瞳にうつる私
「ありがとうございました!!」
館内に響き渡る歓声。遠くから聞こえてくる声と目の前からあがる歓声がうなりのように共鳴し合って私の体に吸い寄せられる。
四方八方からの声援と眩い光が私に向かって放たれる。
春のコンサートの終幕。
初の武道館ライブ。
そして、私の卒業。
ライブ終了後。じっとしてたら破裂しそうな充足感が私を包む。
いてもたってもいられず、発狂したかのように突然駆け出し、控え室に入った。
扉を勢いよく開けて部屋に飛び込む。そしてぱっと後ろを振り返るが・・・他のメンバーの姿は見えなかった。
きっとついてくると思っていたので少し拍子抜けをした。
一旦、立ち止まったら今度は少し違う気持ちになる。
ライブでもらった花束を両手に抱え、私は開け閉めにちょっと力のいる安物のパイプ椅子に腰掛けた。私の重みで少しきしむ音が聞こえた。それから目をつぶり、ステージ衣装のまま、汗や心臓の鼓動を感じていた。
「今日で最後」
「今日で卒業」
「今日で脱退」
何ともせつない気持ちがこみ上げてくる。
一人ぽっちの控え室は私の汗のせいかムンとした湿気に包まれ、少し重く感じる。
涙一滴一滴がポタポタと水気をはじくスカートに落ちてはじけた。
「終わったんだなぁ」
私は同じような言葉を何度も心の中で繰り返した。
「卒業」は始まりだということはいくつもの「卒業」を経験して知っている。
だけど、さすがに今は「始まり」という言葉は思いつかない。
「どや、言った通りやろ?」
「さすが中澤さんですねぇ」
何分たっただろうか?
外からひそひそと声が聞こえてきているのに気付いた。
扉の方を振り向くと、扉は半開きになっていてその間から数個の目が覗かせていた。
ちょっとだけ好奇に満ちた目。
「タチ悪いよ・・・みんな・・・」
私のその声に扉が大きく開いた。
「な、紗耶香ってなぁ、一人になるとしょっちゅう泣いてんねん。ライブの最中では泣かへんかったからな。絶対こうなると思っててん」
裕ちゃんの勝ち誇った表情を見せながら隣りにいる辻に向かって言っていた。
「はじめてみました」
「そんなに驚くことないでしょ?」
辻のきょとんとした顔に向かって私はつぶやいた。
「みんなもひどいよ。わざと私を一人にしたんでしょ?」
裕ちゃんや辻だけでなく他のメンバーも後ろにいた。一律の服装は当然、ステージにいる時のまんま。
「まあ、そう言いなや。紗耶香だって一人になりたかったんやろ?」
全くもってその通り。心の奥を見透かされたようで少し恥ずかしかった。私はただ、ははは、と笑ってごまかす。
それでも涙は止まらない。
私の意思とは無関係に流れはじめていた。
「泣きたい時は泣けばいいんや」
そう言って自分も涙ぐむ裕ちゃんの言葉に小さく頷き、
一度大きく鼻をすすって、
「ありがと〜、でも『終わり』って寂しいなぁ〜」
できるだけ明朗な口調で上を向きながら、天井に向って声を出した。
涙は目の中に溜まり、視界が悪くなり、しまいにはツツーっと頬を伝った。
「『終わり』にしたくなかったんやったらそうしてもええで。
ウチは一向にかまへんけど」
「うん、紗耶香。そうしなよ!」
後ろにいた矢口が裕ちゃんの肩口から低い身長を目一杯に
伸ばして顔を出した。目じりが下がったとらえようのない笑顔を見せる。
「ははは、まさか・・・できるわけないじゃん」
冗談じゃなく心からそう思っていそうな矢口に感謝。
当たり前のようにメンバーがパイプ椅子に座っている私を取り囲んだ。
頭の中でさっき歌ったばかりの「ダディドゥデドダディ!」が流れている。
♪一回きりの青春
そう、今、私は青春している。
そして、その青春を一旦終わらせようとしている。
「紗耶香との思い出っていっぱいあんねんけどな…」
裕ちゃんがゴホンと半ば大げさに咳をして話し始めた。
「アンタが来た時はこんな娘がやってけるんかいな、って心配した。
ほんまやで。な〜んかいっつもオドオドしてたし、ちょっと怒ると今の
誰かさんみたいにすぐ泣いてたやん。まあ、私だけにやったんかも
しれへんけど。こりゃアカンわ、って何度も思ったわ。あれは
『サマーナイトタウン』のレコーディングの時やったかなぁ。
あまりにも暗い顔してたんで、アタシ、怒ったことあったやん?
あ、しょっちゅう怒ってたからわからへんか……」
裕ちゃんの話を聞きながら、私を取り囲む輪からちょっと離れたところに
後藤を見つけた。
両手を前に組み、やや俯き加減なため前髪が顔の前面でだらんと垂れている。
体が振り子のように一定のリズムで上下に揺れている。
ライブの時に見せたような笑顔は一つもなかった。
そんな最中も裕ちゃんの最後の言葉(というか演説)は続いていた。
「でも、アンタはほんまに変わった。『LOVEマシーン』から
もう目を見張るように変わっていって・・・。さて、これからって
時に辞めるんやもんなぁ。最初に聞いた時、なんでやねん!って
めっちゃ腹立ったわ・・・って、おい紗耶香、どこ見とんねん!」
「え?あ、ああ、うん、ごめん」
聞き慣れた裕ちゃんの声に反射的に顔を戻す。
「せっかく、ウチがありがた〜い話をしてるっちゅうのに・・・」
と言いながらなんとか話を進めようとしている裕ちゃん。
その後も私はチラチラと後藤の様子を窺った。しかし後藤は私と
目を会わそうとはしない。意識的に避けているようにも見えた。
「裕ちゃん、裕ちゃん」
裕ちゃんの真横にいたなっちが裕ちゃんの横腹を肘でつつく。
裕ちゃんは、なんやねん、って顔をしながらなっちを睨むとなっちは
後藤の方向に目配せをした。そして、
「あ、あ〜、なんやな。ちゅうわけやから」
裕ちゃんはなっちの言わんとすることに気づいたように急に言葉を締めはじめた。
「わがまま通してあげたんやから、絶対、夢を叶えてな」
「うん、ありがと」
他のメンバーが一声かける。
「娘。のことは心配しないでね」
と圭織が涙混じりに言う。
「絶対にがんばれよ!」
とライブの時に言ったセリフそのままになっちが励ます。
「また電話するね!」
と涙を目に溜めながらも元気一杯の矢口。
「私たちが出てる番組かかさず見るんだぞ」
少し脅迫めいた言い方をしてわき腹を肘でつつく圭ちゃん。
そして、付き合いの短かった新しいメンバーも
「短い間でしたがありがとうございました!」
と口を揃えるように言った。
短い言葉たちにそれぞれの思いがこめられている。
温かみが一層私の涙腺を緩ませる。
「市井ちゃん…」
ちょっとした間隙をついて、後藤がか細い声で私を呼んだ。
私を呼ぶ後藤独特の言い方。何度も何度も聞いた後藤の声。
その小さい声は湿気の多いこの空間を突き抜ける。
悲しみを含んだ空気がピタリと止む。
皆が一斉に後藤の方を振り返る。
相変わらず、俯いたままで、私とは目線を合わそうとしない。
ゆっくりと私に近づく。
私を取り囲んだ輪がパカッと開く。
まるで、モーゼの十戒。
後藤は何も言わずに、額を私の右肩にギュッと押し付ける。
そして両腕を私の背中にそっと回す。
後藤は震えていた。泣いているのか、それとも・・・。
後藤は私と同じで汗っぽかった。
シャツの濡れ具合がちょっと気持ち悪い。
武道館で弾けた汗のにおい。
きっと、この余韻はしばらくは味わえない。
もしかしたら二度と味わえないかもしれない。
「だから今のうちに少しでも・・・」とする私の意志を見破っているようでもあった。
沈黙の5秒間。
「あっちゃ〜、相変わらずラブラブやなぁ。目も当てられんわ」
裕ちゃんが自分の目を覆いながら、その沈黙を破った。
「う〜ん、じゃあ、ウチらは退散するとしますか。紗耶香、お疲れ様。シャワーでも浴びてくる。ちゃんと後藤も連れてきてな」
「うん」
「送別会、後日やろうと思ってんねん。決まり次第連絡するわ」
そうして裕ちゃんと他の八人がその後を追うように足早に退出して行った。
この空間は後藤と二人きりになった。
いつの間にか私は後藤をそっと抱き締めながら頭のてっぺんを優しく撫でていた。
後藤のことを考える。
後藤のことを考える。
最初はただの先輩と後輩だった。
私にとってはそれだけだった。
しかし、いつの間にか後藤は私に愛情を求めてきた。
それに気づいたのはいつだっただろう。
そして・・・
「市井ちゃん」
額を私の肩につけたまま、後藤は小さく、しかしはっきりと呟いた。
「逃げてもムダなんだからね・・」
後藤はゆっくり顔を上げた。私の首筋、喉元、顎、唇、鼻、耳を一つ一つ確かめるように。
確かめられた私のパーツがそれぞれ、熱を帯びて温度が上がる。
そして、目と目が合う。
その表情は私にしか見せたことがないものかもしれない。
汗に覆われた熱を含んだ肌、いつもより早い心拍音、口端を微妙にあげる口元
の全て不気味に感じる。
そして、何よりも鋭い刃物で切り裂くような冷たい瞳。
いつもと違う後藤。
これはきっと「もうひとりの後藤」。
「なにも変わらないからね」
その言葉はしばらく私の頭の中を流れつづけた。
いつの間にか涙は止まっていた。
これが平和というやつなのかなぁ?
モーニング娘。を脱退してから一週間。
何にも追われることなくボーっとした生活が続いていた。
朝、どんなに起きてもすることがないから、もう一度寝る。
腰が痛くなって起きる。
すっぴんのまま、近くのコンビニに寄り、おにぎりを買う。
家に戻り、遅い朝食を摂る。
リモコンを手に取り、テレビのスイッチをつけようとするが、
主電源が切れていることに気付く。
落とした腰をもう一回持ち上げるのに煩わしさを感じながらも仕方なく腰を上げ、
主電源をいれる。
昼寸前のローカルらしい番組が流れる。
大して面白くなさそうだが、どこも同じだと思い、そのままベッドに寝転がる。
枕もとに置いたコンビニ袋からおにぎりを取り出す。
あまり味わうことなく、ものの5分で食べきる。
ふとテレビを見ると、いつの間にか番組が変わっているみたい。
でもその違いがよくわかんない。
これが今のとりあえずの日課。
全ては時間をもてあますだけの生活。
その分、多くのことを考えた。
今までのこと。将来のこと。そしてメンバーのこと。
残るのは憂鬱さだけ。
「定年ボケってこういう気持ちなんだろうなぁ」
と呟いた後に、
「16の乙女が何言ってんのかなぁ」
と呟く。
「ハハハッ、いきなり後悔してらぁ・・・」
この一週間の180度変わった生活に安堵と虚しさを感じていた。
淀んだ部屋に吐き気を覚えながら、それを振り払おうって気にはなれなかった。
三日前、中学生の同級生たちと一年ぶりに遊んだ。
「元」有名人ということもあって、友達は私を中心に話しが進む。
友達の一人が彼氏を連れてきて、その彼氏は私に会ったことでひどく興奮していた。
サインを求められたが、今は一般人だからと、丁重に断った。
「チッ」という舌打ちが聞こえた時はちょっと心が痛かった。
カラオケに行って(私に気遣ったのかほとんどがモーニング娘。系だった)、
ボーリングに行った。そこでジュースをおごるという賭けをした。
勝った方は飛び上がって喜び負けた方はこの世の終わりみたいに悔しがっていた。
こんなささいな勝ち負けに一喜一憂する周りを見て、
みんな、子供だなぁ
と、感じた。
いや、みんなが子供なんじゃない。
私が、大人になったんだ。
モーニング娘。としての生活が私の中の時計を早めた。
この二年間、きっと誰よりも速いスピードで走ってきた。
その結果、旧友とはひずみみたいものが生まれた。
そう考えるとどうしようもない虚しさが私を襲う。
昔のように何も考えずにただしゃべって、ただ笑って、
ただ美味しいものを食べて、ただ寝るだけじゃ、幸せになんてなれなかった。
その晩は、寂しさのあまりに打ち震えた。
強くなったとはいえ、元来の寂しがり屋なんだから仕方がない。
大人になったのに泣き虫に逆戻りなんて矛盾してるなぁって思った。
朝、涙でちょっと濡れている枕に気持ち悪さを感じながら目覚め、
ふと携帯電話を覗きこむと、留守電メッセージが入っていた。
聞いてみると、
「もしもし、後藤で〜す。市井ちゃん元気にしてる?今度のねぇ、月曜日。
夕方までオフなんだ。遊びに行くから待っててね!」
と、後藤の声が聞こえた。
まだ、1週間しか経っていないのに、後藤の声はすごく懐かしかった。
愛しくもあった。なんとなく私の居場所を感じた。
しかし、
何考えてんだ、私・・・。
友達と遊ぶ約束があると言う理由で私は断りのメールを送った。
―
月曜日。メッセージの内容が正しいのであらば後藤がオフの日だ。
家に居るときっと電話がかかってくるだろうから家には居たくはない。
かといって、中学の同級生とはひとりよがりな亀裂を感じていたので
会って遊ぶというのは少しつらかった。
というわけで、その日は携帯を持たずに一人で出かけた。
一人で行動するのは元々好きなタイプだ。
私はただ、山手線をぐるりと一周した。
何もしない、何も目的もなくただ回るだけの山手線は新鮮だった。
気が向いた時に降りて駅近辺を歩く。立ち寄った事のない駅に着くたびに降りていた。
早くもアーティストぶって、詞が頭に浮かんだ(だけど、既出の詞にそっくりだった)。日が沈むのを待って家路に着いた。
後藤は来たのだろうか?
予想通り、留守電にメッセージがあった。
そう、ここまでは予想通り。
「ごめんね」とメールをすればそれで済む。
再生ボタンを押すと、録音テープがきゅるきゅるきゅると回り始める。
しばらく時間をおいた後、ちょっとした異常さに気付いた。
いつまでたってもテープが戻りつづけているのだ。
その点の疑問を心の片隅に思いながらも、電源が点けっぱなしにしてしまっていた
ミニコンポの上に置いておいた携帯電話を手に取る。熱を帯びていてちょっと生温かい。そして液晶画面を見てぞっとした。
新規着信54件
メッセージ34件
「何これ?」
想像以上の件数。
内容を見るのが怖くなる。
そしてテープがカチッという音とともに回り終え、
自動的に留守電のメッセージが再生された。
「31件の新しいメッセージがあります」
「もしも〜し、行くからね」
「ねえ、居るなら空けてよ。ドアの前だよ」
「寝てんのかな?待ってるよ」
「話したいこといっぱいあるんだけどなぁ〜」
「・・・・・・・・」
「携帯、音鳴るようにしてる?それ古いんだから替えたほうがいいよ」
「今、お隣さんとすれ違っちゃった。思わず帽子を目深にかぶっちゃった。
気付かれたかなぁ。市井ちゃん、お隣りさんと顔合わせてんの?」
「昨日の『へそ』の収録で『へそぶた』もらったよ。
嬉しいことは嬉しいんだけど、あんまりもらうとかわいげがなくなるね」
「お腹空いちゃったんでコンビニ行ってきま〜す。
一番近くのコンビニってどこだっけ?」
「いないのかなぁ、どうして携帯にも出てくれないの?
なんのための携帯なんだよ〜」
「ねえ、市井ちゃん、出てよ・・・」
「・・・」
「あ、ちょっと寝ちゃった」
「もう行かないと・・・今日の夜に仕事入ってるんだ」
「また来るね」
「また電話するね」
「もしも〜し、行くからね」
「ねえ、居るなら空けてよ。ドアの前だよ」
「寝てんのかな?待ってるよ」
「話したいこといっぱいあるんだけどなぁ〜」
「・・・・・・・・」
「携帯、音鳴るようにしてる?それ古いんだから替えたほうがいいよ」
「今、お隣さんとすれ違っちゃった。思わず帽子を目深にかぶっちゃった。
気付かれたかなぁ。市井ちゃん、お隣りさんと顔合わせてんの?」
「昨日の『へそ』の収録で『へそぶた』もらったよ。
嬉しいことは嬉しいんだけど、あんまりもらうとかわいげがなくなるね」
「お腹空いちゃったんでコンビニ行ってきま〜す。
一番近くのコンビニってどこだっけ?」
「いないのかなぁ、どうして携帯にも出てくれないの?
なんのための携帯なんだよ〜」
「ねえ、市井ちゃん、出てよ・・・」
「・・・」
「あ、ちょっと寝ちゃった」
「もう行かないと・・・今日の夜に仕事入ってるんだ」
「また来るね」
「また電話するね」
留守電も携帯の着信もメールも全部、後藤からだった。
メールの内容もほとんど同じのようだったのでろくに見ずに
メッセージを消去しようとするが、手がいつの間にか汗ばんでいたため、
その動作も遅れがちになった。
その最中に持っていた携帯電話が振動と共に鳴った。
不意なことだったので、びっくり箱の仕掛けを見た時の反応のように
「ひゃあ」という声とともに携帯を小さく投げ飛ばした。
床に転がった携帯をおそるおそる覗きこむと、圭ちゃんの名前が出てたので
ほっと胸をなで下ろし、電話に出た。
「もしもし」
「あ、もしもし、紗耶香?」
「うん、久しぶり。元気?」
「まあ、元気かな。それよりさぁ、今日ごっちんと約束してたんじゃなかったの?」
後藤という名前を聞いて、落ち着き始めた心拍数が乱れ始める。
「え?どうして?」
「どうしてじゃないわよ。今日は久しぶりのオフだったから、ごっちん、
紗耶香と会えるってすっごく楽しみにしてたんだよ」
断ったわよ、と言おうとしたが、圭ちゃんはさらに話を続ける。
「そしたらごっちんがやってきて、紗耶香に会えなかったってすっごく
落ちこんで帰ってくるし・・・・・・。今日、約束ほっぽらかしてどこに行ってたの?」
「どこって・・・」
ただ、ぶらぶらしてたなんて言えません。
「約束があって」
「ダブルブッキング?それとも忘れてたって言うんじゃないでしょうね?
とにかく本人に言い訳しなよ。ごっちんと代わるね」
「え?後藤?いるの?」
めちゃくちゃ焦った。もちろん、電話を切るわけにはいかない。
「もしもし・・・市井ちゃん?」
後藤の声が聞こえてくる。いつもよりか細い声だったがすぐわかった。
「うん。後藤、元気?ってそれよりさぁ、私、用事があるって言ったじゃん?
聞かなかったんでしょ」
「ううん、聞いたよ。ていうか見たよ、市井ちゃん、メールで返してくるんだもん。
声が聞きたかったのに」
「じゃ、どうして?」
「だって、会いたかったんだもん」
当たり前のようにそう言った。
「あのね・・・。『会いたかった』・・・って私には用事があったんだから
会えるわけないじゃん」
私はため息混じりに言う。後藤は何がしたいのかわからなくてイライラしてきた。
「じゃあさあ、せめて、電話に出てくれたっていいのに・・・」
「あ〜、それは・・・今日、携帯を持っていくの忘れちゃったんだ。
そのことについては謝るよ。だからって、何十回も電話することないでしょう?
それもほとんど分刻みで。一体何考えてんの?」
私が携帯を持っていかなかったのはもちろん意図的だ。
後藤から電話がかかってくるのが目に見えていたから。
そして気が沈むことにはなりたくなかったから。
「だって、だって・・・久しぶりに市井ちゃんに会えるチャンスだったし・・・」
声がどんどん涙めいたものになっていく。演技ではない。
それは半年以上も一緒にいたんだからわかる。
いつも後藤は真剣。少なくとも、私に対しては・・・。
「そんなこと言ったって・・・・・・あ〜もう、わかった。謝る。ごめんね、ごめん」
「じゃあ、今度休みの日・・・ってしばらくないけど、電話するね。
そん時はちゃんといてね!」
「・・・うん、わかった・・・」
私はあきらめがちに承諾した。
―
最近は規則正しい生活を送っていた。木曜以外(なっちのラジオの日ね)は
11時には眠りに入る。深夜1時。熟睡しかかったこの時間に電話が鳴った。
一番、不快な状態で起こされた。
「・・・も・・しもし・・・」
「あ、市井ちゃん、やっと仕事終わったよ。寝てた?」
「う・・・ん、ちょっとね」
目をこすりながら、後藤の声だと気付く。
「ったく、なんちゃら法とかよくわかんないけど、どう考えてんのかね?事務所は。
今日はね、ってまあ、昨日なんだけど、収録中に辻ちゃんが泣いちゃってさぁ、
大変だったんだよ。裕ちゃんが必死でなだめてた。なんかもう、裕ちゃん、
お母さんって感じだった。うんとねぇ、それと、よっすぃ〜ってすっごく、
面白いんだよ。あ、よっすぃ〜って吉澤さんね。突然、でんぐり返しするし」
「うん」
大した意味もなく相槌を打つ。
「あとはねぇ、そうそう、ビッグニュースいきま〜す!それはね、
ジャカジャカジャカジャ〜ン!!」
今日の後藤はいつも以上にハイテンションだ。
徹夜明けの眠気を一旦通り越した時の奇妙なハイテンションに似ている。
「新生タンポポ結成!!誰だと思う?」
「誰って、新メンバー?」
「うん!なんと加護ちゃんと梨華ちゃん!どう思う?
あたしは入るならよっすぃ〜かなって思ってたんだけど。
昔の彩っぺがいた時のタンポポとは全然違うようになっちゃうね。
じゃあ、プッチにはよっすぃ〜と辻ちゃんが入るのかなぁ」
「ああ、じゃあ、その可能性が高いんじゃないの?」
私は素っ気なく答える。後藤からだと分かってから眠気は急速に吹っ飛んではいたが、
わざと「眠いんだよぉ」という意志を伝えて早く電話を切りたかった。
しかし、後藤は私の意図に気づかない。いや、気付いたように見せない。
「市井ちゃんは今日は何かあった?」
「う〜〜ん、私は今日もぼ〜っとしてた」
「いいなぁ、あたしもぼ〜っとしたい。っていうかず〜っと寝てたい・・・」
「まあ、がんばりなよ。それでさぁ、私、最近、寝るの早いんだ。それでね・・・」
「え?ああ、うん、ごめんね、こんな遅くに。また電話するね」
「うん、お休み」
「お休み!まったね〜!」
電話が切れるとほっと一息つく。嫌な日課を終えた気分だ。
小学生の頃、クラスのみんなに「押し付けられた」金魚の世話をふと思い出し、
苦笑する。
後藤はリハの合間など、暇を見つけては、電話をかけてきた。
ほとんど毎日と言っていい。
そして細かく、自分のことを話し、そして、私のことを聞いてきた。
「聞く」ではなく「詮索」に近い。
一度、圭ちゃんと話したことがあった。
同期であり、同じプッチモニであり、それでいてお互いに「ライバル」と
称し合った圭ちゃんはメンバー中、最も気心が知れた一人だったので話しは
時間の許す限り続き、弾けまくる。
そしたら、次の日の電話は後藤の質問攻めに遭う。
「ねえ、昨日、圭ちゃんと話したんでしょ?圭ちゃんと話したこと、
もっと詳しく教えてよ。圭ちゃん、あんまり教えてくれないんだ」
圭ちゃんは前日、私と電話したことをそれとなくか自慢気かわからないが
ともかく後藤に漏らしたらしい。
それを聞いた後藤はとにもかくにも私が話したことを事細かく聞いてきた。
もう、うんざりだった。
これじゃ、脱退する前と何にも変わらない。
私は相変わらず後藤に縛られている。
―
朝、点けっぱなしにしてあったテレビから「ジリリリリリ」という音が聞こえてくる。
8チャンネルをつけたまま寝たみたいで、「めざましTV」の「めざまし君」の音らし
い。目を覚ます。
カーテンを開けると、いつもは射し込む朝の光は射し込んでこない。
代わりにしとしとと雨が降っていた。
そっか。昨日、梅雨入りしたんだっけ。
「今の私」に似てるなぁ。
これからずっとどんよりなんだろうなぁ。
でも私にはカラッと晴れる日が来るのかなぁ。
最近の日課。歩いて5分というちょっと遠いコンビニに買い出し。
ベッドの横に無造作に脱ぎ捨てられているジーンズを穿き、タンスの一番上の引き出し
に入っている何て書いてあるかわからないロゴが入った白いTシャツを引っ張りだし、
それを着た。
降る雨に憂鬱さをかかえながらお気に入りの緑色の傘(ノーブランド)を傘入れから取
り出し、玄関の扉を空けようとした。
扉は3分ほど空けたところで何かの障害物にぶつかった。
疑問に思いながらも力を入れれば動きそうな感じだったので強引に押す。
やっとのことで出れるくらいに開いたので外に出る。
そして、障害物が何であるかを見る。
帽子を目深に被った後藤が湿気でびちゃびちゃに濡れている地べたに座りながら吐息を
立てて寝ていた。
「後藤」
さすがに無視をするわけにはいかないので声をかけた。
「後藤、後藤」
二、三度体を揺さぶると、ゆっくりと目を覚ました。
ちょっとした間のあと、後藤は目をこすりながら言った。
「あ、市井ちゃん、おはよ」
「何やってんのよ、こんなところで。風邪引いてもしらないよ」
「そん時は市井ちゃんのせいにするから。うわぁ、お尻がびしょびしょだ」
立ち上がり、自分のお尻や背中の濡れた感触に顔をしかめながら言った。
「とにかく、入って。お風呂、貸してあげるから」
「言われなくても入りま〜す」
後藤は大きめのバッグを持っていた。後藤の好きなブランド物ではない。
しかし、ピンク色の厚底ブーツに白地のスカート、黄色のキャミに近い服という後藤の
好きなギャル系に近いものではあった。
そんな服に大きくて無地で地味な黒いバッグが不釣合いにも思えた。
「お邪魔しま〜す」
楽しげにそう言って後藤は私の顔をじっと見つめる。
その視線が気になって、口を開く。
「どうしたの?何かついてる?」
「ううん、やっぱかっこいいなぁって。あらためて思った」
後藤は首を横にふりながらそう言った。
「何、馬鹿なこと言ってんの?今、お風呂沸かすから」
「は〜い!いっちいっちゃ〜ん!」
後藤は肩にかけていたバッグを下に置いて、居間に案内しようと後ろを向いた私の背中
に飛びついた。
「きゃっ!」
不意のことだったので思わず後藤を柔道の背負い投げの崩れたような形で放り投げてし
まった。ドスーンという音とともに後藤はかなり強く尻もちをつく。
「うわっ、いったぁ〜い」
「ごめんごめん、いきなりだったから・・・」
「そんなこと言ったってこれはないよぉ〜」
「だからごめんって」
私は手のひらを合わせ、片目を閉じて平謝りをした。
「もう、怪我したら困るんだからね、一応、テレビ出てるんだし」
「ほんとにごめん、それよかさぁ・・・太ったでしょ?重かったわよ」
「うわっ、すげぇひでぇ」
私は思いっきり皮肉を言ってみたりした。
でも事実は事実。
温度調整の利かない風呂を自分の勘を頼りに適度に蛇口を回した。
経験からすれば、15分くらいでちょうどいい量になる。
「んで、なんであんなところで寝てたのよ。今日は仕事ないの?」
居間に戻りながら後藤に話しかけた。
「う〜んと、今日は昼の3時から入ってる。雑誌のインタビュー。『ポパイ』だった
かな?まあいいや。というわけで朝のうちは休みだから思い切って来ちゃった」
ピンク色の手帳を開きながら言った。
少し覗きこんで見ると、プリクラがいっぱい貼ってある。
私の顔もあった。ていうか私の顔が目立っていた。
「来てもいいけど、別に玄関の前で寝ることないでしょ」
「だって、ここに来たのが遅かったから。市井ちゃん、寝てるって思って」
そう言う後藤はすごく健気に見えた。きっと男だったらたまらない。
「そりゃあ、気遣いありがと。でもね、確かに後藤が来た時寝てたかもしれないけど、
そう思ったんなら前もって電話すればいいじゃん。そしたら頑張って起きてたよ」
「起きてくれてるかもしれないけど、そしたら、いなくなっちゃうんでしょ?」
後藤の顔色は変わっていない。
しかし、その声の調子は明らかに、嫌悪感を含んでいた。
私の表情だけが不自然に強ばる。この前のことを言っているのだ。
それは皮肉とかジョークとかそういった軽いものではないことは後藤の言い方でわか
る。
私はあえてその意志には気付かない振りをして、
「何バカなこと言ってんのよ。とにかく、もうこんなことしちゃだめだからね。風邪で
もひいたら困るし、それにあんた、仮にも有名人なんだから、誰かに見られたらどうす
んのよ?」
言葉尻から出てきそうな私の本心を抑えながら言った。
「心配してくれてありがと〜♪」
後藤の見せた嫌悪感は一瞬のことだった。いつもの後藤に戻る。
そう、これがいつもの後藤。
お風呂が沸いたみたいなので、後藤を風呂に入れた。
その間に朝食を買ってきた(一応、二人分)。
下着を用意しようとタンスの中を引っ張りだした時、ブラが合わないかもしれないと気
付く。しかも矯正ブラしかないし・・・。
少し考え込んでから、間違えて買って返品するのを忘れていた私には大きいサイズのブ
ラがあることを思い出し、それを脱衣所に置いておくと、
後藤は何事もなくそれを着けてきた(ちょっと悲しい・・・。)
「んで、今日はどこ行くの?」
後藤は濡れている髪をバスタオルで拭きながら聞いてきた。
私は冷蔵庫から飲み物を探しているところだった。
「後藤はどっか行きたいところ、ある?」
「別に市井ちゃんと居られるならどこ行ってもいいよ。ううん、どこも行かなくてもい
いし」
オレンジジュースを見つけたのでそれを適当なコップにいれた。
「そうだね、二人でいると目立っちゃうかもしれないもんね。
家でおとなしくしてよっか?」
「うん、じゃあ、いっぱいいろんなこと話そうね!」
外に出ると、周囲の目も気を付けなくちゃいけない。
私一人ならともかく後藤がいるとさぞかし目立つだろうから避けたいところだった。
ジュースの入ったコップを両手に持ち、居間のほうに持っていく。
「じゃあ、いろんなことできるね。ふふん♪ふふん♪」
後藤が鼻の穴を広げてボクシングのファイティングポーズみたいな構えから両腕を左右
に振る。
「それ、流行ってんの?」
「んなわけないじゃん、誰がこんなダサイ踊りするのよ」
じゃあするなよ、と思いながら、
「でも、いろんなことって何すんのよ?」
と、ジュースをテーブルに置きながら言った。
「た、と、え、ばぁ〜」
後藤は横に座ろうとしていた私に抱きついた。その拍子にジュースが倒れ、私の衣服に
モロにかかる。
「こんなことしてみたり〜〜」
「ちょ、ちょっと、後藤!」
さっきと同じように投げ飛ばしたかったが、体勢が悪くてうまく突き飛ばせない。後藤
はしっかりくっつき離れようとしなかった。後藤は顔を私の喉下に押し付ける。
「やっぱり、市井ちゃんの匂いっていいなぁ〜」
後藤の軽く濡れた髪の毛が鼻をかすめた。私が愛用しているシトラスシャンプーの匂い
がする。
「離れなさい!」
私は命令口調で強く言った。
「あたしさぁ・・」
しかし、後藤は聞き耳をもたず、顔をそのまま下に持っていき、私の胸に押し付け、
よって、ややくぐもった声で話し始めた。
「入った時からず〜っと市井ちゃんがいたんだよ。こんな感じで市井ちゃんの温もりを
感じながらやってきたんだよ。ず〜っと一緒にいられると思ってやってきたんだよ。
知ってるでしょ?なのになんで・・・」
辞めちゃったの?と後藤が続けそうなのを私は遮った。
「だから・・・私はシンガーソングライターになりたくて・・・」
「違う!!」
後藤は強い口調で私の言葉を否定した。
顔をパッと私の胸から離して、私の二の腕をがしりと掴んだ。
マニキュアの塗った長めの爪がシャツを通して皮膚に食い込んだので痛さのあまり顔を
歪めた。
なんなのよ!と苦痛を浮かべた顔を後藤の方に向け、睨みつけると、
後藤の方は全く怯まず、更に睨み返した。
「市井ちゃんは・・・市井ちゃんは・・・・」
後藤は震えていた。
私は後藤の行動に戸惑ってはいたが冷静だった。睨み返すその目には、私を圧倒させよ
うとする意志はなかった。何か思いを伝えようとしてる語彙の足らない子供の目をして
いたからだと思う。
お互い感情的になったら話が進まない。
そう思い、後藤に気付かれない程度に小さく呼吸を整え、
「分かったから、落ち着いて・・・」
と、一つ、大人な立場に立って、後藤を諭してみた。
その時、私はどんな顔をしてたんだろう。後藤は私の言葉を受け入れ、しゅんとその勢
いを急速に衰えさせていくのがわかった。
「うん・・・」
後藤は掴んでいた私の二の腕を離した。
「あ、ごめんね。ジュースこぼしちゃった・・・」
後藤はジュースがこぼれたことを初めて気付いたようだった。
私の白のTシャツが黄色く染まっている。
「いいわよ。別に」
「市井ちゃん、お風呂入ってきなよ。お風呂のお湯は落としてないし。あたしはその
間、床でも拭いとく」
「え?ああ、うん。じゃ、お言葉に甘えて」
後藤は今さっきの気持ちの高ぶりが嘘のように落ち着きを取り戻していた。
この感情の切り替えの早さは昔からのことで慣れてはいたが、それでも戸惑ってしま
う。
お風呂に浸かりながら、これから話すべきことを考えた。
他のメンバーからにとって、冗談半分とはいえ、後藤と私との関係は「特別」だった。
そして、その関係を微笑ましく見ている傾向があった。
後藤の方はそう思われることがまんざらでもないみたいだが、私にとっては少々迷惑な
話だ。私にとって後藤はあくまで「ただのかわいい後輩」に過ぎない。
雰囲気でそう思われちゃったもんだから他のメンバーに「誤解だから」というのもおか
しな話で取りたてて否定することもなかった。
しかし、後藤には言うべきだったのかもしれない。
「ただの後輩なんだ」と。
曖昧な私の態度を知ってか知らずか、後藤の私への気持ちは予想外の方向へ走ってい
く。
明らかに後藤が私に求めてきたのは「愛情」だった。
私自身、恋愛に関しては無知な方だが、なんとなく、それに近いものだと気づいた。
ただ、私が漠然と定義している「愛情」とはかけ離れている。
後藤は私の全てを知りたいと思い、そして自分の全てを話したいと思いはじめていた。
そんな異様な愛情に私は怯えた。
「壊される」とさえ感じた。
「ただのかわいい後輩だから・・・」
なんとか後藤にわかってもらいたくて、あらかじめ、一つの嘘を作っていた。
作った証拠は昨日だったので、そのタイミングの良さに運命めいたものを感じていた。
ただ、突然のことだったので心の準備が足りず、少々気がひける。それでも、
嘘をつくことは悪いことじゃない・・・。
そう思うことにより、自分を正当化した。
「さてと」
大して温まらないまま、五分くらいでお風呂から上がり居間に戻ると、後藤が正座をし
て待っていた。
「何やってんの?」
「へへへぇ〜。なんか重要な話みたいだからなんとなく。オーディションの合宿以来
だ。しびれるぅ〜」
「馬鹿なことやってんじゃないわよ」
私は後藤とテーブルを挟んで向き合うように正座した。
自然とピンとした空気が張りつめる。
「じゃあ、話すから・・」
「うん」
「まず、あらかじめ言っておくけど、留学して英語の勉強をしたいこともホント。シン
ガーソングライターになりたいこともホント。モーニング娘。をやっていたんじゃそれ
が叶わないって思ったのもホント」
「うん、知ってる。ずっと言ってたもんね。で、あたしはずぅっとその日が来ないのを
祈ってた・・・」
後藤は悲しげに遠い目をしている。
「だけど、それだけじゃないって話なんだよね・・・」
「うん」
後藤は少し前身を前に傾ける。小さな覚悟を決めているようにも見えた。
「私は・・その・・」
じっと見つめる後藤から目を反らし、視線を下に落とした。
そして、心の中で「よしっ」と一声かけてから、私は戸棚から一枚の写真を取り出し
た。
「こういうことなんだ・・・」
後藤の前に差し出したときのテーブルと写真との間にできるスゥーという摩擦音がはっ
きり聞こえた。
「これは・・・?」
写真は私と・・・ある男の人が腕を組んでいるものだった。
しかも楽しげに。
「私さぁ、好きな人が・・・できたんだよね」
「え?」
「それでさぁ、まあモーニング娘。をやってたら全然会えないし・・・。それでね。
あ、後藤のせいといえばそうなのかもね。ほら、なんていうか私たちってさぁ・・・
こう単なる友だちとかじゃないみたいに見られてたっていうか・・・実際は、全然そん
なことないのにねぇ・・・ははは」
無意識に手を頭の後ろに回し、ポリポリと後頭部を爪でひっかく。
「ホント、参っちゃうよねぇ〜」
「市井ちゃん・・・それ、ほんとなの・・・?それが『理由』なの?」
後藤はもっと何か言いたげではあったが適当な言葉が見当たらないようだ。
私は後藤のかろうじて出た問いに無視して、
「でもさぁやっぱり、『恋』っていいよね。なんていうか・・・もう少しで、辞書に名
前でも書きそうな勢い・・・なんちってね」
うんうん、唸りながら自己完結する。
「もういい、わかった・・・」
後藤は足元を見ながら、スクっと立ち上がった。私とは目を合わさない。
「帰る・・・。彼氏によろしく・・・」
「え?ああ、そう?」
後藤はどういう気持ちだったのだろう?彼氏に私をとられた悔しさなのか。それとも?
結局そのまま私と一切、目を合わせようとせず、何も言葉にせずに帰っていった。
玄関の扉がバタンと勢いよく閉まり、その音で、私の心がチクリと痛んだ。
もちろん、写真は「嘘」である。親しい従兄弟に頼んで撮ってもらったものだ。
これが一番いい方法なんだ。
何度も何度も言い聞かせた。
しかし、
「この嘘つき・・・」
私は結局自分をなじっていた。
雨はいつの間にかあがっていた。青空も覗かせている。
しかし、私の心は相変わらず灰色の空に沈んでいた。
どうやってもこの色は消えることはないのかもしれない。
それから、後藤からの電話はなくなった。
―
「そろそろプッチモニ新メンバー、吉澤ひとみさんの緊急記者会見が始まる模様です。
現場を呼んでみましょう。現場の後藤さん・・・後藤さん?」
「現場の後藤です!会場には大勢の記者達が吉澤さんの登場を今か今かと待ち受けてお
ります!あっ、来ました!吉澤さんが姿を現しました!」
「どっす〜ん!吉澤ひとみ〜15歳!埼玉県出身!もう一度、みなさんもごいっしょ
に」
「はい!どっす〜ん!」
「現場からは以上です!それでは、プッチモニダイバースタ〜ト〜!」
「どっす〜ん!!」
私は自分の話題の出なくなりつつあるプッチモニダイバーを聞いていた。後藤は、あれ
からも変わらず元気だった(ように見える)。
いや、むしろ明るくなったかもしれない(と思う)。
テレビで見る限り、新メンバーで同級生である吉澤ひとみと見せる笑顔は本物に見え
た。
そして、プッチモニにもその吉澤が入ることになった。
私としては少々複雑なものはあったが、圭ちゃんと後藤だけでやっている
ダイバーを聞いていて「痛いなぁ」なんて思っていたので、こんな形になったことを
好意的に見ていた(まあ、もともと私がどうこう言える立場じゃないんだけどね)。
私自身も新しい生活の準備を着々と進めていた。
まず、10月で契約の切れるマンションから引越して実家に帰ること(月15万の自己
負担はやっぱりきついっす)。
英語の勉強の為の学校に行く事(駅前留学にするかは未定)。
それに事務所が音楽の勉強などをサポートしてくれるとのことだったので、一度、事務
所に訪れるようにと言われていた。
もちろん、今も「元モーニング娘。」という肩書きは変わらないが私の中では「モーニ
ング娘。」という意識やプライドは薄れつつあった。
『ただの市井紗耶香としての私』
世間はそうは思っていないだろうが、自分の中で1つ、そう思えたことは大きな前進
だった。
とは言ってもモーニング娘。の出る番組は欠かさずチェックするし、矢口とか圭ちゃん
とかと電話で話したりする。
メンバーはかけがえのない友人たちだ。共に生きぬいてきた「戦友」と言ってもいいか
もしれない。
しかし、後藤とはあれから連絡がなくなった。
向こうからも電話はしないし、もともと私の方からすることはない。
あの時の嘘がこんなに効果のあるものとは思わなかった。
これで良かったんだ
私はそう何度も思った。
思いこむようにした。
「ということで。ここで、一曲行きましょう。6月28日リリースのメロン記念日で、
『告白記念日』です」
後藤の声が聞こえてくる。
気がかりな点はあった。
後藤が吉澤にくっつきすぎなことだ。
―
ちょっと前に私は圭ちゃんから送られてきたプッチモニの新曲のPVを見た。
特別に編集して作ってくれたVHSのテープだった。
PVの前に圭ちゃんのメッセージが入っていて、
「新生プッチモニは嬉しくもあり、寂しくもあるけど、やるからには前のプッチモニを
超えてみせるからね」と力強く語っていた。
ただ、こういうビデオメールみたいなことは圭ちゃん自身、初めてのことだったらし
く、妙にかしこまっていて、ぎこちなかった。
肝心のPVの方は、「ちょこっとLOVE」とはまた違ったナンバーでかっこよかった。
テレビやラジオで圭ちゃんが言っていた通り、吉澤がいてこそできた楽曲なのかも
しれない。
そして、中央に立った後藤はより一層輝いていた。
そんなテープを擦り切れるほど繰り返し見ながら、私は後藤と出会った頃のことを思い
出す。
金髪で大人びてておよそ13歳とは見えなかった。
歌を聞いて、踊りを見て、そのしぐさや振舞いを見て、愕然とした。
とりたてて歌が上手いわけじゃない。圭ちゃんや明日香のほうが上手いと思う。
踊りもすぐ怠けるし、夏先生にもひっきりなしに注意されていた。
顔も、私の方が・・・って言うのはおこがましいか・・・。
ともかく「超美人」とは言い難い。
私が愕然としたのはその燦然と輝く存在感だ。
どんな表情をしてても後藤がいるというだけで雰囲気が変わってくる。
いくつもの、そして色とりどりの光を解き放つ。
前面に出ている時は強く白く、明るい光をもって見ている人を魅きつける。
サブでいるときは、弱い光で、メインの人を立てながら、それでも確実に見ている人の
心を射す。
そんな圧倒的な存在感。これはもしかしたら一種のカリスマ性。
これだけは天賦の才能だ。
そして、私にはない。
私は後藤に嫉妬した。
「教育係するものされるもの」という関係ではあったが、私の中では最初から立場は逆
転していたのかもしれない。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか後藤は私にくっつくようになった。
後藤の持つ光は不思議にも周りにも照らす力を持っていた。
そして、結局、私はその恩恵を一番に受けた。
後藤がいなければここまで変われなかっただろう。
だけど、その光はいずれ、私に小さいけれど癒しきれない深い傷を創りはじめる。
―
モーニング娘。加入することが決まってから私は千葉から通うのは大変だということ
で事務所の紹介で一人暮らしをした。
その旨を事務所に伝えると、事務所の方がマンションを紹介してくれたのだ。
後藤はプッチモニが結成された頃から、毎日のように私の家によく泊まりに来た。
「市井ちゃんはあたしの教育係なんだから、いいじゃん」
私は、もともと一人で住むこと自体は寂しくて嫌だったので快く家に泊めた。
それに後藤の寝ぼうを阻止できるしね。
ある日、朝起きると、めずらしく私よりも後藤が早く起きていた。
目が覚めると、後藤がパジャマのまま私に背を向けるように座って体を上下に揺らして
いた。
何かを見ながら声を抑えて笑っているように見えた。
「何見てんの?」
まだ眠気が取りきれていない体を懸命に揺さぶりながら聞いた。
「あ、市井ちゃん、おはよう」
私のほうに一瞬だけ上半身を曲げて振り返り、そしてすぐ元に戻った。
「うん、おはよう。今日はめずらしく早いね」
私は立ち上がり、後藤の見ているものを背後から見下ろした。
すぐにはわからなかったが、見られてはいけないものだと気付く。その赤い本は・・・
私の日記帳!!
「後藤!」
私は、叫ぶ同時に後藤の後ろから飛びつくように日記帳を取り上げようとした。
後藤はさっと日記帳を抱え込んだ。
「ちょ、ちょっと返しなさい!」
「だって、おもしろいんだも〜ん」
「こ、こら!!」
私は必死だった。もうほとんど無駄だとわかっていてもそうせずにはいられなかった。
朝なのに、急激に血圧が上がる。後藤は日記をしっかりと抱えながら、するりと私から
離れた。
「いいじゃん、よかったよ」
「後藤!勝手に見ないでよ。ほんと、まじで怒るよ!」
後藤は抱えた日記をぱっと目を通しながら、
「しっかしさぁ、市井ちゃんってほっんとに圭ちゃんと仲いいんだねぇ。
『私が男だったら絶対、圭ちゃんみたいな人をお嫁さんにする』だって。きゃははは、
ちょっと妬けるぞ〜」
「あ・・・」
言葉が出ない私を無視して後藤は続ける。
「最初のほうって悪口ばっかりじゃん。特に裕ちゃんとなっちには対してひどいよね。
こんなの、なっちが見たらショックで寝込んじゃうかもね。なっちってああ見えて、
結構、気が弱いから」
日記は、私がモーニング娘。に入ってから始めたものだった。
最初は不平不満をぶちまけるためのものだった。メンバーに溶け込んでからはようや
く、日記帳たる役割を果たしていた。楽しいこと頑張ったこと。今も毎日とは言わない
がなんとか継続中だったので後藤のこともちょっとだけ書かれてある。
「市井ちゃんってさぁ、あたしのこと、ちょっと怖がってたんだねぇ〜。まあ、最初は
あんなんだったからね。あ、別にショックじゃないから心配しないで。むしろ、嬉し
い。ちゃんとあたしのことが書いてあるから」
「か、え、し、な、さい!!」
抱きかかえられていた日記帳を後藤の体から引き剥がした。後藤は今度は抵抗しなかっ
た。
「まあ、いいや。全部、読んだしね♪」
「ぜ、全部?」
「うん、それに、あれも見ちゃった」
「あれ?」
後藤は私の右下のほうを指差した。その方向を思わず向く。その先には・・・
「ア、アルバム・・・」
「うん、市井ちゃんのちっちゃいころ、かっわいい〜♪」
「ごとお〜」
私はへなへなとその場に座り込んだ。
後藤は私の過去を知ろうとするようになる。
いつもこのように茶目っ気まじりに、だけど確実に調べてきた。
また、今のプライベートまでも介入しようとしてくる。
オフの日は一日中、私の家に入り浸り、くだらないおしゃべりをする。
もしその間に、電話が入ると、「誰から?」としつこく聞いてくる。
そんな後藤をいつの間にか、心で邪険にするようになった。
しかし、そんな不平不満を正直に口に出したりはしなかった。
顔にも出せなかった。
それは、きっと私の卑屈な部分。後藤に対する負い目。
―
12月。LOVEマシーンが大ヒット。そして、先月リリースした、
私が入っているユニット、プッチモニのファーストシングル「ちょこっとLOVE」が初登
場1位という快挙をなし遂げたこともあって、去年よりも格段に忙しい。
だけど、なんていうか、去年はずっと頭のてっぺんにずっとあった危機感というものが
薄れていて、楽な忙しさだった。
大晦日。なんと言ってもレコ大&紅白歌合戦。
私はもう一回出てるし、特に「紅白に出たい!」なんて思っていたわけでもないんだけ
れど、お母さんが大好きだし、それに今までの歌番組とは違う雰囲気があってやっぱり
緊張する(口パクはダメっていうのも一因なんだけどね・・・)。
そんな中、本番前、後藤が私を人気のないところに呼び出した。
「どうしたの?具合悪いとか?」
「違うよ」
「じゃあ、何?」
後藤は高揚して火照った体をくねくねさせている。なんか本当に病気みたいだった。
「はい」
と言って、体の後ろに組んでいた両手を私の目の高さに突き出した。
手のひらの上には小さな立方体の箱に赤いリボン・・・。
「何?これ?」
「お誕生日おめでとう!」
「あ・・・そうだ・・・」
そう、12月31日は、わたくし、市井紗耶香の誕生日です。
この大忙しのせいであろうか、こんなにわかりやすい誕生日をすっかり忘れていた
(他のメンバーやスタッフは後でクリスマスケーキを持ってきてくれた)。
「あ、ありがとう・・・。嬉しいよ。見ていい?」
「うん、開けてみて!」
私は表には出さなかったがめちゃくちゃ嬉しかった。
ここ数年は、友達からプレゼントを渡されても、「これが彼氏からだったらなぁ」なん
て愚痴りながらもらっていたもんだけど、今回は心から感激した。
しかし、中身を見て、今度は驚くことになる。
「これ何?」
私は冷や汗まじりに後藤に尋ねた。
「何?って市井ちゃん、見てわかんない?」
リングのピアスだった。しかし、他と違うのは・・・
「ピアスよん。しかもダイヤ付き〜。高かったんだから大事にしてよん」
後藤は大きくピースをして言う。
ダイヤという言葉を聞いて、ゾッとする。
「ダイヤ・・・・っていくらすると思ってんの?」
私はダイヤの値打ちなんて知らない。ただ、「高い」とだけしか・・・。
「それはねぇ・・・・75万円♪」
一瞬、体が凍りついた。75万円なんていくら働いているとはいえ、中学生の女の子が
払う金額じゃない。大体、お給料だって安いのに・・・。
しかも、その相手が私にだなんて・・・。
「ね、ねえ、後藤?」
私は言うべき言葉も見つからぬまま、見切り発車気味にしゃべろうとしたが、それを遮
るように後藤は自慢気に話し出す。
「ほんとはねぇ、指輪にしたかったんだけど、どうせなら薬指にしてほしいじゃん、左
のね。でもそんなのつけてたらマスコミとかになんか言われそうだしぃ〜。で、いろい
ろ考えた結果、ピアスにしたの。そしたら、髪で隠せるしね。ほら見て見て!」
後藤は髪をかきあげて自分の耳を私に見せた。すると、私が手に持っているのと同じ形
のピアスが付いていた。
「な、75万・・・」
「うん、おそろいだね!」
二つ合わせて150万!私は開いた口が塞がらなかった。
そして、血の気が引いていく感覚を覚える。
そんな後藤を怖いと感じた。
何か違うんじゃないかと思った。
私はそう意を決すると塞がらない口を精一杯動かした。
「ね、ねえ、後藤・・・」
「なぁに?」
「私、こんな高いもの受け取れないよ。第一、こういうのって一番好きな人にあげるも
んじゃ・・・彼氏とか・・・」
彼氏にあげるにしたって高すぎではあるがこう言うしかない。
「だから市井ちゃんが今んところ一番好きなんだもん、いいじゃん」
「『好き』って・・・」
「うん、市井ちゃんのこと、だぁい好き!世界で一番好き!」
私は大げさに首を横に振った。
「ねえ、後藤。それってさあ、やっぱなんか変だよ・・・。ううん、最近、ずっと変
だった。『好き』って言ってくれるのは嬉しい・・・んだけど、やっぱ私と後藤って
女同士じゃん。だから・・・」
「だから何?」
後藤が私の途切れ途切れの言葉を遮った。この小さな一言は私と後藤の間にあるひんや
りとした空間をスパッと切り裂いた。
そして、その間を縫って、光のない目で脅すように私の顔をねめつけた。
いつの間にかその目に吸いこまれ、後藤の瞳に映る私の顔がはっきり見えた。
硬直している自分がいた。
「だから・・・」
どうしてだろう。
頭が真っ白になる。言葉が続かない・・・。
まさに「ヘビににらまれたカエル状態」。こんなの初めての体験だ。
緊張とかそんなんじゃなく、ただ上から押さえつけられて動くことができず、その意志
さえも封じられているように感じた。
そんな私を見て、後藤は勝ち誇ったようにクスクスと笑い出す。
さっきの睨みつける表情とこの不気味な薄気味笑いは今までみたことのない後藤の表
情。
「そんなに怯えることないじゃん。市井ちゃんはあたしの教育係なんだし、これからも
迷惑かけちゃうと思うから・・・ね」
後藤は両目が閉じるウィンクをした。
そんな言葉が私の体を貫いた。冷たくて重かった。
後藤がその場を離れた後も、私はずっとその場に立ち尽くしていた。
右手にあるピアスが異様に重く感じた。
―
私はプッチモニのファーストシングル「ちょこっとLOVE」が売れたのは後藤のおかげだ
と最初から感じていた。
そう、最初から。初登場一位になった時から。
圭ちゃんは、
「私たち、がんばったんだから、その成果よ」
と言っていた。もちろん、私たちはがんばった。高熱を出してもダンスレッスンに取り
組んだ。そんな努力は誇っていいことだと思う。
しかし、それは一つの小さな要因であって、大きな理由は後藤いたからだと思ってい
た。
最初は、「後藤、ありがと〜!」てな感じで無条件に喜んだ。
しかし、しばらくして大きな不安が脳裏をよぎる。
「後藤がいなければ・・・」
そう思ってから、「後藤には逆らえない」という気持ちが心の中を支配した。
私が認められはじめたのは後藤のおかげ。
後藤をいなければ、私はこの世界で生きていけない。
だから後藤に逆らっちゃいけない。
そういう卑屈な感情。
そして、誕生日の日、その感情すら見透かされていると感じた。
後藤の行動の一挙手一投足に怯えるようになった。
それから二ヶ月して私はまた違った恐怖を覚える。
自分を失っていく恐怖。
後藤に全てを奪われたような錯覚に陥る。
「私」が「私」でないような感触。
生まれた小さな矛盾はどんどん大きくなっていく。
誰かに身を任せていくことの嫌いな自分がいつの間にか精神的なものの全てを後藤に預
けているとさえ感じた。
自分の中に3人の自分がいる。
後藤に教える自分。
後藤に支配される自分。
そして、そんな二人を客観的に見る自分。
心の中で、二人の自分が左右に揺れ、それを支える三人目の自分は「それでいいの?」
と問いかける。いつの間にか重心が二人目の自分に偏る。
私は後藤にすがりつこうとする本心を恨んだ。
トラの威勢を利用して自分もそんな気になっているキツネの自分を恨んだ。
そして、後藤から離れることを決意した。
脱退。
「まあ、こんなプッチモニでございますが、またこれからね、三人で新しく、和気あい
あいとやっていきたいと思います」
圭ちゃんの声に、はっと、我に返った。ほとんどラジオを聞いていなかった。
「はい、それではまた来週。ダ〜イバァ〜イ」
その後に後藤と吉澤の楽しげな声が聞こえる。
今週のダイバーを聞いていて思った。
今の後藤は吉澤に光を射している。
―
「もしもし」
私はおそるおそる圭ちゃんに電話をかけた。長くなりそうなので、最近、ケチな私は
自宅の電話からかけることにしている。前に圭ちゃんと話しこんだ月の明細書を見る
と、
「桁数、間違っているんじゃない?」
って思うほど高かった。
収入もなくなるし、節制は必要だ。圭ちゃんは私の自宅の電話番号は自分の携帯に登
録してなかったらしく、最初は私だと気付かなかった。
「うっす、珍しいね、紗耶香から電話をかけてくるなんて」
「まあね。今、暇?」
圭ちゃんの声の後ろから、ジャカジャカ音楽が聞こえてくる。かなり遠くからだったの
で自宅ではないことはわかった。
「暇ってこともないけども。今はねぇ、プッチの振り付けの練習中。なんか特別バー
ジョンの振り付けでさぁ、参っちゃうよ。しかも、あんまりかっこよくないし。こんな
んでいいのかなぁ、なんて思いつつもやってるよ。だけど、休憩中だから大丈夫」
「じゃあ、後藤いるんだ」
私は電話口にもかかわらず小さな声で尋ねた。
「うん、あっちにいるけど、代わる?」
「ううん、逆。後藤には聞かれないようにしてほしいんだ」
「それなら大丈夫よ。ごっちん、なんか今、ウォークマン片手にどっか行った」
「そっか・・・」
大きく息をついた。後藤が聞き耳を立てていたらどうしようと心配だったのだ。
「で、ようやく話す気になったの?」
「え?」
「ごっちんとなんかあったんでしょ?」
思わぬご質問。
「どうしてそう思うの?」
「だって、ごっちん変わったもん。紗耶香のこと全然口にしようとしないし、私が紗耶
香のこと話しても妙に素っ気ないし」
「へぇ〜」
ていうか、いつも私のどんな話をしようとしているのか気になるぞ。
「それに、今の紗耶香の口ぶりってさぁ、なんか恋人二人が喧嘩して、でもやっぱり気
になって相手が今何してるのかとかを第三者にうかがうみたいな感じだったもん、なん
てね」
圭ちゃんはクスクスと声をたてた。ネコのように目を細めている圭ちゃんが目に浮か
ぶ。
「変なこと言わないでよ」
「変でもないでしょう。で、何があったの?」
相談に乗るわよ、みたいなお姉さん口調で圭ちゃんは言った。
「別に何ってこともないよ。ただ、会わなくなっただけ」
「それって、大問題じゃん」
「そ、そうかな?」
「とにかく、今、結構私やりにくいんだからね。なんか紗耶香のことは全くの無視で、
その反動のようにいっつもよっすぃ〜につきっきりなのよ。そんでもって私は独りぼっ
ち・・・。あ〜、もう・・・たまったもんじゃないわよ」
今度は愚痴る圭ちゃん。
圭ちゃんはライバルであり、それでいて私を支えてくれた。
一番の親友。
「それでさ、頼みがあるんだけど」
「うん、何?」
「絶対、後藤には言わないで欲しいんだけど」
「絶対」のところを強調しながら言った。
「わかったわよ。で、何?」
私は今日の電話の目的を伝えた。
「そのよっすぃ〜の電話番号、教えてくれない?」
今日、私は初めて、吉澤をよっすぃ〜と言った。
そして、今後そう呼ぶことはなかった。
ー
テレビはあるバラエティ番組を放送している。
大して面白くもないのに、明らかに別口で録った笑い声や驚きの声が繰り返し使われて
いて少々不快だ。まあ、ASAYANだって似たようなものだが。
家に帰る前にコンビニに寄ると、新メニューの弁当があったのでそれを買った。
コンビニの弁当なんてどんなにリニューアルしても味はそんなに変わらないはずだが、
ちょっとデザインが違うとやっぱりいいものだ。
その日、吉澤に電話をかけるかをずっと迷っていた。
私はもうモーニング娘。のメンバーではないし、そんな私が茶々をいれてもいいものか
どうか悩んでいた。
吉澤を含め新メンバーとは約一ヶ月の付き合いだった。深く話したこともないし、
ちょっとだけした会話からはおよそ気が合うタイプとは思えなかった。吉澤は見た目よ
りずっと控えめな女の子だった。そして私は人見知りするタイプ。そんな二人は一ヶ月
足らずで仲良くなれるはずがない。
ただラジオで吉澤の声を聞いていると、私が感じた吉澤の印象とはずいぶんかけ
離れていることに気付く。積極的というか、寒いくらいのギャグを平気で言う。
吉澤が成長したんだろうか?それとも後藤の影響だろうか?
とにかく吉澤の話を聞きたかった。なんでこんなに話してみたいのか自分でもよくわか
らなかった。
結局、今日のうちに電話をかけることにした。
実を言うと、圭ちゃんに今日の予定、つまりプッチの仕事が終わる時間を聞いておい
た。今日は夜七時で雑誌の取材が終わり、そこで圭ちゃんと吉澤は上がり。
後藤はその後、ファッション雑誌の取材があるそうだ。最近、単独取材が多いらしい。
つまり、夜七時以降に吉澤に電話をかければ、後藤は側にはいないということになる。
今日を逃すと今度かけた時に、後藤は居るかもしれない。
電話をする絶好のチャンスだったのだ。
ただかけることを決めた一番のきっかけは、弁当の横についていた割り箸を二つに分け
ると、それがきっちり左右対称に分けられたからだった。
きっかけなんてそんなもの。
弁当を食べながら、私はどういう話をすべきか、どういう風に話を持っていくか、頭の
中で、それなりのシュミレーションをした。
プルルルッという電子音が七、八回鳴って向こうはようやく出た。
携帯に登録していない番号だから誰だろう?と不思議に思ったんだろう。
「もしもし、吉澤さん?」
「え、あの、いや、その」
吉澤は言葉を濁している。確かに電話先がファンだったらやっぱり困る。
その電話番号は風のごとく伝わっていく(と思う)
そして、いい心がけね、と妙に感心してしまう。
「声でわかるかな?市井です。市井紗耶香。覚えてる?」
「覚えてるも何も・・・。お久しぶりです」
向こうは案外、冷静だった。
喜ばないにしても少しは驚いて欲しかったなぁ、とちょっとだけがっかりした。
そう、せめて「お久しぶりです!!」って「!」が付くぐらい・・・。
ま、いいや。
「ごめんね、驚いたでしょ?」
「ええ、まあ」
吉澤はかなり素っ気ない。でも私の知っている吉澤はこんな感じだからそんなに気にし
ない。
「それでね」
「はい」
「最近、どう?」
「え、まあ、楽しんでいます」
「大変でしょ?」
「はい、まあ、でも覚悟してましたから」
「他のメンバーは元気?」
「はい。元気です」
一問一答が続く。変な会話だ。
「プッチに入ったんだってねぇ」
「あ、はい、すみません。入っちゃいました・・・」
「あ〜、別に怒ってるとかそんなんじゃないから。ていうかむしろ喜んでるよ。新曲の
プロモーションビデオ、見たよ。吉澤、すっごくかっこいいじゃん」
「はい。ありがとうございます」
「ラジオを聞いてる感じじゃ、後藤とも圭ちゃんとも仲良くやってるみたいだし。仲良
くやってるんでしょ?」
「え?あ、まあ・・・そうですね」
吉澤は口を濁した。「はい」と迷いもなく返事がくれば、電話を切っていたかもしれな
い。
「え?何、仲悪いの?圭ちゃん?後藤?あ〜、圭ちゃんでしょう〜?圭ちゃんってマジ
メにやんないとすぐ怒るから」」
わざとらしく意外そうな声を出す。少し冗談めかしてみる。
「いや、仲が悪いってわけではないんですけど・・・ちょっと、なんて言ったらいいの
かうか・・・むしろ逆っていうか・・・」
吉澤の口調は思いのほか重かった。言葉を選びながら言っているようだった。
根拠はないが吉澤の向ける相手が圭ちゃんじゃなくて後藤であるということを確信して
いた。私は吉澤の言葉を遮り、
「んと・・・もしかして、話ややこしい?電話じゃ、話しにくそうだね。ねえ、いつか
会えない?今のモーニング娘。のことも知りたいし。私が吉澤に会わせるからさぁ」
少々強引かな?と思ったが、吉澤は普通に食いついてきた。
「いいんですか?でも・・・」
「いいっていいって。暇で暇でどうしようもないんだもん」
電話越しなのに、右の手首を二度三度振る。なんとなくオバサンくさい。
「じゃあ、今日・・・」
「今日って今から?」
「だめですか?」
何をそんなに急いでいるんだろう?と思いつつ、今から吉澤と会って話して終電には間
に合うかな、と時間を計算していた。おそらく都内のどこかにいるのだろう。
「わかった。じゃあ、そっちに行くから。どこ?」
「ええっと、実家です。埼玉の・・・」
ちょっと絶句。
「泊めてよね・・・」
「もちろん、はい」
そうして電話を切って、簡単な身支度をした。
吉澤の力になりたい。
後藤を何とかしたい。
母性愛に近いものを感じていた。
―
吉澤の家に着いた時には夜の十時半を超えていた。
ちょっとした郊外にあるが思ったより都会だった。私の実家に比べれば雲泥の差だ。
家は大きくもなく小さくもなくという感じだが、建物自体は新しかった。
インターホンを押さないで家の前で吉澤にワンコールして、こっそり入れてもらった。
泊めてもらうのだから、一言、ご両親に、って言ったらそんなことしなくていいで
すってちょっと怪訝な顔をされた。
反抗期なのかな?と思った。
結局、吉澤の言う通り、家族には挨拶を入れず、吉澤の部屋に直行した。
ボーイッシュな子と思っていたが部屋の中はいやいやどうしてロマンチック。
黄色を基調とした壁とカーテンに小物やキティちゃんなどの人形が部屋中に散りばめら
れている。きちんと整理整頓されていて、自分の部屋をふと思い返し、掃除しようと決
意させてしまうほどだ。ただ、机の一番上の引出しが半開きになっているのが気にな
った。
「じゃあ、ちょっとお茶でも持ってきますね」
私が、そんなことしなくてもいいよ、と断る前に、そそくさと吉澤は部屋を出て行っ
た。吉澤の部屋に一人きり。私はイケナイ気持ちがむくむくと湧き上がってきて、半開
きになっている引出しを開けてみた。
目に飛び込んできたのは、木の色をした写真立てだった。官製はがきよりを一回り大き
くしたサイズ。見えるのは裏側で、何が挟んであるのかは手に取ってみないとわからな
い。
写真立ての下はハサミや定規などの文房具があり、その置き方の順番の不自然さから、
その写真立てはついさっきまで机の上に立てられていたものであることは間違いないだ
ろう。
私の中ではどんな写真が挟まれているのか見たい気持ちと、それだけは人として間違っ
ているという気持ちが入り混じる。
どうしよっかなぁ。
そんな葛藤をしばらく抱えていると、ガチャリと扉のノブが動く音が聞こえた。
私は、心臓が飛び出そうなくらい驚き、急いでその引出しを閉めた。
扉が開く。当然、吉澤だ。
「持ってきました!ん?どうしたんですか?」
立っている私を見て、不思議に思ったんだろう。吉澤が尋ねた。
「あ、いや、かわいい部屋だねって思って、ちょっとみとれてた・・・な〜んて
ね・・・ははは」
私は背中に冷たいものが伝うのを感じながらそう言った。
「変なこと言ってないで座ってくださいよ。どうぞ、和菓子もありますから」
「あ、ありがと」
吉澤は何にも気付いていないようだった。
「さてと」
「どっこいしょ」と言いそうになるのを必死で押さえながら(最近、どうも言っちゃう
んだよね)、吉澤に出された座布団に座った。正座しようかとも思ったが、そこまです
る必要はないと思い直し、ラクな姿勢をとった。
吉澤はそのまま外に出てもおかしくない服を着ていた。見たことのないキャラクターが
プリントされたシャツもすこし幾何学的な線が薄く入ったスカートもピンクが基調だ
ったから、加護か石川の影響かな?とふと思った。
「んで、娘。やプッチはどう?」
とりあえずは世間話。吉澤の顔色をうかがってみることにする。
「頑張ってます」
「結構、大変でしょ?」
「はい、毎日が必死です」
相変わらずの素っ気なさ。ラジオやテレビなんかではもっと弾けてるのに(それこ
そ、イタイほど・・・)。
そんなことを考えながら、出されたお茶をゆっくりと口に含んだ。
多分、吉澤自身が自分で淹れたんだろう。でがらしな感じがした。
それからは差し障りのないことをいろいろ話した。
プッチモニのこと、モーニング娘。のこと、メンバーのこと。つんくさんのこと。
聞きたいことはいっぱいある。
だけど、どうも一つ一つの会話が続かず、話が飛び火してしまい、その実、中身がてん
でない。
私はどっちかというとあまり意味の無い会話が好きじゃない。
要点はパパパッと言ってくれないとイライラしてしまう。
そういうところがかわいくないところだよなぁ、とつくづく感じる。
でも性格なんだから仕方がないと諦めてもいた。
やっぱりこの子とは合わないのかな?と感じた直後、吉澤は「本題」を口にした。
「ところで、さっきの電話の続きなんですけど―――」
吉澤の口調は重かった。吉澤から放たれた声は私には届かず、吉澤と私の間にストンと
落ちているようだ。
「うん・・・」
小さく座り直し、吉澤の吐露に耳を傾けた。
吉澤の話は予想通り、後藤のことだった。
そして、それは見当がついていたこととはいえ動揺を与えた。
後藤が吉澤にベタベタくっつきすぎなこと。
何かと吉澤の顔色をうかがうこと。
時にふっと冷たい目で睨みつけること。
極端な変化にいつも戸惑ってしまうこと。
言葉足らずなところはあったが、私が感じたことと同じようであった。
「ごっちんは私に何を求めているんでしょう?」
吉澤は両腕をピンと伸ばしながらその手をひざの上に乗せ、こみ上げるものを必死で押
さえているように見えた。大きな目は堅くつぶっていた。小さな顔は下を向いていた。
それはきっと・・・
「ねえ、後藤は私のことを話題にする?」
「え?いえ最近はあまり・・・。昔は結構話してましたが」
吉澤は小さく首を横に振る。
「そう・・・やっぱり・・・」
それはきっと、私の代わりを求めているんだ。。
大きな罪悪感だった。
私の残した影をモロにかぶってしまった吉澤に対して、そして、何も変えてやれなか
った後藤に対しての罪悪感。
逃げながら蒔いた種は思わぬところからも発芽している。
なんとかしなければ、と固く心に誓った。
その日は二人で吉澤のベッドで寝ることになった。二人一緒に寝ても十分なくらいの大
きさだった。私の癖(ていうかただ怖がりなだけなんだけど)を知っているのか電気は
点けっぱなしにしてくれた。
布団は天日干しされたばかりなせいか、太陽の匂いがする。
梅雨の合間に射した太陽。春のポカポカしたものでも夏のギラギラしたものでもない。
夏の爆発を控えた優しい太陽。
そこでは最初よりもずっと本心を語り合えるようになった。
「私って、市井さんに憧れていたんです」
私たちは背を向け合って横になった。その為、吉澤の声は隣りにいるのに、一回壁に反
射して届いているようでやけに遠くから聞こえる。
「ん?どういうところが?」
「ほら、何ていうか、一生懸命で元気なところが」
「そう、見えた?」
ガサゴソという音とともに、布団がもりあがる。吉澤は体を入れ替えて私の背中やうな
じあたりを見ていた。
「見えましたよ!だから私の教育係には絶対市井さんがいいなって思ってました!」
眠る直前にも関わらず、朝もやが晴れたような明朗な声を出す吉澤に驚き、私も吉澤の
方を振り向く。顔と顔が急接近。吉澤のきめこまやかな肌と、アイプチもつけていない
のにクリッとした大きな目が私をドキッとさせた。
そして、同じように吉澤に見られている自分が恥ずかしくなった。
「ごめんね、やめちゃって・・・」
「憧れている」なんて面と向かって言われて、頬を薄く赤らめる。
同時にやめたことがすごく申し訳なく感じた。
「いえ、いいです。確かにショックだったけど理由聞いて、ますます尊敬しました。な
んか自分で考えて、自分の力で生きてるなぁって思いました!」
「ははは、ありがと。まだ第一歩も進んでないけどね。それにもしかしたら事務所の
力を借りなきゃならないみたいだし。結局自分の力だけじゃどうにもならないんだよ
ね」
「そんなの別にいいじゃないですか?絶対に夢を叶えてくださいね!」
「うん・・・でもあんまり期待かけないでね」
「いいえ、かけますよ」
「参ったなぁ」
その日は布団が柔らかかったせいかぐっすり眠れた。
吉澤もぐっすり眠ったに違いない。
―
7月も下旬に入り、いつもより遅めの梅雨が終わる。憂鬱の中で唯一輝いていた赤や紫
のアジサイがその存在を緩やかに終わらせようとしているそんな時期。モーニング娘。
はハロープロジェクトが真っ盛り。後藤や吉澤やメンバーのみんなは地方を回ることが
多くなった。
そんな中でも吉澤はこまめに私に連絡してきた。
「今どこ?」と聞く度に必ず違う場所を言ってくる。私は小学生の時に使った日本地図
を実家から持ってきて、いちいちその場所を確認し、赤色のマーカーペンで言われた地
名を塗りつぶしてみた。
それは幼い頃に感じたことのある漠然とした冒険心に似ていた。行ったこともないくせ
に、想像でその地に立って、大きく深呼吸をして・・・。
ちょっと前はその冒険をしていたんだよね。あまりに盲目に走りすぎて気付かなかった
けど。
そう思うとなんとなく悔しくもあった。
吉澤はどんな時も楽しげに言葉を交わす。
新しいことの連続で、楽しいことと同じくらいつらいこともあるはずなのにそんな素振
りを一つも見せない。
そんな吉澤に強さを感じた。
ある日、「暇が出来たから」と吉澤は私の家に泊まりに来た。
「久しぶりの東京でのオフなんでしょ?だったら実家ででもゆっくりしてたほうがいい
よ」
と、最初は断ってみたが、吉澤はどうしても、と頑として聞かなかった。
私はそんな態度を見て、「しかたないなぁ」と言いながらも顔を緩ませた。
吉澤が家にやってくる日。私はいつもよりも早めに起きた。
カーテンを開けると、青々とした空の中にちょっとだけ浮かぶ真っ白な雲。西向きなの
で直接太陽光線は射しこんでこないが、雲や隣りの家の窓に反射して、入ってくる。
ちょっと暑いけど、すごく気持ちいい。
時間が早かったので普段はしない朝シャンをし、滅多に作らない朝食を作った。
トーストエッグだった。
思った以上に・・・・・・まずかった・・・。
だけど、今日は不思議にお化粧のノリがいい。
「ピンポーン」
それから約2時間後にドアのインターホンが鳴った。
私の住んでいるマンションはほぼ新築なのにどうもこのインターホンだけが古臭い。
間の抜けた余韻が部屋中に響きわたる。
縛れるくらいに長くなった自称さらさらストレートヘアーをシャンプーの香りと共にな
びかせて、急いで玄関に向う。
のぞき穴で外を覗きこむと、私とは逆に少し髪を切った吉澤がいた。
「どうぞ〜」
「お邪魔します。遊びに来ちゃいました」
「いいよいいよ、暇だから」
吉澤は両手に大きめのバックを持っていた。黄色のシャツはもし色がなければブラが見
えるくらい薄い素材だ。それに固めのインディゴブルーのジーンズは今の髪を切った
「男っぽい吉澤」にぴったりだ。長い足がより長く見える。
「髪、切ったんだ」
「はい、思い切って」
「かっこいいよ」
と言って、ジロジロ吉澤の髪を見る。
「どっちが似合ってると思います?」
そう言われて、ちょっと悩んだ。どっちって言えば吉澤は喜ぶのだろう。しかし、すぐ
にそんな風に打算的に考えている自分が情けなくなって、感じたまま言うことにした。
「ん〜、どっちも、似合ってるよ」
「なんですか、それ、ズルイです!」
「ははは、いいじゃん、いいじゃん。似合ってるよ」
私は吉澤のバッグを預かって、部屋の方に誘導した。
「ハロプロのこととかいっぱい教えてね」
私が知らなくて吉澤が知っている世界。どうしても興味が湧く。
そう言うと吉澤は、わかりました、と頷き、横に置いてある吉澤のバッグの中から何か
を取り出そうとする。そこで、私はあることに気付く。
「あれ、そのバッグって・・・後藤の・・・?」
「あ、はい。ごっちんが、要らなくなったって言うのでもらいました。こんなに大きな
バッグ、持ってなかったんで。結構役に立ってるんですよ」
「後藤」という言葉を口にした私は一瞬の後悔を覚えたが、さらりと交わしてくれたの
でほっとため息を小さくこぼした。
「それで、なんですけど」
と吉澤が出そうとしていたものを取り出した。
各地のおみやげだった。
「私に・・・?」
自分の方を指差して尋ねると吉澤は大きく頷いた。
「ありがとう」
と言って、いろいろ見てみるとでんでん太鼓やら五重塔の置物やら、季節はずれの雪の
結晶をモチーフにしたオルゴールなんかが出てきた。
はっきり言って趣味悪い。「おみやげ下手」と言うべきかもしれない。
どれがいいかな?(というか、どれがマシかな?って感じなんだけど)と選んでいる
と、
「それ、全部あげますよ」
吉澤が当たり前のように言った。
「あ、そうなんだ。嬉しい!」
と言いつつも、これをどうすんねん?って裕ちゃんみたいな口調で心の中で叫んでい
た。思わず苦笑いしたが、吉澤はそれに気付く様子はなかった。
いろんな失敗やハプニングや緊張したことなどを楽しげに語る吉澤を私はうらやましく
思った。私はほとんど喋らず、聞き役に徹していたが、そんな吉澤を一つの「幸せのか
たち」みたいに感じていた。
「吉澤ってさぁ、彼氏いるの?」
ふと尋ねてみた。
吉澤はドキリとしたのか腰を浮かし、座り直した。そして、そのまま首を横に振った。
「もし居るのなら、今、ここにはいませんよ」
そう言うと、ニンマリと笑みを浮かべた。
「そうなんだ」
「片思いで終わっちゃうんですよね・・・」
「まあ、人生長いし、それに今は恋とかしてる場合じゃないだろうしね」
私は二年しか違わないのにやけに大人面してそう言った。それにしてもなんで、こんな
ことを聞きたくなったのか自分でもわからなかった。
ただ、自分で作った小さな緊張から解き放たれてほっとしている自分がいた。
「で、市井さんはどうなんですか?」
今度は私がドキリとする番だ。ほぼ、反射的に大きく首を横に振る。
「いないよ!欲しいけど・・・」
吉澤と目が合った。コンマ何秒という短い時間だったが妙に長い間、目が合っていたよ
うに感じ、二人して声を合わせて笑った。
「欲しいですよねぇ」
笑いが消えない中、ふっと腰を落として吉澤が縁側で緑茶なんかをすするおじいちゃん
やおばあちゃんみたいにしみじみと言ったので、
「うん、どうして私たちにはいないんだ!こんなに美人なのに!」
と、私は敢えて対照的に若者らしく威勢をあげて、天に向って拳を突きあげて高らかに
懇願した。
そうして吉澤の方を見ると、もう一度目が合い、今度はすぐにお互い笑った。
お昼ごはんを済ませ、私は押し入れから、本を取り出した。
写真のアルバムだ。私が加入してからの娘。。後藤が入る前までの娘。。
「みんな、初々しいですねぇ〜」
吉澤がざっと目を通すと率直な感想を述べた。
「この頃は必死だったよねぇ〜、みんな。ホント懐かしいよ」
そう楽しそうに語る私を見て、吉澤は少しうらやましそうだった。
「写真と言えば・・・」
しばらく、当時のメンバーの裏話を暴露した後、吉澤はふと何かに気付いたように切り
出した。
「この前、市井さんが私の家に来たときのことなんですけど・・・」
「うん、何?」
「え〜っと」
言いにくいけど言いたい、というはにかんだ笑いを見せる。
「何?気になるじゃん。言ってよ」
「市井さん、机の引き出しの中、見たでしょ?」
「え?」
私はその日のことを思い出し、もちろん、当たりなので狼狽する。
「私、知ってるんですからね」
「み、見てないよ」
「嘘ですね」
と、ちょっぴり勝ち誇った表情をする吉澤。
「ホントだって。どんな写真だったか知らないんだってば」
と言ってから、すぐに、しまった、と思った。
「ホラ、やっぱり開けたんですよね」
「え〜っと、参ったな・・・ごめん・・・」
「ちょっと、恥ずかしいです」
「でも、なんでわかったの?」
「だって、引出しを半開きにしてあったのに、ふと見るとちゃんと閉まってあるんです
もん」
つくづく、バカな私。でもそれじゃあ、わざと吉澤は引出しを半開きにしてたってこと
になる。そこに疑問を持った。でもその前に、
「でも、見てないってホントに!写真立ての裏しか見えなかったんだから!」
それだけは事実なので、きっぱり言う。
「そうなんだ。残念・・・」
残念?
私は一瞬、彼氏の写真だったんじゃないかと思った。最初に引出しを開けた時にもそう
思っていた。でもついさっき、「彼氏はいない」って言ってたし、それに今、
残念・・・って。
「何だったの?」
と聞いてみたら、え〜恥ずかしいです、と拒否しつつも、明らかにそれは何の写真だっ
たのかを言いたげな吉澤がそこにいた。
「ねえ」
もう一回催促すると、吉澤はためらいながらも告白した。
「実はですね〜、市井さんの写真なんです」
吉澤は頬を赤く染める。数秒後、私はそれ以上に赤くなり、そして上ずった声で、
「で、だ、だって、・・・私?」
と自分を指差す。
「はい。正確に言うと、市井さんがいる時の11人の写真なんですけどね。ハッピーサ
マーウェディングの時の」
「ああ、そうなんだ・・・」
「市井さんが来た時、やっぱり恥ずかしくなってしまっちゃいました」
「でも、それがどうして・・・」
恥ずかしいの?と言う前になんとなく察した。
自分を含めた11人で映っている写真を自分の机の上に置いておいたって普通は恥ずか
しくない。
でもそれがある「特定の人」が映っているという理由で置いたのだとして、その「特定
の人」に見られるならば、置いた本人にとっては恥ずかしいのかもしれない。
そして、同じくらいその特定の人に自分の気持ちを伝えたがっていることは、わざと引
出しを半開きにしていたり、今この場でそんな話題を持ちかけることから考えても明ら
かだった。
つまり、吉澤は私のことを特別な目で見ている。
それがどのくらいなのかはわからない。吉澤は前に私のことを「憧れている」と言っ
た。その程度なのかもしれない。もしかしたら、それ以上なのかもしれない。
吉澤も後藤と同じなのだろうか?
そして私はすぐにそんな疑問を否定する。
後藤といると苦痛だった。
吉澤といると心が安らぐ。
それのどこが同じであろうか。
「ねえ、吉澤。今、幸せ?」
言ってすぐ、なんか新興宗教の勧誘みたい、と思った。
「はい、幸せです。モーニング娘。になれたんですから」
私は、今、私といて幸せ?って聞いたんだけどね。
しかし、それ以上は聞くのをやめた。
その後は、お互いのマイブーム話。
私はギターと作詞のこと。あと、インスタントラーメンに最近凝っていたりする。
吉澤は予想通り(?)、ゆで卵とベーグル。
卵の茹でる時間について討論した。
吉澤は黄身までしっかり茹でるべき!と強く主張したので思わず、私は半熟が一番!と
言ってしまった。
本当はしっかり茹でてあったほうが好きなんだけどね。
くだらない話はどんどん続く。
自分は「とりとめもない話がきらい」だと思っていたのに、そんな数々の「とりとめも
ない話」もすがすがしかった。
2つ年が違えばこんなにも違うものかと思うくらいはつらつとした表情、行動。
ふと、後藤も吉澤と同級生だということに気付き、そして後藤に対してはそんな思いを
感じたことはなかったのでこれが吉澤の持つ一つの性質なんだと考え直す。
吉澤は年相応の純粋さを持っていた。
これからもっと酸いも甘いも大人社会の現実を身にさらされることになるだろう。
でもその純粋さは忘れないで欲しい。
心からそう思った。
「市井さん」
呼ばれて、ふと我に返る。
「私をほったらかしにして、何を考えてるんですか?」
ほったらかしになんかしてないわよ、むしろ逆。
そう反論しようとすると、さっきまで考えてたことが、すごくおばさんくさくて、吉澤
の保護者みたいだと気付くと、そんな自分に苦笑した。
「だから、市井さん、何考えてるんですか?」
再び吉澤に声をかけられ、もう一度、我に返った。
私はただ、笑ってごまかした。
それから3週間経った。
暦では夏の終わり。残暑が厳しい、そんな日。
「明日って空いてません?」
電話口で吉澤が訊いてきた。
「まあ、空いてるけどどうしたの?」
いつでも空いております。吉澤には悪いんだけど、めちゃくちゃ暇だ。
「明日、東京のスタジオでダンスのレッスンなんですけど、よろしかったら来て欲しい
なぁ、なんて・・・」
「いいけど・・・後藤は・・・?」
恐る恐る尋ねた。まだ、後藤と目を合わせられる自信がなかった。
「え、え〜っと、明日はオフなんですけど新メンバーだけで練習なんです。昔の歌とか
の振り付けが全然ダメって夏先生に怒られちゃって・・・それで居残り練習みたいな感
じで・・・」
「ふうん、いいよ。で、どこ?」
吉澤に会えると思うとちょっと顔がほころんだ。
一方の吉澤は気のせいかもしれないけれど、緊張してるっぽかった。
―
吉澤がいると言っていたスタジオは事務所から二駅のところにあったので好都合
だった。
今後について、相談があると前々から言われていたのだ。ついでだからお母さんを連れ
て事務所に行って、社長と話し合った。
17にも満たない少女と会社の社長が話し合うってのも変な話しだが、この業界ではそ
んなに変なことではない。
社長は音楽だけでなく語学についてもサポートすると言ってきた。
全て特待生として援助するとのことだ。
もちろん、条件はある。
練習の様子、成長の様子を逐一報告すること。
復帰は必ず、ここの事務所でやること。
遅くても3年以内には再デビューすること。
私にとってはきつい条件だった。
「成長の様子」だなんて、またASAYANみたいなことをするんじゃないかと思った
し、「3年」と期間を限定されると焦りもいずれ出てくるかもしれない。しかし、もし
同じことをやるとしたら想像以上のお金がかかることを知っていた。
ふと、隣りに座っているお母さんを見た。
「お金のことなら心配しないで」
そう言っているように優しく微笑むお母さんを見て、逆に心が痛くなった。
私はしぶしぶ承諾することにした。
帰りの足でお母さんと別れて、スタジオに向かった。
夏ということで天気は当然のように晴れていた。ちょっとした街路樹を通ったのだが
木々の中からセミがミーン、ミーンとかしましく路上を謳歌し、私は耳を塞いだ。
ふと「セミは7日しか生きられない。その7日間を一生懸命生きるのに7年間、じっく
りと土の中で力を蓄えるんだ」と教えてくれた小学校の先生の言葉を思い出した。
セミぐらいにじっくり熟成させてよね。
と思いながら、それでも7日しか生きられない=一発屋と結びつけ、それはイヤだ
なぁ、なんて考える。
スタジオの入り口は日差しが丁度隠れている。その地点に足を踏み入れると顔中の汗腺
から汗がどっと噴き出したので懸命に拭いた。
久しぶりの外出だったせいか、ギラギラした真夏の光線にはかなり参っていた。スタジ
オはもちろん立入り禁止だが、受付の人も私の顔を覚えていて、「顔パス」で通してく
れた。建物内は空調が効いていてなんだか安心した。
練習してるらしき部屋の扉の前に立つと、聞き慣れた怒声が扉の向こうで聞こえた。
「加護!腕の動きがちょっと遅いし、間違ってる。いい?」
「へい!」
「それに石川ももうちょっと動きにメリハリつけて」
「はい!」
あいかわらず厳しいね、と思いながら私は練習の邪魔をしないようにゆっくりと扉を
開けた。
「あ〜、いちいさん!」
最初に気付いたのは辻だった。
つられて他の三人、さっきの怒声の主の夏先生やスタッフの視線も入り口にいる私に集
まる。照れくさかったので俯き加減で小さく右腕を上げて、
「ちわっす」
と言った。
辻がすぐさま私の方に向かって飛んできた。加護も石川もそして吉澤もつられるように
やってくる。
「おひさしぶりです!」
「へへへぇ〜、近くまで寄ったから来ちゃった。元気にしてる?」
「はい!」
無邪気に抱きついてきた辻を傍目に吉澤を見た。吉澤は、いたって無表情だった。
練習をはりきりすぎているのかグレーのシャツは汗がしみて黒くなり、吉澤自身も肩で
息をしていた。
その後、腕組みをしている夏先生と目があった。
「お久しぶりです」
と私が軽く会釈すると、
「うんうん、元気にしてる?というか、なんか前にも増して太ってない?」
その言葉はグサッと私の心に刺さりながらもなんとか横にそらしてダメージを最小限に
食い止めた。
その日、私も四人に振り付けを教えることになった。
卒業してから四ヶ月近く経っていたが、振りはほとんど忘れていなかった。
そんな自分にすごいなぁ、と思いながらもモーニング娘。としての自分がいかに大きい
ものだったかをあらためて感じた。今後、私はこんな私を超えなきゃならないんだから
大変だ。
「この子たち、どう思う?」
夏先生は聞いてきた。
実年齢とはほぼ遠い外見の若々しさ。私はつんくさんとか他のスタッフとは違った尊敬
の念を抱いている。
「上手くなりましたよね、私がいた時に比べて大違い」
「まあ、まだまだだけどね。一生懸命さが足りないよ、アンタみたいに」
「うわぁ、先生に褒められたのって初めてかもしれない」
「そうだっけ?」
「怒られた記憶しかありませんから」
「ははは、まあアンタって手のかかる子だったってのは事実だからね」
そう言いながら夏先生は少し懐かしげに微笑んだ。
生で四人を見てみると、その成長のほどがうかがえる。
踊りや歌が上手くなったのはもちろん、何か、小さくても確実な自信を持ってやってい
るように見える。
念願叶ってオーディションに合格、そしてデビュー。
新しい世界へ希望。
自分の素質のなさからの絶望。
経験の積み重ねによる小さな自信。
私が1年以上かけて辿ってきたプロセスをわずか4ヶ月足らずでやっているように思え
た。入ってきた当初はこれからどうなっていくんだろうって不安にもなったものだけ
どこうしてみるとさすがつんくさんが選んだだけはあるなぁとつくづく感心していた。
「でも吉澤ってすごく一生懸命じゃありません?」
贔屓目じゃなく、誰がどう見てもそう思うくらい一生懸命だった。鬼気迫るものさえ感
じた。
「う〜ん、あの子は・・・今日だけなんだよねぇ。いつもはぺちゃくちゃ喋ってばっか
りなんだけど。なんでかしら」
と首をかしげる夏先生。
「あ、そうなんですか、へ〜」
あ、そっか、と思った。
私がいるからだ。
いいところを見せようと必死なんだ。
そう決めつけると、なんだか吉澤がすごく愛しくなった。
「市井さん」
そんなことを考えている時に石川が声をかけてきた。
「どうですか?私たち?」
矢口をさらにパワーアップさせた甲高い声が耳に届く。
「うん、すごいよ。めちゃくちゃ上手くなってる」
「そう言ってもらえると嬉しいです!」
「こら!石川!休憩時間じゃないんだよ!」
横にいた夏先生がお馴染みの怒声をあげる。
「は、はい!じゃ、すみません」
石川はそそくさと戻っていく。
その後も石川や加護や辻は何かにつけて私に話しかけてきた。
しかし、結局最後まで吉澤は話しかけるどころか目を合わせようともしなかった。
ただそんな態度も私はいい風にしか考えなかった。
居残りのダンスレッスンは午後の三時を回ったところで終わった。
私は吉澤がシャワーを浴びている間、吉澤にメールを送っておき、他の三人やスタッフ
は近づかないような廊下の一角で待っていた。
この一角を唯一照らす蛍光灯が真上に一本だけあるのだが、その蛍光灯もほとんど寿命
らしく最後の力を振り絞ってチカチカしている。5m先の蛍光灯が対照的に元気なの
で、より一層ここは暗く感じる。そんな薄気味悪さが漂うところではあるが密会するに
はちょうどいい・・・。
密会ね。
そんな言葉を心の中でつぶやくと自然と笑いがこみあげてきた。そんな自分を自分でも
不気味だと思った。他人が見たらもっと不気味だと思うだろう。
20分後、吉澤は現れた。
「やっほ〜」
自然と手を上げてしまう。
「あ、どうも・・・」
適度に濡れた髪の毛からシャンプーがほのかに香り立つ吉澤はちょっと色っぽかった。
短い後ろ髪が自然と上下に跳ねていて、そういうボサボサした感じもかっこよかった。
「吉澤、踊り上手くなったねぇ。私、感心しちゃった」
「どうも」
「すっごい真剣で、私、声をかけらんなかったよ」
「どうも、ありがとうございます・・・」
素っ気なさにちょっと前の吉澤を見た。
「いやあ、吉澤がいるなら娘。も安泰だね〜」
「そんなこと・・・ないですよ」
「これから、空いてるの?そうなら、一緒に御飯でも食べに行かない?」
吉澤の表情はこわばったままだった。
自分の中の予想が外れてきていることに気付く。私がほめると、飛びついて喜ぶ吉澤を
想像していたからだ。
そういえば、今日の吉澤って一回も笑ってない・・・。
二人の間の空気がにわかに緊張を孕む。
それは明らかに吉澤が作ったもので私が何を言っても解きほぐせそうにもなかった。
ようやく私に直感が働く。
「何か・・・あったの?」
吉澤の両肩に両腕を乗せて下から顔をのぞきこんだ。吉澤はさっと目線を横にそらした。
「後藤?」
少し描かれた眉の辺りがかすかに反応した。そんな吉澤の戸惑いを目ざとく見つけて、
私は吉澤の両肩を揺さぶりながらもう一度聞く。
「後藤のことなんでしょ。教えて、何があったの?」
吉澤は押し黙ったまま下唇を噛みしめた。
「何かあったんでしょ?後藤のことなら任せて!何とかするから!」
気持ちが少し高ぶって思わず声を張り上げた、その瞬間―――
「あたしが何だって?」
「!!!」
その声は吉澤の背後から聞こえた。
ビクッとした振動の後、凍りつく吉澤の様子が触れていた肩から伝わった。
ほぼ、本能的に吉澤の肩口からその声の方向に目をやる。
逆光のせいで顔は見えなかったが壁に寄りかかりながら腕組みをしているシルエットは
はっきりと私の目に映し出される。
いや、それ以前にいつも呪詛のように聞いていたあの声は・・・、
「ご・・・・とう・・・?」
何秒静止していたのかわからない。
無意識的に吉澤を見た。
吉澤は私が呆然とした目つきで自分の方を見ていることに気付くと、声にもならない声
で一言言って、肩に乗っていた私の手を振りほどき、その場から逃げ去った。
聞き取れはしなかったが、乾いた口元の動きで何て言いたかったのかはわかった。
「ごめんなさい」と。
吉澤の姿が完全に見えなくなるのを見届けて、後藤はゆっくりと歩み寄ってきた。
コツコツと一定のリズムで音をたてる。その音はドラマでみるような留置所の中を監視
しながら横切る警察官の足音のごとく、四方の壁に反射する。一瞬本当にそんな場に瞬
間移動してしまったように感じた。
その警察官は後藤。そして、きっと私は犯罪者。
表情はよくわからなかったが逆光のせいもあってただただ不気味だった。
少ない唾を飲み込んで乾ききった喉を懸命に潤す。
「久しぶりだね、市井ちゃん!」
「う・・・うん」
「こんなところで会うなんて思ってもみなかったよ」
「うん、そうだね・・・奇遇だね・・」
戦々恐々としながら私はうなずく。
いつもの後藤。明るく誰にでも好かれる後藤。
そんな後藤を見て怯えてしまうのは私はその後の後藤がどんな変化を見せるかを知って
いたからだろう。
「で、何話してたの?聞きたいなぁ〜」
両手を頭の後ろに回し近づく。
「何・・・って別に・・・まだ何も話してないし」
「だって何か大声出してたじゃん、すっごく盛り上がってたみたいだったし」
「いや、ただ『ダンス良かったよ』って言ってただけで・・・」
「ふぅん、でも意外だなぁ。市井ちゃんとよっすぃ〜なんて組み合わせ」
「だから、別にそんな・・・。今日はたまたま事務所寄って、ここを覗いてみたらメン
バーがいたから、ね・・・」
できるだけゆっくり言って、自分を落ちつかせるように努めた。いつの間にか心臓の鼓動が大きくがなって、その一定のリズムが体全体を小刻みに震えさせた。
「ここって事務所から見て市井ちゃん家と逆方向じゃん」
「そうだけど・・・ちょっと渋谷にでも遊びに行こうって思ってたから。そのついでに
寄ってみたのよ」
「市井ちゃんって渋谷キライだったじゃん。あんな人の多いところイヤだってよく言っ
てたじゃん」
「今は好きなのよ、それにそんなに嫌ってなかったよ。後藤の誤解だってば」
「ふ〜ん、ま、どうでもいいけどね」
後藤の圧力から喘ぎそうになる口調を抑えながら必死で私は弁明した。
しかし、後藤はほとんどそれを軽く受け流す。
それにしてもわからない。
どうして後藤がここにいるの?
どうして吉澤は震えていたの?
どうして「ごめんなさい」なの?
自問自答を繰り返した。答えは見つからない。
考えれば考えるほど、得体の知れない怯えのような影に心が包まれるのを感じていた。
後藤の顔はあいかわらず、よく見えなかった。しかし、それが私にとっても好都合なこ
とだと気付く。いつもは後藤の表情に――どんな顔をしようとも常に私の心を動かして
いたその表情に――惑わされていたから。
こういう状況なら何か気の利いたことを言えるかもしれない。
それに、私は変わったんだ。
吉澤が私を変えてくれたんだ。
そう、吉澤を救ってあげなきゃ・・・
決然とした表情で後藤を見た。
「ねえ、後藤は―――」
「市井ちゃんってさあ、嘘つきだよね」
口を開いた瞬間、後藤は私の声に覆いかぶせるように言った。
低くて冷たくて心を平べったい鈍器のようなもので打ちつけるような声。
もう一人の後藤に変わった瞬間。
バチンという音が私の真上から聞こえた。チカチカした蛍光灯はとうとう息絶え、
この暗い一角は一層、暗みを帯びた。
「え?」
「嘘つき」という思いがけない言葉に私は最初後藤が何を言っているのか理解できない。
何が嘘つきなの?
さっきのことを言ってるの?
どうやら違う。
後藤の視線はそんな表層的なものではなくもっと私の深いところに向いていた。
「市井ちゃんだって半熟よりちゃんと茹でた卵の方が好きじゃん。確かプッチの合宿の
時に言ってたよね?」
一言一言、間を開けながら後藤が続ける。
「あたしだって市井ちゃんの一生懸命なところ大好きだったんだよ。よっすぃ〜なんか
よりもう〜んとわかっているつもり。だってず〜っと一緒にいたんだもん、私が一番
知ってることだよ」
後藤の言葉の余韻が、後藤が作った一瞬の静寂の中に尾を引いたように残る。
そして次の言葉を発した時にやっとフェードアウトしていく。
その独特の間は私に、「何が言いたいのか考えて」と言っているように思えた。
「留学とかも事務所の力を借りるんだ。ホ〜ント、自分だけでは何にもできないんだ
よね、市井ちゃんって」
なんでそのこと知ってるの?
後藤には言ってないよね?
何本かの糸が絡みあうように疑問が交錯する。
「それにさぁ、やっぱり彼氏なんていないじゃん、何だったのよアレは、バッカみた
い。そんなネタなんか仕込んで恥ずかしくないの?」
これが、一番胸に突き刺さる言葉だった。
後藤に対して言った一番の嘘。
ずっと心残りだった嘘。
どうして、バレたの?
疑問の結論はすぐそこまで来ていた。しかし、その解決の扉を開きたくなかった。
しかし、後藤はそのドアノブに手をかける。
抵抗する私をあざ笑うかのようにその扉をこともなげにこじあける。
「しっかしなぁ」
後藤が天井を見上げながら腕組みをした。そして、目線だけを落とし、私を見た。
顔はよく見えない。だけど、目の中の白い部分だけが光った気がした。
「よっすぃ〜って女優の才能あると思わない?」
身長はさほど変わらないはずなのに、明らかに私は見下ろされていた。
―
私はただ愕然とした。
震えが全身を伝い、足の指先にまでそれが伝わると自重を支えられなくなり、その場に
ペタッと座りこんだ。床はひんやりしていて心なしベトベトとした感触があった。後藤
はしばらくそんな様子を見下ろした後、自分の両膝を両腕で抱えこみ私と目の高さを合
わせた。
今日はじめて後藤の顔をまともに見た。
悪戯好きな「小悪魔」と無感情に地獄へ突き落とす「悪魔」の中間のような表情。
「ごめんなさい」
私は後藤の顔に背けるようにして、そう口にして逃げ去った吉澤を思い出していた。
確か泣いていたはずだ。
怯えていたはずだ。
どうしてだろう?
私の意識に描く吉澤は後藤のように私をさげすむような笑い方をして去っていく。
そんな吉澤が目の前に具現化して何度も何度も繰り返されていた。
泣きそうだったのは・・・震えていたのは・・・私を見ていて面白おかしかったから?
「どうしたの?市井ちゃん?そんなところに座ったら汚いよ」
「・・・」
「ね〜え〜、市井ちゃんってばぁ、立ちなよ〜」
「・・・」
「この体勢、疲れるんだけどぉ〜」
「いつからなの?」
「うん?」
「いつから、吉澤は私を・・・その・・・」
騙してたの?
その言葉は口には出せなかった。
言えば私が描く否定的な想像の全てを認めそうで怖かった。
後藤はマニキュアが綺麗に塗られた人差し指で頬の辺りをポリポリと掻く。
ちょっと口を尖らせながら目線を斜め上に向ける。
「いつからって、言われてもねぇ・・」
「教えて」
にらみつけるように私は言った。
それは決して相手を脅そうとかするものではなく、この時はかろうじて持っていた
「現実を見つめる力」を支えるための虚勢行為。
しかし、そんな力は一瞬で壊される。
後藤はグググッと顔を近づけて、一旦口端を吊り上げて気味悪く微笑んでから言った。
「最初から」
吐き捨てられたような一言だった。そして、それは私を奈落へ突き落とすような一言。
「最初って・・・」
「うん、市井ちゃんがよっすぃ〜に初めて電話をした時から。よっすぃ〜の家に行った
よね?そ〜と〜楽しかったみたいだね。泊まったんだよね。いろいろ教えてくれたよ。
『市井さんって単純だよね』って笑ってた。ま、私は市井ちゃんのそういう単純なとこ
ろも好きなんだけどね」
「吉澤が・・・言ったの?」
「当たり前じゃん。だからぜ〜んぶ知ってるよ。市井ちゃんがよっすぃ〜とどんなこと
を話してたか、とかね。あ、そうだ。よっすぃ〜が市井ちゃんに遊びに行った時あった
でしょ?あん時のオルゴールとか五重の塔とかって全部あたしが選んだんだよ。どう?
センスあるでしょ?」
「じゃあ・・・今日後藤がここにいるのは?」
「もちろん、よっすぃ〜と計画したんだよ。あたしとしてはもうちょっとこのままでい
ても楽しかったんだけど、よっすぃ〜が飽きちゃったって言うもんだから。それじゃあ
市井ちゃんをびっくりさせようって思って。どう?びっくりした?」
まさか・・・。
うなだれるように下を見た。
もう顔を上げる力すら残っていなかったから下を向くしかなかったというほうが正しい
かもしれない。
吉澤との再会から今までの記憶が頭の中に流れ込む。
「ごっちんは私に何を求めているんでしょう?」
「絶対に夢を叶えてくださいね!」
「お邪魔します。遊びに来ちゃいました」
「実はですね〜、市井さんの写真なんです」
吉澤の発した一言一言が黒いものに包まれる。
吉澤の瞳の奥で言葉とは裏腹な気持ちが見え隠れする。
ずっと私を笑っている。
一瞬「そうじゃない」と否定する。
しかし「そうなんだよ」という声も聞こえてきてそんな否定を押しつぶす。
誰の声かはわからない。
しいて言えば、後藤と吉澤を合わせたような声だった。
ずっとうなだれたままの私を後藤はしばらく無表情なまま眺めた後、くすっと笑い、
咳ばらいをした。
そして、私の両脇をつかんで無理やり立たせた。
「よいしょっと。ま、とにかく、そういうわけだから」
あっけらかんとした口調に乗せられて私は後藤の顔を見る。
今日初めてまともに目が合った。後藤は私の肩をつかみ、威圧するように力をこめて肩
の骨を握り、薄く笑った。
肩の痛みが逃避しようとしていた私を現実へと引き戻す。
「これでわかったでしょ?」
絡みつくように腕を肩から背中にまわし、抱きつく。
そのままゆっくりと唇を近づける。そのまま重なる。
体温の感じられない冷たい唇。
「市井ちゃんにはあたししかいないんだから」
後藤は私を優しく抱き締める。自分の顔を私の肩口に乗せる。
「あたしは市井ちゃんのことだけを考えているから」
耳元で甘くて冷たい声で囁くと、少し離れた。
そして、再び、目が合う。
瞳に映る私が見えた。
「だから、お願い」
見えない鎖に巻き付けられて身動きが取れない・・・そんな私。
「市井ちゃんもあたしのことだけ考えて」
そして私は壊れた。
―
その日、私はどうやって帰ったのか覚えていない。
朦朧とした意識の中で、電気も点けず、ベッドの上でうずくまった。
深い暗闇の中、窓から見える琥珀色の月の光だけが不気味に射し込む。
吉澤が携帯に電話をかけてきた。
しかし、月よりも怪しく、緑の蛍光色を光らせた液晶画面の中に表示される「吉澤
ひとみ」という文字を見るなり、虚脱しきった体の中から「怒り」だけが携帯の持つ手
に集められた。壊れそうなほどに強く握り締めながら、電源ボタンを強く押し、携帯電
話を壁に向かって投げつけた。ボコッという音がして、白い壁が薄くはがれた。
吉澤はずっと私たちの会話を後藤に逐一報告していた。
私に話していたことの全ては後藤の指示だった。
あの引出しの写真立ても後藤が用意した小道具だったのかもしれない。
「憧れている」とか「がんばってください」とか「尊敬している」だとか、そんな言葉
は全部嘘だった・・・。
いつも吉澤は後藤と一緒に私を蔑み、笑っていた。
よく考えれば矛盾はあった。
「ごっちんは私に何を求めているんでしょう?」
この言葉は一ヶ月足らずの付き合いしかない私なんかに聞くものではない。
本来なら、裕ちゃんや圭ちゃんに言うのが筋だ。
なんで気付かなかったんだろう。
その理由はわかっていた。
私は吉澤を信頼しきっていたからだ。
一つの苦しみを分かち合っていた気分になっていた。
悪く言えば「傷を舐めあっていた」。
響きの悪い言葉かもしれない。
しかし、たとえこんな私の気持ちを知った誰かにそう言われたとしても私はかまわない
とさえ思っていた。
いや、そういうことは単なるきっかけで・・・、
私は吉澤のことが「好き」だった。
恋心とか、愛情とかは少し違う。希望とか慈愛とか友情とか尊敬とか・・・「幸せ」の
カテゴリーに入る言葉たちを全て含んだような、そういう「好き」。
私の心を支えてもらいたくて全体重を吉澤に傾けようとした、その矢先の裏切り。
吉澤に裏切られたショックと、結局後藤の手の平で踊らされていただけだったと気づい
たショック。手足は血が行き渡っていないかのようにしびれ、そのまま生きている感覚
を失っていくようにすーっと消えていく。
どうしようもない「絶望」という二文字が目の前で踊る。
幻聴だろうか?
どこかからか足音が聞こえてくる。
コツコツコツコツと。
何か聞き覚えがある。
そうだ。
今日の・・・私に近づいてくる後藤の足音だ。
後藤は警察官。
私は檻の中の犯罪者。
汚い服やこけた頬に空虚な思いを身にしみらせながら後藤を見る。
警棒を持った後藤は鉄格子越しに私を見下ろして、「ムダだよ」と囁く。
後藤の影に隠れて吉澤が見える。確か私の横にいたはずなのに・・・。
吉澤は「実は私はこっちの人だったんですよ」と言わんばかりに笑っている。
檻の外にから手を懸命に出しても吉澤に触れることはできない。
温もりのない後藤の体だけが触れて私の体を冷やしていく。
檻の後ろには窓がある。
唯一、檻の中を照らす光が射しこんでいる。
ずっとずっとあの窓から脱出できないか考えていた。
隣りにいた吉澤は私にいつか羽根をくれるような気がしていた。
そして、それを広げて飛び立てるような気がしていた。
しかし、全ては一人よがりだった。
思い込みだけで飛ぼうとした私は、在りもしない羽根を懸命にばたつかせて、無常に落
ちていく。
大きな痛みが体中を走った後、全てが幻だったんだと悟る。
疑問を抱く。
どうして最初から私を騙せたの?
どうして私が電話するのを知っていたの?
どうして最初から吉澤に指示を出せたの?
確か後藤が近くにいないことを知っていたから電話をかけたのに。
そして、考えたくない答えを見つける。
圭ちゃんだ・・・。
圭ちゃんが後藤に告げ口したんだ。
いや、もしかしたら最初から聞いていたのかもしれない。
そして、後藤は吉澤に命令する。
「私を騙せ」と。
「後藤には言わないで」って言ったのに。
圭ちゃんも裏切ったんだ・・・。
もう誰も信じられない。
「私は一人だ」
涙が目と口を結ぶ。
しょっぱいなどという涙の味はなかった。
「一人にしないで!」
昔、そんなことを叫んだ記憶が唐突にやってきた。
どんな状況だったのだろうかは思い出せない。
ただ記憶の中の幼い私は何度も遠い誰かにそう叫んでいて、今の私とシンクロさせてい
た。
一度、圭ちゃんから電話がかかってきた。ずいぶんと嬉しそうだった。
圭ちゃんによると、最近の後藤は四六時中、明るいそうで私に関する話題なんかもする
そうだ。仲直りしたみたいだね、よかったね、と言っていた。
私はその間、
『ケイチャンモウラギッタ』
呪文のように何度も何度も心の中でつぶやいた。
口から出そうになるのを抑えるように、
「ありがとう」
を意味もなく何度も言った。
私の気持ちなど察する様子もなく、圭ちゃんはただただ喜んでいた。
冷静に考えて見れば、もともと圭ちゃんは私の後藤に対してどんな淀んだ気持ちがある
のかなんて知らないはずだ。
後藤に告げ口することも関係修復の一つの手助け程度に考えていたのかもしれない。
そう、圭ちゃんに罪はない。
しかし、頭ではそうわかっていても圭ちゃんに対する嫌悪感は拭えることはなかった。
それから後藤は再び電話をかけてくるようになった。
私は後藤からかかってきていることを知ると意思のないあやつり人形のように電話を
とった。
「ねえ、昨日あたり圭ちゃんと話でもした?」
「え?」
「電話したの?って聞いてるの。今日の圭ちゃん、やけに嬉しそうに市井ちゃんのこ
と、喋るからさぁ。そうなんじゃないかって」
「・・・した・・・けど」
「何話してたの?」
「別に・・・ただ『後藤と仲直りしたんだ』って言ってた。喜んでた・・・」
「ふ〜ん、仲直りだなんて変なこと言うんだねぇ〜、圭ちゃん。ケンカなんかしてない
のに。ねえ?」
「・・・うん・・・」
「ホントバカだよね〜。でもさぁ、市井ちゃんも市井ちゃんだよ。なんで出るの?」
「え?なんで、って・・・」
「だってさあ、市井ちゃんには圭ちゃんなんかいらないもん。言っとくけど、
よっすぃ〜だけじゃないんだよ。圭ちゃんもなんだよ―――」
「わかった!!わかったから・・・」
久しぶりに生気のある声を発し、後藤の言葉を御した。
「圭ちゃんも裏切った」
後藤が言うより先に、私の脳裏をかすめていた。
頭で思うのと口にするのではその重みが違う。私はとっさに防衛本能が働いた。
「それじゃあ、出ないでね!・・・って今、いいこと思いついた♪」
と後藤は笑いながら言う。
「何?」
「ふふ〜ん♪内緒!明日かあさって行くから待っててね!」
「う、うん・・・」
「じゃあ切るね。ダ〜イバ〜イ♪」
そして明後日。後藤は私に携帯電話をプレゼントした。
ドコモの最新型の一世代前の白い機種。
それには後藤の電話番号だけが記憶されていた。
代わりに、今持っている私の携帯電話を取り上げた。
「これで圭ちゃんとかからかかってくることもないってわけだ」
満足気な後藤。
「でも・・・私・・・」
「私がいれば市井ちゃんは幸せなんだから」
「しあ・・・わせ・・?」
「うん、市井ちゃんはやっと幸せになれるんだよ!」
虚ろで白っぽい目を後藤に向けると、後藤は高らかに歌い上げるようにそう言った。
「幸せ」と聞いて吉澤を思い出す。
それは吉澤に求めていたもののはず。
だけど、今の私には後藤の後ろでクスクスと嘲笑する吉澤の姿が目の前に立つ。
私が見ていた「幸せ」って何だったの?
所詮は偶像に過ぎなかったの?
周りのもの全てに吐き気がした。
そんな私に「後藤のためだけの携帯電話」を拒否する意識は残っていなかった。
とはいっても新曲のレコーディングやダンス練習。それにシドニーオリンピック関連な
ど、いつにも増して時間がないようで前みたいに毎日のように電話をかけてくることは
なかった。
その点は、随分柔和にはなったと言えるのかもしれない。
しかし、私の感じる束縛は前とは比べ物にならないほどに強くなっていた。
後藤はそんな私を知っていたから毎日かける必要がなかったのかもしれない。
後藤は電話をするたびに「会いたい」と口にする。
その言葉を聞くたびに、私のかけらがこぼれ落ちていくような気がする。
「会いたい」なんていとおしい言葉なのに。
「私は汚れちゃったのかな・・・」
自暴自棄になった。
裕ちゃんの言った「わがまま」という言葉が頭の中を駆け巡る。
「ホント、わがままだよね・・・」
そう一言つぶやいて、焦点の合わない目で自分の手首を見た。
―
それから数日間、家から全く出なくなった。
1日の感覚がなくなって、今が朝なのか夜なのか、平日なのか休日なのか、雨なのか晴
れなのか、わからなくなっていった。
外出はおろか、ベッドに寝たままで起き上がることもほとんどなかった。
相手が一人しかいない携帯電話を呪縛がかかったように握り締めて、一人ぽっちの空間
をさまよう。そこから抜け出してくれるのは後藤だけ。だけど抜け出したところで苦し
いのは変わらない。
ただ、左手首の痛みばかりを感じていた。
それだけが私が生きている証のように体中にジンジンと伝わる。
夢を見た。
モーニング娘。時代。
私の視界にはホログラフィーみたいな私の過去の等身が映っている奇妙な光景。
それは動いていて触ることができそうな質感。
緊張しすぎてめまいを起こしている自分がいる。
夏先生に怒られて泣いている自分がいる。
初めてのミュージックステーションで声が震えている自分がいる。
ライブでこけて恥ずかしい思いをしている自分がいる。
タンポポに入れなくて打ちひしがれている自分がいる。
一人だけダメ出しされた自分がいる。
明日香が辞めると聞いて明日香に泣きついた自分がいる。
名前を間違えられてショックな自分がいる。
あやっぺが辞めて、漠然とした不安に駆られる自分がいる。
青色7が一番売上が悪くて落ち込んでいる自分がいる。
それぞれの自分が「苦しい」「つらい」と見ている私に訴えかけてくる。
ねえ、なんでここにはそんな私しかいないの?
苦しいこと、つらいこと以上に楽しいこととか嬉しいこととかいっぱいあったはずなの
に・・・。
あったよね?
例えば・・・、
必死で思い出そうとする。
だけど、何も思い出せない。何も覚えていない。
なんで?なんで?
目の前に後藤が現れた。後ろ向き。
髪が肩の下まで伸びていてちょっと茶髪・・・今の後藤・・・。
「愛してる」
「大好き」
「会いたい」
そんな言葉を吐き出すたびに、そんなホログラフィーがまるでそれがガラス細工だった
かのように無残にも砕け散る。
あとに残るのは真白な大地。何もない。
無限の空間に後藤と今の私の二人きり。
後藤は振り返る。
私と目が合う。
その瞳に私は吸い込まれる。
「市井ちゃん・・・」
身動きが取れない、目をつぶることもできない私に後藤はゆっくりと近づいて、
「私は市井ちゃんの―――」
・・・目が覚めた。
寝汗が長いこと洗っていないシーツを濡らしている。
そんなびしょぬれの布団の端を力なく握り締めながら、どこまでが夢でどこまでが現実
なのかを両手でこめかみのあたりをぎゅっと押さえつけながら振り返ろうとする。
そして、どうせその境界線ははっきりしていないんだと悟る。
「後藤は夢の中まで束縛するの?」
さっきから目の前にちらちらと映る後藤の幻に向って枕を投げつけた。無常にその幻を
通り抜けて窓にぶち当たる。夏の真昼、からからに乾いた空気の中をつっきる太陽の光
は閉め切ってある私の部屋にも強く射し込む。
異常な室温の中でも私は寒気がして、布団にくるんでうずくまった。
もう涙は枯れてしまったようで、涙の跡の赤い線だけが両頬に残っていた。
「私・・・もう・・・」
「ダメみたい・・・」
玄関のチャイムが鳴った。
―
玄関までどうやって行ったのかなんて覚えていない。
今までもチャイムなんて何度も鳴ったかもしれない。
しかし、今回だけはなぜかその間の抜けた音が私の耳に届き、そして足を動かした。
「はい・・・」
覗き穴はあったがそれを使うことなくドアを開けた。
そこには遠い過去の記憶にしかない顔が二つあった。
「紗耶香」
「紗耶香・・・」
「・・・・・・」
向こうは私の顔にひどく驚いていた。
「なっち・・・矢口・・・」
二人の顔を見るなり、急激に恥ずかしくなった。
遠い過去に付き会った人と同窓会なんかで出会って、もしその人が今幸せな生活を送っ
ていて、対照的に自分が落ちぶれていたとしたらこんな気持ちになるのかもしれない。
ほとんど無意識に扉を閉めようとした。
しかし、矢口が足を伸ばして、それを止める。
「イテッ!」
その悲鳴に私はつい扉を離してしまい、矢口の足を弾力として反対に大きく開いた。
外の光が私の薄暗い部屋に入り込み、その前に立つなっちや矢口が光を背負いながら大
きく見えた。
「元気?」
少し、表情をひきつらせながらなっちは微笑んだ。
「うん・・・」
時間を歪ませて、なっちと矢口の記憶が遠い所からやってくる。
恥ずかしいという気持ちとは正反対に、私はその存在を確かめるように知らないうちに
二人に抱きついていた。
「どうぞ」
散らかった部屋の小さなスペースに二人は座った。
部屋の温度は40度近くになっていた。窓を開けると生ぬるい風が柔らかく突きぬけ
る。最初は心地よかったが、段々その生温かさゆえに気持ち悪くなる。なっちや矢口
の顔にも汗がじんわりと滲み出る。
なっちは顎から滴り落ちる汗の玉を何度も懸命に拭っていた。
「ごめんね、飲み物ないんだ」
「ううん、いいよ」
冷蔵庫に何かあるような気がしたが、きっと賞味期限が切れているだろう。
久しく開けた記憶がない。
なっちと矢口は困惑の表情を隠しきれずに表に出していた。
無理もない。さっき鏡を見てみたら、脂ぎった顔と体、淀みきったその表情は自分で
も、
「これ、私?」
と思いかねないところだったから。
「で、どうしたの?突然」
精一杯の明るい表情を見せた。二人に心配をかけたくなかった気持ちからだ。
「電話ぐらいしてくれたら駅まで迎えに行ったのに」
「だって、つながらなかったもん」
矢口が言った。
そうか。そういえば、携帯変えたんだ。変えさせられたんだ。
二人は私に促されるまま、テーブルの横の座布団に座った。なっちは私の方をじっと見
つめる。一方、矢口は部屋をキョロキョロ見回している。ホコリが見えてきそうなほど
淀んだ空気。そしてその中にあるベッドや机、買って一度しか触っていないギター、脱
ぎ捨てられたジーンズも全てそんな空気に汚染されている。
「あ、そうだっけ?この部屋って圏外なのかなぁ、ははは」
そう言いながら、私はテーブルの隣りにあるベッドに腰掛けた。背筋をできるだけ伸ば
し、何とか気勢を張った。
なっちも矢口も一つの感情を抑えようと顔をこわばらせている。
部屋の窓の向こうでは木々の葉っぱが時々サワサワと気持ち良さげに音を立てている。
それは「この部屋はなんて惨めな空間なんだ」と歌っているみたいで、そんな空間に耐
え切れず私の方から口を開いた。
「そういえば、ハロプロはどう?なんか昔よりも楽しそうで、ちょっとうらやましい
なぁ。何か変わったことあった?あ、そうだ。シドニー行くんでしょ?おみやげ買って
きてよ、何がいいかなぁ。でもチョコはイヤだからね」
「紗耶香」
なっちは私の口調の痛々しさに耐え切れなかったのか真摯な面持ちで私の名前を呼ん
だ。
「なんか変だよ」
「変って何が?」
「紗耶香が」
雨でずぶぬれになっている捨て犬を哀れむような目で私を見た。
「私のどこが?そりゃあ、髪もボサボサだし、ろくに化粧もしてないけどいいじゃん、
別に。テレビに出るわけでもないんだしさぁ・・・マイペースでやってると私ってこん
なもんだよ」
最大級の同情を浴びせられ、私は必死であらがうがどう見ても言い訳がましい。
当然、二人は嘘を承知で聞いているみたいで表情を崩さない。
「ごっちんと何かあった?」
なっちの言葉は私の言葉を全否定しているようだった。
後藤という名前を聞いてめまいを覚えた。深い緑色が目の周りを包む。
しかし私は一回固く目をつぶってそれを振り払い、必死で平静を保とうとする。
「え?どうして?別に。うまくやってるよ。そりゃあ、最近は会ってないけど電話だけ
はしてるし、心配しないで」
「そういうことじゃないよ。ごっちんに何かされたの?」
「どういう意味?わかんない」
「紗耶香・・・」
なっちは言葉を詰まらせた。その後、目をつぶりながら大きく息をついた。
「なんでそんな風になっちゃったの?」
なっちがそう言った瞬間、矢口がスクッと立ち上がった。
何かを見つけたらしく、その目は一点を向いていて、その方向に矢口は歩き出した。
そしてベッドに転がってあった私の携帯電話を手に取った。
「あれ、紗耶香。携帯変えたんだ」
「あ、うん・・・」
断りもなくいくつかボタンを押す。別にずうずうしい神経の持ち主ではない矢口には有
り得ない行動だ。そして―――、
「番号も変えたんだ。じゃあ、繋がるわけないよね」
怪しげに目を細めて私を見た。
「・・・」
矢口が手に持つ携帯電話を取り返そうとかそんな気にはなれなかった。
私の体はもうこの時すでに助けを求めていたのかもしれない。さらに矢口のボタンを押
す音が聞こえる。
「着信履歴は、と・・・ふうん、全部ごっちんだ・・・」
私は二人を見ることができずにうつむく。
しかし、自分の中の頑固な部分が今にも悲鳴をあげそうな心を押さえつける。
「いいじゃん、ラブラブなんだしさぁ。ほっといてよ」
半ば、にらむような目つきで矢口を見た。
憔悴し切った顔から放たれた鋭い眼光は矢口を少なからず戸惑わせたようで、一瞬矢口
はたじろいだ。
「紗耶香」
なっちが私を呼びかけ、
「そんな顔して、どこがラブラブなのよ・・・」
と言う。
「うるさいなあ、私がそう言ってるんだからいいじゃん。あんたたち一体何しに来たの
よ。同情しに来たの?そうなんだったらいらないから帰ってよ!」
なっちが私の言うことを無視して、横に腰掛けてきた。さして弾まないベッドのスプリ
ングが一回、二回と大きく弾む。
「ごっちんがさぁ、なんか変なんだ。休憩中とか誰とも話しをしないし全然笑わない。
何か音楽を聞きながら、時にへらへら笑ったり、ぼーっとしたりして、いっつも一人の
世界に浸ってる。最近のごっちん見てると気味が悪くてしかたないよ。ねえ、紗耶香。
ごっちんと何かあったの?」
「ごっちん」
そう繰り返される言葉に私は、自分の出した結論を一つ思い出した。
「私は一人だ」
きっと、この二人も同じだ。
吉澤や圭ちゃんと。
後藤の味方なんだ。
モーニング娘。や自分を守るために・・・私を利用しているだけなんだ!
「なっちには関係ない。何にも変わってないし、楽しく付き合ってる。用はそれだけ?
だったらもういい?私だって忙しいんだ!」
私は真横にいるなっちを見ながら叫ぶ。すると、なっちは、
「関係あるよ。ごっちんはメンバーなんだよ!」
叱ることが苦手だと言っていたなっちが精一杯に叱り飛ばした。
なっちや矢口の後ろに後藤が見える。
後藤の吹きかけた息がなっちや矢口を包んでいる。
もう、騙されない。
騙されない。
私は、大きく目を閉じてゆっくりと息を吐く。
1秒・・・2秒・・・。
「紗耶香?」
矢口が呼びかけてから、私は目を見開いてスクッと立ち上がった。
「帰って!もういいよ。私にはわかるんだから!これ以上こんなことしてもムダなんだ
から!!」
「何、言ってんの?紗耶香。何がムダなの?悩みなら聞くよ」
と矢口が興奮している私をなだめるように言う。
「そうだよ、友達っしょ?」
なっちもベッドから立ち上がって言う。
「私は・・・もう友達なんて思ってないから!!だから帰って!」
二人の顔色が変わった。
「紗耶香!!」
冷静だった矢口がすぐさま声を張り上げた。
「な、何?」
こみ上げる感情を押さえるように打ち震える矢口。
「・・・」
「何よ・・・」
「・・・」
「何なのよ!」
そして、まぶたに涙を浮かべ、首を小さく傾けながら矢口は言った。
「・・・もだちだよ・・・」
「え?」
「私たちは・・・友達だよ・・・」
「矢口・・・?」
悲しみが十二分に含んだ声音とともに、涙がツツーッと糸をひくように伝って、フロー
リングの床にポタリと落ちた。
その涙はいくつもの光を集めてきらめきそして弾けた。
純粋な結晶みたいに美しく、儚かった。
「どうして・・・そんなこと言うの?」
こんなに悲しい矢口を見たのは初めてかもしれない。
「だけど・・・」
言いよどんだ私に、なっちは私の両肩をつかみ体を自分側に向かせた。
「紗耶香!私たちは友達だよね?親友だよね?」
なっちも目を潤ませていた。ただ矢口とは違って小さな怒気を含んでいた。
私の心はお寺の鐘のように重い音を立ててグワングワン揺れた。
「じゃあ・・・証拠見せてよ・・・」
苦しまぎれにそう吐き捨てながら後ずさりをすると体が窓に当たった。その窓枠を背も
たれにしながら何とか気勢を張った。
追い詰められた私は、
「見せてよ・・・」
ともう一度繰り返しながら、近づいてくるなっちの体を押し飛ばそうとする。
すると、なっちはその私の手首をギュッとつかんだ。
なっちはハッとした表情を浮かべた。そしてすぐさま、なっちは私の眼前まで顔を寄
せ、キッと睨んだ。
「紗耶香・・・」
「・・・何よ、離してよ」
「これ・・・何?」
と私の手首を一瞥して、再び私をまっすぐ見た。
真剣な目だった。
何の曇りもない透き通った目。
だけど、すっごく悲しい目。
「これは・・・」
戸惑う私に、なっちは私の左頬に痛烈な痛みを与えた。
パチーンという音が部屋に響きわたった。陰湿な空間を切り裂いたような音がした。
「死のうと・・・したの・・・?」
私は何も言えず、目線を逸らすようにうつむいた。少し遠めにいた矢口がえっ?という
声を出して、私たちに近づく。
そしてなっちにつかまれてる私の右手首の傷跡を見て、蒼ざめる。
「どうして・・・?」
「いいじゃん・・・別に!」
私はつかまれていた手を強引に振り切った。後ろの窓に肘があたり大きな音がした。
ちょっとしびれたが痛みはなかった。
「いいわけないじゃん!!」
矢口が口を開く。
「どうしちゃったの?どうしたらこんな風になるの!今の紗耶香って抜け殻じゃん!そ
んな紗耶香なんか見たくないよ!!」
涙が叫びとともに飛び散った。
私はとっさに否定しようとして、叫び返す。
「抜け殻なんかじゃない!私は一生懸命やってる!自分で考えて自分で行動して
自分で――――――」
言葉が止まった。
「嘘ばっかりだね」
頭の中で、後藤の声が聞こえた。
「嘘つき」
「嘘つき」
「嘘つき」
同じ言葉がいくつも飛び回る。時には同調し、時にはうなりながら頭の中を駆け巡る。
そうだ・・・。
私は何にも自分でやっていない。
脱退した後も、脱退する前も。
何一つとして変わっていない。
嘘ばっかりだ。
「さ・・・やか・・・?」
矢口が言葉や表情の固まった私の顔を不思議そうに覗きこむ。
私は矢口に反応することなく、ガクンと腰を落としうなだれた。
そして、そのまま嗚咽した。
なっちや矢口の存在に構うことなく、顔を両手で覆って泣き崩れた。
枯れきったと思っていた涙はいつもとは違うところから堰を切ったように流れはじめた。
なっちと矢口はお互いに顔を見合わせた後、前にいたなっちが私の横にまわり、優しく
私の肩を抱く。
「紗耶香」
矢口が私の名前を呼ぶ。
「一人でなんでもやろうって思わないでよ・・・」
その矢口の甲高い涙声となっちのぬくもりが痛かった。
そんな二人に包まれて私は延々と泣きつづけた。
涙はいつもよりも重くて熱かった。
泣き止むまでにどれくらいかかっただろう。
なっちはずっと私の体がなっちに委ねられるまで精一杯抱き締めてくれた。
優しく包み込む母親のように。
矢口は私と一緒にずっと泣いてくれた。同じ涙を流してくれた。
心の繋がった姉妹のように。
過去の記憶が頭の中で古いビデオテープのようにキュルルルと音を立てて巻き戻され、
そして再生される。幼い頃の私。段々遠ざかる父の後ろ姿。
「一人にしないで!!」
悲しくて、痛くて、怖くて、どんなに叫んでもその思いは届かなくて・・・。
そっか、あの時の記憶だったんだ。
あの時は・・・お母さんやお姉ちゃんの温もりを感じて癒されていったんだ。
そして今は、なっちが、矢口が同じように・・・。
どうして、こんな風になっちゃったんだろう。
私には親身になってくれる親友がいるのに。
どうしてもっと素直に打ち明けなかったんだろう。
いつの間に「一人」という言葉を「自立」と置き換えていたんだろう。
「一人ぼっち」なんて私が一番、嫌いな言葉なのに。
生まれて初めて憎んだ言葉だったはずなのに。
こんな単純なことだった。
ただ単純なものをそのまま単純に見れるほど私は純粋じゃなかった。
私はただ震えた。そして、その震えを再び私の意地っ張りな部分が懸命に抑える。
なっちは硬直している私の首をちょっと背伸びして抱きかかえた。そして、耳元に
自分の口を近づけて、囁いた。
「ねえ、なっちじゃ力になれないの?」
一瞬、部屋の外から吹きつける涼しげな風が吹いた。
その風に乗せられたような柔らかな声だった。全てを否定し硬直していた私の体は自然
となっちに預けた。
今日見た夢を思い出す。
後藤が吹き飛ばした私の過去。
残ったのは真っ白な大地。
でもそれは決して何もないんじゃなくて・・・、
大地というキャンバスがあった。
掘れば何か見つかるかもしれない。
信じて必死になって掘ればいい。
真っ白なのが嫌だったら絵の具でその大地を塗ればいい。
赤や、青や、黄色に。
頬の痛みの余韻がまだ残っている。
それは手首の痛みよりもずっと痛くて・・・それなのに、気持ちよかった。
私は一回鼻をすすって二人の顔を見た。
少し恥ずかしくて、ヘヘヘと、はにかむ。
「ありがと・・・」
今の私にはこの言葉しか思いつかなかった。
ありきたりなものだったけど、最大の言葉だった。
「そうだ、紗耶香」
何かに気付いたようになっちは言う。
「うん?」
「これが証拠かな?」
「え?」
私を優しく抱きかかえたなっちがさらにちょっと強く私を抱き締めて、ちょっと照れく
さそうに言った。
「これが・・・友達の証拠・・・」
「・・・うん・・・」
温もりも涙も頬の痛みも・・・そこにあるものの全てが「私は一人」を否定しているよ
うに感じた。
しばらくして落ち着いた後、私は今までにあったことの全てを二人に話した。
ずっと後藤を煙たがっていたこと。でも仲良くしていなきゃいけなかった理由。脱退の
理由から携帯を変えた理由。そして・・・死のうとしたことまで。
言葉のふしぶしに自分の卑しい本心が見え隠れしていて、それが風邪かなんかで嘔吐す
る時のような気持ち悪さを覚えた。
でも吐き出した後は身が軽くなった気がした。
その代わりに、なっちと矢口はみるみるうちにその顔色を土気色に変えていく。
「そうだったんだ・・・」
「全然、気付かなかった・・・。ごめん、紗耶香・・・」
私は、かぶりを横に振った。
「私が臆病なだけだから。誰も傷つけたくなかったから・・・」
「誰も傷つけたくない」が為に自分を抑えつけることは自分自身を傷つける。
そしていつかそれは結局他人を傷つけてしまうことになる。
昔読んだ本にそんなことが書いてあったのをふと思い出した。
「それにしても、ごっちんひどい!」
「よっすぃ〜もだよ!なんでごっちんに力を貸すの?」
「ねえ、紗耶香。気付かなかった私たちも悪いけど、どうして打ち明けてくれなかった
の?」
「どうして・・・って。これは私と後藤の問題だし・・・。みんなに迷惑かけたくな
かったから」
「そんなこと言ったってさぁ、辞めた時点でめちゃくちゃ迷惑かけてるじゃん」
矢口が言った。すごく優しくてちょっととぼけた感じだった。
「ははは、そうだね」
「それにさぁ、親友にはいっぱい迷惑かけるもんだよ。『お姉ちゃん』にならもっと
ね!」
お姉ちゃん・・・。
矢口にほとんど真顔で言われたのでちょっと吹き出す。
「そう、それそれ!」
なっちが私を指差す。
「その笑顔が紗耶香だよ。もっと笑って笑って!」
と言いながらベロベロバーをしている。
それは赤ん坊に対してすることだよ、なっち・・・。
なんて心の中で突っ込みながら顔から硬直の気配は完全に失せていた。
「よしよし、これで紗耶香は大丈夫っぽいね。あとはごっちんだ。でも紗耶香は心配し
なくていいよ。私たちでなんとかする」
小さな(と言えば、怒られそうだが)胸をドンと叩いて矢口が言った。
「ありがとう・・・お姉ちゃん・・・」
「うわ!紗耶香にお姉ちゃんって言われるの、なんか恥ずかしい!」
「自分で言ったんじゃん」
三人は声を揃えて笑った。
なっちと矢口はそれからどうするか私に伝えた。
とりあえず、明日、裕ちゃんに言うらしい。そして、後藤の考え方を変えてもらう。
それができなければ辞めさせる方法を考えるとも言った。
実際は口で言うほど単純に解決できるはずがない。
今のモーニング娘。にとって後藤の存在は大きいはずだ。もし、後藤が辞めれば、モー
ニング娘。自体は大打撃だ。それに今回の真相がバレたのなら解散かもしれない。きっ
と二人もそれはわかっていることだろう。
「ごめんね」
「ありがとう」
二つの言葉を何遍も心の中で繰り返した。
なっちと矢口が帰った直後に携帯が鳴った。もちろん後藤からだ。
はっきりとした意識の中、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「もしもし、市井ちゃん!元気?」
「まあね、元気だよ」
「あ、本当に元気そうだ!最近、電話で話しててもさぁ、元気ないなぁってちょっと心
配してたんだよね〜」
「そうなんだ、ごめんね」
「うん、それでさ、なんか超ムカつくんだけどぉ〜。今日なんか、みんな休みなのにあ
たしだけ仕事なんだよ。ひどいと思わない?」
「へぇ、そうなんだ。大変だね」
「せっかく東京にいるのになぁ。会いたいよぉ〜」
「でも仕事なんでしょ?がんばらなきゃ」
「わ〜い、市井ちゃんに励まされると元気回復だ!会うと全開なんだけどなぁ〜」
「うん」
「今日はこれから夜まで仕事。やってらんないけど頑張るね。それじゃ!!」
「うん、バイバイ」
「バイバイ!」
心臓の高鳴りは抑えようもなかったが、後藤の声を聞いても冷静でいられた。
なげやりまま全てを後藤に預ける私はいなかった。
矢口やなっちや他のメンバーに迷惑ばかりかけてはいけない。
誰かに頼るのならその人を助けなきゃいけない。
私ができることはできるだけ何とかしなきゃ。
しばらく使われていなかった手足の筋肉を動かした。
自分の筋肉じゃないようで少し変な感じがした。
ふと窓の外を見ると、相変わらず木々の葉っぱがサワサワと気持ち良さげに音を立てて
いる。しかし、不思議なもので同じ音のはずなのに今度は「よかったね」と言っている
ようだった。
「うん、ありがとう」
私は大きくうなずきながら言った。
今日、ありがとうって言うのは何回目だろう、と思うと苦笑した。
二時間後、黒ずんだ顔を洗い流し、久しぶりに眉毛を描いた自分にちょっと(ほんの
ちょこっとだけね)酔っている時に、矢口から電話がかかってくる。
「なっちが事故に遭った」と。
―
私は事の次第を聞くと着の身着のまま病院に向かった。
「なっちが事故に遭った」
それだけじゃわからないよ・・・。
重傷か軽傷か。事故なのかそれとも・・・?
私はできるだけ何も考えないようにした。
でもどうしても考えてしまう。
あまりにもタイミングが良すぎて。
タクシーの運転手さんに1万円札を渡して、お釣りは受け取らずに飛び降りた。
病院の中では正面玄関から入ったため、私の視界には大きなロビーが開かれる。
初めてきた病院ではあったが雰囲気がなんとなくおかしなことはすぐ気付いた。
「あ、市井紗耶香だ」
右足にギブスをしている患者が息を切らせている私を見てそう言った。
「っていうことはさっき噂はホントだったのかな?」
「誰か何かあったのかな?」
「あの!!」
とりあえず私は受付に飛び込んだ。
「はい・・・何でしょうか?順番にお呼びだて致しますので・・・」」
汗ダクダクの私を見て受付越しのナースが少し驚きながらも不満げな顔をする。
「さっき、なっちが運ばれたって聞いたんですが?どこ行けばいいんですか?」
「はぁ?」
よくわからないといった表情をする。
「えっと・・・急患です!安倍なつみです!」
後から考えると私がいかに動転していたのかわかる。
気が立っている私は自然と大きな声を出していて、ちょっとした注目を集めてしまって
いた。その時、たまたま通りかかった一人の医師が、
「どうしたんだ?」
と声をかけてきた。返事をする前にその医師は顔を見るなり、私のことを知っているら
しく腕をつかんで誘導した。
連れられるままに救急病棟に向かうと矢口が暗い廊下で一人うなだれていた。自慢の金
髪に色とりどりの小さなリボンを可愛らしくつけているのに、その色がセピアのフィル
ターがかかったみたいに色あせて見えた。
「矢口!」
私が声を出すとこの廊下全体に響き渡った。その声にちょっと遅れて矢口が反応した。
私が立っているのを見ると私の胸に飛び込んだ。
「どうしよう・・・なっちが・・・なっちが・・・」
「ねえ、どうしたの?ケガは重傷なの?何があったの?」
矢口が首を横に振りながら、
「あたしにもわかんない、わかんないよぉ!」
と叫ぶように言った。矢口は私以上に動転していた。相対的に私は幾分の冷静さを取り
戻した。
「落ち着いて!ね、深呼吸しよ!」
そうして浮き気味の矢口の体をギュッと押さえつけ、その目を覗いた。「うん」とうな
ずかせた後、二人でゆっくり深呼吸をする。気休め程度でも少しは落ち着いたのか、矢
口はゆっくりと間をおいて話し始めた。
「あれからなっちと別れた・・・。それからしばらくしてなっちから電話がかかってき
て・・・単なるおしゃべりなんだけど、そしたらその最中に電話の向こうからドンッ
て音がして、悲鳴みたいものが聞こえてきて・・・。呼びかけても返事がなくて、すっ
ごく不安になって、なっちの行った方向に戻ってみたら・・・。なっちが車に跳ね飛ば
されてて・・・倒れてた・・・」
血の気が引くのを感じた。現場を見た矢口は尋常ではないだろう。
「ねえ、なっちはどうなの?助かるの?」
矢口に聞いても到底無理な質問だということはわかっていたけど、そう聞かずにはいら
れなかった。
「わからない、わからない・・・。でも血がいっぱい出てたし、全然動かなかった」
「そんな・・・」
「どうしてこういうことになったの!・・・やっぱり・・・ごっちん?」
「違う!後藤じゃないよ!いくらなんでも。それにまだ後藤に何か話したわけじゃない
んでしょ?」
「うん・・・」
「じゃあ違うよ。まだ何もしてないのに後藤はしないよ。できないよ」
私は矢口に言いながらそう自分に言い聞かせた。自分を納得させた。
「そ、そうだよね・・・。確かにそうだ・・・知らないんだもんね、まだ・・・」
「それよりか、今はなっちが助かることだけ考えよう」
「うん・・・」
私たちはただ両手を前に組み、なっちの無事を神に祈った。
しばらくして、他のメンバーがやってくる。
どうやら矢口が混乱しながらも必死でみんなに連絡したようだ。
圭織と辻と石川が一緒にやってきた。
三人は「手術中」という赤いランプを見るなり、何も言わずに私たちの横に座って一緒
に祈った。
明日香が来た。久しぶりの再会なのに笑顔が出ない。
その後、裕ちゃんと圭ちゃんがやってきた。
二人とも化粧をしていない顔だった。
「紗耶香・・・みんな」
「裕ちゃん、圭ちゃん」
裕ちゃんがズカズカと音を立てるように矢口に近寄る。そして胸倉をつかんで無理やり
立たせた。
「どうゆうことなんや?ちゃんと説明しぃや!」
「・・・」
「なっちは大丈夫なんか?なあ、はっきり言うてくれ!」
矢口を前後に振りながら怒鳴る。
「ごめん・・・ごめん・・・」
「アンタが謝ってくれたかてしゃあないんや!大丈夫なんか?」
「裕ちゃん、矢口にだってわかんないよ。落ち着いて!」
隣りにいた圭織が裕ちゃんに負けない声で叫んだ。
「う・・・そ、そうやな、ごめん。かんにんな」
そうやってつかんでいた手を離すと重力に逆らうことなく矢口はストンと腰を落とし、
さっきよりも一層うなだれた。
圭ちゃんは私の方をじっと見ていた。いや、でも涙でその目を包んでいたので焦点は
合っていないようだった。
その後、彩っぺがやってきた。お腹が大きかったがそれに対して喜びを見せる人は誰一
人いなかった。
つんくさんと社長とマネージャーがやってきた。
いつもは打算的な社長もそういった面を見せず、ただ心配そうに手術室を見ていた。
吉澤と加護がやってきた。
加護はただわけもわからず、わめいていた。裕ちゃんがそんな加護を一喝した後、加護
の頭を抱え込んでなだめていた。
吉澤はうなだれるように目線を落とし―――全く私の方を見ようとしなかった。
私にとって、今は吉澤のことをどうこう考える状況ではなかった。
後藤はまだやって来ない。
赤いランプがバチンという音とともに消えた。
その音を聞いて、一同が一斉に同じ方向を向いた。
五分後、みんなが集まった廊下には安堵と歓喜の声が流れた。
「っんとにもう!ヒヤヒヤさせるんやから!」
「あ〜、心配した!!」
「でもホントに大丈夫なんですかね?」
「大丈夫だって。意識も戻ったって言うし、大丈夫ってお医者さんも言ってたじゃな
い?」
「『とりあえず』って言ってたじゃん」
「頭打ってるからそりゃあそう言うでしょうけど、目が覚めたんなら大丈夫!だって
なっちって頭かたいんだもん」
「それ、あんまり関係ないような気がするんですけど・・・」
「ところでなっちのお母さんやお父さんには連絡した?」
「したんじゃない?社長もいることだし」
「ていうか、ごっちんは何やってるの?」
「電話入れたんだよね?真里?」
「うん、でも留守電になっちゃったから。メッセージはいれといた」
「ごっちん、今日仕事だったよね。切り上げて来れないのかなぁ」
「ごっちんのことだからどっかで熟睡してたりして」
「あ〜!ごとうさんならありえますね!」
「でも右腕の骨折と左足の擦り傷かぁ〜。痛そう・・・」
「当分、なっち、仕事できないよね。どうなるのかなぁ」
そんな話でわいわいやっている中(ちょっと不謹慎な気もしたが)、
「お〜い」
医師と何やら話していたつんくさんが私たちに向かって声をかけた。
「安倍と面会できるってさ」
なっちは入った手術室から移動して仮の個室に入った。そこは本当に「仮」のようで狭
くて、みんなが一斉には入れなかったので数人に分かれて入ることになった。そして会
話は一グループ三分までと制約された。
私と矢口は早く元気な顔を見たいのを我慢して、一番最後に入れてもらうことにした。
なっちと一番仲が良かった私たち二人の行動に、裕ちゃんは少し首を傾げていたが深く
詮索する様子はなかった。
先になっちの顔を見たみんなは、より一層安堵の表情を浮かべていた。
私と矢口の番が来た。
入ると、なっちの頭と右腕と左ひざが痛々しく包帯で巻かれていた。
「よぅ、矢口!紗耶香!元気?」
かろうじて元気っぽい左手をさっと天井に向って突きあげた。
「元気じゃないわよ。ほんとにもう」
「ほんとにおさわがせいたしました!」
寝ながらぺこりと頭を下げる仕草をした。思っていた以上に元気そうだ。
「いやぁ、私って血を見ると、気絶しちゃうんだわ。ただの骨折なのにねぇ」
「そうなの?頭を強く打ったって聞いたけど・・・」
「打ったけど大丈夫っしょ。だってこ〜んなに元気だもん」
と力こぶをつくる。だけど全然こぶは出ていなかった。
「ふぅ・・・よかったぁ〜」
矢口は私と顔を見合わせてから、最上級の安堵の色を浮かべ、額に滲んでいた汗を拭っ
た。
「特に矢口にはすっごく迷惑かけちゃったみたいだね。ごめんね」
「ホントだよ〜、何かお礼してもらうからね!」
と矢口は軽くウィンク。なっちはわかったわかったとなだめるようにうなずいた。
「ねえ」
私がどうしても聞いておきたかったことを話しかけた。
「単なる事故なの?それとも・・・?」
矢口がピクリと反応した。
「う〜ん、ホントのことを言うとさぁ、誰かに突き飛ばされたんだような気がしたんだ
よねぇ」
「誰かって、もしかして?」
不安いっぱいの表情をなっちに見せる。なっちはすぐに察し、首を横に振る。
「ううん、ごっちんじゃないよ。だってごっちんには何にも言ってないし。矢口も言っ
てないよね?」
「うん」
二人ともはっきりした口調で言った。少し、ほっとした。
「だったらごっちんじゃないっしょ。私を突き飛ばす理由なんてない・・・と思うし」
なっちがふっと影を落とした。
一瞬のことだったけど、私はその表情の変化に気付いた。
理由はあるのかもしれない。
世間の「噂」として時に流れる不仲説(私となっちの間にもあったけど)。だけど、私
たちの間では単なる噂にすぎなかった。二人は結構仲がよかったはずだ。じゃあ、その
一瞬見せた表情は何だったのだろう。
「じゃあ、ファンていうかアンチとかそういう人の誰かかなぁ・・・怖いなぁ」
矢口が「次は我が身」とばかりに身震いしている。
「いや、でも振り返ると不思議なことによくわかんないんだよね。私がつまずいただけ
だったような気がしないでもないし・・・。頭打っちゃったから混乱してるだけなのか
な?」
「そんなもんなの?」
「後でもうちょっと思い出すことにするよ。ところで、ごっちんは・・・来てるの?ま
だ見てないけど」
「ううん、まだ。電話かけたんだけど後藤だけつかまらなくて」
「今回のこととは関係ないにしろ、ちゃんと言わなきゃね。決めたんだもん」
「うん・・・」
矢口が少し顔に影を落とす。状況は何一つ変わっていないことを思い出したからだろ
う。そんな矢口を見るようになっちは意外な言葉を発した。
「でもねぇ、矢口も紗耶香もごっちんにはまだ何にも言わないでほしいんだ。なっちが
退院するまで。紗耶香にはそれまで我慢しててほしいんだけど。いいかな?」
なんで?と聞く前に、
「ごっちん!」
「ごっちん!何してたのよ」
という声が部屋の外から聞こえてきた。どうやら後藤が来たらしい。
部屋の扉が勢いよく開いた。
「後藤・・・」
「ごっちん」
後藤は息を切らせている。
「なっち・・・ごめんね、遅くなっちゃった」
「ううん、いいべさ。仕事だったんでしょ。じゃあ、仕方ないっしょ。ごめんね心配か
けて」
「無事みたいで、本当に良かった!」
後藤はほっと胸をなでおろした。そして、私のほうを見た。
しばらく目が合ったままになるかと思われたが矢口がそれを遮った。
「しっかし、ごっちん、今まで何してたのよ?仕事をやってたってなんとか急いでこれ
なかったの?」
「うん。仕事終わって、そのまま熟睡してたら電話鳴ってるのに全然気付かなくて
さぁ。ホントごめんね、なっち」
青い顔を浮かべて後藤はなっちに謝る。
「うん」
「ったく、ごっちんらしいや」
矢口は、ははは、と妙にトーンの高い声を上げて笑い出した。
私もちょっと笑った。
「すいません、そろそろいいですか?安倍さんの体力のこともありますし・・・」
と看護婦さんが言ってきたので、
「あ、はい」
矢口が言った。
「じゃあ、なっち。私は暇だからちょくちょく顔出すよ」
私が言うと、
「うん、期待しないで待ってる」
となっちは冗談めかして言った。
「せっかく明日香や彩っぺや紗耶香も集まったんだからさぁ、どっかでパーっと食事し
ない?」
「おいおい、安倍を心配してきたんやで。安倍に失礼やんか。それに明日だって仕事あ
るんやろ?」
圭織の提案に対し、つんくさんが反論した。
私たちがなっちのいる部屋から出ると、
「せっかく明日香や彩っぺや紗耶香も集まったんだからさぁ、どっかでパーっと食事し
ない?」
と圭織が提案していた。みんなも結構乗り気そうに、他の誰かが「やろう!」と言うの
を待っている感じだったが、
「おいおい、安倍を心配してきたんやで。安倍に失礼やんか。それに明日だって仕事あ
るんやろ?」
開口一番はつんくさんの反論で、結局つんくさんの意見を無視して「やろう!」という
勇気あるメンバーはさすがにおらず、圭織の提案は即却下された。圭織は少し不満気に
しながら、ぶつぶつグチっていた。
「ところでさぁ、紗耶香」
「うん?」
ほっとした空気が包み込んでいる中、圭ちゃんが私に声をかけてきた。
「ここんところずぅ〜っと携帯の電源切ってなかった?何度、電話しても繋がらなかっ
たし」
ビクリとして辺りを見渡すと、後藤は遠くで辻や石川と話していたのでほっとした。
「ごめん、ごめん、壊れちゃったんで電話変えたんだ。番号も変えちゃったし。教えて
なかったっけ?」
と、とぼけながら、耳打ちするように圭ちゃんに言った。
「なんだ、そうだったの?私、てっきり紗耶香の身に何かあったんじゃないかなぁって
心配してたんだよ」
「ごめんね。心配かけちゃったね」
「ううん、いいってことよ」
後藤のくれた携帯電話をそのまま使っちゃっていいのかな?
そう思いつつも、圭ちゃんに新しい番号を教えておいた。
その後も結局、私は後藤とも吉澤とも話したりはしなかった。
その日の夜のニュース番組からなっちの事故が放送された。
「今日、午後三時頃、渋谷区の路上でタレントでモーニング娘。の安倍なつみさんが
交通事故に遭いました」
大した話題もなかったせいか、夕方の報道番組のトップニュースだった。
「幸いにも、怪我は右腕の骨折だけで、命に別状はないとのことです。本人は至って元
気で、もう普通の食事をしているそうです。警察では事件と事故の両面から捜査を進め
るとしています」
画面上には私たちメンバーが沈痛な面持ちで一人一人病院に入っているところとほっと
した様子で出てくるところが映し出されていた。裕ちゃんなんかちょっとひどい顔だっ
た。出てきたときに裕ちゃんはモーニング娘。の代表者としてインタビューを受けてい
たのだが、私の見る限り放送はされなかった。あの顔は放送禁止だったのかな?って勝
手に解釈して苦笑した。
まあなっちが元気だから笑える話だけどね。
ついでに言うと、テレビで見る私は思っていたより太っていた・・・。
そりゃあ、少しは太ったかなぁ、とは思ったけど、まさかここまでとは・・・。
ここ数日間、ろくに食べてなかったのになぁ。
運動しないとね。
どうやらなっちを恨んでいた、もしくは好きで好きでしかたがなかったファンがなっち
を見つけて、突き飛ばしてしまった、と私は結論づけた。というかそれしか考えられな
かった。
そう、後藤は関係ない。
後藤にはできるわけない。
何度も何度もそう思った。
だけど、この胸騒ぎはなんだろう。
テレビでは次の話題に移っていて、世の中が平和だと言わんばかりに犬がワンワン吠え
ていた。
―
「その日」を境に後藤は変わった。
最初の生番組のミュージックステーションを見ていると、他の歌手の人のトークの時で
も後藤は耳を傾け、笑っていた。後日の他の番組は、えらく営業スマイルな後藤と気だ
るそうな後藤とが両極化していて、多くの視聴者は戸惑ったかもしれない。
おそらく、収録した日が「その日」の前か後かの違いによるものだろう。
それに私へのしつこい電話もなくなった。
矢口や圭ちゃんに聞いても変わったと言っていた。
収録中でもそうなんだが、楽屋裏でもずっと一生懸命なんだという。
みんなに対して、気を配ったりもしているらしい。
「とにかく、紗耶香にも迷惑かけてないんでしょ?」
「うん、特に」
「じゃあ、何もしないで解決かもね。最近、メンバーの雰囲気がすんごく明るいんだ
よ。なっちが帰ってくればもっと明るくなると思う。ごっちん、最近しょっちゅう
『なっち、早く帰ってこないかなぁ』なんて言ってるし」
「ふ〜ん。でもさぁ、カラ元気ってことはない?」
「う〜ん、そう言われてみれば、そうなのかもしれないけど、矢口にはわかんないや」
「そっか」
矢口は喜んでいた。
あらためて後藤の凄さを知った気がした。後藤の存在感。
でもどうしてこんなに変わったのだろう?
後藤はなっちの事故を通じて何かを学んだのかもしれない。
いや、気付いたのかもしれない。
自分の矛盾を。
私は矢口の喜びとは裏腹に、私は「ずっと一生懸命」という後藤らしくない言葉が
胸につっかえていた。後藤はすごく健気で一生懸命な面は確かに持っていて、そこが人
気の一つだったりするんだけども、それは基本的には長く続かない。どこかで気を抜く
場面が必要なのだ。もちろんそれは誰もが同じことなんだろうけれど、後藤は人並以上
に必要な人間だ。で、それが今までは楽屋だったり、私の家だったりしたわけで。そん
なわけだから今の後藤の様子はちょっと想像がつかない。だから私は後藤が何かに追わ
れているんじゃないかという不安を感じていた。
事務所の力で個室に入ることになったが、元来の寂しがり屋であるなっちはイヤそう
だった。私もそうだからなっちの気持ちはよくわかる。私はなっちが入院している間、
ほとんど毎日お見舞いに行った。
でもさすがに4日間連続で通い続けると、
「そんなに毎日来てもあんまり変わらないよ」
と言うようになった。そう言われたとはいえ、次の日も訪れようと思っていたのだが、
たまたま急用が入って行けなくなった。そしたらさらにその次の日に訪れると「どうし
て昨日来なかったの?」とでも言いたげにいじけていた。
ある日、矢口から聞いた今の後藤の状況を報告した。
「後藤が変わった」
そう言うと、一旦間を置いてから、
「そっか、じゃあ何にもしなくてもいいかもね」
と軽い調子で言った。
私の耳にはその軽さが一種作られたものであるような気がしたが、深い意味は考えな
かった。
「私はごっちんより紗耶香の方が心配だよ」
会話の間隙をついて、なっちが言った。
「え?私?」
意外な言葉に少し戸惑う。
「うん、なんか紗耶香、元気ないみたいだよ」
ドキリとした。
「何で?元気だよ、私。なっちや矢口のおかげでね。今はギターも買ったし語学の勉強
も始めたし。充実してるんだから今」
と小さなガッツポーズをするみたいに拳を握り締めた。
「・・・ならいいんだけど」
なっちの言っていることは図星だった。
「夢」という名のもとにはじめたギターも語学も私の心の全てを傾けさせてくれるもの
ではなかった。
何か心の一番中央の部分がドーナツのようにポッカリと空いた気がして仕方ないのだ。
これは多分、今まで後藤にぎゅっと押さえつけられていたものが突然、解放されて今度
は宙ぶらりんになってしまったんだろうと客観的に解釈して、自分を納得させた。
見舞いを終え、病院を出ようとすると、外はポツポツと雨が振ってきていた。西の方
を見ると厚い雲に覆われており、このまま小雨で済みそうないことを察した。傘を持っ
てきていなかったので私は「失敗したなぁ」と思いながら、なっちが持ってるかもしれ
ないから借りようと思って、引き返そうとした。その時、
「市井ちゃん!!」
私を呼ぶ声がした。
振り返ると後藤が傘を脇に抱えながら立っていた。
後藤は赤い線の入ったストローを使いながら器用にアイスミルクティーに浮かんだ氷を
くるくる回している。その音が軽やかに聞こえ、涼しげな風情である。ただ、もう秋の
気配がもうそこまで来ており、ちょっとそぐわない音なのかもしれない。
「でさぁ、辻ちゃんと加護ちゃんがすっごくうるさいんだよね〜」
―――どうして、私はここにいるんだろう。
「この前なんかね・・・」
―――どうして、後藤と二人で普通に喫茶店に入っているんだろう。
「そうだ。つんくさんが加護ちゃん辻ちゃんに怒ったんだよ。初めて見た。すっごく怖
かったんだから」
―――どうして、普通に雑談なんかしているんだろう。
後藤は私に傘を差し出した。「持ってきたんだよ」と言っていたがどう見ても新品で、
近くのコンビニで買ったらしかった。私は、断る理由もなかったので後藤に甘えること
にした。後藤も空きができたのでなっちの見舞いに来たらしい。
「私に構わず行けば?」
と言うと
「う〜ん、今日は市井ちゃんに会えたし、やめとく」
と断り、「どこかでお話しよう」と提案してきた。そして今は、近くの和風な喫茶店。
天気は本降りになってきたらしく、窓から見る景色はどんよりとした雲で覆われてい
て、そこから大粒の雨が落ちてきていた。おそらくこの喫茶店の自慢であろう京都の竜
安寺の石庭にも似た石でできた庭を激しく打ちつけていた。
「辻や加護だって中学生なのに、あの元気さはどこから来るんだか・・・」
「やっぱ市井ちゃんもそう思う?あたしが中一の頃だってさすがにあんなに無邪気じゃ
なかったよ」
「あの子たちは異常だよね。悪い意味じゃないけど」
「でもやぐっちゃんが一番大変だよ」
「あ、ミニモニ。だっけ?ハロモニでやってる・・・(あんまり見てないけど)」
「うん、内緒だけど、今度ミニモニ。デビューするかもしれないんだよ」
「デビューってCDデビュー?マジで?矢口も大変だなぁ」
「うん、やぐっちゃん、ちょっとゲッソリしてた」
自分でも不思議だった。
後藤をあんなに嫌い、恨み、そして恐れていたのに。
後藤のせいで死ぬことすら考えた私だっていうのに・・・。
今は全てを忘れたように普通に話している。
少なくとも今の私は苦痛じゃなかった。
なんでだろう?
ふと、自分の右手首を見た。
傷痕が後藤と私の一つの歴史であるかのように残っていた。
ただ、なっちと矢口に再会して、いろいろ思い出させてもらってから痛みはなくなって
いた。
でもこれは本当になっちや矢口が治してくれたものなのだろうか?
死を考えさせた人間と向きあって、私はどうして平気でいられるのだろう。
そもそも私は本当に死のうとしたのだろうか?
死を考えた人間がこんなに早く立ち直ったりできるものなのだろうか?
自分の気持ちがわからない。
後藤の声はいつもと変わらないのに、何にも怖くなかった。
「ところでさぁ、後藤」
「うん?」
「携帯電話のことなんだけど」
ストローに口をくわえていた後藤は眉をピクピクと動かして反応した。一瞬、硬直した
ようにも思えた。
「いいよ、市井ちゃんへのプレゼントなんだし」
それでも出てくる言葉はいつもと変わらず冷静だった。
「でもさぁ、やっぱ変だよ。今のままだったら後藤が私の電話代を払うことになるんで
しょ?それはねぇ・・・」
「いいって、前の市井ちゃんの携帯捨てちゃったし」
「そうなの?」
「うん、ごめん。だからお詫びに・・・ね」
後藤はチラッと舌を出してかわいらしく謝った。
「う〜ん、じゃあこの携帯はありがたくもらうけど、お金の請求はしてね。ちゃんと払
うしさぁ」
そう言うと、後藤は少し考えるフリをしてから、
「じゃあ、わかった。請求します」
と少しかしこまって言った。ただ、私とは目を合わさずに再びストローに口をつけ、グ
ラスの氷の動きを目で追いながら言っていた。
「へえ、じゃあ引っ越すんだ」
私は今月で家を引き払って実家に帰ることを言ったら、後藤はいつになく複雑な表情
をしてそう言った。ちょっと寂しげですっごく不安そうな顔だった。
「ここにいてもお金がかかるだけで、今は無職だしね。後藤は明日も仕事?」
「うん、なんと明日朝4時集合。眠くて死んじゃうよ」
「うわぁ、きっついね、それ・・・」
久しぶりに娘。時代の超多忙すぎる日々を思い出した。
ホント、事務所って私たちの体のことは心配しないんだよね。
「うん、だからもうそろそろ帰ろっかなぁ」
後藤は左手の袖をめくって腕時計を見るフリをしてそう言った。実際、後藤は腕時計を付けておらず、私の後ろにある喫茶店の掛け時計を見やってから言っていた。
結局1時間ぐらい近況を報告した後で私たちは別れることになった。
私は私の気持ちがわからない。
じゃあ、後藤はどうなんだろう?
今まで私にしてきたことをどう思っているんだろう?
悪いことをしたと思っているのだろうか?
少しも後悔がないのだろうか?
それとも後悔していながら今こうして何もなかったかのように話しているのだろうか?
後藤の気持ちもわからない。
喫茶店を出るともう雨は上がりかけで雲の切れ間から太陽が少し覗かせていた。この天
気の移り変わりの早さに秋はすぐそこまで来ていることをいやがおうにも実感させた。
「ねえ、市井ちゃん・・・」
水滴が光によって美しく反射している街並みにみとれている時に後藤はつぶやいた。
「何?」
「私たちは・・・友達以上だよね?」
自信なさげに後藤はそう言った。私は少し考えるフリをしてから、
「まあね」
と、軽くうなずくと、後藤は少し表情を緩めた。
「じゃあ、いいや。また電話する。バイバイ!」
私がバイバイと言う前に後藤は走り去っていった。
後藤は一体何を言いたかったのだろう?
今日はいろんな疑問が芽生えた。
そしてそのほとんどがわからないままだ。
ただ、そんな後藤に漠然とした懐かしさを覚え、心がきゅっと締め付けられた気がした。
シドニーオリンピックも終わり、サルティンバンコが幕を開けようとしていた。
―
それから一週間後、なっちは退院した。入院後も経過はいたって良好で心配されていた
頭部には全く異常は見当たらず、また傷痕もほとんど残っていなかった。
ホント、医学の進歩はすばらしい。
その時にまた、脱退したメンバーを含めた全メンバーが召集された。
今度こそパーティしよう!と圭織が言ったら社長もつんくさんも快諾してくれた。社長
にとっては宣伝効果もあるからだろう。終始にこやかだった。
ただし、吉澤は当日になって風邪ということで欠席した。
私の中では半分嘘だと思っていた。
きっと、私と会いたくないんだろう。
私も吉澤の顔を見ると、心が痛むかもしれない。
ちょうど、私にとっては吉澤は別れた恋人のような存在なのかもしれない。
じゃあ、吉澤にとって私はどういう存在だったの?
また疑問に行きついた。
吉澤は私を裏切った。
最初から私を騙していた。
でも最後の方もそうだったの?
いつか私が吉澤に感じたように吉澤も私に幸せの形みたいなものを感じていたんじゃな
いのか?
私に見せた吉澤の最後の笑顔を思い出した。
あの笑顔は本物なはずだ。
・・・
もう一度、確かめようと思った。
それはお互いに痛みを伴うかもしれない。
それでも今のもやもやした気持ちを持ちつづけるよりはマシだと思った。
パーティは・・・といってもちょっとテレビの企画がかったものになったが、すごく楽
しかった。平家のみっちゃんをはじめ、ハロプロメンバーのほとんど全員が集まっての
大騒ぎとなった。私にとっては初めての立食形式のパーティで新鮮だった。
しかし、ほとんど未成年なのでお酒は禁止というパーティだったため裕ちゃんなんかは
ちょっとつまらなそうだった。
彩っぺのお腹は結構大きくなっていて、そんなマタニティドレスがすごく似合っている
彩っぺは話題の中心になることが多かった。
身重になると性格が穏やかになるようで、ぽっこり膨らんだお腹に合わせて、顔つきが
なんか優しくて母親の雰囲気を漂わせていた。
そんな輪の中心になる彩っぺを見て、なっちは、
「私の『退院おめでとうパーティ』なのにぃ〜!」
とダダをこねる子供のように頬を膨らませていた。なっちの傍にいることが多かった私
は、まあまあ、となだめる役に終始、徹することになった。
私が見ていて面白かったのは明日香と新メンバー三人のような面識がない二人が「はじ
めまして」と礼儀正しく挨拶を交わすところだ(一応企画の一つ)。
同い年なのに妙にかしこまった態度をする石川、普段いつも踊り騒いでいる印象がある
辻や加護もいささか緊張した面持ちで明日香と一言二言言葉を交わしていた。
最も明日香は前にもまして大人びていて、ほとんど四人は子供みたいにあしらわれてい
た。まあ、辻や加護なんかは誰が相手したって子供なんだけど。
そんな明日香も後藤に対しては少しひるんでしまったようだ。しばらく後藤と会話を交
わしてから明日香は私の元にやってきて、
「後藤さんはなんか緊張するね〜、私の苦手なタイプだ」
と額の汗を拭う素振りをしながら言っていた。
後藤の方が年下なんだけどね。
一人一言コーナーというものがあって、結構盛り上がった。
矢口がいつも通り「セクシー」を連発したり、裕ちゃんが結婚ネタを言ったり、圭織が
しゃべっている途中に宇宙と交信したり、加護がメンバーのものまねをしたり、とテレ
ビで見るのとほとんど変わらない。
あまりにも聞いたことのある話ばっかりだったので視聴率の心配をしてしまっていた。
そんな中で、
「今、最高に幸せです」
という彩っぺの言葉が印象的だった。感動のあまり、拍手がどことなく沸き起こった。
その「ここは番組のクライマックスになるんじゃないか?」と思うくらいの感動の後に
私の一人一言だったので少し焦ったが、
「彩っぺみたいに幸せなんて言えることをまだしていませんが、一生懸命幸せになれる
ようにがんばっています」
と、言っておいたら小さな拍手が起きた。
後藤も力なくとはいえ、手を叩いていた。
そんな後藤の一人一言は、
「なっちも戻ってきたことだし、これからも精一杯頑張ります」
というどっかのお相撲さんが使いそうな何のひねりもない言葉だったもんだから、ちゃ
んと放送に使われるのだろうかと心配したりもした。
「ねえ」
器用に片手に二つのお皿を持った矢口が声をかけてきた。誰よりも高い厚底を穿いて、
それでも矢口の目線は私の口元だった。隣りにはジンジャーエールを骨折していない手
で持ったなっちがいる。
「ごっちんと何か話したの?」
「いや、別に」
私はちらちらと後藤の様子を窺ってはいたが、結局後藤と目が合うことはなかった。
なんとなく私を避けているようにも感じた。公式の場では話したくないのだろうか。
「あっちから話しかけても来ないし・・」
と後藤の方を一瞥してから言う。
「ふ〜ん。で、私も退院したわけだけど、どうするの?」
「うん、電話でも言ったけどそんなに害ないし・・・」
「じゃあ、何にもしなくてもいいんだね」
念を押すように矢口は言った。
「うん」
と私がうなずくと、二人はほっとした中に小さな笑みがこぼれていた。
「ねえ、吉澤は・・・」
と言いかけて、私は言うのを止めた。
「ん?」
なっちがめざとく私が何か言おうとしたのに気付いて、反応する。
「ううん、何でもない」
私は首を横に振る。
私が吉澤のことを聞けなかったのは二人のほっとしたあの表情を見てしまったからだろ
う。
これは二人には関係ない。
私個人のけじめなんだ。
それに再び、二人のあの笑みに影を落としたくない。
次の日は、引越しの日。
午後からなのに意味もなくソワソワしてしまい、いつもより早く起きてしまった。
引っ越し業者に頼んだので、前日までに適当に荷物をまとめておいた私は特にすること
がなく業者の人の動きをただぼ〜っと見ていた。
業者の人はさすがにプロでてきぱきと作業をしていた。学生らしきバイト君が何度も何
度も怒られていて私は同情しながらも自分に置き換えたりして苦笑した。そんなバイト
君は「私のことを知っているがまったく興味がない」って顔をしていたのでちょっとプ
ライドを傷つけられた気分になった。
積み込みは私が予想していた時間よりもずっと早く終わり、業者の人がトラックの中に
積み込んだ荷物の整理や点検をしている最中、がらんとしている部屋に一人だけでいら
れる時間があった。西空は夕日によって甘い朱色に染まり、焼けた光線が窓から射しこ
んできて眩くて美しい。そんな中でちょっとだけ感傷に浸ってみたりした。そしたらな
ぜだかわからないけど涙が出た。
ここで暮らした2年間。
それはモーニング娘。の私。
いろいろありすぎて数え切れない思い出をたくさん作ったのに、そのほとんどが目に焼
きついている。
もう半年近く経とうというのにあの時の私の歴史は色あせてはいない。
やっぱりモーニング娘。に入ってよかった。
朱み射す部屋に包まれて、あらためてそう思った。
しばらくして、引越し屋さんのチーフらしき白髪の男の人が帽子のつばをつまみながら
言ってきた。
「あの〜、市井さん」
「はい」
私は振り向くと、その人はバツの悪いような顔をしていた。
美化された思い出が目の前から消えて、一気に現実に引き戻される。
「それでですね、ちょっと申しあげにくいことなんですが」
「なんでしょうか?」
「こういうものが・・・この部屋から見つかりまして・・・」
「なんですか?それ?」
「私もよくは知らないんですがおそらくは―――」
引越し屋さんから思わぬ言葉が飛び出した。
何でこんなものがあるの?
「ん〜と、やっぱり市井さんって有名人でしたから・・・。でもこれって、やっぱり問
題ですよねぇ。どうしましょうか?・・・市井さん?」
私には引っ越し屋さんの声は全く届いていなかった。二、三度、名前を呼ばれて、我に
返る。
「え、ああ、いや、すみません。これ、お借りしていいですか?」
「まあいいですけど・・・」
「それと、荷物を家の方に運んでおいてください」
「はい、わかりました。で、この件は・・・?」
「すみませんが黙っておいてくれませんか?誰にも。もちろん私の親にも。私がちゃん
としますから」
「はあ・・・でも・・・」
「じゃあ、荷物の方お任せします。お願いしますね」
その声が震えているのが自分でもわかった。向こうにもわかっただろうか?
ともかく、私はいてもたってもいられずに走り出した。
携帯電話を強く握り締めながら。
―
時刻は午後七時を過ぎていた。夕日はとうに沈み、そろそろ夜も白みはじめていた。
指定した場所は私の家の近くにある小さくておしゃれな公園だ。
昼にはよく一人ベンチに座り、小説を読んだりしていたところ。
夜にこうして長いこといるのは初めてだったが、蛍光灯の光が弱く、少々薄気味悪いの
で、えてしてこういう公園にはいがちなカップルもいない。
私は待っている間、いろいろなことを考え、否定したくて首を何度も横に振った。そし
て、願った。
間違いであってほしい。
でもどうしても想像したことが事実としか思えなくなってくる。
もし、そうだったら今までのことが全部符合してくる気がしてならないからだ。
待ち合わせ時間から遅れること30分。この場は満月から少し欠けた月が放つ光が強く
照らし出していた。そして、その青白い光に乗りながら遠くから待ち人来たる。
そんな光をバックにしているせいかひどく幻想的でその存在が小さな闇の世界の中から
3Dのように浮き出て見え、どんな服装をしているのかまで怖いくらいにはっきり見え
る。「LOVE
IS THE
MESSAGE」と書かれた黄色いオフショルダーのスウェットにミサン
ガタイプのブレスレット。赤いバラのようなパッチワークの入ったストレートのジーン
ズ。淡いピンク色をしたキャンバススニーカー。茶色の髪は風もそんなに吹いてはいな
いのにちょっとふわふわ浮いている。
そんな後藤は何かのおとぎ話に出てきそうな現世に降り立つ使者のようだった。
その使者は、天使か悪魔か・・・。
「やっほ〜、市井ちゃん!めずらしいよね、市井ちゃんが呼び出すなんて・・・ってで
もなんでこんなところに呼び出すの?それにあたしさぁ、明日も早いんだけどぉ」
後藤の顔もはっきりとわかった。
無表情ながらも気だるく鬱陶しさを醸し出した後藤の表情。
久しぶりに見た後藤だった。
私はいつもこの後藤に怯えていた。ちょっと前の記憶が無意識に私の心と体を一歩後退
させる。
しかし今日ばかりは目の前にちらちら映る事実を手綱に懸命に後藤を睨んだ。
そのまま目は決して離さないつもりだった。
「後藤・・・あんたなの?」
開口一番、小さいながらも怒気の混じった声を出す。
「突然、何?何の話?」
「もしかして、もう知っているんじゃない?」
「だから、何が?もったいぶらないで教えてよ」
後藤の口調にいらつきが含まれる。
「じゃあ、言うね・・・。今日、私引越ししたんだ」
表情が微妙に変わった。しかし、すぐに元に戻り、
「あ、今日だったんだ。おつかれ〜」
と軽やかに言葉を返す。
「それでね、業者の人がこれを見つけてくれた・・・」
そう言って、私は引越し屋さんから預かった物体を後藤の前に差し出した。
「これ?何?」
一瞬空いた間を縫って、後藤は知らぬ顔で私の手のひらを覗きこむ。
「とぼけないで!!今とぼけたって、調べればちゃんとわかるんだから・・・」
後藤は口をつぐんだ。
「後藤なんでしょ?」
黙ったまま。
「ねえ!!」
鼻腔が膨らみ、私の口調がどんどん荒くなった。後藤は一瞬目線を逸らすと、観念した
ようにふっと肩で息をして言った。
「・・・ったく、一つか・・・惜しかったなぁ・・・」
「後藤?」
「うん、それあたしの。高かったんだから返して」
後藤が無防備に手を差し出した。取られまいと、突き出していた手をさっと戻した。
「じゃあ、これ・・・・・・この盗聴器を仕掛けたのはあんただったのね!!」
「だからそうだって。繰り返さないでよ」
一段と気だるそうに後藤は言った。
「1個じゃないよ。他にもいろいろ。テレビの下に、ベッドの下。冷蔵庫の横に、
家の電話、・・・そして」
私のポケットに向かって人差し指をピンと突き立てた。
ポケットの中には携帯電話があった。
「これ?」
「うん、あたしがあげた携帯電話」
私は急いで携帯電話をポケットから取り出すと、後藤は突き立てていた人差し指を2、
3度クイと曲げる。携帯電話を貸してという合図だ。ちょっとためらいながらも私は差
し出すと、後藤はさっと取り上げ電池を外した。
そして、その中を私に見せる。「ここに仕掛けていたんだよ」という意味なんだろう。
しかし、素人目には全くその仕掛けの様子はわからなかった。
「カメラも取り付けようって思っていたんだけどね。思ったより大きくてやめたんだ。
盗聴器って言ってもいろんな種類があるんだよねぇ。この携帯電話のタイプは知り合い
に頼んで改造してもらっちゃった。これってねぇ、拾った音を勝手に私の携帯に繋げて
くれるんだって。普通の電話みたいにね。その分お金がかかっちゃって先月なんか20
万近くいっちゃってたんだよね〜。でもこの方法って確実に聞こえるし、それに携帯っ
て肌身離さず持ち歩くものだし、絶対つけときたかったんだ。まあ、市井ちゃんって時
々わざと忘れたりするみたいだけどね」
メトロノームのように一定のリズムを刻みながら後藤は言った。
「じゃあ、私の会話はずっと聞いていたの?」
「ずっとじゃないよ。ずっと聞こうと思ったら電話代いくらかかるか想像できないよ。
録音できないっていうのが弱点なんだよね〜、これ」
後藤は青色の素っ気ないストラップを人差し指にかけ、携帯電話をクルクルと回しはじ
めた。
ここに来る前から何となく察していた事実。
だけどそれは受け入れたくない事実。
思ったより動揺は大きくて私の体をこわばらせる。後藤は変わった様子をほとんど見せ
ず、のほほんとした態度で更に話を進める。
「あ、それとねぇ、他の4つのうち3つはほとんど使い物にならなかったんだよ。よく
わかんないけど冷蔵庫とテレビとベッドにつけたタイプって無線を使って電波を飛ばす
仕組みなんだって。でもそれって後から聞いたんだけどせいぜい800メートルしか届
かないらしくってさぁ、あたしんところに届くわけないじゃん。騙されて買っちゃった
よ。あ〜あ、どれが見つかっちゃったんだろう?やっぱ冷蔵庫?白い冷蔵庫に黒いもの
じゃ見つかっちゃうよねぇ。付けるとき『ヤバイかなぁ』とは思ってたんだよね〜」
後藤は思いついたことを思いつくままに早口でまくしたてているようだった。
こんな後藤を見るのは初めてだ。
じっとにらみつける私を無視して、後藤はあいかわらずの心の無い表情で続けて言う。
「でも家の電話は大正解だった。よ〜く聞こえた。市井ちゃんって携帯より家の電話を
使う方が多いんだ。そ〜ゆう貧乏性なところあったんだね。そうそう、一人暮らしをし
てると独り言が多くなるってホントだったんだね。市井ちゃんって一人で居る時も
しょっちゅう喋ってた。『後藤をなんとかしなきゃ』って。いっとき、口癖だったよ
ね。ちょっと嬉しかったよ。そうそう、でもいやらしい声が聞けなかったのは残念だっ
たかなぁ・・・聞いてみたかったりしたかったんだけど・・・せめてベッドのやつをも
うちょっと高性能のやつにしといたら聞けたのかな?」
後藤は一回上を見上げ、そして私を見下ろしながら卑しそうな顔をした。
「後藤・・・」
「うん?」
「いつからなの?いつこんなもの仕掛けたの?」
震える拳をぎゅっと強く握り締め、その震えを押さえつける。
「うんとねぇ、市井ちゃんが脱退してから初めて市井ちゃんの家に行った時。ほらあた
し、ジュースこぼしちゃったじゃん。それで市井ちゃん、お風呂入ったでしょ。その間
にね、ふふふ」
あの時のことははっきり思い出せる。私はゆっくり目を閉じ、唇を噛みしめた。
「じゃあ、あれは計画的だったんだ」
「半分ね。こんなにも上手く行くとは思わなかったけど。どこにつければ目立たなくて
しかも聞き取れやすいかをすっごく悩んだんだよ。だから全部取り付け終えたのが市井
ちゃんの出てくる直前。おかげで汗ダクダク。ギリギリだったんで思わず、正座し
ちゃった♪でも結局それらってあんまり役に立たなかったんだよね。ていうかその役立
たずのせいでバレちゃったんだよね。やっぱさっさと回収しとけば良かったなぁ。『も
しかしたら使い物になるかも?』って思っちゃったんだ。あたしってバカだね」
私は後藤の一種異様な雄弁さが、心に潜む焦燥感を隠そうとしていることに段々と気付
きはじめていた。
言葉が途切れた瞬間、公園を囲む木々がサワサワと音を立て、中にいた鳥が闇の中へと
飛び立つ音が聞こえた。そんな音が私にある仮定を頭の中に描かせ、私の鼓動をどんど
ん早まらせた。私は一つ息をつく後藤を見ながら聞いた。
「どうしてそんなことしたの?」
「そんなの決まってるじゃん。あたしは市井ちゃんの全てを知りたかったんだよ。市井
ちゃんのことだけを考えてたかった。・・・ていうか今も市井ちゃんのことだけを考え
てるしね♪」
「じゃあ、もしかして吉澤に電話する前に後藤が知っていたのは・・・」
「うん、圭ちゃんとの会話を聞いてたの。家の電話を使ってくれたじゃん。だから簡単
に聞けた。あ、そうだ。市井ちゃん、ずぅ〜っと圭ちゃんのこと憎んでいたよね。よく
独り言言ってたよね。なんか恨めしそうに『圭ちゃん、圭ちゃん』って。でもね、圭
ちゃんは何にも知らなかったんだよ。圭ちゃんはホントに心配してた。そんでもって、
私がテキトーに元気な素振りをするとすんごく喜んでた。いい人だよね、圭ちゃんっ
て。ちょっと単純だけど」
後藤はクスクスと笑いはじめた。私を、そして、圭ちゃんを嘲笑するような笑い方。
私は、あの時の記憶や気持ちを反芻する。そして、これ以上は今の気持ちの強さを弱め
るだけだと思い、断ち切るように一旦目をつぶった。
「よっすぃ〜はねぇ、女優になれるって思ったのはホント。だってすっごいアドリブだ
ったんだよ。あたしはただ、『市井ちゃんにあたしが憎いみたいなことを言っといて』
って言っただけなんだけど。ホント、あたしの悪口ぽんぽん出てくるし。あ、そうだ。
一応ネタばらししとくと、別によっすぃ〜から直接聞いたわけじゃないんだよ」
「・・・」
私は何も言わない。何も言えない。
パズルのピースのように組み合っていく真実を怒りと悔しさの中で味わい、下唇を噛み
しめる。
「今市井ちゃん『じゃあ、どうやってよっすぃ〜との会話を聞いたの?』って思ったで
しょ?携帯をあげる前だし、市井ちゃん家に取り付けてあるのは使い物にならなかっ
たってさっき言ったもんね。言い忘れてたけど実はねぇ、私がよっすぃ〜にあげたバッ
グがあったでしょ?あの黒いバッグ。実はあのバッグって2重底っていうちょっと面白
い構造してるんだけどそこにね、デジタルレコーダーっていうやつを仕掛けといたん
だ。よくわかんないけどテープレコーダーの小っちゃい版って知り合いが言ってた。原
始的だし、回収しないと聞けないし面倒くさかったけど確実な方法だったよ。よっ
すぃ〜ってさあ、あれからあのバッグ使いまくってるんだよ。あんなダサいバッグよく
使えるよね?あ、そう言えば、よっすぃ〜に預けた五重の塔!あれにもデジタルレコ
ーダー、仕掛けといたんだった。うわぁ、すっかり忘れてた。今度返してね。もったい
ないから」
「吉澤は・・・知らなかったの?そのテープレコーダーのこと」
「うん。でもテープレコーダーじゃなくてデジタルレコーダーだよ」
「じゃあ、吉澤が報告していたって言うのはウソ?」
「え?あたしそんなこと言ったっけ?覚えてないな〜」
「・・・そうなんだ・・・」
自分の愚かさを痛切に憎んだ。じゃあ、吉澤のあの会話って・・・。
そう思った矢先、後藤も同じことを考えているようで口を開く。
「それにしてもあそこらへんの会話って、よっすぃ〜の本心なのかなぁ?だとしたらマ
ジむかつく。それにしても二人の会話聞いてるとなんか嫉妬しちゃった。聞けば聞くほ
どラブラブに思えてきたもん。市井ちゃん、よっすぃ〜のことちょこっと好きだったで
しょ?声聞けばわかるよん♪ちょっとショッキーだった。『作戦失敗か?』ってマジ
焦ったもん」
「後藤・・・」
「まあ、市井ちゃんはともかくよっすぃ〜はあんな子だからそんなに焦ってはなかった
けどね」
「じゃあ、なっちは・・・」
私は一番触れたかったことについて口を開く。
「うん?」
「なっちと矢口が私の家に来たのは当然知っていたんだよね?」
後藤は私が次に聞きたいことを知っているように一呼吸置いて身構えた。
「当然じゃなくて偶然なんだけど、まあ知っていたよ。ちょうど休憩時間だったから、
『市井ちゃん、今何してるかなぁ?』って思って聞いてみたら・・・あ、これからね、
聞こえてくるの」
そう言って、後藤が自分の携帯とその携帯にくっついているイヤホンみたいなコードを
バッグから取り出した。圭ちゃんやなっちが「後藤は音楽を聞いている」みたいなこと
を言っているのを思い出した。たぶん、これのことだろう。
「ホントこれって高かったんだから。ず〜っと電話をかけてるみたいなもんだからね」
「そんなことはいいから続けて!」
私が声を荒げると後藤はわざとらしく自分の耳の穴を押さえる仕草をする。
「そんなに怒鳴んなくてもいいじゃん。でね、聞いてみたらなっちとやぐっちゃんの声
が聞こえるじゃない?しかも『許せない!』とかあたしの悪口言ってるし。最後には
『あたしをモーニング娘。から追い出す』だなんて、そんなのできるわけないじゃん。
あたしがいなきゃ、どうみたってダメだもん。バカだよねぇ、あの子ら。自分の立場を
わきまえろっつーの。あ〜、嫉妬したなぁ。あ、嫉妬ってそういう意味じゃないよ。
なっちとやぐっちゃんが市井ちゃんと話していることに嫉妬したんだよ。『なんであた
しの市井ちゃんと話してるのよ!』てな具合にね」
後藤はどんどん私と同調するように声が荒くなっていた。言い終わったあと、少し息を
乱していた。
私は、後藤に半歩だけ近づいた。
地面の砂の音が聞こえた。私には抑えていた感情の昂ぶりに引き金を引くスタート音。
「じゃあ」
一度目をゆっくり閉じて、思わず逃げそうになる現実を引き戻した。そしてじっともう
一度後藤を睨む。
「じゃあ、それを聞いたから、なっちを突き飛ばした?」
「うん、そうだよ」
後藤は間髪を入れずにそう言った。
その即答は「罪悪感のかけらもない」という意志にも聞こえた。それを聞いて私は今ま
で爪の跡がつくぐらい強く握り締めつづけていた拳を思いっきり後藤に振りかざした。
拳は「バキッ」という音を立てて後藤の左頬に当たった。
「キャッ」
悲鳴と共に後藤が地面に倒れこむ。下が比較的乾いた砂場だったため砂塵が小さく舞
う。弱い光を放っていた蛍光灯がチカチカと点滅し出した。
「ちょっとぉ!痛いよ!明日だって収録あるんだよ。出れなくなるじゃん!」
「あんたは・・・していいことと悪いことの区別がつかないの!!」
後藤は殴られた頬を反射的に抑えながら、ジーンズについた砂をパパッとはらい起ち上
がった。
「だって、なっちは悪いやつなんだよ!あたしのことを辞めさそうとしてあたしの市井
ちゃんを奪おうとしてたんだよ!蹴落とそうとしたんだよ!そういえば昔っからそう
だった。あたしが入って、いきなりセンター取られて、ずーっとあたしのこと恨んで
た。みんなだって知ってることじゃん!!」
「みんなって誰!?マスコミとか言うんじゃないでしょうね?私たちメンバーはなっち
がそんな子じゃないってことぐらいわかってるはずだよ。なっちは確かにあんたにセン
ターを奪われるみたいな形になってすっごく悔しがっていたし、もしかしたら本心は憎
んでいたかもしれない。でもね、なっちはそんな気持ちをあんたにぶつけたりした?し
てないでしょ?そんなことであんたを妬んだりしないよ。妬む前に自分を傷つけちゃう
子なんだよ、なっちは。後藤だって知ってるよね?当然」
「そんなこと・・・」
後藤が口篭もった。今日、初めて戸惑いを見せた瞬間だ。いや、ずっと戸惑いは持って
いた。ただ、めっきを貼り付けていただけだ。しかし、そのめっきもとうとうはがれ始
める。
「私はね、最近の後藤を見てて、後藤の気持ちはよーくわかっているつもりだから」
「何よ、それ?」
「あれから、ずっとなっちのこと心配してたでしょ?」
後藤はかろうじて苛立ちを身にまといながら憮然とした態度で私を睨みつける。
「なんで?・・・あたしがなっちを突き飛ばしたんだよ。あたしが怪我させたんだよ・
・・するわけないじゃん・・・」
「ううん、後藤は嘘ついてる。じゃあ、なんであの時、なっちが治療をしている時、遅
れてきたの?」
「何よ、わけわかんない・・・」
「質問に答えてよ。後藤はなっちが事故にあったのは誰よりも早く知っていた。それな
のに何で、あんなに遅れてきたの?何で矢口からの電話に出なかったの?」
「・・・どうでもよかったからに決まってんじゃん」
私は首を横に振る。
「それは違う。どうでもよかったんならあんなに遅れたりはしない。かえって不自然だ
よ。それに怪しまれる可能性があるから私だったら矢口の電話を受けて飛び込んでく
る。それが一番自然なことだよ。でも後藤はできなかった。それはなっちが心配だった
から。自分のしたことをずっと後悔してたから。助からなかったらどうしようって思っ
て怖くなったから」
「・・・違う・・・」
「それで、その盗聴器でも使って、なっちが無事だったことを確認してから現れた。少
しでも罪悪感に押しつぶされないためにもね」
「そんなんじゃない。あたしは後悔なんかしてない!」
「それじゃあ聞くけど、なんで矢口も狙わなかったの?」
「え?」
きょとんとした顔を後藤は浮かべた。あらゆる方面から建てていた防御壁の盲点をつい
たようで一気に牙城が崩れて出た表情に思えた。
「だってそうじゃない?なっちに嫉妬してたんなら矢口にも嫉妬してたんでしょ?後藤
を辞めさせる計画ってなっちと矢口が決めたことなんだよ。じゃあ、同じようなことす
べきじゃない?どうして矢口も同じ目に遭わせなかったの?」
「それは・・・」
「答えは簡単。なっちにしたことが怖くなったから。矢口にはできなかった」
「・・・・・・」
後藤は下の地面をじっと見た。殴られた頬の裏側を歯で強く噛みながら、一点を見つめ
ていた。うなだれているようにも見える。
「あれから後藤はなっちのことをずっと心配し続けた。命に別状はないとわかってから
もずっとね。それに自分のことが怖くなった。最近の後藤って明るいよね?あれって明
らかに意識して明るくしてるよね。それって他のみんなはプロ根性とか言ってたけど、
そんなんじゃなくて、『心配』だとか『怖い』だとかそんな気持ちを必死で隠すために
自分を作るようになったんでしょ?そしたら、自分の中で矛盾とか葛藤みたいなものが
できた・・・」
後藤は拳を握り締めながら呼吸を大きく乱していた。目線は相変わらず地面のまま。
「ねえ、後藤。後藤は私のことをずっと考えてくれてるんだったよね?じゃあ、なんで
なっちの心配なんかしてるの?なんで自分のしたことを恐れてるの?」
「・・・・・・」
私の問いかけに後藤は何も言えず、そのままの体勢で、きつく唇を噛みしめていた。微
かな歯軋りが聞こえてきそうだ。
「続けるよ。今度は矛盾や葛藤を振り払おうと必死になった。でもそれはきっと拭えな
いことも知っていた。後藤も気付いたんでしょ?『人は一人では生きられない』ってい
うけど、人はね、多分二人きりでだって生きられないんだよ。たくさんの人にたくさん
の愛情を降り注いで、降り注がれて初めて一人の人を愛する権利を持つものなんだ。あ
あやってなっちがみんなに心配されるのを見てうらやましくもなった。そして、自分は
間違っていることに気付いた・・・」
「・・・」
「とまあここまで私の推測なんだけど、何か反論ある?」
「・・・」
「・・・ないようだね。じゃあ、認めるってことでいいんだね」
私は何も反応しない後藤を傍目に大きく一つ深呼吸をした。
「ねえ、後藤。なっちに謝りに行こう。今までのこと全部話して、そして許してもらお
う?私も出来る限りのことはするからさ・・・」
言葉を失う後藤を見て、小さな勝利を確信した。そしてそっと後藤の肩を抱こうとし
た。しかし、
「・・・がう・・・」
「え?」
「違う!!!」
そう叫び、肩に乗せようとした私の両手を払い飛ばした。
「あたしは・・・・あたしは、矛盾も葛藤もしてない!間違ってない!市井ちゃんのこ
としか考えていないし、これからもおんなじ!!」
「だから、それは―――」
間違ってる、と言おうとしたが後藤が遮る。
「証明してやる!」
「え?証明」
後藤は突然、踵を返すと全速力で走り去っていった。
瞬く間にその背中が小さくなり、そして闇の中へ消えて行った。
どうゆうこと?証明って何?何をするつもり?
しばらくは不意の行動だったせいか上手く思考回路がつながらなかった。順を追って考
える。
そして、途端に青ざめた。
「矢口が危ない!!」
とにかく私は後藤が走り去って行った方向に走り出した。
―
私は走りながら携帯電話を簡単に渡してしまったことを後悔していた。
あそこに矢口や他のメンバーの電話番号が登録してある。
控えなんかなかったのでそれがなければ連絡を取り合うことができなかった。
後藤はきっと、矢口を呼び出すに違いない。そして・・・
それが後藤にとって最大の、私にとって最悪の愛情表現だった。
必死に矢口の電話番号を思い出そうとしたが結局だめだった。
思い出せるのは・・・後藤の番号と、実家の番号ぐらい・・・。
実家の番号!!
私は急いで、公衆電話を探し実家に電話をかけた。
お母さんが出た。
「お母さん!私!紗耶香!」
「ちょ、ちょっと何よ、そんな大きい声出して。引っ越し屋さん来たわよ。さやは何し
てるの?」
「そんなことどうでもいいから!メンバーの、誰でもいいからメンバーの電話番号知ら
ない?」
「メンバーってモーニング娘。の?」
「当たり前じゃない!!早くして」
「う〜んと、事務所なら知ってるけど」
事務所・・・。事務所はだめだ。あそこは警戒心が強くて、電話なんかじゃタレントの
電話番号など教えてくれない。
「ダメ!!」
「ダメって、それしか・・・。あ、そうだ、私、中澤さんのお母さんの電話番号なら知
ってるわよ。北海道行った時、連絡し合いましょうって教えてくださったのよ。結局、
してないけど」
「そ、それでいいから早くして!!」
「そんなに急がせないでよ。ちょっと待ってね。うん、あった。言うよ。いい?」
「うん!!」
私は、メモ帳とかを持っていなかったので悪いと思いながらも、公衆電話に据え付けら
れてあったタウンページを一枚破って、裕ちゃんのお母さんの電話番号を書き留めたら
すぐにそこに電話をかけた。
裕ちゃんのお母さんは最初は警戒していたが、私の知っている裕ちゃんの秘密を言えと
リクエストされたので、必死で思い出して言うと、あっさり認めてくれた(後から考え
ると変なお母さんだ)。すぐに裕ちゃんに電話して、矢口の電話番号を教えてもらっ
た。そしてようやく矢口に電話することができたが何回かけても話し中だった。おそら
く、私が連絡できなくさせるために後藤がかけているのだろう。
私は再び裕ちゃんに電話し、今度はなっちの電話番号を教えてもらった。裕ちゃんは
何があったのか興味津々そうだったが、「後で説明する!」と言って電話を切った。裕
ちゃんは切り際に不満をぶちかましているようにも聞こえたが当然無視。なっちに電話
して大まかに説明すると、矢口にかけ続けてみると言った。私たちは、今二人がいる場
所のちょうど中間にあった事務所の前で落ち合うことにした。とにもかくにも急いだ。
いつもは速くて戸惑う電車や乗っている人の流れがものすごく遅く感じ、苛立ちを隠せ
ない。座りながら腕組みをしながら指をトントン、足をカタカタ揺らしているとそんな
様子を訝しげに隣りのスーツを着たお兄さんがちらちら見ていた。目の前の二人連れの
女子高生が私の方を一瞥した後、ひそひそ囁き合っていた。そんな人たちを見るとより
一層イライラしてきた。
事務所の前に着くとなっちが先に待っていた。
「どう!?」
「だめ!!全然つかまんない!ずっと話し中だよ!矢口ったらどこにかけてるのよ?
もぉ〜!!」
「きっと後藤がかけ続けているんだ・・・私に連絡を取らせないために」
「あ、そっか・・・。じゃあ、どうしよう。居場所わかんないとどうしようもない
よ・・・」
「落ち着こう!今はとにかくかけつづけるしかないよ!」
「でも・・・」
「それしかないから、お願い!」
「う、うん・・・」
伝えるチャンスはあると思っていた。矢口と後藤が出会う瞬間だ。
後藤は不意に襲うということはしないだろう。
おそらく、出会って・・・もしかしたらちょっと話なんかして・・・その時には電話を
切るはずだ。
その時に電話をかけて、矢口に伝えれば・・・。
「紗耶香!つながった!!!」
なっちが叫んだ。
反射的になっちから携帯電話を取り上げた。
プルルルルッっと三回。私には一分にも二分にも感じる。
ピッ。
電話に出る音。
「矢口!!」
「うわ!どうしたの?なっち。いきなりそんな大きな声を出して?」
張り叫んだ声は自分でも思った以上に大きかった。
「後藤いる?」
「え?どうして知ってるの?ってあれ?その声、紗耶香じゃん」
「早く!後藤から逃げて!!」
「え?なんで?キャッ!!」
矢口の悲鳴が飛んだ。
「矢口!矢口〜!!」
反応がない。矢口の手から携帯電話が離れたようだ。
「どうしたの?」
なっちが不安そうに聞く。
「やばい、やばいよ!!繋がんなくなった!」
真っ青になる私の顔を見て、なっちも同じ顔色になった。
ほとんど、絶望しかけていたその時に、事務所の受付嬢がもう夜も更けかかった時間に
事務所の建物の前で大騒ぎしている人間を疎ましく思ったのか、やってきて声をかけ
てきた。
「あれぇ〜、安倍さんに市井さんじゃないですか?やっぱり、こんな遅くにモーニン
グ娘。で何かあるんですか?私、聞いてないなぁ・・・あれ、でも市井さんは・・・」
「今それどころじゃないんです!!」
なっちが場の雰囲気を読まず、呑気そうな声を出す受付嬢にイライラしてつい、金切り
声をあげてしまう。
「どうしよう、紗耶香・・・。もう、ダメだよ・・・」
とオロオロした直後、なっちはふと思い出したように、「うん?」と唸った。そして、
やって来た受付嬢に尋ねる。
「なんでですか?」
「はい?」
「何で、『やっぱり』なんですか?」
少し声を荒げながら身を乗り出してくるなっちに受付嬢は一歩後退する。ちょっと間が
空いてから受付嬢は言った。
「だって、ついさっき、矢口さんと後藤さんが事務所に入っていきましたよ。集合かか
っているんですよね?」
「え?」
「え?」
私たちは口を揃えて言った。
「マジっすか?」
「はい・・・」
受付の人はなぜか申し訳なさそうに言った。
私たちは急いで、事務所の中に飛び込んだ。
―
なっちは骨折しているのでうまく走れなかったがそれでも必死で走っていた。
私は、なっちに構うことなく先に行き、矢口と後藤を探した。
こういう時は直感というものが働くものなのだろうか。私は何かに導かれるように一目
散に階段を一つ駆け上がり、最初に目に飛び込んだ応接間の扉を開けると二人はいた。
奇跡的にも、うつ伏せになっている後藤の上から小さな体の全体重をかけて、矢口は後
藤を取り押さえているという形になっていた。当然、二人は生きている。
それを見た瞬間、無事だった安心感からか、その場にへなへなと腰が砕けるように座り
こんだ。
「ハァハァハァ・・・」
矢口はついさっき後藤を取り押さえたようで大きく息を乱している。
相当な格闘劇だったらしく、髪はぐちゃぐちゃで後ろのほうが飛び跳ねていて違和感を
感じる。
「どうして・・・?ごっちん・・・何があったの?」
ふと辺りを見渡すと、二人のそばには刃渡10cmほどのナイフが落ちていた。
また黒いソファの一つがきれいに裂かれていて中の綿毛が見えていた。その近くに矢口
の髪らしき金色の髪の束がバサッと落ちていた。
それらを見ると、さすがに背筋に冷たいものが走った。
遅れてなっちが息を切らせながら入ってきた。
「ハァハァ・・・矢口・・・大丈夫?」
「だ、大丈夫・・・・だけど・・・」
後藤は小さな矢口の体に乗っけられたまま、抵抗した様子は見せない。拳をギュッと握
り締めたままピクリとも動かなかった。額を強く床に押し付けていて、その表情は見え
なかった。
「これってやっぱり・・・」
「矢口、ごめんね・・・」
「紗耶香が謝ることじゃないよ。でも、どうしてごっちん・・・こんなことするの?」
高揚しているせいか少し涙をまぶたに滲ませた矢口。後藤の後頭部を見ながら、さまざ
まな形の困惑と怒りを後藤に送っていた。
矢口の言う通りだよ。
ねえ、後藤・・・。
後藤はどうしてこんなことができるの?
どうして、全てを捨ててでもこんなことができるの?
なっちのこと、矢口のこと、吉澤のこと。
そして、何より私のこと。
いろんな人を振り回し、いろんな罪を犯し、その罪に苦しみながらもどうしてこんなに
一生懸命になれるの?
どうして・・・?
「後藤・・・」
私は立ち上がって後藤に声をかけ、歩み寄った。
後藤はピクリと反応し、握り締めた拳を緩めた。
「ねぇ、後藤・・・」
もう一度呼びかけると、後藤はゆっくり顔を上げた。
「いちーちゃん・・・」
殺意の消えた瞳を私に向けた。
あれ・・・?
その顔はすごく穏やかですごく懐かしかった。
愛しくもあった。
そんな表情の中にある瞳に吸い込まれて、私は後藤の瞳にうつる私を見た。
後藤の中にいる私の瞳がさらに後藤を見返した。
そして、その中の後藤がさらに・・・。
そんな無限のループの中で、色の持たない光がフラッシュバックのように輝き、不思議
な世界に飛ばされた。
「・・・ック・・・ヒック・・・」
「大丈夫?」
「あ、はい・・・ック・・みません。もうちょっと待ってください・・・。そしたら、
ちゃんと・・・しますから」
「別にいいよ、ムリしなくても。つらいんだったらさあ、おもいっきし泣いちゃったら
いいよ。待っててあげる」
「でも、やっぱり・・・迷惑だし、もう夜も暗いし・・・」
私の目の前には子供のように泣き咽ぶ後藤がいる。
私は後藤の体を抱き寄せる。
「私のことなんて気にしないでいいよ」
「いちー・・・さん?」
「私がただ後藤の教育係だからそばにいると思ってんの?」
「・・・でも・・・」
「後藤を見てるとね・・・なんだか幸せになれるんだよね・・・。なんでだろ?すっご
く健気で、まっすぐで・・・。だからね、不安になったら、つらくなったら私に甘え
ちゃってもいいんだよ。私だってその方が嬉しかったりするんだから」
「『幸せ』・・・ですか?」
「うん。あ、でもちょっと大げさかな」
「な〜んか、いい響きだなぁ・・・。幸せか〜」
「あんまり繰り返されると恥ずかしいよ。まあ、とにかく別に迷惑だなんてこれっぽっ
ちも思っていないから。どんどん迷惑かけていいから、このままの後藤でいてね」
「市井さん・・・」
ちょっと微笑みかけると後藤はポロリとこぼれる涙の後に優しい顔が覗かせる。そし
て、同時にあははと笑う。
「ん?泣き止んだね?」
「はい・・・」
「じゃあ」
と私は絡ませた腕を後藤から離そうとする。
「あ、ちょっと待って下さい」
「うん?」
「まだ、泣いてます」
「は?」
「だから、もうちょっとこのままで・・・」
後藤は戻そうとした腕を握り、自分から絡みつく。
「何やってんのよ」
「へへへぇ〜」
呆れる私に後藤は、はにかみ笑い。そんな後藤を見て、ちょっと照れながらおんなじよ
うに、はにかみ笑い。
「ねえ、市井さん・・・」
「うん?」
「市井さんのこと、いちーちゃんって言っていいですか?」
「え?何それ?ヘンだよ」
「ヘンじゃないですよ。いいですか?」
「う〜ん、別にいいけど・・・」
「よかったぁ・・・。ずっと何て呼ぼうか考えていたんですよね」
幸せそうに、その顔はぽっと赤みを帯びる。
そして、そのまま後藤は私の胸に顔をうずめて、泣き疲れたのかスースー吐息を立てて
眠りにつく。
私は後藤の金色の髪を梳かすように何回も優しく撫でる。目を細めながら後藤の寝顔を
見つづける。
母のように姉のように恋人のように。
「紗耶香?」
「紗耶香?」
なっちと矢口の声でふと我に返った。
「うん・・・?」
「どうしたの?ぼーっとして・・・どうするの、これから?」
なっちが後ろから尋ねる。
「うん、ちょっと・・・待って・・・」
さっきのは、昔の後藤と私。
出会った頃の二人・・・。
「・・・・・・」
殺伐さがまだ漂うこの空間の中に、私だけが時間の曲げられた現実感を伴わない穏やか
な世界にその身を置いていた。温かく純粋なその世界に駆り立てられて、心の奥底から
の何か沸き上がるものを感じた。
私は・・・後藤は・・・
・・・
ああ、そうか。
そうだったんだ・・・。
「ねえ、紗耶香ったら・・・」
呼びかけるなっちを無視して、
「矢口」
私は後藤の瞳を見続けたまま矢口に声をかけた。
「・・・何?」
矢口はあいかわらず後藤が暴れるんじゃないかと思っているようで、必死に後藤を押さ
えつけている。
「後藤を放して」
「え?でも・・・今のごっちん、何するかわかんないよ・・・」
髪をくしゃくしゃにしたまま矢口は嫌がる。
「もう大丈夫だって」
「だって、ごっちんは私を刺そうとしたんだよ。・・・殺そうとしたんだよ・・・」
そんな言葉たちを口にすること自体が苦しいようで、乱れた息の中、少し顔を歪めなが
ら懸命に吐き出していた。
「いいから、お願い」
「・・・わかった」
私がそう真剣な眼差しを矢口に向けると、矢口は疑心暗鬼ではあったが、ゆっくりと後
藤から離れて、近くにあったナイフをつかんだ。
後藤は私を見ながら上体を起こす。
敗北感の中に愚かさと穏やかさを滲ませていた。
「後藤・・・大丈夫?」
そんな言葉に後藤は応えなかった。
「後藤、ごめん」
手を差し伸べる私から後藤は目を離した。
それから一瞬のことだった。
私に決死の形相を見せ、その突如の変化に私は一歩退いた。すると後藤はその隙をつく
ように切れた髪の毛を口惜しそうに触れている矢口に飛び込んだ。
「うわっ!キャッ!!」
「後藤!」
矢口は一応の警戒をしてはいただろうが、後藤の突然の行動になす術はなかった。後藤
は体当たりをすると小さな矢口の体は飛ばされた。矢口は壁に激突し、うめき声の後、
腰を押さえながら表情を歪めた。
矢口は手にしていたナイフを離してしまい、後藤はその床に落ちたナイフをつかんだ。
「ごっちん!!」
遠めにいたなっちが叫ぶ。
後藤は黒いソファを飛び越えて、部屋の一角に走り、振り返るなり私たちにナイフを向
けた。なっちは進めようとした足を止める。
「後藤!!!」
私はもう一度叫ぶ。
後藤はナイフを前に突き出しながらも及び腰で体全体が病的なくらい震え、今にもナイ
フを落としそうなくらいだ。
「ごっちん、もうやめてよ!!」
「あたしは・・・あたしは・・・」
後藤はそう何度も言いながら、私の方を見た。
いや、私の方じゃなくて・・・
私の手首を見ていた。
私はその目線を感じ、硬直した。
後藤を見た。
「後藤・・・知っていたの・・・?」
その言葉に後藤は小さくうなずいた。
「知らないわけ・・・ないじゃん」
「これはね、後藤のせいじゃ―――」
「あたしの・・・せいだよね・・・。あたしわかんないんだ。なんで市井ちゃんがそん
なことをしたのか」
後藤は濡れた瞳を傾けるとポタリと一つ雫が落ちた。
「でもね、あたしのせいだっていうのはどう考えても間違いないんだよね・・・」
「後藤、何考えてるの?」
ハッとした。後藤は私の顔と私の手首とそして自分の手首を順に見ていたのだ。後藤が
次に何をしようとしているのかは容易に想像がついた。
「市井ちゃんはね・・・勘違いしてるよ・・・。私がね、矛盾してたのはホントだけ
ど、なっちのことがあったからじゃないよ・・・その手首を見てからなんだ・・・。
だからずっと前からなんだよ・・・」
「後藤、ダメだからね・・・。そんなことしたら・・・。この手首だって後藤のせいな
んかじゃないんだから!」
「あたしはね・・・これでも市井ちゃんの笑顔が見たくて一生懸命だったんだよ。でも
それを見てから、胸のところがず〜っとグラグラぐらついてて・・・それが何か痛くっ
て・・・。ねえ、市井ちゃん?あたしのしたことは市井ちゃんにとっては死にたいくら
い苦痛だったの?間違ってたの?」
私は大げさに首を横に振る。
「ううん、苦痛じゃなかった。死にたいだなんてこれっぽっちも思ってないよ!私は全
然大丈夫だから・・・だからお願い、ナイフを捨てて!」
「嘘つかなくたってわかるよぉ〜・・・。だてにず〜っと市井ちゃんのこと見てたわけ
じゃないよ。ホント、ごめんね・・・市井ちゃん・・・」
後藤は振り絞ったようなかすれ声の後、ナイフをそっと自分の左手首に近づける。
「バカ!!やめ―――!!」
「ごめんね・・・」
首を小さく傾けたまま重たい涙をポタポタ落としながらそう呟くと、勢いよく自分の左
手首を切り裂いた。
「ごっちん!!」
切り裂かれた手首から血が吹き出したと同時に矢口が叫んだ。
その後、濁った赤色が大量に流れ出る。その勢いは私が切った時よりも明らかに
激しく、「ためらい」なんて微塵もない。その切り口は見たことがないくらい深く大き
くて、手首がとれるんじゃないか?と思うほどだった。
なっちが近寄ろうとすると、
「来ないで!!来たら刺すから!!」
と後藤は狂気にも似た面持ちで叫んだ。
左腕をダランと垂らすと手は真っ赤に染まり、指先の爪から血の糸が手先と床を繋いで
いた。残った右手は持っているナイフの刃先をなっちと矢口の方向に交互に向け威嚇す
る。さすがに二人もたじろぐ。
「ごっちん、ヤバイよ、それ・・・」
矢口は床に落ちる血だまりがどんどん大きくなるのを見て、失神しそうなくらいに蒼ざ
めた。
「ごっちん・・・どうしてそんなことするの!?」
なっちが何か救いの契機を見つけようと問いかける。後藤は震えを抑えようと右手を
ぎゅっと握り締める。それは逆効果で体の震えはますます助長して大きくなる。
「あたしは・・・ずっと・・・ずっと、市井ちゃんだけを見てきた・・・。それが一番
だと思ってたし、一番幸せだったし市井ちゃんも絶対おんなじだって思ってた。だか
ら・・・だけど・・・」
大粒の涙が床の血だまりにポトリと落ち、赤色に吸収されていった。その行方を後藤は
何かを悟ったように見送っていた。
「だからって、ごっちんがそんなことする理由にはならないよ・・・ともかく・・・死
んじゃうよ・・・そのままだったら・・・」
なっちが恐怖に満ちた声で言う。矢口も「そうだよ」と何とか声を出そうとしたが、
「市井ちゃんは振り向いてくれなかった!あたしが一生懸命になればなるほど、市井
ちゃんは離れていった!!ねえ、何で?何で市井ちゃんはあたしから逃げようとする
の!?」
矢口の声にかぶせて、最後の力とばかりに後藤は叫んだ。その振り絞るような悲痛な
叫びはなっちや矢口の説得の言葉を奪い、そして足を固まらせた。
「う〜、痛いよぉ。なんかジュクジュクする・・・。ははは、指先、感覚ないや」
時間とともに後藤はその顔色を失っていった。
「後藤」
そんな後藤を私は呼びかけた。
一度固く目を閉じ、ゆっくりと後藤と私の距離が確実に近くなっていることを確かめな
がら後藤に近づいた。後藤は一旦戸惑い、そしてすぐに私をキッと睨みつける。
「来ないで!市井ちゃんだって刺すから!!」
そんな後藤の威嚇を無視して更に近づく。
涙で包まれた後藤の目の奥をじっと見据えながら。
「ホントに、ホントなんだから!!」
「後藤・・・」
ゆったりとした呼びかけ、ゆったりとした足音、ゆったりとしたまばたき、そして私の
脈打つ鼓動さえもゆったり。私の行動の全てがスローモーションのようだった。やはり
この時私は、違う空間にいたのかもしれない。それは現実逃避というものではなくて、
何か悟りを開いて昇華したような感覚だ。対照的に血が滴り落ちる音や後藤の叫びはや
けに速くて、追い詰められてあがいているようだった。
なっちや矢口はそんな私の行動に声も出ず、狼狽していた。
私は後藤が刺せるぐらいの距離まで近づいた。
少し腕を伸ばせば私の体を刺せるだろう。
足もとにぬるっとした感触が走る。
「市井ちゃん!これ以上―――」
「いいよ」
「え?」
そこからさらに半歩歩み寄るとナイフの刃先が私の左の脇腹に当たった。
震えるナイフの先が時々服を通して肌に痛みを与える。
「後藤が刺したいのならいいよ、刺しても」
「市井ちゃん・・・」
「私はそれでも構わない。でもね」
「・・・」
まっすぐ後藤を見た。窓一つない地下室のような奥深い闇を宿した目をした後藤を引っ
張りだすように。
「私は後藤を死なせないから」
そう言って、私は血が流れ続ける後藤の左腕をつかみ、切った手首に口づけた。
308 名前 : 名無しさん 投稿日 : 2001年03月27日(火)10時44分00秒
「・・・」
流れ続ける血の中に私の口は埋もれた。もちろん、こんなことで止血なんかにはなりは
しない。しかし、これが後藤の心の叫びを受け止めてあげられる最良の方法だった。
しばらくした後、私の足もとから水が弾ける音と金属音がした。床を見ると、後藤の
持っていたナイフが血だまりに落ちていた。
同時に、矢口となっちが私たちに駆け寄ってきた。
後藤は一歩後退し、壁に寄りかかりながら顔を見上げてナイフと離れた右腕を目の上に
乗せ、両目から流れる熱いものを抑えた。
それでも涙は止まりそうになく、腕と顔の隙間からポタポタこぼれ落ちていた。
私の口やその周りは後藤の血でいっぱいになっていた。口の中に入った血を一回ゴクン
と飲み込む。
血なまぐさい味が私を包んだが気持ち悪くはなかった。
矢口は持っていたポケットティッシュを取り出して後藤の手首のパックリ裂かれた部分
に押し当てていた。なっちは自分の右腕を吊るしてある三角巾をほどいて、後藤の肘よ
りちょっと先のあたりを力いっぱい縛り付けた。完治しきっていない右腕から走る激痛
に冷たい汗をかきながら必死になって縛っていた。
「後藤、大丈夫だった?」
左手首は矢口となっちに任せて、私は縮こまった後藤の体をソフトに包みこむ。
よく見ると、さっき私が殴った左頬が赤く腫れ上がっていた。
「・・・ック・・・ごめんね・・・ごめんね・・・」
「それは、こっちのセリフだよ。ごめんね、後藤。逃げてばっかで・・・」
そう耳元に口を近づけて囁いた。
気付いたことが三つある。
一つは、後藤は本気で矢口を襲おうとはしていなかったこと。いや、最初は本気だった
のかもしれないが、いざ矢口と対面した時にできなかった。でなければ、矢口が後藤を
取り押さえるなんてできやしないはずだ。
腕力に関してはメンバーの中でズバ抜けてることは周知だ。
本気になればどうやったって矢口に勝ち目はない。
もう一つは、さっき、そして、今までにも時々感じたことのある後藤の仕草の「懐かし
さ」を感じた原因。
私はいつも思い出していたのかもしれない。
さっきの突如とした甦ってきた過去。
あれは初めて後藤が私の前で泣いた日。
そして、それは最初で最後の後藤が「つらさ」から逃げたくて泣いた日。
後藤は私にすがりついてきた。
夏先生に怒鳴られ、歌でもダメ出しをされ、自分のふがいなさを感じ、絶望に打ちひし
がれている後藤を私は必死でなぐさめた。
その時の後藤の表情。
それが同じものだった。
後藤はもしかしたらあの時の私をずっと見ているのかもしれない。
そして、後藤はずっとあの時のままなのかもしれない。
あの時の私を求めているのかもしれない。
そしてもう一つは今までずっとずっと気付かなかった私の本心。
「あたしは、ずっと市井ちゃんを苦しめて・・・それで・・・」
「それは違うって。私が後藤を苦しめていたんだって」
「市井ちゃん・・・」
「後藤・・・」
しばらく目が合った。
「ごめんね、気付かなくて」
震えが止まらない後藤をなだめるように頭の後ろをポンポンと叩いた。
「ずっと、後藤は伝えたかったんだよね」
後藤は小さく鼻をすすった。
「私もね、ずっとずっと後藤が一番だったんだよね」
「え?」
「私も後藤が一番だったんだよね」
「い・・・ちー・・・ちゃん?」
「だから、お願い」
私はもう一度、口を後藤の耳元に近づけ、少し触れた後ささやいた。
「これからも私のことだけ考えて」
後藤は声にもならない声をあげて私に強く抱きついた。
延々と泣きじゃくっていた。
その涙の量は流れた血の量に近づいていた。
私は後藤がずっと前から好きだったんだ。
東京は今日も秋を感じさせないくらい天気は快晴ではあったが少し空気が冷たい。
しかし、人の多さが原因なのか暑くも感じる日だった。
多種多彩な人間が、ある人は急ぎ足で、またある人は目的もなくぶらぶらと歩く路上の
中に私と後藤はいた。
「ねえ、市井ちゃん。どこ行くの?」
「どこって、別に行くところなんてないよ。ただ歩いてるだけ」
「そんなぁ。やっぱ、目的がないと人生つまんないよ」
「なんで今日の予定が人生にまで飛躍するかなぁ」
私の右手と後藤の左手。
二つの傷を持った手はしっかりと繋がれていた。
後藤の手首は腱が切れていて、完治するまで相当時間がかかるらしい。
手首に痛々しく巻かれた包帯は「事故で」と言った後藤の言葉を無視して、テレビや雑
誌がいろいろな噂を立てたが、その傷跡の深さや確証のなさからかその内の一つである
「自殺説」は消えていった。
おそらく消えないだろう二つの傷。
包帯が取れた後、くっつけてみると深さは違えど、もともと一つだったようにピッタリ
とくっついた。
私はそれを「絆」と勝手に呼んだ。
あれから、二人でなっちと矢口に今までのことを謝った。
私の極端な態度の変化に戸惑ってはいたが、
「よく、わかんないけど、紗耶香がいいって言うんなら・・・」
としぶしぶながら承知していた。
なっちは突き飛ばしたのが後藤だと知っていたことを告白した。
話によると、突き飛ばされる直前、後ろから声が聞こえたらしい。
「ごめんね」と。
その一言の主が後藤だとわかるのは容易だったそうだ。
だてに歌手はやっていないよ、と自慢気に話していた。
事故以来、なっちは「ごめんね」と言いながらも「突き飛ばす」必要があった後藤の複
雑な気持ちを何とか理解したくて、いろいろ頭を悩ませていたようだ。
私が見たなっちの暗い表情や、「後藤を辞めさせる」と裕ちゃんや上層部に進言する
のを先送りにしたかったのはそういう迷いがあったからだろう。
そして、最後に今までのことを全て許してくれた。
矢口は最初のほうはついさっき起こったことだったのでまだ興奮冷めやらぬという感じ
だった。
まだ腰に痛みを感じているらしく終始ひきつった表情をしていた。
「ごめん」
心から謝る私と後藤に、プイと顔を背け、
「髪の毛切れちゃったじゃない。だから許さないよ・・・」
そんな矢口にがっくり肩を落とそうとした。しかし、矢口は続けて、
「だからね」
矢口は再び私たちの方を見る。
「髪の毛が元の長さに戻るまで、私の命令には従ってよね♪」
パーッと開いた満面の笑顔の中から、セクシーウィンクをした(のちに矢口自身がこう
語る)。
矢口の茶目っ気たっぷりの許し方だった。
圭ちゃんには深くは話さず、
「今まで通りになったから」
と、ただ一言だけ電話で言った。そしたら圭ちゃんは、
「ふ〜ん、良かったね」
と、何も詮索せずに喜んでくれた。ちょっと鼻をならした感じの圭ちゃん独特の喜び方
だった。
「ごめんね」
切り際につぶやいたけれども、返事はなかった。
いつか、もう一度きちんと謝ろう。
圭ちゃんに失望されるかもしれない。嫌われるかもしれない。
でも、きっと許してくれるだろう。
だって、それは圭ちゃんだから。
面倒臭かったのが裕ちゃんだった。
電話すると、
「はよ、何があったんか教えてな」
と、言ってきたので圭ちゃんと同じように、
「元のさやに収まりました」
と結果だけを伝えようとすると、裕ちゃんはすごく突っかかってきて、
「うちはリーダーやんか。気になってしゃあないねん。な、たのむわ」
とか、
「ウチはなんでも相談に乗るで。ねーさんに任しとき」
と言ったり、最後の方には、
「所詮、リーダーなんて単なる肩書きなんやな・・・。だっれも、な〜んも相談もして
くれへん・・・」
と、マジで落ち込んだ様子を見せたので励ますのに大変だった。
そしてもう一人。
後藤に命令され、一番つらい思いをさせたかもしれない吉澤。
もしかしたら罪を背負わせてしまったかもしれない吉澤。
緊張しながら電話をかけようとする私の手を後藤は抑えた。
「電話なんかじゃ失礼だから・・・」
俯き加減に小さく首を振りながら後藤は言った。
確かにそうだ。
電話で何を言ったとしても、今の気持ちは伝わらない。続けざまに後藤は、
「よっすぃ〜は市井ちゃんには関係ないと思う。あたしとよっすぃ〜のけじめだから。
あたしが一人でちゃんとする」
と顔を上げ、一点に私を見つめながら言った後に、キュッと唇を引き締めていた。
後藤にとっては、別に信じていないというわけでもないのだろうけど、私と吉澤を向か
わせることはつらいのかもしれない。
そんな後藤の強い目の力に押されて、
「わかった。後藤に任せるよ。でも二人のけじめがついたら最後は私も謝らせてよ」
と言うと、後藤は大きく首を縦に振った。
もしかしたら、許してくれないかもしれない。
でもどんなに時間をかけてでもつぐなう覚悟を決めていた。
私はというと、
「市井ちゃん・・・」
ようやく泣き止んだ後、なっちが三角巾を巻いてくれた右手首を軽く支えながら、ずっ
と傍にいた私を自信なさげに呼ぶ後藤。そんな後藤に、先輩ぶって言う私。
「いいよ、許してあげる。ちょっと行きすぎたところがあったけど、今日でぜ〜んぶ水
に流す。わかった?」
ちょっとどころじゃない。そ〜と〜行きすぎだったけどね。
「で・・・でも」
「いいの!私は忘れたの!私がいいって言ってるんだからいいじゃん!後藤も忘れない
と、今度デートしてやんないよ」
「デ、デートっすか?」
後藤が赤く腫れ上がった顔から戸惑いと驚きと小さな喜びを含んだ表情を浮かべる。そ
ういえば、「デート」なんて言葉、お互い口にしたことなかったかもしれない。
「そう、デートよ。何かおかしい?」
恥ずかしさを隠すようにふんぞり返って言った。
「うわぁ、ラブラブモード全開だぁ〜」
なっちと矢口は冷やかしながら笑っていた。
さすがに何もしないんじゃ目立つかもしれないので思い切って髪型を変えてみた。切っ
た髪を金色に染め、根元をセニング&ねじりカットで無造作にセット。オレンジ色のサ
ングラスは一応変装用。大き目サイズのピンク系のミリタリーパーカーは一応今日の為
に買ったおニュー。一方の後藤は、へそがちょっと出した小さめの黄色のキャミの上に
五分袖のシャツ、裾の広いラメ入りのデニムは後藤らしい「ダサさ」だ。まあ、そんな
センスはどうでもよくて、気になるのはサングラスも帽子もしてないその無防備さ。わ
かる人ならパッと見で後藤だってわかるだろう。
こんなんで街を歩いていてバレないのだろうか?
まあ気付かれてもいいかな?それもまたおもしろいかもね。
でもこの手は離さない。
「そんじゃあさぁ、カラオケ行かない?」
後藤は歩いている途中に買ったウーロン茶に一口つけながら提案した。
「何で?あんた、いっつも歌ってんじゃない?プライベートでまで歌っていたい?」
「別にあたしは歌わなくてもいいよ。市井ちゃんの歌が聞きたいの。それ、あ〜ん」
後藤は私の左手に持っているホットドッグに目で合図した後、親を待つ雛鳥のよう
に口を大きく広げた。私は後藤の顔近くに左手を出しながら、
「へぇ〜、じゃあ、私の独り舞台ってわけだ」
「うんいいよ。その代わりリクエストした歌、歌ってね♪」
ちょっとだけ意地悪そうな顔を見せる。
「リクエスト?」
「うん、市井ちゃんに『I
WISH』とか『青春時代1.2.3!』を歌ってほしいんだ」
「え〜、マジで?いやだなぁ」
「歌ってよぉ〜」
子供のようにダダをこねる後藤に対して、私は一旦拒否しながらも心の中ではムフフと
薄気味悪い笑みを浮かべていた。
実はこっそり練習してたんだよね。しかもフリ付きで。
後藤の驚く顔が目に見える。
「わかった、いいよ。行こ」
「うん!やった!」
と喜んで、小さな口をもう一度目いっぱいに広げて後藤はホットドッグに食いついた。
「おい、食べ過ぎ!私の分も残せ!」
「いいじゃん、いいじゃん♪」
ケチャップがついた口をモグモグさせ、若干メロディにも乗せながら後藤は言った。溢
れんばかりの笑顔がそこにはあった。
そんな後藤がたまらなくいとおしく感じた。
後藤はただ純粋なだけだった。
怖いくらいに純粋だった。
吉澤に感じた年相応の純粋さとは違う。
なっちの持つ素朴さとも違う。
矢口の持つ純粋な明るさとも違う。
私にだけ見せる永久不変な純粋さ。
それは私が初めて感じた「永遠」という存在なのかもしれない。
そんな後藤を私は好きだった。
多分、初めて私に泣きついてきたあの日から。
後藤が私を好きになるずっと前から。
いつか、私はその感情を否定した。
後藤への気持ちが強くなればなるほど。
やがて芽生える嫉妬も手伝って、その感情を心の奥底に沈め、そして忘れた。
だから、きっと、ずっと私は矛盾していたんだ。
どんなにキライと思っていても、その更に奥ではスキと思っていて、
どんなに壊されると感じていても、その更に奥では守られていると感じていた。
私は今まで後藤に対して「キライ」と口にしたことはない。
それは単純な臆病なせいだと思っていた。
でも本当はそうではなく、
私が、もし後藤に向かって「キライ」と言えば、後藤は私のそんな言葉を純粋に受け入
れ、壊れてしまうことをわかっていた。そして私自身も、「ホントはキライじゃないん
だ」と心の奥から悲鳴を上げる。
そして私もきっと壊れていく。
だから私は「キライ」と言えなかった。
後藤が私に向けたのはどんな時でも「愛情」だった。
歪んでいるんじゃない。あまりに純粋すぎて、愛情には見えなかった。
後藤は私にとって空気のような存在なのかもしれない。
あるのが当たり前のような存在。
ただ、違うのは空気の中の酸素がすっごく多かったこと。そして、少し色を持っていて
生半可にその存在が見えていたこと。
当たり前のものを私は酸素が多いために息苦しく感じて、そして色があるために、世界
が変わって見え、違った恐怖に包まれた。
ホントは絶対必要なはずなのに。
他人の気持ちはわからないものだけど、自分の気持ちっていうのもわからないものだよ
ね。
もしかしたら、今こうやって感じていることもいずれは矛盾してくるかもしれない。
だけど、それでもいい。
未来の気持ちはわからないけど、少なくとも今の私にとっては真実だから。
絶対に後悔はしない。
昨日、夢を見た。
あの夢の続き。
真白な大地に立つ後藤と私。
後藤の目線はいつの間にか私の後ろを見ていた。
私はその目線の流れにのって振り返る。
見えるのはたくさんのホログラフィー。
モーニング娘。に合格して喜んでいる自分。
新しい世界に期待で胸をときめかせている自分。
オリコンチャート一位になって喜ぶ自分。
髪を切ってみんなからほめられる自分。
調子に乗って髪をさらに切って、今度はけなされながらも笑う自分。
ライブのトークでうけた時の自分。
矢口や圭ちゃんとオリジナルメンバーの愚痴を言い合いながら、それでも結構楽しんで
いる自分。
夏先生にほめられる自分。
LOVEマシーンを歌っている自分。
紅白歌合戦を無事歌い終えた時の自分。
プッチモニとして輝く自分。
青色7でセンターを任された自分。
後藤からたすきを受け継いで必死で走っている自分。
そして、それを取り囲むなっち、裕ちゃん、辻、圭ちゃん、矢口、石川、圭織、
明日香、加護に彩っぺ・・・
そして、後藤・・・。
「私は市井ちゃんの楽しい思い出の中にしかいないから」
後ろの後藤は背後からそっと抱きしめながらそう言った。
私はいつか自分で檻を創って、そこに閉じこまってしまっていた。檻の向こうでは自由
に生きる人たちがいて、そんな人たちを見て嫉妬する。脱出しようと必死でもがいてい
る。いずれ自分ひとりの力ではどうしようもないことを悟り、傷ついていく。
そうじゃない。
誰かに寄り添って、誰かに縛られて・・・そして私は飛びたてる。
後藤が包んだ背中の温もりから羽根が生えていた。
空も大地も何か綿毛のような柔らかさに包まれた夢だった。
続きがあるような気がしたが思い出せない。
でもそこからの世界はきっと未来。
羽根を持った私がこれから飛びたつ未来。
私の瞳にうつる新しい世界。
「市井ちゃん、何考えてんの?」
圭織みたいに交信中だった私に、ちょっといじけて後藤が声をかける。ウーロン茶はも
う全部なくなってしまったみたいで、ストローで吸ってみるとズズズッという氷の音が
聞こえ、口に入った味はほとんど水だった。
私は笑ってごまかす。そして、こういうことが一回あったような気がした。すると、
ある言葉を思い出した。
「ねえ後藤」
「うん?」
「今、幸せ?」
後藤はちょっとハッとした表情を見せた。
「どうしたの?」
「ううん。なんかそれってどっかの宗教みたいだなぁ〜って。『あなたは神を信じます
か?』・・・なんちゃって」
首にぶら下げてもいないのに十字架のネックレスをつけていたかのように右手を胸の前
で柔らかく握り締め、目をつぶりながら言った。
「あのね、私は無宗教よ・・・私は、他人とか神とかには頼らないの」
「え〜、そうなの〜?」
口を尖らせながら、目をパチパチと大きくまばたきをする後藤。そんな後藤を見て、私
は少し赤くなりながら、一つゴホンと咳をして、
「ま、まあ、後藤以外のね」
と付け加えた。「してやったり」顔の後藤を見て、私はもう一段階赤くなった。
「で、どうなの?」
「はい?」
「幸せ?」
「うん!だって、市井ちゃんがいるんだも〜ん!さっいこ〜うに幸せ!!」
「コラ!重い!」
後藤は自分の体全体を私の腕に巻き付けてきた。
「ねえ、市井ちゃん」
勢いついでに後藤は呼びかける。
「抱きつくなっつーの。っんとにもう・・・」
「キスしない?」
「はい?」
「ねえ、キスしようよぉ〜」
甘えた声で要求する。私は少しあたりをキョロキョロ見回して、
「んなこと言ったって、こんな人前で・・・」
「こんなにいるんだから、したってわかんないよ」
「それだってやっぱり恥ずか―――」
後藤が私の唇を塞いだ。
もちろん、唇で。
「ご・・・ごとぉ・・・」
これはむちゃくちゃ恥ずかしい。顔がみるみるうちに真っ赤になって、頭のてっぺんか
ら湯気が立ちそうになっているのが自分でもわかった。
「へへへぇ〜」
後藤は口からちらっと舌を出して笑った。
ウィンクもしたらしいが相変わらず両目がつぶっていた。
その笑みは今の天気のように一点の曇りもない笑顔だった。
そして、今日も後藤のことを考える。
/ / / / / / / / /
あんなに快晴だった天気が、一気にくもってきた。
太陽の光を完全にシャットアウトするくらいどんよりとした感じはどう見ても雨雲だ。
空気が一段と冷たくなり、風は冬なみの身を切るような冷たさを持っていた。しかも五
分袖の後藤は寒そうに二の腕をこすっていた。
これだから秋って季節は難しい。
「う〜ん、ないねぇ」
「ないね・・・」
カラオケに行くって決めてから10分。私たちはすぐ見つかると思っていたカラオケ
ボックスを探すのに街をさまよっていた。
大きめの交差点で私たちは立ち止まった。ここに来るのは何回目だろうか?
「やっぱ、あっちの方がありそうだよね?」
何の根拠もないがとりあえず言ってみた。
「後藤も知らないとは思わなかったなぁ」
私よりもずっと外出好きな後藤ならカラオケがどこにあるかぐらいは知っていると決め
つけていたので首をかしげる。
「それとも日を改める?」
私は何も言わない後藤を見た。
「後藤?」
後藤は私の言葉を全く耳に届いていないようだった。
そして、幽霊でも見たように青ざめながら交差点の先を見つめていた。
「後藤?どうしたの?」
―――この時、後藤は自分の運命を知ったのかもしれない。
「後藤?」
「うん?何?」
やっと後藤は反応した。
「どうしたの?気分悪いの?」
「ううん、何でもないよ。市井ちゃんこそどうしたの?顔、青ざめてるよ・・・」
後藤はきょとんとした顔をする。
それは、こっちのセリフだよ・・・。
と思いながらも、さっきまでの後藤に戻っていてほっとしていた。
信号が青になった。
人が一斉に動き出す。私もその流れに乗ろうとして、足を進めようとする。しか
し、後藤は逆らうように止まったままで私の右手がグイッと引っ張られた。
「後藤?」
「やっぱ、あっち行こうよ」
そう言って、後ろを振り向いた。
―――そしてこの時、後藤は自分の運命を受け入れたのかもしれない。
「なんで?」
「あっちにありそうな気がする・・・」
そして、人の流れとは正反対の方向を歩き出した。
「なかったからここにいるんじゃん」
手を引っ張られながら私は対面する人の顔を見る。
逆走する私たちを訝しそうにしながらサラリーマン風のおじさんや金髪の若者たちが私
たちを避けていた。
「ねえ、後藤ってば!」
と私が声を大きくして叫ぶと同時に、後藤は握っていた私の右手を強く握った。
「あった・・・」
後藤の目線は上の方を向いていた。私も後藤の目線の方向を見ると、あるビルの最上階
に「カラオケ」という文字を見かけた。
「・・・ホントだ」
「ね?あたしの勘って鋭いんだ」
「まあね」
「んじゃ、行こ!」
そして後藤は私を引っ張りながら足を進めた。
―――私は・・・・・・全く気づかなかった。
雨はポツリポツリと落ちはじめてきた。私たちはやや早足で目的の建物に入った。
「なんで8階に受付があるんだろうね?」
「さあ?場所がなかったんじゃない?」
「でもこれだと普通、人なんて入ってこないよ。あそこまで行くの面倒くさいし」
「う〜ん。でも周りに同じようなお店なさそうだったし・・・。結構入ったりしてるん
じゃない?」
エレベーターの前で扉が開くのを待っていた。最初は私たち二人だけだったが、しばら
くして続々と人が来た。ほとんどがスーツ姿の男の人だったので私たちは浮いていた。
「どうしたの?」
一瞬の間があった。後藤はちょっと目線を外していたがすぐに元に戻す。
「ううん、何でもない。遅いね〜、このエレベーター」
「うん、そうだね」
「ホント、イライラするなぁ」
と言いながら後藤は全くイライラしてる素振りを見せず、視線はエレベーターの扉の方
を向いていながらその焦点は少しずれているようにも見えた。それから更にしばらく待
たされた後、ポーンという音とともにエレベーターの扉が開いて私たちは入った。
大きなエレベーターだったがどうやら同じビルに人が集まるようなところがあるらし
く次から次へと入ってきて、あまりスペースがなくなった。
「うわっ、きつ・・・」
前の人のビチョビチョに浸けられたポマードの臭いが強烈に鼻にささった。
さらにその隣を見ると脂ぎったおじさんが懸命に滝のように流れる汗を拭っている。
少し気持ち悪くなって、目を背けると、背後には街並みが映っていた。エレベーターが
上昇するにつれて人がどんどん小さくなっていく。
体にはほとんどGがかからず、快適だった。
2階で降りる人が3人ほどいて、
「階段使えよ!」
とつい口走りそうになった。
それから、エレベーターのランプが5という数字を通り過ぎる。
私はその時、ただぼーっとランプの動きを追っていた。
それはあまりにも突然だった。
ビクッ!!!
私は小さくて強い振動を右手から感じた。同時に後藤は握り合っていた左手を強くつか
みだした。
「イタッ!」
思わず口にしてしまうほどその握り方は強かった。
「後藤?どうしたの?」
あまりに痛かったので、何かあったのかと思った。エレベーターに酔ったとか。
前のおじさんを見て気持ち悪くなったとか・・・。
後藤は何も反応せずに俯いたまま、ただ何かを我慢するように震えていた。
「後藤?」
私の二度目の呼びかけにも反応しない。
「後藤、どうしたの?」
ただ、うつむいた顔から小さな雫がポタリと落ちた。
「後藤ってばぁ!」
四度目の呼びかけにようやく後藤は顔をあげた。
汗が滲みつつある頬の上を涙が細く通っていた。
「ね、ねえ・・・市井ちゃん・・・・・・・」
そう震えるような小声で話しかける後藤を見ると、目は虚ろにしながら必死の笑顔を
作っていた。汗がとめどなく浮かんでいた。確かにエレベーターの中は蒸し暑かったが
これは尋常ではない。頭ではイマイチわかっていなかったが、体が異様な不安感を感じ
とったらしく、冷たい汗が背中を走った。
「後藤、すごい汗じゃない?大丈夫?」
「いいから・・・ハァ・・・いいから・・・」
「よくないわよ、ほら」
強く握られた右腕は使えなかったので変な体勢にはなったが左手で後藤の額を触ってみ
た。氷を触ったような感触がした。私は事の重大さにどんどん気付く。
「ちょ、ど、どうしたの?やばいよ」
「ねえ・・・・いち・・いちゃん・・・。も・・・もういちど・・・だけ・・・おねが
い・・・していい?」
「何言ってんのよ。具合悪いの?」
後藤は私を見ていたがその目には私の顔が映っているかはわからなかった。
後藤の足もとからピチャピチャという雨漏りのような音がした。そんな音に耳は傾ける
も虚ろな後藤から目は離すことができずにいた。
「おねがい・・・だから・・・これ・・・からも・・・あたしのこと・・・・だけ・・
かんがえ・・・て・・・ね?」
一字一句を必死の思いで告げ終わると、今まで握り合っていた手を後藤は離そうとし
た。私は手を離すまいとしてとっさに強く握り締める、と同時に後藤は体重を私に委ね
てきたので後藤を抱きかかえた。額や顔に汗いっぱいの後藤の体は冷たかった。
「後藤・・・?」
左手を後藤の背中に回した時、ヌルッとしたものを感じた。
???
これ・・・何?
「あ、あの・・・」
隣りで声がした。
ふとその方向を見る。
そでだけが赤い服に赤い手袋をしたその両手には真っ赤なナイフを握り締めている人間
を見た。ぶるぶる震えていた。手からは赤い水滴がポタポタ落ちている。
いや、ナイフが赤いんじゃなくて・・・。
目線を上にあげてみるとそのナイフの持ち主が見えた。
「・・・」
「私・・・私・・・」
私の知っている顔だった。
その顔を見て、夢の続きを思い出した。そしてある違和感に気付いた。
誰かが・・・いなかったことを。
背後から黒い影に襲われたかと思うと、次の瞬間、全てが消えた。
いくつもの私もみんなも後ろにいる後藤も、そして真白な大地さえも。
背中の温もりを感じ、羽根の存在を思い出す。
腕を背中に回し、その存在を確かめる。
もしかしたら、この羽根を広げれば飛び立てるのかもしれない。
しかし・・・
広げることなく私は落ちていく。
落ちていくほうが幸せだから。
落ち行く先に後藤がいるから。
後藤を見た。
背中に回した左手の感触は紛れもなく後藤の血だった。後藤の冷たすぎる体の中で唯一
熱かった。口の端から血の糸が後藤の口下を伝った。後藤がその瞳をゆっくりと閉じる
と体が重くなり、私はその重さに耐え切れずに後藤と一緒に倒れこんだ。背中の血はと
めどなく流れ、エレベーター中に広がり、周りにいた他の人たちも異常に気付きはじめ
る。それぞれがそれぞれの悲鳴をあげる。
私の足もとにナイフがカランコロンという音を出して、血の上に落ちた。
「私・・・市井さんをだましていました・・・。ごめんなさい」
後藤は・・・肌からは色が消えかかっていた。
「でも、それはごっちんのせいなんです。私が言ったことは全部ホントだったんです。
信じてください!」
血はドクドクと流れつづけていた。
「私は、市井さんを尊敬してるんです!」
髪の毛はさらさらだった。
手足は冷え切っていた。
「市井さんが大好きなんです!!」
唇が乾きはじめていた。
「だから、これで許してください・・・」
いつの間にか顔の汗がひいていた。
代わりに一筋の涙が頬をつたっていた。
そして・・・、
「許してください・・・」
穏やかすぎる笑みが浮かんでいた。
二度と後藤の瞳には私が映ることはないだろう。
だけど・・・
今日も明日もずっとずっと・・・
後藤のことを考える。
-fin-
〜エピローグ〜
ねえ、後藤。
あれから、また傷が痛み出したんだよ。
ほとんど治ってるのに、なんかジュクジュクするんだよ。
でもね、痛いんだけど痛くないんだよ。
矛盾してるよね。
私は知ってるよ。
きっと後藤が与えているんだよね、これは。
後藤が自分のことを忘れてほしくなくて一生懸命与えているんだ。
それを知っているから全然、痛くないんだよ。
でもさぁ、そんなに不安にならなくていいんだよ。
心配しなくても、私はずっと後藤のことを考えているから。
ねえ、後藤。
私ね、あれから全然眠くならないんだよ。
朝も昼も夜も目が開いたまんま。
自分でも不思議だったんだけどね。
でも最近ようやくわかったんだ。
何でだと思う?
う〜ん、確かにずっと後藤のことを考えていたいって言うのもあるけどね。
それだけじゃないと思うよ。
私はね、こう思うんだ。
私の体はね、知っているんだ。
今、眠らなくても、もうちょっとしたらず〜っと眠っていられるんだってことを。
だから、今のうちは起きていたいんだよね、きっと。
ねえ、後藤。
ホントのことを言うとあれからどれだけ時間が経ったかわからないんだ。
だってさぁ、後藤はいないんだよ。
時間なんて無意味だよ。
未来なんて無意味だよ。
それだけじゃないよ。
後藤に触れられないんだったら、こんな手なんかいらないよ。
後藤の声が聞けないんだったら、こんな耳なんかいらないよ。
後藤が笑顔が見られないんだったら、こんな目なんかいらないよ。
後藤がいないんだったら私なんかいらないよ。
ねえ、後藤。
自分の運命に気付いていたんでしょ?
何でその運命を受け入れたの?
それが後藤の罪の償い方だったの?
それはね、間違ってるよ。
後藤は償っただけじゃない。
私に罰を与えたんだ。
そして、後藤はまた一つ自分に罪を作ったんだよ。
今度は私が罰を与えに行くよ。
そして、私がまたその罪をもらうよ。
だからね・・・
おやすみ。