百姫夜行。−翔−

 

 

────  百 姫 夜 行。


ソレは眠っていた。
静かに深く。
まるで胎児のようにその身を丸めて。
しかし、ソレは目覚めてもいた。
冷たくきらめく刃のような思考を持って。


ソレは餓えていた。
知識に、情報に。
だから集めた。
知識を、情報を。
そしてソレは貪るように吸収していった。
その思考を生かすための知識を。
その計画を実行するための情報を。


ソレは待っていた。
ただ、その時が来るのを。
そう、後は待つだけなのだ。
準備はすべて整った。
最後のドミノは立てられた。
あとは倒れるだけ。
そのとき、どんな絵が描かれるのか。

知っているのは……ただソレだけだった。

 Morning-Musume。 in 

         百 姫 夜 行。 ─ 翔─  

            ―― 第壱夜     始まりの刻(とき)

ふう、と息を吐いて吉澤は背もたれに身を預けた。
暗くした部屋の中、目の前のディスプレイの光が端正な顔を照らし出す。

宇宙空間に浮かぶ超次元高速機ホワイトドラグーン。
その船内は静まり返っていた。
太陽系第三惑星『地球』。
その中の日本という国の標準時間を基準としている吉澤達にとって、今は真夜中といってよい。

そんな時間にひとり、端末に向かう吉澤の顔には、いつもののほほんとした雰囲気は無い。
椅子にもたれたまま、ディスプレイに浮かぶ数字をただ見つめる。
苦い思いを隠す事もできないその顔は、いつになく暗いものだった。

「なにしてるのぉ? よっすぃ……」

不意に聞き慣れた癖のある声が発せられ、吉澤は慌てて振り返った。
扉の開いた入り口に映るシルエット。

その身を包むのは白とピンクのストライプ。
華奢な体に不釣合いな大き目のパジャマ。
折り返された袖口からようやく覗く指先で、寝ぼけ眼をくしくしとこする。
愛らしいその格好に似合わない、喉に巻かれたタオル。
声がこもって聞こえるのは、その顔の下半分を覆うマスクのせいだろうか。

うかつだった。
パートナーがすっかり寝静まったのを確認したつもりだったのに。

「な、なんでもないよ。梨華ちゃん」
慌てたように顔の前で手を振る。
「ちょっと調べものがしたくってさ」
「へぇ、よっすぃーが調べものなんて珍しいね」
「はは……まあね」
「あんまり夜更かししちゃダメだよぉ」
「う、うん。分かった」
「それじゃ、おやすみなさぁい」
「うん、おやすみ」

とろんとした顔のパートナーが去って、吉澤はふうとため息をついた。
自分が調べているものを彼女に見せたくはない。
それはきっと、あの心優しい少女を傷つけるものでしかないだろうから。

あらためて青白く光るディスプレイに目をやる。
そこにはひとりの人物の名前が映し出されていた。


『マグラ・グリフィス』

先日、施設を破壊して逃走した重大犯罪者。
無期限の冷凍刑という、銀河連邦でも最高の極刑に処せられていた者。
そして、吉澤のパートナーの家族を奪った人物。

あの一件以来、二人の間でこの名前が口に出された事は無い。
それでも石川の笑顔の裏に、拭い去れない悲しみの色が見え隠れする事に
吉澤は気がついていた。
受けとめてやりたいと思う。
支えてやりたいと思う。
でも、何をして良いのか分からない。
まだ若い吉澤はただ無力だった。

しかし同時にこうも思っていた。
いずれこの残酷な敵と対峙するときが来るだろうと。
それは漠然とした予感でしかないが。

だからこうして、情報を集めているのだ。
いずれ倒さなければならない相手として。

「ねえ、よっすぃー」
「なに? 梨華ちゃん」
「昨日の午後どこに行ってたの?」
「え!? 昨日って……」
ぎくりとなった吉澤は、左の頬をひくりと引きつらせる。

「き、昨日はずっとこの船の中にいたよ」
「うそ。わたしが出かけてる間、どこかに行ってたでしょ」
「そんなことないよ。やだなあ、梨華ちゃん。何言ってんのさ」
ははは、と乾いた声で笑う吉澤を、石川は冷たく睨む。

「地表への転移装置が使われてるの」
「げ!?」
「その少し前に地上からの通常回線で通信が入ってるし」
「あ、そ、それは……」
「後藤さんでしょ?」
「あ…はは……」
「やっぱり」
「いや、急にごっちんが連絡してくるからさ」

膨れっ面になった石川を吉澤は冷や汗を流しながらなだめる。

──にしても、最近ヤキモチがひどいよね。何をそんなに気にしてるんだか……。

「もう、知らない。
 せっかくビッグニュース教えてあげようと思ったのに」
「え! なにそれ。
 ちょっと、意地悪しないで教えてよ!」

慌てふためく吉澤の態度に石川は機嫌を直したのか、イタズラを思いついた子供の顔でくすくす笑う。

「じゃーーん。これ見て」
「なにこれ?」
「新しいコンバットスーツのスペック表」
「え? 新しいスーツって……」
「ようやく正式に採用が決定したんだって。
 さっき申請しておいたから、近いうちに届くと思うよ」
「まぁじで!? うおー、やった!
 これでうちもパワーアップできるじゃん」
「うん。地球のみんなにも負けてられないからね」
にっこりと笑った石川の顔。
その顔がふっと表情を無くす。

「梨華ちゃん!」
ふらりとよろけた石川の腕を、吉澤は慌てて掴んで支えた。
「イタ!」
石川はその腕を振り解き、掴まれた部分を押さえて苦痛の表情を見せる。
「梨華ちゃん……」
「ご、ごめんなさい。大丈夫だから。
 あ、わたし用事を思い出しちゃった」

逃げ出すようにブリッジを離れる石川の後姿を、吉澤はただ黙って見送った。

輝く画面に映る文字。
それは吉澤の心を重く沈めるものだった。

16の博士号と、267の特許を持つ天才。
でありながら、7つの星系から指名手配され、1829の罪状を持つ重犯罪人。
12年に渡って、3521人を殺害したシリアルキラー。

ぐっと唇を噛み締める。
心が沈むのはその数が多いせいではない。
確かにその数字は決して少ないものではない。
だがそれは、ただの数字でしかない。
そこに人の怒りや悲しみはない。
殺されたものの無念も、残されたものの悲しみも、
ディスプレイに映し出された、ただの記号となってしまう。
それを思うと、吉澤の気持ちは暗く沈み込む。

これだけの人の思い。
残されたものの悲しみ。
それを踏みにじる事のできる者。
それは……。

長い銀河連邦の歴史、その中にはもっと凶悪な事件もある。
連邦に敵対する犯罪組織。
その中にはもっと多くの人々を殺害したものもある。
惑星一つを破壊したものもある。
いやそれどころか、星系そのものを人の住めないものに変えたものまでいる。
しかし、それらは全て大掛かりな組織によるものだ。

この犯罪者は違う。
驚くべきは、これだけの行為をたった一人で行った事だ。
それも、爆弾などの大量殺戮兵器は一切使用しない。
あくまでも、自分の手で直接犠牲者を殺す事にこだわっているように見える。

吉澤はぶるりと身を振るわせた。
目的が分からないのだ。
物理的な目的のために殺人を犯しているとは思えない。
あえて言うなら、ただ殺人のために殺人を犯しているように見える。

他人の命を目的もなく奪うもの。
これだけの人の思いを踏みにじれるもの。
ただ自分のためだけに。
それはすでにヒトとしての範疇を超えているのではないか。
それはもう、『モンスター』と呼ぶにふさわしくはないか。

この犯罪者を担当した関係者……彼らは全て精神に失調をきたしていた。

吉澤は端末を閉じた。

もう一つ気になることがある。
他ならぬパートナーの事だ。

何かを隠しているように思える。
このところ毎日のようにどこかへ出かけていた。
行き先も告げず。
それに体調もあまり良くないようだ。
最近ロングスカートやジーンズなどの肌の露出の少ない服装が増えた。
まるで何かを隠すように。
だが、時折見える体に痣や生傷が残っている事を吉澤は知っていた。

──いったい何をしてるんだろう。
 ……彼氏ができたとか。
 まさかね。相変わらずなんだか知らないけど嫉妬深いし。
 大体あの傷の説明が……。
 !! そういう趣味の人だったりして。
 ……うわわわわ、やっべー、想像しちゃったよ。
 梨華ちゃんはまりすぎ。
 って何考えてんだあたしは。

もわもわとした考えを首をふって振り払う。

──そんな訳ないよね。だとしたらあの傷は一体。

「まさか……」

「よーし、今日はこのへんにしとこ」
「りんねさん! わたしなら大丈夫です!
 もう一度お願いします!」
「もうやめときなって。がんばりすぎだよ。毎日毎日」
「そうだよ、梨華ちゃん。体おかしくなっちゃうよ」
「ありがとう、あさみちゃん。でも本当にわたしはだいじょうぶだから」
「……ふう、しょうがないな。
 おーい、まい。ちょっと梨華ちゃんの相手したげて」
「はーい」

最近入った新人、里田まいと模擬戦闘を始めた石川を見て、りんねは再びため息をつく。
その横ではあさみも心配そうに訓練の様子を見ていた。

「りんねさん……。梨華ちゃんどうしたんでしょう。
 一緒に訓練するのはいいけど、あんなやり方じゃ……」
「うーん。へーけさんから頼まれたから引き受けたけど、
 あんなに必死になるとは思わなかったからねぇ」

何を思ったのか、平家から石川を鍛えてくれと言われたのが一週間前。
この二人にどういう接点があるのか、りんねは知らない。
ただ、鬼気迫るほどの石川の迫力にすっかり押されていた。
しかし、たしかに腕は上がってきたが、訓練というよりも自分を虐めるようなやり方には首を傾げざるを得ない。

──危ないな。

そう、りんねは思う。
ただ、強くなるための訓練だとは思えない。
訓練のための訓練。
まるで何かに怯えているような感じ。
何かから逃れるために、自分の体を虐め抜く。
りんねは今の石川からそんな印象を受けていた。

「やあぁぁぁぁぁ!」
気合とともに振り下ろされたレーザーブレードが、ターゲットを一撃で真っ二つにする。
その後ろから別のターゲットが現れた。
丸っこい形状のアームが振りかぶられ、見かけに寄らぬ重いパンチが繰り出される。

「なんの!」
ブゥゥゥン、と音がしてコンバットスーツの色が紅く変わった。
打ち込まれたパンチを片手で受けとる。
「うぉぉぉ!」
そのままぶんぶんと振り回し、離れた位置に立っていた別のターゲットにぶち当てる。

後ろから打ち込まれたビームを、大きくジャンプしてかわす。
「うりゃぁぁ!」
壁をけり、驚異的なスピードでターゲット達の真中に飛びこむ。
ボディの色は青く変わっていた。
密集した中で放たれるビーム。
その全てをかいくぐると、同士討ちで半数が爆散した。
煙の中から飛び出し、再び距離をとる。

再び白銀色に変わったスーツ。
取り出した大型のレーザーブレードを逆手に構える。

「ハイパー! ヨッスィー・スラァァァァァッシュ!!」

まばゆいばかりの光の線が走る。
吹き飛ばされたターゲット達は、バラバラになって壁にぶち当たり、
ガラガラと音を立てた。

必殺技を放った体勢のままでいた吉澤はゆっくりと身を起こす。
その後ろからひとりの少女が声をかけた。
すらりとした体にショートカットの黒髪。
ショートパンツから覗くのは健康的な脚線美。

「どう? 新しいコンバットスーツは」
「すっごいよ、これ! 前と比べて出力が段違いだよ!
 それにフォームチェンジまでついてるし。
 うわー、あたしすっげぇ感動してる。今」
「ふふふ。相変わらずだねヨッスィー。
 まあ、喜んでもらえたなら、わたしも嬉しいな」
「いや、まじでイイよこれ。
 わざわざありがとう、ミキティー」

興奮して話す吉澤を見て、宇宙刑事ミキティーこと藤本美貴はにっこり微笑んだ。

「他のみんなも元気にやってる?」
藤本の後ろから石川も声をかける。
石川、吉澤そして藤本の三人は警察学校の同期だった。
卒業してすぐ地球に配属された二人と違い、技術研究班でテストパイロットをする藤本は、
銀河連邦の本部がある本星に残ったままだった。

「うん、みんなそれぞれの場所でがんばってるよ。
 ここの二人が一番大変そうだけど」
「うげ、やっぱりそうなんだ。だって『銀河の特異点』だもんね」
「だからこそ、優先的に最新装備をまわしてるんじゃない。
 がんばってくれなきゃ困るよ!」
ため息をつく吉澤の肩を、藤本はぽんぽんと叩く。

「でも、ほんとにすごい装備だよね、新型」
「でしょー。出力は倍以上、
 パワーを重視したガーネットフォーム、
 スピードを重視したサファイヤフォーム、
 遠距離攻撃用のエメラルドフォーム、
 用途に合わせたマルチフォーム設計。
 現段階では銀河連邦でも最高級の個人用装備だよ。
 なんたって、わたしが開発に携わってるからね」
「はいはい、がんばったのはよーく分かったから」
自慢げに語る藤本に残る二人は笑って応えた。

「それで、美貴ちゃんはこれからどうするの?
 もう開発も一段落したんでしょ」
「とりあえずは本星に残ってヘルパーの役割かな。
 C級待機のお助け部隊。
 何かあったらすぐに言ってよ。超特急で駆けつけるから」
「あはは、期待してるよ」
笑いあう三人。
久しぶりの再会は、その場にいるものにひどく懐かしさを感じさせた。
まだ半年しか経っていないというのに。

「美貴ちゃん、帰ってったよ」
「そう」

ブリッジに入ってきた石川の声に、吉澤は端末から目を離した。

「また調べもの? 最近がんばってるね」
隣に腰を下ろす石川を、真っ直ぐに見つめる。
「ねえ梨華ちゃん」
「なに?」
「あたしに何か隠してない?」
「え!?」

「この間からトレーニングルーム、あたし以外に使ってる人がいるんだ」
「あの……それは……わ、わたし最近お肉ついてきたから」
「ごっちんに聞いたんだ。このところ毎日通ってるんでしょ、りんねさんだっけ」
「あ、それは……」
「それと…前に使ってたコンバットスーツ、廃棄のマークが消えてるのはどうして?」
「…………」
「梨華ちゃん、もしかして──」
「あはは、やだな、ばれちゃった」
「梨華ちゃん……」
石川はぎこちない顔で手を振る。

「わたしもね、少しは戦えるようになりたいなって思って。
 ほら、この間のトーナメントでも見てるだけだったから、なんだかうらやましくなって」
「アイツのせいでしょ」
ぴくりと石川の体が反応した。

「この間話してくれたアイツ……。
 でも大丈夫だよ。
 あたし言ったじゃない。この仕事が一段落したらあたしがこいつ捕まえてあげるって。
 約束するって」
「ダメ……ダメだよ……」
「梨華ちゃん?」
「嬉しかった……この間よっすぃーが言ってくれたこと……とっても嬉しかった……。
 でも……ダメなの……。
 アイツは…恐ろしいヤツなの……。
 やっぱりよっすぃーを巻き込むわけにはいかない。
 アイツはわたしが……わたしが自分で……自分でやらなくちゃ──」

黙ったまま、ぐっと抱き寄せられ、石川の声が止まる。
「よ、よっすぃー」
「ごめんね。あたしバカだからさ」
「え、ちょっとなに言って……」
「梨華ちゃんの気持ち。気付いてあげれなかった」
「わ、わたしは……別に……」
「梨華ちゃんてさ、苦しくても笑ってられる子なんだよね。
 辛くっても一人でがんばっちゃう強い子なんだよね」
「…………」

「ほんとバカだよね、あたし。
 分かった気になってた。理解してる気になってた。
 ……ほんとは何にも分かってないくせに。
 梨華ちゃんが、どれだけ不安だったのか」
「よっすいー……」
石川の肩に手を置いて、吉澤はその顔を見つめる。

「前から言ってるじゃない。梨華ちゃんひとりで抱え込み過ぎだって」
「でも……」
「梨華ちゃんがダメだって言ってもあたしはやるよ。
 だって梨華ちゃんはあたしにとって大切な人だから。
 大事な…パートナーだから」
「よっ…す……」
「正直に言ってごらん。あたしに力を貸してくれって。
 あたしにそばにいて欲しいって」
ほんわかとした顔で笑う吉澤。
石川の胸がぐっと詰まる。
その目からぽろぽろと涙が溢れた。
そのままパートナーの胸に顔を埋める。

「……おね…がい……力を貸して……。 
 ずっと……ずっとわたしの……そばにいて」
「うん、喜んで」
自分の胸で泣く石川を包み込むように抱いてやる。
しゃくりあげる声はいつまでも続いた。

「あ、でもさ」
「……なに」
「たまにはごっちんと遊びに行ったりしてもいい?
 たまにでいいからさ」
「………………バカ」
「い、痛いって! 梨華ちゃん!
 ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ!
 ご、ごめん。あ、じゃあさ、三人で……。
 あいたたたたた!! そ、そこはやめて!!」


その日、吉澤の悲鳴は漆黒の宇宙空間にいつまでも続いたという。


           第壱夜  〜幕〜

「あ、いくよ♪」

澄んだ声が弾むように闇夜に響く。

「プロミネンス・ビ━━━━━━ム!!」

きゅるるんと音を立てて、胸から七色に輝く光の線が伸びる。
その光が、無数の目をもつぶよぶよとした球体を貫いた。

GUGYAAAXAXAXXA

識別不能な声をあげて、不浄な体がのたうつ。
形容しがたい色をしたゼリー状の物体は、溶けるように崩れ落ち、黒い塵へと還っていった。

「任務完了! イエイ!」
左手は腰、右手で拳銃の形をつくって、ばきゅんと決めポーズ。

羽根の形をした肩のプロテクター。
ミニスカートにブーツ。
長く垂れ下がる袖。
スーツの間からのぞく可愛らしいおへそ。

独特な形状の万能鎧を着込んだ華奢な少女──退魔師、松浦亜弥は楽しそうに夜空を見上げた。

深夜の高層ビルの屋上。
下界の喧騒もここまでは届かない。
死闘が終わり、平穏を取り戻したこの場所は怖いくらいに静かだった。

ふと目線を下ろした松浦の顔が、思いもよらぬ物を見つけ隣のビルの屋上で止まる。

「あれは……」

それは一瞬の間に消え去っていた。しかし、それは松浦の目にしっかりと焼き付いていた。
月夜に浮かぶ──それは不気味な白い仮面だった。

 Morning-Musume。 in 

         百 姫 夜 行。 ─ 翔─  

            ―― 第弐夜     二つの仮面

「ほんじゃ、それ後藤さんやったん?」
尋ねてきたのは『未来のエース』加護亜依。
「それがね、一瞬だったから良くわかんないの」
答えを返す『太陽娘』松浦亜弥。
「いっただっきまーーす」
となりで大きな口をあけるのは『陰陽師』辻希美。

ぽかぽかと穏やかな春の午後。
気持ちの良い太陽の光に誘われて、事務所待機の三人は近所の公園でおやつタイムを楽しんでいた。

「でも、おとといから後藤さんは東北のほうに出張中やで」
「そうなんだ。じゃあ、やっぱり見間違いなのかな」
「おっやつだ、おっやつだ、やっほー♪やっほー♪」

「だいたい、戦闘中でもないのに仮面被るなんてことないやろ」
「んー、そっか。なんかね、わたし一瞬ぞくっとしちゃった」
「あいぼん、このおせんべおいしーよ」

「そういや後藤さん、亜弥ちゃんが目ぇ合わせてくれへんって悲しそうにしてたで」
「えー、そんなことないよー」
「あー! このコアラまゆげがある!」

「ホンマはキライなんとちゃうの?」
「ちがう…嫌いとかそんなんじゃなくって……」
「さあ、つぎはなにたべよっかな」

「なんか引っかかる言い方やな」
「すきだよ…すきだけど・・・…。だって緊張するよぉ。すっごい大先輩なんだもん」
「うーん、アロエヨーグルトおいしー!」

「そーかな、いっつも寝ててばっかりの、ぼやーっとした人やけど」
「亜依ちゃん達は近すぎて気が付かないんだよ。あの人のすごさに」
「ねえ、あいぼん。そのポッキー食べないんなら、ののにちょーだい」

「あーー、うっさいなおまえは!!」

マイペースな辻に加護がとうとう大声を出す。

「いっつもいっつも食いもんのことばっかり。そんなんやからデブになるんやで!」
「デブってゆーな!」
「デブやからデブゆーたんや! ひとの話くらいちゃんと聞かんかい!」
「デブって……ゆーな……」
「いや、せやから……」
「デブ……って……」

真っ直ぐ加護を見つめる辻の顔。
引き結ばれた唇の端がぐうっと下がる。
垂れ下がった目に、じわっと涙がにじんだ。

「な、泣くことないやんかぁ……」

その反応に加護の勢いも止まる。
ぬぐおうともしない辻の目からは、ぽろぽろと大粒の涙が流れた。

「ひきょーやで、泣いてごまかそうなんて」

辻は加護の顔を見据えたまま、何もしゃべらない。

「た…たしかに、強く言い過ぎたうちも悪いけど」

無言のまま、涙だけがぽろぽろと零れ落ちてゆく。

「せやけど、あれはののが……」

辻の顔がさらにぐうっと歪む。

「わ、悪かった! うちが悪かったからもう泣き止んでや!」
「なら、あいぼんのアロエヨーグルトちょうだい」

涙の跡が残った顔のまま、満面の笑みでそう言う辻。


うつむいたままこめかみを引くつかせる加護を見て、松浦はくすりと小さく笑った。

加護の怒りがピークを迎えようとしていた頃、
退魔結社『中澤コンサルティング』はひとりの客を迎えていた。

ぴしりとスーツを着込んだ細身の女性。
来客用のソファーに腰掛けたその背筋は、ぴんと伸びている。
どこか捕らえどころのない視線は、真っ直ぐに目の前の人物、
”退魔師元締め”中澤裕子に向けられていた。

中澤はその視線を真正面から受けとめ、ゆっくりとデスクに肘をついた。

「つまり、後藤を東北から帰すなっちゅーことか」
「はい。東京にいらっしゃらないなら好都合です。
 そのまま、こちらには近づかないようにしていただきたい」

表情を変えることなく、ソファーの女性は押さえた口調でそう言う。

「なんでそんなこと、せなあかんねん?」

女はソファーから立ち上がると、中澤の前に一枚の写真を置いた。
そこにはひとりの少女が写っていた。

肩までの長さの明るい髪の毛。
意志の強そうなくっきりとした眉。
目尻の上がった大きな二重。
大き目の口にぽってりとした唇。

「この娘は?」
「この少女と後藤真希を接触させるわけにはいかないのです」

真っ直ぐ立った女は、デスクを挟んで中澤の目をじっと見詰めた。

「じゃあ、うちらは先に事務所に帰っとるから」
「うん、わたしもお買い物済ませたらすぐ戻るから」

たんこぶのできた頭を押さえる辻を、引きずるようにして連れて帰る加護に手を振って、
松浦は先程買い忘れた備品を仕入れに、弾むような足取りでコンビニへ向かった。

今日は学校から直接事務所に寄った。
だから制服姿のままだ。

短すぎない膝上のプリーツスカート。
大きなエンブレムのついた薄茶のブレザー。
三つ折りにした白いソックス。
えんじ色の細いリボン。

ここしばらくぐずついていた天候もようやく快方に向かい、今日は抜けるような青空が拡がっていた。
穏やかな春の風が吹き、その心地よさに思わず顔がほころぶ。

──うーん、やっぱり太陽の光は気持ち良いなあ。
 どうせだからいつもと違う道通ってみようかな。
 んー、この辺りってあんまり来た事無いけど静かで良いよね。
 今度のお休みにはまた違う新しい道を歩いてみようかな。

「あの……すみません」

ふんふんと鼻歌を歌いながら上機嫌で歩いていた松浦の足がぴたりと止まった。
くるりと振り返る。
そこには何時の間にかひとりの少女がこちらを向いて立っていた。

春らしい淡いイエローのカーディガン。
インナーはピンクのキャミソール。
インディゴブルーのジーンズ。
右手には小さなカバン。

小柄な少女だった。
歳は松浦よりも少し上だろうか。

肩に掛かるくらいの明るい色の髪。
意志の強そうなくっきりとした眉。
目尻の上がった大きな二重。
大き目の口にぽってりとした唇。

なかなか魅力的なその顔は、なぜか不安そうに翳っていた。

「なにかご用ですか?」
小首をかしげて尋ねる松浦に、少女は一枚の写真を差し出した。
「この人を知りませんか?」

写真にはひとりの人物が写っていた。
その顔を見て、松浦の目が丸くなる。

つややかな栗色の長い髪の毛。
彫像めいた端正な顔立ち。
なによりその無機質な目。

「後藤さん!?」
「知ってるんですか!?」
勢い込んで尋ねてくる少女に、松浦は思わず後ずさる。

「あ、いや、よく似た人なら知ってるんですけど……」
「その人は一体どこに!」
「今はちょっと遠いところにいて……。
 それよりあなたはどうしてこの人を探してるんですか?」
「分からない……」
「え?」
「分からないの……。でもこの人を探さなくちゃいけない、会わなくちゃいけない。
 そんな気がするの」
「はあ……」

困った松浦はもう一度その写真を見た。

──間違いない。この写真は後藤さんだ。
 でも、どうしてこの人が後藤さんを……。

少女の息を飲む音が聞こえて松浦は顔を上げた。
肩越しに何かを見て顔を引きつらせる少女を見て、松浦は慌てて振り返った。


そこには新たな登場人物が二人、こちらを伺うようにして立っていた。

「ようやく見つけたよ」

松浦を無視し、少女に声をかけたのは短めの髪を金色に染めた女。
ボーダーのトレーナーに幅広のパンツ。
皮のジャケットをラフに羽織っている。

その横にもうひとり。
セミロングの茶髪。
華奢な体を、リクルート中の女子大生のような紺のスーツが包んでいる。
人形のように整った顔は、冷たくこちらに向けられていた。

「さあ、一緒に戻ろう」

手を差し出す金髪から、少女は怯えたように身を引く。
松浦は少女を背に隠すように間に体を割り込ませた。
金髪は初めて気が付いたかのように、松浦の顔をじっと見つめた。

「邪魔はしないでもらいたいな。
 これは我々と彼女の問題だ。
 君には関係ないだろう?」
「そういうわけにはいきません。
 成り行きとはいえ、わたしはもう関わってしまったんですから」

松浦は冷静に目の前の二人を観察した。
見た目には不自然なところは何も無い。
しかし、吹き付けてくるプレッシャーは尋常のものではなかった。

──この人たち……普通の人じゃない。

「その子はもともと我々のところにいた子なんだ。
 一緒に戻るほうがその子のためになる。
 分かってもらえないかな」
油断しないように注意しながら、松浦はゆっくり後ろを向く。
そこには怯えきった顔。
「この人は行きたくないみたいですけど」
松浦の言葉に二人は顔を見合わせ、金髪が肩をすくめた。

「仕方ないな」

その言葉とともに、金髪の体が掻き消える。

「きゃあ!!」

驚く松浦の耳に後ろから悲鳴が聞こえた。
振り向くとそこには少女を取り押さえようとする金髪の姿があった。

──そんな! いつの間に!

迷ってる暇はない。
意を決して松浦は叫んだ。

「メイル・ニット!!」

まばゆい光に包まれて、松浦の着ていた制服がその形を変えてゆく。
大きな肩のプロテクター。
白を基調としたボディスーツ。
長く伸びた袖。
剥き出しのおへそ。

「えい!」
「うわっ!」

その光にひるんだ隙に、袖をふるって少女から追っ手を引き離した松浦は、
再び少女の前に立つと身構えた。

「く! 邪魔をするな!」
目の前で吼える金髪から目を離さず、後ろの少女に声をかける。
「早く逃げて!」
「あ……あなたは……」
「いいから早く!」
その声に押されたかのように、少女は走り出した。

「逃がさん!」
一声叫んで金髪が前に出た。
立ちふさがる松浦に空気を切り裂いてハイキックが伸びる。
飛んできた脚を、両手でガードする。
予想以上に重たい攻撃に、衝撃を吸収しきれない腕がきしんだ。
振り上げた脚はそのまま降りることなく、正確に同じ位置に衝撃を与えてくる。
二度、三度。片足立ちのままキックの連打、連打。

「ああ!」
4度目の蹴りで、松浦のガードが弾け飛ぶ。
蹴り足を引き戻す勢いを利用して、蹴撃手の軸足が跳ね上がった。

「きゃあ!」
顔面を蹴られ吹き飛んだ松浦の横を、金髪が駆け抜ける。
「ま、待って! ──ぐぅ!」
慌てて追いかけようとした松浦の首がぐいっと締まる。
それまで動きの無かったもうひとり、リクルートスーツの女の手から細身の鞭が伸びていた。

「邪魔はしないでください」
冷たい表情のまま、女は静かに鞭を絞り上げる。

──この人たち……強い。本気でやらないと……。

「どうしたの!? 何があったの! まさか敵?」
女の後ろからさらに声が聞こえた。

──そんな! まだ仲間が!?
 うわちゃー、チョーやばい。絶体絶命やんか!

待ち受ける運命を思い、松浦はぐっとその唇を引き結んだ。

事務所の中は、張り詰めたような空気で満たされていた。
向かい合う二人には言葉が無い。
沈黙を破るようにして中澤は大きくため息をついた。

「この娘がナニモンなんかも教えてもらえんのやろな。
 ……ったく、あんたらはいつまでたっても変わらんな」
「申し訳ありません。規則なので。
 私がお渡しできるのはこれだけです」

差し出された資料を受け取り、中澤は上目づかいに女を見上げる。
「ま、あんたには世話になった事やし、後藤にはそう指示出しておくわ。
 ……にしても、相変わらず愛想の無いヤツやな。あんたも」
皮肉な口調でそう言い、革張りのイスの背にもたれかかる。

「そうですか? 最近人当たりが良くなったといわれますが」
「……それでかい」

憮然とした顔の中澤を気にせず、スーツの人物は少し下がって踵を合わせる。

「なににせよ。ご協力に感謝します」

『陸上自衛隊特殊機械化部隊』村田めぐみ一尉は、ぴしりと見事な敬礼を決めて見せた。

身動きの取れない松浦を無視するように、
リクルートスーツが三人目の女に向かって話し掛ける。

「邪魔が入りました。ターゲットは今、大谷さんが追跡中です」
「もういいわ、柴田。鞭を離して」
「しかし」
「大丈夫。この子は敵じゃないわ」

その言葉に納得したのか、柴田と呼ばれた女は鞭を引く。
しゅるしゅるとまるで生き物のように、絡み付いていた鞭は離れていった。
「久しぶりね。松浦さんだったかしら」
「あなたは……」
喉を押さえながら松浦は新たな登場人物を見つめた。
明るい色の長い髪、大きく胸元の開いたタンクトップに、お腹の辺りで結んだシースルーのブラウス。
タイトなミニから覗く脚には網タイツ。
初めて会ったときとは大きく違う印象ではあったが、松浦はその顔に見覚えがあった。
去年の夏、危ないところを助けてくれた恩人。

「確か自衛隊の……」
「斎藤よ。でも、どうしてあなたが」
「……成り行きです。え、それじゃさっきの人も……」

「うわああ!!」
「なに?」
叫び声に振り向いた松浦には、先程少女を追いかけた金髪が吹き飛んでくるのが見えた。
真横に飛び、路地の端にぶちあたった体が、ブロック塀をこなごなに砕く。

「大谷さん!」
柴田と呼ばれた女性が慌てて駆け寄る。
大谷が飛んできた方向。そこに顔を向けた松浦は思わず目を見開いた。

「ファントム……」
隣の斎藤から、呟くような声が漏れた。
しかし、驚愕に捕らえられた松浦の耳に、その声が届く事は無かった。

「あれは」
そこに見えたもの。それは本来そこにあるべきではないもの。

「そんな」
その人物は頭からすっぽりと真っ赤なマントで覆われていた。そのためそれはちらりとしか見えなかった。
しかし、松浦にとってそれは見間違えるようなものではなかった。

──あれは……。あの仮面は……まさか後藤さん!?

再び中澤コンサルティングの事務所。
ソファーにぐったりと腰掛けた松浦の前には二人の先輩退魔師。

「んじゃ、あややはごっつぁんが自衛隊の邪魔したって言うの?」
と、『雷念使い』矢口真里が眉をひそめて訊く。
「そういう訳じゃないですけど……。でも、あの仮面は後藤さんのと同じものでした」
「今確認取ったけど、後藤はまだあっちにいたわよ」
携帯を切った『糸使い』保田圭が冷静な口調で言う。

「そうですか……やっぱり……」
「やっぱり?」
目を伏せる松浦の顔を、矢口は不審そうに覗き込む。
「確かに仮面は同じだったんですけど……何か違和感を感じたんです。
 よく似た…別人のような……そんな気が……」
「それで、その仮面はどうしたのさ」
「すぐにいなくなりました。
 自衛隊の人が追いかけたみたいですけど……」
矢口は軽く息を吐き、隣の保田に目を向けた。

「ねえ、圭ちゃんはどう思う?
 あややが見たのって本当に後藤なのかな」
「わからない。
 でも、自衛隊、それもあいつらが関わってるって事はまともな事件じゃないでしょうね」
「自衛隊はなんて言ってるのさ」
「例によって情報規制。何も教えられないってさ」
「ったく、だからお役所仕事は嫌なんだよ」
愚痴る矢口に意を決したように松浦が声をかけた。

「あの……わたし、昨日も後藤さん見たんです」
「「なんだって!?」」
先輩退魔師の声がキレイにハモった。

「なるほどね。そんな事があったのかぁ」

矢口が腕組みをして頷く。
昨晩見た謎の仮面のことを話し終えた松浦は、伺うように保田の顔を見た。

「確かに偶然とは思えないわね」
「でも、それもごっつぁんじゃないよね。
 てことはごっつぁんの似せ者がいるってこと?」
「気になるわね。
 松浦、昨日その仮面を見た場所、詳しく教えて頂戴」
「あ、はい」
「どうするのさ、圭ちゃん」
「会いに行くのよ。そっくりさんに」
「え、でも、やばくない?
 自衛隊が動いてるんでしょ」
「だって気に入らないじゃない。こっちに理由も言わずにコソコソ動き回って。
 松浦が見た仮面の情報はあいつら掴んでないだろうし、こっちが先手を取ってやる」
「ったく、ごっつぁんのことになると甘いんだから」
「あん? 何か言った?」
「いえ、別に……」
「あの……わたしも連れて行ってください」
その声に保田は松浦を見た。こちらを見つめる真剣な目。

「……まあ、乗りかかった舟だしね。いいわ、ついておいで」
「はい!」
嬉しそうに返事をする松浦を見て、矢口も顔を綻ばせる。
「にしてもさあ、あややの会った娘ってナニモンなんだろうね。
 仮面のヤツはその娘を守ったわけでしょ」
「その女の子が何者なのか……。
 それさえ分かれば仮面の謎も解けるんだろうけど」
「そういえば、裕子が見た写真ってまだあんの?」
「ええ、これよ」

保田が一枚の写真を見せる。
そこにはひとりの少女。

「……間違いありません。わたしが会ったのはこの人です」
「この娘はごっつぁんを探していた。
 自衛隊はこの娘とごっつぁんを会わせたくなかった。
 そして、ごっつぁんもどきがこの娘を守った」
「なんにせよ、この娘がポイントなのは間違いないわね」
「あ、そういえば、この女の子って、なんて名前なのさ」
「えーっと、確か……」
矢口の質問に保田は資料をめくる。

「あ、あった。えーっと……この子の名前はソニン。ソン・ソニン。韓国人ね」

「ここなの?」
「はい」

保田はサングラスを外して辺りをうかがった。
相変わらず黒一色のその姿は、日の落ちかけた景色に同化するように溶け込んでいた。

保田と松浦、あの後すぐに事務所を出た二人は、仮面を見つけたビルの屋上に立っていた。
冷たくなり始めた風が、松浦の制服のスカートをぱたぱたとなびかせる。
先程までの晴天は影を潜め、空気には湿り気が混じり始めていた。

「ここは……。ふん、なるほど濃いわね」
「濃い? 何がですか?」
「瘴気っていうのかしら。
 こういうビルが立ち並んでいるようなところは、気の流れが滞りやすいの。
 そうするとそこに”ひずみ”が生まれる。
 ”ひずみ”は瘴気を集め、ついには妖魔を導いてしまう。
 あんたが倒した妖魔も、ここの瘴気に反応して出てきたやつかもね」
「ほぉほぉ、そぉなんですか」
「ここも裕ちゃんに言って浄化してもらわないと……」

ぴく、と手袋をした保田の指が動いた。
右手を顔の前まであげ、張り巡らせた見えない糸を見つめる。

「まいったね。言った早々これだよ」
「え?」
「来るよ」

言葉とともに右手が振られる。
目の前まで迫っていた触手は大きく弾かれた。

「わわわ、いつの間に!?」
「あんたもまだまだ甘いわね。あんな鎧に頼ってるからよ」
「えー、そんなこと言わないでくださいよぉ」

おちゃらけた会話をかわしつつ、油断なく妖魔を見据える。
正面の敵は、ひっくり返したゼリーのような形をしていた。
大きさは2メーターほど。中心に大きな目がひとつ。
体の周りでは数本の長い触手がうねうねと動いていた。

再び飛んできた触手。
松浦の手からまばゆい光が放たれる。
じゅ、と音を立てて焼け焦げた触手を、見えない糸が寸断する。

「たいした相手じゃないわね。一気にいくわよ」
「はーい。まっかせてください!」

身構えた二人。しかし、異変を感じその動きを止める。
目の前の妖魔も動きを止めていた。
触手がだらりと垂れ下がり、大きな一つ目も焦点がぼやけている。

「あれ?」

びくん、と醜悪な体が震えた。
その目の上。人間でいう額の部分から何かが生えた。
紫色の体液にまみれた4本の棒。
それはヒトの指に見えた。
さらにその横にも新たに4本の指が生える。
鉤状に曲がった指がゆっくりと外に開いてゆく。
ミリミリと音を立てて、妖魔の体に空いた空間が大きさを増す。

「……現れたわね」

ごぼぁっ!

濡れたものを穴から引き出すような音がして、妖魔の体は縦に裂けた。
真っ二つなった体の間に立つ一つの影。
異界の血潮を浴びた紅いマント。
薄暗くなり始めた景色の中、浮かび上がる白い──仮面。

凄惨な光景に松浦の息を飲む声が聞こえた。
辺りには妖魔が溶け崩れるひどい臭気が漂う。
保田は真っ直ぐに白い仮面を見据えた。

「あなた……何者?」
「…………」
「後藤じゃ……ないわね。その仮面は……」
「…………」

無言のままの仮面に保田は軽くため息をつき、
胸ポケットから一枚の写真を取り出した。

「あなた……この娘知ってるんでしょ」

その写真を見た紅いマントは大きく動揺した気配を見せた。
しばらく動きを止めた後、すうっと右手が上がる。
保田達が見守る中、白い仮面はゆっくり外された。
その仮面の下から低くかすれた声が漏れる。

「……ソニン……」

そして、宵闇の中に現れた端正な顔。

「後藤さん……」

呆然としたような松浦の声。
その声を聞きながら保田は目を細めた。

──確かに似ている……でも……この子……。

「ソニンは……どこだ」
「残念ながら今どこにいるかは知らないわ」

──この声……やっぱりこの子……男?

「そうか……」
「ちょっと、どこ行くのよ」

呼び止めた声に、後藤に似た少年はその目を向けた。
後藤とも違う、無機質な目。
それは戦い慣れたはずの保田の背に、ぞくりとする感覚を味あわせた。

「あなた……何者なの……。後藤とどういう関係なの。この娘は一体何者なの」
立て続けな質問にも、少年は表情を変えない。
「……俺は何も知らない。俺はソニンを探している。
 俺の中にあるのは……それだけだ」

再び歩み去ろうとする少年に、保田が声をかける。

「勝手に行かす訳にはいかないのよ。
 こっちにはまだまだ訊きたい事があるんだからね」
「俺にはもうここにいる理由が無い」
「そっちに無くても、こっちにあるのよ」

ぴうん、と空気が鳴る。
少年の首に巻きつけた糸を待ったまま、保田は鋭い目で相手を見た。
「じっとしていて頂戴。下手に動くと大怪我するわよ」
少年の表情は変わらない。そのまま何事も無かったかのように歩き始める。
「待ちなさい! 脅しじゃないのよ!」
きゅ、と糸の輪が狭められた。少年の首に薄く食い込む。
再び無機質な目が保田に向けられた。

ぐん。

「な!」

不意に糸が引っ張られ、保田は目をむいた。
少年の姿は先程までの位置には無い。

慌てて保田は糸を手元に引き戻した。
その手に残る堅いものを断ち切った手応え。

きっ、と上を見上げる。
そこには翻る紅いマント。
予備動作も無しに、少年は屋上の柵の上に飛び乗っていた。
もちろん、その体には傷ひとつ無い。

──まさかこいつ……後藤と同じ……。

少年は柵の向こうに身を翻した。
「逃がさないわよ!」
「あ、待ってください! 保田さん!!」
糸を使ってふわりとその身を浮かせた保田を追って、
制服を万能鎧に変えた松浦は、その袖を広げ宙に舞い上がった。

「どこに行ったの」

数十メートルの高さからなんなく地上に降り立った二人は、
先程の人物を求めて辺りを見回した。
しかし、真紅のマントはどこにも見当たらなかった。

「保田さん、わたしはこっちを探します」
「分かったわ。くれぐれも気をつけるのよ」
「りょぉかいです!」

保田と別れた松浦は慎重に辺りをうかがいながら歩を進める。
すでに日はほとんど落ち、路地は薄暗くなっていた。
黒く染まった空には思い雲がうごめき、今にも雨が零れ落ちそうに思える。
ビルとビルの間の狭い場所とはいえ、学校や会社から帰る人たちが多くなる時間帯にも関らず、
近くに人の気配は全く無い。
これも瘴気のせいなのだろうか。

「えー、後藤さんのそっくりさん、いらっしゃいますかぁ」

小さく呟いて、路地の陰からそっと顔を出す。
少し離れたところにぼんやりと浮かび上がるのは、うずくまったひとりの少女。

「あの人は!」
松浦は急いで駆け寄った。
苦しそうに額に汗を浮かべたその少女は、確かに昼間に出会った少女。
自衛隊の持ち込んだ写真に写っていた少女。
ソニンという名の少女だった。

「大丈夫ですか。しっかりして」
「こ…ここは……」
「どうしてあなたがこんなところに」
「分からない……。急に気分が悪くなって、そのまま意識が……」

ふらつく体をそっと支えてやる。
何があったのか、少女の着ている服にはどす黒い染みがいくつもついていた。

「今、ここに男の子が来ませんでしたか?」
「男の子?」
「ええ、紅いマントを来た」
「……そう、来てたのね……彼」
「彼?」
「そう、わたしを守ってくれる人」

ソニンは小さく微笑んだ。

「彼は一体何者なんですか?」
「分からない。直接会ったことが無いの。
 どうやらいつもわたしの傍にいてくれるみたいなんだけど」
「会ったことが無い?」
「そう、ずっと会いたかったのに会えなかった。
 彼の事は博士から聞いて知っていたけど」
「博士って?」
「わたしを育ててくれた人。
 でも、博士から聞いたのは彼がわたしを守ってくれるって事と、彼の名前だけ」
「名前……。彼の名前はなんていうんですか?」
「それは──」

「彼はコードネーム、ファントムといいます」

後ろから声が聞こえ、松浦は慌てて振り返った。
そこにはカーキ色の制服を来た4人の女。
『陸上自衛隊特殊機械化部隊』。
隊長である村田一尉は静かに声をかけた。

「申し訳ありません。こんなこともあろうかと、
 あなたにはあの時、発信機と盗聴器を付けさせて頂いてました」

はっとしたように、松浦は自分の体をぱたぱたと叩いた。
もちろん、既に後の祭りではあるのだが。

「まさか本当に彼女と接触できるとは思いませんでした」
「……この人は何者なんですか。それにあの後藤さんに似た男の人は一体──」
「彼も彼女も共に我々の所にいたものです。
 彼はコードネーム、ファントム。またの名を──」

村田は一旦言葉を切り、すうと目を細める。

「幽鬼(ユウキ)、といいます」

真っ暗な空から、ぱらぱらと冷たい雨が降り始めた。

「ユウキ……。それがあの人の……」
「彼女は我々が保護します。
 大丈夫。彼女の安全は保障します。それは信用してください」
「でも……」
松浦は抱えたままの少女に目をやった。
だいぶ落ち着いたのか、汗もひき、顔色も前より良くなっていた。
降り始めた雨からできるだけ隠すように、松浦はその体を抱き寄せる。

村田はそんなソニンに目線を移した。
その目は相変わらず捕らえどころが無いものの、先程までの厳しさはすっかり消えていた。

「帰りましょう。博士も……和田博士もお待ちです」
「博士が……」
「はい、博士はとても心配されていました。
 あの方はあなたの事を……」
「分かってる! ……分かってる。でも……それでもわたしは……」
「博士はあなたを失いたくないんです。それはおそらく研究者としてではなく……」
「…………」

「危ない!!」

声と共に松浦の太陽光が輝く。
ぎい、と声をあげて巨大な蜘蛛に似た妖魔は上に登る。
ビルの間からたらした糸にぶら下がった化け物は、ゆらゆらとその体を揺らした。

──また妖魔! やっぱり瘴気が溜まってるせいで。

陸自の特殊部隊も一瞬のうちに戦闘体勢に入った。
村田の手から飛んだ千本が妖魔の体に突き刺さる。
ぎがが、と吼える妖魔は口らしきところから粘液を吐き出した。

一瞬にして特殊部隊は散開する。

妖魔に向かって、さらに投げられる針。
見かけによらぬすばやい動きで妖魔はするすると糸を登る。
しかし、壁にあたった投げ針は、きん、と音を立てて跳ね返り、
逃げたはずの妖魔のぶよぶよとした腹部に突き刺さった。

「逃がしはしません」

ひるんだ妖魔に、垂直に壁を登った大谷が見事な跳躍から頭部に踵を叩き込む。
斜め下に向かって吹き飛んだ体が地面に着地する前に、
回り込んだ斎藤の両手が異形の物体を地面に叩きつけた。
べしゃりとへたばり、ひくひくと痙攣する妖魔。
さらに柴田の鞭が打ち据えられると、形容しがたい悲鳴が漏れる。
その頭に再び千本が突き刺さった。

どろりとした体液をこぼして異界の存在は息絶えた。
降りしきる雨に溶けるかのように、醜悪な体が崩れ始める。
辺りには濁った気が拡がり始めた。

──は、早い! やっぱりこの人たち強い。

その圧倒的な力を見せ付けられた松浦は、思わず呆然となった。
しかし、手の中の異変に気がつき顔色を変える。
抱えたままの少女──ソニンは再び苦しみ始めていた。

「だ、大丈夫ですか!?」
「うう……あああ……」
「いけない! あれが始まったのか!?」
「きゃああ!」

いきなり弾き飛ばされ、濡れた地面に転がる。
倒れ付したまま、松浦は先程まで自分が抱えていた存在を見上げた。

両手で頭を抱え、折れ曲がった指が髪の毛をかきむしる。
苦しげな声が漏れ、がくがくとその体が震えた。
その姿に松浦は違和感を感じた。

──なに? なんだかさっきと……。

違和感の正体に気付き、松浦は息を呑んだ。
先程まで肩まであった髪が縮んでいる。そればかりか色も黒く変わっていた。
いや、髪の毛だけではない。
ふっくらと小柄だった体まで、引き伸ばしたように上へ伸びていた。
体の変化に合わせ、着ていたものもその形を変え始める。
ばさり、とひろがる紅いマント。

「そんな……まさか……」

ごう、と音を立てて吹き付ける鬼気。
伏せられていた顔がゆっくりと上がる。
端整な顔立ち。無機質な目。

「コードネーム、ファントム。ファントムとは幻影。
 その存在は虚ろ。実体を持たざる虚像」

目を見開いたままの松浦の耳に、抑揚の無い村田の声が響く。

「──ユウキとは、彼女の中に生まれたもうひとりの存在なのです」

目の前の人物は、どこから取り出したのか白い仮面をかぶった。

ぴしり、と音を立ててその首に細身の鞭が巻きつく。
冷たい表情を崩さぬまま、柴田は鞭を絞り上げた。
動きの止まった仮面に、村田から数本の千本が飛ぶ。
避ける様子の無いまま、その全てが目標に突き刺さった。

ぐい、と鞭を引かれ柴田の体が宙に浮いた。
そのまま、路地の反対まで投げ飛ばされる。
ちりんと音を立てて地面に千本が落ちた。

「やはり……ダメか」

声もなく白い仮面が前へ出た。
その前に立ちふさがる斎藤瞳二尉。
容赦なく顔面に飛んでくるパンチを、斎藤はがしりと受けとめた。
斎藤はパワー型で調整されている。当然、パワーは部隊でナンバーワンだった。

相手の腕を掴んだまま、斎藤はニヤリと笑う。
しかし次の瞬間、その顔が引きつった。
腕が止まらない。掴んだ体制のまま、体がずずっと後ろに下がった。

「あああ!」
肉感的な体が宙を舞う。
腕の一振りで斎藤をブン投げた仮面に、大谷のキックが飛んだ。
絶対の自信に満ちた大谷の顔が驚愕に固まる。
絶妙の角度、すさまじい速度で跳ね上がった脚は、あっさりと片手でで受け止められていた。

「ちい!」
蹴り足をつかまれたまま、大谷の軸足が跳ね上がる。
延髄に巻きつくような渾身の蹴り。
頚骨がゴキリと音を立てた。

どん、と鈍い音を立てて大谷の体が地面に叩きつけられた。
見下ろす仮面には何のダメージも見受けられない。

何の前触れも無く、白い仮面は飛び上がった。
隣接するビルの壁を、三角跳びの要領で交互に蹴りながら上へと昇ってゆく。

「く! 待て!!」

同じように、村田を除いた自衛隊の面々もその後を追う。
自分も続こうとした松浦は、村田の様子がおかしい事に気が付き、動きを止めた。

「事情を……説明しなければならないでしょうね」
「ええ」

村田の後ろ、暗がりの中から現れた闇よりも黒いその姿。

「返答次第では……あなたの首の糸、使わせてもらうわ」

黒衣の糸使い──保田圭は顔の前でぴんと立てた指を、ゆっくりと後ろにひいた。

「保田さん!」
驚く松浦には目もくれず、保田は静かな声で話し掛ける。

「答えてもらうわよ。あの娘が何者なのか。
 なぜ後藤と同じ力が存在するのか」
「分かっています。ここまで来たら全てお話します」
見えない糸を首に巻かれていながら、村田の様子に変わりは無い。
淡々と抑揚の無い口調で続ける。

「後藤さんが退魔師として登録される前に、国の研究機関にいたことはご存知ですね」
「ええ、いろいろ調べた結果、何の結論も出なかったって聞いてるけど」
「そうです。ですが、研究はその後も続けられました。
 後藤さんのDNAは貴重なサンプルとして保管されていましたし」
「それで?」
「Eternal Existence(永遠の存在)──EE計画とそれは呼ばれていました。
 ……その計画、研究チームの中に優秀な科学者がいました。
 和田薫博士。遺伝子工学の権威です。
 彼にはある事情で幼い頃に引き取った韓国人の少女がいました」
「もしかして、その娘が」
「そうです。その少女がソニン。先程の少女です」
「それじゃ、その和田って博士は……」
「はい。後藤さんのDNAを……ソニンに使用しました」
「つまりその博士は引き取った娘を人体実験に使ったって事だね。
 ……最っ低。 
 研究のためなら何してもいいってこと無いだろ!
 いくら自分と血が繋がってないからって……」
「それは違います」

珍しく強い口調で村田が否定の言葉を口にした。

「彼女は……ソニンは不治の病に侵されていたんです」

「不治の……病?」
辛そうに眉根を寄せた松浦が、村田に尋ねる。

「世界にも他に例を見ない新種の奇病。
 じっとしているだけで、体が徐々に衰弱してゆくという謎の病。
 もちろん、あらゆる治療法が試されました。
 しかし、効果があったものはひとつもありませんでした」
「それじゃあ、それで」
「博士にとっても、残された最後の手段だったんです。
 そしてそれは奇跡的な成功を収めました。
 今までラットでさえ成功のケースは無かったのに。
 あるいは、彼女の持つ奇病が良いほうに作用したのかもしれません。
 ですが……」

そこで一旦息を吐き、村田は話を続けた。

「予期できない副作用が起こったのです」
「それが……あの」
「我々がファントムと呼ぶもの。
 彼女が危険を感じたときに現れるもう一つの人格。
 いえ、その姿や能力まで変わるあれは、別の存在と言っても良いでしょう」

「だから、あの二人は会った事が無いって言ってたんですね」
顔を伏せた松浦が言う。
「絶対に出会う事の無い存在。最も近く、最も遠いところにいる存在。
 なんだか……哀しいですね」

「でも、あの娘はどうして後藤に会おうとしてたの?」
保田が聞く。
「彼女は自分の身に何が起こったのか知らされていません。
 ただ、病気が治ったのだと思っていたはずです。
 でも、どこかで薄々察してしまったのでしょう。自分のもつ力を」
「それで?」
「おそらく彼女は……」

「全てを終わらせようとしたんだよ」

不意に聞こえた声に三人は振り返った。
そこに立っていたのは──

雨に濡れたつややかな長い髪。
彫像めいた端正な顔。
感情の読めない無機質な目。

『不死の少女』後藤真希は、いつもの謎めいた表情で静かにその場に立っていた。

「後藤! あんたどうして……。東北にいたんじゃないの!?」
「なんかね……。ここに来なくちゃいけない……そんな気がしてさ」
「……やはり、引き合ったのか……」
固い口調で村田が呟く。

「あんた……聞いてたの? 今の話」
後藤はその質問には答えず、わずかに表情を緩めた。

「圭ちゃん。あたし行くね。ケリを……つけなくちゃ」
「待ってください。後藤さん。あなた達が戦えば……」
村田は言葉を切った。
自分に向けられた目。
透明な、それでいて深みのある色をした目。
その目を見てしまったから。

「……分かっているのですか? どうなるのか」

無言のまま、後藤はビルを見上げた。
つられたように、残る三人も死闘が繰り広げられているであろう場所を向く。
振り仰ぐ四人の体に、冷たい雨は容赦なく降り続いた。

「きゃあああ!!」

貯水槽に柴田の体が叩きつけられた。
一瞬壁にへばりつき、ずるずると崩れ落ちる。

満身創痍だった。
柴田だけではない。
必死で身を起こそうとする大谷も、膝立ちの体勢の斎藤も、
既に限界に近いほどのダメージを受けていた。

その三人のちょうど中心にあたる位置。
その場に立つ紅いマント。
その顔を覆う白い仮面。
傷一つ無く佇むその姿は、名前のとおり幽鬼のごとき姿だった。

つと何かに導かれたように、仮面が一点を見つめた。
視線の先にあるのは端整な顔立ち。

仮面を一枚挟んで、酷似した二人が対峙した。

「隊長……」

左腕を庇うように押さえて近づいてきた斎藤に村田は黙って頷く。
その後ろには脚を引きずる大谷の姿も見えた。
立ち上がる事のできない柴田には、駆け寄った松浦が肩を貸していた。

「後はあの人に任せよう」
村田の視線の先。そこには睨みあう二人の魔人。

「我々にはもうこれ以上手を出す事はできない」
自衛隊特殊部隊の隊長、人造の超人は静かにそう呟いた。


「後藤……」
後藤の背中越しに保田は心配そうな声を出す。
「大丈夫だよ、圭ちゃん」
前を向いたまま、後藤は落ち着いた声を返す。

「これはあたしの戦いなんだ」
静かに、まるで何かに言い聞かせるように小さく呟く。
「あたしが……やらなきゃいけないんだ」
何気ないように後藤は振り返った。
その顔は穏やかで透明なものだった。

「あんた……」
薄く笑って再び後藤は自分の分身を見た。
その右手がゆっくりとその顔を覆う。
白く浮かび上がるもう一つの仮面。
空気が──変わった。


「不死の者どうしの戦い……」
保田が呟く。
「一体どうなるって言うの……」

まるで磁力で引かれ合うかのように、二つの仮面が激突した。
後藤の拳がユウキの顔面に叩きつけられる。
同時に、ユウキの拳は後藤の腹にめり込んでいた。
そのまま止まることなく、拳が何度も振るわれる。

技巧も何も無い、ただ己の肉体をぶつけ合う戦い。
肉で肉を打つ鈍い音だけが、薄暗い屋上に響き渡る。
誰もが息をする事すら忘れてその戦いに見入っていた。
静かな、それでいて凄惨な戦い。

雨はその激しさを増していた。
もうもうと白い湯気を上げながら、鬼気迫る殴り合いは続く。
互いの拳が白い仮面を打ち抜く。
相打ちになった二人は、ほぼ同時に仰向けに倒れた。

ごふ、と音がして仮面が血の霧を吐く。
白い仮面に真っ赤な鮮血がまだらを作った。
しかし、それも降りしきる雨にすぐに流される。

ゆらり。
がくがくと振るえる体を無理やり引き起こすように、二つの体が起き上がった。
ぼろぼろになった体。
今にも倒れそうなほどのダメージが、誰の目からも明らかなほど蓄積されていた。

「おかしい……あれだけの傷を受けているのに、ダメージが回復してる様子が無い。
 いつもなら、もうとっくに復活してるはずなのに」
「そのとおりです」
死闘から目を離さないまま、村田は保田の疑問に答えた。

「あの二人の使う力は同じタナトスのエネルギーです。
 負の力によって受けたダメージは……負の力では復活しない」
「何ですって!! それじゃ」
「そう、今の二人は復活の力を封じられているのです。
 もし命を落とせばそこで全てが終わる。
 不死の者に死を与えることができるのは……不死の者だけなのです」

「な! そんな! 冗談じゃないわ。早く戦いを止めさせないと!」
「無駄です。今の二人を我々が止める事はできない」
「それじゃ……それじゃあどうなるんですか」
悲痛な松浦の声に、村田はいつもの調子で答える。

「このまま見守るしかありません。……どちらかが生き絶えるまで」
「そんな……。アンタ! 分かってたんならどうして!!」
初めて村田は少しだけ表情を固くした。
これだけは未だ抑揚のない声で、静かに言う。

「おそらく、ソニンが後藤さんに会おうとしていたのはこのためでしょう」
「……どういうこと?」
「たぶん、彼女は何かの拍子に自分の力に気付いてしまった。
 しかし、彼女は自らの呪われた力を受け入れる事ができなかった。
 おそらく彼女の本能が告げたのでしょう。
 どうすれば全てを終わらせる事ができるのかを」
「それじゃあ、後藤と戦うために……死を迎えるために……。
 ……そのために逃げ出したって言うの?」

「彼女は韓国人なのです。
 韓国はキリスト教の国です。
 幼い頃に死に別れたとはいえ、彼女の両親も敬虔なクリスチャンでした。
 ……キリスト教にとって、『復活』は特別なものであるのです」
「『主の復活』……か」
死した後、蘇ったナザレの救世主。
『復活』はキリスト教の中でも特別な奇跡として扱われる。
それを軽々しく扱う事は、神に対する冒涜だと捉えられるのかもしれない。

「保田さん……」
それまで黙って聞いていた松浦がこちらを見上げる。
「なに?」
尋ねた顔はどこか頼りなく、歳相応の幼さをのぞかせていた。

「わたしは……わたしはどっちにも負けて欲しくありません。
 どっちにも勝って欲しくありません。
 わたしは……どっちを応援したらいいんでしょう」
「……知らないわよ」
ぶっきらぼうに吐き捨てる。
残念ながら、保田にも納得できるだけの答えは出せそうに無かった。

文字通り命を削る殴り合いはまだ続いていた。
互角に見えた戦い。
雨に脚をとられたのかユウキの体がずるりと流れた。
その隙を見逃さず、後藤の手刀が喉へと伸びる。
しかし、指先が肉に食い込む寸前、鋭い攻撃は躊躇したかのように止まった。
好機の後の危機。
逆に、後藤の首に伸びたユウキの両手が、渾身の力を込めて手の中のものを締め上げた。

「後藤さん!!」
「アイツ……まさか」
「どうしたんですか、保田さん」
「あのユウキって子。
 後藤と同じDNAを持ってるって事は、アイツにとって見れば弟みたいなもんだ。
 ……アイツはずっとひとりだった。
 いつも孤独に怯えていた。
 家族ってものに餓えていた。
 同じDNAをもつユウキ……それはアイツにとって残された唯一の家族なんだ」
「まさか、後藤さん……」
「アイツはさっきの話を聞いていた。
 あのソニンって子には血は繋がって無くても家族がいる。
 待っている人がいる。
 だから……もしかしたら」
「そんな、もしかしてわざと……」
ぎしぎしと首の骨が軋みを上げる音がここまで聞こえた。

「後藤! なにやってんの!」
保田は大きな声をあげた。
既にその声さえ後藤の耳に届いているのかどうか分からない。
だらり、とその両手が下がる。

「馬鹿!! 後藤!! 
 アンタにも……アンタにも帰りを待ってる人はいるのよ!!
 いえ……違う。アンタには……アンタには帰りを待たなくちゃいけない人が、
 ずっと帰ってくるのを待ってる人がいるでしょうが!!」
びくん、と後藤の体が震えた。

しゅ、と音を立てて、光る何かが雨を切り裂いた。
それは今にもひとつの命を奪おうとする白い仮面に、真っ直ぐに突き刺さった。

「なに?」

慌てて保田はそれが飛んできた方向を見た。
屋上の鉄柵の上。
そこには輝く一体の鎧が立っていた。

──いつの間に!? 一体何者?

西洋の鎧に似たフォルム。
何かで切り抜いたような鋭角的なデザイン。
全身がクリスタルのようなきらめく素材でできていた。
もちろん頭部も同じ材質の兜で覆われ、表情は伺うことができない。

──あんなヤツ今まで見た事が無い! 味方なの? それとも……。

鎧は、すいと柵から宙へ身を躍らせる。
そのまま闇の中へと消えていった。

「ま、待て!」
「仮面が!」

鎧を追いかけようとした保田は、松浦の声に振り返った。

先程の何かが突き刺さった仮面。
全ての感情を覆い隠す仮面。
二人の力の象徴とも言える仮面。
──白い仮面は二つに割れていた。

仮面の下のユウキの顔は意外なほどに穏やかな表情だった。
何かを悟ったような静かな顔。
姉の首に手をかけたまま、ユウキと白い仮面の目が合った。
数瞬の沈黙。
そのとき、保田にはユウキが小さく頷いたように見えた。

ずん。
鈍い音がした。
ユウキの背中から真っ赤な血が噴出す。
白い仮面──後藤の腕がユウキの心臓を貫いていた。

穏やかな表情を浮かべたまま、ユウキはゆっくりと仰向けに倒れた。
その上に冷たい雨が降り注ぐ。

立ち尽くす後藤の体にも容赦なく雨は降り注いだ。
その体がいつもよりも小さく見える。

「ああ!」
松浦が大きな声を出した。
指差す方向。
倒れていた人物は小柄な少女へとその姿を変えていた。

「……生きています」
駆け寄った村田が静かに言った。
「どういうこと?」
「分かりません。あの時、間違いなくユウキの存在は消え去りました。
 しかし、ソニンの存在は残った。
 果たして彼女の体がどうなっているのか、それは調べてみないとなんとも言えません」
「そう……」

頷きながら、保田は先程の人物のことを考えていた。
クリスタルの鎧。
あれは今までに見たことの無いものだった。
あれは一体……。

保田はそっとひとつのものを拾い上げた。
鎧と同じクリスタルでできたサイコロのような物。
それは先程仮面を割った物体だった。

「後藤さん……」
松浦の声に、保田は立ち尽くす不死の少女の方を向いた。

後藤は空を見上げていた。
その仮面にも大粒の雨が落ちる。
滑らかな表面を伝った雨は一筋の川となって流れた。

「まるで……泣いてるみたい……」
小さく呟く松浦の肩に、保田はそっと手を置いた。

静寂に包まれた空間。
冷たい雨だけが、ただずっとその場に降り続いていた。


           第弐夜  〜幕〜

いつも 弱気なままで……


今日まで何やってたんだろう……。


普通に会った時は普通に話せるのに……


肝心な空気になると結局ダメ。


笑顔で話し掛けてくれるけど


きっと私だけじゃな・い・よ・ね。

 Morning-Musume。 in 

         百 姫 夜 行。 ─ 翔─  

            ―― 第参夜     初めてのロックコンサート

「ねえ、あさ美ちゃん。コイってしたことある?」

不意に真剣な顔でそう言われ、紺野あさ美は目を見開いた。

「コイって言っても魚の鯉じゃないからね」

釘を刺され、丸く開きかけた口を慌てて閉じる。

「恋だよ、恋。LOVE、恋愛、胸がどきどきするヤツ。
 ……ね、経験……ある?」
「恋……してるの? まこっちゃん」

小首をかしげて訊ねる紺野の言葉に、目の前の小川麻琴の顔が真っ赤に染まった。

「イ、イヤ……あの……恋してるとか……別に……。
 そ、その……な、なんて言うか……」
いつもはきはきとしている小川が珍しくあたふたする姿を見て、紺野はふうわりと笑う。

ここはとあるビルの地下。
エレベーターのボタン表示もない誰も知らない場所。
都内にいくつか造られている退魔師専用の秘密の訓練場。

訓練を終えた二人は、まだ訓練中の同期を待ちながら、たわいも無い会話を繰り返していた。
とはいえ、口を開くのはもっぱら小川の役目ではあったのだが。

「そ、それでどうなの? 恋ってしたこと……ある?」
「あるよ」
「あ、あ、あるの!? あさ美ちゃん!」
「うん、小学校三年生のときに……隣の席の……ユウスケくんと……」
「違うよ! あたしが言ってるのはそう言うんじゃなくって!!
 その…デートしたりとか……キ、キス……したり…とか……」

紅い顔のままムキになって否定する姿を見て、紺野はくすくす笑った。

「ひどいよ! 人が真剣に聞いてるのに!」
「ごめんね……。なんだか……そういうまこっちゃんを見るの初めてで……」

訓練のときの自信満々な態度と正反対な姿に、紺野はまた口元を綻ばせた。
『狗法』と呼ばれる仙術を使い、新規追加の退魔師見習の中でも高い攻撃力を持つ小川。
その性格も伸び伸びと大らかで、他人とはテンポの違う紺野とも気さくに付き合ってくれる。
男っぽくてさっぱりとして、それでいて繊細な気持ちを持った小川のことを、紺野は好ましく思っていた。

「ねえ…どんな人なの?」
「え? なにが?」
「まこっちゃんの……好きな人」
「や、やめてよ! そういうんじゃないってば」
「でも……気になってる人がいるんでしょ」
「そ、それは……」
「どこで…出会ったの?」

ゆったりとしたペースでありながら、紺野の追及に小川は抵抗しきれない。
恥ずかしそうに目を伏せ、小さな声で訥々としゃべり始めた。

「二週間くらい前の事だったんだけどね」

不意に降り始めた雨を前にして、小川は腹立たしげに足元の小石を蹴った。

事務所からの帰り道、寄り道した本屋で前々から気になっていたノンフィクションを手に入れた。
ついでに、と女性週刊誌を立ち読みしたのが運の尽き。
店を出る時、怪しげな雲行きだった空が、家まで後少しというところでついに崩れた。

冷たい雨を避けて軒下に飛び込む。
そこはいつもお婆ちゃんがひとりで座っている小さなタバコ屋。
商売っ気が無いのか、毎日5時にはシャッターが降りる。
薄暗くなり始めたこの時間。当然のようにシャッターは閉められていた。

──困ったな。この辺りって、コンビニも無いから傘も買えないし。

強くなる雨足。
軒下から恨めしそうに空を見上げる。
よりによって今日着ているのは、おろしたてのワンピース。

閑静な住宅街には通りがかる人影すら無い。
ただ、雨がアスファルトで弾ける音だけが一定のリズムで響き渡る。
その単調な調べのせいか、小川は自分がどことなく日常から切り離された異空間にいるような、
そんな不思議な気分になっていた。

──仕方ない。こうなったら。

狗法仙術のひとつ、『飛翔』。
その身をまるで木の葉のごとく軽くし、空に舞い上がる術。
立ち並ぶ家を飛び越え、自宅まで一直線に突っ切ればあまり濡れずにすむかもしれない。
そう思った小川は辺りに人影が無い事を確認し、目をつぶって胸の前ですっと印を組む。
得意とする『風刃』──カマイタチ──に比べてあまり使い慣れた術ではない。
しばらく集中していると体の中に気が満ちてきた。

──よし、今だ!

「どうしたの?」

今にも一歩踏み出しそうになっていた小川は、突然聞こえた声に慌てて振り向いた。
小川より頭ひとつ高い位置にある少したれ気味の目。
大学生ぐらいだろうか。黒いTシャツの上にブルーのシャツをラフに着た青年が、
不思議そうにこちらを見ていた。
その手に持った黒い傘に雨がぱらぱらと音を立てる。
まだどきどきする胸を押さえ、目を丸くしたままの小川を見て、青年はくすりと笑った。

「ごめんごめん。驚かせちゃったかな。なんだか苦しそうにしてたからどうしたのかと思って」
「あ、いえ、別に大丈夫です。ちょっと雨宿りしてただけだから」
「そう、なら良かった。あー、でもこの雨しばらく止みそうに無いよ」
「うん、走って帰る」
「でも、濡れちゃうよ。せっかく可愛い服着てるのに」
「大丈夫、あたし走るの速いから」
小川の言葉に青年はまたくすりと笑った。

「この傘使いなよ」
と、自分の持っていた傘を差し出す。
「そんな、いいです」
「大丈夫。俺のアパートすぐそこだから」
「でも」
「いいって。あー、ほら、女の子びしょ濡れにするのって、なんか可哀相じゃん」
そう言って、青年は自分の言葉に照れたようにあごの辺りを掻いた。

「それにさ、その傘そんなに良いもんでもないから、使い終わったら捨ててくれても良いし」
「そんな! ちゃんと返します。 あ、でもどうやったら……」
「あー、んじゃさ、駅前のコンビニ知ってる? 交番の隣の」
「え? あ、はい」
「俺、あそこでバイトしてるからさ。ついでのときにでも返してくれればイイから」
「あ、でも」
「いいから、いいから。じゃね」

片手を挙げて走り出した青年の背中を見送り、小川は手渡された傘の柄をぎゅっと握り締めた。

「それで……どうしたの?」
「次の日返しにいったんだ。お礼にクッキー焼いて。傘と一緒に。
 そしたら逆に感動されちゃって。
 ちょうどバイトが終わるから、ご飯おごってくれるって言われて」
「すごいじゃない。それで…なに食べたの?」
「……駅前でハンバーガー。
 んで、その後ゲームセンターで遊んで……」
「……それって…デート?」
「ち、違うよ! ちょっと遊んだだけだよ!
 そ、そんな……デ、デートだなんて」
慌てて否定する小川を見て、紺野はまたふんわりと笑った。

「……と、とにかく、それからコンビニに行った時おしゃべりしたり。
 たまたま時間があったとき一緒に帰ったりして」
「それで……好きになったんだ」
「だ、だから好きとかそんなんじゃ……」
「告白……したの?」
「し、しないよ! そんなこと!」
抗議の声も、ふんわりした微笑みに飲み込まれる。
あきらめたのか、小川はふうとため息をついた。

「……実はさ、一昨日の夜に帰り道の公園でこれ……貰ったんだ」
そう言って小川がカバンから出したのは一枚のチケット。

「あたしは知らないんだけど、人気のあるロックのコンサートなんだって。
 今度の日曜日なんだけど、良かったら一緒に行かないかって」
「それは……間違いなく…デートの誘いじゃあ……」
「やっぱり…こういうのも……デートなのかな……」
「良かったじゃない……まこっちゃん」
「で、でも……あたし、デートらしいお出かけって初めてなんだよ」
と、上目遣いに紺野を見上げる。

「だから、あさ美ちゃん、そう言う経験あるかなと思って」
「隣の席のケイスケ君と……」
「それはいいって!」
口を尖らせる小川を見て、紺野はくすくすと笑った。

「でもね……そういう相談は…愛ちゃんにした方が良いと思う」
笑いを収めて紺野が言った。
『鬼神憑き』高橋愛。同期の中でも一番の年上であり、見た目も大人びた少女。
くっきりとした顔にバランスのとれたプロポーション。
少なくとも自分よりもモテそうな気がする。きっとそれなりの経験はあるだろう。
紺野はそう思っていた。

「うーん、実はね。愛ちゃんにもこっそり相談したんだ」
「……それで?」

はあ、と小川はため息をついた。
そのときの光景を思い出す。
白い肌を耳まで真っ赤にして、理解不明な言葉を聞き慣れないイントネーションでまくし立てたライバルの姿。
見かけによらず、正統派美少女は恋愛に関してオクテなようだった。

「さすがに里沙ちゃんには相談できないしなあ」
『魔女っ子』新垣里沙。
退魔師の中でも最年少、まだ小学生でも通用しそうな幼い外見と、恋の話は結びつかない。

「…加護さんとか…辻さんとか……」
「ある意味、里沙ちゃんより相談できない」
「…後藤さんは?」
「話聞いてもらえそうに無い」
「…矢口さんに保田さん」
「絶対からかわれるからヤだ」
「…飯田さん」
「あたしには理解できないと思う」
「…安倍さん……は止めたほうが良いよね……」
「…………」
「あ、じゃあ宇宙刑事さんは? …吉澤さんと石川さん」
「なんかあの二人アヤシイからちょっと……」

困ったように紺野は眉根を寄せた。
しゅんと小さくなった小川は、まるで捨てられた子犬のような目で紺野を見上げる。

「だからあさ美ちゃんが頼りだったのに」

そんな小川を見て、紺野は目を細くして笑った。

「…そんなに心配する事無いよ。向こうから…誘ってきたんでしょ」
「だってあたし、愛ちゃんみたいに可愛くないし、里沙ちゃんみたいにしゃべれないし、
 あさ美ちゃんみたいにおしとやかじゃないし」
「なに言ってるの。……まこっちゃんにはまこっちゃんの良さがあるじゃない。
 元気一杯のまこっちゃんは……とってもすてきだよ」
「……そうかな」
「そうだよ」
「ほんとに」
「ほんとだよ」

しばらく俯いたままだった小川は、顔を上げるとにんまりと微笑んだ。

「ありがと、あさ美ちゃん。
 うじうじ悩んでるのってあたしらしくないよね。
 ……なんか吹っ切れちゃった。
 思いっきり楽しんでくるよ」
「……うん。それが良いと思うよ」
二人で顔を見合わせて、にっこりと笑う。

「でも……どんな人か見てみたいなあ。その人」
「あ、一緒にプリクラ取ったんだ」
「ほんとに? 見せて」

カバンの中から取り出したプリクラ帳
真中辺りのページを開く。
ちょっとお澄まし顔の小川の隣の青年。
短めの髪に飾り気の無い服装。
二枚目、というほどではないが割と整った顔。
少したれ気味の目が楽しそうに細められていた。

「優しそうな人だね」
「うん。それに話が面白い人でさ」
嬉しそうに言う小川を見て、紺野もふわりと顔を綻ばせる。

「ん? なにやってんだ? あんた達」
突然扉が開き、聞こえてきた声。
振り向いた二人の目に映る錆びたような色合いの長い髪。

「あ、夏先生」

夏まゆみ。
古代インドに端を発する伝説の格闘技『ジルガ』を継承する、近接戦闘のプロフェッショナル。
退魔師として一線を退いてからは、格闘教官として若い退魔師を鍛え上げていた。
その厳しい指導に泣かされた退魔師見習の数は数え切れない。
もっとも、先輩退魔師から言わせれば、最近はすっかり丸くなったということだが。

鬼教官は両手を腰に当て、細い目で二人を軽く睨む。

「いつまでも残ってないで、さっさと帰んな」
「あ、あの、愛ちゃんたちを待ってたんですけど」
「あの二人ならもう帰ったぞ」
「えー! そうなんですか!?
 もー、声掛けてくれればいいのに」
「なんだ、入れ違いになったのか。ま、もう遅いんだし早く帰んな。
 ああ、それに最近通り魔が出るらしいから気をつけるんだぞ」
「……そういえば…昨日もまた……襲われたんですよね」

紺野の言葉に、夏は重々しく頷いた。

最近世間を騒がしている連続殺人事件。
襲われた被害者達は年齢も性別もバラバラ。
つながりを感じさせるものは一つもない。
ただし手口は全て同じ。真正面から心臓をナイフで一突き。
その傷跡は全て一致していた。
動機も犯人像も不明。
ここ一ヶ月の間にすでに七人もの被害者が出ていた。

「あたしは大丈夫ですよ。返り討ちにしてやります」
胸を張って小川が言う。
「あんたはいいんだよ。アタシが心配してるのは紺野のほう」
「…あ、大丈夫です。……まこっちゃんが…家まで送ってくれるから」
「………そういうことじゃなくってさ。あんたも退魔師なんだから。
 ちったあこう強くなろうとかさ……」
額に手を当て、がっくりうなだれる夏を見て、紺野は不思議そうに首を傾ける。

「ま、とにかく気をつけて帰るんだよ」
「はーい、分かりましたー」
普段とは違う優しい声で言う夏に向かって、二人は元気よく返事をして立ち上がった。

ビルを出て駅までの道。
すっかり暗くなった街には人が溢れていた。
行き交う人たちの間を、紺野のテンポに合わせるようにゆっくりと並んで歩く。


「ねえ、それであさ美ちゃんの場合はどうだったの」
「……なにが?」
「さっき言ってたユウスケくんって子。三年生のときの。その子とは結局どうなったの?」
「振っちゃった」
「え!?」
「わたしから」
「振っちゃったの!? あさ美ちゃんが?」
「だって……浮気するんだもん……」

一瞬、ぽかんとした小川は、何かがこみ上げてきたように口元を押さえ、小刻みに肩を震わせる。

「う、浮気、されたんだ」
「そう……二組のヨウコちゃんに……」

こらえきれなくなったのか、小川はぷはっと吹き出した。
その顔を見て、紺野も両手で口を押さえる。

人ごみの中、くすくすと笑う声は夜の街にしばらくの間響き続けた。

そしていよいよ運命の日。
朝からそわそわしていた小川は、訓練を受け持っていた夏から何度も雷を落とされていた。
もっともそんな小川を心配そうに見ていた紺野も、二度ほどドアにぶつかり、三度つまづいて転んでいたのだが。

「……いよいよだね」
「うん。ヤだな、あたしなんかドキドキしてる」
訓練が終わり、いち早く着替えを済ませた小川は頬を紅潮させて俯いていた。

「この格好、おかしくないかな」
「うん…とっても可愛いよ」
「これさ、初めて会った時に着てたワンピースなんだ。
 あの時、可愛い服だって言ってくれたから」
「よく…似合うよ。それに……そのお化粧も」
「あはは、こっそり矢口さんに教えてもらったんだ。
 今日のあたし、ちょっと色っぽいでしょ?」
「うん……色っぽいよ。それじゃあ……がんばってね」
「うん! 行って来るね」
勢い良く駆けていった小川に、紺野は小さく手を振った。


「あれ? まこっちゃんは?」
後ろからの声に振り返ると、そこには小さな顔に両脇でまとめた長い髪。
タオルで汗を拭きながら話し掛けてきた新垣里沙に紺野は答えを返す。
「今日は……もう帰ったよ」
「珍しいなぁ。こんなに急いで帰るなんて」
新垣の後ろから顔を出した高橋も、不思議そうに問い掛ける。

「あー! もしかして……デートだったりして!!」
「や! 里沙ちゃんたら、何言ってんのぉ」
両手を頬に当てて、悪戯っぽく目をくりくりさせる新垣を、高橋が軽く小突く。
笑いあう二人を見て、紺野もにっこりと笑った。

「あ、良かった。みんなまだいたんだな」
再び後ろから声が掛かり、三人は振り向いた。
教え子達を前にして、夏はやれやれと腰に手を当てた。

「あの、まこっちゃんはもう帰ったんですけど」
「そうか。まいったな。人手が欲しいとこなんだけど」
「あ! あの! ……今日はまこっちゃん用事があって。
 その…わたし……代わりにがんばりますから……」
珍しく勢い込んで言う紺野を、夏は不思議そうに見つめる。

「まあいいや。とりあえずあんた達だけでも手を貸してもらうよ」
「何があったんですか?」
新垣が訊いた。

「最近起こってる連続殺人事件。知ってるよな」
「あ、はい」
「あれの犯人を見つけなきゃいけないんだ」
「え、でも、あれは……」
高橋が疑問の声をあげる。
原則として、退魔師が通常の事件に関る事は無い。
例え凶悪な事件であろうと、普通の殺人事件である以上、仕事として扱われる事は無いはずだった。

「連合のほうから連絡があってさ。この事件、ウチらの仕事らしいんだ」
「どういうことですか?」
「今までの被害者、全てに共通する点が見つかったんだ」
「共通する点?」
高橋がその細い眉をひそめる。
「そう、殺された人達……全員が何らかの『能力』を持っていたんだ」

退魔師と成る程の力は無くても、『能力』を持っているものは存在する。
ただし、『能力』といっても他人よりもカンが鋭かったりする程度のものであり、彼らのほとんどは、
自分の真の能力に気付かないまま毎日を暮らし、そのまま生涯を終える。
もちろん、その数は決して多くはない。
にも関らず、被害者全てにこれが当てはまるとするならば……。

「犯人は『能力』を持ったものを犠牲者として選んでいるってことになる」
夏の言葉に、三人の息を呑む音が聞こえた。

「飯田に『交神』で調べてもらった。
 その結果、犯人から受けたビジョンは『恐怖』『怒り』、そして『使命感』。
 同時に、何らかの力を感じたらしい」
一度言葉を切った夏は、自分の教え子をじっと見詰めた。
「犯人は『能力』を持ったものを狙ってる。
 目的は分かんないけどな。
 そしてそいつ自身、『能力』を持ってる可能性が高い」
三人は真剣な顔で夏の言葉を聞いていた。

「それからもうひとつ、これは一般には公開されてない情報だけど、
 現場には毎回『破邪』と書かれた紙が残されてたそうだ」
「破邪……ですか」
「その理由は分かってない。でも、今んとこ手がかりはそれぐらいしかない」
「それでわたし達はどうすれば……」
高橋の疑問に夏が答える。
「今、矢口達が心当たりをいろいろ回ってる。
 とりあえず、そっちに合流して。
 後の事は向うで指示を出すから」
「分かりました」
「じゃあ頼んだよ。いいかい、くれぐれも気をつけんだ。
 あんた達が狙われる可能性だってあるんだからな」
「はい」

ざわり、と夏の言葉に紺野の胸はなぜかざわついた。

「お、来たね。それじゃ手伝ってもらおうかな。
 って、あれ? 紺野はどうしたのさ」

『能力』を持つもの、それは退魔師達の予備軍でもある。
何らかの事態により、その能力が覚醒した場合、退魔師としての道を歩む事もある。
また、その『能力』を自分の欲望のために使う、組織に属さない退魔師、
いわゆる『はぐれ退魔師』となる可能性もある。
そのため、退魔師連合では『能力』を持つものの存在をきちんと把握していた。

そのリストを一つ一つあたっていた矢口は、後輩達の姿を見て眉をひそめる

合流地点に駆けつけた退魔師見習達。
しかし、その人数はなぜか予定よりもひとり足りなくなっていた。
ハテナマークを浮かべる矢口の前で、高橋と新垣は顔を見合わせる。

「あのぉ……それが……」

自分達の言葉が引き起こすであろう事態を思い浮かべ、退魔師見習二人は身を縮めた。

──うーん、困った…な。

とある駅の前で、紺野あさ美は途方にくれていた。
ひとりっきりで立ち尽くし、ぼんやりと人の流れを目で追いかける。

──こんな事になるなんて……。

なにせ時刻はちょうど帰宅時のラッシュアワー。
電車の中にはたくさんの人々。
他人とは生きているテンポの違う紺野。
予定よりもひとつ前の駅で、我が家を求めて急ぐ人の波に押し出されてしまった。
電車の窓から見えた、大きな目をさらに見開いた高橋と、ムンクの叫びのようなポーズをした新垣の姿が思い起こされる。

──矢口さん……怒ってるだろうなあ……。

普段からあまり出歩かない紺野は、東京の地理にまだ明るくない。
合流地点がどこなのか実はよく分かっていなかった。
おまけに今日に限って携帯も忘れてきている。

──まさか……迷子になるとは……思わなかった。

だから紺野は途方にくれていた。

──あ、公衆電話から連絡してみればいいんだ。

長い事そのままで考えた後、ようやく名案を思いついた紺野はぽんと手を叩く。
公衆電話を求めて駅の構内に戻ろうとした紺野に、後ろから声が掛かった。

「あー、ちょっと君」

振り向くと、くたびれたスーツを着た初老の男性。
紺野の父親と同じくらいの歳だろうか。
眼鏡の奥の厳しい目が伺うようにこちらを見ていた。

「……なんでしょうか」
「君、ここで何してるの?」
「……何…って言われても」
「さっきからずっと見てたんだけどね。どこかへ行くようでもないし、誰かを待ってるようでもないし」
「…あ、あの……わたし……」
「私は長い事補導員をやってきたから分かるんだ。君みたいな挙動不審な子は何かある」
「そんな……何にもないです……」
「君、もしかして家出とかしてきたんじゃないだろうね」
「…ち…違います……。家出なんて……」
「どうも気になるな。ちょっと話を聞かせてもらおうか」
「困ります……。わたし…急いでいるんで……」
「急いでるって、ずっとひとりでここに立ってたじゃないか。
 やっぱり怪しいな。君の名前は? お家の電話番号は?
 それから君中学生だろ。どこの中学なの?」
「あ……あの……」
「答えられないのか? それじゃ、ちょっとこっちに来てもらうよ」
そう言うと補導員は紺野の腕を掴んだ。
「そんな……ダメです……。
 あの…あの……ご、ごめんなさい!」

どん!

「うっ!」
足を押さえてうずくまる補導員。
思い切り足を踏んづけた紺野は一目散に走り始めた。

「ま、待て!」
背中で聞こえる声に心の中で謝りながら、紺野は一生懸命走った。

「はあ……はあ……」

どのぐらい走ったのだろう。
目一杯走り回った紺野は、立ち止まってようやく息をついた。
膝に両手をついて呼吸を整える。
後ろから追いかけてくる気配はない。
というよりも、辺りに人の気配は全くなかった。

──ここ…どこなんだろう。

なるべく人のいない方へ向かっていたせいか、気が付くとどこかの裏道に迷い込んだみたいだった。
きらびやかな都会にぽっかりと空いた隙間のような場所。
賑わう通りからほんの少し離れただけで、異空間のような静寂が広がっていた。
自分ひとりだけが違う世界に放り出されたような気分になりながら、
とりあえず電話を探そうと紺野は歩き始めた。

ふと何かが聞こえたような気がしてその足が止まる。
横に目をやると、そこには忘れ去られたような小さな公園。
ひとつしかない街灯に照らしされた複数の人影。

「誰だ!!」

そおっと首を伸ばした紺野に大きな叱責の声が浴びせられた。
ぐいっと腕をつかまれ、公園の中に引きずり込まれる。

公園の中には3つの影があった。
ひとりはOL風のスーツを着た若い女性。
そしてだらしなく服を着崩した二人の若者。
ひとりはつるつるのスキンヘッド、
もうひとりの長髪は片手にスケートボードを抱えていた。

「なんだ、ガキじゃねえか」
長髪が吐き捨てるように言った。

紺野の手を掴んだ三人目、バンダナを頭に巻いた若者が仲間に言う。
「人を呼ばれると厄介だからな。とりあえず捕まえとくぜ」

男達は人気の無いところでスーツの女性に執拗に絡んでいるようだった。
怯えきった女性は悲鳴をあげることさえできずにいるようだ。

「やめなさい!」
聞こえてきた声に男達は顔を見合わせた。

「その女の人……嫌がってるじゃないですか。
 ひどいこと……しちゃ…ダメです」
できる限り厳しい顔を作って、紺野は男達を睨みつけた。
か細い声を張り上げる小さな少女を見て、男たちは顔をまた見合わせる。

「おいおい、なんだよこの子は」
「まいったね、俺達に説教してんのかよ」
「へへへ、いやーコワイコワイ」

紺野の手を掴んだまま、バンダナはニヤニヤ笑った。
「悪いな、お嬢ちゃん。俺達ロリコンの趣味はないんだわ。
 いい子だから大人しくしててくれるかな」
そう言って紺野の顔に自分の顔を寄せる。
「後、5年経ったら、たっぷり遊んでやるからさ」

どん!

鈍い音がしてバンダナがうずくまる。
正拳突きを決めた姿勢のまま、バンダナを見下ろして紺野はごめんなさい、と小さく呟いた。

唖然とする男の手を振り切ってスーツの女性は紺野の後ろに隠れる。

「今のうちに…早く逃げてください」
「え! でも、あなたは!?」
「わたしは……大丈夫です」
「でも……」
「本当に大丈夫です。それにわたし……今……」

すっと一歩前に出る。

「とっても…おこってるんです」

気の抜けるような口調で紺野は言った。

「じゃ、じゃあ、すぐに人を呼んでくるから」
逃げていく女性を背中で確認し、紺野は猫足立ちの体勢になった。

「こいつ……ふさけやがって!」
大声をあげてスキンヘッドが飛び込んできた。
腰の入ってない大ぶりのパンチを、足を一歩引くようにしてかわし、
無防備なわき腹に吸い込まれるような中段まわし蹴り。
声もなくスキンヘッドは崩れ落ちた。

「てめえぇ!」
後ろから声が聞こえた。
残った長髪は手に持ったスケートボードを振り上げ、紺野の背中から殴りかかってくる。

「危ない!」
しかしその顔に、どこからか飛んできた黒いカバンがぶち当たる。
顔を押さえてうめく長髪にスケボーを突き破って紺野の前蹴りが突き刺さった。
ごふう、と体中の息を吐き出すように長髪は地面にへたり込む。

「まだ……やりますか?」
痛みをこらえてうめく男達に紺野が声をかけた。
「ちくしょう! おぼえてやがれ!」
と恥ずかしくなるほど典型的な捨て台詞を残し、男達はよろよろと逃げ去った。

「ありがとうございました……」
紺野は先程カバンを投げてくれた人物に頭を下げた。
「いやいや、君強いね。びっくりしたよ」
大学生ぐらいだろうか。まだ若い声でその人物は楽しそうに言う。
「急いでたから近道通ってたんだけど、まさかこんな場面に出くわすなんてね」
街灯に照らし出された優しそうな笑顔を見て、紺野は目をぱちぱちさせた。

「あーあ、散らばっちゃったな」
先程ぶつけた衝撃のせいか、カバンの中身は地面に散らばっていた。
「あ…手伝います」
慌てて紺野も落ちているものを拾い始めた。
「ありがとう。あー、次の電車間に合うかな。待ち合わせの場所に遅れそうでさ」

急いで荷物を拾い上げようとした紺野の手が、ひとつのものを目にしてぴたりと止まる。

地面に落ちた一枚の紙。そこには──

『破邪』

と書かれていた。

「これは……」
「ん? どうしたの?」
不思議そうな青年の声を無視して、紺野は立ち上がった。

「あなたが……犯人なんですね」
相手の顔をじっと見据える。

「なに? 何の事?」
戸惑ったように青年が聞き返した。

「最近起こってる連続殺人事件……。あれの犯人は…あなたですね」
「ははは、何言ってんの、突然。俺はそんな──」
「この紙……これは犯人が毎回現場に残してるものです。
 どうしてこの紙をあなたが持っているんですか?」
紺野の言葉に青年は笑いを収めた。

「どうして……君がそのことを?」
「なぜ……こんなことをするんですか?
 どうして……人を殺したりなんか……」

「それが……俺の使命だから」
冷たく乾いた声で青年は言った。

「使命……?」
「そう、人間に無い力を持ったもの。
 悪魔の能力を持った奴らを倒す事。
 それが俺の使命」
「そんな……そんなこと……」
「君には分からないかもしれないけどね」
「分からない……分かりません……。
 だって……だって……」

涙をにじませて紺野は青年の目を見た。少したれ気味のその目を。

「まこっちゃん……今もあなたを待ってるのに!」

その目はプリクラの中で、小川の横で笑っていた目と同じものだった。

紺野の言葉にも、青年は表情を変えない。

「まこっちゃん?
 そうか、君も悪魔の仲間なんだね」
「……悪魔?」
「そう、不可思議な力を持った化け物。だからあの紙のことも」
「ひどい!」
ぶんぶんと首を振って紺野は叫んだ。
潤んだ目から涙がこぼれる。

「どうして……どうしてそんな……。
 まこっちゃんは……まこっちゃんはあなたの事を……」
「調べていたんだ。あの子の事を」
感情のこもらない声で青年は言った。

「最初に会ったとき、何か力を持っているように感じた。
 だからずっと観察していたんだ。
 なかなか尻尾がつかめなくて時間が掛かったけどね。
 でもようやく確信が持てた。
 だから今日はようやく……『狩り』の日だったのに」
「そんな……そんな……」

力が抜けたように涙を流す紺野。
その両腕を、何者かががっしりと掴んだ。
紺野の両脇から動きを封じた二人の人影。
それは目の前の人物と全く同じ顔をしていた。

「……これは……ドッペルゲンガー……」
「そう、これが悪魔を倒すために与えられた俺の力だよ」

ドッペルゲンガー。
二重存在。いわゆる分身のことである。まるで鏡に写ったかのような自分の影。
その影を自在に操る力。それがこの青年の能力のようだった。

「それにしても、こんなことで全部ばれてしまうとはね。
 こんな偶然が起こるなんて、全く信じられないな」
「偶然じゃ……ありません」
「え?」
眉をひそめて青年は紺野を見た。
涙を消した紺野は、両腕を拘束されたまま、真っ直ぐに青年を見つめ返す。

「これが……わたしの力なんです。
 運を…操る力。……多分、電車で押し出されたときから……」
「……何を言ってるのかわからないけど、君も悪魔の仲間なら死んでもらうよ。
 大丈夫。できるだけ苦しまないようにしてあげるから」

青年はナイフを取り出した。
外灯の光を照り返して、銀の刃がきらりと光る。

「さよなら。友達もすぐにそっちへ行くから安心していいよ」

体の前でナイフを構え、一気に突っ込む。

「きゃあああああああ!!!!」

突然悲鳴が聞こえ、青年は振り向いた。
その拍子に、割れたまま落ちていたスケボーの片割れを踏んづける。
がりがり、と滑る足。流れるナイフの切っ先。

ずしゅ! と音を立ててナイフが刺さった。
そこは、紺野の右手を押さえていた分身の腹だった。

「ぐああぁぁぁ」

わき腹を押さえ青年はうずくまった。紺野を押さえていた分身は二人とも消え失せる。
ドッペルゲンガーが傷つけば、本体も傷を受ける。
青年の腹からは赤い血が零れていた。

「な、なに? 何があったの?」
おろおろと声を出すのは先程悲鳴をあげた女性。
それは紺野が助けたOL風のスーツの女性だった。

「警察……呼んで来たんだけど……いったい…今のは……」

紺野が後ろを向くと、女性の言葉通り向こうから走ってくる警官の姿が見えた。

「それより……救急車……呼んでもらえますか?」
「あ、わ、分かったわ」

携帯を取り出した女性から離れ、紺野は横たわった青年を助け起こした。
腹部が真っ赤に染まっているが、致命傷ではない。意識もまだある。

「大丈夫……。急所は…外れてます」
辛そうに顔をゆがめ、静かに紺野は言った。
「運が……良かったですね」

ぽつり、と紺野の頬に冷たい水滴が落ちた。

「……雨」

青年を抱えたまま、紺野は空を見上げた。
真っ暗な空から、冷たい雨がしとしとと降り始めていた。

降りしきる雨を見上げて、小川は何度目かのため息をついた。
待ち合わせ時間はとっくに過ぎた。
もうコンサートも始まっているだろう。
それでも、ワンピースが濡れないように気を使いながら、小川はずっとそこに立ちつづけていた。

不意に視界が翳る。
傘を差しかけられたのだと気付き、小川は振り返った。
満面の笑みを浮かべた顔が、ゆっくりと力を無くす。
そんな姿を、紺野はただ黙って見つめていた。

俯いたまま、小川は乾いた声で笑った。
「あはは、なんか……振られちゃったみたい」
「…………」
「馬鹿みたいだよね、あたし。ひとりではしゃいじゃってさ」
「…………」
「きっと向こうは冗談のつもりだったんだ。
 だってあたし…まだ子供だし……。
 全然色っぽくなんか…ないし」
「…………」
「あたし……愛ちゃんみたいに…可愛くないし……、
 里沙ちゃんみ…たいに……しゃべれ…ない…し……、
 あさ美ちゃ…み……に……」
「……まこっちゃん……」
ぼろぼろと涙をこぼす小川の頭を、紺野は優しくかき抱いた。

「…う……っく。あたし……あたし……」
「……まこっちゃんは……すてきだよ。すてきな女の子だよ……。
 だから大丈夫。もっと……もっといい人がすぐにみつかるよ。
 ……そう、これはきっと……新しい恋を見つけるチャンスなんだよ」
「あさ美…ちゃん……」
「だから……元気を出して……。
 わたしは……元気なまこっちゃんが……、
 笑ってるまこっちゃんを見てるのが……一番好きだから」

そう言って紺野は、小川の頭を強く抱きしめた。
紺野の肩に頭を押し付けながら、小川はくぐもった声を出す。

「……うん、分かってる。
 大丈夫。あたしは……大丈夫だから……。
 だって、あたしは元気なだけがとりえだもんね。
 いつまでも、うじうじしてられないもんね。
 ……だけど、もう少し……もう少しだけ……」

くすん、と鼻をすする音が聞こえた。

「このままで……いさせて……」
「うん……分かった」

紺野の肩でまたしゃくりあげる声が流れ始めた。

ざあざあと紺野の持つ傘が哀しい音色を奏でる。
雨はまだ……止みそうになかった。


           第参夜  〜幕〜


暗い──暗い──ところ。

太陽の光を遮る分厚いカーテン。
広い室内には、埃臭い濁った空気が満ちていた。
もとは豪奢な家具達も、いまや使われることも無く朽ちるのを待つばかりだ。

この屋敷から居住者がいなくなって既にかなりの年月が経過していた。
戦後すぐに建てられたというこの屋敷も、住み手を失ってはただの古びた建物にしか過ぎない。

──いや、そうではない。
住み手は居た。
この世のものならぬ住人が。
そう、ただの古びた建物ならば良かった。
この場所は呪われた場所なのだった。
一つの執念によって作られた恐ろしいところ。

闇はまるでコールタールのようにねっとりとして見えた。
その中を漂う淡い影がひとつ。
真っ白な姿がふわりと揺れて消えた。

 Morning-Musume。 in 

         百 姫 夜 行。 ─ 翔─  

            ―― 第四夜     いにしえの館

目の前にそびえるのは大きく古い洋館。
重々しい雰囲気を漂わせた佇まい。
見るものを陰鬱な気持ちにさせるその姿は、まるで怪奇映画のセットのようであった。

「ほへー、ここがうわさの『ゆーれーやしき』ですか」
「ほ、ほんとになんか出てきそうな雰囲気ですね」
「んん、もしかして怖いんかいな? お豆ちゃん」
「こんくらいで怖がってたら退魔師は勤まらんやよ。ね、矢口さん」
「あ……う、うん」

曖昧に返事を返す矢口を見て、高橋は不思議そうに首をかしげる。

「どしたんですか? なんかぁ顔色が悪いですよ」
「あー! もしかして、矢口さんもビビってるんですかぁ?」
「バ、バカ! 加護! オイラがびびる訳無いだろ!」
「そうですよね。矢口さんは退魔師のベテランなんだし」
「あいかわらず時代はこないけど──」
「うっさいよ、辻!」

拳を振り上げる矢口。
慌てて新垣の後ろに隠れる辻。
笑い声を上げる加護と高橋。

見習を含めた退魔師5人は、最近怪異が頻繁に目撃されるという曰くつきの場所を調査するため、
『翡翠館』と呼ばれるこの屋敷に来ていたのだった。

「しっかし、大きな屋敷やなあ」

加護の言葉に、全員が再び屋敷を見上げた。
建てられたのは、第二次大戦後間もない頃だったという。
連合軍の財閥解体を免れたある大会社の社長が、
当時若いながらも優れた腕を持つ建築家に依頼して造らせた建物。
その会社社長には、若く美しい妻がいた。
彼女の一番好きだった色にちなみ、この館は『翡翠館(ひすいかん)』と呼ばれた。
その名の通り、見事なエメラルドグリーンの屋根は、見たもの全てに感嘆のため息を漏らせたという。

しかし完成直後、社長とその妻はなぜか行方を消した。
住み手を失った屋敷は巨大な死体に等しい。
それでもこの建物が取り壊される事は無かった。
なぜなら工事に関ったものは皆──不慮の死を遂げてしまったから。
誤って窓から落ちてしまった者、精神に失調をきたした者、原因不明の病に倒れた者。
その死因は様々ではあったが、この屋敷を取り壊そうとするものはひとりとして無事ではいられなかった。

そしていつしかこの屋敷は、触れてはならない禁忌の場所として人々の心に刻み込まれた。
もともとの名前『翡翠館』ではなく──呪われた場所『血吸館(ちすいかん)』として。

立ち尽くす五人の前で、夕日に照らされ紅く染まった屋敷は、どこか血に塗れた怪物のように見えた。
初夏の陽気の中、背筋にぞくりと寒気が走る。
おもわずその場に居た全員がごくりと息を呑んだ。

「のろいじゃああああ!!」
「「「「「うわああああ!!」」」」」

不意に後ろから聞こえてきた声に、全員が大きな声をあげた。

「だ、だれや!?」
振り向くとそこには杖を突いた小さな老人。

「じ、じいちゃん、急に声かけたら驚くやんか!」
加護の抗議の声を無視するように、老人はにやりとそのやせこけた頬を引きつらせた。
「ひぇひぇひぇ、この屋敷は呪われておる。悪い事は言わん。早々に立ち去るが良い」
「おじいさん、ののたちはこの屋敷を、ちょーさしにきたんですよ」
「無駄じゃ、無駄じゃ。命が惜しければこの屋敷に関らんほうが良い」
「ほやかって、あたし達はこれが仕事やし……」
ぎょろりと睨みつけられ高橋は声を失う。
「……この屋敷を甘く見ておると後悔する事になるぞ。
 この屋敷は呪われた屋敷じゃ。関る者全ての命を奪う恐ろしい屋敷じゃ。
 せいぜい気をつけるがいい。わかったな」

そう言うと老人はひひひと笑いながら去っていった。

「な、なんなんでしょう、今のおじいさん」
その後姿が見えなくなって、息を詰めていた新垣がようやく声を出した。
「し、知らんがな。なんや気味悪いじいさんやったなあ」
「あれ? そういえば矢口さんは?」
辻の声に四人は後ろを振り返った。
そこには地面にへたり込むちっちゃい先輩。

「何してるんですか? 矢口さん」
「こ、こし……」
「こし?」
「腰……抜けた……」
「「「「はあ!?」」」」

呪われた屋敷の前で、間の抜けた声が四重奏を奏でた。

「ぶひゃひゃひゃひゃひゃ──」
「うるっさいよ! おまえら!」
「だ、だって……」

矢口に怒鳴られた加護は、真面目な顔を作ったまましばらく唇を震わせていたが、こらえきれずにまた吹きだす。
その隣の辻は、お腹を押さえてうずくまったまま、ひぃひぃと酸素の足り無そうな呼吸を繰り返していた。

「……おまえらぁ……」
「お、落ち着いてください、矢口さん」
本気で熱くなっている矢口を見て、高橋は恐々声をかけた。

「でも……まさか矢口さんが幽霊嫌いだったなんて……」
しみじみとした口調で新垣が言う。
その言葉で矢口の勢いは湿った綿菓子のようにしぼんだ。
「うう、しょうがないじゃんか。矢口は牛乳と幽霊だけはダメなんだよ……」
「え、でも妖魔と戦ってても全然平気じゃないですか。
 なのにどうして……」
「妖魔はいいんだよ。幽霊じゃないから」

そういう問題なのか?
くっきりと太い眉をぴくりと震わせて、新垣が心の中で突っ込む。
残りの3人も無言で肯定の意思を示していた。

「……オイラ苦手なんだよ。ひゅーどろどろ系のやつ。昔っから」
しゅん、となったまま、矢口は言い訳を続けた。
「目の前にいて直接殴れるやつならどんなやつだって怖くないんだよ。
 でも……こう、ダメなんだ。どこから出てくるのかわからないようなのって。
 なんかさ、背中の辺りがぞくぞくってするっていうか……。
 脚に力が入らなくなるっていうか……」
そう言って、小さな体をさらに小さくして、上目づかいで唇を尖らせる。
「お化けなんてキライだ」

「矢口さん……かわいい!」
「わ! 馬鹿やめろよ!!」
突然、そんな矢口をぎゅっと抱きしめる高橋。
「大丈夫心配せんでいいが。うら達がちゃーっとやってまうでの」
「ちょ、ちょっと高橋!」
抱きしめられたまま振り回され、矢口は目を白黒させる。

「な、なんやなん、いったい……」
高橋のその行動に、加護もびっくりした声を出す。
「愛ちゃんって……実は結構抱きつき魔なんです」
ぽつりと呟くような新垣の声。
「……ああ、そうなんや」

呪われた屋敷の前で、能天気なやりとりはもうしばらく続いた。

「お化けなんてなーいさ♪ お化けなんてうっそさ♪」
「矢口さぁん、こんなところで歌なんか歌わんといてくださいよぉ」
「いーじゃんか! 矢口の勝手だろ」
「もーどうでもいーから、はやくいってよ、矢口さん」
「ば、馬鹿押すなよ」
「ほやで残っといたほうがええて言うたのに」
「うっさい、おまえらヒヨッコだけに任せられるか!」
「そんなにイヤだったら他の人に代わってもらえば良かったじゃないですか」
新垣の言葉に、矢口はまた拗ねた顔をする。
「しょうがないだろ。みんな出払ってるんだから」
「そういえば、稲葉さんから仕事の依頼が来たんでしたっけ?」
「アツコさんとこも人手が足りなくて大変だからなあ」

稲葉貴子。
フリーの退魔師にして、凄腕のベテラン。
もともと退魔結社に対抗するためチームを組んで仕事をしていたが、様々な事情によりチームが解散。
その後もなかなか仲間に恵まれず、今では中澤組と共同で仕事にあたる事も多い。
その能力は、思念の力により対象の空間を爆発させる、通称『ボンバーヘッド』。
腕だけでなく、頼りがいのある姉御肌な性格のため、若い退魔師達からも良く慕われていた。

「まあ、急ぎの仕事じゃしょうがないよ。困ってるときは助け合わなきゃ」
「ほやけど稲葉さんから仕事の依頼が来たんて結構前やったですけど」
「なぁにぃ!!」
矢口の叫びに、高橋は大きな目をさらに見開く。
「……裕子めぇ、あんにゃろ、ワザとやりやがったな……」
三十路を前にして、未だ茶目っ気たっぷりな元締めのことを思い、矢口は拳を握り締めた。

「でも……ホンマ変な感じやな。ここ」
柄にも無く小さな声で加護が言う。
隣の辻も、珍しく真剣な顔で辺りをうかがっていた。

──ふん、ちゃんと気が付いたのか。少しは成長してるみたいだな。

そう、この屋敷に入ったときから矢口も気が付いていた。
空気が違うのだ。
澱んだ空気、そこには微かな瘴気も混じっている。
だが、妖魔の気配とも少し違う。
もっとじめっと湿ったような感覚。
見習の文字が取れた二人も、おそらく同じ感覚を味わっているのだろう。
この異様な雰囲気を。
歌でも歌っていないと耐えられなくなりそうな……。
ごくり、と誰かが息を呑む音が聞こえた。
思わず全員が黙り込む。

つんつん、と肩を叩かれて矢口は振り返った。
その目に映る、吊り上った光る目と大きく裂けた紅い口。

「にゃーあぁお」
「うわぁああああああ!!」

後ろに飛び退いた矢口は、ぶつかった高橋に支えられてどうにか倒れるのをまぬがれた。

「な、な、な、なにやってんだお豆!」

目の前にあるのは、つるりとした小さな顔。
目尻から伸びたアイシャドー。
耳までひっぱった、どぎつい色の口紅。
ご丁寧に、頬にはヒゲまでついている。
さらに手には肉球つきの手袋。
どっから見ても立派な猫娘の姿だった。

「あ、ちょっと場を和ませようかなって」
「和むか!! 大体、いつそんなメイクなんかしたんだよ!」
「ああ、それはこれで」
と、手に持ったステッキを軽く振ってみせる。

──やっぱ、こいつもどっかおかしい……。

また抱きしめてこようとする高橋から体を引き離して、矢口は心の中でため息をついた。

「あれ? ののがおらへん」

加護の声に、他の三人は辺りを見回した。
ここは大きなエントランスだった。
広い吹き抜けの空間の両端には、二階へ続く階段。
床には元は色鮮やかであったろうじゅうたんが敷かれ、天井からは大きなシャンデリアが吊られていた。
そのどこにも、童顔のお下げ髪の姿は無い。

「あのやろ、人を脅かそうとしてやがるな」
その手には乗るか、と矢口は腕を組む。
この屋敷の気配を感じ取っていたことまでは誉めてやれるが、やはりこいつらには緊張感が足りない。
厳しい先輩モードになった矢口は、一時的にではあるが恐怖を感じることを忘れていた。
そのとき──。

「きゃああああ!」
静寂を切り裂いて、悲鳴が聞こえた。

「今のは!」
「ののの悲鳴や!」
「ま、まさか!」

悲鳴は階段の脇の部屋から聞こえたようだった。
急いで駆け寄り、勢いよく扉を開ける。
この部屋はどうやら食堂のようだった。
大きなテーブルが真中に置かれている。
部屋の向こうの端には白いシーツにくるまれた物体がごろりと転がっていた。

そのシーツに広がる……紅い染み。

「つ、辻!!」
矢口は慌てて駆け寄ろうとドアから飛び出した。

「きゅうでぃくで」
「うわああああああ」

突然、真後ろから聞こえてきた声に、矢口は見事にすっ転ぶ。
引きつった顔で見上げる目に映るのは、ドアの死角から飛び出してきた辻が、
満足げな顔をしている加護とハイタッチを交わしている姿。

「なるほど、カーテンを丸めてシーツにくるんでおいたんですか」
転がっていた物体に近づいた新垣が、冷静な口調でそう告げる。
「この染みは……赤ワインですね」

「こ、こ、こ、このおおお!」
「ま、待って矢口さん! 落ち着かんとあかんが!」
けたけた笑う辻加護を見て、矢口は拳からぱちぱちと電撃をもらす。
その体を高橋は必死で羽交い絞めにしていた。
「離せ! 高橋! こいつらは……こいつらは……」
「へっへーん! お化け怖がる矢口さん、かっちょわるーい!」
「よわむし、よわむし、やーい!!」
「……やる……やってやる……」
「だ、だめ! だめですって!」
高橋の手の中でじたばたと暴れる小さな体。

「あ、あれ?」
戸惑ったような新垣の声に、その場の全員が動きを止めた。
「どないしたんや、お豆ちゃん」
加護の質問にも新垣は答えない。
ただぼんやりと一点を見上げている。
首をひねった加護は新垣の視線を追う。
そして、同じく動きを止めた。
「なんだよ、どうしたんだよ」
不審に思った矢口も二人の見ているところを見上げた。
そこには──。

壁に浮かび上がる白い顔。

「うわあああああああ!!」

三度、矢口の悲鳴が屋敷の中に響き渡った。

「で、で、でたーーー!!」

白い影は女の姿をしているように見えた。
ワンピースのようなものを着て、ふわりと空中を漂う。
そのまま影は五人が見ている前で、まるで存在が無いもののようにするりと壁をすり抜けた。

「ま、待て!」
一番先に立ち直った加護がその影を追ってエントランスに飛び出した。
「……オバケナンテナイサ オバケナンテウソサ」
「矢口さん! なにやってるんですか!」
「里沙ちゃん、早く!」
高橋に呼ばれ、仕方なく膝を抱えて小さくなった矢口をそのままにして、新垣もみんなの後を追った。

影は二階へ向かっていた。
その後を加護が追う。
階段から一番近い部屋の扉を影がすり抜けた。
如意棒を構えて加護は扉を開こうと手を伸ばす。

どん!

大きな音がして扉は中から弾けた。
飛び出してきた物体に加護の体は後ろに吹き飛ばされ、階下に落ちた。

「あいぼん!!」
呪符を取り出した辻の手に、物体から黒い触手が伸びる。
式を打つ間もなく、辻は触手に絡みつかれ体中の骨をきしませた。

目の前にいる物体。
一見、髪を伸ばした女のようにも見えた。
ただし、異様に長く伸びた手足で四足歩行をするような女がいれば。
顔の中心には大きな一つ目。
髪の毛に似た触手が、うねうねとまるでそれ自身が生きているかのようにうごめいた。
それはこの屋敷に漂っていた空気とはまた違うもの。
そこにいる退魔師達にとって馴染みの深い匂いのするもの。
この世界と相容れぬ異形の気配。
紛れも無く妖魔そのものだった。

「辻さん!」
駆け出した高橋にも二階から黒い触手が伸びる。
流れるような体さばきでその攻撃をかわす高橋。
しかし、迫り来る触手はその数を増していく。
「きゃあああ!」
ついに触手が高橋の体を捉えた。
反対の壁へと吹き飛ばされる高橋。
無意識のうちに鬼神の力を発動したのか、壁は巨大な鬼の形にへこんだ。

全ては一瞬の出来事だった。
パニックになった新垣は呆然とその場に立ちすくんでいた。
もともとその能力は戦闘に向いたものではない。
実践の経験も不足している。

妖魔はその大きな一つ目で新垣をぎょろりと睨んだ。
醜悪なその姿。目の前の敵に対する恐怖で新垣は体がこわばってくるのを感じた。
そんな新垣にも鋭い触手が伸びる。
加護も高橋もすっかり触手に絡め取られていた。喉に巻きつく触手を必死に引き剥がそうとする。
「里沙ちゃん逃げて!」
高橋の声にも体が動かない。
絶体絶命。
新垣は思わずぎゅっと目をつぶった。

「轟雷刃!!」

雷光がきらめき、目の前まで伸びていた触手がバラバラと床に落ちた。
新垣の横をすり抜け、敵へと向かう小さな体。
その体にも無数の触手が伸びた。
しかし、文字通り稲妻のようなステップで攻撃は全てかわされる。

ぴたり。
二階まで一息に跳躍し、小さな右手が妖魔の頭に添えられた。
「終わりだよ」
その右手に光が集う。
「聖雷撃フルパワー!!」
まばゆい光が走り、蠢いていた触手は全てぱたりと落ちた。

「へへん! どうだい!」
「や、矢口さん」
ぱんぱんと手を叩き、崩れていく妖魔を見下ろしていた矢口は、振り返って腰に手を当てる。
「なんだよ、だらしないなあ、おまえ達。やっぱり緊張感が足りないぞ」
さっきまで震えていた人物と同一人物とは思えないその態度に、残る四人は顔を見合わせる。

「や、矢口さん、怖いんじゃなかったんですか?」
「だってこいつ妖魔だろ。だったらへっちゃらさ。
 なんたって、オイラは妖魔退治のプロだからね」
ふふん、と胸をそらすちっちゃな先輩を見て、加護はあきれたような声を漏らした。
「この人の基準はよーわからへん」
残る三人もカクカクとうなづく。

「きゃはは、やっぱり幽霊なんているわけ無いんだよ。
 妖魔だったら怖くないもんね。
 にしてもおまえら、この程度の相手に苦戦するようじゃまだまだ一人前とは……」
言いかけた矢口の顔が固まる。
ぎりぎりと音がしそうな動きでゆっくりと振り返る。

ふわり。
壊された扉の向こうに、白い影が浮かんで見えた。
影はゆっくりとその右手を上げ、ぴんと伸ばした指で一点を指す。

「うわわわわ」
一気にテンパる矢口。その両手に光が集まった。
「ちょ、ちょっと矢口さん!」
加護の制止の声も間に合わない。

稲妻がきらめき、扉の周囲の壁がガラガラと崩れた。
「な、何してるんですか!!」
慌てて階段を駆け上がった加護に押さえられ、肩で息する矢口。
「お化けなんて……お化けなんて……」
「ったく、さっきはえらそーなことゆーてたくせに」

もうもうとした煙が収まると、破壊され尽くした部屋の惨状が明らかになった。
もちろん、白い影の姿は既に無い。

「あーあ、へやぼろぼろ」
のんきな声を出して辻が中に入る。
その部屋は寝室のようだった。
まるで外国の映画にでも出てくるかのような大きなベッドが置かれている。
無論長い年月の所為で、寝心地の良かったであろうそのマットには、昔の面影はない。

「あれ? これ」
何かを見つけたらしい新垣の声。
先程白い影が伸ばした手。
その先には一枚の大きな絵がかけてあった。

「きれいなひとですね」
絵を見た辻が思わず呟く。
絵の中の女性は、鮮やかな翡翠色のドレスを着て、イスに座っていた。
どこか憂いを含んで見える表情。それがまた、彼女の美しさを引き立たせているようにも思えた。
「誰やろ? この人」
「きっと、この屋敷の奥さんだった人やよ。この色が好きやったって聞いてたし」
「なんだか、さっきの幽霊に似てませんか?」
「そう言えば」
新垣の言葉に加護はきゅっと眉根を寄せる。

「あ! あそこ!」
辻が絵の端を指差す。
先ほどの衝撃の所為か、絵は斜めにかしいでいた。
その隙間から、なにかスイッチのようなものが見える。
「なんやろ? これ」
加護は深く考える事も無く、そのスイッチを引っ張った。

ごごごごごごご

重たい何かが軋みを上げる音が響いた。
「見てください! あそこ!」
階下を見下ろした新垣が声をあげる。
エントランスの片隅に、地下へと続く階段が姿をあらわしていた。

「隠し部屋っちゅーヤツやな。よし、ほんなら行こうか。
 もしかしたら罠かもしれんけどな」
「罠じゃないと思います」
俯いて言う新垣。加護は首をかしげる。
「どないしたん? お豆ちゃん」
「さっきの幽霊……なんだかとっても悲しそうに見えました」
「悲しそう?」
新垣はこっくりとうなづく。
「私たちを脅かそうというよりも……何かを伝えたがってるみたいな……そんな気がして」

ふむ、と腕組みをする加護。
魔女である新垣は、このメンバーの中でも最もこうした感覚が鋭い。
それだけに信用できる意見ではあった。
「なんにしても、先に進まん事には手の打ちようが無いからな。
 罠やったら罠ごと乗り越えるまでや」
加護の言葉に辻も表情を引き締めうなづいた。

「あのぉー、矢口さんどうします?」
高橋の声に先輩の姿を探す。
ベテラン退魔師は部屋の隅で膝を抱えていた。
「はあ、しゃーないな。愛ちゃん連れて来たってや」
「はーい」

高橋に抱えられる矢口を見て、加護は深いため息を漏らした。

地下へ続く階段には濁った空気が充満していた。

ゆかいでおちゃめなメンバーたちは、一列になって一歩一歩階段を下りてゆく。
階段はそう狭くない。横になら三人は楽に並べるだろう。
先頭は魔法でステッキを光らせた新垣。
その後ろに加護。最後尾は辻。
その間に挟まれているのは、目をつぶったまま高橋の背にしがみついた矢口。

「それにしても長い階段やな。いったいどこまで続くんやろ」
「全然下が見えませんね」
「ねー、あいぼん、おなかすいたー」
「もうちょっと待ちーな。これ終わったら矢口さんにご飯おごってもらうから」
「な、何で矢口がおごんなきゃいけないんだよ!」
「だって、お仕事してないじゃないですかぁ」
振り返った加護は不敵な目で背負われたままの矢口を見上げる。

「な、なんだよエラそーに。さっきの妖魔だってオイラが倒したんだぞ」
「あーあ、そんな事言ってると、まぁたお化けがきますよぉ」
「ううう、お化けきらい…」
高橋の背中に顔を埋める矢口。
「きらいきらいきらいきらいきらい……」
ぶつぶつ呟く矢口を見て、加護はにひひと笑う。

──よっしゃー、これはええとこ見せるチャンスや。いつまでも半人前扱いはさせへんでぇ!

ひそかにガッツポーズを作る加護。その姿を高橋は目をぱちぱちさせて見つめた。

「でも、さっきの妖魔はなんやったんでしょ。あの幽霊と関係あるんやろか」
「さあ? この辺りにはあっちの世界に通じる通路は無いはずやけどな」
「何かきます!」
先頭を行く新垣の声に、全員がその足を止めた。

きりきりと回転しながら現れたのは、空を飛ぶ巨大なヒトデのようなもの。
その数は3。

「のの!」
「へい!」
辻の手から呪符が飛ぶ。
「急々如律令!!」
呪文と共にヒトデに張り付いた呪符が炎を上げた。
「うりゃああ!」
新垣を飛び越えた加護がその手に構えた如意棒を振るう。
真っ二つになった妖魔は、火の粉を撒き散らしながら階下に落ちていった。

「しきがみさん! おねがい!」
辻が放った式神が、残るうちのひとつを押さえ込む。
「しっ!」
矢口を背負ったまま飛び上がった高橋の脚が、その敵をバラバラに砕いた。
最後の一つになった妖魔は、高橋の着地を狙って中心の口から何かを噴出す。
「あまい!」
飛んできた針のような飛び道具を、加護がエクトプラズムの壁で防ぐ。
壁を貫いて飛び出した如意棒が、ヒトデの中心を打ち抜いた。

まさにあっという間の出来事。
妖魔は全て塵と化した。

「やった! どんなもんや! ウチらだけでもめっちゃ強いねんで!」
どん、と如意棒をついて仁王立ち。そのふくよかな胸を張る。
「へへん、こんくらいの仕事なららくしょーや。もうウチらも一人前やで。
 今度からは給料もあげてもらわんとな」
「えー、のののきゅーりょーも上がるかな?」
「あったり前や! 8段アイス食い放題やで!」
「やったー!!」
「あの……加護さん」
「お、もちろんお豆ちゃんの給料も上げてもらおうな」
話し掛けてきた新垣にむふふ、と満面の笑みを見せる加護。

「また……来ます」
「なんやて!」
その顔が引きつった。

「な、な、なんやっちゅーねん」

後ろ手に閉めた扉に体を預けて、加護はようやく息を吐き出した。
他のメンバーもそれぞれぐったりとへたり込んでいる。

「何でこんなに妖魔がおんねんな……」
階段を下りれば下りるほど妖魔の数は増していった。
一つ一つの妖魔はさほど強くは無い。とはいえ、戦闘を繰り返す事数十回。
最下層に到着する頃には、みんな疲弊しきっていた。

「きゃはは、大きな口叩いてた割にはへろへろじゃんか。
 そんなんじゃ給料上げてもらえないぞ」
「……後輩におんぶされたままの人に言われたくないです」
高橋の背中からひょっこり顔を出す矢口を、加護はじと目で睨みつける。

「いやー、なんか結構居心地よくってさ。ラクチンだし」
矢口がしがみつくと、高橋は嬉しそうに微笑む。
「だいたい、オイラがいなくってもラクショーなんだろ。
 まあ、手伝ってくださいって言われれば手伝ってやらなくも……」
「あ! あんなところに幽霊が!」
「イヤイヤイヤイヤイヤ……」
縮こまる矢口の頭を高橋がよしよしとなでる。
そんな先輩をほっておいて、加護はむんと立ち上がった。

「とにかく! きっとここに全てのカギがあるはずや!
 この部屋を探してみよう!」

広い部屋だった。
当然電気は通じていない。
そこら中のものを発光体に変えた新垣は、魔法を使い果たしてぐったりと壁にもたれかかった。

そこは書斎のようだった。
壁の一面が本棚となっており、曰くありげな書物が並べられている。
その前には重厚なデスクが置かれ、ぼろぼろになった羊皮紙が散乱していた。

「うわ、すごいなこれ。よー、こんだけアヤしげな本を集めたもんや。
 えーっと、これは何語やろ? ……ねくろ…のみこ…」
「加護さん!」
デスクを調べていた高橋に呼ばれ、加護は振り向いた。

「これ……」
高橋が示したのは一つの引き出し。
その底を強く押すと、カタンと音がして板が外れ、中から一冊の本が現れた。
「しっかし、仕掛けの多い家やな、まったく」

加護はぱらぱらとページをめくった。
「これは……日記やな」
女性的な柔らかく丁寧な文字で文章が綴られている。
「きっと、ここの奥さんの日記やな。でも何でこんなところに……」
日記は途中から空白に変わっていた。
書かれている最後のあたりから、加護はじっくりと読み始めた。

3月25日
  屋敷はもうすぐ完成するらしい。とても素敵な建物。
 主人が私のためにと、私の一番好きな色の名前を付けた『翡翠館』。
 この日が来るのをずっと待っていた。本当に楽しみだ。


3月27日
  今日もまたあの人とお話をした。本当に建築士としての腕前だけでなく、話術のほうも大したものだ。
 また時間が経つのを忘れてしまった。
  普段外に出歩く事もなく、人と触れ合う事のない私にとって、あの人と語らう時間はとても貴重だ。
  屋敷が完成してしまえば、あの人と会うこともないのだろう。それは少し寂しい。


4月3日
  あの人から聞いたこと、あれは本当だろうか?
  とても信じられない。主人があんなことをしているなんて。


4月4日
  またあの人から恐ろしい話を聞いた。私の知らないうちに造られたという地下室。
 そんなものが本当にあるのだろうか。
  あの人の口調は私をからかっているようには思えない。本当に私のことを心配
 してくれているように見える。
  しかしそんなことがあるのだろうか。……異界から魔物を呼び出すなどということが。

4月6日
  確かに主人はおかしいのかもしれない。私を見る目が時折尋常ではない。
 それに、夜な夜な聞こえるあの声……。
  ああ、私は何を信用すればよいのだろう……。


4月7日
  あの人は一緒に逃げようと言う。このままここにいたら殺されると。
 そう言って翡翠のペンダントをくれた。あの人とお揃いのペンダント。
 これをお守りにしよう。あの人はそう言った。でも私は……。


4月8日
  あの人が消えた。


4月9日
  どうやら、私がこの日記を書いていることに主人が気が付いたらしい。
 多分この日記を書くのもこれが最後になるだろう。
  ああ、どうしてあの時あの人に付いて行かなかったのだろう。
 あの人はあれほど私のことを心配してくれていたのに。
 願わくば、無事でいて欲しい。無事で……。
  この屋敷に残っているのも、もう私と主人だけだ。
 完成したばかりのこの屋敷。でも、此処に私が住む事は無い。
  しかし、この恐ろしい儀式だけは止めなければならない。
  どんな事をしても……。

「そうか、この屋敷の持ち主が妖魔を呼び出そうとしとったんか」
苦々しそうに加護がつぶやく。
「せやから、こんなところに妖魔が……」
「加護さん! これ!」
高橋の右手には古びた本。

「魔道書か。これは……」
「そいつは『シムルギスの書』だな」
「矢口さん!」
何時の間にか自分の足で立っていた矢口が、加護の手から本を取り上げる。
「自分の愛するものを生贄にささげることで悪魔と契約を結ぶ術だ」
「愛するものって……それじゃ」
「ああ、多分その日記を書いた人は……」

沈黙がその場を支配する。
加護は唇を噛み締め、新垣と高橋は下を向いてうつむく。
「そんなの……ひどいよ!」
辻の目に涙が浮かんだ。

「あ!」
新垣が思わず声を上げた。
再び浮かび上がる白い影。
その前に矢口はしっかりと立った。
「ちきしょ、あんな話聞いたら怖がってられないじゃないかよ」
影はふわりと揺れた。
すい、と手を伸ばし、本棚のある壁のほうを指差す。

「高橋」
「はい!」
鬼の手が本棚をこじ開ける。
そこにはもう一つの部屋が広がっていた。

瘴気が渦巻いていた。
むっとする異様な匂いが立ち込めていた。

正面に祭壇のようなものが置かれ、そこには異界との契約を夢見た者のナレノハテが、
半ば崩れかかって座っていた。
床に書かれた魔方陣。
その中央に横たわる体。

加護たちは思わず目を伏せた。
矢口だけがゆっくりとその場へ向かう。

「ずっとここで頑張ってたんだなこの人は」
「どういう……ことですか?」
「この儀式は生贄の魂を触媒にして成り立つ術だ。
 だから本来、魂がこの世に残ることはない。
 なのにこの人が幽霊になってるってことは」
振り返った矢口は加護たちを見つめた。
「……ずっと抵抗してたんだ。
 魂を奪われないように。この恐ろしい儀式を成功させないように。
 何十年もの……間」
「そんな……」

矢口の後ろで白い影がふわりと揺れた。
振り返った矢口の目に、怯えの色はもう無い。

「もう大丈夫。後はオイラ達がちゃんとやっておくから。
 だから……だからゆっくり休んでね」
矢口の体に青白い光が集まる。
「聖なる火をもて不浄を焼き消せ。
 ……浄火雷!!」
熱を持たない炎が、呪われた場所を焼き尽くす。
白い影はその姿を薄れさせつつ、ゆっくりと上へと昇っていった。
見上げる加護の目には、その影に微笑みが浮かんでいるように見えた。

ぼろり、残された体が崩れ去った。
矢口はその塵の中に手を伸ばす。
拾い上げたのは美しい翡翠のペンダント。
それを見つめて、矢口はポツリと呟いた。

「ごめんね。怖がったりなんかして」

「おなかすいたー」
「んじゃ、矢口さんのおごりでご飯食べにいこか」
「やだぷー。なんでオイラがおごんなきゃいけないんだよ」

屋敷から外に出た退魔師達。
すでに日はとっくに落ち、まだ冷たい夜風が暗闇の中吹いている。

「だいたい、結局ほとんど矢口が仕事片付けたんじゃないか」
「何ゆうてんですか。お化け怖いって震えてたくせに」
「へへん、もうお化けなんか怖く無いもんねー」
へらへらと笑う矢口。
しかし、その顔の裏で冷静な退魔師としての思考がフル回転していた。

あの儀式。
大魔導師シムルギスの記した呪文書。
あの書には実は重大な欠点があったのだ。
そこに書かれた魔法陣。
それは──未完成なものだったのだ。

写本の途中ですり替わったのか、魔法陣の呪文の一部が間違って記されていたのだ。
だからこそ、あの女性は魂を奪われることに抵抗できたのだ。
無論、相当な意志の強さが必要ではあるのだが。
その結果、あの儀式は成功することはなかった。

──では何故妖魔はあの場所に現れたのか。

屋敷の地下にあった魔法陣。
あれは……シムルギスのものではなかった。
何者かが作り変えたのだ。
生贄を必要としない別のものに。

だがいったい誰が、何のために。

矢口はそっと唇を噛んだ。

「のろいじゃああああ!!」
「「「「「うわああああ!!」」」」」

また後ろから聞こえてきた声に、全員が大きな声をあげた。

「こ、こし……」
「矢口さん、しっかり!」
「じいちゃん! 急に声かけたら驚くってゆうたやんか!」
「わしも言うたじゃろうが。ここは恐ろしい場所じゃ。早く帰れと」
「おじいさん。もうだいじょーぶですよ。
 ここはののたちが、じょーかしましたから」

「なんじゃとぉぉぉ!!」
「「「「「うわああああ!!」」」」」

「あ、あわわわ……」
「や、矢口さん、気を確かに!」
「じ、じいちゃん、顔怖いって」
「……そうか。ではあの人も役目を終えたのじゃな」
そう言って老人は目を細めた。

「……じいちゃん、まさか……」

老人は胸元からゆっくりとペンダントを取り出した。
それは美しい翡翠色をしていた。

「結局わしには何もできんかった……」
小さな声で呟く。
「このお守りは果たして役に立ったんじゃろうか」
老人は空を見上げた。
つられたように五人も上を向く。

夏の夜空には、綺麗な星がまたたいていた。


           第四夜  〜幕〜


月の輝く夜。

『日本最強の念法使い』安倍なつみは、ひとり夜の散歩を楽しんでいた。

日中に熱せられた空気も、この時間になるとさすがにその力を失ったのか、
心地よい風が真っ白のワンピースの裾を揺らめかせる。

静かな闇に包まれた人気のない路地。
電柱の陰から顔を出した猫に手を振り、パチパチと音を立てる街灯を物珍しそうに眺める。
その顔に浮かぶのは、何が楽しいのか満足げな笑み。
まるで月の光から生まれた妖精のように、ふわふわとステップを踏む純白の人影。

奇妙な散歩は、まるでその周囲だけ時間の流れが止まったかのように、
いつ果てるとも無く続くように見えた。

ふらり。

しかし、不意に塀の陰から現れた人影が、幻想的なその空間を打ち破った。

「ちょ、ちょっと! どうしたんだべ」

急にもたれかかってきた、自分とそう変わらないくらいの小柄な体を、
安倍は両足を踏ん張ってどうにか支える。

「……助けて」

耳元でくぐもった声が聞こえた。
肩に頭を乗せられているため、その顔は分からない。
視界に入るのは上品な色合いのワンピース。
首に巻かれたネックレスも高そうな光を発している。
足元に落ちたハンドバッグのロゴには、ブランドに疎い安倍でも見覚えがあった。
甘い香水の香りが鼻腔をくすぐる。

「わたしは……わたしは誰なの……。
 どうしてこんなところに」
「あなたもしかして記憶が……」

安倍の頭に今でも病院に入院中の同僚、記憶を失った『青き狼』のことが思い浮かぶ。

──医者に連れて行くべきか。
逡巡した後、ぐったりとなった体を引き剥がす。

その顔を見て、安倍はすぅっと表情を引き締めた。

黒く落ち窪んだ眼窩。
つややかなエナメル質の表面。
見るものの背をゾクリとさせるようなその形。


その顔を覆うもの。
それは骨でできた白い仮面だった。


 Morning-Musume。 in 

         百 姫 夜 行。 ─ 翔─  

            ―― 第五夜     追憶の痛み

『それで、その人は本当に何にも覚えてないの?』
「うん。何とか話を聞いてみたんだけど、なっちと出会う直前の記憶しかないみたい。
 何も覚えてないの。自分が何者なのかも、もちろん名前さえも」
『やっかいな話ね』

携帯電話から、『針師』石黒彩の落ち着いた声が聞こえた。
軽く肩をすくめるその仕草まで見えたような気がして、安倍は懐かしさに軽く微笑んだ。

がたがたとあたりを揺らしながら電車が通り過ぎる。
眠りについた少女を残してきた自分の部屋を見上げ、安倍はまた電話を続けた。

「持ち物とかにも身元の分かるものは一切無かったよ。
 身分証明書はもちろん、携帯電話さえもね。
 まるで意図的にそうしたみたいに……」
『おまけに顔には不気味な仮面…か。
 まったくひどい話ね』
「そういえば、さっき送ったファックスは届いた?」
『ええ、今調べてたとこ。
 でも、この仮面……。こうやって見ててもすごい邪悪さを感じるわ。
 これ、やっぱり本物なんでしょうね』
「うん、間違いなく本物の……人骨だよ」

少女の顔に貼り付いた仮面は、まるで肌に溶け込んでしまったかのように、
安倍の念法をもってしても決して外れる事は無かった。

『……これだけの術を使ってくるようなやつは、そんなにたくさんいるわけじゃない。
 多分すぐに答えが出せると思うわ』

「ありがと、それじゃ頼むね」
『分かったわ』
「あ! そういえばさ、できたんだって? 二人目」
『な! ちょっとそんな話どこで聞いたのよ!』
「まあそれはさ、いろいろあるんだべ。
 なんていうの? 『蛇の目は傘』ってやつ?」
『……『蛇の道は蛇』でしょ』
「やーだなー、彩っぺ。冗談に決まってるっしょ」
あはは、と屈託無く笑う安倍。電話の向こうで石黒の吐くため息が聞こえた。

「やー、もー、いいねえ、いつまでもアツアツでさぁ。
 なっち、うらやましいべ」
『馬鹿!
 ったく、情報屋の情報集めてどうすんのさ』
「で、どうなんだい? ん?
 本当にできたんかい?」
『内緒よ』
「ぶぅ、けち」
『けちで結構。知りたきゃ代金払ってちょうだい。
 言っとくけど……高いわよ」
現役時代を思わせる厳しい声を残して電話は切れた。

携帯の通話ボタンを押して、安倍は顔を上げた。
あの腕利きの情報屋に任せておけば一安心だ。
すぐにでもあの仮面を使った者の事を調べてくれるだろう。

それにしても……。
と、安倍は意味も無く携帯をもて遊びながら考え込んだ。

一体何のためにこんな事をしたのだろう。
人の記憶を奪い、決して外れない仮面を被せる。
その事に何の意味があるのだろうか。
単なる恨みや嫌がらせにしては手が込みすぎている。

カンカン、と音を立てて階段を上り、安倍は部屋の薄い扉を開いた。

部屋の真中で少女はがたがたと震えていた。

「どうしたの!? 大丈夫かい?」
自分の体を抱き締める少女に、慌てて駆け寄る。
「あ…ああ……」
カチカチと歯がぶつかる小さな音が静かな部屋に響いた。
安倍は少女を自分の腕の中に招き入れ、その体にゆっくりと念を送り込む。
暖かな念に包み込まれ、少女の体の震えは少しずつ収まっていった。

「すみません……」
ようやく落ち着いたのか少女は呟いた。
不気味な仮面を通しているため、くぐもって聞こえる小さな声。
その声の感じや、透き通るように白いその腕、それに皺一つ無い張りのある首筋を見る限り、
まだ歳は若いだろうと推測された。
おそらく安倍と同じか少し下ぐらい。

──無理も無い。

小さな背中を軽く叩いてやりながら、安倍は思う。
年頃の少女が記憶を奪われ、恐ろしい仮面をつけられたのだ。
怯えないほうがおかしい。

「……怖いんです。記憶が無い事がこんなに怖いことだなんて思わなかった」

仮面を隠すように俯いたまま、少女はそう呟いた。

「大丈夫。もう大丈夫よ。心配しないで」
優しい声で安倍は言った。
大きく首を振った少女は、言葉を続ける。

「何も無いんです。昔の自分が。
 母親に抱かれた記憶も。友達と遊んだ記憶も。
 積み上げてきた『自分』がわたしには無いんです」
一気にそこまでしゃべり、少女は安倍の顔を見上げた。

「あなたには……あなたにはあるんでしょう?
 子供の頃の思い出が」

すっと、安倍の頭に幼い頃の記憶が蘇った。
柔らかな午後の日差し。
気持ちの良い風。
愛しい母の膝。
だが、お気に入りの場所に座っているのは別の少女。
その光景を、安倍は横に立ってうらやましそうに見ているだけ。

これは……なに?
あそこに座っているのは誰?
どうして、わたしは抱いてもらってないの?
どうして……。

「わたしには何も無いんです」
その声に安倍は我に返った。

「誰かを好きになった記憶も。
 最初のデートをした記憶も。
 近所の商店街を歩いた記憶も。
 一生忘れられないはずの大切な思い出も。
 ……何もかもわたしには……」
少女はまた俯いた。

「そう思ったら、『自分』というものが曖昧になってきて……。
 本当に過去のわたしはいるんだろうか。
 わたしはたった今生まれたんじゃないだろうか。
 わたしは本当は……存在しない人間なんじゃないだろうか、って」
「あなたは存在してる。ちゃんとあたしの前に」
安心させるように少女の肩を叩き、安倍は言葉を続けた。

「大丈夫。なっちに任せて。
 すぐに元に戻してあげるからね」
「でも……」
「心配要らないよ。なっちはこういうのの専門家だから」
「専門家?」
再び少女の顔が上がる。
「そう、あなたのように闇に狙われた人を助ける専門家」
ふわり、と安倍は笑顔を見せた。

「今、あなたの記憶を奪った相手を調べてる。
 きっとすぐに見つかるよ。
 したら、悪い奴はなっちが倒してあげる。
 だから安心して。全部任せてくれていいんだからね」

どん、と胸を叩く安倍。
その顔を見つめる少女の顔は、仮面に覆われて表情は分からない。

「本当に……記憶が戻るの?」
「うん、なっちを信用して」

ぶるり、少女はまた身を震わせた。

「ダメ……やっぱりダメ。
 記憶が無い事も怖い。
 でも、記憶が戻ることも……怖い」
「どういうこと?」
「自分が何者だったのか、わたしは何も覚えていない。
 もしかしたら、わたしは悪い事をしてたのかもしれない。
 ひどい人間だったかもしれない。
 そんなことを考えたら、記憶が戻ることも怖くて……」
「何言ってるんだよ」

顔を伏せる少女に安倍は明るく声をかけた。

「過去を受け入れることができなければ、未来だって手に入らない。
 過去にどんなことがあっても、どんな未来が訪れても、
 人は一歩一歩でしか進めない。だから立ち止まっちゃいけないんだ」

安倍の言葉に少女は顔を上げた。

「迷ってたって何も始まらないっしょ。
 なっちがあなたの未来行きの切符、必ず取り返してあげる」

薄暗い闇の中に浮かぶお日様の笑顔。
見るもの全てを安心させる天使の微笑み。

その顔を見た少女は、ポツリと呟く。

「そういえば、まだ名前も聞いてなかった。
 教えてもらえますか? あなたの名前」
「なつみ。安倍なつみだよ」
「なつみ……。素敵な名前ですね」
「そうかい? ありがと。
 うちのお母さんが付けてくれた名前なんだ」

──あなたはとても暑い夏の日の朝に生まれたの。だから、『なつみ』って名付けたのよ。

北海道の母の声が蘇る。

「ね。あなたにもなっちが名前付けてあげる」
「え?」
「だってさ、いつまでも『あなた』って呼ぶのも変だし」
戸惑ったような少女を前にして、安倍は首を捻る。

「うーん。どうしようかな。
 『マリ』じゃおしゃべりになりそうだし、
 『マキ』じゃしゃべらなくなりそうだし、
 『カオリ』じゃ交信しちゃいそうだし……」
むむむ、と眉根を寄せて悩む安倍。
「あ! そうだ!
 あのね。なっちの仲間にね、同じ北海道出身の子がいるの。
 その子の名前を借りて、『アサミ』っていうのはどう?」
「アサミ……」
「そう、可愛い名前でしょ」
「……ええ、とってもいい名前。
 それじゃ、これからはわたしの事アサミって呼んでくれますか?」
「うん、アサミちゃん」
「嬉しい……。名前があることが、こんなに嬉しいなんて……」

名前がついたことで精神も安定したのか、無機質な仮面は少し微笑んだように見えた。

安っぽい電子音のメロディーが、部屋の中に響いた。
安倍の取り出した携帯のディスプレイには、待ちかねた情報屋の名前があった。
ボタンを押し、耳に当てる。

『見つかったわよ』

よく通る低い声がそう告げるのを聞き、安倍は小さく頷いた。

「もぬけの殻……か」

指定された場所は、恐るべき呪いをかけた術者が住むとは思えないほどの、
古びたアパートだった。
部屋には鍵すら掛かっておらず、がらんとした室内には生活を感じさせるものは
何一つ残されていなかった。

なぜかこれだけは残されていた、壁に貼られた毒々しい色合いの曼荼羅を見て、
安倍は先ほどの石黒の言葉を思い出した。

「骨術師?」
『そう、もとは立川真言流の流れを汲む外法師らしいわ。
 恨みを持って死んだものの骨を媒体にして、いろんな呪いを仕掛けるみたい』
「悪趣味だねぇ」
『全くね。その趣味の悪い男の名前は『鬼島 宗雲』。
 現在の棲家はファックスで送っといた』
「それで、この子の事は?」
『さすがにそこまでは掴めなかったわ。
 一応もう少し当ってみる』
「うん、お願い。何か分かったら連絡ちょうだい。
 あ、それと情報料はいつものところに振り込んどくから」
『了解。それじゃ、気をつけてね』

「なつみさん……これ」
くぐもった声が聞こえ、安倍は振り返った。
危険だという忠告を聞き入れることなく、強引について来た少女──アサミ──は、
右手に持った薄い本を見せた。

「これは……地図だね?」
それは、都内全域が掲載された地図だった。
アサミの開いた場所はこの近辺を拡大したものらしく、その中央より少し下のあたりに、
赤いペンで丸い印がつけられていた。

「棚の裏に隠してありました。
 もしかしたら、わたしに呪いをかけた人って、ここにいるんじゃ……」
「罠……だろうねぇ」
「罠?」

首を捻る少女の横で、安倍は腕を組んで目をつぶった。
余りにもあからさま過ぎる誘いだ。
敵は恐らく、何らかの仕掛けとともに待ち構えている事だろう。

「でも一体何のつもりで……」

依然、敵の目的は分からない。
自分たちを誘い出し、何をしようとしているのか。

「ま、考えたって仕方ないべさ。真相を知るのはみーんな倒した後からでも良いっしょ」

小さく呟き、一人で頷く。深刻な顔は一瞬で消え去っていた。
まさに屈託無き天使の思考。
その能力に見合うほど、最強の退魔師はばりばりにポジティブシンキングだった。

「とにかくなっちはここに行ってみるから。アサミちゃんはなっちの部屋に戻ってて」
「イヤです! わたしも行きます!」
言い放つ少女に安倍の眉が寄る。
「じっと待ってるなんてできません! もうこれ以上……こんな気持ちのまま……」
「危ないよ」
「分かってます。それでも、わたしは絶対に一緒に行きます!」

仮面に隠され、その顔は分からない。しかし、きっと強い意志が刻まれている事だろう。

──やれやれ。なっち、ムカシっからこういう無鉄砲な子に弱いんだよね。

少女に気づかれないよう、こっそりとため息を吐く。
安倍は昔から、なぜかこういうタイプの人間を見捨てる事ができないでいた。
つい、余計なおせっかいを焼いてしまうのだ。
思えば、福田に対して特別な感情を持ったのも、大人びた少女が隠し持つ自暴自棄とも
いえる無鉄砲さに、放っておく事のできないものを感じたからかもしれない。

──明日香のときもそうだったし、あの子の時だって……。

あの子?
自分の思考に自分で疑問を抱く。
かすかな記憶。
幼い安倍の手を引くもう一人の少女。
そういえば、いつもあたしの前に立っていた子がいた。
とても仲の良い女の子。
この子はだぁれ?

セピア色の風景。
吹き荒れる雨と風。

あの子はどこに行ったのだろう。あんなに仲が良かったのに。

「お願いします!」
真剣な口調に、記憶をたどる行為は中断された。
「……仕方ない。連れてってあげる。その代わり、なっちの言う事よく聞くんだぞ」
「はい!」

歯切れの良い返事を聞きながら、なぜか安倍の心には不安がじわじわと湧き起こっていた。

「ここ……ですか」
「そうみたいだね」

二人の目の前には、暗闇の中にそびえたつ大きな建物。

「博物館……ですね」
「そうだね」

どこぞの政治家のイメージアップのためだろうか。
このあたりには不釣合いなほどの立派な博物館だった。
まだ新しそうな白い壁が、闇の中に浮かび上がる。
入口のところには木で作られたアーケードが立てられ、その上には鮮やかな色合いで
『世界の大恐竜展』と看板が描かれていた。

「さて、それじゃ行こうか」
入口に向かう安倍を少女が慌てて呼び止める。
「ちょ、ちょっと待ってください。
 今は真夜中ですよ。とても入れませんよ」
「大丈夫、大丈夫」

厳重にロックされているであろう扉を、安倍はいつの間にか握られていた木刀で軽く突く。
すうっと音もなく大きなガラスの扉は両側に開いた。

「え? あれ?」
少女の戸惑ったような声。
「な、なんで? その木刀一体どこから……」
「むふふ、内緒だべ」
左手の先で口を隠し、目を下弦の月の形に細めて安倍は微笑む。
「ゆっとくけど、これを聞くのは高いべさ」

ぽかんとしている少女を残し、安倍は博物館の中へと向かった。

薄暗い展示室の中を、順路に従って進む。
ドアをくぐると、そこには吹き抜けの広い空間が現れた。
部屋の中央には、スポットライトを浴びた巨大な恐竜の化石。
台には『ティラノサウルス・レックス』と書かれてたプレートが貼られていた。

「恐竜かぁ。でっかいねぇ」

あ、どどんがどん、と変なリズムを呟きながら更に先へ進もうとする安倍。
不気味な仮面つけた少女は、ただその後を追うばかり。

ひゅん、輝く小さな物体が闇を切り裂いた。
ちいん、と音を立てて安倍の木刀が飛来物を叩き落す。
床に転がる透明なサイコロのような立方体。

ゆっくりと安倍は”つぶて”の飛んできた方向を見上げた。
展示室の二階部分。中央の化石をぐるりと囲んだスロープのような通路。
そこには輝く一体の鎧が静かに佇んでいた。

「……誰?」

クリスタルのような素材、鋭角的なデザイン。
西洋の兜に似たその顔からは、当然のように応えはない。

「あなた、確か圭ちゃんの言ってた……」

クリスタルの鎧から再び光る物体が飛んだ。
振り下ろした木刀が飛んできた”つぶて”を弾き落とす。
その瞬間には飛び降りた鎧は既に目の前まで迫っていた。

──速い!! でも!

床を叩いた木刀が、その反動を利用して跳ね上がる。
「雪宮流『水泉』!」
きらめく鎧を、木刀が下から迎え撃った。

ひたり、木刀の刀身に輝く手のひらが当てられた。
跳ね上がる木刀の動きを利用して、まるで重力が無くなったかのように鎧が宙に舞う。
きりきりと回転する体。その先にいるのは──呆然とたたずむ少女。

──しまった! 狙いは……あの娘!?

既に相手は木刀の射程内にいない。スピードでは向こうが勝る。追いつけない。
すっと安倍は息を吸い込んだ。軽く木刀を引き、力を溜める。

「いぇええええぇい!!」

裂帛の気合。
安倍の手から木刀がまるで矢のように放たれた。
茶の光が狙い違わずクリスタルの鎧を撃ち抜き、鎧は向こうの壁まで吹き飛んだ。
大きく息を吐き出した安倍の額には、輝くチャクラの光。

鎧はゆっくりと顔を上げた。その様子からダメージはほとんど無さそうに見える。
安倍は軽く唇をかんだ。その手に愛用の武器は無い。
これほどの相手に素手でどこまで戦えるか。
ぎゅっと拳を握り、身構える。

ふと、鎧が目線を上げた。
その動きに何かを感じ取った安倍は、後ろを振り返った。
目の前に迫るのは巨大な足。

「うわわわ」

慌てて転がった安倍の横で、骨の足が地響きを立てた。
見上げると、深淵を思わせる空洞と目があう。
昔、何かのアニメーションで見たようなぎこちない動き。
化石の恐竜はひび割れた口をあけ、声無き咆哮をあげた。

「あらら、すごいねぇ」

緊迫感に欠ける声を出しながら、安倍は鎧の様子を伺う。
しかし、きらめくクリスタルの体はいつの間にかその姿を消していた。

湧き上がる疑問を押し隠し、安倍は恐竜と向き合った。
相変わらず、手の中に武器は無い。
だが、何事も無かったかのように身構える念法使い。
伸ばした左手の人差し指を右手で握り、右手の人差し指も伸ばす。

ぶん、と空気を切り裂いて鋭い爪が振られた。
床ごと抉り取りそうなその攻撃を、細い指が迎え撃つ。

指剣。
念を込めた指先は、まるで金属どうしがぶつかったような音を立てて、爪を弾いた。
だが、恐竜も見かけによらぬすばやい動きで足を振る。
蹴りをまともに食らった安倍は、サッカーボールのように吹き飛んだ。

「なつみさん!!」

悲痛な少女の叫びをかき消す勢いで、恐竜は安倍の元に駆け寄り、その足を踏み下ろす。
ずん、地響きとともに埃が舞い上がった。

「そんな……」
息を呑む少女を、感情を感じさせない空洞の目が捉えた。
少女は恐怖に身を強張らせる。

ぼう、と化石の足が青白く光った。
その足がゆっくりと持ち上がる。
光の中心には、輝く輪を頭に冠した純白の天使。
両手が掴むのはいつの間に拾ったのか、馴染みの木刀。
あの足で蹴られた瞬間、愛用の武器の位置、そして自らの吹き飛ぶ方向を
計算していたというのか。

淡い微笑を浮かべた天使は、無造作に木刀を振った。
衝撃波が恐竜の足から頭まで突き抜ける。
巨大な暴君の全身の骨がビキビキ音を立ててひび割れた。

崩れかけた骨を蹴り、安倍が大きな体を駆け上る。
頭頂まで登りつめた退魔師は、大きく振りかぶった木刀を眉間に突き立てた。
恐竜の動きがぴたりと止まる。
次の瞬間、眉間を中心に巨大な化石は音を立てて崩れ落ちた。

「あーあ、壊しちまった。どうしよ、怒られるかなぁ」

木刀を肩に担いで、安倍はむにゅっと顔をしかめる。

「したっけ、弁償してくれって言われても困るべさ。
 ねえ、そこの人、ちゃんと責任取ってくれるんだろうねぇ」

展示室の向こう側、闇の凝縮している辺りに向けて、安倍はのんきな声をかけた。

「ふふふ、さすがは日本最強の念法使い」
闇から姿を現した男は、不敵な声で笑った。
つるりとした禿頭に、長く伸ばした黒い髭。
真っ黒なローブを着た初老の男。
その顔は下卑た笑いに彩られていた。

「我が骨傀儡の秘術、良くぞ破った。
 にしても、来るのが予定よりも早かったな。
 今しばらく時間があれば、あの術も完璧であった。
 そうすれば、まだ少しは楽しめたものを」
「あなたが、骨使いかい?」
「いかにも。『骨術師』鬼島宗雲、見知りおいて貰おう」
「やだ。なっち人の名前覚えるの苦手だもん。
 それに……そんな必要も無いしね」

すっと、木刀の切っ先が骨術師に向かう。

「さあ、この子の呪い解いてもらうよ」

よく通る声が、薄暗い室内に響いた。

「……良いさ。もともとそのために待っていたのだからな」
「何だって?」
眉をしかめる安倍に笑いかけ、外法師は呪文を唱える。

「オン・ダキニ・サハハラキャティ・ソワカ」

ゆらり、と少女は糸が切れたかのように崩れ落ちた。

「アサミちゃん!」
「のう、退魔師よ。この世の中で真の恐怖とはなんだと思う?」
少女に駆け寄ろうとする安倍に、男は質問を投げかけた。

「真の……恐怖?」
「そうだ。おまえには分かるまい。
 教えてやろう。真の恐怖とは、自らの存在を消される事なのだ」
「存在を消す? つまり命を奪うってこと?」
「違う、そうではない。
 存在を消すとは、存在を認識するものがいなくなることだ。
 例えば、おまえを憶えている者、その全てがいなくなってしまえば、
 おまえの存在はあやふやになる。
 おまえが存在していた事を全て否定してしまえば、おまえは存在しなくなるのだ」
「そんな! それでも私が存在している事は事実だよ。それを否定ことは出来ない」
「だが、それを認めるものが一人もいなければどうだ。
 誰もそれを認めなければ、それは妄想と区別する事はできない」
「そんなこと!」
「それに、おまえも他人の存在を消し去っているではないか」
「え?」

安倍の体が止まった。

「おまえの頭の中から、一人の娘の記憶が消えている。
 その娘は、おまえの中では存在しないのと同じではないか」
「何? 何のこと?」
「まだ思い出さぬか。幼き頃のあの記憶を」

フラッシュバック。

幼き日。
母の膝。
手を引かれた思い出。
いつも一緒にいたあの少女。
あれは……誰?

手を引くあの子が振り返る。
逆光になり、その顔は分からない。
安倍は必死で目を凝らす。
少しずつ明らかになる顔。
その顔は……。

「ああ!」
「くくく、思い出したか」

──思い出した。全て。

頬を冷たい汗が滑り落ちる。
体が自然と小刻みに震えた。
忘れていた記憶。
否、頭の中に封印していた記憶。
それが今、全て蘇ったのだ。

母の膝。
お気に入りの場所。
そこにいた先客。
いつも一緒に遊んだ無鉄砲な娘。
その娘は……その娘の顔は……。

安倍と同じ顔をしていた。

「思い出した。わたしは……わたしは…双子だったんだ」

そうだ。思い出した。
セピア色の風景。
大雨。
氾濫する川。
好奇心から出かけた幼い姉妹。
飲み込まれた濁流は恐ろしく冷たく、小さな命をあっという間に奪うほど
凶悪な力を宿していた。

「でも……あの子は……あの子は死んでしまった」
「そう、私はあの時死んでしまった」

背後から聞こえた声に、安倍の体はびくりと震えた。

「分かってる。仕方なかったのよ。
 あのままでは二人とも死んでしまうところだった。
 いくらお母さんでも二人を助ける事は出来なかった。
 だから……」
「う…うそ……。そんな……」

仮面を被ったまま、少女は安倍の前へとまわった。

「思い出した。全部思い出したわ。
 でも、わたしが本当に取り戻したかったのは、あなたの記憶。
 あなたの忘れた……過去の中に埋めてしまった記憶」
「あ……ああ……」

澄んだ声が部屋の中に響く。ほっそりした指が、ゆっくりと仮面を外した。

「でも、嬉しかったわ。あの名前を付けてくれて。
 もしかしたらどこかで憶えていてくれたのかしら。
 ね……………『お姉ちゃん』」

仮面の下から現れた顔。それはまるで鏡に映したように安倍とそっくりだった。

安倍の頭に、母の声がよみがえる。

──『あなた達』はとても暑い夏の日の朝に生まれたの。だから「なつみ」。
  そして…………「あさみ」。

「あ…さ……み……」
「ありがとう、思い出してくれて。
 でもね、とても残念だけど、お別れしなくちゃ」
「お…別れ……」
「そう。でもその前に」

ひゅん、どこからともなく現れた木刀が、骨術師の頭を叩き割った。
「な……馬鹿な……」
「あなたにはもう用は無いの」
どさりと倒れた男には目も向けず、妹は姉に柔らかな微笑を見せた。

「ごめんね。これもあの人との約束だから」

再び木刀が空気を切り裂く。

「さよなら、お姉ちゃん」

安倍の体に木刀が食い込んだ。


           第五夜  〜幕〜


漆黒の闇を一筋の光が切り裂いていた。

広大な宇宙空間の中では、矮小にさえ感じられるちっぽけな存在。
しかし、それはまっすぐに向かっていた。
何かの意思を感じさせる勢いで。

無重力空間に漂う星の欠片達。
その間をすり抜けるように光は突き進む。

やがて暗黒の中に一つの星が浮かび上がった。
その星の重力に引かれるように、光はその速度を増す。
空気との摩擦で飛来物はその表面を真っ赤に灼く。
それでも落下のスピードが緩むことはない。

大きな音と地響きを残し、それは長い旅は終えた。
それは目的の地へと辿り着いたのだ。

青く輝く美しい星。

──地球と呼ばれる星へ。

 Morning-Musume。 in 

         百 姫 夜 行。 ─ 翔─  

            ―― 第六夜     恐怖の幕開け

朝靄の中、木々の間を進んでいた女の足が止まった。
ようやく姿を現した太陽が、うっそうとした木々に淡い影をつける。
その影よりも尚黒い服装に身を包んだ女──糸使い、保田圭は、
まだ冷たさの残る空気を切り裂くかのような鋭い視線をあたりに飛ばした。

一時間ほど前、まだ日の昇りきらぬうちに落下した隕石らしきもの。
それが落ちたのはある結界の近くだった。
結界に問題が起きていないか調査するため、寝不足の頭を抱えながら
険しい山道を歩いてきていた保田。
視線の鋭さに、堪えてきた感情が含まれている事は言うまでも無い。
そしてその怒りは、先ほどから感じている気配の主へと向けられていた。

──さっきからこそこそと……。

指先の開いた手袋に包まれた右手を上げ、目に見えないほど細い糸をふわりと風に乗せる。
生い茂る木々の間をすり抜けて、するすると糸は伸びてゆく。

くっと指が引かれた。
ぴうん、と糸が高い音色を奏でる。
ばさり、と音を立てて保田の後ろの立木がきれいな切断面を見せて倒れた。

「人の後をつけるなんて良い趣味とはいえないわね」

落ち着いた口調でゆっくりと呟く。

「こんなところに足を踏み入れる人間はほとんどいない。
 何の目的か知らないけど、おとなしく──」

勢い良く振り向いた保田の声が止まった。

露になった木立ちの向こうに立ち尽くす人物、それは──。

「石川!?」

眉を八の字に下げ、目に一杯涙をためたまま体を強張らせた宇宙刑事の姿だった。

「やれやれ、なんで声かけないのよ」

ようやく呪縛が解けたのか、人差し指で涙をぬぐう石川に、
保田は呆れたような声をかけた。

「だってぇ、保田さん何か怖い感じだったから、なかなか声かけられなくて」
「バカねぇ。んで、なんであんたがここにいるの?
 あの能天気はどうしたのよ」

宇宙刑事コンビは吉澤がフォワード、石川がバックアップに回るのが普通だ。
二人揃ってというならまだしも、石川一人だけで調査に来るなんて珍しい。

「あ……あの、それが……」
「なに? もしかして体調が悪いとか?」
「いえ。そういうんじゃなくて……」
「? なによ、はっきり言いなさい」
「あの……よっすぃーは……朝が弱くて……」
「あん?」

眉毛をぴくりと吊り上げた保田を見て、石川は自分の事のように恐縮して縮こまった。

「ったく、なにやってんのよアイツは!
 最近大きな事件が無いからってたるんでんじゃないの?
 ……まあ、アイツ確かに血圧低そうだけど」
「あ! 違うんです。確かに朝はよっすぃー弱いんですけど、それだけじゃなくて……。
 わたしが、わたしが行きたいって頼んだんです」
「頼んだ?」
「はい、少しずつでも自分を実戦に馴らしておきたくって」
「実戦? アンタがねえ……」
「よっすぃーのお下がりですけど、専用のコンバットスーツもできたし。
 これからはわたしもどんどん戦っていこうと思って」

うつむいた石川の顔に何を見たのか、保田も顔を引き締める。

「そういえば、アンタりんね達との訓練、今でも続けてるそうじゃない。
 いったい何をしようとしてるの?」
「それは……」

左手の人差し指に軽く歯を立て言い淀む。

「……まあいいわ。無理して訳を話すこと無いから。
 でも、何かあったら言ってごらん。力になるわよ」
「すみません、ありがとうございます」
「フフ、まあでもアンタにはリッパなナイトが付いてるから、
 あたしの助けはいらないか」
「え! いや、そんな……なに言ってるんですか」

薄桃色に染まった頬を見て、保田はくすくすと笑った。

「それじゃ、あの隕石が不審だっていうの?」
「断言できるほどじゃないんですけど、加速や侵入角度を考えると
 ただの隕石では無いように思えるんです」

保田の目の前の草や木が、ひとりでにばさばさと倒れていく。
糸を使って道を切り開く保田の後をひょこひょこ付いていきながら、石川は答えた。

「ふん、まさか宇宙からの来訪者って言うんじゃないでしょうね?」
「それは……不明です。ただ銀河連邦からはなんの連絡もありません」
「案外あんたの仲間じゃないの」
「まさか。それだったらこんなむちゃな着陸なんてしませんよ」

どん、と音を立てて、道をふさいでいた大きな倒木が真っ二つになった。

保田の服装はいつもの黒づくめ。柔らかそうなシャツに革のパンツ。
かかとまであるロングコートを羽織っている。
石川はデニムのミニスカートに膝までの白いロングブーツ。
上は肌もあらわなピンクのタンクトップ。

二人とも山歩きの専門家が見れば、こめかみに青筋のひとつも立てそうな格好だ。
まるで平地を歩くのと変わらないスピードで進む黒いロングコート。
時折ブーツを滑らせながら、おぼつかない足取りでおっかなびっくりその後を追うミニスカート。

「そういえば保田さんも今日は一人なんですね。
 矢口さんはどうしたんですか?」

歩みの速度を緩めないまま保田は肩をすくめた。

「こっちもいろいろ忙しくてね。
 それに、矢口最近体調が悪いみたいだから少しは休ませてやりたいの」
「矢口さん、病気なんですか?」
「病気、ってほどじゃないんだけど、ここんとこ変な事件が多かったからね。
 肉体的にも精神的にも参ってるみたい」
「変な事件?」
「ああ、まあ気にしないで」

煮え切らない口調の保田に石川が首を捻る。
突然、ぴたりと前を行く黒い背中が足を止めた。

「あれかしら」

石川が顔を上げると、木々がなぎ倒された跡が少し先に見えた。
火事になるほどではないのだろうが、ほんの少し煙も立ち上っている。

「行ってみましょう」
「はい」

「これか……」

二人の目の前には巨大な金属の塊が転がっていた。
楕円形の物体。その形状は鳥の卵に酷似している。

「明らかに人工物ですね」

生々しい断面を見せる木々に眉をしかめながら石川が呟く。

「まさか宇宙船?」
「確かに連邦で使われてる一般的な小型艇に似ていますけど……」

油断無く辺りに気を配りながらも、二人は謎の物体から目を離さない。

「動いた!」
「え!?」

微かに煙を上げる表面にすうっと亀裂が走った。
球面が四角く切り取られ、開いた部分が地面に触れる。

「何か出てくるみたいです」
「気をつけて。油断しないのよ」

石川はすぐに着装できるよう身構え、保田も糸をつまんだ右手を目の高さまで上げた。

そして、真っ暗な船内からひとつの影が飛び出してきた。

「ややや、どもども」

出口と思われる部分から現れたのは、奇妙な格好をした一人の女性。
もこもこした黄色いジャンパースーツ。
頭から伸びる二本のアンテナ。
その顔にはなぜか満面の笑み。

「な、何よいったい!」
「あ、あなたは!?」
「あー、怪しいものじゃないんですよ。
 わたし、宇宙刑事ピーチ−こと石井リカといいます。どぞ、よろしく」
「石井さん!? なんで?」

驚愕に目を見開く石川を見て、石井と名乗った女性は満面の笑みのままその手を取った。

「あらら、チャーミーさんじゃないですか。
 よかった。通信装置も故障してたからどうやって連絡とろうか考えてたんですよ。
 それに、現地の人との接触は極力避けるように言われてたし。
 いやー、ほっとしました」

嬉しそうにぶんぶんと手を振る石井と、呆然とされるがままなっている石川。
その光景を腕を組んで見ていた保田は──

「やっぱりあんたの仲間じゃない……」

そっとため息をついた。

すっかり壊れてしまっていた小型艇をどうにか覆い隠し、
ひとしきり汗をぬぐい終わった調査隊は、人騒がせな来訪者を取り囲んだ。

「石井さん、どうしてこんなむちゃな着陸したんですか。
 あれじゃ、突入速度が速すぎますよ」
「いやあ、それが……。
 つい、ブレーキとアクセル間違えちゃいまして」

車庫入れに失敗したペーパードライバーのような、のほほんとした口調でそういうと、
新しい宇宙刑事は照れたように頭を掻いた。

「ブ、ブレーキって……。
 わたしが見つけたからいいようなものの、地球の人とトラブルがあったら
 どうするんですか!
 大体、何だってそんな目立つ格好してるんです!?」

その怪しさ満載のコスチュームに思わず突っ込みを入れる。

「あれ? これが地球の最新ファッションだって聞いてきたんですけど」
「……誰にそんな事聞いたんですか」
「ミキティさんに」
「美貴ちゃん……」

警察学校の同期。宇宙刑事ミキティこと藤本美貴の小悪魔めいた笑顔を思い出す。
さわやかな美少女の外見に反して、昔からトラブルメーカーだったあの娘。
もしかして、彼女がテストパイロットとして本星に残されたのは、
あのイタズラ好きの性格によるものだったのではないか?
そんな疑問が石川の頭をよぎった。

──やれやれ、宇宙刑事ってのにはカワリモンしかいないのかね。

横からそのやり取りを黙ってみていた保田は、心の中でそっと呟いた。

「いやいや、そんな事は無いですよ」
「!?」
「あ、ごめんなさい。『A・E・S・P』入れるの忘れてました」

そう言うと石井は、腰のあたりをごそごそといじる。
ブン、と低い音がして、お腹のところにマークが浮かび上がった。
それはなぜか漢字の『命』によく似ていた。

「これで良し。お騒がせしました」
「あなた……もしかして今アタシの心を読んだの?」
「そうです。わたしはエスパーなんですよ」

呆然としている保田に、石井はまた満面の笑みを見せた。

「石井さんは超能力の発達した星の人なんです。
 テレパス能力がとっても高くて、人だけじゃなく動物とだって会話できるんですよ」
「……ムツゴロウみたいね」
「いやー、いつもは機械で力を押さえてるんですけどね。
 宇宙船の中は相棒と二人っきりだったんで忘れてました」
「相棒?」
「はい。さ。でておいで」

言葉とともにポケットから飛び出してきた小さな塊。
するすると黄色い体を駆け上がり、肩にちょこんと乗る。

「わあ、可愛い!」

その愛らしい姿に石川が思わず叫ぶ。
ぬいぐるみの猫に似た生き物は、首を持ち上げるとビーズのような目をぱちぱちさせた。

「それが相棒?」
「そうです。エスパー猫の『猫田猫夫』といいます」
「またベタなネーミングね……」
「いらん世話やでネエちゃん」
「しゃ、しゃべった!?」
「そりゃエスパー猫ですから」

分かるような分からない説明をして、石井は一人でうんうんと頷いた。

「そういうこっちゃ、よろしゅう頼むで」

そう言うと、エスパー猫はまた目をぱちぱちさせた。

「……まあいいわ。
 で? 何の用で地球に?」

ぽかんと口を開けたままの石川とは違い、人生経験の差か、すぐに立ち直った保田が石井に尋ねた。

「あ、そうですよ。連邦からは何の連絡も無かったのにどうして」

不思議そうに首をかしげて石川も言葉を重ねる。

「それが……実は凶悪な犯罪者がここ、つまり地球に来たらしくて」
「犯罪者……ですか」
「ええ、それに関連して連邦は今大変な事になっているんです。
 だから連絡する暇もなく、直接私が来る事になったんですけど」
「ふうん、それでその犯罪者って言うのはどんなやつなの?」

保田の問いに、石井は初めて真剣な顔を見せた。

「実は、マグラ・グリフィスという──」

どさり、何かの倒れたような音が聞こえ、振り向いた保田は目をむいた。

「ど、どうしたの、石川!!」

「すみません。不注意でした。
 データベースを見てチェックはしていたのに」

意識を失って倒れた石川を船内のベッドに寝かせ、保田と石井は向かい合って座った。
室内は外から見るよりも広く感じる。あるいは空間を少しいじっているのかもしれない。
沈痛な面持ちで石川を見つめる石井に、保田は静かに問い掛けた。

「教えてもらえる? なぜ石川が倒れたのか。
 もしかしてさっき言ってた犯罪者に関係の有る事なの?」
「それは……」
「お願い。
 長い付き合いって訳でもないけど、この娘達はあたしの大切な仲間だと思ってる。
 だから力になってやりたい」
「……ですが──」
「わたしが話します」
「石川……」

いつの間にかベッドの上に身を起こしていた石川が、俯いたまま静かに語った。

「ヤツがここに来たのなら、知っておいてもらった方が良いでしょうから。
 ……全てお話します。聞いてください。わたしの過去を」

「そんなことが……」

話を聞き終えた保田は、感情を押さえるためか、絞り出すような声を出した。

「ヤツが脱獄した事は知っていました。
 だから、いずれ戦う事を想定して訓練を続けていたんです。
 でも……」

両の手で自分の肩をぎゅっと抱く。

「……すみません。もう大丈夫です。
 ヤツは……ヤツはわたしが……必ず……」
「できるの? アンタに」
「保田さん……」

厳しい口調に、石川ははっとなって保田を見た。
こちらに向けられた目は、言葉に込められた感情どおりに厳しく鋭い。

「ソイツの名前を聞いただけで倒れてしまうような、
 そんな弱いアンタにその相手を倒す事なんてできるの?
 はっきり言っとくけどね。中途半端な気持ちでいられると余計迷惑なのよ。
 足手まといになるくらいなら、戦うなんて考えないほうがいいわ」
「そんな……」
「お父さんの仇を討とうとか、そんなこと考えてちゃ勝てる訳無い。
 アンタが無駄死にするだけだ」
「…………」
「アンタは何のために戦うんだい? 石川」
「わたしは……」

唇を噛み、白いシーツをぎゅっと掴む。

「わたしは…弱いです。
 今もアイツのことを考えると、怖くて怖くて体が自然と震えてきます。
 でも……」

再びあげられた目。そこには強い意志があった。

「アイツはここに来た。この地球に。
 わたしの大好きな人たちが住むこの星に。
 だから、わたしは戦います。
 あいぼんやののちゃんや……他のみんなにもわたしと同じ苦しみを味あわせたくない。
 仇とかそんな事もうどうだっていい。
 みんなを……守りたい。
 そのためにわたしは戦います」

二人の視線が交差する。
数瞬の沈黙。
ふっと保田が息を抜いた。

「言うようになったじゃない。
 まあ、それだけの気持ちがあるならとりあえずは合格ね」
「……皆さんに教えていただきましたから。
 本当に強いという事はどういうことなのかを」
「ふん、生意気言って。
 でも、本当に無茶しないのよ。
 あたし達も全力で協力するから。
 ……アンタ達はあたし達の大事な仲間なんだからね」
「……保田…さん……」
「ほら、せっかくビシッと決めたんだから最後までしっかりしなさい。
 ……もう、子供みたいに泣かないの。
 ったく、そんなだから心配なのよ、あたしは」
「……っは、はい……」

こらえきれずしゃくりあげる石川の頭を、保田は柔らかい表情でぽんぽんと叩いた。

「それじゃ、詳しい話を聞かせて頂戴。
 ソイツはいったい何時地球へ来たの?」

石川がようやく落ち着いたのを確認して、保田は石井に尋ねた。
二人のやり取りをそっと見守っていた石井は、軽く頷くと手元の端末を操作し始めた。

「彼がこの地球に来たのは、およそ一年前だと思われます」
「一年!? そんなに前から地球に来てたって言うの?」
「そんな……連邦は今までなんでそれに気がつかなかったんですか!?」
「気配を消していたんです。恐ろしいほどまでに完璧に。
 おそらくコールドスリープを使っていたのでしょう。
 もちろんその間にもいろいろと手を打っていたはずです」

石井の言葉に保田は腕を組む。

「それがどうして今になって分かったの?
 それに、何であなたがわざわざそれを知らせに来たの?
 援軍にしては数が少なすぎるわ」
「そりゃ、オレ達はただの連絡係だからな」

石井の肩に乗ったエスパー猫が毒づいた。

「連絡係? だってソイツはすごい凶悪犯罪者なんでしょ。それなのにどうして?
 大体、連絡するだけなら他に方法があるでしょ」
「その通りです。ですが今、本部は大混乱な状態なんです」
「混乱? なぜ?」

「星系のいたるところで、同時多発的に事件が起こっているんです。
 それもかなり大規模な。
 それだけじゃありません。
 連邦のメインコンピュータもハッキングを仕掛けられました。
 宇宙刑事も、現在稼動できる者は通常の20分の1以下になってます。
 ……とてもじゃないですがこちらに回す人手が無いんです」
「そんな! どうしてそんなことに……」
「そいつに仲間がいたってこと?」
「いえ、彼は仲間を作りません」
「それじゃどうして」

石井は端末に視線を落とした。

「彼の恐ろしい点は二つあります。
 ひとつはその類まれな頭脳。
 あらゆる知識に精通し、人間の心理さえも予測可能な彼の計画は常に完璧です。
 彼が失敗したのはたった一度だけ。
 ですが、それも今にして思えば彼の計画だったのかもしれない。
 そしてもうひとつ……」

大きくため息をつき、ぱたんと端末を閉じる。

「それはカリスマです。
 彼にはどういう訳か人をひきつける強い魅力があるのです。
 彼の言葉は聞くものの心を捉え、彼の望む行動をとらせる。
 ……まさに悪魔の囁きといって良いでしょう」
「それじゃ、今起こってる事件ていうのは」
「おそらく、彼によってそそのかされた者たちが起こしていると思われます」
「そんな……信じられない」

首を振る保田に、石井は悲しそうな顔を向けた。

「メインコンピュータをハッキングした人物。
 それは宇宙刑事の一人。
 ……彼を逮捕した人物でした」
「…………」

沈黙が部屋の中に満ちた。

「彼が行動を開始したという事は、恐らく準備が完了したと思って良いでしょう」
「準備?」

再び口を開いた石井に、石川が問い返した。

「はい、この一年間、綿密に計画は立てられたはずです。
 慎重に、そして確実に。
 まるでドミノの駒を並べるかのように」
「石井さん、もしかしてヤツの狙いは……」
「ええ、おそらく……得異点でしょう」

物理法則を無視した不可思議な力。
銀河でも類を見ない脅威の能力。
そんな力を悪魔のような頭脳を持ったものが手にしてしまえば……。

「彼が皆さんの事をどれだけ知っているのかはまだ分かりません。
 ですが──」
「ちょっと待って。
 一年前にヤツは来た。そう言ったわよね」
「え、ええ。正確には10ヶ月ほど前だと思われますが」
「……ちょうどその頃、封印に隕石が当たったって話を聞いたわ。
 確か矢口がりんねのところに行った時だから……11月だったかな。
 結局、隕石は見つからなかったって」
「まさか…それが……」
「時期的には一致しますね。
 だとしたら、既にあなた方はマークされてる可能性が……」

「……みんなに連絡を取ってみる」

緊迫した空気の中、保田は携帯を取り出した。

石川から報告を受けた吉澤は、フリーであり行方をくらます事の多い安倍を除いて、
唯一連絡が取れなかった矢口のマンションを訪れていた。

まだ新しい大きなマンション。
ここに、矢口は一人で住んでいるらしい。
矢口の部屋があると思われる辺りを見上げながら、吉澤は大きく息をついた。
先ほど受けた予想もつかなかった報告に、低血圧な頭もすっかり眠気が覚めてしまっている。

石川に聞かされてから、ずっと戦う事を想定していた敵の存在。
だが、いざそれが現実のものとなったとき、吉澤の中には闘争心よりも不安が色濃く宿っていた。
パートナーから知らされ、自らもいろいろと調べてみた相手。
銀河連邦史上、最大にして最悪の犯罪者。
あまりに強大で、あまりに残虐で、あまりに理解不能な敵。
それに対して、駆け出しの宇宙刑事に過ぎない自分。
おまけに連邦からの援軍の見込みも無い。
こんな状態で、果たしてヤツとまともに戦う事ができるのだろうか。
楽観的な吉澤であっても、湧き上がってくる疑問を押さえる事は出来なかった。

すうっと音もなく、エレベータの扉が開いた。
矢口の部屋は目の前にあった。
折りたたみ自転車の置いてあるポーチを通り、ドアの前に立つ。
薄茶色のドアには、『M・YAGUCHI』と手造りのものらしい木製の表札が掛かっていた。
平日の朝だからだろうか。辺りに人の気配は無い。
吉澤はチャイムに右手を伸ばした。

ピンポーン、と軽い音色が響いた。しかし反応は無い。

吉澤の胸に不安がよぎった。
先ほどの連絡には、ヤツが地球に降り立ったとき、
どうやら矢口達と遭遇しているらしいとの報告もあった。
だとしたら、ヤツは彼女達の能力も見ているはずだ。
銀河にも類を見ない異質な力。
もしも、あれからずっと監視されているとしたら。
もしも、こちらの行動を把握されているとしたら。
もしや、今になってヤツが動き出したという事は……。

念のためにと中澤から預かっていた合鍵を使ってドアを開ける。
幸いドアチェーンは掛かっていなかった。

そっと体を入れる。人の気配は感じられない。
音を立てないよう慎重に先にすすむ。
シンと静まり返った室内は吉澤の不安を加速させた。

リビングへのドアを開け、中を覗いた吉澤は目を剥いた。
室内には、あらゆるものが散乱していた。
まるで、その中で何者かが暴れまわったかのように。

──まさか。そんな……。

大きなテレビの置かれたリビングを通り抜け、寝室と思われるドアを開ける。

寝室も同様に荒れ果てていた。
視線を移すと、窓際に置かれたベッドが目に入る。
こんもりと盛り上がった白いシーツ。
そして、そのシーツから転がりでた、だらりと垂れた一本の手。

「矢口さん!!」

慌てて駆け寄りシーツを引き剥がす。
吉澤は思わず声を失った。

視界一杯に、白くすべすべした肌が広がっていた。

びっくりするぐらい華奢な肩甲骨。
滑らかなカーブを描く背中は、程よく引き締まったわき腹へ流れ、
さらにシーツに半分ほど隠されたまろやかなヒップラインへと続く。

薄暗い部屋に浮かび上がった、淡い輝きを放つかのような情景に、
吉澤はシーツを掴んだまま全く身動きが取れないでいた。

突然、垂れていた腕がぴくりと動いた。
複雑に絡み合った明るい茶髪がゆっくりと起き上がり、9割閉じたままの目を
小さな指がくしくし擦る。

「ふにゃ……。あれ? よっすぃーじゃん。なんでオイラの部屋にいんの?」
「い、いやそれは……。っていうか! なんでそんなカッコで寝てるんすか!?」

紅い顔で目を背ける吉澤を見て、矢口も悲鳴を上げる。

「わ! わ! ダメ、見ないで!!
 オイラ、天パだから、起き抜けは髪ぐちゃぐちゃなんだよ!!」
「そっちじゃなくって! 早く服着てください!!」

──目のやり場に困るよなあ。

吉澤の目の前には白いシャツだけを着た矢口。
フローリングの上のクッションにあぐらを組んで座り、ホットレモネードを口に運ぶ。

「いやー、ついつい徹夜でゲームなんかしちゃってさ。
 携帯も電源切って爆睡してたよ」

いつものように屈託の無い口調で話す矢口。
小柄な彼女が着ると、普通サイズのシャツがまるでワンピースのようだ。
上二つのボタンが外され、ゆるく開いた胸元。
付け根の辺りが気になる、白い太もものこぼれた裾の部分。
同姓とはいえ、直視できる勇気は吉澤に無かった。

──セクシーすぎるっす。矢口さん。

「でもさ、わざわざ心配して部屋まで来てくれたんだよね。
 うーん、矢口うれすぃ〜ん」

身を乗り出して流し目になる矢口。
胸元から柔らかそうなふくらみが覗けそうになって、吉澤は慌てて目をそらした。
すると視界に飛び込む、荒んだ室内の惨状。

「きゃはは、最近掃除する暇も無くってさあ。
 ま、あんまり気にしないで」
「……部屋の中に台風でも来たのかと思いました」
「いやーん、それ嬉しい。矢口、台風好きだから」
「はあ……。あ、でも体調悪いって聞きましたよ。
 大丈夫なんですか?」
「ああ、まあね。ちょっと最近変な事件が多かったから」
「変な事件?」
「変なって言うかさ。終わった後も妙にしっくりこないって言うか。
 裏に何か隠されたものがあるような……そんな気持ち悪さがあってさ」
「裏……ですか」

考え込む矢口に、吉澤も真剣な表情に変わる。

「まあ気にしすぎなんだと思うんだけど。
 気晴らしになっちと遊びに行こうと思ったら、どこ行ったのか知らないけど
 アイツ最近姿見ないしね。
 なんかストレスが溜まってて、最近よく眠れなかったんだ。
 おまけに相変わらず、裕子のヤツは人使い荒いしさ」
「働きすぎなんですよ、矢口さん。
 あたしで良かったらお手伝いしますから」
「へへ、やっぱ優しいね。よっすぃー。
 石川が惚れるのも無理ないな」
「な、なに言ってるんすか!?」

飲みかけたコーヒーを噴出しそうになった吉澤を、ニヤニヤ笑って眺めていた矢口は、
軽く表情を引き締め太ももの上で頬杖をつく。

「にしても、やばそうなやつだね。
 そっか、あの時の隕石が」
「状況から考えて、ヤツが矢口さん達をチェックしていた可能性は高いです。
 だとしたら、恐らくヤツは皆さんの力を狙ってくるだろうと……」
「オイラ達の能力……ねえ。
 でもさ、いろいろ調べてもらったけど結局何も分からなかったんでしょ。
 そんなもの手にいれるったって、どうするつもりなんだろ」
「分かりません。ただ、ヤツは天才です。
 あたし達には分からない何かがあるのかもしれません」
「ふ……ん。天才で残酷な犯罪者か。
 手に負えないね、まったく」

頬杖をついたまま唇を尖らせる矢口。

「ねえ、石川は大丈夫なの?」
「え?」
「ここんとこずっと様子がおかしいとは思ってたんだ。
 時々妙に思いつめたような顔してる時あったし。
 ……まさか、こんな事情があるなんて思っても見なかったけど」

その言葉に吉澤の顔が曇る。

「多分、すごいショックを受けてると思います。
 梨華ちゃんにとって、アイツの存在はすごく大きいものなんです。
 一人じゃ受け止められないくらいに……。
 矢口さん、お願いがあります。梨華ちゃんをフォローしてあげてください。
 あたしだけじゃとても──」
「馬鹿、なに弱気な事言ってんだよ」
「矢口さん……」

頬杖をついた体勢を変えないまま、矢口は真剣な顔で吉澤を睨んだ。

「よっすぃー、あんた自信が無いんでしょ。
 ソイツとまともに戦えるだけの自信が」
「…………」
「なっさけない。びびってちゃ最初から勝ち目は無いよ。
 そんなことでどうすんだ! 男らしくないぞ!」
「いや、あたし女なんですけど」
「うっさい! うっさい!
 とにかく、お姫様を守るのがナイトの役目でしょうが。
 矢口が代わりをやってどうすんのさ」
「あたしは……ナイトなんかじゃありません」

まくし立てられて、思わず顔を伏せる。

「あたしは……怖いんです。
 自分でも情けないですけど。
 あたし、梨華ちゃん守るって言ったのに。
 梨華ちゃん支えてあげるって言ったのに。
 なのに、いざその時が来たら、すごく不安になって……」

普段、漂々としている吉澤の顔が、珍しく苦悩に歪んだ。
零れ落ちそうになる何かをこらえるように、言葉を搾り出す。

「あたしは、梨華ちゃんが思ってるほど強くない。
 梨華ちゃんが思ってるほど頼りがいがあるわけじゃない。
 ただのちょっと能天気な女の子でしかない。
 ……だから怖いんです。
 梨華ちゃんの信頼を……裏切ってしまう事が」

「バカ。
 もー、ホンッとバカだね、アンタは。
 いや、鈍いって言うほうがいいのかな。
 あー、いっそバカニブチンにしてやる」
「矢口さん!」

茶化されたと思ったのか声を荒げる吉澤に、矢口は優しく微笑みかけた。

「よっすぃーは勘違いしてるよ。石川が何を望んでるのか」

戸惑いを見せる目の前の相手に、噛んで含めるような口調で話し掛ける。

「ねえ、石川はアンタに守って欲しいって言った?
 代わりに戦ってくれって言った?
 あの娘はさ、お姫様はお姫様でも、お城でただ助けを待ってるカヨワイお姫様じゃない。
 ちゃんと自分でお城から抜け出そうとする、そういうオテンバなお姫様なんだ」
「…………」
「あの娘が望んでいるナイトは、ただ自分を守ってくれる王子様じゃない。
 自分を元気付けてくれる、頼もしい応援団なんだよ。
 だからさ、よっすぃーはそばにいてあげるだけで良いんだ。
 不安になったときに笑ってあげるだけで、
 辛いと思ったときにがんばれって言ってあげるだけで、
 それだけであの娘はがんばることができるんだ。
 勇気を出すことができるんだ。
 分かる? そして、それができるのは矢口じゃない。
 よっすぃー、アンタだけなんだよ」
「矢口さん……」

窓から入った陽の光が、部屋の中に散乱した物に複雑な影をつける。
うつむいた吉澤に、矢口はさらに言葉を続けた。

「それにね。
 勇気をもらってるのは、力をもらってるのは石川だけじゃないと思うよ。
 よっすぃーだって、石川から勇気を、力をもらってるんじゃない?
 一人じゃ出来ない事でも、お互いに力を与え合えばできるようになる。
 それがパートナーでしょ」
「パートナー……ですか」

見つめる吉澤に照れたように笑いかけ、矢口は頭を掻いた。

「やだな。こんなのオイラのキャラじゃないよ。
 でもさ、ホント頼むよ、あの娘の事。
 強がってるけど、実際は弱い娘だからね」
「……優しいですね。矢口さん。
 矢口さんがそんなに梨華ちゃんのこと心配してるとは思わなかった」
「なーんかさ、気になっちゃうんだよね。アイツ見てると。
 お馬鹿でさ。
 空気読めなくてさ。
 いっつも一言多くってさ。
 ……でも、一生懸命なんだよね、アイツ。
 なんか妹みたいに思えちゃって」
「矢口さん、妹さんいるんですか?」
「うん、今は中1……いや、中2だったかな?
 はは、この仕事始めてずっと会ってないから忘れちゃった」

自嘲気味に笑い、手にしたマグカップにそっと視線を落とす。

「オイラさ、石川の笑った顔が好きなんだ。
 いっつもニコニコしてるあの顔が。
 あの顔見てるとほっとするんだ」
「あたしも……好きです。梨華ちゃんの笑顔」
「だったら守ってやりなよ。あの娘の笑顔。
 あの娘が笑っていられるようにしてあげな」
「……はい。
 あたし、自分でできることを精一杯やってみます。
 梨華ちゃんの笑顔を見るために」
「うん、がんばってね」
「矢口さん……ありがとうございました」

その言葉には答えず、矢口は軽く笑って冷めたレモネードを飲んだ。

「うん、矢口さんは大丈夫だったよ」

矢口のマンションを出て、石川と連絡を取る。
通信機の向こうの声は、ほっとしているようだった。

「そうだね。しばらくは相手の出方を伺うしかない」

敵の足取りはつかめない。
一年近く姿を消していた相手だ。簡単に尻尾を出すとも思えない。
後手に回るのはしゃくだが、こちらからは打つ手が無い。
だったら……。

「ねえ、気分転換に一緒にご飯でも食べようよ。
 え? ごっちん? 違うよ二人だけでさ。
 あ、石井さん? いーからいーから。
 悪いけど今日は任せちゃおう」

──我ながら単純だね。矢口さんに言われたからって。

戸惑いと期待が半々に感じられる石川の声を聞きながら、小さく苦笑する。

──こんな事で笑顔になってくれるかどうかわかんないけど、やらないよりは良いよね。

結局、何度か二人で出かけた駅前のオープンカフェで待ち合わせることにし、
吉澤は通信を切った。

店内は6分程の入りだった。
仕事途中のサラリーマンや、買い物帰りの主婦の姿がちらほら見える。

吉澤はカフェラテを頼んで、道路に面した席に座った。
天気が良いせいか、吹いてくる風の心地よさに心が安らぐ。

この気持ちをあの娘にも味あわせてやりたい。
今だけは全てを忘れて。
過去の苦しみも、未来への不安も全部。
直ぐにまた戦いの日々が始まる。
辛く、苦しい戦いが。
だからせめて、せめて今だけは全てを忘れさせてあげたい。
嵐の前の、ただ一瞬だけの平穏。
それはささやかな、本当にささやかな願い。

駅前の噴水。
道行く人達をぼんやり眺める。

──遅いなあ。

待ち人は未だ来ない。
カフェラテもすっかり空になった。

──きっと着てくる服とか悩んでるんだろうなあ。

鏡の前であたふたしている石川を想像して、吉澤はくすりと笑った。

「楽しそうですね」

声をかけられて振り向いた。
いつのまにか隣の席に座っていた人物が、こちらに微笑みかけていた。

「良い人を待っているんでしょうね。
 ああ失礼。あまりにもあなたが嬉しそうな顔だったから」

仕立ての良い背広。緩くウエーブのかかった髪。
微笑をたたえた顔は、外国の血が混じっているのか彫像めいて見えるほど整っている。
しかし決して冷たい印象ではなく、その笑顔には柔らかい温かみさえ感じらた。

「……そんなに笑ってました? あたし」

思わず自分のほっぺたを軽くつまんでみる。

「ええ、良い笑顔でしたよ。
 あなたはとても幸せそうだった」
「やだな。恥ずかしい……」

照れる吉澤に青年はまた微笑みかけた。

「照れる事はありませんよ。
 きっとあなたの周りには素敵な人がたくさんいるんでしょうね」

青年の声も表情も、自然と吉澤の中に溶け込んでくる。
不思議と警戒心は湧いてこない。

「たくさんの人に囲まれている事は良い事ですよ。
 それだけ多くの記憶に残る事ができる。
 それは素晴らしい事ですからね」
「記憶?」

戸惑う吉澤に青年は逆に問い掛けた。

「あなたは『シュレーディンガーの猫』の話をご存知ですか?」
「は?」
「簡単に説明すれば、猫を入れた中の見えない箱がある。
 そしてその箱はある確立で毒ガスが吹き出る仕掛けがついているとします」
「毒ガス!?」
「ああ、心配しないで。
 あくまで仮定の実験ですから。
 さて、一時間後にガスの吹き出る確立が50%だとしたら、
 その猫はどうなっているのでしょうか?」

微笑を絶やさないまま、青年は話を続ける。

「箱を開けるまで、それは誰にも分からない。
 猫は死んでもいないし、生きてもいない。
 ……言うなれば、領域をさまよっている状態だ。
 そして、それが確定されるのは箱を開けたときだけ。
 つまり、猫の生死を決定付けるのは、中を見た者、観察者だという事になる」
「あの……いったい何の話を……。
 あたしバカだから難しい話はよく……」
「人が存在するということは、他人から認識してもらう事とイコールだという事ですよ。
 例えそこにいようと、誰からも認識されなければそれは存在しているとはいえない。
 逆に、誰かに認識され続けることができれば、それは事実上不死身であるといえる。
 誰かの記憶に残る事。
 それが……生きるということです」

その表情に何も変化は無いはずだった。
それなのに、目の前の青年の笑顔が別のものに変った気がして、
吉澤は背中に冷たいものを感じた。

「あ、あなたは一体──」
「おや、待ち人が来たようですよ」
「え?」

通りに目をやると、小走りにこちらに向かってくるパートナーの姿が見えた。

「またお会いしましょう」

声に振り返る。仕立の良い背広はもう向こうへ立ち去っていた。

釈然としない気持ちを引き摺りながら、吉澤は石川の下へと向かった。

ふと、疑問が吉澤の胸をよぎる。

──あの人は、どうしてあたしが梨華ちゃんを待っていたことを知っていたのだろう。

通りをこちらに向かってくる人は他にもいる。
その中で誰が吉澤の待ち人なのか、知ることができる訳は無い。
なのにどうして。

「もー、遅いよ。梨華ちゃん」

ようやく出会った待ち人。
普段よりも少しだけおめかしした姿。
しかし、その顔は青白く強張っていた。

「どうしたの? 梨華ちゃん」

震える指先が、吉澤の後ろに向けられる。

「今……あそこに……」
「え?」
「……いたの。アイツが……」
「アイツ……。まさか!!」

弾かれたように振り返る。すでに先ほどの背広はどこにも見えなくなっていた。

その時、青年の座っていた席から何かが風に吹かれ浮かび上がった。
風に乗ってひらひらと舞う。

──それは一枚の白い羽根であった。


           第六夜  〜幕〜

飯田さんといっしょにおかいものに行きたい。
飯田さんといっしょにゆーえんちに行きたい。
飯田さんといっしょにレストランに行きたい。

すてきな服を見て。
ジェットコースターに乗って。
おいしいものを食べて。

飯田さんといっしょに。

……でもそれはできない。
飯田さんはあの場所からイッポも外に出ることができない。
なぜかはしらない。
むかしおこったジケンのせいだと聞いたことがある。

カイホウしてあげたい。
ジユウにしてあげたい。
あの人をしばりつけるクサリをときはなちたい。

それが、それがわたしの夢。
それがわたしの──ノゾミ。

──叶えてあげようか。君の望みを。


 Morning-Musume。 in 

         百 姫 夜 行。 ─ 翔─  

            ―― 第七夜     望みの代償

「あれ? のんちゃん、その服」
「あ、これ、この間こんちゃんとまこっちゃんといっしょに、
 原宿に買いにいったんです」

問い掛けた飯田に、辻は慌てたように答えを返した。
飾り気の無いシンプルな黒いセーター。
今までの原色をふんだんに使ったファッションとは大きく異なる装いに、
飯田の顔にわずかに戸惑いの色が浮かぶ。
その表情を見て、辻は俯いて上目遣いで飯田を見上げた。

「やっぱりおかしいですか?」
「ううん、そんな事無い。よく似合ってるよ」
「よかった」

首を振り、にっこり笑った飯田を見て、辻も満面の笑顔を返す。
今日はトレードマークとも言えるお下げ髪を下ろし、後ろのほうで無造作に二つに結んでいる。
すっきりとした広いおでこも剥き出しのままだ。

ほんの少し髪型を変えただけなのに、いつもの子供っぽさが陰を潜め、
心なしか表情にも女らしさが伺えるように飯田には思えた。

「ののももうすぐコーコーセイですから」
「そっか、いつまでも子供っぽい格好してられないもんね」
「はい! さいきん洋服買うのがたのしくって。
 ついついお休みの日には買い物に行っちゃうんです。
 こんど飯田さんもいっしょに──」

そこで、辻は言葉を切った。
楽しそうに綻んでいた顔が、ふっと空気の抜けた風船のようにしぼむ。
飯田は黙って辻を見つめた。
最近、急に鋭角さを増した頬の線。
目線を伏せたせいで、際立って見える長いまつげ。

「……ごめんなさい、なんでもないです。
 あ! わたしそろそろ行かないと!」
「今日は訓練の日だっけ?」
「はい、いそがないとまた夏先生におこられちゃう」

慌てたように立ち上がり、小さなリュックを背負う。
ふわりとスカートの裾がひるがえった。

「それじゃ、いってきます」
「ん、気をつけてね」

わたわたと駆けていく背中。
見送る飯田の顔には透明感のある表情が浮かぶ。
それは慈しみか、あるいは哀しみか。
そのまま、緋色の袴姿は静かにその場に立ち尽くした。

「どしたの? 圭織?」
「あ、矢口、いらっしゃい」

どれ位そうしていたのだろう。
何時の間にか、頭ひとつ分下から明るい茶髪がこちらを見上げていた。

「もー、まーた交信しちゃってたんでしょ。
 こんなところで突っ立って」

やれやれと肩をすくめる同僚に反論する事も無く、飯田はふわりと微笑んだ。
矢口はその反応に軽く首を傾げ、気を取り直すように大きなカバンをよいしょと担ぎなおす。

「あ、そういえばさ。
 さっき辻とすれ違ったんだけど、なんか、最近イメージ変ったよね。
 黒い服なんか着ちゃったりしてさ」

腕を組んでむむむと唸る矢口に、飯田はふふふと微笑みかけた。

「あのね。今日のんちゃん、マニキュア塗ってた」
「マニキュア!? 辻が? まじで!!」

驚いて目を剥く矢口。はあ、と大きく息をつく。

「あー、そういえば、最近爪噛まなくなったね。
 前はホント赤ちゃんみたいなちっちゃい爪してたってのに」
「あの子達もどんどん大人になっちゃうんだね」
「まあ、ああ見えてもお年頃だからね」
「そだね」
「……ねえ、寂しい?」

そっと気遣うような声。
ずっと凸凹師弟コンビを微笑ましく見てきた。
その心中は想像するに難くない。
しかし飯田はにっこり笑って首を振った。

「……ううん。そうでもない。
 そろそろそんな時期かなとも思ってたから」
「ふ…ん、そか」
「あの子は強くなったよ。能力的にも、精神的にも。
 もう、カオリがいなくても大丈夫」

その言葉に含まれた何かを感じたのか、矢口は飯田の顔をまじまじと見つめた。
そこにあるのは透明感のある微笑み。

「……圭織?」
「ん? なに?」
「あ、ううん。なんでもない」

矢口は大きく首を振った。
胸の中に生じたしこりを振り払うように。

「それで? 今日はどうしたの?」
「あ、ああ。
 ほら、この間のよっすぃー達の事件」
「天才犯罪者の事?」
「そう、そのこと」

気を取り直した矢口は、小さな体に不釣合いなほど大きなかばんをごそごそとあさる。

「資料見せてもらったんだけど、厄介そうな相手だよ」

「天才的な頭脳にカリスマ性か」
「嫌な相手だね。
 正面から向かってくる敵なら、どんなに強くっても負ける気は無いけどさ。
 こういう姿隠していろいろ仕掛けてくる相手って……苦手なんだよね。オイラ」

ふう、とため息をつく矢口。

「ねえ、そいつには何か特徴とか無いの?
 宇宙人なんだから、足が八本あるとか、肌の色が青いとか」
「あのね、昔のアニメじゃないんだから」

ふざけたように笑う飯田を矢口は軽く睨む。

「残念だけど映像とかは全部消されて残ってないみたい。
 ただ、その宇宙人って背中に羽根が生えてるらしいんだ」
「羽根?」
「うん、普段は隠しておけるみたいだから、
 それを見てみつけるって訳にはいかないらしいけど」
「いいなー。カオリも羽根が欲しー」
「羽根欲しいの?」
「うん、欲しい」

なぜか矢口は、羽根を広げた飯田が日本刀を構えた光景を想像し、
きゅっと眉根を寄せた。

「どうすんのさ、羽根なんか」
「えー、いいじゃん、いいじゃん。
 だって、毛づくろいとかできるんだよ。
 ね、憧れない?」
「いや、普通そういうのには憧れないから」

くすくすと笑う飯田。
その姿に先ほど感じた違和感は無い。
矢口はほっとして軽く息をついた。

「とにかく、オイラ達は狙われてるみたいだから、気をつけないとね」
「そう……だね」
「敵の詳しい特徴なんかはまた知らせるつもりだけど、
 とりあえずみんなにはなるべく一人にならないように言っといた。
 特に若い子達は固まって行動するようにって」
「うん」
「多分相手は入念に作戦を練ってきてるだろうし、
 どうやら本格的に動き始めたみたいなんだ。
 ま、だからって負けてられないけどね。
 これからが本番だから、気合入れていかないと──」
「もう遅いのかもしれない」
「え?」
「ゲームはもうスタートしてるのかもしれない。
 あたし達の気がつかないところで……」

思わず矢口は飯田の顔をまじまじと見つめた。
そこにはまた、あの透明な笑み。
矢口の心に再び不安が湧き起こる。

「圭織……。一体何を……」

まるで何かを悟ったような、ただただ透明な微笑み。
その笑みがあまりの透明さに、目の前に立っている仲間がそのまま消えてしまいそうな不安に襲われ、
矢口はぶるりとその小さな体を振るわせた。

「あっさ美ちゃーん!」

後ろから声をかけられ紺野は足を止めた。

訓練の終わった帰り道。
珍しく一番に訓練場を出た紺野は、ふらふらと歩きつつ他のメンバーが出てくるのを待っていた。
夕映えに染まり始めた街並み。
季節の変わり目を感じさせる美しいその景色をぼんやりと眺めながら。
もっとも、その心はすでに今晩の夕食の献立へと飛んでいたのだが。

「あ、辻さん」

振り向くと転がるように駆けてくる辻の姿。
目の前に現れる無邪気な笑顔。
その口元に八重歯が覗く。

「あのね、おしえてほしいことあったんだ」
「なんですか?」

同い年の先輩から質問されることは良くあった。
勉強が好きな訳ではないが、要領が良いのか学校の成績はそう悪くない。
そのためか、中学生組の中で分からない事はまず紺野へという流れが出来上がったらしく、
辻に限らず、年下の新垣はもちろんのこと、小川や加護の宿題をみてやることも多かった。
しかし、さすがに夏休みの宿題が四人分重なったときは、高橋が中学を卒業していた事に
思わず感謝したものだったのだが。

「あのね、『れーてきえねるぎーのじこほーかいによるふぉーるだうんげんしょう』ってなに?」
「は?」

抑揚の無い口調で一息に言い切った辻は、期待のこもった目で紺野を見つめる。
しかし紺野はぽかんと口を開け、目をぱちぱちさせることしか出来ないでいた。

「いやっほぉーーー!」

どん。
元気のよい声と共に、紺野の視界が大きく揺れた。

「おっまたー! いやー、外はもう寒いなあ。
 すっかり秋の気配っちゅーヤツやな。
 んー、でもあさ美ちゃんのほっぺた、あったかくって気持ちええわ。
 なんか蒸かしたてのあんまんみたいや」
「あいぼん、あさ美ちゃん目まわってる」

ぴたり、振り回されていた頭がようやく止まった。
後ろから、ひょっこりと顔が覗く。
突然後ろから飛びつかれ、あげくに顔を思う存分ぐりぐりされ、
思わず遠い世界を見つめてた紺野の目の中に、見慣れたお団子頭がようやく収まった。
ぱちぱち瞬く大きな目を見て、加護はむにゅっと口元を曲げる。

「もー、あさ美ちゃんリアクションが薄いなあ。
 もっとツッコミ勉強せな」
「は……はひ……。すみません……」
「ダメやで。チャンスがあったらすぐにでも突っ込んでこな」
「……がんばります」

テンションの高い人間にはどうやっても勝てない。
理不尽さを感じながらもとりあえず謝っておく。

「あれ? ほかの三人は?」
「もうちょっと遅くなりそうやから先に出てきた。
 んで、なに? 何の話してたん?」
「あのね、『れーてきえねるぎーのじこほーかいによるふぉーるだうんげんしょう』のはなし」
「……なんやそれ。なんかの呪文か?」
「オイ! 呪文かよ!」
「いや、あさ美ちゃんツッコミ間違ってるから」

「……えーっと、つまり、辻さんが言ってるのは、
 『霊的エネルギーの自己崩壊によるフォールダウン現象』……ですか?」
「うん、たぶんそれ」

コクリと頷く辻を見て、紺野は大きな目を微かに下げた。
要領を得ない辻に質問を繰り返し、どうにか日本語に解読したものの意味は相変わらず不明なままだ。
背中にのしかかったままの加護も、しきりに首を捻っている。

「……それで……これがなにか?」
「うん、あのね」

向けられたのは真剣な目。
今までと打って変わったその鋭さに、紺野は思わずどきりとした。

「それがわかれば、飯田さんを助けてあげられるかもしれない」

──昔、ある妄想に取り付かれた男がいた。

1999年7の月。
偉大なる預言者の残した言葉。
世界の滅びを表した詩。
それを実現しようという妄想に取り付かれた男が。

ただの妄想ならば良かった。
しかし、不幸にも男は力のある術者でもあったのだ。

男は闇の世界とこちらの世界を繋ぐ門を開こうとした。

二つの世界を繋ぐ門。
こちらに現れる妖魔の力は門の大きさに比例する。
たいした力を持たない妖魔は、小さな門であろうとくぐり抜けることができる。
しかし、巨大な力を持った妖魔は相応の大きさの門で無い限りこちらの世界に来る事は出来ない。
通常開く門はその大きさが限られている。
なぜなら、霊的磁場によって世界を一定に保とうとする力が働くからだ。

だが、このときだけは違った。
預言はある意味では正しかったのだ。

預言に示された日。
それは千年に一度あるかないか。
こちらの世界の霊的磁場が最低のレベルに落ちる日。

あらゆる結界はその効力を失った。
四神の封印も役には立たなかった。

そう、それはこの世を地獄に変えるには最適な日だったのだ。

全ては秘密裏に行われた。
ひっそりと、誰にも見つからないように。
気づいた時にはもう遅かった。

史上最大級の門はその扉を開いたのだ。

「でも、それほどの大きな門を開くことができるんでしょうか」

唇を小さく尖らせ、紺野は小首をかしげた。
いかに霊的磁場が低下しているとはいえ、巨大な門を作り出すには大きな力が必要だ。
とてもひとりの人間にできる芸当ではない。

「だから『ふぉーるだうん』を使ったんだって」
「はあ」
「よくわかんないけど、力をうちがわに向けるんだって。
 一点にしゅーちゅーするの。
 でね、それが『じこほーかい』すると『ふぉーるだうん』なんだって」

力を高める。
内側に向けて。
極限にまで純度の高まったエネルギー。
そのエネルギーがある一点へと雪崩れ込むとき、それ自身が霊的崩壊を起こし収縮を始める。
そうすれば、そこに強力な負のエネルギーが生まれる。
これがフォールダウン現象と呼ばれるものなのだ。

「なるほど、一種のブラックホールという事ですか」
「ぶらっくほおる?」
「はい」
「あさ美ちゃんわかんのぉ?」

まるで宇宙人が話しているかのような意味不明な会話に、
つまらなさそうにしていた加護が思わず目を丸くする。

「昔、保田さんに聞いたことがあります」
「はぁ、すごいねぇ」
「いや……そんな……」

感心した声を出されて、白い頬が薄桃に染まる。
ただし、その頬はまだ加護の手のひらに占拠されたままだったのだが。

「極限にまでエネルギーを高める。
 そうすることで、強力な磁場が発生します。
 あとは瞬間的にその力を集中することができれば、
 エネルギーはその大きさから、半永久的に連続的な崩壊をはじめます。
 そのためには……」

男は地獄への門を開いた。
自らの体を使って。
──命と引き換えに。

「命を……」
「……はい。エネルギーが高まった瞬間に『死』への恐怖を加える。
 そうすれば、高められたエネルギーは一気に負へと変わります。
 つまり、自分で自分の命を……」

見てもいないその瞬間を想像してしまったのか、
紺野は軽く身を振るわせた。

「とにかく、その方法なら『門』をひらくことができるんだね」

対照的に、いつに無く冷静な口調で辻が問う。

「……はい、多分」
「そうなんだ。それじゃあ、やっぱりあの話はほんとうだったんだ」

硬い表情のまま辻はひとり頷く。

「話?」
「うん、その『門』をかくすために神社がたてられたんだって。
 きっと、そこからわるいヤツがでてこないように飯田さんはあそこにいるんだ」

強い光を宿す目。
しん、とその場が静まり返る。
普段と違うアイカタの姿に気圧されたのか、加護が小さな声で尋ねた。

「なあ、一体どこでそんな話を聞いたん?」
「おしえてもらったの」
「誰に?」

ふわり、辻の顔が邪気の無い笑顔に包まれる。

「──天使に」

「天使?」

そう聞き返して保田は眉根を寄せた。

目の前に立っているのは、一人の女性。
肉感的な体のラインを際立たせた紫のワンピース。
明るく染められた長い髪。
こちらを見つめる鋭い目。

「ええ。それが重要なキーワードです」

答えたのは陸上自衛隊、斎藤瞳二尉。

「詳しく聞かせて」
「ファントム──ユウキが研究所を脱出した経緯を調べたところ、
 研究者の一人が秘密裏に手引きを行ったものだという事が分かりました」

数ヶ月前におきた事件。
後藤のDNAを使った実験によって引き起こされた悲劇。
その真相を伝えるため、斎藤は保田との面会を申し入れていたのだった。

「しかし実際に脱走を手引きしたのは確かに彼ですが、
 その裏には別の人物がいたんです」
「別の? 一体誰なの?」
「……分かりません。
 なにしろ、その研究者でさえそれが何者か知らないのですから」
「知らない? どういうこと?」

眉をひそめる保田に、変わらぬ口調で話を続ける。

「彼は取り調べに対して『ある人物』に頼まれたと証言しています。
 それはそれまで一度も会った事の無い人物だった。
 しかし、彼は直感した。この人物の言う事に従おうと」
「そんなこと……」
「彼は実力はあるものの、なかなか結果を出すことが出来ないでいた。
 その心の隙を突かれたんでしょう」
「それにしたって……。ねえ、その研究者が嘘を言ってるってことは無いの?」
「それはありえません」

自信を持って言い切る斎藤。
仮にも国の特殊機関が行った尋問。
どのような取調べが行われたのか、保田は想像する気にはなれなかった。

「それで?」

気を取り直して先を促す。

「次に、能力者を襲った殺人事件です」
「ちょ、ちょっと待って。
 それってもしかして、紺野が犯人を見つけた奴?
 あれも何か関係してるの?」
「そうです。その犯人も、『ある人物』によって行動を示唆されていたんです」

保田の目がすうっと細まる。

「一度も会った事の無い人物。しかし、彼もまた確信したそうです。この人物に従おうと。
 その人物は告げたそうです。
 『君には力がある。正義を守るための力が。それを使って闇を滅ぼせ』と。
 あの犯人はもともと英雄思考の強い人間でした。
 そんな人間に、その人物は眠っていた力を目覚めさせ、目的を与えた」
「……信じられない」
「それから、もう一つ」
「まだあるの!?」

驚愕に見開いた大きな猫目を見返し、斎藤はゆっくりと続けた。

「『翡翠館』と呼ばれる屋敷で起こった事件。ご存知ですか?」
「矢口が調査したやつ? あれは全部解決したって……」
「我々の調査によると、あの場所で何らかの実験が行われていたふしがあります」
「実験?」
「はい。おそらくは妖魔について。
 不十分だったはずの儀式が完成していたのはそのためでしょう。
 それにあそこは本来、国の監視下にあった場所なんです。
 ところが、いつの間にかそのチェックが外されていた」
「もしかしてそれも……」
「ええ、『ある人物』にそそのかされた者の手によるものでした」
「……一体何者なの、そいつは」
「分かりません。しかし、ファントムの件といい、翡翠館の件といい、
 すでにかなり深いところまで介入されていると思ったほうがよいでしょう」

それを聞いて保田は表情を引き締めた。
何かを伺うように斎藤の目を見つめる。

「ねえ……。今日はどうしてあなたが来たの?
 隊長さんはどうしたのよ」

それまで表情を変えなかった斎藤の顔がすっと翳った。

「隊長……村田一尉は現在入院中です」
「入院?」
「はい。訓練中の事故でした。
 現在はわたしが隊長を務めています」
「事故……まさか」
「今回の件を調査している途中でした。
 可能性は……否定できません」
「そんな!」

唇を噛んで、じっと目の前の自衛官を見つめる。

「いいの? あなたも危険なんじゃないの」
「覚悟はしています。
 ですがこれが我々の仕事です。
 それに……村田一尉の意志を継がなくてはなりませんから」

見返す目には強い光がある。
保田は軽く頷いた。

「そう…分かった。ねえ、ところで最初に言ってたキーワードって結局何なの?」
「先ほどお伝えした事件は全てバラバラに起こったものです。
 しかし、それに関ったもの。
 事件に介入した人物に対して、全てに共通する発言があります」
「なに?」

斎藤はゆっくりと区切るように言った。

「その人物は、神の使い。
 ──天使だったと」

「天使……ですか」

小首をかしげて紺野が訊く。

「ぷ、なんやそれ。イナカくさいカッコして、”べさべさ”ゆっとったんかい」
「ちがうよ。なっちゃんのことじゃないよ」

微妙に失礼な会話をする子悪魔二人。
紺野も思わず言葉に詰まる。

「だいたい天使なんておる訳ないやろ」
「いるもん」
「おらへん」
「いるもん」
「おらへんゆーてるやろ」
「いるもん!」
「おらへん!」
「ぜったいいるもん!!」
「絶対おらへん!!」

睨み合う二人を前にして紺野はただおろおろするだけ。

「おっ待たせしましたー!! って、あれ? どうしたの?」
「あ、まこっちゃん」

同期の声が聞こえて紺野はほっとした顔で振り返った。
小川の後ろには高橋と新垣の姿も見える。

「遅かったんだね」
「それがさ、愛ちゃんがネックレス無くしたって大騒ぎしちゃって。
 だからなかなか出てこれなかったんだ」
「だ、だってぇ!
 聞いてな、マコトがひどいんだぁ。
 探すの、ぜぇんぜん手伝ってくんないんだもん」
「よく言うよ。結局、愛ちゃんが自分でポケットにしまってたの忘れてるんだよ。
 まったく、いっつもそそっかしいんだから」
「ふふ、そうなんだ」

ムキになる高橋を軽くあしらう小川を見て紺野の頬も緩む。

「あの……早くケンカ止めたほうが良いと思うんだけど」
「あ……」

新垣の声に我に返る。
睨み合いは依然として続いていた。

「あの……二人とも仲良くしましょう」
「こんなアホとは仲よーしたない」
「アホじゃないもん!」

紺野の眉がまた悲しそうに下がる。
加護は辻に向けてぐっと顎を突き出した。

「よーし、そんなに言うんやったら聞いてやる。
 一体どこでその天使を見たんや」
「ユメでみたもん」
「夢? なんややっぱり現実にはおらへんのやんか」

馬鹿にしたよう口振り。
しかし、辻は静かに呟く。

「……ちがうよ。あれはユメだけどユメじゃない。
 ……ほんとうにあったことだよ」

低く響き渡るような声。
辻の纏う気配が変わったような気がして、加護の言葉が力を無くす。

「な、なんやねん。急に真面目になって。
 だ、大体なんでソイツが天使やって分かったんや。
 自己紹介でもしたっちゅーんか」
「ちがうよ。でもわかったんだ。
 だって……」

辻は無邪気に笑う。
その笑顔は彼女自身が天使であるかのように汚れないものに見えた。

「だって、せなかに羽根がはえてたんだもん」

通話を切った携帯を握り締め、矢口は唇を噛んだ。

俯いた顔にいつもの陽気な笑顔はない。
厳しい表情を浮かべる白い肌を、冷たい風が撫でてゆく。
矢口の耳の中には、先ほど聞いた情報屋の言葉がこだましていた。

神社からの帰り道。
突然掛かってきた電話。
懐かしい昔の仲間からの連絡は、残念ながら良い報せだとは言えないものだった。

──なっちが……消えた!?

信じられない思いに携帯を握ったままの手に力が入る。
小さな手が、込められた思いに白く染まった。

凄腕の情報屋、石黒彩との連絡を最後に行方を絶った最強の念法使い。
気まぐれな彼女が、姿を見せなくなることは今までにもあった。
最強の力は何者にも縛られない。
まるで風のように気ままな魂は、残酷なまでに無邪気で自由だった。
しかし仕事の途中、何の報告も無いまま連絡が途絶えるなど今までにはなかった。

ぶんぶんと矢口は小さな頭で大きく被りを振った。

──そんなはず無い。なっちに限って……。

親友として、最強の力を持つ仲間として、絶大な信頼を寄せていた彼女。
むざむざとやられるような相手ではない。
そう信じている。
しかし──。

『ゲームはもうスタートしてるのかもしれない。
 あたし達の気がつかないところで……』

飯田の言葉が頭をよぎる。
同時にあの時感じたしこりが胸の中に再び甦った。

アカシックレコードにより全てを見通す力を持つ『光の巫女』。
もしかしたら、彼女は何か知っているのではないか。
あの何かを悟ったような笑顔。
今日の行動に違和感を憶えたのもそのせいだとしたら──。

──決めた!

顔を上げた矢口の目は決意を秘め、真っ直ぐに前を向く。

うじうじ悩むのは性に合わない。
飯田が何か知っているなら、真正面からそれを問いただせば良い。
知らないならそれでかまわない。
こんなところでじっとしているより、忙しく体を動かしているほうがマシだ。

──行ってみよう。

振り返った矢口は、飯田のいる神社に向けて今来た道を引き返し始めた。

自分の知らないところで何かが起こっている。
漠然とした、理由の見えない不安。
これまで感じたことの無い恐怖にとらわれ、矢口は自分の足が速くなるのを止める事が出来なかった。

すっかり暗くなった道。
薄闇の中にぼんやりと鳥居が浮かび上がった。

──あれは……。

不意に矢口の目に入った二つの影。
神社の入り口付近で、闇にまぎれるように身を潜めている。
挙動不審なその姿に、なぜか胸の内がざわざわと騒いだ。

──時間は少しだけ遡る。

「羽根……ですか?」
「うん、だからあのヒトはきっと天使だよ」

力強く頷く辻を取り囲む五人の顔に戸惑いの色が浮かんだ。
特に後から来た三人は話の内容を把握できず、お互いに顔を見合わせあっている。
静まり返った空気の中、どこか泣きそうにも見える表情で紺野が口を開いた。

「辻さんは信じてるんですか? 今の話を」
「しんじてる……。ううん、しんじなきゃいけないんだ」

吸い込まれるような目で見つめ返され、紺野は思わず息を呑んだ。

「……あの話がほんとうなら、神社のちかにはひみつのツウロがあるはず。
 そこにいけば……」

神社の地下に開いた奈落への穴。
その穴によって飯田が縛り付けられているというなら、その穴を塞いでしまえば良い。

「でも、どうやってその穴塞ぐつもりやねん。
 昔、先輩たちがやろうとしてできなかったことなんやろ」

最強の退魔師が、己の全てを賭けてなお封じる事の出来ない穴。
それができる者など、はたしてこの世に存在するのか。
加護の疑問ももっともであった。

「ののならできる」

いつもとは違う低い声音。ぽつぽつと言葉を搾り出すように静かに辻は言い放った。

「あの人はいってた。
 コレがあればできるって。
 コレを使えば、穴をフウジルことができるって」

取り出されたのは数枚の古びた札。

──十二神将の護符。
千年以上にわたって霊的エネルギーを蓄えてきた最強の力を持つ護符。
一枚の護符ですら驚異的なパワーを持つ十二神将。
それを全て開放する事ができれば──。

「で、でも、ののはまだそれを使いこなす事できひんやんか」
「使いこなしてみせる。ぜったいに……」
「のの……」
「──わたし、いくよ」

何気ない口調。
だがそれが逆にそこに込められた強い意思を感じさせた。

「あかん、あかんて!」

ひどく整って見える辻の横顔。その姿に一瞬見とれた加護は、慌てて声をあげた。

「なんぼなんでも、こんなん怪しすぎる。それでのーても、なんかヤバイ奴がきてるっていうのに。
 ……やめとき、のの。きっとこれはなんかの罠やって」
「いいの」

静かに、怖いほど静かに辻は言葉を返した。

「たとえワナでも、カノウセイが少しでもあるなら。それでいい」

凛とした目。長い睫毛がふわりと揺れる。

「飯田さんは……ずっとあそこにシバリつけられてる。
 ずっと……ひとりで。
 飯田さんはいつも笑ってる。なんでもないって顔してる。
 でも、ののは知ってるんだ。
 ときどき、飯田さんがさみしそうな顔すること。
 ときどき、トオクの空をずっとみつめてること。
 ののは……オチコボレだから、だれの役にもたったことがなかった。
 でも、飯田さんはそんなののをいつもみまもってくれた。
 だからせめて、イチドだけ。
 イチドだけでいいから役にたちたい。
 ののは……飯田さんにオンガエシがしたい。
 あの人の止まったジカンを……すすめてあげたい」

だれも言葉を返すことは出来なかった。
冷たい風が吹く中、まるで時が止まったかのように身じろぎもしない少女達。

「だから……いく。ぜったいにいくよ」

呟くように、自分に囁きかけるように辻は言葉を吐き出した。

「あたし達も行きますよ」

顔を上げると、照れくさそうに頬を掻く小川と目があう。

「まこっちゃん……」
「詳しい事は分かんないですけど、辻さんが真剣だってことは分かりました。
 だから、協力します。
 どれだけ力になれるか分かんないですけど」

ね、と隣の高橋に声をかけると、レトロな美少女はその整った顔に似合わぬ満面の笑みを浮かべて
うんうんと頷いた。

「愛ちゃん……ありがと」
「もう……アホやな、あんたら」

腰に手を当て、大きくため息をついて首を振る加護。

「ほら、ちゃっちゃっと行くで。
 急がんと暗くなってまうやんか。
 あんまり帰るのが遅くなったら、心配されるやろし」
「あいぼん……」
「……行かなあかんやろ。あんたらだけじゃ頼りないからな」

不安そうな辻におどけてウインクをしてみせる。
こちらを見る顔にようやく笑顔が戻った。

「そーですよ! がんばんなきゃ!!
 みんなで力を合わせればきっと何とかなりますよ!
 よーし、やるぞー!! エイエイオーー!!」
「あ、お豆ちゃんはお留守番な」
「な! なぁんでですかぁ!!!」

ハイテンションな新垣に、加護が冷静に水を差す。

「悪いけど、いざっていうときのために、こっちにも人を残しとかんと」
「で、でも……」
「それに……何がでてくるか分からんやんか。
 正直、戦闘力がないと辛いと思うし。
 あ、せやから、あさ美ちゃんもこっちで待ってて」
「…あ……はい」
「……うう……分かりましたぁ」

くっきりした眉毛をふにゃりと下げ、口をへの字にした新垣を見ながら、
辻は静かに気合を入れ直した。
不安はもちろんある。
だが、自分が誰かの役に立てる。それも大好きな人のために。
その事が嬉しい。
コレが成功すれば、自分が変われる気がする。
少しだけでも大人になれる気がする。
本当の意味で強くなれる気がする。
そのためにも。

──まっててね。飯田さん。

そして再び薄闇に包まれた神社の入り口。

矢口はそっと影へと忍び寄った。
近づくにつれ、その姿がはっきりとしてくる。
それは良く見知った二人。
そしてとても対照的な二人。

ふわふわした白いセーターと原色のシャツ。
柔らかそうなフレアスカートとアップリケのついたスリムなジーンズ。
肩までのストレートとおでこを出したツインテール。
大きな垂れ目とどんぐりまなこ。

アンバランスな、それでいて妙に似合って見える二人組。

「なにやってんだ、オマエラ」
「わ! わわわ!! や、矢口さん!!
 どーしてここに!!」

くりんとした目をまん丸にして振り返ったのは新垣里沙。
隣の紺野も同じように大きな目を見開いている。

「そりゃ、こっちのセリフだよ。アンタ達今日はむこうで訓練だったんだろ。
 なんでこんなところにいるんだ? それも二人っきりで。
 他の奴らはどうしたのさ。危ないから一緒にいろって言っといたろ」
「あ、いや……それは……」

口篭もる新垣を見て、矢口の眉がぴくりと上がった。

「怪しいな、なにコソコソしてんだ?」
「ち、ちーがいますって! 何もしてないですよぉ!
 ねぇ、あさ美ちゃん」

急に振られた紺野は黙ったまま小刻みに首を振るばかり。

「新垣……あんた何かごまかしてるでしょ」
「ご、ごまかしてないですよ。なぁんでそんなこというんですか!」
「ジェスチャーが大きい」

その言葉に、わたわたと目の前で振っていた手を慌てて後ろに隠す。

「正直に答えたほうが身のためだぞ」
「え、えと……その……」
「……あ、あの……わたし達みんなを待ってるんです」
「待ってる?」
「わ、わわわ、あさ美ちゃん!」

新垣は慌てて紺野の口を塞ぐ。
目を白黒させる正直者と、引きつった笑いを浮かべるちっちゃな顔を矢口は上目遣いに睨む。

「誰を待ってるってんだ?」
「だ、誰って」
「正直に言えよ」

すごむ矢口。新垣の額に一筋の汗。

「あ、あの……それは……」
「それは?」
「い、いや……だから……」
「だから?」
「ピ、ピン・チャッポー?」
「誰だよそれ! しかも疑問形かよ!!」

条件反射で突っ込んだ矢口はふうと息をつく。
なんだかすっかり気が削がれた。

「ったく、あんまり変な事してんなよ。マジで今度の相手はやばいんだから」
「大丈夫ですよ。二人でいるんだし」
「どっから来るかわかんないぞ。
 なにせ、相手は背中に羽が生えてるらしいからな」
「え!!」

一瞬にして二人の顔が引きつった。

「ん? どうした?」
「まさか……」
「ど、どうしよう、あさ美ちゃん。みんなが……みんなが……」

ただならぬ気配を感じたのか、矢口の顔も引き締まる。

「なにがあったんだ! おい!!」
「みんなが……。辻さんが……加護さんが……」
「おい! 紺野! 新垣!」
「まこっちゃんが……愛ちゃんが……。
 ……みんな!!」

「びゅやぇいっくしょい!!」

……しょい……しょい……しょい。

狭い階段に盛大な音がこだまする。

「……相変わらず豪快なくしゃみやな」

ずず、と鼻をすする高橋の横で加護が呆れたような声を出した。

「誰か噂しとるんやよ。きっと」
「んな寒そうなカッコしてるからだよ」

小川がちらりと下に目をやる。
季節感のまったくない服装。
丈の短いホットパンツからすらりとした白い足が伸びていた。

「んー、ほやって、なんかぁ最近こういうのが気に入っちゃってぇ」

やれやれと肩をすくめ、加護は暗い地の底へと続く螺旋階段の先に懐中電灯を向けた。

「しっかし、ホンマに地下があるなんてなあ」

こっそり忍び込んだ神社の地下。
探していた秘密の通路は、あっけないほど簡単に見つかった。

「この先にぃ、その穴があるんやろかぁ」
「でも、全然気配感じないね」
「多分、きっちり封印されとるんやろな。
 今までやって、神社の中で何か感じた事なかったし」
「あー、そういやそうですね」

後輩二人と話しながら、加護はちらりと相棒の横顔を盗み見た。
ひとり黙々と進む辻。
いつもの弛緩した表情はそこになく、切れ長な二重が鋭く前を見つめている。
その姿に加護は、なぜか不安な気持ちが沸き立つのを押さえることが出来ないでいた。

「あった」

どれくらい下へ降りたのだろうか。
すっかり口数が少なくなった一行。
緊張感が切れそうになる寸前、ポツリと辻が呟いた。

階段の途切れた先には大きな扉。
複雑な文様の刻まれた、重たげで冷たい表面には注連縄が巻かれ、
何者をも寄せ付けぬ雰囲気をかもし出している。

ごくり、誰かの唾を飲む音がひどく大きく響き渡った。

「開けるで」

加護と高橋が扉を掴む。
鈍い軋み音を立てて固く閉ざされた封印が開く。
ごお、と風が渦巻いたような気がした。

吹き付けてきたのは圧倒的な気。
反射的に小川は自分の前に風の壁を作った。
加護も如意棒を構え、目の前で交差した高橋の腕にぼんやりと鬼の腕が重なる。
瞬時に臨戦体勢に入った退魔師達。それは本能がさせた動きだった。
危険を感じ取った本能が。
しかし、部屋の中には何もなかった。
ただ一つ、床に開いた穴を除いては。

直径10メーターはあろうかという巨大な暗い穴。
魂さえ吸い込まれてしまいそうな深淵。

加護は伸ばした如意棒を横殴りに振る。
凝り固まった闇がぼろぼろと崩れた。

「これが……」

高橋と小川は取り合った手をぎゅっと握り合った。
辻も全てを忘れて取り付かれたようにソノ光景に見入った。

体がこわばる。
気を抜いたら膝が砕けてしまいそうな、腰のあたりがしびれてくるような、そんな感覚。
それは絶大な力に対する畏怖。
巨大なものを前にしたちっぽけな人間が抱く気持ちに似ていた。

「こんなもん……封印なんかできるわけ……」

如意棒を握り締めたまま、加護が吐き捨てるように呟く。

「……やる」
「のの!」

ぐっと奥歯を噛み締める。
震える辻の手が取り出した符。
十二枚の護符。
これこそが呪われた宿命に終止符を打つもの。

ぱん!

合掌した手のひらの間に護符をはさみ、そのまま扇のように広げる。
硬く目をつぶり、大きく息を吸い込む。

「はぁぁぁぁぁぁ!」

ぐう、と空気がたわんだ気がした。
力が溢れてくる。
大切な人を思う気持ち。愛する人を守りたいと思う気持ち。
それが力を与えてくれる。
これまでにないほど、体が、心が澄み切っていた。

「くうぅぅぅぅ……」

だが、無情にも札は沈黙を続けるままだった。

「なんで……どうして……」

禍々しき奈落への穴を前にして、精神を平静に保つだけでも重労働だ。
その上、今までに使ったことのないほどのものを制御しようというのだ。
絶対的に力が足りない。
自らの限界をはるかに超えてなお。

加護は眉を寄せ唇を引き結んでその姿を見つめていた。
穴は想像以上だった。
これほどまでに強大な力を持っているとは。
やはり、自分達のような未熟者にこの穴を封じるなど無理だったのだ。
開くときに人の命を一つ奪った穴。
それだけの覚悟がなければ、閉じる事など不可能なのだ。
命を賭するほどの覚悟がなければ。

──もしかして……それこそが……罠!?

ぐぐ、辻の周りの空気がさらに歪んだ。

「まさか……。
 あかん! のの!!」

「それじゃ、圭ちゃん近くにいるんだね。
 オイラはすぐ地下に潜る。だから圭ちゃんは圭織の所へ。
 ……うん、わかった。
 頼んだよ、圭ちゃん」

保田と連絡を取った矢口は、携帯を切ってひとつ息をつく。

「行くよ」
「やっぱり、罠だったんですか?
 辻さんたちじゃ、あの穴を塞ぐ事は出来ないんですか?」

必死な顔で新垣が言う。つるりとした小さな顔が、月の光に照らし出された。

「……あれはあんた達の手に負えるシロモンじゃない。
 どう考えたって力の量が足りないんだ」
「……十二神将……」
「なに!?」

ポツリと呟いた紺野の言葉に、矢口が大きく反応した。

「…十二神将を使うって言ってました。
 あれを使えば、穴を封じる事ができるって」
「……確かにあの穴を作った奴は陰陽師だった。
 同じ系統の力、それもより強い力を使えばもしかして……」
「それじゃ!」
「でも、辻の力でそれをやるのは無理だ。
 下手をするとあいつの体が参っちまう。
 それに……」
「それに?」
「……おまえ達は勘違いしてる。そもそもが間違ってるんだ」
「え?」
「あの穴は……あの穴は──」

衝撃的な矢口の言葉に、新垣はひゅっと息を吸い込んだ。
紺野も口を手で覆い隠し、目を見開いている。

「そんな……それじゃ辻さんは……」
「急ごう。嫌な予感がする。
 ……手遅れにならないように」

走り出した矢口を追いながら、紺野は空を見上げた。
闇夜に浮かぶ月。
その冷たい光を浴びて、なぜか紺野の目から涙が一筋流れた。
運命を操る少女。その力が覆す事の出来ない悲しい運命を感じ取ったのかもしれなかった。

辻の体の中を高めた気が暴れまわっていた。
額からはとめどなく汗が流れ、食いしばった奥歯がぎりぎりと音を立てる。
限界をはるかに超える力。
それを得る為の燃料は、すでに小さな体の中には残っていない。
これ以上の力を得るためには、自らの体を燃やし尽くすしかなかった。

──しきがみさん。お願い、きちんという事をきいてね。……ののがいなくなっても。

目の前はもう真っ白だった。
何も聞こえない。何も感じない。
ただ、自分の中の力が弾ける寸前まで膨れ上がっている事だけが分かった。

──もうすぐ……もうすぐだよ。もうすぐ、飯田さんはジユウになれるんだ。
  でも……でも、ごめんね。やっぱり、ののはいっしょにゆーえんちにいけないや。

すでに自分の体がどうなっているのかも分からなくなっていた。
残っているのは使命。式神を呼び出すという使命のみ。

──これで……最後。

残る力を振り絞る。
高まった力が体の中で弾けた。

……の。
…………の。
…………のの。

「のの!!」
「………あいぼん」

目を開くと、加護の顔が見えた。
ふらつく体は抱きかかえられるように支えられていた。
白い霧のようなものが渦巻いている。
蓄えられた力ごと、二人の体をエクトプラズムが取り囲んでいた。
荒れ狂っていた気は、エクトプラズムに押さえ込まれ安定を見せている。
同時に耐えられないほどの吹き付ける圧力がいつの間にか消えていた。
前に目をやると、小川と高橋が体を張って鬼気をガードしていた。

「なんで……なんでこんな無茶するんや!」

加護の目から大粒の涙がこぼれた。

「昔っからそうや。
 いっつもウチの後どこにでもついて来るくせに。
 いっつもウチのゆう事うんうん頷いとるくせに。
 いっつも何を食べるか人の顔見て決めるくせに。
 それなのに、一番大事なときに限って勝手にひとりで……」
「ごめん……」
「謝ってすむならケーサツは要らんわい!
 もう……こんなことせんといて」
「でも……でも、ののは……イチドでいいからダレかの役に」
「アホ! こんなんで飯田さんが喜ぶわけないやろ! 
 それに……それにアンタが役に立たんなんて……そんな事ない。
 だって、だってウチは、ウチはアンタがおったから……」
「…………」
「ウチとアンタは相棒やろ。例えどんな事があっても。
 せやから、もうひとりで無茶はせんといて」
「あいぼん……」
「ウチの力を使え」
「え!?」

いつの間にか加護の目からは涙が消えていた。
代わりに、強い決意がその目に浮かぶ。

「このエクトプラズムをアンタの力に同化させる。
 それでも足りひんかったら、ウチの命を半分やる。
 その代わり、絶対二人とも生き残るんや。
 二人で…二人でがんばろう」
「…………うん」

高橋の目が紅く光り、小川の風も力を増す。
二人が作る壁のおかげで、プレッシャーは和らいでいる。
辻は加護と目を合わせた。
息の合った相棒。無二の親友。
二人はゆっくりと目を閉じた。

「うおぉぉぉぉぉぉ!!」

二人の体を取り囲んでいたエクトプラズムが、辻の中に吸収されていく。
さっき以上の力が辻の体の中で荒れ狂った。
自らの力に吹き飛びそうになりながら、
握り合った手──その感触がしっかりと辻を繋ぎとめていた。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!」

制御しきれない力が溢れ出す。
辻の髪の毛を結んでいた髪止めが弾けとび、長い髪の毛が渦巻いた。

力の本流に弾けとぶ退魔師たち。
ふらふらと顔を上げた小川の目に入った光景。

穴の周辺に大きな影が立っていた。
その数は十二。

「すごい……」

呆然と呟いた。
禍々しき穴に負けないほどの力を宿したその姿。

「これが……十二神将」

それぞれが手に取った思い思いの武器を振り上げた。
加護に支えられつつも立ち上がった辻が、大きく息を吸う。

「いけぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

──轟。

巨大な力に狭い空間が震えた。

──────。


静まり返った部屋。
神社の中の広い畳の間で、飯田はひとり黙然と座っていた。
ぴしりと伸びた背中。
緋色の袴の上に置かれた両手。
蝋燭の明かりがその美貌に複雑な陰影をつける。
長い髪が、白い狩衣にふわりと垂れ、
美しく大きな瞳は、その輝きを惜しむかのようにしっかりと閉じられていた。

──やはりコレも運命なのか。

瞑想したまま、飯田は静かに自問した。
もとより、答えを期待してのものではない。
第一、答えはすでに決まっている。

数日前に見たビジョン。
アカシックレコードを読み取るその力が見せた光景。

全てを受け入れる。そう決めている。
それが例えどんな事態を引き起こすか分かっていても。

飯田は閉じていた目を開いた。
そこに映るひとつの影。
まるで、神の使いのようなソノ姿。

飯田は深き色をたたえる瞳を、ゆっくりとまた閉じた。

「穴が……」

深かった、奈落へと続く穴は閉じようとしていた。
既にあの圧倒的とも言える威圧感は消え失せている。
穴の周りには、力を失い護符へと戻った十二神将が散らばっていた。

「やった……やったんだ……」
「のの……やったんやな……ウチら…やったんやな」

呆然と寄り添いながら、辻と加護は手を握り合った。

「辻!!」

声に振り返ると、重い扉を蹴破る勢いで飛び込む矢口の姿。

「や、矢口さん!?」
「ほら! みて、矢口さん! のんはやったよ!!」

戸惑いの色を見せる加護。しかし辻は迷わず矢口に抱きついた。

「これで……これで飯田さんも──」

矢口の顔を覗き込んだ辻は言葉を切った。
そこにはまるで痛みをこらえるかのような辛い表情。
後ろにいる紺野と新垣も、放心した顔で突っ立っている。

「……なに? どうしたの?」

理由の分からぬ不安にとらわれ、辻はきょろきょろと目を動かした。

「ナニ? ヘンだよみんな……どうしてよろこんでくれないの?」
「辻……」
「ヤダ……なんだよ。オカシイよ。
 これで飯田さんはジユウになったんでしょ。
 のんといっしょに、ゆーえんちにいけるんでしょ」

──違うそうじゃない。

「え?」

──圭織はあの穴を見張っていたわけじゃないんだ。そのためにここを離れなかったんじゃないんだ。

「なに……ナニ言って──」

──あの穴は『封じられなかった』んじゃない。『封じちゃいけなかった』んだ。

矢口の声がひどく遠くから聞こえた。

あの穴はもう向こうの世界に繋がっていない。
『門』はあの時消え去ったんだ。
あれはあの条件でしか起こらないものだった。
だから、あの穴から妖魔が出てくる事はないんだ。

あの時……。
『門』を封じる事のできる力を持ったものはいなかった。
なっちでさえ、力が及ばなかった。
少しの間。ほんの少しの間だけ門を遠ざければいい。
刻が移れば『門』が現れる事はない
それなのに、それだけの事なのに。
だから……だから圭織は自分の力を解放した。
全てを捨てて……みんなのために。

圭織は昔言ってた。
自分の力は『蛇口』みたいだって。
天にある光を地上に運ぶための『蛇口』。
光は天にある。無尽蔵な力が。
力が足りないなら、光の量を増やせばいい。

そう。圭織は力を使った。
凄い力だった。『門』を押し返すのに充分すぎるほど。
でもね。そのせいで圭織は力を制御する事が出来なくなった。
圭織の『蛇口』は壊れてしまったんだ。
だから……。

あの穴は圭織の力を吸い取っていたんだ。
溢れた力が暴走しないように。
吹き出る水を受け止める底のないバケツ。
それがあの穴だったんだ。

それが無くなったって事は……。

矢口の声がまるでラジオ放送のように聞こえた。
ひどく現実感のない言葉。
しかし、その内容は辻の心にゆっくりと染み渡っていった。

壊れた蛇口。
こんこんと吹き出る水。

行き場を失った水はどうなる?
止めようもなく溢れる水。
いずれその勢いは蛇口そのものを……。

「ヤダ……ウソだよそんな……。
 それじゃ、飯田さんは……飯田さんは……」
「穴が……ふさがっていく」

高橋の言葉に辻が振り返った。
穴は既に元の四分の一にまで小さくなっていた。

「いやーーー!!」
「のの! あかん!」
 
穴に向かう辻を加護が必死で止める。

「無理や! もう……どうしようもない……」
「わたしのせいで……わたしのせいで……」

ずるずると辻の体が床へと崩れる。
誰も何も言葉を発する事が出来なかった。

──プルルル。

場違いに軽い電子音。
矢口は取り出した携帯を耳に当てた。

「圭ちゃん……。うん。
 ……………なんだって!」

緊迫した声に、全員が矢口を見た。
電話の向こうから聞こえる仲間の声。
それは思いもよらぬ事実を告げていた。

「圭織が!?」

「やられたよ、矢口」

神社の一室で保田はひとり立ちつくしていた。
見下ろした先には蝋燭が揺れている。

そこには神社の主の姿はなかった。
この場所だけではない。
神社の中、そのどこにも光の巫女の気配は残っていない。

『ど、どういうことだよ』
「罠だ……。全て罠だったんだ」
『罠?』
「そう。最初からこれが目的だったんだ。
 全てが敵の計算のうち。
 辻をそそのかし、門を閉じる事で、あたし達の目をそっちに向ける。
 本当の狙いは、最初から圭織本人だった。
 圭織を連れ去ること、それこそが真の目的だったんだ」
『何のためにそんな事!』

保田は携帯を握る手に力を込めた。

「……仮にあの穴に代わる受け皿さえ用意できれば、
 あの力を自由に使う事ができる。
 つまり、圭織は無尽蔵のエネルギーを生み出す泉になるんだ」
『そんな……それじゃ、それじゃ辻はそのために……」

電話を通して矢口の憤りが伝わってくる。
その気持ちは保田にとっても同じ物だった。
純真な少女の望みを踏みにじる行為。

──許せない。

怒りに満ちた目を畳の上に向ける。

飯田が座っていたと思しき辺り。
そこには残された者をあざ笑うかのように、一枚の白い羽根が揺れていた。


           第七夜  〜幕〜

月の綺麗な夜。
並んで道を歩く二人の少女。
タイプの異なる美貌が、白い月光に照らし出される。
『太陽娘』松浦亜弥と『不死の少女』後藤真希。
明と暗、対照的な二人。

ひとつの仕事を終えた帰り道。
人気のない静かな路地をそぞろ歩く。

「後藤さん、この後空いてますかぁ」
「あ、うん。別に用事はないけど」
「それじゃあ、一緒にカラオケ行きましょお」
「や、あたしそういうのは……」
「えー、いいじゃないですかぁ」

ぷっくりとほっぺたを膨らませて、唇を尖らせる。
くるくると色を変える目がぱちぱちと瞬いた。

「後藤さん、得意な曲とかないんですか?」
「うーん。あんまさ、聞かないんだよね。最近の歌」
「じゃ、コレ貸しましょおか。最近の歌ばっかりですよ」

手渡されたのはポータブルMD。
期待に満ちた笑顔に押されるように、後藤はイヤホンをつける。
再生ボタンを押すと、伸びやかで力強い高音が耳の中に広がった。

「その曲はちょっと前のですけど、他にも新しいの入ってますから」
「……ねえ、ひとつ聞いていい?」
「なんですか?」
「これ……全部自分で歌ってんの?」
「はい。そうですよ。
 結構自信作なんです。あ、三曲目が特に」
「……そうなんだ」

妙に疲れた顔になった後藤は、鼻にかかった歌声を流し続けるイヤホンを耳から外した。

「あれー、ダメですかぁ。あ、もしかして洋楽のほうが好きな人だったりします?」
「いや……そういうわけじゃないけど」
「じゃあー、プリクラ撮りましょ、プリクラ。
 近くにゲームセンターありますから」
「ねえ、どうしたの? なんかヘンだよ、今日は」

問い掛けられた松浦は急に真面目な表情を作る。

「……松浦悟ったんです。この間の事件で。
 後藤さんのこと誤解してたんだって」

こぶしを握って力説する松浦に、後藤は小首をかしげた。

「今まで後藤さんの前に出ると、なんか緊張しちゃって。
 もしかして、怖い人なのかなぁとか思ってたんですけど。
 でも、気付いたんです。後藤さんも、実はさみしいんだって」
「や、さみしくないよ。さみしくなんかないよ、あたし」
「だいじょおぶ、分かってますって。後藤さんの気持ちは。
 でもぉ、こんなままじゃヤなんです。松浦としては」

詰め寄る松浦。あごを引き、上目使いでぐっと見上げる。

「もっと分かり合う必要があると思うんです。わたし達。
 ね、そう思いません?」
「そ…だね。うん。それは大事だと思うけど」
「でしょでしょ。だからぁ行きましょおよぉ。
 あ、ファミレスでもいいですよ。
 ドリンクバーでお茶しましょ」

満面の笑みを見せる松浦に、後藤もふっと表情を緩める。

「ん、分かった。それじゃ行こっか」
「ふふ、やっと笑ってくれましたね。
 よーし、今日はオールでお話しましょ。
 うーん、楽しみ!」

腕を絡ませられ、ぐいぐいと引っ張られながらも、後藤の顔は穏やかにほころんでいた。
しかし次の瞬間、その顔がすぅと表情を無くす。

「……ごめん、やっぱり行けなくなっちゃった」
「え! どぉしたんですか?」
「なんか、急に用事が出来ちゃったみたい」
「用事って……。!!」

同じ気配を感じ取った松浦の顔も瞬時に退魔師のものに変わる。

「後藤さん……これって……」
「悪いけど先に帰ってて」
「わたしも行きます!」
「大丈夫。心配しないで」
「でも……」
「今日はさ、誘ってくれてありがと。……嬉しかったよ」
「後藤さん!」

急に走り出した後藤。
虚を突かれた松浦も慌ててその後を追う。
走る不死の少女は路地を右に曲がった。
続けざまに進路を曲げた松浦は、ぴたりと脚を止めた。

「そんな……一体どこへ……」

月の光の差す道。
後藤の姿はどこにもなかった。

都会の真中にぽっかりと空いた広場。
工事の途中で打ち捨てられたのか、黄色いヘルメットを深々と下げた看板は、
雨風にさらされすっかり色を無くしていた。

雑草の生えた地面。
転がるコンクリートの土管。
黄色と黒のロープに囲まれた空間。

じゃりっと音を立てて、後藤が歩を進める。
目の前にはひとつの影。
血色のマントを羽織った怪しき影。

影が顔を上げた。
フードの中の顔。
それを見て後藤の足が一瞬止まる。

そこにあるのは白い仮面。
月の光を跳ね返す無表情な仮面。
後藤の良く見知った馴染み深い仮面。

後藤の顔がさらに冷たく、表情を消してゆく。
右手がジャケットの中に入れられた。
取り出されたのは、敵と同じ白い仮面。

顔の手前で仮面を持った手を止め、不意に後藤は顔を振った。
気配を消し、闇に潜んでいた影達。
いつの間にか、辺りはすっかり囲まれていた。

手の中の仮面はゆっくりと下にさがった。
四方から吹きつける気配。
それは紛れもない──殺気。

影達は一斉に襲い掛かった。
だらりと手をたらしたまま、ゆっくりと後藤は目を閉じる。
その目に最後に焼きついたのは、押し寄せる無数の白い仮面だった。


 Morning-Musume。 in 

         百 姫 夜 行。 ─ 翔─  

            ―― 第八夜   それぞれの真実

「それで、そのまま後藤は見つからんかったんか」

静かに訊ねたのは『退魔師元締』中澤裕子。
目の前でコクリと頷いた少女は松浦亜弥。

「近くの空き地にコレが落ちてました」

差し出されたのは半分に割れた白い仮面。

「そんな! ごっちんが!」
「うっさいな。大きな声だすんやない、よっさん」
「よ、よっさんって」

思わず言葉に詰まった吉澤。
たまたま打ち合わせに来ていた宇宙刑事を、中澤はギロリと睨む。
『破魔の眼』──その力を使わなくとも、その眼の迫力には揺るぎがない。

「後藤さんならぁ、きっとだいじょぉぶですよ。
 あの人は凄い人ですから。
 あ、それに松浦、後藤さんの分までがんばります!」
「えぇなぁ、アンタはお気楽で」

可愛らしくガッツポーズをとる松浦。それを見る中澤は頬杖をついて首を振る。

「しかし、これでなっち、圭織、ごっちん、三人が敵の手に落ちた事になる」
中澤の後ろで、目を閉じ腕を組んで立っていた平家が口を挟んだ。

「うちの主力を狙い撃ち。きちんと下調べをしてきっちり罠にはめてきとるわけや」
「罠?」
疑問の声をあげる吉澤に、平家が答える。

「なっちはともかく、圭織にはあの穴を利用してきた。
 ごっちんには多分、前の事件の時のヤツ。
 自衛隊にあったDNAクローン。そいつを利用したんやろ」
「全ては敵の手のひらの上……か」

中澤の静かな言葉に部屋の中が静まり返る。

「……三人とも無事なんでしょぉか」
「多分……無事だと思う。
 ヤツは自分のした事を隠そうとはしない」

さすがに神妙になった松浦の問いに吉澤は顔を歪めて答えた。

「逆にいえば、ごっちん達の……その……姿が見当たらないという事は、
 少なくとも命に別状はないはずだよ」
「なるほど、殺したんなら殺したってはっきり分かるようにするって事か」

言い難い内容をさらりと口に乗せ、中澤は目を細めた。

「とすれば、何のためにあの三人を捕らえたのか。
 三人を使って何をしようとしているのか。
 それが問題っちゅー訳やな」

それに答える事ができる者はいなかった。
再び訪れる沈黙。

「あの……ののは……ののはどうなったんですか」

先ほどから気になっていたことを吉澤は口に出した。
地球に来てからずっとじゃれ付いてきていた少女。
卑劣な罠にかけられ、あの屈託のない笑みが失われている事を考えると、
吉澤の胸に言いようのない思いが浮かぶ。

「辻は他の若い子と一緒に矢口が面倒見とる。
 かなりショックを受けてるようやけど、とりあえず今は落ち着いてるみたいや」
「そう……ですか」
「あの子も退魔師や。きっと立ち直ってくれるやろ」

そう言って中澤は立ち上がった。

「さてと。みっちゃん、アタシちょっと出かけてくるわ」
「おや、どちらまで」
「ま、野暮用や」

片頬だけでにやりと笑いコートを羽織る後姿を、吉澤はじっと見つめていた。

冷たい夜風が漆黒のコートをはためかせる。
『糸使い』保田圭は、後藤の消えた空き地にひとり立っていた。

手掛かりになるようなものは一切残っていない。
それどころか争われた形跡すら見つからない。
打ち捨てられた廃材がただ積み重なっているだけだ。
月の光に照らされた横顔。
俯いたままのその目には何が映し出されているのか。

ゆっくりと保田は自分の斜め前へと目線を移した。
コートのポケットから手を出し、皮の手袋をはめ直す。

「さあ、出て来て頂戴」

立てかけられた廃材の陰。
そこに現れた気配には覚えがあった。
向けられてくる中に敵意は感じられない。
しかし、油断する事は出来ない。

「来ないならこっちから行くわよ」

右手の糸を振る。
ぴうん、と音がして切り裂かれた廃材がガラガラと崩れた。
現れた姿。それは。

「やっぱり……」

まるで降り注ぐ月光を固めたかのようなその姿。
夜の闇の中、クリスタルの鎧はひっそりと佇んでいた。
その表情は、面あてに覆われ伺う事が出来ない。

「アンタ一体ナニモンなの?
 あたし達の敵? それとも味方?
 どちらにしても、何か知ってるんでしょ。
 なぜ後藤を連れ去ったのか。
 一体ヤツは……何をしようとしているのか」

鎧からの応えはない。

「……アンタが敵でも味方でもかまわない。
 でも答えてもらうわよ。
 知ってる事は全部。
 ──なにがあっても」

鎧を捕らえるべく、糸を持った保田の右手が反り返る。
だが突然、その視界に黒い影が飛び込んできた。

「な!」

真っ直ぐに顔面に伸びてくる拳。
それが触れる寸前、ぐん、と保田の体が地面と平行に後ろへ下がる。
自分の体に仕掛けておいた糸を引き、距離をつくった糸使いは新たな登場人物を見据えた。

全身が黒に包まれていた。
体にぴったりと合った服。
目のところだけ開いたマスクを頭から被っている。
身動き一つしない鎧と保田の間に影は体を割り込ませた。
そうして、彫りの深い目でこちらを睨む。

「そう……ボディーガードの登場ってわけ」

呟いて保田は頬を親指で擦った。
ぬるりとした感触。
確かに拳はかわした筈なのに、皮膚が浅く切り裂かれていた。
鋭い一撃によるカマイタチの仕業だろう。

「邪魔するなら……容赦しないわよ!」

目の前に立ちはだかるもの全てを切り捨てる勢いで、保田は今度こそ不可視の鋼糸を振るった。

柳のようなしなりを見せて、影の細長い右足が風を切る。
瞬間、めまいに似た感覚が保田を襲った。
ぱらぱらと糸が地面へと落ちる。
鋼の糸は一瞬にして全てがばらばらに断たれていた。
降り注いだ糸がさくさくとコンクリートの土管に食い込む。

「次元刀……あなたも退魔師なの?」

影を見据えて保田は硬い声で呟いた。

次元刀。
手足を鋭く振るう事で真空を作り出し、それに触れたものを切り裂く。
これをカマイタチと呼ぶ。
この現象を空気だけでなく、空間にまで対象を広げたもの。
それが次元刀なのである。
どんなに硬い物質であろうと、空間ごと切り裂いてしまえば無事で居られるはずはない。
無論、保田の糸でさえも。

「それだけの力を持った退魔師……。
 アンタ達、本当に何者なの? 何が目的なの?
 答えによっては、アタシも全力を出さなくちゃいけなくなるわ」

すう、とその場が色を無くしたように思えた。
保田と影、両者の間にぴりぴりとした何かが満ちてゆく。
張り詰めた空気。
しかしそれはひとつの言葉によって打ち破られた。

「そこまでだ」

聞こえてきたのは甲高い男の声。

「おまえの疑問には俺が答えよう」

鎧の背後。
絡みつく暗闇を振り切るように現れた新たなる人物。
月の光に浮かび上がったその姿は──。

「!」

もうひとつのクリスタルの鎧であった。

「……どうやらアナタが主犯格みたいね。
 いいわ、だったら答えて頂戴。
 アナタ達は何者なのか。一体何が目的なのか」

二人目の鎧はその問いにすぐに答えず、手のひらを上にした右手を前に差し出した。
かしゃり、と音がして鎧に無数の切れ目が入る。
ざあっときらめく表面が波打った。
重厚に見えたその素材。鋭角的だったフォルム。
それは小さく薄い板の集まりだった。
バラバラになった板は右手の上へと集まっていく。
まるで積み重なった折り紙のように、板は手のひらの上で高さを増してゆく。
全てが終わったとき、手のひらにはクリスタルで作られたひとつの立方体が出来上がっていた。

「あなたは!」

鎧の下から現れた人物。
それを見て保田は息を飲んだ。

ひょろりとした体型。
刈り込まれた金髪。
端の吊りあがった黒いサングラス。
ゴムのような質感の肌。
どことなく爬虫類めいたイメージを植え付けてくる男。

「Dr.タイセー。……なんであなたが」

Dr.タイセー。
退魔師専門のウィッチドクターにして優秀なアルケミスト。
しかし、保田にとっては別の意味で馴染み深い人物だった。
すなわち、先の事件で記憶をなくした『青き狼』──市井の主治医として。

「まさか!!」

保田はもうひとつの鎧へと振り返った。
そちらの鎧も板状に変わり、右手の上で立方体を作っていた。

「紗耶香! そんな!」

現れた顔は紛れもなく親友のものだった。
駆け寄ろうとした保田の前を再び影が塞ぐ。
エキゾチックな鋭い目は油断なくこちらを伺っていた。

「やめろ! ナオキ!
 すまんな。ソイツには常に市井を守るよう命令しとる。
 せやけど、なかなか融通の利かんヤツでな」

声をかけられて影は一歩身を引いた。
保田は改めて同期の姿をまじまじと見つめる。
しかし、その目に生気はなく、表情も虚ろなままだ。

「記憶はまだ戻っとらんよ。
 市井には今、俺のために働いてもらっとる。
 ……コイツを使ってな」

手のひらの上のクリスタルの立方体。一見しただけではその正体は分からない。

「それは一体……」
「この鎧は俺が作ったものや。
 その名も『キュービック・クロス(立方体の闘衣)』。
 オリハルコンを使った、物理・精神双方の攻撃に対して絶対的な防御力をもつ究極の鎧。
 これを使えば、今の市井でも前以上の動きをすることができる」
「何を……何を言って……。
 なんで! どうしてこんな事──」
「市井には悪い事してると思う。
 でもな、こうでもせな、あいつを止める事なんてできひんねん」
「あいつ? それはあの宇宙から来た敵のこと?」
「違う。俺が止めようとしてるのは別のヤツや。
 おまえ達もよう知っとる、あの男の事や」

闇夜に立ち尽くす四つの影。
降り注ぐ月の光。
異様なまでの静けさがその空間を包み込んでいた。

同じ頃、中澤は人気のない公園に佇んでいた。
外灯の明かりが、ワインレッドのレザーコートを照らし出す。
あまり広くもない公園。中澤のほかには当然のように人影もない。

「なんでこんな事を?」

闇に向かって問い掛ける。返事はない。

「答えてください。なんであなたは──」
「よう気が付いたな」

闇の中から応えが返った。
それは昔から良く聞き慣れた声。
信頼を寄せていた人物の声。

「ま、アイツ等のデータを完璧に集める事のできるヤツは、そうは居らんやろけどな」
「やっぱり……やっぱりあなたやったんですね」

カツカツ、と足音をさせてその人物が闇から現れる。
外灯に浮かび上がったその姿。

「なんで……なんでなんですか!
 なんでこんなこと……。
 答えてください! つんくさん!」

ぱさついた金髪に安っぽい青のサングラス。
白いタキシードにシルクハット。
右手のステッキをくるりと回し、男はニヤリと不敵に笑う。

「なんで……か。そうやな、俺にはあの力が必要やったから、かな」

腕利きのスカウトにして退魔師達のプロデューサー。
『マジックマスター』つんくは正面から中澤を見据えた。

「力……。それは、あの宇宙から来た……」
「そう、その力や。
 アイツの力は凄いで。データを与えれば与えただけ、次々と自分のものにしていきよる。
 まさに天才やな。
 ま、本当に強いんはヤツの頭脳やなくて心なんやけどな」
「あなたが……協力したんですね。
 なっちや圭織、それに後藤を捕まえるために」

中澤の視線を受け止め、つんくはニヤリと薄く笑った。

「なんで……何のためにあんな事!」
「安倍の持つ念の力。それは生命のエネルギーや。
 対して後藤が持っているのは死のエネルギー。
 この二つを同時に使う事ができればどうなると思う?」

言いながらつんくが手を振ると、どこからともなく煙草が現れた。
口に咥え、ぱちんと指を鳴らすと、ぽっと自然に火が点る。
紫煙を吐き出し、つんくは言葉を続けた。

「生と死、相反する二つの力、それが合わさったとき──。
 反発したエネルギーは更なるエネルギーを生み出す。
 それは……想像を絶するパワーや。
 おそらく、宇宙さえ消し去る事ができるほどの……な」
「なんてこと……」
「いや、それだけやない。
 この力を使えば、肉体的な死を超越する事もできるやろ。
 つまり、完全なる不死の実現も可能や」
「そんな! そんなん無理に決まってます!
 いくらなんでも、その力を制御するためには天文学的なエネルギーが──」
「あるやないか。無尽蔵で無限の力を持ったエネルギーが」
「……圭織。そのために圭織を」

唇を噛む中澤の前で、煙草の火が再び紅く燃える。

「でもな。そんなものヤツは望んじゃいない」

吸い終わった煙草を指で弾く。ぽむ、と小さな音を立てて煙草は色とりどりの紙ふぶきに変わった。

「さっきもゆうたな。ヤツの心が強いって。
 アイツが本当に恐ろしいのはそこや。
 なぜ、アイツは破壊を続けるのか。
 なぜ、他人を殺しつづけるのか。
 ……それは、ヤツが存在するためなんや」
「存在?」
「そう、『記憶に残る事、それが存在する事だ』。
 アイツはそう言った」

人差し指でサングラスを押し上げ、つんくは中澤を見た。

「誰からも認識されなければ箱の中の猫と同じ事や。
 それは死んでもいなければ生きてもいない。
 他者によって認識される事。
 他人の記憶に残る事。
 それが存在する事。生きるということや。
 それなら……」

唇の端を吊り上げる笑い。それはまるで、聖職者を堕落させる悪魔の笑い。

「そのためには……。
 記憶に残るためには、何をすればいい?
 その答えはこれや。
 人に憎しみを与えればいい」
「憎しみ?」
「そうや。憎しみ、いや恐怖であるのかもしれん。
 人は楽しい事はすぐにでも忘れてしまう。
 だが、人を憎む心。
 圧倒的な恐怖は、なかなか消え去ってはくれん」 
「まさか……そのために」
「誰かの愛するものを奪う。
 恐怖と憎しみを人の心に刻み込む。
 そうすれば、けっして忘れられる事はない。
 ずっと人の記憶に残ったままや。
 それはつまり、永遠に存在する事に等しい」

「そのために……そのために梨華ちゃんを!!」
「吉澤!?」

聞こえてきた怒声に中澤は振り返った。
そこには怒りに身を震わせる宇宙刑事の姿。

「よっすぃー、アンタなんでここへ。
 ……そうか、みっちゃんか。
 ちっ、あのイラン事しぃが」
「答えてください!
 そんな……そんなことのために、梨華ちゃんはあんなに辛い思いを──」
「そりゃあ、辛くなければ記憶には残らんからな」
「このおぉぉぉぉぉ!!」

飛び出した吉澤は拳を振りかぶった。
にやけた笑いを浮かべる顔面に、渾身の一撃を叩き込む。
吹き飛ぶタキシード。
しかし、その体はいつの間にかプラスティックの人形に変わっていた。

「真っ直ぐに生きてるのもええけどな。
 少しは冷静な判断も必要や。
 相手を良く見な、命がいくつあっても足りんで」

吉澤の真後ろでつんくはシルクハットを被りなおす。

「その台詞、『あたしの目の前』でもう一度言ってもらいましょうか」

つんくを睨んだ中澤が静かに言う。
その目は青く染まっていた。

「ふ、相変わらず怖い女やな。
 おまえの力の前じゃ、俺の手品も通用せん。
 でもな、俺が何も考えずここへ来たと思っとるんか」

中澤の『視線』の前で、つんくの姿がぼやけ始める。
ニヤニヤ笑いを残したまま、手品師の体はタキシードとシルクハットだけに変わった。
ぱさり、と支えを失った衣装が地面に落ちた。

「最初から……幻やったってわけですか」
「そういうことや。悪く思うなよ」

声だけがどこからか聞こえてきた。

「くっそー! でてこい!
 姿を隠すなんて卑怯だぞ!
 梨華ちゃんも……ののも……みんな、おまえ達のせいで!!
 おまえ達みたいな……おまえ達みたいなヤツ。
 あたしが……あたしが絶対倒してやる!」

怒りのままに吉澤は地面を蹴る。
その姿をあざ笑うかのように、声は風に乗って聞こえた。

「できるのか、おまえ達に」

その風と同じくらいに冷たい声。

「安倍も飯田も後藤もいないおまえ達に。
 ヤツを倒すなんてことが、本当にできるのか」
「やってやる……。
 人の思いを踏みにじる、そんなヤツ……。
 あたしは絶対許さない!!」
「くくく、そいつは楽しみなこっちゃ」

嫌な笑い声が公園に響いた。

「だがな、まだ試練は終わってないぞ」
「え?」

ピリリリリ、突然鳴り響く携帯の音。
中澤は取り出した電話を耳に当てた。

「はい。どないしたん? みっちゃん。
 ……うん。……なんやて!?
 ……うん。うん。……そうか、わかった」

通話を切った中澤は、ぐるっと辺りを見回し、姿の見えないつんくを必死で睨む。

「これが……試練ですか」
「中澤さん、一体何が」
「政府が……国がウチらと手を切るそうや」
「え!?」
「類稀なカリスマ。これくらいの事は朝飯前やってことですか。
 これであたし達のバックアップはなくなった。
 文字通りの孤立無援。
 純粋に自分たちの力しか頼るものはない」

静まり返った公園。中澤の声が闇に吸い込まれる。

「ヤツは本格的に行動を開始した。
 おまえ達は生き残る事ができるか?
 あの……恐ろしい敵から」

声が風に流される。そのまま、インチキ手品師の気配は消え去っていった。
押さえられない気持ちを抱え、吉澤は自分の左手に拳を打ち込んだ。

「くそ!」

力のこもった両肩が震える。

「なんで……」

小さな声が聞こえ、吉澤は振り返った。
そこには肩を落とし、唇を噛んだ中澤の姿。

「なんで……こんなことになったん?」
 
二人の関係を吉澤は知らない。
しかし、その付き合いが長い事、ともに苦労をしてきた仲間である事は想像に難くない。
信じていたものに裏切られた。
しかも、今まで必死に作り上げてきた組織すら奪われた。
ここにも心に傷を刻み込まれたものがいた。

中澤は空を仰いだ。
溢れてくるものを堪えるように、星を睨む。
その姿はひどく小さく、ひどく儚いものに見えた。

「中澤さん……」

吉澤は背中からその華奢な肩を抱いた。
ゆっくりと、心を込めて言葉を搾り出す。

「あたしが……あたし達がやります。
 飯田さんがいなくても、安倍さんがいなくても、ごっちんがいなくても。
 あたし達は戦います。
 保田さん、矢口さん、みんなで力を合わせて。
 だから……だから大丈夫です。
 あたし達はみんなを守ります。
 それが……それがあたし達の使命だから」
「よっすぃー……」

肩越しに中澤は吉澤の顔を見上げた。
吉澤の目に憂いを含んだ女の顔が映る。
風に震える長い睫毛。
深き色をたたえた瞳。
半ば開いた唇からこぼれる真珠色の歯。

どん、と鈍い音が響いた。

「げ……ほ……」
「ふん、アンタに慰められるなんてアタシもヤキがまわったもんやな」

みぞおちから肘を引き抜き、中澤は前を向いた。
その顔は既に引き締まり、先ほどまでの弱さは微塵も感じさせない。

「ひ、ひどいっすよ。あたしは別に……」
「うっさい、ナマイキな事言っとるからや」

口調と裏腹に中澤の顔は軽くほころんでいた。
吉澤はもともと退魔師の組織の人間ではない。
それに知り合ってまだ1年しか経っていない。
しかし、人と人を結びつけるのは付き合いの長さだけではない。
密度の濃い時間を共有した仲間。
今では他の退魔師と変わらぬ気持ちを感じている。
だからこそ、その成長を感じる事ができて中澤は嬉かった。

いつまでも弱気なままではいられない。
例え、主力を奪われようと。
例え、後ろ盾に見放されても。
例え、信頼する者に裏切られようと。
自分達は戦い続けなくてはならない。
守るべき者がいる限り。

それに……。

中澤はうずくまったままうめき声を上げる吉澤をちらりと眺めやる。

新しい時代が来ているのかもしれない。
若い力。未知数の力。
まだ頼りないものであっても、それは着実に進歩を遂げてきている。
この力を使えば、あの恐ろしい敵に対抗する事もできるかもしれない。

──そう、本当の戦いはこれからや。


冷たく照らす月に向かい、中澤は静かにその決意を新たにした。


           第八夜  〜幕〜

後藤さん、いきますよ。わたしの新技なんです。

──まゆげびぃぃぃぃむ!!!

すごいでしょ、ここの角度がポイントなんです。
ここをこうして……。
そう、そうです。
じゃ、いっしょにやってみます?
右手はこうで……。

え? あ、はい!
新垣がんばりまーす!
後藤さんもがんばってくださいね!

あれ? まこっちゃん、なんでそんな顔引きつってんの?
あ、うん。今日はクリスマスじゃない?
だからみんなにプレゼントをあげようと思って。
いいでしょ、この服。
魔法でね。サンタの衣装つくってみたんだ。

ん? さっきの?
そう、後藤さんには楽しいギャグのプレゼント。
ええ? 違うよぉ。後藤さん喜んでくれてるよ。
だって、笑ってあたしの頭、ぽんぽんってしてくれたもん。

やだなあ、なんで首ふってんの?
だめだよ、そんな暗い顔してちゃ。
だから自信なさそうに見えるんだよ。
そんなまこっちゃんには……これ!
そう、よくパーティで使うやつ。鼻とひげも付いてんだよ。
いや、だってさ、このぐらいしないと目立たないじゃない。
そうだよ、だって出番少ないじゃん。わたしもだけど。

もー、なんでそんな顔するかなあ。
そんなだからいっつも目立ってないとか放置されてるって……。
あ、どうしたの? ちょ、ちょっとしっかりして、まこっちゃん。
そんな部屋のすみで、ひざ抱えないでよ。

ど、どーしよ。あ、あさ美ちゃんだ。
おーい! あさ美ちゃん、ちょっと助けて!

え? どうしたの? あ、そのお菓子……。
い、いや、そこに置いてあったから……。
だって、あさ美ちゃん、おせんべより甘いものの方が……。
ちょ、ちょっと待った! なんで空手の構えなんかしてんの!?
わーーー! ご、ごめんって!
ちゃんと買って返すからさぁ。

ふう、あぶなかった。
いつものように、上からタライが落ちてきたから助かった。
うーーん、あさ美ちゃん食べ物のことになると人格変わるからなあ。
あ、しまった。このプレゼントあげて機嫌直してもらえばよかった。
せっかくあさ美ちゃんの好きなアニメの──。

わあ! びっくりした!
なんだ、矢口さんじゃないですか。
え? 辻さんと加護さんですか?
いえ、見てないですけど……。
あ、それよりこれ──。

っっ!!
い、いえ、なんでもないです……。
あ、あの……矢口さん……。その……う、後ろ……。
わわっ!!

あーあ、だめですよ、加護さん。
女の子がそんなカンチョーなんてしちゃ。
矢口さん、うずくまったまま動けないじゃないですか。
辻さんもそんな大きな口あけて笑って。
あ、そうだ。お二人に渡すものがあったんですよ。
はい、これ。
おそろいのミサンガです。
わあ、良く似合ってますよ。
あ、はい。それじゃ。

………だいじょーぶですか? 矢口さん。
ええ。矢口さんにはこれです。
前から欲しがってましたよね。小型のレーダーです。
研究班からもらったんですけど……。
はい。辻さんと加護さんのミサンガに。
……あの、矢口さん。なんか体がパチパチしてますけど。
ちょ、ちょっとその顔怖いです。
あ……。
行っちゃった……。うーん、プレゼント渡すタイミング悪かったかなあ。
やれやれ……。

えーっと、次はっと。

あ、愛ちゃん。
ねえ、飯田さん見なかった?
そうなんだ。いつもの和室に……。
え? おちょきん? なにそれ?
ちょ、ちょっと待って。もうちょっとゆっくり……。
あ、うん。へー、そういう意味なんだ。
そうそう、愛ちゃんにも渡しとくね。
はい、これ。後で開けてね。それじゃ。

よしよし。これで結構プレゼント渡せたぞ。
愛ちゃん喜んでくれるかな、国語辞典。

えーっと、確かここだよね。飯田さんのいる部屋って。
おじゃましまーっす。
あれ? 飯田さんはどこに……って、うわあ!!

び、びっくりした……。
あ、あの……飯田さん?
…………。
そうか。これがうわさに聞く交神なんだ。初めて見た。
すごいなあ、瞬きもしないんだ。
んー、しょうがないなあ。
じゃあこれ、首にかけときますね。
手造りなんですよ。このメダル。
ほら、ここに『リーダーがんばれ』って書いてあるんです。
いいでしょ。
えへへ、大事にしてくださいね。

さて、次はどうしようかな。

あ、保田さんだ。こんにちは。
そーなんですよ。今日は新垣サンタなんです。
え、そうですか? ありがとうございまーす。
はい。もちろん、保田さんにもありますよ。
これです、どうぞ。

そうです。『肩たたき券』でーす。
10枚つづりなんですよ。
1枚につき10分、または100回たたきます。
新垣こう見えても結構うまいんですよ。
さっそく使ってみます?
え? あ、そうですか。
それじゃ、次の機会に。

え? なんでって。
これにした理由ですか?
だって保田さん、もうおばちゃ──。
ちょ、ちょっと待ってください! み、耳が勝手に引っ張られて……。
え? これって糸が……。
い、痛いです! 痛いです!
わわ、わあぁぁぁぁぁ!!

うう、ひどい目にあっちゃった。
なんで保田さん怒ったんだろ。
やっぱり、肩たたきだけじゃなくって『マッサージ券』のほうが良かったのかなあ。

あ、あれは吉澤さん。
よーしざわさーーん。
はい、これ。プレゼントです。
そーなんですよ。新垣今日はサンタなんです。
あ、似合いますよ、そのサングラス。
やっぱり、あたしの思ったとおりだ。
はい、すっげーカッケーですよ。
ええ、『西部警察』みたいです。
あ、知ってます?
見ましたよー、新垣。再放送で。
はーい、それじゃ。

ふう、残りはあと少しだ。
ん? ちょうど良かった。石川さんだ。
いーしかわさ──。
むぐぐぐ。
ど、どーしたんですか、いきなり。
え? 吉澤さん? はい、会いましたよ。
ああ、なーんだ。石川さんもプレゼント渡そうとしてたんですか。
あれ? 恥ずかしいんですか?
むふふふふ。乙女心って奴ですね。
それでそんなに顔が赤いんですか。ちょっと分かり難いですけど。

大丈夫。それなら、わたしに任せてください。
この新垣サンタが必ず──。
え? い、いや別に深い意味は……。
そんな、色が黒いとか言ってないじゃないですか。
や、だからですね。

あー、もー、とにかく、わたしが魔法で石川さんをサンタにします。
これならプレゼント渡しても恥ずかしくないですから。
ね、いいアイデアでしょ。さ、いきますよー。

──りりむす・ららむす・るるるるる!!

………あれ? おかしいな。
え? いいんですか、それで。
はあ……。あ、行っちゃった。
んー、おかしいなあ。なんであんな格好になっちゃったんだろ。
ノースリーブのサンタって普通いないよね。
おまけにあんなにミニスカートだし。
なんかエッチな感じ。
ま、いっか。
石川さん喜んでるし。

あ! しまった!
石川さんに何も渡してないや。
そうだ! どうせなら石川さんの好きなものを魔法で出しちゃお。

えーっと、石川さんは……。
あ、いたいた。
あー、やっぱり吉澤さんびっくりして目が丸くなってる。
まあ、あんなサンタにいきなりプレゼント渡されたらねえ。
ま、いいや。よし、いくぞ。

──りりむす・ららむす・るるるるる!!

う、うわ!!
なんんだあれ? でっかい箱にリボン??
あ、あのリボンの真中って……。
あれ……吉澤さんだ。

……………………。
ま、いいよね。石川さん喜んでるし。

さーて、後はっと。
中澤さんと平家さんにはお父さんの戸棚から持ってきたお酒。
……なんかものすごく古い気もするけど。
ウチって変なものいっぱい取ってあるからなあ。
でもお酒って古いほうがおいしいんだよね、確か。うん、大丈夫。

松浦さんにはこの間撮った写真をラミネートカードにしたやつ。
自分の顔見てるの好きだもんなあ。
この間も一日中鏡見てたって言ってたし。

りんねさん、あさみさん、里田さんには園芸セット。
スコップと花の種と……。
あれ? 牧場にはいっぱいあるのかな? こういうの。
……ま、いいか。

ふう、サンタの役も楽じゃないね。
あ、考えてみたら自分用のプレゼントって用意してないや。
失敗したなあ。もうおこづかいも残ってないし。
んー、でも、みんなが喜んでる顔見るのが一番の幸せだよね。
そうそう、だってわたしはサンタなんだもん。
……それにきっと、お返しとかももらえるはずだし。

はあ、さすがにずっとこの格好だと寒くなってきたなあ。
あ、あれは……。

安倍さんじゃないですか。
はい、そうです、サンタなんですよ。
え? いやー寒くないですよ、全然。
だいじょーぶです。新垣、寒さには強いんで。
あ、安倍さん……。

……安倍さんの手、とってもあったかいです。

ふふ、実はわたし、安倍さんに憧れて退魔師になったんですよ。
それまで、わたしは自分の力が嫌いでした。
魔女なんてなりたくなかった。
だって、みんなにあんな目で見られて……。
辛かった。とっても苦しかった。

でもあの時、安倍さんに出会って、安倍さんの強さを見て……。
それで、安倍さんのようになりたい。そう思ったんです。

──こんなこと、恥ずかしくて本人には言えないですけどね。

え? いや、なんでもないですよ。
ちょっとしたひとり言です。

はい! もうすっかりあったかくなりました!

あの……安倍さん。
本当にありがとうございました。
これは……新垣にとって……。
むふふふ、サイッコーーのクリスマスプレゼントです!!


            〜幕〜