真・百姫夜行。

 

 

それは新しい世紀になって、初めての秋の午後だった。

日本でもトップクラスの退魔師。
不死の肉体を持つ後藤真希は、
いつものように気だるげに歩いていた。

股上の浅いジーンズにサンダル。
トップは迷彩色の丈の短いTシャツ。

せっかくの魅力的な服装も
半分閉じられた目では効果は半減だ。

だが突然、その眠そうな目がぱちりと開く。

目の前にはスレンダーな少女。
白いシャツの襟元から除く紺のスカーフ。
腰から腿にかけて余裕を持たせた黒のパンツが
サスペンダーで肩から吊られている。
凛々しくも涼やかな目元は逆光にやや細められていた。

「……いちーちゃん?」
「久しぶりだね。後藤」

ドイツ出向中の市井紗耶香。
後藤とは切っても切れない仲であるその少女は
いつもの不敵な笑みをその頬に浮かべていた。

「何だ帰ってきてたんだー」

普段の姿からは想像もできない溌剌とした
口調でしゃべりかける後藤。

「髪染めたんだね。似合うよ金髪」

ぴしり

にこにこしながら歩み寄るその足元の
アスファルトに突然切り込みがはいる。

「誰!?」

鋭い目で睨む後藤の前に現れたのは黒い影。
スレンダーな金髪を睨むその目は大きな猫目。

「……圭ちゃん?なんで?」
「そいつから離れて」
「何言ってるの?」
「そいつは紗耶香じゃない」
「どうしたの圭ちゃん!なんでそんな事言うの!?」

問い掛ける顔が、背後から押し寄せる邪悪な気配に思わず振り返る。

「素直に来ておればよいものを」
「……い、いちーちゃ…」
「こんなにも早く邪魔が入るとはな。
 少しおまえ達を見くびっておったわ」
「う、嘘でしょ。ねえ、嘘でしょ!」

「紗耶香は昨日ドイツで消息を立ったわ」

後藤の前に進み出た圭は、
黒い指なし手袋をはめた右手を顔の前に上げる。

「念のため後藤に連絡を、と思って来てみたけど
 まさか本人がいるとはね。さあ、答えてもらうわよ。
 あなた何者?」

「長かった。あれから五十年以上。ようやくこの体を得た。
 今こそ我が崇高なる目的を果たすとき」

「ちょっと聞いてんの!」

「だが、その前にやらねばならんことがある。
 この娘の記憶に残るもの。
 おまえ達のような存在は、余の障壁となるもの。
 まったく、この極東の地にこのようなものがいるとはな」

「ふざけないで!」

必殺の糸がその体に伸びる。

「な、なに」

しかし、糸が体に触れる瞬間、
邪悪な波動が糸をバラバラに弾き飛ばした。

「余は今度こそ実現させる。『我が闘争』を」

「ま、待て!!」

市井の体は空気に溶け込むように消えていった。
後に残されたのは唇を噛み締める黒衣の糸使いと
放心状態の不死身少女。

風はこれからを暗示するかのように重く湿っていた。

『七年の後、帰り来るが、決して『我なり』と言わざりき』

       ──ミシェル・ノストラダムス『諸世紀』十章の四

世紀末の予言こそ実現しなかったものの
史上最高の預言者として名高いこのフランス人が幻視したこの一句。

研究家の説によるとこれは歴史上の
ある人物の再生を予言したものだといわれている。
予言とは象徴的な言葉で表される。
七年という数字も、もちろん象徴的な意味で捕らえなくてはならない。
七に七をかけ七を足す。
すなわち五十と六年後。
新しい世紀に移ったこの年。
その予言は人知れず成就されていた。

長靴の踵が鳴り右手が斜め上へと伸びる。
ぴしり
空気が音を立てる錯覚さえ引き起こすそれは見事な動きだった。
何度も繰り返されその体に染み付いた鮮やかな動きだった。
鷲のように鋭いその目に熱いものが伝う。

「ご苦労だったな。ハイマン」
「ハ、ハイル……」
「未だにこの場所があのときのまま残されておるとはな。
 ゲッペルスめ、口だけのことはある」

若い少女が発しているとは思えない重々しい口調で
その人物はしゃべっていた。

暗い室内には少女と70歳は越しているであろう老人の二人っきりだった。
今でも若い者をひと睨みで座り込ませてしまうであろう迫力を持った老人が、
少女の前では怯えすら含んだ表情を見せている。

見た目は凛々しい顔をした少女だ。
本来なら溌剌としたパワーを周囲に振りまいているであろうその顔は、
なぜか苦虫を噛み潰したように渋い。

奇妙に違和感のある眺めだった。
まるで湯飲みの中にワインを満たしたような感覚。

「あのベルリンの地下壕で冷たい鉛の玉を頭に受けてから五十余年。
 待つ身はつらかったぞ」
「心中お察しいたします」

そう、少女はその体の内に別の魂を宿していた。
1945年4月30日、その波乱に満ちた生涯を閉じた人物。
自分の理想のため、世界を闇の世界へと導こうとした近世最大の破壊者。
第二次世界大戦における最高の戦犯。
アドルフ・ヒトラーの魂を。

「ヒトラー?」
「そう」
「ってあの、ちょびひげの?」
「そう」
「変な横分けの?」
「そう」
「シルクハットとステッキの?」
「それはチャップリン」

圭に睨まれた矢口は身を縮める。

「確証は無いけど、ほぼ間違いないでしょうね」
「なんで、そんな奴が紗耶香を」
「それはわからない。ただ、紗耶香は向こうでナチがらみの
 事件を追っかけてたみたいなの」

ベルリンで『ソロモンの笛』を再び封印した市井は、
ネオナチが引き起こしたと思われるオカルト的な事件を調査していた。
そしてその途中、不意にその足取りは途絶えた。

あるいは全てが巧妙に仕組まれた罠だったのかもしれない。

「それで、後藤は?」
「……今はショックで寝込んでるわ」
「無理も無いね。
 あの二人はいっつも一緒にいるぐらい仲がよかったから」

後藤とその教育係だった市井の間には、他の人間が窺い知ることのできない
何か深いつながりがあるようだった。

「この間の台詞からすると、敵の目的はあたしたちを倒すこと。
 一応みんなにも注意してるけど、あんたも無茶しないようにね」
「うん、わかった」

市井とは矢口と共に同期ということで三人は仲がよかった。
明るく振舞おうとする矢口の顔にも拭い去れない陰がある。

「それじゃ、念のためよっすぃーにはオイラから連絡しとくよ」
「頼んだわよ。あっちの情報も握られてるでしょうから」


矢口と別れた圭は物思いにふけった。
後藤に負けないほど圭も心の中でショックを受けていた。
同期の中でも、あるときから矢口は中澤と一緒にいることが多くなり、
必然的に市井と保田は共に行動することが多くなっていった。
だから、保田にとって市井はもっとも心を許せる間柄だったといってよい。

「……紗耶香」

その呟きは普段の彼女からは想像もつかないほど弱々しいものだった。

「いかがでございました。極東の娘たちは」
少女に付き従う老兵は労わるように声をかけた。
「ふむ。思ったよりはやりよるわ。
 この力、得るだけの価値はあった」

ヒトラーのオカルト趣味は有名である。

世界各国からオカルト関係品を探索収集させていたと言われているし、
作戦行動も占星術で決める程の入れ込みようだったという。
また、ヒトラーはノストラダムスを読んでおり、都合のいい部分を宣伝に利用していた。
さらに、予言が敵国の目に触れないよう多くのノストラダムスの予言書が燃やされたという。

日本からドイツまで瞬時に移動するほどの力を得たのも、
あるいはその研究の成果だったのかもしれない。

「フフ、この娘の記憶を見て久しぶりに血が沸き踊ったぞ。
 ぜひとも、我が娘達と競わせてみたくなった」
「それではやはり……」
「うむ。あれを使うぞ」
「あ、あれを……」
「そうだ。我が帝国の最終兵器『ラストバタリオン』を」

ラストバタリオン。

ナチス崩壊のときヒトラーが人知れず資材や人材を
某所に隠したということは研究家の間では定説となっている。
敗戦の色が濃厚になった、1945年2月25日。
全ドイツ国民へのラジオ放送での演説で彼はこう述べている。

「ほどなく、東西の衝突する日が必ずや訪れる。
 その時、その結果を左右する役を演ずるものは、
 我がドイツ人による『最後の軍団(ラストバタリオン)』
 である」と。

しかし、来るべき最終戦争に投入されようとしていた軍団。
その隠された軍団が、妖魔と人間を融合させることによって生まれた、
異形の超人集団であることは誰にも知られていない。

錆付いた扉がその戒めを解かれる。
重々しく軋んだ音を立てて分厚い扉が開かれた。

「おお!」
戒めを解いたハイマンが驚嘆の声をあげる。

凝縮された闇の中、五対の目が紅く輝く。

「『薔薇のエリザベート』
 『影法師ヘレナ』
 『大地のヒルダ』
 『道化師サロメ』
 『戦乙女のブリュンヒルデ』
 我が帝国の誇る最強の娘達よ。
 今こそ余のためにその力使ってもらおう」

闇の中から現れたのは五人の美女だった。
男なら魅了されずにはいられないほどの美貌を前にして、
戦場で眉一つ動かさず捕虜を射殺していた元将校は
恐怖にその身を振るわせていた。

「わが総統(フューラー)の命のままに」
涼やかな声が澱んだ空気を揺らす。

「フフ、戦の前の宴だ。たいしたものは用意できなかったがな。
 食前酒代わりに楽しむがよい」

その言葉を聞いた紅い目が老兵に注がれる。
鍛えぬかれたはずの精神はそれだけであっさりと崩壊した。
しかし、永きに渡った生涯を閉じるにはそのほうが幸福だったかもしれない。

澱んだ空気に粘い血の匂いが混じった。

「いやぁぁぁぁ!!」
「うおぉぉぉぉ!!」



ぐったり。

「ねえ、ひとみちゃん。今度はあれに乗ろうよ」
「えー、ちょっと休ませてよ」

絶叫マシンは文字通りあたしに絶叫を上げさせ続けた。
もう、喉ががらがらだ。

あたしは梨華ちゃんと二人っきりで遊園地に来ていた。
これにはもちろん訳がある。
実は昨日──

「ねえ、ひとみちゃん」
「なに?梨華ちゃん」
「今日、定時連絡忘れてたでしょ」

げ、やばい。
毎日のように遊びに来てる辻加護に振り回されてすっかり忘れてた。
うー、あの上司嫌味が長いんだよね。

「わたし、代わりにしといたから」
「ほんと!!」

うわー、助かった。やっぱり持つべきものは良いパートナーだね。

「ありがと、梨華ちゃん。このお礼はするから」
「ほんとに!」

ぐ、なんかいやな予感が……。

「じゃーん」
「なにこれ?」
「遊園地の招待券」
「どうしたの?これ」
「懸賞であたったの」

懸賞って……。
梨華ちゃん、あんたいつの間に……。

「ねえ、一緒に行こうよぉ」
「で、でも、仕事が……」
「最近、休みとってないし……半日でいいから。ね」

そうだなぁ、最近変わった事件も起こってないみたいだし。
たまにはいいかもね。

「うん、じゃあ辻とか加護とか誘って……」
「だめ!二人っきりで行くの!」

そんなムキにならなくても……。
まあ、確かにあの二人連れてったら、こっちが遊ぶどころじゃなくなるかも。

「うん、わかった。それじゃ二人で行こう」
「やったー!うふ、何着ていこうかな」

楽しそうだな梨華ちゃん。
地球にきてずっと神経張り詰めてたみたいだから、息抜きも必要なのかもね。
ああ、あたしって良いパートナーだな。

それにしても、梨華ちゃんがこういうの好きだとは知らなかった。
自慢じゃないが、あたしはぜんぜん苦手なのだ。
コンバットスーツ着てぴょんぴょん飛びまわるのは大丈夫なくせに。
きっと、自分で動けないってのが駄目なんだ。

「せっかく、フリーパス買ったんだからもっと乗らなくっちゃ」

げ、元気だね、梨華ちゃん。

「もー、ひとみちゃんって意外とだらしないんだなぁ」

むか。
勝ち誇ったような顔して……。
くっそーーー。
ん、あれは……。

「ね、ねえ、今度はあそこ行ってみようよ」

それはいわゆるミラーハウスというやつみたいだった。
中が迷路になっていて、その壁が鏡になっているやつだ。
子供だましだけど休憩代わりにちょうどいい。

「え、あそこ……」

梨華ちゃんの顔が曇る。
あれ?もしかして?

「ひょっとして怖いの?」
「こ、こわくないもん!」
「んじゃ、行こうよ」

あたしはニヤニヤしながら言った。
くくく、形勢逆転だね。

「いいよ、いこ!」

梨華ちゃん、ムキになってる。
作戦どおり。

さっそくミラーハウスに向かう。
入り口ではピエロがお出迎えしてくれた。
赤と黄色のだんだら模様。
白く塗られた顔に大きな赤い口。
長い糸のついた操り人形を巧みに操っている。
無言で差し出された手に導かれあたしたちは奥へと進んだ。

「ね、ねえ、もっとゆっくり歩いてよ」

やっぱり怖がってるじゃん。
ぷぷぷ、声裏返ってる。かわいいなあ。

中は本当に全て鏡だった。
うっかりすると自分の位置さえわからなくなりそうな感覚。
うわ、予想以上に凄いな。

自分の顔が数え切れないくらい鏡に映し出されている。
やだな、いきなり、にやって笑ったりしないでよ。
うーん、梨華ちゃんからかってる場合じゃない。
あたしが怖くなってきちゃった。

あれ?そういえば……。

「梨華ちゃん?」

梨華ちゃんがいない。
さっきまですぐ後ろにいたはずなのに。

「ちょっと、梨華ちゃん。ふざけてないで出ておいでよ」

返事は無い。
あたしの首の後ろの毛がちりちりしてきた。
これは……ひょっとして……。

不意に鏡に映ってるあたしが全員こっちを振り向いた!

「う、うわ!」
おもわず、身の毛がよだつ。

かたん。

妙に軽い音を立てて床に穴が開いた。
まじ?
そのままあたしはフリーフォール。
もう、いやだって言ったのに……。

着地したところは草原だった。
なんで?
地下じゃないの?
頭の上にはお日様まで出てる。
……深く考えるのはやめよう。
とりあえず辺りを見回す。

梨華ちゃん!

倒れてる梨華ちゃんに駆け寄る。
「しっかりして!梨華ちゃん!」
「う……ひとみちゃん……わたし……」
良かった。どこにも怪我は無いみたいだ。
「ここ……どこ?」
「それはあたしが聞きたい。とにかく……」

「ひとみちゃん!」
後ろから聞こえる声。
え、あの声って。まさか。
振り返る。
そこに立っていたのは…………梨華ちゃん!?

あたしはぼーぜんと二人の梨華ちゃんを見比べていた。
違いは全然見つけられない。
髪型も服装も全く同じだ。

「ひとみちゃん!そいつは偽者よ!早く離れて!!」
「うそよ!ひとみちゃん!あっちのほうが偽者よ、だまされないで!」

アニメ声がステレオで鳴り響く。
あ、あたしはどうしたら……。

いつのまにか二人の梨華ちゃんは向き合って睨みあっていた。
まるで、鏡に映したようにそっくりな二人。
鏡……。
やっぱりさっきのところが……。
それがわかっても現状の解決には何の役にも立たない。

「「ひとみちゃん!!」」
「は、はい」

「ひとみちゃんならわかるでしょう?どっちが本物か」
いえ、全然。

「ひとみちゃんが決めて。どっちが本物か」
え、ええーー!
む、無理だよぉ。

「わたしはひとみちゃんを信頼してるわ」
ああ、その上目づかい。本物っぽいなあ。

「わ、わたしだって信頼してるもん!」
うーん、その涙目と八の字眉毛も本物っぽい。
や、やばい。本当にわかんない。
うーーん。右のほうがなんとなく本物っぽいような……。
じゃ右で。
ファイナルアンサー?
なわけないじゃん。どーーしよ。

「わたしが本物よ!」
「わたしよ!!」

詰め寄る二人。
そのとき、あたしの目にある光景が飛び込んできた。
わかった!!
ぐっと、片方を睨みつけ言い放つ。

「偽者はおまえだ!!」

「な、なんでそんな事言うの?わたしは本物よ」

あたしはそいつの足元を指差す。
そこには踏み潰された小さな花があった。

「梨華ちゃんはやさしい子だから、そんな風に花を踏みつけたりしない!
 だから、おまえが偽者だ!!」

……………。

「ふ、まさか、こんなことでばれるとはな」
うつむいてた偽者は、にやっと笑うと崩れ落ちた。
それは木でできた人形に変わっていた。

「くくく、まあいい。今日は顔見せのつもりだったからな」

声のするほうを見上げる。
そこには入り口にいたピエロがバレーボールぐらいの球にのって浮かんでいた。

「何者だ!!」
「ラストバタリオン『道化師サロメ』。
 わが傀儡の技、存分に楽しんだかい?」

「ラストバタリオン?」
「いずれ、我らはまたおまえ達の前に現れる。
 そのときは……命は無いものと思え」

そう言うとピエロは空高く浮かび上がって消えた。
同時に草原だったはずの場所が元のミラーハウスへ戻る。

「梨華ちゃん。大丈夫?」
「うう、よっすぃー、ごめんね」

なんであやまるの?

梨華ちゃんの目線を追う。

ま、まさか……。

その足元には……踏み潰されたお花。
……梨華ちゃん……あんたって人は……。

ああ、あたしゃ本当に良いパートナーに恵まれたよ……。

「そう、彼女達も襲われたの」
「うん、矢口が連絡する前にもう来てたみたいだね」
「敵もなかなか素早いわね」
「用心しないとね」

矢口と連絡をとっていた保田は携帯を切った。
銀縁の眼鏡を外しノートパソコンをカバンにしまう。
喫茶店を出ると煉瓦造りの公園を一人歩く。
敵の足取りは全くつかめていない。
飯田の交神も失敗に終わっている。

打つ手無しか……。

夕暮れ時のその場所にはほかに人影もない。
ただ、街路樹を冷たくなり始めた風が揺らしているだけだ。

「そろそろ出てきたらどう?」
「さすが、気づいてましたか」

街路樹の陰から姿をあらわしたのは一人の女性だった。
きっちりとスーツを着こなしたその姿は欧米人ではない。日本人だろう。
しかし、樹の太さはとても人間一人隠れる太さではない。
只者であるとは思えなかった。

「ドイツから来たわけではありませんよ」
先手を打って向こうが話し掛ける。

ふん、やっぱりそっちの関係者ってこと……。

スキャンのための糸は既に飛ばしてある。

妖魔ではなさそうね。
でも、この体……。
そうとう『いじってる』わね。

「身体検査はもうよろしいですか?」

……お見通しって訳ね。

「皮膚の感覚を最大まで上げました。
 240本の糸に探られるのは気持ち良いものではありませんね」
「正確には242本よ」
軽く手を振って糸を巻き取る。

「それで、自衛隊が何のようかしら?」
「……何故わかりました?」
「そんな生体改造してる人なんて一般人にはいないわよ。
 費用なんか考えても国が後ろにいないとね」
「なるほど、あらためて自己紹介させていただきます。
 『陸上自衛隊特殊機械化部隊』村田一尉です」
「……『ナンバーレス』か」
村田は軽く眉をひそめる。
「そこまでご存知とは……」

陸上自衛隊特殊機械化部隊。
近代の戦闘は『核』という呪われた兵器の登場により一変した。
大規模な戦闘は敵だけでなく自分の身すら危うくする諸刃の刃と化した。
そこで、小規模かつ効果的な戦闘が逆に見直されてきたのだ。
単身敵地に乗り込み、要人の暗殺、主要施設の破壊などを行う。
純粋な個人としての力。
その思想が生み出したものが『超人の製造』である。
陸自が極秘裏に進めていた『超人部隊』計画。
その一環として、適任と思われる人材から希望者を募り
最先端の技術によって『超人』がつくられた。
生体改造兵士いわゆる『バイオニック・ソルジャー』の誕生である。
意外にも、この計画に適性を見せたのは全て女性であった。
そしてこの時、従来の認識番号を捨て新たに別人として
生まれ変わった彼女たちはこう呼ばれた。

Member of Lost Original Numbers
Me-LON、通称メロンと。

「もう、実行段階に来てるとは思わなかったけどね」
「正式なロールアウトは昨日です」
「ふうん、今回の件に合わせたってこと」
「私以下、斎藤ニ尉、大谷ニ尉、柴田三尉。
 以上四名が皆さんの護衛にあたります」
「お断りするわ」

世間話のような何気ない口調に、村田の目がすうっと細まる。
愛らしい通称とは裏腹な危険な香りが漂った。

「今回の一件は、皆さんだけの問題ではありません。
 日本は…いえ世界は……戦争を望んでいない」
「悪いわね。あたしにとっては、世界よりも仲間が大事なの」

公園内を吹く風に緊張の色が混じる。
保田の糸の力を知っていながら、村田の様子に変化はない。

……自信ありって感じね。

黒いコートのポケットに手を入れたまま、保田はスーツ姿の自衛官を見つめ続けた。

張り詰めた空気を変化させたのは村田のほうだった。
「やめましょう。我々が争う理由はない」
「……そうね。少なくとも現段階では」

「OH!残念。もう終わりですか?」

突然聞こえた声に、二人ははじかれたようにそちらを向いた。
そこに立っていたのは黒髪を長く伸ばした女だった。

「わたしもドイツから来てないですよ」
楽しそうに答えるその顔は東洋系に見える。
しかし、どこか日本人離れした雰囲気を持っていた。
なにより、保田の糸と村田の超感覚でも察知できなかったその存在。

「はじめまして、My Name is Ayaka。USAから来ました」
「……CIAか」

世界の警察を自認するこの大国が、今回の件を黙って見ている訳はない。
介入は必然とも言えた。

「ミス・ケイ。あなたがたの噂は本国でも聞き及んでます。
 是非協力を、と思っていましたが先ほどの様子では無駄のようですね」

言葉とは裏腹に微笑を浮かべたままアヤカは言った。

「まあ、我が合衆国の力を持ってすればナチの亡霊など……。
 そうだ、一つだけ忠告しておきましょう。
 くれぐれも我々の邪魔はしないようお願いしますね」

米国籍を持つ女は一方的にそう言うと踵を返した。
結局、最後まで一度も村田を見ることはなかった。

「あいつ、あたしの糸をかわした……」
追跡用に放った糸は、何気なく歩くアヤカの動きを捕らえることができなかった。
「保田さん」
村田がこちらを見る。
保田は軽くため息をついた。
「とりあえず、今日のところは引いてくれないかしら」
「わかりました。今日は引き上げます」
そう言って保田の顔をじっと見る。
「自分は……ただ命令を遂行するだけです」
村田は惚れ惚れするような敬礼を見せ歩み去った。


……紗耶香。
あたしはあんたを守れるんだろうか……。
ねえ、紗耶香……。

「どういうつもりや、圭坊」

デスクを挟んだ向かいには鋭い目をした金髪の女性。
退魔師元締にして退魔結社社長、中澤裕子。
デスクの上には封筒が一つ。

「見ての通り、『辞表』をだしたのよ」
「だから、どういうつもりやって聞いとんのや!」

「別に……」

表情を和らげた中澤がデスクの上で両手を組む。
「あんた、紗耶香探すつもりなんやろ」
保田は目を伏せる。
「それやったら、やめる必要あらへん。
 あたしのほうでも情報は集めとる」

「……これ以上、裕ちゃんに迷惑かけられないよ」
「迷惑?」
「上からも圧力かかってるんでしょ?
 今日、陸自に会ったわ。CIAにも。あいつらの目的は紗耶香を倒すこと。
 でも、あたしはそれを見逃すわけにはいかない
 あたしは……紗耶香を守る」

それを聞いた中澤は静かに首を振る。
「圭坊……。あたしを見くびるんやないで」
「え?」
「あたしが、そんなことを迷惑やと思うわけないやろ。
 あたしにとってあんたらは大切な仲間や。
 紗耶香も、あんたも、後藤も、圭織も、なっちも、
 辻も加護も松浦も、あの宇宙刑事とかいうのも、
 みんな、あたしにとっては娘みたいなもんや。
 …………娘見捨てるような親はおらんやろ」
「裕ちゃん……」
「だから、あんたは何の心配もせんでええねん。
 会社なんかどうなってもええ。
 なあ、圭坊。……紗耶香を頼んだで」
そう言うと、中澤はソファーにもたれた。

「……ありがとう。裕ちゃん」

「ねえ、一つ聞いていい?」
「なんや」
保田にはどうしても聞いておきたいことがあった。

「名前なかったけど、矢口は?」
「うぅん、矢口が娘やったら結婚できひんやないかぁ〜」
体をくねらす中澤。
「……娘でなくてもできないわよ」
保田は聞かなければ良かったと思った。

豊かにカールしたブロンド。
憂いを含んだ青い瞳。
ぽってりとした唇は真っ赤な血の色。
体にぴったりと合った黒いワンピースは、
胸元の見事な隆起と腰のくびれの対比を浮かび上がらせている。
見事なカーブを描く腰のライン。
スリットから除く脚線美は、その白い肌とあわせて男を誘う。

現に何人もの男が、この美女に声をかけていた。
その度に二人は暗がりへと消える。
しかし、再び現れたとき妖艶な美貌はパートナーを失っていた。
奇妙なそのダンスは何度も続いた。

何人めかのパートナーを見つけた美女が再び暗がりに消える。
ビルとビルの間に潜り込んだ二人は見つめ合った。
期待に満ち溢れていた男の目が焦点を失い表情も弛緩してゆく。
女の目は紅く輝いていた。
にいっと笑った紅い唇から、長く伸びた犬歯が現れる。
既に自由を奪われている男の首筋へその牙が近づく。

「待て!!」

振り向いた紅い目に映る二つの影。
意識を失った男はその場に崩れ落ちた。

「おまえ、ラストバタリオンだな」
向かって右側の短髪の女性が尋ねる。

「その名を知っているとは……。
 貴方達こそ何者?」
「我々は陸上自衛隊特殊機械化部隊。
 ナチの亡霊め。ここで倒してやる!」
「笑えない冗談だわ」
艶っぽい唇がきゅうっと吊りあがる。

人造の『魔人』と人造の『超人』。
人知を超えた戦いが始まった。

短髪の女は目にもとまらぬ速さで踏み込み
空気が裂けるほどの拳を放った。
その勢いに圧されたかのようにふわりと飛んだ女妖魔が
はるか後方に着地する。

「ふつうの人間ではなさそうね。
 血に何か混ざっているの?いやな匂いだわ」
「逃がさんぞ、覚悟しろ!」
「あら、どうして?
 わたしが負けるはずがないのに」
妖艶に笑った妖魔は両手を広げる。
路地の奥から数人の男が現れた。
血走った目。青白い肌。
なによりその口から見える犬歯。

「わが下僕達と遊んでいるがいいわ」

「柴田!吸血鬼になった者は殺すしかない!
 同情はするな、全力でやれ!!」
「わかりました、大谷さん」

絡みついてくる男達を腕の一振りで振り払う。
男達の腕はベキベキと音を立て、壁に叩きつけられた頭は脳漿を噴き出した。
大谷は正拳突きで男の心臓を貫き、そのまま女妖魔に向かって投げ飛ばす。
ぶつかる寸前、男の体は血の霧へと変わった。

「やっぱり、まだまだね」
真後ろから聞こえた声に大谷の体が凍りつく。
「ぐああ!」
大きく引き裂かれた肩を押さえうずくまる。
「大谷さん!!」
「し、柴田。私に構わずアイツを……」

妖魔は長く伸びた爪についた血をゆっくりと舐めた。
「ふん。貴方達の血はおいしくないわ。
 素敵な晩餐が台無し。つまらないからもう帰るわ」

そう言った妖魔は空中へと浮かび上がる。
その背には巨大な蝙蝠の羽根が生えていた。

「逃がさない!」
柴田はビルの壁を垂直に駆け上がった。
そこに妖魔から何かが飛んでくる。
「くっ!」
いつの間にちぎりとったのか、それは下僕となった男の右腕だった。
華奢な体はバランスを崩しビルの間に音もなく着地する。

見上げた月もない夜の闇の中、妖魔の姿は既に見えなくなっていた。

昼下がりのホームセンター。

「悪いなあ、付き合わせてしもて」
「ん〜、いいんですよ〜」
「あ、それはトランクに乗せて」
「ハーイ」

会話をしているのは20代の女性とつぶらな瞳の少女。
備品の買出しに出てきた平家みちよと、退魔師見習の松浦亜弥。

「事務所帰ったら好きなもん出前とってええで」
「ワーーイ」

事務所までは15分ほどで着く。
平家は安全運転で路地を走っていた。

「そういえば平家さん。新しい子が入るって本当ですか?」
「らしいな。良さそうな子が見つかったって姉さんがゆうてた」
「ん〜、どんな子なんでしょう?」
「さあ? それより松浦も先輩になるんやから、がんばらんとな」
「ハーイ、がんばりま〜す」

到着まで後少しという時、愛車を機嫌良く走らせていた平家の眉が不意にしかめられる。

「なんや、前に進まへんで!」
「へ、平家さん!車が沈んでます!!」

慌てて窓から飛び降りた二人の前で、車がゆっくりと影の中に沈んでいく。

「ああ、まだローンが残っとるちゅうのに……」

「死に逝く者がそんな心配する必要は無い」

声のするほうには闇を切り取ったような黒いローブ。
鼻まで隠れたフードから除くあごのラインは対照的に白い。

「ラストバタリオン『影法師ヘレナ』。命はもらうぞ」

声とともに影の中から黒いひとがたが湧き出てきた。
一見、二次元の存在に見えるもやのようなものがこちらに襲い掛かってくる。

「ふん! 念の力は失ったとはいえ『清景流抜刀術』まだ腕は錆ついとらんで!!」

いつのまにか平家の手には木刀が握られていた。
腰だめに構え、寄ってくる影を見据える。

「しっ!」

呼気とともに繰り出される神速の一撃。
先頭を行く影がちりぢりに砕け散る。

「どうや!!」

次々に居合の餌食になってゆく影。
しかし、影は次々に襲い掛かる。
どうやら倒した分だけ新たに次が生み出されているようだ。

「あ、あかんて。きりがないやんか」
「あぶない! 平家さん!!」

松浦の操る『光』が数体の影を吹き飛ばす。

「ほう、娘。面白い技を使うな」

松浦の能力は『太陽光』を操ることである。
闇の力を払う灼熱の光。
低級の妖魔なら焼き尽くすこともできるほどの力を持つ。

「だが、光で影を消し去ることはできんぞ」
光の強さに比例するように影もまた濃度を増す。
どうやら相手が悪いようだった。

「あかん、雑魚やっても無駄や。本体倒さんと!」
「む、無理です! 敵の数が多すぎます!!」

そこへ空気を切り裂いて白光がきらめく。
「ぐあ!」
ヘレナの肩には細長い金属が突き刺さっていた。
千本と呼ばれるその針を投げたのはきっちりとスーツを着こなした女性だった。
その横に同じようにスーツを着たもう一人の女が並ぶ。

「あんたら、なにもんや?」
「『陸上自衛隊特殊機械化部隊』村田一尉と斎藤ニ尉です。
 あなた方を護衛するためにきました」
「ああ、圭ちゃんのゆっとった……」

「貴様ら……。このわたしに傷をつけたな。簡単に死ねると思うなよ」

呪詛の声が終わるのを待たず、自衛官二人の姿が消える。
あまりのスピードに視力がついていかないのだ。
影を飛び越え、後ろに回りこんだ斎藤の手刀が妖魔の首筋に伸びる。
頚骨を砕くかと思われた一撃はその直前で動きを止めた。

「ごふっ」
斎藤の腹部を黒い槍が貫いていた。
「影は本来二次元。これほど薄く鋭い物は無い」
「斎藤!」

時間差で攻撃を仕掛けようとしていた村田の手が、
千本を振り上げた体勢のまま固まる。

「秘術『影縛り』」
いつのまにか村田の影には木の杭が突き刺さっており、
常人をはるかに超えるその動きを完全に封じていた。
いや、そのときには既にそこにいる全ての者はその動きを封じられていた。

「影を封じれば本体も封じられる。おまえ達はもう動けん。
 ゆっくり嬲り殺してくれる」

そういってヘレナは村田を見る。
「だが、おまえはただでは殺さん。
 おまえが守ろうとした者の断末魔を見て慙愧の涙を流すがいい」

ヘレナは平家の前に立った。
「やめろ!!」
「平家さん!!」
村田と松浦の声が空しく響く。

「くくく、死ぬがいい」
影を伸ばした槍が平家の胸元へと伸びる。

ばきゃ!
何かを砕く音がして崩れ落ちたのは影使いのほうだった。
「清景流抜刀術『浮船』」
「ぐう、ば、馬鹿な……。なぜわたしの術が……」

肩を抑えてうめく妖魔に村田の千本が飛んだ。
眉間を打ち抜かれ声も無く倒れ付す妖魔。
平家は後ろの人影に振り返ることなく声をかけた。

「登場が遅いんや無いか? 姉さん」
「あほ。主役ゆうんは最後に登場するもんやろ」

笑いながら登場した細身の女。
あの瞬間、平家の後ろから影を縛る秘術を解いた『破魔の眼』。
その眼を持つ者……退魔師元締、中澤裕子。

「ラストバタリオン……これほどの相手とは……」
塵に変わってゆく影使いを見ながら、村田が呟く。
4対1であわや全滅の危機だったのだ。
当然の判断だろう。

傷ついた斎藤のところへ松浦が駆け寄る。
「大丈夫ですか。しっかりしてください」

「隊には連絡しておいた。すぐに治療班が来る」
斎藤に気遣う目線を向けた後、村田は中澤の前に立った。

「『陸上自衛隊特殊機械化部隊』村田一尉です」
美しさすら感じる敬礼。
「中澤や。おそらく、あたしらとあんた達は最終的な目的が異なるやろ。
 せやけど、今日の事については礼を言わせてもらうで」
「いえ、職務ですから」
表情を変えず言葉を返す。

「……おしいな、あんたとはええ飲み友達になれそうなんやけどな」
「自分はまだ未成年ですから」
「そら、残念やな」
そのままお互いにかける言葉をなくす。
沈黙がその場を流れる。

「では……」
再び決められる見事なまでの敬礼。
「ああ、ほな、な」

先ほどまでの戦友は二手に分かれ、それぞれの道を歩み去った。

おそーじ、おそーじ。
さっさかさ。
おそーじ、おそーじ。
さっさかさ。

あ、ありさんだ。

……………………。

は! いけない。
おそーじ、おそーじ。
さっさかさ。
おそーじ、おそーじ。
さっさかさ。

あ、あの雲アイスクリームみたい。
おいしそうだな。

……………………。

は! いけない。
おそーじ、おそーじ。
さっさかさ。

まだまだ終わりそうにないなあ。
ふう、また飯田さんにおこられちゃう。

あ、きれいなお花。
飯田さんよろこぶかな。
えへへ、プレゼントしよっと。


あれ?誰だろ?
おきゃくさんかな?
うわあ、がいじんさんだ。
きれいなひと……。


ドイツの女吸血鬼は幼い退魔師を紅く輝く目でみつめた。
──辻の手から一輪の花が零れ落ちた。

「つーーじーーー。
 もー、どこいったんだ。見つけたらお説教だかんね」

相変わらず集中力の欠如した弟子を探して、境内を歩き回っていた飯田は
突然吹き付けられる妖気に、鋭い目でそちらを見た。

「辻!」

その視界に飛び込んできたのは、
今にも泣き出しそうな辻を目の前に置いた金髪の女性。

「あなたが、カオリ・イーダ?」
「あんた、紗耶香の……」
「サヤカ?ああ、あの器ね。
 そう、私はラストバタリオン『薔薇のエリザベート』。
 貴方の命貰いに来たわ」
妖艶な唇がきゅっと吊りあがる。

「……辻には手を出さないで」
金縛りにでもあっているのか、辻はぴくりとも動かない。
「いいわ、もともと私の目的は貴方なんだし」
動かない辻を残し、エリザベートは飯田に近づいた。
「それに、あなたのほうが美味しそう」
にやりと笑った口から覗く鋭い犬歯。
そして、その喉が甘く清らかな血を求めてごくりと鳴る。

「きれいな目……」
そういって飯田の大きな目を覗き込む。
「強い目ね。ぞくぞくするわ」
なめらかな頬に手をやり、つぅとなでる。

白い頬に朱線が刻まれた。

エリザベートは爪についた血に長い舌をのばした。
嫌に紅いその舌がゆっくりと清き血を舐めとる。
再び妖魔は飯田の目を見据えると
「その目を恐怖にゆがませてあげる」
残忍な目で微笑んだ。

「い、いいらさーーん」

動けない体で辻が叫ぶ。
既に何度爪が食い込んだろう。
飯田の体は傷だらけだった。

少しづつ少しづつ体を切り刻まれる。
白い小袖は朱に染まっていた。

「……つまらないわね」

血にまみれた顔の中。
しかしその瞳は変わらぬ意思の光を宿していた。

「貴方の目。やっぱり気に入らないわ。
 ……もういらない」

飽きたおもちゃを捨てる少女のような、残忍な表情を浮かべた妖魔は、
長く伸びた爪を飯田の目に伸ばす。

「!!」

ふいに殺気を感じたエリザベートは後ろに飛びのいた。

数瞬前までその体があった場所には一本の木刀が突き刺さっている。

楽しみを邪魔された怒りで振り返った女吸血鬼は
その燃え上がるような目で見た。

念の力で辻を開放した小柄な影を。
最強の念法使い、安倍なつみを。

「圭織を頼んだよ」

辻はびくりと体を振るわせた。
辻の位置からは安倍の後姿しか見えない。
声の調子も変わった様子は無い。
それでいて辻は目の前の先輩から
飯田を傷つけた女妖魔とは別種の恐怖を感じていた。

「う……」
「いいださん!」
緊張の糸が切れたのか前のめりに倒れた飯田の声に、辻は慌てて駆け寄った。

安倍はゆっくりと歩を進めた。
エリザベートの目の前まで進み、突き刺さっていた木刀を引き抜く。

「早く奥へ」
「は、はい」

長身の飯田を苦労して辻が神社の奥へ運ぶ。
二人の姿が完全に見えなくなるまで、安倍はぴくりとも動かなかった。

二人の姿が完全に見えなくなるまで、妖魔はぴくりとも動けなかった。
目の前の小柄な少女から発せられる念の力は
数十年の眠りから覚めた身を金縛りにさせていた。

──恐怖によって。

呪縛を断ち切ったのはゲルマン民族としての誇りだったろうか。
気合の声をあげて爪を振りかざす。

一瞬で交差した後、エリザベートは膝をついた。
木刀の一撃は妖魔の源である邪気を根こそぎ奪っていた。

交差したときに見たあの光。
安倍の額には強い光が宿っていた。

──ばかな、こんなはずは……。
あの深き森での契約は私に強き力をもたらしたはず……。

しかしうつむく女妖魔はまだ諦めてはいなかった。

──そう、まだ私にはあれがある。
邪眼──辻とか言う娘を金縛りにしたあの技。
すぐに止めを刺さないとは……油断したな!!

静かに自分を見下ろす安倍にエリザベートは赤く染まった目を向けた。

「ククク、思ったよりあっけなかったわね」

満足げな笑みを浮かべエリザベートは立ち上がった。
邪眼の力か、安倍の体は動かない。

「今度は遊んでいられないわね。すぐに私の僕にしてあげるわ」

にいっと裂けた口から鋭く伸びた犬歯が現れる。
安倍の白い首筋に呪われし牙が突き刺さった。

「うふふ。思ったとおりいい味だわ」
満足げな笑みを浮かべたその顔が苦痛にゆがむ。

「ぐぶぅ……。あ、貴方……い、一体なにを……」
「凝縮した念を体中の血に行き渡らせておいたの。あなたのお口には合わなかったみたいね」

その顔に浮かぶのは月の怜悧さを思わせる笑み。
そして輝く頭頂のチャクラ。

天使の輪を思わせるその輝き。
しかしその羽根はいつもとは違う色をしているように思えた。

エリザベートは体の内側から太陽に焼かれるような苦痛に身をよじった。

「ぐはあ、くくくくるしいぃぃぃ。ぎ、ぎぇゃぁ!!」

黒き天使は、体中から煙を噴きながらのたうつ体を静かに見下ろす。

「お、おねがい、いっそ、いっそのことひとおもいに殺してぇぇ。ひ、ひぎぃぃぃ」

宵闇の迫る境内に呪詛の声が響き渡る。

妖魔の体が一握りの塵になるまで、月の笑みを持つ天使はただ静かに見下ろしていた。

「圭織の様子はどう?」

入ってきた安倍は穏やかな顔をしていた。
しかし、辻はなぜかその身を振るわせた。
その姿はなぜか青く輝く月を思わせた。

飯田は畳の上に敷かれた布団に血の気の失せた顔で横たわっていた。
辻が脱がせたのか、横には血にまみれた小袖が置かれている。

安倍の声に飯田がその目を開いた。
「……顔が怖いぞ。なっち」

一瞬動きの止まった安倍がゆっくりとその顔を飯田に向ける。
「そうだね。なっち、まだまだ修行が足りないなあ」

その顔を見て安心したのか飯田は再び眠りについた。
安倍の姿には何の変化もないのに、辻はその場の空気が和らいだように感じた。

布団の横に座った安部は右手から念を送り込み、飯田の傷を癒し始めた。

「あべさん」
「ん?」

緩やかな寝息を立てる飯田を見ながら辻は静かに語り始めた。

「辻はまた飯田さんにめいわくをかけました。
 辻が、辻がもっとしっかりしていれば……。
 この間だって……なのにまた……。
 辻はよわむしなんです。
 おちこぼれなんです。
 辻は、辻はひつようない子なんです」

涙がぽろぽろと零れ落ちる。

「そんなことないさ」

安倍は辻の頭にふわりと手を置いた。
「辻や加護みたいな子がいるから、なっち達はがんばれるのさぁ」

辻が涙にぬれた顔を上げる。

「……よくわからないです」
「そのうちわかる時が来るよ」

そういって笑った顔は雲間からのぞくお陽さまのように暖かだった。

相変わらずおいしいこの人でした。

えー、作者取材のためしばらく本編はお休みします。
かわりに外伝をいっとこうと思います。

では。

「保田圭です。よろしくお願いします」
「市井紗耶香です。よろしくお願いします」
「矢口真里です。よろしくお願いします」

真里……。

胸の奥のとげがちくりと痛んだ。
まだ……残っていたのか……。
もう、傷は癒えたと思っていたのに……。

緊張にこわばる顔が見える。

つぶらな瞳……。
似てはいない。
あの子はもっときつい目をしていた。

小さな体……。
似てはいない。
あの子はもっと背が高かった。

高く伸びる声……。
似てはいない。
あの子の声はもっと低かった。

黒くつややかな短髪……。
似てはいない。
あの子の髪はもっと……。

『お……ちゃ……』

くっ

頭を振る。
あの声が聞こえるのは何年ぶりだろう。
もう、気持ちの整理はついたはずだったのに。

 

中澤裕子外伝  過ぎし日の涙

 

「朝何時に起きたん?」
「えーっと……8時ぐらいです」
「あっそ」

意味の無い会話。
間を持たせるだけの会話。
自分が素っ気無くなっているのを感じる。

気の効いたことの一つも言えんとはな。

心が乱れているのか。
あの名前を聞いてから。

『お……ちゃん……』

あかん。
今が一番大切なときなのだ。
ようやく退魔師が一つにまとまろうとしている。
こんなときに何を考えている。

最近のあたしはとても忙しかった。
動き始めたばかりの組織は多くの問題を抱えていた。
しかし、何かを作り育てるという行為に、あたしは喜びを感じていた。
それはあるいは、とっくの昔に捨てたはずの母性だったのかも知れない。

新たに見つけてこられた見習い達は彩っぺに鍛えられていた。
今もびしびしと、しごかれている事だろう。
多分あの子も……。
なぜか足がそちらに向く。
なぜ? 用などありもしないのに。


小さな体が目に入った。
彩っぺのしごきを離れたところから見ている。
こちらには気づいていないようだ。
隣の見習(保田といったか?)とひそひそ話をしている。

「それにしても、厳しすぎるよね」
「ストレス発散してるんじゃないでしょうね」
それを聞いた瞬間、感情が溢れ出していた。

「なに甘いことゆーてんねん」
気持ちが押さえきれない。
言葉が勝手にこぼれだす。

「あたしらの仕事は自分の命かけてんねんで。
 厳しくして厳しすぎることなんてあらへん。
 そんな甘い考えでやっとったら……。
 おまえら死ぬで」

そう、死んだら終わりだ……。
死んだら……。

あたしの迫力に目線は自然と外された。
うつむくその小さな顔を見る目に込めた力が強くなる。

ちいっ
何をしとるんや、あたしは。

目線を切り逃げるように立ち去った。
後ろの声はもう聞こえない。

あんな風に怒ってどうする。
何をしているんだろう。
自分が抑えきれないなんて。

ブウウン。
自動販売機のモーター音だけが響く。
休憩室には誰もいなかった。
あたしはひとりで自己嫌悪に似た気分を味わっていた。

「どうしたの?裕ちゃん」
「彩ッぺか」
気が付くと、訓練を終えた厳しい教育係が目の前に立っていた。
「なんでもない」
「そう?」
なにかを察したのか深くは聞かず、自販機のボタンを二回押す。
差し出されたジンジャーエールを受け取った。
「どや、市井は使い物になりそうか」
「まだ自分の力に怯えてる。あとはきっかけが必要ね」
「そうか。あー、ほ、他の子はどないや?」
「そうね、保田はもともと家系がそうだからあんまり問題ないわ。
 良くまとまってる感じね。
 でも、矢口ってのはまだまだね。あぶなっかしくって見てられないわ」
「そっ…か……」
「どうしたの?本当に変よ?」
「なんでもないって」
ぐいっと飲み込んだジンジャーエールは甘ったるく口に残った。

組織に属そうとしない退魔師には二種類ある。
一匹狼として自分の信念のままに生きる事を選んだ者。
もう一つは自分の欲望を満たすのに組織が邪魔だと感じた者。
他人を守るという自分達の意義を忘れ、金や地位といったもののためにその力を使う。
そんなやつらは、はぐれ退魔師と呼ばれていた。

やつらにとって、あたしの存在は目の上のたんこぶだったといってよい。
命を狙われたことも何度かある。
しかし、あたしは殺される訳にはいかなかった。
まだ、死ねない。
まだ……。

それは、東京でも有数のネットワークを持つ退魔師との会合を終えた後だった。
これでもう組織は大丈夫だ。
そう思わせるほど有意義な会合だった。
あるいは気の緩みがあったのかもしれない。
最近、あの件で精神が不安定だったのも確かだ。
それらが招いたのだろう。
死への入り口を。

「中澤さんだね」
振り向いたときには体に何かが入りこんでいた。
激痛に身をよじる。
体の中を何かが這いまわっていた。
両手で自分の体を抱える。
寒い。

「悪いね。こっちにも都合ってもんがあるんでね」

男はそのまま姿を消した。
体の中に何かを残したまま。

『見る』ことができなければあたしの力は使えない。
しかし、体の中は見ることができない。
相手もこちらのことは調べているようだった。

あたしは……こんなところで死ぬんか。

死ぬ……。
そう考えてあたしは恐怖に身を振るわせた。
命がなくなることにではない。
心の奥底でそれを甘美なものとして
捉えている自分に気がついたから。

あたしは……。
死にたかったんか。
あの子のところへ行きたかったんか。
あの子の……。
きつい目をした娘と小さな体の少女が重なる。
低くかすれた声と高く伸びやかな声がハーモニーを奏でる。
『おね…ちゃ……』

「どうしたんですか!!」
高く伸びやかな声。
薄く開いた目に映る小さな体。
はは、まさかな……。
「え、中澤さん?な、なにがあったんですか!」

ラフなトレーナーを着てコンビニの袋を持っている。
この近くに住んどるんか……。
朦朧としているせいか、思考が横道にそれる。

「と、とにかく救急車を」
「無駄や。これは医者じゃ治されへん。はぐれにやられた。
 たぶん苦蛇(くだ)やろ」
激痛は続いているがなぜか冷静な口調でしゃべれた。
苦蛇とは煙管ほどのいたって小さな霊蛇である。
皮と肉の間に入り込んで体の中をうごめき血をすする。

「平家さんに連絡しました。すぐに来てくれます」
「そんなに時間はない。もう、間に合わん」
「そんな……。それじゃどうすれば……」
「どうしようもない。……それより、お願いがある。
 あたしの話を聞いてくれんか」

なぜ、話す気になったのか。
自分でも良くわからない。
あたしは彼女の返事も待たず話し始めた。
なぜか、痛みはあまり感じなくなっていた。

「あたしには妹がおった。
 4つ年の離れた妹がな。
 その子は……真里って名前やった。
 たった一人の肉親やった。
 あんたみたいにドン臭い子とちゃう。
 髪もまっ金々にしてブイブイ言わせとった。
 ワルやったで……。警察にも何回迎えに行ったか……。
 でもな、あたしには素直でええ子やってん」

「その人は……」

「死んだ。
 妖魔に喰われてな。
 あたしはまだ自分の能力を使いこなせへんかった。
 あたしは目の前であの子が……あの子が喰われるのを……」
「やめて!!」

小さな両手が肩をつかんだ。

「もう、いいから……。やめて……」
「あたしはもう、嫌なんや。
 目の前で人が死んでいくのは……もう嫌なんや。
 せやから、たくさんの人を救えるよう組織を作った」

あの子のために。
いや、じぶんのために。

「でも、それももう終わる。もう、誰かが死ぬところは見なくてすむ」
「駄目」
うつむいた顔と硬い声。

「あなたは死なせない。絶対に」

そう言うと左手を右の腕にあてた。
「雷刃」
左手を滑らせたところから血が吹き出る。
流れ落ちた血があたしの横で小さな血だまりを作った。

「あ、あんた、なにを……」
「苦蛇は血を求めるって聞いたことがある。
 これで体から誘い出す」
「あ、あほなことするんやない。
 あんたまで死んでまうやないか!」

こちらを見たその顔。
それは強い意志に満ち溢れていた。
生きようという意志。
生かそうという意志。
死への誘惑を吹き飛ばす輝く意志。

「大丈夫。あたしは死なない。
 あなたも死なせない。
 ……ふたりとも生きるの」

きつい目と低い声がまた重なった。

その小さな体に似合わないほどの血液が流れた。
鉄臭い匂いがあたりに漂う。
逆にあたしの中の血は少なくなっていた。
視界が霞み始める。

あたしの体を這い回るものが右手に移動する。
皮膚の下をなにかが蠢くのが見えた。

勝負は一瞬だ。
苦蛇が移動する、その一瞬。

皮膚を突き破り、苦蛇が次の目標に向かって飛ぶ。
あたしの『眼』はそれを捉えた。

「へへへ、やったね」
青い顔をしてこちらに笑いかける小さな顔。
のたうちながら消えてゆく白い物体。

不意にあたしの頭が小さな体に包み込まれた。

「お願い。もう死ぬなんていわないで。
 あたしが……あたしがずっと一緒にいるから」

「ありがとう……」

涙を流すのはあれ以来やな……。
あたしはぼんやりとそんなことを考えていた。

「あんた、その髪……」
用心のため検査を受けていたあたしのところに見舞いに来た小さな体。
その短い髪は見事な金色に染めあがっていた。
「へへ、似合う?」
自慢気に髪をつまんでみせる。

「あかん、全然似合わへん」
「えーー、そんなー」
くるくると変わる表情。
生きる喜びに満ち溢れたその目。


ああ、そうか。
やっとわかったわ。
なんで、こんなにこの子に惹かれたんか。
見た目はどっこも似てへん。
でも……、この溢れるような生命力。
きっと魂の色が似てるんやわ……。

真里……。
ひとりでさみしないか。
お姉ちゃんこっちでがんばっとるで。
あんたみたいな子をもう出さないためにも……。
お姉ちゃん必死でがんばるから。

だからお姉ちゃん、まだそっちには行かれへんわ。
堪忍な……。


外伝 〜幕〜

 

『死』から解放された身は幸福といえるのだろうか?
昔から人類にとって永遠の夢だった『不死』。
だが、死ぬことを許されていないものは果たして生きているといえるのだろうか。
ある意味で人は『死』というゴールに向かって精一杯走っている。
そのゴールを持たないものは何に向かって走ればよいのだろう。

私は唇を噛み締める。
鈍い痛みを得るために。
この痛みを感じている間は私は『私』を実感できる。

私はある一定以上の『痛み』を感じない。
たとえナイフで刺されようと、たとえライフルで撃たれようと何も感じない。
自分の体が自分のものではないような感覚。
それは自分というものをひどく曖昧にさせた。
私は……生きているのか。
それとも……。

自分が他人とは違う存在だと気付いたのは6歳のときだった。
お気に入りのボールを追いかけて車道に飛び出した私は、激しい衝撃と共に宙を舞った。
次に私が見たものは、トラックの横で立ち尽くすおじさんの怯えた顔だった。
呆然としている私と眼があうと、おじさんはひいと声を出して走り去った。
そのとき自分が何を思ったのかは覚えていない。
ただ、服を汚したことをお母さんに怒られるのが怖かったことだけ覚えている。

自分の体がいつからこうなったのか私は知らない。
もともとそうだったのか、それともある時からそうなったのか。
確かめたくても聞く相手はもういない。
家族を失ったのはその3日後だった。
みんなで仲良くドライブ。
居眠り運転のトラック。
もちろん私は無傷だった。
そしてそれ以来、私は一人になった。

 

後藤真希外伝  生と死の境界

 



「圭ちゃん、聞いた?」

「昨日の夜のこと?」
「そう、あの新宿の」

「紗耶香が行ったんだっけ」
「それがさ、たまたま巻き込まれた新人がいたらしいの」

「新人?」
「ほんとは今日来るはずだったらしいんだけど、偶然その場にいたんだって」

「それで?」
「今朝、現場に行った人から聞いたんだけどすごかったらしいよ。
 妖魔が何十匹もバラバラになってて、その上を紗耶香と新人がやりあってたって」

「なにそれ?」
「破壊衝動を抑えきれなくなってたみたい。
 お互い妖魔が全滅した後も止まらなくなってて……。
 かなり苦労したらしいよ、連れて帰るのに」

「ふーん。でも紗耶香と朝までやりあうってすごい新人ね」
「うーん、実際は新人って感じじゃないね。
 かなり特殊な経歴みたい。もともと能力をいろいろ研究とかされてたって」

「研究?」
「国のほうでね。ま、結局何にもわかんなかったらしいけどね」

「それでこっちへ引き渡されたって事?」
「多分ね」

「じゃあ、即戦力って事なんだ」
「そうみたい」

「ちゅうことで、新入りや」
「後藤真希、13歳です。よろしくお願いします」
「わかっ!」
「マジで!?」
「え、矢口より年下に見えないよ」
「見えないね」
「金髪だよ」

こういう反応には慣れている。
昔から大人っぽいとよく言われる。
世間一般の13歳に比べて何倍もの経験をしているのだから
当たり前なのかもしれないが。

こちらを見ている中に見覚えのある顔を見つけた。
はしゃぐ周りの中で一人だけ冷静にこちらを観察している。
ボーイッシュな髪型と凛々しい眉が良くマッチしていた。

「この子の事は紗耶香に任せるわ」
「あたし!?」
凛々しい眉が微かにしかめられる。
「もう、顔合わせはすんどるんやろ。
 ま、これもなんかの縁やな。
 仲ようしたりーや」
「はいはい」
凛々しい眉はこちらを向いた。
その下の目が寂しさを含んでいるように見えたのは私の気のせいだったのだろうか。

「昨日はすみませんでした」
「ん、ああ、気にしないで。こっちも歯止め利かなくなってたから」
クールな横顔。
だけど、その目は優しく澄んでいた。
やっぱりさっきのは見間違いだったんだろうか。

「緊張してる?」
「緊張は…してないです」
あまりそういった感情とは無縁でいた。
というより私には感情というものが無い。

「紗耶香」
「ああ、圭ちゃん」
全身黒で身を固めた女性が声をかけてきた。
こちらを向き軽く頭を下げる。
「保田圭よ。改めてよろしく」
「よろしくお願いします」

「あれ? 矢口は」
「裕ちゃんにつかまってる」
と背中越しに親指で後ろをさす。
「相変わらずだねえ」
指の先では小さな金髪がもう一人の金髪に抱きつかれていた。
逃げようともがく小さな顔に唇が近づいていくのが見える。

見慣れた光景なのか誰も止めようとしていない。
何事も無かったかのように会話は続いた。

「珍しいわね」
「なにが?」
「紗耶香が理性を無くすなんて」
「……そうだね」
昨日のことか。
私にとってもそれは不思議な感覚だった。
あんなふうに戦いに酔ってしまうなんて初めてだった。

『不死』の者どうしの戦い。
終わり無き戦い。
湧き上がる高揚感と吐き気がするほどの寂寥感。

目の前の生き物は美しかった。
躍動する肉体。
つややかな体毛。
誇り高き眼。
我を忘れたのはそのせいかもしれなかった。
私は……。

「ねえ」
「は、はい」
思わず考え込んでしまっていた。
唇に鈍い痛み。
気が付かないうちに噛み締めていたようだ。
何時の間にか保田さんはいなくなっていて、残っているのは私たち二人だけだった。
凛々しい眉をした先輩の目には、またあの色が浮かんだように見えた。
なに? なんなの?
だがその色は一瞬で消えうせ、にっこり微笑んだ口は私を誘った。
「今日はさ、家にご飯食べにおいでよ」

思ったよりもこぢんまりした部屋だった。
飾り気の無い室内はよく整理されていて、私の部屋とは大違いだった。

帰りに寄ったスーパーのビニール袋から荷物を出し、狭いキッチンに二人で並ぶ。
自慢ではないが、こう見えて私は料理は得意なほうだ。
一人でいることが長かったからかもしれない。
それに比べ、自分から誘ってきた割には隣の包丁さばきはぎこちない。

ハンバーグとコーンスープとマッシュポテト。
まずは玉ねぎをみじん切り。
同時にじゃがいもをお鍋でゆでる。
私は付け合せでも作ろうかとにんじんの皮をむき始めた。

「あいて」
横を向くと包丁で切ったのか、グロスをひいた唇が細い指先を咥えている。
意外とドジなんだ。
かすかに微笑んだ口元が次の瞬間、硬いものに変わる。
唇から出てきた指にはもう傷はなかった。

ああ、そうか、この人も私と同じ。
──『ばけもの』なんだ。

「……つらくないですか」
考えるより先に声が出た。
「なにが?」
「『ばけもの』でいることが」

大きな目がこちらを見た。
寂しげな目。
やっぱり気のせいじゃなかった。
さっきの目と同じ色をしていた。

「……そうだね。昔はつらかった」
「昔は?」
「うん。今はこの力も必要なものなんだって思えてきたんだ」
「必要……」
「あたしたちにしかできないことをやるために。
 他の人を守るために。
 そのために必要な力なんじゃないかって。
 最近はそう思えてきた。
 はは、ちょっとくさいかな」

「……………無い」
「え?」
「……そんなはず無い! こんなものが必要な力なはず無い!」
まな板の上に置かれた包丁を取る。
自分の喉にその包丁を一気に突き刺した。
ホワイトアウトする視界。
意識が途切れた……。

……真っ白な世界が急速に色を取り戻す。
いつもの感覚。
足元に包丁が落ちているのが見えた。
当然傷はもうない。
顔を上げた。

……またその目。
なぜ?
なぜ私をそんな目で見るの?

「……もっと自分を大事にしなよ」
「大事に?」
私は唇の端で笑った。
「大事にする必要ないですよ。
 だって私は死なないんだから」
「違う! そういうことじゃない!」
短い髪がぶんぶん振られる。

「体の傷は無くなっても心の傷は残るんだよ。
 心の傷は無くなりはしないんだ。生きてる以上……」
「あたしは傷ついたりしない。
 だってあたしは……『死人』なんだから」
唇を噛み締める。
鈍い痛み。
曖昧な『生』。
曖昧な『死』。

「あたしは死なない。でも生きてもいない。
 ただここに存在するだけ」
私がここにいる意味は……。

「何も変わらない。
 昨日も、今日も、明日も……」
ゴールのないものに未来はない。

「後藤……」
こちらに向かって何かを言いかけたとき鍋が吹き上がった。
「うわ! あ、あちぃ!」
鍋のふたと格闘している姿を横目で見つつ私は別れを告げた。
「帰ります」
「ちょ、ちょっと待てって」
後ろに聞こえる声を無視して私は部屋を出た。
逃げるように階段を駆け下りる。

かなりの距離を休まず走り、ようやく息をついた。
こんなに興奮したのは久しぶりだ。
自分の中にまだ感情が残っていたなんて。

あんなふうに気持ちをしゃべったのは初めてだった。
なぜ?
いつもの私じゃなくなってる。
あの生き物を見てから。

目覚めは最悪だった。
頭の中心が重たい。
体の傷はすぐに無くなるのに。

ピンポーン。
呼び鈴が鳴る。
どうやらこの音で目が覚めたらしい。

露骨に顔をしかめて、パジャマ代わりのジャージのままドアを開ける。
新聞の勧誘ならただじゃおかない。
自分でも凶悪だろうと思う表情でドアの向こうを睨む。
「よ!」
睨みつけた視線の向こうにはさわやかな笑顔の教育係がいた。

近所の公園でコンビニで買った菓子パンをほおばる。
部屋に入れなかったのは不機嫌だったからではない。
とても他人を迎え入れられるような状況ではなかったからだ。
自慢ではないが、こう見えて整理整頓は苦手だ。

「何しに来たんですか」
「迎えに来たんだよ。教育係だし、あんた朝弱そうだし」
「ほっといてください」
この人といると心が騒ぐ。
だからつい口調もきつくなってしまう。
朝が弱いのは事実だが。

「それにここってあたしの散歩コースなんだよね。
 毎日この時間に通ってるんだ」
「散歩……」
「そ、散歩。あ、きたきた」
視線を追うとこちらに向かってぴょこぴょこ歩いてくる白い小犬が見えた。

「最近この辺に住み着いてるノラらしくてさ。
 足怪我してるから餌なかなか取れないみたいで。
 かわいそうだからここですこし餌あげてるんだ」
ホットドッグのソーセージを手の上に乗せる。
子犬は飛びつくようにしてはぐはぐ食べた。
「ホットドッグだからって共食いじゃないよね」
「…………」
「なんだよー。愛想無いなー」
「なんでこんなことするんですか」
「へ?」
「なんで餌あげたりするんですか」
「だって、このままじゃ可愛そうだろ。
 ほっといたら死んじゃうかもしれないじゃんか」
口を尖らせた横顔を私は冷たい目で見た。
「どうせ生きてるものはいつか死ぬ。
 それが今日でも明日でもたいして変わりはないでしょ」
「そんなことない!!」

思ってたよりも強い口調だった。 
私は少し気圧されてその顔を見つめた。
「生きてるものは今日死んでも明日死んでも変わらないなんて思わない。
 毎日少しづつ違うから。
 少しづつ変わっていくから。
 変えようとするから。」

……なんでそんな目をするの。

「それが一生懸命生きてるってことなんだ」
思わず目を伏せた。

心の中にはまたあの感情が渦巻いていた。
初めて会ったときからずっと感じていた感情。
同じような境遇でありながら違う心を持つこの人への。
不死身でありながらきちんと『生』きている人に対する
どす暗い感情。

「うわ! こら、それは食べちゃ駄目だって」
叫び声に顔を上げると子犬が別のパンを咥えていた。
「まったく、おまえはちびのくせに良く食べるなあ」
にっこり笑った顔は生き生きと輝いていた。

その笑顔にあの感情が強まる。
胸が痛くなる。
この気持ちは……。
そう、これは嫉妬。
私はあの人に嫉妬している。

駄目だ。
感情を持っちゃいけない。
違う。
私には感情が無い。
もう無くしてしまったんだ。
そう、感情なんか……。

朝のお迎えはその後も続いた。
同じように公園に向かい、あの子犬に餌をやる。
子犬は本当に良く食べた。
この小さな体のどこに入るのか不思議なくらい。
時には私の朝ご飯を奪うほどに。
だが、相変わらず足は悪いままのようだった。

そんな子犬を見ながら私たちは無言だった。
正確に言えば私は何もしゃべらなかった。
感情を無くそうとしていた。
これ以上自分が変わってしまうことがなぜか怖かった。

「あんたたち雰囲気悪いわよ。大丈夫?」
「そんなことは無いよ。な、後藤」
最近私たちは保田さんと一緒に仕事をすることが多かった。
その日も三人で現場へ出かけた。

「今日の獲物は?」
「餓鬼よ」
「餓鬼?」
「そう、力も無いくせに勘違いした馬鹿なやつが餓鬼を牛に取り付かせたのよ」
「うしぃ!?」

そこは私の家に近い農業大学だった。
なるほど、ここなら牛がいてもおかしくない。
研究室の奥へと歩を進める。
生々しいにおいが鼻腔を刺激する。
だが、その中に私たちにとっては馴染み深い他の香りがあった。

「瘴気が渦巻いてるね」
「なかなか慣れないわね。この匂いにも」
「んじゃ、開けるよ」
ドアを開けると異様な光景が飛び込んできた。
部屋の隅に寝ている牛。
その腹はまるで風船のように膨らんでいた。
しかももぞもぞと蠢いている。
「これが……餓鬼……」
保田さんの右手が振られると
今にも飛び出しそうに膨らんだその腹の動きがぴたりと止まった。
まるで見えない何かで縛り上げられたかのように。
「紗耶香、今よ」
「OK!」
封印と破邪のお札が貼られる。
牛の鳴き声と共に腹の膨らみが徐々にしぼんでゆく。

「どうにか間に合ったみたいね」
「楽勝楽勝」
渦巻いていた瘴気も消え去った。
この世界に出てくる前に封印してしまえば簡単に終わる。
私には仕事すらなかった。

あっけなく仕事を終え大学を出ようとした時、携帯がなった。

「はい保田です。あ、裕ちゃん。……ほんとに。
 うん。わかった。この辺あたってみる」
「なんだって?」
「あの馬鹿。牛の前に犬にも仕掛けてたんだって」
「犬に?」
「おまけに逃げ出されてたみたい。
 この辺にいるだろうから探さないと」

犬……。
最近この辺に……。
異様な食欲……。
治らない足……。
そんな、まさか……。

隣を見た。

凛々しい顔が引きつっている。
ほとんど同時に走り出した。
「ちょっと、あんた達どこいくのよ!」
後ろを振り返る余裕は無かった。
全力であの公園に向かう。

スピードでは敵わないみたいだ。
ほんの少し遅れて公園に飛び込んだ。
そこで見たものは……。

立ち尽くす細身の体。
その目の前には血まみれの子犬。
足元には醜悪な物体。

ぎいと鳴き声をあげて物体が飛び掛った。
立ち尽くしていた体の右手が動く。
醜悪な体は爪の一振りで真っ二つになった。
そのまま勢いでこちらに飛んでくる物体を両手でつかみ地面に叩きつける。
べしゃりと音を立てて妖魔はぐしゃぐしゃになった。

駄目だ。
感情を無くせ。
感情を……。

「いやあぁぁぁぁぁぁぁ!!」

両手で体を抱えてうずくまる。

「死んじゃった……。
 あの子死んじゃった……。
 ……そう、みんなそうなんだ。
 みんなアタシを残して死んじゃうんだ」
押さえきれない。
気持ちが溢れ出す。
私が怖がっていたのはこれだった。
『死』を持たないものはいつも置いていかれる。
あのときのドライブと一緒だ。
私はいつも一人になってしまう。

だから私は他人と関わることをやめた。
感情を無くそうとした。
『死』というものを特別なものだと思うことをやめた。
みんないつかは死ぬのだ。
私を置いて。
置いていかれるくらいなら最初から一人でいたほうがいい。
なのに……なのに……。

「後藤……」
涙に濡れた顔を上げた。
凛々しい顔はあのときの目をしていた。
「どうして……。
 どうしてあなたは強いの……。
 あたしは……あたしはあなたみたいになれない
 もう、一人になるのは嫌だ。
 もう、あんな思いをするのは嫌だ」

嫉妬。
裏返せば憧れ。
あんなふうになりたかった。
生きる喜びに満ち溢れ
他人とも積極的に関わり
精一杯、今を生きようとする。
私にはできない。

「あたしは強くない。
 だからこそ一生懸命がんばってるんだ。
 こんな気持ちを味わいたくない。
 そう思うからがんばってるんだ」
細いからだが私を包み込んだ。

「それに、おまえはもう一人じゃない。
 あたしが付き合ってやるよ。
 最後まで……。
 お互い、いつが最後かわかんないけど。
 その日がくるまで。
 あたしが一緒にいてやる。
 だから、おまえはもう一人じゃない」

「ふ、ふえーん」
泣きじゃくった。
今まで押さえ込んでいた感情が利子をつけて浮かび上がった。
大きな声をあげておなかの底から泣いた。
「なんだよー。
 大人っぽいと思ってたけど子供みたいな奴だなあ。
 よしよし、あたしのこと『母さん』だと思っていいからな」
頭がなでられた。
なぜだか本当にお母さんに抱かれている気がした。

「まったく、ようやく仲直りしたんだね」
「け、圭ちゃん」
「保田さん!?」
びっくりして思わず泣き止んでしまった。
いつの間にか黒いコート姿が目の前に立っていた。
「急に走り出すから慌てたわよ。糸を巻いてなかったら追いつけなかったわね」
「い、いつの間に……」
「それにこの子も勝手に殺されたくは無いわよ」
「え?」
「糸で応急処置しといたからすぐに医者に連れて行きな。
 大丈夫。まだ生きてるよ」

「よ、よかったー」
また涙が溢れた。
今度の涙はさっきとも少し違った。

そうか、生命ってこんなに大切なものだったんだ。
生きてるってこういう事だったんだ。
悲しいことばかりじゃない。
つらいことばかりじゃない。

こんな気持ちになるのなら……。
私も生きてみたい。
もう『死人』でいるのは嫌だ。
生きる。
精一杯。
あの人と一緒に。
もう一人じゃないのだから。


外伝 〜幕〜

 

うらぶれた倉庫跡。
普段であれば人の姿など見えるはずの無いこの場所は、
珍しく三人の客を迎えていた。

どれも匂い立つばかりの美貌だが、
彼女達を取り巻く空気には別種の香りが混じっているように思えた。

「既に二人もやられたか」
「ふん。情けないわね。ラストバタリオンの名が泣くわ」
「いえ、倒した彼女達が素晴らしい戦士だったのでしょう」
「そうかしら? わたしならどんな相手にだって負けはしないわ」
「たいした自信だが、その自信に足元を掬われないことだな」
「あら、得意の傀儡を破られてすごすご帰ってきた人に言われたくないわ」
「なに!」
「おやめなさい」

静かな口調に残る二人はぴたりと口を閉ざす。
その目にあるのは恐怖の色か。
だが、ナチスドイツの切り札、ラストバタリオンの一員に恐怖を抱かせるものとは。

美しく長いブロンドが薄暗い闇の中輝く。
「彼女たちの力を侮ってはいけません。あれはまぎれも無く真の戦士。
 油断をすればエリザベート達の二の舞になってしまうでしょう」
「わかっているわ、ブリュンヒルデ。
 でも、心配することは無いわ。
 だって、私がみんな倒してしまうのだから」
髪を耳の上でそろえた女が皮肉気な笑みを浮かべる。

「かまいませんよ、ヒルダ。
 ですが、失敗は死あるのみ。
 それを忘れないように」
「わかってるわ」
先ほどの恐怖を忘れたのかリーダーを見る目は挑むように鋭い。

つと、三人の目が一点に注がれる。
妖魔の能力を持つその視線を浴びながら一つの体が実体化した。

金色に輝く短い髪。
しかめられた眉の下には冷たく光る無機質な目。
その華奢な体からは圧倒的とも言えるオーラがほとばしり出ている。

「てこずっておるようだな」
「そ、総統!」

一瞬で直立不動になる美女達を手で制し少女は歩を進めた。

「どうしてこちらに?」
「くくく、運命というものは不思議なものだ。
 余の求めるものがよりにもよってこの地にあろうとはな」
「まさか、あれが……」
「うむ。ようやくみつけたぞ」
「聖櫃(アーク)がこの地に……」

モーセが神ヤハウェから貰った『十戒』を刻んだ2枚の石盤を納めた木の箱。
この『聖櫃』を手に入れたものは大いなる力を得ることができるという。

日本でも大ヒットしたハリウッド映画。
考古学者が主人公であるアクション巨編。
この冒険物語を映像の魔術師による作り話と思われた方が多いだろうが、
じつは歴史的な事実に根ざしたものであるというと、驚かれるだろうか。
ヒトラーが軍を使って『聖櫃』を手に入れようとしていたことは事実である。
前の生では叶わなかったこの夢を、この邪悪なる復活者は再び成し遂げようというのか。

「あれが手に入れば余の力は完全なものとなる。
 その前に邪魔者を始末しておきたかったのだが……。
 まあよい。こうなればやつらは後回しだ」
「おまちください。総統。
 やつらなどこの私ひとりで充分。 
 このヒルダにおまかせを」
「ひかえなさい、ヒルダ」
鋭く叱責の声が飛ぶ。
しかしそれを手で制し、独裁者は不敵な笑みを浮かべる。
「まあよい、好きにするがいい」
「ありがとうございます」
満足げな表情を浮かべヒルダは頭を下げた。

「ところで、そこのネズミども。そろそろ出てきたらどうだ」

「あら、気が付いていたのなら早く声をかけてくれればよかったのに」
現れたのは三人の女。
真中にいるのはアヤカと名乗ったCIAの人間だった。
「たかだか五人の最終軍団で世界征服なんておかしいと思っていたけど
 まさかアークが狙いだったなんて」
愛嬌のある顔が微笑む。
「それにターゲット自らが来てくれるなんて幸運だわ」

CIAと市井の間に三体の影が割って入る。
だが、それらを手で制し細身の体が前に進み出た。
「ここは余がやろう」
「よろしいのですか?」
「たまには体を動かさんとな」
にやりと笑う顔に軽く身震いをして三体の妖魔は後ろに下がった。

対する三人娘は逆三角形の形にフォーメーションをとる。
「ミカ、レフア、ミッションスタート!」
「OK!」
「Yes,Commander!」

向かって右側の小柄な少女が肉感的な右腕をまっすぐ伸ばした。
その上腕部がパカリと開き、銃口が前に伸びる。
乾いた音を立てて銃弾が撃ち出された。

市井の体が空気に滲む。
熱く焼けた鉛の玉がその残像を打ち抜いた時には、
独裁者の魂を宿す体は後ろに回り込んでいた。
振り向きざま伸ばしたレフアの右手が、
水銀のように溶け崩れ、鋭い刃の形で再び固定される。

銀光を残して通り過ぎた刃は、市井の喉をぱっくりと切り裂いていた。
しかし、切り裂かれた傷口が早回しのフィルムを見るかのように再生される。
「What!?」
人工骨格が軋むほどの衝撃を受けてレフアが吹っ飛ぶ。
ミカの右手が再び火を吐いた。
にやりと笑った顔を残し滲んで消える体。

戦闘が開始されてからずっと黙ったままだったアヤカの目が白く輝く。
「ミカ!」
指し示された方向にミカの左手首から小型のミサイルが打ち出される。
それは実体化を終えたばかりの市井の頭を掠めて爆発した。

「ぬう!」
血潮の噴き出す頭を押さえ市井がうめいた。
金に染められた髪ごと頭蓋骨の一部が吹き飛んでいる。
だが、顔の半分を真っ赤に染めたまま市井は不敵に笑った。

「くくく、良い体を手に入れたものだ」
血がぬぐわれると傷跡は見る影も無くふさがっていた。
驚異的な再生能力。
市井の体がもつ能力はいまや狂える独裁者のものであった。

「今度はこちらから行くぞ」
邪悪な波動を集めつつ振り上げられた右手がその動きを止める。
「ぐっ、な、なに!」
不意に取り乱し頭を抱える総統の下にラストバタリオンが駆け寄った。
「くう、まだ抵抗するのか……」
上げられた顔には復活以来初めて見せる苦悩の色があった。
「やはり、一刻も早くあれを手に入れる必要があるか。
 仕方あるまい、ここは引こう。
 無粋な機械人形どもめ、ルーズベルトの後継に伝えるが良い。
 世界を支配するのは我が第三帝国だと!」
「待て!」
再び打ち出されたミサイルが敵の一団へと飛ぶ。
だがそれはまるで地面に吸い寄せられるかのように垂直に落ちた。

広がる爆風。
煙が晴れ床に開いた大きな穴が見える。
だがそのときには全ての人影は消え去っていた。

再び客を失った倉庫には澱んだ冷たい空気だけが残されていた。

人知れず米独の死闘が繰り広げられていた頃、
保田は一人図書館にいた。
「ふう」
ため息をついて椅子にもたれかかる。
手掛かりを求めて片っ端から資料をめくっては見たが、
敵の足取りを掴めるような物は無かった。
眼鏡を外し鼻の付け根を揉む。
神出鬼没な敵の動きに惑わされ、後手後手に回っている。
どうにか二人撃退したがこちらにも被害が出ている。
さらには自衛隊にCIA。
悩みは尽きない。

それに、あいつの事も……。
外見にそぐわない傷つき易い心を持った後輩を思う。

再び開いた目が見慣れた姿を捉えた。
黒目がちな眼にお団子頭。
「……加護?」
それは後輩の退魔師見習、加護亜衣だった。

「保田さん」
「どうしたの、加護」
「中澤さんに聞いたらここにいるからって」
加護の表情は硬い。
胸の前でフェルトの細長い袋を抱えている。
おそらく、愛用の武器『如意棒』が入っているのだろう。

軽く息を吐いた保田は、加護に話し掛けた。
「とりあえず、外に出よう」

図書館を出て二人並んで中庭を歩く。
少し肌寒く感じるようになった風がレンガ色の通路を吹いてゆく。

「あ、眼鏡似合いますね」
無理に作ったような笑顔。
「……何しに来たの?」
再び表情を硬くした加護はうつむく。
次に上げられた顔は何かを決意したように見えた。

「……後藤さん大丈夫ですか」
その目はまっすぐ保田を捕らえた。
ああみえて後藤は意外と面倒見がよい。
加護の面倒も良く見ていた。
そして加護自身も後藤に良くなついていた。
その姿は傍から見ても姉妹のようで微笑ましかった。

「わざわざそのために来たの?」
「だって、誰も会っちゃ駄目だって……」
あれ以来、後藤には誰も会っていない。
正確に言えば、後藤が誰とも会おうとしていないのだ。
部屋に引きこもり、食事すらとっている様子がない。

「大丈夫。文字通りあいつは殺しても死なないから」
「でも……」
不安げにこちらを見上げるその表情。
それはまるで捨てられた子犬のように見えた。

そういえばあのときのアイツもそうだった。

ドイツに行くことを決めたのは市井自身だった。
人狼伝説の本場とも言えるその地で、自分自身の存在を見つめなおす。
それは彼女にとって昔からの夢だった。
だが、それを聞かされた後藤は泣きじゃくった。
まるで小さな子供が駄々をこねるように。
『圭ちゃん。いちーちゃんがいなくなっちゃう』
そう言ってこちらを見上げる後藤の顔を見ながら、保田は何も声を掛けられなかった。

結局その後藤を説得したのも市井自身だった。
『必ず帰ってくる』
それが三人の間で交わされた堅い約束だった。
しかし、それが今では……。

沈黙から加護の顔は伏せられていた。
『未来のエース』と期待されている加護。
即戦力としてすぐに実戦に投入された後藤。
思えば、後藤と加護は似ているのかもしれない。
人一倍甘えたがりの癖に、周りの状況がそれを許してくれない。
そしてそれをどうにかできるほど器用でもない。

不器用なのはあたしも同じか……。

紗耶香にドイツに行くなとも言えなかった。
紗耶香の代わりに後藤を支えてやることもできなかった。
そして今また、この幼い後輩を安心させてやることもできない。
そんなあたしが紗耶香を守ることなんてできるのか。
助け出すことなんてできるのか。
いや、第一助けることなんて可能なのだろうか。
もう既に紗耶香の心は……。

「心配要らないよ」
そう言って保田は、右手で加護の頭を抱えた。

「あたしに任せときな」
なんてチープな言葉なんだろう。
自分で自分が嫌になる。

「…………はい」
それでも少しは気持ちが治まったのか、
加護は保田の胸に頭をつけ、小さな声で答えた。

あたしは無力だ。
誰にも何にもしてやれない。
紗耶香にも。
加護にも。
それに後藤にも。

でもね、あたしは信じてるよ。後藤。
あんたはこんなことで、いつまでもへこんでるような奴じゃない。
……あんたはきっと帰ってくる。
きっと……。

……きたか。
索敵用に張り巡らせておいた糸が、敵の気配を教えてくる。
抱えていた加護を後ろへ押しやった。

「加護……逃げな」
「いやです」

いつのまにか加護は如意棒を取り出し戦闘体勢になっていた。
その目はまっすぐ前を見つめている。

「加護も戦います。ううん、戦わせてください!」
幼い決意。
本来なら危険すぎる戦いだ。
加護を巻き込むわけにはいかない。
しかし、その決意を無にすることは今の保田にはできなかった。
「……フォローはしないよ」
「はい!」

角を曲がり敵の姿が現れた。
それは美しい女性だった。

耳の上で切りそろえられた金髪。
皮肉気な笑みを浮かべる口元。
細い眉の下はきれいな青い目。

「はじめまして。ラストバタリオン『大地のヒルダ』よ」
流暢な日本語だった。
「よく憶えておいてね。あなた達を死に至らしめる者の名を」

「たいした自信ね」
すでに糸は巻いてある。
後はほんの少し指を動かすだけでいい。

「紗耶香はどこにいるの?」
「そんなことを聞いてどうするの?
 あなたたちはここで死ぬのに」
「素直に答えたほうが身のためよ」
「さあ、それはどうかしら」

くっ、こいつ。
指に力をこめようとしたその瞬間。

「う、うわあ!」

体中に強烈な圧力を感じた。
煉瓦の上にへたばる。
まるで見えない巨大な手で上から押し付けられているかのような感覚。
顔を上げて敵を確認することすらできない。

「どう、この私の『重力地獄』」

か、体が重い……。
自重の何倍もの力を浴びて体が軋む。
かろうじて体を動かすことはできるが、
こんな状態では糸を操ることなどできない。

「くすくす。無様ね。まるで踏み潰された蛙みたいよ」
「だ、誰が蛙だって……」

必死で身を起こそうとするが大地に引き寄せられる体は、
意思に反して動かない。
このままでは、本当に潰されてしまう。

「いかが? 大地に愛されしこの私の力。
 しょせん、東洋の島国に私たちを超える力などありはしないのよ」
口元に手を当てくすくすと笑う。
「心配要らないわ。あなたのお仲間もすぐに同じところに送ってあげる」

加護も動きが取れないでいた。
如意棒で支えていた体がこらえきれずに地に伏せる。
手を離れた如意棒がカラカラと音を立てて転がった。

悔しい。
あんなやつに負けたくない。
たとえ勝てなくても、あの傲慢な顔を崩してやりたい。

ん? まてよ……。
……カラカラ?
なんでそんな軽い音……。

!! そうかっ! もしかすると。
この能力は対象である体にだけ作用する。
体から離れた物は能力の効果を受けない。

だとしたら……。
必死の思いで指を伸ばす。

苦しい。
おなかの中身が全部出てしまいそうだ。
最近、ぷよぷよしてきたからええダイエットに……。
なるかい!!
うー、やっぱ痩せなあかんな。

一人ボケつっこみしとる場合や無い。
後少し……。
もうちょっとで……。

ぷちり

やった!!

「さあ、遊びはここまでにしましょうか。
 一気にペチャンコにしてあげるわ」

不敵な笑みを見せる美女。
傲慢なその顔。
しかし、目の前に現れる小さな小さな女の子。

「な、なに!?」

お団子頭は、にひひと笑った。
次の瞬間、小さな口が高い鼻にかじりつく。

「うあああ!!」

払いのけた小さな体が一本の髪の毛に変わった。
あまりの驚愕に、思わず技を解いたその体が激痛で硬直する。

ヒルダの目に立ち上がる二つの影が映った。
「よくやったよ。加護」
「はいぃ! 夢いっぱいでございますぅ!」

「形勢逆転ね」
保田の糸は体中に絡み付いている。
吹き上がる激痛に身動きひとつ取れない。
妖魔の顔が苦悩と痛みに歪む。

「さあ、答えてもらうわよ。紗耶香の居場所」
「だ、だれが……」
「あんたに勝ち目はない。素直に答えな」

激痛のため能力を使うことはできない。
この状態から逃げ出すことは不可能だ。
しかし。

「ここにいるのは私一人ではない」
「なんですって?」
「もう、貴方達も……。ぐぶぅ」
突然妖魔の胸から槍の切っ先が現れる。
「な、なに!?」

「な、なぜ……。ブリュン……」
「失敗は死あるのみ。
 ヒルダよ、あなたの魂を送りましょう。……ワルハラへ」
槍を引き抜かれ倒れ伏すヒルダの後ろから、鋭い目をした美女が現れた。
風を受けたなびく長いブロンド。
意志の強さを感じさせる切れ長の目。
そして、その手の見事な槍。

……一体いつの間に。
全く気配すら感じなかった。
「……あんた、誰よ」
「私は『戦乙女のブリュンヒルデ』。
 はじめまして、極東の素晴らしき戦士よ」
黒い灰と化す仲間には目もくれず優雅に一礼する。

灰になるさっきまでの敵を目にし、保田は怒りを込めた口調で言った。
「仲間じゃなかったの?」
「敗れた者に未来はありません」

その表情に迷いはない。
冷ややかな目が加護へと移動する。

「幼きながらも見事な戦いぶりでした」
言われた加護はその迫力に呑まれたのか、目を見開いたまま突っ立っている。
「なるほど、総統のおっしゃられる通りの戦士達」
ブリュンヒルデは桜色の口元を緩めた。
「やっとわかった。あの体の底から狂うほどの地獄に耐えたのはこのため。
 アメリカやイギリスの軍隊などと戦うためなどではない。
 あなた達とこうして持てる技を競うため」
その目の光が力を増す。

保田の右手が上がった。

……こいつ、おっそろしく強い。
正直、こいつを相手に加護をかばいながら勝てる気はしないわね。
でも……引くわけにはいかない!

周りの空気が冷たく硬質化してゆく。
あまりの緊張に加護は息をすることもできない。
針で突いてしまえば爆発してしまいそうなほどの緊張感。
その空気を破ったのはその場にいた誰でもなく、新たに現れた人物だった。

「後藤……」
「後藤さん!」

不死身の肉体を持つ少女、後藤真希はその顔に大人びた表情を浮かべ二人を見た。

「圭ちゃん。加護。ごめんね心配かけて」
「まったく、遅すぎるわよ。なにしてたの!」
「へへへ」
だらっとした笑い顔にいったん表情を緩めた保田が、再び顔を引き締める。
三人の退魔師の視線の先には、依然表情を変えない冷たい美貌があった。

「あなたが後藤真希……。
 あなたに会いたかった」

美貌がかすかに表情を変える。
その表情に保田は違和感を感じた。

なに?
あの表情は一体……。
あれはまるで……。

「あたしは別に会いたくなかったけど」

対する後藤はいつもの気だるげな無表情。
再び始まる睨み合い。
だが、今度の沈黙は長くは続かなかった。

「今日のところは引きましょう」
ひどくあっさりと引き下がる美女を保田は唖然として見つめた。
「ちょ、ちょっと。どういうつもりよ」

「楽しみが増えました。今ここで味わうのは……もったいない」
媚惑的とも言えるその笑み。
「代わりに一つ良いことを教えましょう。
 ……あの娘の魂はまだ生きています」
「いちーちゃんが!?」
「本当なの!」

「今のところは……。
 しかし総統が真の力を手に入れれば、それも……
 アークを探しなさい。そこに全てがある」
「アーク……」
「では……」
ふっ
おもわず物思いにふける後藤たちの前で、一陣の風と共に輝く美貌はその姿を消した。

「また会うときを楽しみにしています。
 互いに死力を尽くさんことを」
その声だけが煉瓦造りの通路に響いた。

「圭ちゃん……」
こちらを見る後藤に軽くうなづく。

紗耶香は……まだ生きている。
まだ助けることができる。
今度こそ迷わない。
あたしは紗耶香を助ける。
今度こそ……。

日本人のルーツは何なのか?
モンゴル、朝鮮半島、東南アジア様々な説がある。
その中に、日本人は古代ユダヤの『失われた十支族』の末裔だと言うものがある。
これが『日猶同祖論』である。

この説には幾つかの傍証がある。
例えば日本の神社は「内宮」と「外宮」とに分かれており、
これは旧約時代のユダヤ教の神殿構造とよく似ている。
またイスラエルの神殿入口には「菊の紋章」があり、「鳥居」に似た石の門がある。
他にも古代ヘブライ語と日本語には共通する単語が数多くあるという。
そして……。

「伊勢?」
「はい」
敵である美女の残した言葉を探っていた保田は、思わぬ訪問者を迎えた。
静かなBGMの流れる店内は落ち着いた雰囲気だ。
運ばれてきたコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。
目の前にはきっちりとスーツを着こなした女性。
『陸上自衛隊特殊機械化部隊』村田一尉。
隣には柴田と名乗った小柄な少女が座っていた。

「これは国の中枢にいるものでも一部の人間しか知らない極秘中の極秘です。
 伊勢神宮の奥深く、『あれ』は確かに存在します」

伊勢神宮の参道沿いに並ぶ石灯籠には、
現イスラエル国旗にも描かれている「ダビデの星」が刻まれている。
また、伊勢神宮に奉安されている皇室の「三種の神器」の一つ
「八咫の神鏡」にはヘブライ文字が刻まれており、
これを公開しようとしたが為に、文部大臣・森有礼は暗殺されたとも言われている。

かつてバビロニアが攻め込んできたとき密かに国外に持ち出された『聖櫃(アーク)』。
かろうじて逃げ延びた者達がその保管場所を探し求め、辿り着いたのは東洋の島国だった。
そう、聖都イェルサレムのソロモン神殿から忽然と消え失せたという『聖櫃』は、
伊勢神宮奥深くに奉安されていたのだ。

なお余談だが祭事の際に担がれる「御神輿」は「聖櫃」を模した物であり、
「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声はヘブライ語であるという説もある。

「……なんで、わざわざ教えに来てくれたのかしら」
「これは非常にデリケートな問題です。
 政治的にも、宗教的にも。
 『あれ』の存在は公にしたくない」
「まあね。それはわかるわ」
「しかしナチの亡霊に『あれ』を渡すわけにはいかない」

新約聖書の一部である『ヨハネ黙示録』。
その中に『聖櫃が垂れ幕から見えるとラッパが鳴り響き〜』とあり、
聖櫃が再び世に現われる時が終末のときと記述されている。
確かにヒトラーが『聖櫃』を手に入れればハルマゲドンが起きる事となるだろう。
世界は再び闇に包まれる。

「それで?」
「これは正式な依頼です。『あれ』を守ってください」
村田はまっすぐにこちらを見つめた。

「あたしではなく裕ちゃんに依頼するもんじゃないの」
「正式な依頼は中澤さんのほうにもいっているはずです。
 ですが、まず保田さんにお伝えしたかったので」
「……感謝するべきなのかしら?」
「どちらでも」
相変わらずその顔に変化は無い。

「自分達でやろうとはしないの?」
「我々も独自に動きます。ですが……。
 『あれ』は確かに存在します。
 しかし見たものは一人もいません」
「どういうこと?」
「防衛機構があるのです。
 超古代の『失われた知恵』を使った強力なものが。
 そこから生きて帰ったものはいません」
「なら安心じゃない」
「……ナチスはそういった類の『失われた知恵』を研究していました。
 あるいはそれを制御する方法も……」
「……厄介な話ね」

大戦末期、ナチスは円盤型飛行船を完成させていたという。
それは今までのどの理論とも違う画期的なものだったといわれている。
人類の本来の知識とは異なる知識。
それは超古代の『失われた知識』であったと考えられている。

ま、つまりは保険ってことか。
偉いさんの考えそうなことだわ。
もちろん、そっちの思惑通りになる気はないけど。

「それではよろしくお願いします。
 もしかしたら向こうでお会いするかもしれません。
 そのときは……」
そのときは……果たして敵か味方か。
続く言葉を飲み込み、村田は美しい敬礼を見せて去っていった。

「伊勢か……」
一人残された保田は冷め切ったコーヒーをすすった。

闇の中ようやく一筋の光明が見えた。
まだ本当に紗耶香を助けられるのかわからない。
でも、行く場所がわかった。
やるべきことがわかった。
あとは突き進むだけ。
不器用な自分はそうやって生きてきた。
実力があるわけでもない。
才能があるわけでもない。
ただ思いっきり突き進んできた。
そうすれば道は開かれる。
そう信じて。

目を細め、年下の親友を思う。
自分でもムキになってるのがわかる。
改めてあの少女に引かれていた自分に気づく。
もちろんそれは恋愛などという感情ではない。
後藤が見せるそれとも違う。

あの魂。
何者にも縛られない自由な魂。
糸使いの宗家として生まれ、
文字通り糸に縛られた人生を送った自分に、その魂は輝いてみえた。
あの魂を汚すもの。
自由の輝きを奪うもの。
それを許すわけにはいかない。

こんな時でしか、こんな形でしかその気持ちを表現できないなんて。
やっぱりあたしには不器用な生き方しかできないようだ。
自嘲気味に頬をゆがめる。

じっと見つめるカップの中の波打つ表面に、横に立った体が影をさす。
ゆっくりと隣を見上げる。

「後藤……」
「圭ちゃん。あたしを置いていくつもりじゃないよね」
最強の実力を持つ後輩は、いつもと異なる真剣な顔で保田を見た。

「つか、止めたって勝手に行くからさ」
……この子も大人になったよね。
その顔を見ながらつい感慨にふける。
子供のように泣きじゃくってたあの頃が嘘のようだ。

ふっと息を吐いた保田はじろりと後藤を見上げた。
「あんた一人じゃ危なっかしくて行かせらんないよ」
それを聞いた端正な顔が、だははと笑み崩れる。
その顔は子供のように無邪気だった。

二人並んで喫茶店を出る。
暮れかけた街並みは物悲しい表情を見せ、いっそう風を冷たく感じさせた。
その風の中、街路樹を背にたたずんでいるのは高さの異なる二つの影。
「おっそいよ、圭ちゃん」
「待ちくたびれましたよ」

「あんたたち……」

「電車よりもうちの船で転移した方が早いですよ」
「今回、矢口出番少ないんだよね。ちっとはアピールしとかないと」
茶目っ気たっぷりの笑顔を見せる大小の顔。

まいったな。
やっぱりあたしは不器用だ。
こんな時どんな顔をしていいのかわからない。

「行くよ。もたもたしない」
結局出たのはそんな言葉だった。

ま、いいか。
あたしにはあたしのやり方がある。
不器用なら不器用なりに精一杯やればいい。
それに……。
こいつらに言葉は必要ない。
──仲間だから。

「さ、行きましょう。時空転移の準備はできてます」
吉澤の声に導かれ、保田は歩を進める。

最後の戦いの地に。
全てを終わらせるために。

天照大御神を祭る皇大神宮と、豊受大御神を祭る豊受大神宮を正宮として、
十四の別宮と百九の摂社、末社、所管社、合わせて百二十五社から成り立つ神社。
「お伊勢さん」と親しまれて呼ばれるが、正式にはただ「神宮」と呼ばれる。
その伊勢神宮の地下。

「なんかさ。えらくあっさり進めてるんですけど」
「すでにセキュリティは解除されてるみたいですね」
「やっぱり、ナチが『失われた知恵』を手に入れてたのは本当みたいね」
「…………」

正確に四角く切り取られた空洞。
どうやら緩やかに傾斜しているらしく、少しづつ下に向かっているようだ。
壁そのものが発光しているらしく、明かりの必要はない。
まるでコンピュータRPGのようなその通路を、御一行はひたすら進む。

『ヨッスィー、その空洞には時空の歪みを感じるわ。先の様子は探査不能よ』
「……だそうです」
石川からの報告を吉澤が伝える。
すでに着装を完了しているその姿は、このおかしなパーティの中にあってなお浮きまくっている。

「……みたいね。さっきから糸を送り込んでるけど反応がない」
保田はそう言って右手を振り糸を巻き取った。
「ま、どっちにしろ進むしかないんだし、気にしない気にしない」
「あんたは少し気を使いなさいよ」
「なんだよー」
「…………」

「……敵はどこまで進んだんでしょう」
「わからない。この様子からすると先に行ってるのは確かだけど」
不安を振り切るように保田が首を振る。
「とにかく、急がなくっちゃね」
「…………」

「どうしたの? 後藤」
さっきから一言もしゃべらない後藤に保田が声をかける。
「うん、この間のアイツの言葉が気になって……」
「そういえば、あんたを気にしてたわね。
 それにあんなヒントをくれるなんて……。
 何を考えてるのかしら」

謎めいた発言をした美女。
その真意は未だにわからない。

『あ、それはきっと……』
「切れ、吉澤」
「らじゃ」
『ひっどーい、なんでですかー』

最後の地を目指しているとは思えないほど軽いやり取り。
緊迫感のない一行が辿り着いたのは、大きな空洞だった。

体育館がすっぽりと入ってしまうほどの広大な空間。
バレーコートなら四つは余裕で取れそうだ。

「なんだ、こりゃ」
「怪しいですね」
「あ、でもあそこに出口があるよ」
「ちょ、ちょっと後藤」
気にする様子もなく、すたすたと歩いてゆく後藤を保田が止める。

「あんたはともかく、こっちはなんかあったら大変なんだからね」
「あはは、そかそか」
「……罠ですかね」
「考えたってしょうがないよ。先進もう」
後藤に代わりすたすたと歩いてゆく矢口。

ケ・セラ・セラ。
このメンバーといると今まで思い悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。
保田は軽くため息をつく。
ま、時間がないのは確かだけど。

それでも、周りに注意を払いながら慎重に歩を進める。
しかし、拍子抜けするほどあっけなく出口は目の前まで迫った。
「なんだ、楽勝じゃん」
軽快に進むその足がぴたりと止まる。

「圭ちゃん。後藤と先行って」
一瞬でモードの変わった矢口が固い声でつぶやく。
「矢口……」
「後から追いつきますから」
「よっすぃー……」
保田が矢口、後藤が吉澤を見つめる。

「紗耶香を頼んだよ」
「ここはあたしたちに任せてください」
矢口はにっこりと笑い、吉澤がコンバットスーツの胸を叩く。


一度目を伏せた保田は顔をあげると二人をまっすぐ見た。
「……わかった。また後で」
「うん、また後でね」
踵を返した保田は後藤とともに先へと進む。
黒いコートに包まれた背中は強い意思を感じさせる。
一度も後ろは振り返らなかった。

「さて、いこうか。よっすぃー」
「はい、矢口さん」
しばらくその後姿を見送った二人はゆっくりと振り返る。

自分達がさっき通ってきた入り口。
そこには二人の女が立っていた。

戦闘態勢の整った視線が入り口に現れた二人を捉える。
ほっそりした背の高いほうは東洋系の顔、肉感的な低いほうは南国系。
それはCIA、アヤカとミカの二人だった。
お互いがゆっくりと中央に歩み寄る。
矢口はこぶしを握り、相手の出方を伺う。

だが彼女達の行動はこちらの予想を裏切った。

「Hi there.
 How are you doing?」
満面の笑みで手を振ってくるアヤカ。
「は? へ!? ふぁ、ふぁいんせんきゅー あんどゆー」
「Oh! Thanx! My name is Ayaka.
 Nice to meets you "ThunderGirl"」
ニコニコ笑う顔が右手を差し出す。
思わず差し出された手を握る矢口。
続いて差し出されたもう一つの手を取ろうとして矢口の目が大きく見開かれる。
その肉付きの良い右手はパカリと開き、鈍く光る銃口が顔を覗かせていた。

「う、うそ!」
「あぶない!」
吉澤に突き飛ばされ、ころころと転がる小さな体。
ぴょこっと起き上がった金髪が精一杯の抗議の声を出す。
「あ、あぶないじゃんか!」
「Oh! She is cartoon. HaHa」
顔を見合わせて笑っているアメリカ人。
……絶対ばかにされてるよ。

「えーい、日本語しゃべれよ!」
「くすくす、あなた良い人ね」
……しゃべれんじゃんか。
憮然としてにらみつける『かみなり娘』

「邪魔しないで、そこを通してくれないかしら」
「やなこった」
「抵抗するならただではすまないわよ」
「おもしろいじゃん。相手になるよ」

不敵な顔を見せる矢口にアヤカは一つため息をつく。
「しかたないわね。ミカ! オールレンジ・シュート!」
「イェッサー」
命令を受けた小柄な少女の体中から、無数の小型ミサイルが突き出る。
「な、なんですと!」

矢口は飛んできたミサイルを咄嗟に雷の壁をつくり迎撃した。
しかし爆風にまたころころ転がる小さな体。
ぴょこっと起き上がった金髪は煤でところどころ黒くなっていた。
「もう、やだ!」

「このお!」
宇宙刑事は光の球になってミサイルをすり抜ける。
そのまま後ろに回りこみブラスターを構える。
しかし、実体化が終わった瞬間、強い衝撃が白銀の体を襲った。
「うわあ!」
ミサイルに弾き飛ばされたコンバットスーツが火花をあげる。

『そんな……。実体化のタイミングを予測されたの!?』
驚嘆の声をあげるナビゲーター。

「私の頭はペンタゴンのスーパーコンピュータと直結しているの。
 あなたたちの動きを予測することなんか簡単なことよ」
アヤカの両目が白く輝いていた。

「くっそー、えらそーに。こちとら、宇宙人の技術があるんだぞ!」
『あのー、すいません矢口さん。うちの船のコンピュータって演算能力低いんです』
「なんでさ!」
「いや、めんどくさいからいらないなって……」
「ぶ、使えない奴!」
『きます!』

飛び込んでくるミサイルを左右に分かれてかわす。
一回前転して、電撃を撃とうと身構えた矢口の目の前に銃口が突きつけられた。
「わきゃきゃ!!」
リンボーダンスのように思いっきり背中を曲げた矢口の鼻先を、熱い銃弾が掠めてゆく。
「矢口さん!」
駆け出そうとする吉澤の足元でミサイルが炎を上げる。
「!! くっそ!」

やっばい、完全に動き読まれてる。
どうにかあの指示出してる方を捕まえないと。

「フフフ、もうあきらめたらどう?」
「馬鹿言うない! こっからが本番さ!」
「……仕方ないわね。ミカ! 止めを!」

指示を受けたミカの全身が再びミサイルを突き出す。
爆薬の塊が火を噴きながら撃ち出された。

「What's!!」
「な、なんだ!?」

吹き飛ばされるアヤカ。
その体はきりきりと舞い、地面に叩きつけられた。
「どーなってんの?」
矢口に頭の上のハテナマークも、続いて突き出したミサイルに慌てて消える。
仲間であるはずの司令官を吹き飛ばしたミサイルが、小さな体に襲い掛かる。

「うひゃ!」
爆風をかわし、右に転がる。
矢口の動きを正確にトレースするミカ。
その後ろに忍び寄る白銀の体。
しかし、その動きも読んでいたかのように背中からミサイルが撃ち出される。
勝利を確信したその顔が驚愕に変わった。
爆音が……遠い。
振り向いた目に映るのは光の球。
超空間跳躍でミサイルをかわしたコンバットスーツは、はるか遠くで実体化した。

「チェックメイト」
背後から聞こえた声に驚く間もなく、全身に電撃が走る。
煙を上げ崩れ落ちる体を見下ろし、矢口は鼻をこすった。
「へへん。こっちだってこのくらいのコンビプレーはできるのさ」
差し出された吉澤の手に軽くジャンプしてハイタッチ。

「ふん、なかなかやるじゃないか」
突然響き渡る不気味な声。
「その声は……この間のピエロ!」
吉澤の頭に遊園地の悪夢が蘇る。

「ラストバタリオン『道化師サロメ』。
 この前の約束通り、命を貰いに来たぞ。異星のものよ」
声は空間全体から聞こえてくる。
どこに実体があるのか、その位置はつかめない

「んな約束いらないって」
「もしかしてさっきのあんたの仕業?」
「人形遣いは私の得意技。共倒れになればと思っていたが……。
 まあ良い。おまえ達への止めはこの私がさしてやろう」
「へん、相手してやる。出て来い!」
「あわてるな。おまえ達の相手はこいつだ」

その言葉とともに空中からぽとぽとと何かが降ってくる。
「な、なんだ?」
数え切れないほどの『何か』は風に巻き上げられたかのように中央に集まる。
それは一つに固まるとある形を作りだした。
「う、うそ……」

10メートルを超える巨体。
鋭い爪を持つ柱のような四つ足。
牙をむき出す三つの顔。

「カ、カッケー……」
「ゆってる場合か!」
「ククク、我が最高の傀儡『ケルベロス』。
 打ち破れるものなら破ってみよ」

「こ、こんな化けもんどうしろってんだよ!」
「あぶない! 矢口さん!」

踏み潰される寸前、後ろに飛ぶ。
「んにゃろ! 聖雷撃フルパワー!!」
渾身の一撃を食らわせる。
「って効いてないじゃんか!」
ぶっとい前足が小さな体を大きく蹴飛ばす。

「くっ! この!」
ブラスターを連射する吉澤。
しかしこれもダメージを与えたようには見えない。
ごう、と音を立てて首の一つが炎を吐く。
「ちっ!」
上空に飛び回避する。
しかしそこにはもう一つの口から吐かれた炎の塊があった。
「うわあああ!!」

マジでこれはしゃれになんないな。
折れた肋骨の痛みをこらえ、矢口は思う。

敵の本体の位置を探らないことには話になんない。
「よっすぃー、索敵!」
「梨華ちゃん!」
『だめ! ジャミングがひどくって位置がつかめない!』

えーい、役に立たん。
安物のコンピュータなんか使ってるからだ。

今度はこちらに炎が飛んできた。
全身を使って後ろにはじき飛ぶ。
前髪をちりちりと焼きながら矢口は悩む。

さて、どーするよ。

『え!? あれ? な、なにこれ?』
ぶすぶすと煙を上げるコンバットスーツの表面。
ノイズの混じり始めた通信にナビゲーターの悲鳴が聞こえる。
「どうしたの!? 梨華ちゃん」
突然、吉澤の網膜に一つの座標が浮かび上がった。
「これってもしかして……。よーし、いっくぞ!」

逃げ回る矢口を魔獣は炎で追い詰めようとしていた。
それを横目で見つつブラスターを構える。
スコープが示す座標、その一点を正確に撃ち抜く。

「な、なにぃ!」
その一撃は道化師の乗った空飛ぶ球をきっちりと撃ち抜いていた。
姿をあらわし、地上へと落下する赤と黄色のだんだら模様。

「く、くそっ!」
「おっそい!」
「うぐわぁ!」
矢口の雷撃がピエロを撃つ。
「今だ! よっすぃー!」
「うぉぉぉ!!」
両手に握ったレーザーブレード。
上から下へ一気に交差させる。
「ダブル! ヨッスィー・スラァァッシュ!!」

宇宙刑事の新必殺技が妖魔の体を切り裂く。
「ば、ばかな……。
 この私が……敗れるなど……」
ばたりと倒れたからだが黒い塵へと変わってゆく。
巨大な魔獣も小さな塊へと崩れ去っていった。

「ふぃー、危ないところだった。助かったよ。石川」
『そ、それが……。あのデータって私が送ったんじゃないんです』
「へ!?」
『外部から……まるでハッキングされたみたいに……』

って、まさか……。
先ほど吹き飛ばされたアヤカを見る。
白い目をしたCIAの諜報員は、こちらを見て親指を立てた。

ふん、ちっきしょ。借りができちまった。

矢口はぺたりとその場に座り込んだ。
「よっすぃー、動ける?」
隣にいる吉澤に声をかける。
「無理っぽいです。体中がたがたです」
ぼろぼろになったコンバットスーツの着装をといた吉澤が、
大の字になったまま返事を返す。

「しょーがない。最後の見せ場は圭ちゃんたちに譲るか」
「そうですね。最後の見せ場か……」
「ん、どした?」
「保田さんいいなあ〜〜。うらやますぃ〜〜」


「………ばか」
矢口はその場に突っ伏した。

石室の中には二人の女しかいなかった。
一人はワーグナーを愛した独裁者の魂を宿し、
一人はワーグナーの歌った戦乙女の名を持つ。
それは不思議な運命を感じさせた。

怜悧な美貌に、凛々しくも残忍な美貌が問い掛けた。

「ラストバタリオンも残るはおまえ一人だな、ブリュンヒルデ」

「もうすぐ時は満ちる。余は神の力を手に入れる」

「そうなれば、この体に残る小娘の魂も消え去ろう」

「ブリュンヒルデよ」

「……あやつらを導いたのは何故だ」

「それほど……あの娘が気になるか」
怜悧なその顔を上げた美女は右手に槍を携え、ゆっくりと立ち上がった。

「そろそろ彼女達が現れる頃……。出迎えの支度をしてまいります」
そう言って階段を上がる。
その体が全て階上に消えうせると、小さな言葉が部屋にこぼれた。

「何を考えている、神々の主神ヴォータンの娘よ」

ワーグナーの音楽は未だイスラエルでは聴かれない。
ユダヤ人の絶滅を目的としたナチスの悪夢が、
ワーグナーの音楽に纏り着いて消せない人たちがいるからである。

かの独裁者の愛した天才作曲家。
彼の残した壮大なストーリー『ニーベルングの指環』。
そこに登場する一人のワルキューレ。
その名は……ブリュンヒルデといった。

「どうやら、来たようね」
黒衣の糸使いはそのアーモンド型の大きな目を吊り上げた。
曲がりくねった通路の向こうから2メーターを越える影がいくつも現れる。
耳元まで裂けた口から伸びる牙。
ざらついた表面を見せる肌。
なにより、その額から飛び出た角。
さまざまな武器を携えた、それはまさに伝説の鬼の姿だった。

「これが防衛機構の正体か」
「とっとと片付けちゃおうよ」
言葉と共に飛び出した後藤が、腕を横殴りに振る。
くの字に曲がった巨体が通路にぶつかり大音響を響かした。

「相変わらず荒っぽいわね」
あきれた顔を見せる黒衣の糸使いに、異臭を放つ太い腕が掴みかかる。
だがその体に触れる寸前、腕はばらばらと細切れになって落ちた。
黒い皮手袋をはめた手はコートのポケットに入ったままだ。
「汚い手で触らないでよね」
その大きな目が巨体を睨む。

鬼は耐久力と馬鹿力以外に取り得は無いようだった。
今の二人にとっては障害ですらなかった。
次々に砕かれ、切り刻まれる鬼。

飛び上がった後藤は鬼の脳天に肘を落とす。
ベこりと堅い頭蓋骨が陥没した。
そのまま鬼の手から奪い取った剣でその体を真横に斬る。
鬼の体は血を撒き散らしながら崩れ落ちた。
勢いを殺すため振り向きつつ背中から壁にぶつかる。
「あ、あれ!」
後藤のぶつかった壁がくるりと回転した。
「ご、後藤!!」
後藤を飲み込んだ壁は何事も無かったかのように静かにその声を跳ね返した。

「くそ!」
後ろから襲い掛かる鬼をかわし、首を落とす。
残った数体の鬼がじりじりとその輪を狭めてくる。
「とりあえず、ここを片付けないとね」
振り返った保田は右手を上げた。

壁の向こうは部屋になっていた。
10メーター四方の空間にたたずむ一人の美女。
その手にあるのは見事な槍。

ラストバタリオン最後の一人、
『戦乙女のブリュンヒルデ』は静かに声をかける。
「ようこそ、後藤真希」
後藤は無言でその声に答えた。

「私はあなたに会いたかった」
「あ、そ」
「私はブリュンヒルデ。神々の主神ヴォータンの娘。
 そして12人のワルキューレの一人」
「んな事知らない。いちーちゃんはどこ?」
「……そう、これも運命」
「ちょっと!!」
手にした剣を構える。

「それは『ニーベルング』の伝説」
後藤を無視しブリュンヒルデは語リ始める。

「我が父の命を受けた私は下界へと降りた」
澄んだ声が物語を紡いでゆく。

「そこで私は一人の英雄を助けた」
歌うようにその物語は続く。

「その英雄こそ私の愛したひと、その名はジークフリート」
怜悧な瞳が射るように後藤を見た。

「彼は……不死身だったのよ」

「面白い運命でしょう」
再び歌うように話は続く。

「火竜の血を浴びたジークフリートは不死身になった。
 そう、あなたはきっと彼の生まれ変わり……」
「な! 何いってんの!
 ゆっとくけどね。あたしは女なの! そんなことある訳……」
「いいえ、私にはわかる。あなたこそ私の愛した英雄。その魂を持つもの」
その瞳がこちらを向く。
そこに映るのは果たして……。

「もしかして、あたしたちをここに呼んだのもそのため?」
「そう、ここならば誰にも邪魔されることは無い」
「そういうの最近じゃストーカーっていうんだよ」
「愛するものを思う気持ちに昔も今も変わりは無いでしょう」
その表情には微塵も変化は無い。

「あのね、あたしそういう趣味は無いの。他あたってくれる?」
「あの娘を愛しているのではなくて?」
「い、いちーちゃんは……いちーちゃんはそういうんじゃない!!」
真っ赤になった後藤が叫ぶ。

「そう……ならばともに天界へ。神々の住まうワルハラへ」
その瞳は限りなく優しく、そして限りなく冷たく。
後藤の体を普段感じることの無い恐怖が走り抜けた。

「悪いけど、あなたに付き合うわけにはいかないの。
 第一、天国に行くんなら一人で行って。
 あたしは無理だからさ」
「心配は要りません」
戦乙女は慈愛に満ちた笑みを見せた。

「ワルキューレとは戦士の魂を天界に送るもの。
 この槍……グングニルは魂を送る槍。
 この槍で命を落としたものは二度と生き返ることは無い。
 この槍ならあなたの呪縛を断ち切る事ができる。
 あなたもこれで…安らかになれる。

「な……」

「さあ、あなたに『死』を。魂の安らぎを」
「なんで……。なんであたしを殺そうとするの。
 あたしがあなたの愛した人の生まれ変わりなら、なんであたしを殺すの!」
「愛する人の望むことをする。それのどこがおかしいのかしら」
「あたしは死ぬことなんて望んでない!」
「そうかしら。永遠の生、それは永遠の死と同じこと。
 あなたは呪縛から解き放たれたくは無いの?」
「そ…そんなこと……」
「不死という呪縛。それを断ち切るため私はあなたを招いた」
うっとりと呟くその声は天上の調べか。

「さあ、もう苦しむことは無い。安らかなる魂の救済の地へ」

手を差し伸べる美女から後藤は後ろに飛びのいた。
右手に握った剣を前に出す。
「あたしは……死なない。約束したから……。
 あの人と……。いっしょに生きるって!」

燃えるような目で睨む後藤を冷たい瞳が迎え撃つ。

「もうすぐ時は満ちる。あの娘の魂も今頃は……」
「な! いちーちゃんは…いちーちゃんはどこなの!?」
「余計なことを考える必要はありません。あなたの魂は安息を求めている。
 さあ、私が呪縛を解き放ってあげましょう」
「いや!! あたしはそんなもの求めてない!! あたしは……あたしは……」
「仕方ありません。手荒な真似はしたくなかったのですが」

言葉と共にその姿がかき消える。
目標を見失った後藤の背後に怜悧な美貌が現れた。

「さあ、共にワルハラへ」

魂を運ぶ槍が後藤の体を突き刺した。



後藤が前世の因縁と戦っていた頃、保田は全ての鬼の首を落とし終えていた。
「さて、この壁どうしようかしら」

腕組みをして壁を見つめる。
その目が不意に鋭さを増し、きっと横を見た。

ぴうんと糸が音を奏でる。
通路を映していた空間が二つに裂けた。
「見つかりましたか」
陸自のバイオニックソルジャー村田はいつもの表情のままで立っていた。

表面に立体映像を映す陸自の発明
──カメレオンスーツを脱いだ村田と柴田は、静かに保田と対峙した。

「ずっと、付けて来てたのね」
「はい、お陰ですんなりここまで来れました」
「先へ……進むつもり?」
「私たちは命令に従うだけです」

その言葉に空気が緊張感を増してゆく。
保田の右手が上がり、柴田が手にもった鞭を構える。
だが、村田の右手が柴田を制した。

「我々自衛官の責務は民間人を守ることです」
その言葉に保田が眉をひそめる。

「民間人を守る。それを最優先にするよう指導されてきました」
村田は淡々と続けた。

「……ここに来るとき、私が依頼した人物以外の人間を見ました」
それって……矢口達のこと?

「自衛官の責務として彼女達を保護しなければなりません」
「た、隊長!」
慌てる柴田に軽くうなづいてみせる。
「20分ほどでここに戻ってくるでしょう。突入はその後です」

表情を変えぬ顔を保田はじっと見つめた。
ふっと息を吐く。
「あんた、不器用な奴だね」
「よく言われます」
「不器用だと……いろいろつらいよ」
「そうかもしれません。ですが保田さん」
「なに?」
「あなたと同じ立場なら、自分も同じ事をしたと思います」
「……だから不器用だって言うのよ」
「なるほど」
真面目な顔で答える村田に保田は苦笑した。

「それからこれを」
と肩にかけていた銃を渡す。
「これは?」
「新型の無反動銃です。このくらいの壁なら数発で壊せるでしょう」
ずしりとしたその武器を受け取る。
「ありがたく借りとくわ」
村田は一歩引いて踵を合わせた。

「……御武運を」
その敬礼は今まで見せた中でもひときわ美しく見えた。



「ぐうう」
ブリュンヒルデの目は自分の胸に刺さった剣を見ていた。
後藤の体から突き出た剣は、戦乙女の心臓を捕らえていた。

グングニルが不死身の体を捕らえるより一瞬早く、
後藤は自らの剣を心臓へと突き刺していた。
死人から魂は奪えない。
神々の槍はその力を発揮することは無かった。

槍が落ちる。
胸に刺さった剣を押さえつつ、戦乙女は傍らに立つ無傷の少女を見つめた。

「よく私の位置がわかりましたね」
「感じたの。なんとなく背中がやばいって」
「そう……。不死身だったジークフリートの唯一の弱点。
 菩提樹の葉がついたせいで、火竜の血を浴びることの無かったただ一つの場所。
 やはりあなたは彼の……」
「…………」
「私の愛は受け入れられなかった。結局私は独り……」
「あなたの愛は間違ってる……。
 自分の気持ちをただ押し付けるだけなんて愛じゃない。
 あたしは……そんな愛なんか認めない」
「そうかもしれません。でも、それでも私は……」

ざあっと音を立てて美しき体は塵へと変わった。

くすんと後藤は鼻をすすった。
「いちーちゃん……」

後藤の目の前で床がゆっくりと沈み込み、階段がその姿を現していった。

階段を下りる。
この階段は部屋と部屋をつないでいるらしく、
すぐ下には上の部屋よりもやや広い空間が広がっていた。

後藤は右手の剣を構えながら慎重に周囲の様子を伺った。
人の気配は無い。

部屋の中にあるのはただ一つの物体だった。
階段とは反対側の壁際に置かれた物体。
2メーター四方ほどの四角い箱。
それはちょうど祭りに使うお神輿のような形をしていた。

「もしかして……あれが聖櫃!?」
引き寄せられるように前に出る。
「きゃああ!」
だが、駆け寄ろうとした後藤は反対側の壁まで弾き飛ばされた。

「フフフ、残念だが遅かったようだな」
箱が開き、一人の人物が姿を現す。

金色に染まった短い髪。
凛々しい眉。
華奢なようでいて力強さを感じる細身な体。

出会うことを待ち望んだ見慣れた姿は、
一度も見たことの無い絶望を感じさせる残忍な目をして言った。

「余は神の力を手に入れた」

その目は碧く変わっていた。

「うそ……。いちーちゃんは……いちーちゃんはどうなったの!?」
「あの娘の魂はすでに消え去った。この体は余のものとなったのだ」
「嘘よ! いちーちゃんはいなくなったりしない! いちーちゃんを返して!!」
「哀れな。だが、そう悲しむことは無い。おまえもすぐに同じ所へ送ってやろう」

右手が振られると、邪悪な波動が後藤を再び弾き飛ばす。
先ほどとは比べ物にならないほどの力は、持っていた剣を粉々に砕き、
叩きつけられた体はぐしゃりという音を立てて真っ赤な血を撒き散らした。

「ふん、他愛の無い」
嘲笑する独裁者の前でゆらりと後藤は立ち上がった。

「ほう、そういえば貴様は不死身だったな。
 おもしろい、どの程度まで復活できるのか試してやろう」



村田の言葉通り、4発目で体が通るほどの穴が開いた。
まずは糸で部屋の中の様子を探る。
部屋の中には誰もいない。

「後藤?」
穴をくぐり抜けた保田は声をかけた。
返事は無い。
仕方なく部屋の中を伺う。
そこにあるのは一握りの灰と一本の槍。
そして下へと続く階段。
「あいつ、一人で行ったのね。ったく、無茶なことを!」

そのとき、階下から激しい音が聞こえた。

「まさか! 後藤!!」
保田は階段を駆け下りた。

階段を降りた保田が見たものは、壁に叩きつけられ無残な姿をさらす後輩の姿だった。
「後藤!!」
すぐに復活した後藤が立ち上がる。
すでに着ているものはボロボロになっており、これまでの戦いの経過を感じさせた。

「け…けいちゃ……」

「なかなかにしぶといな。だがもう飽きてきた。そろそろ終わりにしてやろう」
「紗耶香ぁ!!」
魂から響くような声で友の名を呼ぶ。

「無駄だ」
だが、返ってきたのは無常なまでに冷たい応えだった。

「あの娘の魂は消え去った。もう二度と戻ることは無い」
言い放つ独裁者の右手に邪悪な波動が集まる。
「特殊な能力を持つといっても所詮は人間。神の力を手に入れた余にかなうわけもない」
死をもたらす波動を放とうと碧く染まった目が細められる。

「いいえ、紗耶香は消えたりなんかしていない」
しかし保田は静かな声で応えた。
「馬鹿なことを。もはやあの娘の声は聞こえぬ」
「あたしにはわかる。あたしには聞こえる。紗耶香が呼ぶ声が!」
「くだらぬ。そんなものおまえの妄想に過ぎん」
「そんなことは無い! あたし達の絆をなめないでよね!!」
「絆だと、笑止。その様なもの、この体にはもう残っておらんわ」
「じゃあそれはなに!!」
保田は市井の顔を指差す。

──そこには熱く流れるものがあった。

「ば、馬鹿な……。涙だと……。この娘の心は……」

「ぐおおおおおおおおおお!!」
波動はその場ではじけた。
金色の髪がかきむしられる。
頭を抱え込みうめく少女。

再び上げられたその目。
漆黒に染まった凛々しい目
それは誇り高き狼の目。

「紗耶香!」
「いちーちゃん!」

狼の目は何かをこらえるかのように細められた。
振り切るように声を絞り出す。
「圭ちゃん! 今だ!!」
「い、いちーちゃん!?」
「…………」
「早く! あたしごとこいつを!」
「な、なに言ってるのいちーちゃん……。そんなことできないよぉ……。ねえ、圭ちゃん」
「…………」
「やるんだ! 早くしないと……。うっ! うああ!」

再び苦痛に歪むその顔。
折れ曲がった指がその顔を覆い隠す。
がくんと首がうなだれた。

「いい気になるな!小娘が!!」
その目が再び碧く変わる。
ぐいっとあげられた顔は憤怒の形相に変わっていた。

「もう、猶予はならん。今すぐこの場で引導を渡してくれる!!」
残忍な目で睨み、振り上げた右手に再び波動を集める。
しかし、その右手を止めたのは同じ体からのびた左手だった。

「な、なに!」
「はやく! 圭ちゃん!!」

同じ口から同じ声で違う人間が叫ぶ。

保田は村田から預かった銃をゆっくりと構えた。
「頭だ! やるんなら頭を狙え!!」
「だめ! 圭ちゃんやめて!!」
「どいて、後藤」

「おのれ!そうはさせん!」
「うあ!」
左手を振り切り飛んできた波動に吹き飛ばされる保田。
その手を離れた銃が後藤の足元に転がる。

呆然としたまま後藤はその銃を手にとった。
「やるんだ! 後藤!」
「い、いちーちゃ……」
「早く! あたしはおのれこのようなこのままじゃそうはさせん……」
「できない……。できないよ……」
「お願いだええい後藤往生際の悪い!」
「…………」
くるくると色を変えるその目。

だが、最後に勝ったのは力強い野性の目だった。
「後藤!! やるんだ!!」
「う、うわああぁぁぁぁぁ!」

後藤は引き金を引いた。

そのとき、市井は愛しげな目を後藤に向けた。
それは愛する子供を見守る母の目にも似ていた。

──次の瞬間、市井の頭は四散した。

ああ、花火みたいだ……。
今年の夏はいちーちゃんと花火見てないな。
来年は一緒に観にいこうね……。
そう、一緒に……。

「ぁぁぁぁぁぁぁぁああああああ」
誰かが叫んでいた。
誰か?
違う。叫んでるのは、あたし。

「後藤!」
保田は後藤の肩を揺さぶる。
「圭ちゃん……。いちーちゃんが、いちーちゃんが」
「しっかりして!後藤!」
「あたし……。いちーちゃんを……殺した……」
「後藤!!」
「いちーちゃんが死んじゃった……。いちーちゃんが……」
うつろな顔で繰り返す後藤。

「まだよ。まだ終わりじゃない」
焦点の呆けた視線が保田を向く。
「これは最後の賭けなんだ」
「賭け?」

「ヒトラーの魂は紗耶香の脳に憑依していた。
 だからどうしても脳を一度破壊する必要があったの」
後藤の目が少しづつ焦点を結ぶ。
「でも、紗耶香なら……この状態からでも再生できるかもしれない」
「む、無理だよ。いくらなんでも頭がなくなって……」
「だから、これは賭けだったの。
 本当はあたしがやるつもりだったけど……」
下に向いた保田の目が再びまっすぐに後藤を見る。

「あたしは紗耶香の生命力に賭ける」
「そ、そんな……」

「おのれ、小娘らめ!!」
禍々しい声が二人を振り返らせる。
声のするほうには一体の鬼。
その目に宿るのは残忍な輝き。
怒りに震える独裁者の目。
その姿は先ほど倒した鬼と比べ、あきらかに大きく力強く見える。

「くっ! やっぱりまだ魂は滅んでなかったのか」

うめく保田を押しのけ、後藤は前に出た。
「あんたは……あんたは絶対許さない!」
怒りに燃える顔を白い仮面が覆い隠す。
空気がその硬度を増した。

聖櫃によって得られた力は、体が変わっても有効であるようだった。
放たれた波動をかわし糸をふるう。
だが、その糸も敵の体に触れる前に霧散してしまう。

後藤が五寸釘を飛ばす。
しかし、そのざらついた肌を貫くことができない。
ちりんと音を立てて釘が床に落ちる。

さすがに強い。
このままじゃやばいわね。
次第にあせりの色が浮かぶ。

このままじゃ勝ち目は無い。
それに、鬼を倒しても魂が残ってしまえばまた復活されてしまう。
どうする……。

焦れたのか白い仮面が一気に突っ込んだ。
飛んでくる波動を踏ん張ってこらえ、ぐっと間合いを詰める。
その手が鬼の首へと伸びた。

「無駄だ」

鬼の体まで後数センチというところで、ぐぅっと空気がたわむ。
吹き飛ばされた後藤は、壁に叩きつけられた。
「これで終わりだ」
手から放たれた波動が天井にぶつかる。
崩れた天井は後藤の上に次々と振り落ちた。
「後藤!!」
瓦礫に完全に埋まってしまった後藤からは何の返事も無い。

「くっ!」
糸をふるおうとする保田の腕をいつの間にか近づいた鬼の手が掴んだ。
まるで枯れ枝であるかのように一気に握りつぶされる。
「うああぁぁぁ!!」

「フフフ、てこずらせおって。今とどめをさしてくれる」
しかし、残忍な光を宿すその目が驚愕に見開かれた。
「こ、これは……」
その胸から生えていたのは一本の槍。
魂を導く神々の槍。
「ば、馬鹿な! これは……グングニル!」

上の部屋から天井と共に落ちてきた槍。
瓦礫に埋まった後藤の手にそれが収まったのは、
愛するものを思う戦乙女の起こした最後の奇跡だったのかもしれない。

槍を投げた体勢のまま後藤は鬼を睨む。
割れて半分になった仮面から覗くその目は冷たく燃えていた。

「うごぉぉぉ!! まだだ! まだ余は亡びぬ!!」
鬼が刺さった槍を引き抜く。
「往生際が悪いわよ!!」
保田が左手を振るうと太い腕は根元から絶たれ、弾かれた槍が宙を舞った。

「後藤!!」
「うおおおおぉぉ!!」
大きく飛び上がった後藤が空中で槍を掴む。
そのまま全身の体重をのせ、鬼の頭頂から股間までを一気に刺し貫いた。

「ば、馬鹿な! こんな、こんな小娘どもにぃぃぃぃぃ!!」
弾け飛ぶ体。
呪われた魂は今度こそ、その行き場を失った。

「い、いちーちゃんは!?」
倒れたままの市井を見た後藤は大きく息を飲む。
「動いた……。動いたよ、圭ちゃん!!」
「本当!」
「ほんとだよ! 今、手がピクって……」

ゴゴゴゴゴゴ……。

「なに!? この音!」
「まさか!?」
「く、崩れる!」
「いちーちゃん!」
「危ない後藤!!」

守るべきものを失った防衛機構はその役目を終えた。
地下数百メートルにあった石室はユダヤの至宝を抱えたまま、
土砂に埋もれ深い眠りについた。



とある病院の中庭。
検査を終えた保田は、日のあたる場所に置かれたベンチに村田を迎えていた。

あの時、村田により回収された矢口と吉澤は、アヤカの指示により保田達を時空転移させた。
対魔師、陸自、CIA。
敵対していたはずの人間達の協力で保田達は生き延びた。
しかし……。

視線の先には車椅子を押す少女。
車椅子の上には黒く生え変わった髪をゆらす細身の少女。
二人の少女は無言のまま、ただ中庭を散歩していた。

「記憶喪失……ですか」
村田がポツリとつぶやく。
奇跡的な再生をみせた市井。
だがその新しい頭は古き記憶を全て失っていた。
真っ白な記憶しか持たない市井は、童女のような穏やかな笑みを浮かべる。

「回復の見込みは?」
「よくわからない。果たしてそこまで再生できるものか……。
 なにしろ、前例の無いことだから」
「そうですか……」

うなだれる村田にわざと明るく声をかける。
「それより、そっちはいいの? かなり無茶したんでしょ」
「たいしたことはありません。厳重注意は受けましたけど」
「よくクビにならないわね」
「そうなったら、そちらに雇っていただきましょうか」
「嫌よ、これ以上給料減らされたんじゃたまんないわ」
かすかに微笑む二人。
そういえば、こいつの笑った顔を見るのは初めてだな。
意外とあどけないその笑顔に少し戸惑う。





「それでは、失礼します」
ぴしりと敬礼を決めた村田が去り、残された保田は再び車椅子の二人に目をやった。

事態を知らされた後藤は思いのほか落ち着いていた。
『大丈夫だよ。いちーちゃんはきっと帰ってくる。
 だって、あたしたち約束したじゃない』

そう言って笑う後藤を思い出し、保田は物思いにふける。

あんたは本当に強くなったね……。
あたしは……複雑な気分だよ。
まったく、まだまだ子供だと思ってたのに。

穏やかな風が舞った。
後藤は前に身を乗り出し、市井と何事か話している。
その顔に浮かぶのは柔らかな笑顔。

うららかな秋の日差しに包まれ、それは一幅の絵のようにみえた。

真 ・ 百  姫  夜  行。

 〜完〜

 

 

 




「ここやな」
一人の女が岸壁に立っていた。
海からの強い風がその細い体に吹き付ける。
風をこらえるようにきつい目が細められた。
その視線の先、人の目を避けるようにして掘られた小さな空洞。
退魔師、中澤裕子の目は小さな祠を捉えていた。

中澤は祠に手を入れた。
「……ここもか」
つかみ出されたのは龍の形をした一体の人形。
しかしその首は根元からぽきりと折れていた。

「やっぱり四神全部がやられとるか……。
 一体誰がこんなこと…」
気配を感じた目が鋭さを増した。
ゆっくりと振り返る。

そこには一人の少女が立っていた。

黒いハイネックのワンピースが風をはらんでいる。
むき出しになった肩は透き通るように白く、
まだ幼さを残したその腰は折れそうなほど細い。

意志の強さを感じさせる凛々しい眉。
アーモンドのような大きな目。
引き結ばれた小さな唇。

哀しくなるほど儚げなその姿は、冷たく輝く蒼い月を思わせた。

 

安倍なつみ外伝  蒼き月の天使

 

「邪魔をしないで」

少女は静かに声をかけた。
よく通る声が風に負けることなくあたりに響く。

「邪魔ってどういうことやねん」
「そいつは私が払う。手を出さないで」
その言葉に中澤は目を細めた。
「やっぱりあんたも退魔師か。でもな、こいつは厄介な相手やで。
 一人で払えるような奴やない」

言い終わったとたん、手に持っていた人形が崩れ去った。
少女から飛ばされた無色のエネルギー。
それは人形だけを正確に砕いていた。

「ふん、なるほど。腕に自信はあるようやな」
「もう一度言うわ。その鬼は私が払う。手を出さないで」
「そうはいかんな。こいつを野放しにしたらえらいことになる。
 あんた一人に任せるわけにはいかん」

「そう……。なら仕方ないわ」
再び飛ばされたエネルギーが今度こそ中澤を襲う。
しかしそれは目標に辿り着くことなく霧散した。

『破魔の眼』
中澤の視線はすべての力を無効化する。
少女に向けられたその目は青く輝いていた。

「その力、あたしには効かんで」
「……それじゃ直接殴ってあげる」

木刀を構える少女に中澤は慌てた。
手ぶらだったはずの少女の手に現れた木刀。
その切っ先が中澤の喉に向けられる。

「ちょ、ちょお待ちいや。あんたそれどっからだしたんや。
 こっちは丸腰やねんで、そりゃ卑怯や」
「問答無用」

正眼の構えからゆっくりと切っ先が上へ。

「う、うわ! あ、あかんて」
空気を切り裂いて切っ先が降りる。
中澤は思わず目をつぶった。

がいん
鋭い音を響かせて、振り下ろされた木刀の一撃をもう一本の木刀が迎え撃つ。

「油断したらあかんやんか。姉さん」
恐る恐る目を開いた中澤を、切れ長の目が悪戯っぽく睨む。
鋭い一撃を弾き返したその一刀。
神速の太刀を放った人物。
清影流抜刀術免許皆伝。
日本最強の念法使い、平家みちよここに見参。

「あなた……何者?」
冷たい表情を変えぬまま少女が問い掛ける。
「平家っちゅうもんや。よろしゅうな」
「……聞いたことあるわ。そう、あなたが」
「その型……雪宮流か?」
その問いに答えず少女は後ろを向いた。

全てを拒絶するかのような背中。
澄んだ声が凍てつく寒さをはらんで響いた。
「もう、私の邪魔をしないで」
その冷たさに気圧されたように二人は黙って少女を見送る。
少女は一度も振り返ることなく歩み去った。

ふう、中澤は額をぬぐった。
肌寒ささえ感じる風の中、手の甲には汗がこびりつく。
「あの力、みっちゃんと同じものとちゃうん?」
「そう、あの子も念法使いやね」
平家は少女の去ったほうをまだ見つめていた。

「みっちゃん。今の子知っとるんか?」
「北海道に凄い子がおるって聞いたことある。
 ちょうどあれくらいの年頃やったかな」
「それがあの子なん?」
「さあ、わからへんけど」
「その子の名は?」
「たしか、安倍……安倍なつみ」

そういった平家はがくりとよろけた。

「みっちゃん!」
「大丈夫。ちょっとよろけただけや
 はは、噂以上やな。あの子」
「あんた、まだ、こないだの……」
「心配あらへん。大丈夫やって姉さん」
そう言って笑う平家の顔を中澤は複雑な思いで見ていた。



安倍は闇の中にいた。
何も見えない純粋な闇。
漆黒の空間で安倍は膝を抱えていた。

「どこ…どこにいるの……」
呟く声も闇に飲み込まれる。

「なにも……なにも見えない。
 姿を見せて……おねがい……」
答えるものはいない。

「どこ…どこなの……。ねえ……」
ただ静寂だけがそこにある。

「ねえ…答えてよ……」

「福ちゃん!!」

飛び起きた。
ぐっしょりと嫌な汗をかいていた。
大きく息をつき部屋を見渡す。
小さな旅館の和室はしんと静まり返っていた。
窓から見える景色は夜明けを迎えて蒼く染まっている。

もたれていた壁から身を起こす。
気づかないうちに眠ってしまっていたらしい。
時計を見ると2時間ほどたっていた。

ここしばらくまともに寝ていない。
目をつぶるのが恐ろしい。
暗闇が……怖い。

安倍は頭を振るとシャワーを浴びるため立ち上がった。



「みごとなもんやな」
「ほんまやね」
中澤と平家、二人の前には積み重ねられた無数の枝があった。
京都の街から少し離れた山の奥。
人も通わぬこの場所にそれはあった。

「一つとして法則性が無い。完全な無秩序。
 これなら結界としてゆうことないな」
「この結界を中心にして四方を四神の人形で囲んでたんやろ。
 どう考えても完璧やないの」
「せやけどな、みっちゃん。現実に鬼は外にでとる。
 結界を潜り抜けてな」

京都の街で起こった残虐な連続殺人事件。
そこに残された妖気から辿り着いた答えがここだった。
数百年前、ある高僧と退魔師によって封じられた一匹の鬼。
それを封じた目の前の結界は完璧なものだった。
にも関わらず、殺人は起こり四神の封印は壊された。

──殺されたのは全て鬼を封じた高僧の子孫だった。

中澤はそっと隣の平家の顔を見た。
腕を組み結界を眺めているその顔は悠然と落ち着いている。
二人が出会って、まださほどの時間は立っていない。
たまたまある事件で出会い、そのまま意気投合した。

中澤には一つの夢があった。
退魔師を一つにまとめ組織立った活動をする。
そのためには腕のたつ退魔師を味方にする必要があった。
平家の腕前はおそらく日本でも最強。
これほど心強い相棒は無い。

それだけにあまり無理はさせたくなかった。

中澤はゆっくりと振り返る。
「よお。やっぱり来よったか」
後ろに現れた人影に気軽に声をかけた。
声の先にいたのは月の光を思わせる少女だった。

「邪魔しないでって言ったのに」
少女は静かにつぶやく。
「そんな怖い顔せんと。可愛い顔が台無しやで」
すっと白くほっそりとした手に木刀が現れた。
「ちょ、ちょお待ち」
あわてた中澤は平家の後ろに隠れる。

「あんた、安倍なつみやろ」
何事も無かったかのように平家が声をかけた。
「お母さんはお元気か。
 実はあたしも昔お世話になったことがあるんや」
「…………」
「あんたんとこの野菜はめっちゃうまいからな。
 時々送ってもらったりしてんねんで」

くるりと安倍は振り返った。
そのまま歩み去る背中に平家はなおも声をかける。
「あんた……なんで鬼を狙っとるんや」
前に進むその足が止まった。

「あんたのその目……。それは退魔師の目や無い。それは……」
「それは復讐者の目やな」
中澤が引き取った。
白い肩がかすかに動いた。

「なあ、話してくれへんか。場合によったら協力できるかもしれん。
 あんた一人でやるより絶対確実やで」
安倍は振り返った。
その顔に中澤は胸が詰まった。

青白く輝く月の光。
その表情は何も変わってないように見える。
ならば何故こんなに危うげに思えるのだろう。
何故こんなに消え失せてしまいそうなほど儚いのだろう。
何故あの乾いた目は哀しい光をこぼしているように見えるのだろう。

泣いたらええねん。
泣いて全部流してしまえばええねん。
なんで泣かへんのや。

……そうか。泣かれへんのやな…まだ……。

痛ましさに思わず眼を伏せる。

「力を貸してくれへんか」
顔を上げ、呼びかけた声は退魔師のものに変わっていた。
「なんぼなんでも、結界をすり抜けるような相手にあんた一人では分が悪い。
 正直、ここまでの相手やとは思わへんかった。
 でも、あたしらと一緒ならこいつにも勝てるやろ。
 なあ、協力してくれ。頼む」

「私は一人で鬼を倒す」
哀しいほど切ない顔は再び冷たく透明な顔に戻っていた。
「これは私の誓い。譲るわけにはいかない」
蒼く輝く月は振り返った。
歩み去る背中は今度こそ一度も振り返らなかった。

「あーーもう! 難儀な子やな!!」
「姉さんの好みのタイプやね」
「ちょ、みっちゃん。なにゆうてんの」
「儚げで、芯が強くて、手がかかる。もろに好みやんか」
「あんた、なんであたしのタイプ知ってんねん」
「そら、見てればわかりますがな」
にやにや笑う平家を中澤はぎろりと睨んだ。

「……にしても、気になるな」
気持ちを切り替え中澤が言う。
「結界のこと?」
「それもある。でも、それだけやない。
 なんやろ……。なんか嫌な感じや」
「気にしすぎちゃうか、姉さん。
 いらんこと心配せんでも、うちに任せとけばええねん」
「……それができんからゆうとるんやないか」
「……いけずやな、姉さん」

軽口を叩く平家を、中澤は真面目な顔をで見据えた。

「だいたい、あんたは今……」
「大丈夫やって。あたしに任せとき。あたしに……」
「みっちゃん……」

にっこり笑った顔を見て、なぜか中澤の胸の不安は膨れ上がるばかりだった。



安倍は父親の顔を知らない。

民俗学者だった彼は念法を研究するため北海道を訪れた。
そして、そこで知り合った少女と燃え上がるような恋に落ちた。
人が人を愛するのに期間はいらない。
そういう恋愛もある。
お互い他に身内は無かった。
だから出合って2週間後には籍が入っていた。

しかし、彼は生まれつき体が弱かった。
短期間で燃え上がった炎は、儚い彼の命も燃やし尽くしたのかもしれない。
それでも、風邪をこじらせて息を引き取る彼の顔は、穏やかに微笑んでいたという。
彼を見取った少女の体には、そのときすでに新たな生命が宿っていた。

日本でも有数の力を持つ念法家だった母は、これをきっかけに一線から身を退き、
大雪山のふもとで有機野菜を作り安倍を育てた。

その少女に出会ったのは、16の春だった。

退いたとはいえ、その名は未だに現役だった。
母親の下には修行を目的とした人間も数多く訪れた。
東京からわざわざ修行に来たという少女。
小さな体、おかっぱの髪、ふっくらとした頬。
その姿はまだ子供といっても良かった。
しかし、その目は年齢に相応しくない達観した光を宿していた。

そしてその出会いは安倍の運命を大きく変えるものとなった。



三度目の邂逅はあっさりと訪れた。
中澤はこちらを睨みつけるキレイな二重を見てため息をついた。

「まあな。狭い街で同じ事件追っかけとるんやから、あたりまえやな」

鬼を封印した高僧、その血筋はもう一つ残されていた。
役場でそのことを確認した中澤と平家は、ガードにあたるためここに来ていた。
さすがに襲い掛かってくる様子は無いものの、なおも睨みつける少女にひらひらと手を振る。

「あんたの邪魔をするつもりは無いねんけどな、
 とりあえず襲われそうな人は守らなあかんやろ」

見た目と違い思いのほか頑固な少女を無理やり納得させ、とりあえずの休戦協定を結ぶ。

血筋は僧侶としての血を受け継いでいないらしく、
宗教とは何の関係も無いサラリーマンをしており普通の一戸建てに住んでいた。
とはいえ、こういう経験にもある程度の耐性はあるのか、こちらの言い分はすんなり通った。
案内された小さな客間で茶をすする。

沈黙。
息が詰まる。

「あー、もう! なんでそんな辛気臭い顔しとんねん!
 もうちょっと、にっこりしたらどないやねんな」
「…………」
「うっわ、腹たつ。みっちゃん、なんとかゆうたってえな」

「……誰の敵討ちなん?」
静かに平家は問い掛けた。
沈黙がその意味合いを変える。

「思い出したことがあるんや。
 最近念を使う若い女の子の二人組みがおったってな。
 あんた、その一人やないの?」
沈黙が続く。
「相方の……敵討ちか」

テーブルに目を落とした安倍は小さく呟いた。
「明日香は……」



安倍は自分の力に自信があった。
母から受けた修行時代、力は鍛えれば鍛えただけ上がった。
母には及ばないものの、自分は最高クラスの念法使いだ、そう思っていた。
それがあっさりと覆された。
一人の年下の少女によって。

福田明日香。
安倍は初めて天才の意味を知った。
嫉妬はあった。
しかし、それ以上にこの少女が気になった。
人はこの域まで辿り着く。
そのことに素直に感動した。

だから、コンビを組もうと提案したのも安倍からだった。
一匹狼を自認していた福田は当然断った。
その日から執拗なラブコールが始まる。
コンビを組むことの重要性、メリット、明るい未来。
仏頂面で断りつづける福田をものともせず、
にこにこと疑うことを知らない満面の笑顔で語る安倍。

「ねえ、もっと笑おうよ」
「必要ない」
「えー、女の子なんだからさあ。もっと可愛くしないと」
「えーい、くっつくな」

一週間。
二週間。
修行の間、毎日のようにこのお日さまトークは続いた。
最終日、東京まで追いかけようと荷造りを始めた安倍に、ついに福田も陥落した。

何故そんなことをしたのか、安倍にも未だにわからない。
若干13歳でありながら、達観した目を持つ大人びた少女に何を感じ取ったのか。
ただこの子を一人にしておけない。そう感じた。
だからついて来た。
ただそれだけ。

「……よく寂しいって言うよね」
「うん、寂しいよ。いつも孤独だから……」
「大丈夫、なっちがいるさ」

太陽になろうと思った。
この孤独な天才を照らすように。

暖かいお日さま。
この子の心を溶かすように。

いつも微笑んでいよう。
この少女の笑顔を見るために。

だが……。



「明日香は……光を奪われた」
「光を?」

視線を落としたまま、安倍は何かを吐き出すように言葉をこぼす。

「あのとき……」

数日前から何か異変を感じる。
ついては身辺を警護してほしい。

何度かこんな依頼はこなしていた。
自分達の腕に自信も持っていた。
簡単な仕事になるはずだった。

寺の周りに結界を張った。
これで何かが進入してくればわかる。
本堂で動きがあるのを待った。

最初の夜にそれは起こった。

鋭い悲鳴に弾かれたように顔を上げた。
隣を見る。
福田の顔もこわばっていた。

結界に異常は……無い。
そんな!
結界は完璧なはずだった。
これを破らず中に入ることはできない。

あわてて住職の下に駆けつけた。
予想もしない状況に、危険を感知する力が麻痺していたのかもしれない。
安倍は何も考えず、寝室のドアを開いた。

「危ない!」
突き飛ばされて転がった。
頭の上をなにか禍々しいものが通り過ぎる。

畳の上は赤い液体でいっぱいだった。
むっとする鉄くさいにおいが鼻をつく。
目の前には腹を割かれた住職の変わり果てた姿があった。

「そ…そんな……」
妖魔の気配は無かった。
どこから現れたのか見当もつかなかった。
そのとき呆然と死体を見ていた安倍はパートナーの声が無いことに気づいた。

「福ちゃん?」
振り返った安倍は顔を押さえて倒れ伏す福田を見た。
その手の間からはおびただしい血が流れている。

「福ちゃん! 福ちゃんしっかり!」
「……目が…目が……」
「福ちゃん! 福ちゃーん!!」

福田の目に光が戻ることは無かった。
部屋から飛び出した妖魔の一撃は、その眼球をえぐりだすほど深く傷つけていた。

安倍は一度も病室に行かなかった。
自分のミスで取り返しのつかない事態を引き起こした。
あのとき、もう少し慎重に行動していれば……。

もう、あの子がお日さまの光を感じることは無い。
私はあの子を照らすことはできない。
いや、私にはそもそもあの子を照らす資格すらない。
……私はもう太陽ではいられない。

そのときから安倍は自ら輝くことをやめた。



「殺された住職も鬼を封印した高僧の末裔だった。
 明日香の光を奪ったあの鬼は絶対に許さない。
 私がこの手で……倒す」
無表情で語る少女を中澤は悲しい目でみつめた。
「あたしたちの力は自分のために使うもんやない。
 他人のために使うもんや。
 でないと……自分の身を滅ぼすことになるで」

「理解してもらおうとは思わない。
 それに……私はどうなってもいい。
 あの子の敵が取れるのなら……」

俯いたままの安倍に中澤は声をかけることができなかった。

わかっている。
怒りに身を任せてはいけないことも。
悲しみで戦ってはいけないことも。
……守るべきものを守れなかった苦しみも。
でも、それを語るべき言葉を中澤は持っていなかった。
そんな自分が情けなかった。

部屋の中はただ平家の茶をすする音だけが響いていた。

小さな一戸建てを三角形で囲む。
その頂点の一つになりながら、中澤は以前封印の前で感じた違和感を思い出していた。

あの封印が破られた様子はない。
にも関わらず、鬼による事件は起こった。
鬼はどうやって外に出た?
それにあの子の話によれば、その鬼は誰にも気づかれず人を殺している。
あの子の実力はかなりのものだ。
それなのにそんなことができるのか?

それに……。
何か引っかかる。
何故『あの夜』住職は殺された?
チャンスはもっと早くにあったはずだ。
何故あの子たちがいた日に……。

中澤の思考は悲鳴にさえぎられた。
まさか!!

ちょうど玄関先で平家と出くわした。
一番玄関の近くにいた安倍はすでに家の中に入っているらしい。
「みっちゃん!」
「姉さん今のは」

そのとき奥からふらふらとサラリーマンの妻が姿を現した。
その顔は蒼白で目もうつろだ。
小さな声が念仏のように響く。
「ばけもの……ばけものが……」

「あほな! 妖魔の気配なんかなかったで!」
「あたしが行く。姉さんはこの人を避難させてや!」
「わかった! ……みっちゃん。気ぃつけるんやで」
「あいよ」
不敵に笑った平家は家の中に飛び込んだ。

安倍の目の前には醜悪に顔をゆがめた人間が立っていた。
その体はぼこぼこと奇妙に膨らみ、
青と白のストライプがはいったパジャマがはちきれそうに蠢いている。
脂ぎった額からみりみりと尖ったものがせり出してきた。

「ようやく……見つけた……」
がふがふと息をつく口から粘っこい唾液がたれる。
それを目で追う安倍の手には一本の木刀が握られていた。
「これで…終わり」
その切っ先が上へと上がる。

「明日香の敵!」
振り下ろされた木刀は空中で受け止められた。
「あほ! この人は取り憑かれただけや!
 あんた殺す気か!」
「邪魔……しないで!」

木刀を通し流れ込む安倍の念に平家のチャクラが軋みを上げる。

ちぃっ 予想以上の念や。
今のあたしで受けきれるかどうか……。

咽喉から下のチャクラがフル回転する。
それでも少女の念を押さえることができない。
その光に平家の体は灼かれ、その白さに平家の体は凍えた。

歯を食いしばり、安倍の目を見る。
その額にはチャクラの輝きがあった。

……額のチャクラまで使うんかいな。こらやばいな。
しゃーない。覚悟を決めるか。

額と頭頂のチャクラは他のチャクラとはレベルが違う。
額のチャクラ一つで咽喉から下のチャクラ全てと同等以上の力を持つのだ。
そして……。

まばゆい光に安倍の体は後ろに吹き飛んだ。
床に伏したまま呆然と平家を見上げる。

その頭上には輝く光があった。

「そ、それは頭頂のチャクラ……」

頭頂のチャクラ。
それを使いこなせたものは、長い念法の歴史でも数えるほどしかいないという。
天性の素質と厳しい修行、そしてなにか人知を超えた大いなるもの。
それら全ての条件を満たして初めて使うことのできる究極の力。
もちろん安倍にとってもその輝きを見るのは初めてのことだった。

平家の光に気圧されたように鬼に成りかけた体が後づさる。
「さあ、出てきてもらおうか」
声と共にすうっと変貌がやみ、膨らんだ体が元に戻る。

「あかん!」
あせる平家の声と共に男の腹が裂け黒い物体が飛び出した。
物体は安倍の横をすり抜け、窓を割って闇の中にその姿を溶け込ませた。

「くそっ! 油断してもうた」
男の傍らにしゃがみこんだ平家は傷跡に手を当てた。
念の光を浴びた傷が見る見るふさがってゆく。

「すごい……」
同じ念を使うものとして、力の差を見せつけられた安倍は呆然としていた。

「みっちゃん!」
部屋に飛び込んだ中澤はその光景を見て大きな声をあげた。

「よお、姉さん」
立ち上がりかけた平家はがくりと膝をついた。
苦痛に歪む顔にはべっとりと汗が浮かんでいる。
体中のチャクラがぎいぎいと音を立て、細胞のひとつひとつが悲鳴をあげた。
念は一滴も残っていない。完全に空っぽになっていた。

「みっちゃん! 何でそんな無茶したんや!!」
「姉さん、顔怖いがな」
「あんた……この間の呪詛を浄化したときの念、
 まだ回復してなかったんやろ……。
 そんな状態で頭頂のチャクラなんか使ったら……」
「はは、さすがにしんどいな」

「そ…んな……」
それを聞いた安倍は蒼白になっていた。
念とは生命エネルギーのことである。
無論これには限りがある。
限度を超えて念を使う行為は自らの命を削ることに等しい。

「わ、私のせいで……」
その顔はその歳に相応しい少女のように頼りなく、その体はがたがたと細かく震えていた。

「あんたが気にすることや無い。悪いのは鬼や」
「でも……でも……」

「くっ! それにしても、一体どこから……。
 気配なんて全然感じんかったで!」
「やま……」
「なんやて?」
「逃げ出す時、あいつ言ってた。
 『おやまにかえろう。おやまにかえろう。
  にんげんころして、おやまにかえろう』って」
「お山? ……まさかあの結界か!?」
「灯台下暗しっちゅう奴やね。
 逃げたと思わせてあの中に隠れとったんか」

それを聞いた安倍はゆっくりと立ち上がった。
「あ、こらオマエ! どこいくねん!」

振り向いた青い顔は決意に引き締められていた。
「私は鬼を倒す。どんなことをしても。
 だから……邪魔をしないで」
そういい残すと駆け出した。

「あーーもう! なんて手のかかる子や!!」
後を追って駆け出そうとした中澤を平家は呼び止めた。
「……姉さん。さっきの鬼は本体やないで」
「なんやて、それほんまか」
「ああ、あの鬼からは意志を感じんかった。
 あれはきっとただの分身や」
「ということは……本体は別におるっちゅーことか」

なんや……。
なんかおかしい……。
鬼の本体はなんで結界に残っとるんや……。
なんで分身なんか使うんや……。

いくつもの疑問が胸の中に渦巻く。

なんで結界は完璧なままなんや……。
なんで鬼が来たことに誰も気がつかんかったんや……。
なんで……。

頭の中を光が走る。
全ての点と点が結ばれ、一つの絵を形作る。

ま…まさか……。

「まさか因果律……」
「因果律? ね、姉さん、そら……」
「あかん! 早くあの子止めんと。
 みっちゃん、ここでじっとしててや。すぐ戻ってくるからな」

走った。
自分の推理が確かなら、何があってもあの子を止めなければならない。
間に合ってくれ!
祈るような思いで中澤は走った。

しかし、残念なことに祈りは届かなかった。
中澤の見たものは、結界を切り裂く木刀の一撃だった。

「ちぃ! 間に合わんかったか!」
「邪魔しないでって言ったのに」
「あほ! これは全て鬼の仕業や。あたしらは奴の手のひらで踊らされてたんや!」
「……どういうこと?」

「その通り。良くぞ気が付いた」
闇に響く声に上を見上げる。
結界の上には一匹の小さな鬼が浮かんでいた。

「我が因果律を見破るとはな。だがもう遅い」
まるで五月人形のようにきらびやかな着物をまとった鬼は、
卑しげな笑みを浮かべて言った。

「因果律?」
「……やっぱりそうか。全てはおまえの予定調和やったんやな」
「そう、予定通り結界は破られた。数百年にわたる我が因果律はここに成就した」

「もっと早く気づくべきやった。
 結界はもともと完璧やったんや。
 あの結界は破られてなかった。
 鬼は結界をすり抜けたんや無い。
 ずっと結界の中におったんや」
「そうだ。
 本体である我はここから一歩も外には出ていない。
 この結界は何ものも通しておらん」

「それじゃあ、誰があの人たちを……」
「分身は最初から結界の外におったんや」
安倍の疑問に中澤が答えた。
耳に残る声で鬼が続ける。
「ここに封じられる前、我は体を分けた。
 そしてそれを何百人もの人間に取り付かせたのだ。
 奴らは我が因果律のままに交わり、子孫を残した。
 少しづつ我が分身を大きくしながら」

「鬼が来たことに誰も気づかんかったんは当然や。
 鬼は最初から部屋の中におった。
 殺された人の体の中にな……」
「そんな! それじゃあの人たちは何のために生まれてきたというの!
 あそこで死ぬこともあなたの予定通りだって言うの!?」

「その通りだ。あやつらだけではない。おまえ自身もな」
「え!?」
安倍の体は凍りついた。

「我を封じた退魔師。奴は念法使いであった。
 この結界を破れるのはその力を受け継ぐものだけ。
 その末裔であるおまえがここに居るのも、我が因果律の中」
「……嘘よ。そんなの……」
「嘘ではない。おまえの父と母が出会ったのも、おまえが生まれたのも、
 全ては我が因果律のまま」

頭の中に野菜を作る母の姿が浮かぶ。
細い体。
柔らかな笑顔。
そして顔も知らぬ父のことを思う。
息を引き取る前のその笑顔。

「嘘でしょ……。そんなの嘘! うそよーーーー!」
安倍は頭を抱えしゃがみこんだ。

「我を倒す光を持つもの。
 あのおぞましき後光を発するものは倒れた。
 ながきにわたり待った甲斐はあったぞ」
「光? 頭頂のチャクラ? まさかあの呪詛も!」
「そうだ。
 あの呪詛を浄化させたのも因果律のうち。
 この娘と争い、光を失うのも。
 我を払うのはあの光のみ。
 頭上に輝く呪わしき光だけ。
 もはやこの地に我を払う力を持つものは無い。
 我はここに復活する」

「……明日香は…」
「なに?」
「明日香も……因果律に組み込まれていたというの……」
「当然だ。
 あの娘がおまえと出会うのも、あの娘が光を失うのも、
 全て因果律に縛られた運命。
 おまえを導き、結界を破らせるためのな」

「…………許さない……。
 あなたは絶対許さない!」

木刀を構えた安倍は鬼に向かって鋭い一撃を浴びせた。
その額には燦然と輝くチャクラの光。

しかし、その一撃は鬼の指先で止められていた。

「無駄だ。その程度の光では我を封ずることなどできぬ」

鬼の顔には残虐な笑みが張り付いていた。

最悪だ。

安倍の手を引き中澤は走っていた。
完全に敵の術中に嵌っている。
結界は破られ、鬼を封じるものは倒れた。
打つ手は……ない。

後ろから聞こえる声は地の底から響くように届いた。
「我が分身たちから逃げきるなど不可能。
 だがまあよい、ひさかたぶりの狩を楽しむとしよう。
 くくく、数百年ぶりの人の恐怖。存分に楽しんでくれる」

走る二人の前にある草むらが、がさがさとゆれた。
黒い塊が飛び出してくる。
「ち!」
首をひねった中澤の頬を掠め、塊が通り過ぎた。
白い頬から血を流させた塊は再び姿を消す。
「中澤さん!」
「大丈夫や! これくらいなんでもない」

いたるところに鬼の気配を感じた。
だが、襲い掛かってくる様子はない。

徐々に追い詰めるつもりか……。
趣味の悪いやつやで……。

その時がさりと音を立て、木々の間から何者かが顔を出した。

「み、みっちゃん!」
「平家さん!」
よろける体を木刀で支える平家に中澤は叫ぶ。
「あんた、そんな体で……」

「姉さん、お願いがある。
 5分…いや3分でええ。
 奴らを足止めしてくれるか」
「あんた、なにをするつもりや。……まさか!?
 あかん! そんなんあかんでぇ!」
「他に方法はあらへん。姉さん、頼むわ」
「みっちゃん……」

澄んだ瞳。
そこに迷いはなかった。
ただ己の信念を貫く、潔いまでの決意があった。

それを見た中澤にできることは一つしかなかった。
奥歯をぎりっと噛み締める。

「木刀……借りるで」
「すまんな。姉さん」
悲哀を感じさせる背中に平家は声をかけた。

「よし! あんたはこっちや」
「平家さん、一体何を」
困惑する安倍を平家は真正面から見据えた。

「ええか。今からあたしに残った念を全部あんたにくれてやる。
 よく感じ取るんやで」
「そんな! 今のその体でそんなことをしたら、もう二度と……」
「アイツを封じるには頭頂のチャクラを廻すしかない。
 今のあたしの念では足りん。あんただけが頼りなんや」
「でも!」
「やるんや。あの鬼は封じないかんのや。
 迷ったらあかん。
 退魔師は魔を封じるために存在する。
 弱き人を守るために。
 そのためなら、何を失ってもかまわん」
「平家さん……」

「ただし、怒りは捨てるんや。気持ちを平静にしろ。
 自分の体、細胞のひとつひとつ、その声を聞くんや」
「はい……」
「ええな……うちの呼吸を感じるんやで」

安倍は目をつぶった。
平家の手のひらを通して暖かな念が流れ込む。
腹の下に熱い光が集まっていく。
二人の呼吸を合わせる。
今までに感じたことが無いほどチャクラが回転していた。

「よし、共鳴が始まった。そのまま念を昇らせろ」

臍…心臓…咽喉…光が体を昇ってゆく。
「ええ感じやで……。光の量を増やすんやない。
 光の純度をあげるんや」

額のチャクラが廻る。
ぎゅんぎゅんとその回転が高い音を奏でる。
回転はさらに上がっていった。

体中に力がみなぎっていた。
今まで経験したことのない感覚。
五感が研ぎ澄まされていく。

体中が真っ白に輝いていた。
光が溢れる場所を求めて暴れまわる。

もう少しや……。
もってくれ……。
頼む……。

チャクラがぎしぎしと音を立てている。
まるで台風の日の風車だ。
いつはじけ飛ぶかわからない。

懸命に光を押さえつける。
その圧力で光は青白くその色を変えた。

チャクラがさらに回転をあげる。
もう限界だった。
軋んだチャクラが悲鳴をあげる。

ぐぅっと光が更に膨れ上がった。

「いけ! そのまま突き抜けろ!」

ぱきん

体の奥で何かが壊れるそんな音がした。

「うわあ!」
「フフフ。そろそろ終わりにしてやろう」

複数の分身に襲われた中澤の体は傷だらけになっていた。
下級の妖魔なら『眼』で滅することもできる。
しかし、これほど『こちら』に結びついた存在を消すことはできない。
そうなればもともと戦闘能力は乏しい。
徐々に追い詰められてゆく。

あかんかなこりゃ。

木刀を構えなおす。

少しでも多くの時間を稼がんとな。
さて、もういっちょ……。

傍らに光を感じた。
横を向く中澤の目の前に一人の少女が立っていた。
「あ、あんた……」

月の光に照らされたその姿。
全身が月光をかき消すほど強く輝く。
腰から喉にかけてまっすぐに光が通っていた。
額には燦然と輝く白き光。
そして頭の上にはひときわ輝く聖なる光があった。

「馬鹿な! それはチャクラ…頭頂のチャクラだと!」

安倍は中澤を見た。
澄んだ微笑。
そこには以前感じた冷たさは無かった。

全てを包み込むような神秘的な笑み。
その笑顔は頭上の光と相まって、中澤に神の御使いを連想させた。

輝く光に包まれた天使は、空中に浮かぶ鬼を見据えて
良く通る声でゆっくりと言った。

「あなたを…封じます」

「できるものなら……やってみるが良い!」
言葉とともに無数の分身が爪をきらめかせ襲い掛かる。
だが飛びかかった分身は、安倍の体に触れる寸前で動きを止めた。
まるで頭上の光にかき消されるかのように、その体がぼろぼろと崩れ落ちてゆく。

「ええい! 人の子に我が敗れるなど!」
分身が一つに集まる。
本体を飲み込んだ黒い塊は、巨大な一匹の鬼へ変貌を遂げた。

「あのときよりも我は強き力を手に入れた。
 例え頭頂のチャクラといえど、我を封じることなどできん!」
叫ぶ鬼を安倍は静かに見上げる。

「死ねえ!」
ごうと風をきって太い腕が振られた。

振りぬいた腕を鬼は信じられない思いで見た。
肘から先が消え失せた腕を。
恐怖とともに。

「馬鹿な……。我が因果律は完璧だったはずだ。
 数百年をかけた我が悲願が……」


す、と軽く木刀が振られた。
流れる水を思わせる緩やかなそれでいて無駄の無い動き。

鬼の体は二つになった。

目が開けていられないほどのチャクラの輝き。
その光が不意に消えうせる。
鬼を封じた安倍が意識をなくして倒れこむ。
その体を支えたのは平家だった。
「ようやったな」

「みっちゃん、あんた」
「すまんな、姉さん。うち約束守れんようになってしもた」
「な……」
「せっかく姉さんに腕を買うてもろうたんやけどな。
 もう力を貸すことはできそうにないわ」
「みっちゃん……」
「堪忍やで、姉さん。許してや」
そう言って平家はすがすがしいほどの笑顔を見せた。

「あほやな……。あんた……ほんまにあほや……」
言葉とは裏腹に中澤は誇りに思った。
最強の念法使いとの出会いを。
この退魔師を見込んだ自分の目を。
自分の得た最高の友を。



病室のベッドに横たわった少女はひどく小さく見えた。
あれだけの力を持った鬼を封じた人間とは思えないほっそりとした首を、
中澤は複雑な思いで見つめた。

「もう、すっかり良くなったようやな」
「はい、ありがとうございました。色々と私のために……」
「ええて、気にせんでも。それより、あんたに客やで」
「客?」
「みっちゃん、ええで」

平家に手を引かれ入ってきたのは一人の少女だった。
その目には白い包帯が巻かれている。

「福ちゃん!」

光を失った天才少女は静かに安倍の傍らに立った。
緩やかに上がった右手が素早く振り下ろされる。

すぱん

乾いた音を安倍の頭が立てた。

「まったく、どうして勝手に突っ走るかなあ」
目をぱちぱちさせる中澤達。
「勝手にって……なんでそんなこと言うんだべ」
頭を押さえた安倍が涙目でうめく。

「わたしがいつ、敵を取ってくれなんて言った?」
「だ、だって……」
「だってじゃない!
 大体あいつは、わたしが自分で倒すつもりだったんだからね」
「そ、そんなあ」

「……ねえ、なっち」
情けない顔になった安倍を、福田は見えない目で見つめた。

「なっちは今でも、わたしの太陽なんだよ」
「福ちゃん……」
「例え見ることはできなくても、なっちの暖かさは感じるよ。
 なっちの光を感じるよ。
 これからも、わたしを照らしてよ」
「ふ、ふくちゃん……」

ぽろぽろと涙を流す安倍の髪を福田が優しくなでる。
中澤の隣では平家が盛大にもらい泣きをしていた。

「なあ」
と中澤は話し掛けた。
「あんたのその力あたしに貸してくれへんか。
 みっちゃんの代わりいう訳やないけど、
 その力あたしにとって必要なものなんや」

涙をふいた安倍は静かに顔を上げた。
「中澤さんと平家さんにはとても感謝しています。
 特に平家さんは私のために……」
「そんなら……」
しかし、安倍は緩やかに首を振った。

「ごめんなさい。でも、やっぱり私のパートナーは福ちゃんだけ。
 他の人と組む気にはならない」
「なっち……」
「それに、私の力は私だけのものじゃない。
 福ちゃんと平家さん、私を助けてくれた二人の力が宿っている」
そう言って二人の顔を見上げる。

「だから、この力を誰かのために使うことは無い。
 ただ目の前の人を助ける、そのためだけに使いたいの」

「ははは、この子思った以上に強情やわ。
 姉さん、あんたの負けやな」
「あーーーもう、ほんっっまに手ぇのかかる子ぉやわ、あんたは」
「ごめんなさい」
にっこりと笑うその顔。
その顔に中澤は目を細める。

まあ、ええか。
こんな顔のできる奴はほっといても大丈夫や。
もう自分の力の使い方を間違えることは無いやろ。

病室の窓から柔らかな日差しが差し込んでくる。
中澤は安倍の笑顔にその日差しと同じ、ぽかぽかと暖かい心地よさを感じていた。

 外伝 〜幕〜

 

 

 

 

真・蛇足という名の設定集

<娘。他>
福田…昔は安倍と組んで退魔師をしていたが視力を失い引退。
   念を物品にこめることで『魔』を封じる特殊な『壷』を作る。
   祖父が念法使いであり、いわば隔世遺伝。
   それだけにプレッシャーを強く感じていた時期もあった。
石黒…あらゆる物象の『ツボ』を読む針師。
   結婚後、一線を退き現在は『情報屋』として活躍中。
   なお、旦那との出会いは、ある事件がきっかけだったとか。
中澤…絶対的な対魔能力である『破魔の眼』を持つ。
   彼女の視線の前ではすべての能力は力を失う。
   ただし、個人の戦闘能力は極めて低い。
   退魔師の元締にして退魔結社社長。
平家…『元』日本最強の念法使い。
   現在は念の力を失っている。
   また、景清流抜刀術免許皆伝の腕前を持つ。
松浦…辻加護と同じ退魔師見習。
   太陽光を操るとろぴか〜るな娘。
   本編では登場していないが、本来は矢口のように強化スーツを着て戦う。
   すでに一人での仕事も始めており『見習』の文字が取れる日も近い。

<メロン記念日>
陸上自衛隊特殊機械化部隊。
Member of Lost Original Number 通称メロン(Me-LON)。
投薬や生体改造などの西洋的な人体強化と、
ヨガをベースとした東洋的な精神修練を融合して造られた超人。
一部に人工筋肉や強化骨格を使用しているが、金属部品などは使用していないため、
レントゲンでも常人と見分けがつかない。
強化された肉体に自信とプライドを持つため、基本的には重火器は使用しない。
なお、メンバー毎に若干調整が異なる。

村田…階級は一尉。調整はバランス型。
   部隊の隊長であり、冷静な判断力と経験で部隊を引っ張る。
   武器は千本と呼ばれる投げ針。
斎藤…階級はニ尉。調整はパワー型。
   武器は大型のハンマー。
大谷…階級はニ尉。調整はスピード型。
   マーシャルアーツの達人であり、武器は使用しない。
柴田…階級は三尉。調整はバランス型。
   最後にロールアウトしたため、ほかのメンバーと比べ性能が高い。
   武器は金属繊維を使用した鞭(ウイップ)。

<ココナッツ娘。>
CIAとして登場したが、本来はアメリカ海兵隊所属。
体の80%以上を機械に置き換えたサイボーグである。
コンセプトは『小さな軍隊』。
白兵戦を主眼とした、アグレッシブかつフレキシブルな作戦行動を得意とする。

アヤカ…司令官。
    ペンタゴンの地下にあるスーパーコンピュータと直結した頭脳を持つ。
    カオス理論を使用することで限定された『未来予知』すら行う。
ミ カ…射撃戦闘ユニット。
    右腕に小型マシンガン。左手に中型ミサイル。全身に小型のミサイルを装備。
    まさに歩く弾薬庫。
レフア…近接戦闘ユニット。
    両手が液体金属でできており、状況に応じて様々な形状を取ることができる。