カテキョ
■第1話 「おちびとのっぽのご対面」
大学が夏休みに入る直前、親の仕送りがストップしてしまった。
なんでも、パパの会社が経費削減とかで給料&ボーナスが大幅に
カットされたのが原因らしい。
そんなのって、もっと前からなんか兆候みたいなのがあったでしょ
う。もっと早く教えてほしかったよ。ホント、マジで。
まぁ、授業料やアパートの家賃なんかは貯金でどうにかしてくれ
るらしいんだけど、その他の生活費まではもう面倒見きれないら
しい。
圭織、自慢じゃないけど今までバイトってあんまりした事ないん
だ。だって、職場の人間関係ってのが面倒なんだもん。
圭織はいっつも、主導権を握っていたいの。ワガママ? そんな
ことないよ。ただ、あれしろこれしろって言われるのが嫌いなだ
け。圭織は平和主義者だから、主導権握って平和にやっていきた
いだけなの。
だから、あんまり人の多いバイトはパス。
掲示板にベタベタ貼ってある求人募集の貼り紙。左からずっと見
てきたけどパスの連続。あーあ、もうあと3枚しかないよ。どう
しようかなぁって思ってたら、最後の1枚になんか良さそうなの
があった。
【家庭教師募集
時給2500円
※交通費別途支給
勤務日:週3日 (月・水・木)
勤務時間:2〜3時間程度(相談応)
指導教科:中学ニ年教科全般
年齢・経験不問
※女性に限る
問い合わせは、学生相談窓口まで
コードNo.3587 】
どうしようかなぁって迷った。ニキビいっぱいの男子中学生っだっ
たらなんかちょっとって思ったし、家庭教師なんて今までした事
なかったし、友達からは大変だって聞いてたし。
でもまぁ、寄り好みしてる暇もなかったから、一応その貼り紙を
剥がして問い合わせてみた。
以外にも、あっさり決まってしまった。
自慢じゃないけど、圭織、頭はまぁまぁいい。小・中・高とそれ
なりに上位をキープしてたし、今もまぁ世間的には一流って呼ば
れる大学に通っている。
それが良かったのかわからないけど、すぐに家庭教師としてのバ
イトは決まった。
なんだか、相手は切羽詰ってるらしくできればすぐ来てほしいと
の事で、問い合わせた2日後にはこうして家庭教師先の「辻家」
にやって来ている。
「ふーん……」
東京にしては、なかなかでっかい家。
北海道にある圭織の家に比べると小さいけど、金額に換算すると
まぁ負けてるだろうなぁ。
なんて、ぼんやり考えながら辻家のベルを鳴らした。
「はい」
インターフォン越しに届いた声は、母親だろう。圭織は、ちょっ
と緊張して軽い咳払いをした。
「あ、あの家庭教師の件でおうかがいしました。T大学教育学部
飯田圭織と言います」
「ああ――、はい。少々、お待ち下さい」
気さくな人で本当にホッとした。
”ざます”なんて言葉使いの人だったらどうしようって思ったけど、
ぜんぜんそんな事なくてよく笑うとてもいいお母さんだった。
どうやら、娘さんの成績がすごく悪いらしい。
今まで何人もの家庭教師、それこそ元・塾講師なんていうその道
のエキスパートがやってきたけど、全員、自信をなくして辞めて
いったそうだ。
そんな人達ですら手におえない娘さんを、家庭教師未経験の圭織
がどうにかできるなんて……と、ちょっと胃の辺りがキリッと痛
んだ。
断ろうかどうしようか迷ってると、どうやらその本人が学校から
帰ってきたらしい。
母親は、娘を呼びに部屋を出ていった。
「もう、ダメだ……。帰ってきちゃったよ」
リビングで、圭織は思いっきりうなだれた。
しばらくして、母親と娘がやってきた。
「希美。こちらが、新しい家庭教師の飯田圭織先生よ。ちゃんと
ご挨拶しなさい」
母親の後ろに隠れるようにして立っている少女。
白い八重歯を微かにのぞかせて、ぼんやりと物珍しそうに圭織を
見ていた。
「初めまして。飯田圭織です。よろしくね」
と、圭織は少女の緊張を解かそうと、ほんの少し前かがみになっ
てニッコリと笑って挨拶をした。
――のに、少女は一瞬、怯えたような表情を浮かべるとまさに脱
兎の如くその場を走り去っていった。
ショックだったよ……。
「こ、こら、希美。――す、すみません。ちょっと、人見知りす
る子でして」
と、母親は引きつった笑みを浮かべていた。
人見知りっていうか、圭織自身も気づいてるんです。よく言われ
るんです。顔が怖いって。
でも、その事は母親には伝えず、圭織も引きつった笑みで「最初
ですから」とかなんとか言ってその場の空気を濁した。
階段を一歩上がるその足どりは、本当に重かった。
さすがに、逃げられるなんて思わなかったし、そんな逃げるよう
な少女とこれから上手くやっていけるんだろうかと考えると、胃
に穴が開きそうだった。
「こっちが逃げ出したい」
って、本当に思った。
母親に案内されて、部屋に通された時。
少女は、もう椅子に座っていた。
そして、圭織の顔を見ると申し訳なさそうにペコンと頭をさげた。
それを見て、圭織は心を癒された。
あぁ、この子はいい子なんだなぁって。
だから、母親に「じゃあ、これから授業を始めますので」って自
然な笑顔で言えることができた。
「じゃあ、よろしくお願いします。――希美、先生の言う事、ちゃ
んと聞くのよ」
と、母親は少女の部屋を出て行った。
どっちかって言うと、圭織も人見知りするほう。
だから、少女と2人きりになってもすぐには上手く喋ることがで
きなかった。
でも、圭織がお姉さんだし家庭教師なんだからしっかりしなきゃっ
て、勇気を出して言葉を発したよ。
「リングって映画知ってる?」
少女は、きょとんとした顔で圭織を見上げていた。
「圭織ね、その映画に出てくる貞子に似てるってよく言われるの」
少女は、じーっと圭織の顔を眺めていた。そして、その表情は怯
えたものになった。
――また、圭織はショックを受けた。冗談のつもりだったのに……。
「あ、ジョーク。ジョークなんだよ」
少女は、くるりと背を向けてもう圭織の顔を見なくなった。
「そんな……」
軽い目眩を覚えながら、少女のベッドに越しかけた。
「私の顔って、そんなに怖いのかなぁ……」
圭織は、たまに自分の心の声を口に出すことがある。この時も、
そんな感じだった。決して、口に出したくて出したわけではない。
うつまいたまんま、ポロっと出てしまったの。
『そ、そんなことないれす』
小さな声が聞こえてきて、圭織は「?」って感じで顔をあげた。
いつの間に――。部屋に入ってきたときと同じように、ちょっとう
つむき加減で少女は圭織の事を見てた。
「そんなことないれす」
と、少女はもう1度ポツリとつぶやいた。
「ホント?」
圭織の問いかけに、少女はこくんとうなずいた。
その姿がとても可愛くて、思わず笑いそうになったんだけどまた
怖がるといけないから「ありがと」とだけ伝えて勉強をすること
にした。
少女の学力は、それはもう凄いものだった。成績が悪く、この道
のエキスパートも匙を投げる程だって聞いてはいたけど……まさ
か、掛け算の九九も満足に覚えきれていないとは……。
――悩んでいる圭織の様子を、敏感に感じ取ったのか、少女はと
ても悲しそうな顔をして笑った。
「辻は、学校でもびりっけつなんれす。すっごく頭が悪いんれすよ」
と、舌っ足らずな喋り方でそう言った。
とてもとても、自分に自信をなくしているような笑顔だった。
そんな悲しい笑顔を見るのは、圭織は初めてだった。見たことあ
るのかもしれないけど、それはいかにも同情してほしいって感じ
のものだったから覚えてない。
でも、少女の笑顔は同情なんかを求めてなくて、なんて言えばい
いのかな、もうこんな自分はダメって感じのなんか自虐っぽい悲
しい笑顔だった。
「そんなことないよ。焦ることない。ゆっくりでいいから、一緒
に頑張ろう」
と、圭織は思わず少女の手を握った。
少女は、きょとんとした顔をした。きっと、手を握った時の圭織
の顔は、怖かったと思う。自分でもわかってた。
また、怯えられるのかなぁって一瞬考えたりしたけど、少女はと
ても嬉しそうな顔をして「へい」って大きくうなずいた。
【辻――。辻はあの時「はい」って言ってたみたいだけど、圭織
には「へい」って聞こえたんだよ】
■第2話 「辻とマロンと帰り道」
あれから数日が経過して、辻の家に5回目に訪れた時。
あ、そうだった。圭織は生徒である辻希美を、「辻」って呼ぶ事に
した。
最初、圭織は辻のことを「希美ちゃん」って呼んでたんだけど、辻
が「辻でいいれすよ〜」と言ったので、そうすることにした。
圭織はあんまり誰かのことを「〜ちゃん」って呼んだことなかった
から、本当はすごく抵抗があった。辻がそう言ってくれて、ちょっ
とホッとしていた。でも、ご両親の前では「希美ちゃん」と呼ぶ事
にしている。
辻の方は最初「いいら先生」と呼んでいたが(※圭織にはそう聞こ
える)、先生って呼ばれるのもなんだか照れくさいので「先生はや
めてね」ってお願いしたの。
そしたら、辻は「う〜ん」って3分ぐらい腕組みをしたまま考えて
から、「じゃあ、いいらさんって呼ぶことにします」だって。
圭織は思わずズッコケそうになったよ。そんな、時間かけて悩んだ
結果がそれかよって。
でもまあ、辻のそんなところが可愛いので笑っちゃったけどね。
で、5回目。
夕方の6時過ぎにいつものように辻家にお邪魔したんだけど、そ
の日は7時を回っても辻は帰ってこなかった。
いつもは7時から勉強開始の時間。
学校は4時頃終わるから、5時すぎには余裕で家に帰りついてい
る。
初日は、ちょっと母親に授業計画の説明なんかをしなければなら
なくて4時すぎにお邪魔したから、辻は圭織より後に帰宅したん
だけど、それ以外はいつも圭織が来るのを玄関先で待っててくれ
た。
「何か、あったんですか?」
心配になった圭織は、リビングに戻ってきた母親に訊ねた。
なかなか帰ってこない娘に痺れをきらし、携帯に電話をしたらし
い。
「なんか、友達と遊んでて時間を忘れてたみたいで、今、帰って
る途中らしいんです」
と、軽いため息を吐いた。遅くなるなら、すぐに電話してくれば
いいのにというニュアンスがそこには含まれているようだった。
「すみません。気の利かない子で」
と、辻のお母さんは苦笑した。
「あ、いえ。いいんです」
ホッとした。事故にでも遭ったんじゃないだろうかと、圭織の心
臓はさっきからバクバクなってたけど、それを聞いて徐々に落ち
つきを取り戻した。
「あの、ちょっとそこまで迎えに行ってもいいですか?」
と、圭織は席を立った。
――夏とはいえ、午後7時を回って辺りはもう薄暗くなっている。
辻は幼い。そして、小さい。とてもではないが、中学2年生には
見えない。だから、変なオヤジに捕まってイタズラでもされない
かと、またハラハラドキドキしながら辻の下校ルートを逆に向かっ
て走っていた。
どのくらい走ったんだろう。もう、家よりも学校から近いところ
まで来てしまったみたい。
すれ違いにでもなったかなぁって、どうしよう家に電話してみよ
うかなって思ったとき、フッと何気なくすぐ側の公園に目を向け
たら、そこに辻がいた。
しゃがんで何かに語りかけているようだった。圭織は、目があん
まよくないからこの場所からでは、辻が何をしているのかわから
ない。
――圭織は、「お〜い、辻」って声をかけながら駆けていった。
辻は一瞬、背中を向けたままビクンってその小さな身体を大きく
ふるわせたけど、圭織がもう1度声をかけたらその声でわっかっ
たんだろうね、後ろを振りかえって立ちあがった。
「ハァ……、ハァ……。辻、何やってんのこんなところで」
圭織、久しぶりに走ったから息を切らせちゃって。
「いいらさん、どうしたんれすかー?」
と、辻は八重歯を覗かせながら、圭織の背中をさすってくれた。
本当は、圭織はちょっと注意したかったんだ。
こんな時間――って、まだ7時回ったところだけど、約束の時
間に現われずにさ、こんなところでボーっとしてるんだもん。
圭織の授業はいいよ。でも、こんなところでいたら、危ない。
それを注意したかったんだけど、なんか笑いながら背中をさすっ
てくれる辻の顔を見てたら、なんかどうでもよくなっちゃった。
「ありがとう、辻」
「――どういたしましてれす」
と、辻はちょこんと頭をさげた。ツインテールの髪もピョコン
と跳ねたのがなんだかおもしろかった。
「もう遅いから帰ろう。お母さんも、心配してる」
辻は、ゆっくりと首を振った。ツインテールがまるで、デンデ
ン太鼓みたいに揺れた。でも、圭織は笑わなかった。
なぜなら、辻が笑ってなかったからだ。
「どうしたの?」
「……かわいそうなのれす」
「かわいそう?」
「辻の家は、犬は飼えないんれす……。お母さんが、犬ア?
ん? 犬ア……ア……なんらっけ?」
「犬アレルギー?」
「へい。それれす。犬が飼えないんれす」
辻が、後ろを振り返った。ん? って感じで辻の後ろを見たら、
辻の足元にダンボール箱があった。
その中に、1匹の子犬がいた。
「かわいい」
圭織、思わずその犬を抱き上げちゃった。犬種っていうのかな、
その子犬はダックスフンドみたいだった。
「学校の近くかられすね、ずっと辻の後をつけてくるんれすよ」
「かわいいね」
「かわいいれす」
って、圭織と辻はしばらくお互いの顔を見合わせて笑った。
子犬も辻も、圭織にとっては同じぐらい可愛かった。
「れも辻の家では飼えないんれす。辻がいなくなったら、わんちゃ
ん1人ぼっちになります。お父さんとお母さん探して、車がいっ
ぱい走ってる道路に行ったら、わんちゃん危ないれす。らから、
辻、わんちゃんが眠るまでずっとここにいたいんれす」
辻は、ちょっと泣きそうになりながら話してた。
なんか、圭織は……、圭織もなんかちょっとジーンときた。
犬が可哀相とかじゃなくて、なんかそう考える辻がとても純粋で
なんか圭織が失ったもの持っててとてもうらやましくて……。
でも、圭織は辻の先生だから涙なんか見せられない。
グッと堪えて犬を抱えたまんま、立ちあがった。
「いいらさん?」
辻は、きょとんと圭織を見上げてた。
「わかった。この犬、圭織が飼ってあげる」
「ほんとれすか?」
「圭織のアパートね、小さい犬なら飼ってもいいんだ」
「辻も遊びにいって、いいれすかっ?」
辻は、すごい嬉しそうに笑った。圭織は、「もちろん」ってとび
きりの笑顔で答えたと思う。可愛いのが2ついっぺんも圭織の部
屋に来るんだもん。そりゃ、嬉しいよ。
帰り道、辻は犬に「マロン」って名付けた。
「マロン、マロン」って何度も胸に抱いた子犬に、頬ずりをして
いた。それを見て、圭織は思ったよ。
別に勉強ができなくてもいいじゃんって。大切なのは、やっぱり
なんつーのかな。ハートかな。
なんか、そんな気がした。
【辻。マロンも大きくなったよ。早く撫で撫でしてあげたいね】
■第3話 「泥んこ少女とのっぽの交信」
挨拶がわりにキスなんかすんじゃねーよって思いながら、頭のどっ
か片隅でうらやましいーなーなんて思う自分がいて、大学のキャ
ンパス歩きながら圭織はちょっとした自己嫌悪。
「ちょっと、圭織。聞いてる?」
一緒に歩いていたなっちこと安倍なつみが、圭織の肘をつっつく。
「ん? 聞いてるよ」
ホントは、全然聞いてなかった。ベンチでキスしてた恋人同士が
気になって――。ごめん、なっち。
なっちは、大学に入学した日からの友達なんだ。
圭織と同じ北海道出身。誕生日も2日しか違わくて、しかも、生
まれた病院も同じだって聞いてビックリしたよ。
運命を感じるねって、話てたのがつい昨日のように感じる。
もうあれから2年か……。早いね……。圭織も、歳を感じるわけ
だ。
「ん?」
なっちがいつの間にか消えた。いつの間にか、駅まで来てる。
……また、交信中だったみたい。
”圭織は、たまにどっか遠くいっちゃうね”
圭織の友達は、みんなそう言う。――気をつけようとはしてんだ
けどね。これはもう、クセみたいなもんだから気にしないでって
圭織はいっつも説明する。
なっちにも説明した。説明して理解してくれたからこそ、こうし
て交信中の圭織をほったらかして消えてしまった。
理解してくれてるのは嬉しいけど、なんか寂しい……。ちょっと、
ぐらい声かけてくれてもよかったのに……。
アパートまでの道のりを歩いている途中で、圭織はまた交信して
しまっていた。
辻のことを考えていたみたい。
別に、特別何か考えてたわけじゃなくて、学校で何やってんだろ
うとか、ちゃんと授業受けてるんだろうかとか――まぁ、家庭教
師らしいことを考えてたわけよ。
そしたら、『いいらさーん』って辻の声が聞こえてきた。
幻聴にしてはリアルだなぁって振りかえったら、制服姿の辻が手
を振りながら走ってきてた。
圭織は、「え?」って感じで時計を見たよ。だってまだ、お昼の
12時少し回ったとこだったから。
あ、そうだった。
辻は圭織のアパートに、ほとんど毎日のようにやってくる。
”マロン”っていう辻の拾った子犬を、圭織が飼ってるからね。
その”マロン”に会うために、毎日、電車に乗ってやってくる。
この日も、来るだろうなとは思ってたけど、まさかこんなに早く
来るとは思ってもいなかった。
「辻……、学校は?」
「先生が、早く帰っていいって言ってくれたのれす」
「は?」
教職員の会議? それとも、短縮授業? なんかよくわかんない
けど、”マロン”会いたさに勝手に学校抜け出したりしたんじゃな
いからホッとした。
それよりも……。
「なに、その格好……。泥だらけじゃない。何やってたの?」
って、圭織は辻の制服についた泥の汚れを、持っていたハンカチ
で振り払った。でも、少し粘土質の土だったので、まったく汚れ
は落ちなかった。
「転んだのれす。それより、いいらさん。早く、帰りましょうー」
と、辻は圭織の右腕に自分の腕を絡ませてきた。
ちょっとちょっと、って思ったよ。
だって、圭織が着てた服、今日おろしたばっかの”おにゅー”の服
なのにさ、泥だらけの辻はそんな事お構いなく腕を絡めてくるん
だもん。
「辻、今日はれすね。マロンに待てを教えてあげるんれすよ。マ
ロンは辻と違って頭がいいから、すぐに覚えるんれすよ」
「うーん」って眉をしかめている圭織を見上げながら、辻は言った。
なんか、その目がすっごいキラキラしてて、それ見てたら服の汚
れぐらいなんだいって思えた。
辻は、ホントに不思議な子。――まぁ、圭織も別の意味で不思議
だってよく言われるけどね。
――アパート。
辻が恥ずかしそうに笑いながら、洗面所から出てきた。
圭織は、その姿を見て大笑いした。
制服が汚れてたから、洗濯してあげる事にしたの。で、その間、
圭織のジャージを貸してあげることにしたんだけど。
「これじゃあ、辻、タコさんれす」
と、ブカブカの両腕と両足をバタバタとさせて笑っていた。
1分ぐらい辻と圭織は、大笑いしてた。
”マロン”も、楽しそうに辻の周りをグルグルと回ってた。
圭織、笑いすぎてお腹がいたくなって――。
「もう、勘弁。もう、勘弁」って、泣いて謝ったよ。
そん時、小さい頃におばあちゃん家で見た”遠山の金さん”を思い
出してまた笑った。
――いい加減、笑うのをやめて、圭織はお昼ご飯を作る事にした。
冷蔵庫を覗いてみたけど、こんな時に限って食べ物がない。
「辻、何が食べたい?」
圭織は、冷蔵庫を閉じて振り返った。
辻は、さっきからずっとマロンに”待て”を教えている。なんか、
聞こえてないみたいだからもう1度声をかけた。
そしたら、辻は「ん?」って感じで振り返った。
「何が食べたい? お昼まだでしょ?」
「うーん」
って、また腕組みをした。圭織、その姿を見て思わずため息吐
いちゃったよ。こうなると長いんだ。答えが出るまで3分ぐら
いかかる。
圭織とは種類が違うんだろうけど、なんかなっちとかの気持が
わかったような気がした。
辻は「やきそば」が食べたいと言ったので、圭織は近所のスー
パーマーケットに向かった。
辻1人にして大丈夫だろうかって一瞬思ったけど、辻も14歳。
そんな子供じゃないだろうって、圭織は自分に突っ込んで苦笑
した。辻のこと、何歳に見えてるんだって。
――「ただいま」って、声をかけてドアを開けたんだけど、な
んか部屋の雰囲気が変。変って言うか、静か過ぎる。
どうしたんだろうって、部屋を覗いて見たらそこには辻の姿も
なければ、マロンの姿もない。
「辻?」
見渡すほど広い部屋じゃないから、そんな事しなくてもわかる
んだけど――辻もマロンもどこにもいなかった。
「あれ?」
部屋の真ん中にある小さい食卓テーブルの上に、1枚の書き置
きがあった。
【こうえんにさん歩に行ってきます。すぐに帰ってきます
辻 希美】
って、すごい幼い字で書いてあった。
文字だけ見ると、小学校低学年のような印象を受けた。
公園はアパートのすぐ近くだから、まぁ、大丈夫かって安心し
て、圭織はヤキソバ作りにとりかかった。
30分待っても、辻は帰ってこなかった。
1時間……、あまりにも遅いから迷子にでもなったんじゃない
かって、圭織は辻を迎えに公園に向かった。
なんか、前にもこうして心配して辻を迎えにいったと思う。
あれからもう2週間ぐらいかな?
毎日のように会ってるから、なんかもうすっごい昔のような気
がする。
『もう、いいよ。僕たちかえるから、じゃあね』
って、公園から学校帰りの小学生3人が出てきた。ぶつかりそ
うになった圭織を、一瞬ちらりと見て「デケー」って失礼なこ
とを言いながら走り去っていった。
人が気にしていることを……、小学生じゃなかったら圭織は間
違いなく説教してたね。人の嫌がる事を言ってはいけませんっ
て。走り去っていく小学生から、視線を公園の中に向けた。
辻が、マロンの前にしゃがみ込んで「待て、待て」って手をか
ざしてる。かざしている方の手は、その動きで捲り上げていた
袖がだらしなく垂れている。
でも、辻はそれに気づかないぐらい真剣な顔でマロンに”待て”
を教えていた。
「辻、何やってんの?」
圭織は、のんびりと辻に近づいていった。マロンが圭織に気づ
いてシッポを振ってこちらに来ようとしてたが、ベンチにリー
ドを結び付けられているため近寄る事はできない。
「マロン、待て」
辻は泣きそうな顔で、マロンに”待て”の合図をした。
でも、マロンは圭織にシッポを振っていて、辻の事など見てい
なかった。
「もうっ。マロン。待て」
辻は、マロンをムリヤリ自分の方に向けさせた。固定してあっ
たリードに引っ張られ、首が一瞬絞まったんだろう。マロンは
小さく鳴いた。
「辻ッ」
何をそんなに必死になっているのか圭織には分からないけど、
辻の今の行為は明らかにマロンの意思を無視したエゴな行動。
圭織は、ちょっと強い口調でたしなめた。
すると辻は、涙で潤んだ瞳を圭織に向けた。
「嫌がってるのに、そんなことしちゃいけない。マロンが可哀
相でしょう」
「らって」
「この前、お手を覚えたばっかりじゃない。そんなすぐにいっ
ぱい覚えられないよ。なんで? 辻はマロンの親友なんでしょ?」
「らって、みんな自慢すんらもん」
って、辻はいきなり泣き出した。
びっくりした。圭織、最初の一声はちょっと強い口調だったよ。
でも、その後は優しく語りかけたつもりなのに、いきなり泣き
出すんだもん。しかも、意味わかんないし。
「じ、自慢って誰が? 辻と私しか、いないじゃない」
辻の頭を撫でながら、理由を訊ねてみた。すると辻は、泣きな
がら公園の出入り口を指さした。
――さっきすれ違った失礼な小学生を思いだした。
「なんか、言われたの?」
「マロンはバカみたいな顔してるって。辻、そんなことないも
んって」
「……」
「ちゃんと、お手らって1日で覚えたって、マロンにお手って
言ったら、マロンちゃんとお手をしたんれすよ」
「うん。辻、一生懸命、教えてたもんね」
「れも、みんなそれぐらいバカな犬れもれきるって。ウチの犬
は、なんれもれきるって、自慢すんらもん」
よっぽど悔しかったんだろうね、辻は声を上げて泣いた。
圭織もなんだか悲しくなったけど圭織はやっぱり大人だから、
黙って何も言わずに辻の頭を撫でてあげた。
「いいらさんがスーパーに行った後、マロン、待てがれきたん
れすよ。2回れきたんれす。らから、辻、みんなに言ったんれ
す。マロンは待てもれきるから、バカじゃないもんって……辻
はバカらけど、マロンはバカじゃないもん……」
きっと、マロンは”待て”ができずに、辻はさっきの小学生にか
らかわれたんだろうね。でも、辻が悔しいのは自分がからかわ
れた事じゃなくて、親友のマロンがバカにされたのが悔しいん
だろうね……。
「ごめんねマロン。辻がバカらから、ちゃんと教えることれき
なくて」
辻は、泣きながらマロンを抱きしめずっと謝りつづけた。
「辻はバカなんかじゃないよ。マロンの立派な友達だよ」
「そんなことないもん。辻がもっと頭よかったら、マロンにらっ
ていっぱいいろいろ教えることれきたもん」
って、辻は唇を尖らせて首を振った。
「いい? 辻。いっぱいいろんな事を教える人が偉いんじゃな
いんだよ」
「先生は偉いもん……。辻よりいっぱい勉強知ってるもん」
「偉い人って言うのはね、辻みたいな優しい人を言うんだよ」
「……?」
「教えるんじゃなくて、教えられる人が偉いんだ。圭織は、今、
辻からいっぱいいろんな事を教えられてる途中なの」
「辻が……れすか?」
辻はマロンを抱いたまま、きょとんとした顔を向けた。
「そう。みんなが無くしてしまうようなものを、辻はいっぱい
持ってて、それを無くしちゃいけないって――辻を見てると教
わる事ができるんだ」
「……」
辻には意味が分からないみたいだった。圭織にも、ホントのと
ころはよく分からない。でも、圭織にはなんとなくそんな風に
感じたんだ。うまく言葉にできないのがもどかしいから、圭織
は辻の頭をクシャクシャって撫でてこう言ってやった。
「いつまでも泣いてないで。辻の好きなヤキソバ作ってあるか
ら、帰って食べよう。で、お腹いっぱいになってまたマロンと
一緒に頑張んな」
「マロン、お腹が減ってるかられきなかったんれすか?」
「ん?」
「辻は、お腹が減ったらいつもよりもっと勉強れきないんれす」
と、辻はテヘテヘと笑った。なんか、すっごいいい笑顔だった。
さっきまで泣いていたとは思えないほど――。
「よし。じゃあ、帰ってお腹いっぱいヤキソバ食べな。いっぱ
い、用意してるから」
「へい。よーし、マロンもいっぱい食べようねー」
って、辻はベンチに括りつけてあるマロンのリードを外した。
もう食べることで頭がいっぱいで油断していたのか、マロンは
テヘテヘ笑っている辻の手をするりとすり抜け、公園内をダッ
シュして逃げた。
「あー、マローン」
追いかけまわる辻とまるでからかうように逃げまわるマロンを、
圭織は微笑ましくみてた。なんか、よくわからないけど、ちょっ
とだけ母親のような気分になった。
でも、それは14歳の娘を持つ母親のような気分じゃなくて、
もっと幼い純真無垢な小さな子供を持つ母親のような気分に似
ているのかもしれない。
――そんなことをぼんやりと考えていると、辻がいきなり転ん
だ。転んだがその両手には、マロンをしっかりと捕まえている。
そして、呆然と見ている圭織に向かってこう言った。
「いいらさーん、捕まえましたー。はやく、帰りましょー」
帰るのはいいんだけど、またジャージを洗濯しなきゃいけない
と思うと憂鬱な気分になった。なんか、交信したくなった。
【色褪せたジャージを見るたびに、あの頃の辻を思い出すん
だよ。そして、圭織はまたいつものようにあの頃に戻るんだ】
■第4話 「キラキラリング、どこ行った?」
夏休みに突入した。
突入したけど大学の課題がいっぱいあって、それの資料調べの
ために午前中はほとんど大学の図書館に通っている。
「家庭教師のバイト、どう? うまくいってんの?」
クーラーがガンガンに効いている図書室で、圭織はちょっと寒
いって感じてたほどだったけど、隣にいるノースリーブの圭ちゃ
んは額にうっすらと汗を浮かべているようだった。
「ちょっと、圭織、聞いてんの?」
圭ちゃんに睨まれて、圭織はやっと別世界から戻ってくる事が
できた。
「あ、うん。聞いてる。暑いよね、今日」
「家庭教師、うまくやってんのって聞いたのよ」
「あ、そう。うん。まあ、うまくいってる」
実際のところ、辻の成績は何一つとして上がってなかった。
この前、期末テストがあったんだけど、全部が1桁の点数。
でも別に、圭織はぜんぜん焦んなかった。
だって、まだ勉強を教えはじめて1ヵ月しかたってないし、そ
んなんですぐに成績がよくなるんなら、とっくの昔に辻の成績
は上がってるはずだからね。
辻のお母さんにも、その辺の事はちゃんと説明した。
今の勉強に追いつくんじゃなくて、基礎からゆっくりと始めま
しょうって。
結果を出すなら、来年の高校受験の時に出しますからって。
そしたら、辻のお母さんも納得してくれた。
今、辻は掛け算をマスターしようとしている。
それを圭ちゃんに教えたら、圭ちゃんはびっくりして目を丸く
した。
「え? 中2でしょ、その子」
「そだよ」
「……掛け算」
「今、7の段を教えてるの。1〜6までは完璧に覚えたよ」
「……ねぇ、圭織」
「ん?」
「――あ、やっぱいいや。またにする」
と、圭ちゃんは机の上の本をまとめ始めた。
児童心理学の類いの本が、いっぱいあってその中には圭織も知ら
ない専門書がいくつもあった。
まぁ、圭ちゃんは1学年上だから当たり前なんだけどね。
――圭ちゃんはけっきょく何が言いたかったのかわかんないけど、
すぐその後にマックのバイトに向かっちゃった。
圭織も、しばらく1人で勉強してたんだけど、なんか急に辻の顔
が見たくなって、午前中の自分の勉強を早めに切り上げる事にし
た。
「あ、もしもし、辻?」
駅へと歩きながら、辻の携帯に電話をした。
――今時の中学生は、携帯を持ってるのが当たり前みたいだけど、
辻の場合は自分が使うんじゃなくて、親が連絡用に持たせてある
だけみたい。今まで、辻が友達と電話しているところを圭織は見
たことないんだもん。
「あのさ、今から、プール行こうか?」
『ぷーるっ?』
電話の向こうの辻は、とても嬉しそうにはしゃいだ。プールといっ
ても、圭織は近所の都営のプールに行こうとしてたんだけど……。
『流れるぷーる大好き』
と、辻があまりにも嬉しそうにはしゃぐので、ちょっと足を伸ば
してYスパワールドっていう最近できたでっかいプールに行く事
にした。
――辻、1人で電車に乗れないんだ。
圭織のアパートへ来る時も、最初の3回は圭織がわざわざ辻の家の
ある駅まで迎えに行って、そのたびに「切符はここで、このボタン
を推すんだよ」とか」「ちゃんと5って書いてあるホームに来る電
車に乗るんだよ」って説明した。
でも、4回目からはちゃんと自分で1人で来れるようになった。
心配して迎えにいった圭織に、駅の改札口を出てきた辻は「1人で
電車によれるようになりました」って、テヘテヘ笑いながら言った
んだ。その時の、辻の可愛さと言ったら――。
でも、まぁそれは圭織のアパートまでの話で、初めて行く場所は相
変わらず乗り方がわかんないみたい。
だから、プールの最寄駅で待ち合わせせずに、圭織は辻の家まで迎
えに行く事にした。
電話してから、1時間後。(圭織も、プールの用意してた)
辻はこの炎天下、家の前でずっと待ってたんだろうね。
汗びっしょりになりながらも、圭織の姿を見つけるとテヘテヘ笑い
ながら近づいてきた。
「辻、あんたずっと待ってたの!?」
汗びっしょりのまま、辻は笑顔を浮かべてうなずいた。
「ダメじゃない。こんな暑い時に、帽子も被んないで」
「大丈夫。辻、こう見えてもすごいんれすよ」
「――ったく」
なにがすごいのかよく分からなかったけど、そう言って笑ってる
辻を見たら圭織は何にも言えなくなった。
「よし。じゃあ、行こうか」
「へい」
――それから約30分後。
目的地のYスパワールドに到着した。夏休みということもあって、
すごい人出だった。
圭織は、もうそれを見ただけでため息が出る。
なんとかのいも洗いってーの、そんなの圭織あんまり得意じゃない
からさ、正直、勘弁してって思った。
でも、辻はダーッと中に入っていっちゃうんだもん。
仕方ないから、圭織も更衣室に向かった。
一旦、中に入っちゃうと、以外に慣れちゃうもんで、5分後には辻
と一緒にはしゃぎながら流れるプールで流れてた。
ウォータースライダーにも挑戦したし、辻よりも圭織の方がはしゃ
ぎ過ぎってぐらい――。
「辻、お腹空いてないかい?」
遊び疲れたので、パラソルハウスのような場所で休憩することにし
た。まぁ、辻の方はまだまだ元気いっぱいみたいだったけど、ゲー
ムもそうだけど1時間遊んだら10分休憩しないとね。
「さっき、お昼ご飯食べてきたんれすけど……」
と、珍しく恥ずかしそうにうつむいた。
「けど?」
「う〜ん……」
と、情けない顔をして圭織のことを見上げた。いいんだよ、辻。そ
んな恥ずかしがんなくてもさ。あんだけ遊んだんだもん、腹減るよ。
でも、微妙な年頃。圭織にもそんな時があったからさ、あえてそれ
以上は訊ねなかった。
――圭織が注文した、ハンバーガー4つを2人で2個ずつ食べた。
海の家で食べるラーメンみたいに、めちゃくちゃ美味しかった。
辻が美味しそうに頬張ってるのを見てたから、よけいそう感じたの
かもしれない。
「次は、なにして遊びますか?」
満腹で休憩所でグタ〜となっていた圭織に、辻が覆い被さるように
して訊ねてきた。
一緒に休んでたんだけど、どうやらもう飽きてしまったらしい。
「いいらさん?」
圭織、ちょっと本当に疲れてたから無視して目を閉じていた。
そしたら、なんか右手の薬指に感触があって、パッて目を開けたら
辻が圭織のはめてる指輪をつんつんって突っついてるの。
「なに、やってんの?」
「綺麗だなーって」
「――これ?」
「へい」
「なに? してみたいの?」
「いいんれすか?」
「いいよ。その代わり、サイズ合うかな。圭織の指、太いから」
って、指輪を外す圭織の指先を、辻はずーっとキラキラした目で見
つめていた。
大学の入学記念にパパとママからもらったプラチナのリングなんだ
けど、なんかそれよりも辻の目はキラキラしてた。
圭織も、そんな頃があった。ママのつけてる指輪とかイヤリングと
かを自分でもつけてみたくなった時期が――圭織が幼稚園生の頃ぐ
らいかな。
「はい」って、辻にリングを渡したら、辻はしばらく空にかざして
キラキラ光るリングを眺めていた。
「はめてごらん」
「え……? いいれすよ〜……」
「いいから。似合うよ、きっと」
辻はほんの少し頬を赤くして、スルスルッと自分の左手の薬指にリ
ングをはめた。そして、またその左手を空にかざして輝きを楽しんだ。
左手の薬指にリング。
きっと、辻はその意味を知らないんだろうな。たぶん、お母さんが
してるのを無意識に真似してんだろうね。なんか、そんな辻がメチャ
クチャ可愛かった。
「そうだ、辻」
「?」
「その指輪は大事な指輪だからあげる事できないけど、もし、今度
の勉強の日までに、掛け算全部覚えたら新しいのをプレゼントして
あげる」
「ホントれすか?」
「後で、見に行こう」
「へい」
辻はとびっきりの笑顔でうなずいた。圭織は、辻の後ろに輝く太陽
がまぶしくて目を閉じた。
目を閉じたのはいいんだけど、最近疲れてたからウトウトしちゃっ
て、なんか本格的に眠ってしまってたみたい。
――夢を見てた。
よく分からないけど、コンクリートで囲まれた部屋みたいな場所に
圭織がいて、小さい窓の外に辻がいるの。
辻は窓の外から一生懸命話てるんだけど、圭織には何も聞こえない。
でも、辻がすごい楽しそうに喋ってるから圭織も微笑んでるの。
うんうんって、うなずいてる圭織を圭織は眺めてた。
なんか、不思議な夢だった。
どのくらい眠ってたんだろう。
目を開けたら、辺りはもう夕暮れで、あれほどいた客たちも今では
ちらほらとしか見えなくなっている。
辻――どこ行ったんだろう?
ぼんやりと辺りを見まわしたけど、どこにも辻の姿がない。
圭織、必死になって施設の中を走りまわった。
溺れたんじゃないかって、すっごい怖くなってもう半泣きで走り回っ
てたよ。
「辻……」
その姿を見つけた時、本当に全身の力が抜けるような感じがした。
辻は、大プールっていうまぁ普通の25メートルプールなんだけど、
その真ん中辺りで潜ったり出たりを繰り返していた。
もう、周りには3人ぐらいしかいなかった。
「辻」
圭織は、大声で辻の名前を呼んだ。
振りかえった辻の顔は、なぜかとても泣きそうな顔をしていた。
「どうしたの? もう、そろそろ帰るよ」
圭織の呼びかけに、辻はうつむいたまま首を振った。
「何? どうしたのよ」
辻はゆっくりとではあるが、プールサイドに向かって歩いてきた。
圭織も、辻の向かっている方に歩いた。
「もう、寒くなってきたから帰ろう。風邪ひくよ」
圭織は、プールサイドにしゃがんでまだプールの中で顔をうつむか
せてる辻に優しく語りかけた。
でも、辻は何も答えない。
「辻、どうしたの……。何かあった?」
「ごめんなさい……」
「?」
「辻……、わかんないよ。何があったの?」
「……指輪」
「指輪?」
「いいらさんの指輪、無くしちゃったんれす」
辻はまるで子供のように、わーって声を上げて大泣きした。
圭織は、それよりも自分の右手を見た。そうだった。辻に指輪を貸
してあげてたんだ。パパとママからもらった、大事な指輪なのに……。
「無くしたって、どこで無くしたのっ」
圭織の強い口調に、辻はビクッて身体を震わせた。怒るつもりは無
かった。だって、辻は反省してこんなに泣いてるんだもん。でも、
やっぱりあの指輪は大切だから、つい強い口調になってしまった……。
けっきょく、その後、1時間ぐらい圭織も一緒になって指輪を探し
たんだけど見つからなかった。
辻もどこで落としたのかわからないらしい。1人で施設内のプール
を全部遊び尽くしてたみたい。
辺りももう薄暗くなり、閉館のアナウンスも流れ始めたから、圭織
はあきらめずに探しつづける辻の手を引っ張って無理矢理プールか
ら上がらせた。
「もう、いいよ」
「辻のせいなんれす。ぜったい、見つけます」
「もう、いいって。返してもらうの忘れてた私も、悪かったからさ」
「ぜったい、見つけます」
って、辻は泣きながら圭織の手を振り払って、またプールに向かお
うとした。
でも、圭織はその手を離さなかった。
「本当にもう、いいから」
「らって」
「帰ろう。遅いとお父さんやお母さんが心配するよ」
――圭織、本当にもうどうでもよくなったんだ。これだけ探しても、
見つからないんだもん。仕方ないよ。形あるものはいつか無くなるっ
て、ウチのおじいちゃん言ってたからさ。
なんか、それよりもここまで必死になって探してくれる辻の気持ち
の方が嬉しかった。
泣きじゃくる辻を連れて、2人で施設を出て行った。
電車の中でも、辻はずっとシクシク泣いていた。みんなが、変な目
で見てたけど圭織は別に気にならなかった。
ウソ泣きじゃないから、本当に悪いと思ってるから、ずっと泣き続
けてるの。人前だからって涙をコントロールできるほど辻は、器用
じゃない。あんたらならどうするよって感じで、圭織はどこか挑発
的に、辻を見て笑ってるやつらを見据えつけた。
あの時、圭織がちゃんと指輪を返してもらっていれば、辻があそこ
まで責任感じる必要もなかったのに。圭織は、どっか抜けてる……
よく、言われるけど本当にそうだよ。
部屋の電気をつけるとベランダに出していたマロンが、窓の向こう
でク〜ンと鳴いた。そう言えば、今日1日、散歩に連れて行ってな
い。時計を見ると、夜の9時を回ったところ。ちょっと、疲れて面
倒だったけど、散歩に連れていく事にした。
公園内を散歩しながら、2週間ぐらい前の事を思いだした。
辻が悔し泣きをした日。あの後、辻はヤキソバを食べてから家に帰
るまでずっとマロンに”待て”を教えていた。
辻の誠心誠意はマロンに伝わったんだろうね。今ではマロンは、完
璧に”お手”と”待て”をできるようになった。
――今度は、”おすわり”を教えるらしいが、順番から言うと”おすわ
り”が1番最初なんだけどね。圭織は気づいてない事にしてる。
ぼーっと辻とマロンのこと考えながら散歩してたら、ポケットに入
れていた携帯電話がブルった。
びっくりしながらも「はい、もしもし」って出ると、辻のお母さん
だった。
『夜分すみません。辻希美の母親ですが』
「あ、はい」
『あの失礼ですが、先生のお宅に希美、お邪魔していませんか?』
「へ? あの――、7時頃、駅まで送り届けましたが」
どうやら、辻がまだ家に帰ってないらしい。
圭織はピンときた。まさか、ひょっとして……。
とりあえず、お母さんには無事に帰らせますからって告げて、電話
を切った。
あわててアパートに引き返し、マロンをゲージの中に入れて財布を
掴んで駅へとダッシュした。
あんなに走ったのは、高校の体育祭以来。
閉館して真っ暗のYスパワールドプールに到着した時、心臓がバク
バクなってた。運動不足って怖い。
出入り口は完全に閉じられているから、圭織は中に入れそうな場所
を探した。裏手に入り込めそうな低い鉄柵を見つけて、そこをよじ
登って中へと入った。
圭織は、辻が絶対ここにいるってわかった。だから、すぐにここに
向かったんだ。
だから、薄暗い明かりの中、水面がキラキラ反射しているプールに
辻の姿を見つけても、圭織は別に驚かなかった。
驚かなかったけど、潜ったり出たりしている小さなその後ろ姿を見
てたら、涙が溢れ出してきた。
なんでって思った。大事だとは言ったけど、そこまでする必要ない
んだよ。
電車も1人で乗れないのに、怖がりのはずなのに、なんでそこまで
するの……、圭織は心の中で辻の背中に呟いた。
「辻……」
ハッと振りかえった辻に、圭織はわれを忘れて普段着のままプール
に飛び込んだ。
涙なのか、水飛沫なのかよく分からないけど、辻の姿がすっごく滲
んで見えて、それが嫌だから辻の姿をちゃんと見たいから、圭織は
目をゴシゴシと拭った。
「いいらさん……」
「あんた、何してんのこんな時間まで」
圭織の顔はきっと、怖かったと思う。怖いって言うか、変顔だった
かも。辻は、きょとんとした顔をしていた。
「もう、いいって言ったじゃない」
圭織はたまらずに、声を出して泣いた。
だって、辻の顔がさ、凄い青くなってたんだもん。
夜のプールでずっと、圭織の指輪探してくれてたから、身体が冷え
て唇なんか色が変わってた。もう、圭織、それ見たら頭の中がわけ
がわかんなくなって、辻のことを泣きながら抱きしめた。
「こんなに冷たくなって、死んじゃったりしたらどうすんの。もう」
「らいじょうぶれすよ……。辻、バカらから風邪ひかないんれす」
って、歯をガチガチ震わせながら笑った。
「自分のこと、バカバカって言わないのっ、もうっ」
圭織は強く強く、辻のことを抱きしめた。その冷えた身体を、ほん
の少しでも圭織の体温で温めてあげたかった。
「いいらさん……」
圭織の胸の中の辻が、ポツリと呟いた。圭織は、グスって鼻をすすっ
て辻を見つめた。
「ん?」
「辻……、大きくなったら、いっしょうけんめい働いてかえします。
らから、いいらさん……、それまで待っててくれますか?」
「あのね、辻。あれはもういいの。形あるものは、いつか無くなる
の」
「……?」
「人の想いは形じゃなくって、心に残るから」
「こころ……?」
「そう。あれをプレゼントしてくれたパパとママの気持ちは、圭織
の心にちゃんと残ってるからいいの。辻のその一生懸命な気持ちも、
ちゃんと届いてるから。もう、それだけでいいの。ありがとう」
「……」
辻はあんまり納得してないみたいだったけど、それでも、黙って圭
織の胸の中で抱かれていた。
「帰ろう」って言った時も、もう首を横に振る事はしなかった。
ただ、黙ってうつむいたままプールサイドに上がった。
プラチナのリングは、けっきょく見つからなかったけど、圭織は辻
のキラキラ光る純粋な心っていうのかな、なんかそんなのが見えた
だけでもよかったって思う。
――帰りの電車の中、圭織は乗客から思いっきり変な目で見られた。
一応、辻のバスタオルで水を拭きとったけど、やっぱり服は完全に
乾いてないし、髪もあきらかに濡れてるしで――。
これがもしも、海の近くなんかだとそれなりに理由も見つけてくれ
るんだろうけど、都会のど真ん中じゃない。
この人、何やってたんだろう的な目でみんなは圭織の事を見てた。
辻も、ひどいんだよ。顔を真っ赤にしてうつむいている圭織を見て、
クスクス笑うんだもん。
でも、辻の笑顔はとてもキラキラしてたから。電車内の明かりが反
射してただけかもしんないけど、それを見て圭織はホッとしたんだ。
恥ずかしいのには変わりないんだけど、それもまぁいいかって思えた。
【辻。また、でっかいプールに行きたいね。来年も再来年も、ずっ
とずっと待ってるよ】
■第5話 「夏祭り、友達と」
夏休みもいつの間にか、もう半分以上もすぎちゃって、けっきょ
く圭織の夏休みっていうのは、アルバイトと大学の課題だけで終
わってしまいそう。
「なっち、この前、ハワイに行ってきたんだー。海とか、すっご
いキレーだったよ」
ほんの少し日焼けしたなっちが、お土産を持って大学の図書室に
やってきた。
ハワイのお土産の定番、マカダミアンナッツだった。
しかも、暑さでドロドロに溶けた……。
隣にいた圭ちゃんなんか、軽いため息を吐いて胸の辺りを抑えな
がら去っていった。
「なんだよ、圭ちゃん」
って、なっちは唇を尖らせてブツブツと文句を言った。
圭織も軽く嘔吐をもよおした。
バカンスから帰ってきたばかりのなっちはいいさ、まだまだバカ
ンス気分なんだから。
でも、圭ちゃんも圭織も日本のこの暑さにバテ気味なんだ。
このドロドロのチョコレートはちょっとキツイよ。
ごめんね、なっち。圭織も食べれそうにない。
辻のバイトを口実に、圭織もその場を退散した。
「なんだよー」
って、なっちは頬を膨らませて、自分で買ってきたナッツチョコ
をパクパクと食べた。
なんか、その食べる勢いは辻を見ているようでおもしろかった。
――その日の夜。
家庭教師の日。
圭織は、辻に掛け算のテストを行なっていた。
「じゃあ、9×8は?」
「9×8れすか? ちょっと、待ってくらさい」
って、辻は腕を組んで考え始めた。
また、3分ぐらい待たされるのかなぁって思ったけど、数十秒で
辻は「72」って元気よく答えた。
「正解。すごいよ、辻。もう、掛け算は大丈夫だね」
って褒めてあげたんだけど”9×9”で間違えた。
最後の最後で間違えて、辻はすごいしょぼんとなった。
「あのね、辻。わかんなくなったら、この前教えたでしょ。9の
段なら、9ずつ足していってごらん。9×8までできたんだから、
72に9を足すの。そしたら、いくつになる」
「72たす9……。紙に書いてもいいれすか?」
「うん、いいよ」
辻は鉛筆を握って、ノートに書いた。その姿はまるで、小学校の
低学年みたいで、最初はものすごく違和感があったけど、もう慣
れてしまった。辻には辻のペースがある。圭織は、それを尊重す
る。
――1分ほどして、辻は「81」って答えた。
「よし、正解。また今度、テストするからね。次はちゃんと覚え
とくんだよ」
辻は、ほんのりすこし額に汗を浮かべて大きくうなずいた。
「2学期のテストは、大丈夫でしょうか?」
休憩時間、辻のお母さんに呼ばれてリビングに向かった。そして、
そんな風にすごい深刻な顔をして訊ねられた。
「希美ももう中学2年生ですので、そろそろ結果を出していかな
いと……」
前々から思っていたけど、辻のお母さんはどこか焦りにも似たも
のを辻の成績に対して抱いている。
早く、平均的な学力に追いつきたいのはわかるけど、それならど
うしてもっと早くから、こうしなかったんだろうって圭織は思う
の。
こんな事言ったら辻に悪いかもしれないけど、辻の成績が悪いの
は最近になって現われたんじゃない。
だって、小学校2年生ぐらいで習うはずの掛け算を覚えきれてな
かったんだもん。それなのに、なんでもっと早くに塾に通わせな
かったのか……。
通わせられないほど経済的に苦しいとは思えない。むしろ、辻の
家は裕福な方に入るだろうしね。
「あの……、先生?」
!? ……また交信してたらしい。辻のお母さんが、心配そうに
圭織の顔を覗きこんでいた。
「あ、すみません。あの、大丈夫だと思います」
「本当ですか?」
「前にもお話した通り、急激な成績の向上はないかもしれません
けど、以前よりはよくなると思います」
圭織がそう言うと、辻のお母さんは圭織の後ろを見て一瞬、ハッ
とした表情を浮かべた。
そして、小さな声で気まずそうに、
「……よろしくお願いします」
って軽く頭をさげた。
なんだろう、急に……って、後ろを振りかえると、リビングの続
きになっている和室の柱の陰から、辻が寂しそうな顔をしてこっ
ちを見つめていた。
いや、正確にはお母さんを見てた。だって、振りかえってる圭織
にはまったく気づいてないんだもん。
休憩時間も終わって、圭織は2階に戻った。
辻はあの後、すぐに部屋に戻ったから、そこにいるのは当然なん
だけど、なんか椅子に座ってる辻の背中がいつもよりもずっと小
さく見えた気がした。
きっと、お母さんと圭織の話を聞いたんだろう。そんでもって、
また、自分は……ってのになってんだろうね。
だから圭織は、隣の椅子にドスンと腰かけて言ったんだ。
「そうだ、辻。あの約束覚えてる?」
「?」
「掛け算ができたら、辻の好きな指輪買ってやるって」
「……あ」
「覚えてるよね?」
「……」
辻は、さらに深くうつむいてしまった。
……圭織、やっちゃったよ。
辻、きっと圭織のプラチナリングを無くしたこと思い出したんだ。
励ますつもりが逆に、さらにどん底に落ち込ませてしまった。
土曜日。
大学の図書館も閉館日なので、ひさしぶりに昼近くまで寝てた。
あまりの暑さに目が覚めて、汗びっしょりのまましばらくボーっ
としてた。
マロンもあまりの暑さに、ぐったりしている。
風通しのいい、ベランダに出すの忘れてた。舌をべローンと出し
たまま、腹ばいになっている。
すぐにベランダの窓を開け、マロンに冷たい水を与えた。
危ない危ない……、もうちょっとで体調悪くさせるところだった。
「ふぅ」
って、圭織はわざと声を出して、ベッドの縁に座った。
何もないってのはいい事なんだろうけど、本当に何もする事が無
いっていうのは退屈なもんだね。
携帯を見たけど、着信履歴は0件だった。
圭織、友達いないのかなって、ちょっと悲しくなった。
そのまんま1時間ぐらい、ぼーっとして過ごしてた。そしたら、
急に携帯がブルって、圭織は交信から戻ってくる事になった。
「はい、もしもし」
この時、ディスプレイを見ずに電話に出た。
でもまぁ、かかってくるのはなっちか圭ちゃんか辻ぐらいだから
その必要もないんだけどね。
『もしもし、いいらさんれすか』
ほらねって思った。でも、辻から電話がかかってくるのは、ひょっ
としたら初めてかもしれない。番号教えてたけど、かけるのはい
つも圭織だったような……。
『ん? もしもし? いいらさーん』
なんか、辻が携帯を耳から外してる姿が見えたような気がした。
『もしもーし、いいらさーん』
「はいはい、聞こえてる」
『おはようございます』
おはようって、もう昼の1時回ってるんだけど、まぁいいか。
「はいはい、おはよう」
『あのれすね』
「ん?」
『今日、お祭りに行きませんか?』
「……は? お祭り?」
『辻の家の近くれれすね、お祭りがあるんれす』
お祭りかぁ……、去年の6月になっちと一緒に帰省して”よさこい”
見たなぁ。あ、そういえば今年帰ってないや。ま、いいか。そんな
時間もお金もないし。
『もしもーし』
辻の声を遠くに聞きながら、圭織はお祭りに行くことに決めた。
――午後6時半。
辻と駅で待ち合わせをした。
構内から出てきた圭織は、辻の姿を見てびっくりしたよ。だって、
辻、浴衣姿で立ってるんだもん。
周りみんな普通の服着てるのにさ、もう目立って目立って。
「いいらさーん」って駆け寄ってくるんだけど、普段、着なれて
ないからその動作がすっごくぎこちなくて。すごい、笑えた。
「変れすか?」
圭織のもとに駆けよってきた辻は、浴衣の袖をつまみながら顔を
上げる。
「辻ちゃん、かわいい」
辻は、照れ隠しに何か言いたそうだったが、どうやら何も思いつ
かなかったようで「うー」って照れ笑いでごま化した。
圭織も浴衣着てくりゃよかった。
あ、でも、持ってなかったっけ。今、流行りの浴衣も、辻が着て
いる普通の浴衣も両方持ってなかった。
ま、いいや。
「ねぇ、辻、お祭りってどこでやんの?」
って、圭織は辺りをキョロキョロ見まわした。お祭りがあるんな
ら、もう少し辻みたいな浴衣姿の人たちがいてもいいはずなのに、
そんな人はどこにもいない。
「ここじゃないれすよ。辻の家の近くなんれす」
「そっか。じゃあ、行こうか」
よく見たら、辻の首からパスケースのようなものがぶら下がって
いた。小学校のラジオ体操を思い出した――。
辻の話を聞くと、どうやら神社の境内で行なわれている小さなお
祭りらしい。圭織、ちょっと先走ってたみたいで、”よさこいソー
ラン祭り”みたいな大きなお祭りを想像してた。どうりで、浴衣
姿の人を駅で見なかったわけだ。
祭り会場の神社に近づくにつれ、やっと浴衣姿の人がチラホラと
確認できた。
さらに神社に近づくと、今までどこにいたんだろうって思えるほ
どの人で神社の境内は賑わっていた。
「すごいね」
「すごいれす」
辻は、口をポカーンと開けてその人だかりを眺めていた。口に虫
が入りそう。圭織は、辻に見られないように苦笑した。
辻が迷子にならないように、圭織は辻の手をぎゅっと握って境内
を歩いた。
通り道の両端に、お祭りの屋台が軒を連ねている。
懐かしいお面屋さん、林檎飴、辻の好きなヤキソバ、金魚すくい
にヨーヨー上げ。
いろんなお店があって、圭織なんかはかき氷屋さんに行きたかっ
たんだけど、辻がキョロキョロしながらも圭織の手を引っ張って
どんどん先に歩いていくもんだから、かき氷屋さんを通りすぎて
しまった。
「あった」
しばらく歩いたら、辻が突然そう叫んで圭織の手を引っ張って一
軒の福引屋さんの前に立った。
台の上には、子供の好きそうなおもちゃがたくさん並んでいる。
1等はプレイステーション2だった。
それを見て、時代だなぁって感じがしたよ。
圭織の田舎にも小さなお祭りがあった。そこでも、やっぱり同じ
ような福引屋さんがあった。
1等は確か、アニメキャラクターの大きなぬいぐるみだったと思
う。でも、これって当らないようになってるんだよね。圭織、そ
れを中学1年の時に友達に聞かされて、ショックを受けたのを今
でも覚えてる。
「辻、ゲーム欲しいの?」
辻がもしも、プレイステーション2狙いだったら、やめとくよう
に言うつもりだったんだけど、どうやらそうじゃないらしい。
圭織の声も聞こえないぐらいに、真剣に何かを探していた。
祭囃子で聞こえないのかなーって、もうちょっと大きな声でって
口を開けかけたら、辻がまた「あった」って叫んだ。
「おじさーん、くじ1回やりまーす」
って、辻は首からぶら下げていたパスケースの中から300円を
取り出した。
――なるほど。お財布だったわけだ。何をやりたいのか、圭織に
はまったくわからなかったけど、辻がくじを開ける前に手を合わ
せてぶつぶつ言ってる姿を微笑みながら見ていた。
辻に福引屋のからくりを教えるのは、やっぱりやめる事にした。
「あー、はずれたぁ〜」
って、辻は眉を八の字にして、がっくりと肩を落とした。
祭りって人の気持ちを昂揚させる。今日の辻は、まさにそんな感
じだった。
「おじさーん、もー1回」
辻ってきっと、誰の心も朗らかにするんだろうね。お店のおじさ
んもそんな顔をして「頑張りなよ、お嬢ちゃん」って言ってた。
3回ともハズレだったみたいで、キティちゃんのキーホルダーが
3種類、辻の手元に渡った。
4回目をやろうとした時、さすがに圭織は制したよ。
「辻、もうやめな。ムダ使いしすぎだよ」
「お金、いっぱい持ってきたんれす」
「ダ〜メ」
「2500円あるんれすよ。あと……1回300円だから……、
2回で600円……、3回で900円……」
「辻」
圭織は辻の手を止めた。
その時、フッと圭織の視線に台の隅っこにある箱が入ってきた。
そこだけ、キラキラと光っていた。なんだろうってよく見たら、
指輪だった――。
「……」
圭織の視線は、その指輪に釘付けだったから、辻にもわかった
んだろうね。
「あの一番右のやつ、いいらさんの指輪に似てるんれす」
って、指輪の並んだ箱を指さして恥ずかしそうに笑った。
「その右にある赤い指輪も、いいらさんに似合うと思うんれす。
辻、絶対に当てるから見ててくらさい」
「……」
圭織、何も言えなくなった。
嬉しくてこみ上げてくるものがあって、必死でそれを抑えていた
のもあったし――。それに……。
けっきょく、辻は5回くじ引きに挑戦して5回ともハズレた。
6回目に挑戦しようとした時、さすがにストップをかけた。
見かねた福引屋のおじさんが、おまけだって言って辻のほしがっ
ていた指輪を1つくれた。
辻、超うれしそうな顔をしてた。
もちろん、辻は圭織のためにプラチナリング風の指輪を選んだ。
「この前は、ごめんなさい」
って、辻はぴょこんって頭を下げながら圭織にその指輪を差し
だした。銀メッキでもない、プラスチックに銀色のフィルムを
貼りつけて、その中心にキラキラ光る七色のフィルムを貼りつ
けてあるオモチャの指輪。
辻は、圭織を見上げながらテヘテヘ笑ってた。
その顔見てたら、なんかもう圭織は……。
あわてて、辻から顔をそらした。
「? いいらさん?」
辻の声が背中から聞こえてきて、回り込んで圭織の顔を見よう
としてたんだけど、圭織はまた辻に背を向けて――。
何でかわからないけど、最近、ちよっと涙もろい。
そろそろ、圭織もオバさんになってきたのかな。
その後、圭織は照れ隠しもあって、辻の手を引いてあちこちの
屋台をハイテンションで巡った。
午後8時を回った頃、疲れてベンチで休憩していた圭織と辻の
耳に、太鼓の音が届いてきた。祭囃子のテープの音ではなく、
本物の太鼓の音――。
「なんだ?」
って、辻はかき氷を持ったまま辺りをキョロキョロと見渡した。
神社の前に組まれた舞台の上で、お面をつけた男女の舞いが始
まっていた。
「なんれすか? あれ?」
辻がとても不思議そうな顔をして、圭織に訊ねてくる。
圭織、知るわけないよ。この町のお祭り、初めて参加するんだ
もん。
「辻、毎年来てるから見たことあるでしょ?」
「辻は、今年初めて来るんれす」
って、なんでもないことのように言ってのけて、パクッてかき
氷を口に含んだ。
「はじめて?」
「へい。――辻、12月に引っ越してきたんれす」
「そっか――。ねぇ、あっち行ってみようか?」
圭織は辻の手を引いて、舞いの行なわれている舞台へと向かっ
た。あともう少しで、舞台だって時に、辻が急に立ち止まった。
「辻?」
さっきまで嬉しそうにかき氷を食べていた辻が、目を伏せても
じもじとしていた。
なんだ? って、思ってたら太鼓の音に混じって声が聞こえて
きた。
『のの〜』
顔を上げると、人の流れとは逆に1人の少女がこっちに向かっ
て駆けてきていた。
辻と同じぐらいの背丈で、辻と同じように髪の毛を頭のてっぺ
んで2つに結んでた。
「友達?」
圭織が声をかけると、辻は何かを言いたげに圭織を見上げた。
でも、その女の子が辻の前に立ったので、辻は開きかけていた
口を閉じた。
「ののも、来てたんだねー」
辻と同じような舌っ足らずな喋り方、黒めがちな瞳をキラキラ
させて辻の手をとった。
「うん。あいぼん――、1人で来たの?」
「友達と来たんだけどね、迷子になったみたーい」
って、無邪気に笑った。
圭織は、邪魔しちゃ悪いと思ってほんの少し離れて、2人の事
を眺めていた。
辻の友達を見るのって初めてだったし、なんかその友達の”あ
いぼん”って呼ばれた子が辻ととってもお似合いだったんで、
圭織はなんだかちょっとホッとした。
最初は浮かない顔をしてた辻も、なんか話に夢中になって圭織
のことなんてすっかり忘れて、友達と笑いあっている。
圭織は、ソッと2人から視線をそらして舞台の舞いに視線を移
した。
舞台の上ではお面をつけた男女が、笛や太鼓の音に合わせて舞っ
ていた。日本の伝統芸って感じがして、圭織そんなの見るのっ
て初めてだから、しばらくボーっと見入ってた。
そしたら、突然、辻が腕を組んできて――。
半交信中だった圭織は、ビックリして思わず短い悲鳴を上げた。
「つ、辻……。びっくりさせないでよ」
辻は、圭織を見上げてテヘテヘ笑った。
「お友達、もういいんかい?」
「もう、帰りましたよー」
「そう」
圭織が視線を舞台に戻すと、辻もやっぱり同じように視線を舞
台に向けた。でも、背の低い辻にはよく見えないらしくて、何
度も背伸びをしていた。
「あいぼんは、初めてできたお友達なんれすよ」
「?」
辻は、圭織の方を見ないでずっと背伸びしながら舞台を眺めて
いた。
「でも、辻はみんなの前で言えないんれす」
「どうして……?」
「辻みたいなバカな子とお友達だってバレたら、あいぼんもバ
カって呼ばれます」
「……辻」
辻は、圭織の顔を見て微笑んだ。でも、すぐに舞台へと顔を向
けなおした。
「いいらさんは、辻のことバカじゃないって言ってくれます。
れも、辻はやっぱり学校でぴりっけつらから……」
舞台を見ているというよりも、圭織と目を合わせたくなくてそっ
ちを見ている――なんか、そんな感じだった。
きっと、圭織は怖い顔をしてたんだろうね。だって、また辻が
自分のことをバカって言うんだもん。
そんなことないよって、あれほど言ったのに……。
でも、辻はそれがコンプレックスなんだ。
勉強ができないって事が、すごいコンプレックスになってるん
だよ。コンプレックスって、簡単に癒せるはずはないんだ。
それ知ってるのに、なんで怖い顔しちゃったんだろう……。
「ごめんね、辻」
「……?」
「辻は勉強できない自分が、そんなに嫌?」
圭織の問いかけに、辻はうつむいたままコクンとうなずいた。
「じゃあ、もうすぐ自分のこと好きになれるね」
「……?」
「だって、辻、今いっぱい勉強覚えていってるじゃん。すぐに
自分のこと好きになれるよ。でもさ、辻がすっごい勉強ができ
るようになっても、これだけは忘れないで」
「なんれすか?」
「今の辻を好きな人も、いっぱいいるってこと」
圭織の微笑みに、辻は首をかしげた。
「素直で、優しくて、友達や家族の事をすっごい大切にする、
そんな辻のことを好きになる人はいっぱいいるよ。さっきの福
引屋のおじさんだってそうだよ。辻があまりにも一生懸命で可
愛いから、この指輪プレゼントしてくれたんだよ」
って、圭織はさっき辻からもらった指輪をかざしてみせた。
辻は、やっと微かに笑った。
「もしも、辻が誰かに友達いるのって聞かれたら、胸を張って
言ってやりな。辻には、飯田圭織って友達がいるもんって」
「いいらさんと、辻がれすか?」
「なんだよー、嫌なのかー」
圭織は笑いながら、辻をくすぐった。声を上げて笑う辻は、
「嫌じゃないれすよー」って身をよじった。
辻をくすぐりながら、圭織は思った。辻は、圭織の大切な友達。
圭織は何回だって、叫んであげられる。
こんなに優しくて素直で友達思いの子って、他にいないもん。
このキラキラ光る指輪は、圭織にとってはパパとママからもらっ
たプラチナよりもずっと大切。だって、大切な友達が一生懸命頑
張ってプレゼントしてくれたんだもん。
テヘテヘ笑うおちびさん、圭織の大好きな可愛い友達。
【辻のくれた指輪。七色に光るフィルムは剥げちゃったけど、今
でも圭織は大切に持ってるよ】
■第6話 「晴れのち・・・」
最近の圭ちゃんは、ちょっと変だ。やたらと、辻のことを訊きた
がる。
「勉強、進んでる?」
「この前やったこと、ちゃんと覚えてる?」
「図形問題と文章問題、どっちが得意?」
とか、大学の図書室で顔を合わせるたびに、そう訊ねてくる。
ついさっきも、訊ねられた。
「3桁の足し算、引き算できる?」って。
圭織、思わずギロって睨んじゃったよ。
「どうせ、圭織の教え方は悪いよ」
「いや、別に圭織の教え方が悪いって訳じゃないんだけどさ」
って、圭ちゃんは苦笑した。
”じゃあ、何さ”って言いかけた時、向こうからなっちが
「圭ちゃーん、今日、ホルモン屋さん半額だって」
と、大学近くのホルモン焼き肉店のチラシをヒラヒラさせながら
走ってきた。
ホルモン大好き圭ちゃん、食べるの大好きなっち、2人は圭織の
ことほったらかして談笑をはじめた。
なんなんだよ、まったく……。
圭織、ちょっとムッとしながら後片付けをはじめた。
たしかに、圭ちゃんは圭織より1つ年上で、家庭教師のアルバイ
トの経験もあり、何人もの教え子を高校や大学に合格させてるさ。
圭ちゃんから見たら、圭織のようなやり方はもうじれったくて見
てられないのかもしれない。
でもさ、圭織だって辻のために一生懸命頑張ってんだよ。辻だっ
て、そりゃ他の子に比べれば覚えるのは遅いさ。でも、頑張って
勉強してる。いちいち、口出してこないでよって感じだよ。
圭織は、そのまま声もかけずに図書室を出ていった。
――ムッとした気分のまま、アパートに帰りついた。
玄関のドアを開けたら、ムワ〜っとした空気が圭織を包み込んで、
わけもなくイライラした。
ベランダに出していたマロンを部屋の中に入れて、クーラーをつ
ける。
送風口から出てくる冷気により、頭に集中していた血流もなんと
か冷まされたみたい。
思い出したように、本棚からファイルを引っ張り出してきて、辻
の勉強カリキュラムを見なおしてみた。
一応、そんなものをつけてるんだ。一応ね。
そこには、辻のお母さんから渡してもらった通知表のコピーも貼
りつけてある。学習面の評価は、5段階評価の1がほとんどだっ
た。そこには数値しか書いていないので、どのような評価基準で
担任がそのような判断をしたのかはわからない。
生徒のやる気を促すような配慮はされておらず、ただただ冷淡に
1が並んでいる。これを見たときの辻は、どんな風に思ったんだ
ろう……。
唯一、2があった。それは、音楽だった。そう言えば、辻は勉強
中よく鼻歌を歌ったりしている。
音楽の担当教師は、その辺を理解してくれたのかもしれない。
「二学期、どうなるんだろう……」
正直なところ、圭織にもわかんない。だって、辻はまだ割り算を
習い始めたばかりなんだもの。
国語だってあるし、英語だってあるし、理科だって、社会だって、
地理、保健体育、技術家庭科、音楽……。
勉強しなければならない事は山ほどある。
辻の勉強法に合わせていれば、自然とそのスピードも緩めなけれ
ばならない。いくら、焦らずゆっくりやって行こうと辻と圭織が
2人で決めても、やっぱりご両親からしたらできるだけ早くでき
れば中学校3年生までには結果を出して欲しいよね……。
うーん……。
これからのカリキュラムを、練りなおさなければならない。
辻がマロンと遊びに来た時、勉強するのがいいのかな……。
でも、辻はマロンと遊びに来ているんであり……。勉強しに来て
るんじゃないわけで……。
でも、圭織は家庭教師でもある身で、それなりに結果をださない
といけなくて……。
なんか、圭織、北の国からを思いだした。親に手紙を出したくなっ
たよ……。
あぁ、どうしよーってベッドに寝転がった時、携帯がブルった。
ディスプレイの着信通知を見ると辻からだった。
――数分後、アパートのチャイムが鳴った。
辻はこっちに向かっている途中で電話をかけてきたので、到着す
るのも早い。でも、あまりにも早いのでちょっとビックリした。
「マ〜ロ〜ン〜」
って、玄関を上がった辻は、部屋で尻尾をちぎれんばかりに振っ
ているマロンへと駆け出していった。
いつものように、辻はマロンをギューッと抱きしめた。
「ひさぶり、マロン。元気らった?」
辻がマロンを自分の目線の高さまで持ち上げた時、圭織はそれに
気付いた。
「辻、あんた、ケガしてるじゃない」
半袖のTシャツから伸びた辻の左肘は、擦りむけていた。
「ん?」
って、辻はマロンを抱いたまま、自分の左肘を見る。
「あ、ホントだー」
辻は、まるで何でもないように笑顔を浮かべた。
ったく、辻はよく転ぶなぁ。いっつも、どこかに擦り傷を作って
る。手足なんか、よく見るとけっこう小さいかさぶたとか、もう
治ってる傷跡なんかが見える。
「まったく、もう」
って、圭織は苦笑しながら、クローゼットの中から救急箱を取り
だした。消毒液を塗る時、辻が目をギュッと閉じていたのがなん
だかとても可愛かった。
それから1時間ぐらい、辻はマロンと遊んでいた。
圭織は、それをずっーとぼーっと眺めていた。勉強のこと切り出
そうかなぁって考えたり、やっぱり止めとこうかなぁって考えた
りしてた。
ドアをノックする音で、圭織の交信は打ちきられた。
――誰だ?
辻もマロンを抱いて、ドアの方を振りかえっている。辻が遊び来
てる時に、誰か来るのって初めてだから、辻もかなり緊張してる
みたい。
「どうせ、なんかの勧誘だよ」
って、圭織は辻に声をかけながらドアへと向かった。
ドアについている覗き穴から外を見ると、魚眼レンズいっぱいに
広がった圭ちゃんの顔があった。
どうやら、向こうも覗いているらしい。
「……なんだよ、圭ちゃんか」
圭織がドアを開けると、「なんだよって、なんだよ。せっかく
忘れ物届けに来てやったってのにさ」とレポート用紙をヒラヒ
ラさせながら玄関へと入ってきた。
「あ、ありがと。それより、なっちと一緒にホルモン食べに行っ
たんじゃなかったの?」
「この暑い昼間っから、そんなの食べれっかよぅ」
ホルモン好きの圭ちゃんなら、ガンガンいけると思ってたけど、
以外と繊細な胃腸をお持ちなんだ……。
「あ、お客さん?」
圭ちゃんが視線を落とした。玄関にあった辻の靴に気づいたみた
い。同時に、圭織も圭ちゃんがなんかやたらと辻に執着している
ことを思いだした。午前中のムッとしてた事も、完全に忘れてた。
一瞬、どうしようか迷った。辻が来てるって言おうか、それとも
親戚の子が来てるって言おうか――迷っていると、圭ちゃんはそ
んな圭織の様子から判断したんだろうね、その靴の持ち主が辻だっ
てわかったみたい。
「ねぇ――、辻ちゃん?」
「……う、うん」
「ちょっと、上がっていい?」
「別にいいけど、変なことしないでよ。辻、人見知りする子なん
だから」
「わかってるよ」
って、圭ちゃんは妙に大人っぽい笑みを浮かべて、玄関を上がっ
た。でも、圭ちゃんの笑顔も圭織と同じで、ちょっと怖いんだよ
ね。辻、大丈夫だろうか?
――やっぱり……。
「初めまして、辻ちゃん」って挨拶する圭ちゃんを見て、辻は圭
織の後ろに隠れた。
圭織のときはダッシュして逃げたけど、そこはやっぱり児童心理
学を専攻しているだけあって圭ちゃんは、言葉によって辻を繋ぎ
とめた。
「この子犬、名前はなんて言うのかなー? よかったら、教えて
くれない? お姉ちゃんもね、犬が大好きなんだ」
辻は、圭織の顔を見上げてどうしたらいいのか指示を仰ぐような
顔をした。
それがわかったから、圭織はただ優しく微笑んでうなずいてあげ
た。
「マ……、マロンって言うんれす……」
「そう。マロンって言うのか可愛いね。それに、名前がいいね。
この名前は、辻ちゃんがつけたの?」
辻は、ニッコリ笑ってうなずいた。
「マロン、おいでー」
って、圭ちゃんが手をかざすと、辻は抱きしめていたマロンを床
に放した。するとマロンは、自分の名前を呼ぶ圭ちゃんの元へと
駆けていった。
「すごい、ちゃんと自分の名前わかってるんだ。すごいね、マロ
ンは」
ちらっと辻を見たら、辻はまるで自分が誉められているかのよう
に嬉しそうな顔をしてマロンと圭ちゃんを眺めていた。
圭ちゃん、あんたやっぱりすごいよ……。
圭織、辻と普通に話せるようになるまで何時間かかかったもん。
それなのに、まだ対面して3分も経ってないんだよ。
やっぱ、心理学ってすごいのかな。
――辻が帰るまでの間、圭織はまるで手品を見ているような気分
になった。だって、圭ちゃん、辻と何気なく会話している風で、
圭織がこれまで長い時間かけて知った辻のこと、全部聞き出しちゃ
うんだもん。
圭織の知らない辻の話なんかもあって、なんかほんの少しだけ寂
しい気分になった。
辻を見送った駅からの帰り道、圭ちゃんから「餃子食べにいこう」
って誘われた。
なんか、あんまりそんな気分でもなかったんだけど、ウンって言
うまで帰してくれそうになかったから、仕方なく近所の餃子専門
店で夕食をとる事にした。
料理が運ばれて来るまでの短い時間の間に、圭ちゃんは「単刀直
入に言うよ」って前置きして、とんでもない事をサラリと言って
のけた。
「圭織の話を聞いたときに、ピンと来たんだけど、今日、実際に
会って話をしてわかった――。辻ちゃんは、知能障害もしくは学
習障害のどちらかもしれない」
「は?」
圭織、意味がよくわからなかった。圭ちゃんがビールを飲みなが
ら、なんでもないことのように言ったから余計に混乱したのかも。
「IQテストや脳波の検査をしたわけじゃないから、断言はでき
ないんだけど可能性は高いわね」
グラスのビールを飲干して、「圭織も、気づいてたでしょ」って
圭ちゃんはまるでなんでもお見通しといった感じで、圭織の目を
見据えた。
「いい加減にしてよ、この前からさ」
しばらくの沈黙の後、圭織はケンカ腰で言ってのけた。
別にそんな言い方する必要はなかったんだけど、辻が圭ちゃんと
楽しそうに話をしていたのを思い出したら、なんか急に腹が立っ
てきた。
「圭ちゃんの人格、疑っちゃうよ。圭ちゃん、辻を騙してたんだ
よ。辻、ぜったい圭ちゃんのこと好きになった。初対面の人とあ
んな楽しそうに話する辻、圭織はじめて見た」
圭ちゃんの顔が、ぼんやり滲んで見えた。
「でも、圭ちゃんはそうじゃなかったんだよね。辻のこと、冷静
に分析してただけなんだよねッ」
圭織、そこがお店の中だって言うことも忘れて、大きな声を出し
てテーブルを叩いて立ちあがった。
「辻、絶対に次会った時、圭ちゃんの話するよ。そん時、圭織ど
んな顔すればいいの? なんて言えばいいのよッ」
みんな、圭織のことに注目してたみたいだったけど、頭に血が上っ
ていたのであまり気にならなかった。
「圭織……、落ち着いて……」
って、圭ちゃんは優しく呟きながら圭織を席につかようとしたけ
ど、圭織はその手を振り払った。
「もう、いいから2度と辻の前に現れないでッ。辻は圭ちゃんの
モルモットじゃないの」
そう言い残して、圭織は店を飛びだした。
――店を飛び出したのは、圭ちゃんの顔を見るのが嫌だったから
じゃない。みんなの好奇な視線から逃れたからだったわけじゃな
い。
圭織は、圭ちゃんに見透かされるのが怖かった。
本当は圭織も、圭ちゃんと同じような事を考えてたんだ。
圭ちゃんのように分析したりはしなかったけど、すぐにそうじゃ
ないって否定はしてたし、そんな事ないって思える証拠もあった
けど、やっぱり一瞬でも圭ちゃんみたいに考える事があった。
それを見透かされるのが、とても怖くて……、圭織は店を飛び出
したの。
翌日の午前中。
ふさぎがちで、大学の図書館に通うのをサボってた圭織の携帯に、
辻の自宅から電話があった。
――辻からではなく、ほんの少しいつもより声のトーンの低い辻
のお母さんからだった。
入道雲がもくもくと空を覆いはじめて、あぁもうすぐ雨が降るん
だなぁって圭織は空を眺めながらぼんやりしてた。
傘を持ってなかったから、ほんの少し早足で辻の家に向かった。
用件はわからない。辻のお母さんは、電話では用件を告げてくれ
なかった。もしよろしければ、今すぐ来てくれませんかって――。
ひょっとしたら、クビを宣告されるんじゃないかなぁって思った。
だってさ、なんか最近、辻のお母さんすごく焦ってるんだ。
辻の家に行くたびに、勉強の方はどうでしょうかって訊ねてくる。
辻のお母さんはテストの点を上げて欲しいから家庭教師を雇って
いるわけで――、でも圭織は目先のテストより基礎からの勉強を
ゆっくりとしたペースで辻に教えたいわけ。
そんな話を今までに何回かして、辻のお母さんも納得してくれて
たはずなんだけど、やっぱり完全には納得してなかったのかな。
なんか、解雇宣告を告げられそうな予感がしていた。
昨日、圭ちゃんとのあんな事があってから、圭織の思考はネガテ
ブになってる。
空と同じような暗い気持ちで、圭織は辻家のチャイムを押した。
――出迎えてくれた辻のお母さんは、いつもと変わりのない様子
だったからちょっと安心した。
辻は友達の所に遊びに行ってるらしく、家にはいなかった。
”あいぼん”っていう辻の友達の顔が頭に浮かんだ。
あの2人って、いったい何をして遊ぶんだろう? ひょっとして、
ママゴトでもしてるんじゃないのかなって、フッと思ったらなん
だかほのぼのした光景も一緒に想像してしまい、クスって笑っ
ちゃった。
「どうかしましたか?」
って、辻のお母さんがアイスティーをテーブルに置きながら、圭
織のことを不思議そうに見ていた。
「あ。いえ」
焦ったね。焦ったけど、なんでもないですって顔をして、その場
をうまくごま化した。
――庭から聞こえていたセミの声がパッタリと止まった。
リビングを静寂が包み込んだ。
圭織と辻のお母さんは、テーブルに向かい合ったまま互いに黙り
こくっている。
「あの……」
カランって、グラスの中の氷が音を立てた。
いったい何を切り出されるのか、やっぱり解雇宣告だろうか?
圭織は、身を引き締めた。
「希美のことなんですが……」
「……はい」
「先生も驚かれたでしょう……」
「何をですか?」
「希美の……、学力です」
って、辻のお母さんは微苦笑を浮かべて目を伏せた。
正直なところ、驚いたし戸惑った。でも、圭織が中学生の時にも、
勉強の苦手な子はいた。
辻が特別って言うような感じはしなかった。
だって、辻はちゃんと掛け算の九九だってマスターしたし、割り
算だって今勉強している最中だし。
英語だって、ちゃんと単語を覚えていってる。
だから、けっきょく、圭ちゃんが言った事は間違いなんだ。
辻は、やればできる子なの。
それを伝えようとした。でも、辻のお母さんの方が口を開くのが
一瞬早くて――。
「希美は……、本当は知的障害があるんです……」
チテキショウガイ?
誰が?
辻がですか?
だって、辻はちゃんと勉強できるんですよ……。
いろいろと言いたい事があったけど、圭織の頭は混乱してて……。
「軽度の知的障害で、日常生活に支障はないんです……。普通学
級にも通えます……。でも……」
黒い雲が完全に空を覆い、まだ午後3時だというのに外は真っ暗
になっていた。
「希美は、私の連れ子でして……。今の主人には、その事をまだ」
と、辻のお母さんは口をつぐんだ。
『へい。――辻、12月に引っ越してきたんれす』
お祭りで辻は確かにそう言った。
圭織は、その時、別に深く考えなかった。あぁ、そうか――って
ぐらいにしか考えなかった。
「主人は、都議会議員をしているんです。再婚する際にも、いろ
いろとありまして……。これ以上、主人の肩身を狭くさせたくな
くて……。それで、つい……。希美もこの事は知りません」
「……」
「できれば、このまま希美にも主人にも気づかないでもらいたい
んです……」
「……」
「先生……、希美を高校に進学させるのは無理なんでしょうか?」
辻のお母さんが、辻の学力向上に焦っている理由は解けた。
これまでにも何人もの家庭教師を雇い、それらが皆どうして去っ
て行ったのかもなんとなくわかった。
「家のためって事だけじゃないんです。先生もお気づきかもしれ
ませんが……、あの子は何をやるのにも自信がなくて……」
圭織、その言葉を聞いたとき、辻のお母さんは間違ってるって思っ
た。だって、辺り前のことじゃん。もしも、毎日、クラスメイト
から勉強ができないってからかわれたりしたら、誰だって自分に
自信なくしちゃうよ。
辻が自信のない子に育ったのは、それを隠しつづけてきたからな
んだと思う。ありのままで受け入れて、辻の長所を伸ばすような
育て方をしてたら、辻はもっと自分に自信を持てたはず。
でも――、そんなこと圭織が言わなくったって、辻のお母さんも
わかってるんだよね……。
「希美のこと、よろしくお願いします……」
そう言って頭を下げる辻のお母さんは、とても小さく見えた。
圭織は、「精一杯、努力します」とだけしか言えなかった。
不意に圭ちゃんの顔が、頭をよぎった。
いつの間にか外は強い雨が降ってた。辻のお母さんから借りた傘
を差しながら、圭織はうつむき加減で駅へと歩いた。
圭ちゃんの言葉や、辻のお母さんの言葉や、笑っている辻の顔が、
頭の中をぐるぐると回っていた。
なんだろう、このモヤモヤした気持ち……。
圭織にとって辻は辻であり、圭ちゃんや辻のお母さんの言葉は、
それほど重要なものではないんじゃないか……。
でも、動揺してる……。
動揺してるってことは、辻を今までとは違う目で見ようとしてる
んじゃないだろうか……。
圭織は、そんな人間だったの?
圭織と辻は、そんな関係だったの?
わからない。
これから、辻とどうやって接していけばいいんだろう……。
モヤモヤとした気分は、空と一緒で一向に晴れる気配がなかった。
【そんな風に考えていたときもあったんだよ。おかしいね。辻は
辻で、圭織は圭織なのにね。でも、そんな時もあったんだ】
■第7話 「小悪魔のしっぽ」
辻の家に行った日の真夜中、中学校のアルバムをクローゼットか
ら引っぱり出してきた。
東京に来てからはほとんど見てなかったけど、まだ実家にいた頃
はしょっちゅう開いてたから、ページの繋ぎ目なんかはもうかな
り痛んでる。
繋ぎ目から剥がれないように、ソッとページをめくっていった。
3年3組。圭織がいたクラス。そこに、和夫くんもいる。
和夫くんは、中学校3年のとき同じクラスだった男の子。
あまり詳しい事は知らないけど、和夫くんは小さい頃の病気が原
因で知的障害があるらしかった。
でも、勉強はすごく良くできたんだ。
クラスでも和夫くんより、成績の悪い子は何人もいた。
高校も、本人の希望なのかそれとも学力的な問題なのか、そこま
ではわからないが、工業高校に入学することもできた。
――翌日、大学の図書室でそのことを圭ちゃんに話した。
「圭織……」
って、圭ちゃんは読んでいた本から顔をあげた。
隣にいたなっちは、わけが分からないといった顔をして、興奮し
ている圭織を見上げていた。
「だから、辻もやればできるの。和夫くんができて、辻にできな
いわけない」
「いいから、先に座って」
圭織は、大学の図書室で圭ちゃんを見つけるなり、すぐに話を切
り出した。なっちがビックリするのも、あたりまえかもしれない。
圭織、とりあえず軽く深呼吸して2人の真向かいの席に座った。
「何があったの? まず、それから話してもらわないと」
圭ちゃんは、そう言って静かに微笑んだ。なっちの差し出してく
れた缶ジュースを一口飲み、圭織もつとめて平静を保ちながら、
辻のお母さんから聞かされた事実を圭ちゃんに話して聞かせた。
「そうか……」
って、圭ちゃんは頬杖をつくと窓の外に視線を向けて、何かを考
えはじめた。
「大変だね……」
なっちも、目を伏せてもじもじと指を絡ませながら呟く。
「圭織、別に大変だなんて思ってない。辻は、やればちゃんとで
きるんだもん。掛け算だってもう完全に覚えてるしさ、割り算だっ
て。――その2つができれば、応用なんて簡単でしょ?」
「うん、そだね」
なっちは、圭織に笑いかけた。
「なんでアタシが、辻ちゃんのこと話たかわかる?」
圭ちゃんが、窓の外を見ながらポツリとつぶやいた。
そのすぐ後に、図書室のどこかからか笑い声が聞こえてきて、圭
織はそっちに気をとられてた。
「ねぇ」
圭織が視線を向けると、圭ちゃんは腕を顔の前で組み、その隙間
から圭織を見つめていた。
「自分の推測が正しいって、言いたかったんでしょ」
数日前の夜を思い出して、圭織はまた興奮してきた。
「まぁ、それもあるけどね」
って、圭ちゃんは微かに笑った。「でもね、それよりも辻ちゃん
のことが心配だったの」
「辻の? ――なんで、圭ちゃんが辻の心配なんかするの? こ
の前、会ったばかりでしょ」
「会う会わないは、関係ないよ。圭織の話を聞いてれば、これか
ら辻ちゃんがどんな辛い思いするかわかるからさ」
「辛い思い?」
「そ。圭織、さっき言ったよね。辻ちゃんは、やればできるって」
「……うん」
「たしかに、ある程度まではできると思う。でも、限界があるの」
「んなこと、やってみなきゃわからないじゃない。和夫くんだっ
て、高校に進学できたんだから」
「それが、辻ちゃんに辛い思いをさせることになるんだよ……」
そう言った時の、圭ちゃんの悲しそうな顔。いったい、誰に向け
られてるんだろう……。
「程度の問題があってね、和夫くんがそうだったから、辻ちゃん
もそうだって訳にはいかないの。辻ちゃんは今、圭織の授業が楽
しくて仕方ないと思う。やればできるんだって、自信もついてき
てると思う。でもね、辻ちゃんの能力には限界があって、その限
界ももうそろそろ近づいているはず。それは教える圭織のせいで
もないし、習う辻ちゃんのせいでもない。そこが限界なだけ」
「……」
「圭織がいつまでも、やればできるっていう考えを持って接して
ると、辻ちゃんはまた自信を失って自分を卑下してしまう」
「……」
「圭織が一生懸命になればなるほどね」
圭ちゃんは、やっぱり大人だなって思った。圭織、そこまで考え
てなかったよ……。
やっぱり、圭ちゃんはすごいね……。
――自信がなくなった。圭織は、いったい辻の何を見てきたんだ
ろう。
その日の夕方、やっぱり空はどんよりと曇っていて、圭織の気分
も同じように曇っていた。
数日前より、ますます曇ったかもしれない。
正直、あまり辻に会いたい気分ではなかった。
圭織は落ち込んでたりすると、すぐ顔に出てしまう。きっと、辻
は心配して訊ねてくる。その時、何て言えばいいんだろう。
圭織は不器用だから、ウソもすぐに顔に出てしまう。
こんなに重い足取りで、辻の家に向かうのは初めてだった。
――辻の家の前に、誰かが立っていた。
一瞬、辻が家の前で圭織のことを待っててくれたのかと思った。
この数日間、ぜんぜん会ってなかったから、そうして待っててく
れたのかと思ったけど、目を細めて確認するとどうやら辻ではな
さそうだった。
辻と同じぐらいの背丈の少女が、辻の部屋を見上げていた。
近づいていく圭織の足音に気づいたんだろうね、その少女はゆっ
くりと振りかえった。
圭織は、その少女に見覚えがあった。お祭りで会ったことのある、
辻の友達”あいぼん”って子だ。
向こうも、圭織のことを覚えてたみたい。
でも、なんでかわかんないけど、ダッシュして逃げて行っちゃっ
た。圭織、別にただ普通に見てただけなんだけど……。
ボーっと去っていった方向を眺めていると、ちょうど辻のお母さ
んが夕刊を取りに表へ出てきた。
また、交信中の姿を見られてしまった。
でも、辻のお母さんは少しも変な顔をすることなく、いつもと変
わらない笑顔で圭織を家へと招いてくれた。
きっと、それが辻のお母さんなりの気の使い方なのだろう。
ひょっとしたら、以前の家庭教師は辻の事実を聞かされてから、
家に来なくなったのかもしれない。
圭織の姿を見つけた辻のお母さんは、一瞬、すごく嬉しそうな顔
をした。なんだか、圭織は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
いつもならドアの開く音を聞きつけて、玄関で出迎えてくれる辻
が今日に限っていなかった。
辻のお母さんに軽く挨拶をして、圭織は2階の辻の部屋へと向かっ
た。
ノックする前に軽く深呼吸し、ゆっくりとドアを開ける。
辻が机に向かって座ってた。
「入っていい?」って、できるだけいつもと変わらない声を出し
た。辻は振りかえることなくうなずくだけだったが、圭織にはそ
ちらの方が好都合だった。きっと、不自然な笑みを浮かべている
のに違いなかったからだ。
「3日ぶりだね、元気してた?」
圭織は、自分で作成したテキストをカバンの中から出しながら、
辻の背中に語りかけた。――いくら待っても返事はなかった。
たぶん、さっきと同じようにうなずくだけだったのだろう。見て
なかったので、気づかなかった。
――さすがに、不審に思った。
「辻……」
「……」
圭織は、ゆっくりと辻の机の横に近づいた。
いつもは上げて2つに結んでいる髪を、今日はおろしている。そ
れで、側に行くまで気が付かなかった。
辻の左目には、眼帯がしてあった。よく見ると、頬や腕にも擦り
傷があった――。
「転んじゃったのれす」
って、辻は圭織を見上げて微かに微笑んだ。
「転んだって……、何してたの、こんな……」
「この前れすね、雨がザーって降ってきて、走って家に帰ろうと
したらツルンって滑ったんれす」
笑う辻を見てたら、圭織はやっぱりあの言葉を思いだした。
このままずっと、辻と向かい合うたびにあの言葉を思い出すのかっ
て考えたらとても辛くなった。
とても、辻に失礼なような気がした――。
その日の授業は、いつになく静かに終えた。辻も圭織も、あまり
言葉を交わさなかった。
圭ちゃんに相談しようと思って大学の図書館に行ったんだけど、
たまたま今日はマックのバイトが午前中から入っていたらしく、
残念ながら図書室には来ていなかった。
なっちはいたんだけど、なっちは辻のことを知らないから相談し
ても仕方ないかなぁって思ったんだけど、「圭織はいっつもそう
やって、なっちのこと仲間外れにする」って拗ねるから、仕方な
くなっちに相談する事にした。
「戸惑うのは、当然だよ」
圭織の話を聞いたなっちは、ニコニコと笑いながらそう言った。
やっぱり、なっちに相談したのは間違いだって思った。なっちは、
事勿れ主義だからね。なんでも、”大丈夫”で済まそうとするのは、
これまでの付き合いでわかっていた。
「簡単に言うなって、圭織、今思ったでしょ?」
どうやら顔に出たみたい。なっちは、イタズラっぽく笑った。
「でもさ、難しく考えるほどのもんじゃないよ」
「……なっちは、辻の家庭教師じゃないからそんなこと言えるん
だよ」
「そだよ。なっちには関係ないもん」
「……」
「でもさ、圭織も関係なくしようと思えばできるんだよ。圭織は、
辻ちゃんの家族じゃないんだから。いつでも、逃げ出せる」
「逃げるってね、圭織は逃げたりしない」
「だったら、ちゃんと受け止めなさい」
なっちは、急に強い口調でぴしゃりと圭織の動きを封じた。
「戸惑ってもいい。迷ってもいい。理解しようとしてんだから、
当然のことなんだよ。圭織は今、辻ちゃんのことを理解しようと
してる途中なの。どうでもいいと思ったら、そんな迷うことなん
てないもん」
って、なっちは最後にはいつものようにニコニコと笑った。
――なっち、ごめんね。
圭織、失礼だけどなっちのことを誤解してたみたい。もっと、何
も考えてない子だと思ってた。
笑顔の奥で、いろんなこと考えてたんだね。
辻……。
そう……。
圭織、辻のこと好き。これからも、ずっとその成長を見届けたいっ
て思ってる。
ずっとずっと、その綺麗な心を持ちつづけて欲しいって思ってる。
どうでもいいなんて、1度も思ったことない。
圭織は、辻の家庭教師。そんな関係でスタートしたけど、今では
妹か娘みたいにとても大事。
「なっち……」
「ん?」
「身体はちっちゃいけど、なっちはでっけー」
「は?」
「圭織、見直した」
「んな、褒められると照れるべさ」
って、なっちは顔を赤くして笑った。別にそれほど褒めてないん
だけど……。でも、なっちのポジティブ思考は見習わなきゃいけ
ない。そう。いつまでも圭織がモヤモヤしてちゃいけない。
空はピカーンと晴れていた。
まぁ、ちょっとスモッグで霞んではいたけど、圭織にはピカーン
と晴れてたんだ。
なんか、なっちの言葉を聞いて圭織はスッキリしたから。
戸惑ってもいい、迷ってもいい。辻のことを、もっといっぱい知
りたい。そんな衝動に駆られて、家庭教師の日でもなかったし、
別に約束なんかしてなかったけど、急に辻に会いたくなって大学
の図書室を飛び出したんだ。
辻の家に向かう途中、学校の前を通りかかった。
校庭で運動部が練習してた。青春って感じがしたよ。圭織、つい
自分の中学校の頃を思いだした。
合唱部で、青春してた頃。
そうだ、辻も歌が好きだからカラオケに誘おう。そうだ、そうだ。
カラオケ行って、バーっと一緒になって歌おう騒ごう。
圭織は、交信全開で辻の家へと向かっていた。
でも、その交信も異様なハイテンションも、公園に差しかかって
間もなくして消えた。
セミの声がうるさいぐらい聞こえてて、木漏れ日がきれいな模様
を地面に描いてて、遊ぶ子供たちは汗いっぱいで走りまわってて、
そんな公園の中の様子を、圭織は前の道を通りすぎながら眺めて
たんだ。
遠くに清掃道具を保管する小さな建物があって、何気なくそっち
に視線を向けた。
なんで、あんなところに辻がいるんだろうって思った。
建物の陰になって分からないけど、そこにいる誰かと話をしてい
るようだった。
――話をしているというよりも、その建物の陰にいる人物の話に、
辻はうつむいてうなずいたりしている。
うつむいているからだろうか、左目の眼帯がこの前見たよりも痛々
しく感じた。
「辻……」
って、声をかけようと一歩足を踏みだした瞬間、圭織は自分の目
を疑った。
建物の陰から素早く伸びた手が、辻の左頬を平手で殴りつけた。
あまりにも突然のことだったので見間違いかと思ったが、頬を打
つ乾いた音も聞こえたし、辻が左頬を押さえて身体を小刻みに震
わせ後ず去っているのも見えて現実だと認識した。
なんで……。
なんで、辻は叩かれたりしたの……。
遠く離れている圭織には、叩かれる理由までは聞こえてこなかった。
ただ、セミの声と子供たちの笑い声だけが、うるさいぐらいに聞
こえていた。
建物の陰から出てきた人物を見て、圭織はさらに混乱した。
辻の友達の”あいぼん”が、出てきたからだ――。
いつか、お祭りの日の夜に見たあの笑顔は幻だったんだろうか。
とてもとても、冷たい目をしてうつむく辻のことをジッと見据え
ながら、ゆっくりと辻との距離を縮めている。
「辻!」
圭織、走ったよ。何があったのか知らないけど、辻が叩かれなきゃ
なんないような理由なんてないと思った。
圭織の姿に気づいた”あいぼん”は、建物の奥へと走って逃げて
いった。そう言えば、昨日も辻の家の前にいて、圭織の姿を見て
逃げ出したんだった。
辻のもとに辿りついた圭織は、”あいぼん”って子が逃げた建物
の奥を見た。
もうずっと遠くて、誰が誰なのかわからないけど、”あいぼん”っ
て子だけがこの場にいたんじゃなかった。建物の陰には他に数人
いたようだった。追いかけようかと思ったけど、みんなの背中は
もうずっと小さくなっていて追いつけそうになかったし、それよ
りも辻のことが心配だった。
辻は、うつむいたまんま左頬を押さえていた。
「辻、なんで叩かれたりしたの」
圭織は、辻が頬に当てている手をどけた。指の形が赤く、その頬
に残っていた。
わからないけど、それを見たら圭織は泣きそうになった。
だって、辻は何も言わずにうつむいたまんま、ほんのちょっと笑
ったまんま、ポロポロと泣いてるんだもん。
【辻は思い出したくないよね、あの頃のことなんて。いいんだよ、
忘れてしまっても。すべて、夢にしてしまおうね】
■第8話 「都会のカラス」
空は夕暮れの色を濃くしてたけど、圭織と辻はいつまでもずっと
公園のベンチに腰かけていた。
「腫れ、ひいたみたいだね」
圭織は濡れたハンカチを辻の頬から外し、腫れがなくなったこと
を確認してホッとした。
「辻……、痛くない?」
圭織の問いかけに、あれからずっとうつむいたままの辻が静かに
うなずく。
「……そろそろ、何があったのか教えてくれない?」
今までずっと、この言葉を堪えていた。
逃げ出した”あいぼん”や、何も言わずに泣いた辻を見てれば、
圭織もさすがに気づく。
イジメ。
そんな言葉が頭の中に浮かぶのは、否定のしようがなかった。
でも、辻がイジメにあっているという事実を認めたくないし、辻
も話したくないだろうと思って、さっきからずっと聞けずにいた。
でも、圭織は辻のすべてを受けとめるって誓ったんだから、逃げ
出すわけにはいかない――勇気を出した。
「……」
辻は、やっぱり何も答えず、ずっとうつむいたままだった。
「足の怪我とか……、腕とかも、そう……なの?」
「……」
「ねぇ、辻」
「……あいぼんは、お友達なのれす」
「お友達は、叩いたりしないよ……」
「……」
「辻は何も悪いことしてないよね?」
「……」
「だったら、やっぱりおかしいよ」
「……辻が」
辻は、ようやく顔をあげてくれた。でも、その顔はいつか見た悲
しい笑顔だった。
「ん?」
「きっと、辻がバカらかられす。辻、悪いことしても気づかない
から、みんなによく叱られるのれす」
テヘテヘと笑う辻の顔が、あまりにも悲しかった。
圭織は言葉を失ってしまって、ただボーっと辻の顔を眺めていた。
――その後、2人はあまり会話を交わすことなく家路へとついた。
マロンと初めて出会ったあの日、笑いながら辻を家まで送ったあ
の日がとてもとても懐かしく感じた。
圭織、辻のために何をしてあげれるのかわからない。苛められた
経験もないし、苛めた経験もないから、どんな風に対応すればい
いのかわからない。
ただ、やっぱり戸惑ってジッとしてるだけだと、辻を一人ぼっち
にさせちゃって、またあの子たちから呼び出されたりなんかしちゃ
うといけないので、圭織は翌日から図書館通いをやめて辻の家に
通いつづけた。
どうしていいかわかんないけど、辻の側にいてずっと守っている
事にした。
辻のお母さんは、圭織の真意を知らない。ただ、毎日、勉強を教
えに来てくれていると思ってる。
圭織は、辻のお母さんにちゃんと話をしようと思ったんだけど、
辻が涙ながらに口止めしてきたので言えずにいた。
圭織がいる間は、別に何も変わった事はなかった。最初は、うつ
むき加減だった辻も、次第にいつもの調子を取り戻してきて、笑
顔が増えるようになった。その頃にはもう、辻の左目を覆ってい
た眼帯もとれていた。
そう。
辻のこの笑顔を見るためだったら、たとえレポートの作成が遅れ
たって、電車賃がかさんじゃっても別に大した事ない。
今日も、はりきって辻の家に行こうとした。
アパートのドアを開けると、ちょうど圭ちゃんとなっちが廊下を
やって来ていた。
「はぁ? 何やってんの2人で」
カギを閉め終えた圭織は、ずれかけたバッグを肩にかけなおしな
がら2人に言った。
「何やってんのって、こっちが聞きたいべさー」
「そうよ。ずっとサボりっぱなしで、連絡もつかないしさ。心配
するでしょ」
「?」
バッグの中の携帯を取り出して見てみると、バッテリー切れだっ
た。ここんとこ色々あって、充電をし忘れていたようだ。
「どこ行くの? そんな嬉しそうな顔して。ひょっとして、デー
ト?」
なっちが、圭織の腕をつんつんと突付く。
「違うよ。辻の家。辻の家に行くだけだってば」
「またぁまたぁ」
って、なっちは笑っていたけど、その横にいた圭ちゃんはなんだ
か少し眉間に皺をよせた。
きっと、圭ちゃんは圭織が必死になって勉強を教えているんじゃ
ないかって思ってるはず。
だから、圭織は「カラオケ行くだけだよ」ってなっちに言いなが
らも、圭ちゃんに聞こえるようにちょっと大きめの声を出した。
せっかく心配して訪れてくれたんだけど、辻との待ち合わせの時
間に遅れそうだったから、2人とはそこそこの会話だけをして、
駅へと向かった。
――駅近くの曲がり角。
走りながらもボーっとしてたので、その少女に気づくのが少し遅
れてしまった。
あっ! と気づいた時にはもうすでに遅く、圭織はその少女とぶ
つかった。圭織は身体がデカイから、別にどうって事なかったん
だけど、細い少女は尻もちをついてしまった。
「ご、こめんっ。大丈夫!?」
あわてて手を差し伸べたけど、少女は「す、すみません」ってア
ニメみたいな声を出しながら辺りに散乱した小物を拾い集めた。
よく見ると、圭織の持ち物と少女の持ち物が地面に散らばってい
た。よく見ると、圭織のバッグは肩から外れていた。
圭織も、あわてて拾い集めた。
圭織と同じような色の髪。健康的な肌。
制服を着てるから、女子高生か。今日、学校かな?
って、そんな事を考えながら、その少女と一緒になって辺りに散
乱した持ち物を拾い集めていた。
「ごめんね。ホントに大丈夫?」
立ちあがり、お尻の汚れを振り払っている少女に、圭織は話かけ
た。
「は、はい。大丈夫ですから、気にしないで下さい」
少女はそう言って少し困ったような笑みを浮かべると、頭をちょ
こんと軽く下げて歩いて行ってしまった。
今時、珍しい礼儀正しい子だなぁって思った。
でもそんなゆっくりもしてられない。もうすぐ、電車のつく時間。
辻を向こうの駅に待たせてあるので、遅れるわけにはいかない。
圭織は駅へと、全速力で走った。
辻を迎えに行って、その足で駅前にあるカラオケボックスに入っ
た。
辻は、カラオケボックスに入るのが初めてだったらしくて、ワク
ワクしてるのと緊張してるのとがごちゃ混ぜになってんだろうね。
ずっと、圭織の右腕に自分の腕を絡ませたまんま、顔だけをキョ
ロキョロとさせていた。
部屋に通された時は口をポカーンと開けて、部屋の中を見まわし
ていた。
スポットライトやミラーボールが珍しいらしくて、「テレビみた
いれす」って興奮しながらつぶやいた。
「辻、何歌う? どんな歌が好き?」
本をパラパラめくっていると、部屋の入口でずーっとたたずんで
いた辻が嬉しそうに駆けよってきた。
「いいらさん、いいらさん」
「ん?」
「辻、トトロが好きなんれす」
「トトロ? あぁ、アニメのね。♪となりのトトロ トトロって
やつでしょ?」
「もう1個あるんれすよ。♪歩こう 歩こう 私は元気」
辻は楽しそうに、笑いながら歌った。
圭織、その歌のタイトルがわかんなかったんだけど、トトロのペー
ジに並んで掲載されてたので、それを入力してあげた。
でも、辻は照れてなかなか歌わなかった。圭織が何度「歌いなよ」
って言っても、妙にはしゃぎながら「嫌れす」って圭織の腕にし
がみついてくるばかりだった。
仕方ないので、まずは圭織が歌うことにした。
聞いたことはあるんだけど、あんまりよく覚えてなかったので、
メロディラインをはずしまくった。
辻は、クスクスと笑っていた。
「辻、一緒に歌ってよ〜」
って、泣きついたら、辻はようやく2番から自分もマイクを握っ
て歌いはじめた。辻の声は、歌になってもやっぱりどこか幼くて、
でもその声はこの曲とマッチしていた。
「上手いじゃん、辻」
頭をクシャクシャって撫でてやったら、辻はちょっと「えへん」っ
て顔をして「辻、トトロが好きなんれす」って笑った。
その後は、辻のオンステージになった。いつの間にか、圭織の膝
の上にちょこんって座ってた。ほんのちょっと重いなぁって思っ
てたりしたんだけど、まぁいいかって感じでずっと辻を膝の上に
座らせていた。
楽しそうに歌う辻の横顔を見てて、気づいたんだ――。
辻は画面に映し出されている歌詞を、ぜんぜん見ていないってこ
とに。好きなアニメの歌は、完全に丸暗記しているようだった。
たっぷり2時間歌って、その後、近くのファミレスでご飯を食べ
て、本当はそれで帰るはずだったんだけど、辻が宮崎何とかって
人のアニメが好きで、その監督の新作映画をまだ見た事ないって
言ったから映画館に行った。
映画館では、辻はもう本当に子供みたいに目をキラキラさせて映
画に見入っていた。ビックリするシーンでは、身体をビクンとさ
せて圭織にしがみついてきたり、感動するシーンでは小さくしゃ
くりあげて泣いてたり――。
圭織は、映画より辻をずっと見てた。そっちの方が、おもしろかっ
たしメチャクチャかわいかった。
「どう? 辻、面白かった?」
圭織の問いに、通りを歩きながら映画のパンフレットを読んでい
た辻は顔をあげて「はい」って大きくうなずいた。
そしてまた、パンフレットへと視線を落とした。
今日1日、辻は楽しかったかな?
家に帰っても、嫌なこと思い出したりしないかな?
圭織は、辻と別れる頃になると、いっつもそんな事を考えてしま
う。できることなら、ずっと辻の側にいて守っててあげたい。
でも、そんなことできない。
もうすぐ、学校も始まる。
学校が始まれば、こうして夕暮れになるまで辻の側にいることは
できない。
あの子たちがいる学校で、1日の大半の時間を過ごさなければな
らない。やっぱり、このままではいけない気がした……。
車のクラクションの音でフッとわれに帰った圭織は、何気なく視
線を道路に向けた。
もう住宅街近くに入っているので、その道路にあまり通行量はな
い。クラクションを鳴らした車が一台、走っているだけだった。
いったい、何にクラクションを鳴らしたのか、なんとなく気になっ
て道路を眺めながら歩いていた。
道路の中央に、1匹のカラスがいる。
走り去った車は、このカラスにクラクションを鳴らしたんだろう。
よく見ると、道路には殻の弾けた木の実のようなものがあった。
そのカラスが何をしたかは、すぐに理解できた。前に、TVで見
た事があったから――。
カラスは、走る車を利用して自分では砕くことのできない、固い
木の実の殻を砕いたのだ。
それを、順応とか進化とか呼ぶのかもしれない。
でも、圭織はそれを見て”狡猾”だと思った。だから、とても珍
しい光景だったけど、辻に教えることはしなかった。
なんだか、辻があの木の実のように思えて仕方なかったから……。
――家の前まで送り届けて、圭織はまた駅へと向かった。
辻は圭織が見えなくなるまで、ずっと手を振ってくれていた。
とてもとても、楽しそうに手を振っていた。
『イジメか……』
電話の向こうの圭ちゃんは、沈んだトーンでそう言った。
圭織は、あれからずっと考えていた。
学校が始まれば、辻がまたイジメられる。どうすればいいのか――。
でも、やっぱり答えは出なくて、真夜中で迷惑なのはわかってた
けど圭ちゃんに電話をしてしまった。
最初は、メチャクチャ不機嫌だったけど、辻の事だってわかった
ら真剣に話を聞いてくれた。
『これも一概には言えないんだけど、やっぱりご家族に相談した
方がいいと思う』
「でも、辻は家族に心配させたくないから嫌だって」
『イジメを受けている子のほとんどが、そうなの。親に心配させ
たくない、イジメられているのが恥ずかしい、仕返しが怖い。最
初から自分の口で誰かにイジメられてるなんて言える子は、ほと
んどいないんだよ』
「……」
『誰にも言えなくて、1人で抱え込んでしまう。最悪の場合は……
自殺って事にも』
もしも、辻が……って一瞬考えただけで、圭織の心臓は止まりそ
うになった。
『とにかく、今日はもう遅いから、明日対策を考えよう』
「でも、圭織、明日も辻の家に行かないといけないし……」
『あ……、そうか……』
「ねぇ、圭ちゃんどうしよう……」
圭織の声は、とてもオロオロとしたものになっていた。自分でも、
なんで辻のことになるとこんなに動揺してしまうのかとても不思
議だった。自慢じゃないけど、圭織はずっと今まで自分を精神的
に強い人間だと思っていた。
でも、なぜか辻の事になるとみっともないぐらいにうろたえてし
まう……。
圭ちゃんとは辻の家へ行った帰りに会うことにして、翌日、圭織
はいつもと同じ時間に家をでた。
通りを歩く人の姿がいつもよりも少なくて、そこで初めて今日が
日曜日であることを認識した。
曜日の感覚が、完全になくなっている。
辻のお父さんを、フッと思い浮かべた。
でも、それはうまくできなくて――だって、圭織は辻のお父さん
に会ったことがないんだもん。
勉強を始める時間の午後7時頃には、まだ帰宅していないし、終
わる頃には帰っていないこともあるし、帰ってても圭織の前に姿
を現す事はなかったから。
都議会議員をしてるお父さんって、どんな感じなんだろう。
血は繋がってないけど、娘が苛められるってわかったらどんな対
応をするんだろう。
――圭織はまた、ボーっとしながら歩いてたようで、その少女に
まったく気づかずに前を通りすぎたようだ。
『あ、あの――。あの、飯田さん』
名前を呼ばれて、「?」って振りかえったら、昨日、曲がり角で
ぶつかった少女が立っていて、モジモジしながら圭織のことを上
目使いに見ていた。
「あぁ――、昨日の」
少女は、そう言って立ち止まった圭織に軽く頭を下げた。
それにしても、なんで圭織の名前を知ってるんだろうって思った。
「あの、これ」
少女がおずおずと差し出したものは、大学の学生証でそれは圭織
のものだった。
「え?」
「あ、あの、昨日、ぶつかった時に間違えてカバンの中に入れて
しまってたみたいで……」
「ひょっとして、これを届けるためにここで?」
ほんの少し潤んだ目で圭織のことを見上げながら、少女は小さく
うなずいた。
男だったら、イチコロかもしれない。少女の仕種は、女の圭織で
もドキッとするほど可愛かった。
「あ、そうなんだ。ありがとう」
って、圭織は平静を装いつつニッコリ微笑んだ。
――男前な笑顔を浮かべたつもりだったが、やっぱり恐ろしかっ
たらしく、少女はうつむいてしまった。
圭織は、朝から軽いショックを受けた。
「あ……、じゃあ、これで。ホント、ありがとね」
電車の時間もあったからなんだけど、やっぱり少し気まずくて圭
織はお礼だけを言うと、逃げるようにしてその場を去った。
――電車の中で圭織は、少女から手渡された学生証を眺めていた。
憮然とした表情で、愛想も何もない圭織の証明写真。
将来、曲がりなりにも教職に就こうとしてんのにこんな無愛想な
顔で大丈夫なのかなぁって思った。
教師と生徒として、辻と出会っていたら――どうなっていただろう。
ここまで深く付き合うことって、できたのかな……。
家庭教師で出会えたことは、辻にとっていい事なのかな……。
そんな事をぼんやりと考えながら、窓の外に目をやった。
――白い鳩が、雑居ビルのベランダで羽を休んでいた。ほんの一瞬、
向かいの雑居ビルの屋上に1羽のカラスがいるのが見えた。
圭織の胸は、なぜか締めつけられた――。
【辻の真っ白に輝く羽。毎日、神様にお願いしてるんだよ。もう1度、
見せて下さいって】
■第9話 「家族ゲーム@」
日曜日だというのに、辻のお父さんは家にいなかった。
辻に訊ねてみると、どうやら昨日から泊まりでゴルフに出かけて
いるらしい。
正直なところ、呑気なもんだって思った。
いくら再婚した奥さんの子供とはいえ、いくら辻のお母さんが事
実を告げていないとはいえ、いくら辻が苛められていることを知
らないとはいえ、なんにも気づかないで呑気に泊まりでゴルフっ
て……。
「いいらさん?」
漢字の書き取りをしていた辻が、ボーっとしてた圭織の顔を覗き
こんだ。
「あ、ううん。なんでもない。続けて」
辻はまだ何か言いたそうだったが、圭織が家庭教師の顔をしてた
ので仕方なく漢字の書き取りを始めた。
圭織だって、たまには思い出したように家庭教師の顔になるとき
がある。それはだいたい、家の中と外というふうに使い分けてい
る。辻の家にいるときは家庭教師。外にいるときは友達。
まぁ、かなり曖昧なんだけどそんな感じにメリハリをつけている
つもり――。
勉強も終わって夕暮れも近くなったから、そろそろ帰ろうかなぁっ
て思ってたら、表に車の止まる音が聞こえた。
何気なく、辻の部屋の窓から表を眺めて見ると、そこに一台のタ
クシーが止まってて、辻のお父さんらしき人がゴルフバッグを肩
にかけて門扉へと歩いているところだった。
「お父さん、帰ってきた」
いつの間にか隣にいた辻が、ひとり言のようにポツリと呟いた。
「迎えに行かなくていいの?」
って圭織が聞くと、辻は「いいんれす」となぜか少し困ったよう
な顔をして首を振った。
初めて見る、辻のお父さん。
50歳ぐらいの、どこにでもいる少し頭の剥げているオジさんだっ
た。
その黒ぶちの眼鏡と都議会議員って肩書きから受けた印象なのか
もしんないけど、ちょっと神経質っぽい。
なんとなく、今まで直に遭遇しなくてよかったってホッとした。
でも、それも束の間の安堵だった。
辻のお父さんが家の中に入って時間もかなり経過したので、下で
鉢合わせする事もないだろうなぁって階下におりて行ったら、モ
ロに辻のお父さんと鉢合わせしてしまった。
奥の部屋で磨いていたゴルフクラブを、玄関先に置いているゴル
フバッグに戻しに来たところだった。
「あ、はじめまして。希美ちゃんの家庭教師をやっている飯田圭
織といいます」
って、圭織は緊張してたけどちゃんと挨拶をした。
いったい何がいけなかったんだろう? それとも最初からそんな
顔なのかわかんないけど、辻のお父さんは不機嫌そうに眉間に皺
をよせて「どうも」とだけ言って、さっさと奥の部屋に戻ってし
まった。
隣にいた辻は萎縮して、圭織の腕をずっと強く握りしめたままだっ
た。いったい、この家はどうなってるんだろう……。新たな疑問
と不安が、圭織の中に芽生えた。
もしも、辻のことで家族が一丸とならなければならないようになっ
たら、辻のお父さんはちゃんと協力してくれるんだろうか。
そんな疑問と不安だった。
「……じゃあね、辻。明日、待ってるから」
ドアを開ける間際に振りかえって、辻にそう言った。
いつもなら声をかけてくれるのに、やっぱり父親に少し遠慮して
るみたいで、声を出さずに笑顔でうなずいて見送るだけだった。
――辻の家を後にして、圭織はそのまま圭ちゃんとの待ちあわせ
場所である大学近くのファミレスに向かった。
中を見渡したが圭ちゃんはまだ来てないようで、出入り口近くの
席で圭ちゃんを待つ事にした。
圭ちゃんを待っている間、圭織は少し離れた場所にいる中学生の
グループを眺めていた。
その4人の中学生は、デザートを食べながら談笑をしている。
話題までは聞こえてこないけど、あの頃の年齢ってなんでも笑え
るんだよね。
色んな悩みがあるんだろうけど、それでもああして友達といると
楽しくて、悩みなんか忘れて笑いあえるんだ。
圭織、あの頃に戻りたい……。
そしたら、辻とずっといられる。圭織、面白い話ってできない人
なんだけど、それでも頑張って辻にいっぱい面白い話してあげる
んだ。
そしたら辻は……。
目の前に差しだされたハンカチ。
顔をあげると、圭ちゃんが微笑みながら立っていた。
「しっかりしな」
って、中学生たちを振りかえりながら向かいの席に座った。
圭織……、いつの間にか泣いてたみたい。
頬を拭ったら、手の甲が濡れていた。
「圭ちゃん……」
「圭織がそんな弱気で、どうすんのよ」
って、圭ちゃんはまた笑った。
「でも……、あんまりなんだよ。辻、可哀相すぎるよ」
『辻ちゃんは、可哀相なんかじゃない』
ニコニコ笑ってるなっちが圭織の視界に入ってきて、圭ちゃんの
隣に座った。
圭織が目を丸くしながらなっちを見てると、「やっぱり、参考意
見は多いほうがいいからさ」って圭ちゃんが微苦笑しながら言っ
た。
「辻ちゃんには、自分のために泣いてくれる圭織がいるんだよ。
ぜんぜん、可哀相なんかじゃないよ」
って、なっちが優しく微笑んだ。
圭織はなんだか嬉しくて、子供のようにわんわんと声をあげて泣
いた。
――数分後、なっちに宥められながら圭織はなんとか涙を止める
ことができた。
「辻ちゃんのケースは、ちょっと特殊ね……」
嗚咽しながら、今日までの事をあらためて話して聞かせると、圭
ちゃんは爪を噛みながら低い声でつぶやいた。
「特殊……って、辻ちゃんが障害を持ってるから……?」
「それもあるけど、問題はもっと別のところ」
「……?」
なっちはまるで自分のことのように、真剣な顔をして圭ちゃんを
見つめていた。
「問題は、辻ちゃんのことをお母さんが隠しつづけてるって事な
の」
「でも……、それは」
圭織は、そこまで言って口をつぐんだ。
「認めたくない気持ちはわかるし、もう今さら話すことができな
いのかもしれない。でも――、辻ちゃんのことを考えたら、ちゃ
んと本当のことを話すのが一番大切なことだと思うの。1度、辻
ちゃんのお母さんと相談してみたら」
「そんなの、圭織の口からいえないよ……。圭織は、ただの家庭
教師だし……」
圭ちゃんは、軽いため息を吐いた。
どうしたらいいのか、真剣に考えている様子だった。
「都合のいいときだけ、家庭教師に逃げるんだね」
なっちは、そう言ってチョコレートパフェをぱくついた。
「したって」
圭織は、うつむきながら呟いた。
「受け止めろって言ったのは、ただぼんやり手を広げてるだけじゃ
ないんだよ。ちゃんと抱き寄せてあげなきゃ」
「……」
圭織だって、そんな事わかってる。でも、受けとめるって言って
も、何をどうしていいのかわかんない。
もしも、受け止めることができなかったら、辻が頼ってきてくれ
なかったらって考えると、怖くて何もできない……。
「なっちのは抽象的だけど――、けっきょくそうなのかもしれない」
「……」
「このままだと、辻ちゃんはこれから他の人より傷つく回数が多
くなるよ。自分と他人を比べるたびに、傷つくかもしれない。誰
かから傷つけられるかもしれない。でも、もしも仮に自分の障害
のことを知って、自分自信で納得できる答えを見つけ出せたとし
たら……」
圭ちゃんは、なんとなく目を伏せた。
「……それって、自分は障害者だから仕方ないって思えるように
なれってこと?」
なっちが、スプーンを持つ手を止めた。強い視線を、圭ちゃんに
向ける。
「綺麗事じゃ、この問題は片付けられない」
圭ちゃんも、強い視線をなっちに向けた。
「……」
なっちは、その言葉を反芻して納得したのかわからないけど、
さっきまで向けていた強い視線をテーブルの上に落とした。
「時には1番の理解者が、心を鬼にするのも必要」
なんだか、そう言った圭ちゃんがとても辛そうに見えた。
この場所では、圭ちゃんがその役を引き受けてくれたんだね……。
「圭ちゃん……、それで、圭織は何をすればいいの?」
圭織の問いかけに、圭ちゃんが顔をあげた。
「まずは……、まずは、ご両親の説得。お母さんでもいい。家族
から、その事実を辻ちゃんに伝えるの」
圭ちゃんは、真剣な目をしていた。その一言は、圭織の胸にとて
も重苦しくのしかかった。
ほんの数分前なら、それが重苦しくて押しつぶされていたかもし
れない。そんなことして辻が傷つくのなら、これまでの関係を保っ
ていたくて、何も実行に移そうとしなかったかもしれない。
でも、圭織は本当の意味で辻のすべてを受けとめる事にした。
これからの辻が、ほんの少しでも楽に生きられるのなら、圭織は
喜んで鬼にでも悪魔にでもなる。
そう、決心した――。
翌日、辻は時間通りに圭織のアパートにやって来た。
部屋に入った辻は、中にいる2人を見てサッと圭織の後ろに身を
隠した。
「あれ? 辻ちゃん、私のこと忘れた?」
圭ちゃんの問いかけに、辻はブルブルと頭を振った。
辻は、初めて会うなっちに緊張しているようだった。
だがそこはやはり、保母さんを目指しているだけの事はある。なっ
ちは、お得意のスマイルを浮かべて、「はじめまして、辻ちゃん」
って挨拶しただけで辻の緊張を解きほぐした。
2人はやっぱり凄い……。
圭織なんか、ダッシュして逃げられたもんね。
圭ちゃんとなっちと遊ぶ辻を、しばらく苦笑を浮かべながらベッ
ドに腰かけて眺めていた。
すべての矛盾は受け入れるつもりだったけど、やっぱり心の片隅
に罪悪感があった。
辻は純粋な気持ちで圭織のアパートに遊びに来てくれたのに、圭
織はそれを利用して辻の家に向かおうとしている。
最初は、ただホントにいつものように辻をアパートに誘っただけ
なんだけど、昨日の夜に圭ちゃんとなっちと話し合って決心した
圭織は、辻が家にいないこの時がチャンスだって思ったの。
圭ちゃんもなっちも、自分の用事をキャンセルしてまで、こうし
て部屋に来てくれてた。
結果はどうなるのか分からないけど、もう後戻りはできない。
圭織は自分に気合いを入れて立ちあがった。
「あ、そうだ。辻」
きょとんとした顔で、辻が振りかえる。
「ちょっと用事思い出しちゃって、これから出かけなきゃなんな
いんだ。帰ってくるまで、ここで待っててくれる?」
辻は一瞬、「え?」っていう顔をしたけど、なっちが言葉巧みに
辻を誘惑したので、辻は「へい。いいれすよ」って頬を緩ませな
がら答えた。
ちなみに、言葉巧みな誘惑とは――。
「辻ちゃん、なっちと一緒にお菓子作ろうか? なっちね、お菓
子つくるの得意なんだよ。ケーキがいい? クッキーがいい?」
――だった。
まぁ、どうしても辻を引きとめて欲しかったから、前の晩に圭織
がそう言ってってお願いしたんだけどね。
――出迎えてくれた辻のお母さんは、娘が遊びに行ったのに何で
こんな所にいるんだろうって顔で圭織を見上げていた。
圭織が、「希美ちゃんのことで話があります」って玄関先で言う
と、それだけでなんとなく察したようで少し戸惑った表情で家へ
と招き入れてくれた。
静かなリビング。
やっぱり、いつかのようにセミの声だけが聞こえていた。
しばらく辻のお母さんと向かい合って座ってたんだけど、圭織は
勇気を振り絞って話を切りだした。
その話は――、圭ちゃんやなっちと話あったことと同じ。
これからの辻のことを考えて、辻本人にすべてを伝えて欲しいと。
「それは……、できません」
話を聞き終えた辻のお母さんは、うつむき加減にそう言った。
「希美がどんな思いをするか……」
「それを支えるのが家族じゃないですか」
「家族……ですか……」
辻のお母さんは、なぜか遠い目をして微かに笑った。
「ご家庭の事情があるのは、わかります。でも、このままずっと
隠しつづけてれば、それだけ希美ちゃんが辛い思いするんです」
「……」
「お願いします……」
圭織は、深く頭を下げた。いつまで経っても、辻のお母さんから
の返事はなかった。小さく嗚咽する声が聞こえてきて――、圭織
はハッとして顔をあげた。
辻のお母さんが、静かに涙を流していた。
「……」
圭織の決心は大きく揺らいで、ものすごい罪悪感がのしかかって
きた。――辻のお母さんも、苦しんでいるんだ。圭織よりも、もっ
とずっと昔から……。それなのに圭織は……。
『その話、もう少し詳しく聞かせてくれないかな?』
振りかえると、リビングのドアの前に辻のお父さんがいた。
顔を戻し、辻のお母さんの絶望的な表情を見たとき、圭織はもう
絶対に後戻りできないような気がした。
”誰かが鬼にならなければいけない”圭ちゃんの言葉を、あらた
めて噛みしめた。
運命っていうのは、あるのかもしれない。
圭織と辻が出会ったのも運命なのかもしれないし、こうして辻の
お父さんが忘れ物を取りに戻って事情を知ったのも――。
その運命をどう受けとめるか、圭織はまた事情をすべて話して、
辻のお父さんの答えを待った。辻のお母さんの方は、もうさっき
からただただうなだれているだけだった。
それを見て、圭織はまた罪の意識を感じたんだけど……圭織は鬼
になったからすべてを受けとめる……。
「何でそんな大事なことを、ずっと隠しつづけてたんだ」
辻のお父さんは腕を組んだまま、静かに言い放った。
「……隠すつもりはなかったの。だって、希美の障害は言わなけ
れば、わからない程度だから……」
「それでも、障害者には変わりないだろう」
辻のお父さんは、吐き捨てるように言った。
いくら血の繋がっていない親子とはいえ、そんな言い方はないだ
ろうって圭織はムカムカした。
「辻家は由緒ある家柄なんだ。いずれ、私も中央政界に進出する。
それは再婚する時に話ただろう」
大きなため息を吐き、辻のお父さんは頭を抱えた。
「離婚・再婚でただでさえ、一悶着あったんだ。再婚相手の娘が、
知的障害だなんて世間に知れたら……」
「……すみません」
って、辻のお母さんはハンカチで涙を拭いながら頭を下げた。
それを見た圭織は、もうなんかブチンって切れちゃって――、大
声で怒鳴ってしまった。
「いい加減にして!」
辻の両親は、顔をあげた。
「さっきから聞いてりゃ……。お母さん、なんで謝るんッスか!
辻は、こんな自分の事しか考えてないような人に頭を下げる必要
なんてない子です!」
「き、君、家庭教師の分際で何を言うんだ」
「うるさいッ。カテキョだから言ってんだよ」
辻のお母さんも目を丸くして、怒鳴り散らす圭織のことを見てた。
「お母さん、辻のいいところ今までいっぱい見てきてるでしょう。
圭織、たった2ヶ月ぐらいの付き合いだけど、それでも辻のいい
ところいっぱい見てきました。圭織、たった20年しか生きてな
いけど、辻のような綺麗な心を持った人に出会ったことありません」
「知的障害者とは、得てしてそのようなものだ」
辻のお父さんは、バツの悪そうな顔をして呟いた。
圭織は、こんな男、とことん無視してやることに決めた。
「先生……」
「1番理解してるはずなのに、なんでこんな人に謝るんですか……」
圭織は、悔しくてボロボロと泣いた。いつかの、辻のように。
「辻は誰かにバカにされるような、そんな生き方してないのに……。
なんで……」
ただでさえ圭織の思考回路はメチャクチャだって言われるのに、
切れてしまった圭織はいつにも増してメチャクチャで……。もう
なんて言えばいいのかわからなくなって、頭を抱えて座り込んで
しまった。
「君、この子を外に出しなさい。近所に知れ渡ってしまう」
辻のお父さんの低い乾いた声が、圭織の耳に届いてきた。どこま
で、自分のことしか考えてないんだろう……。
最悪の結末になってしまった……。
この家に、辻の味方はいない。
間違いなく、この男は辻のことを理解しないばかりか、自分の不
利益になると判断して、辻に冷たい態度をとりつづける。
そして、辻のお母さんも辻にはこの経緯を話すことなく、戸惑う
辻に何もしてやることができない……。
最悪の結末だ……。
「先生……」
辻のお母さんは小さな声を出しながら、圭織を立ちあがらせた。
でも、圭織は顔をあげることができなくって、うつむいたまんま、
ずっと泣き続けていた。
圭織を支えていた辻のお母さんの手が、フッと離れて寄り添って
た身体が小刻みに震え始めたのを感じて、圭織はゆっくりと顔を
あげた。
「辻……」
リビングの出入り口、開かれたままになっていたドアの向こうに、
辻が悲しそうな笑顔を浮かべて立っていた。
どうして、そこに辻が立っているんだろう……。
いつから、そこにいたのだろう……。
「希美……」
辻はお母さんの声を聞くと、その場を走り去ってしまった。
圭織の頭の中は、真っ白になった……。
【ごめんね、辻――。あの時、圭織がもっと冷静になってたら、
もっと何かが変わっていたのかも知れないね。ごめんね】
■第10話 「家族ゲームA」
「なんで、辻のことちゃんと見てくれなかったのよ!」
圭織は辻を探しながら、電話の相手であるなっちに怒鳴った。
『だって、友達から電話があって……。その子の家に遊びに行くっ
て言うから……』
電話の向こうで、なっちはオロオロとしていた。
友達。”あいぼん”の顔が頭に浮かんだ。
「そいつが、辻のことイジメてんだよ。もうッ」
圭織は目にいっぱい涙を溜めて、電話をきった。なんの用があっ
たのか知らないけど、なんで今日に限って……。
まだ、辻には知られたくなかったのに!
圭織は狂ったように、辻の姿を探して走りまわった。
1時間ぐらい、辻の行きそうな場所を探してみたけど、どこにも
辻の姿はなくて……最悪の状況を想像してしまった。
「辻……」
子供みたいにその場にしゃがみ込んで、圭織は泣いた。
圭織のせいで……。
圭織のせいで……。
圭織のせいで……。
そんな言葉が、ずっと頭の中をぐるぐる回っていた。
泣いてばかりもいられない。
圭織は、涙を堪えながら――不安を胸の奥に押し込みながら、夕
暮れ近くなった町の中を走りつづけた。
曲がり角をまがったら、圭織の目に不意に”あいぼん”が映った。
友達と歩いているところに、偶然出くわした。
向こうも圭織に気づいたみたいで、一瞬、ハッとした表情を浮か
べた。きっと、逃げれば圭織はどこまでも追いかけたはず。
でも、”あいぼん”って子は逃げ出さなかった。
友達と一緒にいたので、逃げだせなかったのだろう。友達は圭織
に気づいていなく、ずっと”あいぼん”って子に話しかけている。
”あいぼん”が、圭織の脇をうつむいたまま通りすぎようとした。
圭織はその腕を何も言わずに掴んだ。
やっと、異変に気づいた友達が数歩進んだところで振りかえる。
圭織はその視線を無視して、うつむいている”あいぼん”に低い声
で訊ねた。
「あんた……、名前は……?」
「……」
「名前」
圭織のドスの聞いた声に、彼女はうつむいたまま身体をビクッと
震わせた。
「か、加護……、加護亜依……」
「なんで辻のこと、イジメてたの? あいぼん……」
彼女の黒目がちの瞳に映った圭織は、とても冷たい顔をしていた。
状況を察した1人は、危険を感じて走り去っていった。
でも、加護は逃げられない。
圭織が、その腕を強く掴んでいるからだ。逃げる気力さえないほ
ど怯えているので、その必要はなかったんだけど、圭織はずっと
強くその腕を掴んでいた。
「逃げてもムダだからね」
って、低い声で念を押してから、その掴んでいた腕をはなした。
加護はうつむいたまま腕を軽くさすっていたが、逃げ出そうとは
しなかった。
「辻と一緒に遊ぶんじゃなかったの?」
圭織は、ちょっと口元を歪ませながら訊ねた。
「……」
「何? 呼び出して、また2人でイジメるつもりだった?」
「……」
「今は時間がないから――。こけだけは言っとく。今度、辻をイ
ジメたら――」
圭織は、うつむく加護の顔を覗き込んで言った。
「許さないから」
――加護は何も言わずに、ずっとうつむいていた。
加護を軽く押しのけて、辻を探しに行こうとした時だった。
『ののは……』
後ろから、加護の声が聞こえてきた。その声は、少し震えている
ようだった――。
『のの、いなくなったんですか……?』
……圭織は、何も言わずにその場を立ち去った。
空はもう、かなり夕方の気配を濃くしていた。圭織は、加護の視
線を背中に感じながら辻を探し求めて駈けだした。
――午後7時。
辻の家に電話をしたけど、誰も出なかった。
どうやら、まだ辻は見つかっていないみたい。さっきから、辻の
携帯には何度も電話してるんだけど、電源が切られていて連絡が
つかない。
疲労と絶望で、圭織は意識を失いかけて、近くの電信柱によりか
かった。でも、気を失うわけにはいかない。なんとしてでも、辻
を見つけなければ――。
圭織は朦朧としながらも、夕方の町をさ迷い歩いた。
『圭織!』
圭ちゃんとなっちの声が、同時に聞こえた……。
幻聴かとも思ったけど、その声はずいぶん近くから聞こえていて。
次の瞬間には、息を切らせた圭ちゃんとなっちが駆けてきて、圭
織を両脇から支えた。
「圭織、しっかりして!」
「圭織!」
圭ちゃんの顔は相変わらずだけど、なっちも真剣な顔をしたらい
つもの愛くるしい童顔ではなくなるんだ……。
「大丈夫……」
圭織は、笑って答えた。
「ぜんぜん、大丈夫じゃないじゃない」
って、圭ちゃんはハンカチで圭織の汗を拭った。
なんか、圭織気を失う直前だったみたい。
なっちは、圭ちゃんに軽く目配せをするとどっかに向かって走っ
ていった。
「圭ちゃんもなっちも……、なんで……、ここに?」
「なんでって、辻ちゃんを探しに来たに決まってるでしょう」
圭ちゃんに支えられて、圭織は店の前にある花壇の縁に座らされ
た。
「こんなこと、してる場合じゃない……。辻、探さないと……」
立ちあがろうとしたら、上から圭ちゃんに肩を押さえつけられた。
「アタシたちも探すから、圭織はちょっとここで休憩してな」
「辻、全部聞いたみたいなの……」
圭織はまるで、救いを求めるように圭ちゃんを見上げた。
「うん……」
「圭織ね、もし説得に失敗したら辻に話すつもりだった。でも、
その前にちゃんと、辻には圭織がいるんだよって教えてあげたかっ
た。それなのにさ、辻にそれ教える前にさ」
「……」
「ねぇ、圭ちゃん。辻が死んじゃったりしたらどうしよう。圭織
のせいだよ。圭織がなんも考えずにあんなことしたから。どうし
よう、ねぇ圭ちゃん」
乾いた音が、圭織の鼓膜を振動させた。
意外と、頬の痛みはなかった。それよりも、涙を堪えながら圭織
の頬を打った圭ちゃんを見るのが辛かった。
「しっかりしなさいよ……。アンタがあきらめて、どうすんの」
「でも……」
「そだよ。ハイ、これ飲んで落ち着いて」
戻ってきたなっちが、圭織に缶ジュースを差しだした。
「わざわざ説明しなくても、辻ちゃんにはわかってるよ。圭織が
味方でいてくれるって。――ね」
なっちは、圭ちゃんに笑いかけた。
涙を堪えていた圭ちゃんも、笑顔を浮かべて言った。
「圭織がいなくなった後、辻ちゃん急に元気なくなってさ。いつ
帰ってくるんですかって3分おきに訊ねてくるしさ」
「そ。なっちがお菓子作っても、飯田さんが帰ってきてからでい
いって、すんごい泣きそうだったんだから」
圭ちゃんもなっちも、優しい微笑を浮かべていた。
辻のことを話すとき、圭織もこんな顔をしてたのかなって思った。
今も、きっと2人と同じような顔をしてるんだろうね。顔全体の
筋肉が緩んでるのが、自分でもわかったもん――。
炎天下の中ずっと走りまわっていた圭織の身体は、もうずいぶん
前から水分を欲しがってたみたいで、けっきょく缶ジュースを3
本ほど飲み干してしまった。
家の周りを重点的に調べようと3人で話し合い、それぞれの捜索
ポイントに向かおうとした時に、圭織の携帯がブルったの。
辻からの電話かと思い、あわててポケットから携帯電話を取りだ
した。
「もしもし、辻?」
『……あの』
「……誰?」
電波の状態が悪いので声がよく聞きとれない。でも、圭織にはそ
れが辻の声じゃないってのはすぐにわかった。よく似てはいたが、
辻の声ではない。
携帯のディスプレイを素早く見た。
着信表示は、圭織のメモリーに登録されていない番号だった。
「もしもし?」
ザッザッと走るノイズの向こうで、その声は言った。
『のの、見つけました。学校の体育用具室にいます』
と、だけを告げると電話は切れた。
「あ、もしもし。もしもし?」
通話音が聞こえてくるまで、圭織はそう叫んでいた。
辻のことを”のの”と呼び、そして辻によく似た声の持ち主。
電話の相手は、加護亜依だとすぐにわかった。
彼女が何で辻の居場所を知っているのか、そしてなんでそれを圭織
に教えたのか、なにも分からなかったが圭織の足は辻の通う中学校
へと無意識に駆けだしていた。
「あ、ちょっと圭織」
「何があったのよ」
って、ずっと後ろの方で圭ちゃんとなっちが叫んでいたが、圭織に
はそれを説明する暇はなかった。
ただもう、辻の姿をこの目で見るためだけに全速力で駆けていた。
体育用具室、どこ?
圭織は、誰もいないしんと静まり返った中学校の敷地内を走りま
わった。
運動場にあった野球部専用の用具室を覗いて見たけど、そこには
辻の姿はなかった。
まだ、他にあるはず。でも、どこにあるのか分からない。
圭織の通っていた中学校は、運動場のすぐ脇にあったのに……。
冷静になれ、冷静になれって、圭織は走りながら心の中で唱えた。
校舎の向こうに、体育館らしき屋根が見えて、圭織はそこに向かっ
て駆けだした。
走りながら、体育用具室は体育館にもあったことを思いだした。
圭織の通っていた中学校だけが特別じゃないよね――、もう願い
ながら体育館の重い扉を力まかせに開けたよ。
あまりの静けさに、圭織は一瞬たじろいだけど、講壇のすぐ脇にそ
れらしいスペースを見つけて、そちらに向かってゆっくりと歩きだ
した。
加護の電話が本当なら、辻はこの奥にいるはず。
圭織は、すこし緊張しながらドアノブを回した。そこは、小さな格
子付きの窓が1つしかなく、かなり薄暗かったけど、圭織はすぐに
辻の姿を見つけることができた。
辻は体育マットの上に、横たわっていた。
圭織、その姿を見て声もあげられないほど半狂乱になりかけたけ
ど、その声もあげられないってのが幸いしたんだろうね。
辻のス〜ス〜っていう呑気な寝息が聞こえてきて、ハッとわれに
帰ることができた。帰れなかったら、圭織は壊れてたかも知れな
い……。
全身の力が一気に抜けて、その場にヘナヘナと座り込んだ。
――音か気配に気づいたのか、辻はゆっくりと目を覚ました。
「?」
状況がよく飲み込めてないみたいで、辻は目をこすりながら圭織
をきょとんと見ていた。
「――おはよう、辻」
圭織は、引きつった笑みながらもなんとか声を出すことができた。
状況がわかったのか、辻は圭織に背を向けてうつむいた。
「心配したよ」
「……」
「家に――、電話してもいい? お母さん、心配してるよ」
「辻は……」
「ん?」
「もう、家に帰らないのれす……」
辻の声も背も、微かに震えていた。
やっぱり、聞いてたんだね……。圭織は何も言わずに、その小さ
な震える背中を見つめていた。
「辻のお母さんはれすね、いっつもお父さんに怒られてたんれす。
勉強ができないのは、お前がしっかりしないせいらからって」
「……」
「お母さんのせいじゃないんれすよ。辻がバカらから……。れも、
辻、一生懸命がんばったんれすよ」
「……うん」
静かな体育用具室に、辻の涙を堪えて嗚咽する声だけが響いた。
悲しいBGMだったけど、圭織はそれも聞き逃さずに全部を受け
とめようと思った。
「辻がもっとかしこかったら、お母さんもお父さんも仲良くなれ
るんれす。びりっけつの辻がいたら、お母さんが怒られるだけら
もん。頑張っても、辻はれきないんらから、いない方がいい」
辻は抱えていた膝に、顔を埋めて泣いた。それでも、声を漏らさ
ないように必死で押し殺しているようだった。
抱いて慰めてあげることができれば、圭織はきっとそうしていた。
今までみたいに、”大丈夫だよ”って言葉をかけられるのなら、そ
うしてる。
でも、それじゃ今までと同じ――。
言葉やその場限りの優しさで納得させるんじゃなくて、もっと違
う何かが必要だって思えた。
ちょっと寂しいけど、それはやっぱり当り前のことで、辻はお母
さんのことが大好きなんだ……。
何にも確信はなかったけど、圭織はそうするのが一番いい方法だ
と思った。
――ちょっと乱暴だけど、泣いている辻の手を引っ張ってムリヤ
リ立ちあがらせた。
泣いて抵抗する辻を、圭織はずっと引きずるようにして歩いた。
通りすぎる人たちが振りかえったりしたけど、それでもずっと辻
を引っ張って歩きつづけた。
辻の家には灯りがついていて、その前には圭ちゃんとなっちが心
配そうに通りの左右を見渡して立っていた。
なっちが圭織たちに気づき、圭ちゃんと一緒にやって来た。
「なにやってんの、圭織」
なっちが泣いている辻に、庇うようにして寄り添った。
圭ちゃんも圭織に何か言いたそうだったが、辻の無事を報告しに
家へと戻っていった。
「……行くよ、辻」
圭織は、辻の手を引いた。
辻はその場に座り込もうとした。でも、圭織は引っ張る力を緩め
なかった。
「やめなよ、圭織」
なっちが、圭織の前に立ちはだかる。
「どいて」
軽く押しのけて、前に進もうとした。でも、なっちはまた圭織を
睨みあげるようにして前に立ちはだかる。
反対に見下ろす圭織は、とても冷たい目をしてたと思う……。
「辻ちゃん、嫌がってるっしょ」
「……」
「なんで? なっち言ったよね。ちゃんと受け止めなさいって」
「言ったよ」
「だったら、なんでこんな事するの。これじゃ、辻ちゃん突き
離してるのと同じことじゃない」
「……」
振りかえると、辻は地面にしゃがみ込んだまま泣いていた。
辻……。
圭織はね……。
「今は優しく労わるのが、圭織の役目でしょうが。こんなに泣い
てるのに」
なっちが、圭織の視線を追うように辻の側に戻った。
「辻……」
圭織の震える声に、辻を慰めていたなっちが顔をあげた。
「……圭織」
あぁ、涙が出てしまう……。止めたいのに、泣きたくないのに……。
「か……、圭織はね……」
辻が涙をぬぐいながら、顔をあげた。でも、その顔は圭織にはよ
く見えなかった。
「辻を……、辻を強い子にしたいの……。ずっと、これから先、
泣いてばかりじゃいけない。もっと、強い子になってほしい。自
分の気持ちをハッキリ言えるようになってほしい」
「……」
「辻はお母さんのことが、好きなんだよね。そうでしょ?」
「……」
辻は、嗚咽しながらもこくりとうなずいた。
「辻がそんなに泣いてばっかりいると、お母さんだってどうして
いいのかわかんなくなっちゃう。辻が自分のことバカだって言う
たびに、お母さんは自分のせいだって思っちゃうんだよ」
「……」
辻は、涙を堪えながら首を振った。
「勉強ができるからって、偉いわけじゃないんだよ。生きていく
ためには、人から愛されることが必要なの。辻は、それを持って
る。辻に出会った人は、みんな辻のことが好きになる。それが、
一番大事なことなんだよ」
「……」
「そだよ、辻ちゃん。なっちも、辻ちゃんのこと好きになったよ。
もうね、可愛いーって家に連れて帰っちゃいたいぐらい」
なっちは、辻のことをギューって強く抱きしめた。
『アタシも、辻ちゃんのこと好きだよ』
振りかえると、圭ちゃんが辻家の門扉から出てくるところだった。
「お母さん……」って、圭ちゃんは門扉の向こうに声をかけた。
しばらくすると、両手を口で覆った辻のお母さんが姿を現し、圭
織に深々と頭を下げた。
圭織も軽く礼を返した。
そして、もう1度、辻に向き直った。しゃがんで、辻と同じ目線
の高さになり、その涙をぬぐいながら言った。
「辻は、もっと自信を持ちなさい。そうすれば、辻もお母さんも
笑って暮らせるから。泣いてるより、楽しい方がいいでしょ?」
「……へい」
って、泣き笑いだったけど、その目はすっごいキラキラしていた。
「そう。よくできました。――ほら、お母さんのところに行って、
安心させてあげな。ちゃんとごめんなさい言うんだよ。心配かけ
たんだから」
辻は笑顔でうなずいて、お母さんのもとに駆けていった。
辻のお母さんも、娘へと駆け出してきた。
二人の距離が縮まって、もうすぐ2人で抱き合ったりするんだな
ぁって眺めていたら、急に辻の足が止まった。
――辻のお父さんが、門扉から出てきてた。
辻のお母さんも、辻の視線を追って振りかえりその姿を確認した
ようだ。どちらも2メートルほどの距離を開けて、立ち止まって
しまった。
「近所迷惑だと言っただろう。2人とも、家の中に戻りなさい」
辻のお父さんの近くにいた圭ちゃんが、ゆっくりとこちらに向かっ
て歩いてきているのを圭織はぼんやり眺めていた。
「まったく、君たちはどこまで迷惑をかければいいんだ」
と、わざと聞こえるように言っているのだろう、大きいひとり言
が圭織の耳にも届いてきた。
ホント、いい加減にしてほしい……。
圭織はまた、ブチンって切れそうになった。
せっかく、辻が自信を持とうとしているのに――、圭織が口を開
こうとしたのよりも、一瞬早く辻のお母さんが辻に歩みよった。
「希美。ごめんね……」
辻のお母さんは、そう言いながら辻を抱きしめた。
「君たち、早く家の中に戻れと言ってるだろう」
「また、2人だけで一緒に暮らそうか? 前みたいに、狭いアパー
トになっちゃうけど」
って、辻のお母さんは優しい笑顔を浮かべながら、辻の頭を撫で
ていた。
「おい、聞いてるのか?」
門扉からこちらにやって来ようとした辻のお父さんを、少し離れ
た場所に佇んでいた圭ちゃんがギロっと睨んで「静かにしな」と
低い声で呟いた。
辻のお父さんは、たじろいでその場から動けなくなった。
それを見た圭織となっちは、顔を見あわせて苦笑した。
「将来のことを考えたらね、お母さんなんだかすごく不安になっ
てしまってね……。希美が一生お金に苦労しないのなら、この家
で耐えようって思ったの……。でも、もういいわ。ごめんね、希
美に辛い思いさせて」
辻のお母さんは、立ちあがって圭織にまた頭を下げた。
「本当に、いろいろとご迷惑をおかけしました」
「そんな、迷惑なんてしてませんから……」
「私が弱かったばっかりに、今まで希美に苦労させてきたんです。
――ありがとうございます。希美だけじゃなくて、私も自信がつ
きました。もっと早く、先生にお会いしたかったです」
って、辻のお母さんは苦笑した。
「もういい。好きにしたまえ。――それと、家庭教師は今日限り
クビだ」
辻のお父さんは、そう怒鳴りながら家の中へと戻っていった。
辻がものすごく不安そうな顔で振り向いたけど、圭織は大丈夫だ
よって意味をこめて笑顔で辻にうなずき返した。
【圭織ね、もうすべて終わったと思ったの。こんなことになるな
んて、あの時は想像もしてなかったよ】
■第11話 「都会のカラス、ふたたび」
あれから1週間が経過し、辻の環境は大きく変わった。
辻とお母さんは、あの家を出て都内にあるアパートに2人で暮ら
すことになった。
引越しの日、圭織はちょっと遅れてだけどマロンを連れて手伝い
に行った。(もちろん、辻のお母さんが犬アレルギーなので、部
屋には上げなかったけど)
最初そのアパートを見たときは、正直、すごいところに住むんだ
なぁって思ったよ。
細い路地の奥にある、築ウん十年って感じの木造アパート。
階段も廊下もギシギシ鳴っちゃって、昼間でもちょっと怖かった。
トイレも共同みたい。
「辻……、夜とか大丈夫?」
梱包を解きながら、圭織は辻に小さい声で訊ねた。
「?」って感じで辻が振りかえったから、圭織は台所のお母さん
に聞こえないようにもう1度小さな声でつぶやいた。
耳元でつぶやいたのがくすぐったかったみたいで、辻は身をよじ
らせて笑った。
その声を聞いた辻のお母さんは、圭織と辻がじゃれあってると思っ
たんだろうね苦笑しながら眺めてた。
いいね、辻。どこにいても、お母さんが見れるから――。
「本当に、先生にはいろいろとお世話になりました」
圭織を駅まで送ってくれる途中、お母さんは急に立ち止まって頭
を下げた。数メートル先を歩く辻は、マロンと遊ぶことに夢中で
気づいていない。
「ご覧のように、あんな汚いところですが、1から始めるにはい
い場所だと思います」
って、辻のお母さんは苦笑した。
「これで、本当に良かったんでしょうか……」
マロンとじゃれあっている辻の背中を見つめながら、圭織は自分
の中にあった後悔のようなものをつぶやいた。
「?」
辻のお母さんが見上げる。でも、圭織はお母さんの目を見ること
ができなかった。
「私、家を出なきゃいけないようになるなんて考えてませんでし
た……。ただ、家族3人で力を合わせていろいろな問題に取り組
んでいってほしい。それが希美ちゃんのためなんじゃないかって
思ってて……」
「気にしすぎですよ、先生」
「でも……」
もうずっと先を歩いている辻が突然振りかえって、大きく手を振っ
た。辻のお母さんは、優しい微笑を浮かべて手を振り返した。
振り返しながら、「気になさらないで下さい」って言葉だけを圭
織に向けた。
お母さんの姿に安心したんだろうね、辻はまた前を向いてマロン
と一緒に歩きはじめた。
「打算的な生活でしたから、いずれこうなってました」
「……」
「私は希美のために、あの人は選挙のために――。父の後押しと
地盤が欲しかっただけ。あ、私、こう見えても政治家の娘なんで
すよ」
辻のお母さんは、まるで少女のようにイタズラっぽく笑った。
「でも、私と両親……特に父との確執は普通じゃありませんから……。
あの人は私が自分の役に立たないと判断したんでしょうね。それ
からは――先生がご存知の通りです」
「……」
「希美のためといいながら、希美を一番苦しめてた私は母親失格
です」
「そ、そんなことありません」
「そう言っていただけるように、これからまた一から母親をやり
ます」
そう言った辻のお母さんの顔は、とても清々しい笑顔だった。
駅前に到着して、辻と2人っきりになった。
辻のお母さんは気を利かせて、ちょっと買い物にいくと言ったま
まその場所を離れた。
電車が来る時間まで、辻のお母さんが戻ってくるまで、圭織と辻
は2人だけで過ごした。
「辻、今度はここから圭織の家までの電車覚えようね」
「へい」
「辻、新しい学校の話、ちゃんと聞かせてね」
「へい」
微笑む圭織に、テヘテヘ笑って見上げてる辻。
周りの人には、どんな2人に見えるんだろうね。変に見られても、
圭織はぜんぜん構わない。だって、圭織はこの笑顔を見るために、
今まで頑張ってきたんだもん。
職も失ってさ、来月の生活はどうしようとか思うけどさ、それで
もいいんだ。だって圭織には、辻の笑顔が最高のご褒美なんだか
ら。
イジメの問題も学校の転校という事で、とりあえずは解決したし、
もうこれ以上は何もないと思って圭織は安心して辻の笑顔を微笑
みながら眺めてたんだ。
……でも、都会のカラスは狡猾で、2人のことを雑踏に紛れて覗っ
ていた。圭織も辻も、その存在に気づくことなく、互いの家に戻っ
て行った。
数日後。
小・中・高にとっては、夏休み最後の日。
圭織は、いつものように大学の図書室にいた。そろそろ、レポー
トの追いこみをかけなければいけない。
でも、その作業はなかなか進まなかった。
レポートの作成が難しいのではなく、今日で辻の夏休みも終わるっ
てことが気になって仕方がなかったからなの。
新しい学校では普通学級に籍を置いてフリースクールに通い、そ
こで辻に合った個別学習を行ない卒業までの単位をとることになっ
ている。圭ちゃんが提案して、辻とお母さんが納得してそうする
ことになった。
イジメの問題もないとは言い難いけど、たぶん大丈夫だろうって
圭ちゃんは言ってた。圭織もそう思う。
もう、辻は一人ぼっちで全部を抱え込む事はない。
辻の周りにはお母さんもいるし、圭織も圭ちゃんやなっちもいる。
何かがあれば、圭織がすぐにすっ飛んでってあげるから大丈夫。
問題なのは……、新しい友達ができるかってこと。
辻は人見知りする子だし、なんかイジメって気づかないで苛めら
れそうな気もしないでもない。
あの加護亜依のように、友達の顔をして近づいてくれば辻は絶対
に受け入れてしまうだろうね――。
加護亜依……。
圭織、最初にお祭りの日に会ったとき、まさか辻のことを苛めて
るなんて思いもしなかった。
何か言いたそうだったあの時の辻。ちゃんと圭織が訊いてあげて
れば……。あそこで、ガツンと言ってやれたのに。
でも、おかしいんだ……。
最初は浮かない顔をしてた辻も、次に圭織が見た時はどこにでも
いる中学生同士みたいに2人で笑いあってた。
辻は、愛想笑いなんかできるほど器用じゃない。
それなのに、なんで……?
そういえば、加護はなんで辻の居場所を知ってたんだろう……。
なんで、圭織に辻の居場所を教えたんだろう……。
なんで、圭織の携帯番号知ってんの……。
今さらになって、そんな疑問が浮かんだ。
大学から、直接、辻の家を訪れた。そこで、圭織は不思議な錯覚に
陥った。
――前にも、こんな事があった。
加護が、辻の家の前に立って部屋を見上げていたこと。
でも、なんで加護は新しい引越し先を知ってるんだろう。
辻が教えたのかなぁ……。
圭織は、ぼんやりとアパートの前に佇む加護の背中を見つめていた。
でも、次の瞬間にはハッとわれに帰った。
だって、辻を苛めてた加護が引越し先のアパートにまで来てるんだ
もん。なんでこんなとこまでって、憤りに近いものさえ感じる。
あの時は、いなくなった辻を探すので頭がいっぱいだったからすぐ
に解放してあげたけど、今度は逃がさないんだから。なんで、こん
なところまで来たのか、ちゃんと問いつめてやんだから。
って、意気込んでたのが悪かったのかどうか、加護が圭織の気配に
気づいて振りかえった。そして、逃げた。
細い路地をその小さな体をいかして、あっという間に圭織の視界か
ら消えた。
追いかけるよりも圭織はあることを思い出して、たまらなく不安に
なった。辻が苛められてケガをしてるんじゃないかって――。
だって、前もこんなことがあって辻の部屋に行ったら、辻は眼帯を
してて――。
辻はその時、転んだだけだって言ったけど、あれは加護がやったの
かもしれない。加護は、辻が親に告げ口しないかどうか監視してた
んだ。
圭織は、加護を追いかけるよりも、アパートの階段を一気に駆けあ
がった。辻が、また眼帯なんかしてたら今度こそ、加護の住所を聞
き出して家に怒鳴り込んで言ってやろうって考えていた。
「辻……」
ドアを開けてくれたのは辻で、別になんともなってないこの前会っ
たままの辻だった。
息を切らせて血相を変えている圭織を、きょとんとして見上げてい
る。それでも、不安は拭えなくて――。
「大丈夫? 加護になんかされなかった?」
「? かご?」
「加護。加護亜依」
「あいぼん?」
「そう」
辻は、やっぱりきょとんとした顔で圭織のことを見上げていた。
辻のお母さんは、就職活動に出かけてて留守にしていた。
偶然なんだろうか、それともこんなときを狙って加護はアパートに
やって来たのだろうか……。
どちらにせよ、加護の存在は危険なように思えた。
「辻は、あいぼんって子にここの住所教えた?」
「まだれすよ」
「……」
教えてない……。
じゃあ、なんで知ってるんだろう……。
「いいらさん?」
「――ん?」
「あいぼんは、辻のお友達なんれすよ」
辻は、微笑みながらそう言った。
はっきり言って、圭織には辻の言葉が理解できなかった。
手足に擦り傷をたくさんつけられ、眼帯までしなければならない傷
を負わされ、それでも微笑んで友達と呼ぶ――。
でも、それが辻なのかもしんない。
たとえ嫌なことをされても、相手のいいところだけを見つづけてん
だろうね。なんか、そんな気がした。
午後6時過ぎ。
辻のお母さんが帰ってきたから、もう大丈夫だろうと思って圭織も
自分のアパートに戻る事にした。
辻が駅まで見送ってくれることになった。
圭織は、もう遅いからいいよって断ったんだけど、辻はテヘテヘ笑
いながら組んだ右腕を離そうとしなかった。
仕方ないから、駅まで一緒に歩くことにしたんだ。
夕暮れの駅までの道を、2人で腕を組んだまま歩いた。
いろんな話をしたんだ。
辻はなぜか、昔の話をしたの。
圭織が初めて家に来た時、本当は怖かっただとか、プールの話とか、
お祭りの日の話だとか、カラオケにまた行きましょうねとか、映画
のパンフレットは宝物だとか――なんか、圭織との思い出話をずっ
と微笑みながら話てた。
夏休みも今日で終わるから、なんかちょっとセンチメンタルな気分
になってんのかな?
だから、圭織言ってやったんだ。
「辻。圭織はもう辻の家庭教師じゃないけど、ずっと友達だからね」
って。いろんな意味をこめて言ったつもりなんだけど、辻にはわかっ
たのかなぁ。
しばらくボーっと圭織の顔を見上げてたけど、「へい」って笑顔で
うなずいてくれた。
「れも、いいらさんは辻の家庭教師れすよ」
「ん?」
「らって、今日も家で勉強教えてくたんれす」
家庭教師ってそう言う意味だったんだっけか?って、圭織もわか
らなくなった。
「辻はれすね、頭が悪くて良かったんれす」
「……?」
「バカらから、ずっといいらさんに勉強教えてもらえるもん」
って、キラキラした笑顔で圭織の腕にしがみついてきた。
「辻……」
なんかわかんないけど、また涙があふれそうになった。でもさ、こ
の前、辻に言ったじゃん。泣いてばかりいちゃダメって。だからさ、
やっぱりそう言った圭織が真っ先に涙なんか見せちゃったりしちゃ
いけないわけで……、でも、必死で堪えてたんだけど勝手にあふれ
だしてきて……。あわてて、上を向いて涙を隠した。
ありがとう、辻。嬉しい、嬉しいよ……。
でも、幸せってそう長くは続かないんだね。
加護が辻のアパートにいた時から、なんとなくそんな感じがしてた。
また、加護は辻の前に姿を現すって――。
駅前の雑踏の中、一番最初に加護の姿を見つけたのは辻だった。
あのお祭りの日のように、うつむき加減で歩いていた足を止めた。
圭織もすぐその姿に、気づいた。
なぜなら、駅へと向かう人々の流れとは逆に、加護がずっと辻を見つ
めながらこちらに歩いてきてたから。
圭織は、咄嗟に辻を自分の後ろに隠した。
加護は怯むことなく、やってきた。そして、圭織の後ろからちょこん
と顔を出している辻を、悲しそうな顔で見つめた。
「な、何の用なの?」
不気味だった。加護は何かを決心しているような、なんかそんな雰囲
気が漂っていた……。
「のの……」
か細い声を出しながら、加護は辻に手を差し伸べた。
「ごめんね、いじめたりして……」
加護は、関西弁のイントネーションで辻に話しかけた。
わざとなのか、それとも関西の出身なのか圭織にはわからなかったけ
ど、辻は別段驚くでもなくむしろどちらかと言うとその喋り方に安心
しているようだった。
「のののこといじめるの嫌やった……」
加護はそこが夕方のラッシュを迎え、混みつつある駅前だという事も
忘れて顔をクシャクシャにして泣きはじめた。
圭織には、さっぱり状況が飲みこめない。
苛めることが嫌だった……?
辻を見ると、辻はとても優しい表情を浮かべて圭織の後ろから、加護
の前へと出てきた。
「あいぼん」
って、泣いている加護の両手を包み込む。
「辻……、どう言うことなの?」
「あいぼんは、辻のお友達なんれすよ」
「……」
圭織には、それがわからない。だから、訊いてるのに……。もっと別
の訊き方をすればいいんだろうけど、混乱していた圭織にはそんな余
裕はなかった。
もう少し詳しく知りたい……。
その欲求に答えたのは、泣き崩れている加護だった。
「ごめんな……のの。ウチ、もう嫌や……」
加護は涙をぬぐうと、フラフラと立ちあがった。
「い、嫌って……、何が嫌なの」
「あんたが全部悪いんや……」
「な、なんで圭織が悪いのよ」
加護がこっちを向いて話すから、てっきり圭織の事を言ってると思っ
た。でも、よく見ると加護の目は圭織の後ろに向けられていて……。
加護の視線を追って、振りかえると見覚えのある少女が圭織の後方に
佇んでいた。
圭織と同じような髪の色をした、圭織の学生証を届けてくれた、アニ
メ声の少女。
「あれ? なんで、こんなとこにいんの?」
圭織は、思わず声をかけた。まぁ、どこにいてもいいんだけど、今ま
では近所で会ってたから、ちょっとびっくりしてね。
――少女は、両手で口を押さえてクスクス笑っていた。
「急に呼び出すからなんだと思ったら、こんなことだったんだ」
「のの……、それに、先生」
加護が、少女を見据えながら2人に声をかけてきた。
辻と圭織は、訳がわからずに互いの顔を見合わせた。
「ののをイジメるようにウチに命令してたのは、あの人なんです」
と、少女を指さした。
「なに言ってんの? あいぼん」
少女は、笑っていた。
「……どういうこと?」
「もう、冗談はやめてよ。あいぼん」
笑う少女を見て、辻が圭織の後ろに身を隠した。本能的に、少女から
何かを感じたんだろうね。圭織も何か、嫌な予感がしていた。
「ウチとののは、去年の同じ頃に転校してきたんです」
加護が、圭織に向かって話しかけてきた。幼い喋り方だったが、ひど
く興奮しているのはわかった。
「2人とも友達がいてへんかったから、すぐに仲良くなって……、休
み時間2人で遊んだり、一緒に帰ったり」
――加護は、辻にうなずきかけた。
辻も、加護にうなずき返す。
「そしたら、急にあの人が加護の家に来て……」
加護が、チラリと少女に視線を向けた。
少女は、声もあげずに笑顔だけを浮かべて圭織たちを見ていた。
「ののをイジメるように言ってきたんです……」
「……なんで? あの子、高校生でしょ? 辻、あの子のこと知って
る?」
辻は、少女をチラリと見て怯えながら首を振った。
「けど、ほんまにそうやって言ったんです」
「なんだかよく分からないけど、つまりあいぼんは自分は悪くないっ
て言いたいのね。わかったよ……、あいぼん……。飯田さん、彼女の
好きなようにさせて下さい」
少女が、哀れみにも似た声で語りかけてきた。
なんで圭織の名前知ってんだろうとか思ったけど、そう言えば学生証
に名前書いてあったんだっけ。
少女の言うように、加護が責任を転化しようとしている風にとれない
こともない。
だって、圭織はこの目で加護が辻を叩くところを見たんだから。
簡単に信じろっていう方が、どうかしている――、加護にそう告げよ
うとしたら圭織の後ろから声が聞こえてきた。
「あいぼんは、ウソなんかつかないもん……」
「辻……」
「いいらさん、あいぼんは辻のお友達なんれすよ。辻が学校で苛めら
れて体育館に逃げたら、いっつも迎えに来てくれるんれすよ。あいぼ
ん、学校では辻のこと叩いたりしないんれすよ」
その言葉を聞いて、圭織の中で1つの疑問が消えた。
大学の図書室で浮かんだ疑問――なんで加護は、辻の居場所を知って
いたのか……。
加護は辛い目にあった辻が、家以外に逃げ込む場所を知っていたんだ。
ただ苛めるだけじゃ、そんな事を知る必要なんてない。
それに、辻がここまで庇うんだ――。
加護を信じる糸が、1つ結ばれたような気がした。
「加護……、あんたなんで圭織の携帯番号知ってたの?」
「あの人が、教えくれたんです。番号を変えさせるまで、イタズラ電
話しろって」
「……辻の新しい住所は」
「それも」
と、加護は少女を指さした。少女は、もう笑っていなかった。ただ、
虚ろな目でこちらを眺めていた。
結ばれた糸は、新しい答えを見つけたみたい。
「ぶつかったのは、偶然じゃないみたいね……」
少女は、口もとだけを歪ませながら「ええ」とつぶやいた。
「……何がしたかったの、いったい」
「保田さんや、安部さんのことを調べてるうちに、計画がちょっと
狂っちゃった」
「圭ちゃんやなっち……?」
「あの人、相手のこと全部調べてから脅迫してくるんや」
加護が少女を指さしながら、泣き叫んだ。
「言うこと聞けへんかったら、弟のこと事故に見せかけて殺すって」
加護の叫びを聞きながら、少女はニコニコと笑った。
「ウチのことかて、ナイフで……」
圭織は、思わず目をそらした。
後ろに隠れていた辻も、同じようにしている。
上着を捲り上げた加護のお腹は……無数の切り傷があった。どれも、
縫合が必要なほど深い傷ではなく、浅い傷ばかりが数十もしかしたら
100近くあるのかもしれない。
「せやから、うち……、怖かったから」
加護はその場に、泣き崩れた。泣きながら、「ごめんな、のの」と何
度も謝っていた――。
「アンタ……、これって犯罪だよ……。こんなことするなんて……。
異常だよ……」
「私がやったなんて証拠は、どこにもないじゃないですかぁ」
少女は、警察には捕まらないって言う、絶対的な自信があるんだろう。
余裕の笑みを浮かべていた。
「辻は、アンタのこと知らないって言ってる。それなのに、なんで?
辻は誰かに恨まれるようなことは、絶対にしない」
「ええ。そうですね。私も希美さんに何かされた覚えはありません」
「じゃあ、なんでこんな事すんのよ!」
少女はただ、ニコニコと佇んでいる。
泣きじゃくっている加護。オロオロと加護の側に寄り添っている辻。
通行人は、圭織たちを遠巻き避けて歩いていた。
少女の目的が、見えない。
でも、このまま少女を逃がすわけにはいかない。
また必ず、辻や加護を狙ってくるに違いない。2人だけじゃない。
圭ちゃんやなっちにまで、危害を加える恐れがある。
だけど、どうすればいいのかわからない。
少女は、直接的に辻に何かをしたわけでもないし、加護に対しても
きっと証拠なんかは残していないのだろう。
警察に通報しても、あまり意味がないように思えた。
もう、何もかもが終わったって思ってたのに……。
最後の最後に、いや最初から辻の背後にこの少女はいたんだ……。
怖い。正直、そう思った。
「あいぼん、私を騙した代償は大きいからね」
少女は、クスッと笑って立ち去ろうとした。
加護はその言葉を聞いて、ブルブルと身を震わせた。
「まだ話は終わってない!」
圭織の言葉に、少女は面倒くさそうに振りかえる。
「なんですか? もう、いいじゃないですか。話し合いなんて、ム
ダですよ〜」
呼び止めたものの、圭織にはその後の言葉は浮かんでこなかった。
少女の目的が見えないことには、この問題の解決口がわからない。
でも、もし仮に見つかったとしても、はたしてこの少女に圭織の説
得は通用するのかどうか……。
「辻、何をされてもいいれすよ」
辻の声に、少女がピクリと反応した。
対峙している圭織の視界に、辻が入ってきた。少女に向かって歩い
ていこうとしているみたいだったので、圭織はあわててその腕を掴
んで止めた。
「辻、何言ってんの!」
「辻はれすね、イジメられるのに慣れてるんれす」
そう言って、辻はテヘテヘと笑った。
「ダメ! そんなの、圭織が絶対にさせないんだから!」
圭織は、辻をどこにも行かせないようにその身体を強く抱きしめた。
「らって、あいぼんが泣くの嫌らもん」
「だったら、加護も一緒に守ってあげる。圭織だって、辻が泣いて
るの嫌だもの」
辻を抱きしめながら、圭織は不意に閃いた。
――少女の目的が解けそうになった。
少女は、辻を孤立状態にしようとしてる。
辻から仲の良かった加護を引き離し、圭織も引き離そうとした。
孤立状態になった辻が、最後に頼るべき相手……。
それは、きっとお母さんだろう。
ひょっとして、少女の目的は辻とお母さんさえも引き離そうとして
るんじゃないかって不意に閃いたの。
辻だけが目的なのではなく、ひょっとしたら辻のお母さんも標的に
入ってるんじゃないかって。ううん。少女はさっき、辻には何かさ
れた覚えがないって言った。
「どうしたんですか? くだらないお芝居は、もう終わったんです
か?」
って、辻を抱いたままずっと少女のことを見据えている圭織に、少
女は皮肉っぽく言った。
でも、そうしたらまた新しい疑問が浮かんだ。
なんで、辻のお母さんがあの少女に関係あるんだって――。
その疑問は、少女にぶつけることにした。もしも、圭織の推測が正
しければ、なんらかのリアクションがあるはず。余裕であればある
ほど、不意にその核心を突かれれば動揺するはず。
圭織は、少女の表情を見逃さないようにした。
「あなたの目的は、辻のお母さんね」
圭織は、その一瞬の表情を見逃さなかった。
クスクスと笑っていた少女が、ほんの一瞬だけその笑いを止めた。
「は? 何、言ってるんですか? 飯田さん」
クスクスと笑っていたが、圭織にはその笑いがさっきほど余裕のあ
る笑いには見えなかった。
「圭織は、先月から辻の家庭教師になった。でも、アンタはそのずっ
と前から加護を使って辻をイジメてた。そこがポイントなんだよ」
「どういうことですか?」
「アンタの目的は、辻を孤立状態にして、それを辻のお母さんに気
づかせることだった」
「言ってる意味が、わからないですよ〜」
「でも、辻はイジメに耐えた。辻には辻の事情があって、お母さん
には言えなかったの。あんたは、それを知らなかった。まず、第1
の誤算ね」
「……」
「第2の誤算は、ただの家庭教師が辻とこんなに仲良くなるなんて
考えてなかったこと。たぶん、アンタはずっと辻の家を監視してた。
今までみたいにすぐに辞めていくと思ってた。そうでしょ?」
「……言っている意味が分かりません」
少女から、いつの間にか笑顔が消えた。
「あんたの計画になかった圭織が、辻のイジメに気づいた。だから、
アンタは焦って圭織の情報を集めようと姿を現したんだね」
「……」
「圭織が気づいて、辻のお母さんに相談でもしたら、この計画はす
べて白紙になる。だって、辻にもお母さんにも、私という相談者が
できるんだもん。だから、なんとかして辻と引き離したかった」
「……」
「そうでしょ?」
「……全部、飯田さんの推測ですよ」
少女は、無理に笑顔を浮かべた。そして、圭織へと向けていた視線
をゆっくりと辻に向けた。
「正解は、あなたを自殺に追い込んで、母親に罪の意識を感じさせ
ることだったりして」
虚ろな目で見つめられた辻は、身体を硬直させた。
まるで、少女から見えない糸が伸びているようだった。その戦慄の
計画は圭織の動きも止めた。
カチカチカチと何かが、圭織の耳に届いてきた。
いつの間にか泣き止んでいた加護が、スッと立ちあがった。
「あいぼん」
辻が、少女へと歩いていく加護の背に向かって名前を呼んだ。
「ウチ、もう嫌やねん……」
歩きながら、ポツリとつぶやいたようだった。
辻が、とつぜん加護に向かって走っていったから、そっちに気をと
られてた。
加護が持っていたカッターナイフで、少女に切りつけようとした。
少女は、それに気づいて身をかわしたんだ。
でも、加護はあきらめなくって何かを叫びながら、少女に向かって
いった。
通行人たちから、悲鳴が上がって――。
大勢の人が、逃げ惑った。圭織は、パニックになった通行人たちの
中から辻の姿を必死に探した。
でも、どこにもいなくって――。
押し寄せる人ごみをかき分けて、加護たちの元へやっと向かった。
腰を抜かした少女がいて、その前に加護を取り押さえている辻がい
た。
「のの、離してっ」
「嫌」
「こいつ殺さな、ずっと苛められんねんッ。弟も殺されるッ。離し
て!」
「嫌らー!」
加護はカッターナイフを振りまわしながら、叫んでいた。
「加護ッ」
圭織は、加護に走り寄りその手からカッターナイフを奪い取った。
「何やってんだよ! こんなもん、振りまわして!」
初めて、人の頬を平手で殴った。殴られた加護は、涙の滲む目で
キッと圭織を見上げた。
「殺さな、あかんねん! 殺さな、こっちが殺される!」
「バカなこと、言わないの! そんなこと、私がさせないって言っ
たでしょう!」
「飯田さんは、知らんからそんなこと言えんねん! こいつ……」
少女がスッと立ちあがり、スカートの汚れを払った。
人だかりの中から、電話で警察に通報している声が聞こえた。
「殺人未遂の現行犯ってことでいいかな?」
「だったら、アンタも詳しく調べられるわよ」
「……」
「加護。大丈夫だかんね。圭織がちゃんと証人になってあげる」
警察に通報されて絶望的になったのか、加護はその場にヘナヘナ
と崩れ落ちた。
「なんでもあんたの計画通りになると思ったら、大間違いなんだ
から。恐怖で人を支配しても――辻……」
辻が、圭織の袖を引っぱった。
「なに?」
「辻、思い出したんれす」
「思い出したって……、何を?」
辻は、黙ってうつむき加減で少女を指さした。
「お父さんと、一緒にいたのを見たんれす……」
「お父さんって……、あの家の?」
辻は、こくりとうなずいた。最後の糸が結ばれたような気がした。
ううん。きっと、結ばれたんだろうね。これで、少女の目的がハッ
キリした。なんで、辻とお母さんを狙っていたのか――。
「娘……。あの家の娘だったんだ……」
辻のお母さんは、再婚の時、揉めたって言っていた。それと、関係
があるんだろう。
「あなたの母親が、すべてを壊したのよ」
少女は、辻を見つめながら笑顔を浮かべて優しい口調で語りかけた。
「たしかに、私のお母様には何もなかった。でも、一生懸命、お父
様に尽くしてきたの。なんの後ろ盾もないお父様を、支えてきたの
に……。あなたの母親が現われたら、簡単に捨てられたちゃった」
「ちょっと、待って」
圭織は、少女の言葉を遮った。でも、少女は言葉を止めようとはし
なかった。感情も抑揚もない、平らな口調。身震いがするほど、不
気味だった。
「お母様は、毎日のように泣いてた。お母様にとって、お父様はす
べてだったのよ。あなたの母親がお父様を誘惑しなければ、お母様
は捨てられなかったし自殺する事もなかった」
加護の側に寄り添っていた辻が、その言葉を聞いて目を伏せた。
「違う。辻のお母さんは、そんなこと」
「そんな事ありますよ。けっきょく、娘のためと言っても、財産が
目的じゃないですか」
少女にはすべて、筒抜けになっているようだった。
きっと、辻の家には盗聴器が仕掛けられているんだろう。
「あの日――、加護に、辻を呼び戻すように指示したのも……」
「そうですよ。ついでに、お父様も呼んであげました。障害のお話
をするのは、飯田さんたちがアパートで話してるのを聞いて知って
ましたから」
「あんた……、狂ってる……」
「そんなことありませんよ〜」
って、少女は口元に手をあてて笑った。
「辻は……」
辻の声に、少女がピクリと反応した。口元に手をあててはいたが、
目は冷静に辻を捉えていた。
「いいらさん、辻はやっぱりイジメられてもいいんれす」
辻は、優しい微笑を浮かべていた。
「やっぱり、ちょっと弱いみたい。何にもわかってないわね」
少女は、皮肉いっぱいの笑みを浮かべた。
サイレンの音が聞こえ、パトカーが近づいて来るのがわかった。
少女が、虚ろな微笑を浮かべて音のする方向を眺めた。
「もう、終わりや……」
誰に向かっていった言葉なのか、加護の寂しそうな声が圭織の耳に
届いた。
「――。――――。」
近づいてくるパトカーのサイレンの音が大きすぎて、少女が何を喋っ
たのかまったく聞こえなかった。
でも、少女は何かをつぶやいた。
虚ろな笑みは、消えて、一瞬だけ悲しそうに微笑んだ。
でも、すぐ次の瞬間にはゾクッとするほど表情を無くした。
何を喋ったんだろうって、圭織は考えてて……。
まるで、何もかもがスローモーションみたいだった。
少女が無表情のまんま、辻に向かって走りだしたんだ。
加護が「ののっ!」て、叫んだ。
辻は、きょとんとした顔のまんまで加護の方を向いて――。
そこから、圭織はあまり覚えてない。
少女に突き飛ばされた辻が、車道へと出てしまったのまでは覚えて
る。ほんの一瞬、圭織は辻と目があった。そして、辻は少女に何か
つぶやいた。でも、次の瞬間に――。
ドンッていう鈍い衝撃音と、車の急ブレーキの音が辺りに鳴り響いた。
【もう怖いものなんてないんだよ。辻がいつでも戻って来れるよう
に、ちゃんと頑張ったから。いつでも戻ってきていいんだよ】
■最終話 「さよなら、おちびさん」
手術中のランプが消えるまで、圭織はずっと震えていた。
警察から知らせを受けて駆けつけてきた辻のお母さんは、意外に
冷静だった。
圭織が、あまりにも取り乱していたせいかも知れない。だから、
逆に落ちつかなければいけないって思ったんだろうね――。
手術が終わるまでの間、ずっと「大丈夫。希美は助かります」っ
て何度も圭織を励ましてくれた。
赤いランプが消え、手術室のドアが開いた。
中から執刀医の先生が出てきて、辻のお母さんはすぐに先生の元
へ駆けつけた。
でも、圭織は足がすくんじゃって椅子から立つこともできない。
辻のお母さんは、圭織にうなずきかけると、先生と一緒にどこか
へと行ってしまった。
しばらくして、透明なビニールの覆いがされたストレッチゃーが
手術室から出てきた。でも、あっという間にどこかへと行ってし
まった。
辻が、そこにいたのかどうかわからない。
周りに手術着を着た人がいっぱいいたから、わかんなかった。
でも、きっと辻がそこにいたんだろう。
だって、その手術室で手術を受けてたのは辻しかいないんだもん。
――追いかけて確認したかったけど、圭織の足は相変わらず力が
入らなかった。
翌日になって、ニュースで辻の事故を知った圭ちゃんとなっちが、
病院に駆けつけてきた。
手術後、辻は感染症を防ぐために無菌状態のICUへと入って
いた。ICUの対面室にやってくるなり 、なっちはガラスの向こう
の辻を見て、子供のようにわぁわぁと泣きじゃくった。
圭ちゃんは、「なんで、こんなことに……」って悔しそうにつぶや
いた。
辻は、走ってきた車に轢ねられた。
しかし、運が良かったのかどうか分からないけど夕方のラッシュ
時であったため、車はそれほどスピードを出していなかった。
外傷は、想像するよりも軽傷ですんだ。
でも、頭部に強い衝撃を受け、脳の神経の一部に傷がついてしまっ
た。それが原因で、辻はもう一生眠ったままになるらしい。
植物症。いわゆる、植物状態というやつだ……。
医学知識のない圭織にだって、それがどういう事なのかぐらいわ
かっている。
もう、辻の笑顔は見れないんだ……。
「いいらさん」って、声をかけてくれる事もない……。
圭織は、わぁわぁ泣いているなっちを少し離れて眺めていた。
圭ちゃんの顔を見たら辻は怖がるなぁとか、なっちの泣いてる姿
を見たら辻はきっと頭を撫で撫でするんだろうなぁとか、ぼんやり
と考えていた。
「圭織」
いつから呼ばれてたんだろう、気が付けば圭ちゃんが圭織の隣
に立っていた。なっちも、涙を拭きながら心配そうにこちらを眺め
ている。
「ちょっと、眠りな」
「なんで……?」
「いいから」
圭織、その時チラリとガラスに映る自分を見たんだ。何でか知ら
ないけど少し笑っているようだった。
楽しいことは何もないはずなのに、なんで笑ってるんだろう……。
圭織は、「眠らなくても大丈夫」って言ったんだけど、圭ちゃん
は先生を呼んできてなにやら相談事を始めた。
その間、圭織はずーっと辻を見つめていた。
んでもって、誓っていた。辻の敵は、必ず圭織がとってやるっ
て――。だって、辻をこんな目に合わせたあの少女は、まだ警
察に捕まってないんだもん。
いつの間にか、圭織は眠らされていた。
そういえば、医者に何か注射されたような気もする。
――目が覚めると、病室のベッドの上だった。いつの間にか窓の
外は真っ暗になっている。窓がほんの少しだけ開いてて、カーテ
ンが風に煽られてヒラヒラと揺れていた。
身体が重い……。
でも、辻の病室に行かなきゃ……。
辻、独りぼっちで寂しがってるかもしんないから……。
ベッドから起きあがろうとしたんだけど、思うように身体に力が
入らない。また、瞼を閉じそうになってしまう……。
嫌、眠りたくない。辻の所に――。
どのくらい、睡魔と格闘してたんだろう。ドアの向こうに人の気
配を感じて、半分閉じかけた目だったけどそっちに向けたんだ。
黒いシルエットのようなものが、ドアの向こうの擦りガラスに映っ
てて――目を細めて見るとそのシルエットはなんか辻によく似て
いた。
頭のてっぺんで髪の毛を2つ結びしてて、背丈も辻とほぼ同じだっ
た。でも、辻がそこにいるはずはない。
だって、辻はICUにいるもの……。
ひょっとして、意識が戻ったのかもしれない。
圭織は、ベッドから起きあがろうとした。でも、身体が思うように
動かない。そればかりか、だんだんと眠くなってきた。
そこに辻がいるのに、眠りたくない眠りたくないって心の中で叫
んでたんだけど睡魔は無情にも圭織の意識を再び閉ざした。
次に目覚めた時、窓からはまばゆい光がさし込んでいた。
カーテンは相変わらずヒラヒラと揺れていて、夜の出来事は夢で
はなかったかのように思えた。
不意に、不安に駆られた。
ひょっとして、虫の知らせってやつで辻の身に何かあったんじゃ
ないかって。
急いでベッドから飛び起きた。
なんだか、身体が異様に軽い。昨日、密かに感じていた気だるさ
もなくなっていた。
睡眠によって身体の機能が回復されたんだろうか、それとも眠っ
ている間に点滴でも打たれていたんだろうか?
どっちにしろ、身体も頭も妙にスッキリとしていた。
――が、今はそんなことに感心している場合ではなく、辻の容体
が急変していないことだけを祈りつつ、ICUへと急いだ。
1つ目の扉を開けると、対面室にいる圭ちゃんとなっちの後ろ姿
が見えた。2人は、病室の方を見ながら何かを喋っていた。
何を話しているのか聞こえなかったけど、2人の様子からして、
辻の容体が急変したわけではないのを察した。
やっぱり、あの辻の姿は夢だったのか……。
3つ目のドアを開けて対面室に入った圭織を見て、圭ちゃんが
「やっと、圭織らしくなったよ」って言った。
圭織らしいっていう意味が良くわかんなかったけど、怒ったよう
な顔でもしてたのかな?
なっちも、「そうだよー」って笑ってたから、これで辻の容体が
急変した事は絶対にないと確信した。
ガラス越しに中を覗いて見ると、辻は昨日と同じだった。
喜んでいいのか……とても複雑だったけど、生きていたのでホッ
とした。
「圭ちゃんとなっち、昨日からずっとここに?」
「ん? そうだよ。なっちは、ちょっと寝てたんだけど圭ちゃんは
ずっと起きてたよ」
「アタシが先生に頼んで眠らせてもらったんだからさ、ちゃんと
見ててあげようと思って」
「そっか……。ありがと。で、辻のお母さんは?」
「……警察から連絡があって、ついさっき警察署に」
「圭織にも事情を聞きたかったみたいだけど、寝てたから後日っ
て事にしてもらった」
「警察……。捕まったの?」
圭織の問いに、圭ちゃんもなっちも首を振った。
あの少女は、まだ逃亡を続けているらしい。自首をするつもりな
ら、しててもいいはず。あれから3日経ってるんだもん。でも、
逃げ続けている。圭織には、それが許せなかった。
「バカな考えは、やめなよ」
って、圭織の表情で察したのか圭ちゃんがそう声をかけてきた。
なっちは、きょとんとして圭織と圭ちゃんを見ていた。
『復讐なんてしても、辻ちゃんの意識が戻るわけじゃないんだよ』
病院で圭ちゃんにそう注意された。圭織もそんな事しないって答
えたけど、このまま少女が捕まるのをジッと待っている事はでき
なかった。
圭織の大切な辻を、あんな風にした少女を許す事なんてできない。
圭ちゃんとなっちに着替えをしにアパートに戻るって伝えて、その
まま少女の行方を探しに向かった。
――少女の行方なんて警察にもわからないのに、圭織にわかるわ
けはない。名前も知らないぐらいなんだから。
でも、その手がかりがまったくないわけでもなかった。
――圭織は、久しぶりに「辻家」の前に立った。
いや、正確にはもう「辻家」ではない。辻の実家に気に入られようと、
あの父親は「辻家」に婿養子として入ってたらしいんだけど、離婚し
てしまったので苗字は変わっているはず。
新しい表札がなかったので、何ていう苗字か知らない。
し、別に知りたくもなかった。
とりあえず、あの父親から娘のことを聞き出さなければならない。
そればっかりを考えていた。
インターフォンを押すと、パジャマ姿のあの男が面倒くさそうに玄関
のドアを開けた。
「……なんだ、君か。……今頃、なんの用だね」
あからさまに嫌な顔をして、そう呟いた。
圭織は、すべての事情を男に聞かせた。あなたが離婚の際に前の
奥さんを邪険に扱い、そのせいで前の奥さんは自殺してしまった。
娘は辻母娘を逆恨みして、辻を植物状態にしてしまった。
――すべてを話して聞かせた。
どうせ、特に気にもせず圭織を追い出そうとするんだろうなぁって
考えてたんだけど、意外にもあの男は沈んだ顔をして見せた。
「本当の話なのかね……。梨華がそんな事をするはずは……」
娘の名前は、梨華。辻をあんな風にしたのは、梨華。
圭織はずっと、その名前を復唱していた。
「自殺をしたのは知っていた。だから、それ以来、梨華とは頻繁に
会うようにしていたが……そんな素振りは……」
辻が、父親と少女が一緒にいるところを目撃したのは間違いなかっ
た。
「生活費も払い、何不自由のない生活を送らせていたんだ。そん
なことは、ありえない。何かの間違いだ」
「間違いなんかじゃありません。辻はあなたの娘のせいで、2度
と意識が戻らないんです」
「……」
「血を別けた自分の子供を庇いたい気持ちもわかります。でも、
それだったらどうしてもっと真剣に、娘さんの寂しい気持ちを汲
みとってあげなかったんですか。お金さえあれば、いいだろうな
んて。あなたがそんなだから、こんな事になってしまったんです
よ」
「……」
「彼女が行きそうな場所、すべて教えて下さい。これ以上、彼女
に罪を負わせるつもりですか?」
――圭織、その時、自分でもおかしいなと思った。圭織は、辻の
敵をとるために梨華っていう子を探したいんであって、別に彼女
を救いたいわけではなかったのに、なんでそんな言い方をしたの
か自分でも不思議だった。
父親に教えられた場所は、彼女の住んでいるマンションと、通って
いる学校と、生活費を渡す際に使っていた駅前の喫茶店だった。
あらためて、父親の無神経・無関心さを実感した。
こんな場所にいるぐらいなら、もうとっくに警察に捕まっているはず
だ。でも、父親にはこれぐらいの場所しか思いつかないらしい。
何も手がかりがないよりはマシかと、彼女の住んでいるアパー
トへと向かおうとした。
とりあえず、駅へと向かって歩いていた。
歩きながら、この道を辻と何度も歩いたことを思いだした。
マロンを抱いて帰ってたのもこの道だし、一緒にプールに遊びに
行く時も腕を組んで歩いたし、加護に叩かれて目に涙をいっぱい
溜めて歩いたのも、映画館の帰り道も――。
辻と一緒に歩いた思い出が、頭の中にいっぱい溢れてきて、そ
れと同時に涙も溢れそうになった。
もう、一緒に歩くことができない……。
新しい思い出を作ることもできない……。
それが、とても悲しかった。
そして、そうさせた梨華という子をとても憎んだ。
駅の構内で、彼女の住むアパート近くの切符を買おうとしたら、
圭織の携帯がブルった。
――電話は、圭ちゃんからだった。
「はい、もしもし」
自分でも、感情のない声だと思った。圭ちゃんはやっぱり、その
声を聞いて不審に思ったみたいで、
「圭織、あんたアパートにいるんでしょ?」
って、声をかけてきた。
「ううん。今、駅」
圭織、ウソはついてない。自分の最寄駅じゃないけど、駅にいる
事には間違いないんだもん。
回りの雑音を聞いウソじゃないって判断したのか、圭ちゃんは
ちょっと安心したようだった。
「そっか。今から、病院行くんだね」
「……」
「あのさ、だったらちょっと辻ちゃんのお母さんの様子、見て来て
くれない?」
ほんの少し、圭織の中に感情らしいものが戻ってきた。
「お母さん?」
「うん。なんかさ、警察から戻ってきてちょっと様子が変だったから
さ。本人は、疲れてるだけって言ってたんだけど……」
圭織は、切符を買おうとボタンに伸ばしていた指を止めた。
なんだか、とても嫌な予感がした。
予感――じゃない。圭織は、大事なことを忘れててそれを思い出
しただけ。
圭織は電話をきって、病院の最寄駅の切符を買った。
――辻のお母さんは、何も知らなかった。
ただ、少女に突き飛ばされて辻が事故に遭ったとだけしか知らさ
れていないはず。
警察関係者も、事故当日はそこまでしか知らなかった。圭織は動
揺してて警察には何も話てないから、あの現場にいた目撃者から
証言をとるしかなかった。
でも、目撃者は彼女の犯行動機を知らない。
圭織の他に、もう1人だけ犯行動機を知っている人物がいる。
加護亜依だ――。
騒然とした事故現場だったが、加護は警察に連行されていたん
だろう。圭織は、動揺しててそれどころじゃなかったから、加護の
行方はすっかり忘れていた。
その加護が、警察ですべて話したんだ。
そして、それをお母さんは警察から聞いた。あの少女が、復讐の
ために辻を狙っていたことを――。
何をやってたんだろう……。圭織は、ホントにバカだ。
辻の敵をとることで頭がいっぱいで、大事なことは何一つとして
考えてなかった。
そんなバカな事よりも、圭織にはやらなくちゃいけない事がたく
さんあったんだ。
ごめんね、辻――。辻の大切な人を守らなくちゃいけなかったの
に、ごめんよ辻。
圭織は、電車の中でずっと泣いていた。いつかの辻のように、周
りに人がいるのもお構いなく泣いていた――。
圭織は、病院に戻った。
まっさきに、ICUに向かった。
そこに辻のお母さんは絶対にいるはずだって思ってたから、プー
ルで辻の姿を見つけたみたいに、別に驚きはしなかった。
辻のお母さんは、ガラス越しに辻を見つめてた。
息を切らせながら入ってきた圭織に気づいたんだけど、振りかえ
る事はせずに、ガラスに映った圭織に軽く頭を下げるだけ。
事件の経緯は、やっぱりもう聞いているみたいだった――。
圭織は、なんて言葉をかけていいかわからずに、ただその場に佇
んで荒い息を整えていた。
『供述書を見せてもらいました……』
辻のお母さんは、眠ったままの辻をずっと見つめながらポツリと
つぶやいた。
「希美は……、私の代わりに犠牲になったんですね……」
ほんの少し微笑んでいるかのような、そんな声だった。
「やめてください……」
「彼女もまた、被害者なんです……。私が、あの人と知り合わな
ければ……軽率な行動をしたせいで、希美だけじゃなく他の人の
人生も狂わせてしまった。希美の障害を受け入れていれば、こん
な事にはならなかったんです」
辻のお母さんは、床に膝をついて嗚咽を漏らした。
その後ろ姿は、いつかの辻に似ていた。
障害を認知した辻が、自分を責めていたあの日の夜――。
圭織、本当はあの時、辻のことを強く抱きしめてあげたかった。
でも、その役目はお母さんだって思ったからそうはしなかった。
そのお母さんが……、辻を抱きしめることができなくなっている。
こんな時、圭織はどうすればいいんだろう。
なんて、声をかければいいんだろう。
――ね、辻。どうすればいい?
ガラスの向こうに目をやると、眠ったままの辻がいて――。
圭織はしばらく、お母さんの嗚咽を聞きながら、辻を見つめていた。
あの事故の日以来、こんなに静かな心で辻を見つめるのは今日が
初めてのような気がした。
人工呼吸器をつけて、頭部は包帯で覆われていたけど、その表情
だけ見るとただ普通に眠っているだけのような寝顔。
圭織のアパートで、お昼寝をしてた辻を思い出して、ほんの少し微
笑みそうになってしまった。
なんだか、その寝顔を見つめていると復讐だなんて考えてた自分
が本当にバカらしく思えた。
すごいね、辻は――。眠ってても、圭織にいろんな事を教えてくれ
るんだね……。
辻はなんであの時、逃げなかったんだろう。
ねぇ、教えて。
突き飛ばされるまでに、逃げるぐらいの時間はあった。
それなのに、辻は逃げなかった。
車に轢ねられる前に、ほんの少し微笑んでいた――。
あの少女になんて声をかけたの――?
辻にどんな考えがあったのか、本当のところはもうわからない。
でも、圭織はなんとなくわかった気がした。
だって、圭織は辻のそんなところが好きだったんだから……。
「辻は……」
お母さんは、顔を上げずにやっぱり泣いていた。
「辻は、救ったんですよ。お母さんや加護だけじゃなく――、辻が
この世で一番嫌いなのは、人が悲しむことです。自分がたくさん
辛いめにあってきてるから」
「それは、私の責任です」
って、辻のお母さんは嗚咽しながらつぶやいた。
「だったらもう、そんな風に自分を責めるのは止めてください。
辻は確かに眠ったままかもしれませんが、生きています。お母
さんの声を聞いています」
「……でも」
「弱くってもいいんです。自分に責任を感じてもいいんです。で
もそれを辻に、聞かせないで下さい。辻は悲しみます。自分が
やったことで、お母さんがそんなに悲しんだりしたら、辻はもう
こっちに戻ってこなくなるかもしれません」
圭織はあふれそうになる涙を、深呼吸して止めた。
「私は、こんなですから。言ってる側から、すぐに泣い……、泣
いちゃったりするから、どうも頼りなくて」
圭織は、上を向きながらハハッと力なく笑った。
「先生……」
圭織のぐずってる声を聞いて、辻のお母さんは伏せていた顔を上
げた。
「心強かったと思いますよ。あの時、お母さんに抱きしめられて。
辻のために――、強くて優しいお母さんでいてください」
圭織は涙をぬぐって、辻のお母さんに微笑みかけた。
でも、その微笑みはしばらくして凍りついてしまう。
ウィーンっていう1つ目のドアが開く音が聞こえて、圭織はなん
となくそちらに顔を向けた。
あの少女が、虚ろな目をして微かに微笑みながら対面室へと
入ってこようとしていた。
よくよく考えたら、簡単なことだ……。わざわざ、探さなくても
彼女はここへやってくるはずだった。
なぜなら、辻はまだ生きている。彼女の復讐は、まだ終わってい
ないんだから。
もう、影で人を操ることができないんだから、直接、姿を現すしか
ない――。
少女が2つ目のドアを開けた時、圭織はお母さんの前に出た。
「先生……」
お母さんが、後ろから心配そうに声をかけてきた。きっと、彼女
の姿を見るのは初めてで、誰だかわかんないんだろう。
圭織が説明しようとしたら、彼女が3つ目のドアを開けて、対面
室へと入ってきた。
「こんばんは」
少女はそう言って、辻のお母さんに軽く頭を下げた。
「こ、こんばんは……」
やはり、その少女の放つ狂気は説明しなくても肌で感じるんだ
ろうね。辻のお母さんは、一応挨拶は返したけどその声は微か
に震えていた。
「この度は、とても残念なことに――」
「残念って思うなら、自首して。警察ももう、あなたの身許は割
り出してるはずだから。もう逃げられない」
「残念なことに、生きてましたね」
そう言って微笑む少女に、圭織の背筋にゾッと冷たいものが走っ
た。正直なところ、この少女には何を言っても無駄なような気が
した。
「先生……、ひょっとして」
「――はい。この子が」
「初めまして。石川梨華です」
石川は場の雰囲気に合わないアニメ声で、辻のお母さんに自己
紹介をした。
「うーん、やっぱりもうちょっと落ちついて行動した方がよかったなぁ。
あの時、パトカーの音聞いてちょっとパニックになっちゃった」
「辻にも、お母さんにも絶対に手を出させないから」
「飯田さん、声が震えてますよ」
口元に手をあてて笑う石川。たしかに、圭織は怖かった。でも、
意外と落ちついたりもしていた。二人を守るって言ったのは本気
だったし、もしも二人を庇って死ぬのならそれでもいいとどこかで
考えてたから。
「石川さん……」
辻のお母さんが、圭織の後ろからソッと前へ出てきた。
石川が、笑みを消した。
危ない。圭織は、お母さんの腕を掴んで後ろに隠そうとしたんだ
けど、お母さんがいきなり身をかがめたものだから圭織の腕は宙
を舞ってしまった。
「大変、申し訳ない事をしました……。私のせいで、お母様やあ
なたにどんなにご迷惑をおかけしたことか」
辻のお母さんは、消毒液くさい床に額をつけて土下座した。
「お、お母さん……、謝る必要なんてありません。頭を上げてく
ださい」
「いえ、すべて私の責任なんです」
「止めてください。辻は、聞いてるんですよ」
「ええ。でも、これだけは謝らなければならないんです」
圭織は辻のお母さんを抱え起こそうとしながら、なんか同じ光景
を思い出していた。――そう。たしか、辻もこうしていた。自分を苛
めてもいいからって……。
「そんな事をしても……、私のお母様は戻らないんです……」
「だったら、こんな事に意味なんてないでしょう!」
「意味なんて求めていません。不幸になれば、それで満足なんで
す」
「不幸、不幸って、あんたにそんなこと言う資格はないよ」
石川が、圭織にその虚ろな目を向けた。石川の瞳は明らかに数日
前よりも虚ろになっていた。
「自分1人だけが不幸だなんて思わないで。何人もの人を傷つけ
たあなたには、自分を不幸だと思う資格すらない。だから、あなた
がこれからする行為は、すべて自分の欲求に従うだけ。死んだお
母さんのためだなんて、絶対に思わないで。お母さんが、いい迷
惑よ」
「飯田さんに、何がわかるんですか!」
圭織は、その時、初めて石川の感情を見たような気がした。
「私のお母様は、その2人に殺されたんですよ! 何にも知らな
いのに、勝手なこと言わないで!」
「じゃあ、わかるように話聞かせてよ! 圭織いくらでも聞いてあ
げるよ!」
意外と冷静だった圭織も、彼女が感情を爆発させたことにより、
なんか連鎖反応起こしたみたいにカッと血が昇った。
「飯田さんに、私の気持ちなんかわかるわけありません!」
「だったら聞くけど、あんただって、辻や辻のお母さんの何がわ
かるって言うの!」
「先生、もう止めてください」
辻のお母さんが、怒鳴り散らして石川へと詰め寄ろうとしてた圭
織を後ろから押さえた。
「自分が傷ついたからって、誰かを同じように傷つけるなんて、
最低の行為なんだよ! それをした時点で、そいつはもう自分を
不幸だなんて思う資格なんてない! 辻も辻のお母さんも、あん
たを責めなかった。あんたに娘をあんな風にされたのに、辻のお
母さんは自分を責めたんだよ!」
石川は、耳を塞ぎながらその場にふさぎこんで大声を張り上げた。
それでも、圭織は叫ぶのを止めなかった。
「あんたに悲しい思いをさせたから、辻は自分が犠牲になること
で、あんたの苦しみを解放したかったんだ。だからあの時……逃
げなかった。だからあの時……、ごめんねって言ったんだよ!」
そう。辻の唇は、あの時「ごめんね」って動いたんだ。
謝る必要なんて、どこにもないのに。謝る理由なんて、本当はわ
かっていなかっただろうに――。それでも辻は、石川を傷つけて
しまったから……。石川が悲しそうな顔をしたから、たったそれ
だけの理由で罰を受けようとしたんだ。
「圭織だって、綺麗ごと言えた人間じゃない。ほんの少し前まで、
あなたのことを恨んでたし殺してしまいたいほど憎んだ。でも、救
いたいって気持ちもあった。正直、その思いに戸惑った。なんで、
あなたなんか救いたいんだろうって。圭織の大切な辻をあんな風
にさせたのに、それでも救ってあげたいなんてどうかしてるって思っ
た」
石川は、耳を塞いで震えていた。
「でもね、さっき辻を見てて思ったんだ。ぜんぜん、不思議な感
情なんかじゃないって。圭織は、辻の家庭教師だったけど、圭
織は辻から多くのものを学んだ。きっと、それが無意識に生かさ
れたんだと思う。おまけに、さっき辻が何をしようとしてたか気づ
いたから、なおさら放っておけないんだよ」
騒ぎを聞きつけて、医師や看護婦が入ってきた。
――これも、どこかで見た光景だ。
逃げられないと観念した彼女が自暴自棄になって――。あの時
も、パトカーの音を聞いて――。
「もう、後戻りできない。楽になりたい」
石川が、そう呟いた。たしかにそう呟いた。
辻は……、あの時、そんな言葉を聞いたんだろうね。だから、逃
げなかったんだ……。
バッグの中から何かを取り出そうとしたのが見えた。
あん時、圭織が気づいてれば、すぐに動くことができたなら、辻
はこんな事にならなかったんだ。
看護婦の悲鳴が聞こえてきて、圭織はすぐに辻のお母さんの前に
立ちはだかった。
そこに、ナイフを握った石川が走り込んできて――。
熱かった。刺されると痛いのかなって思ってたけど、実際、刃は
とても熱かった。
「……なんで? ただの家庭教師じゃないですか? なんで、こ
こまでするんですか?」
石川は、とても驚いた顔をして圭織を見上げた。
ナイフの刃を握り締めた圭織の両手からは、血がボタボタと床に
落ちていた。
「辻のカテキョだからだよ……」
手はとても熱かったけど、圭織は石川に向かって微笑みかけた。
きっと、その顔はとても怖かったかもしんない。
『れも、いいらさんは辻の家庭教師れすよ』
『らって、今日も家で勉強教えてくたんれす』
『辻はれすね、頭が悪くて良かったんれす』
『バカらから、ずっといいらさんに勉強教えてもらえるもん』
あの日の辻の言葉が、自然と甦ってきた。
「石川も、1度、辻の家庭教師になればいい……。絶対に圭織と
同じことやってるよ。理由なんてない。ただ、辻を傷つけたくない
んだ」
圭織は、遠巻きに見つめる野次馬の後ろに、石川の父親の姿を
見つけた。辻の見舞いに来て、この状況に遭遇してまったんだろ
う。呆然として佇んでいた。
「いい? 石川。責任は自分にある。誰のせいでもない。全部、
自分が決めてやったこと。でも、楽になりたいからってその罪か
ら逃げてはダメだかんね。いい? 罪は償わなきゃいけない」
石川の手が、ナイフの柄の部分から離れた。やっと、圭織の手の
平にも激痛が感じられてきた。でも、痛そうな表情を浮かべるわ
けにはいかないし、意識が遠のいてきたけど、気を失うわけには
いかない。
まだ、大事なことを言ってないから――。
「石川は、たった1人で答えを出してしまった。間違いだって気付
いてたはず。でも、そうするしかなかったんだよね。誰かを憎むこ
とでしか、悲しみを癒す方法がなかった。――本当なら、父親の
あなたが真っ先に気づかなければいけなかったんですよ……」
圭織は、父親に視線を向けた。野次馬たちが、圭織の視線を追っ
て振りかえる。
辻のお母さんも、父親の存在に気づいたようだ。何か言いたげだっ
たが、すぐに視線を床へと落とした。
「どんなに顔で笑ってても、心の中で泣いている人がいるんです。
辻もそうでした。あなたの娘もそうだったんですよ。これで、もう知
らないフリなんてできませんよ」
石川は、顔を両手で覆って泣きだした。
圭織の足は力が抜けてしまって……、そのまんま膝をついた。
でも、ちょうど良かった。
しゃがみ込んで泣いている石川の目線と、同じぐらいになれたか
ら。
「石川……。真っ暗な迷路から抜け出せなくなったら、大声で叫
べばいい。きっと、誰かが手を差し伸べてくれるから。その手を
掴んで、自分の足で明るいところに出てくんだよ」
石川は、何も答えずにただ泣きじゃくっていた。
「お母さんも……、全部1人で背負おうとしないでください。頼りな
いかもしれないけど圭織もいるし……。お母さんにも、ご両親がい
るじゃないですか……。辻を愛してるなら、もっと娘を誇ってくださ
い。母親であることにもっと自信を持ってください」
辻も、辻のお母さんも、そして石川も、たった1人で何もかもを背負
う必要なんてどこにもなかったんだ。
圭織の言いたかった事は、そんなところだったんだけど、ちゃんと
伝わったのかな……。
石川の負担を、ほんの少しでも軽くすることって出来たのかな……?
これで良かったのかな、辻……。
圭織は、そのまんま気を失った。
――その翌日。
圭織は、また病院のベッドで目が覚めた。
傍らには、圭ちゃんとなっちと辻のお母さんがいて、しばらくしてか
ら刑事さんもやって来た。
両手が物凄くズキンズキンと痛んでたんだけど、警察の事情聴取
には落ちついて答えることができた。
ちゃんと、加護の事情も刑事さんに説明した。
警察の人もわかってくれたらしくて、とりあえず加護は罪に問われる
ような事はなくなった。
加護と直接会う事はできなかったけど、これで辻との約束は果たせ
た。
ホッとすると、またなんだか眠くなってきて3人には悪いけど、特に
会話らしい会話もすることなく眠りについた。
夢の中でもいいから、辻と話がしたかったんだ。
圭織は間違ってないよねって。
ちゃんと、辻が望む場所を作れたよねって。
それから2週間ほどが経過して――、辻は術後の感染症の心配も
なくなり一般病棟に移ることになった。
圭織は、もうとっくの昔に抜糸も済み退院していた。
辻のお母さんが、圭織の言葉を聞いて何を感じたのかは分からな
い。しかし、もう涙を見せるような事はなかった。きっと、心の中で
は自分を責めてたりしてるんだろうけど、それでもお見舞いに訪れ
る圭織や圭ちゃんやなっちの前では悲しそうな顔をすることなく、
いつも笑顔で迎えてくれた。
でも、ここ最近はあまり姿を見かけなくなった。
看護婦さんの話だと、毎日、来ているみたい。
だけど、圭織とは時間が合わないせいで、ここ何日間かぜんぜん
顔を合わせる事がなかった。
――確かに、入院費の問題とかもあるから、仕事を休んで付きっ
きりってわけにもいかない。
こんなとき、家族や親戚がしょっちゅう顔を出すんだろうけど、辻の
家は母子家庭で母1人娘1人だし、辻のお母さんは実家と何かあっ
たみたいで親戚が見舞いに来ることもない。
だから、辻はたまに独りぼっちで病室にいるときがある。
できるだけ、圭織は顔を出すようにしているけど、圭織も学校やバ
イトなんかがあって、それも難しくなってきている。
せめて、大学を休学して辻の側にいようと思ったんだけど、さすが
にそれは、以前に辻のお母さんに止められた。
ある日、たまたまバイトが休みになって、夕方から病院に行く時
間ができた。
いつもは、大学が終わりバイトまでの短い時間を辻と過ごすんだ
けど、今日はもう何の予定もないから、久しぶりに病室に泊まっ
て朝までずっと辻のことをみていようと思い、ワクワクしながら辻
の病院に向かったんだ。
病室のドアを開けると、辻のベッドの側に誰かが座っていた。
窓の向こうの夕日で、ちょっとシルエットになってて誰かわかん
なかった。最初、その小さな背中からしてなっちでも来てんのか
なぁって思ったんだけど、振りかえったその人物を見て思わず
「あっ」て声を上げた。
加護亜依が、そこにいた。
「……この前は、ありがとうございました」
加護は、ペコリと頭を下げた。
警察の事情聴取のことだろう。それよりも、圭織は加護に辻の姿
を重ね合わせて、ほんの少し胸が痛んだ。
頭を下げた拍子に揺れたツインテールが、まだ元気だった頃の辻
を思い出させた――。
「もっと早く、のののお見舞いに来たかったんですけど……」
って、加護は辻へと向き直った。
その舌っ足らずな喋り方も――。
「引越しの準備とかいろいろあって……。ごめんね、のの」
「……引越し?」
「奈良に戻るんです……。あんな事したから、学校にも行けなく
なって……」
「そっか……」
「それに、あの人が出てきたら……、また同じようなことされる
から……」
石川は、圭織が気を失った後、病院関係者によって取り押さえら
れ駆けつけた警察官に殺人未遂の現行犯で逮捕された。
現在は、医療少年院にいる。
この前、面会に行ったんだけど、会ってはもらえなかった。
ただ、職員の話によると父親が何度か面会に訪れている事を知っ
た。面会は断れ続けてるらしいんだけど、それでも毎日のように
通っているらしい。
何も根拠はないけど、なんかもう大丈夫なような気がした。
暗闇の中に差し伸べてくれる手はあるから――。
それを加護に説明したんだけど、やっぱりまだ怯えているみたい
だった。こればっかりは、時間が解決するしかないのかもしれな
いのかも……。
「加護……」
「……?」
「遠く離れても、辻の友達でいてくれる?」
加護は視線を落とした――。きっと、加護も自分を責めてんだろ
うね。辻もよくそんな顔をしていた……。
だから、圭織は言ってやったの。
「辻はね、ちゃんとわかってたんだよ。加護が、好きで辻のこと
を苛めてるんじゃないって」
加護は、目に涙をいっぱい溜めて辻の顔をジッと見つめていた。
「辻はね、人のそう言うところは誰よりもちゃんとわかんだよ」
「……」
「だから、辻は加護のことを責めたりしない」
「のの……」
加護は、眠っている辻の手を握りしめて小さな声でつぶやいた。
「たまにでいいんだ。手紙とか貰うと、辻、すっごい喜ぶと思う」
「手紙……?」
「うん。ちゃんと圭織が聞かせるから。病院の先生は、声も聞こ
えないって言ってたけど、圭織そんな事ないと思うの。ちゃんと
辻には聞こえてるはずなの」
「……」
「だから、辻に手紙書いてあげて。学校の事とか、いろいろ聞か
せてあげてよ。辻、絶対に喜ぶから」
「はい……。のの、手紙いっぱい書くね。手紙いっぱい書くから、
ちゃんと聞いてな。いつか返事ちょうだいな。それまで、ずっと
書くから。ちゃんと聞いててな。のの」
加護は、泣いていたが涙を必死に堪えて、微笑みながら辻に語り
かけた。
「――よかったね、辻」
覗きこんだ辻の顔は、とても穏やかなように見えた。
辻のお母さんと、病院で会うことがなかったのには理由があった
みたい。
その日、数週間ぶりに辻のお母さんと病室で一緒になった。
てっきり、今日もいないんだろうなぁってドアを開けたら、ちょうど
花瓶の水を替えようとした辻のお母さんとバッチリ目が合っちゃっ
て――。顔から火が出そうなほど、恥ずかしかった。
だって、圭織は辻に会うから思いっきり顔がニヤけてて――。
久しぶりに、お母さんに交信姿を見られてしまった。
でも、辻のお母さんは少しも変な顔をすることなく、いつもの笑
顔で部屋へと迎え入れてくれた。
「良かった。実は、先生にお話があって」
辻のお母さんはそう言いながら、走ってきてほんの少し汗ばんで
る圭織のために、冷たいジュースを用意してくれた。
そして、ベッドの辻を間にはさんで、お母さんは圭織の向かいに
座った。
「あの……、話って……?」
「いつか、先生にお話したかと思いますけど、私の実家のことで」
「あ……、はい」
「お恥ずかしい限りですが、私、15年前に家族から絶縁されて
るんです」
「……」
「希美を1人で生んで育てるって言ったら、両親から猛反対にあ
いまして」
辻のお母さんは、微笑みながら辻の頭を撫でていた。
「でも、私はどうしても希美を生みたくて――。それで、新潟の
実家を飛び出し――、それ以来、ずっと会わなかったんです」
「あ、あの、失礼かもしれませんけど……。希美ちゃんのお父さ
んって……」
「希美の父親は、私の家庭教師をしてた人なんです。先生と同
じ教育学部の学生で、希美と先生を見てるとなんだかあの頃に
戻ったみたいでした。希美の父親も、背の高い人でしたから」
って、辻のお母さんは少女のようにクスクスと笑った。
「あの、それがどうして、1人で生むことになったんですか?」
「2人で駆け落ちする約束をしてたんです。でも、その前の日に、
彼はやっぱり父親の承諾をもらおうと思ったんでしょうね、私の
実家に向かう途中で交通事故に遭ってしまって――」
「……すみません。変なこと聞いて……」
「いいんですよ。もう、昔のことですから」
辻のお母さんは、うつむく圭織に微笑みかけてくれた。
「そう……。もう、昔の事なんです。父を憎んだ事も、もう昔の
事なんだって、希美を見てたらそう思えたんです」
「……」
しばらく、部屋の中には人工呼吸器の音だけが響いていた。
お母さんも圭織も、ただ静かに眠ったままの辻を見つめていた。
「両親に知ってもらいたいって、思ったんです。希美の父親のこ
と、希美のこと。そうしないと私の最愛の2人が、私の家族に知
られることなく遠くにいってしまいそうで」
「お母さん……」
「すみません……、でも、そう思ったのはただのきっかけで、今
はただ単純に希美に会ってほしいって思ってるだけです。先生の
仰ったように、私の1番の宝物ですから」
って、辻のお母さんは微笑んだ。
「でも、なかなか15年の溝は埋まらなくて――。毎日のように
通ってるんですけど、今だに父には取り合ってもらえなくて。そ
れで……」
それまで、微かな微笑を浮かべていたお母さんだったが、なぜか
ほんの少し顔をうつむかせた。
その言葉の後を聞きたいような、聞きたくないような、とても複
雑な心境だった。
「先生にはここまでしてもらって、大変申し上げにくいんです
が……」
と、辻のお母さんは口篭もった。
なんとなくだけど、辻のお母さんの言いたいことはわかった。
「転院……ですか?」
「……できれば、そうしたいと考えてます」
「ここじゃ、ダメなんですか? どうしても、新潟じゃなきゃダ
メなんですか?」
「母が……、母が、希美に会いたいって言ってくれたんです。で
も、母は足が不自由になっててとてもじゃないんですけど、ここ
まで来れないんです……」
辻が、遠くに行ってしまう……。
目の前で眠ったままの辻だけど、もう2度と目覚めることのない
辻かもしれないけど、圭織にとってはそれでも辻で……。
ずっと、側にいたかったし側にいてほしかった。
でも……。
辻はお母さんの側にいるのが一番で、辻のお母さんもやっぱり家
族のいる故郷が一番安心できるから――辻と離れ離れになるのは
とても寂しいけど仕方のないことだった……。
圭織に、辻をここにいさせて下さいなんて言える訳がなかった。
転院には、様々な条件が必要でそのための検査や転院先の病
院の審査などがあり、転院までには3ヶ月近くかかった。
季節は、もう冬になっていた。
「――((冬休みになったら、遊びに行ってもいいかな? いいと
も))((飯田さん、いいともの部分はタモリさんの物真似で))なん
だよ、これ〜。圭織、物真似なんてできないよ。――い、いいと
も。((じゃあ、またね))」
圭織は、送られてきたばかりの加護からの手紙を読み終えた。
あれから加護は、毎週1通の手紙を病室の辻に送りつづけている。
加護からの手紙も、もう15通目を超えていた。
「だってさ、どうする辻? 今日が転院の日なのに」
圭織は、加護の手紙をキティーちゃんの封筒に戻しながら、辻に
語りかけた。
「ハハ。大丈夫。ちゃんと、加護には新しい病院と新潟の住所教
えてるから。早く、冬休みが来るといいね」
返事はないんだけど、辻の喜んでいる顔が圭織の頭には浮かん
でいる。
この3ヶ月間、圭織は時間があると病室にやって来て、こうして
辻と2人っきりで話をしている。
でも、それももう今日で終わり。
後、何十分かして、病院の先生や看護婦さんに挨拶に行ってるお
母さんが戻ってくれば、辻は新潟に転院してしまう。
圭織の意味不明なつまんないお喋りはやめて、別れるギリギリま
で辻の寝顔を見つめていようと思った。
辻の眠っているベッドの縁に、グダ〜って突っ伏してさ、ただただ
辻の寝顔を見つめてたの。
そしたら、いろんな事を思い出しちゃって。
ついつい、眠っている辻の頭を撫でながら語りかけてしまった。
――初めて出会ったあの日、今はもうすごく懐かしい。
「辻。あの時、辻は「はい」って言ったんだろうけど、圭織には
「へい」って聞こえたんだよ」
――マロンの名前を読んで、何度も頬ずりしてたっけ。
「マロンも大きくなったよ。早く、撫で撫でしてあげたいね」
――ブカブカのジャージ。悔し泣きしてたね。そのあと、ヤキソ
バ食べてお昼寝したね。
「色褪せたジャージを見るたびに、あの頃の辻を思い出すん
だよ。そして、圭織はまたいつものようにあの頃に戻るんだ」
――プールで辻と一緒になって子供のように遊んだり、その後い
ろいろあったっけ。
「辻。また、でっかいプールに行きたいね。来年も再来年も、ずっ
とずっと待ってるよ」
――――――
――――――
――――――
――――――
――――――
――――――
――――――
「もう怖いものなんてないんだよ。辻がいつでも戻って来れるよ
うに、ちゃんと頑張ったから。いつでも戻ってきていいんだよ」
……どんなに話しかけても、答えてくれないのはわかってる。
それでも、いいんだ。
辻は、圭織の話をちゃんと聞いててくれるから……。
遠く離れてしまうけど、一生会えないわけじゃない。
そう、言い聞かせて涙を堪えてたんだけど……。
やっぱり、辻と離れちゃうのは寂しい……。
まだ、ほんの少しの思い出なんだ。
もっと、もっとこれからの辻を見ていたかった。
圭織は、辻の両手を包み込んだまま声も出さずに泣いた。
寂しいよ……。
寂しいよ、辻……。
圭織、辻のために頑張ったんだよ。別に感謝なんかしてもらわな
くていい――。ただ、辻の笑顔が見たいの。だから、辻、お願い
だから目を覚ましてよ。いいらさんって呼んでよ。一緒に勉強しよ
うよ。辻……。辻……。
心の中で泣き叫んだけど、それは声には出さなかった。
だって、辻はもう新潟に行っちゃうんだもん。
困らせたくないから、声に出す事はできなかった。
辻は優しい子だから圭織が泣いてばかりいると、どっちに行って
いいのか迷ってしまう。
グスって思いっきり鼻をすすって、圭織は「よしっ」て自分に気合い
を入れた。
やっぱ圭織は家庭教師だし、前に辻に強くなれって言ったし、泣
いてばかりもいられない。
ちゃんと笑顔で見送ってやるんだ。
そんでもって、いつか辻が目覚めた時、とびっきりの笑顔で辻の
ことを迎えてあげるんだ。
お母さんが病室に戻ってくる足音が、聞こえてきた。
もう、そろそろお別れの時間。
圭織は、最後に辻の耳元にソッと呟いた。
「いつでも帰ってくるんだよ。その場所に、圭織は絶対にいるか
ら。約束」
そして、眠ったままの辻の頬に軽くキスをした。辻のほっぺは、
赤ちゃんみたいにプヨプヨしていた。
なんか、笑ってしまった。
さよなら……、は、言わないよ。
〜エピローグ〜
――辻が新潟に行ってから、10日が経過した。
今すぐにでも会いに行きたいんだけど、残念ながら圭織は貧
乏だから電車賃がない。なので、手紙を書いて送った。
今頃、きっと辻のお母さんが読んで聞かせているんだろうなぁ
とか考えながら、大学で授業を受けていた。
何をするにもなんか無気力で、ボーっとしてることが多くなっ
た。まぁ、もともとボーっと交信してることが多いんだけど、
辻がいなくなってからというものその頻度はかなり高くなっ
ているように思う。
この前なんか、授業中にボーっとしてて、気づいたらいつの
間にか夕方になっていたなんて事もあった。
気づいたら、勝手に涙が流れていることもあった。
あーあ、やっぱ泣いてすがってでも辻に側にいてほしかった
なぁ――なんてことを、大学のカフェでうっかりとなっちに漏
らしてしまった。
なっちは、何も言わずにしょうがないなぁって感じで笑って
いた。
『その辻ちゃんのこと、なんだけどさ』
圭ちゃんが分厚い本に目を通しながら、こちらへとやって来
る。「意識を戻せる可能性があるかもしれない」って、なんで
もないようにさらっと言いのけて、テーブルの上にその分厚い
本を置いて、なっちの横に座った。
「今、なんて言ったの?」
”意識が戻る?”聞き間違いかと思った。
「手術があってしばらく、辻ちゃんICUに入ってたよね。あの
とき、先生に聞いたんだけどさ。脳浮腫とか脳萎縮は避ける
事ができたって言ってたの。二次的損傷は食い止めることが
できたけど、神経そのものが機能されてないから回復は無理
だろうって言われたんだけど……、ちょっと、ここ見て」
圭ちゃんは、分厚い医学書の1ページを指さした。
「脳深部刺激療法は……、視床と呼ばれる部分に数個の電
極を埋め込む……。レシーバーで一定時間刺激……。脳の
奥に電気刺激が伝わる……」
読んでみたけど、これが辻とどう関係があるのかわからなかっ
た。いったい、これが辻の意識が戻ることとどう関係している
のか。
「遮断された神経を、人工的に繋げるの」
きょとんとしている圭織に、圭ちゃんはフッと微笑みかけてきた。
「でね、やっぱり素人の私の意見だけじゃあれだからさ、ここに
掲載されている症例のほとんどを診てきた脳外科の中澤先生っ
てところに直接行って聞きいてきたの」
圭ちゃんの微笑み、圭織は知っている。
きっと、いい返事があったんだって。
「偶然かもしれないけど、成功する可能性の高い条件がすべ
て揃ってるんだって。圭織、あんただけは、辻ちゃんには声が
聞こえてるんだって言って、毎日のように話かけてたよね。ア
レも、その内の1つだって言ってたよ」
「嘘だよ、そんな……いきなり」
「ウソなんかついてどうすんの」
圭ちゃんは、困ったなぁという顔をして笑っていた。それに
つられて、なっちが「ねぇ」って圭ちゃんにうなずきかけた。
なんか、なっちもこの話を知っているみたいだった。圭織を
驚かそうと、黙って圭ちゃんが来るのを待ってたみたい。
ずるいなぁ、2人とも……。
きっと、圭織もギリギリのところにいたんだと思う。
辻が戻ってくるかもしれないってわかったら、なんか……、
張り詰めていたものが崩れたみたいになった。
「い……、一緒にね、べ……、勉強してたりしてた」
圭織の声はとても上ずってて、声にならない声だった。
「ほ、本を、読んだり……、ほ、本って、いっ言っても、トトロ
とかなんだけどさ……、つ、辻が好きだから、べ、勉強の合
間に読んで聞かせてた……。か、加護の手紙とかね」
目の前のなっちが、目にハンカチを当てながらニコニコとし
て頷いてた。圭織にはそれがだんだん滲んで見えてきて……。
「本当は聞こえてないんじゃないかと思ってたー」
圭織は、みっともないけどわぁーって感じでテーブルに泣き
伏せた。
「怖かったぁ。ずっと圭織、怖かったんだよ。だってね、誰
かがね、辻を……連れてっちゃいそうでさ。辻もこっちより、
向こうの方がいいってついて行っちゃいそうだったからさ」
「意味がわかんないよ」
って、なっちが鼻をグスグスさせて笑っている声が聞こえた。
「だって、こっちはメチャクチャだったじゃん。目覚めてもまた
狙われるかもしれないしさ、お母さんは自分責めたりしてる
しさ、圭織は圭織で頼りないしさ。戻ってきたくても、戻りづ
らいのかもしれないって思って。そんなの嫌だから、圭織、
必死で辻が戻って来れる場所作ってたんだ。それなのに、
辻、いつまで経っても戻ってきてくれないんだもん」
「きっと、戻ってくるよ。圭織は、そのために頑張ったんだ
もんな」
圭ちゃんが、声を震わせながら圭織の頭を撫でてくれた。
「そうだ!」
突然、ガバッと身を起こした圭織を見て、なっちがビクっと
した。
「な、なに、急に」
「お金貸して」
圭ちゃんとなっちが、「はぁ?」という感じで顔を見合わせ
た。
「新潟。すぐに知らせなきゃ。新幹線代貸して」
「午後の授業、どうすんの」
「んなの、どうでもいいから早く」
「なんだよー、借りるのにそんな威張んなくてもいいじゃん
ねー」
って、なっちは苦笑しながら圭ちゃんに話しかけた。そう言
いつつも2人は快く新幹線代を貸してくれた。
圭織はそのお金を受け取ると、テーブルの上にあった分厚
い本を持って大学のカフェを飛び出した。
後ろから、「ちょっと圭織、それ、図書室の」って圭ちゃんの
焦った声が聞こえてきたけど、まぁいいじゃんって心の中で
笑って返事した。
お金も本もそうだけど、新潟から帰ってきたら2人にはいろ
んなものを返さなきゃなんない。
もしも、2人がいなかったら圭織はずっと前にダメになって
たかもしんないから。
辻、人と人が出会うのにはちゃんと意味があるんだね。
ダメな圭織は、辻と出会ってからいろんなことを経験したよ。
楽しいことも、辛いことも、きっと人生の中でギュッと凝縮されて
たかもしんない。
ただの家庭教師と生徒で、出会ったのにね。
不思議だね。
笑ったことも泣いたことも、すべて良い思い出になりそうなんだ。
不思議だね。
辻が戻ってくるってわかっただけで、圭織はまた頑張んなきゃっ
て思えてきたんだ。さっきまで泣いてたのに、不思議だね。
辻が必ず戻ってくるって信じてる。
圭織は、そのためにまた頑張るよ。
ほら、もう圭織の足は辻に向かって走ってるんだよ。
待っててね。
待ってるからね。
圭織は、交信全開モードで東京駅へと向かった。
終
■番外編@ 「青いカバンの女の子」
転校の前の日は、緊張してなかなか寝られへんかった。
どんな人がおんねんやろ?
友達ちゃんとできるかなぁ?
先生、怖くないかなぁ?
関西弁って笑われんのかなぁ?
とか、いろんなこと考えてなかなか寝られへんかった。
登校時間よりちょっと早めに、お父さんの運転する車でお母さん
と私と2歳の弟との4人で新しい学校に行った。
職員室の横にある会議室って書かれたところで、校長先生と担任
になる佐野先生っていう先生とでちょっと話をした。
朝礼のベルが鳴る5分ぐらい前に、お父さんとお母さんと弟は帰っ
ていった。
帰る時に、お父さんが「亜依、頑張れよ」って言ったから、ウンっ
て返事をした。
けど、ほんまは一緒に帰りたかった。
寝てへんかったから頭がボーっとしてて、佐野先生から生徒のみ
んなに紹介されたときほんのちょっと返事が遅れてしまった。
ボーっとしてた私のことを見て、生徒が小さい声で笑ってた。
佐野先生は、冷たい顔でいつまでも私が喋りだすのを待っていた。
「か、加護亜依です。奈良から来ました。みなさん、よろしくお
願いします」
普通に挨拶したんやけど、みんなに笑われた。なんでかなぁって
思ってたら、1番前の席の男の子が「よろしくお願いします」っ
て変な関西弁で隣の席の子に話しかけて、それを見て気づいた。
標準語で挨拶しようと思ってたのに、ボーっとしてたから関西弁
で喋ってしまった。
奈良に帰りたいって、ずっと思ってた。
転校してから2週間が過ぎたけど、友達ができへんから。奈良の
友達に会いたいって、いっつも学校で1人考えてた。
12月に入ったら、友達をつくろうなんて思わんようになった。
東京の子は嫌い。
みんな、「さ」とか「じゃん」とか付けて喋るから嫌いや。
たまに話しかけてきてくれたりしたけど、もう嫌いになった後や
から、返事をせんかった。
家に帰って、毎日、奈良の友達と電話で話してた。関西弁で、いっ
ぱい話してた。
隣のクラスの担任の先生が交通事故に遭ったとかで、ほんまは隣
のクラスに転校生として入ってくる子が、私のクラスにやってき
た。背の小さい、なんかすごい緊張して泣きそうな顔をしながら
教室に入ってきた。
それを見ただけで、クラスの子は小さな声で笑ってた。
「……つ、辻希美れす」
佐野先生に挨拶するように言われて、転校生はすごい小さい声で
喋った。私のときも笑った1番前の席の男の子が、転校生の喋り
方を真似してみんなを笑わせた。
私も笑ってしまった。
転校生の辻さんは、泣きそうな顔をして黒板の前でうつむいてた。
なんか、それを見て私は笑うのをやめた。
辻さんが持ってた青いカバンが、小さく震えててなんか泣いてい
るみたいに見えたから。
それから何日間か、私はずっと辻さんのことが気になって授業中
も休み時間も辻さんのことばっかり見てた。
辻さんも、ずっと一人ぼっちやった。休み時間になっても、勉強
ばっかりしてるからメッチャ頭のいい子なんやなぁって思ってた。
体育の時間に、2人だけで見学する時があった。
最初は2人ちょっと離れて、みんながやってるバレーを見てた。
けど、なんかすごい暇やったから私から話しかけた。
「辻さんって、どこから来たの?」
標準語で話しかけた。
辻さんは、ビクッてなって体育座りしたまんま私の声を無視しし
ようとしているみたいやった。
私は、もう絶対に東京の人と話をするのはやめようと思った。
みんな、冷たいねん。
フンって前を向いて、しばらくしたら「小平市」って小さい声が
聞こえてきた。
辻さんを見ると、うつむいて小さく震えてた。
私、なんもしてへんのになんでそんなに怖がられてるのかわから
んかった。
辻さんのことを、「のの」って呼ぶようになったんは、その日の
放課後。掃除当番が一緒になったのが、きっかけやった。
また2人っきりになった。
みんな、掃除当番をサボってクラブに行ったり先に帰ったりした。
私も、早く帰って友達と電話したかったんやけど、辻さんがトロ
トロしてるからぜんぜん掃除が終わらへん。
「辻さん、トロトロせんと早よして」
ってイライラしながら、声をかけた。イライラしてたから、関西
弁で喋ったことに気が付かへんかった。
「トトロ?」
辻さんは、机を運びながらすごい嬉しそうな顔で話かけてきた。
トロトロってそう言えば、めっちゃ関西弁やったことに気づいた。
恥ずかしかったけど、「トトロ」に聞き間違えたんがおかしくて
「トトロなんか、言ってへん」って笑ってしまった。
「辻、お母さんと映画に行ったよ。本もいっぱい持ってる」
辻さんは、また勘違いした。私は、それがおかしくてずっと笑っ
てた。それから、辻さんと急に仲良くなった。
それまで、「さん」付けで呼んでたけど、なんか友達になれそう
な気がしたから奈良で呼ばれてた仇名を教えてあげた。
私は、辻さんのことを「のの」と呼び、ののは私のことを「あい
ぼん」って呼ぶようにした。
ののは、めっちゃおもしろい子。
奈良の友達にも、ののみたいな子はおらへんかった。なんかわか
らへんけど、ののと一緒にいたらすごい楽しい。
休み時間になったら、いっつもののと一緒にあんまり人がおらん
所に行って、物真似とかして遊んでた。ののは、私の物真似をす
ごい喜んでくれた。
特に佐野先生の物真似がお気に入りで、自分でもやってた。
その内、私とののが遊んでいるのを見たクラスの子たちが集まっ
てきて、自然と私もその子たちと話ができるようになった。
たまに、友達に誘われてそっちで遊んだりしてたけど、やっぱり
ののといるのが一番楽しいし落ちつく。
奈良の友達にも、お父さんにもお母さんにも、ののの事を話した。
お母さんは、「じゃあ、今度家に連れてきたら?」って言ったか
ら、そうすることにした。
学校の帰り道、ののと今度の土曜日に家で遊ぶ約束をして別れた。
ののは、すごい喜んでくれた。なんで、そんなに喜んでくれるの
かわからへんけど、ののはちょっとしたことでも始めての事のよ
うに喜んでくれる。
ひょっとしたら、友達おらへんかったのかなぁって思った。
それやったら、私がののの1番の友達になろうってウキウキしな
がら家に帰った。
家の前にピンク色のコートを着た女の人が立ってた。
女の人は、立ち止まってる私を見るとニコって笑った。
「加護亜依さんね」
「……」
「辻希美さんと、お友達だよね」
あの時、すぐに家の中に逃げ込めばよかった……。
それから。
それから、私はののの顔をまともに見ることができへんようなっ
た。あの女の人が、どこかから見ているかもって、ずっと怯えな
がら学校に通ってた。
『辻希美を、イジメてね。そうしないと――』
嫌やった。ののは、東京に来て初めてできた友達やから。
奈良にもおれへん、特別な友達やったのに。
叩いたりするのは嫌やから、ののが話しかけてきても無視するこ
とにした。ののは、それでもずっと話しかけてくれた。
どんなに無視しても、どんなに逃げても、私のことを見つづけて
くれた。
その内に、私の周りにいた子が「しつこい」って、ののをいじめ
るようになった。
それを見て、男の子の何人かも、ののをイジメるようになった。
どんどんとなんかが間違ってる方向に向かってたけど、私には止
めることがでけへんかった。
そんなことしたら、弟の命が危なかったから見ないフリをするこ
としかでけへんかった……。
それに……。
『あいぼん、ちょっとお腹だしてみて』
何日かに1回、あの女の人が急に現われて、ナイフで私のお腹に
印をつけて帰る……。
冬休みに入って、これでののが学校で苛められる事もないって、
ホッとしたけど、やっぱりあの女の人はそうはさせてくれんかっ
た。
『学校が休みだったら、外に呼び出せばいいじゃない』
女の人に言われるまま、私はののを公園に呼び出した。
ののは、すごい喜んでた。
「あいちゃん、今日は何して遊ぶ?」
「……のの」
ののの嬉しそうな顔を見たら、もうホンマに嫌になった。
すべてを話そうと思った。なんで、無視してたか。なんで、こん
な所に呼び出したか――。
のののずっと後ろの木の陰に、あの女の人が立って小さく手を振っ
てるのが見えた。もう片方の手には、ナイフが握られてた。
「あいちゃん、ハイ」
って手にしていた飴をくれた。
私は、ののの手をパンって払った。
ののが持ってた飴が、地面に転がった。
「あいちゃん……」
ののが悲しそうな顔をして、私を見た。
そんな目で見んといて……。ごめん、のの……。
「そんなのいらない」
私は、ののの頬を叩いて、そのまんま後ろを振りかえらずに走っ
て家に帰った。
もう、何もかもが終わったような気がした。
『あいぼん、今度はもっと強くだよ』
女の人は、電話の向こうで笑ってた。
3学期に入っても、やっぱりののは苛められていた。
その頃になると、ののはもう私に近づいてくる事もなくなった。
ののを見ることも、ののに心の中で謝ることも苦しくて、私は休
み時間になるといっつも音楽を聴いて目を閉じていた。
日曜や祭日や春休みにも、あの女の人から電話がかかってきた。
何度も「のの、来んといて」って心の中で願ってたけど、ののは
毎回のように「あいちゃん」って私の呼び出す場所に現われた。
その度に、私はののを呼び出した場所で叩いた。
なんにも言わずにただ叩くこともあったし、標準語で話して叩く
こともあった。標準語をしゃべることで、私は本当の私と区別す
るようにした。
せめて、クラスが変わってたら……。
2年生になって、ののがまた一緒のクラスにいるのを見つけた時、
もう学校に行くのはやめようと思った。
けど、そんなんをあの女の人がさせてくれへんのはわかってた。
学校を3日休んだら、電話があった。
『そっか。家があるからいけないんだね』
女の人は、4日目の昼にお母さんがスーパーに行っている間に、
家の中へと入ってきた。手には、ガソリンの入った容器を持って
いた。
私は、学校に行くからやめて下さいって泣いてお願いした。
担任の先生が、ののの苛めをエスカレートさせた。
担任は、1年の時と同じ佐野先生。
トカゲに似てるって1年の時にののの前で物真似してたんやけど、
性格もそのまんまやった。
ある日の授業中、英語の担当でもある佐野先生が、ののを指名し
て英文を読ませることになった。
ののは、まったく読める事ができなかった。「This」だけを
読むことができたけど、それ以外はまったく読めることがでけへ
んかった。
「こんなの今時、小学生でも読めるぞ。ちゃんと勉強してるのか?
学年最下位って意味わかってるのか? もう少し真剣にやれ」
ののは、顔を真っ赤にしてうつむいてた。
周りの子たちが、クスクスと笑っていた。
なんで、そんなこと言うねやろ・・・・・・。まさか、先生もあの女の
人に脅迫されてるんかなって思ったけど、それはなさそうだった。
佐野先生は、もともとそんな人間だった。
学年で最下位ということで、ののの苛めはいっそう激しくなった。
笑われている中、ののはうつむいて席に座っている。
男の子がからかうようにして、頭をパンって軽く叩く。
それを見てる周りから、また笑いがおきる。
ののは、それでもうつむいている。
私は、それを自分の席で見ている。
「ボケ」と「突っ込み」の漫才を見ているような気に、一瞬なっ
た。でも、そうやない。ののは、ただ笑われているだけ。ただ、
叩かれているだけ。
狂ってるんや……。
みんな、ボケや……。
ののは、泣きながら教室を出ていった。
この頃になると、さすがにあの女の人が学校での行動までは見て
ないってわかってたから、すぐにののの後を追うことができた。
でも、その場でののを庇うことはでけへん。
なんでかっていうと、あの女の人は学校での私の行動を、他の誰
かに聞いてるから……。
ののは、誰も使ってない体育館へと逃げ込んだ。
私は、誰にも見つからんように辺りをキョロキョロして中に入っ
た。けど、中にののはおらへんかった。
どこに行ったんやろうって、その場に立ってたら奥の体育用具室
から、ののが泣いている声が聞こえてきた。
ののは、体育マットに顔を埋めて泣いていた。
「のの……」
ののは、私の声に気づいてビクッとした。ののは、振りかえらな
かった。
どうしていいかわからずに、私はずーっとその場に立っていた。
謝っても許してもらえへんと思ってたし、そんなんしたらあの女
の人に何をされるかわからへん……。
「あいちゃん……」
ののから、声をかけてくれた。見たら、ののは目をこすりながら
立ちあがって私の側に寄ってきてくれた。
なんでやろうって思った。
あんなに無視したり、叩いたりしたのに、なんで近づいてきてく
れるんやろうって。
「なんで、泣いてるの?」
……ののに、そう言われて私はやっと自分が泣いていることに気
づいた。「泣いてへん」って言おうとしたんやけど、エッエッて
なって声を出すことがでけへんかった。
ののは、泣いている私にハンカチを渡してくれた。
それがとても嬉しくて、「のの、ごめんな」って泣きながら謝っ
た。ここには、ののしかおらへんから思いっきり泣いて謝った。
でも、理由は言えへんかった……。
あんなに叩いたり、無視したりしてたのに、ののはただニコニコ
笑って私の頭を撫でてくれた。
その日、授業をサボって久しぶりにののといろんな話をした。
関西弁で……。
それから、ののが苛めに耐えられんようになって逃げるたびに、
私は体育館にののを迎えに行った。
みんなの前では、仲良くすることはでけへんけど、ここでならま
た昔みたいにののと一緒に遊べる……。
できれば、苛められる前に逃げてほしかった。
けど、それは言うことがでけへんかった……。
『まだダメみたいね……。ちょっと、傷ができるように苛めてく
れない?』
それから、私は1人でののを呼び出す事はしなくなった。
もう、一対一でののと会うのは嫌やった。
友達……、ううん、学校でののを苛めてる子たちを呼んで、のの
を苛めてもらうようにした。
突き飛ばされたり、蹴られたり――。私はちょっと離れたところ
から見てた。ののは遊んでて、ぶつかって、転んだだけのように
見えた。そう思うことにした……。
あの女の人に、電話で褒められたけど、なんて褒められたのかは
覚えてへん。もう、なんかどうでもよかった。
あれだけ苛められているのに、ののは毎日ちゃんと学校に通って
きた。私は、心の中で誰か早く気づいて……って願ってた。
ののの苛めは、ほぼ毎日のように学校でも帰り道でも行なわれる
ようになった。
「新しい家庭教師の先生が来たの」
いつものように逃げ込んだ体育用具室で、ののは笑いながらそう
言った。
ののの笑顔を、久しぶりに見た。
「どんな、先生なん?」
「うーん……。あのね、いいら先生ね、顔はちょっと怖いんらけ
ど、すっごく優しい。一緒に勉強、頑張ろうって言ってくれた」
ののは、すごい嬉しそうに言った。ののの笑顔……、一緒に遊ん
でた頃を思い出して、泣きそうになった。
ののは、それから苛められて体育用具室に逃げるとき、ノートを
持って教室を出ていくようになった。
ある時、そのノートの中身を見せてもらった。
掛け算の表が、書いてあった。
「いいらさんが、書いてくれた。暇な時に、覚えるんらよって」
ののは、テヘへって笑った。なんで、そんなに嬉しそうに笑うこ
とができるん? いいらさんって誰? その人やったら、ののの
こと助けてくれるんかな?
誰か、ののを助けて。誰でもいいから、ののを助けて。
私は、体育館を出て1人で泣いた。
お祭りの日、ちょうど買い物に行った帰りに駅の前で、ののと一
緒に歩いている背の高い女の人を見た。
あれが、「いいらさん」っていうのはすぐにわかった。
浴衣姿のののが、すごい嬉しそうにその背の高い女の人と腕を組
んで歩いてたから。
ずっと、後をつけた。
のの……、私はののの前に行くから、その時、「いいらさん」に
全部話して。「いいらさん」、ののの様子がおかしいことに気づ
いて。私は、そう思いながらののに声をかけた。
友達と来たって、ウソをついた。そっちの方が、ののが怖がると
思ったから。でも、ののは苛められている事は話さへんかった。
「いいらさん」も気づかずに、どこかへ行ってしまった……。
『最近、あんまり頑張ってくれないね。どうしちゃったの?』
女の人からの電話。もう、どうなってもええねん……。黙って無
視することにした。
次の日、弟の髪の毛が1箇所だけ短く切られてた。
なんでかなぁって思ってたら、家に電話がかかってきた。
『あいぼん、外見て』
あの女の人が、家の前の道にいるのが見えた。パラパラパラって
何かが風に飛ばされた。
『お母さんには、ガムがついたから髪の毛カットしたって言うん
だよ』
風に飛ばされたんは、弟の髪の毛やった……。体の力が抜けて、
もう、なんも考えれんようになった。
曇り空の日、私はいつものようにののを公園に呼び出した。
ののと2人っきりで、公園にいた。
遠くに、あの女の人が隠れて見てるので3人。
私は、震えながらののを突き飛ばした。ののは、悲しそうに笑っ
ていた。そして、また立ちあがった。私は、また突き飛ばした。
それでも、ののは悲しそうに笑って立ちあがった……。
雨が降ってきて、私は叫んだ。なんて叫んだのかは、覚えてへん。
目を閉じて、思いっきりののを突き飛ばした。
雨の音に混ざって、ゴンって小さな音がした。
見たら、ののが花壇の丸い石の前に倒れて左目を押さえてた。
それを見た私は、怖くなって逃げ出した。
ゴンっていう音が耳に残って、倒れたののの姿が目を閉じたら浮
かんで……その日から寝られへんようになった。
ののの怪我が心配になって……、あの女の人やクラスの子たちに
見つからんように、こっそりとののの家に行ってみた。
部屋の中にいるののが、ちょっとだけ見えた。左目に眼帯してた。
……。
しばらく、家の前に立ってボーッとしてた。
もう、何が悪いことで何が良いことなんかわからへん。足音が聞
こえて、振りかえったら「いいらさん」が立っていた。
怖くなって逃げた。
「いいらさん」が怖かったんやなくて、ののを苛めてることに気
づかれるのが怖かった。
私はもう完全に、ののを苛めてる人間やったから……。
誰か止めて……。
誰か気づいて……。
誰かののを助けて……。
もうずっと願ってた。
その願いが、やっと通じた。
「いいらさん」が、やっと気づいた……。
公園で、私らがののを苛めてるところを見た。
決定的な場面。
『誰? あの人』
女の人に「いいらさん」の事を教えるのは、マズイように思えた
けど、反対に「いいらさん」にこの女の人を知ってもらうチャン
スやと思った。私のときみたいに、姿を見せるって思ってた。
女の人は、「いいらさん」のことを調べるのに夢中になって、の
のを苛めるように命令をしてこんようになった。
私にも印をつけに、こんかった……。
もしかしたら、「いいらさん」があの女の人をやっつけてくれた
んかもしれんって思ってた。
けど、まだやったみたい。
『あいぼん。すぐに辻さんの携帯に電話して家に帰るように言っ
て。あ――、ちょっと今は辻さんの周りに人がいるから気づかれ
ないように、まずは遊びに行こうって呼び出して。仲良くしようっ
て』
よくわからんけど、私は女の人に命令されるままののを呼び出し
た。そして、途中で家に帰るように言った。
女の人の、嬉しそうに興奮する声を聞いて、なんかとても嫌な予
感がした。
家で、何かが起こっているような……。
私は、もう何もかも忘れてクラスの子と遊ぶことにした。
あの女の人は怖い。逆らったら、弟が危ない。家族が危ない。私
は何もかも忘れたかった。
そんな時、偶然、「いいらさん」と会った。
「いいらさん」は、とても怖かった。怖かったけど、この人やっ
たらののを助けられるかも知れんって思った。
やっぱり、家で何かあったみたいで、ののを苛めている私のこと
はあんまり聞いたりせんと、すぐに走っていった。
ののを探してる。
ののが、家を飛び出したんや……。
私は、すぐに友達と別れてののの家に行ってみた。
お母さんが、家の前で泣きながらオロオロとしてた。
そして、私は見つけた。家から離れた所に、あの女の人がいるの
を――。あの女の人は、泣いているのののお母さんを見て笑って
いた。その姿を見て、私はもう我慢でけへんようになった。
このままなら、本当にののが殺されるかもって思った。
「いいらさん、ののを助けて」
私は、そう願いながらののの居場所へと走った。
体育用具室。そこしかないと思ってドアを開けた。やっぱり、の
のの泣いている声が静かな体育館に響いてた。
あの女の人から教えられた、「いいらさん」の電話番号。
私は、思いきって電話をした。
のの、そこなら何でも言えるやろ。「いいらさん」に苛めてるこ
と、ちゃんと言って。私が苛めてるって、「いいらさん」に教え
て……。
『あいぼん、辻さん転校しちゃうんだって』
女の人から電話がかかって来た時、私はホッとした。ののは、私
のことを誰にも喋らんかったみたいやったけど、苛めに気づいた
「いいらさん」がののをあの学校から遠ざけてくれた。
これでもう、私はののを苛めんで済むって思ってホッとした。
『新しい住所、教えるね。ちゃんと、メモしてて』
なんで、あの女の人はそこまでしてののを苛めなあかんねやろうっ
て思った。
なんで、私がそこまでしてあの女の人の命令を聞かなあかんねや
ろうって思った。
電話してたら、車のオモチャに乗って遊んでた弟が廊下にやって
きた。
私の大事な弟と、私が特別好きなののを殺されるなら、私が先に
あの女の人を殺そうと思った。
名前もしれへん、あんな人、殺すことなんて別に悪いことやあら
へんもん。私はいっぱい、印をつけられてるし。それをまとめて、
お返しするだけ。
殺さな、こっちが殺されんねん。
その前に、ののに一言だけ謝ろうと思った。
今まで、ごめんねって……。新しい引越し先のアパートに行った
けど、なかなか中に入る勇気がなくて、このまんま黙ってあの女
の人をこの近くに呼び出そうと思った。
帰ろうとしたら、後ろで人の気配がして――「いいらさん」が凄
い怖い顔をして立っていた。私は、思わず逃げだした。
なんで、逃げたんかわからへん。
でも、逃げてしまった。
逃げながら、まだ「いいらさん」がののの側にいてくれたのが嬉
しかった。
私は、もうあの女の人を殺すことに決めた。
けど、ののと「いいらさん」にちゃんと自分の気持ちを伝えよう
と思って駅のトイレでずっと夕方になるまで待っていた。
ののが「いいらさん」を送って、この駅に来ることぐらい、のの
を好きやった私には簡単にわかる。
その時が来るまで、私はトイレの中でスカートのポケットの中の
カッターを握り締めていた。
ののが死んだ……。
ののが死んだ……。
あいつが殺した……。
あいつが殺した……。
車に轢ね飛ばされたののを見て、逮捕されてからしばらく私はずっ
とそう呟いてたらしい。
次の日の朝に、ののが死んでないって警察の人から聞かされた。
なんで、こんなことになったんか聞かせてくれるか? って、警
察の人が関西弁で喋った途端、今度は泣いてしまった。
ののが生きてることが嬉しかったし、警察の人が気づいてくれた
のが嬉しかった。
しばらくして、お父さんとお母さんが警察にやってきた。
昨日も来てたみたいなんやけど、ぜんぜん記憶になかった。
お母さんは、警察で私の傷だらけになったお腹を見て泣いた。
お父さんは、目に涙を溜めていた。
でも、私はもう泣かへんかった。
あいつのことを喋って、ののに謝らせるために、ちゃんと警察に
今までのことを話さなあかんから泣かへんかった。
少年院っていうところに、行かなあかんのかなぁって思ってたん
やけど、飯田さんが私のことを警察に話してくれたお陰で、そん
なところに行かずに済んだ。
しかも、あの女の人も飯田さんが捕まえてくれたらしい。
やっぱり、凄い人やったんやって思った。
少年院って所には行かずに済んだけど、学校や近所には私が起こ
した事件の事は知れ渡ってた。
すぐに、ののの病院に行きたかったんやけど、お父さんとお母さ
んが外には出してくれへんかった。
何日も何日も、私は家の中でいた。
お父さんとお母さんが、奈良に戻る相談とかしてた。嫌やって、
もうちょっとで言いそうになった。
これでやっと、ののと一緒に遊べると思ったのに、ののとそんな
に遠く離れるの嫌やった。
でも、お父さんとお母さんが、またあの石川梨華っていう子が来
たらあかんからって……。
長くても3年ぐらいで出てくるかも知れんって聞いて、私はまた
震えだした。また、ののが狙われる。また、弟が狙われる。また、
私が……。
奈良に引っ越す3日前、初めて外出できるようになった。
お父さんが車で病院まで送ってくれた。
その途中で、ののが”植物状態”っていうのになっていることを
知らされた……。
お昼に家で食べたご飯を、吐きそうになった。
お父さんとお母さんは、のののお母さんに話があるとかで、私を
1人残して病室から出ていった。
私の目の前には、眠ったままになってるののがいて、とてもとて
も悲しかった。ごめんね……ってしか、言うことがでけへんかった。
私がもっと早く、勇気を出して誰かに相談してたら、こんなこと
にはならへんかったんや。
ちゃんと、ごめんねって許してもらえるまで何度も謝りたかった
のに。それなのに、私がメチャクチャなことしたから……。
飯田さんが来て、あの女の人のことを話してくれた。私は、素直
に許すことができへんかったし、まだ怖かった。
うつむいてたら、飯田さんがののの友達でいてくれる?って聞い
てきた。そんなん、私にはでけへん……。ののを苛めてたし、私
があんなことしたから、ののは……。
でも、飯田さんは私をぜんぜん怒ったりせんかった。すごい優し
い声で、話しかけてくれた。ずっとずっと、ののの友達でいよう
と思った。
帰る時、飯田さんが病院の前まで見送ってくれた。
そして、手の平の傷を見せてくれた。石川梨華って子を捕まえる
時に、怪我をしたらしい。
「圭織だって本当は、怖いんだ。小さい加護は、もっと怖いと思
う。でもね、その怖さに負けそうになったら、いつでも圭織の所
に電話してきな。圭織がこの手で、ガシっと引っ張っててあげる
から」
笑ってそう言ったけど、何を言っているのか意味がわからへんかっ
た。意味はわからへんけど、なんかすごい頼れそうに思えた。
いいなぁ、ののは。飯田さんが、ずっと側にいてくれて。
いいなぁ。
なぁ、のの。
車で帰る時、私は笑顔で飯田さんに手を振っていた。
――あれから、もうすぐ4ヶ月。
ののは新潟の病院に行き、そこでナントカカントカって言う難しい
手術を受けることになった。
新潟に行きたかったけど、学校があるから春休みまで行かれへん。
もうすぐ、手術が成功したかどうかの電話がかかってくる。
ののの意識が戻ったら、また最初から始めるねん。
青いカバンを持ってた頃のののと、また最初から友達になるねん。
私は、ワクワクしながら飯田さんからの電話を待っていた。
■番外編A 「黄昏に鐘は鳴り」
頬に当る風が、とても冷たかったのを覚えています。
マンションのベランダの窓がほんの少し開いてて、床には取りこ
んだ洗濯物が無造作に散乱していました。
まるで、ベランダの柵をお父様に見たてているかのようににしな
だれ、お母様はタオルで首をつって死んでいました。
ただし、その表情はとても幸福とは思えませんでした。
見開かれた目は突出しかかっていて、膨れ上がった舌は真紫に変
色し、まるで呪いの言葉を吐きかけているかのようでした。
衝動的だったのでしょうか、それともあらかじめ決意していたこ
となのでしょうか、学校から戻ったばかりの私にはその辺を推測
する事はできませんでした。――きっと、衝動的だったのでしょ
う。床に散乱していた洗濯物が、すべてを語ってくれていたよう
な気がします。
私はしばらく、ドアを開けてお母様を発見した格好のまま、ベラ
ンダからそそぐ冷たい風を浴びていました。
警察がマンションにやってきたのは、それから数時間後のことで
す。
自分で連絡しました。
3回ほど、「110」とわずか3桁のプッシュを間違えてしまい
ましたが、なんとか連絡することができました。
警察が到着し、お母様の遺体が運ばれる間、涙を流していたよう
な記憶があります。
確かではありませんが、まだその頃の私は純粋にお母様の死を悲
しむことができていたと思います。
数日後のお葬式の日に、お父様の前でも泣いていました。
ただし、その頃になると純粋に悲しんでいたのかどうか定かでは
ありません。ほんの少し、お父様を憎む気持ちがありました。
いや、責めていたのかもしれません。
お母様が自殺をしたことにより、娘の私が悲しむ。元を正せば、
お父様が離婚しなければ良かったんですから。
号泣する自分を演じ、その事をお父様に気づかせたかったのかも
しれません。
しかし、それはかなり無意識に近い行動です。お父様を憎む気持
ちは、お父様を愛していたお母様を侮辱する行為だとして、自分
の気持ちを抑圧していましたから。
お母様は、お父様を愛しすぎるが故にその精神を病んでしまいま
した。でも、私はそのことを恥ずかしいことだとは思いません。
むしろ、心を病んだお母様を尊敬しています。それは、今でも変
わりません。
「空虚な愛を演じることは罪」だと生前のお母様は、私に教えて
くれました。人を心の底から愛さない限り、その人生はとても虚
しく価値のない人生らしいです。
愛する対象を失ったら、人の精神が崩壊するのを、私は経験を持っ
て知り得る事となりました。
その頃から、私にはある母と娘しか見えなくなりました。
辻さん母娘です。
私のお母様を、自殺に追い込んだ2人です。
それまでにも、憎む事はありました。あの母娘が現れたことによ
り、私たち親子の人生の歯車が狂い始めたのですから。
でも、あの姿を見るまではそれほど「憎しみ」に執着する事もあ
りませんでした。
ある日、お母様の墓参りに行こうとバスに乗り、何気なく窓の外
を見たんです。
黄昏時にはまだ少し早い、空が黄金色に輝き始めた時間でしょう
か、あの母娘が手を繋いで歩道を歩いているのを目撃したんです。
バスは動いていたので、その母娘の表情は刹那のものでした。
楽しそうに笑っていたんです。そこしか、見ることができませんで
した。
ほんのもう少し、例えばバスが止まっていたりすれば、その笑顔の
奥にあるものに気づいたのかもしれません。
でも、私にはその表情しか瞼の奥に記憶できなかったんです。
精神の崩壊は、自分の耳にも聞こえたようでした。
誰もいない黄昏時の西洋墓地で、真っ白なお母様の墓石の前で、
私は教会の鐘の音を聞きながら復讐を誓いました。
単純に、自分と同じ経路をなぞらえさせようとは、最初から考え
ていませんでした。
同じ経路とは、娘の希美さんに私と同じ不幸を背負わせることで
す。なぜ、そうしなかったのかと言うと、これも単純なことです。
私の中にある憎しみの対象が娘の希美さんにではなく、お母様か
らお父様を奪った母親の方へと大きく向けられていたからです。
自分と同じ苦しみを、娘の希美さんにではなく母親に与えたかっ
たんです。
まずは、希美さんを自殺に追い込む計画をたてました。
自分が直接的に手を下す事は、当初から計画に入っていません。
私が表立って行動すると、仮に計画が失敗した場合、もしくは明
るみに出た場合、私の目的はすぐにバレてしまいます。
きっと、私から遠ざかっていくことでしょう。
身許を隠して逃亡されれば、さすがに見つけ出すのに相当の労力
と期間を必要とすることでしょう。
できれば、私は最後まで2人の前には姿を現したくはなかったん
です。そのためには計画を実行に移す前に、準備が必要です。
まずは、学校に赴き希美さんの行動を監視することから始めまし
た。希美さんの行動パターンはとても単調でしたので、すぐにそ
の行動パターンを掴むことができました。それと同時に、絶対に
自分の計画が成功すると確信することができました。
彼女は典型的な、苛められる側の人間だったんです。
転校する以前の学校の事は知りませんが、あまり友達を作らない
所を見ると、以前の学校でも何か苛めのようなものを受けていた
のでしょう。調べる事はありませんでしたが、以前の学校の友達
と連絡を取り合ってはいなかったので間違いはないと思います。
単調な生活、孤独な学校生活、彼女の唯一の安らぎの場所はやは
り母親と過ごす時間だけのようでした。
ただ、あまりにも孤独過ぎるが故に私の計画をスタートさせるきっ
かけが見つからずに困ったのは覚えています。
あくまでも、私が直接的に手を下す訳ではないのです。誰かが、
希美さんの身近にいる誰かが、できれば希美さんが信用を寄せて
いる母親以外の誰かが、彼女を傷つけてもらわなければならない
のです。
動き出せばこの計画は上手く行く自信はありましたが、計画の遂
行に適する人物がなかなか希美さんの周りに現われませんでした。
計画の変更を視野に入れ始めたその頃、やっと希美さんに友と呼
ぶべきような少女が現われました。
加護亜依さんです。
そして、希美さんと仲の良い加護亜依さんを直接的な遂行者に選
んだんです。
すぐに、加護さんの前に姿を現すような事はしませんでした。
やはりそこは遂行してもらう人物にも、リサーチが必要です。
もしも、途中でもしくは最初から拒否されてしまえば、この計画
は失敗に終わってしまいます。念入りに調べました。
もちろん、名前は明かしませんでしたし、連絡用の携帯電話も事
前に別のルートから入手したものです。
私が誰なのか、加護さんには調べようがありません。
仮に警察に訴えでても、現行犯以外は絶対に捕まらない。もちろ
ん、監視しているので不審な動きをすれば弟さんの命の保証はし
ない――と、その辺のことも最初に会ったときに伝えました。
加護さんは、私のマリオネットとなってくれました。
後はもう、自分の計画に沿って動いてもらうだけでした。
よくやってくれたと思いますが、私の知らないところで色々と希
美さんと接触をしていたようで、計画はなかなか思うように進ま
ずにイライラとした覚えがあります。
さすがに、24時間、加護さんの動きを監視するわけにはいきま
せんからね。監視していると最初に伝えたのは、逃げないように
言葉の楔を打ち込んだだけです。
ただやはり、私の計画が上手く行かなかったのは、それだけが要
因ではなく、画一的にしか人物を見ていなかったからだと思いま
す。飯田さんの仰った通り、希美さんには希美さんの事情があり、
苛められている事実を母親に打ち開ける事ができなかったのです。
そこに、飯田さんというある意味で母親よりも理解のある人物が
現れた事により、私の計画は結果的に失敗に終わりました。
私は、早くから飯田さんの存在に気づいていました。
しかし、家庭教師というのは私が母娘の監視をしている間に何人
も雇われ、そして去っていったりしていたものですから、てっき
り飯田さんもすぐに彼女の元から去っていくものばかりだと思い、
あまり重要視はしていませんでした。
それに、ただの家庭教師がこのような問題に介入してくるなど考
えてもいませんでした。
学校の教師ですら、生徒の苛めを見てみぬ振りをする時代です。
ただの家庭教師がどうして、ただのアルバイト先の生徒を救おう
とするでしょうか。
まったく、理解できていませんでした。
その存在に危機感を抱いたのは、希美さんの母親が飯田さんに希
美さんの障害を告白した時です。
今までの家庭教師たちは、皆、その事実を聞かされ自分の力では
どうする事もできないと判断したのでしょう。去っていきました。
でも、私は直感的にこの事実を伝えた事により、飯田さんと希美
さんの繋がり――絆が確固としたものになるのではないかと危惧
しました。
すぐに、飯田さんの身許を調べる必要があり、雨の日に私は飯田
さんを尾行しました。
行動パターンを調べるのには、ある程度の時間が必要です。
その行動パターンを調べている内に、飯田さんには飯田さんのプ
レーン的な人物がいるのを知り、そちらも念のために調べる事に
しました。
でも、もうこの時はすでに計画の崩壊は始まっていたんです。
私が飯田さんの存在に気づくのが、遅かったのです。もうすでに、
飯田さんと希美さんとの間には絆のようなものが結ばれていたの
です。
それと、私自身が自分の能力や計画に心酔しきっていたのも要因
でしょう。加護さんがあまりにも、私の意のままに動いてくれるもの
ですから――。
昔話の教訓通り、油断していました。
加護さんが、私を裏切るなんて考えてもなかったです。
私にもっと当初の頃のような警戒感があれば、あの日、あの場所
に出向く事もなかったのです。
飯田さんの姿を人ごみの中で見つけた時、私は敗北感に打ちのめ
され、同時にほんの一瞬ですがわれに帰りました。
しかしもう、この計画の失敗を予感し始めた頃から、私は私を制
御する事ができなくなっていました。
一瞬、われに帰った私ですが、もう1人の私――つまりお母様の
死を受け入れる事ができず憎しみでしか解消できない自分が、必
死に形成を立て直そうとしたのです。
焦燥もそうですが、強迫観念に近いものが私を行動へと急き立て
ました。希美さんの言葉は、ハッキリと私の耳に届きました。
「ごめんね」
どうして謝られるのか……。気が狂いそうになりました。
私はその場から逃げ出しました。警察に捕まる事が怖かったので
はありません。
あの時から、お母様がずっとベランダに現われるように、そこに
いつまでも「ごめんね」と呟いた希美さんがいたからです。
幻影……。幻影です。でも、私にはその幻影を消す事ができなかっ
たんです。
お父様へ向けられていたお母様の愛を、どうして私に向けさす事
ができなかったのか?
そうした後悔が、私にいつまでもお母様の幻影を見続けさせるの
です。それだけでも、私の精神は崩壊してしまったというのに、
憎むべき相手に謝られた私はどうすればいいんでしょう。
逃亡中、私はお母様の眠る西洋墓地で、数日を過ごしました。
そこでは何も考えずに、ただお母様の眠る墓石にもたれかかり、
まるでお母様に抱かれているようにして数日を過ごしました。
黄昏時に教会の鐘がなり、また私はその場を去りました。
すべては、この鐘から始まったのです。この鐘の音を最後に、私
はお母様の元へ旅立つ決心をしました。
お母様のように、自ら命を絶つことも選択肢の1つです。
私は、その覚悟を持って病院へと赴きました。暴走するもう1人
の――いえ、暴走する私は、辻さん母娘を殺害し自ら命を絶つこ
とにしました。
もう、後戻りはできないのです。そうするしか、道はないと本気
で思っていました。
飯田さんは、私にとって未知の人物です。
もしも、このような人が私の側にいたのなら、私の人生はどうなっ
ていたのでしょう。
暗黒の世界に、私は身を投じたでしょうか。
もしもの世界を、空想すること自体が罪の重さと向き合わなけれ
ばならない今の私には不必要なのかもしれませんが、時々、そん
な事を考えてしまいます。
ただ、過去の過ちをないものにすることはできませんが、これか
らの私は、飯田さんと出会ったことにより変わるものだと信じて
います。いえ、変わらなければならないのです。それが、私が犯
した罪の償いなのですから。
――私は、ペンを持つ手を止め、便箋にびっしりと並んだ文字を
眺めた。
『石川梨華さん、お父さんが面会に来てるわよ』
「あ――、はい」
指導員の女性の声を聞き、私は素早くペンを走らせた。
まずは、その第一歩を踏み出そうと思います。
大きな声を出すまでに、私は相当の時間を要しましたが、ここか
らは差し出す手を掴んで、明るい方へ出ようと思います。
途中で迷ったりするかもしれません。
でも、必ず私は――。
『石川さん、今日も断るの?』
私は、明るい場所へと出ます。その時は、ご迷惑をおかけした皆
様の前へご挨拶に伺いたいと考えています。
『石川さん』
「あ、はい。今、行きます」
私はペンを持つ手を止め、便箋を机の中にしまった。
手紙は、また今度ゆっくりと書こう。だって、ここにはお父様との
ことを書いてないんだから――。
■番外編B 「松葉杖は必要ない」
雨の降る夜、アルバイト先から戻る途中に事故に遭い、右足を複
雑骨折して入院生活を強いられた。
事故に遭い――、まぁ、事故は確かだけど、自損事故。交差点の
手前に「止まれ」と地面に書いてあるあの文字の上でブレーキを
かけたら、見事にスッ転んでしまったってわけ。
おまけに、ただでさえ人通りの少ない場所なのに雨が降ってたも
んだから、通行人なんてまるっきりいない。
いつまで経っても誰も気づいてくれそうになかったから、痛くて気を
失いそうだったのに自分で携帯で救急車を呼んだよ。
虚しかったねぇ……。
俺、救急車が来るまでの間、ほんのちょっと泣いてた。
ひょっとして、このまま死んじゃうんじゃないかって心細くなっ
て……。
走馬灯とまではいかないけど、なんかいろんなこと思い出してた。
父ちゃんや母ちゃん、妹や友達や、大学で好きな女の子のことな
んかが頭をよぎってさ。
なんか、そう言うのって死の間際に見るってのを知ってたからさ。
足も物凄く痛むし、身体もガタガタ震えるしさ、あー、もう自分
は死ぬんだなぁとか思ったら、なんだか無性に泣けてきて。
死んだ後、どうするんだろうって泣きながら一瞬考えた。
葬式。みんな泣いてくれるかなぁとか。
でも、急に思い出したんだよね。自分の部屋のクローゼットの中
に、2日前に友達から借りたアダルトビデオを何本か隠してある
こと。
そしたら、涙は急に乾くし、こんなところで死ぬわけにはいかんっ
てなんか急に現実的になって――しばらくして、救急車がやって
来たけど、どうか家族に見つかりませんようにって、そればっかり
神様にお願いしてて気づかなかった。
命を救ってくださいじゃなくて、アダルトビデオ見つからないように
だもんなぁ……。
われながら、バカバカしいよ……。
入院生活2週間目だけど、今のところ家族の誰も気づいてないみ
たい。まぁ、気づいたとしてもそれを入院している人物にわざわざ
伝える家族もいないと思うけど。とりあえず、見つかっていないこと
にしておきたかった。
それにしても、入院生活は退屈。友達も最初の頃に、大勢でワーッ
と押しかけて来たきり、パッタリと姿を見せなくなった。たぶん、帰
りにでも看護婦さんに叱られたのかもしれない。
俺の話し相手は、同室の患者(じいさんたち)だけ。年なんか凄い
離れてるから、話しなんかぜんぜん合わないんだけど、それでも黙っ
て1日を過ごすのよりはマシだった。
でも、そんな俺にもほんのちょっとした楽しみができた。
恋――とまでは呼べないかもしれないけど、密かに憧れる女性を
病院内で見つけたんだ。
背が高くて、目がすごいでかくて、スラッとした長髪の女性。
名前は知らない。
患者でもない。たぶん、見舞いに訪れてるだけなんだろう。
たまたま、ロビーにジュースを買いに行ってる時に見つけたんだ。
まぁ、その時はあまり気にも止めなかった。
大学病院なので、見舞い客なんか1日に何百人もやってくる。
今日その人に会って、いいなぁと思ってもまた会える保証はどこ
にもない。
まぁ、ちょっと大袈裟かもしれないけど……。
ただ、その時はいいなぁって思っただけなんだ。
で、次の日かな、またその女性を見かけたんだ。
前の日とは時間はかなりずれてたけど――。
それから、ほぼ毎日のように女性を見かけるようになった。見か
けるようになったというよりも、俺が意識して女性の姿を探すよ
うになった。
俺はその女性の姿を見ることに、1日の大半の時間を割くように
なった。退屈な俺の、それが唯一の楽しみ。
その日も、女性の姿を見るためだけに、朝からロビーに居座って
いた。そしたら、なんか暗い顔した俺の父ちゃんと母ちゃんの姿
を先に見つけてしまい、ひょっとしたらクローゼットの中のアダル
トビデオでも見つかったんじゃないかとヒヤヒヤした。
でも、どうやらそうではないらしい。
俺の姿を確認すると、さっきまで浮かべていた沈んだ表情を、わ
ざとらしいほど笑顔に変えて手を振ってきた。
「嘘だろ……?」
なんか変だとは思ってたんだ。この1ヵ月近く、急に誰も見舞いに
来なくなってさ、それにさっきの父ちゃんと母ちゃんのわざとらしい
素振りだろ……、なんかあるなとは思ってたんだけど……。
俺の、右足の腱が切れてるらしい。
そのためには、骨折が治ってもすぐに退院することができずに、
まずはリハビリが必要で、それから腱移植を受けて、それからさ
らにリハビリが……。
「先生もリハビリ次第では元に戻るって言ってるんだ。頑張れ」
「もうすぐギプスも取れるから」
父ちゃんと母ちゃんは、そう言ったけど、俺はもうなんかそれを聞
いただけでお先真っ暗な気分になった。
大学の留年は決定確実な雰囲気で、この退屈な入院生活はま
だまだ続きそうだったから……。
それに、俺の足が動かないと知って、とたんに俺の元から去って
行ったやつらに失望したというかなんというか……。
とにかく、俺の心はほんの少し荒んだ。
それから数週間後、右足のギプスは取れた。
足首の筋肉をほぐすリハビリが始まったんだけど、これが恐ろし
く痛い。足の骨折の痛みが、まだ蚊に刺されたぐらいにしか感じ
ないほどだ。
療法士の先生は、この痛みに耐えきれずにリハビリを諦める人が
いるとかなんとか言ってた。
俺も、もうすぐその内の1人になるかもしれない。松葉杖をついて
いれば、なんとか歩けるし……。それに、手術の後にはもっと辛
いリハビリが待っているようなことを言ってた。
一緒に頑張ろうと先生は言ってたけど、痛い思いをするのは俺だ。
リハビリをしても完全に元に戻る、保証なんてないだろうし……。
元に戻ったからといって、特に楽しい何かがあるようには思えない。
虚しい世の中に、気付きつつあったからね。
俺は、そんな弱音を同室のじいさんに話した。
耳の遠いじいさんだから、どうせ聞こえていないだろうと思ってた
けど、なんか最新式の補聴器をつけてたらしくてバッチリと聞こえ
てたらしい。俺の弱音をナースに漏らしやがった。
なんか、いろんな人が来て、俺を励ましてくれたけど俺は逆に心
を閉ざしてしまった。
弱音を聞かれて励まされているのが恥ずかしいってのもあったし、
やっぱりどの先生も看護婦も”辛いけど乗り越えよう”みたいな
ことしか言わなかったので、けっきょくはそれかよって感じで、あ
まり聞く耳は持とうとしなかった。
弱音は吐いてしまったけど、本当にリハビリを辞めようとは思っ
てなかったんだけど、なんか励ましで逆に滅入ってしまい、俺は
それからしばらく本当にリハビリに向かわなくなった。
ある日、白衣を着た若い男の先生と、金髪のちょっとキツイ感じ
のする女性が俺の病室にやって来た。
男の先生の方はもう何度も俺の病室に来ては、リハビリの必要性
を説いている先生。
その日も、やはりリハビリの必要性について話していた。
俺は男の先生の話を聞きながら、病室のドアの前で腕を組んで廊
下側を見つめている金髪女性をぼんやりと眺めていた。
誰なんだろう?
先生と一緒に入ってきたけど、どうも医者らしくないし……。
同室のじいさんたちの見舞い客かとも思ったが、病室にやって来
たきり誰の所にも向かわずにずっとドアの前に立っている。
誰なんだろう?
俺は、ずっとそのことばかりを気にしていた。
なので、先生の話しはまったく聞いていなかった。
「わかったね」
と、先生に言われたので、一応「……はい」とだけ返事をしてお
いた。
先生が立ち上がると同時なのか、それとも俺が返事をしたのと同
時なのか分からないけど、ドアの前にいた金髪女性が眉間にしわ
を寄せながら俺のベッドへと向かって歩いてきた。
「あんた、ちょっと、きぃ」
と、ベッド脇に立てかけてあった松葉杖を俺に差しだした。
「な、なんですか?」
金髪。眉間に皺を寄せた顔。関西弁。その迫力に俺は、押された。
「ええから」
と、女性は、そう言い残すと廊下へと出て行った。訳の分からない
俺は、目の前でオロオロとしている先生に目線で指示を仰いだ。
先生は、少し不安そうだったが俺に頷きを返した。
金髪女性は、俺を中庭の見渡せる廊下にまで連れ出した。
いったい、こんな所で何をしようというんだろう。
「あそこ、見てみ」
と、金髪女性は中庭へと視線を向けた。
「背の高い子と、小さい女の子がおるやろ」
俺は、その背の高い女性に見覚えがあった。ひそかに、憧れを抱
いていたあの女性だった。
ヨロヨロと歩く少女の前に立って、何か声をかけている。
さすがに何を言っているのかまでは聞こえなかったが、少女を一
生懸命励ましているようだった。
「あの小さい子な、3ヶ月以上意識不明やったんや」
「……3ヶ月も?」
「脳幹神経がやられて、植物状態ってやつでな」
「……」
「脳は使わんかったらどんどん細胞が死滅して、意識を取り戻し
ても様々な障害が残ることがある」
少女のあのフラフラとした歩き方は、その障害のせいか……。
「あの子の場合は、左半身の麻痺と言語障害と記憶障害が現わ
れた」
「……」
「その前に、手術が終わってからは毎日、朝昼晩に30分、通電っ
てゆうて脳に刺激を送る作業があんねん。あの子の場合は、神経
がやられてたわけやから、それをまず正常に機能させるために電
気刺激を与えんねん。まずは意識レベルを上げることから始めな
あかんかった」
「意識……、レベル?」
「ちゃんと、見て、聞いて、動くことや」
「……」
「動けるようになるまで、手術から2ヶ月かかった。そこからや。
あそこまで回復するのに3ヶ月かかった。あんたの足の程度のリ
ハビリとちゃうで。歯が折れるぐらい食いしばらんと――、周りの
人間が心を鬼にせんと、あの女の子をここまで回復させることは
でけへん」
俺は、もう1度、中庭へと視線を向けた。
少女はやっと、女性への距離を3分の1ほど縮めたところだった。
「でかい女の子おるやろ、あの子、別に家族とちゃうねん。東京
から、ほとんど毎日ここに通ってんねん」
「東京から……?」
「あんたと同じ大学生や。まぁ、向こうの方がちょっと上やけどな。
大学が終わって、こっちに通ってるんや。新幹線の中が睡眠時間
らしいわ」
「……」
あの女性を病院で見かける時間帯が違うのは、そういう事だった
んだ……。
「今はもう、あそこまで回復してるからああやけど、最初の頃は
すごいスパルタやったらしいで。リハビリ室で毎日、あの小さい
女の子は泣いてたらしいわ。付き添ってた療法士の先生も、見る
のが辛かったらしいで」
と、金髪女性は中庭を見つめながら微笑んだ。
俺には、中庭の女性からはとてもそんな姿は想像できなかった。
「あんたは、あの2人のほんの10分の1でも努力したか? 痛
いんは誰でも痛いねん。痛ぁなかったら、リハビリなんか必要な
いからな」
「……」
「あんた、アレか?」
金髪女性が、俺に向き直った。
「足が動くようになるのに、諦めなあかん理由があるんか?」
「諦める理由……」
そんな質問をされた事はなかったので、俺はたじろいだ。
「まぁ、別にウチには関係ないことやけどな。ウチはただ、あの
2人の様子見に大阪から来ただけやから。ま、せいぜい心配し
てくれる人がおる間に答えを出しや」
金髪の女性は、そう言って手をヒラヒラさせながら去っていった。
俺は、しばらくその場から動けなかった。
リハビリを諦める理由……、そんなものはない。
リハビリを我慢して、続けて、その後に得られるものの方が圧倒
的に多い。
痛いのが嫌だなんて、何をふざけた事をほざいていたのだろう。
それだけじゃないはずなんだけど、なんかそれもどうでもいい事の
ように思えてきた。
ひねくれてた自分が、急に恥ずかしくなってきたよ。
”虚しい世の中”だって。
われながら、バカバカしいなぁと思ったよ。退屈な入院生活で、どう
にかなったみたいだ。まったく、バカバカしい。
赤面しながら廊下を歩いていると、少女がやっと女性の元に辿り
つくのが視界の隅に入った。
少女と女性は、笑いながら抱き合っていた。