かなづちキンギョ

 

泳げない金魚は、死ぬまで水面には上がれないの。
水底で口をぱくぱくしてるだけ。
だから、泳げる金魚は誰も気付いてくれないの。
可哀想な、可哀想な泳げない金魚。
もし、泳げる金魚の誰かが気付いてくれたら、
もう寂しいって泣かなくてもすむのにね。

 

1.泳げる金魚達と今は咲いてない桜の花と

 

夏はもうそこまでやってきていた。
爽やかな午後の風が放課後のクラスで寛ぐ少女達に安らぎを与えていた。
「よっすぃー、今日これからどうすんのぉ?」
窓際で風にあたりながら後藤が、吉澤を見ようともせずに聞いた。
黒板を消していた吉澤は涼やかに笑って言った。
「特には、決めてないかな?」
「じゃぁ後藤とアイス食べに行かない?」
「いいよ」
自分を指差しながら誘った少女は無邪気に笑った。
彼女は自分を名字で呼ぶ癖があり、
それがまた彼女の愛らしさを格別な物にした。
「なに?なんの話してたの?」
ドアの外から覗き込んで、安倍が首をかしげた。
「なっちも行く?アイス食べに」
「行く行く!」
後藤の誘いに、安倍は嬉しそうに柔らかい笑みを浮かべた。

私立のこの学校は、神学校な所為かゆったりとした空気で包み込まれていた。
並木路が学校に入る小さな門から大通りに入る正門までは続いており、そこだけは一般にも解放されていた。
放課後に残っている生徒は少ない上に、この時間帯になれば一般人もあまり見えない。
「アイスと言えばチョコミントだべ?」
「何で?ラムレーズンだよ!!」
「いや、普通にバニラとか言おうよ……」
三人の少女達は、他愛もない会話を続けながら並木路を歩いた。
「あ……!忘れてた!!」
吉澤がぴたっと足を止めると先を歩いていた二人が振り返った。
「どうしたの?」
「何?」
「……今日の体育の時、プールの更衣室に時計忘れてきた」
大事な時計だった。幼い頃に亡くなった祖母の形見で、吉澤はいつもそれを手放さなかった。
「ごめん。先行ってて。すぐに追い付くから」
走り去る吉澤を見送った後藤と安倍はアイスの種類の討論に花を咲かせた。

走って並木路を戻っていた吉澤が後ろを振り返ると、彼女の友人達は楽しそうに笑っていた。
−アイス食べてる間に追い付けばいいよね?
さすがに息がきれてきた彼女は歩調を緩めた。
時々彼女は、1人になりたくなった。
勿論、時計を忘れたのは嘘でも、わざとでもなかったが、それで助かったのも事実だった。
プールは学校から少し離れた場所にある。
「あっつぅ」
陽射しは段々陰ってきているものの真っ赤な太陽は健在だった。
暑さでブレザーを脱いだ吉澤はそれを片手に持って、学校の脇にあるプールへの道に入った。

小走りにプールの更衣室に入ると時計はすぐそこに置いてあった。
「あったぁ。よかった」
感嘆の声を洩らして、吉澤はそれを左の手首にはめようとした。

ちゃぷん。

そんな音が聞こえた気がした。
この学校に水泳部は存在しない。
なおざりに作られた小さなプールで部活動が難しいという事の他に
この学校は競技参加のある部活動は存在しなかった。
学長のおかしなこだわりである。
水泳やテニスといったスポーツから、チェスや将棋といった文化的な競技まで。
ありとあらゆる競い合うゲームは部活動にはなかった。
−誰か、いる?
吉澤は時計と上着をテーブルに置いて、プールへの扉を開けた。

 

2.塩素が運んできたフェイクとリアル

 

ちゃぷん。

その音は、空耳ではなかった。
吉澤の目に入って来たのは制服を来た少女。
見覚えのある顔だった。
話した事もある筈のない、一つ年上の上級生。
隠れて憧れている少女達も少なくないものの、彼女の周りに人がたむろす事はなかった。
吉澤は、彼女と昔一言だけ会話をした事があった。
『これのコピー、お願いしてもいい?』
申し訳なさそうに彼女の高い声が響いたのを今でも覚えていた。
彼女には他に山程仕事があり、同じ委員をしていた吉澤が
ちょうど手を余らせていただけの事だったのに、彼女は遠慮がちに吉澤にコピーを頼んだ。
きっと彼女はそんな事、忘れているだろう。
彼女はどの少女にも、変わらず優しい声を聞かせるから。

プールの水をすくいあげてはまたプールに戻す綺麗な手に、吉澤は釘付けになった。
彼女の形のよい指は、水に濡れてキラキラと光っていた。
暫くぼーっとその様子に見愡れていた吉澤は、後藤達との約束を思い出して、更衣室に踵を返した。

ちゃぽん。

「え?」
吉澤が振り返ると、水辺にいた少女は先程よりも深く水に浸かっていた。
「あっ」
その手が段々とプールの中に入っていくのを見て、吉澤は思わず声をあげた。
そんな吉澤に気付かないまま、少女は水に溶けていく様に体をプールに沈めていった。
「ちょっ!大丈夫っ?!」
自分から入っていった様には思えない入り方に吉澤は慌てて服のままプールに飛び込んだ。

水の中は音が篭って聞こえた。
吉澤は、プールの水が喉に入ってくるのも構わず彼女を呼んだが、彼女は一向に気付かなかった。
水の底まで落ちていった少女はゆっくりと目を閉じて、水にされるがままに漂っていた。
吉澤は彼女の腕に手が届く距離まで近付いて、彼女を強引に引っ張り上げた。
触られた瞬間に驚いた様に少女は目を開いた。
途端に苦しそうにもがき、吉澤から離れようとした。
吉澤はそんな少女をきつく掴んで水面まで連れていった。
水面はきらきらと光ったまま、彼女達を拒まなかった。

「大丈夫……ですか?」
「貴方、吉澤さん?何してるの?こんな所で」
見当違いな彼女の言葉に含まれている自分の名前に密かに驚きながら吉澤は質問をしかえした。
「石川先輩こそ、何やってるんですか」
「……怒らない?」
上目遣いに吉澤を見る石川の表情は、本当に子供の様で。
吉澤は彼女が年下の様な気すらして優しく頷いた。
どうして彼女はたった一言を交わした相手にこんな顔ができるのだろうか。
石川は右手で水をすくいながら言った。
「水に溶けちゃうかもって思ったの」
「水に?」
それは吉澤も感じた事だった。
まるで水の一部の様に、彼女は水と戯れていた。
「だから、少しだけ入ってみようかなって」
「制服のまま?」
「でも、楽しくない?」
「まぁ、ちょっとは」

先程から自分が彼女を抱きかかえたままな事に気付いて吉澤は慌てて石川を離そうとした。
「駄目!離さないで?」
「え?あ、はい」
石川はそのまま俯いて言い難そうに言った。
「……ないの……」
「は?」
吉澤が聞き返すと、石川は拗ねた様な顔でハッキリと言った。
「泳げないの!」
自分がいなかったらどうするつもりだったんだと疑問に思いながら、
吉澤は自分達の身長よりも少し深いプールを石川を抱いたままプールサイドまで泳いだ。

 

3.川の流れよりはるかに緩やか

 

プールサイドはやけに冷たくて、石川がそれにしがみつくのを横目で見ながら、吉澤は水の外に出た。
どうやってこれから帰ろうかと考えた末に、ジャージが置いてある事を思い出したのだ。
「何処に行くの?」
「帰るんですよ。石川先輩は着替えありますか?」
石川が答えるより幾らか早く吉澤はもう一度口を開いた。
「私が持ってるのを貸します」
「あ、ない…って、知ってるんじゃない」
「そんな用意周到な人ならこの格好では泳がないでしょうから」
石川は一瞬不機嫌そうな顔をしてから、吉澤に手招きをした。
吉澤が不可解な顔をして彼女に顔を近付けると、彼女の綺麗な指が吉澤の頬に触れた。
電流が走るなんて、吉澤は信じた事がなかった。
この世は全て理論で立証する事ができると、彼女は親からも教わって育った。
だから人と人の間に静電気以上の電流等、早々流れる事もないと、彼女はよく知っていた。
なのに、今彼女は落雷よりも激しい電流を感じた。
それは、激しいのに柔らかい電流。
いつまでも、いつまでも、その電流に包まれていたい錯覚にかられる、そんな魔法の電流だった。

「…え?うわっ」
一瞬、夢現な顔をした吉澤に次の瞬間に訪れたのは水との再開に他ならなかった。
「何、するんですかっ」
「着替えあるなら、もう少し遊べない?」
無邪気な顔をして聞いてくる石川に吉澤はため息をついた。
「泳げないんじゃありませんでした?」
「そう。だから、貴方が必要なの」
あんまり楽しそうに石川が笑うから、吉澤は自分でもよく判らないまま頷いた。
ぱしゃぱしゃプールの水が笑った。
きっと二人がおかしいのだろう。
洋服のままで水中を散歩する姿は自分達の目から見ても滑稽だった。
「泳げる様になるかな?」
「水着の方が楽だと思いますけどね」
吉澤に向かって笑いかける少女は、もう何年も前から吉澤を知っているかの様に笑い、
少女に笑いかけられて吉澤は、戸惑いながらもそれが嬉しかった。
「さ、本当に帰りましょう」
「うーん、もうちょっとだけ」
そんな会話が何度か続いているのを、プールの水は最初と変わらず、ぱしゃぱしゃ聞いていた。

グレープ色の湯舟に浸かりながら、吉澤は深いため息を吐いた。
疲れを表してはいたもののそれはけして嫌なため息ではなく、むしろ吉澤の唇は幸せに緩んでいた。
『ありがとう』
ジャージ姿でそう言った時の石川が右の瞼の裏に焼き付いている。
左の瞼の裏には水に入る直前の憂いた表情。
一体彼女はどうしてあそこにいたのだろう?
吉澤はきっと夏休み明けまで戻ってこないだろうジャージを密かにうらやましく思った。
「これじゃまるで恋じゃない」
天井に向かってそう呟くと、天井は返事をするかの様に水を彼女の額にぽたんと落とした。

部屋に戻った吉澤は彼女を待っていた2通のメールを、携帯を器用に動かして読んだ。
<追い付かなかったね。今度はよっすぃの奢りね。まき>
<アイスは結局チョコミントになったよ。私の勝ち!なち>
吉澤は自分を待ちながら二人が仲良く一つのアイスをわけあう姿を
思い浮かべて微笑を浮かべた。彼女は謝罪のメールを送った。
「ひとみ!電話」
階下からの声に吉澤は机の横に置いている子機を手に取った。
「はい、電話変わりました」
予想していたのは後藤か安倍の不満そうな声だった。
『石川です』
聞こえてくる声は受話器を通しても十分に愛らしく。
「へ?あ、はい!」
吉澤は慌てて受話器を持ち直して姿勢をただした。
『あのね、ジャージ返さなきゃって』
「あ、別に今度で」
『だって今度って9月じゃない』
勿論、吉澤はそのつもりで言ったのだが石川はそれを学校が終った事を忘れていると捉えた様だった。
『実はね、私も忘れてたの。終業式』
「終業式出なかったんですか?」
『え?吉澤さんは出たの?』
「はい。もしかしてずっとあそこに?」
『アハハ……ね、ねぇ暇な時ある?』
話を反らす石川に苦笑いを浮かべて吉澤はいつでも、と答えた。

 

4.奇跡の軌跡を道標に

 

その日の朝、吉澤は待ち合わせの時間よりも二十分も前に待ち合わせ場所に着いていた。
朝日が目に入った瞬間から、シャワーを浴びた時も、
朝食を口に入れていた時も、ずっとずっとその時が来る事を考えていた。
こんなにも意識をする必要性は皆無である。
そんな事は、吉澤にも判り切った事だったのに。
それでも、彼女はその瞬間の事をずっと考えていた。
いっそ、石川が訪れなければいい。
学校でしか使用しないジャージなんて、九月でも十分に間に合うのだから。
吉澤はそう思っていたが、吉澤の足はいつもよりも早く動いた。
朝の公園は、たまに犬の散歩をしている人がいるものの昼間の騒々しさは何処へ行ってしまったのか、とても静かだった。
小さな公園を一回りして石川がいない事を確認した吉澤は少しほっとした様な残念な様な気持ちにさせられた。
「こないだからおかしいよ、私」
ぽそっと呟いても、誰も否定はしてくれなかった。

木漏れ日は、きらきらと地面の埃を宝石の様に見せた。
「おはよう」
ぼーっとそれを眺めていた吉澤の後ろから、声が聞こえた。
「あっ、おはようございます」
「何見てたの?」
不思議そうな顔をする石川は何故か手ぶらだった。
「埃が日光の加減できらきらしてて綺麗なんですよ」
説明しながら、吉澤は石川が何も持っていない事に気付いた。
「石川先輩、ジャージは?」
「あ……やだ、取りに帰るから、ちょっと待ってて」
慌てて帰ろうとする石川を見て、吉澤は堪えきれず笑いだした。
きらきら光る地面と、さぁっと音を奏でる風と、楽しそうな吉澤の声だけで公園は形成されていた。
「もうっ!笑わないでよっ」
「ごめ……なさっ」
笑いを必至で抑えて、吉澤は石川をゆっくり見た。
時が止まった様に感じたのは、吉澤だけだろうか。
「……お詫びに、食事に行きましょうか?」
「……え?えぇ」
否、吉澤だけではない筈だった。

公園の一番近くにあるベーグルショップは吉澤のお気に入りだった。
誰にも教えていない、とっておきのお店。
後藤と安倍ですら、その存在を知らない。
穏やかで、優しい老夫婦が経営しているその店は、
クラムチャウダーやブイヤベース、シチューといったスープとベーグルが一緒に出てくる珍しい店だ。
「珍しいね、ひとみちゃんが誰かを連れてくるなんて」
「ここはとっておきだからね」
店主に笑い返して、吉澤は一番奥のテーブルについた。
石川は、彼女の前に座って、嬉しそうに店内を見回していた。
「先輩、何か食べられない物ありますか?」
「うーん…桃とか好き」
的外れな返答にも段々慣れてきた吉澤は、構わず質問を続けた。
「クラムチャウダー、平気ですか?」
「平気」
吉澤はマンハッタンクラムチャウダーを二つを頼んで、石川はその様子をにこにこしながら見ていた。

「御機嫌は、直りました?」
「あら、機嫌なんて最初から」
石川は公園を出た時からこの店に入るまで、一言も喋らなかった。
吉澤が少し後ろを歩く石川の方を振り向いても、
目を合わせようとしなかった。
「ま、いいですけどね」
「ねぇ、吉澤さん」
吉澤がため息の様な笑顔を見せると、
石川が久しぶりに吉澤を見て言った。
「ジャージ、やっぱりとってくるわ?」
「いいですよ、また今度で」
それは既に何度か繰り替えした会話だった。
ゆらゆらと湯気を放ってクラムチャウダーがテーブルに置かれた。
何種類かの小さなベーグルが真ん中に置かれる。
「お嬢さん、これには桃のジャムが入ってますから食後にどうぞ」
老夫人がにっこり笑うと、石川は驚いた顔をして、それから愛らしい笑顔でお礼を言った。
吉澤もお礼を言って、二人は食後に議論を持ち越す事にした。
「おいしい!」
「でしょ?」
店主の特製マンハッタンクラムチャウダーは、二人の間から敬語の垣根を取り除いた。

 

5.Half Speed,Double Happiness

 

「ねぇ、やっぱり私、払うわ」
「誘ったのは私だから」
「でも…」
「それに先輩、財布ないでしょ?」
「あ…」
すっかり打ち解けた二人は、レジの前でそんな会話を繰り広げていた。
ニコニコしながら待っていた夫人が二人の会話に口を挟んだ。
「ひとみちゃんは自分の分払えばいいでしょ?
こちらのお嬢さんは御来店記念で無料なんだから」
「え、柿本さん?」
驚いた様に吉澤が夫人を見ると、夫人はウィンクをして言った。
「あら、いつもの事でしょ?」
「そうなんですか?」
石川は首をかしげて無邪気に聞いた。
「そうなのよ。ほら、ここは目立たないから、お客さんがあまりこないでしょ?だからまた来て下さる?」
「はい」
吉澤が奥の店主を覗き見ると、店主も黙って頷いていた。
「有難うございました。」
「あらあら、それはこっちの台詞よ?ひとみちゃん」
二人が出ていった店の中には老夫婦と鍋から溢れ出る湯気だけが残った。
「良かったな、他にお客さんがいなくて」
「そうね、いたら大変だったわ」
おかしそうに夫婦は笑った。

「いいお店ね」
「また、行きましょうか」
ゆっくりと歩きながらさりげなく吉澤が誘うと、
石川は吉澤を見て頷いた。
普段吉澤が歩いている早さの二分の一ぐらいの早さで歩いていても、石川にとっては普通の早さの様だった。
「ゆっくり歩くと、世界が違うなぁ」
「早く歩くよりも、色んな物が見えるでしょ?」
触れ合いそうになる腕に、妙に心臓を高鳴らせながら吉澤は前を向いて頷いた。
雲の流れがいつも見ているよりも本当はもっと早い事、
夏の暑さは風の前では全く意味がない事、
蝉だけが音楽を奏でている訳じゃない事、
そんな事、今まで気付こうとしていなかった。
気付いていても、気にもしなかった。
吉澤は、新鮮な気持ちになった。
もしかしたら隣にいる相手が石川だったからかもしれない。
石川がいなかったら、吉澤はまだ気付いていなかったかもしれない。
雲や風や蝉のいる世界に石川がいる気がして、そこで石川が呼んでいると、吉澤はそんな気がした。

石川の家の前まで送り届けた吉澤は、わざとそのまま帰る事にした。
もっと石川と一緒にいたいと、図々しくもそう思ってしまった。
それはもう、抑えきれない衝動の様な物で。
だから、彼女はジャージの事には何も触れずににっこり笑って別れを告げた。
『また会いましょう』
そう暗黙のメッセージを込めて。
ただ、それが石川に通じるかどうかというのは別問題である。
「吉澤さーん!」
「先輩?」
「ジャージ、忘れてる!」
案の定、石川には通じなかったらしい。
吉澤はこっそりため息をついて、振り向いた。
愛らしい笑顔は相変わらず細い体にぴったりとフィットしていた。
「石川先輩!また明日!」
隙のない笑みを浮かべて吉澤はそういうと、くるっと踵を返して帰路に着いた。
後に残された石川の表情を想像して、吉澤はこっそり笑った。

 

6.真っ白い君を、愛してもいいですか

 

朝から蝉はけたたましく音楽を響かせていた。
昨日と同じ時間に公園に来た吉澤は、石川の家の方向から石川がやってくるのを見つけた。
「おはようございます、先輩」
「おはよう、吉澤さん」
相変わらず手ぶらな石川は、嬉しそうに笑った。
「先輩、何か企んでる?」
訝し気に吉澤が聞くと、石川は吉澤の手を握った。
「ついてきて?」
にこにこ笑いながら手をひく石川の後をついていきながら、
吉澤は汗ばんでいく右手が、夏の暑さの所為だけではない事に気付いた。
「先輩、逃げないから手を……」
「あ、嫌だった?」
「そうじゃなくて……ま、いっか」
しっかりと握り直して吉澤は石川の隣に立った。
「何処へ行こうとしてるの?」
「なーいしょ」

「先輩、料理できるの?」
「失礼ね。一人暮らしなんだから、出来るわ」
「一人暮らしの人なら誰でもできるもんじゃないんじゃ…」
左手には野菜やお肉の入った紙袋を、
右手には石川の左手を離さない様にしっかりともちながら
吉澤は石川の家に向かった。
初めの頃は心臓になってしまったかの様に高鳴らせていた右手も大分慣れて、石川を引き寄せたりもできる様になった。
「で?何作るつもりでこの材料?」
「内緒よ。先刻から言ってるでしょ?」
怒った様に睨み付ける石川が、心無しか吉澤は近くに感じる様な気がした。
昨日までより、少しだけ。
「知りたいな」
「だぁめ」
自分でも不思議なぐらいの甘ったるい声にくらくらしながら吉澤は昨日やってきたマンションを見上げた。

「手伝う?」
「大丈夫。座ってて?」
白いソファに座って、吉澤は部屋の中を見回した。
見事に白い世界。こんな所に住んでいたならば、
石川が白く感じるのも無理はないのではないかと吉澤はこっそり頷いた。
「この部屋は先輩の趣味?」
「ううん。親の趣味。私はピンクにしたかったんだけど」

判る様な気がして、吉澤が苦笑いを浮かべると、石川がそれに気付いて怒った顔をして背中を向けた。
「可愛いなって思ったんだって」
「どうせ子供っぽいです!」
「そうじゃなくて」
慌ててフォローしても、既に石川の御機嫌は野菜籠よりも下まで落ちていっていた。
「そうじゃなくて」
外では子供の楽しそうな声が響いていて、窓から見る景色は歪んで見えた。
暑さの所為でおかしくなってるんだと自分に言い聞かせながら吉澤は石川を抱き寄せて耳許で呟いた。
「判るよね?」
「……は、はい」
石川の耳はまるで金魚の様に赤く染まって、吉澤はゆっくりとソファに戻った。
台所からトン、トン、と包丁の音が聞こえてきてやっと自分のした事に気がついた吉澤は、
顔が火照っていくのを石川に気付かれない様に、吉澤は彼女に背を向けた。

 

7.Love starts from nothing

 

外の熱気に関係なく部屋は涼しく、だがそんな部屋とは裏腹に緊張した面持ちの少女が二人、食卓に座っていた。
「……」
「美味しい?」
「…うん。美味しい」
微妙な顔をして、吉澤は頷いた。
決して料理が上手ではない吉澤も、首をかしげそうになった。
「嘘。美味しくないんでしょ」
「いや、そんな事ないです」
「だって敬語じゃない」
頬を膨らませて、自分の作ったミートソースのスパゲティらしき物体を口にいれた石川は、気まずそうに目を泳がせた。
「美味しいよ?」
吉澤はそんな石川に気付いてフォークにパスタを絡めた。
「嘘…パサパサしてる」
「和風に醤油かけて食べてみよっか。ほら、美味しいよ?」
「やっぱり不味いんだぁ」
「あ…」
シンプルな白いプレートにちょっと茶色いソースのパスタ。
食事が終る頃にはほろ苦いパスタは、吉澤のお皿から一本残らず消えていた。

桃色のジュースを持って石川はソファに座る吉澤のすぐ隣に座った。
「ありがと。食べてくれて」
「ごちそうさまでした」
「……ふふっ」
石川は俯いて笑った。
「なんで笑うの?」
吉澤が不思議そうに石川を覗き込むと、石川は彼女の頬を指で拭った。
「ほら、ミートソース」
指についたソースを自分の口に含んで石川は顔を顰めた。
「やっぱりあんまり美味しくないね」

これはもう、恋じゃないか。

吉澤は頭の中でそう呟いた。
「先輩」
桃色のジュースをテーブルに置いて、吉澤は石川を見た。
「何?」
台所からかしゃん、と皿が水に滑った音がした。
「名前で、呼んでくれません?」
驚いた様な顔をして石川は戸惑った様に彼女の名前を口にした。
「ひとみちゃん?」
にっこり笑って吉澤は彼女から離れた。

自覚してしまった心に歯止めはかけられなくて。
だから、彼女はそれを無理矢理に止めなかった。
「どうしたの?ひとみちゃん。ニコニコしてる」
「ん?いや、なんでもないよ?」
食事のお礼に食器を洗う吉澤は、泡を石川の鼻の頭につけた。
「もー」
怒る石川の顔が先程よりも柔らかく見えたのは、吉澤の欲目なのか。
「ははっ。泡だらけ」
「自分でやった癖に」
泡が台所に飛び交って、二人の笑い声はやがて苦笑いに変わっていった。
「片付けなきゃね」
「台所こんなにしちゃったね。ごめんなさい」
「…でも、ちょっと楽しかった」
「先輩も?」
苦笑いはやがて微笑みに。
泡を台所のフローリングに散らばった泡を拭きながら、二人はくすくすと笑いあった。
外からはもう、子供の声も聞こえてこなかった。

 

8.野菜達の憂鬱と彼女の膝のピンク色

 

約束はしていなかった。
だから確証があった訳でもなく、
本当にただ、ただ、気持ちだけで吉澤はそこに立っていた。
十時を公園の鐘が鳴らしたと共に、吉澤は遠くから来る人影を確認した。
走り出すのを堪えて、その人影が誰だかを見極めた。
胸元までの髪の毛は、今日は二つに纏めてあった。
膝上丈の赤色のスカートと、膝上までのハイソックスの間からこっそり肌色が覗いていた。
グレイのTシャツは彼女の細さを強調していた。
吉澤は、彼女が吉澤に気付く前に走り出していた。
「ひとみちゃんっ?」
走ってくる吉澤に気付いた瞬間に、その腕の中に収まっていた石川は驚いた様に吉澤の顔を覗き込んだ。
「今日、約束してなかったから来てくれないのかと思った…!」
「大袈裟ね、もう2度と会えないみたいだわ」
そう笑う石川に、吉澤は甘く囁いた。
「もう、2度と会えないかと思ったから」
「ひとみちゃん、喜ばせるの上手いのね?」
おかしそうに石川はそう言って、吉澤を抱き返した。
「私も、会えて嬉しいわ」
吉澤の気持ちに気付いているのかいないのか、
石川は吉澤が離れるまでずっとそのまま腕の中に収まっていた。

昼前のスーパーは流石に空いていた。
人の何百倍もありそうな野菜がひしめいていた。
少女達の声を、野菜は聞こえていない振りをしながら聞いていた。
「今日はリベンジなんだからね!」
「へ?また作るんですか?」
「あー!!もう食べたくないとでも言うつもり?」
「言いません。言いませんよ、貴方の作ってくれる物ならば」
「…もうっ」
トマトが選ばれるのを、密かに羨ましがっていたズッキーニは自分が選ばれて満足だった。
季節じゃないと諦めていた南瓜は選ばれて吃驚した。
茄子が、レタスが、赤ピーマンが、オクラが、自分が選ばれた事を不思議に思っていた。
残った野菜も、選ばれた野菜も、そして吉澤の頭の中も、疑問を一つだけ抱えていた。

何を作るつもりなんだろう?

その疑問は、結局どの売り場の商品達も抱える事になった。

燃えたぎる太陽を避けながら、少女達は石川邸に逃げ込んだ。
室内という事と空調が効いていた成果が相まって、そこは楽園の様に感じられた。
石川が1人で作ると譲らなかった為、吉澤はキッチンのカウンターに座って石川を眺めていた。
「ねぇ、ソファで待っててよ?」
「嫌。先輩を見ていたい」
嬉しそうに吉澤は言った。
朝、石川を遠くに見つけた時から彼女の気持ちは決まっていた。
若さ故の早急さではあるだろうが、吉澤は石川をもっと近くに感じたかった。
できるならば、誰よりも近くに。
「またそんな事言って!からかわないでよ…」
ちょっと不機嫌になる石川に、吉澤は構わず言葉を続けた。
「からかってなんかいないよ?本当に見てたいの」
顔を赤くして、石川は野菜を切り刻もうと俯いた。
「やっ」
包丁が滑って、彼女の人指し指が赤く染まった。
「先輩っ」
台所の中に急いで入った吉澤は、ためらう事なく石川の細い指を口に含んだ。
血を吸い取って、シンクに流した水道水に人指し指を入れて流させる。
それから、心臓の上まで指を持ち上げて、ペーパータオルでおさえた。
「そのままで」
それだけ言うと、吉澤は救急箱を探しにいった。

止血が完了した石川の指の傷は浅かった。
大丈夫だと、言うのを聞かずに吉澤は石川の指に器用に包帯を巻き付けた。
「こんなに大袈裟にしなくても平気よ」
「だって、絆創膏ないじゃないですか。平気です。
水に触る事は私がしますから」
それからは石川が指示をして、吉澤が料理を作った。
ただし、味に関してだけは石川が譲らなかった為、吉澤は触れる事が出来なかった。
「美味しい?」
「…は、はい」
「嘘つきね。でも、今日はひとみちゃんも作ったのよ?」
「はい…」
石川の言葉に頷きながら、吉澤は皿を空にした。
二人のお腹の中に収まった野菜達は、スーパーに並ぶ野菜達を思ってため息を洩らした。

…君たちは選ばれなくて、良かったな…。

 

9.電話には、時として伝える以上に仕事がある。

 

夜の帳は例外なく、吉澤邸の上にも降りた。
オレンジの香りを漂わせた湯舟からあがった吉澤は、にじみ出てくる笑みを、隠しながら自分の部屋へと戻った。
「ひとみー、電話よぉ」
電話、と聞いて浮かぶ顔はほわほわした笑顔。
彼女が、電話をかけてくる理由等はないのに、吉澤はもしかしたら、という気持ちに狩られて子機を取った。
「はい」
「もっしー」
「なんだ、ゴッチンか…」
受話器の向こうから聞こえてくる後藤の声に、吉澤は脱落した様な声を出した。
「なぁに?なんか待ってたの?」
「いや、誰かと思っただけ」
後藤の少し不満そうな声を聞きながら、吉澤は、窓から外を見た。
この空の続く、そう遠くない場所で石川は今何をしているのだろう?
離れていようが、いまいが、吉澤の頭の中から石川が消える事等、2度とない様に思えた。

「ちょっとぉ聞いてんのぉ?」
「え?ん、あ、ごめん。なんだっけ?」
後藤が不満そうにため息をついた。
吉澤はそんな後藤に申し訳ない気持ちと、
先刻まで会っていたのに、どうしようもなく石川に会いたくなる自分に喝をいれて、ため息を隠した。
「うん。だからね、いい場所を見つけたんだぁ」
「ふーん。で、何処?」
机の上を指でなぞって、その冷たさを確認した。
夏の暑い空気は、部屋の中まで進出してきていた。
石川の部屋とは比べ物にならない程暑く、息苦しかった。
それは、そこに石川がいないからなのか、ただ単に部屋の空調の違いの所為か。
「今は内緒。でも、いいとこだよ」
「そ。今度教えてね?」
吉澤は窓辺に戻り、カーテンを少しだけ開けた。
初夏の星は、星座が全く判らない吉澤にも綺麗に見えた。

「ちょっとぉ聞いてんのぉ?」
「え?ん、あ、ごめん。なんだっけ?」
後藤が不満そうにため息をついた。
吉澤はそんな後藤に申し訳ない気持ちと、
先刻まで会っていたのに、どうしようもなく石川に会いたくなる自分に喝をいれて、ため息を隠した。
「うん。だからね、いい場所を見つけたんだぁ」
「ふーん。で、何処?」
机の上を指でなぞって、その冷たさを確認した。
夏の暑い空気は、部屋の中まで進出してきていた。
石川の部屋とは比べ物にならない程暑く、息苦しかった。
それは、そこに石川がいないからなのか、ただ単に部屋の空調の違いの所為か。
「今は内緒。でも、いいとこだよ」
「そ。今度教えてね?」
吉澤は窓辺に戻り、カーテンを少しだけ開けた。
初夏の星は、星座が全く判らない吉澤にも綺麗に見えた。

早く、冬になれと吉澤はいつも思っていた。
彼女は、夏よりも冬の寒さの方が好きだった。
夏の焦がれた匂いよりも、冬の凍った空気の方が好きだった。
星座も冬ならば一つだけ分かった。
切り裂く様な風も、じとじととした湿気には勝った。
そんな彼女が今は夏が終るのを惜しんでいた。
後、たった一ヶ月である。
いつもは長い様に感じていた夏休みは、光速で動いているかに思えた。
毎分、毎分、その時間を惜しんだ。
いつからこんなにも欲深くなったのか、彼女ははっきりと思い出せた。

ちゃぷん。

今も、あの水音が耳に響く。

ちゃぷん。

あの時には、既に。

ちゃぽん。

彼女の恋も、プールに浸っていたのだ。

 

10.アトランダムな誓いを貴方に

 

きっと、自分はどうかしてるのだ。
吉澤はコーベヤのサンドイッチを買いながら、そう思った。
朝、石川に電話をした時からそう思っていた。
『会いたいです』
そう素直に言えた自分はどうかしていた。
ウキウキしながら、サンドイッチを買っている自分はどうかしていた。
でも吉澤の頬に滲みでてくるエクボは止まらなかった。
たった今生まれた様な新鮮な風が彼女を包み込んだ。
今日は、あの高台に行こう、と彼女は頭の中で決めた。
それが決まった瞬間から、一つずつ細やかな内容まで決めていく。
ディーテルまで予め想定していくのは吉澤の癖である。
最初に彼女にかける言葉は、おはようでもこんにちはでもなく、元気だった?にしよう。
飲み物は、カフェ・ドリューで買って行こう。
道程は、車の通らないまだ緑の銀杏並木を通って行こう。
あの高台の右から二つ目のベンチに座ろう。
あそこは木陰もあるが、程よく陽射しもある。
「恋人でもない癖に」
自分の身勝手さに苦笑いしながら吉澤は、待ち合わせ場所に着くまでに一日のスケジュールを決め終っていた。

「おはよう」
「元気だった?」
「やぁね。昨日も会ったじゃない」
おかしそうに石川が笑うのを吉澤は嬉しそうに見た。
吉澤はその顔が見たくてわざとそう言ったのだと、石川に伝えたくて仕方がなかった。
「今日はサンドイッチ買ってきた」
「なぁに?私の御飯は食べられないの?」
唇を尖らせてそっぽを向く石川の右手を左手で握って吉澤は歩き始めた。
「いいから、着いて来て。絶対楽しいから」
「何処いくの?」
石川の歩調に合わせて、ゆっくりと歩き出して吉澤は人指し指を唇につけた。
「内緒」
「もうっ」
カフェ・ドリューでパッションフルーツのジュースや、クランベリーティーの瓶を購入した。
緑が爽やかな銀杏並木を歩いていった。
吉澤は、決して手を離そうとせずにいて、それに石川は不満げな表情は見せなかった。

高台は、誰かいてもよさそうだったのに誰もいなかった。
「気持ちいいでしょ?」
「ひとみちゃんは、色んな所を知ってるのね」
目を輝かせて、石川が言った。
「私ね、あまり外に出て遊んだ事なかったの。だから、凄く嬉しい!」
満面の笑みを浮かべる石川を引き寄せて吉澤は満足そうに言った。
「喜んでくれてよかったです。ピクニック、しましょう?」
予定通り、右から二つ目のベンチに座った。
風が二人の間を過ぎ去って汗を連れていってくれた。
「なんで、外で遊ばなかったんですか?」
サンドイッチも空になって、アップルパイに齧りつきながら吉澤が素朴な疑問を投げかけた。
「…大した理由なんてないわ」
「このアップルパイ、美味しいですよ」
明らかに曇る石川の顔に、吉澤は追求を諦めて全く違う話題に摺り替えた。
あなたの事なら、なんでも知りたい。
そうはっきりとはまだ、言えそうになかった。

高台から少し歩いて着いた丘は、白い花が満開に咲いていた。
「昼寝にもってこいの場所だと思いません?」
吉澤がもうすっかり自分の一部にでもなった様な石川の右手を引き寄せて言った。
「ここで昼寝?」
石川は、訝し気な顔で聞き返す。
「膝枕してくれますか?」
そんな彼女を全く気にせずに、吉澤はにっこり笑ってそう言った。
「私は寝ちゃいけないの?」
「じゃぁ、一緒に」
先に座って、吉澤が促すと石川はおかしそうに笑って隣に座った。
「はい、枕」
吉澤が腕を広げて石川の枕を作った。
「じゃぁひとみちゃんの枕はこれね?」
石川は自分の肩にかかっていた若草色のパシュミナを丸めて吉澤に渡した。
木陰が彼女達を覆って、夢の国へと誘った。
木陰が反対側に移動してしまうまで、二人はそのまま固定した呼吸を続けた。

 

11.NATURE LOVE

 

「ひとみ、電話よ」
自宅の玄関を開けると同時にそう言われた吉澤は、鞄も置かずに電話に出た。
「はい。変わりました」
「あ、よっすぃ?」
変わりない後藤の声に、軽口を叩きながら2階にあがった。
「で?なんか用だった?」
「うん。恋の相談」
あっけらかんと言われて、吉澤は少々驚きながらも同じ様に簡単に返事を返した。
「好きな人が出来たの?」
「違う。ずっといるの」
後藤がそういう相談をしてくる事は珍しく、吉澤は見当がつかなくて答に迷った。
「急展開でもあったの?」
「うーん…あったといえばあったかな」
具体的な言葉はまだ一つとして上げられていない。
「それじゃ判らないよ」
吉澤がそう言うと、後藤はぽつぽつと話し始めた。

「幼馴染みがいてさ」
後藤はドライな関係を持ちたがる質だったので、
吉澤も安倍もあまり彼女の近辺については詳しく知らなかった。
「で、ずっと好きだったんだけどさ。最近はちょっと離れてて」
後藤の話を聞きながらも、吉澤は窓から見えない遠くの石川の家を探していた。
「でも、一緒にいたくて傍にいてって言ったら頷いてくれたんだけどさ」
「両思いじゃん?」
「それが恋愛としてでないんだ」
「あちゃぁ」
ベッドに寝そべった吉澤は、枕の硬さにパシュミナを思い出した。
「どしたらいいかな?」
「恋愛として好きって言ってみたら?」
思い当たるのは、自分と石川の関係。
きっと彼女は今告白をしても恋愛とは受け取らないだろう。
当り前だった。彼女と吉澤は出会ったばかりの同性なのだから。
「言ったら、壊れないかな?」
「でも、言いたいんでしょ?」
「…そだね。ありがと」
自分には出来ない事でも、他人になら言えるのかと吉澤は電話を切りながらため息をついた。

恋をしています、貴方に。
そう言ったら石川は拒絶をするだろうか。
吉澤は、首を振った。
困らせる事はあっても、あからさまな拒絶はしないだろう。
彼女のそういう部分はもう嫌という程理解していた。
毎日自分と会っているのだから、恋人はいないだろうという安易な考えが吉澤の頭の中を占領していたが、
ふと、他の可能性を考えた。
もしかしたら、遠距離恋愛なのかもしれない。
或いは、夜会っているのかもしれない。
夜に急に自分が彼女の家を訪れたら、彼女は誰かと抱き合っているかもしれない。
胸が苦しくなるのを感じて、吉澤は失笑を洩らした。
「馬鹿じゃないの。ありもしない事でこんなに辛いなんて」
天井に向かって呟いて、吉澤は目を瞑った。
「ごっちん、上手くいくといいなぁ」
彼女が上手くいけば、自分も上手くいく気がした。

 

12.恋の種・愛の花

 

後藤と安倍に吉澤が出会ったのは、昨年の春の事だった。
小学生の頃から学院生だった後藤と安倍は、元から仲が良かった。
吉澤が彼女達と仲良くなったのは、中途入学してきた吉澤がそれなりに周りと馴染みつつも、
深入りしないのを見て後藤が彼女に声をかけてきてからだった。
『吉澤さん。今日から君はよっすぃだ』
面喰らってる吉澤ににっと歯を見せて笑顔を後藤が見せる。
『なっちもそう呼ぶ!あ、なっちはなっちでいいよ。で、これがごっちん』
『なっち、これはないよ。大体なっちはなっちでいいって何?』
『それ以外どう言うのさ。なっちを呼ぶ時はなっちでいいよって?』
『変わってないよ』
真剣に言い合っている二人の会話に思わず吉澤が吹き出すと、二人が同時に彼女の方に顔を向けてうなった。
『よっすぃ!!』
『よっすぃ!!』
あの日から、三人は行動を共にする様になった。
だが、吉澤は彼女達に彼女達の前で起きた事をあまり話さなかった。
彼女達も、吉澤に重要な事は言わなかった。

吉澤は電話の向こうの声の話す内容を聞いて、三人は何処かで繋がっているのではないかと疑った。
「なんだって?」
『聞いてなかった?なっちは恋してるのさ』
独特のイントネーションで安倍は先程の言葉を繰返した。
「次から次だよ…」
『へ?』
吉澤は首をかしげてそうな声を出した安倍にこっちの事だと、誤魔化して安倍の話を促した。
『なっちは恋してんのさ』
「それは聞いた。誰に?」
『それは内緒』
彼女が赤らめた頬を片手で隠しているのが想像できた。
「告白しないの?」
『違う人が好きな人だから、言わない』
語尾が震えているのが、受話器越しからでも伝わってきた。
吉澤は、傍にいたら肩を抱いていただろう小さな少女にかける言葉を迷って、暫くしてから言った。
「なっち…後悔、しちゃ駄目だよ?」

恋というものは伝染するのだと吉澤は思った。
隠してきた恋の種が芽吹いたら、それは春だと言わんばかりに他の人の種も芽吹くのだ。
だから、後藤からも安倍からもそんな話が出て、自分の中にも抑えきれない程の愛しい気持ちが湧き出てくる。
石川にも、恋の種が芽吹いているだろうか。
吉澤の頭の中に、彼女の心を独占している顔が浮かんでくる。
石川の種が芽吹いていなければいい。
自分に気持ちが向けと思う一方で、吉澤は心底そう思っていた。
彼女はこんな醜い感情は持たないのだと、自分に言い聞かせる。
恋は美しいばかりではない事ぐらい、吉澤は嫌という程わかっていた。
それでも、恋の甘美な部分にばかりを人は見る。
誰だって、醜い物は見たくないのだ。そんな事も吉澤は理解している。
醜い自分を見られたくなかった。
そして自分自身、石川の醜い部分すら愛せる自信等、まだ恋したばかりの吉澤にはなかった。
身勝手な感情を持て余しつつ、吉澤は窓からまた、石川の家を探した。
見える訳もない石川の家を、今日も探した。

 

13.夕方は涙色

 

吉澤は、今日もあの場所で待っていた。
暑い陽射しは、今や吉澤の中の一部にもなりえていた。
七月は既に後ろ姿を見せていて、もうそこまで八月がやってきていた。
いつも石川がやってくるのが見える坂の上を、吉澤はぼんやり眺めていた。
蝉がけたたましく鳴いていた。
空には雲一つ浮いていなかった。
いつまで経っても、石川の姿が見受けられずそれでも吉澤はその坂の上を眺めて待っていた。
約束はしていない。
彼女が来るとは限らない。
それでも、吉澤はそこで待っていた。
空に飛行機雲がクロスしはじめた。
蝉の声も何時の間にか聞こえなくなっていた。
陽が陰ってきはじめても、吉澤は公園のベンチから動かなかった。
石川があの坂の向こうからあらわれるのではないかと、ずっと、そこに座って待っていた。

吉澤が気付くと、石川が隣に座っていた。
何時の間に、と吉澤が驚いていると、目の前の石川は寂しそうに笑っていた。
「先輩?」
「ひとみちゃん、私の事そんな目で見ないでよ」
「え…?」
石川の顔がどんどん苦痛に満ちていくのを見て、吉澤は彼女に触れようとした。
「触らないでっ…」
石川に拒絶されて、吉澤はナイフを突き付けられた気がした。
どうか、もう一度笑って下さい。
今まで通り、笑って下さい。
もう、度を越した願い等忘れますから。
吉澤は涙を流して願った。
泣いて、石川に取りすがった。
「ひとみちゃん…」

「ひとみちゃんっ。ひとみちゃんっ」
「先輩…ごめんね?」
涙で歪んだ視界の中でも、石川は綺麗だった。
「どうしたの?ひとみちゃん。謝らなきゃいけないのは私なのに」
吉澤は涙を拭う石川の右手が、いつもの石川の手だと再確認した。
既に、陽は明日の準備の為に身を隠していた。
「ごめんね、今日来れなくて」
吉澤は、石川の顔が自分の上にある事に気付いた。
「あれ?」
自分の頭の下にある柔らかい暖かな存在が何であるかにも、気がついた。
「あれ?もしかして、寝て…た?」
「恐い夢見たみたいだった。私、怒ってた?」
石川が不安そうに、吉澤の髪の毛を梳いた。
「ううん、悲しませた。ごめんね」
「私の方が、謝らなきゃいけないの。今日、来れなくてごめんなさい」
何処までが夢だったのか、まだ吉澤は判断がつかなかった。
「いいよ、来てくれたんだから来れなかった訳じゃない」
「ありがとう。だから、ひとみちゃんて好きよ」
そう言うと、石川はにっこり笑った。
吉澤は、そんな彼女に気付かれない様に赤い顔を隠した。

 

14.笑顔は決意を揺りかごに

 

頭の中が覚醒してきた吉澤は何処までが夢で何処からが現実なのかかなりはっきりと自覚してきた。
例え、夢の中だったとしても石川に拒絶された事が吉澤にはショックだった。
『触らないでっ』
あの時の怯えた声がまだ耳に残っていた。
もう彼女に気持ちを伝える事など出来そうにないと吉澤は月に告白をした。
あんな顔を、例え夢の中でも見てしまった後に、
あの顔をもう一度させる可能性があるかもしれないと分かっていながら彼女に気持ちを伝える事等、吉澤には出来なかった。
「ねぇ、ひとみちゃん」
「はい」
石川が言い難そうに口籠って、吉澤は目で促した。
「もし、もしもよ?今までそういう目で見てなかった人が自分を好きだと思ってくれてたら、どう思う?」
吉澤は、自分の背中が急に冷たくなったのを感じた。

なんでもない様な顔をして、吉澤は息を吸った。
声が震えないか、びくびくしながら声を出す。
「どうして、ですか?」
声は、綺麗に響いた。
そんな事に安心しながら、吉澤は石川の顔を盗み見た。
「べ、別に。ただ、そういう時ってどうするのかなって」
「無理矢理好きになる必要はないんじゃないですか?」
精一杯の強がりを口にした。
「でも、好きだと思ってくれてるなら、その人をそういう対象として見てあげればいいんじゃないですか?」
石川はゆっくり頷いた。
「えぇ。そうね。そうやって見てみるわ」
艶やかな笑顔で、石川は吉澤を覗き込んだ。
「ひとみちゃん、ありがと」
「どういたしまして」
もし通じていないなら、それでも構わない。
吉澤は彼女のその気持ちだけで十分な気がした。

夜のマンションは、いつもよりも大きく見えた。
マンションのロビーで、吉澤は石川に別れを告げた。
「じゃぁ、また…」
「えぇ。おやすみなさい。」
別れ難い気持ちを抑えて、吉澤はマンションを後にした。
きっと、彼女は魔法を使えるのだと吉澤は真夏の星座を探して思った。
「よっすぃ!何やってんの?」
突然声をかけられて、吉澤は心臓が口から出そうになった。
「な、なんだ。ごっちんか。何やってんの?」
「後藤の言葉を繰返すなよぉ」
そう言って、後藤は歯を見せて笑った。
「後藤は、好きな人に答をもらいに行くとこ。よっすぃーは?」
言うか、言うまいか迷った吉澤は、思いきって口にした。
「私は…好きな人の家に行った帰り」
「へぇ、よっすぃーにもいたんだ。好きな人」
後藤は驚きもせずにそう言って、マンションの方向に向いた。
「両思い?」
「片思い」
「お互い、大変だね」
この間の内容がどうなったのかと聞こうと思っていたのに、
後藤は別れを告げてマンションの方向に消えて行った。

 

15.それでもいいと思ってた

 

恋は日に日に大きくなるらしい。
結局吉澤は、毎日石川に会いに出かけた。
バイトをする事もなく、いつもの面子で遊ぶ訳でもなく、毎朝を木漏れ日の中で過ごした。
石川の笑顔を見る度に疼く胸は、収まる事を知らなかった。
好きだと、今ならはっきり言えた。
彼女の全てを受け入れる事が出来るとさえ、吉澤は確信していた。
「ひとみちゃん?」
ただし、石川が彼女を受け入れるかどうかと聞かれたら、吉澤は明確な答を出す事は出来なかった。
「ねぇ、ひとみちゃん」
「はい?」
吉澤が覗き込めば、石川の顔は赤く染まる。
吉澤が笑顔を見せれば、石川は恥ずかしそうに顔を背ける。
極上な甘い声すら彼女には届いている様に感じるのに。
それでも、石川が吉澤の気持ちを受け入れてくれるかと問われたら吉澤ははっきりと答えられる自信を持てなかった。

8月は既に旅支度を始めていた。
もう、石川と過ごせる時間は少ない。
「なんですか?」
赤く染まった石川の耳朶を見つめながら、吉澤は我慢強く彼女が振り返るのを待った。
待ってばかりいてはいけないのも良く分かっていたが、それでも石川の意にそぐわない事はしたくなかった。
「あのね、ひとみちゃん」
こっそりと石川が吉澤を覗き見て口を開いた。
「こないだ言ってた、あの話覚えてる?」
「どの、話?」
吉澤は、意識的にその話題をしない様にしていた。
「だから、自分の意識してなかった人がってお話」
「あ、はい」
言い難そうな石川になるべくそっけなく吉澤が答えた。

陽射しはまだまだきつかった。
夏がそろそろ終るなんて、予測できそうにない程に暑かった。
「あの、お話なんだけどね」
恒例となった丘の上での昼寝は、相変わらず石川を独占できる唯一の時間だった。
髪の毛を撫でてみたいと思っても、その先を聞くまでは出来そうになく。
吉澤はゆっくりと空を見上げた。
入道雲がこの夏一番大きく見えて、吉澤はそれを伝えようと石川の肩を数回優しく叩いた。
「やっぱり、無理だった」
「え?」
吉澤は自分の笑顔が凍り付いていくのがわかった。
「無理だったの」
石川は悲しそうに言った。
「好きだと言ってくれたその気持ちにはやっぱり答えられな…」
石川の目が潤んでいくのを見て、吉澤は何も言えなくなった。
「それで、いいんですよ…きっと」
「でも…っ」
石川の頬をつたう涙は、ビビッドな緑の丘に染み渡っていった。
辛い思いをさせてごめんなさい。
そんな思いをさせてしまうなら、想いの片鱗すら見せなかったのに。
吉澤は、空をもう一度見上げた。入道雲は、増々大きくなっていた。
石川の涙が止まるまで、吉澤はそのまま空を見続けていた。

 

16.探してたパズルの欠片は水の中

 

吉澤は、石川の泣き腫らして真っ赤な瞳が直視できなかった。
そうさせたのは自分で、自分の為に彼女の瞼は腫れ上がっていると思うと、
吉澤はなんと言えばいいのか判らずに、ただタオルを濡らしてきたり冷たい飲み物を買ってきたりと、石川の世話をした。
あんな発言があった後なのに、石川は吉澤がタオルを濡らしに行く時には何処へ行くのかと不安がったし、
少し立ち上がる素振りを見せるだけで吉澤のシャツの裾は握りしめられていた。
吉澤はなるべく今までと変わらずに石川に接した。
勝手な人だとこっそりため息をついて、絡ませてくる細い指を吉澤はしっかりと握り返した。
「今日はそろそろ帰りましょうか」
「え…もう少し、駄目?」
帰りたくなさそうな石川を宥めて二人は帰路に着いた。

本音を言えば、吉澤はひとりになりたかった。
何かを言う前に気持ちを拒まれて、それでも今まで通りに過ごすのは簡単な事ではなかった。
「さ、今日はゆっくり寝て下さいね。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
そう言いながらも、石川は吉澤の手に指を絡めたままで。
「帰れないですよ」
吉澤が苦笑いを浮かべながら指を外そうとすると拗ねた様な顔をした。
「ほら、また明日があるじゃないですか」
笑顔を見せているのは辛かったが、石川に会えなくなる事に比べれば吉澤にとって、選択肢等存在しないも同然だった。
「ね、だから今日は」
「よっすぃー?」

甘い声で石川を説得していた吉澤の耳に聞こえてきた声はあまりにも聞き覚えのある声で、
吉澤は空耳だとそのまま振り向きもしなかった。
石川の顔が強張っているのに気付き、吉澤はやっと声の聞こえた方向に頭を向けた。
「ごっちん?!」
「よっすぃー、会うのは久しぶりだねぇ。梨華ちゃんと遊んでたの?」
後藤が綺麗な笑顔で言った。吉澤は、後藤が石川を名前で呼んだ事よりも自分と石川が知り合いな事を知っている事に狼狽した。
石川はそんな吉澤の動揺に気付かずに後藤の手を取った。
「真希ちゃん、あのねっ」
「いーよ、梨華ちゃん。返事は分かってたから。幼馴染みに戻ろう」
石川が泣きそうな顔をして、後藤は彼女を抱き締めた。
「梨華ちゃんはやっぱり泣き虫だなぁ。
まきなら大丈夫なんだから、泣かなくていいのに」
「まきちゃ…ごめんね」
吉澤は、泣きながら後藤に謝る石川と、たった今起きたこの出来事で今までの石川の矛盾した行動の理由が推測できた。
「悩み損?」
二人に気付かれない様に吉澤は小さく呟いた。

 

17.Let it be,as it will

 

自分の愚かさに気付いて呆れる吉澤を後目に、二人は仲直りの儀式を交わしていた。
「だからいいって。これからはまた幼馴染み。
まさか、それも駄目なんて言わないよね?」
「そんな事!……ごめんね、真希ちゃん。ありがと。大好きよ?」
「真希も梨華ちゃんが大好きだよ。
だから明日こそは美味しい朝御飯作ってね。おやすみ」
からかう様に後藤が言うと、石川は唇を尖らせた。
「もうっ!…いつもまずいって言う癖に!でも、作ってあげるわ。おやすみ」
本当に気にしていないといった顔つきで後藤はマンションに入って行った。
石川は、吉澤がそこに立っているのを見て、恥ずかしそうに俯いた。
「私、お姉さんなのにね」
吉澤はゆっくり首を横に振って、それから口を開いた。
「先輩、ちょっと待ってて下さい」
走って後藤を追い掛ける吉澤の背中を、石川は困った様な笑顔で見ていた。

石川の自宅の隣の家の表札にはGOTOHと細いアルファベットが並んでいた。
階段をかけあがった所為で荒くなった呼吸を整えて、吉澤はそのドアのチャイムを鳴らした。
「よっすぃー、どうしたの?」
開かれたドアの中から飄々とした態度で後藤が聞いた。
「どうし、たのじゃ、ないよ」
「水いる?」
吉澤が辛そうに頷くと、後藤は彼女を招き入れて台所に向かった。
同じ間取りなのに、石川邸とは全然違う後藤の家の空気に吉澤は石川の泣き顔を思い出した。
「はい」
戻ってきた後藤に水を手渡されて、吉澤はそれを一気に飲干した。
「なんで来たの?」
落ち着いた吉澤に、後藤は彼女を見ずに問いかけた。
無表情な彼女の横顔を、吉澤もやはり見ずに答えた。
「友達だから」

長い沈黙が続いていた。
家の奥からはテレビが大勢の笑い声を流していた。
「ごめんね、よっすぃー」
突然、後藤が切り出した。
「何が?」
「私、よっすぃーが梨華ちゃんと会ってるの知ってた。
だからわざわざよっすぃーに電話してあんな事言ったんだ」
後藤は決して吉澤を見ようとしなかった。
後藤をちらっと見て、吉澤は彼女と同じ様にドアに目を向けた。
「別に、謝る事じゃないじゃん。幼馴染みなの、知らなかったし」
「そうなのぉ?なんで言わなかったんだろ、梨華ちゃん」
吉澤は肩を竦めて玄関に並んだ靴を見た。
そこには、後藤の物と思われる靴と、両親のものと思われる靴と、兄弟の物と思われる靴が沢山並んでいた。
「梨華ちゃんの事、宜しくね」
「できるなら、そうしたいけどね」
吉澤が後藤を見て言うと、後藤はドアから目を離さずに言った。
「よっすぃーにしか、出来ないよ」
リビングの方からは相変わらず大勢の笑い声が聞こえてきていた。

 

18.踊る恋と冷たいアールグレィ

 

後藤邸のドアを開けると、廊下の端から石川が覗いていた。
ドアを閉めて、笑顔を見せると石川が近付いてくる。
「真希ちゃん、どうしてた?」
「元気でしたよ」
そう答えると、石川はそれでも心配した顔をして言った。
「あの子、平気な顔してても平気じゃないの…。大丈夫かしら」
高くて心地よい声を後藤に聞かせるのは酷な気がして、吉澤は石川をGOTOHの文字から遠ざけた。
「今は、そっとしておいてあげましょう」
悲しそうに石川が笑った。
「お茶でも、出すわ」
すっかり彼女の物と化したシャツの裾を握って、石川は吉澤を誘った。
吉澤は頷いて、石川のあの真っ白な部屋に入った。
玄関には相変わらず靴が一足も出ていなかった。
リビングは真っ暗で、テレビの音もしなかった。
「お家の人は?」
吉澤が聞くと、石川はちょっと考えてから言った。
「私、ひとりなの」
ソファに座ると、背の高いグラスに氷とアールグレィが入れられてきた。

吉澤はそれを何も入れずに一口飲んだ。
シロップとミルクを入れながら石川は吉澤に礼を言った。
「どうしてですか?」
「今日一緒にいてくれて」
吉澤は首を横に振って、石川の細い指に触れた。
「ずるいんですよ、私は」
「え?」
カラン、と氷が音を鳴らした。
上の階の住人の足音が遠く離れていった。
「貴方が言っていたあの話が、私の事じゃなくてホッとしていた。
ごっちんの友達失格なんです。彼女がたった今失恋したというのに、私はその相手の傍で胸を高鳴らせている」
外で、車がクラクションを響かせていた。
石川は逃げる様に窓辺に立って、遠くを見た。
「ひとみちゃんの家、ここから見えるかしら?」
「うちからは先輩の家は見えませんでしたけど、ここなら昼には見えるんじゃないですか?」
石川の後ろに立って、吉澤は遠くを見た。

星空が綺麗に見えた。スモッグの多い都会では珍しい夜だった。
「真希ちゃんね、いつもお話を沢山してくれてたの。
安倍さんとひとみちゃんと、3人の楽しいお話。」
窓ガラスに写った石川は目を閉じていた。
「狡いのは私だわ。ひとみちゃんが真希ちゃんの友達だって知ってて言わなかったの。
プールで会ったあの時よりも前からずっと知ってたのに言わなかったの。
真希ちゃんがひとみちゃんの事聞かれて誤魔化したの。
もう会わないかもしれないって。だって」
石川が振り向いて、吉澤のシャツの裾を掴んだ。
「だって?」
吉澤が促すと、石川は顔を背けて続けた。
「ひとみちゃんといる空気が心地良くて、一人占めしたかったの。
二人で会ってたかったの」
右手で石川の顔をもう一度自分の目の前に向けて吉澤はためていた言葉を吐出した。
「抱き締めて、いいですか?」
「駄目って言ったら?」
「それでも」
吉澤は有無を言わさずに石川を自分の腕の中に収めて、彼女の耳に囁いた。
「9月になったらまたあそこに行きましょう」
その言葉を聞いた石川はクスクス笑って苦しそうに頷いた。
「泳いでもいい?」
「仕方ない人だな。内緒ですよ?」

 

19.泳ぐ金魚達と少し気の早い紅葉と

 

九月がやってきた。
急に太陽が柔らかくなった様な気がする陽射しだった。
もしかしたら太陽にも恋人が出来たのかもしれない、と吉澤は並木道で後藤と安倍を待ちながら思った。
「お待たせぇ」
「待ってないよね?よっすぃー」
「…待ったよ」
3人は並木道を、相変わらずの他愛無い会話を繰り広げて歩いた。
「だから、今日は奢りなんだよぉ」
「そーなん?やった!なっちダブル頼んでいい?」
「いいよ。もうなんでも」
そろそろ、木々も衣替えする時期になっていた。
「ごめん!明日でもいい?」
ぴたっと立ち止まった吉澤が二人に唐突に過った。
「えー!!」
「なんでぇ?」
「トリプル頼んでいいから!」
後藤が軽いため息をついて手をはらった。
「行ってきなよ。もう寒いからアイスはいいや」
「ありがとっ」
吉澤が走り去った後には二人の少女が残った。
「なっちが鯛焼き奢ってあげるさ」
いつまでも吉澤を見ている後藤の腕に自分の腕を絡めて安倍が笑った。
「うん。いこっか」
絡められた腕を解き、手を握り直して後藤も笑った。
風が葉をサワサワと揺らして、光はそこにあるままだった。

ちゃぷん。

更衣室に入った吉澤はプールから聞こえてくる音に頬が緩んだ。
更衣室には、予めタオルとジャージが二着用意されていた。
ドアを開ければそこにはあの日と同じ様に制服姿の石川がいた。
悪戯っぽく笑って、石川は吉澤に手を伸ばした。
「今年はもうそろそろ寒くなってプールもお終いね」
「じゃぁ、今年最後に入っておきますか?」

ちゃぽん。

靴と、靴下を脱いで制服姿のままで吉澤は石川の待つプールに入った。
ゆっくりと泳いでいくと、石川はプールサイドから手を離して沈んでいく。
水の中で、石川を抱きとめた吉澤はそのまま彼女と唇を合わせた。
何度も何度も唇を絡ませて、水面にあがった。
最初は触れるだけだった唇の中まで侵食していく。
息苦しくなった石川が顔を背けて吉澤にしがみついた。
吉澤はその場で立ち泳ぎをしながらこっそり笑った。
石川は最初怒った様な顔を見せて、それから彼女も笑い出した。
二人が笑ってるのを聞いてか、プールの水もぱしゃぱしゃと笑った。

「ひとみちゃん、私来年泳げる様になるかしら?」
「ならなくてもいいです」

プールには、ちょっと気の早い赤い葉が一枚、水浴びを楽しんでいた。

 

泳げない金魚は、死ぬまで水面には上がれないの。
水底で口をぱくぱくしてるだけ。

「ねぇ、今日は着替え用意してきたのよ?」
「知ってます。…もう一回、キスしていいですか?」
「駄目って言ってもするんでしょ?」

だから、泳げる金魚は誰も気付いてくれないの。
可哀想な、可哀想な泳げない金魚。

「後藤はさ、今川焼きよりも鯛焼きのが好きだな」
「なっちもさ!鯛焼きは尻尾まであんこ入ってるから」

もし、泳げる金魚の誰かが気付いてくれたら、
もう寂しいって泣かなくてもすむのにね。

泳げない金魚は、だけど知らないの。
本当は泳げる金魚も泳げないって、知らないの。

「なっち、今日はありがと」
「おやすいごようです」

どの泳げない金魚にも、泳げる金魚はすぐ傍にいて
それに気付いてやっと泳げる金魚になれる泳げない金魚。

「後藤ね、失恋しちゃったんだぁ」
「なっちが傍にいるさね」
「そだね。鯛焼きもあるしね」
「なっちは鯛焼きと一緒ですかっ」

幸せな、幸せな、泳げない金魚。
その後ろには、泳げる金魚が気付いてくれるのをこっそり待っている。