界に行くんですね」
「しばらくはね。でも、牧場はうちの寮より朝早いよ」
「そっか」

りんねが立ち上がり、あさみもそれにならう。
二人でエレベーターに向かった。
二人が黙るとエレベーターが動く音さえも耳で分かる。
やがて降りてきたエレベーターに乗り込んだ。

四階。
あさみの部屋はここ。
エレベーターからあさみが出て振り向く。
開のボタンをりんねは押している。
お互い、何かを言おうかという思いはあったのだけど、何も言わなかった。

「おやすみ」
「おやすみなさい」

りんねが開のボタンを離す。
あさみに見つめられたままドアが閉まっていく。
りんねが手を振ると、あさみも振り返した。
ドアが閉まり、その姿は見えなくなった。

「おやすみ」

もう一度、りんねはつぶやいた。

 

富ヶ岡は、三回戦の苦戦が嘘かのように、準々決勝は100点ゲームの圧勝で通過した。
相手はインターハイ三回戦で当たった桜華学院。
エースのソニンさえ抑えてしまえば後はひとひねり、という程度の相手だった。
ソニンのマッチアップについたのは石川。
シャットアウトすることまでは出来なかったが、一方的にやられるということも無かった。
ボールが集まるエースであるソニンを18点に抑えたのは、パーフェクトではないが合格点と言える。

ただ、準決勝はてこづった。
相手はノーシードから勝ちあがってきた仙台聖和。
試合後半に一時追い上げられ、終盤までもつれそうになる展開を最後に何とか振り切ったという形。
原因は、後半に入って早い段階で平家が負傷退場したところにある。
リバウンドを、相手の四番をつけたメガネのエース村田めぐみと競り合って、着地した時に足をひねった。
その段階で二十点近い点差があったので、テーピングを巻くところまで治療してあとは無理せずこの試合はベンチで終わろう、というプランだった。
ところが、平家を外したところで、村田にゴール下を完全に支配され、点は取られるはリバウンドは取れないはで五分を切って五点差まで迫られる。
最終的には平家をもう一度投入することで立て直して何とか逃げ切った、という展開だった。
自分のマッチアップにやられたわけではないが、ずっとフロアにいた石川や柴田にとっては、少々自分が情けなる試合展開ではあった。

「平家さん、明日大丈夫かな?」
「大丈夫だよ。今日も最後は出てきたんだし」
「平家さんが出てこなきゃいけない展開にしちゃいけなかったんだよね」
「うん・・・」

スタンドの上。
いつものように第一試合で勝ち上がった富ヶ岡のメンバーは、その自分たちより後に行われる試合を見ている。
目の前では中村学院が準決勝を戦っていた。

「弱いなあって思った」
「何が?」
「私が」
「梨華ちゃん?」
「うん」

石川と柴田は並んで座っている。
割と近いところに、平家に代わって入り、ほとんど活躍できなかった仲間がいるので、言葉を選んでいる。
直接的には誰が悪いって、代わりに入ってゴール下で何も出来なかったそのメンバーが悪いのだが、控えメンバーのせいにはしたくないし、まして口に出して本人の耳に入れられないしで、表現がちょっと微妙な感じになった。

「なんか、いままで、自分が点を取ってるんだ! みたいな気でいたんだけど、そうでもないのかなって。平家さんが取らせてくれてたのかなって」
「リバウンドがあるからってこと?」
「うん。打って外れてもリバウンドとってもらえればいいって、そういうのもあったし、それと、私がもしダメでもさ、柴ちゃんでもいいんだけど、他の誰かが何とかしてくれるみたいな? そういう感覚もあった気がする。点を取るのが自分の仕事、とは思ってるけど、ダメならダメで、誰かがなんとかしてくれるみたいな。今日はさ、平家さんがはずれて、その後打ったシュートが、入れば違ったのかもしれないけど、外れちゃってさ。それで、一本で決めなきゃ! 私が決めなきゃ! みたいに思い始めたら余計入らなくなってた」

チームのエース。
そういう意識が無いわけではなかったが、それでもどこかに気持ちの逃げ道はあった。
平家がベンチに下がったところで、その逃げ道がいつの間にか無くなって、自分が全部背負うのかと思ったところで、力が発揮できなくなっていた。

「あ、また決めた」
「きれいに抜いたね」
「是永美記ちゃんはやっぱりすごいなって思う」

前半を十点リードで折り返した中村学院。
後半に入り、点差が拡がらず縮まらずという膠着状態で進んでいる。
そんな試合を見つめる二人の前で、是永は外からドリブル突破してミドルレンジからジャンプシュートを決めた。

「ああいうのが本当にエースって言うんだなって思う」
「是永さん?」
「うん。インターハイの時に、この子はすごい、勝てない、って思ったけど、まだホントのすごさは分かってなかったみたい」
「ホントのすごさって?」
「チームを全部背負ってるって感じ? 国体の時、勝ててはいなかったけど、それなりに勝負できてたと思うのね、私。だけど、それは、私がダメでも平家さんがいるし、柴ちゃんも点とってくれるし、なんていうか、五分の一でいられるから出来たんだなって思う」
「五分の一じゃいけないの? 五人でやってるんだからそれでいいんじゃないの? 梨華ちゃんがダメなら、じゃあ私のところで、って考えるのは普通でしょ?」
「そうだけど、是永美記ちゃんは、そうじゃないところであれだけのことしてるんだなって思ったから。だから、すごいなって。私は、なんか、みんなに守られて試合してるから。たぶん、是永美記ちゃんの感じてるプレッシャーってもっと大きいものなのかなって思う」

石川の言いたいことは柴田にも分かる。
分かるけれど、それになんていってあげればいいのかは思いつかなかった。
柴田の感覚は、石川の感覚とは少し違う。

「五人が五人とも、多分五人だけじゃなくて、ベンチにいる15人とかが、みんな同じ力で、誰かがダメでも他の誰かが点が取れるとかリバウンドが取れるっていう方がいいんじゃないの? 五分の一じゃいけないの?」
「私は分かってなかったけど、多分、平家さんは違ったのかなって思った」
「違うって?」
「平家さん、たぶん、自分がダメでも他の誰かが何とかしてくれるって思ってプレイしてなかったのかなって。実際に試合してるときは五分の一でもいいと思うんだ。だけど、そうじゃなくて、最後の最後は自分がこのチームを背負う!みたいな覚悟っていうか、そういうのが平家さんは多分自然に持ってて、私は無いんだと思う。だから、今日も平家さんが戻ってくるまで点差詰められっぱなしで、最後に何とかしてもらうって感じになっちゃったのかなって。私と、是永美記ちゃんの差ってそういうところにもあるのかなって」
「梨華ちゃんもいろいろ考えてるんだね」
「柴ちゃん、私のことバカだと思ってるでしょ」
「そうじゃなくて、私はそこまで考えてないなってさ。そう思ったの」

石川は、是永美記を見ている。
インターハイ以来、この半年、是永美記を見て練習をしてきた。
柴田にとっては、今までの対戦相手でそういう感覚を持って見るようになった相手はいない。
強いて言えば、石川がそういう相手だ。
石川に追いつきたい。
そういう感覚はある。
だけど、それはそれとして、チームが勝つことが大事、という感覚もある。
石川を押しのけて何かをしよう、という感覚は無い。
そこが、自分と石川の差なのかな、と石川に是永との差の話をされて思った。

試合は、75−64で中村学院が勝った。
この後は、会場では男子の準々決勝が行われる。
石川達にとっては、直接的には係わり合いの無い試合になる。

「先生戻ってこないね」
「長くない?」
「一件じゃないとか言ってたよ」
「先生だけじゃなくて平家さんも全部付き合ってるの?」
「戻ってこないってことはそうなんじゃない?」

試合終了のミーティングの後。
和田コーチは、キャプテンと自分とで記者の取材がいくつかあるから、と断ってチームを離れていた。
今日に限らず、下の回戦の段階でも、時折そういうことがあったので、おかしなことではない。
ただ、平家や、場合によっては石川なり高橋だったりする、選手としての取材対象は、あまり長い時間拘束しないように、いつも和田コーチは気を使っていた。
それなのに珍しいなあ、と石川は思う。
連覇の賭かった決勝の直前、というのはそういうものなのかな、チームを背負うってそういうことだったりするのかな、と違和感感じながらも自分に納得させた。

結局、和田コーチから三年生に、先に移動しておけと連絡が来て、チームは会場を後にして借りている体育館でコーチとキャプテン抜きで、控えメンバー中心に軽く体を動かす。
コーチとキャプテンとは、宿舎に戻ったところで合流した。

決勝まで勝ちあがると、対戦相手の資料は豊富に集まっている。
特に、自分たちがそこまで勝ちあがるつもりでいて、相手も本命が勝ちあがってくれば、最初の試合から直前の準決勝まで、すべて映像資料がそろっていて、何を見るかは選り取りみどりである。
中村学院は、自分たちは優勝する、というつもりでここに来ていたし、決勝の相手は富ヶ岡になるだろう、いや、なって欲しい、そこに勝ちたい、という思いもあったので、緒戦に当たる二回戦から準決勝までのすべての映像データは手元にあった。

「明日の試合、まず分かれ目は平家みちよが出てくるかどうか」

映像の見方もいくつかある。
通しで頭から最後まで見て、さあお前ら考えろ、みたいなやりかたが一つ。
もう一つは、ポイントとなる場面を切り出し、こういう場面で相手はこのように動く癖がある、だからここはこう抑えろ、とストップアンド再生を繰り返すやり方。
中村学院のコーチは、ここでは後者のやり方で映像を見せながら語っている。

「四番抜きなら、インサイドはあまり怖くない。ボールを持っても、こうやって勝負出来ずに外に逃げてる。まあ、ボール持ってるのをフリーにすることは無いけど、警戒するのはボール持ったところだけでいいだろ。どっちかというと、外の・・・、これ。この、スリーポイント。九番、こっちの方が怖い。このシーンでは入ってないけど、九番からスリーポイントというのは避けたい。それと12番な」

流れている映像は、準決勝の平家が外れた後の場面。
中で勝負出来ずに、外に出てきたボールを柴田がスリーポイントシュートを放って外れたところ。
平家さえいなければ、インサイドは怖くない、というのが中村学院サイドの考え方だ。

「だから、平家みちよ。四番な。それがいなかったら、ボックスは広めに取る。それはいい。問題は、いた場合だ。それはこっちだな」

半円形に散らばって座る生徒たちに向かって、テレビデオが二台並んで置かれている。
一台の、準決勝の映像の方をストップさせると、コーチはもう一台のほうを再生した。

「外は外で変わらずある。だけど、そればかり警戒してると、中も強い。ゴール下に入られるとかなり厳しいな。ただ、ここまで四試合見てきて、勝負するポイントは限られてるんだな」

流れている映像は三回戦の滝川山の手戦のもの。
0度の距離が離れた難しいところからのシュート。
少し早送りして、ローポストからスピンターンしてゴール下のシュート。
二つ見せてから、コーチはまた早送りして、今度はハイポストで受けたシーンを見せた。

「ここ。ここな。四番は、この位置で受けると、ドリブルで中に入ってくることはあるけど、直接シュートはないんだな」

流れた映像は、シュートフェイクを見せてりんねを飛ばしてから、ドリブルで中に入り込むシーン。
もう一つ、同じ場所で受けて今度もシュートフェイクを見せてから、ゴール下に駆け込む石川にバウンドパスを送るシーン。
二つ見せる。

「四番は、0度やそれに近い位置では、割と直接シュートを打つことも多いけど、ハイポストとか、角度のあるところでは打ってこない。わかるな?」

具体的にどうしろ、と手取り足取りまでは言わなくても、ある位置からは打ってこない、という情報があれば、そこでどうすべきなのかは決勝に出るくらいの選手なら分かる。

「外の方は、スリーは絶対打たせないっていうかたちにはしなくていい。その位置にいられると打ちづらいなっていう位置取りにしておく。スリーを気をつけるのは九番と12番だな。特に12番の方はなんでそこで? ってタイミングでも打ってくるから油断はしないように」

三回戦の映像と準決勝の映像を中心に、その後も話を進める。
オフェンスについての指示も当然ある。
どちらの試合でも三クォーター初めから見せる、前から当たってくる富ヶ岡のディフェンスへの対処の指示もある。
一年の間に三回目の対戦だ。
出ている選手の方も富ヶ岡の選手の特徴は大体分かっている。
その上で、今度こそ勝つために何を上積みするか。
一つ一つ指示を出す。
ただ、是永だけは、具体的なことはほとんど言われなかった
最後に一つだけである。

「是永」
「はい」
「明日のマッチアップは、分かってると思うけど7番だ」
「はい」
「夏よりも、国体のころよりも伸びてるからな」
「分かってます」
「しっかりやれ」
「はい」

これだけだった。

ミーティングが終わる。
是永は川島と連れ立って大浴場へ向かった。
試合の後、戻ってきてすぐにシャワーは浴びたがそれはそれ。
後はのんびりして寝るだけ、というこの段階で改めてゆっくりと湯船に浸かる。

「明日で終わりだね」
「そうだね」
「勝っても負けても」
「うん」

二年生の是永にとっては、一年の締めくくりであって、勝っても負けてもまた来年、なのであるが、この大会を最後にチームを離れると決めた川島にとっては、勝っても負けても最後の試合である。

「頼むよ、秘密兵器」
「その言われ方、なんかちょっとやだなあ」
「先生、意識してあまり今日まで幸のこと試合に使わなかったみたいだね」
「私は、関係なく出たかったけどなあ」
「明日、五試合分頑張ればいいよ」
「ホントに使ってもらえるのかなあ?」
「名指しで出すって言ってたでしょ。早い段階から」
「でもさあ、今日までほとんど出てないと不安だって」

準決勝までは四試合。
川島が試合に出たのは、早い段階で勝負のついた二回戦と準々決勝で、後半に数分間だけだ。
インターハイも国体も、怪我でベンチにも入らなかった川島。
富ヶ岡の側からすればデータのない相手ということになる。
三回目の対戦だし、決勝で合うだろうと最初から思っていて意識して情報も集めているので、お互い手の内をよく知っているという関係になるが、川島だけは、その情報の枠から外れている。

    「全然試合に出てないと、使うって言われても使ってもらえるのか不安だし。それに、試合に出たとしてもさ、なんか、緊張するっていうか。私、夏も秋も出てないし。怪我治してからも、ちゃんと強い相手との試合、出てないんだよね。去年はずっとベンチに座ってることの方が多かったし」

川島が怪我をしたのはインターハイの直前。
中村学院のチームの中で、実質的にスタメンとして試合に出ていたのは、春の地方大会と夏の県大会だけだ。
一番大きな舞台としては、春の九州大会の決勝、ということになる。
競った試合ではあり、経験としてないよりはいいけれど、それでもやはり、インターハイ、国体と戦ってきた是永の経験値と比べると、客観的に見劣りするし、当事者が主観で見ると引け目を感じてしまう。

「一発勝負ってそういうものだと思う」
「一発勝負?」
「確かにインターハイも国体もあったけど、でも、選抜はやっぱりなんか違ってさ。これが最後って。先輩いなくなっちゃうし。幸も・・・。向こうだってそうで、これが最後でさ。たぶん、うちらが明日勝ったら、これで一勝二敗、じゃなくて、勝ちなんだよね。今年。勝ったほうが優勝。今年のチームで一番強いチーム。緊張するのは幸だけじゃないよ」

今年三回目の決勝。
慣れがまったく無いわけでもないけれど、これまでの二回より重みを感じている。
最後に勝って終わりたい。
初めての怖さを感じる川島とは違っても、是永は是永でチームを背負う怖さも感じている。

「医学部行くより簡単だよ、多分」
「そんなことはないけどさあ」
「受験だって、二度目じゃなくて初めてで受かるつもりでいるんでしょ。だったら、明日も大丈夫」
「なんか、理屈になってるようななってないようなだなあ」
「そんな、心配そうな顔しないでって。幸なら大丈夫だから」
「だったらいいけどねえ」

是永に大丈夫といわれたからって、素直に大丈夫と思えるわけではないけれど、一人で心配しているよりは大分楽になる。
川島は、一度お湯で顔をぬぐった。

「マッチアップ誰が来るかな?」
「また九番なんじゃないの?」
「うーん、どうだろ?」
「石川さんについて欲しいの?」

自分の方を向いての川島の問いかけに是永は正面を向いたままで答えない。
答えない是永を見て、川島はうっすら笑い、正面を向いて右ひざを立てて抱えた。

「インターハイも国体もスタンドで見てたけどさ、試合は負けたけど美記は勝ってたと思うよ」
「試合に負けると勝った気しないよ」
「でも、なんか、それだけじゃなくない?」
「それだけじゃないこともない」

是永ははっきり言わないけれど、川島は、是永が石川のことを何か意識しているのを感じていた。
部室にポスターを貼ったりとか、そういう分かりやすいことを是永はしたりしないが、なんとなく意識しているのを隣にいれば感じる。

「負けたくないんだ」

理由の説明は無い。
たぶん、是永自身もよく分かっていない。
だけど、ただ感じる、負けたくないという感情。
他の誰にもあまり感じないもの。
負ける可能性を感じる相手にだけ沸き起こってくる気持ちなのかもしれない。

「なんか、負けたくないんだ」

理屈じゃないから言葉で説明できない。
ただ、負けたくなかった。

「ライバルとかいうやつですか?」
「なんか、古い言葉だなあ。そんなすごいものじゃない気がするけど」
「でも、負けたくないんでしょ」
「うん」
「じゃあ、ライバルでしょ。たぶん、辞書にもそう載ってるよ」
「そういう言葉にしたくない感じだな」
「なんで?」
「石川さんは石川さんで。それを説明するなにかにしたくない」
「なんか、よくわかんないなあ」
「いいの」

よほど気になる存在なんだな、ということは川島にも分かった。

二人とも、少し黙り込んでぼんやり。
湯船の中である。
まともに思考しての会話はそうそう長くは続かない。
一度会話が止まると、二人とも口が重くなった。
頭の中は、言葉や文章よりもイメージの方が先に浮かぶ。
それを言語化して相手に伝えるのは、このけだるさの中では少し面倒になる。

明日が最後。
是永にとっては、この大会が終わっても、新チームになり、キャプテンになり、年が明ければ新人戦でと、バスケの日々は続く。
それでも、明日が最後。
一年間の締めくくりであり、川島と共に戦う最後の日である。
ただ、それと同時に、本当に大事な舞台で川島と共に戦うのは、ある意味でこれが最初でもある。

「幸」
「んん?」

少し意識も薄れ気味な川島がぼんやり答える。

「勝とうね、明日」
「ん? うん。そうだね」

是永が立ち上がり、少し歩いて湯船を出て行く。
ここで寝ちゃダメだ、自分も出なきゃ、と川島もゆっくり立ち上がって大浴場から出て行った。

翌朝。
この冬一番の冷え込みを見せた東京の朝。
早朝から両チーム動き出す。
決勝の開始は十三時。
朝の散歩をし、朝食を食べ、少し休んでから会場入り。
サブコートでゆっくりとアップ。
体を目覚めさせていく。
対戦相手は、当然同じ時間に試合をするのだから、行動パターンが似てくる。
アップ中、移動中、近寄りはしないが視界の中に相手がいることも多い。
互いに気にしてないように振舞うが、横目に観察していたりする。
女子の決勝の前に男子の準決勝の一試合目がある。
そのハーフタイムに、アリーナのその会場でアップをする。
観客たちの目に入る最初のタイミング。
そして、対戦相手と最も近づくタイミング。

ハーフタイムアップが終われば、また地下のサブコートへ。
試合に向けて、体を温めていく。
今日の自分の調子はどうだろう?
それぞれに考えながら。
何の気なくシュートを打って、それが入ると気分がいい。
今日はいけるんじゃないか、そんな気分になれる。

試合開始の二十分前、両チームはそれぞれにアリーナへ向かった。

 

決勝の舞台。
東京体育館アリーナコート。
高校バスケットの決勝は、社会人、セミプロのJBLやWJBLのレギュラーシーズンの試合よりも観衆は集まる。
負けていったチームは、すでに地元に帰っていて、関係者の数は減っているにもかかわらず、ほとんど一般の観客だけで一万の客席が埋まった。
神奈川県立富ヶ岡高等学校
私立中村学院高等学校
今年は、夏のインターハイ、秋の国体、冬の選抜大会、三大会すべて、決勝はこの二チームの対戦となった。
キャプテンの平家、得点力のある石川といった中心選手はいるが、それでも、オールラウンドに点が取れ、ディフェンスも出来るメンバーをそろえた富ヶ岡。
対するは、大エース是永美記を大黒柱に据えて、ディフェンスは、相手に関わらずボックスワンを敷いてエースをつぶす、という特徴的な形で勝ちあがってきた中村学院。
対照的な両チームの対戦である。

インターハイは、是永が石川を抑えきったものの、中村学院の方も得点力不足な部分があり69−60で富ヶ岡の勝利。
国体では、中盤まではお互いディフェンスの堅さが光りロースコアに展開したが、終盤、足が止まりだすと点が動いて最終スコアは61−53で実質富ヶ岡である神奈川県選抜チームの勝ち。
同一シーズンに三度目の対戦、
お互い、手の内をよく知っている同士で、新しい展開をするかどうか?

両チーム、本格的なアップは終わり、それぞれランダムにシューティングをしている。
0度の位置からスリーポイントを打った是永、ボールはリングに当たり大きく跳ね上がったところを思わず目で追う。
手ぶらになった是永に、控えの一年生がエンドからボールを送るが、それを受け取って、その前に何かが目に入ったような気がして、もう一度ゴールの先を見返した。
視線の先はコートサイドのアリーナ席。
間違いない、と思う。
同じサイドの四十五度の位置にいた川島のところに駆け寄った。

「ねえ、あれって」
「なに? どれ?」
「あれ、あの、上から三列目」
「お母さん! お父さんも!」

是永に指を指され、川島にも自分たちの方を向かれた二人、見つかったか、と苦笑いをしているのが見える。
是永と川島は、ボールを持ったままアリーナ席の方へ向かう。
二人は、脇の階段を下りてきた。

「どうしたの? 診療所は?」
「臨時休業だ」
「臨時休業って・・・」

川島の父が開いているのは、一般商店ではない。
診療所である。
臨時休業とか、普通に考えてありえない。
娘である幸は、当然それくらいのことは分かる。
診療所なので入院患者というのはいないが、それにしても、早い段階からこの日は休みですと告知したり、アリーナ席にいるということはチケットも確保したり、周到に準備した上でないとこの光景はありえない。

「幸の最後の試合だからな。一度くらいしっかり見ておこうと思って」
「でも、私、出られるかどうか分からないよ」
「出る、出ないはいい。幸の実力もあるし、チーム事情もあるだろう。でも、幸は幸の立場で、しっかり出来ることをやりなさい。チームの皆さんのために」
「はい」

うちの父親も、これくらいかっこよければいいんだけどな、と是永はぼんやり思っている。
この会場に実は見に来ている、なんてことは絶対無いだろうな、と考えていると、話を振られた。

「是永さん」
「あ、はい」
「その節は、わざわざお越しいただいてありがとうございました」
「いえ、あの、なんか、生意気言ってすいません」
「そんなことないですよ。幸にあなたのような友達がいると知ることが出来てとてもよかった」
「あ、いえ」

父親世代の人から、丁寧語で語りかけられると、どうにもこうにもこそばゆい。
試合なんかよりもよほど緊張してしまう。

「是永さんのりりしい姿、期待してます」
「いや、そんな、たししたもんじゃないですから」

アップで体を動かしたときにも増して、額に汗がにじむ。
嫌ではないが、落ち着きの無い気分にさせられる。

「あんまり邪魔しても悪いから、私たちは上に戻るよ」
「うん」
「母さん、なにかある?」
「怪我だけはしないでね」
「うん」

二人は階段を上って戻っていった。
是永は汗をぬぐい、コートに戻る。

「あー、びっくりした」
「幸のお父さん、なんか、話してて緊張するよ。かっこいいし」
「そんなことないでしょ。でも、いいのかな、診療所休みにしちゃって」
「いいんじゃないの? 冬休みってことで」
「うち、年末は31日だけだけどなあ、休み・・・」
「細かいこと気にしないの。あー、やる気になってきた」

しゃべりながらのシュートモーションで打った、0度からのスリーポイントは、しっかりとリングを通過した。
レフリーの三分前の笛がなり、両チームのメンバーはベンチに戻った。

決勝はスターティングメンバーを一人一人が場内アナウンスでコールされながら、ベンチからフロアへ上がっていく。
エアーパーフェクトTVでは生中継されるし、地上波民放でも、深夜に録画中継される。
第一シードの富ヶ岡が先、反対側を勝ち上がってきた中村学院が後。
両チーム、スターティングメンバーは準決勝と変わらなかった。
まず、ここまでは、お互いの想定通りである。

「白、富ヶ岡、青、中村学院」

レフリーが告げる。
白とか青は、ファウルを告げる時、学校名でなく、簡略化して白四番とか、そういう言い方をするための付箋のようなもの。
白とそうでない色ならなんでもいいので、実際には緑ベースのユニホームの中村学院であるが、発音しやすい青にされてしまう。
キャプテン同士が握手を交わし、レフリーともそれぞれ握手をし、両チーム一礼するとそれぞれがジャンプボールのポジションに散った。
是永には石川の方からマークに寄ってきた。

ジャンプボール。
タイミングよく飛ばれ、平家はボールに触れない。
後ろで待つガードにボールを落とされボールを確保される。
富ヶ岡は四人が一斉に自陣へ引いた。
石川一人、ディフェンスに戻らず、是永にそのままついた。

試合開始直後のセットオフェンス。
富ヶ岡のディフェンスは上がってきた中村学院のオフェンスをそれぞれピックアップする。
ハーフコートのマンツーマン。
それ自体はいつもと変わらないが、是永美記には石川梨華をつけた。
是永と石川のマッチアップは、普通のディフェンスではなくてフェイスでつく。
顔を相手に向け続けるからフェイス。
普通、ディフェンスはボールがどこにあるかを意識しながら、自分のマッチアップの相手を抑える、という形だが、フェイスのときはボールはほとんど無視して、とにかく自分のマッチアップだけに集中する。

ボールは是永以外の四人で回る。
是永には石川が密着。
絶対にボールを入れさせない、という付き方。
スピードのある石川に最初からこの形で付かれると、中村学院は簡単に是永にボールを入れられない。
四人でまわして、ローポストから勝負、という形に持ち込んだが、シュートは外れリバウンドを平家が抑えた。

今度は富ヶ岡が持ち上がる。
石川が是永に張り付いたと同じように、是永はそのまま石川に張り付く。
国体の時のように、オフェンスディフェンスでマッチアップが変わるということは無く、今日は、是永と石川のマッチアップは攻めも守りも同じようだ。
そうなると、ボールを取った直後から是永は石川のそばにいる、ということになるので、やはり石川も簡単にボールが受けられない。
高橋はゆっくり持ち上がって一応確認する。
石川に是永をつけたボックスワン。
いつもの中村学院の形だ。
それを想定して、ベンチから指示は受けていた。
高橋だけじゃない、チーム全員、序盤はここで攻めるという意思統一はある。
平家は中に置いて、他の三人は外で回す。
石川はインサイドで是永とポジション争いをする。
外で三人が早いボール回しをした。
石川と是永はゴールに近いところ、平家もインサイドで下の二人をひきつける。
結果として、三人でボックスの上側二人を相手にすることになる。
早くボールを動かして、その二人を揺さぶる。
スペースが出来たところで右サイド柴田へ。
やや距離はある右三十度、ジャンプシュートを放ち、これが先制点になった。

立ち上がりは富ヶ岡ペースで進んだ。
是永と石川は、お互いがお互いに張り付き、どちらもボールを受けられず、見た目に目立つのだけど実際は二人ともゲームから消えているというの近い。
そうすると、四対四で試合が進むことになるのだが、エースを抜いた四人づつの力で言えば富ヶ岡の方がはっきり上だ。
富ヶ岡はその状況でのボックスディフェンスの対応は考えてきた。
昨日、ビデオを見ながら和田コーチから出た指示。
序盤はミドルレンジからの柴田。
ボックスディフェンスの定位置よりも外側からシュートを打ちたい。
そのためにボールをまわしてディフェンスを動かした上で、得意な位置を選んで柴田に打たせた。

是永へのマッチアップを柴田でなく石川にしたのも、そこから逆算して他にいなかった、という本音がある。
ディフェンス面での大きな負担をかけない状態で、まずは柴田に点を取らせる。
是永を相手にするであろう石川では、得点の計算がしづらいし、和田コーチは平家に出だしから負担をかけたくなかった。
それで、柴田を立ち上がりは中心に据えた。
五分を過ぎたところで10−4と富ヶ岡がリードする。
そのあたりで中村学院がタイムアウトを取り、流れを少し変えた。

柴田が自由にシュートが打てなくなる。
ディフェンスの動きが良くなったのか? と一瞬思い、高橋あたりは困ったなあ、と感じていたが柴田自身は分かっていた。
ボックスが拡がったのだ。
外を抑えるために、中村学院ベンチが指示を出した。
だったらインサイドで勝負すればいい、というのがオフェンス側の立場なのだが、それを高橋が理解するまでに時間がかかっている。
また、中村学院オフェンスも変化した。
ここまで様子を見ていた感じの是永にボールが入るようになる。
是永が、石川にディフェンスにつかれたのはインターハイ以来。
最初、思わずインターハイの時の感覚で対応していたら、さすがに甘く見すぎでボールを受けられなかった。
頭と体を切り替える。
インターハイの時のように、余裕を持って動いて楽な形でシュートを決めようと思っても無理らしい。
そう、理解して、かつ、本人だけでなく周りもそれを把握して、是永がボールを受けやすいように、という動きをするようになった。

点差が詰まる。
ボールを持つと是永はやはり強い。
インサイドで石川を背負う。
外で石川と正対する。
どちらにしても、ボールを持った一対一、というシチュエーションを作ってしまえば是永の勝ちだった。
一クォーターの終盤は、富ヶ岡オフェンスも少し切り替え、ボックスが広がったことを全員が理解し、平家へボールを集めて加点することが出来た。
結果、16−14 富ヶ岡の二点リードで一クォーターを終了した。

「川島!」
「はい」
「右の上、入れ」
「はい」
「九番が付いて来ると思うけど、ボール狙ってくるからな。気をつけろ」
「はい。ボール運びは?」
「参加しろ」
「はい」

中村学院ベンチ。
メンバーが戻ってくるとコーチが指示を出した。
二クォーターから川島を投入する。
ボックスディフェンスを自陣ゴール側から見た右の前側。
予定通り、早い時間帯からの投入である。

「幸」
「なに?」
「緊張してる?」
「ちょっとね」
「そう言えるなら大丈夫か」
「うん」

試合に出たい、と思って練習は積んでくるが、いざ試合に出るとなると怖いもの。
昨日、そんな風に怖さを語っていた川島だったが、実際出場を告げられた今、割と落ち着いている。

「上三人で回して、大分揺さぶろうとしてるみたいだから、気をつけて」
「中にいて、自分は石川さんとやりあってるのにそこまで目に入るのがすごいよね」
「ほんと冷静だね、幸」
「これでも緊張はしてるつもりなんだけどね」

手首を両手で回したり、右足を伸ばしたり、簡易的ストレッチをしながらの会話。
久しぶりの、競った場面での出場であるが、川島の腹は据わっていた。

「相手代わったよ」

クォーター間インターバルを終え、コートに戻った富ヶ岡のメンバーで、最初にメンバーチェンジに気づいたのは平家だった。
コートに入ってからなので、変なタイミングだが、ここでオフィシャルが中村学院のメンバーチェンジをコールする。
外れたのは誰だ? と富ヶ岡のメンバーはそれぞれ確認して、あ、私のマッチアップがいない、と気づいたのは柴田だ。
12番?
中村学院なら、控えメンバーについても多少の知識はある。
スタメンの五人のほかに、勝負のかかる場面でもコートにいることがあるのは後二人ほど。
12番は、その自分たちが得てきた知識には無い番号だ。
インターハイや国体にいたメンバーの番号が変わっただけでもない。
顔も知らない。
この子誰?
柴田はそう思いながら見つめる。

「12番オーケー」

とりあえず、約束事なので、マッチアップの相手は確認しましたよ、ということでコールする。
ファウルがかさんだ選手もいないし、怪我の雰囲気もない中、二クォーター出だしから投入された12番。
なんだか分からないけれど、仕掛けてきたのかな、と思った。

第二クォーターは富ヶ岡ボールで始まる。
サイドからのボールを高橋が受け、時計が動き出した。

中村学院のボックスディフェンスは、一クォーター終了時より、わずかに狭くなっている、と柴田は感じる。
中か外か。
どちらを使うか、はっきりは決めずに、まずは外でボールをまわす。
ボックスディフェンスの前二人を左右に動かして揺さぶる。
やっていることは単純で、いつ、そこから次の展開をするか、を考えながらのボール回し。
柴田はどこからのタイミングで自分がシュートを打ちたい、と考えていたが、そうはならなかった。
右サイドにいた柴田が中央の高橋にボールを戻す。
そのボールを単純に逆サイドへ高橋が出すと、あっさりと代わって入った12番にさらわれた。

川島のワンマン速攻。
慌てて高橋が戻り、一対一に近い状況に持っていくが、縦へ動いている中でのディフェンスは難しい。
ゴール下までくらいつていこう、と必死な高橋をあざ笑うかのように、川島はミドルレンジでストップジャンプシュートを決めた。

「高橋! いい加減学習しろ!」

単純な横パスをさらわれてワンマン速攻を喰らうのは、高橋のいつもの悪い癖である。
終盤でないだけまだましだが、それでも、監督して見ていて気分のいいシーンではない。
仮にも、二連覇を狙うチームのスタメンガードがやるようなプレイではなかった。

点差がどうとか考えるような時間帯ではないが、これで同点になった。
富ヶ岡はもう一度セットオフェンスを組み立てなおす。
考え方はボックス相手の四対四。
これは一クォーターと変わらない。
石川はオプションだ。

外三人で速いパスを回す。
ボックスディフェンスの前二人を動かす。
今度はさすがに高橋も気をつけた。
同じミスを毎試合するが、同じ試合で続けてすることは無い。

真ん中で受けた高橋が、空いた中央にドリブルで突っ込んだ。
ボックスがそれを押しつぶすように囲んでくる。
上二人に挟まれる前に突破したが、下二人には止められた。
ただ、これは当然想定のうち。
ディフェンスをひきつけて、右0度に動く柴田へボールを捌く。
しっかりミートしてジャンプシュートを決めた。

「ピックアップ!」

叫んだのは平家。
すばやくマッチアップを捕まえさせる。
いつもは、高い確率で三クォーターに入った時点でやる形。
前から当たってプレッシャーをかける。
それを二クォーターの段階でやってきた。

当たってくるのは後半から。
そういうイメージで多少油断のあった中村学院サイドはエンドからボールを入れられない。
そんな中で冷静に動いたのは川島。
柴田にコースに入られると、手をあげて、エンドでボールを持つ先輩に、裏へ出すように指示した。
ボールは指示通り長めに入れられる。
ただ、当然この形も富ヶ岡は想定していた。
ボールを追ったのは石川。
それでも、川島が一足先に走りながらボールをキャッチする。
前には石川後ろから柴田。
挟まれた状況で、かつ、右サイドライン際。
苦しいところだが、フリーになった是永がフォローした。
川島は石川に脇を通してバウンドパスを送る。
是永がフロントコートで受けて二対一。
自分で勝負、とドリブルで持ち込んでミドルレンジからジャンプシュートを打とうしたら平家がブロックに跳んだので、逆サイドの味方にパスを送る。
フリーで受けてレイアップシュートが決まった。

二クォーターに入る段階で、富ヶ岡としては先に仕掛けたつもりだったのだが、実際には川島を投入した中村学院の動きの方が先立った。
仕掛けたプレスディフェンス自体も、思ったような効果を上げていない。
滝川のように40分間前から当たり続けるのと違い、期間限定のプレスが効きやすいのは、相手が慌てる仕掛けた直後と、ディフェンスを振り切る体力を失った終盤。
この場面では、一本目にうまくかわされ、まだ前半ということでスタミナ面でも問題がなく、中村学院にボールを運ばれてしまう。
基本のディフェンス力は高いので、よく調べてきた相手だけならそれでも捕まえられたのかもしれないが、問題は川島だった。

動きの癖が分からない。
当たられたときに、ドリブル突破を多く選択するのか、パスを好むのか。
ドリブル突破なら、中央サイドを選ぶか、サイドライン際へ向かうか、左手が多い、右手が多い、いろいろとある。
富ヶ岡は今回、中村学院だけはそういった情報をすべて分析して確認してきた。
それらの情報があれば止められるか、といえばそういうものでもないが、ディフェンスする立場として、この子は情報が無い、という意識が、どう動くか分からないという思考になり、対応が後手後手になる。
マッチアップの柴田は、抜き去られないようにという意識が働き、ボールを奪うことは出来ずに、結果としてフロントコートまで中村学院がボールを運ぶことになる。

富ヶ岡はオフェンスもてこずり始めた。
ボックスディフェンスが拡がった。
外三人でボックスの上二人を十分動かしてか、ミドルレンジの柴田で勝負。
この戦術は、それでも可能ではあったのだが、中村学院はそこまで対応してきた。
上二人を動かして柴田をフリーにしたつもりが、ボックスの形を崩しても下からカバーが来て、柴田がフリーでシュートが打てない。
柴田は、ディフェンスの動きはしっかり見ていて、その場合中に張る平家へパスを入れる選択を多くする。
ただ、この平家も思う通りのプレイが出来ていなかった。
相手が強い、というよりは調子が悪い。
まったく点が取れないわけではないが、いつもの平家の得点力が無い。

二クォーターも五分が過ぎると中村学院がはっきりリードし始めた。
30−24
六点差がつくとたとえ前半でも、リードした、リードされた、という意識になる。

エンドから高橋が持ち上がる。
柴田さんも捕まり始めた、平家さんも調子が良くない、だったらここは自分が行くべき? と考えながらも外三人でパスをまわす。
石川と平家が中、先ほどまでの形と変わらない。
柴田が少し内側に入った。
ボールを受けたらそのままジャンプシュートが打てる、という位置。
ディフェンスがよってくれば外に出てボールを受ける。
ボールを戻してまた内側に寄る。
石川は柴田の逆サイドで、是永を背負ってローポストに入ろう、というポジション争いをしているが、ボールサイドを是永に抑えられてボールを受けられない。
その状況から一転、逆サイドへ走り出した。
是永はボールサイドを平行して追う。
石川と是永は肩をぶつけながら動いた。
0度の方向ではなく、少し上の位置を目指す。
先にいたのは柴田。
是永は石川の意図が分かっていたが、対応し切れなかった。
柴田と肩が触れ合うほどの位置で石川はすり抜ける。
平行して走る是永は、そのままでは柴田にぶつかってしまう。
柴田の外側を回りこんで石川を追うが、石川は、直進はしていず、是永から遠い側へ走っていた。
トップの高橋からボールが送られる。
ターンしながらボールを受けた石川、そのままためらわず両手でシュートした。
追いすがる是永がブロックに入ろうとするがとどかない。
右15度あたりの位置からのスリーポイント。
鮮やかに決まって三点差。

富ヶ岡の強みは攻め手が豊富にあること。
柴田と平家がダメでも手詰まりにならない。
状況を見て、エースの石川がここは自分だと勝負しはじめた。
スリーポイントを決めて、相手が是永さんでも自分は通用する、とある程度の自信を持つ。
とはいえ、ある程度通用するであって、圧倒するところまでは行かない。
二クォーター後半は、石川が攻撃の中心として動くが、一人では決めきれない場面が増えてくる。
それをフォローしたのは平家のリバウンド。
自分でボールを持っての勝負は、今日はあまり調子が良くないが、それでもリバウンドのポジションはうまく取れていて、センターとしての役割の一つはしっかりと果たしていた。
お互いの攻撃力が発揮され、前半は41−39と中村学院リードで終える。
インターハイ、国体を含め、今年に入ってからの試合で、富ヶ岡がビハインドを負って前半を終えるのは初めてのことだった。

ハーフタイム。
両チームそれぞれロッカールームに引き上げる。
インターハイは29−25 国体は27−26 どちらも富ヶ岡のリードでハーフタイムを迎えていた。
その二戦と比べ、かなり得点が入っている。

「リバウンドだな」

中村学院控え室。
選手をベンチに座らせて、口を開いたのはコーチ。
こういった展開で、最初に気になるのは大きく点を取られた理由である。

「四番は一対一では負けてないんだけど、リバウンド取られてるからな。前半だけでオフェンスリバウンド四つは取られすぎだろ」

スコアブックを片手にしての言葉。
リバウンドはディフェンスが取ることが普通で、オフェンスが取るのは難しいこと。
その、オフェンスでのリバウンドを前半だけで四つも取ったというのは、平家サイドで見れば上出来だが、中村学院サイドで見れば、前半最大の問題点だった。

「外と中を同時に抑えるのは難しい。だけど、それはある程度出来てるんだよな。後はリバウンド。四番をしっかりスクリーンアウトしろ。ボールが入ることを警戒するだけじゃなくて、外から打ってくる、というイメージも残しとかないと、リバウンドにすぐ入れないからな」

39点中平家が取ったのは十点。
半分以上がオフェンスリバウンドを取ってからの得点だ。
ゴール下でボールをもたれてやられるならまだ諦めがつくが、せっかく相手がシュートを外したのに、それを拾われて点を取られるのは、どうしてももったいないという印象になる。

「オフェンス、是永、基本的には今のままでいいけど、周りもうまく使えよ」
「はい」
「止められてはいないけど、突破しようとしてコースは制限される程度にはついてくるだろ。それで、後ろのカバーと合わせて袋小路に入れられるなよ。その前にパスで捌け」
「はい」

他にも指示がいくつか出る。
大きな変更点もあった。
試合に出ているメンバー同士でも、いろいろと話が出るが、ハーフタイムのミーティングは五分程度で終わった。

「幸、調子いいみたいだね」
「うん、久しぶりだけど意外と動けた」
「何点取った?」
「六点かな」

十分間で六点取れれば上出来といえる。
是永は、前半の二十分間で二十点取っていた。

「オフェンスはいいんだけどさ、やっぱりディフェンスが問題だなあ」
「ずいぶん左右に振られてるよね」
「練習でもよくやった形なんだけどさ。徹底してあればっかりやられると、疲れる」
「九番のミドル、うっとうしいね」
「あれ一枚なら、そっちだけケアすればいいんだけど、12番も外からあるしさあ」
「でも、後半、手は打ったんだし、大丈夫でしょ」
「上はあれでいいけど、下大丈夫なのかなあ?」
「やってみるしかないよ」
「そうだね」

川島と、試合の中身の会話が出来るのが楽しい。
返ってくる答えも、客観的な意見ではなくて、一緒にフロアにいる者の言葉なので、感覚が共有できて心地いい。

「美記も、結構石川さんにてこづってるね」
「石川さんだもん」
「やっぱり持たれると怖い?」
「うん。速いしね。あと、高いんだよね、意外に」
「身長変わらなくない?」
「なんか、跳ぶの。ただのジャンプシュートなのに、ジャンプボールみたいな勢いで跳ぶの。だから、高い。ちょっとずれるとブロックも届かないし。多分、石川さん、そういう飛んだ時の高さの自覚があるから、ブロックも怖がらないで決めてくるんだよね」
「前からそうだった?」
「秋まではそうでもなかったんだけど。跳ぶと高いなあってリバウンドなんかの時は思ったけどね。ジャンプシュートで高いっていうのは今日初めて思った」

身長が変わらなくても、跳躍力の違いがジャンプした時に出る。
女子は、元々の跳躍力が男子よりも低いこともあり、あまり高く飛ばずにシュートになることが多いが、石川は飛んだ時の高さがある。
その最高点でしっかりとボールをリリースされると、ボールコントロールをする必要の無いディフェンスの精一杯のジャンプでも、わずかなタイミングのずれでブロックが出来ない。

「やっぱり持たせないディフェンスになるのかなあ?」
「それが一番だけどね。簡単にはいかないから」
「こっちは、石川さんにやられるのはしかたないけど、他はしっかり抑えるっていうつもりでやらないといけないのかな?」
「私は私で、他にやられるのは仕方ないけど石川さんは抑えるっていうつもりでないといけないけどね」
「お互い様か」
「うん」

周りのフォローまでは出来なくても、自分の仕事はきっちりこなす。
それが、最低限やるべきことではある。

富ヶ岡のロッカーではミーティングが続いていた。
オフェンスは、誤算が無いわけではないが、その部分も予想外にうまく行った部分で補完してなんとかなっている。
問題はディフェンスだ。
前から当たった効果が何も出なかった。
是永美記も抑え切れていない。
代わって入った12番のオフェンス力にてこづっている。
それでも二点差で済んでいるという見方もあるが、負けているという部分も事実ではある。

「石川も、やれば出来るじゃないか。今日は押さえられっぱなしってこともないな」

前半、石川の得点は7点。
目だって多くはないが悪い数字でもない。
五人の中の一人として考えればこれくらいで十分だ。
前半のスコアリーダーは柴田の14点である。

「石川は、勝負するときは空いてる方でしろ。勝負しないときは混んでる方にいろ」

空いているところで勝負、という意味では、他で勝負するときには石川は是永を連れて混んでいる中に消えてもらう方がいい。
ある意味では、石川だけがディフェンスを引きずって動くことが出来る立場なのだ。

「柴田はミドルだけじゃなくてスリーでもいいし、相手ゾーンだけど押さえに来たらカットインしてもいいぞ」
「はい」
「高橋も同じ。ただ、真ん中入って行った時は、基本としてはどこかへ捌け」

高橋相手にも、ゲームを作るだけではなくてフォワードに対する指示と同じレベルを要求している。
どこからでも点が取れるの中に、ポイントガードまで含まれるのも強さである。

「外三人で回して、上二人を動かすのは続けよう。揺さぶってからが勝負な。ただ、アーリーで行けそうなときは、セットでのその形にこだわらずにアーリーで決めちゃえよ」

一つ約束事を決めると、その約束事に固執してしまう部分が高橋にはある。
速攻が出せれば速攻、速攻崩れだけどまだ相手のディフェンスがそろっていないというような場面で早めに決めに行くアーリーオフェンスという選択も忘れるなよ、としっかり頭に入れさせる。

「後は、ディフェンスだな」

先に、39得点とそれなりにうまく行っているオフェンスの方の指示を出した。
それから、周りの表情を見ながら、問題の多そうな方の指示を出す。
和田コーチの視線は石川と柴田に向いていた。

「石川。ボールをもたれたら、あっさり抜かれなければそれでいい。抜かれてもしつこくついていけ。コースだけは制限しろ。ウィークサイドに追い込めれば一番だけど、ストロングサイドに入られても半分は抑えろよ」
「はい」

ウィークサイドはエンドライン側、ストロングサイドはコート中央側。
全面的に押さえるのは難しいので、抜かれることを前提で、その中での優先順位を決める。

「後半はゾーンプレスは敷かないけど、柴田。12番はスリークォーターから当たっておけ」
「はい」
「あれはボール運び要員というか、オフェンス要員だろう。少し圧力かけろ。スタメンじゃないってことは、何らかの欠陥があるってことだ。それはディフェンスなのかもしれないし、スタミナなのかもしれないし。前から当たればスタミナ面で削れるだろ。圧力かける雰囲気だけでいい。柴田が体力消費しない程度にな」
「はい」

滝川戦で高橋がやられたことの逆である。
あれは40分当たられ続けたという条件であるが、そこまでしなくても体力面が欠陥だとしたらある程度のダメージを与えられるだろうという計算がある。
スリークォーターは、文字通り前四分の三の位置のこと。
ハーフコートディフェンスだけでなく、ボールを運ぶ段階から圧力をかけたい時にある指示である。

全体でのミーティングを終えベンチに戻る道すがら、和田コーチは平家を呼び止めて他のメンバーから離れたところで聞いた。

「足は大丈夫か?」
「大丈夫ですよ」
「一対一でスピードが死んでるように見えるのは気のせいか?」
「気のせいですよ。リバウンドしっかり取ってるじゃないですか」
「あれは、感覚で位置取りしてるから取れてるのと違うか?」
「そんな甘い相手じゃないですよ」

前日の準決勝での負傷。
最終盤に試合に復帰してたし、テーピングがやたら厳重ではあるけれどまあ大丈夫なんだろうと周りのメンバーは思っている。
実際には、大丈夫というものでもなかった。
記者たちの取材という理由でチームを離れたが、本当の取材は一件だけで、後の時間は地元まで戻ってかかりつけの病院へ行っていた。
常識的には止めた方がいい、というのが医者の見立て。
和田コーチは付き添っていたのでその診断はしっかり知っている。
それでも試合に使っているのは、足が折れても出たいという平家の主張もあるし、チームリーダーとして決勝の舞台には必要だという現状もある。
考え方によっては、たかが高校生の試合。
平家の将来を考えれば無理はさせたくない。
出来ればベンチに戻したいというのも和田コーチの思いとしてはある。
攻撃の中心を柴田にしたり、全体ミーティングで平家に対しては具体的指示を出さなかったりと、配慮はしているが、それはそれとして、迷いがある。
このまま使っていいのか?
無理、といってもらえれば決断も出来るのだが、最後の試合だから出たいという思いを断ち切ってまでベンチに下げる非情さが持てない。

「痛みが出たらすぐ言えよ」
「分かってますよ」

地元の病院には、実は今朝も行っていた。
首都圏の始発電車も動いてない時間。
タクシーでの往復。
痛み止めの注射を打ってもらっていた。
朝の散歩の時間までに戻ってきて、先にちょっと外歩いてた、という理由を語らせて合流している。
メンバーからは、そんな余計に歩いて足平気なんですか? という問いは出ていたけれど、それ以上に突っ込んだことは誰にも聞かれなかった。

ベンチに戻るとレフリーがちょうど三分前を告げる笛を吹いていた。
コートは空いている。
ボールを持って柴田はコートに入る。
石川も横に並んだ。
なんとなくミドルレンジからのシュート。
一万人の観衆が見ていようと、あまり気にせずリラックスした感じで体を慣らす。

「これくらい試合でも入ればいいのにね」
「いいのにねじゃなくて決めてよ」
「梨華ちゃんに正しい突っ込みされるなんてちょっとショックだな」
「どういう意味よー」

決勝の舞台でベンチ入りしているのは六度目。
スタメンとして決勝に出るのも石川は五度目、柴田でも三度目である。
大きな舞台ということや、観衆の数がすごいということくらいにはもう慣れた。
一万人の視線の真ん中で、のんびり日常会話だって出来る。

「リバウンドに頼ってちゃ危ないんだよね。分かってるよ」
「私も、人のことは言えないけどさ」
「是永さん相手ならあれくらいで十分じゃない?」
「オフェンスはいいけど、点取られすぎ」
「後半も、ばてるとか期待できる相手じゃないからね」
「分かってるよ」
「難しいけど、フェイスでもボールの位置掴んでおかないと、面取られて、そこにボールまわってくるからね」
「うん」

是永のマークにつくのは、石川よりも柴田の方が多く経験している。
国体の時は40分間柴田がついたし、インターハイも、石川じゃ手に負えないと後半からは柴田が付いていた。
他からの得点比率が多いので、インターハイの時よりも石川が健闘しているように見えるが、実際に取られた点数は今日の方が多い。
国体の時の前半の是永よりも今日の方が得点は多いのだ。
石川はそれが気に入らない。

「梨華ちゃん、ディフェンスそんなに悪くないと思うよ」
「うん・・・」
「ボール持たれたら一人で押さえようとしないで。後ろにカバーがいる前提で動く。分かってるよね?」
「分かってるよ。分かってる。一人でどうにか出来る相手じゃないって。でも、なんか、それじゃむかつくのも事実でさ。私は、是永美記ちゃんに、まだ負けてるんだなって。前半で思った」
「そんなことないって」
「いいよ、なぐさめたりとかしないで。事実として、私は是永美記ちゃんに負けてる。だけど、それでも出来ることをやる。それは忘れてないから大丈夫。一人で暴走したりしない。勝手にネガって集中力なくしたりしない。大丈夫」

石川はそう言って、一本ジャンプシュートを決める。
柴田はそのとなりで自分もジャンプシュートを打ち、しっかり決めた。
ゴール下まで歩いて行ってボールを二つ拾い、一つを自分に向かって投げる石川に言った。

「梨華ちゃん、強くなったね」
「そうでもないよ」

レフリーが一分前の笛を鳴らす。
ベンチに戻っていく石川の背中を見て柴田は思った。
成長速度で負けてるかな。
ふと、中村学院ベンチに目を向けると、是永と視線がぶつかった。
向こうがその視線をすぐに外したので、自分も外して、ベンチに戻った。

第三クォーター。
中村学院ボールでスタートする。
マッチアップは前半ラストと変わらない。
外で展開して様子を伺う。
是永は石川とローポスト付近でスペースを確保しようとやり合っているが、やがて外に出てきた。
そこにトップからパスが降りてくる。
受けた時点でフェイクもなしにドリブル開始。
エンドライン側に突っ込んでいくのに石川は付いていく。
ゴール下、平家もカバーで囲い込むような状況を狙うが、是永は外に手を回しバウンドパスで平家の横を抜いた。
逆サイド、センターがボールを受けてジャンプシュートを決めた。
四点差。

富ヶ岡は高橋がボールを持ち上がる。
是永が石川についたボックスワン。
後半も変わらないだろう、と思ったが、なんだか違った。
トップに入った自分の目の前に人がいる。
右を見る。
左を見る。
ディフェンスがいる。
ディフェンスがいる。
おかしい。

「ディフェンス変わった!」

声を出したのは柴田だった。

マンマーク?
なんだ?
高橋はドリブルでキープ。
右にも左にも味方のそばにディフェンスがいる。
ゴール下に入る平家のそばにもディフェンスがいる。
状況判断。
相手のディフェンスはなんだ?

「ディフェンス変わった! ダイヤモンド! ダイヤモンド!」

今度はベンチから声が飛んだ。
ダイヤモンド。
そういわれれば高橋も理解する。
とりあえず、右サイドの柴田へパスを送ったが、その後どうしたらいいのかいまいち分からなかった。

ダイヤモンド。
ディフェンスの位置取りが、前から1−2−1の順に並ぶ。
ひし形に見える形で、そのひし形から派生してダイヤモンドという呼び名になった。
ゾーンの部分がダイヤモンドで、余った一人がマンマークにつくから、名称としてはダイヤモンドワン、となる。
ボックスワンからダイヤモンドワンへの変化。
ボックスは、前二人後ろ二人の形だったのが、1−2−1になったことで大分状況は変わった。

富ヶ岡の前半のオフェンスは、三人で広がってパスを早く動かし、ボックスディフェンスの二人を動かして、付いてこれなくなったところでシュート、というもの。
ハーフタイムのミーティングでは、後半もこれで行こうというのが約束事だった。
この戦術は、相手がダイヤモンドゾーンだと機能しない。
富ヶ岡の三人が速いパス回しをしても、それに対応するディフェンスは、ダイヤモンドの場合前の1と2で三人いる。
ボックスのように二人を左右に動かして揺さぶる、ということが出来ない。
三人でパスをまわして、それに対処するディフェンスが三人いるのだ。
ボールが動いても、オフェンスが動かずそこにいれば、三対三なのでディフェンスも動く必要が無い。
だから、何の揺さぶりにもならないのだ。

高橋は、ポイントガードではあるが、福田のように理論派でバスケ知識が豊富というわけでもなく、藤本のように経験でいろいろ知っているということも無い。
相手がこういうゾーンを敷いてきたら、理屈としてこう崩せばいい、というのをあまりちゃんと分かっていない。
中村学院はボックスワン、その固定概念があったので、そこから変化した相手の対処法など、前日ミーティングでも決めていない。
変化した姿がマンツーマンとかだったら常識で考えればそれでいいが、ダイヤモンドワンなどというディフェンスを目の当たりにするのは初めてのこと。
こういうときに高橋が持つ武器は何か?
直感しかない。

戸惑いはしたが、すぐに攻め手は決まっていた。
外三人でつなぐ。
動きは無いように見えるが、それは外三人だけのこと。
石川と是永は相変わらず激しくやり合っている。
石川も、相手がダイヤモンドワンになって、ハーフタイムの指示、勝負しないときは混んでるところにいろ、の混んでいるところをどこととらえれば良いか迷っている。
そのせいで、高橋の直感によるここが攻め手、というのをなかなか使えないでいたが、石川が邪魔なところから離れた。

トップの高橋から0度で少し開いた平家へ一本でパスを落とす。
ボックスゾーンなら、下に二人いるが、ダイヤモンドだと一人しかいない。
見た目に広くなったところ。
それはゴール下。

平家も、こんなあまり見覚えの無いゾーンの崩し方を理論的には知らなかったが、その場に立てばどこがポイントかはすぐに分かった。
ポイントは自分である。
それと同時に、多少の怒りもあった。
ボックスゾーンを後半になってわざわざダイヤモンドに変えたというのは、自分のことは一人で十分とみなされた、という理解である。
確かに前半、リバウンドは取ったが自分がボールを持ってのプレイは良くなかった。
それを踏まえた上で、後半になってディフェンスシステムを変えられて、平家は思う。
なめやがってふざけんな。

高橋からのボールを受けて、そのままフェイドアウェー気味にジャンプシュート。
これがリング手前に当たり、リバウンドは中村学院に拾われた。

嫌な流れだ、と和田コーチは思っていた。
前半、先に仕掛けようと思ってゾーンプレスをかけたら、それより先に中村学院に動かれて、情報の無い12番を抑え切れなかった。
後半、アウトサイドで揺さぶりをかけつづければ、オフェンス面は大丈夫だろうと思っていたら、ディフェンスシステムを変えられた。
どうも、中村学院が先手先手で動くのだ。
それでもリードしていればいいのだが、わずかではあるがビハインドを負った状態。
さらに、不安点まで抱えている。
明確に劣勢を感じるのは久しぶりのことだ。

中村学院のダイヤモンドワンは非常によく機能した。
富ヶ岡の外三人がフリーでシュートを打てなくなった。
石川と是永のところは、やはり勝ちきるまで行かない。
ディフェンスシステムからして、当然攻撃の中心としたいのは平家のところ。
しかしながら、ここで点が取れない。

ただ、富ヶ岡のディフェンスも頑張った。
是永を封じ込めることは出来ないが、フリーに近い状況でのシュート、というシチュエーションは作らせない。
是永が捌いた先でシュートが打たれる。
これは、少し確率が落ちる。
攻撃力がある、というポイントで持って投入されている川島も、慣れてきた柴田が自由にプレイはさせない。

三クォーター三分過ぎ。
川島のスリーポイントシュートがリングで大きく弾かれ、こぼれた先にたまたまいた是永が拾いそのまま打ったシュートが決まって50−45
ここで富ヶ岡ベンチがタイムアウトを取った。

「石川、相手のディフェンス変わってるんだからな、分かってるか?」
「今度は中のほうが広いでいいんですよね?」
「そうだ。ハイポスト入ってきても意味ないけど、ローポストで面を取ればボールは受けられるから、そこから勝負してみろ」
「先生」
「石川、分かるな」
「先生」

石川への指示を出す和田コーチの言葉に、平家が割って入る。
石川は、どちらにもなんとも答えられず戸惑った顔をしている。

「ちょっと待てって平家」
「ここは私で勝負です。違いますか?」
「違いやせんけど、石川でもいいだろ。今度はインサイドの方が広いって前提でそこで勝負させれば」
「違います。石川も外に出て、ゴール下は私一人で勝負。それが本来一番いいはずじゃないんですか?」

柴田は、平家の言葉を聞いていて、そうだよな、と思った。
普通に考えれば、石川に是永と勝負させるよりは、平家にボールを預けた方が、ゴール下があれだけ広くなっている状況なら確率は高い。
ただ、今日の平家は、後半に入ってからもそうであるが、調子が悪すぎる。
そういう意味で、平家より石川を選んで攻撃の中心にしようと和田コーチが言っているように一見見えるけど、それだけじゃないんだなきっと、と柴田は感じ取っていた。
他のメンバーは気づいていないのかもしれないから口に出しては言わない。
だけど、多分、平家さんは、昨日の怪我は大丈夫じゃなかったっぽい。
先生はそれを知っているからこういう指示になっているっぽい。
そう考えた時、ここでどんな選択をするのが正しいのか、それが思い浮かばないので口を挟めない。

「高橋、三本外したのは悪かったけど、次は決めるからボール入れて」

そう言われても、今までのやり取りを見ていて高橋は、はいとは言えない。
和田コーチと平家と、さらに石川の表情と、次々に伺う。

「平家。我を通してる場合か。冷静になれ」
「先生も冷静になってください。あのディフェンスは、どう考えても私のところが一番点が取りやすいです。違いますか?」
「違わない、違わないけど」
「だったら、私に任せてください」

平家の迫力に、和田コーチも黙り込む。
答えを求める平家の目、高橋の目、石川の目。
それぞれ見てから、和田コーチは口を開いた。

「好きにしろ」

平家さんのフォローは自分がしよう、と柴田は思った。

両チームフロアに戻る。
富ヶ岡エンドからゲーム再開。
タイムアウトがあけても、当然中村学院ディフェンスは変わっていない。
石川はただ立っているだけでも是永がぴたりと張り付いている。

やるべきことは決まっていた。
タイミングを見て平家へボールを入れる。
もちろん、外が空いていれば外から打ってもいいのだが、そういう状況にはならない。
トップの高橋から、ローポストあたりでボールを入れろと左手で示している平家へパスが送られる。
ディフェンスは対応するが、かまわずジャンプシュートを打つ。
シュートは、やや力が入ったか長めになる。
逆サイド、柴田が外から走りこんで、リバウンドが落ちてくるのを待っている川島の伸ばす手の上からボールをさらった。
着地して、そのままジャンプしなおしてシュートを決める。

「リバウンドはスクリーンアウトしっかりしろ!」

後半のディフェンスは自分のベンチサイドになる。
目の前の川島のプレイにベンチから声が飛んだ。
普段はボックスゾーンの上側で、あまりリバウンドに入らない川島、しっかりスクリーンアウトするという癖が身に付いていない。

中村学院のオフェンス。
柴田は川島にスリークォーターの位置からつくのだが、そうしたら後半は最初の一本目以外は、川島がボールを運ばなくなった。
一人だけ前から付かれるのなら、他で運べばそれでいい、という至極当たり前の対応だ。
全体で前から当たるわけではないので、特に問題なくフロントコートまで上がってくる。

展開されて展開されて、最終的にはローポストで石川を背負う是永へ。
ボールを受けてすぐにスピンターンしてドリブル入れてもぐりこもうとしたところ、石川が思わず手を出した。
笛が鳴ってファウル。
前半の一つと合わせて石川のファウルは二つ目。
まだ、ファウルトラブルというには余裕のある数で、特に問題は無い。
レフリーがテーブルオフィシャルに伝達する小さな間が出来たので、柴田は平家に声をかけた。

「平家さん、踏み込んでみたらどうですか?」
「踏み込む?」
「ジャンプシュート調子悪いみたいだから、ゴール下まで踏み込んでみたらどうかなと思って。シュート入ってないだけで、別に向こうのディフェンスが怖いわけじゃないじゃないですか。たぶん、止められるってことは無いと思うんですよ。ゴール下まで入っちゃえばシュート外すってことも無いだろうし」
「そうか。そうだな」
「足が大丈夫なら、ですけど」
「そんな心配要らないって」
「ならいいですけど」

柴田は言ってから思ったのだ。
ターンしてシュート、みたいな軽いプレイが多いのは足が痛いからじゃないかと。
足が痛いんじゃないか、と気づいていたのに、そこまで考えが及ばなかった自分が、ちょっと浅はかだとも思った。

もう一度ディフェンス。
エンドから、0度に開いた川島にパスが入る。
ゴール下もケアしながらのディフェンスだった柴田は少し距離がある。
受けた川島は、スリーポイントラインを踏んだ形で、そのままシュートを打つ。
なんとなく、打ってきそうだと感じていた柴田は、遠めの位置からブロックに跳んだら、しっかりと当たった。
柴田の手に当たって勢いが死んだボールは、そのまま手元に落ちてくる。
キャッチして、速攻への展開はせずにディフェンスが戻るまで確保した。

相手が前から当たってこないので、ボールを受けた高橋はゆっくりもちあがる。
チームとしての怖さは別として、ポイントガードとしての高橋個人では、今日よりも滝川戦の方がずっとつらかったと思っている。
ボールを運ぶ時の障害が何もないのが大きい。
スタミナ面で疲弊せずに済むのだ。

目の前にはトライアングルゾーン。
上三人でつないでっディフェンスを動かす戦術は破綻している。
タイムアウトでの決定を考えるまでもなく、ゴール下というのが一番攻めやすいところなのは感じていた。
だけど、さっきも外した。
柴田がリバウンドを拾ったから点は取れたけれど、ジャンプシュート自体は外した。
高橋は、どうも平家自体があまり信用できない。

ゴール下は広く開いていた。
三秒エリアの中にいるのは平家と相手ディフェンスの二人だけ。
強いセンターがいるなら、そこにパスを入れる。
だけど、高橋は入れなかった。
外三人は、単純にパスを回すだけではなく、ポジションを代えながらという形に後半はなっていた。
高橋も、常にトップにいるわけではなく、サイドにも動く。
その、同じ側のサイドに石川がゴール下から抜けてきた。
是永をひきづっているが、パスは入れられる状態。
そこに高橋はパスを落とす。
高橋が一番信頼しているのは、石川先輩だ。
マッチアップが是永だろうと関係ない。

ボールを受けた石川。
受け方が悪く、腰高な状態になり、かつ低い姿勢で是永に張り付かれている。
シュートモーションも作れないし、ドリブル突破を計れる姿勢でもない。
石川が選択したのはパスだった。
ローポスト、平家が受けに来る。
是永の頭の上をパスで通した。

この試合何度か合った状況。
ローポストでディフェンスを背負ってボールを受けた平家。
ゴール下は一枚だけ。
先ほどまでと同じように、ターンしてシュートという動きを見せた。
ディフェンスはブロックに跳ぶ素振りを見せる。
その、重心が上ずったところでドリブルで平家は移動する。
ゴール下、重心が浮いたディフェンスも、遅れて付いてくるが平家はそこからさらに一歩踏み込んで、ゴール下、左手でレイアップシュートを決めた。

ようやく平家らしいプレイでの得点。
これで一点差。

中村学院のオフェンス。
是永にボールを入れられない。
石川がしっかり付いていた。
もう一つの攻め手。
ベンチで打ち合わせたわけではないけれど、チームの中でなんとなくここかな、という雰囲気が出来てきていた。
是永がダメなら川島へ。
相手が情報を持っていない、前半いい感じだった、元々オフェンスの方が得意。
周りの三年生が頼りたくなる条件がそろっている。
ここでも、是永に入れられない状況で川島へボールが渡る。

三クォーターも半ば。
前半と合わせて15分ほど相手してきて、柴田も少し分かってきた。
この子のやることはシンプルだ。
前半、情報が無いということで警戒していて、動きが後手を踏むことが多かった。
後手を踏む理由は、頭で考えて分かった。
この子はフェイクをかけてこない。
フェイクを警戒していると、それなしで行動されるので遅れるのだ。
さっきもボールを受けてシンプルにシュートで、こちらがためらわずブロックに跳んだら当たった。
行動原理を修正する。

ボールを受けた川島は、そのままの流れでドリブルで突っ込んできた。
柴田は、ごく自然にその流れに対処した。
ボールの受け方でドリブルかシュートかは分かる。
その受け方が全部フェイクで実はジャンプシュート、みたいなことを警戒していたのだがそれは捨てた。
コースの正面にしっかりと入ると、川島は対応できずにそのまま体当たりになった。
もつれ合って倒れて笛が鳴る。
川島のオフェンスファウル。

先に動いた中村学院の目論見を、一つ一つ潰しはじめた。
初見の12番もなんとなく分かってきた。
ダイヤモンドワンも崩し方は分かっている。
後は、着実に結果を残すのみ。
一点差、ここからが勝負というところ。

高橋が持ち上がる。
石川にボールを入れたいが、是永が張り付いて離れない。
ゴール下広いんだからそっちで勝負すればいいのに、と高橋は思うが、石川は基本的に外に位置どった。
高橋が石川を信頼するように、石川も平家を信頼している。
石川だってバカじゃない、柴田ほど早くは無いが、少なくともさっきのタイムアウトの時のやり取りで、平家の足は大丈夫じゃないことくらい感じ取っていた。
それでも、平家さんがやると言ったならやってくれる。
そう、思っている。
この場面、相手の形を考えれば、勝負するべきは自分のところではない。
ゴール下、力のあるセンター。
自分の役割は、それを補佐すること。
そう、思っている。

ここのオフェンス、結果的には右サイドの柴田からボールが入る形になった。
またしてもローポストの平家みちよ。
今度はジャンプシュートのフェイクも見せなかった。
ターンしてゴール下へ踏み込んでいく。
痛めている右足を軸にターンして、さらに踏み込んでのゴール下。
一対一の勝負をしたら負けない。
ミドルからのシュートは外れても、ゴール下まで踏み込めば外さない。
51−50 富ヶ岡が逆転する。

足が痛いを考えず、無かったことにしてプレイし始めた平家のゴール下での強さは圧倒的だった。
一対一ではまったく止まらない。
一対一で止める必要は無い、というのが大雑把なゾーンディフェンスの考え方だが、このシステムだとそうもいかない。
ダイヤモンドゾーンのゴール下は、カバーしてくれる人が誰もいないのだ。
ボックスなら、まだ、逆サイドの一人がカバーしてくれて、一対二という形になれる。
それがまったくいないので、ただ単純なゴール下の一対一、ということにさせられる。
外三人に対処するためには、ボックスゾーンよりもこのダイヤモンドの方がよく、前半の平家を見たときに、これでもゴール下は大丈夫、との判断があったのだが、甘かった。
オフェンス面で是永が奮闘し、何とか離されずにいるが、ディフェンスはゾーンの機能が死んでいた。
ダイヤモンドの真ん中の二人が、自分の判断で位置を下げ、ゴール下のケアを始めたところで中村学院ベンチがタイムアウトを取った。

「ゴール下、全部私にボール入れてくれれば何とかするから」

戻ってきた平家が開口一番言う。
57−56
一点リードで三クォーター残り三分弱。
ここのところの得点は全部平家が上げている。

「そう、甘くは無いだろ」

口を挟んだのは和田コーチ。
正面に座る平家の顔、次に足元を見て言う。

「あれだけゴール下決めれば、普通はダイヤモンドゾーンは捨てる。いまさらマンツーってことも無いだろうから、ボックスゾーンに戻すだろ。そうしたら、平家。今みたいに一人を相手にするだけじゃないからな。ゴール下に踏み込んでいったらもう一人いるってことだぞ」
「分かってますよ。それでも、一対二になっても決めてきますよ」
「決めてこれるかもしれないけど、捌くことも考えろ。あと、上の三人も、ボックスゾーンに向こうが戻したら、速いパスでまわして上二人を揺さぶるは、また有効だからな」
「はい」

先ほどのタイムアウトからここまでの間のゲーム展開は申し分なかった。
和田コーチが心配するのは平家の足だ。
今日の試合、最後まで持つかどうか、それだけではなく、この先の将来に影響を与えるようなことが無いかどうか。
本当は下げたい。
だけど、この展開で平家を下げたら、誰が点を取るのか、それ以上に誰がリーダーシップを取るのか。
迷いがある。
迷いを抱える自分への不機嫌さも、なんとなく口調に出ていた。

「石川」
「はい」
「ディフェンスはあれでいい。ファウルがかさむことだけはするな。あとはいい」
「はい」

石川には、どこまで期待すればいいのか、それも計りかねていた。

ゲーム再開。
中村学院のエンドから。
簡単に持ち上がってセットオフェンスになる。
ここでは、外でまわった後、川島にボールが渡った。
シンプルにドリブルで突っ込むと、柴田に正面に立ちはだかられる。
そのままではオフェンスファウルになるので、正面突破をあきらめ止まる。
ボールを奪われないようにして、ターンしトップに戻す。

川島は、一応確かめてみたけれど、やっぱりバレタっぽいなと感じていた。
自分の情報を相手が持っていないということを自覚してここまでやってきた。
二クォーターでのマッチアップの相手の動きを見て、警戒感が強いタイプだなと思った。
だから、フェイクなしで動くのが逆にフェイクになっていいだろう、とここまでやってきた。
フェイクをかけない、というのは、実は川島のプレイの癖というわけではない。
意識してそう振舞ってきたこと。
どこかのタイミングで、そこを修正してもう一度仕掛けよう、と思う。

ここのオフェンスは結局、是永に入れようとしたボールが甘くなり、石川に奪われた。

ターンオーバー。
速い攻めにしたいところだが、パスの出し先を見つける前に是永に当たられた。
ピボットしてキープ。
これでスローダウンさせられ、中村学院ディフェンスは一斉に戻る。
速攻は無理という状況になり、横に降りてきた高橋にバウンドパスを送る。
石川はそのまま是永を連れて上がって行き、高橋はゆっくりと持ち上がった。

「ディフェンス変わったよ!」

声を出したのは柴田。
タイムアウト時に和田コーチの指摘が合ったとおり。
中村学院ディフェンスはダイヤモンドワンを捨て、ボックスワンへと戻している。
後半開始時と違い、まったく予想外という出来事ではないので、富ヶ岡のメンバーたちも落ち着いている。

上三人で速いパスを回してディフェンスを揺さぶる。
前半の形に戻った。
ゴール下の平家はポジション争い。
ディフェンスとしては、二人で挟み込んで平家へのパスコースを消したい。
平家は、ディフェンスの一人を背負って、ターンすればそのままシュートが打てるローポストのポジションを確保したい。
そのやりとりを横目に見ながら上三人はパスを回す。

石川は妙な位置にいた。
ボックスの真ん中、フリースローラインあたり。
是永はボールサイドに立っている。
石川自身が勝負するのは難しい位置取りだが、一応意味はあった。
まず、外側にあるスペースの邪魔をしない。
ボールサイドに是永が立ったら、裏に当たるゴール側をゾーンの一人がケアをせざるを得ないこと。
それによって、平家に対して本格的に二人がつく、という状況にしないこと。
自分が勝負する場面じゃない、という見立てだ。

平家はゴール下のポジションが確保できずに外に出てきた。
そこに柴田がボールを落とす。
センターが打つにはやや遠目といえる位置。
平家は、ドリブル突破が警戒されているのを分かっていながら、ドリブルで切れ込んだ。
エンドライン側、右手でドリブルをつく。
対応して付いてくるディフェンスを軸にするようにしてバックターン。
ゴール下に入り込んでそのまま流れるようにしてジャンプする。
ボードにしっかりと当ててシュートを決めた。
流れた体は着地で支えきれず、そのまま横に一回転した。

回転した勢いのまま立ち上がった平家は、そばにいた石川を見つけ思い切り力をこめたハイタッチをする。
両手を当てられた石川がよろめくくらいの勢いで。
三クォーター、残り三分を切って三点差。

「ディフェンス!」

平家が両手をたたいて叫ぶ。

中村学院としては嫌な流れになってきた。
不調だった相手キャプテンの連続得点。
やけに気合いも入っている。
ここで飲まれると一気に離されかねない。
こういうときに頼りたいのはどうしても是永になる。

石川も、そういう試合の空気というものが最近はちゃんと読み取れるようになってきた。
そこは高橋とは違う。
是永にボールを入れさせない。
ただ是永を見ているだけでなく、しっかりボールの位置を把握して、ボールサイドに入る。
是永は、そんな石川を無理に外そうとはせずに、裏で受けようと狙っていた。
0度の位置、石川の頭越しにパスが入れられてくる。
うまくゴール下に入れたはずだったが、逆サイドにいたはずの平家が、一足速く飛びついてそのボールを奪った。

ひじを張ってボールを抱えてキープ。
中村学院ディフェンスが戻っていくのを確認する。
障害がなくなったところで、受けに来た高橋にボールを預けた。

持ち上がって同じ形。
上三人で回す。
ボックス相手には徹底してこの形。
隙あらば外からスリーポイント。
それを見せながらのパス回し。
ただ、柴田の頭には他のことがあった。
タイミングを見て平家さんへ。
今なら、ボールを預ければ全部決めてくれる。
そんな気が、柴田はしている。

ボックスの上二人が揺さぶられる。
三対二にされることの弱さは把握済みなので、練習は積んでいるのだが、それでも対応しきれない。
自分サイドにいた川島が追いかけ切れていないと見て取った柴田は、ボールを高橋に戻さずにドリブルで切れ込む。
中からカバーが来た。
中央ゴール下の平家へバウンドパスを入れる。
逆側のディフェンスがそれを押さえようと間に入ってくるが、それを背中に背負うようにして体を入れ替え、バックシュートの形でゴールにねじ込んだ。

連続得点で五点差。
得点が止まってしまった中村学院はそろそろ何とかしたい。
すばやく動いたのはやはり是永。
バックコートの段階でボールを受ける。
そんな早い段階で仕掛けてくると思っていなかった石川、後手を踏んだ。
ワンフェイクだけでさっくりかわされる。
後はスピードに乗ったドリブルで、カバーに来るディフェンスを寄せ付けなかった。
一人で持ち込んでレイアップで決める。
三点差に戻す。

富ヶ岡は外でまわして、外主体のようでいて、実際には平家が一人で点を取っているというのがここ数分の流れ。
中村学院も当然それを分かっていたが、どうにも対応できなかった。
ある意味では、一対一では止められないからゾーンディフェンスなのだ。
ゴール下で一対一になられたら対処しきれない。

「はい! はい!」

ディフェンスを背負ってローポスト、平家がボールを呼ぶ。
柴田は単純にバウンドパスを入れた。
ターンして踏み込んで、シュートフェイクを入れてディフェンスを飛ばす。
もう一歩奥まで踏み込んで跳んだら、逆サイドのディフェンスがブロックに入った。
接触しながらゴール下、強引にねじ込む。
笛が鳴り、ボールはリングを通過し、平家は仰向けに倒れた。

「平家さん」

レフリーがファウルのコールをしている。
仰向けのままでいる平家の元にメンバーが駆け寄った。

「カウント?」
「そうですけど、大丈夫なんですか?」

ファウルを受けてもシュートがそのまま入ればバスケットカウントで、二点は加算される。
略してカウント。
平家は体を起こし、体育座りのような格好になった後、柴田に差し出された手を掴んで立ち上がった。

「残り一分弱、集中な」
「はい」

フリースローレーンに平家はゆっくりと歩いていく。
その背中に、なにやら不安を感じながら柴田はリバウンドポジションに入る。
ワンスロー。
ゆっくりとしたモーションから打たれたシュートは、リング手前にあたって落ちた。

リバウンドは中村学院が拾った。
富ヶ岡ディフェンスは一斉に戻ろうとする。
戻れなかったのは平家。
走り出そうとして二歩目、加速は出来ずにそのまま崩れ落ちた。

五対四。
富ヶ岡の四人はディフェンスで相手ゴール側に顔を向けているので、平家の姿は見えている。
そんな状況では、動揺してしまってディフェンスどころではなかった。
平家のいる側には背を向けていて、状況をいまいち把握していない中村学院オフェンスに簡単に崩される。
シュートが決まり、富ヶ岡ボールになったところでレフリーが笛を鳴らし時計を止めた。

「平家さん!」

メンバーはボールそっちのけで駆け寄っていく。
平家は一度倒れてからも何度か立ち上がろうとし、それでもダメで這うようにしてディフェンスに戻ろうとしていた。
レフリーが時計を止めたのを確認してから、力尽きて右の足首を押さえ床に座り込んだ。

「担架! 担架!」
「無いってそんなの」
「しゃべれるんですか! 大丈夫なんですか!」
「落ち着けって石川。足痛いだけで、別に意識はなんとも無いんだから」

ベンチからレフリーに要請して、控えメンバーをコートに入れる。
その入ってきた二人が平家の肩を担ぐようにして立ち上がらせた。

「最後まで行こうと思ったんだけど、持たなかった。後、頼むは」
「平家さん」
「そんな、不安そうな顔しないでよ」
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫だったら続けるって。あー、やぶ医者。痛み止め最後まで効かないじゃんか」

支えられて立ち上がった平家は、その状態で一息つく。
取り囲むようにしているメンバーたちに、メッセージを告げた。

「余計な心配しないで、自分たちを信じていれば勝てるから。最後まで戦いな」

平家は肩を借りて片足だけつきながらベンチに下がっていく。
代わりの二年生センターへの交代を、和田コーチがオフィシャルに告げていた。
リーダーがいれば、メンバー集めて簡易ミーティングを出来る程度の時間がある間。
富ヶ岡のメンバー達は、レフリーにゲームの再開を促されるまで、ただ、去っていく平家の背中を見ていた。

富ヶ岡エンドからの再開。
第三クォーターは残り三十七秒。
とりあえず、高橋がボールを受けていつものように持ち上がる。

「ディフェンス変わってるよ!」

声はベンチから飛んだ。
中村学院ディフェンスがまた変わった。
ボックスワンからダイヤモンドワンへ。
平家がベンチに下がったのなら、ゴール下は一枚で十分。
そう判断し、先ほどの間でベンチから指示が出ていた。

富ヶ岡はここまでの惰性で上三人でボールを回す。
後半に入ってすぐと同じだが、ダイヤモンドなら、上三人のオフェンスに、ディフェンスも三人いるので、ボールが動くだけでは揺さぶられない。
キャプテンが退場してどうしたらいいんだろう。
一年生の高橋は、三年生がいなくなっても、頼れる二年生がいた。
一番信じる石川先輩にパスを入れる。
二年生の石川、頼れる先輩はもういない。
ボールを受けられたので、勝負してみたがミドルレンジからのジャンプシュートをしっかりとブロックされた。

こぼれたボールを中村学院が拾う。
速攻にはならなかった。
富ヶ岡はさすがにすばやく戻る。
うろたえていても体は動きを覚えている。
ただ、反射的に戻ることで速攻は防げるが、じっくりセットオフェンスを組まれると、考える余裕が多少ある分、余計な思考も混ざって抑えきれない。
川島が外へ受けに行くという動きを見せて柴田を引っ掛けて、逆に裏を回ってゴール下。
トップからパスがきれいに通ってレイアップシュートを決める。

富ヶ岡は残り時間に攻めきれず、そのまま第三クォーターを終えた。
63−62
富ヶ岡がかろうじて一点リード。

クォーター間は二分間のインターバルがある。
和田コーチは、まずメンバーを落ち着かせようとした。

「後十分だ。おまえら、これまできつい試合は何度も戦ってきただろ。決勝も何度目だ? いつもの通りやってみろ。余計なこと考えなくていい。普通にやればいい」

コートに出ている五人が座り、それを取り囲むように和田コーチと控えメンバーが立っている。
平家も仲間の肩を借りて五人と向かい合う位置に立っている。
和田コーチの言葉への反応が薄いメンバーたちに、平家が語りかけた。

「たった十分だよ。石川、柴田。たった十分早くなっただけ。後十分。試合が終われば私はそこで引退して、あんたたちの代になったんだ。それがたった十分早くなっただけ。二人とも考えたことくらいあるだろ。私がいなくなったら、来年の代はどうするか。自分たちの代になったら、コートの上で自分がどう振舞うか。たった十分だよ。その時期がたった十分早く来ただけだ。私が二人に、来年はこういうチームのしろとか、ああしろこうしろって言ったことある? 無いでしょ。心配してないから何も言わなかったんだよ。分かる? その意味が。私なんかいなくても大丈夫ってことだよ。心配せず、自信持ってやってみな。私はベンチで見てるから」

石川も柴田も、平家の顔をしっかりと見ていた。
コーチの言葉よりも、立ち位置の近い先輩の言葉の方がしっくり来ることもある。
二人は、平家の言葉にしっかりとうなづく。
それから、戦術的な話に移った。
相手がダイヤモンドワンで来るという前提。
インサイドに入った控えメンバーでは、得点力が心配なところ。
攻撃の中心は、多少厳しくなっても外に置く。
それを伝えているうちに二分が過ぎた。

先に中村学院メンバーがコートに戻っている。
最終クォーターは富ヶ岡ボールで始まる。
レフリーに促され、コートに戻る富ヶ岡のメンバーは、歩いている間に把握した。
中村学院のメンバーは、ダイヤモンド型にゾーンを敷いていて、是永だけが石川の方へ歩み寄っていく。

ベンチで平家は和田コーチの横に座った。
試合に復帰することはもうほとんど不可能。
半分、コーチみたいな役割になる。
和田コーチが平家に問いかけた。

「足は平気なのか?」
「死ぬほど痛いです」
「最初からそういえば使わなかったのに」
「ホントに痛くなかったんですよ。不安はあって、それでセーブしてたからプレイはひどかったけど。後半開始ごろからちょっと気になりだして、それでも気にせず続けてたらああなっちゃいました」

控えメンバーの一人が、どこからかバケツとそれに詰めた氷水を手に入れて持ってきた。
平家は、すでに裸足になっていた右足をそこに突っ込む。
一瞬、痛みではなくてあまりの冷たさが理由で顔をしかめるが、すぐにその感覚も麻痺した。

「こうなるくらいなら、最初からあいつらにちゃんと話しておくんだったかな?」
「大丈夫ですよ」
「だといいけどなあ」
「大丈夫ですよ。あの子達はそんなにやわじゃないから」
「一番やわなのは俺か」
「そうかもしれないですね」

コートの上では、サイドからのボールを高橋が受けて最終クォーターが始まった。

自分が何とかしなきゃ。
先輩がいなくなって、そういう思いが二年生には生じる。
自分が何とかしなきゃ。
決勝の舞台、一点差で最終クォーター。
自分が何とかしなきゃ。
そうしないと、負ける。

トップから下りてきたパスを受け、柴田はドリブル突破を計った。
すばやい動きだが、目の前のディフェンスを抜き去るところまでは行かず、ひきづったままの形。
そこに、ゴール下のディフェンスがカバーに来た。
一対二。
空いているセンターにパスを捌けばオーケーというところだが、そのパスがディフェンスに当たる。
こぼれたルーズボールに飛び込むが、ボールを掴み合ってジャンプボールシチュエーション。
順番に従って、ここでは中村学院ボールとなった。

富ヶ岡はハーフコートのマンツーマンで終始変わらない。
川島相手にスリークォーターからつく、という一時期の柴田の約束事も、効果がまるで無かったので消えていた。
セットオフェンス。
ボールが回った後、左に開いた川島へトップからパスが送られる。
流れるように自然な形でエンドライン側へドリブル突破、という見せ掛けに柴田が反応したところで、川島は中央側へ。
ゴールを囲む台形の少し外側、ミドルレンジからフリーでのジャンプシュートになり、これが決まる。
中村学院が逆転、一点リード。

富ヶ岡オフェンス。
石川は相手のディフェンスの特性をちゃんと考えていた。
ボックスからダイヤモンドになったことでゴール下が甘くなる。
すなわち、空いているスペースはゴール下に近いところ。
ローポスト付近で是永を背負うような形になりたい。
背負われると外からボールが入ってしまうので、是永はそれをさえぎろうとする。
その、ポジション争いのところに、なぜか外から柴田がドリブルで突っ込んできた。
石川は慌てて逆サイドへ逃げて行こうとする。
前が混んでいたので、柴田はとっさにジャンプシュート。
ディフェンスは抜かれていたので、是永がこれもとっさに、石川を捨ててシュートブロックに跳んだ。
そのブロックにボールが弾かれる。
こぼれ玉は中村学院が拾う。

速攻。
マイボールになって走り出した是永。
ちょうどボールの前を斜めに横切るような形になって、走りながら受ける。
マッチアップの石川は、先ほどのプレイで切り離されているのでフリーだった。
受けたボールはそのままドリブルで持ち込む。
対応できたのは高橋。
必死についていき、振り切られはしなかったが、周りのフォローがなく二対一の状態にされ、最後はパスを捌かれた。
反対側から上がっていた川島のレイアップが決まって中村学院三点リード。

富ヶ岡はゆっくりと組み立てようとした。
平家の最後のシュートで五点リードしたところから点がとまっていた。
相手に傾いた流れを止めるためにも点が欲しい。
外でまわす構図は同じだったが、中央の高橋はタイミングを見てドリブルで真ん中に突っ込んだ。
目の前のディフェンスは振り切れない。
石川が外に開いていったのでそこに捌こうとしたが、是永も眼に入って、それを避けてパスを通そうとしたら、石川の手にも届かないボールになった。
サイドラインを割って中村学院ボール。
ここで、石川がベンチに向かって両手をT字に合わせて叫んだ。

「タイムアウト! タイムアウト!」

最終クォーターはまだ始まったばかり。
それでも、この流れは何とか止める必要がある。
和田コーチは石川の声に答えタイムアウトを取った。
福田と中澤くらいの力関係ならともかく、全国トップレベルのチームでは珍しい光景だった。

ベンチに戻ってきて控えメンバーからドリンクボトルを受け取った石川は、一口水分を取ってからすぐに口を開いた。

「ディフェンス代えてください。7番には私じゃなくて柴ちゃんで」

柴田は驚いて石川の方を見る。
和田コーチは、石川の続く言葉を待った。

「是永美記ちゃんには、7番には、私一人じゃ勝てない。あの子はすごいです。今の私じゃ勝てない。だけど、柴ちゃんと二人でなら、二人で分担してなら勝負できると思う。柴ちゃんがディフェンス、私がオフェンス。得意なところを持ち寄れば、勝てるかもしれない。中村学院に勝つには、7番に勝てばいい。だから、7番のディフェンスは柴ちゃんに代えてください」

石川の顔は真剣だった。
柴田から見て、負け犬根性で、逃げでそう言っているようには見えなかった。

「お前はどうするんだ石川」
「マッチアップは、柴ちゃんと交代で12番に。だけど、そういうことじゃなくて、私は点を取ります」
「7番相手にお前がオフェンスで勝負すると言うことか?」
「はい。私が点を取ります。だから、私にボールを集めてください」

和田コーチは腕を組んで考えた。
是永相手のディフェンスとしては、確かに石川よりも柴田の方が向いている。
ただ、柴田にディフェンスでそこまで背負わせると、オフェンス面では力が削がれることが否めない。
柴田のオフェンス力は、目の前にいるディフェンスとの力関係で言えば計算しやすいところだ。
最終クォーターに入ってからの二つのプレイはうまくいかなかったが、それでも、力関係で言えば柴田のところが点が取りやすい。
石川は、相手が強大すぎる。
そこにボールを集めるのは、あまりにもリスキーだ。
7番のマッチアップを柴田に、はともかく、オフェンスの中心を石川に、のところはためらいがある。
答えあぐねていると、隣に立つ平家が口を挟んだ。

「石川になら私の三年間賭けてもいいな」

和田コーチは平家の方を見る。
表情は変えない。
無言で、先を促す。

「石川は、ボールさえ持てれば7番相手でも大丈夫だと思うんですよ。だから、周りが石川に集めるっていう意識を持てばボールを入れられるようになっていけるんじゃないかと思うんですよね」

考えながらうなづく。
単純な得点力で考えれば、フロアにいる中で一番点が取れるのは石川だ。
そういう意味で、石川に任せたいという心情はある。

「相手、ダイヤモンドだから、ゴール下薄いし、そこで勝負出来れば結構いけると思うんですよ。面取れればそこから入れて、ボールサイド押さえられたら逆サイドへ抜けて、ボールは回してそっちから入れればいい。石川は、相手の身長変わらなければポストでターンしてシュートってのも出来るし」

平家の言葉に何度かうなづいた和田コーチは、石川の方に向き直った。

「石川」
「はい」
「やってみろ。お前にボールを集める」
「ありがとうございます」
「ただし、一人で全部やろうとするな。パスという選択肢を捨てるな。分かるな。五人の中の一人だぞ。一人で五人分働くな。五人の中の一人として、その役割としてオフェンスの中心を担え」
「分かってます」
「柴田、ディフェンス面だけど同じことだ。一人で押さえようとすることは無い。まず、ボールサイドを押さえてパスを防ぐ。それでもボール入れられたら、シュートを防ぐ。ドリブル突破されそうなときは何とかついていってコースを制限する。後ろにカバーがいるというのは頭に入れとけ」
「はい」
「周りも、7番の動きは常に視界に入れとけ」

タイムアウトの終わりを告げるブザーが鳴る。
細かい指示までは出す間がなく、そのまま富ヶ岡のメンバーはコートに戻っていく。
中村学院ベンチは、何か指示が続いているらしくメンバーが出てこない。
石川はコートの中央で柴田を呼び止めた。

「勝手にディフェンス代えちゃって悪かったかな?」
「そんなことないよ」
「柴ちゃんは私よりディフェンス強いから。頼りにしてるよ」

柴田は薄い笑みをこぼすだけで答えない。
中村学院のメンバーがベンチから出てきた。
富ヶ岡のディフェンスなので一人一人マッチアップをピックアップする。
去り際、石川が柴田にもう一言言った。

「柴ちゃん、私たち、もう、負けられないよ」

小さくうなづく。
それから、石川の背中を見て、頼りにしてるよ、と胸の内でつぶやいた。

三点差。
中村学院のメンバーもコートに戻ってくる。

「12番オーケー」

マークにつかれた川島は、怪訝な顔で是永の方を見る。
是永には、別のマークが付いた。

「7番オーケー」

7番をつけた是永。
自分に当たりに来た柴田の顔をチラッと見てから、周りを見渡す。
石川が川島のところにいるのが見えた。

「私じゃ不満?」

石川のことを見ていたら柴田に問いかけられた。
視線を戻して柴田に向き直る。

「いや」
「言っとくけど、私は梨華ちゃんのおまけじゃないからね」

サイドラインでレフリーが中村学院のメンバーにボールを渡す。
是永は、柴田には答えなかった。

中村学院のバックコートからゲーム再開。
ガードがゆっくり持ち上がって、そのままゆったりとした形でボールが動く。
是永にボールは入らない。
柴田がしっかり付いているのもあるが、是永自体がそれを振りほどくような動きをしない。
二十四秒計が刻まれる中、仕掛けたのは川島だった。
外で受けての一対一。
ワンフェイク入れてからドリブル突破を謀る。
しかし、石川はしっかり対処した。
情報があるとかないとか、そんなことは考えていない。
頭で考えず、反射神経で対応している。
突破できなかった川島は、ボールをキープしたまま外まで戻り、中に出来たスペースを確保したセンターへ入れた。
富ヶ岡のセンターは、平家と比べてレベルが落ちる控え選手。
中村学院が珍しくゴール下、センターで得点を加えた。

五点差。
富ヶ岡のオフェンス。
まだ、残りも7分あまりある段階で、石川へボールを集めるという意思統一をするのはこのチームではあまり無いこと。
ダイヤモンドワン、という相手の陣形も考えて、ゴールに近いスペースでボールを渡したい。
時間は多少かかったが、ゴールに対して15度くらいの位置で、石川が是永を背負って面を取った。
柴田からバウンドパスが入る。
石川はシンプルに勝負した。
単純にターンして、フェイドアウェー気味にジャンプシュート。
是永のブロックの上は越えたが、シュートは短くなりリング手前にあたって落ちた。

五点差でのディフェンスはプレッシャーがかかる。
7点差にされると、明確にリードが広がった印象になる。
ここは何とか守りたいところであり、逆に中村学院は流れを切りたくない場面。
是永へつなごうというボールが、柴田を避けようという意思も持っていたため、誰も触れずにエンドラインを割る。

富ヶ岡は同じ形で攻めた。
石川にボールを入れる。
位置は、先ほどよりもエンドラインに近い、ほぼ0度のところ。
今度は、ターンの向きが逆だっただけで同じようにフェイドアウェー気味にシュート。
また、リング手前にあたって落ちた。

「石川! 逃げるな! 向かっていけ!」

ベンチから平家の声が跳ぶ。
フェイドアウェーシュートは、理屈としては別に逃げるというのとは関係ない。
相手にブロックされないようにするための手段。
ただ、平家にはそれが逃げに映った。
怪我を気にしていた時間帯の自分のプレイぶりに重なる。
今までの石川になら言わない。
今日の、今の石川にだから言う。

五点差のまま時間が過ぎていく。
柴田がよく是永を抑えていた。
ボールを渡らせない。
ただ、点も取れなかった。
二本同じ形でシュートを外してからは、石川にボールが入れられなくなっている。
是永からすれば、石川の狙いどころが見えてしまったのだから対処しやすい。
ゴール近く、ローポスト付近で面を取って、センターっぽいプレイをしてシュートまで持ち込む。
それさえ押さえればいいのだ。

ただ、石川も同じことをただ続けているだけではなかった。
ボールサイドを抑えられたところで逆サイドへ抜ける。
ここでゴール下にこだわれば、同じように是永も押さえにかかったのだが、石川は左サイド遠くまで開いた。
トップにいた高橋はそれをしっかり見ている。
間に一人つないで、そこからすぐ、石川までボールが下りてくる。
スリーポイントラインの外側、そのままシュート、と読んで是永がブロックに跳ぶ、のを見て石川は左手でドリブル突破を試みると、是永は飛んでいないで付いてくる。
エンドライン際、石川はバックターンして右手へ持ち替え内側へ。
それにも是永はついていく。
スピードに乗り、バックボードに平行な方向に速度を持ったまま石川はジャンプ。
是永もブロックに跳ぶ。
まともに打つとブロックを喰う状況、石川は空中でゴールに背中を向ける側へ回転し、落下際、左手でレイアップの形でボールを投げ上げる。
このボールが、リングに転がり込んだ。

曲芸のような石川のプレイに大観衆は沸きあがる。
ほとんどありえないプレイだった。

「是永! 二度はない! 気にするな!」

ベンチから声が跳ぶが是永は聞いちゃいない。
単純に、すごいと思った。

「どこのNBAだよ」

おもわずひとり言が漏れる。
別に、落ち込んだりはしなかった。
ただ、火が付いた。

中村学院のフェンス。
持ち上がったボールは外でまわっていると、是永はハイポストに入ってくる。
しっかりと柴田を背負っていて、パスコースは空いており、トップからボールが入る。
右肩でワンフェイク入れると、逆、左側へターンしてドリブルで切れ込む。
柴田は付いていき、ゴール下のセンターもカバーに入り、右サイド川島についていた石川も押さえに来る。
是永にとっては、左に柴田、右に石川、前にはセンターが立ちはだかるという状態。
パスコースはあった。
外の川島に出せば、多分スリーポイントが打てる。
自分にディフェンスをひきつけてパスを捌く、というのは是永の常套手段。
だけど、今回はそれをしなかった。
柴田と相手センターの間に足を踏み込み、くぐりぬけるようにしてジャンプ。
ゴールに背中を向ける姿勢になったが、そのまま右手でバックシュートの形でボードに当ててねじ込んだ。

エースの打ち合い。
石川が決めても、是永が決め返す。
その繰り返し。
ドリブル突破を何度か見せた後、外からスリーポイントを石川が決めて一気に二点差。
それに対して是永は、ゴール下まで入り込んで柴田のファウルを誘いつつゴールを決めてバスケットカウントワンスロー。
そのフリースローも決めて三点プレイ、五点差へ通し戻す。

「我慢しろ! 我慢しろ! 我慢して付いていけ!」

富ヶ岡ベンチから声が跳ぶ。
点を取っても取り返されて点差が詰まらない。
それにこらえきらなくなると一気に離される。
相手が逆に耐えられなくなれば、ひっくり返すことが出来る。
きわどい勝負。
ここまで勝ち続けてきた富ヶ岡。
逆にそのせいで、終盤、この時間帯まで来てビハインドを背負っている経験は乏しかったりする。
石川の突破が是永に阻まれ、オフェンスファウルのチャージングを取られ、流れが止まる。

五分を切って7点差にされると苦しくなる場面。
ここはディフェンスが頑張った。
是永の方も、石川を押さえて一息ついてしまったのか、オフェンス時に柴田を振り切れない。
シュートチャンスが作れずに二十四秒オーバータイム。
富ヶ岡ボールになる。

持ち上がって同じ形。
外三人で回す。
ボックス相手にも、ダイヤモンド相手にも、似た様なことを続けてきた。
単純なやり方。
ディフェンスの側も、いい加減慣れてくる。
さらに、ここのところは、上でまわして最後は石川というのが続いている。
そういう相手の心理状態まで考えてはいなかったが、同じことの繰り返しに飽きて高橋が変化をつけた。
パスアンドラン。
上でつなぐ連続から、柴田に落としたところで走り出す。
トップからゴール下へ向かって。
ディフェンスは虚を突かれ対応できず、前を横切る形になった。
柴田はリズムよくバウンドパスを入れる。
ゴール下、二対一が出来上がり、高橋にディフェンスが来たので、パスを反対サイドに送り、これを簡単にセンターが得点した。

中村学院はゆっくり上がってセットオフェンス。
柴田はしっかりと是永に張り付く。
隙を見せたら絶対にボールを入れてくる。
その意識があるので、油断は無い。
それでも、うまく面を取り、スペースを作って是永はボールを受けられる状況を作る。
ただ、動きのベクトルはゴールから逆を向いた。
柴田を抑えて、自分が外に開いて動いたところにボールが下りてくる。

静止状態からの一対一。
シュート、さらに左へドリブル、とフェイクを二つ見せてから右手でエンドライン側へ切れ込んだ。
柴田は前を抑えることは出来ないが、コースを制限して付いてくる。
ゴール下からセンターがカバー。
二人に進行方向をふさがれた是永は、その外側から逆サイドに見える川島へパスを送ろうとした。
これが、石川にカットされる。

「スタート!」

石川は前に見える高橋にボールを送り走り出した。

低い位置からのスタートだったが、反応のよさとトップスピードの速さでファーストブレイクの形を作る。
状況は二対二。
高橋は、キープして味方の上がりを待とうかと思ったが、自分と横に並ぶ位置まで上がってきている石川を見てそこにパスを送った。
左サイドで受けた石川。
前には是永ではないディフェンスがいる。
パスを出す気も、キープして周りを待つ気も無かった。
勝負。
チェンジオブペース。
一瞬減速して、ディフェンスの動きを緩めてから最加速。
それでも対応して前を塞ごうとしたので、バックチェンジで右手に持ち替えた。
前があく。
そのまま突っ込む。
ゴールに対して正面から入って行き、左からディフェンスが追いすがってきたので、右手でボードに当ててシュートを決めた。
77−76 中村学院一点リード。
この場面で中村学院ベンチがタイムアウトを取った。

残りは三分40秒ある。
一点の取り方を考えるような時間帯ではまだなかった。
ただ、ここから五点差7点差と開かれるのだけは避けたい。
両チーム、ベンチからディフェンスに関する指示が出る。
和田コーチは柴田に対し、先ほどのタイムアウトと似たようなことを言う。
ボールを持たせるな、ダメならシュートは打たせるな、抜かれそうでも我慢して付いていけ。
周りも常に、7番是永の動きを見ていろ。
7番からボールを捌かれて点が取られるのはある程度仕方ない。
7番に余裕のある形でシュートを打たせないようにすることを意識させる。

中村学院ベンチは、シンプルな指示が出しづらかった。
四クォーターに入り、7番石川に点を取られているが、ここ最近の取られ方は、ダイヤモンドディフェンスを崩されたものと、石川が絡みはしたが中身は速攻、というものだ。
セットオフェンスでの石川の押さえ方だけを指示していればいい状態ではない。
ダイヤモンドゾーンを敷くメンバーには、相手が単調な動きなわけではないことを意識させないといけない。
また、今のように速攻を出されないように、攻守の切り替えも徹底しないといけない。
そして、石川を押さえないといけない。
石川については、是永へはあまり指示しなかった。
指示が出たのは周り。
7番石川がボールを持ったらそこからの捌きに気をつけろ、というもの。
富ヶ岡の対是永のディフェンスへの指示とは対照的である。
一対一で是永が対応しきれないで点を取られるというのなら、それは仕方ないというのがこのチームの考え方だった。

中村学院ボールでゲーム再開。
オフェンスに関する指示は出ていなかったが、一人、考えを持った人間がいる。
是永がボールを持つと、相手のディフェンスが全部そこに意識が行くことに気がついた。
一対一なら負けなくても、一対二や一対三になったらさすがの是永でも苦しいだろう。
問題は、自分たち周りのあわせ方だ。
川島は、そう思っていた。

是永はゴールに近いところでボールを受けることは出来なくなっていた。
柴田相手にボールを受けるには、一旦ゴール下付近まで行き柴田がボールのある側に覆いかぶさるようにするのを待ち、右か左へ揺さぶって、その逆側にわずかに体をいれ、体重をかけることで動き出しを制限してから外へ開く、というような手間をかけた動きが必要だ。
外まで開いてボールを受けても、動きのベクトルが逆なので、オフェンス優位からの一対一とは行かない。
並みのディフェンス相手ならそれでも問題ないが、全国大会決勝ともなるとそうもいかなかった。

ドリブル突破を試みるがコースをしっかりとふさがれ行き場を失う。
ピボットしてパスの出し先を考えようとしたら反対側からも石川がボールを奪いに来た。
前後を挟まれる形。

「外! 外!」

マークの石川が離れた川島が声を上げる。
視界の狭い中から川島の姿を見出し、是永はバウンドパスを通そうとするが、状況が見えていた高橋が間に入って奪った。

中村学院は一斉に戻る。
高橋は、ここは速攻は出さずに相手の戻りを確認してからゆっくりと持ち上がった。
石川と是永はゴールの近くでせめぎ合い。
パスを入れるタイミングを見ながら上三人が回す。
ここで決められると逆転される中村学院、特に是永は高い意識で石川へのパスコースを防ぐ。
どこで崩すか?
ここは自分が、と思ったのは柴田だった。
四クォーター、是永相手のディフェンス、体力的に厳しくなってきた。
タイムアウト明け間もなく、多少余力のある今のうちにオフェンス参加しておこうと思った。
石川が逆サイドへ行き、自分の前のスペースが広いのを確認してからボールを受ける。
シンプルにプレイした。
シュートフェイクを見せてから右へ二つドリブル。
ゴールは遠いがそこからジャンプシュート。
ボールはリング奥に当たって跳ね上がったが、ネットの中央に落ちてきて得点となった。
78−77 富ヶ岡が逆転する。

逆転されて点が欲しいという場面。
当然のように是永にボールが集まることを富ヶ岡ディフェンスは意識した。
柴田はボールサイドに入って抑えようとするが、ボールの動きも早く、コースをつぶしきれない。
是永は、タイミングを見てローポストで面を取った。
外に開いた川島からボールが入る。
背負われた柴田の後ろもセンターがケアしているし、ボールが入ったところで石川も外からはさみに来た。
一人で三人を相手にする状況であるが、是永には見えていた。
ターンして無理やり勝負、という雰囲気のまま、石川の小脇を通してバウンドパス。
受けたのは川島。
石川の戻りより早く、三十度の位置からスリーポイントを放った。

ゴール下、柴田と是永がリバウンドスペースを奪い合うが、シュートそのものが決まる。
ボールは柴田の手元に落ちてきた。
80−78
中村学院が再逆転する。

残り三分を切った。
一本一本プレッシャーがかかる時間帯に入ってくる。
オフェンスは石川へ。
最終クォーター、その約束事に従って富ヶ岡オフェンスは組み立てられてきた。
石川はその期待にこたえて結果を出している。
最終クォーターだけで11点。
実力はしっかり発揮しているので、後は、ぎりぎり最後の勝負。
試合に勝てるかどうか。

石川にここまで点を取られれば、中村学院ディフェンスも富ヶ岡のプランは見えていた。
是永を信用してないわけではないが、ダイヤモンドのゾーンも石川の方へ意識が向かう。
マンマークがいる上にどのスペースでもゾーンの選手がケアをしてくればボールは入れにくい。
それでも無理にディフェンスを避けたパスを入れようとした高橋のボールが、誰も触れずにエンドラインを割る。

中村学院オフェンスも、ある意味では同じことだった。
是永にボールを集めて点を取る。
この試合、ここまで一人で四十二点取っている。
チームの半数以上が是永の得点だ。
是永美記を一人で抑えるのは非常に難しい。
それは定説でもあったし、試合を通じて石川や柴田が体感したことでもあったし、他のメンバーも感じてきたこと。
石川に対する中村学院ディフェンスと同じように、ボールが入らないようにマッチアップの柴田以外のプレイヤーもケアしている。
スペースが確保し切れていないところへパスを入れようとして、コースを塞いでいた柴田にボールを奪われた。

持ち上がりながら高橋は考える。
石川さんは信頼できる。
だけど、石川さんにパスを入れるべき自分が信用できない。
石川さんにディフェンスが集まりすぎてパスが入れにくい。
どうしたらいい?
持ち上がってもまだ考えて、なんとなくキープする。
ディフェンスは寄ってこなかった。
余裕があるからスリーポイントシュートを打ってみた。
入った。

中村学院ベンチでコーチが頭を抱える。
夏にも同じ光景を見た。
高橋愛の唐突なスリーポイントシュート。
それで試合を決められた。
今日も、この終盤で同じことが起きている。
今の三点で富ヶ岡が再逆転して一点リード。

ただ、夏とは違い、今日はまだ一点差。
流れを切られたわけでもなく、ああ、ダメだというような感情を持たされる場面でもない。
中村学院は冷静に攻め上がる。
それでも、是永へはどうしてもボールがつなげなかった。
柴田のマーク、その他のディフェンス人のケア。
パスを入れるタイミングが見つからない。
仕方なく、ガードが外から強引な突破の上でシュートを打とうとしたが、高橋にブロックされた。

時間は押し迫ってくる。
場が落ち着かない。
激しい攻防であるが、ファウルはなく、ボールがラインの外へ出ることもなく時間は流れていく。
点を取られたくない。
この意識が強く、ディフェンスが堅くなり、ターンオーバーが繰り返される。
二分を切る。
富ヶ岡はハイポストの石川へボールを入れたが、背中にいる是永を意識していたら下からボールを叩かれた。
中村学院は、是永へボールを入れる前に、エンドライン際の横断パスがつながらず富ヶ岡にさらわれる。
そこから速攻を出そうとしたが、ボールを運ぶ高橋、目の前のディフェンスを交わそうとしてボールコントロールを失った。
ルーズボールを中村学院に拾われる。
一分を切った。

何とかして是永へ。
そういう場面だが川島は一人だけ違うことを思った。
美紀にばかり頼るからいけないんだ。
富ヶ岡ディフェンスは全員が是永を意識している。
だったら、あいているところで勝負した方がいいんじゃなかろうか。

ボールは展開される。
是永は柴田を引き剥がすことが出来ない。
川島は是永と反対サイドにいた。
ボールが上から下りてくる。
石川は、逆サイドの是永をケアするために離れた位置にいた。
ノーマークに近い形。
ゆっくりとシュートモーションを取った。
慌てた石川がチェックに飛び込んでくる。
川島はドリブルでエンドライン側へ切れ込んだ。
左手でドリブルを突いて石川を抜き去ろうとする。
石川は、川島の動きに反応はしたが、チェックに跳んだ分かなり遅れた。
ゴール下まで入り込んだ川島の後ろから石川は手を伸ばす形。
川島にとっては目の前に障害が無いので難なくシュートは決まり、さらに後ろから伸ばされた手があたったのでファウルまで取られた。
川島のバスケットカウントワンスロー。
82−81
中村学院が逆転し、さらにフリースロー一本を得る。
残り時間三十七秒。
富ヶ岡ベンチが最後のタイムアウトを取った。

この時間帯まで来れば、疲労も極限まで達している。
肉体的には39分走り続け、精神的にも競った展開で気が抜けない。
富ヶ岡のメンバーにとっては、キャプテン平家がメンバーから外れ、それぞれが背負うものが大きくなった。
一年間の最後の大会の決勝。
ビハインドを負って追い込まれている。

「最後まで行かせてください」

戻ってきて最初に口を開いたのは石川だった。
今のファウルで四つ目。
退場までリーチがかかっている。

「当たり前だ。休ませてる時間帯じゃない」

残り三十七秒までくれば、退場を恐れてベンチに下げる意味も無い。
当然最後まで出続ける。

「残りはオフェンスディフェンス一つづつか。フリースロー入っても入らなくても、普通に二点でいいからな」
「はい」
「石川」
「はい」
「どこで勝負したい?」

和田コーチから見て、最終クォーターの石川は合格だった。
ビハインドを負った最終盤。
最後の一本のオフェンス。
絶対に点を取らないといけない場面で、和田コーチは石川の個人技を選んだ。

「外、開いたところ。0度まで行かないけどあまり高くない位置で」
「右か左かあるか?」
「それはどっちでも」
「よし、周りはそれに合わせろ。石川がボール持ったらゴール下はあけろ。いいな」
「はい」
「石川。ただ、そううまくパスがわたるとは限らないから、0度まで行かない高くない位置っていうのはこだわるな」
「分かってます」
「ボール受けられたらそこで勝負っていう形で行け」
「はい」

残り時間を考えれば、次のオフェンスで点が取れなければ、中村学院にボールを回されて時間を使われて苦しくなる。
絶対に絶対に点が必要な場面である。
石川は、和田コーチの言葉に力強くうなづいている。

「まず、その前にリバウンドな。フリースロー、外れて相手に取られるのは最悪だからな。石川も含め、オフェンスに意識行き過ぎないように」
「外れるつもりでリバウンド入るんだよ」

和田コーチの横で平家も言葉を添える。
右足を漬けたバケツごと移動して、ベンチに座るメンバーたちと向かい合っている。

「ディフェンスは。7番と12番どっちで来ますかね?」

もし、次のオフェンスで逆転した場合、中村学院のオフェンスを防ぐ必要もある。
通常なら7番の是永だけを意識すればよさそうだが、石川がファウル四つになったことで、マークにつく12番の川島の方で来るかもしれない、と柴田は感じている。

「7番だろ」
「私も7番でくると思う」
「ここまで来たら、ファウル四つとか関係ないからね」
「でも、同点だったら関係ありませんか?」

和田コーチも、石川も、是永で当然勝負と見ているが、柴田は、シチュエーションによっては川島もありうると思った。
フリースローが入って、富ヶ岡が二点取れば同点。
その場合、中村学院は負けるリスクなしのオフェンスになる。
点を取れれば勝ち。
取れないにしても、石川にファウルさせて退場に出来れば延長が大変有利になる。
そんな発想を、柴田は持った。

「いや。無いとは言わないけど、7番が怖い。流れの中で12番勝負の形になることはあるかもしれないけど、元々控えの12番に最後の勝負はさせにくいだろう」

この辺は、和田コーチのコーチとしての感覚だ。
前半最後とか、三クォーターの終わりとか、そういうところで点を取ろうとしたらそんな選択肢もありえる。
だけど、勝負がかかった最後のワンプレーで、控えメンバーで勝負させるというのは選びにくい選択である。

「ディフェンスは7番ケアで。外でボール持たれたら、柴田の後ろは誰かがカバーしろ。そうすると最後の最後で捌くこともありえるから、ゴールに近いオフェンスにはローテーションでカバー入れよ」

オフィシャルのブザーが鳴る。
タイムアウトがあける合図。
富ヶ岡のメンバーが立ち上がる。
平家が石川を呼び止めた。

「石川」
「はい」

平家は握りこぶしを突き出す。
怪訝な顔をして石川も、同じように握りこぶしを作った。

「行って来い」
「はい」

それぞれの右手の握りこぶしを軽くぶつけた。
石川は、平家の顔を見てうっすらと笑顔を見せた。

両チーム、フロアに戻ってくる。
残りは三十七秒。
川島のフリースローから。
それぞれがリバウンドポジションに入る。
石川はゴールに近い位置、柴田はシューターに近い位置。
是永は石川と柴田の間にいた。
ワンスロー。
レフリーからボールが川島に渡される。
二度ボールを弾ませてから両手で構える。
ゴールをしっかりと見据えて打ったシュートは、やや長くなってリング奥に当たって跳ね上がった。

リバウンド。
大きめに跳ねたのでゴール下には落ちてこない。
シューターに対してスクリーンアウトに入った柴田の手元に落ちてくる。
両手でがっちりと掴み、そのまま確保した。
速攻は仕掛けず、中村学院が戻っていくのを待つ。
上から受けに来て横で待つ高橋に、軽くバウンドパスで渡した。

柴田は小走りに上がって行き、高橋は歩いてドリブルで持ち上がる。
ディフェンスはダイヤモンドワンで変わらない。
石川と是永は激しく競り合っている。

「一本! 一本!」

高橋がコールする。
自分を落ち着けようと声を出したが、二度繰り返す声は気持ちの高ぶりを周りに伝える。

アリーナ席に陣取る両チーム控えメンバーたちの声援が降り注ぐ。
試合を見つめる観客たちの興奮が、場の空気を圧縮する。
ベンチから飛ぶ指示は、もう選手たちには聞こえない。
高橋にも、柴田にも、石川にも、これほどの圧迫感を感じながらプレイした経験は無かった。
大会の重要さ、局面の重要さ、会場全体の雰囲気。
すべてが、今まで経験してきたものよりはるかに重い。
それでも、意思の統一ははっきりとされていた。
やるべきことは一つ。
石川梨華へつなぐこと。

ダイヤモンドゾーンは今までよりも広めだった。
目の前のオフェンスにはついてくる。
外からのシュートは打たせないという方針に見える。
一対一でドリブル突破も可能か?
左サイドでボールを受けた柴田はそう思った。
前にいるのは12番、川島。
ここまで見てきてディフェンスはそれほどうまくなかった。
ドリブルをつく、というしぐさを見せる。
だけど、実際にはそれだけでトップにボールを戻した。
突破した後に怖さを感じた。
逆サイドのローポスト付近に石川と競り合う是永も見えている。
柴田は中に入っていった。

石川は、ボールの位置、是永と自分の位置関係を常に見ていた。
どこでもいい、ボールを持てさえすればいい。
ボールを受けられればあとは何とかできる。
自信とか確信とは少し違う。
希望のようなものを信じている。
柴田の動きも見えていた。
ダイヤモンドゾーンの一番下と、味方のセンターも見えている。
柴田の意図は石川には分かった。
アイコンタクトすら必要ない。
味方のセンターと柴田が縦に並んだところで、石川はゴール裏を通って逆サイドへ走り出す。
二人は是永に対する壁。
是永もそれはすぐに分かったが、自分ではどうにも出来なかった。
石川の後ろを追いかけるしかない。

残り二十秒。
左サイドゴールから遠い位置で石川はパスを受けた。
目の前にはすぐに追いついた是永。
シュートフェイクは見せたが、軽く手を上げられるだけで跳んではくれない。
ゴール下にいた二人は逆サイドへ捌けた。
正対からの一対一。
勝負。

右手でドリブルを突いて切れ込んだ。
当然付いてくる。
二歩進んで止まり、ふわっと上体を浮かせた。
是永はそれに反応してシュートを防ごうとやや前のめりになる。
そこを石川は再加速。
そのまま右手でもう一つドリブルを突いてからジャンプ。
是永も遅れながらもブロックに飛んでコースを塞ごうとする。
しかし、石川のシュートはそれより早く、ボードに当ててリングを通過させた。

83−82
富ヶ岡一点リード。
残り17秒。

歓声と怒号が飛び交う中、中村学院ガードがボールを持ち上がる。
フロントコートまでは問題なくボールを運ぶことが出来た。
最後のセットオフェンス。
柴田は是永へのパスコースを塞ぐ。
ボールはアウトサイドをぎこちなくまわった。
富ヶ岡のかけるディフェンスのプレッシャーは厳しい。
効果的な一本のパスというのは出ない。
十秒を切る。

是永はインサイドへ入ってくる。
柴田はボールサイドをしっかりと抑えた。
パスコースは無い。
裏もセンターがカバーしている。

トップで川島がボールを受けた。
シュートフェイクを見せる。
石川は一応対応しておくが、大げさにブロックに跳んだりはしない。
ドリブル突破が来ても対応できる姿勢。
川島は右サイドへボールを落とす。

是永は左サイド外へと動いた。
柴田も当然付いていく。
ボールは逆サイドからまたトップへ。
是永はボールを受けたい。
残り五秒を切る。
コートの外を回りこんででも、という勢いで動き出すと柴田もそれを押さえにかかる。
しかし、実際の意思は逆。
柴田を外に振って、自分は内側へ動いた。
トップからパスが入る。

中にいたディフェンスのセンターが慌ててカバーに入った。
シュートフェイクで中に浮かせワンドリブル右についてかわす。
974 名前:第六部 投稿日:2007/12/08(土) 22:25
残り三秒。
ノーマークのつもりでジャンプシュート。
そこに、逆サイド川島のマッチアップだった石川が飛び込んできた。
ブロックショット。
ボールは、石川の手で弾き飛ばされる。
残り二秒。
ボールが飛んだ先にいたのは高橋。
ボールを確保すると中村学院のメンバーが殺到する。
捕まる前に、高橋はボールを高く投げ上げた。

一秒。

ゼロ秒。

タイムアップのブザーが鳴ると同時に落ちてきたボールは、コートに叩きつけられてもう一度高く跳ね上がった。

最終スコア83−82
ラスト一分まで二転三転した試合は、富ヶ岡が勝利した。

フロアの上の富ヶ岡のメンバーたちは喜びを爆発させる。
ベンチも、スタンドも沸きかえっていた。
本来は許されていることではないが、スタンドからは紙テープも投げ込まれた。
石川と柴田はコートの上で抱き合い喜びを分かち合う。
それから、すぐにベンチに戻ってきた。

「平家さーん」

泣きながら、二人は平家に抱きつく。
平家は相変わらず右足を氷水に突っ込んだまま、両手でそれぞれを抱きかかえた。

メンバー達は和田コーチをコートの相手いる部分に引きづり出した。
周りを取り囲んで足を掴み腕を掴み。
石川と柴田も、平家を二人で抱えてその輪に加わる。
一回、二回、和田コーチが中を舞う。
三回でようやく開放され、コーチは輪から出るとインタビュアーに捕まり、優勝コーチインタビューが始まった。
富ヶ岡のメンバー達は、コーチインタビューは無視で、今度は平家を胴上げしようと動き出す。
痛い、足痛い、投げ上げられるとか無理、と真顔で平家が拒否したので協議の結果、釈放。
次は石川、さらに柴田とスタメン組みが胴上げされる。

そんな光景が繰り広げられる片隅。
富ヶ岡ゴールの下の当たりで是永は座り込んで泣きじゃくっていた。
止められなかった。
そして、止められた。
最後の攻防。
どちらも、エースの是永が背負ったもの。
結果、一点差で負けた。
悔しさ、罪の意識、後悔、どの感情か自分でもよく分からないが、頭空っぽで泣いている。

周りにメンバーが集まってきた。
どの顔も汗と涙で濡れている。
しゃがみこんで先輩達が是永に語りかける。
是永が悪いわけじゃない。
是永がいたからここまで来れたんだ。
それぞれがかける慰めの言葉。
耳に入っていないわけではないが、そのまま逆の耳から抜けていく。
川島が、是永の右側にかがんで、肩に手をかけて声をかけた。

「美記。負けたんだよ、私たち」

是永は顔を上げた。
川島の方にうつろな目を向ける。

「終わったんだよ。全部」

川島の言葉が最後まで終わる前に、是永はその体に抱きついた。
川島にすがり付いて、子供のように、ただ、泣いた。

和田コーチのインタビューが続いている。
先輩たちに囲まれたまま、川島は是永の背中を心臓の鼓動のペースで優しくたたく。
反対サイドで胴上げをしている富ヶ岡のメンバーたちの嬌声が聞こえる。
場内に響くマイクを使って受け答えしている相手チームのコーチの声も聞こえる。
やがて、是永は川島から体を話し顔を上げる。

「帰ろう」

川島が言う。
是永は、川島の顔を見て、それから、周りの先輩のそれぞれの顔を見た。
どの顔も、戦い終えて涙で濡れて、それでも笑顔を出そうとしぐちゃぐちゃだ。

先輩たちが是永の肩をたたいて立ち上がる。
川島も立ち上がり、手を伸ばす。
是永はその手を掴んだ。
川島が引っ張り、是永も立ち上がる。

五人でベンチに戻っていった。
それぞれに、あふれてくる涙をぬぐいながら。
ベンチもスタンドも、五人を拍手で迎えた。

その拍手のタイミングで和田コーチのインタビューが終わる。
次に、キャプテンの平家が呼ばれた。
片足けんけんでインタビュアーのところにたどり着いた平家の足元に、控えの一年生が氷水バケツを持ってくる。
そこに右足を突っ込んで、インタビューは始まった。

「足は大丈夫ですか?」
「痛いですけど、痛くないです」

コーチのインタビューは聞いちゃいなかったのに、キャプテンのインタビューになって、富ヶ岡のメンバー達は胴上げをやめ、全員平家の方を見ている。

「まず、自身のプレイについて振り返っていただきましょうか。前半は、あまりシュートが入っていない印象があったのですが、それは足の影響ですか?」
「直接的には前半は痛み止めが効いてたんであまり関係ないんですけど、でも、自分で気にしちゃって、ちょっと消極的だった分、シュートも入らなかったと思います」
「それが後半、相手のディフェンスが変わって、連続得点するシーンもありましたが」
「あれは、後輩様からの指示で。消極的だ、もっと踏み込めって言われて。それでやってみたらうまく行きました。な、柴田」

私? と自分を指差す柴田に、おまえだおまえ、というしぐさを平家は見せる。

「三クォーターの、あの、フリースローの後の場面というのは、痛みはその前からあったのですか?」
「実際にはその何分か前から痛み始めてて。でも、ラストまでは何とか持たせたいなあと思ってたんですけど、ああなってしまって」
「センターとして、あそこまで連続得点していて。さらに、キャプテンとしてチームを引っ張っていて。そんな自分が怪我でコートを離れざるを得なくなって、最終クォーターは心配じゃなかったですか?」
「それは、心配でしたけど、でも、もう、自分出るのは無理でしたから。信じるしかなかったです」
「終盤、追い込まれる場面もありましたけど、後輩たちがやってくれましたね」
「そうですね」
「後輩たち、それだけじゃなくて、一緒に戦ってきたメンバーたちに、なにか一言ありますか?」

マイクを持った平家は、改めてコート上にいるメンバーたちを見る。
それから、スタンドの上も見た。
控えの一二年生、それから、一度も試合に出ることなくスタンドの上で過ごしてきた三年生もいる。

「みんなが・・・」

それだけ言って言葉に詰まる。
鼻をすする音が、マイクを通して聞こえた。
インタビュアーは黙って待つ。
平家はもう一度、言葉をつなげた。

「みんながいて、仲間がいてよかった。本当によかった。私一人じゃ出来なかったから。ありがとう」

平家の震える声がマイクを通して会場に届く。
スタンドから拍手が降り注いでくる。
石川や柴田や、コートの上にいる者たちはなんとも照れた表情を浮かべていた。

「優勝した富ヶ岡高校のキャプテン、平家みちよさんでした。皆さんもう一度大きな拍手をお願いします」

自分に向けられる拍手。
なんだか気恥ずかしさを感じながら平家は、四方のスタンドをそれぞれ見ながら、小さく頭を何度か下げる。
インタビューが終わっても、バケツまで抱えて自力では動けないので、控えの一年生が迎えに来た。
二人の肩を借りて、一人にバケツを持たせて、仲間の元へ戻っていく。

中村学院のメンバー達は、インタビューを尻目にベンチを片付けてひっそりとロッカーへと向かっていく。
それを見かけた石川、次のインタビューは多分自分、というのが頭で分かっていたけれど、無視して走り出した。
荷物を抱えて歩く中村学院のメンバーに、廊下で追いつく。
どうしても、言いたいことがあった。

「是永さん」

右の肩にはバッグ、左手にはタオル。
涙をぬぐいながら歩く是永は呼び止められて顔を上げた。
目の前には石川梨華。
他のメンバーたちも、是永の動きが止まったのでそれに合わせて止まる。
何しに来たんだ? と石川の方を見た。

「是永さん。今日は、たまたまチームとしては勝ったけど、でも、私は勝ったとは思ってない。私一人じゃ是永さんには勝てなかった。後半、点は結構取れたけど、でも、それは、攻撃だけに専念できたから。柴ちゃんがディフェンスしてくれたから。それでやっと是永さんとまともに勝負できたと思う。二人掛りでやっと何とか勝負になったんだと思う。だから、私は是永さんに勝ったとは思ってない。だから、もう一度挑戦する。来年、もう一度」

是永は黙って石川の顔を見ていた。
石川がしゃべっている間、じっと見ていた。
しゃべり終えて、是永小さくうなづく。
タオルで顔をぬぐって、また、歩き出した。
言葉で答えは返さなかった。
石川は、去っていく是永の背中を見送った。

会場の準備が整う間を取ってから表彰式。
今日の三位決定戦および決勝まで残った四チームが並ぶ。
元気なのは三位のチームと優勝した富ヶ岡。
準優勝は三位より上だけど、負けたばかりなので、喜び、という感情を持って表彰式には臨みにくい。
ベストファイブには、富ヶ岡からは平家と石川、中村学院からは是永が選ばれる。
大会MVPには、石川が選ばれた。
大会通じての成績もあるけれど、今日の決勝でのプレイ振りが評価された。
各チームの一年間を締めくくる、三年生にとっては高校生活三年間を締めくくる、冬の選抜大会が幕を閉じた。

大会を早く終えたものは早く地元に帰る。
滝川は、準々決勝の日に寮に戻り、準決勝の日に寮の年末大掃除をし、その夜から年明け三日までオフとなった。
麻美は、決勝の日の昼前に寮を出て、実家に帰った。

「ただいま。なち姉は?」
「部屋にいるわよ」
「どうなの? あれから?」
「全然。閉じこもりっきり。ご飯にも降りてこないからドアの前に置いといて、いつの間にかなくなってる感じだもの」

秋に退院してからの生活は、引きこもりニートそのものだった。
リハビリのために病院に行ったのも二回だけ。
12月に入ってからはそれすらもなく外出は一度もしていない。
部屋から出るのも、歩くことが出来ないという事情があるにせよ、トイレに行くときくらいのものだった。

「試合は見たかな?」
「見たわよ。惜しかったわね。麻美がシュート決めたときはもしかしたらって思ったんだけど」
「違う。お母さんじゃなくて、なち姉」
「なつみねえ。どうかしら。部屋にはいたんだけど」

玄関での会話。
いつまでもそこで話していても仕方ないし家に入る。
麻美は、お昼ご飯よろしく、と言って二階に上がって行った。

階段を上って、姉の部屋の前で立ち止まる。
ドアを開けようかノックしようか。
考えたけれどやめた。
姉と話すにはちょっと覚悟がいる。
お昼を食べてからにしようと、自分の部屋に荷物を置いて下のリビングに降りた。

テレビをつける。
国営放送でも地上波民放でもなく、つけたのはエアーパーフェクTV
自分たちが出ていた大会の結末は当然気になる。
麻美のお昼ご飯はまだだが、時間としてはすでに夕方近い。
女子の決勝は終わっていた。
映像は、表彰式を映している。
あの試合、勝っていれば自分はこの中に。
そう、思わないことも無い。
優勝チームまで7点差。
他のメンバーは誰も考えなかったけれど、麻美だけが思ったことがある。

自分ではなくて、なち姉が出ていれば勝てたかもしれない。

高い能力を備えた姉というのは厄介な存在だ。
でも、その存在を見せ付けた後に目の前から消えられるとさらに厄介だ。
麻美は姉に、姉自身のためにチームに戻ってきて欲しいという思いと共に、自分のためにも戻ってきて欲しいと思う。
このままいなくなられたら、永遠に超えることが出来ない。
追いかけるなら、幻とか伝説ではなく、実体のある存在でないと手ごたえが無い。
誰かに、自分を姉の代わりとして見られている、というわけではない。
だけど、自分では思ってしまう部分がどうしてもある。
姉の代わりに頑張らないと、と。
そして、さらに思うのだ。
なち姉のようには自分は出来ない。

幻の中の安倍なつみは偉大すぎる。
だから、実体の安倍なつみに戻ってきて欲しい。
そうでないと、距離感が分からない。

テレビを見ながらの遅い昼食を食べて、麻美は二階に上がった。
姉の部屋をノックする。
しばらく待ったけれど返事が無かったのでドアを開けた。

姉はベッドの横になっていた。
布団の中には入っていない。
布団も体の下にして、ベッドに仰向けになっている。
眠ってはいなかった。
麻美の方を一瞥するだけで、また視線は天井へと向ける。

久しぶりに入った姉の部屋は、麻美のイメージよりも散らかっていた。
最近は主のいないこの部屋しか見ていない。
なつみが戻ってきたことで、生活感が部屋を満たしている。

「ただいま」

麻美は、そう言って机に備え付けの椅子を引っ張り出す。
今日帰るということは当然家には伝えてあったし、母親から姉にも伝わっているはずである。
なつみはベッドに横たわってはいるが目は開いている。
麻美は、ベッドの横まで椅子を持っていき、背もたれを前にしてまたがるようにして座った。

「調子どう?」
「調子って?」
「調子って、怪我に決まってるでしょ。足」
「ご覧の通りです」

会話は成り立つ。
話しかけても無視されたらどうしようかと思っていたけれど、答えは返ってくる。

「リハビリ行ってないんだって?」
「行ったって仕方ないし」
「なんで?」
「なんでって、仕方ないでしょ」

なつみは寝返りを打って向こうを向く。
麻美はため息を一つついた。

「せっかく久しぶりに妹が帰ってきたのに、その態度は無いんじゃないの?」
「久しぶりに帰ってきてお説教は無いんじゃないの?」
「リハビリ行かないことで心は痛むんだ。それを言われるとお説教だって感じはするんだ」

なつみは少し体をちぢこめる。
麻美は立ち上がった。

「前キャプテンのなつみさんに報告します。今年は三回戦で富ヶ岡高校に7点差で負けました。三年生は引退して新キャプテンは藤本美貴さんになりました。先輩方には、これから咲きも語指導後鞭撻のほどをよろしくお願いします」
「やめて」
「やめない。なつみさんの部屋は来年もそのままにします。戻ってこなければ再来年もそのまた先もずっとあのままです。そう、新キャプテンが言ってました」
「私が戻ったって、もう居場所なんかないでしょ」
「ある。あるよ! 今ならまだある! 戻ってきてよ! こんなところに閉じこもってても仕方ないでしょ! 試合は見たの! 見てっていったよね! 今年の三年生の、なち姉の代の最後の試合だよ。まだ最後にするつもりは無かったけど、でも、最後の試合だったんだよ。見たよね」
「知らないよ」
「じゃあ今からでも見てよ!」

別にビデオやDVDに録画したものがあるわけでもない。
ただ、売り言葉に買い言葉。
勢いで口にした。
麻美はテレビのリモコンを探す。
ベッドのすぐ側、割と手近な位置にあった。
電源を入れる。
少しかっとしていたけれど、それでも冷静になってエアパーはどのボタンで見るんだろうと探す。
ボタンを見つける前に、テレビの画像が鮮明に映った。
高校生に見える男子が、バスケの試合をしていた。

麻美が画面を見る。
男子の試合? と認識した。
準決勝の二試合目だということは麻美が見れば分かる。
テレビの電源をオンにして、男子の準決勝二試合目が映った意味を考えた。
姉の顔を見る。
テレビ画面をもう一度見る。
意味は分かった。
なつみも、麻美が意味を理解したことが分かった。
麻美が姉の方を見ると、なつみは弁解じみたように語った。

「ちょっと気分転換に見てただけだよ」
「気分転換? 決勝見てたんでしょ。やっぱり気になってるんでしょ」
「うるさいなあ、いいでしょ、なっちが何見たって!」
「いいけど、でも、気になるんでしょ! 試合が。バスケが。私たちが」
「ああ、気になるさ。気になって悪かったですね」

なつみは寝返りを打って麻美に背中を向ける。
麻美は、椅子に座りなおす。
背もたれを前にして、その上に両手も置きあごを乗せて。
ベッドの上のなつみの背中を見つめる。
部屋にはテレビから解説者の声が流れていた。
背中を向けたままの姉に、麻美が声をかけた。

「三回戦は、うちの試合は見たの?」
「見た」
「そっか」

再び沈黙。
テレビの向こうでは一クォーターが終わった。
解説者が試合展開を語っている。

「なち姉出てたら勝てたかな?」
「勝てないよ」
「そうかな?」
「その前に出られないし」
「そんなことないでしょ」
「なっちが出ていい場所じゃないよ」
「なんでそんなこというの? みんな待ってたんだよ。りんねさんだって。なち姉のこと選手登録しようとまでしたんだよ」

登録メンバーの件でチームが割れて大変だったことは姉には話していない。
ただ、試合を見ていたならば、尋美が登録メンバーとし、その象徴であるユニホームがベンチに置かれていたのは見てたはずだ。

「見てられなかったよ、途中から」
「え?」
「見てられなかった。美貴が退場したあたりからは特に。うちのチームで美貴が退場したら、富ヶ岡相手に歯が立つわけ無いのに、それでも最後までみんな必死で。りんねなんか特に強くなったよね。チームを引っ張るなんてタイプじゃなかったのに。麻美も、よくスリーポイント決めたと思うよ」

見てられなかったといいながら、麻美が驚くほどよく見ている。
姉の言葉をただ聞いてしまって、言葉は返せない。

「ベンチもスタンドも、みんな頑張ってた。みんなね。だから、なっちは、みんなのとこになんか帰れないよ」
「なんで? みんな、尋美さんの分も、なち姉の分も頑張ろうって言ってたんだよ。なち姉戻ってくるの待ってたんだよ」

なつみは、上半身を起こし、麻美の方を向いて言った。

「だから帰れないんだよ! みんなあんなに頑張ってるのに、なっちはこれだよ! 歩けもせず、部屋に閉じこもって何もしてない。寝て起きて食べるだけ。帰れるわけないでしょ」
「どうしてそういうこというの! 戻りたくないの? バスケしたくないの?」
「戻りたい! 戻りたいよ! 戻れるものなら、みんなのいた場所に。みんなのいた時間に」
「じゃあ帰ってきて! 時間は戻らないけど。尋美さんはいなけど。りんねさんたちも卒業しちゃうけど。でも、チームはあるから。寮もずっとあの場所にあるから。美貴さんも、ちゃんとなち姉の場所を確保して待ってるから。帰ろうよ、一緒に」

なつみは、麻美の言葉を聞いてうつむいた。
ベッドの上で、伸ばした足を見つめる。
麻美は、姉から出てくる言葉を待った。

「怖いんだ」

ポツリと一言。
麻美は、うつむいたままの姉の横顔をじっと見ている。

「最初は、チームに戻ろうとかそういうことを思うのは尋美に悪いって思ってた。だけど、しばらくして、こんな風にしてるなっちを見たら尋美が怒るだろうなって思ったんだ。でも、みんなのところに戻るのも怖かった。なっちが尋美を後ろに乗せて自転車運転してたのは確かだしさ。それを責められるのも怖いし、責められないっていうのも、それはそれでなんか怖いし。ただ、それだけでも無くてさ。うん。あの。歩けるようになるのかなってさ」

そこまでいうと、なつみは自分の両太ももを両手でたたいた。

「リハビリすれば歩けるようになる、元のように走れるようになるかもしれない。そう言われたけど、本当になるのかな?って。全然自分の足が良くなってるって感じなかったし。もし、リハビリして、それで、いくらやってもダメなら、もう歩けないってことでしょ。それがはっきりするのが怖いんだ」
「でも、リハビリしなきゃ、絶対歩けるようにならないんでしょ」
「罰かなって。だって、尋美は死んだんだもん。それでなっちが元通りって、おかしいと思うし。ただ、そうやって、尋美のせいにばかりしてる自分も嫌でさ。試合見て思った。やっぱり今のなっちは戻っちゃいけない場所なんだって」

麻美は、背もたれに乗せた自分の両手の上に額を乗せる。
目を瞑って少し考えた。
立ち上がり、ベッドの方に座りなおして姉と横に並ぶ。
なつみの手をとった。

「なち姉。もう一回聞くよ。戻りたいんだよね? みんなのところに」 
「だから、戻っちゃいけないんだって」
「そうじゃなくて、誰かが許してくれるなら、戻りたいんだよね?」

自分の横顔をじっと見る麻美からは視線を外してなつみが答える。

「戻れるなら・・・」
「だったら今からリハビリに行こう」
「なんでそうなるの?」
「なち姉を登録メンバーにするっているのに反対したのは私なんだ。理由は頑張ってる人が他にいるのに、家で何もしてない人を登録することなんかないって」
「なっちもそう思うよ」
「だから、頑張ればいいんだよ。リハビリ頑張って歩けるようになる。歩けるようになったら寮に戻ってくる。それでいいでしょ?」
「歩けるようになるかは分からない・・・」
「もう! なち姉だって、私だって、みんな、勝てるかどうかは分からないけど練習してきたんでしょ! 一緒だよ。歩けるようになるかは分からないけど、リハビリするの! 分かった?」

なつみは妹の方を向く。
問いかける妹の勢いに負けて、小さくうなづいた。

「よし、じゃあ、今からリハビリ行こう」
「ちょっと、予約もなしに無理でしょ」
「いいの。善は急げだから。年末だし空いてるでしょ。おかあさーん」
「ちょっと、待ちなさいって」

麻美は部屋のドアを開けて階段を下りていく。
歩けないなつみにはそれを止めるすべは無い。
やがて麻美は、母親を連れて上がってきた。
有無は言わせない。
勢いで姉を引っ張り出し、二人で支えて階段も下ろして車に乗せる。
安倍なつみにとって、一ヶ月ぶりの外出になった。

 

大晦日。
一年の終わりの日。
深夜から初詣に行こうと集まった。
行き先は、学問の神様を祭る天満宮を予定している。
スポーツの神様でも勝負の神様でもないけれど、一年と少し先の受験を目指してチームを離れることにした川島のために、是永が選んだ。

「まだ少し早いよね」

高校生だけで外にいて許されるのは、塾予備校帰りでもなければ、この大晦日くらいであろう。
それでなんとなく勢いあまって家を出てきたけれど、初詣は年が明けないと意味が無いので、それまでの時間は結構暇である。

「学校行かない?」
「学校?」
「うん」

怪訝な顔して川島は問い返す。
わざわざ学校行ってどうする? と思うのが普通なところ。
ただ、是永も川島も、遊び慣れていないのでこういうときの発想は貧困なもの。
代替案が提示できず、是永に引っ張られるように学校に向かった。

とりあえず行き先は部室。
教室よりも落ち着く場所である。
鍵は部員全員持っている。
朝でも夜でも盆でも正月でも大晦日でも、問題なく入ることは出来る。

「わざわざ部室来てどうするの?」
「うーん、とりあえず寒くないから」
「そうだけどさ、だったら別にマックでも何でもよかったんじゃないの?」
「お金そんなにないし、混んでるし」
「とりあえず暖房つけますか」

電気ストーブはある。
いつの頃にか誰かが持ってきたらしい。

「ああ、荷物かたさなくちゃ」
「別にいいんじゃない? 置いといても」
「でも、途中で辞めたのに出入りするのってなんとなくしづらいよ」
「それもそうか」

部室の荷物はちゃんと撤収する人と、ずるずると卒業まで置いておく人と、卒業してもそのままの人がいる。

「体育館行かない?」
「なんで?」
「なんとなく」
「警報とか鳴るんじゃないの?」
「セコムとかは校舎だけなんだって」
「なんでそんなこと知ってるの?」
「先生が前言ってた。先生たち全部帰って校舎が締まっても練習は出来るんだぞって」

体育館には金目のものは無いと言えば無い。
跳び箱とか、売値は張るが、それを盗んで売りさばくというのもあまりないのだろう。

「ホントに行くの?」
「うん」

誰もいない学校というのは、別に何かを盗むとかそんなことをたくらんでいなくても、なんとなくどきどきしながら立ち入ってみたい場所ではあったりする。
セコムかかってる校舎はともかく、どうやら無防備らしい体育館に是永は行きたがった。

「行ってどうするの?」
「一対一やろう」
「私、一応引退したってことになってるんだけど」
「今年一杯でしょ。まだ今年は終わってないよ」
「すごい理屈だなあ」

ボールケースを持って、部室にしまってある体育館の鍵を持って、バッシュも持って体育館へ。
やれやれ、という感じをかもし出しつつも川島も是永の後をついていく。
扉を開けて中へ。

「電気つけちゃまずくない?」
「大晦日も夜まで練習か大変だなあ、くらいにしか思われないよ」

ためらい無く電気をつける。
入り口近くのボタン、12箇所をすべて押して、天井の電灯がともる。
それから、リモコンで、上に上がっているバスケゴールを降ろした。

「寒いね」
「やっぱり暖房欲しいよね、体育館」
「うん。夏の冷房も」

そう言いながら、是永はボールケースからボールを取り出す。
一つ目は川島へパス。
二つ目を引っ張り出して、そのままドリブルついて走り出す。
ゴールはまだ、天井から降りてくる途中。
その高い高い位置にあるところへボールを両手で投げ上げる。
リングに届いたけれど、大きく跳ねてあさっての方向へ飛んでいった。
ボールを追いかけて走ろうとした是永が、滑って転んだ。

「大丈夫?」
「もう、すべるー」
「靴下のまま走ったら滑るに決まってるでしょ」

川島の方はフロアに座り、落ち着いてバッシュを履く。
是永もボールを拾って戻ってきて、並んでバッシュを履いた。
天井に上がっていたゴールはようやく降りてくる。

「さむいー!」

是永がまた、ドリブルをついて走り出す。
二人だけの体育館。
ボールが弾む音が響く。
片方のゴールにドリブルで駆け込んでーシュート。
ボールを拾い上げてまたコート逆サイドへ。
川島も立ち上がって、ゆっくりとゴールの方へ。
普段着の上、コートも着たままで満足には動けないけれど、シュートくらいは打てる。
フリースローラインに入ってゆったりとシュートを打ったら、そこに是永が駆け込んできてランニングシュートを打ち、ボール同士がぶつかった。

「なんで、二人しかいないのにぶつかるのよ」
「寒いんだもん」

理由なようで理由でない言葉を言って、是永はボールを拾ってまた走り出す。
川島も、隣のコートまで転がっていったボール小走りに拾いに行った。

それぞれがシュートを打ったり走り回ったりしながら時がたつ。
是永が、少し温まったのかコートを脱いで川島の方に近寄ってきた。

「スリーポイント十本。負けた方が明日お汁粉おごりね」
「勝手に決めるなー!」
「幸先打つ?」
「もうー・・・」

そう言いつつ、川島はスリーポイントラインの外へ出て、右四十五度の位置に入りシュートを打つ。
直接狙ったのだけど、なぜかボードに当たって跳ね返って入った。

寒いし、普段着の厚着だし、集中力なんかぜんぜんないし。
適当な感じにそれぞれシュートを打っていったら、結局五対五で引き分け。
是永も、なんだか飽きたらしくボールを抱えたまま二階に当たる小さな観客席に上がっていった。
なんかテンション変だなあ、と思いながら川島もボールを拾ってゆっくりと後を追いかけた。

川島が階段を上がっていくと、是永は手すりにもたれかかってフロアを見ていた。
その横に並ぶ。

「世界一になるぞー!」
「わけわかんないんだけど」

突然叫んだ是永に、川島は呆れ顔。
だけど、是永の方を見ていたら、なんだか笑っていたので川島も笑みが浮かぶ。

「幸もなんか叫びなよ」
「いいよ」
「いいから」

ため息一つ。
付き合いきれないなと思わなくはないけれど、乗ってみた。

「医者になるぞー!」
「それなの・・・」
「だって、そうでしょ」
「ここでそれ言わなくても」

今までの思いとかそういうのを期待した是永だけど、川島としては、是永の叫んだ内容に合わせたらこうなっただけだ。

「やっぱりもう一年やらない?」
「まだ言うか」
「だってー」
「美記はアメリカ行きたいって先生に言ったの?」
「言ってない」
「なんで?」
「だって、優勝できなかったし」
「来年最初の練習で言うんだよ」
「えー・・」
「言わなきゃいつまでも進まないでしょ。卒業したらアメリカ行きたいから準備したいって」

是永は川島の方を見て曖昧に笑う。
それ以上は川島も突っ込まなかった。

「あ」
「ん?」
「12時過ぎてる」

体育館に備え付けの時計。
それが目に入って気づいた。
深夜の12時を回っていた。

「あけましておめでとうございます」
「おめでとうございます。本年も同じチームの一員としてよろしくお願いします」
「まだ言うか」
「そうじゃなくて。幸はバスケを辞めてもチームの一員だから」

川島は是永の方を向いて小さく微笑んでから、手すりにもたれかかってフロアを見つめる。
少し考えてから、是永にボールを渡し、いすに座った。
バッシュの紐を緩めて、その場で脱いだ。

「何?」
「けじめ、かな」
「なにそれ」
「今年いっぱいだから今日はまだ有りっていうさっきの美記の理屈はけっこうすごいけど、でも、12時過ぎたらそれも通用しないしさ」
「細かいなあ」
「いいの。気持ちの問題だから」
「冷たくない? 足」
「冷たい」

観客席の床はコンクリート。
暖房もついてなく人のいない深夜、冷たいに決まっている。

「私も寒くなってきた」
「そろそろ行く?」
「うん。眠くなってきたしね」
「帰ろうか?」
「それじゃ意味ないでしょ」

笑いながら川島はバッシュを拾い上げて歩き出す。
是永もボールを抱えて後に続いた。
階段を下りてフロアへ。
リモコンでゴールを上げて、ボールをボールケースに仕舞い、電気を消して体育館を出た。
体育館の扉の鍵を、川島が最後に閉めた。