──── 百 姫 夜 行。
軽く深呼吸をして両手を上げる。
やや開き気味のアップライト。
拳にはオープングローブ。
底の分厚いシューズをきゅっと鳴らして踏み込む。
空中に現れた丸い球に鋭く左のジャブ。
みっつ打ち落とすと少し大きめの球体が浮かんできた。
腰をひねり肩を入れた右ストレート。
撃ち抜いた感触が拳に残る。
浮かんでは消える球体を左右の拳が捉える。
左右に小刻みに体を揺らし、全てのボールを叩き落す。
流れるように軽やかに、突き抜けるように鋭く。
──ちょいと粋なステップで Up
Side Down。
まるでダンスを踊るかのようにその体が舞ってゆく。
「ラスト!!」
言葉とともにボディの辺りに浮かんだ球体に、
下から突き上げるようなアッパーブロウ。
確かな手ごたえが返ってきた。
ふうと息をついてグローブを外す。
痺れるような気だるい甘さが両手に残っている。
後ろでひとつに結んだ髪をほどき、
ぶるぶると頭を振ると、きらきらと汗が飛び散った。
丈の短いタンクトップから見える白い肩にも軽く汗が浮かんでいる。
置いてあったタオルを頭から被り、そのままわしわしとかき回す。
ぷはあと顔を出し、ふにゃっと笑った。
やっぱり体を動かすのは気持ちいい。
”宇宙刑事”吉澤ひとみは端正な顔を緩めて思う。
ここは地球を離れた宇宙空間に漂う、超次元高速機ホワイトドラグーン。
日課である訓練を終えた吉澤はトレーニングルームを出てシャワールームに向かった。
個室の扉を開け、タンクトップとショートスパッツを脱いで全裸になると、
パネルのボタンを押して冷水を頭から浴びた。
「くぅ〜〜」
思わず声が漏れる。
火照った体がぎゅっと引き締まってゆく。
充分体をクールダウンさせた後、シャワーの温度を上げる。
肌を焼くほどの熱湯が体を伝う。
見る間に白い肌が紅く染まっていった。
最後にもう一度冷水をかぶりシャワーを止める。
大き目のバスタオルを体に巻き、もう一つのタオルで頭をふきながら扉を開けた。
「あ、よっすぃー」
ばん。
思わず壁に張り付く。
「り、梨華ちゃん、なにしてるのさ」
にっこり微笑んでいるのは同じく”宇宙刑事”石川梨華。
「はい、これ。ドリンク作ったの。飲んでね」
「あ、ありがと……。じゃなくて! シャワールームまで入ってこないでよ」
「いいじゃない、女の子どーしなんだし」
そりゃそうだけど……。
なーんか、たまに目が怖いトキあるんだよね。梨華ちゃんって。
「とにかく、あたし着替えるから外に出といてよ」
「はーーい」
かわいく返事をして部屋を出て行く。
入り口のところで振り返って一言。
「今度一緒にシャワー浴びよっか」
きゃっと手で顔を隠すと走り去った。
──この星は梨華ちゃんに悪い影響を与えている。
地球に来て出合った人たちの顔が頭に浮かぶ。
人間関係…考えないといけないかなあ……。
はあ、とため息をついて手にしたドリンクをごくりと飲んだ。
……やられた。
つい油断してしまった。
もう……いったい何を入れたらこんな味になるんだよ……。
Morning-Musume。 in
百 姫 夜 行。 ─
斬!─
―― 銀河の特異点
「んで、矢口達に相談って何?」
吉澤の目の前には、考え直さなければいけない人間関係が座っていた。
む、いかん、いかん。
頭を振って悪い考えを追い出し、”雷念使い”矢口真里に話し掛ける。
「それが、上のほうからこの間連絡がありまして……」
「そういえば、あんたたち調査が終わったら帰るんじゃなかったの?」
隣に座っていた”黒衣の糸使い”保田圭も話に加わる。
「ええ、実はそれも関係してるんですけど……」
調査のため地球に駐屯していた銀河連邦警察の宇宙刑事、
吉澤ひとみと石川梨華のもとに新たな命令が届いたのは昨日のことだった。
これまでに送った報告書、それは銀河連邦に大きな波紋を呼んでいたのだ。
「精神力を物質的な力に変えるもの、いわゆるPKはこちらでも研究されています。
しかし、みなさんの力はこれとは大きく異なっています。
こんな力は宇宙でも他に類を見ません」
念、破邪、そして復活。
物理法則に従わない不可思議な力。
この星はいわば銀河の特異点なのだ。
「その……銀河連邦としてはですね。みなさんにとても興味を持ってまして。
そこでぜひとも協力を……」
「なるほど、あたしたちに宇宙人のモルモットになれと」
「い、いや、保田さん。決してそんなことは……」
「冗談よ」
相変わらずこの人の顔と冗談はきつい。
失礼天然吉澤は思う。
「んじゃ、オイラ達は何をすればいいのさ」
「今まで通りで結構です。こちらで勝手に調査しますので。
あ、いろいろお話は聞くかもしれませんが」
所詮現場の人間である吉澤は、情報を集めて回るだけがお仕事。
それがどう使われるのかまでは理解の外だ。
「いーよ。でもその代わり条件があるんだけど」
「条件……ですか?」
嫌な予感。軽く身構える。
「矢口達の仕事手伝ってよ。裕子の奴、人使い荒くってさ」
「いいですけど……。それって今までと変わりないんじゃ……」
地球に来て以来、成り行きとはいえ今までもなんだかんだと協力している。
「だからお互い今まで通りってことでいいじゃん」
ね、と軽くウインク。
その笑顔にどきりとする。
「それに、これからもよっすぃーと一緒にいられるのはうれしいな」
と、はにかみながらこちらを見たくりっとした目。
その目が少し熱を帯びて見えるのは気のせいだろうか……。
その熱に浮かされたように吉澤の頬にも血が昇る。
──やっぱり矢口さんって、ちっちゃくってかわいいよなあ。
思わず見つめ合う二人。
「矢口さん……」
「あんたたちねえ……」
冷たい声に我に返る。
ざあっと音を立てて血の気が引いた。
恐る恐る隣をうかがう。
保田の眉毛はぴくぴくと痙攣していた。
──悪い影響受けてるのって梨華ちゃんだけじゃないかも……。
◇
ここに来るのも久しぶりだな。
都内某所の神社。
逃げるように矢口たちと別れた吉澤は、
”光の巫女”飯田圭織の住む神聖なる場所にやって来ていた。
「あ、よっすぃーだ」
「ほんとだ! よっすぃー!!」
てけてけとかけてくる足音。
可愛らしいその音に吉澤の本能は危険を告げる。
きっと見据えた視界に数メートルを一気に飛び込んだお団子頭が入ってきた。
「ぬわっ!」
がっしりと受け止め、踏ん張った腰におさげ髪がタックルをかます。
「んぎゃ!」
もつれあって倒れるでっかいの一人とちっちゃいの二人。
「お、おまえらなあ」
「ん〜、よっすぅぃ〜。ひっさしぶりですねぇ〜ん」
へんなイントネーションで吉澤の頭を抱きしめる”未来のエース”加護亜依。
「よっすぃーにあえてうれしいです。てへへ」
恥ずかしそうに腰に頭をすりすりさせる”陰陽師”辻希美。
退魔師見習二人に蹂躙された宇宙刑事は、憮然とした顔でされるがままになっていた。
調子に乗った小悪魔は行為をエスカレートさせる。
「ほら、よっすぃー。ブチュッとブチュッとしよ」
お団子頭が顔を寄せる。
ほのかに香る柑橘系の香り。
「ちょ、ちょっと! いいかげんにしろよ」
「ん〜、照れちゃってもう!」
再びぎゅっと抱きしめられた。
顔を胸に押し付けられて息が詰まる。
「こぉら、おまえ達! なぁにやってるんだぁ!」
掴まれたままの首を捻じ曲げて声のほうをむく。
緋色の袴姿が腰に手を当ててこちらを睨んでいた。
「やば!」
しぱっと飛び離れたちびっこが直立不動で左右に並ぶ。
大の字に倒れたまま吉澤は頬に手を当てた。
そこに残るやーらかい感触。
その意外な量感にちょっととまどう。
立っている加護と目が合うと、おませな少女はうふんと妖しく笑った。
……あなどれんな、こいつ
内心の悔しさを抑えて吉澤は立ち上がった。
『交神』
上位の存在と交信することでアカシックレコードを読み取る秘術。
それが事実ならば宇宙のすべての事象、その過去も未来も知ることが可能だ。
ある意味では最も驚異的な能力とも言えた。
「説明してって言われても困るんだけどなあ」
「そこをなんとかお願いします」
頭を下げ、飯田の大きな瞳を見つめる。
「うーん、カオリも良く分かってないところがあるんだよねぇ」
「分かる範囲で結構ですので……」
むう、と腕を組む飯田を更に説得する。
ヒーローといえど所詮は宮仕え。
上からの命令には逆らえない。
「うん、わかった。それじゃ説明してあげる」
「あ、ありがとうございます!」
「じゃ、奥に行こうか」
「はい」
喜んで飯田について行く吉澤を、退魔師見習二人は冷めた表情で見つめていた。
「うちはやめといたほうがええと思うんやけどな」
「よっすぃー……かわいそう……」
不幸なことにその言葉は吉澤の耳には届かなかった。
──二時間後。
頭の中にごってりとろけたグリエールチーズを詰め込まれた気分で、
吉澤はふらふらと姿をあらわした。
やっぱり。
やっぱりな。
幼い二人は顔を見合わせ深く頷く。
え、えーと、白い光があって……。いや赤だっけ?
それで、変なおじさんに質問するときはまず挨拶をして……。
誰だよ、そのおじさんって。
青いフクロウが朝飛んで…ちがう飛んじゃいけないんだ。
うわーーー!! 訳わかんない!!
……だめだ。あたしには理解できない……。
脳みそがフォンドゥになった吉澤は、うつろな顔でがっくりと崩れ落ちた。
◇
冷たい風が煮詰まった頭に心地よい。
駅の近くの安アパート。
とても”日本最強の念法使い”が住んでいるとは思えない寂れた場所。
安倍なつみを尋ねてきた吉澤は薄い扉をノックした。
「あー、いらっしゃい」
開かれた扉の向こうには童顔の女性。
その体がまとっていたのは、もこもこしたオレンジの半纏。
「…………」
「あ、おこた暖まってるべ」
「…………」
「ん、どした? みかんもあるべさ」
「…………」
相変わらずツッコミどころ満載のトーク。
ちょっと考えて、無難なところから返す。
「……あの、安倍さん。コタツはまだ早いんじゃないかと」
「なーに言ってんだぁ。室蘭じゃとっくに冬支度だよぉ」
ここは東京です。と教科書どおり心の中で突っ込む。
どうしてこの人たちは……。
なんだか、話を聞く前からぐったりと疲れてしまった。
「なっちに話を聞くんじゃないのかい?」
「……やっぱり次の機会にさせていただきます」
だからあっさりと試合放棄した。
きっと、あたしの判断は間違っていないと思う。
◇
人影の無い病院の待合室は薬の匂いが染み付いていた。
入院者用の設備はえらく高いところにあった。
緑の木々が窓の下に見える。
13階──不吉な数字だ。
それとも退魔師にはふさわしい数字なのか。
「ごめんねぇ。こんなとこまで来てもらって」
「あ、いえ……」
「そんな緊張しないでよ」
だはっと開く大きな口。
”不死の少女”後藤真希は眠たげな目で笑った。
そののんびりとした素顔の後ろにある白い仮面を見たものとしては、
緊張しないというわけにもいかない。
だからつい、後回しにしてしまった。
第一印象が悪すぎたこともある。
あのときの恐怖……。
湧きあがった感情を無理やり押し殺し話題を変える。
「市井さん、どうですか?」
「敬語じゃなくっていいよぉ」
記憶を失った”青い狼”市井沙耶香は未だにこの病院に入院したままだった。
かいがいしくその世話を焼く後藤は、仕事の時以外は常にここにいるらしい。
「あいかわらずだね。ま、そのうち元に戻るでしょ」
えらく軽い口調で言ってのける。
「そしたらさ、一緒にハンバーグ作ったり、
一緒にクリスマス過ごしたりするんだ」
そう言って微笑んだ顔はなぜかあどけなく、
それを見た吉澤の心はなぜかちょっと切なくなった。
「うーん、あたしの力ねぇ」
腕組みしてむにゅっと口を曲げる。
「前にもいろいろ調べられたけど、結局なーんもわかんなかったみたいだし」
「そうですか」
「また敬語」
「あ」
「まあ、好きに調べてもらっていいよ。できる限り協力するし」
「はい、お願い……するよ」
焦って変な日本語になってしまった。
二人で顔を見合わせてふき出す。
笑いを収めた目がじっとこちらを見る。
再びへらっと笑って、
「男前だねぇ」
「へ?」
「いちーちゃんも男前だけど、よっすぃーもかなりなもんだよね」
「はあ……」
そんなこといわれても喜んでいいのか判断に困る。
「あたしたち同い年なんだって。やぐっつぁんがゆってた」
吉澤の隣にすりよってきた後藤は、腕をつかんでぎゅっと抱え込む。
二の腕に押し付けられる、加護とはまた違う質感の球体。
……前に一回見たけど、やっぱすっげーな……。
上目遣いにこちらを見る目には、とても同い年とは思えない妙な色気がある。
吉澤の鼓動はなぜか早くなった。
「ねぇ、友達になろうよ」
「え?」
「一緒に買い物したり、ご飯食べに行ったり……。
あたし、いちーちゃんがドイツに行ってからずっと一人だったから……」
こちらの返事を待つ顔は少し不安げで、
先ほどの色気はかき消えていて、
なんだかひどく子供っぽくて、
だから、
「うん、いいよ」
返事は素直に口から出た。
「よかったぁ! あのね、ドンキホーテっていうところがね……」
顔いっぱいに笑顔を浮かべ、勢い込んで喋りかけるその姿は本当に嬉しそうに見えた。
なんか…イメージ違うな……。
子供のような大人のような、おちゃらけのようなクールなような、
不思議な魅力を持った女の子。
第二印象は大幅に修正された。
腕時計型の通信機が震える。
ボタンを押し、パネルを開く。
「なに? 梨華ちゃん」
「あー、病院で携帯はいけないんだよ」
「これは特別製だから大丈夫。
って、え? なに? 後藤さん?」
後藤は「へ?」と人差し指で自分の鼻を指差す。
「中澤さんから仕事だって伝えてくれって」
「あー、携帯切ってたから」
よっこいしょ、と立ち上がり窓の方へ進む。
「お仕事、お仕事」
がらがらと窓を開けて足をかける。
「んじゃ、またね」
ひょいっと飛び降りた。
ひゅー、ぐじゃ。
ぬれた雑巾が床に落ちたときの音がした。
その音にはっと我に返り、窓の下を覗く。
……やっぱり、人間関係考え直すべきかも。
飄々と歩み去る無傷の美少女をみて、吉澤は思った。
◇
そして、再びホワイトドラグーン。
何も書かれていない真っ白なディスプレイを前に、吉澤は頭を抱えていた。
なにを報告しろってんだよ。
結局、今日一日ずっと振り回されっぱなしだった。
うにゅう、と口を曲げ頬杖をつく。
「はい。お紅茶」
「あ、ありがとう」
石川の差し出したカップを受け取る。
甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「大変そうだね」
「うー、助けてー。もー、みんな好き放題するんだよ」
「そんなこと言って、本当は楽しかったんじゃないの?」
そういって背中に寄りかかってくる。
押し付けられる本日3種類目の感触。
前の二つを思い出し、それに負けず主張する三つ目にどぎまぎする。
その態度に石川の鼻の頭に皺がよった。
「今、変なこと考えたでしょ」
「へ、変なことって」
なんでこういうことには勘が鋭いんだ、この人は。
冷や汗をたらして吉澤は思う。
「よっすぃー……まさか……」
ぐいっと顔を横に曲げられ、ずいっと顔を寄せられる。
「な、なに梨華ちゃん……顔怖いよ」
「……浮気しちゃ駄目だよ」
「う、浮気って何いってんのさ。さ、お仕事、お仕事」
慌てて腕を振り払いディスプレイに向き直る。
今日はなんかへんな感じだ。
妙にモテてるし……。
って、あたし女なんだけどなあ……。
紅茶をひと口啜って、パートナーが後ろに立ったままなのに気がつく。
「どうしたの? まだ怒ってるの?」
「ううん…そうじゃなくて……。あのね、考えたんだけど……」
「なに?」
「この星って特異点なんだよね」
「うん」
「ここの力って特殊なものなんだよね」
「そう」
「ここって…すっごく重要なところなんだよね」
「だから?」
相変わらず分かりにくい会話だ。
焦れた吉澤は目で催促する。
「狙われたり…しないのかな?」
その言葉に吉澤の目はすっと細まった。
この星に宿る力はある種のものにとっては、計り知れない価値を持つ。
物理法則の通用しない異質な力。
それは使い方次第で大きな救いとも大きな災いともなる。
「わかってる。だからこそ、あたしたちがいるんだよ」
「そう……そうだね」
もし、この星に特殊な力が存在することが知られてしまえば、
力を求めるもの達が群れ集ってくるだろう。
そうなればこの星も無事ではすまない。
連邦が調査を命じた真の理由はそれだろうと吉澤は考えていた。
地球に来て出合った人たちの顔が頭に浮かぶ。
非常識で、破天荒で、そして愛すべき人たち。
あの絶え間なく笑顔に満ちて幸せな日々。
それを奪わせるわけにはいかない。
守る。
あたしの力で。
吉澤は決意に満ちた目で白いモニターを見つめていた。
〜幕〜
「つーーじーー、どぉこいくんだぁ!」
「ごめんなさい、飯田さん。晩ごはんまでには帰ってきまーす」
ててて、と駆けて行った愛弟子辻希美を、飯田圭織は複雑な表情で見送った。
最近、辻の様子がおかしい。
毎日のように決まった時間に出かけてゆく。
行き先も告げずに。
ひどくうれしそうに。
「カオリ…なんだかセンチメンタルな気分……」
まさか、好きな人でもできたのだろうか。
幼く見えるが、あの子も中学生。
ボーイフレンドぐらいできてもおかしくは無い。
でも、それならそうと言ってくれればいいのに。
まさに思春期の子供を持つ親の気分で飯田は口を尖らせる。
あ、でも相談とかされたらどうすればいいんだべ。
今の子達って進んでるって言うし……。
もしかしてあんなことや、こんなことまで……。
え、でもそれは辻には早すぎるっしょ。
あ、だめだって…そんな……ああ………。
冷たい風の中、ひとり遠い世界に行ってしまった光の巫女に、
暮れかけた日差しが長い影をつくっていた。
Morning-Musume。 in
百 姫 夜 行。 ─
斬!─
―― 正義の意味
それは一週間ほど前のことだった。
すっかり冷たさを増した秋の風が吹き抜ける。
お下げ髪をぶるっと揺らして辻は首をすくめた。
両手にはスーパーで買った食料品。
ビニール袋からねぎがぴょっこっと顔を出していた。
──はやく帰って、飯田さんのいれたあったかくってあまーいココアがのみたい。
相変わらず胃袋に直結した思考をしながら、辻は急ぎ足で神社への道を歩いていた。
川沿いの道に差し掛かったとき、辻の足がぴたりと止まる。
ひとりの老人が胸を押さえ苦しそうにうずくまっていた。
うつむいた顔は苦痛にゆがみ、ぜいぜいとあえぐ口は小さな泡を吹いている。
慌てて駆け寄り尋ねる。
「おじいさん! どうしたんですか!?」
「く、くすり……」
「くすり?」
「胸の…ポケットに……」
震える指が心臓のあたりを指差す。
すぐそこにあるものが取り出せないほど体が自由にならないようだ。
「わかりました!」
辻は急いでポケットに手を突っ込み、白い錠剤の入った透明なケースを取りだした。
何か飲み物を、とビニール袋をあさる。
──プリンシェイク。こんなものでもないよりはマシだ。
とりあえず、猛スピードでいっぱい振った。
左手で老人の体を支え、ヒューヒューと鳴る口に錠剤を押し込む。
とろっとしたシェイクをゆっくりと慎重に流し込んだ。
しばらくすると、こくっと喉がなった。
とりあえず、薬は飲ませることはできた。
祈るような思いで辻は皺につつまれた顔を見つめた。
その顔色は青白く、消えそうな命の炎を前に辻は言いようの無い恐怖を感じていた。
「しっかり、しっかりしてください」
ぜいぜいと苦しそうに息を継ぐ老人の手を、辻はずっと握リしめていた。
まるでそれこそが、老人をこの世につなぎとめる命綱であるかのように。
薬が効いてきたのかしばらくすると、
ぜいぜいという苦しげな音は無くなり、顔にも赤味が差し始める。
やがて、規則正しい呼吸に戻った老人はゆっくりと目を開いた。
その目が柔和な笑みに細められる。
「ありがとう、お嬢ちゃん」
細まった目がやさしく問い掛ける形に変わる。
「泣いてくれてたのかい」
「え?」
頬に手をやる。
つめたい感覚。
気づかないうちに涙を流していたようだった。
「しんぱいだったんです。おじいさんが」
照れたようにごしごしと顔をこする。
「お嬢ちゃんは優しい子だね」
再びその目は柔和な笑顔に飲み込まれた。
「お礼にいい物を見せてあげよう」
川原に下りた二人は少し離れて向かい合った。
老人は軽く足を開き、両手を体の横にたらしてまっすぐ立つ。
その姿には先ほどまでの老いた様子は無く、
小柄なその体は何か強い気をまとっているようにさえ見えた。
すっと上げられた手には、どこからか取り出したのか数枚の紙が掴まれていた。
「よく見とくんだよ」
そういった老人は目を閉じ集中する。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
放り投げられた紙はすべて白い鳩へと変わった。
辻の目が丸くなる。
宙返り、きりもみ、急降下。
鳩はまるで飛行機のアクロバットショーのように、空中を自在に飛び回る。
「すごい! すごいです!」
辻は目の前の出来事に心を奪われていた。
夢中で手をたたく。
やがてショーを終えた鳩は老人の手に戻る。
まるで手品のようにそれは再び紙切れに代わった。
「どうだい。気に入ってもらえたかな? これはね……」
「しきがみですね」
「ほう、お嬢ちゃんは式神を知ってるのかい?」
「辻は、おんみょーじですから」
むん、と胸を張る。
「それにおじょうちゃんじゃないです。
辻希美っていう名前があります」
「……そうかい。希美ちゃんも陰陽師かね。
どうりで符が騒ぐわけだ」
「おじいさんも…おんみょーじなんですか?」
「ああ、昔ね……」
柔和な顔が少しだけ悲しみに彩られたような気がした。
「辻も、しきがみが使えるようになりたいです」
自分は落ちこぼれだ。その意識が強い。
他の人に迷惑をかけたくない。
誰かの役に立ちたい。
そのためには強くならなくてはならない。
お気楽に見える幼い退魔師見習いも、心の奥で実は苦悩していた。
「なら、明日もこの時間にここにおいで。
式の打ち方を教えてあげよう」
「ほんとですか!」
「ただし、このことは誰にも言ってはいけないよ。
二人だけの秘密だ」
「はい、わかりました」
老人を見送った辻はうきうきした気分で振り返った。
式神が使えるようになれば、自分ももっと強くなれる。
もう誰にも迷惑をかけることは無い。
スキップを踏みながら、辻は神社への道を帰っていった。
しかし予定の時間を大幅に遅れた辻は、飯田からあったかいココアをもらい損ねた。
「式とは数学の公式と同じなんだよ」
老人による講習は毎日のように続いていた。
「決められたやり方で決められたことをやれば、必ず同じ結果が現れる。
あとはそれを覚えさえすればいい。
ただし、呼び出した式神を使役するには術者の力が必要だ」
「辻は数学はきらいです」
「ははは、希美ちゃんは勉強が嫌いかね」
「はい。あ、でもこれはちゃんとおぼえます」
「そうかい……」
細まった目が優しく辻を見た。
「でもね、本当は希美ちゃんのような優しい子はこんなもの憶えなくてもいいんだよ」
老人の手が辻の頭をぽんぽんと軽く叩く。
「でも辻は、良いしきがみさんを使ってみんなの役に立ちたいんです」
「希美ちゃん」
辻の肩に手を置いた老人はその目を真っ直ぐ覗きこんだ。
「式はただの方法に過ぎないんだ。
それ自体には善悪は無い。
良いか悪いかは使う人の心次第なんだよ」
幼く純粋な少女を見る目は優しく、そしてなぜか哀しそうに見えた。
「つーーじーー」
「ごめんなさい、飯田さん」
約束の時間に遅れそうになった辻は急いで神社を飛び出した。
見送った飯田の顔が、なぜ真っ赤に染まっていたのか首をひねりながら。
──今日は何を教えてくれるんだろう。
このところ講習は順調に進んでいた。
辻はすでに簡単な式神を呼び出せるようにまでなっていた。
その成長ぶりには教える側も驚いているようだった。
「どうやら希美ちゃんは式に好かれる子のようだね」
と目を細める老人を見ると辻もうれしかった。
ずっとこのままでいたい、そう思っていた。
川原には人影は無かった。
間に合った。
胸に手を当て、ふうと息をつく。
草むらに腰を下ろし、流れる水をぼおっと眺める。
「辻?」
聞き覚えのある声に呼ばれ、辻は振り返った。
黒いロングコート、大きな猫目。
”糸使い”保田圭は不審な目でこちらを見ていた。
「保田さん……」
「こんなところで何してるのよ」
「辻はおじいさんを待っているんです」
「おじいさん? まさかその人『式打ち弦那』っていうんじゃ……」
「おじいさんは、おじいさんですよ」
今ごろになって老人の名前を聞いていないことに辻は気がついた。
「辻にしきがみの使い方を教えてくれてるんです。あっ、これひみつだった」
口を押さえる辻を鋭く保田は睨む。
「その人は今どこに?」
「きょうはまだ来てないですよ。保田さん、おじいさんに用があるんですか?」
仕事中の退魔師の顔になった保田は、低い声でこう言った。
「あたしはその人を倒しに来たんだ」
「な、なんでですか!? なんでおじいさんを!」
「依頼があったんだ。あるところからね」
表情を変えず保田は答える。
「依頼主はちょっと胡散臭い奴なんだけど……。
まあそれはともかく、あの人はそいつの命を狙ってるんだ」
「うそです! おじいさんはそんなことする人じゃありません!」
ムキになって辻は叫んだ。
「あの人は昔、凄腕の退魔師だったんだ」
対照的に静かな声で保田は続けた。
「とっくに引退しちゃってたけどね。
式を使わせたら日本でも一・二を争うくらいの腕前だったらしい。
特に最高の式神と呼ばれる『十二神将』を使えるのはあの人だけだ」
かの大陰陽師、安倍晴明が使役していたといわれる『十二神将』。
その力はすさまじく、それを使いこなせたものは今までにも数人しかいないという。
「……昨日この目で見たんだ『十二神将』を。どうにか撃退したけどね。
あれほどの式が打てる人は他にはいない」
「そんな……。なにか、なにか事情があるんです。きっと……」
首を振る辻の肩を保田はつかんだ。
「辻。あんたも分かってるはずだ。
あたしたちの力は他人のために使うものだ。
絶対に自分のために使っちゃいけない。
たとえどんな事情があっても、
それは退魔師にとってしてはいけないことなんだ」
目に涙を浮かべ、口元を震わせながら辻は保田の目を見た。
「わかるな、辻。あの人にこれ以上罪を犯させちゃいけない。
だから、あたしはここに来たんだ」
こくん、とお下げ髪がゆれる。
ぽろりと涙の粒が川原に降り落ちた。
「……そういえば、昨日のおじいさんはおかしかったです。
辻に…これをくれました」
「これは…呪符?」
それはえらく古びたお札だった。
全部で十枚以上あるだろうか。
「大事なものだからあずかってくれって」
「これは……『十二神将』の呪符? これがここにあるってことは……。
……まさか、直接あそこに!」
「保田さん!」
慌てて駆け出そうとする保田を辻は呼び止めた。
「辻も……辻も行きます!」
唇を噛み締め、こちらを見る後輩を大きな吊り目はじっと見つめた。
「いいのかい……つらいかもしれないよ」
「……はい」
いつの間にか暗くなった空からは、しとしとと冷たい雨が降り始めていた。
黒いリムジンが大きな屋敷に吸い込まれてゆく。
木立の中に身を隠し、老人はその様子を眺めていた。
冷たい雨は容赦なく体温を奪っていった。
右手で心臓を押さえる。
どうにか持ってくれたか。
これで……これで最後だ。
ようやく、あの子の……あの子の……。
木々を伝った老人は音も無く塀の向こうに飛び降りた。
広い部屋には豪華なソファーが置かれていた。
バスローブを着てそこに座っている人物はちびちびとブランデーを舐めている。
脂ぎった額、分厚い唇、にごった目。
人に嫌悪感を抱かせるその顔は、その人物の内面も良く表していた。
表向きはある建設会社の社長。
だが、裏の顔は暴力団顔負けのあくどい仕事に手を染めた金の亡者であった。
グラスを見つめていた目が上へと上がる。
間接照明に照らされた室内に、一人の老人が立っていた。
「あんたが『式打ち弦那』かい」
「あの子の敵……とらせてもらおう」
「へっ、しつこいねあんたも。どこに証拠があるんだい」
「証拠は無い。少なくとも警察が納得するようなものは。
だが、私の符が教えてくれた。孫を殺した犯人を」
無表情なままの老人を男は鼻で笑った。
「あんた、有名な式神使いなんだってな。
いいだろう、冥土の土産に教えてやる。
あの娘を殺ったのは俺さ」
醜悪に顔をゆがめ男は続けた。
「あの娘も運が無かったんだよ。取引の現場を見ちまうなんてな。
まったく、子供ってのはどこにでも入り込んでくるもんだぜ」
「あの子はまだ小学生だった」
「こっちもでかい仕事だったんだ。ぽしゃらせるわけにゃいかねえ」
「言いたい事はそれだけか」
冷たい声を老人は出した。手に符が現れる。
「おっと、下手に動くなよ。おう! 出て来い!」
周りに呼びかける男。
だが、静まり返った室内に何の変化も見られなかった。
「な、なんだ。おい! どうした! 早く出て来い!」
「無駄だ。この屋敷に今動けるものはおまえと私だけだ」
「馬鹿な……。30人以上兵隊を集めてたんだぞ……」
「地獄であの子に懺悔するがいい」
両手に呪符を持った老人が目を細める。
「やめなさい!」
声とともに分厚いマホガニーのドアが切り裂かれ、保田と辻の二人が飛び込んできた。
糸が飛び、老人の手から呪符を叩き落す。
「た、退魔師! 早く俺を助けろ!」
こちらに声をかけてくる男を保田は凍りつくような目線で睨んだ。
「話は全部『糸』を使って聞いたわ。
最初からおかしいとは思っていたけど……。あんた最低の男だね」
「くっ」
「おじいさん、もうこんなことはやめてください。
こんなことをしても、その子はよろこんではくれません!」
辻は老人の前に立ち涙ながらに訴える。
「希美ちゃん……。君は本当に優しい子なんだね。
君といると孫のことを思い出すよ」
「それじゃあ……」
老人はゆっくりと首を振った。
「もう遅いんだよ。私はあの時に人として生きることをやめたんだ」
その言葉とともに老人の体がふくれあがる。
着ていた服が破れ、全身に貼り付けられた呪符がその体に溶け込んでゆく。
「符術『魂返し』」
見開かれた目は真紅に染まり、横に伸びた口は長い牙を吐き出す。
鉤状に曲げた指から鋭い爪が生えた。
ぐるうううう
びしゃり、と長い舌が零れ落ちる。
それは恐るべき獣の姿だった。
「そんな、自分の体に式を打ったっていうの!?」
糸使いが驚愕の声をあげる。
「おじいさん!」
「あぶない、辻!」
何かに引っ張られるように辻の体が後ろに下がる。
お下げをかすめて爪が通り過ぎた。
糸で辻を助けた保田は悲痛な面持ちで言った。
「ああなってしまったら、もう元には戻らない。
……酷いようだけど倒すしかない」
「そんな!」
きゅん、と糸がうなりを上げる。
「な、速い!」
岩をも断ち切る鋼糸を難なくかわし、獣と化した復讐者は飛び上がった。
部屋中をその体に似合わぬスピードで飛び回る。
保田はその姿を捉えきれないでいた。
「しまった!」
糸をかいくぐった獣は一気に目標に迫る。
ソファーにへたり込んだまま動くこともできない憎き男に、鋭い爪が伸びた。
爪は幼い顔の寸前で止まった。
目の前にある凶器にもおびえず、辻は男をかばうように両手を広げて立っていた。
「だめです! こんなことしちゃだめです!
おじいさんの力は、こんなことをするための力じゃないはずです!!」
内心での葛藤を表すように爪はぶるぶると震えた。
その切っ先がふっくらした頬を掠め、ひと筋の血を流させる。
それでも辻はまっすぐに禍々しい獣を見つめていた。
「どくんだ! 辻!」
「いやです!!」
この状況に保田も動きが取れないでいた。
息を詰めて様子をうかがう。
「おねがい……もうやめて……。これいじょう悪いことしないで……」
辻の目から涙がこぼれた。
鬼の動きが止まる。
「また、辻にハトを見せて……。辻にしきがみをおしえて……」
真紅の目がすっと細められた。
「あの…やさしいおじいさんにもどって……おねがい……」
爪が引かれた。
その場の空気が和らいでいく。
真紅の目に光が戻る。
牙は消え、爪も短くなっていった。
醜悪な獣は、小さな老人へと返っていった。
「おじいさん……」
「希美ちゃん。君と一緒にいた間本当に楽しかったよ。
あの時だけは私は復讐のことを忘れることができた」
「辻も……辻もとっても楽しかったです」
「ありがとう希美ちゃん。私は君に会えて……」
そのとき、一発の銃声があたりに響いた。
胸に鉛の玉を受け、命の火を消してゆく老人の顔は、それでもなぜか満足そうに見えた。
「フハハハ、ざまあみやがれ。この俺に逆らうからこうなるんだ。
へっ、秘密を知ったからには、おまえ達にもここで死んでもらうぜ」
ソファーの下から取り出した銃を構え、男は下卑た笑いを見せた。
「くっ、こいつ」
保田は右手を構えた。
すっと辻が顔を上げる。
その気迫に糸使いの動きは止まった。
「ゆるさない……。ゆるさない……」
男に背中を向けたまま、辻は小さな声で呟いた。
その体の周りがまるで陽炎のように揺らいで見える。
辻のポケットから一枚の古びた呪符が零れ落ちる。
風に吹かれたように舞い上がったその符は、
見えない何かに張り付いたように空間に固定された。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」
呪符が燃え上がるように光を放つ。
次の瞬間、部屋には大きな式神が現れた。
炎のような蓬髪。
憤怒の形相。
右手に持った大ぶりの剣。
それはまるで仁王のような姿だった。
「あれは……あれは十二神将!」
「う、うわあ」
焦った男は次々に引き金を引く。
しかし銃弾は全て仁王の剣に弾き飛ばされた。
男の前に式神が立った。
うつむいた辻の表情はうかがえない。
「あ…わわ……やめて…やめてくれ……」
「辻! やめろ!」
ゆっくりと持ち上げられた剣が鋭く振り下ろされる。
しゅっ
風を切り振り下ろされた剣は、男の頭上でぴたりと止まった。
男は酷い匂いのする液体で股間を濡らし、泡を吹いて気を失っていた。
「辻……」
「どうして……どうしてこんなことになるんでしょう。
おじいさん…あんなにいいひとだったのに……」
純粋な少女の疑問に、保田は何も答えられなかった。
「辻は……辻はおじいさんを助けることができませんでした……。
やっぱり辻はおちこぼれなんです。
また何もできませんでした……」
「そんなことはないさ」
保田は優しくその肩を抱く。
「あんたは何が正しくて、何が間違ってるのかちゃんとわかってる。
だから、あの人を人間に戻すことができたんだ」
辻は固い顔のまま保田を見上げた。
「あんたはあの人に人間のまま最後を迎えさせることができた。
獣としてではなく。
それはあたしにはできない。きっとあんただからできたことなんだ」
「保田さん……」
「泣け、泣いちまえ」
「ふ、ふええええ」
保田の胸に顔をうずめ、辻は泣いた。
思いっきり。
それはあるいは、少女と言う殻を一枚脱ぎ捨てるための儀式だったのかもしれない。
◇
保田さんと別れたわたしはひとりで神社まで帰りました。
雨がふっていてとてもさむい夜でした。
すっかりくらくなった神社はなんだか少しこわくかんじました。
でも、門のところで飯田さんは辻をまっていてくれました。
保田さんから聞いていたのか、飯田さんは何も言いませんでした。
ただやさしく、おかえりって言ってくれました。
その日の晩ごはんは、辻のすきなカニクリームコロッケでした。
〜幕〜
──── 百 姫 夜 行。
気の早いクリスマスキャロルが流れ始めた街。
人ごみに埋まりそうな小さな体で、矢口真里は一人雑踏を歩いていた。
……もうそんな季節なんだ。
今年のクリスマスも裕子と二人で馬鹿騒ぎなんだろうな。
はあ、二人して寂しい女だよ全く。
ポケットに手を突っ込んでとぼとぼ歩く。
街の喧騒も寂しさを引き立たせるスパイスにしか過ぎない。
矢口は首をすくめ、ほおと息をついた。
「矢口……矢口か?」
急に後ろから呼びかけられ慌てて振り返った。
スーツの上からコートを羽織った青年の、びっくりしたような瞳と目が合う。
「……クラ? うわっ、ひっさしぶり」
ひょろりとした顔に面影があった。
矢口の脳裏に懐かしい光景が浮かび上がる。
色のあせたセーラー服。
膝の抜けたブレザーのズボン。
騒がしい休み時間の教室。
「なんだ、その格好」
「ばか、今の俺はれっきとした社会人だぜ」
差し出された名刺にはカタカナで書かれた社名と共に懐かしい名前があった。
倉田 順次
否応も無くあの頃のことが思い出される。
中学最後の冬。
はしゃいだ声。
舞い落ちる白い雪。
湧きあがる思い。
「おまえ相変わらずちっちゃいな」
「うっさい、ちっちゃいゆうな」
学校の校庭。
小さなもみの木。
甘ったるいシャンパン。
流れるクリスマスキャロル。
この時期に会ったのもなにかの巡りあわせかもしれない。
「心配したんだぜ。
冬休み終わったらいきなり転校してて、それっきり音沙汰無しだろ」
「ごめん」
突然の力の目覚め。
それまでの生活との決別。
幼い少女に突きつけられる残酷な運命。
湧きあがった思いは、決して懐かしさだけではなかった。
「なあ、もしよかったら少し話でもしないか」
あの頃と同じ少し照れたような笑顔。
左の眉を掻く癖は直っていないようだった。
ほんの少しだけ胸の奥が疼く。
「いいよ」
そう答えたのはその疼きのせいだったのかもしれない。
Morning-Musume。 in
百 姫 夜 行。 ─
斬!─
―― 聖夜の思い出
「オレさ……結婚するんだ」
「け、けっこん!?」
連れ立って入った喫茶店。
つい出してしまった大声に口を押さえて辺りを見渡す。
「あんたまだ未成年でしょ」
「そりゃ、おまえと同い年だからな」
苦笑してコーヒーを飲む姿は意外と様になっていて、
流れた月日を少しだけ感じさせた。
「はー、思い切ったこと考えたもんだね。あの優柔不断が」
男女関係無く遠慮しない人間関係を築いてきた当時の矢口は、
そんな少年の態度を良くからかったものだった。
「相変わらず口が悪いな、そんなんじゃ男もできないだろ」
「うっさいな」
くすくすと笑いあう。
一度心を許しあった関係は、少しくらいの年月をすぐに埋めてしまうようだ。
矢口は久しぶりに安らぎに似た気分を味わっていた。
「好きなんだ……。彼女を失いたくないんだ。だからしっかり捕まえていたくって」
「やだな、のろけんなよ」
真面目な顔になった青年にきつめに突っ込む。
ぶっきらぼうになりすぎたかもしれない。
胸の奥がまた疼いた。
「……おめでとう」
「サンキュ。あ、やべ、もうこんな時間か。会社戻らなくちゃ」
「がんばってるね。サラリーマン」
「おうよ」
笑った顔は年相応に引き締まった男の顔になっていた。
矢口はまぶしそうにその顔を見つめた。
コートを着ようとしていた手が思い直したようにスーツの内ポケットに入る。
「なあ、ケータイ教えろよ」
「結婚する奴がなに言ってんだよ」
「んじゃ、メールでいいや」
「なんだそれ」
「いいじゃんか、なんか懐かしくってさ」
「しょーがないな」
甘い疼きが胸に残っている。
それは繰り返される日常に振りかけられたほんの少しのスパイス。
新鮮な香りもすぐに拡散し消え去ってしまうだろう。
でも今はそれでも良かった。
手を振り別れた後、ひとり雑踏の中に立ち尽くす。
過ぎ去った日々。
遠い日々。
もう二度と交わることの無い世界。
きっとメールが届くことも無いだろう。
決別したはずの世界を少し夢見ただけ。
軽く頭を振り、矢口は雑踏の中に溶け込んだ。
◇
「んあ、どーしたの。ぼーっとして」
いつもぼーっとしている後輩から声をかけられて矢口は我にかえった。
「なんでもない」
「あやしーなあ。あ、もしかして男?
やぐっつぁんも隅に置けないねぇ」
「ば、ばか! 違うよ」
このこの、と肘で突付いてくる後藤を手を振って追い払う。
珍しいコンビで仕事を片付けた帰り道。
聞こえてきたクリスマスキャロルに、つい物思いにふけってしまった。
まだ、引きずってんのかよ。なっさけない。
そう、あれは過ぎ去った過去。
二度と会うことの無い思い出のような出来事。
後藤と別れた後、携帯がなった。
「なんだ、メールか」
FROMに書かれた名前を見て眉をひそめる。
「クラ?」
先ほどまで心を乱していた名前。
またほんの少し胸が疼く。
届くはずの無い決別した世界からのメールは、
それにふさわしい非日常的な言葉で綴られていた。
『助けてくれ 矢口』
◇
「本当にすまない。他に相談する相手がいなかったから」
「いいよ」
この間と同じ喫茶店。
ただし向かい合う二人の雰囲気はこの間とは違う。
「相談って……彼女のこと?」
「ああ」
「でも、矢口は恋の相談には乗れないぞ」
わざと冗談めかして言う。
「……違うんだ」
悲痛な表情を見せる元同級生。
「アイツ……婚約を解消したいって」
「それは……」
言いかけた矢口を手で制して続ける。
「心が移ってしまったんなら仕方ない。
俺もそこまであきらめが悪くないつもりだ。
でも……違うんだ。
アイツ泣きながら言うんだ。
もうあなたとは一緒にいられないって」
「どういうこと?」
「最初は一枚の手紙だったんだ」
婚約者の元に届いた手紙。
それは何も書かれていない白紙の手紙だった。
最初は悪戯だと思った。
それでもすぐに捨ててしまわなかったのは、
その手紙に何か気味の悪いものを感じていたからかもしれない。
翌朝目がさめた彼女は、自分がベッドから落ちて眠っていたことに気付いた。
寝相は良い方だった。
ましてベッドから落ちて気がつかないなどということは、今までに一度も無かった。
不審に思った彼女は机の上に置かれた手紙を見て息を呑んだ。
『婚礼まで後二十日』
白紙だったはずの手紙にはそう記されていた。
「それ以来、朝目が覚めるたびにベッド以外の場所で寝ていることに気付くらしい。
部屋のドアの前、部屋の外の廊下、階段の途中。
だんだん、距離が伸びていく。
だんだん、外に近づいているんだ。
そして手紙の日数も……」
玄関の前で目がさめた朝、彼女はようやく家族に相談した。
手紙の日数は一桁になっていた。
だが家人の見守る中、夜の徘徊は止まらなかった。
思い悩み、ついに婚約者に相談したときには残る日にちは5日になっていた。
「おかしいんだ。どうやっても捕まえておけないんだ」
半信半疑で恋人の家に泊まった彼もその徘徊を止められなかった。
体を縛り付けても、いつの間にか抜け出してしまう。
寝ずに見張ろうとしていても、気が付くと眠りこんでしまっていた。
「だんだん遠くまで行ってしまうんだ」
そう語る顔には恐怖の色があった。
招かれた娘はその町を出る手前のところまで来ていた。
「どうしていいかわからないんだ」
頭をかきむしり、うつろな目でテーブルの上のグラスを見つめる。
残された日付は後一日になっていた。
「助けてくれ……助けてくれ、矢口……」
突きつけられた異界の出来事とこれまでの現実がせめぎあう。
顔を覆い声を震わせるクラスメイトを、矢口は痛ましいような表情で見つめた。
だがやがて理性が勝利したのか、顔をぬぐい、あげられた目は微笑みに変わっていた。
「ごめん、こんなことおまえに相談することじゃないよな。
やっぱり忘れてくれ」
照れたような仕草で、左の眉を掻く。
「なんか、ふとおまえの顔思い出しちゃって」
懐かしいその癖を見ながら矢口は思っていた。
彼の判断は正しい。
おそらくこれは闇の領域。
今の自分がいるところ。
交わるはずの無い世界は、悲しき偶然によってまた交わった。
矢口は湧き上がる思いを振り切り、目の前の相手に声をかけた。
「クラ……もしかすると力になってあげれるかもしれないよ」
正式な依頼ではない。
保田のパソコンを借りる。
──圭ちゃん特製妖魔データベース。
キーワードは『婚礼』『手紙』そして『妖怪』。
妖魔と妖怪とは基本的に同じものである。
違いはただ一つ、この世界との結びつきの差だ。
異世界より移り住んだ妖魔は、本来不安定な存在である。
力のあるものでなければ存在を維持することさえ難しい。
だが、時にはこちらの世界に適応するものもいる。
長くこの世界にとどまったものは、それを見た人間から名前や姿を与えられ、
よりいっそう世界との結びつきを深めていくのだ。
こちらの世界と深く結びついた妖魔、それが妖怪なのである。
妖魔には基本的に繁殖能力は無い。
だが中には人と交わることによって子を成すものもある。
各地に残る異種族との婚姻伝説はこれが元になっているのだ。
検索結果。
ディスプレイに浮かぶ文字を目で追う。
人間と子を成す妖怪の種類は意外と多い。
これだけの情報で特定は難しい。
だが、幸運にも対処法は共通だった。
こちらの世界との結びつきが大きければ大きいほど力は強くなる。
しかし、それに比例して制約も大きくなるのだ。
人を花嫁に迎え入れるには『契約』が必要だ。
『契約』により人を招くものは、逆に『契約』によってしかその力をふるえない。
今日一日を守りきれば『契約』は無効になる。
無効になれば敵も二度と手出しはできない。
敵の正体は分からなかったものの、とりあえずの作戦は立てられた。
とりあえず同級生に協力してもらい、家からは問題の女性を残して全員出てもらう。
娘の婚約者の言うことをどう感じたのかは知らないが、
家人は家から離れることを承諾したらしい。
家の周りに何重もの結界を張る。
特に部屋には念入りに結界を張った。
後は夜になるのを待つだけだ。
「矢口…おまえ、一体……」
「ごめん、クラ。何も聞かないで」
詳しい事情も説明せず強引に協力させた。
疑問をもつのは当然だろう。
「もしかして、おまえが転校した理由って……」
問いに答える代わりにやわらかく微笑んだ。
その微笑みにさらに問いかけようとした口はつむがれた。
再び開かれた口は優しい口調になっていた。
「なあ、中三の時のクリスマス覚えてるか」
「うん。おぼえてる」
それは忘れられない夜だった。
クリスマスイブ。
こっそりと忍び込んだ校庭でささやかなクリスマスパーティ。
気の置けない仲間達との馬鹿騒ぎ。
どこからか運び込んだ小さなもみの木。
コンビニで買った甘ったるいシャンパンと、ファーストフードのチキン。
舞い落ちる白い雪。
手を伸ばせば世界の全てに手が届きそうなそんな夜。
そしてそれは矢口にとって、馴染んだ世界と別れを告げる最後の夜でもあった。
「楽しかったよな」
「そうだね」
「あれから……四年も経ったんだな」
「うん」
「……おたがい、変わっちまったのかな」
「……うん」
「……もう、戻れないのかな」
「…………」
固い沈黙が、過ぎた年月を現すかのように、二人の間を流れていった。
どうしても残るといって聞かない婚約者を追い出し、
矢口はひとり部屋の中で待っていた。
もうすぐ日が変わる。
契約の期限が訪れようとしていた。
目の前にはすやすやと寝息を立てている女性。
白い肌に柔らかな黒髪。
すらりと伸びた体は白いパジャマに包まれている。
キレイなひとだな。
あいつ昔からメンクイだったから。
長いまつげに思わず見とれる。
突然、その目がくわっと見開かれる。
まるでばね仕掛けの人形のように、真っ直ぐその体が立ち上がった。
……始まったか。
両手のグローブを軽く打ち合わせる。
ベッドを降りた女性はふらふらと歩き始めた。
いつものように部屋から出ようとした足が、ドアの前で止まる。
ドアは結界で封じてある。外に出ることはできない。
さて、どうでる?
油断無く周囲をうかがいながら、矢口は敵の打ってくる手を待っていた。
ぼっ、と音を立てて結界を作っていた札が燃え上がる。
「きたな」
招くものが現れなければあちらから姿を見せるだろう。
矢口の作戦の第一段階は成功した。
後ろから風を感じる。
振り返るといつの間にか開いた窓のまえに、
まるで平安貴族のようないでたちの男が立っていた。
真っ白い肌。
細く吊りあがった目。
薄い唇。
整ってはいるが、どこか能面のような冷たさを感じさせる顔だった。
「あんたが黒幕? 覚悟しなよ!」
あと少しの間、こいつを追い払っとけば作戦完了。
拳に電撃をためる矢口の後ろから白い腕がまきついてきた。
「な、なんで!?」
それは助けるべき人間。
人外のものに見初められた娘は、目を紅く輝かせ矢口の首を締めつづけた。
尋常では無い力。とても振りほどけそうに無い。
といって、電撃を浴びせるわけにも行かない。
やっばい、このままじゃ……。
いつの間にか目の前まで来ていた男が、表情の無い目でこちらを見ていた。
その口が、かっと開く。
吐き出されたのは深緑色の煙だった。
「うわあ!」
まともに浴びせられた煙は妖気の塊だった。
目の前がかすみ、体を悪寒が襲う。
崩れ落ちる矢口を見もせず、男は花嫁を招いた。
ぐったりとその手にもたれかかる娘と共に、滑るように外へと飛び出す。
「ま、まて!」
痺れる体を引きずるようにして窓から身を乗り出した。
「ク、クラ!!」
信じられないものを見たようにその目が見開かれる。
矢口が見たものはバットを振りかぶり、男に殴りかかろうとする同級生の姿だった。
男は表情を変えぬまま左手をそちらに突き出す。
見えない何かに突き飛ばされたように、青年の体は吹き飛んだ。
塀に叩き付けられた体から、みしりという音が二階まで響く。
何事も無かったかのように、娘を抱えた男は地面をすべるように去っていった。
ふらつく体で二階から飛び降り、矢口は同級生の下に駆け寄った。
「馬鹿! なんでこんなことしたんだ!」
内臓が傷ついているのか、口から血を流しつつ青年は立ち上がろうとしていた。
「じっとしてろって」
「だめだ。奴を追いかけないと」
「なに言ってんだよ。そんなの無茶に決まってる」
青年は微笑んだ。
「俺さ、中学の時に好きな娘がいたんだ」
脈絡の無い話に矢口の眉が寄る。
「いっしょに馬鹿なことやってるだけだったけど、
なんていうか、すげー気になる奴で」
「……でもそいつ、気が付いたらいなくなっててさ」
ふ、と自嘲気味に唇が歪む。
「告白なんかする暇もなかった」
遠い目だった。過ぎた日を悔やむような哀しい目。
「だから、もう二度と好きな女を失いたくない。
ずっと…捕まえていたいんだ。だから……」
「クラ……」
起き上がろうとする体にそっと手を当てる。
ぱち、と小さな音がして傷だらけの体から力が抜けた。
「やぐっつぁん!」
指先から出した電流で無謀な青年を眠らせた矢口は、後ろから呼ぶ声に振り返った。
「なんでごっつぁんが…」
不死の力を持つ後輩は矢口の下に駆け寄る。
「やぐっつぁんの様子がおかしいから、圭ちゃんが行ってこいって」
「圭ちゃんが……」
パソコンを借りた時点でばれていたのだろうか。
やはり同期の絆は侮れない。
「それから、よっすぃーに調べてもらったよ。時空の乱れた場所」
それはここから少し離れたところにある小さな神社だった。
なにからなにまでお見通しか。まったく。
「早く行って。ここはあたしが見てるから」
「わかった。……ありがと」
にまっと笑った後輩に軽く微笑みかけ、矢口は立ち上がった。
◇
寂れた神社の中にはたくさんの気配があった。
しかし、ろうそくの明かりに浮かび上がる影は二つのみ。
真っ白い紋付を着た能面のような男と、白無垢を着た娘だけ。
うつろな顔をした娘を冷たく無表情な顔が見つめる。
薄い唇から細長く赤い舌がちろりと飛び出た。
ぬらり、と音がしそうな動きで男が娘に近寄る。
真っ赤な内側を見せる薄い唇が、半ば開いた桜色の唇に迫った。
「待て!!」
矢口は勢いよく神社の扉を開いた。
「人の恋路を邪魔する奴は、矢口に蹴られてしびれちまえ!」
周囲から見えない気配が迫る。
「聖雷撃フルパワー!!」
雷光が神社を包んだ。
光が消え、ぼたぼたと落ちて煙を上げるのは無数の蛇だった。
「今日のオイラに触れると……火傷するぞ」
残るは男ひとりだった。
その瞳が針のように細く尖る。
横に伸びた口から赤い舌がちろちろと顔を出した。
全身をぬらぬら光るうろこが覆い隠す。
ずるり、と紋付から抜け出た姿は白い大蛇だった。
「蛇のくせに人間様をナンパしてんじゃねーよ!」
電撃を飛ばす。
しかし、意外な速さでかわした大蛇は、頭から矢口にぶつかった。
「うわ!」
神社の扉を突き破り、石畳の上に落ちる。
しゃー
扉から顔を出し、威嚇音を上げた大蛇は大きく口を開いた。
覚悟を決めた。
だらりと両手をたらし、深呼吸してバイザー越しに蛇を睨む。
大きく開かれた口が迫った。
くわえ込まれるその一瞬を狙う。
「聖雷撃フルパワー!」
大蛇の体が内部から光った。
ぶすぶすと煙を上げる口から体を引き抜く。
牙のかすめたスーツに穴が開いていた。
しゃーー
最後の力を振り絞り、蛇が頭を上げる。
「うおおお!!」
飛び上がり、電撃をためた足でその顎を思いっきり蹴り上げた。
吹っ飛ぶその頭の先から、白い大蛇は塵に変わっていった。
ふう、と息をつく。
神社に目をやると、扉から白無垢を着た女性が顔を出していた。
「あなたは?」
怯えたようにこちらを見る顔は、それでもひどく美しかった。
矢口はバイザーを深く下ろした。
「あなたを助けにきた退魔師です」
そう言って、手を差し伸べる。
思ったよりちゃんとした声が出せた。
◇
「なんや、矢口から誘ってくるなんて珍しいなあ」
「なんかさ、ぱーっと騒ぎたい気分なんだよね」
「ええで、今日は裕ちゃんのおごりや。朝まで帰さへんで」
はしゃぐ中澤ににっこりと笑いかけ、矢口はきらめく街並みに目をやった。
「そういや、携帯変えたんやって?」
「うん、番号変わったからちゃんと登録しといてね」
街にクリスマスキャロルが流れる。
甘く切ない思いを乗せて。
それは過ぎ去った日の記憶。
二度と戻れない遠い日の記憶。
それでもひとは進んでゆく。
湧き上がる思いを振り切って。
目の前へと。
〜幕〜
「亜依ちゃん」
呼ばれて振り返った。
「どうしたの? 晴美ちゃん」
「ちょっとちょっと」
手招きされて顔を寄せる。
「知ってる? 旧校舎の亡霊」
「またその話? 好きだね、そういうの」
「もー、付き合い悪いぞ。少しは怖がんなさいよ」
そんなこと言われても……。
うちはこれが商売やからなあ。
紺色のセーラー服に赤いスカーフ。
トレードマークのお団子頭を下ろしたその姿は、どこから見ても普通の中学生。
しかしてその実態は……。
見習とはいえ仮にも退魔師、学校の怪談ぐらいでびびるわけにはいかない。
「それじゃあこの話は?」
「それも怖い話?」
「そう、新作」
やれやれ。
「あのね、リカちゃん電話って知ってる」
なんだか、電話を持ってアニメ声でしゃべる黒い女を想像してしまった。
確かに怖い。
「夜中の十二時にある電話番号に電話をかけると……」
『わたしリカちゃん。今お部屋にいるの』
おなじみの声が聞こえる。
子供だましのお遊びだ。
期待していたのに拍子抜けする。
まあいいや、懐かしいし暇つぶしにもう一度かけてみよう。
『わたしリカちゃん。今お出かけしてるの』
へえ、いくつかパターンがあるんだ。
ためしにもう一度かけてみる。
『わたしリカちゃん。今あなたの町の駅についたの』
……どういうこと?
不審に思っていると電話が鳴る。
電話の向こうからあの声が聞こえた。
『わたしリカちゃん。今あなたの家の前にいるの』
弾かれたようにカーテンを開け、窓の下を見る。
……だれもいない。いるわけがない。
再び電話が鳴った。心臓が跳ね上がる。
おそるおそる受話器を耳に当てる。
『わたしリカちゃん。今……』
Morning-Musume。 in
百 姫 夜 行。 ─
斬!─
―― 都市の怪談
「今……あなたの後ろに!」
「きぃやあぁぁぁぁぁぁぁ!」
高周波に思わず耳を押さえる。
「りかちゃん、うるさいよぉ」
珍しく、ののが突っ込みを入れた。
最近強気な発言が多い。
なんだか自信ついたような気がする。
なにかあったんかいな。
「だ、だってぇ」
涙目でまだ震えている梨華ちゃんに、にひひと笑いかける。
「ね、びっくりした?」
「ひどいよ、あいぼん。わたしがこういうの嫌いなの知ってるくせに」
知ってるからやってるんやけどな。
ここは地球を離れた宇宙船の中。
いつものように遊びにきたうちらは、怖い話で盛り上がっていた。
あきれた顔で保田さんがこっちを見ている。
よほど暇だったのか、珍しくうちらに付き合っていた。
ちなみによっすぃーは矢口さんに連れられてお仕事、というかボランティアに出かけた。
矢口さんの仕事を手伝うって約束したそうだが、それ以来こき使われているらしい。
うちから地球に伝わる、ためになる言葉(タメゴト)を送ろう。
『口は災いの元』
まだきゃあきゃあ言ってるうちらに、保田さんが冷静な声で言った。
「それってアーバンレジェンドだね」
「なんですか? それ」
「都市伝説ってやつ。メジャーなところだと、『口裂け女』とか『人面犬』とか」
……ぴんとこない。
そんな表情を読み取ったのか保田さんも眉をひそめる。
「知らないの?」
「人面犬ってカツラを取り替える……」
「それはアフロ犬」
梨華ちゃんの発言を途中で止める。
最後までボケさせてやらない。
「あー、そういえばよーちえんのころ聞いたような」
ののの言葉に保田さんはがっくりと崩れた。
なんかすごいショックを受けたみたいだった。
かわいそうなおばちゃん。
「他には無いんですか?」
「後はピアスあけたときに耳から白い糸が出て、それ引っ張ると失明するとか」
「えっ、あれ嘘なんですか!?」
「あたりまえでしょ、なんで耳に視神経が通ってるのよ」
知らんかった。
怖くて絶対にピアスあけないでおこうと思ってたのに。
「まあ、簡単に言うと一人歩きした噂って言うのかな。
現代版の怪談だね」
「情報化が進んだ世界での新しい形のホラーですね」
「そう、結局人間は、闇に対する恐れを捨てきれないってことさ」
「未知の物に対する恐怖は、完全に消し去ることはできませんから」
保田さんと梨華ちゃんが難しい話をしている。
なんのこっちゃ。
しかし、保田さんの話についていくとは……。
むかつく。
梨華ちゃんのくせに。
そんなジャイアン思考をしているうちを、ののがぼーっと見ていた。
「それで、そのひとはどうなったんですか?」
「へ?」
急に話し掛けられて戸惑う。
「うしろをむいたらどうなったんですか?」
あ、そこに戻るんかい。
「振り向く前にナイフで背中を刺されるんやて。ぶすっと」
「う、うそでしょ……」
うちの言葉に梨華ちゃんがまた泣きそうな顔になっていた。
「ほんまやって、夏見ちゃんの友達の知り合いがそれで入院したって」
「FOF(フォフ)だね」
「なんですか、それ?」
うーん、保田さん相手だと、いつもこの台詞しか言ってない気がする。
「友達の友達(Friend Of
Friend)。
全然知らない人の話より、友達の友達の体験だって言うほうが真実味があるだろ。
実際にはその友達の友達も、他の誰かから聞いた話を伝えただけ。
もちろん、その誰かも他の誰かからその話を聞いている。
たどっていくと誰が言い始めたのか分からなくなるのさ。
でも、他人に話すときには間を省略して友達の友達で済ませてしまう。
だから、友達の友達は、実際にはいない誰か知らない人と変わりは無いんだ」
なるほど。
さすが保田さん。ナントカの効ってやつやね。
もちろん、賢いうちは言葉には出さんけど。
「さっすが保田さん。亀の甲より年の功ですね」
……どこかで糸を弾く音が聞こえた。
あほやな。梨華ちゃん。
それこそ『口は災いの元』やで。
◇
キティちゃんのパジャマに着替えて、うーんと伸びをする。
さて、そろそろ寝ようかな。
おばあちゃんに、おやすみなさいと言って二階に上がった。
ピンクのカバーをかけたベッドに入ろうとして、机の上に置いておいた携帯が目に入る。
昼間の話を思い出した。
時計を見る。
ちょうど12時か……。
ぷるぷる。
あれは作り話やって保田さんもゆうてたやんか。
何を馬鹿な……。
ふいに着メロが流れた。
「ひ!」
お気に入りの『となりのトトロ』。
こんなに嫌な曲に聞こえたんは初めてやわ。
ディスプレイには『非通知』と表示されている。
……まさかね。
通話ボタンを押し、そっと耳に当てた。
「……もしもし」
『あ、亜依ちゃん』
「晴美ちゃん!? どうしたの?」
『あのね、明日の放課後、暇?』
「あ、うん。別に予定は無いけど」
明日は仕事も入ってない。訓練も決まったものは無かった。
『よかった。じゃあうちに遊びにおいでよ』
「いいけど……なんでまた」
『新作仕入れたのよ』
……またかい。
「あのね、晴美ちゃん……」
『いい、あたしが怖がらせてないのって、亜依ちゃんだけなのよ。
他の子はみんな怖がってくれたのに……。
あたしのプライドにかけて怖がらせてあげる』
まったく……。なんやねん、プライドって。
はあ……。まあ、しゃあない。
これも友達づきあいやしね。
「わかった。付き合ってあげる」
『ありがとー。じゃあ、また明日ね。おやすみ』
「うん、おやすみ」
はあ……。
もう、こんな時間に何の用かと思えば……。
あれ? 考えてみれば明日学校で言ってくれればいいのに。
……ま、いっか。
さ、寝よ寝よ。
◆
本日最後のチャイムが鳴る。
急に騒々しくなった教室。
教科書をカバンに詰め込んでいると、得意げな顔をした晴美ちゃんがやってきた。
よっぽど自信があるんやな。
どんな話を仕入れてきたのやら……。
くだらない話ならただじゃおかんぞ。
「さ、行こ」
「はいはい」
「今日は絶対怖がらせてやるんだから」
「期待してるよ」
いや、まじで。
学校から歩いて十五分。
思っていたよりも大きな家だった。
明るい色の壁もまだ新しく見える。
晴美ちゃんの部屋は二階だった。
とんとんと急な階段をのぼり、中へと招かれる。
そこは一般的な女の子のお部屋。
クリームイエローのカーテン。
漫画のたくさん入った本棚。
ベッドの横には大きなアイドルのポスター。
うちは白いシーツの敷かれたベッドに腰掛けた。
「それで、どんな話なの?」
「あのね、友達から聞いた話なんだけど」
「あ、それってあれでしょ」
えーっと、確か昨日保田さんの言ってた……。
「…ボブ?」
「フォフ」
「あ、それそれ」
なんや、知っとるんかいな。
「それは友達の友達でしょ。そうじゃなくて、直接その友達の体験」
「……ほんとに?」
「うん、だってその子、今でも入院してるもん」
おいおい、それ、洒落にならんやんか。
「で、それってどんな話?」
「…………」
「晴美ちゃん?」
絨毯の上のクッションにぺたんと座っている晴美ちゃんは、
なぜか少しうつろな顔をしていた。
「……亜依ちゃん。のど渇かない?」
「え? ううん、別に」
「あたしのどカラカラになっちゃった。コンビニまで買いに行こう」
「いいよ。そんな」
「さ、早く!」
強引に手を引かれた。
なんやっちゅーねん。
人を家まで呼んどいて。ジュースくらい用意しとけ。
「ちょ、ちょっと」
手を引っ張られ、転がるように階段を下りる。
そんなにのど乾いとったんかいな。
下まで降りた晴美ちゃんは唇に人差し指をつけて顔を寄せてきた。
「大きな声出さないでよ」
「あ、うん。どうしたの?」
「いたの」
「なにが?」
「ベッドの下に」
「だからなにが?」
「…………包丁持った男が」
──ぞっとした。
「う、嘘でしょ」
もしかして、これでうちを怖がらせようとしてるんやろうか。
その手には引っかからんで。
「ほんとだって」
真剣な目、とても嘘を吐いてるようには見えない。
「あたし……目が合ったもん」
ちょっと、それってやばいんとちゃうん。
カタン。
二階で物音がした。
二人して顔を見合わせる。
「と、とにかく、外に逃げよう」
「うん」
そっと外へ出た。
住宅街のせいか、しんとした通りに人影は無い。
曲がり角まで走っていき、そこから二階の窓を見上げる。
何も見えない。遠すぎる。
あ、考えてみたら包丁持った男ぐらい、
うちがちゃちゃっと倒してまえばよかったんや。
動転して自分の力を忘れていた。
ま、とりあえず様子を……。
目に精神を集中する。
ずぅっとまるでカメラがズームするみたいに視界が……。
変わらへん。
なんでや!
今度は耳に集中する。
辺りの音が鮮明に……。
聞こえへん。
……おかしい。まさか。
「晴美ちゃん。ちょっとあっち向いてて」
「あ、うん」
腰に下げておいた『如意棒』を取り出す。
のびろ! 心の中で念じる。
……まじかい。
長さは変わらなかった。
原因はわからない。でも力が使えなくなっているのは事実だ。
こうなってしまえば、うちもただの美少女に過ぎない。
急いでそこを離れ、近くにあるという交番に向かう。
それにしても……なんか変な感じだ。
体が妙にふわふわしているような……。
「うわっ!」
考え事をしていると、急に『となりのトトロ』が流れた。
なんやっちゅーねん。
今度も表示は『非通知』だった。
「もしもし」
『……逃げられないぞ』
「え?」
『……逃げられないぞ』
ピッ
終話ボタンを押した。
何でや……何で……。
「亜依ちゃんどうしたの?」
「は、早く交番に!」
晴美ちゃんの手をつかみ、引きずるように先へ進んだ。
ようやく交番が見えたときは、心底ほっとした。
「た、助けてください」
「どうしたんだい」
交番の中には優しそうなおまわりさんが一人。
うちらを見ると目尻を下げて質問してきた。
「あの……実は……」
また携帯が鳴った。
まさか……。
意思に反して指が通話ボタンを押す。
「もしもし」
『逃がさないって言ったろ。フフフ、ヒャハハハハハハ……』
歯ががちがちと鳴る。
不審に思ったのか、お巡りさんは、うちの携帯に耳を寄せた。
真剣な顔に変わった後、晴美ちゃんを手招きし何か聞く。
ふんふんとメモをとり、その後机の上の電話でどこかにかけた。
そして耳に受話器を挟んだまま、
こちらを見て両手の人差し指をくっつけたり、離したりしている。
のばせ? もしかして逆探知?
携帯からは相変わらず、気味の悪い笑い声が聞こえている。
永久に続くような笑い。
伸ばさなくても切れる様子は無い。
お巡りさんは小声で何か話していた。
「あ、結果でましたか……。
はい…それでいったいどこから…………。
そんな馬鹿な!!」
急に大声を出して立ち上がる。
「そんな! 電話はこの交番からかかってるなんて!」
あまりのショックに携帯が手から落ちた。
──交番の中には笑い声が続いていた。
「が!」
お巡りさんの喉から包丁が生えた。
倒れる制服姿の後ろには、血走った目でニヤニヤ笑う髭もじゃの男。
「逃がさないって言ったろ」
こちらを見る目には深い闇が刻まれていた。
「いやあああああああ!」
自然と声が出た。まるで自分以外の誰かが叫んでいるようだった。
悲鳴をあげたまま、晴美ちゃんの手を引いて走る。
な、なんやねん、これ……。
妖魔の気配は……ない。
とはいっても、今のうちに果たして妖魔が感じ取れるのか自信は無い。
怖い……。
不安に体が震える。
掴んでいる晴美ちゃんの手もじっとり汗ばんでいた。
必死で逃げる。
どこにも人影は無い。
誰か……助けて……。
そうや! 矢口さんか保田さんに電話を……。
……携帯さっき落としたまんまやんか。
「晴美ちゃん携帯は?」
「……部屋に置いてきた」
あかんか。
この辺に電話ボックスは無い。
せや! あそこに行けば!
「晴美ちゃん学校に行こう!」
学校の門は開いていた。
人の気配のしない校舎はなんだか不気味に感じた。
中に入るのに躊躇する。
ふと見ると校門の脇にタクシーが止まっていた。
やった! 急いで駆け寄る。
「助けてください!」
運転手さんは眠っているのか、目深に帽子を被って顔が見えない。
「お願い! 助けて!」
窓をどんどんと叩く。
「きゃああああああ!」
晴美ちゃんの悲鳴。
横を向くと足元を見て目を見開いていた。
視線を下げてうちの体も凍った。
車の下から伸びた手が晴美ちゃんの足を掴んでいた。
その横には包丁を持ったもう一本の手。
「うわあああああ」
慌てて蹴飛ばした。
包丁の切っ先が晴美ちゃんの足をかすめ、白い足に紅い血がしたたる。
その衝撃か、運転手さんの頭がごろりと横を向いた。
──喉がぱっくりと切り裂かれていた。
気味の悪い笑い声があたりに響く。
その瞬間、うちの心ははじけた。
どこをどう通ってきたのか全く覚えがない。
気が付くとうちらは学校の屋上にいた。
床に手をつき、ぜいぜいと息をする。
顔が冷たい。手でこすると涙と鼻水でべしょべしょになっていた。
いったい何がどうなってるんや……。
こんな、こんなことって……。
「……亜依ちゃん」
はっと横を向く。
うつろな顔をした晴美ちゃんのふくらはぎからは、まだ赤い血が流れていた。
それを見て冷静さが戻ってくる。
ハンカチを取り出し、膝の下を強く縛った。
先輩から教わった言葉が蘇る。
『いいかい、あたしたちは弱い人を守るために存在するんだ。
常にそのことを忘れちゃいけない。
それがあたしたちの存在意義なんだ』
そうだ。
守らなければいけない。
友人を。弱き人を。
たとえ力が使えなくても。
またあの笑い声が聞こえた。
目をやると屋上の入り口に男が立っていた。
右手に下げた包丁からぽたぽたと赤い血がたれている。
晴美ちゃんを後ろにかばうように手を広げる。
情けないことに、体ががたがたと震えていた。
男は気味の悪い笑いを続けたまま、ゆっくりと近づいてきた。
それにあわせるように後ずさる。
屋上はそう広くは無い。すぐに金網が立ちふさがった。
「晴美ちゃん! 登って!」
後ろに向かって声をかける。
必死で上に行こうとするその体を、頭で押すように続けて金網を登った。
金網の向こうは1メーターも無い。
下を見ると目がくらむ。
金網の向こうに男が立った。
相変わらず笑い声は続いている。
晴美ちゃんを抱きかかえたまま、うちは男を睨んだ。
怖くない。怖くない。怖くない。
自分に言い聞かせる。
「……おかあさぁん……」
晴美ちゃんの小さな声。手の中の震えが伝わってくる。
そう、守らなくては。
弱き人を。
こんなやつ…………怖くなんかない!!
笑いが止まった。
どろりとした目に何か焦りに似た表情が浮かぶ。
突然男の顔がぐにゃりと歪んだ。
包丁を持った手が金網を突き破って伸びてくる。
くっ! やっぱり妖魔!
思わず避けた体が宙に浮いた。
体がふわっとなる感じ。
次の瞬間、うちらは地面に向かって落ちていった。
おへその下がずんとなる感覚。
耳元で空気がごうごうと音を立てた。
晴美ちゃんをぎゅっと抱きしめる
嫌だ!
友達を助けたい!
うちはどうなってもいい、友達を、晴美ちゃんを助けて!!
そう願った瞬間、急にお腹が熱くなった。
「な、なんや!」
体から白いもやのようなものが湧き出る。
落ちるスピードが緩くなった。
地面にぶつかる寸前、うちらの体は急上昇した。
「こ、これは」
体の下には白いもやがまるで雲のように固まっていた。
思わず拳を握る。
力が戻っている。
いや、普段以上に力が溢れていた。
気を失ったらしい晴美ちゃんを雲の上にそっと寝かせ、
如意棒を取り出す。
なぜか、いつもより軽く感じた。
雲は屋上と同じ高さに浮かんだ。
妖魔を睨む。
恐怖は全くなくなっていた。
黒くてぶよぶよした物体に変わった妖魔から、触手のようなものが伸びる
手に持った如意棒をきりきりと回すと、引きちぎられた触手が空中に溶け消えた。
もう、怖くない。
今なら……アイツに勝てる。
慌てたように妖魔が逃走に入る。
逃がさへんで。
如意棒を妖魔に向け、低く呟く。
「のびろ」
ぎゅん、一気に延びた如意棒は妖魔を貫いた。
まるで冗談のようにあっけなく、妖魔はばらばらの塵になった。
じっと手を見つめる。
この力は……一体……。
ゴゴゴゴゴ
何かが振動する、そんな音が聞こえた。
な、なんやねん、これ。く、崩れる!
学校が、というより世界そのものが崩れていく。
あまりの理不尽な仕打ちにうちは叫んだ。
「なんでやねーーーーーーーん!」
◆
「ぶわ!」
飛び起きた。
「へ!?」
ここは……うちの部屋?
ピンクのカバーのベッド。着ている物はキティちゃんのパジャマ。
「な、なんで」
「気がついたか、加護」
突然声をかけられて慌てて振り向いた。
窓の前に立っていたのは……保田さん?
「どうして保田さんが……」
「あたしも驚いたよ。夢魔の気配を追っかけたらここに辿り着いたんだから」
「夢魔?」
ということは……。
「さっきのは夢だったんですか!?」
「そう、あんたの友達から携帯を通して夢魔が移ってきたんだ」
携帯……そうか、昨日の夜の……。
「晴美ちゃんは! 晴美ちゃんは無事なんですか!?」
「大丈夫。あっちも意識を取り戻したって矢口から連絡があったよ」
「よかった……」
それで分かった。
あのフワフワした感じも、力が使えなかったのもあれが夢だったからなんや。
「夢魔は悪夢を見せてその恐怖を自分の力にするんだ。
正直、夢の中じゃあたしたちも手出しができない。
あんただけが頼りだったんだ。
恐怖を克服しなければ夢魔には勝てない。
精神力が弱ければ夢魔に取り込まれるだけ。
でもあんたはそれに打ち勝った」
保田さんの目が優しく細まる。
「加護……よくがんばったな」
「保田さん……」
うちは……一人で妖魔に勝った。
ただ必死だった。
友達を守ろうと必死だった。
だから……なのかもしれない。
少しだけ分かった気がする。
なぜ、先輩たちは強いのか。
なぜ、あんなに戦えるのか。
誰かを守るため。
守るべき人がいるから。
だから……。
あの時、あの力が使えたのはそのせいかもしれない。
うちは少しだけ強くなったような気がした。
ただし、それからしばらくの間、
おばあちゃんと一緒じゃないと眠れなかったことは内緒だ。
〜幕〜
今も時々夢に見る。
あの時のあの光景。
おそらく一生忘れることなどできないだろう。
わたしの運命を変えたあの時のことを。
今も時々考える。
あの時の出来事が夢だったなら。
普通の女の子として生きていけたかもしれない。
でもそれは幻。
手の届くことのない幻想。
そう、わたしは選んだ。
こうして生きることを。
死よりもつらい選択肢を。
Morning-Musume。 in
百 姫 夜 行。 ─
斬!─
―― 紅の羽根
「へっへっへ、よっすぃ〜」
「へっへっへです」
「もお、いいかげんしろってば」
またあの子達。
まったく、毎日毎日何しに来ているんだか。
「なあ、遊ぼーや」
「あそびましょー」
「あのね、あたしは忙しいの」
そうそう、よっすぃー、がつんと言ってやって。
「ほら、またうちの胸に顔を埋めてええから」
「ば、ばか」
むっ、聞き捨てならない発言だわ。
「ちょっと、あなた達」
「でたな、妖怪せっきょう女」
「だれが妖怪よ!」
失礼ね。ぷんぷん。
「うちとよっすぃーの仲を邪魔する気やな」
「あ、あいぼん、辻も入れてください」
「なに言ってるのよ。
とにかく、今日は忙しいから遊んであげられないの!」
「りかちゃん、ヤキモチやいてますね」
「女の嫉妬は醜いで」
「あ、あのねえ」
「ふふん、今日は秘密兵器があるもんね」
「もんね」
「な、なによ。秘密兵器って」
「やれ! のの!」
「へい!」
「じゃーーん」
取り出されたものを見て体が凍った。
「梨華ちゃん。鳥嫌いやねんな」
デフォルメされた体。柔らかそうなくちばし。ふわふわした……羽根。
それは小さなにわとりのぬいぐるみだった。
すっと血の気が引いていく。
「や…やめて……」
「うりうり」
「……お願い……やめて」
体がこわばる。
見たくないのに、その白い羽根から目が離せない。
「ほーら、りーかちゃん」
視界が白く変わってゆく。
舞い散るのは……赤い羽根。
「おい、もうやめろって」
「ええやんか、よっすぃー」
「りかちゃん、とりさんですよー」
「やめて!!」
ぱしん
「あ」
「ご、ごめん。ののちゃん」
「り、りかちゃんが……りかちゃんがぶった……」
「ちょっと梨華ちゃん。叩くことはないやんか」
「ご、ごめんなさい。わ、わたし……」
「ふえーーーん」
「あの……ご、ごめんなさい!!」
「あ、梨華ちゃん!」
よっすぃーの声を後ろに、わたしは部屋を飛び出した。
コンコン
「梨華ちゃん? あたし」
「あ、うん。開いてる」
ドアを開けてよっすぃーが入ってくる。
その顔には心配そうな、それでいて穏やかな笑顔が刻まれていた。
「二人は?」
「もう帰った」
「そう…」
「ねえ、どうしたの? 手を出すなんて梨華ちゃんらしくないよ」
「うん……ののちゃんにはよっすぃーからごめんって伝えといて」
「そりゃ、いいけど……」
問い掛けるようにその目がこちらを見る。
でも、今のわたしにはそれに答えれる余裕は無かった。
「ごめん、ちょっとだけひとりにして……」
「……うん、わかった」
無理やり納得したようにうなずいたよっすぃーは、ドアを開けたところで振り返った。
「ね、なにかあったら、あたしに相談して」
「ありがと、よっすぃー」
ドアが閉まる。
しんと静まり返った部屋はなんだか寒く感じた。
まだ……だめなのね。
もう済んだことなのに……。
◇
あのことがあったせいか、最近二人は遊びに来なくなった。
いつもうるさく感じていたあの子達の声も、なくなってしまうとひどく寂しい。
よっすぃーが訓練をしている間に、事務処理を進める。
報告書のまとめ、必要経費の申請、ナビゲートシステムのチェック。
仕事は山積みだ。
でも今は忙しくしている方がいい。
余計なことを考えなくてすむから。
皮肉なことにあの子達がいない分、仕事がはかどる。
お気に入りのジャスミンティーを飲みながら、送られてきた最新のニュースに目を通す。
めんどくさがってチェックをしないパートナーのために、
必要と思われるところをコピーしてまとめておく。
手が止まったのは、ある名前が目に入ったからだ。
忘れることのできないその名前。
わたしの心に、鋭い痛みとともに刻まれた名前。
あまりの衝撃にその内容が頭に入ってこない。
やがて内容を理解すると、わたしの目の前は真っ白になった。
なにも見えない。
なにも聞こえない。
体がひとりでにがたがたと震え始める。
自分を抱きしめようとした腕が何かに当った。
カシャンとカップの割れる音が遠くに聞こえる。
「そんな……うそ…………」
どうして。どうして。どうして。
答えの無い疑問が頭の中を渦巻く。
またあの光景が頭をよぎる。
吹き付ける強い風。
舞い上がる羽根は赤く染まり……。
それが限界だった。
倒れた時の衝撃は感じなかった。
ただ、床の冷たさだけを頬に感じ、わたしの意識は闇に飲み込まれていった。
◇
「気が付いた?」
「わたし……」
目の前には心配そうに微笑むパートナーの姿があった。
頭をこりこりとかきながら、少し照れたように目を細める。
「いやー、びっくりしたよ。
訓練終わって帰ってきたら梨華ちゃんが倒れてるんだもん」
「……ごめんね、心配かけたね」
「あ、ううん。そんなことはないよ」
あわてて手を振るその姿に、なぜかわたしの目に涙が浮かんできた。
「……聞かせてくれる? なにがあったのか」
まるで人形のようにきれいな二重。
少し目じりの下がったその目が、わたしを優しく見つめた。
「あたしたち、パートナーじゃない。
もっと頼ってくれていいんだよ。あたしのこと」
ベッドに腰をおろしたよっすぃーは、わたしの髪をゆっくりとなでる。
右手の人差し指で涙が拭かれた。
その優しさが心に染み込む。
見上げるとほんわかとした笑顔があった。
あの時と同じだ。
道を見失っていたわたしに光を与えてくれたあの笑顔。
「ありがとう、聞いてくれる? わたしの過去」
ゆっくりとうなずくその顔がわたしに勇気をくれる。
ベッドの横にある端末を引き出し、先ほどのニュースを呼び出す。
「見て」
「どれどれ」
それは無期限の冷凍刑に処せられていた重大犯罪者が、
施設を破壊して逃走したというニュースだった。
「死傷者157名。逃走経路は不明。注意されたし。
ひどいね、これは」
口の左端が上がり、左の眉が下がる。
「なんてやつだ……マグラ・グリフォス……悪そうな名前だね」
「わたしの家族はソイツに殺されたの」
よっすぃーの目が見開かれる。
「わたしのお父さんも宇宙刑事だったの。
優秀な人だったみたい。
悪い人をたくさん捕まえて……。
わたしの憧れだった」
広い背中。
太い腕。
たくましい肩。
懐かしい思い出が蘇る。
「でも、それで恨みを買って……」
良く晴れた午後だった。
わたしの10回目の誕生日。
めずらしく休みのとれた父親を含めて、家族みんなでお出かけ。
お気に入りの服を着て、ちょっとしゃれたレストラン。
幸せに満ち溢れた時間。
でもそれは唐突に打ち破られた。
突然巻き起こる爆風。
逃げ惑う人々。
目も耳も麻痺したように、何も見えず、何も聞こえない。
そんなわたしを後ろから掴んだのは冷たい手だった。
「わたしは人質にとられた。
だからお父さんは手が出せずに……。
わたしのせいで……お母さんもお姉ちゃんも妹も……」
「梨華ちゃん……」
「……アイツはね。クラウス星人なの」
「クラウス……って確か、有翼人……」
「捕まってる間、ずっとアイツの羽根を見ていた。
……お父さんの返り血に染まった羽根を」
「そうか、それで……」
「だめなの……今でも羽根を見ると、あのときのことを思い出してしまう……」
体が震える。
それは恐怖、それとも怒り。
「いっそ、わたしもあの時一緒に死んでいれば……」
「だめだよ! そんなこと思っちゃ!」
肩をつかまれ力強く否定される。
「せっかく助かった命じゃない」
「違うの」
──そう、悪夢はそれで終わりじゃなかった。
「アイツはわたしにこう言ったの」
──むしろ、それは悪夢の始まりだった。
「『良く覚えておけ』って」
固く目を閉じる。
「……わざとわたしを殺さなかったのよ。
自分のせいで家族が殺された……。
その重荷を背負って生きろ。
アイツは…そう思って……だからアイツは……」
「もういいよ、梨華ちゃん」
抱きしめられた。
包み込む腕の強さに怒りが感じられた。
わたしのために怒ってくれてる。
その優しさに胸が熱くなった。
「だからわたしは宇宙刑事になろうと思ったの。
家族の敵をとるために。
でも、わたしが警察学校に入学した年にアイツは捕まった。
わたしの目的は急に無くなったの」
「ショックだった。自分は何をしているんだろうって。
でも悔しい反面、ほっとしている自分に気づいたの。
もう敵をとらなくていいんだ。
もうあんなに誰かを憎まなくていいんだ。
そう思ったの……」
そう思えたのも……。
あの笑顔があったから。
あの笑顔に出会えたから。
でも……。
「それが……それが……なんでいまさら……」
だめだ……。また思いが溢れてくる。
体の震えが止められない。
熱い涙が盛り上がってくる。
「梨華ちゃん」
優しくかけられた声に顔を上げる。
「大丈夫。あたしがいるじゃない。
ここの仕事が終わったら、あたしがこいつ捕まえてあげるよ。
約束する。
梨華ちゃんはあたしが守るから。
だから大丈夫。ね」
ぼやけた視界に、ほんわか柔らかい笑顔。
「……ありがとう」
そう、その笑顔。
あの時と同じ笑顔。
わたしを救ってくれた笑顔。
たぶん、あなたは覚えていないでしょう。
わたしたちが初めて会った日のことを。
不幸という闇の中で、道を見失っていたわたしに光をさしてくれたことを。
でも、わたしはあのときの笑顔が忘れられない。
あなたは知らないでしょうね。
その笑顔にわたしがどれだけ助けられたか。
その笑顔がなければ、わたしはこちらの世界にはいられなかった。
きっと暗闇の中に沈み込んでいたはず。
ありがとう……。
わたしはあなたに逢えて本当によかった。
◇
それから二日たった。
ブリッジで事務処理をしていると、ドアの開く音がする。
振り返ってみると、よっすぃーの後ろに隠れるようにして、
神妙にした小さな二人組が入ってきた。
「あの、梨華ちゃん」
「りかちゃん。この間はごめんね」
「ううん、わたしのほうが悪かったのよ。ごめんね、ののちゃん」
顔を見合わせてもじもじしている二人。
「これ」
と、後ろに隠していたものを差し出す。
もこもことした白い固まり。
顔と思われる辺りに黒いビーズが縫い付けてあった。
これってもしかして何かのぬいぐるみ?
「いちおー、猫のつもりなんやけど……」
わたしの気持ちを読み取ったのか、あいぼんが答えた。
「飯田さんにおしえてもらったんだけど、うまくできなくて……」
見ると、二人の指にはばんそうこうが巻かれていた。
最近顔を見せなかったのはこれを作っていたから……。
「ほら、こうやってみたら猫も鳥もおんなじようなもんやんか」
「りかちゃん、ねこすきだって言ってたし」
「きっと、そのうち鳥も好きになるって。……な」
胸が熱くなった。
「ありがと……ありがと……」
白い固まりをぎゅっと抱きしめる。
そう、わたしは選んだ。
生きることを。
それはつらい選択。
でもわたしは後悔しない。
こうして支えてくれる人たちがいるから。
わたしを明るく照らしてくれる人がいるから。
だから、わたしは前を向いて生きていける。
これからもずっと。
〜幕〜
──── 百 姫 夜 行。
ぴたりと矢口はその足を止めた。
風に乗って運ばれてくるのは微かな──殺気。
ふん、いい度胸してるじゃんか。
軽く拳を握る。
ぱち、と青白い火花が走った。
左右には木々が茂っており、敵の位置はこちらからは見えない。
息を整え相手の出方を伺う。
右!
かわすと同時に地面が裂けた。
うなる風の音が遅れて耳に届く。
積もっていた落ち葉があたりに舞った。
右手を振って雷撃を飛ばす。
手ごたえは……なし。
再び風が刃となって襲い掛かる。
今度の狙いは矢口本人ではなく、横に立っていた樹だった。
「ちっ!」
倒れてくる樹を後ろに飛んでかわす。
それにあわせるように黒い影が飛び込んできた。
影から伸びる鋭い一撃。
「にゃろ!」
左手でさばいてカウンター……っておい!
さばいた腕ごと吹き飛ばされる。
細めの樹をニ、三本巻き添えにしてようやく止まった。
「!!」
さらに追撃を仕掛けようとする影の足元に雷撃が落ちる。
「わっ!」
木立の上でも雷光がきらめき、別の影が落ち葉を揺らして着地した。
ぴょこっと上半身だけ起こした矢口は、見えない誰かに向かって叫んだ。
「りーんねー! うちの新人で遊ぶんじゃないよ!」
「うんうん、さすがは矢口。先輩の実力見せつけたねぇ」
木立から顔を出したりんねは、のほほんとした顔をふにゃりと緩めた。
Morning-Musume。 in
百 姫 夜 行。 ─
斬!─
―― 『シン』のチカラ
「あ、矢口さんいらっしゃい」
「ひっさしぶり、あさみちゃん。元気してた?」
「おかげ様で、ってどうしたんですか? りんねさん」
あさみが引きずられるりんねを見て目を丸くする。
「ちょっとおしおき」
「いーじゃない、あのくらい。おちゃめな悪戯じゃん」
と頬をふくらませるりんねの頭を、矢口は軽くはたいた。
表向きはただの牧場になっているここは、退魔師の秘密の訓練場として使われている。
新しく見習となった子達は、現在ここで一人前になるためびしびし鍛えられていた。
「んで、うちの若いのはどう?」
「えーえー、丁寧にご指導させて頂いてますよ」
「なんか引っかかる言い方だな」
「だってさ、何であたしたちが指導係な訳?」
「しょーがないじゃん。四神の結界は壊れるわ、ドイツからへんな奴らはやってくるわ。
矢口達は死ぬほど忙しかったんだから」
「それは知ってるけど、あたしたちだって前線に出たかったんだよ」
「そんな文句は裕子に言ってよ。
それで、新人ってどんな子達なの? 裕子の奴、何にも教えてくんないんだ」
「じゃ、あたしも内緒にしとこう」
「りんね!」
「いいじゃない、楽しみにしててよ」
のほほん顔が悪戯っぽく笑う。
……こいつ意外と性格悪いな。
「なんかあやしい。ねえ、あさみちゃん、新人の子ってどんな子なの?」
「新人の子ですか? それは……えっと……あのー」
にっこり笑って言いかけたあさみが、急に口篭もる。
「あ、やっぱいいや」
かわいそうだから許してあげよう。
つか、りんね。そんな冷たい目で睨むなよ。
あんたの場合、しゃれにならないんだから。
「……失礼します」
ドアが開いて丸顔の女の子が入ってきた。
両手で持ったお盆にお茶の入った湯のみが3つ。
緊張しているのか、妙におどおどしている。
「あ、この子も新人ね」
「……紺野あさ美です。よろしくお願いします」
「はい、よろしくね」
にかっと笑っていい先輩のイメージをアピールする。
こういう細かい気配りが大切だよね。
しかし、なんかどんくさそうな子だなぁ。
失礼なことを考える矢口の前で、紺野と名乗った少女はそろそろと進み出た。
あぶなっかしくお盆を運ぶその足が、なぜか落ちていたテニスボールを踏んづける。
「ああ!」
よろけた手からお盆が離れ、宙に舞った。
「あぶない!」
あさみの体から白い塊が飛ぶ。
空中でお盆をうまくキャッチした塊は、音も無く着地した。
お茶は一滴もこぼれていない。
床の上に実体化したそれは、白くて大きな犬だった。
「相変わらず見事だねぇ。あさみちゃんの守護精霊は」
「はい、ありがとうございます」
あさみはお盆を受け取り、守護精霊(トーテム)の首筋をなでてやった。
精霊は気持ちよさそうに目を細める。
「……あ、あの、す、すみません」
「ああ、いいよ。それより大丈夫?」
「…はい、ちょっとよろけただけなんで」
「つか、なんでこんなところにテニスボールがあるんだよ」
「おっかしいな、ちゃんとここにしまっておいたはずなのに」
と首をひねるりんねを、矢口は睨む。
そんな矢口に紺野がおずおずと話し掛けた。
「あの…いつものことですから……」
「いつもの?」
「わたし…普通に歩いてても、急に飛んできたボールにあたったり、
よそ見運転していた自転車にぶつかったりするんです。
その代わり、懸賞とかは今まで一回も当たったこと無くて……」
……なんだそりゃ。
確かに幸薄そうな顔してるけど……。
「ああ、紺野。またあとで呼ぶから部屋に戻ってて」
「あ、はい。わかりました」
部屋を出て行った紺野を見送って、矢口は不安そうに聞いた。
「大丈夫なの? あの子」
「あれでも、基礎訓練の覚えは一番早いんだよ」
「ふーん、意外だね」
人は見かけによらないと言うか……。
「そういや、あの子の能力……」
「まま、とりあえずこれでも飲んで……」
矢口の言葉をさえぎるようにりんねがお茶をすすめる。
目元には悪戯っぽい笑み。
……あやしい。
なに企んでるんだ、こいつ。
◇
「高橋愛。15歳です」
「…紺野麻美。14歳です」
「小川真琴。14歳です」
「新垣理沙。13歳です」
「わっかいねー」
「だしょ。最初はあたしもちょっとショックだったさ」
隣で腕を組んだりんねがうんうんとうなづく。
「まあ、後藤が入ってきたときから比べたら、だいぶ慣れたけどさ」
「最近、力が目覚めるのが早くなってるんだって」
「そうなの?」
「うん、矢口が目覚めたのって……」
「中三かな」
「あたしは18だった。でも今じゃ小学生ぐらいで目覚めるんだってさ。寺田さんが言ってた」
「……あのインチキ親父の言うことじゃ当てにならないな」
髪を金髪に染め、青いサングラスをかけた敏腕スカウトの関西弁が思い出される。
ただの趣味じゃないのかよ。あのおっさん。
「えっと、高橋と小川はさっき会ったんだよね」
「……無理やりだけどね」
「ま、あらためて能力を見てもらおうかな。んじゃ高橋からね」
「はい」
すっと前に出た黒いカンフー着を着た女の子。
ストレートの黒髪のすっきりとした正統派美少女といった感じ。
先ほど矢口を吹き飛ばした一撃を放った少女だった。
「あさみー、準備はいい?」
「はーい、OKです」
少し離れた場所に丸太が立てられた。
丸太の前に立ち、軽く礼をして構える。
かかとから膝、そして腰。
見事な螺旋を描いてしなった体から掌底が伸びる。
「は!」
どん、と低い音がして丸太は粉々に砕かれた。
ほお、と感心した声を矢口が出す。
「すごいじゃん」
「はい」
「対妖魔用の武術があるって聞いたことあるけど、これがそうなの?」
「はい」
「いやあ、瞬間的なパワーだけなら後藤並だよ」
「はい」
「……『はい』しか言わないね」
「はい」
……うーむ、緊張してるせいなのか、愛想が無いのか……。
やや戸惑った顔で硬い視線を受け止める。
「次、小川ね」
「はい」
前に出てきたのは、ワイルドな顔立ちの女の子。
再び立てられた丸太を見る目は鋭い。
「いきます」
反り返った指先が顔の前に持ってこられる。
呼気と共に右手が振られると、一陣の風が舞い起こった。
ガタン
音と共に二つになった丸太の切り口はとてもキレイなものだった。
「なるほど、狗法かあ」
狗法とは修験者によって造られた天狗になる法のことである。
11の修行法を修めることにより、10の能力を使うことができる。
風を操るのはその能力の一つだった。
「どうですか?」
「ふむ、なかなかいいんじゃない」
「わたし、すぐに一人で仕事できるようになりますから」
「うん、がんばって」
こちらを見る挑むような視線。
おーおーギラギラしてるねえ。
ま、自信があるのはいいことだね。
「つぎは新垣ね」
「はい」
次に前に出たのはちっちゃい顔した女の子。
つるんとした顔はお豆のようだ。
「この子はどんな能力なの?」
「本人に聞いてみたら? きっと度肝抜かれるよ」
「あの、わたしは魔術を使います」
「あ、エロイムエッサイムとか」
黒いローブを着て釜を棒でぐるぐるしてる図を思い浮かべる。
「うーん。ちょっと違います」
「ちょっとみせてよ」
「はい、わかりました」
うなづいて取り出したものを見て矢口の眉が寄る。
それはおもちゃのようなステッキだった。
ステッキを振り回すときらきらと光がこぼれる。
「リリムス・ララムス・ルルルルー! 看護婦さんになーれ!」
きらめく光が体を包みこむ。
次の瞬間、少女はかわいらしい看護婦姿に変わった。
「…………」
「あの、なにか?」
「いや、何か違う意味で度肝抜かれたわ……」
「すごいっしょ、この子の力。無機物を別のものに変える能力」
「無機物を?」
「そ、服だろうが、石ころだろうがなんでも好きなものに変えれるんだと」
「それって……すごいじゃん」
石ころをダイヤに変えるとか……丸太を金に変えるとか……。
「あの…変化は十分しか持たないんで、変なことには使えないですよ」
「あ、やっぱりね」
ちょっと残念。
「そういや、このステッキはなに?」
「趣味です」
「あ……そ……」
なんか頭痛くなってきた。
「最後は紺野ね」
「あ……はい」
ラストはさっきのぼやっとした顔の子。
「あなたはどんな力持ってるのかなぁ?」
引きつった笑顔で聞いてみる。ちょっとキレ気味だ。
「あの…わたし……なんでここにいるのか……よくわからないんです」
おいおい、大丈夫かよ。
「でもさ、なにか力持ってるんでしょ」
黙ったまま、哀しそうな顔で首をかしげる。
……こっちが泣きそうだよ。
誰か……助けて。
「りーーんねーーーー」
振り返ると、腹を抱えて笑ってる嫌味な女が見えた。
◇
「じゃあ、せっかくだから模擬戦でもしよっか」
「はあ?」
「せっかく”優秀”な先輩が来てる事だし、実戦見せてもらわないと」
ふっくらとした唇がやや皮肉そうにつり上がる。
なーんか企んでると思ったら、そういうことか。
……えらく根に持ってんだな。こいつ。
「んじゃ、チーム分けね。高橋と紺野はあたし。
小川と新垣は矢口と組んでね」
高橋って子は武術使う子か。
りんねは『アレ』だし……。
問題は紺野って子だよね。
りんねのことだから、きっと自分が勝てるようなチーム分けにしてそうだし……。
ふむ。
「あの、先輩」
「あ、ごめん。考え事してた。小川さんと新垣さんだっけ」
「はい、よろしくお願いします。先輩」
「よろしくお願いします」
「ああ、先輩じゃなくて矢口でいいよ」
「わかりました、矢口さん」
「ねえ、あの紺野って子の能力わかる?」
「それが……今までそれらしいところを見た事が無くて」
「本人も自分がどんな能力持ってるか気づいてないみたいなんです」
「やれやれ」
……わざとだな。裕子もりんねもきっと面白がってんだろうな。
「訓練も覚えるのは早いんですけど、なぜかひとりだけ足元に穴があいてたり、
頭の上に物が落ちてきたり……」
「物が?」
「タライとか……」
ドリフかよっ!!
心の中で突っ込む。
……よくわからん……何なんだあの子……。
◇
「んじゃ、後は任せたよ。あさみ」
「はーい。いってらっしゃい、りんねさん」
牧場から少し離れた山の中に向かう。
結界の監視がてら模擬訓練を行う予定だ。
このあたりはあちらの世界と比較的近くなっている。
もともとこの牧場には、そんな場所の監視の目的もあった。
矢口は黙々と隣を歩く高橋に話し掛けた。
「ねえ、あの武術って子供の頃からやってるの?」
「はい」
「矢口も格闘技にはうるさくってさ。ね、今度教えてよ」
「はい」
「でも、大変なんじゃない?」
「はい」
「……あのー、本当に聞いてる?」
「はい」
むう、愛想のない子……。
前に目をやると、自信満々の狗法使いが意気揚揚と歩いているのが見えた。
その隣には、澄ました顔した魔女っ子とぼーっとした訳わからん子。
しっかし、変わった子が集まったもんだね。今回も。
「な、なにこれ……」
りんねの声に目線を上げた矢口の顔にすっと影が差す。
結界の周りの木々が強い衝撃を受けたようになぎ倒されていた。
かすかに煙が上がっているのも見える。
「急ごう」
危機を察した矢口が歩を早める。
「ちっ、やっばいな」
結界として置かれていた巨大な岩は、何かがぶつかったように三分の一が欠けていた。
「なにがあったのよ」
「この感じだと……隕石でも落ちたかな」
「そんなもの、どこにあるっての」
「矢口に聞かれてもしらないよ、そんなこと」
言い争う矢口とりんねの顔が急に引き締まる。
「ったく、模擬戦どころじゃなくなったね」
「まあ、先輩の実力見せるいいチャンスじゃん」
「しっつこいな。りんねは」
「あんたたちは4人で固まっとくんだよ」
事情もわからず中央に固まった新人を、矢口とりんねが挟むようにして位置どる。
やがて、まわりからカサカサという気味の悪い音が聞こえ始めた。
「うりゃ!」
草むらから飛び出してきた影に、雷撃を飛ばす。
ぎい、と声をあげて黒焦げになったのは、猫ほどの大きさの三葉虫に似た妖魔だった。
「この!」
りんねが睨みつけると、妖魔は真っ白な霜をふいた。
地面に落ちた体がガラスのように砕け散る。
全てを凍らせる氷の視線。
りんねの視線は、対象を絶対零度にまで下げる力を持つ。
「くそ、雑魚ばっかりだけど、数が多いよ」
一気に飛び掛る妖魔。
撃ち込む雷撃が間に合わない。
「やば!」
雷撃をかいくぐった妖魔が見えない刃で二つになる。
目が合うとワイルドな新人は不敵に笑った。
……やるじゃん。
「しゃーない、あんたたちも手を貸しな! ただし無理しないようにね」
「わかりました!!」
「はい」
言葉と共に小川と高橋が前後に出る。
新垣と紺野を4人で囲んだ形になった。
矢口の雷撃。
りんねの視線。
高橋の拳。
小川の風。
4人がかりの攻撃は妖魔の死体を大量に作っていく。
立ち込める腐臭と共に、かさかさという音は次第に聞こえなくなった。
「どうやら片づい……ってなんだ!」
地面が振動する。
地の底を何かが這いまわる感覚。
大地を割って姿を現したのはムカデに似た巨大な妖魔だった。
「んにゃろ、大物もいたのかよ」
銀色に光る体に向けて雷撃を飛ばす。
しかし、そのつるつるした表面は雷撃をはじいた。
りんねの視線、小川の風も効果が無い。
あの甲羅…術をはね返すのか。やっかいだな。
つーと、弱点は多分腹だね。
下に潜り込まないと……。
妖魔が頭から突っ込んでくる。
散開した六人の中央に鋭い牙が突き刺さった。
そのまま妖魔は再び地面に潜っていく。
「紺野!」
妖魔の牙がかすめたのか、紺野の右足から鮮血がほとばしっていた。
「だ、大丈夫です」
「みんな! 気をつけて!」
紺野を中心にこちらも体制を整える。
再度、妖魔が姿を現したのは、結界石の真下だった。
持ち上げた岩を勢いよく飛ばす。
「聖雷撃!」
飛ばした雷撃が岩の表面を削る。
やばい、でかすぎる! 勢いが止まらない!
足を怪我した紺野がいる。逃げるわけにもいかない。
あせる矢口の目の前で、きらきらと光が舞う。
「リリムス・ララムス・ルルルルー!」
岩は一瞬で大量の花びらに変わった。
「えらいぞ、お豆!」
「お豆って……」
花びらを突き抜けて一気に走る。
狙いは腹。
花びらが目隠しになったのか、敵の死角まで潜り込むことができた。
よし、ここまでくればあいつの牙は届かないはず。
「矢口さん! ひってもん危ない!! よけておくんねの!!」
な、なんだ!? 顔を上げた矢口に向かって、妖魔の背中から複数の爪が伸びる。
うげげ、そんなのアリ!? きーてないよー!!
くっそ、こうなったら、いちかばちか走り抜けてやる!
足に力をこめさらに加速する。
しかし、敵の爪のほうが早い。
勢いを止めない矢口の目の前に鋭い先端が迫った。
やっばい、間に合わない! やられる!
思わず奥歯を噛み締めた矢口の足が、何かを踏んづけた。
「んな!」
ずるっと滑ったことで下がった頭を妖魔の爪がかすめる。
走ってきた勢いのまま、小さな体は草むらの上を滑った。
「う、うそ!」
不本意なスライディングをした矢口の目の前には、柔らかそうな妖魔の腹があった。
「せ、聖雷撃フルパワー!」
予想通り、甲羅の無い腹に雷撃を食らった妖魔はのたうち回る。
無防備にさらされた腹が、真っ白に凍りつき、さらに十字に切り裂かれた。
黒い塵と化す妖魔を見ながら、矢口は先ほど踏んづけたモノを蹴飛ばした。
これも塵になっていくそのモノは、先ほど倒した三葉虫の死体だった。
こんなのあり?
なんか変な感じだ。
まあ、ラッキーだったけどさ……。
他の五人が集まってきた。
その中の黒いカンフー着を見て、先ほどの声を思い出す。
「そういえばさっきの……」
「あ、あの……」
高橋は恥ずかしそうに俯いていた。
「……もしかして、ずっと『はい』しか言わなかったのって」
「あの…うら訛ってるんで……」
高橋の白い肌が耳まで真っ赤に染まっている。
なんだ、かわいいじゃん。
ぐるりと周りを見渡す。
ま、考えてみれば初めての実戦でここまでやったんだしね。
はは、なかなか優秀かもね。今回の新人。
◇
「おかえりなさい、りんねさん」
「ただいま、結界の手配してくれた?」
「はい、すぐに復旧するようにしときました」
「ありがと。……いやあ、それにしても疲れたねえ」
そう言って、りんねはがっくりと椅子に座る。
「まったく、ひどい目に会ったよ」
同じように椅子に座った矢口は、あさみの入れたホットミルクを啜る。
「ま、結果オーライだね。4人ともしっかり結果を出してくれたしさ」
「ねえ、りんね。結局、あの紺野って子の力ってなんだったのさ」
「なーんだ、助けてもらったのに気づかなかったんだ」
「……どういうこと」
「むふふ、内緒」
「殴るよ」
「じょ、冗談だって。あの子はね……『座敷わらし』だよ」
「ざしきわらしぃ!?」
「あの子は味方に対して幸運を運んでくる。そういう力をもってるの」
「んじゃ、まさか、あの時矢口が転んだのは……」
「そ、あの子の力だね」
……まじっすか。
そりゃまた、すんごい能力だよ。
「あれ? その割にあの子運が悪いよ」
「うーん、幸運の量ってトータルで一定の量しかないみたいなんだよね」
「……つーことは、まさか」
「大きな幸運を得るためには」
「いっつもちっちゃな不幸が付きまとうって事か」
……うーむ、うらやましいような、うらやましくないような。
部屋の外で何かがひっくり返る音が聞こえた。
なんだか大騒ぎしている声が聞こえる。
……やっぱりうらやましくない。
はあ、大丈夫かな、今回の新人……。
〜幕〜
──── 百 姫 夜 行。
小さな部屋だった。
白いレースのカーテンがかかった大きな窓。
淡いグリーンのカーペットの敷かれた床には、大きなテディベア。
部屋のあちらこちらには、様々な人形とぬいぐるみ。
そして──
色とりどりの積み木を手にしているのは、小さな女の子。
ブルーと白のエプロンドレス。
柔らかくカールした髪。
透き通るような白い肌に薔薇色に染まった頬。
まだ、義務教育にも達していないだろう幼い娘。
明るい色彩に彩られた部屋には、
少女だけがまるで取り残されたようにポツリと座っていた。
かちゃり、とアイボリーのドアが開き、柔らかい微笑を見せる顔が現れた。
「こんにちはー。あらー、こんなところにひとりでいるのかい?」
「おねえちゃん、だれ?」
少女はつぶらな瞳をぱちぱちとさせて問い掛ける。
見たものを安心させるような満面の笑みを浮かべ、優しい声が語りかけた。
「ふふ、お姉ちゃんはね、あなたと遊びに来たんだよー」
「ほんとお! あたしひとりでさみしかったの!」
その笑顔に答えるように、少女の顔も笑顔に変わる。
「もう大丈夫だよ、お姉ちゃんがいるからね」
「わーい! あ、おねえちゃんのおなまえは?」
ぽかぽかと暖かい午後の陽だまりを思わせる顔が、澄んだ声で名を告げる。
「お姉ちゃんの名前はね。なつみ、安倍なつみっていうんだよ」
Morning-Musume。 in
百 姫 夜 行。 ─
斬!─
―― しゃぼん玉のうた
◇
「あなたが……安倍なつみさんですか?」
「はい、はじめまして」
戸惑いを見せる依頼人に、すっぽりと被っていた毛糸の帽子を取って微笑む。
地味な色合いのロングスカート。
小さな体に不釣合いなほど、もこもことした白のダウンジャケット。
着膨れしたその姿は、まるで気の早い雪だるまのようだ。
──とても凄腕の退魔師には見えない。
不安そうな顔をした依頼人は頭を振り、それでも意を決したように話し始めた。
「あなたにお願いがあります」
「はい。なんでしょう」
にこにこと屈託の無い笑顔。
「娘を……結花を助けてください」
◇
「さあ、結花ちゃん。何して遊ぶ?」
「うーんとね。うーん」
「積み木がいい? それとも、お人形遊び?」
「あ、そうだ! ねえ、おうたうたって」
「いいよぉ、何の歌がいいかなあ?」
「結花『しゃぼんだまのうた』がいい。ママがすきなうただったの」
「うん、わかった」
軽く微笑んだ安倍はすぅっと息を吸い込む。
伸びやかで柔らかな歌声が部屋の中に響いた。
しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ
屋根までとんで こわれて消えた
かぜかぜ吹くな しゃぼん玉とばそ
「うわあ、おねえちゃん、おうたじょーずだね」
「ふふ、ありがと。ね、一緒に歌おっか」
「うん!」
「いくよー、さんはい!」
◇
「結花の周りで異変が起き始めたのは、2週間前になります」
沈痛な面持ちで依頼人──草田憲次は語った。
会社役員をしているというその恰幅の良い姿も、翳った顔のせいか小さく見える。
立派な屋敷に相応しい品の良い応接室も、なにか澱んだ暗い雰囲気を隠せずにいた。
「最初はあの子が寝ている部屋で、何か人の気配がするのに気がついたんです。
それなのに、ドアを開けても部屋の中には誰もいませんでした。
そんなことが2、3日続いて……」
やがて異変は顕著に現れはじめた。
パチパチとどこからとも無く音が聞こえる。
だした覚えの無いものが部屋に散らばる。
二階の窓に奇妙な手形がつく。
「そしてついに見てしまったんです。
……窓の外を黒い影が飛び回っているのを」
草田はその光景を思い出したのか、ぶるっと身を振るわせた。
「あの子は私が年をとってから生まれた子でしてね。
それこそ、目の中に入れても痛くないほどかわいいんですよ。
それに……」
言いかけて眼鏡を外し、ふと遠い目になる。
「あれの母親も、つい二ヶ月ほど前に亡くなりました」
「もともとあの子を産んでからずっと体調を崩していたんですが……。
だからこそ、あの子だけは守ってやりたい。そう思っているんです。」
ふうー、と長い息が口を吐いて出た。
「知り合いの祈祷師にお願いしたら、自分の手には負えないと。
そこで、あなたを紹介していただいたんです」
そこで、目の前の童顔の退魔師を不安そうに見る。
「わかりました。結花ちゃんは私が助けます」
「しかし……」
半信半疑な依頼人に、にっこりと笑いかけ、
安倍は右手を宙に上げると、伸ばした人差し指と中指で何かを挟んだ。
顔の前に持ってきた指の間には、きいきいと小さな声を上げる黒い塊があった。
依頼人は目を丸くする。
安倍がふっと息を吹きかけると、黒い塊は千路に乱れ消えた。
「大丈夫、任せてください」
穏やかな笑顔を見つめる目は、先ほどまでとは違う真剣なものに変わっていた。
「なるほど、わたしは人を見る目が無い。
噂どおりの実力なのですね。失礼しました。
……それで、これから一体何を」
「とりあえず……結花ちゃんと遊びます」
「は?」
思いも寄らない答えに、思わず言葉が詰まる。
「思いっきり、元気良く遊びます!」
そう言うと安倍は、澱んだ空気を吹き飛ばすような輝く笑顔を見せた。
◇
「あはは、おもしろーい!」
「ふふふ、楽しいかい?」
「うん! ゆか、さいきんおうちの中から出られなかったから、
こんなにあそんだのすごくひさしぶりなの」
「そう、それならよかった」
「ねえ、おねえちゃんもたのしい?」
「うん、結花ちゃんと一緒に遊べて、とっても楽しいよ」
「よかった!!」
小さな体が飛びついてきた。
その体を受け止め、幼い少女を軽く抱きしめてやる。
「ゆか、ずっとこわかったんだ。
ある朝目がさめたら、パパからおへやにずっといなさいって言われて……。
それから毎日一人であそんでたら、なんかへんなくろいものがおうちの中に
たくさん集まってきて……。
ねえ、おねえちゃん。あれっておばけなのかなあ……」
安倍のセーターを掴む指に力がこもる。
だが次の瞬間、安倍のほうを見た顔はにっこりと微笑んでいた。
「でも、今はおねえちゃんがいるからこわくないよ」
そう言うと、少女は暖かなその体にぎゅっとしがみついた。
「ねえ、もういちどおうたうたって」
「いいよ」
再び、部屋の中に『しゃぼん玉』のメロディーが流れる。
「……おねえちゃん」
少女は柔らかな胸に顔を埋め、うっとりと目を閉じた。
「ん? どした」
「おねえちゃん……ママのにおいがする」
安心しきったように身を任せてくる少女の髪を、安倍は優しくなでてやる。
「あのね、ママはとおいところにいっちゃったんだって。
パパがおしえてくれたの。
そこは、ゆかが行けないくらい、とおいところなんだって」
安倍は少女を抱く手に力をこめる。
幼い子を見る目は慈悲深く、しかしどこか悲しい色をしていた。
「結花ちゃんは、ママに会いたいかい?」
「……あいたい。ゆか、ママにあいたい……」
すうっと、部屋の照明が翳る。
「もう、時間か」
日の落ちかけた窓の外は薄紫に染まっていた。
パチパチと部屋のあちこちで音がする。
棚に置かれた人形がひとりでに落ち、窓の外に黒い手がぺたぺたと手形をつけた。
「おねえちゃん……」
「いいかい、結花ちゃん。お姉ちゃんにしっかり掴まっとくんだよ」
「うん、わかった」
すっと横に伸ばした右手には一振りの木刀が握られていた。
左手で少女を抱きかかえたまま立ち上がる。
安倍の体は淡く光を発していた。
蠢く影たちはその光を怖れて近寄ろうとしない。
「おねえちゃん、これなんなの?」
「澱んだ気に反応して集まってきた低級霊だよ。
音を出したり、物を動かしたりするくらいしかできないから大丈夫」
少女はこわごわ影を見ている。
すっと、安倍の目が細められた。
部屋の壁に邪悪な気が集まっているのを感じる。
白い壁に黒い染みが墨をこぼしたように広がった。
染みの中から、低級霊とは比べ物にならないほど、禍々しい影が姿を現す。
「やっぱり悪霊が狙ってきていたのね」
鋭い視線を向ける安倍に、影から針のような触手が伸びた。
一本を切り落とした隙に、別の触手が首に絡みつく。
肌に触れたところから生気が吸い取られてゆく。
すうっと体の輝きが弱まった。
木刀を持った右手にも別の触手が絡みつく。
「おねえちゃん!」
目を見開いて叫ぶ少女にも、黒い触手が伸びた。
おもわずそのつぶらな目が閉じられる。
かっ、とまるでフラッシュでも炊かれたかのように部屋の中が輝いた。
それは光の強さに反して、柔らかく暖かさを感じる光だった。
安倍に絡み付いていた触手がぼろぼろと崩れ落ちる。
額に光を宿した念法使いは、静かに妖魔を見据えた。
ぐお、と声をあげて影が飛び掛かる。
すいっと木刀が風を切った。
流れるような一閃。
その一撃だけで、影はバラバラに崩れ去った。
「すごい! おねえちゃんつよいんだね。おばけをたおしちゃった!!」
興奮する少女を、安倍は静かに見下ろした。
「やっぱり、これ以上は無理なんだ……」
「おねえちゃん? どうしたの?」
「ううん、なんでもない。さ、行こう」
「どこへ?」
何かを振り切るように、安倍はすっくと前を向いた。
「──全ての元凶のところへ」
目の前には分厚いドアがあった。
真鍮のノブに手をかける。
ドアを開けたとたん、澱んだ瘴気と共に、妖気の塊が迫ってきた。
ふっと、安倍の右手が下から上へ跳ね上がる。
木刀の一閃で、向かってきた妖気はあっさりと晴れた。
くるり、と木刀を逆手に持ち替え、床に一気に突き立てる。
ごお、とまるで突風が吹き荒れたかのような感覚。
そしてその後には、耳が痛くなるほどの静寂。
翳っていた部屋の照明が元に戻る。
屋敷に漂っていた妖気は、消え去っていた。
木刀を手にたたずむ安倍の額には、輝くチャクラの光。
「やっぱり、あなただったんですね」
安倍の声にも中からは、何の反応も無い。
部屋の中央で頭を抱える人物を見て、結花が声を漏らした。
「……パパ」
「やはり、私には人を見る目がないらしい。
あなたは噂以上にすごい人だ。あの影を倒してくれるだけでよかったのに……。
──全て、気が付いたんですね」
ゆっくりと安倍がうなづく。
「結花……少しの間、部屋の外で待っててくれるかい」
「でも……」
「大丈夫、お姉ちゃんはパパとお話があるだけだから……」
「おねえちゃん……」
少女を部屋の外に出し、安倍はドアを閉めた。
部屋の中央に向き直り、静かに声を出す。
「この家に入った時から気がついていました。この香り……反魂香ですね」
『和漢三才図会』によれば、反魂香とは反魂樹から作られた香の事である。
その香の働きは……。
──死者の魂をこの世に留めるという。
「結花ちゃんは…………亡くなっていたんですね」
「ほんの少し……ほんの少し目を離しただけだったんだ……。
それなのに……結花は……結花は……」
「事故……だったんですか」
「階段で…一人で遊んでいて……気が付いたら……」
がっくりとその首が折れる。
「妻が死んだとき、ある男から魂をつなぎとめるという香を買った。
なにがあっても、あの子を失うわけにはいかない。そう思った。
だから……」
「あなたのその思いが、あの子を縛り付けているんです」
退魔師は静かに語った。
「この世に残された魂は、悪霊に狙われます。
もし、悪霊に取り込まれたら、結花ちゃんの魂は二度と救われない。
……いえ、このままだと、結花ちゃん自身が悪霊になってしまうかもしれない」
「わかっている。しかし……。しかし……」
苦悩する男は両手で頭を抱えた。
その姿を見た安倍は、目を閉じ軽く息を吸い込む。
その口から緩やかなメロディーが流れた。
しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ
屋根までとんで こわれて消えた
かぜかぜ吹くな しゃぼん玉とばそ
「奥さんの好きな歌だったそうですね。結花ちゃんから聞きました」
歌の余韻の残る部屋に、澄んだ声が響く。
「このうたは作詞家の野口雨情さんが、亡くなった幼い娘さんのためにつくった
悲しみの歌だそうです。
しゃぼん玉はその子の魂を、風が吹くのは残された親が子供と離れたくなくて
魂を引き止めてしまってるから。
だから、しゃぼん玉はこわれてしまう」
顔を伏せた父親は一言も発しない。
「でも、悲しんでいてはいけない、天国へ行かせてあげなければ。
その思いが『かぜかぜ吹くな、しゃぼん玉とばそ』という歌詞にあらわれている。
そう聞きました」
「わたしは……わたしは間違っていたのか……。
あの子を……あの子を失いたくない。
この気持ちは……間違いだったのか……」
「親が子供を失いたくないと思うのは当たり前のことです。
でも、自然の摂理に逆らってはいけない。
……あの子をきちんと天に送ってあげてください」
「……わかっていた。自分のやっていることが間違いだということも。
それでも私はあの子を失いたくなかった……」
「まだ間に合います。悪霊に取り込まれる前に」
男は顔を上げた。
涙に濡れた目が、慈悲深い瞳を真っ直ぐ見詰める。
「一つ聞きたいことがあります。
この家に入ったとき、すぐにこのことに気が付いたんでしょう?
なぜ、今まで待っていたんです」
安倍はほんの少しだけ目を伏せる。
「……思い出を……少しでも楽しい思い出を作ってあげたかったから……」
それを聞いた父親は、目を閉じソファーにぐったりと身をゆだねた。
「……ありがとう。
お願いします。結花を……結花を…送ってやってください」
「──わかりました」
再び部屋に入ってきた少女は、雰囲気を感じ取ったのかかすかに怯えていた。
「結花……おまえはママのところへ行くんだ」
「ママのところへ?」
「そうだ。ママに会いたかったんだろ?」
「パパは? パパはいっしょにいかないの?」
「パパは……パパは……」
「結花ちゃん」
少女の目線までしゃがんだ安倍は、優しく声をかけた。
「パパはまだ結花ちゃんと一緒には行けないんだ。こっちでまだお仕事があるから。
しなくちゃいけないことがあるから。だから……ね」
アーモンドのように大きな瞳を少女はじっと見つめた。
「結花…パパは……おまえと一緒に……」
くるりと、父親に向き直った顔は、満面の笑みに包まれていた。
「ううん、ゆか、ママといっしょだからさみしくないよ。
パパがくるまでずっとまってるからね。
だからがんばってね。パパ」
その言葉を聞いた父親はぐっと奥歯を噛み締める。
わずかに潤んだ瞳が愛しい娘を見つめた。
静寂が部屋を流れる。
目を開けた父親は、ふっと息をつき搾り出すように言葉をつむいだ。
「……わかった。パパがんばるよ」
「おいで、結花ちゃん」
安倍が両手の中に少女を招きいれる。
二人の体が柔らかな光に包まれた。
神々しいまでの輝き。
頭上に輝く天使の輪。
「あったかい……。とってもきもちいい」
目をつぶった少女は顔を天に向ける。
光が全てを包み込む。
世界の全てが白く変わってゆく。
光が上昇を始めた。
きらめく輝きが天に昇ってゆく。
「あ、ママだ。ママー……」
少女の幸せそうな声が徐々に遠のいていった。
光に包まれた世界の中で、幼い声がかすかに響く。
「おねえちゃん、ありがとう……。ありがとう……」
「さよなら、結花ちゃん」
微笑む顔は陽だまりのように暖かく、天使のように慈悲深く。
安倍はゆっくりと目を閉じた。
もこもことしたダウンジャケットのポケットに両手を入れて、
安倍は一人冷たい風の中を歩いていた。
通り過ぎようとした小さな公園から、幼い少女の声が聞こえる。
その声にふと足を止めた。
公園の中から、厳しさを増した風にのり、きらきらと虹色に輝くしゃぼん玉がとんでくる。
こわれることなく天に昇ってゆくその姿を見送りながら、
安倍の口から小さく旋律がこぼれた。
その歌声は優しく、そして静かにあたりに流れていった。
しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ
屋根までとんで こわれて消えた
かぜかぜ吹くな しゃぼん玉とばそ
〜幕〜
──── 百 姫 夜 行。
黒いロングコート。
黒のハイネックセーター。
ゆったりとしたシルエットのパンツも黒。
コツコツと音を立てるパンプスも当然黒。
全身を黒に染め上げた糸使い、保田圭は夜の街を一人歩いていた。
すっと真っ直ぐ伸びた背筋。
ネオンを映す、きりっとした大きな猫目。
早すぎず、遅すぎない優雅な足取り。
まさにシックでクールな大人の女。
コートのポケットに手を入れて歩くその姿には、
なにか周囲を圧倒するようなオーラさえ感じられた。
その足がある場所でぴたりと止まる。
全てを見通すような鋭い視線が一点に注がれた。
すっとその目が細まり、唇の端が軽く吊り上がる。
何かを確信したように、再び足が動き始めた。
長年培ったカンが、ここだと告げている。
目標を見据える目は厳しく鋭い。
指先の空いた皮の手袋をはめた手が、がたがたと音を立てる扉を開く。
むっとむせ返る熱気を吹き飛ばすかのように、保田は大きな声を出した。
Morning-Musume。 in
百 姫 夜 行。 ─
斬!─
―― マリオネットの憂鬱
店内は7分ほどの入りだった。
コの字型になったカウンターに腰を下ろす。
こういうちょっと小汚い店がおいしいラーメン食べさせてくれるのよね。
あたしのカンに狂いは無いわ。
シックでクールな仮面を取り外す貴重な瞬間。
仲間には内緒の大切な時間。
手酌でビールを飲みつつ、静かに出来上がりを待つ。
「へい! おまち!」
威勢のよい声と共に、どんぶりと皿が目の前に置かれた。
まず目に入ったのは白い皿に置かれたギョウザ。
ちりちりと音を立てる皮は、香ばしいにおいを振りまいている。
おもわずごくりと喉が鳴った。
口に運び、肉厚の皮を噛むとさっくりと音を立てた。
程よく焼きあがった表面が破れると、中からアツアツのスープがじゅわっと溢れる。
──うまい。
おそらく、ミンチの中に上質の脂身を混ぜ込んでいるのだろう。
甘く香る肉汁が口いっぱいに広がる。
こってりとしたその味わいと、さっぱりとしたショウガの香りが絶妙に絡み合う。
余分なものは入っていない。
シンプルにして深い味わい。
やっぱりあたしの目に狂いは無いわね。
満足して今度はラーメンに取り掛かる。
これもシンプルにチャーシューとネギだけ。
澄んだ鶏がらスープに醤油の黒が映える。
湯気の立つどんぶりを手に、すっと息を吸う。
すっきりとした香りが食欲を刺激した。
まずはひと口スープをすする。
しつこさは全く無い。よっぽど丁寧にアクをとっているのだろう。
舌の奥のほうにうまみが広がる。
これは多分干物……カツオのだしか。
うん、あっさりしている割にコクがある。
ついつい、ほころんでしまう顔で、麺に箸を入れる。
つややかなストレート麺がもわっと湯気を立てた。
ふうふうと息を吹きかけ、一気に口に。
その瞬間、対面に座っている女性客が目に入った。
ずるずるずる……ごふっ!!
「ハーイ。おひさしぶり」
苦しそうにむせる保田にひらひらと手を振るのは長髪の女性。
日本人離れしたその仕草。
「な、なんであんたがこんなとこにいるのよ……」
CIA所属『スモールアーミー(小さな軍隊)』コマンダー・アヤカは、
芝居がかった仕草でウインクを見せた。
「どう? 元気にしてたかしら」
と、隣の席に移動してくるにこやかな顔を、保田は憮然と見上げる。
すっかり食欲がうせた。どんぶりの中の麺を箸でぐるぐるとかきまわす。
「あんたこんなところで何してるのよ」
「もちろん、あなたを待ってたに決まってるじゃない」
「なんであたしがこの店に入るって分かったのさ」
この店に入ったのは初めてだ。あらかじめ待ち伏せできるとは思えない。
にやりと笑ったアヤカは髪を掻き揚げる。
その目が白く輝いた。
「ペンタゴンのスーパーコンピュータを使えば、
あなたの趣味、嗜好から、行動を予測することなんか簡単よ」
……ったく、無駄なことに金使ってるわね。こいつら……。
「それで、何の用なの」
「仕事を依頼しようかと思って」
「仕事?」
「そう、仕事」
茶目っ気たっぷりの顔でアヤカはうなづく。
「私の仲間で一人脱走した娘がいてね。捕まえるのに協力してほしいのよ」
「……さらりと怖いこと言ったわね。今」
米軍の総力をあげて開発されたサイボーグソルジャー。
そこから脱走したものがこのあたりをうろついているなど、
とても笑顔で語っていい内容ではないだろう。
「大丈夫。そんなに悪い子じゃないのよ。ただ、感情が不安定になってるだけで……」
「充分まずいんじゃないの、それ」
アヤカはその問いに答えず、にやりと笑う。
保田はふう、とため息をついて別の疑問をぶつけた。
「なんで、あたしなの? あんたのとこでやればいいでしょ」
「理由は4つあるわ」
アヤカは細長い指を一本立てる。
「まず一つは街中での任務になるということ。私達の装備じゃハデ過ぎるのよ」
確かに街中でミサイルをぶっ放されても困る。
「二つ目はあなたは私達に借りがある」
「借りって?」
「あら、命の恩人を忘れたの?」
「ぐ………」
確かに伊勢神宮の地下から救ってもらった恩はあるが……。
「でも、あれは……」
「三つ目の理由は……」
抗議の声をさえぎって三本目の指が立てられた。
「誰かが危機に会おうとしている状況を、あなたは見過ごすことはできない」
……くそ、痛いところをついてくるわね。
確かに聞いてしまった以上、もうほおっておくわけにはいかない。
こちらの行動を読まれているのは癪に触るが、ここは仕方ないか。
保田はアヤカの顔を睨み、せめてもの悪態をつく。
「あたしは高いわよ」
「素敵なディナーをご馳走するわ。……ホルモンとか」
……どこまでリサーチしてるってのよ。全く。
ムカツクわね。こいつ。
「クスクス、冗談よ。そんな怖い顔しないで。
もちろん報酬は用意するわ。それに、これが4つ目の理由だし」
「どういうこと?」
「──必要なんでしょ。お金が」
ざわついていた店内が静寂に変わる。
まるで金縛りにあったかのように凍りついた人々。
空気の温度も急激に下がったように感じられた。
「ソ…ソーリー……。今のは失言だったわ……。
撤回する……忘れてちょうだい……」
痺れたように固くなった舌を無理やり動かしてアヤカが言った。
再び店内が音を取り戻す。
何事も無かったかのようにラーメンが作られ、ギョーザが食べられた。
アヤカはそっと額をぬぐう。
ぐっしょりと汗をかいているように感じたが、肌は乾ききっていた。
感覚がどこか狂っている。
──先ほどの殺気のせいで。
「……と…とにかく、協力してもらえるかしら」
「いいわ、それで何をすればいいの」
冷静な口調で保田が聞く。
サイボーグソルジャーを凍りつかせた殺気は、どこかへ消えていた。
ごくりとつばを飲み込み、アヤカはいつもの調子を取り戻した。
「彼女の居場所はわかっている。そこへ向かいましょう」
「えらく慎重ね。
居場所がわかっているんなら、お得意の力技を使えばいいじゃない」
「それができないから、あなたに頼んでいるのよ」
「どういうこと?」
「彼女のコードネームはマリオネット」
余裕を取り戻したアヤカは薄く微笑む。
「──彼女は人を操るの」
◇
目の前にはネオンに彩られた看板があった。
入り口にまで大音量の音楽がもれてきている。
保田は隣のアヤカと目を合わせた。
「ここ?」
「そう」
保田はさきほどのアヤカの言葉を思いだす。
『テレパス?』
『Yes、彼女は増幅された脳波で他人の体を操るの』
『やっかいな相手ね』
『だからうかつに近づくわけには行かないのよね』
『それでアタシな訳か』
『そういうこと』
「彼女が人を操るためには、いちど相手の目を見なければならない。
あなたなら彼女と目を合わせることなく、簡単に捕まえられるはずよ」
「OK、わかったわ」
離れた位置から店内に糸を忍ばせる。
無数の糸が内部の状況を伝えてきた。
大音量と共に踊り狂う男女。
その熱気までが糸を通して伝わってくる。
指先をかすかに動かして糸を操る。
目標のデータは頭に入っていた。
日本人とは微妙に異なるその体型を探す。
……おかしい。
「……いないわ」
「そんなはずは……」
そのとき糸が異変を伝えてきた。
店内には相変わらず大きな音が鳴っているにも関わらず、
人々の動きがぴたりと止まっている。
「まさか……」
周囲に目を走らせる。
いつの間にか人による輪が出来上がっていた。
「全く、いい女はつらいわね」
「Oh!
It's a nice
joke」
「どういう意味よ!!」
見張っていた店の入り口からも人が溢れ出してきている。
見る間に二人の周囲は人で溢れ返った。
うつろな顔で取り囲む人たちを見て、保田はひょいっと肩をすくめた。
「ナンパにしては多すぎるわ」
「あら、してもらえるだけ良いじゃない」
「いちいちムカツクわね。あんた」
不意に人の輪が縮まった。
中心の二人に無数の人間が殺到する。
「ち!」
アヤカを抱え、保田の体は宙に飛んだ。
そのすぐ下で、大勢の人間がぶつかりあう。
ビルの屋上に結んだ糸にぶら下がり、保田はその光景を見下ろした。
「それにしても、街の人間全員を操るなんて……。あの娘も無茶するわね」
「あんたの情報がいいかげんだからこんなことになるのよ」
人ごみから空き缶や小石などがとんでくる。
左手の糸がそれらを全て切り裂いた。
「この中に混じって逃げ出すつもりかしら」
「いいえ、こういう場合彼女なら……」
ふと、ビルの窓に目がいった。
そこには緑色に光る二つの目。
「うわああ!」
頭の中にぞわりと何かが入ってくる。
体が動かない。
保田達は、再び開いた人の輪の中に落ちていった。
「こちらの思惑通りだったわね」
ビルの入り口から姿を見せたのは、東南アジア系の顔をした女性だった。
「くっ!」
「無駄よ、コマンダー。あなたの動きは止めさせてもらったわ」
「やめなさい、エイプリル。あなたは今、感情的になってるだけなのよ」
「そんなことはないわ。わたしは知っている。
みんながわたしのことをどう思っているのか。
みんな……わたしを化け物だと思ってるのよ!」
「エイプリル! あなたは感情面の調整がうまくいっていないだけ。
それで疑心暗鬼になっているんだわ!」
「そんな嘘なんか信じない。こんな助っ人まで呼んでわたしを殺そうとしてるくせに」
「違うわ! エイプリル!」
「もう黙って。わたしは逃げるわ。死にたくないもの」
「エイプリル!!」
「でもその前に……」
エイプリルは座った目つきで保田を見据えた。
「この女を使って、わたしを殺そうとしていたのね。
いいわ。逆にこの女を使ってコマンダー、あなたを殺してあげる」
「やめなさい!」
「無駄よ。わたしの目を見たものはわたしに操られるしかない」
そういって、にやりと不気味に笑う。
その目が再び緑色に輝いた。
「さっき見ていたわ。あなた不思議な糸を使うのね。
それでコマンダーの首を切り落としなさい」
保田の右手がゆっくりと上がる。
くっ! そんな思い通りに……。
奥歯を噛み締める。
だが、意に反して腕の動きは止まらない。
「無駄よ」
冷たい声をエイプリルは出した。
「今のあなたはマリオネット。人形が私に逆らうことなんかできないわ」
──人形。
ぴくりと保田の体がその言葉に反応した。
上がりかけていた手が動きを止める。
「……いやだ」
エイプリルの眉が寄った。
今の保田は声を出すこともできないはず。
「なに!? 抵抗するの?」
よほどの精神力がなければ、この呪縛をとくことはできない。
現に今まで自分に操れないものは無かった。
信じられない思いで保田を見る。
保田の脳裏に一体の人形が浮かんでいた。
だらりとした手足からは糸が空中へと伸びている。
糸の先端は見えない。
だが、糸が引かれるたび人形はカタカタと動いた。
「あたしは……あたしは……」
「くっ! おとなしく操られていなさい!!」
エイプリルの目が輝きを増す。
脳裏に浮かぶ人形は頭を下げていた。
糸とともに体が立ち上がる。
人形はゆっくりと頭を上げた。
そこに刻まれた顔は……。
「いやだ……。あたしは……あたしは人形なんかじゃない!!」
保田の顔がぐいっと上がる。
「そんな……。動けるはずが……」
信じられないものを見るようにエイプリルの目が見開かれた。
慌ててナイフを取り出した手が動きを止める。
吹き上がる激痛。
目の前が真っ白に変わる。
強化された神経も、厳しかった耐久訓練も関係ない。
脳内が焼ききれるかと思うほどの痛みに、意識はあっさりと途切れた。
周囲に集まっていた大勢の人間も、皆ばたばたと気を失って倒れた。
動かなくなったエイプリルに、アヤカがヘアバンドのようなものをかぶせる。
「これで、テレパスを使うことはできなくなるわ。
あとは私たちに任せてもらっていいわよ」
にっこりと笑ったアヤカが右手を差し出す。
「ありがとう、ケイ。予想外の出来事はあったけど、あなたのお陰で助かった。
本当にあなたには感謝するわ」
「どこまで……」
「え?」
「どこまで予想していたの? あなたのコンピュータは」
表情を消した目で保田はアヤカを見た。
「…………」
同じように表情を消してアヤカはその目を見つめ返す。
「あなたの計算通りだったんじゃないの? 最初から」
冷たい風が夜の街を吹き抜ける。
向き合う二人はそのまま無言で立ち尽くしていた。
◇
コツコツとリノリウムの床が硬い音を響かせる。
深夜の病院の地下。
面会時間をとっくに過ぎたその場所を、保田は一人歩いていた。
この場所に来るのは久しぶりだった。
心のどこかで避けていたのかも知れない。
嫌なのか……保田は自問する。
嫌ならばやめればいい。やめるのは簡単だ。
しかし、それはできそうに無い。
──マリオネット
先ほどの言葉が蘇る。
糸使いという家系に縛られた人形。
ずっとそんな自分に疑問など抱かなかった。
ただ、言われたことをこなすだけ。
それで良いと思っていた。
人形であるならば、それでもよかった。
そう思っていた。
あの事があるまでは。
保田には年齢の離れた弟がいた。
争いごとを好まない心の優しい少年だった。
だが、糸使いの家系に生まれた以上、彼にも修行は課せられた。
糸を操る技術はともかく、心の弱い弟に戦闘は無理な話だった。
だが、そんなことなど関係なかった。
人形は動きさえすればよい。
人形に心などいらない。
人形に意識など必要ない。
──そして悲劇は起こった。
初めての退魔行。
確かに運が悪かったのかもしれない。
予想外に強力な妖魔だった。
共に戦ったものは、みな命を落とした。
生きていたのは彼だけだった。
だが、果たして助かったといえるのか。
保田が救出に駆けつけたときには、既に彼の繊細な心は完全に壊れていた。
操ることのできなくなった人形など必要ない。
あっけないほど簡単に彼は見捨てられた。
保田は憎んだ。
弟の人生を狂わせた『糸』を。
自分を縛り、操ろうとする『家系』を。
人形であることを受け入れていた『自分』を。
捨て去ってしまいたかった。
多くの犠牲の上に成り立つ『運命』を。
しかし、保田には『糸』を捨てることはできなかった。
他ならぬ弟のために……。
保田は足を止めた。
ガラス越しにベッドに横たわる少年を見つめる。
時が止まったこのように、眠りつづける姿はあのときのまま。
おそらく、彼が意識を取り戻すことはないだろう。
それでも見捨てることはできない。
彼には自分しかいないのだから。
──たとえその命を維持するために、多額の寄付が必要であっても。
そしてそのために、戦いに生きる運命を受け入れたとしても。
少年の体からは、点滴のチューブや体調を調べるためのコードがいくつも伸びている。
その姿は、まるで糸につながれたマリオネットのように見えた。
〜幕〜
──── 百 姫 夜 行。
僕──桜井厚志は恋をしていた。
あの人のことを思うと胸がどきどきする。
12年の生涯の内で、こんな気持ちになったのは初めてのことだった。
あの人と初めて出合ったのは、塾の帰りだった。
夜食を買おうと寄ったコンビニの隣。
24時間営業のファミレス。
道路に面した窓際の席。
そこであの人はべったりとテーブルに突っ伏して眠っていた。
最初は病気なのかと思った。
でも、ウエイトレスさんも知らん顔で横を通り過ぎてる。
ほんとに熟睡してるみたいだった。
突っ伏しているから顔は見えない。
でも、髪の長さからして女の人だと思った。
それも多分若い女の人だ。
そんな女の人があんなふうにべったりと寝てるなんて……。
僕は少しびっくりしていた。
ママが見たら、ぷりぷり怒っていただろうと思う。
最近の若い子は……なんて言いながら。
そんなことを考えながらじっと見ていたら、
突っ伏していた体が、むくっと起き上がった。
しばらくぼーっとした後、ふはあと口が開く。
つやつやした唇が、はふと閉じた後、むにゅむにゅと動いた。
僕は何故かその光景から目を離せなくなっていた。
なんだか、見ちゃいけないものを見てるようなヘンな気分になっていた。
少し眠気が覚めたのかパッチリと開いた目が、立ったまま見開いていた僕の目とあった。
そのまましばらく見つめ合う。
こちらを見る顔は意外にもとても整っていて、神秘的な感じさえした。
切れ長のきれいな目に見つめられて、僕は目をぱちぱちさせた。
突然、その顔が、だはっと崩れた。
小さなケーキぐらい全部入ってしまいそうな大きな口。
無くなってしまったみたいに細くなった目。
警戒心の全く無い無防備な笑顔。
その顔を見て、僕の胸はどきっとした。
なんだかよくわからない感情が体中に溢れてくる。
僕は全力で走り去った。
そうしないと、うわーって大声で叫びだしそうだったから。
これはでも、まだ恋じゃなかった。
ただそのときから、あの人は僕にとってとても気になる存在になったんだ。
Morning-Musume。 in
百 姫 夜 行。 ─
斬!─
―― 眠れる森の少女
あの人は、いつもあの席で眠っているようだった。
僕は塾の帰りにその姿を見るのが日課になっていた。
と言っても、ほとんどあの人は突っ伏していたから、
つややかな長い栗色の髪ぐらいしか見えなかったけど。
時間があるときは、缶ジュースを飲む振りをしてしばらく見てたりする。
あの人は、ときたまむっくりと起き上がって、ふわぁとあくびをする。
そして、氷の溶けたオレンジジュースを飲むんだ。
ふっくらとした唇がストローをくわえる。
それを見て、ちょっとどきどきした。
たぶんこういうのを……セクシーっていうんだろうな……。
そして時々、何かを思い出したように、ふにゃって笑うんだ。
なんだかとても幸せそうに。
その笑顔は僕の心にいつまでも残った。
あるとき、めずらしくあの人は目を覚ましていた。
テーブルに肘をついた右手に、尖ったあごを乗せてぼんやりとななめ上を見ていた。
窓の下を通り過ぎるとき、斜め下から見あげるその顔は、やっぱりとても整っていて、
クラスメイトが教室に持ってくる、週刊誌のグラビアの女の人なんかより
ずっときれいで、なんだかあの人の周りだけ輝いているみたいに見えた。
なのにその顔を見て、泣いていると思ったのは何故なんだろう。
胸がきゅーって締め付けられた。
なんだか、泣き出しそうな、大声で笑いたくなるようなわけのわかんない気分になった。
そう、それが決め手だった。
このとき、僕は完全に恋に落ちた。
◇
最近はあの人のことを考えて、ぼーっとしていることが多い。
だから、その噂に気が付いたのも友達の中で最後だったと思う。
「化け物?」
「なんだ、ほんとに知らないんだ」
あきれた顔をされてしまった。
どうやら僕の知らない間に話はどんどん広まっていたらしい。
「出るんだって、最近」
「嘘だろ」
「まじだって。なんかさ、顔に真っ白な仮面を被ってるって」
結局、話をまとめるとこうだ。
学校や塾の帰り道、後ろから足音が聞こえる。
振り返っても誰もいない。
首をひねって歩き出すと、また足音が聞こえる。
怖くなって走り出しても足音はついてくる。
ついには疲れて走れなくなる……後ろを振り返ると……。
「うぎゃあああああ!!!」
「……くっだらね」
「うわ、さっむい反応。おまえ嫌われるよ。そんなこと言ってると」
「だってさ、そんなの嘘に決まってるじゃん」
「嘘じゃないって。だって今朝のニュースでもやってたし」
「……うそ」
「……おまえほんとに何にも知らないのな」
どうやら本当に何人か子供が行方不明になってるらしい。
そういえば、最近ママが早く帰れってうるさく言ってたような気がする。
めんどくさいからちゃんと聞いてなかったけど。
それでも僕はそんな噂なんか信用していなかった。
きっとそれは子供を狙った変質者の犯行なんだ。
それはそれで怖いけど、この世の中に化け物なんているわけが無い。
僕は現実主義者なんだ。
真実って言うのはちゃんと目に見えるもののことを言うんだ。
白い仮面を被って、長い髪を振り乱すような化け物なんてこの世にいるはず無い。
その日の夜、あいかわらずあの人のことを考えてたら、塾の小テストの結果は散々だった。
これでも今までは結構いい点数を取っていたから、何かあったのかってしつこく聞かれた。
もちろん、本当のことなんか言えないから適当にごまかしたけど。
そんなこともあって、塾を出たのはいつもよりも一時間ぐらい遅くなってからだった。
いつもの席にあの人はいなかった。
残念。もう帰っちゃったのかな。
あの人が見れないと思うと、なんだか急に風まで冷たくなったような気がした。
あったかいココアを買って、それを持ったまま帰ることにする。
いつもと一時間しか違わないはずなのに、駅までの道はえらく寂しく感じた。
昼間の噂話を思い出す。
ばかばかしい。
あんなの嘘に決まってる。
この科学の発達した世の中に、化け物なんかいるわけが無い。
カツカツカツ
後ろから足音が聞こえた。
おもわず足を止める。
足音も止まった。
ごくりとつばを飲み込んで、少し急ぎ足で歩き始めた。
足音は離れずについてくる。
……まさか……。
……そんな馬鹿な。
振り向いた。
そこには誰もいなかった。
に、逃げなきゃ……。
いや、化け物なんているはず無い。
でも……。
そうだ! 変質者かもしれない。早く逃げなきゃ!
自分でもよくわからない理由をつけて、全速力で走った。
走るのは苦手だった。どちらかといえば遅い方だ。
でも多分、今記録を計ったら校内でもトップクラスのタイムが出てると思う。
心臓がばくばくいってる。
冷たい空気を吸い込んで肺が痛い。
なんで……どうして誰もいないの!?
こんなに走ってるのに、なんで駅につかないの!!
僕はもうパニックになっていた。
すぐにへとへとになった。
もう、歩いているのか走っているのか、わからないくらいになってた。
足を止めて、膝に手をつく。
足ががくがくしていた。
もうこれ以上は走れそうに無い。
そのまま地面を見つめる。
でもいつのまにか足音は聞こえなくなっていた。
ほっと息をつく。
ほらね、やっぱり勘違いだったんだ。
馬鹿馬鹿しくなってひとりで笑ってしまった。
そうだよ、僕は現実主義者なんだ。
化け物なんて子供みたいなこと信じちゃいけないんだ。
ふうっとため息をつく。
僕はいつもの自分のペースを取り戻していた。
勢いよく顔を上げる。
──そこに化け物が立っていた。
その顔は真っ白だった。
目も鼻も口も無い。
ただ真っ白な物体から、黒くて長い髪が伸びていた。
ソイツは両手を前に持ってきた。
その指には、びっくりするくらい長くて鋭い爪が生えていた。
表情なんかわかるわけもないのに、僕はソイツが笑ったような気がした。
「うわあ!」
叫んでしゃがみこむ。
その上をびゅんって何かが通り過ぎた。
痛い……。
肩に手をやる。なぜかそこは濡れていた。
目の前に手をもってくる。
手のひらは真っ赤だった。
あ、僕はここで死ぬんだ。唐突に思った。
それは推測なんかじゃない。事実だった。
ライオンの前のウサギの気持ちってこういうものなんだ。そんなことを思った。
今日死ぬんなら、最後にあの人に会いたかった。
それだけが心残りだった。
動けなくなった僕に爪が迫った。
思わず目をつぶる。
でも、痛みはなかなかやってこなかった。
恐る恐る目を開ける。
化け物は手を押さえてうめいていた。
そこに刺さっているのは……釘?
化け物は急に振り返ると走り出した。
すごいスピードだった。
僕は呆然としていた。
もしかして助かったんだろうか……。
何がなんだかわからない。
頭は混乱していた。
でも、次の瞬間、僕の目は大きく見開かれた。
だって、後ろから僕を追い越して行った人がいたから。
赤いコートを着たその人は、あの化け物を追っていったから。
しかもその人は、僕の恋したあの人と同じ顔をしていたから。
なんであの人が……。
考えるより早く走り出していた。
逃げる方も追いかける方も、おっそろしく足が速いみたいだった。
もう、全然姿が見えない。
でも、あの化け物の流したものらしい血の後を追いかけて、僕は必死に走った。
正直、怖くないわけじゃなかった。
でも、あの人の顔……。
いつもの眠たそうな顔じゃなく、すごくまじめな顔だった。
あんな顔はじめてみた。
だから……。
血の後は真っ暗なビルの中に続いていた。
入口は空いている。
ぎゅっと唇をかみ締める。
肩の傷がじんじんした。
ごくりとつばを飲み込んでビルの中に入る。
一回は空きテナントのようだった。
コンクリートが剥き出しになった、広い空間が広がっている。
そこにはあの化け物はいなかった。でもその代わりに……。
──全身を血で真っ赤に染め、白い仮面を被った人が立っていた。
なぜだか空気が硬い。
不思議なことに色まで違うように思えた。
恐怖に体が凍りつく。
僕はその白い仮面から目が離せなくなっていた。
かちかちと歯が鳴っている。怖い。
ふと視界の端に赤いコートが見えた。
ぼろぼろになったそれは、確かにあの人が着ていたものだった。
それがわかった瞬間僕は叫んでいた。
「あの人は……あの人はどこなんだ!!」
仮面は黙ってこちらを見ていた。
「さっきここに入ってきた女の人はどこなんだ!!!」
目から涙がこぼれた。
もしかしたら、もうあの人と会えないかもしれない。
そう思ったら、怖いって気持ちよりも怒りの気持ちのほうが強くなった。
必死に仮面をにらみつける。
白い仮面が近づいてきた。
僕はずっとその場に立ったまま、にらみ続けていた。
ほんとを言うと、背中の骨が無くなったみたいに、体が動かないだけだったけど。
仮面の右手が僕の顔に伸びた。
なぜか一滴も血のついていない、きれいな手だった。
その手が触れる寸前、我慢しきれずにぐっと目をつぶる。
ほほにふわりと手が添えられた。
それはびっくりするくらい暖かくって、柔らかくって、すべすべした手だった。
なぜだろう。その瞬間、怖いって気持ちが無くなった。
むしろ、なんだかほっとするような……そんな気がした。
手がほほから離れる。
あわてて目を開いた。
そこには誰もいなかった。
ぶんぶんと頭を振ってあたりを見る。
白い仮面はどこにもいなかった。
ただ、へんな匂いを出しながら、ぼろぼろと崩れていく黒い塊だけがそこにあった。
僕はぺたりとその場に座り込んだ。
◇
そのまま座り込んでいた僕は、やってきたお巡りさんに保護された。
お巡りさんは何も聞かなかった。
もしかすると全部知っていたのかもしれない。
世の中には僕の知らないこともある。
そういうことなんだろう。
結局、事件は変質者の犯行ってことになった。
僕たちはしばらくの間、集団下校をすることになった。
ま、何事も無くってそれもいつのまにかなくなるんだけど、それは別の話だ。
事件の次の日、僕は病院にいた。
肩の傷はかすり傷で済んだ。
ママは僕の血を見て、大げさに何か言っていたけど。
検査が済んでママが車を回してくる間、僕は病院の中庭でぶらぶらしていた。
もしかすると何か予感があったのかもしれない。
だから、あんまり驚かなかった。
そこにはあの人がいた。
あの人は、車椅子に座った髪の長い女の人の前にしゃがみこんで、
何かしゃべっているみたいだった。
無事だったんだ。
とりあえずほっとした。
そのとき、女の人を見て、ふわっとあの人が笑った。
胸がきゅってなった。
なんでだかわからないけど、涙が出そうになる。
その顔は今まで見たことの無い顔だった。
とてもうれしそうで、とても幸せそうで……。
その顔を見たときわかった。
前に、ファミレスのあの場所で見たあの表情。
あのとき、あの人が幸せそうに見えたのは、この人のことを思っていたからだ。
あのとき、あの人が泣いているように見えたのは、この人のことを思っていたからだ。
それがわかった。
なぜだかわからないけど、心の底で理解した。
もう一つわかったことがある。
きっとどんなにがんばっても、僕はあの人にあんな顔をさせることはできない。
あの笑顔はすごく特別なもので。
それをさせる人はやっぱり特別な人で。
きっと、誰も入ることのできない特別な関係で。
──とても僕に敵うような相手じゃないわけで……。
僕は、初めての恋が終わりを告げたことに気が付いた。
誰も知らないうちに始まって、誰にも知られずに終わった初めての恋。
僕も、いつか誰かに、あんな顔をさせてみたい。
僕を見て、あんな風に笑ってくれる人がいつか現れるかもしれない。
そう思ったら、ちょっとだけうれしくなった。
もう一度、楽しそうに笑っているあの人を見た。
心の奥のほうがポカポカしてくる、そんな笑顔だった。
ママが僕を呼ぶ声がする。
僕は、名前も知らないあの人に、心の中で『さよなら』って言った。
〜幕〜
──── 百 姫 夜 行。
嫌いだった。
ずっとあの子のことが。
あの目。
あの声。
そしてあの笑顔。
わたしに無いものを持ったあの子のことが、わたしはとても嫌いだった。
Morning-Musume。 in
百 姫 夜 行。 ─
斬!─
―― 光の巫女
つややかな長い黒髪。
くっきりと太い眉。
零れ落ちそうなほど大きな目。
その目は睨みつけるようにこちらを見ていた。
まるで全てを見通すような視線。
瞬きもせずにじっと見つめられる。
──わたしは鏡から目を逸らした。
おもわず軽くため息をつく。
見つめていたのはわたし。
鏡の中のわたし。
よく他人から目が怖いといわれる。
最初に言われたときはすごくショックだった。
思わず涙が出そうになるくらい。
それは視線に力があるからなのだともいわれた。
光の巫女としての力の現れだと。
例えそうだとしても、他人から怖いといわれたくは無かった。
まだ若い女の子としては……。
だからうらやましかった。
あの子の目が。
だから嫌いだった。
あの子の顔が。
いつもニコニコと微笑むあの笑顔が。
あの子に初めて会ったのは、13歳のときだった。
それが何の集まりだったのかは覚えていない。
日本でも有数の念法使いだったという母親に連れられた彼女は、
わたしと正反対の少女だった。
小さくて華奢な体。
年齢よりも幼く見える丸い顔。
お日さまのように人を和ませる笑顔。
その姿はわたしに複雑な感情を抱かせた。
わたしに無いものを持ったあの子。
わたしとひどく近く、同時にひどく遠いところにいるあの子。
それは運命だったのかもしれない。
二人がこの世に生を受けたときから始まった運命。
同じ病院で生まれた。それも2日しか離れていない。
数少ない退魔師の血を引くものにとって、とても珍しい偶然だといえた。
わたしはあの子のことを良く知っていた
だって、あの子の噂は良く耳に入ったから。
だって、あの子とはいつも比べられたから。
3歳にしてチャクラを回した。
10歳で雪宮流の師範代にまでなった。
そして15歳の時には額のチャクラさえも使いこなした。
生まれたのはわたしのほうが先だったのに、
あの子はいつもわたしより前にいた。
がんばって前に進んでも、その分だけあの子も先に進んでいた。
悔しかった。
比べられることが。
力が欲しかった。
何者にも負けない力が。
16歳のとき、ようやくわたしが『光の巫女』を継承するときがきた。
これであの子に勝った。そう思った。
あの子が京都に蘇った鬼を封じたと聞いた。
伝説とまで言われた頭頂のチャクラを使いこなしたと。
縮まったと思った差は……再び開いた。
先代の『光の巫女』である祖母から、教えを受けた。
「いいかい、圭織。『光の巫女』というのはな。『道』のことなんだべ」
「道?」
「そう、天にある光を地上に運ぶための『道』。そしてこちらの声を天に運ぶ『道』。
それがうちらのことなんだべさ」
「うーーん」
「なんだ、わかんねえのか?」
「うん」
「そうだな──。それじゃ、うちらは蛇口だ。ひねれば光の出てくる蛇口だ。
ふむ、そうすると天は貯水池だな」
「えー、かっこ悪いよ。それ」
「はっはっは、そんなもんさ。うちらはもともと、かっこええもんでねえ」
「ばっちゃん、カオリは強くなりたい。どうすれば強くなれるんだ」
「圭織。強くなるためにはな。優しくならなければいけないんだ。
優しくなった分だけ人は強くなれるんだべ」
「……よくわかんねぇ」
そう答えたわたしの頭を、祖母は笑いながら優しくなでた。
『光の巫女』を継承したのは、その祖母が他界したからだった。
上位の存在と交信する事により、アカシックレコードを読み取る秘術『交神』。
『光の巫女』の本来の役割はこの『交神』を行うことにある。
しかしその役割を継承したというのに、わたしはまだ『声』を聞くことができないでいた。
自分に何が足りないのか。
祖母の言葉の意味がなんだったのか。
わたしにはまだわからないままだった。
心の中にあせりがある。
あの子に負けたくない。
あの子よりも強くなりたい。
あの子よりも他人に認めてもらいたい。
そんなことを考えている自分が嫌だった。
清らかな巫女であるはずの、わたしの中にある昏い感情。
こんなことを考えているから、わたしには『声』が聞こえないのだろうか。
『声』を聞くことのできないわたしに、何の価値があるというのだろう。
こんな闇の心を持った巫女など……。
そうだ。
わたしは清らかな人間ではない。
どろどろした汚いものを抱えた醜い人間。
こんな感情など持ちたくなかったのに。
あの子のせいだ。
あの子さえいなければ……。
◇
『光の巫女』を継承した後、あいかわらず『声』を聞くことのできないわたしは、
修行と称して東京へと出てきていた。
退魔師として経験をつむために。
これもまた運命なのか。
そこでもまた、あの子と一緒になるなんて。
組織から離れ、一匹狼として退魔行を行うあの子は『日本最強の念法使い』と
さえ呼ばれていた。
あの子はどんどん先に進んでいく。
わたしは追いつくことさえできない。
──差は開くばかりだった。
◇
「圭織。あんた最近おかしいで」
「裕ちゃん……」
「この間の妖魔のときも、ぼーっとしてて危なく大怪我するところやったそうやないか。
矢口が心配しとったで」
「……大丈夫。なんでもない」
「なんでもないわけないやろ。そんなことじゃ『光の巫女』の名が泣くで」
何気なく言われたその言葉が心に突き刺さった。
「……いいの」
「なに?」
「カオリ、『光の巫女』になんてなりたくなかった。カオリもうやめたい」
「なにゆうてんねん。おまえ」
「だって……。カオリなんていてもしょーがないじゃん。
もっと強い子がいるんだから……。あの子が全部やればいいじゃんか。
あの子が……妖魔…全部倒しちゃえば……」
「圭織……あんた本気でそんなことゆうとるんか」
その声音に顔を上げた。
冷たい目に見据えられて、体がこわばる。
全ての術を封じる『破魔の眼』。
その能力を使わなくとも、彼女の目は時折ひどく恐ろしいものに変わる。
「もし本気なら、おまえ北海道に帰れ。そんなこと言うような奴、うちには要らん」
ぐっと奥歯を噛み締める。
溢れそうになる涙を必死でこらえた。
「だって……ずるいよ。あの子ばっかり……。
カオリだって……カオリだってがんばってるのに……。なんで……」
あの子のお日さまの笑顔の前では、わたしの光はいつもかき消されてしまう。
「あんたは何にもわかってない」
冷たい目のまま、濃いルージュを塗った唇から低い声が漏れた。
「あんたはあの子の何を見てるんや。あの子がどんだけ……」
ふっと、声が掻き消えた。
耳が痛くなるほどの静寂。
頭が……頭が痛い……。
なに?……ぱくぱくと赤い唇が動いている。
それなのにその声は全く聞こえない。
なに……いったいなにが……。
目の前が白く変わっていった。
◇
「圭織! 圭織!! どうしたのよ!!」
大きな声で呼ばれて我に返った。
慌てて辺りをうかがう。
──そこはまるで地獄のような光景だった。
燃え盛る炎は視界を真っ赤に染めていた。
立ち込める腐臭。
聞こえてくる悲鳴と怒声。
「こんなところで交信なんかしてないでよ!」
不安そうな顔で矢口がこちらを見る。
ここは……どこ?
「くそ! 彩っぺはどこや!」
珍しく焦りを見せた裕ちゃんが勢い込んで駆け寄ってきた。
「さっき圭ちゃんと紗耶香連れて、飛び出してきた奴を追いかけてった!」
「あかん、人手が足りんか」
この光景は……。
この会話をわたしは知っている……。
これは……これはあの時の……。
「ちぃ! また大きくなってるやないか!」
その言葉に視線の先を追う。
そこには大きな穴があった。
感じる。
ひどく禍々しい気配を。
それはまさに真の闇だった。
何者をも通さない深き闇。
全てを飲み込んでしまう貪欲な闇。
「これは……」
「このままじゃ、門が開いてしまう……。くっそー! どうしたらええねん!!」
「裕子……」
記憶が混乱している。
なぜここにいるのかわからない。
それなのに、わたしはこの穴を知っている。
これは…この穴は……。
「なっちがやるよ」
後ろからの声に振り返る。
──そこにあの子が立っていた。
「なっち!」
「裕ちゃん。なっちがこの穴封じるよ」
「あかん! いくらあんたでも、これだけのもの封じ込める力は無い!
こいつは、いわばブラックホールみたいなもんや。
いくら念を送り込んでも、きりが無いで!」
「でも、他に方法はないよ」
いや、方法はある。
そして、わたしにはそれができる。
でも、それをしてしまえばわたしは……。
そう、あの子が全部やってしまえばいいんだ。
最強の名を持つあの子が……。
わたしなんて……いてもしょうがないんだ。
それにこのままいけばあの子は……。
あの子が……あの子がいなくいなれば……。
「裕子! 彩っぺたちが帰ってきたよ!」
「飛び出した雑魚は片付けたわよ。こっちはどう?」
「それが……」
突然辺りが白い光に包まれる。
「あかん! なっち! やめるんや!」
あの子の頭の上に光が輝く。
目もくらむような光が地上に空いた大きな穴に吸い込まれていった。
だが、穴の広がりは止まらない。
やっぱり、その方法では穴を封じることはできない。
それができるのはわたしだけ。
今なら間に合う。
なのに何故体が動かないのだろう。
どうしてこの唇はかたまったままなのだろう。
どうして……。
ドウシテ……。
「あかん!」
泣き出してしまいそうな悲鳴が聞こえた。
目の前にぱあっと真っ赤な花が咲く。
穴から飛び出した爪があの子を引き裂いていた。
「なっち!!!」
あの子だけではない。
その場に居た全員が赤い血を撒き散らす肉の塊に変わる。
わたしの……わたしのせいだ……。
わたしが声を出さなかったから……。
わたしがためらってしまったから……。
わたしが怖がってしまったから……。
『圭織……どうして……』
『いたい……いたいよ、圭織』
『あんたのせいで……あんたの……』
恨みの声だけがわたしの周りをぐるぐると回る。
「いや……カオリは……カオリは……」
『人殺し……』
『圭織のせいで……みんな死んじゃった……』
『ひどい……ひどいよ…圭織……』
「いや…いや……いやーーーーーーーーー!!!!」
不意に辺りが闇に包まれる。
恨みの声も、燃え盛っていた炎も全てが消えた。
頭を抱えていたわたしはゆっくりと顔を上げる。
目の前に髪の長い女が立っていた。
零れ落ちそうな大きな目。
これは……わたし……。
『人殺し』
わたしはわたしに冷たく言い放つ。
『あなたは声を出さなかった』
『アレを封じる手段ことができるのは、あなただけなのに』
『なのにあなたは声を出さなかった』
『あなたはあの子が死ねばいいと思っていた』
『自分だけ助かればいいと思っていた』
『だから、声をださなかった』
『あなたは醜い人間。清らかな巫女などではない』
闇の中に冷たい声が響き渡る。
『死になさい』
『あなたのような人は、生きている価値が無い』
わたしの声がわたしの中に響いてくる。
そう、わたしには生きている価値が無い。
わたしなんて、死んだほうが……。
目の前のわたしがぎらりと光る短剣を構えた。
これは贖罪──。
穢れたわたしの罪滅ぼし。
両手を胸の前で組み、目をつぶった。
短剣が振り下ろされる。
それはわたしの胸に深々と突き刺さった。
短剣に刺されたわたしは、闇に溶け込むようにその姿を消した。
しゃん
真っ暗な中に涼やかな鈴の音色が響き渡る。
自らを殺したわたしが弾かれたように辺りをうかがった。
いまだ凶器を携えたままのわたしに、闇の中から姿を現した三人目のわたしが声をかける。
「ようやく姿を現してくれたね」
しゃん、その手の中の金色の鈴が再び音を響かせた。
「人の記憶をかってにいじるなんて、趣味が悪いよ」
短剣を構えたままのわたし──本性を現した妖魔が凶悪な目つきでこちらを睨む。
その視線に負けないほどの厳しい目で見つめ返すわたしの周りで、無数の鈴がゆらりと揺れた。
「邪気退散」
短剣を振り上げた妖魔の右手に金の鈴が突き刺さる。
鈴を中心に、邪悪な体が砕け散った。
腕を押さえて妖魔が吼える。
真っ赤に染まった大きな目、耳まで裂けた口。
不気味に変わった自分の顔を、わたしは冷ややかな目で見つめた。
「凛!」
無数の鈴が妖魔の体を光の粒子へと変える。
しんと静まり返った空間で、懐に鈴を収めたわたしはゆっくりと目を閉じた。
目を開く。
広い畳張りの部屋は、一本のろうそくでぼんやりと照らされていた。。
ここはいつもの神社の中。
そこにわたしは正座をして座っていた。
目の前には粉々に割れた鏡。
この鏡を矢口から預かったのは今日の昼間のことだった。
持ち主が謎の自殺を続ける呪われた鏡。
その原因を探ってほしいと言われた。
きゃははと能天気に笑う古い友人の頼みは、なぜか断ることができない。
おかげで嫌なことまで思い出してしまった。
「まーったく、厄介なもの持ってきやがって」
呟いた声は自分でも悲しくなるほど小さなものだった。
「いやー、助かったよ。まじで」
次の日、様子を見に来た矢口は、相変わらず能天気にきゃははと笑っている。
その顔に喉元まで上がってきていた抗議の声を飲み込んだ。
この友人と付き合っていると、時々わたしは
とても損な性格をしているのではないかと思うことがある。
「結局こいつなんだったの」
差し出されたお茶を一口飲んで、矢口が疑問を投げかけた。
「人の過去の記憶を見て、心の傷を狙った精神攻撃を仕掛けてくる。
そういうタイプの妖魔だったみたい」
────心の傷……。
そう、あれはわたしの心の傷。
弱かったわたしの……。
「いやー、それにしても助かったよ。圭織が浄化してくれたから手間が省けた」
「なんかちょうだいよ」
「えー、矢口と圭織の仲じゃん」
口をとがらせる小さな顔を見て、微笑んだ唇をすっと引き結ぶ。
「ねえ、矢口。あのときのこと覚えてる?」
「あのときって?」
「この神社を作るきっかけになった日のこと」
「……忘れるわけないじゃんか」
笑みを消した矢口が軽く眼を伏せる。
「そう……そうだよね」
あの時の記憶が蘇る。
あの時の……正しい記憶が……。
──そこはまるで地獄のような光景だった。
燃え盛る炎は視界を真っ赤に染めていた。
立ち込める腐臭。
聞こえてくる悲鳴と怒声。
全てを飲み込んでしまう貪欲な闇。
「なんやて! あんた本気でそんなこと……」
「駄目だよ! そんなことしたら、圭織は!!」
「そうだよ、そんなの無茶だって」
「いいの」
わたしを気遣ってくれる仲間をゆっくりと見渡す。
「カオリずっと考えてたんだ。
みんなが幸せに暮らすにはどうしたらいいのか」
それを行えばどうなるかは自分でよくわかっていた。
もうこの地を離れることはできなくなる。
一生この場に縛られて生きていくことになる。
二度と故郷に帰ることもできなくなる。
でも、それでも良かった。
誰の命も失われずに済むのなら……。
もう一度あたりを見渡した。
みんなぼろぼろと涙をこぼしている。
そんな中、じっとこちらを見つめるあの子と目が会った。
涙を見せず、ただ静かにこちらを見ている。
軽く微笑んで頷いた。
あの子も微笑んで頷く。
それは今まで見た事のない悲しい笑顔だった。
「もう、みんな何泣いてんだよー。
カオリはいなくなるわけじゃないんだよ。
カオリはずっとここにいるよ。
だから……だからみんな……」
「ねえ、笑って」
その決断ができたのも、あの子のお陰だった。
あの子がいなければ、わたしはあの一歩を踏み出すことはできなかっただろう。
本当に……不思議なめぐり合わせ。
「こんちは」
「あ、なっちだ」
「あれー、矢口も来てたんかい」
ふすまを開いて現われた小柄な姿。
目深に被ったチューリップハット。
袖の長いダッフルコート。
膝丈のチェックのスカートの下は分厚いタイツ。
「あいかわらず、ダサいカッコしてんねぇ」
コートを脱ぐあの子を見て、矢口がからかった。
「ダサくないもん」
「いもなっち」
「いもじゃないべさ!」
じゃれあう二人を見ながら、わたしはくすくすと笑った。
そして、また思いを馳せる。
昨日の夜、思い出してしまったもう一つの光景。
その続きを。
「あんたは何にもわかってない」
冷たい目のまま、濃いルージュを塗った唇から低い声が漏れた。
「あんたはあの子の何を見てるんや。あの子がどんだけ苦しんでいるか」
「苦しむ?」
首を傾げるわたしを無視し、厳しいままの視線が、腕の時計をチラッと見た。
「ちょうどええ。ついて来い」
「どこへ?」
「ええから黙ってついて来い」
車に乗せられ到着したのは寂れた教会だった。
「なに? ここ」
車の中からでもわかるほどの禍々しい気が渦まいている。
「黙ってみてろ」
その言葉を待っていたかのように、教会の窓を突き破り羽の生えた黒い影が飛び出す。
「妖魔!?」
おもわず鈴を取り出した手を、無言で押さえられた。
しばらく飛んでいた妖魔が急に力を無くす。
墜落するその体は二つになっていた。
すでに倒されていたんだ……。一体誰に……。
答えはわかっていた。
教会の入り口には頭の上に光を宿したあの子が立っていた。
後ろから他の退魔師が2人ついてくる。
「なっちに助っ人頼んどいたんや」
こんなものを見せてどうしようというのだろう。
ますますわたしは自信がなくなるだけだというのに。
裕ちゃんは車のドアを開けてあの子を迎えに行く。
仕方なくわたしも後ろからついていった。
「あ、裕ちゃん。圭織も」
こちらに気がついたあの子が、にっこり笑って駆け寄る。
その足が、こちらまで後2、3歩といったところで急に立ち止まった。
細い喉がぐうっと鳴る。
不審に思い、近づこうとするわたしを裕ちゃんが止めた。
他の人には聞こえないほどの小さな声を出す。
「なっち。まだあいつらがこっちを見とる。我慢するんや」
それを聞いたあの子は、奥歯を噛み締め青白い顔をむりやり笑顔に変えた。
車の中に倒れこむようにして入ったあの子はぐったりと目を閉じた。
後部座席の隣に座ったわたしは声も出せないでいた。
「『最強』の称号。それは絶対に負けることを許されないことでもある」
ハンドルを握りながら、静かに裕ちゃんが語り始めた。
「そのプレッシャーがあんたにわかるか?
この子だって妖魔と戦うのが怖くないわけじゃない。
それでも、勝ちつづけなくちゃいけない。
他人の期待を裏切らないために」
「そんな……なんで……」
「後ろに最強の退魔師が控えている。そう思うだけで思い切り戦えるものもおる。
いざとなれば……そう思うことで勇気が出るものもおる」
「だからって……」
「そうや。あたしは結果的にこの子を利用しとる。
軽蔑してもらってもええで。
それでもあたしたちは戦かわなあかんねん」
バックミラーに映る目は決意の色を宿していた。
「どうして……そこまでして……」
「守るため。
弱き人を。
愛する人を」
言葉が心に突き刺さった。
ぎゅっと目を閉じ、シートにもたれかかる。
わたしは何のために戦ってきたのだろう。
強くなるため。
他人に認めてもらうため。
……自分のため。
──敵わないはずだった。
祖母の教えてくれた言葉が蘇る。
『圭織。強くなるためにはな。優しくならなければいけないんだ。
優しくなった分だけ人は強くなれるんだべ』
今ならわかる気がする。
何のために戦えばよいのか気が付いた今なら。
「う…」
小さく声をあげてあの子が目をを開いた。
「なっち、ごめんね。カオリは……カオリは……」
「ん? どした」
こちらを見るその顔がいつものお日さまに変わる。
なぜか涙が溢れた。
「どしたの圭織? なに泣いてんだぁ? しっかりしろぉ。圭織らしくないべ」
「なっち、なっち」
「ん?」
その小さな体にすがってわたしは泣いた。
優しく髪をなでられながら、いつまでも泣きじゃくった。
初めて『声』を聞くことができたのは次の日のことだった。
あの頃のわたしは何も見えていなかった。
強さという意味を取り違えていた。
あの子の表面だけを見てうらやましがっていた。
最強という名の裏側で、どれだけあの子が苦しんでいたのかも知らずに。
どれほどのプレッシャーを感じていたのだろう。
それでもあの子はいつも笑っていた。
たった一人で。
その笑顔の本当の意味を知ったとき、わたしは変わることができた。
真の『光の巫女』として。
「いーもいもいもいもなっち」
「もー、矢口は悪い子だなあ!」
「まあまあ、今日はどうしたの?」
いまだにじゃれあう二人を笑って引き離し、遅れてきた客にお茶を出した。
「野菜持ってきた」
「あ、いつもありがと」
「え、なにそれ?」
「うちの実家で作ってる野菜だべ。圭織に食べてもらおうと思って」
「月に何度か持ってきてくれるんだ」
「あー、いいなー。何で矢口にはくれないのさ」
その言葉にあの子は顔を伏せた。
「だって……圭織は…ここから出られないから……」
「なっち……」
トーンを下げたその口調に、矢口も口篭もる。
「ずっとここに居なきゃいけないから……。だからせめてこの野菜だけでも」
「……そっか。それで北海道の……故郷の……」
神妙な顔で矢口がつぶやく。
「だって……外に出られなかったら、買い物にもいけないんだよ。
食べるものなんかすぐ無くなっちゃうっしょ。
だからこれ食べてもらって……」
がん!
前のめりに倒れた矢口は、ちゃぶ台に思いっきりおでこをぶつけた。
あいかわらず、見事なこけっぷりだね。
「あ、あんたねえ。そういう意味だったんかい……」
「え、なに? なっち変なこといった?」
「外に出れないからって、買い物できないわけ無いだろ!」
「だって困るべさ。外に出れないと」
「大体のものは届けてもらえるし、最近は辻が買い物に行ってくれるし」
苦笑いをしてわたしが口を挟む。
「そうなのかい? あらー、なっち失敗したなあ」
「つか、あれから何年経ってると思ってんだ。
もう、ずっと気が付かなかったのかよ!
普通に考えて、野菜だけで暮らしていけるわけ無いだろ!
だいたい、あんたもいつも飲んでるこのお茶はどっから出てきたんだよ!」
「なんで矢口怒ってんだ?」
「あーーーーーーーー!!!!」
きょとんとしたあの子の前で、矢口が金髪をかきむしる。
わたしは笑いすぎて滲んだ涙を指でぬぐった。
「まったく、圭織もよくこんなのと付き合ってるね」
「こんなのってなんだべさ!!」
子供のように言い合う二人を見て、また顔がほころぶ。
「なっちと圭織はとっても仲良いんだべ」
「そうだよ。カオリとなっちは腐れ縁だからね」
本当に何という縁なのだろう。
あの子に出会わなければ、わたしの運命も大きく変わっていただろう。
ここにずっとこうしている事もなかったかもしれない。
でも、わたしは満足している。
あの子のお日さまのような笑顔を見ながら思う。
きっとあの顔から笑顔が絶えることはないだろう。
たとえ、その裏でたくさんの涙が流されたとしても。
その笑顔はこれからどれだけの人を照らすのだろう。
どれだけの人を笑顔に変えるのだろう。
それを思うと、わたしはいつも満ち足りた気持ちになる。
〜幕〜