返事はいらない

 

 

タイトル: 『返事はいらない』
ほのぼの〜シリアス系(?)

−午前6時30分−

ピピピピピ・・・
「・・・」
ピピピピピ・・・
「・・・んー・・・」
カチャッ

−午前6時35分−

ピピピピピ・・・
「・・・」
ピピピピピ・・・
「・・・」
ドンドンドン!!
「お姉ちゃん!起きて!!お姉ちゃんってばー!!!」
「んー・・・」
カチャッ
「お姉ちゃんっ!!」
「ぁ・・・おはよぅ・・・」
朝。今日も気持ちの良い朝だった。まだ眠気の方が強かったが、なんとか
ベッドから出ないように注意しながらカーテンを開けてみる。
「・・・んー!!!気持ち良い・・・!」
そう言うと中々ベッドから出ようとしない少女は小さく背伸びした。

石川梨華、16歳。市内の私立高校に通う高校1年生。
友達思いで優しく、彼女の周りは常に明るい友人に囲まれている。ただ、周囲
の様子を気にしすぎて身を引くこともしばしば。自分から目立とうとはしない。
それから、少し朝には弱い。

「もぉ!気持ち良いじゃないよ!何回目覚まし止めれば気がすむのよー!」
「えへへ・・・だって朝は眠いよー」
「朝じゃなくても眠そうな顔してるでしょー、ほんとにもぉ・・・」

梨華は毎朝繰り返されるこの何気ない日常が好きだった。
中々起きることができない自分と、それを知って毎朝起こしに来てくれる
少女、そして繰り返される取り止めの無い雑談・・・
朝の気分でその日の気分が決まってしまう梨華にとって、この少女との会話
は一日でもっとも重要なイベントである。
この一連の作業を終えると、いつものようにやる気が出てくる。
「あ!朝練に遅れちゃうっ!じゃあ、お姉ちゃん私もう行くよ!」
「はーい。バレーがんばってね、ののちゃん」
「うん!お姉ちゃんもちゃんと朝ご飯食べて行ってね」
「はーい」

辻希美、13歳。市内の私立中学に通う中学2年生。
2人の通う学校は中高一貫のエスカレーター式で、校舎自体も隣同士。
家も隣で、梨華とは小学校に入る前からいつも一緒だった。
人見知りしない明るい性格から、特に年上の受けは良い。

「じゃあ、行ってきます、お父さん」
梨華は居間に置いてある小さな仏壇にそう言うと、元気に外へ走っていった。
梨華には父親がいない。彼女が小学校に上がる前に何かの事故でこの世から
去ったと母親から聞かされた。だが、母親は具体的なことは何一つ教えてくれ
なかった。
母親は朝が早い。いつも梨華が目を覚ますと母の姿はすでに無い。その代わりに
梨華が学校から帰ってくると必ず家で待っていてくれていた。
そして、必然的に隣に住んでいる希美が毎朝梨華を起こしに来るようになった。

梨華は自分を取り巻くこの環境が好きで仕方がなかった。
学校の友達、可愛い妹のような希美、母の作ってくれるホットケーキ、向かいの
家で飼っている犬のロシナンテ。父親がいないのは確かに寂しいと思うが、物心
ついた頃にはすでに母と2人だったため、正直あまり考えられなかった。

「はいっ!戸締りおっけぇ!」
家を出ると、必ず一度戸締りを確認する。
それからいつも通りの道を歩いていった。途中で一箇所急な上り坂があり、そこ
だけは苦手だった。梨華にとってはこれが大きな関門で、ここを超えると学校へ
の道が開ける、いわゆる精神力の試練である。と、昔希美に話したことがあった
が、思い切り笑われて落ち込んだこともある。
「っよし!」
今日も小さく気合いを入れて、梨華はその坂に挑んでいった。

「電車っ、電車っ、まだかな〜♪」
急な上り坂を超えるとすぐに駅が見える。梨華はその駅のホームの一番前で電
車を待っていた。
梨華たちの通う学校は電車で3駅のところにあり、十分自転車でも通える距離
だったが、梨華は電車通学が好きなので毎日電車で通うことにしている。
たまに部活帰りに遅くなると希美や他の友達の自転車に乗せてもらうこともあ
る。
「あ!梨華ちゃん、おはよー!」
と、突然後ろから元気な声がした。自分の世界に入り込んで歌っていた梨華は
驚きつつも後ろを振り返る。
「あ、よっすぃーじゃない!もう、驚かさないでよー」
「え??そんなこと言われても普通に声かけただけだってばぁ」
「うふふっ、ごめんね!おはよ、よっすぃー♪」

吉澤ひとみ。15歳、梨華と同じ私立高校に通う1年生。
さっぱりした性格でありながら面倒見が良い、容姿もどちらかと言えば長身で
格好良いタイプであることから、女子からの人気は圧倒的に高い。
梨華とは大の親友で、切っても切れない仲。

「あ、そう言えばよっすぃー昨日さぁ…」
どこでも見ることのできる普通の光景だった。
学校に行く途中の友達同士のたわいのない雑談。だが、当の本人たちからすれば
これはとても大事なことで、今生きていることを確認できる大切な時間だった。

「…それでさ、もうののちゃんってばお母さんみたいなこと言うの」
「あの子ほんとに可愛いよねー」
梨華は吉澤とごく普通の会話をしながら電車を待っていた。
周りには梨華たちと同じ制服を着た学生がぽつぽつと見受けられる。
電車で3駅という近さのために登校時間も遅くなり、どう贔屓目に見てもラッシュ
とは言えないホームには、それでもけだるそうなサラリーマンやOL、さらには何
が目的で電車に乗るのか分からない一見大学生風の猫背の男など、いろいろな種類
の人物を見ることができる。
そういった、すいてるとも混んでるとも言えないホームに電車の到着を知らせる放
送が流れた。ゆっくりと電車の乗降口を示すラインに人の流れができていく。
自然と梨華たちの後ろには人の列ができることになる。
そのとき、梨華は後ろにふと何か別の気配を感じて反射的に振り返ろうとした。
「??
きゃっ!!!!!」
梨華が振り替えるほんの一瞬前、突然伸びてきた手は梨華の背中に深く沈んでいた。

ドンッ!!
「きゃぁぁー!!!」
そのまま何の抵抗も無く梨華は線路に落ちていく。
「梨華ちゃん!?」
一瞬何が起こったか分からなかったが、ホームを大きくそれて線路に落ちていく梨華
を見て吉澤は体中に悪寒が走る。血が沸騰するのを全身で感じた。
吉澤は梨華を助けようと手を伸ばすも、ぎりぎりで届かない。
梨華と目が合った。
息はできない。
頭が真っ白になった。
横を見る。
「!!電車が…!!」

吉澤の体は硬直した。助けようとして、線路に飛び降りようとしても体がそれを
許さない。また、梨華も同様だった。線路から逃げようとしても上手く体が動かせ
ない。
電車は体の奥まで響くような警笛を鳴らしながら、車輪からは白い煙をあげながら
必死に止まろうとしていた。
「やばい…むりだ…!」
誰かがつぶやく。梨華たちは不運にもホームの後ろの方で待っていた。
いくらスピードを緩めているといっても電車は止まれそうもない。
「梨華ちゃん!梨華ちゃん!早く逃げてぇぇ!!」
吉澤は半分狂ったように叫ぶ。
電車はもうすぐ近くに迫っていた。梨華の座り込んでいる場所で止まることができな
いということは、物理を勉強していない小学生でも理解できた。
ジリリリリリリ…
誰かが警報機を押したらしく、ホームが騒音に包まれる。だが、これで電車が止まる
わけもなく、周りの人間をさらにパニックさせるだけだった。
吉澤は梨華と電車を交互に見ていた。電車がものすごいスピードで近づいてくるのに
比べ、梨華の動きはイライラするほど遅く見える。
認めたくないと強く思いながらも、もうだめだという気持ちはぬぐいきれなかった。
吉澤に予知能力はなかったが、梨華と電車が重なる瞬間が鮮明に見えていた。
もう声も出ない。涙も出ない。ただ夢を見ているようにふわふわと飛んでいるような
感覚しかなかった。
と、突然吉澤の身体が軽く突き飛ばされる。
「どけっ!!」
一人の人間が吉澤の脇を通り抜けて線路に飛び降りていた。
吉澤はその姿に見覚えがあった。

線路に飛び出したのは髪をブラウンに染めた少女だった。
「…捕まってろ」
そう言うと少女は梨華を抱き上げ、機敏な動きで反対側の線路へ飛ぶ。
キイィィィィ…!!!
ほぼ同時にたった今梨華が座り込んでいた場所を耳障りな音をたてて電車が通り
過ぎていく。
「・・・!!
 梨華ちゃん!梨華ちゃん!?」
目の前を鉄の塊が通り過ぎる様子を見て、やっと吉澤は正気を取り戻した。
電車を挟んでいるために梨華の姿が見えず、吉澤は大きな不安に襲われる。
梨華が居た位置からかなり進んだところでようやく電車は止まり、乗客もなにご
とかと騒ぎはじめている。悲鳴が上がらないところを見ると、最悪の事態は回避
されているはずだ。そう信じたかった。
「梨華ちゃん…!」
我慢できずに吉澤は電車を回り込んで線路に降りようと走っていた。
恐い。
もし梨華ちゃんが大怪我でもしていたらどうする?自分が助けなかったから?
梨華ちゃんは私を許してくれるかな。ダメだろうな…
走る速度がだんだんと遅くなるのが分かった。でも、なによりも梨華の顔が見た
かった。見て何を言われてもいい。とにかく梨華に会いたい。
一度落とした速度をまた上げて電車の先頭車両を越えた。後はここから線路に降りて
戻るだけだ。
「梨華ちゃん!」

そこには呆然と立ち尽くす梨華の姿があった。
吉澤は急いで駆け寄ると梨華の肩をゆすりながら話しかける。
「梨華ちゃん!大丈夫!?」
しばらく梨華はそのまま呆けていた。そして、突然糸が切れたように泣き出した。
「よっすぃー!!私、私…恐かったぁ…
死んじゃうかと思って…もう…よっすぃーに会えないって」
吉澤は今にも崩れ落ちそうな梨華の体を必死に支えていた。
「梨華ちゃん…私…ごめんね!
助けに行こうと思っても、体が、体が全然動かなかった…!」
「いいの…いいよ…よっすぃーは全然悪くないよ…」
吉澤も泣いていた。

その後は精神的に疲れることが多かった。
駅員から呼ばれたと思えば警察まで出動していて、午前中はとうとう学校に行く
ことができなかった。
駅員は優しかったが、警察の態度は酷いものだった。
散々その時の状況を聞いておいて、5分後にはまた同じことを聞こうとする。
何回説明しても同じ質問の繰り返しで、梨華も泣きそうになっていた。
結局、たいして解決もしてないまま2人は開放されることとなった。
「また」という警官の声はもう一生聞きたくない。
2人で駅前のマックで昼食を食べた後学校に行くと、今度は連絡を受けた学校で
大きな噂になっていたらしく、午後はほとんどの時間を職員室で教師相手に話す
ことで過ぎていった。

午後4時。
やっと開放された2人は、とにかく人気の無いところへ行こうと屋上へ来て
いた。
「んー!気持ち良い!
やっと自由になれたねー、梨華ちゃん」
晴れ晴れとした表情で吉澤は梨華に言った。
「はぁ…もう私疲れたなぁ。
よっすぃーは元気だね、いいな、うらやましいよぉ」
それからしばらくは2人とも黙っていた。
屋上に吹く春の風は本当に気持ち良く、梨華もようやく落ち着いていた。
「ね、梨華ちゃん…」
5分くらいたっただろうか、吉澤が梨華に話しかける。
「え?なぁに?」
梨華もそれに眠そうな声で応じる。もう少し放っておいたら眠っていただろう。
「あのさ、助けてくれた人ってほんとに分からない…?」
実際、今までいろいろと聞かれてきたが、梨華はずっと誰が助けてくれたのか
は分からないと言っていた。
「…うん、実はね、見たことがあるような気はするんだけど、本当に誰だかは
分からないの。誰だったのかなぁ、お礼言わないといけないのに…」
気が動転していた梨華は、あの時のことをほとんど思い出す事ができなかった。
何とか分かるのは、助けてくれたのが女性だったことと、髪の毛に色が入って
いたことだけだった。声も思い出せない。
「あ、あのね梨華ちゃん。私その人にちょっと心当たりがあるんだけど…」
「えっ!?ほんと?
誰なの?私も知ってる人かな?」
「う、うん。あのね、たぶんだとは思うけど…」
嬉しそうに聞いてくる梨華に、吉澤は複雑な気持ちになりながらも、ゆっくりと
答えた。
「後藤さん…かな」

「後藤さん??」
自分の思っていた人物とは違ったのか、梨華の反応は薄い。
「梨華ちゃん知らない?」
「うーん…よく分かんない…」
「あのね、一応この学校の娘なんだ、後藤さんって」
「えっ!?そうなの?それなら早くお礼言わなきゃ!」
そう言って今にも出て行きそうな梨華を吉澤は制止する。
「ま、待って梨華ちゃん!
ほらほら、話は最後までちゃんと聞かないと」
少し冗談っぽく言うと、梨華も微笑してまた床に座り込んだ。それでも早く後藤と
いう人物に会いにいきたがっていることは容易に分かる。
「どうしたのよっすぃー?あ、後藤さんって何組の人?」
「うーん、それが…
あのね、梨華ちゃん。後藤さんってずっと学校に来てないみたいなの」
「え?そうなの?」
「うん。なんかさ、いろいろと問題が多い人みたいだよ」

後藤真希。16歳、梨華と同じ私立高校に通う1年生。
入学してから学校にはほとんど姿を見せず、後藤を良く知る人物はいないが、どこ
そこで見たという目撃情報は意外に多く、それらを総合すると決して良い噂が流れ
るような人物ではない。

「…私を助けてくれたのがその後藤さん…?」
梨華は一通り吉澤の話を聞いても信じる気にはなれなかった。
それは、自分を助けたのが後藤であることを信じたくないのではなく、自分を助けた
後藤がそういう人物であることを信じたくないという気持ちだった。

吉澤がどこまで後藤を知っているのかが分からないが、話を聞く限りでは梨華を助け
た人物は後藤であると言わざるを得なかった。
「うん、だからさ…どこにいるかも分からないし、その、あんまりお礼とか言わない
方がいいんじゃないかな」
「そっかぁ…」
露骨に残念がる梨華に、吉澤の胸は苦しくなっていた。
(後藤さんの悪い噂…梨華ちゃんには言えないよ…)

「お姉ちゃーーーんっ!!」
ふいに下のほうから大きな声がした。梨華たちが屋上の手すりからグランドのほうを
見ると、希美がぴょんぴょんと飛び跳ねながら叫んでいる。
「あ、ののちゃん!どうしたのー!?」
梨華も叫んで聞いてみるが、いまいち声が小さくて聞こえないようだった。
「梨華ちゃん、グランドに行こうか?」
「…そうだね!」

「ほんと、心配したんだからね!!!」
梨華がグランドに来るなりそう言うと、希美は梨華に抱きついてきた。
「うん、ごめんね」
梨華も希美を優しく抱きしめる。

そして、希美はぱっと梨華から離れると少し下がって言う。
「ね、今日はもう帰るの?」
これも良くある光景の1つだった。隣の中学が終わると希美はちょこちょこと
こちら側に来ては梨華たちを誘って家に帰っていた。
「うん。疲れちゃったし、今日は部活も休もうと思ってたし」
梨華はそう答えると今度は吉澤に向かって言う。
「よっすぃーも、一緒に帰るよね」
「あ、うん。私は帰宅部だしね」
「それじゃ、テニス部の先輩に言ってくるからちょっと待ってて」
そういうと梨華は小走りに部室の方へ走っていった。
残された2人は顔を合わせて笑いあう。
「あれ?ののちゃんは部活どうするの?」
「あ、私も今日休んじゃった!
だって心配でバレーも手につかないよー」
「はは、そうだよね。梨華ちゃんだけに余計心配だし」
「あー!よっすぃーひどいなー!」

帰りは3人に対し自転車が1台しかなかったため、歩きになってしまった。
梨華は希美に「今日は自転車を学校に置いて電車で帰ろう」と何度も言ったのだが、
希美はそれを断固として拒否した。
確かにあんなことがあった後で、梨華としても望んで電車に乗ろうという気分には
ならなかったが、2人の顔には出さないが疲れた心情を考えると電車で3駅は遠い
と思っての提案だった。
そんな梨華の配慮も吉澤の「こんな時まで私たちに気を使わなくてもいいよ」とい
う一言で杞憂のものとなった。
実際、梨華は気の置けない親友に対しても気を使うことが多かった。
自分では癖のようになっていて、それをよく吉澤に指摘されてようやく気付くとい
ったことも多い。

「ね!ちょっと寄っていかない?」
ちょうど家と学校の間くらいのところで吉澤が言った。
吉澤が指さす先には『I WISH』と書かれた看板が立っている。
位置的にも学校の近くのため、ここにはよく学生が集まっている。梨華も例に違わ
ずたまに利用していた。
店内はカウンターの周りにテーブル席が6つほど置いてある、一見すると西部劇風
のバーのようなところだった。ただし、西部劇と違うところはマスターが口ひげを
生やした無口な男ではなく、学生達と気軽に雑談を交わしては表情豊かに笑顔を見
せる20代半ばの女性というところである。
「あ、私ここ入ったことなーい!入ってみたいな!」
希美がすかさず賛成する。中学生の彼女には普段の生活では入る理由もなかったし、
梨華と一緒の時でもなんとなく入ろうとは思わなかった。でも、興味がないわけで
はないし、こういうちょっと大人の世界が見てみたいというこの時期の少女ならで
はの憧れもある。
「・・・うん、疲れちゃったしね、入ろっか」
梨華が答えると希美は「やったー!」と飛びはねて喜んでいた。
その様子に2人は思わず笑ってしまった。
(やっぱりまだ子供だねー)
吉澤が希美に聞こえないように耳打ちしてきた。

カランカラン・・・
「いらっしゃーい、って梨華ちゃんによっすぃーやんか!
久しぶりやなー、もう来てくれへんのかと思ってたわ」
店に入るなりマスターである女性が言ってくる。
まだ早い時間のためか客は梨華たちだけで、3人はとりあえずカウンター席に並んで
座ることにした。
「裕子さん久しぶり!電車通学してるとどうしてもねー」
吉澤が笑いながら答える。
「あれ?そっちの可愛いお嬢ちゃんは初めてやな。お名前は?」

中澤裕子。27歳、喫茶『I WISH』の店長。
梨華たちの学校の女生徒にとっては姐御的存在で、恋愛や勉強の相談をよく聞いてい
るため、人によってはクラス担任よりもその人物を良く知っている。

いつも思うのだが、梨華はこの中澤を『保健室の先生みたい』だと表現している。
何かあれば何でも相談に乗ってくれるし、何よりも相手の立場になって考えてくれ
ている。中澤に相談して進学先を決めた人もいるそうだ。

「あー!あんたがあのののちゃんか!
梨華ちゃんがいつもののちゃんの話してるから初めて会った気がせぇへんわ」
初めて来た希美も中澤の人当たりのよさにすっかり慣れたようだった。
すでに友達のように冗談を言い合っていた。
「あ、そんな話ばっかしてたらうちがもうからんわ。
なんか注文してほしいな」
中澤が笑いながら言った。
「私はいつもの『ミラクルナイト』!」
すかさず梨華が答える。
「あ、じゃあ私も」
吉澤もそう言った後、希美は周りを見回して普通の喫茶店とメニューがまったく違う
ことに気付いた。
「みらくるないとって何ですか??」
中澤に聞いてみる。
「あー、うちの店はな、メニューが全部オリジナルなんや」
中澤の話によると、今梨華が頼んだものはコーヒーの種類で、裕子姉さんオリジナル
のブレンドだそうだ。中身は企業秘密で教えてくれなかった。
そのほかにもいろいろと不思議な名前のものがあったが、そのどれもが最後には中澤
オリジナルの企業秘密とやらでごまかされてしまった。
「えっと、そしたら私は・・・あのバイセコー?っていうサンドイッチお願いします」
変な名前だな、と思いながらもおなかの空いていた希美はサンドイッチらしきものを
注文した。中澤は「はーい」と言って背を向けて調理を始めた。

「でもお姉ちゃん、なんで線路に落ちちゃったの?
いくらお姉ちゃんでもホームで寝てたってことはなさそうだし」
「あー、ひどいなー、いくら私でもそんなことしないよ」
サンドイッチを食べながら希美は聞いた。特にどこが特徴的とは言えないが、これも
裕子姉さんのオリジナルらしい。注意して食べると確かに少し普通とは違う香りがす
るような気もしたが。
「あ、でも梨華ちゃん誰かに押されたって言ってたよね・・・?」
吉澤が口をはさんだ。コーヒーを口につけ、熱かったのかすぐにまた離して受け皿に
戻す。猫舌の吉澤はさっきからこの作業を繰り返しているため、コーヒーの中身は全
然減っていない。
「うん・・・でもね、ほんとに押されたのか分からないし、ただぶつかっただけだと
思うんだけど・・・」
梨華のコーヒーはすでに半分ほど減っていた。
「なんや梨華ちゃん、線路に落ちたんかいな!!?」
しばらく奥に行っていた中澤が戻ってくるなり話に参加してくる。
梨華たちは今日のことを中澤にゆっくりと順を追って説明した。朝から数えてもう何
十回と説明してきたことだが、不思議と今回は話していて嫌な感じは無かった。
詳しい話ははじめて聞く希美も真剣に耳を傾けていた。

「はぁー、そりゃ大変やったな・・・」
10分後、すべてを聞き終わって最初に口に出たのが中澤のこの言葉だった。
希美もすでにサンドイッチは食べ終わり、おまけでもらったココアを飲んでいる。
「うん。でもやっぱり押されたのかぶつかっただけなのかは分からないの・・・」
梨華はそう言うと2杯目のコーヒーを飲み干した。

「祐子さん、またねー!」
あの後、小一時間ほど雑談を交わして梨華たちは店を出た。
帰り際に中澤が言った「もっとちょくちょく顔だしてなー」という言葉にみんなで
答えて再び帰路につく。
「すっっっごくおいしかったね!また行きたいな」
希美は『I WISH』が相当気に入ったようで、いつも以上にはしゃいでいた。
中澤も希美は気に入ったらしく、なにかある度に希美の頭を撫でていた。その様子
を2人で「親子みたい」と言ったら中澤に怒られてしまった。
「あ、それじゃあ私はここで」
さらに10分ほど歩いたところで吉澤が言う。
「あ、そうだね、うん。それじゃあまた明日ねっ!」
そう言って梨華は軽く吉澤に抱きつく。
「きゃははっ、もう梨華ちゃんやめてよー」

このとき、梨華の心はあることでいっぱいになっていた。
冗談のふりをして吉澤に抱きついていったのだが、本当は吉澤に自分を抱きしめて
欲しかった。
誰かに状況を話す度に大きくなっていったある1つの確信。
(あれは偶然の事故じゃない)
「梨華ちゃん・・・?どうしたの?」
思わず力が入ってしまい、吉澤も梨華の異変に気がついた。
梨華の顔をのぞき込むと、少し涙ぐんでいた。
「!う、ううん、何でもないよっ!
それじゃあまた明日ねっ!遅刻するんじゃありませんよー」
梨華はそれだけ一気にまくして、吉澤に背を向ける。
「さ、ののちゃん帰ろう」
そして希美を促すと、家に向かって足早に歩き出していた。
「あ、うん」
希美はとまどいながらも梨華の後を追う。
残された吉澤はしばらくそこを動かなかった。
「梨華ちゃん・・・」

家に帰り着くと、今度は母親に説明をすることになった。
よほど心配していたらしく、夜ご飯も作らないで梨華を待っていた。
梨華は途中で寄り道したことを少し悪いと感じながら、再び今日の事故を母親に話
した。
それから、いつもより時間をかけてお風呂に入り、早めに寝ることにした。

「長かったな・・・」
こんなに一日が長いと感じたことはなかった。
あの事故にあったのはもう昨日のことのように感じる。実際、あのときの恐怖はす
でに薄れている。今の不安は線路に落ちたことではなく、もう1つのことだった。
「やっぱり・・・事故じゃないのかな・・・」
つぶやいて、大きなため息をつく。
『1回ため息をつくと幸せが1つ逃げるんだよっ』
梨華の脳裏に昔の記憶が蘇ってくる。
ずっと昔、小学生の低学年の頃だったと思う。あの頃はよくため息をついていた。
何がイヤだったというわけではない。ただ、ちょっとしたことですぐため息が出た。
そんな時に希美に言われた言葉だった。
詳しい経緯は忘れたが、それからはため息はつかないように心がけてきた。
すると、自分でも驚くくらい周りが明るくなったのを覚えている。確かにため息をや
めてからはずっと幸せだった。
「幸せ・・・逃げちゃったかな」
今日一日を振り返ってみても、知らず知らずため息をついていたことに気付いた。
それを思い出してまたため息をついてしまう。

その日、梨華は夢を見た。
今朝の事故の夢だった。
電車の来訪を知らせる放送が流れて、自分の後ろに人の流れが集まってきて・・・
そして、突然時間が止まる。
しばらくたって、動き出したかと思えば人の流れがもとの位置に戻っていった。
ちょうどビデオの巻き戻しのような感じだった。
それからまた電車の来訪を告げる放送が流れて人が集まってくる・・・
これを数回繰り返していたが、ある時これまでと違うことが起こった。
電車が近づく放送が流れたあと、人の列ができる。そこまでは同じだ。だが、急に
後ろの方に何かを感じる。夢の中で梨華は振り返った。
しかし、やはり振り返る直前に背中に衝撃が走る。
それからはひどくゆっくりと線路へ落ちていった。
スローモーションで転落していく中、梨華はいろいろなものを見た。
吉澤が手を伸ばしてきた。必死にそれを掴もうとするが、ぎりぎりのところで届か
なかった。
天井が見えた。
横を見ると電車が近づいてくるのが分かる。
そして――

梨華の目に1つの影が映った。何故目に入ったのか分からない。
分からないが、梨華にはその影しか見えなくなっていた。
深く帽子をかぶり、カジュアルな格好をした人間。短いスカートをはいていた。
帽子の間から鋭い目が光った。
周りが暗黒に包まれる。いつの間にか電車の音も聞こえなくなっていた。
真っ暗な空間には自分とその少女だけになっていた。
少女が笑ったような気がした。いや、確かに笑っていた。
口の端をつり上げ、冷たい目をしながらほんの一瞬だけ笑っていた。
そして、くるりと振り返り、歩き出した。
──少女は金髪だった──

「!!」
自分の叫び声で梨華は飛び起きた。
「はぁ・・・はぁ・・・」
ひどく汗をかいている。ベッドから抜けだし、電気をつける。
急な明るさで目がくらむが、無視して時計を見た。
「・・・3時・・・」
取りあえず着替えて、またベッドに入った。
電気はつけたままで、さっきの夢を思い出していた。
「誰・・・なの・・・?」

 

 

ピピピピ…
「…」
カチャ
「…はぁ、もう朝になっちゃった…」
結局昨日はほとんど眠れなかった。庭で涼んだりして気分転換してみたが、ベッド
に入るとまた事故のことを考えてしまい眠れなくなる。
テレビをつけてみても、すでにプログラムは終了していて砂嵐が流れているだけで
さらに気分が悪くなった。
最後の手段だと思い、キッチンに行って母がよく飲んでいるワインをグラス1杯分
飲んでみた。確かにふわっとした感覚はあったが、ただそれだけで眠くなるとは少
し違う感じだった。
「気持ちよくなーい…」
普段は寝付きが良いこともあり、眠れない辛さを経験するのは久しぶりだった。
カーテンを開けて朝日を浴びるが、ただ気だるい。
もう梅雨の時期だというのに、ここ数日間は太陽が隠れるようなことは全くない。
いつもは天気が良くて喜ぶ梨華も、今日ばかりは大雨に降って欲しい気分だった。

コンコン
「お姉ちゃーん?起きてるの??」
ドアの向こうから希美の声がした。いつもはうるさいくらいに響いている目覚まし
の音が聞こえないために戸惑っているようだった。
しばらくして、ゆっくりとドアが開く。
「あ、やっぱり起きてたんだ。おはよ!」
希美の様子はいつもと変わらなかった。
「おはよーののちゃん…相変わらず元気だね
もう太陽より明るいから目が眩むよー」
梨華はそう言って力無く、それでも少しいたずらっぽく笑う。
「あれぇ?お姉ちゃんが朝から冗談言うなんて珍しいね!
どうしたの?」

「昨日あんまり眠れなくて」
「え…それってやっぱり昨日の…?」
「うん、それもあるけど…それだけでもないのかな…
うまく説明できないよ…」
「そっか…」
それから少し2人とも黙っていたが、突然希美が声を上げる。
「ご飯食べよ!ね?
お腹いっぱいになったら気分も良くなるよ」
そう言うと、梨華は半ば無理矢理引っ張られる状態でキッチンへ連れて行かれた。
「食欲ないなぁ」
と言いながら、梨華はテーブルの上に2人分の朝食が並んでいることに気付いた。
無言で希美を見ていると、自分の反対側に回り込んで椅子に座った。
「あれ?ののちゃんも食べるの?」
この状況だとそうだとしか言えないが、一応聞いてみる。
「うん、そうだよ」
予想通りの答えなのだが、やっぱり何か気になる。梨華の不思議そうな顔に気付い
たのか、希美が続けて話し出す。
「昨日の夜におばさんに電話して、私の分の朝ご飯も良かったら作ってくれません
か?ってお願いしたの」
「どうして?」
「えっと…あ、今日は朝錬ない日だから、たまにはお姉ちゃんと水入らずで朝ご飯
でも…ダメかな?」
「うーん、言い訳としては20点」
「うあ…」
口ではそう言いながらも正直言って嬉しかった。
希美も自分なりに、自分のやり方で梨華を励まそうとしている。そう考えると胸が
じんとくる。
やっぱりののちゃんが居てくれてよかったよ。このままだと私今日は学校休んでた
かもしれない。あの坂でギブアップしてたかも。
「ののちゃん…ありがと」
梨華はそう言って微笑んだ。
「…うん」
希美も内心照れながらも、それを隠して答える。
「食べよっかな」
梨華はそうつぶやいて、手近なところにあった卵焼きをとって口に運んだ。
いつもよりも美味しく感じた。

「実はね」
今日は梨華も自転車を引っ張り出してきた。しばらく使ってないためにサドルの部分
には埃が溜まっていて、タイヤの空気も抜けていたのだが、とりあえずは乗れそうだ
った。埃を払って、倉庫をひっくり返して空気入れを探し、ようやく見つけた空気入
れの使い方が分からずに手間取ったりもした。
そして、やっとのことで出発して2人で並んで走っているときに希美が切り出した。
「よっすぃーに言われたの」
「え?何のこと?」
「昨日の夜電話があったの」
「よっすぃーから?」
「そう」
「…」
「あのね、梨華ちゃんが心配だから明日の朝は一緒に行ってあげて、って」
「…よっすぃーが…」
もう時期は過ぎてしまったが、ほんの1ヶ月半前は桜の季節だった。学校へ続く桜並
木は幻想的な桃色の花を咲かせていたのだが、今はその面影が少し残る程度だった。
風がそよぐたびに葉っぱは地面へと落ちていき、それは雪のような動きをしていた。
歩道が広く作られているため、2人が並んで走ってもまだ前から来る人がすれ違う
余裕はある。
その歩道が広いのが原因なのかは分からないが、逆に車道は狭くつくられていた。
そのためにドライバーからは裏道として認知されているようで、もともと表通りも
そんなに車が多いわけではないこともあって車はほとんど通らなかった。
「奇麗だね…たまには自転車もいいよね」
梨華がつぶやく。

「あ!よっすぃー!」
希美が前方を指差して言った。その先にはちょうど昨日別れたあたりで吉澤がこちら
に向かって手を振っている。
2人はスピードを上げて吉澤のもとに急いだ。
「おはよー!」
希美がそう言いながら派手にブレーキをかけて止まる。
それに続いて梨華もゆっくりと吉澤の前で停車した。
「よっすぃーおはよっ!」
「ののちゃんに梨華ちゃん、おはよ!」
思ったより元気な梨華の姿に安心したのか、いつも以上に声が張っていた。

吉澤が加わり、今度は3列に並んでの走行になった。
さすがに前から人が来ると避ける必要はあったが、この時間に学校側がら来る人は珍
しく、ほとんどそうすることはなかった。
朝という誰もが急いでいる時間の中、梨華たちはゆっくりと学校へ向かった。
それでも余裕を持って学校に着くはずだったが、途中で出会った真っ白な犬――サモ
エドという種類だそうだ――に希美ががっちりと心を奪われてしまい、学校に着いた
頃にはすでに大半の生徒は登校していた。

「それじゃあねー」
中学校に行く希美と別れて、梨華と吉澤は高校の自転車置き場に入っていった。
なるべく校舎に近い方に自転車を止め、教室へと向かう。
「梨華ちゃんもう大丈夫?」
吉澤が口を開く。
「あ、うん!昨日はよく眠れなかったけど、今は全然大丈夫だよ!」

授業が始まると、吉澤は本当に梨華が大丈夫だという事を実感した。
驚くことに、梨華は4時間目まで休むことなく眠りつづけ、昼休み前には完全にいつ
もの梨華に戻っていた。
普段は真面目な梨華が堂々と居眠りする姿に、教師たちもどう言って良いのか分から
ないらしく、結局注意を受ける事はなかった。
それに対して梨華は「これが人徳ねっ」と自信満々に言っていた。

昼休みは売店でパンを買って2人で屋上へ行った。
4時間目が早めに終わったおかげで、2人そろって一番人気のやきそばパンを買うこと
ができ、梨華もいつも以上にご機嫌だった。
「そろそろ暑くなってきたねー」
澄み切った青空を見上げながら吉澤が言う。
「んー、でもまだまだ夏には遠いよ
もーっと暑くなるよ、そのうち」
梨華は少し大袈裟に腕を広げて答える。
梨華は夏が好きだ。確かに暑いとテニス部の練習も辛くなるが、それでも冬に凍えそ
うになりながら練習するのよりはだいぶマシだ。
それに、夏はプールで泳いだりみんなでキャンプに行ったりと楽しいことがたくさん
ある。長い長い夏休みがあるのも大きい。
「あー、だめだなぁ、私…
寒いのも嫌だけど暑すぎるのもねー」
吉澤は典型的な春が好きタイプの人間で、周りが描いているいつでもさわやかな『吉
澤像』とは少し違い、ゆったりと過ごす方が好きだった。
真夏は何もせずに寝転んだままアイスをかじる姿を見ることも多い。

午後一の授業は体育だった。
梨華と吉澤も体操服に着替えてグランドに出ていく。
「じゃあ3チームに別れてソフトボールな。
…チームの代表出てこーい、じゃんけんして…
うん、じゃ、最初おまえたちが審判な
そしたら先攻後攻決めて…」
方言ではないだろうが、少し特徴的な体育教師の指示に従い7人程度のチームを作る。
梨華は吉澤と同じチームに入りたかったのだが、出席番号順でチーム分けされてしま
い結局同じチームに入ることはできなかった。
「よっすぃーいないとつまんなーい」
半分冗談ですねている梨華を見て、吉澤はもう心配することもなくなっていた。

最初は梨華のチームが審判で、吉澤は試合をしている。
吉澤は帰宅部のわりには運動神経が良く、4打数4安打と大活躍していた。
周りの女子から黄色い声援を浴び、照れながらも汗一つかかずにホームインする吉澤は
やはり格好良かった。
「さっすがよっすぃー!」
審判といっても全員でするものでもないため、梨華はベンチで試合を見ていた。
吉澤が活躍するたびに大声で祝福し、吉澤もそれに軽く手を振って答えていた。
「よっすぃーも何か部活すればいいのにねー」
隣で見ていた少しぽっちゃりとした少女が言う。
中高一貫の私立学校であるがゆえに、ほとんどの生徒は中学校からそのままこの高校に
上がっくる。そのため、たいていの生徒とは顔見知りだった。
この少女も例に違わず中学校からの仲良しグループの一人だった。
「だめだよ、いくら運動神経が良くても本人のやる気がないもん」
「だよねー、高校入ったら少しはやる気出すと思ってたけどやっぱだめか」
2人で話していると、ファールボールが転がってきた。
「なっちー!!ボール取ってー!」
遠くで吉澤が叫んでいた。

「よっすぃータッチ!」
パシッ
「梨華ちゃんがんばれ!勝つのよっ!」
15分後、見事吉澤のチームは勝利をおさめ、勝ちぬけということで梨華のチームと入れ
代わる。梨華は吉澤とすれ違いざまに勝利の約束を交わし、はりきってフィールドへと
走っていった。

「よし、じゃあ始めー」
相変わらずな体育教師の掛け声で試合は始まった。
梨華はというと、気合は入っていたものの2回ほどエラーをしてしまい、ひたすら苦笑
いで切り抜けていた。
「梨華ちゃんテニスは上手なのになんだかなー」
吉澤は誰にというわけでもなく呟く。
そして、ふと目線を上げた。
「あ、3年生…」
グランドを挟んで向こう側にある体育館から、3年生と思われる集団がぞろぞろと
出てくる。
進路相談でもあったのかな?などと思いながら大して気にせずにまたソフトボール
の試合を観戦する。
「あ!ねぇねぇよっすぃー!あれあれ!!」
と、隣で一緒に観戦していた少女が3年生の一団を指差した。
「え?どうしたの?」
吉澤は何に向かって指差したのかが分からなかったため、少女に聞いてみる。
「ほら!あの人!矢口さん!」
「矢口さん…?」
一瞬分からなかったが、吉澤はその名前に聞き覚えがあることを思い出した。

矢口真理、18歳。梨華の通う私立高校の3年生。
おしゃべりが大好きで明るく、ムードメーカー的な存在。先輩後輩といった壁に関係
なく誰にでも優しく、小さい体に金髪といったキャラクターも手伝って後輩にとって
は一種の憧れとして人気絶大。

「矢口さん格好良いよねー…」
これ以上ない憧れの目をしてとなりの少女は呟いた。
「私矢口さんのこと良く知らないけど、そんなにすごい人なの?」
吉澤は素直に聞いてみることにした。少なくとも、第一印象では不良的な感じがして
好きにはなれそうもないタイプだった。
「あのねぇ、そうだなー・・・とにかく優しい人だよ!
よっすぃーも一回話したら絶対好きになると思うけどなー
うーん・・・ものすごく明るい梨華ちゃんって感じかな」
ものすごく明るい梨華ちゃん・・・分かりにくい例えだったが、それでも矢口の人の
良さは分かったような気もする。
今度話してみようかな?と思いながらもう一度矢口を見てみる。
確かにそう言われてから見てみると、矢口の笑顔は見ていてとても気持ちが良い。
周りの友達も純粋に矢口を慕っていることが良く分かり、吉澤は自然と矢口に惹かれ
ていた。

ふと、矢口と目が合った気がした。
「あ・・・」
「ん?よっすぃーどうしたの?」
「今・・・矢口さんがこっち見てたような気がして」
そう言ってもう一度矢口を見る。
「あ、やっぱり」
確かに矢口はこっちを見ている。が、吉澤を見てはいないようだった。
何故かがっかりしながらも、吉澤は矢口の目線の先を追っていた。
そして、矢口の見つめる先には梨華の姿があった。
「矢口さん・・・梨華ちゃんのこと知ってるのかな・・・?」
2人が友達同士であっても別におかしくはないが、吉澤にとっては意外な組み合わせ
だ。そうなんだ、と思いながらもう一度矢口を見る。
ただ、梨華を見つめる矢口は笑顔ではなかった。

「あれ?目覚ましの時間間違えたのかな…」
目覚ましが鳴って数秒とたたないうちにスイッチの部分を軽く叩いて止める。
吉澤は寝起きは良かった。目覚ましの音に逆らわずいつも通り体を起こす。
そして、寝起きの心地よい気分にまどろむこともなくベッドを離れ、部屋の反対側に位置
するカーテンを開けてみた。
「うわぁ…すごい大雨…どうりで暗いわけね」
6月のとある土曜日。
ようやく梅雨らしい大雨が降っている、特に普通と何も変わらない日だった。

あの日、梨華が電車事故にあった日からもう2週間が過ぎようとしていた。
今では梨華も事故のことなんて全部忘れているようだった。事故が起こる以前とまったく
変わることもなく普通に過ごしている。
先週から、梨華はまた電車で学校へ通うようになった。
列の先頭のほうで待つことはなくなったが、特にショックを受けているようでもなく梨華
の中ではすでに『過去のこと』になっているようだ。

「こんなに降ってると出かける気も起きないな…」
いつもの癖で着替えようとしていたが、たまにはパジャマで過ごすのも悪くないかな、と
思って着替えは中断することにした。
今日は学校は休み。せっかく買い物にでも行こうと思っていたのだけど、これだと中止に
するしかないようだ。
「梨華ちゃんは今日部活だって言ってたけど…」
この大雨だと休みになってないかな?
吉澤は携帯を取り出し、リダイヤルで梨華に電話をかけた。

呼び出し音は鳴っているが、しばらくたっても電話に出る様子がない。
(あと5回…4回…)
ベッドに寝転んで、残り回数を自分で決めてカウントダウンをする。
と、残り2回のところで突然呼び出し音が途切れる。
「あ、梨華ちゃ…」
てっきり梨華に繋がったものと思って話し始めたが、電話の向こうから聞こえたのは
梨華の声ではなかった。
『――ただいま、電話に出ることができません…』
「あ…」
どうやら梨華も電話には気付いているみたいだが、忙しいのか話すことはできないよ
うだった。まあ、梨華の性格上早いうちに折り返し連絡してくるだろう。
どうせ暇だし、もう少し待ってようかな。
吉澤はそう思ってベッドに寝転んでテレビを付ける。
しばらくそのまま横になってテレビを見ていたが、すぐに飽きてきた。
土曜日の朝というのはなんでこう面白い番組をやってないんだろう…
くるくると一通りチャンネルを変えてみるが、吉澤の興味を引くような番組はまったく
ない。
少し考えて、今度はコンポのスイッチを入れる。
部屋の中に心地よい音楽が流れ出したところでとりあえず満足し、パンでも焼いてこよ
うかなと部屋を出ようとした。
だが、ドアを閉める直前にテーブルの上に置いた携帯がブルブルと振動を始めた。
「あ、梨華ちゃんだ」
電話ではなくメールを送ってきたようで、いつも流れる梨華専用の着信音ではない。
それでも吉澤は急いでメールを見る。
『ごめんねよっすぃー!今日も部活あるんだってさ
今電車だから電話できないの、ほんとごめんねっ』
ごめんねっ、の後ろにはハムスターが頭を下げて謝っている絵が付けてあった。

午前11時。吉澤は駅前にいた。
バケツをひっくり返したとまではいかなくても、洗面器くらいはひっくり返したような
大雨の中、たいした用もないのに駅にきているなんて自分でもばからしいと思う。
でも、なんとなく昨日から今日はデパートでもうろつこうかな、と決めていたこともあ
り、大雨がほんの少し小降りになったスキをついてやってきたのだった。
デパートに行く、といってもただのウインドウショッピングだし、どうせ何も買わない
ことは分かっている。
「なんだかなー」
いつもに比べて全然やる気がでない。
周りの様子も普段の土曜日と比べるとやはり活気はなく、ちらほらと色とりどりの傘が
揺れているだけだった。

「…よし!」
いつまでもこの調子だと埒があかないと思い、自分に言い聞かせるように気合を入れ
て、吉澤はデパートの中へと入っていった。
とりあえず傘をたたんで、入り口に束ねてある専用のビニール袋の中にしまう。
それから目標を決めて洋服売り場へと向かった。
外は大雨ながらもデパートの中はやはりそこそこ混んでいて、休日特有の騒がしい雰
囲気が味わえた。車で来ていると思われる家族連れが多く、小さなゲームコーナーか
らは耳を塞ぎたくなるような音量で泣いている子供もいる。
洋服売り場は3階にあるため、エスカレーターで行くことにした。
2階に上がるとスポーツ用品店がある。吉澤にはほとんど行くこともない店だったが
入り口に掲げてある大きな看板に自然と目が向いた。
『全商品 40%OFF!!!』
そう言えば梨華ちゃんガットがどうとか言ってたな…
テニスのことはよく分からないが、梨華ちゃんに教えてあげようかな。
他には特に目を引くものもなく、吉澤はそのまま3階へと上がっていった。

20分後、3階のフロアを一通り見て回った吉澤はエスカレーター付近のベンチに腰掛
けていた。
やはり何も買うことはなく、持ち物は来たときと同じリュックだけである。

女の子っぽいスタイルは苦手なため、どうしてもカジュアルでさっぱりとした服装に
なってしまう。そのために、ウインドウショッピングとは言っても普通の女性のよう
に試着といったこともほとんどすることはなく、適当にぶらぶらしているだけだった。
確かに今日のスタイルもTシャツの上に薄手のジャケットを羽織り、下はジーパンと
いう地味なものだ。
地味なのだが、それを吉澤が身につけるととたんに存在感が大きくなる。
梨華の母いわく「よっすぃーは完璧に洋服を着こなしてるからすごくカッコ良い!」
だそうだ。自分ではそんなつもりもないのだが、周りから見るとそう見えるらしい。
本当は梨華が着ているようなピンクを基調とした可愛い服にも憧れている。一度梨華
の服を着てみたこともあったが、鏡に映っている自分がしっくりこなくて直ぐに着替
えた。
それでも梨華は相当気に入っていたらしく、今でも2人で買い物に出かけると何かと
可愛い服を選んでくれる。その度にやんわりと断っているが、内心では嫌な気はしな
いし、やはり憧れも弱くはない。とは言うものの、実際に買ったとしても着る勇気
がないことは分かりきっているために、いまいち踏み切れないのだった。

しばらくして、吉澤は昼食でもとろうかと1階に戻ってきた。
「軽いものがいいなー・・・ベーぐる食べたいな・・・」
時間はたっぷりあるんだし、散歩気分でゆっくり選ぶことにしよう。
飲食店が並ぶこのフロアでは、ファーストフードから少し高めのイタリア料理店まで
一通りのものは揃っている。
それでもベーグルが置いてありそうな店はなかなか見つからなかった。

「うーん、ベーグルないならやっぱりドーナツかな・・・あれ?」
手近にあったミスタードーナツには入ろうとしたが、見覚えのある人影に立ち止まる。
「・・・矢口さんかな・・・?」
小さなカフェテリアのような店の、店頭のテーブル席に座っているのは確かに矢口に
見える。周りに友人らしき人物はいないようで、どうやら1人で来ているようだ。
矢口は読書をしているためにこちらには気付いておらず、前のテーブルには小さな
コーヒーカップが置いてある。
(どうしよ・・・)
以前から矢口のことが気になっていた吉澤にとって、話しかけるにはこれ以上ない
シチュエーションなのだがなかなか決心がつかなかった。
一方的に知っているだけで、向こうは自分のことを知ってるとは思えないし、いきな
り話しかけても大丈夫だろうか?
(・・・いってみよっかな)
吉澤は矢口に向かって歩き出した。
カフェという場所で本を読む矢口の姿は、よくあるドラマの風景のようだった。
(うわぁ、近くで見るとほんとに可愛い・・・)
吉澤の方が年下なのだが、矢口を先輩だとはどうしても思えない。
背だって希美と同じくらいじゃないだろうか?
近くで見るとやはり全然不良という感じはなく、フランス人形と言った方が分かり
やすいかもしれない。
そして、吉澤はテーブルの反対側に周りこんで声をかけた。
「あ、あの・・・!」

「矢口さん…ですよね?」
自分でも不自然なくらい緊張しているのが分かった。
いくら周りから「矢口さんって良い人だよ」と言われていても、元々自分の苦手な
タイプはやはり話すのに勇気がいる。
しかも相手は同じ学校の先輩で、アイドルのような人だ。
「え?…あ、そうですけど…」
声に気付いた矢口は、戸惑いながらもはっきりとした口調で答えた。
パタンと本を閉じ、吉澤の次の言葉を持つ。整った顔立ちは子供のような無邪気さを
想像させる。
「あ、あの私同じ高校の吉澤といいます。あ、1年3組です!」
後から考えると恥ずかしい自己紹介だったと思う。
が、今はこうするのが精一杯で、真っ白だった頭の中からこれだけの言葉をひねり出し
たんだから十分良くできたと思うことにした。
「えっと、うん。吉澤さんね
私は矢口真理、よろしくね」
矢口はくすっと笑うと右手を差し出してきた。
吉澤はあわてて手を握る。
「よ、よろしくお願いします…!」
最初は警戒していた矢口も、同じ高校の後輩だということで安心したらしく、読みかけの
本を机に置いたまま吉澤を見てにっこりと微笑んでいた。
「うん、よろしく。あ、それで私に何か用なのかな?」

実際に会ってみると、矢口は本当に親しみやすい人物だった。
あの後、とりあえずコーヒーを注文してから矢口の前の席に座った。
言葉に詰まりながらもただ矢口と話したかっただけだということを伝えると、矢口はそ
れこそ子供のように笑っていた。
「でもほんとに緊張したんですよー」
いろいろと話していくうちに吉澤も少しずつ慣れていったのか、だいぶ落ち着いた口調
になっていた。
それが矢口の持つ独特な空気なのかは分からないが、吉澤には矢口が自分と同じ目線で
話しているような気がして、とても先輩だとは思えない。
目の前で楽しそうに話している少女は、どう見ても自分より幼く見える。

そして、吉澤はすぐに矢口の世界に引き込まれていった。
自分でも驚くくらいすぐに矢口と打ち解け、すでに緊張感は感じなくなっていた。
矢口のほうも、吉澤に好意を持ったのかそれとも普段からこうなのかは分からないが、
とても楽しそうに会話を楽しんでいた。
目の前で表情豊かに、そして少し大袈裟に話している矢口を見るとこの人がみんなに好か
れている理由も分かる気がした。
ただ、前に言われた「ものすごく明るい梨華ちゃん」というのはやはりよく分からない。
似てる気がしないでもないが、梨華ちゃんはもう少しドジかなぁ。そう考えて思わず笑み
がこぼれる。

吉澤は意外に顔見知りする方だったが、矢口は人と話しをすることがとても上手く、途中
で話が途切れるといったことは無かった。
「…それで、この前の体育の授業の時に初めて矢口さんのこと教えてもらったんです」
「あー!もしかしてあのソフトボールやってたやつでしょ!
私ほんとあの体育教師だめでさー!なんていうか生理的に体が拒否しちゃうの
『はいじゃあじゃんけんして〜』とか言うでしょ、なんか気持ち悪いんだよね」
まさにその通りだったので吉澤は飲もうとしたコーヒーを吹き出しそうになった。
「ぷっ、あはは!ほんとにそっくり!
みんなあいつのこと気持ち悪がっちゃって体育のたびに文句言ってますよ」
「だよね、もうすぐ体育でプール始まっちゃうから覚悟したほうがいいよぉ」
そう言って矢口は上目遣いでじっとりと吉澤を見る。
「うわぁ!そんな目で見られるんですか!?
セクハラですよ、それ!」
「まあ、これはやりすぎかもしれないけど、やっぱ注意はした方がいいかもだよね
ひとみちゃんみたいな純情な乙女は騙されやすいからねー」
「大丈夫ですって!私だったらプールに突き落としてやりますから!」
「おー、頼もしいじゃん!ひとみちゃん格好良いから女の子にもてるタイプでしょ」

吉澤は一気に矢口のファンになってしまった。
確かに先輩なのにこんなに話しやすい人はいないだろうと思うし、すごく明るくて話題
も抱負でしかも優しい。
これで嫌いになれと言う方が難しい。
さっき知り合ったばかりでも矢口の性格はよく分かったと思う。

梨華ちゃんにも教えてあげようかな、と思ったところでふと先日の体育の授業のことを
もう一度思い出した。
確か矢口さん、あのとき梨華ちゃん見てたような気がするけど…

「あの、矢口さん私と同じクラスの石川さんって知ってます?」
すでに友達のように話していたため、話を切り出すことには特に神経を使うこともな
くなっていた。ごく自然に矢口に聞いてみる。
「え?イシカワさん?
うーん…良く分からないなぁ、顔なら知ってるかもしれないけど」
矢口は当然のように顔をしかめて考え込んでいたが、やはり聞いたことがない名前の
ようだったのか、逆に吉澤に質問してきた。
「そのイシカワさんがどうしたの??」
「え?あ、いや特に意味はないんですけど、私の友達なんです、その子」
そう言われるとここで梨華の話をするのは唐突すぎた。どうしてこんなこと聞いたのか
自分でも不思議だったが、矢口にしてみればさらに意味不明だっただろう。
それでも、矢口が梨華を知らないことは分かった。
「あ、そうなんだ。良く分からないけど納得しておく」
矢口はそう言ってまた笑顔を見せた。
と、吉澤のポケットから最近流行のメロディが流れてきた。女性10人組みのグループで
ここ1年でメンバーの加入や脱退を繰り返し、現在爆発的な人気を誇っているアイドルの
歌だった。
「電話?」
矢口が聞く。
「あ、はい、すいません」
そう言って吉澤は電話を取った。着信メロディで、相手は石川であることは分かっている。
「もしもし、梨華ちゃん?うん、私…どうしたの?」
矢口は電話をしながら笑顔を見せる吉澤をじっと見つめている。
その視線に気付いたのか、きまりが悪そうに吉澤が苦笑すると矢口はもう一度にっこりと
笑ってコーヒーを口に含んだ。
「あ、そうなんだ。うん…うん、分かった…それじゃ、後で駅前ね
分かってるってば、梨華ちゃんこそ忘れずに来てよねっ」

ピッと電話を切って一息つき、矢口に「すいません」ともう一度言う。
「ね、もしかして今のがイシカワさん?」
矢口が笑顔のまま聞いてくる。
「え?あ、そうです。何で分かったんですか?」
吉澤が驚きながらも問い掛けると、矢口は一言「女の勘よ」と口に人差し指を当てて答え
た。その様子があまりにも彼女の幼い容姿にそぐわない仕草で、思わず吉澤は笑ってしま
った。矢口もそれに合わせてくすっと笑う。
「今からイシカワさんと会うんだ?」
「はい、後30分後くらいに駅前ってことで」
「それならもう少し時間あるね。ひとみちゃんがここ出るまで私も付き合おうかな」
矢口は腕時計を見ながらそう言って、コーヒーのおかわりをもらっていた。
「あ、そういえば矢口さん今日はなんでここにいるんですか?
誰かと待ち合わせなんですか?」
ふと吉澤は今まで疑問に思わなかったのが不思議なくらい自然な質問をする。
確かに、この大雨の中ただカフェで読書をするためだけに外出するとは思えない。
「私?うん、この後ちょっと人に会うことになってるけど」
やっぱりそうなんだ。当たり前といえば当たり前なのだが、本人の口から聞いてやっと
納得する。
「時間は大丈夫なんですか?」
「あ、全然平気だから気にしないでいいよ。時間なんてどうにでもなるって」
「あははっ、どうにでもなるって矢口さんらしいなー」
「私らしいって、それ私が時間にすごいルーズみたいじゃん!」
「いや、だって自分でそういったじゃないですか」
今日会ったばかりとは思えないほど楽しくおしゃべりをする2人は、誰が見ても友達同
士に見える。
吉澤も、まさか一日でここまで仲良くなれるなんて思ってもないことだった。
そして、思ってもなかっただけに、とても嬉しいことだった。

「今日はいきなり話し掛けちゃってどうもすいませんでした」
「ううん、私も楽しかったよ
今度学校で会ったら声かけてよね」
「はい!喜んでっ」
「あは、そんなにかしこまらないでよ、こっちが照れちゃう
それじゃあまたね、ひとみちゃん」
「さよならー」
矢口と別れた後も、吉澤はしばらくその場に立っていた。
予想以上に可愛くて、予想以上に話しやすくて、予想以上に優しかった。
吉澤には矢口が完璧な人間に見えた。
「すっごい人だなぁ…」

5分後、吉澤は駅前にいた。
途中で傘を忘れたことに気付いてカフェまで戻ったこともあり、急いできたのだが
梨華の姿はまだなかった。
少し安心しながらも、改札口の近くで梨華を待つ。
あれだけ酷かった雨も、今では多少静かになっていた。
それでも人通りは少なく、ロータリーで順番待ちをしているタクシーのドライバー
たちも、暇そうに煙草を加えたりスポーツ新聞を読んだりしている。
「よっすぃーごめん!」
突然後ろから梨華の声がした。驚いて振り向くと、梨華が両手を合わせてごめんねの
ポーズで固まっていた。
「おっそーい!あれほど言ったのに梨華ちゃんってばもう!」
吉澤が半分冗談で言うと梨華も手を合わせたまま笑顔になる。
「だってぇ、あの後いろいろあったんだよ。
ね、聞いてよよっすぃー!」
静かに降る雨の中、静かな街を、そんなことはお構いなしといった感じで梨華たちは
騒ぎながら歩き出した。

「あのね、今日部活が早く終わったから、ちょっと調べ物してたの・・・」
2人はデパートに戻り、吉澤は半ば連れ去れる格好で3階まで来ていた。
吉澤1人なら避けて通るようなコーナーで梨華は立ち止まり、カラフルな洋服の中から
ピンク色のものばかりを選んでは吉澤の体に合わせていた。
「調べ物?」
「うん、後藤さんってどんな人なのかなと思って・・・
新入生の写真見てたの」
服を手に取りながら梨華は答えた。
「へー、にしても突然だよね、何かあったの?」
あの事故から半月近く経っているのに、どうして今になって調べたんだろう。
何かあったのかな。そう思って梨華に聞いてみる。
「うーん、良く分からないけど急に思い出しちゃって・・・
トレーニング終わって着替えてたらビビッときたの。ビビッと」
そう言って、梨華は笑いながら耳のあたりを指で押さえた。
吉澤にとってみれば、梨華にはなるべく後藤に関わって欲しくない。
確かに自分も面識があるわけじゃないし、噂だけを鵜呑みにするわけでもないが、やはり
火の無いところには煙は立たないと思う。

「よっすぃーはいつもストレッチシャツとか多いから・・・
うーん、やっぱりデニムボトムにピンクのスエットなんかどうかなぁ
あ!それともインナーをピンクにしてスエットは無地の方がいいかな?」
そんな吉澤の気持ちは知ることも無く、梨華は着せ替え人形のような状態で立っている
吉澤に次々と新しい服を持ってきては鏡を見て一喜一憂していた。

「疲れたぁ・・・」
外に出ると、雨のせいもあるがもう暗くなっていた。
近くの会社からは仕事帰りのサラリーマンが出てくる姿も見ることができる。
吉澤はやはり今回も梨華のおすすめを買わなかった。いつかは、と思うのだがなかなか
決断が付かない。
「でも楽しかったねー!」
体育祭の後のように疲れた表情の吉澤とは対照的に、梨華は元気そのものだった。
朝は部活で汗を流し、昼からは延々と買い物をこなす。この小さい体のどこにそれだけ
のエネルギーがあるのか吉澤には不思議でしょうがなかった。
「梨華ちゃんなんでそんなに元気なのよー」
立ちっぱなしで疲労した足を押さえながら梨華に聞いてみる。
「えー?だって楽しいことはどれだけやっても疲れないよ!」
こともなげに笑顔で答える梨華に呆れながらも、その体力にはやはり感心する。
(私も何か運動してみるかなぁ)
口に出すと、梨華から怒涛の勢いでテニス部に勧誘されそうなので心の中で考える。
運動嫌いではないのだが、何かに縛られることは嫌いだから部活は苦手だ。特に高校の
運動部といったら1年生だとろくに試合にも出られないらしい。
そこまでして部活で運動するのはどうもな、とやはりいつもと同じ結論に達する。
「梨華ちゃん部活楽しい?」
特に聞こうとは思わなかったのだが、ふと口をついて梨華に問い掛けていた。
梨華の手には例のスポーツ用品店で買ったテニス用のシューズが入った袋がぶら下がって
いる。
「え?うん、まあまあ楽しいよ
やっぱり1年生はコート使って練習って少ないけどね
でもテニス好きだし、みんな良い人ばっかりだよ」
「そっかー」

「あ、忘れてたけど結局後藤さんのことって何か分かったの?」
すっかり暗くなった人通りの少ない道を、2人で並んで歩いていた。
頭の上では2つの傘が当たったり離れたりしている。
「うん、顔は覚えたよ。可愛いよねー、後藤さん・・・
でもそれだけで、後は何にも分からなかったの」
「そうなんだ・・・」
少し安心しつつ吉澤は相づちを打つ。
傘に落ちる雨音の中、2人はゆっくりと進んでいく。

「それじゃねー!」
いつもの交差点で吉澤と別れ、梨華は家に向かう。
ここから家までは10分とかからないが、やはり1人で10分というのは長く感じる。
少し歩く速度を上げることにした。
吉澤には元気に見えていたかもしれないが、さすがに一日中動き回っているため梨華
も疲れていた。
(これが朝だったらあそこの坂でギブアップしてるかも)
小学校の頃の遠足を思い出す。さんざん歩いて学校に戻ってきて、疲れ果ててグランド
に座り込む。それから先生の話も終わり、さあ家に帰ろうと立ち上がったときの信じ
られないような足の重さ。
「遠いなぁ・・・」
今日はゆっくりとお風呂に浸かって体を癒さなきゃ。

「・・・」
遠くで声が聞こえた。
まるで子守り歌のような、優しい声・・・
「梨華ぁ!起きろー!」
突然耳元で聞こえた声に梨華ははっと体を起こす。
混乱しながらも横を見ると母親が腕をくんで笑顔でにらんでいた。
「あぅ、おはよう・・・」
「・・・おはようって梨華・・・まだ夜よ」
「へ?」
まだ寝ぼけているのか、枕元の時計を見る。
「8時・・・」
「そ!晩御飯できたから呼んでるのにちっとも返事しないんだもん
お母さん1人で食べちゃうよ?」
「え?え?食べるよ、夜ご飯でしょ、食べる」
梨華は母の後に付いて階段を降りていった。
吉澤と別れて家に帰ってきた後、母からまだ晩御飯の準備ができていないと言われ、梨華
は先にお風呂に入った。
ゆっくりと30分ほどかけてお風呂から上がり、まだもう少し時間がかかりそうだった
ためにベッドでごろごろしてるうちに眠ってしまったらしい。

夕食は豪華だった。テーブルに並べられた2人分のスープパスタを見て、梨華は驚きの声
をあげる。
「うわぁ!おいしそう!」
「でしょ、せっかく腕を振るったんだからちゃんと目を覚ましてから味わうのよ」
母親は笑いながら言う。
明るい家庭。
母と娘の2人家族だが、誰よりも幸せな生活だった。

翌日、梨華は再び駅に向かっていた。
昨日の様子から見ると、今日は晴れるとまではいかなくても雨は上がると思っていたの
だが、甘かったらしい。
雨は相変わらずいろいろな場所に水溜まりを作りながら降り続けている。
特に用事がって駅に行くわけではない。ちょっと散歩に出ようと思い、ついでだから
目的地を駅にしただけのことだった。
雨が嫌いではない梨華にとってはこれも良い気分転換になる。
運動に慣れているのか、若さのせいなのかは分からないが、昨日の疲れはすっかりと
れていた。

「うーん・・・」
いざ駅に着いてみると、何もすることが無かった。
昨日よりは雨の勢いも弱まったせいか、平日の昼くらいの賑わいはある。
散歩で来たのだから目的はなくて当たり前なのだが、少し考えて駅の周りをぐるっと
一周回ってみることにした。
線路を越えて向こう側へ行き、あまり記憶に無い道をゆっくりと歩いていく。
「あっ!あんなとこに雑貨屋さんがあったんだ・・・」
普段曲がることの無い交差点で曲がってみると、見たこともない店が数件並んでいた。
細い路地になっているために人通りも少なく、夜に通るのは梨華でなくても避けそうな
暗い場所である。
店に近づいて外からショーウインドウ越しに中を見る。
「うわぁ、なんかすっごく良い感じ…」
店内にはいろとりどりの商品が奇麗に並べてあり、こんな路地の中にはもったいないく
らいの可愛い店だった。
「入ってみようかな…」
梨華は誘われるように中に入っていった。

店内には梨華の他に客が2人と、この可愛い店にまったく似合わない熊のような大男の
店主のみだった。店主はたまに客の方を見ながら眠そうに目をこすっている。
(あー!これ可愛い!)
静かな音楽が流れているだけなので、なるべく声を出さないように物色する。
どうやら他の2人の客も女性らしい。
(男の人にはちょっと入りづらいかな、やっぱり)
そう思うと、レジに座っている大男がさらに場違いに見えてきた。
それでも、奥に並んでいるぬいぐるみの集団の中で一際大きな熊のプーさんに似ている
と言われればその通りだった。
(これはこれでバランス良いのかな)
どうでも良いようなことを考えながら、ふと隣にいた客を見る。
何か理由があったわけではないのだが、梨華は無意識に客の動きを追っていた。

何気なくその客は小さな犬のぬいぐるみがぶら下がったキーホルダーを手に取り、
そしてごく自然にその手を持っていたカバンに詰め込んだ。
(…え?)
あまりにも一瞬のことで、梨華には目の前で起こった出来事が理解できなかった。
そして、その客は梨華の横を何もなかったかのように通り過ぎる。
呆気に取られていた梨華だったが、すれ違った瞬間に再びあることに気付く。
(うそ!?…これって?)
客はそのままドアをくぐって店を出た。
店主も何事もなかったように眠そうに座っているだけだった。
(今の人って…確かに…!)
梨華は少し混乱しながらも急いで店を出る。
(見えた!)
まだそんなに遠くはない、これなら追いつける。
そう思い、梨華は走り出した。
「後藤さん…!」

テニス部に所属している梨華だったが、走ることは得意ではなかった。
後藤らしき人物はかなり速いペースで歩いているらしく、差は思ったほど縮まらない。
「お願いだから…もう少しゆっくり…走って…くれないかな」
息を切らしながら懸命に走り、そろそろ限界が近づいてきたところで、後藤がここより
もさらに小さな路地に入っていくのが見えた。
その先が後藤の目的地であることを願って、梨華も数秒遅れて路地に入る。

「あ…」
梨華が路地に入ると、後藤はこちらを向いて待っていた。
「何?」
たった一言。実質的に、これが始めて聞いた後藤の声だった。
思ったよりも奇麗でよく通る声だと思った。
後藤は黙ったままじっとこちらをにらんでいる。
「あ、あの…後藤さん…?」
目の前に立っている少女が後藤だという確信はあったが、それでも梨華は聞いてみる。
まだ息は苦しいが、なんとか普通に話すことはできそうだ。
地面に向けていた顔を上げ、後藤を見る。すると、一瞬後藤の顔がこわばった様に見え
た。
「…あんた誰?」
梨華が同じ店から出てきたため、おそらくカバンに入っているものについて聞かれる
と思っていたのだろう。
まさか自分の名前を知っているなんてことは考えもしなかったのか、動揺の色は隠せな
い。
「私、同じ学校の石川っていうの…
えっと、さっきあそこのお店で後藤さん見かけたから…その…」
「だから何の用なの?」
後藤はゆっくりと話す梨華がもどかしく、途中で言葉を遮った。

「え、あの…だから…あ!私のこと覚えてないかな?」
後藤の表情は明らかに曇っていた。
梨華はその重圧に負けそうになりながら、それでも一生懸命に話す。
「誰?分かんない」
そっけない返事。
後藤は梨華に対して何の興味も示さず、ただ機械的に受け答えをしているように感じら
れる。
「ほら!私が線路に落ちた時にあなたが助けてくれたじゃない!」
声が上ずっているのが分かる。
それとは対照的に、後藤の答えはあっさりしたものだった。
まるで昨日の晩御飯を思い出すような様子で答える。
「…ああ、それで?」
梨華にとって、後藤はあの時動けなかった自分を救ってくれた命の恩人だった。
今ここに自分が立っていられるのも全部後藤のおかげだった。
だから、嘘でも良いから「大丈夫だった?良かったね」と言ってもらいたい。
じゃないと私は何のためにあなたに助けられたか分からない。
あなたが命を懸けてまで救ってくれたのに、私はそこまでの人間じゃないみたいで…
梨華は多少ヒステリックになりながらも、後を続けた。
「だから!だから私は後藤さんにお礼を言いたくて…!」
期待を裏切られた感じがした。
自分を助けてくれた正義のヒーローは、どんな時でも全てに平等で、皆に優しい人間だ
と思っていた。吉澤からどんな話を聞かせれても「それでもあの時は命を懸けて私を助
けてくれた人」だから実際に話してみると本当はすばらしい人間だと思い込んでいた。
「あっそう、それじゃもう用は済んだでしょ」
後藤はそのままくるっと振り返り、梨華に背を向けて歩き出した。
予想外の突き放され様に、梨華は言葉を失った。
後藤の背中を見ながら必死に頭の中を整理する。

「ちょっと待って!」
梨華はほぼ無意識に叫んでいた。
後藤は振り返ることはなかったが、その場で立ち止まった。
「あ、あの!ありがとう…」
後藤の背中に語りかける。
「・・・」
それでも、後藤は振り向かなかった。
しばらくその場で留まっていたが、すぐにまた歩き出す。
「あの!それから・・・!」
2人の距離は少しずつ広がっていく。
梨華にはほんの10メートル程度の距離がどうにもできない位に離れて見えた。
今度は後藤も止まることなくゆっくりと歩みを進める。
徐々に小さくなる後藤の後姿を目で追いながら、それでも構わずに話し続ける。
「それから・・・!」
声が小さくなる。
「カバンの中の・・・返した方が良いと思う・・・よ」

その言葉が聞こえたのかそうでないのかは分からないが、後藤は立ち止まった。
そして、振り返る。
「何のこと?」
分かりきった表情で、少し笑みを浮かべていた。
「だから・・・さっきのお店で・・・」
「あの店が何?私が何かした?」
後藤はさらに楽しそうな顔をすると、梨華に対して挑戦的な言葉を投げかける。
梨華はその様子を見て、後藤は今の状態を楽しんでいるのだと思った。
そう思うと怒りが込み上げてくる。
何で人の命を救うような人が物を盗んだりできるの?
そんなことしても何も良いことなんか無いのに。

「後藤さんはそんなことするような人じゃないでしょ!」
もう一度声に力を入れ、叫ぶように話しかけた。
ぐっと握った手には汗が滲んでいる。
「あのさぁ・・・」
何かを言いかけると後藤はこちらへと戻ってきた。
梨華の目の前までゆっくりと時間をかけて近づく。
そして立ち止まると、特に何を言うでもなくしばらく黙っていた。
「な、何・・・?」
後藤は笑っているが妙な圧迫感がある。
思わず黙り込んでしまった梨華は、突然右の頬に衝撃を感じた。
パンッ!
「・・・え?」
一瞬何が起こったか理解できなかったが、少しずつ顔が熱くなっていくのを感じる。
手のひらで頬を押さえ、初めて自分が叩かれたことが分かった。
「ふざけないでよ!!!」
ほぼ同時に後藤が叫んだ。見る見る顔が紅潮してくのが分かる。
「なんであんたなんかに説教されなきゃいけないの!?
何様よ!?いい加減にしてよ!」
後藤は怒りを爆発させていた。
今まで溜め込んだものを吐き出すように、全てを梨華にぶつけていた。
「あんたみたいな偽善者見てるとほんとにムカツクんだよ!!
何偉そうに言ってんの?ウザイから早く消えてよ!!」
パンッ!
梨華は再び衝撃を覚える。
何が起こっているのか分からなかった。
どうして後藤が怒っているのかも、どうしてこんなに頬が痛むのかも。
ただ後藤を見ているしかなかった。

次々と浴びせられる罵声の中で、梨華が1つ理解したこと。
後藤はたぶんあの時、こっちを見て笑っていた時にはすでに何かが切れていた。
何がトリガーになったのかは分からないが、後藤を怒らせてしまった。
(嫌われちゃったのかな・・・)
この状況の中で、梨華は自分をひどく客観的に見ていた。
夢の中で空から自分を見下ろしてる気分だった。
後藤は何かを忘れるように、夢中になって梨華に当たっている。
徐々に勢いは無くなっているが、それでもやめようとはしない。

そして、梨華にはどれくらいの時間がたったのか分からなかったが、いつの間に
か後藤は肩で息をしながら元の無表情な顔に戻っていた。
「あんたみたいな奴・・・助けなきゃ良かった」
そう言って、後藤は去っていった。
『あんたみたいな奴・・・助けなきゃ良かった』
最後の言葉は、梨華の身体に深く突き刺さった。
(私、やっぱり助けてもらえるだけの価値なんか無いんだ・・・)
今になってやっと涙が出てくる。
後藤の姿はもう見えない。
その場に座り込み、手で顔を押さえたまま、梨華はしばらく泣いていた。
気が付くと傘は持っていなかった。
幸いにも霧雨のような雨だったため、特に濡れることはなかった。

「・・・はぁ〜・・・」
「なんや梨華ちゃん、ため息なんかついて」
「・・・はぁ」
「・・・私の声も聞こえへんのか
なあなあ、梨華ちゃーん、梨華ちゃーん」
そう言って中澤は梨華の目の前で指でくるくると円を描く。
「・・・はぁ、裕子さん、私どうすれば良いのかなぁ・・・」
「なんや聞こえとったんかいな」
中澤の指をつかみ、その先にある奇麗な爪を見ながらぼそっと言う。
月曜日。雨はやっとのことで上がったが、梨華の心の中は大雨だった。
学校が終わったと同時に席を立ち、部活に行くと言って吉澤と別れた。
そして、下駄箱から外に出て遠くにある部室を眺めていたら、なんとなくそこまで行く
のが億劫になってそのまま校門を出てきてしまった。
それから何分たったか分からないが、歩いているうちに『I WISH』に着いた。
店内の時計を見ると5時を少し回ったところだった。

「私部活さぼっちゃった・・・」
スプーンでいつものミラクルナイトをかき混ぜながら梨華が呟いた。
「・・・」
悪いことをしたなぁ、という思いのほかにももっと大きな別の理由があるのだが、今
はとりあえず部活のことを中澤に報告する。
その様子を見ていた中澤は優しく梨華を見つめ、それから芝居がかった口調で話しは
じめた。
「おおっ!あの真面目な梨華ちゃんが!
ついに大人の仲間入りやなー!」
両手を使って大袈裟に話す中澤に呆れつつ、梨華はスプーンを動かしながら答える。
「・・・大人って言ってもやっぱりさぼるのは良くないよ・・・はぁ」
「なに言うてんのー、つまらんことはやめてええねんって!
馬鹿正直になんでもはいはいってやっててもダメやわ」

「嫌いなわけないよ・・・私テニス好きだもん・・・!」
少しむっとした様子で梨華は言った。
「好きやゆうても、実際ここでコーヒー飲んでるやんか」
「それは・・・」
言葉に詰まる。
確かに、今ここにいる以上反論の余地はなかった。
「あんな、ここで梨華ちゃんはこうやってくつろいでる。
それが何よりの証拠やって」
反論する言葉もないが、中澤は梨華が口を挟む隙を与えなかった。
「部活さぼったくらいでいちいち気にせんと、もっとばぁーっと
いったらええねんって!」
中澤はまるでこの場を盛り上げるように話している。
それに比例するように梨華の表情も曇っていった。
「・・・」
手にとっていたスプーンも受け皿に収まっていた。コーヒーを飲むわけでもなく、ただ
カップを持って揺らしている。

「あのなぁ梨華ちゃん。梨華ちゃんくらいの年の子ってもういろんな悩みがあると思う
わ。でもな、それを全部1人で受け止めたらいかんと思う」
少し間をおいて、中澤は再び口を開いた。
「特に梨華ちゃんみたいな素直な子は何でも自分で解決しようとして、そのせいで自分
で自分を潰してしまうことがあるんや。
そんな時はな、誰でも良いから相談するの。意外と誰かに話すとすっきりして気分も
良くなるもんやで。な?」
それだけ一気に話し、やっと一息ついてから最後に一言だけ追加した。
「部活行かなかったのも理由があるんやろ?」

「あんな、子供の頃はなぁんにも疑問なんか感じないまま周りの言うことを聞いてお
けばええねん。周りがなんでもしてくれる。
でもな、そのうち絶対に自分で悩む時が来ると思うわ。
そん時は、自分で悩んで、考えて、それから答えを出せば良い。
一生懸命悩んだんや、誰も梨華ちゃんに文句なんか言わへんよ」
「裕子さん・・・」
「あとな、今私は悩んでる!っちゅう時にそんな部活したり勉強したり、何でも全部
できるわけない。ほんとに全部やってたら体も頭もパンクするわ。
要はな、梨華ちゃんが自分の力でがんばって、それで梨華ちゃんなりに出した答えを
貫いたったらええ。胸張って良いことやで!」
そう言って中澤は梨華の肩を軽く叩いた。
「裕子さん、ありがと」
梨華は肩に置かれた手を取り、心からお礼を言う。
実際、中澤にはこれまでにも数え切れないくらいの相談をしてきたが、今回は特別だ
った。いつもの中澤だと、叱咤して背中を押してくれる感じだったのだが、今回は優
しく励まされたと思う。
どこがどう違うかは分からないが、確かに今までとは違っていた。それでいて、いつ
もみたいに心の中には心地良い温かさがじんわりと広がっていく。
「これが大人の階段っちゅうやつかな。
♪君はまだ シンデレラっさぁー、ってな」
中澤はまたにっこりと笑うと、梨華の前で大袈裟に歌う。
その様子がおかしくて、梨華は思わず微笑んでしまう。
(裕子さん、あったかいなぁ)
もう少し悩んでみようと思った。

「さて、どうしようかな」
放課後の教室、吉澤は暇を持て余していた。時計は4時半を指している。
梨華は部活に行ってしまったし、他の友達もほとんどは何かしらの部活に入っている。
たまにだったら良いのだが、こう毎日暇になると困ってしまう。
「ののちゃんも部活だろうなー」
時計を見ながら教室をうろうろと動き回る。
いつものパターンだと、このまま家に帰ってそれからどこかへ出かけるか、どこかの
文化系の部室にまぎれこんでみんなで雑談でもして騒ぐかだった。
ただ、他の部に行くというのは結構勇気がいるし、ただでさえ立場的にはまだ新入生
の吉澤が気軽に立ち寄れるところはほとんど無い。
「とほー・・・」
途方に暮れている自分を表現してため息をついてみる。
周りを見回すと、自分と同じ境遇の人影がちらごらと見えるが、それぞれ自己流の暇
つぶしを行っていた。
小説を読んでいるクラスメイトの横を通りすぎ、とりあえず廊下に出る。
「・・・帰ろっと!」
このままここで考えても仕方が無い。これなら家に帰ってテレビでも見ながらお菓子
を食べる方がまだ充実してる。
これまたいつも通りの理論を展開し、吉澤は下駄箱へ向かった。

「あれ?ひとみちゃん!」
職員室の前を通りすぎ、もう少しで下駄箱だというところでふいに背中から声がした。
ひとみちゃんという呼び名に慣れていない吉澤は一瞬戸惑ったが、後ろを振り返って
矢口の姿を確認すると直ぐに笑顔になった。

「私帰宅部だから放課後暇なんですよー」
下駄箱を出てすぐの、花壇に腰掛けて2人は話していた。
制服を着ているものの、矢口は相変わらず目立っていた。下校していく生徒はちらちら
とこちらを見ては友達と何やら盛り上がり、中には知り合いなのか声をかけてくる者も
多かった。矢口はそれに1つ1つ答えながら手を振っている。
「ひとみちゃん運動神経良さそうだけど、ほんとはダメなの?」
吉澤の体を眺めながら、矢口は聞いてきた。
「うーん、運動は好きなんですけど、部活の空気がどうも合わなくて・・・」
矢口の視線にどきどきしながら吉澤は答えた。
それから、疑問に思って矢口にたずねる。
「あ、矢口さんは何かやってるんですか?」
「私?うん、部活してるよ」
矢口さんが部活。何が似合うかなぁと色々と想像するが、どうも運動部だとは考えられ
ない。かといって茶道なんかの文化系も少し違う気がする。
「あのね、ブラスバンド部」
ブラスバンド――?
あまり聞かない名前だった。そんな部あったかな、と大昔の新入生のための部活動紹介
というイベントを思い出そうとしたが、なかなか思い出せなかった。
ただ、矢口が楽器を演奏する姿を想像すると、ものすごく似合ってそうだ。

「今日は行かないんですか?」
矢口の話によると、彼女はトロンボーンを吹いているらしい。
あまりにもピッタリな楽器だったので、実際に演奏する様子を見たことがない吉澤で
もすぐに想像できた。
「うん。今日はお休みの日
というか、各自で練習して金曜日にみんなで合わせてるから、基本的にフリーだよ」
「あ、そうなんだ、それ良いですね!」
時間を決めての練習じゃなく、自分で好きな時に好きなだけ練習できる。
他もそんな風にしてくれたら部活入るのに。
そう思いながらグランドでランニングをしている生徒を見る。
「ひとみちゃんって何かに縛られるのが嫌いなタイプでしょ
確かに運動部って時間にうるさいし上下関係も厳しいからねー!」
矢口は吉澤の心を容易に読み取り、そして自然に聞いてくる。
口数の多くない吉澤にとってはありがたいことだった。
「周りの友達見てるとほんと大変みたいで、私には無理だなーって思いますよ
球拾いとか面倒で寝てそう」
吉澤はもう矢口に打ち解けていた。
先輩後輩という境界はあるものの、ほとんど友達感覚で話すことができる。
「あははっ、ほんとに寝そうー!」
矢口の笑い声は典型的なコギャル風といった感じで、かなり遠くまで響いている。
それでも嫌な感じがしないのは彼女の人柄なんだろうなぁ、とつくづく思う。
私がこんな風に笑ったら梨華ちゃんはなんて言うだろ。

「ね?もう帰るんでしょ?」
花壇から立ち上がり、スカートの埃を払いながら矢口が言った。
「あ、はい。そのつもりです」
吉澤も立ち上がり、同じように埃を払ってから答える。
こうやって見ると、やはり矢口はすごく小さいと思う。自分の胸元の辺りに
ちょうど矢口の頭があって、撫でるにはぴったりだ。
そんな吉澤の胸中を知ってか知らずか、矢口は歩きながら質問を投げかける。
「ね!家はどっちの方向?」
「ええと、あっちの方かな・・・」
「あっち・・・って、ああ、電車で来てるんだ
それじゃあここでお別れね、私自転車なんだ」
「え?矢口さんどっちなんですか?」
「えっとねぇ、あっちかな」
矢口は吉澤の家がある方向を指差す。
「あ、電車か自転車の違いで方向は一緒なんだ」
矢口はそう言うと、しばらく考えてから口を開いた。
「それじゃあ私の自転車に乗っていく?
ひとみちゃんの運転で」
キャハっと笑い声をあげながら矢口は自転車を押してきた。

「あー!自転車の後ろって気持ち良いねー!!」
吉澤の後ろで、矢口は子供のように喜んでいた。
これを見ると誰も矢口の方が年上だなんて思わないだろう。
さっきから10分近く走っているのだが、矢口の勢いはまったく衰えない。
もうすぐ初夏の季節になろうとしているため、日を追うごとに夜が来るのが
遅くなっている。5時を少し回ったくらいだろうが、周りはまだ昼間のよう
に明るい。
と、吉澤は自転車をこぎながら100mほど先のほうに見慣れた喫茶店を見つけ
た。
「あ、矢口さんあそこ寄って行きませんか?」
「あ!いいねー!ひとみちゃんも疲れたっぽいから少し休憩しようか」
2人は自転車を『I WISH』の前に止め、中に入っていった。
「いらっしゃーい」

「裕子さんこんにちはー・・・って梨華ちゃん!?」
『I WISH』に入るなり吉澤は大声を上げた。
部活に行ったはずの梨華がのんびりコーヒーを飲む姿を見れば当然だったが、それで
も後ろに居た矢口が驚くくらいの声量だった。
「ひとみちゃんミュージカルでも通用しそうな声・・・」
少し呆れた声で矢口が呟く。
周りの客もおしゃべりをやめて吉澤に注目している。
当の梨華はやはり驚いた様子で、何と言っていいのか分からないまま吉澤をじっと見
つめていた。
「よっすぃー大声出しながら店に入ってきたらびっくりするやんかー」
これを年の功と言っていいのか分からないが、中澤は特にびっくりしたといった感じ
はないようだった。
コーヒー豆をカップで計りながら、吉澤の方を見ずに話しかける。
「あっ・・・!ごめんなさい!
でも、梨華ちゃんどうしたの?部活休みになったの?」
そう言って、吉澤は梨華の隣の席に腰掛ける。
矢口も中澤に挨拶をしながらその隣に座った。
「あ!矢口久しぶりやなー!
私めっちゃ寂しかったで!」
矢口の声に気付くと、中澤は大急ぎでカップから顔を上げて言う。
まるで小猫を見るような目で矢口を見つめ、それからわざわざカウンターから回りこ
んでこちらまで来た。
隣で中澤に抱きしめられている矢口の声を聞きながら、吉澤は梨華に話しかける。
「部活なくなったんだ」
「ううん、違うの。私さぼっちゃった」
力の無い笑顔で梨華は答える。

「イヤー!祐ちゃんやめてー!」
嘘なのか本気なのか分からないが、中澤と矢口は相当仲が良さそうだった。
中澤は椅子に座ったままの矢口を後ろから羽交い締めにして、ぐるぐると振り回して
いる。
「あ、よっすぃーところで、今裕子さんと・・・遊んでる人は誰なの?」
本当に遊んでるのかどうかは分からないか、どこかで見たことのある少女だと思う。
同じ制服を着ているところを見ると、同じ学校なのは分かるがいまいち思い出せない。
「あれ?梨華ちゃん矢口さんのこと知らないんだ」
「矢口さん?」
「うん、そう。学校のアイドルなんだってさ」
「アイドル・・・」
なんだか良く分からないが矢口はそういう人らしい。
「もう祐ちゃん苦しいってばぁー!」
本気で苦しそうな声をあげる矢口に、やっと中澤は手を放す。
「愛と憎しみは紙一重ってな」
中澤はこともなげに言い放ち、矢口の頭を撫でている。
そして、今まですっかり忘れていた梨華たちの存在をやっと思い出す。
「よっすぃーと矢口って知り合いやったんかいな?」
その問いに、矢口は頭に置かれている手を取りながら答えた。
「あ、つい最近知り合ったの。ね?ひとみちゃん」
うなずきながら、吉澤はミラクルナイトを注文した。

ちょうど下校時間と重なっていることもあって、店の中はそこそこ賑わっていた。
外はまだ明るく、梅雨時にやっと訪れた天気のせいか遊びまわる子供が目立っている。
「あなたが梨華ちゃんでしょ」
先ほど中澤によってくしゃくしゃにされた髪の毛を直しながら、矢口は言った。
前のテーブルの上にはレモンをさしてあるカップが置いてある。
「あ、そうです。はじめまして」
何だかよく分からないままに、梨華も自己紹介をした。
「ひとみちゃんと話してるといっつも梨華ちゃんの話になるから、
私もなんだか初めて会った気がしないなぁ」
矢口は笑顔を見せながら梨華に言った。
そう言えば最近吉澤の口から「矢口さん」という言葉を聞いた覚えがある。
ああ、この人が矢口さんなんだ。と普通に納得して吉澤を見る。
吉澤はコーヒーを飲みながら梨華と矢口を交互に見ていた。
たぶん矢口を紹介できて嬉しいのだろう、いつも以上に吉澤は笑顔を見せていた。
「よっすぃーなんか今日はきらってしてるー」
「えぇー?そんなことないよ
第一私はいっつもきらっとしてるし」
梨華はかわいた声で笑いながら、それでも吉澤と話すことができて安心していた。
中澤に言われた言葉。「誰でもいいから相談するの」か・・・
それならやっぱりよっすぃーしかいないな、と思う。
吉澤の向こうを見ると、矢口と中澤は2人で楽しそうに話しをしていた。

「あ、そう言えば梨華ちゃん部活どうしたの?」
話がひと区切りしたところで、吉澤は何気なく聞いてみた。
さっき「さぼった」とは言っていたが、何か理由があるのだろう。
その証拠に、今日の梨華は何か調子が悪そうだった。体調が悪いのなら別に隠すこと
もなく、今日は気分が悪いと言うと思う。ということは、何かあったと考えるのが自
然だろう。
「うん、さぼっちゃった・・・」

「私ね、昨日また駅に行ったんだ」
どこを見るわけでもなく、ただ前を向いて話し始めた。
「それでさ、特になぁんにもすることがないから、線路を越えて向こうの方に
行ってみたの」
「うん」
なんで今日の部活のことを聞いたのに昨日の話なんだろ、と思いながらもわざわざ
聞くこともないだろうと思ってうなずいた。
梨華はそんな吉澤に気付く様子もなく、温かそうに湯気を上げているカップを持っ
たままゆっくりと続ける。
「そしたらすっごく可愛い雑貨屋さんがあったから、ちょっと覗いてみようかな
と思って入ったの」
「うん」
「そしたらさ・・・」
そこまで言って「はぁ」と一回間を空ける。
「そこのお店に後藤さんがいたの」
「え?後藤さんってあの後藤さん?」
それ以外に考えられないのは分かるが、それでも確かめずにはいられない。
「うん、そう」
梨華は相変わらず吉澤の方を見ずに話している。
その様子に、吉澤はある種の危惧を覚えていた。
(もしかして梨華ちゃん、後藤さんに何かされたんじゃ・・・!)
「それからいろいろあって・・・後藤さんがお店から出ていったから
追いかけて、後藤さんと少し話したの」
たんたんと、抑揚の無い口調で話を続ける。
梨華はあえて「いろいろ」の部分は語らなかった。
「・・・私後藤さんに怒られちゃった・・・」

「矢口どうかしたん?」
耳元で響いた中澤の声に、はっと顔をあげる。
目の前に中澤の顔が浮かんでいた。
「う、ううん!なによ、裕ちゃんいきなりー」
内心の動揺を隠しながら、なんとかいつものように答える。
それに気付いているのか気付いてないのか、中澤はそれ以上は追及しなかった。
隣で梨華たちがなにやら話をしていた。
その中に出てきた一つの単語。
(後藤・・・?)
確かに今この子たちは『後藤』と言った。

「梨華ちゃんあのさ」
後藤に何を言われ、何をされたのか。梨華がそれを吉澤に告げようとしたその時に
矢口は話を遮った。
「え?はい!何ですか?」
思わぬ声に驚きつつも、何とか平静を装って梨華は答えた。
隣の吉澤も驚きながら矢口を見る。
自分でもこのタイミングで声をかけた理由が分からないし、何を話していいのかは
もっと分からない。ただ、反射的に口が動いていた。
「・・・今言ってた後藤って、後藤真希のこと?」
言ってからさらに後悔する。
少し直球すぎたかもしれない。これだと相手が誰でも変に思われるだろう。
「え・・・?矢口さん、後藤さんのこと知ってるんですか?」
唐突な問いかけに、梨華ではなく吉澤が答えた。
心の準備をして、さあこれからというところで止められ、さらには今日初めて会う
人から変な質問を受けた。そんな状況の梨華にはこの質問に答えるだけの余裕がな
かった。
「あ・・・うん、少し・・・」
歯切れの悪い調子で矢口は答える。

「あー・・・あのさ、後藤って今どこにいるか知ってる?」
こうなったらこのまま行くしかない。
下手に小細工してもさらに怪しまれそうだ。
心を決めて、自分を落ち着かせた。これでまた『いつもの矢口』に戻るはずだ。
優等生の矢口真里に。
「え・・・っと、普段どこにいるとかは分かりません・・・
でも、昨日は駅の裏通りにある小さな雑貨屋さんに・・・」
梨華にとっては一瞬の出来事だった。
矢口がふと見せた、違和感の残る表情。でも、今となってはその表情さえも忘れる
ほどに矢口は笑顔だった。
今まで何も注視することがなく、突然声をかけられて矢口を見た。目の前にぱっと
現れたのが矢口のあの表情だったから気付いたのかもしれない。
ずっと吉澤を見ていたら気付かなかっただろう。
「そうなんだ。分かった、ありがと」
軽く返事をして、矢口はそれ以上は聞かなかった。
そして、くっと一息でカップを空にすると席を立つ。
「さぁて、時間も時間だし、私はこれで帰るね」
全てが矢口のペースだった。
目まぐるしい展開に梨華も吉澤もついていけない。
「あ、はい」
まるで操られるように梨華も席を立ち、矢口に挨拶する。
「それじゃあ、梨華ちゃん今後ともヨロシクね」
矢口は冗談っぽく笑うと、梨華に手を差し出した。
「あ、こちらこそ・・・」
流される様に梨華は矢口の手を握った。

(・・・えっ?)
軽く握った手に力が入る。
思った以上に小さな矢口は、梨華を見上げる格好になっている。
そして、梨華を見上げる目はほんの一瞬だが、冷酷にみえた。
「それじゃ、ひとみちゃんもまたね!」
気が付くとまたもとの矢口に戻っている。
そのまま、まるで今まで遊んでいた小学生のように軽い足取りで矢口は店を後に
した。

矢口が『I WISH』を出ていった後、梨華と吉澤は再び席に座って話をしていた。
中澤も矢口を見送って、今は普通にカウンターにいる。
「後藤さんがさ、私のこと助けなきゃよかった…って」
「…そう言われたの?」
「うん」
「…」
悲しい笑顔を見せている梨華に、正直何と言っていいのか分からない。
「私どうすればいいのかなぁ」
ぼんやりと、上を見上げて呟く。
ちらちらとこちらの様子をうかがっている中澤に気付くこともなく、まるで夢でも見
ているかのような浮遊感を漂わせている。
時計は6時をゆうに回っていたが、それでもやっと日が落ちる気配を見せるだけで外
はまだ明るかった。
店内でおしゃべりをしていた他の生徒たちも、そろそろ帰り始める者が出てくる時間
である。これが7時を過ぎると、今度は部活帰りの生徒で賑わってくるため、中澤に
とってはちょうど良い休憩時間だった。
「後藤さんってさ…」
しばらくして、吉澤が口を開いた。
「うん」
今度は梨華も吉澤のほうを向いて話を聞いていた。
「ほんとはどんな人なのかな…」
「え?」
思いがけない吉澤の疑問に戸惑う。
「後藤さんって、噂はいっぱいあるけど本当に知り合いの人って聞いたことない」
吉澤は自分に言い聞かせるように話していた。

そこへ、作業を終えてやっと休憩に入った中澤が話に加わってきた。
「あんな、よっすぃー」
奥から椅子を持ってきてカウンター越しに吉澤の前に座って言う。
「人間の心の中ってな、噂なんてもんじゃ全然当てにならへんよ
こんなことしてたからあの人は優しい人、とかおかしいやんか」
「そんなこと分かってるけど…」
「やっぱりちゃんと会ってから決めんとな
良い人悪い人はその後の話や」
そこまで言われて、吉澤は数日前のことを思い出す。
確かに、矢口には第一印象では良い感じを持っていなかった。
だが、実際に会って話してみると本当に良い人だと思った。
「うん、そうなんだよね…」
妙に納得してうなずく。
「私だってぱっと見たら恐い人やろ?」
そう言って、煙草を吹かすポーズをとりながら笑う。
「あ、ほんとそう!
私最初恐くて話せなかった」
「ほんとかよっすぃー?そんなこと初めて聞いたって!」
「言えるわけないじゃん!」
「あははっ、確かに言えないよね」
隣で笑う2人を見て、梨華もつい笑みがもれる。
「途中からしか聞いてへんから良く分からんけど
梨華ちゃんその助けてくれた子になんかいろいろ言われたんやろ?」
「うん」
「もし私がその子やったらな、安心してると思うよ」
「安心…?」
「自分が助けた子がお礼言いに来たんや
ああ、良かった。って思うやん、普通」

「さすが裕子さん…だてに年取ってないね」
口に出すつもりはなかったのだが、聞こえていたらしい。
吉澤が言った言葉に敏感に反応する。
「あーもう!よっすぃー年のことは言わんといて!
ただでさえ毎日あんたらみたいな学生相手にしとるんやから!」
冗談にしては目が笑っていない。
吉澤は慌てて場を取り繕う言葉を考え、これだ!と思ったことを口にする。
「いや、そうじゃなくってさ!
その、裕子さんだってすごく若いよ!ほんと!」
「よっすぃーフォローになってないってば」
吉澤の言葉が刺さったのか、中澤が椅子から倒れ込んだ。
それからゆっくりと起き上がって恨めしそうに吉澤を見る。
「怒んないで!悪気はなかったの!」
笑って謝る吉澤の姿に、中澤も呆れたのかこれ以上は何も言わない。
「ほんまよっすぃーって得やわ
なんでも許されるオーラ持ってるもん」
これを人柄とでも言うのか、確かに吉澤は誰からも好かれている。
普通の人だと許されないようなイタズラでも、吉澤だとなんとなく許せてしまう。
ただ、中澤にしてみると梨華も同じようなオーラを持っている分、2人そろうとやりた
い放題されてしまうのが悩みの種だった。
嬉しい悩みなので特に害はないのだが、今のような話になると困ってしまう。

「よっすぃー私さ」
場が明るくなったところで、梨華は笑顔を見せて言った。
今度は悲しさが感じられない、気持ちの良い笑顔だった。
「うん」
それに吉澤も笑って答える。
「もう一回後藤さんに会ってみるよ」
さんざん悩んで、それからやっと自分で納得できる答えを見つけた時のすっきりとし
た表情。そんな顔だった。
「…そうだね、それがいいかも」
心の中で謝りながら、吉澤はうなずいた。
(後藤さんのことでいろいろ悩ませたのって私のせいだもんね)
「梨華ちゃん、ごめんね」
今度は口に出して梨華に言う。
「ううん、よっすぃーありがと!
何事もポジティブ、ポジティブ!だよ」

心が軽くなった気がする。
家に帰って一息ついた梨華は、身軽な服装に着替えてベッドに寝転んでいた。
「今度の土曜日かな」
カレンダーに丸印をつけながら、自分のフリーな日を探す。
平日は学校があるし、放課後は部活がある。さすがに部活が終わった後にあの裏通り
に行くのは気が進まない。
今は火曜日だから、土曜日までには後3日ある。
「遠いなぁ・・・」
天井を見上げて呟いた。
せっかく決意をしたのだから、なるべく早いうちに会いに行きたい。
でないと、考える時間が増える分決意が鈍ってしまいそうだ。

特に意味もなくつけたままのテレビからは、何かの人生相談のような番組をやって
いるようだった。
たまに司会者らしき人物のすすり泣く声が聞こえては盛り上がっていた。
「・・・」
ちらっとテレビを見て、チャンネルを変える。
こういう番組は嫌いではないのだけど、苦手だった。
いろいろチャンネルを変えてみるが、結局いつもどおりの歌番組に落ち着いた。
吉澤が梨華からの電話の着信音に設定しているあのグループが、小さな舞台の中を
所狭しと動き回っては歌っている。
たまに思うのだが、もし自分があの中に入ったらどうなるだろう?
梨華も、普通の少女のように歌手に憧れたこともあった。
今ブラウン管の中で踊っている少女たちだって、ほんの数年前までは自分がアイドル
と呼ばれるようになるなんて思いもしなかっただろう。
何かの番組の公開オーディションで選ばれたのがこの少女たちだそうで、そういう
点では自分だってチャンスはあるかもしれない。
「でも大変なんだよね」
笑顔に見えるが、心から笑ってるとは思えない。
そう考えると、何も隠すことの無い生活を送れるのは幸せなことだろう。
「ま、私なんかじゃダメだろうけどね」
ふふっと少し笑いながらテレビを消し、ベッドに入った。
さあ、明日からも頑張ろうよ、梨華。

――土曜日。
木曜日からまた降り出した雨は、今日も止むことは無かった。
活気の無い静かな土曜日。おかげで、昼前までぐっすりと眠ることができた。
11時過ぎに起きて、少し早めの昼ご飯を食べる。
それから着替えて駅に向かった。
「後藤さんいるかな・・・」
傘を揺らしながらゆっくりと歩いていた。
昨日の夜から後藤に何を言おうか考えているのだが、中々思いつかなかった。
そのうち眠くなって寝てしまったが、何回か夢の中でリハーサルをやったと思う。
「いざとなると忘れちゃうもんね」
シナリオを作っても、その通りに自分が動ける自信がない以上、考えるだけ無駄
だった。
なるようになる。これ以外に何もないのだが、不思議と以前のように緊張はして
いない。
今日の目的は後藤と会うためだけである。他は何も無い。
会って、それからは分からないが、会うことが大事だった。
「えっと、ここかな・・・」
あの雑貨屋があると思われる交差点を曲がる。
「あった!」
曖昧な記憶だったが、雑貨屋はそこにあった。
前に見たときとまったく同じ、この路地には似合わない可愛い店だ。
やはり前と同じようにショーウインドウ越しに店の中を覗いてみた。
が、どうやら後藤はいないようだった。
ちらりとこちらを見た熊のような店主と目が合ってしまい、あわてて逃げるように
店から離れる。
「いない・・・」
これは予想していたことだったからそう落胆はしなかった。
たぶん、勘でしかないのだがあの時に後藤と話した場所。その近くを探せば会える
ような気がする。
梨華は雑貨屋をあとにして、あの場所を目指して進みだした。

「はぁ・・・」
あれからいろいろと探し回ったが、後藤の姿を見つけることはできなかった。
先週、後藤から罵倒された路地。そこを中心として何か手がかりになるようなもの
はないかと探したのだが、何もなかった。
寂れたビルや、何十年も前からそこにあるような古い家が立ち並ぶ街並みで、何か
を探す方が難しいのは明白だった。
もう一度あの場所に戻り、これからのことを考えてため息をつく。
人通りは極端に少なく、後藤を探し始めてから擦れ違った人は1桁に留まっている。

最後にもう一度、と思って梨華は再び路地の奥へ向かった。
「あ・・・公園」
さっきも通ったはずだが気付かなかった。
そこには誰も好んで来ようとは思わないような古びた公園があった。
小さな敷地に、ジャングルジムと小さな鉄棒、錆びてとても乗れないようなブランコ
に同じく錆びたベンチがあるだけだった。砂場も無い。
周りは大きな樹に囲まれているために日当たりも悪そうだ。
「え?」
そんな公園だから誰もいなくて当然だと思ったのだが、人影を見つけた。
大きな樹の影で雨をよけるように、ただ立っているだけのようだったが、梨華はそれ
が後藤だと分かった。
濡れているベンチに座ることも無く、後藤は何をするわけでもなく、本当にただ立っ
ている。
「後藤・・・さん」
近づきがたい雰囲気に戸惑ったが、ここに来た目的は他ならぬ後藤である。
思い切って公園に入り、後藤にの方へ歩いて行った。

「後藤さん・・・!」
雨音に消されないように、少し大きな声で話し掛ける。
後藤も近づいてくる梨華に、すでに気付いていたようでこちらを向いていた。
そしてその人が梨華だと確認するとあからさまに嫌な顔を見せた。
「またあんた?今度は何?」
後藤は投げやりに答える。
この前は少し機嫌が悪かっただけ。小さな希望を持っていたのだが、やはりそうで
はなかった。
前と同じように話しにくい感じがする。
「あ、あの、特に用事があったんじゃなくて・・・」
「ならどっか行ってくれない?邪魔だから」
「あの!私・・・後藤さんと少しお話がしたくて」
いつもだったら自分から身を引くところだが、今日の梨華は少し違った。
後藤の応対に挫けることなく、一生懸命に後藤に話し掛ける。
「・・・」
後藤は答えなかった。
「この前は・・・後藤さん怒らせちゃって、ごめんなさい」
「この前?」
「あの、先週のこと」
「ああ」
それで終わりだった。
黙ったまま、何も言わない時間が過ぎていく。
いろいろ話そうと思っていたのに、後藤を前にすると言葉が出ない。
それでも何か言おうとして、自分でも分からないようなことを口にする。
「今日は、ここで何してるの?」
「・・・別に」
少し考えたようだったが、やはりあっけない返事だった。

しばらくこんなやり取りを繰り返したが、そのうち後藤は何もしゃべらなくなった。
梨華が何を言っても反応すらしない。
そして、何も言わずに突然歩き出した。
そのまま梨華に構うことなく公園を出て、どこかへ消えた。
後藤の後を追うことも考えたが、これ以上何を話して良いかも分からない。
取り残された梨華はやはり複雑な気持ちを抱えながら、静かに雨の音を聞いていた。

外を見る。
だんだんと強くなる夏の気圧団に、梅雨の季節もやっと終わろうとしていた。
久しぶりの、カラカラに空気が乾いた晴天だった。
カレンダーを見ると7月は目前に迫っている。
「あっついなー!」
天気が良いのは嬉しいのだが、朝からこうも暑いとゆっくり眠れない。
汗はかいてないが、さっぱりしたので着替えることにする。
そして、もう一度カレンダーを見た。
6月の最後の土曜日。
梨華が再び後藤に会いに行ってから、ちょうど一週間後。
あれから梨華を注意深く見ているのだが、特に変わった様子もない。
いつも通りに学校では猫のように笑い、周りを明るくさせていた。

「どうしよっかな・・・」
梨華は今日も例の公園に行くと言っていた。
結局、先週公園で何がったのかは良く分からないままだった。
一応梨華から話は聞いたのだが、どうもはっきりしない。
梨華自信も分かってないようだったからこれ以上聞きようがないのだけれど、
逆に気にはなる。
あれから自分でも後藤のことを調べてみた。
調べたとは言っても、後藤のクラスメイトから話を聞いた程度なのだが、それ
でも少しは分かったことがある。
1つ。後藤は高校に入ってまだ2回しか登校していない。
2つ。目撃するとしたら、必ず駅の周辺である。
3つ。家にはほとんど帰っておらず、家族らしき人も見たことはない。

「・・・」
改めて整理しても役に立つような情報はまったくない。
実際に交友関係がある人物が高校に存在しないため、学校には頼れないことが
当然なのだが、それ以外の方法は思い浮かばなかった。
また、こういうときに学校というものは全然期待できないものだということも
分かった。
後藤のクラスの担任に少し話を聞こうと思ったのだが、こういった余計なこと
には首を突っ込まないことが暗黙の了解として教師の間で成り立っているらし
く、誰も何も教えてはくれなかった。
もっとも、後藤について何か知っているのかも怪しかったが。

もし。もし梨華を助けた人が後藤ではなく、後藤以外の誰か――後藤でなけれ
ば誰でも良かった――であったなら、梨華もこんな時期にまであの事故のこと
を引っ張る必要もなかったと思う。
普通の人だったら、その場で一言「ありがとうございます」と言えば、それで
終わりのはずだった。
同じ学校の生徒でありながら、その人を知る者はいない。
謎めいた人物。たぶんそれがキーワードなのだろう。
何も分からないから、知りたくなる。
自分とはまったく違う人生を歩んでいるからこそ、興味がある。
それは自分も同じだ。

「・・・今日はやめとこっかな」
家から一歩外へ出たが、あまりの熱気にまた家の中に戻る。
今日はゆっくりとテレビでも見ながら過ごそうかな。
梨華ちゃんなら大丈夫。ああ見えても、細くてか弱そうに見えても、心の奥に
はすごく強い芯を持っている。
そう、私なんかより強いんだよ、梨華ちゃんは。
自分じゃ気付いてないけどさ。
「でも、そんなところがみんなに好かれる理由なんだよね」
くすりと笑って、吉澤はテレビのスイッチを押した。

「ちょっと早かったかな」
細い腕に巻かれた時計を見て呟く。
11時過ぎといえば、まだ午前中だ。太陽はほぼ頭の真上に位置しているが。
「今日は暑いな・・・後藤さん来ないかも」
吉澤だったら誘っても渋るような暑さである。
後藤の性格はまだ全然分からないが、なんとなく暑さが好きなようには見えない。
第一、先週この公園に後藤がいたからといって、今日もいるとは限らなかった。
どちらかと言うと、来るとは思ってない。

「でも、どこかにいるんだよね」
今、同じ空の下に後藤がいることは分かっている。
ここからは見えないだけで、近くにいることは確実なんだ。そう思うと来ないから
と言って素直に落胆する必要はなかった。
あれから、先週後藤に会ってから一週間の間。いろいろと考えてきた。
後藤のことについてではなく、自分のことを考えた。
自分はこれからどうすれば良いのか?
それは何よりも後藤が一番疑問に思っているはずだ。
助けた人がお礼を言いに来て、でもそれだけじゃない。
だとしたら何がしたくてこの人はここに来ているのか。そう思うはずだった。
「私が悪かったんだよね」
笑いながら言う。
考え方を変えてみると答えは簡単に出てきた。
あの事故のことはもうどうだって良かったんだ。ただ、後藤さんのことが知りたい。
だから自分は会いに行くんだった。
(後藤さんにはそれが迷惑なのかもしれない・・・けど)
それでも良かった。
今回だけは自分に素直に動いてみよう。じゃないと絶対後悔するに決まってる。
行こう、進もうよ、梨華。
自分に言い聞かせて、梨華はベンチに座る。そしてもう一度空を見上げた。

日は傾きかけていた。
あれから夕方近くまで、5時間は待っただろうか。
後藤の姿は見えなかった。
ずっとベンチに座ってたわけではない。適当にその辺を歩いてもみたし、知らない
路地を探索したりもした。
昼食時には少し迷った。ここを小1時間程度とはいえ、離れている間に後藤が来る
ことも考えられた。
そこで、例の雑貨屋のある通りに小さな喫茶店があったことを思い出した。
中年のサラリーマンが時間を潰すような、少し汚れた感じの店だったが、この際だ
から文句も言ってられない。
とりあえず、外が見える席について通りをチェックしていたのだが、やはり後藤の
姿を見つけることは無かった。

ちょうどベンチの上にも大きな樹が立っているために、外の暑さに比べると涼しい
風が心地よい場所ではある。
暇つぶしに持ってきた小説もほとんど読み終わり、今日は諦めようかなと考え出し
た時だった。
遠くの方で子供のはしゃぐ声が聞こえた。
ここにいるとたまに聞こえる声なので特に注意もしなかったのだが、これまでもし
てきた通り一応目を上げてそちらの方を見やる。
「あ・・・!」
そこには後藤がいた。
向こうはまだ梨華に気付いてないのか、子供と手を繋いでいる。
(あ・・・)
後藤の意外な姿にかける言葉が見つからない。
(笑ってる)
少し腰をかがめて子供と笑いあう後藤は、一番最初に梨華が思い描いた後藤真希
そのものだった。

梨華はベンチから立ち上がって後藤に何かを言おうとした。
だが、梨華が言葉を発する前に後藤がこちらに気付いた。
今まで笑っていた顔が一瞬で硬直する。それから、子供に何かを言ったようだ。
子供は繋いでいた手を話すと、走って路地の奥へ消えていった。
「あの・・・」
後藤の変わりように梨華は戸惑っていた。
いつ後藤が現れてももう大丈夫だと思っていたのに、ふいを突かれるとはこういう
ことを言うのだろう。頭が真っ白になる。
後藤もまた少し動揺しているようだったが、梨華の方にゆっくりと近づいてきた。

「またあんた・・・?」
前回のように言葉に棘は感じられない。今まで笑っていたのだから、急に怒れと
言われても難しいだろう。
「あの、こんにちは!」
戸惑ったのだが、心のどこかでは安心していた。
後藤の笑顔を見ることが出来た。それは梨華にはとても大きなことだった。
「今度は何?」
それでも、梨華の前では相変わらずな表情の後藤に少しがっかりする。
そっけない。それも分かっていたのだが、何度会っても慣れることはない。
「私、後藤さんと話がしたくって!」
努めて明るい声で後藤に話し掛ける。
「何言ってんの?
この前の電車のことは分かったからもう来ないでくれる?」
険しい表情で後藤は答えた。

「ううん!あのことはもういいの
私は、あのことはもう無しにして、ただ後藤さんとお友達になりたくって・・・」
そうだ、これで良い。これが本当に言いたかったことなんだ。
今日じゃなくても良い。後藤だっていつか分かってくれる。
「はぁ?」
あまりにも予想通りの答えだったが、挫けることなく梨華は続けた。
「だから、今日は後藤さんも用事があるかもしれないから私も帰る・・・
けど、また私ここで待ってるから、また今度・・・会って欲しいの!」
ずっと言いたかったことだった。
この1週間、何度も心の中で後藤に言った言葉。
「ふざけてんの?」
「ふざけてなんかないよ!
私、ほんとにそう思ってる!」
少し怒ったように梨華が言うと、後藤は少し身を引いた。
思いがけない展開と梨華の勢いに困惑しているようだった。
「だから、今日はもうさようならだけど・・・
あの、これ」
梨華はそう言って後藤の手に小さな紙切れを渡し、そして名残惜しそうに公園を
後にした。

「なんなのよ・・・」
一人残された後藤は右手の中にある紙切れを開いてみた。
『石川梨華 090-****-****』
可愛い丸文字で書いてある。
「携帯の番号・・・馬鹿じゃないの?」
そう言って手の中の紙切れを握りつぶした。
「あんたみたいな奴、見てるとムカツクんだよ・・・」
誰もいなくなった公園で後藤は呟いた。

「はあ・・・」
何回聞いても突拍子もない内容だ。
梨華にこれほどまでの行動力があったとは、吉澤の予想を少し超えていた。
ただ、その内容はやはり何度聞いても呆れてしまう。
「梨華ちゃん・・・漫画の読みすぎだって・・・」
携帯の番号を書いた紙を渡してその場を走り去る。そっくりそのまま何かの漫画で
見た記憶がある。それが何の漫画だかは忘れてしまったが。

梨華が後藤にあの紙切れを渡した次の日、つまり日曜日だ。
どこかへ出かけようという梨華の誘いを断って、吉澤の部屋に集まっていた。
昨日と同じく、外に出るだけで体温が1度は上がりそうな暑さ。こんな日にはどこか
へ行くよりも部屋にみんなを呼んだほうが都合が良い。
なにせ自分は外へ出る必要もないのだ。待っていれば向こうのほうから来てくれる。
ちょっと気は引けるが、たまにだから良いだろうと思い罪悪感はなるべく感じないよ
うにした。

てっきり梨華が1人で来ると思っていたのだが一緒に希美も付いてきていた。
3人が吉澤の部屋にそろうのは久しぶりだった。
この前は確か半年くらい前だったかな。でも、それよりも。
吉澤は、こうして誰かの家に3人がそろうと必ず思い出すことが有った。
そう、希美の中学受験の時期。あの頃は毎日誰かしらの家で騒いでいたと思う。
名目は希美のための勉強会。ふたを開ければただの女の子同士の雑談がかなりの時間
を占めていたのは言うまでも無いが。
ただ、希美は一生懸命だった。
「お姉ちゃんと同じ学校に入る!」
毎日のように言っていたあの言葉がすごく懐かしい。
梨華たちも、受験目前になると遊ぶことも忘れて希美のために頑張った。
2人はほとんど希美の家庭教師状態だったと思う。
学校帰りに参考書を買って自分で勉強してから希美に会いに行く。
可愛い妹のためならなんだって出来た。

吉澤は思わず遠い目をして希美の頭を撫でていた。
「なっ、なに!?」
ぶるっと体を1回震わせて希美がたじろぐ。
「あ、いや、ごめん
受験の頃を思い出したらつい手が出ちゃった」
「受験ってののちゃんの?」
梨華が聞いてくる。
「うん、そう
あの時のののちゃんが可愛くてさー!」
「あー!分かる!
ガンバッてるののちゃんは可愛かったねー」
「そう!あんな可愛い子は滅多にいないよ、ののちゃん?」
その可愛い本人なのだが、まるで他人のことのように話す吉澤に希美もなんと言って
いいのか分からない。
よく親や親戚に言われる、あんたが赤ちゃんの頃は〜と同じような感じだ。
「あのののちゃんには惚れるよね!よっすぃー」
両手を胸の前でくんで、憧れる乙女のようなポーズで梨華が言った。
「うん、惚れたぜぇ!」
冗談っぽく叫んで、吉澤は希美に抱き着いた。
「いやー!」
どたばたと希美が逃げ回り、吉澤が追いかける。
梨華はそれを笑いながら見ているという、これも良くある風景だ。
そんな、ごく普通の日曜日だった。

「でも、いきなり携帯の番号を教えるなんてお姉ちゃんもやるよね」
吉澤にもらったアイスキャンディーを舐めながら希美が言った。
外は暑いが、部屋の中はクーラーを稼動させるほどではない。
開け放しにしてある窓からは夏の乾いた風が心地よく入ってきている。
「そうだよ梨華ちゃん!
まっさか私もいきなりそんなことするなんて思わないって」
「えっ?そんなに変だったかな??」
何がおかしいのか心底分からないと言う顔をして答える梨華に、呆れたように希美
が言った。
「・・・お姉ちゃん相変わらず天然ボケしてるね」
「うっ・・・」
希美はたまにスラッときついことを、悪気なしに言うことがある。
根が純粋なだけに結構突き刺さるのだが、本人はそういうことには鈍いらしく天使の
ような顔をして笑っていることが多い。
「で、でも他にあの状況でお友達になる方法って・・・」
今の今まで自分のしたことに大満足していた梨華は、希美たちに言われて初めてあの
行動のことを考えさせられる。
「確かに後藤さんと仲良くなるのは難しいと思うけど
いきなり電話番号はどうかな・・・」
吉澤もやはり呆れた様子で梨華を見る。
「よ、よっすぃーまでそんな目で見ないでよっ
だって、あの時は・・・」
しつこく食い下がる梨華に、吉澤と希美は互いに目を合わせると冗談っぽくため息
をついた。

「まあ、確かに」
肩を落とす梨華に同情したわけでもないのだが、吉澤が言った。
「私にもどうすれば良かったなんて分からないよ
これで電話がかかってきたりしたら梨華ちゃんすごい!ってなるし」
「かかってくるかな・・・」
すっかり自信をなくした梨華は小さな声で呟いた。
吉澤たちにああ言われてみると、ちょっと強引だったのかなと思う。
自分が後藤の立場だったらと考えると、少し納得する。
普通に考えると引いてしまうかもしれない。
「えっと、大丈夫だって!
お姉ちゃんはなんだか嫌われないタイプだと思うし!」
言葉足らずながら、希美もフォローを入れる。
「もー・・・2人とも私で遊んでるでしょ!」
さっきから人を落胆させたりまた勇気づけたり、どう見ても遊ばれてるとしか考え
られない。
そして、それを肯定するように希美は舌を出してエヘヘと笑っていた。
吉澤も明後日の方を向いて口笛を吹いている。
「・・・なんだかなぁ」
そう言いながらも梨華は一緒に笑ってしまう。
久しぶりに心が軽くなっていた。

――梨華がはじめて後藤に会ってから3週間後。
つまり携帯の番号を渡してから1週間後が過ぎていた。
梨華は再び駅前に来ていた。
すでに世間は7月に入っている。
気の早い大学生はもう夏休み気分だし、空には積乱雲が昇ることもある。
露天ではかき氷やアイスクリーム屋が盛り上がりを見せているし、いつでも元気な
小学生たちはプールの道具を持って走り回っている。
街並みはすっかり夏模様になっていた。

「どこにいるんだろ」
今日も梨華は後藤を探している。
既に例の通りと公園は見てきた。
さすがに今日は来るまで待ってるつもりはなかったため、引き返してきたところだ。
相変わらず日差しはきつく、いくら夏が好きでもこの暑さは好きになれない。
一度立ち止まって汗を拭いてから、駅前を観察する。
「そう偶然に見つかるわけないかな、やっぱり」
今までは運でも良かったのか、会いに行くと必ずどこかしらで会うことができていた。
確かに珍しいことだと思う。
確立から見て今日はみつからないかも、と根拠のない理論を展開しながら周りを見回し
ていると、ふと見知った人影を発見する。
「あれ?あの人って確か・・・」
最近吉澤がお気に入りの先輩。
「あ、矢口さんだ!」
小さな体を隠すようにかなり高い厚底ブーツをはいてトコトコと歩く姿は確かに矢口
のものだった。
1人なのか、足早に駅の向こう側へ歩いていく。
なんとなく気になったので矢口の後を目で追っていると、あの路地に入っていくのが
見えた。
私ならともかく、矢口さんがあんなところにいったい何の用だろう。
そう思うと体は無意識に動き出した。
振り返って、矢口の後を追って再びあの路地に向かう。
(後藤さんじゃないけどなんだか気になるよね・・・)

厚底は履きなれているのか、かなり早いスピードで矢口は歩いていた。
こんなことが前にもあったな、と思いながら梨華も急いで後を追う。
いつもの雑貨屋を過ぎ、いつもの公園を横切った。
なおも先へ進む矢口を梨華も黙って追いかけている。
見つからないように尾行するのは緊張するが、自分が重大な事件にでも巻き込まれ
ているみたいで少し楽しい。
「私って婦警さんみたい!」
少しその気になって電柱で身を隠す梨華の姿は、周りから見ると滑稽なものだった
だろう。当の梨華はそんなことには気付くこともなく婦警になったつもりで矢口を
追っていたのだが。
「あ・・・!」
変なことを考えてる間にも、矢口はどんどん歩いていく。
そして、廃虚のようなビルの、錆びてボロボロになったドアの前で立ち止まった。
「あそこに何かあるのかな・・・?」
ばれないように、ビルの陰でじっと矢口を見つめる。
何をするんだろうか。
矢口にはまったくと言って良いくらい似合わない。
今、この場で写真を撮って後からそれを誰かに見せたとしても、それは合成だと言わ
れかねないような、それほど場違いな雰囲気を持っていた。
ギイィ・・・
矢口がその錆びた鉄のドアを開ける。
鉄の擦りあう嫌な音があたりに響いた。
ギイィ・・・
矢口がドアの中に入ると、再び嫌な音を上げながらドアは閉じられた。
「ど、どうしよう」
もう見つかる心配はほとんどないのだが、梨華はまだ隠れたまま呟いた。
いくらなんでも中に入るのはまずいだろう。
かといってこのまま諦めるのは忍びない。

梨華はしばらくその場で悩んでいたが、意を決してドアの付近まで行ってみることに
した。
執拗に周りを警戒しながら移動する。
途中で自分が踏んだガラス片の音で心臓が飛び出しそうになったが、なんとか持ちこ
たえてドアの前までたどり着く。
「開けたら見つかるだろうな・・・」
ドアの前で何をするでもなく立っていたが、ふと横を見るとドアと同じくボロボロに
汚れている窓を見つけた。
中が見えるかもしれないと思って近づいてみるが、思った以上に汚れていて中まで見
ることはできなかった。
「見えない・・・」
まさかここが矢口の家であるわけもないし、誰か友達が住んでいるとも考えられない。
ましてや矢口が着るような服を売っていそうな店であるわけはなく、まったくもって
この場所に用事があるとは思えなかった。
だから余計に気になる。
なんとかして覗く方法はないものかと思案していると、少し上のほうから物音が聞こ
えた。
「にゃあーおぅ」
「・・・猫さん」
少し太った猫がバランスを取りながら、ビルにポッカリと空いた穴から這い出して
こようとしている。
「あ!あそこから中が見えないかな?」
昔はおそらく換気扇が付いていた穴だろう。
周りの壁にはヒビが入っており今では見る影もないが、昔は夕食時にはここから
美味しそうな香りが漂っていたに違いない。
梨華は周りを見回して台になりそうなものを探した。
「あっ」
裏通りなだけあって、小さなバケツが転がっている。
少し低かったが、上に乗ってみると何とか穴を覗ける高さにはなった。
梨華の軽い体だとバケツも大丈夫だろう。これで潰れたりしたら立ち直れない。
重さを気にしながら、体を左右に揺らしてバランスをとって中を覗いてみた。

「よく・・・見えない・・・うーん」
梨華の目に入ったのは薄汚れた一面の壁、それだけだった。
なんとか背伸びをして視界を広げようとするが、平衡感覚が悪いのか中々バランス
がとれなかった。
「もう・・・少しなのに・・・!」
息を止めてぐっと体を伸ばす。
「あっ!」
一瞬だけ、壁とは違う何かが見えた気がした。
もう一度確かめようと必死になって体を伸ばすが、確認できない。
「これじゃダメだぁ」
体が痛い。
慣れない筋肉を使ったためか、腰がキリキリと痛んできた。
これ以上やると年甲斐も無く体を壊しそうだ。
そう思い、梨華はバケツから降りて周りを見回した。
「もうちょっと高いのないかな・・・」
と、少し遠いところにダンボール箱らしきものが見えた。
「あ!見つけたっ」
ぱっと顔を輝かせて走る。
ダンボール箱は中に何かが入っているのか、少し重かった。
それでも、持てはしないが押せる程度の重さだったため、梨華はそのダンボール箱
を穴の下に持ってくる。
「よしっ!これでおーけー!」
準備ができたところで再び穴の奥を覗いた。

そこは小さな部屋のようだった。
ここが換気扇の穴なら、すぐそばがキッチンなのだろう。
ただ、やはり外と同じく室内も汚れていてそこがキッチンだと断言できる状態では
なかった。
奥には2つドアが見える。
1つは閉まっていたが、もう1つは開いていた。
そして、その開いたドアの向こうに人影が見える。
「矢口さん?違うかな・・・」
後姿だけで、しかもドアの影にほとんど隠れているために誰かは分からない。
ただ、奥にはもう1人いるようだ。
見たところ普通のアパートのような作りをしていた。
2LDKくらいはあるだろうか、かなり広いと思う。
ただ、部屋の汚れ具合から見てもここに住んでいる人間がいるとは考えられない。
取り壊されることもないまま使われなくなったアパート。そこを遊び場代わりに
使っているという感じである。
キッチンと思われる部屋には、やはり古いテーブルが1つだけ置かれていた。
「なんだか怖い部屋・・・」
梨華は素直な感想を言って、一度外を見る。

ドン!
と、大きな音が外まで聞こえた。
見ると、先ほどまで開いていたドアが閉まっている。
向こうの部屋に行ってたらどうしよう、と思いながらキッチンの中を捜す。
すると、2人の人影が向かい合ってテーブルに腰掛けようとしていた。
1人は後ろを向いているために分からないが、もう1人はすぐに分かった。
「矢口さん・・・」
部屋の中なのに靴を履いたままなのは気になったが、床を見るとそれも頷ける。

耳を澄ますとかすかだが、2人の話が聞こえてきた。
「いいかげん帰ってよ」
梨華はこの抑揚の無い声に聞き覚えがあった。
これまでに自分も幾度と無く聞いたあの無機質な声。
(後藤さんだ!)
やはり2人は知り合いだった。
心臓が1回、どくんと音を立てた。
「やだ」
矢口の声だ。
あまり見たこと無いから分からないが、吉澤の話だと矢口はいつも笑っているそう
である。だが、今の矢口に笑う気配はない。
優しさとはかけ離れた、冷たい目をしてただ前を見ていた。
どちらかというと梨華には今の矢口の方が見慣れていた。
梨華に見せた冷たい目。全てを上から見下ろしているような目でじっと後藤を見て
いるようだった。

「ねぇ後藤・・・」
矢口の口が再び動いた。
表情は相変わらずで、視線だけを上げて後藤に話し掛ける。
「・・・」
後藤は答えない。
2人が会っている現場を初めて見た梨華でも、場がピリピリしているのが分かる。
いくら良い方向に考えても険悪な雰囲気だった。
壁1つ隔てたダンボールの上だと、2人の会話が全て聞き取れるわけではない。
矢口の口を注意して見るが、それでも話が分からないことも多かった。
「もう・・・しないでほしいわけよ」
話が見えない。
断片的にしか、それも声が大きくなるアクセントの部分しか聞き取れない。
短い単語なら分かるのだが、長い文章になるとよく分からなかった。
「・・・」
後藤はほとんど話さなかった。
一方的に、感情のない声で話しつづける矢口。

しばらく、2人はそのままの状態で話していた。
もっとも後藤は何も言わず、後ろから見ていると話を聞いているのか寝てるのか
分からないが。
そして、10分も過ぎた頃だろうか。梨華が足に疲れを感じ始めた頃だ。
急に矢口の声が大きくなる。
「だからさぁ!何回も言ってるじゃん!
アンタはもう終わってんの!私の邪魔しないでくれる!?」
座ったままだが、イライラしたようにテーブルに肘をついて言う。
「ふざけんなよ・・・また何かするつもり?
次やったら先輩潰すよ?」
矢口よりは小さい声だったが、梨華にも聞こえる声量で後藤が答えた。
(な、何?何言ってるの?)
「やぁーっとしゃべったね、後藤・・・」
はぁっと1回ため息をつき、矢口は後を続けた。
「でもさ、アンタ頭悪いの?キャハハッ!まあそれは分かってるんだけどさ
あのね、よく思い出しなよ!アンタあの時どうなった?」
笑い声だけはいつも通りだと思った。
そして、笑ったことがきっかけなのか、矢口の表情が少し緩む。
人の良い顔に変わっていた。
「・・・うるさい!」
後藤は少し声を荒げた。
それを見た矢口はさらに顔の筋肉が緩んでいく。
「これ以上さ、私の邪魔すんなってこと!
少ない脳みそで理解できんでしょ?そんくらい
潰されるのはどっちかぐらいアホでも分かるんじゃないの?」
一言一言を、流すことも無くゆっくりと、そして嫌味な言い回しで話す矢口に
梨華は恐怖を感じていた。
(潰す・・・って、何のこと?
矢口さん何言ってるの?後藤さんだって・・・)
「先輩分かってないよ」

「分かってない?誰が?アンタでしょ?アハハッ!」
矢口の笑い声が響く。
こんな時でもイヤな声ではなかった。
「いい加減にしなよ・・・ほんとに後悔させてやるから・・・!」
「後悔?へぇ!私が後悔するんだ
私後悔なんてしたことないから楽しみだよ!」
「・・・」
口は矢口の方が上手らしい。
後藤は次の言葉を考えているのかしばらく話さない。
そんな後藤を笑って見ながら、矢口は笑みを消す。
「・・・私もさ、アンタにちょっと飽きてきたんだよね
今回のことが片付いたら・・・捨ててあげるよ、待ってな」
「!」
ガタン!
音を立てて後藤が立ち上がった。
「やっぱりあんた、最低だよ・・・先輩」
必死に怒りを震わせて、唇を噛みながら後藤は言った。
矢口の目の前に立ち、一回り高い位置から見下ろしている格好だった。
「最低?何も知らないくせにそんなこと言って欲しくないんだけど」
逆に上を見上げて、矢口は言った。
「・・・?
先輩さ、何でこんなにこだわってんの?
このことがそんなに大事なわけ?」
頭までこみ上げそうな怒りを押さえて、後藤は疑問を口にした。
矢口の肩が少し揺れた。

「・・・関係ないでしょ」
後藤に背を向けて矢口は答えた。
「アンタなんかには分かんない世界にいるのよ、私は」
歩きだす。
このまま帰るつもりなのだろうか、ドアに向かって進んできていた。
(!!出てくる!?)
突然のことに梨華は反応ができない。
(早く!早く!)
見つかると良くないことが起こるような気がした。
思わず混乱してダンボールも運ぼうとするが、途中で気付いて体だけ走って逃げた。
ギイィ・・・
ドアが開く音がする。
後ろを振り返る余裕もなく、ただひたすら走った。
ちょうどドアが開いている方向に走っているため、矢口に気付かれるとすればドア
が閉じられる時だろう。
鉄の軋む音がして数秒後。実際には3秒もたっていないはずだが、やっと梨華は角
を曲がってビルの影に隠れることが出来た。
「はぁ!はぁ!」
心臓の音が体の外まで聞こえている。
その場に膝をつき、まだまとまらない頭の中を必死に落ち着かせた。
「何・・・だったの・・・?」

ギイィ・・・
矢口は後藤に背を向けてドアから出た。
そして、何気なく周りを見回してみる。
「・・・?」
一瞬だけ見たことのあるような娘が目に入った。
「・・・見てたんだ、イシカワ」
そう呟くと、矢口は再び厚底の音を響かせて駅のほうへ歩いていった。
別に見られても構わない。
「どうせそのうち分かるんだからね・・・」

教室の中は静かな喧騒に包まれていた。
隣同士でこそこそと話しては、声を押し殺して笑っている。
教師が黒板に何かを書こうと背を向けるたびにそれは繰り返される。
週は明けて、月曜日。
季節というのは不思議なもので、今日も蒸し暑い1日だった。
誰もが夏になると冬の寒さを忘れ、冬には夏の暑さを忘れる。
それでも構うことなく日々移り変わる季節の中で、梨華も今日を過ごしている。
ここ最近は多くのことが起こりすぎて、頭の中で整理するだけで精一杯だった。
小学校の頃から付けている日記も、書いているうちにどうしても長くなってしまう。
1日で2ページ書いたこともあったくらいだ。
何もない、ただ同じことが繰り返される日常も面白くないが、ここまで目まぐるしく
変化する生活も疲れるものだった。

(梨華ちゃん…!)
後ろから小さな声で名前を呼ばれた。
同時に背中を突つかれる。
教師を気にしながら後ろを振り向くと、顔なじみの友達が手紙を渡してきた。
どこのクラスでもなぜか同じことが起こっている、授業中の手紙の回し読み。
いつものことなのでもう慣れっこになっていたが、今回は梨華宛ての手紙だった。
便箋をそのまま折って作った独特の手紙には『梨華ちゃんへ』と書いてある。
これもよくあることで、たとえ個人宛ての手紙であってもクラスの団結力はすごいもの
があって、1人1人の手を伝って必ず手元に届くようになっていた。
裏を見ると、青色の文字で『よっすぃ〜から愛を込めて』と書いてあった。
ちらっと吉澤の方を見ると向こうもこっちを見ていたらしく、ちょうど目が合った。
こちらを見てにっこりと笑う吉澤に、梨華も笑みを返す。
そして、再び手紙に目を落として吉澤のメッセージを読み始めた。

『昼は屋上っすか!
ヤキソバパンをゲットして日陰を取ろう!
私パン買ってくるから先に屋上行っててね
P.S. 元気ないみたいだけどどうしちゃったの?
何かあったら私に言ってみなさい!』
吉澤にしては長い文章だった。
いつもは2、3行ですっきりした言葉でまとめて書いているのだが、今回はそうもいか
なかったらしい。
吉澤なりに考えたのかところどころに消しゴムで消した後が残っていた。
吉澤の方をもう一度見ると、梨華の視線に気付いたのか吉澤が振り返る。
梨華は吉澤に向けてVサインをしてにこっと笑った。
時計を見るとまだ昼休みまでは30分ほど残っていた。

「やっぱ月曜はいいよねー!」
やっと午前の授業を終えて、2人は予定通り屋上に来ていた。
階下ではやっと終業を知らせるチャイムが鳴っているようだ。
「絶対5分前には終わるもんね、あの先生大好き!」
梨華の言葉に答える吉澤は、手にヤキソバパンを持っている。
梨華も同じ物を持っているところを見ると、無事に昼休み時に起こる売店での戦争は
乗り切ったようだ。
また、梨華も屋上に1ヶ所だけ用意されている、テラスとまではいかないが少し汚れ
たひさしの下にあるベンチに陣どることに成功していた。
夏の焼け付くような日差しも、ゆるやかな風が通り過ぎる日陰に座ると気持ちの良い
ものだった。
そのベンチに、並んで腰掛けて話していた。

「でも、さ」
涼しい風を感じながら心ここにあらずという状態だった梨華の耳に、隣から吉澤の声
が聞こえた。
昼食もとり終えて今は2人ともベンチで休んでいる。
「んー?」
このまどろんだ体を起こすのはもったいない。そう思って吉澤の方へ顔を向けること
もなく、喉の奥から眠たそうな生返事を返した。
「梨華ちゃん昨日だっけ?も後藤さんに会いに行ったの?」
吉澤の方も空を見ながらゆっくりと話していた。
「あ…うん、一応…」
聞かれると思っていたので特に緊張することもなかったのだが、思わず持っていた
空になったパンの袋を強く握ってしまう。
ガサッと音が鳴る。
その音にかぶせるように、梨華は続けた。
「でもさ、あ、行ったのは昨日じゃなくて土曜日なんだけど」
そこまで言って、起こしたくなかったのだが、体を動かして吉澤の方を見る。
吉澤の顔の前に自分の顔をもっていって、吉澤の目を覗き込んだ。
「ど、どうしたの?」
突然目の前に梨華の顔が現れ、驚きながらも――少しドキドキしながら――吉澤のも
一気に目が覚めた。
「うーん、あのね、話長くなると思うけど、良い?」
大きな、きらきらした澄んだ目で、そして無邪気な表情。さらにはとても心地の良い、
少なくとも吉澤はそう思っているのだが、この声。
これだけのことを自分の目前、わずか数センチの距離でやってくれる。
こんなことは考えたくないのだが、もしこれが吉澤ではなくて誰か男の人だったら。
誰であっても心臓が忙しく働き始めるだろう。
実際、こんな梨華と長い間付き合っている吉澤でも、思わず梨華を抱き寄せてしまい
そうな衝動に襲われる。
「あ、あー、うん、いいよ全然」
内心動揺しながら、梨華の目をじっと見つめて答えた。
屋上の涼しい風は、さらさらとした梨華の髪のシャンプーの香りも運んでくれた。

「でぇ、矢口さんがあんなとこに行くなんて思えなくって
私、矢口さんの後をついていったの」
5分前に昼休みが始まるだけで、ずいぶんゆっくりと過ごすことができる。
昼御飯を食べて、梨華が土曜日のことを話し始めてからすでに10分は過ぎようと
していたが、時計はまだ12時半を指している。
「そしたら…公園の向こうにもう誰も住んでないようなビルがあるんだけど
そこの壊れたドアから中に入っていったの」
梨華も再びベンチに座り直して、また空を見ながら話していた。
1つ1つのできごとを思い出しながら、まるで子供に言って聞かせるようにゆっくり
と話す様子は、ぬるま湯のような昼休みには合ってるかもしれない。

さらに5分近くが経過した。
吉澤は、たまに見せるこの梨華の勇気に驚かされることがある。
その場に行ってみないと分からないとは思うが、自分が梨華と同じ場面に遭遇したと
考えると、さすがに換気扇用の穴から覗き見はしないだろう。
バケツに乗って体が痛くなったこと、押して運んできたダンボールがやっぱり重くて
疲れたことなど、あまり必要性のあるとは思えないことも細かく説明しているため、
梨華の言う通りに話が核心に近づくまでに予想外の時間がかかったように見える。
ただ、矢口と後藤の関係を少しずつ聞かされ始めた頃には、吉澤の顔から笑みが消え
ていた。
「うそ…」
梨華はたんたんと説明するが、吉澤には簡単に理解できる話ではない。
他ならぬ梨華の言うことだからその通りなのだろう。ただ、それが本当のことである
と思いながらも、心のどこかでは否定していた。
矢口さんはそんな人じゃないはず。
確かにまだ知り合って少ししかたってないが、そういう人だとはどれだけ考えても想像
できない。

「正直、私ね…」
耳をくすぐるような梨華の声が、少しかすれた。
「初めて会った時から、矢口さんが恐かったな…」
「初めてって…『I WISH』で会った時?」
「うん」
そう言えば今になって考えると、梨華は矢口に懐く気配を見せなかった。
あまり人見知りはしない梨華がかなり身を引いていたように思える。
「あのねよっすぃー」
梨華はこちらを向いて、それから手を握ってきた。
いつになくまじめな顔をしている。
「私のお願いなんだけど…
私、あんまりよっすぃーに、矢口さんと話して欲しくないな」
「えっ??」
握った手に少しだけ力が入る。
「なんて言えばいいのか分からないけど
矢口さん、すごく冷たい目をしてる時があって…」
全てを言い終わる前に梨華は言葉を重ねてきた。
「あ!よっすぃーは気付かなくて当たり前だと思う…
なんかね、矢口さん私とよっすぃーで、全然違うの」
「全然違う…?」
「そう。よっすぃーはたぶん矢口さんに好かれてるから
だから大丈夫だと思う。だけど…」
そこまで言って梨華は吉澤の手を取ったままうつむいた。
「梨華ちゃん…
で、でもさ、矢口さんだってさ!」
少し大きな声で吉澤が言いかけた。
そこへ突然、後ろから聞こえた声が吉澤の言葉を遮った。
「あれ?2人とも何の話してるの?」
その声に梨華の肩は1回だけ、びくんと震えた。

「あ・・・矢口さん」
後ろを振り返って吉澤が言った。
梨華の方は、後ろにいるのが矢口だと分かったのか、じっと前を見つめていた。
「なーに?2人して私の噂?」
そう言うと、矢口はベンチをまわって2人の前に来る。
そして、小さな体をさらにまるめて吉澤の前でしゃがみこんだ。
「えっと、あの、矢口さんちっちゃいなー、って」
吉澤自身もかなり驚いているのだが、なんとかそれを矢口に悟られないように必死に
なって弁解した。
もっとも、矢口がどこから聞いていたかは分からないのだが。
「えー!?2人して私のこと言ってるみたいだから何かと思えば・・・
ほんとひっどいなー」
それでも矢口は普段と変わった様子はなく、ごく普通の反応をしている。
(矢口さんが・・・ねぇ)
梨華の言っていることを疑いたくはないのだが、どう考えても吉澤には矢口が悪い
人間に見えなかった。
一応注意して矢口を眺めているのだが、梨華の言うようなそぶりはない。
矢口がちらりと梨華を見る瞬間も、普通に笑っているだけだった。
梨華はというと、笑ってはいるもののかなり警戒しているようで、さきほどから握った
ままの吉澤の手を放そうとはしなかった。
(梨華ちゃんの作り笑いはすぐ分かるんだけどね)
長い間付き合っていると分かるのだが、梨華の作り笑いには特徴があった。
どこがどう変わるといった明確な特徴ではないが、顔全体の雰囲気が少し緊張する。
だからと言って、その特徴を見破れないから梨華の作り笑いが判断できないかといえば
そうではないのだが。
(梨華ちゃんの態度がね・・・)
表現のしようがない。真面目な顔をして笑っているとでも言うのか、必死になっている
梨華を見て思わず吹き出してしまう。
「あはっ!」

吉澤にとっては――
普段の生活の何気ないひとコマ。梨華の言うようなことだって、別段気にするようなこと
だとは思わない。「私はあの人なんか好きじゃない」こんなこと、学生生活を送っていれ
ばそれこそ日常茶飯事の出来事だ。
今、こうして真面目にそのことを語っている梨華を見ても、そう簡単に信じられるわけが
なかった。
『町でたまたま見たあの人とあの人が言い争っていた』
それがどうしたと言うのだろう?
誰だって、常に笑っていることなんてあり得ない。
――だから、笑うのも当然の、吉澤にとってはごく当然の反応だった。

突然笑う吉澤に、梨華は不思議そうな顔を向けた。
矢口は特に驚くわけでもなく、ただ笑って座り込んでいる。
「あはっ、ごめんなさい
笑うつもりはなかったんだけど、おっかしくて」
まだ笑いながら話す吉澤に、矢口が言う。
「ふーん、なんだか分からないけどそうなんだ」
「よっすぃー・・・」
たった今矢口には関わりたくないと言ったばかりなのに、笑いながら矢口と話している
吉澤を見ると不安はさらに大きくなった。
「あ、でも矢口さんなんでここにいるんですか?」
そんな梨華の気持ちを知ってか知らずか、吉澤は矢口と軽く言葉を交わす。
矢口もそれに答えて2人で笑っている。
(なんで?よっすぃー・・・)
あの時の、冷たい矢口を知っているからこそ、普段の明るい矢口が恐かった。
あまりにも激しいギャップで、まるで矢口が2人いるような感覚がある。
「私はね、お昼食べ終わって暇だったから散歩してたの」
「うそ・・・」
矢口の言葉に思わず反応する。
否定の言葉が口から出ていた。
「えっ?」
驚いてはいないようだが、吉澤がこちらを見た。矢口もそれにならう。
「どうしたの梨華ちゃん?」
吉澤が言った。
その言葉で、梨華は初めて自分が何を言ったのかを理解する。
「あ!ううん、何でもないよ!」

梨華にとっては――
矢口という先輩、2つ上のこの先輩がどうしようもなく怖かった。
「私あの人なんか苦手・・・」こんなこと、誰もがどこかで毎日のように言っている
言葉なのは分かっている。
ただ、今回だけは何かが違うような気がした。
『普段笑ってるあの人気者の先輩が、冷たい目をしているの』
それで?
自分だってだからどうした、と思う。
だけど、これを予感とでも言うのか、今までに感じたことの無い不安が広がっていた。
――だから、自分でもわからないのに、吉澤に説明なんてできなかった。

「にしても仲良いんだねー」
矢口が、2人の間を見ながら言った。
吉澤はそう言われて、さっきからずっと手を握ったままだったことを思い出す。
「あ・・・」
吉澤は少し照れながら梨華の方に顔を向けた。
自分から手を離してもいいのだが、梨華がいつになく強い力で握っているために、
それもできない。
「え?」
そんな吉澤に気付いてか、梨華も手元を見る。
それから黙って2人に注目している矢口を見ると、あわてて手を離した。
「あ、よっすぃーごめんねっ」
梨華の顔が少し赤くなったような気がする。
「私さ、前から思ってたんだけど2人ってなんか変なオーラ出てるよー」
矢口はイタズラを計画している子供のような笑みを浮かべる。
「や、矢口さん何言ってるんですか!
変なオーラってわけ分からないし」
「いやー、怪しいなー
まあ、あれだね!こういうのって珍しくないみたいだし」
「いや、だから何が怪しくて珍しいんですかっ」

自分の周りで楽しそうに話す矢口と吉澤。
その中に自分もいるとは考えられない。浮いてる気がする。
(何やってるんだろ、私・・・)
屋上には梨華たちの他にも数名の生徒の姿があった。
これだけ心地の良い場所だから、もう少し人がいても良さそうなのだが、
思ったよりは少ない。
何年も同じような学生生活を送っていると、自然と普段の生活も同じサイクル
で回ってしまうものである。それが原因なのかは分からないが、昼休みに屋上
に行くことがなければ、その人が3年間の間に昼休みを屋上で過ごすことはほ
とんど無いと言える。
そのせいか、屋上にはいつも同じ顔ぶれが揃っているようだ。
それだけに矢口の姿は目立っていた。

隣の吉澤をもう一度、こっそりと見てみる。
誰にでも見せるいつもの笑顔で、矢口と笑いあっていた。
吉澤が人から好かれる理由の1つに、人を選ぶことを知らない。ということが
あると思う。
こればっかりは自分もそうしよう、と思って直せる性格ではないことも分かる
が、やはり羨ましいところもあった。
(はぁ・・・)
心の中でため息をついて、何気なく腕に巻いてある時計を見る。
「あ、お昼休み終わっちゃう」
正直、早く終わって欲しいと思っていた梨華にとってはやっときたか、という
思いだ。
「え?・・・あ、ほんとだ」
話に夢中だったのか、吉澤も言われて初めて気付いたようだ。
1時まで後5分といったところだった。
「ね、遅れちゃうよ、よっすぃー行こ!」
そう言うと、梨華は半ば引っ張るようにして吉澤を連れて行こうとした。
「あ、ちょっ、梨華ちゃん分かったってば!」
ベンチから落ちそうになりながらも、なんとかバランスをとって立ち上がる。
「あ、それじゃあ矢口さん、失礼しまーす」
何とかそれだけ言って、吉澤は梨華に連れ去られた。
梨華はこちらを振り向こうともしない。
「あー、やっぱり見られちゃったのかなー」
屋上に1人、取り残された矢口は小さな声で呟いた。
「まあイシカワだったら見られてもいいんだけど・・・
どうしようかな」
少し考え込むそぶりをして、実際には考えるまでもないことなのだが、矢口も
自分の教室へと帰っていった。

―――ピッ
携帯の待ち受け表示を見ると、日付は7月16日だった。
あれからいろいろと考えてきたが、この結論に到達したのは自分でも納得している。
仕方ない。
そんな気持ちだった。
仕方ない。
自分はいつもこうやって生きてきた。
これから目の前に立っている少女にかける言葉は、これまでにも数回、誰かしらに
言った言葉。
自分がこの言葉を口にするたびに、私は自分の価値を下げていった。
今度もそうだろう。
いや、今回はさらに酷い。
でも、仕方ない。
後悔するのはもっと後で良い。
今は後悔するために動くことが最優先だ。
そう、仕方ない。
仮面をかぶって、機械のように話せ。
さあ、行くぞ。

「よっ、後藤」
「!?」
「なぁに驚いてんのよ、せっかくお友達のいない真希ちゃんと
遊んであげようとたずねてきてあげたのに!」
「…何の用なの?」
「だぁから!遊びに来たって言ってるじゃん!!」
「先輩、あんたも暇じゃないんでしょ
とっとと用事すませて帰って」
「…あら、言ってくれるわねー
ほんとに遊ぼうと思ってきたのに」
「…」
「なに黙ってんのよ
そんなだからお友達の1人もできないのよ?」
「うるさいよ」
「…はぁ…
ま、別にいいけどさ。私には関係ないことだし…」
「先輩いったい何しに来たの?マジで」
「ちょっとぉ、そんなに怒らないでよ
後藤ってばただでさえ恐いんだから」
「…どっちが」
「あら!私は明るくて楽しいみんなのまりっぺだもん
恐いだなんてひっどいなー
あ!そうそう、この服どう?似合ってる?
この前つい衝動買いしちゃってさー、もう結構高かったんだから」

「…」
「それでさ、そこの店の人ってば『お客さん可愛いから何着てもお似合いですよ』
とか言うわけ!ねー、これって嫌だよね!
なんか誉められてるのにバカにされてるみたいな気がしてさー
…?
後藤ってば聞いてんの?もう…」
「そんなこと言いに来たの?」
「そんなことって、大事なコトじゃん!
後藤なんかには分かんないかなー、この乙女心
あ、でもこの服はすっごい可愛いでしょ?
店の人はあんまりすすめてくれなかったんだけど、まああの人じゃあ私の感性にぴっ
とくるものがなかったんだろうね、全然ダメだったわ」
「…」
「あー!それからさ!!」
「先輩」
「私もそろそろ…ん?何?どしたの?」
「用があるなら早く終わらせて欲しいんだけど」
「…」
「…」
「…はぁ」
「何よ」
「まあ、私もさ、最後くらいは後藤と友達になろうと思ったけど…
やぁーっぱダメだね」
「は?」
「なんかさ、いつも通り話してればいいかなーとか思ったけど
どうも上手くいかないんだよね」
「何言ってんの?気でも狂った?」
「そう、そうなのよ
私どうやら気が狂っちゃったみたい」
「ははっ、あんたでもたまには面白いこと言うんだ」
「あれ?冗談に聞こえちゃった?
違うよ、ほんとに気が狂ってるのよ、アタシ」
「…」
「なによその顔はー
少しは心配しなさいよね」
「…」
「ねぇ…後藤」
「は?」

「この前言ったよね?覚えてる?」
「この前?」
「覚えてないの?ほんとバカだねー
仕方ないな、もう1回だけ言うからちゃんと聞いてよ」
「なんの話よ」
「あーもう、いいから聞きなって!
私が、この前後藤と話した時に言ったよね
…『待ってな』って」
「ああ」
「あれ?そんだけ?
もう少しびっくりしてよ」
「どうせ本気じゃないんだろ?」
「私も最初はそのつもりだったんだけどね…
ちょっと考えが変わっちゃった
ごめんね、後藤」
「!?ちょっ!!
マジで言ってんの?」
「だぁから言ったじゃん
気が狂っちゃったのよ、私」
「うそっ!?」
「最後くらいは仲良しさんで終わりたかったのにね、後藤…
それじゃ、もう会うこともないだろうけど
これからもがんばって生きていってちょうだいね、バイバイ」
「待て!
何言ってんの!?うそでしょ?
ちょっと!待ちなって!」
「だーめ!
私がこの携帯の通話ボタンを押したら、後藤はもう終わりなの!」
「うそっ…!
てめえ!!矢口!覚えてなさいよ!!
絶対に復讐してやるからね…っ!!!」
「…できたらね」

「できないと思うけど…」

「んなぁー…ぁぁっ!」
なんとも形容できない声を上げて、梨華は気持ち良く背伸びをした。
時計は軽く10時を回っている。にもかかわず、まだパジャマ姿で部屋の中をくつろいで
いられることは最高に気持ちよかった。
今日は7月20日。まだぱっと思い出せないが、海の日だ。
とはいえ世間の学生は夏休みに入っているし、梨華もその例外ではなく学生にだけ許され
た休息時間を贅沢に使っていた。
「今日もあっつそぉ!!」
まだ朝だと言うのに、太陽はまるで自分の存在を誇示するかのように、地面に熱を注いで
いる。
見ただけでも熱そうなアスファルトからはすでに陽炎が昇っていた。
窓を閉めてもしつこく聞こえてくるセミの声に少し脱力感を覚えるが、気を取り直して
部屋を出て階段を下っていった。
「おはよー」
リビングのドアを開けると、母がソファーに寝そべって主婦向けのニュース番組を見て
いた。テーブルの上には美味しそうないちごがガラスの容器に並んでいる。
「ん、おはよー」
梨華の声に反応して、母はだるそうにソファーから起き上がり、こちらを見て笑う。
手にはいちごが2つ握られていた。
「今日も外は暑そうだねー」
「ほんと暑かったよ
梨華も洗濯物干してみたら分かると思うけどぉ」
そう言って何かを訴える母の目を巧みにそらして、梨華はテーブルのいちごを1つ取る。
「あっ、梨華ちゃん冷たいなー
もう少し早起きして手伝ってくれるだけで、お母さんは幸せなのに…」
いかにも芝居じみた口調で目を伏せる母に、梨華は毎度のことながらと思いながら口を
挟んだ。
「でもよっすぃーはまだ寝てるよ、たぶん」
いちごを食べながら言う。
「あら、そうなんだ」
長い休みのたびに何回も話したことなのだが、母はいつも忘れていた。
たまに客としてやってくる『良い子』な吉澤の印象が強いのだろう。

「よっすぃーって全然そんなことないのに
しっかりしてるって思われやすいんだよね、得だなー」
吉澤に聞かれると怒られそうだが、まあ今はいないから大丈夫だろう。
「日ごろの行いが良いんじゃないの?
梨華の場合はそうはいかないもんね」
「うわっ!実の娘に向かってそんなこと言う?」
「実の娘だから言えるんだってば」
「うー…」
その通りと言えば、その通りだ。
何かひっかかる言い方だけど、明日は少しだけ早起きしてお洗濯でもやってみようかな。
そんなことを考えながら、もう1ついちごを取った。
「そのいちごおいしいでしょ」
「うん!これすごくおいしいよ!」
本当にそう思った。
起きて喉が渇いていたからかもしれないが、久しぶりにこれはおいしい!と言えるいちご
だと思う。
「でも、いちごだけじゃあれでしょ
何か食べる?
この時間だとお昼御飯になっちゃうと思うけど」
「うーん、どうしよっかな…
別にお腹は空いてないからいいかな?」
「あらそう、それならいいけど」
そう言うと、母は再びソファーにごろんと寝転んだ。
梨華もそれにならって隣のソファーの上で横になる。
「気持ち良いー!」

昼寝だとか、疲れた時に少し休むといった時は、ベッドに横になるよりもこんな風に
ソファーに寝そべる方がずっと気持ちが良い。
母は、この休息のために朝がんばって働いてるのよ、と言っていた。
確かに、多くの主婦がそうしているように、お昼時のテレビはサラリーマンがたばこ
を吹かして一息つくようなものかもしれない。
とにかく、梨華もせっかくだからしばらくはこの恩恵を受けることにした。
「そういえばさ」
テレビを見ながら今にも眠りそうだった母が話しかけてきた。
「なぁに?」
「梨華、夏休みは部活ないの?」
「あるんだけど、今はないの」
テーブルに手を伸ばしていちごを掴もうとするが、取れない。
仕方なく少し体を起こしてガラス皿を見ると、いちごはすでに無くなっていた。
「あー!お母さんいちご全部食べたの!?」
まだ少し横になっていた体を全部起こして梨華は文句を言った。
せっかく眠りながらいちごを食べるという幸せを描いていたのに、これじゃあ台無し
になってしまう。
「あ、ごめんね
もう2つしかなかったし、食べちゃった」
母は軽く返してきた。
そして、そんなことは重要じゃないのよ、といった様子で後を続ける。
「それより、今はないってどういうこと?
そのうちあるの?」
いちごに未練を感じながらも、梨華は少し言葉に刺を含んで答える。
「夏休みに入る前に、3年生の最後の大会があったでしょ
それが終わってしばらくはお休みなの」
「あ、そうなんだ」
いつものことなのか、軽く頬を膨らませている梨華のことなど気にせずに母は言った。
梨華のほうも本当に怒っているわけでもないので、これ以上は文句は言わない。
「でも美味しかったね、ごちそうさま」
寝転んだままの母にそう告げて、梨華は微笑む。
すると母も「また買ってくるよ」と言って、ここからは見えないけれども、笑っていた。
梨華と母はいつもこんな調子だった。

しばらく母と他愛の無い雑談を交わしていたが、何かに気付いたのか母は寝転んだまま
テレビのリモコンを探し出した。
「どうしたの?」
梨華はテーブルの上にあったリモコンをはい、と渡す。
すると、母はテレビの音量を最低まで下げる。
「あれ?どうしちゃったの?」
「しーっ・・・」
不思議そうにたずねる梨華を手で制して、母は耳をすませていた。
「ね?梨華、聞こえない?」
「聞こえるって・・・なにが・・・?
・・・あっ!!」
よく耳を澄ましてみると、2階から何やら小さな音楽が聞こえてきた。
「私の携帯!」
梨華はそれだけ言うと、大急ぎで階段を上っていった。
階下からは「早くしないと切れちゃうよー」という面白がっている母の声が聞こえた。

「はい!!」
なんとか間に合ったようだ。大急ぎで通話ボタンを押して、携帯に向かって大声で
答える。
相手も電話の向こうで驚いたかもしれないが、バタバタと走ってきたところで冷静に
受け取れと言われても無理がある。今回は我慢してもらおう。
急いでいたので着信画面を見ることができなかったが、たぶんよっすぃーかな?
そう思っていたのだが、電話から聞こえてきたのは全然知らない声だった。
『もしもし?』
「あ、はい・・・えっと、どちら様でしょうか?」
携帯電話に知らない人からかかってくるなんて、思っても見なかったために梨華は
かなり戸惑った。
『あ、良かった。繋がった・・・』
どこかで聞いたかもしれないと思い出そうとしても、やはり分からなかった。
分からなかったが、次の声で梨華も相手が誰だか気付いた。
『あの、こちら「ふるさと総合病院」と申しますが、ええと、誠に失礼ですけれども
どなた様でしょうか?』

おかしな話だなと思いながらも、梨華は言われるままに名前を告げた。
「あ、あの、石川といいます」
普通に考えて電話をかけてきた方が、かけた相手の名前も知らないことなんてあるの
だろうか?
名乗った後で、言わないほうが良かったかな、と思い始めた。
だが、それは向こうもそう思っていたらしく、梨華が素直に名前を言ったことに対し
て安心したようだった。
『すいません。いろいろとご質問があるとは思いますが、こちらの話を聞いて
いただけますか?』
話口調から言って、危険な電話だとは思えなかったし、確かに病院というだけあって
電話の向こうからはざわざわとしている。
そんなことを考えながら、梨華は話だけならいいかなと思って聞いてみることにした。
「はい」
『ああ、よかった。
ええと、実はですね、先ほどうちの病院に急患の患者さんが運ばれたんです』
「はあ」
それと自分の関係がよく分からない。
曖昧な返事をする梨華に、向こうは立て続けに話した。
『その患者さんが、ええと、意識も無い状態なんですが、身元不明でご家族の方にも
連絡が取れない状態でして、ええと、とにかく個人の情報というものがまったく
分からないんです』
『こちらとしても患者さんの様態を考えると、ご家族の方に連絡を差し上げたい
ところなんですが・・・名前も分からないのでどうしようもないんです』
「はい、はい」
あまり良い話ではないみたいだが、梨華はこの話を真面目に聞いていた。
おそらく看護婦なのだろう、この声に律義に相づちを打っている。
『それでこの患者さんの、ええと、上着のポケットの中にこの、石川様の
電話番号が書いてある紙を見つけまして、こうしてお電話しました』
「あ、そうなんですか」
これでやっと梨華に電話がかかってきた理由は分かった。
だが、相変わらずその患者が誰で、どうして梨華の電話番号を知っていたのかは分から
ない。
一瞬、吉澤や希美の顔が浮かんでくるが、家族に連絡がつかないわけはないと思って、
不安ではあったがそうではないと結論づけた。
『あの、お心当たりは・・・』
向こう側もそのことを聞いてくるが、梨華には思い当たる人物はいない。
「うーん、いない・・・です」

『そうですか・・・』
あからさまにがっかりした声で看護婦は言った。
そのあまりの落胆ぶりと、自分の番号を知っていた人が気になった梨華は、その患者の
ことを聞いてみることにした。
「あ、あの、その方はどんな方なんでしょうか?
その、年齢とか、髪型とか!」
向こうもそれは説明するつもりだったのだろう、梨華がまだ話を聞きたがっていること
を確認すると、1つ1つ丁寧に話し始めた。
『ええとですね、たぶん年齢は20歳にはいってないと思います
あの、失礼ですが石川様の年齢は・・・』
「16歳です」
『あ!そうなんですか!
たぶんこの方もそのくらいだと思います!
ええと、それで、そうですね。髪を茶色に染めてまして、服装は・・・』
「!!」
そこまで聞いて、梨華の脳裏に1つの記憶が蘇った。
電気が走るようにすべてを思い出す。
「後藤さん!!!」
『え?お知り合いの方ですか?
あの、後藤さんと言う方なんでしょうか?』
電話の向こうで何か言っているようだが、梨華にはほとんど聞こえてなかった。
「あの!今から行きます!」
それだけ言って電話を切る。
それから急いで着替えて階段を降りた。
バタバタと音を立てて降りてきた梨華に、母が「お出かけ?」と声をかけると
「うん、ふるさと総合病院に行ってくる!!」
と言って梨華はそのまま玄関へ走っていった。

外に出て、やっと病院がどこにあるのか、ということを考え始めた。
幸いにもと言っていいのか、梨華はこれまで大きな病気や怪我をしたことは無い。
病院なんて年に3回も行くことはあっただろうか?記憶に残ってないところをみると
それも怪しい。
そういうことで、パッと病院の位置を考えてもそう簡単に浮かんでくるはずもない。
いったん、その場で立ち止まって考える。
「・・・」
しばらく考えても思い浮かばない。
仕方なく家に引き返して、母に聞いてみることにした。
少しの時間でも大事にしたいところだったので、一言「ふるさと総合病院ってどこ?」
と聞いてみる。
「電車で3つか4つくらいのところだったわよ、確か」
それだけ聞くと、梨華は再び勢いよく外へ飛び出した。

今日はあの急な上り坂も問題にならない。
一気に上りきると、息をきらしながら切符売場へ向かった。
覚えが無いところを考えると、たぶん学校とは逆方向にあるのだろう。
頭上にある看板で駅を確認する。
「えっと、280円ね・・・」
切符を買うとそのまま急いでホームに上がる。
すると、ちょうど電車が到着したようで、梨華はその電車に駆け込んだ。
外の熱気に比べると、クーラーの風がとても気持ち良い。
ホームに発車を知らせるベルが鳴ると、扉が閉まって電車はゆっくりと走り出した。

「後藤さんが・・・」
病院にいる人物が後藤である保証はない。
だが、後藤のはずだった。
頭の中で、これまで後藤と交わしてきた言葉を思い出す。
すると、自分で思っている以上にその回数が少ないことに気付いた。
「命の恩人・・・」
命の恩人だから、自分は今病院へ向かっているのか?
何も分からなかった。
ただ、後藤のことが気になってどうしようもなかった。
とにかく、病院へ行ってみよう。
そこに後藤真希がいるから。

――そこにいたのは、確かに後藤真希だった――

梨華は病院へ到着してすぐに、受付に座っていた看護婦に尋ねた。
「あの、先ほど電話を頂いて・・・
私、石川といいます!ええと、あの、私の携帯にそちらの方から・・・」
何と言っていいのか迷いながらも必死に説明する。
「え?
あの、予約をされた方ですか?」
やはり分かってはもらえず、看護婦も怪訝な表情を見せたが、受付に座っていた人と
別の看護婦が梨華に気付いてこちらへ話し掛けてきた。
「あの、石川さん?」
そこにはカルテらしきものを持った、笑った顔が特徴的な看護婦が立っていた。
「あ、はい!
あの、電話を頂いて、それで、私ここに来るって言って」
「ええ、分かってるわ
電話をしたのも私だから」

その看護婦の名前は「保田 圭」という人だった。
清潔な白衣を着て、姿勢良く歩いている姿を見ると「ああ」と誰もが納得するような、
典型的な看護婦とでも言うのだろうか。
昼間の病院はかなり騒がしいものだったが、それでも保田が歩くときの靴の音は梨華
の耳に響いている。
看護婦としてはまだ若いのだろう。廊下をすれ違う医者や他の看護婦に、いちいち深
くおじぎをしていた。
梨華が後藤のことを聞こうと話し掛けると、保田は人懐っこい笑顔を見せて
「まあまあ、そんなに焦らなくても今から行くんだから」
と言って何も語ろうとはしなかった。
つかみ所がないのだが、なぜか安心するような、そんな感じの人だった。

ピッ・・・ピッ・・・
よくドラマで見るような、何という名前なのかは分からない機械。
ドラマだと最悪なシーンに使われることが多いために、どうしても良い印象は持てな
いのだが、静かに眠る後藤の隣にはその機械が置いてあった。
小さなモニターには後藤の心音に合わせて、小さな波が流れていた。
思わず目をそむけたくなったのだが、肩口には大きく包帯が巻かれて固定されていた。
「後藤さん・・・」

「あ、やっぱりその娘のお友達だったんだ!良かった!
ほんとに身元が分からないから心配してたのよ」
後藤の腕から伸びた点滴の袋を取り替えながら、保田が言う。
反射的に針の刺さっている後藤の腕を見てしまい、梨華は苦い顔をして答えた。
「あの・・・でも私お友達とかそういう関係じゃあ・・・」
無表情に眠っている後藤を見ると、胸が苦しくなる。
「え?」
一瞬保田の手が止まったが、すぐにまた忙しく動き始めた。
「まあ、そんなことだとは思ってたけどね
運ばれてきた時からちょっと嫌な予感がしてたんだよ」
「嫌な予感?」
「事件的っていうの?
普通の事故じゃないんだよ、たぶん」
保田はとても快活に話す人だった。
梨華が何かをたずねるとすぐに返事が返ってくる。
表裏が無いような、そんな気がする。
梨華も相手が保田だから安心できるのだと思うが、一番気になっていたことを聞いて
みることにした。
「あの!後藤さんはどうして・・・」

保田は梨華を面会者用の椅子に座らせると、静かに語りだした。
「それがね、あ、この娘救急車で運ばれてきたんだけど
救急車が着いたときにはもう意識が無かったんだって・・・」
「あの?どうして・・・」
「肩に巻かれてる包帯、あれね」
「はい」
「誰かに切られたと思うんだけど、ナイフか何かの傷があったの」
「・・・え?」
「あ、これ」
突然思い出したように、保田は胸のポケットから小さな紙切れを取り出した。
「あ・・・私の・・・」
そこにはくしゃくしゃになった、梨華にも見覚えのある紙が握られていた。
「意識がなくてもさ・・・この娘、右手だけぎゅっと握り締めてて・・・
もう私がどんなに頑張っても手を開かなかったのよ。すんごい力だったな、あれは」
自分の手でその場面を再現しながら、保田は続けた。
「それで、2人がかりでやっと手を開いてみたら、この紙を持ってたんだ
よほど大事だったのかな、私がこれ取ってから、またすぐに手を握ったよ」
「・・・」
「この娘、両親とか今どうしてるのかな?」
「え?」
「たぶん・・・さ
あなたしかいなかったのよ」
「私・・・しか?」
「そ、頼れる人って意外に少ないもんだよ、実際はね・・・
無意識でもあなたの電話番号は離さないくらいだよ?すごいじゃん」
「私だけ・・・」
「うん、どんな関係か分からないけどさ
この娘が目を覚ましたら、ゆっくり話してあげな?」
保田はそう言って、また人懐っこい笑みを見せる。
「あの!後藤さん大丈夫なんですか?
ちゃんと気が付くんですか??」

コンコン・・・ガチャ
「あ、やっぱりここだったのね・・・
保田さん?今日はこれからミーティングでしょう?早く行きなさい」
突然病室に現れた、いかにも怖そうな看護婦は保田にそう告げると、すぐにドアを閉め
て帰っていった。
「あ!はい!分かりました!」
保田も立ち上がり、緊張した声で返事をすると急いで部屋を出て行こうとする。
そして、梨華に「ごめんね、すぐに戻ってくるからちょっとだけ待ってて?」
と言って出て行ってしまった。
「あ、はい・・・あの!」
ガチャ
「あ、そうそう」
梨華の声が聞こえたのかそうでないのか、保田は一度閉めたドアを再び開けて、そこか
ら顔だけを出して梨華に告げた。
「その娘のことだったら大丈夫
ちゃんと気が付くよ、安心して!」

保田が病室を後にすると、小さな部屋はとたんに静寂に包まれた。
後藤の隣に置かれたあの機械だけが、一定したスピードで波をうっている。
「後藤さん・・・」
梨華は保田に渡された紙切れを見た。
「頼れる人、私なんかで良いのかな・・・?」
点滴の針が刺さっていない、左手に手を伸ばそうとして、少し戸惑った。
人から触れられることを拒むようなオーラ。眠っていてもそれは変わらない。
「目を覚ましたら、また怒られちゃうかな」
そう思いながらも、梨華は思い切って後藤の手を握った。
「冷たい・・・」
驚くくらいに後藤の手は冷たかった。
「なんでだろう・・・悲しいよ・・・
後藤さん、いったいどうしちゃったの・・・?」
この手で、こんなにも頼りない小さな手で、梨華が渡した小さな紙切れを守っていた。
なんの価値もないただの電話番号なのに・・・

梨華の前で、文句も言わずにただ黙って眠っている。
そんなこと考えもしなかったのに、何故か梨華は1つ、小さな涙を流した。

――「お母さん!お母さんってばぁ!」
幼稚園を出たくらいだろうか、小さな女の子が母と思われる女性の周りをせわしなく
動き回っていた。
「なーに、もうお母さん忙しいんだから
お姉ちゃんに遊んでもらいなさいな」
「でもお姉ちゃん今寝てるからだめだもん!」
「あら、また寝てるの?あの子ってば・・・
ほんと困ったもんだわね」
そう言うと、その女性はカゴに入った洗濯物を再び干し始める。
そんな女性をしばらく眺めていたが、仕方なく女の子はその庭を後にした。

――「・・・お母さん?」
小学生に入ったばかりだろうか、小さな女の子が母と思われる女性の前に立っている。
「なに!?またあんた?
もういい加減にしなさいよ!
こっちだって大変なんだから少しは黙ってなさいよ!」
「え、でも・・・」
「うるさいわね!!」
パンッ!
「ひっ!」
女の子は自分が悪いことをしたとは思ってないし、実際怒られるようなことをしたわけ
でもなかった。
倒れ込む女の子を横目に、女性は正気とは思えない目で虚空を見つめていた。

――「お母さん・・・」
やはり小学校の低学年、1年生をやっと終えたくらいの女の子が、大きな木製の箱と
その上に飾られた母の写真を見て呟いた。
「元気出すのよ」
隣にいた知らない女性が突然話しかけてきた。
ビクっと大きく震えると、女の子はぎこちなく笑顔を作った。
「へへ」
笑うことを強要されてきたために、どんな時でも笑わなければいけないと思っていた。
なのに、周りの人間は予想外の反応を示した。
「何この子?母親が亡くなったのに笑ってるわよ?」
「なんて不謹慎な!」
「酷い子ね・・・」
女の子は、笑うこともいけないことだと学んだ。

――「何か用?」
小学校の低学年を過ぎたくらいだろうか、まだまだ幼い女の子は、自分の前に現れた
女性に向かって言った。
「かわいそうな子・・・
辛かったでしょう?さあ、もう泣かなくてもいいのよ?おいで」
目の前の女性は、女神様のような顔で笑ったと、女の子は後になって思った。
ただ、何を言われても女の子は信じなかった。ずっと無表情だった。
「うそ」
機械のように冷たい女の子の言葉に、女性はぽろぽろと涙を流して言った。
「嘘じゃない、ね?信じて・・・」
その女性は女の子をぎゅっと抱きしめた。
それは女の子が長い間忘れていた感触だった。
「ほら、これきれいでしょう?
――草っていうお花なの」
上手く聞き取れなかったが、確かにきれいだな、と思った。

――「おねーえちゃんっ!」
そろそろランドセルもちょうどよい大きさになっただろうか、小学校の4年生くらいの
女の子が、こちらへ背を向けて料理をしている女性に元気に話し掛けた。
「ほぉら!危ないってば!もぅ
しょうがないなぁー!ほんとに甘えん坊なんだから」
そう言って、女性はエプロンで手を拭いて女の子の頭にぽんと手を置いた。
「えへへ・・・」
女の子は気持ち良さそうにその手に体を預けた。
「ねぇ?」
女の子のほっぺたを撫でながら、女性はたずねた。
「なぁに?」
「――は今、幸せ?」
「うん!とっても!」
女の子は元気に答えた。
「うん、良かった
私は絶対にどこにもいかないからね?安心してね」
「・・・うん!」
女の子は、女性のエプロンにしっかりとしがみついた。

――「お姉ちゃんのうそつき!!!」
やはり小学校の真ん中あたりだろう、女の子が目の前で泣きながら座っている女性に
大声で叫んだ。
「ごめんね、ごめんね」
声にならない声で、女性は泣きながら何度も少女に謝っている。
「なんで!なんで急にこんなこと言うの!?
うそつきっ!うそつきっ!ひくっ・・・」
女の子も泣いていた。
「ごめんね――ちゃん、ほんとにごめんね・・・
許してなんて言わないよ、お姉ちゃんほんとに・・・酷いよね」
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん・・・!!
いかないで、お願いだから、行かないで!」
女性は懇願する女の子を、胸が締め付けられるような苦しい思いをしながら見つめていた。

――「・・・」
まだ高学年とは言えないだろう、女の子の前には誰もいなかった。
1人ぽっち。
ネコみたいだな。そう思った。
「こんなことなら・・・」
最初からお姉ちゃんがいなかった方が良かった。
女の子は何回も同じことを思った。
こんなことなら・・・
女の子はここを離れたかった。でも、離れなかった。
「もう、いつまで待ってても」
来ないよ。
分かっているのに、離れられない。
コホン
女の子は小さな咳をして、冷たいアスファルトに寝そべった。
硬いベッドだな。何回も同じことを思った。
私は誰も信じないし、誰も私を信じないよ。これからもずっとね。

「・・・」
ピッ・・・ピッ・・・
「・・・んん・・・?」
どうやら眠っていたようだ。
まだ眠っている頭で、梨華はゆっくりと起き上がった。

どこかで聞いたことがあるが、人間の心音のリズムというのは人間が一番安心できる
リズムだそうだ。
母に抱かれて眠る赤ちゃんしかり、確かにそうなのだろう。
快適な空調と、外部とは閉ざされた静かな空間。それに、後藤の心音に合わせて聞こえて
くる機械の音。有り余った時間。
これだけそろえば梨華でなくても眠ってしまうような気がする。
「・・・あ、後藤さん!」
まだ動きたくないと訴える脳を無理矢理起こして、梨華は後藤の顔を覗き込んだ。
「・・・」
後藤はまだ昏睡していた。
来た時と変わった様子もなく、ただひたすら眠っている。
後藤から目を離して時計を見ると、午後1時を回っていた。
どうやら小一時間ほど眠っていたらしい。
「あ、えっと・・・」
保田さん、だっけ?あの看護婦さんはどうしたのだろう。
直ぐに戻ってくると言ったきり帰ってこない。
もしかしたら自分が眠っていた間に来たのかもしれないとも思ったが、それなら梨華を
起こしてくれる気がする。
向こうだって後藤のことについていろいろと聞きたいはずだ。

ガチャ
「ごめーん!待った?」
ちょうど良いタイミングと言っていいのか、病室のドアが開いて保田が入ってきた。
「あ、いいえ
私今まで寝ちゃってたんです」
「あー、ここ眠るには持ってこいだもんね
そうなんだ。良かった良かった」
保田は梨華の隣にある付き添い人用のベッドに腰掛けると、梨華に向かって苦笑いを
浮かべた。
「あーあ、また怒られちゃったよ」
いつものことなのか、対して気にしてない様子の保田に、梨華も思わず笑みがこぼれ
てしまう。

「よく眠ってるねぇ」
怪我をしているとは思えないくらいぐっすり眠っている後藤を見て、少し羨ましそうに
保田が言った。
「あの、後藤さんって、肩をその・・・切られたんですよね
それって相当酷いんでしょうか?」
やっとゆっくり話ができそうだ。
そう思って梨華はいろいろと聞いてみることにした。
「えっとね・・・
実はちょっと不思議なことがあってさ」
「え?」
「この子、肩の傷自体は大したことないんだよ
普通だったら、あー、精神的なショックは別にしても
もっと元気なはずなんだけど」
「それじゃあ・・・」
これは外傷で昏睡しているわけではないのだろうか?
「うん。そこら辺もいろいろ調べてみないとダメなんだけどね
それで、過去の病気とか家族の人に聞いておきたかったのよ」
「そうなんですか・・・」
「ねえ、石川さんこの子のご家族ってどこにいるか分からない?
あ、家の電話番号とかが分かれば最高なんだけど」

後藤に関する個人の情報なんて、何も知らなかった。
これまでに2,3回言葉を交わしただけで、まだほとんど他人といってもいいくらいだ。
「私・・・後藤さんのこと何も知らないんです」
下を向いて、小さな声で訴える。
「同じ学校だったことも知らなかったくらいだし・・・」
「うーん、そうなんだ」

「あれ?でも学校が同じだったら、学校に聞いたら家族とか分かるよね、普通」
「あっ!」
そうだった!という顔をしてハッとする梨華を見て、保田はまたあの人懐っこい笑顔を
向ける。
「もう!簡単なコトじゃないの
石川さんってば気付くのおっそいよー」
そう言って、保田はてぎわ良くペンと紙を取り出すと、梨華に学校名を聞き出す。
「今生徒手帳とか持ってないかな?」
「あー、今日は持ってきてないです、すいません」
「ま、それもそっか
夏休みにまで誰が生徒手帳なんて持ち歩きますか!?って感じだもんねー」
少し大きな声で笑った後、改めて学校名だけを聞くと保田は立ち上がる。
「あ、ちなみにこの子のクラスとか分かる?
担任の先生とかが分かれば良いんだけど」
後藤のクラスについては吉澤から聞いた記憶があった。
確か3組だった。
「担任はちょっと覚えてないですけど、クラスは3組だったと思います」
「そう、ありがと!
じゃあ、私ちょっと電話してみるね
あ、石川さんどうする?まだここにいるかな?」
眠ってはいたものの、確かに梨華はここに来てからずっと何もしていない。
看病とはこういうものなのだろうが、後藤がひとまずは大丈夫だと分かった以上、少し
暇になったといえばその通りである。
「うーん、もう少しいようと思います・・・
けど、どうしようかな。少しお腹も空いちゃったし」
そういえば、いちごを口にしてから何も食べてなかったな。いったんそう思い出すと
何故かやたらとお腹が空いてきた。
そんな梨華の様子を見て、保田はさらに大きく笑顔を見せて言った。
「あ、じゃあここの食堂でお昼食べない?
病院だと思って甘く見たらびっくりするくらい美味しいんだよ、ここ」

――
「あぢー・・・」
中年のサラリーマンのようなだらしない声を上げて、吉澤はソファーに倒れ込んだ。
今日は海の日だったか。地球の母である海に感謝をする日らしい。
本当にそうなのかは分からないが。
「あー・・・あっちー」
ぐったりとソファーに沈み込み、特に気になる話をやっているわけでもないテレビの
ニュースを見る。
吉澤の家は両親ともに働いているため、昼間は1人だった。
うるさい親がいないとどれだけだらしない格好でも許される。長い休みになるとそれが
嬉しかったが、こうも暑いとだらけようにもだらけられない。
「クーラー・・・」
ソファーに転がっていたリモコンを手にとってスイッチを入れる。
すると、すぐに外からインバーターの回る音が聞こえ始め、部屋の中に冷たい空気が
送られてきた。
「ふぃー!」
自分でも情けないと思うのだが、暑いものは暑い。
1人の時くらい我慢しないで過ごすのだって、立派な自己管理だ。
吉澤は自分にいつもそう言い聞かせて、結局昨日と同じことを繰り返していた。
このままソファーでぐったりとしていたかったのだが、せっかくクーラーを付けたとい
うことで、力を振り絞って立ち上がる。
「よいしょっ」
そのままよろよろと歩き回りながら、部屋を密室にするために廊下のドアを閉める。
そして、帰りにふと思い付いて冷蔵庫まで行ってアイスキャンディーを持ってきた。
「んー!」
先ほどと同じようにソファーに倒れ込むと、今度は涼しい顔をしてアイスを舐める。
吉澤流の夏の過ごし方だった。
プルルルル・・・プルルルル・・・
今日もこのままだらだら過ごそうと考えていると、電話の音が鳴り始めた。
「えー!?」
せっかく座ったのになぁ、と思いながらも吉澤は立ち上がって電話を取る。
すると、そこから聞こえてきたのは吉澤も知っている声だった。
『あ、矢口と申しますけれども、ひとみさんはご在宅でしょうか?』

「ほんと、おいしい!」
内装からしても病院だとは思えない豪華さだったが、保田の言った通りに味も相当な
ものだった。
「でしょー?ちょっとしたレストランよ」
梨華の歓喜の声に保田も満足したのか、少し誇らしげに笑っている。
梨華の前にはいかにも夏らしい、氷のたくさん入った冷やし中華が置いてある。
容器も凝っているようで、実際はガラスなのだが氷をくりぬいて作ったような形に
なっていた。
「病院じゃなかったら毎日大混雑ですよー」
おいしいおいしいと言いながら、梨華はあっという間に冷やし中華を食べてしまった。
向かいに座っている保田は、これもおいしそうなエビドリアを食べている。
保田がこれを頼んだ時は夏なのに暑くないのかなとも思ったが、いざ食べている姿を見る
と、やはり夏でも食べたくなる味なのだろう。とてもおいしそうに食べていた。
「だよね。私だってそう思うよ
看護婦の私が言うのもなんだけど、病院じゃなかったら良かったのにねー!」
真顔で言っているために冗談なのか本気なのかは分からない。
ただ、ここの料理は本当においしかった。

「石川さんはもう少しいるんだよね?」
「あ、はい
そのつもりです」
遅めの昼食を終えて、後藤の病室に帰ろうかと歩いているときだった。
「それじゃあ、学校の電話の確認してみるから先に行っててくれないかな」
「あ、分かりました
それじゃあ、お昼御飯ありがとうございました」
丁寧にお礼を言う梨華に少し苦笑いを浮かべながら、保田はナースセンターへと歩いて
行った。
梨華が1人で昼食を食べに行くと言ったときに、保田は「1人じゃつまんないでしょ」
といってついてきてくれることになった。
友達だという看護婦に代わりに電話をしてもらうことになったため、保田はその確認に
行ったのだろう。
こういう親しみやすい看護婦さんもいるんだな。保田と知り合えたことを喜びつつ、
梨華は後藤の眠る病室へと向かった。

後藤が目覚めたかもしれない。そう思って静かに病室ドアを開ける。
「後藤さん・・・?」
後藤に近づいて顔を覗き込むが、出て行ったときを変わることはなく後藤はすやすや
と寝息を立てていた。
「はぁ、まだ眠ってる・・・」
本当にこれは病気じゃないんだろうか。そんな不安が襲ってくる。
目が覚めないことなんか考えたくないが、ここまでぐっすり眠られるとそう思うのも
仕方がない。
少し考えて、梨華は自分の顔を思い切り後藤の顔に近づけた。
相手が眠っていると分かっていても、緊張する。
寝息がかかるくらい間近で後藤の顔を見ると、やはり少し苦しそうだった。
肩の傷なのか、それとも別に苦しいわけでもあるのか。梨華には後藤から何一つ聞いて
あげることができない。
自分は助けてもらったのに、お返しの1つもできなかった。
「ごめんね・・・」

「?」
梨華は、ふと後藤の目元が小さく濡れていることに気付いた。
「後藤さん、泣いてる・・・?」
確かにそれは涙に見えた。
夢でも見ているのだろうか、後藤の目がしだいに潤っていく。
ピッ、ピッ
それに合わせて、心臓の音も少し早くなったようだ。
「後藤さん?どうしたの?」
意識がないためにどうしようもないのだが、梨華はそれでも声をかける。
「お・・・ねえちゃん・・・」
寝言だろうか。確かに後藤はそう言った。

――
「でも矢口さんから電話がくるなんて思わなかったなー」
「ちょっと用事があって学校行ったらさ
職員室でひとみちゃんの家の電話番号見つけたからかけてみたんだよ」
灼熱地獄のような状態の外に出ることは避けたかったが、それが矢口の要望とあっては
仕方がなかった。
矢口からの電話は「暇だから買い物でもどう?」というものだった。
いきなりの、しかも自宅への電話に吉澤も不思議に思ったが、不信がったところで何か
あるわけではない。
特に用もなかったので矢口の誘いを素直に受けることにした。
「で、どうしよっか?買い物?お茶?」
「あー、涼しいところがいいです
それだったらどこでも」
汗一つかいてないように見えるが、やはりそれでも暑いらしい。
まるで若さを見せない吉澤に、矢口は呆れたように1つため息をつく。
「ひとみちゃん・・・ぐーたらだねぇ」
「ぐーたらって・・・どこの言葉ですかー」
あははと笑って答える吉澤に今度こそ本気で呆れたようで、矢口もこれ以上外で連れ
回すことを諦めた。
「うーん、じゃあさ
私の家に来ない?とっても冷たいアイスコーヒーくらいなら出すよ」
これは吉澤にとっては願ってもないことだった。
「あ!行く!
そうしましょう!」
と、急に元気になっている。
そのあまりの変わりように、矢口はまた呆れて呟いた。
「ひとみちゃん・・・
そういうのって、水を得た魚っていうのよ」
「え?魚がどうしたんですか?」

――
「だーめだぁ!」
突然病室のドアが開いたを思うと、保田が大声を上げて入ってきた。
「び、びっくりした・・・
どうしたんですか?」
さっき保田と別れてからすでに30分近く経過していたため、梨華はまた眠る体制に
入っていた。
まだ驚いている体を落ち着かせながら保田の話を聞く。
「この子よー
なんかフクザツな環境みたいでさ、担任にも家族構成とか連絡先とか分からない
みたい」
保田は、後藤を指さして疲れたように後を続けた。
「まあ、でも中学校と連絡とれたからまだ良かったかな
特に変なアレルギーもないようだし」
「はぁ」
専門的なことは何も分からない梨華にはただうなずくしかない。
「とゆーわけで、今から壮大な検査に入るわ
明日の午後には全部分かってると思うから、もしまたお見舞いにきてくれるなら
それ以降にしてくれる?」
1人でどんどん話を進めているようで、梨華もその勢いに押されて席を立ってしまう。
「あの、検査って・・・?」
「うーん、この子の場合はそうねー
やっぱりなによりCTだろうね
って石川さんには分からないよね、うん」
梨華の質問にも1人で結論を出し、そのまま後藤が寝ているベッドの止め具をはずす。
「あ、もうはじめちゃうんですか?」
ベッドを運ぼうとする保田に聞いてみると「うん」という言葉が返ってきた。
これだと今日のところは帰るしかないかな、と思って梨華も半分流されるようにドア
へと向かった。
「あ、石川さん」
と、お別れの挨拶をして出て行こうという時に保田が声をかけてきた。
「はい?」
「あのさ、この子のためにも・・・
また来てちょうだいね」
そう言って笑う保田は、どことなく寂しそうに見えた。

――
「・・・ここは、どこの国ですか・・・?」
「へ?」
矢口の家に到着するなり、吉澤は固まっていた。
それもそのはずで、目の前に建っているものはとても普通の家だとは思えない。
そう。例えるなら、テレビなんかで良く言っている『豪邸』という言葉がそっくり
そのまま当てはまるような家だった。
「矢口さんの・・・家?」
矢口と家を交互に見比べて、暑さも忘れてその場に立ち尽くす吉澤の姿に、矢口も
どうしていいのか分からないといった感じだった。
「えっと、とにかく中に入らない?
ね、ここ暑いし」
「あ、はい」
それでも暑いとは思っていたのか、吉澤は矢口の言葉に素直に応じた。
「あははっ
ひとみちゃんってやっぱり面白いね」
矢口は相変わらずの声で笑うと、吉澤の手を引いて大きな門の中に入っていった。
大きな門をくぐると、それだけで吉澤の家なら2,3件は入りそうな広い庭があった。
テレビの豪邸そのままのイメージで、庭には小さな池があって鯉が泳いでいる。
芝生が気持ち良さそうな庭の真ん中に伸びている石畳を進むと、そこにやっと玄関が
あった。
「矢口さんってお嬢様だったんですねー・・・」
どことなく金銭的に余裕があるような気がしていたが、ここまで由緒正しきお嬢様
だとはまったく思ってなかった。
当の矢口も、そのことに対して特に何を言うわけでもなく吉澤を中へと誘導した。
「はぁー・・・」
中に入って吉澤はまた感嘆の声をあげる。
玄関が広い家に住みたいと思ったことはこれまでに数え切れないくらいあるが、これは
吉澤が考える『広い玄関』のさらに倍以上は広いものだった。
「遠慮なく上がってよ」
軽く言ってくれる矢口だったが、どうも緊張してしまう。

内部は豪邸というよりは屋敷といっても良いくらいで、矢口の部屋に案内されるまでに
優に1分は歩いたと思う。
「ここが私の部屋だから、中に入って待っててくれる?
コーヒー持ってくるわ」
そう言うと、矢口はパタパタと今きた廊下を引き返していった。
「はぁ」
呆けた返事を返し、少しの間どうしようか迷ったのだが、意を決して矢口の部屋だと
言われたドアを開けてみる。
「ん?」
そこにあったのは、確かに広かったのだが、あえて表現するならひどく殺風景な部屋
だった。
矢口の見かけ、言葉、性格。いろいろなことを総合してもこの部屋は浮かんでこない。
もしかするとカーテン付きの中世にあるようなベッドの1つでも置いてあるかも、と
本気で思っていたのだが、吉澤の期待は軽い形で裏切られた。
「おもったより・・・」
矢口さんらしくないなぁ。
もっとこう、梨華の部屋とまでいかなくてももう少し女の子風の部屋だと思っていた
だけに、逆に気後れしてしまう。
奥にある、壁一面の大きな窓の側にベッドが1つ。その周りにタンスが2つ。
床はカーペットが敷かれていて、ベッドの反対側、つまりこちら側にテレビとコンポ、
それに小さなテーブルが置かれているだけだった。
ぬいぐるみや可愛い置物といったものは、ぱっと見回した限りだと見つからない。
これだけのものが、軽く見積もっても10畳以上はあるだろうと思われるこの広い部屋
にあるだけ。
「でもこれが贅沢っていうのかもねー」
余ったものは余ったもの。
広い部屋を埋める必要性がないというのは確かに贅沢だろう。

「おまたせー」
そこへ、手にお盆を持った矢口がドアを背中で開けて入ってきた。
お盆の上にはアイスコーヒーが2つと、メロンの形をしたアイスが乗っていた。
「ひとみちゃんって極度の暑がりみたいだからね」

「それにしても広い部屋ですね
うらやましいなー」
「にしては何もないでしょ」
「あー、はい」
間髪入れずに答える吉澤に、矢口は思わず苦笑する。
「・・・はっきりしてるねー」
「そんなことないですよぉ!」
「あははっ
それよりもさ、ひとみちゃんって夏休みの間って何してるの?
もしかしてずっと家で涼んでるの?」
吉澤の暑がり様を見る限りだと、外に出るとすぐに引き返してきそうだ。
「あー、基本はそうかな
でもたまに梨華ちゃんとかと出かけますよ」
「お、また梨華ちゃん
ほんと仲良いよねー」
吉澤と話すと必ず梨華の名前が出てくる。
吉澤自身も、過去を振り返るまでもなく自分が梨華と過ごす時間がどれだけ長いもの
なのかは分かっていた。
普段はそんなこと考えないのだが、たまに珍しい人に会うとこのことを思い出したり
する。例えば、今の矢口のように。

「あれ?」
と、吉澤はテレビ台の下に何か落ちていることに気付いた。
「矢口さん何か落ちてますよー」
「えー?どこ?」
「ほら、あそこ」
テレビの下の方を指差す。
そこにはハガキくらいの大きさの紙が、台と床の間に挟まっていた。
吉澤は立ち上がって、その紙を拾う。
「なんですかこれ?・・・写真?」
最初はハガキかなにかだと思っていたが、確かにそれは写真だった。
10年くらい前のものだろうか、今見てもすぐにそうだと分かるくらい変わってない矢口
が、友達らしき子供と肩を組んでピースをしている。
「うわー!!
矢口さんかっわいい!!!」
顔は今の矢口をぐっと幼くしただけで、見た感じも矢口そのものだった。

「あ・・・」
止める間もなかった。
というか、別に止める気もなかったのだが。
できればその写真は人に見せたくないものだったため、最初矢口は自分で拾おうとした
のだが、ちょっとした隙というか、ふとした自然の流れでこうなってしまった。
別に小さい頃の自分を見られるのが恥ずかしいわけではなかった。
そんなもの誰にどれだけ見られても何とも思わない。
ただ・・・
「あれ?」
こういう時はどんなに相手が鈍感でも感づかれてしまうものだ。

「矢口さんの隣の子、なんか見覚えあるなぁー・・・」
確かにそうだ。
つい最近、どこかで見たような気がする。
「うーん・・・誰だろう・・・」
考えるそぶりを見せながら、矢口の方をちらっと見る。
教えてくれないかな、といった感じで視線を合わせる吉澤に矢口も半ば諦めたようだ。
「はぁ・・・そりゃ見たことあってもおかしくないよ」
「あ!やっぱり
で、誰なんですか?この人・・・私も知ってる人ですよね?」
アイコンタクト成功!といったばかりの笑顔を見せ、吉澤は今度こそ写真を見て考えは
じめた。
そんな吉澤の姿に、言うまで諦めないだろうと思ったのか、呆れた顔を浮かべた矢口は
自分からゆっくりと口を開いた。
「後藤・・・」
「え?」
「後藤さんよ、それ」
もう一度言い直すと、矢口は「はぁ!」と大袈裟なため息をついてベッドに寝転んだ。
吉澤はもう一度写真を見つめ、やっと気付いたように声をあげる。
「あー!ほんとだ!
確かにこれ後藤さんですね!」
写真の中で、親友のように肩を組んで笑っている2人。
それは紛れもなく矢口と後藤だった。
「矢口さんって、後藤さんの知り合いだったんですか?」
そういえば、前に『I WISH』で会ったときもそんなことを言っていたような気が
する。
「腐れ縁ってやつかな・・・
まあ、向こうもそう思ってるっぽいけどね」

――
後藤が意識を取り戻したと連絡があったのは、梨華があの時病院に行ってから2日後
のことだった。
携帯の向こうから聞こえてくる保田の話だと、どうやら後藤はおとなしく療養してい
るらしい。
梨華が病院に着いたときも、後藤はベッドで休んでいた。

「こんにちは」
梨華は少し遠慮しながら病室のドアを開け、中へ入った。
一瞬眠っているのかと思ったのだが、後藤はちらりと一度だけこちらを見て視線を天井
へと向ける。眠ってはいないらしい。
「あ、あの、大丈夫?」
入院している人に向かって大丈夫もないかな、とも思ったがこれ以外の上手い言葉が見
つからない。
「何しにきたの?」
梨華を見るわけでもなく、視線は天井にはわせたままで後藤は言った。
まだ包帯が巻かれているために肩の傷の具合は分からないが、痛々しさは前見た時と
変わってない気がする。
「あの、お見舞いに・・・」
そこまで言い終わらないうちに、後藤は梨華をきっと睨み付けた。
「帰って・・・!」
冷たい目だった。
後藤と会うたびに今日こそはと思っているのだが、いつも空回りしてしまう。
少しずつ後藤との関係は進展していると思っているのは自分だけ。向こうは自分のこと
なんて何にも気にしてないのではないか。
「なんであんたに見舞ってもらわなくちゃいけないの?
もう私に近づかないでよ、帰って」
眠っているときは近くに感じた後藤が、今はとても遠い存在に見える。
それと同時に、力いっぱいに人を拒んでいる後藤の姿を見るとどうしようもなく悲しく
なってきた。

「でも・・・!!」
言いかけて、そこで踏みとどまる。
『でも、後藤さんは私を頼ってたんでしょ!?』
こんなこと言ったらどうなるか分からない。
後藤の手に握り締められていた小さな紙切れ。なぜか梨華は今でもそれを持っていた。
「でも?」
それでも後藤には梨華が何を言おうとしていたのかが分かったのか、整った顔に小さな
しわが1つ2つ浮いている。
「ううん、なんでも・・・」
後藤のためにも、自分のためにも黙っておくべきだろう。
お互い心の中で分かってることを、わざわざ口に出すこともない。
そんな梨華のどちらにも傾けないといったふわふわした態度に、後藤の苛立ちはさらに
酷くなっていく。
分かっていても怒ってしまう、反抗期の子供。
まさにその通りだった。
後藤自身も分かっていた。ここで梨華を責めても意味がない。
それどころか、責める理由だって本当は分からない。
だからこそ、怒ってしまう。相手を、そして自分を。
「後藤さん・・・肩、大丈夫?」
「・・・別に」
どうしようもなくここから離れたくなる衝動に駆られるが、梨華は何とか自分を抑えて
後藤に話し掛けた。
この前保田から言われた言葉が頭に残っていたからかもしれない。
頼れる人。
後藤には他に頼れる人がいるのだろうか?

コンコン・・・ガチャ
「こんにちはー!」
元気に声を上げて、保田が病室に入ってきた。
「あ、石川さん、来てくれたんだ
こんにちは」
保田はそう言うと梨華の方を向いて笑った。
正直、保田が来てくれて助かったと思いながら、梨華も保田にあいさつをする。
「あ、はい
こんにちは」
2人の様子に、後藤はまた額にしわを作ったようだが、それに気付いてか保田が子供に
説教をする母親のような声で言う。
「だーめじゃないの、後藤さん
せっかく石川さん来てくれたのに
ほらほら、もっと笑顔で笑顔で」
保田の言葉を聞きながら、梨華は内心ひやひやしていた。
(や、保田さん、後藤さんにそんなこと言っちゃ・・・)
案の定、後藤も頭に来たようで思い切り保田を睨み付ける。
「も、もう、そんな顔しないの!
後藤さん可愛いんだから笑わないと損だよ」
一瞬驚いたようだが、さすが看護婦とでもいうのか保田は後藤を優しくなだめはじめる。
1人で緊張している梨華をよそに、後藤は保田から目を離すとそのまま壁の方を向いて
ベッドに寝転んだ。
「はぁ」
後藤が気付いてから同じ事を繰り返してるようで、保田の顔には「またか」といった
表情がうかがえる。
保田はそんな後藤に小さなため息を吐くと、くるりと梨華の方を向いた。
「石川さん、ちょっといいかな?」
そう言うと、保田は病室から出て梨華を誘導しようとしていた。
突然自分に振られて梨華も少し驚いたが、もう体を動かしそうにない後藤を見ると今日
のところは話すどころではなさそうだ。
素直に保田についていくことにした。

保田に案内されたのはナースステーションだった。
普通の人は入れない場所なので、梨華も興味半分、緊張半分といった感じで保田の後ろ
にぴったりとついて歩く。
「んーと、とりあえずそこに座ってくれる?」
「あ、はい」
梨華は手近にあった椅子に座って、保田の次の言葉を待った。
保田も奥から1つ椅子を持ってきて、梨華の前に持ってくる。
「実はね、後藤さんのことだけど・・・」
「はい」
後藤の話であることは分かっていたので、すぐに答える。
ついでに言えば、良い話ではないような気もしていたが。
「あのね、今のところ後藤さんの知り合いって呼べる人が石川さんだけだから
一応言っておかないとって思うんだけど」
梨華の目の前で椅子に座り、下から覗き込むように話す。
「はい」
ああ、まだ家族の人見つからないんだ。と趣旨とは違うことを考えながら梨華はうなず
いた。
自分が知っておくべき事。
それが何かは想像もつかないが、どう考えても良いことではないだろう。
「後藤さん、肩の傷はほんとに大したことないの
それこそ後1週間・・・もう少しかな?
でも、そのくらいで治っちゃうんじゃないかな」
保田は時々視線だけを上に向けて、考えるそぶりを見せながら話している。
肩の傷はもうすぐ治る。
それが聞けただけでも嬉しいことだったが、保田の表情から察するにやはりこれで終わ
りというわけにはいかなそうだった。
「ああ、そうなんですか
良かった・・・」
それでも梨華は素直に喜んで、保田に笑顔を見せる。
保田もそれに答えるように一回笑って、後を続けた。

「あの子、先天的なのか後天的なのかはまだ分からないけどね?」
いきなりの難しい単語に少し戸惑うが、とりあえず話を聞くことにする。
「あー、あのね生まれつきかそうじゃないか、っていうことなんだけど」
それでも保田には分かっていたようで、怪訝そうな顔の梨華に補足説明をする。
「ああ!」
梨華もどこかで聞いたことがあった用語だったのか、思い出したように小さく手を叩く。
「うん、それで、ここからが重要なんだけど・・・」
「はい」
保田は1回深呼吸をして、梨華に告げた。
「たぶん、あの子心臓病を持ってる・・・」
心臓病?
梨華の頭は、その単語に関する情報を探すためにフル回転で働きはじめる。
その副作用なのか、外からは呆然としているように見えるらしい。保田がぼーっとして
いる梨華の顔の前でパタパタと手を振った。
しばらくして、梨華の頭は1つの答えを導き出した。
「あの、心臓って言えばあのよく発作とかで危なくなる・・・」
梨華の答えに、保田は大きくうなずくと後を続けた。
「うん、そうなの
でも、あの子の場合はまだ完全な『心臓病』じゃないみたい」
「完全な?」
「あのね、心臓病っていっても色々種類があってさ
症状が重いものものあれば、逆にあまり問題がないものもある
そこら辺はなんとなく分かる?」
まるで学校の授業みたいだな、と思いながら梨華はうなずく。
「はい」
「で、あの子の持ってる心臓病は、まだそんなに重くないの」
保田は一度何かを思い出すように上を向く。
「えーと、そう
正式な病名は『狭心症』って言うの」
「狭心症?」

「簡単に言うと、狭心症がもっと悪くなったのが
よく言われる心臓病ってやつなのよ」
保田も何の知識も持っていない梨華に説明するのが難しいようで、1つ1つ言葉を選ん
で話すためにペースはゆっくりとしたものだった。
「普通に暮らす分には全然困らないけど、やっぱり運動なんかはダメ
急に心臓が止まっちゃうことだってあるの」
「え!?」
後藤は肩を怪我しているだけで、それが治れば退院できるものだと思っていた。
それだけにこの思わぬ病気の宣告は梨華を驚かせる。
「今回意識がなくなったのもこのせいだと思う
誰かから・・・たぶん肩を切られた人から逃げてる途中に発作が起きて
それで耐えられなくなったんじゃないかな」
「発作・・・」
「うん、いくら心臓病としては軽くてもね・・・
結局心臓なのよ」
それから、保田はまた1回深呼吸をして続けた。
「正直、今回だってもしかしたら危なかったんじゃないかな
一種の、奇跡って言えるかも」
そう言う保田は、苦笑いを浮かべて梨華に告げる。
「あの、それ・・・後藤さんには」
「まだ言ってないけど、今日中に言っておくわ
あの子の様子見てると早めに言わないと無理しそうだからね」
後藤が心臓病。
このことに後藤本人は気付いてないのだろうか?
何か、後藤なら知っていそうな気がする。
なんとなくそう思いながら、梨華は保田に質問をする。
「あの、それって治るんですか?」
保田は小さく首を振って答えた。
「いろいろね、難しいのよ・・・」

「ふわあ・・・」
小さなあくびを1つして、梨華はベッドに転がり込んだ。
時計の針は既に夜中の2時を通り越している。
つけっぱなしのテレビは深夜のバラエティ番組もそろそろ終わりを告げる頃で、寝るには
ちょうど良い時間だろう。
「寝よっかな」
小さく呟いて、ベッドの近くまで垂らしてある電気から伸びた線を引っ張る。
パチッと音がして部屋はテレビのチカチカとした明かりだけになった。
結局、あれから後藤とは話さなかった。
病室に戻って、一言「それじゃあ、またね」と言って帰ってきた。
後藤は返事をしなかったが、少しこちらに目を向けたような気はする。
「おやすみ・・・」
誰に言うわけでもなくそう呟いて、テレビを消した。
ブン・・・とテレビから静電気だか何かの音が響く。

それにしても・・・
(後藤さんが心臓病・・・)
意識が無かったのは気になったけど、まさか心臓病なんて思わなかった。
(恐いよね)
もし、これが自分だったらどう思うだろう。
医者と、ほんの少しの看護婦が知っているだけで、家族も来ない。
友達も来てないようで、結局この何日間で後藤を訪ねてきたのは自分だけだった。
学校の担任でさえも、保田が電話をかけてからまったく連絡がないそうだ。
(不安だよね・・・)
自分だけ。自分だけが後藤の病気を知っている。
そして、後藤も口には出さないけど、認めたくないだろうけど、心の奥では自分を
頼ってくれているはず。
(がんばろうね)

心の中で後藤を応援しながら、梨華は眠りについた。

――
ふわふわ、ふわふわと浮いている。
(あれ・・・?ここどこ?)
「あははっ!!ねえ、真希ちゃん!早くぅ!」
(可愛い子・・・でも、どこかで見たことがある気がする)
「待ってよー!真里ちゃーん!」
(あれ?あそこで泣きそうになってるのは・・・私?)
「もう、しょうがないなー
・・・はい、つかまって?」
「えへへ、ありがと」
(真里・・・先輩なんだ、あれ)
「真希ちゃん、甘えんぼうだなぁ、もう」
「えへへ、そうかな?・・・うーん、そうかも」
(仲、良さそう・・・
あんなに楽しそうに笑ってる)
「でも私、真希ちゃん大好きっ!」
「うん!私だって!」
(馬鹿だな・・・どうせ裏切られるのに
ほんと、馬鹿だよ・・・私)
(・・・)

目覚めてからも不思議な感じは残っているようだった。
時計を探してみたが、手探りだと見つけようが無い。
こんなことなら明るいうちに確認だけでもしておけば良かったなと思いながら、今度は
外を見る。
カーテンが閉まっていて月を見ることもできなかったが、周りの静けさや自分の感覚
から予想しても、まだ夜中の3時が良いところだろう。
「なんで今更あんな夢見たんだろ」
天井を見上げたまま、少し自虐的な笑みを浮かべる。
あの頃は2人とも公平で、誰よりも平等だった。
いつからこうなったか、きっかけはどこかにあったはずなのに忘れてしまった。
「心臓病・・・」
予想もしなかった。
走ってる途中で急に苦しくなって、動悸が異常に速くなった。
おかしいと思ってたけど、これが心臓病だったとは。
「はは、私にぴったりの病気じゃない・・・」

ドタタタタ・・・バタン!!
「お姉ちゃーーーーーん!!!
朝よーー!!起きなさーーーい!!」
希美は隣の家まで聞こえるような大声で叫ぶと、梨華が寝ている布団をそのまま剥ぎ
とった。
「・・・んん」
あまりの声量にさすがの梨華も目を覚ますが、起き上がろうとはしないで右手だけで
器用に布団を探している。
「ほーら、起きるの!」
パシッと梨華の手の甲を叩く。
「あうっ」
まるでかたつむりの様に叩かれた手を引っ込めて、梨華はしかたなく布団なしで眠る
体勢に入る。
「あのねー・・・」
体を丸めて猫のように眠りに入る梨華を見て呆れたように呟くと、希美は腕組みを
して何やら考え込む。
「よし!」
1つ大きく気合を入れて、希美はそのまま梨華の上空へダイブした。
「おきろー!!!」
ドサッ!
「ぐえっ!」
とても梨華の口から出たとは思えないような情けない声をあげると、ようやく起き上が
って希美と顔を合わせた。
バランスをくずしてベッドの上でバタバタしている希美の足首を掴んで転がす。
「痛い!お姉ちゃん痛い!ぎ、ぎぶ!」
顔をベッドに押し付けて変な体勢で転がっている希美が声をあげると、不機嫌そうな
表情の梨華もしかたなく手を放した。
「はぁ、はぁ」
希美も朝からこんな運動をするとは思ってなかったのか、必要以上に疲れた顔をして
立ち上がる。

「ののちゃん、朝から疲れることしないで・・・」
梨華はベッドに座りこんだまま、同じく隣に座っている希美に言う。
「だ、だって、あれくらいしないとお姉ちゃん起きないもん・・・」
2人とも疲れた顔で笑いあう。
と、希美の格好を改めて見てみると、これから部活でもあるのか制服を着ていた。
おはよう。さっき希美が言った言葉を思い出す。
まだ時計を見てないが、突然軽い不安に襲われた梨華はゆっくりと枕元に置いてある
はずの目覚し時計を見てみた。
「・・・の、ののちゃん・・・」
案の定。予想通りだった。
時計は朝のさわやかな日差しを浴びながら、7時を指していた。
昨日の夜梨華が寝てから4時間くらいしかたっていない。
「あれ?どうしたの?」
不思議そうな顔で覗きこむ希美に、梨華はため息をつきながら答えた。
「私、今日学校とか無いんだよぉ・・・」
「・・・へ?」
希美はしばらく考え込んでいたが、梨華の言った意味を理解すると突然ベッドから
立ち上がった。
「あ、えーと、それじゃあ!
おやすみなさーい!」
そのまま何事も無かったように部屋から出ていこうとする。
「あー、目が覚めちゃったよー!!」
梨華はそう叫んでベッドに体ごと突っ込む。
そのまま梨華を置いて学校に行こうにも、やはり気になったのか、希美はしばらくして
戻ってくると梨華の耳元でささやいた。
「朝御飯、一緒に食べようよ・・・?」
その声に梨華も起き上がって希美を見る。
そして、今日初めての笑顔を見せてうなずいた。
「うん!そうしよっか!」

「えー!?それじゃあまだ4時間くらいしか寝てないじゃん!」
朝御飯を食べながら梨華が昨日の夜のことを話すと、希美は驚いて声をあげた。
いつも通り梨華の母親が作っていった朝御飯。特にメニューが日替わりで違うわけでも
なく、御飯に味噌汁、卵焼きといったごく普通の内容なのだが、それでも毎日おいしい
と感じられるのはとても幸せなことだった。
「お姉ちゃん、睡眠不足はお肌の天敵なのよー!
もっとよく寝ないと!」
どこまで理解しているか分からないが、希美の説教に梨華は目を細めて反論する。
「起こしたのは誰よー・・・」
一瞬静寂が流れる。
「あはっ、この御飯おいしーね!」
「・・・もう」
今となってはもう眠たさを感じないため、希美を責める気持ちは全然ないが、やはり
少し体がだるい気がする。
確かに希美の言う通り、もっと良く寝ないと健康に悪いかもしれない。
「どうしよっかな、また寝ようかな」
「私が部活で汗流してるのに、お姉ちゃん寝てる場合じゃないよー!」
梨華が悩んでいると、希美が良く分からない非難を口にした。

「よっすぃーいるかな・・・?」
朝御飯も食べ終わり、希美が出ていってしまうと急に暇になってしまった。
元々昼前まで寝てるつもりだったのだから当たり前だが、なんとか暇を潰そうと吉澤に
電話をしてみることにする。
プルルルル・・・
携帯の向こう側で呼び出し音が何度か繰り返されるが、出る気配はない。
しばらく待っていると、留守番電話に切り替わったようだった。
『はーい、今寝てまーす
私が起きた後にまたかけ直してください』
「起きた後でって・・・」
呆れながらも、梨華はそのまま電話を切った。

例えば、ごく身近な友人や家族といった人物では知らないことも、赤の他人であれば
そのことを知っていたりする。
例えば、ごく身近な友人や家族には言えないようなことも、赤の他人であれば気軽に
話せたりする。
世の中なんてそんなもので、どちらが良いかなんて誰にも分からない。
ただ、なんとなく考えていると霧のようにゆっくりと疑問が浮かぶ。
例えば、ごく身近な友人や家族が存在しない場合は誰に伝えれば良いのだろうか?
例えば、伝えたいことなんか無くても友人や家族は必要なのだろうか?
そして、伝えるべき人を見誤った場合はどうするのだろう。
世の中なんてそんなもので、悩んでいる人に近づくのは2種類の人間しかいないもの
で、その2種類の比率は五分五分だろう。
天使と悪魔。どっちだろうが、大したことはない。
それに自分を合わせていけば自然と流れていくものだから。

「まっさかこんな近くにいたなんてねー」
暑そうな顔をした矢口の前には大きな病院が構えていた。
およそ病院とは無縁の服装だったが、別に診察を受けに来たわけでもないから問題は
ないだろう。
「病院なんか行く予定なかったのに・・・」
面倒くさい仕事を任されたような顔をして、そしてその仕事をすばやく済ませようと
矢口は病院の中へと入っていく。
手には小さな紙袋がぶら下がっていて、駅前の洋菓子店の名前がプリントされていた。
こういう『ダサい』紙袋はなるべく持ちたくないのだが、大事な親友のためだ。我慢
して運んであげよう。
2重になっている自動ドアをくぐると、矢口はそのまま真っ直ぐ受付に向かう。
ブーツの足音が意外に響くが、なるべく気にしないようにした。
「あの、すいません」
「はい、初診ですか?」
自分の格好を見ればお見舞いに来た人ということくらいは分かりそうなのだが、ただ
機械的に事務をこなしているこの受付の態度はどうしたものか。
矢口は少し苛立ちながらもいつものように答えた。
「いえ、ここで入院している友人のお見舞いに来たんですけれども
病室が分からないもので・・・」
受付に座っている看護婦も、矢口の見た目とは正反対の口調に多少驚いたようだった。
急に友好的になったようで、矢口に向かって笑顔で答えた。
「あ、そうなんですか、すいません
あの、そのお友達のお名前はなんて言うんでしょうか?」
冬山の天気のような看護婦に、心の中でため息をつきながらも矢口は今まで通りの言葉
を吐き出した。
「後藤真希さんです」

授業中に自分の意志ではどうしようもないくらい眠くなる経験は誰にでもある。
とにかく、それは夜になって「さあ眠ろう」と思ったときに来て欲しいものなのに、
そういう時に限って来ないものだ。
梨華も今は眠るつもりではなかったのだが、いつのまにかその睡魔に襲われてベッド
の上で小さな寝息を立てていた。
時間が緩やかに流れていく部屋の中で、つけっぱなしのテレビからは今では子守り歌に
しかならない旅番組が流れていた。

それから30分くらいが過ぎた後、部屋の暑さとテレビからではない別の音で梨華は
目を覚ました。
少し汗ばんだ額を手でぬぐうと、流行の音楽を流しながらテーブルの上で震えている
携帯電話を取る。
着信画面には『よっすぃー』と書いてある。
「はぁい」
寝起きでまだ働いていない喉の奥からなんとか声を出し、電話の向こうで待っている
だろう吉澤に答えた。
『梨華ちゃん電話したでしょ?何でしょうかー?』
どうやら吉澤も寝起きらしく、いつもより少しテンションが高い。
「うん、寝てるかなーと思ってたけど、やっぱり寝てたね」
『そりゃそうだよー
休みの日に8時前に起きるわけないじゃん』
今日に限っては梨華もそう思っていたのだが、ちょっとした事故で起こされてしまった
ものは仕方が無い。
「だって、私7時にののちゃんに起こされたんだよ!
今日はゆっくり寝てる予定だったのに・・・」
『あーそうなんだー』
「あ、それでさよっすぃー」
『うん』

あれから梨華は吉澤を買い物に誘ったのだが、電話の向こうで散々ごねていた吉澤を
説得するのに30分はかかった。
「梨華ちゃん暑いよー!
もう死ぬー!!」
駄々をこねる子供みたいに文句を言っている吉澤を横目に、梨華はマイペースで歩道
を歩いている。
もう駅は目の前で、そこからデパートへ入るまでは1分とかからない。
ここからだと引き返す方が時間がかかるのだが、そんなことは考えられないほど吉澤は
まいっているようだった。
「梨華ちゃんのためならエーンヤコラぁ」
どこで覚えたのか分からないおかしな歌を歌いながら、なんとか吉澤はついてくる。
梨華が買い物に行く目的は2つあった。
まずは、というかこっちの方がついでなのだが、何か良い洋服でもないかなという
いわゆるウィンドウショッピング。
そして、今日吉澤を誘った最大の理由として、入院している後藤へのお見舞いの品物を
何か選びたい、というものだった。
たぶん吉澤が折れたのもこの理由のおかげだと思う。
ただ単に服が買いたいだけだとたぶん断られていただろう。
「ほおらよっすぃー、後少しだからがんばって!」
やっとたどり着いた入り口の前で、ゆっくりと歩いてくる吉澤の手を引いて自動ドア
の中へと入っていく。
「・・・はぁー」
入ったとたんに感じられる冷たい空気で、それこそ吉澤は蘇った。
あれだけだらけていた態度を一変させて、急に元気になって梨華を誘導する。
「梨華ちゃん!早く早く!
まずどこ行くっ?」
梨華はため息をつきながらも、元気になった吉澤の後について歩き出した。
何年も同じことを繰り返している、毎年夏になると行う恒例行事のようなものだ。
それでも、梨華はこの買い物が楽しくてしかたがなかった。

最初、お見舞いに持って行くものと考えて頭に浮かんだのは例の雑貨屋だった。
可愛い置物や邪魔にならないアクセサリーなんかが良いかも、と思っていたのだが、
よくよく考えるとあの雑貨屋で買っていくのも変に意味深そうでやめることにした。
梨華は気にならなくても、後藤がいろいろと言ってきそうだ。
そこで吉澤に助けを求めたところ、こんな答えが返ってきたのだった。
「お見舞い?・・・花とか、本とか」
吉澤も吉澤でまさか自分がついていくことになるとは思ってなかったため、何も考え
ずに軽く答えていた。
言った後でしまったと思ったのだが、次に梨華が言った言葉は予想通りのものだった。
「あー!!
それならさ、よっすぃー明日デパートに行くの付き合って!お願い!」
こうなってしまうと、さすがの吉澤も断れない。
昼間の暑さを想像して憂鬱な気分になりながらもしぶしぶ約束を交わし、急に明るく
なった梨華の声にやはり少し安心していた。

2人はまず洋服を見てみることにした。
いきなり吉澤の助言とは関係ない場所だったが、梨華と買い物に出かければこうなる
ことは吉澤には分かりきっていることだった。
知ってか知らずか、梨華は自然に色とりどりの服が並んでいる売り場を歩く。
そして、見計らったように「よっすぃー見て見て!あれ可愛い!」と立ち止まる。
いつものことだったので吉澤も特に気にならなくなったことだが、それでもお気に入り
服を手にこちらに向かって歩いてくる梨華の目には慣れることはない。
「よっすぃーに似合うと思うなぁ」
梨華が手に持っていたのは、やはり今日もピンク色だった。
「あはは・・・」
吉澤は曖昧に笑いながら梨華に渡された服を体にあててみる。
さあ、ここからどう切り出そう。

それから2人はしばらく服選びを楽しんだ。
休みに入っていつも寝てばかりだったためか、吉澤も今日は普段より積極的に歩き
回り、いくつかか試着もした。
「うーん、これ買っちゃおうかな」
そう言って悩む吉澤の手には、自分で選んだ青っぽいシャツが握られていた。
「えー!?
よっすぃーそういうのいっぱい持ってるじゃない
もっと別のにした方が良いって!」
梨華が持っているピンク色の服も、梨華の家で同じような感じのものを見たような気
もするが、本人はそれに気付いてないらしい。
そして、吉澤用にキープしていたらしい服を持ってこちらに歩いてくる。
買うならこっち!といった表情で譲る気配はない。
「しくしく・・・」
どうやらこの服を買うには目の前の大きな敵を片づける必要があるらしい。
とは言っても、実際はそんなに思うほど欲しいわけでもなかったのだが。
確かに梨華の言う通り、同じような服はたくさん持っていた。
というか、ほとんどがこんな服だったと思う。
これが自分のファッションだ!と言い張れる誇りやポリシーがあれば良いのだが、悲し
いことにそこまで意地になれる理由がない。
慣れない服を着るのが恥ずかしい。それから、ちょっと恐い。そんな感じ。
だからというか、こんな風に梨華にいろいろと選んでもらうのも嫌じゃない。
自分1人だと絶対にできないことだし、女の子っぽくて好きだ。
「梨華ちゃん良いよねー
女の子っぽければとりあえず何でも似合うし」
言うつもりはなかったのだが、思わず口から漏れていたようだ。
「よっすぃーそれって誉めてるのー?」
梨華は梨華で、たまには吉澤のような格好良い女性といったスタイルに憧れることも
あって、素直には喜べない。
そんな2人が並んで歩くと、とてもバランスの取れた組み合わせになるから不思議だ。

服選びも軽く1時間を超えたあたりで、珍しいこともあったもので梨華の方からこの
作業を打ち切った。
「ダメよ、よっすぃー
今日はもっと別の目的があるんだからっ」
梨華なりに後藤のことを気にしての決断だろうが、それでも1時間だ。
吉澤はいろいろと複雑な思いを抱きながら苦笑いで対応する。
「いや、梨華ちゃん
立ち止まったのもあーたでしょ」
「あれ?そうだっけ??」
本当に忘れていたようで、梨華は不思議そうな顔をする。
「こーいう時はとってもポジティブ・・・」
梨華は笑いながら、そして吉澤は少し呆れながら2人して歩き出す。
学生は休みでも世間的には平日であるため、デパート内は混雑するほどではなく並んで
歩いても人を避けるようなことは滅多にない。

2人は次に本屋へとやってきた。
今までずっと健康に過ごしてきた梨華には分からない感覚だが、入院してベッドで寝る
ということは予想以上に暇らしい。
昔、足の怪我だか何かで吉澤が1週間くらい入院したときも、確かにそんなことを言っ
ていたような気がする。
「後藤さん漫画とか読まないよねぇ」
少女漫画のコーナーを一通り見てみたが、特に目を引くものはなかった。
元々梨華も漫画を読むほうじゃないため、自分のオススメというものもないし、何が
面白いのかなんて分かりようがない。
吉澤の方はコアではないにしても漫画好きで、気になった本を手にとったりといろいろ
物色していたが、いざ後藤へのお見舞いとなるとやはり思い浮かばないようだった。

「提案した私が言うのもなんだけど
本は失敗だったねー」
目の前に置かれたコップから伸びるストローを加えながら、吉澤が言った。
小説、エッセイ、果ては何かの写真集まで店内を探し回ったが、やはり「これ!」と
言えるだけの本は見つからなかった。
洋服を見る分にはどれだけ時間をかけても疲れを見せない梨華も、今度はさすがに疲れ
たようだ。
30分もたたずに音を上げた2人は、隣にあった喫茶店で休んでいた。
「後藤さんがどんな人かもまだ分かんないのに
どんな本が好きかなんて分かりっこないもんね・・・」
梨華の前にも吉澤と同じアイスコーヒーが置かれていた。
たっぷりとミルクを入れて白くなったコーヒーをぐっと飲み込む。
喉の奥に広がっていく冷たさが心地よかった。
「これはもう、それこそあれだよ」
どうにもとれない表現で話し掛けてくる吉澤に何と言って良いのか分からないが、取り
あえず目だけで返事をした。
「花しかない!
きれーな花で後藤さんの心をゲットしよう!」
心をゲットだとか分からない話は抜きにして、花しかないというのは納得できる。
結局お見舞いに持って行くものナンバー1のものになってしまうが、それでも使えない
別の何かを送るよりは良いに違いない。
「やっぱりお花が一番安心かな?」
「うん、安心かなぁ
私だったら食べ物とかで嬉しいけど」
「へ?食べ物?」
今まで考えもしなかったことだが、確かに食べ物はよくお見舞いに使われるような気
がする。
花と同率一位じゃないだろうか?

「食べ物かぁ、それ良いね!
食べ物にしよっかな」
「ベーグル?」
「いや、それは分からないけど・・・」
後藤が相手だと、何を持って行くにしても難しくなってしまう。
どんな花が好きなのか、どんな食べ物が好きなのか。予想すらできない。
そう考えると不思議な人だと思うが、なんとなくだけど逆に何をあげても心の中では
喜んでくれそうな気がした。
「気持ちが大事よね、よっすぃー」
梨華は問い掛けるようにそう言うと、少しいたずらっぽい笑顔を見せた。
「うんうん!
気持ちが大事!
梨華ちゃんならだーいじょうぶっ」
吉澤も笑顔で答えると、2人はもう一度顔を見合わせて笑う。
2人の間の決め事というか、何か問題が解決するたびに同じことをしてきた、一種の
合図みたいなもの。
これで悩みも無くなったね?というお互いの気持ちだった。

それから、2人はしばらくデパートの中を無駄に動き回った。
梨華としてはもう用もなくなったから帰ろうとしていたのだが、吉澤の
「まだ外は暑いよー
夕方までガンバロウよ」
という言葉で今まで時間を潰していたのだった。
空はそろそろオレンジ色に変わる頃で、外に出ないと分からないがさすがに吉澤でも
文句は言わないくらいの温度じゃないだろうか。
そう思って梨華は吉澤に言った。
「そろそろ帰るか!よっすぃー!」
「おうよ!」

2日後、梨華は再び病院の前に立っていた。
本当は昨日行きたかったのだが、自分でもよく分からない間に時間がなくなり、いつ
の間にか面会時間を過ぎてしまっていた。
右腕に抱えている少し大き目の袋の中には、先日の吉澤との買い物で決定したお菓子
と花が入っている。
「後藤さんいるかな?」
入院してるんだからいて当たり前なのだが、後藤のことだ。
何をしているか分からない。
少し不安になりながらも梨華は後藤の病室へ向かう。

「こんにちはぁ」
遠慮がちにドアから顔だけを覗かせて中の様子を見る。
だが、それも無意味だったようで、こちらを見ていた後藤としっかり目が合ってしま
った。
「あ、こんにちは」
もう一度言いながら、梨華は中へと入った。
後藤は相変わらず無口で、目だけ動かして梨華を観察している。
「後藤さん、具合はどう?」
後藤がこういうやり取りが嫌いなのは十分知っているつもりなのに、どう頑張っても
同じことを繰り返してしまう。
自分に少し呆れながら、後藤の顔をちらりと見てみると、やはり気分を損ねたようで
額にシワを作っていた。
「あ、あのね、お花持ってきたの
それからお菓子も・・・」
本当はもう少し引っ張るつもりだったのだが、会話が途切れたのが居心地悪くてつい
切り札的に使ってしまった。
心の中で「あーあ」とため息をつきながら、それでも周りを見てなにか花瓶でもない
かな?と探してみる。
「花瓶とかないかなぁ?」

一通り見回してみると、前の患者の置き土産なのかこの部屋のオプションなのかは分
からないが、少し汚れたガラス製の花瓶が窓の横に立ってるのを見つけた。
「うーん、仕方ないかな」
手に取ろうかと少し迷うくらいのものだが、埃がかぶっているだけで洗えば普通に使
えそうだ。
「ちょっとこれ洗ってくるね」
後藤にそう言い残して、梨華は一度部屋を出る。

まだここに来て5分とたっていないのに、梨華は花瓶を持って洗い場へと向かっていた。
「慣れないなぁ・・・」
こういう時には、希美のような性格が羨ましくなる。
相手が身を引いていると、自分も身を引いてしまう梨華の性格だと、このまま永遠に後藤
とは仲良くなれないような気もする。
少し強引にでも後藤の心に踏み込まないと、と思ってはいるが実際は難しいものだ。
洗い場について、水道の蛇口をひねると、気持ちの良い冷たさの水が流れてきた。
いつもと変わらないといえば、変わらない。
吉澤は感情が顔に良く出るタイプだから、怒ったりするとすぐに分かって面白かったり
するのだが、後藤だとそうはいかない。
とにかく、何においても梨華がこれまで接してきた人間とはまったく違う性格の後藤には
まだまだ慣れることはなさそうだ。
「こんなものかな?」
いろいろと考えながらも手はしっかりと花瓶を洗っていた。
洗剤等は洗い場に無かったために使わなかったが、水で少し洗っただけでも見違える
ように奇麗になっていた。
とりあえず満足して、水を止める。
排水溝に流れていく水と、蛇口から流れてくる水滴を何とはなしに感慨深く眺めている
と、後ろから聞いたことのある声がした。
「はい、これ」

はっとして振り向くと、そこには手に布巾を持った保田が立っていた。
「あ、保田さん。おはようございます」
「布巾ないでしょ?
これ使いなよ」
言われてはじめて、梨華は手に持っている花瓶がポタポタと水を落としていることに
気付いた。
「あ」
花瓶を洗ったのに拭くことを忘れている梨華を見て、保田は呆れたように少し笑うと
梨華の手に布巾を握らせた。
「ほらほら、早く拭かないと水滴が乾いて逆に汚くなっちゃうよ」
「は、はい!ありがとうございます」
保田から布巾を受け取ると、丁寧に拭き始める。
「後藤さん元気にしてる?」
暇なのか、保田は後ろに置いてある長椅子に腰掛けると質問を投げかけてきた。
「元気・・・だとは思います
けど、あんまり見分けがつかないから」
そう言って少し悲しげに笑う。
「何回も言って私おばさんみたいだけどさ
あの娘は石川さん来てくれて、喜んでるまではいかなくても
全然嫌だと思ってないはずだよ?
ちょっとね、少しだけど態度が変わるのよ」
「態度が・・・?」
「うん、はっきりとは分からないけどさ
あの娘、人を拒む壁というか、空間持ってるじゃん
それがさ、石川さんの前だとすこーし薄くなるのよ」
やけに抽象的な表現で分かりにくいが、保田の言いたいことは理解できた。
誰の前でも解くことのない後藤の壁。
自分にはそれが他人とどう違うかなんて分からないけど、保田が言うには壁が薄くなる
らしい。
少しとはいえ、喜ぶべきことだと思う。

「こんなとこかな?」
すっかり奇麗になった花瓶を見て、保田の方へと向き直る。
「保田さんは今休憩なんですか?」
「休憩というか、サボりというか・・・
まあそんなとこかな」
いつもの人懐っこい笑顔で保田は答えた。
それから「あっ」と小さく声をあげて、椅子から立ちあがった。
「あのさ、ちょっと話があるから
後でナースステーションまで来てもらえないかな?」
「え?もしかしてまた後藤さんの病気のことですか・・・?」
また何かあったのではと思って、少し緊張して答えたが、違うのよとでも言うように
保田は首を振った。
「ううん、確かに後藤さんには関係あるけど
今度のは病気の話じゃないし、そんなに重大なことでもないから安心して」
それを聞いて梨華も安心する。
これ以上心臓がどうとかいう病気のことを言われると、頭がパンクしそうだ。
「あ、そうなんですか
それじゃあ、後でナースステーションに行きます」
梨華は笑顔で挨拶をすると、後藤の待つ病室へと引き返していった。
と、10mくらい歩いたところで「あっ!」というと急にこちらに向き直り、小走りで
戻ってきた。
「保田さん、これ
ありがとうございました!」
梨華は保田に布巾を返すと、にこっと一度笑って再び歩き出した。
「いい娘じゃない」
花瓶を持って歩いていく梨華を見ながら、保田は小さな声で呟いた。

「花瓶洗ってきたよ」
入るときに何を言おうか少し迷ったが、いきなり「ただいま」もないだろうし、普通に
入ることにした。
案の定というか、さっきの保田の言葉が信じられなくなるが、後藤はちらりと少しこち
らを向いただけで、口を開くことはなかった。

「えっとね、私もお花はそんなに詳しくないんだけど
このオレンジ色のがガーベラと、えっと、うーん・・・
あ、そうそう!スプレーカーネーションっていうんだって!
で、この白くて可愛いのがカスミ草かな」
嬉しそうに話している梨華に、後藤もどう反応して良いのか分からないらしく、いつ
ものように怒った様子もなくただ話を聞いている。
「私、後藤さんの好みとか良く分からないけど
こんなので良かったのかな・・・?」
ひとしきり説明した後、梨華は少し小さな声で呟くように後藤に聞いてみた。
花とお菓子!と決めたのは良いけど、後藤が気に入らなかったらお見舞いの意味がなく
なってしまう。
ここに来るまでに何回も考えたことだが、結局は吉澤と最後に言っていた「気持ちが
大事」という言葉を信じて不安を消していた。
「・・・ああ、うん」
どっちとも取れない返事。
それでも、これが本当にいらないおせっかいなら、後藤のことだ。
回りくどい言い方はしないで、嫌なら嫌だと言うだろう。
自分に都合の良い考え方とも思ったが、真意は後藤本人しか分からない。
前向きに考えて、梨華は奇麗に彩られた花瓶を日の当たる窓際に置く。
「わあ・・・思ってたより全然奇麗・・・」
少し水に濡れた花が、日の光を浴びてキラキラと光っている。
その様子は一種幻想的で、持ってきた梨華でもこんなに奇麗なものだとは知らなかった。
「・・・」
後藤の方を振り返ると、少し目を輝かせて花を見ているような気がする。
さすがの後藤もこの光景は気分の良いものらしい。
文句も言わず、しばらくは花を見ていた。

「あ、それとね」
梨華は持ってきた袋からもう1つ、小さな箱を取出した。
「お菓子もあるよ」
内心のドキドキを隠すように笑顔で言った。
後藤の前まで行って、梨華も椅子に腰掛ける。
そして、後藤に見せるようにしてベッドの上で箱を開けた。
「何にしようかなーって思ったけど、後藤さんの好みがあんまり分からなくて・・・
でも、これだと大丈夫じゃないかな、って」
ベッドの上で開けられた箱の中には、様々な形のクッキーが詰められていた。
お菓子屋で、いろいろと悩んでいたときに店員にアドバイスされたのだが、クッキー
はお見舞いに持っていくには一番安心らしい。
もちろん、病気によってはお菓子自体がダメなこともあるが、食事制限がない普通の
病気だと、ベッドで休みながら間食するといったことには都合が良いとのことだった。

「さあ、どうぞ」
目の前に広がるクッキーの甘い香りに、梨華は今にも手が出そうだったが、お見舞い
で持ってきた以上は先には食べられない。
後藤が普段見せる圧迫感が薄くなってきたと感じたのか、梨華も少し落ち着いて話が
できる状態になっていた。
後藤は少し戸惑っているようだったが、梨華に「はい」と直接渡されると受け取るしか
なかった。
仕方ないといった感じで、渡されたクッキーを口に運ぶ。
後藤が食べたことを見届けると、やっと自分も食べられると思ったのか、梨華が笑顔で
話しかけてきた。
「ね、私も1つもらってもいいかな・・・?」
「・・・ああ、いいよ」
クッキーは好きなのか、梨華に渡された1つにとどまらずに後藤も自分から箱に手を
入れてはクッキーを掴んでいた。

そのまま、2人で何を話すわけでもなくゆっくりとクッキーを味わった。
そして、箱が半分ほど空になったころ、梨華は後藤の口から思いがけない言葉を耳に
した。
「・・・ねえ」
「え?」
「・・・・・・ありがとう」
最後の方はほとんど聞き取れなかったが、それは間違いなく梨華に向けた感謝の言葉
だった。

「んーと、ここで良かったかな?」
梨華の立っているドアの前には、ナースステーションと書かれたランプが点いている。
確か前に来たときもここだと思ったけど、病院の中にはいろいろと似たような場所が
あっていまいち確信がない。
「ここだよね?」
それでもずっとここに立っているだけだと時間の無駄なので、とりあえず中に入って
みることにした。
「すいませーん」
ドアを開けて中を覗いてみると、そこで雑談をしていた看護婦たちの目がいっせいに
梨華へと向けられた。
「ぅ・・・」
思わず小さくうめいてしまうが、喉の奥に力を入れてできるだけ大きな声で看護婦たち
に聞いてみた。
「あ、あの、保田さんにお話があって来たんですけれども・・・」
すると、奥のテーブルでジュースを飲んでいた看護婦が「ああ」と言ってこちらの方
へと歩いてきた。
「あなた石川さん?」
結構太目の30代前後といった感じの女性で、目の前に立たれると後藤とはまた違う
圧迫感を感じる。
「あ、はい」
「ごめんね、今保田さんちょっと患者さんの病室回ってるから
少し待っててもらえないかな?」
見た目に反して温厚な性格のその女性に多少驚きながら、梨華は素直に待たせてもら
うことにした。
大きな女性に自分の隣に座るように言われて、梨華は言われた通りに腰を下ろす。
「あなたあの後藤さんのお友達なんだよね?」
保田から聞いていたのか、その女性は手に持ったジュースを飲みながら言う。
(モコモコしてる・・・)
口には出さないが、その女性の動きが少し可愛くみえて梨華は思わず笑顔になる。
「あれ?どうしたの?」
不思議そうに、それでも可愛らしい動きの女性に梨華は首を振って答えた。
「あ、いいえ!
でも、友達なのかなぁ、私・・・」
梨華の曖昧な答えに、その女性はさらに不思議そうに首を傾けた。

「ふぅ、ただいま帰りましたぁー」
そこへ、疲れた様子で保田が帰ってきた。
手には片手ではもちきれない量のカルテを抱えている。
「保田さーん、石川さん来てるわよ」
隣で大きな女性が大きな声で保田を呼んだ。
言われてやっと気付いたのか、保田も梨華を見つけると「あ、ごめーん!」と言いなが
ら梨華の前にあるテーブルにどさっとカルテを置く。
「はぁ!疲れた!」
うなだれるように梨華の前の椅子に座り込むと、腕をマッサージしながら言った。
「もうほんっと大変なんだからー
石川さん間違っても看護婦になろうなんて思っちゃダメよ」
「ほんとそうよね
私みたいにおっきくないと看護婦なんか勤まらないわよ!」
保田の言葉に、梨華の隣の大きな女性が同意する。
確かにこの女性なら保田が持っていたカルテも軽々と運べそうだ。
「大変なんですね」
よく見た目よりも重労働な仕事だと聞くが、想像以上にきついようだ。
「うん、これじゃ彼氏なんて無理無理!
できっこないよ」
はぁ、とため息をつきながらも笑って話す保田に戸惑いつつ、梨華も笑顔を返した。

「あ、そうそう
で、話なんだけどさ」
保田は急に顔を上げると、梨華をまっすぐに見つめる。
「あ、はい」
「ちょっと不思議なことがあったのよ」
「不思議なこと・・・?」
今度は梨華が首をかしげて保田の言葉を待つ。
「後藤さんにさ、昨日かな?
石川さんくらいの娘がお見舞いに来たのよ」

「え?」
後藤にお見舞い?
誰だろう、と考えてみるが分からない。
別に、後藤に同年代の友達がいないとは聞いてないし、普通は入院した友達のお見舞い
に行くなんてことは当たり前だ。
そう思うとそんなに不思議なことでもないようだが、これまでに何度も患者のお見舞い
に来る人を見てきた保田には不思議な訪問者だったらしい。
「えっとね金髪で小さい娘だったんだけど・・・」
それだけで、梨華にはそれが誰だか分かった。
「あ!その人・・・」
「え?石川さんの知ってる人なの?」
(矢口さんしかいないよね・・・)
知り合いといえば知り合いだが、本当にただお互いに顔を知ってるだけの関係。
それをどう説明して良いのかは分からないが、とりあえず知り合い以上で友達未満とでも
言っておくべきだろうか。
「ええと、知ってる人なのは間違いないですけど
同じ学校で、何回か会ったことがあるだけで・・・」

あれ?これってどこかで見たことあるぞ?
そう思って良く思い出してみると、そっくりそのままあの時の梨華だった。
最初に後藤のことを聞いたときの梨華の言葉。
『あの・・・でも私お友達とかそういう関係じゃあ・・・』
後藤とも友達じゃなければ、今回お見舞いに来た娘とも友達じゃない。
石川ってつくづく微妙なトコロに立ってるんだなぁ、と思って梨華を見つめる。
(ま、でもこの娘なら大丈夫でしょ)
頼りなさげに見えるけど、芯は太くて強い心を持っている。
見習いとはいえ、看護婦の自分が言ってるんだから間違いはないはずだ。

「あの、それで・・・」
見つめられたっきり急に黙り込んだ保田だったが、梨華に言われて正気に返る。
「あ、ごめんなさい
ちょっと石川さんがドラマか何かの登場人物に見えちゃって」
保田はそう言って「あははっ」と少し大袈裟に笑った。
意味は分からないが、笑われているのは確かなので梨華はとりあえず反論しておく。
「なんだか良く分からないけどひっどいなぁ」
「あははっ、ごめんごめん
だって石川さんってすごく微妙なんだもん」
微妙という言葉がまた梨華を混乱させるが、これ以上文句も言えないので素直に話を
聞いてみることにした。
「まだちょっと引っかかるけど・・・
まあ、それは置いといて、その人がどうしたんでしょうか?」
「あ、うん
とりあえず、その人の名前って分かるかな?」
まだ顔は緩んでいたが、やっと真顔になって保田は質問をしてきた。
「えっと、矢口さんっていう人だと思います」
保田の話だと、金髪で小さな自分くらいの娘としか聞いてないから断言できるわけでは
ないが、まず矢口で間違いないだろう。
「あの、その人って髪を横に2つに分けてて
厚底はいてて、今時の女子高生っていう感じじゃないですか?」
これも結局は梨華の見た矢口像でしかないのだが、イメージでなんとなく分かってもら
えるだろう。
「ああ!」と言って手を叩く保田を見ても間違いはなさそうだ。
「そうそう、『ていうかぁ?』って言いそうな感じの娘だったよ
外見に似合わず言葉使いはすっごく丁寧だったって知り合いの看護婦さんが誉めてた」
『ていうかぁ』が今時の女子高生のバロメータだと思い込んでいる保田を見てると、年
の差を感じずにはいられないが、確かに印象はその通りだと思う。

「それでね、その娘がちょっと不思議な娘だったのよ」
不思議という言葉を強調するためか、保田はいかにも不思議そうな表情を見せる。
「不思議・・・」
「うん、私も何て説明すれば良いのか分かんないけどさ
そうだなぁ・・・
私が見ても友達同士って感じじゃなかったのよね」
そうだろうな、と思う。
あの時、廃ビルで聞いた2人の会話を思い出してみても、2人が友達同士だなんてこと
は考えられない。
「よくさ、授業のノートを届ける人を決めるじゃんけんとかで
負けて、とも思ったけどそんな感じじゃないし
しかもそれって女の子だと有り得ない話だしねー」
「あ、矢口さんって3年生なんですよ
だからあんまり学校とは関係ないんじゃないかな・・・?」
「ええっ!?そうなの?
見た目からして同級生か、もしかしたら2人の方が年上かと思ってた・・・」
10人いたらほとんどの人はそう思うだろう。
事実、矢口によく懐いている吉澤と2人でいるところを見ても、吉澤の方が年下だと
は普通考えないと思う。
「はぁー、そうだったんだ・・・
あ、それでね、その娘が来てから後藤さんの様子が少し変なのよ」
3人の複雑な関係や、矢口のキャラクターのおかげで話が中々核心に触れないが、これ
は仕方がないかもしれない。
梨華自身でさえ、自分の周りで起こっていることが理解できずに混乱しているというの
に、ほとんど何も知らない保田にとっては疑問だらけであるはずだ。
説明しようとして、新しい疑問が湧いてくる。その繰り返しだった。

保田の話をまとめるとこうだ。
矢口が訪ねてくる前は、保田を初めとした看護婦に対して必要以上に後藤が口を開く
ことは決してなかった。
病気の説明をしたときもただ黙って聞いていて、そのままベッドに寝転んでしまう。
そんな感じだったから、いい加減積極的に自分から後藤に話しかける人も少なくなって
いた。
また、保田はまだ見習いの身だが、それと同時に患者を選べる立場でもない。
そういう経緯から、自然と後藤の担当は保田ということになっていったそうだ。
だから、保田は特に口は聞かないものの、後藤の顔は毎日見ていた。
後藤の様子は梨華が訪ねてきたときも同じで、確かに梨華の言っていたように2人は
親しい友人には見えなかったらしい。
ここで、保田は一呼吸置いて梨華に「ごめんね」と言った。
とにかく、梨華がここに来るようになってからも後藤の様子は変わることはなかった。
病院側としては、身元不明の後藤をいつまでも置いておけるほどの余裕もなく、どうに
かして親族を探しているのだが、それも上手くはいっていないらしい。
後藤が入院してからすでに1週間以上は経っている。
確かに病院から見たらそろそろ限界だろう。
それから、しばらくして矢口が後藤のもとへと現れた。
矢口が後藤と面会している間は、邪魔をしちゃ悪いと思って保田は病室に入らずに自分の
仕事をしていたらしい。
ドアの前を通ることはあったが、とても友達が訪ねてきたとは思えないくらい静かだった
そうだ。
「まあ、後藤さんなら仕方ないと思ったんだけどね」
そう言って笑った保田が印象的だった。
そして、思ったよりも早く、1時間程度で矢口は帰った。
帰り際に受付の看護婦に一言挨拶する丁寧さから、見た目以上に看護婦の中では評判が
良かったそうだ。

「でもね、後藤さんなんだけど
その矢口さんが帰ってから少し変なのよ」
「変?」
首をかしげる梨華に、保田は答える。
「急に、しかも自分からよ?
私に話しかけてきたの」
その時の驚きを再現するように、保田は両肩を大きく上げた。
「それがさ・・・
この病気は治るのか?って」
「そう聞いてきたんですか?」
「そう」
矢口が帰った後になって急に病気の心配をするなんて、確かに不思議なことだ。
「私も困っちゃったけどさ
後藤さん相手だと、下手なこと言っても信頼されないと思って
本当のこと全部言ったのよ
たぶん治らないけど、病気としては軽いから日常生活に支障はないって」
後藤相手に「きっと治るから心配しないで!」とは確かに言いづらいが、たぶん治ら
ないと言えてしまう保田の性格はすごいと思う。
「そのこと後で先生に言ったらすっごい怒られちゃってさ
病気のことを話すときは主治医に連絡しろ!って」
特に悪かったという様子もなく笑っている保田に呆れながらも、梨華は後藤の変化が
気になった。
普通に考えて、後藤を襲ったのは矢口と見て間違いないだろう。
肩に残る痛々しい傷が矢口によってつけられたものなら、それは許されないことだ。
でも、そこまでした後にわざわざ病院にまで来るだろうか?と考えると、悩んでしまう。
矢口の性格を把握しているわけではないが、ただ後藤に会いに来るためだけに病院に
来ることはなさそうだ。
(後藤さんに聞いてみるしかないのかなぁ・・・)
気は引けたが、梨華は後藤の病室に戻ってみることにした。

帰ったと思っていた梨華が戻ってきたことに、後藤は少し驚いたようだった。
「・・・なに?」
ベッドの上にはクッキーの箱がまだ空けられていた。
よほど気に入ってもらえたのか、まだつまんでいたようだ。
自分で持ってきたのか、ベッドの隣に置いてある棚の上にはお茶があった。
「あ、それ美味しかったよねぇ
また今度持ってくるよ」
梨華は嬉しくなり、後藤の隣に座り込む。
少し嫌な顔をしたが、後藤も文句を言うことはなかった。
「あのね、ちょっと後藤さんに聞きたいことがあるの・・・」
後藤の頭の上にハテナマークが浮かぶのが分かったが、梨華は構わずに続ける。
「この前、ここに矢口さんが来たんだよね?」
「!」
梨華の口から矢口という名前が出てくるなんて全く予想していなかったに違いない。
明らかに後藤が身構えるのが分かった。
「なんで?」
知ってるの?と言いたいのだろう。
「あの、今保田さんから聞いちゃって・・・」
梨華が戸惑いながら答えると、後藤は小さく舌打ちした。
「・・・あいつ」
保田のことを言っているのだろう。
何で言ったんだ?黙ってればいいのに。
そんな顔をして、もう一度梨華の方を向く。
「・・・来たよ、確かに
で、それでどうしたの?」
開き直るとはまた違うようだが、とにかく梨華とこの話をするのはやめたいらしい。
見るからに不機嫌になっているのが分かる。

「あの、矢口さんお見舞いに来たの・・・?」
そうじゃないことは予想できていたが、あえてお見舞いという言葉を使う。
すると、後藤から返ってきた答えは意外なものだった。
「前・・・ビルで先輩と話してるの聞いてたんでしょ?」
「えっ?」
「言ってたんだよ
あいつが。聞かれたって」
気付かれてた?
あの時、確認はしなかったけど見つかっているはずはなかった。
矢口がドアを開けてから、自分が路地の角を曲がるまでに気付くわけがないと思って
いたのだが、それは甘い考えだったのだろうか。
「あ、あの・・・それは・・・」
後藤がそう言っている以上、矢口に見つかっていたのは確かなのだろう。
だが、それをどう説明していいか分からない。
「別に良いよ・・・
どうせそのうちあいつが自分から言うんだから」
梨華の方は見ずに、ただ前を見て話す、いつもの後藤。
いつの間にか開けられていた窓からは、夏の暑い熱気とともに少し冷たい風が流れこ
んでいた。
ちょうど窓の外に立っている大樹のおかげなのだろうが、心地良い樹の香りも手伝って
そう暑い気はしない。
「ごめんなさい・・・
話を聞くつもりはなかったの・・・
ただ、矢口さんが気になって・・・」
梨華は下を向いて、小さな声で言った。
今になって、自分がどれだけ馬鹿げたことをしていたのかと思うと恥ずかしくて後藤
と顔を合わせられない。
「良いって言ってるだろ・・・
それよりさ」
少し言葉に刺が出てきたが、後藤自身もなんとかそれを抑えようとしていた。
自分の欠点。
短気というか、はっきりしない人を見るとどうしようもなくイライラする。
マルかバツか。それだけで良いのに、何で前後にいらない言葉を付けるのか。
ただ、それでいちいち頭に血が上る自分はもっと嫌だった。

「あんた、先輩とどういう関係?」
先ほどから言っている先輩とはもちろん矢口のことなのだが、梨華自身が普段は矢口
さんと言っていることと、彼女の容姿から考えてどうもピンとこない。
先輩と聞いてからああ矢口さんだ、と出てくるまでに時間がかかってしまう。
「関係・・・?
私と矢口さんはお互い顔を知ってるだけだよ?」
梨華は素直に答えたつもりだったが、後藤にはそれが不服だったらしく、もう一度
小さく舌打ちをした。
「・・・」
それから何かを考えていたようだったが、しばらくして口を開く。
「・・・ま、いいけど」
今の後藤を見て、梨華はついさっき保田に言われた言葉を思い出した。
確かに、いつもと違うかもしれない。
同じだと思って見ると同じだが、一度でも違和感を感じてしまうとそこしか見えなく
なってしまった。
いつも以上に良く話す気がする。
保田に自分から声をかけるくらいだからその通りなのだろうが、まさか後藤から矢口
との関係を聞かれるとは思いもしないことだった。
それと同時に、梨華はある1つの疑問がしだいに大きくなっていくことも感じていた。

後藤と矢口はどういう関係なのか?
何かあるたびにこの2人は繋がっている。
お互いにそこまで相手を意識する理由というのが全く分からなかった。
「後藤さん」
後藤が、梨華と矢口の関係を知りたがっていたように、梨華も2人の関係が特に気に
なっていた。
後藤を潰すと言っていた矢口の言葉。
そして、実際に誰かに襲われた後藤。
梨華の中で何かが動き出した。

「後藤さんと矢口さんって・・・
その、どういう関係なの・・・?」
ずっと聞きたかったことだった。
あの時の2人の信じられない会話を聞かなければ、こんなことを疑問に思うこともな
かっただろう。
後藤が何か大変なことに巻き込まれているような気がした。
遠くで鳴いていたセミの声も一瞬途切れたようで、病室の中が昼間特有の静寂に包ま
れる。
「・・・それは・・・」
きっと怒るだろう。そう思っていたのだが、意外にも後藤は返答に戸惑っていた。
それほど深い事情があるのか、それとも別の理由があるのか。
相変わらず前を見つめたままで、ぴくりとも動かない。
再びうるさく鳴き始めたセミの声と、急に吹き込んできた風になびいているカーテン
が妙に存在感を強調していた。
「それは・・・」
後藤はもう一度そう呟くと、ふいに梨華の方に顔を動かした。
梨華の目を覗きこんで、そして、また目を背けてから言葉を吐き出した。
「言えない・・・」
後藤の手を見ると、シーツをしっかりと握っていた。
梨華の勝手な解釈だが、言いたくても言えない。そんな感じだった。
「言えないって・・・
そう・・・なんだ・・・」
それじゃ納得できない。教えて欲しい。
そう思っても、梨華にはそれを後藤に伝える術はなかった。
言いたくないというなら、言わなくてもいい。
後藤なりに考えて、それで出した結論なら梨華には何も言う権利はなかった。
また、この四角い部屋の中が沈黙に包まれる。
中で起こっていることが分かっているかのように、セミも息を潜めていた。

「言いたくないのよ」
何を言って良いのか分からず、頭の中でいろいろと言葉を探っていたときに後藤が口
を開いた。
「えっ?」
少し驚きながら後藤の方を見ると、後藤は顔をうなだれるようにして下を向いていた。
その表情はいつもとは明らかに変わっている。
影が射すように暗く、力がない。
「・・・今はまだ・・・
言いたくない」
やっぱり、おかしい。
これまでとは全く違う梨華に対する後藤の態度。
キーワードが矢口であることは分かりきっているが、後藤はその矢口と自分がどんな
関係なのかは言えないと言う。
それに、何よりも元気がないのが気になる。
さっき、最初はおいしそうにクッキーも食べてくれた。
「・・・それに」
後藤はまだ先を続けた。
「これ以上聞くと・・・
また、あんたも、巻き込まれる・・・」
「・・・また?」
巻き込まれるということよりも、梨華には『また』という言葉の方が気になった。
何が『また』なんだろう。
「後藤さん・・・
それって・・・あの、矢口さんのせいなの?」
後藤の肩に巻かれた包帯の辺りを指差した。
その問いにも、後藤は答えることはなく、ただ「言えない」と繰り返すのみだった。

帰り道。
思わぬ時間をとったためか、空は夕焼けを通り越して星が光っていた。
夏休みだというのに、駅には制服を着た学生が多く見られる。
そのほとんどは友達と笑いながらおしゃべりをしているだけだが、中にはベンチに
座り込んで1人で参考書を読みふけっている人もいた。
あれから、梨華が帰ろうと立ち上がったときに、後藤が最後に言った言葉。
「言ったら、たぶん・・・私が嫌いになるよ」
矢口と自分の関係を話すと、梨華は自分を嫌いなるはずだ。
だから言えない。
そう、自虐的に呟いた。
それを聞いて、梨華は一瞬で頭に血が上って、後藤に向かって叫んでいた。
「そんなことない!
なんで!?私が後藤さんのこと嫌いになるわけないよ!
なんでそんなことが言えるの!?」
後藤は突然怒り出した梨華を見て驚いていた。
泣きそうになりながら、体全体で子供を叱るように話す梨華を、後藤はただ黙って見て
いるしかなかった。
「後藤さん、もう少し・・・
頼りないけどさ・・・私を信じて」
後藤の顔は見ていないが、シーツを握っていた手にさらに力が入ったのは分かった。

切符を買って、ホームに上がって電車を待つ。
「矢口さん・・・」
どうやら、後藤と矢口は想像以上に深く関係しているようだ。
矢口は知っているのだろうか?
後藤が入院しているのは肩の傷のせいではない。
そのことを知っているのか。
唇をかみ締めて、梨華は携帯を取出した。
ピッピッ・・・
画面に『よっすぃー』と出たところで指を止め、そして通話ボタンを押した。

――
「それってやっぱり矢口さん・・・なのかな?」
「だって、それ以外に考えられないよ」
今日は特に蒸し暑かったようで、日が落ちても気温が下がった気がしない。
それどころか、夜になって湿度が高くなったのか外に出るだけで服が体にまとわりつく
ようで気持ち悪かった。
たまには吉澤を自分の部屋に呼びたかったのだが、やはり梨華の願いは「暑い」という
吉澤の一言で消えてなくなってしまった。
「矢口さんが・・・
信じられないよ」
クーラーの効いた吉澤の部屋で、2人はいつも通りの位置に座りこんで話していた。
「どっちかっていうとね
私は信じられるな・・・」
吉澤の枕を抱いて、ベッドの上にちょこんと座っている梨華が上目がちに言う。
矢口を気にいっている吉澤に言うのは確かに忍びない。
だが、もし本当に矢口が関わっていたなら吉澤にも注意してもらわないとダメだろう。
「梨華ちゃん・・・」
予想通り吉澤は何か言いたそうな顔をするが、梨華がこんなことで嘘は言わないことを
分かっているため、文句の1つも言えないようだ。
確かに、吉澤自身も矢口が本当はどんな人かなんてことはまだ分かってない、と思う。
普通に話しをして、家まで連れていってもらって、それでも梨華の話を聞くと矢口が
怪しく思えてしまう。
「後藤さん元気だった?」
ごまかすつもりはなかったのだが、別の質問を梨華に返してしまった。
「え?うん・・・
なんか、後藤さんも少し様子が変だったよ・・・」
「変?」

「うん、なんていうか・・・
矢口さんのこと相当気にしてた」
梨華の言葉に、吉澤はしばらく考えるように黙っていたが、1つ小さく息を吐くと
梨華の目を見て言った。
「あのさ、私矢口さんの家で写真見つけたんだ」
写真?そんなことこの話に関係ないじゃない。そう思いながらも黙って話を聞く。
「そしたら、小さいころの矢口さんと後藤さんが一緒に写ってた」
「え?」
「5歳とか6歳とか、そのくらい小さい頃のなんだけど
2人ともすっごい仲良さそうだったよ」
後藤と矢口が仲良さそうに写真に写っていた。
それにも多少驚いたが、そんなに昔から2人が知り合いだったことにさらに驚く。
「昔からのお友達だったんだ・・・」
「うん、矢口さんは腐れ縁って言ってたけどね」
まるで私とよっすぃーみたい。そう思うと、今の2人の関係が信じられなかった。
幼稚園も同じだったような2人が、今ではお互いを傷つけるような関係にまでなって
いる。
こんなこと有り得るのだろうか。
「・・・でも、やっぱり矢口さんが・・・」
最後までは言わないが、梨華はぎゅっと持っている枕を抱きしめながら言う。
「・・・うん」

「あーぁ!」
大きな声でわざとらしくため息をつくと、梨華はそのまま吉澤のベッドに倒れ込む。
「疲れちゃった!
もー眠い!」
いろいろと考えることに疲れてしまった。
どうせ、どれだけ考えても真実は後藤と矢口にしか分からないのだ。
「もう!
梨華ちゃん寝ないでよねー!
寝相悪いんだから」
「そんなお母さんみたいなこと言わないでよー
ああ、よっすぃー・・・僕はもう疲れたよ・・・一緒に眠ろう・・・」
「そんなこと言ってもダメ!
私パトラッシュじゃないし」
軽く切り捨てる吉澤に、梨華は口を尖らせて言う。
「冷たいな、そんなことで良いのぉ?
私よっすぃーとは親友だと思ってたのに・・・悲しい」
「んなこと言ってもね!
梨華ちゃん覚えてないかもしれないけど、前に脇腹思いっきり蹴られた時は
死ぬほど痛かったんだよ!?
起きてるならともかく、不意打ちは効くんだって!」
そういえば前にもそんなことを言っていたような気もするが、起きてる人に向かって
寝ている時のことを注意してもあまり意味が無いだろう。
痛さを思い出したのか、脇腹を押さえながら話している吉澤を見ると悪い気はするが
どうしようもないことだった。
「しかも梨華ちゃんいつの間にか足で私を挟んでるし・・・」
まだ何か言っているようだが、梨華はあえて聞こえないふりをした。
「どっちにしろ!」
眠いのは変わらないが、力を振り絞って立ち上がる。
「後藤さんたちの場合、ただの喧嘩じゃないんだよね」

「喧嘩じゃ入院まで行かないって」
「だよねぇ」
梨華と吉澤の場合は、2人のタイプがまったく違うことが理由なのかは分からないが、
喧嘩という喧嘩はしたことがなかった。
大抵は悪ふざけで終わるし、吉澤の男っぽいけどのんびりしているという良く分から
ない性格だと怒ること自体がとても少ない。
梨華の方はというと、これはあまり良いことではないと思うのだが、怒りたくても周
りの空気や人を気にしすぎて怒ることができない人だった。
「喧嘩なんてしない方が幸せなのにねぇ」
そう呟く吉澤を見ると梨華も安心する。
「うん、良いことなんかないよ」
そう言って梨華は再びベッドに寝転んだ。
「だから、よっすぃーも怒ったりしないで、ね?」
「それとこれとは別でしょー」
吉澤を上手く誘導したつもりだったのに、またもや軽くあしらわれてしまった。
今度こそ梨華はすねたようで、吉澤の方をちらちらと見ながらベッドから起き上がる。
「・・・よっすぃー頑固だなぁ」
「頑固って・・・」
吉澤も呆れたような顔をするが、すぐに興味は別のことへと移行していく。
「実際、後藤さんと矢口さんってどんな関係だったのかな?」
「え?」
急に話が変わったためにすぐには対応しきれないが、そんな梨華には構わずに吉澤は
続けた。
「だってさぁ、普通そこまでするほど嫌いにはならないよね」
「うん、まあ・・・」
自分にそういう経験がないのはその通りだけど、どんなに苦手な人でもここまで憎む
ことが本当にできるのか?
2人は同じようなことを思っていた。

――
「やっぱり、後藤さんに聞いてみよう・・・!」
今にも降ってきそうなほど、空には無数の星が光っていた。
まだまだ外は暑いが、たまに吹き抜ける風が気持ち良い。
ついさっき、吉澤の家を出るときは10時前だった。
梨華としては、本当に眠たかったこともあって吉澤のところに泊まることを結構本気
で考えていたのだが、結局1人で帰ることになってしまった。
こんな時間にかよわい乙女を外に出して良いの?と何度も言ったが効果なしで、なつ
いても構ってもらえない猫の気持ちが少し分かった。
ただ、こんな時間に外に出ることは冗談ではなく気味が悪い。
後藤が襲われて、自分も巻き込まれるかもしれないようなことを言われたのだ。
梨華ではなくても暗い夜道は恐いだろう。
「このままだと何にも進まないもんね」
幸いにも、今日の空は透き通るように奇麗で、星の光が眩しいほどだ。
夏の夜のちょうど良い散歩と考えれば気も紛れる。

後藤が何と言おうと、矢口との関係を聞き出す。
このままだと自分も辛いし、何よりも後藤が1人で全部抱え込んで潰れてしまうこと
が恐かった。
何もできないかもしれないし、逆に何か問題を起こすかもしれない。
それでも、それで後藤の負担が少しでも軽くなるのなら、後悔なんてするはずがない。
「明日も行ってみよっかな」
これで1歩でも進んだと思う。
月に励まされながら、梨華は静かとは言えない夜の道を歩いていた。

――
翌日。久しぶりに訪れた黒い雲が空を覆い、今にも雨が落ちてきそうな天気だった。
たまにゴロゴロと雲の奥で雷が轟いている。
約束通り、と言って良いのかは分からないが、梨華は病院にいた。
右手にはピンク色の傘を持って、そろそろ見慣れてきた病院内を後藤の病室に向かっ
て歩いている。
「あ、石川さーん!」
と、遠くで梨華を呼ぶ声がした。
予想するまでもなく保田だと分かったが、なんとなく驚いたような顔をしてしまう。
「あ、保田さん」
保田は梨華が自分に気付いたことを確認すると、笑顔でゆっくりと近づいてきた。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
梨華が頭を下げると、保田もそれにならっておじぎする。
「あの・・・」
「あのね!ちょっとすごいことが起きたのよ!
聞いてもらえる?」
梨華が質問をする前に、保田は興奮したように大きな声で言った。
「は、はい」
圧倒されるように梨華が身を引きながら返事をすると、保田は1回「よし」とでも言う
ようにうなずいてみせて、梨華を近くにあったナースステーションへと誘導した。

「あのね、ちょっといきなり本題に触れるけど
石川さん、この前ここで矢口さんの話したよね?」
最初から核心を言ってもらうことは良いのだが、矢口も絡んでくるとは意外だった。
お見舞いに来た不思議な人だけでは片づけられない問題でも起こったのか、どうやら
今回は矢口に関係のある話のようだ。
「あ、はい」
「それでね、ちょっととんでもない話なんだけどさ」
そう言うと、わざと期待を持たせるように時間を置いて後を続けた。

「えっとね、言いにくいんだけど
後藤さんがこのままだと、入院費用とかでいろいろと面倒なことになる
・・・っていうのは分かってもらえてるよね?」
確認するように目で訴える保田に、梨華は黙ってうなずいた。
保田としても、本当に後藤を心配してお見舞いに来てくれる梨華に対して、こんな
ことは言いたくはないのだが、これから話すことを分かってもらうためには前置き
として理解してもらわなくてはいけなかった。
「それでさ、うちも相当困ってたんだよ
人を救うことが仕事の病院なのに、後藤さんを退院させようっていう話まで
出てきちゃって
ほんと恥ずかしいんだけど」
照れたように笑う保田の顔は、どこか悲しそうだったが、梨華はそれ以上に後藤が退院
させられるかもしれないという事実に驚いた。
「え!?
病院ってそんなこともやってるんですか・・・?」
素直に驚き、そして素直に非難をする梨華に、保田も本当に申し訳なさそうに言った。
「こんなこと、ほんとに石川さんには言いたくなかったよ・・・
自分で言ってても、こんなに恥ずかしい言葉ってないよね
世の中結局お金だって認めてるようなもんだしさ」
「いえ!そういう意味じゃあ・・・」
ただ驚いただけで、保田に文句を言うつもりは全然なかったために、保田に落ち込まれ
ると困ってしまう。
「あ、分かってるって
びっくりしたんでしょ?うん、私だってびっくりだもん
どっちにしてもとんでもない話だけどさ」

「あ、また話が飛んじゃってるね
いや、私だってパッパッと終わらせたいんだけど
かなりフクザツだから説明がどうしても長くなっちゃうんだよね・・・」
そう言って笑う保田は、すでにさっきの悲しい感じは見られない。
どうやら立ち直りも早いらしい。
「それでさ
昨日、石川さんが帰った後にとんでもないことが起こってさ」
早くとんでもないことの内容を言って欲しいが、そんな梨華をさらに焦らす
ように保田はゆっくりと後を続ける。
そして、それは梨華をさらに混乱させる内容だった。
「あのね、後藤さんの入院代、それから治療費・・・
とにかく全部を『矢口』っていう人が払ってくれるんだって!!」
「へ?」
考えもしなかったことで、頭に入ってそれを理解するまでに時間がかかるが、
保田の言った通りなのだろう。
「へ?って思うよねぇ!
なんで家族でもない人が他人の入院代を払うの?って」
矢口というのは、あの矢口のことなのだろうか?
それ以外には考えられないが、あの矢口が後藤の入院代を払う理由があるのだ
ろうか?
「あの、矢口さんって・・・」
「うん、お見舞いに来た矢口さんのお父さんだって
そのお父さんが後藤さんにかかる治療費はすべて負担しますって」
矢口の家に行った吉澤は、矢口はすごいお金持ちらしいとは聞いていたが、それ
とこれとは問題が別のような気がする。
後藤の肩の傷が矢口によるものなら、どうしてその治療にまで世話を焼くのか。
梨華の中での矢口イコール敵だという認識が、少し揺らいだ気がした。

コンコン、ガチャ
「こんにちは」
どうせノックしてもしなくても返事はないんだから、と思っても自分の癖なの
かつい手が出てしまう。
「あ・・・」
またいつも通りすぱっと流されるかな?
そう思っていたのだが、後藤は梨華を見て何かを言おうとしたようだ。
でも、それ以上は何も言わない。
「こんにちは
ごめんね、今日はてぶらなの」
梨華の方を見て何か言いたそうな後藤に、梨華は笑いながら今日はお土産がない
ことを告げる。
「いや、いいよ」
後藤がぶっきらぼうに答える姿を見て、梨華は思わずもう一度笑いそうになるが、
なんとか抑えて後藤の隣へと向かう。
「・・・今日は、何?」
昨日と今日、この2日間で後藤の様子は目に見えて変わったと思う。
梨華に対しても、以前のように突き放すことがなくなった。
後藤なりになんとかしようと頑張っているのが分かり、微笑ましい感じがする。
ただ、こんなことを口に出しては言えないが。
「うん、あのね
私、昨日家に帰ってからもずっと考えてたの
後藤さんと、矢口さんのこと・・・」
「・・・え?」
「やっぱり、話を聞かせて欲しいの
矢口さんってどんな人なのか、後藤さんとどういう関係なのか
それから・・・そしたら!
後藤さんのこともっと分かると思うの
ちゃんとしたお友達になれると思うの・・・」

誰かが自分のことを考えてくれる。
忘れていた感情だとか、そんな格好良いことを言うつもりなんか無い。
ただ、とても懐かしい感じ。
それだけ。
でも、それだけで十分だった。
この人なら。梨華になら話しても良いかもしれない。
そう思った。話してみよう。

「私はね・・・」
「え?」
「聞きたいんでしょ?
なんで先輩があんなにムキになってるか」
「う、うん!
聞きたいよ!」
こんなに簡単に教えてくれるとは思わなかった。
今日は後藤と口論してでも聞いてやる!と意気込んでいたために、逆にあっけ
ないくらいだ。
唐突なことで、梨華は何も話せなくなってしまった。
後藤の言葉をただ聞くしかない。
「私はね、いつからか知らないけど
両親がいなかった」
静かに、まるで独り言のように後藤は語り出した。
自分で思い出しながら、ゆっくりと言葉を選んで、おそらく誰にも言ったこと
のないだろうことを梨華に向けて話し出す。

そう、周りには誰もいなかった。
両親だけじゃない。親戚も、友達も。
だから・・・だからなのかは分からないけど、物心ついたときには孤児院に
いた。
笑えるよね、今のご時世に孤児院だって。
でもさ、それでも結構楽しかったよ。
全部で6人だったかな?ん?7人だったかも。
まあ、そんなのどうでも良いか。
とにかく、孤児院っていう響きよりは楽しく過ごしてたと思う。
他の子の名前なんて覚えてない。遊び相手に名前なんていらないもんだしさ。
そこにいれば良いんだよ。
でも、1人だけ。絶対に忘れられない人がいた。
そ、矢口真里。あいつのことはまあ忘れることはないんじゃない?

実はさ、先輩もそこの孤児院にいたのよ。
私と一緒。両親がいないの。
びっくりするでしょ?今は金持ちのお嬢様なのに。
先輩と私はいつも一緒に遊んでた。周りから見ても姉妹みたいだって言われて
たよ。
あの頃は先輩のこと「お姉ちゃん」って呼んでたしね。
今になってこんなこと言いたくないけどさ・・・あの頃は楽しかった。
子供だから毎日遊ぶことだけ考えてれば生きていけたし。
でも、だんだんとそれができなくなってきた。
1年か、2年か。あの頃の時間の感覚なんて適当だからさ、どれくらいの間かは
さっぱり分からないけど、少しずつ変わっていったんだよ。
え?違うよ、私たちじゃなくて、私たちの・・・お母さんがね。
後で分かったことだけど、結局金がなかったんだよ。
私たちが大きくなって、わがまま言うようになって。それでも良い人だったか
らそれに答えてた。
でも良い人と良い親っていうのは全然違うんだよね。
あんまり叱れない人だから、私たちのわがままもどんどん酷くなった。
分かる?孤児院って言っておきながら、実際は普通の家族以上の生活をしてた
んだよ?
まあ、そう思ってたのは私たちだけだけど。
たまにサングラスかけたヤクザみたいな、今だったら笑えるけどその頃は恐か
ったよ、そんな変な男が来るのが不思議だったけどね。
そ、借金取り。
子供って無知なんだよ。不思議に思うけど、恐いけど、ただそれだけ。
後は分かるよね?
私たちのお母さんが壊れちゃったの。
ノイローゼっていうのか、あれだけ優しい人だったのに、子供が血を吐くまで
殴ったりしてるんだよ。
地獄だったよ。

でも、完全に狂ってるわけじゃなかった。
ちゃんと、買い物にも行ってたし、御飯も作ってくれてた。
普通の人みたいに。
でも、何がきっかけだか分かんないけど、突然おかしくなっちゃう。
いつ、どこでそうなるか私たちには全然分からないからさ、みんなとにかく
あの人を刺激しないように静かにしてた。
子供が何人もいるのにみんな物音立てずに静かにしてんの。
気持ち悪いったらないよ。

で、結局私たちのお母さんはそのまま死んだ。
何が原因だったんだろうね。
気付いたときには動いてなかったよ。
それから、私たちはそれぞれ誰かに引き取られたりして、みんな離れていった。
私以外はね。
中には遠い親戚が見つかって引き取られた子もいたみたい。
でも、まあ期待はしてなかったけど、私にはやっぱり親戚はいなかった。
それに、何にもしゃべんなかったし、笑いもしないし、とにかく可愛げがない
もんだから、私だけはそのままだった。
新しい家族もいないし、知り合いもいない。
何ヶ月かな。1年までは長くなかったけど、その何ヶ月は前よりももっと酷い
地獄だったよ。
働く暇があったらスーパー行って食べ物盗め、って感じ。
実際、働けないでしょ?たかだか小学生だしね。
あの頃は、子供ながらにこんな生活を一生続けていくんだな、って思ってたよ。
嫌だったけど、死にたいとかそういうことは思わなかった。
バカだったから、思いもしなかったんだよ。そんな方法で逃げられるって。

そんな時に、ある人が現れた。
偶然なのか、近所で誰かに聞いたのかは知らないけど、その人は私に話しかけ
てきた。
あー、また文句言われるのかな、っていつも通り無視してたらさ。
そしたら、その人が突然泣き出して、寂しかったね、って。
今でもどうしてなのか分からないよ。
なんであんな生意気で汚い子供を育てようと思ったのかなんて。
とにかく、その日から私はその人の家に住むことになった。
2人暮らし。
最初の何週間か、私はずっと黙ってた。
その人が信じられなかったからね。
でも、1ヶ月とか。2ヶ月経つと、もうすっかり家族みたいだったよ。
お姉ちゃん、って呼んでた。
たぶん、あの時にはじめて「幸せ」っていう言葉の意味が分かったと思う。
ほんと、幸せだった。
言っちゃ悪いけど、前のお母さんよりも料理もずっと上手かったしね。
布団は2つあったけど、用意するのはいつも1人分。
とにかく、それくらいに幸せだった。
今でもこの頃のことが一番よく思い出せるよ。
同年代の友達なんか1人もいなかったけどね。
今でも思うよ。
あの頃に戻りたいって。
夢でも良いからずっとあのまま暮らしたかった。

「・・・」
「・・・後藤さん?」
ゆっくりとはいえ、着実に話を続けてきた後藤が急に黙ってしまった。
突然訪れた静けさの中で、後藤は下を向いたまま何も言おうとはしない。
「・・・どうしたの?」
おそるおそる、梨華は後藤の顔を覗き込もうとした。
「・・・も・・・」
「え?」
聞き取れたのが奇跡なくらい、小さな声で後藤が何かを呟いた。
そして、もう一度何かを問おうとする梨華の方へと、ゆっくりと振り向いて
喉の奥から押し出すように言葉を吐き出した。
「でも」
「ご・・・とう・・・さん?」
後藤は泣いていた。
鳴咽を漏らさないようにしっかりと唇をかみ締めて、手は痛そうなくらいに強
く握られていた。
それでも、ボロボロと流れる涙はとどまることがなかった。
「あはっ」
涙に濡れる中、崩れた笑顔を見せる後藤に梨華は何も言えなかった。
「泣いたのなんて、久しぶり」
後藤の涙はまだ溢れている。そして、まだ笑っている。
心の奥に何か重いものが流れ込んできた。
殉教者のような目で、後藤は梨華を見つめていた。
「でも、お姉ちゃんもいなくなった・・・」
「・・・え?」
「理由なんて分からない
ただ、ある日突然いなくなったの」
拭うことなく顔から流れ落ちた涙は、小さな跡を残しながらベッドに吸い込ま
れていった。

あれだけ強いと思っていた後藤が、梨華の前で泣いている。
子供の頃の出来事でも、それだけショックが大きかったのだろう。
「後藤さん・・・」
梨華は、最初にここに来た時のことを思い出した。
まだ意識が無かった後藤の口から漏れた「お姉ちゃん」という言葉。
あの時も後藤の目は濡れていた。
後藤の心の中では「お姉ちゃん」の存在が痛いくらいに大きいのだ。
「3回目・・・」
「え?」
「私、3回も捨てられたんだよ」
そう言いながら、後藤はもう一度笑顔を見せた。
「最初は生まれたとき
次に孤児院がなくなったとき
そして、お姉ちゃんに捨てられたとき・・・」
今まで悲しい笑みを浮かべていた後藤の顔が、ゆっくりと崩れていった。
「もう・・・イヤ」
ついには顔を伏せ、堪えようともせずに鳴咽を漏らし始めた。
「後藤さん・・・」
梨華は心の中がしだいに温かくなっていくような気がした。
後藤は過去に引っ張られて、他人に対して極端な壁を作っていた。
今度は自分が後藤を助ける番だ。
今の後藤を助けることができるのは自分しかいない。
「大丈夫・・・
後藤さん、大丈夫だよ・・・
私はどこにも行かないし、ずっとお友達でいられる」
梨華は後藤の頭を優しく抱え込んで、子供を諭すような声で言った。
胸の中で、後藤が泣いている。
彼女は、強くなんかなかった。
心の中ではいつも泣いていた。
ただ、それを伝える方法と、伝えるべき人を知らなかったんだ。

後藤はしばらくそのまま泣いていたが、やがて梨華から離れると照れくさそう
にあさっての方を向いて黙り込んだ。
「後藤さん」
「え?」
「私、後藤さんのお友達だと思って良いよね・・・?」
声は聞こえなかったが、後藤がほんの少しだけ頭を下げてうなずいたのを梨華
は見逃さなかった。
ようやく、やっと後藤の友達になれた。
長かったな、と思いながらも梨華は心が満たされていた。

「それでさ・・・」
自分の中で心の整理でもしていたのか、後藤はかなりの時間黙っていたが、そ
ろそろ落ち着いてきたのか、再び話し始めた。
ただ、相変わらず梨華は見ないで。
いくらなんでも、急に友達だからと笑って話せるとは梨華だって思わない。
後藤の方だってまだ大きな戸惑いがあるに違いない。
ただ、お互いがお互いを許しあっている。そのことは2人にとってとても大き
なことだった。
赤ちゃんがはじめて歩行器から手を放して歩き出す時の1歩。
後藤の決断は、それくらいに勇気のいる1歩だった。
だから、今はこれ以上進んで欲しいとは言わない。
ゆっくりと、自分の歩調に合わせて進んでいけばそれで良い。
立ち止まったって全然構わない。
その、最初の一足が私の望んだすべてに繋がるから。
「うん」
いろいろな思いが交差するなか、梨華は心から満足したようにうなずいた。

「お姉ちゃんも、誰もいなくなって
私は文字どおり1人ぽっちになった」
ただ、後藤の話はまだ終わってはいない。
それを思い出させるように、後藤の言葉は梨華を現実へと引き戻した。

その時は、はじめて死にたいって思った。
私の全部の希望はお姉ちゃんがいてくれることが前提だったし。
夢も希望もない、って言うのかな。
どうしようもなかったよ。
思い出すのもイヤなくらい。
それに思い出すような思い出もないしね。
だから、ここら辺の話は言わないよ。
聞きたいのは先輩の話でしょ?別に良いよね。

で、中学に上がる前の春休みなんだけど。
私だって忘れてたんだよ、来月から中学生だったなんて。
いきなり中学校に入れてやる、っていう人が出てきたの。
私にあるのは名前だけ。親も家もないのに、なんで学校なんか入れるんだろう。
ってまず思った。
学校の仕組みなんて知らないし。まあ、それは今もだけど。
にしてもおかしかった。
目の前に立ってる変な親父のことなんて知らないし、ほんとに怪しかった。
でも、その親父の後ろにいた奴を見つけたときに、全部分かった。
そう、それが先輩だったの。
子供の頃とそっくりだったからすぐに気付いたよ。
っても3年くらいしか経ってないから分かって当然なのかな。
その親父は先輩の遠い親戚だったんだって。
先輩も運が良かったよね。偶然見つかった遠い親戚が大金持だもん。
そりゃ親なんかより全然良いよ。

それで、その大金持の親父が私の学費だとか全部出してくれるんだって。
断れば良かったのに、あの時も私バカだったしね。
それに・・・心のどこかで、また先輩に会えたことを喜んでた。
私の唯一の友達だった人だよ?そりゃ喜びもするって。
結局、私はその日から先輩の家で、先輩の隣の部屋に住むことになった。
しばらくは学校にもちゃんと行ってたし、先輩とも仲が良かった。
でも、孤児院にいた頃は同じように生活してたのにさ、それから後の環境が
全然違ったせいなのかは分からないけど、だんだん先輩といるのが嫌になって
きた。
分かるんだよ。向こうだってそう思ってることも。
私と別れてから先輩が何してたかなんて知らないけど、恐いくらいにプライド
が高くなってた。
友達とかが家に来るとね、私を隠すの。
なんでかな?って思ったよ。
簡単だよね。
私を見られたくなかったから。それだけだよ。
なんで?って・・・
そんなの先輩に聞かなきゃ分かるわけないじゃん。
でも、私なりに考えて出した答えならある。
それはね、先輩のプライドの高さ。
先輩の友達は、昔この人が孤児院にいたことなんて全然知らない。
たとえ本人がそうだと言っても信じられないくらい、先輩と孤児院の繋がり
が見えなかったしね。
それで、自分の過去を消したかったんだよ、先輩は。
まあ、その気持ちは分かる。私だって嫌だし。

でも、先輩の場合は異常だった。
今だから言えることってのもあるけど、学校に全然行かなかった私も悪いと
いえば、まあ悪かったんだけどね。
でも、あの頃の私にはそんな気力がなかったんだ。
仕方ないでしょ?
先輩にまで嫌われようとしてたんだよ?
私と一緒に住んでることをとにかく友達に知られたくなかったみたい。
最後には大きなタンス?みたいなところに押し込まれて、外から鍵かけられた
こともあった。どうしようもないから、1日中そこで座ってんの。
いろいろ考えたよ。

で、最後に行き着いたのが「ここを出て行く」ってことだった。
え?うん、そりゃあ、そんな簡単に決めたわけじゃなかった。
だってさ、2年くらいはそこに住んでたからもっと酷いこともあったし、たま
にだけど良いこともあったよ。
でもそんな話は今するようなことじゃないと思う。
だから、悪いけど聞かないでくれないかな?
もう・・・ここまで話せば先輩と私の関係なんて予想つくでしょ?
とにかく、家を出たのよ。
もともと私の持ち物なんて無かったから、服を少しとリュックに食べ物だけ入れ
てね。まるでピクニック気分だよ。

それからは・・・そう。
あんたが見た私だよ。あんな感じ。
毎日そこら辺の汚いビルの周りを歩きまわって、必要なものがあればどっかから
持ってくる。その繰り返し。

――
夕暮れ。そして夜。
今日に限っては、暗い夜道も明るく見えてしまう。
それくらいに明るい1日だった。

後藤と友達になれた。
さっきから梨華の頭の中はこの言葉が繰り返されいてる。
あの後は梨華も少しは知っていることだったため、特に興味深い話は聞けなか
った。
後藤と矢口の不仲の原因は、結局矢口の完璧主義のせいらしい。
ただ、どれだけそう言われても梨華には信じられなかった。
後藤が矢口のことを誰にも言わなければそれで終わりなんじゃないのか?
誰だってそう思うだろう。
後藤は「それが先輩のイヤなところなんだよ、邪魔なものは絶対に片づけない
と気が済まない性格だからね」と言っていた。
邪魔なもの。
矢口にとって後藤は邪魔な存在なのは分かった。
でも、後藤はどうしてそこまで分かっているのに、何もしないのだろう。
矢口に狙われていることを分かっているのに、何か対策をしているわけでもな
いし、どこかへ逃げようともしない。
梨華は、後藤にはまだ何か秘密があるような気がした。
もっと深いところにある、根本的な何かが。

「到着っ!」
考え事をしていたためか、いつもよりも早く家に着いた気がする。
中から漏れてくる美味しそうな香りに誘われるように、梨華は玄関のドアを
開けた。
「たっだいまー」
靴を脱いでさあ上がろうとしていると、ドタドタと誰かが走ってきた。
「遅ーい!!」

「あれ?ののちゃんじゃない
どうしたの?」
ごく当然の反応だと思うのだが、そう尋ねた梨華に向かって希美は眉間にしわ
を寄せて、梨華の手をとって引っ張り出す。
「いいから、早く来てよー!」
「なっ、なに?
もうののちゃんどうしたのよー!
あ、ちょっとそんなに引っ張らないでっ」
引きずられるような格好で希美に文句を言うが、聞こえてないのか聞かない
ようにしてるのか、希美はさらに強く梨華を引っ張って行く。
「もう・・・」
何を言っても駄目そうだったので、梨華も諦めて連れて行かれることにした。
すると、希美はどうやら食卓に行きたかったらしく、梨華をいつもの位置に座
らせると、自分もその前の椅子に座った。
「お姉ちゃん!」
「はい!」
すぅっと大きく息を吸い込んだ後、希美は梨華に向かって大きな声で言った。
梨華は、希美の勢いに押されて思わず返事をしてしまう。
「今何時だと思ってるの!」
そう言われて、梨華は改めて壁にかかっている時計を見た。
「えっと・・・9時半・・・」
「えっとじゃないでしょ!
9時半よ?9時半!いつまで待たせりゃ気が済むのっ!」
良く分からないまま希美に怒られていると、騒ぎを聞きつけたのか2階から母
が降りてきた。
「まあまあ、ののちゃんもそんなに怒らないで」
希美の肩に手を置いて、文字どおり子供を諭すように笑顔で言う。
「うー・・・」

目の前で唸っている希美に恐怖を感じながらも、梨華は母に聞いてみることに
した。
「の、ののちゃんどうしたの?」
「梨華が帰ってくるまで夜御飯食べないでずーっと待ってたの
もう大変だったんだから・・・」
「遅ーい!!」
既に右手には箸を持って待機しながら、希美はまた文句を言ってきた。
「あ!そうなんだ!
ごめんっ、早く言ってくれれば良かったのに!」
「早く言おうにもお姉ちゃんいないじゃん!
もうお腹空いたぁー!!!」
希美も、だんだんと文句を言うよりも食欲の方が大きくなったようで、梨華を
睨むことよりも目の前のテーブルに広がる食事を見ることが多くなっていた。
「あ、それじゃあ梨華を責めるのはこれくらいにして
とりあえずは御飯食べよう!」
母のこの一言でなんとか梨華は開放された。
みんなで口をそろえて「いただきまーす」と言ったと同時に、希美の意識は
料理に集中していた。
「あはは・・・」
呆れたように乾いた笑いを浮かべながら、梨華はようやくある疑問に気付いた。
「あれ?ところでなんでののちゃんがいるの?」

「家族がみんな旅行に行っちゃったんだって」
食べながら目で訴える希美の方はとりあえず置いておいて、母から事情を聞く
ことにした。
「ののちゃん置いていかれたの?」
梨華の質問に希美は心外だと言うようにこちらを向いて何か言っているが、
口の中の物のせいで梨華には聞き取れなかった。
「部活があるから行けないんだって」
代わりに答える母の方を見て、希美は満足そうに頷く。
「そうなんだ・・・
じゃあ、しばらく家に泊まっていくの?」
たずねる梨華に、希美は今日初めての笑顔を見せると大きく頷いた。

――
夕暮れ。そして夜。
今日に限っては、暗い夜道も明るく見えてしまう。
それくらいに明るい1日だった。

後藤と友達になれた。
さっきから梨華の頭の中はこの言葉が繰り返されいてる。
あの後は梨華も少しは知っていることだったため、特に興味深い話は聞けなか
った。
後藤と矢口の不仲の原因は、結局矢口の完璧主義のせいらしい。
ただ、どれだけそう言われても梨華には信じられなかった。
後藤が矢口のことを誰にも言わなければそれで終わりなんじゃないのか?
誰だってそう思うだろう。
後藤は「それが先輩のイヤなところなんだよ、邪魔なものは絶対に片づけない
と気が済まない性格だからね」と言っていた。
邪魔なもの。
矢口にとって後藤は邪魔な存在なのは分かった。
でも、後藤はどうしてそこまで分かっているのに、何もしないのだろう。
矢口に狙われていることを分かっているのに、何か対策をしているわけでもな
いし、どこかへ逃げようともしない。
梨華は、後藤にはまだ何か秘密があるような気がした。
もっと深いところにある、根本的な何かが。

「到着っ!」
考え事をしていたためか、いつもよりも早く家に着いた気がする。
中から漏れてくる美味しそうな香りに誘われるように、梨華は玄関のドアを
開けた。
「たっだいまー」
靴を脱いでさあ上がろうとしていると、ドタドタと誰かが走ってきた。
「遅ーい!!」

「あれ?ののちゃんじゃない
どうしたの?」
ごく当然の反応だと思うのだが、そう尋ねた梨華に向かって希美は眉間にしわ
を寄せて、梨華の手をとって引っ張り出す。
「いいから、早く来てよー!」
「なっ、なに?
もうののちゃんどうしたのよー!
あ、ちょっとそんなに引っ張らないでっ」
引きずられるような格好で希美に文句を言うが、聞こえてないのか聞かない
ようにしてるのか、希美はさらに強く梨華を引っ張って行く。
「もう・・・」
何を言っても駄目そうだったので、梨華も諦めて連れて行かれることにした。
すると、希美はどうやら食卓に行きたかったらしく、梨華をいつもの位置に座
らせると、自分もその前の椅子に座った。
「お姉ちゃん!」
「はい!」
すぅっと大きく息を吸い込んだ後、希美は梨華に向かって大きな声で言った。
梨華は、希美の勢いに押されて思わず返事をしてしまう。
「今何時だと思ってるの!」
そう言われて、梨華は改めて壁にかかっている時計を見た。
「えっと・・・9時半・・・」
「えっとじゃないでしょ!
9時半よ?9時半!いつまで待たせりゃ気が済むのっ!」
良く分からないまま希美に怒られていると、騒ぎを聞きつけたのか2階から母
が降りてきた。
「まあまあ、ののちゃんもそんなに怒らないで」
希美の肩に手を置いて、文字どおり子供を諭すように笑顔で言う。
「うー・・・」

目の前で唸っている希美に恐怖を感じながらも、梨華は母に聞いてみることに
した。
「の、ののちゃんどうしたの?」
「梨華が帰ってくるまで夜御飯食べないでずーっと待ってたの
もう大変だったんだから・・・」
「遅ーい!!」
既に右手には箸を持って待機しながら、希美はまた文句を言ってきた。
「あ!そうなんだ!
ごめんっ、早く言ってくれれば良かったのに!」
「早く言おうにもお姉ちゃんいないじゃん!
もうお腹空いたぁー!!!」
希美も、だんだんと文句を言うよりも食欲の方が大きくなったようで、梨華を
睨むことよりも目の前のテーブルに広がる食事を見ることが多くなっていた。
「あ、それじゃあ梨華を責めるのはこれくらいにして
とりあえずは御飯食べよう!」
母のこの一言でなんとか梨華は開放された。
みんなで口をそろえて「いただきまーす」と言ったと同時に、希美の意識は
料理に集中していた。
「あはは・・・」
呆れたように乾いた笑いを浮かべながら、梨華はようやくある疑問に気付いた。
「あれ?ところでなんでののちゃんがいるの?」

「家族がみんな旅行に行っちゃったんだって」
食べながら目で訴える希美の方はとりあえず置いておいて、母から事情を聞く
ことにした。
「ののちゃん置いていかれたの?」
梨華の質問に希美は心外だと言うようにこちらを向いて何か言っているが、
口の中の物のせいで梨華には聞き取れなかった。
「部活があるから行けないんだって」
代わりに答える母の方を見て、希美は満足そうに頷く。
「そうなんだ・・・
じゃあ、しばらく家に泊まっていくの?」
たずねる梨華に、希美は今日初めての笑顔を見せると大きく頷いた。

「でもさぁ」
「うん?」
電気の消えた部屋の中で、梨華のベッドの隣に敷いた布団に包まった希美が口を開い
た。
まだ眠るつもりはなかったからカーテンと窓は開けているため、薄く影ができるくら
いに星明かりが差し込んでいる。
昔は――昔と言っても小学生とか幼稚園だけど――よく梨華のベッドに2人で寝たも
のだ。
でも、希美も梨華に負けないくらいに寝相が悪かったため、朝になるといつもどちら
かが床で寝ていた。
「お姉ちゃんなんで毎日病院に行ってるの?」
「なんで・・・って、うーん
お友達が入院してるから、そのお見舞いかな」
友達と言えることが嬉しかった。
これまでは一方的な友達だったけど、今は後藤もそう思ってくれている。
それだけで梨華の心は何倍にも何十倍にも温かくなる。
「そうなんだぁ
それって私の知らない人だよね?」
「うん、あのね・・・
前にさ、私が線路に落ちたこと覚えてる?」
「そりゃ覚えてるよ
お姉ちゃんもう少しで死ぬとこだったじゃん」
「あのね、その時助けてくれた人なの」
「入院してるのが?」
「うん」
夜の魔力というのか、布団に入るとなんとなく秘密にしたいことでも口からするっと
出てしまう。
希美だから大丈夫だと思うが、後藤のことでいろいろ聞かれると説明するのが難しく
なりそうで、言ったことを少しだけ後悔した。
しかも好奇心の塊のような希美のことだ。興味を持つことは簡単に予想できた。

「それって
後藤さんって人だよね!」
案の定、希美は布団を跳ね除けて梨華のベッドによじ登ってきた。
「あれ?
ののちゃん後藤さんのこと知ってるの?」
仕方なく梨華も起き上がって、希美の正面に座り直す。
「え?だって何回か話してたじゃん
携帯の番号渡しちゃったとか、私も聞いてたの覚えてるでしょ?
それに、よっすぃーからもいろいろ聞いた」
そう言えばそんなこともあったような気がする。
とはいえ、多くの事は吉澤が言ったのだろうと思い、希美に聞いてみる。
「ほとんどよっすぃーから聞いたんでしょ?」
「うん、そう」
やっぱり。
吉澤から聞いたとなると、今度はどこまで知っているかが気になった。
「ね、後藤さんのことってどのくらい知ってるの?」
「どこまでって?」
頭の上にハテナを浮かべながら、希美はベッドに転がった。
「えっと・・・
どんな人だとか、どこに住んでるとか・・・?」
「うーん・・・あ!
あのね、矢口さんていう人と友達なんだよね?」
この言葉に梨華は頭を抱えてしまった。
(もうよっすぃーてば、どこまで話しちゃったのよー・・・)
全部人から聞いたこととはいえ、結構深いところまで知っていそうだ。

――
やけに暑いと思ってテレビを付けてみると、今人気のお天気キャスターが今年何度目に
なるだろうか『この夏一番の暑さです』と言っていた。
だが、そう言われると確かに今までになく暑い気がする。
8月7日。
暑さのピークを迎えた頃だろうか、世間では盆が近いこともあって忙しく動いている
ようだった。
唸るような暑さ。そんな言葉がぴったり当てはまっている。
夏休みなのだが、なるべく朝のうちに移動したいこともあって、梨華は今日も8時前
には目を覚ました。

あれから、梨華は毎日病院へと通っている。
10時を少し過ぎたくらいに家を出ると、病院の面会時間が始まる11時前後に着くた
めに都合が良いのだ。
「ふう」
ため息ではないのだが、小さく息を吐き出して梨華は階下へ向かった。
「おはよう」
声をかけても誰からも返事がないのは分かっているのだが、いつもの習慣というか、
一種の癖でなんとなく言ってしまう。
それから、いつも通り風通しの良い台所に並べてあるささやかな朝食をとるために準備
をはじめた。
戸棚からコップを取り出し、冷蔵庫へ向かう。
それから、これも定例行事なのだが、まず冷たい麦茶を少しだけ喉の奥へと流し込むの
だった。
「んー!」
まだ動き出してない胃が突然の刺激に驚いていた。

どうやらテレビで言っていたことも嘘ではなさそうだ。
まだ10時だというのに頭の真上から照り付ける太陽は、それだけで体力を吸い取っ
ていくようだ。
あの長い上り坂も、見上げるとゆらゆらと陽炎が昇っている。
こういう時にはアスファルトって嫌なものなんだ、と思いながら梨華はゆっくりと
坂を上がっていった。
隣を元気良く走り抜けていく真っ黒に日焼けした小学生を見ると、いくら自分は高校
生とは言ってもその若さが羨ましい。
そう言えば希美はこれくらい元気かもしれない。
ということは、暑さに勝つか負けるかの境界線は中学生から高校生になる頃なのだろ
う。まあ、吉澤を見る以上だとそれ意外にも境界はありそうなのだが。

ぼおっとした頭でそんなことを考えていると、いつの間にか駅に着いていた。
いつも通りに券売機で切符を買う。
ふと思ったのだが、1ヶ月分だけでも定期券を買った方が得しないだろうか。
学生割引きで買うとどう考えても安くなりそうだ。
「まあ、でもいつ退院するか分からないしね・・・」
定期を買って次の日に退院なんてされた日には、笑い話じゃすまなくなってしまう。
だからと言って退院して欲しくないわけはない。
「んー」
そして、あまり重要ではない悩みに頭を抱えながら、梨華はいつも通りの時間に電車
へと乗り込んだ。
ここからは約10分、電車に揺られることになる。

いつも通りの景色を、同じような速度で走るこの大きな鉄の塊は、決して快適とは言え
ないけれども、人々のライフラインになっていることは間違いない。
終点へたどり着く前に、各駅で多くの人を吐き出しては、また新たな人を飲み込む。
その地味で機械的な作業が3回目になろうとしたときに、梨華は降車した。
そして、一時は恐怖の対象になっていた電車にお礼を言うこともなく、梨華は駅を出て
いく。

ずっと擦れ違ってきた分、梨華は今のこの状態が楽しみで仕方がなかった。
後藤も最近は梨華に、そして友達という関係に慣れてきたのか笑顔を見せることが多く
なってきている。
病院に着いて、最初にドアを開けるときが一番の楽しみだ。
「おはよう」という言葉に返ってくる後藤の「おはよう」。
その一言は単純だけど、とても心地が良かった。

「おはよう!」
今日も梨華は元気良く病室へと入っていった。
「あ、おはよう・・・」
暇を持て余していたようで、後藤はすぐにぎこちない笑顔で挨拶を返してくる。
何年間も押え込んでいた表情だけに、その笑顔が不器用に見えることは仕方がない。
後藤以外には誰もいないこの小さな部屋で、梨華は今日もゆっくりと流れる時間を過ご
そうとしている。
さすがに病院だけあって、空調の管理はしっかりしていた。
暑いとも寒いとも感じない、ちょうど良い温度。
そんな小さな部屋で、何をするわけでもなくただベッドに座っている後藤。
自分ではこの何とも言えないまどろみのような時間を過ごすのは好きだけど、後藤はどう
なのだろう。

「なぁんか、こう毎日病院で会ってると話すこととかなくなってくるよね」
普通に友達と話す感覚。
もともと梨華は後藤に対して好意を持っていたこともあって、向こうが自分を友達だと
言ってくれている以上、戸惑いはしても不安はなかった。
「あ、うん。そうだよね・・・
そういえば、私っていつになったら退院できるんだろ」
「うーん・・・
保田さんに聞いてみよっか?」
「あ、うん。そう、そうだよね
看護婦だから分かるかも」
それに比べて、なるべくそっけない返事にならないように必死で頭を働かせている後藤
の姿を見ると、梨華は頬のあたりの筋肉が緩むのを感じずにはいられなかった。
「・・・でも、どうなんだろうね
あのさ、私って病気のこととか何にも分からないけど
心臓病って言っても、全然軽いんだよね?」
「さあ、どうだろ?
あの時の私・・・心臓病で死んじゃった方が良いかなって・・・思ってたから
先生の話もほとんど聞いてなかったよ・・・
でも、うん・・・
普通の心臓病よりも軽いとは言ってたかな?
がっかりしたの覚えてるから」
「がっかり?」
「そう。それじゃあ死なないんじゃないか、って・・・
せっかく死ねると思ったのに、病気まで私を裏切ったんだ、って」
以前だったら、後藤の口からこんな言葉が出てくる度に梨華も気が気でなかっただろう。
ただ、今なら。こういうことを笑顔で言える後藤だったら何の心配もない。
「・・・ね、今は?今はどう思う?」
少しいたずらっぽく笑いながら、梨華は分かりきった質問をしてみる。
「・・・うん、今は、それで良かったと思う」

――
「っくしゅん!」
外ではセミが騒がしいが、吉澤は寒さで目を覚ました。
冷たい空気をこれでもかと送りつづける冷房のスイッチを切ると、想像以上に冷えて
いる部屋を少し暖めようと窓を開ける。
時間は11時。
この時期になると、朝の7時を過ぎた辺りでどうしても暑さで目を覚ましてしまう。
その度に吉澤は冷房を稼動させているのだが、なぜだか年に1回はそれが原因で風邪を
引いてしまうことがある。
今のくしゃみはその前兆ではないかと思って少し緊張するが、別に喉も痛くないし、
体調も悪くなさそうだ。
取りあえず安心して、改めて時計を見てみる。
この時間だと梨華はまた病院に行っていることだろう。
最近、梨華は毎日のように病院へ行っている。
確かに自分は真夏の昼間に活動するタイプではないため、特に大事な用があるわけでも
ないのだが、この所ないがしろにされているようでなんとなく寂しくもあった。

それでも夜になると梨華はよく吉澤のところへとやってくるため、吉澤も後藤に関する
ことなら結構深いところまで理解はしている。
梨華から聞く限りでは、後藤は自分が以前に思っていたような危険な人物ではなく、
後藤について回っている多くの噂はやはりただの噂でしかないようだった。
それどころか、本人はそういった噂とはほとんど正反対の性格のようで梨華が言うとこ
ろによると「寂しがりやさん」だそうだ。
夜になってから梨華と会うことは多いが、最近は後藤の話が大半を占めているために、
吉澤としても後藤という人間が前以上に気になっていた。

「うっ」
時間にしてほんの2,3分程度なのに、もう部屋は汗ばむくらいに暑くなっていた。
急いで窓を閉めると、もう一度エアコンのスイッチを入れる。
「私も会ってみようかな・・・」

「え?よっすぃーが?」
「うん、だって梨華ちゃん最近ずっと病院行ってるじゃん」
「私はいいけど・・・」
「後藤さん?」
「うん・・・」
「ダメかなぁ?
私だって後藤さんのことちゃんと分かってるつもりだけどな」
「それは私だって分かってるよ」
その日の夕方、梨華はいつも通り吉澤の部屋でくつろいでいた。
まだほんの少しだけ空は明るい。
太陽が沈んで、5分と経ってないだろう。
ちょうど月と交代する間際の時間。そんな感じだ。
午後4時に面会時間が終わって、それから帰るとだいたい同じような時間に吉澤の家に
着くことになる。
ただ、今日は帰り際に保田と話し込んでしまったこともあって、少し遅い到着になって
しまった。

吉澤が「私も病院に行く」と言い出したのは、梨華がここに来て10分程過ぎた頃だ。
梨華も最初は驚いたが、話を聞くうちにだんだんと納得してしまう。
「私だって後藤さんのこと色々調べちゃったりしたしさ
やっぱり気になるし、梨華ちゃんがそこまで言うほどの友達なら
私だって友達になれると思うよ」
そう言ってにっこり笑われると、梨華には断る術がなくなってしまった。
「じゃあ、後藤さんにも言わないとダメだから・・・
あさって一緒に行ってみる?」
「あ、明日伝えてくれるんだ」
「うん」

「でも、よっすぃーが自分から友達になりたい!って言うの
すっごく珍しいよね」
「うーん、そうかな?」
「そうだよ
よっすぃーって、どっちかって言えば人見知りするでしょ?」
「あー、そうかも
・・・でも、慣れちゃうと後は一直線だよ」
吉澤はそう言いながら、立ち上がって窓の外を一直線に指を差して笑った。
「なにそれー!」
まるでどこかの熱血ドラマのように、腰に手をあてて空を指差す吉澤の姿があまりに
不似合いだったため、梨華も笑いが込み上げてきた。
1月前には、後藤のことでこんなに笑えるなんて考えもしなかった。
事態は確実に良い方に向かっている。自分たちの関係も、後藤の病気も、両方とも。

「でもさぁ」
ひとしきり笑ったところで、ふと思い付いたように梨華が言った。
「何?」
「よっすぃー、後藤さんと仲良くなったら大変かも」
「え?なんで?」
しばらく考えるが、良く分からない。
不思議そうな顔をして梨華を見ると、梨華は少し真面目な顔に戻って、それからベッド
に寝転んで言った。
「だって、後藤さんと矢口さんって仲良くないよね
で、よっすぃーがどっちとも仲良くなったら困りそう」
梨華にそう言われてはじめて気が付いた。
確かに、2人が何かのきっかけでもめたりしたら、中途半端な立場の自分が一番困ること
は間違いなさそうだ。
「・・・でもさ、まだ分かんないよ
とにかくまずは後藤さんと私が友達にならないと」
「うん、そだね!」
吉澤の楽観的とも前向きともとれない返事に、梨華は何の疑いも無く納得したようで、
少しずつ広がっていく期待を楽しんでいた。

――
「おはよーう!」
翌日、いつものように病室へと入った梨華は、後藤の様子が少し違うことに気がついた。
梨華の言葉に、後藤も少しはずんだ声で「おはよう」と返してくる。
「あれ?どうしたの?
なんかいつもより明るい感じだよ」
不思議に思いつつも、梨華も嬉しくなってつい声が明るくなっていた。
「うん、昨日あの後に病気のこと聞いたの」
「あ!保田さんに?」
「うん、そう」
実は、梨華もそのことについては昨日この病室を出た後に保田まで聞きに行ったため
に、それが良いニュースだということは分かっていた。
ただ、それを後藤に伝えるのが自分だと思っていたこともあって、少し拍子抜けした
感じもある。
「あ、でももう聞いたんでしょ?」
「うん、私も昨日保田さんに聞いたよ
でも良かったね!もうすぐ退院できるんだよね?」
「・・・うん、ありがと」

昨日、梨華は帰りにナースステーションまで保田を訪ねた。
どうやら保田も梨華と後藤が打ち解けたことを知っていたらしく、今までになく明る
い応対となった。
そこで聞かされたのが、後藤の退院のことである。
「後藤さん、肩の傷もそろそろ良くなってきたし
心臓も特に心配ないみたいだし
後1週間くらい様子を見て、何にもなかったら退院だって」
保田は笑いながら、その後に「石川さんと会えなくなるのが寂しいね」と冗談っぽく
付け加えた。

外見からだと、包帯で包まれているために傷の回復が分かりにくいのだが、保田の話
から察するに、傷はほとんど治っているらしい。
また、これが一番の心配なのだが、心臓の具合も今のところは特に問題もなく、悪く
はないということだった。
「でもね、発作っていつ起きるか全然分かんないし
薬を持ってても、いざという時には混乱して中々飲めないものなんだって
だから、後藤さんがこの状況に慣れるまでで良いんだけどさ
病気のことを知ってる石川さんが、なるべく側に付いててあげて欲しいの」
保田の言ったこの言葉が、梨華には想像以上に重荷になりそうだったが、後藤がまた
外へ出られるということを考えると大したことじゃないような気がした。
そして、保田は前もってカプセル型の、思ったより小さな薬を1袋だけ梨華に渡して
説明をしてくれたのだった。
「何かあったら、いつでも良いからすぐに相談に来るのよ?」
正直に言って、梨華はこの保田という看護婦がこれほどまでに力強い存在であること
を初めて理解した。
「はい、ありがとうございます!」

「あのさ?」
「うん」
全然見えなかった自分の退院の時期が見えて安心しているのか、今日の後藤はやはり
いつもよりも明るかった。
「突然で戸惑っちゃうかもしれないんだけど
聞いてくれる?」
梨華は今にも飛び出してきそうな心臓を静めながら、その緊張をなるべく後藤に悟ら
れないように昨日の話を切り出す。
吉澤をここへ連れてくる。ただそれだけの言葉なのに、妙に緊張してしまう。
せっかく時間をかけて築いてきた関係を壊したくない。考えたくないのに、その不安
は梨華の中で次第に大きなものとなっていた。
「え・・・うん」
不思議そうな顔をしながらも、後藤は素直に梨華の方へと顔を向ける。
真っ向から目が合って少し驚いたが、梨華は目をそらすことなく、それでいて小さな
声で言った。
「明日なんだけどさ・・・
私のお友達を連れてきてもいいかな?
「・・・え?」
今まで明るかった後藤の顔が一気にこわばったように見えた。
いきなり何を言い出すんだ?というような表情で、梨華の真意がつかめずに焦ってい
るようだ。
「あのね!
私の、一番のお友達なの!
ずっと、小さい頃から一緒で、だから後藤さんとも絶対お友達になれると思うの」
「・・・でも・・・」
本当に突然のことで、まったく予想もしてないことだ。しかも、自分にとってこれは
とても大事な問題でもあるように思える。
梨華以外の人と上手くやっていけるのか?梨華だからこんな風に笑っていられると
思ってるのに、他の人の前だとこうはいかないんじゃないか。

「わ、分からない・・・よ」
梨華の友達という人物がここへ来ても良いのか悪のいか。それだけのことだ。
それなのに、自分のことなのに、自分で決められる質問ではなかった。
心中では、強く嫌だと訴えている。でも、これから先のことを考えるとこれは拒んで
はいけない事のように思えてくる。
「・・・うん、ごめんね
急に言われても後藤さん困るよね・・・」
梨華も無理強いをするつもりは毛頭ない。
自分でも思ったのだが、今日聞いてさあ明日!というのは普通に考えても無謀だろう。
ただ、後藤を自分以外の誰かと引き合わせることは必要だと思った。
「でもね、その人ね・・・
私と一緒にずうっと後藤さんのこと探してくれてたの
そう、最初に私を助けてくれたのが後藤さんじゃないかな?って言ったのもその人
私って、何かあるとすぐ落ち込んじゃって、いっつもめそめそして・・・
そんな時だって、いつもよっすぃーに助けてもらってた」
言った後に、梨華は「あっ」と口を押さえる素振りを見せてから言い直した。
「その人、よっすぃーっていうの。吉澤さん」
「・・・うん」
どう答えれば良いのか分からないのだろう、後藤は小さく相づちを打って横に置いてある
タオルケットを握り締める。
「だから、いつか後藤さんにも会ってもらおうって思ってたんだよ
私だってこんなに急になっちゃってびっくりしてるけど・・・」
「うん」
「会って、くれないかな?・・・ダメ?」
梨華の表情を見て、その華奢な体の中で考えていることを思って、まだおかしな感情が
うずまいているけれども、後藤はゆっくりと答えた。
「ううん、ダメじゃないよ・・・」

――
後1週間でこの部屋ともお別れ。
そう考えると、毎日のように見てきた明るい星空も感慨深いものだった。
窓枠の中でだけ光る星たちは、まるで額縁に入れられた1つの絵画のように見える。
普段は絶対に気付かないような、耳をすましても消えていくようにしか聞こえないささ
やかな虫の寝息も。
遠くの方で、誰かが音を立てないように注意して歩いている、その足音も。
どこで走っているのか、かすかに体を振動させる寝台車も。
今日だけはすべてが心地良かった。
「石川・・・梨華・・・」
自分の人生を大きく変えてくれた、その少女の顔を思い浮かべて、虚空へと呟く。
ここにいると、普段は何もすることがない。
そんな時は、ずっと梨華のことを考えていた。
今どうしてるんだろう。今日は何を食べたんだろう。
・・・そして、誰と遊んでるんだろう。
「子供なんだよ」
誰にでもない、自分に言い聞かせる。
自分が一番頼っている、信じている人が誰か他の人と仲良くする。
子供だから、それが許せないのだ。

そして、同時にどうしようもない恐怖。
梨華は、その友達のことを「ずっと、小さい頃から一緒」にいる「一番の友達」だと
言っていた。
自分みたいな人間が、その輪の中に今さら入れない。
いつも一緒にいる2人の間にどうして飛び込めるというのだろうか。
「でも」
それが梨華だから、そして梨華の一番の友達だから安心できた。
悪いことを考えるのはキリがない。それはこれまでの経験で分かっている。
だから、今度こそ。
良いことを考えて、そしてそれが現実になるように願ってみよう。
病気も治って、梨華ともその友達とも仲良くなって、みんなで笑いながらごく普通の
学生のように生活する。
「いいなぁ・・・」
そうなったら、週末に買い物にでも行ってみようかな?
そう思うと、この夜はとても気持ちの良いものだった。
全ての雑音が気持ち良い。
会ってみよう、その友達に。大丈夫、今の自分は変わったんだ。

後藤はゆっくりと睡魔に身を任せ、それから何の不安もなく眠りについた。

――
「あ、よっすぃー!!」
「・・・ん?」
日も暮れてきたし、少し散歩するついでにコンビニにでも行こうか。
そう思って近道である公園へ足を踏み入れようとしたとき、後ろの方から聞きなれた
声がした。
「あ、梨華ちゃん」
後ろを振り返ると、梨華が元気良くこちらに走ってきていた。
「よっすぃーどこ行くの?」
思った以上に勢いがあって止まれないと思ったのか、梨華はそのまま吉澤にぶつかって
きた。
「うわっ」
ドン、と小さな音がしたが、梨華はそんなことはどうでも良いといった感じで、顔を上
げて再び質問する。
「ね?どこ行くの?」
「梨華ちゃん相変わらず軽いねー」
そう言いながら、吉澤は梨華を抱きかかえながら「ファミマだよ」と付け加えた。

「あのね、後藤さんよっすぃーが来ても良いって」
「ほんとに?」
「うん、ほんとに!
良かったね、よっすぃー」
時間も手伝ってか、コンビニはそこそこ賑わっていた。
そこで、せっかくだからお菓子でも買おうかと手近にあったムースポッキーを手に
とりながら、梨華は吉澤に告げた。
「だから、明日一緒に行こう!」
「おう!
・・・で、何時にどこ?」
「えっとねぇ、10時くらいに私の家でいいかな?」
吉澤が持っているカゴの中には、ジュースやらアイスやらといろいろと冷たいもの
が入っていたが、梨華の10時という言葉を聞くと吉澤はカゴを揺らしながら駄々
をこね始めた。
「うぇー!?
10時ってすっごく暑いじゃん!」
「仕方ないでしょ
面会時間って決まってるし、なるべく早く行ったほうがまだ涼しいよ?」
吉澤としても、梨華が毎日そのくらいの時間に家を出ることは知っていたために
頭の中では納得しているのだが、体の方が拒否しているようだ。
「あー・・・
仕方ないかぁ・・・」
それでも、なんとか自分に言い聞かせるように空いた手で握りこぶしを作ると、
気合を入れたのか「よしっ!」と小さく叫んでいた。

――
夕暮れ。そして夜。
今日に限っては、暗い夜道も明るく見えてしまう。
それくらいに明るい1日だった。

後藤と友達になれた。
さっきから梨華の頭の中はこの言葉が繰り返されいてる。
あの後は梨華も少しは知っていることだったため、特に興味深い話は聞けなか
った。
後藤と矢口の不仲の原因は、結局矢口の完璧主義のせいらしい。
ただ、どれだけそう言われても梨華には信じられなかった。
後藤が矢口のことを誰にも言わなければそれで終わりなんじゃないのか?
誰だってそう思うだろう。
後藤は「それが先輩のイヤなところなんだよ、邪魔なものは絶対に片づけない
と気が済まない性格だからね」と言っていた。
邪魔なもの。
矢口にとって後藤は邪魔な存在なのは分かった。
でも、後藤はどうしてそこまで分かっているのに、何もしないのだろう。
矢口に狙われていることを分かっているのに、何か対策をしているわけでもな
いし、どこかへ逃げようともしない。
梨華は、後藤にはまだ何か秘密があるような気がした。
もっと深いところにある、根本的な何かが。

「到着っ!」
考え事をしていたためか、いつもよりも早く家に着いた気がする。
中から漏れてくる美味しそうな香りに誘われるように、梨華は玄関のドアを
開けた。
「たっだいまー」
靴を脱いでさあ上がろうとしていると、ドタドタと誰かが走ってきた。
「遅ーい!!」

「あれ?ののちゃんじゃない
どうしたの?」
ごく当然の反応だと思うのだが、そう尋ねた梨華に向かって希美は眉間にしわ
を寄せて、梨華の手をとって引っ張り出す。
「いいから、早く来てよー!」
「なっ、なに?
もうののちゃんどうしたのよー!
あ、ちょっとそんなに引っ張らないでっ」
引きずられるような格好で希美に文句を言うが、聞こえてないのか聞かない
ようにしてるのか、希美はさらに強く梨華を引っ張って行く。
「もう・・・」
何を言っても駄目そうだったので、梨華も諦めて連れて行かれることにした。
すると、希美はどうやら食卓に行きたかったらしく、梨華をいつもの位置に座
らせると、自分もその前の椅子に座った。
「お姉ちゃん!」
「はい!」
すぅっと大きく息を吸い込んだ後、希美は梨華に向かって大きな声で言った。
梨華は、希美の勢いに押されて思わず返事をしてしまう。
「今何時だと思ってるの!」
そう言われて、梨華は改めて壁にかかっている時計を見た。
「えっと・・・9時半・・・」
「えっとじゃないでしょ!
9時半よ?9時半!いつまで待たせりゃ気が済むのっ!」
良く分からないまま希美に怒られていると、騒ぎを聞きつけたのか2階から母
が降りてきた。
「まあまあ、ののちゃんもそんなに怒らないで」
希美の肩に手を置いて、文字どおり子供を諭すように笑顔で言う。
「うー・・・」

目の前で唸っている希美に恐怖を感じながらも、梨華は母に聞いてみることに
した。
「の、ののちゃんどうしたの?」
「梨華が帰ってくるまで夜御飯食べないでずーっと待ってたの
もう大変だったんだから・・・」
「遅ーい!!」
既に右手には箸を持って待機しながら、希美はまた文句を言ってきた。
「あ!そうなんだ!
ごめんっ、早く言ってくれれば良かったのに!」
「早く言おうにもお姉ちゃんいないじゃん!
もうお腹空いたぁー!!!」
希美も、だんだんと文句を言うよりも食欲の方が大きくなったようで、梨華を
睨むことよりも目の前のテーブルに広がる食事を見ることが多くなっていた。
「あ、それじゃあ梨華を責めるのはこれくらいにして
とりあえずは御飯食べよう!」
母のこの一言でなんとか梨華は開放された。
みんなで口をそろえて「いただきまーす」と言ったと同時に、希美の意識は
料理に集中していた。
「あはは・・・」
呆れたように乾いた笑いを浮かべながら、梨華はようやくある疑問に気付いた。
「あれ?ところでなんでののちゃんがいるの?」

「家族がみんな旅行に行っちゃったんだって」
食べながら目で訴える希美の方はとりあえず置いておいて、母から事情を聞く
ことにした。
「ののちゃん置いていかれたの?」
梨華の質問に希美は心外だと言うようにこちらを向いて何か言っているが、
口の中の物のせいで梨華には聞き取れなかった。
「部活があるから行けないんだって」
代わりに答える母の方を見て、希美は満足そうに頷く。
「そうなんだ・・・
じゃあ、しばらく家に泊まっていくの?」
たずねる梨華に、希美は今日初めての笑顔を見せると大きく頷いた。

「でもさぁ」
「うん?」
電気の消えた部屋の中で、梨華のベッドの隣に敷いた布団に包まった希美が口を開い
た。
まだ眠るつもりはなかったからカーテンと窓は開けているため、薄く影ができるくら
いに星明かりが差し込んでいる。
昔は――昔と言っても小学生とか幼稚園だけど――よく梨華のベッドに2人で寝たも
のだ。
でも、希美も梨華に負けないくらいに寝相が悪かったため、朝になるといつもどちら
かが床で寝ていた。
「お姉ちゃんなんで毎日病院に行ってるの?」
「なんで・・・って、うーん
お友達が入院してるから、そのお見舞いかな」
友達と言えることが嬉しかった。
これまでは一方的な友達だったけど、今は後藤もそう思ってくれている。
それだけで梨華の心は何倍にも何十倍にも温かくなる。
「そうなんだぁ
それって私の知らない人だよね?」
「うん、あのね・・・
前にさ、私が線路に落ちたこと覚えてる?」
「そりゃ覚えてるよ
お姉ちゃんもう少しで死ぬとこだったじゃん」
「あのね、その時助けてくれた人なの」
「入院してるのが?」
「うん」
夜の魔力というのか、布団に入るとなんとなく秘密にしたいことでも口からするっと
出てしまう。
希美だから大丈夫だと思うが、後藤のことでいろいろ聞かれると説明するのが難しく
なりそうで、言ったことを少しだけ後悔した。
しかも好奇心の塊のような希美のことだ。興味を持つことは簡単に予想できた。

「それって
後藤さんって人だよね!」
案の定、希美は布団を跳ね除けて梨華のベッドによじ登ってきた。
「あれ?
ののちゃん後藤さんのこと知ってるの?」
仕方なく梨華も起き上がって、希美の正面に座り直す。
「え?だって何回か話してたじゃん
携帯の番号渡しちゃったとか、私も聞いてたの覚えてるでしょ?
それに、よっすぃーからもいろいろ聞いた」
そう言えばそんなこともあったような気がする。
とはいえ、多くの事は吉澤が言ったのだろうと思い、希美に聞いてみる。
「ほとんどよっすぃーから聞いたんでしょ?」
「うん、そう」
やっぱり。
吉澤から聞いたとなると、今度はどこまで知っているかが気になった。
「ね、後藤さんのことってどのくらい知ってるの?」
「どこまでって?」
頭の上にハテナを浮かべながら、希美はベッドに転がった。
「えっと・・・
どんな人だとか、どこに住んでるとか・・・?」
「うーん・・・あ!
あのね、矢口さんていう人と友達なんだよね?」
この言葉に梨華は頭を抱えてしまった。
(もうよっすぃーてば、どこまで話しちゃったのよー・・・)
全部人から聞いたこととはいえ、結構深いところまで知っていそうだ。

――
やけに暑いと思ってテレビを付けてみると、今人気のお天気キャスターが今年何度目に
なるだろうか『この夏一番の暑さです』と言っていた。
だが、そう言われると確かに今までになく暑い気がする。
8月7日。
暑さのピークを迎えた頃だろうか、世間では盆が近いこともあって忙しく動いている
ようだった。
唸るような暑さ。そんな言葉がぴったり当てはまっている。
夏休みなのだが、なるべく朝のうちに移動したいこともあって、梨華は今日も8時前
には目を覚ました。

あれから、梨華は毎日病院へと通っている。
10時を少し過ぎたくらいに家を出ると、病院の面会時間が始まる11時前後に着くた
めに都合が良いのだ。
「ふう」
ため息ではないのだが、小さく息を吐き出して梨華は階下へ向かった。
「おはよう」
声をかけても誰からも返事がないのは分かっているのだが、いつもの習慣というか、
一種の癖でなんとなく言ってしまう。
それから、いつも通り風通しの良い台所に並べてあるささやかな朝食をとるために準備
をはじめた。
戸棚からコップを取り出し、冷蔵庫へ向かう。
それから、これも定例行事なのだが、まず冷たい麦茶を少しだけ喉の奥へと流し込むの
だった。
「んー!」
まだ動き出してない胃が突然の刺激に驚いていた。

どうやらテレビで言っていたことも嘘ではなさそうだ。
まだ10時だというのに頭の真上から照り付ける太陽は、それだけで体力を吸い取っ
ていくようだ。
あの長い上り坂も、見上げるとゆらゆらと陽炎が昇っている。
こういう時にはアスファルトって嫌なものなんだ、と思いながら梨華はゆっくりと
坂を上がっていった。
隣を元気良く走り抜けていく真っ黒に日焼けした小学生を見ると、いくら自分は高校
生とは言ってもその若さが羨ましい。
そう言えば希美はこれくらい元気かもしれない。
ということは、暑さに勝つか負けるかの境界線は中学生から高校生になる頃なのだろ
う。まあ、吉澤を見る以上だとそれ意外にも境界はありそうなのだが。

ぼおっとした頭でそんなことを考えていると、いつの間にか駅に着いていた。
いつも通りに券売機で切符を買う。
ふと思ったのだが、1ヶ月分だけでも定期券を買った方が得しないだろうか。
学生割引きで買うとどう考えても安くなりそうだ。
「まあ、でもいつ退院するか分からないしね・・・」
定期を買って次の日に退院なんてされた日には、笑い話じゃすまなくなってしまう。
だからと言って退院して欲しくないわけはない。
「んー」
そして、あまり重要ではない悩みに頭を抱えながら、梨華はいつも通りの時間に電車
へと乗り込んだ。
ここからは約10分、電車に揺られることになる。

いつも通りの景色を、同じような速度で走るこの大きな鉄の塊は、決して快適とは言え
ないけれども、人々のライフラインになっていることは間違いない。
終点へたどり着く前に、各駅で多くの人を吐き出しては、また新たな人を飲み込む。
その地味で機械的な作業が3回目になろうとしたときに、梨華は降車した。
そして、一時は恐怖の対象になっていた電車にお礼を言うこともなく、梨華は駅を出て
いく。

ずっと擦れ違ってきた分、梨華は今のこの状態が楽しみで仕方がなかった。
後藤も最近は梨華に、そして友達という関係に慣れてきたのか笑顔を見せることが多く
なってきている。
病院に着いて、最初にドアを開けるときが一番の楽しみだ。
「おはよう」という言葉に返ってくる後藤の「おはよう」。
その一言は単純だけど、とても心地が良かった。

「おはよう!」
今日も梨華は元気良く病室へと入っていった。
「あ、おはよう・・・」
暇を持て余していたようで、後藤はすぐにぎこちない笑顔で挨拶を返してくる。
何年間も押え込んでいた表情だけに、その笑顔が不器用に見えることは仕方がない。
後藤以外には誰もいないこの小さな部屋で、梨華は今日もゆっくりと流れる時間を過ご
そうとしている。
さすがに病院だけあって、空調の管理はしっかりしていた。
暑いとも寒いとも感じない、ちょうど良い温度。
そんな小さな部屋で、何をするわけでもなくただベッドに座っている後藤。
自分ではこの何とも言えないまどろみのような時間を過ごすのは好きだけど、後藤はどう
なのだろう。

「なぁんか、こう毎日病院で会ってると話すこととかなくなってくるよね」
普通に友達と話す感覚。
もともと梨華は後藤に対して好意を持っていたこともあって、向こうが自分を友達だと
言ってくれている以上、戸惑いはしても不安はなかった。
「あ、うん。そうだよね・・・
そういえば、私っていつになったら退院できるんだろ」
「うーん・・・
保田さんに聞いてみよっか?」
「あ、うん。そう、そうだよね
看護婦だから分かるかも」
それに比べて、なるべくそっけない返事にならないように必死で頭を働かせている後藤
の姿を見ると、梨華は頬のあたりの筋肉が緩むのを感じずにはいられなかった。
「・・・でも、どうなんだろうね
あのさ、私って病気のこととか何にも分からないけど
心臓病って言っても、全然軽いんだよね?」
「さあ、どうだろ?
あの時の私・・・心臓病で死んじゃった方が良いかなって・・・思ってたから
先生の話もほとんど聞いてなかったよ・・・
でも、うん・・・
普通の心臓病よりも軽いとは言ってたかな?
がっかりしたの覚えてるから」
「がっかり?」
「そう。それじゃあ死なないんじゃないか、って・・・
せっかく死ねると思ったのに、病気まで私を裏切ったんだ、って」
以前だったら、後藤の口からこんな言葉が出てくる度に梨華も気が気でなかっただろう。
ただ、今なら。こういうことを笑顔で言える後藤だったら何の心配もない。
「・・・ね、今は?今はどう思う?」
少しいたずらっぽく笑いながら、梨華は分かりきった質問をしてみる。
「・・・うん、今は、それで良かったと思う」

――
「っくしゅん!」
外ではセミが騒がしいが、吉澤は寒さで目を覚ました。
冷たい空気をこれでもかと送りつづける冷房のスイッチを切ると、想像以上に冷えて
いる部屋を少し暖めようと窓を開ける。
時間は11時。
この時期になると、朝の7時を過ぎた辺りでどうしても暑さで目を覚ましてしまう。
その度に吉澤は冷房を稼動させているのだが、なぜだか年に1回はそれが原因で風邪を
引いてしまうことがある。
今のくしゃみはその前兆ではないかと思って少し緊張するが、別に喉も痛くないし、
体調も悪くなさそうだ。
取りあえず安心して、改めて時計を見てみる。
この時間だと梨華はまた病院に行っていることだろう。
最近、梨華は毎日のように病院へ行っている。
確かに自分は真夏の昼間に活動するタイプではないため、特に大事な用があるわけでも
ないのだが、この所ないがしろにされているようでなんとなく寂しくもあった。

それでも夜になると梨華はよく吉澤のところへとやってくるため、吉澤も後藤に関する
ことなら結構深いところまで理解はしている。
梨華から聞く限りでは、後藤は自分が以前に思っていたような危険な人物ではなく、
後藤について回っている多くの噂はやはりただの噂でしかないようだった。
それどころか、本人はそういった噂とはほとんど正反対の性格のようで梨華が言うとこ
ろによると「寂しがりやさん」だそうだ。
夜になってから梨華と会うことは多いが、最近は後藤の話が大半を占めているために、
吉澤としても後藤という人間が前以上に気になっていた。

「うっ」
時間にしてほんの2,3分程度なのに、もう部屋は汗ばむくらいに暑くなっていた。
急いで窓を閉めると、もう一度エアコンのスイッチを入れる。
「私も会ってみようかな・・・」

「え?よっすぃーが?」
「うん、だって梨華ちゃん最近ずっと病院行ってるじゃん」
「私はいいけど・・・」
「後藤さん?」
「うん・・・」
「ダメかなぁ?
私だって後藤さんのことちゃんと分かってるつもりだけどな」
「それは私だって分かってるよ」
その日の夕方、梨華はいつも通り吉澤の部屋でくつろいでいた。
まだほんの少しだけ空は明るい。
太陽が沈んで、5分と経ってないだろう。
ちょうど月と交代する間際の時間。そんな感じだ。
午後4時に面会時間が終わって、それから帰るとだいたい同じような時間に吉澤の家に
着くことになる。
ただ、今日は帰り際に保田と話し込んでしまったこともあって、少し遅い到着になって
しまった。

吉澤が「私も病院に行く」と言い出したのは、梨華がここに来て10分程過ぎた頃だ。
梨華も最初は驚いたが、話を聞くうちにだんだんと納得してしまう。
「私だって後藤さんのこと色々調べちゃったりしたしさ
やっぱり気になるし、梨華ちゃんがそこまで言うほどの友達なら
私だって友達になれると思うよ」
そう言ってにっこり笑われると、梨華には断る術がなくなってしまった。
「じゃあ、後藤さんにも言わないとダメだから・・・
あさって一緒に行ってみる?」
「あ、明日伝えてくれるんだ」
「うん」

「でも、よっすぃーが自分から友達になりたい!って言うの
すっごく珍しいよね」
「うーん、そうかな?」
「そうだよ
よっすぃーって、どっちかって言えば人見知りするでしょ?」
「あー、そうかも
・・・でも、慣れちゃうと後は一直線だよ」
吉澤はそう言いながら、立ち上がって窓の外を一直線に指を差して笑った。
「なにそれー!」
まるでどこかの熱血ドラマのように、腰に手をあてて空を指差す吉澤の姿があまりに
不似合いだったため、梨華も笑いが込み上げてきた。
1月前には、後藤のことでこんなに笑えるなんて考えもしなかった。
事態は確実に良い方に向かっている。自分たちの関係も、後藤の病気も、両方とも。

「でもさぁ」
ひとしきり笑ったところで、ふと思い付いたように梨華が言った。
「何?」
「よっすぃー、後藤さんと仲良くなったら大変かも」
「え?なんで?」
しばらく考えるが、良く分からない。
不思議そうな顔をして梨華を見ると、梨華は少し真面目な顔に戻って、それからベッド
に寝転んで言った。
「だって、後藤さんと矢口さんって仲良くないよね
で、よっすぃーがどっちとも仲良くなったら困りそう」
梨華にそう言われてはじめて気が付いた。
確かに、2人が何かのきっかけでもめたりしたら、中途半端な立場の自分が一番困ること
は間違いなさそうだ。
「・・・でもさ、まだ分かんないよ
とにかくまずは後藤さんと私が友達にならないと」
「うん、そだね!」
吉澤の楽観的とも前向きともとれない返事に、梨華は何の疑いも無く納得したようで、
少しずつ広がっていく期待を楽しんでいた。

――
「おはよーう!」
翌日、いつものように病室へと入った梨華は、後藤の様子が少し違うことに気がついた。
梨華の言葉に、後藤も少しはずんだ声で「おはよう」と返してくる。
「あれ?どうしたの?
なんかいつもより明るい感じだよ」
不思議に思いつつも、梨華も嬉しくなってつい声が明るくなっていた。
「うん、昨日あの後に病気のこと聞いたの」
「あ!保田さんに?」
「うん、そう」
実は、梨華もそのことについては昨日この病室を出た後に保田まで聞きに行ったため
に、それが良いニュースだということは分かっていた。
ただ、それを後藤に伝えるのが自分だと思っていたこともあって、少し拍子抜けした
感じもある。
「あ、でももう聞いたんでしょ?」
「うん、私も昨日保田さんに聞いたよ
でも良かったね!もうすぐ退院できるんだよね?」
「・・・うん、ありがと」

昨日、梨華は帰りにナースステーションまで保田を訪ねた。
どうやら保田も梨華と後藤が打ち解けたことを知っていたらしく、今までになく明る
い応対となった。
そこで聞かされたのが、後藤の退院のことである。
「後藤さん、肩の傷もそろそろ良くなってきたし
心臓も特に心配ないみたいだし
後1週間くらい様子を見て、何にもなかったら退院だって」
保田は笑いながら、その後に「石川さんと会えなくなるのが寂しいね」と冗談っぽく
付け加えた。

外見からだと、包帯で包まれているために傷の回復が分かりにくいのだが、保田の話
から察するに、傷はほとんど治っているらしい。
また、これが一番の心配なのだが、心臓の具合も今のところは特に問題もなく、悪く
はないということだった。
「でもね、発作っていつ起きるか全然分かんないし
薬を持ってても、いざという時には混乱して中々飲めないものなんだって
だから、後藤さんがこの状況に慣れるまでで良いんだけどさ
病気のことを知ってる石川さんが、なるべく側に付いててあげて欲しいの」
保田の言ったこの言葉が、梨華には想像以上に重荷になりそうだったが、後藤がまた
外へ出られるということを考えると大したことじゃないような気がした。
そして、保田は前もってカプセル型の、思ったより小さな薬を1袋だけ梨華に渡して
説明をしてくれたのだった。
「何かあったら、いつでも良いからすぐに相談に来るのよ?」
正直に言って、梨華はこの保田という看護婦がこれほどまでに力強い存在であること
を初めて理解した。
「はい、ありがとうございます!」

「あのさ?」
「うん」
全然見えなかった自分の退院の時期が見えて安心しているのか、今日の後藤はやはり
いつもよりも明るかった。
「突然で戸惑っちゃうかもしれないんだけど
聞いてくれる?」
梨華は今にも飛び出してきそうな心臓を静めながら、その緊張をなるべく後藤に悟ら
れないように昨日の話を切り出す。
吉澤をここへ連れてくる。ただそれだけの言葉なのに、妙に緊張してしまう。
せっかく時間をかけて築いてきた関係を壊したくない。考えたくないのに、その不安
は梨華の中で次第に大きなものとなっていた。
「え・・・うん」
不思議そうな顔をしながらも、後藤は素直に梨華の方へと顔を向ける。
真っ向から目が合って少し驚いたが、梨華は目をそらすことなく、それでいて小さな
声で言った。
「明日なんだけどさ・・・
私のお友達を連れてきてもいいかな?
「・・・え?」
今まで明るかった後藤の顔が一気にこわばったように見えた。
いきなり何を言い出すんだ?というような表情で、梨華の真意がつかめずに焦ってい
るようだ。
「あのね!
私の、一番のお友達なの!
ずっと、小さい頃から一緒で、だから後藤さんとも絶対お友達になれると思うの」
「・・・でも・・・」
本当に突然のことで、まったく予想もしてないことだ。しかも、自分にとってこれは
とても大事な問題でもあるように思える。
梨華以外の人と上手くやっていけるのか?梨華だからこんな風に笑っていられると
思ってるのに、他の人の前だとこうはいかないんじゃないか。

「わ、分からない・・・よ」
梨華の友達という人物がここへ来ても良いのか悪のいか。それだけのことだ。
それなのに、自分のことなのに、自分で決められる質問ではなかった。
心中では、強く嫌だと訴えている。でも、これから先のことを考えるとこれは拒んで
はいけない事のように思えてくる。
「・・・うん、ごめんね
急に言われても後藤さん困るよね・・・」
梨華も無理強いをするつもりは毛頭ない。
自分でも思ったのだが、今日聞いてさあ明日!というのは普通に考えても無謀だろう。
ただ、後藤を自分以外の誰かと引き合わせることは必要だと思った。
「でもね、その人ね・・・
私と一緒にずうっと後藤さんのこと探してくれてたの
そう、最初に私を助けてくれたのが後藤さんじゃないかな?って言ったのもその人
私って、何かあるとすぐ落ち込んじゃって、いっつもめそめそして・・・
そんな時だって、いつもよっすぃーに助けてもらってた」
言った後に、梨華は「あっ」と口を押さえる素振りを見せてから言い直した。
「その人、よっすぃーっていうの。吉澤さん」
「・・・うん」
どう答えれば良いのか分からないのだろう、後藤は小さく相づちを打って横に置いてある
タオルケットを握り締める。
「だから、いつか後藤さんにも会ってもらおうって思ってたんだよ
私だってこんなに急になっちゃってびっくりしてるけど・・・」
「うん」
「会って、くれないかな?・・・ダメ?」
梨華の表情を見て、その華奢な体の中で考えていることを思って、まだおかしな感情が
うずまいているけれども、後藤はゆっくりと答えた。
「ううん、ダメじゃないよ・・・」

――
後1週間でこの部屋ともお別れ。
そう考えると、毎日のように見てきた明るい星空も感慨深いものだった。
窓枠の中でだけ光る星たちは、まるで額縁に入れられた1つの絵画のように見える。
普段は絶対に気付かないような、耳をすましても消えていくようにしか聞こえないささ
やかな虫の寝息も。
遠くの方で、誰かが音を立てないように注意して歩いている、その足音も。
どこで走っているのか、かすかに体を振動させる寝台車も。
今日だけはすべてが心地良かった。
「石川・・・梨華・・・」
自分の人生を大きく変えてくれた、その少女の顔を思い浮かべて、虚空へと呟く。
ここにいると、普段は何もすることがない。
そんな時は、ずっと梨華のことを考えていた。
今どうしてるんだろう。今日は何を食べたんだろう。
・・・そして、誰と遊んでるんだろう。
「子供なんだよ」
誰にでもない、自分に言い聞かせる。
自分が一番頼っている、信じている人が誰か他の人と仲良くする。
子供だから、それが許せないのだ。

そして、同時にどうしようもない恐怖。
梨華は、その友達のことを「ずっと、小さい頃から一緒」にいる「一番の友達」だと
言っていた。
自分みたいな人間が、その輪の中に今さら入れない。
いつも一緒にいる2人の間にどうして飛び込めるというのだろうか。
「でも」
それが梨華だから、そして梨華の一番の友達だから安心できた。
悪いことを考えるのはキリがない。それはこれまでの経験で分かっている。
だから、今度こそ。
良いことを考えて、そしてそれが現実になるように願ってみよう。
病気も治って、梨華ともその友達とも仲良くなって、みんなで笑いながらごく普通の
学生のように生活する。
「いいなぁ・・・」
そうなったら、週末に買い物にでも行ってみようかな?
そう思うと、この夜はとても気持ちの良いものだった。
全ての雑音が気持ち良い。
会ってみよう、その友達に。大丈夫、今の自分は変わったんだ。

後藤はゆっくりと睡魔に身を任せ、それから何の不安もなく眠りについた。

――
「あ、よっすぃー!!」
「・・・ん?」
日も暮れてきたし、少し散歩するついでにコンビニにでも行こうか。
そう思って近道である公園へ足を踏み入れようとしたとき、後ろの方から聞きなれた
声がした。
「あ、梨華ちゃん」
後ろを振り返ると、梨華が元気良くこちらに走ってきていた。
「よっすぃーどこ行くの?」
思った以上に勢いがあって止まれないと思ったのか、梨華はそのまま吉澤にぶつかって
きた。
「うわっ」
ドン、と小さな音がしたが、梨華はそんなことはどうでも良いといった感じで、顔を上
げて再び質問する。
「ね?どこ行くの?」
「梨華ちゃん相変わらず軽いねー」
そう言いながら、吉澤は梨華を抱きかかえながら「ファミマだよ」と付け加えた。

「あのね、後藤さんよっすぃーが来ても良いって」
「ほんとに?」
「うん、ほんとに!
良かったね、よっすぃー」
時間も手伝ってか、コンビニはそこそこ賑わっていた。
そこで、せっかくだからお菓子でも買おうかと手近にあったムースポッキーを手に
とりながら、梨華は吉澤に告げた。
「だから、明日一緒に行こう!」
「おう!
・・・で、何時にどこ?」
「えっとねぇ、10時くらいに私の家でいいかな?」
吉澤が持っているカゴの中には、ジュースやらアイスやらといろいろと冷たいもの
が入っていたが、梨華の10時という言葉を聞くと吉澤はカゴを揺らしながら駄々
をこね始めた。
「うぇー!?
10時ってすっごく暑いじゃん!」
「仕方ないでしょ
面会時間って決まってるし、なるべく早く行ったほうがまだ涼しいよ?」
吉澤としても、梨華が毎日そのくらいの時間に家を出ることは知っていたために
頭の中では納得しているのだが、体の方が拒否しているようだ。
「あー・・・
仕方ないかぁ・・・」
それでも、なんとか自分に言い聞かせるように空いた手で握りこぶしを作ると、
気合を入れたのか「よしっ!」と小さく叫んでいた。

――
「なんかドキドキする」
「私も・・・」
翌日、死にそうになりながらもなんとか約束の時間に梨華の家に来た吉澤は、休む暇
もなく病院へと連れて行かれた。
そして、梨華にとってはいつも通りの時間に病院に到着し、今は後藤の部屋の前にいた。
「は、入るよ」
「うん」
2人で深呼吸をして、梨華はなるべく普段通りにドアを開ける。
「おはよう」
「お、おはよう」
2人が中に入ると、後藤も緊張しているのか少し高い声で返事を返してくる。
「あの、こんにちは」
梨華の後ろから吉澤が顔を出すと、後藤は複雑な表情を浮かべながら小さな声で「こんに
ちは」と言った。
とりあえず、今この場で話を進めるには自分がしゃべるしかない。そう思い、梨華は昨日
の夜にいろいろと考えてきた文章を思い出しながら後藤へと話しかけた。
「あ、後藤さん
この人が、昨日言ってた吉澤さん・・・」
「あ・・・うん」
梨華に紹介されて、吉澤はもう一度挨拶をする。
「昨日も言ったけど、私の一番のお友達なの
だから、後藤さんも絶対にお友達になれると思う」
昨日と同じようなことを説明する梨華に、後藤は自然に笑顔が浮かんでくる。
そして、おかげで落ち着いたよ、と言わんばかりに笑顔で「うん」とうなずいた。

「私、後藤さんにあうの初めてじゃない気がするなぁ」
「え?私は会ったような記憶ないけど・・・」
病院の食堂。
以前、梨華が保田に案内されたあの食堂で、3人はテーブルを囲んで話していた。
周りには、あの病院特有の白や薄い水色の、いかにも清潔そうな服を着た患者がちら
ほらと見受けられる。
中には、後藤のように私服を着ているが入院患者だという人もいるだろう。
いくら肩から包帯をぶら下げているとはいえ、女子高生が3人で話す姿はあまりみない
光景のようで、横を通り過ぎる人たちは3人を珍しそうに見ていた。
「うーん、そうかな・・・
私もよく覚えてないから分からないけど」
「あ、でも近くに住んでたんだから会っててもおかしくないよ」
他人行儀で話す吉澤と後藤の会話に、たまに梨華が突っ込みを入れる。
そんな感じで話は進んでいた。
「でもさ、今回の梨華ちゃんはすごかったんだから!
後藤さんが一番分かってると思うけど、押しが強かったでしょ?
あんな梨華ちゃん、私だって見たことなかったよ」
「あー、そうだね
今でこそ言えるけど、最初の方はほんとに嫌だったし」
冗談、という意味合いを強めるためか、後藤はそう言っていつも以上に笑ってみせた。
「あー、ひっどいなぁ!
私だって一生懸命だったんだよ?」
ショックを受けたような顔を作って、梨華も同じように笑う。
今だから笑える話。
(もう過去のことなんだなぁ)
2度と繰り返したくないが、それは懐かしい思い出でもあった。

「ね、よっすぃー良い人でしょ?」
前に来たときと同じように、病院とは思えないくらい贅沢な昼食をとり終えた3人は、
このまま病室に帰るのもつまらないと言うことで、食堂の側にある売店で暇を潰して
いた。
「・・・うん
なんか、安心した」
吉澤は2人からは離れたところにある、アイスの入っているボックスに集中していた。
たまに顔を上げて、あれに決めたのかな、と思うとすぐにまたそれを戻して別のアイス
を拾い上げている。
そんな吉澤を待ちきれなくなって、2人は外に出てきたのだった。
「私も安心したよぉ
2人が喧嘩しちゃったらどうしよう、ってほんとに心配してたもん」
梨華は笑いながら、外に陳列してある女性誌を広げた。
「喧嘩って・・・
まあ、あの時の私見たらしょうがないけど・・・」
ピンク色の洋服が並んでいるページを楽しげに見ている梨華を横目に、少し過去の
自分を思い出しながら、後藤はそれでも笑って答えることができた。
「友達・・・」
誰にも聞こえないように呟いたと思ったのだが、梨華には聞こえていたらしい。
本から顔をあげて後藤を見る。
「え?」
「あ、ううん、何でもない」
「あ、うん」
納得したのか、特に不思議がる様子もなく、梨華は再び本を開いた。
(なんか、くすぐったいな・・・友達・・・)

「おまたせー!」
2人が外へ出てから3分くらいだろうか、思ったよりも早く吉澤は出てきた。
手に小さな袋を持っているところを見ると、満足できる品を見つけることができた
ようだ。
「よっすぃー、もうOK?」
「うん、OKOK!」
得意げに袋をくるくる回し、吉澤は「じゃあ戻ろっか」と言って歩き始めた。
梨華はもう慣れていたが、あくまでマイペースな吉澤の姿に後藤は戸惑いながらも後を
ついていこうとする。
隣を見ると、梨華も見ていた雑誌を丁寧に棚に戻していた。
「行こっか、後藤さん」
「うん」
軽い足取りで歩き出す梨華の後ろを、2人には気付かれないように微笑みながら、後藤
も歩き出した。
吉澤を先頭に、3人は後藤の病室に向かう。

「あ、今日は3人なんだ」
もうすぐ後藤の病室へ着くというところで、梨華と後藤には聞きなれた声がした。
「あ、保田さん、こんにちは!」
「うん、こんにちは
こちらは、お友達?」
保田はそう言って、吉澤に挨拶をする。
「あ、私吉澤って言います」
「吉澤さん、私は後藤さんの担当看護婦で
保田って言うの。よろしく
って言ってもまだ見習いなんだけどね」
それから、保田はまたあの人懐っこい笑みを浮かべた。

「あ、石川さん
ちょっと悪いんだけど、少し時間大丈夫かな?」
ちょうど良かった、という感じでぽんと手を叩いて保田が言った。
「あ、はい
大丈夫ですけど・・・」
梨華がそう答えると、保田はにこっと笑って今度は残った2人の方を向く。
「ごめんね、後藤さんに吉澤さん
ちょっと石川さん借りて行ってもいいかな?
あ、そうたいした用じゃないし、すぐに終わると思うから」
「あ・・・うん」
後藤は不思議に思いながらも了解したようで、梨華を気にしながらも吉澤の方へ
と歩いていった。
梨華はその様子をなんとなく見ていたのだが、保田に対する後藤の態度が明らかに
変わっていることに気付いた。
どことなく穏やかになっている。
後藤が、自分を懸命に変えようとしている。それが分かるだけに嬉しかった。
「じゃあ、少しだけ待っててね
すぐに戻ると思うから」
2人にそう言うと、梨華はすでに歩き出している保田を追いかけた。

「ねえ!」
ナースステーションへと向かう廊下。
意外にも人気がなく少し寂しい感じがするのだが、保田は笑顔で梨華に話していた。
「後藤さん変わったよね!」
経験が浅い保田にとって、後藤のような患者は本当に扱いにくく、悩むことも山ほど
あった。
だから、それだけに後藤が自ら心を開こうとする姿は、自分のことのように嬉しい
ことだった。
「私さ、今になってやっと思ったことがあるんだ」
目の前はもうすぐにナースステーションだったが、保田は一度立ち止まるって梨華の
方へくるりと振り返る。
「思ったこと?」
ここで言わなきゃいけないことなのかな。そう思って少し首を傾ける梨華に、保田は
少し照れくさそうに後を続けた。
「そう、あのね看護婦になって良かったって
今回ばっかしは本当にそう思うよ」
「え?」
「今までもね、研修とかでお年寄りとか子供とかに感謝されたことはあったの
で、もちろんその時ってすごく嬉しいんだよ
・・・でもね、今回の後藤さんの場合って、それとは全然違うんだよね」
「全然違う?」
「・・・そう」
そこでいったん話を区切って、保田はドアを開けてナースステーションの中へと梨華を
導いた。

「なんて言うかな、いろいろ反論もあるだろうけど、一応後藤さんって
私と同じ年代でしょ?」
後藤を適当な机に案内しながら、保田は話を続けた。
周りの看護婦が呆れたように笑っていたが、当の保田は気にすることもなく奥から
お茶を持ってくる。
「高校生くらいの頃の5歳って大きいよぉ」
近くにいた看護婦から茶化されるが、当の保田はたいして気にするわけでもなく、
笑いながら「私だってまだ高校生で通じますよ」と言っていた。
(保田さんが高校生・・・ちょっと無理かなぁ)
悪いと思いながらも、ついそう思ってしまう。制服姿の保田の姿が想像できないのが
その証拠だと思う。
「それでね」
「あ、はい!」
急に話が戻ってきたために少し驚くが、何とか高校生の保田のことは考えないように
返事をした。
ナースステーションに限らず、女性が多く働く職場というのはどこもそうだと思うの
だが、どうしてこんなにお菓子類が充実しているのだろうか。
そう思うのも仕方がないくらいに、目の前にはクッキーやチョコレート、さらには
ポテトチップが広がっていた。
「あ、遠慮なくどうぞ
ここにはダイエットなんて言葉はないから」

――
「うーん、梨華ちゃんがいないと何か困っちゃうね」
「そうだね・・・私も何言って良いのか分からない」
梨華がいないと緊張するだろうな、と思っていたわりには心臓はおとなしかった。
それは吉澤も同じようで、口数は少ないものの落ち着いているようだ。
「あのさ」
さっき買ってきたアイスを食べながら、吉澤が言った。
「なに?」
「今日が初めてなのに、こんなこと言うと機嫌悪くしちゃうかもしれないけど・・・
梨華ちゃんがいない方が言いやすいと思うからさ」
「え?・・・うん」
梨華がいないうちに。その言葉が意味することが良く分からないが、どうやら真面目
な話のようだった。
視線を後藤とアイス、交互に這わせながら吉澤は後を続ける。
「・・・私さ、はっきり言っちゃうと元々は後藤さんのこと嫌ってたの」
「うん」
吉澤の持つ不思議な空気。
普通なら気を悪くしたり、ショックを受けそうな重い言葉だが、吉澤の言葉にはトゲが
まったく無かった。
すうっと、風が吹きぬけるように通り過ぎていく。
ほんの少しだけ。ちくりと心が痛んだが、吉澤の微笑みを見るとそれもきれいに拭い去
られた。
「でもね、梨華ちゃんの話とか聞いてるうちに、私後藤さんのこと誤解してるんじゃ
ないかなぁって思うようになったの」
「・・・」

「だってさ、最近梨華ちゃんってば後藤さんの話ばっかりするんだよ?
ずっと、嬉しそうな顔してさ」
そう言う吉澤も嬉しそうだった。
梨華が笑っていることが嬉しい。そんな笑顔で後藤に話している。
「梨華ちゃんってあー見えてもね、人を見る目はあると思うの
私が人を見る目が無いって良く言われるから分かるんだけど
梨華ちゃんの周りって、良い人ばっかりだもん」
相変わらず空調だけは効いているが、何も無い部屋。
最初はこの無機質な空間が好きだった。
人の暖かみや痕跡が残っているのが嫌だった。だから、この何もない真っ白な部屋は
何も考えなくて良いから好きだった。
「だからさ、私後藤さんに謝ろうと思って」
でも、今は人の暖かみが無いと辛い。
無機質な空間が嫌になった。
「謝る?」
「そう、だって後藤さんすごく良い人だもん!
やっぱり噂とかだけで信じちゃうのってダメだよ
・・・今日会ってみて分かったよ
私、後藤さんとなら友達になれる」
吉澤の言葉は不器用だったが、それでも後藤には嬉しい言葉だった。
今だから、この暖かさが気持ちの良いものだということが分かる。
この部屋が嫌いになった代わりに、かけがえの無い友達が2人もできたのだ。
「うん・・・」
照れくさくて「ありがとう」なんて言えないが、感謝の気持ちを最大限に表して、
吉澤に笑顔を向ける。

「あ、この花って・・・」
吉澤は、部屋の隅に申し訳なさそうに飾ってある花瓶を指差す。
あまりにも存在感がなかったために、今まで気付かなかったのだ。
「うん、石川さんがくれた花」
「やっぱり、そうだよね」
これがいつか話していたお見舞い品の結果なんだ。
花の名前なんかは良く分からないが、なんとなく梨華ちゃんっぽい花束だな。
そう思いながらも、吉澤はある違和感を感じた。
「うーん・・・あのさ」
「え?」
声をかけてはみたものの、しばらく違和感の原因が分からずに悩んでいたのだが、
ぱっと思いついて後藤を見る。
「石川さんなんて呼ばないでさ
梨華ちゃんでいいよ」
「え?」
「なんかさ、よそよそしくって嫌じゃない?
だから、私のこともよっすぃーって呼んで!」

「よ・・・」
よっすぃー。
取りあえず心の中で呼んでみるが、やはり少し恥ずかしいものがあった。
「えっとね、だから私たちも後藤さんのこと・・・
なんて呼ぼう??」

あだ名なんてものは、だいたいは自分以外の誰かが付けるものだと思うから、自分に
聞かれても困ってしまう。
「後藤さん、昔なんて呼ばれてたの?」
「昔・・・単に名前で呼ばれてたよ、それが普通じゃないかな?」
聞かれてあまり思い出したくない過去を振り返ってみるが、いつでも同じだった。
真希だから真希ちゃん。逆に名字で呼ばれることは、そう多くはなかった。
「へー、梨華ちゃんと一緒だね、それじゃ」
「あ・・・うん、そうだね」
なんの捻りもなくただ名前で呼んでいるだけだけど、梨華と同じだと言われると少し
嬉しかった。
「それじゃ、私たちも真希ちゃんって呼ぶからさ
私はよっすぃー、梨華ちゃんは梨華ちゃんって呼ぼう!」
後藤の心情を知ってか知らずか、吉澤は努めて明るい声で提案する。
「え、でも良いのかな?」
梨華がいないのにそんなことを決めても良いのだろうか。
後藤にしてみればそれは当たり前の疑問なのだが、吉澤には伝わらなかったようだ。
「ん??何が?」
「あの、石川さんいないのに、こんなこと決めちゃって良いのかな・・・って」
梨華、と言いそうになって慌てて言い直す。
「あっ、そういうこと!
ううん、全然大丈夫だって!梨華ちゃんだってそうして欲しいはずだよ」
断言できる。絶対の自信を表してか、吉澤は必要以上に胸を張って言った。
「あのね、梨華ちゃんってこういう、肝心なことが言えないタイプなんだよねぇ
電話番号とかは渡せちゃうのにさ、人のことを考えすぎちゃうの
だから、こういうのはこっちから言ってあげないとダメなんだ」

梨華のことなら何でも分かってる。
そんな風に話す吉澤を見ると、少しだけ胸が苦しくなったが、同時にとても良い気分
にもなった。
2人とも、梨華は当たり前だとして、吉澤だって自分の想像以上にすばらしい人間だ
った。とても優しくて、強い。
梨華がいなかったらどうだったかは分からないが、今の後藤にとっては吉澤と友達に
なることは容易に思えた。
「うん、分かった
そうするよ」
後藤の顔を真っ直ぐに見て微笑む吉澤は、たまに梨華の顔と重なって見える。
クーラーが大好きで、外に出るとアイスよりも早く溶けてしまう。
自分でそんなことを言う吉澤は、いまいちつかみ所が分からないが、友達にそんなこと
は関係ないような気がした。
「そうそう!
後から呼び方変えようって思っても中々できないしさ
どうせなら最初からってね!」
後藤の了解を得たのが嬉しいのか、吉澤は一度「よしっ」と小さく叫ぶと、立ち上がっ
て後藤の前に来た。
「?」
どうしていいか分からずにじっと吉澤を見ていると、吉澤はにこっと笑って後藤の前に
右手を差し出しす。
「それじゃあ、真希ちゃん、ヨロシク!」
「あ・・・」
後藤は少し照れながら吉澤の手を取ると、同じように照れながら答えた。
「うん、よろしく・・・よっすぃー・・・!」

「あれ?2人してどうしたの?」
まさに2人が握手をしている時に、タイミング良く梨華は戻ってきた。
びっくりしたように後藤は手を引っ込めるが、それを見て梨華はますます疑問が増え
たようだ。
「あ、梨華ちゃん!
あのね、今大事な話をしてたんだよ」
本人はフォローするつもりはまったく無かったのだろうが、吉澤がこれまでのことを
梨華に話し出した。

「へぇー、そうなんだ!
えっと、それじゃあ・・・よろしくね、真希ちゃん!」
3人にとっては大事なことでも、内容的にはたいしたことがなかったため、3分も使え
ばすぐに話し終えた。
そして、その話を聞いた梨華は吉澤に感謝しながら、後藤の前に右手を差し出したの
だった。
確かに、吉澤にも言われたが自分からこんな話ができるとは思えない。
遠慮しているというわけでもないのだが、どうもこの手の話は苦手なのだ。
「うん、よろしく、梨華ちゃん・・・」
そう言えば、こんな風に手を重ねるのは初めてだな。そう思うと、吉澤を連れてきて
良かったと思えた。
自分は完全だとは思ってない。だから、完全になれないなら、みんなで支えあって
いくんだよね。
「うん、よろしくね
よっすぃーも、真希ちゃんも・・・ありがとう」
窓の外では、小さなつむじ風が砂埃を上げていた。

「あ、そう言えば梨華ちゃん何話してたの?」
「うん、あのね・・・すっごく良いニュースだよ!」
てっきり1つだけだと思っていたのだが、吉澤は手に持っていた袋からもう1つアイス
を取り出すと、それを食べ始める。
「ってよっすぃーまだ食べるの!?」
「アイスってなかなか溶けないもんだよね」
答えになっていないことを言いながら、吉澤はペロリとアイスを舐める。
確かに、結構前に買ったわりにはアイスはまだ溶けていなかった。それを自慢するように
食べている吉澤を見ると、自分ではじめた話も忘れてそうに見える。
「何の話だったの?」
吉澤だと埒があかないと思ったのか、後藤が引き継いで質問した。
少なからず自分に関係があることは分かっているため、聞きたくないわけがない。
「うん、あのね・・・
ご・・・真希ちゃんの退院する日が決まったんだって!!」
まだ後藤さんと言いそうになったが、気付かない振りをして先を続けた。
そして、退院日が分かったと聞かされた後藤はすぐに明るい顔を見せる。
「本当?」
「うん!あのね・・・20日の月曜日だって!
もうすぐだよ!後藤さん良かったね!」
こぼれそうなくらいの笑顔で祝福する梨華に、後藤は内心照れながらも素直にお礼を
言うことにした。
「うん、ありがと」

――
オレンジ色を通り越した、真っ赤に染まる夕焼けを見るともう秋のような気がした。
カラスは嫌いだが、音も無く空を横切る姿を見ると、それも悪くはない。
「こんな景色、前に見たのいつだったっけ・・・」
近道だとはいっても、こんな風に公園の中を歩くことは滅多にない。
なんとなく、自分でも気付かないうちに避けていたようだ。
あえて言うなら、さきほどからついて来る小さな存在のように、自分の領域に入られ
るのが嫌だったのかもしれない。

自分の足音に合わせて、後ろからゆっくりと近づいてくる小犬へと振り返って、なる
べく驚かさないようにしゃがみこんで手を差し出す。
「おいで・・・うん、良い子だ」
小さな柴犬だった。
ちょうど良いサイズが無かったのか、引っ張ればすっぽ抜けそうな首輪からは可愛い
鈴がぶら下がっていて、ちりんちりんと音を鳴らしていた。
くるりと辺りを見まわすと、砂場で夢中になって遊んでいる子供たちを見つけた。
散歩ついでに公園で遊んでいこうとして、いつの間にか忘れてしまった。
そんなところだろう。
「一緒に遊ばないの?」
聞いてみるが、小犬は手をペロペロと舐めてくるだけで何も答えない。
そう広い公園でもないし、すぐそこに大通りがあるわけでもないから大丈夫だとは思う
が、注意するにこしたことはないだろう。
そう思い、小犬を抱きかかえて砂場の方へ向かった。
「ね、この子キミタチの犬でしょ?
名前なんていうの?」

子供はあまり好きではないが、その性格は分かっているつもりだった。
こういう時は「危ないからちゃんと見てないと」というような言葉だと、彼らは何故
だか反発してくることが多い。
興味を持って話をする。それが大事なのだ。
予想通り、子供たちは機嫌を損ねた様子もなく、笑顔で答えてくれた。
「あのね、コロ!」
柴犬という種類は元々丸っこいから、そのネーミングも「コロコロしてるから」という
のが由来であることは簡単に想像できたが、そんなことは関係なくこの小犬にはその
名前がピッタリだと思った。
「可愛い名前だね
コロちゃんか、よろしくね」
そう言って軽くキスをすると、コロはくすぐったそうに顔を背けた。
「お姉ちゃん、コロのこと好き?」
女の子ながらも、この場を仕切っているリーダーらしき少女が尋ねてきた。
「うん、大好き
あ、でもコロちゃんはキミの方が好きみたいだね
はい、ちゃんと可愛がってあげてね」
そう言って女の子へとコロを渡す。
すると、その女の子は大きな声で「うん!」と言って、その手にはまだ大きすぎる
コロを抱きかかえて笑顔を見せた。
これで安心してこの場を離れることができる。
子供たちにお別れを言うと、再び公園の出口を目指して歩き始めた。

公園を出てしばらくすると、やっとどこからか車の走る音が聞こえ始めた。
それから小さな路地を2,3個横切ると、そこがちょっとした通りになっている。
通りとは言っても、目の前を通りすぎていった車のエンジン音が遠くなり、消えたと
思ったころに、やっと次の車が見えてくるくらいの交通量なのだが。
「えっと、どっちだっけな?」
普段は通らない小道から出てきたため、頭の中にぱっと地図が広がらなかった。
しばらく左右を見比べて、やっと目印となる建物を見つける。
「あ・・・あっちだ」
真っ白で、少し立派な西洋風の家。
この辺りだと周りに並ぶ店よりも目立つため、待ち合わせの目標などで使われることが
多い家だ。
その家のおかげで、目的だった場所に目星がついた。

公園で思わぬ時間を取ってしまったためか、空にはすでに丸い太陽の姿はなく、薄く
なったオレンジ色もそろそろ青みが増してきていた。
この頃だと盆踊りの時期だろうか。週末ということもあって、まだ街の活気は失われて
いないようだ。
ところどころに浴衣を着た女性が歩いている。
そんな中だから、ひっそりと看板を出しているこの喫茶店に用がある人はいないと思う。
外から見ただけだとどれだけの客がいるかは分からなかったが、なるべく少ないことを
祈りつつ、ドアを開けて中へと入ることにした。

「こんばんは」
思いが通じたのか、店には自分の他に客はいないようだ。
「いらっしゃーい・・・
あ!矢口!久しぶりぃ!!
珍しいなこんな時間に、何かあったんか?
あ、まあ座ってや、いつものでええ?」
自称『I WISH』のマスター兼可愛いウエイトレス、中澤は一息でそこまで話し終える
と、矢口を自分の目の前の席へと座らせた。
「にこにこしてんな、どうかしたん?」
「うん、さっき可愛い小犬がいてさ、もー可愛いの!」
矢口は中澤のすっきりとした性格が好きで、今度は髪型をどうしようというような
軽い相談事から、普段は誰にも打ち明けないような人生相談まで、なにかあるたびに
中澤を頼っている。
中澤の方も、そのキャラクターゆえなのか矢口のことを妹のように可愛がっていた。
「しっかし矢口が夏休みの忙しいときに
わざわざ会いに来てくれるなんてな・・・
もう裕ちゃん嬉しくて泣きそうや!」
「ちょっと、裕ちゃん何言ってんのー
きゃはははっ!」
矢口が店に入るまで中澤が1人で何をしていたかは分からないが、今の中澤のテンシ
ョンとのギャップを考えると、思わず笑ってしまう。
「で、今日は中澤姉さんに何か相談でもあんの?」

外の人通りは相変わらず多いようだった。
親子にカップル、友達同士と実に様々だが、皆が楽しそうに歩いていることだけは
確かだ。
「そ、裕ちゃんは私のお姉さんみたいなもんだし
頼れる姉貴だもんね!」
姉貴という言葉が気に入らなかったのか、中澤は少し複雑な表情を浮かべる。
「私をそんな不良みたいに言わんといてよ
これでも根は純情な乙女やっちゅうに」
「乙女って・・・
きゃははっ!裕ちゃん自分のこと乙女なんて言わないでよぉ!」
心底おかしそうに声をたてて笑う矢口に、中澤は今度こそショックを受けたというよう
に後ろを向いて背中を丸めた。
「矢口は酷いな・・・
久しぶりに会ったと思ったら、いきなりこんなこと言うなんて
裕ちゃんほんま悲しいわ・・・」
「ちょっ・・・
そんな真に受けないでってば。冗談でしょ?冗談
裕ちゃんは乙女だって!うん、乙女」
矢口だって、中澤が本当にいじけているわけでは無いことくらいは知っていたが、この
やりとりは2人のいつものイベントとして必要不可欠なものになっていた。

「ま、ええけどな
・・・はい、矢口」
コトン、と中澤は矢口の前に小さなカップを置いた。
湯気と共に、おいしそうな香りがあたりに漂う。
「あ、ありがとう
・・・ごめんね!裕ちゃん
今日のはちょっときつかった?」
矢口はそう言って少しいたずらっぽく笑う。
「今日のはって、いつもこんなもんやないの!
・・・ま、私がほんとに年取って、40歳とかになったら冗談じゃ済まされなく
なるやろうけどな」
中澤としては冗談っぽく言ったつもりだったのだが、矢口には少し重たい言葉だった
ようだ。1回「うっ」と言葉に詰まったあと、申し訳なさそうに上目遣いで言う。
「うん、覚えとく」

「まあ、遊びはそろそろ止めにして
本題にはいろか?」
中澤はそう言って、カウンターを回って矢口の隣の席に腰掛けた。
手にコーヒーとポットを持っているところを見ると、矢口の話が長くなることを感じ
とっているようだ。
「うん、そだね」

話し始める合図というのか、矢口は少しだけコーヒーを口に含んだ。
そして、隣でカウンターに肘をついて待っている中澤の方を向いて、ゆっくりと話し
はじめる。
「なーんていうかさ
最近ある友達とうまくいってないんだ・・・」
「友達?
珍しいな、矢口が友達のことで悩んでるなんて」
コミュニケーションはずば抜けて上手な矢口のことだから、そんな悩みとは皆無だと
思っていただけに、少し驚く。
「うん・・・どう言って良いのやらなんだけど
私・・・その娘のこと裏切ろうとしてるの」
「裏切る?」
「・・・うん
分かってるなら止めろよって思うけどさ
どうがんばっても無理だった。どうしようもなかった」
「・・・お、男のこと?
それなら裕ちゃんの経験じゃちょっと・・・」
「いやいやいや、違うって!
もう、そんなことなら最初っから裕ちゃんに言わないってば」

「なんか言い方が気に入らんけど、まあええわ・・・
で、だとしたら何があったん?」
あまり減っていないカップをくるくると回して、まるで酒を飲んでいるような素振り
で、中澤は矢口に続きをうながした。
「うん・・・
すっごく難しい問題なのよ
私はさ!その娘と仲良くしたいと思ってるし、たぶん向こうだってそう思ってる」
「なんや、なら問題なんてないやん」
「違うんだって!
両方ともそう思ってても、どうしてもできない理由があるのよ」
「理由って?」
「・・・それは・・・ちょっと」
「言えんの?」
「うん」
理由を言えないのに相談だなんて、それが矛盾していることくらい矢口にも分かって
いた。
それでも、細かい内容やその友達のこと、何が問題なのかは言えなかった。
「私だってこんな状態で相談なんて、おかしいと思うよ
・・・でもさ、少しだけでも誰かに聞いて欲しかったんだ」

矢口の話は、正直に言ってつかみどころがない。
それでも、普段の彼女の様子と比較して今回の悩みはかなり深いことが想像できた。
言うこともなくなったのか、何を言えば良いのか分からないのか、隣でコーヒーを
ゆっくりと飲みながらこちらの様子をうかがっている矢口に、中澤は1つため息を
ついて話し始めた。
「あんな、矢口・・・
今の話だけだと、私にははっきり言って何のことかも分からんわ
でもな、1つだけアドバイスできることがあると思う」
「うん」
「矢口はその娘とうまくやっていきたいってのが本音なんやろ?」
「うん。当たり前じゃない・・・」
「ということはね?
向こうだってそう思ってるんちゃうかな?」
「・・・え?」
「それだけじゃない
たぶん、そう思ってるのは今の矢口やその娘だけじゃない
他のどんな人だって・・・
矢口が苦手な人だとか、ぶっちゃけて好きじゃないっていう人だってな?
実はみんな仲良くしたいんちゃうかな・・・?」

「なんか・・・難しくてよく分かんない」
禅問答のような中澤の答えに、さすがの矢口も理解に苦しんでいた。
これを年の功と言ってしまえばまた怒られるだろうから黙っているが、いろいろな
経験をしてきた中澤らしい答えかもしれない。
「そりゃそうかもな・・・
だって、これで矢口に簡単に理解されたら
私の10年間は何やったん?っていう話やからね」
少なくなった矢口のカップにコーヒーを足しながら、中澤は優しい眼差しで矢口を見
つめた。
「そんなもんなんだ・・・
私も後10年したら裕ちゃんみたくなれるのかな?」
無意識に出てきた矢口の嬉しい言葉に、中澤は思わず矢口の頭に手をかける。
「矢口の10年後か・・・
もっとすごい大人になってると思うわ
裕ちゃんなんかよりも立派になるんやろうなぁ」
普段はリーダータイプの矢口も、中澤の前だとそうはいかなかった。
頭を撫でられながら、つい子供のように笑顔を浮かべてしまう。

「ねえ裕ちゃん?」
「ん?どうした?」
「私がはじめて裕ちゃんに会ったのっていつだっけ?」
「そうやなぁ・・・
矢口が中学2年くらいじゃなかったかな?
それがどうかしたん?」
「ううん・・・
もう少し早く会っとけば良かったかなって、ね」

――
8月20日。
雨が降りそうで降らない、湿度の高いあいにくの天気だったが、久しぶりに踏む外の
土はこんな日でも気持ちの良い感触だった。
今まで入院してたとは思えないほど、荷物らしい荷物は何も持っていない後藤を前に
保田が感慨深げに話す。
「今回は私もいろいろと勉強になったわ
もう後藤さんみたいな人は来て欲しくないな」
そう言って笑う保田の目は、少し寂しそうでもあった。
病院の入り口で話しているのだが、出入りする人は思ったより少なく、たまに通る人は
みんな手に傘を持っている。
確かに、今日の天気予報では雨が降ると言っていたため、今まで降ってないならこれから
降るということなのだろう。
「私だって、もう真希ちゃんには入院して欲しくないですよ」
後藤の隣にいる梨華がその通りだというように同意する。
笑いあう2人に挟まれて、当の後藤は苦笑いを浮かべていた。
「2人とも、もう過去のことは忘れてよー
私だって少しは反省してるんだから!ね?」
2人にどれだけ迷惑をかけてきたかということは、後藤自身が一番良く分かっていること
だった。
それだけに、今の後藤には2人の話を聞くと耳が痛くなる。

「でもね、私後藤さんに感謝してるんだよ?」
「感謝?」
保田の言葉が意外だったのか、後藤は大きく目を開ける。
「そう。感謝」
「・・・私なんか感謝されるようなことしたかな?」
そう言って真面目に考え込む後藤を見て、保田は大きな声で笑った。
「あははっ!違う違う、そうじゃないって
たぶん後藤さんが考えてるようなことじゃないから」
本気で分からないというように首を傾ける後藤を横に、保田の言いたいことが分かって
いるのか、梨華も微笑んでいた。
「真希ちゃんって、自分で気付かないうちに
いろんな人に感謝されてるんだよ?」
「そう!良いこというね、石川さん!
そういうことだって、後藤さん」
2人とも後藤のことを話しているのだが、その内容が分からない後藤にとっては自分の
ことなのに何故か取り残されてる感じがした。
「そんなこと言われても分からないってば
感謝されるって・・・そんな覚えないのに」
頭を抱える後藤を見てさすがに悪いと思ったのか、今まで見せていた笑顔を消して保田
は話し始めた。
「あのね、後藤さん・・・
看護婦ってさ、なんか病院にいて患者さんの面倒見て当たり前みたいだけどさ
私だって人間だもん。こんなこと言っちゃダメなのは分かってるけど
看護婦だって患者さんの好き嫌いがあるんだよ」
「うん」

「だからっていうわけじゃないけど
最初後藤さんが入院してきて、その担当が私になったときは・・・
まあ、はっきり言っちゃうとほんとイヤだった」
「・・・」
何を言ってるんだろう?
いくら昔の話でも、自分のことを嫌っているということを聞かされて気持ちが良い
はずはなかった。
少し悲しい思いを胸の奥に感じながら、保田の話の続きに耳を傾ける。
「話し掛けても愛想笑いさえしてしてくれないし
何考えてるか全然分からなかったし
それに、せっかくお見舞いに来た人が寂しそうに帰っていくんだもん
何があったんだ?って怖くなっちゃう」
「あ・・・」
お見舞いに行った帰りの姿を保田に見られていた。
そんなことは思いもしなかったことだったために、梨華もこの言葉には驚いた。
看護婦だから、物言わぬ患者でもその身体の変化を見極めるために、日ごろから無意識
にいろいろと観察する癖が身に付いたのかもしれない。
「でもね、時間が経つにつれて私間違ってたなーって思ったんだ
後藤さんって全然いい娘じゃん!ってね
私もまだまだ未熟だったってことかな?
看護婦なのに表面でしか人を見てなかったんだもんね」

保田はそれから、いかに自分が後藤に助けられたか。そして、どれだけ後藤が素晴らしい
人間であるかを、後藤に言い聞かせるように細かく話した。
年齢は少ししか違わない。なのに、後藤には保田が自分とはかけ離れて大人に見えた。
今まで自分のことをここまで見ていてくれた人はいただろうか?
そう考えると、何とも形容できない温かさが胸の広がっていくのが分かった。

「あ、降ってきたかな?」
頬に冷たさを感じ、梨華が呟く。
しばらく話しているうちに、少し雨が降ってきたようだ。
ただ、雨とは言っても霧雨のようなもので、傘を開こうかと迷うくらいのものだった。
「後藤さん、元気でね!
私こんなに1人の患者さんで一生懸命になったのって初めてかもしれない
だから、絶対に無理なんかしないで・・・幸せにね!」
後藤の身体を案じてか、保田は話をぱっと切り上げると後藤に1回頭を下げた。
「うん、ありがとう・・・」
そして多分、後藤にとってはこれが初めての、保田に対しての「ありがとう」。
深い意味などなかったのだが、意外だったのか保田は驚いたように顔を上げた。
そして、これ以上ないくらいの笑顔を見せて、大きく手を振って2人を見送った。

「2度と戻ってくるんじゃないよ!」

――
本当に粒の小さい霧雨だった。
服が身体に張り付いてあまり良い気分ではない。
傘もあったのだが、2人はそれを使うこともなく街の中を歩いていた。
「よっすぃー来れなくて残念だったね」
空を見上げて、梨華が呟いた。
しっとりと濡れた髪の毛が気になるのか、何度も手でかきあげている。
「うん。でも他に用事があるんなら仕方ないよ
単に退院するってだけだし、たいしたことないし」
そう言って笑う後藤の首からは、先端に小さな瓶がついているネックレスがぶら下が
っていた。
保田からのプレゼントで、瓶の中には突然の発作が起きたときのために、薬を2,3個
入れておくものだそうだ。
「それあんまり可愛くないよねー」
後藤がその瓶を触っていたのが気になったのか、梨華が笑顔で話しかける。
確かに保田がこれを後藤に渡したとき、梨華は明らかに不満そうな表情を浮かべていた。
「そうかな?私は別に気にならないけど」
気にならないどころか、どちらかと言えば気に入ってる後藤から見れば、どこが悪いの
か分からなかった。
おもちゃみたいなのは認めるが、それでも保田が心配してくれたものなのだ。
そう思うと外見に関係なく素直に喜べる。

それから2人は電車に乗って、ようやく見慣れた駅へとたどり着いた。
これからはもう病院へ行くために、この電車に乗ることもないだろう。
「久しぶり・・・」
実際に入院してた期間を考えると、そう時間が経っているわけではないのだが、ここ
数日の目まぐるしい変化のせいで妙に懐かしかった。
「そっか、真希ちゃん久しぶりだよね
でも全然変わってないでしょ、ほんの少しだもん」
「うん、そうだね」
街は変わってない。
ただ、その街を見る自分が変わった。
これからは、この街並みも今までとは違う目で見ることができるだろう。

「あ、ところで・・・」
言いかけて、少し迷った。
これまでの後藤の話を聞いてきて、これからする質問は少し勇気がいる。
「何?」
後藤は何事もないように返事をしてくるが、それを見て梨華はさらに迷った。
(どうしよう・・・
でも、聞かなきゃ始まらないことだよね・・・)
「あ、あのさ
後藤さんのお家・・・今住んでるところってどこなの?」
言った後で、今の言い方だとまずかったんじゃないか、と思ってしまう。
後藤の話を聞いていた限りだと、どこか一定の場所に住んでいるということが考えに
くい。
だからといって、住む場所が無いとも思えなかった。
「え?あ、うん
向こうだけど、来る?」
「へ?
あ、うん、行ってみたいな」
意外な言葉に梨華は驚きを隠せなかったが、なんとか返事をした。

「うわぁ」
ごくありふれた普通のアパートの2階。
ネームプレートも付けられていないドア、そこが後藤の部屋の入り口だった。
アパートとは言っても、もう少し高ければちょっとしたマンションを名乗れるくらい
のものだ。
外装もきれいで、築10年も経過していない程度の新しさだろう。
「ごめんね、散らかってるでしょ」
後藤に言われて改めて部屋の中を見まわすと、中は想像していた通りの部屋だった。
生活に最低限必要なものしか置いていない、飾り気のない部屋。
小さなテレビと、冷蔵庫。電化製品はそれだけで、後は真ん中に置かれたテーブルと、
その周りに散乱している食器類と洗濯物。
端にある布団は万年床らしく、その奥には小さなタンスとショーケースが1つ置いて
あった。
9畳くらいだろう、1人で住むには十分な広さだ。
バス・トイレ付きで台所も完備している。
「う、ううん、大丈夫」
梨華はそれだけ言って、改めて部屋を眺めた。
物は少ないのに、後藤の言うように何故か部屋は散らかって見えるのが不思議だ。
ある一定の間隔ごとに何かが置いてある感じで、広いのだけれど居場所に困る。
「えっと、どうしよう・・・
そこら辺に適当に座ってよ
大丈夫。散らかってても部屋自体はきれいだから」

言われて気付いたが、確かに散らかってはいるが部屋が汚れているわけではなかった。
「あ、ほんとだ・・・」
小さく呟いて座る場所を探すと、1ヶ所だけぽつんと空いているエリアを見つけたため、
そこに座ることにした。
「あ、そこ私の定位置なんだ
だからそこだけ何もないの」
後藤は笑いながらそう言って、最後に「うん、そこに座ってて」と付け加えた。
梨華はうなずいてカーペットの上にちょこんと座り、何気なく後藤を目で追いかける。
どうやら何か飲み物でも用意してくれているようだ。
「あんまり構わないで良いよ」
台所へと姿を消した後藤に向かって話しかける。
外はまだ雨が降っているのだろう。カーテンがぴったりと閉じているために外の様子を
伺うことはできないが、部屋の中にもまだ雨の香りは残っていた。
「構おうにも、何にも無かったよ
ごめんね、ほんとに構えない」
カップを持って歩き回っていた後藤だったが、結局そのカップの中に入るものは何も
なかったようで、照れ笑いを浮かべて台所から出てくる。
「あはっ!
いいよ、今まで病院にいたんじゃしょうがないもんね」
梨華も思わず笑いが込み上げた。

「この部屋も久しぶりだけど・・・
改めてみるとほんと何もないよね」
パチン、と缶コーヒーのタブを空けながら後藤が言った。
結局、空のカップを埋めるようなものは見つからず、2人は近くの自販機でコーヒーを
買ってきたのだった。
梨華もそれにならってコーヒーを空けると、少しだけ口に含んだ。
「うーん、そんなことないって言いたいけど
ちょっと言えないかなぁ」
「だよね」
そう言って2人で少し笑いあうが、アパート特有の静寂とでもいうのか、しばらくする
と部屋の中は水を打ったように静かになった。
ごまかし程度にテレビをつけてみたが、時間的に見ても2人が興味を持つような番組は
何もない。
ただ、外とは違ってゆっくりとした空気が漂うだけだった。
(これじゃ病院とあんまり変わんないかな・・・)
退屈といえば、退屈。
ただ、病院と違って周囲に気を使うことはないために、リラックスはできていた。
「いざ帰ってきても何もすることがないな・・・
前はこんなこと思わなかったんだけど」
不思議そうな表情を浮かべてそう呟く後藤を見て、梨華はほんの少し嬉しくなる。
「それは、後藤さんが変わった証拠だよ」

「あ、ところでさ」
それからしばらく他愛のない雑談をゆっくりと続けていたのだが、ふと思いついたよう
に梨華が顔をあげた。
「なに?」
「後藤さんに連絡取るときってどうすればいいのかな?
家は結構近いから、普段は困らないんだけど・・・」
梨華にとってこれは大事な問題で、保田から頼まれたこともあって絶対に知っておく
必要があった。
保護者のような感覚もあったかもしれない。
「あ、私も携帯くらい持ってるよ
だから普段もそっちにかけてくれたら助かるんだけど」
後藤はそう言うと、テレビの近くの一角に固まっていた洗濯物の山を少しずらす。
「あ!」
そこにあったのは、確かに折りたたまれた携帯電話だった。
後藤の方も、梨華に言われて携帯の存在を思い出したようで、今になって着信をチェック
している。
「あ・・・えっと、私の番号はね・・・」
「あ、うん!」

――
夜になって、雨は少し強くなったようだった。
たまに強風に流されて雨粒が窓ガラスに打ちつけられる音が聞こえてくる。
梨華が帰った後、さらに広くなった部屋の中で後藤はもう一度携帯を広げた。
「19日・・・昨日・・・」
メールだった。
送信者は分からない。自分の携帯に登録してない番号だ。
ただ、予感と言えば良いのか。なんとなく後藤には差出人が誰であるかが分かっていた。
さっきは梨華の前だったからメールには気づかない振りをしたのだが、もしかしたら梨華
には悟られていたかもしれない。
これも、なんとなくそう思うだけだったが。
あまり見たい内容ではないだろう。それでも、後藤はボタンを押す。
ピッ
いかにもな機械音を出して、小さな液晶にメールの内容が映し出された。
「・・・」
表情を変えずに最後まで読み終えると、そのままの状態で携帯を宙へと放り投げる。
携帯はテレビの隣に積まれていた洗濯物の山の上に着地すると、そのまま重力に流されて
下へと落ちていった。
「・・・お願いだから、もう放っといてよ・・・!」
堪えきれなくなり、洗濯物の山を思いっきり蹴り上げた。
派手な音をたてて崩れる洗濯物からは、自分たちは関係ないといったような非難の声が
聞こえてきそうだ。

『ふーん、心臓病だったんだ
これからも、お大事にね☆』

――
翌日も、梨華はいつもと同じように朝のうちに目覚めた。
開け放された窓から、やはり同じように開いているドアへと気持ちの良い風が吹き抜け
ていく。
残暑の厳しい中に訪れた秋っぽい朝。まだ秋の香りはしないが、そんな感じだ。
「あれ?」
しばらくベッドの上でごろごろとまどろみを楽しんでいたのだが、寝ぼけていた頭が
すっきりしてくるのと同時に、ある疑問が浮かんできた。
「・・・窓、なんで開いてるんだろ・・・ドアも・・・」
昨日の夜に窓を開けて寝た記憶はなかったし、眠っている時に寝ぼけて窓を開ける
なんてことも考えられない。
ますます不思議になって、梨華はとりあえずベッドから出ることにした。
本当はもう少しゆっくりしたかったが、窓とドアのことが気になってしまう。
「うーん・・・」
そして、起き上がって周りを見まわしたときに、テーブルの上にある置手紙に気が
ついたのだった。
この丸々とした明らかな女の子文字には見覚えがる。
「あ、ののちゃんだったんだ」

おはよう!
暑かったから風通しを良くしてあげたよ、感謝しなさい!
私は部活に行ってきます。ご飯忘れないでね
そういえば、お姉ちゃん最近学校行ってないよね??
そんなことで良いのー?
あんまり遊んでないでちゃんとしなきゃ!

まるで希美本人のような、小さくて可愛い文字の羅列に、梨華は朝から気持ちが良く
なった。
本人は照れているのか、こういうことを直接はしたがらないこともあって、たまに見せ
るこのちょっとした優しさが嬉しい。
「でも、窓はどうかなぁ」
1人でにこにこと笑いながら、梨華は呟く。
手紙は本当に嬉しかったのだが、窓とドアを全開にしていくというのはどうだろう。
希美に言うと顔を真っ赤にして反論されそうだが、ほんの少しずれたところが希美の
可愛いところだと思う。
「ののちゃん、ありがと」
部活で走り回っているだろう希美の姿を思い浮かべて、梨華はお礼を言う。
今ごろくしゃみでもしてそうだ。

今日も変わらずテーブルの上にきれいに並べてあった朝食をとった後、やはりいつも
通りにリビングのソファーに座ってテレビのニュースを見る。
そのまま30分くらいごろごろと時間を潰すと、それから立ち上がって部屋に戻る。
ありふれた日常だった。
誰からもプログラムを組まれたわけではないし、いつから始めたことなのかも思い出せ
ないが、それは知らないうちに梨華の体にはしっかりと染み付いていたようだ。
普段はそんなことを考えもしないのだが、自分でも気づかないうちに病院へ行く準備を
しようとしていた時にふと思いついた。
後藤はすでに退院していることを思い出し、電車の時間まで確かめようとした自分が
おかしくて笑ってしまう。
時計を見なくても感覚で時間は分かっていた。
梨華が一息ついて、さあ今日も1日なにしようかな、と考え始める時間。
そして、吉澤は眠たい目をこすってそろそろ起きる時間。
この時間に電話をすると、吉澤にとってはモーニングコールとなることが多く、これも
一種の定例行事だった。
「よっすぃー、起きてるかな?」
特に用事はないのだが、いつものことなので吉澤に電話をしてみることにした。
「・・・あ」
ピンク色のストラップが揺れている携帯を慣れた手つきで操作していたが、通話ボタン
を押そうとしたところで、梨華はあることを思いついた。

携帯を一度テーブルの上に置くと、梨華はパジャマ姿のままで小さな庭へと出てみる。
小さいながらも、ガーデニングを趣味だと言っている母親のおかげで、きれいに手入れ
された庭はちょっとしたものだった。
ただ、花に疎い梨華には何がどの花であるかは分からない。
色とりどりで、癒されるような空気に包まれると、少しまじめに母の話を聞いておけば
良かったかな、と今になって思った。
「好きな人ができてからじゃ遅いのよ」と母は笑いながら話してくれる。
今のところそんな人はいないが、確かに女の子だったら好きな花の1つくらいは用意
するものかもしれない。
「なーに言ってるのよぉ」
おかしなことを考えちゃったな、と微笑む梨華の横を、気持ちの良い風が流れた。

「んー!!でも気持ち良い!」
なんのために庭まで出てきたかを思いだし、梨華は周りに誰もいないことを分かっていな
がらも、照れているのを隠すように部屋へと戻った。
テーブルからもう一度携帯をとると、今度はためらいなく通話ボタンを押した。

――
「ほんと今日は涼しいよねー!」
「でしょ、ちゃんと電話する前に確かめたんだから」
太陽に照らされても暑いと感じない日。
つい昨日までは汗ばむくらいに暑かったのに、それが嘘だったかのように涼しい。
そんな、少し早い秋の香りを感じたのか、吉澤の動きもようやく活発になってきた
気がする。
ジーパンにTシャツといったいつも通りの吉澤の横で、梨華のほうも久々の涼風に
体を預けていた。

2人は取り止めのない会話をしながら、適当にその辺を散策する。
特に目的地の無い散歩のようなものだった。
散歩好きの梨華にとっては、やっと吉澤が付き合ってくれる時期がやってきたと素直
に喜べる時でもあった。
学校へと通じる緩やかな並木道を下って、それから『I WISH』のある横道へと入
った。店の前にかかっている準備中の看板を横目に、2人は大きな公園へと続く長い
階段を上がる。
しばらくその公園の噴水前にあるベンチで休むと、休日は必ずこの公園で露天を出し
ているクレープ屋に寄って、また散歩を始めた。
「今からどこ行こっか?」
少し日光が強くなってきた時間帯に近づいていることもあって、このクレープの冷たさ
は気持ちの良いものだった。
「うーん、いつも通りかなぁ」
「駅前?」
「うん」

日が昇っている時間帯に2人で散歩をしていると、毎回のように最終的には駅へと向か
うことになる。
時間が遅ければ中澤のところへ行くことも多いのだが、結局は行き慣れた場所だ。
だけど、変わりばえはしないとは思っても飽きるといったことはなかった。
そこで友達と遊ぶのが目的だから、逆にいえば場所は関係ないのだ。

駅につく頃には、さすがに暑さが目立ってきた。
隣で疲れている吉澤を見て、梨華は少し休憩しようと思いつく。
「どうしよう、ちょっと休む?」
歩き始めてから優に1時間は過ぎているだろう。
さすがに梨華もそろそろ休みが欲しくなっていた。
「おー!
梨華ちゃん疲れてないのかなーって思いながら
こっちは相当疲れてたよ」
少し肩を落として安心したような笑顔を見せる吉澤だったが、どう見ても疲れている
ようには感じられない。
「うーん、ちょっと疲れたかな?
こういうときはね、疲れたー!って思うと本当に疲れるから
なるべくそう思わないようにしたほうが良いよ」
「言いたいことは良く分かるんだけど・・・
それがなかなか」

とりあえず休む場所を、と思って探してみるが、見飽きたところばかりで目新しさは
感じられない。
「これだとまだ裕子さんのところが良いよね」
中澤はああ見えても意外に料理が上手で、それも学校の生徒たちに人気がある大きな
理由だった。
もっとも本人は作るのが面倒なのか、いつも何かしら文句を言っている。
機嫌が悪い時には手がかかる注文はしない。というのが常連客の間では暗黙の了解に
なっているくらいだ。
それでもずっとあの喫茶店を1人でやっているあたり、噂好きの女子生徒たちは何か
と話の種にしていた。
「あのパン屋さんは?」
考え込みながら歩いている梨華に向かって、吉澤が提案する。
「あ、久しぶりにそれも良いね!
そうしよっか!」
どうやら梨華の選択肢の中にこのパン屋は入ってなかったようで、即座に賛成すると
そちらの方へと足を向けた。

パンと言えばその店、という感じで2人が良く利用するこの店は、パン屋とは言って
も普通の人が想像するようなごく普通のパン屋ではなかった。
もちろん、手にトレイを持って陳列されているさまざまなパンを選んで持ちかえる、
というスタンダードな一角もあるのだが、ここへ来る客のほとんどはその奥にあるレス
トランを利用することを目的としていた。

中は高級なフレンチレストランのような装飾で、朝はモーニングセット、昼食時にはラ
ンチセット、はてはフルコースまで揃っていて、そのすべてがパン料理というなかなか
珍しいタイプの店だった。
それだけに、梨華たちのような新しい物好きの年代に受けている。
値段もフルコースで2千円程度で、気軽に高級感が味わることも人気の1つだった。
「ここ久しぶりだね」
テーブルの上に置かれているライトの存在感を出すために、店内は少し薄暗い。
それが良いムードを出しているのだが、同性で来てもあまり意味の無いありがたさ
だった。
「そうだね
なんだかんだ言って、私が夏の間は動かなかったから」
「ほんっと、よっすぃーって怠け者だよね
少しは私を見習いなさい!」
「うーん、でも梨華ちゃんを見習ったら
別の変なところまで見習いそうで怖いな」
吉澤はそう言って小さく笑った。
梨華は冗談だと受け取って笑い返してくれたのだが、少しだけ本音も混じってるあたり
が逆におかしかった。
見習うべきところは多いのだが、たまに1人で突っ走ってしまう梨華を何度も見てると
危なっかしくてとても真似しようとは思えない。
「なんてゆーか、子供を見守る親の感覚みたいな?」
「え?何が?」
「あ、ううん、気にしないで」

それからたっぷり1時間はかけて昼食をとり終わると、2人はまた当てがなくなって
しまった。
「よっすぃーと街を歩くのって久しぶりだけど・・・
久しぶりだからって何時間歩いても楽しい!ってわけじゃないよねぇ」
ジーンズのポケットに手を突っ込んで歩いている吉澤の腕につかまりながら、梨華は
不満を口にする。
遠目に見ると恋人同士に見えるかもしれない。
「おいおい・・・
梨華ちゃんが誘ってきたのにそれはないじゃん」
吉澤の方も慣れているのか、笑顔で相手をしている。
ころころと機嫌が良くなったり悪くなったりする梨華を見ると、そこだけは希美と変
わらないな、と思えてどちらかと言えば可愛いと思えた。
「あ、イヤだって言ってるんじゃないよ!
楽しいけど、散歩だけっていうのも飽きるよね、ってこと」
「うーん、まあそれは確かだね
私もどっちかって言うと疲れたし」
相変わらず疲れを感じさせない吉澤だが、本人が言ってるのだからそうなのだろう。
家を出てからずいぶんと時間が経っているような気がするが、時計を見るとまだ昼を
少し過ぎた程度だ。
このまま歩くとなると、いくら散歩を愛していても辛くなってきそうだ。

「あ!」
と、梨華が何か良いアイデアでも思いついたのか、手を叩いて吉澤を見た。
さっきまで口を尖らせていたと思ったのに、今度は輝くような笑顔になっていた。
「あははっ
やっぱり梨華ちゃんだね」
「へ?何が??」
吉澤の言葉の意味が分からずにその場でしばらく固まっていたが、すぐに良いアイデア
のことを思いだす。
「あのね!よっすぃー
真希ちゃん呼ぼっか!」
今まで忘れていたわけではないし、散歩の途中に後藤の話をしたりもしていたのだが、
どういう理由かは分からないけれども、これまで考え付かなかった。
「・・・あー!
そうだよ、梨華ちゃん
せっかくなのに何で今日真希ちゃんがいないの!」
「あう、だって・・・」
「あうじゃないでしょ
もう、梨華ちゃんってばやっぱり梨華ちゃんだね」
「うう・・・よっすぃーさっきから分かんないことばっかり・・・
ごめんなさいってばぁ」
言った後で、どうして自分が謝るのか不思議に思うが、「よしよし」とこちらも何故か許
してくれている吉澤を見ると意味もなく納得してしまった。

「・・・良し!とりあえず行こっか!」

――
「ここだ!」
そう言って、隣で「んー!」と背伸びをしている梨華を見ながら、吉澤は呆れたように
呟く。
「やぁーっと到着?
今度こそは間違いないんだよね?」
ここに着くまで、同じようなアパートに2つほど間違って入ったことを言っているのだ
ろう。
こういう時に携帯で後藤に聞ければ良かったのだが、何度電話しても向こう側が圏外ら
しく、通じなかったために直接来たのだった。
内心では焦っているはずの梨華だったが、それをどうにかしてごまかそうとしている。
「えーと・・・
うん、そのはずだよ
ものすごく見覚えのある場所だから
ほ、ほら!この駐車場とか!あそこのお花とか!」
「ほらって言われても・・・」
「・・・」
つい昨日に行ったばかりの場所なのに、だいぶ迷ってしまったことが自分でも少しショ
ックだったのだろう。
今度は吉澤を見て目を潤ませる。
「梨華ちゃん、よく昨日1人で帰ってこれたよね」
「・・・うん」
来るときは道を覚えるなんてことは思いもつかずに、ただ後藤についていっただけだっ
たのだが、確かに今になって考えるとあの薄暗い夜道を迷うことなく帰って来れたのは
奇跡に近い。
ただ何も考えずに本能だけで帰巣したのだろう。
おかしな話だが、そうじゃないと必ず迷う自信があった。

ピンポーン・・・
2階の廊下の一番奥。さすがに部屋の場所までは忘れてなかったようで、梨華は迷うこ
となく呼び鈴を押す。
「梨華ちゃん・・・
ほんとにここ?」
ネームプレートが見えないのだから吉澤の疑問ももっともなのだが、確信の表情を浮か
べた梨華には通じないようだった。
ドアを見つめるように立っていた2人だったが、しばらくしても中から誰かが出てくる
ような気配は感じられない。
「梨華ちゃん・・・」
「・・・」
あくまでも自信の表情は崩さないが、その両手は祈るように合わされている。
「・・・」
しばらくそのままの状態で固まっていた2人だったが、1分も経った頃だろうか、梨華
はゆっくりと吉澤の方を振り返った。
「・・・よっすぃー」
不安になったらしく、ついさっきまで見せていた自信はどこへいったのか今にも泣き
そうな顔になていた。
「あー・・・
とりあえず、ここは見覚えあるんだよね?」
「・・・うん」
「出かけちゃったのかな?」

もう一度呼び鈴を押してみるが、やはり誰も出て来ない。
「留守なんだよ
また今度にしようよ」
吉澤としては、ここに後藤が住んでいるというのが本当であるかも分からないため、出て
来ないのならなるべく早く立ち去りたいという気持ちだった。
へたに粘って、違う人が出てきても困ってしまう。
「うーん・・・
どうしちゃったのかな」
それでも、梨華にしてみれば何らかの情報というか、後藤がここに住んでいるということ
を確かめたいらしく、今度はドアをノックし始めた。
コンコン
「真希ちゃーん?いないの?」
外は相変わらず良い天気で、向かいのアパートのベランダには色とりどりの布団が干され
ていた。
涼しい風に運ばれて子供たちの遊ぶ声が聞こえる。
平和そのもの。後藤が重い病気を患っていることでさえ、この空の下にいると現実感が
無かった。
「・・・あ!」
と、ふいに梨華が小さく声をあげた。
「どうしたの?」
「誰かいるよ
ほら!中で音がする」
言われて耳を澄ましてみると、確かにごそごそとする音が聞こえてきた。
その音で急に吉澤は不安になって、梨華に手をとっていつでも帰れる準備をする。
ガチャ
「あ!真希ちゃん!」
吉澤の不安は杞憂のものだったようだ。開いたドアから眠そうな顔を覗かせたのは、確か
に後藤だった。
「ふぁ〜・・・
んー?2人して、どうしたの・・・?」

――
「あー、こんな時期に風邪ひくなんてついてへんな・・・」
病院の待合室。
どこも悪いところなんて無いんじゃないかと思うくらいに飛び跳ねてはしゃいでいる
子供を横目に、呆れた表情で中澤は呟いた。
最近は特に無理な生活をしていたわけでもないし、今は季節の変わり目でもない。
昨日だって、夜の1時過ぎに店を閉めてから2時間くらい1人でお酒を飲んでいたが、
それでもいつも通りのことだし、酔っ払って何かしたわけでもない。
「夏風邪にギリギリセーフで間に合ったってとこなんかな」
座っていても頭がくらくらする。
熱はそう高くはないようだが、その分が他の場所にきているようだ。
頭の奥のほうがずきずきと痛み、鼻水が出て喉も痛い。
さらに関節まで痛むということは、これは風邪で間違い無いはずだ。
「中澤さーん!」
診察室の扉が開いて、自分とほぼ同年代くらいの看護婦に名前を呼ばれた。
「あ、はい」
本当は風邪くらいで病院に来るつもりは無かったのだが、今日が暇だったことと、以前
に風邪でひどい目にあったせいで嫌々ながらも来てしまったのだった。
あまり医者や看護婦という人種が得意ではない中澤にとって、病院での一連のやりとり
は柄にもなく緊張してしまう。
それは今日も同じで、風邪でだるかったのだが一度姿勢を正して、診察室へのドアをく
ぐった。

「風邪ですね」
「はぁ」
あまりにも予想通りな医者の申告に、なんと言って良いのか分からない。
とりあえず風邪だと断定されただけでも良かったのだろう。
後は薬を貰ってゆっくりしてれば勝手に直ってくれるはずだ。

受付の向かいがわにある受取所で処方箋を貰った中澤は、何ともなしにそのパッケージ
を見つめていたのだが、ふいにある記憶がよみがえってきた。
「あー・・・
そういえば『ふるさと総合病院』っていえば・・・」
友人というか、喫茶店のなじみの客が看護婦をやっている病院だ。
看護婦という仕事上、店に来てくれることは少ないが、今でも会うたびに盛り上がるこ
とができる、気の置けない友人の1人だった。
「ついでやし、会っていくかな」
そう呟くと、記憶を頼りにその看護婦のいる病棟を目指して歩き始めた。
これだけ大きな病院だと人を探すだけでも大変なのだが、どうせ行くなら大きな病院と
なんとなく決めている中澤にとっては当たり前のことだった。
入院病棟に入ると、周りの空気も変わってくる。
どう説明していいのか分からないが、入院患者は期間の長短は違っても少なからずここ
で寝泊まりしているために、妙な生活感が出てくるようだ。
そんな患者たちの間を抜けてしばらく歩いていると、目指していたナースステーション
に到着した。
「おらんかったら恥ずかしいな」
そう思いながらも、ためらうことなくドアを開ける。
「すいませーん
ここに保田っていう看護婦さんいません?」

「げっ」
ドアをくぐって声をかけた後、中澤はすぐに保田の姿を見つけたのだが、それと同時に
保田が咄嗟に自分の体を小さく丸めて隠れようとしたのも気付いた。
「げっ、てあんたそれは無いやろー・・・」
さすがに他の看護婦がいる中で怒ろうにも怒れない。
しまった!という顔をして苦笑いを浮かべて近づいてくる保田に向かって、それでも無
言で睨んでみせた。
「あ、あはは。裕ちゃん久しぶりだね」
「まあな」
明らかに機嫌を損ねている中澤をどう扱って良いのか分からずに、保田はとりあえず
中澤をドアの外へと押し出して、自分も出てきた。
「ちょっとあんた
友人が訪ねて来たのに何なのよ、あの態度は・・・」
廊下に出るなりさっそく文句を言ってくる中澤をなだめるように、保田はいつも以上に
人懐っこい笑顔で話し掛ける。
「いや、あのね
別に裕ちゃん見て言ったわけじゃないって!
ちょうど嫌な仕事押し付けられそうになってさ、はは」
「・・・まあ、どっちでもええけどな」
そう言ってそっぽを向く中澤を見て、保田は少し違和感を覚えた。
いつもならもっとしつこく絡んでくるはずである。
「あれ?裕ちゃん、それ」
ふと目線を下げると、中澤の手から処方箋ぶら下がっていた。
「どっから盗ってきたの?」

「・・・いや、ごめん
今日は突っ込まれへんわ」
「うわ!裕ちゃんが突っ込まないって!?
相当重症じゃないのよ!大丈夫?」
どういう考え方をすればそうなるのか分からないが、どうやら保田は中澤が突っ込み
を入れないことで、初めて心配したようだ。
さらに熱くなった額を押さえつつ、保田を睨む。
「直った頃にまた会いに来るわ」
「いや、そんなヤクザみたいなこと言わないでよ
ただでさえ怖いんだから」
普段なら普通に受け流すような言葉も、こういう時には何故か大きな喪失感が生まれる。
いつもの馴れ合いも、今の中澤にとってはかなりの重労働だった。
「あー、ほんとに頭がくらくらしてきたわ
ちょっと圭ちゃん、どっか休ませてくれる?」
「あらら、思ったよりも酷いみたいだね・・・
分かったわよ、冗談はこれくらいにしといてあげる」
「・・・ありがとう・・・良く分からんけど」
保田はそう言って、とりあえず近くのベンチに中澤を案内した。
頭を押さえて、腰を曲げてゆっくりとついて来る姿を見ると、まるで介護でもしている
ような気がする。
(そんなこと本人には絶対言えないけどね)
そして、やはりゆっくりとした動きでベンチに腰を掛けることで、やっと中澤も落ち着
いたようだった。

よく考えてみたら、2人が会うのは確かに久しぶりのことだった。
特に、保田が看護婦という職業についてからは疎遠になりかけている。
働く時間帯を考えるとそれも当然なのだが、残念と言えば確かにその通りだ。
「裕ちゃん、久しぶりだねぇ」
そんなことを考えながら、保田は隣でぼおっとしている中澤へと話し掛ける。
「そうやな・・・
ほんとに2ヶ月以上は会ってないよな?」
座って少しは楽になったのか、中澤も頭を働かせはじめた。
「うん。私も今が一番忙しくってさ
今日は無理だから明日、それでもまた忙しいから来週
で、再来週、来月・・・ってね
結局今日まで来ちゃった」
中澤も、何かのテレビで見たことがあるが、看護婦という職業が相当に大変なものであ
ることは十分理解していた。
毎日朝早くから深夜になるまで、1日中気の休まる時間など無く、どんな患者でも笑顔
で看病をしなければならない。
憧れや夢だけで勤まるような仕事ではない。
そして、看護婦の卵といえばその現実に直面する最も辛い期間だろう。
「うん、でも頑張ってるやんか
楽しそうにやってるの見てちょっと安心したわ」
「まあねぇ・・・
自分でもこんなに看護婦が合ってるなんて思ってなかったよ」
そう言って笑顔を見せる保田を見ていると、その言葉が嘘ではないことがよく分かった。
昔から、保田は辛いだとか苦しいとか言うマイナスの感情をとにかく自分の中に押し込
めて、外に出すことは無かった。
だから、よほど注意をしないと本当の気持ちは読み取れないのだが、今言っている言葉が
真実だということは分かる。

「最近はもうほんと、目が回るくらい忙しくてさ
まあ、それでもほんとに楽しいんだけどね」
「ふーん・・・
なんかええなぁ。フレッシュ!って感じが」
学生ではないが、保田を見ているとまだ青春時代が続いているように感じてしまう。
あの保田にここまでのボランティア魂があったなんて、いくら中澤に人を見る目があって
もこれは予想もつかないことだった。
「なんかね、実際に働いてると分かるけど
いろんな人がいるのよね、病院って・・・
あ!こないだ入院してた娘とか、ほんとに変わってたんだから!
ちょっと聞いてくれる?」
ついさっきまで中澤の身体を心配してくれていたのに、もうそれを忘れて話に華を咲かせ
ようとしている保田を見ると、悪いとは思うが少し安心する。
「あんたやっぱり変わってないな
・・・うん、その方がええよ、圭ちゃんは少し抜けてないとな」
「え?何が?」
意味深というか、良く分からない言葉に一瞬戸惑いつつも、保田はすぐに話を始めた。

「あのね、こないだ救急車で運ばれて来た娘がいてさ
身元の分かるものとか、家族のこととかなーんにも分からないの!
ほんと、最初はどうなることかと思って気が気じゃなかったよ」

――
「ふーん、最近顔見せんと思ったら
そういうことやったんか」
夕暮れ。オレンジ色の光を浴びながら、少し伸びをする。
あれからしばらく保田の話を聞いていたのだが、途中で梨華の名前が出てきてかなり
驚いたりしていた。
それからは、論点が「世間の狭さ」になってしまいどんどん話がそれたために、それ
以上の詳しいことはあまり聞けなかったのだが、どうやら梨華が1つ大きな活躍をし
たらしい。
夏休みという暇を持て余す時期だ。多いときは週に5回は顔を覗かせることもある。
それでも中々店に来ないところを見ると、何か別のことに夢中になってるなとは思っ
ていたが、まさか保田に関係があるとは思わなかった。
「そんなら・・・そろそろ店に来る頃かな?」
後藤という娘も退院し、梨華とも無事に友達になったようだ。
そろそろ暇になってまた店に顔を見せ始めるかもしれない。
それに、あの梨華のことだ。
後藤という友達も連れてくることだろう。
『裕子さん、紹介するね!』
今にも梨華の声が聞こえてきそうで、少し笑みがこぼれる。
予想しやすいというか、面白いくらいに分かりやすい性格をしている。
よく使う表現で、まるで自分の妹みたいだ。というものがあるが、まさにそうだった。
梨華だけじゃない。
吉澤も、矢口も、みんなが妹のように可愛かった。
「・・・何考えてんのやろ」
熱のせいなのか、少し気味の悪いことを考えてしまった。
風邪が直ったらたぶん恥ずかしくて後悔することだろう。

――
「ふぁ〜・・・
んー?2人して、どうしたの・・・?」
パジャマ姿で出てきた後藤は、まだ眠っているようだった。
視線はうつろで、梨華たちではない誰かに話し掛けている。
「真希ちゃん?起きてる?」
後藤の目の前でパタパタと手を振ってみるが、いまいち反応が鈍い。
「んあ・・・」
「えっと、真希ちゃん?」
「んん・・・とりあえず入って・・・」
「あ、うん」
あくびだか何だか分からない意味不明な声を出しながら、後藤は2人を部屋の中へと
案内した。
部屋に入ると、確かに今まで眠っていただけあってここだけは夜だった。
カーテンが見た目以上に光を遮断しているため、目覚ましでもかけないと朝になっても
気付かなくて当たり前のような気がする。
吉澤なら、後藤に負けじと眠りつづけそうだ。
「んー・・・」
「えっ!?
いや、ちょっと真希ちゃん!」
2人が部屋を見まわしている間に、後藤はごく自然に布団に包まっていた。
エアコンは、適度に涼しい風をゆっくりと吐き出している。
まさに寝るには最高の環境だろう。
「・・・よっすぃー・・・」
「え?私?」
「だって・・・」
「・・・仕方ないなぁ」
梨華に懇願するような目で見られる中、吉澤は覚悟を決めて窓の前へと移動する。
そして、思い切ってカーテンを全開にしたのだった。
「起きなさーい!!!」

「・・・」
「・・・寝てる・・・」
「なんか、よっすぃー以上かも・・・」
「うん、これは私以上だね」
眩しいほどの光に今まで外にいた2人でさえも目がくらむ中、気付いてないのか気付
かないふりをしているのか、とにかく後藤はまだ眠っているように見える。
そして、隣で何故か優越感に浸っている吉澤に呆れながら、梨華はなんとか後藤を起
こそうと奮闘を始めた。
「私がいつもののちゃんにされてることをすればいいのよね」
まずは、布団を剥ぐことから始める。
普段の梨華だとこの時点で起きることが多い。
「えいっ」
が、布団は中からしっかりと固定されていてびくとも動かない。
「よっすぃー手伝って!」
1人では後藤の手を振り払えないと悟った梨華は、隣でしきりに感心している吉澤に
助けを求めた。
「あ、うん」
2人で両端を持ち、「せーの」で一気に布団を持ち上げる。
「うそっ!?」
「おー!」
さすがに大丈夫だろうと思っていたのだが、後藤は2人が思っている以上に強敵のよう
だった。
梨華は相変わらず歯が立たなかったのだが、吉澤の手によって持ち上げられた布団から
は、静かに寝息をたてる後藤がぶら下がっていたのだ。
「百戦錬磨って感じだねー」
眠りに対する執着心では自分の負けを素直に見とめたようで、吉澤は羨望とも言えるよ
うな目で布団にしがみついている後藤を見つめる。

それから、布団を窓の傍まで引きずって、後藤を直射日光に当ててみたりもしたのだが、
しばらくすると無意識に身体を動かして日光を避けるという技術まで持っていた。
「これはもう本当に実力行使しかないよね・・・」
梨華の脳裏には、小悪魔のような笑みを浮かべてベッドに突進してくる希美の顔が浮
んでいた。
毎日のように実力行使をされている身だ。
たまには自分がする側に回ってもバチはあたらないだろう。
いつかは希美本人に仕返しをしてやろうと思っているのだが、こればかりはどうにも
ならないことだった。
梨華がいくら早起きをしても、その頃には希美はすでに着替えてテレビを見ているの
だ。
学校のある日はもちろん、休日だってそうだった。
早起きしても何の得もないと思っている梨華からすれば、何食わぬ顔で休日に7時に
目を覚ます希美が不思議でしょうがない。
「実力行使?」
隣で相変わらず感心している吉澤が、首を傾けて聞いてきた。
「ののちゃん流のおはようだよ
よっすぃーもよくやられてるでしょ」
「・・・あっ!
そうだねー、それならさすがの真希ちゃんでも起きるかな?」
吉澤の場合は、朝には梨華以上に弱いのだが、無理やり起こされて機嫌が悪くなると
いったことはなかった。
目を覚まして数秒で声を出して笑えるのは吉澤くらいだと思う。
それだけに、梨華のように嫌な思い出としては残らないのだろう。

「よしっ!行くわよ!」
両手をぐっと握って気合を入れると、梨華は緊張した顔で後藤の布団へと飛び込んだ。
ドサッ!
「ぐえっ」
飛び込むというよりは、倒れこむという感じで後藤に覆い被さったのだが、隣で見てい
た吉澤の耳に入ってきたのは何故か梨華のうめき声だった。
それからすぐに、吉澤の足元にごろごろと身体を丸めた梨華が転がってくる。
「・・・梨華ちゃん・・・」
飛び込んだ位置が悪かったのか、梨華は自分のお腹を抱えてうずくまったまま動かない。
「ひ、ひじが・・・」
しばらくそのまま固まっていたが、そのうち涙目になって、自分のお腹と後藤の腕のあ
たりを交互に指差しながら、必死に何かを訴えようとしていた。
どうやら、倒れこんだところに偶然にも後藤のひじがあったらしい。
「1人で実行して、1人で失敗して、自爆して・・・
梨華ちゃんってば昔の映画に出てくる人みたい・・・」
吉澤は笑いたいのをこらえながら、まだ立ちあがれない梨華の背中をさすってやる。
まるで、転んで怪我をした子供をなだめるお母さんみたい。と、どこか微笑ましい気持ち
にもなるが、相手が子供ではなく梨華であるところが面白かった。
「んあー・・・
・・・あれ?梨華ちゃん、どうしたの?」
と、転がっている梨華の横から眠たそうな声が聞こえた。
「あ、真希ちゃん」
梨華の実力行使のおかげなのか、今の騒動のせいなのかは分からないが、後藤は布団から
顔を出して目をこすっていた。

「ほ、ほら梨華ちゃん!
真希ちゃん起きたよ、起きた!」
人ひとりを起こすだけで、どうしてこんなに苦労するんだろう。
吉澤でなくてもそう思うだろうが、梨華は違うようでその表情からは何か達成感のよう
な感情が見えた。
「やっと起きたぁ!」
まだお腹を押さえたままだが、外から差し込む太陽の光よりも顔を輝かせて、状況が理解
できずに座っている後藤へと笑いかける。
「うん・・・おはよぅ」
ついさっき、いくら今まで奮闘していたとは言っても、梨華たちがここを訪れてからは
まだ15分とたっていない。
それでも本人は十分に眠ったと思っているようだ。
まだ眠そうな顔をしながらも、寝起きのさわやかな気分を味わっている。
「ふぁー・・・」
「真希ちゃん、やっと起きたねぇ」
呆れるように吉澤はそう言ったのだが、いつも自分が同じことを言われていることを
思い出して、少し梨華に同情する。
「あ、でも梨華ちゃんだって、いつもののちゃんに起こされてるよね」
「え?
あ、うん、そうだね」
突然の質問に、梨華は何のことだか分からないながらも返事する。
(弱肉強食ってこんな感じかな?)
結局は一番朝に強いのが希美で、弱いのが後藤ということになる。
どうやら吉澤の頭の中では、学校で良く出てくるような例のピラミッドが構築されて
いるようだ。
(でも、どっちが頂上なんだろ?)
叩き起こすことを考えると希美が一番上のように思えるが、今の後藤を見ると逆のよう
にも感じられる。
というか、後藤と希美の両方がトップのような気がする。
いつも苦労するのは、何故か梨華なのだ。

後藤はそのまましばらく寝ぼけていたのだが、10分を過ぎた頃になると、ようやく頭
がはたらき始めたようだった。
「あ、それで2人とも来てくれたんだ」
梨華の回りくどい説明に耳を傾けながら、後藤はようやく理解してくれたようだ。
「うん、だからさ、今から買い物にでも行かない?」
「んあ、どうせ暇だし良いよ」
そう言うと、後藤はゆっくりと立ちあがって着替え始めた。
今着ているものを脱いでその辺に放り投げて、同じようにその辺に無造作に置かれてい
た洋服に腕を通す。
2人が見るとどれが洗濯後のものなのかがさっぱり分からないが、本人にしてみれば
いつものことなのだろう。
確かに、綺麗に衣装ケースに片付けてあるよりも、あらかじめ外に出している方が効率
は良さそうな気はする。
ただ、いくら効率的だとは言っても、それを実行する気にはならないが。
「あ、そういえば・・・
真希ちゃんにずっと電話してたけど、全然出なかったよ
音鳴らさないようにしてたの?」
両手でビビビっとアンテナのような形を作りながら、梨華は後藤の携帯を探す。
だが、昨日見つけたところ。いわゆる、洗濯物の山の中を一通りあさってみてもそれ
らしいものは見つからなかった。
「あれ?真希ちゃん、携帯どこ?」
さすがに、洗濯物に混じっている下着類を見つけると何故か恥ずかしくなって、後藤に
直接聞いてみる。
「え?その辺になかった?」
「うん、ない」

着替えを終えると、後藤も一緒になって携帯を探し始めるが、やはりどこを探しても
見つからなかった。
「あれー?おっかしいなぁ・・・
この中にあるはずなのに」
後藤はやはり洗濯物の山が気になるようで、同じところを何度もひっくり返している。
「おかしいよね・・・
昨日はあったんだから、絶対どこかに・・・え?」
と、梨華は辺りに軽快な着信音を流しながら、自分の携帯が鳴っているのに気付いた。
こんなときにいったい誰だろう。と思いながらも、急いでバッグを開けて携帯を取り出
そうとする。
「・・・誰からだろ?」
「あ、それ私」
だが、着信画面を見る前に、隣に立っていた吉澤が口を開いた。
手にはいつの間にか携帯が持たれている。
「うん。電波は全然通じてるね」
「電波・・・ってよっすぃー、どうせ電話するなら
私じゃなくて真希ちゃんにかければ良かったのに」
「・・・おーう!梨華ちゃんあったま良いー!」
電波は通じているということに満足そうにうなずいていた吉澤だったが、梨華から当然
のことを指摘されると、本当に今まで気付いてなかったというような驚いた表情を見せ
て、再び携帯を触り始めた。
「あれ?よっすぃーって渡しの番号知ってるの?」
「あ、さっき私が教えちゃったけど・・・
いいよね?」
「あ、それなら良いよ。うん」
梨華と後藤のやりとりを横で聞きながら、吉澤は後藤の携帯へと電話をかけていた。
ピッ!
「よっし!かけたよ!」

「・・・」
「・・・」
「・・・ん?」
最初はどこからも音は聞こえなかったのだが、集中して耳をこらしてみると、確かに
どこからか小さなメロディが聞こえてきた。
「・・・これって・・・どこ?」
「・・・隣の部屋?」
それは確かに、隣の部屋から聞こえてきたと思ってもおかしくないくらいに小さな音
だった。
間に壁があるような、独特の音色になって聞こえる。
「でも隣って誰も住んでないと思ったんだけど・・・
誰か引っ越してきたのかな?」
「いや、そういう問題じゃないと思う・・・」
少しずれている後藤に呆れながらも、梨華たちはどこにあるのか検討もつかな
い音源を探し始めた。
「こっちっぽいよね・・・」
そう言って、吉澤はキッチンの方へと移動する。
そんなはずはない、と言うような顔をして後藤も付いていくが、やはりキッチン
を一通り見まわしてもそれらしいものはなかった。
「・・・でもここの方がさっきより音が大きくない?」
「そうだねぇ」
確かに、少しだけ音がはっきりしたような気はする。
それでも相変わらず、間に壁を挟んだような音だった。

キッチンを出るとその音はさらに小さくなるということで、キッチンに置いて
ある箱か何かの中に入っているかもしれないと思い、3人はこの部屋を重点的
に調べることにした。
「うーん、まさかこんなとこにあるわけ・・・」
と、冗談半分で梨華が冷蔵庫を開けた時だった。
突然、電話の音が大きく周囲に響き渡る。
「え?」
バタン
冷蔵庫を閉める。
すると、電話の音は再び小さくなった。
「・・・えっと・・・」
もう一度開けてみる。
すると、やはり何の障害も無くなったように、電話の音はきれいに聞こえて
きた。
「真希ちゃん・・・」
まさかとは思ったが、冷蔵庫の中を調べてみると、確かに普通だと入っていない
ような紙袋が入っていた。
「これなに?」
「・・・なんだろ」
「とりあえず電話切るね」
吉澤が手もとを操作して電話を切ると、冷蔵庫の中から聞こえていた呼び出し音
もキレの悪いところで止まった。
「真希ちゃん、これって普通冷蔵庫には入ってないんじゃ・・・」
梨華が出した紙袋の中を覗きこんでみると、おおよそ保冷する必要のないものば
かりがごろごろと出てくる。
その中に、探していた携帯も入っていたのだが、洋服からボーペン、テレビの
リモコン等、意味不明なものが大量に見つかった。
「あ〜!
昨日の夜、ちょっと部屋の掃除したから!」
真顔で言う後藤に、2人はただ呆れるだけだった。

――
「つっかれたー!」
夕焼けと暗闇の谷間。
5分前だと空はまだ薄いオレンジ色だけれど、5分後にはすっかり夜になってい
る、そんな時間だった。
まだ熱気を持っている道路に伸びた3つの影は、今はもうほとんど見えないくら
いに薄い。
「なんだかんだ言って、やっぱり暑かったもんね」
端から見ると重そうに見える紙袋を抱えた吉澤が、隣を歩く梨華に訴える。
たまに持ち直したりはしているが、片手で軽々と移動させているところを見ると、
そんなに重いものではないらしい。
「夏だもん。しょうがないよ」
映える。とでも言うのだろうか、薄いオレンジ色に照らされた横顔はとても幻想
的に見えた。
セピア色とは違うが、雰囲気は同じようなものかもしれない。
過去の映像を見ているかのような感じ。フィルムの質感がぴったりと当てはまる。
風の音と、遠くから聞こえてくる本当にかすかなエンジン音。
それだけでドラマの1シーンとして成り立ちそうな景色だった。
「でも、もうすぐ9月だよね
今日の朝は確かに涼しかったけどさ・・・
そろそろ秋っていうのに暑すぎると思わない?」
「いや、9月はまだ夏だって!
秋ってだいたい10月過ぎた辺りじゃないかな?ねぇ?」
「うーん、そうだね・・・
私の場合は、だいたい自分の誕生日が過ぎたくらいからを
秋って呼んでる、かな?」

そういえば、だいたいそうだったような気がする。
ここ数年は誕生日を忘れることも多かったから、確信は持てないのだが、自分の
誕生日を過ぎるとトンボやコオロギといった秋の目印が目に付くようになる。
確か、衣替えも10月だか11月だから、間違いではないだろう。
正直言って、秋に良い思い出はあまりないのだが、嫌いではなかった。
世間では秋になると「寂しくなった」とか「静かになった」というような表現を
されることが多いけど、それが自分には都合が良いというか、雰囲気的に落ちつ
けた。

「あ、真希ちゃん誕生日近いの?もしかして」
ほんの10秒くらいだったと思うが、無意識に自分の世界に入りかけていたようだ。梨華のアニメのような甘い声で、一気に現実へと引き戻された。
「あ、うん。確か・・・
9月23日だったかな?」
病院にいた頃から思っていたのだけれど、梨華の声を聞いていると体の奥のほうが
ムズムズとしてくる。
鳴れれば心地よいのだが、どうにもくすぐったいのだ。
「もうすぐじゃん!」
「うん。あと1ヶ月くらいかな」
それとは逆に、吉澤の声はとても落ち着いていて、たとえるなら大人の女性のよ
うな声だった。
ただし、それは声質だけの問題であって、本人が大人っぽいとは言わないが。
「えっと、よっすぃー23日って何曜日?」
「んっとね・・・ちょっと待って」

そう言うと、吉澤は財布の中からカード式のカレンダーを取り出した。
どうやら近くの歯医者でもらったもののようで、そのカードには小さな広告が
載っている。
「あ、23日は日曜日だって!
良かったね!」
暗にみんなでお祝いしよう。と言っているのだろう。
23日が日曜日だと知ったと同時に、梨華と吉澤は大雑把なプランを練りはじめた
ようだ。
「日曜日だったら、土曜日にお買い物に行けばいいよね」
「だね。久しぶりに梨華ちゃんの手料理が食べられるわけだ!
期待してるよ!」
「まっかせといてよ!」
腕まくりをしてガッツポーズをとった後、梨華はバックからピンク色の手帳を取
り出して、立ったままで器用に予定を書きはじめた。
何事もない普通の日々だから、どんな些細なことでも、それがスケジュールを埋
めるできごとなら嬉しいのだ。
空白だった数週間後の予定が埋まる。
理不尽な時間に縛られない学生だから生まれる感情なのだろう。
内容にもよるが、サラリーマンだとそう簡単には喜べないような気がする。
「あ、場所はどうする?」
「え?」
今まで梨華と話していた吉澤が、突然こちらに顔を向ける。
その動きに反応するように、梨華も嬉しそうな声で後を続けたのだった。

「誕生日だから思いっきり祝おうね!」

それからしばらくは他愛のない話で盛り上がっていたのだが、ふと気がつくと
辺りは夜の世界へと変わっていた。
それが何なのかは分からないが、凛という夜の音が耳に入ってくる。
「お腹すいちゃったね」
自分のお腹を押さえながら、梨華が呟いた。
ここからだと、家につくまでには10分とかからないだろう。
「あ、じゃあ裕子さんとこに行かない?」
「・・・うん!それいいねっ
あ、真希ちゃんは時間大丈夫?」
長い休みのわりには、最近は『I WISH』に行ってなかったような気がする。
以前は吉澤がいなくても、1人で気分転換のために中澤に会いにいったりしてい
たのだが、このところ後藤にかかりきりで中澤とは全然顔を合わせてない。
そう思うと、急にあのコーヒーが懐かしくなって、どうしようもなくなる。
「えっと、それって何?」
異論はないと思ったのか、後藤は既に方向転換して歩き出している2人を追いか
ける。
「あのね、すっごく可愛い喫茶店なの」
「裕子さんっていう人がやっててさ」
「もうすぐ30歳なんだけどね、すっごく良い人だよ」
「ぱっと見は不良みたいだけど、これがなかなか・・・」

自分を挟んで、ステレオのように発せられる声に少し戸惑いながらも、後藤は
とりあえず2人についていくことにした。
1人暮らしだから、時間や門限だとかの問題はまったくない。
それに、家に帰ってもすることと言えば、つまらないテレビを見ながらごろごろ
するくらいのことしかないのだ。
そんなことは、中年のおばさんになってから初めてもいいだろう。
それを気付かせてくれた2人の背中を見ながら、後藤は静かに微笑んだ。

夜とは言っても、季節毎にその表情は違っている。
夏の夜は、言うなれば子供のような性格だろう。
いつまでたっても落ち着かない、何かしたくてうずうずしているような感じ。
何時間たっても静寂はおとずれずに、どこかしらで何かが起こっているのだ。
3人が『I WISH』に着いた時も、外はすっかり暗闇に覆われていたが、それで
も夜というには少し早いような時間だった。
確かに時計を見てもまだ8時を回ってないのだが、冬の夜8時といえば驚くく
らいに静かなものだ。
それに比べると、やはり夏の夜は騒がしい。

外装には小さな電球が店の周りに配置されていているのだが、何個かはショート
しているのか消えたままになっている。
中澤の性格上、電球が切れていることでさえ気付いてないだろう。
同じように、ただ『I WISH』とだけ書かれた何のこだわりも感じられない看板
も立っているが、3人はそれを見ることもなく梨華を先頭にドアをくぐった。

「こんにちはー」
店の中には、先客が2組いた。
1組は私服を着ているが、おそらく同じ学校の人だろう。なんとなくだけど見た
ことがあるような気がする。
そして、もう1組はこの店には珍しく社会人らしきカップルだった。
利用者のほとんどが梨華くらいの学生中心であるため、中澤も少し興味ありげに
そのカップルをちらちらと見ていた。
「お、来たな来たな!
今日辺りくると思ってたけど、大正解やったな!」
誰に言っているのか分からないが、ほら見たかと言わんばかりに胸を張る。
「こんにちは、裕子さん
外の電球切れてるよ、ちゃんと見てないと」
「お、よっすぃーも久しぶりやな
電球のことなんかいちいち見てられんわ
全部切れたら一気に取りかえる」
「あははっ、相変わらずだねー」
いつもはカウンター席に座っているのだが、今日に限ってその席はあのカップルに
占拠されていた。
仕方なく隣のテーブル席に腰を下ろし、3人はようやく一息つくことができた。
「あ、そっちのお嬢さんは初めてやな・・・
なるほど、その娘が最近できた友達か」
カウンターに肘をついて、まるで一流の探偵のようなポーズでそう告げる中澤に、
後藤はともかく2人は驚いた。
「えっ!?
裕子さんなんで知ってるの?」

良くぞ聞いてくれました。という感じで一気に表情を明るくした中澤は、とりあ
えず3人の注文を取った後、自分もテーブル席に座って話を始めた。
いつも学生たちの相談を受けているだけあって、中澤の説明はとても簡潔でスム
ーズに進んでいく。
第一印象で少し苦手意識が芽生えていた後藤も、この明るい女性の口から保田の
名前が出てくると、さすがに驚いたようだった。
「あの娘、本気で後藤さんに会えたことを喜んどったよ」
つい先日分かれたばかりなのに、この言葉を聞くと急に保田が懐かしくなった。
特に、自分が問題児で本当は嫌われていたのかも、と少なからず不安になってい
た後藤にとっては、本当に嬉しい言葉だった。

「というわけでな、今日あたり梨華ちゃんがその友達を連れて
ここに来るかもなーって思っとったんよ」
「・・・裕子さん、さすがというか何と言うか・・・
すっごいね」
「うん、こりゃ裕子さんに嘘はつけないね」
中澤の勘の鋭さに感服しながら、梨華はコーヒーを口に流し込む。
それにしても、保田と中澤が知り合いだとは全然思わなかったことだ。
いくら世間は狭いとは言っても、この2人ほど繋がりが見えない組み合わせは無い
ような気がする。

「あ、あの・・・
保田さんも、たまにこのお店に来るんですか?」
何も疑問に思わなかったのか、思っていても口に出さないだけなのかは分からな
いが、何も言わずにミラクルナイトを傾けていた後藤が、少し緊張気味に中澤へ
話しかける。
保田から聞いていた後藤の性格と、今見せたその表情に、中澤はどうにも温かい
感情がこみ上げてくるのを押さえられずに、にっこりと微笑んで答えたのだった。

「ここ最近は看護婦が忙しいみたいで
全然来てないな
・・・あ、それから私にそんな丁寧な言葉使いはせんでええよ
なんかムズムズするし
あと、私のことは裕ちゃんでええわ」

――
「ふぅ」
ドアを開けて、電気のスイッチを入れる。
2度3度フラッシュした後に、部屋の中が明るくなった。
そして、靴を脱いで部屋に上がると同時に、持っていた荷物を放り投げた。
いくら軽めの荷物とは言っても、ここまでずっと運んできたのだ。
さすがに疲れているだろう自分の手のひらを見てみると、やはり少し赤みがかって
いた。
「つかれたー・・・」
こんなに動いたのはどれくらいぶりだろう?
先日まで入院していた身にとっては、今日の外出は体に悪かったのかもしれない。
でも、それはとても心地の良い疲れだった。
梨華に会うたびに、吉澤に会うたびに、自分が変わっていくような気がする。
買い物がこんなにも楽しいと思えるなんて、いつ以来だろう。
少なくとも、今日みんなで洋服を手に取るまでは忘れていた感情だった。
「んー!」
冷蔵庫から飲みかけの烏龍茶を出して、一気に喉に流し込む。
今まできしんでいた体全体が、思いっきり歓声をあげたようだ。
そして、その心地よさに逆らうことなく、朝から敷きっぱなしの布団の上に倒れ
こんだ。

「んあ、まぶし・・・」
横になると同時に、今までおとなしくしていた睡魔が大群でやってきたようだ。
光を避けようと、まぶたが自分の意思とは関係なく閉じられそうになる。
何度か無理やり目を開けたりもしたのだが、それも無駄のようだ。
「・・・だめ」
結局、どうにも心地よい布団の温もりには逆らえなかった。
残った気力を振り絞って、さっきつけたばかりの電気を消すと、くずれ落ちる
ように布団の中へと入る。
本当はパジャマに着替えたかったのだが、そんな気力もないくらいに疲れていた。
一応上着は脱いだが、朝になればシワだらけになっていることだろう。

小さな小道に面しているこの部屋は、たまに通る車のライトがカーテンに映しだ
される。
眠れない日があると、車の動きに合わせて天井を移動する影をよく見ていた。
何とも言えない、不思議な感じがするのだ。
そして、そんな時に限っては、乾いたエンジンの音もうるさいとは感じなかった。
自分だけ、どこか隔てられた世界にいるような気がするのだ。
毛布に包まっていると何故か不安ではなかったし、逆にそれが気持ち良かったり
もした。
そうしていると、いつの間にかそれが夢へと変わっているのだ。

「おやすみ」
最後に、ほんの一瞬だけ梨華と吉澤の顔を頭に浮かべて、後藤はそのまま深い眠り
へと入っていった。

「誕生日だから思いっきり祝おうね!」
『誕生日なんだから、思いっきり祝わないとね!』

既視感。
あの時も何かがひっかかっていた。
梨華の声と、誰かの声が重なって聞こえていた。

「ねえねえ!
明日って私の誕生日なんだよね!」
「そう!
真希ちゃんはね、明日から8歳になるの
もうお姉ちゃんだねぇ」
「うん!そうだよ、もう大人だよ
だからね、だからね、明日からもっと遅くまで起きてても良い?」
「あら、どうして?」
「だって・・・
いっつも私のほうがお姉ちゃんより先に寝ちゃってるから
寂しいの」
「あはっ!
でもねぇ、真希ちゃんも大人になるんだから
明日からはお姉ちゃんと一緒に眠れないんだよ?」
「!!
なんで!?」
「だって・・・真希ちゃん、明日から大人なんでしょ?
大人の人が、怖いよー、寂しいよーって言ってたらおかしいよ」
「・・・」

「イヤ!
お姉ちゃんと一緒に寝れないなら、明日は誕生日じゃなくて良い!」
「あはっ
真希ちゃんはまだまだ子供だね」
「・・・いいもん」

「・・・でもね」
「?」
「お姉ちゃんも、真希ちゃんと一緒に寝たいな」
「ほんと?」
「うん、お姉ちゃんもまだまだ子供なのかな?」
「あははっ!
分かったよ、仕方ないからお姉ちゃんと一緒に寝てあげるっ!」
「うん。ありがとう真希ちゃん」
「えへへ・・・」
「だから、明日は思いっきりお祝いしようね!」
「お祝い?」
「そう!」

『誕生日なんだから、思いっきり祝わないとね!』

――
でも、目覚めたときにはほとんど忘れていた。
懐かしい夢だったような気がするけど、内容は思い出せない。
ただ、小さい頃の楽しい記憶。
そう考えると、あの頃の生活の思い出だったようだ。
だって、それ以外に楽しい生活なんてなかったから。
たまに見る夢だ。
他のどうでもいい夢は覚えているのに、この夢を見た時に限ってはいつも忘れ
てしまう。
昔は、それが嫌でなかなか寝つけないときもあった。

ゆっくりと起きあがり、カーテンを開けて外を見る。
すでに太陽は真上まで昇っていた。
時計に目を向けると、もうすぐ12時になろうとしている。
とりあえずカーテンは開けたままにして、また布団の上に寝っころがる。

「・・・」
昔は嫌だったのに、最近は違う。
何故か、起きて一番最初に思い出すのは夢とは関係のない人だった。
「梨華・・・ちゃん」
夢に出てくることはないのに、浮かんでくる。
そして、後藤の頭の中で梨華はこう言うのだった。
「え?さっき夢の中で会ったじゃない」

――
梨華の学校のテニス部は、県大会でも上位に食い込む常連校だとかではなく、
もともとそんなに強い部ではない。どちらかと言えば、ちょっと興味を持った
仲間同士で楽しむサークルみたいなものだったので、練習が厳しいというよう
なことはなかった。
「結局、夏休み一回も練習行ってないんじゃないの?」
「そうなの。そんな暇なかったしね」
インターハイが終わって3年生が引退するときも、そんな雰囲気の部活だから
湿っぽいシーンはまったくなかった。
笑顔で手を振ってお別れ。そんな感じだ。
実際、受験の追い込みに入った3年生が気晴らしにコートに来ることもあった。
学年の枠を超えて仲良しな運動部なんて珍しいと思うが、それが梨華にとって
は居心地が良かった。

9月3日。
土日を挟んでいるために、今日が2学期の始業式だ。

「やっぱり真希ちゃんいないみたいだねー」
「うん」
式が始まる前というのはいつも同じようなもので、今日も体育館の中はざわざわと
落ち着きのない空気に包まれていた。
梨華と吉澤は、2つ向こうの列に並んでいる3組を見まわしてみるが、2人の予想
通り後藤の姿はなかった。
「昨日の夜、電話したんだけど・・・」
「なんだって?」
「あのね、今さら行けないよって言ってた」
「・・・うーん、まあそうかもねー」
時計を見ると8時50分を少し回ったところだった。
始業式は9時開始らしく、まだ体育館に来てないクラスもある。
「・・・それにさ」
「ん?」
周りに聞かれたくないのか、少し声のトーンを落として、吉澤の耳元でささやく
ように付け加える。
「私だって、ほんとは来たほうが良いと思うけど・・・」
「・・・思うけど?」
「矢口さんのこと考えたら、おいでなんて言えないよ」
「・・・あー・・・」

梨華たち一年生の列と、3年生の列は体育館の端と端という感じで離れている。
それに加えて、ただでさえ小さい矢口のことだ。
どんなに頑張ってもその姿をとらえることはできなかった。
だから、姿が見えないからこそ余計に小声になっていたようだ。
もしかしたら、すぐそばにいるのではないだろうか。
体育館に散らばっている生徒会の役員の中に矢口がいても全然不思議ではない
し、式の始まっていない雑とした空気の中だと、それこそいつ肩を叩かれても
おかしくはない。

「まあ、こればっかりはね・・・」
「うん。私たちにはどうしようもないよね」
「無理に連れて来ちゃって、それでまた何かあったら
私たちが責任なんて取れないよ」
「・・・うん」

責任。
そう言われて、梨華は改めて保田に言われた言葉を思い出した。
案外可愛いよ?と保田に渡されたネックレスを片手に、笑顔で話していた後藤の
姿を思い出した。

「心臓病なんだよね・・・」
後藤の首からぶら下がった小さなカプセルを見ないと、心臓に重い病気を持って
いるなんて信じられなかった。
あれから何度も買い物に行ったし、それぞれの家に集まって他愛のない雑談で盛
り上がったりもした。
だからこそ、元気そうに見える後藤が実は心臓病だということが不自然に見えて
しかたがないのだ。

『えー・・・それではそろそろ・・・』

ステージ上のマイクを通して体育館に響いた声に、ふと現実に引き戻されて前方
を見てみる。
すると、こういった式になるといつも仕切り役にされている初老の教師が、今日
も同じように曲がった腰を精一杯に伸ばして声を張り上げていた。
時計もいつの間にか9時を回っている。

『それでは、校長先生に・・・』

この声を合図に、例年通りの退屈な始業式は始まった。

本当に少しなんですが、更新しました
なんとか更新頻度を早めるように努力したいと思ってますので、
これからも読んでいただければと思います・・・

卒業式や体育祭といった特に形式ばったものではないため、始業式とはいって
も30分もすれば終わるだろう。
実際、壁には少し歪んだ字で書かれているプログラムが貼りつけてあるのだが、
その内容も寂しいものだった。
校長と生徒会長の挨拶、後は2学期に向けての目標と諸注意。
どれもこれも面白くないものばかりだが、これも決まり事だ。
そして、おそらく梨華と吉澤を除いた全ての人間が、後藤のことを忘れている
だろう。

「・・・あ」
式が始まって、生徒の列が綺麗に揃ったからだろうか。
梨華は、3年生の列の一番前に矢口の姿を見つけた。
相変わらず鮮やかな金髪が目立っているが、矢口自身の持つ優等生のオーラが
重なり、驚くくらいに様になっている。
「ねえねえ」
吉澤の肘を突ついて、矢口の存在を知らせてみる。

「・・・うわ」
何かのドラマの1シーンのようにばっちりと決まっている矢口の姿に、吉澤も
驚いたようだった。
「なんか、すごいね」
「うん。なんかすごい」
少し周りの様子をうかがってみると、矢口に注目しているのはどうやら梨華たち
だけではないようだ。
あちらこちらで、首を矢口の方に傾けている生徒の姿が見える。
壇上に椅子を並べて座っている生徒会のメンバーよりも、ただ整列して座ってい
る矢口の方が目立っているのはさすがに圧倒された。
「どうなんだろう・・・」
「何が?」
独り言のつもりだったのだが、元々小声で話していることもあって吉澤には聞こ
えたようだ。
「うーんとね・・・何がって言われても困るんだけど・・・」
「うん」
「本当の――」

「起立!」
「えっ?」
いつの間に話し終えていたのか、ついさっきまで壇上に立っていた校長の姿は
なく、梨華の言葉は体育館に響く教師の号令に遮られた。
今度はあの初老の教師ではなく、いかにもな体格をした体育教師がマイクを
握っていた。

――
「ねえねえ、梨華ちゃんさっき何て言おうとしてたの?」
「え?」
始業式が終わり、それぞれのクラスに戻って他愛の無い雑談をしていたところ
だった。学校に来ると毎日のことなのだが、さすがに長い休みの後の雰囲気は
いつもよりもテンションが高いような気がする。
普段よりも騒がしく、そして明るい。
「ほら、さっき最後に体育館で言ってたじゃん」
「・・・あ」
教師たちは、おそらく職員会議でもしてるのだろう。
10時くらいまでは教室で待機するように言われていた。
そう思い出して、黒板の上にかかっている時計を見てみると、9時45分を少し
だけ回ったところだった。
「うん。あのね、本当はどうなんだろうなぁ・・・って」
「あ、そうそう。そんなこと言ってたよね」
「うん。何がって聞かれても、私もよく分かんないんだけどね・・・
矢口さんって本当はどうなんだろう?」
「へ?」
質問に対して質問で返され、吉澤も戸惑ったようだ。
しかも、梨華が言っているようにいまいちつかみ所がない。

「うーん、矢口さんの本性とか、そんな感じ?」
「本性って、そんなに悪い意味で言ってるんじゃないよ
なんていうのかなぁ・・・」
「でも、結局はそういうことだよね?」
「・・・うーん。そういうことになるのかな・・・
あのね、本当はどんなこと考えてるんだろう、ってこと」
自分の中で言葉を整理しながら話しているために、口調はかなりゆっくりとし
ているが、吉澤はなんとか梨華の言いたいことを理解した。
「最初よっすぃーが矢口さんのこと良い人だって言ってたよね」
「うん」
「その時はさ、私はそれが全然信じられなくって・・・
真希ちゃんのこともあったし」
たまに襲われる感覚とでもいうのか、教室の中にいるはずなのに、周りから自
分が遮断されたような経験をすることがある。
今もちょうどそんな感じだった。
隣のクラスから聞こえてくる声も、自分のすぐ近くに居る友人の声も、全部が
一緒になって遠くの方から聞こえてくる。
夢の中にいるみたいな感じとは、また違う。
どちらかというと、貧血を起こした時の感覚によく似ていた。

「でもね、矢口さんの周りとか見てるとさ
そんなに悪い人じゃないような気がして・・・」
「周り?」
「うん、そう・・・」
矢口の周り。
それが何を指しているのかはひどく曖昧な気がするが、こうとしか言いようが
なかった。
ちゃんとした形が想像できるのわけではなく、ただそんな空気を感じるとか、
そんな気がするとかいうものでしかないのだ。

「それって、私も入ってるのかな」
眉間にシワを作って考え込む梨華に対して、そこまでシリアスな問題じゃない
でしょ?と言わんばかりに、吉澤が冗談っぽく相槌を打つ。
だが、それは梨華をさらに考え込ませてしまったようだ。
「うーん・・・
そういうことになるのかなぁ?」
「でもさ、梨華ちゃんなんでそう思ったの?」
「空気・・・かな?」

「空気?
空気って・・・雰囲気とか、そんなの?」
「そう」
相変わらず遠くから聞こえてくる吉澤の声に、ある種の子守唄的な感覚を覚え
て少し眠たくなるが、なんとか瞼を持ち上げる。
「だってさ、どんなに人付き合いが上手でもね
ほんとに悪い人だったら、あんなにお友達とかと楽しく
過ごせるわけないと思う」
「うーん。そう言われると、そうかもしれないけど・・・」
「よっすぃーだって、矢口さんのこと悪い人だと思わないでしょ?」
「そりゃそうだよ。私はそんなこと全然思わないし」
肩にかかっている綺麗な髪を撫でながら、吉澤の目を覗きこむ。
そして、吉澤にではなく、その瞳の奥に映る自分に言い聞かせるようにゆっくり
と後を続けた。

「だから・・・何か理由があるんだよ、きっと」

「理由って・・・?」
ガラララ・・・
吉澤が言いかけたと同時に、教室のドアが開いて教師が現れた。
「あ・・・」
これからやっと核心に触れそうだったのだが、どうやら時間切れのようだ。
確かに、いつの間にか時計も10時を回っていた。
「なんか私もまだよく分かんないし、また後でね」
どこかに焦点があっているわけでもなく、梨華はぼうっとした表情で吉澤の方
へ顔を向ける。
それが癖なのかは分からないが、梨華が何か考え込むときはいつもそうだ。
まるで夢遊病のように、意思があるのかないのか分からない顔をして、ぽんと
難しいことを話すのだ。

「理由、か・・・」
急に静まり返った教室の中で、吉澤は隣に座っている梨華にも聞こえないくら
いの小さな声で呟いた。
なにやらプリントを配っている教師をぼんやりと眺めながら、頭の中でいろい
ろな考えを張り巡らせてみる。

梨華のことだから、何かちゃんとした理由があるのは分かるのだけど、それを
説明するのが難しいのだろう。
そして、梨華がそう言っているのだからそれは間違いではないとも思う。
後藤のときだって、梨華は初めて会った時から「後藤さんは悪い人じゃない」
と言っていた。
それも、梨華の中では何らかの理由があったのだろう。
本人はそれを勘だとか空気だとか言っているけど、何かそれ以外の理由もある
と思う。
でも、きっとそれは梨華にしか分からないことだから、それを他人に説明する
のが大変なのだ。

相変わらず隣で考え込んでいる梨華を見ながら、矢口の顔を思い浮かべてみる。
友達と盛りあがって、笑顔を絶やさない。そして、優等生。
どこにでもいるとは言えないけれど、いたって普通の少女だ。
本人から聞いていても、この少女が後藤と深い何かで繋がっているとは思えな
かった。

自分と梨華の差はいったい何なのだろう?
自分には、梨華のように人を見る確かな目は無いと思う。
後藤の時だって、最初は周囲の噂にただ流されて、会うのも戸惑っていた。
矢口の時もそうだ。友達から、矢口がアイドル的存在だと聞いて、それで興味
を持っていた。
でも、梨華は違う。
自分で見て、自分で判断するのだ。
梨華が後藤と初めて会った後。目の前で罵倒されて、本当に落ち込んでいたあ
の時でさえ、梨華は気付いていたに違いない。
だからこそ、今の梨華がいるのだ。
誰からも愛されて、普段はちょっとドジな少女。
小さな頃からいつも一緒にいるけど、こんなに嬉しいことはないと思う。

だから、そんな梨華が言うのだから間違いないと思うのだ。
でも、後藤を心配している梨華からすれば、その感覚が複雑なのだろう。
実際に後藤は矢口から被害を受けている。
その辺が自分の中で釈然としないから、説明に苦労しているようだ。

窓の外はまだまだ暑いようで、遠くの道路からは陽炎が昇っている。
この学校も、一応は私立高校の端くれということで、全ての教室にはクーラーが
完備されていた。
ただ、かなりの年寄りクーラーのために温度調節部が壊れているらしい。
そして、その運転スイッチは一括で管理されていて簡単には操作もできないと
いうものだった。
日に1回しか使われない実験室などは、冷蔵庫のようになっていることも多い。
今も、後ろの窓を開けて少し温かい空気を呼びこんでいた。

外と中の温度差はどのくらいなんだろう。
あまり意味の無いことを考えながら、吉澤は冷たくなった机の上に両腕を乗せる。
梨華を見てみると、まだ何か思うところがあるようで、教師の話を上の空で聞い
ていた。
もっとも、自分だって何も聞いていないのだけれど。

――
「よっすぃー、またねっ!」
「うん、バイバイ」
手を振って走っていく梨華を見送って、吉澤はくるりと踵を返す。
学校からは午前中で開放され、今からは暇になる時間だ。
夏休みの緩んだ生活を引き締める最後のチャンス。
授業が始まるのが今日からではなく、1日おいた明日からというのは、唯一学校に好感
が持てることだった。
さすがに、いきなり授業を始められると体がついていかない。

それでも、部活は午後からあるらしく、梨華は急いでグラウンドの反対側にある部室へ
と行ってしまった。
こうして見るといろんなスポーツがあるんだな、とグラウンドに散らばる各々の部を
見て妙に感慨深く思うが、自分のお腹から聞こえてきた不満げな音に気付くと、すぐに
興味を失って校門へと向かった。
梨華の手からぶら下がっていた小さな弁当箱を見たせいなのかもしれない。

自分と同じように特にやることもなく家へと帰る列に混じって、これからどうしよう
かと何となく考えてみる。
もちろん希美も部活だろう。
だからと言って、1人で後藤に会いに行くというのも少し気が引けた。
なんと言えばいいのか分からないが、学校へ来てない人の家に学校帰りの人が訪ねて
いく、というのもちょっと遠慮してしまうのだ。

「んー、どうしよっかな」
どこに向かうこともなく、ゆっくりと歩いていた吉澤だったが、ふいに肩を叩かれた。
「ひとみちゃん、ヒマそうだねぇ」
振り返るまでもなくその人が矢口だと分かったのだが、とりあえずびっくりする
素振りをして後ろを向いた。
「あ、矢口さん!」
「うん、何か久しぶりだね」
「ほんと、そうですよね。ヒサブリです」
夏休みだから会わないのも当然と言えばそうなのだが、なんとなく緊張してしまう。

「ね、私もヒマなんだけど、ちょっとコーヒーでもどう?」
「あ!いいですね」
本当はあんまり乗り気ではないのだが、矢口本人に言われるとどうにも断れない。
今日も自転車で来てるらしい矢口と、歩いて『I WISH』まで行くことにした。

「そういえば、矢口さんも部活引退したんですか?」
「うん、私も3年生だからね。ちっちゃいけど」
冗談っぽく「きゃははっ」という笑い声もずいぶん久しぶりに聞いたが、何となく
自分の知ってる矢口で安心する。
「でもね〜、ブラスバンドってもともとそんなしっかりした部活じゃないし
たまに3年生も集まってみんなでわいわいやってるよ
私だってトランペットは趣味だし、やめたくないもんね」
無意識に指を動かしながら心底楽しそうに語る矢口を見てると、音楽なんて学校で
縦笛しか吹いたことのない吉澤でもその面白さが伝わってくる。
「なんか、そういうのって良いなぁ
ちょっと憧れます」
自分はなんだかんだ言って飽きっぽいから、練習しても吹けるようになるまで続いて
いるかも分からないけれど、矢口の話が羨ましくもあった。

「よっと!」
話し込んでるうちにいつの間にか『I WISH』に着いたらしい。
看板の前に自転車を止める矢口の背中を眺めながら、店の中を覗いてみる。
「あー、結構人いますね」
「うん、しょうがないよ
3年生はみんなヒマなんだから」
これから受験だというのに、ヒマも何もあったもんじゃないとも思うが、確かに客の
ほとんどは上級生だった。
言われてみると、今日にまで家に直帰して勉強をするというのも酷な話だ。

チリリリン・・・
気持ちの良い音を聞きながらドアをくぐると、すぐに中澤の声が出迎えてくれた。
「いらっしゃーい!
・・・あ、矢口によっすぃーやんか!」
「裕ちゃんひさしぶりっ」
「こんにちはー」
運良く目の前のカウンター席が3つ程空いていたため、2人はそこへと落ち着くこと
にした。
「はい、注文は?」
「えっとね、ミラクルナイト2つ・・・で良いよね?」
「あ、はい
えっと、それから私なんか食べ物が欲しいかな」
「適当でええ?」
「うん!今日一番美味しくて、裕子さんの手がかからないものならなんでも」
「お、さすがよっすぃー!分かってくれてるな!
じゃあ、ちょっと待っててな。すぐ作るから」
「はーい」

ぱっと店内を見まわすと、やはり上級生だらけだった。
あまりそういうことは気にならない吉澤だったが、一緒に入った相手が相手だ。
矢口に声をかける生徒は、必ず隣に座っている吉澤を珍しそうに見るために、さすがに
少し遠慮してしまう。
「ひとみちゃん、夏休みはずーっとごろごろしてたの?」
「そうですねー。半分くらい・・・いや、6割くらいはそんな感じでした」
質問というか、ほとんど断定口調でたずねる矢口に、吉澤も慣れた口調で答える。
同じような質問をクラスメイトから何度も受けていたから、特に考える必要はないのだ。
ただ、自分の中では5割と6割の差は他人が思う以上に大きいと思っているので、いつも
そこで迷ってしまう。

どうやら今は上級生の時間のようで、見なれた顔はいなかった。
外から店内を覗いて、中にいるのが3年生ばかりだと分かると、少し考えて立ち去る生徒
も思ったより多いようだった。
たまにクラスメイトが外を通っているのが見える。
相変わらず店の奥にあるエアコンは白い息を吐き出しているが、そろそろ外との温度差が
少なくなる時期が来るだろう。
外のアスファルトだって、少し前までは熱したフライパンのようだったのだが、不思議な
もので今ではそんなに熱くないように見える。
(まあ、でも実際はすごく熱いんだろうけど)

「はい、熱いから気をつけてな」
と、ふいに視界に入ってきた中澤が、2人の前に小さなカップを置いた。
「あ、裕ちゃんありがと!」
2人の前で少し泡立てながらゆらゆらと昇る美味しそうな香りに、何度も飲んでいるにも
関わらず、思わずため息が出てしまう。
「ふわー、やっぱりすっごい美味しそう!」
「美味しそうって失礼やな。ほんまに美味しいのに」
「あはは、そうだよね!
・・・うん、でもほんとに良い香りだよね〜」
「はは、ありがとな
はい、それからこれ。矢口の分も」
コトン、と今度は少し大きめのお皿を並べる。
「おお、これも美味しそう!!」
今度は吉澤が歓喜の声をあげる。
食パンにチーズを乗せて焼いた上に、トマトやレタスといった色とりどりの野菜を並べて
いるだけなのだが、それがとても美味しそうで、見ただけで胃が働き出したようだ。
「簡単料理だけど、本気で美味しいで〜
ただし、カロリーも高めな」
少しいたずらっぽい笑みを浮かべて言った最後の言葉に、一瞬「うっ」と矢口が反応する
が、「何言ってんの!矢口はただでさえ小さいんだからこのぐらいは食べなあかん」という
中澤のまるで親のような言葉に、矢口も覚悟を決めたようだった。

なんと言えば良いのか、すごく久しぶりの更新です
忙しいと言うのもありますが、やはり自分でも狩のゆっくりしたペースに
ちょっと甘えてるな、とも思ってます・・・
いくらなんでもこれを更新と呼ぶには気が引けるくらいの期間が空いたので、
少し気合を入れます

なので、もうしばらくのお付き合いをお願いします・・・

「裕ちゃんってさぁ?」
「ん?なんや?」
小さな口の中にパンを詰めこんで、矢口がふと思いついたように中澤を呼ぶ。
コーヒーでも入れていたのか、背中を向けて何やらごそごそとやっていた中澤も、それが
矢口の声だと分かるとすぐに振り向いてこっちへと近づいてきた。
「これって、いつもの冗談とかじゃなくてちょっと本気なんだけどさ」
「ん?」
そして、ごくりとパンをコーヒーで流し込んでから、矢口は中澤を見つめて言った。
「裕ちゃんって、結婚とかしないの?」

「冗談じゃないって言われても・・・私はそれにどう答えたらええのよ」
矢口の隣で笑いをこらえている吉澤が多少ひっかかるが、あえて突っ込まないでおくこと
にした。
「えっとね、彼氏ができないとかそんなんじゃなくて・・・
もし、今そういう人がいたとしてさ、プロポーズとかされた場合にだよ?」
「うん」
「裕ちゃん、そしたら結婚とかするの?」

「難しいこと聞くなぁ!」
「確かにさ、実際いないんだから答えづらいとは思うけど」
「いや、そんなはっきり言わんといてや・・・
なんか異常に寂しくなってきたわ」
そこまで聞いて、また吉澤が向こうへと顔をそむけたのが目に入った。
「よっすぃー、あんたが一番酷いわ」
「んぐっ!
え!?いや、私は何も・・・ぐっ!・・・くすくす」
「・・・」
「むせるか笑うか食べるかにしなさい・・・」
「はーい。あはは」
「笑うんかい!」
「えー!だってぇ!!」
確かに、さきほどからの2人のやりとりに聞き耳を立てて、吉澤と同じように笑いを
押さえている生徒が何人もいるようだ。
それだけ中澤が愛されてるとも言えるとは思うのだけど、笑われてる本人にしてみれば
釈然としないものがあった。

「えっとね、私が言いたいのはそういうことじゃなくってさ!」

少し額に汗を浮かべて、カウンターの下で吉澤の足を突っつく。
これ以上話をややこしくしないでくれ、と合図しているつもりなのだが、相手が吉澤
である以上おそらく分かってもらえないだろう。
「いや、矢口が言いたいことは何となく分からないでもないけど・・・」
「うーん、何て言えば良いのかなぁ」
「何で彼氏がいないんですか、ってことですか?」
「・・・よっすぃー、あんたはまたそうやって傷口に塩を塗るような・・・」
「あちゃー・・・」
やはり何も通じていなかったようだ。
今でも頭の上にハテナを浮かべて、2人を交互に見くらべている。
「ええと、ひとみちゃん・・・ごめん、ちょっと黙ってて」
「ふぁーい」

「結局、私が言いたいのはね」
おとなしくパンを食べ始めた吉澤を見て安心したのか、矢口はゆっくりと話し出した。
2人の前に置かれたカップには、2杯目のコーヒーが湯気を立てている。
「よくさ、OLの人とかで「私は仕事に生きるの!」って感じの人とか
いるじゃん」
「うん」
「もしかしてさ、裕ちゃんもそんな感じなのかなぁ、とか・・・」

「え?私が?」
「そう
なんか、裕ちゃんって彼氏を作ろうとかって思ってないんじゃないかなって」
「まあ、確かに家で炊事洗濯したり、育児したりなんてのは
私の性にはあってないわな」
「なんかね、私もホントになんて言えばいいのか分からないけど
裕ちゃんってプロポーズされても断りそうな感じ・・・」
「断るって・・・
なんか私にもだんだん笑い話に聞こえてきてんけど」
「いやいやいや、ホントにそうじゃないってば!
私も自分で言っててなんだか笑えるんだけど、言いたいことは本気なの!」
相変わらず、吉澤は2人の話を聞いてはくすりと笑っているが、何とか突っ込みたい衝動
を抑えて矢口の話に耳を傾ける。

「ところで、矢口はなんでそんな話を真面目に語りたがるん?」
「へ?
んっとね、そう言われるとまた自分でも良く分からないんだけど・・・
なんとなく裕ちゃんって今が普通に幸せそうだから」
「幸せ?」
「そう。結婚だけが幸せじゃないのよねー、って
まさに思春期特有の悩みって言うのかなぁ」

「・・・や、矢口
まさかこの裕ちゃんが知らないうちに彼氏でもできたんか・・・!!」
「え!?
何言ってんのよ裕ちゃんってば!そんなわけないでしょ!」
「ほんとか?」
「ほんとほんと!そんな疑わないでよ!」
さすがに予想外だったのか、矢口は明らかに動揺したようで、いつものさらに倍のトーン
で声をあげた。
いくらなんでもそれは飛躍しすぎだろう。と言いたげに、自分を落ち着かせるために
一度両手で頭を抱え込んでから、また中澤の方へと目を向けた。

「いやー、でも矢口さんみんなにもてもてだから
彼氏くらい居てもおかしくないんじゃないですかぁ?」
「うお!ひとみちゃん聞いてたの?」
どうやらずっと興味深々で聞いていたらしい吉澤だが、ついに耐えられなくなったようで、
パンを咥えたまま半身を乗り出してきた。
なんとなく、周りの生徒たちもさらに聞き耳を立てているような気がする。
「じゃあ、なんでまた急に・・・?」
「だーかーら!それは私にも良く分からないの!
ただ、なんとなく気になったから」
「なんとなくでそんなこと言われたら、私も納得いかんわ!」

「違うの!裕ちゃん聞いて!
何て言うかね、裕ちゃんってこれから先はどうするのかな、って」
「これから?」
「そう」

まるでお笑いでもやっているかのような2人を見ながら、吉澤はカップを手に持って
静観をすることにした。
結婚の話から自分の将来まで、何故か今日は不思議なことばかりを聞いてくる矢口に
少し引っかかるものがあったが、聡明な矢口のことだから自分には分からない何かを
聞きたがっているのだろう。
「んぐ」
どうやらこれ以上は手をつける気はないのだろう、矢口の分のパンを取って口に持って
いく。自分の分はすでに食べてしまった。

「まあ、あれやなぁ
これから先にどうなるかなんて、それこそ私にだって分からん」
「そうだろうけど・・・」
「でもな?」
「うん」
「裕子お姉さんは、子供だけはダメやなー!」

「なんか、夜泣きされたりミルク飲ませたりオムツ換えたり・・・
ってそんなんしてたら気が狂うと思うわ
それだけは、私には無理や思うな」
「まあ、それはいつも見てる私たちにもなんとなく分かるんだけど」
隣でうんうんと頷く吉澤にじっとりとした視線を向けるが、軽く受け流された。
こういう時の吉澤は本当に憎いのだけど憎めないのだ。
「だって、良く考えてみたら分かるやん
こんな親に育てられたら、子供が可哀想やと思わへん?
なんか、良くニュースとかで幼児虐待とかやってるけど、そんなん見てると
なんか違うって思うもん
裕ちゃんはそこまでして子育てしたいとはよう思わんなぁ」

中澤としては軽く言ったつもりだったようだが、この言葉に対して矢口の表情が一瞬
曇ったのを、吉澤は見逃さなかった。
(裕子さん、矢口さんが孤児だったってこと知らないんだ・・・)
そして、ここまで聞いて吉澤にはなんとなくだけれど、矢口の言いたいことが分かった
ような気がした。

「うーん、でも確かにどう説明していいのか分からないかなぁ」
「ん?よっすぃー、何がや?」
「ふぇ?私今何か言いました?」
「説明できないな、って言ったじゃん
ひとみちゃん、何か考え事?」
どうやら自分でも気付かないうちに声が出ていたようだ。
「いえ、ええと・・・
あ!矢口さんの分も食べちゃったなんて、どう説明していいのか・・・」
「え?」
そう言われて、矢口は自分のパンが無くなっていることに初めて気付いたようだった。
「うわぁ、ひとみちゃんいつの間に・・・」
「いや、これ美味しかったから」
別にごまかす必要もないのだが、何となく本音を避けていた。
吉澤本人は、自分にしては珍しく気の効いた言い訳ができて少し嬉しい気持ちもあって、
思わず顔がほころんでしまう。

「うん、私はそこまで食いしん坊じゃないから
食べてくれても良かったんだけど・・・
それにしてもスゴイね〜」
「おお、やっぱよっすぃーは良い子やなぁ!
美味しいと思ったら全部食べてくれるんやもんな!!
それでこそ裕ちゃんも作り甲斐があるっていうもんや!」
自分の料理を食べてくれなかった矢口に対する当てつけも含んでいるのか、少し棘が
ある口調で吉澤を誉める。
「ちょっと裕ちゃん
私だってちゃんと食べてたよー!
そんな言い方しなくてもいいじゃん!」
少しムッとした表情で矢口が非難するが、そこは先ほどまで自分がいじめられたお返し
と言わんばかりに、中澤はにっこりと笑っている。
「でも、裕子さんって料理上手ですよねー
彼氏に作ってあげれば良いのに!」

「・・・」
「・・・よっすぃー、あんたここで話を蒸し返すか・・・」

――
「でも矢口さん、どうして今日あんな話してたんですか?」
夕暮れにはまだ早い、時間にすれば4時くらいだろう。
あれから他愛の無い雑談をして盛りあがって、もうそろそろと店を出たらこの時間に
なっていた。
吉澤たち以外にも、今日は各々の場所で友達と遊んでいた生徒が多いようで、学校は
午前で終わったというのに、この時間になっても人通りはにぎやかだ。
「うーん、ほんとに私にも分からないんだけどさ
急に気になっちゃう時ってあるじゃん?」
吉澤もなんとなくは気付いていたのだが、矢口の答えはやはり曖昧なものだった。
矢口は、自分が孤児で後藤と同じ施設にいたという事実が吉澤に知られていることに
気付いていない。
今日の質問もそこから来る不安だったと思うのだけど、真実を隠している吉澤の前だと
それも言えないのだろう。
「なんとなく分かりますけど、裕子さんにあんなことなかなか聞けないですよー」
「そうなんだけどさ、私もいつも後になって気付くんだよねぇ・・・
裕ちゃんの前だと、ちょっと我侭言っても聞いてくれるし、
どんな相談でもちゃんと聞いてくれるしさ
・・・私って裕ちゃんにすっごい甘えてるなぁーって」

吉澤に言えないことなら、わざわざ本人のいるところでそんな話をしなくてもいいのでは
とも思うのだが、それが中澤の魅力なのだろうか。
なかなか人に相談できないようなことでも、中澤なら何の迷いもなく口に出せるのだ。
「裕子さんって、いったい何人の秘密知ってるのかなぁ」
何が凄いのかと言うと、これだけ多くの客の相手をしているにも関わらず、誰がどんな
話をしたかということをしっかりと覚えているのだ。
吉澤たちだって、2回目に『I WISH』に入った時にはすでに中澤とはお友達感覚だった
と思う。その辺が中澤の人気の秘訣だろう。
「ひとみちゃんは彼氏とかいないの?
それとも・・・石川さんが彼女?」
いつも通り最後に「きゃははっ!」と笑って、いたずらっぽく吉澤の顔を覗きこむ。
「彼氏なんて全然いませんよー!!
あー、でも梨華ちゃんは彼女みたいなもんかもしれない」
「おお!ひとみちゃんも言うようになったね!」
梨華が聞いたら普通に喜びそうなところが少し怖いが、自分でもたまにそう思ってしまう
ところがさらに怖い。

「梨華ちゃんも、あれで男の子が苦手じゃなかったらモテモテなのになぁ」
「石川さん、男の子が苦手なんだ?」
「なんか、私とかがいればまだ大丈夫だけど、
男の子と2人っきりになったりすると、緊張して何も喋れないんです」
「ほえー・・・
なんかいかにもお嬢様!って感じでなんか良いよねー
そりゃあ、ひとみちゃんと付き合ってるってのも納得できるわ」
「いや、付き合ってないですってば」
まだ部活をしているのかは分からないが、今ごろ梨華はくしゃみをしているだろう。
まさか、今日の朝に悩んでいた原因である矢口がこんなことを言っていたなんて、思って
もみないことはずだ。
「でも、だからこそ梨華ちゃんは梨華ちゃんなんですよ
男の子と平気で話せる梨華ちゃんなんて私嫌だなぁ」
「あははっ!やっぱ2人はお似合いだよ」

夕方なのにまだ全然傾かない太陽を少し恨めしく思いながら、吉澤は梨華がいろいろ
と悩んでいることが杞憂に思えていた。
(梨華ちゃん、矢口さんってやっぱり良い人だよ!)

――
「あー・・・もうだめ
私ほんとにもうだめ・・・」
「・・・夏休み何にもしてなかったんでしょ?
そりゃ、いきなり半日も運動したら疲れるよ」
「ののちゃんおねがい
私を連れて帰って・・・」
「やだ」
駐輪場から自転車を押してきた希美にしがみついて、駄々をこねる。
1ヶ月半も運動という運動をしていないと、さすがに身体中の筋肉が悲鳴を上げている
ようだった。やってる最中はなんとも思わないのだが、練習が終わってさあ帰ろうという
時になって突然筋肉痛に襲われたのだ。
「でも、これって私もまだ若い!ってことなのかな
ののちゃん知ってる?年を取ると、筋肉痛が2日後とかに来たりするんだってよ!」
「まったまたぁ〜」
「ほんとだって!次の日はなんともなくても、
その次の日に急に身体が痛くなったりするんだって!」
「ほんとに?」
「うん、お母さんとかに聞いてみてよ」
「そうする。へぇ〜・・・
って、それとこれとはまた別問題だよ?」

ちょっとした雑学を希美に説明しながら、隙あらば自転車に乗り込もうとしていた梨華を
巧みに避けつつ、希美は自転車を進ませる。
「うえ〜!ののちゃん酷い!鬼!悪魔!」
「自分も自転車で来たんだから、それに乗って帰りなさい!
ほら、お姉ちゃん早くしないと私1人で帰っちゃうよ!」
鬼だの悪魔だのと言われたことに怒っているわけではなさそうだが、どうやら希美は梨華
を後ろに乗せてくれる気はないらしい。
こうなった以上は梨華も諦めるしかなく、仕方なく自分の自転車を取りに駐輪場へと
向かう。
「ののちゃんのケチ」
「こら!人のことをそんな風に言わない!」
「・・・ぶー」

たまに梨華と希美の立場というのか、キャラクターが入れ替わる時があって、こういう
時の梨華は普段の希美以上に子供っぽくなる。
いつもは可愛らしい我侭を言う希美を、梨華がなだめるというのが普通なのだが、一旦
我侭を言い出した梨華は手がつけられないのだ。
吉澤はこの状態の梨華のことを、「あ、梨華ちゃんがまた赤ちゃんモードに入った」と
表現している。
ただ、いつもは自分が一番年下で何をしても妹的な扱いをされる希美にとって、この時
ばかりは少しお姉さんになれることもあり、この状態の梨華とやりあうのはある意味
楽しいことだった。ママゴト的な楽しさとでもいうのだろうか。

「くしゅん!」
ガタガタと色々なところに自転車をぶつけながら、梨華がやっと希美の元に来たかと
思ったら、可愛いくしゃみが聞こえた。
「お姉ちゃん風邪でも引いちゃった?」
「ううん、誰か私の噂でもしてるのかな?」
「あはっ!悪い噂かも」
「なーんか、今日のののちゃんってば意地悪だよね」
どこか小悪魔のような笑みを浮かべている希美になんとなく押されながら、2人は
ようやく学校を出た。
夕日がまだ少し痛いが、心地良い秋風がそれを和らげてくれる。

「・・・お姉ちゃんってやっぱスポーツ似合うよね」
「へ?急にどうしたの?」
「いや、なんとなくそう思っただけ
健康的だなぁって」
テニスのラケットを肩にぶら下げて、少し汗を光らせている梨華を見ると、さすがに
型にはまっている。
学校に行っているとこれが日常なのだが、久しぶりに梨華と2人で学校から帰って
みると、何故だか分からないが嬉しくなってくるのだ。

「あ!ねえねえお姉ちゃん!」
「ん?どうしたの?」
I WISHを過ぎて、家までの道のりの半分程度を消化したあたりだろうか、希美
が突然顔をこちらへ向ける。
「あのさ、後藤さんってお姉ちゃんと同じ学校なんだよね?」
「え?うん、そうだけど・・・急にどうしたの?」
大事なことを思い出したといった感じで、希美は自転車のスピードを緩めて梨華の隣
に並ぶ。
興味津々という顔を輝がせながらも、なんでこんなに面白そうなことを忘れいてたん
だろう、とたまに後悔の表情を浮かべている。
「後藤さんってどんな人なの?」
「あれ?ののちゃんいろいろ知ってるんじゃないの?
私とかよっすぃーからいっぱい聞いてると思ったけど・・・」
「うーん。でもお姉ちゃんたちの友達ってだけで、
実際どんな人とかって聞いてないよ」
「あ、そうだっけ?」
「そうだよ」

なんて言えば良いものか。
確かに、ここで悩むということはこれまでに希美にそういう話はしていないということ
なのだろう。

別に今となっては普通の友達以上の何でもないのだけれど、その辺を説明しろと言われて
も言葉に詰まってしまう。
そう改めて思うと、2人が出会った日のことが懐かしく感じられた。

突然誰かに突き飛ばされて線路に転落した自分と、それを助けてくれた後藤。
あの時、何故後藤が線路へ飛び出して来たのかは誰にも分からないし、そんなことはどう
だっていい。
それが2人の出会うきっかけとなったのだから、自分を突き飛ばした誰かに感謝して
も良いくらいだ。
そして、それからは全てが目まぐるしく進んでいった。
気がつくと、いつも一緒の親友になっていた。という感じなのだ。
確かに、吉澤や希美のようにどんなことでも言い合えるような関係ではないとは思う
が、そうなるのも時間の問題だろう。
やっぱり、どれだけ考えても友達なのだ。

「今日もさ、学校で後藤さん探してたけど、来てなかったんだぁ」
考えた末の言葉がこうなったわけではなく、ふいに口を付いて出た言葉がこれだった。
希美相手だから気が緩んだのかもしれない。
「サボリ!うわ、なんか格好良いね!」
「こら!そんなこと言わないの!」
「はーい。分かってるってば」

もう少しで、夕日がさらに美しい時期になるだろう。
道を行く車が補助灯をつけ始め、街灯にも灯りがともされるちょうど境界線の時間。
いっぱいに伸びた影を引きつれて、2人は自転車を走らせる。
「でも、ほんっとにお腹空いた!もうだめ!」
「だよね!私なんか、全然運動してなかったから
ほんとにお腹と背中がくっつきそうだよ・・・」
「お姉ちゃん、今日はゆっくり眠れそうだねぇ」
「ほんと、そう・・・
あー!早くお風呂入ってご飯食べて眠りたい!!」
太陽を背に、見通しの悪い交差点を横切りながら、梨華の声が響く。
友達と遊んだ帰りなのか、数人の小学生が歩みを止めてちらりとこちらを見るが、すぐ
に興味をなくしてまた歩き出す。家には温かいご飯でも待っているのだろう。もしくは、
見たいテレビでもあるのだろうか。
「私は、帰ったらすぐにご飯!
今日は特別にいっぱい食べるんだから!」
希美が、ぐっ!と握り拳を作って空へと突き出す。
「えー!
ののちゃん、ご飯食べてからお風呂に入ると、きつくない?」
「?
きついって?」

「何て言うのかな。お腹が水圧に押されてきついの
だから、私はいっつもご飯の前にお風呂だよ?」
「・・・そうかな?
私はそんなに気にならないよ」
口に指を当ててしばらく考えていた希美だったが、やはり疑問には思わないようだ。
そして、最後に笑いながら付け加える。
「それに、ご飯食べたいのが我慢できないんだもん」
「あはは。ののちゃんらしいねー!」
梨華の頭の中には、希美がすごい勢いでご飯をかきこむ姿が鮮明に浮かんでいた。
とにかく、希美の食欲は見ていて気持ち良いくらいなのだ。
こんなに小さな身体なのに、どこに入っていくんだと不思議に思うくらいの量を食べる。
「成長期なのかなぁ?」
「えへへ・・・」

整理運動とでもいうのか、自転車でここまで帰ってくるとあれだけ疲れていた身体も
適度にほぐれたようだ。
身体を動かすのもきつかったのだが、今は大して痛みを感じなくなっていた。
「私もまだ若いってことよね」
隣でお腹が空いたと騒いでいる希美を見ながら、そんなことを考える。
ゆっくりお風呂で休めば、明日にはもう直っているだろう。

――
ピピピピピピピ・・・
「・・・んあ」
カチャ

可愛いデザインをしているわけでもなく、他に便利な機能がついているわけでもない。
ただ時を知らせるだけのシンプルな目覚まし時計。
いつから使ってるかな?
そんなことを考えながら時間を確認する。7時。
少し手を伸ばしてテレビをつけて、また布団の上で丸くなる。

普段だったら、1度の目覚ましで起きることなんてないのだけれど、今日は少し違った。
テレビのニュースで画面の端に映し出されている日付。
「9月・・・2日」
ニュースキャスターが笑顔で「今日から2学期です」と言っているのを聞くと、気分が
沈んだ。

正直に言って、学校に行く気は無い。
それでも、昨日の夜はちゃんと目覚ましをセットして早めに寝てしまったのだ。

不安と罪悪感。
小学生が学校をずる休みする時の感覚とでも言うのだろうか。
たとえ休めたとしても、目が冴えて眠ろうにも眠れなくなってしまうのだ。

梨華に対する罪悪感が一番大きいのだと思う。
昨日の夜に梨華から電話があって、学校に来ないのかと誘われた。
もともと行くつもりはなかったし、今更行ってもしょうがないと思って断ったのだが、
梨華の心配そうな声を聞くと胸が苦しかった。

「でも、ねぇ」

つぶやきながら、とりあえず着替えることにした。
ニュースの声に混じって、外を歩く小学生らしき子供の声が聞こえた。
朝から元気いっぱいの声を張り上げて、友達と笑い合っている姿を見ると、少しだけ
寂しい気もする。
あの子たちは何を思って学校に行っているのだろう。
おそらく、そんなことは考えないから幸せなんだと思う。

「あ、そういえばあの子・・・?」

入院する前まではよく暇つぶしに行っていた公園。
そして、そこに行くと毎日のように見かけた女の子。
いつも1人でブランコに座って、遠くを見ていた。
そういえば、一緒にいるところを一度だけ梨華に見られたと思う。
あの女の子は今もあの公園にいるだろうか?

「よしっ」

部屋に居てもどうせ暇なんだ。
昼頃になったらあの公園に行ってみよう。

1つだけでも、今日の予定ができたことに少し安心できた。
テーブルの上に置いてある昨日コンビニで買ったおにぎりと、冷蔵庫からオレンジ
ジュースを持ってくる。
質素な朝ご飯だが、昔からのことなので気にはならない。

でも、最近は冷蔵庫を開けるのが楽しみになっていた。
以前までは、適当に買ってきたペットボトルくらいしか入っていない、ものを冷やす
ための装置でしかなかったのだけど、今では違う。
食べ残しのケーキや、レトルトの食材。梨華たちが来るたびに何かが増えて、そして
その思い出も一緒に詰まっている。
食器棚にはカップが3つあるし、部屋も自分なりには掃除した。

止まっていた時間が、動き出したような。
そんな感じだった。
ずっと部屋で淀んでいた空気が、一気に清浄化されたような気持ち良さを感じるのだ。
ただ流されていただけの自分だったけど、今ではその流れを自分で作っていくことの
楽しさを知った。

だから、今日もそう思ったのかも知れない。

「あの子に会いに行こう」

つけっぱなしにしていたテレビから、昼のバラエティ番組の始まる音が聞こえてきた
ところで、後藤は部屋を後にした。
目的地はあの公園だ。

梨華たちと一緒に行動するときは、暗黙の了解のようにこの路地に来ることを避けて
いたような気がする。
雑貨屋の前を通りがかったときに、そんなことを思った。

「・・・」

チリリン・・・
そして、誘われるように雑貨屋の中へと入っていった。
そこには、何も変わることなくあの熊のような店主がいた。
いつもと同じように眠そうな目をこすってレジに座っていて、店内にはいつもと同じ
ように数人の客がいた。

(私、ここで何回も・・・)

自然と唇に力が入るのを感じた。
もし、今の自分がここにいなかったら、私はまだ同じことを繰り返していたのかも
しれない。
そう思うと、逃げ出したくなる。

でも、そんな心情とは関係なしに身体はある一部の棚に向かっていた。
店主の死角になるいつものスペース。
小物やキーホルダーが並んだ一角。

そこには、あの時と同じ小さなキーホルダーが飾ってあった。
小さな犬のぬいぐるみがぶら下がっているキーホルダー。
お世辞にも良い出来とは言えない小さな犬は、あの時と同じように愛くるしい目で
自分を見つめている。

そして、後藤は後ろめたさを必死に打ち負かすと、そのキーホルダーを手にとって
レジへと向かう。

「あ、あの・・・これ・・・」

それからは簡単だった。
熊のような店主の動きはゆっくりとしていたが、とても滑らかに時間が流れていた。
言われた金額を払って、キーホルダーが入った可愛い包みを受け取る。
そして、店のドアに向かうのだ。

「お嬢ちゃん」

実際、そう声をかけられたことに気付かなかったくらいだ。
2度目の声で後藤は振り向いた。
予想外の出来事に何も言えずにとまどっていると、熊のような店主はこれまでに見た
ことがないような顔でにっこりと笑った。

「ありがとうな
・・・また、おいで」

一瞬だけ時が止まって、気が付くと涙が溢れていた。
それ以上は何も言わずに笑っている熊のような店主の優しさが、ただただ温かかった。

店を出て、昔は毎日のように通っていた路地へと向かう。
手には小さな包みを持って、笑顔で公園までの道を歩く。
常に暗くて、無機質なコンクリートに囲まれているこの路地を、自分がこんなにも希望
に満ちた表情で通ることになるなんて、誰が予想できただろうか。

いつも、ただなんとなく歩いていただけに、新しい発見をすることも多かった。
実際、ここから空を見上げたことなんて無かったと思う。
今にも崩れ落ちそうな古いビルの屋上の手すりに、それでも誰かが住んでいることを
証明するかのように掛けられている布団や、開け放たれた窓の奥でちらりと見える人影
は、今の自分にはあまりにも新鮮な映像だった。

甘い香りを漂わせる小さな喫茶店を通りすぎて、少し開けた場所に出る。
その公園は、前と何も変わることなくそこにあった。
錆びた遊具はすでに使い物にならず、時折そこを吹きぬける風に揺られて少し耳障りな
音を立てていた。

「やっぱりいない・・・か」
平日の昼間だから、幼稚園にでも行っているのだろうか。
確かに周りを見まわしても、主婦らしき人たちがたまに目に付くだけで、子供の姿は
見当たらなかった。
夜中を除けば、1日で一番静かな時間帯かもしれない。
遠くで電車の音が聞こえるだけで、ごくゆっくりと時間が流れていた。

ギィ・・・
公園に入って、恐る恐るブランコに座ってみる。
年寄りブランコが久しぶりの重みに軽く悲鳴を上げたが、なんとか大丈夫なようだ。
ギシギシうるさくてさすがに漕ぐことはできないが、ベンチの代わりにはなる。
真上にある大きな銀杏の木のおかげで、直射日光を浴びることもなく、そこを抜ける
風が気持ち良かった。
この銀杏の木も、あと1ヶ月もすれば全体に実をつけて、地面を覆うことだろう。
あの独特のきつい臭いは好きではないが、秋の銀杏を見るのは好きだ。

「んあ・・・」
突然襲ってきた心地良いまどろみを振り払うように、あの子のことを思い浮かべる。
改めて考えると、自分はその子のことを何も知らない。
あの頃は何に対しても興味なんて無かったから、わざわざ聞くこともなかった。

ある日、いつものように目的も無くぶらぶらとしていた時に、偶然立ち入った公園。
そして、そこに偶然いた女の子。
遊んでいる風でもなく、ただブランコに座っている姿に何故だか声をかけたのが最初
だった。

「何してるの?」
自分と同じような空気を感じたのだろう。
その子に話しかけることに、何の戸惑いも持たなかったと思う。
そして、その女の子は自分をゆっくりと見上げると、少し身を引いた。

にっこりと笑って話しかけられない自分が悪いのかもしれないが、明らかに怖がって
いたと思う。
ブランコの前の柵に座って、しばらくとりとめの無い話をしていたけど、その子が口を
開いたのは数えるほどしかなかった。
引っ込み思案で、寂しい女の子。

でも、それから毎日のように顔を合わせると、そのうち女の子の方から自分へ近づいて
来るようになったのだ。
それに対して嬉しいという感覚を持っていたのかは、今でも良く分からないが、何故だか
その子に会うことが目的であるかのように、何かあればその辺りを散歩するようになった。

「お姉ちゃん」
ある日、その女の子は自分のことをこう呼んだ。
頭が痺れたような感じだったのを覚えている。
同時に、意味も分からずに悲しくもなった。

どれくらいの付き合いだっただろうか。
半年?1年?

でも、梨華に出会ってから、その子にはしばらく会ってない。
どう思っているだろう?
もう自分のことは忘れてしまっているかもしれない。

小さな子供に会うだけなのに、妙に緊張していた。
予測できないのだ。
最初に何て言われるのか。何て言えばいいのか。

そして、そんなことを考えながら何となく辺りを見まわすと、その女の子の姿が
目に入ったのだった。
最後に見たときと同じように、何も変わることなく1人で歩いている。
「あ・・・」

このくらいの子供を見ているとありがちな感覚。
しばらく会わないうちに大きくなったな、と心の中でつぶやいて、後藤はその
女の子の元へとゆっくりと近づいた。
小さな歩幅でとことこと歩く女の子は、石ころでも蹴りながら進んでいるようで
中々後藤には気付かない。
そのまま後5mほどまで近づいたところで、後藤は遠慮がちに声をかけた。

「久しぶりだね。こんにちは」

ハッとした表情で顔を上に向けた少女は、一瞬戸惑いを見せたものの、声をかけた
のが後藤だと分かると、とたんに笑顔を見せて走り寄ってきた。

「お姉ちゃん!どこいってたの?」

少しだけ怒ったような口調で、女の子は後藤に抱きついてきた。
この子は、自分が梨華に出会ったり入院したりしてた間も、おそらくずっと1人で
同じ毎日を繰り返していたのだろう。
ゆっくりと抱き寄せると、一気に安心したのか目に涙を浮かべて肩を少し震わせる。
「ごめんね・・・
何も言わずに突然いなくなっちゃったら、心配するよね?」
「するよぉ!お姉ちゃんが!
・・・お姉ちゃん、もう、帰って来ないって・・・」
「うん。本当に、ごめんね」

頭の奥がキリキリと痛かった。
再生できないように念入りに壊してゴミ箱に捨てたはずのビデオテープが、それでも
ゆっくりと頭の中で再生されていく。
同じように、自分がお姉ちゃんに抱きついてすがり泣いているシーン。
あの時の自分と、この子は何も違わなかった。

(お姉ちゃんも、胸が痛かったんだね・・・)
自分勝手なことを考えて、自分勝手にいなくなったと思っていた。
でも、そうじゃなかった。
自分勝手に出て行ったと自分で思い込もうとしていただけ。
そうじゃないと、子供の自分には説明がつかなかったから。

今、自分がその立場になっていることを初めて理解した。
自分にとってはごく普通の生活の、小さな一部分であったとしても、この子にとって
はそれが世界なのだ。
自分が生きていく世界というのは、ここにしか無いのだ。
だから、『お姉ちゃん』がいなくなったのは、自分の世界から消えたことに他ならない。
それだけ大きくて、とても悲しい事実。

「ごめんね」
背中に回した手に力をこめて、後藤はもう一度つぶやいた。

それから、2人はこれまでの時間を埋めるように1日中一緒にいた。
あの公園のブランコに2人並んで座って、お互いのことを話して、それから2人で
よく散歩していたコースをまた並んで歩いた。
女の子はとても懐かしい笑顔を見せ、後藤も自然に笑顔が浮かんできた。

そういえば、この子と一緒にいる時だけは自分も笑っていたような気がする。
その時は自分が笑っているなんてことに気付かなかったのだけど、今になって思い出す
と確かに笑顔だった。

この女の子は、孤児ではない。
でも、後藤を家に案内してくれる時はいつも1人ぽっちだった。
何度も家の人はどうしてるの?と聞こうとしたのだが、あの時の後藤にはそれを聞いて
どうしようもなかったし、そもそも聞く理由が無かった。
家があるんだから、家の人もいるに違いない。そんなことをわざわざ聞いても無駄な
だけ。そんなことを普通に思っていたのだ。
でも、夜の10時だとかに外を出歩いてるその女の子を見つけた時は、少し疑問を感じた
こともある。
いつものように家まで送って行ったのに、この時も中には誰もいなかった。
まるで、「ここにはもう誰も帰って来ませんよ」とその家が言っているように、がらんと
していたのを覚えている。

「お姉ちゃん、どうしたの?」
「・・・んあ?あ、ううん。何でも無いよ」
どうやらしばらくぼうっとしていたらしい。
いつの間にか、散歩コースを外れている。
「ね、そろそろ戻ろうか?また送って行くよ」
「・・・うん!」

2人並んで歩き始める。
傾いた太陽の光は、2つの影を実際の何倍にも長くして見せた。
たまにビルの大きな影に隠れていなくなったかと思うと、ビルを抜けると再び2人の
足元へと戻ってくるのだ。
昔。後藤にとっては気が遠くなるくらい昔のことだけど、自分はこの長い影があまり
好きではなかった。
自分の足元からどんどん伸びていくこの真っ黒な人形は、そのうち無限に長くなって
後藤真希という存在自体をたった1つの線に変えてしまうのではないか。そして、
周りの人は自分のことなんてまるで最初から無かったかのように忘れ去ってしまうの
ではないだろうか。そんな不安を感じていた。

でも、現実は少し違った。
後藤が消えて無くなったのではなくて、周りに居た人たちが次々と居なくなったのだ。
母親の顔なんて最初から知らないし、育ての親だっていなくなった。一緒に遊んでいた
仲間たちだっていつの間にか姿が見えなくなり、最後にはお姉ちゃんまで消えてしまった。
その時になって、後藤は初めて置いていくよりも置いていかれる方が、何倍も何十倍も
辛いことだという事実を知った。

それから、後藤は長い長い影が嫌いではなくなった。
むしろ、この影に何もかも吸い込まれれば、お姉ちゃんがいるところへ行けるのでは
ないかと思ったこともあった。
よくあの公園で、日が暮れるまでただひたすら時間を潰したものだ。

「なんか、久しぶりだね。こうやって散歩するのも」
「うん。お姉ちゃんずぅっと居なかったんだもん!」

「あはは。そうじゃなくってさ」少し寂しげな笑みを浮かべて、後藤は女の子の手を
握りなおした。
この子は、いったいどういう家の子なんだろう?
家族はどうしてるんだろうか?

これまで微塵にも感じなかった疑問が、後藤の中に湧きあがってきた。
昔の自分を見ているようで、胸が苦しくなってくる。
今はまだ良く分からなくても、この子だってすぐに自分が今どんな世界に住んでいる
かが分かるだろう。
そして、もしその時に自分が傍に居てあげられなかったとしたら。

「この辺だったよね?」
「もう!お姉ちゃん私の家忘れちゃったの!?」

しばらくは無意識に歩いていたのだが、いざ近所まで来ると記憶がおぼろげではっきり
とは思い出せなかった。
確かにこの辺りなんだけど、昔から無計画に家を作っては道を曲げ、道を曲げてはその
間に家を作る、というサイクルを繰り返してきたこの小さな町の中は現実世界の迷路の
ようだ。
まるで自分が白黒の映画の中にいるように、そこはとても懐かしい景色だった。

「ここをね、こっちに行くの」
「え?こっちじゃなかった?」
「もう!違うよ!こっち!」
「あはは、ごめんね。お姉ちゃん方向音痴だから」

口では怒っているようなことを言っているが、女の子はずっと笑顔を浮かべていた。
後藤を自分の秘密基地にでも案内するような足取りで、急いで後藤の手を引っ張る。
そして、しばらくその調子で右に左に曲がりながら進んでいくと、ようやく後藤の目に
見慣れた建物の姿が見えてきたのだった。

「あ!あれだ!」
「そう!お姉ちゃんやっと思い出した?」
「うん。ごめんね、思い出したよ。あそこだよ・・・うん」

不思議なもので、昔はまったく目に入らなかったものがいろいろと気になった。
年を取りすぎてほとんど動かなくなった門を抜けて、玄関まで行く間。その間に後藤は
玄関の上の方にかかっている表札を見つけた。
どうして今まで気付かなかったのかが不思議なくらい、それは誰の目にも止まるような
位置に飾ってある。
ただ、門と同じように年輪を刻みすぎたのか、その表札に書いてある字を読み取ること
はできなかった。
家主と、その隣に名前だけだと思われる文字が書いてあるらしいところを見ると、夫婦
の名前である可能性が高い。でも、その名前だけの文字がこの女の子のものであること
は十分に有り得る。

「お姉ちゃん、どうぞっ」
「え?あ、どうしよう。お家の人は?」
「大丈夫だよ。誰もいないから」
「え?それって・・・」
「もう!良いから早く!」
「あ・・・」

半ば無理やりに靴を脱がされて、色褪せた木目の廊下の上へと昇る。
そしてそのまま手を引かれ、後藤は1つの部屋に案内された。
6畳間で、テーブルとテレビがある以外は何もない。そう、後藤の部屋に似ている。
そんな感じの小さな部屋だった。

「お姉ちゃん待っててね。飲み物とか持ってくるよ」
女の子はそう言い残すと、楽しげに走って部屋を出ていった。
久しぶりに後藤に会って、そして自分の家に来てもらったことが嬉しくて溜まらない
のだろう。

「誰もいない・・・?」
後藤は、玄関で聞いた言葉を何度も頭の中で繰り返し思い出した。
誰もいないから大丈夫。いったいどういうことなのだろう。
最初に、自分の小さな頃の記憶が蘇ってきた。
この子も同じなのだろうか?
そんな偶然があってもいいのだろうか。

この部屋は東側にあるようで、窓の外にはこの家の影が大きく陣取っている。
テレビの上に立て掛け式のカレンダーが置いてあり、その隣には小さな犬のキーホルダー
が置いてある。
後藤がプレゼントしたキーホルダーだ。
後で、今日買って来たキーホルダーと交換しよう。そのために、あの雑貨屋に寄って同じ
ものを買って来たのだ。

「お待たせしましたっ」
ぼんやりとキーホルダーを眺めていると、女の子が小さな手に小さなお盆を持って部屋の
中へと戻ってきた。
小さなお盆の上には、オレンジジュースの入ったグラスが2つと、何かのテレビアニメの
キャラクターが書いてあるスナック菓子が乗っている。

自分が梨華たちと出会って、昔の自分を客観的に見られるようになったから、今自分の
前で素直な笑顔を浮かべている少女を見て不安になるのだろうか。
手の届かない場所を針でちくちくと刺されるような、そんな感じがする。

「・・・あのさ?」
「なぁに?お姉ちゃん」

天使のような。
いつの間にこの子はこんなに無邪気な笑顔をするようになったのだろうか?
少なくてもあの頃は。自分が初めて出会った頃は、こんなに警戒心の無い心からの笑顔
を見せることはなかった。
なのに、久しぶりに会った今日は、これまでに無いような笑顔を見せている。

「なんか、嬉しそうだね」
「あはっ。嬉しいに決まってるよ
 だってお姉ちゃんに会えたんだもん」

心からそう思っている、と言わんばかりに目を輝かせて話す少女に、後藤の心の中も
無条件に癒されるようだった。

「ね、おうちの人は、いないの?
 ずっとここに1人でいるの?」

言った後で、少し後悔した。
もう少し言葉を選んだ方が良かったような気がしたのだ。
この言い方だとあまりに直接過ぎるのではないだろうか。
でも、後藤にはこれ以上の言葉を探すことはできなかった。誰かに気を使って、心配
している時に使うべき言葉というのが、自分でも思っている以上に出てこないのだ。
それでも、この言葉に驚くでも悲しむでもなく、少女は以外な返事をした。

「うん。でもね、時々お母さんに会えるの
 だから1人じゃないよ」
「お母・・・さん?」
「うん!」

それから後藤が聞いた話は、これまで自分が生きてきた世界からあまりにも遠いところ
の話しで。正直に言って完全に理解できるものではなかった。
この子だって、別に今まで後藤に隠そうと思っていたわけではないのだ。
ただ、後藤に聞かれなかったから言わなかっただけで。
でも、いざ話し始めるとすらすらと朗読でもしているかのように、とても小学生とは
思えないようなまとまった説明をしてくれた。

「お母さん、すごく悪い病気にかかって大きな病院に入院してるの」

この小さな少女の母親は、この子が後藤に出会う少し前から体調を崩して入院を余儀
なくされ、今も闘病生活を強いられていた。
ただ、この子は母親の病気を理解するには小さすぎようで、どういう病気なのかを説明
することはできなかった。
「いつも、お口に変なコップを当てて苦しそうなの」
と曖昧な表現ばかりだった。

ただ、この子の面倒は母方の祖母が見ることになっているらしく、たまに家に来ては
料理を作ってくれたりもするそうだ。
「でもね、おばあちゃんは私のことが嫌いなの・・・」
少しだけ悲しそうな表情を見せ、消え入るような声で呟く。
実際、後藤が見まわしてみてもここ数日に誰かが出入りしたような気配は無かった。
本当に孫が可愛くて、1人で置いておくのが心配なら、例え暫定的にでも自分の家に
連れてくるだろうし、何かの事情でそれができなくても必ず1日に1度は姿を確かめ
たいというのが本当だろう。
この子がそこまで理解しているのかは分からないが、子供の直感はとても鋭いのだ。
自分が誰に好かれていて誰に嫌われているか。
そう、特に嫌われていることに対してのアンテナは大人のそれ以上だろう。

でも、この子は実のおばあちゃんから良く思われないことには既に慣れているのか、
少し悲しそうな顔をしただけで、それ以上のことは何も見せようとしなかった。

おばあちゃんは、この子が母親に会いに病院に来るのも煙たがっているようで、いつ
行っても追い出されるのだと言う。

「子供が入ると汚いからって・・・」

抑揚の無い口調で静かに話す少女とは反対に、後藤は体の中に怒りが湧きあがってくる
のを感じずにはいられなかった。
母親に会いに来た子供を追い出すなんて!
母親も母親だ。自分に会いに来た子供が追い出されるのを黙って見ているのだろうか。
それとも、何も出来ないくらいの酷い病気なのだろうか。

「お母さんの病気って酷いの?」
「お医者さんはね、今はちょっと苦しいかもしれないけど、
 もう少ししたらきっと元気になるって言ってるよ!」

この子のお母さんの話しを聞いていると、どうやら母親はとても可愛がってくれている
ようだ。それだけでも救われる気がした。

「ねえ、お姉ちゃん?」
「んあ?」
「お姉ちゃん、少し変わったよねぇ?」
「へ?」

予想もしていないことを突然言われ、後藤の頭が一瞬真っ白になった。
自分でもあまり賢いと思っていない頭が、いきなり難しいことを言われたようで少し
混乱してしまったのか。
「ど、どうしたの?突然」
良く分からないままにそれだけ口から吐き出して、後藤はその決して賢くはないと思っ
ている頭の中でいろいろと考えた。
どうしてこの子の母親の話しをしていたのに、自分に振られたのか。
それがさっぱり分からない。

「えっと、昔のお姉ちゃんは・・・
 お母さんのこととかお婆ちゃんのこととか
 全然聞かなかったよ?」
「・・・あ、そういうこと・・・」

そう言われてみると、この子の前でこんな話しをするとは夢にも思ってなかった。
今日の目的は、あくまでもこの子に会うことだったのだ。
家に上がりこんで、身の上話を聞こうだなんて、本当に少しも考えてなかった。
どんな人と住んでいるのか。どんな生活をしているのかは、確かに気にはなっていたけど、
それでもこんなことをする予定ではなかったのだ。

それを、今ではこれが当然のように、まるで予定されていたシナリオを淡々とこなす
役者のような感覚でいることに、後藤は今更になって驚いた。
確かに、この子から見れば別人のように変わっていることだろう。

「うーんとね、私にもうまく説明する自信は無いんだけど・・・」
「うん」
「私・・・昔の私って、心の病気にかかってた・・・のかな?」
「心の病気?」
「うん、そう。心の病気
 体はなんとも・・・うん、何とも無いんだけど、心がとっても
 悪い病気にかかってたんだ」

首から下げている小さなカプセルを手のひらで転がしながら、なんとなく自分が本当
に罹っている病気のことは言わないことにした。
ちゃんとした理由があるわけでは無いのだけれど、この子には心配をかけたくはない。
そんな気持ちだった。

「でもね、今の私は、もう元気だよ
 だから、これが本当の私なんだ。昔の私は、ちょっと違うの」
「ふーん・・・そう、なんだ・・・」
「あはっ。ごめん、やっぱり分からないよね
 でもね、とにかく今の私は元気いっぱいだから!」
「・・・うん!」