マリオネット
けっきょくみんな、あやつられてた
■ プロローグ
目の前に死があった。
その部屋に入ったとたん、鼻孔から肺へ侵入し胃を締め上げたそれは、間違いなく血の匂いだっ
た。淡色の部屋の床一面に広がった血液が、異常なまでの匂いを立ちのぼらせている。
「裕ちゃん…これ」
あたしのかたわらで、裕ちゃんは立ち尽くしたままだった。
メンバーの死。それを目の当たりにして、あたしたちはどうすることも出来ないでいた。
数秒開けて、裕ちゃんがあたしの声に反応を返した。視線がぶつかり合う。
あたしはどんな顔をしていただろう。恐怖。あるいはまだそれも表情に出来ていない、不安定な
ものだっただろうか。
「…どうしよう」
「死んでるか、…確認してみるしかないやろ」
裕ちゃんは抑揚無くそう言うと、無造作にその血液の出所へびちゃびちゃと足音を立てながら近
づいていく。
あたしは何度かもどしそうになりながら、裕ちゃんの背中を見ていた。
まだどんな感情も沸き上がってはこない。ただ裕ちゃんが機械的に手首を調べたり、首もとに手
をやったりしているその姿を、視界にとらえているだけだった。
背中とうなじを支えていったんそれを横に寝かせてから、裕ちゃんがこちらに振り返る。その両
手は真っ赤に染められていた。
「…裕ちゃん」
ゆっくりとうつむいていた顔を上げる。手でぬぐったのであろう、所々に血の跡が残っていた。
「あかん、…あかんわ。…死んでる」
どうしてだろう。裕ちゃんのその声を、ずいぶん遠くのように感じていた。
そのときあたしの耳に聞こえていたのは、心臓が悲鳴を上げるようにしてはやく打つ、その鼓動
だけだった。
■ 中澤裕子 1
―― 平成12年5月初旬。
午前9時を少し過ぎたころ、中澤裕子は都内のあるビルの前にいた。
「中澤ゆうこ」としてである。
中澤はそのビルに見覚えが無かった。
モーニング娘。として各地を忙しく飛びまわっているのだが、そのじつ都内での仕事となると場
所はわりとかぎられている。レコーディングスタジオ、ダンススタジオ、記憶にあるかぎりのそ
のどれとも違う。
見知らぬ建物にいきなりひとりで呼び出される。そんなことは今回がはじめてだった。
そのビルは雑居ビルの中にあって見上げる程度に高く、灰色の壁面を伝うヒビも他に比べれば格
段に少ない。建てられてからあまり時間が経っていないのかもしれない。
前面に並んだ窓には張り紙も無く奇麗なままで、どの階にも企業が入っている雰囲気はなかった。
そのことは入り口でも確認することができて、埃にまみれたプレートが地下2階分を含めて10枚、
白いままで縦に並んでいた。
(ほんまにここで合うてんのかな)
もう一度ドアの上にあるプレートでビルの名前を確認する。間違い無かった。
タクシーに大体の場所とビル名を言って、その目の前で降ろされたのだから、中澤の方向音痴が
発揮される暇も無い。ここに呼び出されたのだ。
(いよいよあたしらも、来るとこまで来たんかなぁ…)
中澤の頭の中でモーニング娘。は、まだ「売れっ子」という状態に保護されていた。多少のミスも、
それひとつでは致命傷には至らないと。
しかし、それが必ずしも世間と一致しているとはかぎらない。
飽きられると落ちていくのもはやいこの世界だ。そろそろいろんな意味で体を張らなければなら
ない時期なのかもしれない。
そのビルを前にして、中澤はしばらくそんな考えをぐるぐると巡らせていた。定刻までまだ時間
の余裕があるのだ。
冷静になってみるとそれはおかしな話しだった。
見知らぬ場所に行きたくない。ただそれだけの些細なことで、いい大人が躊躇している。しかし
中澤には何かしら予感めいたものが働いていた。入ってはいけないと。
それは26年間の人生からつむぎ出された経験則なのかもしれないし、まったく違ったものなのか
もしれない。
けれどそれは確かにそこにあり、中澤の足を止めていた。
(でも結局は行くしかないねんけど)
市井紗耶香の脱退が公式に発表され、新曲も前の2曲に比べるとその出足は明らかに悪い。
失速感がまったく無いとは言いきれないこんな状況の中、中澤個人に行動と選択の自由があるは
ずはなかった。
結局リーダーであり年長者であることで自らを説得して、中澤はドアに手をかけていた。
■ 中澤裕子 2
「あれ、裕ちゃん?」
意を決していたわりにいざとなるとなかなかドアを開けられず、そのまま固まっていた中澤は声
をかけられた。聞きなれた声。それは保田圭のものだった。
「なんや、圭坊か」
両手にコンビニのビニール袋を下げた保田のいつも通りの姿に、緊張が一瞬にして解けていくの
がわかった。それを小さな安堵のため息と一緒に体外へ吐き出す。
「なに、裕ちゃんもここに用あんの?」
中澤が手をかけたままになっていたドアを、ビニール袋をいったん持ち直してから、指差してそ
う言った。
中澤は「これ?」とビルに目をやって、
「なんか昨日きゅうに電話が入ってな。スケジュール変更、ここに来いて言われたわけ。あれ、
あんたもなん?」
「うん、呼ばれてるよ。プッチで」
数分前に中澤を悩ませたことは杞憂に終わったようだ。
プッチで呼ばれているということは少なくとも市井と後藤が来る、あるいは来ているはずだ。数
いれば安心ということでもないのだが、中澤にとっては心強い味方に違いなかった。
「紗耶香と後藤はもう来てんの?」
「中にいるよ。で、ほれ」
と言うと保田はヒョイと両手を持ち上げて、ビニール袋に詰まったお菓子を主張した。
軽めのスナックから箱入りのチョコレート、中澤の見たこともないような赤く着色されたスルメ
みたいな物まで入っている。おそらくは後藤のリクエストなのだろう。
「めずらしいね、あんたがパシリするなんて」
「や〜、今日財布の中身確認しないで家出ちゃってさ。紗耶香にちょっと借りてんだよね。その
かわりにってことで」
「ふ〜ん」
さきほどとはうってかわって軽い気持ちで、中澤は腕に力を込めた。
――
ビルの中。
蛍光燈の明かりが通路全体を冷たく照らしている。そこは意外なほどせまく、そして何も無かっ
た。
ビル自体の壁面にあたる右側には一定の間隔をあけて小さな窓が取り付けられている。しかし左
側にはドアがひとつ、ちょうど通路の中点の位置にあるだけで、アイボリーの壁が奥まで続いて
いた。
「なんなん、ここ」
入り口に立ち止まり、保田が入ってくるのを待ってからそう言った。
ひと気の無い建物というのは、どれもこんな無機質な感じなのかもしれない。ただここが特別そ
う感じられたのは、人がいたという気配がまったく無かったからだった。
床にはゴミのひとつも落ちておらず、うっすら積もった埃に足跡が残っているだけだった。それ
もプッチの三人のものなのだろう、数は少ない。
ここにはビルとして使われていたという形跡がないのだ。
「さあ、なんか使われてなかったみたいでしょ?ずっと」
「うん」
歩く中澤のミュールからの残響音だけがやけに聞こえている。見ると保田は服装とのコーディネ
ートを一切無視した、ナイキのシューズをはいていた。
中澤がそれを不思議そうな目で見ていると、保田も気がついたようで、
「なに裕ちゃん?
あ、これ? ちょっとさ、足首悪くしてんだよね。そういうのはくと少し痛く
てさ」
と言うと中澤の足元めがけて左手のビニール袋をブンと振った。
「大丈夫なん?」
「ああ、全然大丈夫。危なかったらパシリなんてしないって、普通」
わざとらしく肩をすくめると、保田はスタスタと奥に向かって歩きはじめた。保田は勝手がわか
っているのか、その行動には迷いが無かった。
「ちょっとちょっと、待ってや圭坊。」
急いで後ろ姿を追いかけた。
■ 中澤裕子 3
通路を突き当たると、右手にエレベーターがあり、そのガラス窓の向こう側に明かりが点いてい
るのが見えた。左手には2階と地下1階への階段がある。
保田はそこで立ち止まっていて、
「裕ちゃんは何階に呼ばれてんの?」
「え、ああ。地下の2階やけど」
「ふ〜ん、それじゃうちらと一緒なんだね。じゃあこっちだよ」
と言ってくるっと反転し地下への階段の方に向かう。
「ちょっと圭坊」
中澤の声に保田が振り返った。
保田がこの階で留まっているエレベーターを無視してまで、階段で降りる必要があるのかわから
なかったのだ。足のことを考えればなおのことそれが疑問だった。
「エレベーター留まってんで、こっちで降りれば?足も、ほら。悪いんやろ?」
保田は「ああそうか」という顔をすると、
「そのエレベーター地下には行かないんだよ。あたしたちも最初来たとき乗ってさ、地下の階の
ボタンがついてなかったんだ」
とあっさり返した。ここではどうやら保田の方が先駆者らしい。中澤は素直にそれに従うことに
した。
階段は半階降りると踊り場があり、折り返してまた半階おりるという、真横から見ればちょうど
「く」の字のかたちになっている。
踊り場の壁には上下の矢印を中心にして、その左右に1FとB1の文字が配置されていた。
さらに降りると、そこはさっき保田を呼び止めた真下にあたるのだが、1階とは違い通路が防火
用の開閉可能な壁で閉じられていた。
壁には踊り場より大きな文字でB1と描かれており、その下にドアがあった。
中澤が興味本位でノブを回そうとすると、
「そこ、カギかかってるよ」
と釘をさされた。
「裕ちゃんってさ、けっこう後藤と同じことするよね。後藤もさっきそこがちゃがちゃ回してた
んだけどさ」
「あ、…そう」
しかし中澤はノブを回してみた。確かに鍵がかかっているようで、二、三度前後にしてみたがド
アは開かなかった。
その様子を保田は踊り場から、「やれやれ」といった表情で見上げている。
「ね〜、開かないでしょ?」
「ああ、開かへんみたい」
■ 中澤裕子 4
「ホンマや、こっちは開いてんねんな」
あっさりと回転したドアノブを引いて、中澤は地下2階へのドアを開いた。
ここの通路も地下1階と同様、防火用の壁とドアで閉じられていた。もしかすると閉じられてい
ないのは、逆に1階だけなのかもしれない。
「でしょ? は〜い、じゃあちょっと通してください」
両手に荷物を下げている保田を先に通して、中澤はドアを閉めた。
正面にはエレベーターが無く、通路はそのまま右へ90度に折れている。そこでふと、
「なあ、圭坊。ここって来たときから、この、電気ついてたん?」
天井に並んでいる蛍光燈を見上げながら言った。
それは中澤の中でさきほど感じた「使われていなかった」というこの建物への印象を真っ向から否
定する疑問であり、動いているエレベーターを見たときに生まれた違和感に他ならなかった。
「最初から点いてたんだけど…。ああ、そういえばそうだね。ヘンだね」
「やろ?」
中澤と保田、ふたりが横に並ぶとエコノミークラスの窮屈さがある。保田を先へうながした。
「う〜ん、来たときは後藤がずんずんひとりで先に行っちゃってたから、そんなに気になんなか
ったんだけど」
右に曲がる。
1階に比べるとさらに無機質な感覚は増しており、平面を折り曲げた谷折りのラインが四本奥ま
で続いていた。
窓が無いためか通路全体の色彩が薄く、蛍光燈の光りも黄色みが増しているようだった。
目についたものといえば行き止まり右側にあるドア。これは1階にあったものとほぼ同じ位置、
真下にあたるように思われた。
つまりこの通路は1階と比べ、ちょうど半分の長さということになる。
「あのドアも?」
「うん、開いてた」
(ずいぶん不用心な話しやな)
場所がらどんな人間に立てこもられてもおかしくない。開けられたのは今日、はやくても昨日だ
と考えていいだろう。
保田の言うとおり、次のドアもあっさりと開いた。
そこはふたたび通路だった。おそらく長さはビル自体の横幅と同じ程度あるだろう、幅はさきほ
どからのものと変わり無い。
ただその両側に一定の間隔でドアがずらりと並んでいた。
「ほら、裕ちゃん。だったらこれもヘンだよね」
保田か一番近い位置のドアを指差す。そこにはセロテープで四方をとめられた白い紙に、ワープ
ロの文字で「モーニング娘。様」と書かれていた。
「モーニング、…娘。?」
そうつぶやいてから保田と顔を見合わせた。
中澤は電話でマネージャーからソロの仕事だと聞いていたし、その後送られてきたFAXにもビ
ルの住所と大まかな地図に加えて、「ソロの仕事です、遅れないように」という補足までついてい
た。保田もプッチで呼ばれていると言う。
「圭坊、マネージャーからなんか聞いてる?」
「え?
ああ、電話で場所だけ聞いたかな。本人は遅れるとは言ってたけど。うん、それ以外はと
くに」
「あたしもそんな感じやった」
中澤がドアノブを回す。それを押すとと今までとは違う、ズッという感じの重さがあった。
5cmほど分厚いそのドアの形状には見覚えがあった。スタジオなどで防音設計されたものとほと
んど同じだったのだ。
■ 中澤裕子 5
「あれ、裕ちゃん。なんで来てんのさ」
と言った市井紗耶香の顔は横向きだった。
どこにでもあるような会議用の折畳み式の長机とパイプ椅子が数脚、空調用なのか天井にはふた
つそれらしい装置が埋め込まれている。
部屋の中にはそれ以外何も無かった。そこはまさにアイボリーの立方体だった。
パイプ椅子を三つ横に並べ、市井はその上に寝転がっている。頭を後藤真希のヒザに乗せて。い
わゆる膝枕というやつなのだが、中澤にとっては見慣れた光景である。
最初のころは注意しようかとも考えていたのだが、見ていると意外にも照応の関係にあるふたり
に、今ではこのままでいいような気さえしている。
「圭ちゃん圭ちゃん、アレあった?」
「あったよ〜、ほれ」
後藤の声に保田がごそごそとビニール袋をまさぐってから、綿棒の円柱パックをポンと後藤に投
げてわたした。
「市井ちゃん、きたよ〜」
「うむ」
パクッとフタを開けて、中から一本取り出す。後藤はそれにふうと一息吹きかけてから、市井の
耳元の髪をかき分けて耳を露出させた。
「はいるよ〜」
「ふむ。…く、ひゃひゃひゃ。ご、後藤、もうちょい容赦無くやってよ。それじゃこちょばいだ
けだって」
市井と後藤がじゃれあっているのを眺めていた。こんなおかしな環境でも、いつも通りでいられ
るふたりに感心さえしている。
市井の卒業で、もうすぐこんな姿も見れなくなると思うと少しだけ感慨を覚えていた。
「裕ちゃん、座んなよ」
テーブルにビニール袋の中身を広げていた保田に言われて、適当なパイプ椅子に腰掛けた。
「もらうよ」と、テーブルの上にあるのど飴をひとつ取り、袋をやぶいて口にほうり込んだ。よく
わからない味の飴を口の中でころがしながら、部屋の中をもう一度ぐるりと見まわす。
市井と後藤の周りのおかしな空気は別にしても、机と椅子があるというだけで受ける印象はずい
ぶんと違っていた。
ただそれは、そんなに広くもない部屋に四人集まっているという、人口密度からの安心感のせい
なのかもしれなかった。
座っている位置でもそうなのだが、中澤はいまだ後藤と親しく話すことはなかった。そうする必
要性もあまり感じなかったし、なによりひとまわり違う年齢の壁は意外に大きかったのだ。
矢口、保田、市井の追加メンバー三人とここまで馴染むのにも時間がかかった。そのころは妙な
プライドが邪魔していたのだが、これからまた新メンバー四人との関係を築いていかなければな
らないと思うと気が重くなる。
「あ、そや圭坊。新しく入った子らとなんか話しした?」
「ん?ああ、ひととおりは話したけど。まあ、当たり障り無いっていうか、うわべトークってい
うか、ね?」
「話せてるだけええ方やって」
中澤は自分とすれ違うだけで固まってしまっている四人を思いだす。
(あたして、そんなに恐いか?)
「裕ちゃん、恐いから」
「あ、…そう」
中澤は飴の袋を所在無げに指でのばしていた。すると保田がビニール袋をひとつ空にしてくれる。
「ゴミ袋」という意味なのだろうそれに、丸めて投げ込んだ。
■ 中澤裕子 6
「なんだよ、今度は矢口?」
市井の声にドアを見ると、そこに立っていたのは矢口真里と飯田圭織、「タンポポ」のふたりだっ
た。おそらく中澤やプッチモニと同様に、タンポポとして呼ばれたのであろうことは容易に予想
ができた。
「あれ、ホントにモーニング娘。がいる」
飯田のその言葉がツボにはまったのか、後藤がナハハと笑いだした。飯田ににらまれていったん
はこらえるのだが、しばらくするとまた吹き出す。しばらくそれを繰り返して、いい加減飯田が
しびれを切らしたのか市井に、
「ちょっと紗耶香〜、後藤なんとかして」
「はいはい。後藤、つづき〜」
市井が上げていた頭をふたたび後藤の太股に乗せる。後藤はまだ物足りないという表情をしてい
たものの、市井からの要求にそれを諦めたようだった。
「あ〜裕ちゃん、おはよー」
中澤を見つけた矢口が、トトッとやって来た。余計な感情をはぶいてよく話してみると、中澤と
一番相性が良かったのが矢口だった。
石黒彩の卒業脱退から閉じられがちだった中澤の心の鎖を、上手にほどいてくれたのも矢口だっ
た。他のメンバーとの人間関係の潤滑油としても働いてくれている。これではどちらが年上なの
か分からない。
「矢口、おはよう」
関西弁のくだけたイントネーションの「おはよう」に矢口がニヒヒと笑う。中澤はこのイタズラっ
子っぽい笑顔が好きだった。
「なんだ〜、みんなでする仕事だったんだ。タンポポっていってもふたりだからさ、どうなるか
と思ってたんだよ」
「う〜ん、そうなんかなぁ。あたしも「ゆうこ」で呼ばれたんやけど…」
矢口がガリガリとパイプ椅子を引きずって来て、中澤の隣りに組み立てた。
部屋の中はテーブルを中心にして、入り口左わきに市井と後藤、そこから時計周りに保田、矢口
と中澤、飯田の順で座っている。
矢口が菓子類をみつくろい、それをヒザに乗せるのを待ってから、
「なあ、矢口。エレベーター留まってたやろ?あれ乗ってみた?」
「うん」
「やろ?
それやったら、B1のところのドア閉まってたやんか?あれのノブ回してみた?」
「回したよ」
(―― ふむ。さすがは矢口や)
中澤がひとりごちている横で、矢口は視線を移し、
「圭ちゃんもなに、プッチで呼ばれてんの?」
その声に保田がめくっていた雑誌のページをとめた。目を上げて矢口の方を見ると、唇をとがら
せて「そうだよ」と言った。矢口は両の黒目を右に寄せて、考えてますという仕種をする。
その様子を中澤はじっと見ていた。保田と目が合って、お互いに肩をすくめる。
最近の矢口は変わりはじめている。「ギャル」にというわけではない、今までの頼っていた自分か
ら頼られる自分へ、本当の意味で成長しようとしている。そんな気がした。
それは確かに頼もしいことだったが、中澤には少しだけさびしくもあった。
「や〜ぐち、どうしたん?」
「ん〜、こういうパターンは初めてだからさ。テレビの企画とかでもヤダなーって」
背もたれでグッとのびをする矢口の横顔を見ていた。それに気がついたのか「ん?」という表情で
言葉の帰りを待っている。中澤は少しだけ笑って、
「そやね」
と言った。
■ 中澤裕子 7
安倍なつみがその部屋に入ってきたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
「ゴメン、なっちまた寝坊しちゃったんだよ〜」
六人の視線が入り口に集まる。それから「おはよ〜」「おーす」という返事。ここまでメンバーが揃
っているのだから、安倍が来ないという方がおかしい。
しかし安倍はメンバーのリアクションに納得いかないのか、中澤のところまで来て、
「裕ちゃん、なっちまたなんか悪いことしたかなぁ。遅刻したのにみんな普通なんだよ、おかし
いよ」
本人は遅刻して文句を言われることを予想していたのだろう、物足りないという感じだ。確かに
普段なら中澤も注意ぐらいはしているだろう。
「まあ、いろいろあるわけよ」
さっきまで散々矢口と話していたことを、イチから説明するのは正直つらい。かなり要約してそ
う言った。
「え〜、なんだよぅ。それ」
安倍は「不服」を前面に押出した表情のまま、飯田の隣りに座る。
「ねぇ、圭織。聞いてぇ
――」
と始まった。飯田には気の毒だとは思ったが、安倍にお付合いする気にはなれなかった。
これで七人。新メンバーを除くモーニング娘。全てが集まったことになる。それも各々別の仕事
としてバラバラにだ。
安倍はおそらく「モーニング娘。」として呼ばれたのだろう。入ってきたときの反応と、その後の
行動があまりにもいつも通り過ぎる。
確認してみると「そうだよー」とあっさり返され、安倍はすぐにくるっと反転して飯田とのおしゃ
べりを再開した。
「裕ちゃん、なっち、タンポポ、プッチモニ。なんで分けて呼ぶんだろうね?」
矢口が何回言ったか分からないほど繰り返された、そのセリフを言う。中澤の返事もさきほどか
ら変わらず、
「わからへん」
矢口とふたりだけで話していても、この問題に解決はない。それが結論と言えばそうなるだろう。
中澤は椅子から立ち上がった。
まずは、
「圭坊、ちょっとええか?」
保田が雑誌から顔を上げる。「なに?」と目と眉毛で返す。
「マネージャーから電話きた、て言うてたやろ?そのときのこともう一回話してくれへん?」
いったん雑誌を閉じて、思い出す仕種をしてから、
「う〜ん。いつも通りって言えば、まあいつも通りだったよ。スケジュール変わったから、って
時間と住所教えてもらった。あ、自分は遅れるって言ってたかな」
「そっ…か。次は、そしたら圭織
――」
時刻はちょうど中澤が呼ばれた10時になろうとしていた。
■ 中澤裕子 8
「―― で、駅で後藤と待ち合せて来たんだけど。ビルの前でちょうど圭ちゃんと合って、そんな
感じかなぁ」
最後に市井から話しを聞き終えて、中澤はまた元いたパイプ椅子までもどってきていた。
「裕ちゃん、なんか分かったの?」
矢口が期待を込めた視線をおくってくる。
とりあえず、カタチになっている結論はあった。しかし「誰が何のために」ということになるとま
だ今の段階でははっきりした答えは分からない。
「たぶんやけど」
全員に聞いて回るという奇行のおかげで、中澤に目が集まる。そこで照れくさそうに、
「たぶんやねんけどな…。あたしらをここに集めようとして
――」
ドガッと矢口からツッコミが入る。厚底ブーツでのキックの直撃に顔をしかめながら、とりあえ
ず続けた。
「ちょ、ちょっと待って矢口。言葉が足りてへんかった、あたしらを“同じ時間に”集めたかっ
た。っていうのはどうや?
あたしらいつも、遅刻する子はするけど完全にしいひんて子もいてな
いやろ? 誰がどれだけ遅れるか、そんなん正確には分からへんやん」
矢口をはじめ、後藤、安倍、飯田は「何言ってんだ?」という顔をしている。保田、市井は「あ」と
いうちょっとした驚きのリアクションをしてくれている。
「ん〜、たとえばなっち。あんた9時に呼ばれたって言うてたやろ?紗耶香と後藤は9時20分。
矢口と圭織は9時45分で、圭坊とあたしは10時ちょうど。わかる?普段遅刻が多い子はその分は
やい時間に呼ばれてるやろ?
で、あたしらは全員10時にはここにいた」
保田と残りふたり、プッチの集合時刻にばらつきがあったこと。そのことを出発点に考えていっ
た結果、こんな仮説が生まれたのだが ――
「で?」
その保田の一文字のツッコミの返しは、しかし無かった。
そうなのだ。このことが分かってもなんの解決にもならない。定時にメンバーを集めてどうする?
そのあとが続かないのだ。
「それに、それだったらあたしたち別々に、違う集合時間言えばいーじゃん」
市井もすかさず保田に合いの手を入れてくる。中澤は少し考えて、
「それは…。そや、もしメンバー同志で集合の時間のこと話したとき、おかしなことになるやろ?
あたしだけはやく呼ばれてるー、って」
「それもちょっとヘンだよ。メンバーで話すとしたら、同じ場所ってほうがおかしいと思うはず
だよ、普通」
(確かにそうやねんなぁ。急な変更て言うても昨日の話しで、そのあとにメンバーとは電話でい
くらでも話せるわけやし…)
「…あれ」
それは中澤としても完全な思いつきだったのだが、ふいに生まれたその疑問を口にせずにはいれ
なかった。これもどうでもいいような物のひとつには違いないのだが、
「なあ、みんな誰から電話もらったん?」
『キャシー
――』
軽くハモった数人の声が「キャシー」のところで止まった。言った者はお互い顔を見合わせている。
(やっぱり…)
中澤が電話を受けた相手もまた、「キャシー」の愛称で知られるかなり太めの女性マネージャーだ
ったのだ。
翌日に仕事があるとして、その変更の連絡を入れるのは普通その日同行するマネージャーという
ことになっている。いくら場所が同じとはいえ、四組のタレントをたったひとりで取り仕切ると
いうことはありえない。モーニング娘。での仕事のときでさえ、マネージャーは最低でもふたり
はついている。
「それじゃあさ、キャシーさんが犯人?」
後藤が市井を覗き込むようにして聞いた。このふたり未だに膝枕状態にあるのだが、それよりも
「犯人」という不用意なフレーズが全員の緊張感を高めた。言いようのない空気が、行き交う視線
から生み出される。
「それもピンとこないよねー」
フォローというわけでもないようなのだが、市井があっさりとそう言った。すかさず、
「あ、じゃあ裕ちゃんはどう思う?」
矢口もタイミング良く中澤に話しの行き先を向けてくれる。答えは決まっている。事実、真実よ
りも、優先すべきはこの場のまとまりだ。
「ま。今言うてもしかたないことやし、マネージャーが来たときに聞いてみよ。遅れてくるて言
うてたんやろ?
圭坊」
「ああ、うん」
「じゃあそれまで、このまま待ってみよ」
言い終えて椅子に座った。途中矢口と目が合うと、ニッと笑いかけてくれる。
その場はそれでなんとか落ち着き、それぞれがそれぞれに時間を潰すことになった。自分で言い
だしたことになんとかオチをつけ、その中澤のおかしな発表会はそこで終わってしまった。
■ 中澤裕子 9
午前11時30分。しかしマネージャーはおろか、誰もこの部屋のドアを開ける者はいなかった。
「さすがに、ヘンだよね…」
矢口が弱音を吐くように言った。中澤としても、どう返していいのか分からない。ただ曖昧な表
情をして、
「…うん」
と相づちを打つことしかできないでいた。
全員が意図してそうしたのか、1時間半近く、誰もこの部屋を出ることはなかった。市井と後藤
は完全に別世界という雰囲気で、それは同様に飯田にも言えた。安倍は飯田に飽きたのか、保田
の開いている雑誌を横から覗き込んでいる。中澤は矢口と同じような会話を繰り返していた。
ふいに、
「みんな携帯持ってたら出して」
市井が後藤の膝枕から起き上がり、そう言った。後藤が「驚いた」という顔をしている。
「市井ちゃん、どうかした?」
「後藤も、ほれ。携帯持ってるよね?
ちょっとここ、机のとこに出してみてよ。あたしのじゃ電
波入んないみたいなんだよ」
市井はそう言うと、コトっと机の空いたスペースに自らの携帯電話を置いた。言われて中澤も自
分の携帯の液晶を見てみる。アンテナは1本も立っておらず、「圏外」のマークが映し出されてい
た。
「あたしのもあかんわ」
「あたしも」
中澤に矢口がそう続け、次々と携帯電話が机に並べられてゆく。最後に安倍が「なっちも」と置い
たところで、全てが机上に置かれた。
「みんな繋がんない、か。電話できれば手っ取り早かったんだけどな」
市井がつぶやく。こういう一歩引いた「冷静さ」を持った子なのだ。時々ハッとするようなことを
言うのだが、本人はその自覚が無いのか大抵は言い捨てるだけで終わってしまう。
「う〜ん、ちょっとお手上げだね。仕事っていうんだから帰っちゃうワケにもいかないし」
と言うと、後藤の隣りに今度は普通に座った。机の上に置いたままになっていた、後藤の携帯を
「サンキュ」と言って渡す。
「しょうがないね、いったんここ出てみようよ。ね、裕ちゃん」
矢口が立ち上がる。この状況に我慢できないのだろう、その語調よりはるかに切実な視線が中澤
に向けられていた。
「そやね、そしたらどうしよ。圭坊、ちょっとここに残っといてくれる?」
「えー、なんでさ」
「ひとりは残っといた方がいいやろ?
誰か来るかもしれへんし。スタッフさんとか、ほら新メン
の子とか」
しぶる保田の隣りで、事態への興味も無さそうに雑誌を読んでいた安倍が、
「じゃあ、なっちが待っとくよ」
と何心無くそう言った。中澤と目が合うと、「ん?」と目を大きめに開く。
「ええの?」
「だって、すぐ帰ってくるんでしょ?
だったら残っとくよ、お菓子もまだあるし」
と言うと、周囲のおどろきの視線を感じていないのか、すぐに雑誌に目を落とした。安倍のこう
いう無造作な献身は、今にはじまったことではない。そしてそれは意識していないだけに、反感
をかうことが過去にもしばしばあった。
中澤は安倍の横顔を確認すると、
「じゃあ、なっちにお願いするわ。スタッフさんが来たら、話し聞いといてくれる?」
「うん、わかった」
中澤の声に顔を上げ、ニッコリと安倍が笑う。それは見様によってはだらしないともとれる、や
わらかな笑顔だった。
■ 中澤裕子 10
「じゃあ、行ってくるねー。圭ちゃん」
矢口が最後にドアを閉める。結局保田も残ると言い出したのだ。安倍ではスタッフからの伝言も
覚えてられないから、とうそぶいてはいたが、年下の安倍にいいところを見せられて駄々をこね
るのが恥ずかしくなったというのが本音なのだろう。
先に部屋を出た中澤は来たときとは逆の方向に、ドアの並ぶ通路を奥へと向かっていた。
「裕ちゃん、こっちだよ」
と言う矢口に行き先を指差した。ドアの並んだ通路の先にドアがふたつ、その間にレッドとブル
ーの例のシンボルマークが描かれたプレートが取り付けられている。中澤がそのまま行こうとす
ると、
「あ、あたしも行くよ。ゴメン紗耶香、さき行ってて」
矢口が追いつくのを待ってから歩きはじめた。横に並ぶと矢口は、厚底ブーツをもってしてもま
だ小さく、さきほどの言葉に込められた「おいてかないで」というニュアンスが可愛くてたまらな
かった。
「トイレ行くだけやで?」
「あたしもちょうど行きたかったのっ」
と言って唇をとがらせている矢口を横目に、中澤はドアを数えていた。片側に五つ、それが線対
称にあるのだから、全部で10部屋ということになる。ひとつひとつ鍵がかかっているのか確かめ
たかったが、下手に矢口を心配させてもしかたがない、今はやめておくことにした。
中澤たちのいた、張り紙の部屋は廊下から入って一番手前、右側の部屋だ。トイレにはもっとも
離れた位置にある。一度振り返ると、飯田たちが廊下へ出て行くのが見えた。
赤色の円と三角形を上下につなげた、女性用のプレートの方に入る。手探りでパチンと蛍光燈の
スイッチを押した。
薄いピンクのタイルが貼られたその空間には、相変わらず使われた形跡が無かった。ただ床の埃
にいくつかの足跡が残っていた。こういうはっきりとした「足跡」を残すには意図的でないかぎり、
ペタンと地面に足の裏すべてが密着するシューズをはいていなければならない。思い当たるの
は、保田と矢口。それ以外のメンバーは、カカトのついたブーツをはいていたはずだ。
「どうかした?
裕ちゃん」
あとから入ってきた矢口が身長を利用して、うつむいていた中澤の顔を覗き込む。
(やめやめ)
中澤は考えるのをやめた。自分がメンバーを疑ってどうする。そして何を疑う必要がある。この
ビルから出れば何もかもが解決するのだ。
「ん?
いや、なんでもないよ」
「ヘンなの」と言うと、矢口は奥から二番目の個室に入った。個室は全部で四つ。一番奥にある他
よりも少し幅のせまいドアは、清掃用具かなにかを置いておくスペースなのだろう、そこと矢口
が入ったドアのみが閉じられていた。
洗面台にバッグを置いて、それほど必要もなかったのだが、化粧を少しなおした。入ってみるこ
とそれ自体が目的であって、「火急な用」があったわけではないのだ。
水を流す音からしばらくたっても、矢口が出てくる気配は無かった。
「矢口?
さきに出てるよ?」
「あ、ちょっと。裕ちゃん、わー待って待って」
やけに切迫した雰囲気の返事と、ドンドンという音に個室の方を振り返った。中からやかましい
ほどドアを叩いている。
「ちょっと矢口。なにしてんの」
ドアの前まで行き、二、三度ノックをする。しばらくして、
「あの。紙が、…無いんですけど」
思わず「は?」という顔をしたのだが、なるほどあるはずがない。見回してみても、このトイレに
は備品と呼べるものは何ひとつとして置かれていないのだ。
「あの、裕ちゃん聞いてる? トイレットペーパーが ――」
「わかったわかった。ほらティッシュ。これぐらい、いつでも持っときや?」
ドアの下の隙間から、ポケットティッシュを中に滑り込ませる。
「あ、ありがと。いつもは持ってるんだよ、今もおっきいほうのバッグには入ってるし。無いほ
うがおかしいんだよ、無いほうがっ」
恥ずかしいのかなんなのか、矢口はひとしきりそう言うと、バタンとドアを一気に開いた。
「ありがと」とティッシュを中澤に渡すと、さっさと手を洗って出ていってしまった。入れ違いに
保田とぶつかりそうになり、
「圭ちゃん、紙無いからね」
と釘をさしていた。
「なにあれ、裕ちゃんなんかしたの?」
「さあ…」
いちおう「いる?」と保田にもティッシュをすすめてみたが、「持ってるし」とあっさり返された。
■ 中澤裕子 11
生活の大部分をともにしてきたはずなのだが、中澤が矢口の悲鳴を聞いたのはこの時がはじめて
だった。しっかりボイトレをしているのであろうその声は、まさに空間を切り裂いた。
(矢口!)
中澤がトイレのドアを開くとほぼ同時に、遠く反対側のドアも開いた。出てきた市井と距離は開
けていたが、緊急の表情を確認し合う。そのままスライドした市井の視線が、さきほどまで中澤
たちがいた部屋の開かれたドアのところでピタリと止まった。
「驚愕」、市井のすべてが一瞬にしてそれにかわる。
(紗耶香、何が見えるん? そこから何が見えてんの?)
矢口の体がドアの枠から数歩さがるのを見た瞬間、中澤は駆け出していた。
■ 矢口真里 1
恐慌状態におちいっていた矢口の肩を、市井がしっかりとつかんでいてくれた。放されたらもう
戻ってはこれない、そんな気がした。
矢口の瞳は依然として、中澤と保田が入っていったドアに向けられている。一瞬でも目を閉じて
しまうと、あの光景をまたまぶたの裏に見てしまう。
そこにいたのは安倍だった。いや、安倍“だった”モノだ。
部屋のドアを開け、一歩踏み出したその足が立てた音。
―― ぴちゃ。
矢口の視界を支配した赤い床と、その中央にうずくまるようにして折りたたまれた安倍の体。そ
こからなおも湧き出してくる液体は、いやになるほど床の上でその面積を広げていた。
そこで矢口の意識と体を繋いでいたラインがプツリと切断された。明滅を繰り返す視界は徐々に
狭まり、そして完全に闇に放り出される。どこかで自分の悲鳴が聞こえた。けれど最後に感じた
のは、予想外のやわらかな感触だった。
「紗耶香、矢口を見といてな」
おぼろげな意識の中、その声で目覚めた。中澤は市井にそう言うと、矢口が止める間もなく保田
に声をかけ、ふたりで部屋の中に入っていった。
すぐに市井がかたわらに来て、肩を抱きしめてくれた。
「モーニング娘。様」と貼られたドアの前、正面に矢口と市井が壁を背にして座っており、右手に
飯田、左手に後藤が立っている。
「矢口…」
何度目かの市井のその言葉がきっかけになった。矢口の停止したままだった視線が、すとんと自
らの足元に落ちる。
「あ…、あ…、あ…」
(あ、ヤダ…、ヤダヤダ。とらなきゃ、早くとらなきゃ)
ブーツの裏にべっとりとついた、すでに凝固が進んだ赤い液体を素手でぬぐおうとする。市井が
ぎょっとして、
「ちょっ、矢口なにしてんの!」
両手を押え込もうとする。飯田にヘルプを求めたが、事態が把握できていないのか、焦点の合わ
ない目が向けられていた。
「後藤!
あたしが押さえとくから、この、矢口のブーツ。脱がしてっ」
「あ、うんっ」
市井が壁と矢口の間に体を滑りこませ、両手の上からまるで恋人がそうするかのように抱きしめ
る。後藤は上下する足をなんとか押え込んで、編み上げられた縄をほどきにかかった。
■ 矢口真里 2
厚さ10cmは確実にこえているであろうその厚底ブーツがはね返り、壁に赤い跡を残した。後藤が
へたり込み、「はぁ〜」と大きなため息をつく。
体中がじっとりと汗ばみ、市井からの激しい鼓動が背中に伝わってくる。耳元でささやかれる、
強くてやさしい声、
「ね?
もう大丈夫だから。矢口、もう大丈夫だから…」
そんなやけに現実的な三つの感覚が、矢口の心をなんとか沈静させてくれていた。
「…紗耶香、ありがとぉ」
「矢口…」
横目で確認できた市井の顔が、やわらかな笑顔にかわる。そしてすぐにいつも通りの、ちょっと
生意気そうな表情で「よかった」とつぶやいた。
矢口の呼吸もしだいに落ち着き、市井の両手をゆっくりほどいて立ち上がった。軽いめまい。血
液が首から上までのぼってきていないような、そんな感覚だった。
手をさしのべてくれる市井を「大丈夫」と制して、後藤の脱がせてくれたブーツを取りにいく。
(洗ってこないと…)
ガチャリというノブが回転する音に、矢口の拾おうとのばした手がビクッと止まる。そのまま振
り向くと、保田がドアのところに立っていた。
保田はそのまましゃがみ込むとシューズのヒモをほどき、裸足になって廊下に出た。片手に持っ
たシューズは、まるで最初からそうデザインされていたかのように、靴底から数センチが赤く染
まっていた。
「圭ちゃん…、どうなってんの?」
市井はまだしゃがみ込んだまま、保田を見上げるようにしてそう言った。ドアの正面に座ってい
るその位置なら、部屋の中の状況は確実に見えていたはずだ。
これは矢口たち、他の三人への報告を要求しているのだ。
「なっち、…もう駄目みたい。何かわかんないけど、ここんところ、おっきな傷ができてて。血
がすごく出てて…」
左の脇腹より少し上を余った手で押さえていたが、言うにつれて、こらえきれないのか目じりを
ぬぐった。
「ダメって、なにそれ?
どういうことよ!」
そのあと続いた長い沈黙をやぶったのは、その瞬間にはじめてスイッチが入れられたような反応
をした、飯田の声だった。
言って涙がボロボロとこぼれ落ちているのだが、表情が感情に追いついておらず、困ったような
顔のままだった。
「圭織…」
「なんで? なんで? なんでなっちなの? なに?傷ってなんなのよ? なんでそんな、ダメとか
って、…言われなきゃなんないのよ!」
■ 矢口真里 3
「あ、…裕ちゃん」
中澤は部屋を出ると保田と同様にミュールを片手に持ち、何も言わずにトイレに向かった。誰も
何も言わなかった。その両手は真っ赤に染まっており、保田のそれと比べると中澤が“確認”し
たことは明らかだった。
飯田も言葉を止め、その中澤の動きを目で追っている。その姿がトイレに消えた。
いったん黙った飯田は、憑物が落ちたかのように一転して泣きじゃくっている。保田がフォロー
に入ろうとするのだが、飯田はそれをかたくなに拒否していた。
しばらくしてトイレのドアが開き、中澤がゆっくりと出てきた。思わず矢口が駆け寄ろうとした
が、ほとんど距離が縮まらないうちに立ち止まってしまう。中澤の青ざめた顔が見えたのだ。
「裕ちゃん大丈夫、…なの?」
中澤のことは十分に分かっているつもりだ。「リーダー」「最年長」などの扱いをうけているため、
責任感がありメンバーを統制する力があるようなイメージができ上がってしまっている。しかし
そんなものは勝手なイメージ、虚像にすぎない。
中澤はそのイメージを「キャラクター」として演じているだけで、その殻の中身は極端に繊細でも
ろく、傷つきやすい。
「ん?
ああ、大丈夫や。矢口のほうこそ、しんどかったね」
たとえるなら病床の母親からの笑顔、そんな不安定な安堵の感情でじわりと湧き出た涙を、矢口
はグイッとぬぐった。泣いている場合ではないのだ。
矢口は「頑張れるよ」という意志を込めて、笑ってみせた。涙がうまく止まってくれず、泣き笑い
になってしまったが、近づいた中澤が頭をそっと撫でてくれた。
「圭織も、大丈夫?」
保田からのすべてを拒絶していた飯田が、その声には反応して顔をこちらに向ける。化粧がほと
んど落ちて眉毛の先が欠けてはいたが、整ったその面立ちには何の損傷も無く。赤みがさしたほ
ほと潤んだ瞳が、いつもの飯田の持つつかみ所の無い印象とはまったく違った、現実的な美しさ
を見せていた。
「話して…。カオリに、も。ぅぐ、分かるように、話して、よ」
鳴咽がまだぬけきらないのか、飯田はしゃべりづらそうに言う。
中澤は矢口の肩に手をやると、「行こ」と小声で言ってから三人のもとへ歩き出した。矢口は何度
か中澤の顔を見上げたが、そこにはやはり今にも倒れそうなほど不安定なものしか見て取れなか
った。
■ 矢口真里 4
「うん、開いてるみたい」
中澤に言われて、保田がドアを開けた。あの部屋のちょうど向かいの部屋、中澤がいったんそこ
に入ろうと提案したのだ。
五人が部屋に入り、中澤がドアを後ろ手に閉じる。真剣すぎる、壊れそうな危うさを漂わせた表
情だった。
(聞きたくない。…聞きたくないよ)
中澤の唇が動くのが恐かった。自らが見た光景が夢や幻覚であってほしいと、最後の抵抗が心の
奥で起こっていた。
何も無い部屋だった。誰もが壁を背にしている。矢口も何かによりかからなくては、これからの
中澤の言葉を受け止められないような気がしていた。
「圭坊から聞いてると思うけど。隣りの部屋で、なっちが死んでる」
わざとそうしたのだろう、最後のフレーズはいつもの中澤の言う関西弁の抑揚は無く、突き放す
ような印象だった。
中澤のつややかな声はすぐに壁に吸収され、いやになるほどの静寂があとに続いた。
「…それ、だけ?」
飯田がまるで子供がそうするかのように小首をかしげ、壁から背を離す。眉をひそめるその表情
のまま、
「それだけ?
話してくれるって言ったじゃん。ねえなんで?なんでなっちの傷ってなんなの?
わかんないよ、ぜんぜんわかんない。なんでちゃんと話してくれないの?ねえ!」
と言って中澤に詰め寄ろうとする。しかしそこには何か見えない境界線があり、飯田がそれを踏
み越えてしまったとでも言うのか、中澤の目つきが急に変わる。
「それだけて、それ以上知ってどうすんの?知ってどうすんのよ?」
「だって、話してくれるって言ったじゃん!ちゃんと教えてよ、なっちは
――」
「圭織、そんなに聞きたいやったら言うたるわ。なっちは刺されてた。周りには刃物はなんにも
落ちてなかった。ほら言うたで、これがどいう意味か分かるか?なあ、分かるんか!
自分で刺
したんと違う、誰かに刺されたんや。自殺とは違うんやで!」
「裕ちゃんもういいよ!
もういいから!」
市井が間に割ってはいる。中澤の顔からはさらに血の気が失せていた。
「裕ちゃん!」
緊張の糸が切れたのか、その場にガクンと崩れ落ちる中澤。矢口が駆け寄る。
安倍は決して自殺をするような人間ではない。それはある程度の過去を知るメンバーなら、誰も
が認識していることだ。
それゆえ、安倍が死んだとするならそれは明らかに、他者によるものか、あるいは事故死。あの
状況で事故が起こりえるのかと考えれば、前者の確率のほうが高いはずだ。
そこまで考えが行き着いた者にとっては、中澤の話しは聞くまでもないことだった。
しかしそれが言葉として発されたことで、手を朱に染めた「犯人」がこのビルの中に存在する、そ
のことが現実的な、目前に迫る脅威として認識されたのだ。
そしてそれがこの六人の中にいるかもしれない、ということも。
■ 矢口真里 5
矢口は中澤の体をいったん壁際に寄せてから横にして、額にエビアンで濡らしたハンカチを折り
たたんでのせた。市井と後藤が手を貸してくれたが、ふたりとも何もしゃべらず作業は淡々とし
ていた。
(――
そうだ)
「紗耶香、はやく警察に連絡しないと。あ、でも事務所が先だっけ」
その言葉に市井は、めずらしく曖昧な表情になった。
「開いてないんだよ、ドアが。廊下には出れたんだ。でも、その先のドアに鍵がかかってたんだよ」
矢口の視線が市井、後藤、飯田、あのとき先に出ていった三人の顔を往復する。よほど不安な顔
をしてしまったのだろう、後藤が市井の手をぎゅっとにぎりしめた。
「え?
なに? じゃあ出れないって、こと?」
「…うん」
「だってヘンだよ。こっちが内側なんだから、出れないなんておかしいよ!」
思わず大きな声になってしまう。入ってくるときは気にも留めなかったが、ディスクシリンダー
タイプの鍵がついていたはずだ。それなら、内側からなら半月型のつまみをひねれば鍵は簡単に
開くのではないのか。
「見てくればわかるよ。こっち側にもキーを入れるとこがついててさ、たぶん、めずらしいんだ
ろうけど、どっちからも鍵が必要なんだ」
(…そんな)
矢口がふらふらと壁際まで後ずさり、その小さな体を壁にあずけた。
混乱していた。閉じ込められたのだろうか?それなら何故? 安倍があんなことになって、じゃ
あ自分たちもそうなるのだろうか?
――
そして「犯人」は本当に存在するのか?
「圭ちゃん、あのとき最後に部屋出たんだよね?」
飯田の鳴咽が突然止まり、はっきりとした口調でそう言った。保田がハッとして顔を上げる。
「…そうだけど」
「じゃあ、そのときのことちゃんと教えてよ」
「なに圭織、あんたまさかあたしがなんかしたって
――」
「いいから話して! みんなだってそうでしょ?圭ちゃんが最後だったんだもん、誰だって疑う
よ!」
保田は飯田に気おされるかたちで話しはじめた。しかしそれは矢口のあとに部屋を出たというだ
けで終わってしまい。それが保田自身を弁護してくれるようなことはなかった。
「信じられない」
「ちょっと圭織!
いい加減にしなよ」
市井がついに「我慢できない」という感じで飯田に詰め寄る。しかし飯田は真っ向からそれを受け、
にらみかえしていた。
膠着状態がしばらく続いたそのとき、矢口が一歩前に出て、
「圭ちゃんは、やってないよ」
自分のできることからやってみようと思っていた。それはかぎられたことなのかもしれないけれ
ど、今この保田への疑念を晴らせるのは自分しかいないのだから。
■ 矢口真里 6
「なに?
矢口」
市井のその言葉に笑顔でこたえる。
「圭ちゃんはそんなことしてないし、ここにいるみんなもやってないよ」
「なんでそんなこと」という飯田を制して、矢口は話しはじめた。
まず安倍が刺されたと仮定して、考えるべきことはそれがいつだったかということだ。少なくと
も矢口が部屋を出たときにはいたわけだし、保田を信じればそのときまでは生きていたというこ
とになる。
あのとき、中澤を追いかけて行った矢口がトイレに入るまでに、市井たち三人はすでにドアから
廊下に出ていたわけだから、三人が意図的に口裏を合わせていないかぎり、この三人には不可能
だ。
部屋が防音されていたとすれば、いったん通路にでれば中の悲鳴は聞こえないと思っていいだろ
う。
そして矢口がトイレに入る。このとき保田はまだ部屋だ。
矢口が用をたし、個室を出る。実際つねに確認していたというわけではないが、中澤はかたわら
にいたはずだから、中澤にも犯行は不可能だ。
トイレを出る矢口とすれ違いに保田が入ってくる。
そう、時間的に考えれば、保田には十分安倍を殺害することはできた。
決定的なことを除けば、だ。
「なに矢口、その絶対無理な条件って?」
たとえば安倍が絞殺、あるいは薬殺などであればその条件は成り立たない。しかし刺殺であるか
ぎり、絶対的に保田を犯行不可能にする。至極簡単なもの。
それは「返り血」だ。
安倍は腹部のやや上を刺されている。あれだけの血溜りができるのだから、出血の勢いはかなり
のものだったのだろう。何らかの刃物を刺し引き抜いた場合、中澤のように両手両腕、さらに密
着したとすればその服にも、安倍の血液が付着したはずだ。
保田はあのとき、一瞬ではあったのだが、そんな目立つものはいっさいなかった。当然服装も変
わっていない。
そう、保田にも犯行は不可能なのだ。
それは、中澤も同じものを見ていたのだから ――
「ね? 裕ちゃん」
矢口が中澤に同意をもとめる。しかし、中澤からそれが返ることはなかった。
■ 飯田圭織 1
無心に中澤の名前を叫びながら、その体にすがりつく矢口を見ていた。
さきほど矢口の言っていたことは理解できたし、安易に保田を疑ってしまった自分はバカだった
と思っている。しかし、この事態は理解の域を越えていた。
「ちょっ矢口!」
保田が矢口を引き剥がす。ふたりが中腰の姿勢になったとき、ゴボッと中澤の口から赤い塊のよ
うになった液体が吐き出された。ぎょっとして動きが止まる。
「ぃやぁあああ!」
その後藤の叫び声までたっぷり数瞬の間、飯田のすべてが停止し、高まっていく鼓動だけが聞こ
えていた。視界の中で中澤がビクッビクッと、魚のように痙攣しはじめている。
「圭ちゃん、矢口をお願い!」
保田の返事を聞かずに市井は後藤の二の腕をつかむと、飯田のところにもやって来て、
「圭織も、ほら!」
と言うと後藤とは逆のほうの手を飯田の腕にからめて、ドアに向かう。飯田は何度もまばたきを
して、現状を把握しようと試みていた。
たしかにこの部屋に入るとき、中澤の顔色は悪かった。しかしそれは安倍と対じしたという、精
神的なダメージのためではなかったのか?
それもあのとき矢口への笑顔を見れば、回復しつつあ
ったのではないのか?
なにより、この症状はそんなレベルのものではない。吐血して、全身が痙攣して
――
(…あ!)
からまりそうになる長い脚を踏ん張って、飯田はドアノブへと伸ばされた市井の手をつかんだ。
「なによ?」という表情で振り向く市井に対して、
「触っちゃだめだよ!」
と叫んでいた。市井の目が驚きのためか、一瞬大きく見開かれる。
(あのとき、裕ちゃんだけがしたこと。トイレに行った?違う、だったら圭ちゃんだって、あの
あとクツを洗いに行った。裕ちゃんがあのときしたこと。それは
―― このドアを“閉めた”ん
だ!)
飯田はノブの上部を慎重につかむと、ゆっくりと回転させた。しだいにそれが見えてくる。ちょ
うど45度で回転を止めたとき、そこには1cmにもみたない針がわずかに光りを反射していた。
■ 飯田圭織 2
「これ…」
針の周囲はノリが固まったような、透明な“何か”が付着していた。これがそうなのだろうか?
しげしげとそれを見つめている飯田に、
「圭織、わかったからはやくドア開けて」
後藤を抱えるようにして言う市井の言葉は、かなり切迫していた。
ノブを引き、少し隙間ができたところで指を入れ、いっきに開いた。市井と後藤、飯田が部屋を
出る。
後藤がその場でガクンとヒザをおった。その仕種が中澤のそれとうりふたつだったため、あわて
て市井が顔を覗き込む。飯田の視線に気づいて、「泣いてるだけ」と市井が返してくれた。
あれが何らかの毒物だったとしたら、中澤は絶望的だと言わざるをえない。すでに安倍を手にか
けているのだから、下手に中途半端なことはしないだろう。そこにあるのは「生か死か」、それだ
けだ。
このとき飯田の中に、それは明確に生まれていた。
「犯人」に対する憎悪だ。それで心を埋め尽くして、飯田は平常を保とうとしていた。それがこの
状況で唯一、吹き出してくる感情の逃げ道だったのだ。
しかしいっぽうでそれを否定する意志が存在することもわかっていた。
すじ道たてて考えれば、「犯人」は決して存在しえない。それは矢口の話しを聞いたとき、すでに
飯田の中にあったものだ。
矢口は保田への嫌疑を晴らすことにウェイトを置きすぎていた。たしかにメンバーは誰も殺害は
できなかったのだろう。しかし、それは同時にメンバー以外の「犯人」が犯行を行った、という可
能性さえも消してしまったのだ。
再考してみると。
保田が部屋を出てトイレに到着する。その時間は1分もかからなかっただろう。今日保田は足音
の立ちにくいシューズをはいていた。背後からの音には多少だが、いつもよりは敏感になってい
たはずだ。ドアの開閉程度の音なら、問題なく聞こえただろう。
そこで矢口と入れ違いになる。矢口の視線は保田の背後に向けられたはずだから、もうすでにそ
の時点で犯行が終えられ、「犯人」は部屋を出ていなくてはならない。
なぜなら、矢口はそのまま部屋へ向かったのだし、ドアを開けた矢口の悲鳴の直後、市井が部屋
の中を確認している。
これではどうしようもない。1分で音も無くあらわれ、そして犯行後消える。そんな魔法めいた
ものでも使わないかぎり、「犯人」による犯行は絶対に不可能で
――
「―― おりっ、圭織!
圭織、聞いてるの?」
シャットアウトしていた視覚が二、三度のまばたきで色を取り戻し、同様に聴覚が市井の声をと
らえる。
「圭織こっちの部屋、開いてるから」
安倍の部屋の隣り、市井がドアを開け後藤と中に入っていった。
■ 飯田圭織 3
保田たちのためにドアが開けはなたれたままのその部屋は、さきほどまでいた部屋と同様に、天
井に空調装置がふたつ埋め込まれているだけの何も無い部屋だった。
市井は壁際に後藤を座らせると、入り口に引き返してドアノブを見てから。飯田を振り返って「針
ついてないよ」と言った。
考えるべきことはまだあった。あの針がいつ取りつけられたのか、ということだ。
「ずっと、あたしと矢口がドアの前に座ってたからね」
ということは、安倍が殺害されるより以前から、取りつけられていたということになるのではな
いのか?
「へ〜、圭織けっこう考えてるんだ。そうだね、1分の犯行…か。無理なんじゃないかなそれは。
それになっちからの流れじゃ、ドアに針をつけるのも無理だよ。うん、針はそれより前って考え
たほうが自然だね」
それでは、計画性があった、つまり最初から自分たちは“殺されるために”ここに来たというこ
とになる。
「…考えたくないけどね。なっちは分からないけど、針は確実に誰かがあたしたちをねらってや
ったんだと思う。裕ちゃんだけをねらったってことはないんだろうけど。そうでしょ?あの状況
じゃ、誰に当たってもおかしくなかったんだから」
あの部屋自体に入ろうと言い出したのは中澤だったし、部屋を出るときになってはじめて誰かに
刺さっていたということも十分に考えられる。
「うん。誰でもよかった、って言うと、ほんとムカツクんだけどさ…」
おかしなことはまだある。知識がないのでよくは分からないのだが、針に塗られていたノリ状の
ものはおそらく毒物だ。中澤の症状を素人目に見ても、かなりの即効性のあるものだとわかる。
そんな確実に人を死に至らしめるようなものを所有していながら、なぜ安倍をあんな方法で殺害
したのか?
なぜ全員をねらうなら、あんな不可能な状況で犯行を行ったのか?
「スタッフだって言って、ジュースの中にでも入れとけば、もっと簡単にすむはずなのに…」
考えたくはなかったが、「犯人」は“ひとりずつ”殺害していくつもりなのだろうか。
「ホント、考えたくないね…。でもだったらまだチャンスはあるはずだよ。ひとりづつなのは、
ひとりづつしかできないから。こっちは五人いるんだもん、相手がひとりだったら何とかなるん
じゃないかな、逆にさ。まあ、ひとりだったら、だけど…」
安倍への犯行において「犯人」は存在しえない。しかし中澤への犯行においては、確実に「犯人」は
存在する。
「あたしは、その「犯人」はいると思う。現に裕ちゃんのこともあるし、…メンバーは疑いたくな
いし、ね?」
そうなると、安倍を殺害できる何らかの方法があったのではないだろうか。
あるいは「犯人」とは言えないまでも、何らかの理由で嘘をついているメンバーがいたとしたら。
「嘘? なに圭織、まだ圭ちゃん疑ってんの?」
飯田と市井の会話は、その保田の入室によって中断された。
■ 飯田圭織 4
「矢口、もうちょっと一緒にいたいって」
「…ダメだったんだね。裕ちゃん」
「うん…」
そのやりとりから10分ほど、誰も何もしゃべらなかった。安倍のときとは違う、ここにいる誰も
が中澤の最後を見ているのだ。
しかし、不思議と飯田には「悲しい」「さびしい」といった感情は生まれてこなかった。いや、正確
にはそれが生まれるべき感情の余地をすべて、憎悪で黒く塗りつぶしていたといったほうがいい。
安倍への犯行の方法はまだ考えつかなかったが、それはもういい。市井に感化されたわけではな
いが、このまま何もしないでいて自分が助かるとは思えない。
相手はすでにふたりを手にかけている。だったら自分が相手の命をうばって何が悪い?
中澤は安倍のいる部屋には刃物はなかったと言っていた。「犯人」がまだそれを持っているなら好
都合だ。刺されたときには少なくとも相手と密着するはず、そこで目玉ひとつとでも引き換えに
死んでいくのも悪くない。
(このまま何もしないより、ずっとあたしらしいよ)
それは狂気だった。しかし飯田は恐怖とそれを比較したとき、まよわず狂気を選んだ。安倍、中
澤がいなくなったモーニング娘。に、未来を見出せなかったのだ。
飯田が顔をあげ部屋を見回すと、他の三人はそれぞれが中澤のことを心の中で処理しているよう
だった。
バッグの中から手帳を取り出し、ビリビリやぶいて床に置いていく。15枚並べたところで一枚一
枚折りたたむと、その片面にだけ自分のサインを書いた。それを束にして両手で持つ。
そんな飯田の行動に対して向けられた目は、どれも涙で濡れていた。
いい子ばかりだと思う。確かにとっつきにくかったり、ワガママだったり、自分とは絶対にあわ
ないという子もいた。しかしそれも全部含めて、彼女たちは飯田の仲間だった。
こんな状況になってはじめて、それに気がついていた。
「後藤、動ける?」
飯田の言葉に、後藤は「困惑」の表情を浮かべている。市井がかわってそれにこたえて、
「圭織、なに?
この部屋から出るの?」
「うん…。一緒にいたほうが安全かな〜、って思って」
嘘だった。飯田は保田への嫌疑をまだ捨て切ってはいない。違う。疑いがあるからこそ、それを
晴らすためにも、保田の行動にはつねに目を光らせておきたかったのだ。
「…でも、なにするつもりなの?」
保田からのその問いに、飯田は「まあね」とだけこたえておいた。
■ 飯田圭織 5
部屋から四人が出たことを確認すると、飯田は手に持った束の中から一枚取り出した。開いたま
まだったドアを閉じ、背伸びをして上部にあるドアと壁との隙間にそれを滑り込ませた。
「なにしてんのさ、圭織」
保田の目には奇行として映ったらしい。
「これはね、カギなんだよ。こうしとけばさ、この部屋に入るにしろ出るにしろ、まあ今は中に
誰もいないからいいんだけど、ドアを開けたときに、ほら
――」
飯田がドアを押すと、パラリとその紙は部屋の外側に落ちた。
「―― 入ったのが分かる」
それをもう一度セットし直していると市井が、
「それじゃ、部屋の中に入ったやつにはバレバレなんじゃないの?」
紙の束の中から新しい一枚を取ると、市井に渡して「入れてみて」とドアの隙間を指差した。折っ
た側から慎重に入れていくと、市井の手がピタリと止まる。
市井の驚きの視線に、「ね?」とこたえて、
「このドア、造りがちょっと違うんだよ。普通のドアに、内側からひとまわりサイズの大きい板
がはってあるみたいでさ。だから内側からじゃ、うまくこの紙ははさめないんだよ。それにほら、
落ちてからじゃ、どっちが上だったかわかんない」
と言うと、ペラペラと紙を裏表にしてみせた。「この部屋はサインが上ね」とつけくわえる。
「へ〜、圭織ってたまにスゴイね」
紙を引き抜きながらの市井の言葉に、飯田は力無く笑った。これは「犯人」追いつめるための罠だ。
それはすなわち、「犯人」との対じを意味している。結果的に仲間を兵隊や駒として考えている自
分がいやになった。
「あ、じゃあ矢口にも教えたげようよ。あたしちょっと呼んでくるね、後藤も行こ?」
「うん」
市井と後藤が手を繋ぐ、その後ろ姿を見送って。飯田は正面の部屋のノブをチェックしてから、
ドアを開いた。
「矢口〜、大丈夫〜? ドア開けるよ〜?」
スイッチをパチンと押す、この部屋の中も何も無い。いちおうドアの後ろも確認してから、例の
紙を、今度はサインを下にしてセットしようと ――
「矢口!」
市井のその声に隣りのドアを見た。後藤が数歩後ずさり、市井がそれに気がついて振り返る。返
ってきた市井の視線が飯田とぶつかる。
飯田が駆け出すとほぼ同時に、後藤がこちらに向かって走り出す。市井もそれを追い、すれ違い
ざまに「圭織、お願い!」とだけ言って走っていく。
その閉じられたドアを開けたとき、飯田は意外なほど冷静だった。
■ 市井紗耶香 1
「矢口〜、大丈夫〜?
ドア開けるよ〜?」
市井はドアノブをつかむと回転させ、ズッとドアを押した。飯田の言ったとおり、内側には一枚
大きめの板がはられていた。
矢口はメンバーの中では要領がいいほうだ。感情の切り替えがちゃんとできているし、頭の回転
もはやい。だから中澤のもとにいたいと聞いたとき、正直ちょっと意外だった。
(矢口にとって、裕ちゃんは特別な存在だったのかな…)
そんなことを考えながら、ドアを開けきった。
目の前に、たしかに矢口はいた。
中澤におおいかぶさるようにして、その体は動かない。こちらに足をむけたかっこうの中澤に、
抱きつくようにしているため、それはいやでも目に入ってくる。
「やっと思い通りの色に染められた」と自慢していたライトブラウンの髪が、後頭部のあたりから
半分以上、どす黒く変色した紅色に染まっていた。
「矢口!」
思わず叫んでしまってから、うしろを振り返る。後藤は背中を壁にピタリと密着させて、なおそ
の両足は後ろに行こうと壊れたロボットのように動いていた。
今の後藤は危うい。もともと矢口などとは比べ物にならないほど、感情のコントロールが苦手で、
人の死を納められるほどの心の容量もない。これまで接してきて、市井はそのことを十分に承知
しているつもりだった。それだけに、自分が取り乱してしまったことが後藤にあたえるダメージ
を考えれば、それはあまりにも軽率な行為だった。
(圭織っ)
視線を隣りの部屋向ける。飯田と目が合ったそのとき、市井の視界のはしを後藤が駆けぬけてい
くのが分かった。
(…あ)
後藤へのばした手はとどくはずもなく、市井はそれをきっかけに走りだした。飯田とすれ違いざ
まに「圭織、お願い!」とだけ言い残す。
「ちょっ後藤!
待って!」
市井のその言葉に保田が反応して、強引に後藤の腕をつかむ。いきおい余ってふたりが倒れこん
だ。
後藤はまるで子供がするように、手足をバタつかせている。市井は追いつくと、うしろから後藤
を抱きしめていた。
■ 市井紗耶香 2
飯田がそのまま部屋へ入り、三人はそのまま立ち上がることもなく、市井を真ん中に並んで壁に
背をあずけていた。
ノースリーブの露出した肩に、後藤が頭をのせている。こんな短時間で後藤が落ち着きを取りも
どせるとは思えない、微妙な位置で必死に精神のバランスをとっているのだろう。市井はその頭
にほほをよせた。
それからどれぐらいの時間が経っただろう。実際はほんの数分のことなのかもしれないが、後藤
を注視し続けていると、それはずいぶん長かったようにも思われた。
まるで現実味がわいてこない。
安倍が刺され、中澤が毒の塗られた針を受けた。そして今度は矢口だ。
ことが連続しすぎているからだろうか、その重みはほとんど感じることができないでいた。
(メンバーが死んだのに、泣かないあたし、…か)
素直に衝撃を受け素直に泣いている後藤が、なんだかうらやましく思えた。
市井の涙を止めているもの、それは「自分が何とかしなければならない」という、ある種の責務に
似た感情だった。
頼るものはたくさんあるはずだ。今日の飯田はいつもと違うし、保田もかたわらにいてくれる。
しかしそのどれにも、市井は完全に身をあずけることができないでいた。
ひとつため息をついて、後藤の頭を撫でる。
矢口にも分かるよう部屋のドアはずっと開け放たれていた。市井もずっとそこを見ていたという
わけではないから断言はできないが、誰も目の前の通路は通らなかったはずだ。
その部屋から左、廊下へ行くドアまでは向かいあった中澤の部屋と安倍の部屋しかない。そして
中澤の部屋を市井が出たとき、そこには保田と矢口の他に誰もいなかった。
安倍の部屋は出入口の辺りまでその血が広がっていて、中澤や保田がそうしたように靴をぬがな
いかぎり足跡が床に残ってしまう。
とすると、犯人は廊下に出るドアの向こう側にいた、ということになる。それは犯人とすれば、
かなり危険な賭けだったのではないだろうか。
(そうでもない、か)
相手はこのビルの鍵を持っているのだから、廊下の先のドアも開閉自由だ。そこからいつでも外
に出ることができる。
(…あれ?)
ということは ――
「ねぇ、圭ちゃん」
「なに?」という保田の返事に、市井は笑顔でこたえた。
「今ってさ、チャンスなのかも」
■ 市井紗耶香 3
「だから、「犯人」はこの向こう側にいるはず。いないとおかしいんだよ」
そのドアを前にして、後藤、保田、飯田に市井は説明した。
飯田によれば、矢口は何か鈍器のような物で後頭部を一撃され、絶命していたらしい。このさい
その方法よりも、犯人が市井たちのいた部屋よりトイレ側へは行けなかったという方が重要だ。
中澤の部屋にいた飯田を呼んでから、いったん安倍の部屋も調べてみた。
床に広がっていた液体は変色して表面が凝固していた。上から踏んだ跡などは無く、通路の床に
も安倍を発見したときに矢口がつけたものとおぼしき足跡が残っていただけだった。部屋の中も
確認してみたが、安倍の体が横たえられているだけで、入った形跡も、もちろん出た形跡も無い。
つまり、矢口を殺害した犯人は、廊下からやってきて再び廊下へ戻っていった、ということにな
る。
「それは分かったけどさ〜、紗耶香ぁ。この向こうにいるんじゃ、カオリたちヤバくない?」
「なに言ってんの、この向こうにいるから大丈夫なんじゃない。いい? 犯人があたしたちが一
緒にいるときに出てきたこと無いんだよ? まあ、どんな理由があるのかは分かんないけどさ。
で、たぶん犯人はこの向こう、廊下にはいないと思うんだ。いるとすれば廊下の先、鍵のかかっ
たドアの向こう側だと思うんだよ」
と言うと市井はあっさりとドアを開く。三人が同時に「あっ」という驚きの表情になった。
「ほらね?」
廊下に出て左右を確認してみたが、それらしい姿は無かった。予想通りだ。
市井を先頭に、後ろ手に手を繋いで後藤、飯田、保田とつづいて廊下を進んでいく。それは安全
地帯を広げていくための、大事な一歩のように感じられた。
道が左に折れる。その瞬間はさすがに緊張していたがそれも杞憂に終わり、市井たちは閉じられ
たドアの前にいた。
「ホントにこっち側も鍵、いるんだね」
保田がめずらしそうに、そのディスクシリンダー錠をジロジロ見ている。すると唐突に、ガンッ
とドアを足蹴にした。
「ッテテ。開かない、か」
「ちょっ圭ちゃん。なに蹴ってんだよ。足、悪いんじゃないの?」
「うん? ああ、逆の方だよ。痛めてるのは」
と言うと、また軽く二、三度ドアを蹴る。そういえば、最初三人でここに来たとき、飯田も同じ
ようなことをしていた。最後には体ごとぶつかっていこうとするのを、後藤とふたりで何とか止
めたのだが、またこういう光景を見ると極限状態であることを再確認させられる。
「で紗耶香ぁ。ここに来て何するの? 閉まってるじゃん」
「何? って言われると、まあ、何にもすることないんだけどさ。みんな冷静に、ちゃんと落ち
着いてみよ? ほら、整理するって言うかさ」
市井はそう言うと、ドアを背にして腰を下ろした。
■ 市井紗耶香 4
今までの経緯を整理することで、みんなが落ち着いてくれるとは正直思えない。とくに後藤には
逆効果だ。しかしそれ以上に、市井は誰かに話しを聞いてもらうことで、自分の中で何らかの新
しい展開を見せてくれるような、そんな期待感を抑えられなかった。
まずはどこから話そう。はじまりからと言うなら、市井たちがバラバラに呼ばれたところからだ
ろうか?
「それは裕ちゃんが言ってたじゃん。なるべく「同じ時間」に集めるためだって、だからカオリた
ちみんな閉じ込められたんでしょ?」
そう、そのとおりだ。市井たちが部屋に全員集まったそのとき、犯人はこのドアを閉じると同時
に「こちら側」に入ってきた。これは中澤の考えで正解のように思われた。
次に起こったのは、安倍への犯行だ。おそらく死因となったのは、多量の出血によるショック症
状だろう。あれだけの血液が一気に出たのだ。中澤は結局その詳細を語らなかったが、大体予測
はできた。
そして、矢口による「保田の犯行の不可能」と飯田による「犯人の存在の不可能」という二点、これ
は未だ消化不良のままだった。
「…あたし、矢口のあとに出て、そんな殺してなんかないよ。絶対っ」
それは分かっているし、そう信じたい。なにより飯田の説もそれを前提にしているのだ。
「あのとき、あたしもトイレに行きたくなってさ。部屋を出たんだよ。みんなが出たちょっとあ
とだったかな、なっちに「トイレ行ってくるよ」って言って」
そのとき安倍の部屋での位置はどうだったのだろう? もしドアの近くにいたとしたら、犯行の
短縮になるのではないか?
「なっち? なっちはみんながいたときとかわんないよ。イスに座って雑誌読んでた。あたしの
話しも聞いてないって感じでさ」
「そのあと、圭ちゃんはトイレに行ったんだよね?」
「う、うん、そうだよ。時間? 時間はホント30秒か、1分もかかんなかったと思う。音も、気
にはならなかったけど」
「30秒か1分ぐらい…。紗耶香ぁ、やっぱり無理だよぉ。なんかこれじゃあ、返り血? 浴びな
いで、なっちを刺しちゃう方法考えたほうが、ずっと楽だよね?」
「ちょ、圭織…?」
「じょーだん、冗談だって。」
そのこともたしかに問題ではあるが、市井が疑問に感じた点はそこではない。
それは、どうやって犯人が“部屋の中に安倍がひとりでいること”を知ることが出来たのか?
ということだ。
これはあくまで結果だ。もしかしたら全員を殺すつもりで部屋に入り、そこにたまたま安倍がひ
とりだっただけなのかもしれない。しかしそれならば、メンバー全員をこのビルに閉じ込めてい
るのだから、そのまま部屋で待ち、帰ってきたところを狙えばよいのではないか?
それこそ中澤に用いた毒物を使えば、さらに犯行は「楽」になる。
「持ってる毒の量が少ししかなかったとか?」
犯人に他の目的がまだあったのか、それとも本当に少量しかなかったのか。それは完全に憶測の
域を出ない。
そういえば、犯人はこの10室の部屋のどれかに隠れていたのだろうか? だとすれば、かなり危
険をおかしていたことになる。
「それってさぁ、なんかヘンだよね。紗耶香の考え方じゃさ、犯人ってカオリたちが一緒にいる
ときは出てきちゃダメ、みたいになってない?」
そのことに固執しているつもりはなかったが、犯人を不特定多数の「誰か」にしてしまいたくはな
かった。なぜなら ――
「キャシーさんが、一番、ぅぐ、怪しいよ」
「…後藤」
「だってそうでしょ? ぅん、みんなキャシーさんに呼ばれた、んだよ?」
そう、マネージャーのことが市井の中で宙ぶらりんのままになっていたのだ。彼女本人か、彼女
を指示できる人物。つまり事務所関係者だとすれば、顔を見せないということも納得できる。
「そうかなぁ…? 今マネージャーさんが来たら、カオリ「助かった」って思っちゃうけどな」
「この鍵をあけて?」
「あ、そっ…か」
いくら事務所関係者と限定してみても、まだ範囲が広すぎる。
事務所関係者かそうでない第三者か、動機めいたものが未だ見えてこない今の段階では、その判
断は難しかった。
「その次は裕ちゃんだよね?」
犯人は中澤を殺したあの針を、いつセットしたのか? これは安倍殺害以前と考えていいだろう。
この階に侵入した直後にセットしたのかもしれないし、それより以前にすでに取り付けられてい
たのかもしれない。ただし、安倍への犯行後は、市井と矢口がドアの前にいたため完全に不可能
だ。
「でもさ、あのとき裕ちゃんがあたしにさ、この部屋だって言わなかったら、あんなことにはな
ってなかったんだよね?」
たしかにおかしい。どうしてあの部屋に取り付けられいたのだろう?
「だね〜。カオリもまだ2部屋しか見てないから、他の部屋が全部って言いきれないんだけど、
たぶん無いんじゃないなぁ?」
あの針は言ってみれば、一回きりの切り札だ。さすがに市井たちも同じ手にかからぬよう、今も
注意は払っている。そういう意味で、ひとつしかセットしていなかった、ということには納得が
できる。
(あれ…?、ちょっと待って)
本当に中澤は、その毒針によって殺されたのだろうか? そう、なぜ今までそのことを疑問に感
じなかったのだろう。
中澤の症状はたしかになんらかの毒物によるものだった。そして飯田によってドアノブから針が
見つけ出された。市井は何も考えずこのふたつを結びつけていたが、本当にそうなのだろうか?
「ドアのところで、圭織と紗耶香がさわいでたよね。あのあと、矢口が落ち着いたから見てみた
んだけど。裕ちゃんの、この、右手の中指のところにさ、血のあとがちょっと残ってた」
「ほら、カオリの言ったとおりじゃん。あれ以外に裕ちゃんが、特別やったことなんて無かった
もん」
となると、やはりなぜあの部屋が選ばれたのかが問題になる。
「あたしたちがいた部屋に一番近かったから、でいいのかな?」
「う〜ん、他にはちょっと浮かばないよ。でもさー、隣りの部屋だって近いって言えば近いよね」
安倍の殺害方法、毒針がなぜあの部屋に取りつけられたのか。結局、疑問は未だ疑問のまま、そ
のディテールを少し細かくしたにすぎなかった。
■ 市井紗耶香 5
「次は矢口のことなんだけど。圭織、話してくれる?」
市井のその声に飯田はこともなげに、
「頭の後ろ、ここ、ここね? ここをガーンって殴られたんじゃないかな。血がすごく出てたし、
もう心臓も動いてなかった」
「え? 「かな」って、しっかり確認したんじゃなかったの?」
「だって、やじゃない?」
市井と保田が、「あきれた」とため息をつく。まだ死亡を確認してくれただけ、よしとしておくべ
きなのかもしれない。
「あ、そうだ、カオリの推理も聞いてみてよ。いくよ、じゃあみんな持ってるもの全部出して」
(え…?)
やはり飯田は保田への疑いを、まだ晴らしていないのかもしれない。いったんはそう考えたのだ
が、しかしこれもひとつの可能性として見てみたくもあった。
市井はけさがけに小さめのバッグをひとつ、後藤もそれとサイズ自体はさほど変わらないバッグ
を下げている。飯田と保田はそれより大き目のバッグを手にしていた。その他にも各人持ってき
た物はあったのだが、すべて安倍の部屋に置いてきたままだった。
座っている四人の真ん中に、飯田がバックの中身を床に広げる。
携帯電話、手帳、化粧道具、500mlペットボトル、―― これまでの犯行と繋がるような物は何
も無いように思われた。
「カオリはこれ以外は、この、…ガムと飴、それだけだよ。じゃあ次、紗耶香は?」
市井も中身を広げたが、飯田と同じ程度の物しか入っていなかった。
「他には何も無いよね? じゃあ後藤」
後藤もそれに従う、中身は同じで駄菓子類が少し入っていただけだった。
「最後は圭ちゃんだね。ほら、見せてみてよ」
飯田はいつもそうするように、アゴを少し引いた上目遣いで保田を見ている。たしかに、これは
矢口のことだ。
矢口と中澤の部屋には何も無かった。安倍の部屋にも入った形跡は無い。つまり、矢口を殺害し
た犯人は、“何らかの凶器”を未だ所持している可能性はかなり高い。あのときもし保田が犯行
を行ったとしたら?
凶器はこのバッグの中、ということになる。
「…い、いいよ。もちろん」
保田はそう言うと、バッグをいきなり逆さにした。中身がバラバラと音を立てて落ちる。
携帯電話、手帳、化粧道具、500mlペットボトル、他とかわりない。目立ったものといえばデジタ
ルカメラ、足のためなのか薬用のシップがあった程度だろう。
「ほら、何にも入ってないでしょ?」
「う〜ん」とうなっている飯田を横目に市井は、
(これじゃ、ホントは足りないんだよね)
重要なアイテムは凶器ではない。このビルの鍵だ。それさえあれば保田でも、この廊下を往復す
ることで、鍵のかかったドアの向こう側に置いておいた凶器を使い、それをもう一度隠しておく
ことも出来たはずだ。
(いかんいかん)
すぐに考えを修正する。
頭から保田を信頼しているというわけでは、もちろん無い。ただ今のところ、矢口の言っていた
ことと、仲間を信じていたいという気持ちがあれば、その嫌疑は晴らせるような気がしていた。
■ 市井紗耶香 6
「ちょっとカオリさぁ、やっぱり行ってくるよ」
しばらく何をするでもなく15分ほど時間が経とうとしたころだろうか、飯田が急に立ち上がって
そう言った。
「えっ? なに圭織。行くってどこによ」
市井の問いに、飯田は「これこれ」と自らの両手にある、例の紙の束を主張した。
「だって、さっき言ったじゃん。向こうには誰もいないんだよ?」
「紗耶香ぁ、それってさ。犯人がひとりだけだったら、でしょ? 他にもいるんだっら、向こう
にいるかもしれないしさぁ」
(それは、…無いとは言いきれないけど)
犯人が、マネージャーと誰か、あるいはさらに複数人いるという可能性はたしかにある。しかし
それならなぜ、明らかに個人の趣向が反映されたような、ひとりづつ連続して、という犯行方法
がとられているのだろうか。
「圭織待って、ここにいたほうがいいよ。ひとりで行かないで」
「ここにいたってかわらないと思うけどなぁ。だって犯人、そこから入ってくるんでしょ?
だったらどこで会っても一緒だよ」
ここにいるということは、そういう意味ではない。このドアだけは“防音されていない”のだ。
部屋の中のドアはすべて防音加工が施されており、たとえ耳をつけても外はもちろん内側からで
も、犯人の足音は聞くことはできない。
突然目の前に現れるのと、事前に察知しているのでは雲泥の差だ。
通路のドアは、内側からすれば引き戸になる。それでは犯人に先手を取られる危険性があった。
「それに、誰もいないって言うんだったら、安心じゃん? まあ、とにかく行ってくるよ」
とだけ残して、飯田は振り返りもせずに歩き出していた。
「ちょ圭織っ!」
その声に振り向いた飯田は、見たこともないほど真剣な顔つきで、けれど優しい声で言った。
「カオリにとってはね。やっぱりさ、なっちも裕ちゃんもいない「娘。」は、「娘。」じゃないんだ
よ。…ごめんね」
足早に行く飯田を追おうと、市井が立ち上がる。しかし今飯田を追って背後に隙を作るのは、何
より危険な行為だ。
もしものとき、ふたりで対処できるのだろうか? 三人で行くべきではないのか? このまま自
分ひとりで行って、後藤は混乱しないだろうか?
様々な考えが頭をめぐる。
「圭ちゃん、後藤とここに残っといてくれる? 後藤も圭ちゃんの言うこと聞くんだよ。それと、
…気をつけるんだからねっ!」
それが市井の出した答えだった。
廊下の先、飯田はドアを開けようとノブに左手をかけていた。それを回転させて左足を一歩通路
に出す。体が半身、ドア枠に隠れて消えた。瞬間、ビクッと全身が大きく弾けて、その動きを止
める。
そのままゆっくりとあとずさる。こちらに向けられた顔はまだ、いつもの困惑したような表情の
ままだった。
その胸に、垂直に立った矢柄とその先の矢羽が見えた。
市井は曲がり角の壁に手をついたまま動けなかった。
■ 市井紗耶香 7
「圭織っ! ねぇ圭織っ!」
保田がぐったりとした飯田の体を何度もゆする。口内に溜まった赤い液体が、ダラダラとこぼれ
落ちた。
飯田の左胸、驚異的な正確さでその心臓の位置を、ボーガン用と思われる短めの矢が貫いていた。
市井は何もできなかったのだ。
追ってやって来た保田に声をかけられるまで、曲がり角を動くことができなかった。倒れこんだ
飯田の口がパクパクと動き、それが完全に止まるまで、動けなかったのだ。
(なにが、「チャンス」だっ!)
(なにが、「犯人は向こう側にはいない」だっ!)
(あたしのせいで圭織が死んだ!)
(あたしが圭織を殺したのと同じゃないかっ!)
叫び出したいという衝動が市井の頭の中を埋め尽くす。他人に無責任に自分の憶測を押しつけた、
その結果がこれだ。
行き場を失った感情を抑えきれない。後藤に隠す間もなく、市井は吐いた。さきほど口にした菓
子類から朝食べてきたコーンフレークまで、胃にある大概の物を吐き出した。
涙がこぼれ落ちる。しかしそれは、市井が期待していたような心理的なものではなく、あくまで
生理的な、反応としての涙だった。
「ちょっと、紗耶香? 紗耶香! 後藤、紗耶香を見てあげ ――」
後藤も、もう限界だった。目の前でふたり人が死んでいるのだから、当然といえば当然だが。他
にも理由があることを、市井は後藤から聞いていた。
後藤の焦点のずれた瞳が、フワフワと宙を泳いでいる。
「…ぁやか、紗耶香、紗耶香ぁ。あたしもう、やだよぉ」
突然、腕を引張られる。おぼろげな視界で見上げた先には、保田の泣き崩した顔があった。
「後藤も…」
そう言って、保田はふたりの手を取ると強引に引いてドアを抜け、ドアの並ぶ通路に出た。
(そっちは、危ないよ。圭ちゃん…)
飯田は正面から矢を受けているのだから、この10の部屋のどれか、あるいはトイレに犯人はいる。
下手に出て行くのは自殺行為だ。
しかしそれを知ってか知らずか保田は、四人がもといた部屋まで来るとそのドアを開いた。パラ
リと飯田がセットしていた紙が落ちる。
誰もいない部屋にふたりを押し込んで、保田はドアの鍵を閉めた。
「最初から、こうしとけば良かったんだ」
(これじゃ、犯人の足音も聞こえない。犯人は、あのドアの鍵を閉めれたんだよ? このドアも
開けられるに決まってるよ…)
市井は壁にもたれかかったまま、消えそうになる意識を何とかつなぎとめようとしていた。嘔吐
しただけでこんな症状がおきるのだろうか?
かすむ目で後藤を確認する。
ぐったりして動かない。「まさか」と腕をのばしたところで意識は完全にとぎれ、カクンと全身が
力を失って、その場に倒れ込んだ。
(…後藤)
■ 市井紗耶香 8
壊れた蛍光燈のように、明滅を繰り返している。
背中の冷えた感覚であお向けに寝ていることが確認できた。あまり時間は経っていなのだろうか?
強くまばたきをすると、ピントのぼけたままだった視界がその世界を取り戻し、見覚えのある空
調装置が見えた。あの部屋の中なのだ。
体は ―― 動く。両の手のひらを開いて、目の前に持ってくる。ひらひらと裏表にしてみた。
異常は無い。体も拘束などはされていない。
そこまでゆっくりと考えて、市井はハッと上体を起こした。
(後 ―― とう?)
コーディネートを無視した、あのシューズが最初に目に入った。
「圭ちゃんっ!」
とっさに部屋を見回す。後藤の姿はそこには無い。一周して戻った視線の先には、胸元を朱に染
めた、保田の体が横たわっていた。
駆け寄って腕を取った。脈の取り方ぐらいは心得ている。しかしそこには期待した律動は刻まれ
てはおらず、口元からひとすじ赤い線を引いた、保田の蒼白の顔が宙に向けられていた。
ぽたり、と、手の甲に微弱な触感があった。
(あ、…泣いてるんだ、あたし)
ほほを伝い次々と落ちる涙は、予想していたよりもずっとあたたかかった。
こんなかたちでしか、完全に保田を信用することができなかった自分がいやになる。なにより、
守れなかった自分が、守れる自信を持っていた自分がいやになった。
もはや、自分のできることはかぎられている。後藤を守ること。今はそれしか思いつかない。
後藤が犯人であることはありえない。後藤とはずっと一緒にいたのだ。犯人の共犯者という可能
性すら、市井には考えられなかった。
今日起こったすべての犯行に、後藤はまったく関係していないのだ。安倍への犯行時は市井とふ
たりで飯田をなだめていた。中澤が倒れたときも、市井の横で震えていた。矢口のときもそうだ。
唯一離れていた飯田が狙撃されたときも、保田のあとにフラフラとやって来た。
(あたしは、ずっと後藤といっしょにいたんだから!)
市井は勢いよく立ち上がった。グラリと一瞬平衡感覚を失ったが、そこは踏ん張って、
(後藤を、…助ける)
ドアを開け、通路に出た。
方法を考えている余裕はない。ようは手当たりしだいだ。市井は目の前のドアから開けて、蛍光
燈のスイッチを入れていく。
中澤と矢口、飯田、安倍。動かなくなったメンバーを視線は通りすぎる。
(後藤!後藤!後藤!)
いったん流れ出した涙は、なかなか止まってくれなかった。視界がぼやける。
(今は、邪魔なんだよっ!)
市井は駆け抜けた。
そして最後に残ったのは、女子用トイレの横の部屋だった。市井はゆっくりとそのドアノブを回
転させる。
ズッという抵抗感。ドアを一気に開け、スイッチを入れる。
そこに立っていたのは、後藤真希、ただひとりだった。
― カーテンコール ―
■ 中澤裕子 12
矢口を支えたときにひねったのかな、手首がなんだか痛い。
何回かふるふると右手を振りながら、あたしはその部屋に入った。あとから入ってきた圭坊がド
アを閉める。
(…やっぱりか)
足元まで来ている赤い液体。あたしは一度、圭坊と顔を見合わせた。
その池の中央でうずくまっているなっち。あたしはびちゃびちゃと音を立てながら、そこによっ
て行った。
「ゆ、裕ちゃん」
圭坊の言葉はいっさい無視して、なっちの顔を覗き込む。
「はぁ〜」とひとつ、大きめのため息をついた。
それからしゃがみ込むと、あたしはのばした手をなっちの鼻へ。そして指先できゅっとつまむ。
10…、20…、30…、よんじゅ ――
「ぷは〜っ、なんだよ裕ちゃん、殺す気!」
案の定、なっちがこらえきれなくなって、顔を上げる。その顔は真っ赤になっていて、けっこう
笑えた。
「は〜い、ご苦労さん」
大体の見当はついていたわけ。
最初から話すと…。え? あたしたちがへんな呼ばれ方をされたところ? 違う違う。その前、
そう、このビル。
都内で何の企業も入っていないビル。そんなのあるわけない。じゃあこのビルは何なのか?
企業が“入っていない”んじゃなくて、“入る前”の状態なんじゃないのか。それがあたしの最
初の考えだった。
では、なぜまだ入ってないのか、これは地下に来て簡単に分かった。
ヒントは防音設計されたドアとせますぎる通路。そう、“入ってない”んじゃない、“入れなか
った”んだ。
少し前のワイドショーで、カラオBOXを建てて、入り口がせまくてカラオケ器材が入らなかっ
た。というオバカな話しを見たんだけど、まさにそれなんじゃないかって思った。
じゃあ、これだけの防音された部屋を使う企業ってなんだろう。ワイドショーのようなカラオケ
BOX? それも考えたんだけど、ちょっとピンとこなかった。
そのあと、部屋の中に入ったらほとんど何も無い。「ああ、やっぱりね」って。
メンバーをずらして呼んだ。その理由は、今になっては簡単に分かるんだけど、そのときはちょ
っと気がつかなかった。
でもさ、後藤だっけ? キャシーさんが犯人だって言ったの。あれでなんとなく分かった。
急なスケジュール変更。その変更する前は? あたしたちは“オフ”が入っていた。
オフの日にみんなで集まろうと言っても、それぞれプライベートがあるんだから、全員が集まる
とはかぎらない。だから、マネージャーにたのんで、「仕事」にしてもらったとしたら?
呼んだのはメンバーの誰かで、ここは事務所の持ち物ってことにならないかな。アップフロント
ミュージックスクール10月生募集って、そういえば言ってたし、その建物なんじゃないのかな。
と、ここまで考えたんだけど、正直あたしにはいまひとつ確証がなかった。だから全部の部屋を
見て回りたかったし、トイレも見ておきたかった。
事務所が娘。を売っちゃったとか、そんな最悪の可能性だってまだ十分残ってたから。
けどその確証をあっさりくれたのは、他でもない、この部屋。この赤い液体だった。
「これって、「血のり」ってやつやろ?」
あたしは振り返って、「あいたー」という表情をしている圭坊に確認する。
「裕ちゃん、なんでわかったのさ」
逆に聞いてくる圭坊に、
「なんで、って“匂い”に決まってるやん。こんだけの血の量やったら、息できひんくらいにな
ってなおかしいって」
「はぁ〜」と大きなため息をついてから、
「ほら、言ったじゃんなっち。量多すぎだって。こんなに出るわけないじゃん。水も無くなっち
ゃうしさ、くんでくるのあたしなんだからね」
なっちはしゅんとして、その場に立ち上がる。それで圭坊がトイレに来たわけか。
「だってぇ、多いほうがインパクトあるって思ったんだよ。もう〜、そんなに言わなくてもいい
じゃん」
「あ〜、あとそれから。なっち顔が健康的過ぎ。こんだけ血出したら、普通そんな赤い顔してへ
んて」
「もう〜」
とふくれたままのなっちと圭坊。あたしは駄目押しにと続ける。
「ここへ別々に呼んだのは、たしかに同じ時間に呼ぶためやとは思う。けど、それだけやないん
やろ? そう、七人全員がこの部屋にいながら、このビルに施錠できる。つまり、外にはキャシー
さんか誰かが、鍵を持って待ってるんやろ?」
あたしは圭坊の方を見る。と、唇をとがらせて、
「石川が、外で待ってる。もうカギかけたんじゃないかな? 10時って言っといたから」
あたしはニッと笑ってから、
「そしたら、話してもらおか? なんでこんな手の込んだことしたんか」
◇
「最初はね、後藤が言ってきたんだけどさ」
圭坊が話しはじめる。なっちもこのことは初耳だったのか、珍しく興味を引かれているみたい。
「紗耶香、いるでしょ? あの子さ、卒業するって言ったとき、なんか全部ひとりで決めちゃっ
てて。なんか、さびしいっていうか、くやしいっていうか。そんな話し、してたんだ」
たしかに、メンバーがそのことを聞いたのは、紗耶香が完全に決心を固めたあとのことだった。
あたしも「一言ぐらい相談しろよな」とは思っていたんだけど。
「そしたら後藤が、こんなのどう? って今回のこと話しはじめたんだ」
「てことは、後藤が考えたわけ? こんだけのこと」
「え? あ、それはあたしたちふたりでそのあと決めたんだよ。後藤が言ったのは、「市井ちゃ
んをビックリさせてやろう」って感じで」
それから圭坊は、ざっとことの経緯を話してくれた。要するに、この大掛かりな計画は、紗耶香
ひとりを驚かせるためのものだったらしい。
あたしはため息まじりに、
「〜ぁ、そういうことは、プッチモニの三人だけでしてほしいわ。あたしの貴重なオフを…」
「だって、ほら。最近、メンバーの繋がりが薄くなってるっていうか、みんなけっこう自分勝手
やっちゃってるし。こういう緊張感が、なんかの刺激になればな、…と、あたしは」
「まあ、そうなればええんやけど…」
とりあえず、あたしはこの話しにのることにしたのだ。
■ 矢口真里 7
やだやだやだやだ! 裕ちゃん死んじゃヤダよぅ。
涙、止まらない。裕ちゃんが死んじゃうなんて考えたこと無かった。こんなに子供みたいに抱き
ついたのも、これが初めて。
初めてが最後になっちゃうなんて、…ヤダよ。
あたしは裕ちゃんの胸で泣いてる。横にいるのは、たぶん圭ちゃん。紗耶香たちは出て行っちゃ
った。
それから、裕ちゃんは…、やだやだやだやだ、死んじゃヤダよぅ。
「裕ちゃん、いい加減にしなよ…」
え? 圭ちゃんなに言ってんの。裕ちゃんは ――
「いや、これはこれで、けっこう…」
あれっ? あたしの目の前で裕ちゃんの口が動いた。今動いた。
「裕ちゃんて、…けっこう趣味悪いよね」
◇
「ちょっと矢口〜。なぁ、機嫌直してて」
裕ちゃんが生きてたのはよかった。それは、まあ、よかった。よかったんだけど、やっぱりよく
ない。
「なんで、人をだますみたいなこと、するんだよ」
「えっと、矢口。それはね、裕ちゃんが言い出したんじゃなくて、あたしと後藤がさ」
圭ちゃんがフォローを入れる。それもなんだか腹立たしい。
「誰が言い出したとか、そういうことじゃないの。裕ちゃんはリーダーなんだよ? メンバーを
だましていいわけないでしょ?」
うん、そうだよ。リーダーのくせに、あたしをだますなんて。
「あ、いや、これを期にな。こう、団結がよりいっそう固まるかな、と」
「固まんないよ! もうなんでだますかなぁ〜」
そう、裕ちゃんのくせに、あたしをだますなんて。…あれ? それは違うか。
「そやったら、なに? もう、ここでやめにする?」
「―― え? そんなわけ…ないじゃん」
■ 飯田圭織 6
そのドアを開けたとき、カオリは冷静だった。だって、分かっちゃったんだもん。
「こら〜、裕ちゃん! 矢口〜!」
矢口の上からズベ〜っと、体を乗っけてやった。
「う〜う〜…死ぬぅ」
サンドイッチされた矢口が一番苦しそう。分かったならゆるしてやるか。
カオリがなんで分かっちゃったか、それは簡単、気がついたんだよ。なんで毒針があの部屋につ
けられたのか。
最初はこんなこと考えてたんだよね。
裕ちゃんと圭ちゃんでなっちを殺しちゃって、それで圭ちゃんが裕ちゃんを毒針で…。
そこで、アレ?って思ったの。なっちって死んじゃったのかなって。
だってそうでしょ? 裕ちゃんと圭ちゃん、あと矢口と紗耶香。その四人が「死んだ」って言った
ら、なっちは死んだことになるのかな、カオリは見てないのに、そう決まっちゃうのかな、って。
でさ、紙をセットするとき確かめてみたんだよ。部屋の入り口から中がそんなに見えるのか。
見えなかった。矢口と紗耶香はちゃんと見えてなかったんじゃないのかな? じゃあ、裕ちゃん
と圭ちゃんが残るでしょ? その裕ちゃんも死んじゃった。
って言ったのが、圭ちゃんだったんだよね。
あの部屋を選んだのは裕ちゃん。あのドアを閉じたのも裕ちゃん。
じゃあ、あの針を“つけれた”のも裕ちゃんってことにならないかな〜。
そこまで考えたら、もう楽勝。裕ちゃんと圭ちゃんとなっち。この三人が嘘ついてたんだ。だれ
も死んでなんかいないって、分かっちゃったんだ。
は〜、でもさぁ。カオリがせっかく考えた「推理」ってなんだったんだろうね〜? なんかすっご
く損した気分だよ
◇
「裕ちゃんこれさぁ、髪に色残んないよね?」
「さぁ? わからんわ」
死に顔メイクのふたりは、なんだか楽しそうにおしゃべりしてる。
「カオリも、それしたい。そのメイク」
「あ〜わかるわ。カオリ泣いたやろ? 今ノーメイク状態やもん」
う〜。
◇
「カオリ、毒リンゴで死にたい」
裕ちゃんたちからやっと話しが聞けたよ。くやしいからワガママ言ってやる。
「毒リンゴて、そんなん一発でばれるで」
「そうだよ。矢口だって、これしかないって言われたから、こんな、髪赤くなっちゃってるんだ
よ?」
「だって、裕ちゃんだってさ。ほら、針って小道具つかってるし〜。あ、そうだ、あのノリみた
いのってさ、やっぱり ――」
「そ、ボンド。けっこう苦労してんで、後ろ手でくっつけるの」
やっぱりね〜。
◇
「小道具うんぬんの問題やないやろ? 毒リンゴは。まあ、小道具は圭坊に聞いてみるしかないん
やけど」
「圭ちゃんが持ってるの?」
「ああ、なんか映画のときの小道具さんに頼んだって言ってたけど。ほら、この血のり。けっこ
うすごいんやで〜」
裕ちゃんは、明らかにスルメに見える切れ端を、口の中に入れる。もごもごしてから、ベッと吐
き出すと、それはさっき見たのと同じ、血の塊に見えた。
「これ、溶かす水の分量で、こんなふうになるねんて」
「矢口のもそうだよ」
今度は矢口が、真っ赤になったエビアンのペットボトルを見せてくれる。
「それは、…使ってみたいかも」
「やろ? これにしときって」
なんかの勧誘されてるみたいな気がする…。やっぱりダメ。
「小道具使いたい!」
■ 保田圭 1
「いっ、テテ」
何も敷いてない床の上に寝てるのもけっこうつらいもんなんだ。あたしはそんなことを考えなが
ら、上体を起こした。
固まった血のりがパリパリと音を立てる。ホントに良く出来てる。
部屋を見回して、紗耶香が出て行ったことを確認した。
(ちょっと酷いことしすぎたかな?)
紗耶香がもどしてる姿を見たときは、さすがに心がチクチク痛んだ。
両脇にはさんでいた丸めたシップを取る。古い手品のようなやりかただったけど、うまくいった
みたい。
腕時計で時間を確認する。といってもそれは紗耶香しだいで正確にはわからないんだけど、とに
かく部屋を出てみることにした。
廊下と通路をつなぐドアを二、三度たたくと、圭織がにゅっとドアの隙間から顔をのぞかせる。
「紗耶香たち、もう行ったかな?」
「圭織、そんなにはやく開けちゃだめだって」
「わかってる。でもさ、一回開けたんだよね、紗耶香。あ、あと、それとさ。見てくれた?
カオリと矢口の連携プレー。あのドアを開けた一瞬で、矢口から、この、矢を受け取る。へへ〜
すごかったでしょ?」
なんだか興奮気味の飯田を連れて、今度はなっちの部屋のドアを開ける。
「なっち〜、起きてる〜」
おっきなため息。やっぱり寝てた。さすがに血のりの真ん中はいやなのか、紗耶香がしていたよ
うに、イスを三つくっつけてその上で寝ている。
「ほれ、起きて起きて。時間ですよ〜」
「あれ? 圭ちゃん。さっきさ〜、急に紗耶香が入ってきたんだよね〜。驚いたよ〜」
「あ、そうなんだ」
ということは、まだ寝ついたばっかりだったのね。
次は裕ちゃんと矢口。ドアを開ける。
またおっきなため息。
「な〜にしてんの、ふたりとも」
「あ、や、これは、その。裕ちゃんがさ、さっき紗耶香たちがやってて、うらやましいって言う
からさぁ」
裕ちゃんと矢口は、紗耶香と後藤がしていたような膝枕状態で、どうしてなのか裕ちゃんが矢口
のヒザに頭をのせていた。それを矢口がそっと撫でている。
「なんか疲れてるみたいでさ、ちょっと寝ちゃってるんだよ」
矢口が申し訳なさそうに言うのが、なんだかおかしい。
「しょうがない、裕ちゃん、裕ちゃ〜ん」
矢口に起こされた裕ちゃんを入れた四人を連れて、あたしはとりあえず手当たりしだいにドアを
開けていった。
最後に残ったのは、女子用トイレの横の部屋。
「なあ、掛け声どうする? やっぱりアレかな、ほら「大成功〜」っていうの」
「あ〜、それでいいんじゃない?」
「じゃあそれで決定。いくよ〜」
『せ〜のっ』
■ 後藤真希 1
(あれ、どうして市井ちゃんがそこに立って
るの?そこから入ってくるのは犯人さんだけ
なんだよ?もうここの中にはあたしと市井ち
ゃんしかいないの?圭ちゃんは?じゃあ市井
ちゃんが犯人?だったらいいな。あたし市井
ちゃんと最後まで一緒にいれたんだよね?)
「市井ちゃんが、犯人だったの?」
(あたし市井ちゃんとね、これからやりたい
こと、してみたいこと、いっぱいあった。一
緒にずっといたかった。ねぇそれじゃダメ?
それだけじゃダメなの?みんなと一緒じゃど
うしてダメなの?あたしと一緒じゃ夢見れな
い?夢、かなえられない?あたしが一緒だか
らダメなの?だったらあたし直すよ、頑張る
よ。だから一緒にいよぅ?ずっと、ずっと、
ずっと、いっしょに。ねぇ市井ちゃん覚えて
るかな、きっと忘れちゃってるよね。そう、
市井ちゃんにとってはあたしとのことなんて、
きっと全然重くないんだよね。すぐに忘れち
ゃうんだよね。でもあたしにとっては、全部
大切な、すっごく大切なことなんだよ?分か
る?どうしてそんな顔してるの?あたしのこ
と嫌いになった?あたしがこんなこと考えな
い子だと思ってた?ダメだよちゃんと見てて
くれなきゃ、あたしも辛いこと、苦しいこと、
全部見せてたわけじゃないんだよ。あたし言
ったよね?新メンバーが入ってきて、すっご
く不安だって。すっごく不安で、どうしてい
いかわかんないって。どうしてさ、あたしが
つらくって、不安なときにいなくなっちゃう
の?卒業しますなんて平気で言えるの?あた
しがどんな気持ちになるか考えたことある?
あたしのことちゃんと考えてくれたことある
?今まで一度でも、あたしのことで、心をい
っぱいにしてくれたことある?そんなこと…
「あたしを置いていく市井ちゃんなんか、死んじゃえばいいんだ」
…なかったよね)
■ 市井紗耶香 9
あたしの目の前に後藤がいる。
てっきり、犯人に羽交い締めにでもされて「助けて〜」とでも言ってくれるかと思っていたのに、
「なんで後藤がひとりでいるんだよっ! なんでそんなもん持ってるんだよっ!」
怒鳴っていた。
後藤を本気で怒鳴るなんて、たぶん初めてだと思う。ダンスでトチったときとか、そりゃあ怒る
けど。本気じゃない。
「なんで、…そんなの持ってるんだよ」
後藤は両手に大事そうにして、大ぶりのナイフをにぎっていた。
その血のついた刃先は、ピタリとあたしに向けられている。
(後藤がやったはずなんて無いっ! 後藤はずっとあたしといっしょにいたんだ。ずっとずっと、
いっしょにいたんだっ)
「市井ちゃんが、犯人だったの?」
心のまったくこもっていない、後藤の声。
(なに言ってんだよ、わかんないよ後藤。その血はなんなんだよ)
あたしは後藤に一歩ずつ近づいていく。不安とか、恐怖とか、そういう気持ちよりも、「どうして」
という疑問符が頭の中をぐるぐると回っていた。
一歩進むと一歩下がる。そのおかしな行進は、後藤の背中が壁についたところで終わった。
「後藤? なんでナイフなんて持ってるの? どうして? その血は、なに?」
後藤はポツリとつぶやいた。
「あたしを置いていく市井ちゃんなんか、死んじゃえばいいんだ」
―― あ。
後藤が体ごとこちらにぶつかってくる。体力でも腕力でもあたしが後藤に勝てるところなんて無
い。抵抗すること自体、無駄なのかもしれない。
でもあたしは、迫ってくる後藤の両手をなんとか押え込もうとしていた。両手を後藤の両手の上
に合わせる。
ふたりの間でナイフがぶるぶるとその刃先を震えさせていた。
「後藤、落ち着いてっ! 落ち着いてよ!」
後藤の目をにらみつける。しかしそこには何も映ってはいなかった。
『あっ』
バランスを崩す。倒れ込むふたり。
ドラマで何回も見たシーン。それはたぶん、こんな終り方が一番多かったような気がした。
あたしの両手には、真っ赤でいやになるほどあたたかな血。
そして、ナイフ。
後藤のキャミソールの中央から、あふれてくるのは血。
そして、
「市井ちゃん、…痛いよぅ」
後藤の声。
あたしは何も考えれない。
後藤の瞳が曇り、ガックリとその体が落ちたとき、あたしは両手に握ったナイフを、のどに突き
立てた。
―― あたし、また泣いてた。
■ 保田圭 2
ドアを開けたとたん、全員の表情が強張った。何かが、…おかしい。
裕ちゃんがすぐにドアを閉じる。両肩で息をするその顔は、メイクを抜きにしても、極端に青ざ
めていた。
「圭坊…、だけ。ついておいで」
その声の絶望的とも思える響きに、矢口が泣きそうな顔をして裕ちゃんにすがろうとする。裕ち
ゃんはあっさりそれを拒絶するともう一度、
「圭坊、ついてきて」
その部屋に入ったとたん、鼻孔から肺へ侵入し胃を締め上げたそれは、間違いなく血の匂いだっ
た。淡色の部屋の床一面に広がった血液が、異様なまでの匂いを立ちのぼらせている。
「裕ちゃん…これ」
あたしのかたわらで、裕ちゃんは立ち尽くしたままだった。
メンバーの死。それを目の当たりにして、あたしたちはどうすることも出来ないでいた。
数秒あけて、裕ちゃんがあたしの声に反応を返した。視線がぶつかり合う。
あたしはどんな顔をしていただろう。恐怖。あるいはまだそれも表情にできていない、不安定な
ものだっただろうか。
「…どうしよう」
「死んでるか、…確認してみるしかないやろ」
裕ちゃんは抑揚無くそう言うと、無造作にその血液の出所へびちゃびちゃと足音を立てながら近
づいていく。
あたしは何度かもどしそうになりながら、裕ちゃんの背中を見ていた。
まだどんな感情も沸き上がってはこない。ただ裕ちゃんが機械的に手首を調べたり、首もとに手
をやったりしているその姿を、視界にとらえているだけだった。
背中とうなじを支えていったんそれを横に寝かせてから、裕ちゃんがこちらに振り返る。その両
手は真っ赤に染められていた。
「…裕ちゃん」
ゆっくりとうつむいていた顔を上げる。手でぬぐったのであろう、所々に血の跡が残っていた。
「あかん、…あかんわ。…死んでる」
どうしてだろう。裕ちゃんのその声を、ずいぶん遠くのもののように感じていた。
そのときあたしの耳に聞こえていたのは、心臓が悲鳴を上げるようにしてはやく打つ、その音だ
けだった。
「裕ちゃんっ! こっち! まだ生きてるっ! 生きてるよ!」
あたしは思わずさけんでいた。
■ すこしはやめのエピローグ
夕暮れどき。瀟洒なマンションの前に止まるタクシー。
後部ドアがバクッと開き、丁寧に、けれどいそがしくお辞儀をして、おつりをジーパンのポケッ
トに押し込みながら降りる。
数段しかない階段を軽やかに駆け上がると、オートロックを解除する。このマンションの一室は、
彼女の物なのだ。
下りてくるエレベーターをわずらわしそうに待っている。
事務所にもずいぶんと無理を言って、このマンションを買った。仕事もいそがしくなるかもしれ
ない。
入れ違いになった主婦に頭を下げる。機嫌が良かった。
結局市井紗耶香の家族は、彼女を引き取ることを拒否した。使い物にならなくなったとでも言う
ように。
どんどん上がって行くデジタル表示を眺めている。だから自分が引き取った。これからふたりの
生活がはじまるのだ。
エレベータが止まる。最上階、とまではいかないが、満足はしている。なにより彼女がいるのだ
から。
目的のドアまで一気に駆け寄ると、鍵を開ける。両側に鍵穴のついたディスクシリンダータイプ。
なんだかなつかしい。
リビング。少し開いたカーテンの隙間から入った夕日が、ベッドに横たわる市井紗耶香と、彼女
を生かすための巨大な装置をオレンジに染めていた。
「ただいま」
市井の胸に顔をうずめる。喉元にできた大きな傷痕。
「ただいま、紗耶香」
それはほんのすこし、もしかしたら誰かの見た幻想だったのかもしれない。しかしたしかに市井
の唇は刻んでいた。
『けっきょく、みんなあやつられてたんだね。けいちゃん、あなたに』
■ 保田圭 3
あたしのしたことは、ほんのわずかなことにすぎない。
回し飲みしたペットボトルの中に睡眠薬を少し入れ、眠った後藤を部屋から移動させる。
そこに血のりをつけたナイフを置いておいた。ただそれだけだ。
当初の計画通りにことが進んだわけでは、もちろんない。
予定では最初に死体役を演じさせるのは、中澤のはずだった。中澤はずっとメンバー同士のつな
がりに不安を持っていた。そこをうまくつけばのってくると思った。
しかし、難関と思われた安倍が最初にあっさりところび、意外なほど「やりたい」と返してきたと
きには、正直驚いた。紗耶香との間になにか確執があったのかもしれないが、そんなことはどう
でもよかった。
矢口は「やられたらやりかえす」ほうだし、中澤の次にすればあっさりと同意してくれるだろう。
それは的中した。
飯田も、多少あつかいづらいところはあるが、それも許容範囲内に収まってくれた。
もちろん、あたしは後藤から「紗耶香を驚かせよう」なんて話しは聞いていないし、この計画を言
う必要もどこにもなかった。
あの子は本当に“最初から何も知らなかった”のだ。
そして、紗耶香は後藤のいる部屋へと入って行った。
そこからは、結局賭けだった。
もしかしたら、ふたりとも何事も起きなかったかもしれないし、あるいは紗耶香が死んでいたか
もしれない。
その確率は誰にもわからない。
だが、
あたしは勝ったのだ。
その賭けに勝ったのだ。
紗耶香は後藤を殺してくれた。
そして、自分の夢を自ら断ってくれた。
“あたしのために”
―― 了 ――
■ あとがきとしてのふたりの会話
ふぅ、とひと息ついて、目の前のテーブルにプリントアウトした用紙の束をバサリと置く。
それからあたしの方を見て、
「ヒトコトで言うと…」
ごくっとツバを飲んで、あたしも覚悟を決める。
「あっ、はい、ヒトコトで言ってください。お願いします」
というあたしのかなり真剣な言葉に、シリアスに決めすぎたとでも言うのか、相手はプッと吹き
出してから、
「まあ、前半が長すぎるよね。これじゃ飽きちゃうんじゃないかな、読んでる人は」
「そ、そうですか。んー、ですよね〜。長い、ですよね」
あたしは紙の束を手に取ると、パラパラとめくってみた。
「中澤裕子」とした、あたしとしては導入部にしたかった部分だけでも、11もある。それも結果
的に全然役に立っていない、ビルの説明がほとんどだ。
「あとさぁ、まあ言いたくはないんだけど。結構伏線死にまくってるよね。足首痛めてることと
か、紙の束セットすることとか」
「は、はひ…」
「そうだ、あれ気になったの。あの小道具。どっから持ってきたことになってんの? 鍵かかっ
たドアの外、っていうのは無理だよね?」
「あれはですね。いちおう、トイレの清掃用具入れの中にまとめて入っている、ってことで…」
「あ〜、そうなんだ」
ひゃ〜、あたしはすでにかなりの量の汗を手に握っていた。
まわりに見せる人がいないからって、この人に見せたのは間違いだったのかも…。
「ん〜、構成もね〜。なんで「カーテンコール」ってあとに、突然一人称になるわけ?」
「それは、その。我孫子武丸さんの「0の殺人」って知ってます?」
「うん」
ひとくちジュースで湿らせてから、
「その、小説の…。模倣っていうか、なんっていうか。とにかく、このマリオネットはぁ、それ
がしたかったんですよ。後半でいっきに話しを終わらせるっていうか…」
「なんだー、それじゃパクリじゃん」
「そう言われるとっ、…そうなんですけどね」
ちょっと考える仕種をして、あたしを上目遣いに見てから、
「てことはなに? この10部屋あるっていうのは…」
「…はい。「十角館」です。結局使い切れなかったんですけど」
一気に読んで疲れたのか、ぐっとのびをしてから、わかりやすい笑顔で、
「まあ、吉澤にしては良く書けてる方なんじゃないかな」
◇
「あとさぁ、なんか市井モテ過ぎだよね〜。こんなのどっから調べたわけ?」
「それは…、その…。保田さんに聞いたらぁ、インターネットではそれが常識になってるって」
「じゃあなに? この矢口とかのも?」
「はい、保田さんに聞いたらすっごく詳しく教えてくれて…」
なんか小説のネタないですか? と聞いたあたしに嬉々として話してくれた、保田さんを思い出
した。なんだウソだったのか。
「でもまあ、それが動機っちゃあ、動機になってるわけだし。でもなぁ、この市井のあつかいは
なぁ」
「…スイマセン」
あたしはうつむいて、ジュースをずずっと吸い込んだ。すると、
「ねえ、市井と後藤のこういうのってさ、かなりネットで蔓延してるのかなぁ?」
「じゃないんですか? 保田さんによると…、ですけど」
そこでふとあたしは、
「市井さんって、自分のこと「市井」って普段言うんですかね?」
「え? インタビューとかでキャラ出すために言ってたけど」
「じゃあ、なんでさっきから、自分のこと市井って言うんですか?」
◇
つまり、こういうこと。
あたしはモーニング娘。をネタに、小説を書いた。でも内容がヘンな方向にいっちゃって、ごっ
ちんが死んじゃったりして、他のメンバーに見せれなくなってた。
でもなんでか、たぶん保田さんがどうせ言ったんだろうけど、市井さんからヒマだから見せてよ
っていう連絡が入った。
卒業した市井さんなら見せても大丈夫かなぁ、って。オフの日に都合をつけて、ここで待ち合せ
たってわけ。
「後藤、元気でやってる?」
ふいの市井さんの質問に、あたしは最初なにをきかれてるのかちょっと迷った。
「ごっちんですか〜? え、あれ。会ってないんですか? 最近」
「ん? いんや、会うけどさ。そのときあたしが会ってる後藤は、モーニング娘。の後藤じゃな
いからね。仕事してる後藤をちょっと知りたいな〜って思ってさ。もうあたしは中からは見てや
れないからねぇ」
「え〜っと、普通ですよ。いつもどおりって言うか、なんて言うか」
「そっか、そんならいいや」
なんとなくわりきれないような表情のまま、市井さんは、
「じゃあ、そろそろはじめよっか」
と続けた。
「は? なにを、…ですか」
「その話し、マリオネットの解決編、だよ」
■ あとがきをこえたふたりの会話(あるいは解決編)
「ヒントになったのは ――」
あたしは用紙の束の中から、数枚ぬいてテーブルの上に置いていく。
「―― 中澤裕子の7と9と12、市井紗耶香の8、保田圭の1と2、当然3もね。これぐら…い、
かな」
吉澤は邪魔にならないようにと思ってか、ジュースとグラスをわきにどけてくれる。そこに7枚
の紙を並べた。
「ではいきますか」
オヒヤでいったん口をぬらしてから、
「劇的に言うなら、まあ、犯人はこの中にいる! って言ってみたかっただけなんだけど。いる
んだよ、圭ちゃん以外にさ」
そう、吉澤が意図的にそうしたのかはわからないんだけど、あたしには見えちゃったんだ。
「最初に言うね。後藤真希を殺害した、その犯人は、「■」の横に一度も名前が出てこなかった
人。つまり、なっちこと安倍なつみさんですっ」
コナンくんほどうまくは言えてなったけど、とりあえずはヨシとしよう。吉澤が驚いてるから。
で、あたしは話しはじめた ――
どうしてあたしがなっちという結論にいたったのか、単純に言ってしまえば、それは動機がある
からだ。後藤からメインを奪われた(って考える子じゃないんだよ、ホントは)それは一度でも
スポットライトの中心にいた人なら、すごく屈辱的なことだと思う。まあ、3色ユニットのとき
結果としてあたしも負けたんだけど…。
まあ、それはいいや。で、圭ちゃんはたしかに計画を立て、それを実行した。でもホントにそう
だろうか?
もし中澤裕子9で、なっちが部屋に残っていたくないと言っていたら?
たぶん残っていたのは、裕ちゃんだっただろう。圭ちゃんもそれを予測して、最初の死体役は中
澤はずだったって言ってる。
裕ちゃんが最初に計画の話しをされてたら、断る可能性だって十分ある。
次に。もし中澤裕子12で、血のり用の水を使いすぎなかったら?
圭ちゃんはトイレに水をくみに行かなくてすんだだろうし、飯田説だっけ? あの「犯人の存在
の不可能」というのは無くなっていたはずだ。
当然、矢口説も無くなって、あっさり圭ちゃんが犯人。計画は頓挫してしまったかもしれない。
つまり、圭ちゃんの計画は、なっちによって開始され。なっちによって、より強固なものになっ
た。
じゃあ、なっちによって終了しても、おかしくはないんじゃないのかな?
厳密に書いてないから、こっからは憶測で妄想でなんだけど。保田圭1で、腕時計で確認したっ
てある。ここがちょっと微妙なんだけど、けっこう時間を取っていたと考えればどうかな。
市井紗耶香8であたしが部屋を出て、一回りして後藤の部屋に行く。なっちの部屋はメンバーの
中では最後に開けられたことになっている。
そのときそのままあたしのあとについてきたとしたら、どうだろう?
あたしが後藤を刺しちゃって(やだなぁ)、自分のノドも刺す(やだって)。
ここは保田圭の2。プロローグにもなってるんだけど。
ね、おかしいでしょ?
一回刺された人と、ノドにナイフが刺さった人。この状態のふたりから、そんなに血って出るも
のなのかな。びちゃびちゃとかって音が出るほど。
あたしは(って言うのもヘンだけど)エピローグでノドの傷痕っていうのがあったけど。後藤は
どうだったんだろう。
何度も刺されたんじゃないのかな。血溜りが広がるくらい。あとから来たなっちにさ。
だって、そうでしょ? あのとき(これもヘンか)なっちは全身血のりだらけで、どれだけ返り
血がついてても平気だったんだから。
「―― ってのはどうかな?」
あたしは一気にそれだけしゃべってから、またグラスを口に持ってきた。吉澤はまだ驚いた表情
のままだ。
「ちょっと…、すごいですよね。市井さんて」
「や〜、それほどでも」
「…いや、妄想が」
―― ホントに終了 ――