続・魔鬼なつみ

 


序幕 誰より特別な存在

 

「私のせいでごめんなさい」
炎の中でまばたきもせず私に向けられたその目には、一点の曇りもなかった。
だからこそ、この状況で私は笑顔をつくれる。
「お互い様だよ。ねぇ、こんなときでもきれいだね、その黒目」
向うも笑った。
「すぐ出られると思うから」
「うん」
私は手鏡を手に取った。薄っぺらい。この中に入るのかぁ。
そう思いながら額に当てる。
「ひとりだけ助かって――」初めてだ、こんな気持ち。「ごめんなさい」
「あら珍しい。…さ、楽にして」
私を包む声がだんだんと早くなり、高くなり、私は軽くなる。
ありがと。絶対に、忘れないよ。

 

第一話 おでこの上の両手

 

『また帰ってきたの?』
それが京都に着いた真希の第一声だった。
バスが着いたのは午前四時。街はまだ暗く、人影も一緒にバスから降りた人の数だけ。
はるか遠くの見知らぬ街で気持ちが高ぶる私とまるで違う。
東京と同じようにビルが立ち並ぶここは、真希には東京に見えるのかな?
ほら。
私はすっと腕を伸ばし指さす。不自然な体勢で眠ってたためか、ぱきんと音がした。
あの文字見て。さっきまで「東京」だったでしょ。
『あぁ。「京都」ってなってるねぇ』
ねっ。
私は伸びをしながら言う。
『…って言うかさ、他に違いはないの?』


さて、どうしよう。
まだ四時なんて時間じゃあ、コンビニくらいしかやってない。
お墓の場所も調べなきゃだし、ホテルも決めなきゃだし、お風呂も入りたい。
一緒に降りた人達はもう居なくて、なっちだけがぽつんとしてた。
いけない。本当にとろいなぁ。
『本当にね』
ははっ、と笑ってバッグを持つ。とりあえず、歩こう。
ホテルの目星をつけたり、図書館の場所を調べておいたりしよう。
誰も居ないロータリーにブーツのかかとの鳴る音が響く。
はじめよう、はじめよう、って。


ゆっくり歩きながらゆっくり回りを見渡す。ホテルはいっぱいある。
でも高級そうで、ちょっと泊まろうと言う気になれない。そんな中に見つけた。
こっそりと隠れるように建ってた細いビジネスホテルの前。
私は立ち止まった。
でも、こんな時間でも中ではせっせと働いていて、外から覗くなっちには気づくそぶりもない。
気づいてくれたら、ドアを開けてくれたら、色々聞けるのに…。
『中に入って聞いたら?』
その言葉が合図ってわけじゃないけど、私はまた歩き出した。
うぅん。良いよ。仕事中に悪いから。
くるっ。
私の身体が半回転して、歩き、元の場所に戻る。
『なっちってば、何が良いのさ。早く見つかったほうがもっと良いじゃない』
真希がドアを開けると、店員がにこやかに挨拶してきた。


友達とふたりでの旅行。
そんな思いが、このちょっと汚れたホテルを楽しい場所に変えてくれる。
――まぁ、真希を友達と言い切って良いのかはこの際置いといて。
私は今晩の予約を済ませ、今すぐ入れるサウナの場所と一番大きな図書館の場所まで聞いてしまった。
京都に来てからまだ一時間ほどなのに。手際が良い。
『ふふん』
外見どおりに狭く、安い分汚い。いや、汚い分安いって言ったほうがいいかも。
なっちくらいの歳の子がひとりで泊まってもなにも言われなかったのも嬉しかった。
…よくあることなのかな?
『あるんじゃない。一緒にここまで来た人達とか使いそうだし』
そうかもね。
立てた予定はこうだった。今日は図書館とかで場所を調べる。実際に行くのは明日。
余った時間は観光。真希に色々見せたいし、なっち自身も見て回りたい。
まずはサウナ――お風呂に行こう。
『うん。じゃあさ、その後は?』
真希の希望通りにしてあげる。朝ご飯を食べに行こう。
『あはは。なっちもわかってくれてるね』


がらんとして誰もいない中で、木のにおいに包まれながら、私達は汗を流した。
真希は気に入ったのかなかなか出てくれなくて、私は途中から憶えていない。
気づいたら脱衣所に居て、バスタオルをまいたままで水を飲んでた。
『起きた?』
起きた、じゃないよっ!
そう怒ってから不思議なことに気がついた。うそみたいなことに怒りも飛んだ。
真希が蛇口を開けて水をくんで飲んだこと、なんかじゃない。
左手にコップを持って水を飲む真希。
右手は――腰にあてられていた。
『えっ、よくしちゃうんだけど…変なの?』
いや。変じゃないよ。って言うか、なっちもよくしちゃう。
そっかぁ。昔からこうなんだ。
やだ、おかし過ぎ。
平安貴族が腰に手をあてて飲んでる姿を想像して、私はひとり笑ってしまった。
『そんなに変なんだぁ…』


さっぱりして眠気も吹き飛んだところで、真希の希望を叶えてあげた。
ファミレスでモーニング。せっかくの旅行だけど、まだ七時前。結局こんなどこにでもある場所しか探せなかった。
中まで本当に東京のファミレスと同じ。
それでも真希はかまわないっぽい。
ちょっと悪いかなって思ってるなっちを気にもとめずにトーストをおいしそうに食べた。
って言うか、嫌いなものってないんじゃぁ?
『そんなことないよ。苦い野菜は嫌いだもん』
ふふん、と私は胸をはる。
現代の技術だったら、どんな野菜もおいしく料理できるんだから。
『じゃあなっちは苦手な食べ物ないの?』
…ないよ。
『どうして見え見えのうそつくかなぁ』
真希がくすくす笑った。


さて。
九時に図書館が開くとしても、まだ二時間以上ある。
ファミレスも混んできて長居もできないっぽくなってきて、私は外に出る。
そろそろ会社に向かう人も増えてきて、駅の逆方向に向かうなっちは割とじゃまになってるみたい。
真希、行きたいところとかある?
『山とか、川とか』
予想した答えとだいぶ違った。なっちとしては、昔の建物が今も残ってて真希を驚かせるつもりだったのに。
ねぇ、なんか昔の建物とか見たくないの? 結構残ってるんだよ。
『別に人間が作ったものなんてどうでもいいよ』
ちょっと早いけど図書館に行こっか。
…二時間寄り道をしながら、ね。


図書館に向かう途中で、ふいに身体が止まった。
真希?
『誰か隠れて私達を見てる』
その言葉に一瞬血の気が引く。警察?
そう思って辺りを見回したけど、誰かが見てるなんてなっちにはわからなかった。
でも真希は動かない。風も吹いてるし人も歩いてるのに、音が聞こえない。
しばらく時間が停まったような感じが続いて。
「こーさん」
そんな声と一緒に建物の陰から女の子が現れた。パーカーにリュックを背負った可愛い子。
ふたつにしばった髪のお団子も可愛い。
両手をおでこにぴょこんとそえたしぐさがまるでウサギみたい。
私は微笑みながら近づく――つもりが歩けなかった。…あれっ?
もしかして、まだ他に隠れてる人が居るの?
『いないけど。ねぇ、この子はその警察とかってのじゃないの?』
…ごめん、真希。帰ったら常識いっぱい教えてあげるね。


「おはよう。ねぇ、キミは誰? どうしてお姉ちゃんを見てたの?」
私は近づいて、その子の目の高さまで視線を落とす。
目が合わない。なぜかその子はウサギの真似をしたままで、なっちの視線のちょっと上、おでこのあたりを見ていた。
目を合わせようとしても、やっぱりずれる。
…おや?
ミニスカートから元気に足を出しているその子から返事はないが、気になることがある。
「キミ、今日は学校はどうしたの? お休み?」
『なっちとおんなじなんじゃない。停学とか言うの』
失礼な。
その子がだまったままなので、私はバッグを置いてしゃがみ、その子と同じように両手でウサギの耳をつくりおでこにあてた。
「こら、キミは誰だぴょん?」
『なっち、周りの人が見てるよ』
私はあわてて立ち上がる。しまった。うわぁ、恥ずかしい。
「亜依」
えっ?
その子と初めて目が合った。――黒目がちのきれいな目と。
「おばちゃん、この手はウサギやなくて角のつもりなんやけど」
改めてその手をみる。
さっきまで絶対開いていたのに、今はひとさし指しか伸びてなかった。

 

第二話 何でも知ってる少女

 

まだ高校生なのにおばちゃん呼ばわりされたこともショックだけど、
それ以上にこの子が「つの」なんて作ってみせることのほうがショックだった。
でも。
『うん。あんな長くなかった』
そうだよね、もっと髪に隠れそうなくらいな長さだったもん。
可愛い顔。
…何が狙いなんだろう。
真希はどう思う?
頭の中に投げかけると、真希は口唇にひとさし指を当てた。
『私さぁ、なんか初めて会った気がしないんだよ。どこで見たっけかなぁ』
その答えにますますわからなくなった。


「…見えてる?」とちょっと遠まわしに聞くと、その子は手を角のかたちにしたまま「遠くからでもわかった」と胸をはった。
「おでこに白く二本。もうちょっと短いけど」
長さだけじゃなく色まで当てた。
『見えてるみたい、だね』
不思議だ。
この子――亜依ちゃんはなっちを、真希をどうしたいんだろう?
全然わかんない。
『じゃあてっとりばやく聞いてみようよ』
単純に言うなぁ、なんて答えながらも悪い考えだとは思わなくなってきた。
真希の言葉はいつもわかりやすくて、なっちが迷ってしまうつまらない霧をさぁっと払ってくれる。
そうだね。なにかあっても真希とふたりだとなんとかなりそうだし。それに子供だ。
なっちみたいのが珍しいだけかな。まぁ、当たり前だけど。
「亜依ちゃん」私はあらためて視線をおとす。
「…なに?」
「場所、変えようか? 人も増えてきたし」
亜依ちゃんはやっとおでこの角をおろした。


喫茶店にでも行こうかと思ったんだけど、亜依ちゃんが「こっち」と言うのでついて行った。並んで歩く。
「ホンマはな」亜依ちゃんが前を向いたまま言う。
「うん」
「もっと人通りが少なくなったところで現れようと思うたんやけど」
『あら』
おぉ、真希の初めて失敗じゃない? ふふっ。ちょっと面白い。
なんてにやにやしてたら、亜依ちゃんがこっちを見てるのに気がつかなかった。
私は赤くなる頬を押さえて照れ笑いする。
「ふぅん」亜依ちゃんは笑わなかった。
「なぁに?」
「うちの言ったことに、全然驚かないんやなぁ」
そう言われてみればそうかも。
短い間に色々あったから、驚きになれちゃったのかな?
私は笑って「そんなことないよ」とちょっとびっくりしたふりをする。
「まさかまだ高校生なのにおばちゃん、なんて言われると思わなかったもん」
「そっちかい」
初めて見せた笑顔はとても。とても可愛いかった。


ふたりっきりの旅行のつもりが、突然の訪問者。
こんなに口を開けるなっち自身も不思議だ。
歩いてる途中でもう一度学校のことを聞くと「別にええねん」と返事がきた。
「本当に良いの?」
「ええねん」
「お父さんとかお母さんとか」
「ええねん」
なんだかこの間の裕ちゃんとのやりとりを思い出す。もっと短かかったっけ?
「でも…」
「ええねんったらええねん」
まだ言い返そうと思ったそのとき、真希の笑い声が頭に響いた。
『なっちの負け』
私は口をとがらせた。


「おばちゃんかて学生やろ? 学校は――」
その言葉を途中でさえぎる。負けてられない。
「お姉ちゃんだよ。なつみお姉ちゃんって言うの」
「おばちゃんやん」
「お姉ちゃん」
「うちから見たらおばちゃんやもん」
「お・ね・え・ちゃ・ん!」
そこで言葉が途切れた。うつむく亜依ちゃん。…勝ったのかな?
と思ったら。
「おばちゃん! おばちゃんったらおばちゃん!」
甘かった。
『うわぁ』
ものすごい大声に耳がキーンとなり、私は両手でふさぐ。
『またなっちの負けだね』


「この辺でええかな」
そう呟いて亜依ちゃんは私の服のすそをきゅっとつかんだ。
「あんなぁ」
「うん」
大通りから二本ほど入った誰もいない路地で私達は歩くスピードを落とす。
いつの間にか建物の高さも低くなり、街路樹も多くなってきた。
あざやかな緑に目を奪われてると、さわさわと枝葉が風にこすれる音にまぎれるような小さな声が聞こえた。
「おばちゃんの中に居る鬼って『魔鬼』っていう名前?」
『えっ…』
その言葉に立ち止まる。穏やかな気持ちは、一瞬で冷えた。
振り向けない。私は街路樹の葉をみつめたまま固まっていた。真希ですら驚いている。
怖いほどに知っている。真希の名前も、なっちが今日来ることも。
この子にはわかってしまうのだろうか? …そんなことあり得るの?
「そうなんや」
動かないなっちを肯定と受け取った亜依ちゃんを、ゆっくり振り返るとその黒目がちの目が潤んで見えた。光りが反射する。
…泣いてる?
「実はな、頼みがあんねん」


「うちの友達を助けてほしいねん」
なっちを見つめる亜依ちゃんの目。
何でも知ってる怖さと不気味さは涙くらいじゃ消せなかった。
つかまれたすそを振り払いたいのに、身体が反応しない。
「なんで?」
やっとの思いで出せたかすれたような声。私は一度つばを飲み込んだ。
「なんでなっち達が来るってわかったの?」
「なっちたち…って方言?」亜依ちゃんは難しい顔をする。
あれ?
『なんだ?』
スーッと身体の力が抜けた。街路樹に色が着き、ざわめきもまた聞こえ出した。
私は手振りをつけながら説明する。
「なっち、ってお姉ちゃんのこと。ほら、なつみだから『なっち』」
亜依ちゃんはまた笑った。
「あだなかい。おばちゃん幾つやねん」
その目はもう潤んでなくて、なぜだかなっちまでほっとしてしまう。
不思議な子だけど。
私はジャケットのすそを振り払ったりしなくて良かった、と思った。


私達はまた歩きだした。亜依ちゃんはすそをつかんだままだった。
「勘やねん」
「勘?」
ちょっとしてから、質問の返事だと気づいた。
「そう。今日の朝に京都駅に行きたくなっただけや。で、来たら会えたんや」
『へぇ』
うなづく真希に亜依ちゃんはうつむき、照れたような笑顔を見せる。
「うちの勘、良く当たんねん」
「うん」
私も微笑む。
信じるよ。こんな小さな、笑顔の可愛い子を疑うような自分になりたくない。
『とか言っちゃってぇ』
呆れたような真希の声。
なにが?
『もっとよく笑うちびっ子のこと、あんな怖がってたじゃない』
あっ。
――って言うかさ、お前マジむかつくんだけど。
頭に浮かぶ矢口さんの笑顔と甲高い声。
でも、と私は反論する。この子は矢口さんじゃない。だから――。
『なんでなんだろ?』
なっちの言葉は不思議がる真希にさえぎられる。
『人間は男女問わずさ、見た目にすぐだまされるよね』
そんな言い方しなくても…。


「さっ、着いたで」
えっ?
この散歩に終着点があるなんて思わなかった。
ささかやな太さの車道。立ち並ぶのは小さ目の会社と瓦屋根の家。そして目の前にはバス停があった。…バス停!?
「ここでバスに乗って、また歩いたら到着や」
亜依ちゃんはなっちの服のすそを離して、ぴょんぴょんと跳ねる。それに合わせて背中のパーカーとリュックも揺れた。
「ちょっと待って!」
どうしよう。ここで乗ったらなっちの立てた今日の予定がダメになっちゃうかも。
でも、友達のためって言う亜依ちゃんの頼みも断りづらいし…。
『なんだそりゃ』
真希ぃ、どうしよう?
頭にくすくす笑い声が響く。笑われてばっかりだ。
『さっきまであんだけ調子の良いこと言ってたくせに』


真希の言葉に私は下口唇をかむ。
だってそれとこれとは話が違うじゃない。
『私には「それ」と「これ」が何だかわかんないんだけど』
「ちょっと待って。って、もうバス来てるで」
亜依ちゃんが指さす先には確かに目的の乗り物が見える。
頭がぐるぐる回る。冷静に考えなきゃいけないのに、さっぱり考えられない。
「だいたい一時間くらいで着くで」
『「それ」と「これ」って何のこと?』
「駅と逆方向だから空いててええねん」
『またこれに乗るのかぁ。またおしりが痛くなりそう』
真希も亜依ちゃんも好き勝手にしゃべってる。
もぅ。
お願いだから落ち着いて考えさせてよぉ…。

 

第三話 何にも言わない少女

 

あっと言う間にバスが着いて、亜依ちゃんが乗り込む。
整理券を左手で取ると、そのままくるっと回ってなっちを振り向いた。
でも。
「あの…」
そう言うのがやっとで、まだ考えが決まらない。もうちょっとだけ――。
「はい」
亜依ちゃんはなっちの気持ちにおかまいなしに整理券をもう一枚抜き、なっちに差し出す。
バスに乗ってなっちより背が高くなった亜依ちゃんは、あの可愛い笑顔で私に目線を落とした。
小さな目がさらに小さくなる、涙じゃ消せなかった怖さと不気味さを簡単に惑わせる笑顔。
「お嬢ちゃん! 乗るの、乗らんの?」
運転手さんの声が響いた。
あぁ。
また、この状況だ。私は瞬間、目を閉じて息を吐くと、手すりをつかんだ。
「…乗ります」


朝のワンマンバスの中には、お客はふたりしかいなかった。
つまり私達だけ。にもかかわらず亜依ちゃんは一番後ろの席を占領し、ぴょこっと座ってなっちに手招きする。
その笑顔とは対照的に、私の顔は暗かった。
『なっちはさぁ、この乗り物に乗るとき、必ず迷うよね』
追い討ちをかける真希。そうだね、と答えてため息をつく。
『まぁ、またおしりが痛くなるかと思うと私もきついんだけどね』
えっ?
真希の答えにふっと生じる疑問。
もしかしてこれに乗ると毎回おしりが痛くなると思ってる?
『違うの?』
違うよぉ。って言うか、なっちはそんなこと一度だって考えたことないじゃない!
私は笑顔で亜依ちゃんの隣に座る。バスも走り出した。


「ふぅん」
亜依ちゃんの不思議そうな目に、また変なところを見せたかな、なんて思ってしまう。
「ん? どうしたのじっと見て?」
「おばちゃん、乗ってからここに座るまでに表情クルクル変わって楽しそうやった」
「真希がね、おっかしくって」
私は笑顔のまま続ける。
「バスに乗ると必ずおしりが痛くなるって思ってたの。確かに京都には夜行バスで来たけどさぁ…あれ?」
何やそれ、なんて言って一緒に笑うと思ってた亜依ちゃんは真顔で、口を開いた。
「もしかしてその魔鬼と、会話、してたん?」
「してたけど?」
「仲、良いん?」
「良いよ?」
会話の切れた一瞬の隙に真希が割り込んでくる。
『あはは。変なの。ふたりとも疑問ばっかりで会話してるし』


「そっか。仲良いんか」
そう言って亜依ちゃんは前を向き、前の座席の背もたれにあごを乗せる。
その変な格好に私はまた笑ってしまう。本当におもしろい子だなぁ。
「うん。真希は大事な友達」
そして思う。真希のことをこんなに普通に話せるのはきっと亜依ちゃんだけ。
今この瞬間の、この子の前でだけ真希は『私の中の真希』じゃなくてなっちと別の『もうひとりの真希』になれる。
だから。
「ごめん、訂正。真希は大事な――」ちょっと照れ笑い。
「親友、かな。なんて」
『ふぅん』
まぁ、このぐらい言ったって、良いよね。


前の座席の背もたれにあごを乗せたままの亜依ちゃんからはなにも返事がなかった。
なんだか恥ずかしくなり、視線を窓の外に移す。
流れている景色は東京と変わらない。バスも意外と揺れている。ふいに。
「うち、眠るわ」
えっ?
振り向くともう、そのままの姿勢で亜依ちゃんは目を閉じていた。
「一時間くらいしたら起こしてな」とっても眠そうな声。
「えっ、ちょっと!」私はあせって亜依ちゃんの小さな身体を左右に揺さぶった。
「どこで降りるか教えてからにしてよ。そこで起こすから」
「早くからおばちゃんを迎えに行ったから、あんまり眠ってへんねん」
なっちの疑問にまったく答えず、言いたいことだけ言って眠ってしまったみたいだった。
またしても。
『なっちの負け、だね』
「うん」そう呟いて私達は苦笑する。
まったくかなわないなぁ。すぅすぅ言ってる寝息まで可愛い。
『じゃあさ、私達も眠ろっか』
…そしたら起こせないでしょ?


窓を開けようかと思ったけど、亜依ちゃんを起こしそうなのでやめる。
誰も居ないバス停を素通りしていく。
目的地のわからないバスの旅は、この三人でずっと続くように思えた。
なっちと、見えない真希と、リュックを抱え込んで眠る亜依ちゃん。
…来て良かったかも。
亜依ちゃんは真希を知っていて、真希も亜依ちゃんに見覚えがある。
だったら、図書館で情報を探すよりこうしたほうがきっと手がかりが多いはず。
なにより楽しい。
うん。
そう考えて納得する頭に響く、真希の笑い声。
『なっちさぁ、なんか何でも結論を出すのが遅いよねぇ?』
そりゃあ、今さらまずいと思ってもこの子だけ置いて降りる訳にはいかないけど…。
私は背もたれに身体を預けた。


木の根に腰をかけ、その幹に寄り掛かる。
私は目を閉じて、鳥の声、木のにおい、肌にまつわりつく霧を感じていた。
…退屈で気持ち良い。
ふいに。
鳥の声と木々のざわめきに混じって規則正しい足音が聞こえる。
んっ、と音のするほうに目を凝らすと、人間の女が杖をついて歩いているのが見えた。
私は足下の石ころを拾って、放る。
はずさない。
石は矢のような速さでその杖に当たり、吹き飛ばす。呆然と立ち止まる女。
その様子が面白い。よし、杖を拾う度に石をぶつけて吹き飛ばそう。
…おや?
石を二個ほど拾って待っていたが、その女は杖を拾わずに歩き出す。
それじゃつまんないじゃん。
私は角を髪で隠すと音を立てずに近寄り、杖を拾い「落としたよ」と手渡した。
女は顔を伏せている。
「ありがとう。…ってあんたの仕業だろ、鬼の子?」
うそっ。私は頭の角がちゃんと隠れてるのを確認する。しかも顔も上げずにどうして?
「見えるんだよ、私にはね」
女は顔を上げた。その顔は――。


「おばちゃん!」
その声にびくっと身体を震わせる。…夢?
「ふたりで眠ってたら降り過ごすやんかぁ」
『ほんとほんと。偉そうに言ってたくせにぃ』
申し合わせたようにふたりは笑ってて、私は顔を赤くする。
「次で降りるで」
ってことは一時間近く眠っちゃったってことかぁ。
亜依ちゃんの言葉にうなづきながら、私は不思議なことに気がついた。
まだお客さんは私達しかいない。
…もしかして、誰も乗らなかったんだろうか?
でもそれじゃ商売として成り立たないよねぇ。眠ってる間に乗り降りしてたのかな?
常識的に考えれば眠ってる間に他の人が利用したって思うけど。
現実的に見て、私達だけしか利用してないようにも思える。


ひょっとして真希もこんな感じなんじゃないかと思った。
『なにが?』
今見てる世界は、自分が生きた時からどれだけ過ぎているのか?
なっちの言葉を信じてくれていれば今は千年の未来だけど、
常識的に考えるなら今はそんな想像もできない程遠い時間は経っていないと思うんじゃないかな。
『相変わらず変なことを考えるよねぇ』
本当に感心しているような声。
『気にしないよ。どっちが本当でも別に良いもん。って言うかさ』
うん。
答えを待つなっちの頬を真希はつねりながら言った。
『なっちはなんでも考え込み過ぎ!


そんななっち達を不思議そうな目で見ながら亜依ちゃんは「次降ります」のボタンを押した。バス中に響く高いベルの音。
降りる用意しなきゃ。
網棚の上のバッグをおろしながら窓の外に視線を移す。
…うそ。
『おぉ』
周りに広がるのは木々と、じゃり道と、ぽつぽつと建つ家々。
「ここ、どこ?」
「まだ京都やで」
その声と同時にバスは停まり、亜依ちゃんは勢い良く降りる。
信じられない。景色が駅前とあまりに違う。
『うん。改めて納得。出発したところとは全然別だね』
のろのろしてたら亜依ちゃんの声が聞こえた。
「お姉ちゃん、早くぅ!」
…お姉ちゃん?


「どうしたの、急に?」
なんて言いながらも私は笑顔になる。お姉ちゃんって言葉が、素直に嬉しい。
「あ、ちょっと」
バッグを抱え亜依ちゃんを追ってバスを降りようとしたとき、運転手さんがなっちの腕をつかもうとしてきた。
『もぅ』と声がして景色がゆっくり流れる。
真希は身体を反転させ、その手を避け、逆につかんだ。ほんの一瞬のできごと。
声も出せなかった。
『なにこいつ、どういうつもり?』
手をつかみ上げられた運転手さんはきょとんとした顔で言った。
「…あの、妹さんの分もお金を払って欲しいんやけど」
妹?
はっ、と気づいて振り返る。亜依ちゃんは外であの笑顔。
あの笑顔で「お姉ちゃん、まだぁ?」だなんて。
…参りました。通算四連敗。


バスを降りた私が口を開く前に、亜依ちゃんは「優しいっ!」と抱きついてきて
私はため息をつきながらもよしよしと頭をなでる。怒る気も失せた。
亜依ちゃんはそのままなっちの手を引いて歩き出す。
「こっちやねん」
「近いの?」
「一時間くらい歩く」
泣きそう。
『私は身体を動かせるほうがありがたいけどね』
そう言って真希は大きく伸びをした。


風は朝の澄んだ空気から緑の香りに変わっていた。
バスに乗る前はずっと服のすそをつかまれたままで、今は私達は手をつないで歩いてる。…亜依ちゃんのくせなのかな?
「この辺の木、全部柿の木やねん。実は渋いねんけどな」
「ここ夏はセミがうるさいんや」
「あの木の枝、人の手みたいやろ」
歩きながら左右の景色の解説をしてくれる亜依ちゃん。
なっちと真希はそのたびに首を動かし『へぇ』とか「うん。そんな感じする」なんてうなづいた。


「で、ここがお店」
そう言って立ち止まる亜依ちゃんに、私は苦笑いする。
「さすがに見たらわかるよ」
「この後はもうお店が無いねん。おばちゃん買うもんある?」
「えっ!」
この後もうお店ないの!? 私は腕時計を見る。歩きはじめてだいたい三十分。
結構歩いてきて、まだ同じような距離を歩くのにここ以降お店がないなんて。
立ち止まったおかげで吹き出した汗が倍に感じた。
覗いたお店の中は狭くて暗くてやや時代がかってて、駄菓子なんかが売っていた。
…たしかにお店の終着点って言われればそれっぽい。
『お菓子がいい』
ちょっと買うのはためらわれるような古さだし…。
『お菓子!』
別にまだおなかも空いてないし…。
『なっち。買わないなら奪い取るからね』
「亜依ちゃん、ゴメン。お菓子買ってくるから待ってて」
『やったぁ』
私は大きくため息をつく。…我ながら弱いなぁ。


お菓子を手に取ってふと思った。
自分たちの分だけ買う訳にはいかないけど、その友達って何人いるんだろ?
まさか五人とか六人とか居ないよねぇ。
私はお店から顔だけを出し「ねぇ、友達って何人いるの?」と聞いた。
あっ。
亜依ちゃんは公衆電話で話していた。タイミング悪かったかな?
電話の向こうまで聞こえてなければ良いけど、と思うなっちに向かって亜依ちゃんは
受話器を持ってないほうの手で指を一本たてた。――ひとりってことね。
「これください」
私がお菓子を三個買ってお店を出たのと同じくらいに、亜依ちゃんも電話が終わった。
「電話してたの?」
「うん。もうすぐ帰るから用意しといてって」
もうすぐ!
その言葉が疲れを吹き飛ばす。
「もうすぐなの?」
「うん。あともう三十分くらいや」
吹き飛ばしたはずの疲れが戻ってきた。そうだよね、理屈から言ってそうなるよね…。


道のでこぼこが多くなった。
それに連れて民家の数も減っていき、畑なんかも目に映りだす。
「ふぅ」
手で汗をふいて息を吐き出す。バッグをもう一度肩にかけ直した。
まだ十時なんだよね。今日も朝から色々あったから、一日の終わりって言われてもおかしくないくらいなのに。
『でも悪くないんでしょ?』
うん。
始める前はかなり嫌だったけど、実際に歩いてみると流れる汗が気持ち良かったりして。
あたり前だけど、やってみるまではわかんないもんだな、なんて思う。
まるでピクニックみたいだしね。
『ぴくにっく?』
こういうのを言うの。わいわいみんなで話をしながら歩いたりしてさ。
あ、お弁当とかあれば良かったかも。そう思ったとき、なっちの右腕があがった。
『代わりにお菓子があるじゃない』


「ここまで来たらもうすぐやで」
やった。
亜依ちゃんが笑って指さしたその先はひときわ高い木が何本も立っていて、遠近感こそ
つかみづらいものの、ゴールが見えたせいで気力がわいた。
あっ。
疑問もわいた。ここまで何とも思わなかった自分が不思議に思える。
「そう言えば、どこに向かってるの?」
「ウチ」亜依ちゃんはきょとんとした顔。「言ってへんかったっけ?」
私はうなづく。
「こんな遠くに住んでるの? 学校とか大変じゃない?」
「慣れたわ」
…おや?
亜依ちゃんはそう答えて笑ったけど、その笑顔はそれまでと違って見えた。
なんかこう、ちょっと苦笑いって言うか、淋しそうって言うか。
『おぉ。なっちもわかったんだ』
うん、と真希にだけ聞こえるように返事したら、感心するような声が響いた。
その言葉は何気なく、なっちに刺さる。
『じゃあ自分だけは上手く隠せてる訳ないってのもわかりそうなものなのに』


近付いてびっくり。
お寺。
いくら京都とは言え、お寺に住んでるなんて。
「お寺の子だったの?」
「そうや」亜依ちゃんは笑顔で「言ってへんかったっけ?」だって。
聞いてないよっ。
年期の入った、まるで炭みたいな木でできたお寺。屋根が瓦で出来てるし障子も
ところどころ日の光りで色がくすんでいて、その年期の入りようが気にかかる。
ねぇ真希、もしかして見覚えある?
『ないと思う』
そっかぁ。
なっちの期待はあっさり裏切られた。見覚えがあるのは亜依ちゃんだけなのかな?


「ただいまっ」
大きな木の扉を開けて亜依ちゃんが土間にあがると、奥のほうの部屋から女の子が顔を出した。
にこにこしながらこちらに向かって走ってくる。
「のの、待っててくれてありがとな」
亜依ちゃんの問いかけにののと呼ばれた子はうなづいて答えた。
似た格好のこの子達。ふたりともパーカーを着てるし、髪型もおだんご頭だ。
違いと言えば亜依ちゃんがスカートで、こっちの子がキュロットなくらい。
妹なの?
そうなっちが聞く前に、亜依ちゃんの紹介が始まった。
「えっと。こっちが連れてくるって言っていたおばちゃん」
私が「あっ、こんにちは」と頭を下げると、その子もおじぎをしてくれた。
それにしてもそんな紹介ないと思うけど…。
そんな意味を込めて亜依ちゃんをにらんでも、別に訂正はしてもらえなかった。
「で、この子がうちの友達の希美。のの、って呼んでやってや」
『ふぅん』
その子がほほえむ。なぜか口をきかない女の子。
でも。
可愛いな、と思った。亜依ちゃんとは違った可愛さを感じた。

 

第四話 時空を超えた恩返し

 

ちゃぶ台をはさんで座るののちゃんとなっち。少ししてから亜依ちゃんがお茶となっちの買ってきたお菓子を用意して現れた。…お茶?
ふたりの間に座り「どうぞ」とちゃぶ台に並べる。
「え、あっ、ありがとう」
真希が勝手に手を伸ばしかけたので、私はあせってお礼を言う。それを見てからか亜依ちゃん達も続いて手を伸ばした。
『おいしい! これはなんて言うの?』
…シュークリーム。
『ふぅん。やっぱり食べ物は甘いに限るね』
私達は無言で食べ続けた。いや、本当はののちゃんのこととか
なっちが呼ばれた理由とかを話したかったんだけど、口の中に食べ物がある状態で
しゃべるのはちょっとマナーが悪いかなって思って。
でも不思議だ。
なっちは全然おなか減ってないのに、なんで真希はおいしく食べられるんだろ?
『甘いから?』
答えになってないよ…。


真希が食べ終わっても、亜依ちゃんとののちゃんがまだ食べてる途中だったので
待ってる間にさりげなく目だけ動かして部屋の中を見てみた。
客間かな? あんまり生活感を感じない。掃除もちょっといいかげんな感じで
部屋のすみや飾り棚の上にうっすらほこりが見える。
「ふぅ、おばちゃんごちそうさまでした」
亜依ちゃんがお礼を言ってくれて、ののちゃんもぺこりと頭を下げてくれた。
気になる。気になるけど。
ののちゃんが口をきかないことを話題にしても良いのかなぁ?
『良いんじゃない? 気になるんなら』
そう言われても、傷つけちゃうかもと思うと、さすがに言い出せずに私は黙った。
訪れる沈黙の時間。
壊したのは、亜依ちゃんだった。それも――。
「ねぇ、おばちゃん。ののが何も話さへんこと、気にならへん?」
なっちが一番知りたかった話題で。


「実はののも、おばちゃんと同じでとりつかれてんねん」
「…えっ?」
いきなりの言葉。
その言葉で視線をののちゃんに移すと、ののちゃんはしゅん、って顔をしてた。
「おばちゃんと違ってののは動物の霊になんやけどな」
「だからしゃべれない、の?」
「それからだから、たぶん」と亜依ちゃんが言うのと同時にののちゃんもうなづいた。
信じられない。
『うん、私も。私達とは逆だもんね。話せないなんて』
えっ?
いや、そっちじゃなくて、なっちと同じような状態の子が居るってことが。
真希とのことがなかったらとても信じられない話。
だからこそ。
なっちの中に真希がいるからこそ信じられる――。


『でもさぁ』
うん。
『あの子は私達になにをしてほしいのかねぇ?』
そう言えばそうだ。
告白は衝撃的だったけど、実際にすることがわからない。
とりつかれた経験談が聞きたい…なんてわけないよねぇ。
『まさか。そんな用事だったら最初からふたりで来てれば良いじゃない』
確かに。
目を伏せたののちゃん。亜依ちゃんはじっと私達を見ていた。主導権を握ってるのは亜依ちゃんだろう。私は目を見て言った。
「なっち達は何をしたら良いの?」
「あんなぁ」
「うん」
「おばちゃんの中の魔鬼に、ののにとりついてもらって、霊を追い出してほしいねん」
『はぁ?』


『出来ないよ、そんなこと。ねぇ?』
うん、たぶん。
もしかして亜依ちゃんは、真希が自由になっちの身体や他人の身体に出入りできると思ってるのかな?
『会ったときに確認してくれ、だよね』
真希の言葉にうなづきなからも、何か私の頭にひっかかる。なんだろう?
『さぁ。でもさ』
うん。
私達が役に立てそうにない事実は変わらないけど、目の前に並んでるあどけない顔をしゅん、とさせたくないから。
「亜依ちゃん、あのね」ガッカリさせないように優しく伝えなきゃ。
「真希は、人の身体の中に自由に出入りたりできる訳じゃないの。だから、あの、ほかに協力――」
「知ってる」
えっ?


「そこでやな、ちょっと待っててや」
そこで亜依ちゃんは一度言葉を区切りあぜんとしているなっちと成りゆきを見守っているののちゃんを残して立ちあがった。
落ち着いた態度。その行動に私は不安になる。
…知ってる?
『知ってるのに連れてきたってことは?』
「お待たせ」
少ししてあの――出会ったときから持っていたリュックを手にして戻ってきた。
座るなり開ける亜依ちゃん。
「これこれ。これやねん」と中から出したものを見て。
『あっ…』
「あっ…」
真希と同時に叫んだ。
そうだ。知ってるのに連れてきた理由は出来るから、に決まってる。
「この手鏡を使うんや」
頭の中のひっかかりが解けた。
はるか昔に鏡に真希を封印したのは高僧で、そして亜依ちゃんはお寺の子。
「できる」と言われても納得できる。


でも。
まだ問題はある。真希が手を貸してくれるとは思えない。
今まで一緒に居てわかったのは真希は、嫌いなことはしないこと、ケガを負わされるようなことはさせないこと。
ののちゃんのために、一時的とは言え鏡の中に戻ってくれない気がする。
『そっか。思い出した』
…んっ?
聞き返そうとした瞬間、なっちの頭の中に映像がよぎった。
明かりの中、袈裟みたいな着物みたいな服を着た女性が手鏡を持って微笑んでる姿。
その顔は――亜依ちゃんがそのまま大人になったような顔に思えた。
『見覚えあるわけだ。加護』
カゴ?
『あの中にまた入るのはすっごく嫌だけど、加護の頼みじゃ断れないなぁ』
耳がどうにかなったのかと思った。
また鏡の中に入るの? 人間の頼みをわざわざ聞くの? なんで? 真希、どうして?
真希が手を動かし、なっちの頭にひとさし指をあてる。
『借りがあるんだよ。命の恩人なんだ』


命の恩人。
『あ、待って。助かったのは魂だけだから、魂の恩人が正しいかな』
さっき頭をかすめた映像とその言葉で、なっちにもさすがにわかる。
あの人が真希を手鏡に封印することで真希は命を救われて、その血を引く子孫がきっと亜依ちゃんなんだ。
そっと視線をうつす。亜依ちゃんはちゃぶ台の向こうでアヒルのような口をしてた。
『あはは』と笑って真希もその口の形を真似する。
ふわっ、と心が暖まりかけて。
ぎゅっとつかまれたように胸が痛み、手をあてる。口唇をかんだ。
置いていかれる。
――嫌だ、と思った。
『なっち?』
真希とふたりだけの秘密に亜依ちゃんが割って来たんじゃない。…なっちが。
なっちがふたりの間に割って入ってたんだ。
顔がだんだんうつむきがちになっていくのがわかる。
『ちょっと。暗いよ、なっち?』
ごめん、真希。
…なっち、ちょっと嫉妬してる。


「おばちゃん?」
いけない。こっちの様子をうかがうような声に、ゆっくり顔を上げた。
青い顔してなきゃいい、と思いながら「大丈夫」と微笑みをつくる。
「でも…」
「真希がね、協力するだって」
「ホンマ!?」
亜依ちゃんが笑顔になる。
ののちゃんはそんな亜依ちゃんをみつめていた。――お茶を飲みながら。
「じゃ、さっそく」と立ち上がりかける亜依ちゃんの手を、私はつかんで止める。
「待って」と亜依ちゃんをにらむようにして言う。
「条件があるの」
『条件って?』
ごめん。真希、言わせて。これが――。
「…なに?」
「終わったあとで絶対また、真希をなっちの中に戻して」
今のなっちのせいいっぱい。
つかんだ手に力を込める。
亜依ちゃんはもう一度口をとがらせた顔をしてから、こくんとうなづいた。


「じゃあ、さっそく。良い?」
今度はなっちがうなづいた。
「ほな、おばちゃん。ちょっとこっち向いて」
身体を動かして亜依ちゃんと向き合う。亜依ちゃんが手鏡をなっちのおでこにあてる。
私は目を閉じた。
加護、かぁ。うん、なんとなくお寺とか封印とかそんな感じする。
「亜依ちゃん」
「なんや? こわなった?」
「亜依ちゃんは加護って名前なの?」
「そうやけど」亜依ちゃんの声が驚いている。
「…うち、言ってへんかったよね?」
目を閉じたまま私は笑う。
「真希が言ってた」
「そっか。…さ、楽にしてな」


その合図で心臓がドキドキいいだした。大きく息を吸って、大きく吐く。何度も。
真希。
『うん?』
戻って来たときにでもさ、その昔の加護さんとの話、なっちに聞かせてよ。
『大した話じゃないけど良いよ。わかった』
たわいのない会話が気持ちを落ち着かせてくれる。うん、大丈夫。
待ってる。いってらっしゃい。
『あはは。いってきます。なっち、すぐ出してよ? 長く居たくないから』
うん。じゃぁね。
…。
……。
まだかな? と思ったときに鏡がおでこに押し付けられて。
声が聞こえた。
「うぉりゃぁぁ! はいれぇ、はいれぇ、はいれぇぇぇ!」
えっ?


『なんだこりゃ』
あまりに緊張感のない亜依ちゃんの声にふたりして呆然とした。
ねぇ真希、実は前のときもこんなだったとか?
『まさか。もっとお経っていうか呪文みたいだった気がする』
そうだろうね。
「はいれぇ、はいれぇ、はいれぇ、はいれぇぇぇ!」
会話する私達におかまいなしに亜依ちゃんの声は頭の中に響き続ける。
…んっ。
その声はだんだんテンポが速くなり、だんだん音が高くなる。
やだ、ちょっと耳が痛い。
『そう? 私には気持ち良い高さになってるんだけど』
おでこに置かれた鏡はまるで吸いついたようになっちから離れなかった。
目も開かない。
「はいれぇ、はいれぇ、はいれぇ、はいれぇ…」
もっと早く高くなった。痛い。痛い!
――いたぁい!


やっと目が開いた。
亜依ちゃんはぴくりとも動いてなかった。目も、口も、手鏡を持った手も。
場所ももともと居た客間で、ののちゃんもじっとこっちを見たまま。
…あれ?
そう言えば音も聞こえなくなってる。はっ、とした。
真希?
呼んでも返事がない。
もう一度呼んでも、やっぱり答えはなかった。
――いないの?
私は何度か手を開いたり握ったりしてみる。
それでもわからない。真希がなっちの中に居るのか居ないのか全然わからなかった。
居なくなったのか、動かないだけなのか。
わかったのは亜依ちゃんの言葉で。
「居なくなったみたいやね。…成功!」
亜依ちゃんがなっちのおでこを見ながら言ったその言葉で。


いなくなった――。
話しかけても返事がない。身体も自由に動かせる。
ついこの前までそんなの当たり前だったのに、今はなんだか不思議な感じがする。
なんだか頭がぼうっとして上手く働かない。
ぺたっと座りこんだまま、どこにも目線が会わなかった。
「お待たせ、のの。もう良えで。おつかれさん」
「本当? ふぅ、つらかったぁ」
…えっ?
初めて聞いた声が意識をはっきりさせる。
目線を亜依ちゃんに戻すと、手鏡を背中に隠すのが見えた。
なに? どういうこと?
「おばちゃん、ごめん」亜依ちゃんのすまなそうな声。
「魔鬼、返されへんねん」

 

第五話 さよなら青い鳥

 

耳に入ってから、瞬きをするくらいの時間を遅れて、言葉が形になった。
返さない? それって。
「なっちの中には戻さないってこと?」
亜依ちゃんはこくん、とうなづきかけて「違う違う」と急いで首を横に振った。
「おばちゃんに返さないんやなくて、もうここから出さないねん」
「ウソついちゃってごめんなさい」
亜依ちゃんが背中にまわした手鏡を出してきて、ののちゃんはぺこっと謝ってくれた。
私はこれがふたりの可愛い冗談だと――思おうとしてた。


「え? だって、なんで?」
聞きながら私はだんだんうつむいていき、ふたりの顔が視界からそれた。
顔もちょっとへらへら笑い出してる。落ち着かなくて髪をかきあげる。
「だって、さっき亜依ちゃん――」
「おばちゃん、魔鬼はな」
なっちの声をさえぎって話す亜依ちゃんの言葉に、そっと顔をあげた。
「たくさんの人間の人生をメチャメチャにしてきた鬼なんやねんで」
はっ、とした。
霊を追い出してほしいだけなら、魔鬼の名前なんて確認する必要がない。
わざわざリュックまで持って手鏡を持ち歩く必要だってない。
『魔鬼』を捕らえたかったんだ。


「知らんかもしれへんけど、昔は本当にひどい事をいっぱいしてたらしいんや」
知ってる。
――りっぱな理由でしょ?
亜依ちゃんの言葉が真希との記憶を呼び起こす。
「友達言うてたから迷ったんやけど、やっぱりこうすることにした」
――人の首なんて片手でちぎり落とせたよ。
心臓がドクン、と痛いほど大きく鳴った。
「あの、こうするのがお姉ちゃんのためだと思って」
――子供が死んで、泣き叫ぶ親の顔が見てみたい。
おでこにはうっすら汗をかいていた。
ちゃぶ台に両ひじをついて、両手で自分の顔をおおう。
間違ってない。
昔の文献を見るかぎり、魔鬼を封印しなきゃいけないという考えは間違ってない。
夜行バスの中で夢を見て、頭のすみでそう考えて手首をおさえてた自分もいたのに。
…。
どうしてだろう?
今のなっちはあの子達を泣かせてでも鏡を、真希を奪い返したいと思ってる――。


ののちゃんの言葉ですっと体温がさがる。べたべたした汗も一瞬でひいた。
「だってそのままだったら、結婚とかきっとできないよ?」
そうだ。
…どうして今まで考えなかったんだろう?
こんな身体の人と結婚したいかと言われれば、絶対したくないって人がほとんどだと思う。また汗をかきだした。息苦しくなる。
子供だってそうだ。ちゃんと人間の子が産まれるのかすらわかんない。
「今はええかも知れへんけど、おばちゃん、将来きっと後悔する思うて」
将来。
その言葉を聞いた瞬間、なっちの過去がなっちの中を通り抜けた。
顔をおおってた手をはずす。
視界が広がって、はっきり見えた。
呼吸を楽にしたなっちの目に飛び込んで来たのは手をつないで心配するようになっちを覗き込むふたつのおだんご頭。
…ごめんね。


「ごめんね」
ちゃぶ台の上でそっと手を組んで。
笑顔をつくった。今、出来る限りせいいっぱいの極上の笑顔のつもり。
「なっちねぇ、つい最近までイジメられてたんだ」
亜依ちゃんとののちゃんは手をつないだまま顔を見あわせてうなづいた。
ちゃぶ台のそばに座り直し、鏡を真横に伏せて置いて。
「ちょっとだけだけど、自殺も考えたんだよ」
ののちゃんは亜依ちゃんに視線を映した。亜依ちゃんは口唇をとがらせていた。
「…それで?」
「でも真希がさ、なっちの代わりになっちの身体で仕返ししてくれたの」
ごめんね。
「完全に解決ってわけじゃないけど。真希がいなかったら、なっちにはさ」
なっちの将来を気遣ってくれたのに本当にごめん。
――なっち、すぐ出してよ? 長く居たくないから。
待たせちゃったね。
今度はなっちが、真希のために役に立ってあげなきゃいけないのに。
「将来なんてなかった――!」
ののちゃんの身体がぴくっと動く。その瞬間、私は片ひざを起こした。
ちゃぶ台に左手をつく。湯飲みが倒れた。
亜依ちゃんの動きを右手で抑えつける。
頭からつっこむようになりながら左手を手鏡に伸ばす。
「だめっ!」
スローモーションにならなかった。左手はたたみを――鏡のあった場所を叩いただけ。


目には天井と自分の足がうつっていた。…あれ?
起き上がるにはどうしたら良いのかな、なんて思っていたら。
「…おばちゃん、重い」
「えっ?」
なっちの下から聞こえてきたそんな声が聞こえて、あわてて横に動くとちゃぶ台と亜依ちゃんから落っこちた。
「ごめんね。痛くなかった?」なんてねっころがったまま謝るなっちに、亜依ちゃんは「たいじょうぶ」と首を左右に動かしながら答えた。
顔が赤くなる。ごめんねぇ。
――それより! 手鏡は?
亜依ちゃんもなっちと同じく見失ったようで床をキョロキョロと見渡してた。
「残念でしたぁ」
息切れに混じって聞こえたその声に、亜依ちゃんと同時に視線を向ける。
ののちゃん。
胸の前に両手で、ののちゃんが手鏡を抱きかかえていた。


「こう見えても、のの、スポーツ得意なんだから」
取りかえそうと手を伸ばしかけて気づいた。
ののちゃんの手が鏡の面にふれている。
…さわっても平気なの?
そう思った瞬間。亜依ちゃんが叫んだ。
「のの!」
「だてにバレー部に入ってる――」
「鏡の部分にさわったらあかん!」
「えっ? あっ。えっ? …えぇ――っ?」
ののちゃんの顔が赤くなり、口唇がちょっとだけ前に出るのが見えた。
「んぅ、ん――っ!」
遅かった…。
何が起きてるか手に取るようにわかって、ちょっと恥ずかしくなる。
「大丈夫か、のの! 痛いんか?」
亜依ちゃんのその言葉にこっそり首を振った。痛くはないよ、どっちかって言うと――。
…言えません。


さっきまで赤かったののちゃんの顔が急に青くなった。
「あいぼん、なんか頭の中で声がする!」
あいぼん?
「鏡の部分にさわるなって言うたのに…」
「遅すぎ! 怖いから早く助けて!」
あわてた声を通りこして泣きそうな声になってるけど、ののちゃんの身体は持ってる手鏡をくるくる回してみたり、
おだんご頭をつまんだりしてて、まるでののちゃん自身がこの状況を楽しんでるように見える。
本当は真希なんだろうけど。
「だってあいぼんがこうしようって――」
「ウチが何や?」と亜依ちゃんはちょっと面白そうな顔。
「ののってば、よくいる独り言ばっか言ってる変な人みたいやで」
その言葉に私は苦笑い。なっちもこうだったのかなぁ。気をつけなきゃ。


「こんなやから、おばちゃんにはもう返せへん」
「また手鏡に真希を戻したら良いじゃない」
「ごめんなさぁい」
「ウチが今すぐ戻すと思う?」
「戻してよぉ!」
「戻してって言ってるけど」
「言ってるけど、せぇへん。もともと魔鬼の鏡はここにあったんやし」
「こんな状況で落ち着ける訳ないよぉ」
「…そうなの?」
「そうや。って知ってたやろ?」
「全然知らなかった」
「…そうなん?」
「ののにはガマン出来ないの!」
なっちと亜依ちゃんが同時にゆっくり、ののちゃんを振り返った。
とりあえず真希との会話だけは頭の中でだけでしてもらえると嬉しいな…。


「おばちゃんを説得したら助けてあげるから待ってや」
ちゃぶ台や湯飲みを片づけ始めた亜依ちゃんが、ののちゃんを見ずに言う。
沈黙があって。
ののちゃんの顔がみるみる赤くなり。
「今すぐ! いますぐぅ――! もぉ! やだよぉ――」ささるような大声。
ののちゃんの目からボロボロ涙がこぼれ出して、真希は今度はお腹をさすりしだした。
…もしかして、あやそうとしてるのかな?
まぁ、あれだけ泣かれれば真希の気持ちも相当暗いだろうし、それぐらいするかも。
「泣きながらお腹さすって。やっぱ痛いんか?」
たたみまでしっかり拭いてから亜依ちゃんがののちゃんに手を差し出す。
「ほい、おはらいするから手鏡返してや」


ののちゃんは手を動かさず、顔だけをなっちに向けた。
そのしぐさがなっちにはどうなってんの? と聞いてるように見えて私はちょっと考える。
ややこしい。
「ねぇ! あいぼんに鏡渡してよぉ!」
「…のの?」
眉間にしわのよる亜依ちゃん。その様子に私はもしかして、と思う。
「真希がののちゃんの身体を動かしてるんだよ」
「…えっ?」今度は亜依ちゃんの顔が青くなった。
「そんなことできんの?」
「知らなかったの?」
なっちの問いかけに亜依ちゃんは勢い良くうなづいた。
やっぱり。
「だって、おばちゃん。身体を動かされてるように見えへんかったで」
「そりゃまぁ、一応、あの」私は照れて頭をかく。「親友だし」
…なっちが思ってるだけだけど。


亜依ちゃんは黙ってしまった。
もしかして、味方がいなくなったと思ってるのかも。元気がない亜依ちゃんは元々の背の低さもあって、本当にか弱く見える。
なっちの中からもさっきまでの勢いは消えた。
「ねぇ、あいぼん。のの、どうしたらいいの?」
はなをすする声に混じっての頼りない声に、亜依ちゃんだけじゃなくなっちまで顔を向ける。
手足が動くたびに、ののちゃんの目は潤んでいった。真希と会話してるのかたまに首を左右に振って。
「もぉ、やだぁ…」
胸がちくっと痛む。今黙ってるなっちは、すごくひどいことをしてると思う。
でも、言っちゃダメ。
亜依ちゃんから言ってほしい。これまでのなっちと話してる途中で見せたあの顔、あのしぐさ。
亜依ちゃんはきっと――ののちゃんのために。


時間がゆっくり進んでいる。
手のひらにうっすらとかいた汗をこすろうと思った瞬間、そでをつかまれた。
「おばちゃん。一緒に」
きゅっ、と手に力がこめられる。
離されたくない、というより自分をふるい立たせるためなんて思えてしまう。
「うん」
「ののを助けて」
「とか言って」答えながら私は腰を落として、目線を亜依ちゃんにあわせる。
「真希をまた閉じ込めたいだけじゃなくて?」
たったひとつのキーワードを言ってほしくて、わざときつく。


亜依ちゃんはうつむきがちに首を小さく、横に振った。
「のの泣いてるやんか、だから」
「助けたい?」
「うん。だって、ののはうちの大事な――」
亜依ちゃんはそこで顔を上げた。あっ、という顔。なっちの袖にさらに加わる力。
もうすぐ。あとちょっとで指先に触れる。
「…――んなさい」
届いた。消え入りそうなその声は扉を開ける鍵。
「真希もね、なっちの大事な…」
あっ。
次の言葉が口から出かけた瞬間、気づいた。…カラダ。

 

第六話 相思相愛だからこそ友達

 

大事なことを見逃してた。
「…おばちゃん?」
今の今まで、真希は当たり前に帰ってくると思ってたけど、今の真希にはののちゃんの身体があるのに、
また鏡に入ってまでなっちに戻ってきてくれるとは思えない。
ひとりであの生活に帰りたくないなっちは真希が居てほしいけど、真希にはなっちが居てほしい必要なんてないんだ。
なっちの身体である必要はないんだ。
真希には。
なっちは必要ないんだ――。


悪い考えが、一瞬で頭を支配する。
友達だと思ってたのはなっちだけで、真希にとってなっちなんかただの身体。
真希に断られたら、またあの生活のくり返し。ひっそりと、逆らわず、ただへらへら笑ってるだけの、ひとりきりだったあの生活に。
断られたら終わり。そう思うと口が、頭が動かせなくなる。
「おばちゃん?」
またそでが引っ張られた。そして気づく、すがるようなふたりの目。
この広い部屋の中でなっちだけが頼りって言っている瞳に。


…そうだね。
霧ははれなくても、目指す光りは見える。
黙ってることは立ち止まること。真希が手を引いてくれない分は自分で歩かなきゃ。
ののちゃんはなっちより、真希と歳が近い。はるかに運動ができて、顔も可愛い。
私が真希なら、どっちを選ぶのか、なんてきっと迷わない。
でも。
真希がどう思っても、なっちは真希と居たい。
将来も、ずっと友達でいたい。
断られたら? 断られても、戻ってきてくれるまで真希に願い続けよう。
ねぇ真希。
歩かなきゃたどり着かないし、言わなきゃ伝わらないんだよね。


「ねぇ、真希」
一度言葉を切って、息を吸う。
「なっちの中に戻ってきて」自分でも不思議と落ち着いた声。「おねが…」
こくん。
お願いを言い切らないうちにののちゃんは――真希はあっさりうなづいた。
…あれ?
「真希が答えたんだよねぇ?」
もう一度聞いても、やっぱりうなづく。
ん?
おや?
もしかして、いやもしかしなくても、真希はののちゃんよりなっちを選んだってこと?
しかも答える速さから言ってすでに選んでいたってこと…だよね。
ののちゃんより歳が離れてて、はるかに運動ができない、可愛くないなっちを。
身体を下から上に、電気が駆け抜けた感じ。
心臓がドキドキ言いだす。身体があつくなった。紅くなる顔に手をあてる。
えっ。
うわぁ。まいった。あのすがるような目はふたりの目じゃなく、三人の目だったんだ。
にやけちゃう。
困っているののちゃんと亜依ちゃんを前にした、こんな状況なのになっちってば。
どうしよう。
…すっごく嬉しいんですけど。


「あいぼん、早く早く!」
ののちゃんが座って、手鏡を差し出す。亜依ちゃんはあの、口をアヒルのようにとがらせる顔で受け取った。
「うん、じゃあ行くで」
鏡がののちゃんのおでこに押しつけられる。「うぉりゃぁぁ!」
…うぅん。
声は変でも見た目ぐらいは神々しいというか神秘的なのかな、って思ってたんだけど全然違った。
むしろふざけてるんじゃないかとしか思えない。
ただ、叫んでると思ってた亜依ちゃんの声は、思いのほか低くて静かだった。
「痛い、痛い! あいぼん、いたぁい!」
そう言ったののちゃんの身体が崩れ、ちゃぶ台にひじをつく。
この反応。
なっちのときと同じだ。つまり、取り出し終了。
亜依ちゃんもののちゃんのおでこを見て。
「のの、終わったで。角も消えたわ」
「本当!?」ののちゃんが手足をばたばた動かす。
「やった、自由に動く! 声もしないよぉ!」
これで終わり。真希は戻ってくる。私は亜依ちゃんにそっと手を差し出した。
でも。
亜依ちゃんの手は動かなかった。


「あんなぁ、うちのご先祖様が昔に魔鬼を封印して以来な」
「うん」
「ずっとうちの家系で封印した鏡を見守ってきたんやって」
「…うん」
なにが言いたいんだろ?
やっぱり真希は返さないと言うんだろうか。ちょっとだけそんな気もしたけど。
「だから、この封印の技術もうちの家系の人はみんな受け継いでるんやって」
ののちゃんもあんまり聞かない話なのか、なっちと一緒に真剣に聞いていた。
「それで?」
「でも、この封印する能力とか鬼を見抜く能力って、子供を産むと無くなるんやって」
亜依ちゃんが逃げようとしても、いつでも追える姿勢であいづちをうつ。
きっとののちゃんはもう怖がって強力しない。一対一なら勝ち目は多い――はず。
「だからうちのおかんも今はできなくて、うちしか出来へんねん」
「…ごめん。よくわからなくなってきたんだけど」
「せやからな、うちが魔鬼は封印されましたってうそをつけば」
あっ。
やっとわかった。ののちゃんもなるほど、って顔をしてる。
「誰にも見破られへん」
気持ちが高ぶる。ってことは。
「でもな」


でも?
「うちが現在の加護の家の三百代目の当主なんやけど、伝統ってすっごく重いねん」
亜依ちゃんは下を向く。視線をそらされた。
「自分にうそをついて勝手に手鏡を渡すことはできへんのや」
「でも…」
「せやけど――」
なっちの言葉は途中でさえぎられる。途中でかすれた亜依ちゃんの声。
口の形は、さっきのキーワードのように動いて見えた。
「うち、もう、うそはつきたないねん。おばちゃん良い人やし」
亜依ちゃんの思いがなっちの心に刺さった。
うぅん。
そんなことないよ。なっち、自分のことしか考えてない。
亜依ちゃんの家も、真希の今後も、ののちゃんの未来も、全部おきざりにしてる。
その証拠に、今そう思ってても口には出さないもん。
「うち、どうしたら良いかわからへん」
泣いてる?
「ごめんなさい」
泣いてなかった。亜依ちゃんは手鏡を持ったまま、ゆっくり――。


手鏡が床に叩きつけられた。
カシャンと高い音がして、小さな破片がキラキラ舞う。
「魔鬼はおばちゃんの中に居れば」
小さな当主の声が、なっちの頭を通り抜けていく。
「言い伝えみたいに暴れることはしないかも知れへんけど」
終わった。
亜依ちゃんは顔をあげた。逃げないんだね。
逆の立場だったらここで顔をあげるなんて、なっちにはできないよ、きっと。
ののちゃんはただ成り行きを見ていた。
「どうなるかわからんし、正しくないかもしれへんけど、こうした」
なっちの足元まで飛んできた小さなカケラ。
「真希のカケラ、だね」
そっと手を伸ばす。ケガをしないようハンカチでつかんでポケットに入れた。
そんななっちに。
「ねぇ、すっごく怖かったよ。なんで一緒になろうなんて思うの?」
涙目でののちゃんが叫ぶ。心配してくれてるの?
ありがと。
私は笑顔をつくった。
亜依ちゃんとののちゃんは涙目だ。ふふっ。逆じゃない?
「ふたりとも泣きそうな顔だよ」
ふたりは無理にほほえみをつくりながら「おばちゃんこそ」と答えた。


帰ることにした。
ブーツのかかとをトントンと叩いて、足を奥まで入れる。
「おばちゃん、ごめんな」
「ごめんなさい」
「良いよ」
あれからずっとすまなさそうなふたりのおだんご頭を、同時にくしゃくしゃにした。
「ふたりはさ、ふたりなりに使命を果たそうとしたんでしょ?」
まだお昼になったばっかりだった。
こんなに色々あったのに、今日という日はまだまだ余ってる。
私はバッグを肩にかけ立ち上がった。
「じゃあね」なんて、あくまでも笑顔で。


亜依ちゃんが「うち、そこまで送ってく」とくつを手に取る。
「じゃあ、ののも」
そう言ってののちゃんもくつをはこうとするのを亜依ちゃんはとめた。
「ののは申し訳ないんやけど、留守番しててほしいねん」
「…またぁ?」
ちょっとふくれたののちゃんに亜依ちゃんはすまなそうな顔をする。
「まぁ、誰も来ないやろうから帰っても大丈夫やろうけどな」
うん?
その答えかたがちょっと気になった。
「のの、ありがとな。学校さぼってまで協力してくれて」
「いいよ、あいぼん。気にしないで」
私が手を振って「じゃあね、ののちゃん」と言うと、ののちゃんも「おばちゃんさようなら」と手を振り返した。私は苦笑い。
「最後くらいお姉ちゃんって言ってほしいな」
「じゃあね。…おばちゃん」
まったくもう!


開けたドアの向うは風が流れていて、飛び込んでくる空気がなっちの中でぐるぐるめぐっていた思いをスーッと落ち着けてくれた。
私は髪をかきあげる。
「おばちゃん、良い?」
上目づかいで聞く亜依ちゃんに、何のことかわからないまま「いいよ」と言うときゅっとジャケットのすそをつかまれた。
今まではそんな確認、一度もしなかったのに。
――そうとう気にしてるのかな?
よし。
すそにつながる小さな手。
その手を上からそっと自分の手でつかみ、すそから離す。
「あっ」
亜依ちゃんが悲しそうな顔をする前に、その手をにぎりしめ、私達は歩き出した。
「こっちのほうが良くない?」


入るときとは逆で今度は外に。光りにむかって暗い小道を抜けていく。
「あの白い手鏡って、ずっとここにあった物だったの?」
今回はなっちから沈黙を破った。
「紙に包まれてたから色は知らへんけど、あったよ。ずうっと」
どうして、となっちが口を開く前に亜依ちゃんは続けた。
「盗まれるまでな」

 

第七話 もうひとつの千年の孤独

 

「盗まれそうな予感がして、隠してたんやけど、やっぱり盗まれたんや」
「予感?」
「そや。勘が良いのはうちの家系やから」
そう言って亜依ちゃんはほほえんだ。
でも。
「悪い予感に対してしか効かへんけどな」
なっちにはその笑顔は、哀しいのをごまかしているようにも見えた。


亜依ちゃんは続けた。
「盗まれたのはうちが学校に行ってる間やってん。昼間に」
「予感がしてたなら家に居たら良かったんじゃないの?」
そしたら真希とは会えてなかったんだけど。
なっちの回答に亜依ちゃんは首を横に振った。
「学校に行きながら何とかしたかったんや。そうしないと」
「そうしないと?」
「学校なんか行くなって、当主としてのお務めを果たせって責められるから」
吐き出すように。
そうつぶやく横顔を見てて思う。
きっときつく言われたんじゃないかな、って。だから今日、わざわざ朝早くからひとりで駅まで来てたんだろうし。
…ってあれ?
ひとりで?


「でも亜依ちゃんひとりで来てたよねぇ?」
そうだよ。当主なんて言うくらいだから、部下って言うかそういうのが大勢居てその人達に命令を出す――なんてのじゃないのかな?
映画とかドラマによくあるような感じの。
「おばちゃん、今、ドラマみたいなこと考えたやろ?」
うっ。
「…考えてないよ」
なっちの答えに亜依ちゃんは笑って「おばちゃん、うそついてるってすぐわかる」
と言った。
真希にも言われたっけ。くやしいなぁ。


「責める人は居るんやけど、協力してくれる人は居ないんや」
またわからない。
眉間にしわの寄る私に、亜依ちゃんはゆっくり説明してくれた。
「うちの家系は昔からずっと悪霊をはらったり、憑きものを落としたりしててな」
「うん」
「昔は違ったのかも知れへんけど、今はただ気味悪がられてんねん」
亜依ちゃんはずっとやわらかく笑顔を浮かべたままだった。痛々しく。
他人に気味悪いって思われて笑ってられるわけない。
なっちと同じだ、と思った。
笑って嫌な思いが過ぎ去るのをただじっと待つ。うつむいて笑って。


「おばちゃん、ごめんね」
「また? 大丈夫だよ」
私は目線を落とし、亜依ちゃんと同じ高さで笑顔をつくる。
大したことじゃないけどこんな少しのことで笑顔になってくれるなら。そう願いをこめて。
「うち、こんなだから地元のやなくて、遠くの学校に通ってん」
「うん」
「でもやっぱりすぐばれて、友達なんか出来へんかったんや」
「…うん」
話す内容にあわせるかのように、私達の歩調はゆっくりになった。
でも握った手は離さない。今以上の孤独はなっちも亜依ちゃんもいらない。
「ののだけ」
私達をとりまく木々がだんだんと少なくなって、光りがあふれ出す。
亜依ちゃんの顔もそれにともなって輝いてみえた。ゆっくり、ゆっくり。
「ののだけが、うちのともだち」


陽の光りの射す道で、私達は立ち止まる。
「そっか。良い子だったもんね」
なっちがののちゃんをほめると、亜依ちゃんはさっきまでと違う微笑みを見せた。
ただ嬉しそうな、笑顔。
「ののは転校生やったから、うちの家のこととか知らんかったんや」
「だから標準語だったんだ」
でも。
「今日、いっぱい知っちゃったみたいだけど…」
「前に話したことあるんや」
「そうなの?」
「そう。でもののは、あいぼんすごいんだね、って言って」
「うん」
「それからも変わらずに遊んでくれたんや」
「そっか」
話すたび亜依ちゃんは本当に嬉しそうで、見ているこっちまであたたかくなった。
私はもう一度「良い子、だね」と言った。


急に。
「でも、あんなことになったし、きっともう嫌われるやろ」
まるで自分に言い聞かせるように亜依ちゃんはつぶやいた。
それはだめ。なっちもしたことあるからわかるけど、自分を言い聞かせてもやっぱり痛みは痛いんだから。
つないでいた手を離して、亜依ちゃんの頭をそっとなでる。
「大丈夫だよ」
なっちの言葉で痛みがやわらいでほしい。
「うぅん。ののは気味悪がって自分の家に帰ったはずや。もう遊んでくれへん」
「大丈夫」
「うそや。なんも証拠なんかないくせに」
「大丈夫だよ」
「なんで? なんでそんなこと言えるん」
ちょっと投げやりで声を荒げる亜依ちゃん。
「だって」その顔に笑顔を投げかけよう。
「ののちゃん良い子じゃない」


「友達だもの。きっと待っててくれてるよ」
「うちも昔、他にも友達おった。でもみんな、うちのこと知ったら」
亜依ちゃんはうつむいてた顔をあげて「誰も遊んでくれなくなった」と続けた。
「なっちにも同じことがあったよ」
「そうなの?」
「うん。中学の友達がね、高校に行ったら全然相手にしてくれなくなったの」
みんなに置いていかれた私。
先に進むことをやめた私を待って、手をさしのべてくれたのはひとりだけ。
「もしののちゃんが待っていてくれて、亜依ちゃんが追いかけるならさ」
その手に、自分の手を――。
「もうふたりは」ちょっと照れ笑いを浮かべて私は「親友だよ」と言った。


この木漏れ日の中で、どれくらい話していたんだろう。
五分? 十分? もっと長い? もっと短い?
「さぁ」
私は亜依ちゃんの背中をそっと押す。
「うん」
そう答えて亜依ちゃんは歩き出した。良かった。元気そう。そう思いながら見送るなっちを、ふいに振り返って。
「おばちゃん、ごめんね。ありがとな」
最後までおばちゃんかぁ。
うん。亜依ちゃんとののちゃんは大丈夫。絶対上手くいく。
「なんかあったらまた来てな! 絶対後悔するんやから!」
叫びながら駆けてく亜依ちゃんは、笑顔をこちらに向けて手を振った。
なんだ、ばれてるのか。手を振り返しながら苦笑いしちゃう。
もうさんざん悩んだんだから。後悔なんて!
私も叫んだ。
「しないよ!」

 

第八話 知らない誰かのために知ってる誰かのために

 

しばらく歩いていると、行くときにお菓子を買ったお店が見えた。
じゃあ、あと半分くらい。
「よし」
決意を声にする。
これだけ離れれば、もう戻ろうとは思わないだろう。肩のバッグをおろした。
でもなっちなら、このくらい戻ったっていい。
私はおでこの汗をふき、ポケットに手を入れてハンカチを出す。
くるまれてるのは真希のカケラ。
じゃなくて、真希――のはず。
夢。
あの夢はまだ憶えている。
夢の中の果てしなく広い空間。割れたって関係ない、はず。
「大丈夫、きっと」
そっと鏡のカケラをにぎりしめた。ちょっとだけ、痛い。
ねぇ、真希。なっちの声、聞こえる?
…。
……。
真希? ダメ?
戻ろう。そう思ったとき、聞こえた。
『聞こえてる。しっかりとね』


目の前に真希が現われた。息をしていれば、お互いにかかる距離。
そしてまた――裸だった。なっちも真希も。
しまった。
こんな道の真ん中じゃなく、道路の脇でしたら良かった。
経験上実際に服を脱いでるわけじゃないってわかってるけど、気分の問題。
なんか恥ずかしい。
それはさておき、おかえり。
『ただいまぁ。なんかすっごく疲れたよ』
うん。
真希の口唇が近づいてきて、私は目を閉じた。


『ここまで戻ってきたの?』
それが二度目の合体後の真希の第一声だった。
うん。もう用も済んだみたいだったしね。
平静をよそおいながらも、なんだかドキドキする。ちょっとあつい。
『ふふっ。そんなに嬉しい?』
うん。
隠しごとができないのって、こういうときいいな、って思う。
普段なら照れて言えないことがさらっと言える。
『私もこっちがいい。もうあの子、ずっと泣いてて暗いったらありゃしない』
でも良かったの?
『なにが?』
ののちゃんの身体の方が、なっちよりずっと良いと思うんだけど。
『そう? 人間のつくりなんて誰でも似たようなもんでしょ? って言うかさ』
右手が勝手に動いて、はなをつまんだ。
『逆のこと考えながら言うな』
あははっ。ごめん。
笑顔になっちゃう。つままれたはながかゆくって、それすら。
楽しく、嬉しかった。


『なっち、読んでたでしょ』
真希の口調が変わった。――来た、と思った。
その言葉に、こくん、とうなづく。
あの場所で真希を身体の中に戻したら、真希のことだから絶対だまされたお返しとして、
亜依ちゃんとののちゃんに仕返しをすると思った。
それもきっと仕返し、なんて言葉が可愛いく思えるようなことを。
だからこんな遠くまで来てから一緒になった。
『まさか。しないよ』
えっ?
予想と全然違っていた返事にちょっと驚く。しまった。
もしかして私は、真希を見くびるような判断をしてしまったかも知れない。
『加護には。お世話になったからね。もうひとりの子は――』
違った。
『殺すまではいかなくても、目くらいはつぶすべきだった』
やっぱりなっちの判断は正しかった。
歩いた疲れ、暑さとは別の汗が手のひらに浮かんでくる。
真希は、さらっと言ってのけるのに。
『だまされたのも腹が立ったし、中にいる間ずっと泣きわめいてたし』


『まぁ、もういいけどね』
真希は笑う。
『ここから戻りたくないし、なっちの気分まで真っ暗になるのも嫌だしさ』
ほっとした。私は胸をなでおろす。
うん。じゃあ、行こっか。
そう思って踏み出そうとした一歩は、まったく動かなかった。
『その代わりぃ』
視線が動かされる。瞳にうつるのは、さっきのお店。
『お菓子、もちろん買ってくれるよね?』


バッグを抱えて、私達はまた歩き出した。
買ったばっかりのお菓子の袋は歩くたびにカサカサと音をたてる。
ねぇ。
『うん?』
あの亜依ちゃんのご先祖様と、なにがあったか教えて。
『加護と? 良いよ。まぁ、簡単に言っちゃえば一緒に居るときに火事になって』
うん。
『私は鏡の中に入って今もこうして無事で、加護は焼け死んじゃって、おわり』
ふいに飛び出した最後の言葉があまりに唐突で、別の意味があるのかと思った。
…。
終わりなの?
『そう。これだけだよ』
短いなぁ。私は苦笑する。でも、待って。
焼け死んだ…?
『どうかした?』
うん、なんとなくひっかかるんだけど、なんかわからない。なんだろ?
嫉妬の炎が見る見る弱火になっていく。
でもくすぶりは完全に消えなかった。
詳しい真実は今日の夢で明らかになる。
確信なんてないけど、きっとそのはず。私は歩みを進め続けた。


辿り着いたバス停。
次のバスは三十分後で、私達はぺたっと地べたに座り込む。すぐに真希はさっき買ったシュークリームをつまみ始めた。
なっちとしては歩いた直後だし、暑いのもあって食欲はわかないんだけど。
飲み物もないのによく食べられるね。
『おいしいものならね。平気だよ』
そういうものかなぁ。
『そうそう。それにまたなっちに笑われるの嫌だしね』
真希はそう答えながら左手を腰にあてた。笑ってしまった。
…ふぅ。
笑い終わって私は空を見上げる。雲一つなかった。
――すべて同じ。
私達は離れる前、昨日と同じに戻ったように見える。
今日のことなんてなかったことのよう。
真希ももう気にしてない?
『そういうわけではないんだけどさ』


『もういいや、別に』
真希がぽつりと言ったその言葉。すごく嬉しかった。
なっちが真希と一緒になるのをちょっと遅らせたことで、
ののちゃんがケガをしなかったと思うと、誇らしい気持ちにさえなった。
…。
空を見たまま、そっと目を閉じる。
これまでずっと流されてきた。全部決めてもらっていた。
自分からなにかをすることなんてなかったのに。
今からは違う、と思った。
あの時の亜依ちゃんとののちゃんの目。なっちを頼っていた瞳。
なっちにしか。
なっちだけにしかできないことがあるんだ。


ののちゃんの身体になにもなかったように、なっちの努力で、真希に罪を犯させないようにしたい。
簡単に人を傷つけたり、破壊をさせないようにしたい。
包んであげたい。
永い伝統を破ってくれた亜依のためにも。
なっちと真希を引き合わせてくれた裕ちゃんのためにも。
もう誰にも迷惑をかけさせない。
目を開けた。
両手を伸ばした。
にじむ視界に目をこらす。鏡の中に居た間のように、なっちの中に居る間も。
真希は、真希だ。
もう二度と「魔鬼」なんて呼ばせない――!


天から降ってきた。
熱くなる身体、速く鳴る胸、高ぶる気持ち。
これがこれからのなっちの人生の指針にすら思えたのに。
『ふぅん』
私の決意に真希は、そっけない返事だった。

 

第九話 負け続けの私達

 

ホテルに着いて、べたべたする身体をさっとシャワーで流し、ベッドに飛び込んだ。
足が疲れて、ふとんがやわらかすぎてなにもする気にならない。
『本当に』
目を閉じると頭だけははっきりした。
帰りのバスは私達以外にも利用してる人、いっぱいいたなぁ。
フロントの人、こんな早くにチェックインしてもなにも言わなかったなぁ。
平日の昼間なのに、駅前は混んでいるんだなぁ。
ふと。
仰向けになって、目を開いた。
目に映るのは白い天井と家とあんまり変わらないような照明。あのでっぱりはスプリンクラーかな?
『なにそれ?』
あのでっぱりあるじゃない。火の気配を感じたらあれから水が吹き出すんだよ。
『すごいね。そんなことができるんだ』
しまった。
真希は火事で身体を失ったんだっけ。ごめんね、気配りが足りなかったね。
『別にいいよ。今は無事だし』
…無事って言うのかなぁ?


私はもう一度うつ伏せになって、もう一度目を閉じた。
眠ろう。
真希と亜依ちゃんのことを知るために――夢を見るために。
『いいよ。眠るの好き』
うん。おやすみ。
『おやすみ』
さやさやと流れる空気が、私達の身体をなでで熱を飛ばす。
風の流れる小さな音も私達を眠りに導く手助けになった。
嫉妬はもうしていないよ。
今はただ。
知りたいだけ。
頭に浮かんだひっかかりを解決したい、ただそれだけ。
長い夢になりそう…。


山の中腹。
大きいけどもう滅んでいくだけ、そんな印象を受ける寺に、私達は居た。
くすんだ柱に刻んだ傷はふたりで月を見た数。今夜で七つ目になる。
加護の話と知識は無限の広がりを見せるかのように続いた。
目の見えない旅人は、心で景色を見ると言う。
角を隠すことも、心をかくすことも。
加護の前では無駄だった。


月が昇り、私は今日もここに来た。加護はすでに居る。
月明かりのなか、座り、じっと動かない。
どんなに気配を抑えて音を立てなくても、加護は私が来たことを当てた。
見えてるかのよう。
近寄り、爪をたてる。殺そうとしても息一つ乱すことない。
「怖くないの? わかってるんでしょ」
左手の爪の先がそっと、加護の喉をなでる。
「殺せるよ」
「殺さないくせに。毎日飽きないね」
加護は焦点のあわない黒目を見せて、笑った。私も笑った。
「それで? 今日はなにを聞かせてくれるのさ」
「そうだねぇ」
加護は口唇にひとさし指をあてて考えてる。可愛い丸顔が、このときだけは別人のようにひきしまる。
その指がそのまま天井を指す。
「…天にも川がある、って知ってるかい?」
はぁ?


加護の話しかたはゆっくりで、わかりやすくて良い。
ときどき、喉がかわいた、と言って水を飲む。
ちょっと休んで、また話しだす。
ろうそくの小さなゆらめきの中で、加護の目はとてもきれいだった。
「眠くない?」
夜通し語り合ってた。
出会ってから毎晩。
「まだ大丈夫。昼間に眠ったし」
「変な鬼」
「加護ほど変じゃないよ。人間のくせに」
おかげで最近、人間は真向かいに座るひとりしか目にしていない。
加護を除いて全てが消えた、って言われても納得できる。
…。
不思議だ。
たかが人間なのに、こいつだけは、魅力的にすら思う。
人ごときの名前なんて初めて記憶したよ。


名前を覚えたことを伝えると、加護は「光栄だね」と小さく笑った。
「私がただの人間じゃないからかな?」
「そうかもね」
高く昇った月。
口調がさらにゆっくりになった。
私達はうとうとしだす。
「眠るの好き」
「私も」
目を閉じたまま続く話。お互いに壁を背にして、寄り添うこともしない。
おおかた私だけど、先に起きたほうが、先にここを去る。
そして夜に来る。
いつもと同じ。


いつもと違った。
「んっ…?」
明るさと暑さで目を覚ます。朝まで寝過ごしちゃった?
そう思いながら開けた障子から飛び込んで来た光景は。
炎の海だった。
「なに、これ?」
炎の先が見えない。若い木が枯れ木のように燃えていく。
これは…死ぬかな?
そっと振り向くと、加護が目を覚ましていて「暑くない?」と言ってきた。
「火事だよ」と答えながら汗をぬぐう。暑さだけの汗じゃあ、ない。
「助かりそう?」
「無理かな」
「そっか」


加護はうつむき、今までと違う弱々しい声で「ごめんなさい」と言った。
「まだ余裕があると思ってた。ちょっとゆっくりしすぎたみたい」
「どういうこと?」
「私さ、この知恵と特殊な能力のおかげでさ。嫌われてるんだよね」
力のない笑い。
なるほど、と思った。人間にしちゃ確かに異質かも知れない。
でも。
「嫌われてるを通りこして、殺されそうだと思うんだけど」
「それくらい嫌われてるってこと」
「特殊な能力って何?」
「今までは何とか逃げられたんだけど」
「目が見えないのに?」
「そう」加護は汗を拭いた。
「悪いことに関しては、勘が良いんでね」
じゃあ今回は何だよ?
口に出す前に、加護が答えた。
「今回は予測が狂った。ごめん」


加護はやけに落ち着いていた。
人間のくせに、こんなに死に冷静なのは珍しいんじゃないか?
「死ぬの怖くないの?」
「いつかは殺されるかな、って思ってたから」
「私もさ」
「うん」
「加護じゃないけど、人間には好かれてないから」
「から?」
「この火事も加護じゃなくて」暑い。
「私を殺そうとしたのかも」
木の倒れる音が聞こえた。倒れた木がこの寺にあたる音も聞こえた。
加護は「ここも燃えるね」とだけつぶやいた。


暑さが増す。煙りも少しずつ寺の中に這い始めた。
「助ける方法、あるよ」
助ける?
「助かる方法、でしょ?」
「助ける、で良いの。真希しか助けられないんだから」
嘘だ、と思った。私ですらこの炎をくぐって逃げられるとは思えないのに人間の身体じゃどうこうできるわけない。
「これさ」
加護が懐から出したのは白くて小さな――手鏡だった。
「さっきの質問の答え」
そう言えば聞いてなかった、と思った。
「殺されそうなほどの特殊な能力でここに、真希の精神だけを封印する」


私は小さく息を吐いた。やっぱり耐えられなくて狂っちゃったか。
「何言ってんの?」
「できるんだよ」
「どうやって?」
「代々そういうことしてきてる家系だから」
「そんなことしてる時間なくない?」
「すぐ終わる」
「鏡なんてすぐ燃えちゃうんじゃん?」
「その前に埋める」
「じゃあそれっきり発見されなくない?」
「されるさ」
「どうして?」
「上に死体がふたつ重なってあったら絶対おかしいと思うからさ」
「発見されてその後はどうなるの?」
「発見した人に出してもらう」
「どうやって?」
「誰かが鏡に触わるだけで良い。真希の心は、それで出られる」
冴えていた。加護は全然、おかしくなんてなっちゃいない。ただ――。
「なに笑ってんの?」
「笑うしかないでしょ?」
できればふたりで助かりたかった。


「私のせいでごめんなさい」
真顔で呟く加護に私は笑顔を見せた。
壁が燃え出して、煙りが足にまとわりつく。
「お互い様だよ。ねぇ、こんなときでもきれいだね、その黒目」
炎の明かりが反射して見える。見えないとは思えないほど澄んでいた。
「すぐ出られると思うから」
どんな風に出られるかは言わなかったし、聞かなかった。
人間の身体を奪う、ってなんとなくわかったから。
「うん」
梁が落ちた。柱のかしぐ音が響いた。
人間なんて豚以下だと思ってた。食えるだけ豚のほうがましと思うこともあった。
「ひとりだけ助かって」
もう一度目を見る。
人間に助けられるとは思わなかった。すごく――負けた気分。
「ごめんなさい」
「あら珍しい。…さ、楽にして」
それが加護から聞こえた最後の感情。…絶対に、忘れないよ。
――そんな夢を見た。


身体を動かさず、目だけを開けるように、起きた。思った通り見られた。
おはよう、真希。
…。
厚いカーテンが光りをさえぎってるのか、まだ朝になってないのか、部屋の中は暗かった。人間に負けた鬼からの返事もなかった。
まだ眠ってるのかな?
ふぅ。
私はそっと息を吐く。
すべての謎が解けたと思うのに、あまりに重い。
当時は気づかなかったんだろうな。なっちだって、今の夢だけだったらなんの疑いもきっと持たない。
亜依ちゃんの言葉やあの本と重ねるから矛盾が出て、ひっかかりを覚えたんだ。
私達は、この夢のときからずっと。
ずっと負け続けてる。


なっち達が読んだ本には「高僧」って書いてあったし、亜依ちゃんもそう言ってたのに、夢の中では逆。人から嫌われていた。
どっちかがうそだとしたら、それはきっと真希の夢のほうだと思う。
あれはきっと真希をだまして封印するための芝居かなんかだ。
じゃなきゃおかしい。
亜依ちゃんの姿が頭をよぎった。
――この封印する能力とか鬼を見抜く能力って、子供を産むと無くなるんやって。
だったら。
あの加護さんは、あの夢の後で子供を産んでなきゃいけない。
じゃなきゃ亜依ちゃんは真希を鏡に戻したりできないはず。
真希の負け。
ひとりだけ助かってなんか、いない。ふたりとも。
生きていたんだ。
『まさか』
突然響いてきた声に身体が、ぴくっ、と動いた。
真希、…起きてたの?
『ちょっと前からね。なっちが「負けた」とか考えたあたりからかな』


目が慣れて机やクローゼットの輪郭が部屋に浮かんでくる。
目だけを動かして見た壁の時計は七時を示していた。
じゃあ、夜だ。
辺りの暗さはなっちの考えを包み込む。
どんなに違うって思おうとしても「だまされた」って結末へ歩こうとしてしまう。
『私ですら脱出をあきらめるような燃えかただったんだよ。ましてや加護は』
目が見えない。脱出なんて――無理だ。
ただ責任を感じて真希を助けようとしただけ?
でもあの文献と内容が全然違っちゃう。
真希が死ぬだけじゃダメで封印する必要があったの?
でも飾ってただけって言ってた。
『なっちは肝心なことを考えていない』
そう言って真希は身体を起こした。
『放っておけば焼け死ぬような炎の中で、封印なんてする必要、どこにある?』
あっ!


どうどう巡りになりそうな頭の中にまた真希の声が聞こえて、なっちの中の疑問と嫉妬の炎は小さくなり、消える。
『どうだっていいよ。今さら』
真希が立ち上がり、壁に手を触れる。明かりを点けた。
全ての黒が一瞬で白に包まれる。…これと同じこと、前にもあった。
今さら、かぁ。
そう言われちゃうともう、なっちにはなにも言えないや。
なにが真実かは結局わからないままだけど――。
真希は気にならないの?
『なにが?』
ずうっと信じてた、あの加護さんに裏切られてたのかもって。
そう話しながらなっちは、亜依ちゃんの顔を思い浮かべていた。
あの可愛い笑顔。
『だってもう。加護は死んじゃってるし』
私はくすっと笑って「その割には恩返ししようとしてたくせに」と言った。
真希も『やっと笑った』と笑い返した。

 

第十話 ひとつだけ

 

夜の駅前は人通りが多いのに、さらに冷たさを増していた。
真希の意見で軽くデザートを食べた。デザートという横文字が似合わない葛もち。
おいしいね。
『うん、おいしい』
不規則な時間に眠って不規則な時間に食べてだから、
身体には悪いと思うんだけど歯ごたえ良いし蜜も甘いしでちょっと止めるのがもったいない。
まぁね。
せっかくの旅行だし、たまにはね。
『そうそう』


喫茶店も静かだった。
サラリーマンの人とかOLとかがお茶でも飲んでるのかと思ったけどそんな人達はいなくて、
かえって主婦っぽい人達や大学生っぽいばっかりでみんなそれぞれに自分の時間を楽しんでいるよう。
なっちと言えば、そんな中で音を立てずにお茶をすすったりしてる。
『静かだね』
そうだね。
どこでもきっとこうなんだろうな、と思う。なっちは知らなかったけど。
…。
真希、明日はさ。
『うん?』
起きてすぐ図書館行って調べて、お墓参り、行こう。
『いいけど、なんか気力にあふれてきたね』
うん、と私ははっきりうなづく。
ちょっと燃えてきてる。――そのために来たんだから。


亜依ちゃんは私達に「京都に来た目的」を聞かなかった。
起きてからそのことについて何回か考えた結果、たどり着いた結論は。
…ルール。
先祖代々、不思議な能力を持ってた亜依ちゃんの家を訪れる人は、決まって口に出せないような用で来ていたんじゃないかと思う。
本当の用は口に出さないし、聞かなくてもわかる。
聞いてもしょうがない、行きずりの二度と会わない人だから。
ふぅ。
私達は今日の出来事で仲良しになれたと思ったのに、そう思ってたのはなっちだけだったのかな。
改めて考えると、ただ仕事をこなしていたのかな、なんて思えてしまう。
『なるほどね』
頭に浮かぶ亜依ちゃんの笑顔を振り払う。
だからこそ。
負けて帰らないためにお墓参りに行く。目的は、果たして帰るんだ。


ホテルに戻ってすぐシャワーを浴び、髪をかわかし、明かりを消した。
全然眠くないけど、明日早起きするためにベッドにもぐる。
『私の経験から言うとね』
いや、と真希の言葉をさえぎった。聞かなくてもなんとなくわかる。
なっちも経験いっぱいしてるんだから。
遅くに眠ると、遅い時間にしか起きられない。
早くに眠っても、なぜか早い時間には起きられない。
『わかってるんじゃん』
真希の言葉に笑って答えた。
――だったら、いっぱい眠れたほうが良いでしょう?
『まぁそうだけど』


岩の上に座り、濡れないよう着物をまくって川に足をひたす。
足先に涼しくやさしい刺激。
…気持ち良い。
私は手で身体をささえながら顔をあげた。流れる汗は岩に染み、川にとける。
離れたところには着物を洗う女と、水をかけあう子供達。
空には雲が流れていた。
「んっ?」
川の中に動く影を見つけて、私はそこを蹴りあげる。
銀色に輝く川魚が宙に浮かんだところをさっと左手でつかみ、すぐ放した。
そんなことを何度か繰り返す。
二度。
三度。
四度目で視線を感じた私は、蹴りあげ先を変えた。
空中を泳いだ魚は私の上には来ないで、子供達の視線を集めたままその中心に落ちた。
背丈近くまであがる水しぶきに子供達は顔をそむける。転んだ子もいた。
転んだ子は泣きだしてしまい、私はその様子を座ったままくすくす笑って眺めてた。
――そんな夢を見た。


十時には図書館も開くだろう、と早めにホテルをチェックアウトした。
昨日ドアを開けたときにいた店員がフロントにいて、あのときと同じ笑顔を見せて「お気に召しましたか」と言ってくれた。
私は「はい」と答えた。
真希も『そこそこ』と笑顔を見せる。
そのやりとりが小さな勇気をくれた。
「あのっ」
「はい」
「私みたいに女の子がひとりで、平日の朝とかに来ても、あの。泊まれるんですね」
ささやかな告白に対する報酬は。
「おかげさまで、こんな小さなホテルでも稼がせてもらえてます」
さっきまでと全然違う笑顔だった。


お墓の場所は意外と早く見つかった。
広くきれいなその図書館には鬼塚に関する本がいっぱい並んでて、その中に記述があった。
行き方は京都の地理に詳しくない私でもわかりそうなほどにていねい。
『加護の家とは違う場所だね』
うん。
違うどころか駅をはさんで逆方向。あのふたりにもう一度会う可能性がなくなっちゃってほっとしたような、淋しいような感じ。
私は地図を、京都駅から鬼塚までの道のりを指でなぞった。わりと近そう。
『なんか用でもあったの? 加護? もうひとりのほう?』
そういうわけじゃないんだけど…って。
ふと気づいた。
矢口さんのときもそうだったけど、真希ってさぁ人を名前で呼ばないよね。
『やぐち?』
ほら、あの、金髪で声の高い。
『ああ、あのちっこい子ね。人間の名前なんていちいち記憶しないよ』
じゃあどうして、と聞く前に真希が答えた。
『世話になった人間は別だけどね。加護とかなっちとかさ』
――あっ。
胸をきゅっ、とつかむ心地良い痛み。…なっちも、真希の役に立ってる?
『立ってるよ』
そう言って真希はなっちの胸を叩いた。えへへ。


「ありがとうございました」
そのバス停で降りたのは私達だけだった。
住宅街を抜けてはずれに向かって歩くとお墓ってイメージからはちょっとずれた小さなお寺に着いた。
見上げて思った。
『結構新しくない?』
そうだね。
明らかに千年もたってない、割と最近建てられたような白さ。
真希にゆかりの地に建てられたりしてるのかも知れないけど、これじゃわからないなぁ。
『いや、私だけのお墓じゃないんでしょ?』
まぁ、そうなんだけど。
「失礼しまぁす…」
『そんな小さな声だったら言わなくても良いと思うんだけど』
気持ちの問題なの。
せまく開いていた門をくぐり境内に入る。
あんまり手入れされていない庭を抜けるといくつか並んだ墓石が見えた。私は大きく息を吸って、吐いた。
着いたんだ。
この中に「魔鬼」って書かれたお墓が。
『あるのかねぇ。それよりなっち、気づいてる?』


えっ?
『ほら』
真希が顔を向けた先には、大きな樹が一本、その横に庭石がひとつ、そしてその上におだんご頭がひとつだけ見えた。
「おはよう、おばちゃん」
亜依ちゃん。
「おばちゃん、夕方に来ようとすればええのに。そしたら学校帰りに来れたんや」
「どうしてここに」
来るってわかったの、と聞くのを途中でやめた。聞くまでもない。昨日と同じ。
真希だ。
「どや?」
亜依ちゃんがはにかむように笑顔をつくる。
「うちの勘、よう当たるやろ?」
その顔がちょっとだけ大人びて見えた。
まるで、夢の中のように。
『まったく』
真希が笑う。なっちも笑った。もう。
全然勝てないんだから――!

 

終幕 私は私を好きになる

 

『本当に違う場所なの?』
それが東京に帰ってきた真希の第一声だった。
ほら。
そう言って私はバッグをおろし看板を指さす。その動作で腕がぱきん、と鳴った。
『確かに「東京」だけど、なんかだまされてる気がする』
ふふっ。
私は伸びをする。さぁ、家に帰って怒られなきゃね。
『また怒られるのかぁ』
そう、また。しかもお父さんとかにぶたれたりするかも知れないよ?
『嫌だよ。きっと私、よけてぶち返しちゃう』
私はだめだよ、と答えて笑った。
変な感じ。これから怒られるってのになっちってばちょっとわくわくしてる。
『本当。なっちってば、変だよ』
真希も笑った。
この二日間のことを考えると、色々あった、と思う。出会ったし、経験もした。
今ならお父さんにもお母さんにも言いたいことを言えるはず。っていうか言わなきゃ。
これだけは真希に頼れない。
『まぁ、頑張ってね』
うん。
バッグを抱え直す。歩き出すと、ブーツのかかとの音が響いた。