魔鬼なつみ
ねぇ。なっちが死んだら、真希はどうする?
序幕 千年前の物語
数々の文献をひっくり返して、やっと見つけた小さな記事。
平安の時代――。
都を荒らす鬼の姫がいた。
鳥の如くきれいに笑い、華の如く美しい姿とはうらはらに
その力で気まぐれに家を壊し、気まぐれに人を殺める。
情け容赦無しと云われ人々を恐怖に陥れた鬼の姫は、『魔鬼』と名乗った。
噂を聞きつけた高僧、魔鬼と戦い
その命と引き換えに魔鬼の精神を鏡に封じ込める。
魔鬼の肉体と高僧の肉体は同じ墓に葬られ、
それ以降、魔鬼が復活する事は無かった。
なるほど、千年前だ。
私は頭の中で問いかける。これの事?
『そうそう。これこれ、これが私』
第一話 そこは希望を売るお店
雲一つない空の下を、私はひとり学校に向かっていた。
周りを行く生徒達の笑い声に淋しい気持ちになりながら校門をくぐり、
階段をあがって、音を立てないようにドアを開けて教室に入る。
――やっぱり。
いつも通り、私の机の上には花瓶が置いてあった。
私の胃がちくっと痛む。いつものことだけど、やっぱりつらいよ。
うつむいたまま教室の後ろに花瓶を持って行って置く。
「ちぇっ、つまんない反応」
「泣いたりしろよ、豚」
そんな声を背中に受けながら私は、机や椅子についていた足あとをハンカチでふいて腰をおろした。
気にしちゃダメ。
そう思いながら一時間目の用意していると、途中で机が蹴り倒された。
大きな音が教室に響く。
顔を上げなかった私には、小さな上履きが見えた。
矢口さんは私に向かって「無視かよ! お前朝からマジムカつくよ!」と
怒鳴ると、もう一度机を蹴った。
――なっちが何か言ったらもっと怒るくせに。
そんな言葉を飲み込んで、私はへらっと笑った。
「キショッ! こいつ笑ってるよ。マジキモい〜」
クラスが笑いに包まれて、矢口さんは去っていった。
私はやっと机を起こす。
これで良いの。へらへら笑っていれば嵐は過ぎ去るんだから。
「じゃあ、ふたりずつ組んでパスの練習してくださぁい」
体育の時間が一番つらかった。
誰も一緒に練習なんてしてくれない。
みんながパスを出しあってる間、私はすみっこで立ちつくしていた。
誰も何も言わないから、先生も気がつかない。
早く終われば良い――!
長い長い一時間、私の胃はちくちくと痛み続けた。涼しい風も暖かい陽光も
私の気持ちをやわらげてはくれなかった。
ひとりきりの帰り道、私は口を開く。
「あっ、あ――」と声が出ることを確認してほっとした。
今日も一日、一言も話さなかったので、出せるかどうか不安だったのだ。
放課後。
私はまっすぐ帰らずに図書館に向かっていた。
今のなっちのたったひとつの楽しみ。
学校も家もつまらない私にとって、本の中だけが私を裏切ることなく楽しませてくれた。
愛らしい姫、優しい王子、永遠の時間。ネバーランド、ティルナノーグ――。
「あれっ…?」
図書館に向かう途中の道でふと気づいた。
細い路地に隠れそうだけど、いつの間にか、こんなところにお店ができている。
読めない文字で書かれた看板をかかげたまるで絵本から飛び出して来たようなお店。
レンガ造りの壁、巻き貝のような屋根、両開きの扉。全てが私好みだった。
――可愛い!
「ご自由にどうぞ」の文字を確認すると、私は迷うことなく扉をくぐった。
わくわくする。中はどんな感じなんだろう?
「わぁ――」
ずらりと並んだ小物の数々。アンティークなものから、流行のものまで店内をきらきらと埋めつくしていた。
みんな台の上にちょこんと乗ってて、とても可愛い。
ここなら何時間でもいられそう。そう思った時「いらっしゃい」って声が聞こえた。えっ?
なっちが振り向くとそこには、金髪で碧い目のお姉さんが居た。
いつの間にこんな近くに――?
「ようこそ、裕ちゃんのお店に。ここは希望を売るお店やでぇ」
素敵な笑顔だった。
第二話 私は鏡を手に取った
希望を売るお店――。
私はそっと振り返って売り物を見た。そっかぁ、だから輝いているんだ。
「あの、お姉さん」
「裕ちゃん」
「…裕ちゃん、あの、ここ素敵なお店ですね。絵本の中の家みたいです」
なっちがそう言うと、お姉さん――裕ちゃんはふぅん、って顔をして「あんたにはそう見えたんだ」と言った。
「えっ?」
「ここはな、あんたの希望が売ってるの。あんただけの希望やで」
その言葉でなっちは楽しい気持ちになった。
ふふっ、そういうファンタジー嫌いじゃないんだ。黙って聞くよ。
「ほかの誰にも見つけられないんや」
「よぉく見てみぃ。ひとつだけ、とぉっても輝いてるから」
本当だ。いろんな小物が並ぶ中で、ひときわ注意を惹くのがある。
どれよりも、それがすっごく気になる。
和紙に包まれてぐるぐるに縛られたそれは、形からいって――。
「手鏡だね」裕ちゃんはうなづいた。
「それが欲しいってことは、今あんたが欲しいのはお金でも安らぎでも無くて、チカラやね。精神力とか」
その言葉になっちはびくっ、と顔をあげた。
どうして、わかったんだろう?
「不思議そうな顔やなぁ。わかるんや、この商売を長くやってるとな」
長く、ってまだ裕ちゃん若そうなのに。
「あの、長く…って、どれくらいですか?」
裕ちゃんは微笑んで答えなかった。
外に出るともう真っ暗だった。
図書館には行けなかったけど、きっと図書館以上の不思議な体験だよね。
可愛いお店、そして裕ちゃんも優しくて良い人だったし。
私は手鏡の入った袋を見た。
――うん。
裕ちゃんは使ってみて気に入ったらお金を払ってくれって言ってたけど、やっぱり明日払いに行こう。もう一回行きたいし。
ふふっ、なんか嬉しくて顔が笑っちゃう。
明日また行っても、なっちの事、憶えててくれてるかな――。
家の前にはパパの車があって、また胃が痛んだ。
――きっとまたケンカしてる。
思ったとおり、ドアを開けた途端に怒鳴り声が聞こえて、私はため息をつく。
私は声を出さないよう「ただいま」って言うと、音をたてないように階段をのぼり部屋に入って鍵を閉めた。
現実は、やっぱり現実。
さっきまでかかってた魔法は砂のように崩れてしまった。
下からは怒鳴り声や何か叩くような音も聞こえて、私は電気もつけず制服のままベッドに飛び込んでふとんをかぶった。
眠りたい。何も考えなくて済むから…。
いろいろな人のいろいろな言葉がなっちの頭をめぐる。
「ムカつくんだよ! 何なの、お前!?」
「え、やだ、あの子。いっつもひとりで気持ち悪いんだもん」
「なつみはママの味方よね?」
「安倍に積極性が足りないのも悪いと、先生思うぞ」
「パパとママが離婚したら、なつみはもちろんパパと来るよな」
「生きてても楽しくないでしょ?」
「いなくなれば良いのに」
「死んじゃえば?」
「ってか死ねよ」
「――だろ」
「……」
「んっ…」
やだ、本当に眠っちゃった。
時計は真夜中をさしているのに私はまだ制服で、まくらがちょっと湿っていた。泣いちゃったんだ。
「絶対泣かないって決めてたのに」
目がすごく腫れてる気がする。
ドアの隙間にはさまれた、晩ご飯は暖めて食べてください、の紙を丸めて捨てた。――そうだ、手鏡。
紐をほどいて和紙を取ると白い手鏡が出てきた。
「わぁ――」
アンティークで素敵なデザイン。可愛い過ぎてため息がもれる。
そっか。希望を売るってこういうことだぁ。
鏡の中のなっちはいつものへらへら笑った顔じゃなくて、きりっとしたハンサムな顔になっている。目も腫れてなかった。
仕掛け鏡って訳ね。
ちょっとたれ目で離れぎみだけど、意志の強そうな顔。
きっとこのなっちなら、いじめになんて負けないんだろうな。
私は、こつん、と手鏡におでこを当てた。
「こっちが本当のなっちだったら良かったのに」
『本当だよ、なっち』
――えっ?
顔をあげると、鏡の中のなっちと目があった。
第三話 ひとつの身体ふたつの心
温かい――。
なっち、誰かにだっこされてる。女の子だ。しかも服を着ていない。
えっ、なっちも着てないよ。やだ、恥ずかしい…。
『落ち着いて、なっち』
可愛い声。すっと力が抜けるのがわかる。
うん。あったかくて気持ち良い。頭がぼうっとする…。
私はあらためてその子の顔を見た。
きれいな顔だな、って思った。さっき鏡にうつったなっちの顔に似てる。
じゃあ、これはもしかしてなっちの顔なの?
そう思った時、その子が『そうだよ』って言った。
そっかぁ、こんな美人なら嬉しいな。…ねぇ、おでこにあるの、何?
『角』
つの?
ねぇ、キミなんで角があるの?
『真希だよ、なっち。ねぇ、強くなりたいんでしょ?』
真希ちゃん。可愛い名前だね。うん、なりたい。負けたくないの。
『してあげる』と言って真希ちゃんの顔が近付いて来た。
――えっ?
『じっと、してて…』
真希ちゃんの口唇が、なっちの口唇に近付く。避けられない。
やだ…。ん、んっ――。
口唇に何かが押し付けられるような感触がはしった。
気がついたら私は、部屋の真ん中で横になってた。
「夢?」
自分の身体を見た。服は着てる。でも、何か夢って感じがしない。
私はそっと口唇に触れる。だってまだ感触が残ってるよ?
『夢じゃないよ、なっち』
――夢の中の声!?
振り返ったけど、誰も居なかった。って言うか、何か頭に直接声が響いたみたいだったんだけど…。
『あたり』
なっちの腕が勝手に動いて、なっちの頭を指差した。
『ここから呼びかけてるから』
その手は動きを止めないで、そのままなっちのおでこをさわる。
『おぉ。角もなくなってるよぉ』
何これ? 怖い。どうなってるの――?
『ちゃんと説明するから。ねぇ、その前に何か食べたいんだけど』
『これ、すっごい美味しい! 何て言う食べ物?』
…ハンバーグ。
なっちの腕は、なっちが動かさなくても箸を運んでいた。
まるで、絶対に間違えない二人羽織りのよう。
『はんばぁぐかぁ。こんなのが毎日食べられるんだぁ』
「そんなことどうでも良いよ!」
ファンタジーは嫌いじゃないよ。嫌いじゃ無いけど――。
いったいどう理解したら良いのさ?
『夜中にうるさいよ。声に出さなくても聞こえるから』
この子の言うことがあまりに正論で私は黙る。
ここでパパやママを起こしたらますます面倒な予感がする。
『理解も何も教えた通りだよ。なっちの身体に私も居るの。それと』
そこでその子は一度言葉を切った。
『ちゃんと教えたでしょ。私の名前は真希だってば!』
真希はしっかりご飯を食べた。はぁ。こんな夜中にこんなに食べたら、また太っちゃうよ。
いや待って。もしかしたら夢かも知れないじゃない?
『しっかりご飯まで食べてまだそんな事思ってんの?』
思ってみただけだよ、もう。
私は立ち上がって食器を水にひたして、キッチンの電気を消した。
『眠るの?』
ううん。その前にお風呂はいんなくっちゃだから。
――お風呂。
自分の言葉に、はっ、となって私はお風呂場に走った。
顔は?
なっちの顔はどうなってるの――?
「良かったぁ」
鏡にうつる顔は、見なれたなっちの顔だった。変わってない。
…じゃあ、身体は?
夢の中の真希はすっごいプロポーションだった。そっちはどう?
私はつばを飲んで、服をすべて脱いで全身鏡にうつした。
やっぱり見なれたなっちの身体がうつっていた。
――ちぇっ。こっちは少しくらい変わっても良かったのに。
『なに都合の良い事考えてんのさ』
「きゃっ!」
忘れてた。なっちひとりの身体じゃ無いんだ。私は身体を抱えて脱衣所にうずくまった。
『隠さなくても良いじゃん。減らないんだし』
また身体が勝手に動く。なっちは立ち上がって、手を広げた。
鏡に全身がうつる。真希のせいで目もつぶれない。お願い、やめて――!
『ふぅん。しっかしさぁ』
両手が胸をつかんだ。
『なっち、おっぱいちっちゃいねぇ』
「ひゃぁぁあ!」
第四話 千歳年上の彼女
『怒んないでよぉ』
「怒るよぉ!」
私は両手でお風呂のお湯をばしゃばしゃ叩いた。
夢の中ではあんなに素敵だった声が、今はただムカつく。
ちぇっ。気にしてるのに…。
『そうなの?』
ふん、知らないよぉだ。
私はろくに返事もしないで頭を洗い始めた。
『悪かったってば。ねぇ、真希と会話しようよぉ』
会話――。
その言葉でなっちの手が止まる。
そう言えば、誰かとこんなに話すのって久しぶりだ。
それに私、さっき怒ってた。
どんな事だってへらへら笑ってごまかしてきたのに。
ずっと黙って通り過ぎるのを待ってるだけだったのに。
私はシャワーで泡を流す。
「ねぇ、真希」
――これが真希のくれた強さ?
『あっ、なんか普通の声じゃない。機嫌直してくれた?』
顔が笑顔になってくのが自分でもわかる。
うん。お話ししよう。なっちさ、もっと真希のこと知りたい。
『真希のこと? …少なくともなっちよりはおっぱい大きかったよ』
「もう胸の話題は良いってば!」
湯舟に身体を浮かべたまま、私は真希の話を聞いた。
信じられない、そう思いながらも嘘じゃないのはわかる。
嘘をつく理由がないから。
『そっかぁ。長かったと思ったら千年も経ってたんだ』
平安遷都の頃だなんて――。
何も無い鏡の中。
『広かったけどね』
…ずっと、ひとりだったの?
『そりゃまぁ。誰もいないし』
千年もひとりなんて、いったい何をどうすれば良いんだろう。
永遠の孤独。
私には耐えられない。
『耐えられるよ。死なないんだから』
「あっ…」
何考えてんだ、私。
そんなの真希だって好きで耐えたんじゃないんだ。
軽率な自分が恥ずかしくなる。
「ごめん」
『あ、うぅん。気にしてないってば。――ほら、泣かないんでしょ!』
目に涙がにじみかけたけど、私の手が勝手に動いてばしゃばしゃと
顔を洗って流してくれた。
「ありがと」
優しいね。
真希は、強いのに、優しいんだね。
『なんだよ、照れるじゃん』
ねぇ、私達が離れる方法ってあるのかな?
『うぅ〜ん。ないとは思わないけど…私は知らないや』
そっか。
強い真希と弱い私。
全然違う私達は一生同じ身体で生活していくのかも知れない。
――それでも良いと思えた。
私はそっと自分の身体を抱きしめた。
「真希で良かった」
『あはは』
抱きしめる手に私以外の力が入る。真希に抱きかかえられるのはこれで二度目だね。
『うん』
ゆっくりと流れる時間の中で、私はふいに気づいた。
ねぇ、千歳以上も年上なんだし「真希さん」って呼ぼうか?
『…嫌』
『言っとくけど私、封印された十四歳のままのつもりだから』
「え――っ!」
思わず湯舟から立ち上がりそうになる。十四歳?
あのプロポーションで、なっちより三つも年下なんて。
『えっ、なっち十七歳なの? あのおっぱいで』
うっさいよぉ!
そう思ってなっちがまたお湯をばしゃばしゃ叩こうと思った時、真希が
『まぁね、鬼の方が人間より成長が良いから』と言った。
忘れていた。
姿が、おでこの角が見えない今、真希はなっちにとって人間と同じだ。――でもやっぱり鬼なのだ。
なっちは強さを得た代わりに、何か大事なものを失ってるのかも。
『何かって?』
いやまぁ、特には思いつかないんだけどぉ…。
お風呂をあがった私は、もう一度鏡で顔を見た。
いつもの顔。
うん。ほっぺのむくみも、目の腫れも目立たなくなってる。良かったぁ。
『長い事お風呂に入ってたしね』
ねぇ。
パジャマに着替えた私は、帰ってきた時のように音を立てずに階段をのぼり、乾きかけの髪のままベッドに飛び込んだ。
温まったお風呂あがりの身体を、温かいふとんで包む。
「…ふぅ」
長い一日だったな。
ちょっと生意気で優しくて三つも年下なのに千歳も年上の美少女。
あはは。我ながらぴったりの形容。
『うっさいよ』
一応誉めてるのに。
…なんか疲れちゃって、目が開かなくなってきた。
出しっぱなしの手鏡は明日の朝に片付けよっと。
「おやすみぃ」
『うん、おやすみ』その声で、私は眠りに落ちていった。
何もない空間の中に、私はひとりうずくまっていた。
自分以外の全てが白くて何の音も聞こえない。
突然。
そこに光が射して、誰かの声が聞こえた。
『あの、長く…って、どれくらいですか?』
私は立ち上がり、その声に向かって歩き出す。
『絶対泣かないって決めてたのに』
近づいている。もうすぐそこ。
『こっちが本当のなっちだったら良かったのに』
声の先には、ひとりの女の子が私のようにうずくまっていた。
やっと、会えた。
私はその子をぎゅっと抱きしめて、そっとささやく。
「本当だよ、なっち」
温かかった。
――そんな夢を見た。
第五話 しなやかに腕は曲がる
小さく鳴る電子音に呼ばれて起きた私の目に、見なれた風景が飛び込んでくる。
昨日も見たこの風景は、きっと明日も見る風景。
そのあまりの変わりのなさにもしかして、と思う。
――真希、おはよう…。
返事がない。
部屋を見回すと、白い手鏡が落ちてるのが見えた。
そうだよね、あれがすべて夢なんてわけないよね。そう思いながら制服に着替え出した。
だったらなんで?
そう思った時、『おはよぉ。早いね』と声が聞こえた。
おそいよっ。
ほっとすると同時に気づく。
なっち自身は、昨日とはすっごく変わっちゃったんだなぁ。
朝の仕度の間、なっちの予想と違って真希は静かだった。
てっきりテレビとか冷蔵庫の事とかで質問責めかと思ってたのに、結局聞かれたのは朝ご飯のハムトーストの名前だけ。
『ん。まぁ、こういうものなんだな、って納得してる』
そっかぁ。
そんな感じでいつもよりゆっくり用意をしてたらお母さんに「なつみ、間に合うの?」と注意された。
「遅刻させたらお母さんが怒られるんだから。早くしてちょうだい」
「…はい」
とげのある言葉。
嫌だな。すべてが変わったわけじゃない。胃がちくっと痛んだ。
『あっ…』
真希も黙っちゃった。ごめんね、雰囲気悪くなっちゃって。
『…なっち、って本名じゃなかったんだぁ!』
…そっちなの?
「いってきます」
『小さい声だね。多分お母さんに聞こえてないよ』
良いの。私はそっとドアを閉めた。
今日も天気が良くて風もさわやかだったんだけど、私はうつむきがちに歩き出した。
気になっていたことがあった。
『朝から元気ないね』
その言葉には答えずに言う。
あのね、真希。昨日のお風呂での話の続きなんだけど。
もし、私の仮定が当たっていたら――。
『うん? 京に都が移された話?』
そっちじゃなくて。
あのさ、なっち昔どっかで聞いたんだけど、そういう病気っていうかたまにそういう感じで生まれてくる人がいるんだって。
『そういう感じ?』
学校が近づいて生徒が増えてきて、私はだんだんとすみっこに寄る。
あの、骨の一部が生まれつき形が違う人。
だからさ、きっと真希もたまたまおでこに角に見えるような骨があっただけじゃないかなぁって…。
そこまで言ったところで真希は笑い出した。
『いやいやいや。ちゃんと鬼の生まれだから』
『長くなりそうだから昨日は言わなかったんだけど』
それは昨日以上に衝撃的な話で、なっちは何度も聞き直した。
真希が言うには馬と並ぶ速さではしれたらしいし、それに――。
『人の首なんて片手でちぎり落とせたよ』
そう語る真希の声は少しも悪びれたところなんて無くて、なっちの心臓は痛い程、大きく動いた。
そっか。だからきっと鏡に閉じ込められたりしたんだね。
『あはは』
学校に行くのはいっつも苦痛だけど、今日はそれ以上に真希の話が私には重かった。
手にした強さは諸刃の剣だった。
私の腕は勝手に動いて、小さな力こぶをつくった。
『まぁね。この腕と足じゃなんにもできなさそうだけどね』
第六話 動き出した世界
始業十分前の予鈴が鳴る頃に、私は校門をくぐる。
真希と話してるうちにちょっとだけ遅くなってしまった。
ざわめく生徒達の隙間を縫うように階段をのぼり、
音をたてないように教室に入った私の視線の先には、花瓶の乗った机が見える。
『なんであの場所だけ花が飾ってあんの?』
なっちの席だからだよ。
『へぇ。なっち歓迎されてるんじゃん』
その言葉には答えないで席に向かう。
クラス中の視線が集まってるのがわかる。胸が痛い。
「うわぁ、今日も来たよ」
「よく来るよね。何が楽しいんだろ?」
聞こえよがしの声。
ねぇ。その言葉がどれだけなっちを傷つけてるか知ってるの――?
席についた私は、いつも通り花瓶を元の場所に戻そうとつかんでそしてすぐその手を放した。――えっ?
『良いじゃん。きれいなんだしこのまま置いておこうよ』
ダメだよ。そんな。戻さなきゃ。
『まぁまぁ』
真希、お願い。本当にまずいの。
『まぁまぁ』
何度持とうとしても、その度に真希にじゃまされて、結局花瓶はそのままに一時間目の用意をするはめになった。
ふと気づく。
教室のざわめきがいつもより大きい…?
もうすぐ本鈴が鳴るというその時、ひとつの影が近づいてきた。
「お前、何調子に乗ってんだよ」
矢口さんと、その声に顔をあげた真希の目が合う。
うつむいて嵐が過ぎるのを待つという選択肢はもう選べなかった。
『このちっちゃい子、怒ってんの?』
花瓶を元に戻さないから…。
『ふぅん。別になっちが置いたわけじゃないのにねぇ』
「あっ。もしかしてなつみちゃん、反抗期?」
その言葉にクラス中が笑う。
真希もにっこり笑うと、立ち上がって花瓶を持った。
良かった。なっちがそう思ったのもつかの間。
『あの子さっき、ここに座ってたよね』
――コトン。
真希が花瓶を矢口さんの席に置くと、教室は一瞬で静かになった。
『これで良いでしょ』
真希は笑っている。
私は、なっちはどんな顔をしているんだろう――?
止まりかけた時が一斉に動き出す。
矢口さんが「お前っ…!」と叫んだと同時に教室のドアが開いた。
先生が姿を見せて、みんな席に戻る。
「はい、席について…って矢口。なんだ、その花瓶は?」
「あ、いえ。今片付けます」
そう答えて花瓶を持って行く矢口さんは、こっちを見ることもなくてなっちにはそれが返って怖かった。
『持ってっちゃうの?』
真希が驚いたように言う。
『じゃああの子、結局どうして欲しかったんだろ』
授業の内容なんて全然頭に入らなかった。
一時間目が終わった後の休み時間のことを考えるだけで、胃が痛くなってくる。
真希のバカ!
…どうしてなっちに花瓶を片付けさせてくれなかったのさ。
『って言うかなっちは、なにを怒ってるの?』
この後の事を考えてるからだよ、もう。
私は口を尖らせる。
逆らわなかったら、最小限の被害で済むはずなのに。
『被害なんて出てないじゃない。それに――』
真希が本当に不思議そうに言ったその言葉は、なっちの胸に深く突き刺さった。
『逆らう、って誰も何も命令もしてないじゃん』
授業が終わって休み時間になっても、なにもなかった。
みんな思い思いに談笑したり、次の授業の用意なんかしてる。
ちらっと見た矢口さんも友達と話なんかしてて、なっちのことなんてまったく気にしてないようだった。
――良かった。
『そりゃまぁ、花瓶を置いたくらいだし』
ほっとすると同時に、少し落ち込む。
当たり障りのない反応をするのが一番だと、なっちは勝手に決めつけていた。
鍵のかかってない檻で、出られないってわめいてたんだ。
『ちょっとぉ。こっちまで暗くなるから落ち込まないでよぉ』
うん。…ごめんね、真希。
『ほらぁ、過ぎたことなんだし。ほらほら、元気出す!』
私の手がきゅっと頬をつねった。
『天気も良いし、お弁当もおいしいね』
そうだね。
屋上でふたりで食べるお弁当は、いつもよりおいしく感じた。
おかずの名前を何度も聞いた真希を見てて思う。
もしかして、食べ物にしか興味ないんじゃあ――?
『そんなことないよ』
じゃあ他に好きなことある?
『眠ること』
…無いってことね。
私の答えに真希は笑って、そんなことないよ、と言った。
『今はさ、食べたいとか眠たいって思えることが、嬉しいんだよね』
『ふぅ、ごちそうさま。おいしかった。お母さんに感謝だね』
お弁当箱を片付けながら言うその言葉に、また私の胸が痛む。
真希はどうしてそういうことが素直に言えるんだろう?
私は口唇をかんだ。真希に比べると、とことん自分が嫌な子に思える。
ごめん。今まで感謝なんて考えたこともなかった。
『当たり前のように思ってた?』
私は、こくん、とうなづく。
『まぁ、私も鏡の中で考えるうちにそう思うようになったんだけどさ』
突然に否定された現実。
真っ白の世界の中で、存在したのは自分と無限の時間だけ。
『当たり前、なんてないんだなって』
真希はなっちよりずっと大人だね。
…なっち、やっぱり真希のこと「真希さん」って呼ぶよ。
『頼むからやめて』
お昼ご飯を食べ終わっても、私達は屋上でこの暖かさと涼しさを楽しんでいた。
次の授業では同じ空気をどう感じるんだろう?
そんな思いがなっちにのしかかって、胃がちくちく痛む。
いけない。
私は首をふった。
檻は開いていたんだ。――あとは自分で出て行くだけ。
『あの子達、なんだか集まってるよ』
校庭を見ると、体操着の集団がだんだん増えて来たのがわかる。
…ふぅ。
なっちも早く着替えて行かなきゃ。
「じゃあ今日は昨日の続き。ただしパスの前にドリブルをしてから渡すこと」
いよいよ。
がんばろう。檻は、開いているんだから。
「それじゃあ、ふたりずつ組んで。はい、開始!」
あのっ。
私と――。
誰とも視線が合わない。
『なっちさぁ、声が出てないよ』
出してるつもりなのに。足も一歩も前に進まない。
それでもなんとか手を伸ばしたとき、後ろから小さく「豚はすみっこで鳴いてろ」って声が聞こえて、なっちは動けなくなった。
変えられなかった。
結局私はひとりですみっこに居ることを選んだ。戻ろう、檻の中に。
少なくとも出ようとするより、出来る傷の数は少なくて済むから。
『あはは。豚は良かったね』
えっ。
…真希までそんなこと言うの?
『や。だって、ちょっと当たってるじゃん』
何も言えない。
悲しくなってきた。なっち、真希がわからないよ――。
真希はなっちにお構いなしにボールを地面に置くと、見よう見まねで足で操り始めた。
風がなっちの髪を崩して、真希がそれを大きくかきあげる。
『なるほどね』
真希はあっさりコツをつかんだようで、自在に操っている。
一度空中にあげたボールはなかなか地面に落ちなかった。
すごい。さっきまでの悲しさが飛んでいっちゃうくらい、真希は上手だった。
なっちの身体でもこんなにできるんだぁ。体育なんて何をやってもダメだったのに。
汗がにじむ。風と陽光が身体を通り抜けて行く。
『私もやりたいな。みんなやってるの』
ふと気がつくと、みんなが見ていた。――先生までも。
『いるじゃん。ひとりの人』
「すごいな、安倍。どこかで特訓でもしてきたのか?」
その問いには答えず、真希はボールを蹴りながら先生に近づいた。
先生の「相手がいないのか?」の問いに真希は何度もうなづく。
「安倍、声はどうした?」
『なっち、話して』真希にせかされて私は声を振り絞る。
「あのっ。お相手、お願いします…」
残り時間は先生とパスをして過ぎ去った。
――体育の時間がこんなに早く感じたのはいつ以来だろう。
気持ち良い。風も太陽も輝いて見えた。
たまには運動とかしようかな?
『あはは。良いね』
真希は真上にボールを蹴ると、両手で受けとめた。
第七話 左手右足
一日の終わりを告げるチャイムが鳴って、教科書を鞄に入れながら思う。
今日は昨日とすべてが違った。
なっち自身だけじゃなくて、まわりも変わりつつある。
ありがと。すべて真希のおかげだね。
『そう? なにも大したことはしてないと思うけど…』
違うよ。その大したことじゃないって思うすべてのことが、なっちの今日を今までと変えてくれたんだから。
やっと鞄にしまい終えた頃にはもうまわりに人は居なくなってて、やや暗くなった教室になっちの影だけが長く伸びていた。愛おしい静かさ。
でも急がないと。
お金を払いに行きたい。お姉さん――じゃなくて裕ちゃんに会いに。
『お金?』
そっ。真希の代金。
真希がえっ、と高い声を出して、私はあははっ、と笑った。
急ぎ気味に階段を降りて靴箱の前に来た。外靴を取り出そうとしてはっ、とする。
本当にこのまま何事も無く終われるの?
記憶がよみがえる。濡らされた靴、砂を詰められた靴、隠された靴。…。
『そんなことあったんだ』
うん。私は目を閉じて靴箱を開け、軽く息を吸ってから片目だけ開ける。
「…あった」
ちゃんとあって、しかも朝から変わっていなく見える。
終わった。本当に今日は終わったんだ――!
すべてが輝いて感じて、顔が勝手に笑っちゃう。
今日を思い出しながら靴を履き替え、上靴をしまった瞬間。靴箱を閉じる音と同時に、なっちを呼ぶ声が聞こえた。
聞き覚えのある声は振り向かなくても誰からか解る。矢口さん…。
「安倍ちゃん、待ってたんだ。ね、ちょっと良いかな?」
なっちが振り向くとそこには、極上の笑顔があった。
「なんか私さぁ、安倍ちゃんのこと誤解してたかも」
矢口さんが微笑みながら近付いてきて、なっちの胃がちくちく言い出す。
怖い。空気がまとわりつく嫌な感じがして少し暑い。
「今までさ、私達、あの」そう言いながら矢口さんは私の手を握る。
「安倍ちゃんのことをさ、その…すっごいグズな子だと勘違いしてたみたい」
「うん…」私の顔がまたへらへらとしだす。時の進みが遅く感じる。
「だからさ、みんなで謝ろうと思って――ね?」
『へぇ』
小首をかしげて矢口さんが私の左手をひっぱる。嫌だ、行きたくない。
「あ、うぅん。良いよ。別に…」消え入りそうな声なのが自分でもわかる。
「え!? なに? よく聞こえなかったんだけど」
その言葉で胃がずきっと痛む。
玄関には誰も来ない。時間は進んでいるんだろうか――?
「気にしてないから良いよ…」
「そんなこと言わないでよぉ。向こうでみんな待ってるんだからさぁ」
矢口さんが強く引く手は、断る自由をなっちから奪う。足が動く。
『行きたくないなら行かなきゃ良いのに』
真希の言葉に下口唇をきゅっと噛んだ。
出来ないよ、そんな事。もし行かなかったらどうなるか考えたくないもん。
『ふぅん。まぁ、なっちも笑ってることだしね』
それは…。
矢口さんに連れられて歩く途中でガラスに映った顔は確かにへらへら笑ってて私はすぐに目をそらした。
校舎の横を手を繋いだまま歩いていた。
校庭からかすかに運動部のかけ声が聞こえるけど、周りにはなっちと矢口さんの姿しかない。
「安倍ちゃんさぁ、サッカーの特訓したんでしょ」
「うぅん、してないよ」
「またぁ。超上手かったじゃん。特訓して見返そうとか思ってたの?」
「そんなこと思ってない…」
「マジで見返せたと思ってる?」
『なんかひっかかる言い方だね』
矢口さんの言葉のひとつひとつが突き刺さるように痛かった。
ちょっとでもスピードを落とすと、矢口さんは力を入れて手を握り返してきた。
玄関前での好意的な口調も少しずつ薄れている。謝りたいって言ったのに。
見上げた空の薄暗さがなっちの気分そのものに思える。
もしかして今日は、これから始まるのかも知れない――。
校舎の陰にまわって、やっと私達の他に人影が見えた。
同じクラスの保田さんと隣のクラスの飯田さん。
「おぅ。矢口、お疲れぇ」
「オッス」
「遅れちゃったね。安倍ちゃん遅くてさ」
「いっつもじゃん。何やらせても遅いよなぁ」
飯田さんがそう言って、みんな笑った。なっちもうつむきがちにへらへら笑う。
早く終わってほしい――それだけを願って。
『あはは。そう言えばなっち、着替えもお風呂も遅かったよね』
真希の言葉だけが優しさに満ちてて、私はすっと落ち着く。
そうだ。ひとりじゃないんだ。
そう思うと力が少しだけ湧いて、顔を上げられた。目に飛び込んでくる光り。
「まぁ、それより今はね」矢口さんが飯田さんと保田さんを交互に見ながら言う。
「安倍ちゃんと私達の仲直りが目的だから」
「無礼講ってことでさ、今まで言いたかったことを語り合おうと思って。ね?」
保田さんのその言葉で三人はくすくす笑った。
やっぱり。最初からわかってた。
もう先も読めちゃったよ。
「安倍ちゃん、うちらに言いたいことある?」と聞かれて私は首を振った。
目立たない場所。暗いのは光が射さないだけじゃない、と思う。
「じゃあさ、うちらから言うね」最初は保田さんだった。
「私さぁ、ずっと安倍のこと居なくなれば良いのにって思ってたんだ。ゴメンネ」
『なるほどねぇ。私にもわかったよ』真希の感心した口調。
『変わらないね、人間のやることは。…って言うかさ、やっぱり千年経ってるって嘘じゃない?』
うぅん。本当に千年経ってるんだよ。たださ。
――きっと人間が変わってないんだよ。弱い人間も、強い人間も。
「安倍ちゃんの鞄でサッカーしちゃいました。ごめんねぇ」
「私、安倍の靴をうっかり水に浸しちゃったぁ。ホントごめん」
エスカレートしていく。私はうつむいてただ首を振るだけだった。
「許してくれるんだ。安倍ちゃんって優しいなぁ。ねぇ?」
「うん。私だったら泣いてる。安倍はこのくらい平気なんだね」
「って言うかさ、もっとやって欲しいくらいに思ってるんじゃん?」
全ての言葉が聞こえない。早く時間が過ぎて――!
『もうさぁ、こいつら放っておいて帰ろ』
待って、真希。もうすぐ終わると思うから。お願い、過ぎ去るまで――。
「ずっと安倍のことむかついてたんだ」
「サッカー憶えたからって調子に乗ってんな、豚」
「あはは。矢口、それ謝ってないから」
私はとうとううつむいたきりで、首を動かすのもやめてしまった。
「朝もさぁ、人の机に花瓶置きやがったじゃん。何様のつもりだって」
「あぁ、あれはむかついたね。こいつ殺すって感じだった」
「なんか許せなくなってきたな。やっぱ仲直りやめっか」
『もう苛々してきた。なっちが帰らないなら、私が帰るからね』
なっちが止めるのも聞かず真希は歩き始める。
「まだ終わってないだろ」矢口さんはなっちの肩をつかんで顔を覗き込む。
「勝手に帰ろうとすんなよ。…泣けば許してやるかもだけどさ」
閉鎖された空間に風が吹いて、私の髪を揺らした。真希がまた左手でかきあげながらつかまれた肩をにらむ。
『…何だよ、この手』
スイッチが入ったようにすべてがスローモーションになった。
真希の左手が矢口さんの頬を叩き、返す手で襟首をつかみ仰向けに倒す。
「いって…」と言いかけた矢口さんの首に右足を乗せて力を入れると、その声は途中で「ぐっ」とつまった。
『気安く触んじゃねぇよ』
誰もが呆然とする中、氷のような声が頭の中に響いて私の金縛りが解ける。
ねぇ真希、何が、どうなったの?
『お仕置き』
そう言って真希は右足に体重を乗せる。矢口さんが苦しげに咳き込む。
まだ足下の光景が信じられない。勝手に動く左手と右足に現実が消えていく。
…嫌ぁ。
いつの間にか、こんなに暗くなってた。
「何してんだよっ! 足どけろっ」次に呪縛がとけた保田さんが私に向かってくる。
真希はその手をかわしながら保田さんに左手を伸ばす。
なっちの指先に触れるやわらかい感覚と、なにかを突き破る感覚。
嫌だ。
「いっ、てぇ…!」
うずくまって顔を押さえる保田さんの目から、血が二本流れたのが見えた。
そのあまりの赤さに血の気が引く。
「…嫌だぁ」
真希。お願いだから。もう良いでしょ。やめてよ! やめて!
『いぃや。まださっきまでの苛々は取れないね』
顔をあげると、真っ青な顔の飯田さんと目が合う。
『まだあいつが残ってるじゃん』
真希は口唇を舐めた。私の口唇を――。
勘違いしていた。
真希は、こんなにも子供だった。
気まぐれに笑ったり怒ったりして、時には残酷に他人を傷つける。
――誰にだって痛みも感情もあるのに。
千年の時を経て得たのは、どんな現実も受け入れる心?
真っ白の空間で学んだのは、無関係のことは静観しようって気持ち?
なっちにはそれはとても大人に見えたんだよ。
強くて優しい真希。
…誰もいなかったから?
誰もいなかったから、他人にも痛みがあるってことを忘れてきちゃったの?
真希を抱きしめようとした私の手は、ぴくりとも動かせなかった。
「…ろよぉ」
大きな声が響いて、意識が現実に戻された。
「足どけないと、矢口、死んじゃうだろぉ…!」
飯田さんが泣いていた。なっちの胸が大きく鳴りだす。友達を思っての涙。
ねぇ、真希はあの目を見てもなにも感じないの――!
『感じない。って言うかさ、自分だったら嫌だって思って泣いてるだけだよ』
「やめてよぉ…お願いだからさぁ…」
飯田さんの言葉のリズムに合わせて、真希は右足に力を入れる。その度に矢口さんののどから「ごほぉ…!」と咳がした。
矢口さんの顔は紫色に近くて、なっちの右足を握る手にはほとんど力がない。
真希が三人を見渡す。
もう誰の顔にも向かってくる意志は感じられなかった。
『あれっ、もう来ないの?』
『じゃぁ…』
真希が右足を矢口さんののどから放す。開かれた矢口さんの目は潤んでいた。
飯田さんの涙は止まりかけていて保田さんは目を押さえたまま動かない。
もう時間の経過も解らないけど、やっとすべて終わろうとしている。
ふいに。
真希が空中に上げた右足をひざの高さで止めた。
「あっ――」
私の心臓がまた痛いほどに鳴る。三人も気付いたようで顔がこわばっていた。
真希、やめ…。
『これで終わりっ!』
「嫌ぁっ…!」
右足がまだ倒れている矢口さんののどに向かって降り下ろされた――。
すごく静かになった。
また校庭から運動部のかけ声が聞こえだして、まだそんなに時間は経って
なかったんだ、なんて考えが一瞬頭をよぎる。
薄暗くてもはっきりと見えた。
私の右足は矢口さんの首をかすめて真横に降りた。
矢口さんは失神していた。保田さんは傷ついてない方の目を見開いていた。
飯田さんは地べたに座り込んでいた。――誰も口を開かなかった。
『あははっ。気絶とかしてるし』
真希が笑って矢口さんの頭を軽く蹴るのを、なっちには止められない。
…本当にそう?
なっちの胸にわき上がる不思議な気持ち。
『帰ろっか』
私達は三人の間を通り抜けて帰った。一度も振り返らなかった。
第八話 でも希望は消えないまま
帰り道。
学校から少しずつ遠ざかって、時間が経つにつれて現実味が増してくる。
――怖くなってきた。
私達のしたことは、いったい何だったの?
仕返し、なんてレベルじゃない。取り返しのつかない、許されないこと。
陽はもう完全に落ちてしまって、まるで後をついて来た影に包まれたように暗い。
『こっちまで暗くなるから違うこと考えてよぉ』
そうもいかないよ。
私の頭にさっきの光景がよみがえってくる。
血を流す保田さん、目を見開いて泣く飯田さん、苦しそうに咳込む矢口さん。
そして、微笑みながら見下す私達――思い出されて胃がぎゅっと痛む。
『良いじゃん。目の血はまぶたを切っただけだし、あの踏んだ子だって』
真希は笑って続ける。
『骨の一本だって折れたわけでもないしね』
…違うの。怖いのはそっちだけじゃないの。
本当に矢口さんを踏んでいたら殺してしまったかも知れないのに、一瞬だけとは言え気持ちがすぅっとしてしまった。
高校入ってからずっと続いてたいじめ――だからと言ってそれを自分に言い訳して真希に流された私は許されてはダメになると思う。
私は強くなりたかったけど、それ以上に失うものがあったら意味がない。
だからこそ真希の最後の行動は、なっちにとっての希望の糸。
私は歩くスピードを落とす。
…真希、聞きたいことがあるの。
『んっ?』
最後、矢口さんの…身体を踏まなかったのはどうして?
私はつばを飲み込む。
『あぁ。こっちの足のほうが痛くなりそうだったしさ』
真希のその答えに、私は立ち止まってしまった。目の前がなにも見えないなる。
私達を繋ぐ希望の糸は――。
『まぁ、殺すこともないかなって思って』
急に見えた。必死にその糸をたぐりよせつかむと、すべてが開けた。
期待した答えは真希なりの優しさで、今の答えからも感じられたと私は思う。
私が受け入れた希望は「モノ」じゃなくて、真希という「ヒト」なんだ。
――まぁ、人間じゃないけど。
信じよう。一度はやっていけると思ったんだし。
『さっきから何を考えてるのさ?』
その声を合図に私はまた歩き出す。
あのね、もし真希が矢口さんを踏みつけるつもりだったならさ。
『うん』
裕ちゃんに言って真希と別れさせてもらおうかなって考えてたの。
『えぇぇっ!?』
十歩も行かないうちにまた立ち止まる。今度は真希だった。
『嫌だよぉ。またあの中に戻るなんてぇ』
真希のちょっとわざとらしい声が、なっちの気持ちを明るくしてくれる。
もう考えてないよ。
『本当に?』
本当。そう言ってなっちが歩こうとしても足は動かない。
『じゃあ、なんで家と違うほうに向かってるのさ』
お金を払いに行くっていったじゃない。
『実はそれだけじゃないんでしょ。なっちのためを思ってやったのにさ』
それは嘘っぽいかな。
『まぁ、苛々したのは事実なんですけどぉ…』
私は笑って歩き出した。取りあえずあの人達のことは忘れよう。一応は終わったんだし。
前を見ると小さな光が繋がって一本の道になっている。そんな頼りなさ気な街灯を
頼りに私達は暗い坂を降りて行った。
無い。
いくつ坂を往復したかわからないけど、お店はみつからなかった。
『道を間違えちゃったとか』
まさか。
暗くたって見逃すわけない。あんなに素敵だったのに。
レンガ造りの壁も、巻き貝のような屋根も、両開きの扉も――!
なっちの足がだんだんと早足になる。息もあがる。
「あっ…」
走り出しそうになる直前で、私は止まった。
ふいにわかった。無いんじゃない。見えないんだ。
なっちには希望が――真希がいるから。
『ふぅん。よくわかんないけどじゃあ帰ろっか』
…うん。
離れる方法もこれでわからなくなった。
帰る途中に一瞬、嫌な考えがふたつ頭をよぎって、私はそっと振り返る。
もしも。
もしもなっちが真希と上手くやっていけないと思っていたら、なっちはお店がなかったときにどう思っただろう。
この、自殺もできない身体でどうしたんだろう――?
私は頭を振って嫌な考えを思いついた速さで追い出した。
行こう、このままで。
良くも悪くもなっちの時間は動き出した。止まってるよりずっと良い。
「真希、帰ろ」
『どうしたの? わざわざ声に出して』
「何となく、ね」
家の前にお父さんの車はなかった。
私はそれでも聞こえないように「ただいま」を言い、音をたてずに部屋に入り鍵を占める。
私はすぐに振り返り机の上の手鏡を手に取った。
良かった、あった。
裕ちゃんのお店がなかったときに疑ったもうひとつの可能性。すべてが――
『私がなっちの精神が生んだ別の人格だって言うの!?』
真希は言うそばから笑ってた。
『なっちがどこをどうしたら私を考え出せるのさ』
そんな言い方しなくて良いじゃない。
私は口をとがらせながら脱いだ制服を投げ捨てた。
――死んじゃうだろぉ…!
夕方の出来事が目の前にちらつく。考えたくないのについ考えちゃう。
――安倍はこのくらい平気なんだね。
そんな訳ないよ。私は電気を消してベッドに潜り込む。
『良いね。眠るの好き』
真希の言葉に私は答えない。
――調子に乗ってんな、豚。
眠ろう。今までのことも先のこともなにも考えないで済むから…。
そう思ってふとんを頭までかぶった時、ノックの音が聞こえた。
「…はぁい」
「なつみ、晩ご飯よ」
後で食べる、と言おうとした私の身体が起き上がる。
『眠るのは好きだけど、食べるのは大好きなんだよね』
お母さんとの静かな食卓で、真希とテレビだけが騒いでいた。
『これもすっごく美味しいねぇ。何て言うの?』
…カルボナーラ。
『甘いね。昨日のはんばぁぐよりも好きかな』
もっと太りそうだけどね。
またなっちが動かなくても真希が食べさせてくれたんだけど、お母さんは別に変に思ってるようでもなかった。
「学校はどうだった?」
お母さんの問いかけに私は「別に何もなかった」と答える。
『ふぅん。今日みたいなことって実はよくある事だとか?』
うぅん。いっつもこう答えてるの。
心配かけたくないし。…あんまり話しもしたくないし。
「そう。なつみはいっつもそう言うわね」
「あはは」
そう言われて私は、またへらっと笑った。
『だいぶわかってきたよ。なっちのその笑いの意味』
えっ?
『早く時間が過ぎて終わってほしい、だよね。当たりでしょ』
崩れそうになった。
たった一日しかいない真希に見破られたんだ。お母さんもきっと――。
いたたまれずに私は立ち上がる。絶対に逃げられないって知ってても。
「ごちそうさま」
あっ。
言ったあとでお昼休みの真希の言葉が頭をよぎったけど、もう口は開けなかった。
『あとひとくちくらいだよ。全部食べてこうよ』
私は部屋に向かって駆け出した。
真っ暗な部屋であおむけにベッドに倒れ込む。
自分がどうしようもなく嫌でダメな子に思えてくる。
――いや、実際ダメな子だ。
『どうしたの、急に』
真希と比べるとなっちはさ、何一つ満足に出来ない子供だなぁと思って。
じわっと涙が浮かぶ。
違い過ぎて悲しくなってくる。
そんななっちに真希が当たり前のように言う。
『そりゃあ。人間に比べて劣ってるようじゃ私も鬼の子としてお終いだし』
そう言われても落ち込むものは落ち込むよ。
両手がなっちの頬をつつむ。
『こっちまで暗い気持ちになるって何度も言ってるでしょ。元気出す!』
そうだね。ごめん。たまってた涙が手をつたって流れる。
暖かかった。
真希みたいになりたい。真希に追いつきたいな――。
出会ってたった一日で、こんなにも私は真希に寄りかかってる。
昨日までのなっちは本当にひとりだったんだろうか?
真希と離れたいと思うことはあってもそれは、ひとりになりたいからじゃない。
ただ真希が怖かったからだ。
勝手に動く身体、勝手に読まれる気持ち。私はこんな異常な事態も受け入れてる。
普通の人ならどうするんだろう。
夢だと思って、慌てて、病院にいって、そして――?
『そう考えるとさ、なっちって意外と芯の強い子なのかもね』
強い? …なっちが?
『うん』
そんなことない。いっつも逃げてた。死のうって考えたこともあるし。
『死ななくて良かったよぉ。なっちが死んでたら私はまだあの白の中だよ』
真希の手が伸びて明かりを点ける。
全ての黒が白になった。
急な光りに目がくらみその手をかざすと、その内に目が刺激に慣れてくる。
「…真希だけだよ」
『何が?』
なっちにさ、死ななくて良かったなんて言ってくれるの。
真希は微笑む。
『まぁねぇ、なっちはお父さんやお母さんが嫌いみたいだしね』
どういう意味?
『なっちが嫌ってるなら、きっと向こうも嫌ってるかなって』
さらりと言われた言葉は刺さるほどに痛い。
ノックと「お風呂に入っちゃって」という声が聞こえて部屋を出る。
お母さんはすでに階段を途中まで降りていて、なっちはその背中をじっと見つめてしまった。
お母さんは振り返らなかった。
パジャマに着替え濡れた髪をタオルで覆いながら部屋に戻ってきた私は、机の上の白い鏡を手に取った。
覗き込むとうつっているのは見なれた顔で、前のような真希の面影はなかった。
――きっと、なっちの中に入ったから。
『この中に居たんだよねぇ』真希がそう言って横から見る。やけに薄い。
手鏡の縁がやけにざらざら感じた。
…そっか。年代ものだしね。私はもらった時の和紙と紐でていねいに包むと机の引き出しにそっと閉まった。
お風呂にも入ったし後は眠るだけ。
私は、ふぅ、とため息をつく。
起きてると昼間のことが頭をめぐり出す。
でも眠ってしまうともう朝になってしまう。学校に行かなきゃいけない。
「ふぅ」
私はため息をまたついた。
『どっちも嫌なら眠ったほうが良くない? 早く眠ろ眠ろ』
…そうだね。
明かりを消してベッドに入る。
『おやすみ』
うん。おやすみ。
色々あったからだろうか。真希につられてしまったんだろうか。
しばらく眠れないかなって思ってた気持ちとは別に私はすぐに眠りに落ちてしまった。
真っ白の中にいた。
見渡すかぎりの白に感動して、呆れて、そして私は果てを目指して走り出した。
…どれくらい走っただろう。景色はまったく変わらなかった。
そして気づく。息がまったく切れない。
まだまだ走れそうだ。
それだけじゃなかった。ここは暑くもないし寒くもない。そしてまったくお腹も減らない。…きっと眠くもならないんじゃないかなぁ?
私は座りこんだ。
まぁいっか。居心地は良さそうだし、少しくらい長く居てもいいかな?
なんて。
――そんな夢を見た。
第九話 幸運と思うか不幸と思うか
『ちぇっ』
昨日と同じ朝ご飯に対する真希の言葉はそれだけだった。
昨日と――って言うか今までと変わりのない朝だった。
いつもの時間に起きて着替えて、食事をして、顔を洗って、歯を磨く。
ただ私は、家を出る前の挨拶を心持ちいつもより大声にしてみた。
「いってきまぁす…」
それでも聞こえてないかもしれないけど。
『多分聞こえてないよね。あんまり変わってないし』
通学路の途中で真希が聞いてきた。
『お父さんに会わなかったね』
会社に泊まりだったみたい。結構あるんだ。週に三、四日はある。
お父さんはそれでも良いんじゃないかな。帰って来てもケンカばっかりだし。
『何で?』
…わかんない。
『わかんないの?』
昔は理由があったんだろうけど、今は本当につまらないことでケンカしてる。
顔を合わせるのが嫌なのかなってくらい。
『ふぅん』真希はそれっきり黙ってしまった。なのでなっちから質問した。
真希の両親は? どんな感じだったの?
『憶えてないんだ。全然』
そうなの。
両親のことはそれ以上聞いても同じような言葉しか返ってこなかった。
目立たないように歩いて学校に向かう。
歩き続ける限り距離は縮まって、そして最後には学校に着いてしまった。
『そんな嫌なら来なきゃ良いのに。帰ろうよ』
その問いかけに私は首を振る。それだけの勇気もなっちには無いんだ。
それに、もし逃げるのを憶えたらきっと、私はどこにも出られなくなる――。
『ふぅん』
いつも以上に静かに、音を立てずに教室の扉を開き、そっと身体をすべり込ませた。
なんとなく感じる違和感。何だろう?
ふいにわかった。
誰の視線も感じない。そして――。
『今日はないね』
うん。信じられない。初めて。机の上に花が乗ってないなんて。
席も汚されていないし、からかう声もしない。
座った後でそっと周りを見渡してもやっぱり誰もなっちを見ていない。
矢口さんは来ていなかった。
保田さんは左まぶたに小さなガーゼを当てていた。
なっちが見つめても、こっちを振り向くことはなかった。
『どうして誰もこっちを見ないんだろ?』
もしかして。
すべて良い方に終わったのかもしれない…。
高ぶりかけた気持ちを抑えながら次の授業の用意をしようとして。
『こっちが見てるのにはみんな気づいてるのに』
えっ?
真希の言葉が聞こえて私は動きを止めた。
顔をあげて気づくもうひとつの違和感。
急に襲ってきた不安に私は立ち上がる。いすと床がこすれて大きな音を出す。
それでも――誰もなっちを見なかった。
『まるで空気だね』
そう、だね。
崩れるように座る私はいつものへらへらとした笑顔も浮かべられない。
みんな知ってるんだ、昨日のこと。
良い方に終わったんじゃない。
悪い方に始まるんだ。
『なんでそういっつも悪い方にばっかり考えられるかなぁ』
真希が笑う。
他人事だと思って――って実際そうなんだ。
『ある意味才能だね。ってか他人事じゃないって。こっちまで暗くなるんだから』
他人事じゃない。
それだけの言葉が嬉しかった。そうだね。不安がっててもしょうがない。
昨日の朝のようにすぐになにも始まらないのかも知れないし。
『そうそう』
私は気持ちを落ち着けようとゆっくり息を吸って、吐いた。前を見る。
大丈夫、はっきり見える。
『ふふっ。まさしく前向きな姿勢』
うん。
そうして一時間目の用意を改めて始めようとした時に――始まった校内アナウンス。
見えなくなった。
胃がきゅっと痛む。
「二年C組の安倍なつみ、保田圭、二年D組の飯田圭織」
担任の声はいつも以上に冷たくて。
「以上、呼ばれた者は職員室に来るように。繰り返す…」
私は消えそうになった。
授業が始まる直前の誰もいない廊下と階段が、無音で圧迫してくる。
放課後の孤独とは全然違う、嫌な空気。
なっちの後ろにふたり居るはずなのに誰も会話をしない。
――まるでひとりで怒られに行くみたい。
『えっ、怒られんの?』
きっとね。ほめられる訳はないもん。
『なんだよぉ。後ろの奴らだけ怒られれば良いのに』
無理だよ。だって、なっちがケガさせたんだから。
きっとなっちが一番怒られる。
重い右手を上げてゆっくりとドアを開くと、職員室の全員がこちらを見た。
「…失礼します」
非難の目から顔をそむけて歩いた先には担任の寺田先生と首に包帯をまいた矢口さんが待っていた。
「来たか。お前達、ちょっとこっちに来い」
『あのちびっ子の包帯さぁ、なんかわざとらしくない?』
向かった先は校長室だった。
こんなに近くで校長先生に会ったのは初めてで、もしかして事態は想像以上に深刻なのかと思える。
『聞いてる?』
握った手の中にうっすらと汗が浮かんだ。こすって拭こうとした時に。
「安倍」
ふいに名前を呼ばれて顔をあげる。「はい…」
「この矢口の首のケガ、お前がやったって言うのは本当か?」
部屋にいる全ての人間の視線が集まって、私はまたうつむきがちになる。
「安倍」
「はい」かすれた声をやっと絞り出す。「本当、です」
長い沈黙。
そして深いため息が聞こえた。
誰も動かない。時間が進まない。嫌な雰囲気。暑い。真希。気持ちが悪い。
痛い。助けて。真希。
真希――!
『さっきは返事もしなかったくせに』
『よくわかんないんだけど、やったのはなっちじゃなくて私でしょ』
頭の中に声が響いて、気持ちがすうっとやわらいだ。
言葉の薬。
まるで天啓のよう。
『言い過ぎだって』
でもさ、真希がしたってことはつまり、なっちがしたってことだから。
…そのつもりで受け入れたんだから。
「まったく」校長先生の声で現実に戻った。「女子校なのに暴力沙汰なんて」
『なんかさぁ』
真希がふいに語りかけてきた。
どうしたの?
『なぁんか私、嫌な予感すんだよね』
「保田の目のケガも安倍が原因だそうだな?」
あっ。
担任のその言葉でなっちにも解った。
「安倍はそんな子じゃないと思ってたんだがな」
『気のせいだと良いけど』
違う。気のせいじゃない。たぶん。きっと。絶対。
校長先生が優しい口調で残酷な結論を下す。
「安倍さん。少しの間、自宅で反省してください」
――停学。
視界がゆらいだ。目のすみに矢口さんが口唇をあげたのが見えた。
『停学って?』
しばらくここに来ちゃダメってこと。
『それって罰なの? なにか辛かったり痛かったりする?』
心がね。
「校舎の横のところに居た三人をいきなり無言で殴ったそうだな」
なっちと真希の嫌な予感は違っていた。
――それぞれ当りだったんだけど。
私は思った以上にきつい結末が当たりで、真希は私達だけ不当に罰が与えられる結末が当たりだった。
「安倍。この三人に謝りなさい」
『はぁ?』
視界がまたゆらぐ。せっかくひっこみかけた涙がまた出そうになる。
先生、矢口さんの言うことは信じるんですか?
いきなり無言で人を殴るなんてすると思ってるんですか?
哀れむような先生の顔。
にやにや笑いを浮かべてる矢口さん達。
この状況は前から、ずっと。
『…なっち?』
――ムカつくんだよ! 何なの、お前!?
辛くてきつい毎日の繰り返しの中で、決心して先生に話した悩み。
どもりながら話すなっちに先生の出した結論は。
――いなくなれば良いのに。
どうしてこんなことするの? やっと言えた問いの答えは無言の笑み。
小さな努力は毎日を少しも変えることはなくて。
戦うのも考えるのも逃げるのもどうでも良くなって。
――安倍に積極性が足りないのも悪いと、先生思うぞ。
従うことの楽さに気づいた。
逆らわなかったら早く終わることに気づいた。
『…ふぅん』
嫌な思い出が頭をめぐって、身体に力が入れられなくなる。
真希がいなかったらきっと倒れてた。
ごめんなさい。
その言葉がのどから出る直前になっちの左腕が跳ねあがった。
パン。
『なっち』
はじいたのは肩を叩こうとした先生の手。
顔を上げるとみんなの目が点になっているのが見えた。
『謝らないで』
真希?
『私にはなっちの口だけは止められないけど』
低い声が頭に響く。
怒ってるの?
『うん。私達だけが悪い訳じゃないのに、謝れなんて命令を聞くのは嫌だから』
そして真希の言葉が聞こえた。
さっきの声が天啓だとしたら、こっちは真理。
『それだったらまだ、あの真っ白の中の方が居心地が良い』
夢はまだおぼえている。
不快なことのない欲望の消える白の空間は居心地が良すぎて
ここから出られるならどこだって行くと思わせるほどに何もなくて。
孤独で退屈だった。
あの中の方が良いだなんて。
涙が一滴流れて、視界のゆらぎが取れる。
泣いちゃった。
真希と会ってから初めて落とした涙。
どんなに泣きそうになっても、絶対泣かないつもりだったのに。
でも。
きっとこれが最後。
自分を哀れんで泣くのは、これを最後にする――。
握った右手の中にはまだ汗をかいていた。
払いのけた先生の手も、まだなっちの横にあった。
私は先生を見て、そのまま矢口さん、飯田さん、保田さん、校長先生と順に見て
最後にまた先生の目を見つめた。
「先生」
「あ、あぁ」
手をゆっくり下ろしながら寺田先生は答えた。
手をはらいのけたことと泣いたことで、先生はちょっと動揺して見えた。
涙だけじゃなく色々と流れ落ちた気がする。
気分が、軽くなって高ぶってる。
私は。
私の意志で微笑んだ。
へらへらした笑いじゃなく、矢口さんにも負けないようなしっかりした極上の
つもりの笑顔をつくって言った。
「前に私が相談した内容、憶えてますか?」
下げる途中で先生の手がぴくっと止まって、一瞬校長先生を気にしたのがわかった。
わかったのは私達だけだと思うけど。
やっぱり。先生は気づいてたのに見ない振りをしたんだ。
「ん、あ、あぁ」
「私だけが悪いんですか?」
歯切れの悪い返事に、私はさらに続ける。
矢口さん達の顔もさっきのように笑ってはいなかった。
『良いね。こういうの嫌いじゃないよ』
勝ちにはならないだろうけど、ただ負けるより良い。ずっと良いと思う。
真希。
『うん?』
ありがと。私だけだったらこんなこと、絶対言えなかった。
「寺田先生」
校長先生の呼びかけに、すぐに答えはなかった。
「ちょっと私にはよく話が見えないんだが、相談の内容とは何ですか?」
「あ、はぁ。あの。実はこの安倍と矢口、保田達は折り合いが悪くてですね――」
「本当にそれが相談の内容ですか?」
「…いえ。違います」
先生が小さな声で少しずつ話し出すと、校長先生の眉間にしわが寄り出した。
「イジメ?」
校長先生に聞かれて、具体的にされたことの話を私がつけたす。
その度に場の空気は張り詰めていった。
「なんと…」
校長先生のそんな一言にさえ飯田さんの顔は青くなっていった。
矢口さんと保田さんが懸命に「偶然に落ちたカバンにつまづいて蹴ったことがありました」とか
「手がすべって安倍さんの靴を濡らしただけです」と言っても
「そんな偶然は何度もないでしょう?」と一括された。
『やっと終わったね』
解放されたのは一時間ほど後だった。
結果、矢口さん達は厳重注意の形となり、次回発覚時はそれ相応の罰を。
寺田先生は後で校長先生が再度話しをしましょうと言われていた。
私は実際に怪我を負わせてしまったのでやっぱり停学になった。
三日間。今日から。
重い罰だけど、少しだけでも気が晴れたのが救い。
『私には誰が一番重い罰なのかもわかんなかったんだけど』
校長室を出る前にぺこりとおじぎをしたんだけど、校長先生は背中を見せるだけで
扉が閉まる直前にため息をしていた。
それがまるでなっちには、暴力沙汰が表沙汰にならずに良かった。なんて感じに取れなくもなかったんだけど。
来た時は三人で、戻るのは四人だった。
――今度は私が一番後ろを歩いていたんだけど。
また授業の合間で誰も歩いていないけど、行きのときのような圧迫はない。
むしろ今圧迫を受けてるのは予定外だったって顔をしてる飯田さんと保田さんと
黙ったままなっちの前を歩く矢口さん。
『つまんない作戦立てるからだよ。黙っていれば良かったのに』
真希の言葉に私はちょっと微笑む。
なっちは黙っていなかったから良かったんだけどね。
『あはは。そうだね』
階段を上がって最初の踊り場。
私達四人以外の人目が消えたときに、矢口さんがゆっくり振り向いた。
「おぼえてろよ。今度はこっちもタダじゃおかないからな」
『だからさぁ』
あきれたような真希の声。
『黙っていれば良いのに――!』
また景色がスローモーションになった。
えっ?
音もなく矢口さんに一歩寄って、右手で口をふさいだ。
そのままそっと矢口さんを壁に押しつける。
予定外の行動。
矢口さんの両手がなっちの右手首をつかもうとしてるけどそれより速く。
なっちの左手が矢口さんの目に向かう。
『次から一回ずつ』
だって。そんな。なんで――?
親指と中指で矢口さんの右目を開くと、間のひとさし指の爪で黒目を二度つついた。
『つっつく回数を増やしていくから』
飯田さん達が振り向く直前に矢口さんから離れる。
静かで音のしない行動は上靴と床を鳴らすこともなかった。
壁に張りついてる矢口さんを不思議に思った保田さんが言う。
「…矢口?」
すとん。
その声が合図。矢口さんは踊り場に崩れるように座り込んだ。
飯田さんと保田さんが矢口さんに向かって階段を駆け降りる横を、
真希は前を向き背筋まで伸ばして階段をのぼり、通り過ぎる。
横目で見ることすらない。まるで昨日の放課後と同じ光景。
違うのは――真希だけ。
…なんで?
『なにが?』
頭に響く声はいつもの真希で、悪びれた様子もない。
なにが、って今のは別に真希には、身体には被害はなかったじゃない!
なのになんで矢口さんにあんなことを。
『だって苛々するじゃん。あの子の態度』
その聞き覚えのある言葉は、なっちの胸に刺さる。それだけで?
――ムカつくんだよ! 何なの、お前!?
――ずっと安倍のことむかついてたんだ。
『そっ。それだけ』
とんっ。
最後の一段だけ跳ねるようにして階段をのぼり終えた真希が、私の顔で笑う。
『りっぱな理由でしょ?』
しんと静まりかえった廊下を今度はなっちが歩く。
真希と同じに歩いてるはずなのに、何が違うのか上靴は歩く度に小さく鳴った。
『安心してよ。あれ以上はこの身体の負担になるからしないって』
そうじゃない。
気に入らないから手を出すってのは、一番やって欲しくない行動なの。
やられた方の気持ちを考えて欲しいから。
これだけは譲れない、と真希に伝えようとした時、頭に響いた。
『さっきさ、違うのは真希だけ、って言ってたけど、なっちもじゃない』
えっ?
不意に聞こえた声に立ち止まる。
なっちは昨日と同じだよ。真希が身体を動かすのを止められなくて…。
『そんなことない。だってさぁ』
私の言葉はまたさえぎられた。ふふっ、ってふくみ笑いの後に真希が続けた言葉は、
なっち自身を惑わせて、刺さる。
『昨日のなっちはもっと真剣に、やめて、って言ってたもん』
一瞬で顔が赤くなり、そしてそれを
隠せない。
それはさ、矢口さんに仕返しができたことを喜ばなかったの?
って言われると嘘になるよ。
でも、あんなやり方で仕返しなんてしたくない。
『なっちさぁ、私に隠し事はできないんだから』
知ってた。…つもりだった。
心臓が大きく鳴って、私は早足で歩き出す。
『嘘になるよ、なぁんて。復讐したかったんでしょ、ずっと』
やめて。
勝手なこと言わないで――!
耳を手でふさいでも、真希の声は止まらない。
『正直になりなさい』
静かな廊下を足音も気にせず走り出してすぐ、足が止まった。
耳をふさいでた手がゆっくり降りてきて、私の胸を覆う。真希がささやいた。
『真希さんが力になってあげるから』
笑顔が見えた――気がした。
おとといまで止まっていた真希は歩き出していて、今にも走り出しそうに見える。
なのになっちは、真希に手をひかれた分しか進んでいない。
この身体を自由に動かせる真希はなっちの手を離して急ぐこともできるのに。
真希は追いつける距離で振り向いて、私を待ってくれている。
そんなの、真希だけだよ。
真希だけがなっちを上に引き上げてくれる。
今わかった。
って言うか、なんで今までわかんなかったんだろう?
真希と居ることがあってるか間違ってるかなんてわからない。結局ずっと迷うんだ。
なっちがどう思うか。それだけ。
なっちは――。
ごまかしのきかないひとつの身体。
言わなくても通じてくれるふたつの心。
真希が楽しく笑ってるなら、なっちも明るい気持ちになる。
なっちが哀しく落ち込んでいれば、真希も暗い気持ちになる。
もう真希にも自分にも言い訳なんてすることない。思った通りに。
「真希」
私は声を出した。久しぶりだ。学校に居るのに、ひとり言でもないのに、
誰に言われたでもないのに、自分から進んで――声を出すなんて。
「お願い」
見た目はひとりなのにまるで誰かに問いかけるような言い方。
矢口さん達に聞かれたら、気色悪がられて変な目で見られるだろうな。
『そしたらまたそのぶん黒目をつっつけば良いって』
あはは。そっか。
ちょっと沈黙。息を吸って、吐く。
「真希」
『うん』
おいていかないで。
「なっちと、並んで」私は小さく声にする。
「一緒に、歩こう」
第十話 そして私は走り出す。
「失礼します」
授業中の教室にそっと入ると、クラスメイトはちらっと顔を上げてすぐ伏せた。
先生もなっちを一度見ただけで、そのまま授業を続けた。
そっと席に着いて、出しかけの教科書やノートを片づける。
そんななっちを誰も見ない。
『徹底してるね』
少ししてから保田さんと矢口さんも帰ってきた。
クラスメイトの視線がふたりに集まり、先生も「早く席に着きなさい」と
注意をうながす。
ふたりが席に向かう間、いろんな人が小さな声で「大丈夫だった?」なんて
言ってるのが聞こえる。
そして矢口さん達はその度に小さく手を振ったりなんかしてる。
これ見よがし。
でもちょっとつらい。
『ほんっと、徹底してるねぇ』
…感心しないでよ。
しまい終えた鞄を持って席を立つ。誰も見ずに歩き、入ってきた時と同じくそっとドアを開けて教室を出る。
振り向いてドアを閉める前に一瞬、私はクラス中に視線を走らせた。
みんな黒板を見ている。
前は放課後やお昼休みにわいわい騒いでるみんながうらやましかった。
楽しそうで、輝いて見えた。
『今は?』
みんなにとって今の私はきっと、クラスメートを傷つけるような娘って扱いだから。
…もう溶け込めないよ。
私は軽くまばたきをする。
「失礼します」
頭をぺこりと下げて、ドアを閉めた。――さよなら。
三日分の課題を受け取り、帰り道を歩く。
まだお昼前だからか、私服の人とか主婦とか朝にいない人達がいっぱい居て不思議な感じ。
『この後どうすんの?』
家に帰ってさっきの宿題かなぁ。
『ご飯は? 外でお弁当食べよっか』
その光景を想像して私は吹き出しそうになる。
だぁめ。
『なんで?』
今の世界ではね、普通の日に外でひとりでお弁当を食べるってのは相当恥ずかしいの。
『ふぅん。変なの』
真希の素朴な答えに本当に笑ってしまった。
でもまっすぐ帰ってもなにもすること無いし、どっかでお弁当食べ――。
待って。
私は思いついたままに言う。ねぇ、図書館に寄って良いかな?
『ご飯は?』
そればっかり!
図書館は意外と人が居た。おばさんとか、大学生っぽい人とか。
ここって自主的にじゃないと来ない場所だから、静かでまじめな人が多くて、
そんなところもなっちは気にいってる。
『物乞いみたいな人も居るよ』
まぁ、この中は涼しいからね。
制服姿が目立つのも嫌なので、私はすみっこに席を取る。
手にした本は――妖怪大百科。
『失礼な』
まぁまぁ。真希をなだめて私は索引を見る。お、お、お、あった。おに、に、に。
……。
関係ないことしか載ってないね。
『うん。ないねぇ』
隣の本。その隣の本。その隣の隣の本。その隣の隣の…。どれぐらいめくっただろう。
数々の文献をひっくり返して、やっと見つけた。
小さな記事。
なるほど、千年前だ。
私は頭の中で問いかける。これの事?
『そうそう。これこれ、これが私』
やっぱり本当のことかぁ。
私は何度も文章を読み返す。魔鬼? 真希じゃないの? 高僧? 戦った?
『いっぺんに聞かないで。真希って名乗ったはずなんだけどなぁ』
でも魔鬼って書いてあるよ。
『勝手に名前を変えたんだよ、きっと。失礼だなぁ。それよりさぁ』
身体が勝手に立ち上がって本を片づけ出す。
えっ?
ちょっと待って。やっと見つけたんだよ。
『やっとね。おかげですっごくお腹空いたんだけど!』
言われて壁に目を移すと、時計は午後二時をさしていた。
さっきの本も気になったし、家でのことも考えたくなかったので、帰り道はずっと話して帰った。
真希のこと。魔鬼なこと。高僧が女性だったこと。戦ってなんかいないこと。
って戦ってなかったんだぁ。
驚くなっちにまたか、って態度の真希。
『人間と戦って負けて封印、なんて絶対!ありえないから』
やけに強調する態度がちょっとおもしろい。私はさらにからかう。
じゃあどうして封印されてたの?
『よく憶えてないんだけど、自分から入った気がするんだよ』
えっ?
なっちの足が止まって、すぐ動き出す。しかも駆け足。
『ほらほら、早くご飯食べたいんだから止まんないの』
…子供。
家に着いて、車がないのを見てほっとする。いや、あったほうが良いのかなぁ。
私は音を立てずドアを開けて、閉め――ようとして一度止める。
『なっち?』
覚悟を決めて、閉めた。
「ただいまぁ…!」
『おっ、割と大声。これはさすがに聞こえてそう』
声を出すと、次の光景が浮かんできた。思考と言葉がぐるぐる回る。
心臓も急に鳴り出して、手のひらに汗をかいた。
なんて言おう。なんて言われるだろう。なんて言い返そう。なんて謝ろう。
「なつみ?」
声と一緒にお母さんが居間から出てきた。出かける準備をしてる。
「どうしたの? まだ学校終わってないでしょ」
「あっ、あの。実はね」
私は玄関で靴も脱がずに説明をした。
ケガをさせたことじゃなく、意地悪をされてたことも、全部。
声が低くなったり、小さくなったり、どもったりするのを頑張って抑えながら。
手のひらの汗は何度こすっても浮いてきた。
暑い。
落ちていた視線を上げると、お母さんの眉間にしわが寄ってるのが見えた。
「――停学?」
沈黙とため息。
「とりあえず家にはいりなさい」
そう言ってお母さんは居間に戻って行った。
靴を脱ぎながらお母さんをちらっと見ると、お母さんは鏡を覗き込んでいて、
出かける準備に戻ったようだった。
…それだけ?
鏡を覗き込みながらお母さんは続ける。
「もう、女の子なのに停学なんて。恥ずかしいったらないわ」
怒られなかった。
「なつみ。あなた、停学中はずっと家にいなさいね」
私の考えはすべて空回りしてる。
いじめの心配もケガの心配もない。
お母さんが気にしたのはなっちじゃなくて、なっちの周りばっかり。
「近所には同じ学校の子が居ないからね。風邪ってことにしておきましょう」
こちらに視線を向けたのも、鏡の中からだけ。化粧を続けたまま。
ねぇ。
全部言ったんだよ?
意地悪されてたことも、ケガさせてたことも。なのに――。
なっちが「それだけなの?」と口を開こうとした直前に、やっとお母さんはこっちを向いた。
「なつみ。後でその子の家にお母さんと謝りに行きましょう」
嫌。
聞いた瞬間にそう思った。
今までされたことや、真希がしてくれた復讐が頭をめぐる。
「お母さん、六時にパートが終わるから、それから行きましょう」
もう済んだんだよ。
校長室で、校長先生と、担任の先生と、矢口さん達と話しあって。
『うん、私も謝りに行くの嫌だな』
「何はともあれ、ケガさせたなつみのほうが悪いんだから」
言葉のトゲだって心を痛くさせるのに。
私はきゅっと下口唇をかむ。
もう謝ろうとなんてしないって決めたんだから。
向うが謝るまで、なっちも謝らない。
「ケーキでも買って…って何よ、その目? 仕方ないでしょ、なつみが悪いんだから」
私は横に首を振る。
お母さんはそんな私を気にもせずに、靴を履き始める。
『なっち、言わなきゃ通じないってば』
知ってる。私は声を出す。
お母さんの背中に向けて、せいいっぱいの抵抗。
「もう、この問題は片づいたからさ、謝りには、行かなくて良い、と思う」
「そう思ってるのはなつみだけよ。じゃ、行ってくるわね」
バタン。
お母さんは振り返らずにドアを閉めて出ていった。
残された私はゆっくりと自分の部屋に向かった。
ごめん、真希。
やっぱり私、感謝なんて出来ない。
『そんなことよりご飯食べようよ。もう何もしたくないよ』
あはは。
真希の言葉で笑みがわく。悔しいような、哀しいような気分は変わらないけど。
時計を見ると三時前だった。
ごめんね、お昼ご飯のはずがおやつになっちゃった。
制服を着替えようとする腕が止まって、勝手に鞄を開ける。
『そう思うんなら、先にご飯食べよ』
『おいしいね』
…うん。
なっちに作ってくれたお弁当。カラフルでカロリーも低いものが多い。
食べているとさっきまでの怒りがだんだんとおさまっていく。
でも。
謝りたくない。
真希の力でいじめはなくなりそうなのに、謝ったらまた元通りになりそう。
「ごちそうさま」
ため息と一緒にそうつぶやいて、私は制服を脱いだ。部屋着を手に取る。
ふいに。
図書館で読んだ本と、おかしな考えがなっちに舞い降りた。
『えっ?』
やだ、何それ? 笑っちゃう。でも、なんだか止まらない。バカみたい。
両手で頬を押さえても、顔がにやけちゃう。
心配するかな?
生まれて始めての反乱。
手にした部屋着を放り投げると、矢口さんの言葉が頭をよぎった。
――もしかしてなつみちゃん、反抗期ぃ?
あはは、そうかも。
遅すぎる反抗期だけどね。
「真希。今から京都、京の都行こっか?」
笑いを抑えて声を出す。
「真希のお墓参りに」
『京って?』
急ななっちの行動に驚いてるのか、真希のぽかんとした感じがおもしろかった。
私は続ける。
真希の、ふるさと、かな?
『えっ? えっ? じゃあさぁ』
違った。
真希の答えは想像以上だった。
『ここって京じゃないんだぁ!』
…そっちなの?
『ふぅん』
急な思いつきを驚いてくれなくてかっがりしたところに、真希の声が響く。
ちょっと嬉しそうな声。
なんかこう、こっちの気持ちがすこし明るくなるような。
『初めてじゃない? なっちが私のためになにかしてくれるの』
そうだっけ?
私はタンスを開けて、外出用の服をあれこれ探す。
『そうだよ。…食べるのと眠るの以外で、だけど』
そう言われればそうかも。
スカートを手に取ったまま考える。
見るものすべて初めての真希のために、なっち、なにもしてあげてなかった。
真希だって不安だったはずなのに。
『いや、別に』
…あっそう。
『一番多い時で四本だったよ』
えっ?
『お母さんの眉間のしわ』そう言って真希は笑った。
Tシャツを着て、スカートを履く。
そして手に取るのは、お気に入りのジャケット。
薄くベージュがかった色合いが上品で、袖と襟からかすかにのぞくレースがとても好きだった。
可愛いでしょ?
『うん』
お店で見かけて一目ぼれして衝動買いしたんだ。
好きすぎてここって言うときしか着なかった。だから数える程しか着ていない。
…ばかだな、って今は思う。
タンスの中で眠らせることが、大事にすることなんかじゃ決してないのに。
『気にしない気にしない。これ、着るんでしょ?』
うん。
私はそっと袖を通す。タンスの、木のにおいがした。
明日の夜か明後日の朝には帰ってくるつもりでバッグをつめる。
着替え、下着、歯ブラシ、タオル、お財布…。
ぱんぱんにはならないけど、持ち歩くならこれが限界ってほどに。
真希の入っていた鏡は、壊したりしたくないので置いていくことにした。
準備は出来た。
ゆっくり立ち上がって部屋のドアを開ける。中を見ないように後ろ手でそっと閉めた。
パタン。
部屋の中には、なっちだけの世界があった。
あの中ではなっちは愛らしい姫で、優しい王子役のぬいぐるみ達もいた。
外敵から守ってくれるネバーランド。空想の物語にあふれていたティルナノーグ。
『なっちの部屋が?』
そう。私は振り返って閉じたドアに触れながら続ける。
誰も入ってこないしさ、なにもしなくても許される場所だったんだ。
『ふぅん。そんな感じの場所、身におぼえがあるよ』
うん。
なっちも出てみてわかったよ。残りの人生がずっとここなんて嫌だ。
外側の檻は開いていた。
内側の檻の鍵は開けた。いつだって戻れる。だから今は――出てみようと思う。
階段を降りた私は、すぐ家を出ないで、まず居間に行った。
『どうしたの? 準備できたんでしょ?』
うん。その前にさ。
私はキッチンに立つと、お母さんのエプロンをしてお弁当箱を洗い、ていねいに水気を取ってテーブルに置いた。
そしてその横に白い紙とペンを持ってくる。
『なるほどね』
……。
こんな感じかな。ペンにふたをして、ふたりで読み返す。
『良いんじゃない?』
じゃぁ。
私はペンのふたをまた外して、紙にペンを走らせる。
『それなに?』
付け足しって意味の記号。…よし。
『なるほどね』
どう?
『良いんじゃない』
真希の声はさっきより高くなって私の頭に響いた。
お父さん お母さん
停学なんかになっちゃってごめんなさい
でも私は後悔はしてません
仕返しする必要があるだけのことをやられたと思ってます
だから謝りにも行きたくありません
向こうが謝ってくれたら私も謝ります
突然だけど今回のことで私を助けてくれた友達のために
京都に行ってこようと思います
明日の夜か明後日の朝には帰ってきます
ごめんなさい
帰ってきたら全部あわせて怒られます
なつみ
P.S.
お父さん いつも遅くまでお仕事ご苦労さま
お母さん おいしいお弁当いつもありがとう ごちそうさま
五時になった。あとはもう家を出るだけ。
靴はもう決めてる。ブーツを履いた。
旅立ちなんだからやっぱりブーツってね。
『ぶーつ?』
そう。ブーツ。
私は指でとんとんとかかとをつつく。
この靴の名前にはね、なにかを始めよう、って素敵な意味があるんだ。
立ち上がって振り向いた私は、誰も居ない居間に向かって叫んだ。
「行ってきます」
ちょっとだけ、出かけてくるからね。
いつも行かない駅への道を、私はバッグを両手で持って歩く。
やけにふくらんだバッグが家出とか思われそうでちょっと恥ずかしい。
家出じゃなくて、遠出です、って。
初めてのひとり旅。
――ひとりじゃないけど。
行き方もいまいち良くわかんないし、お金がどれくらいかかるかもわかんない。
『ちょっと。大丈夫なの?』
多分ね。
東京駅に行けば、そこからなんとしてでも行ける。
まずは駅だ。
駅に行かなきゃ。
リズミカルにブーツのかかとが鳴る。私はいつの間にか走り出していた。
駅に来ていた電車に駆け込む。
時間帯が悪かったのか、家に帰ろうとする社会人がいっぱい居た。
ちょっと長い間揺られたり、乗り継いだりして着いた、ぐんと広い場所。
東京駅。
久しぶり。中学校の修学旅行以来。
ふっとなっちの頭の中を、友達と遊んだ思い出が駆け抜ける。
つまんないことで笑って、何でもないことで騒いで。
『なっち』
ごめんね。また暗くなっちゃった。
昔はね、なっちにも、友達が居たんだよ。
なっちのこと「なっち」って優しく呼んでくれて。
『ふぅん』
…信じられない?
『わかるよ。嘘ついてないのくらい。その子達、今は?』
今は、口も聞いてくれなくなっちゃった。
『なんでだろうね』
なっちが、とろい子だからかな。
その言葉を明るくからかってくれると思ってたのに、真希の言葉はなかった。
甘かった。
東京駅まで来たら、京都まで行ける電車なんてごろごろあると思ってたのに新幹線しかないなんて。
『じゃあ良いじゃない、それで』
ちょっと値段が高すぎて…。
夜行列車かなんかあると思ってたんだけどなぁ。
普通の電車を乗り継いでなんて、なっちと真希じゃ絶対行けない気がする。
初めての抵抗があっさり終わろうとしてた時、私の手があがって遠くの看板を指差した。
『あれあれ。あっちに夜行なんとかって書いてあるよ』
…夜行バス!
近寄って看板を読むと、東京−京都間のもあった。時間は、八時発。
私は時計を探す。あと一時間ちょっと。
「ふぅ」
バッグを床に置いて、なっちもしゃがむ。
すべてが不思議と順調に進んでいる気がする。なんか、私らしくない感じ。
『私も居るから、かな?』
真希の言葉に笑みがこぼれる。ふふっ。うん。素直にそう思うよ。
ねぇ、時間までなにしよっか?
聞いてすぐ気づく。――聞くまでもないか。そして予想通りの答え。
『じゃあさぁ、ご飯食べよ』
『や、もう。すっごく美味しかったぁ』
カレーの辛さと美味しさに、真希はずっと感動してた。安上がりだなぁ。
時間が来るまで、駅を行く人を眺めてた。
帰りを急ぐサラリーマンやOLさん、これから出かけるような若いお兄さん、塾に行ってたっぽい子供達、なっちと年の近そうな女の子達。
色んな人が居て、それぞれに違う人生があるなんて、ちょっと信じられないくらい。
この中にはきっと、なっち以上につらい生活をしてる人もいるんだろうな。
『そうかもね』
そっけない返事に私は続ける。
なっちだけが逃げ出したりしてさ、良いのかなって。
『逃げる?』
右手がやわらかくなっちの頬をつねった。
『違うじゃん。真希のために京都に行ってくれるんでしょ?』
そうだね。
…ありがと。
やわらかい痛みは温かさを伝えてくれる。
ふと顔を上げると、通りすがりの人が変な目でなっちを見ていた。
私はあわててつねっていた手を頬から離した。
まったく。
何やってるんだろう。ボーッと人を見ててバスに乗り遅れたら笑うに笑えない。
バッグを抱えて駅の中を走る。
バスはすでに乗り場に着いていて、もう発車するように見えた。
急いでキップを買って、乗り込む――その直前に気づいた。
私は動きを止める。
『なっち?』
「お客さん?」
鳥肌が立った。間違いない。この瞬間が、人生の分岐点。
「もう行っちゃうよ。乗るの? 乗らないの?」
運転手さんの言葉がなっちの頭をぐるぐるまわる。
乗るの? 乗らないの? 乗って良いの? 乗っての良いの? 本当に良いの?
…良い方に変わるの?
『なっち?』
まだ間に合う。まだやり直せる。今なら引き返せる。
つばを飲む音がなっちの耳に大きく響く。
「お客さん!」
「あっ」
バスのドアが閉まった。
車内はガラガラだった。お客さんも私達の他に四人しかいない。
私はバスに乗っていた。
いや、なっちじゃなくて、真希。閉まる前に駆け乗ったのは真希だった。
『だって乗るんでしょ?』
真希の問いに答えないでいると、運転手さんからも質問がきた。
「危ないから座って。それともやっぱり降りるのかい?」
瞬間。
目を閉じて、開く。
最後の選択肢に私が出した答え。
「…いえ」
私はゆっくり歩き出した。「乗ります」
自分の声に誘われるようにすとん、と空いてる席に座ってすぐ、すごく疲れが襲ってきた。
ふぅ。
乗っちゃったんだ。もう考えるのよそう。
『京に着いたらすぐお墓見に行くの?』
うぅん。その前にお墓の場所を調べなきゃだし、お風呂にも入りたい…ふぁぁ。
ひと息ついたとたんに眠くなってきた。
八時になったばっかりなのに、さっきから途端にあくびも連発で出る。
今日も一日、色々あったからね。
『なっち、眠ろっか』
うん、真希。ちょっと眠ろう。
そうだね。
時間もたっぷりあるんだしね。起きた後のことはさ、起きてから考えよう。
『おやすみ』
おやすみ。
あぜ道を石を蹴りながら歩いていた。
天気も良く、これといってすることもない。私は何度もあくびをする。
うん?
しまった。
前から人が歩いてくるのに目を取られ、蹴ってた石を見失った。私は前をにらむ。
三人。浪人と、その妻子だろうか。貧乏そうだ。
女は病気持ちなのか、途中で咳き込んだりしている。その背中を浪人がさする。
ふと芽生える悪戯ごころ。
――突然あの浪人が死んじゃったりしたら、あの女。どうするかな?
よし。
お互いに歩き続けている。すれ違うまであと十歩、切ったかな、ってところで子供がなにかしゃべったようだった。
浪人とその妻が微笑ましく笑ってる。
私も微笑んだ。
なるほどね。家族で居れば幸せってわけだ。…予定変更。
子供が死んで、泣き叫ぶ両親の姿が見てみたい。
あと三歩も歩けばすれ違う。
私は左手に力を込める。
すっと、爪の先が尖った。
あと二歩。一歩。すれ違い様、私の左手は鞭のようにしなる。
――そんな夢を見て。
終幕 魔鬼の産声
私はびくん、と身体を震わせて、起きた。
夢。
じわっと額に浮いている汗を手でぬぐう。
周りを見渡すと、乗客はすべて眠っていた。…起こしたりしなくて良かった。
でも知ってる。
これは単なる夢じゃなくて真希の記憶。
…真希。
そっと呼びかけても、真希は起きなかった。
大丈夫だよね。こんなの、はるか昔の思い出話だし。右手で左手首をつかみながらそう自分を言いきかした。
時間は一時をまわったばっかりで、まだまだ京都は遠い。
胸に残る嫌な気持ちに気づかない振りをしながら、私はまた目を閉じた。
左手の手首をつかんだままで――。