新・魔鬼なつみ

 


序幕 バッドデイズオンハピネス

 

だまされてるに決まってる。
こんな私、なにがあったって変わるわけなんかないもの。
そう疑いながら、自分に言いきかせながら、包みの紐をほどきました。
ショックを少しでもやわらげるために編み出した、私なりの作戦を実行しながら。
鮮やかに赤い手鏡。
のぞきこむと、映ってるのは私じゃない私。私だけど違う。
私なのに、私よりずっと美人で、私よりずっと――ハンサムでした。
良いなぁ。
そう思いながらおでこを、鏡にあてて。こんなふうになれればいいのに、なんて。
『いいよぉ』
…えっ?
急に頭の中に響いてきた声。私を見つめる、私じゃない私。そして。
その口唇が私の口唇に。
んっ。
重なって――。

 

第一話 アナザーライフ

 

『ほら、雨になった』
うん。
私はまだ明るめの空を見上げた。この天気で本当に雨になるなんて。
さすがだ。
壁にもたれ雨を避けてる私達に雨音は全然聞こえないけど、そっと左手を伸ばすと小さな粒があたる感覚があった。
右手にはバッグと、オレンジに白のふちどりがお気に入りの傘。
『ちらちらと見られてたりはしているのに』
せっかくの日曜日。
渋谷の駅前は人であふれていて、晴れていたらきっとすぐに声がかかると思うのに今日は雨で周りを見づらいせいか。
『誰も来ないんですけど』
なんて。


「キミ、すごいね。傘持って来てるんだ。全然降りそうじゃなかったのに」
言ってる内に現れたのは、よくいるような感じの人。
服とか靴とか髪型には気を配ってます、って姿勢だけは認められそうな。
「お気に入りなんだ」
「へぇ。誰か待ってるの? 友達?」
『お前だよ』
間髪を入れない問いに真希も間髪をいれずに答える。
私はこくん、とうなづいて「おごってくれそうな人」とささやいた。


男の目が変わったのがわかった。
「じゃあ、俺でも良いんだよね?」
毎回不思議に思う。なんで男はおごるだけなのにこんな嬉しそうなんだろ?
私はもう一度うなづいて、傘を広げた。
「…てよ」
えっ?
傘を広げる音にまぎれて聞こえなかった。顔を上げる。なにを言ったんだろ。
『名前、だってさ』
真希がくすくすと笑う声が頭に響いた。
『どっちにするの』
ふふっ。じゃあ今回は。
「真希」
見せるのは、ふたり分の極上の笑顔。
「真希って呼んでよ」


最近、可愛くなったと自分でも思う。
街を歩いていても結構視線を感じるし、通りすがりに「今の子可愛いかった」なんて言われることまであった。
…真希のおかげ。
真希と一緒になってから五ヶ月近くたった。
私は身体つきがすらっとしてそれにともなって顔もすっきりしてきた。
鏡を見るのが楽しかった。
初めてのことも苦労せずに出来た。
私がいじめられてた「なっち」と同一人物だなんて、自分でも信じられない。
相変わらずクラスの誰とも話したりはしなかったけど、みじめな思いなんてなかった。
私のほうが。
なっちのほうが絶対、矢口さんや飯田さんや他のクラスメイトより可愛いから。
人の目をひくから。優れているから。
無視されているんじゃない。私が、彼女達を無視してるんだ。


なっちと真希は上手くやっていた。
この五ヶ月間、ケンカすることなんて一度もなかった。
真希は全然こだわりを持たずになっちまかせにすることが多かったし、なっちも真希のお願いには出来るだけ答えてあげていたから。
…。
変わったことと言えば。
真希は現代の言葉や習慣にだいぶ詳しくなった。
なっちは真希の夢を見ても何とも思わないようになった。
たとえそれが、何の罪もない人を通りすがりに殺す夢でも、泣いてる子供の頼みを聞いて家屋を破壊しその家族全てを殺す夢でも。
どんなに残酷な夢でも、私は割り切った。
この夢は過去のことで今の真希じゃない。真希が暴れるとしてもそれは、なっちのため。
そして――。


雨の中を歩くこと数分。連れて行かれた先は喫茶店だった。
大きなガラス張りの壁から射し込む光りは内装を明るく照らしていたけど、夜にはお酒がメインに変わりそうなお店。
シンプルで大人っぽい造り。
「どう、きれいでしょ?」
『きれいだね』
うん。この雰囲気が気に入らない女の子はいないと思う。
私は「きれいだね」と、真希の返事をそのまま口にした。
「俺も好きでよく来るんだ」
ふいに、傘をたたんでいる途中の私の身体が一歩、前に出た。
真希?
『あいつが肩を触ろうとしてたんで、ね』
振り返ると、男の右手が所在なさげに宙を泳いでいた。


「何にする?」
「ん。オレンジジュース」
カウンターの割にクッションの効いた席に並んで座る。
男の言葉は全て私達の耳を通り抜けて、聞いたはずの名前も記憶に残らなかった。
趣味の話や持ってる車の話、最近のテレビの話。
私はたまに笑って、あいづちを打つだけ。
それでも男はそんな私達に気付く風もなく、よくわかんない話をし続けてた。
『なっち、後ろ後ろ』
話が切れた隙に、真希が振り返った。
『入ったときに気になったんだけど、あの机さぁ』
移されたなっちの視線の先には、大きな机の上に転がるカラフルなボール。
「好きなの? ビリヤード」
『何それ』


壁に棒がかかってるじゃない。あれであの机の上の球をついて、隅の穴から落とすって遊びだよ。
『なんだ。豪華な料理用の大机かと思ったのに』
私の説明の途中で真希は興味を失ったてけど、男が「俺、得意なんだよね。教えてあげるよ」と言って席を立って歩きだしたので、
なっちも後に続いた。
『確かに人間が創った遊び、って感じだね』
真希の声にはもう驚きも楽しさもない。
『運すらからませでこないんだから。まぁでも』
くすっと笑って。
『退屈な話しを続けられるよりは面白いかもね』


「私、やったことないんだよね」
そう言うと男は笑って「じゃあ教えてあげるよ」と棒を渡してくれた。
良い笑顔だな、って思った。このお店に連れて来たこともあわせて、普通の娘ならきっと良い印象しか持たないんだろうな。
――普通の娘、ならね。
キューというその棒の持ち方と、ルールを簡単に教わる。
『なるほどね』
真希はそう呟きながら球を三回突いた。
一回目の球は勢い良く台から跳ねた。二回目は大きく弧を描いた。三回目で白い球はポケットと言うらしい穴にすとん、と落ちた。
『もう教わることはないかな。この男より私の方が、もう上手くできるはず』


「実際にゲームしよっか。何か賭ける?」
男の声になっちも真希も答えない。
真希は十六個の色とりどりの球をテーブルに散らし、最後に音を立てずに白の手球を置いた。キューを構える。
『ひとつ』
黄色の球がポケットに落ちた。真希は位置を変える。
「へぇ、上手いじゃん。初めて、って実は嘘とか?」
笑いながら言う男の言葉に、真希は目も動かさない。突く。紫の球が消えた。
ふたつ。
「えっ。真希ちゃん、二連続ってすごいよ」


『みっつ』
場所を変えて、間髪を入れずにもう一度突いた。
よっつ。
「四連続なんて、俺もやった事ない…」
『いつつ』
手球はへりで跳ね返って赤い球に当たる。赤い球が青い球を押して。
むっつ。
『なっち、店の人全員が見てるよ。…ななつ』
すごいことをしているんだ、って実感がわく。強く突くとふたつが一緒に落ちた。
やっつ、ここのつ。


店内が静かになって、球を突く音がやけに響いて感じた。
そんなことお構いなしに真希は突く度に球をポケットに落とし続ける。
「初めて、って嘘だよな…」
視線すら向けない。真希も、なっちも。
最後のひとつを前になっちの身体は大きく、息を吐きだした。
『どっちもつまんない』
ゆるく球を突く。オレンジの球と白の手玉が同時に、台から姿を消した。


キューを壁に立て掛ける、そんな小さな音さえ響き渡る。
『こんなの百回やったってできるよ』
顔を上げた先には、こわばった男の顔があった。その向こうには同じようにこわばったお客さんや店員さんの顔がある。
…誰からの拍手もなかった。
『帰ろっか』
真希のつぶやきに私はこくん、とうなづく。もう居られる雰囲気じゃないしね。
またふいになっちの身体が動いて、私の肩をつかみそこねた男は姿勢を崩す。
「なぁ、初めてって嘘だろ。もしかして実はプロとか」
そんなこと聞いてどうするのさ。
私達は極上の笑顔をつくり「わかっちゃった? 応援してね」とささやいた。
カウンターに向かって歩き出す真希。残っていたオレンジジュースを飲むと、甘さが舌に気持ち良かった。


「ごめん。この後、友達と約束あるんだ。じゃあね」
こんな嘘はいらないかな、と思いながらも一応告げて、私は喫茶店を出た。
来たときと同じ、強くも弱くもなっていない雨の中にお気に入りの傘を広げる。
『あいつ、帰りは濡れて帰るんだね。かわいそうに』
ふたりしてくすくす笑い、雨の中に出た。
…。
そして変わったことと言えば、普段の生活すべて。
私達は楽を覚えた。
微笑みの代金で食事をおごってもらった。名前を呼んだ代金で喫茶店で休んだ。
携帯電話を持ってない私達はその場限りしか会わなかったし、そのことで疑われることも恨まれるようなことも、もちろんなかった。
『昔に戻った感じ。可愛い顔だと、得が多いよね』

 

第二話 バーチャルワールド

 

『ねぇ、なっち』
うん?
ソファの上でクッションを抱いてまどろんでいた私の頭に、突然真希の声が響いた。
『見てみて』
同時に私の顔が動く。視線の先には、テレビ。
『ちらっとさ、料理の街って聞こえたんだけど』
画面には色鮮やかなお店が何軒も並んで映っていた。家族連れや恋人達がちらほらと歩いてて、みんな楽しそうな顔をしている。
六時のニュースだった。今、中華料理がブームで中華街が人気らしい。
『行こうよぉ、ねぇ』
食べ物に関するときだけ相変わらずやる気を見せる。
こんなニュースの後なら絶対混んでると思ったけど、予定もない。
うん。良いよ。じゃあ明日の土曜日、行こっか。
『やった』
ところで、中華の何の料理が食べたいの?
『全部』
…行ってから決めようね。


あ、でも。
スカートのしわを直し、もう一度眠りに身体を沈めようとして。
ふと思い出した。抱えていたクッションを置く。
ねぇ、横浜だったら食べたとしても自分達でお金を払うことになりそうだよ。
『なんで? 男なんてどこにだって居るじゃん』
ほら。
説明しようと思ったとたん、真希は『あぁ、そっか。わかった』と言った。
考え読んだでしょ?
『いや、ちょうど思い出した』
…あ、そう。
私は立てた人さし指の行き場をなくして、なんとなく宙に円を描いた。


横浜を拠点に起こっている連続殺人事件。
ここのところワイドショーでもよく話題にのぼっていて、「横浜連続殺人」なんて小説みたいな名前が定着しつつもある。
ただ私達もそうだけど世間的にも危機感は薄い。それは狙われるのがなぜか――。
『男ばっかり』
うん。
六人くらいが犠牲になっているけど、被害者が全て若い男で、暴走族の脱退の儀式とか暴力団がらみの権力争い、
果ては若者への制裁なんて噂も流れているほど。
だから私達、女の子にはいつにもまして遠く、現実味のない事件…な気がする。
その呼び名だけじゃなく、出来事そのものが小説のよう。
架空の世界の物語のよう。…ただ。
明日はおごってくれる人は居ないんだろうな、なんて。それだけ。


「うわぁ」
甘かった。
事件のせいであんまり人はいないんだろうな、なんて考えは電車に乗っている間に遠くへ消えていった。
先週の渋谷と同じくらいいる気がする。
『昨日、テレビに映ったからだよ。きっと』
あっ。
そっか。今の今、言われるまで気がつかなかった。真希以外にもあのテレビを見て「来よう」なんて踊らされちゃった人、居るよねぇ。
『失礼な』
混んでいる電車から、私を含め一斉に同じ駅で降りる。絶望的な気分。
ねぇ、連続殺人事件なんだよ?
あなた達は私と違って「真希」も居ないんでしょ?
おまけにさぁ。
ぶつぶつ言いながら私は改札を抜け、階段を降りる。お気に入りの傘を広げた。
雨が降ってこんなに寒いって言うのに――!


たどり着いた中華街。
歩いてる人達とお互いの傘がぶつからないように、ゆっくりまわりを見渡した。
すごい。
なんて言うか、ここだけ別の国みたい。
『うん。色づかいも派手だよね』
電車で行けるような距離に住んでいながら、実は一度も来たことなかったんだけど人で混むのも納得な感じだった。
見がいがあり過ぎる。
『たださぁ』
うん、まったりしてるよね。全体的に。
道を行く親子連れも、恋人同士も、友達同士も。みんな幸せそうな顔。
ナンパをする、されるなんて雰囲気は全然ない。
『事件なんかあってもなくても変わんない感じに見えるもんね』
ふぅ。
…やっぱり食べ物代は自腹切らなきゃかぁ。


『なっち、あれがいい、あれ。あれ、何て言うの?』
えっ?
とりあえず見て回ろうかな、なんて足を動かしかけたとたん。
左手がすっと上がって、雨ガッパを着た三歳くらいの女の子が食べていた白い物体を指さした。
「…中華まん」
なっちの声が聞こえたみたいで。
指をさされた女の子が不思議そうな顔をして、その子のお母さんも顔を曇らせた。
まずい。


私は指した手を戻すと中華まんを食べるようなしぐさをして、声を出さずに口を「おいしそう」の形に動かした。
女の子が笑顔になり、そのお人形みたいな小さな手が動いた。
中華まんを持っていない手で指さした先にはきっと。
『買ったお店があるって意味、だよね』
なっちが笑顔で手を振ると、手を振り返してくれた。お母さんも笑顔になり、なっちに向かって軽く会釈をしてくれた。
…なんとかなった。
『ふふっ。じゃあ買いに行こっか』
真希はたまにこういうなっちを困らせるわがままを言った。私が断らないと知ってて。
そして、それで私が怒らないってこともちゃんとわかってて。


傘を右手だけで支え、あつあつの中華まんは左手だけで支える。
ふぅふぅと息をかけて、ぱくっとひとくち。
『おいしい!』
うん、おいしいね。
本当にうれしそうな真希の声に、やっぱり私は負けてしまう。もうひとくち。
『こんなおいしいものが食べられるなんて』
生きてて良かった?
『うん。人生って素晴らしい、ね』
もう何度となく聞いた真希のその言葉。たいした意味もなく言っているのかもしれないけど。
『ねぇ、なっち! あれ、あっちのは?』
「…タピオカ入りココナッツミルク、だってさ」
不思議。
聞いてる私までそう思えてくる。

 

第三話 ステップバイステップ

 

雨の中、真希は首と肩で手放せない傘を抑えた。
中華まんを左手、ココナッツミルクを右手に持ちながらすすっ、と人を避けて歩いていく。
言っておくけど、どっちかなくなるまで次は買わないからね。
『えぇっ。この中華まんを口にくわえたりしてさ、買っちゃおうよ』
笑いながら言う真希に私も、だぁめ、と笑って言った。
「ねぇ」


最初は自分達が呼ばれたとは思わなかった。
だって、傘を肩でおさえてまで両手に食べ物を持ってるんだよ?
目だって合っていないし。
おまけにこうして歩いている途中だってのに。
「オレンジの傘さしてる黒のハイネックとベージュのスカートの人ってば」
その言葉でさすがに自分だとわかって立ち止まった。
財布でもおっことしたかな、とバッグを覗くとちゃんと入っている。
ってことは、きっと。
『いつものナンパ、だよね』
たぶん。
『珍しいね。止まってるときじゃなくて、歩いているときに声をかけてくるなんて』
振り向くと可愛い顔をした男の子が立っていた。
目が合って、私は中華まんをぱくっとかじった。


「ひとりなの? もしかして横浜は地元とか?」
私は黙ったまま首を横に振り、口の中を飲み込んでから「初めて来た」と言った。
その男の子は。
背こそなっちより高いけど、顔からするとなっちより年下かも知れない。
「そうなんだ。俺もひとりで暇だから案内してあげよっか? 地元だし」
傘を背景にそう言って見せてくれた笑顔。
『年下だよね、たぶん』
うん。
お財布が期待できない相手なら、顔の可愛い可愛いくないはどうでもいい。
別にいいよ、と言おうと思った瞬間。
「バイト代はいったばっかりだから、好きなものおごってあげるよ」
私はまた中華まんをぱくっと食べた。
それが最後のひとくちだった。


「名前は?」
そう聞かれて少しだけ口ごもる。えっと――。
「なつみ。なつみ、って呼んでよ」
「なつみちゃんね。俺は」
「その前にさ」
私は言葉をさえぎって言った。
「歳を教えてくれる?」


『やっぱり年下だったね』
並んで歩きながら、私は笑顔をふりまいた。
相手のしてくる質問に答えては、その度に「キミは?」と繰り返した。
聞いてくることは聞かれたいこと、と思って。
お互いに自分の傘をさして、他の人のじゃまにならないように端をゆっくり歩く。
男の子の格好はジーパンとハーフサイズのコートだった。
地元の子はスカジャンとかはかえって着ないのかな?
『何それ?』
うんと、ここの近くで生まれた服なんだって。そう説明しながら視線を動かす。
親子で着ている人達を見つけて私は、あれだよ、とささやいた。
『ふぅん。きっとさ、それ着ていない理由はさ』
うん。
聞きながら私はココナッツミルクをすすった。男の子の話は耳を通り抜ける。
今は真希の声しか聞いていない。
『こっちが地元、って答えたら「初めて来たんだ」って言うためじゃないの』


雨はやや小降りになったけど、傘をたたもう、って程じゃなかった。
緑とカップルの多い公園を歩き抜けながら、内容のない会話をした。
ひとつの傘に身を寄せながらベンチに座っている様子を横目で眺めながら。
「好きな娘とかいないの?」
こっちから質問した。
「いない。男子校だし。なつみちゃんは?」
「なつみさん、でしょ?」
「俺よりちっちゃいから年上に思えないんだよね。なつみちゃんで良くない?」
目線をやや下げて、私達に笑顔を見せる。
『良くない』
私は「良くない」と答えながらココナッツミルクを飲み干した。
「それで? 好きな人いるの?」
「私もいない。…女子高だし」
「今の間はなに?」
空のコップをにぎりつぶすと、「なんでもない」と投げ捨てた。


教えてくれた名前は、いつものように覚えなかった。その子を見る。
「なに?」
なんでもない、と首を振った。
…こうして一緒にいるとき、私はたまに考えてしまう。
今までの男の人もそうだけど、この子だって割と普通によく居そうな男の子で顔も悪くないし、性格も悪くなく見える。
でも。


それだけ。
一緒に居て楽しい、とか、嬉しい、とか思うことがなかった。
この気持ちの原因にも何となく気がついているのに。
私はまたこうして。
追い求めている気がする。探している気がする。
お互いの手を取り合って一歩ずつ進んで行くのが恋愛だ、って聞いたことあるけど、今の私は最初の一歩目を踏み出すこともない。
恋をすることは永遠にないんじゃないか、なんて考えてしまう。
どこか他人事のように。

 


「そろそろご飯食べに行かない?」
その言葉で意識が戻り、時計を見る。くもり空だから気がつかなかったけど、もう五時半を過ぎていた。
『わぁい。待ってました』
真希がなっちより早くうなづいて傘をくるくる回す。そんな様子に、食べ物のこととなると精神が子供になるよね、とさっきの反撃をした。
『なっちみたいに身体が子供よりよくない?』
笑いながらの声にムッとする。
私は口唇をとがらせ、バッグを肩にかけ直して歩き出した。
「はい、二名で予約お願いします。えぇ、はい、って…なつみちゃん、待って!」
あわただしく携帯をポケットにしまう彼の姿が視界の隅に映って私は、しまった、と動きを止めた。


表通りに戻るのかと思ったら、もっと裏道に入っていった。
「こっちのほうにね、地元の人しか知らない安くておいしいお店があるんだ」
だって。
『安い高いはどうでもいいけど、おいしいって言うなら着いてってあげるよ』
まぁ、学生同士だし。しかも年下だしね。安いところなのはしょうがないよ。
そんな会話を顔に出すこともなく、並んで歩いた。
「いまさら聞くけどさ」
「うん?」
「おごってくれるのってもちろん、中華料理だよね?」


だんだんと街灯の数が減り、たまに傘をさしたままだと並んで歩けないような道を通ったりした。
辺りを見回すと、一戸建てとか古そうな会社が建っているけど、明かりのついている建物は数えるほどだった。
バッグをしっかり脇にはさむ。傘の柄をきゅっ、と握りしめたとき、男の子が振り返った。
「ごめん。怖いよね? もうちょっとで着くからさ。本当ごめん」
すまなさそうなその顔に、私は笑顔で首を振った。
「大丈夫」
真希がいるから。
「手とか、つなぐ?」
それが狙いだったのかな、と思った。真希がもう一度、笑顔で首を振った。
『絶対お断り』


もうちょっと、がなかなか終わらなかった。
こんなナンパの方法、私達以外にうまく行くとは思えない。
暗がりや男の人を怖がらない女の子なんて世の中で私達だけだよ、きっと。
ねぇ、真希。
『そうかも。それよりなっち、後ろに三人――』
「なつみちゃん。なんかヤバそうなのが後ろにいるから振り向かないで」
さえぎるように男の子がささやいた。
真希はさらっと無視して、ちらっと後ろに視線を向ける。暗闇にぼんやり浮かぶ人影がなっちの目にも映った。
『…ふぅん』
「振り向かないでってば。気にしないように。このまま歩き続けよう」
「わかった」
なっちも小声で答えて、傘を深めにして顔を隠そうとした。
瞬間。
男の子の動きが止まった――ように見えた。これって、久々のスローモーション?
真希は、私の身体は前に走り出していた。


バッグと傘をしっかり持ち支え、靴を鳴らして走った。その音に水が跳ねる音と、雨が傘を叩く音が混ざる。
遠くから「おい!」と声がしたけど、もちろん真希は止まらない。
真希?
どうしたの? また身体を触られそうになったの?
『それもある』
息があがりそうな駆け足の中で、声を出さずに私達は話す。
…それも、って?
『後ろの奴らとあの子は組んでるんだよ。はめられたね、私達』
私の疑問に真希はさらっと答えた。
『見えたんだ』
止まることなく視線を軽く後ろに向ける。
『あの男達とあの子がさ、目を合わせて口をゆがめたのが』
私には人が居ることくらいしかわからなかった、雨の暗闇の中で。
追いかけてくる人影は、四つあるように見えた。

 

第四話 パワーバランス

 

真希はなっちの身体で走ってるとは思えない速さで駆け続けた。
走る間も傘を上手に動かして、壁にぶつけることもない。もちろん、雨に身体がぬれるようなこともなかった。
『食べたかったなぁ、中華料理』
そうだね。今度ふたりだけで食べに行こう。おごりじゃなくていいから。
『うん』
笑顔を作ろうとしたけど、全然笑えなかった。
心臓と脇腹が痛んで、だんだんと会話もできなくなってきた。息が切れる。
それでも。
止まることなんてなかった。


どれぐらい走り続けているんだろう。もうそろそろ大通りとかに出れてもいいのに。
『もしかしてなっち、気づいてない?』
真希がバッグを肩にかけ直しながら言った。
どういう意味?
『さっきからこの道、一回も別れ道がないんだよ。このままだと――』
真希の言葉が形にならない。考えなきゃいけないのに考えたくないって。
少しずつ。
ゆっくりだけど、それでも確かに天秤はつり合いを失なっていった。
身体が水たまりを飛び越えた。道なりに右に曲がる。
ねぇ。
それって、すごくマズいんじゃないの…?


心臓が変なタイミングでどくん、って鳴った。走る前とまったく変わらない真希の口調だけが、なっちを支えていた。
「あっ…」
曲がった先には、壁が見えた。
両脇にも三階建てくらいの建物が並んでて、逃げ道が見当たらない。建物には明かりもついてなかった。
「いきどまり…」
『だね』と答えた真希が立ち止まる。止まって初めて流れる汗に気づいた。
なにも変わらないのに、何度も見渡してしまう。登れるわけでもないのに、壁を叩いたりしてしまう。
そして。
『追いつかれちゃった』という真希の言葉につばを飲みこんでそっと振り返る。
暗闇の中、角を曲がる絶望の姿が見えた。


もしかしてって思ってたのに。
真希は見たって言うけど、なっちには見えなかったから。
「なつみちゃんってば、なんで走るのさ」
ちょっとすねたような声がだんだんと近づいてくる。
四つの影が目に入ってきて、私も不規則に鳴る胸を抑えながら「急にトイレに行きたくなっちゃって」と声を出した。
「残念。こっちに来ても無理だよ」
「そうみたい」と言って汗をふいた。
「この辺は会社が多くてさ、週末は誰もいないんだ。昼間は人いるんだけどね」
誰も、居ない。
身体から力が抜けていくのを、耐えてくれたのは真希だった。
「ヤバい人達とか言っておいて。なんか四人、仲良さそうだね」
強がりへの返事はなかった。
…だめ。
真希が居ても、声の震えだけは隠せない。


四人は少しずつ近づいてくる。
雨がやや強くなって暗さが増したようなのは、気のせいだろうか?
「みんなでさ」男のひとりが言って。
「中華料理食べに行こうよ」ともうひとりが笑いまじりに続けた。
そっか、と思った。さっきかけていた携帯電話は、こいつらにだったんだ。
『これだよ』
真希がため息をつく。
『人間は数がそろうと、強気になるんだからなぁ』
「もちろんなつみちゃんの分はおごるからさ」
四つの傘が上下に揺れる。私達は雨と声を傘でしのぐのがせいいっぱい。
「でも不思議だよ。なつみちゃん、男には困らなさそうな外見なのにさ」
その声が出ていたのは可愛い顔だったけど。
「あんまりにも可愛いからダメ元で声かけたってのに」
今までの罰のように。
「どうして女は、おごる、って言えばすぐついてくるんだろ?」
顔が紅くなっているのがわかる。
見られたくなくて、この暗さの中でも私は傘を深くさし直した。


甘く見ていたのかも知れない。今までこんなピンチになったことなかったから。
傘が壁にあたって、いつの間にか、後ずさりしてたんだって気づく。
真希がいるならどんなことでも乗り越えられると思ったけど、男を四人も前にしたらさすがの真希でもきっと――。
『そうだね』
真希の目が男のひとりを捕らえて、そのまま視線をその身体に向ける。
『あの腕につかまれたら、振りほどくのは難しいかな』
不利なのは私達だった。天秤は大きく揺れて、ますます傾いていく。
まだこれからなのに。
こんなところで。
私達はもう終わりかもしれない、ってこと?


「なんで」視界がにじむ。「こんなことするのさ」
「仕事だから」
悪びれた様子すらない答えかたに、ゆらいだ視界がクリアになる。
「可愛い娘は超高値なんだよね。なつみちゃんならきっと一千万超えるよ、マジで」
言葉が繋がらない。それって。
『売られちゃうんだよねぇ。って言うかそれ奉公じゃん』
まさか。そんな。だって。今は。
『千年経ってても、変わらないものもあるってこと?』
うっすら見える笑顔をにらみつけた。
向こうにも私達の顔が見えはじめているはずなのに。
「私を売る、ってこと?」
「なつみちゃんを売るわけないじゃない。売るのは、ビデオだよ」
まるで声のトーンは変わってなかった。


自分と無関係のはずの世界がリアルになって降りてくる。
「…アダルトビデオに出ろって言うの?」
「そんなの今時売れないよ。もっとすごいの。さつがいの――」
「おい」
「あっ」
言い過ぎるとこだった、という風に口を閉じて、雨の音がまた聞こえだす。
でも私は、一瞬で理解してしまった。もう遅いよ。
『さつがい?』
真希の言葉にこくん、とうなづく。ずっと前にそんな小説を読んだのを思い出した。
殺害、だって。
私を殺す様子をビデオに撮って売るんだと思う。どっかの物好き趣味のために。


怒りがこみあげてきた。そんな道具になるために今まで生きてきた訳じゃない。
「あんた達こそ、あいつに殺されちゃえばいい」
「アイツ?」
そこでひとりが気づいたように「もしかしてあの連続殺人事件のこと?」と言った。
私はうなづきもせずにらみ続けていた。
「それはないね」
「そうそう。だって俺ら、ケンカ強いから」
「こう見えて賢いし」
「仲間も多いしさ」
これから殺人をしようって言うのに、慣れてるような微笑み。
余裕を見せつけられて、なっちの中の希望の炎は静かに薄くなっていく。
もし今この人数に殺されそうになったらきっと、真希でも――。
『失礼な』


『なっちさぁ、真希さんを見くびってるね?』
さん、にアクセントを置きながら真希は両手で傘を握りしめ、地面を見た。
右足の靴のつまさきをトントンと鳴らす。続いて左足も。
『こんな感じかな』
声も変わらない。その余裕はどこから来るんだろう?
だって昔とは違うんだよ。真希の身体じゃなくて、能力のないなっちの身体なんだよ。
それにさっき、捕まったらあの腕を振りほどけないって。
『捕まったらね。…捕まらないよ、あんなでくの坊に』
うつむいて地面を見たまま、真希は笑いすら浮かべる。
この五本の傘をさした六人の中で。
『あのとってつけたような筋肉じゃ、速く動ける訳がない。楽勝だって』
笑ってないのはなっちだけだった。


あまりに冷静な真希。
信じるしかない。真希が出来ると言って出来なかったことなんてなかった。
『でしょ』と真希はバッグをまた、肩にかけ直した。
あっ。
瞬間、映像がよぎった。深い緑の木もれ日の中、手を振りながら駆けていく姿は。
『あっ…』
懐かしい想い出の中の京都は、とても晴れ渡っていた。
訂正しなきゃ、だね。真希がいいように振り回されたこと、あったもの。
『加護は抜き。あいつと――あいつの子孫だけは特別』
おだんご頭で黒目がちの笑顔。
思い出して私も笑った。やっとここにいる誰もが笑うことができた。
大丈夫。落ち着いてる。…私達はまだ、大丈夫。


ゆっくりと天秤は、心は落ち着きだしていた。
「なんか笑いだしたんだけど」
「おかしくなっちゃった? なつみちゃんさ、とりあえず場所変えていい?」
意識が戻ると、男達はずいぶんと近くに来ていてしっかり顔が見えた。
その手に光る小さな火花。
「スタンガンってあんまり痛くはないから。ちょっとだけ、我慢してね」
『何あれ』
さっき光ったじゃない。あの電気に触ると、気絶しちゃうんだって。だから。
きっとこれが、男達の切り札。
「雨の中で使っちゃいけないんだけどね」
『あれが切り札だとしたら、絶対負けない。こんな奴らには触れさせないから』
ふと気がついて、私は傘を持たない左手で右肩をさわった。
乾いていた。
前の男達は全員、傘をさしているにも関わらず肩と裾が雨に濡れているのに。
…。
負けない、と確信した。うん。真希にまかせる。真希ならどうにでもできるよ。


天秤が静止して、すべての音が消えた。
一番大きな男が傘をさしたまま一歩踏み出した。
真希は、お気に入りの傘を閉じた。
男はもう一歩近づいて、傘のない手にスタンガンを構えた。
真希は小声で『まかせて』と答えて、左手の指先にきゅっ、と力をいれた。
雨粒を顔に感じた。
閉じた傘を握りしめた。
男は足を止めて「かわいそうに」の形に口唇を動かして、笑った。
真希は上を向いて瞬きをした。
時間が停まった。
『…久しぶり』
暗闇から落ちてくる雨が、ゆっくりになった。
男のスタンガンが光って。
私の手もぐるっと円を描くように跳ね上がった。同時だった。


男の身体がゆっくりと傾いた。
『ひとつ』
雨を受けながら、真希は姿勢を低くした。そのまま地面を蹴り、左に飛ぶ。
崩れた身体から傘とスタンガンがこぼれ落ちるより速く、真希はもう一度
別の男に向かって左手を――握った傘を跳ね上げた。
柔らかい水風船を突き破るような感触が、なっちの手に伝わってきて。
ふたつ。
間髪を入れなかった。もう一度地面を跳ねて傘を突くと、三人目の身体も揺れた。
『みっつ』
真希の動きは正確だった。
傘はビリヤードのキューのように。標的はビリヤードの手玉のように。

 

第五話 マリオネット

 

あっと言う間、って言葉が本当にふさわしかった。
スタンガンが地面で跳ねて、世界に音が戻った。顔をあげると、雨がかかった。
『ふふっ』
さっきからどれだけ時間が過ぎた?
今ここに立っているのは、なっちとあの子だけになっていた。
雨で口唇は濡れているのに、口の中は乾いていた。
つばを飲み込む。
そっと視線を降ろした先には声もなく倒れた三人。きっと、もう起き上がらない。


「…なに、これ」
立場は完全に逆転した。狩る側と狩られる側。踊る側と踊らせる側。
不思議なくらい頭がスッキリしていたけど、雨にかき消されるほどか細い声での質問に私も真希も答えなかった。
彼にだって見えたはずだった。…私ほどはっきりではなかったと思うけど。
オレンジに白のふちどりがお気に入りの傘。
先のとがった金属の部分は、ボールペンほどの長さがあるっていうのに。
そのすべてが。
倒れた三人の右目を突き抜けて、奥まで隠れるほどに、刺さったのが見えた。
返り血さえ浴びない真希はとても鮮やかで。
とてもアンリアルだった。


傘をさしたままぴくりとも動かないあの子。…瞬きもしていない?
『立っているだけでも立派だよ』
そう言いながら真希が近づくと、「わあぁぁ」と頼りなく叫んで、その場に座り込んだ。
たまった水が服に染みこむことなんて、気にしてられないように。
「あのっ。全部、嘘だから」
真希は当然のように停まらない。それどころか、わざとゆっくり近づいてたりしてる。
「ただ驚かそうとしただけ。本当。だから、ねぇ」
後ずさりするのを少しずつ追いつめる。
一歩ずつ、一歩ずつ。
「なつみさん、お願い」
手の届く距離で私はその子を見下ろした。
『さん付けだったね』
ついさっきまで、にこにこしていて本当に可愛い顔をしていたのに。
「助けて…」
今はこの暗さの中でもわかるほどに青白かった。


『助けて、って言われて止める奴は居ないよ』
真希が私の顔でくすっ、と笑った。
この笑顔の意味を、この子はどんな意味に解釈してるんだろう。
背中が壁にあたって、それ以上後ずさりはできなくなった。もう差はつまる一方。
「ねぇ何か言ってよ」
助けて、って言ってた女の子を、あなた達は助けなかったんじゃないの?
おびえながら様子をうかがう目を、まっすぐに覗き込む。
受けとめるべきだよ。
涙でうるみ黒目がちになった瞳が、頭にひっかかったけど思い出せなかった


『どうする?』
心臓が大きく鳴った。
でもそれは、今までとは違う鳴り方だった。
瞬間、映像がよぎった。それは青空の下、なかなか来ないバスを待ちながら座り込む私が両手を空にかざして、
誓いを立てている記憶だった。
そして同じくらい瞬間で消えた。
「なつみさんが、横浜連続殺人の犯人だったんだ」
『なに言ってんの?』
私と真希以外のもうひとりは、私の中で確かに成長をしていた。
そのもうひとりの魅力的な誘惑を断ち切ることもできない。操られるまま。
「真希」


『うん』
私は。
「この子を」
魔鬼に。
「殺して」
魂を、売った。

 

第六話 ステレオ

 

『お願いだからもっと明るくなってよぉ』
真希のお願いに、無理だよ、と即答した。
帰りの電車の中で私は、顔をあげられなかった。
心臓は崩れたリズムで鳴り続け、冷たい汗が止まらなかった。感触がよみがえる。
…なんで、あんなことを。
うつむいたままそっと自分の手を見た。この手が四人もの人を動けなくしてしまった。
そしてそのうちのひとりは、なっちの意志で――。
『なっちじゃないよ、みんな私だよ』
私は小さく首を振る。同じだよ。みんな真希がやったのなら、みんななっちがやったんだ。
ごめんね、亜依ちゃん。約束、守れなかった。


揺れる電車内のすべてに神経をはりめぐらせていた。みんながなっちのことを話題にしているような気がして。
今にも警察に肩を叩かれそうな気がして。
早く帰りたい。お風呂に入りたい。
傘とバッグを握りしめながら、それだけを願っていた。
『大丈夫だって。私だってこの半年間で色々覚えたんだからわかってるよ』
真希のくすくす笑う声に、その意味を聞き返した。真希は根拠もなく自信を持つようなことなんてない。
今までずっと、そんなことはなかったから。
『まず誰にも見られてない。返り血だって浴びてないし、傘だって水たまりで洗ったしさ』
この服結構好きなんだよね、と真希は照れたように笑った。
一緒に居たのを誰かに見られていたら?
『見られていたら私が気づかないわけないじゃん』


『それにほとんど同時に、あの人数を、しかもあっさり殺すなんて』
殺す、という響きに身体がぴくっ、と動く。
『人間にはできないよ。ましてやろくに運動経験のない女の子を誰が疑うって言うのさ?』
真希の言葉はなっちの中にしみ込むように溶けていった。
いつの間にか冷たい汗は引いていた。顔をあげないまま様子を伺っても、なっちを見つめるような視線は感じなかった。
『ふふっ』
そういうものかもしれない、と思った。私が殺したあの子達だって、いろいろしていたようだけど平気みたいだったし。
私は小さく息を吐いた。
割れた卵、こぼしたミルク、消えた命。もう元には戻せない――。
ねぇ、真希。
『うん?』
…殺すしかなかったの? 他に方法はなかったの?
『なかった』
即答だった。私は、そっか、と言った。
もしかして、なっちを困らせたいっていつものわがままかと、ふいに思った。
私が断らないって、怒らないってわかっていての。


ねぇ、真希。ともう一度呼んだ。
『うん?』
明日からはさ、しばらくお家でおとなしくしてようね。
『えぇ〜。絶対に捕まらないって。しばらくお家で、って退屈すぎるよぉ』
また即答だったけど、私は笑顔で反論した。
そう、おとなしくしていなきゃ。捕まる、捕まらないだけじゃない。
あの誘惑を。
傘を振り降ろしたとき、なっちをとりこにした悪魔の誘惑を忘れなきゃ。
そっと目を閉じる。
矢口さん達のいじわるな笑顔が浮かび、次に矢口さん達の泣き顔が浮かんできた。
私は他人事のように語りかけた。
誰かをイジメるってときの気分がさ、なっちにもなんかわかったよ。


「ただいま」
「おかえり。ご飯は?」
私は目を合わせずに「ん、後で食べる」と答えた。
『えっ?』
家に帰るなり、お風呂に入った。いつもとなにも変わってなかった。
ぬるめのお湯にゆっくりつかり、身体中の汚れをていねいに落とした。――特に左手を。
鏡に全身を映すと手も足も細かった。
人を殺したようには見えない…はず。
お風呂を出たとき、九時を過ぎていた。一時間以上も入っていた。
「遅かったわね。ご飯もう用意しといたから。お母さん、お風呂入ってくるね」
「うん」
『ふぅ。やっと食べられる』
髪を拭きながらリビングに向かうと、つけっぱなしのテレビからニュースが流れていた。
ぼんやり眺めたけど殺人事件のニュースは流れてなかった。
――この辺は会社が多くてさ、週末は誰もいないんだ。
そんな言葉を思い出して、もしかしてあさっての月曜まで発見されないのかな、なんてくるくるとパスタを巻きながら考えてしまった。


「おやすみなさい」
「おやすみ」
部屋への階段を上がる途中でふいに引き返し、あの傘をつかんだ。
部屋に鍵をかけると、傘をクロゼットに放り込み、ベッドに倒れ込んだ。
その瞬間にすべてがどうでもよくなった。このまま消えても良い、とさえ思った。
思いながらも、私達が疑われる要素についてすべて考えた。
『殺した瞬間は誰にも見られていない。見た奴はみんな殺したからね』
あの子達の身体には他に傷はないから、知人による犯行って思われるかも。
『もちろんなっちの身体にも傷はないしね』
あの子達とは今日初めて会っただけ。名前がなつみ、ってことしか知らない。
『返り血も浴びていないし、傘も洗った。血のにおいだって身体には移ってないよ』
誰が見たって素人のしわざとは思わない気がするし。
家に帰って来たのが八時前で、横浜から家まで一時間半くらい。
四人も殺して帰ってきたとするには、あまりに速すぎるんじゃないだろうか?
…あっ。
さらっと「殺す」なんてまた言えた自分に驚いた。時計の音がやけに響いて聞こえた。
悪いことをした、って思いよりも、捕まりたくない、って思いのほうが強いなんて。


「おとなしくしていればすぐ終わるからさ」
一、二、三、四人。
「そうそう。すぐ終わるから。…特にこいつは」
げらげらと卑しい笑い声を聞きながら、私も苦笑をもらした。
どうして人間は数が集まると、強気になるんだろう?
夜はふけてきたけど、それ以上に暗い。見上げると今にも雨が降りそうな空だった。
傘を右手に持ち替えてその時を待った。
一人が近寄りながら「かわいそうに」の形に口唇を動かした。
「こっちもさ」言いながら左手に力を込める。爪がとがった。「すぐ終わらせてあげる」
…来た。
雨粒が顔にあたった瞬間、私は手をしならせた。
指先の肉をえぐる感覚を確認してから、地面を蹴った。そして二度、同じように。
「えっ、あ、えっ…」
一瞬で殺すのは三人まで。最後の一人は、圧倒的な絶望を植えつけてから殺す。
私はそっと傘を差した。そのまま腰を抜かした相手に近寄る。
「た、助けて…」
その言葉に「私がそう言ったら、逃がしてくれた?」と笑みをつくった。受けとめなよ。
私は笑顔のまま、左手を降りおろした。
――そんな夢を見て。


いつの間にか眠っていた自分に驚いた。なかなか眠れないって思っていたのに。
カーテンの隙間からもれる光りは昨日や夢の中とうって変わって明るかった。
『おはよ。もう朝?』
おはよ。もう朝だよ、と答えながらカーテンと窓を開ける。肌寒い風が部屋をかけめぐる。
いつもと変わりないって言うか、いつも以上に気持ちの良い朝。
昨日のことも夢の中身とごっちゃになって、現実感を失うのに。
きちんと閉じていないクロゼットからは、傘の先が覗いていて光りを反射した。
そうだ。
まだ何にも終わっていない。これからが大事なんだ。
私はクロゼットの中の傘を、あの誘惑を、それが魔鬼であるかのように突き放した。
『しまっちゃうの?』
うん、もういらない。傘を見ないようにしながら、そっと扉を閉じた。


「おはよ」
「おはよう。何なの、なつみ。パジャマのままで。だらしない」
コップに水をくんで、ソファに腰を降ろした。
「いいの。今日は出かけないから」
「あら、珍しいわね。朝ご飯はもうちょっと待っててね」
「うん」
『はぁい』
お母さんとの会話が終わったのを待っていたかのように、テレビから「横浜」と言うキーワードが聞こえた。ニュースが始まっていた。
「またしても少年達が殺されると言う事件が――」
急に襲って来た息苦しさを押し殺し、何でもないようにそっと視線をテレビに映した。
画面に映っている四人の写真のすべてに見覚えがあった。
「これで横浜連続殺人の犠牲者の数は一気に増え、十人の大台に乗り――」
最年少の十六歳の子の、テレビで流れた名前にも聞き覚えがあった。
「警察では今まで以上に捜査員を動員し――」
『見つかっちゃったみたいね』
簡単につぶやく真希に、私は返事ができなかった。…何、これ?


お母さんの「またなの?」とか「怖いわねぇ」というつぶやきに、
いい加減な返事をしながら、私はその後のワイドショーまで釘づけになって見てしまった。
やっぱりどこでも内容は一緒だった。
あの四人の写真、ふた桁の殺人、少年達ばかりを狙う犯行、参列する同じ学校の生徒達…。
その中には犯人をヒーロー扱いしている一般市民のインタビューまであった。
『なんか上手い具合にさ』
うん。
なっち達が殺したのに、横浜連続殺人の一部だと思われてる――?
『だよね』
手を握りしめていた。
体温が上がった気がする。動機の速さも心地良い。
クッションを抱いてソファに転がった。信じられない。こんなことって、あるの?
『出かける? 天気良いし』
それはまだ怖いなぁ、と笑いながら答えた。


月曜日は朝から雨だった。ちょっと悩んだけど、私はいつものように学校に行った。
…なにも変わってなかった。
もともと友達もいないから会話もほとんどしなかったし、真希が言うには『誰かに見張られてるようなこともない』そうだし。
だた傘だけは折りたたみ傘を使った。誰かに聞かれる度に「今はこっちのがお気に入り」
なんて答えて。
「ふぅ」
なにごともなく一日が終わったベッドの中で私は考えた。事件のこと。
後悔とかじゃなく。
なぜ、あの四人を殺したのが、横浜連続殺人のしわざと思われたんだろう?
『場所が横浜で、殺されたのが少年だから?』
それだけだったら便乗の犯行だと思うだけだと思うんだよね。
『それを同じ犯人のしわざだと決めつけた理由はさ』
私達の辿り着いた結論は同じだった。
たったひとつ。
『人間のくせに、って思うけど、それが一番あり得る話だよね』
って言うかそれしか考えつかない。殺害方法が同じだから、としか思えない――。
勝手に犯行を増やされた犯人はどう言うかな、なんて考えたりもした。

 

第七話 シアター

 

嵐は思ってもいない方向から訪れた。
火曜日の朝、学校へ行く支度をしながらワイドショーを見ていた私は、キャスターが読み上げる「横浜」という言葉に動きを止めた。
…えっ?
現場を歩くレポーターと、画面に映る二人の少年の写真と、新たな犠牲者の文字が。
頭の中でつながらなかった。過去のニュースを流してるのかと思った。
「今までと違い前回の事件から二日しか経っておりません――」
『へぇ』
食べかけのパンをそれ以上、口に運ぶ気にはならなかった。
なっちの心の中での問いかけに答えてくれたかのような犯行。
「これはある意味、警察への挑戦状とも考えられ――」
テレビを消した。
いやな不安に包まれたけど、ここまで用意しておいて学校を休むのはおかしいので、私は「ごちそうさま」と言って玄関へ向かった。


新しく起きた事件のことは、なっちには関係ないはず…とは思えなかった。
『まぁねぇ』
今まで一ヶ月に一度くらいだったのに、今度はなっちが事件を起こしてから二日目だとニュースで言っていた。まるで後を追うように。
「また…?」
さらに木曜日にも事件は起きた。やはり横浜で、今度は三人が被害者だった。
事件のたびに同じキャスターが興奮してレポートをした。胃が痛んだ。
不思議な苛立ちが頭に残った。何より好奇心が消せなくて、もう自分をだませない、とも思った。
これはシグナル。
代償の高い信号だ。挑戦状だって言うのなら、警察じゃなくてきっと私達への――。
久しぶりだった。こんなに胸から離れないことがあるなんて。
真希。
『なぁに?』
なっちの言いたいことなんてわかっているくせに聞き返す。私は言葉にした。
「土曜日さ、また横浜に行こう」
真希は笑って『いいよ。また中華まん食べよう』と言った。


横浜に向かう電車は一週間前となにも変わっていなかった。
あの事件がまるで遠くの存在のように。
私はグレーのシャツと黒のパンツという前以上に目立たなそうな格好で出かけた。
天気は良かったけど、真希が『夕方には雨になるよ』と言ったので、折りたたみ傘も持っていった。
混んでいる電車の中で、私は緊張をしていた。
期待と不安が入り交じった、とはこういう状態のことを言うんだろうか、なんて思ったりして。
どこに行ってなにをする、という目的はなかったけど、行けばなんとかなる気がした。
なにかが起きる、はず。
…怖くはなかった。
それは真希が居るから、ってだけじゃないと思う。


着いたのはお昼過ぎで陽は出ていたけど、そろそろ肌寒い季節なのもあって、
駅からすでに色々な格好の人達が居た。私達の服はやっぱり地味なほうだった。
それくらいが良い、と思った。
「えっ…」
改札を抜けて駅を出た私達の目に、その白さは鮮やかに飛び込んで来た。
『なっち』
うん。なっちにもわかるよ。信じられない。
視界に映っただけなのに、瞬間で目に焼きついたような感じ。
白いワンピースを着て、手には白い傘と白いバッグを持ったとても、とても可愛い
女の子が立っていた。
でもそれ以上になっちの心を捕らえたのは――。


その子もこっちを見ていて、驚いた顔をしていた。きっとなっち達も同じくらい驚いた顔をしているんだろう。
駅を出ていく人達の流れにのって、私達はその子に向かって歩き続ける。
その子はじっと私達を待っていた。
恥ずかしくなるほど視線を動かせなかった。
口の中が乾いてつばを飲んだ。
ゆっくり、ゆっくり踏み出す一歩一歩の途中で、なっちのは京都で初めて亜依ちゃんと話したときの言葉を思い出していた。
――遠くからでもはっきりわかった。おでこのとこに二本。
こんなことが、またあるなんて。


お互いの顔がはっきり見える位置で、私達は立ち止まり見つめあった。
正確には目のちょっとだけ上を見あっていた――お互いに。
見える。
『ちょっと驚きだね』
真希の問いに、うん、と心の中で返事をした。
なっちよりちょっとだけ背が高いけど、その可愛い笑顔は年下だと思う。
向こうの子もなっちのおでこの辺を見て動かないから、きっと、見えてるんだ。
『こんなこと』
うん。あるんだね。
私達には、誰かともうひとりの誰かが見えるんだ。
周りを行く人達は動かない私達を気にしながらも進んで行く。私達だけ時が進まない。


停まった時間を動かしたのは可愛いらしい声。
「まるで…テレビ」
良い例え、と思った。その高い声になっちも、本当にそうかも、とうなづいてしまう。
声も、姿も、もちろん顔も。
「そうだね」
絵本から抜け出して来たような、女の子の見本みたいな女の子。
本ばっかり読んでいた昔に想像していた憧れのお姫さま。
なのに。
可愛い顔と透き通ったおでこの二本の角のミスマッチに、しばらく見とれてしまった。


「かさ」
かさ?
「持ってきてるね」その子が唐突に言った。言葉に華のような笑顔を添えて。
その視線の先が私の手を見ていて『かさ』が『傘』のことだとわかった。
「あ、うん。降るって言ってたから」
真希が。
「私も。降るって聞いたから持ってきた。こんなに晴れてるのにね」
そう言って彼女は白く長い傘を目の高さにあげ、空をあおいだ。
なっちも同じように顔をあげると、秋の澄んだ空にたなびく雲が見えた。
私はそっと視線を彼女に戻す。
…聞いた、って誰に聞いたの?
これがきっとこの子なりの確認なんだろう、と思った。
同じだ。
なっちと同じで、この子も手さぐりなんだ。
気がつけば私達はまだ人通りの多い駅前に居た。
「ねぇ、どこかで話さない?」
私も笑顔をつくった。華のように、とまではいかないだろうけど。
真希の『いつもと逆だね。なっちから声をかけて』なんて声を頭に響かせながら。
その子が「公園に行こう」と言ってくるっと方向を変えると、白いスカートもふわっ、と回った。


並んで歩く私達。
駅や中華街から遠ざかるにつれて人影はまばらになった。
途中、私達は何度もお互いを見た。珍しいものを見るように。
…まぁ実際、珍しかったんだけど。
そして目があっては、その度に微笑みあった。
アイドルにでもなったら良いのに、と思うほどの可愛いさはなっち以外の通行人の視線も集めていたけど、それには笑顔は見せなかった。
――まるで、テレビ。
会ってから今までに何回この子を可愛いと思っただろう?
秋だから日焼けではないと思えるやや色黒の肌は白いワンピースを際立たせていて、
白いワンピースはその子の可愛いらしさをさらにいっそう際立たせていた。


「名前、聞いていい?」
「安倍なつみ。高二だよ」
嘘はついちゃいけない、と思った。この子となっちの間には許されないことのような気がして。
「えっ?」
驚いたような目で見られた。…ごめんね、歳相応の顔してなくて。
『あはは。究極の童顔、だもんね』
うっさいよ。
真希は一時期、なっちのことをそう呼んでたことがあった。
おごってもらった人達の中でなっちのことをそんな風に例えた人が居て、
それが真希の心にひっかかったらしくずいぶんと真希にからかわれたっけ。
…言った人のどんな人だったか、なんてもちろんおぼえていないんだけれど。


「私は石川梨華って言います。中三です」
「はぁー…」
思ったとおり年下だったけど、私はため息をもらしてしまった。ふたつも下?
だって。
背だってなっちより高いし、その、胸だって――。
『あはは。おっぱいなんてさ、なっちの倍くらいありそうだもんね』
さっきから失礼だよ。
なっちの様子に梨華ちゃんははにかんだ。みんな驚きます、とでも言いたげに。
梨華って名前は間違いなく本名だろう。そして私は声には出さずに口だけを、梨華、のかたちに動かした。


見覚えのある道を歩いていて、行き先の公園って先週行った公園のことだな、と思った。
次に切り出すのはなっちの番。今まで通りの口調で「見えてる、よね?」と聞くと梨華ちゃんも今まで通りの口調で「見えてます」と答えた。
なっちにしか聞こえないような小さな声で、そっと。
「なつみさんのおでこに二本。白くて短いのが」
「梨華ちゃんも。向こう側の景色が透けて見えるくらい薄いのが二本」
霧が晴れたように視界がクリアになった。
もう変に遠回りに聞くこともない。
扉を開けよう。
なっちが「もうひとり、居るんでしょ?」とつけ足すと、まるでその言葉を待っていたように梨華ちゃんは立ち止まり、息をふっと吐いた。
「居ます。――ひとみちゃん、って言うんです」
一瞬の間とかすかに震えた声。
その照れて頬が赤くなった笑顔と傘を両手で握りしめたしぐさがあまりに可愛いくてなっちまで笑顔になってしまう。真希も微笑んでいた。
『きっとさ』
うん。
…ずっと誰かに言いたかったんだろうね。


「じゃあ、真希ちゃんも私のひとつ下ですね」
私達は少しずつ語りあった。本当に少しずつ、ゆっくりと。
「も?」
「ひとみちゃんも十四歳なんですよ」
両手に抱えた大事なものを壊さずに見せあいっこするように。
「へぇ、偶然だね。知り合いだったりして」
『知らないよ、そんな奴』
あっ、そう。…簡単に言うね。


不思議な感覚だった。
お互いに遠くに住んでる友達のことを話しているような、名前をつけたお人形のことを話しているような、
まだ見ぬ子供のことを話しているような。
自分達のことが――なっちと真希とのことがあっても、梨華ちゃんとひとみちゃんのことはどこか現実感がなかった。
『向こうもそう思ってるんだろうね』
そうだね。私達以外に同じような人達に会っていなければ、ね。
『それよりさ』
突然。
真希は折りたたみ傘を指でくるくると回し始めた。
『なっち、おなか空いたよ』
そう言われてみれば。
なっちがおなかに手を当てようとしたとき、梨華ちゃんも「おなか空きましたね」と言った。真希がうなづき、笑顔をつくる。
「ちょっと、寄り道しましょう」
そう言った梨華ちゃんの笑顔ももしかして、ひとみちゃんのものだったのかも。

 

第八話 トラップフォーカス

 

『おいしい! これ何? 中華まんを超えたね、これは』
…ベーグル。
『なっちってば、こんなの知ってるなら早く教えてくれれば良いのに』
普段そんな食べないからね。
どちらからともなく、外で食べようということになった。私達の話は他人には聞かせちゃまずい気がするし。
…って信じてもらえない気もするけど。
「真希がね、ベーグルおいしいって」
「ひとみちゃんも大好きなんですよ」
でも、と私はそっと振り返る。
梨華ちゃんお勧めのベーグルショップはがらんとしていた。
中華街の外れに建っている、まるで小さな白い教会のようなお店。きれいでお店の雰囲気も可愛いのに、お客は私達だけだった。
でもわかる気もした。
中華街まで来てベーグルを食べようって人なんて、そんな居ないと思うし。
『こんなにおいしいのにね』


外で食べるには文句なしの天気の良さだった。なんで私達は傘なんて持ってるんだろう?
中華街の外れとは言え、中華料理を食べない私達。
美少女は口を大きく開けてぱくっとかじりついた。そんな様子さえ可愛く、まわりの人の視線さえ集めてしまう。
これを見て誰かあのベーグルショップに駆けこむかな? なんて思いながらなっちもぱくっとベーグルをもうひとくちかじった。
「ふふっ」
「どうしたの?」
「あ、ごめんなさい」なっちの疑問に梨華ちゃんは「なつみさんってすっごく可愛い顔で食べますね」と答えた。――頬を紅くして。
…言われたこっちはそっち以上に照れたんですけど?
私はその顔を見つめ返す。
お店に入るときに映ったショーウィンドウの中の私達には、角なんてなかった。
見つめる顔にはこんなにはっきり見えているのに。


「座りましょう」と梨華ちゃんの指さした先には白いベンチがあった。
そこだけ街灯から離れていて、夜になったらカップルに大人気なのかな、なんて思えてしまう。
…ごめんなさい。暗くなるまでちょっと借ります。
『誰に謝ってるの?』
特に誰ってわけじゃないんだけど。
私達は並んで座った。傘とバッグを置き、もうひとくちベーグルをかじる。
改めて周りを見た。
目の前に広がる石畳と、座った私達を包むような木々。私は大きく息を吸い込んだ。
駅前のカラフルさからはかけ離れてた世界だけど。
これも横浜だぁ、うん。
「ふふっ」と微笑む梨華ちゃんに私は「あはは」と微笑みを返した。


「真希ちゃんとは」
聞かなきゃ、ってことを先に切り出された。まるで心が読まれてるよう。
「どうして知り合ったんですか?」
どこから話そうか、どこまで話そうか迷った。嘘はつきたくないけど、全部言いたくない。
真希と会うまでいじめられてたことは、あの過去はもう消したい。
私はベーグルの最後のひとくちをほおばって、そして飲み込んだ。
「あの、ね」
ややうつむき目をそらしながら、言葉を選びながら、ゆっくりと口にする。
「偶然見つけたの、学校の帰り道で。その、お店を」
「お店ですか?」
「そう」とうなづいて私は続けた。「そこで鏡をもらったのね。白い手鏡」
「てかがみ…」
なっちの言葉を梨華ちゃんは繰り返した。そして小さくうなづいた後で「私もです」と言った。


ふいに、暗くなった。見上げると薄く広がった雲が太陽を隠していた。
「私もお店でもらったんです。ピンクのお店で、素敵だなぁって入ったら」
「ピンク…」
私もです、と言ったわりにはそんな似てないなぁ、なんて思っていたら。
「はい。まぁ、私がもらったのは白じゃなくて赤い手鏡だったんですけどね」
私達のケースは急速につながりを見せた。
『なるほど、手鏡ね』
真希の言葉に私は、うん、とうなづく。でも。
「なっちが行ったお店は白くて、絵本の中のお城みたいな感じだったよ。東京?」
「いえ、神奈川。横浜です」
梨華ちゃんはそう言って黙ってしまった。
そしてちょっと間をあけてから「なっち、ってなつみさんのことですか?」と言った。


「あ、うん。自分のこと『なっち』って呼んでるんだ。子供っぽいよね」
私はまた目をそらして、薄く笑いを浮かべて言った。
「でも可愛いですよ」
梨華ちゃんははにかみながら言ってくれた。
そして「真希ちゃんにも、そう呼ばれてるんですか?」と続けた。
返事をしようと顔を上げた瞬間、梨華ちゃんの口が小さく、なっち、という形に動くのが見えた。
胸にきゅっ、と痛みがさす。何だろう?
変な違和感。
私は「うん」とだけ答えて口を閉じた。


「店員さんもおもしろい人だったんですよ」
えっ?
こじれそうになった私の頭に真希が『お店の話に戻ったんだよ』とささいやた。
「金髪で碧い瞳だったんですけど、関西弁でしゃべって」
半年前がうっすらとよみがえってくる。私はベンチに座り直した。
「もしかしてその店員さん、自分の呼び方を押しつけたりしなかった?」
「してました。店員さん、って呼んだら――」
私達の「裕ちゃん!」と叫ぶ声がきれいに重なった。
そして声だけじゃなく、私達はそれぞれの出会いの過去までが重なった。
『なるほどねぇ』


「すごい――」
偶然だね、と言いかけて私は口ごもった。
そんな私に気づく風でもなく私の左手を握り「偶然だよね」と微笑む梨華ちゃん。
はしゃぐ梨華ちゃんに笑い返しながらも、私はこの不思議に頭をめぐらせる。
…偶然?
離れた場所。同じ店員。まったく違う店の外観。色違いの手鏡。
ねぇ、真希はどう思う?
『わかんない。けど偶然じゃないとしたら理由が必要になるじゃない』
あっ――。


その言葉で思い出した。
あの不幸の日々を変えた幸運との出会い。金髪の店員は、裕ちゃんは確かに言っていた。
――あんたにはそう見えてるんや。
――欲しいのはチカラやね。精神力とか。
なっちの胸が一度、大きく鳴った。
理由は、あった。
『なるほど。私が一緒になる直前にそんなことがあったんだぁ』
私はそっと梨華ちゃんの顔をみつめて「梨華ちゃん、ピンク好き?」と言った。
「はい」
こぼれる笑顔と甘い声が返って来て、なっちは胸がまた痛くなった。


陽はまだ射さなかった。
肌寒くなり、シャツのボタンをひとつ、右手で閉める。
幸せでいたかったら、今すぐ帰れば良いのかもしれない。
でも私は居た。知りたかった。この偶然と必然の結末に興味があった。
真希と出会って私の生活は一変した。
泣き叫ぶ飯田さん。目を見開いた保田さん。崩れるように座る矢口さん。微笑む私。
あの日から役割はチェンジされた。
まだ左手はつないだままだった。
温かい感触と、その先にはお姫さまのような笑顔。可愛い、とまた思った。
でも。
『うん』
もしかして梨華ちゃんもなっちと同じで、ひとみちゃんと一緒になる前は自分も含めてすべてが嫌だったんじゃないかって思えてしまう。
『なっちってば、そうだったの?』
私は小さくうなづく。
木々のざわめく音がやけに響いて聞こえた。


「本当に、偶然だと思う?」
私の問いに梨華ちゃんはもう一度「はい」と答えた。「そう思います」
「でも、裕ちゃんはなっちが一番欲しかったものをくれたから」
「私もです」
「一番欲しかったときに、だよ」
「私もですよ」と梨華ちゃんは髪をさらっとかきあげた。
「偶然ってだけじゃない」
私はすぐさま言い返した。梨華ちゃんはこの不思議に興味を持たないんだろうか?
自分だけなら偶然だって思うけど、ふたりもいたらそう思えない。
「偶然ですよ。だって」そこで一度言葉を切った。
「私、横浜に住んでませんから」


なっちの「家はどこ?」の質問に梨華ちゃんは「横浜からふた駅先です」と答えた。
「偶然、横浜に遊びに行ったときに裕ちゃんと、ひとみちゃんに会えたんです」
「だから偶然なの?」
「はい。そのときだって誰かに横浜に行くなんて言わずに来てたんですから」
そう言われてみれば私も。
もし私が図書館に寄り道しなかったら、真希に出会ってなかった。でも。
「でも私達が離れた場所で、裕ちゃんから鏡をもらったのは――」
「そっちはわかりませんけど…」
「けど?」
そこで梨華ちゃんがくすっと笑って、私は紅くなってしまった。しまった。
身を乗り出しすぎたかも。それまでずっと握られていた左手もひっこめた。
『あはは。そうかもね』
「なつみさんって、真希ちゃんと一緒になって短いんですか?」


急に質問が変わった。えっと、と頭をめぐらせる。
「五ヶ月とちょっと、かな」と言うと、梨華ちゃんは「やっぱり」と言った。
「…梨華ちゃんは?」
私の問いに指を一本立てて「もうすぐ一年になります」と答えた。
あっ。
その瞬間、気づいた。そっか。
なっちが真希と一緒になって五ヶ月。
人の名前が覚えられなかったり、身近じゃないことから興味を失なったように、目の前のふたりも。
『そんなに気にしてないってわけね』
…じゃあなぜ他人の私達にシグナルを飛ばしたの?
小首をかしげて微笑む梨華ちゃん達を、私達はただ見つめていた。


私は気になった。私達四人に訪れたこの『偶然』を解明したかった。
「なにが欲しかったの?」
ふいに梨華ちゃんの顔から笑顔が消えた。
「…だめ。やめて」
だめ。やめない。
「私はあの時、あなたが欲しいのは精神的な強さ、って言わ――」
「だめだってば!」
『来たよ』
真希の言葉と同時に、叫んだ口のまま梨華ちゃんは動かなくなった。
違った。梨華ちゃんだけじゃない。さっきまでざわめいていた木々も止まっていた。
えっ? これって…。
なっちの問いかけに答えずに真希は軽く頭を後ろに引き、左手をあげる。
目を閉じていたわけじゃなかった。
なのに。
一瞬ですべてが変わっていた。


梨華ちゃんの傘が倒れた。なっちのバッグが音を立てて落ちた。
木々がまたざわめきだしても、私達は動かないままだった。
なっちの左手の中には梨華ちゃんの右手がおさまっていて、その右手から伸びたひとさし指は、もし真希が頭を動かしていなかったらきっと。
『左目がなくなってたかも、って?』
真希の言葉に素直にうなづく。
じわっと額に汗が浮いて、消える。…全然、見えなかった。
これが。
これこそがふたりの鬼の力なんだ。
なっちと梨華ちゃんはそのまま手をにぎりあっていた。
その手の後ろに見える梨華ちゃんの瞳はとても澄んでいて、なっちの姿を映していた。
そして頭をよぎる。
この可愛いお姫さまが、横浜連続殺人の犯人に違いないっていうこと。
そしてなっちも、横浜連続殺人の犯人だっていうこと。

 

第九話 ハウンドブラッド

 

『なくなってないよ』
真希が優しく言った。
『あの右手を避けなくても、左目は無事だったよ』
じゃあ、どうして?
片時も梨華ちゃんから目をそらさずに聞くなっちに、
真希は『あの子がこっちの実力を試してきたからさ、わざと受け取ってやった』と答えた。
見えたの?
『見えたよ。見えた、って言ってあげたら』
にぎっていた梨華ちゃんの手をそっと放す。
「真希がね」
声がかすれる。
乾いた喉につばを飲み込んでから「見えた、って言ってあげたら、って」と言った。


「ごめんなさい」と梨華ちゃんは視線を下げた。
「ひとみちゃんが本当に『真希ちゃん』が居るかどうか試してみたい、って急に」
私は「お互い様だよ」とつぶやいた。
「ちょっとだけ、ひとみちゃんのこと疑ってたから」
梨華ちゃんが顔をあげて、もう一度目が合う。
私達はそっと微笑みあった。


落ちたバッグを拾って、軽くほこりをはらう。
「いいもの見せてあげましょうか?」と梨華ちゃんが傘を拾いながら言った。
『いいもの?』
なっちの返事を待たずに梨華ちゃんは白いバッグから手帳を取り出し、一枚の紙を抜いて「はい」と私達に差し出した。写真だった。
…えっ?
『あはは、これって』
その中ではセーラー服の女の子がソフトクリームを食べていて、撮られたくなかったのかこっちに嫌そうな顔を向けていた。
その子は髪もボサボサで、太っていて、目つきも悪くって、色黒で。はっきり言って。
『すっごい不細工』
でも。
『うん、面影は残ってる。口唇とかね』
私は昔の彼女の写真から視線を、現在の彼女に移した。そしてやっぱり、と確信する。
「あたり。それ、一年前の私です」
どうして梨華ちゃんは恥ずかしい過去を簡単に明かせるんだろう?
そして、どうして微笑むことが出来るんだろう?


「可愛いくないでしょ? 私、その頃いじめられてたんです」
目をそらすことも出来なくなった。
梨華ちゃんもいじめにあっていた。そしてひとみちゃんの力できっとそれを乗り越えた。
「毎日のように机の上に花瓶が乗っけられたり、靴を捨てられたり」
聞いているだけで胸が痛む。
同じだ。
『そうだね』
なっちと、なにも変わらない。なにが偶然だ。哀れみで選ばれたんじゃない。
「全部自分の見た目のせいだと思ってた。そんなときにひとみちゃんに出会ったの」
そっか。
なんで梨華ちゃんがこんなことを言いはじめたか、やっとわかった。
「私が欲しかったのは、もういじめられなくなるような外見。だから私――」
それはなっちの質問への答え。
梨華ちゃんが欲しくて、手に入れたひとみちゃん。
ずっと微笑んでいた梨華ちゃん。その笑顔の意味はもっと、ずっと重たかったんだ。
「天才的に、可愛くなりたかった」


光りが射さない公園で、白いベンチに座った白い服の彼女を見ていた。
手が届く距離。それこそ呼吸の音だって聞こえそうな距離で。
「…知ってたの?」
そう聞きながらも、そうとしか思えなかった。
なっちの手から写真をそっと抜き、手帳に戻しながら梨華ちゃんは「何を?」と言った。
「なっちもいじめられてた、ってこと」
梨華ちゃんは小さく首を横に振る。
「知らなかったけど、何かはあると思ってた」


『なっち』
ごめん、真希。梨華ちゃんの話が聞きたいの。
「自分のことで悩んでいない人なら、他の『誰か』なんかいらないから、こんな」
白い襟の隙間から覗く喉元もきれいだった。
「不思議な状態を受け入れたり出来ないって思ってたもの」
ベージュのブーツに包まれた脚も細くすらっとしてた。
『なっちってば』
自分の中途半端ぶりが恥ずかしくなる。誰とも違うと思ってた自分が。
頭の中に『もう!』と声が響いて、なっちの左手が急に折りたたみ傘をつかんだ。
『勝手に広げちゃうからね』
真希がそう言った瞬間、頬に雫が落ちた。


ふたりの鬼の言う通り、雨が降ってきて私達は傘をさす。
広げて初めてわかったけど、梨華ちゃんの傘は刺繍が施してあった。
白い生地に白い糸で無数の華が咲いていた。傘をさして初めてわかる程度に、きめ細かく。
白いバッグ、白いワンピース、ベージュのブーツに白い傘。
そして小さな白い角。
その調和を見てて気づく。
…なんでなっち達の殺した人たちまで、横浜連続殺人の一部だと思われたのか?
そっと目線を移す。梨華ちゃんの白い傘の先も、なっちのお気に入りの傘と同じく、金属が長く伸びて――細く尖っていた。


「傘、持って来たんだね」
前に梨華ちゃんに言われた言葉をそっくり返した。
「なっちは」
梨華ちゃんはきっと気づく。なんでなっち、自分で自分を追い込もうとするのさ?
でも止められない。口唇が動く。私は「置いて来たよ」と続けた。
瞬間の沈黙。
梨華ちゃんが小さくうなづくのがわかった。
「この傘、お気に入りなんです」
梨華ちゃんは左手――傘を持っていない方の手にバッグを持って立ち上がった。
「今日のファッションも、傘に合わせてコーディネイトしてきたんですよ」
だから全部白いんだ。
『自分自身は色黒なのにね』
「雨の日は絶対この傘を使います。何があっても」
ご丁寧に梨華ちゃんはくるっと回り、後ろ姿まで披露してくれた。
でも。
梨華ちゃんの最後の言葉が頭にひっかかり、見返った姿はぼやけてしまった。
――何があっても。
相当の自信。
やっぱり梨華ちゃん達が殺人犯なんだ。そして、なっち達と同じやり方をして。


雨が強くなりはじめた。視界の隅には、今まで我慢をしていたけど耐えきれなくなり駆けて行く人達が見える。
「きれいな刺繍だよね。汚れちゃったらもったいないよ」
ファッションショーが終わっても白いお姫さまは立ったままだった。
「汚しませんよ。これからもずっと」
「なんで」私は笑顔を消していた。
「あんなことしてるのさ?」
殺す、って言葉は使わなかった。口に出すのを誰にも聞かれたくなかったから。
梨華ちゃんのつぶやきは雨の音にかき消されたのか聞こえなかったけど、口唇の動きが読み取れた。間違いない。
梨華ちゃんは「なんとなく」って答えていた。


すぐ近くを雨宿り先を求めて何人かが駆け抜けて行った。
その時にちらちらと見られたような気もしたけど、私達は目もくれなかった。
「なんとなく、なんだ」
なっちの答えに梨華ちゃんは「わかったんですか?」と言った。
「ひとみちゃんが勝手に口を動かしたんですけど」
「でもそうなんでしょ?」
梨華ちゃんは答えなかった。見上げるなっちの視線をそらさず受け止めたままで。
「やめなよ」
言う資格がないのはわかっている。でも言えるのは私だけだ、と思った。
同じ道を歩いているなっち達だけが、半年先を歩く梨華ちゃん達を止められる。
きっとこう言って欲しくて私達にシグナルを飛ばしたんだ。
『殺すのを止めて欲しいから、殺して呼んだってわけ?』
たぶんね。
それくらいわからなくなってるんだ。
もう一度「やめなよ」と言おうとしたとき「良いですよ」と甘い声が聞こえた。


「もっと興味が持てることがあったら、いつでもやめます」
梨華ちゃんは今までとは違う笑顔を見せた。もっと頼りない、淋しい笑顔。
そしてなっちも黙ってしまう。やっぱり行き着くところは同じなんだ。
なにをやっても出来ないことなんてなくて、どんな人もつまらなく見えてしまう。
「なつみさんも、同じでしょう?」
そうだよ。その通り。
でも答えなかった。
なっちが口を閉じてまた沈黙が訪れる。木々と傘を叩く雨の音だけが響く。
「私達はそれで良いんです」
その梨華ちゃんの甘い声は、なっちを包み込むようで、なっちに刺さってくる。


「当ててみせましょうか?」
「…なにを?」
見下ろされたくなくて、そっと立ち上がった。デニムのバッグを濡らさないように抱えて。
それでもやっぱり目線はなっちの方がちょっと下なんだけど。
「最初は当然戸惑い。でも復讐ができたりして嬉しいような怖いような」
バッグをひじに掛け口唇に指を当てる梨華ちゃん。
「昔はいじめられてたことも言えたのにね。今は恥ずかしくて消したい過去だけど」
『なるほどね』
目を閉じて得意気な表情をして見える。
心臓がどくん、と大きく鳴った。
「何でもできるのが楽しくてしょうがなかった。でもすぐにそのつまらなさに気づく」
傘をぎゅっ、と握りしめた。
「人を超える能力を持て余したときに、偶然か故意にか、あの不思議な興奮に出会った」
どうして。
「はじめてのときは眠れないほどだった。でももう、笑うことさえ簡単にできる」
見て来たようになっちの今までがわかるのさ――?


「当たりでしょう?」と梨華ちゃんは目を開けてあの微笑みを見せた。
前にもこんなことあった。
京都に行ったとき、亜依ちゃんがなっちと真希が来るのを知ってたように迎えに来てて、さらに魔鬼の存在まであてた。
――うちの勘、良く当たんねん。
違う。
今回はあのとき以上に、詳しく当てられている。
「答えないってことは当たりですね」ほっ、としたような声。
「不思議に思ってるかも知れませんけど、トリックは簡単ですよ」
簡単?
魔法のようになっちの過去を当てておきながら簡単なんて言うの?
『本当に簡単だよ。なっちってば考え過ぎなんだよ』


『同じ過去を持つ同じ境遇の梨華は――』
リカ。
真希は今、確かに名前を呼んだ。出会ってたった数時間の彼女なのに。
『自分とひとみの過去を話してるんだよ』
真希の声がゆっくりと、なっちを包む不安や恐れを取り除いていく。
そっか。
それなら理由はわかる。同じ道を歩いているんだから不思議じゃない。でもわからない。
『そう。そこがひっかかるんだよね』
なんで梨華ちゃんは、こんなことを言ってくるんだろう?
「自分の過去を聞かせて、何になるってのさ?」
そのために私達を呼び寄せたんだろうか。
本音を聞きたい。
崩したい、と思った。あのすべてを許すような笑顔の向こう側を見てみたかった。


「なつみさんは、半年前の私です」
ふいに、雨が弱まった。傘を叩く音が小さくなる。でももう、さっきまで座ってたベンチはびしょぬれで、もう元には戻れない。
「天気雨だったみたいですね」
「そうだね。でもこの傘を持って来て良かったと思ってるよ」
「私もです」梨華ちゃんは続けた。
「これからなつみさんがすることも、悩むことも私にはもう想像がついちゃうんです。実際に私も悩んだから」
やっとわかった。
――私達はそれで良いんです。
梨華ちゃんがなっちに伝えたかったことは、誰かが知っててくれているってこと。
私達はきっと捕まらない。この身体なら疑いさえかからない気もする。
でも。
私は約束したんだ。あの光りの中、あの子のために魔鬼は甦らせないって誓ったんだから。
あの誘惑を私は、断ち切って生きていく。
「私は他人を」
他人が同じに見える私達は、おそらく一生、恋なんてしないんだろう。
今の私は、半年前の梨華ちゃんかもしれない。
でも半年後の私は、今の梨華ちゃんにはならない。
ありがと。その気遣いはすっごく嬉しかったよ。
「殺して生きてくつもりはないから」
私はあの言葉を、わざと、声に出した。


「そこまで極端には言いませんけど」
「言ったよ。少なくともなっちにはそういう意味に取れた」
「じゃあ、なんで自首しなかったんですか?」
梨華ちゃんはなっちから目をそらし傘をたたみながら言った。
このしぐさはきっとなっちがこの質問の答えにつまるのを予想しているってことだ。
くやしいけどその通り。自首なんてしたくない。
私も傘をたたんだ。雨が止んだことに気づく余裕もなかった。
…真希も?
『気づいたよ。でもどうせまた聞いてくんないだろうな、と思って言わなかった』


「ひとみちゃんや真希ちゃんは普通にしていたことなんですから」
梨華ちゃんは少しも揺らぐことなく立っていた。なっちよりふたつも歳下なのになっちより堂々として。
「現代の法律は摘要しちゃダメですよね。それに――」
「約束があるの」
言い訳でしかないけど、言った。
言葉をさえぎる私に、梨華ちゃんは「約束、ですか?」とつぶやいた。
「そう。なっちと真希、ふたりともの友達との約束。悪いことはしないってね」
「友達…」
見えた。
あの完璧な微笑みにゆがみがあった。
「だからなっちは、あんなことは『もう』絶対にしない」


雲の間から陽がこぼれだした。木の葉の露がそれをやさしく反射する。温かい。
きっともうすぐ人がまた公園に帰ってくる。
急がなきゃ、と思った。
「たったひとり、名前を覚えた子との大事な約束があるから」
うさぎのように手を頭の上にそえた女の子。
都合の良いときだけお姉ちゃん、なんて呼ぶおだんご頭。
「だからなっちは『魔鬼』の誘惑には手を貸さない」
小さな肩に責任を負わされた魔法使い。
たったひとりだけの友達との大事な約束だから、守れるんだ。
『ふぅん』
梨華ちゃんには、きっといなかったんだ。この誘惑から、救ってくれる友達が。
だからなっちが言ってあげる。もうやめなよって。
だってもう私達は――。


「梨華ちゃんも約束して。こんなこと『もう』しないって」
梨華ちゃんは「します」と即答した。その顔には笑顔がなかった。
「私達にはそれだけのチカラがあるんです。だからするだけです」
これがあの笑顔の裏側。
「ひとみちゃんもそれを望んでいるの?」
「懐かしい、この感覚。って言ってくれます」
怒り出しそうな、泣き出しそうな顔。でも、色んな顔があるのが普通の顔だよ。
梨華ちゃんだって半年前は、こんな風に悩んだり考えたりしてたはず。
だって、今のなっちがそうなんだから。


公園にだんだん人が集まりだした。また言葉を選んで会話しなきゃ。
そう思ってうなづいた瞬間、なっちの右足が軽く後ずさった。
…真希?
『念のため。ひとみが傘を握りしめたから』
梨華ちゃんは顔を伏せていた。
そして確かに傘をその手にもて遊んでいた。
はっ、と気づく。
ずっと前、真希が言っていた。ヒトの身体にそんなに差はないって。つまり私達は同じヒトの身体と同じ鬼の精神を持っている。
唯一の違いは、その武器。
梨華ちゃんはお気に入りの傘を持って来てるのに、なっちは置いて来てしまった――。


そんな、と私は息を飲む。それにこの人が集まりだした状態でそんなことしたら…。
『そんなの問題にならないよ。今こっちを見てるのは全部で五人。これくらいなら』
心臓がまたどくん、と鳴る。
全員殺すって言うの?
『そう。簡単だよ、ちっちゃいのもあわせてだし』
遠くから走り回る子供の声と、それを叱るお母さんの声が聞こえた。
そんなことしたら終わりだ。本当にどうしようもなくなる。
『ただ』


『私と同じ考えなら、仕掛けては来ないはず』
顔を上げたときに来る、と思った。
『武器がどうこう、なんて問題じゃない。そんなの何とでもできる』
一瞬もひとみちゃんから目を離せない。
離したら終わりだ。その瞬間になっちは左目から貫かれる。
『自分と同じものと戦ったとしたら、負けないだろうけど、勝てもしないと思う』
まわりに人の気配が多くなる。
私も傘を握った。あのオレンジのお気に入りの傘を思い出す。
『失なうものが大きい。だから勝負はしない』
そして。
その予想通り、何もなかった。
真希とひとみちゃんは同じことを考えていたってことだろうか?
顔を上げた梨華ちゃんはあの微笑みだった。そして「平行線ですね」と言った。
「今日のところは私、帰ります」
『えっ?』
終わりは急に来た。梨華ちゃんに「もう、しないよ」とは言わせられなかった。


徐々に人が集まりだす公園と逆方向に、私達は歩き出した。
並んで歩き、ときどきその横顔を確認する。白い角が陽に透き通る。目が合えば微笑みを返したりする。
たまに小さくうなづくのはひとみちゃんと会話をしてるんだと思う。
『来たときと同じだね』
そうだね。
ただ、梨華ちゃんと約束ができなかったのが残念だった。
せっかく飛ばしてくれたシグナルを、私は上手に受け返せなかった。
『ねぇ』
すっかり忘れてた。
せっかく中華街に来たんだし、今度こそ中華料理を食べて帰ろうね。私達だけでも。
『わぁい。でもそれはそれとして、ひとみと話しをしてみたいんだけど』
…えっ?


突然の相談に足がとまる。たしかに今、ひとみちゃんと話したいって聞こえた。
そんなことできるの?
『わからないけど、やってみようかなぁって』
もっと早く言ってくれたら良かったのに。真希、もし話ができるようなら梨華ちゃんにこれ以上、人を殺させないように言ってあげて。
『やってみるよ』
これはきっと、最後のチャンス。
二歩前に進んだ梨華ちゃんも止まり、こっちを振り返った。
「どうしました?」
「真希がね」
自然に笑顔になるのが隠せない。
「ひとみちゃんと、話しをしてみたい、って」
梨華ちゃんも「えっ」って顔をした。


公園の真ん中。人の流れに逆らわないよう、私達は端に寄る。
そう言えばここに来たときも、人の流れから外れてたっけ。そんなのばっかだなぁ。
「ひとみちゃんも、出来るかもって言ってます」
行き交う人達がちらちらとこちらに視線を向けているのがわかる。
梨華ちゃんも気づいていて「急ぎましょう」と言った。
そうだね。ここで声でもかけられたら余計にややこしい。私達はうなづき合う。
「じゃあ真希、お願い」
『わかった』
意外なほど真剣な声。
真希はバッグを肩にかけ直して、梨華ちゃんの正面に立つと『行くよ』とつぶやいた。


真希は左手を持ち上げ、梨華ちゃんの頭にそっと触れる。
顔を上げその瞳に視線を合わせると、そのままゆっくり引き寄せ始めた。
「…えっ?」
なっちと梨華ちゃんが同時に叫ぶ。出会いの記憶が頭をよぎった。嫌な予感。
真希、ちょっと。
『なに?』
もしかしてキス…しようとしてる?
『してる。もし話しができるとしたらこれしか方法がないからね』
意味がわかるまで数瞬。だって陽が射して明るいし、人も通ってるし、心の準備も出来てないし、女の子同士だし――。
『私とのときも昼間で外だったじゃん』
それとこれとは話が別だよぉ。
「ひとみちゃん、ストップ!」
「中止、中止! 真希、お願い、止まって」


『もう遅いよ』
それでも必死に抵抗する。ムダだってわかってるけど、やっぱり指一本動かなかった。
ゆっくり梨華ちゃんの顔が近づいて、その吐息が頬にかかる。
自分の顔が紅くなるのがわかる。そして梨華ちゃんの顔も紅かった。
「なつみさん」
梨華ちゃんの弱々しい声がして、その両手がなっちの腰に回された。
「私、諦めました…」
そう言って憧れのお姫さまは瞳を閉じた。連鎖反応的になっちの力も抜ける。はぁ。
唯一の救いは梨華ちゃんが可愛いってことかなぁ…。
目を閉じると、口唇に温かく柔らかい感触がはしった。

 

第十話 モーニングコーヒー

 

『ひとみ、聞こえる?』
閉じたまぶたの暗闇の中に、真希の声だけがこだまする。二度、三度と真希が問いかけても答える声はなかった。
きっと梨華ちゃんの中では、逆のことが起こってるんだろう。
時間の進みがわからなかった。一秒程度? 一分以上?
そして出た結論は『だめみたい』だって。簡単な言葉。
ここまでしたのに…。
真希はゆっくり顔を遠ざける。お互いの口唇がそっと離れて、目を開けた瞬間。
「えっ…」
またなっちと梨華ちゃんが同時に叫んだ。ってことは梨華ちゃんにも見えたんだ。
暗闇から光りに切り替わる一瞬、フラッシュのように焼きついた映像。
きれいだった。
色白できめ細かい肌。あごを飾るほくろ。くっきりした二重まぶた。
その顔はまるで少年のようにハンサムで。――天才的に可愛いかった。
「梨華ちゃん。なっち、ひとみちゃんの顔、見れたかも」
「私もです。真希ちゃんが見えました。気が強そうな感じだけど…可愛い子でした」
「ひとみちゃんもすっごいハンサムだったよ」
まるで自分の子供がほめられたような気分。私達は同じような微笑みを浮かべていた。
でも。


余韻にひたっている余裕はなかった。
戻って来た現実では、レンガの石だたみと、雨に濡れた木々と、珍しそうに見る人々が私達を取り囲んでいた。
集まる好奇の目と「撮影?」とかささやかれる声に、自分達の立場に気づく。ふたりして真っ赤になった顔を見合わせる。
「…どうしましょう?」
決まってる。
「逃げよう!」
言うと同時に、私は梨華ちゃんの右手をつかんだ。驚く顔に目配せを送り、その手を引いて駅へ向かって駆け出す。
歩幅を伸ばし、人の流れに逆らい、水たまりを飛び越えた。


なっちと梨華ちゃんは同じホームで、それぞれ逆方向の電車を待っていた。
『中華料理を食べに行くんじゃないの?』
その声に私は軽く頬をふくらませる。
あんなことされたらそんなわけにいかないでしょ。目立ちたくないから帰るからね。
『うそぉ。食べに行かないならこの身体で暴れるからね』
だてに長いつき合いじゃない。そんな手には乗らないよ。
そんなことしたらなっち捕まっちゃうよ。もしかしたら殺人罪のことをわかっちゃうかも。
そしたら、もうハンバーグもお寿司もパスタも食べられなくなるんだからね。
『それは困る…。あんなことしなきゃよかった』
頼りない声が頭に響いて、私はくすくす笑ってしまった。


「楽しそうですね」
「真希がね」と私が一部始終を話すと、梨華ちゃんも笑った。
「ひとみちゃんも食いしん坊で、最初の頃はベーグルばっかり食べさせられました」
ふたりして笑いあった。
なっちにも似たような想い出がある。私達は本当に同じ道を歩いている、と改めて思った。
まもなく電車が到着します、のアナウンスが聞こえた。
同時に。
「どうしてさっき」梨華ちゃんから笑顔が消えた。
「私の手をつかんだんですか?」


「簡単なことだよ。一緒に逃げようと思っただけ」
私は梨華ちゃんの右手をもう一度今度は包むようにつかんだ。
「友達を置いていけないでしょ」
「友達になったんですか、私達?」
「なったよ」
その言葉を打ち消すように、握った手に力を込める。
「なっちの中では真希が名前をおぼえた人は、友達なんだから。記念すべき二人目だよ」
「少ないですね」
電車がホームに滑り込む。到着したのは、梨華ちゃんの乗る電車だった。
そのうるさい音にも負けないような大きな「でも私より多いです!」って叫び声が聞こえた。


「私、男の子にはいじめられてたんですけど、女の子は私をかばってくれてたんです」
「うん」
それじゃ、さっきの返事は逆なんじゃないの? って言う前に。
「でもひとみちゃんと一緒になってからは逆でした」
私は「逆?」と聞き返す。
「男の子は手のひらを返したように優しくなって、逆に女の子は――」
梨華ちゃんは泣くのかと思った。
「もう言わないで」
違った。
笑顔だった。でも。
「自分より劣ってるって思ってたから、みんな優しくしてただけなんです」
二度目の淋しそうな笑顔。
こんなときに笑顔をつくる梨華ちゃんは本当に悲しい、と思った。


電車のドアが開き、多くの人がホームを行き来する。梨華ちゃんは「また会いましょう」と言って電車に乗った。ホームに背を向けて。
真希が『嘘だね』とつぶやいた。うん。なっちもそう思う。私は「うそつき」と叫んだ。
「それだったら、どうして男の人ばっかりだったのさ」
信じてるくせに。
新しい傘だって、プレゼントしてあげるよ。
「あの写真を持ち歩いてるのは、自分は間違いじゃないかって、不安を消すためでしょ?」
梨華ちゃんがそっと振り向いた。
「でも梨華ちゃんのシグナルになっちはちゃんと気づいたよ」私は電車に駆け寄る。
「また呼んで。何度でも『やめなよ』って言ってあげる」
「…えっ?」


梨華ちゃんはうつむいて、じっとこらえていた。手を引いて降ろそうか、と思った瞬間。
大声で笑い出した。いつもの微笑み、なんかじゃなくて口を手で抑えての大笑い。
「やだ、もう。そういうことだったんだ」
やっと見せた歳相応の笑い顔。
「どうしたの?」と聞くと、舌をべっ、と出して「恥ずかしいから秘密です」だって。
発車のベルが鳴って、とりあえずのお別れが来た。
「なつみさん」
「うん」
「いつでも呼んでください。私達は間違ってない、って何度でも言いに来ますから」
「わかった。でも呼ぶときは別の用事で呼ぶね」
「じゃあね、なっちゃん」
「…えっ?」
閉じたドア越しに梨華ちゃんの驚いた顔が見えた。電車はゆっくり、だんだんと加速して私達から離れて行った。
きちんとさよならもできなかった。
私はさっきまで電車が停まってた場所にそっと「またね」とつぶやいた。


梨華ちゃん達はただなっち達に会いに来たんだろうな。
時計を見ると出会ってから別れまでたったの三時間しか過ぎてなかった。あっさりの別れ。
ホームに残された私達は一瞬前の別れと甘い声を思い出していた。
『なに、最後の』
なんだろ。急に敬語を遣うのをやめて。まぁ、友達になったんだから別にいいけど。
『急に笑い出したのはわかった?』
いまいちわからない…。
そして気づく。私達はお互いの連絡先すら交換してなかった。
今度こそ私達の乗る電車が到着した。
座席に座って思う。また会うことは出来るだろうか? …あのシグナルは使わずに。
『会えるよ』
真希が傘をくるくる回しながら自信たっぷりに言った。楽しそうに。
その自信はどこから来るのさ?
『だって私達、近いうちに中華料理食べにまたここに来るんでしょ?』

 

終幕 ラブレター

 

「ごめんなさい。人を待ってるんです」
ずっとそう言い続けて、やっと男の人はあきらめて去ってくれました。…ふぅ。
『早くも三人目。中華街にしては珍しいね』
そうだね、と私は手にお気に入りの白い傘をもてあそぶ。駅から降りてくる人々を誰とはなしに目で負ったりして。
もしかしてムダなことしてるかなぁ、なんて思いながら。
ひとみちゃんは来ると思う?
『その質問、いったい何度目なのさ』
だぁってぇ、とガードレールによりかかり直す。
せっかくシグナルを飛ばしてくれたからこっちも急いで送り返したのに、その後は反応ないんだもん。
『自分で言ったんじゃない』
うん…。横浜連続殺人に見せかけることができる、ってのは普通の人には無理だもんね。
来て欲しいな。来るとしたら一週間後の今日な気がする。
せっかくの全身を白く包んだコーディネイトがもったいないし、何より、今日来る人を救ってあげられるのはさ。
『梨華っちしかいないって?』
ねっ。もし来なくっても、もう二、三週はシグナルの応答を返してあげてみるつもり。
早く来い来い。私を呼んだ誰かさん――。