書き逃げプチ小説
市井紗耶香(1)
後藤の誕生日までに、帰国が間に合って良かった。
日本は、あいにくの天気だったけど、私の心は浮き立っていた。
宅急便の受け付けに、荷物を全部預ける。
(後藤、驚くだろうな)
ベリーショートの髪は、薄い茶色になるまで脱色してるし、身長もかなり伸びた。
つぎはぎだらけのジーンズと、髑髏がプリントされたパンクなTシャツ。シルバーのカラコンに、ブルーのリップ。
絶対、私だって分かんないよ。
住所がしるされた、後藤からの絵はがきを手に、私はタクシーの中でニヤニヤ笑っていた。
花屋を見つけ、真っ赤なバラの花束を買う。きっと後藤のことだから、本当は、ケーキとかの方がいいんだろうけどね。うふふ。
ドキドキしながら、後藤の部屋のチャイムを鳴らす。
扉の向こうから、たたたた、と駆けてくる、後藤の足音。
「どちらさまですかぁ」
少し舌っ足らずの、後藤の声。
にゅっ、とバラを突き出して、
「ハッピーバースディ、後藤っ!」
「市井、ちゃん?」
うっわ、私が驚いた。なんで分かっちゃったの?
「へへへ、帰ってきたよ〜」
後藤の顔が、くるっ、と笑顔になるシーンを想像して、こっちも満面の笑顔を用意する。
「……」
でも、後藤は、戸惑ったような表情で、私を見るだけだった。
急に、不安になった。
「……後藤?」
後藤は、私から目をうつむき加減にそらした。
それは、私がロンドンで何度も夢想した再会のシーンとはかけ離れていた。
「お客さんなの――」
部屋の奥から顔を出したのは、圭織だった。
圭織の表情が凍り付いた。
後藤の、戸惑ったような顔。
そして、圭織の、悲しそうな顔。
すべてを理解した。
不思議と、ショックはなかった。
(3年、か……)
私は、そのとき初めて、流れていった時間の重さに気づいた。
外の雨は、まだ、降り止みそうにない。
後藤真希(1)
ドアを開けてしまってから、うかつだった、って思った。
目前に突きつけられた、真っ赤なバラ。
「ハッピーバースディ、後藤ッ」
パンクファッションに身を包んだ、背の高い男の子みたいな、モデル系の女の人。
初めは、ファンが家まで押し掛けてきたのかって思ったんだ。
懐かしい匂いがした。
私の大好きな匂い――ウルトラマリンの匂いが、私を包んだ。
「市井、ちゃん?」
考えるよりも、言葉が先に出た。
ぱあっ、と女の人は満面の笑顔になった。
それは、まぎれもなく、市井ちゃんだった。
(待ち疲れちゃうなんて、あのときは思いもしなかったんだ)
私の戸惑いを、市井ちゃんは敏感に感じ取った。
「……後藤?」
市井ちゃんの声に、不安の色が混じる。
でも、私に、返すべき言葉は無かった。
「お客さんなの――」
圭織が、部屋の奥から出てきた。さっきまで、ケーキを焼こうと、小麦粉相手に2人で格闘してたんだ。
圭織は、市井ちゃんが、好きだった。
私は、市井ちゃんを失うことに耐えられなかった。
お互いが、市井ちゃんの代わりを求めて、そして、一緒に住むようになった。
「あ……ゴメン。誕生日おめでとう。それだけ、いいたくて、さ」
渡されたバラの花束の赤が、目に染みた、
「じゃ、ね」
市井ちゃんは、笑いながら、小さく手をバイバイさせて、帰っていった。
「ごっちん――」
圭織は、静かに言った。
「これまで、ありがとうね。かおりは、もういいよ。ごっちんにいっぱい、色んなモノ貰ったから。紗耶香、追いかけてあげなよ」
お互いの結びつきが、愛情なんかじゃないことは分かってる。
でも、だからと言って、圭織と過ごした2年間を否定することなんて出来なかった。
私は、どうしようもなく、立ち尽くした。
外の雨は、まだ降り止みそうにない。
飯田圭織(1)
初め、ごっちんは、紗耶香の代わりだった。
ごっちんのしぐさの中に、時折、紗耶香の匂いが感じられて、だから、ごっちんと一緒に暮らすようになった。
いつの頃からだろう。紗耶香よりも、ごっちんの方が、私の中で大きな存在になってしまったのは。
ごっちんが、私に本気じゃないことは分かっていた。
紗耶香が帰ってくるまでの、紗耶香の代わり。
それでも、私は幸せだった。
だから、紗耶香が来たとき(ああ、今日がごっちんとお別れの日なんだ)って思った。
「あ……ゴメン。誕生日おめでとう。それだけ、いいたくて、さ」
紗耶香が手にしていた、悲しいまでの赤い色を、私は一生忘れないだろう。
「じゃ、ね」
紗耶香が、背を向けた。
ごっちんの気持ちは、私が一番分かってる。
だって、ずっと一緒に暮らしてきたんだから。
一緒に、泣いたり笑ったりした2年間が、私の宝物だよ。だから、悲しくなんかないよ。
「これまで、ありがとうね。かおりは、もういいよ。ごっちんにいっぱい、色んなモノ貰ったから。紗耶香、追いかけてあげなよ」
ごっちんは、うつむいて、ぽたぽた涙を落とした。
紗耶香がいなくなってから、ごっちんは、声を出さずに泣くやり方を覚えた。
「今行かないと、後悔するよ。また紗耶香を失ってもいいの?」
私はズルいのかも知れない。
ごっちんに、捨ててもらおうと思っている。
(でも、私の手で、この恋を終わらせてしまうことなんて出来ないよ……)
「市井ちゃんは大好きな人。でも、圭織も大事な人なんだ。私、どうしたらいいの?」
その問いに対する答えを、私は持っていなかった。
外の雨は、まだ降り止みそうにない。
市井紗耶香(2)
滞在先のシティホテルで、私は今日のことを思い出していた。
部屋の電話が鳴る。フロントからだ。私に、来客があるらしい。
淡い期待と共に、客の名を訊ねる。
「飯田圭織さまです」
ああ、と思う。
「通してください」
落胆が口調に出ないよう注意して、言う。
「紗耶香、久しぶりだね。さっきは、どもっ」
圭織は、不自然に明るかった。
三年の間に、私は、圭織よりも背が高くなっていた。
「あのさ、入って、いいかな?」
圭織を見つめる。
大理石のような肌、印象的な大きな瞳。夜のような黒髪。
圭織は、アイドルグループの一員、というよりは、ファッションモデルのようだった。
黙ったままの私に、圭織が何か言う前に、
「どうぞ、入って」
中へ、促した。
三年の間に、圭織は、ずいぶん綺麗になった。
(後藤と一緒に暮らしていたから?)
この身体で、後藤を、どうやって愛したのだろう。
「それでさ、ごっちんのことなんだけど──」
ストレートな物言いは、変わっていない。
私は、生真面目に動く、圭織のふっくらとした唇を眺めていた。
(この唇は、後藤の身体に触れたんだろうか)
「後藤の話はやめて」
静かに、言う。
圭織は、びくっ、と自分を抱き締めて、言葉を止めた。
(後藤に触れた腕)
「でも……でも、さ。ごっちんは、今でも……」
圭織の、吸い込まれそうな、白い首。
(後藤は、その首筋に、キスしてくれた?)
「圭織、昔、さ──」
行き場のない、残酷な衝動が、はけぐちを求めている。
「私に、キス、したよね?」
「それは……」
圭織は、戸惑ったように、私から目をそらした。
(後藤が触れた身体)
(後藤を抱いた身体)
許さない。
許さない。
「ダメっ、やめてよ紗耶香」
暗い欲望に、突き動かされるままに、
私は、あやまちを犯した。
「こんなの、こんなのイヤだよ……」
私と、圭織の吐息が混じり合う。
外は夜。
まだ、朝は来ない。
飯田圭織(2)
紗耶香が帰ってしまった、その日。
私は、一晩かかって、ようやく決心した。
きっと、どれだけ謝っても、紗耶香は私を、許してはくれないだろう。
でも、ごっちんを救うことが出来るのは、紗耶香だけなんだ。
初めから、後悔するための行動。
(ごっちん、大好きだよ。だから私は、きっと1人でも生きていけると思うんだ)
紗耶香に、ごっちんを返そう。
三年ぶりに見る紗耶香は、まるで背の高い少年モデルのようだった。身体の中からわき出てくるかのようなエネルギーに、圧倒された。
「こんなの、こんなのイヤだよ……」
紗耶香が、私の唇に歯を立てる。
「圭織は、どうやって後藤を愛してるの?」
ブラウスのボタンを、紗耶香の指が外してゆく。
「そんなこと……」
言葉が、紗耶香の唇でふさがれる。
紗耶香に直接触れられた肌が、火のように熱い。
忘れていた想いが、私の中でくすぶり出す。
「圭織、私のこと、好きだったでしょう?」
紗耶香の指。
紗耶香の唇。
私は、抵抗出来なかった。
ごっちんの顔を思い浮かべながら、私は紗耶香に身体をゆだねた。
午前4時。
私は、逃げ出すように、シティホテルを後にした。
「……どこに行ってたの?」
まだ寝ていなかったみたいだ。
赤い目をしたごっちんが、私を出迎えた。
私は、ごっちんと目を合わせることが出来なかった。
「圭織……どうしたの?」
「ごっちん、ゴメン」
下を向いて、言った。
涙がこぼれた。
ごっちんは、何も言わずに、私のそばを通り過ぎて、外へ出ていった。
私に、ごっちんを引き留めることは出来なかった。
外は夜。
まだ、朝は来ない。
後藤真希(2)
結局、私は市井ちゃんを追いかけなかった。
でも、それは、単に私がどっちも選べなかっただけ。
優柔不断は罪だ。私は、罪に相応しい罰を受けることになった。
圭織は、夕御飯の時間になっても、帰って来なかった。
(多分……市井ちゃんに、会ってるんだろうな)
昨日、圭織はずっと考え込んでいるみたいだったから。
(ごめんね、圭織)
(ごめんね、市井ちゃん)
私のせいだね。私が、はっきりしなかったから、市井ちゃんも圭織も傷つけちゃったよね。
私、決めたよ。もう迷わないよ。
つらいけど、勇気を出すよ。
夜中になっても、圭織は戻って来なかった。
不安が、胸の中一杯に広がった。
午前4時。
ようやく、圭織は帰ってきた。
圭織は、私と目を合わさなかった。
「圭織……どうしたの?」
「ごっちん、ゴメン」
泣きながら、圭織は言った。
その瞬間、悟った。
私は、大切な人と、大事な人、2人を同時に失ってしまったのだ、と。
私は、遅かったのだ。
一番の罪人は、私だ。
私は、多分、無表情だったと思う。
なにも感じなくなってしまっていたから。
(もう、ここに、私のいる場所はない)
玄関で、泣き続けている圭織のそばを通って、夜の中へ、歩き出した。
◇
(私は、どこへ行けばいいんだろう)
まっすぐ歩くことさえ出来ない。
私の足は、フラフラと、一年前に娘。を辞めた女性のマンションへと向かっていた。
「真希、じゃん。久しぶり。どうしたの、こんな夜遅く」
圭ちゃんは、むしろ、娘。を辞めてから、生き生きしだしたような気がする。
今は、バンド活動がメインで、クラブハウスでのライブだといつでも満員にしてしまう、そうだ。
「今日、泊めてくれないかな?」
圭ちゃんは、目を丸くして、私を見た。
うーん、と悩むフリをしている。
私は、圭ちゃんの気持ちを知っていた。市井ちゃんのことがあるから、今までは身を引いていた、ってことも。
「泊めてもいいけどさ。もう真希も大人なんだからさ、はいお休みなさい、って訳にはいかないよ。そこんとこ、分かってるの?」
ニヤニヤ笑いながら、圭ちゃんは言った。
(私は、市井ちゃんにとって、もうなんの価値もないんだ)
「……うん。分かってる」
私の返事が予想もしないことだったのか、圭ちゃんのニヤニヤ笑いはかき消えた。じゃあ中に入りなよ、と慌てた様子で言った。
圭ちゃんの開けてくれた扉をくぐる直前、後ろ髪を引かれる思いで、私は背後を振り返った。
当然、誰も、私を迎えに来てはくれない。
(さよなら、市井ちゃん)
私は、圭ちゃんに肩を抱かれて、部屋に入った。
外は夜だ。
まだ、朝は来ない。
保田圭(1)
シャワーを浴びて出てくると、真希は、ベッドの中にいた。
「隣り、行くよ」
真希は、目を閉じて、動かない。
下着になって、隣りに滑り込む。
(……真希?)
小声で囁く。
(眠っているの?)
薄目が開いて、こちらを見て、また目を閉じる。
まるで、これから初めて経験する少女のような反応に、内心苦笑した。
Tシャツの上から、豊かなカーブを描く胸の稜線を人差し指で辿る。頂点で、軽く爪を立てる。
真希は、ぶるっ、と身体を震わせる。
(真希……可愛いよ)
ようやく、真希のすべてを手に入れられる。
私は、優しく、真希を下着を脱がせていった。
三年前。
真希が、紗耶香を好きだったってことは、メンバーの中でも周知の事実だった。
紗耶香がいなくなって、私は、真希を意識するようになった。いや、真希に初めて出会ったときから、心を奪われていたことに気付かなかっただけだ。
でも、真希は、同じく紗耶香を好きだった圭織と同棲を始めてしまった。私は、真希への気持ちを抱えたまま、娘。を続けていくことは出来なかった。
(その真希が、今は、私の腕の中にいる)
私の心は逸っていた。
ついに、ここまで来た、という感慨と、
三年、歯がみして待たされた、という、残酷な気持ちと。
「痛っ」
真希が、小さく悲鳴を上げた。
(痛い?)
ぬるり、とした感触が、人差し指にあった。
暗闇の中、自分の手を見る。
(……血)
(そんなバカな。圭織と、2年も、同棲してたじゃない)
「真希、あなた……もしかして、初めて、だったの?」
真希は、うん、でもいいの。もう市井ちゃんを待たなくてもいいから、と呟いた。
私は、すべてを理解した。
圭織との同棲は、傷を慰め合うだけの場であったのだ、と。
2人は、おままごとのような同棲を続けながら、紗耶香を待ち続けていたのだ。
紗耶香が帰国していることは、聞いていた。
ならば、紗耶香との間で、なにか決定的な出来事が、起こったのだ。
(真希、あなたは、どれだけ傷ついて、私のところに来たの?)
(私なら、あなたを助けてあげられると思った? それとも、誰でもよかった?)
もしそうなら──ギリギリだった。
真希が、その瞬間、私を思いだしてくれて良かった。
私が、真希の傷を癒してあげるよ。
私は、真希を強く抱き締めた。
(もう離さないよ)
真希への気持ちがいっぱいになって、朝まで、真希を愛し続けた。
真希は、体調不良ということで、3日間の休養を貰った。
私も、3日間、仕事を休んだ。
毎日、真希を求めた。
真希も、次第に、私の行為に応えるようになってきた。
かたくなだった表情も、3日目には、たまに笑顔が覗くようになった。
(真希。私の真希)
「圭ちゃん、明日は仕事なの?」
「真希も、仕事に戻らないとね。私のマンションから通うといいよ。マネージャーさんには、ここの住所、教えておいたから」
早朝。
チャイムが鳴った。
真希は、まだ眠り込んでいる。
私は、朝方の行為の余韻を引きずったまま、玄関へ向かった。きっと、真希のマネージャーさんだろう。
始め、背の高い少年かと思った。綺麗な顔だった。
「真希に準備させますんで、もう少し、待って」
その少年を──いや、彼女を、私は知っていた。
「こんにちは。久しぶりね」
市井紗耶香が、そこに立っていた。
市井紗耶香(3)
圭織を抱いたのは、残酷な復讐心からだった。
圭織の身体に、後藤の匂いを求めたのだ。
でも、その行為は、間違いだったことに、すぐに気付いた。
圭織は、初めてだったのだ。
後藤と圭織の同棲の意味に気付いた朝。
私は、いなくなった圭織を追って、あのマンションに戻った。
「ごっちんは、出ていっちゃった。止められなかったよ。……ごめんね」
足下から、地面が崩れていくような、絶望感。
私が犯した罪は、どれだけの罰によって、償われるのだろうか。
「私は、いいから。ごっちんを、助けてあげて」
ぽろぽろと涙を流す圭織。
(そう、私は、彼女にも償いをしなければならない)
圭織も、深く傷ついたのだろう。
それでも、こうやって、他人を思いやっている。
私は、知らない間に、汚れてしまったみたいだ。
こんな私を、後藤が許してくれるはずなんてない。
「私さ──もうホテル、チェックアウトしないといけないんだ。しばらくの間、ここに居て、いいかな?」
後藤の行方は、分からなくなっていた。
ただ、マネージャーに、3日ほど休養する、と連絡があっただけだった。
私と圭織の、共同生活が始まった。
圭織は、私との接触を、頑なに拒否した。
手を触れることさえ、許さなかった。
圭織の、私に対する気持ちは知っている。
圭織は、後藤に義理立てているんだ。
3日目の夜遅く、圭織が仕事から戻って来た。
「マネージャーさんに、連絡があったそうです。ごっちんは今、圭ちゃんのところにいる、って」
私は、さっそくタクシーを呼ぼうと、受話器を取った。
「行っちゃうの?」
圭織は、両手を身体の前に、泣く寸前のような表情で言った。
「……うん。今日まで、ありがとうね」
圭織は何かをいいたげに、口を開き、また閉じる。
圭織が何を言いたいのか、痛いほど分かった。
「でも、私、後藤が好きなんだ。ゴメンね」
圭織は涙をこぼしながら、
「最後に、一つだけ、お願いを聞いて。今夜だけでいいから、一緒に居て欲しいの」
この部屋に来て、初めて、圭織と一つのベッドで眠った。
明け方、出ていく支度をしている私を、圭織は背を向けて、見ないようにしていた。
「それじゃあ、行くよ」
圭織の頬を撫でる。もう、圭織は抵抗しない。
こちらを向かせて、そっと、唇をふさぐ。
圭織は、小声で、さよなら、と言った。
「真希に準備させますんで、もう少し、待って」
私のことを、マネージャーとでも思ったのだろうか、扉を開けながら、彼女は言った。
保田圭は、変わった。
目に力がある。自信が、彼女を成長させたのだろう。
私のことを認識したのか、挑戦的に睨み付けてきた。
「こんにちは。久しぶりね」
圭ちゃんの視線を、笑顔で返す。
「入っていいかな」
一歩、足を前に踏み出す。
圭ちゃんは、私の前に立ちふさがった。
「……それは、ダメってこと?」
「今更、なにをしに来たの」
私は、肩をすくめて、ため息をついてみせた。
「後藤を、引き取りに来たの」
「もう遅いよ」
圭ちゃんは、私に笑いかけた。その余裕が、私を不安にさせた。
「私ね、真希を抱いたの。彼女、初めてだったよ」
一瞬、五感のすべてが閉ざされた。ごうごう、と風が耳元で鳴り響いた。
私の中で、後藤は三年前の後藤のままだった。それが裏切られた、とあの時思った。
でも、本当は違った。後藤は、後藤のままで、私を待ち続けていてくれたのだ。
すべてを壊したのは私だ。
私は、私を呪った。
世界の苦しみが、すべて私に降りかかればいい、そう強く願った。
「ここは、貴方の来る場所じゃないよ。もう帰りな」
圭ちゃんは、部屋の中に戻り、扉を閉めた。
私は、しぱらくの間、そこから動けなかった。
後藤真希(3)
三時間ほど前の余韻を引きずる、けだるい朝。
市井ちゃんの声が聞こえたような気がして、目が覚めた。
(夢、だったのかな)
市井ちゃんが、私を探しに来てくれたりして。
まさか、そんなことは絶対にないんだけどね。
だって市井ちゃんは、圭織を選んだんだからさ。
圭織は、優しい子だから、きっと市井ちゃん、気に入ると思うよ。一緒に住んでいた私が保証する。うん。
市井ちゃん、幸せになってくれるといいな。
ううん。ダメダメ。
市井ちゃんのことばかり考えてちゃ。
私はもう、圭ちゃんの女なんだから。
一杯、恥ずかしいことをされたし、一杯、いろんなことを覚えた。
もう、私は、昔みたいに、市井ちゃんの前には立てないよ。汚れちゃったからね。
なんて言うと、圭ちゃんに悪いか。はははっ。
圭ちゃんが、部屋に戻ってきた。
マネージャーさんが来たの? と聞くと、まだみたい、って答えた。
真希、どうして泣いてるの。
そう聞かれて、初めて、自分が泣いていたことに気付いた。
ううん、分かんない。どうして涙が出て来ちゃうんだろうね。
(市井ちゃんの夢を見たからかな)
真希、まだ時間あるよね。
そう言って、圭ちゃんはまた、私を求めてきた。
私は、目を閉じて、圭ちゃんを受け入れた。
飯田圭織(3)
ねえ、ごっちん。かおりはね、本当は、卑怯な女なんだ。
ごっちんみたいなストレートな情熱はないし、紗耶香みたいに自分で人生を切り開いていく力もない。
かおりは、ただ、提供するだけ。
弱くなっている心に(もっと楽なやり方があるよ)って囁くだけ。
3日前まで、ごっちんの中に紗耶香を残したまま、ズルズルと一緒に暮らしていた。愛情よりも、惰性の方が強いってことを知っていた。
かおりのやり方はね、誰もが傷つかずにすむ方法なんだ。悲しいこともつらいことも、時間が押し流してくれるから。無慈悲な忘却が、私の感情を残らず消し去ってくれるのを、膝を抱えて待っていればいいんだ。
これまでも、そうやって生きてきたしね。
紗耶香とごっちんが一緒にいるのが、一番正しいんだ、ってことは、痛いほど分かってる。
きっと、嫉妬していたんだよ。
いつも、2番目にしか愛されないかおりは、
お互いの存在のみが、世界で唯一無二の2人に。
それが、私の罪。
『私、遅かったみたい。きっと、罰が当たったんだ』
朝、別れたばかりの紗耶香からの電話。
圭ちゃんのところで、ごっちんは暮らすみたい、って紗耶香は言った。そっか、ごっちんは、圭ちゃんにすがったんだ。
紗耶香は、ひどく打ちのめされているみたいだった。
再会したばかりの頃の、圧倒されるようなバイタリティはその声からは感じられない。
(……ごめんね、ごっちん。紗耶香、私がもらうね)
紗耶香の心が見えた。
紗耶香は、癒やされたがっている。そして、私は、その場所を提供することが出来る。
「紗耶香、相談する相手、間違ってない?」
詰問するような口調。
「かおりが、傷ついてないとでも思ってるの?」
「……」
紗耶香は黙っている。普段の紗耶香ならまだしも、今の紗耶香に抵抗する力はない。
(結局、みんな流されていく。本当に大切なものから目をそらして)
「紗耶香には、責任があるんだよ。紗耶香は、かおりに償いをしないといけないんだよ」
紗耶香は、3年で、すっごく変わったけど、紗耶香のままだったね。責任感があって、まっすぐで、本当は、眩しくて正面から見られないくらいなんだ。
「それは……」
私は、ズルイ。
「ウチに、帰っておいでよ。しばらくの間さ、ウチに居ればいいよ。今から、かおりは仕事だけどさ、ごっちんと一緒だし」
人は、弱い生き物だ。
「今日のごっちんのこと、話してあげる。かおりと一緒にいれば、ごっちんのこと、毎日分かるよ」
結局、なにも変わらない。
紗耶香の心の中にはごっちんがいて、私は2番目。
なにも……変わらない。
4人(1)
「ここ、静かでいい場所だね。真希、よくこんなところ知ってたね」
「うん。昔は、ここ、よく来てたんだ」
すれ違う学生たちが、驚きの表情で振り返る。
明らかに、一般人とは違うオーラを放つ2人連れ。
後藤真希と、保田圭だ。
「ここ、人が少なくて、落ち着けるんだ……あの丘から見える夕陽が、すっごく綺麗だよ……」
後藤は、思い出にふけるように、潮風に目を閉じる。
保田はそんな後藤の横顔を盗み見て、ひそかにため息をつく。
海岸沿いに伸びる、公園。
芝生に挟まれた小道を上ると、小高い丘に出る。
「ふーん。……ね、真希、お腹すかない? 何か、食べてから帰ろっか」
「……」
「ね、真希ったら」
ふいに、現実に引き戻されたかのように、保田を振り向く後藤。
「う、うん。今日は楽しかったよ」
保田は、悲しそうな表情で、後藤を見る。
「うわ、海だよ」
ふと、後藤は先客の2人連れに気付く。
足を止める。
「どうしたの、真希?」
保田がいぶかしげに、目を細める。
4人(2)
「なんかさあ、今日は、一杯歩いて、疲れちゃったよ」
「トレーニング不足だよ」
「あー、ひっどーい」
長身の、2人組。
一見、モデルのカップルのように見える。
市井紗耶香と、飯田圭織である。
「ねえ、紗耶香、ここ、なんかノスタルジックな場所だね」
「……うん、思い出の場所なんだ」
紗耶香は、遠い目をする。
圭織は、紗耶香の横顔を眩しそうに見つめる。
「今日は、楽しかったよ。ありがとね、紗耶香」
紗耶香はぼんやりと空を眺めている。
「紗耶香ったらッ」
「え、ああ、なに食べたい?」
「もう」
拗ねたような表情で、圭織は小道を歩いた。
「ね、あの丘から海見えるかな?」
「うん。今の時間だと、夕陽が綺麗だよ、きっと」
丘に上がると、途端に視界が広がる。
ずっと高くに見える水平線に、沈んでゆく夕陽。
ふと、自分たちとは逆の道から誰かの声がする。
「うわ、海だよ」
「……どうしたの、真希」
紗耶香は、その2人連れを見、固まってしまう。
市井紗耶香。
後藤真希。
飯田圭織。
保田圭。
4人の時間と景色が、切り取られる。
保田圭(2)
真希の身体が、硬直するのを感じた。
紗耶香と圭織が、丘の上にいた。
2人が、一緒に住み始めた、って話は、真希から聞いた。
私は、その2人の行為を、節操のないものに感じた。
紗耶香は、笑って、
「元気だった?」
真希をまっすぐに見て言った。真希しか、見ていなかった。
「……」
真希は、黙って、私の後ろに隠れた。
紗耶香の顔に浮かんだ、淋しそうな表情にはなんだか同情させられたけど、でも、紗耶香には自業自得だ。
現に、今も、圭織と行動を共にしているじゃないの。
「行こう、真希」
真希の肩を抱いて、今来た道を引き返す。
真希は、鼻をすすって、涙をこぼし始めた。
一緒に暮らすようになってから、何度も見た、声を出さずに、涙だけをを流す、真希の泣き方。
真希の涙の意味を思うたび、胸をかきむしられるような気持ちになる。どうしようもない無力感に、打ちのめされる。
(私じゃ、真希の心に届かないの?)
ぎゅっ、と真希を抱き締めることしか出来なかった。
私は、階段を長く伸びる、私と真希の黒い影を、なんともいえない気持ちで眺めていた。
飯田圭織(4)
紗耶香の表情が、みるみる強ばった。
その視線を辿ると、圭ちゃんと──ごっちんが、いた。
私は、瞬間的に、目をそらした。
特に、ごっちんの目を見ることが出来なかった。
(私ね、一昨日、紗耶香に抱かれたんだ)
(誘ったのは、私。でも、紗耶香は、ごっちんの代わりに、私を抱いたんだよね)
(分かってる。それは、私が望んだこと。私は、なに一つ、傷ついてなんていない)
でも、ごっちんを見つめる、ごっちんしか見ていない紗耶香の横顔を見るのは、つらい。
この気持ちは、なんだろうね。
私、紗耶香の一番になりたい、なんて思い始めている?
かおり、その望みは危険だよ。
心を、ズタズタにされちゃうよ。
(今のままでいい)
(今のままでいい)
紗耶香、でも、2人でいるときくらいは、かおりだけを見ててよ。普段はごっちんのこと、考えてていいからさ。
お願いだよ、紗耶香……。
市井紗耶香(4)
信じられない気持ちだった。
後藤真希が、目の前に突然現れたのだ。
ここは、後藤との思い出の場所。
3年前、私の夢を初めて、他人に語った場所。
一瞬、何も変わってないんじゃないか、って思った。
後藤の教育係として、2人でダンスのレッスンをして、疲れた時に、ここへ来て、また明日からは頑張ろうね、って後藤に笑いかけて、
(市井ちゃん、こんなんじゃ絶対ダメだよ。私、絶対、失敗しちゃうんだ)
(なに言ってんのよ。私が教育係を任されてる以上、後藤に失敗なんてさせないよ)
奇妙な違和感。
どうして、後藤は私の隣りにいないんだろう。
どうして、私の隣りにいるのは、後藤じゃないんだろう。
それは、まるで理不尽に感じられた。
「元気だった?」
後藤は、じっと私を見ていたクセに、声をかけた途端、圭ちゃんの後ろに隠れてしまった。
ああ、ならば、これが現実なんだ。
思えば、
どこで、間違ってしまったんだろう。
なんて遠くに来てしまったんだろう。
ロンドンで勉強していた時、後藤以外の未来なんて、考えてもみなかった。
それが今は、2人、別々の道を歩いている。
別々に、生きている。
「行こう、真希」
肩を抱かれて、歩いてゆく後藤を、追いかけたかった。
後藤が拒もうがどうしようが関係ない。
私は、後藤を、
2人の姿が、見えなくなる。
……。
深く、ため息をつく。
「ね、キスしてよ」
圭織が、私の服のすそを引っ張る。
圭織の孤独が、後藤への思いを留まらせる。
「……」
「……」
空が、高い。
後藤真希(4)
(市井ちゃんッ!)
叫んで、市井ちゃんに飛びつく。
市井ちゃんは、これまで何も無かったかのように、あのとびっきりの笑顔で、私に笑いかけてくれるんだ。
そんな映像が、瞬間的に脳裏を走った。
でも、実際は、身体が硬直してしまって、動けなかった。
市井ちゃんが、いた。
真っ赤な夕陽を背景に、市井ちゃんが、そこに、いた。
ああ、涙が出てきそうだよ。
市井ちゃん、ここで、ぐわーっ、て私を横抱きにして、さらっていってよ。そしたら、私はなんにも抵抗出来なくて、もう市井ちゃんにされるがままんだよ。
市井ちゃんは、私を見ていた。
私も、市井ちゃんしか、見えていなかった。
市井ちゃんの唇が、ゆっくりと動いて、
「元気だった?」
って言った。
途端に、私は、恥ずかしくなった。
(私は、市井ちゃんに相応しくない)
(今の私を、市井ちゃんに見られたくない)
思わず、圭ちゃんの後ろに隠れた。
私の身体を、市井ちゃんの視線にさらしたくなかった。
ガタガタと、身体が震えてきた。
これまでの3年間、市井ちゃんのことをずっと考えて生きてきた。
市井ちゃんとの未来を、いつも夢想していた。
どこで、間違ってしまったんだろう。
なんて遠くに来てしまったんだろう。
「行こう、真希」
圭ちゃんに、肩を抱かれる。
そう、ここが、今の私の居場所なんだ。
無理やり、自分に納得させる。
涙が、止まらない。
歩きながら、ポロポロと涙を流した。
長い階段の手前で、圭ちゃんは、私をぎゅっ、と抱き締めてくれた。
心の痛みが、少しだけ癒されたような気がする。
圭ちゃんが、私のあごを持ち上げて、上を向かせる。
「んっ」
「……」
私は、
私は……。
保田圭(3)
真希は、行為の間、私の目を見ない。
虚ろな視線をさまよわせながら、なにかに耐えている。
罰を甘んじて受け入れている囚人のようでもあり、あえて汚されることを望んでいる背教者のようでもあった。
でも、それは、私にとって、ひどい侮辱だった。
「あんまりさ、バカにしないでよね」
真希は、悪くない。
耐えきれなかったのは、私だ。
「ごめん、なさい」
真希の目に走る、怯えの色。
媚びる表情。
『見捨てられる』
『置いていかれる』
そんな恐怖感が、真希の心に刻印されてしまったのだろう。
その刻印には『市井紗耶香』と深く記されている。私は、紗耶香の幻想を、真希から追い払うことは出来ないんだろうか?
(真希は、こんな目をする娘じゃなかった)
(私の愛した真希は、こんな娘じゃなかった)
私は、無力だ。
真希の中で、紗耶香は常に一番で、私はその代用品にしか過ぎない。真希を守ろうとすればするほど、無力感に、打ちのめされる。
(私が欲しかったのは、真希そのもの? それとも……)
もし、そうであるならば、私のとるべき行為は、
(紗耶香の元に、真希を……)
(イヤだ)
(真希は、私のモノだ)
3年、待った。
でも。
でも……
「今日は私、ソファーで寝るよ」
このまま一緒にいると、ひどい言葉で真希を傷つけてしまいそうだから。
「……」
この日の夜、真希は、一人でなにを考えていたんだろう。
結果として、私は、真希を追い込んでしまった。
真希と過ごした、最後の夜。
私の犯した、許し難い罪。
飯田圭織(5)
私の心の傷は、癒やされることなんてなかった。
紗耶香が私の身体を愛するとき、その傷はまるで、えぐられるように痛んだ。
今まで、二番でいいって思ってたじゃない。
傷つくのが、一番怖いんだよ。
「今日さ、ごっちんさ、新人にダンス教えてもらっちゃってたよ。どっちがお姉さんなんだ、って感じ」
「ふーん、後藤らしいね」
心から嬉しそうに笑う紗耶香。
「実質、娘。は今は二班に別れてるからさ、明日は、かおり、帰ってくるの遅くなるんだ」
「じゃあ、今日は後藤が遅いんだね」
「……うん。今頃、イベントライブの真っ最中だと思う」
ごっちんが、うらやましい。
かおりと一緒に暮らしていても、紗耶香の心はいつもごっちんのところにある。
昔、ごっちんと暮らしていたときも、同じようなことを考えた。
あの時は、うずくような鈍い痛みだった。
でも今は、キリキリと刺されるような、鋭い痛みだ。
(ごっちんよりも紗耶香が好きだ、っていうんじゃなくて)
(2人とそれぞれ同居したことで、2人がどれだけ強い想いでつながっていたのか、そんな純粋な感情があるんだ、って知ってしまったからだ)
(そして、私は、何度でもひとりぼっちを痛感させられる)
どうすれば、私も彼女たちのようになれるのかな?
夕ごはんの時間。
「圭織、マヨネーズ取って」
「人参スティックに、マヨネーズつけるの? 醤油にしなよ。日本人なんだからさ」
「いいんだよ。ブリディッシュ風なんだから」
こりこりと、前歯で人参を食べる紗耶香。ウサギみたいで、可愛い。
私は、そのとき、本当の恋に落ちた。
「紗耶香」
「ん? なに?」
「明日、部屋を出てって」
紗耶香は、ぽかんと口をあけた。
「そんなに、マヨネーズはダメなの?」
私、決めたよ。
紗耶香の一番になりたい。
だから、
「いいから、もう、いいの。紗耶香のこと、大好きだよ。だから、ズルしたくない」
きっと、ごっちんには勝てないだろう。
いっぱい、傷ついちゃうんだろうなあって、思う。
でも、自分でも驚いてた。私の中に、こんな感情が隠れていたなんて。
こんなに誰かを好きになったことはなかった。
好きになって欲しい、って思ったことはなかった。
それは、安らぎなんかよりも、ずっと深くて、ずっと大切な気持ち。
みんな、紗耶香とごっちんに教えてもらったこと。
「紗耶香は、一度、ごっちんのところへ戻るの。そして、私は、それから、紗耶香を奪いに行くの」
「……でもさ、肝心の後藤がさ……」
ちっちゃな男の子みたいに後込みする紗耶香。
紗耶香は、ごっちんに関してのみ、ひどく臆病だ。普段はあんなに自信たっぷりなのに。
「そこが悪いのさ」
私は、大声で紗耶香に怒った。
「そんな弱気だから、ごっちんの方も、嫌われた、なんて思っちゃうのさ。いいから、明日、ごっちんに電話してみな。絶対、喜んでくれるからさ」
「そっか……。うーん、そうかなあ……」
どこまでも、優柔不断な紗耶香。
「でも、分かったよ。明日、後藤に連絡する。じゃあ、今夜は圭織を抱き納めだな」
「やだよ。やらせてあげないよ」
……ごっちん以外には、こんなに自信満々なのにね。
後藤真希(5)
イベントライブ、開始10分前。
(市井ちゃん、今夜はなに食べてるのかなあ)
きっと、圭ちゃんにも嫌われてしまった。
私は、本当は、誰からも愛されない人間なんだ。そして、愛されない人間は、生きている価値もないんだよね。
移動用の車の中で、夢を見た。
3年前の思い出だ。
(ホントは、今でもイヤなんだからね。――約束だよ。絶対に3年たったら、帰ってきてよ、ずっと待ってるんだから)
(約束するよ。3年たったら、後藤を迎えにいくよ……だから、泣かないで……)
「市井ちゃんっ」
起きた。
寝言で、市井ちゃんの名まえを呼んじゃったみたい。
三年前の私たちは、なんて幼かったのだろう。
こんな日がくるなんて、思いもしなかった。
市井ちゃんと別れることになってしまった日のことは、もう思い出せない。
赤いバラと、冷たい雨だけを覚えている。
(頭、痛いな)
ライブが始まった。
寝不足と体調不良でふらつく足を叱咤して、会場を走り回る。
ふと、
観客席に、市井ちゃんが見えたような気がした。
幻覚だってことは分かっている。
それは、3年前の市井ちゃんの姿だったから。
(市井ちゃんが、迎えに来てくれた!)
幻覚でもなんでも良かった。市井ちゃんが、約束を守ってくれたんだ。
足が、ふらふらと前に出た。
観客席に飛び込めば、市井ちゃんが受け止めてくれる。
私は、ステージを蹴って、観客席へ、身を投げた。
市井紗耶香(5)
その知らせは、夜遅く、届いた。
12時を過ぎてからの電話は、ドキッ、とする。
なにか悪い知らせなんじゃないかって。
圭織が、電話に出た。
私は、なんとなく、圭織の横顔を見ていた。
(悪イ知ラセ)
圭織が、何を言ったのか、覚えていない。
病院に向かうタクシーの中で、裕ちゃんに後藤の状態を詳しく聞いた。
真希は、本番中に、ふらふらと前に出て、
それが、故意なのか、事故なのかは分からないけど、
ステージから転落して、
打撲はまだいい、
脳内に広範囲の出血があって、
……。
あれ、裕ちゃん? 今、なんて言ったの?
……。
聞こえないよ。
タスカラナイ。
え? なんだって?
後藤が、どうなのさ?
セキズイノ、ウラガワニ、シュッケツガ、アッテ、ソコニハ、テノイレヨウガ、ナクテ、ダカラ、モウ、タスカラナイカモ、シレナイ。
脳が痺れている。
言葉が、理解出来ない。
病院についた。
私は、一直線に、ICUを目指した。
途中で、圭ちゃんに会った。
「紗耶香、ゴメン。私が、悪いんだ。私が、後藤を追いつめなければ──」
「邪魔」
圭ちゃんを押しのけて、歩く。
これは、私と後藤だけ問題で、それ以外の人間には一切関わりのない話だ。
ICUの前には、懐かしい娘。のメンバーたちや、後藤のお母さん、そして、医者がいた。
(なんで医者がここにいるの。後藤の側に常に張り付いてなきゃダメじゃないのッ)
ムカムカしながら、医者に文句を言おうとして、
「市井さんですね」
後藤のお母さんに話しかけられた。
「娘が、市井さんの名まえをずっとうわごとで呼んで……それで、夜遅くご迷惑でしょうけど、連絡させて頂きました」
「彼女の名まえを、呼んであげて下さい。肉親の人よりも、貴方の方が、効果がある、とお母さんがおっしゃるので」
医者に言われて、不思議な気持ちがした。
まるで、後藤のことを、死ぬ人みたいに言ってるじゃないの。縁起悪い。
白衣を着せられて、手術室に入る。
全身に、たくさんのコードをつながげられて、血で汚れた包帯で頭をグルグル巻きにされた、後藤が、寝かされていた。
「ちょっと、これなによ。こんなにゴチャゴチャつないじゃって、後藤が可哀想じゃない」
大声で言った。
看護婦が、なんだ、って顔で振り向いた。
「……市井、ちゃん?」
「意識が戻りました」
その看護婦が、大発見でもしたかのように叫んだ。
なに大げさなこと言ってるのよ。後藤は、ちょっと脳しんとうを起こしただけで、大したことはないんだから。
「市井、ちゃん……どこ? 見えないよ……」
顔の上半分は、包帯で巻かれているから当然だ。
「……ごめんね、市井ちゃん。……ホントにごめん」
「後藤さん、喋らないで下さい」
医者が、横から後藤の言葉を遮る。
構わず、後藤は言葉を続ける。
「私、……市井ちゃんに、いっぱい……ひどい、こと、しちゃったよ」
「喋らないで、後藤、喋っちゃだめ」
医者が、何かを怒鳴っている。看護婦が慌ただしく機材を持って、走り回る。
「……私、もう3年前の……私には、戻れないよ。……市井ちゃんに、私、……なんにも、あげられない……」
何にも悪くない後藤は、声を震わせて、私に詫びた。
「お願いだから、今は、興奮しないで。あとで、いっくらでも話聞いてあげるから」
包帯だらけの頭を弱々しく振って、私の声の方向に、顔を向ける。
「……ううん、私、分かる……の。市井、ちゃんが……来てくれる、まで、……がんばったんだ……」
後藤は、ゴロゴロと喉を鳴らして、痛みに耐えているかのように、歯を食いしばった。
脳波を記すメーターの波が、大きく歪んだ。
「最後の……お願い、聞いて、欲しかった、から……」
後藤の声は、どんどん弱々しくなってゆく。
「最後なんかじゃないよ。なに、お願いってなにさ」
「……私に、私に、触って欲しい……の。……最後に、市井ちゃん……のあったかい……感触が、欲しいの。そしたら、満足して…………」
「そんなのダメだよ。私、触らないよ。後藤、元気になったら、いっくらでも触ってやる。だから、最後だとか言わないの」
私は、後になってこの言葉を思い出すたび、劇的な後悔に襲われた。
後藤の口が、力無く動く。
「……私、やっぱり、汚れて、るんだ……ね。……市井ちゃん、そんな私に、……触りたくなんてないよね。ゴメンね……信じて、あげられ、なく、て……」
かすれるような声。
ああ、胸が、張り裂けそうだ。
「最後に、市井ちゃんの顔……見たかったな……」
しゅう、しゅう、と呼吸が激しくなる。
「後藤ッ――」
後藤の唇が、かすかに、開く。もう声は出ない。
ゆっくり上下する唇の動きが、言葉を綴る。
(いちい、ちゃん、だいすき、だったよ、ありがとう、……ばいばい)
全身の血が凍った。
「後藤、後藤ッ」
獣みたいに、叫んだ。
後藤の身体につながったケーブルを全部引きちぎって、後藤を揺さぶろうとして、
「きみ、何をやってる」
「ちょっと、この人を外へ」
「離せ、後藤が、後藤が――邪魔するな、みんなブチ殺すぞ、バカ野郎、離せったらああああっ!」
数人に、羽交い締めにされながら、手術室から引きずり出された。
壁だろうが人だろうが、お構いなく殴った。
圭ちゃんがすがってきて、それも思いっきり殴った。
手の皮が破れて、血が飛び散った。
悪魔よ、今だぞ。
私を呪うなら、今だ。
今なら、どんな取引にでも応じてやる。私の身体も命も1万回、売り渡してやる。世界を引き替えにしたってかまうものか。後藤を、後藤を助けて、後藤が、後藤が、後藤が、
(ああアあああああアアアあアっっっっ!!!!!)
圧倒的な狂気が、私に降りてくる。
後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤後藤………………………………
無理やり、ベッドに押し倒される。
壁を蹴る。
腕を押さえつけられる。
何かに噛みつく。
右腕に、チクリ、とした痛み。
目の前の顔を殴る。
(後藤……)
私は、引きずり込まれるように、昏倒した。
強烈な鎮静剤を打たれたのだ。
光の向こう。
――3年前の、私たちがいる。
(どうしたの、市井ちゃん。汗かいてるよ)
(……すっごい悪い夢見てた。ぶるぶる)
(ふん、私を置いていく罰だよ)
(まだ怒ってるの? 後藤って、執念深いんだなあ)
(ホントは、今でもイヤなんだからね。――約束だよ。絶対に3年たったら、帰ってきてよ、ずっと待ってるんだから)
(約束するよ。3年たったら、後藤を迎えにいくよ……だから、泣かないで……)
3年たったら、後藤を迎えにいくよ……
だから……
市井紗耶香(6)
薄曇りの日。
霧のような、雨が降っている。
後藤、私さ、今日は、すっごいお洒落して来たよ。
赤いバラも買っちゃった。ふふふ、惚れ直してくれるかな。
ねえ、後藤。私たち、あの日からやり直そうね。
今日も外は雨みたい。
なんだか、おかしいね。
ねえ、後藤。
後藤……
(泣いちゃダメだよ、紗耶香)
うん。
笑顔で、後藤に会いにいかないと、それこそ後藤に怒られちゃうよ。
私が泣いたら、後藤も泣いちゃうよ。
あの子、泣き虫だからさ。
ドアを開ける。
穏やかな表情で、目を閉じている、後藤。
いやに肌の白い、綺麗な後藤の横顔。
「後藤──」
話しかける。
ねえ、後藤、目を開けて。
市井ちゃんが、来たんだぞ。
早く目を開けないと、怒って、帰っちゃうよ。
後藤は、
ゆっくりと目を開いて、
「……市井ちゃん、帰っちゃヤダ」
拗ねたように、呟いた。
流されて、流されて、やっとここに辿りついた。
もう、離さないよ。
どんな運命にも、引き離されたりしない。
後藤は、奇跡的に、一命を取り留めた。
障害は、残った。
腰から下の下半身不随。
足を触られても、なんにも分かんないよ、そう言って、後藤は笑った。
私は、きっともう、後藤の身体を愛することは出来ないだろう。
でも、そんな些細なことは、2人にとってどうでもいいことだった。
神さまに感謝した。
2人で寄り添って生きていく。こんなに私たちは幸せに満ちているのに、これ以上の望んだら、それこそバチが当たるよ。
そう言って、2人で笑いあった。
「ん……市井ちゃん、バラ、買ってきて、くれたんだ」
「うん」
後藤に、バラを差し出す。
やっと、私は、帰ってきたよ。
3年前の約束、ようやく、果たせたよ。
万感の想いを込めて、言った。
「後藤、ただいま」
後藤は、満面の笑みで、答えた。
「おかえり、市井ちゃん」
(Fin)
後日談:市井紗耶香と保田圭
今日も、朝から雨が降っていた。
「久しぶりだね、紗耶香」
「ん……あれから、一ヶ月ぶり、かな」
後藤をお見舞いに行った病院で、圭ちゃんに会った。
帰りに、カフェでお茶することになった。
圭ちゃんは、まだ、顔の真ん中に、ガーゼを当てている。
「あれから、会う機会なかったね。今謝っとくよ。鼻の骨、折っちゃってゴメン」
病室の大暴れで、圭ちゃんの顔の真ん中をブン殴ってしまったんだ。
「もういいよ。ホントはさ、これで、少しは救われたんだ。あのときの私って、罪悪感の固まりだったからさ。紗耶香だって、指の骨、折っちゃったんでしょう?」
「こんなの、怪我のうちに入らないね」
私は、右手の包帯を見せて笑った。指の骨が複雑骨折しちゃっていて、しばらくの間、日常生活にはすごく困った。
「あれから、真希とはどうなの?」
「別に」
ふふん、と圭ちゃんは笑う。
「なんだよ」
「甘々なんでしょう。すっごいベタベタしてる、って看護婦さんから聞いたよ」
「そんなバカな」
肩で笑って、メンソールのタバコに火をつける。
「クールなフリしても、ごまかせないよ」
「フリなんかじゃないさ」
圭ちゃんは、しばらく黙って、
「真希ってさ、左の胸が、弱点なんだよね」
かっ、と頭に血が昇った。
左手で、圭ちゃんの胸ぐらをつかむ。
「わわわわわたしがまだ触れていない聖域を」
まだなんだ、って圭ちゃんは笑った。
もう一度、鼻の骨を折ってやろうか、と真剣に思った。
「それくらい威勢が良くてこそ紗耶香だよ」
真希のことになると、平常でいられない。だから、安心して、真希を託せるんだ、そう圭ちゃんは言った。
「あの子、本質的に寂しがり屋だからさ、大事にしてあげてよね……」
圭ちゃんの語尾が震える。
私のメンソールを抜き取って、
身体ごと、向こうをむいて、タバコをくわえる。
「当然だよ。なんかその後藤を知り尽くしてる風の物言いがムカつくけどね」
ふふふっ、と2人で、笑いあう。
窓の外を見る。
長かった雨も、ようやく、あがろうとしていた。
後日談:後藤真希と飯田圭織
「ごっちん、来たよ〜元気〜?」
圭織は、週に一回くらいのペースで、お見舞いに来てくれる。
いつも、沢山のお菓子を持ってきてくれるから、嬉しいんだ。
市井ちゃんは、太るからダメ、とか言って没収されちゃうから、いつもベッドの下に隠している。そして、夜中にこっそり食べるのだ。
入院してから三ヶ月目。
手すりにつかまっての、歩行訓練まで、リハビリのステップは進んだ。
一生、下半身不随だ、って言われたけど、頑張ってここまで回復させたんだ。
市井ちゃんへの愛がなせる業なのさ。へへっ。
「さっき、先生に話、聞いたよ。もの凄い執念だ、って言ってた。かおりも鼻が高いよ」
「圭織は関係ないじゃん」
なんだよ〜、と圭織は本気なのか冗談なのか分からない口調で言う。
圭織が遊びに来ると、市井ちゃんは居心地悪そうになる。私がチクチク苛めてあげるからだ。
今日も、散歩に行ってくる、とか言って、そそくさといなくなってしまった。
「紗耶香ってさ」
汗を拭いて、圭織の持ってきてくれたスポーツドリンクを飲みながら、話をする。
「紗耶香って、まるで旅人なんだよね。なんか、ふらっ、て、いなくなってしまいそうなイメージなんだよ。ごっちん、紗耶香、しっかり捕まえときなよ」
「大丈夫だよ。なんかその、市井ちゃんを知り尽くしてる風の物言いがムカつくけどね」
圭織は意地悪な表情を浮かべて、
「ごっちんは、紗耶香に、愛されちゃってるもんねえ。リハビリ頑張れるのも、下半身は特に大事だからかなあ〜」
意味ありげに笑う。
「そ、それだけじゃないよ。それ以外にも、歩けたら便利だなー、とか」
「やっぱ、それがメインなんじゃんか〜」
圭織が、私の背中をバンバン叩く。痛いよ。
市井ちゃんは、すっごく私を大事にしてくれる。恐る恐る、って感じで、私に触ってくるんだ。嬉しいけど、もう少し乱暴にされても……ってそれはまだ早いか。はははっ。
消毒の時間でーす、とかいって、身体じゅうにキスしてくる。動かなかった足も、市井ちゃんにキスされたら感じちゃったよ。
その勢いで、つかまり立ち出来たくらいだもんね。
私は、市井ちゃんで満たされている。
市井ちゃん三昧で、毎日を暮らしている。
「ごっちん〜、なに妄想入ってんのさあ」
圭織のニヤニヤ笑い。
「市井ちゃんとの愛の日々さ」
笑顔で返した私に、負けないよ、ごっちんが退院したら、私も猛プッシュなんだから、と圭織は言う。
(市井ちゃん、なにげに、たらしの才能ありで怖いんだよね)
そもそも、市井ちゃんは、イギリスで経験済みなのか?
相手は、金髪美人なのか?
嫉妬のネタは尽きない。
(まあいいや。市井ちゃんを信じることに決めたんだから)
私は、マジメな顔に戻って、
「あと、一ヶ月くらいで、娘。にも戻れると思うよ。コンサートとかはまだ半年は無理だけどさ」
「うん」
「頑張んなきゃね」
「頑張ろうね」
圭織と肩を並べて、窓の外の風景を見る。
長かった雨も、ようやく、あがろうとしていた。
(終わり)