導かれし娘。
第1部
Chapter−1<出会い>
ハッとして、目が覚めた。
高鳴る鼓動。そして、額に浮かぶじっとりとした汗。
吉澤ひとみは、真っ暗な自分の部屋を見渡した。
――いつもとかわりのない部屋。
自分の部屋だと認識すると、ホッと胸を撫で下ろした。
(夢……、だよね……)
そのあまりにもリアルな光景に、ひとみは思わず身震いした。
夢の中――。ひとみは、5歳だった。
子供たちの遊び場である公園で、1人で砂遊びをしているはずだった。
「吉ちゃん」
不意に誰かに呼ばれた。隣を見るといつの間にか、幼なじみの後藤真希が座って一緒に砂の城を作っている。
栗色の長い髪を風になびかせて、ほんのちょっとした笑みを浮かべて熱心に砂の城を作っている。
ひとみは、幼い真希のその姿をぼんやりと見つめていた。
もうすでに、意識の片隅でこの光景が夢である事もなんとなくわかっていた。そして、この後に起こる事も――。
完成間近の砂の城に投げ込まれる、水の入った風船。
風船が弾けるのと同時に、その衝撃からなのか水の力によるものなのかわからないが、砂の城は一瞬にしてもろくも崩れ落ちる。
「……壊れちゃった」
真希が、泣きべそを浮かべてポツリと呟く。
「いいよ。また作ろう」
ひとみは、真希の服についた砂を払いながら言った。
そこへ聞こえてくる、少年の声。
「クソ真希」
ひとみは、顔を上げる。近所でも評判の悪ガキ、健太とその仲間が手にした水風船を弄びながら、
連れ立ってこちらに向かって歩いてきている。
健太はなぜか、真希を目の敵にしている。幼稚園でもそうだった。
上靴を隠したり、道具箱に昆虫を入れたりして、真希を苛めていた。
きっと、好意の裏返しなのだろうが5歳の幼い少女、そして同じ年だった健太自身にもそれは分からない。
5歳の少女にしては比較的体格のよかったひとみは、真希を後ろに隠した。
幼稚園でも自分がいるときは、いつもそうして健太から真希を守ってやっていた。
「向こう行ってよ」
ひとみは、真希の前に立ち両手を広げながら言った。
健太はその時になって初めてひとみの存在に気づいたのか、ほんの少しの一瞬だけ怪訝な表情を浮かべた。
が、すぐにいつもの調子で憎まれ口を叩く。
「うるせえ。凶暴女」
健太の言葉に反応して、仲間が凶暴女と笑いながら囃したてる。
そのあだ名にムカッときたひとみは、おもわず健太ににじり寄った。また、ほんの一瞬、健太はひとみの迫力に圧倒されてひるんだ。
これまでにも数度、健太の悪戯にキレたひとみは健太と取っ組み合いのケンカをしたことがある。
この年頃の子供に男も女も力の差はないのは当然の事であり、ましてや気も強く体格もよかったひとみは評判の悪ガキともいい勝負だった。
それ故に、女なのに立ち向かってき、なおかつケンカの強いひとみを健太は少々恐れていたのだ。
――ひとみは、ズンズンと健太に向かって歩いて行った。
「凶暴女が来たぞ。攻撃開始」
健太の号令と共に、仲間達がひとみに向かって一斉に水風船を投げつけてくる。
そのほとんどはひとみの身体を逸れたが、健太の放った1つの大きな水風船がモロに顔面に直撃して弾けた。
「ひとみちゃん!」
真希が大声をあげた。
ひとみは、その場に立ちすくんでいる。
健太たちも、「しまった」というような表情を浮かべている。まさか、顔に当るとは思っていなかったのだろう。
ひとみはただ黙って顔を押さえて、たたずんでいる。
痛みがあって泣きたくもなった。が、ひとみは涙を堪えた。
健太の前で涙を見せるのは嫌だったし、なによりも真希の前で泣くのが嫌だった。
(でも……ものすごく痛い)
(泣きたくない)
(うー、涙が出そう)
涙腺が緩みかけたその瞬間、
「ワァーッ!!!!!」
と静まり返った公園内に健太たちの絶叫がこだました。
ひとみが驚いて顔を上げると、健太たちが頭を抱えて地面をのた打ち回っている。
のた打ち回る……。それよりも、ほぼ痙攣に近い状態だった。
本能的に危機を察知したひとみは、真希の身を心配して振りかえる。
そこでひとみが見た光景。その光景が10年たった今でも忘れられずに、こうして夢にまで現われたのだろう。
真希の栗色の髪の毛が、まるで空に吸い込まれるようにわらわらと逆立っている。
そして、眼だ。何も見ていないようで、それでいて強烈な意思のある眼。
殺意という言葉を知らなかったひとみも、真希が健太たちを殺そうとしているのが容易に判断できた。
のた打ち回る健太たち。
様相が一変した真希。
もうすでに、その時のひとみは現在のひとみに戻っていたのかもしれない。
そして、真希が発しているものが殺意だとハッキリと認識して、ムリヤリに夢の中から覚醒させたのかもしれない。
現実の過去とリンクしているのなら、その光景を見るのには耐えられなかったのだろう。
ハッと目を覚ましたとき、ここが現実なのか夢なのかそれとも10年前なのか判断できないほど動揺していた。
「おはよう」の挨拶もなく、ひとみはダイニングへと入った。
もうすでに父親は朝食をとっていた。
弟2人は、まだ起きてきていないらしいが、ひとみにとってはどうでもいいことだったので気にする事もなかった。
テーブルにつくとすぐに、シリアルとゆで卵付きのサラダが出された。
母親は何も言わずに、弟たちの朝食の準備に戻った。
(ロボットみたい……)
ひとみは、母親の背中を見つめて心の中で毒づいてみた。きっと、昨日の夜も夫婦の間で何かがあったのだろう。
ひとみが朝食を食べている間、両親が口を開く事も目を合わす事もなかった。
ひとみは朝食を終えると、いつものようにシャワーを浴びに浴室に向かった。
朝は余裕を持って行動したいタイプのひとみは、どんなに寝不足でも通学の2時間前には目を覚ますようにしている。
熱いシャワーを浴びながら、ひとみは昨夜見た夢の事を思い出した。
が、冷静に考えるとただの夢であり、確信のない過去の出来事なので、あれほど動揺すべきではなかったとなぜか自分にムッとした。
人は過去の出来事を、歪曲して記憶してしまう事があるという。
ひとみは、ほんの数年前にそんな事を話しているTVを見たことがある。
きっと、その類なのだろう、
(あんな事、あるわけないじゃん)
と一笑にふして、ひとみは浴室を後にした。
肝心の”あんな事”については、考えなかった。
電車の発車ベルと共に、また退屈な日常が始まりを告げる。
通勤・通学でごった返す息苦しい電車内。
どれだけの人が、日常を楽しんでいるのか。
皆、ただただ疲れた顔をしてぼんやりと自分の世界にひたっている。
そんな光景を見ると、ひとみは吐き気を覚えるほど憂鬱な気分になる。
目の前でぼんやりと車内広告を見上げている中年のサラリーマン。
(あんな人とは、結婚したくない……)
(あんな風になるような人と、出会いたくもない)
(お母さんのように、平凡な主婦になんかなりたくない)
(高校卒業したら、東京に出よう)
(それで、もうそれを最後にしてこんな電車に乗る生活とはおさらばしよう)
(退屈な毎日なんて、嫌いだ……)
ひとみは、スッと視線を落としてもう何も考えないように携帯のメールを打つことにした。
数十分後、ひとみは駅のホームに降り立った。
市の中心街だけあり、利用者は多い。
皆、急かされるようにそれぞれの目的地へと向かう。
ひとみも、その中の1人だった。
メールを打ちながらのんびりと歩いている、どこにでもいる女子中学生に見えるかもしれないが、足は自ずと改札口へと向かっている。
(送信完了……っと)
携帯を通学カバンにしまい、かわりに定期を取りだす。あと数メートルも歩けば、駅の改札口である。
ひとみは、定期券を手にして改札口に向かって歩く。
(……ん?)
駅の改札を抜けたひとみは、1人の少女を見つけた。
一方向に向かっていく人の流れの中、黒髪を頭の上で2つに結んだ少女がこちらを見ている。
人々の後頭部しか見えない光景の中では、すこし浮いた存在の少女だ。
(誰か、待ってんのかな)
ひとみは後ろを振りかえったが、少女の待ち人らしきような人はいない。
もう1度前を向くと、今度ははっきりと少女と目が合った。
目が合った少女は、一瞬ハッとした表情を浮かべたがすぐに素知らぬ振りをして空中に視線を漂わせる。
(なんだ……? 変な子)
あからさまにコメディタッチな振るまいが、ひとみの興味を釘づけにした。
が、今は朝のラッシュである。構う時間などないし、ましてや声をかけるつもりも毛頭ない。
その少女の傍らを通り過ぎる時、小さな呟きが聞こえた気がした。
(ののれす……?)
(ののれすってなんだ?)
と、気になって振りかえると、また少女と目があった。
(私?)
(え? なんで?)
(後輩?)(え? でも、制服着てないし)
(小学生?)(学校は?)
(誰?)(知らない)(思い出せ)
様々な言葉が去来し、ひとみは必死でその少女の事を思い出そうとしたが、けっきょく見ず知らずの少女であることを認識した。
(もう、いいや)
どうでもいい人物と位置付け、ひとみはホームの階段へと向かった。
――あいかわらず、その少女はひとみを見つめ続けていた。
天使のような笑顔を浮かべて。
少女の存在も忘れ、階段を上がるひとみ。
不意に前を歩く人物の身体が「きゃっ」というアニメのヒロインのような声と共に沈み、そして視界から消えた。
ひとみは、とっさに身をひるがえした。
ボーっと歩いていたら、階段で転んだその女性につまずき、自分も転んでしまうところだった。
(危なかったぁ〜)
転んだ女性は、女性と呼ぶのにはまだ早すぎるあどけなさの残る少女だった。
転んだ時に打ちつけたのか、右足をさすっている。
(痛そう……。あーあ、バッグの中身まで出てるよ)
(助けようか)
(どうしよう)
ひとみは、何気に辺りに視線を向けた。誰もが少女の存在に気づきながらも、
足を止めて助け起こそうとする人物もいなければ、ひとみのように立ち止まって対処に戸惑っている人物もいなかった。
(みんな、冷たいなぁ)
少女は「すみません」と小声で謝りながら、バッグからとびちった物を拾い集めた。
それを見て、ひとみの身体は自然と動いた。
「あ、すみません」
ひとみに向かって投げかけられた言葉。
ひとみは、階段下まで転がった物を拾い集めていたため反応が少し遅れた。
ひとみは、少女と目が合った。
(かわいい)
(声と合ってる)
(同い年かな)
階段の上で四つん這いになった少女は、ひとみに向かって頭を下げた。
(かわいい)
(プッ、あの格好)
(周りに人いるのに)
ひとみは、バッグの中身を拾いながらも横目でチラチラと少女を見ていた。
すると、少女は急に立ち上がり顔を真っ赤にして、今度はしゃがんでバッグの中身を拾い集めた。
(プッ、やっと気づいた)
(おっちょこちょいだ)
退屈な朝の日常に訪れたちょっとした変化を、ひとみは楽しんでいた。
――柱の影から、2人を見ているもう1人の少女。
そう。ひとみが階段で転んだ少女より前に出会った、あの小柄な少女。
やはり、クスクスと笑っていた。
Chapter−2 <告白>
(おっちょこちょいは、私だよ)
休み時間の教室で、ひとみはピンク色のパスケースを手にし「はぁ〜」とため息をついた。
朝のちょっとした混乱時に、ひとみは少女のものであろうピンク色のパスケースを間違って自分のカバンの中に放り込んでしまっていた。
それに気づいたのは、登校して数時間が経過してからだった。
(まだ買ったばかりだ)
(返すって言ってもなぁ……)
(名前も知らないし)
(明日もあの時間の電車に乗るのかなぁ……)
「……とみ。ねぇ、ひとみってばっ!」
友人の木村麻美の呼びかけで、ひとみは我にかえった。
「へ?」
「へ、じゃないよ。さっきから、呼んでんのに」
「あ、ごめん。ちょっと考え事」
「お昼、どうする? ここで食べる? それともホール?」
「うーん。じゃあ、ホールに行こうか」
ひとみは、麻美と連れ立って2階にある共同ホールに向かった。
ひとみの通う中学(朝比奈学園)は私立の、いわゆるお嬢様学校というやつだ。
小・中・高と一貫教育で、校舎も同じ建物を共有している。
むろん、それぞれのエリアは分かれているが、共同ホールだけはその名前からしてわかるように
小・中・高のどの生徒も自由に使えるようになっている。
だが、あまり利用者はない。
違う学年の生徒と顔を合わしたくないのか、誰もが自由に使える点がその不人気の理由のようである。
いつも昼休みに、5〜6人の生徒が散り散りの場所で昼食をとっているだけだった。
わずらわしいのが嫌いなひとみにとって、その場所はちょっとしたオアシス的な場所であった。
ひとみと麻美は他愛もない話をしながら昼食をとっていた。
アイドルの話なんかをしていた麻美が急に声を潜める。
「ねぇ、あれ」
「?」
麻美が、目で合図を送る。ひとみは、その視線の先を追う。
高等部の矢口真里が、ホールの入り口辺りでキョロキョロと中を見まわしていた。
手には、くまのプーさんの弁当箱を持っている。
「もうそろそろ来るよ」
麻美が、ニヤッと笑ってしばらくすると高等部の教員である中澤裕子がやって来た。
手にはコンビニの袋をぶら下げている。
どちらも、この学園には似つかわしくない金髪だが、不思議と嫌悪感を与えるような金髪ではない。
まるで、それが当たり前の髪の色であるような自然な印象を周りに与えている。
2人は何か二言三言ことばを交わすと、生徒達とは少し離れたテーブルについた。
「ねぇ、やっぱさ、あの2人って怪しいよね」
麻美が声を低くして、小さく呟いた。
「レズの噂?」
「ちょっと、声が大きい」
「あ、こっち見てる」
「ちょっと、ジッと見ちゃダメだよ」
いつまでも、振りかえって中澤と矢口を見ているひとみを麻美は強引に前を向かせた。
ニヤニヤしながら、ひとみは言った。
「女子校だからって、そんなのあるわけないよ」
「でもさ、あの2人っていっつも一緒にいるよ」
「ウチらだって、いつも一緒にいるけど?」
「ア、アタシたちは、友達でしょ」
声を荒げたので、周りの生徒たちの視線が一斉に2人に集まった。
麻美はその視線を感じ、顔を赤らめながらうつむいた。
「そんなもんだよ。それに、別にいいんじゃない? レズだろうがなんだろうが。私には関係ないし」
ひとみは、その手の話には本当に興味がなかった。
同性をかわいいと思う事はある。
現に今朝ホームの階段で転んだ少女に対しても、そのような感情を抱いた。し、目の前にいる麻美に対しても「かわいい」と思うことがある。
だがそれは、ぬいぐるみや子犬を見て「かわいい」と思う程度であり、そこから恋愛感情に発展する事など想像すらしていない。
中澤と矢口の件に関しても、特に他の生徒達のように深く勘ぐるような事はしなかった。
(あ、そうだ。思い出した)
「ね、麻美。今日さ、掃除当番変わってくんない?」
突然の言葉に、うつむき加減で牛乳を飲んでいた麻美はびっくりして牛乳を吹きだした。
自分は冷めた人間であり、孤独を愛する人間だと自分自身で分析しているひとみだが、
実はそうではなく困っている人を見ると放っておけないおせっかいな人物の部類に入るのもちゃんと認識していた。
(ほらね……)
放課後の掃除当番を麻美に代わってもらって、ひとみは駅のホームの階段でピンク色のパスケースの持ち主を待っている。
名前も知らず、何時の電車に乗るのかも知らない。
ひょっとしたら、もうすでに帰っているかもしれない。
それでも、ひとみは待つ事にした。
数万・数十万・数百万の偶然から出会った少女に、もう1度出会える保証はどこにもない。
それは、ひとみにも十分わかっていたが、定期を無くしてオロオロしているあの少女の姿を想像すると、どうしても待たずにはいられなかった。
不意に、「後藤真希」という単語が脳裏をかすめた。
(そう言えば、真希ちゃんに似てるかも)
そこで思考は一旦停止した。
ひとみは真希の事を思い出そうとしている思考に、わざとストップをかけたのだ。必死で、別の事を思い浮かべる。
(!もういい)
(!似てない)(!似てない)
(!誰?)
(!ゴトウマキなんて知らない)
(!ナニモシラナイ)
(!定期券)(!困ってる)
(!定期券)(!カワイイ声)
(!おっちょこちょい)
(定期券)(定期券)(渡さなきゃ)
(きっと困ってる)(定期券)
その時、階段から駆け下りてくる少女に気づいた。
(あっ! 朝の)
少女は、息を切らせてひとみの前に立った。
(以外と小さい)
(それに、細い……)
「あ、あの」
その少女は、荒い息を整えながらなんとか声を出した。
(やっぱり、かわいい声)
少女が困ったような表情を浮かべて、ひとみを見上げている。
「あ、あの……」
ひとみは、ハッと我にかえった。
「あ、はい」
「定期。拾ってくれたんですよね?」
「え? あ、はい」
ひとみは、カバンの中からピンク色のパスケースを取りだす。
「これ……、ですよね?」
「あー、そうです。それです。良かったぁ」
きしゃな指を胸元で組み、満面の笑みを浮かべる少女。
ひとみは、少女の胸元についているネームプレートに気づく。
(石川……、梨華……さん)
(エプロン姿)
(近くで、働いてるのかなぁ?)
「あのう……」
「あ、はい」
梨華はひとみの手元を見ている。ひとみは、何が言いたいのか敏感に感じとった。
「あ、ごめんなさい。どうぞ」
そう。ひとみは、梨華の姿に見とれて肝心のパスケースを渡すのを忘れていたのであった。
(やっぱり、おっちょこちょいは私だ……)
急に顔が赤くなるひとみであった。
「あの失礼ですけど、お名前は……?」
「へ?」
(やっぱ、かわいい声だなぁ)
(エプロンも似合ってるし)
(あ、そうだ……)
(吉澤ひとみ)
と、言いかけた時、それを遮るように梨華が口を開いた。
「あ、私、石川梨華って言います。あ、名前、ここに」
と、胸元のネームプレートを指さす。
「駅前の『アップフロント』っていうお花屋さんで働いてるんです。今、ちょうど休憩時間で、それで駅に落し物がなかったか訊ねに来て、
それでちょうどあなたが見えたから、朝の顔覚えてて。ひょっとしたらって、それで」
梨華は、なぜか緊張しながら一気にまくし立てるように説明した。
頭の中に浮かんだ言葉を整理するのを忘れたのか、その言葉はただの単語の羅列に近かった。
「あ、もうこんな時間。急がないと」
「え?」
「10分しか休みないから」
そう言った時には、きょとんとしているひとみを尻目に、梨華はもうすでに階段を上っていた。
(私……、まだ自己紹介してないんだけど……)
(花屋さんか……)
(プッ。お花屋さんだって)
(カワイイ)
(なんか、似合ってる)
笑みが自然にこぼれそうになり、ひとみはあわてて口元をぎゅっと引きしめた。
朝のラッシュほどではないにしろ、周りには人がいる。
普通の顔をして、階段を下りようとした。
「あの」
と、呼びとめる声。もちろん、ひとみにはその
声が誰で誰を呼びとめているのかすぐに分かった。
振りかえり階段を見上げると、梨華が夕日の光をバックにして立っていた。
「ありがとう。今度、お店に来て。好きなお花、プレゼントするから。約束だよ」
と、言い残すと手を大きく2、3度振って、走り去った。
またしても、ひとみが何か言葉を発する前に梨華は去った。
残されたひとみは、行き交う人々の冷たい視線を浴びて赤面した。
夕暮れの教室。
麻美はやっと、掃除を終えた。「ふぅ」とため息を吐き、さっき整頓しおわったばかりの机に腰かける。
いつの間にか、校庭でのグラブ活動の掛け声も消えている。
静寂が校舎を――麻美のいる教室を包み込んでいた。
その静寂を寂しいと感じるのか、怖いと感じるのか、切ないと感じるのかは人それぞれである。
麻美は、不意に切ない恋心が沸きあがってきた。
昼間、何気に同性との恋の話をした。
それはけっして、中澤と矢口の関係を非難したり軽蔑したりしたかったのではない、
何気にひとみの考えている同性同士の恋愛感について探りをいれてみたのだ。
その結果、ひとみにはまったくその気がないのを知ってしまった。
同時に、麻美のはかなくせつない恋も終わりを告げた。
「告白しないでよかった……。気まずくなるのは、嫌だもんね」
誰もいない教室、ひとみの机の前でつぶやく。
あれはいつの頃だったのだろう。
ある1つの事件がきっかけで、ひとみとの距離が急激に近づき、それまで友人として抱いていた尊敬にも似た憧れが、
恋に変わったきっかけともなった事件。
その頃、ひとみも麻美もまだバレー部に所属していた。
ひとみは選手。麻美は身体的・技能的能力に限界を感じて選手からマネージャーに転向したばかりなので、去年の7月頃だろうか。
いつものように、放課後の部活動に励んでいた。
当時の3年生最後の試合が近かったので、部員たちは熱心に練習していた。
いくら、お嬢様学校の弱小チームとはいえ、3年生最後の試合ぐらいは勝利でその花道を飾りたいと部員達は考えていた。
マネージャーの麻美も、練習に付き合っていた。
コートの外からトスを上げて、片方のコートにいる人物がアタックをし、もう片方のコートにいる人物がアタックを受ける――。
ただそれだけの単調な作業。
背の低い麻美は必然的にコートの外からトスを上げる誰にでもできる役を任された。
それでも、直接的に選手たちと関われるので嬉しく思っていた。
練習は順調に進んでいた。
が、隣のコートで練習をしているひとみに見惚れていた麻美は、トスの上げる方向を少し間違えた。
「あっ!」と気づいた時には遅く、3年生でありチームのキャプテンであった戸田鈴音はその失敗したトスを打ち損ね、
手首の靭帯を痛めてしまった。
練習が終わり、麻美は部室でひとみを除いた数人の同学年の生徒に責められた。
「どうすんのよ! あんたのせいで、戸田キャプテン試合に出れなくなったじゃない」
「……」
麻美は、嗚咽を上げることしかできなかった。
それもそうである。
自分が放ったトスのせいで、ひとみに見惚れて集中しなかったせいで、キャプテンである戸田が大事な最後の試合に出られなくなったのだ。
詫びる言葉よりも、涙しか出てこない。
どれぐらいの間、責められ続けていたのだろうか。
「いい加減にしなよ」
低い声と共に、部室のドアが開かれた。
部員たちは、一斉にドアを見つめた。
1人での居残り練習を終えたひとみが、額にうっすらと汗を滲ませながら入ってきた。
場に何となく緊張が走り、皆だまって吉澤の姿を目で追っていた。
誰に言うでもなく、自分のロッカーの前でひとみは額の汗を拭いながら呟いた。
「木村さんを責めて、戸田先輩のケガが治るわけじゃない」
反発の声はすぐに上がった。
「ひとみ! アンタだって知ってるでしょ! キャプテンや他の先輩達がどんなに次の試合に賭けてたか」
「知ってるよ」
「だったら、なんでそんな何でもない風に言えるの」
「だって、言っても仕方ないじゃない」
ひとみは、ロッカーを閉めると部員たちに向き直った。
部員たちは、ひとみのその冷たい言葉に絶句した。
「ホラ、木村さんもいつまでも泣かない」
ひとみは、麻美の頭を軽く撫でながら言った。
見上げる麻美の顔は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「じゃあ、どうすればいいのよ!」
沈黙に耐えかねた1人の女子生徒が声を荒げた。
「――勝てばいいんでしょ? キャプテンの代わりに、アタシが出る」
いともあっさりと言いのけるひとみに、他の部員たちはざわめいた。
「ハイ。もうこれでこの話はお終い。木村さん、行こう」
ひとみは麻美の手を引いて部室を後にした。
数週間後。ひとみは宣言通り試合に勝ち進み、3年生の最後の試合に「大会優勝」という最高の思い出をプレゼントした。
戸田も試合には出れなかったが、涙を流して喜んでいた。
むろん、他の3年生も――。
だが、2年の部員たちは吉澤に敵意を剥き出しにした。
敵意の内訳としては、嫉妬がその大半を占めていた。
その後、部内での幼稚で陰湿ないじめ行為に飽き飽きした吉澤は、黙って部を去った。
その後を追うように、麻美も部活を辞めた。
吉澤を追い出す原因を作った張本人として、なにより自分をかばってくれた親友を見捨ててまで
バレー部に所属し続ける意味は何も見出せなかった。
そして、2人の関係は現在に至っている。
夕暮れの教室。ひとみの机の前で、麻美はほんの1年前を思い出して、申し訳ない気持ちで胸が一杯になった。
「ごめんね、ひとみちゃん。アタシのせいで、好きなバレー続けられなくなったんだよね……」
麻美は、静かに涙を流した。
それを忘れて、ひとみに恋愛感情を抱いて浮ついていた自分がとてつもなく罪深い人間に思えてきて、しようがなかった。
「アタシなんて、死んだほうがマシだよね。ごめんね。」
静かに流れていた涙は、やがて堰を切ったように流れ始めた。
「ひとみちゃん、アタシをかばってくれたのに! アタシ、
毎日ひとみちゃんに抱かれるところ想像してたのごめんね!
ごめんね! ひとみちゃん! あたしのせいで! ごめんね!」
――午後6時12分。
ひとみの携帯に、麻美からのメールが届いた。
【ありがとう
ひとみちゃん
ずっと忘れないでね】
Chapter−3 <事件>
突然の麻美の死から、はや1週間が経過した。
死亡解剖を終えた麻美の遺体は荼毘にふされ、そして火葬場で灰となって小さな遺骨箱に収められた。
ひとみは、その一連の流れの間、涙を流す事はなかった。
悲しみの涙を素直に流すことができなかった。
泣くことで、すべてが癒されるわけではない。
その思いが、悲しみの涙を堰き止めているのかもしれない。
なによりも、麻美の死を完全に受け入れる事ができないのが、その最大の理由だった。
真新しい墓に遺骨が収められ、参列者達が帰った後も、ひとみはしばらくその場にたたずんでいた。
麻美の死に、警察も当初は事件に巻き込まれた可能性もあると視野に入れて動いていた。
なぜなら、麻美が死亡した当日を境に、教員の中澤裕子と高等部2年の矢口真里がそろって失踪したからである。
生徒の死と教師と生徒の失踪。このようなミステリアスな事件をマスコミが放っておくわけはない。
今も学園の周りや木村家の周辺をワイドショーや週刊誌などが面白おかしく書き上げるためにネタを探して嗅ぎまわっている。
結局、二人の失踪の理由は分からないが、麻美が飛び降りるのを目撃した用務員の証言や、
ひとみの元に届いた遺書めいたメールが麻美の死を自殺とする決め手となった。
だが、自殺と断定はされたものの、その動機は依然として謎のままであった。
家族にも分からなかった。
いつもと変わりがなく、もちろん多少の悩みもあっただろうがそれは生きて生活している人間にとっては極々当たり前のもので、
死ぬほど辛い何かがあったとは考えられないと両親たちは警察に証言していた。
もちろん、ひとみにも思い当たるふしはなかった。
この1週間、何度も何度も麻美と過ごした日々を思い出したが、どんなに記憶の糸を手繰りよせとも、
自殺の原因に結びつくようなものは何一つとして見つからなかった。
では、いったいなぜ麻美は死んでしまったのか?
結局、いつもこの結論にたどりつく。
この悪循環を断ち切るものはただ1つ。考えるより、行動する事しかない。ひとみは麻美の墓の前で決心した。
何があっても、友の死の真実を解明すると――。
(先生と矢口先輩が、きっと何かを知っているはず)
警察は失踪した2人と麻美の死、その関与を完全に否定したが、ひとみはそれ払拭する事ができなかった。
――まず、そこから動きだす事にした。
職員室でひとみがどんなに訊ねても、緘口令でも敷かれているのか、教員達は誰も中澤と矢口の失踪に関して口を開こうとしなかった。
ひとみは何度訪れても、けんもほろろに職員室を追い出される。
ならば、矢口の同級生にでもと高等部の校舎に向かった。
しかし、やはりここでも同じような状況。誰も矢口の失踪に関して口を割らなかった。
生徒たちに、ここまで見事な緘口令が行き届いていると言う事は、進路問題を盾に教師たちに言い含められているのかもしれない。
自分の保身のために、1人の人間の死の深層が闇に葬られそうになっている――。
ひとみは、唇を噛みしめた。
それでも、ひとみはあきらめる事ができず、自分で高等部の生徒名簿を入手し、矢口の住所を割りだした。
「ここか……」
放課後、ひとみは生徒名簿に書かれている住所をたよりに、まったく見ず知らずの土地にやって来ていた。
途中、何度か人に道を尋ね、「矢口」家に到着したのはもうかなり日も暮れかけた頃である。
一見すると、なんでもない普通の住宅である。
お嬢様学校に通うにしては少し小さいように思えたが、それは家庭の事情であり今のひとみにはまったく関係のないことだった。
インターフォンを押すと、中から年老いた女性が出てきた。
「あの、こんばんは」
年老いた女性は、そのにごった目をひとみに向けると何やら口をもごもごと動かした。
(なに……?)
(矢口先輩のお婆ちゃん?)
(お母さん……じゃないよね)
老婆は相変わらず、口をもごもごと動かし何かを喋っている。
門扉越しに立っているひとみには、よく聞きとれない。
「あの、矢口真里さんの事でちょっとお話が」
ひとみは、苛立ちながら大きな声で喋った。
老婆の耳にもそれが届いたらしく、無表情だったその顔にあきらかな動揺が浮かんだ。
(おかしい)
ひとみは直感的に、そう思った。
まるで逃げるかのように、家の中へと戻っていく老婆を、ひとみはあわてて追った。
(ぜったい、何か知ってる)
門扉を空けるのに少し戸惑いモタモタしている内に、老婆は玄関のドアを閉めて家の中に入ってしまった。
それでもひとみは、ドアを激しくノックする。
「あの、ほんの少しでいいんです。矢口先輩の事、ほんの少しでいいから教えて下さい。お願いします。
友達が、友達が死んだんです。本当の事、知りたいんです。お願いします」
ひとみは、近所の目を気にする事なく叫んでいた。
だが、ドアは開けられる事がなかった。
(なんで……?)
(なんで、みんな隠そうとすんの?)
(おかしいよ)
ひとみは、答えの見つからない疑問をいつまでも繰り返しながら駅の階段を下りていた。
友達の死に対して何もできずにいる自分のふがいなさが、たまらなく腹立たしかった。
もう数段で階段を下りきるとき、後ろから声をかけられた。
あの再会以来、1度も顔を合わす事はなかったが、その声が誰のものなのかは容易に判断できた。
独特のアニメのヒロインのような声――。
(石川さん……。だったかな……)
そんな事をぼんやりと考えながら、ひとみはゆっくりと振りかえった。
まるで1週間前のように、梨華が階段を駆け下りてきている。
(危ないなぁ……)
(転ばないように、気をつけてよ)
「久しぶりだね」
梨華はそういって、少しだけ笑顔を見せた。
ひとみは軽く会釈をすることで、返事を返した。
正直なところ、何も話す言葉が思い浮かばなかった。
石川もそれ以上は何も言葉を発さなかった。
2人は無言で、改札までの短い道を歩いた。
別路線のため、ここで別れなければならない。
しかし、ひとみはなんとなく後ろ髪をひかれる想いだった。
まだ3回しか会ったことがないし、会話らしい会話もした事のない梨華だったが、できることならもう少し側にいてほしかった。
(でも、迷惑だよね……)
なんとなく別れを惜しんでいるひとみに、
「……あんまり自分を追い詰めちゃダメだよ」
と、梨華が焦点の定まらないひとみの目を見つめながら言った。
その言葉に反応して、瞳のピントが合ってくる。
心配そうに自分の顔をのぞき込んでいる梨華の顔が、ハッキリとひとみの目にうつった。
(なんで、こんなに心配してくれるんだろう……?)
(なんで、そんなに悲しい顔してくれるんだろう……?)
(たった3回しか会っていないのに、懐かしい気がするのはなんでなんだろう……?)
ひとみの頭に、さまざまな思いがゆっくりと浮かんでは消えていった。
梨華は、それ以上は何も言わずに下りのホームへと流れる人の群れの中に消えていった――。
麻美の死と教師と生徒の失踪を、面白おかしく関連付けて騒ぎ立てていたマスコミ各社が、ある日一斉に姿を消した。
新たなる話題性が見つかり、そちらに流れていった事も考えられるが、
それにしても各社一斉に口裏を合わしてたかのように姿を消すのはなんとも異様な事態のように思えた。
登校するひとみは、せいせいするのと同時に事件の風化を予感させどこか不安でもあった。
あいかわらず学園では、麻美の自殺の話題はタブーとなっている。
きっと、どこかで密かには話題にはしているのだろうが、人目につく場所で話題にするものは1人もいなかった。
麻美と最後に食事した共同ホール。
ひとみは、あの事件からずっと昼食をこの場所でとるようにしていた。
なんとなく、麻美がここにいるような気がしていたからだ。
でも、実際にその場所に麻美がいる事はない。
もうすでに、この世にはいないのだ。
そんなこと、ひとみも十分わかってはいたが、自然と足が向かってしまう。
静かなホールで一人で食事をしていると、ひとみはあらためて麻美の存在の大きさに気づかされる。
親友というカテゴリーを持っていなかったひとみは、どこか冷めた態度で麻美と接していたことをひどく後悔した。
麻美とは2度と会えないと思うと、ほんの一瞬考えただけで胸が張り裂けそうだった。
(ごめんね、麻美。アタシ、なんにもわかってなかったのかもしれない。何も気づいてあげられなくて、本当にごめん……)
こんな時、涙が流れれば少しは楽になれるのかもしれないが、ひとみはその術をもう忘れてしまっているようだった。
ひとみはそんな自分が、たまらなく嫌な人間のように感じた。
ひとみがふらりと店を訪れた時、まるで梨華は待ち合わせでもしていたかのように、「いらっしゃい」と微笑んで迎え入れてくれた。
「ひとみちゃんが来てくれて、お花も喜んでるよ」
(また……、お花って言った)
「お花はね、良い人と悪い人を見分けられるんだよ」
(家でお花なんて言ったら、絶対に頭が変になったと思われるよ)
「ひとみちゃんは、どんなお花が好きなの? 誕生日は?」
梨華はしゃがんで花の整理はじめた。それでもひとみと話そうとしているので、自然とひとみを見上げる格好になっている。
「4月……」
「4月かぁ……、じゃあ誕生花は――」
と、梨華はしゃがんだその姿勢のままで、ぴょこんぴょこんと横に移動した。
「あ、あの、石川さん」
「ん? なあに?」
(年齢なんて聞いて、変に思われないかな)
(でも、変じゃないよね)
(年、聞くだけだもんね)
ひとみは、自問自答をせつなの間に繰り返した。
思いきって口を開けようとした瞬間、梨華が急に立ち上がったので何となくそのタイミングを失ってしまった。
シドロモドロになっているひとみを緊張していると思ったのか、梨華が優しく声をかけてきた。
「ねぇ、ひとみちゃんって朝比奈学園の生徒さん?」
「え? あ、はい」
(何でわかったんだろう)
「その制服、私もちょっと憧れてたんだぁ」
(あ、そうか。制服か……)
「ワッペンがちょっと違うから、中等部かな?」
「はい。3年です。あ、あの、失礼ですけど石川さんは何歳ですか?」
(わぁ。これじゃ、お見合いだよ)
(なんで、もっと普通に聞けないんだよ。バカ)
梨華は少しだけ微笑むと、「15才だけど、ちょっと事情があって高校には通ってないの」と言った。
マズイ事を聞いてしまったなと一瞬思ったが、それよりも自分と同じ年ということに驚いてしまった。
「ひとみちゃんが4月生まれっていう事は、学年が違うだけで年は同じだね。私、1月の早生まれだから」
と、梨華はまた微笑んだ。
パスケースを拾ってくれたお礼という事で、ひとみは誕生花である”カスミソウ”を数十本もらった。
ひとみにこの花を手渡す時、梨華は「ありがとう」の後にまだ何か伝えたかったみたいだが、
ちょうど客が来てしまったためにその対応をしに店先に移動してしまった。
これまでひとみは自分の誕生花を知らなかった。
知らなかったが、この花の名前は知っていた。
麻美が好きな花だった。
『カスミソウの花言葉はね、『清心』。清い心』
『カスミソウ。大好き』
と、微笑んでいた麻美の顔を思いだした。
(……今から、麻美のお墓に行こうかな)
ひとみがぼんやりと考えている間、客の対応をしていた梨華が店先でクスッと笑った。
ひとみと梨華は、同じバスに乗っていた。
早番で就業時刻が早く終わるが、家に帰っても何もする事がないので、ひとみにつき合わせてほしいと梨華からお願いしてきたのである。
バスに乗っている間、ひとみは何度も行き先を変えようかと考えた。
いくら親しみを抱いている人とはいえ、まだ名前と年齢ぐらいしか知らない人物である。
その人物に、友人の墓参りにつき合わせるのはいくらなんでもどうかと考えていた。
が、梨華は麻美の事を知っていた。直接は知らないが、地元の新聞で事件のあらましを知ったらしくて、
自分と同年代の少女が自ら死を選んでしまった事にひどく心を痛めているような事を言った。
そして、こう付け加えた。
「もしも、ひとみちゃんがその子と友人なら、ぜひ1度お墓参りをさせてほしい」と。
そこまで言われてしまったら、もう行き先を変える必要はなかった。
ひとみは麻美の遺骨が納められている霊園前の、停留所のブザーを押した。
平日のしかも夕方近くと言うこともあり、霊園はひっそりと静まり返っていた。
ひとみは霊園管理事務所で線香を買い、梨華と連れ立って麻美の墓へと向かった。
その間、ひとみは麻美の事をポツリポツリと梨華に話した。梨華は何も言わずに、ただただうなずくばかりだった。
麻美の墓に、麻美の好きだった”カスミソウ”を添える。
管理事務所で買った線香と、ついでに購入した100円ライターで線香に火をつけた。
そして、手を合わせて黙祷した。
(麻美の好きな花、私の誕生花だったんだよ)
(ごめんね、私そういうのに疎くて)
(これから毎年、誕生日にはこの花を買うよ)
(そして、麻美の事を思い出すんだろうね)
(麻美の事は忘れない)
(この花が、地球上にある限り……)
(ううん。アタシが生きている限り)
(絶対に忘れない……)
長い黙祷が終わり目を開けたとき、ひとみは隣を見て驚いた。
まだ黙祷を続けている梨華が、涙を流していたからだ。
「石川さん……」
梨華は、ゆっくりと目を開けた。
そして、麻美の墓を見つめながら「もっと早くに知り会えてたら……」と呟いた。
その言葉の意味を、ひとみは理解できなかった。
(ひょっとしたら、石川さん……)
(本当は麻美のこと……)
(いや、でもそんなこと今まで1度も)
(もっと早くって、1度会った事があるの?)
(でも、バスの中では新聞で知ったって言った)
(ひょっとして、自殺の原因……)
(知るはずがない)
(……でも、もしかしたら)
「石川さん」
と、ひとみが声をかけるのと同時に、梨華はハッと立ち上がり辺りを見まわした。
「……石川さん?」
「ひとみちゃん、すぐに帰ろう」
「え?」
「いいから」
今まで1度も見た事がない梨華の険しい表情。
ひとみは思わず、「う、うん……」と返事をしてしまった。
ひとみが帰り支度を素早くしている間、梨華は怯えた草食動物のように辺りをキョロキョロと見回していた。
(いったい、どうしちゃったんだろう……?)
梨華の様子を横目でチラチラ見ていたひとみの耳に、「もうダメ」
という梨華のか細い落胆の声が聞こえた。
「あの、朝比奈学園の生徒さんですか?」
他人の墓の間を縫うようにして、1人の女性が近づいてきた。
「わたし、週間明朝のライターをしている石黒と言います」
石黒と名乗った女性は、ひとみの前にまるで立ちはだかるように佇んだ。
Chapter−4<コンタクト>
「ひょっとして、吉澤ひとみさん?」
石黒は、ひとみの顔をマジマジと見つめながら言った。
「そうですけど……」
ひとみは横目で梨華の様子をうかがった。
梨華は、ひとみから少し離れた場所で小さく震えているようだった。
「友達、大丈夫?」
「え?」
「なんか、様子が変みたいだけど」
「……石川さん?」
梨華は身を固くして、ムリヤリに笑顔を浮かべて言った。
「うん。大丈夫」
ひとみは心配になった。その様子はどう見ても大丈夫ではない。
――スッと梨華の側による。
「大丈夫?」と、梨華の肩に手をかけようとした瞬間、
「触らないで」
と、梨華は怯えながら身をかわした。
(ウソ……)
(友達になれたと思ってたのに……)
(アタシ、嫌われてる……)
(そんな……)
(ウソ……)
(嫌われてる……)
「違うの! ひとみちゃん、嫌ってなんかない」
そう言って梨華はまた、ハッとした。自分の発した言葉に、自分自身で驚いたようである。
その時、不意にひとみの脳裏にある疑問がよぎった。
(……嫌ってない?)
(嫌ってないって……、どういう事?)
(確かにショックだったけど、顔には出してない)
(アタシは、感情を表に出すの苦手)
(だから、出る筈がない)
(それなのになんで……?)
(ナンデ……?)
梨華は、うつむいて震えていた。
その様子をハタから見ていた石黒の目にも、ハッキリとわかるほどの震えだった。
(え……?)
(なんで、ひとみちゃんって呼ばれてんだろう)
(そう言えば、アタシ名前言ったっけ?)
(言った?) (言ってない?)
(言ってない?) (言った?)
「ゴメン、私もうそろそろ帰らなきゃ」
梨華はそう言うと、くるりと背を向けてヨロヨロと駆けだした。
その後ろ姿を見て、ひとみは確信した。
(言ってない!)
(アタシ、石川さんに名前教えてない!)
「待って! 石川さん!」
ひとみは、石黒の存在などすっかり忘れて梨華の後を追った。
「なんだ?」
片方の眉を吊り上げた石黒は、夕暮れの霊園にぽつんと放置されてしまった。
夕暮れのバス停で、やっと梨華を捕まえる事ができた。
捕まえると言っても身体に振れたわけではない。
言葉を発したわけでもない。
ただ、心の中でこう願っただけだ。
(触らないから、立ち止まって。お願い)
梨華はまるで観念したように、その場にゆっくりと立ち止まった。
ひとみは、息をきらせて梨華の前に立つ。
「石川さん……」
荒い息を吐きながら、ひとみは梨華の名前を口にした。
梨華は、その場にしゃがみ込んで息を整えていた。
「あのね、石川さ」
「それ以上、言わないで」
梨華は、うつむいたまま弱々しい声でつぶやいた。
(石川さん、心が読めるのね)
そう心の中で問いかけた。
梨華は、無言でゆっくりとうなずいた。
(真希ちゃんと一緒だ……)
「え?」
と、梨華は顔を上げた。
「あ、ううん。なんでもない……」
今度はひとみが慌てる番がきた。しかし、ひとみは常日頃から真希の事を考えないようにしているので、
簡単に心にシャッターを下ろすことができた。
それには、梨華も驚いたようである。
「ひとみちゃん……、コントロールできるの?」
「え?」
「その……」
梨華は、言い難そうにうつむいてしまった。
(急にこの声が聞こえなくなった?)
梨華は、ハッと顔を上げた。
「アタシね……、昔……」
(超能力……、見たの……、たぶん……)
ひとみは、そうしてまた心のシャッターを閉じた。
「そう」
と、ひとこと言ったきり、梨華は口をつぐんだ。
「だから、小さい頃、その手の話の本って、いっぱい読んだ。石川さんのは」
(精神感応”テレパシー”って言うんだよね)
梨華が、かすかにうなずく。
それきり、会話はパッタリと止まってしまった。
しばらく無言のまま、二人はバスを待っていた。
無言……。傍目には無言であるが、ひとみの頭の中では色んな思いが交錯していた。
きっと、この心の声は梨華には丸聞こえなのだろうが、さすがに真希以外の事で心のシャッターを降ろす術は心得ていない。
(しょうがないや……)
と、諦めにも似た気持ちで、自分の心の中の疑問や戸惑いを梨華に吐露した。
それが結果的に梨華がひとみに心を許すきっかけになった事を、この時のひとみは考えもしなかった。
ひとみがそれを知るのはもっとずっと先の事である――。
霊園に行った翌日、学園の共同ホールで、ひとみはいつものように1人で昼食をとっていた。
退屈な日常にウンザリとしていたひとみだが、ここ何日の間にその退屈だった頃の日常がとてつもなく懐かしい思いがしていた。
朝、起きて。家庭の空気に悪態をつき、電車の中で現在を悲観する。
そして、学園で麻美とのとりとめのない会話で心を癒す。
そんな日常が、とてつもなく懐かしかった。
(そう……)
(麻美は、アタシに色んなものをくれていた)
(なのに私は……)
(何もできなかった……)
(今も、何もできない……)
結局のところ、麻美の死の真相は何もわからないままだった。
その片鱗でも掴みたかったが、それすらも人々が口をつぐんでいるせいでできない。
八方塞であった。
そこへ、一筋の光明がふりそそぐ。
共同ホール。この場にふさわしくない意外な人物が現われた。
学園の公舎内にある共同ホールに現われたのは、霊園で会った週刊誌の女性記者”石黒 彩”だった。
「おっ、いたいた。こんちは」
と、さも当たり前のように、ひとみの横に腰かける。
ひとみは、きょとんとしている。
「私のこと、覚えてる? ま、覚えてるよね。昨日、会ったばかりだもんね」
「え……、ええ」
「でさ、昨日聞きそびれたんだけど」
「あの、ここ学校ですよ」
「ん? そうだけど」
「そうだけどじゃないですよ。何で勝手に入ってきてるんですか!?」
「何でって、開いてたから」
ひとみは、絶句した。
(この人、常識ないの!?)
周りにいる数人の生徒たちも、この奇妙な侵入者に注目している。
その視線に気づいた石黒は、ひとみにニコッと微笑みかけると、周りにいる生徒たちに聞こえるように、わざと大きな声を出した。
「ひとみ。お姉ちゃんの言うことは、ちゃんと聞きなさいよ」
ひとみは、軽い目眩を覚えた。
(なんなの、この人……)
石黒は、そんなひとみの心境を知ってか知らずか園内の自動販売機で購入したイチゴブリックをおいしそうに飲んだ。
「でさ、この学園で起きた2つの事件の事について聞きたいんだけど」
石黒とひとみは、場所を近くの喫茶店に移していた。
もちろん、ひとみの提案である。
普通の――、事件直後にひとみが見た人の心情もかえりみずマイクを無造作につきつけてくるジャーナリストたちの類なら、
間違いなくひとみは追い返していただろう。
しかし、ひとみは石黒を追い返さなかった。
お世辞にも礼儀作法を知っている人間とは思わないが、それを補う天性の人を惹きつける何かがあった。
そしてなにより、石黒と話しがしたいと思った最大の理由は”何も情報を持たない自分より何かを知っているはず”だと睨んだからである。
「ねぇ、聞いてる?」
「あ、はい」
「2つの事件なんだけど」
「あの。」
ひとみは、強い口調で言った。
「さっきから、事件事件っていってますけど。麻美はその……自殺で、先生と矢口先輩とは関係ないって警察も言ってましたけど」
ひとみは、かまをかけてみた。
すると、石黒は低い声でこう言った。
「警察の発表がすべて正しいなんて、何で言える?」
しばらく、無言の間があった。店内に流れるクラッシック音楽が、やたらと耳障りに感じられるほどに。
――先に口を開いたのは、ひとみだった。
「やっぱり、自殺じゃないんですか?」
「……やっぱりって事は、吉澤さんも信じてなかったのね」
(しまった)
ひとみは、瞬時に判断した。かまをかけたつもりが、反対にかけられていたのである。
石黒は小さく微笑んだ。
「……信じられるわけないじゃないですか。麻美は自殺なんてする子じゃ……」
と、言いかけてひとみは口をつぐんだ。
(そう言いきれるほど、アタシは麻美の事わかってたんだろうか)
(本当は、何か理由が……)
そう考えると、ひとみははっきりと”ない”とは言いきれなかった。
「麻美ちゃんは、自殺なんかじゃない」
石黒は、戸惑うひとみの目を見てはっきりと言った。
「え……?」
「結果的には自殺かもしれない。用務員のおじさんが見たように、最後は自分で学園の屋上から飛び降りた」
「じゃあ……やっぱり」
石黒は、戸惑うひとみをあやすようにゆっくりと首を左右に振った。
「あなたの携帯にメールが届いたのが、午後6時12分よね」
ひとみは、なぜそこまで知っているのか驚いた。
警察しか知らない情報である。
(この人、ホントはすごい……?)
「でもね、そのわずか5分前に、廊下を通りかかった友達と喋ってるのよ」
「……でも、それが何で自殺じゃないって」
「その時、”ビデオの録画予約してないから、早く帰らなきゃ”って言ってたらしいの」
「……」
「普通、自殺する人がテレビ番組なんて気にする?」
石黒は、バッグの中から手帳を取り出した。
「おかしいのがここよ。それからたった5分後にあなたにメールを送っている。
たった5分の間に、死にたくなるかしら?」
石黒は続けて言った。
「5分。しかも、正確には5分じゃないわよ。友達と喋っている時間を引いてないから」
石黒は、手帳のページをめくった。
「その女子生徒は、廊下越しで木村さんが掃除をしていたから邪魔しちゃ悪いと思って、2分ぐらいで帰ったと言ってる」
「じゃあ、3分……」
「ううん。それも違う。警察の現場検証によると教室の机は綺麗に並べ終わっていた。
女子生徒がお喋りを終えて、帰り際に見たとき、木村さんは窓際の一列を並べ始めたところだったって」
「……」
「それを1分としましょう」
「2分……」
「そう。あなたに遺書のメールを送るまでたった2分。たった2分で自殺する事にした。メールを打つ時間を計算するともっと短いかも」
「……」
「そんなことって、ありえるのかしら?」
「……」
「今まで自殺に関する色々な取材をしたけれど、親しい人はそれなりにSOSは感じてるみたいだったけどなぁ。
今回みたいに、取材した人が全員知らないって言うのは初めて」
2人とも、なんとなくそこで会話を終えた。
石黒も、仕入れた情報から真相を見出せないでいるようだ。
そして、ひとみもまたさらに謎だけが増え真相から遠のいてしまった。
「中澤裕子と矢口真里……。私は、この二人が何かを握っていると思うの……」
石黒が、窓外の景色を見つめながらポツリと呟いた。
中澤裕子――。
矢口真里――。
二人の名前が、ひとみの頭の中でこだました。
駅の改札口の前で、梨華が待っていた。
ひとみの心の中の声を感じ取っていたのか、ひとみが梨華に気づいた時、梨華はもう既に随分前から気づいている様子だった。
「……わからなくなったんだね」
梨華は、うつむき加減にそう呟いた。
(そうか……)
(こうなるのがわかってたから、石黒さんと)
(そうか……)
梨華は、こっくりとうなずいた。
(……石川さんの力)
(なら、何かわかるかも)
(でも……)
(でも……)
「石川さん……。あのね」
ひとみは思いきって、梨華に訊ねる事にした。
が、すべてを話す前に梨華がニッコリと微笑んだ「うん。わかってる」
「……そうだよね」
と、ひとみも微笑んだ。
「私の力、使ってもいいよ」
「ありがとう、石川さん」
「石川さんって呼ばれるの、なんか照れる。年は同じなのに」
と、梨華は恥ずかしそうに笑った。
「だって、学年は1つ上だから」
「梨華でいいよ」
「……じゃあ、梨華ちゃんって呼ぶ事にする」
「うん。行こう、ひとみちゃん」
そう言って、駅の階段へと向かう梨華の後ろ姿を見つめていると、ひとみはなぜか赤面してしまった。
(誰かの事を、ちゃん付けで呼ぶのっていつ以来だろう……)
(そう……)
(きっと、あれ以来だ……)
ひとみは、それ以上は何も考えずに梨華の後を追って歩きだした。
ひとみは、3日ぶりに矢口家を訪れた。
夜だというのに、どの部屋にも灯りはついていない。
「誰もいないのかな? 寝るにしては早いし」
ひとみは小さな声で呟き、隣にいる梨華を見つめた。
梨華は、黙ったまま家の中を見つめている。
感応能力で、家の中に誰かの意識がないか探っているようだ。
ひとみは、それを敏感に感じとり、梨華の中に余計な意識が入らないよう何も考えないように努力した。
しばらくして、梨華がそっっと口を開いた。
「家の中には、誰もいないみたい……」
「お婆ちゃんが、いるはずなんだけど」
「うん。でも、探したけどそれらしい意識は感じなかった」
「……」
(3日前まではいたのに……)
(出かけた?)
(夜に外出するように見えなかった……)
と、ひとみが考えていると梨華が横から口を挟んだ。
「旅行かな?」
真剣な表情で、もっともな意見を言ったと思い込んでいる梨華。
ひとみは、思わず笑ってしまった。
「あのねぇ、梨華ちゃん」
梨華は、きょとんとしている。
(孫が行方不明になってるんだよ)
(それなのに、家を空けて旅行行く)
と、心の中で念じてあげた。
それを読みとった梨華は、思わず顔を赤らめた。
「そっか。そうだよね……」
と、恥ずかしそうに苦笑した。
ひとみは辺りを見まわし、誰もいないのを確認すると素早く門扉を開けて、中へと入った。
「ちょっと、ひとみちゃん」
と、慌てる梨華。
「大丈夫。見つかったら、謝ればいいよ」
目的のためなら大胆な開き直りは必要、と、勝手な理論を石黒から学んだひとみであった。
梨華は1人にされても心細いので、ひとみの後を追って中へと入った。
ひとみは、庭のほうに周り部屋の中の様子をうかがった。
そこは、どうやらリビングのようであった。人の気配はまったくない。
感応能力を持った梨華が、家の者はいないと言っていたのは確かなようだった。
ひょっとしたらと思って手をかけてみたリビングの窓は、呆気ないほど簡単にスッと開いた。
鍵はかかっていなかった。
ひとみは、庭の隅でオドオドしている梨華を呼び寄せた。
(大丈夫。来て)
梨華は辺りをキョロキョロしながら、ひとみの元へとやってくる。
「大丈夫だって。梨華ちゃん、誰もいないって言ったじゃん」
「う、うん。そうだけど」
「怖いの?」
「……」
梨華は、目を伏せコクンと小さくうなずいた。
ひとみは、フッと微笑んで土足のままリビングへと入った。
「ひとみちゃん」
「?」と、振りかえるひとみ。
「靴は脱がなきゃ」
「あ――、そうだ」
以外なところで冷静な梨華に、ひとみは笑わずにはいられなかった。
(そうだ)
(え? でも、なんで)
ひとみは、その部屋にある押入れを開けてみた。2段に別れた押入れ。下段には、綺麗に整理されたダンボールが積まれている。
上段には、衣類の入った古い小さなタンスのような物が置かれている。
「きゃあ」
と、梨華が小さな悲鳴を上げてひとみの後ろに隠れた。
ひとみもその声に驚いた。
「なに、梨華ちゃん。ビックリさせないでよ」
「そ、そこ……」
梨華は目を閉じたまま、押入れの上段のタンスの上を指さした。
ひとみは、ゆっくりとその指の先を目で追う。
「わぁ!」
青白い顔をした老父と幼女が、2人を見下ろしていた。
ひとみは思わず、その場にへたり込んでしまった。
「ひ、ひとみちゃん、写真だよ」
「へ?」
ひとみは、目を凝らしてもう1度その場所を見つめた。確かに、写真であった。
白黒の――、老父と幼女の遺影だった。
「なんだ……、もうっ」
と、ひとみはなぜか腹が立った。
梨華はクスクスと笑っていたが、ひとみのいらだちを感じとったのか、すぐにうつむいてしまった。
「あ、ちがう。その、びっくりして腰抜かした自分に腹がたって」
笑ったのを反省しているのかと思ったひとみだったが、よく見ると梨華はうつむいて小さく笑っていた。
「もうっ」
と、ひとことだけ呟いて、ひとみは遺影をマジマジと眺めた。
以外にも、老父の方の遺影が真新しく、幼女の遺影の方が古い。
(……誰だろう?)
ひとみは勇気を振り絞って、その幼女の遺影を手にとった。
「ちょっと……、ひとみちゃん」
ひとみは梨華の忠告を無視して、遺影を見つめた。それは、かなり古い遺影だった。
フッと遺影を裏返すと、そこには毛筆で書かれた走り書きがあった。
【娘 矢口真里 享年8才】
ひとみの思考が、混乱したのは間違いなかった。
(きょうねん……)
(死んだ?)
(誰?)
(矢口真里、7才)
(矢口先輩)
(7才)
(高校2年生)
(30年前)
(共同ロビー)
(死んでる?)
(失踪)
(生きてる)
「ひとみちゃん、ねぇ、ひとみちゃん」
ひとみがハッとして、後を振りかえると梨華が頭を抱えてふさぎ込んでいた。
「梨華ちゃん!」
「ゴメン……、もう大丈夫だから」
「どうしたの、急に」
「う、うん……。ちょっと、敏感に感じ取れるようにしてたから……」
(ひょっとして、さっきのアタシの意識が……)
(知らなかった)
(こんなになるなんて……)
梨華は、笑みを浮かべると首を振った。
「ごめん……、梨華ちゃん」
「ううん。もう、大丈夫。ちょっと、ほら、勝手に家の中に入ってるじゃない。だから、誰かが私たちに気づいたら、
すぐに逃げれるように意識の”網”を広げすぎてて、こっちに集中してなくて」
と、梨華はいつかのように早口になった。
「……ごめんね」
「大丈夫だよ」
と、梨華は笑って言った。
「それより……」
梨華は、ひとみの手もとの遺影を見つめた。
2階の部屋は、もう何年も使っていないのか、ほこりが充満しており、両手で口と鼻を覆わなければならないほどだった。
とりあえず、ひとみは梨華を部屋の前に残し、1人で入っていった。
その部屋は、雨戸も閉められていて真っ暗だった。
雨戸が閉まっているので明かりをつけても外には漏れない。
ひとみは手探りで電気のスイッチを探した。
数度の瞬きの後、きれかけの蛍光灯がうすぼんやりと申し訳ない程度に点いた。
(ちょうどいい。これなら、外にも漏れない)
ひとみは、あらためて辺りを見まわした。
どうやら、ここは子供部屋のようだった。
まるで時を止められているかのような、古いタイプのインテリア。
ひとみは、学習机の棚に並べられている教科書を手にとって、その裏を見た。
たしかに、”矢口真里”と幼い字で名前が書かれている。
(じゃあ……)
(あの、矢口さんは……)
ひとみは、教科書を棚に戻した。そして、ほこりが薄く積もっている机の上を、そっと指でなぞった。
(きっと、あのお婆さんは、娘のことを思い出すのが嫌でこの部屋には来なかったんだろうな……)
事実を知ることは果たして、良いことなのか悪いことなのか、ひとみは分からなくなってきた。
そんなひとみの動揺を梨華は感じとっているのだろう。矢口家の門扉を出るまで、何も話しかけてこなかった。
その梨華が、突然ガタガタと震え出したのは、ひとみがちょうど門扉を閉めおわった時である。
「梨華ちゃん……!」
梨華は震えながらも、辺りを見まわしている。恐怖の元凶を探しているようであった。
「に、逃げよう」
梨華は、ヨロヨロと駆けだした。
ひとみは、同じような光景を思い出した。
霊園で――。石黒が近づいてくるのを、察知した時――。
しかし、あの時とは様子が違うことをひとみは分かっていた。
この恐れは、どうみても尋常ではない。
梨華にとって、自分にとって、命に関わる何かとてつもなく恐ろしい存在が近くにいるのであろう。
(大丈夫)
(絶対、私が守る)
(触るよ)
(いいね?)
梨華は、震えながらも確かにうなずいた。
(大丈夫。絶対、守るから)
と、強く念じてひとみは梨華の手を握って、夜の住宅街を走った。
Chapter−5<コンタクト2>
朝。
ひとみはいつもの時間に、自然と目を覚ました。
いつものように大きな伸びをして、サッとベッドから下りた。
――の、はずだった。が、そこにベッドの段差はなく、フローリングの床だったために、いきおい体育座りをするような格好になってしまった。
(へ?)
(なんで?)
(そうだ!)
ひとみは、ハッとして自分のベッドを見た。
梨華が、眠っている。
(そうだ。あの後、梨華ちゃんバスの中で気ィ失って)
(家が分からないから、おぶって帰って)
(腕と首が痛い)
(寝顔)
(かわいい)
(……)
(気づかなかったけど……)
(梨華ちゃんって……)
(結構……)
ひとみは、それ以上は考えまいと頭をブルブルと振った。
梨華は力を使って疲れているのか、いつまでも起きる気配はなかった。
ひとみは、静かに部屋を出た。
そこはまた、いつもの光景だった。
父親が新聞を読みながら食事をし、母親がもくもくと弟たちの食事の準備をしている――見なれた光景。
つい最近まではそれがとても嫌だったが、なぜか今朝はその光景を見てホッとした。
ひとみは、気分が良くなりつい「おはよう」と呟いた。
一瞬、新聞からチラリと顔を上げた父親と目が合ったが、父親はすぐに新聞に視線を戻した。
どうやら、料理をしている母親には聞こえなかったらしい。振りかえりもしなかった。
しばらくボーっとテーブルについていると、母親が料理を運んでくる気配がした。
ひとみは、視界に入ってくるであろういつもの朝食を、いつものように待っていた。
すると、視界に入ってきたのはスクランブルエッグにトーストとサラダとオレンジジュースという、
喫茶店のモーニングセットのような料理2人分だった。
(あ、そうだ)
(昨日の夜、梨華ちゃん泊めるって言ったんだ)
ひとみは、昨夜のことを思い出した。
友達を泊めると言った時、母親がほんの一瞬、嬉しそうな顔をしたのがひとみは印象的だった。
「部屋に持って行っていいから、食べなさい」
と、だけ言い残すと、母親はまたキッチンに戻っていった。これから、弟たちの食事の準備をするのだろう。
(ウチの家族って恥ずかしがり屋かも)
ひとみは、苦笑しながら二人分の食事がのったトレイを持ってダイニングを後にした。
梨華はまだ眠っていた。
朝食をテーブルの上に置いた後、ひとみは梨華を起こそうかどうか迷っていた。
疲れているのならこのまま眠らせておきたい、しかし、同じ年齢とはいえ梨華はもう社会人である、仕事だってある。
(やっぱ、起こさないとマズイよね)
「よし」と小さく気合いを入れて、ひとみはベッドの脇に移動した。
――梨華は、スヤスヤと気持ちよく眠っている。
(あ〜、よく寝てる)
(どうしよう)
(……長いまつげ)
(かわいいなぁ……)
(お姫様みたい)
(キスで起きるのかな?)
等と考えていると、梨華が急にパッと目を覚ました。
いきなりだったので、ひとみは体勢を立て直すことができず、ベッドの縁に頬杖をついて眺めている格好のまま梨華と目が合ってしまった。
お互い、顔を真っ赤にしてそのままうつむいてしまった。
「あ、あの……、梨華ちゃん」
「……ん?」
「あ……、おはよう……」
「おはよう……」
「あ、あのね……、さっきのキスっていうのは……、そのアタシじゃなくて、王子様がしたらって事だよ」
「……うん」
「あ、アタシが……ってのは、考えてなかったでしょ」
「……うん」
「眠り姫から連想しただけで……」
「……」
数分間。2人はベッドの上と縁で、うつむいていた。
ドレッシングのかかったサラダは、そろそろしなびれようとしていた。
朝食を終え、先に梨華にシャワーを浴びさせた。
ひとみがシャワーを浴びている間、梨華は部屋で髪を乾かしながら、TVのニュース番組を見ていた。
ニュースの終わりにやる「占い」を見るのが、梨華にとっての日課だった。いくら能力を持っていたとしても、
その辺はやはり普通の15才の少女だった。
しばらくして、シャワーを終えたひとみが戻ってきた。
髪の毛はバスルームで乾かしてきたのか、もう既に渇きかけている。
「私も、髪切ろうかな」
「ん?」
「ブローに時間かかって」
「もったいないよ。梨華ちゃんは、その髪型が似合ってる」
「そうかなぁ……?」
(お姫様みたい)
と、ひとみが考えるのと同時に、梨華が不自然な動作でTVに視線を変えた。
(まただ……)
ひとみは、軽いため息を吐きつつ、もう何も考えないようにして、登校の準備をはじめた。
ニュース番組が、1つの事件を告げた。
『昨夜未明、××町の路上で近くに住む矢口真澄さん64才が、走ってきたライトバンに轢かれ即死しました』
ひとみと梨華の目が合った――。
ニュースは続く。
『目撃者の証言によると、矢口さんが路上に飛び込み自殺を図った模様ですが、自宅には何者かが侵入した形跡があり事件・事故の両方の可能性があると見て捜査を進める方針です――。以上、朝のヘッドラインニュースでした』
ひとみは、もう平和な日常が戻らない予感がしていた。
「今までに感じたことのない恐怖だった。――何て言えばいいんだろう。
心のない殺人者。――人の命をもてあそび楽しんでる」
「じゃあ、矢口さんの……お母さんはそいつに?」
梨華は、恐怖を必死に堪えようとしたままうなずいた。
「あのとき、私は家の周り300メートルぐらいに、意識の網を広げてた。色んな声が聞こえてきた。
でも、どれも私達には関係のないことばかりだから聞き流してた」
「……」
「でも、そこへいきなり”真里の元へいけて、良かったね”って聞こえて来たの」
梨華は、敷地の外へ目を向けた。ここは、ひとみの家に近い場所にあるショッピングモールの敷地内である。
朝の時間帯のため、人はいない。
学校へ行くと家を出たのはいいが、とてもそんな気にはなれずに、なんとなく人のいない場所に来てしまったのである。
「意識の網を広げて、その方向にさらに意識を向けないと、あの人の考えている事はハッキリと感じとれない」
と、梨華は一方向を指さした。
300メートルほど向こうに、歩道を歩いている中年の男性がいた。
「でもあの時聞こえた声は、意識の網の1番外なのに、まるで隣にいるかのように聞こえてきた」
梨華はまた小さく震えだした。
「梨華ちゃん……」
ひとみは、そっと梨華を抱きよせた。
(大丈夫だよ……)
「あんな人がいるなんて、怖い……。本当に怖い」
「大丈夫。私が守ってあげる」
ひとみは梨華の頭を、優しくなでた。
「麻美ちゃんを殺したのは、きっとその人よ」
梨華の言葉に、ひとみの動きが止まった。
「まさか……」
「……」
「え? だって、そいつは、矢口さんの知り合いなんじゃ……。麻美はそんな、人に恨みを買われるような子じゃない」
梨華は、ひとみの手を離れスッと立ち上がった。
「――恨みをもつなら、まだ人間らしい」
と、梨華は遠い目をしていった。
(……どういう事?)
「その声の持ち主は、思い出してた。”朝比奈学園の生徒は、罪悪感で……死に追いやった””それに比べて、さっきのは幸せものだ”って」
「……朝比奈学園の生徒」
「両方とも、自殺している。そう見せかけられてる」
梨華が振りかえって、そう言った。さっきまでの怯えた表情は消えていた。
そして、言い放った。
「相手は、力を持ってる」
(……力)
(超能力……)
(後藤真希……)
(そうに違いない)
(後藤真希が帰ってきた)
(!怖い) 水風船が割れる。
(!怖い) 西瓜が割れる。
(!怖い) ダイナマイトでの爆発現場。
(!真希ちゃんが)
ひとみは子供のように身をかがめて、ブルブルと震えだした。
梨華の頭の中に、ひとみの強烈な恐怖が飛び込んできた。
早く、早く、ガードしなきゃ。
梨華は、意識を傍受している脳の一部の器官に、ひとみの意識がそれ以上流れ込まないよう、ガードの網を張り巡らせた。
しかし、ひとみの恐怖はその網を引き裂いた。
梨華は、ひとまずその場所を急いで離れる事にした。
やっとのことでひとみの意識をガードすることができた。
振りかえると、100メートルほど離れた場所にいるひとみの姿が確認できる。
ひとみはまだその場所で震えていた。
「ひとみちゃんが抱えているものっていったい……」
梨華は、自分もダメージを受けていたが、それよりもひとみの恐怖のもとである「ゴトウマキ」の存在を知りたかった。
しかし、ひとみ自身が「ゴトウマキ」に関するあらゆる情報を封印しているので、力を使って探ることはできない。
――もとより、勝手に流れ出てくる意識を傍受してしまうのは仕方がないとして、
”能力”を使ってひとみの心の中を探るような事をするつもりはない。
それが、他の人とは違った能力を持って生まれた者のマナーなのだと梨華は心得ていた。
(めん……、華ちゃん……)
消え入りそうなひとみの心の声が、ガードをしている梨華の頭の中に響いてきた。
梨華は素早くガードを解き、ひとみのいる方向を振りかえった。
すぐ側まで、ひとみはやって来ていた。
ガードをしていたため、ひとみの意識に気が付かなかった。
「ごめんね、梨華ちゃん……」
ひとみの少年のような顔が、本当に申し訳なさそうにくもっていた。
(また、梨華ちゃんを傷つけた……)
梨華の心に、ひとみの寂しげな声が響いた。
けっきょく、2人はどこに行くでもなく、そのままショッピングモールで時間をつぶした。
ひとみとしては、もう1度”矢口家”に向かいたいのだが、梨華にまた精神的なダメージを与えるといけないので、今度一人で向かう事にした。
それに、さっき自分が与えてしまったダメージもあるので、梨華を付きあわせることはしたくなかった。
((……に……て))
((……えて……ら、……に……て))
梨華が、ショップの前でフッと足を止めた。
「? 梨華ちゃん?」
ひとみも、立ち止まる。梨華は目を閉じて、まるで耳を澄ませるようにしている。
(聞こえてるんだ……)
近くにひとみと梨華に関係する、何者かがいる。
ただ、それは身の危険を感じさせる人物ではないと言うことを、ひとみはこれまでの梨華の様子を見て学習していた。
(震えてない……)
(大丈夫)
(でも、油断できない……)
ひとみは、ギュッとこぶしを握り自然な動作で辺りを見まわした。
(主婦)(買い物)
(店員)(接客)
(子供)(走ってる)
(男)(は……)(女)(とカップル)
(主婦)(子供)(親子連れ)
辺りを見まわしたが、それらしい人物は見つからなかった。
目を閉じていた梨華が、一呼吸して口を開いた。
「誰かが、呼んでる」
ひとみはなおも、辺りを警戒した。
「ううん。近くじゃない」
「どこ……?」
梨華はゆっくりと振りかえって、駐車場のある方向を指さした。
「あっち……」
(呼んでるって事は、向こうは私たちを知ってる)
(しかも、梨華ちゃんがテレパシーを使えるって)
(それって……)
梨華は、ゆっくりとうなずいた。
ショッピングモールの駐車場に2人は、やって来ていた。
しかし、あれ以来、なんのテレパシーも送ってこないので、梨華にも送り主の存在がわからないでいる。
2人はもう数分も、駐車場内をウロウロとしていた。
大型ショッピングモールと言うこともあり、駐車場の広さはかなりのものであり、ひっきりなしに人や車が入れかわっている。
相手がなんの連絡もしてこない以上、探すのはもはやお手上げの状態だった。
「ひとみちゃん……」
梨華が前を歩くひとみの袖をつまんだ。
「ん?」
ひとみは、辺りを見まわすのに夢中で振りかえらない。
「ひょっとしたら、イタズラかも」
「――へ?」
ひとみは、振りかえった。
「あのね、たまにあるの。特に人の多いところ」
「あるって何が?」
「電車の中とか教室とか、退屈な時とかに前を向いている人に向かって”振り向け””振り向け”って思った事ない?」
「ないよ、そんなの」
「ひとみちゃんはそうかもしれないけど、そう意味もなく念じてる人がいるの。ひょっとしたら、それをキャッチしたのかもしれない」
「なんだ〜……、だれだよ、もう……、人騒がせな」
ひとみは緊張が解けて、その場に座り込んだ。
「ごめんね、余計な事して」
梨華もその場にしゃがみ、うつむいているひとみの顔をのぞき込んだ。
((何やってんの? 目の前の車、見てみ))
梨華は、ハッとして立ちあがった。今度はハッキリと聞こえた。
急に立ちあがった梨華に驚いて、ひとみは顔を上げた。
梨華は、一点を見つめている。
「梨華ちゃん……?」
「いたよ」
「え?」
梨華の視線の先に、エンジンをかけたまま停車している青いスポーツカーがあった。
ひとみは、警戒しながらその青いスポーツカーに近づいた。梨華だけはすぐに逃げさせられるよう、
ひとみは梨華を自分の真後ろにつけさせている。
真正面から近づき、中の人物を確かめようかと思ったが、いきなり急発進されても困るので少し周って運転席側のドアに近づく。
運転席のウィンドウには、濃いフィルムが張られているため中の人物は特定できない。
そのウィンドウが、ゆっくりと下がった。
「……あっ!」
ひとみは青いスポーツカーの人物を見て、思わず声を上げた。
運転席に座っていたのは、ひとみが捜し求めていた人物――、失踪した朝比奈学園の教員、中澤裕子だった。
「ヤッホ〜!」
助手席から運転席の方に身を乗りだし、お茶目に顔を覗かせているのは――そう。同じく失踪した高等部2年の矢口真里であった。
「こら、危ないやろ」
「いいじゃん、ちょっとぐらい」
「邪魔や。引っ込んどき」
「なんだよ。チェッ」
と、矢口は助手席のシートへと戻った。
「ねぇ、ひとみちゃん……」
梨華が恐る恐る、ひとみの袖を引っぱる。
(中澤先生と、矢口先輩……)
梨華は、ハッとして2人の顔をひとみの右肩越しに見た。
ひとみは、二人を見たまま微動だにしなかった。
(なんで、今頃……)
(なんで、アタシたちに……)
(なんで、梨華ちゃんの力を……)
(なんで……)
(なんで、麻美は……)
ひとみの疑問は、留まる事を知らなかった。
それを敏感に感じとった梨華は、今度は素早くガードの網を張った。
――ひとみと梨華は、走る青いスポーツカーの後部座席に乗っていた。
駐車場で中澤から乗車を勧められたとき、ひとみはハッキリ言って乗るつもりはなかった。
いくら顔をしっているとはいえ、ただそれだけで2ドアの車に乗り込む勇気はなかった。
し、そんなことに、梨華を付きあわせる気もなかった。
ひとみが断ろうとした時、梨華が耳打ちした。
「断るんなら、帰るって言ってる……」
ひとみは、しぶしぶ乗車することにした。
梨華を帰らせるつもりだったが、梨華は大きく首を振るとひとみより先に後部座席へと乗り込んだ。
――中澤が、バックミラーを覗きながら二人の様子をうかがう。
「自分ら、メッチャ静かやなぁ。酔うたんか?」
「何言ってんだよ、裕ちゃん。緊張してんだよ。ね?」
と、矢口が助手席から顔を覗かせる。
(なんだ、この二人……?)
ニコニコしている小柄な矢口は、幼い頃に見たアニメの”ミニモくん”を連想させた。
となりの梨華が、プッと笑った。
「? 何、梨華ちゃん? どうしたの?」
矢口が、きょとんとした顔で訊ねてきた。
「あ、いえ。何でもありません……」
笑いを堪えながら、答える梨華。
(”はーい、ぼくミニモくん。良い子のみんな、げんきかな〜ぁ?”)
ひとみは、心の中で”ミニモくん”の物真似をした。
うつむいて笑いながら、梨華は肘でひとみをつついた。
「あ〜、ひょっとしてオイラの事、バカにしてんだろう」
と、矢口は怒ったような口調で言ったが、目は笑っていた。
梨華は、「いえ、違います」と慌てて言い訳をしたが、笑いが漏れているのでなんの説得力も持たない。
その光景を不思議そうに見ているひとみ。
「ねぇ、梨華ちゃん」
「ん?」
ひとみは、声に出さないで念じる事もできたが、あえて前の二人に聞こえるように声を出した。
「なんで、矢口さんは梨華ちゃんのこと知ってるの?」
「――その……」
「いいよ、梨華ちゃん。自分で説明するから」
「ヤめとき。人に知られたら、それだけ危険度が増すんやで」
中澤が運転しながら言った。
「大丈夫。よっすぃ〜は、信用できるから」
(は? よっすぃ〜?)
(アタシのこと?)
(なんだよ、よっすぃ〜って……)
ひとみは、梨華を見た。
梨華は、笑顔を浮かべてうなずいた。
「あ、また。2人の世界に浸ってる」
と、矢口が口を尖らせた。
「あの……、矢口さんも心が読めるんですか?」
ひとみは、訊ねた。心が読めるのなら、いちいち会話に入ってきてほしくなかったからだ。
「ん? 違うよ」
と、矢口は答えた。
「……じゃあ、何で梨華ちゃんの名前や私の事」
「へへ。矢口ね、ほんのちょっと未来を見たり、過去を見たりする事ができるんだ」
ひとみは知っていた。その能力が何と呼ばれるかを、そして密かに麻美の事件の真相を知りたく、自分にその能力が欲しいと思っていた。
「サイコメトリー……」
「そう。よく知ってんね」
「……えぇ、まぁ」
と、ひとみはそれ以上考えないように、窓外の流れる景色を眺めた。
((怒った?))
((矢口、なんか悪いこと言ったかな……))
「あ、違います。ひとみちゃんは、その」
と、ほんの一瞬の静寂が車内に漂った後、梨華がおもむろに口を開いた。
「矢口、気ィつけや。心読まれたで」
中澤のその言葉を聞いて、梨華はハッとし、そして「すみません……」
と消え入るような声を出してうつむいた。
「ちょっと裕ちゃん。そんな言い方しないでよ。矢口は別になんとも思ってないんだから」
「余計なトラブルの元や」
ひとみは、その言葉にムカッとした。
「なんですか、そのトラブルの元って」
「言葉の通りやけど」
中澤は運転しながら、余裕の態度で答える。
「アタシたちだって、好きでここにいるんじゃありません。先生たちが呼び寄せたんじゃないですか」
「呼び寄せた?」
「そうですよ」
「う〜ん、それはちょっと違うなぁ」
と、中澤はニヤニヤと笑った。
その態度が余計に、ひとみの神経を逆撫でした。
「違わないじゃないですかッ」
「ちょ、ちょっと、裕ちゃん。いい加減にしなよ」
「落ちついて、ひとみちゃん」
梨華と矢口は、それぞれのパートナーをなだめた。
正確に書くと”矢口は、中澤を叱った”である。
ひとみは、気付かないほど興奮していたのか、額の汗に気づいて自分でも驚いた。
梨華が、バッグからハンカチを取りだして、そっとその汗を拭う。
「あのね、よっすぃ。これは、その、なんていうか、呼び寄せたとかじゃなくて……」
矢口は、どう説明していいのか困っているようだった。
「あらかじめ、そうなるようになってたんや」
そんな様子を敏感に感じとった中澤が、口を開いた。
「……。どういうことですか?」
「簡単に説明するとやな、矢口は未来を見る能力があるけど、ただホンマに"見るだけ"なんや」
「未来がわかったら、変える事ができるじゃないですか」
「まぁな。そう思うんが普通やな」
「このやりとりもね、矢口は1回見てるの」
(なんか……、難しい話になってきそう)
(梨華ちゃん、わかる?)
梨華は、しばらく考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「つまり、確定した未来は確定した現在から続いてるって事ですよね」
(……もっと簡単に説明してよ)
ひとみは、泣きそうになった。数学的・科学的な話は、まったくの苦手なのであった。
高校に入れば、物理も苦手教科に加わるだろう。
「考えてもしょうがない。そんなんできるんなら、とっくの昔にやってるわ」
「それじゃ、説明になんないよ」
「ウチラかてホンマのところはわかってないんや。全然わからん吉澤はただ混乱するだけやろ」
「だけどさ」
(……アタシって、すごいバカかも)
(梨華ちゃんは、わかってるのに)
(あ〜ぁ……もう……)
(ちょっと、勉強しよう……)
ひとみは、「はぁ〜……」とため息をついてうなだれた。
車内には何となく、気まずい雰囲気が流れた。
(どうせ、これも決まってるんでしょ)
(変えられないんなら、どうでもいいや)
(……ね、梨華ちゃん)
「そんなことないよ。また、今度ゆっくり教えるから。ね」
と、中澤と矢口に聞こえないように小さく呟いた。
ひとみがすっかりいじけていると、車は急にハンドルを切り、建物の敷地へと入っていった。
よく見ると、そこは朝比奈学園であった。
青いスポーツカーは、教員専用の駐車場で乱暴に止まった。
車内には、さっきとはまた別の重苦しい緊張した空気が流れた。急に車内の温度が、上昇したようであった。
梨華が、ひとみの袖口をギュッとつまんだ。
「麻美ちゃんの自殺の真相……わかるよ」
ひとみは、この車内の重苦しい緊張の意味が分かったような気がした。
ただ、自殺の真相がわかるだけでは、車内の人物にこれだけの緊張感が走る事はない。
(きっと……、麻美を自殺に追い込んだヤツが来るんだ……)
ひとみの額に、またうっすらと汗が滲み始めた。
last chapter−6<対峙>
謎の失踪をした二人が、堂々と学園内を歩いてるのを眺めていたら、
さっき車内で話していた「未来は変わらない」という理論も何となく理解できるひとみであった。
(この2人は、絶対に誰とも出会わない事を知ってるんだ……)
(先生や生徒たちに会わない未来を、矢口さんは見たんだ……)
ひとみは自分の考えが正しいのかどうか、確認をとるように梨華を見た。
梨華は、「うん」と小さくうなずいた。
(ねぇ、梨華ちゃん)
(麻美を自殺に追い込んだヤツとは、いつ会える?)
(どこかで待ってるの?)
梨華は、「わからない」とだけ答えた。
梨華にもわからない事が、自分にわかるわけがないと、ひとみはもうそれ以上深くは考えずに、なるようになればいいやと、
なかば諦めにも似た気持ちで、二人の後をついて歩いた。
2人が足を止めたのは、共同ホールの前だった。
中澤と矢口が、振りかえる。
「おーい、早くこっちだよ」
と、矢口が手招きをする。
中澤は、なんとなく辺りをキョロキョロと見まわしていた。
放課後の静かなホール。
どこかから、生徒たちの談笑が小さく聞こえていた――。
「あの家の矢口さんには、本当に悪い事をしたと思ってる。ただ、同性同名っていうだけで、利用させてもらってただけなのに……」
「ここに入学する時にな、ウチがちょっと書類をいじらせてもらったんや」
「じゃあ、やっぱり矢口さんはあの家とは関係ないんですね」
「うん。1度も行った事ない。あ、今日が初めて。よっすぃたちに会う2時間ぐらい前かな」
「行ったんですか?」
「中には入らなかったよ。警察もいたし。ただ、昨日の夜、よっすぃたちがそこで何をしていたのかは見ちゃったけど……」
「あんたらも、大胆な事するなぁ。不法侵入やで。見つかったら、捕まんで」
中澤は、タバコを吸いながら呟いた。
その向かいに座っている梨華は、タバコの煙の匂いに顔をしかめて何気にアピールしていたが、中澤は気づくことなく2本目を吸った。
梨華の隣にひとみが座り、その正面に矢口が座っている。
さきほどから、何をするでもなく話をしている。
まるで、その時が来るのを待っているかのように時間を無駄に過ごしていた。
「ただ、やっぱりさ、面識がないとは言え矢口のせいで巻き込まれたのは事実だから……、
せめて家の外からでも手ぐらいは合わせたくて……」
「そしたら、こうなってもうたわけや」
「……巻き込まれたって、どういうことですか?」
「焦らんでも、もうすぐわかる」
「矢口さ、さっき車の中で未来が見えるって言ったじゃん。でも、あれってちょっと違うの」
「違う?」
「うん。ちょっとした限界があってね、未来はせいぜい2〜3時間ぐらい先しか見えないの。
過去は、そうだなぁ〜試したことないけど、たぶんどこまででも見えると思う」
「ずいぶんと、差があるんですね」
「しかも、未来は自分の未来に関わる事しか見れないの。過去は違うけどね」
(また……、難しい話かな……)
ひとみは、ちょっとゾッとした。
となりの梨華が、クスッと笑う。
(あ、ひどい)
無言の会話を悟られると、また梨華が責められそうな気がしたので、ひとみはなんでもなかったかのように質問を返した。
はす向かいの中澤は、二人の無言の会話に気づいているようだったが、何も突っ込んでは来なかった。
「アタシと梨華ちゃんの未来は、見えないんですか?」
「今は見えるよ。だって、矢口も一緒にいるから」
「……あ、なるほど」
「だからさ、あたしの能力なんて、ホントたかが知れてんの」
と、矢口は笑った。
中澤が2本目のタバコを、空き缶の中にポトリと落とした。
ジュッという煙草の火が消える短い音が合図だったかのように、中澤とそれまで笑っていた矢口が急に真剣な表情をしてゆっくりと腰をあげた。
「さて、そろそろ行こか」
梨華が、身を固くして立ちあがった。逃げられない運命をいちはやく理解した彼女ならではの行動だった。
ひとみも梨華を見習い、すべてを受け止める事にした。
まだ外はかなり明るかったが、中等部の校舎には、もう生徒の姿はないように感じられた。
部活動が休みのせいか、生徒たちは早々と放課後を満喫しに下校したのかもしれない。
4人は廊下から誰もいないがらんとした、ひとみの教室を眺めていた。
ひょっとしたら、麻美の事件がきっかけで生徒たちは居残らなくなったのかもしれない。
ひとみは、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「矢口……」
「……うん」
2人とも、今までに見せたことのない神妙な表情を浮かべた。
「はじまるよ……」
梨華が、ひとみに向かってソッと呟いた。
「矢口さんは、ある人物との関係を確かめるために、今から過去を覗く。ひとみちゃんには辛いだろうけど、
それには麻美ちゃんの事も関係してるから……」
これから受けるであろうひとみの傷を心配した梨華は、今にも泣きそうな表情になっている。
「大丈夫。準備はできてるから……。でも、気をつけてて……」
梨華は、黙ってうなずいた。
逃げれるものならとっくに逃げていた。もう、真相はどうでもよかった。ただ、この大きな流れの外に出たかった。
退屈でもいいから、以前のような平凡な毎日に戻りたかった。
でも、もう後戻りできないことをひとみは理解していた。
矢口が目を閉じ、大きく深呼吸をし、そして、ゆっくりと両手を教室にかざした。
しばらくして、矢口の身体がビクンと大きく振動した。
すばやく、さも当たり前のように、中澤が小さな矢口の体を支える。
閉じられた瞳だが、まぶたの向こうでそれが動いている。
ひとみも梨華も、固唾を飲んで見守った。
矢口は今、あの日の出来事を見ている――。
どれくらいの時間がたっただろうか、不意に矢口の身体がガクンと力をなくした。
中澤がいなければ、そのまま廊下に倒れこんでいただろう。
矢口は中澤の腕の中で、目に涙をためていた。
そして、ゆっくりとひとみに視線を向けた。
「ごめんね、よっすぃ……。ウチラのせいで、麻美ちゃん……」
矢口は、また中澤に視線を戻した。
「アイツ、やっぱりここに来た。でね、ウチラが逃げたのをわかったら、腹いせにここに残ってた麻美ちゃんを……。
なんの関係もない麻美ちゃん……よっすいの友達……矢口のせいで、関係ない人が2人も死んじゃったよ」
矢口は両手で顔を覆って、泣いた。
中澤は、何も言わずにソッと矢口を抱きしめた。
(やっぱり)
(やっぱり……)
(やっぱり、麻美は自殺じゃなかった)
ひとみは、そう確信すると今まで堪えていた悲しみが堰をきったように溢れた。
それでもひとみは、涙を流すことができなかった。
麻美の死をやっと受け入れることができた。
自殺ではなく、他殺であった事もハッキリした。
もうこれで、ひとみが涙を堪える理由はなくなったはずであった。
でも、流れなかった。
(麻美……)
(こんなアタシを呪っていいよ)
(だって、友達のために涙も流せないんだもん)
(最低だよ……)
(ホント、ごめん……)
(麻美……)
(ごめんね……)
「ひとみちゃん……」
ひとみは、泣き顔の梨華に優しく微笑みかけた。
「麻美ちゃん、そんな風に思ってないよ」
「もう、いいんだ……。アタシは、こんなヤツだから」
「何がイイのよ」
「……」
「ひとみちゃんの悲しみ、私にちゃんと流れてきてる。防いでても、ちゃんと届いてる。
――世の中にはね、悲しくもないのに涙を流せる人が大勢いるのッ。楽しくもないのに、笑ってる人が大勢いるのッ。
好きでもないのに、愛してるって口にする人がいるのッ。
そんな人たちに比べたら、ひとみちゃんの心はすっごくすっごく綺麗んだからッ。
麻美ちゃんだって、それがわかってたから友達だったんじゃない。そんな自分を、そんな友達がいた事をもっと誇りに思って!
もう、いいなんてそんな悲しいこと言わないでよ……」
梨華はその場にしゃがみ込んで、声を上げて泣いた。
「石川の言う通りやで……」
呆然と立ちすくんでいるひとみの肩に、中澤が優しく手をかけた。
「ほら、涙拭いたげ」
と、中澤は自分のハンカチをひとみに渡した。
ひとみは何も言わずに中澤に軽く頭を下げ、梨華の元へと歩み寄った。
(ごめん……)
(泣かないで……)
(もう、いいなんて言わないから)
(ね、だから)
心の中で語りかけながら、ひとみは梨華の涙を優しくぬぐった。
中澤が、矢口を支えながら教室のドアを開けた。
ひとみはそれを横目で見ながらも、涙を止めようと必死になっている梨華の側を離れなかった。
「ひとみちゃん、向こう行ってて」
「え?」
「私、戦わなきゃ……」
「え……?」
梨華は教室の中にいる矢口を見た。矢口が、ゆっくりとうなずく。
「戦うってどういうこと?」
「わからない。でも、そうなるの」
「意味がわかんないよ。ねぇ。なんで梨華ちゃんが」
「いいから」
梨華の視線がひとみの後方に向けられる。
振りかえるひとみ。
教室の入り口で、中澤が待っている。
「ねぇ、ちゃんと説明してよ。ねぇ、梨華ちゃん」
梨華は何もいわずに、ふさぎこんだ姿勢のまま顔を上げなかった。
「ねぇ。ねぇ」
と、ひとみがその華奢な肩に手をかけ揺らす。
「いい加減にしとき。さっきも言ったやろ。これは決まってる事や」
見かねた中澤が、ひとみを連れに来た。
「……だったら、私がここから動かないのも決まって」
ひとみの腹に、鈍い衝撃が走る。
「梨……華……ちゃ……」
ひとみは中澤の腕の中で、気を失った。
「すまんな。これも決まってたんや」
中澤は気を失ったひとみを半ば引きずるようにして、教室の中へと入っていった。
それを見届けた梨華が、ゆっくりと立ちあがる。
数メートル先の階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
少しの間を空けて、梨華はその方向に向き直って言った。
「私――、あなたのこと許せない」
足音がピタリと止まった。
「出てきたら。福田……明日香さん」
壁の向こうで、クスッという笑い声が漏れてきた――。
「なんだ、バレてたの」
セミショートの少女が廊下に姿をあらわした。
明日香の流れてくる思考を感じとった梨華は、それだけで気を失いそうになった。
その愛くるしい姿からは想像もできないくらいに淀んでいる邪悪な精神。
梨華が初めて出会った良心のない悪魔だった。
明日香は、そのアーモンドのような瞳で梨華を捕らえた。
その瞬間、梨華の思考の中をヌメヌメとした触手のようなものが入り込んでくる。
梨華はそれを必死でガードした。
矢口が共同ホールで何気に会話している最中に送ってくれたテレパス。
あらかじめ明日香の能力を教えてくれていなかったら、呆気なくその能力に敗れていただろう。
「ふーん。入り込めないってことは、同じタイプか」
小さく笑いながら呟く明日香に、梨華は心底から嫌悪を感じた。
「あなたと一緒にしないで」
明日香はもう興味がないといった素振りで、梨華から視線をそらし教室の中に視線をうつした。
「あ、いた」
ニッコリと笑ったその笑顔は、教室の中の矢口を震えあがらせた。
「あ、どもっ」
と、明日香はおどけた挨拶を中澤に向けた。中澤は明日香を見ていなかった。目を閉じて、すでに”無”の境地にいた。
明日香は『ふぅ』とため息を吐いて、また梨華に向き直った。
「これだから、未来の見えるヤツは厄介なのよね」
「厄介なのはあなたよ」
「へぇ、かわいい顔してオモシロイこと言うね」
「人の命をなんだと思ってるのッ」
「別に」
「罪の意識がないの」
「だって、人を殺したことなんかないもの」
「……! よく、そんな事が言えるわね」
「ちょっと待ってよ」
と、明日香は笑いながら続ける。
「私はただ、ほんのちょっと下の方に隠してある意識を上げてるだけ」
「……それがどんなに危険な事か、わかるはずでしょ」
「さぁ。この前のお婆さんは、嬉しそうにしてたけど。娘との楽しかった思い出が上がってたもの。
私としては、懺悔しながら死んでいくのを見るのが面白いんだけどね」
「……最低!」
梨華は、明日香に意識の触手を伸ばした。入り込める隙間がないか、弱点がないか梨華自身がこれまでに出した事のないスピードで、
明日香の意識を探った。
「無駄なのに」
「……」
明日香の皮肉めいた笑いが聞こえないほど、梨華は集中している。
「さてと、なんにもできないみたいだから、また置き土産でもして帰ろかな」
と、明日香が欠伸をしながら言った。
その瞬間、意識を探っていた梨華は、明日香の触手がひとみに向かって伸びたのを知った。
(あっ!)
梨華が、触手を引っ込めた時にはもう明日香の触手はひとみの意識を捉えていた。
気を失い倒れていたひとみが、目をパチリと開ける。
((梨華ちゃん、助けて!))
矢口の声をキャッチしたが、梨華はそれに答える余裕はなかった。
完全にパニックになっていた。
「ハハ。この子は、罪の意識があがったみたい」
と、明日香はさも楽しげに笑った。
(麻美を殺したのはアタシ)(自分がいいカッコしたかった)(あの日、麻美を帰してれば)(死なずにすんだ)(自分が死ねた)(楽しくない)
(みんな、汚い)(もう夢はない)(逃げたい)(死にたい)(何もない)(麻美)(麻美)(友達)(もういない)(意味がない)(生きてる意味ない)
ひとみが意識下の奥底に秘めていた麻美への感情を、一気に爆発させた。
アタックに夢中でガードをし忘れた梨華の意識に、ひとみのマイナスの感情が放流したダムのように押しかけてきた。
「ひ、ひとみちゃん……」
教室の中のひとみが、フラフラと立ちあがる。その目には何も映っておらず、ただぼんやりと空中を漂っている。
(バレー)(好きだった)(麻美)(かばった)(後悔)(後悔)(後悔)
(もう何もない)(バレー選手)(死んだ方がマシ)(退屈)(天国)
(麻美)(楽しい世界)(いっそ)
「もう、止めてーッ!」
梨華は耳をふさいで叫んだ。
明日香は、ニヤニヤと笑いながら教室のひとみを見つめている。
ひとみはまるであの日の麻美のように、突然教室を飛びだした。
梨華の頭の中に、矢口の声が響いた。
((教室を離れたら、未来が見えなくなる))
しかし、今はもうそんなことはどうでもよかった。梨華はただ、本能の赴くままひとみの後を追った。
二人の背中を見送った明日香は、教室の中の矢口をチラリと一瞥すると、二人が消えていった方向に向かってゆっくりと歩いて行った。
バレー部で鍛えていたひとみの足は予想以上に早く、すぐに後を追ったにもかかわらず梨華とはもう校舎2階分の差がついていた。
梨華は最悪の結末を想像して、身震いした。
『助かる』
共同ホールで、テレパスを送って来た矢口の言葉を思い出したが、今はその矢口も近くにはいない。
矢口の見ている未来の外へとやってきてしまったのだ。
梨華は足をもつれさせながらも、必死で階段を登った。
屋上の踊り場についた時、梨華はホッと胸を撫で下ろした。
事故の再発を懸念したであろう学園側が、屋上への出入りを簡単にできないよう、念入りにバリードのようなもの組んでいた。
それでもひとみは、そのバリケードを崩そうとしている。
きっともうあと数分もすれば、そのバリケードは意味をなさないだろう。
「ひとみちゃん! やめて!」
梨華はひとみを後ろから、羽交い締めにした。しかし、ひとみはその動きを止めようとはしない。
”死”をプログラムされたロボットのような動きで、ひとみは淡々と素早くバリケードを解いていた。
梨華は、今までよほどの身の危険を感じない限り他人の意識下に潜り込みコントロールしたことはない。
幼少の頃、変質者に襲われそうになった時が初めてだった。
それも結局のところ、うまくはできずに相手の精神を破壊してしまった。そのことにより、梨華自身も深い傷を負った。
自分の力に対して恐怖を覚えたのだ。それから、しばらくの間、意識の触手を伸ばすことはなかった。
2度目は、ほんのちょっとした好奇心だった。中学3年の時、同級生の男の子に告白された。悪い気はしなかった。むしろ、嬉しかった。
しかし、それと同時に相手の本心を知りたいという、我慢できない衝動が沸きあがり、授業中にその男の子の意識下に潜り込んだ。
陵辱される自分の姿がそこにあった。
それ以来、梨華は男が苦手になった。
そして、3度目がついさっきである。悪意の中に触手を伸ばした。
が、そこに隙はなくただ探索していただけに過ぎない。
もし潜り込めたとしても、上手くコントロールできたかどうかの自信はなかった。
そして、今からが4度目である。梨華は、ひとみに向かって触手を伸ばした。梨華の触手が、ひとみの意識の表面で止まる。
涌き出てくるマイナスの感情により先に進めないのと、梨華自身の躊躇のせいもあり先に進めない。
梨華は恐れていた。もしも、失敗してひとみの精神を破壊してしまったら……。そう考えていた。
その時だった。
(麻美)(飛び降りた)(殺した)(あとを)(天国)(一緒に)
(辛い)(苦しい)(生きてるの)(辛い)(変わりに)(死ねば)
(戻れない)(麻美)(早く)(死)(死)(死)(死)(死)(死)
(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)
(死)(死)(死)(死)(死)(死)(”助けて”)(死)(死)(死)
(死)(死)(死)(”梨華ちゃん、助けて”)(死)(死)(死)
(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)
(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)(死)
死を誘うマイナスの感情の中から、ひとみの叫びが聞こえてきたのは。
触手を潜り込ませていなかったら、感じ取れなかったであろう弱いその叫び――。
「ひとみちゃん!」
梨華はもう迷わなかった。涌き出てくるマイナスの感情に押し流されながらも、力の限りひとみの意識の奥へ奥へと触手を伸ばした。
流れ出てくる意識の源。
そこに梨華の触手は到着した。触手を伝って、梨華は自分の意識を流す。
いくつもの階層に別れた意識下。今、ひとみが流しているマイナスの感情はかなり下の方から沸きあがっている。
梨華は、ひとみの姿を探した。マイナスの感情を湧き出させているひとみ自身が、どこかにいるはずだった。
梨華は階層の縁に、佇んでいるひとみを見つけた。
(ひとみちゃん!)
梨華の呼びかけに、ひとみがハッと振りかえる。
(梨華ちゃん……)
(帰ろう。一緒に帰ろう)
その声に、ひとみはゆっくりと首をふり梨華に背を向けた。
(なんで?)
(麻美は身代わりで死んだ。私のせい……)
(違う。そうじゃないよ)
(あの日、アタシが掃除当番変わってなんて言わなかったら、麻美は死ななかった)
(パスケースを私に届けたこと、後悔してるの)
(……わからない)
(私は、ひとみちゃんに出会えたことすごい嬉しい)
(……)
(ひとみちゃんの考えなら、悪いのは全部私よ。あの日、階段で転ばなかったらひとみちゃんはこんなに苦しまなくてよかった)
(違う、梨華ちゃんは悪くない)
(だってそうじゃない。あの日、私が転んだから)
(違う)
ひとみは梨華の元へと駆けよった。
(梨華ちゃんは悪くない)
(じゃあ、誰が悪いの)
(悪いのは……)
(パスケースを落とした私? それとも拾ったひとみちゃん?
それとも教室に残っていた麻美ちゃん?)
(ううん……。誰も悪くない)
弱々しかったひとみの目に、生気が戻る。ひとみの目は、梨華の後方にそそがれる。
(許さない……)
怒気を含んだひとみの声は、梨華の後方にいる明日香に向けられていた。
梨華は明日香の存在に気づいて、振りかえった。
(へー、あなたって結構ふくざつな人生送ってきてんのね)
と、明日香は階層を見渡しながら言った。
(なんで、ここに……)
梨華は驚愕の表情を浮かべる。
(とどめをさそうと思ったのに、あなたすごいね。元に戻しちゃうんだもん)
ひとみは、梨華を自分の後ろに隠す。
(ここは、アタシの意識の中。もう、操る事なんてできない)
明日香が、フッと笑う。
(何でそんなのがわかるの? あの辺のを上にあげるだけで、つぶす事だってできるじゃない)
と、階層の下を指さす。
(ムリよ。ひとみちゃんの意識は、ここにあるんだから。あなただってわかってるでしょ。できるんなら、わざわざ姿を見せなくてもいいのに)
今まで余裕を浮かべていた明日香の表情が、見る見るうちに雲ってゆく。
(失敗したの、初めて。すごい、ムカツク)
(何がムカツクよ! 麻美を返して!)
明日香は、叫ぶひとみを無視して梨華を睨んでいる。
(でも、失敗に終わらせない)
梨華は、身震いした。
(先に、あんたから消してやる)
そう言い残すと、明日香の姿はひとみの意識下から消えた。
(梨華ちゃん、戻って!)
ひとみが叫ぶのと同時に、梨華の姿も消えた。
屋上のバリケードを解いていたひとみの動きが止まる。
ハッとして振りかえると、後ろで梨華と明日香が対峙していた。
お互い何も言葉を発しないまま、意識の攻防を繰り返している。
ひとみが明日香につかみかかろうとした時、ひとみの動きは明日香の触手により運動機能を停止させられた。
額に汗が浮かび、苦悶の表情を浮かべる梨華。
余裕の笑みを取り戻す明日香。
このままでは勝敗が目に見えているが、動けないひとみにはどうする事もできなかった。
(後藤真希のような力があったら……)
ひとみがそう思った瞬間、明日香が梨華から目をそらし、ひとみを見た。その表情からは、先ほどの笑みは消えていた。
「なんで、真希のこと……」
と、声に出すと「ウッ!」と頭を押さえてその場にふさぎこんだ。
同時にひとみの動きも自由になる。
「梨華ちゃん」
梨華は呼吸を乱しながらも、ひとみの声に反応してうなずいた。
ひとみは梨華が明日香の意識に入り込んだのを確信した。
その時、学園のチャイムが鳴り響き、マイクを通した声が学園中に響き渡った。
『お客様のお呼出を申し上げます。東京都江戸川区からお越しの』
『コラッ。イタズラしないの』
『へへ〜』
ひとみと梨華は、目を見合わせた。
『福田さ〜ん、聞こえますかー? あんなぁ』
「やばいよ、梨華ちゃん。仲間がいる」
勝利を確信したひとみだったがあっという間に、立場が逆転して恐怖を感じた。アナウンス室には、二人いる。
しかも、明日香が「クソッ」と小さく呟いたのを聞いてしまったからには、同等もしくはそれ以上の力を持った人物が
アナウンス室にいる事は間違いないと悟るひとみであった。
『すたんどぷれぇは、ダメらしいですよ〜』
『明日香。すぐに撤収よ。これは命令だから。いいわね』
『3階私服売り場で。あっ……』
『何よ、私服売り場って』
『へへ、間違えましたぁ』
ぷつんと、マイクの切れる音と共に学園に静寂が戻る。
同時に、梨華の身体がよろめいた。ひとみは、慌ててその体を支える。
「梨華ちゃん!」
梨華は、ひとみの腕の中で気を失っていた。能力を使いすぎたせいで、少し地黒だった顔面は蒼白となっている。
額を押さえて、ヨロヨロと立ちあがる明日香。
明日香の能力の前ではなんの意味も持たない事であるのはわかっていたが、ひとみは目を閉じてとっさに梨華に覆い被さった。
しかし、明日香は何も言葉を発せず何も力を使わず、ヨロヨロと階段を下りていった。
どのくらいそうしてたのだろうか。ひとみが目を開けたときには、明日香の姿は完全に消えていた。
後を追う気にはならなかった。それよりも、自分の腕の中で気を失っている梨華のことが心配でならなかった。
しばらくすると、中澤と矢口が階段を駆け上がってきた。
「梨華ちゃん!」
矢口が慌てて梨華のもとへ駆け寄る。
「矢口さん、これも見えてたんですか?」
ひとみが冷たい口調で、問いかける。
「……」
「このあと、アタシたちはどうなるんですか?」
「……」
矢口は何も答えられなかった。
代わりに答えたのは、中澤だった。
「アタシらは、もうここを去らなあかん。たぶん、もうすぐ人が来るんやろう。矢口があんたらと一緒にいる未来を見たのは、ここまでや。
その先は……別行動らしい。まぁ、3時間以上未来はわからんけどな」
ひとみは、矢口に視線を移した。矢口は申し訳なさせそうに、梨華の額の汗をぬぐっている。
「矢口は、助けに行こうとしてたんやで。けど、ウチが止めたんや。ウチラが行っても、石川の意識が散乱して足手まといになるだけやからな」
「……ごめんね。狙われてるのは矢口なのに、よっすいたちを巻き込んじゃったりして」
「……」
「アイツらは、企業に雇われたスカウトマンみたいなもんや。
能力を持った人間を集めて、何やらしようと企んでんねん」
「梨華ちゃんを殺さなかったのは……、梨華ちゃんもアイツらのリストに入ったのかもしれない」
矢口は、梨華の頬をなでながら悲しそうに呟いた。
「こんな力は多かれ少なかれ、力を持ってない人間との間に溝を作る。せやから、ホンマはそういう能力を持った人間ばかりが集まってるところにおるのがいいんかもしれん。バレんようにしようとか、傷つけたりせんようにって、恐れたりする事がないからな」
「……」
「けど、アイツ等に矢口は渡せん。能力があろうとなかろうと、命は命や。それをいとも簡単に……」
「裕ちゃん、もうそろそろ」
矢口が梨華のもとから、そっと離れた。
「ごめんね、よっすぃ。もう時間だから……」
ひとみは、静かにうなずいた。ここからは、自分達の未来が流れるのだ。
「梨華ちゃんが起きたら、矢口が謝ってたって伝えて。それと……」
ひとみは矢口の言葉を遮るように、名前を呼んだ。
「矢口さん」
「ん?」
「また――、会えますよね」
「うん」
「じゃあ、さよならは言いません。中澤先生も」
中澤は、微笑を浮かべてうなずいた。
ひとみが梨華の頭を優しく撫でている間に、2人は静かに踊り場を後にした。
数分後に見回りに来た用務員は、階段の踊り場で倒れている2人の少女を見て、慌てて救急車を呼びに走った。
いつの間にか、ひとみは梨華を抱きしめたまま眠っていた。よほど、疲れてしまったのであろう――。
ひとみは、久しぶりに心地よい夢を見ていた。
梨華と麻美と3人で、お気に入りのショップで買い物をしている――。
正確には、2人の買い物に付き合わされて少々疲れるが、それでいてとても心地よい――。
そんな夢を見ていた。
〜エピローグ〜
数日後の午後。
ひとみは、麻美の眠る霊園に1人で来ていた。
墓前に麻美の好きな”カスミソウ”を添え、もう何時間もその前にすわっている。
ただ、麻美の色んな表情を思い出しながら何時間も過ごしていた。
気づいたら、ひとみの頬に涙が流れていた。
懺悔や後悔からではなく、ただただ単純に麻美の笑顔がもう2度と見られないのだと思ったら、いつの間にか自然と涙は流れていた。
――ひとみが墓の前から去った後、カスミソウが風に揺れた。
まるで、ひとみのもう1つの誕生花”わすれな草”、その花言葉のように。
まるで、生きていた頃の麻美が、”バイバイ”と手を振るように。
花はひとみが見えなくなるまでいつまでも揺れ続けていた。
第2部
〜プロローグ〜
朝比奈町から、東に40キロ離れた場所に位置するサキヤマ海岸。
老父、村山富市はいつものようにその沿岸の小道を犬のペスを連れて散歩していた。
沿岸部という事もあり、その近辺の朝はたいてい薄い霧が漂っている。
その日の朝もそうであった。
村山は足もとに注意しながら、ペスの散歩をさせていた。村山の歩調に合わせてほんの少し先を歩いていたペスが、
脇の茂みに向かって威嚇のポーズをとった。
どうせ、猫でもいるんじゃろう――村山は、ペスの名前を呼び手綱を少し強めに引いた。
いつもなら、この合図でペスはなんでもなかったかのように散歩に戻る。
しかし、この日は違った。どんなに名前を呼ぼうとも、どんなに強く手綱を引こうとも、牙を剥き出しにしてその場を動こうとしなかった。
はて?
何がいるのだろうと、村山が茂みの中に顔を伸ばした瞬間、ブンッという鈍い音ともに何かが茂みを突き破り、そして村山の首を跳ねた。
ペスはずっと茂みに向かって牙を剥き出しにしつづけた――。
Chapter−1<サキヤマ町>
(ぜんぜん、わかんない……)
(ルート2って、2だったっけ……?)
(ぜんぜん、わかんない……)
(ヤバイ)(ヤバイ)(平方根……)
ひとみは今、数学の問題を必死に解いていた。テスト開始からすでに20分が経過しているが、ほとんど白紙の状態であった。
あの事件以来、特にこれといった非日常的な事件は起こらなかった。
だからといって、テスト勉強をするというような事もなく、暇にかまけてダラダラした生活を過ごしていた。
ダラダラと過ごしていたが、以前のようにその退屈な日常に不満を抱く事はなかった。
矢口の残した「梨華ちゃんもリストに入った」という言葉がずっと残っていたからである。
いずれ、明日香または別の人物が自分達の前に立ちはだかるのを、ひとみは覚悟していた。
それはいつになるのか、なんの能力も持たないひとみにはわからない。
ただ、何があっても梨華を守ろうという強い覚悟だけはあった。
今ダラダラしているのは、次の戦いに備えての束の間の休息なのだと、ひとみは自分自身にもっともな理由をつけて、毎日を過ごしていた。
もちろん、中間テストの事などすっかり忘れていた。
その結果が、全30問中回答記入率わずか7問という数学のテストになって現われた。
ひとみは、がっくりと肩を落として午後の町をぶらつく。
行き先は決まっていた。駅前にある梨華の勤めるフラワーショップ。
ほぼ毎日のように、顔を出していた。
だが、今日はその足取りも重い。
テストの出来のダメージはかなり大きい。
いくら数学が苦手で、テスト勉強を忘れていたとはいえ、7問しか答えられなかったのはショックだった。
しかも、それが正解しているのかも分からない。
(本当のバカだって、梨華ちゃんに分かっちゃうよ……)
(はぁ……)
できることなら、適当な理由をつけてさっさと家に帰ろうと思ったが、相手の心を読める梨華の前では無駄な行為だった。
ひとみはできるだけ、テストのことは考えないようにしてフラワーショップ「アップフロント」のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
と、声をかけてきた梨華は、ちょうど接客中だった。
何かを話しかけようとした梨華だったが、
(いいよ。仕事してて)
と、ひとみが心の中で言葉を発したので、梨華はそのまま接客を続けた。
ひとみは、梨華の邪魔をしないように客を装って花を眺めた。
ここに通いだして、ひとみは今まで知らなかった花の事をたくさん覚えた。
正直、はじめの頃はあまり興味がなかったが、一生懸命花の良さをアピールする梨華の熱弁に説き伏せられ、
最近ではほんの少しガーデニングにも興味を持ち始めてきた。
観葉植物を眺めている最中、ひとみの携帯電話が鳴った。
友人の少ないひとみにとって、携帯電話はただの緊急用の連絡道具であり、普段その着信音が鳴ることは滅多にない。
ひとみは、カバンから取りだしディスプレイを見た。
どうせ、家からだろうと思っていたひとみだったが、メモリダイヤルに登録されていない、謎の電話番号がディスプレイに浮かんでいた。
(は? 誰?)
と、思いつつも電話にでる。
「もしもし」
聞こえてきたのは、ひとみも忘れかけていたあの人物からだった。
『あ、もしもし。ひとみちゃん? 私、石黒』
以前、麻美の事件の時に知り合った女性週刊誌のライターである。
「え? 石黒さん?」
『やだな、もう忘れたの? ちょっと、ショック』
「あ、いえ。覚えてますよ。でもなんで、電話番号」
『ハハぁ。企業秘密』
「……そうですか」
『あ、ウソ。家に電話したらね、弟くんが教えてくれて』
「……あの、バカ」
ひとみは、小さな声で呟いた。
『あのさ、急で悪いんだけど、今日空いてるかな?』
「え? 今日――、ですか?」
ひとみは、ちらりと店の奥の梨華を見た。ちょうど花を買った客につり銭を渡しているところだった。
呼びかけようかと思ったが、忙しそうなのでやめる事にした。
『ねぇ、ひとみちゃん?』
「あ……、はい……。いいですよ」
『じゃあ、6時にこの前の喫茶店で。じゃあ』
「あ、ちょっと」
と、ひとみの返事も聞かずに電話はきられた。
「戻るの、メンドーなのに」
と、ブツブツ言いながら、ひとみは携帯をカバンの中にしまった。
「誰かと待ち合わせ?」
急に後ろから声がした。振りかえると、梨華がひとみの顔を覗きこむようにして立っていた。
いつの間にか客の姿もなく、店の中はひとみと梨華の2人っきりの空間となっていた。
「あ、うん。ほら、前に麻美のお墓で会った」
「石黒……さん?」
「うん。なんか空いてるかって」
「ふーん」
梨華はそう言って、花の世話をはじめた。
(?)
(あれ?)
(梨華ちゃん)
ひとみは心の中で呼びかけた。
梨華は観葉植物の葉を丁寧にタオルで拭きながら、振りかえらずに「なに」と答えた。
(怒った?)
梨華が振り向く。
「なんで?」
「え……、だって、なんか」
「別に、怒ってないよ。ただ……」
「ただ?」
「……」
梨華はうつむいたと思ったら、急にひとみに背を向け、また葉を拭きはじめた。
「黙ってたら、わかんないよ……」
「ただ……、今日ね」
「うん」
「お給料の日だから、その……、一緒にご飯でもどうかなぁって」
梨華はそう言うと、振りかえってニッコリと笑った。
「でも、しょうがない。言ってなかったもんね」
「あ、じゃあ今から断る」
「あ、いい。そんな。石黒さん、大事な話があるかもしれないじゃない」
「ないよ、そんなの」
と、ひとみはバッグの中の携帯電話を探す。
「また今度でいいから。そうだ。明日、行こう。明日、私休みだから、学校まで迎えにいく。ね、そうしよう」
「……うん。……わかった。そうする」
ひとみは、バッグの中からゆっくりと手をだした。
「明日もテストだよね? 何時頃、行ったらいいかな」
梨華が何気に口に出した”テスト”というフレーズが、ひとみの忘れていた記憶を呼び戻した。
(あ!)
と、思ってももう遅かった。数学のテストの点数が頭の中をグルグル回り、それを梨華に読み取られてしまった。
ひとみは、がっくりと肩を落として赤面した。
ひとみはかなり、苛立っていた。
梨華との食事がつぶされただけでなく、呼び出した本人が待ち合わせ時刻を20分過ぎても現われなかったからだ。
電話しようかとも思ったが、もう少しもう少しと先延ばしにしている間に、さらに20分が経過した。
「もう、いいや」
と、ひとみは電話する気も失せ、そのまま黙って帰る事にした。
立ちあがって何気なく窓の外を見たとき、店のあるビルへと駆け込んでくる石黒の姿が見えた。
「はぁ……」
ひとみは、軽いため息を吐くとまた椅子に腰を落とした。
「ごめん。待った?」
しばらくすると石黒の声が聞こえた。が、ひとみはチラリと目で挨拶しただけで何も答えなかった。
「あ……、ごめん。ちょっと、急な取材が入って……」
「話ってなんですか?」
「うわ……、すごい怒ってる」
「怒ってませんよ」
ひとみは、窓の外へと視線を向けた。
「事件の続報、聞きたくない?」
「別に聞きたくないです」
「ホントに?」
「……話って、それですか?」
「最近、事件のこと調べてないそうね。諦めた?」
「もう済んだ事ですから」
「済んだ? 済んだってどう言うこと? まだ謎は解けてないわよ」
(まただ……)
ひとみはまた石黒の誘導尋問にひっかかったのを知った。
(なんなの、この人は)
石黒は、バッグの中から手帳を取りしテーブルから身を乗りだしてきた。
「ね、何が済んだか聞かせて」
「あの、もうちょっと下がってください。顔が前へ……」
「あ、ごめん。つい興奮して」
「済んだって言ったのは、私の中で納得したって事です」
「何を?」
「何を……って、麻美の事ですよ」
「どんな風に?」
「そんなこと調べてどうするんですか? そっとしといてくださいよ。もう、いいじゃないですか」
ひとみは、強い口調で言った。
石黒は手帳に視線を落としたまま、ひとみに喋らせようと黙っている。
その様子を敏感に感じとったひとみは、もう何も言うまいと心に誓った。
「――人口1200人のサキヤマ町で、同じような事件が先週3件起こった。――動機なき自殺よ」
石黒は手帳から顔を上げずに、ひとみにそう言った。
「……」
ひとみの背筋に、冷たいものが走る。
「それだけじゃないの。凶器を特定できない殺人事件が8件。もちろん、犯人は不明」
「……だから」
ひとみは、ごくりと冷たくなったレモネードを飲んだ。
「今月上旬、中澤裕子と矢口真里に会ってたでしょう」
石黒は、まるで”言い訳できないわよ”とでも言いたげな視線を向けた。
「……」
「理由は聞かない。でも、その後に2人がどこに行ったか気にならない?」
「……」
しばらくひとみの目を見つめていた石黒は、おもむろにバッグの中から地図を取りだした。
製本をコピーしたものでいつも持ち歩いているのだろう、かなりボロボロになっていた。
「この印を見て」
地図にはいくつかの、赤い丸がついていた。
「朝比奈町から、東へ伸びてますね」
「この赤いマル、なんだと思う?」
「……さぁ」
「動機なき自殺が起きた場所。たぶん、中澤裕子と矢口真里の逃走経路」
「……!」
石黒は、ひとみの動揺を見逃さなかった。
翌日の午後、ひとみと梨華は学園前で待ち合わせをしてそのままバスに乗って市の外れにある博物館に向かった。
夕食までに少し時間があったので、それまで何をして時間をつぶそうかとひとみが考えるていると、
梨華が突然博物館に行きたいと言ったのだ。
高山植物の写真展が開かれているらしく、今日がその最終日らしい。
ちょうど植物にも興味をもち始めてきたし、何より梨華がとても行きたがっている様子なので、ひとみは快く「いいよ」と答えた。
館内はとても静かだった。
”高山植物の写真”というマニアックなジャンルのためなのか、それとも平日の昼間なのかわからなかったが、
ひとみが数えたところ館内には3人しかいなかった。ひとみ、梨華、そして受付の女性。
つまり、客は2人しかいなかったのである。
「ねぇ、梨華ちゃん」
写真を見つめていた梨華が、「ん?」と振りかえる。
「あんまり静か過ぎるっていうのも、ちょっと緊張しない?」
梨華は、少し困ったような笑みを浮かべてまた写真に視線を戻した。
(そうだ……)
(梨華ちゃんには、この声も聞こえてるんだった……)
(たぶん)
(あの人の声も、聞こえてるんだろうな……)
ひとみは、退屈そうに机の下でマネキュアを塗っている受け付け嬢を見つめた。
ひとみは、梨華の鑑賞の邪魔をしないように何も考えないようにした。
読まれてはいけない、昨日の石黒の件は意識の下の方に押し込んでいるので、さすがの梨華も触手を伸ばさなければ探ることはできない。
梨華は、聞こえてくる受付嬢の卑猥な妄想を無視して、高山植物の世界に見入っていた。
高山植物の写真を気に入った梨華は、館内に備え付けてあった無料パンフレットを何枚か持ちかえった。
ファミリーレストランで食事をしている最中も、いつもの梨華らしくない少し興奮気味の口調で高山植物を実際に見てみたいと語った。
ひとみはその様子を見ながら、ずっとニヤけていた。
(梨華ちゃんって、花の事になるとすごいよく喋る)
(あ、でも)
(最初の頃は、すごい早口だった)
(アタシの話、全然聞いてなかったもんな)
ひとみは、駅の階段でパスケースを渡した頃を思い出し、思わずプッと声を上げて笑ってしまった。
「だって、しょうがないじゃない」
と、梨華はしょぼんとした表情でひとみを見つめた。
「あの頃は、知られるのが嫌だったから」
「すごい早口だったよ、あの時の梨華ちゃん」
「だって、そうしないとひとみちゃん色んな事考えるでしょ?」
「どういうこと?」
「その……、いろいろ……」
「いろいろって?」
なぜか赤面している梨華を、ひとみはきょとんとした顔で覗きこんだ。
「その……、かわいいとか……、なんとか、考えてたし……」
梨華のその言葉に、今度はひとみの顔が赤くなった。
「ち、違うよ、あれはただホントにかわいいって思っただけで、べつにそんなイヤらしい意味じゃないよ」
「そんなの、出会ったばかりなのにわからなかったから」
「そ、そうだけどさ。普通、そんな女の子どうしなのに考えないでしょ」
「たまにいるから、そんな風に考えてる人……。だから、ひとみちゃんも、そうなのかなって……、ちょっと怖かったの」
「ち、違うってば」
ひとみは、わけもなくテーブルの上に置いてあった写真展のパンフレットを手にとった。
「わかってる。すぐに違うと思ったから、あの後お店に招待したでしょ」
と、梨華は笑って答えた。――が、すぐにその笑顔は消えた。
パンフレットの裏面に目を通したひとみの心の声が、聞こえてきたからだった。
(カメラマン)(和田薫)(サキヤマ町出身)
(サキヤマ)
(石黒さん)
(二人のいる場所)
(動機なき自殺)
(……!)
顔をあげたひとみが見たものは、何かを訊ねたそうにしている梨華だった。
「ね、ひとみちゃん。サキヤマ町って……?」
”サキヤマ町”という単語だけなら、何とか誤魔化すことができたのかも知れない。
蝶の一種とでも、ひょっとしたら誤魔化せたかもしれない。
だが、ひとみは”サキヤマ町”と同時に、”石黒”、”動機なき自殺”という言い逃れのできないものを、梨華のもとへと流してしまった。
「ね、ひとみちゃん」
訊ねる梨華の口調にも、真剣さが混ざる。
ひとみは、観念して重い口を開いた。昨夜の石黒との会話を、すべて梨華に話して聞かせた。
「じゃあ、石黒さんは1人で行っちゃったの?」
「中澤先生と矢口先輩が犯人だと思ってるからね。スクープの立証をとるって」
「危ない。何で止めなかったの」
「だって、相手は超能力者ですなんて言える? 信じてもらえる?」
「それは……」
「否定すれば今度はこっちが怪しまれる。そうすれば、あの人のことだから、アタシの周りを嗅ぎまわって――、
アタシの事はいいけど梨華ちゃんのことがバレるといけないと思ったから、止めることなんてできなかった」
ひとみは、テーブルに肘をつき頭を抱えた。
「ひとみちゃん……」
「だから、関わるの嫌だったんだ。なんか、嫌な予感がしてた」
「……」
「もうこの話は、やめよう」
「……うん。料理、冷めちゃうね」
その後、2人は重苦しい雰囲気の中、もくもくと食事をした。
駅までの道を歩きながらも、2人の会話はあまり弾まなかった。
それぞれが、石黒のことを考えていた。もっとも、ひとみの考えなど梨華には筒抜けなので、別々とは言いきれないが――。
人ごみを避けて歩いていた公園の真ん中で、梨華が急に立ち止まった。
ひとみも、ニ、三歩して立ち止まる。
遠くの喧騒を聞きながら、ひとみは何となく梨華が何を口にするのかわかっていた。
「やっぱり、見捨てることできない」
ひとみの思った通りだった。
「言うと思った」
「……これ以上、犠牲者を……、悲しむ人を増やしたくない」
梨華の強い決意に、ひとみは反対する事ができなかった。
――ひとみの休息は、終わりを告げようとしていた。
Chapter−2<未知との遭遇>
ブロロロロロロロ〜・・・・・・・・・、ブスン・・・・・・・。
そんな情けない音を最後に、石黒彩の運転する車は山の中腹で止まってしまった。
「ちょっと、やめてよ、こんなとこで」
必死に何度もセルを回すが、2度とエンジンがかかる事はなかった。
「最悪……」
石黒は運転席の中から辺りを見まわしたが、広がるのは闇ばかりで、人工の明かりはどこにもない。
仕方なく石黒は電話で誰かを呼ぼうとしたが、電波が届かないため使い物にならなかった。
「ちょっと、もう最悪」
石黒はふて腐れて、シートを倒した。
外に出て、エンジンルームを覗いてみようかとも思ったが、車のエンジン構造などわかりっこないのですぐに却下した。
携帯電話も使えない。民家もここに来る数十分前に見た限り。車も通りそうにない。
「寝よう」
考えついた結果がこれであった。石黒は高部座席に脱ぎ捨ててあった薄手のジャケットをかけて眠った。
人を恐怖へと誘う闇。恐怖の感情をかきたてる闇。
しかし、彼女にとって闇はなんらその意味を持たなかった。闇に意識があれば拍子抜けした事だろう……。
ほんの数分歩けば、そこに建物がある。だが石黒がそれを知るのは、翌日になってからのことである――。
闇はそちらで活躍しているようだった。
石黒の車が停止したその数キロ先に、森林組合の事務所があった。
事務所と言っても普段そこに人の姿はない。
伐採のある数日間の間に、麓に戻るのが億劫な作業員だけが泊まったりする臨時宿泊施設のようなものである。
普段使われることのないその建物に、2日前からある少女が住みついていた。
住みついていた――と、言うよりも山を越える途中にちょっとした崖から転落し、足をくじいてしまい仕方なくそこに留まってるのである。
少女としては、一刻も早く山を降りたいのだが、足が痛くて動くことができない。
幸いその建物の中には、救急箱もあり、寝具はもちろん、ちょっとした保存食もあったので悪いとは思いつつもそこをしばらく寝床にし、
足の回復を待っているのだ。
少女は、辺りに神経を尖らせながら足のシップを取りかえていた。
木の葉が風でこすれる度に、少女はビクンと身体を奮わせた。
今日もまた、彼女はゆっくりと眠ることはできない。
自分自身でも、そう思っていた――。
「学校やご両親には、何て言ってきたの?」
車窓の流れる景色眺めているひとみに、むかいに座っている梨華が声をかけた。
「ん?」
ひとみの目には、あきらかに梨華が遠足気分で、はしゃいでいるようにうつった。
「私ね、旅行に行くのなんて小学校の修学旅行以来なの。中学の時は、風邪こじらせちゃって行けなかったの。
だからね、なんかすっごいワクワクして。昨日なんて、ほとんど眠れなかった。あ、見てすごい」
外に広がる広大な田園風景。
(梨華ちゃんって、大物かも……)
(アタシ)
(胃が痛い……)
これからのことを考えると、胃がキリキリと痛むひとみであった。
「ひとみちゃん……」
ひとみが顔を向けると、梨華はうつむいていた。
嫌な予感がしたひとみは、静かに辺りを見まわした。田舎の単線電車。
車内にはあまり人はない。何が彼女を黙らせたのか、その原因は分からないが、何者かがいるのはあきらかだった。
「隣の車両の人……」
きっと通路側の梨華からは見えているのだろう。梨華はその人物に悟られないよう、窓外を見ながら喋った。
ひとみは何気に梨華と場所をかわり、自然な動作で隣の車両を見た。
男がいた。
髪を短く刈り上げ、少しえらの張った線の細いスーツ姿の若い男がこちらを凝視していた。
ひとみは男と目が合い慌ててそらしたが、男はずっと凝視し続けた。
「ケダモノ……」
梨華は、顔をしかめて呟いた。
「え?」
「何人もの女性に……、乱暴してる……」
「乱暴って……、レイ……」
ひとみはわざと語尾を消した。梨華がそれにうなずく。
「今も、頭の中で……、私たちの……」
ひとみは身震いして、男の視界に入らない場所に移動した。
「なんなの……、キモイ」
「サキヤマ町。そこで3日前にも」
「最悪。同じ場所じゃん。キモイ。キモイ」
「警察に訴えられそうだから、相手の女性を脅しに」
「……最低」
「――私たちのことも、狙ってる……」
梨華が、広げていた意識の網をといたようだった。
と、同時に連結部のドアがプシューッという音と共に開いた。
先ほどの男が、何気なくひとみたちの通路を挟んだとなりの席に座った。
駅に降りたった2人は、その足ですぐに駅前で客待ちをしていたタクシーに乗り込んだ。
そのまま歩いて移動していると、男に尾行されると危惧した梨華の提案だった。
梨華の提案は功をそうし、男の尾行を振り切ることができた。
梨華は、男がタクシーを使わないことを読み取っていたのかもしれない。
タクシーの車内から、遠く小さくなる男の姿を見たときひとみはホッと胸を撫でおろした。
「なんか、もう疲れたね」
ひとみの正直な気持ちだった。梨華は、「うん」とだけ小さく答えると、流れゆく窓外の景色に目を移した。
海に面した人口12000人ほどの小さな漁師町サキヤマ町。
目立ったビルもなく、古い軒並みと山と海に囲まれた小さな町だった。
都会の風景を見なれたひとみと梨華にとっては、新鮮な感じがした。
それから10分後、宿泊の予約をしていた海沿いの民宿に2人はいた。
このすぐ近くで、3日前に老人の謎の他殺体が発見されたらしい。
つまり、この近くに中澤と矢口、そして石黒、そして”動機なき自殺”を引き起こした福田明日香と、
”凶器不明の殺人”を引き起こした仲間が潜伏している可能性が最も高かった。
「さてと、まずどうしよっか」
ひとみはボストンバッグを部屋に置くと、畳の上にあぐらをかいて座った。
梨華は、窓辺に立ち海を見つめながら中澤たちの意識を探っていた。
ひとみは黙って、その様子を眺めていた。
「この近くにはいないみたい」
「そう……。じゃあ、ちょっとその辺歩いてみる?」
「うん」
――2人は近くの港へと足を向けた。
梨華は意識の網を広げながら歩いたが、それらしい意識をキャッチすることはできないでいた。
梨華の中に、嫌な疑問が浮かんできた。
「ね、ひとみちゃん」
「ん? わっ、ちょっと梨華ちゃん見てあれ」
ひとみの指さす方向に、港前のすし屋があった。店先に客寄せのための大きな水槽が設置されており、
その中に巨大な”クロアナゴ”がその巨体をゆっくりと動かしながら泳いでいた。
「うわぁ……、何あれ」
と、梨華は顔をしかめながらひとみの後ろに隠れた。
「かっけー」
ひとみは目をランランに輝かせ、水槽に向かってかけていった。
「ちょっと、ひとみちゃん」
梨華は、嫌な疑問を言いそびれてしまった。
「わぁ、かっけー」
ひとみは、しばらく水槽の前から離れなかった。
石黒が目を覚ましたのは、もう昼もいい加減に過ぎた頃だった。
日々の睡眠不足は十分に補うことができたが、相変わらず車は壊れたままだった。
「ちっ、しょーがねぇな」
と、取材に必要な物を車のトランクから引っ張りだすと、ひっそりとした山道を登っていった。
木漏れ日の下をのんびり歩いていると、山道のわきに突如として開けた敷地が現われ、
その向こうに立派とは言えないがそれなりに近代的なコンクリートの建物が目に入った。
田舎の公民館を思わせるようなつくりである――。
「ラッキー。以外と早く見つかった」
石黒は、カメラバッグを抱えなおすと意気揚々と建物へと向かって歩いた。
建物の正面玄関は、どんなにノックしても開く事はなかった。
しかし、石黒は無人であるとは思っていない。なぜなら、玄関に到着するまでに、2階の窓に少女の後ろ姿を目撃したからである。
「あの〜、すみません。――あの〜」
開いていた横の通用口から、ひっそりと薄暗い建物の中に向かって声をかけた。――が、やはり返事はない。
「あの〜、入りますよ。ちょっと、電話借りますね」
返事がないのだから仕方がないと、石黒は中へとは言っていった。
そこが森林組合の事務所だと知ったのは、事務所のドアを開けて壁にかかったボードを見てから知った石黒だった。
「なんだ、誰もいないのか……」
けっきょく、さっき見た少女は見間違いだったとして、石黒は事務所にある古い黒電話に手をかけた。
ジーコジーコとダイヤルが戻る音が、どこか哀愁を漂わせる。
あと、少しで目的の場所にダイヤルできるところで、突然2階からガタンという何かを倒す音が聞こえた。
「え!? なに!?」
さすがの石黒もこの音には驚いて、思わず電話をきってしまった。
2階を見上げたが、それきりなんの音もしない。
(やっぱり2階に誰かいる)
そう確信した石黒は、ジャーナリスト魂とでもいうのだろうか、謎を謎のままにはできないらしく、気がつけば2階への階段を登っていた。
「あの〜、すみません。誰かいるんなら、出てきてもらえませんか?」
相手に出る気がないのは、これまでの対応で十分理解している石黒ではあったが、いちおう声をかけてみた。
が、やはりなんの返事もない。
石黒は、”仮眠室”とかかれたドアをゆっくりと開けた。音の発生源は構造上、事務所の真上にあるこの部屋としか考えられない。
それと石黒が外から少女の後ろ姿を見たのも、この部屋である。
がらんとした部屋に、無造作に毛布と保存食の袋が散らばっている。
部屋の中には誰もいないが、確かにさっきまで誰かがいた雰囲気がする。
石黒は、部屋に備えられている押入れに視線を向けた。
さすがに、恐怖感が芽生えてきた。
不法な侵入者であるには違いないが、なんども声はかけた。が、相手はなんの返事もしない。
考えられるのは、相手もここの関係者ではないから返事が出来ないという事である。
"オカルト"の類は根本から否定しているので、そこから芽生える恐怖は一切なかった。
「あのね、開けるよ? いい?」
きっと、外から目撃した人物が男性ならば、石黒はもうその場を逃げ出していただろう。いや、2階にも上らなかったはずだ。
だが、石黒は少女を目撃した。それも、小柄な少女。
そんな少女がどうしてこんな場所にいるのかが、彼女の魂に火を点けたのかもしれない。
「開けるからね。せーの」
と、石黒は思いきってドアを開けた。――しかし、中には布団が詰まっているだけで少女の姿は見当たらない。
「?」
石黒は、きょとんとした顔でしばらく押入れの前で立っていた。確かに、音はこの部屋からした。少女の姿を目撃したのもこの部屋。
しかし、誰もいない――。
――数秒後、石黒は目ざとく見つけた。押入れの天井の羽目板が、僅かながらにずれていることを……。
「その話、もうちょっと詳しく教えてくれない?」
石黒は、手帳を取りだして目の前の少女に向かっていった。
「金髪の女性2人って言ったわよね」
少女は、周りに目を配らせながらうなずいた。
押入れの天井裏に潜んでいた少女は、発見された直後はひどく興奮状態だったが、
見つけられた相手が女性でしかもサキヤマとは関係ない人物だと知って、今ではその興奮も少しではあるが落ちつきを取り戻していた。
「あなた、名前は?」
少女は、石黒をチラリと一瞥しそれからまたその子猫のような瞳を外へと向けた。
「あ、私、石黒彩。東京でライターをやってんの。ついこの前までは、雑誌社の専属だったんだけど、命令無視でクビになっちゃった。
ま、早い話が今はプータローってとこかな」
と、石黒は笑った。
その笑いに、少女の緊張はさらに解けたのか、「安倍……、安倍なつみ」
と、自分の名前を口にした。
「安倍さん――。安倍なつみさんね」
石黒は、なつみに見つからないよう素早く手帳に名前を書き込んだ。
「で、さっきの金髪女性のことなんだけど。知り合い?」
「――知り合いじゃないべさ。だって、なっちはその日来たばかりなんだよ」
と、声を荒げていった。
「あ、ごめん。わかったから落ちついて」
「……」
なつみは、また窓の外へと視線を戻した。
「なつみちゃ――なっちは北海道出身?」
なつみは返事をする変わりに、こくりとうなずいた。
「ウソ。私も」
「え?」
と、なつみは石黒の方を振りかえった。
「私、札幌だけど。なっちは?」
「なっちは、室蘭の方」
「あ、行ったことあるよ。すごい、偶然だね。こんなところで道民同士会えるなんて、思ってもなかったべさ」
と、石黒はおどけて言ってみせた。
「うん」
なつみは、目をキラキラと輝かせて石黒を見上げている。よほど嬉しかったのだろう。さっきまでの緊張感は、もうなくなっていた。
「北海道から親戚の叔母さんに会いに来たんだ。腰を悪くして入院しててね、なっちにとってはお母さん変わりのような人だから、
心配でお見舞いに来たの」
「うん」
「でね、着いて駅からタクシーに乗ろうとしたら、金髪の女の人2人に声かけられて、
なっちてっきりお金でも取られるんじゃないかと思って震えてたの」
「1人は小柄。1人は関西弁じゃなかった?」
「なんで、知ってるべさ」
「あ、うん。ちょっとね。――で?」
「でね、その関西弁の人が”朝比奈町に住む吉澤ひとみって子と石川梨華っていう子を呼んできて”ってなっちに言ったんだ」
メモを取っていた、石黒の手が止まった。
(ひとみちゃん……?)
「そんなのいきなり言われてもね、なっちには全然関係ないっしょ? でも、小柄な人が”会おうと思わなくても、絶対に会えるから”って。
もう意味がわかんなくて、なっち怖くなって逃げたんだ」
(会おうと思わなくても会える……)
「でね、それからどれぐらいだろう……。病院から出てきたら」
(やっぱり、ひとみちゃん何か知ってる……)
「病院の前で、また2人が立っててね。もう、ホントなっちスゴイ怖くなって、ダーって走ったの。したら、今度は別の女の子が現われてさ。
”迎えに来たよ”なんて言うの。ぜんぜん、知らないなっちより年下の子だよ」
(迎えに来た……?)
「したら、突然、金髪の小っちゃいのがね。”逃げろー!”って叫んだの。
したら、なっちの横を風みたいなのがビュンッて飛んで行ってね。その2人の横の木を切り倒したの」
(この子……、狂ってる……?)
「なんかもう、なっちパニックになって思いっきり走って、気が付いたら、山の中に逃げ込んでて――」
また、興奮してきたのかなつみは石黒が冷蔵庫から勝手に持ち出してきたウーロン茶をがぶ飲みした。
石黒は、いつの間にかメモをとるのを忘れてなつみの話に聞き入っていた。
朝比奈町から続く謎の事件。
その真相は、石黒の常識の範囲を大きく超えていた。もっとも、石黒がそれに気づくのはもっとずっと先のことである――。
Chapter3−<再会>
2人がどのような理由でこの小さな町にやって来たのかは分からない。
だが男にとってそんな事は、どうでもよかった。
駅前のロータリーでタクシーに乗り込む二人を見たとき、一瞬逃げられたと思ったが、
小さな田舎町で泊まるところなどはしれているまた後で旅館を探し出せばいいやと考えなおした。
2人が手にしていたカバンは、旅行カバン以外の何物でもなかったからである――。
男はその足で、すぐ側にある飲み屋街の裏路地へと入っていった。
この先にあるスナックの2階で、男は3日前に1人の若い女性をレイプした。
営業先の地で、女をレイプするのが男のもう1つの仕事であった。もちろん、報酬は女の身体である。
本職の教材販売の営業が上手くいかなかった時ほど、副業の方を確実にこなすことにしていた。
その日もそうであった。教材の方はちっとも売れずに、ムシャクシャしたまま、たまたま通りかかった女の後を尾行して、そしてレイプした。
素性などはまったくもってどうでもよく、ただ好みの顔が歪み、陵辱される姿を男は楽しむだけだった。
たいていの女は、行為の後ぐったりとしているかその後に続く恐怖を想像して震えているだけだった。
だが、スナックの女は、スボンのチャックを上げ玄関を出ていこうとした男の背に向かってこう言い放った。
「訴えてやる!」
男は、お笑いタレントのフレーズを思いだし笑いそうになったが、そのまま特に振りかえりもせず部屋を後にした。
それから数日間、男は元の町で静かに暮らしていた。だが、急にあの女の職業を思いだし不安になった。
そして、自分に向かって言い放ったあの怒気を帯びた声を思い出して、怒りが込み上げてきた。
男は有給をとり、もう1度女の元へと向かった。その途中の電車で出会った少女2人。
男にとっての思わぬところから転がり込んできた大きな商談だった。
けっきょく、スナックの女はもう1度男が訪れたことに恐怖し、泣きながら「訴えたりしませんから、殺さないで」と哀願した。
男は、ニヤリと笑って女をもう1度レイプした。自分に不安材料を与えた相手に対し、男は容赦なく責めつづけた。
女はもうきっと子供を生めない身体になったであろうが、男にとってはどうでもいいことであった。
男はまた3日前のように玄関を出ると、日も暮れかけた夕暮れの空を見上げ、少女二人が宿泊している旅館を探すことにした。
『お客様のおかけになった電話番号は、現在電源を――』
ひとみは、携帯の向こうから聞こえてくるアナウンスをもう何度も聞いていた。
昨夜から石黒の携帯にかけているが、ずっと繋がらない。ひとみの不安は増すばかりであった。
――梨華は夕食を終えて、内風呂に入っている。
ひとみは携帯を枕もとに置くと、布団の上に大の字になって寝転がった。
(石黒さん……、大丈夫かな……)
(先生、矢口さん)
(もうすでに……)
ひとみは、慌てて何も考えないようにした。そこへ、風呂上りの梨華がタオルで髪を拭きながらやって来た。
「お風呂、空いたよ」
「あ、うん」
と、ひとみは身体を起こした。バッグの中から下着を取りだす。
「ホントに、ここにいるのかなぁ」
梨華の呟きが聞こえてきた。
「――なんで?」
「誰の意識も、感じないの」
「だってまだ、来たばかりだよ。小さいって言っても、一応は町なんだから。
そんなすぐ見つかるわけないよ」
「そうだけど……」
と、言った梨華の表情がハッとなった。
「梨華ちゃん?」
梨華は目を閉じ、力に集中している。ひとみは、とっさに身構えた。
近くに武器になるものがないか探したが、残念ながら何もそれらしい物は見つからなかった。
「ね、梨華ちゃん、どうしたの?」
「来たの……」
梨華は目を閉じたまま、ひとみの声に答える。
「来たって誰が?」
「昼間の男の人」
「……アイツが?」
ひとみは昼間電車内で出会った薄気味の悪いレイプ犯の目を思いだし、軽い吐き気を覚えた。
「うっ」
梨華は、先ほど食べた夕食を吐き出しそうになった。
「梨華ちゃん!」
慌てて駆けより、背中をさするひとみ。
梨華の目には涙が滲んでいた。
「何であんなひどいことができるの……」
梨華は泣きそうになりながら、ひとみに訴えかけた。
「人間じゃないよ……」
「何があったの!」
梨華はひとみに、男の心の中のことをすべて話した。電車内ではひとみの受けるショックを考慮して黙っていたが、
そこで男は何を考え、そして今何をしてき、これから何をするつもりなのかを洗いざらい喋った。
ひとみに恐怖の感情は消えた。
ただひたすら、卑劣で異常な男にたいする嫌悪感と殺意だけが芽生えてきた。
「ね、ひとみちゃん、逃げよう。今まだロビーだから間に合う。ね、逃げよう」
「ダメ。逃げても追ってくる。それに」
(そんなの野放しにしてたら、ダメだ)
(戦って、梨華ちゃん)
ひとみは、福田明日香と対決した梨華を思い出していた。
梨華は、戸惑った表情を浮かべた。
(そんなヤツ、このままにしてたら)
「でも、相手は普通の人だよ。そんな事したら、あの人と同じになる」
梨華が泣きそうになって叫ぶ。
――ひとみは、自分の愚かさを呪った。
(そうだ……)
(梨華ちゃんは……)
(普通の人に、そんなこと……)
(何でアタシ……)
脳に集中していた血流が、スッと覚めていくのをひとみは感じていた。
「ひとみちゃん、逃げよう。ね。お願いだから、私、怖い」
「――うん」
ひとみは、素早く荷物をバッグに詰めはじめた。梨華も浴衣姿のまま、逃げる準備をはじめている。
「ダメ。すぐそこまで来てる」
「いいから、早く荷物まとめて!」
ひとみは、その足で窓の外を見下ろした。いくら2階とはいえ、地面までは3メートルほどの高さがある。
地面にクッションになるようなものは何もない。
靴は1階のロビーの靴箱にあるので、素足で剥き出しのコンクリートに着地しなければならない。
その衝撃は、いくら数学の苦手なひとみにも経験で計算できた。
(どうしよう!)
(どうしよう!)
(どうしよう!)
ひとみは身を翻すと、すばやく隣の部屋から布団を抱えてきた。
そしてそれを、窓の外に落とした。
「梨華ちゃん、先に私が下りる」
そう言うと、ひとみは窓からぶら下がった。ぶら下がった自分の身長の分だけ、地面までの距離を縮め衝撃を少なくしようとした。
本能的に割り出した計算。それが功をそうし、ひとみはなんの怪我もなく、地面に降り立つことができた。
「さ、梨華ちゃん」
ひとみは小さな声で、窓際の梨華を見上げる。
「できない〜……」
梨華は口をへの字にして、今にも泣きそうになっている。
「大丈夫。さぁ」
大きく両手を広げるひとみ。
コンコン。部屋の入り口の引き戸をノックする音が聞こえた。
男の意識が、梨華の頭に響く。
(出る)
(殴る)(2人)
(2人とも)
(布団)(窒息)
(まず、笑顔)(安心させ)
男の計画が、梨華の背筋を凍らせた。
「梨華ちゃん、早く!」
梨華はひとみを信じて、目をつぶって飛び降りた。
ひとみの胸に飛び込んだ衝撃。ひとみは梨華を抱えたまま、後ろの布団に倒れ込んだ。
しばらく、ひとみは痛みで起きあがれなかった。
「ひとみちゃん、大丈夫!」
あいかわらず、泣きそうな顔で梨華が覗きこむ。
「……ハハ。まさか、飛び込んでくるとは思わなかった」
「え?」
「いや、同じようにしてそんで下で受け止めようとしてたから」
梨華は、ハッとした。
「ごめん……。私……」
「いいって。梨華ちゃん軽いから。それより、怪我は?」
梨華は、泣いてひとみの胸に飛び込んだ。なぜそうしたのか自分でも分からない。ただ、ひとみの胸に飛び込みたかった。
「ちょ、ちょっと梨華ちゃん」
戸惑うひとみだったが、泣き続ける梨華を抱えおこす。
「泣くのはあとでいいから、早く逃げよう」
ぐずる梨華の手をとって、ひとみは夜の海岸線沿いを走った。
2人とも裸足だったが、コンクリートの地面は心地よくさえあった。
男が引き戸の鍵を壊して中に入ってみると、そこはもぬけの殻だった。
男は開け放たれたままの窓を見つめた。
ねっとりとした海からの風が、部屋の中に充満していた。
窓際に立ち、遠く走り去って行く二つの影を見て男はにやりと笑った。
翌朝。ひとみは、いつもと同じ時間に目が覚めた。
旅館から逃げ出したあと、2人は人目につかない場所にある神社のお堂の中で一晩を明かした。
怖いと言っていた梨華も、まだひとみに寄り添うようにして眠っている。
ひとみは、顔だけを梨華に向けた。
夢でも見ているのだろうか、まぶたの動きに連動して長いまつげがピクピクと動いている。
それを見て、ひとみはクスッと笑った。一瞬、梨華の身体がビクンとなったが、規則的な呼吸は続いていた。
ひとみは、天井に視線を向けた。そして、昨夜自分が言った言葉を思い出していた。
《戦って、梨華ちゃん》
(当たり前に思ってた。力があれば、それを使う。相手は異常な変質者。
でも梨華ちゃんは、あの福田明日香にも勝ったんだから、余裕で勝てると思ってた)
(でも、そうじゃなかったんだよね……。梨華ちゃんは、本当は力なんて使いたくないんだ。あの時は、アイツも同じ力をもってたから……。
同じ力を持ってて、それを使ったらどういうことになるのかわかってるのに、それで人の命を奪うアイツが許せなかったんだ。)
(力なんて、本当は使いたくないんだよね……)
ひとみは視線を戻し、梨華の寝顔を見つめた。
(みんなの色んな嫌なところ見てるはずなのに……)
(なんで、こんなに優しいんだろう……)
(私に力があったら……)
(もっと楽に、梨華ちゃんを守ってあげられるのに)
ひとみは、優しく梨華の頬を撫でた。
(ごめんね、いろいろ迷惑かけて)
ひとみが心の中でそう呟いたあと、梨華の目がゆっくりと開いた。
「あ、ごめん……、起こしちゃった?」
「……ううん」
「……聞こえた?」
梨華は、目を伏せて返事をした。
「そっか」
「私、迷惑なんて1度も思ったことないよ」
ひとみの手を握り、微笑みかける梨華。
「逆に私のほうが、いっつも迷惑かけてる」
「そんなことないよ。いっつも助けてもらってるのはアタシだし」
ひとみは、慌てて上半身を起こす。
きょとんと見上げる梨華。そして、クスッと笑う。
「昨日の、ひとみちゃんカッコよかったよ。王子様みたいだった」
と、梨華は昨日のひとみを真似て、両手を大きく広げる。
「どうせ、男みたいですっ」
と、ひとみは顔を赤くしながら反論した。
「じゃあ、お姫様。どうか、ボクのところへ」
梨華がふざけてひとみをその細い腕に包み込んだ。
「ちょっと、やめてよ」
2人の笑い声は、しばらくお堂の中に響いていた――。
未来の見える矢口真里。その能力は、微々たるものである。
自分の能力なら、一瞬で操ることができる――と、福田明日香には絶対の自信があった。
しかし、厄介なのはいつもその矢口真里に付き添っている中澤裕子の存在だった。
どういうわけか、中澤が瞑想を始めると側にいる矢口真里の意識下に潜りこむことができないでいた。
(あいつさえ、いなければ……)
これまでの数度の遭遇で、明日香は2人に何も手が出せないでいた。
それが彼女にとって、屈辱以外のなにものでもない。
つい1年ほど前まで、自分はこの世の中で絶対的な存在だと明日香は信じ込んでいた。
しかし、その自信は様々な能力者に出会うことで脆くも崩れそうになっていた。
明日香が所属している企業のスカウトマンは、全員が何かしらの能力を持っている。個人個人の力は絶対的なものではないが、
スカウトマン達は互いにない能力を補うパートナーと行動する事で”絶対的”に近い存在になっている。
そんな事を知らない明日香は、1年前にスカウトマンに声をかけられた時、無謀にも戦いをしかけそして無残に負けた。
その後、自分もスカウトマンとなったが、パートナーを持たずに一人で行動をした。
様々な障壁に立ち向かい、自分の能力を極めるためである。
そして、いつか企業を社会を崩壊させようと目論んでいた――。
だが、それにも限界を感じはじめていた。
そのきっかけを与えたのが、”矢口真里と中澤裕子”である。
知ってか知らずか、この2人も互いにない能力を補っている。
未来の見える矢口がいることにより、あらかじめ予防線を張れる中澤裕子。
2人は共にいることで、危険のない確定された未来を進んでいる。
そんな2人の前では、明日香がいくら戦いを挑んでもまったく相手にならない。
(仕方ない……)
どうせ、崩れかけたプライドだと、明日香は企業にパートナーを紹介してくれるように申し込んだ。
ただし、もうパートナーを組んでいる相手からのレンタルはいらないと付け加えた。新人で、自分の支配下における人物が欲しかった。
「で、今までどこ行ってたわけ?」
明日香は隣で、アイスクリームを食べているパートナーに訊ねた。
企業が派遣した明日香のパートナー、松浦亜弥はニコッと笑って「ちょっとお買い物です」と答えた。
明日香の苛立ちは、道路の反対側を歩く主婦に向けられた。
主婦は突然身を固くしたかと思うと、通りすぎる若い女性を殴りつけた。
主婦の意識下にあった”若さへの嫉妬”を明日香は、意識の上にあげたのである――。
3回目のリダイヤル後、やっと石黒への電話が繋がった。
ひとみは思わず梨華に、「繋がった!」と声をかけた。
しばらくして、石黒本人の声が聞こえてひとみはホッと安心した。
「あ、もしもし、石黒さ――」
『ひとみちゃん!?』
石黒の声が、驚きを表している。
「はい、そうですけど……」
(何で、こんなにびっくりするの?)
となりで梨華が心配そうにしている。
『今、どこ!!』
「え? どこって……」
『朝比奈? それともサキヤマ?』
「……サキヤマです」
『よかった……。サキヤマだって』
石黒は、側にいる誰かに話しかけているようだった。
「あの、それより石黒さん」
『近くにある目印教えて』
「は?」
『すぐに迎えに行くから、早く!』
(迎えに来るって……。どうする梨華ちゃん?)
梨華は、少し困ったような表情をすると一方向を指さした。
その先には、”海響館”というこの町には似つかわしくない大きな近代的な水族館があった。
時間は少し遡る――。
ひとみからの電話がかかってくる約20分前、石黒となつみはサキヤマ町へと向けて車を走らせていた。
なつみと初めて出会った日、山を挟んだ隣町の修理業者に電話をして修理のために車を預けた。その車が、帰ってきたのが約1時間前。
車に乗り、40分かけてサキヤマ町までやって来ていた。
なつみが矢口と中澤に初めて出会った駅前を車で軽く流してみたが、それらしい人物はどこにもいなかった。
次に、なつみの叔母が入院しているという病院に向かった。
たしかに、なつみの証言通り、木が1本だけ不自然な形で切断されていた。
石黒となつみは、車を下りてその木のもとへと向かった。
「なんだべ? これ」
なつみは木の切り口を見て、声を上げた。
石黒もその不自然な切り口に気づいた。
チェーンソウや斧で切った木は、その切り口の端に多少なりともギザギザな痕を残す。
だが、その木の切り口にはそのような後もなく、まるで大理石のようにツルツルとしていた。
「……」
石黒は、謎の殺人事件を思い出した。遺体はすべて鋭利な刃物のようなもので切断されていると警察はメディアに対して発表していたが、
石黒が裏から仕入れた情報では遺体の切断に用いた凶器は薄さ0.3ミリで長さは2メートル程度となっていた。
(0.3ミリで2メートル……)
(刀?)
(そんな刀なんて、あんの……?)
(もし仮にあったとしても……、この木をきれるほどの強度はありえない)
石黒の頭の中に、”オカルト現象”というフレーズがよぎった。
だが石黒は、それを必死で否定した。
「仮にもマスメディアに関わってるの。そんな物で簡単に片付けるわけにはいかない」
と、小さく呟いた。
「ん? なんか、言った?」
「ううん。行こう」
彩となつみは、車に戻ろうとした。
声が聞こえたのは、その時だった。
「もう、待ちましたよ」
なつみは、その声に聞き覚えがあった。
町の活性振興を祈って建設された”海響館”――。
だが、その願いも虚しく水族館一つにわざわざ旅行者が訪れるわけもなく、中は閑散としたものだった。
しかし、ひとみと梨華には好都合だった。静かで、何よりも梨華に余計な意識が流れないのをひとみは喜んでいた。
2人は石黒たちが到着する間、ひっそりと静まり返った青の空間を満喫することにした。
「あ、見て見て。ひとみちゃんの好きな、ヘビみたいなのいるよ」
梨華が子供のようにはしゃぎ声を上げる。
「別に、好きってほどの――。うわ、でっけー!!」
「ね、あっち行こう。あっち」
2人は自然と腕を組みながら、広い館内をあちこち見て回った。
どのくらいそうしてたのだろう。梨華は、油断していた。
すぐ近くに来ている石黒と誰かもう1人の意識を感じた時、そのすぐ後ろからやってくるあの強烈な意識を読みとり、
自分達のいる町と目的がなんであったのかを思い出した。
「梨華ちゃん、あれ見て」
ひとみが指さす方向に、きらびやかな熱帯魚が群れをなして泳いでいた。
しかし、梨華の目には何も写っていなかった。
数分後に訪れるであろう、戦いに備えて身を固くする梨華であった――。
Chapter−4<覚醒>
ひとみが駆け込んでくる石黒と1人の少女に気づいたのは、梨華の異変に気づいた数分後のことだった。
梨華を隠すように水族館の奥へと導いていると、不意に横の通路から石黒となつみがヨロヨロと駆け込んできた。
「ひとみちゃん……!」
石黒の身体は、赤い鮮血で彩られていた。
「どうしたんですか!」
ひとみは、梨華をつれて石黒に駆けよった。
石黒を支えている少女も、同じように全身キズだらけだった。
ひとみはすばやく状況を把握した。
身を固くしている梨華。キズだらけの石黒と少女。これで何も起こらないと思うほど、ひとみは単純ではなかった。
「なっち……、この2人があなたが会うべき人」
ひとみと梨華は顔を見合わせる。
(知ってる?)
ひとみの心の問いかけに、梨華は小さく首を振った。
「吉澤ひとみちゃんと……、石川梨華さん……だよね? 前に霊園で」
梨華はもう石黒を見ることはなかったが、「ハイ」と一言だけ返事をした。
「この子は、安倍なつみちゃん……。中澤と矢口が、あなたたちに会うって予言……。うっ……」
石黒は、その場に崩れ落ちた。
「石黒さん!」
「彩っぺ!」
石黒は、気を失った。腹部からの出血がひどく、ここまで気力で持ちこたえていたらしい。このままでは、命に関わる危険性すらあった。
「ひとみちゃん、石黒さんを連れてそっちの通路から逃げて!」
梨華が、一方向を凝視しながら、別方向を指さす。
「でも、梨華ちゃん」
「大丈夫だから、早く!」
「わかった。すぐ戻ってくるから」
ひとみは石黒を抱え起こすと、梨華が指した通路をすすんだ。
「安倍さんも、早く行ってください」
「な、なんで、梨華ちゃんは逃げないのさ。一緒に」
「早く! もうそこまで来てる!」
「アイツ等は、普通の人間じゃないんだよ。逃げよう」
梨華が落胆の表情を浮かべると、丸くカーブを描いた水槽の向こうに2つの影が現われた。
「やっぱり、そうだった」
「福田さん、知ってるんですか?」
「ちょっとね」
2人の声が聞こえ、そしてゆっくりとその声の正体が姿を現した。
「久しぶり。石川さん」
明日香は、ニコッと微笑んだ。
隣にいる亜弥は、不思議そうな顔をしてぺこっと頭を下げた。
「やっぱり、アナタだったのね」
「何が?」
「とぼけないで、この町で起きてる事件よ」
明日香はフッと笑っただけで、何も答えなかった。
それはそのまま肯定を意味する表現のようでもあった。
なつみは、梨華の後ろに隠れてオロオロとしている。
なつみの恐怖が伝染し、梨華の意識が散漫になる。
「安倍さん……。失礼ですけど、触れないでもらえますか?」
「え?」
「すみません。お願いします」
なつみは、梨華からほんの少し離れた。が、体は相変わらず、梨華を盾にしたままだった。
「安倍さん、いい加減にして下さいよ。でないと、ホントに怒りますよ」
亜弥は、腕を組んでプッと頬を膨らませた。
「な、なして!? なっちは、なんも関係ないっしょ」
亜弥にジロッと睨まれたなつみは、短い悲鳴を上げて梨華の後ろに隠れた。
「安倍さんを、どうする気!」
梨華は、明日香に向かって言った。
「私は、別に興味ない。この子に聞いて」
梨華は、亜弥に触手を伸ばした。しかし、亜弥の意識は明日香の触手によりガードされている。
明日香は笑った。
「そんな、簡単なミスするわけない。ちゃんと言葉で言ったら?」
「……安倍さんをどうする気」
亜弥は答えていいかどうかの、指示を仰いでいる様子だった。
明日香が、「いいよ」と梨華の目を見据えたまま言う。
「簡単に説明すると、連れて返っちゃうってことです」
なつみが、その言葉を聞いてガタガタと震えた。
「なんで、なっちが狙われなきゃなんないの。なんも悪いこと、してないっしょ……。もう、やだぁ」
「私の仕事は、矢口のスカウトだから」
明日香は、梨華から瞳をそらすと水槽へと歩みよった。
「その矢口さんに、何度も逃げられてますけどね」
亜弥は、イタズラっ子のように笑った。
「……早く終わらせて、次の仕事に向かうわよ」
「は〜い」
「り、梨華ちゃん……」
助けを求められた梨華だが、正直勝てる見込みはなかった。意識の下に入り込めない以上、どうすることもできない。
「に、逃げてください」
そう、口にした瞬間、梨華の頬にうっすらと一筋の傷が走った。
「……!」
ハッとして亜弥を見ると、亜弥は口元を押さえて笑っていた。
「亜弥っ」
「ごめんなさい。だって、逃げようとしたから」
「……石川さんも、傷つきたくないなら大人しくその人を渡して」
「アナタたち、いったいなんなの!? なんで、こんな事ばかりしてるのよ!!
こんな事していったいなんの得があるの!!」
梨華の声が、静かな館内に響きわたる。その瞬間、また左腕に激痛が走る。
「いいから早く渡して下さい。こっちだって忙しいんです」
苛立ちを隠せない亜弥が、そう言い放つ。
「わかったよっ。わかったからもう、誰も傷つけないで。そっちに行くから」
「ダメですよ、安倍さん」
「だって、こんなことしてたら梨華ちゃんが」
「私は大丈夫ですから、早く逃げてください」
「大丈夫じゃないよ。血が出てるじゃない」
なつみは目に涙を浮かべて、持っていたハンカチで梨華の左腕の傷口を縛ろうとした。
梨華は自分の腕を縛るなつみを、ジッと見つめていた。
あの2人はいったいなぜ、なつみを連れ去ろうとしているのかを必死に考えた。ひょっとしたら、なつみ自信も能力者なのかもしれないと、
意識の触手を伸ばしてみたがなつみはそれらしい事を考えている様子はなかった。
(じゃあ、なんで……)
気を失った石黒を”海響館”の外に連れ出したひとみは、近くにいた人に救急車の手配を頼むとその足でまた館内へ戻ろうとした。
出てくる時には気づかなかったが、”従業員専用口”と書かれたドアの目線の高さに、1枚の張り紙がしてあった。
【よっすい〜〜〜〜〜へ。
何も考えずに、向かいの道路まで来て】
と、その張り紙には書かれていた。
(よっすぃ〜って……)
ひとみはそこで、張り紙に書かれているように思考を停止した。
正確には停止ではない、他のどうでもいいことを考えたのである。
ひとみは、ドアノブをはなすと”海響館”の正面へと駆け出した。
”海響館”から数百メートル離れた所に、見覚えのある青いスポーツカーがエンジンをかけたまま止まっていた。
ひとみが駆け寄ると、助手席のドアが開いて矢口が飛び出してきた。
「よっすぃ〜〜〜、久しぶり〜〜〜」
矢口はその小さな体を精一杯伸ばして、ひとみの肩に抱きついてきた。
「な!? ちょ、矢口さん、やめて下さい!!」
「会いたかったよ〜〜」
と、ピョンピョン跳ねながらキスをしようとした。
「ちょ、ちょっと!!」
必死で顔をそらして抵抗するひとみ。
「もう〜、矢口。そんなんしてる時間ないで」
と、運転席から中澤が下りてくる。
「だって、チューしたいんだもん」
「そんなん、あとで裕ちゃんがなんぼでもしたる」
「いらないよ、そんなん」
(なんなんだ、この2人……)
(こんなときに……)
「何か知ってるんだったら、早く教えて下さい! 梨華ちゃんが、梨華ちゃんが危ないんです」
ひとみは、矢口を引き離しながらそう言ってのけた。
「チェっ。冷たいなぁ。でもま、そこがいいんだよね」
「久しぶりやな、元気か?」
「挨拶なんていいですから、早く。何か知ってるんでしょ。教えて下さい」
「そんなに焦らんでもエエやないの」
「焦りたくもなりますよ!! あの中に福田明日香ともう1人いるんですよ」
「わかってるって。アンタこそ、この前のこと忘れたんか?」
「未来は変わらないんでしょ」
「そや。これもその1つや」
「……でも」
「いいか、よっさん」
「よっさんなんて呼ばないで下さい。オッサンみたいじゃないですか!」
キャハハハハと、矢口が笑った。
「アンタはもう1回、あの中に戻ることになる」
「じゃあ、早く行きましょうよ」
「ウチラは行かへん」
「何でですか。矢口さんがいない場所じゃないと、未来は見えないんでしょう」
それを聞いた矢口が、胸を張るようにして言った。
「3時間後から3日ぐらい先まで見えるようになったんだ。スゴイでしょ」
ひとみには何がスゴイのかよくわからない、それよりも早く知りたかった。
「難しい話はいいですから、助かる方法を教えて下さい!!」
無視された矢口は、チェっと呟くとすねた子供のように地面を蹴った。
「命に関わるかも知れんけど、それでもいいか?」
中澤は真剣な目をして、ひとみに問いかけた。
「あのね……。5日先まで見えるようになったんだけど、その替わり見えない部分が多くなっちゃって……。この後の事がよく見えないの」
と、矢口が顔を伏せて言った。
遠くから、救急車のサイレンが聞こえてきた。
さえぎるものが何もない田舎の道路では、救急車のサイレンの音は騒音にも近いほどだった。
ひとみがうなずくと、中澤はひとみに耳打ちをした。
――そして、ひとみは”海響館”へと向かって走りだした。
梨華の触手は、なつみの意識下にもぐりこんだ。
明日香が目の前にいるのに、それはひどく危険な行為だったが、それでも梨華はこの危機的状況を回避しようと潜りこんだ。
最下層近くに下りても、それらしい兆候は何もない。
だが、なつみには何かしらの能力があるはずだと睨んだ梨華は、なつみの精神を破壊する恐れもあったが思いきって、
なつみの意識の最下層へと触手を伸ばした。
(なに、これ……)
最下層の梨華が見たもの、それは大きな心臓の塊のようなものであった。
ドクン、ドクン、と不気味な低い音をたてて動いていた。
(何でこんなのがあるの……)
それは梨華の始めて見る光景だった。意識の最下層は、これまで数回しか見た事はない。
だが、その数回に共通して見た映像はどれも大抵、暗黒の闇のような似通った映像であった。
(まるで、心臓……)
梨華は恐ろしくなり、触手を引っこめた。その心臓が何を意味するものなのかは分からない。
だが、意味の分からないものを無理に引き上げるのは危険だった。
間違えると、なつみの精神を破壊してしまう恐れがあったからだ。
「どう? 何か見つかった?」
梨華が触手を戻しハッと我に帰ったとき、明日香が笑いながら訊ねてきた。
やはり梨華の意識がそれたのを、読み取っていたらしい。
梨華は何も答えなかった。
左腕をハンカチで縛り終えたなつみは、梨華に向かってニッコリと微笑みかけた。
「痛い思いさせて、ごめんね」
「安倍さん……」
「彩っぺにも、謝っといて……。じゃあ」
と、安倍は小さく手を振ると、2人のもとへと歩きだした。
梨華は、思わず泣きそうになった。何もできない無力な自分がとてもくやしかった。
「ちょっと、待って!!」
声が、静寂の館内に響く。
その場にいる全員が、声の主に注目した。
肩で息をしているひとみが、少し離れた場所に立っている。
「安倍さん、戻って……」
なつみは、ひとみと明日香らの間で「でも……」と戸惑った。
「大丈夫です」
「そこから、一歩でも動いたら首を跳ねますよ」
亜弥が強い口調で、なつみに言った。
「ひとみちゃん、危ないから逃げて!」
涙を流しながら、梨華が叫ぶ。
ひとみは、梨華のキズの心配をしたが、視線を亜弥に向けるとズンズンとそちらに向かって歩き始めた。
不安を覚えた明日香はすばやくひとみに意識の触手を伸ばしたが、梨華の触手にガードされた。
「そんな簡単なミス、しないわ」
梨華の声に、明日香は苦々しい表情を浮かべた。
「目的はなんなのか分からないけど、安倍さんの首を跳ねたら、あなたも生きてられないよ。松浦亜弥ちゃん」
ひとみの言葉に、亜弥はハッとして明日香を振りかえった。
「スカウトする相手を、許可なく殺害してはならない。マニュアル読まなかったの?」
ひとみは、亜弥の怯えた目を見ながら距離を縮めていく。
その自身たっぷりなひとみの表情を見て、明日香は確信した。
自分の広げている意識の網の外で、ひとみが矢口らと会っていたことを――。
「福田さん、この人、なんなんですか?」
明日香はそれには答えず、近付いてくるひとみに向かって言った。
「あなた、矢口に会ったのね」
「さぁ? 読みとればいいじゃないですか」
クッ……と明日香は、奥歯を噛み締める。
ひとみは、まず梨華の手をとった。
「ひとみちゃん!!」
梨華の声を無視して、ひとみはなつみのもとへと歩く。
「マニュアルを破ったら、あなたの上にいる人が世界中どこに逃げても必ず追ってくるわよ。
攻撃タイプは、危険を察知できないから寝クビをとられることが多いんだってね。あなたにピッタリじゃない」
ひとみは、笑いながら言いのけた。
「ふ、福田さん……」
明日香は、意識の網をひろげ矢口たちの意識を捉えようと必死だった。1キロ先に、矢口の意識を捉えたが車で移動しているのだろう、
すぐにレーダーの範囲からは外れてしまった。
「な、なんとか、言ってくださいよ、福田さん」
「うるさい」
「私、まだ入ったばかりなんですよ。そんなの知りませんよ」
ひとみは、なつみの手をとると梨華といっしょに、自分の後ろへと追いやった。
(ここまでの作戦成功……)
ひとみの心の声を聞いた梨華は、思わず「え?」と顔を上げた。
梨華の声は聞こえたはずだが、ひとみは後ろを振り向くことなく、明日香らと対峙していた。
(梨華ちゃん、死んじゃったらごめんね……)
「死ぬって、どういこと!?」
「だってさ、この後、なんにも考えてないんだもん」
(矢口さんの見た未来は、アタシが意識不明になったニュースなんだって)
「安倍さんも、早く逃げて。そうしないと、せっかく石黒さんが引き合わせてくれたのに、ムダになっちゃう」
「ひ、1人で逃げられるわけないべさっ。死ぬなんて、そんな悲しいこといっちゃダメ」
「そうよ! そんなの嫌! ここは私が何とかするから、2人だけで逃げて」
梨華が泣き叫びながら、ひとみの前へ出ようとする。
ひとみはそれを、強引に後ろへと追いやった。
「ひとみちゃんこそ、早く梨華ちゃんを連れて逃げな。アイツ等、なっちが目的なんだから」
明日香らのもとへと向かおうとするなつみを、ひとみは制すると、また後ろへと強引に追いやった。
ビュンという音ともに、ひとみの右腕が切れた。
「安倍さんだけ連れて帰れば問題ないんでしょう? だったら、アナタたちは殺してあげる」
亜弥の目には、怒りが満ちていた。
「た・だ・し、すぐには殺さない。ムカツクから切り刻んじゃう」
ビュンという音が、いくつも飛んでき、その度にひとみの体の一部が裂傷する。
「後ろにいる……、梨華ちゃんも……、リストに入ってんだから、気をつけなよ……」
ひとみは、痛みを必死に堪えながら亜弥に向かって言った。
「もう、止めて!!」
梨華は、触手に持てる力をすべて注ぎ込み、明日香と亜弥の意識下にアタックをかけた。
その力は、明日香の想像を超えるものだった。2人分のガードを張るだけで精一杯となる。
しかし、それも長くは続かないだろう。ガードが崩れ落ちる音が、明日香の頭に響いていた。
「亜弥、引き上げるわよ」
「嫌です。逃げるんなら、福田さんだけ逃げてください」
怒りの感情で暴走を始めた亜弥の力が、四方に飛び散る。
真新しい水槽があちこちで、亀裂を走らせる。
ひとみの身体にも、さらに無数の裂傷が走る。ひとみもさすがに堪えきれずに、意識が遠のきはじめた。
「「ひとみちゃん!!」」
梨華となつみが、同時に声を出した。ひとみはゆっくりと、2人の腕の中へと
倒れ込む。
「早く……、早く、逃げて……。あんなヤツラの、仲間になんかなっちゃダメ……。早く……」
ひとみはそう言い残すと、2人の腕の中で気を失った。
「ひとみちゃん!! しっかりして、ひとみちゃん!!」
梨華は狂ったように泣き叫んだ。
気を失ったひとみの身体には、尚も容赦なく亜弥の力が向かっている。
「もう、止めて!! ひとみちゃんが死んじゃう!!」
梨華の叫びなどまるで興味がないかのように、亜弥は笑いながら力を放ち続けた。その横で、明日香が膝をついている。
ガードで相当の能力を使ってしまったらしい。
「いい加減にしなさいよ」
低い声が、梨華のすぐ向かいで聞こえてきた。
膝をついていた明日香が、苦悶の表情のまま顔を上げる。
尚も力を放ち続けている亜弥の目の前で、ボッという音と共に小さな炎が浮かんだ。
「な、なに、これ!?」
炎の赤い光が、亜弥の驚愕の表情を照らす。
亜弥と明日香を取り囲むように、次々と小さな炎が浮かぶ。
「ふ、福田さん!! な、何なんですか、これ!! こんなの亜弥、聞いてません!!」
「だから、言ったじゃない……。早く終わらせろって。アンタは、遊びすぎたのよ!」
明日香が企業から手渡された資料には、こう書かれてあった。
‖
‖安倍なつみ 1981年8月10日生
‖
‖・・・・・室蘭市・・・・・・・・25−9・・・・・・・
‖・
‖・・・・・”TYPE−PK”・・・・・・パイロキネシス・・・・・
‖・・・・・・・35人死亡。・
‖・・・・・・・・・・・・・15年前、・・・・・氏により封印。
‖・
‖その能力は、・・・・・・・危険・・・・・当社でも
‖制御不可能。自我により制御できるまで、当
‖社は関与しないものとする。
‖・
‖・・・・・・・・・・
‖・
‖・氏の予言した
‖満15年経過後、回収を命ず。
‖尚、回収の際はESP保持者を同行し、その
‖・
‖・
‖・
‖・
‖・・・・・・・・・・・・・
‖・
‖ ・・・・・ Zetima.co
‖_
万が一、覚醒した場合に備えて、明日香にこの任務を平行させたのであろうが、
覚醒したなつみの意識下は梨華の触手のガードにより、明日香にはコントロールすることができなかった。
水槽の中の水が、沸騰をはじめる。
数十に膨れ上がった炎の間を縫うようにして、明日香は呆然としている亜弥の手を引いて逃走した――。
Chapter−5<懺悔>
カスミソウが一面に咲き乱れる平野の中で、麻美が犬と戯れていた。
ひとみは、その光景を離れた場所からぼんやりと眺めている。
(そういえば麻美、ドッグトレーナーになりたいっていってたなぁ……)
(あれが、そうなのかな……?)
(でも、よかったよ)
(夢がかなって)
とてもはつらつとした笑顔の麻美を見ているうちに、ひとみもいつの間にか笑みを浮かべている。
ディスクを投げた麻美が、ひとみに気づいた様子である。ディスクを追いかける犬に指示を与えるのも忘れ、ひとみを見つめている。
ひとみは、大きく手を振った。一瞬の間の後、麻美も大きく手を振り返す。言葉は何もなかった。
あったとしても、遠く離れているため聞こえるはずもない――。
ひとみは、大きく足を一歩踏みだした。
ブニュッとした嫌な感触が、ひとみの足を伝わる。
(なんだろう?)
と、足元を見たひとみは絶句した。
小さな子供の遺体が三体、ひとみの足もとにあった。
(お前なんか、苛めるんじゃなかった)
眼球の飛び出した少年が、ひとみを見上げながら言った。
(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)
(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)(凶暴女)
三体の少年の遺体は、何度も何度もそう叫ぶ。
ひとみは、口元を押さえたきり視線を外すことができなかった。
ただただその声を受け止め、打ち震えている。
前頭部の吹き飛んだ少年が、ひとみの腕をつかむ。
ひとみの右腕に鋭い痛みが走るのと同時に、ひとみの右腕は血だらけになった。
吐しゃ物を吐きつづける少年がひとみの足を撫でると、ひとみの下半身は肉が裂け、筋肉繊維が剥き出しになった。
三体の遺体は突然弾け飛び、細切れとなった肉片がひとみの全身に飛び散った。
悲鳴を上げて、ひとみは狂ったように頭を振りつづけた。
ひとみの悲鳴は、総合病院の中を駆けめぐった。
ナースが当直の医師を連れてひとみの病室を訪れた時、病室の前にはすでに人だかりができていた。
その時の様子を医師は、翌日病院に訪れた梨華となつみに証言した。
「あのまま放置していたら、きっと発狂していたでしょうね。よほど、水族館での事故が恐ろしかったのでしょう……。
容体がもう少し回復したら、平行してカウンセリングを行いましょう」
そう言い残すと医師は、診察のためにロビーを去っていった。
残った梨華となつみは、しばらくの間、無言だった。
あの日の事件は、”事故”として片付けられた。水槽として使われているガラスが水圧に耐えきれず破壊し、
その飛び散った破片により女性客2人が裂傷してしまった。これが、警察が現場検証で出した答えである。
実際は大きく違うのだが、梨華となつみは何も言えなかった。
むしろ、そのように皆の常識の範囲内で収められホッとしている部分もあった。
「ひとみちゃんの両親、もうすぐかな?」
なつみが訊ねても、梨華は何も答えなかった。
ひとみが病院に運ばれてから、梨華はほとんど何も口にしていない。
眠ることもせず、ただただひたすらひとみの身を案じていた。
「そんな、梨華ちゃんが落ち込むことないよ。悪いのは、なっちなんだから。
なっちがもっと早く、自分の力に気づいてたらああはならなかった。悪いのはなっち。そうっしょ?」
梨華は何も答えずに、小さく頭を振るとゆっくりと席を立った。
フラフラと廊下を歩く梨華の後ろ姿を見送っていると、先ほど立ち去った医師がまた戻ってきた。
「そうだ。あのね、あの場所にもう1人お友達がいたのかな?」
その声が聞こえた梨華は、数メートル先で背を向けたまま立ち止まった。
「昨日、”真希ちゃん”って何度も名前を呼んでいたんだけど……」
なつみにその名前は聞き覚えなかった。
だが、2人に背を向けていた梨華の表情は曇った――。
鎮静剤により眠ったままのひとみを、梨華はずっと見つめ続けた。
頬に大きなガーゼがあてがわれているのは、梨華と同じだったがひとみの傷は予想以上に深く跡が残ることになった。
右腕の裂傷は24針縫った。傷は神経にまで達していたため完治しても障害が残るであろうと医師に宣告されていた。
全身の傷はすべてで57箇所。そのほとんどが、何らかの後遺症を残すものであった。
しばらくすると、ひとみの両親が駆けつけてきた。
母親が全身をほとんど包帯で覆われた娘の姿を見て、声を荒げて泣き崩れた。
居たたまれなくなった梨華は、逃げるようにして病室を後にした。
「梨華ちゃん」
いったいどのくらい屋上に佇んでいたのか、梨華が我に帰ると辺りはもう日も暮れかけていた。
声の主は、なつみだった。
「ひとみちゃんの意識、戻ったよ」
「……」
「行ってあげな」
梨華は黙って、首を振った。
「もしも、梨華ちゃんが同じ立場だったら、ひとみちゃんのそんな顔見て嬉しいかい?」
「……」
梨華は、ゆっくりと振りかえった。
「せっかく守ったのに、そんな顔されてたら辛いっしょ?」
「安倍さん……」
「お父さんとお母さん、身の回りのもの買い揃えに行ったから。帰ってくるまで側にいてあげな」
梨華は、ゆっくりとうなずくと安倍を残して屋上を去っていった。
その頃、石黒は病室で考え事をしていた。
出血の割にはその傷のほとんどは浅く、大事には至らなかったが、
それでも数カ所は深い傷もあり抜糸までの数週間の入院が必要と診断された。
ベッドの上で手帳を開いてからもう何分も経過していたが、ペンを持つ手は一向に動かなかった。
オカルト否定派の石黒だったが、もはや信じる信じないの範囲では物事を考えられなくなっていた。
それは在る――。答えはもうすでに出ている石黒だったが、この事件をどう説明しどう人々を納得されるのか考えぬいていた。
だが、それを証明するには梨華やなつみの事を書かなければならない。
自身もかつてはマスメディアの中心にいた身である。
発表した後、マスコミがどのように彼女達を扱うのかも目に見えている。
データをまとめ、記事を書き上げ、それを発表すれば石黒はまたマスメディアの中心に返り咲くことができるだろう。
しかし、そのためには梨華となつみを犠牲にせねばならない。
石黒の葛藤は続いていた――。
頭を冷やそうとフッと窓の外に目をやった時、敷地内を歩いてくる男の姿が目に入った。
短く刈り上げた髪、少しえらの張った顔、キチッとしたスーツ姿。
見舞いに来たサラリーマンだろう程度にしか思わなかった石黒は、また手帳に視線を戻してどうしようかと考え事をしていた。
ひとみの病室に向かう梨華は、男の意識をキャッチした。
(病院)(怪しまれない)
(見舞い)(逃がした)(今度は)
(意識不明)(もう1人)
(病室で犯す)
「なんで、こんなところまで……」
独特の歪んだ意識は、梨華にとっても忘れられない意識だった。
ひっそりと静まり返った夕暮れの病院内に、男の意識は進入してきている。
ひとみの危機を知った梨華は、迷惑なども考えず廊下を走った。
エレベーターのドアが開いた時、男は目を疑った。
探し求めていた獲物が、息をきらせて立っていたからである。
梨華は、荒い息を吐きながらも男から目をそらさなかった。
エレベーターのドアが開いたとき、男は一瞬驚いた意識を発したが、すぐに平静になり見舞い客を装うとしていた。
(ロビーで)(しばらくして)
(戻ったところを)
(処女?)(違う?)
(どっちでもいい)
(泣き叫ぶ)(うるさい)(口を押さえ)
(怪我人の方も)
男は梨華と目を合わさないようにしてエレベーターから出ると、談話室でもあるロビーの方向へと足を向けた。
「待って」
梨華の声に反応して、男は立ち止まった。自分が呼ばれたのか、確認している意識を梨華は読み取った。
「そう。あなたです」
(誘った)(俺を誘った)
(逆ナン?)(俺はカッコイイ)
男は、さわやかな笑顔を浮かべて振りかえった。
「呼んだ?」
(できる)(おもしろくない)
(騙して)(恐怖を)
(歪む顔)(声)(悲鳴を聞きたい)
「なんで、ここを知ってるんですか」
男の目を見据えながら、冷静に言葉を発する梨華。
「え? どういう意味かな?」
男の笑顔。目が笑わなくなっている。
(ニュースで知った)
(病院を確かめた)
(それよりなんで、俺のこと……)
(電車のときから、俺のこと見てた?)
「あなたの事なんて、見たくもない!」
梨華は、キッパリと言い放った。
男から、笑顔が消えた。
(ナンダ、コイツ……)
(生意気)(かわいい顔して)
(ソレヨリ)
(ドウシテ)
(オレの考えが……)
「あなたの考えている事は、全部わかります」
(オカシイ)
「おかしい」
(ナンダ、コイツ)
「なんだ、こいつ」
(心を読んだ……)
「そう――。だから、さっき言いました」
男の思考がパニックを起こしたのを知った梨華は、それ以上男の思考が入らないよう自分にガードの網を張った。
青ざめる男の顔を無視して、梨華は言葉を続けた。
「今すぐ、ここから去って下さい。でないと、私、何をするか分かりません」
「な、何言ってるんだよ。お、おれは」
梨華は、男の意識下に触手を伸ばした。
その感触を感じ、男は腰を抜かした。梨華はすぐに触手を引っ込めた。それ以上、男の意識に触れるのが嫌だったし、
何かのきっかけで精神を破壊してしまう恐れがあったからだ。
さすがの梨華も、それだけは避けたかった。
「帰ってください」
男は悲鳴を上げながら、廊下を這うようにして逃げていった。
梨華はうつむいたまま、その声を聞いていた。
こんな力の使い方はしたくなかったが、ひとみを守るために仕方なく使った。しかし、自己嫌悪に陥ったのも確かだった。
――梨華はけっきょく、ひとみの病室を訪れる事はなかった。
ホテルの一室で、明日香は企業からのFAXを待っていた。
亜弥は2日前のあの事件以来、ずっと眠ったままである。睡眠欲のせいではなく、明日香の力によって眠らされている。
恐怖で一時は大人しかった亜弥だが、
次第に怒りが込み上げてき同時に亜弥自身にもコントロールできないほどの大きな力がこみ上げてきた。
その力に危険を感じた明日香が、亜弥の力が放たれるよりも一瞬早く触手を伸ばして眠らせたのである。
「ったく……」
亜弥の寝顔を見つめながら、明日香はそこに自分の姿を重ね、ほんの少しだけ笑った。
一瞬、2つ年の離れたやんちゃな妹を持った姉のような気分になったっが、すぐにその考えを否定した。
「1人のほうが気楽でいい」
明日香はそう呟くと、近くのソファに身を沈めた。
実際、明日香には1人の妹がいた。だが、両親は物心ついた時にはもうすでにいなかった。この世でたった2人きりの姉妹だったが、
ある冬の晩、風邪をこじらせて呆気なく死んでしまった。
明日香が8歳のときだった――。能力はすでに覚醒しており、そのことがきっかけで、すべてに対して心を閉ざした。
プルルルルル〜、プルルルルル〜と部屋の電話が、静かな部屋に鳴り響く。
すぐにベルは消え、FAXを受信している音が聞こえてきた。
明日香はゆっくりとソファから離れると、受信口から出てくるFAX用紙に目を通した。
一見するとただの商談のように思える文章で、その最後の一文が”契約不成立により受注キャンセル、リストからの削除”とある。
なんら、不信感を抱くことのない内容。
だが、明日香にはちゃんとそこに何が書いてあるのかわかっていた。
”リストからの削除”つまりは企業がなつみをスカウトできないと判断し、脅威となる可能性のあるなつみを抹殺する事にしたのである。
「さてと」
明日香はつぶやくと、触手を伸ばして亜弥を長い眠りから目覚めさせた。
翌日の午後、ひとみの両親は朝比奈町にある大学病院へ、ひとみを転院させることにした。
なつみと石黒は、病院の裏口でひとみの乗った救急車を見送った。
だが、そこに梨華の姿はなかった。
「……梨華ちゃん、どこ行ったんだろう」
なつみが走り去る救急車を見送りながら、独り言のように呟いた。
入院途中でずっと病室に閉じこもっていた石黒には、知る由もなかった。
「その内……、戻ってくるよ」
「彩っぺは、この後どうするんだべさ?」
「へ? アタシ?」
「なっちは、この腕の傷が治ったら北海道に戻ろうと思う」
「そっか……、寂しくなるね」
「彩っぺは、東京?」
「……」
石黒はここ何日かの入院中に、マスコミの世界から身を引くことを決心していた。だが、東京を離れ地元に戻るつもりもなかった。
東京には、彼氏もいる。プロポーズもされた。だが今までは仕事があったので返事を延ばしてきた。
しかし、ここ何日かの入院で何かが吹っ切れた。
「結婚でもしようかな」
「えー!? 彩っぺ、彼氏いたの?」
「一応ね」
「そうなんだ。へー」
「なっちは?」
「いない、いない。北海道にいい男はいないべさ」
「はは。そんな事ないっしょ」
「だべなぁー」
2人は顔を見合わせて笑った。ほんの数日間しか、共に過ごす事はなかったが、互いの心は姉妹感のようなもので繋がっていた。
それは、ひとみや梨華に対しても同じだった――。
一方、梨華はひとみが移送されている救急車を、病院の屋上から眺めていた。
またあの男が戻ってくるかもしれないと、用心して意識の網を広げ、
なおかつ何かあればすぐ行動できる範囲の病院内に梨華は身を潜めていたのである。
昨日から、自分のことを探し求めるひとみの意識を梨華は感じていたが、ひとみの病室に向かうことはなかった。
自分のせいで、自分のふがいない能力のせいで、一生消えることのない傷を負ったひとみの前に
どんな顔をして現われたらいいのかわからなかった。
なつみにも顔を合わせづらかった。誰が何の目的でその力を封じ込めていたのか知らないが、
2人を危険な目に合わせたばかりにその能力を覚醒してしまった。
きっともう、なつみは普通の生活を取り戻せない――そう思うと、顔を合わす勇気がない。
石黒に対してもそうだった。ひとみと会うあの日、自分もいっしょに同行していたら、何かが変わっていたのかもしれない。
そう思うと、誰の前にも姿を現すことができずに、病院内にひっそりと身を潜ませていた。
梨華は、見えなくなった救急車の方向をいつまでも眺めていた。
帰り際にひとみが残した心の声――。
(梨華ちゃん、会いたい!!)
その声ももう感じ取れないほど、2人の距離は離れてしまっていた。
「ひとみちゃん。ひとみちゃん」
梨華は何度もひとみの名前を呼びながら、その場に膝をついて涙を流した。
だが、その涙も数秒後に感じとる2つの意識により、止めざるを得なかった。
なつみが、気づいた時すでに亜弥はこちらに向かって力を放っていた。
隣にいた石黒を突き飛ばすと、石黒の延長線上にあった自動販売機が真ん中からずり落ちた。
「彩っぺ、逃げて!」
突然つき飛ばされ、何が起こったのか分からないほどパニックになった石黒だったがその後に何度も聞こえてくる
空気を裂く鈍い音につい数日前の記憶が甦り、何が起こっているのかを理解した。
石黒は気丈にもなつみを先に逃がそうと、振りかえった。
だが、そこにいたのは数日前に、石黒に手を引かれながら逃げていた少女とは思えないほど精悍な顔つきをしたなつみがいた。
亜弥の放つ力を防いでいるのは、なつみから放出されている炎の玉だった。石黒がなつみの力を見たのは、これが初めてだった。
「なっち……」
「彩っぺ、早く」
なつみは亜弥と対峙したまま、そう言いのけた。
「う、うん……」
我にかえった石黒は、すばやく脇にある階段を駆け上がった。もうなつみを逃がす事はできない、自分は足手まといになるだけだと思うと、
ほんの少し寂しいようなそれでいて嬉しいような不思議な感情が沸き上がってきた。
「なっち!! 負けるなよ!!」
石黒は思わずそう叫んでいた。
「わかってるべさー!!」
と、下の方からいつもの明るいなつみの声が聞こえて来た時、石黒は思わず笑みをこぼした。
「あんたたちね! ここは病院だよ! もうちょっとTPOを考えるべさ!!」
なつみは、一気に炎を放出させた。
病院の裏口から、巨大な炎が吹き出してきた。
明日香と亜弥は、その炎をはさむようにして左右に飛び散る。
「さすが、削除されるだけありますね〜。でももったいない、あれだけの力があるんならすぐ上のレベルに行けたのに」
亜弥が、つまらなそうに口を開いた。
明日香の視線は、屋上にいる梨華に向けられている。
ここに矢口はいない。矢口と接触した形跡もない。今度こそ、勝てる。
明日香はそう確信していた。
2人の意識下では、無言のバトルが繰り広げられていた。
「亜弥、屋上を狙って!!」
「え? 屋上?」
「早く!!」
「わかりましたよ」と、亜弥は屋上にいる梨華に向かって力を放出した。
亜弥の顔が上を向いたとき、梨華はとっさにフェンスから大きく退いた。
明日香にガードされている亜弥の意識を読みとる事はできなかったが、梨華の本能がそうさせていた。
それは、正解だった。梨華がフェンスから離れた瞬間、音もなくフェンスが切断された。
だが、呑気に構えているわけにもいかなかった。見えなくなった梨華を仕留めようと、いくつもの見えない刃が飛んできていたからだ。
梨華はすばやく、屋上を後にした。刃の威力は数日前の比ではない。
あきらかに、殺意が込められている。梨華は身震いしながらも、なつみのもとへ向かって一気に階段を駆けおりた。
むろん、その間も明日香の触手とバトルを繰り返していた。
なつみは、その場を動けないでいた。
一歩でも動くと、どこから刃が飛んでくるかわからない。自分の周りに炎の壁を出現させ防戦する一方だった。
周りの壁が炎によって燃えださないのが、なつみにとって唯一の救いであった。
そして、脳の中にある独特の違和感も近くにいる梨華の存在を感じとれて心強かった。
だが、現状は一向に改善されない。それどころか、怒りに任せて炎を放出させたため、2人の姿を見失ってしまった。
「なっちは、まだまだだべ……」
いきなり横からものすごい力が、ぶつかってきた。亜弥が外から力を放出したのだろう、コンクリート片が炎の壁に衝撃を与えた。
一瞬、炎の壁が揺らいだがその高い温度により、コンクリート片は跡形もなく消え失せた。
「安倍さん!」
そこへ、息をきらせた梨華がやってきた。
「おぉ、梨華ちゃん!」
なつみは思わず涙が出そうになった。自分と同じ異能の力を持ち、しかもそれは自分にはない能力を補う力である。
これほど心強い相手はいなかった。なつみは梨華が通れるだけの隙間を作り、炎の中に迎え入れた。
「今までどこにいたんだべ! みんな、心配してたんだよ!」
「すみません。あの、後で話しますから、今は」
「あ、そうだった」
「とりあえず、ここから出ましょう。このまんまじゃ、病院が持ちません」
「わかったよ」
「右側にいますから、そちらの火を強くしててください」
「ガスコンロじゃないんだから」
と、笑いながらもなつみは右側の炎を強くした。
通用口を出ると、2人はそのまま裏手にある駐車場に移動した。
何人かいた通行人は移動する炎の壁を見ると、悲鳴を上げて逃げた。
「笑っちゃうよ。こんなの」
「来ますよ」
「どっち」
「後ろ」
数台の車が炎の壁に激突した。だが、やはり車は一瞬で炭化した。
「勝てるんですか、私たち」
亜弥が、不安そうな表情をして明日香に訊ねた。
「あの壁がある限り、こっちに勝ち目はない」
「じゃあ、どうすれば」
明日香は辺りを見まわすと、近くにある幼稚園に目をつけた。
「あそこにある、銀杏の木を切り倒して」
「はぁ?」
「いいから、早く」
「は、はい」
ズドーンという音と共に、銀杏の木が倒れた。園児の悲鳴が上がる。
「あ、アイツら、なんてこと!」
「まさか」
梨華は触手を伸ばし、明日香の意識を探った。まるで待っていたか
のように、明日香のガードのすぐ下にある意識の表面に届いた。
(いらっしゃい)
(何てことするの! 狙ってるのは私たちでしょ!)
(10秒以内にその壁を取払ってくれないと、どうなるか……、わかるよね?)
(卑怯よ……!)
(10)
(何で、こんな事ばかりしてるの!)
(9)
(理由を聞かせてよ!)
(8)
(……もうッ)
梨華は、触手を引っ込めて安倍に向かって言った。
「安倍さん、すぐにこの壁をどけてください!」
「そんな事したら、死んじゃうべさ!」
「幼稚園の子供を狙ってるんです!」
「え!?」
「早く!」
一瞬迷ったが、なつみはニヤニヤと笑っている明日香を見て仕方なく炎を消した。
「すごい福田さん。何やったんですか?」
「ちょっとした、脅迫よ」
亜弥は、はは〜んと視線を幼稚園へ向けた。怯えた園児や保育士たちが教室の中で見を奮わせている。
もうすでに、こちらの異変に気づいている様子だった。
「バカじゃないですか。ねぇ」
と、亜弥は口元を押さえてプププと笑った。
「なっちたち、殺されるんだべか?」
なつみが小さな声でつぶやいた。
「……だと思います」
「なんか、梨華ちゃん余裕だね。怖くないの?」
「安倍さんこそ」
「なっちは、いつもこんなだ。広い、大地の子だから」
「安倍さんって、面白い」
なんとなく、二人はクスクスと笑った。
ボンッとなつみの炎が、亜弥の刃を相殺した。笑いながらも、梨華となつみの意識は2人からは逸らされていなかった。
「まだ、力使ってるじゃないですか」
「……安倍さん、もう使わないでもらえますか?」
明日香の問いかけに、対峙しているなつみが答える。
「んなこと言ったって、出るもんは仕方ないよ」
「あんな事、言ってますよ」
「最後にもう1度聞きます。安倍さん、私たちの仲間になりませんか?」
「ダメですよ。リスト削除されてるんですよ。そんな事したら、私たちが」
明日香の心にはもう、単純な思いしかなかった。強力ななつみの力、それが欲しい。ただ、それだけだった。
明日香の”精神感応”となつみの”念動発火”があれば、絶対的な者に近づけるはずである。
――明日香はただ、力が欲しかった。
妹を見捨てたこの社会を滅ぼす、強い強い力が欲しかった。
妹のことが頭をよぎった時、明日香のガードに隙ができた。
一瞬の隙をついて、梨華の触手は明日香の意識下に入り込むことに成功した。
ガードの触手を振り払い、梨華の触手は猛スピードで最下層へと突き進んだ。
――あるはずかないと思った”良心”がそこにあった。
梨華は自分の意識を触手を使って流し込んだ。
(なんでこんなところに……)
明日香の良心は、泉を表していた。陽光の降りそそぐ、穏やかな風が舞う泉こそが、明日香の”良心”であった。
梨華は目を凝らして辺りを見まわした。泉の縁で、幼い少女が1人座っていた。
しかし、それは意識の付属の一部のようなものであり、それそのものが明日香自身ではなかった。
((妹よ。6才で死んだわ))
梨華の意識に、明日香の声が響いてきた。
意識下ではどういうわけだか、本人の意識が現われた時点で進入した者は操作できないようになっている。
明日香も梨華も、ひとみの意識下に潜り込んだ時にそれを知った。
梨華はもう戦うつもりはなかった。戦えないというセオリーもあったが、それ以前に明日香の中にも良心があるのを知ったからである。
(話あえば、きっとわかりあえる)
梨華は、明日香の意識に語りかけた。どこにいるのかは、わからない。
最下層という事もあり、本人もまったく訪れたくない場所なのであろう。
近くの層にいる事はわかっていたが、梨華は探すつもりはなかった。
((わかりあって、どうするのか私は知らない))
(そんな事ない。だって、こんなに綺麗な心があるのに)
((私には見えない))
(見ようとしないからよ)
((……妹が死んだとき、私にはもう力があった))
(私も、幼い頃から力を持ってた)
((施設の職員たちは、私たちのような親のいない子供達を見て哀れんだ。可哀相。可哀相))
(悪いことじゃない……)
((いつも私たちは下に見られていた。でも、妹と一緒にいれるのならそれでも良かった))
(……)
梨華は、明日香の泉が小さく振動し始めたのを知った。
((引き離されるのが嫌で、バレるのを恐れた。))
(……)
((黙っている事にした。そうすると、余計なことを口にしなくて良かったから))
(そうね……。私も昔は、どっちがどっちの声なのか分からなくて、よく変な目で見られた)
((喋らなくなった私を心配した園長が、私にいろいろと話しかけてきた。声も心の声も、本当に私を心配していた))
(……うん)
((ある冬の日に、妹が高熱を出して倒れた。私はすぐに、宿直だった職員に知らせに行った))
暗い廊下を走る幼い明日香の映像が、すぐ上の層に浮かんだ。
くすんで色の落ちたアニメがプリントされたトレーナーの上下だけでは、よほど寒いのであろう、
幼い明日香の口元からは白い息が出ていた。
だがその映像も、意識下の明日香が喋るのと同時に消えた。
((職員はビールを飲んでた。でも私が必死に叫ぶと、嫌々ながら部屋にやってきた。
妹の額に手を当てると、大丈夫だって一言だけいって、宿直室に戻っていった。
熱を測ることもなく、たった1度額に手を当てただけで、すぐに戻っていった。その時、男が何を考えてたかわかる?))
(……)
((明日も早いから、さっさと”ヌいて”寝ようだって))
明日香は、そこで自虐的に笑った。
男たちの様々な欲望の映像が、浮かんでは消えた。
梨華は、目を背けた。
((あなただって、こんなのいっぱい見てきたでしょう。笑っちゃうよね。
――けっきょく、その高熱が原因で妹は意識不明になって、2日後の夜に死んだわ))
(……)
((憎んだ。心の底から憎んだ。でも、今のような事はしなかった。憎かったけど、それよりも妹の側を離れたくなかった。
私は死んで冷たくなった妹に、妹が習い始めたばかりの漢字をずっと教えていた))
(もう、やめて……)
梨華の目には涙が浮かんでいた。もう、これ以上は耐えられなかった。
((話し合えばわかるんでしょう? 聞いてよ。下にいる私は、ほんの少しだけお喋りなんだから))
明日香の、静かな笑い声が響いた。
(……)
((自分の手を冷たくなった妹の手に添えてね、妹の名前を何個も何個もメモ用紙に書いた。
生きていた頃はそうするとね、妹の喜んでいる声が私の中に流れ込んできて、とても幸せな気持ちになれた。
大人たちの汚い欲望が流れ込んできても、妹の声を聞けばすべてが綺麗になった。
でも、冷たくなった妹からは何の声も流れてこない。私の心がどんどん冷たくなるのが、自分でもわかった))
梨華は、涙を止めることができなかった。淡々と話すその明日香の声が、よけいに悲しかった。
((妹の遺体は、そのままお寺の小さな納骨堂に収められた。墓なんて買ってもらえなかったからね。
――で、どのくらいだろう、妹のいない生活に慣れない私を心配して、また園長が声をかけてくれた。
その心は、前みたいに私のことを本当に心配してくれてた。
でね、私は妹が熱を出した夜の事を話したの))
梨華にはもう、すべてが分かっていた。15才の少女が知るはずもないほど、様々な人間の感情を力のせいで見てきたのである。
境遇こそ違えど、明日香の受けたものは痛いぐらいにわかっていた。
((そしたら、園長の中の声は一変したわ))
明日香は、笑いながら話しを続けた。
((職員の管理ミスがばれて、建設計画のあった2つ目の施設の計画が中止になることを恐れた。
とにかく、このことが外部に漏れないように必死で思いを巡らせてた。
フフ。でもね、私は”あぁ、やっぱりこの人もそうなんだ”ってぐらいにしか思わなかった。
ま、信じてた分だけ裏切られたショックは大きかったけどね。でも……、そんなの妹が死んだのに比べると))
明日香はそこまで言い終ると、どこかで小さく深呼吸をしているようだった。
梨華は、この後のことを考えた。明日香の意識下から戻っても、そこではほんの数秒間ほどの時間しか流れていないだろう。
そして、ここであったことを説明している時間も、あの亜弥がいる限りないのもわかっていた。
((許せなくなった一言、私のすべてを閉ざさせた言葉が、園長の中から流れてきた))
【どうせ、親のない子。誰もこの子の言う事なんて、信用しない。死んでよかった。中途半端に生きられてたら、大変なことだった】
よほど憎かったのだろう、よほど辛かったのだろう、よほど悲しかったのだろう、明日香の意識下の中全体に園長のその心の声が響いた。
梨華は思わず触手を、明日香の意識下から引いた。
現実の世界に戻ってきた梨華の目には、数メートル先で対峙している明日香と亜弥の姿があった。
「梨華ちゃん、どしたの? 汗、びっしょりじゃない」
なつみが梨華に目をやった瞬間、亜弥の刃が放たれた。
「っ!」
と、なつみが驚き様に放った炎は、その威力が弱かったせいか、亜弥の刃を完全に相殺することができずに、なつみの肩の肉を割いた。
苦痛の表情を浮かべて、なつみの膝が崩れる。
「安倍さん!」
支える梨華に向かって、なつみは「大丈夫」と痛々しい笑顔を浮かべた。
梨華の見た明日香は、これまでに何度も見た明日香と同じだった。
けっきょく、この関係は平行線をたどるしかないのかとあきらめかけた時、変化が訪れた。
「わー、女ライダーだ。女ライダーだ」
と、数人の園児が対峙する4人の間に割って入ってきた。
園児たちは、4人のことを特撮ヒーローと勘違いしていた。
そして、もっと近くで見ようと保育士の静止も振りきり、こちらに駆け出してきたのだった。
「あ、危ない!! 早く、向こうに!!」
「逃げて、早く!!」
と、叫ぶ梨華となつみを見た園児は、彼女たちを正義の味方とでも判断したのか、なお一層喜んで駆けてきた。
「福田さん、私いいこと思いつきました。まずは、あっちの石川を殺りましょう。
私があっちを倒すから、福田さんはすぐに安倍さんをコントロールして下さい。そうすればいいんですよ。ね。私って、頭いいでしょ」
「そんなのが簡単にできたら、ここまで苦労してないでしょう」
と、明日香は冷たく言い放った。
明日香にとって、最大の失敗がここにあった。
今までパートナーを組まなかった明日香は、パートナーの思考をガードしてやるだけで、
なおかつそれを読みながらパートナーが的確に動けるように指示すると言う事に慣れていない。
慣れていないというよりも、考えつきもしていなかった。
その戦い方を知っていれば、事前に亜弥の行動を制御することができたであろう。しかし、明日香が気づいたときにはすでに遅かった。
亜弥の意識を感じたその一瞬が、明日香を本能的に行動させた。
その行動は、明日香と亜弥の死を意味していた。
まるで、すべてがスローモーションのようであった。園児などお構いなく、無数の刃を放つ亜弥。
最大限の炎を、園児越しに放つなつみ。
炎に包まれるそのほんの一瞬前に、亜弥が明日香を驚愕の表情で見つめた。
何か言いたそうではあったが、次の瞬間、亜弥は短い叫び声と共に一瞬の間で炭化した。
少し離れていた明日香は、炎の直撃を免れ一瞬で炭化する事はなかったが、その身体は炎に包まれている。
我にかえったなつみはすぐに炎を消したが、焼けただれた明日香はその場にゆっくりと倒れ込んだ。
梨華となつみは、はしゃぐ園児を尻目に明日香のもとへと駆けた。
だが、明日香のその姿を見たとき、その命がもう長くないのを知り、呆然とした。
焼けて皮膚の溶けた明日香が、2人を見て微笑んだ。――かのように見えた。実際には、明日香の顔の筋肉繊維はほとんど炭化している。
目もとの筋肉も口元の筋肉も、その機能を果たす事はない。
(あんたのせいで、柄でもない事しちゃった……)
明日香の声が、梨華に届いた。
「何があったの!! ねぇ、教えてよ!!」
梨華は、叫んだ。ほんの数十秒前に、分かり合えるかもしれないと思えた相手が、このような姿になり冷静になる事などできなかった。
(亜弥が子供たちを殺して、あんたたちの動揺を誘おうとした。その隙をついてあんたたちを狙うことにしたんだ……。いい作戦よ)
「何が作戦よ!! なんで、戦わなくちゃいけないのよ!!」
(でも、もっと早くに教えてくれなきゃ……。急だったから、止めちゃった……。私ね、自慢じゃないけど、子供に手を出したことはないわ。
アレだって、ただの脅しのつもりだったのに、ホント亜弥はバカよ)
「ねぇ!! しっかりして!!」
(はぁ……。子供はいいよ。善と悪があっても、なんかハッキリしてるし。流れてきても、微笑ましいっていうかねぇ)
「しっかりして!!」
(はぁあ……。妹の敵とったときに、やめとけばよかった。フフ。あなたにも見せてあげたかった。
みんながどんな死に方したか。フフ。気分爽快だったよ)
「憎かったんでしょ!! 私にも分かるよ!! だから、目を開けて!! 友達になろう!! ねぇ、福田さん!!」
(ハハ。何かもう疲れた。亜弥に謝りにいくよ)
「福田さん!! 目を開けて!!」
(ねぇ……、1つ聞いていい?)
「何!! なによ!!」
(私でも、天国に行けるかな?)
「……何、バカなこと言ってるのよ!!」
(天国には、妹が待ってるの……)
「……」
(また、漢字教えてあげたいんだ……)
「行けるよ……。最後に1つ良い事したんだもん。神様は、許してくれるよ」
(そっか……。じゃあ、不安だから最後にもう1つ……。すぐにここを……逃げて。もうすぐしたら、ここに会社のヤツラが……来る。
そいつらには、絶対敵わない……。あの2人は厄介なんだよ。フフ……。だから……、早く逃げて)
「嫌よ!!」
(2つ良い事させてよ……。妹に会いたいんだ)
梨華は泣きながら立ちあがった。確かに、何か得体の知れない力をもった1人の意識が確実にこちらに近づいてきている。
意識そのものは普通の意識だったが、その波動は桁違いであった。――自分の身の安全のためには逃げたほうが得策だった。
だが、それよりも明日香のためにこの場所を離れたかった。最後の最後で友達になれた福田明日香。
その友人の願いを、梨華はどうしても叶えてやりたかった。
梨華は、呆然と立ち尽くしたままのなつみの手をとり、後ろを振りかえることなく、その場を走り去った。
悲しすぎる最後の声を聞きたくなかった梨華は、意識にガードの網を張りつづけていた――。
涙で滲む梨華の目にサキヤマ町の風景は見えていない。ただ、サキヤマ町に漂う潮の香りがとてもしょっぱかった――。
第3部
Chapter−1<ゴトウマキ>
ひとみが朝比奈町に戻って、1ヵ月が経過した。
傷のほとんどは完治しつい数日前に退院もできたが、リハビリのための通院は必要だった。
今日もひとみは学校の授業を終え、朝比奈町にある大学病院で歩行訓練のリハビリを受けていた。
頬に残った大きな傷も、右腕と左足の自由が効かないのも、ひとみにとってそれほど苦にはならなかった。
ただ、梨華がいないことが悲しかった。
あの日”海響館”以来、ひとみは梨華の姿を見ていない。
サキヤマ町の病院で、ひとみが意識を失っている間、梨華は側に付き添ってくれていたとは両親から聞いて知っていたが、
意識が目覚めてから梨華の姿を見ることは1度もなかった。
梨華の心情を、ひとみは容易に察することができた。
きっと、自分のこの傷のせいで顔を合わせづらい事はわかっていた。
だからこそ、ひとみはリハビリに励んでいる。
「あ、ここにいたんだ」
声に気づいて振りかえると、長い栗色だった髪をばっさりと切った石黒彩が、リハビリ室で休憩しているひとみへと歩いてきていた。
ひとみは、軽く笑顔を浮かべて会釈した。
「家に電話したら、病院だって聞いたから」
と、石黒はひとみの横に座った。
「飲む?」
石黒の手には、彼女の好きなイチゴブリックがあった。
ひとみは、それをやんわりと断ると聞きたいことを訊ねた。
「梨華ちゃんと安倍さん……、見つかりましたか?」
そう。梨華が現われなくなったのと同時に、なつみの姿も見えなくなっていた。
しかし、なつみはもともと北海道からサキヤマ町に叔母の見舞いに来ただけである。
ひとみはてっきり、北海道に帰ったものだと思っていた。だが、石黒の話によると北海道には戻っていないらしい。
「探してはいるんだけどね」
と、石黒は残念そうにつぶやいた。石黒はもうマスコミ業界から身を引き、今は花嫁修業も兼ねて都内の料理教室に通っているらしい。
だが、やはりなつみのことが気になり、彼女の行方を必死に探してたりもしている。
週に1度、ひとみの見舞いも兼ね、失踪した二人の情報を交換しに、こうして朝比奈町にやって来ている。
「……そうですか」
ひとみは、落胆の色を隠しきれなかった。もしかしたらという、恐ろしい不安が頭をよぎったが、ひとみはそれを必死で否定した。
リハビリが必要なほどの怪我を負ったひとみが、梨華を探せる範囲というのもたかが知れていた。
今のところ、梨華の勤めていた花屋「アップフロント」と、その女主人に教えてもらったアパートの住所だっけだった。
朝比奈町から少し離れた場所に、梨華が1人暮しをしているアパートがある。実家の住所は、花屋の主人にも分からないらしい。
ひとみは、あまり期待せずにその場所へと向かった。
どこにでもあるモルタル造りのアパート。その2階に、梨華の部屋はあった。そこに梨華はいない事はわかっていた。
わかってはいたが、やはり確かめずにはいられなかった。
松葉杖を使いながら重い足を持ち上げ、階段を上ることは困難だったが、
それでもひょっとしたらという淡い期待を抱き数十分かけて、15段の階段を上った。
ひとみの予想通り、そこに梨華の姿はなかった。
何度呼び鈴を押しても、中に誰かがいる気配はない。
(梨華ちゃん!)
(梨華ちゃん、どこ!)
(いるんなら、返事して!)
ひとみは心の中で、叫んだ。――だが、梨華からの返事はない。
もしも、以前のように身体の自由が効くのならば、ひとみは迷わずベランダからでも梨華の部屋に侵入しただろう。
そして、失踪の手がかりになるようなものを探しただろう。
それでもしも、ただ単に何かの都合で帰ってくるのが遅くなった梨華に見つかり、変な目で見られても、それはそれでよかった。
無事に帰ってきてくれさえすれば、ひとみはどう見られても構わなかった。
――だが、身体は以前のような軽やかさを失ってしまっていた。
ひとみは、ただひたすら待ちつづける日々を送るしかなかった。
夜。
朝比奈町から遠く離れた他県の町。その安ホテルの一室に、梨華はなつみといた。
梨華が買ってきたコンビニの弁当を、なつみは狂ったように貪っていた。
(安倍さん……)
梨華は、悲しそうに目を伏せる。
あの日、なつみは子供たちを守るために、すべての力を炎に変えて、子供たちを狙う2人の少女に放った。
それまで、限りない攻防を繰り広げただ時間を消費してたに過ぎなかった戦いも、なつみのその攻撃により呆気なく勝負がついた。
だが、人を殺した罪の重さにより、なつみの精神は壊れた。
梨華がどんなに言葉をかけても、どんなに現実を見させようとしても、なつみは何も受け入れなかった。
深い心の傷を負ったなつみを見捨てることもできず、
かといって異能の力を持った集団に命を狙われている自分達が助けを求められるような場所はどこにもない。
レーダーの網をひろげほんの少しでも危険な思考をもっている人物に、ビクビクと怯える生活を続けていた。
救いが1つあるとすれば、この町のこの安ホテルに身を潜めてから、まだ1度も能力者の意識を捉えずにいることだけであった。
(でも……)
梨華は、明日香の最後の言葉が気になっていた。
【ここに会社のヤツラが来る。そいつらには、絶対に敵わない。あの2人が厄介なんだよ。】
そう。確かに明日香は【2人】そう言った。
だが、梨華が感じたのは【1人の意識】だけだった。
(2人……)
(あの強い意識で気付かなかっただけなのかな……)
梨華は、本能的に感じる不安を除くことができなかった。
「梨華ちゃん」
なつみが、優しく語りかけてくる。
「は、はい!?」
なつみは、ニコニコと微笑みながら梨華が手を付けずにいるコンビニ弁当を見ていた。
梨華に心が読める能力がなかったとしても、もう何週間も同じようなことが繰り返されているので、
なつみの欲する物は何も聞かないでもわかっていた。
「あ、どうぞ」
梨華は自分の弁当を、なつみにそっと手渡した。ここ数週間で、
ふっくらとして愛くるしかったなつみにも、そろそろ太り過ぎのシグナルが点滅していた。
心配ではあったが、梨華にはどうすることもできなかった。
「梨華ちゃん……」
電気を消して真っ暗になったホテルの部屋。他に寝るスペースもないので、梨華となつみはシングルベッドを2人で使っていた。
そして、あの日以来、なつみは毎晩眠る頃になると、まるで子供のように梨華に甘えてきた。
なつみはソッと梨華に抱きついてきた。
そこから流れ込んでくるなつみの意識。
なつみは、母のぬくもりを一心に受けようとする子供そのものだった。
はじめは驚いた梨華ではあったが、自分がそうすることでなつみの心がほんの少しでも癒されるのであればと、
毎晩黙ってなつみの身体を優しく抱きしめていた。
安心したなつみの意識が流れ込み、やがて眠りにつく頃まで、梨華はなつみを抱きしめる。
(……このままじゃ、いけない)
(でも、どうすればいいの……?)
(ひとみちゃん……)
(会いたいよ、ひとみちゃん)
(ひとみちゃん……)
なつみを抱きながらも、梨華は毎晩のようにひとみのことを考えては、心細くなって泣いた。
もう生活資金も残り少なくなっている。
これまではなんとか、梨華の貯金を切り崩しながら生活してきたが、
もうそれも底をつきはじめた今、新たな仕事先を見つけなければ、ホテルを追い出されてしまう。
梨華は、力を使ってなつみを眠らせ、見ず知らずの町を歩き回った。
【アルバイト募集】と書かれたチラシが店先に貼ってあると、アポもとらずに駆けこみで申し込んでみた。
だが、未成年で住所もない梨華を雇ってくれるような場所はどこにもなかった。
途方にくれていると、梨華の意識に誰かの意識が流れ込んできた。
(あーあ、誰かアルバイト入ってくれんかなぁ)
意識は、かなり切実なものであった。
だがその切実な願いは、梨華にとっては好都合なものである。
梨華は咄嗟に、辺りを見まわした。
いくら意識を感じても、それがどこの誰から流れ込んでいるのかはわからない。
梨華は運が良かったのかもしれない。人通りの多い道は、様々な意識が流れ込んでくるため極力、そのような道を避けて歩いた。
そして今、午後の人通りの途絶えた飲食店街を歩いていたのである。
梨華の目的の人物は、数メートル先の十字路を横切っていた。
淡いブラウンの髪をした、すらっとした若い女性。
その女性は相変わらず愚痴のような意識を流し続けていた。
「あ! あの!」
梨華は思わず、数メートル離れた場所から声をかけた。
はじめ女性は自分が声をかけられたとは思わなかったので、そのまま梨華の声を無視して歩き続けた。
だが、もう1度梨華の声を聴くと周りに自分しかいないのを認識し、ゆっくりと声のした方向を見た。
「あ、あの……」
思わず駆けよった梨華だったが、その後は何を話していいかわからなかった。まさか、心を読みましたとは言えない。
女性は丸いサングラスを少しずらして、梨華をマジマジと眺めている。
(なんや、この子……?)
(ちょっと、頭おかしいんか?)
(うわ、やばいでぇ)
怪しまれ始めたのを感じとった梨華は、もう何がなんだかわからなくなって、「私を雇って下さいッ」といきなり頭を下げた。
「は?」
(やっぱ、おかしい)
(雇って?)
(……店のチラシでも見たんか?)
梨華はその意識をすばやく読みとり、女性にそれ以上考える時間を与えないように口を開いた。
「あの、お店のチラシ見て」
「あ、そう」
(なんや、やっぱりそうか……)
(けど……)
(見た目は合格やけど……若すぎるんちゃうか)
「あの、石川梨華15才。神奈川県生まれ」
梨華は思わず、自己紹介をしてしまった。
女性は、「はぁ?」と口を開けっ放しにした。
梨華の表情に、またやってしまったという色が浮かんだ。
雇ってもらえないだろうと1度は落胆した梨華だったが、女性がとても彼女のことを気に入ったらしく、
詳しく話を聞きたいとの事で、女性の店である居酒屋へと連れていかれた。
「そうかぁ。まぁ、詳しい事はもうええわ。そのかわり、ここで居る間、自分、18才で通しや。バレたら、ややこしいからな。それでええか?」
「はい、頑張ります」
梨華は、「ありがとうございます」と深々と頭をさげた。
能力で心を読み、相手の納得する答えを出す。それは梨華が、誰に教わるでもなく覚えた、能力を隠すための処世術であった。
それが功をそうし、完全には納得していないものの梨華は女性の店で働けることになった。
問題は、なつみと住居のことであったが、それも同時に解決することができた。
女性の納得する答えを導き出した結果――、なつみは梨華の姉で、2人は親の借金で住む家がなくなったという悲劇の姉妹になった。
トラブルが起きてからでは遅いので、梨華は正直になつみが精神的に不安定になっていることも忘れずに付け加えた。
女性は、「アンタも、大変やなぁ……」と少し涙ぐみながら、梨華のためにジュースを取りにいった。
そして、しばらく世間話をして正式に採用となったのである。
(ごめんなさい、平家さん……)
梨華は、これから雇い主になる若い女店主――平家みちよに対して本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
――石黒のもとには、梨華とひとみについてのいくつかの情報が転がり込んできていた。
数人の知り合いに頼んでいたものが、次々と集まってきたのである。
石黒はその資料を読み、2人の居場所のおおよその見当はつけていた。
しかし、彼女はこれをひとみに知らせるべきかどうか迷っていた。
ひとみに知らせれば、すぐに喜んで駆けつけるだろう。石黒も、2人には会いたい。
(でも……)
正直なところ、もうあまりかかわりたくないという気持ちもある。
”オカルト”を否定していたのに、ほんの1日でその考えをまったく逆にしてしまうような事件に遭遇してしまったのだ。
ケガもした。幸いにも石黒は軽傷で済んだが、ひとみは命に関わるほどの怪我をし後遺症まで残ってしまった。
石黒は、もうこれ以上ひとみを不幸な目に合わせたくなかった。
そして何よりも不気味なのが、梨華やなつみを執拗以上に付け狙った相手の存在である。
その正体はまったくの謎であった。
あれだけの目撃者もあり、なおかつ破壊された建物などの物的証拠も残っている。しかし、警察もマスコミも動かなかった。
ひとみたちと知り合うきっかけともなった、朝比奈学園の事件もそうだった。
取材の途中で、突然ストップがかかった。それに納得できなかった彼女は、出版社をクビになった――。
どれもこれも、直接の目撃者以外、世間の多くの人は何も知らない。
情報を操作できるほどの大きな力の存在は、石黒のジャーナリストとしての魂を震え上げさせた。
「これ以上、関わるのは危険……」
石黒は、調査報告資料の束をまとめるとそれをクローゼットにしまった。そして、服を着替えて料理教室に行く準備をする。
そうするのが正しいのかどうかわからなかったが、今はもう今日習う料理のことだけを考えたかった――。
酔った客たちの意識をガードしつつ、働くという事はかなりハードなことだった。
これまでのように、”花”をキーワードに流れてくる”祝い”や”プレゼント”や”美”などいう比較的プラスの
穏やかな思考を流していた客たちを相手にしているようにはいかなかった。
そこには様々な感情があった。
比較的”悪意”が流れ込んでくる事はなかったが、”愚痴”や”酔っ払い”の思考がガードの向こう側でざわめいているのは、
あまり気分のいいものではなかった。
しかし、梨華は常に笑顔を絶やさないように一生懸命働いていた。
そうしなければ、もうどこにも行くところはなかったし、常連客たちと注文をとっている間に交わす短い会話は楽しかった。
働きはじめてから10日、梨華は早くもこの店の看板娘になっていた。
平家はその姿をカウンターの中から、温かい眼で見守っていた。
午前1時。平家は、表の暖簾を外す。
「はぁ〜、今日も終わったなぁ」
と、誰に言うでもなく、客足も途絶えた繁華街の片隅にある店先でそうつぶやいた。
「あの、平家さん」
「ん?」
「ビールの在庫が少ないですけど、どうしましょうか?」
と、梨華が業者への注文表を片手に訊ねてきた。
正直、梨華の現状に同情して住み込みのアルバイトとして雇ったものの、やって行けるのかどうか心配だった。
世間のことを何も知らないお嬢様のような風貌と、そのアニメのような声がより一層そのような心配をかきたてた。
だが今は、雇って正解だったと確信している。いや、雇うことができてありがたいとさえ思っていた。
その仕事ぶりは優秀そのものだった。こちらが考えていることをすべて、こなしてくれる。
今も、これからビールの発注をどうしようかと何気に考えていたところである。
(ホンマ、ええ子やわ)
平家は、ビールの発注をFAXしに店の中へ戻る梨華の後ろ姿を見つめながら、しみじみと考えたりしていた。
――その平家の意識は、梨華に伝わっていた。
(ごめんなさい。全部、わかってるんです)
と、心の中で謝りながら、FAXの送信ボタンを押した。
数日後の夜の事である――。
ひとみの住むマンションの一角には、小さな公園があった。
小さな遊具が備え付けられており、小さな噴水もあった。
噴水の水面に映っていた月が、風もないのにゆらゆらと揺れた。
「うわぁ、懐かしい」
1人の少女が、その長い栗色の髪の毛を躍らせながら遊具へと駆けていく。
もう1人のベリーショートヘアーの少女は、遊具で遊ぶ少女をベンチに腰掛けて眺めていた。
その5分後。
ひとみの家に1本の電話が入った。
母親は風呂に入っており、弟2人はゲームに夢中になっているのか、電話のベルが鳴っていても部屋から出てこようとしなかった。
父親はまだ仕事から戻ってきていない。
「もうッ、ケガしてるの忘れてんのか」
と、ひとみは聞こえないのはわかっていたがブツブツと弟たちに向かって文句を言いながら、リビングにある電話をとった。
「はい、もしもし。吉澤です」
ひとみの苛立ちは、声になっても現われた。
『あ、もしもし、よっすぃ〜。アタシだけどさ』
”よっすぃ〜”その呼び名からして、矢口からの電話かとも思ったが、矢口より若干声が低かった。
だが、一応は矢口からの電話かもと疑ってみた。
「矢口さん……ですか?」
『ハハ、矢口さんですかって。やっぱ知ってるよ』
と、電話の向こうにいる相手は別の相手に話しかけているようだった。
「誰か、わかんないんですけど」
その失礼な態度に、ひとみの苛立ちはまた少しUPしたようだ。
だが、相手が名乗った瞬間、その苛立ちは跡形もなく消え失せ、恐怖だけが甦った。
『真希だよ。後藤真希』
(……)
(……)
(……)
――ひとみの手から、受話器が滑り落ちた。
(なんで……)
(なんで……)
(なんで……)
『おーい、よっすぃ〜、聞こえてる〜』
ぶら下がった受話器から、真希の声が漏れていた――。
夜の公園。
「後藤」
と、真希を呼ぶ声が響く。
すべり台に座ってボーっとしていた真希が、「ん?」という感じで顔を向けた。
「なに? いちーちゃん」
市井紗耶香は座っていたベンチから、ゆっくりと立ちあがった。
真希は、市井の視線を追った。
公園の出入り口に、影が佇んでいる――。
「ハハ。遅かったね」
目を細めていた真希は、その影が誰であるのかを確認した。
その影は、一向に出入り口から動こうとしなかった。正確には、動きたくても動けなかったのである。
ひとみには、ほんの少しの思いあがりがあった。福田明日香や松浦亜弥にも、逃げないで立ち向かった。
だからこうして、以前だったらその名前を聞いただけで気を失いそうになった”後藤真希”に、会いに来たのである。
なにより、誘いを無視して公園に向かわなかったら家族に何をされるかわからないという危惧感も、
ひとみをこうして公園に向かわせた理由の1つでもあった。
だが……、真希を目の前にすると足がすくんでしまい一歩も動かなかった。
ひとみにはまだ、真希の姿ははっきりとは見えていない。
だが、真希であろう人物から発せられる異様な雰囲気だけで、足がすくんでしまったのだ。
松葉杖を支える手も、すでに力を失いかけていた。
「ったく、何やってんのさ。せっかく、会いに来てあげたのに」
と、真希がゆっくりとひとみに向かって歩いてくる。
「でもこの公園も変わってないねぇ。あの時と同じだーね」
真希は、腕を後ろに回して呑気に辺りを眺めながら歩いてくる。
ひとみは見た。
公園脇の街灯に照らされた真希の姿を――。
成長を遂げた後藤真希の姿を――。そこから発せられる雰囲気とは裏腹に、なぜだか少し懐かしい感じがしていた。
(砂遊びをしてた、真希ちゃんだ……)
ひとみは、そんな風に思った。
数メートル先で、真希が立ち止まった。
向こうからも、ひとみの姿が見えているらしい。
それまで何か公園の様子について喋っていた真希だったが、ひとみの姿を一瞥するとその余裕の表情が少し切なげな表情に変わった。
(ほら、やっぱりあの頃と同じだ……)
ひとみの目には、10年前の真希の姿が写っていた。
市井沙耶香は、公園の出入り口で佇んでいる二人の姿を、ただ黙って見つめていた。
梨華はすべての仕事が終わると、エプロンを外しながら2階にある部屋へと戻った。
ゆっくりとドアを開けると、なつみがス〜ス〜と寝息をたてて眠っていた。
梨華はなつみを起こさないように、こっそりと平家が用意してくれたパジャマに着替えた。
(はぁ……、シャワー浴びたいな)
この部屋はもともと、ちょっとした休憩をとるような場所を目的に作られており、トイレもなければ風呂も台所もなかった。
住み込みとして雇用してもらったが、もともと住み込みできる造りで建てられていないので仕方がないと言えば仕方がないが、
焼き鳥の煙や脂やタバコや酒の匂いが染付いたまま眠るのは、15才の少女にすると辛いものがあった。
(寝れるところがあるだけ、いいよね……)
(ご飯も食べれるし……)
梨華は、自分を納得させている間に、いつの間にかぐっすりと眠っていた。
肉体的なこともそうなのだが、精神的にも疲れはもはやピークに達しようとしていた。
梨華が深い眠りに入ってしばらくした頃、なつみの目が突然ぱちりと開いた。
暗闇の中でそのつぶらな瞳をキョロキョロと動かし、物音を立てずに部屋のドアを開けて階下へとおりていった。
なつみは真っ暗な店の中でも、電気をつける事はなかった。
ほんの少し、力を使って小さな炎を浮かびあがらせると、その明かりを便りに店の業務用冷蔵庫を開けた。
そこには店で使う冷凍用の食材が、いくつかしまわれている。
なつみはそれをおもむろに取りだすと、強めの炎を浮かびあがらせ食材を解凍すると手当たり次第に貪った。
暗闇の中に浮かぶいくつかの小さな炎、その薄暗闇の中で一心不乱に食料を貪るなつみの姿は、どこの誰が見ても異様な光景だった。
――翌日の昼過ぎ、梨華はまだ眠っているなつみに声をかけた。
「安倍さん、起きて下さい。もう、お昼ですよ」
「う〜ん、もうちょっと」
と、なつみは寝返りをうった。
このままで良いはずはないのだが、これ以上しつこく起こそうとするとなつみは炎を浮かびあがらせて梨華に抵抗してくる。
抵抗と言っても、そこに攻撃をくわえるつもりはない。
ただ、驚かせてその様子を盗み見て笑うだけであった。
「もう、いい加減にして下さい。怒りますよ」
なつみはしぶしぶといった感じで、目を閉じたまま大きく伸びをする。
「う〜ん、抱っこ……」
と、なつみは両手を大きく広げる。
梨華は小さなため息を吐くと、なつみの要求に答え布団から立たせた。
腕力のない梨華にとって、体重のあるなつみを起こさせるのは容易なことではなかった。
なつみの幼児退行現象は、ここに来て急激に進んだ。
梨華と2人でいる時間は、梨華にベッタリと引っ付いて離れないのである。
それはきっと、1人になることの不安によるものなのかも知れない。
近くにある銭湯で風呂に入っている間も、食材の買出しに行っている間も、
料理の仕込みをしている間も、ずっと側にいて離れようとはしない。
店の中だけなら、まだよかった。
平家には最初に事情を説明してある。平家が2人を微笑ましく見ている意識を感じて、梨華はホッと安心していた。
だが、他の場所では色々な関係を想像されて、恥ずかしくて顔を上げることさえできなかった。
なつみを抱え起こした梨華が次にすることは、なつみのパジャマを脱がせて着替えさせることであった。
なつみは、自分でボタンをかけることもできなくなっていた。
梨華が黙々とその作業を進めていると、部屋のドアが静かにノックれた。
訪問者は、2階に訪れることは滅多にない店主の平家であった。
開店前のひっそりとした店内。なつみは、カウンター席で平家が用意した料理を食べていた。
昼夜逆転した生活では、それは朝食にあたる。
梨華と平家は、テーブルに向かい合って座っていた。
しばらく無言の時が流れている。
「どんな事情があったか、聞いたりせえへん。」
ヒールをコップに注ぎながら、平家がおもむろに話しを切りだした。
梨華には平家の考えている事は、すべてわかっていた。だが、それを口に出すこともできない。
黙って、うつむいたまま平家の話を聞いていた。
「けどな、このままやったらアカンと思うねん……」
と、なつみの背中を見つめた。
「梨華ちゃんたちが2階に越してきてから、気付いてはおったんや。
なんぼ、冷蔵庫のもん勝手に使ってもエエって言うても、減り方がまともやなかったから……」
梨華は、なつみの行動にまったく気づいていなかった。疲れていたとは言え、不覚だったと後悔した。
平家の意識を読みとると、平家は昨日の夜、店の外からなつみの姿を目撃したらしい。
ただし、炎は”ろうそくの炎”と勘違いしているようであった。どちらにせよ、深夜のなつみの行動は奇異な行動ではある――。
「それでな……」
「……」
「その……な、知り合いにな、病院の先生してる人がいるんやけどな」
「……はい」
「いや別に、どうこうやないんやで。ただな、どっちも心配なんや。このままやったら、アカンような気がしてな」
平家の心配をよそに、なつみは用意されていた梨華の分の食事に手をつけ始めた。
それを見た平家は、悲しそうな表情を浮かべて2人に同情した。
梨華は、ここにいられる時間が長くないのを感じていた。
平家が心配してくれるのはとてもありがたかったが、命を狙われているなつみを1人病院に残す事は到底考えられなかった。
「あの……」
梨華は、重い口を開こうとした時だった。
「失礼します」
「失礼しまーす」
と、2人の声が聞こえてきた。梨華は、その声にどことなく聞き覚えがあった。
「あ、ごめんなぁ。営業時間まだやねん」
と、平家が顔を上げる。梨華は、声の記憶の糸をたどっていた。と、同時に疑問も浮かんできた。
(なんで、入ってくるの気づかなかったんだろう……)
(疲れてるのかな)
(平家さん? どうしたんですか、ボーっとして)
梨華は、平家の視線を追って後ろを振りかえった。そして、時間が止まるような錯覚に陥った。
「あ、やっぱりこれ効き目あるみたいですね」
ヘッドギアをつけた小柄な少女が、隣にいる女性に向かって言った。
「安倍なつみさんと、石川梨華さんですね」
なつみが、食事を隠すようにして2人に背を向けた。
「保田さん、あの人やっぱり変。なんであんなんに、やられたんやろ」
「加護」
保田と呼ばれた女性が制すると、加護亜依はシュンとおとなしくなった。
梨華の脳裏に、朝比奈学園で聞いたアナウンスの声が甦った。
と、同時に新たなる刺客が目の前に現れたことを悟った。
「梨華ちゃん、知り合いか?」
平家の声がとても遠くに聞こえる、梨華であった――。
「会社としてはもう1度、2人の処遇について検討してみました」
近くの公園に、4人は来ていた。平家の店に迷惑がかかるのを恐れた梨華は、
平家に心配させないように保田と加護は失踪した父の知りあいだという事にして、この場所にやって来た。
「その結果――」
保田が、手にしていたアタッシュケースから書類を取りだした。
「安倍なつみさんには、あるセクションの中枢部に所属してもらうことになり、石川梨華さんは、
われわれと同じセクションに所属してもらうことが決定しました。これがその正式採用通知です」
と、保田が梨華に書類を渡した。
「……正式採用って、どういうこと」
梨華の不安はかなりのものであった。
これまで、自分の能力を疎ましく思っていたが、いざ実際に心を読み取れない二人を目の前にすると不安で不安で仕方がなかった。
ましてや、相手は自分達の命を狙っていた者の仲間である。
「ホンマは、こんなチャンスないんやでー」
と、加護がおどけたように言った。
「――安倍さんの能力は、わが社にとってやはり有益だと判断しました。
そして、石川さんの能力は、私たちの所属するセクションに一人欠員が出まして」
「欠員って……」
「明日香……。福田明日香です」
”福田明日香”という名前を聞いて、なつみの顔色が変わった。
「安倍さんの力って、すごいんですよねぇ。まだ見たことないけど」
と、加護がなつみに笑いかけた。
なつみは、咄嗟に梨華の後ろに身を隠して震えた。
「……ただ、これでは戦力になりませんので、しばらく我が社の所有する病院で治療に専念してもらいます」
「治療……」
「ええ。このようになってしまうケースは、稀にありますから。専門の病院を設けているんです」
「保田さん、もう帰りましょう。こんなん着けてるん、恥ずかしい」
「……まぁね。じゃあ、安倍さん石川さん、行きましょうか」
と、2人は並んで公園の外へと向かって歩きはじめた。
梨華は、逃げられない事がわかっていた。
いくら特殊なヘッドギアで梨華の能力が使い物にならなくなっていても、2人のその自信は態度となって現れていた。
「あ、そうだ」
と、しばらく歩いたところで保田が振りかえった。
「わかっているとは思いますが、あなたたちに断る権利はありませんよ。吉澤ひとみさんをご存知ですよね」
その名前を聞いて、梨華の胸は不安に引き裂かれそうになった。
「ひとみちゃん……、ひとみちゃんに何かしたんですか!」
「別に何もしてません。ただ――、石川さんもあの現場で感じたと思うけど」
梨華は忘れてはいなかった。あの強い意識の波動――。
「吉澤さんは、あの2人の監視下に置かれているから」
梨華はほんの少しだけ、ホッとすることができた。
監視下に置かれていると言う事はまだ何もされてはいないはずで、自分となつみの行動のいかんによれば、
何事もなく解放されるはずであった。
「1つだけ、条件が……」
「無事に帰してやれって言いたいんでしょ」
やはり、すべてはお見通しだったようである。
「あなたの返事次第だけど、まぁ断る事はしないから、無事でしょうね」
「保田さーん、早く帰りましょー」
と、遠く離れた加護が呼ぶ。
保田は、「はぁ」と軽くため息を吐くと、そちらに向かって歩いて行った。
残された梨華は、なつみを振りかえった。
なつみはただ、怯えた子供のような目で梨華を見上げているだけだった。
「……行きましょうか」
梨華がなつみに手を差しだすと、一瞬だけ躊躇したがすぐに笑顔を向けて握り返してきた。
不本意で不安でもあったが、どこか肩の荷が下りた感じがした梨華であった。
わずか2週間ばかりの『居酒屋 平家』の看板娘は、この町から姿を消した。
Chapter−2<サヨナラ>
「これから、どこに向かうんですか……」
梨華は後部座席から、弱々しい声を発した。
運転している保田は、バックミラーで梨華の顔を一瞬だけ覗くとすぐに前方へと視線を戻した。
「梨華ちゃん……」
不安からなのだろう、なつみは車に乗り込んでからずっと梨華にしがみついたままだった。
「大丈夫ですよ」
なつみの髪の毛を優しく撫でながら、梨華自身も平静を取り戻そうとしていた。
だが、車内には重苦しい雰囲気が漂ったまま、どこかへ向かってもう2時間以上も走っている。
車窓の向こうの景色は、夕暮れに染まっていた。
それからさらに、1時間以上が経過した頃、車はとある敷地内へと入っていった。
地理に――、東京に疎い梨華だったが、その場所は何度もTVで見たことがある。
――車が入ったその場所は、国会議事堂だった。
車は議事堂裏へと周り、地下へのスロープを下りていった。
どのくらい走ったのだろうか、地上の喧騒はまったく聞こえない地下駐車場で保田の運転する車は止まった。
「さ、降りて」
保田が運転席に座ったまま、梨華たちをうながす。
「加護! アンタ、いつまで寝てんの! ついたわよ」
と、助手席に座るやいなやここまでずっと眠りっぱなしだった加護を揺り起こす。
梨華は怯えるなつみの手をとると、保田と加護を残して車の外へと降り立った。
地下――。らしくない、地下であった。まるで快晴の空の下にいるような、上を見ることもできないくらいの明るさである。
そして、広すぎる空間に違和感を感じる梨華であった。
(……こんな、地下ってあるの?)
車が列をなして数十台停車している。駐車場出入り口からは、数百メートル離れた位置である。
そして、車のその向こうにはさらに、数百メートル何もない空間が続いている。
広大な敷地の割に、停車している数が少ない――。
なんの目的で建てられているのか分からないが、駐車場がムダに広い地下であった。
「お待たせ。さ、行くわよ」
後ろからやってきた保田は、まだ眠そうに目をこすっている加護の手を引きながら、目の前の建物へと入っていった。
いくつ廊下の角を曲がっただろうか、いくつの扉を開いただろうか、何回エレベーターの昇降を繰り返しただろうか、
保田と加護が立ち止まったその部屋の前で梨華はもうすでに方向も位置もわからなくなっていた。
ひとみを監視下に置かれている以上、下手な動きをするつもりはまったくなかったが、
それでも出入り口からの位置関係ぐらいは認識しておきたかった。
隣にいるなつみは、ここに来るまでに相当の体力を使っているようだった。
――その扉は何か特別な細工を施しているのだろう、
保田が扉を開けた瞬間に、以前感じたことのある強烈な意識の波動がドッと押し寄せてきた。
梨華は思わず短い叫び声を上げると、反射的に身をちぢめた。だが、その後に届いた懐かしい意識の流れ――。
梨華は、すぐに分かった。その意識の流れを感じると、先ほどまで畏怖であった波動はそれほど苦にもならなかった。
梨華は、思わず部屋の中へと足を踏み入れた。だが、急にその懐かしい意識の流れはピタリと止まった。
部屋の中は、がらんとしたものだった。凝った装飾品も何もない。
ただ単に、応接セットのようなものが部屋の中央に置かれていただけだった。
そのソファに、2人の少女が向かい合って座っている。
何か小声で話しているようだったが、少し離れているため梨華には聞き取れない。
どちらかが、強烈な意識の波動を発している。
きっと、攻撃的な能力を持ったタイプの人間なのだろうが、2人の少女を見ている分には、梨華にはどちらがそうなのかわからなかった。
「あ、圭ちゃん、加護、お帰り」
栗色の長い髪をたなびかせ、1人の少女が振りかえった。
「おッス」
保田は、特に意識することなくヘッドギアを外した。
「メッチャ、恥ずかしかったぁ」
と、加護が甘えたように笑い、ごく自然にヘッドギアを取り外す。
2人はヘッドギアを外した。しかし、梨華には何も感じとれない。触手を伸ばすことすらできなくなっていた。
まるで、力がなくなったような錯覚に陥った。
「この部屋にはさ、力を押さえる効果があんの」
と、後藤の向かいに腰かけているベリーショートヘアーの少女が、梨華の目を捉えながら言った。
「ま、後藤みたいなバカ力は押さえきれないけどね」
後藤と呼ばれた少女は、「ひどいな、いちーちゃん」と楽しそうに笑った。
(後藤……)
(あぁ……)
(ひとみちゃんの”ゴトウマキ”は、この人なんだ……)
この部屋に入った瞬間、能力を封じられた梨華ではあったが、その桁違いの波動を持つ少女が、
ひとみの中に封じられていた”ゴトウマキ”であるのは間違いないと感じていた。
「そんなところじゃなんだからさ、2人ともこっち来たら」
保田が、部屋の入り口で佇んでいる梨華となつみに声をかけた。
なつみはすでに怯えきっていて、動こうとしない。
「安倍さん、大丈夫ですから」
「梨華ちゃん、あの子、怖い……」
と、泣きそうになりながら、恐るおそる真希を指さした。
「後藤さん、怖〜い」
加護がおどけるように言った。
「そっかな? そう?」
ぼんやりとした口調で、後藤はなつみを見つめていた。その目には、生気のようなものは感じられない。
なつみを見る目は、まるでそこにある”物”を見るような目であった。
その目で見られたなつみは、震えながら梨華の後ろに身を隠した。
もしも、ひとみを人質にとられていなかったら、梨華はこの場を逃げていたかもしれない。
真希の発する雰囲気は、得体の知れない恐怖であった。
「ん? 誰ですか? この人」
市井と後藤のもとに向かった加護が、ソファを見下ろしている。
梨華の位置からは、高い背もたれが邪魔をしてそこに誰がいるのか見えない。
「スゴイ、傷ですねー……」
と、加護が顔をしかめながら言った。
「石川さん……だっけ?」
市井が、梨華を見つめながら口を開く。
「はい……」
「誤解してるかもしれないけど、ウチらは別に殺人集団じゃない」
「……」
「だから、こういうことは極力避けたい。――こっち来て」
市井が梨華に、こちらに来るようにと目配せをする。
梨華は、なつみの手をとり恐るおそるそちらへと近づいた。
「……!!」
後藤の横で眠っている少女を見たとき、梨華は声を上げることができなかった。
そこにいたのは、まだ完全には傷の癒えていないひとみだった。
「ただ、そこはやっぱり他の人達とは違う力を持ってるからね。目的のためにその力を使っても仕方ない。
その辺は、個人個人の判断に任してあんの」
「亜弥ちゃんも、教育係が悪かったせいで死んでもうたんや」
「加護、アンタは黙ってなさい」
「けど」
保田がギロッとひと睨みすると、加護はつまらなそうにその場を離れていった。
「もう、いいでしょう……。私、逃げたりしませんから、ひとみちゃんを帰してください」
梨華は、ひとみから顔を背けながら呟いた。
「そう言うわけにもいかないの。あなたの初仕事が残ってるんだから」
市井は、ソファに背を預けながら冷たく言い放った。
「どういう……、こと……、ですか?」
「この子の記憶を、すべて無くして。それが、石川の初仕事」
「……!」
ひとみの記憶を抹消する――。それは確かに、意識を操ることができる梨華にしかできないことであった。
「いちーちゃん……、別にそこまでしなくても」
後藤が市井の顔色をうかがうようにして、話しかけた。
しかし、市井は梨華から目をそらすことなく言葉を続けた。
「記憶を消せば、もうこんなケガをする必要もないんだ……。普通に生きることができる」
市井のその言葉に、梨華の心は衝撃にも似た感じを受けた。
”普通に生きられる者”と”そうでない者”、梨華とひとみの間にはその一線があったことを、梨華は今さらのように思いだした。
はじめて出会ったあの日、梨華はその一線を覚えていた。これまでに何度も信じられることができそうな人と出会う事はできた。
だが、そのいずれも梨華に何か得体の知れない力を感じ、恐れ忌み嫌い離れていった。
そのたびに梨華は深く傷つき、もう誰も信じないようにしようと誰にも必要とされないように
静かに目立たないように生きようと決意したのである。
だが、その孤独感は絶えられるものではなかった。
あの日、出会ったことは運命だったのかもしれない。梨華はいつも、そう考えていた。
梨華の力に対してひとみは、恐れたり忌み嫌ったりする事はしなかった。
これまで梨華が出会ってきた人たちのように、心を読まれるのを恐れて離れて行ったりしなかった。
むしろ、梨華の力に対して理解しようと歩み寄ってきていた。そして、無粋な態度で接してしまった時には、何度詫びてくれた事だろう。
梨華にとっても、それは初めての事だった。1人で静かに暮らす事さえできればそれでいい――。
一生、1人なんだ――と、孤独の悲しみに涙をする日もあった。
そんな孤独を忘れさせてくれたのは、ひとみと出会う事によって共に過ごす時間があったからなのかもしれない。
共有した時間は、梨華にとって宝物だった。たとえ、そこに悲しみや恐怖が存在していても、ひとみと過ごした時間は宝物だった。
しかし、市井の言葉を聞いた今、それは自分よがりな勝手な妄想なのかもしれないと思いはじめた梨華であった。
「後藤。それで、いいね?」
と、市井が後藤に声をかけた。
向かいに座っている後藤は、何も答えずにぼんやりとひとみを見つめた。その目には、多少の侘しさのようなものが浮かんでいる。
「後藤」
「……いいよ。もとはと言えば、後藤が吉ちゃ……よっすぃの前であんな事しなきゃよかったんだもん」
「石川も、この子が本当に大切だったら、そうしてやりな」
「……でも、記憶を消す事なんてやったことが」
できるのかもしれない。何となくではあるが、理論的な事はわかっている。
だが、そのような事を1度もしていないので、梨華は成功するかどうか不安だった。
「アタシが教えるよ。その前に、この子の傷……、治してあげなきゃね」
市井は、ゆっくりと立ち上がるとひとみのもとへと歩いた。
梨華には市井が何をするのかわからず、息を飲みながらその行方を見つめていた。力は使えない。
だがもしも、ひとみに危険を及ぼすような行動に出れば、身をていして庇うつもりだった。
「……」
市井の行動を見た梨華は、息をするのも忘れてしまった。
つい先ほどまで、ひとみの頬に残っていた大きなムカデのような裂傷痕が、市井が軽く撫でただけでスッと消えた。
まるで、そんな傷など最初からなかったかのように――。
「ヒーリング。紗耶香の力は、どんな傷もああやって治してしまう」
保田が、梨華の横で市井の姿を見つめながら呟いた。
梨華の目に映る市井の姿は、どこか神々しい印象すら与えた。
「神」と「悪魔」がもしもこの世に存在するならば、その2つの能力に大差は無い。あるのは、価値観の違いだけ――。
だとすると、この集団、そして市井はどちらの部類に入るのか、市井の力を目の当たりにして、
ただぼんやりとそんな事を考える梨華であった――。
「いちーちゃんの方が、バカ力じゃん」
と、笑う真希の声が、その思いをより一層引き立てた。
ひとみの記憶は、リセットされた。
正確には、ひとみの中にある異能の力を持った人間と関わりあった記憶を”リセット”+”書き換え”たのである。
梨華がひとみの意識の最下層に潜り込んだ時、ひとみが隠しつづけたものを初めて垣間見た。
そこには、恐怖が渦巻いていた。
それをトラウマと呼ぶ学者もいるが、きっとひとみのそれは学者に治療することはできなかったであろう。
弾け飛ぶ少年の眼球。その眼液が、5歳のひとみの口元に飛び散り、その味が”塩辛く微かに血の味がする”とまで記憶していた。
もう1人の少年は、全身が弾け飛んだ。肉片が飛び散り、ひとみの身体にボトボトと降り注いだ。
呆然と口を開けてその光景を見ていた5歳のひとみの口に、その肉片が鼻の脇を伝って滑り込んだ。
最後の少年は、圧死した。何か目に見えない重いものが落ち、その小さな身体は奇妙な鈍い音を立てながら潰れた。
逃げようとしたひとみは、その少年からこぼれ出た血に足を取られて、血の海の中に倒れ込んだ。
パニックになってもがいたところ、少し離れた砂場の中で5歳の真希が冷たい微笑を浮かべているのが見えた。
隣に転がった眼球の無い少年の遺体が、鈍い音と共にひとみの横で弾け飛んだ。ひとみの記憶は、そこで終わっていた。
――梨華は、ひとみが記憶していた10年前の出来事を、時にはひとみの目を通して、時には俯瞰で、その出来事を共有した。
ひとみの記憶。
それがわかっていなかったら、梨華の精神は崩壊していたかも知れない。それほど、リアルな記憶だった。
そんな少女が受けた異様な体験にもとずく恐怖を、先例がなければ何もできない学者たちに、何をすることができるだろうか――。
梨華はその恐怖に耐え忍んできたひとみの10年間を思うと、最後にほんの少しだけひとみの役に立てるような気がした。
――市井に教えられたとおり、梨華はその記憶をリセットした。
そして、ひとみの意識の層を上昇しながら、今回の一連の事件に関連する記憶をすべてリセットし矛盾が出ないように書き換えた。
触手を戻し、現実の世界に戻ってきた梨華は、その場にいる全員の視線から逃れるように背を向けて声を上げて涙した。
吉澤ひとみ――。彼女の中から、石川梨華という存在は消えた。
自分の中にだけ残っているひとみとの思い出が、ただただ切なく苦しかった。
梨華は、異能の力を持った集団が所属する”ゼティマ・コーポレーション”の正式なスタッフとして登録されたが――。
それからの数日間は、梨華は何も覚えていない。
ただ淡々と、与えられた仕事をこなしていた。
ひとみの両親や、学校関係者や、石黒彩らから、事件の記憶をリセットした。
梨華の教育係に任命された保田は、その仕事ぶりを見て「優秀」だと言っていたが、梨華には何も聞こえていなかった。
単純に、機械のように作業を進めていただけである。
何日目かの午後、なつみは施設に収容された。抵抗はしたものの、炎を使うことは無かった。
泣いて暴れて梨華の名前を叫んだが、梨華にはどうする事もできなかった。
なつみのことを考えると、このまま放置しておくわけにもいかず、その記憶をリセットすることは会社側が許さなかった。
「きっと、良くなって帰ってくるよ」
不安そうに見送る梨華の肩に、保田がソッと手をかけた。
不意に保田の意識が、梨華に流れ込んでいた。
(後藤と共に)
(要)
(理想)(近い)
(必要)
打算的な意識だった。
だが、梨華はその意識に嫌悪を抱くことはなかった。前もって、後藤から聞いていたからかもしれない。
「いちーちゃんはね、ウチらのユートピアを作ろうとしてんだよ」
そのユートピアで何をするのか、梨華にはわからなかった。
ただ、市井や真希や保田や加護らが所属するチームは、
明日香という不協和音がいなくなったせいで着実にそして確実に自分たちの”理想郷”づくりに近づいて行っている感じはしていた。
しかし、そこがどんな”ユートピア”であれ、その場所にひとみはいない――。
市井を中心にして作り上げようとしているユートピアにとって、なつみの力は必要だろうが梨華にはひとみが必要だった。
ひとみさえいてくれれば、そこがどんな場所であろうともユートピアのように思える梨華であった――。
だが、そのひとみの記憶の中に梨華の記憶はない。
そう考えると、また少し泣きそうになった――。
Chapter−3 <あれから……>
青いスポーツカーが、赤信号で停止した。
黒いフィルムで中は見えないが、乗り込んでいるのは中澤と矢口である。
街の景色が懐かしくなり、嫌がる中澤にムリヤリ頼み込んで朝比奈町に帰ってきていたのだ。
街の景色というよりも、矢口はひとみと梨華に会いたがっていた。
あの”海響館”で別れてからというものの、1度もその2人と関わる未来を見ていなかったからである。
関わる事がないに越した事はない。関わる事=ひとみたちに命の危険性があること。――を、矢口は十分理解していた。
”海響館”でひとみと別れた後、逃亡先のホテルでひとみが意識不明の重体に陥った事をニュースを見て知った。
だが、それは1度見ていたニュースである。
”海響館”のあの事件の数時間前、矢口はうすくてぼんやりとではあるが、そのニュース画面を未来視していた。
もちろん、その前にひとみと接触しているのも見ていた。
確定した未来の前にどうすることもできないのに、責任を感じる必要はないと、
中澤に何度も言われた矢口ではあったが、やはりその罪悪感はぬぐえない。
「よっすぃ、大丈夫かな……」
矢口は信号で停車していた車内で、窓外を見ながらぼんやりとひとみのことを考えていた。
「大丈夫やろ。以外と、ピンピンしてるかも知れんで」
ハンドルを握っている中澤も久しぶりに訪れて少し興奮しているのか、カーステレオから流れる音楽に合わせ指で小さくリズムを取っていた。
車内に一瞬の沈黙が流れ、「ん?」と矢口の顔を覗きこんだ中澤。
――すぐに、何が起こったのかを悟った。
矢口の目はもう窓の外を見ていない。閉じられたまぶたの向こうで、
普通の人々には見えることのない”確定された未来”を見ていたのであった――。
「ちゃんと、取りやー」
矢口がその声に気づき振りかえった時には、すでに中澤は缶ジュースを投げる用意をしていた。
「ちょ、ちょっと」
かろうじて受け取ることができた矢口だったが、その様子を見て笑っている中澤に対してムカついた。
「何するのさー。危ないだろー」
「ええやないの。取れたんやから」
と、笑いながらベンチに腰かけた。
「ちょっと、開けて」
どうやら、手にしていた缶コーヒーが長い爪のせいで開けられないらしい。
「自分で開けろよ」
矢口は、口を尖らせて中澤から顔を背けた。さっきのは、いくらなんでも危ない。
ちょっとぐらい謝って欲しかった矢口だったが、その様子を見てニヤリと笑った中澤に、
「もう、矢口カワイイ〜」と抱きつかれてウヤムヤに終わってしまった。
どのくらい、じゃれられて(?)いたであろうか、中澤からのセクハラ親父まがいのキスを何度も頬に受けた後、
ようやく話は本題へと向かった。
「もうすぐしたら、ここによっすぃが通るから。信じらんないんなら、裕ちゃん声かけてみなよ」
と、矢口は息も絶えだえに公園の入り口を指さしながら言った。
「ええよ。そうなってるんやろ」
まるでどうでもいいような感じで、それよりも矢口との楽しい時間に満足したような表情を浮かべて、
けっきょく矢口に開けてもらった缶コーヒーを飲んだ。
――数分後。
学校帰りのひとみが、前を通りかかった。
そのまま通りすぎるような雰囲気だったので、中澤は声をかけようと立ちあがった。
しかし、それより一瞬早く、ひとみが足を止めて公園内を見つめ続けた。
「なぁ、何であんなに見てんの。矢口の見た未来の吉澤って、記憶ないんやろ」
中澤が、ひとみを見ながら矢口に話かけた。
「アタシたちのはある。けど、学校で何度か見かけた人たち程度にしか思ってない……」
「なんや、ようわからんわ」
「あ、裕ちゃん。よっすぃ、行っちゃうよ」
「わかってる。見てるんやから」
「吉澤、ちょっと」
と、中澤はベンチから立ちあがりながら声をかけた。
ひとみが戸惑っているのは、中澤にも容易に見てわかった。
その遠くにある立ち姿――。つい数ヶ月前を思い出した。
朝比奈学園でも学年こそ違えど、ひとみの存在はひときわ目立っていた。
スラッとした長身でどことなく少年っぽさのある彼女は、ひとみ自身は気づいていないのかもしれないが、
学年を問わず恋愛の対象として見られている節があった。
その人気の秘密は容姿だけではなく、彼女の発するアウトロー的な雰囲気もまた魅力だったのだろう。
学園の共同ロビーで、矢口がひとみの姿を見かけるたびに「カッコイイ」と言っていたのを中澤は思い出していた。
(けど、よっさんはホンマ男前やで)
中澤は、歩きながら自然と笑みがこぼれた。梨華と行動を共にしていたひとみは、
まるでそうするために生まれてきたかのように、梨華の前に立って果敢に異能の力を持った相手から梨華を守ろうとしていた。
何が彼女をそうさせるのか中澤にはわからなかったが、きっと自分と同じような単純な動機なのだろうと考えたら、
中澤は自然と笑みがこぼれてきた。
「おっす、よっさん。元気かぁ?」
中澤は、ひとみの前に来ると親しみを込めて挨拶をした。
だが、さきほどまで浮かべていた自然な笑みは、不自然な笑みへとかえざるを得なかった。
「あ、ごめん。この呼び方、嫌やったな。ごめんごめん」
かろうじて、そうは言ったものの次に何を話していいか言葉に詰まってしまった。
あまりにも、中澤の中にあった以前のひとみの姿と、今、目の前にいるひとみの姿が変わっていたからである。
――いや、姿形は変わっていなかった。発せられる雰囲気が、その表情が、まるで生きる屍のようだったのである。
ひとみのきょとんとした表情を見て、中澤は矢口の言っていたことを理解した。
(記憶喪失って……、ホンマやったんやなぁ。けど、なんで……)
まだ過去を見ていない矢口からは、その原因を聞いていない。
――さて、この後の気まずい空気をどうしようかと考える中澤であった。
その頃、矢口はこの場所で起きた過去を見ていた。
数日前から数ヶ月前、数年前、10年前と、ひとみが現れる公園の風景を、まるでコマ落としのフィルムを見るように過去へと遡った。
「ゆ、裕ちゃん!!」
矢口の悲鳴にも似た叫び声を聞き、中澤は慌てて振りかえった。
ベンチに座っていたはずの矢口が、その下でガタガタと身体を震わせている。
「矢口!!」
中澤は考えるまもなく、矢口の元へと走った。近くに敵がいたのかもしれない。中澤は矢口を抱えながら、辺りを見渡した。
ひとみ以外の姿はどこにもなかったが、目に見える範囲にいるとは限らない。中澤は、すばやく”無”の能力を発動した。
「ち、違う……」
矢口の声が微かに聞こえ、中澤は”無”から”有”に戻った。
「違うって、何があったん」
今だに震えが収まらない矢口が、ひとみを見つめる。
「よっさんか!? よっさんが関係してんのか!?」
公園の出入り口にいるひとみは、ただ呆然として2人を眺めている。
「よっすぃ……。記憶喪失じゃない」
「――は?」
「アイツラに、たぶん、アイツラに記憶を消された」
「……アイツラって、福田か」
「違う。違うけど、2人組が……」
「2人組って、誰やねんな」
「わかんない。わかんないけど、そこから帰ってきたよっすぃは、もう前のよっすぃじゃない。
前のよっすぃなら、ここに立ってることもできない」
「どういうことや」
矢口は、とつとつとではあるが見たままのことを話した。
この公園で過去にどんな惨劇があり、それ以来、ひとみがこの公園の前を通る時どんな様子だったのか、
そして連れ去られて以降この公園の前を通りすぎる時いかに以前と変わったかを、すべて見たままを中澤に聞かせた。
「記憶を消すって……」
「福田明日香じゃできない」
「そやな……、明日香のはただ破壊あるのみや」
「変なんだよ、裕ちゃん……」
「は?」
「たまに、梨華ちゃんがそこを通るんだ……」
矢口が、震える手で公園に面した通りを指さす。
「寂しそうに1人でそこを通るんだ……。なんでかわかんないけど、帰る時には泣いてた……。時々、この公園を見てたりもした」
「……2人、一緒の所は?」
「1度だけ。でもそれは前のよっすぃと一緒だった頃。1人のは、つい最近だよ」
中澤の頭に、嫌な考えがよぎった。矢口は過去の惨劇がよほど恐ろしかったのか、しばらく中澤の腕の中で震えていた。
気がつくと、公園の出入り口にひとみの姿はなかった。
梨華が<Zetima>にスカウトされたことは、ほぼ間違いないだろうという結論に中澤と矢口は至った。
中澤と矢口は、梨華については何も知らない。ひとみと一緒にいた。
ただ、それだけの情報しかなかった。
だが、結論に至ることができた。
矢口が、梨華と出会う未来を見たのである。しかし、そこには他の人物もいた。
詳しいことは何も分からなかったが、何か書類のようなものを持っており、
梨華の差しだすそれを渋々受けとる中澤の姿が見えたのである。
――そして今、その矢口が見た未来に2人は立っていた。
梨華の手がかりを求めてやってきた朝比奈駅の前に、
ピンク色のワンピースを着た梨華ともう1人の小柄な少女がまるで待っていたかのように2人を出迎えた。
「梨華ちゃん……」
矢口は思わず、口を開いた。目の前に立っている梨華の表情が、つい2ヶ月ほど前に見た梨華とはあまりにも違っていたからである。
それは、中澤も同じように感じていた。
きっと、2人の戸惑いは梨華には読み取られていただろう。しかし、梨華はそれに答えることなく、ただ目の下の隈を隠すようにうつむいた。
「梨華ちゃん、どうしたん?」
やわらかい関西弁で梨華の顔を覗きこむ少女が誰なのか、
2人には分からなかったが放つ雰囲気が他の人とは違っていたので、すぐに能力者である事がわかった。
「ううん……。なんでもないよ、あいぼん」
と、梨華は消え入りそうな声で呟いた。
「ふーん」
加護は少々つまらなそうに返事をした。
「梨華ちゃん……、よっすぃの記憶……」
心の中で矢口は、問いかけてみた。
(ひょっとして……、よっすぃの……、ひとみちゃんの記憶消した?)
しばらくして、目の前の梨華がうつむいたまま首を縦に振った。
その様子を見ていた中澤が、通りすぎる人々の視線もかえりみずに大きな声を出した。
「なんで、そんな事するんや」
ボーっと違うところを見ていた加護が、その声に驚いて中澤を見つめた。懐かしい関西弁に、ほんの少しワクワクしている。
「自分、それがどんな事なんか分かってんのか。記憶消すって……。
殺したのも同じ事なんやで……」
中澤の言葉に、梨華が顔を上げる。しばらく、中澤の顔をじっと見据えたまま視線をそらそうとしなかった。
「なぁ、石川……」
梨華の目に、うっすらと涙が滲んだ。
「それで、いいんです。何もかも忘れて生きるのが、ひとみちゃんのためなんです」
「ホンマに、言うてんのか?」
「……」
「なぁ」
「中澤さんは見てないから、そんな事言えるんですよ。死にそうになったひとみちゃんの姿見たことないからっ」
中澤が梨華の頬を打つ音が、駅前の雑踏の中に消えた。
周りにいる通行人が、興味がないような顔をして4人を横目で見ながら通りすぎていく。
「梨華ちゃんに、何すんねん!」
加護が、梨華を庇うようにして中澤との間に入った。
「いいの、あいぼん」
「ええことない。梨華ちゃん、泣いてんやんか」
中澤を見上げる加護の目に、異様な力が入った。
「やめて!!」
「けど」
「いいから、向こう行ってて」
それでも、加護は梨華の前を動こうとしなかった。いつでも力を放てる状態にしている。
「ホンマに納得したんやったら、なんで泣く必要があんねんな」
中澤は見上げる加護を無視して、梨華の目を見据えていた。
ただ、その口調には先ほどのような荒々しさはなく、どこか侘しさを帯びていた。
「なぁ、石川」
「……」
「1つだけ言っとくな……。ウチの記憶消すんやったら、殺して」
石川は、その声を聞いてハッと顔を上げた。
そう言い放った中澤は、微笑みながら涙を流していた。
加護がその様子を、怪訝そうに見上げている。
「吉澤の抜け殻みたいになった目、見たか?」
「……」
「矢口は、あんなになったウチを見たいか?」
と、後ろにたたずむ矢口を、振りかえった。矢口は、暗い表情で首を振る。
「そやろ……。一緒に戦ってきたんやもんなぁ」
「……」
「怖い思いはいっぱいしたけど、楽しい思いもいっぱいしてきた。矢口の泣いた顔や、怒った顔や、笑った顔は、大切な思い出や」
梨華の頭の中に、ひとみとの思い出が走馬灯のように駆け巡った。
「そんなん忘れて生きるぐらいなら、殺してくれていいよ」
「梨華ちゃんかて、好きでやったんとちゃうわ」
加護はこぶしをぎゅっと握り締めて、中澤へと歩み寄った。
「あいぼん、やめて」
石川の制止も聞かず、加護は中澤の目の前に立つ。その目には、うっすらと涙のようなものも滲んでいるようだった。
「……そやな。好きでやったんと違う……。わかってる。わかってるけどな、石川の顔見てたら切なすぎんねん」
中澤は人目を気にすることなく、顔をクシャクシャにして泣いた。
「裕ちゃん……」
後ろから駆け寄ってきた矢口が、その肩を優しく包みこむ。
加護が振り上げたこぶしをどうしていいか迷っているような複雑な顔をして、梨華を振りかえる。
「矢口さん……。私たちと一緒に来てもらえませんか?」
梨華は涙をぬぐうと、その涙を振り払うように本題を切りだした。
「梨華ちゃん……」
「未来を見える力が、必要なんです」
「……梨華ちゃんは、もう戻れないの?」
「……」
「よっすぃのために、戻らないの?」
また梨華はまた涙をこみ上げそうになったが、必死になって堪えた。
そして、小さく「はい」と呟いた。
それを見た中澤と矢口は、長い逃亡生活にピリオドを打つ事にした。
確定された未来――。だが、こうならずにもっと楽にピリオドを打ちたかったと思う矢口であった。
誰も傷つかない、そんな未来を迎えたかった――。
市井の前に、とても懐かしい顔が現われた。
もう、5年近く会っていないだろうか、写真で見るよりも実際の彼女は5年前より明らかにその肌の張りを失っていた。
市井は、思わず笑ってしまった。
「どしたの?」
隣にいる後藤が、不思議そうに市井の顔を覗きこむ。
梨華と一緒に入ってきたその女性は、憮然とした表情で立っている。
隣にいる小さな金髪の少女は、怯えているのかそれとも好奇心からなのか、
入ってきてずっと市井の個人オフィスをキョロキョロと見まわしていた。
「久しぶりだね、裕ちゃん」
市井のその言葉に、その場にいる全員が中澤に注目した。
誰の頭の上に、疑問符が浮かんでいるような状態だった。
「久しぶりって……、どういうこと裕ちゃんっ」
まさかという思いが、矢口の脳裏をかすめた。
一緒にいた中澤が、まさか自分たちを追っていたやつらの仲間であるという事は考えたこともなかったので、
その動揺はかなり大きなものだった。
「え……、矢口を裏切ってたの……?」
その問いかけに、中澤は背を向けたまま答えた。
「矢口には……、そう見えたか?」
「見えないよ。だから教えてよ。ちゃんと教えて。ねぇ、裕ちゃん」
矢口は中澤の身体を強引に自分に向きなおさせた。
「いちーちゃん、どういことなのさ」
後藤にも訳がわからなかった。市井は、2人の様子をただぼんやりと眺めていた。
「仲間ってこと?」
梨華にも、市井と中澤の関係がわからなかった。混乱している矢口と後藤の意識だけが、流れてきている。
この部屋には、能力を押さえるような装置は何もないので、触手を伸ばそうと思えば伸ばせる。
しかし、触手を伸ばしても意味のない事は分かっていた。
後藤の口から聞いた市井の能力は、ヒーリングの他に能力を無効化する”能力”がある。
これまでにも、試みたことがあるが触手は市井の意識下に届くことなく、市井に届く前に消滅しているようだった。
不思議なことに、そのような感じを以前にも抱いたことがあった。
ひとみと一緒に中澤らと行動した時、矢口の意識は流れてきたが、中澤の意識はまったく流れてこなかった。
そのことを、梨華はぼんやりと思い出していた。
「ゼティマの前身は、ただの保護施設のようなものだった」
混乱する矢口に向かって、市井が口を開いた。矢口だけではなく、中澤以外の者たちに向かって喋っているようでもあった。
中澤は、うつむいたまま応接セットのソファに腰を埋めた。
「自分の力を知らずに事件を起こした者。その力を恐れられ迫害を受けている者。または第3者に利用されている者。
――社会では誰も救ってくれない。
このままでは、能力者の人格が歪み、力のない者との間に亀裂ができることを危惧した1人の能力者がいた。
森光子――。後藤もゼティマの社員なら聞いたことあるでしょ?」
「あ、うん……。”絶対的なる者”って、呼ばれてた人だよね」
「そう。ありとあらゆる力を持っていた」
「でも、死んじゃったんでしょ?」
「いくら絶対的な力を持ってても、年には勝てないよ」
と、市井はその場の雰囲気を和ませるかのように、苦笑を浮かべた。
「その森のおばあちゃんが、長野の山奥にこのゼティマの前身を作った。
それが、今から20年前。裕ちゃんは、創立と共にその施設に入所した。
そうだよね?」
市井が問いかけると、中澤はタバコの煙を吐きながら「ああ」とうなずいた。
「アタシは、10年前――。楽しかったね、あの頃は。みんなが、笑ってたよ。のびのびしてて、時間はゆっくり流れてて本当に楽しかった。
力があることなんか、まったく気にする必要がなかった。後藤なんか、絶対気に入ってたはずだよ」
「もう……、ないんでしょ? そんな場所」
「おばあちゃんが、その力で押さえててくれたからね」
「じゃあ、ダメじゃん」
梨華は以前に、不意に流れてきた意識を読みとり、後藤がその力を自分自身で恐れている事をしった。
それは、梨華にとって意外な事だった。
しかし、その意識を読み取ったことで、ほんの少しだけこの場所に居心地の良さを感じることも出来た。
「森のおばあちゃんが死んで、その施設はほんのちょっとした混乱が起きた。
社会に対する恐れもあったし、互いの力に対する恐れもあった。
子供が多かったからね、意識しようとしまいと感情の起伏と共に出ちゃう」
市井の言葉に、後藤の表情がくもった。
「その混乱を収めたのが、今のゼティマの会長”つんく”さんよ」
「アンタ、まだあんな男の言葉信じてんのか?」
「社会を恐れることのない、力を持った者たちだけのユートピアを作ろうって」
「紗耶香、いい加減に目ぇ覚まし……。森のおばあちゃんが望んでたんは、こんなん違うかったやろ」
「目的のためなら、多少の犠牲も仕方ないんじゃない」
「なんで、そんなに変わってもうたんや……。圭坊ッ、おるんやろっ。出てき」
中澤が奥の部屋へと通じるドアへ視線をやった。しばらくするとドアが開き、保田がうつむき加減で入ってきた。
また、その部屋に重苦しい雰囲気が漂った。
「アンタ、紗耶香がこんなになるまでなんで黙ってたんや。年上のアンタが、しっかりせなあかんやろ」
「逃げ出した裕ちゃんには言われたくないよ。そうだよね、圭ちゃん」
2人の間にはさまれるようになった保田は、何も答えることが出来ずにただうつむいていた。
「森のおばあちゃんは、何人救えた? 本当に理想の場所を作るためら、つんくさんの言ったように組織化するのが一番なんだよ」
ドンッという音に、皆が一斉に中澤に注目した。
「けっきょく……、平行線なんか……」
テーブルに両手を叩きつけたままの格好、誰の目も見ず悔しそうに呟いた。
Chapter−4<これから>
国会議事堂の地下にあるその建物に、高級車がぞくぞくと集い始めた。
――駐車場に降り立つその顔ぶれは、日本の政界に君臨する各省庁のトップたちである。
会議室のモニターに映し出される映像を見て、防衛庁の大臣は顔色を無くした。
「こんなことが、本当に行われるのかね」
防衛庁の大臣が語りかけた人物は、モニター画面の脇に座っていた。
ちょうど影になっているその場所が、会議が行われる際の男の定位置だった。
「研究は、すでに最終段階に入ってるみたいですね」
関西弁のイントネーションで喋るモニター脇の男は、資料をパラパラとめくって、スタッフに指示を出した。
モニター画面に映し出されるアメリカの研究所。
数人の医師による、開頭手術。
少年の頭部に刺された電極。
手をかざす少年の前で破壊される日本製の高級車。
少女の前で止まる銃弾。
隠し撮りのような写真が、次々とモニターに映し出される。
「AMUSA。まぁ、早い話が人工的に、超能力者を作り上げる計画です」
各省庁のトップは、スタッフたちに配られた資料に真剣に目を通していた。
「似たような研究が各国で行われているのは、その資料に書いてある通りです。
欧米、フランス、とりわけロシアと中国が、力を入れてます。
核やミサイルといった人類そのものを破滅させる兵器の時代は、終わったと言う事ですね」
男は資料をテーブルの上に置くと、大臣たちを右から左にへと眺めていった。
政権交代でその顔ぶれは大きく変わったが、<Zetima>の会長つんくには関係のないことだった。
「日本はまだ研究段階に入ったばかりじゃ……」
文部大臣が、資料に目を通しながら呟いた。
「非人道的。つまらんモラルで、森のばあさんが抑えてましたからね。しょうがないです」
「日本も、このまま手をこまねいているわけにもいきませんぞ」
「ええ」「そうですね」と、官僚たちが口々に賛同する姿を見て、つんくはほくそ笑んだ。
(ブタどもの脳みそは、単純やで……)
思わず笑いがこみ上げ、両手で口を抑えて誤魔化した。
中澤は1人で<Zetima>の廊下を歩いていた。今のところ、中澤の立場は微妙であった。
かつては、<Zetima>に籍を置いていた身ではあったが、”矢口真里”をスカウトしに行ったままその姿をくらませた身でもある。
企業――つんくとしては、あまりオモシロイはずも無い。
処遇が決定しないまま、もうすでに1週間も施設内に幽閉されていた。
(矢口……、どこ行ったんやろな……)
廊下を歩きながら、中澤はぼんやりと考えていた。
殺されるようなことも無ければ、その能力からして危険な現場に向かわされるようなこともないので、
心配はしていなかったが今までは常に行動を共にしていたので半身がとても寂しく感じられた。
市井の個人オフィスのドアを開けると、市井と後藤が腕相撲をしていた。
「お、裕ちゃん。ちょっと待ってて」
(なんやねん、何してんねんええ年して……)
「かぁー。やっぱ、後藤強すぎ」
勝負は呆気なくついた。
「へへ」
と、後藤は照れたように笑うだけであった。
その様子を眺めていて、中澤は無性に矢口に会いたくなった。
(くそー。矢口にチューしたい)
「裕ちゃん、相変わらずだね」
市井が、中澤のその叫び(?)を聞いて笑った。
中澤は油断していた。中澤の能力は、発揮することで相手の能力を”無効化”できることである。
”常に”無効化できる市井とは、雲泥の差がある。
そして、市井には”絶対的な者”に近い能力がもう1つ備わっていた。
それは、梨華と同じ”精神感応”であった。ただし、レベルは若干落ちるようであった。
「そういや、紗耶香のファーストキスは、ウチがもらったんやったな」
中澤は一瞬動揺はしたが、すぐにそう切り替えした。
「ムリヤリね」
と、市井は余裕の表情を浮かべて笑っていたが、その横にいる後藤はあからさまに嫌な顔をしてみせた。
「なんや、ごっちんは紗耶香のこと好きなんか?」
後藤が、ハぁとした表情で振りかえる。
「裕ちゃん、からかうの止めなよ。後藤がキレたら、厄介なんだよ。
後藤も止めな。どうせ、裕ちゃんには通じないんだから」
「いちーちゃんは、すぐそーやって裕ちゃんのこと庇うんだね」
後藤は、すねて2人に背を向けた。
中澤と市井は、その行動を見て顔を見合わせ小さく笑った。
方向は違えど、かつては共に長い時間を過ごした2人である。わだかまりは、いつの間にか溶けていた。
ただ、やはりどちらも方向については歩み寄る事はできなかった。
午後も遅く、市井は会長室に呼び出された。
「中澤の処分については、そこに書いてある通りや」
デスクの前に佇む市井に、つんくは1枚の用紙を差しだした。市井はそれを手にとると、最後の一文に目を通す。
【契約不成立により、処分とする】
「……」
市井は、用紙から視線を上げることができずにつんくの話を聞いた。
「おれもな、会議で反対したんやけどな、もうあの頃みたいな小さい施設やないねん。上に立つもんだけの意見なんて、まかり通らんのや」
「もう一回、もう一回だけ会議開いてもらえませんか」
「査問会議は、2度までや。知らんわけやないやろ」
「……」
「おれかて辛い。元メンバーとはいえ中澤は創立時からおったし、おれらからしたら旧知の仲や……。
けどな、今のアイツの考えは危険なんや。せっかく皆の意見が一つにまとまろうとしている時に。
このまんまやと、森さんが死んだ後のような混乱が起きる。お前もそれは感じてるやろ?」
「……ええ」
つんくは、会長らしい重厚な椅子に背を預ける。
「――政府からの補助金が年間1500億出されることになった」
「……じゃあ、いよいよ」
「ああ。お前らが頑張ってくれたお陰で、政府も容認してくれたわ。
何人かの犠牲者が出てしもうたことは……、ホンマに残念なことやけどな」
「……みんな、この日のために頑張ったんです」
市井の目は冷めていたが、その手は興奮して少し震えていた。
「これで、森さんの――、いや、ここにおるみんなの夢が叶うんや。
能力なんか関係あらへん。みんなが笑って暮らせる場所ができるんや。あと一歩の所で……俺の辛さも分かってくれ……」
市井の”精神感応”が使用されていれば、この後の未来は少し違っていたものになっていただろう――。
しかし、ここは能力をなにも持たない
つんくが、その心を読まれたり、暗殺されたりを恐れて作った、能力者の力を抑える装置が何十にも張り巡らされた部屋である。
”精神感応”の能力が弱い市井にとって、それは不可能なことだった。
もっと単純に、会長室から去る際にドアへと向かうその最中に後ろを振り向いていただけでも違っていたかもしれない。
市井の背を見送りながら、目を細めて笑うつんくを見れたことだろう――。
ステレオのスピーカーから流れ出る、癒し系のBGM。
そのBGMが、矢口の精神力を散漫にする。簡単にいうと、音楽が邪魔で精神を集中することができないのである。
「あのさ、梨華ちゃん」
部屋の隅でぼんやりと雑誌に目を通している梨華に、矢口は声に出した後、心の中で念じた。
(悪いけど、その音、消してくんない?)
決して、怒っていたわけではない。普通に、そう頼んだだけであったが、梨華は慌てて立ちあがるとすぐにステレオの電源を消しにいった。
そして、ポツリと「すみません……」と言った。
「はぁ……。別に怒ったわけじゃないんだけど」
「すみません……」
「いや、だから……」
「あ、あの、私、食事の用意してきます」
と、言い残すと、梨華はそそくさと部屋を後にした。
この施設に連れて来られてからずっと、矢口は施設内にある部屋に軟禁されていた。
見える未来から、企業に関係のありそうなものを報告するためである。
だが企業側も、これまで逃亡を繰り返していた矢口を信用していないらしく、
情報の隠蔽が無いように”精神感応”の力を持った梨華を監視役として常駐させているのである。
「梨華ちゃんって、いい子なんだけど……。ちょっと、暗いんだよね」
と、矢口は小さく笑いながら呟いた。
本当は、側にいてくれるのが中澤であったらよかったのだが、そうそう不満ばかりも言っていられなかった。
期日までにある程度の未来を報告しなければ、矢口の待遇はさらに悪くなるようなことを、
スタッフの意識を感じとった梨華が教えてくれていた。
だが、矢口の”能力”は”矢口の目を通した未来”しか見えないのである。ここ数日は、梨華とこの部屋にいる未来しか見えていない。
「こんなんで、何を報告すればいいんだよ〜……」
矢口が、ぐったりとふて腐れて机に突っ伏した時、不意にある映像が浮かびあがってきた。ただし、それはひどく不鮮明なものであった。
――駆けつける自分。粉々に破壊された……瓦礫。粉塵。そこにいる人物。背を向けている。男……? 両手を広げている。
(誰かわかんない……)
と、矢口が目を細めて確認しようとした時、不鮮明な未来視はまるで電源の切られたテレビのようにパッと消えた。
「矢口さん、変ですっ」
後ろに聞こえた梨華の声に、矢口は「そうなんだよ〜」と言いつつ振りかえった。
しかし、どうやら矢口の心を読みとって「変」と言った訳ではないらしかった。
「ごっちんが……。中澤さんを狙ってる」
梨華は手に何ものっていないトレイを持ったまま、開け放たれたドアから廊下に顔を出していた。
外の空気は、中澤にとっては久しぶりの空気だった。
なんとなく廃棄ガスくさいものではあったが、久しぶりの地上の空気というだけで、意味もなく何度も深呼吸してみたりした。
夜空にはスモッグや街灯の乱反射で星こそ見えなかったが、昼夜の区別が時計でだけしか感じられないよりは随分とマシだった。
「長野の星は、綺麗やったよなぁ」
中澤は、夜空を見上げながら後ろに佇んでいる市井に声をかけた。
市井は何も答えずに、ただ佇んでいる。
中澤も返事を求めていなかったので、そのまま話を続けた。
「ウチと紗耶香は、持ってる力も境遇も同じやったから、妹のように思ってたわ。空を見上げながらな、流れ星に何回もお願いしたんやで。
紗耶香が幸せになれますようにって――」
「もうすぐ、幸せになれるよ……」
その言葉とは裏腹に、悲しい表情を浮かべる市井。
「……そうか」
「……」
2人はしばらく、ただ黙って夜空を見上げていた。2人の胸の中に、長野で過ごした日々が甦ってきていた。
「できることなら、あの頃に戻りたいなぁ……」
振りかえった中澤はまるですべてを悟っているかのように、悲しい表情を浮かべている市井に話しかけた。
「裕ちゃん……」
「わかってる。ウチの処分が決定したんやろ」
「……一緒にやりなおそう」
中澤は、ゆっくりと首を振った。
「なんで。同じことじゃん。森のおばあちゃんとつんくさんの考えは同じなんだよ。アタシと裕ちゃんの考えだって」
「違う。ぜんぜん、違うわ」
木陰の闇から、後藤がゆっくりと姿を現した。冷たい何も見ていない目で、中澤へと距離を近づけていく。
「ウチの知ってる紗耶香は、泣き虫紗耶香や。今のような、そんな冷たい目なんかしてない」
「裕ちゃんは知らないから、そんなこと言えるんだよ」
「一緒に逃げようって言うたやんか。圭坊と一緒に、あの頃のみんなと暮らそうって」
「他の子たちを置いて、できるわけないじゃん」
市井は、険しい表情で中澤を見据えた。
「……そやな。そういうところは、ウチよりしっかりしてたもんな」
と、姉のような優しい微笑を浮かべた。
「もう、あの頃には戻れない」
市井と中澤の前に、後藤がやってきた。
「もう1度聞くよ。一緒に、これからを生きよう」
中澤は、ゆっくりと首を横に振った。
「そう……。頑固なところは、昔と変わらないね」
市井ははじめて、微笑を浮かべた。
――国会議事堂脇の敷地に、大きな地鳴りのようなものが鳴り響いた。
木々で休んでいた鳥たちが、一斉に夜空へと舞った。
市井と中澤がいた場所に、大きな砂埃が舞っている。
今までどこに潜んでいたのか、黒い服を着た数人の男女が市井らの元へと集まってきていた。
砂埃はしばらくたち込めたまま、一向に晴れようとしなかった。
梨華と矢口が、その場に駆けつける頃になってようやく砂埃が消え、中に佇んでいる市井と後藤の姿が見えた。
「そんな……」
矢口は、えぐりとられた地面の周りに集まる市井らの背を見つめていた。
その周りには、矢口の見た瓦礫のようなものもある。確信はできなかったが、矢口の未来視に出てきた映像に似ていた。
「中澤さん……」
梨華の言葉に、矢口の足は止まった。そして、何もかもすべてが終わったような虚ろな表情で、あの部屋にいる自分の姿を未来視した。
数日後の夜――。
市井と後藤は、つんくの所有するホテルにやって来ていた。
どういう用件かは分からなかったが、通された部屋はあいかわらずあの能力を無効化する特殊構造の部屋だった。
市井は、あまりこのような部屋に通されるのは好きではなかった。
能力を持たないつんくが恐れているのは分かるが、こちらはなにも危害を加えるつもりはない。
まるで、信用されていないように思えて仕方がなかった。
1度、そのような旨の話をつんくに直接したことがあった。
しかし、つんくは”自分らに対してとちゃうで、他の国の要人に付き添ってくるSPに対してやで。
最近、ESPを連れてくんのが多いからなぁ。しゃあないわ”と説明した。
国家の特別重要防衛機関を担当しているので、それは仕方のないことであったが、やはりこの部屋の構造が好きになれない市井であった。
しかも、ここはその中でも特別らしく、3メートルの厚みのある分厚いジュラルミン製の扉に、
侵入者がすぐに行動を起こしても対応できるように、入り口からつんくのデスクまではゆうに100メートルほどはあった。
(加護でも、この距離は短すぎる……。後藤にはせめて10キロはないとね……)
そんな事をぼんやりと考えていると、スタッフが数人がかりで分厚い扉を開け、
つんくが手に書類の束を抱えたまま軽い挨拶をしながら入ってきた。
「悪いなぁ、遅れて」
と、自分のデスクへと向かい書類の束に目を通し始めた。
「ね、いちーちゃん」
と、後藤が小さな声で話かける。
「ん?」
「なんの話かな? ボーナスでもくれるのかな?」
「……んなこと、あるわけないだろ」
「もらったらさ。今度の休み、一緒に買い物行こう。後藤さ、新しいサンダルほしいんだ」
「やだよ。めんどくさい」
「えー、いいじゃん」
と、2人がブツブツと話していると、つんくが顔を上げてニヤリと笑った。
「なんや、後藤。デートの相談か?」
「違いますよ。ただ、買い物の約束してるだけですよ」
「そーいうのを、デート言うんやないか」
と、笑っておどけてみせた。
「あの、つんくさん」
市井が、話しを切りだした。
「ん?」
「あの……、お話って……」
「ん……、まぁ、ちょっと待ってくれ。これ片付けるわ」
つんくは、申し訳なさそうな表情を浮かべて書類の束を整理しだした。
数分後、つんくは市井らとテーブルを挟んだ向かいのソファに座った。
やっと、今回の用件が聞けると思い、市井はホッと軽いため息をついた。
この部屋に通されてから、もうすでに1時間以上が経過していた。
「単刀直入に言うけどな、悪いけど後藤」
どうせ自分には関係のない話しだろうと気を抜いていた後藤は、名前を呼ばれて焦った。
「は? アタシ」
「そうや。悪いけどな、来週から北海道の稚内に行ってくれんか?」
「はー? なんでですかー。北海道って、寒いじゃないですかー」
と、驚いてはいるもののその驚きは、市井の驚きとは別物のようだった。
「いや、まぁ寒いけどな」
つんくもそれに気づいて苦笑する。
「で、稚内ってどこです? 聞いたことないんですけど」
「宗谷岬の……っても、知らんわな。まぁ、北海道の上の方や」
「あの、なんで急に」
あまりの驚きに、今まで言葉を失っていた市井がようやく口を開いた。
「ロシアの不審船が急に増えてきてな。ちょっと、緊迫した状態やねん。
外務省も自衛隊も外交上の問題もあって、なかなか手が出せれんでな」
「ヤですよー、そんなの。それに、後藤1人だけですか? だったら、もっとヤですよ」
「市井は、北朝鮮経由でロシアに向かってもらう。ちょっと、北朝鮮でも不穏な動きがあるみたいやからな、それを探ってきてくれ」
「ちょっと待ってくださいよ。そんなの、いちーちゃん1人じゃ危ないじゃないですか。後藤も一緒に行きます」
と、後藤が市井を庇うようにして、つんくに言い放った。
「後藤は保田と一緒に。市井には、加護と石川をつける。」
「加護と代えてください」
「計画も最終段階に入ったんや。今までみたいに、のんびりできん」
そう面倒くさそうに呟くと、つんくは自分のデスクへと向かった。デスクの引き出しに、葉巻を取りに行ったようである――。
「いちーちゃん」
不安そうな表情で、市井の袖を引っ張る後藤。
市井の悪い予感が当っているのであれば、断わればこのまま無事に帰れる保証はなかった。かといって、つんくの陰謀にわざわざ引っかかり他の仲間たちを危険な目に合わせるのも嫌だった。
重苦しい沈黙を破るように、デスクの電話が鳴った――。
つんくがデスクの電話をきってから数分後に、保田、加護、梨華がその部屋へとやってきた。
保田と梨華は、先客の市井と後藤の姿を見て驚いていた。どうやら、知らされていなかったらしい。
加護はというと、その部屋の空気などをかえりみずに「ごとーさ〜ん」と無邪気に教育係の元へと駆け寄っていった。
つんくからの任務を聞いた保田らは、一様に戸惑いの表情を浮かべた。
確かに、これまでも様々な任務はこなしてきていたが、外国を相手にした任務は初めてであった。
国家間の争そいに首を突っ込むという事が、どんなに危険な任務なのか、おこなったことがなくてもなんとなく理解できた。
「これは……」
市井が呟くと、デスクで葉巻をくゆらせ返事を待っていたつんくが顔を向けた。
「これは、普通の会社で言うところの”左遷”ですか?」
市井の言葉に、つんくが意味ありげに笑ってみせた。
加護が、隣の保田に小さく”左遷”の意味を訊ねる。
「用がなくなって、捨てられるってこと」
保田がつんくに聞こえるように言った。
つんくは声を上げて笑った。
「自分ら、ホンマおもろいこと言うな」
「ふざけないで下さいッ」
保田の激昂に、後藤と加護が準備をした。
「ここでは、力は使えんでぇ」
と、デスクの引き出しから、リボルバー式の拳銃を取りだした。
「お前らの力より、こっちの方が威力はあるんや」と、ニヤニヤ笑いながら肘をついたまま銃口を向けた。
「裏切ったのねッ」
保田が、声を荒げる。
「裏切った……? 裏切ったんは、どっちやッ!! 市井、オレは確かに中澤の処分を頼んだな。
それが、どういうことやねん、これは」
つんくが、リモコンのスイッチを入れると本棚であったはずの場所が横に開き、隣の部屋が現われた。
そして、そこには猿ぐつわをされた血だらけの中澤が転がっていた。
「お前は力で周りにおる見張りの意識を探ったつもりやけどな、お前のテレパシーは微々たるもんや。
その範囲の外にも、何人か張らせとったんや。煙でまくって……、そのまんまやの」
と、小さく笑った。
「……」
市井は、苦々しい表情を浮かべた。
保田らが駆け寄ろうとすると、隣の部屋から数人の男女が立ちはだかるように現われた。
セクションこそ違えど、皆、能力者であり<Zetima>のスタッフであった。
あらかじめ計画されていたのであろう。その手には、銃器が握られている。
「お前らもな、オレからすると十分危険思想の持ち主やったわけや。あの森のばあさんみたいにな」
睨む市井の視線を無視して、つんくは葉巻をくゆらせた。
「最初から……、こうするつもりだったんですね」
「そうや。政府からの巨額の補助金は、会社のために使わせてもらう。けど、そのためには政府に気に入られるアクションを見せんとな。
お前らの力を見せて、諸外国にはもっと強いヤツラがおるって煽るんや。時間かかったけど、お前らの力はええ宣伝になったで」
「みんな……、みんな、夢のために戦って命を落としたんですよ!」
「知らんわ、そんなん」
ニヤけながら、つんくは吐き捨てるように言った。
「けどな、おれも鬼やないで。せやから、お前らにチャンスをやる。ここで犬死するか、最後に一仕事するか。答えは2つに1つや」
力の使えない加護は、悔し涙を流していた。さっきから何度も何度も、力を放っていたのだが、木の葉を落とす力すらも放出されなかった。
保田も同じだった。自分の”クレアヴォヤンス(透視)”が使えていたならば、つんくの引き出しに隠されていた銃も発見できただろう、
隠し部屋に潜んでいる武器を持った者たちの存在にいち早く気づき、この部屋から非難させる事だってできたであろう――後悔していた。
だが、梨華だけは信じていた。数時間前の<Zetima>施設内で、
それまでここ数日生気のなかった矢口が突然目を輝かせて梨華に言った言葉を――。
『大丈夫。この前見たのは、これだったんだ』
『どういことですか?』
『いい? 絶対に助かるから。誰かは分からないけど、突破口を開いてくれるから。すぐにみんなと一緒に逃げて。そうすれば助かるから』
梨華には、突破口を開いてくれる人物に心当たりはなかったが、その時がくれば、すぐに中澤を連れて逃げれるようにイメージしていた。
「まぁ、犬死するよりは、お国のためにってのがエエと思うんやけどなぁ」
と、つんくが笑った。
真希の限界もここまでだった。その目に、異常な力がこもった。
力を出しきることはできないかもしれないが、数人を道連れすることはできる。
そこまで真希の力は、強大だった。
「ごっちん、ダメ!」
梨華の言葉も、真希には遠い場所のように聞こえていた。
「市井さんが!」
さっきまで遠くに聞こえていた声だったが、”市井”という言葉を聞いて後藤はハッと我にかえった。
見ると、つんくらの銃口が一斉に市井へと向けられている。
「お前の弱点は、これや」
つんくは、黄色いサングラスの向こうの冷めた目で後藤を見据えた。
後藤は何か言い返そうと思ったが、何も言い返せなかった。
銃口を向けられている当の市井本人は、いたって凛とした表情を浮かべている。
こんな時ではあるが、後藤はその市井の整った横顔に見惚れていた。
そして、市井の顔を見つめ続けたまま死ぬのも悪くはないと思っていた。
「どうせ裕ちゃんも、殺すつもりなんでしょ……」
市井の低い声が、束の間の沈黙を破いた。つんくはそれに対して何も、答えなかった。
もしも、この時、心が読めていたならばつんくの動揺を捕らえていたことであろう――。
「だったら、最後はウチらの側にいさせてよ。もう、それ以上は何も望まないから」
「……そうか。答えは、NOか……」
動揺を悟られないように、つんくは勤めて平静を装って声を出した。
そして、スタッフらに目配せをした。
ぐったりとした中澤を抱えながらも、銃口を向けたままのスタッフ2人が、中澤の両脇を抱えて部屋の中へと入ってきた。
ドサリ、とまるでゴミを置くように中澤をその場に置くと、また隣の部屋へと戻っていった。
いくら、能力を抑えている部屋だとしても、ヤケになった真希が何をするのか分からないといった畏怖があった。
真希の力は、たとえ別セクションであろうとも知らないものはいない。
ただ、もう真希は力を放つつもりはなかった。どうせ死ぬのなら、このまま市井の横で静かに眠りたかっただけである。
「さてと……。じゃあな、今までようやってくれた」
と、つんくが撃鉄を起こした瞬間、ホテルの一室が衝撃音と共に揺れた。
「な、なんや……」
つんくは、真希の力を疑ったが、当の真希自身も驚いている様子だった。
続け様に2回目の衝撃が、部屋を揺らした。スタッフの1人が外に確認に行こうと、あわてて駆けだした。
「アホっ!! ドア開けたら、終わりやぞっ」
つんくのその言葉を聞き、男はハッと我にかえり思わず身震いした。
不用意にドアを開ければ、この部屋の効力は失われてしまう。それは、この場にいる全員の死を意味している。
(矢口さんの言ってた、突破口って……。これのこと? きゃっ)
梨華の真上から、壁の一部が落ちてきた。
3回目の衝撃と共に、ドアが吹き飛んだ。
(これだ!)
梨華は砂煙が舞う中を、中澤の元へと走った。
「みんな、すぐに逃げてください!」
梨華の声がまるで合図だったかのように、後藤が力を放った。
力を受けた数人のスタッフの頭が、一瞬にして弾け飛んだ。
「後藤、行くよ!」
「うん!」
市井と後藤は、手を取りあって砂煙の舞う部屋を突っ走った。
その後藤の顔のすぐ側で、弾丸が数発弾けとんだ。
後藤は一瞬、もう自分は死んでしまったと思ったが、砂煙の向こうで聞こえてきた声に安心してそのまま走った。
「後藤さん、気ぃつけてなー」
教育係、ほんの少しは役にたっていたようである。
「ごっちんッ! 前方左45度!」
保田の声がどこかから、後藤の耳に届いた。何かが見えているらしい。
その何かは確実に敵だ。後藤は迷うことなく、保田の指示する方向に力を放った。
厚さ3メートルのジュラルミン製の壁が、爆音と共に遥か遠くに吹き飛んだ。
そこにいたのが誰で何人だったのか、もう分からない。ただ、25階の窓から吹きすさぶ風が砂埃を狂ったように立ち上げるだけだった。
梨華は、その意識を感じて思わず立ち止まってしまった。これほど緊迫した状況のはずなのに、足がまったくといっていいほど動かない。
砂埃の向こうに見える影――。
その人物がここにいるはずはなかった――。
その人物の意識を感じる事は2度とないはずであった――。
梨華の顔が途端に、子供のような泣き顔に変わる。
「迎えに来たよ。お姫様」
懐かしい声――。
梨華がもっとも近くで聞きたかった声――。
でも、なんで――。
砂埃がはれた向こうに、笑みを浮かべた吉澤ひとみが両手を広げて待っていた。
Another Chapter−1
「おはよう」の挨拶もなく、ひとみはダイニングへと入った。
もうすでに父親は朝食をとっていた。
弟2人は、まだ起きてきていないらしいが、ひとみにとってはどうでもいいことだったので気にする事もなかった。
テーブルにつくとすぐに、シリアルとゆで卵付きのサラダが出された。
母親は何も言わずに、弟たちの朝食の準備に戻った。
(ロボットみたい……)
ひとみは、母親の背中を見つめて心の中で毒づいてみた。きっと、昨日の夜も夫婦の間で何かがあったのだろう。
ひとみが朝食を食べている間、両親が口を開く事も目を合わす事もなかった。
ひとみは朝食を終えると、いつものようにシャワーを浴びに浴室に向かった。
ムシャクシャとした意味の分からない苛立ちを振り払うかのように、ひとみは全身に熱いシャワーを浴びた。
電車の発車ベルと共に、また退屈な日常が始まりを告げる。
通勤・通学でごった返す息苦しい電車内。
どれだけの人が、日常を楽しんでいるのか。
皆、ただただ疲れた顔をしてぼんやりと自分の世界にひたっている。
そんな光景を見ると、ひとみは吐き気を覚えるほど憂鬱な気分になる。
目の前でぼんやりと車内広告を見上げている中年のサラリーマン。
(あんな人とは、結婚したくない……)
(あんな風になるような人と、出会いたくもない)
(お母さんのように、平凡な主婦になんかなりたくない)
(高校卒業したら、東京に出よう)
(それで、もうそれを最後にしてこんな電車に乗る生活とはおさらばしよう)
(退屈な毎日なんて、嫌いだ……)
ひとみは、スッと視線を落としてもう何も考えないように携帯のメールを打つことにした。
――が、その手がフッと止まった。
(そうだ……)
(麻美は……)
(もう、いないんだ)
登校途中から麻美へのメールは、ひとみの中で日課になっていたので、つい無意識的に動いていしまったのだった。
ひとみは携帯電話をしまうと、もう何も考えないようにしてうつむいて時を過ごした。
学園でもそのほとんどの時間を、ひとみは1人で過ごしている。
もともと、社交的な性格ではない。
そのルーツはぽっかりと穴が空いてしまっているが、そのような性格なのだから仕方がないと、無理にとけ込んで行こうとはしなかった。
それに、麻美のような一緒にいて心が落ちつく相手ももう現われないような気もしていた。
退屈な日常。
ひとみの心は、荒む一方だった。
放課後、街をブラブラと歩いていた。
受験生でそんな時間がないように思えるが、ひとみの学園はエスカレート式なのでよほどの事がない限り高校へ進学する事ができる。
風邪をこじらせて長期入院する前に受けた中間テストの数学が点数18点で戻ってきていても、勉強しようなどという気はさらさらなかった。
ブラブラ歩いていると、不意に花の香りがひとみの鼻腔を刺激した。
数メートル先に、「アップフロント」という花屋があった。
(へー、こんなところに花屋なんてあったんだ)
(カスミソウ、置いてるかな)
(……カスミソウ?)
(どんなだったっけ?)
(あ? なんだ? カスミソウって)
と、ぼんやりと頭の中で考えている間に、ひとみは花屋の前を通りすぎた。
通りすぎるとき、女店主がなにか言っていたようだが、ひとみは面識がないので立ち止まるような事はなかった。
女店主は、不思議に思っていた。
(変ねぇ……)
(大ケガしてた子じゃないかしら……?)
店先に出向いて確かめようとも思ったが、あの大怪我がこんな短期間で治るはずがなくきっと人違いなのだろうと納得する事にした。
夕方近くになりこのまま街をぶらぶらし、鬱陶しいナンパ男たちに声をかけられるのも嫌だったので、ひとみは家に帰ることにした。
マンション近くの公園を通りすぎるとき、何かが引っかかって思わず足を止めた。
何かがおかしいのだが、それが何かひとみにはわからない――。
(でも、変……)
ひとみは、誰もいない公園を見つめつづけた。
子供の頃、ここで遊んだ記憶はあった。だが、それがいつどこで誰と――、それが思い出せない。
しかし、人の記憶の中にはそのようなことは多々ある。その点に関しては、ひとみはあまり深く考えなかった。
それよりもっと別の、違和感が”その公園”にはある。
風が舞い、公園の木々が葉を揺らす。
誰もいない、ひっそりとした児童公園。
(児童公園……)
(子供……)
(公園……)
(夕方……)
ひとみの違和感は、不意に解けた。その公園には、いつも利用者がいなかった。
(なんで、誰も遊んでないの?)
(まだ、明るいのに……)
ひとみはその道を、通学・下校で毎日のように通っていた記憶がある。
その記憶の中の自分は、その道を見ないように顔を伏せながら早足で通りすぎていた。
どうして、そのような行為に及んでいたかはわからない。
(は?)
(なんで?)
ひとみの記憶は、すっぽりと抜け落ちていた。だが、あまり深くは考えなかった。人がいようがいまいが、自分には特に関係がない。
ただ、やっぱり――児童公園に子供たちの姿がないのは、奇妙な光景だった。
部屋の片隅に転がったままになっている、黄色いリストバンド。
もうかなり前からそのままになっているので、ほこりでその黄色い色はかすんでしまっている。
いつも、片付けなければいけないと思うひとみではあったが、
もうそれを2度と使うこともないので”いいや”ともう1年ほど放置してあるのであった。
捨てることも考えてはみたが、なぜかそれだけはしたくなかった。
かといって、大事にしまうようなものでもない――。
ひとみは、そのリストバンドをたまに目にすると、とてもブルーな気持ちになる。
忘れかけていた夢が甦り、かといって捨てきれない夢を見ているようでやり切れなくなるのであった。
「青春時代か……」
ひとみ自身、決して今の状況に満足しているわけではなかった。
ただ、たった1人では何かをやろうという気持ちも起きず、そしてその打ち込める何かを見つける事もできず、
焦りと苛立ちの中で悶々とした生活をしているのだった。
その日の夜も、ベッドに寝転びもう10分近くも自分の存在価値を見出せるような何かを探していた。
ただ、それに集中する事はできなかった。隣から聞こえてくる弟たちの声が、ひとみの苛立ちに火をつける。
「うるさいんだよ!」
ひとみは、隣の部屋との間にある壁を蹴った。しばらく、おとなしかったがまた、同じような騒ぎ声が聞こえてきた。
ひとみの気分は最悪だった。
夜風を浴び、頭を冷やそうとベランダに出てみた。
まだ時間も早いので、耳を澄ませば遠くの喧騒が届いてくる。
(バレー辞めた麻美は、すぐドッグトレーナーの夢見つけた)
(いつか、北海道のような場所で暮らしてみたいって……)
(麻美、動物と自然が好きだった……)
(バレーより、そっちの方が似合ってるよ)
(でも、アタシは……)
ひとみは、そこまで考えるとまたネガティブ思考へと陥り、
結局、また自分の置かれている状況に焦りを感じて自分を卑下してしまうのだった。
――悪循環。ひとみ自身もそれに気づいていたが、どうすることもできなかった。暗い表情のまま、ひとみは部屋へと戻っていった。
ひとみは気づかなかったが、階下の少し離れた場所から上を見上げている少女がいた。
その少女もまた、ひとみが部屋に入ったのを見届けると、同じような暗い表情を浮かべて夜道を歩いて行った。
Another Chapter−2
翌日の午後、ひとみは児童公園の前で足を止めた。
いつものように通りすぎようとした時、中に誰かがいるのが視界の隅に入った。
珍しい光景だったので思わず足を止めて目を凝らしてみると、そこにいたのは数ヶ月前に同じ日に学園を去った中澤と矢口だった。
(なんで、こんなとこいんだろ?)
ひとみには、2人が去った詳しい理由は分からない。ただ、不意に麻美が事故死する当日に言った言葉を思いだした。
『ねぇ、やっぱさ、あの2人って怪しいよね』
(たしか、麻美がそんなこと言ってた……)
(興味ないって言ったけど)
(なんで、学校辞めてんのに2人でいんの?)
(怪しい……)
(麻美の言ってた通りだ……)
ひとみは、そこまで考えるとさっきから自分のことをずっと見ている中澤にほんの少し恐怖した。
(やばい、アタシ狙われてんじゃん)
気味が悪くなったひとみは、素早くその場を去ろうとした。
だが、もうすでに時遅く、向こうは名前など知らないだろうとたかをくくっていたが、名前つきで呼び止められてしまった。
立ち止まらざるをえなかった。
なんの用があるのかは分からないが、ゆっくりと振りかえったひとみの目に写る、
笑顔を浮かべてくる中澤の姿は”不気味”なお姐さんだった。
「おっす、よっさん。元気かぁ?」
(は? よっさん?)
「あ、ごめん。この呼び方、嫌やったな。ごめんごめん」
笑っている中澤を、ひとみはきょとんとした表情で見つめていた。
(何? 話すの初めてなのに……。こんなに馴れ馴れしかったっけ)
中澤の表情がほんの少し困惑したようになったが、ひとみはそれよりもさらに困惑していた。
ただ、それが顔に出る前に、矢口の悲鳴に驚いたのであった。
「ゆ、裕ちゃん!!」
矢口の悲鳴にも似た叫び声を聞き、中澤は慌てて振りかえった。
ひとみはつい数秒前に困惑した中澤の肩越しに、ベンチに座っている矢口の異変に気づいていた。
目を閉じて何かを夢想するような、ほんの少し危ない姿にひとみは薄気味の悪さのようなものを感じていたのであった。
それが突然、気を失うようにしてゆっくりと地面に転げ落ちた。何が起こったのか、ひとみにはまったくわからなかった。
矢口の元へと駆けつけた中澤が、まるで何かから矢口を守るようにしてその腕の中へと引き寄せる。
その姿を見たひとみは、ほんの少しだけ胸が高鳴った。随分、小さい頃に見た映画のワンシーンのようだったからである。
ひとみは、その様子をただ呆然と公園の出入り口で眺めていた。
2人がひとみを見ながら何かを喋っていたが、すぐに互いに見つめ合うようにして喋る姿を見ると、
ひとみはやっぱり薄気味の悪いものを感じ、逃げるようにしてその場を去った。
それから数日の間、ひとみは不思議な錯覚にとらわれていた。
脳の中に何かが入り込んできているような、そんな感じがする時が多々あったのだ――。
それは、日時や場所を選ばなかった。
ある日は、深夜の自分の部屋で。
ある日は、学園で授業中。
ある日は、電車の中で――。
その不思議な感覚は、まるでひとみの中の何かを探っているようだった。
数日前に、中澤と矢口にあってからその現象は起こり始めた。
(やっぱ、あの2人、変だよ……)
街をぶらつきながらそんな事を考えている今も、その奇妙な感覚は脳の中にある。
ひとみは思わず、ここが大勢の人が行き交う交差点の真ん中であるのも忘れて頭を大きく振ってみた。
(アタシの頭……)
(オカシクなったのかな……)
ひとみの不安は、いよいよピークに達しようとしていた。
『もうすでに、おかしくなってんだよ』
通りすぎる人々の中から、その声ははっきりとひとみの耳に入った。
ハッとして振りかえったが、どこの誰が発したのか見当もつかない。
ただ、ひとみに分かっていたのはその声を発したのが、自分と同じくらいの少女の声だったという事だけであった――。
ひとみはしばらくその場に佇んでいた。
不思議とその少女の声を聞いたのと同時に、ひとみの頭の中に蠢いていた奇妙な違和感はかき消されていた。
(……この感触)
(前にもどこかで……)
(……どこだったんだろう)
(……)
ひとみは記憶の糸を手繰り寄せてみたが、それを思い出す事はまったくできなかった。
つい1ヵ月前の記憶が、つい昨日までそれを覚えていた記憶が少女の声により消え失せたような感じだった。
(1ヵ月前って……、何してたんだっけ……)
脳の中に違和感を感じると、ひとみの中にある記憶が1つずつ消えていっていることに、
ようやくひとみ自身が気づいたのはそれからさらに数日が経過してからである。
ひとみは、わけのわからない恐怖に怯えていた。
(なんで……)
(なんで、なんにもわかんないんだよ……)
(1ヵ月……)
(2ヶ月前もわかんない……)
(なんで……)
その恐怖を打ち消すように、最近は普段まったく話しをしなくなった両親や弟たちに自分の身に起こった事を訊ねてみた。
両親や弟たちはそんなひとみの姿に驚いたが、自分たちの知り得る限りでのここ数ヶ月間のひとみの様子を話た。
「違う!! そんなんじゃない!! アタシ、そんなの知らない!!」
両親や弟たちの話すひとみの様子は、ひとみ自身にはまったく身に覚えがなく誰かもう1人の別人の話をされているようで、
ひとみの恐怖はさらに強まった。
パニックになったひとみは、部屋を飛びだした。両親の戸惑う目、弟たちの怯えた目からも逃げだしたく、家から飛びだしていった。
(違う!!)
(麻美は、交通事故なんかじゃない!!)
(アタシは、風邪なんかひいて入院してない!!)
(違う!!)
どのくらい走ったのだろうか、気がつくと閉店したショッピングモールの前まで来ていた。
通りすぎようとした時、おぼろげではあるがそこに誰かといた自分を思い出した。
しかし、それが誰かは分からない。だが、ひとみは”誰かといた”事だけはハッキリとわかっている。
(誰と……)
(麻美……?)
(違う……)
(他の誰か……)
”誰かといた”記憶のあるベンチへと向かうひとみ。
閉店してしばらく時間も経っているので誰もいないと思っていたが、そのベンチに誰かが座っている。
一瞬、身の危険も感じたが、白いワンピースにスニーカーといういでだちの少女だったので、そのままベンチへと向かって歩いた。
(何、やってんだろ? こんな時間に……)
ひとみは、散歩をしている人物を装ってベンチの前を通りすぎようとした。
いくらなんでも、こんな時間にわざわざその少女の隣に座るのは不自然だったからである。
通りすぎ様にチラリと見たその少女は、ただ一点を、表の通りを見つめていた――。
少女の前を通りすぎたひとみの背から、少女の声が聞こえてきた。
「失った記憶を、取り戻させてあげようか?」
ひとみは思わず足を止めて、少女に振りかえった。
少女はまだ、表の通りを見つめ続けている。
(記憶……)
(なんのこと……)
(アタシに言ったの……?)
「そう。あなたに言ったの。吉澤ひとみさん」
少女はそう言うと、表の通りを見つめたままニヤリと笑った。
(なんで……!)
(なんで、返事を)
(なんで、あたしの名前知ってんの)
ひとみは本能的に後ず去った。わからないが、ひとみの中にある何かの記憶が、自分をその少女から遠ざけようとしている。
しかし、ひとみ自身にはその行動の意味が分からない。ただ、身体が勝手に緊張しそしてゆっくりと後退しているのだった。
「ただの記憶喪失なら、病院でも治せるけどね」
「ど……、どういうこと……」
怯えるひとみを尻目に、少女はクスッと笑いゆっくりと立ちあがった。
ひとみは、その少女の横顔から目をそらす事ができなかった。
ヘビに睨まれ”ていないのに”カエルのような状態だった。
「色々と調べさせてもらった。けど、まだ完璧じゃない」
「な、何言ってんの? わけわかんないんだけど」
「すぐに、分かるようになるよ」
「はぁ? ……!!」
次の瞬間、ひとみの脳の中にあの奇妙な感触が蠢いた。
どのくらいの時間が経ったのか、ほんの一瞬のようでもあり、数分間のようでもあり、
数時間のような――ひとみは、意識を取り戻してもしばらく虚ろな表情をして、その場に立ち尽くしていた。
「どうですか、ご気分は」
ハッと我にかえったひとみの耳に、おどけた少女の声が聞こえた。
ベンチの前にいた少女を――、ひとみは思い出した。
福田明日香――、親友の麻美を気まぐれで殺した相手。
だが――、その姿はもう、ベンチの前にはなかった。
(違う……。福田明日香じゃない……)
そう。明日香がそこにいるはずはなかった。
ひとみは、石黒から明日香がなつみの炎により焼死したと聞かされていたのも、思い出していた。
(じゃあ……、今のは……)
辺りを懸命に見渡してみたが、少女の姿はもうどこにもない。
ただ、少女の立っていたところに、数枚の用紙がポツンと置かれていた。
Another Chapter−3
ひとみは、国会議事堂の前に立っていた。
委員会が開かれているらしく、中に入ることができずに柵越しに中を覗っていた。
昨夜、ショッピングモールに残されていた用紙にあった一文、
『国会議事堂の地下に、<Zetima>がある』
ひとみは少女の残したメッセージを信じて、翌日、学校に行くフリをしてその足で東京へと向かったのであった。
そこに、梨華がいる事は確実だった。
なぜなら、少女の残した用紙は能力を持った者を強引にスカウトしようとしていた<Zetima>に関する資料であり、
なおかつそこに書かれているのはまるでひとみのために用意されていたかのように梨華の詳細が書かれてあったのである。
梨華がひとみの記憶を消したこと――。
その後、関係人物にも同じ処置を加えたこと――。
矢口と中澤の捕獲に成功したこと――。
ありとあらゆることが、詳細な日記のように書き込まれていた。
少女がどんな意図があってこのようなものを残したのか、そして、なぜ自分の作られた記憶を修正したのか、
ひとみにはその真意はわからなかったが、どうしても梨華の口からすべてが聞きたくてこの場所に立っていた。
「なんで、こんな日に限って入れないんだよ〜」
ひとみは、肩を落としてその場を立ち去ろうとした。
(……は? 待てよ)
ひとみは足を止めて、もう1度中の様子を覗った。
(……見つからなきゃ、いいんだよね)
「よし」
と、辺りに誰もいないのを確認すると、鉄柵の縁に片足をかけた。
だが、さすがにそんなに簡単には進入できない。遠くで警笛が聞こえ、あわててその場を逃げだした。
「ハァ……、くそ……、石黒さんみたいに、広い情報網があればな……。石黒さん……?」
(そういや、石黒さんから連絡ない)
(そうだ)
ひとみは逃げ隠れた路地裏の隅から、石黒の携帯へと電話をする事にした。
しかし、何度かけても留守番電話センターに転送されるだけだった。
頭の中で蠢く奇妙な感覚……。
石黒は、それにもう何日も悩まされていた。それと同時に、自分の記憶があやふやになっている事に戸惑いも覚えていた。
数日前にクローゼットの中から、2人の少女の名前が書いてある数枚の用紙を見つけた。
その時は、昔の取材記録だろうと思ってあまり気にも止めなかったが、頭の中の奇妙な感覚が始まった翌日辺りから、
それが気になって仕方がなくなった。
「石川梨華……。安倍なつみ……」
2人の少女の名前、石黒にまったく記憶は無かったが、なぜか心のどこかでその2人に対して、いやもう1人の少女、
その少女に対しての罪悪感がある。
だが、その罪悪感に結びつく記憶が石黒には無かった。
「これを……、誰かに……、渡さずに隠した……。誰に……?」
石黒は、もう何分もクローゼットから取り出した用紙を見つめ続けていた。
「彩ちゃ……。彩ちゃん」
不意に誰かの声が耳に入り、彩はハッと我にかえった。
顔を上げると、目の前にアンパンマンのような婚約者――山田真矢の顔があった。
「どしたの、さっきから呼んでんのに」
「あ、うん。ちょっと、考え事」
「お腹の子のこと? だったら、心配いらないよ。何があっても、俺、2人の事ちゃんと大事にするから。
浮気もしないし、子育てもするし、家の事だって」
「ハハ。専業主夫にでもなつるつもり?」
「……彩ちゃんさえよかったら、それでもいいよ」
「え?」
「彩ちゃん、ホントは仕事に戻りたいんだろ? 何があって急に辞めたのかわからないけど、最近またなんか戻りたそうにしてるからさ」
梨華の手によってかき消された記憶――。
それにより、石黒が仕事を辞めた本当の理由もなくなっていた。
そこには上司とのトラブルにより、退職したという”作られた記憶”があった。
少女は、石黒の意識下に伸ばしていた触手を戻した。
――ひとみのように、すぐにその場で記憶を取り戻させる事はしなかった。ただ、ほんの少し手を加えた。
空白のままにしておき、自分自身で記憶を取り戻せるようにしたのである。
少女自身にも、石黒が記憶を取り戻すかどうかは分からない。
ただ、そのまま平凡な生き方を望めば、そう送れるようにだけしておいた。
物心もつかない幼い姉妹を捨てて、自分の夢を追いかけた”母”。
母になる石黒に、少女は見た事もない母親の姿を照らし合わせて、ほんの少し悪意が芽生えた。
石黒が自分自身で運命を選べるように――、少女は石黒の意識を操作して、その場を静かに立ち去った。
白いワンピースの少女がアパートの前から立ち去って数分後、石黒の携帯が鳴った。
しかし、誹謗・中傷・脅迫まがいの電話が多かったジャーナリスト時代の習性で、身に覚えのない人物から電話をとることはなかった。
――ひとみのメモリは、もう随分前に消されていた。
ひとみは、石黒への連絡をあきらめた。
いくら石黒とはいえ、国家に通じているとは思えなかったし、
少女の残した資料によると石黒もまたその記憶を作りかえられて平穏な日々を送っているらしい。
だとすると、もう危険な目にあわせたくない。
ひとみは、寂しさにも似たような気持ちで連絡をあきらめた――。
日が暮れて、もう1度議事堂の前を歩いてみたが、先ほどの進入未遂により警戒が一段と厳しくなっていた。
(すぐ側に、梨華ちゃんがいるのに……)
(梨華ちゃん……)
(……梨華ちゃん)
(梨華ちゃん!!)
心の中で何度も梨華の名を呼んだが、いつまで待っても梨華が現われるようなことはなかった。
仕方なく、ひとみは国会議事堂前を後にした――。
「ヨシザワ ヒトミ サン デスカ?」
自分の名前を呼ばれて車道を見ると、ジープに乗った黒人がガムを噛みながらニヤニヤと笑っていた。
(なんだ、この外人……)
(なんで、アタシの名前知ってんだよ)
ひとみは、梨華に会えないもどかしさで内心イライラしていた。
まったくの無視を決め込んで、そのまま歩いてやろうとした時、黒人の口から意外な名前が飛び出してきた。
「アル ジンブツ カラ ニモツ ヲ アズカッテマス。イシカワ サン ニ カンケイ スル コト デス」
(梨華ちゃん……)
ひとみが足を止めると、そのジープも停車した。路上駐車スペースもない道路、たちまち後ろに渋滞の列ができた。
鳴り響くクラクションの中、黒人は後ろの車に向かって中指を立てると、ひとみには笑顔を向けてこう言った。
「オノリ クダサイ レンシュウ アルノミデス」
「は?」
意味が分からずきょとんとしていたひとみだが、クラクションの嵐の中、ずっと立っているわけにもいかず、ほぼ反射的に車に乗り込んだ。
大渋滞を引き起こしたジープは、そんな事とはまるで関係のないように悠然としたスピードで走り出していった――。
それからわずか13分後、市井と後藤を乗せた車が国会議事堂の門から出て行った。
その車は渋滞にもあわず、スムーズに川崎方面へと車を走らせることができた。
夜の港には、まだ人の姿がチラホラと見えた。公園もあり、夜景も見える。そこは、申し分のないデートコースだった。
だが、ジープはそのデートコースには向かわず、貨物船すらも停泊していない港の外れへと向かって行った。
「ココカラ スコシ アルキマス」
ジープを下りた黒人が助手席のドアを開けようとしたが、ひとみはドアロックをした。
帆のないジープにそれはまったくの無駄な行為であったが、とっさにそうしてしまったのである。
「へ、変なことしたら、し、舌噛み切って死ぬからね!」
ひとみは今さらになって、1人で来たことを後悔した。こんな人気のないところで、屈強な黒人男性に襲われればひとたまりもない。
「シタ?」
「そうよ! 噛みきって死ぬからね」
「――Oh〜……、No〜……」
と、黒人は自分の股間を押さえてドアから後ずさりした。
「ち、違うよ!! 舌。ベロを噛むって言ったの!!」
ひとみは、顔を赤くしながら自分の舌を指さした。
自分の勘違いに気付いた黒人は、オーバーなアクションで声を上げてしばらく笑っていた。
それを見て、ひとみの不審も少しは和らいだ。
黒人もまた、ひとみに何か――いや、依頼した人物に何か恐れのようなものを抱いていると確信したからである。
自分の身に何かあれば、黒人の命も危険にさらされるのであろう――。それでも、警戒心だけは解かないようにしていた。
依頼者の真意は、今だに謎なのである。
しばらく、無言のまま2人は港の奥へと向かって細い道を歩いた。
小さいものから大きいものまで漁船のようなものがいくつか停泊していたが、
そのほとんどはもう何年も使われていないらしく朽ち果てかけていた。
黒人はその中の1艘に、軽く飛び乗って甲板の羽目板をはずした。
そこはもともと、漁で獲った魚を入れておく場所である。そこから、大きな袋を取りだして、ひとみに来るように手招きをした。
ひとみは、おっかなびっくり甲板へと飛び移った。
「コレヲ アナタニ ワタスヨウニ タノマレマシタ」
黒人が袋から取りだしたもの、それはロケットのようなものだったが、ひとみにはよくわからなかった。
「何? これ……」
「ロケットランチャー デス」
「は? ロケット?」
「イマカラ ツカイカタ ヲ セツメイ シマス」
「ちょ、ちょっと待ってよ、なんで、アタシが使い方覚えなきゃなんないの」
「――エーット デスネ リカ ヲ タスケタイナラ オボエロ」
「梨華ちゃん……?」
「ト イッテマシタ」
ひょっとしたら、未来視のできる矢口が頼んだのかもしれない――。
そう考えると、すべてが納得できるような気がした。
梨華の危険を未来視して、何らかの事情で自分はその場に向かえないが、その場に駆けつけることのできるひとみに救出を託す――。
あの”海響館”での出来事のように――。
(でもさ……)
少女の残した資料によると、矢口は施設内に軟禁状態になっており、監視員がいない限り外も自由に歩けないはずであった。
梨華の危機に駆けつけられないのはわかるが、黒人に依頼する時間があれば、直接梨華に危険を教えた方がいいのではないか。
ひとみは、そんな事をぼんやりと考えていた。
Another Chapter−4
矢口は、その広い部屋の中にぽつんとまるで人形のように座っていた。
昨日もそうしていたし、その前の日もそうしていた。きっと、その前の日もそうしていただろう。
だが、もう今は違っていた。わけの分からない興奮が全身を駆けめぐり、こうしておとなしくその時が来るのを待っていないと、
はしゃいで暴れまくり疲れてしまっては何もならないと考えたからであった。
数日前に見た未来視。後藤の殺意。市井らと出て行った中澤。未来視とよく似た状況。消えた中澤。
これらが重なり矢口自身が出した答えは、最悪の結末であった。
ここ数日、矢口は自身が作った暗黒の世界へと身を委ねていた。
だが、――梨華にも伝えたが、それはついさっき見た続きの未来視により、矢口は暗い孤独の世界から帰ってくることができたのである。
ホテルから脱出する自分。その横には、中澤もいた。
× × ×
<Zetima>施設内の一台の監視カメラに映っている映像は、異様な光景だった。
長い廊下に、スタッフが数人倒れ込み頭を抑えて悶え苦しんでいる。
警備員は、そのモニター画面を見て緊急警報のシグナルを発令した。
能力者たちが、その緊急シグナルを聞きつけて廊下に終結した。
居並ぶメンバー数人の顔を見て、侵入者である白いワンピースの少女は口元を歪めた。
「な、なんで、お前が……。ぐっ」
声を出した男が、頭を抑えてその場に倒れた。
側にいた数人のPKが能力を発動しようとしたが、皆、少女の触手により、その能力を封じ込まれている。
ESP部隊のガードも少女の力には遠く及ばず、ことごとく触手の進入を許して破れた。
少女は悠然と、その長い廊下を歩いて行った――。
梨華はもうホテルについたのか、それともまだホテルへ向かう途中なのか、
もうすぐすれば自分もどんな形かは分からないがそこに合流できる。そう考えていると、矢口の顔は自然とほころんでいた。
そんな時に突然、ベルのようなものが廊下に鳴り響き、矢口の心臓は止まりそうになった。
すぐ前の廊下で、何人かの男女の悲鳴が聞こえた。
「な、なに〜……。なんなの〜……」
矢口はドアを開けて廊下を見ようと駆け寄ったが、外側から鍵がかけられていて開かない。
「ちょっと〜……」
しばらく、ドアノブを回していると不意にドアが開き、顔面蒼白となった男が倒れ込んできた。
――矢口の悲鳴が、辺りにこだました。
そんな矢口の前を、耳を指で押さえた少女が通りすぎた。
顔はその腕でよく見えなかったが、その少女はかすかに笑っているようだった。
我にかえった矢口が、廊下に出てみると至る所で<Zetima>のスタッフが倒れていた。
とっさに、矢口はあの少女が歩いて行った方向を振りかえる。
白いワンピースにスニーカーを履いた少女は、ちょうど廊下を曲がるところだった。
「うそ……」
矢口は、その少女の横顔を見て鳥肌が立った。脱出のチャンスなのだろうが、一瞬、それはチャンスではないような悪い気もしていた。
夜の海に向けて放ったロケットは、ひとみの想像していたような音とは違うもっと乾いた音を出して飛んで行き、
10メートルほど離れた無人の船を木っ端微塵に破壊した。
黒人は、親指を立てて笑いころげた。3回の練習で、ひとみはもうすっかり使い方を覚えてしまった。
そして、また黒人の運転するジープに乗って、来た道を戻っていった。
ジープの停まった場所は、ある高級ホテルの前だった。ひとみには、そこがどこなのかまったく見当もつかない。
「ここ、どこ……?」
運転席の黒人は、ひとみの質問には答えずガムを噛みながら、ホテルを見上げていた。
「あの……」
「25カイ アノ フロア デス」
と、ホテルの上の方を指さした。
「は?」
ひとみも見上げたが、黒人がロケットランチャーの入った袋をおもむろに渡してきたので数える暇がなかった。
「え? ちょっと」
ひとみは、黒人に抱きかかえられるようにして車を下ろされた。
運転席に戻った黒人は、車道の脇できょとんとしているひとみに親指を立て、「シゴト ココマデ Good Lack!」と言うとジープを走らせた。
「ちょ、ちょっと……、え〜!?」
ひとみは、大きな袋を抱えたまま呆然とその場に立ち尽くした。
振りかえると、巨大なホテルが見える。その25階に何が行われているのか分からないが、梨華の身に何か危険が及んでいる。
まだハッキリと信じられたわけではないが、とりあえずひとみはホテルへと向かって重い大きなロケットランチャー入りの袋を抱えて走った。
<Zetima>の能力者が潜んでいるのを警戒して、ひとみは別の事を考えながらフロントの前を通りすぎようとした。
「あの、失礼ですがお客様」
と、ホテルマンらしき人物が声をかけてきた。
(やっぱり……。どう見ても怪しいよ)
ひとみは、顔を伏せたままどう言い訳しようかと考えていた。咄嗟に出てきたのが、その昔、家族でキャンプに行った思い出だった。
ロケットランチャーの入った袋を見たとき、一瞬、テントでも入っているのかとひとみは港で思ったのである――。
「あの、お父さんに頼まれまして」
もうどうにでもなれといった感じで、ひとみはとりあえずその言い訳でこの場を切りぬけようとした。
「あの、うちのお父さん高山植物のカメラマンをしてまして。それで、普段は山でテントなんか張って暮らしてるんです。
でも、そのテントが古くなって、それでその替わりを届けに来たんです」
自分でも何を言っているのか、わからなかった。テントとホテルがどう関係あるのか、
もっと別の言い訳を考えれば良かったと後悔するひとみであった。
――だが、ホテルマンは不審な顔をする事なく、笑顔を浮かべた。
「ひょっとして、和田薫さんのお嬢様ですか」
「は……?」
(和田薫……)
(なんか、聞いた事ある……)
「高山植物の写真家の、違いますか?」
(そうだ! 梨華ちゃんと行った写真展の!)
「はいっ、そうです。薫の娘のひとみです」
咄嗟に出した言い訳、咄嗟に出した”高山植物カメラマン”、ひとみの記憶が戻っていなければ、
ひとみはここを通過できる事はなかっただろう。――もっとも、記憶がなければここを訪れる事もなかった。
ホテルの客室は、23階までであった。エレベーターは、そこまでしか進まない。
どこか他に、25階にまで直通するエレベーターを探したが、どこにも見当たらなかった。
それらしい柱はあったが、ドアもなく、上に通じる階段すらなかった。
「今度は……、もうッ」
ひとみは、この場でロケットを撃ちたい衝動に駆られた。
梨華の身に何かが起こっているのだとしたら、一刻も早く25階に到着したいが、足止めを食わされてかなり苛ついていた。
柱に耳を当てると、そこはやっぱり中にエレベーターが通っているらしく、エレベーターが上昇していった振動をかすかに聞く事ができた。
ひとみは小さく舌打ちをして、もう1度、1階に戻って直通のエレベーターを探す事にした。
エレベーターが1階につき、ドアが開くとそこに見覚えのある顔があった。
「よっすぃ……」
息を切らせている矢口が、驚いた顔をしてひとみを見ていた。が、きょとんとしたひとみの顔を見ると戸惑いのような表情を浮かべた。
「そっか……、覚えてないんだよね」
と、小さく呟くと、ひとみの脇をすりぬけてエレベーターへとのり込んできた。
「矢口さん……、なんでここにいるんですか?」
「あ……、そっか、名前と顔は知ってるんだった」
「え?」
「あ、ううん。ちょっとね」
「1人で出歩けるんなら、なんで梨華ちゃんに教えてあげなかったんですかっ」
「……?」
今度は、矢口がきょとんとした顔でひとみを見上げた。
「へ? よっすぃ〜、今、梨華ちゃんって言った」
「言いましたよ。梨華ちゃんが危ないんでしょ」
「梨華ちゃんって――、言った」
「ちょ、ちょっと」
「梨華ちゃんって言った。よっすぃだ。よっすぃ〜だ」
「あ、矢口さん、やめてください。危ないんですって」
矢口は泣きながらそして笑顔で、ひとみに抱きついて離れようとしなかった。
興奮する矢口をロビーの隅へと連れだして、ひとみは手短にこれまでの事を説明した。
矢口の顔が一瞬、小さく「やっぱり……」と呟いたが、聞き流した。それよりも早く梨華を救出したかったのである。
「早くしないと、梨華ちゃんが危ないんです」
ひとみはそう言っている時間ももどかしいといった感じで、辺りを落ちつきなく見渡す。
(どこ……)
(どこだよ……、エレベーター)
「よっすぃは、肝心な事忘れてるね」
「なんですか?」
と、語尾を荒げて、辺りを見まわすひとみ。
「前にも言ったでしょ。未来は変わらないって」
落ちつきなく辺りを見まわしていたひとみの頭が、フッと止まった。
「矢口は見てる。みんなが無事に逃げれるところ」
「……ホントですか?」
「よっすぃ、よ〜く思い出して。エレベーターの柱は、フロアのどの辺にあった?」
「どの辺って……」
ひとみは、柱のあった位置を1階で探した。ゆっくりと目で追ったその先は、フロントの奥の方であった。
「あんなとこ……、どうやって通れって言うんですか」
ひとみは泣きそうな顔で、矢口に詰め寄った。
「強行突破、やるべしだよ」
と、ガッツポーズをして見せた。
「やるべしって、そんな、捕まったらだいなしじゃないですか」
「だって、捕まらないもん」
「あ……、でも、強行突破してない未来かも」
「じゃあ、よっすぃは何かいい方法でもあんの?」
矢口が腕を組み口を尖らせて、ひとみを見上げる。
(やっぱり、”ミニモくん”に似てる……)
(違う。今は、そんな場合じゃない)
顔を背けたひとみの目に飛び込んできたのが、”水槽”だった。
(水槽……)
(そう言えば、あの時……)
「行きましょう! 矢口さん!」
ひとみは、矢口の手をとるとそのままロビーを駆けて外へと出て行った。
”従業員専用通用口”と書かれたドアを開けて、ひとみは割合、堂々と中へと入っていった。
なぜならば、就業時間中はスタッフは所定の位置に出向いているため、
遭遇する確率が少ないのを以前の”海響館”で知っていたからである。
あの日も、結局、行きも帰りも従業員と出会う事はなかったので、今回も大丈夫だろうと考えた。
ひとみの予想通り、廊下はひっそりと静まり返っていて、あの25階に直通するエレベーターに乗り込むまで、誰一人として出会わなかった。
上昇するエレベーターの中で、矢口がひとみが持っている大きな袋に気づいた。
「ねぇ、よっすぃ。さっきから気になってたんだけどさ、それ、なに?」
「あ、そうだ。これ、どこで使えばいいですか?」
「……どこって?」
「……え? 矢口さんが頼んだんじゃないんですか?」
お互い、顔を見合わせてしばらく無言の時を過ごした。
「ちょっと、待って下さいよ……。梨華ちゃんが危ないんですよね」
「たぶん」
「たぶんってなんですか〜……。誰もいなかったら、どうするんです。こんなの持ってたら、捕まっちゃいますよ」
「中で何が起こってるのか、矢口は見てない。でも、そこから逃げ出した裕ちゃんから事情を聞いて知ってるんだ」
「……市井って言う人と後藤真希が、逃がしたんじゃないんですか?」
ひとみが読んだ資料によると、そうなっていた。
「2人が?」
「ええ。後藤真希の力を使って、監視人たちの目をくらました……って」
「そう……。じゃあ、逃げたところで捕まっちゃったんだ……」
「だったら、やっぱり危ないじゃないですか。会長を裏切ったことが、バレてるってことですよ」
「だから、言ってんじゃん」
「もうっ」
ひとみは、エレベーターの表示パネルをまだかまだかと見上げた。
エレベーターのドアが開くと、いきなり数人の男が待ち構えていた。
面食らったひとみと矢口は、思考も停止してしまうほど驚いた。
ひとみの作戦が成功したのではなく、彼らは侵入者がここまで来るのを待っていたのである。
「矢口さん……」
「ヤバイよね……」
1人の男が、ひとみらの元へと歩み寄ってきた。
「こんなところに、なんの用だ」
どうやら矢口の事は知っているらしく、ひとみの方を警戒しているらしい。
ことさら、ひとみが抱える大きな袋に注意を払っているようだった。
「つんくさんに……、呼ばれて……」
矢口は、小さな声で呟くように言った。
「――ちょっと、待ってろ」
と、男が去っていくのを見ると、矢口は確信した。
「よっすぃ……、コイツら、力持ってない」
「え……?」
「わざわざ聞きに行かなくても、意識読み取ればいいじゃん。しないって事は――」
矢口はそう言い残すと、エレベーターを出ていった。どうやら、男たちの注意を自分に引きつけようとしているらしい。
ひとみは、袋のチャックを開けながら矢口や男らとは反対方向に何気なく歩いて行った。
チラリと横目で矢口を覗うと、矢口は何やら男たちと話し合っていた。”<Zetima>の未来”云々と言う話がひとみの耳に届いてきたが、
それは矢口が場を繋ぐための適当な言い訳だという事はわかっていた。
男たちから見えないように素早く背中を向け、ひとみはロケットの装填をした。
(……いいのかな)
ひとみの中に罪悪感が芽生えたが、このフロアのどこかにいる梨華や中澤のことを考えると、
そう奇麗事ばかりは言っていられないという結論に落ちついた。
「おい、そこ。何してるんだ」
背後から男の声が聞こえ、ひとみはランチャーを構えたまま振りかえった。
こちらに向かってきていた男が、呆然として立ち止まった。
その向こうに控えている男たちも呆気にとられている。
「矢口さん」
ひとみは、男たちと同じように呆気にとられている矢口に声をかけた。
「あ……、ハハ、よっすぃ」
我にかえった矢口は、笑みを浮かべるとひとみへと向かって駆け出してきた。
男たちをけん制しながら、ひとみは矢口を自分の元へと引きよせた。
「そのまま、下がっててください」
「よっすぃ、カッチョイイ」
「危ないから、早く」
「あ、はい」
と、矢口はひとみから少し離れた柱の影に身をかくした。
男たちの後ろ数メートルほどに頑丈な扉があるのを、ひとみは目ざとく見つけていた。
そして、その向こうに梨華たちが捕らえられているのだろうと推測した。
「危ないから、どいてよ! 知らないよ、当っても!」
ひとみはそのまま腰を落として、ロケットを放った。ヒューンという乾いた音を立て、10メートル程の廊下を一直線に飛んでいった。
爆発の衝撃で、扉の近くにいた男たちが吹き飛んだ。
「よっすぃ!!」
興奮した矢口の声が後ろから聞こえてきたが、ひとみはもう次のロケットを冷静にかつ素早く装填していた。
2発目は扉から大きく逸れて、右横の壁を直撃した。壁の一部が崩れ落ち、辺りには砂煙が舞った。
ひとみは素早く装填を終えると、続けざまに3発目を放った。
1発目の衝撃により、崩れかけていた扉が吹き飛んだ。
「矢口さん!! そこで待っててください!!」
ひとみはロケットを投げ捨てると、そう叫びながら扉へと向かって走っていった。ほとんど何も考えていなかった。
ただ、その向こうに梨華がいると思うと、身体は勝手に砂煙の舞う扉へと駆けて行っていた。
ひとみが走った数秒後、いきなり扉から数メートル離れた壁が吹き飛んだ。
一瞬、矢口がロケットを放ったのかと思ったが、壁は内部から吹き飛びそのまま廊下向こうの外壁すらも吹き飛ばしフロアに風穴を開けた。
ロケットの威力など比ではない。
それでも、ひとみは足を止めなかった。ただひたすら走り、砂煙をかき分けて扉へと向かった。
こちらへと向かって駆けてくる複数の足音が聞こえた――。
そして、砂煙の向こうにひとみが待ち望んだシルエットが映えた。
(良かった、梨華ちゃん……)
(生きてた)
(梨華ちゃん!)
砂煙の向こうのシルエットも、ひとみに気づいたらしく足を止めた。
ひとみの顔に、自然と笑みが浮かんだ。
「迎えにきたよ、お姫様」
咄嗟に出た言葉。ひとみは意識していなかった。ただ、いつかの夜を思い出していた。
砂埃がはれた向こうに、顔をクシャクシャにして泣いている石川梨華が立ちつくしていた――。
第4部
chapter−1<漂流>
一台のワゴン車が、定員ギリギリの8人の娘たちを乗せてあてもなく深夜の高速道路を北へと向けて走っていた。
「それにしても、逃亡者はなんで北に向かうんやろなぁ」
ワゴン車を運転している中澤が、ルームミラーを覗きこみながら言った。
「ちょっと、裕ちゃん。ちゃんと前見て運転してよ。危ないじゃん」
助手席の矢口が、ハラハラして声をかける。
「ええって。事故っても、紗耶香がおるもん。なー」
先ほどから上機嫌の中澤とは裏腹に、ジッと冷めた目で外を見つづける市井が後部座席にいる。
ホテルから逃亡後、中澤の傷を治してからほとんど言葉を発していない。
一応、話は聞いているみたいだったが何を考えているのかは、その場にいる全員が誰一人としてわからなかった。
保田も後藤も、何かを訊ねたそうにしているが、タイミングを掴めないでいるらしい。
一方、ワゴン車の最後部座席の3人。加護は、力を使って疲れているのか、もう30分ほど前に眠ってしまっている。
ひとみと梨華は眠っている加護を間に、やはり気まずそうな雰囲気を発していた。
「り、梨華ちゃん……」
どうせ、考えていることはすべて梨華に筒抜けになっているはず。ひとみは思いきって声をかけてみた。
先ほどからずっとうつむき加減だった梨華が、ビクンと身体を小さく振るわせた。
「別に……、怒ってないから……」
「……」
「アタシのためを思って、そうしてくれたのはわかってるし……」
「……グスッ」
ひとみは、あわてて梨華の方を見た。梨華が、うつむいて泣いている。
「り、梨華ちゃん」
ひとみはその姿を見て、狼狽した。前の席の保田が、なんとなく後ろに注意を向けているのがわかりさらに狼狽した。
「なんやー、よっさん。泣かしてんのかー?」
運転席の中澤が、さも楽しげに声をかけてきた。それにより、他のメンバーがひとみたちに注目した。
「ち、違いますよ」
ひとみが呟くようにそう言うと、後藤が身を乗りだすようにして梨華の顔を覗きこむ。ひとみは、反射的に身をひいた。
それを見た後藤は、一瞬、寂しげな表情を浮かべたが、
またいつものように何を考えているのかわからないような顔をして前へと向き直ってしまった。
車内に重苦しく流れる空気を一掃しようと考えたのか、中澤がカーラジオをつけた。
――ひとみらがホテルを脱出した数分後、つんくはデスクの下にある隠し部屋から出てきた。
その額には大粒の汗が浮かび、心なしか顔色も悪くなっているようである。
だが、すぐにデスクの上にある受話器を手にとり、24階にあるスタッフルームへと電話をした。
「――ああ、オレや。どやった? ――そうか、ああ、わかった」
受話器を戻すと、つんくは隣の部屋に転がっている屍に目をやった。
ほぼ原形をとどめていないそれらの肉片は後藤が――。
四肢がすべて吹き飛び壊れたマネキン人形のような屍体は加護が――。
程度こそ違えどその場にいたのは、すべて能力者たちである。
しかし、後藤たちに何の傷を与えることもできずに、一瞬にしてこのような無残な姿と変わり果てた。
「あいつら、ホンマに化け物やで……」
つんくは、それらの屍体から目を背けて扉のあった方向へと歩き始めた。
そして、そこにあるはずべきの壁がなくなり、自分と同じ目線の高さに夜の闇が広がっていることに、背筋がゾッと冷たくなった。
「後藤か……」
吹きすさぶ風に目を細めながら、つんくはエレベーターへと向かって歩いて行った。
山の麓にあるドライブインに、ワゴン車は止まっていた。
もうすでに3時間以上も続けて運転していた中澤が、腰が痛いとの事で休憩を申し出たのである。
眠っている加護を残して、全員は車の外へと降り立った。
山の麓のせいか夜風は思った以上に冷たく、中澤はしきりに両腕をさすっていた。
「メッチャ、寒いわ。どないなってんこれ。――矢口ィ、あっためて」
と、隣を歩いていた矢口に抱きついた。
「やめろよ、アホ〜」
「ええやないの」
「ちょっと、よっすぃ助けて」
助けを求められたひとみは、軽く笑顔を向けるとそのまま梨華と一緒に歩いて行った。
ひとみは、ほんの少し先を歩く梨華を見つめていた。何度も心の中で呼びかけてはいるが、一向に振り向く気配はなかった。
一方、市井・後藤・保田らは車内の重苦しい雰囲気を引きずったまま、車の側に佇んでいた。
「つんくを生かしておいたのは、まずかったね」
保田が誰にいうでもなく、ボソッとつぶやいた。
「ウチラのこと、消しに来るかな?」
後藤が夜空を見上げながら、どうでもいいような風につぶやいた。
「もともと、そのつもりだったからね」
「ふーん。でもいいや。来たら、アタシが相手するよ」
「ご……」
真希は、もう興味が無くなったと言わんばかりに、軽い足取りで近くにある自動販売機へと駆けていった。
保田は軽いため息を吐いた。後藤の自信が何よりも頼もしかったが、その自信がいつか”隙”にならないかと心配もしていた。
中澤・市井らと少し離れた道路側の生垣近くまで来て、梨華はようやく足を止めた。
おのずと、後をついて歩いていたひとみの足も止まる。しかし、互いに話す言葉が見つからないらしく、しばらく無言の間が流れた。
「あのさ、梨華ちゃん」
ひとみは、もじもじとした少年のように頭を掻きながら佇んでいる。
「……」
その声に反応して、梨華が伏せていた顔をほんの少し上げた。
上目づかいの梨華は、同性のひとみすらもドキッとさせるほどキュートだった。
(かわいい……)
その考えが梨華に届いたのか、梨華はハッとすると慌てて背中を向けた。
「いいよ、そのままで」
(振り向かなくていいから、そのまま聞いてくれる?)
ひとみの心の問いかけに、背中を向けた梨華がこくりとうなずいた。
「梨華ちゃんに出逢うまでのアタシってさ、自分でも嫌になるぐらい冷めた性格だったんだ。ホントは、みんなと仲良くしたかった。
でも、なんかそのやり方がわかんないって言うか……。
見た目もほら、こんなじゃん。だから、誰も気軽に声なんかかけてきてくれないし……」
「……?」
梨華が、振り向く。
「自分でもわけわかんないんだけど……。梨華ちゃんの持ってるその能力って、アタシの考えてる事って言葉にしなくてもわかる訳じゃん。
だから、見た目とか態度とかで強がってても、ぜんぜんムダで。――あー……、アタシ、何言ってんだろ」
と、ひとみはボリボリと頭をかきむしった。
それを見た梨華が、クスッと笑った。
「笑った」
「……?」
「だって、久しぶりに会ったんだよ。笑顔で飛び込んできてくれると思うじゃん。それなのに、梨華ちゃんさ。
ずっと泣いたまま、動こうとしないんだもん。なんか、こっちが恥ずかしくなったよ。あんな、ヤバイ場所でこーやって手なんか広げて」
梨華はホテルでの出来事を思い出して、またクスッと笑った。
「――たぶん、いつも心のどこかで本当の吉澤ひとみを出したいって、願ってたのかもしれない。
でも、その方法を知らなくて、いつも他人が自分をわかってくれないって僻んでたり、自分が輪の中に入れないのを妬んだりしてた」
寂しそうな笑顔を浮かべて喋るひとみに、梨華はマンションの前で感じ取たひとみの孤独感を思い出していた。
「きっと、梨華ちゃんから近寄って来てくれなかったら……っていうか、梨華ちゃんはアタシが友達を亡くして寂しそうにしてたの分かって、
同情してくれたんだよね」
「違う。同情じゃない。私も一緒だったから、寂しかったから……」
「そっか……」
梨華が、目を伏せたままうなずいた。
「――じゃあ、マジで気にしないでよ」
「……?」
「あんな自分には、戻りたくないんだ。ずっと、吉澤ひとみのままでいさせてよ」
「……」
「でさ、梨華ちゃんも。石川梨華でいて。わがままでいいから、梨華ちゃんが望む限りこれから先何があっても、
吉澤ひとみは梨華ちゃんと一緒にいる。吉澤ひとみは、これからもずっと石川梨華と一緒にいたいって望んでるから」
「ひとみちゃん……」
梨華の目に涙が浮かび始めたのを見ると、ひとみはクスッと笑って梨華へと歩みよった。
「また、友達でいてね」
ひとみは梨華の身体をそっと抱き寄せると、その腕の中で優しく包み込んだ。
ひとみの腕に抱かれた梨華は、ひとみの胸に顔を埋めて子供のように泣きじゃくった。
張り詰めていた何かが、フッと切れたような感じだった――。
「イェ〜イ!! ポッポー〜!!」
前日にしっかりと十分に睡眠をとった加護は、大はしゃぎで窓外を流れる景色に向かって叫んでいた。
ドライブインでほんの1時間ほど休憩をとっただけで昨日からずっと、
車を運転している中澤は加護のその異様なテンションに怒りも忘れてただただ疲れ果てるだけだった。
「もぅ、加護、うるさい」
助手席で眠っていた矢口が、眠そうに片目を開けて後ろの席を覗いた。
加護本人は窓を開けて顔を出しているので、聞こえていないらしい。しきりに、「スゴイ」「わぁ〜」と意味なき奇声を発しつづけていた。
わざわざ大声を出して怒鳴るほどの気力もなかったので、矢口はそのまま耳をふさいで眠る事にした。
(矢口さんはいいよ……)
(アタシなんて、すぐ真横……)
ひとみも、仮眠をとっている最中だった。しかし、加護に揺り起こされて、ムリヤリ席を替わらされた挙句に、
さきほどからの奇声を真横で聞いているので眠る事もできずに悶々としていた。
それでも、昨日会ったばかりなので注意する事もできず、目を閉じて我慢をしていた。
「あいぼん、もういいでしょ。寒いから、窓閉めて」
ひとみは目を閉じたまま、梨華の声を聞いていた。
ひょっとしたら、加護を迷惑に思っている自分の意識を読みとって注意しているのかもしれないとひとみは考えたが、
車内には中澤が<Zetima>の追跡を警戒して能力を無効にする小さな結界のようなものを張り巡らせているのを思い出した。
「なぁ、梨華ちゃんも叫んでみぃ。メッチャ、おもろいで」
「ねぇ、もういいから閉めて」
(あ……、あれは梨華ちゃんが怒ってる時の声だ)
ひとみは、心の中で苦笑した。加護に見つからぬよう、寝返りをうつフリをしてチラリと梨華の様子をうかがった。
梨華は目を閉じたまま、加護に注意をしていた。
「梨華ちゃん、ナゾナゾしよう」
「もう、いいから」
梨華がひとみのほうに、寝返りをうってきた。2人の顔は、互いの息遣いが感じられるほど接近した。
(ちょっと……、梨華ちゃん近すぎ)
ひとみは、もう1度寝返りをうとうとしたがそう何度も寝返りをしていると加護に怪しまれて、眠る時間もなくなると思い、
そのままの距離で耐える事にした。
――いつの間にか、ひとみはぐっすりと眠っていたらしい。気がつくと、車内には眠っている中澤と2人っきりになっていた。
(あれ……?)
ひとみは、眠気まなこをこすりながら辺りを見まわした。
車は、湖畔の近くに停車していて、もうすでに夕方になっており、水面にはその夕日がまぶしいほどに反射している。
ひとみは眠っている中澤を起こさないよう、静かに車を下りた。
辺りを見渡してみたが、梨華たちの姿はどこにもなかった。
(まさか、また梨華ちゃん……)
(ううん。ずっと側にいるって言った)
(戻るはずがない)
(でも……)
不安にかられたひとみは、なおも辺りを見渡した。数メートル先に、閉鎖されているのだろう。朽ち果てたコテージ風の建物があった。
その中に自分の方を指さしている加護の姿を見つけることができ、ひとみはホッと胸を撫で下ろした。
「よっすぃ、こっちやでー」
窓を開けた加護が、大声でひとみを呼び寄せる。
(よっすぃって……)
(まぁ、いいけど……)
ひとみは、コテージらしき建物へと向かって歩き始めた。
そこはやはり、コテージだった。コテージの中はその朽ち果てた外観とは違い、わりと綺麗な状態のまま保存されていた。
どのような経緯で閉鎖され放置されているのかわからないが、ほとんど明日からでも営業再開できるような雰囲気であった。
ひとみが、吹き抜けのロビーを見上げていると2階から矢口が顔を覗かせた。
「お、よっすぃ〜。よく眠れた?」
「あ、はい」
「裕ちゃんは?」
「あ、まだ寝てました……。あの」
「ん?」
「梨華ちゃんは……」
ひとみが訊ねると、矢口は意味ありげにクスクスと笑った。
「よっすぃは、ホント梨華ちゃんっ子だね」
ひとみは、「矢口さんだって」という言葉を飲み込みこんだ。
「梨華ちゃ〜ん。ダ〜リンが呼んでるよ」
矢口が、2階の奥へと向かって梨華を呼んだ。
「ちょっと、矢口さん」
慌てるひとみの顔は、ほんの少し赤くなっていた。しばらくして、奥から白いシーツを抱えた梨華が廊下にやってきた。
吹き抜けのロビーの上と下で、矢口のからかいに顔を真っ赤にしてうつむく二人であった――。
夕食はここに来る途中で買い揃えた、コンビニの弁当だった。
まる1日、食事らしい食事もしていなかったので、その量は女性8人にしても多すぎるほどの量である。
もっともその大半を食べたのは、若い加護であり後藤であり吉澤だった。
梨華はもともと食が細いので、普通の1食分程度の量で食事を終えた。
市井は、ほとんど食事には手をつけなかった。
食事も終わり何もすることがなくなった8人は、それぞれの場所でまどろんでいた。
誰も口にはしなかったが、ここがしばらく生活の場になる事は理解していた。
窓際で月を照らす湖面を見つめていたひとみは、これからの生活の事をぼんやりと考えていた。
家族のことが心配ではあったが、連絡をすればよけいに双方に危険度が増す。それだけは、どうしても避けたかった。
そんな事をぼんやりと考えているひとみの耳に、中澤の声が届いた。
「明日香が!」
「ちょ、裕ちゃん」
中澤の声に、全員が注目した。
市井と後藤は、出入り口近くのテーブルから。保田は読んでいる雑誌から顔を上げた。
ロビー中央の階段に座っていた梨華と加護も――中澤と矢口のいる中央テーブルに注目した。
「明日香がゼティマにおったって、どういうことやねん」
ビールの酔いも程よく回っているはずだったが、中澤の口調はハッキリとしている。
「違うよ。らしい人を見たって言ったんだよ」
「当たり前や。明日香は、死んでんねんで。そうやろ、石川」
梨華は大きくうなずこうとしたが、ハッとして市井へと視線を向けた。
「まさか……、市井さん……」
”あの現場”に市井と後藤が、向かってきていたのを思い出した。
「なんや、紗耶……」
中澤も言葉をなくした。中澤は梨華から事情を聞いていた。
しかし、去る間際に”死に逝く明日香の意識を感じ取りたくないのでガードを張ってその場を立ち去った”とも聞いていた。
いくら紗耶香の力でも”死んだ者”は生き返らせない。しかし、瀕死の状態ならば、”死”のほんの1秒前ならば――。
「紗耶香……、アンタ、まさか……」
市井は何も答えずに、窓外へと視線を向けた。かわりに口を開いたのは、後藤だった。
「いちーちゃんは、あんな福ちゃんでも……、仲間を死なせたくなかったんだよ」
「じゃあ、吉澤の記憶を取りもどさせたんも……」
ひとみの脳裏に、ぼやけていたショッピングモールでの少女の横顔が鮮明になった。
(やっぱり……、そうだったんだ……)
「今のゼティマには、石川以外、意識下に深く入り込める人間はいない。ましてや消した記憶を戻す人間なんて。
いるとすれば、明日香だけ」
市井の言葉に、全員の背筋に冷たいものが走った。
「何のために……。明日香はよっさんの記憶取り戻させたんや……。何のために、ウチラのこと助けるように仕向けたんや……」
明日香の真意は、誰にもわからなかった。
ただ、ずっと黙ってうつむいていた梨華だけには、なぜか不思議と以前のような恐怖感はなかった。
意識の最下層にあるものを知り、そして最後の言葉を聞いた梨華には、明日香が以前のような邪悪な存在とは思えなかった。
だが、あれから数ヶ月間、そして今も息をひそめるようにして誰にもその存在を知らしめることなく、
ひそかに動いている事だけは不気味ではあった。
「ねぇ、梨華ちゃん……」
隣のベッドに寝ているひとみが、小さな声で梨華に話かけた。
8人はそれぞれ2人1組で個室を与えられているので、そこまで小さな声で話をする必要はなかったが、
それでもひとみはなぜか小声を発しつづけた。
「アタシさ、前ほど真希ちゃん……、ごっちんのことが怖くなくなった」
梨華は、ひとみの方に身体を向けた。
「ごっちんが、公園で力を使ったのは覚えてる。そこで、子供たちが死んじゃったのも覚えてる。でも、ハッキリとはわからない」
「……」
ひとみの意識の最下層に封印していた光景は、凄まじい惨劇だったのを梨華は覚えている。
そして、それを1度リセットしたのも自分である。それを直したというのであれば、あの惨劇はひとみの中に完全に甦るはずであった。
それが中途半端に戻っていると言う事は、明日香があらためてひとみの記憶に手を加えたはずである。
梨華は、確信した。明日香が、以前とは違っている事を――。
「やっぱり……、感謝しなきゃいけないのかな、アイツに……」
友達の麻美を気まぐれで殺されたひとみは、複雑な心境であった。
「でもさ……、アイツが生きてるんなら、安倍さんも罪の意識を感じる事ないんじゃないかな……」
ひとみが何気なく口にした言葉を聞いて、梨華はハッとした。
「安倍さん……。安倍さんまだ捕まったまんまだよ」
「ゼティマとか言う建物の中?」
「違う。なんか、病院みたいなところだって」
「病院? あぁ――なんか、アイツが残していった紙に書いてあった」
「中澤さんに相談してくる」
と、言い残すと梨華はあわてて部屋を出ていった。
「ちょ、ちょっと……」
残されたひとみは、急に不安になった。
梨華となつみ、2人がしばらく一緒に暮らしていた事も明日香の残した資料に書かれてあったが、
その当時のことは明日香にも分からないのであろう。あまり詳しいことは書かれていなかった。
もしも、そこにひとみが思っている以上になつみと梨華に強い絆があったとしたならば――、
ひとみの胸に意味の分からない不安が渦巻いた。
――数分後。中澤の召集が、深夜の湖畔に響きわたった。
Chapter−2 <塀の中>
うっそうと生い茂った木々の中に、その要塞はあった。
要塞――、<Zetima>の所有する能力者専門の精神医療施設は、
高い外壁に覆われて外からは一見するとその建物がなんなのかがわからないようになっていた。
広大な敷地内の中央に位置する中央病棟。その脇に位置するのが、まるで塔のように上に細長く伸びた特別病棟。
どの病棟にも、窓らしい窓はなかった。
中央病棟のロビーに、1人の少女がいた。かわいい熊がプリントされたパジャマを着て、ソファに座って食い入るようにテレビを見ていた。
ブラウン管の中には少女と同じぐらいの年齢だろうか、アイドルグループがクイズに挑戦していた。
「辻希美、自由時間は終わりだ」
ロビーの向こうからヘッドギアをつけた監視員が声をかけると、希美は逆らう様子も見せずにすぐにテレビの電源を消した。
10センチ四方の小さな窓1つしかない部屋に戻った希美は、監視カメラの真下にちょこんと座り込み、消灯時間が来るのを待っていた。
が、突然何かを思い出したかのように、希美は急に立ちあがると机からアルミ製の筆箱をとり、素早くまた監視カメラの下へと座った。
そして、筆箱を握りしめると隣の部屋とを隔てている分厚い特別製のコンクリート壁を3度リズムよく叩いた。
しばらくすると、隣の部屋からも同じように壁を3度叩く音が微かではあるが聞こえてきた。
希美は、心の中でつぶやくと天使のような微笑を浮かべた。
翌日。たった10分しかない午前の自由時間を何をして過ごそうかと考えていた希美は、久しぶりに中庭に出ることに決めた。
普段は、そのような場所に1人で出るのはあまり好きではなかったが、
久しぶりに太陽の光を浴びてみたいというささやかな衝動にかられて、監視員にその旨を伝えた。
中庭に出る際には装着を義務付けられているベッドギアを受け取ると、希美はスキップしそうな勢いで廊下を走った。
もうここに1年も入院している希美は、これまで騒ぎを起こした事がないので医療スタッフや監視員たちもそれほど警戒はしていない。
その証拠に、他の者が中庭への外出を申し出ると、監視員たちが数人その人物に付き添うが希美には誰もついていない。
(太陽だぁー。気持ちいい)
希美は降りそそぐ太陽を全身に浴びるように、両手を広げて辺りを駆けめぐった。
周りには何人かの患者と監視員がいたが、模範患者である希美の行動を咎める監視員はいなかった。
気がつくと、希美は他の人たちと少し離れた場所にまで来ていた。
特別病棟が見える場所――。希美が近づきたくない場所に、知らず知らずの内に来てしまっていた。
(怖い……。帰ろう……)
希美は特別そこで何か怖い目にあった事はない。ただ、そこから発せられる雰囲気が好きではなかった。
特別病棟に大きな窓はないが、それぞれの部屋に申し訳ない程度の小窓が備え付けられていた。
そして、ときおりそこから誰かが下を覗いている事がある。虚無感の漂う目。憎悪の目。退廃の目。
悲哀の目。そんな目で見られるのが、希美はあまり好きではなかった。
特別病棟を振り仰がないように、希美はうつむき加減でその場を立ち去ろうとした。
「辻 希美さん」
不意に誰かに呼びとめられて、希美は立ち止まった。うつむいた視線に、後ろから伸びてくる影が映りこむ。希美は、身を強張らせた。
近づいてくる足音が、希美のすぐ後ろで止まった。
「辻 希美さん、でしょ?」
希美は、うつむいたまま「はい」とだけ答えた。
「今日からあなたの担当になった、柴田あゆみです。よろしくね」
影がお辞儀をしたのを見て、希美はゆっくりと後ろを振りかえった。
声のトーンからして大人の女性を想像していた希美だったが、以外にも自分とあまり歳が変わらないような人物が立っていたので驚いた。
「辻さんは、何年生? 4年生ぐらいかな?」
柴田が手にしていた希美のプロフィール用紙をめくりながら訊ねた。
「13才……です」
希美は初対面の相手からは大抵、歳相応には見られなかったが、小学4年生に見られた事はなかったのでちょっとムッとしていた。
「え? あ、ホントだ。1987年、13才」
柴田がプロフィール用紙と、目の前にいる希美を見比べて笑った。
希美は、柴田のことを失礼な人物だと思っていたが1日の大半を一緒に過ごす内にその印象は綺麗さっぱりなくなっていた。
監視する側とされる側なので、必要以上に親しくなる事はなかったが、
それでもこれまでの監視員たちからは想像もできないほど自然に接
することができた。
ときおり、意味もなく中庭へと連れ出されたりしたが、希美は特に気にしていなかった。それよりも、むしろ喜んでいた。
こっそりと柴田の目を盗んで、希美の姉変わりの人物がいる場所へ行け、窓越しではあるが、ほんの少し話す時間ができたからである。
【午後8時49分】
この日も、希美はロビーでテレビを食い入るように見つめていた。
さきほどまで、ロビーの外にいたはずの柴田の姿がなくなっていることに気づいたが、
希美の場合は四六時中監視員が付き添っていることもなかったので余り気にもとめていなかった。
しばらくすると、数年ぶりに建物の中に警報ベルが鳴り響いた。
マニュアル通り、建物の中のすべての電気が消され、あちこちでシャッターの下りる音が聞こえてきた。
希美は何が起こったのか分からずに、耳をふさいでその場に塞ぎ込んで震えていた。
その間にも、警報ベルは狂ったように鳴り響いている。
ガラス張りのロビーの向こう側を監視員たちが、特別病棟のある方向へ走り去っていく。
何かトラブルが起きたのは、希美にもわかった。だが、そこで何が起こっているのかは知る由もなく、ただただ怯えて震え続けていた。
1人怯える希美がいるロビーに、長身の女性が駆け込んできた。
希美にはそのシルエットだけで、誰であるかがすぐに分かった。
「飯田さん!」
希美は先ほどまでの震えも忘れて、飯田圭織の元へと走った。
飯田の胸に飛び込んだ希美が顔を上げる。
「逃げるんれすか?」
飯田は、力強くうなずくと希美の手を引いて廊下へと飛びだした。
時間は遡り――、病院内に警報ベルが鳴り響く30分前。
【午後8時19分】
中澤・加護・ひとみ・梨華が、市井に教えられた<Zetima>の所有する病院の近くに辿りついたのはもうすでに午後8時を過ぎていた。
明日香の狙いが、安部なつみにあると分かってすぐにコテージを出発したのだが、
病院からは遠く離れていてしまったために予想以上に時間がかかってしまった。
おまけに侵入者を拒むかのように入り組んだ山道が、ロスタイムに大きく関係していた。
「ホテルのあれからまる2日や。ひょっとしたら、もう手遅れかも知れんな」
中澤がハンドルを握りながら、ポツリとつぶやいた。
「病院内には、能力を押さえる装置があるって市井さんが言ってましたから。さすがに、手は出せないでいると思います」
梨華が助手席で、地図から顔を上げて力強く呟いた。
「誰かさんみたいに、外からド派手なコトするかも知れんで。なぁ」
と、ルームミラー越しにひとみを見る。
「もう、やめてくださいよ」
「けど、もしも明日香がまだ到着してなかったら、よっさんの真似させてもらうで。――加護、そん時は頼むな」
「うっし」
と、加護は力強くガッツポーズをしてみせた。
【午後8時38分】
暗い塔の中は、延々と螺旋階段が続いていた。侵入者を防ぐ用途でもあり、脱走者を防ぐ用途でもある。
その各ポイントに、通行者をチェックするためにヘッドギアをつけた監視員がいる。
たとえ職員であろうとも、通行の際には念入りなチェックを義務付けられていた。
医薬品の入った大きなダンボールを抱えながら、柴田はその螺旋階段を上がった。
5回目のチェックが終わり、ようやく入院患者らのいるフロアに辿り着いた頃には額といわず背中にも大量の汗をかいていた。
フロアはひっそりと静まり返っていた。
ここにいる数人の患者たちは皆、何らかの心の傷を負い自我をコントロールできなくなった者たちが収容されている。
そのほとんどは、”洗脳”という処置で強制的に<Zetima>へと送り返される。
安倍なつみ――。彼女もまた、ここに収容されていた。
だが、彼女の精神は完全には崩壊されていないらしく、
あまたのESP能力者たちが彼女の意識をのっとろうと試みたがすべて失敗に終わった。
自我がある限り、力の弱いESP能力者が能力者をコントロールするのは難しい。
ましてや安倍のような強い力を持った能力者に対しては、ほぼ不可能であった。
”洗脳”ができない能力者は、いずれそこで完全に発狂をするのを待つか、
それともいずれ自我を完全に取り戻し<Zetima>の脅威になり得るものであると判断されれば――消されてしまう。
柴田は乱れた呼吸を治すと、ゆっくりと目的の病室へと歩いて行った。
【午後8時40分】
中澤の運転するワゴン車は、やっと目的地に到着した。
正規の地図には掲載されておらず、市井が思い出しながら書いた手書きの地図だけが頼りだったが、なんとか無事に辿り着くことができた。
「薄気味悪い場所やな……」
車から下りた中澤が、辺りを見渡す。
梨華は意識の触手を伸ばして、明日香の意識がないかを探った。しかし、病院内にはそれらしい意識はなかった。
もっとも、病院内のそのほとんどが例の装置のある部屋なので、完全に明日香の意識がないとは言いきれなかった。
「安倍さんのいる場所も、わかりません……」
梨華の声が、少し曇っていた。
「大丈夫。絶対、見つかるって」
ネガティブ思考に陥りがちな梨華を元気づけようと、ひとみはその肩を軽くポンと叩いた。
すると、それに驚いた梨華が小さな悲鳴を上げた。
さらにそれに驚いた加護が大きな悲鳴をあげ、さらにそれに驚いた森に住む鳥たちが狂ったように鳴いた。
その場は、ちょっとしたパニック状態になった。
【午後8時41分】
なつみは夢の中にいた。
そこは現実にあるようなコンクリートで囲まれた殺風景な部屋ではなく、北海道の自分の部屋の中だった。
何をしていたわけでもない。ただ、その部屋の中でぼんやりと座っていた。
なつみの視線の先には、焼きただれた焼死体が転がっている。
なつみはそれに怯えることもなく、焦点の定まらない眼で焼死体を眺めていた。
しばらくすると、誰かが部屋をノックした。
「誰……? ママ?」
なつみは、視線をかえずに抑揚のない声をだした。
「梨華ちゃんかい?」
なつみはようやく、視線をドアへと向けた。
だが、ドアは一向に開こうとしないし、ドアの向こうにいるはずの人物も入ってこようとはしなかった。
「ママは、なんでなっちのこと見捨てたの?」
『見捨ててないわよ』
「サキヤマの叔母さんに預けたべさ。なっち、ずっとママのこと待ってたのに」
『なつみが、いけないのよ』
「なして」
『だってあなた、幼稚園を丸焼きにしたんですもの』
「……そんなことしない」
『それに、ママは悪くないわ。森さんが、連れてったのよ』
「迎えに来てくれたら、よっかったべ!!」
『やめて!! ごめんなさい、なつみ。ママが悪かったわ!! だから、怒らないで』
「……ママは、いっつも謝ってたね。家族みんな、なっちのこと腫れ物を触るみたいに……。
ホントはずっと、サキヤマの叔母さんの所で暮らしてたかったよ」
なつみは、視線を焼死体に戻した。
「梨華ちゃんも、なっちを捨てた」
『そんなことしてませんよ』
「ずっと一緒にいてくれるって言ったのに」
『一緒にいますよ』
「もう、なっちは騙されない」
『悲しいなぁ、そんなこと言われると』
「……梨華ちゃんは、いっつもウソばっか。ホントは、なっちといて疲れてたんでしょ」
『フフ。ばれました? だって、安倍さん人殺しじゃないですか』
「!!」
目の前に転がっている焼けただれた焼死体が、むっくりと起き上がった。驚愕したなつみは、そのまま後ずさりする。
焼死体は、なつみを指さして笑った。
『熱い』『熱い』『熱い』『熱い』『熱い』『熱い』『熱い』『熱い』『熱い』
【午後8時44分】
扉と塀の向こう側に何があるのか、外側にいるひとみたちにはまったくわからなかった。
市井の書いた地図には、建物の見取り図は書かれていない。
「とりあえず、中に入ってみますか?」
ひとみは、隣にいる中澤に向かって話しかけた。
「カメラがあるなぁ。あそことあそこに」
「――この壁はいくらなんでも、乗り越えられませんね……」
「一気に突破するか……」
中澤が、チラリと横にいる加護に視線を向けた。加護は、小さな声で「うっし」と、ガッツポーズをした。
それを制したのは、先ほどから目を閉じて意識を集中させていた梨華である。
「待って下さい」
「なんや、石川。他にエエ方法でも浮かんだんか?」
「向こう……。あの建物から、ほんの少し流れてきます」
「安倍のか?」
梨華は、小さくうなずいた。
中澤が、軽く舌打ちをして特別病棟のある方向を見上げた。
「よし。もうこうなったら、強行突破や。加護、ここにでっかい穴頼むで。一気に突っ走って救出や」
「うっし」
「よっさんは、危ないからここで待っとり」
「なんでですかっ。アタシも行きます」
「どんなんが中に潜んでんのか、わからんのやで。危ないから、ここで待っとりって」
「嫌です。行きます」
「……わかった。しゃーないわ。ほな、よっさんは石川のボディガードや」
「はいっ」
と、ひとみは笑顔で返事をした。
【午後8時46分】
なつみの焦点が、ぼんやりと部屋の天井に戻った。
「夢……」
しばらくそうして天井を見つめていると、ドアの方に人の気配がしていることに気がついた。なつみの身体は拘束着によって動かない。
なので、すばやく視線だけをドアへと向けた。
「誰だべ……」
誰かが、ドアの前に立っていた。しかし、薄暗く闇夜に慣れていない、なつみの目にはただの影でしかなかった。
「あなたを助けにきました」
シルエットは低い小さな声で、つぶやくように言った。
「助ける……?」
「そうです」
「ここから、助けてくれるの?」
「もう何も悩む必要は、ありません」
「……」
「もうすぐ、自由になれます」
「……誰だべ」
遠くで爆発音のようなものが聞こえたが、なつみはそのシルエットから目を離さなかった。
【午後8時47分】
加護は病院の中庭を走りぬけながらも、ほんの少しショックを受けていた。
自分の予想ではもう少し大きな穴を塀にあけるつもりだったのだが、
人が1人やっと通りぬけるぐらいの小さな穴しか空けることができなかったのだ。
(後藤さんやったら、もっと大きい穴開けれたのになぁ……)
「そんなことないよ、あいぼん」
梨華が後ろを振りかえって、ニッコリと微笑みかけた。
「加護! 来たで!」
加護が中澤の声に気づきそちらに視線を向けると、中央病棟から屈強な男たちが手に銃器のようなものを構えて飛び出してきていた。
「殺したらアカンで」
「加護、地面を狙って」
加護はひとみの指示通り、駆けてくる男たちの手前数メートルの地面を吹き飛ばす。爆風により、男たちの体が宙に舞った。
「スゴイ、あいぼん。ぴったりじゃない」
梨華の励ましは、それまで落ち込んでいた加護を元気づけた。
「コントロールは誰にも負けへんねん」
梨華は、加護が何を言われれば喜ぶのかを熟知していた。
人が飛ばされる様を見て決して楽しいわけではなかったが、このような状況なのだから仕方がないと沸きあがる罪悪感を押さえていた。
「加護、次はあの建物や。でっかいの、頼むで」
「アイアイサー」
調子を取りもどした加護が、特別病棟に向けて力を放つ。
――が、壁はビクともせず、その外側の壁を削ったぐらいにしかならなかった。
「あいぼん、そのまま」
梨華の言葉は聞こえていたが、加護は返事をすることなく力を放ち続けた。
【午後8時48分】
なつみの拘束着が、シルエットの手によって脱がされた。
なつみは身体の自由が戻るとすぐさま壁際へと逃げ、近くにあったベッドシーツを頭から被って震えた。
「な、なんでここにいるべ……」
シルエットは、立ち尽くしていた。小さな窓からさし込む月明かりが、シルエットの口元を照らす。
数度の衝撃音の後、能力を制御する装置が機能しなくなったのを、シルエットは敏感に感じとった。
月明かりに照らされたその口元が、ゆっくりと歪む――。
【午後8時50分】
飯田と希美のほかにも、何人かの脱走者が中庭を駆けぬけて行った。
遅れてはいけないと焦った希美だが、普段走りなれてないせいもあり気持ちだけが先行し、足の方が追いつかない。
――飯田に引きずられるようにして、その場に転んだ。
飯田がハッとして振りかえる。転んだ希美も心配だったが、中央病棟から次々と出てくる監視員が銃器を構えて発砲しようとしている。
「飯田さん、にげてください」
飯田は大きく頭をふると、転んで泣きそうになっている希美を抱え上げた。
それほど自分に腕力があるとは思っていなかった飯田だが、
いざとなると希美を抱えあげることができるのだと知って自分自身で驚いていた。
だが、さすがに希美を抱えたまま走るのは無理らしく、その場に呆然と立ち尽くしてしまった。
飯田の目には、銃口から立ちあがった煙が見えていた。
だが、いくら待っても弾が自分を貫かない。
――風。
希美は、自分の後ろに風のようなものが舞っている感じがした。飯田に担がれたまま、ゆっくりと後ろを振りかえった。
”風”のようなものに捕らえられた数発の弾丸が、その中でピタリと止まっている。
飯田も希美も、その光景に状況も忘れて見入っていた。
「ぐっどたいみんぐ」
少女の間延びした楽しげな声が聞こえたのと同時に、弾は粉々に弾け飛び、監視員たちも地面ごと吹き飛ばされた。
【午後8時50分】
加護は、数メートル先にいる長身の女性と担がれている少女が何となく気になって足を止めた。
フッと長身の女性の視線を追うと、その先で銃を構えた男たちが発砲したのを知った。
咄嗟に力を放った。
弾は粉々になり、男たちは吹き飛んだ。
タイミング、コントロール、威力ともども素晴らしい仕上がりだったので、誰かに誉めてもらおうと辺りを見まわしたが、
もうすでに中澤やひとみや梨華は破壊された特別病棟の方に向かって走っていた。
「なんや……。タイミング悪いなぁ」
と、つまらなさそうに呟いた。
何が起こったのかわからないといった感じで、長身の女性と少女が加護に注目していたが特に何も期待していなかった。
その向こうにある感情は、すべて未知なる力への恐怖だけであるのは、幼いながらも加護は熟知している。
フッと目を伏せて走り出そうとした加護の背に、舌足らずな少女の声が届いた。
「助けてくれて、ありがとー」
加護が「え?」という感じで振りかえるのとほぼ同時に、特別病棟の最上階が炎を巻き上げながら吹き飛んだ。
その炎はまるで、天に向かって上昇する龍のようである――。
【午後8時51分】
降り注ぐ瓦礫から逃げるようにして、中澤らはまた中庭へと戻った。
「なんやねん! なんで、火、吹くねんな!」
「中澤さん、危ないからもうちょっと下がって下さい!」
興奮して特別病棟を見上げる中澤を、ひとみはムリヤリ中庭の端へと引きずった。
「梨華ちゃん、どうなってんの!?」
ひとみが振りかえると、梨華はもうすでに意識の網を広げているようだった。
そこへ、今までどこに行っていたのか――加護が駆け寄ってきた。
「加護、今までどこ行ってたの」
「ハァハァ、あのな」
「なに?」
加護が、数メートル離れた先を指さす。その先に2人の――飯田と希美が、こちらを覗うようにして立っていた。
「逃げたほうがエエって」
「は? だって、安倍さんはすぐそこにいんだよ」
意識の網を広げていた梨華が、閉じていた目を急に開いて言った。
「違う。安倍さんじゃない!!」
その場にいる全員が、梨華に注目した。梨華は震える指で唇を押さえる。
「石川、どういうことや」
「別人になりすましてた……。別人になりすまして、私たちが来るのを待ってた……」
「明日香か……?」
梨華は、ずっと先の特別病棟を凝視していた。炎の明かりが、着実に下へと下りてきている。
「加護、逃げたほうがエエってどういうことや」
「あの人たちが……」
中澤は、飯田と希美に気づいた。2人は身を寄せ合うようにして、特別病棟の炎に怯えていた。
「安倍さん……。安倍さんはもう意識を操られてます」
梨華のその言葉に、中澤は早急に決断をせがまれた。パニックになって思考も正常ではなかったが、本能が逃げるように訴えている。
――逃げる。その行為が自分にはいつまで付きまとうのか、フッとそんな皮肉が脳裏をかすめて中澤は微苦笑してしまった。
【午後8時53分】
福田明日香は、胸元にある”柴田”と書かれたピンバッヂを引き千切った。
数分前まで捉えていた梨華の意識は、突然そのレーダーの範囲から消えた。
範囲外に出たのではなく、きっと中澤の能力で自分の能力が無効化されたのだろうと――明日香は考えていた。
轟々と燃え盛る炎の輪の中から、明日香は先ほど引き千切ったピンバッヂを投げ捨てた。何の音もなく、ピンバッヂは消滅した。
その様子を見た明日香は、炎の中で微笑を浮かべた。
Chapter−3<待つ人々>
窓の外に目を向けると、湖のほとりにいる後藤と保田が戯れていた。
姉妹――のような2人が戯れている。その光景も、街では至極当然の光景であるが、
このような閉ざされた場所でしか戯れることのできない自分たちのような能力者が市井にはとても辛く感じた。
『人の手に溢れるほどの、多くのものを望んじゃいけないよ』
光子が言ったいつかの言葉が、市井の耳にリフレインした。
『人には限界というものがある。だけど人はその限界を超えるほど、欲望も持ち合わせている。欲望は悪い事じゃない。
でもね、自分の手から溢れるほどの欲望は、あまり褒め称えられるものじゃないよ』
その時話を聞いていた市井は、正直なところ光子の言葉の意味を理解できていなかった。
その時隣にいた中澤は、きっと理解できていたのだろう。だからこそ、つんくが全権を握った<Zetima>から離れていった――。
そして、その言葉の意味を理解できなかった自分は取り返しのつかない計画に荷担してしまったことを悔いた。
「アタシは……、ただ……、あの頃のように暮らしたかっただけ……」
市井は自分の両手を見つめた。
「ねぇ、圭ちゃん」
「ん?」
「いちーちゃん……、どうしちゃったのかな……」
先ほどまで湖畔の桟橋に繋がれていたボートに飛び乗りはしゃいでいた後藤が急にしんみりとした口調になったので、
保田はそれまで浮かべていた笑顔を消さぜるを得なかった。
「なんか、ずっと1人で悩んでる……」
保田は後藤と同じように、コテージへと視線を向けた。2階の自分たちの部屋の窓辺で、市井は先ほどからずっと佇んでいる。
「昔は、あんな風じゃなかった……」
保田が湖畔へと視線を向けながら、寂しそうに呟いた。
「あんな風って? いちーちゃんの昔のこと、教えて。圭ちゃん、知ってるんでしょ。ねぇ、教えてよ。
なんでもいいから、いちーちゃんのこと教えて」
後藤が興奮して立ちあがると、船が大きく揺らいだ。
「こら、暴れるんじゃないよ。沈んじゃうだろ」
と、保田は微苦笑を浮かべながら後藤をなだめた。
「紗耶香と初めて出会ったのは、今からもう10年ぐらい前かな。ちょうど、同じ頃に施設に入所して」
保田は湖畔を見つめ、辺りが静寂になったのを感じると口を開いた。
あまり騒いだ状態で話す話でもなかったからである。
「森さんの作った、ゼティマだよね」
後藤にもその真意が伝わっているらしく、おとなしくコテージ見つめたまま静かなトーンで語り返してきた。
「長野のすっごい山の奥にあって、つれていかれた時すっごい怖かったのを覚えてる」
後藤は、黙って話を聞いている。
「みんな力を持ってた。そして、やっぱりみんな同じように心に傷を負っていた。
私はこの透視のお陰でマスコミにいい様におもちゃにされて、ひどい人間不信になってたし」
「いちーちゃんは?」
「紗耶香はその力のせいで、新興宗教に拉致されて利用されていたらしい。でも、詳しい事は聞かなかった。
みんな、誰もが同じように傷ついてたからね。それまで何があったのか聞かないのが、そこでの唯一の暗黙のルール」
「……そっか」
「たぶん、よほど怖い目に遭ったんだろうね。夜になると、毎晩のように泣き叫んでた」
「……」
「同室だった私は、何をどうしていいのかわからずにただオロオロしてただけだったなぁ。紗耶香の夜泣きを沈めるのが、
当時みんなのお姉さんがわりだった裕ちゃん」
と、保田は微苦笑を浮かべながら、遠くを見つめている。
「10年前ってことは……。今のいちーちゃんと同い年か」
視線の先から市井は姿を消したが、後藤はいつまでもコテージを見つめ続けた。
「森のおばあちゃんの力で、その場所一帯は能力が一切使えない場所でね。
最初は脅えてた私もだんだんと慣れてきて、他の子たちとも遊べるようになった。
ほら、自分が力を持ってるって事も忘れちゃうし、今まで同年代の子たちと遊ぶこともなかったし、
自分も普通の人間だって思えるようになったの。たぶん、みんなそうだったんじゃないかな」
「……」
「でも、紗耶香だけは違ってた。もともと、力が強かったからね。森のおばあちゃんの力で押さえられてても、ほんの少し使えてたのかも。
だから、また自分だけがここから連れ去られるんじゃないかって、いつもビクビクしてていつもすぐに泣いてた」
「……」
「そしたら、裕ちゃんがすぐに飛んできてね。誰が紗耶香のこと泣かしたんやーって」
保田が昔を懐かしみ、笑った。
「おせっかいそうだもんね、裕ちゃんって」
後藤は、すねたように視線をコテージから背けた。
その様子を肌で感じた保田は、やはり湖畔を見つめ続けたまま苦笑を浮かべた。
「紗耶香はホント、裕ちゃんにベッタリだったよ。
裕ちゃんもそんな紗耶香を心配して、積極的に紗耶香をみんなの輪の中にいれようとした。
まぁ、ちょっと強引だったけどね」
と、保田は笑った。
「そのお陰で、紗耶香もじょじょにみんなと打ち解けれるようになって。
紗耶香の笑顔も、多くなった。もっとも、泣き虫だったのは元もとの性格もあったみたい。男の子にからかわれると、すぐに泣いてたから。
でも、前のようにビクビクするような事はなかった」
「ふーん……」
「ふーんって何よ。後藤が聞きたいっていったんでしょ?」
保田には後藤がすねる原因はわかっていた。昔話の中に出てくる中澤と市井の関係が、気になって仕方がないのである。
後藤は、紗耶香にパートナー以上の関係を抱いている。
それが恋なのか憧れなのか、それとも他の何かなのかはわからないが、昔話に出てくる2人の関係に嫉妬して、
そして現在の2人の関係に不安を抱いているのである。
それぐらいは、”精神感応”の能力のない保田にも十分過ぎるぐらい伝わってきていた。
それがわかっているからこそ、目の前にいる後藤がかわいくて仕方がなかった。
思い悩む後輩をあたたかく見守る保田は、笑みが自然とこぼれていた。
――夕食の時間を過ぎても、中澤からの連絡がなかった。
(裕ちゃん、大丈夫かな……)
今のところ、中澤と一緒にいる自分という未来は見えていない矢口は、不安でたまらなかった。
もちろん、同行しているひとみ・梨華・加護の心配も忘れていない。
最近、矢口は自分の能力が衰えてきているのを実感していた。
未来を見える力は以前よりUPしているのだろうが、そのかわりに見える映像がひどく不鮮明になっている。
そして、何よりも矢口が不安に思えるのは、その”頻度”である。
以前ならば、自分たちの未来に身の危険が差しかかろうとしていたら、それをあらかじめ察知して未来を見えることができた。
確定した未来には何ら影響力は与えないのだが、それでもそうすることによってあらかじめ予防を張れる事はできたのである。
それが不鮮明な映像やその頻度が落ちたりで、できなくなってきていた。
(未来が見えなくなるって……)
自分の目を通した未来しか見えない矢口が、未来を見ることができなくなるのは――恐ろしいことではあるが、
矢口はこの能力を身につけた頃にもうすでにその覚悟はしていた。
だが中澤や他のメンバーと知り合えた今、できることなら”老衰死”という自然死ができるほどまで未来を見続けていたかった。
「やぐっつぁんてさ」
ぼんやりとソファで考え事をしていた矢口は、クッションを胸に抱えたまま声のしたほうに顔を向ける。
後藤が窓の外を見ながら、ブラブラとこちらに歩いてきていた。
「やぐっつぁんてさ」
矢口のはす向かいのテーブルに腰かけた後藤は、相変わらず窓の外を見たままもう1度声をかけてきた。
「ん?」
矢口は、市井・保田・後藤が苦手であった。<Zetima>という企業で梨華のようにある程度の時間を共にすることもなかったし、
中澤のように過去に知りあいだったわけでもなく、ほとんど彼女たちの素性というものを知らない。
発せられる雰囲気も、修羅場を潜り抜けてきた者特有のオーラを放っている。
加護のような、無邪気さはない。それが、矢口が苦手とする点でもあった。
「裕ちゃんと、どういう関係?」
「は……?」
矢口には後藤の質問の意図がまったくわからなかった。これまで、会話らしい会話はあまりした事がない。
それがいきなり、中澤との関係を切り出してきたのである。矢口は少し面食らった――。
「その……、友達とか、恋人とか」
「恋人!?」
矢口の声が裏返った。
「恋人なの?」
それまで外を見ていた後藤が、急に矢口を振りかえった。
「ち、違うよ。なんで、矢口と裕ちゃんが。女同士だよ」
「そっ……」
「なんだろう? 裕ちゃんとは、その……」
矢口はあらためて自分と中澤との関係を、考えてみた。色々な言葉が浮かんだが、どれも当てはまりそうにない。
「友達でもあるし……、姉妹みたいでもあるし……、仲間でもあるし」
「で、けっきょく何?」
「何って言われても、そんなのいきなり答えられないよ。じゃあ聞くけどさ、ごっつぁんと紗耶香との関係はどーなのさ」
「アタシといちーちゃん?」
「なんか、いっつも一緒にいるじゃん」
「アタシといちーちゃんは……」
今度は、後藤が考える番がきた。後藤もまた、それまであまり深く考えたことはない。
ただ、いつも側にいたい相手ではあったが、その敬称を見つける事はできなかった。
「ほら。ごっつぁんも一緒じゃん」
「……」
「大切な人であるのは間違いないけど、どんな関係って聞かれるとすぐには答えられないよ」
「大切な人?」
「そう。矢口にとっては、とても大切な人」
「ふーん」
「ふーんって、意味がわかんないよ。けっきょく、何が言いたいのさ。あ、ちょっと待ってよ。ちょっと」
後藤は矢口の質問にはまったく答えずに、フラフラといつものようにぼんやりと歩いて行ってしまった。
「なんなんだよ、もう」
クッションを抱えたまま矢口は、頬を膨らませた――。
市井がホテルを脱出してからずっと考えていたこと、それは”復讐”であった。
光子やそれらの意見に賛同していた者を裏切ったつんくへの復讐、それ以外になかった。
だが、昼間に光子の言葉を思い出したことにより、何かが変わろうとしている――。
でも、死んで行った仲間のことを考えると、やはりつんくへの復讐を考えてしまうのだった。
どれだけ多くのものが傷つき、そして死んでいったか――。
市井のセクションからも、数人の死亡者が出た。
他のセクションに移った前<Zetima>からの古参メンバーも、そのほとんどが”ユートピア”のために命をなくした。
その者たちのことを考えると、このまま自分だけが生き残り、
そして自分たちを利用したつんくが生き続ける事はどうしても許しがたい行為だった。
失った命が戻らないことは、市井にもわかっている。
だが、沸きあがってくる”復讐”という名の欲望を押さえきれずにいた。
――ドアをノックして、後藤が入ってくる。
市井は、窓に映る後藤を見つめているだけで振りかえろうとはしなかった。
後藤は手にしていたコンビニの弁当を、テーブルの上に置いた。
「食べないと、身体、こわすよ……」
「ありがと」
「ねぇ、いちーちゃん」
「ん?」
窓ガラスを通じて、市井と後藤の目が合う。
「いちーちゃんは、後藤の大切な人だから」
と、後藤はうつむき加減でポツリとつぶやいた
「……?」
「だから、そのー、後藤を置いてかないでね。後藤は、いつも……」
後藤の声の調子が変わったので、市井は振りかえった。
後藤は泣いていた。声を上げることもなく、市井の姿を見つめてポロポロと涙だけをこぼしていた。
市井にとっても、あまり感情を表に出さない後藤のそんな姿を見るのは初めてだった。
「後藤……」
「ハハ。あ、なんだ? なんで、泣いてんだろー」
「……」
「いちーちゃんのせいだからね」
と、後藤が鼻をすすりながら、イーッという顔をして見せた。
「なんで、アタシのせいなんだよ」
市井は笑顔でそれに応えると、後藤を気遣い背を向けてベッドへと腰かけた。
「だって、いちーちゃん、最近変じゃん」
「色々と考えたい事だってあるよ」
「なに考えてんの?」
「いろいろだよ」
市井はフッと笑って、ベッドの上に寝転んだ。
「後藤には言えないこと?」
寝転んでいる市井は、視線だけを「ん?」という感じで後藤に向けてみた。
後藤は、涙をぬぐっていた。
「裕ちゃんになら、言えるんだ……」
「ハハ。なんだよ、それ」
「だって、いちーちゃんは、裕ちゃんが好きなんでしょ」
「は? 後藤、何言ってんの?」
「……裕ちゃんを助けなかったら、ウチらあのまま残れてたんだよ」
「……」
「ずっと一緒だったのに……。裕ちゃんなんか」
「後藤。もう、止めな――」
市井は、ゆっくりと上半身を起こした。
「だってさ、裕ちゃんが来てから」
「後藤」
市井の小さいが強い口調に、後藤の止まっていた涙がまた溢れそうになってきた。
「何があったのか知らないけど、裕ちゃんの悪口に付き合う気分じゃないんだ」
「……すぐ、そうやって庇う」
「裕ちゃんがいてもいなくても、つんくはウチらが邪魔だったの。話、ちゃんと聞いてた?」
「もう、いいよっ。バカッ」
後藤の感情の起伏により、力が無意識に放たれた。壁にかけかけてある絵が弾け飛び、壁に小さな穴をあけた。
「ちょっと、後藤っ」
市井の制止も聞かずに、後藤はそのまま部屋を走り去っていった。
「なんだよ、ったく……」
軽いため息を吐きながら、吹き飛んだ絵画を拾いに行く。だが、やはりというか絵画は額縁ごと粉々になっていた。
壁にも小さな穴が空き、隣のひとみらの部屋が見えるようになってしまった。
「あの、バカ……」
そう呟いた市井だが、顔は微かに笑っていた。
感情の起伏により、無意識に放たれる自分の力を恐れていつも感情を押さえていた後藤が、
理由は何であれ久しぶりに怒ったのが市井にはなぜか嬉しかった。
だが、次の瞬間にはやはり後藤の住む世界はここではないのを知り、複雑な気分にもなった。
『自分を恐れない場所こそが、真の楽園だよ』
市井の耳に、また光子の言葉がリフレインした――。
コテージを飛び出した後藤だったが、どこにも行くあてがなかった。
周りには民家どころか街灯もなく、ただ月や星の明かりだけが広がる夜の世界である。
「つまんないよ、こんなの」
後藤は昼間の桟橋に腰かけて、湖面に浮かぶ月を眺めていた。
魚でも跳ねたのであろう小さな水飛沫が跳ねあがり、月が揺らめいた。
わけもなく叫ぶような感じで、後藤は湖面に力を放つ。
竜巻のような水飛沫が巻きあがり、月はその姿を消した。
巻きあがった水飛沫は、数十秒かけて湖へと豪雨のように降り注ぐ。
その声はもう随分前から名前を呼んでいたのだろうが、水面に叩きつけられる水音があまりにも大きかったため、
それが静まるまで後藤は気づかなかった。
振りかえると、そこに矢口が立っていた。
「……なに? なんか、用?」
と、後藤の声は冷たい。
「別に、用ってほどじゃないんだけど。涙流しながら、目の前走って行かれたら、気になるじゃん?」
1階のロビーに矢口がソファに座っていたのを、後藤は思い出した。
「……あぁ、まだいたんだ」
「いたよ。だって、みんなのこと心配だもん」
矢口は後藤から少し離れた場所に、しゃがみ込んだ。
「用がないんなら、向こう行って。なんか、今、ムカついてっから。ムカついてたら、勝手に力が出るから向こう行ってて」
「こっわ〜」
と、矢口は湖面を見ながらニコニコと笑った。
「? 意味がわかんないの?」
「わかるよ」
「だったら――」
「南の島なんかいいね」
矢口の唐突な言葉に、後藤は呆気にとられた。
「小さな無人島みたいなとこにさ、みんなで一緒に家を建てて、みんなで一緒に笑って暮らせればいいね」
「――別に、南の島じゃなくてもいいじゃん」
「楽園といえば、南の島っぽくない」
「楽園……」
後藤はその言葉を聞くと、目を伏せるようにして矢口から視線をそらした。
「やっぐっつぁんなら、どこででも暮らせるじゃん」
「……ん?」
「やぐっつぁんや、他のみんなは、狙われることさえなかったら、どこにだって住むことができる。でも、アタシは違うよ……」
「……」
「自分では抑えきれない」
「うん……。知ってるよ。矢口も、見たから。公園の」
「アタシの力は、壊すことにしか使えない。今までもずっと。んでもって……、
これからも」
矢口は、梨華の言葉を思い出した。
まだ<Zetima>内の一室に軟禁状態だった頃、矢口は正直に後藤が苦手であることを梨華に告げた。
自分と同じように追跡者だった後藤たちを梨華も好ましく思っていないだろうと考えていたが、
梨華は矢口の気持ちを聞かされると目を伏せて、まるで庇うようにこう言った。
『ごっちんも、自分の力が怖いんです……』
その時はただ、梨華に裏切られたような気がして否定したような覚えのある矢口だが、
こうして実際に後藤の声を聞くと梨華の言っていることが正しいことだと思えた。
「ねぇ、ごっつぁんはさ」
矢口の問いかけに、後藤がやっと振り向いた。
「ごっつぁんの力ってさ、壊すためにあるんじゃないと思うよ」
「壊すためだよ」
「違うよ。守るためだよ」
「まもる……ため?」
「そ。大切な人を守るためにあるんだよ。矢口のなんかさ、ほんと笑っちゃうぐらい役に立たないんだから」
と、矢口はキャハハと笑ってみせた。
「大切な人を……、守るため……」
後藤は矢口の言葉を、何度も復唱した。
復唱するたびに市井の顔が浮かび、そして自然とさっきまでのイライラした気持ちが薄れていった。
後藤にとって、市井はとても大切な人であるのは間違いない。
その能力の前では、後藤はただの少女でいられる。
それが、後藤には何よりも嬉しかった。
「後藤の大切な人は、いちーちゃん」
後藤の声に、矢口は顔を向けた。ふにゃあ〜とした笑顔で、桟橋から垂れた足をバタバタさせて水面を揺らしている。
それを見た矢口は、ほんの少し引いた。だが、すぐに微笑が浮かんできた。
なぜだかはわからないが、加護よりも無邪気な少女のように思えて仕方がなかった。
――不意に矢口の脳裏に未来の映像が映し出された。
その未来が何を意味していたのか、映像が不鮮明で断続的だったのでわからない。
ただ、中澤の運転する車内にいた人物は、皆、笑顔を浮かべていた。
自分の見た未来、自分の存在する未来に、見知らぬ2人もいたが矢口はあまり気にならなかった。
ただそこに全員がいて、皆が笑顔であるという事実さえわかればホッと胸を撫で下ろす事ができた。
Chapter−4 <逃亡者>
中澤たちが戻ってきたのは、コテージを出発してまる1日ほどしてからだった。
車のエンジンの音を聞きつけ出迎えたメンバーは、皆、ワゴンから降りてきた見知らぬ2人の少女にどう接していいのかこまねいていた。
そしてまた、コテージに残っていたメンバーと初体面をした2人も緊張して戸惑っていた。
その様子を敏感に感じとった中澤が口を開こうとしたとき、希美と手を繋いで、
まるで自分も初対面のようにメンバーと向かい合っていた加護が声を出した。
「辻希美ちゃん、ウチと同じ12才です」
それを聞いた希美が、困ったように顔を上げた。そして、小さな声で加護の耳元で何かを囁いた。
「あ、13才になったそうです。で、辻希美さんの隣にいるのが、飯田圭織さんです。18才です」
それを聞いた希美がまた困ったように顔を上げ、また小さな声で呟いた。
「あ、もうすぐ19才になるそうです。自己紹介は、以上です」
希美と飯田が、戸惑ったまま軽く頭を下げて挨拶をした。
きょとんとしていた市井・後藤・保田・矢口も、つられて頭を下げた。
「ほな、ののちゃん、遊びに行こう。あんなぁ、あっちにボートあんねん」
と、加護は希美の手を引いて、湖畔のボート乗り場へと向かって駆け出していった。
「こら、加護」
中澤の制止も聞かずに、加護はイタズラっ子のような笑顔を浮かべて走り去ってしまった。
「ほんま、帰ったら勉強せぇって言うてあったのに」
「ねぇ、裕ちゃん」
「おー、矢口ぃ。会いたかったよー」
と、スイッチの入った中澤は、皆の前であるのをまったく気にする事なく矢口に抱きついた。
「ちょっと、なんでよー」
市井は軽くため息を吐くと、苦笑を浮かべているひとみと梨華に向かって言った。
「で、安倍さんは?」
「あ、はい。あの……」
梨華が困ったようにひとみを見上げると、ひとみが梨華に代わって昨夜の病院での出来事を話した。
ひとみの話を聞き終えた市井と保田が、真剣な表情で顔を見合わせた。
そして、小さな声で何かを囁きあっている。
2人は小さな声で今後の対策を練っているようだった。一方、2人の側にいた後藤は、福田の事などはまるで考えていなかった。
ただ、目の前でじゃれあっている中澤と矢口を見つめていた。
「ねぇ、梨華ちゃん……」
「ん?」
「なんか、緊張感なくなったね」
と、ひとみが中澤と矢口らを見ながら微苦笑を浮かべた。
飯田はその大きな目を見開いて、中澤の矢口に対する熱烈な抱擁を見つめていた――。
「え? なに、これ?」
自分たちの部屋の異変に気づいたのは、ひとみだった。
帰りに買った日用品の入ったコンビニの袋を置いて、
窓を開けようと歩いた時にフッと自分と同じ目線の高さの壁に穴が空いていることに気がついたのである。
飯田に部屋を案内して戻ってきた梨華が、ひとみの後ろに立って少し背伸びをしてその穴を覗き込んだ。
「すごいね。何があったんだろ」
と、だけ言い残してすぐに荷物を置きにいった。
「市井さんでも、完全には封じられないんだ……」
「なんか、どんどん力が強くなってるんだって」
「そっか……」
ひとみは、とりあえず横にあった絵画のレプリカでその穴を塞いだ。
別に見られて困るような事は何もなかったが、やはりその穴から後藤の顔が見えるのはあまりいい気分ではなかった。
「ごっちんは……」
ひとみはその声を聞き、額縁の位置を直しながら振りむいた。
化粧品などの日常品をコンビニの袋から出している梨華は、何かを言いたそうであった。
「ごっちんが、なに?」
「ううん。いい」
「――あ、さっきの」
「……うん」
「――梨華ちゃんの言いたい事わかる。でも、もうちょっと時間がほしいんだ。完全に恐怖心がなくなったってわけじゃないから」
「うん。そうだね――。ごめんね、私の方こそ」
しばらく、無言の間が流れた。
額縁をかけ直したひとみは、「よし」とつぶやくとおもむろにベッドの上へとうつぶせに倒れ込んだ。
「ふぅー。なんか、やっと落ちついたって感じ」
「ずっと、移動ばっかりだったからね」
「ねぇ、アタシたちさ、これからどうなるんだろう?」
ひとみの不意の問いかけに、梨華は返事に困った。
「それは……」
「だってさ、ゼティマってところも直接は手を出してこれないでしょ?」
「なんで?」
「だって、ゼティマってとこの最強メンバーが揃ってんだし。福田明日香は、もともとゼティマに協力的じゃなかったみたいだし」
「あ……、うん」
「だったら、このまま何にもなく暮らす事ってできないかな」
「……そうなるといいね」
と、梨華は笑みを浮かべた。
「なれるよ。きっと」
ひとみはうつむいたまま手を伸ばし、梨華の手を握った。
(なろうね。絶対)
ひとみの手から流れ込む優しい意識に、梨華は心が温かくなった。
水辺に浮かんだボートの上に、加護と希美がいる。
2人はしゃいで、ボートを漕いでいた。片方のオールを加護が、もう片方のオールを辻が――。
そうして慣れていない2人が漕いでいるものだから、舟は一向に進むことなく同じところをグルグル回っていた。
だが、2人にとってはそれが楽しくて仕方なく、さっきから声を上げて笑っていた。
「ハハぁ。疲れたなー?」
「疲れたぁ」
「ウチな、ボート漕ぐの初めてやねん」
「辻も、はじめて」
「楽しいなぁ」
「うん」
「またやろか」
「やろー」
――2人は、また同じ行為に没頭して、やはり同じように声を上げて笑った。ボートは延々、同じところをぐるぐる回っていた。
保田はその様子をロビーの窓から眺めて、苦笑していた。
「加護とピッタリの子で、良かったじゃない」
保田のすぐ後ろで、中澤がラジオにコンビニで買ってきた電池を入れていた。
「ええことあるかいな。ホンマ、うるさいのが一人増えたって感じや」
と、言った中澤だが、とてもうれしそうな表情を浮かべている。
「あの子にも力があるんだよね?」
中澤の横に座っていた矢口の言葉に、先ほどからまた黙り込んでいた市井がピクリと反応した。
「たぶんな」
「たぶん?」
「あの病院におったんやからな、何の力も持ってないって事はないわ」
「……梨華ちゃんに、調べてもらわなかったの?」
「それどころやなかったんや」
と、中澤は帰って来る車内での出来事を思い出して笑った。
コテージに戻ってくるまでの8時間近く、梨華はずっと安倍を助けられなかった事、
福田の意識を感じ取れなかった事で暗く沈み込んでいたらしい。その一部始終を、中澤は矢口らに聞かした。
「あの子らしいよ」
と、保田は窓の外を見ながら苦笑した。
「梨華ちゃんって、ほんとネガティブだよね」
矢口も、苦笑した。
「後ろで加護と辻は騒いでるし、その後ろはメソメソした石川にオロオロしてる吉澤やろ。なんか、もうメチャクチャやったで」
「じゃあ、あの飯田さんの力もわかんないんだ」
「圭織か? 圭織はアレや。紗耶香も圭坊も知ってるやろ」
「え?」
と、いう感じで市井と保田が中澤に注目した。
「森のばあちゃんが、普通に暮らせるってゼティマに連れてくるのを見送ったヤツや」
市井と保田は、互いに分からないといった表情で顔を見合わせた。
「宇宙と交信できるヤツや」
中澤のその言葉に、「あー」と保田が声を上げた。
「知ってる。あの子だよ、紗耶香」
「――あぁ、チャネリングの」
「そうや。ウチも帰る途中で思い出したんや」
「ちゃねりんぐ?」
矢口の言葉と同じような疑問符を浮かべている人物が、もう1人いる。
それは、階段に座ってボーっとしていた後藤である。中澤が、市井に問いかけた時、ハッと我に帰って話を聞いていた。
「まぁ、宇宙意思とかなんとか、そういう目に見えん大きいもんと交信できる力やねん。圭織のは、その中でもちょっと特殊でな」
「特殊って?」
「あれ、なんていうんやったっけ?」
と、中澤が市井に訊ねた。
「――アカシックレコードだったかな」
「そう。それ。そのアカシックレコードっていう……。ん?」
市井は少し苦笑すると、身を乗り出して話を聞いている矢口に向かって話しだした。
「宇宙のどこかには過去も現在も未来も関係なく、すべての出来事が記録されている場所があるらしい。
それをアカシックレコードっていうの」
「???」
「圭織は、そのアカシックレコードを読みとることができる」
「それ、読みとるとどうなんの?」
「ありとあらゆるものの過去・現在・未来のすべてがわかる」
「すごいじゃん、矢口のよりすごいよ」
興奮する矢口をよそに、市井はニヒルな苦笑を浮かべて首を振った。
「実用性は、0に等しい」
「なんで? なんでも見れるんでしょ?」
「アカシックレコードには、宇宙すべての出来事が記録されてる。その中で、自分に関係したものを見つけるのは不可能だって」
「……宇宙、すべて?」
「うん――。まぁ、仮に地球上の自分に関係するものを見つけられても、さらにそこから今いる自分に関係するものを見つけるのも難しい」
「???」
「パラレルワールド。確定した未来の話の時に、教えたやろ」
混乱する矢口に助け舟を出すかのように、中澤が口を開いた。
「あ、うん。この世界は1つじゃなくて、平行して色んな世界があるって……。でもそれって、理論上でしかないんじゃ」
「理論を実現できんのが、科学の弱点やって教えたやろ」
「あ、そうだったね先生」
「よしっ。居残り授業しよ。マンツーマンでみっちり教えてあげる」
「もう、いいよ。セクハラで訴えるよ」
「その無数にあるパラレルワールド。そこから今の自分の世界を見つけるのは、あの森のおばあちゃんでも無理だった」
「”絶対的な力”を持ってた人でも? ちょっと、いい加減にしてよ」
と、抱きついてくる中澤を、矢口は必死で引き離そうとしている。
「ちょっと裕ちゃん、いい加減にしたら? いちーちゃんが話してる途中じゃん」
と、後藤が立ちあがった。
「あーあ、怒られた。矢口のせいやで」
「なんでよ」
「かわいいから」
その場にいた中澤以外の全員が、軽いため息を吐いた。
ただ、保田の姿がいつの間にか消えていた――。しかし、誰も彼女がいなくなった事に気づいてはいなかった。
ひとみは加護と辻に夕食の手伝いをしてもらおうと、2階の端にある非常口から外へと下りたった。
ロビーから外へ抜けてもよかったのだが、部屋からは非常口の方が近く、
そしてなにやらロビーでは難しい話をしていたようなので非常口を使う事にしたのである。
非常口を下りると物置のような場所があり、その向こうは白い柵で覆われている。そして、その向こうは昼までも薄暗い竹林があった。
白い柵の向こう側と、こちら側――。ほんの少しの距離で、これだけも雰囲気が違う――。
ひとみは、自分たちは今どちら側にいるのだろうかと考えてしまった。
不安はあったが寂しくはなかった。
自分の存在価値も見つける事ができず、誰とも分かり合えない人生を送るよりも、ずっと充実していたからである。
だが、やはり不安もあった。それは、能力を持っていない自分だけがいつか取り残されていくのではないかという不安だった。
今も決して、梨華以外の人物に溶けこんでいるとは言いがたい。それは、自分でもわかっている。
彼女たちの目指すユートピアに、自分の居場所はあるのだろうかと不安で仕方がなかった。
(はぁ〜、いいや。難しいのは、また後にしよ)
ひとみは不安を打ち消すように、コテージの表へと周り込もうとした。その視界の隅に、竹林へと入っていく保田の姿を捉えて足を止めた。
(保田さん……、何やってんだろこんなとこで)
保田は後ろを振り向くことなく、どんどんと竹林の奥へと入って行ってしまった。
なんとなく、その様子が気になったひとみは、しばらく時間をおいて保田の去っていった方向へと足を進めた。
――竹林の奥は、手入れもされていないので竹が伸び放題になっている。
群生過密の竹が陽光を遮り、昼間だというのにかなり暗かった。
(こんなところで、ゼティマのヤツラに襲われたらどうしよう)
(やだなぁ……)
(保田さん、どこ行ったんだろ)
竹林に生えた雑草を振り払いながら歩いていくと、小さな声が聞こえてきた。
やっと保田を見つける事ができ、危険なので帰ろうと誘うつもりだったが、
保田のその声を聞いた時、ひとみは咄嗟に近くにあった岩陰に身を隠した。
『ええ。今もコテージにいます。記念病院の件も――、はい。中澤・加護・石川の3人です』
話のトーンからして、家族や友人と話をしている風には思えなかった。電話。
しかも、相手は<Zetima>の関係者だろうとひとみは推測した。
『飯田佳織、辻希美の両名は、こちらにいます。――ええ。――わかりました。
随時報告しま――。あ、いえ、なんでもありません。――はい』
ひとみは保田の会話が途中で途切れた時、一瞬、自分が隠れているのがバレたかと思った。
だが、そうでもなかったらしい。保田は、電話をきったようである。
(報告って……)
(保田さんが……)
ひとみは、保田が裏切っている事にショックを受けた。直接話したことはないが、梨華からいろいろと話は聞いている。
市井の右腕であり、優秀な能力者であり、目標のために誰よりも影で努力している事も――。
そんな保田が、裏切っていたとは――。自分のショックというよりも、梨華が受けるであろうショックのことを考えると胸が痛んだ。
(……!)
ひとみは、不意に思い出した。保田の”優秀な能力”が、”透視”だったとを――。
岩場の影はなんの意味もないことを悟った時、ひとみの後頭部に鋭い痛みが走った。
気を失う間際、ひとみは遥か遠くに少女の姿を見たような気がしたが、すぐに意識が遠のきその場に倒れ込んだ――。
「あいちゃん」
「んー?」
希美の呼びかけに、桟橋に船をロープでくくりつけていた加護が振りかえる。
「梨華ちゃん」
と、希美が指さす方向に加護は顔を向けた。
こちらへやってくる梨華が見えた。だが、少し様子がおかしい。不安な表情を浮かべて辺りを見まわしている。
正直なところ、加護はあまり気にしていない。不安そうな表情を浮かべているのはいつもの事であり、
それがそのまま大事に結びついているとは限らない事を知っていたからである。
「なんか、あったのかなぁ?」
「梨華ちゃんは、いっつもああやねん」
「なんか、言ってるよ」
気にはしなかったものの、加護はロープを結びながら届いてくる梨華の声を聞いていた。
「あいぼん、ののちゃん、ひとみちゃん見なかった?」
加護は、「知らーん。見てへーん」と作業しながら答えた。
「梨華ちゃん、泣きそうな顔してる」
「え?」
「ほら」
見ると、梨華は泣きそうな顔をしてオロオロと辺りを見まわしていた。さすがに、加護も何かあったのだろうと推測せざるを得なかった。
――加護と希美が駆けつけた時、梨華の目にはもう涙が潤んでいた。
「どうしたん、梨華ちゃん」
「ねぇ、ホントに見なかった?」
「見てないよ。なー?」
希美が、こくりとうなずいた。
「何があったん?」
「ひとみちゃんの意識を、まったく感じないの」
「……買い物でも行ったんと違う?」
「あいぼんとののを呼びに――それに、こんな時に1人でどっか行ったりしないよ」
と、梨華は辺りを見まわしている。
「こっちの方には、来てへん」
「じゃあ、どこ行ったのよ〜……」
「敵かなぁ」
加護の言葉に、希美がビクッとして辺りを見まわした。加護もいつでも力を放てられるように身構えた。
「あいぼん、市井さんたちを呼んできて。私、もうちょっとこの辺を探してみるから」
「わかった」
と、加護と希美は、コテージへと向けて駆けていった。
コテージから、矢口の姿が消えていた。
中澤がトイレに行ってロビーに戻ってくるとそこには市井と後藤の姿しかなく、矢口は部屋に戻った後であった。
中澤も自分たちの部屋に戻った。
ロビーに残って市井と話をしている後藤から、2人の時間を邪魔してほしくないという雰囲気が発せられていたからだ。
「後藤も、あからさまやなぁ」
と、中澤は苦笑しつつ部屋のドアを開けたが、そこにも矢口の姿はなかった。
特に気にすることもない。四六時中顔を合わせてはいるが、いつも側にいるわけではない。
どこかの空き部屋で、もしくはひとみと梨華の部屋で過ごしているのだろうと考えていた。
10分が過ぎ、30分が過ぎ――1人で退屈だった中澤は、もう1度ロビーに戻る事にした。
夕飯の時間も近くなったので、皆が顔をそろえている頃だろう、そしてそこに矢口もいるのだろうと考えていた。
だが、そこにいたのは息をきらせた加護と希美。
そして、神妙な表情をした市井と、窓辺に立って外の様子をうかがっている後藤と、
ロビーの隅で中澤に気づいて階段の方を見ている保田の姿だけであった。
「裕ちゃん、吉澤見なかった?」
中澤に気づいた市井は、階段を振りかえった。全員の視線が、中澤に寄せられる。
「よっさん? 見てないけど。それより、矢口知らん?」
加護と希美が、目を見合わせた。
「なんか、あったんか?」
と、中澤が問いかけた時に、ロビーのドアが開いて梨華が駆け込んできた。
「やっぱり、どこにもいません」
――その後、梨華から事情を聞いた中澤は、とっさに矢口の身を心配した。
「矢口も、おらんようになった」
その言葉に、全員に緊張感が走った。
「ぜてぃまから、敵がきたんかなぁ?」
「なんで、よっさんと矢口を。よっさんなんか、関係ないやんか」
「人質かも」
市井は、自分たちの行為を思い出した。
「……よし、手分けして探そう。紗耶香と石川は、意識の網を限界まで広げてちょっとでも変な意識が流れてきたらすぐに報告。
加護は石川と、後藤は紗耶香と一緒や」
「アタシは……?」
保田が、椅子から立ちあがって呟いた。
「圭坊は、ウチと一緒や。ここから、圭坊の見える範囲内すべて透視して調べてもらう」
「探しに行かないの?」
と、後藤が声をかける。
「辻と圭織2人っきりにしてたら、危ないやろ」
「そっか」
「よし、じゃあ頼むで」
梨華たちがロビーを出ようとした時、希美が口を開いた。
「あ、あのっ」
「なんや」
「ちょっと待っててもらえますかぁ?」
その舌足らずな口調は、この緊迫した空気には不釣合いであった。自然と、中澤の声も荒くなる。
「なんやねん、忙しいねん」
「ちょっとだけ、待っててください」
と、希美は全員をロビーに残して中央にある階段を駆け上がっていった。
「なんやねん……、あの子は」
一瞬、呆然と見送った中澤だが、すぐに梨華たちに指示を出そうともう1度ロビーへと向き直った。
「わぁ!!」
中澤は思わず、悲鳴を上げて腰を抜かしそうになった。全員の視線が、悲鳴を上げた中澤に注がれている。
「う、うしろ……」
中澤が、ロビーにいるメンバーの後ろを指さした。全員が、「?」と後を振りかえる。
梨華の甲高い悲鳴が聞こえ、加護が腰を抜かし、後藤と市井の口が開き、保田の目が見開いた――。
ついさっき、2階に駆けあがった希美がドロドロの格好をしてロビーに立っていたのである。
「のの……」
加護は、腰を抜かしながらもなんとか誰よりも早く口を開く事ができた。
他の者たちは、まだ混乱している様子である。
「転んじゃったぁ」
と、希美はテヘテヘと笑い、白い八重歯を覗かせた。
「あんた……、いつの間に……」
中澤が震える声で、ロビーにいる希美と階段を交互に見つめた。誰もが階段を駆けあがっていった希美の後ろ姿を確認している。
しかし、誰も階段を下りてきた希美の姿は見ていない。それは不可能な事だった。
見送り、そして中澤がロビーに視線を戻したほんの2秒ほどの間に、希美はもうすでにその場所にいたのである。
希美は中澤の声が聞こえなかったのかそれには答えることなくもロビーの隅にいる保田の方を向いた。
混乱していた保田だが、その何もかもを見透かしているような希美の視線を受け止める事ができずに目をそらした。
「保田さん……、しょうじきにぜんぶはなしてください」
全員、希美の言葉の意味が分からずにただ呆然と2人を見ていた。
「辻は、ぜんぶ見たんです。――ん?」
と、首をかしげたのと同時に、市井と梨華の表情がハッとなった。
「辻……、あんたの力って……」
「時間移動……」
市井と梨華の言葉に、他の3人が驚いた。
「なんか、頭の中がうごいてる」
保田は軽いため息を吐くと、テーブルの椅子に座り込んだ。
保田の脳の中にも、触手が伸びているのを感じ取っていたからである。
その感触が市井のものであり、もうすべてを読まれている事を悟った。
「圭ちゃん……」
市井の寂しげな口調に、保田は軽く微笑を浮かべた。
「吉澤と矢口は、無事よ。ちゃんと安全な場所に閉じ込めてるから。
ま、吉澤にはちょっと痛い目にあってもらったけど。紗耶香、後で頼むね」
「なんで……」
中澤も後藤も加護も、何を言っているのか詳しい事はわからなかったが、あえて口を挟むことはしなかった。
その2人の空気から、おおよその見当がついていたのである。
梨華は、ひとみたちを救出しにロビーを飛び出していった。
「だって、紗耶香、このまま逃げきれると思う? いつか、みんな殺されちゃうよ。つんくが黙ってこのままにしておくわけないじゃない。
だったら、もう1度ゼティマに戻れるように頼んでみたの。ゼティマにとっても、ウチらの力は絶対に必要なはずなんだよ」
「また利用されろって言うの!」
「違う」
「圭ちゃんは、今も利用されてるんだよ! なんで、それに気づかないの!」
「わかってるよ! けど、アタシはみんなを救いたい! このまま、こんなところで黙って殺されるのなんか絶対に嫌!
利用されててもいいから、みんなと一緒に居たいんだよ」
保田の目に、大粒の涙がうかんだ。しかし、保田はそれをこぼさぬように、ジッと耐えている様子だった。
「もう、ええやないか紗耶香」
と、中澤がやって来て2人の間に立った。
「どうすんのよ! アタシたちの動き、向こうにバレてんだよ」
「圭坊も、悪気があってしたんと違う。なぁ、圭坊」
中澤のその声を聞いたとたん、保田が唇を震わせて目を伏せる。
「圭坊、ごめんな。ウチがおらんかった時、あんた全部1人でしょい込むクセついてもうたんやな。
ウチがもっとしっかりしてたら、こんな事にはならへんかったのに。ごめんな」
優しい微笑を浮かべた中澤。保田はもう涙を堪える事ができなかった。テーブルに顔を突っ伏すと声を上げて泣いた。
「圭ちゃん、大丈夫だよ。もう心配しなくていい。後藤がアイツら潰してやるから」
後藤の目にも、うっすらと涙が滲んでいた。
今まで涙など見せた事のない保田であり、いつも大きな態度で自分と接してくれていた、
そんな保田が背負い込んでいたものに気づかなかった自分にも腹が立ったし、
このような行動をさせた<Zetima>には強い殺意を抱いた。
「ごとーさん行くんやったら、ウチも連れてってなー」
と、加護が後藤の腕を引っぱった。無邪気な笑顔を浮かべていたが、加護にも保田の涙はショックだった。
「アンタら、アホかッ!」
中澤の怒声が、ロビーに響き渡った。佇んでいた希美は、その声だけでもう泣きそうになっている。
「なんでよっ! アイツらさえいなかったら、みんなこんな思いしなくてもいいじゃん!」
「アンタらがそんなんやから、圭坊はこんなに悩んでんねん。それが、わからんのか!」
「……」
「ごっちんの力が強いのは、わかる。けどな、ごっちんも人間や。死なんなんて保証どこにもない。
加護も、あんたまだ12才やそんな若こうして、なんで戦ったりせなあかんねん。そんなんで、死んで誰が喜ぶ?
そんなんが嫌やから、圭坊はあの会社に利用されててもええからみんなと一緒にいたいって思うててんで」
「どっちにしても、戦わなあかんやんか」
加護が、泣きながら声を震わせた。希美がそっと駆けより、戸惑いながらその手を握った。
「能力者にやったら、あんたらは負けへん。こっちの手の平が見えてるゼティマに立ち向かっていくよりマシや。
圭坊は、そう思ったんやろ?」
訊ねられた保田は何も答えなかったが、伏せていた頭を小さく縦に動かした。
「紗耶香もそんなところあるからな、どうせ同じような事考えてたんやろ?
やめとき。そんなんせんでもええやないの。誰にも見つからん静かな場所で暮らそう」
中澤は微苦笑のようなものを浮かべて、市井に視線を向けた。
市井は何も答えずに、視線を窓の外に向けた。
表のデッキを歩いてくる、ひとみたちの姿が見えた。
「お、矢口ら帰って来たみたいやな」
ロビーのドアが開いて、ひとみ・梨華・矢口が入ってきた。
だがもうすでに、状況を知っているのか、何かを話すでもなくしんみりとした表情を浮かべてドア口に佇んでいる。
市井は前髪をかきあげながら、ひとみへと歩いた。
梨華が小さく「お願いします」と呟くと、後頭部を押さえたひとみも市井に頭を下げた。
市井は、軽い微笑を浮かべてひとみの後頭部を軽くなでる。
「よっさん、大丈夫か?」
「あ、はい」
と、ひとみは笑顔を向けた。
「吉澤、ごめんね」
と、テーブルに突っ伏した保田が呟いた。
「あ、もういいんです。保田さん、あそこでも謝ってくれたじゃないですか」
「どこに、おったの?」
「ここから五百メートルほど離れた、小屋みたいな所です」
梨華が窓外を指差したが、外はもう暗くなっていてなにも見えなかった。
「あの、アタシ、ホントに大丈夫ですから。保田さん、パニックになってたみたいで、後で事情聞いて、
その、矢口さんのことはアタシが原因なんです。意識を隠しても、アタシを探しに矢口さんが過去を見るって言っちゃったから」
「あ、でも、矢口はちゃんと圭ちゃんから事情聞いて納得して自分で向かったんだよ。
だから、圭ちゃんもよっすぃも関係ない。矢口は、自分で行ったの」
それを聞いた中澤は、「あんたら……」と笑うとすぐに顔を伏せて肩を震わせた。
「泣くなよー、裕子、泣くなー」
と、矢口はいつものように明るく笑った。
希美は、気配に気づいて顔を上げた。吹き抜けのロビーの2階廊下に、飯田が微笑を浮かべて立っていた。
飯田の唇が小さく動き、希美が白い八重歯をのぞかせて大きくうなずく。
それぞれの思いは複雑だったが、根底にあるものは1つだけである。
それは、その場にいる全員が理解していた。
ほんの数日しか生活しなかったこのコテージ。もうすぐにでも立ち去らなければならない――。
涙を見られたくない中澤が号令を出すと、他の者たちは自分の荷物をまとめにそれぞれの部屋へと戻っていった。
もう誰にも重いものを背負わせたくない――。
中澤がリーダーとなるのを決めたのは、この時が初めてだった。
そして、誰もが中澤をリーダーだと認めたのもこの時からであった。
Chapter−5 <ユートピア>
『番組の途中ですが、臨時ニュースを申し上げます』
走るワゴン車の車内。FMラジオから流れていた歌が途切れ、ニュース速報が車内に流れた。
それぞれの時間を過ごしていたメンバーたちも、なんとなく臨時ニュースに耳を傾けた。
『先ほど午前10時過ぎ、Y県××町にある高鳥原子力発電所で爆発事故が発生した模様です。
詳しい状況はまだなにもわかっておりません。繰り返します――』
「Y県って、あのコテージのすぐ近くじゃん。ヤバかったよね」
と、助手席の矢口が、カーラジオのボリュームを上げる。
「放射能漏れとか、あんのかな」
「どうやろ。爆発事故って言うてたからな」
車内にまた、音楽が流れ始めた。
加護と希美はまるでそれが合図だったかのように、また一番後ろで騒ぎ始めた。
運転席と助手席の後の席に、市井・飯田・保田、その後ろの席にひとみ・梨華・後藤――
そして、さらに後ろのわずかなスペースに加護と希美がいた。
10人は、進路を南へと向けた。特にこれといった目的の場所はない。
ただ、このまま北へ北へと逃亡を繰り返していたら、やがていつか<Zetima>の追跡の範囲を狭めてしまう危険性があったからであった。
もうすでにあのコテージを出発してから、5日ほどが経過していた。
国際空港に、一機のチャーター機が着陸した。
何人かの空港関係者が、チャーター機を格納庫に素早く移動させている。
格納庫の中で、つんくは待っていた。
待ちわびたおもちゃが届くのを楽しみにしている子供のような表情を浮かべて、
チャーター機から運び出される長さ数メートルのBOXを見ていた。
今すぐにでもその中身を見てみたかったが、どうやらそういうわけにもいかないらしく、
つんくは渋々そのBOXの所有者であるドイツ人男性の元へと歩いて行った。
「はじめまして。遠いところ、わざわざお越しいただき感謝しております」
と、つんくは通訳の人物を通して青白い顔をしたドイツ人男性に挨拶をした。
二言三言、社交辞令の挨拶を交わし、つんくたちは外に待たせてあった黒色のリムジンに乗り込んだ。
つんくの待ち望んでいたBOXは、厳重な警戒態勢のもと大型トレーラーにて目的の場所に運ばれる。
――ひとみの祖父母が、存命中に日本旅館を営んでいた。
山の奥深い場所にあり、避暑地として静養地として”通”の旅行客たちに利用されていたらしい。
ひとみはまったく知らなかったが、明日香によって再生された記憶に不備な点がないかをひとみの依頼により探っていた梨華が、
偶然に最下層近くでその事実を発見した。
梨華がその事を告げると、皆の気分は浮きたちだった。
偶然にも、その日本旅館のある県は、ワゴン車を走らせている県の隣接している県であったので
中澤は進路をひとみの祖父母の営んでいた日本旅館に向ける事にした。
「のの、温泉一緒に入ろうなー」
「うん」
「なー」
「なー」
コテージを出発してからの7日あまりの流浪生活にやっとピリオドが打てると思えば、
自然と皆の気分も晴れ晴れとしたものに代わっていった。
とりわけ、座席もないトランクスペースに追いやられていた加護と希美は、かなり嬉しそうにはしゃいでいた。
それから約6時間後、日もすっかり暮れた頃に、目的の日本旅館に到着した。
10年前に祖父母が相次いで他界してから、旅館を閉鎖しているものの壊すことなくそのままにしていると――ひとみは、記憶していた。
きっと、両親から幼い頃に聞かされていたのだろう。
そして、その記憶に想像をプラスさせて素晴らしいたたずまいの日本旅館を記憶の奥底にしまっていた。
それを梨華は読み取り、その美しいたたずまいの日本旅館を皆に伝えた。
皆も、梨華の言った美しい日本旅館をイメージして、旅の疲れを癒そうと晴々とした気分で目的地に到着した。
だが、車のヘッドライトに照らされたその建物は、長年雨風にさらされて庭の雑草も生え放題となっている幽霊屋敷そのものだった。
ひとみと梨華は、皆の失望した視線を浴びて苦笑いを浮かべるしかなかった。
翌日、メンバーたちはその幽霊屋敷へと足を踏み入れた。
玄関を開けると、そこはもうすぐに土間になっており、八畳敷きの部屋の中央に囲炉裏がある。
土間の右側を周り込むようにして廊下が続き、その奥にいくつかの客室らしき部屋がある。
皆の想像をはるかに超えた、小さな小さな”日本旅館”であった。
おまけに、部屋の至るところに風で飛ばされてきたのであろう、様々な雑草類が群生していた。
「旅館って言うよりも、日本昔話みたいな感じやなぁ」
と、中澤が土間の出入り口付近でポツリと呟いた。
「よっすぃ、温泉は?」
加護が、楽しみにしているものは見渡す限りありそうもなかった。
「あ……、どうだろう……」
ひとみが返事に困っていると、外から希美の声が聞こえてきた。
『あいぼーん、温泉あったー』
「やったー」
と、加護は飛びあがると、すぐに土間を飛び出していった。
残されたひとみ・梨華・中澤も、信じられないといった感じですぐ後を追った。
母屋とは別に、湯屋が庭の隅にあった。
湯屋の中はさらに荒れ果てたものとなっていたが、確かにそこには温泉が湧きあがっている。加護と希美が、大騒ぎしていた。
飯田はその浴場の外にある露天風呂の脇に佇んでいた。珍しく、その目は露天風呂に焦点が合わされている。
その光景を見た中澤は、思わずため息を漏らした。
「なんや、結構スゴイやないの……」
ひとみと梨華は、やっとホッとできたような感じで2人で顔を見合わせた。
『ちょっと、裕ちゃん。こっち来てみなよー』
湯屋とは反対側の母屋の裏手から、矢口の歓喜の声が聞こえてきた。
「次は、なんやねんな」
と、中澤が嬉しそうにはしゃいで駆けていった。
ひとみらが駆けつけた時、もうすでに矢口は厚底のスニーカーとルーズソックスを脱ぎ捨ててその渓流で戯れていた。
透き通るような渓流が、広い庭園を横切っていた。
「よっさん……、これある意味あんたの想像超えてんで」
と、中澤がその素晴らしい中庭の光景に驚いていた。
たしかに、雑草は伸び放題となっているが、庭園の出来としてはちょっとした観光名所よりも素晴らしい光景であった。
緑と庭石と渓流、その見事なバランスは芸術そのものであった。
「矢口ぃ」
中澤は、渓流で戯れる矢口の元へと嬉しそうに走っていった。
「ひとみちゃんちって、すごいね……」
その光景に見惚れていた梨華。
「来た事ないから、知らなかった……。ホント、すごい」
と、ひとみはまるで人事のようにつぶやいて、その光景に見惚れていた。
上流の方から、市井・後藤・保田が歩いてきた。
「ここを残しておきたい気持ちもわかったよ。すごいわ、ここ」
保田が、ニヤニヤしながらひとみに向かって言った。
「あ、はい……」
さきほどまで風景に見惚れていたひとみだったが、戻ってくる後藤を見かけると急に現実に戻らされたような気分になった。
咄嗟に目をそらしてしまい、後藤もそれに気づいたようであった。
「上の方見てきな。綺麗な滝があるから」
梨華が、「わぁ、凄い」と指を組んで微笑んだ。
「なんかわかんないけど、山菜みたいなのもいっぱいあった」
「ひとみちゃん、行ってみよ」
「え? あ、うん」
と、ひとみは後藤の視線を気にしつつ、梨華に手を引かれて上流へと去って行ってしまった。
後藤は少し寂しげに、その背中を見送った。市井は、後藤の心の声を読み取っていたが、あえて何も知らない振りをした。
そして、そのまま渓流で矢口と一緒に戯れている中澤に声をかけた。
「あのさ、裕ちゃん」
声に気づいて、中澤が振りかえる。
「なんやー?」
「しばらく、ここで暮らす事にしない?」
「はー? 暮らすって、中はあんなんやでー。そらちょっと、無理やろー」
「ウチらで住めるようにすんだよ」
「――ハハ。そうやなー。そら、ええわー。ちょ、矢口ぃ冷たいなぁ」
と、中澤と矢口がまた水の掛けあいを開始した。
市井は微苦笑を浮かべると、後藤と保田に向きなおった。
「じゃあ、とりあえず必要な道具買い揃えようか? 悪いんだけど、圭ちゃん。ちょっと買い出し頼めるかな」
「うん、いいよ」
「後藤、あんたも一緒に」
「いちーちゃんは?」
「あたしは残って、部屋の掃除してる」
「えー、一緒に行こうよ」
「吉澤と石川も、一緒に行ってもらう」
「……よっすぃ」
「じゃあ、圭ちゃん頼むね」
と、市井はひとみと梨華を呼びに、上流へと歩いていった。
「ちょっと、いちーちゃん……」
市井は振りかえることなく、庭石の向こうへと歩いて見えなくなった。
「ごっちんも吉澤も、これがいい機会だと思うよ」
と、保田はポンッと後藤の肩を叩くと旅館の表へと歩いて行った。
残された後藤は、ただうつむき加減で唇を尖らせ佇んでいた。
山奥の旅館から、麓の一番大きな町まで車で約2時間ほどかけて移動した。
その車中でも、ホームセンターで旅館の修繕に必要な物を買い揃えている間も、ひとみと後藤の間には特に会話らしい会話はなかった。
「石川、ちょっと」
保田は、ひとみと一緒に日用雑貨を眺めている梨華を呼びよせた。
「なんですか?」
「あのさ、後藤と吉澤を2人っきりにしたいんだけど、何かいい方法ないかな?」
「ごっちんと?」
「声が大きい。気づかれたらどうすんの」
と、保田は少し離れた場所にいるひとみを見やった。
「すみません……」
「――吉澤がこのまま帰るんなら、ごっちんとの関係もこのままでいいと思う。もう2度と会うことはないと思うから」
「……」
「でも、吉澤は石川が残る限り、石川の側を離れないと思うの」
「私も……、離れたくありません……」
「うん。だからさ、やっぱりこれからのことを考えると」
「……でも、ひとみちゃんは」
「お互い、憎しみ合ってんじゃない。ただ、どう接していいかわかんないだけ。
ここはさ、ちょっと強制的にでも話し合いとかした方がいいと思うんだ」
「……」
梨華の中にもずっと、その問題は気がかりだった。幼い頃の後藤は、決して力を使いたくて使ったわけではない――、
そして、今も自分の力をどこか恐れている部分がある。
ひとみも梨華の話や、記憶の書き換えにより、以前ほどの恐怖は持ち合わせていない。
だが、2人の間には”怖い目に遭わせた”者と”怖い目に遭った”者の複雑な心理があるため、一向にその距離は縮まる事がない。
やはり保田の言う通りに、これからのことを考えるとこのままではいけないような気がした梨華であった。
――ひとみは梨華に言われた通り、隣にあるスーパーマーケットの前で待っていた。
(遅いなぁ、何やってんだろ)
と、辺りを見まわした時、少し離れた場所でやはり同じように辺りを見まわしている真希がいた。
”ヤバイ”と思ったときには既に遅く、2人の視線は互いの存在を捉えていた。
――そのまま、長い時間が経過した。
先に口を開いたのは、ひとみだった。
「あ……、保田さん?」
真希は少しうつむき加減で、「あ……、うん」と答える。
それで会話は終了したかのように思えたが、以外にも真希が続けて言葉を発した。
「吉ちゃ――、よっすぃは?」
「ん……?」
「梨華ちゃん、待ってんの?」
「あ、うん。なんか、先に行って待っててくれって」
「ハハ。一緒だ」
笑っているのだが、その笑いは会話の間のようなもので特に何かが楽しいわけではない。
――ひとみは、これまで共に行動しながら、真希のクセを見抜いていた。
真希が本当の笑顔を見せるのは、市井といる時だけであるのも知っていた。
(市井さんといる時は、”真希ちゃん”だ……)
(10年前と同じ……)
(真希ちゃん……)
(真希ちゃん……)
ひとみは、後藤をジッと見つめたまま10年前の姿と重ねていた。
さっきまで何も見ていなかったような真希だったが、ついにその視線に耐えきれなくなったのか少し顔を赤くして顔を背けた。
「後藤の顔に……、なんかついてんの……?」
後藤の言葉に、ひとみはハッとわれに戻った。
「あ、ううん。別に。それより、2人とも遅い。何やってんだろうね」
ひとみは苦笑すると、辺りを大袈裟なほど見渡した。
その姿を横目でチラリと見た真希が、クスッと笑う。
「真希ちゃん――」
ひとみはその笑顔を見て、思わずそう口走ってしまった。さっきの笑顔は、10年前に自分に向けられていたものだったからである。
後藤が驚いたような表情で、ひとみの方を向いた。後藤にとっては、とても懐かしい呼ばれ方だった。
「そう呼んでるの……、吉ちゃんだけだよ」
「真希ちゃんも、ずっと覚えてたんだね。その呼び方」
2人は互いに見つめあい、そして静かに笑った。
「先……、買い物してようか?」
「……だね」
と、ひとみと真希は、互いにどこかぎこちなさを残しながらも微かな照れ笑いのようなものを浮かべてスーパーマーケットへと入っていった。
飯田の能力がなんであるのか、そして希美との関係を誰も詳しくは知らなかった――。
市井と梨華には、相手の考えていることを読みとる”精神感応”の能力があり詳しく探ろうと思えばできない事はない。
だが、市井も梨華もあまりそういう事はしたくはなかった。
人には誰しも触れられたくない部分があり、ましてや共に暮らす仲間としてはそのようなものを
知らないでいる方が潤滑な人間関係を営む事ができる。
もしも、自分で話したくなった場合は、そのような力を使わずとも普通に聞くこともできるので、
極力、緊急な時以外は仲間うちでは意識下を読むような事はしないようにしていた。
しかし……。
市井は気になっていた。希美の能力は、”時間移動”であるということは、7日ほど前にわかった。
だが、それ以来、特に何も能力は使っていない。
市井はコテージで自らの口で、今自分たちがおかれている状況を飯田と希美に説明した。
さらにはその前に、中澤の口からも説明されているはずである。
普通、そのような状況に置かれている場合、矢口のように未来を事前に知っておきたいという不安に駆られたりはしないのだろうか――、
と、市井は思うのだが、今、目の前で加護と戯れながら旅館の掃除をしている希美はそんな事はまるで考えていない様子である。
「市井さん、どうしたんですか?」
加護の問いかけに、市井はフッとわれにかえった。考え事をしている間、ずっと2人の方に視線を向けていたらしい。
加護と希美が、きょとんとした顔をしている。
「いや、別に。それより、ここ頼むね。隣の部屋掃除してっから」
――と、市井は加護と希美を残して廊下へと出ていった。
市井が廊下に出ると、土間に飯田がいた。
たしか、土間に群生している雑草の掃除を頼んであったのだが、上がりかまちに座り込んで宙をぼんやりと見つめている。
そのような状態の飯田は、”交信中”らしい。
チャネラーとしてはもっともな状態なのだが、希美にいわせるとそれは特に関係ないらしく、癖のようなものだと市井は教えられていた。
「圭織。――圭織」
と、何度も名前を読んでみたが、飯田の意識はもう遠い彼方に行っているらしく、戻ってくる事はなかった。
市井は軽いため息を吐いて、廊下を奥へと歩いて行った。
旅館の掃除は、いつまでたっても終わりそうな気配はなかった――。
中澤と矢口は、遠巻きに2人の様子を眺めていた。
ひとみと後藤が、まるで昔からの親友のように談笑しながら露天風呂の掃除をしている。
麓の町に行く前までは、いつもの様子と変わりがなかった。
それが帰ってきた途端に――。
「何があったんやろ……」
「わかんない」
中澤と矢口も、2人の関係を知っている。決して修繕されるようなものではないだろうと、中澤も矢口も思っていた。
万が一、互いが歩み寄るような事があってもそこにはほどほどの距離があり、
今こうして目の前の2人のようにはならないだろうと思っていた。
「あ、中澤さん、矢口さん」
2人に気づいたひとみが、笑顔で手を振った。
思わず笑顔で手を振り返した2人ではあったが、かなり引きつった笑みを浮かべていた。
「もうすぐしたら、ここ使えるようになるからねー」
後藤がいつになく、はしゃいでいる。
「夕飯までには終わらせますから」
「ちょっと、よっすぃ。泡ついてるよ」
「え? あ、ホントだ」
他愛もないことで笑う2人を眺めながら、中澤と矢口は2人を呼びに来た目的も忘れて母屋へと引き返した。
「まぁ、もともと知り合いだったし、同い年だからね」
と、台所で料理の下ごしらえをしている保田は、驚いて訊ねる中澤とは正反対に、さもなんでもないように言った。
「今まで一緒にいて、吉澤にも後藤の気持ちわかってたみたいだし」
土間の囲炉裏で火を起こしている市井。
その横に、もう数時間前から同じ格好で宙を見つめている飯田がいる。
「まぁ、仲良うなったんならそれでええけど。それより、みんなは?」
中澤は辺りを見回したが、どこにも他のメンバーの姿はなかった。
「加護と辻は、遊び疲れて寝てる」
保田が苦笑して、廊下の奥の方を顎で示した。
「梨華ちゃんは?」
「川に米研ぎに行くって」
「ネガティブになってんじゃないのー?」
矢口の予想は、それなりに当っているらしく保田が困ったように小さく苦笑した。
夕暮れ――。山の奥深い場所なので、空は夕暮れの色を醸し出しているが地上の方は早くも夜の色を濃くしている。
梨華は、米粒を”釜”からこぼさないように注意して米を研いでいた。
注意していたつもりだったが、研ぎ汁を川に流す時、手の隙間から大量の米が漏れてしまった。
「……やっちゃった」
梨華は軽いため息を吐くと、米を研ぐ手を止めた。
注意力が散漫になっているのは、自分でもわかっていた。そして、その原因が何かもわかっている。
「別にいいじゃない……。ひとみちゃんとごっちんが仲良くしてても」
梨華は小さな小さな声を出して、そうすることによって自分自身を納得させようとした。
ひとみたちに知らせておいた待ち合わせ時間よりわざと数十分遅れて、
保田と梨華がスーパーマーケットに到着した時、もう既に2人は仲良く並んで一緒に買い物をしていた。
その様子を見て保田はホッとしていたようだったが、梨華は嬉しいと思う反面どこか寂しさのようなものを感じた。
帰りの車中では、2人はあまり喋ることはなかったが、来る途中の車内の空気に比べればまるで別物であった。
流れ込んでくるひとみや後藤の意識が、戸惑いからハッキリと喜びに変わっていたのである。
「……」
もしも、このままさらにひとみと後藤が深い関係になるようなことがあれば、
自分はいったいどのようにすればいいのか梨華には分からなかった。
今までのように、いつも側にいることもできなければいつも側にいてもらうこともできない。
いつかのように、またひとみの中で自分ことが消えてしまうのではないか、
消えないまでもその占める割合のようなものが少なくなると考えたら、無性に泣きたくなってしまった。
わけのわからないモヤモヤとした気持ちを振り払うかのように、梨華は米を研ぐ作業に没頭した。
「梨華ちゃーん」
もう日は暮れかけていて、辺りには青白い闇が広がろうとしている。
梨華がその声に気づいたとき、咄嗟に自分が長い間この場所で考え事をしていたのにも気づいた。
梨華はその声に気づいていたが、なかなか振りかえることができなかった。いつもの声で呼ばれてはいたが、どこか切なかった。
振りかえって、もしも冷たい態度などをとってしまったら――そう考えると、怖くて振りかえることができない。
「梨華ちゃん」
足音が、梨華のすぐ後ろで止まった。
それでも、梨華は気づかない振りをして米を研ぐ作業をしている。もう少し、もう少しだけ心を落ちつかせる時間がほしかった。
「なんだ。まだやってたの」
と、笑うひとみの声と一緒に、ひとみの心の中の声も梨華には届いた。
(心配した……)
(なかなか帰ってこないから)
(良かった……)
「ごめん、お米いっぱいこぼしちゃって……」
梨華はやっとの事で、いつもの声を出すことができた。
でもやはり、そのトーンの違いをひとみは敏感に聞き分けたようで、すぐに心の中で呼びかけた。
(なんか、あったの?)
「別に、なにもないよ」
と、梨華はひとみに背を向けたまま笑みをこぼした。
「でも……」
「もうすぐ戻るから、ひとみちゃん先に戻ってて」
「一緒に帰ろうよ。もう暗いしさ」
「大丈夫よ。すぐそこだもん」
「――梨華ちゃん、ホントどうしたの? 何か、変だよ。こっち向いてよ」
「……ごっちんが待ってる。ご飯もお風呂も一緒に約束してるんでしょ。早く戻った方がいいよ」
「梨華ちゃん……」
ひとみの小さな呟きが聞こえた梨華は、きっともうひとみは呆れて帰っていくものだと思っていた。
ひとみの心の声はもう聞こえないようにしていたので、しばらくの間、ひとみが何を考えていたのかは分からない。
ひとみが隣にやって来た時、正直なところ梨華はホッと胸を撫で下ろした。なぜならば、ひとみが笑顔を浮かべていたからだった。
「梨華ちゃん、ひっとして妬きもちやいてんの?」
「な、なんでよ」
「なんか、今の言い方そんな感じだった」
「ち、違います。なんで、妬きもちなんか」
「なんだ――、違うのか」
「……?」
つまらなそうな顔をして夜空を見上げるひとみの顔を、梨華は見つめた。
「梨華ちゃんがもしも、ごっちんと仲良くするなって言ったら、アタシそうするよ」
「へ?」
「だって、梨華ちゃんに嫌われたくないもん」
「……」
「まぁ、梨華ちゃんもごっちんのこと好きだから、そんなこと言わないだろうけど」
「う、うん……」
「ごっちんも、きっと市井さんがそう言えばそうすると思う」
「……かな」
「なんかさ、違うんだ。アタシの中で梨華ちゃんの存在って」
「?」
「――特別なんだ」
梨華はその言葉を聞いて、顔を赤くした。なぜか分からないが、ひとみのそう言った横顔を見つめていたら、急に心臓の鼓動が高鳴った。
梨華はその状態に戸惑いを覚えた。
自分の意識の最下層を自分自身で見ることができたならば、きっとその感情はもう随分前からあったのだろう。
だが、気づかない振りをしてずっと心の奥底にしまっていた。それが、不意に今のひとみの言葉で上昇してきた。
それを、”恋愛感情”と呼ぶ事は、梨華にもわかっていた。
そして、今まで悩んでいたものが”嫉妬”からくる”不安”なのだと言う事に気づいた。
「梨華ちゃん、どしたの?」
と、ひとみが顔を上気させてぼんやりとしている梨華の顔を覗き込んだ。
”楽園”ここが市井らの目指すユートピアなのかどうかは分からない。
きっと、違うものなのだろう。しかし、もうそんな事はどうでもよく。
梨華にとっては、ひとみのいるこの瞬間こそが”楽園”のように思えていた。
このまま時間が止まればいい――。
ひとみの顔を見つめたまま――。
梨華のささやかな願いは、中澤の怒声で打ち消された。
『石川、あんた何してんねん。カレーやで、ご飯がないってどういうことやー』
第5部
Chapter−1 <破滅のシグナル>
大滝の残したリストには、総勢1580人の能力者の名前があった。
いずれ、この者たち全員を長野にある<Zetima>で暮らせるようにしたかったようだが、
残念ながらいくら”絶対的な者”と呼ばれるほどの能力者でも寿命には打ち勝つ事はできなかった。
「ばあさんが死んで、もう5年か……」
つんくは、<Zetima>本社にある会長室で重厚な椅子に身を任せて、近くて遠い時間に思いを馳せていた。
10年前は、つんくもただの青年であった。
大学を卒業し、一流企業と呼ばれる会社に就職したが、そりが合うことができずにわずか1年たらずで退職した。
虚無感が漂う生活を送る中、フと目にした”自己開発セミナー”のチラシ。
つんくは直感的に、”これだ”と思った。社会全体に巣くう虚無感に、
自分が巻きこまれないようにするためには自己を見つめなおし精進する事が何よりも必要な事のように思えた。
このままでは、自分が腐ってしまうような危機感にとらわれていた。
そして、数万円を払ってセミナーを受けたが、
”超能力”というものを用いて自己の能力を上げるという何ら科学的・心理学的に確証のないエセセミナーに失望した。
そのセミナーは、どこかの新興宗教が信者獲得のため名前を伏せて開いているセミナーで、
自分が騙されたと気づくまでにそう時間はかからなかった。
幼い頃から、”超能力”という非科学的なものにはあまり興味はなかった。
幼少の頃に、自分と同年代の少年たちがスプーンを曲げたりしているのをテレビで見て憧れたりもしたが、
それは幼少の頃であって、いい年齢になってからは、そんな事にはまったく興味を示さなくなっていた。
「しょーもな」
と、小さく毒づき、そのセミナー会場から出ていこうとした時、ステージに1人の少女が立たされた。
講師であり、新興宗教の教祖である”グル”と呼ばれていた男は、
自分の超能力でこの少女の中にある潜在能力を引き出す事に成功したといった。
その特殊能力は、”どんな傷をも治すヒーリング能力”だとグルは熱く語った。
つんくは、ドアの前からその様子を眺めていた。
どうせ、このまま残っていてもくだらないショーを見せられるだけだと頭では分かっていたが、
その少女が発する独特の雰囲気が、もしかしたらという期待をつんくに与えて、外へと向かう足を止めさせている。
「信じられぬものはその目で見るがよい。疑うものはその力を感じるがよい。――そこの君、こちらへ」
講壇から指名されたつんくは、断る間もなく信者らしき若い男2人に両脇を抱えられて連行された。
そして、理由もなく突然、腹部をナイフで一突きされた。一瞬、会場内が静まり返った。
つんく自身にも何が起こったのかわからなかった。腹部に何か熱い物が突き刺さった感触がある。
そこに触れた手を目線まで持ち上げると、その両手は鮮血で染まっていた。それだけでもう気を失いそうになってしまった。
かざす両手の向こうにいる少女が、泣き叫んでいる。
もしかしたら、という淡い期待はその少女の泣き叫ぶ様を見て絶望へと変わった。
わけのわからないカルト宗教のセミナーに参加したせいで、こんな無残な最期を向かえるのかと思うと情けなくて涙が滲んだ。
「さぁ、サーヤ。お前の持つその力で、この傷つく者を救いなさい。さもなければ、この青年はこのままここで息絶えるだろう」
グルの声を聞きながら、つんくは涙を流しながら少女を見上げた。腹部からの出血により、もう立つことさえできなくなっている。
少女は泣きじゃくりながら、首を横に振っていた。
「さぁ、今こそお前の力を出すのだ。さもなければ、この青年は死んでしまうぞ」
少女は泣きながらも、首を横に振りながらも、つんくの元へと歩み寄ってきた。
腹部の痛みも相当の物ではあったが、こうして最期の光景が少女の泣く姿というのもどこか心苦しくもあった。
もうすぐ、自分は死ぬのだろうと目を閉じた時、心地よい感覚が全身を覆った――。
ゆっくりと目を開けると、そこから吹き出していた血液がピタリと止まっていた。そしてなによりも、鈍痛が嘘のように消えている。
少女は嗚咽を漏らしながら、横たわるつんくの側にしゃがんでいた。
「な……、なんや、いったい……」
つんくの小さな呟きを聞いたグルは、ニヤリと笑うと会場へと視線を向けた。
「まだ信じられぬ愚かな者たちよ。その怠慢を思い知るがよい。私は、神である。神を信じぬものはその力に触れよ」
グルが目配せをすると、会場の隅にいた数人の信者が包丁を握って、会場にいた受講者たちを次々と刺していった。
悲鳴が響きわたり、悶絶するその光景はまさに地獄そのものであった。
「さぁ、サーヤ。この者たちを救うのです」
少女は泣きながら、講壇を飛び降りて会場で横たわる者たちへと駆けていった。
そして、つんくは見た。少女が手をかざすと傷は跡形もなく消え失せ、人々の顔に生気が戻っていく様を――。
つんくの胸の内に突如として、”神を守る使徒”のような使命感が芽生えた。
少女がすべての傷ついたものたちを癒したのを見届けると、すぐさま講壇を飛び降りて少女の元へと向かった。
返り血を浴びて泣き叫ぶ少女を抱え上げると、制止を呼びかけるグルの叫びも無視して会場のドアへと向かって走った。
背中に先ほど感じた熱い痛みが走ったが、それでも止まらずに走った。
自分でもよく分からなかったが、脳が走るように命令していた。
ビルの表の通りに走り出ると、そこに老婦人がいた。
そして、穏やかな笑顔を浮かべながら少女を抱えたまま傷だらけになっているつんくに話かけてきた。
「ご苦労様でした。ここからは、私がお連れしますので」
「な、なんやねん……、急に……。お、お前も、アイツラの仲間か!」
「先に傷の方を治しましょう」
老婦人は、つんくに手をかざした。少女のように直接傷に触れたわけではない。
少し離れた場所から手をかざしただけで、つんくの背中にあった刺し傷がなくなった。
「あ、あなたも……、あなたも超能力者なんですか!」
つんくの問いかけに、老婦人はなにも答えずに穏やかな笑みを浮かべた。
「け、けど、この子は渡しません。ど、どこに連れていくつもりか知りませんけど、渡すことはできません」
「では、あなたも一緒についてきますか? もう歳なので、1人では辛くてね。裕子とあなたにこれから働いてもらいますか」
老婦人が穏やかな声が聞こえなくなった途端、辺りの風景が一変した。
先ほどまでの町の光景がなくなり、つんくの視界には緑の木々が広がっていた。
思考能力がストップして呆然と立ち尽くすつんくの手から、
気を失っている少女を抱きかかえると老婦人は木々の向こうにある小学校のような木造の建物へと歩いていった。
――つんくは、黄色いサングラスを通してその光景を思い出していた。
デスクで鳴った電話が、つんくを過去の思い出から現実へと引き返した。
「――ああ、わかったすぐ行く。――おう」
つんくは電話をきると、デスクの上の書類を整理しだした。
「まさか、こんなビジネスになるとはな。あのばあさんも、そこまでは見えてなかったようやの」
と、小さく笑った。”金”と”権力”という欲望にとりつかれたつんくには、過去の思い出などそれほど重要なものではなかった。
5年前に、それまで抱いていた”神を守る使徒”のような使命感がウソのように消えた。
そして、自分が光子に操られて利用されていたことを知り、憤怒した。
意識の最下層にあった”権力”という名の欲望が、ふつふつとこみ上げてきたのもこの頃からであった。
社会からドロップアウトした時その歪んだ欲望を正当化して、
自分の意識の最下層にしまっていたのが自分にとっての最大の幸運だとつんくは思っている。
”精神感応者”は、人格を壊すつもりがなければ意識の最下層まで触手を伸ばす事はないと市井から聞いていた。
そして、それはそのまま光子の教えでもある。つまらないモラルで、光子は最大の失敗を犯したとつんくはほくそえんでいた。
市井らの抜けた今、能力者を集める作業は難航していたが、その問題ももはや解決されようとしている。
市井らのようなズバ抜けた能力者は、もうほとんどリストには残っていない。だが、リストの使い道は他にあった。
そして、それは市井らの能力にも匹敵するほどの変化を遂げるのである。
「祭りや……。もうすぐ、祭りやで」
つんくは、デスクの書類をカバンに放り込むと武者震いをしながらドアへと歩いて行った。
「エアコンがないってのは、ちょっと辛いよね……」
ひとみは、白い息を吐きながら土間の囲炉裏に当っていた。
日本旅館を住居がわりにして、もうすでに数ヶ月が経過している。
2000年の終わりは、もうすぐそこまできていた。
「でもさ、温泉があるからまだマシじゃん。ね、いちーちゃん」
マフラーに”どてら”姿の後藤が、隣でやはり同じように囲炉裏に手を当てている市井に訊ねた。
「せめて、石油ストーブでもほしい。っていうか、電気がほしいよな」
「そうですね……」
なんとなく、しんみりとした雰囲気で3人は囲炉裏に当っていた。
「ちょっと、もー最悪」
と、矢口が声を荒げながら土間へと入ってきた。玄関を開けたとたんに、外の冷たい風が吹きすさび、3人は身体を震わせた。
ひとみは瞬間的に、”雪女”の話を思い出した。
「矢口、寒いからさっさと閉めて」
「あ、ごめんごめん。ちょっとそれよりさ、よっすぃ着替えとってきてくれない?」
その声に、ようやくその場にいた3人が土間の矢口を見た。
矢口は全身雪だらけとなっており、ちょっとした雪だるまのようだった。
「なんですか、それ」
と、ひとみは笑いながら立ちあがった。
「あ、それ、後藤のマフラーじゃん。探してたのに」
「ごめんってば。ね、それよりよっすぃ早くして〜〜」
と、ガタガタと震える矢口の身体を心配して、ひとみは廊下を走っていった。
「屋根の雪かきしてて、落ちたの?」
市井は、もう特に興味がないといった様子でまた囲炉裏の方に向き直った。
「辻と加護が、落とし穴作ってたんだよ」
泣きそうな矢口とは対照的に、後藤はクスクスと笑っていた。
小型の防水テレビを買ってきたのはいいが、電波がまったく届かない
ため、もっぱら付属機能のAMラジオのみが使われていた。
中澤と保田は日がな一日中ラジオを聞きながら、温泉に浸っている。
「なぁ、圭坊」
湯船の縁に頭を乗せている中澤が、やはり少し離れた場所で同じようにしている保田に声をかけた。
「この何ヵ月かで、発電所が4箇所も爆破されてんのっておかしいないか?」
「そうかな。安全確認を怠ったせいじゃないの?」
2人は目を閉じたまま、会話を繰りかえす。
「発電所だけやないで、アメリカ軍の基地も何箇所か襲撃されてるみたいやし」
「襲撃って……。ただの火災事故でしょ。ラジオでも言ってたじゃん、ジェットエンジンの燃料が漏れて格納庫に引火したって」
「まぁ、ほんまにそれやったらええんやけどなぁ」
保田が、額にかけていたタオルをはずして中澤を見る。
「他に何か原因があるの?」
「いや、別に。ただ、どこも”火”が関係してるからな」
保田はハッとして、上半身を起こした。
「まさか、明日香が」
「にしては、行動の意図がようわからんねん」
「うん……」
「ゼティマもあれ以来、まったくの音沙汰なし」
「……1人来たけどね」
「あれは、ゼティマとは関係あらへんやないの」
「……ウチラのこと、もう諦めてんのかな」
「それやったら、ええんやけどな。なんか、不気味やわ」
「……」
保田は、あまり深く考えないようにしてまた湯船へと身体を浸からせた。
「ちょっと、裕ちゃん辻と加護どうにかしてよ〜!」
と、身体にバスタオルを巻いた矢口が、怒りをあらわにして入ってきた。
大人の空間は、矢口の来訪により終わりを告げる。
「宇宙が、人格化しているという事ですか?」
梨華は、飯田の部屋で会話をしていた。
後天性の言語障害という事で、飯田が喋れないのはもう随分と昔に希美から聞かされていた。
しかし、梨華の能力である”精神感応”で飯田の心の声を聞くことができる。
”会話”ではあるが、第三者から見れば梨華は一方的に話しているだけである――。
もともと、あまり人と関わるのが好きではないのか飯田は1日のほとんどを部屋で1人で過ごしていた。
だがここ数日は、梨華がこのように部屋を訪れるようになっている。
きっかけは、ほんの些細なことであった。
ある日、中庭で植物の手入れをしていた梨華に、飯田から”声”をかけてきたのである。
(あなた、花が好き?)
初めて聞く”声”に驚き、梨華は振りかえった。するとそこに、珍しく微笑んでいる飯田が立っていたのである。
(圭織も好き。圭織というよりも、どっちかっていうと地球が好きかも)
飯田の話を理解するのには、梨華も少々時間がかかった。
ありとあらゆるものを同時に見て感じることのできるチャネリングを行なっているせいなのか、
もともとそういう思考なのかは分からないが、その話には一貫性が感じられないことが多々ある。
今、話している宇宙の意思についてもそうであった。
市井から聞かされた”宇宙意思”というものがどんなものなのか、それを感じとれる飯田に
直接訊ねにきたのだがさっぱり要領を得ない。
(人格化というよりも、水辺にかかる虹の橋のようなもの)
梨華の頭は、混乱する。
そこへ、雪でビショビショに濡れた加護と希美が入ってきた。
「ちょっと、どうしたの風邪ひくよ」
正直、梨華はホッとした。先ほどから質問ばかりしては、新たなる疑問ばかりを答えとしてもらい、一向に理解できなかったのである。
「今から、温泉入りにいくねん」
と、加護は部屋にもともと備え付けられていた和ダンスへと向かった。
「飯田さんも、いっしょにいきましょー。いきましょ。いきましょ。いきましょ」
と、希美は飯田の手を引っぱる。飯田は空いていた手で、素早くメモ用紙に何かを書いた。
それを受け取った希美は、「宇宙のじんかくか? 梨華ちゃんに?」と、飯田に訊ねた。
飯田がコクンとうなずくと、加護と希美の着替えを出している梨華に向かって喋りだす。
「宇宙は、星と星を繋いでいる橋のようなものれす。その橋にはいろいろな星の意識が流れてきます。
そして大きな意識となり、この宇宙全体に広がるのれす。宇宙意思は、星の意識の複合であり人格化した宇宙の意思ではないのれす。
宇宙意思はすべての星の意識であり、すなわち宇宙全体の意思なのれす――って、飯田さんは言いたいのれす」
加護と梨華が、きょとんとした顔で希美を見つめている。
「意味がぜんぜんわかんない」
と、ひとみは梨華と2人っきりの温泉浴場でつぶやいた。
クスクスと笑う梨華が、「実は、私も」とつぶやく。
「宇宙なんて、スケールが大きすぎるよ。森さんっていう人が、ゼティマに連れてこなかったのもわかる気がする。
だって、アタシたちには何の関係もないもん。目に見えるものじゃないからね。そんな話聞かされても、あーそうですかって感じ」
「そんな言い方、よくないよ」
「だってさ」
(――――――)
「よくはわからないけど、飯田さんの力とののの力って2人で一つって言うような感じがする」
「……?」
「たぶん……、だけど……」
白い湯気が濃すぎたせいで、ほんの1メートルほどの向こうにいる梨華の表情がひとみの位置からはよく見えなかった。
声がどうして暗く沈んでいるのか、ひとみにはよくわからなかったが、
さっき自分が心の中で思ったことに何の反応を示さないでいるところを見ると、意識のガードで届かなかったことを知った。
特にこれと言って、重要なことを考えたわけではない。
ほんのちょっとからかうような感じで、”梨華ちゃん、最近、飯田さんの話ばっかりじゃん”と心の中で呟いただけである。
深い意味はなく、ただ梨華がどういう反応をするか見てみたかっただけである。
しかし、梨華はその声が聞こえていない。
ひとみは、その事が少し気になっていた。お互いいつも声を出して会話するようにしているので、梨華が心の声に反応しないのも分かる。
だが、今のはあきらかに心の声で語りかけた。
もしも、気を使って会話中に意識をガードしているのであれば、この半年間<Zetima>の影がしないからといって、
少し無防備すぎるのではないかと考えていた。
そのことを梨華に伝えようとした時、浴場の引き戸がいきなり開け放たれた。
湯気がさらに一層濃くなり、1メートル先の梨華はまるで見えなくなった。
一瞬、”敵”かと思ったが梨華がなにも反応をしないので、そうではないのだろう。
いくらなんでも、身の危険を感じればガードを緩めて相手の意識を読みとり容易に敵かどうかを判断するはずである。
『うわぁ、すごい煙。よっすぃ、梨華ちゃん、いる?』
声の主は矢口であった。
「あ、はい。いますよ」
と、ひとみは濃い湯気を振り払いながら声をだした。
『あのさ、裕ちゃんがちょっと話あるからすぐに集まってって』
「あ、はい。わかりました。すぐ出ます」
『よっすぃ、背中流そうかー?』
「え?」
『アハハ。冗談。待ってるからすぐ来てね。じゃーねー』
と、矢口は去ったようである。
湯気が晴れた後、ひとみの目にはつんと横を向いて拗ねている梨華の顔が映った。
(なんで、そんな顔してんの〜……)
「先、行ってるから」
と、梨華はさっさとバスタオルを巻いて脱衣場へと向かった。
「……」
矢口が背中を流そうかと言ったとき、ほんの一瞬ではあるが”一緒に背中を洗いあっている”姿を想像してしまった。
どうやら、それを読まれていたらしい。
「ちょっと待ってよ、梨華ちゃん。誤解だって」
ひとみは、あわてて脱衣場へと向かった――。
Chapter−2<新たなる敵>
囲炉裏の炭はもうあらかた小さくなっているので、メンバーは各自自分の防寒着を羽織ってその周りで暖をとっていた。
もうすでに眠っている加護と希美と、あいかわらず部屋で1人でいる飯田を除くメンバーがそこに顔を揃えていた。
ひとみと梨華も、温泉の熱はもうすっかり冷めていた。
「中澤さん、話ってなんですか?」
先ほどから熱燗を煽るばかりで一向に話をしようとしない中澤に、ひとみは業を煮やして訊ねてみた。
「あ、まぁ、もうちょっと待って」
と、中澤はさらに黙って熱燗を手酌で飲んでいる。
数分が経過した――。
中澤の傍らにあるAMラジオが21時の時報を告げて、ニュース番組がはじまる。
中澤は、ボリュームを上げた。
『では、最初のニュースです。今日午前11時、S県とN県を結ぶ中日高速道路で熊に似た謎の生物が出現し、
下り線を利用していた53名が襲撃を受け死亡。58名の重軽傷者を出しました。尚、この未確認生物は依然逃走を繰り返しております。
周辺住民の皆様は、夜間の外出を控えるなどして警戒に当って下さい。この未確認生物は、まだ捕獲されておりません』
中澤がボリュームを下げた。
「なんか、最近、変な事件ばかり増えてると思わん?」
メンバーは皆、青ざめた顔を浮かべていた。
中澤はそれらの顔を一瞥すると、また熱燗を飲み始めた。
「――ここ何ヶ月か、変な事件が多いねん」
「未確認生物って……?」
「わからんから、未確認生物なんやけどな」
と、矢口の問いに中澤が笑って答える。
「ふざけないでよ……、ねぇ、ひょっとしてこれってさ」
「わからん。ゼティマの仕業かも知れん。――けど、未確認生物って言うのが気になるなぁ。
目撃者もおんねんから、襲ったのが人間やったら人間って証言するやろうし……」
中澤が下唇を触りながら、何か考え事をしている。
皆、その様子をジッと黙って見つめていた。ただ、市井だけがやはり同じように何か考え事をしている。
「もしも、ゼティマならどうする?」
と、市井が眉間に皺をよせて呟いた。
「……ウチらには直接関係ないことやから、このまんまでもエエかと思うたんやけどな。これ以上、犠牲者が増えるんもあれやし」
「で、裕ちゃんはどうしたいのさ」
矢口の問いかけに、中澤が軽くうなずいた。
「ちょっと、山を下りてみようかなって」
「裕ちゃん1人で?」
「ちょっと見てくるだけ」
「やめなよ。危ないよ。行くんなら、矢口も一緒に行く」
「相手がどんなヤツかわからんのやで、矢口は残っとり。1人のほうが動きやすいしな」
「ヤダよ。そんなの別にいいじゃん。ここで、みんなと一緒にいようよ」
矢口は目にうっすらと涙を浮かべ、中澤の腕を掴んで離そうとしない。
中澤は、憂いのある微笑を浮かべて矢口を見つめていた。
「後藤が行ってこよーか?」
後藤が、囲炉裏に手を当てながらさもなんでもないように言ってのけた。
「ゼティマが関係してるんなら、ついでに潰してきてあげるよ」
「ごっちん、あんたまだそんなこと言うてんのか」
「……」
後藤は囲炉裏で赤く燃えつづける炭を、黙って見つめていた。市井と梨華に、後藤の心の声が響く。
市井と目があった梨華は、市井の意識を読みとる事はできなかったが、言いたい事はわかった。
「あの……、ごっちんは、そういうつもりじゃないんです」
市井と後藤を除く全員が、うつむいて喋る梨華に視線を向けた。
「ごっちんは、その、ここの暮らしをどうしても守りたいから……。前みたいに、ただ復讐のためってことじゃありません。
ここでみんな平和に暮らしたいから――。そうだよね、ごっちん」
後藤は黙って、炭を見つめ続けた。
「そうか……。ごめんな、ごっちん。けど、無駄な戦いはせんでええ。ゼティマももうウチラのことは諦めてるつもりやからな。
もうあれから、半年近いねん。なんもしてこんとこみたら、たぶんそうやねんで」
「けど」
「けど――?」
「……」
後藤は、囲炉裏に視線を向けたまま口篭もった。
「ウチラで偵察に行ってくるよ」
後藤を見かねたかのように、市井が口を開いた。
「久しぶりに、3人で行ってみよっか」
と、保田が笑顔を向ける。
「大丈夫だって裕ちゃん。アタシがちゃんと、みんなの保護者になるから」
心配そうな表情を浮かべる中澤に、保田が胸を張りながら言った。
翌日、保田は中澤から車の鍵を受けとると、市井と後藤を乗せて山を下りていった。
見送る者たちにも、それほどの不安はなかった。ゼティマでも最強のトリオである。
ここに、加護が加わればさらにグループとして完全な強さと成り得るのだが、一緒に行きたがっていた加護を中澤がムリヤリに留まらせた。
以前ならば、留める者の手を振りきってでも加護は市井らについていったであろう。
幼い頃からその力を疎んじられ、憩いの場を市井らの場所にしか見出せなかったのである。
だが、今は同年代の友達が近くにいることで納得はしなかったが、中澤の言う通りにここに留まることにした。
加護は、市井らの乗るワゴン車を見送る間、ほんの少し寂しくて泣きそうになったが、
となりにいた希美がずっと手を握っていてくれたおかげで、なんとか涙を堪えて笑顔で手を振ることができた。
「のの、ありがとう」
車が見えなくなってみんなが敷地の中へとひき返すと、加護は小さくそう呟いた。
「ん?」
希美が、きょとんと加護を見つめる。
「のの、大好きやでー」
と、加護はその頭をつかむとブチューっと希美の唇にキスをした。
一瞬驚いた希美だったが、キスの洗礼はこれまで幾度となく中澤に受けていたので慣れっこになっていた。
「あいぼん、大好きやでー」
と、希美も負けじと加護にキスを返した。そして2人は、笑いながらまた手を繋いで遊びに出かけた。
その様子を、旅館の庭から眺めていた他のメンバーは苦笑した。
「裕ちゃんの、悪いクセが移ったんだよ」
「ほんまやなぁ」
「そーいえば、中澤さんって保田さんにはあーいうことしませんよね。何でですか?」
ひとみの素朴な疑問に中澤が答える。
「圭坊大人やし、恥ずかしいやんか」
と、頬に両手を当てて身を捩じらせながら「寒っ」と母屋へと駆け出した。
「あ、待ってよ」
矢口も、その後を追った。
残されたひとみ・梨華・飯田は、顔を見合わせてまた苦笑した。
もうすぐ臨月を迎える石黒は、その大きな腹を持ち上げるようにして愛用車に乗り込んだ。
アパートの駐車場まで見送りに来た石黒の旦那である真矢は、
階段を下りるだけでハラハラしていたのに、これから車で遠出をする妻のことが心配でならなかった。
「彩、やっぱりこういうのは止めとこうよ。取材なら、出産が終わってからでいいじゃないか」
運転席の窓越しに、真矢は語りかける。
「事件は待ってくれないの」
「何のための、産休なんだよ〜……」
「心配しないで。ちょっとインタビューとってくるだけだから。明日にはちゃんと戻ってくるから」
「やっぱり、俺も行くよ。心配だよ」
「ダメ。真ちゃんは今日大事な会議でしょう」
「そんなことより、こっちの方が心配だよ」
「はい、危ないからどいて」
と、石黒はキーを回してエンジンを始動させた。
閉めた窓の向こうで、真矢がまだ何か言いたそうな顔をしていたが、気づかないフリをして車を走らせた。
石黒彩――、彼女は半年近く前に、その手腕をかわれて大手新聞社に取材記者として再就職することができた。
だが、もう既にその頃は妊娠数ヶ月だったこともあり、編集長としては出産後に就職してもいいという条件を出していたのだが、
石黒はそれを断って面接日のその翌日から出勤して取材活動をはじめた。
政治団体の献金不正流用、検察官の少女買春、等のスクープを短い期間で取り上げてきた。
そして今、N県の高速道路で起きた謎の事件を追っていた。
その現場で目撃された未確認生物を、伝説のモンスターや宇宙からの侵略者だと煽りたてる一部のマスコミもあったが、
石黒は一笑にふしていた。
そのような”オカルト”がマスコミに横行すること自体、バカバカしいと思う石黒であった――。
久しぶりに見る街の夜景は、違和感を感じるほど光々としていた。
東京の夜景などはもうしばらく見ていないので、もっと違和感を感じるかもしれない――と、
市井はコンビニの前に停車しているワゴンの中で考えていた。
片田舎のコンビニにも、虚無感に包まれた若者たちがいる。店の前で座り込み、他愛もない話をして時間を潰す若者。
動物園の無気力な動物のように、店の中で雑誌を立ち読みしている者。
退廃的な閉塞感は、もはや日本中に蔓延しているらしい――。
市井は、いつかの光子の言葉をおもいだした。
『決して自分の尺度で物事を考えてはいけないよ。人には人それぞれの悩みがあり成長の速度も違うのだから。
人が成すべく事は奢り高ぶり自分の価値観を押しつけるのではなく、そっと見守り導いてやることだよ』
市井はその言葉をずっと覚えていた。そして、つんくが全権を握った〈Zetima〉のもとで自分たちの仲間を導いているつもりだった。
しかし、それはひょっとしたら自分の怠慢であり自分の手ではすくえきれない欲望だったのかもしれない。
あの長野の山奥で暮らしていた頃、そして今、山奥で暮らしていることを考えると、
自然と”復讐”などという事はどうでもいい行為へと変化していった。
目の前にいる無気力な若者たちも、やがていつか自分たちの居場所を見つけられるだろう。
だが、それは自分には関係のないことだと市井は考えている。
大勢の能力者を”ユートピア”に導くことももう自分の使命ではないと考えている。
ただもっと単純に、自分の愛すべき仲間だけを仲間と共に”ユートピア”へと導きたいだけである――。
「いちーちゃーん、アイス買ってきたよー」
と、両手にアイスを持ってはしゃぐ後藤。
「遅くなってごめん。新聞売りきれててさ。店のをコピーさせてもらってた」
コピー用紙と日本地図を持って、運転席に乗り込む保田。
自分たちを見て微笑んでいる市井を、後藤はアイスを持ったままきょとんと見つめていた。
(――自分の大切な人達だけを守りたい。
おばあちゃん、それは両手からこぼれるほどの欲望ですか……)
「ちょっと、アンタら、ええ加減にしなさいよ」
湯船の中澤が、顔面にバシャバシャとお湯を浴びながら叫んだ。
お湯を浴びせさせているのは、湯船の中でバタ足をしながら移動している加護と希美である。
「ホンマ、もう、ちょっと……」
中澤の声はまるで聞こえていない様子で、2人は笑いながらずっとバタ足移動を繰り返している。
矢口は頭を洗いながら、頭を洗い終わったら隣の露天風呂でゆっくりしようと考えていた。
数分後――。
矢口がのんびりと露天風呂に浸かっていると、となりから大声で叫ぶような歌声が3人分聞こえてきた。
「裕ちゃん……。一緒になって何やってんだよ……。ったく……」
矢口は、タオルを頭に乗せると軽いため息を吐いて湯船の中へと頭を沈めた。
しかし、それからまた数分後。
母屋の方には、しっかりと4人分の歌声と騒ぎ声が聞こえていた。
「もうね、ホント、加護と辻とお風呂に入るとあーなるから疲れるよ」
と、ひとみが食器を洗いながら苦笑した。
人気のまったくない冬の夜、空気も乾いているためいつもよりも湯屋からの声は大きく聞こえていた。
となりで食器を拭いている梨華も、微苦笑を返した。
(圭織はね、いつかその大きな流れと一つになるの)
突然、飯田の声が聞こえてきて、梨華は振りかえった。
土間の八畳敷きで飯田が視線を空中に漂わせたまま、佇んでいる。
「へ?」
梨華は思わずそう呟いた。その声を聞いて、となりで食器を洗っているひとみが振りかえる。
「飯田さん……」
(星の意識は人の意識でもあるから、もう既に一つになってるかもしれないけどね。それでもいいの。
圭織は2つにはなったりしないから)
「あ、はい……」
と、梨華は目を伏せて申し訳なさそうに返事をした。
(どうしたの? 梨華ちゃん?)
心の声は聞こえているはずだが、梨華はチラリと横目でひとみを見たきり何も話そうとはしなかった。
(辻にも話さなければいけない。でも、全部話してはいけないの。なぜなら、圭織は1つになれないし、辻も1つになれないから)
「あ……。ののなら、あいぼんと一緒にお風呂ですけど……」
(圭織のかわいい妹。とてもとても大事な妹。でもね、本当は圭織は何も知らない)
「どういう……、ことですか?」
梨華の問いかけをとなりで聞きながら、ひとみはまた食器洗いに戻ろうとした。
だが、梨華の次の言葉を聞いて、フッと食器を持つ手を止めた。
「のののこと、何も知らないって……。3年間、病院で一緒だったんじゃ……」
(一緒だったけど、そうじゃないような気もする。ううん。やっぱり一緒だった)
「……」
梨華の頭はまたも、混乱し始めていた。言っていることがまったく要領を得ない。
このままではまた、いつものようになってしまうと考えていた。
(1度も時間移動はさせてない。コテージは小さいから許した)
「させて……ない?」
(でも、圭織と出会う前は知らない。圭織と出会う前、辻は辻であって、本当の辻はどこかにいるかも)
「あの……。それってどういうことですか」
(どこからきた辻なのか、圭織知らないもの)
「……! それって、ののがこの世界の人間じゃないって事ですか!?」
梨華の言葉を聞いて、ひとみは驚いた。
「梨華ちゃん、今なんて言ったの」
「あの、それってパラレルワールドっていうのに関係してるんですか?」
――ひとみは、”マズイ”と思った。この手の話は、難しくて苦手なのである。
しかし、今、湯屋から聞こえてきている希美がこの世界の住人ではないというのは信じられないので、黙ってもう少し聞いてみようと思った。
(宇宙には時間はあってないようなもの。そこを移動する辻は、着地点を知らない。でも、圭織はだいたいわかってる)
「あ、あの……、もう少しわかりやすくお願いします」
(宇宙ができた時から、分岐した枝はさらに分岐してそれぞれの世界を継続してて、
この地球も1分1秒ごとにそれぞれの生物・植物からそれぞれの場所から枝が広がり続けている)
「……」
(遠く離れた世界は大きく違っていて、近くにある世界はそこそこよく似てる。辻は、着地点を間違えた)
「つまり、ののは時間移動の能力を使っている間に、こっちの世界に来ちゃったってことですよね」
(ま、ホントは漂ってたのを圭織が呼んだんだけどね。ま、それでもいい。
圭織、疲れたからもう寝る。辻には後で話す。じゃあね)
と、圭織はフラフラと漂うように、廊下を歩いて行った。
「梨華ちゃん……」
ひとみと梨華に理解できたのは、希美がこの世界の住人ではないということだけであった。
ひとみの動揺を感じ、梨華はソッとつぶやいた。
「うん……。でも、私たちの知っているののは、ここにいるののだから」
「……そうだよね。あんまり、関係ないよね」
「……うん」
うなずいた梨華ではあったが、やはり自分も動揺していた。
加護と希美が作った歌なのだろう、中澤を揶揄している無邪気な歌声が湯屋の方から聞こえてきていた――。
「「♪とぅえんぃとぅえんてぃとぅえんてぃせぶーん」」
――翌日。
謎の生物が逃走したという方向に向かって、ワゴン車は走っていた。
市井が意識を捕らえるレーダーの範囲を広げ、保田は運転しながらも透視能力で辺りの様子をうかがっていた。
後藤はまだ眠り足りないのか、助手席で眠っていた。
「圭ちゃん、車……、止めてもらえる?」
「あ、うん」
2人は停車したワゴン車から、ゆっくりと下りた。何の変哲もない、高速-道路から10キロほど離れた場所にある新興住宅地だった。
市井は、そこで目を閉じて意識を集中していた。
保田も透視能力を使って辺りを念入りに探してみたが、どこにもそれらしい生物の影はなかった。
「残留思念か……」
目を開いた市井が、残念そうに呟いた。
「じゃあ、ここを通っていったのね」
「うん。間違いない。あっちの方向」
市井と保田が再び車に乗り込み、その場を去ってから数分後――。
石黒彩の運転する車が、通りかかった。
石黒は車を道路脇に停車させると、助手席に放り投げていた周辺地図を取りだした。
「この地域では――、見た限りなんにも起こってない――、と、いうことはもっと東に移動したって事かな」
石黒は念のため車を下りて、近くを歩いていた通行人に声をかけた。
「あの、すみません」
少女は、足を止めた。
石黒はその時になって初めて、少女の顔を見た。セミロングの少し丸みを帯びた顔の少女である。
「……?」
(あれ……。この子……。なんか、見たことある……)
石黒は記憶の糸を手繰りよせたが、どうしても思い出すことができなかった。
きっと、見間違いだろうと石黒は少女に未確認生物の目撃情報を知らないかと訊ねた。
少女は、首を横に振るだけで何も答えない。
そればかりか、先ほどから口元の端を微かにゆがめて、石黒の大きくなった腹を見つめている。
(何……、この子……)
石黒は、不気味な悪寒を感じた。軽い礼だけを言うと、すぐに車へと戻った。
去り際にルームミラーで後ろを確認すると、少女がこちらを見て笑っている姿が見え、石黒はゾッとしてアクセルを強く踏み込んだ。
Chapter−3<冬の訪問者>
市井たちから何の連絡もないまま、もうすでに2日が経過していた。
もっとも、ひとみたちが滞在している日本旅館には電話もひかれていないので、連絡をとろうにもとりようがない。
心配ではあったが、待つより他はなかった。
ひとみは、母屋の屋根に降り積もった雪をかきおろしていた。
自分たちもやりたいと下から加護と希美が騒いでいたが、2人にやらすと遊んでばかりで一向にはかどらないので無視を決め込んでいる。
しばらくして、下から丸めた雪がひとみのいる場所へと飛び込んできた。
「わっ」
と、ひとみが驚いてよろめくと、下からクスクスと笑い声が聞こえてきた。庇の下で隠れながら、雪を放り投げているのだろう。
「もー、おまえら、何やってんだよー」
と、ひとみも負けじとスコップですくいとった雪を、屋根を伝って庇の下に落とした。
「わー、あいちゃん、助けてー」
どうやら、希美に命中したらしい。笑い声を上げながら、希美が加護に助けを求めている。
ひとみはその声を聞いて、不意に一昨日の夜のことを思い出した。
詳しい事は分からないが、希美はどうやらこの世界の住人ではないらしい。
だが、どこの世界からやってきたにしろひとみの知っている”辻希美”は、今、このすぐ下で笑いながら助けを求めている希美であり、
加護といつもイタズラばかりをしている希美である。
ひとみにとっての、”辻 希美”はそれ以外の何者でもない。
うるさくて少々、ウンザリとする時もあるがひとみにとってはとても大事な歳下の仲間であった。
――そんな事を考えていると、顔面に雪が続けざまに命中した。
「このバカコンビ……」
ひとみは、下で大笑いしている2人に向かって雪を投げつけた。
いつしか3人は上と下とで、雪合戦をすることとなる。
訪問者は、その様子を旅館の外から見ていた――。
「ひとみっ!!」
その声に、ひとみの動きが止まった。
(――お母さん……)
街の一角に、突如として姿をあらわせた異様な生物に、人々は恐怖の雄たけびを上げた――。
保田はビルの壁を通して、市井は意識の網で、その生物の姿を捕らえた。旅館を出発して、2日目の事である。
「何……、あれ……」
その姿を目視する事のできた保田は、ハンドルを握ったまま青ざめた表情を浮かべた。
幼い頃にテレビで見た、アメリカ映画のモンスターを想像させた。
ただし、どの古い映画に出てくるモンスターよりも素早くそして効率的に雑踏の中を血の海とかえている。
「圭ちゃん、何が見えてんの?」
と、後藤がその場の空気もかえりみず、のんびりとした口調で訊ねた。
「圭ちゃん、何やってんの急いで」
市井の声に、保田はハッとわれに戻る。
「急いでって、どこに急ぐのよ」
「決まってるじゃない、アレがいるところよ」
「何言ってんの紗耶香、あんな場所で力なんか使ってみなよ。モロバレじゃない」
「大勢、人が死んでんの! そんなこと言ってる場合じゃないよ!」
国道はその場所からあわてて逃げ出した車により、大渋滞となっている。
逆送する車。フロントガラスに鮮血を滴らせながら走る車。歩道を走りぬけ、人を跳ねのけてでも逃げようとする車。
街は一瞬にして、パニックとなった。
「後藤! 行くよ!」
市井は後藤を引き連れて、車を飛び出していった。
「ちょっと、紗耶香っ。後藤っ」
保田の制止は虚しく、車のクラクション群にかき消された。
「大変、ご迷惑をおかけいたしました。申し訳ございません」
と、中澤はひとみの両親に深々と頭を下げた。
「中澤さん、止めて下さい」
ひとみは、中澤の頭を上げさせようとしたが、中澤によってその手を払いのけられた。
「申し訳ございません……」
「あなたはいったい何の目的があって、このような事をしてるんですか?
うちのひとみもそうですが、あそこにいる2人も見たところまだ義務教育も終わっていないように見受けられますが」
廊下の柱の影から、そっと土間の方を覗いていた加護と希美があわてて顔を引っ込めた。
「申し訳ございません……」
「もう、お母さん、いいって言ってじゃん。ここには、自分で来たんだよ。中澤さんはなんにも悪くない」
「だから、その理由を聞かせなさいって言ってるのよっ。自分で来たから、はいそうですかって納得できると思うのっ。
何の連絡もよこさずに、半年も……お母さんどんなに心配したか……」
ひとみの母親は、涙で声を詰まらせ持っていたバッグからハンカチを取りだすと涙をぬぐった。
「お前、知らないだろうけどな……、お母さん、一度心労で倒れて入院してたんだ……」
と、父親が目を伏せがちにして言った。
「大事な娘さんを無理に付き合わせていた事は、深くお詫びします」
「中澤さん、アタシ無理に付き合ってなんかいませんッ。全部、自分で決めた事です」
「ええから……。本当に申し訳ありません」
「警察に捜索願いを出しても、家出と扱われナシのつぶてでしてね……。
方々を自分たちの足で探しまわって、最後にまさかとは思ってここに来たんです……。もし、ここでもひとみを見つけられなかったら……」
父親の声に、微かな震えのようなものが混じっている。
「よっさん、荷物まとめてき」
と、中澤が小さな声でひとみに囁いた。
「嫌ですッ。アタシ、帰りません」
「ありがとうな、今まで」
「中澤さんッ」
「よっさんは、ウチらとは違う。ううん。一緒やな。うん。一緒や。大事な仲間や。せやから、お父さんとお母さんの元に返してあげたいねん」
「やめてください……、そんなこと言わないで下さいよ」
ひとみの目に、涙が溢れ出していた。今までのみんなといた思い出が、走馬灯のように駆けめぐった。
「石川も一緒に連れて帰ってほしいんやけどな、それはでけへんねん。ごめんな」
「アタシにも、じゃあ、アタシにも力を下さいッ! 梨華ちゃんやみんなを守れる力をください!」
ひとみは泣き叫んだ。
「ほんま……、よっさんはエエ子やなぁ」
と、泣いてすがりつくひとみの頭を微笑を浮かべて優しくなでた。
柱の影で佇んでいた梨華と矢口も、そして加護と希美も、その様子を感じて涙を流していた。
”力を持つ者”と”持たない者”、その2つの違いがこんなにも大きくそして重いものだとは、
ここ数ヶ月ひとみという存在のおかげで忘れていたような気がした全員であった――。
「いちーちゃん! あいつ、何なのさ!」
その生物と遭遇した後藤は、口を大きく開けて素っ頓狂な声をだした。
市井もその意識の存在は知っていたが、姿を見るのは初めてである。
逃げ惑う通行人を、なぎ倒すその生物は巨大なゾンビのようであった。
身の丈は2メートルを裕に越し、ボロボロになった布をまとい、その全身は長い毛に覆われてはいるもののその体毛は薄く、
皮膚が透けて見えている。その透けた皮膚もところどころ剥げ落ちて、中のどす黒く腐食した皮下組織を露呈していた。
そしてその両腕は、まるでそこだけを付け替えたように鋭い爪を持った熊のような腕をしている。
その両腕を振り回し、次々と人々をなぎ倒していった。ある者は直撃を受けて顔面が骨ごと砕け、運良くその爪がかすった程度の者も長さ数
十センチにかけて肉を抉られた。
逃げ惑う人々をまるで楽しむかのように、右へ左へと追いやり、一まとめになったところでその両腕を思う存分に振るう。
スピード・破壊力・残虐性、そのすべてにおいて生物は人間の、地球上
の生物の能力を遥かに逸脱していた。
市井は迷った。
相手が能力者であるのならば、後藤と自分の力を使えばほぼ間違いなく勝てるはずであった。
能力を無効化するのである、ESPに意識を操られる事もなく防戦をする必要もない。
後藤の意識を守りつつ、後藤が力を放つだけで良かったのだ。
今まであくたの能力者とそうして対峙し、何人もの能力者のスカウトに成功している。
しかし……、相手の生物は市井の能力は何の意味も持ちそうになかった。
そればかりか、ここで後藤の力を放てば生物の被害よりもさらに被害を拡大しかねない人口密集の街中である。
市井は退却を命じようとしたが、それより一瞬早く後藤がその生物に向かって力を放った。
後藤の力は、逸れることなく拡大することなく後藤のイメージした通りの大きさと威力でその生物に直撃した。
その生物のいた場所に瓦礫の粉塵が舞う。
姿に少々驚きはしたものの、その一発ですべてが終わると後藤が考えていると
――瓦礫の粉塵の中からその生物がものすごいスピートでこちらに向かって突進してきた。
後藤は呆気にとられたように呆然と佇んでいた――。
ひとみは、部屋で荷物の整理をしていた。
心配そうに見守る矢口・加護・希美の視線を背中に感じてはいたが、
また泣いてしまいそうになるのであえて振り向く事はせず黙々とカバンに、
自分の荷物を詰めはじめた。
梨華の姿は、そこにはなかった。
涙を吹きながら廊下ですれ違ったが、特に何も声をかけあう事はなかった。もちろん、心の中で語りかける事もなかった。
「よっすぃ、ホンマに帰んの?」
加護の声に、ひとみの荷物をまとめる手がほんの一瞬止まった。
「なぁ……」
「帰るよ……。帰るけど、また戻ってくる」
「ホンマ?」
「ほんま」
加護と希美は、「やったー」と小さく手を取りあって喜んだ。
「よっすぃ……。無理しないでいいんだよ」
矢口の小さなつぶやきに、ひとみは笑顔で立ちあがった。
「いつか雛鳥は巣立つんです。ウチの場合は、それがほんの少し早いだけですから」
矢口は、微笑みながら首を振った。
「矢口さんまで……」
「みんなよっすぃのこと好きだよ。好きだからこそ、ここにいちゃいけないの。
よっすぃには、よっすぃの人生がある。けど、自分1人だけの人生じゃない。
そこには、ここまで育ててくれたお父さんやお母さんの願いも含まれてんだよ。
矢口はそう思うから、よっすぃにはもうここには戻ってきてほしくない……」
「矢口さぁん」
と、加護が目に涙を溜めてまるでお願い事をするかのように、矢口の腕を引っ張った。
「加護も辻も寂しいかもしれないけど、よっすぃのためなんだよ。わかってあげな」
「そんなん、嫌やー。絶対、嫌やー」
加護が泣きながら、部屋を飛びだした。「あいちゃん」と、あわててその後を希美が追いかける。
ひとみは、また泣いた。15年間で泣いた事はほとんどない。しかし、その付けが今回ってきているように、また涙を流した。
自分が恐れていたのは、こんな別れ方だった。いつかくるとは思っていたが、まさかこんなにも早いとは思いもしていなかった。
その爪が届くか届かないかの、ほんの少しの差で市井の触手は生物の意識下に入り込み運動機能を停止させることに成功した。
「後藤、逃げるよ!」
市井は後藤に声をかけると、早く来いと言わんばかりに駆けだして行った。
呆然としていた後藤だったが、ハッと我にかえって素早く市井の後を追った。
市井はまだ運動中枢を停止させているのだろう、生物はピタリと止まったままである。
市井は走りながら、触手で生物の意識下を探ったがそこには人間のような”意識の層”はなく、ただ動物に近い本能だけがあった。
初めて垣間見る意識下なので、何をどう操作していいのか分からない。
入り込んだ瞬間は、探る余裕もなく手当たり次第に触手を広げて、その生物の運動神経を停止させた。
そして、その判断が奇跡的に功を奏した。
もし、そのまま生物の動きを止める事ができなかったら、間違いなく後藤の頭はあの鋭い爪で吹き飛ばされていた事だろう。
市井はそう考えると、ゾッと身震いした。絶命されてしまえば、市井にはどうすることもできないのである。
建物の影に回りこむと、市井は触手の手を引いた。市井の触手では、せいぜい100メートル以内でしかその触手を伸ばす事はできない。
ふたたび、雑踏から悲鳴が聞こえてきたが、市井にも後藤にもどうする事もできなかった。
そこへ、保田の運転するワゴン車がやってきた――。
静かな日本旅館に悲鳴が響き渡ったのは、中澤がひとみの両親にお茶を出している時だった。
「な、なんですかっ!? 今のは」
ひとみの母親が驚いて腰をあげた時、中澤はもう土間を飛び出していた。
悲鳴の聞こえた庭園に向かって一気に走った。
庭園で、1人花を摘んでいた梨華。帰ってしまうひとみのために、
何か思い出になるようなものでも手渡そうと、庭園に割く山茶花をとりにやって来ていた。
ひとみの考えている事はわかっていた。そして、矢口の事も――。
梨華は、すべてをひとみに委ねようと思った。
もし、本当に帰ってきたのならばその時は誰よりも温かく迎え、
もし帰ってこないのであれば他の誰よりも強くひとみのことを覚えている事に決めた。
その”影”に気づいた時、その生物はもう梨華の真後ろにいた。
意識のガードをしていたわけではない。現に、部屋にいるひとみの意識や矢口の意識、
こちらに向かってかけてくる加護や希美の意識は感じていた。
いったい、誰なんだろうと思って振りかえった瞬間――、梨華は悲鳴を上げた。
その生物の全身は、まるで漆黒の闇のような黒さだった。
両目と肉の裂けたような唇にある黄色い歯だけが、異様にギラギラと光を放っていた。
その生物の姿に呆気にとられ、足が棒のようになってしまった梨華の耳に、ドスッドスッドスッと何度か鈍い音が響いた。
「あ……、あいぼん……」
影の向こう側に、加護の姿があった。そう、加護が”闇の生物”に向かって力を放っているのだった。
その生物は、梨華の目の前でニヤ〜と笑うと、ゆっくりと後ろを振りかえった。背中は、直径10センチほど肉が抉りとられている。
しかし、その生物は痛がる様子など微塵も見せずに、ゆっくりと加護たちのいる方向へと歩いて行った。
「のの、はよ逃げ」
加護は、近づいてくる生物から目をそらさずに後ろにいる希美に言った。
希美の足はガタガタと震えて、動きそうにない。
「くっ。のの、動いたらあかんよ。ジッとしててな」
加護は、生物の注意をひきつけながらゆっくりと移動した。移動しながらも、連続的に力を放つ事を忘れていなかった。
ドスッドスッと鈍い音を何発もたてて、生物の身体に力は当っている。
しかし、何か黒い肉片のようなものを撒き散らすだけで、その身体にダメージを与える事はできないでいる。
梨華も触手を伸ばして、生物の意識下を探っていた。
しかし、その生物には何の意識もなかった。ただ、”監視”・”追跡”という2つの本能に近い意識だけが渦巻いていた。
「なんなの……、いったい……」
動きを停止させる神経も、どこにあるのか分からない。梨華は市井のように触手を張り巡らせる事を経験的に学んでいなかった。
中澤が庭に到着した時、生物は加護のすぐ側まで接近していた。
「加護ッ! 逃げ!」
叫びながら、中澤は知った。加護のすぐ側には、震えて顔面が蒼白となった希美がいる。
下手に素早く動くと、残された希美に危害が加わる。加護は逃げるに逃げれないでいるのだ。
「加護っ、目だよ! 目を狙え!」
母屋の裏手から、飛び出してきたひとみは思わずそう叫んだ。確証はなかったが、咄嗟にそう叫んでいた。
加護の力は的確に、その異様にギラギラとした両目を一瞬で潰した。
視力を失った生物は、加護めがけて一気に突進してきた。
すでに加護たちに向かって駆け出していたひとみは、立ちすくむ加護にタックルをして生物の進路から加護を救いだした。
視力を失った生物だったが、目標を見失ったと知るとすぐに身を翻して倒れ込んでいるひとみと加護へと突進してきた。
ひとみは、精一杯の力で加護を突き飛ばした。なんとか、加護だけでもという思いから、咄嗟にそのような行動に出たのであった。
きっとあの太い腕につかまれて、首でもへし折られるのだろうと、
目を閉じて覚悟を決めていたひとみだったが、一向にその気配はなかった。
恐る恐る目を開けると、こちらへ向かって駆け出してくる格好のまま、生物の動きが止まっていた。
ひとみは瞬時に判断して、後ろを振りかえった。
額に汗を浮かべた梨華が、ひとみの視線に気づくと小さな微笑を浮かべた。
「間に合った……」
それは、梨華の本心なのだろう。思わずそう口にしてしまった梨華がなぜかおかしくて、ひとみはクスリと笑った。
駅前の雑踏――、雑踏であるべきはずの場所は閑散としていた。
乱暴な男の子が、イタズラで人形の四肢を引き千切ったかのような死体がゴロゴロと辺りに転がっていた。
石黒がその現場に到着した時、すでに警察や消防隊そして機動隊が到着した後であった。
なので、幸いにもそこにある数々の無残な死体を目にする事はなかった。
いくら、ジャーナリズム溢れる人物とは言え、現状はあまりにも凄まじい光景すぎる。
現にその現場関係者のほとんどが、卒倒して救急車で運ばれていた。
身ごもの石黒には、耐え切れるものではなかった。
現場もそうであるが、街全体がパニックになっている。わずか数日の間に、連続して白昼堂々と惨劇が繰り広げられているのだ。
何かひどく嫌な予感がする石黒であった――。
Chapter−4<デモンストレーション>
敗北感漂う市井たちが日本旅館に戻ってきたのは、謎の生物に遭遇した翌日の朝だった。
だが、誰の出迎えもなく辺りはしんと静まり返っている。
「石川……、いないのかな?」
いつもなら買い出しに行って帰ってくるまで、心配して意識の網を広げつづけているはずの梨華が、
なにも感じていないというのはどういうことなのだろうかと、保田は首をかしげた。
「みんな――、奥の部屋にいるみたいだけど……」
と、意識の網を広げた市井が、他のメンバーの意識を捕らえたようである。
「今度は絶対に油断しない。街だろーが、どこだろーが、思いっきり力使ってやんだから」
と、よほど逃げ出したのが悔しかったのだろう。後藤は帰りの車中、ずっと同じような言葉を繰り返していた。
玄関を開けたがやはりそこに人の姿はなく、奥の部屋に意識があった。
市井たちは、ギシギシと廊下を軋ませながら奥の部屋へと向かった。
念のため、後藤にはいつでも力を放てることができるように告げていた。
障子を開けると、残されたメンバーのほとんどが部屋の中央に車座になって座っていた。
続きとなっている隣の部屋を見ると、市井たちの知らない中年の男女が布団に寝かされていた。
「何やってんの……、こんなところで……」
保田の視線の先には、目を閉じてジッと精神を集中させている梨華がいた。
市井の目には、おびえてガタガタと震えている希美と顔を青ざめてうつむいている加護の姿が映った。
後藤の目には、黙ってこちらを見ている矢口と庭が見渡せる窓辺に立っている中澤の姿が――。
「お帰りなさい……」
と、ひとみが呟いた。その両手の甲にはいくつかの擦り傷があった。
矢口とひとみ以外は、やっと市井たちに気づいたらしい。
皆の視線が、障子の前で立っている3人に集中した。
「後藤さ〜〜ん」
と、加護が泣いて駆けよってきた。
「な、どうしたんだよ、加護ちん」
後藤は戸惑いながらも、加護を抱きとめた。しかし、加護は言葉を発することなく泣き続けた。
「ここも、バレたかもしれん……」
中澤が窓の外に視線を向けたまま、ポツリと呟いた。
「まさか……」
中澤の心の声を感じた市井は、窓へと駆け寄った。
窓の外には庭が広がり、母屋に近いその場所にまるで彫刻のように動かない”生物”がいた。
中澤と市井は、それぞれの場所で起こった出来事を報告しあった。
そして、梨華が”闇の生物”の意識を探って知った”監視”と”追跡”の2つの意識は<Zetima>が
この生物を使ってひとみと接触する可能性のある両親を”監視”し接触の際には”追跡”させているのだろうと結論づけた。
互いの話を聞いたメンバーたちは皆、さきほどよりも暗く沈んだ表情で黙りこくるしかなかった。
ただ1つ救いがあるとすれば、”闇の生物”の意識を探った梨華の言葉だけだった。
「でも、あの生き物がここにいる限り、ゼティマにこの場所を知られる事はありません」
情報を伝達する言葉は、その生物は持ち合わせていない。
だとすると、その生物がたどった”道の記憶”あるいは”場所の記憶”を誰かが読みとらなければならないはずであった。
「ごっちんの力でも、どうにもならんのやったら、アレ……どないせぇっちゅうねん。なー?」
と、中澤は市井らが無事に帰ってきてホッとしたのか、元気を取り戻しつつあった。
「ね、梨華ちゃん。ちょっと来て」
と、後藤が梨華の手をひいて、廊下へと出ていった。
その様子を見ていた市井も微苦笑を浮かべて、「アイツも、負けず嫌いだからなー」と呟きながら出ていった。
わけのわからないひとみたちは、しばらくして顔を見合わせるととりあえずと言った感じで、表へと出ていく事にした。
梨華が止めていたはずの”闇の生物”は、ゆっくりとではあるが移動していた。
玄関の引き戸を開けたひとみたちは、目の前をゆっくりと移動する生物を見て言葉をなくした。
”生物”ではなく、その生物を声を出しながら表に誘導している後藤に言葉をなくしたが正解かもしれない。
後藤は、生物を表に連れ出すとゆっくりと辺りを見まわした。
力を押さえなければならないようなものは何もない。
そう判断すると、門扉から顔を覗かせているひとみたちに向かって大きな声で叫んだ。
「危ないから、来ないでよ。それと、見たくない人は見ちゃダメだから」
ひとみの傍らにいる梨華が、ひとみの腕をぎゅっとつかんだ。
「ごっちん、自分の威力が通じるか試そうとしてる……。ひとみちゃん、見ない方がいいよ……」
と、自分もうつむいて目を閉じた。
しかし、ひとみは目を閉じるつもりはなかった。後藤の力をあらためて見ておく必要があった。
それが、潜在的にまだ自分の中にある後藤への恐怖心との決別だと考えていた。
――何も後藤に、変化はなかった。生物が敵である後藤の位置を確かめ、突進した次の瞬間にその生物の下半身が吹き飛んだ。
斜め下に向かって力を放ったのだろう、生物の下半身を吹き飛ばした力は衰えることなく地面をえぐった。
振動は、ちょっとした地震のようであった。
その爆風により、舞い上がった生物の上半身めがけて、後藤は自分が出せる最大の力を放った。
空に破壊されて困るようなものは何もないからである――。
生物の上半身は、塵となって辺りに舞った。
梨華も矢口も見ないつもりだったが、1回目の振動で思わず目をあけてしまい空中で弾け飛ぶ様を見てしまった。
しかし、あまりにもその威力がすごかったためか、グロテスクな光景を垣間見ることなく生物は”塵”となってしまった。
「やっぱ、後藤さんはすごいなぁ……」
加護が、ポツリと呟いた。梨華が励まそうとしたその時よりも早く、傍らにいた希美が声をかけた。
「あいちゃんも、15才になったらできるようになるよ」
「なるかなぁ……?」
「なるよ。だってあいちゃん、まだ12才だもん」
「関係あんのかなぁ」
「日々、特訓なのれす」
と、希美はおどけてガッツポーズを作った。
「――よーし。ほな、特訓行こかー」
「おー」
と、2人は手を取りあって駆けていった。
「なんじゃ、ありゃ……」
保田が苦笑を浮かべて、走り去る二人を見送っている。
他の中澤や矢口、ひとみや梨華もそうであった。
「あんなん見たら、うるさいのもしゃーないかって思うてしまうんよな」
「矢口も」
「ほんま、得な2人やで。――さて、ゼティマの怪物の方も終わった事やし、そろそろよっさんのご両親にも起きてもらおうか」
ひとみの両親は睡眠欲のせいで眠っているのではなかった、
生物の姿を見てパニックを起こしたために梨華の能力で強制的に眠らされていたのである。
何となく肩を落とし気味に、旅館へと戻りかける一行。
襲撃の騒動により、ひとみの問題はひとまず棚上げとなっていた。
口には出さないでいたが、皆の胸の内にはずっとそのままにしておきたいという思いが間違いなくあった。
しかし、そういうわけにもいかない――。それも、皆の中には間違いなく存在していた。
ひとみは梨華を呼びとめた。
立ち止まる梨華。
メンバーも、振りかえる。
ひとみは清々しい表情で、皆の顔を一瞥した。
「アタシ、みんなとここに残ります」
「――よっさん、そういうわけに」
と、口を開いた中澤の言葉を、ひとみは遮るように梨華に話しかけた。
「梨華ちゃん、ウチの親からアタシの記憶を消して」
「え?」
梨華だけでなく、皆がひとみの言葉に驚いた。
「うーん、考えたんだけどさ、家にはまだ弟たちもいるから完全に消すことは無理だとしてもさ、
なんか適当な理由で家には戻れない事にしといてよ」
「ちょっと待ち。よっさん、自分、何言うてんのかわかってんの?」
「ここでの生活が落ちついたら、必ず家には戻ります。今、帰るんじゃなくて先送りするだけです。
今、帰っても明日には絶対ここに帰ってきますよ」
「な……」
中澤は口篭もり、どうしようかと思案を練っているようである。
「アタシには、みんなのような力はないけど、気持ちはみんなと同じです。
やっつける事はできないかもしれないけど、みんなを逃がす盾ぐらいにはなれます」
「ひとみちゃん……」
梨華の頭に、”海響館”での出来事がフラッシュバックした。
真希の頭に、10年前の思い出が甦った。
中澤や矢口の脳裏にも、加護を助けるひとみの姿が映し出された。
市井や保田の脳裏にも、ホテルでの出来事が思い出された。
そして、皆の頭の中に”もしも、自分が力を持っていなかったら”という疑問が芽生えた――。
「あかん……。あかんで……」
と、中澤が両手で口もとを押さえながら天を仰いだ。
「なんだよ、裕ちゃん。また、泣いてんの?」
隣の矢口が、キャハハと笑っている。
「違うわ。天気ええから、お日様見てるだけや」
「もう、歳だからね。涙もろくなってんだよ」
市井はニヒルな笑みを浮かべそう言い残すと、母屋へと戻っていった。
「歳いうな」
保田と後藤が、小さく笑いながら市井に続いて母屋へと戻っていく。
「盾になんかなる必要ないで、みんなのことは姐さんが守ったる。みんな、めっちゃ好きや。なー、矢口ィ」
と、まるで涙を隠すように、いつものように矢口に抱きついた。
「ハハ。もう、やめろよー」
矢口もそれがわかっているのだろう、いつものように笑いながら抵抗した。
ひとみはそれを見ながら、微笑んでいた。
そして、その横顔をジッと見つめていた梨華は、ソッとひとみの手を握った。ひとみの温かい感情が、梨華の胸に流れ込んでくる。
自然と、梨華にも笑顔が浮かんだ。
互いに微笑みあうと、2人は母屋へと歩いて行った。
娘。吉澤ひとみは、海外に留学中という事になった――。
あの駅前の惨劇から、1週間が経過した。
一旦東京に戻った石黒は、編集長に取材のための長期出張を申し出た。
身ごもの石黒を心配してなかなか首を縦に振らなかった編集長ではあったが、
石黒は出産までにはまだ2ヶ月あるからといって引き下がらなかった。
編集長は渋々ではあるが関東地方限定という事で、長期出張の許可を与えた。
当然の事だが、夫である山田真矢は猛反対した。
「彩ちゃん、いい加減にしろよ」
アパートの一室で、もうこれ以上話し合っても平行線をたどるだけだと判断した石黒は、ボストンバックに荷物を詰め始めていた。
「彩ちゃん一人の身体じゃないんだぞ。そのお腹の中にはな、2人の子供がいるんだ。もしも何かあったら、どうするんだよ」
「――けっきょく、真ちゃんは赤ちゃんさえ無事に生まれればいいって思ってんの?」
「もういい加減にしろよ。さっきから言ってるだろ」
「私はこの仕事に命をかけてる。真実を伝えることが、私の存在価値なの。
前にライタークビになったとき、このまま家庭に入るのも悪くないって思った。
でも、やっぱり違うのよ……。真ちゃんも、それに気づいてくれたでしょ。それに気づいてくれたから、仕事続けてもいいって」
「ああ。仕事はどんどん続けてくれても構わない。でも、それは無事に赤ちゃんを生んでからも遅くないじゃないか」
「……」
石黒は、静かにそして小さく笑った。
「毎日、電話するから」
石黒は、ボストンバッグを持って立ちあがった。真矢は背を向けたまま、何も言わなかった。
ただ、背中の後ろの方で閉じられるドアの音だけを聞いていた。
居酒屋『平家』は、今日も賑わっている。
店内のそのほとんどはいわゆる中年の親父たちで埋まっているが、どの客たちも顔なじみで店はアットホームな雰囲気に包まれている。
平家にとっては、その雰囲気がささやかな幸せだった。
ただ、平家には今も突然失踪した姉妹の事が気になっていた。
2階にあった少ない荷物も、いつ戻ってきてもいい様にそのままにしてあるし、街でよく似た少女を見つけると駆け寄っては声をかけていた。
だが、どれもこれも”石川梨華”や”石川なつみ”ではなかった。
決して自分も幸福な人生を送ってきたわけではない。それなりに、不幸の苦汁を味わったかのように思う。
だからこそ、あの姉妹には特別な感情が平家の中にはあった。わずか10日ほどしかいなかったので、何をしてやることもできなかったが、いずれはアパートを世話してやり、望むのであれば小さな店でも持たせてあげたいと考えていたのである。
「どこ、行ったんやろな……」
焼き鳥の串をひっくり返しながら、平家はポツリと呟いた。その呟きは、テレビの音量や客たちの笑い声によって誰にも届く事はなかった。
「みっちゃーん、砂肝3つねー」
と、客の声が聞こえた平家は、すぐに女店主の顔に戻って「あいよー」と答えた。
店にはその後アルバイトは一人も入らなかった。入ることは入ったのだが、どれも2日以上は続かずに無断で辞めていった。
その度に、平家は石川梨華のことを思い出していた。
もう2度と会う事はないだろう。
――そんな事は分かっているが、平家はどうしてももう一度会いたかった。
せめて、遠くからでもいいから幸せそうな顔をしている石川梨華の姿を確認したい。そう願っていた。
客の誰かが適当にかけていた国営放送の”懐メロ”番組が終わり、ニュース番組がはじまった。
客たちはテレビがついている事さえ忘れているのだろう、誰も見向きもしていない。
真新しい”寺田生物工学総合研究所”の前には、大勢の報道陣がつめかけていた。
臨時ニュースという形で、民放全局の番組はすべて中断されて総合研究所前からの中継が全国に流れていた。
近づいてくる大型トレーラーのヘッドライト。
研究所前にいた雑誌・新聞関係のカメラマンが、そのトレーラーへと駆けていく。
トレーラーはカメラマンたちに阻まれ、思うように進む事ができない。
テレビカメラは、研究所の前からその様子を冷静に全国に流している。
やがて、研究所が用意した警備員たちが進路を作り、トレーラーはゆっくりと研究所の敷地へと入っていった。
『たった今、未確認生物を乗せたトレーラーが寺田生物工学総合研究所に運ばれました!』
テレビを見ていたものたちは、カメラの前でそう興奮気味に喋るレポーターに対して”見れば分かる”と思った事だろう。
つんくも、テレビを見ながら心の中で突っ込んでいた。
寺田生物工学総合研究所の窓のない部屋で、つんくは先ほどからテレビの中継を見ていた。
ドアがノックされて、秘書らしき人物が入ってきた。
警戒心の強いつんくだが、なぜか振りかえる事もなく迎え入れた。
「ミュータントの配置、完了いたしました」
「そうか。ほな、あと10分後に頼む」
「かしこまりました」
秘書の女性は、軽くつんくの背に一礼をすると立ち去っていた。
テレビのブラウン管の横に、小さなモニターがある。
そして、そこには文字が羅列していた。
(シシャ。スウセンニン……。カゾク。ニゲルヨウニイッテオイタ)
つんくはその文字を読むと、小さく苦笑した。
石黒は、夜の高速道路を走りながらカーラジオでそのニュースを聞いていた。
謎の生物を記者会見場でインタビューに答えた防衛庁の大臣が『ミュータント』と呼んでいる所が少し気になったが、
その謎の生物が捕獲されて政府が生態を研究すると発表したのは世間ともども石黒もホッとするニュースであった。
しかし、そのわずか十数分後には、世間を絶望させるニュースが舞い込んできた。
札幌・東京・名古屋・大阪・福岡・九州・沖縄の主要各都市が、無数の『ミュータント』により襲撃され、死傷者は推定で13万人を超えた。
「……真ちゃん!」
石黒は、すぐに携帯電話で自宅のアパートに電話をした。数度のコール。
出ない。もしかしたらという絶望的な思いが、石黒の脳裏を駆け巡ったが、さらに数回目のコールで真矢が電話に出てきた。
「真ちゃん! 大丈夫だった!」
石黒の叫びをよそに、真矢は眠そうな声を出した。
『は?』
「は? ってね、ちょっとテレビつけてみてよ。早く!」
受話器の向こうから、『なんだよ……』と真矢の呟きが聞こえてきた。
石黒は、車の時計を見た。まだ午後9時30分過ぎである。あんな別れ方をしたのに、
こんなに早く眠る事ができる夫の無神経さに少し閉口し
てしまった。が、声の調子からして、どうやらヤケ酒を煽って眠っていたようだった。
『なんだこりゃ!』
どうやら、テレビでは凄まじい光景が映し出されているらしい。真矢は、電話の向こうで吐いているようだった。
東京でも襲撃場所からは、離れていたのだろう。真矢が無事と分かって、石黒はホッと胸を撫で下ろした。
しかし、局地的な恐怖は、全国各地で渦を巻いてしまった。
石黒があの駅前で感じた嫌な予感は、確実に的中しつつあった。
Chapter−5<祭りの開始>
中澤は、ラジオの電源を消した。
昨夜は雪かきやら建物の修繕などをして疲れていたため、全員風呂から上がるとすばやく床に入って眠ってしまっていた。
今朝起きて、朝食を食べながらラジオの電源をつけると、そこからはいつもの番組は流れてこず、
特別報道番組が流れてきて、昨夜全国各地で起こった惨劇を知ったのである。
全員、何となく箸を持つ手を止めてしまった。
ただ1人、飯田だけがまるでラジオからのニュースなどは聞こえていなかったかのように平然と黙々と食事をしている。
「……どえらい事になってるで」
中澤は誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
「何匹おんねんな……」
「ウチラは、正義の味方じゃないよ」
と、市井がなぜか怒ったような口調で、呟いた。
「せやな……。せやけど、このままでエエんかなぁ……」
中澤の疑問に、矢口がこの場の雰囲気を明るくしようと笑いながら喋った。
「ウチラがやらなくてもさ、国がやってくれるよ」
「その国も、ゼティマと繋がってんねんで……」
中澤の言葉に、全員、また静かになってしまった。
「ハハ。そだよね。でもさ……」
矢口は言葉を捜したが、何も言葉は出てこなかった。
このままではいけない事は、全員の胸の中にあった事だろう。しかし、誰もそれを口に出す事はない。
なぜならば、もうこれ以上、<Zetima>と関わりたくなかったからである。
中澤らも、市井らも、その生物のタイプこそ違えど実際に『ミュータント』と呼ばれる生物に遭遇した。
そして、自分たちの能力を持ってしても、手ごわい相手だと肌で感じた。
それが、何匹ともなると……。
さすがの後藤も、恐怖心というものはなかったができることなら関わりあいたくはない。
関わりあうことなく、静かにこの場所で暮らしていたい。皆は、そう願っていた。その日やるべき事をこなしながら過ごしていく。
この地に移り住んで今までそうして来たように、これまでもそうしていきたかった。
「また、ここにも来るのかな……」
ひとみは、庭園を歩きながらポツリと呟いた。
日課である生活用水を汲みに、渓流へと向かっている。
隣を歩いている梨華は、先ほどからひとみの中に広がる不安をずっと感じてはいたが、あえて何も言いださなかった。
ひとみの言葉を聞いて、ようやく口を開いたのである。
「ここには、来ないと思うよ」
「石黒さん……、大丈夫かな……?」
「……あ、東京だもんね」
「もう、赤ちゃんも生まれる頃だし、無事だったらいいんだけど」
「妊娠――、してたの?」
「アタシが退院するちょっと前だったかな、もう2ヶ月目に入ってたんだって」
「そう……」
「無事だったら、いいんだけど……」
「……アタシもね、1人心配な人がいるんだ」
梨華は立ち止まって、ひとみを見上げた。
「?」
「平家さんって言ってね、安倍さんと一緒に暮らしてた頃、お世話になったの。
とても良くしてもらったんだけど……、何の挨拶もしないで離れたのがずっと気になってて……」
(安倍さん……)
(どこ行ったんだろう……)
(梨華ちゃんと安倍さんって……)
ひとみの意識が、梨華に流れ込んでくる。
「私と安倍さん?」
「へ?」とひとみが、梨華に視線を向けた。
「私と安倍さんが、どうかしたの?」
「あ、ううん。別に……」
と、ひとみはまた歩き始めた。きょとんとした梨華だったが、すぐにひとみの後を追った。
「そういえばひとみちゃん、あんまり安倍さんのこと聞かないよね」
「別に……、だって、聞いても仕方ないじゃん。どこにいるのか、誰も知らないんだし……」
「ううん。そうじゃなくて、私と安倍さんがどんな風に生活してたかとか」
「そんなの……、聞いても仕方ないじゃん」
「そんなに、興味ないんだ……。私の事なんて……」
梨華がうつむき始めたのを空気で知ると、ひとみは軽いため息と共に振りかえった。
案の定、梨華は眉尻を下げて、泣きそうな顔をしてうつむいていた。
「そうじゃないってば」
「だって……」
「違うの。違うから、そんな泣きそうな顔しないでよ」
「だって……」
「あー、もう。じゃあ言うよ。聞くの嫌なの。保田さんから、ちょっと聞いて知ってる。
ホテルでその……。抱き合ってたりとか、一緒にイチャイチャしてお風呂入ってたとか」
「い、イチャイチャなんかしてないよ」
と、梨華が顔を赤くして反論した。
「だって、保田さん梨華ちゃんに意識読み取られない位置から、ずっと監視してたって」
「うそ……」
「ゼティマから連絡があるまで、ずっと張り込んでたんだって」
「……」
梨華は、うつむいた。すべて見られていたかと思うと、恥ずかしくて顔もあげる事ができない。
何もやましいことはなかったが、すべてを見られていたという事実が恥ずかしかった。
「そんなの……、梨華ちゃんの口から聞きたくないよ」
と、ひとみは少し困ったような表情をしてそっぽを向いた。
――梨華は不意に、何かを思い出したかのように顔を上げた。
このような会話――。
どこかで繰り返したような――。
「ひょっとして……、ひとみちゃん、妬きもち焼いてる?」
そう。梨華は思い出した。数ヶ月前に、今のひとみと同じような態度を、ひとみに向かって行なった事を――。
そして、それがきっかけで自分自身の気持ちに気づいた事を。
「……なんで、妬きもちなんか」
ひとみは、自分の鼓動が高鳴り、血流が顔に集中していくのを感じとっていた。
(何、これ?)(なんで、こんなにドキドキすんの)
(は? なんで?)
(梨華ちゃんが……)(好き……)
(友達として、好き)(違う……?)(わからない)(わからない)
「私、ひとみちゃんのことが好きっ」
ひとみの意識を感じとった梨華は、わけがわからなくなって思わずそう叫んでいた。
”好き”という感情を、別のものへと転化させられようとして焦ったのかもしれない。
このままの関係で良いと、自分自身を納得させてこの数ヶ月間を過ごしてきた。
それは、正直な気持ちだった。ひとみの事は”好き”だったが、その想いを伝えようなどという気はここ数ヶ月まったくなかった。
このままでの関係でも良いと思っていたし、どこか自分は間違っているのかもとさえ悩んでいた。
しかし、ひとみが両親と帰りそうになった時――。
ほんの少しだけ、後悔していた。後悔したからこそ、戻ってくることがあればちゃんと想いだけでも告げようと考えていた。
だが、ひとみは結局両親とは帰らなかった。そのせいでいったんは、沈んでいたひとみへの想いが、急激に上昇してきたのだった。
突然の告白を受けたひとみは、困惑していた。
(は? 今、好きって言った?)
(好き?)(好きって?)
(友達?)(友達としてだよね)
ひとみの困惑した意識、もちろん梨華にも届いている。以前の梨華ならば、先読みして相手の納得した答えを口にしていた事だろう。
しかし、今日の梨華は違った――。
「友達としてじゃない……と、思う……」
梨華は、うつむき加減で小さな声ではあったがそう口にした。
「梨華ちゃん、アタシ」
「うん。ごめん。困ってるのはわかるけど、私、どうしても伝えたかった
の。ひとみちゃん困らせるのわかってたけど、どうしても……」
「梨華ちゃん……」
ひとみは、ポタポタと雪を溶かす梨華の涙に気づいた。
「私にもよく分からない。中澤さんの事も好きだし、矢口さんや市井さんや保田さん――。みんなの事が好き。でも、ひとみちゃんは違うの」
「……」
「前に、ひとみちゃん、私のこと”特別”って言ってくれたよね。私ね、その時初めて気づいたの。私も、ひとみちゃんのこと特別なんだって」
「……」
「ひとみちゃんは、どういうつもりで言ってくれたのか分からないけど……。
私は、その時ひとみちゃんのことが誰よりも好きだって事に気づいた……」
「……」
「ごめんね。こんなときに、変なこと言って」
梨華は素早く涙をぬぐうと、ひとみに笑顔を向けた。無理な笑顔ではなく、どこか清々しさのようなものが漂っていた。
「あのね、梨華ちゃん」
「あ、ほら。早くお水汲みに行かなきゃ。また、遅いって怒られちゃう」
と、ひとみに背を向けて歩き始めた。
「待ってよ、梨華ちゃん」
ひとみは、大きな声で呼びとめた。
そうしないと、そのままどこかへ消え行ってしまいそうな、梨華の背はすがすがしい笑顔とは裏腹にとてもはかなげだった――。
立ち止まった梨華に、ひとみは駆け寄った。そして、梨華を背中から強く抱きしめる。その存在を確かめるように、強く強く抱きしめた。
「ひとみちゃん……」
「言ったよ。忘れてたけど、うん、特別だって言った」
「ひどい、忘れちゃってたの」
と、梨華はひとみに抱きしめられたまま小さく笑った。
「あ、そう言ったのは、忘れただけ」
「?」
「でも、あたしの心の中にはいつもある。ありすぎて、それが当たり前になっちゃってるから」
「……」
「わかんないよ。アタシも梨華ちゃんも、お互いの中にあるのがなんなのか。でも――」
「特別なんだよね」
と、梨華がひとみに笑顔を向けた。そして、その笑顔に一瞬見惚れていたひとみだが、すぐに自分も笑顔で「うん」とうなずいた。
――数分後。
水を汲み終ったひとみと梨華が玄関を開けると、加護と希美が囲炉裏のある部屋で寸劇をしていた。
加護のもとから、離れていく希美。
「待ぁってよ〜ぅ」
両手を胸の前で組み、キラキラした瞳を中空に向けて立ち止まる希美。
走る仕種をした加護が、希美を後ろから抱きしめる。
「特別なんだよー、梨華ちゃーん」
「うれすぃー」
振りかえった希美が加護と、チュっとキスをした。そして何事もなかったかのように離れると、
観客である中澤・矢口・後藤・保田にお辞儀をした。
中澤と矢口と保田は、笑いながら拍手をした。後藤だけが、玄関にいるひとみと梨華に気づいたようである。
「梨華ちゃん……。まさか……」
「見られてたの……」
立ち尽くす2人であった。
「おー、お熱いお2人さんやないのー。時間かかってたと思ったら。ほんま、最近の子は」
と、中澤がひとみたちに気づき、ニヤニヤと笑った。
「よっすぃ〜、矢口にもして」
と、矢口が笑顔で唇を尖らせる。
保田はフッと笑うと、囲炉裏の上にあるヤカンへと手を伸ばした。
後藤は軽く頬を赤らめると、何も言わずにそそくさと廊下へと消えていった。
「ち、違いますっ! 辻、加護」
ひとみに怒鳴られた加護と希美は、からかうように笑いながら中澤の後ろへと隠れた。
「とくべつなんだよねー」
「とくべつ好きやねん」
と、2人は顔を寄せ合いまたキスをしようとした。
「キ、キスなんかしません!」
「お前らー、いい加減にしろよー」
と、顔を赤らめながらひとみは加護と希美を追いかけた。
その頃、市井は部屋にいた。
窓の外に広がる銀世界を眺めていた――。
障子戸が静かに開き、後藤がうつむき加減に入ってくる。
「いちーちゃん……」
市井は振りかえらずに、ずっと窓外を見つめている。声は聞こえていた。
聞こえていたが、今は自分の中にある感情と戦っていたかった。
『ミュータント』と呼ばれる生物。その後ろにいる”つんく”。
中澤のように”自分たちとは関係ない”と割りきる事はできている。関わりなくこの場所で静かに暮らしたいという思いもある。
しかし、もう一方で心の片隅で”責任”を感じていた。
つんくの思惑に気づかず、つんくの欲望を満たす事のできる地位まで上りつめさせたのは、間違いなく自分であった。
市井は、自分の欲望のために盲目的につんくを信じた。
その結果、つんくは自分がゆるぎない権力を手にいれると、まるで不用品のように市井たちを捨てた。
どのような手段を使ったのか分からないが、
国の防衛を荷うという権力を行使し多額の補助金を使い『ミュータント』と呼ばれる生物を造りだし、
日本を惨劇の場にかえた。
無視を決め込むには、自分は”つんく”と”Zetima”に関わりすぎている。
このような情勢にしてしまったのは、自分にも責任がある。
市井の心は、揺れていた。
「まただね……」
後藤の小さな声。
市井の耳に届いている。
「この前は、裕ちゃんが止めてくれたけど……。後藤は、いちーちゃんがそうするって決めたら、どこまでもついて行くよ」
「なんのことだよ」
市井は、窓の外を見て苦笑した。
「ううん、別になんもない。ただ、後藤はそうするから」
「……」
きっと、はかない笑顔を浮かべて立っているに違いない。窓外を見ている市井だったったが、頭の中にはそんな後藤の姿が映っていた。
復讐でも、正義のためでもない、自分自身の中にある罪悪感。
後藤を――、他の仲間を巻き込むわけにはいかない。
市井は、その罪悪感をソッと胸の奥底にしまいこんだ。
ピピッと侵入者を知らせるアラームが鳴り、つんくは書類から顔を上げ、デスクの上に設置されているモニターを見つめた。
その人物は、ノックと同時に返事もまたずにドアを開けた。
そして、デスクの向こうで座りながら銃を構えているつんくを見て足をすくめた。
「き、君……。何のマネだね」
「返事があってドアを開ける。大切なマナーですよ」
と、つんくはニヤニヤ笑いながら銃をしまった。
防衛庁の大臣は、額に汗を浮かべながらもつんくの元へと歩いた。
「秘書からも聞いているとは思うが、今日は政府公式会見の日だ。もうあと、3時間もない。
なのに、研究資料が用意されていないとはどういうことだね」
大臣はソファに座ると、その額に浮かんだねっとりとした汗をぬぐった。
「ミュータントの資料なら、さっきFAXで送ったんですけどね。どうやら、入れ違いみたいでしたね。ご足労おかけして申し訳ありません」
と、つんくは深々と頭を下げた。だがそこに申し訳ないという気持ちはまったくなかった。すべては計算上の事である。
「あぁ、それならそれでいいんだが……。そのロシアが送り込んできたというミュータントを少し見せてもらえないだろうか?」
(子供か、このオッサンは)
つんくは心の中で、苦笑した。国民を何人も殺している怪物を、国の防衛を任されている最高責任者が、
このような発言をするのがつんくには笑えて仕方がなかった。
「厳重な警備でおいそれとは見せてもらえない事は分かっているが、
どのような怪物と我々は闘わなければならないのか一度この目で確かめておきたくてね」
大臣が、ただたんに好奇心だけからここに来たことはわかっていた。
会見に必要な資料を取りに来たというのが、口実である事も分かっていた。
「見ても面白くないと思いますよ。解剖して全形は留めてませんから。それよりも、早く戻って資料に目を通した方が……。
残念な事ですが、これは明かにロシアが送り込んできた生物兵器です。そして、さらに残念な事は、その生物は元・人間です。
ドイツから呼び寄せたシュタイナー博士による、理論は実証されました。
公に発表するのは恐ろしい事ですが、このまま黙って手をこまねいているわけにもいきません。
全世界の政府が一丸となって、この自体に取り組まなければ」
それまでうつむき加減にとつとつと喋っていたつんくだったが、そこで会話をきると、顔を上げて真剣な表情で大臣の目を見据えた。
「世界は、破滅です」
日本政府が発表した『ミュータント』についての緊急調査報告は、衛星を通じて全世界に同時に放送された。
「現在日本国内でその特殊能力を保持している者は、男女年齢を問わず1580名です。
潜在的に能力を保持されていると思われる人数は含まれておりません。
日本国内に滞在している海外からの旅行者、留学生、就業者については把握しきれていません。
各国との政治的・人道的な点を考慮して、政府は半強制的にそれらの海外からの入国者に関し国外退去勧告を発令します」
「――政府は即急に緊急対策本部を設け、『ミュータント』の一斉討伐を行なうと共に、
今後突然変異を起こしうる可能性のある者に限っては、
日本国憲法下の基本的人権を考慮しつつ保護を目的に一時的な拘束もやむを得ない事とします」
「ロイター通信によりますと、日本時間深夜0時20分。
アメリカ・イギリス・中国・ヨーロッパでほぼ同時刻に『ミュータント』が出現した模様です」
全世界で、祭りののろしが上がった。
「日本国内はただ今より、『ミュータント』壊滅条例を施行いたします。市民の皆様は、くれぐれも軽率な行動に出ないように申し上げます。
繰り返します。日本国内はただ今より、『ミュータント』壊滅条例――」
人々は狂った。
「アメリカ・ヨーロッパ各政府も同等の公式発表があった模様です。日本政府は現地に外務省スタッフを送り――」
大国と呼ばれた国は、自国を守ることで精一杯となった。
「緊急対策本部が置かれている国会議事堂が、『ミュータント』の襲撃に遭い――」
国内の暴動鎮圧により、手薄となっていた議事堂が襲撃された。
「寺田生物工学総合研究所によりますと――」
国民の唯一の救いが、世界的に有名な生物学者・化学者達が集うこの研究所だけだった。
「18日未明、ロシアの××基地から数基の核ミサイルがアメリカ本国に向けて発射されましたが、
圏外でのミサイル防衛に成功した模様です。この自体を受け日本政府では各国との――」
疑惑をかけられた大国は、すでに何者かによりその機能中枢を乗っ取られていた。
疑惑の大国から、加害国となったロシアは全世界から集中的な攻撃を受け、国の機能をほぼ停止させられた。
――毎日。いや、数時間毎に変化する世界情勢を、つんくは爪を噛んでニヤニヤと笑いながら見つめていた。
石黒は某県で、もう10日ほど足止めを食らわされている。
主要幹線道路は、警察隊・自衛隊により封鎖されており、緊急警戒警報の発令により外出することさえ困難な状態になっている。
小さなビジネスホテルの一室で、石黒は重い腹を抱えるようにして窓の外を見つめていた。
主要大都市では、市民が暴徒と化し様々な被害が及んでいるらしい。
石黒の目から見える風景は、人の姿こそないもののどこか平和な光景である。
つい数分前に見たニュース番組――いや、もはやニュース番組というくくりはなくなっている。
24時間、各局は国内・世界の混乱した情勢を放映し続けているのだ。
テレビで見た東京は、異様な光景であった。幹線道路は機動隊の装甲車に封鎖され、通りには戦車が行き交う。
銃を持った兵士が街を歩き、あちこちでは暴徒による放火が原因で火災が起きている。
武器を手にした市民は己の命を守るために徒党を組み、別のグループと血なまぐさい争いを行なっている。
街の至るところから銃声が聞こえ、悲鳴が聞こえ――。カメラがその先に向かうと、生々しい死体が転がっている。
「地獄……」
テレビの向こうは、石黒の目には地獄に映っていた。
夫の山田真矢とは、もう10日前に連絡が途絶えている――。
日本政府が発表した『ミュータント』についての緊急調査報告から、わずか3週間で世界は破滅へと導かれていた。
保田・市井・加護の3名は、3週間ぶりに町へと下りてきていた。
世界で起きている事件の事は、ラジオを通して知っている。
このような時勢に、山を下りるのは危険ではないかと中澤の忠告もあったが――、
食料も燃料も底をつき始め、これからもっと厳しくなる冬を乗り越すためにはどうしても下山は必要だと市井は引き下がらなかった。
市井のパートナーである後藤は、ちょうどひとみらと裏山の奥へと山菜を採りに行っていたため、市井は加護を連れていく事にした。
「いいか、加護。力は、絶対に使うんじゃないよ」
市井の言葉に、加護は少し緊張しながらうなずいた。
緊急警戒警報発令中ではあったが、片田舎の町にはそれほどの混乱もなく、
いつも通っているショッピングセンターにはいつもと変わらない利用客たちがいた。
保田も、無意味に辺りをうかがうことは止めた。その行動だけで、怪しまれる恐れがあったからだ。
「普通にしてればいいんだよ。普通に」
市井は、緊張してしゅんとおとなしくなっている加護の手を握って、自分の側へと引きよせた。
「圭ちゃんも」
と、市井は片方の手を保田へと差しだした。
「ヤめてよ、カッコ悪い」
保田は微苦笑を浮かべて断ったが、市井の表情は真剣だった。
「アタシの側にいれば、力は使えないんだよ」
「……あ、そっか」
と、保田は照れ笑いを浮かべながら、市井の手を握った。
「こうしてれば、3人姉妹に見えるかな?」
保田の問いに、緊張のほぐれた加護が笑った。
「あんた、一番下なんだから、お姉ちゃんの言う事ちゃんと聞きなさいよ」
「ほえーぃ」
加護のおどけた返事を合図に、3人は手を繋いだままショッピングセンターへと入っていった――。
――ドサッ。
後藤の手から、山菜の乗ったザルが滑り落ちた。
「あー、ごっちん、なにやってんのー」
側で山菜を摘んでいたひとみが、大きな声を上げた。
後藤の落とした山菜は、緩やかな斜面を転がり落ちていった。
ひとみの側にいた梨華が、フッと顔を上げた。
後藤はぼんやりと、宙を見つめていた。梨華はその姿を見て、飯田を思い出した。
「ちょっと、ごっちん、七草がゆ食べたいんじゃなかったの? どうすんの、せっかく集めたのに」
と、ひとみが斜面の下の方を覗き込みながら言った。
「アハ、ごめん」
われに帰った後藤だったが、その心の中はなぜか市井のことばかりを考えている。
後藤の意識を感じた梨華だったが、あえて何も言わずに山菜を採りつづけた。
どうして市井のことを考えてしまったのか、後藤自身もわかっていなかったからである――。
アットホームが売りだった『居酒屋 平家』も、最近ではその騒動のために暗くなってから外出する人も少なくなり、
ほとんど客足は途絶えた状態である。
店を開いても赤字になるのは目に見えているのだが、
それでも少ないながらも以前のように足を運んでくれるなじみの客のために閉めるわけにはいかない。
「はぁ〜……、何でここまで義理立てするんやろ」
平家は開店前の店で、赤文字の多い帳簿をつけていた。
自然と、ため息ばかりが漏れる。
つけっぱなしのテレビは、先ほどから”行方不明異能力保持者”の実名を取り上げている。
帳簿をつけているので見てはいない。
自分には関係ないので、興味もないのではあるが、薄暗い静かな店内にいると気分も塞ぎがちになるので、つけっぱなしにしている。
『尚、未成年者の実名報道には報道倫理に基づき、実名およびその顔写真の公開を控えておりましたが、
政府の基本方針・世論の声等を反映してFテレビでは未成年者ではありますが今後のことを考慮し実名報道および、
顔写真の公開へと踏み切らせていただきます』
『相原みずほさん。大阪府出身。15才。
相原直行さん。広島県出身。17才。
赤沢留美子さん。新潟県出身。18才。
安倍なつみさん。北海道出身。19才。
・
・
・
飯田圭織さん。北海道出身。19才。
・
・
・
石川梨華さん。神奈川県出身。15才
・
・
・』
その名前を聞いたとき、平家はボーっと梨華のことを思い出した。
焼き鳥を焼く時に小指が立っていたこと、店の軒先に巣を作っていたつばめを怖がっていた事、なつみという姉を一生懸命世話していた事。
そして、ハッと気づいた。
(何で、梨華ちゃんの名前があんねん!)
顔を上げた平家は、ブラウン管の中にある梨華の顔写真に目を見張った。
そして、その数段上にある”安倍なつみ”と書かれた顔写真にも目を奪われた。
(な、なんやねん……。梨華ちゃんとなっちゃんが……、ミュータント……)
『尚、このリストに挙がっている安倍なつみさん・飯田圭織さん・石川梨華さん・市井紗耶香さん・加護亜依さん・後藤真希さん・
辻希美さん・福田明日香さん・矢口真里さんの他、京都府出身の中澤裕子さん・千葉県出身の保田圭さん以上の11名は、
各地で様々な破壊工作を行なっている模様で大変危険なテロリストグループでもあります。
我々Fテレビが独自に入手したテープをご覧頂きたいと思います』
テレビのブラウン管には、破壊されたホテルの映像と監視カメラの前を走る中澤らの姿が映っていた。
第六部
Chapter−1 <襲撃>
夜も遅く――。
皆の不安は、極限にまでのぼりつめようとしている。
市井・保田・加護の3人が、町へ買い物に出かけたまま8時間が経過した。
往復4時間の道のりではあるが、もう帰っていてもおかしくない時間である。
とりわけ後藤が、落ちつきをなくしている。
中澤と梨華の2人がかりで、後藤の能力を押さえてはいるが、もうそれも限界に達しようとしていた。
中澤の”無効化”の能力でさえ、感情と共に放たれる後藤の力は押さえきれない。
不安が彼女を苛立たせる。そして何よりも、たとえその場にいなかったにせよ、市井が自分を側におかなかった事に強いショックを受けていた。
梨華は触手を伸ばして、後藤の力の発動に関係している前頭葉全体を覆うように触手の網を広げていたがそれさえも破かれそうになっていた。後藤の意識はすべて、市井に向けられている。後藤が市井の名を心の中で叫ぶたびに、梨華の触手の網は破かれる。
これ以上は、もうどうにもならないと中澤と目配せをした時、息を切らせた矢口が旅館へと続く山道をかけ上がってきた。
「帰ってきたよ!!」
山の中腹ぐらいまで様子を見に行っていた矢口が、大声で叫ぶ。
後藤は、中澤の手を振りほどくと一目散に山を駆け下りていった。
走って息のきれた矢口。
能力を使って、息のきれた中澤と梨華。
3人はしばらくそこを動く事ができなかった。
――山道を上がってくる車のヘッドライトを見たとき、ひとみはホッとした。
何事もなく、無事に帰ってくる事ができたんだと思った。
隣にいた矢口も、そう思ったからこそ喜んで報告に戻ったのだろう。
矢口が走り去って数分後。車のヘッドライトは、喜びのあまり飛び出したひとみと希美の前で停止した。
だが、いくら待っても誰も下りてこない。
不審に思ったひとみが、希美をその場から離れさせ、運転席のドアを開けた。
中にいたのは、血まみれになって気を失っている加護だけだった。
「か、加護ッ!!」
ひとみの叫びに驚いた希美が、あわてて駆け出してくる。
希美は、中にいる加護の姿を見て軽い目眩を覚えた。
「つ、辻、しっかりして」
ひとみはフラフラと崩れ落ちる希美を、かろうじて支える事ができた。
「よ……、吉澤……」
消え入りそうな声が、後ろの席から聞こえてきた。
「はっ、はい!」
ひとみは、希美を抱えたまま後部座席を覗いた。そこには加護よりも、出血のおびただしい市井が座席の下に倒れ込んでいた。
頭部を何か鈍器のようなもので殴られたのだろう、肉が膨れ上がりそこには裂傷痕があった。顔面は乾いて黒ずんだ血で覆われていた。
その形相を見たひとみは、さすがに気を失いそうになった。
しかし、そういうわけにもいかずとりあえず気を失った希美を後部座席に押しやり、加護を助手席に移動させると、運転席のドアを閉めた。
「ハハ……、吉澤……、やっぱ……判断力あるよ……」
後ろの座席から、か細い声が聞こえる。
「市井さん、喋らないで下さい。は、早く自分の傷治して」
「……そうか、加護が……、ここまで……。先に……、加護を……」
「加護は大丈夫です。気を失ってるだけですから、早く市井さん自分のを」
ひとみがヘッドライトをハイビームに切り替えた瞬間、こちらに向かって駆け下りてくる後藤の姿が映った。
「ごっちん!! すぐに戻ってくるから、ここで待ってて!!」
と、窓から大声を張り上げると、そのまま止まらずにアクセルを踏みこむ力を強めた。
後藤が何かを叫んでいたようだが、聞く余裕はひとみにはなかった。
なぜならば、市井と加護の身体の事を心配したのも確かなのだが、この2人を見たときの後藤の感情の爆発が心配だった。
できるだけ、後藤に考える時間を与える前にその場を離れたかったのである。
「ハハ……、正解だよ……、吉澤……」
耳元近くで聞こえた市井の声に、ひとみは横を向いた。後部座席から身を乗りだした市井が、加護に能力を使っていた。
加護の打撲による傷は、見る見るうちに消えてなくなった。
市井は自分の傷を治し始めたのと同時に、気を失った。見るとまだ全部の傷を癒しきっていない。頭部の傷だけは消えていた。
ひとみは残された傷が致命傷にはならないと判断して、そのままスピードを緩めずに旅館へと車を走らせた。
旅館に到着した時のひとみは、呆然自失の状態だった。
駆けつけた中澤が、運転席のドアを開けるとひとみは目を見開いたまま、ガチガチと歯を震わせてハンドルを離そうとしなかった。
「な、なに、何があったん」
中澤もさすがに、その様子からして尋常ではない事が起きたと判断し顔を青ざめた。
歯をガチガチと震わせながら、ひとみは中澤の方を向く。
中澤の後ろにいる梨華と矢口も、そんなひとみを見るのは初めてだった。
「か、加護がここまで、う、運転してきて、い、市井さんが、し、死にそうになってて」
中澤は、助手席にいる加護を見た。たしかに、服は汚れているがどこにもそれらしい傷はない。
だが、後部座席にいる血だらけの市井の姿を見たとき思わず短い悲鳴を上げた。
「い、市井さんが、け、怪我を治して、そ、それで」
中澤は後部座席のドアを開けると、市井を背負って旅館の中へと移動させた。
矢口と梨華に何やら大声で指示を出していたようだが、ひとみの耳には入っていなかった。
――矢口が加護を、梨華が希美を、肩をかして引きずるように旅館へと戻る姿を見たとき、ひとみはやっとハンドルから手を離す事ができた。
何気にフッとみたルームミラー、ハッチバックのガラスが割られているのに気が付いた。
「保田さん……。そうだ、保田さんは!」
ひとみは後部座席を確かめた、しかし、どこにも保田の姿はない。
天上に頭をぶつけながらも、ひとみは泳ぐようにさらに後ろの後部座席へと向かった。しかし、そこにも保田の姿はなかった。
「保田さん? 保田さん!」
車内のどこにも保田の姿はなかった。ただ、砕けたガラスと大きな石が辺りに散乱しているだけであった――。
先に意識を取り戻したのは、加護であった。
よほど、恐ろしい目にあったのだろう意識を取り戻すと同時に叫び声を上げながら力を放った。
天上が瓦もろとも吹き飛び、屋根の上にあった雪がなだれ込んできた。
パニックになった加護は、さらに力を放とうとしたが一瞬早く梨華が触手を伸ばしたためにその力は封じられた。
「加護ッ! 大丈夫や! 加護ッ! しっかりして!」
中澤は加護の小さな身体を強く抱きしめ、そう叫んだ。
金切り声を上げながらもがいていた加護だったが、ここが自分たちの場所だという事を認識すると次第に落ちつきを取り戻していった。
「あいちゃん……」
希美が、目に涙を溜めて加護の名を呼ぶ。
加護はそんな希美をしばらく、見つめていた。そして、やっと本当に帰ってこれたのを認識したのだろう。次は声を上げて、泣きじゃくった。
「大丈夫や、大丈夫やで。もう、怖ないからな。大丈夫やで」
中澤は、まるで母親のように加護の頭をなで続けた。
希美は、騒ぎに驚いて部屋を出てきた飯田に駆けよった。
――何かを言いたげに、飯田を見上げる希美。飯田は悲しそうな表情を浮かべるとゆっくりと首を横に振った。
(大きすぎる。この前のようにはいかない)
梨華のもとに、飯田の心の声が聞こえてきた。飯田の心の声は希美には聞こえていないのだが、希美は悲しい顔をしたままうつむいた。
――梨華には、その言葉の意味がわからなかった。だが、今はそれよりも3人の身に何があったのかただそれだけが気になっていた。
「中澤さん! 保田さんがいません!」
ひとみが駆け込んでくると同時に、また屋根の上から雪がパラパラと舞い落ちてきた。
「圭坊が……?」
保田の名前を聞いて、加護が身を強張らせた。
「加護……、何があったか、ゆっくりでエエから話してくれる? いい?」
嗚咽しながらも加護は、中澤へと顔を向ける。
「全部やないでエエから、な」
「や、保田さん……」
「うん」
「ウチと市井さん……、車に乗せてくれた……。ケガした」
その場にいた全員が、加護の話に耳を傾けている。
「圭坊が車に乗せてくれたんやなぁ。なんで、ケガしてたん?」
「買い物……。物してたら……、警察……。警察みたいな人が来て」
「警備員さんやな」
「そ……、そしたら……、店の中に、人がいっぱい入ってきて。ウチら、なんにもしてないのに」
加護はまた声を上げて泣き出した。
(魔女狩り……。中世のヨーロッパ。時空を超えて、その意識が流れ始めた)
梨華は飯田の心の声を聞いて思わず、声を上げた。
「私たちは、魔女なんかじゃありません!」
皆が、驚いた顔で梨華を見た。
「梨華ちゃん……」
ひとみの声もまるで聞こえていないかのように、梨華は泣きながら飯田を見据えていた。
「魔女狩りだなんて……。私たちだって、好きでこんな力持ってるんじゃないのに……。なんで……、普通に暮らしたいだけなのに……」
と、梨華はその場に泣き崩れた。ひとみはその肩を抱え起こすと、廊下へと梨華を連れ出していった。
「裕ちゃん……」
矢口が心配そうに、中澤に顔を向けた。
「悪いけど、紗耶香起こしてくれる? ゆっくりもしてられんようになったわ……」
「う、うん……」
と、矢口は続きとなっている隣の部屋へと入っていった。
ひとみは、梨華を囲炉裏のある部屋へと連れ出した。
うつむいたまま肩を震わせている梨華をその場に置くと、ひとみは黙って外へと出て行った。
いつの間にか、雪が舞っている。雪が降り始めたのではなく、粉雪が風に舞っているようだった。
粉雪の舞うその向こうに、息をきらせた後藤が立っている。
「なんで、なんで、いちーちゃんに会わせてくれないの……」
後藤のすぐ脇にある石門が、まるで紙くずのように砕け落ちた。
ひとみは身じろぎすることなく、後藤と対峙している。
「とにかく、市井さんは大丈夫だから落ちついて」
「だったらなんで、車、あんなになってんの」
表の車に顔を向けた後藤が再びひとみへと向き直った時、後藤の顔は泣きそうな顔になっていた。
「真希ちゃん、落ちついて。話を聞いて」
ひとみのその真剣な口調に、後藤も自分の心を落ちつかせようと必死だった。
”真希ちゃん”そう呼ばれた事で、一瞬、10年前の事を思いだした。
怒りにわれを忘れて、封じていた力が放たれた。そして、そのことが原因でひとみは10年もの間苦しんでいた――。
その事実が脳裏をかすめ、少しではあるが全身を巡る血流が静まったような気がした。
「いちーちゃんは、ホントに無事なんだね」
「ケガはしてるけど、大した事ない。だから、絶対にパニックにならないで。
辻も飯田さんもいるから」
「わかった……」
後藤の表情が、スッと冷めた表情に変わった。
それを見たひとみは、なんとかこの場の危機を回避することができたと確信した。
力で封じていては、真希の力を完全に封じる事はできない。ひとみの咄嗟の判断が、二次被害を未然に防ぐ事ができた。
市井に対する真希の盲目的な感情は、誰にも止める事はできないと、ひとみはこの数ヶ月で理解していた。
何度か矢口に頬を軽く叩かれて、市井はやっと意識を取りもどした。
「矢口……」
市井は、辺りを軽く見回して自分の置かれている状況を素早く理解したようであった。
「加護も、大丈夫だからね」
「……あ、うん」
置きあがろうとした市井は、身体に走る激痛に顔を歪める。
「ハハ。先に、自分の身体治しなよ」
矢口は精一杯の笑顔を向けた。
市井は、「そうだね」と苦笑を浮かべつつ自分の身体に手を触れた。
「紗耶香……」
声が聞こえて市井が隣の部屋に顔を向ける。そこには、加護を抱いてこちらを心配そうに見ている中澤がいた。
「ハハ。なんだよ、裕ちゃん。加護の母親みたいだね」
そして、市井は辺りを見まわした。
「圭ちゃんは……?」
矢口が目を伏せたのを見て、市井はハッとして立ちあがった。
「圭ちゃん!」
「紗耶香! 落ちつき!」
中澤の一喝で、市井はソワソワと辺りを見まわす動作を止めた。
「町で何があったんや……。まず、それからや」
後藤の姿が、中澤の後ろに現われた。ちらりと市井を見ると、一瞬、目に表情が戻ったがまたすぐに虚ろな目を加護に向けた。
「買い物してる途中だった……」
その視線に気づいたのは、加護が最初だった。
「あの人、何でこっち見てるんですかねぇ?」
市井は商品を手に持ったまま、加護の視線を追った。見ると、通路の先に3人の警備員がいる。
警備員たちは手に紙をもち、何かを確認しているようだった。
(間違いないな……)
(まさか、こんなところに……)
(すぐに、知らせなければ……)
市井に3人の意識が流れ込んできた。1人の警備員が走りさり、2人はそのまま通路の先に残った。
「加護……」
「はい?」
と、きょとんと見上げる加護。市井の額には、うっすらと汗が滲んでいた。
「圭ちゃん……、どこ行った?」
「保田さんなら、向こうでお米見てくるって」
「そっか、よし、じゃあそっち行こう」
「???」
市井は商品を戻すと、加護の手を引いて警備員のいる方向とは反対側へと歩いていった。
歩きながらも市井は垂直に交わっている通路を、横目で見つめていた。
自分たちの歩く方向に、警備員たちも反対側の通路ではあるが同じ方向に進んでいる。
「あ、保田さーん」
と、保田の姿を見つけた加護が、名前を呼んだ。
――迂闊だった。市井は、そう後悔した。
加護が保田の名前を呼んだことで、警備員たちは確信したようだった。
(保田……)
(保田圭……)
(リストにあった)
(ミュータント、間違いない)
加護の声に気づいた保田は、顔を上げた。そして、振りかえる前に異様な光景を目にした。
商品の陳列した棚を通り越して、ショッピングセンターの出入り口が見えた。
そこには、数十人の手に何か棒きれのようなものを持った中年男性たちがいた。
市井にも、その男たちの意識は流れ込んできた。
(討伐隊が到着するまで、なんとしてでもわし等が)
(息子を殺された)(鬼だ)
(殺せ)(討伐隊)(まだ、子供じゃないか)
(変化する前に殺してやる)(殺せ)
「帰るよ」
「あ、うん……」
保田はうつむき加減に、市井へと駆けよった。そして3人は、手を繋いだまま何も持たずに店にあるもう一つの出入り口へと向かった。
興奮した群衆の1人が「逃げるぞ!」と叫ぶのと同時に、市井と保田はきょとんと後ろを振りかえる加護の手を引っ張り駆けだした。
加護は通路を走ってくる異様な形相をした中年男性らに、とっさ的に力を放とうとした。しかし、その力は市井によって完全に封じられていた。
「市井さん、離してっ」
「ダメだ。いいから、早く走れ」
しかし、店を出たその場所で足を止めざるをえなかった。
出たその場所には、今到着したばかりなのだろう。肩で息をしている男性数十人が出入り口を取り囲むようにして立っていた。
「テレビで見たぞ。お前ら、ミュータントだな」
「マルヤマ町、役場の者だ。おとなしくするんだぞ」
手に武器を持った男たちの声は震えていた。男たちの恐怖は、市井にも届いていた。
「やばいよ、紗耶香……」
保田は辺りを見まわした。取り囲む役所関係の人物のほかに、野次馬的に集まった人々で完全に取り囲まれてしまった。
駐車場までは、まだ200メートルほどあった。
「加護……、あの看板狙えるか?」
市井の視線の先数メートルほどに、テナントの看板があった。ちょうど、包囲網の途切れた上部に、それは位置していた。
「はい。大丈夫です」
加護は市井を見上げて、コクンとうなずいた。
「圭ちゃんも……、あの看板が落ちたら、一気に車まで突っ走るよ。いいか、加護。
何があっても、力は使っちゃダメだぞ。ウチらはもう人殺しじゃないんだからな」
「……はい。わかりました」
「何をゴチャゴチャ、言ってるんだ。この鬼畜め」
誰かの投げた石が、市井の肩に当った。
「市井さんっ」「紗耶香っ」
「大丈夫。行くぞ、加護」
市井が加護の手を離した瞬間、群衆の後ろで看板が爆発音を立てて落下した。
群集は悲鳴を上げながら、方々へと散った。
その隙間を、市井・保田・加護は走った。走ってくる3人を見て、群衆の輪は、モーゼによって切り開かれたかのような1本の道を作った。
車まであと数十メートルの所で、加護が突然倒れた。誰かの投げた石が、顔面に直撃したらしい。
「圭ちゃんはッ、車に戻ってッ!」
市井はそう叫びながら、加護の元へと戻った。抱え起こした加護の顔を見て、市井は思わず顔をしかめた。
見ると、加護の近くに大人のこぶし大ほどの石が転がっている。
この石が顔面に直撃したのだ。加護の鼻は完全に折れ、頬骨が陥没していた。
「痛いッ! 痛いよーッ!」
金切り声を上げて泣き叫ぶ加護。市井はすぐさま、自分の能力でその傷を治した。もう傷はなくなった。痛みもなくなったはずである。
しかし、パニックになった加護は叫び声を止めようとしなかった。
「加護ッ! いつまで泣いてんだ! 行くぞ!」
と、市井が加護の手をとり振りかえった瞬間、市井の額に鍬の先端が当った。
鈍い音がして市井は額から血を吹き出し、受身をとることなくその場に卒倒した。
「市井さんッ! 何すんねん! このアホ!!!!」
鍬を振りかざした老人は、加護の力によって切り刻まれた。
それにより、群集の恐怖は一気に煽られ一斉に投石が始まった。
加護にも何発も命中した。痛みで力のコントロールができず、加護の放つ力は近くの車をスクラップにしただけだった。
クラクションを鳴らしながら、保田の運転する車が加護らの前で止まる。
「加護、早く乗れ!」
中で保田が叫んでいる。
「市井さんがッ! 市井さんがッ!」
運転席から身を乗りだした保田は、地面に倒れたままピクリとも動かない市井を見てあわてて車から出てきた。
群集の投げる石が、流星群のように3人に降りかかる。
加護が自分たちの周りに、風の膜のようなものを張りなんとか防戦しているが、
先にダメージを受けているためすべてを防ぐほどの威力が発揮されない。
悔し涙でもう何がなにかわからなくなった加護の身体が、不意にひょいっと浮かび、次の瞬間には助手席へと投げ込まれていた。
「しっかりしろッ、バカ」
と、助手席のドアを閉めながら保田が叫んだ。肩には、顔面を鮮血で彩られた市井を担いでいる。
保田はそのまま後部座席を開けると、市井を座らせる余裕がなくそのままま市井を座席の下に押し込んだ。
「保田さんッ、後ろ!!」
加護の声に、身構えながら振りかえった保田。その肩にゴルフのドライバーが食い込んだ。
鎖骨のあたりから、奇妙な鈍い音が聞こえた。
「お前らのせいでな、ウチの息子は死んだんだ!」
続けざまに二発目の衝撃が、内臓を直撃した。
意識が遠ざかりながら、保田はゴルフのドライバーを振り下ろしている中年男性が涙を流しているのを見た。
しかし、同情をしている暇はなかった。保田は残っていた力で、後部座席のドアを閉めると、大声で怒鳴った。
「加護ッ、戻って後藤を呼んできて!! 助けてくれるの待ってるから!! 早く!!」
加護は、”後藤を呼んできて!!”と叫んだところまでは保田の姿を確認していた。しかし、その後の事はよく覚えていない。
運転席に座ると、ギアをドライブにいれてアクセルを強く踏んだ。
左目が大きく張れて、左の視野がひどく狭かったが加護は必死で車を走らせた。そして、数時間後――。
中澤は、畳の床を激しく叩きつけた。
皆の顔は、複雑な表情を浮かべている。怒り、恐怖、失望、憤り――。
「ハハ……、いちーちゃんのミスだよ……」
後藤が力なく笑った。
「加護に全員殺させてたら、圭ちゃん捕まらなくてもよかったのに……」
市井は、後藤の目をジッと見つめている。後藤はフラフラと市井へと歩み寄った。その場にいる全員に、緊張感が走る。
「なんで、アタシ、その場にいなかったんだろう……。なんで……、連れて行ってくれなかったの……。
どこに行くのも一緒にって言ったじゃん。何でよ!」
後藤は市井にしがみついて、声を上げて泣いた。
市井はただ黙って、後藤の身体を強く抱きしめた。
強大な力は、身体を密接させていることによってすべて市井に吸収されている。
周りの目から見れば、後藤はただ泣きじゃくっている少女に過ぎない。
「裕ちゃんさ……。アタシ、やっぱりここにはいられないよ」
市井は後藤の頭を優しくなでながら、微笑んで中澤に語りかけた。
「つんく……。あいつを倒さなきゃいけない。もとはと言えば、あいつに騙されたアタシがいけないんだ。大きな物を望みすぎた」
「紗耶香。落ちつき」
中澤が立ちあがった。
「本当にみんなの幸せのためなら、ぼくの身体はひゃっぺん焼いても構わない――。あの詩、いいよね」
宙を見つめて、市井は微笑んだ。
「もっと早くに、そうするべきだったんだ。何を迷ってたんだろう。フフ。たぶん、ここにいるみんなに甘えてたんだろうな。
失って怖くなって、残った大事な宝物また失いたくなくて、もっともな理由を考えてここに留まろうとした」
「紗耶香。今はそんなん言ってる場合やないで、みんなで圭坊助けに行こうやないの」
「みんなはここに残って……。アタシと……。後藤も一緒に来てくれる?」
と、泣きじゃくっている後藤の顔を覗きこんだ。
「へへ。当たり前じゃんかぁ……」
顔を上げた後藤は、涙を流しながらも笑った。
「そっ。ありがとな」
と、クシャクシャと笑顔で後藤の頭をなでた。
(導かれてるのは、2人だけじゃない。ここにいるみんなが導かれてる)
市井の意識に、その声が流れ込んできた瞬間。
ひとみと梨華が、部屋に駆け込んできた。
「すぐに逃げる用意してください!」
「私たちを捕まえに、大勢の人がこっちに向かってます!」
Chapter−2 <導かれし娘。>
「こんなの、デタラメよ!」
石黒は、目を通していた新聞を床に叩きつけた。
ビジネスホテルのロビーに集まっていた足止めを余儀なくされている宿泊客たちが、そう叫んだ石黒に注目した。
男性ばかりの好奇な視線。もしも、石黒が独身女性だったならば、
好奇な視線はやがて飢えた狼のような生々しいものに変わっていた事だろう。
皆、もうこの場所に10日以上も閉じ込められている。
男たちのリビドーは限界にまで達しようとしていた。
しかし、石黒は身篭もであったがために狼たちの餌食にはならずにすんだ。さすがに男たちも、人間としての理性が残されている。
ただ、都市部ではそのような理性はもはや残されていなかった。
都市部では、ミュータントの襲撃よりもそのような暴徒と化した人間の方が、数々の犯罪を重ね多数の死傷者を生み出している。
各地で行なわれる”処刑裁判”。それも、その内の1つである。
能力保持者だけではなく、一般の者も少しでも疑わしいものは、市民の手により捕獲され、
正式な裁判手続きをとられることなく市民の手により処刑されている。
国もそのような非人道的な行動には、何らかの制裁を加える必要があるのだが、自国・他国の防衛により、
各地で行なわれているそのような行為にまで手が届かない。
実質的に、日本は無法地帯となっていた。
――石黒は、新聞をかなぐり捨てるとすぐにその足でロビーの隅にある公衆電話へと向かった。
中継基地が破壊されたのであろう、携帯電話はもはや使い物にならなくなっていた。
数度目のコールで、石黒の勤める新聞社に電話が繋がった。
「今日の一面記事書いた、担当者を出してっ」
石黒は開口一番、そう言い放った。
「あ、編集長ですか。――あ、はい、無事です。あの、それよりもですね、朝刊の一面記事あれなんですか。全部デタラメじゃないですか。
――あそこに名前のでてる子を、私、知ってるんです。石川梨華って子は、そんなテロ事件なんか引き起こす子じゃありません。
中澤裕子も、矢口真里もそうです」
その話をぼんやりと聞いていたサラリーマンが、石黒の投げ捨てた新聞を拾い上げた。
新聞記事の一面には、『最重要 能力保持者 一連の事件の鍵を握る少女たち』という見出しがあった。
「彼女たちは、逆に被害者なんです! ――裏づけをとってるんですか?――はぁ? 送られてきた資料をそのまま掲載しただけ?
なんですか、それ! 二流の週刊誌じゃないんですよ、こんな時だからこそちゃんとした事実を――あ、ちょっと、編集長」
石黒は、叩きつけるように受話器を戻した。
――新聞で梨華の顔写真を見た石黒は、どうしてそれまで彼女たちのことを思い出さなかったのか不思議に思っていた。
石川梨華・安倍なつみ・中澤裕子・矢口真里・福田明日香・松浦亜弥、
石黒はこれらの自分が関わった能力者のことをすべて忘れていたばかりか、
何事もなかったかのように職場復帰していることに奇妙な違和感を覚えていた。
しかし、戸惑っている時間もない。梨華たちが、このような破滅的な世界情勢に追いやったとマスコミ全社が取り上げているのだ。
早急に、彼女たちの身の潔白を証明する必要があった。
石黒は、すぐにエレベーターに飛び乗った。
――エレベーターの扉が閉まりランプが上昇するのを確認すると、
さきほど石黒の捨てた新聞を読んでいたサラリーマンが立ちあがって公衆電話へと向かった。
「あのぅ、ここに書いてあることなんですけど、情報提供者には金一封が出るって本当ですかねぇ? 直接的な情報じゃないんですけど――」
討伐隊の山狩りを逃れたひとみたちは、山の反対側へと下り、隣県を周って市井らが襲撃されたというショッピングセンターまでやってきた。
そこに辿り着くまでに、何度か自衛隊の検問・警察の検問を受けたが、
どれも梨華のマインドコントロールにより大きな騒動もなく無事に通過することができた。
山狩りや検問等で、時間は大きくロスタイムを強いられた。
到着した時、そこにはいつもと変わらないであろう日常の光景があった。
まるで昨日の出来事などなかったかのように、”善良な市民”がそこに集っていた。
「……矢口、頼むで」
ここに来るまでに乗り換えた真新しいワゴン車の運転席から、中澤は周りを見渡しながら助手席の矢口に口を開いた。
矢口は駐車場に向かって両手をかざすと、目を閉じて”過去視”を始めた。
矢口は自分自身で力の衰えを感じていたので、正直なところまともな過去視ができるかの自信はなかった。
それでも、捕らわれた保田を救うため皆の願いを一身に感じながら、過去視を試みた。
フィルムのコマ落としのように時間を遡る。そして、市井と加護の証言通りの場面でそのフィルムを止めた。
走り去る加護の運転するワゴン車。地面に倒れ込んだ保田に、なおもゴルフのドライバーを振り下ろす中年男性。
しばらくして、その周りに人だかりができる。取り押さえられる中年男性。人だかりの間から見える、血だらけの保田。
ぐったりとはしているが、死んではいない。
数人の男たちが抱えて、ライトバンに保田を乗せる。走り去るライトバン。
そのライトバンの脇には、『マルヤマ町役場 環境保安部』とネームがあった。
――矢口の話を聞いた皆は、保田が生きている事を知ってほんの少しではあるが胸を撫で下ろす事ができた。
中澤は素早くハンドルをきると、役場へと向かって車を走らせた。
もうどのくらい車を走らせたであろうか、主要幹線道路はすべて封鎖されているため、
石黒は地元の人間しか通らないような道を地図を片手に進路を東京方面へと向けて車を走らせていた。
――死んだはずの福田明日香が、自分の近くにいる。
いや、自分の近くではなく第一現場の付近にいた。
石黒はその事も思い出した。何かが何かが確実に動いている。
それは、梨華たちを中心にして動いているのではなく、もっと別の人物の手によって動かされている。
石黒は、その事を早く編集長――いや、世間に知らせたかった。
「世界を救えるのは、あの子たちしかいないのよ」
石黒に根拠はない。ただ、梨華たちと触れた自分の心が、直感的にそう叫んでいるのである。
――石黒の直感は、あながち外れではなかった。
狭い一本道を塞ぐようにして、突然、石黒の車の前に一台のトレーラーが止まった。
マルヤマ町役場の前には、すでに何人かの男たちが並んでいた。
市井・後藤・加護たちは、その男たちと面識があった。
そう。――つんくの所有する<Zetima>のスタッフ。
しかし、その男たちの力は微々たるものである。その男たちがなぜ、そこにいるのか市井らにはわからなかった。
中澤は、役場から少し離れた場所に車を止めた。
互いにその存在には気づいているはずだったが、男たちは何もしかけてこない。不気味な静寂。
梨華に届いてくるのは、戦いのゴングを待ちわびている後藤と加護の興奮した意識。緊張しているひとみと矢口と希美の意識。
すでに無効化の力を発動しているのだろう中澤からは何も届かない。飯田は――、特に何も考えていないようだった。
聞こえてくるメンバーの心の声。静寂。不気味に佇んでいるだけの<Zetima>スタッフ。
梨華は、ハッとして車内の窓越しに横の茂みに眼をやった。数体の『ミュータント』が飛び出してきた。
「中澤さん!」
梨華の声と共に、異変に気づいた中澤が車を急発進させた。
『ミュータント』の直撃を避けたものの、『ミュータント』は執拗に車を追いかけてくる。
運転席のすぐ後ろの市井が、身を乗りだしてサイドブレーキをひいた。
急停止するワゴン車。
市井と後藤が、ドアを開けて外に飛びだす。送れた加護が、一緒に座っていた梨華を押しのけて外に出ようとしたが、ひとみがそれを制した。
「よっすぃ! どいて!」
「加護はウチらと、保田さんを助けに行くんだ」
ひとみは、加護を強い目で見据えた。まるで打ち合わせでもしてたかのように、その声を合図に中澤は車を走らせる。
役場前にいた男たちが、力を放ってきたがワゴン車には届かない。
いや、届いてはいるのだが中澤の”無効化”により、力がかき消されている。
男たちの顔に、動揺の色が浮かんだ。すかさず梨華が触手を伸ばして、素早くその運動機能を停止させた。
車は男たちの脇を通りぬけ、役場の敷地内へと入っていく。
――今度の『ミュータント』は鋭い爪と、鋭い牙を持っていた。
通行人たちは皆、悲鳴を上げて逃げだした。
「なに、あれ? できそこないの狼男だね」
と、後藤は向かってくる4体の『ミュータント』を見てニヤニヤとしていた。
「油断するなよ」
市井の触手がもしも目に見えるのならば、その触手はメデューサの頭から伸びる無数のへビのようであろう。
市井は自分でもそんな気がしていた。
能力保持者がもしも政府の発表したように『ミュータント』になるのならば、自分は間違いなくメデューサのようになるんだろう――
市井は、なぜかそんな気がした。
メデューサに睨まれた一体の『ミュータント』は、その身体がまるで石になったかのように動きを停止させた。
そこへ、間髪をいれずに後藤が力を放つ。この前のように、街中を気にして、力の威力を躊躇する事はなかった――。
後藤の力を直撃した『ミュータント』は、どす黒い血を当りに撒き散らしながら地面の中へと埋まった。
残り三体の『ミュータント』は臆することなく、市井らの元へ飛び込んでくる。
後藤の放った力は、『ミュータント』に避けられ逸れた力は数百メートル離れたビルを破壊した。
「ハハ。よけられた」
ニヤニヤ笑いながら、後藤は『ミュータント』の鋭い爪を直前で交わした。
「油断すんなって、言ってんだろ」
市井も、後藤のその余裕の態度を見て思わず笑みになった。後藤は、この状況をあきらかに楽しんでいる。
後藤の中にある負の感情である”破壊衝動”が目覚めたのである。
市井は、後藤に向かう『ミュータント』三体の内、ニ体の動きを封じた。もう一体は市井の触手の範囲を超えていた。
「後藤、そいつ頼む」
「あいよー」
と、後藤は『ミュータント』と向き合ったまま、じりじりとその距離を離れ自分の間合いを取ろうとしていた。
『ミュータント』はその口元から、大量の涎をボトボトと地面に滴らせながら、自分の間合いを確かめているかのようだった。
一瞬早く、『ミュータント』の攻撃が早かった。間合いを取られた後藤は、腕を引き裂かれた。
「後藤ッ!!」
市井の叫びは、後藤の放った力によってかき消された。
巻きあがる粉塵。後藤の姿が見えない。駆け寄った市井は、その粉塵の中でうずくまる後藤を抱え起こした。
「ハハ……。ちょっと、調子にのりすぎた」
と、後藤は市井の腕の中で、間の抜けた笑い声を上げた。
「ホント、ちよっとは痛い目みろ。バカ」
「ハハ……。でも、楽しいねぇ。昔を思い出すねぇ」
市井は優しい笑顔を浮かべながら、後藤の傷をなでた。粉塵の晴れた向こう側に、大勢の野次馬の姿が目に入った――。
動かなくなったままの2体の『ミュータント』は、大好物のエサを前にして”待て”を命令された犬のように、
鼻息だけを荒くして大量の涎を垂れ流しにしていた。
穴の開いた地面の中で、もがき苦しむ『ミュータント』を軽く息の根を止めると、
後藤は野次馬たちの見守る中、ニ体の『ミュータント』に向き直った。
「ここにはおらんって、どういうことやねん!! オッサン!!」
中澤は、逃げ惑う職員の一人を捕まえてその襟首を締めあげた。
「ほ、本当です。本当に、こ、ここにはいないんですよ」
中澤がチラリと、梨華へと視線を向けた。梨華は、微かにうなずいた。
「じゃあ、どこへ連れてったんや!!」
「と、東京からミュ、ミュータント討伐隊の、ほ、本部の人が来て……」
「東京か! 東京に連れてったんやな!!」
「ひぃ。こ、殺さないで下さいッ」
男はいい年をしながらも、その場に失禁した。
中澤は、男を突き放すと後ろに立ち尽くしているひとみたちに向き直った。
「ゼティマや……。ゼティマが圭坊を……」
中澤の目は、誰も見ていなかった。ただただ怒りに震え、心の中に絶望的な思いが広がった。
「中澤さん……。東京に戻るんですか?」
ひとみが口を開くと、中澤はハッとわれに帰って、立ち尽くす一同へと視線を向けた。
「1人で戻るなんて、言わないで下さいよ」
ひとみもやはり怖いのだろう、少し顔が強張っているが必死で笑顔を浮かべていた。
「よっさん……」
「時間がありません。すぐに行きましょう」
「石川……」
中澤に呼ばれた梨華は、それまで外に向けていた意識をこの場に戻した。
「は、はい……」
中澤は、優しい微笑を浮かべるとひとみと梨華を抱きよせた。
「あんたらがおって、ホンマに心強かった」
「何、言ってるんですか中澤さん」
ひとみは中澤に抱かれながら、驚いたような声を出す。
「矢口、これからどうする?」
中澤の優しい問いかけに、矢口も微笑を返した。
「5年も一緒だったんだよ。今さら、なに言ってんのさ」
「そうか。ありがとな。――圭織」
中澤に呼ばれた飯田は、「?」と顔を向けた。
「加護と辻の事、頼むな」
「嫌や! ウチも一緒に行く!」
事情を察した加護が、涙の滲む目で中澤を見上げる。
「辻と一緒におるときのアンタは、ホンマにかわいいで。これからも、そうしとき」
「そんなん、嫌や」
「加護、わがまま言うんじゃないよ」
矢口が、加護の頭を軽くポンと叩いた。加護は鼻をヒクヒクとさせて、必死に涙を堪えている。
「矢口の見た未来に、みんなはいないんだ」
一同は、黙って矢口を見つめた。
「でもね、その後に続く未来にみんなはいる。そこはね、もう新しい世界なんだ。だから、大丈夫。ここで別れてもきっと会えるから」
「そやで。確定した未来にウチラはおるんや。これが最後の別れやない。きっと、また会える」
ひとみと梨華から離れた中澤は、矢口へと歩みよる。
そして、加護・希美・飯田の3人に微笑みかけた。
「それまでの辛抱や。圭織、あんたホンマ交信ばっかりしてないで、3人のこと頼んだで」
めずらしく飯田は焦点のあった目で、中澤の瞳を見つめていた。
「辻も、お菓子ばっかり食べんとちゃんと勉強しときや」
希美は涙でキラキラと光った瞳で、中澤を見上げてうなずいた。
「よっしゃ、ほな、みんなとはいったんここでお別れや」
中澤は、最後に全員の顔を見渡した。
「みんなのこと――大好きやで」
駆けよりたい衝動を、みんなじっと堪えていた。中澤の決意が皆の足を止めていた。
どのくらい涙を流しながら、その場に佇んでいただろうか。
遠く離れていく2人の背中を見送った時、やっと加護と希美は声を上げて泣くことができた。飯田が二人の肩を、ソッと抱き寄せた。
ひとみも、うつむいたままの梨華の肩を自分へと抱き寄せた。
「もう、市井さんとごっちんもいないんだね」
ひとみの静かな問いかけに、梨華が小さくうなずいた。
梨華は知っている。
矢口が”その後に続く未来”など、見ていないことを。矢口が流した優しいウソを、梨華は感じとっていた。
ひとみにも、それは薄々とわかっている。きっと、その場にいる全員がわかっている事だろう。だが、誰も口にはしなかった。
中澤と矢口の決意を、無駄にはしたくなかったからである――。
数分後――。
ひとみは討伐隊が到着する前に、駐車場にあった赤いスポーツカーにみんなを乗せてその場を立ち去った。
石黒の前に止まった一台のトレーラー。何度クラクションを鳴らしても、一向に動く気配はなかった。
あきらめてバックしようと、ルームミラーで後ろを確認する。
長い一本道が続いているだけで、かなりの距離をバックしなければ車の方向転回をすることができない。
「ったく、急いでるのに……」
石黒は、苛立ちながらもギアをバックに入れた。
トレーラーの荷台の扉が、モーター音を響かせながらゆっくりと開いた。中から黒ずくめの男が、3人下りてくる。
バックをしようとしていた石黒だが、何が起こるのか気になりブレーキをかけた。
男たちは荷台から、細長い大きなBOXを運び出している。後ろの荷台は冷凍庫なのだろう。しきりに、白い冷気が漏れていた。
3人の男たちは、3つのBOXを地面に置くとすぐさまトレーラーの助手席側へと乗り込んだ。
そして、重低音を響かせて、車幅いっぱいの道をトレーラーは走り去っていった。
「……」
車内からそのBOXを眺めていた石黒は、不意に嫌な予感がしてきた。
そのBOXの中に何かが眠っており、もうすぐ”それ”が出てきそうな気がした。
――石黒の予感は当った。
白い冷気を噴出しながら、BOXの上部がゆっくりと開く。
バックしようと後ろを振りかえった時、後ろには数台の後続車が詰まっていた。
石黒は、恐怖に脅えてクラクションを鳴らし続けた。だが、後続車からは前のBOXが見えないのだろう。
反対に石黒は、後続車からのクラクションを浴びた。
前を向き直った時、石黒はそこで始めて生の『ミュータント』を見た。
冬眠から覚めた熊のような、『ミュータント』。
高速道路・駅前の惨劇を取材した時に重傷者から得た目撃情報と、今、石黒の前にいる『ミュータント』はとても酷似していた。
”死”、これまでにも何度か危険な目にはあってきた。だが、今ほど確実に自分の”死”を実感したことはない。
石黒は、どうして自分はこの場にいるのだろうと考えた。
結婚して普通に専業主婦をやるつもりではなかったのか、ささやかだが楽しい毎日を送ろうと努力する事ではなかったのか、
真実を伝えられないマスコミに失望したのではなかったのだろうか――。
夫のことが頭をよぎった。
わがままにつき合わせて、何度も困らせた――。
だが、誰よりも自分のことを理解してくれていた――。
良き夫であり、良き父親になってくれる。自分はいつも心のどこかで、巡り会えたことに感謝していたのではないだろうか。
”後悔”
お腹にいる子供を、夫に見せる事ができない。
危険な目にあっているはずの、梨華やなつみを救う事ができない。
ただ、それだけが『ミュータント』を前にあきらめかけた”生”への執着を貪欲に駆きたてた。
(生きる)
(私には、まだやり残したことがある)
(母になること)(妻になること)
(そして、友人を助けること)
石黒の目に力が戻ったその時、後部座席で「クスッ」という笑い声が聞こえてきた。
石黒は、ハッとして後ろを振りかえった。しかし、そこには誰もいない。
突然、大音響が響いた。石黒は声を出して、また前へと向き直った。
完全に目覚めた『ミュータント』三体が、BOXを壊している。
安眠を妨げられたことに対してなのか、それともそのBOXによって強制的に眠らされたことに苛立っているのか、
シルバーのBOXは粉々に破壊されている。
ようやく事態に気づいた後続車がパニックになって、車をバックさせている。
石黒の頭は、”逃げる”ように命令していた。しかし、『ミュータント』の鋭い目に見据えられている身体が思うように反応しない。
目の前にいる獲物に気づいた『ミュータント』は、まるでわざとそうしているかのようにゆっくりと石黒の車へとにじり寄ってきている。
――火柱は、『ミュータント』三体の真下から突然吹きあがった。
真紅の炎に包まれた『ミュータント』は、一瞬にして炭化した。
「????」
今、さっきまで目の前にいた三体の『ミュータント』は消えた。
石黒の頭の中は、混乱した。何が起こったのか、まったくわからない。
天然ガスに何かが引火したのか――。
そうも考えはしたが、地面は田舎の道とはいえアスファルトを敷いてある。
仮に吹き出していたとしても、あの強靭な『ミュータント』を一瞬にして炭化させるほどのガスが噴出しているとは思えない。
不発弾の爆発。
有り得るはずがないと、石黒はすぐに否定した。
爆発ならば、『ミュータント』とわずか数メートルしか離れていなかった石黒も無事には済んでいないだろうし、何よりも衝撃も爆発音もなかった。
ただ、ゴォォォォという炎の音は一瞬聞こえはしたが――。
炎……。
石黒の脳裏に、サキヤマ町の病院でのなつみの姿が描かれた。
「なっち……。なっちなの!」
石黒は、思わず車から飛びだした。
必死に辺りを見まわしたが、辺りには田園風景しか広がっていない。
遥か後方でパニックになって逃げ出した車が、事故を起こして黒煙を巻き上げているだけであった。
「なっち! なっち!! いるんなら、出てきてよ!! なっち!!」
石黒の声は、虚しく田園に広がるだけであった。
Chapter−3 <ぬくもり>
中澤と矢口が、国会議事堂近くに到着した時、辺りはもう夕闇に包まれていた。
かつての大都市は今はもう見る影もない、巨大ゴーストタウンと成り果てている。
幹線道路にはいくつかの検問所があったが、『ミュータント』の
襲撃なのかそれとも暴徒と化した市民による襲撃なのか分からないが、そのほとんどは機能しておらず、簡単に突破する事ができた。
「議事堂も、今はただの瓦礫の山だね……」
車内の助手席で、矢口がそうポツリとつぶやいた。
「警備も手薄や……。ひょっとしたら、もうここには誰もおらへんのかもしれんな」
「行くの、止める?」
「いや。圭坊が待ってるかも知れんからな」
だが、中澤にはその突破方法が思いつかない。いくら手薄な警備体制とはいえ、国会議事堂前は装甲車によって封鎖されている。
数人ではあるが銃を持った兵士も警備をしている。
相手が能力者であるのなら簡単に突破できるが、そうでない者と向かい合う時、中澤と矢口には戦う武器がない。
どちらも、PKタイプではなかった。し、市井や梨華のように人を操る力もなかった。
だからといって、こうしてただ指をくわえて待っているわけにもいかない。捕らわれた保田を、一刻も早く救助しなければならないのである。
「クソ……」
中澤は、ハンドルを握ったまま小さく舌打ちをした。
「どないしたらエエねん……」
矢口は、何も声をかける事ができない。今までにも何度となく、危険な目にはあってきた。だが、事前に”確定された未来”を見ることができた。
”確定された未来は、変える事ができない”。だが、事前に知る事によって対応を練る事ができた。
福田明日香が学校にまでやってきた時、遭遇する未来・逃げる未来を事前に見ることで、パニックにならずに冷静に逃げることができた。
ひとみがホテルから中澤らを救出した時も、事前にその現場を見ていたために、
半信半疑だったひとみを連れて無事に中澤らを救出することができた。
これまでにも何度も、そのような事は経験している。
だが――、ここ最近は”未来”を見る能力はめっきり少なくなっている。
しかし、それはひょっとしたらこれから先は”無事な未来”や”明るい未来”がない証拠なのかもしれないと矢口は思っている。
自分の力はただ未来を見るだけでなく、自分にとって都合の良い未来だけを見る力だったのかもしれない――。
それがなくなったと言う事は――。矢口は、中澤の隣でただ黙って座っている事しかできなかった。
「そや!」
突然の中澤の声に、矢口はその小さな肩をビクンと震わせた。
「な、なんだよ〜、急に」
「つんくはな、アイツ、力持ってないねん。せやから、もし何かあった時すぐに逃げられるように非難用の脱出口作ってたわ。
そやったそやった」
「? でも、そんなのどこにあるかわかんないじゃん。みんなが知ってたら、意味ない事でしょ?」
首をかしげて、中澤を見上げる矢口。
「この周りに出口がないか、探ってみてくれる?」
「?」
「つんくがどっか、変なところから出入りしてないか。矢口が見るんやないのー」
と、中澤が抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと裕ちゃん。こんな時に、何やってんだよ〜」
抱きつかれ、そしてキスの嵐を受けると思ってそう叫んだ矢口だったが、中澤は矢口の身体を抱きしめたままだった。
「裕ちゃん……」
矢口の肩に乗せられている、中澤の顔。どのような表情をしているのか、矢口には見えない。だが、中澤が泣いていることだけはわかった。
「5年間、楽しかった……」
「ハハ。何言ってんだよ、これからもずっと一緒だろ」
「矢口はあの頃から、なんも変わってない」
「メッチャ、変わってるじゃん。髪の色なんかさ、金だよ。金」
「ハハ。そんなん言ってんのとちゃうわ。アホやなぁ」
「アホっていうなよ」
矢口は、中澤に抱きしめられたままキャハハと笑った。
クスッと笑った中澤は、矢口の髪を優しく撫でた。
「アタシもさ、裕ちゃんと過ごした毎日は宝物だよ」
「ありがとう……」
「……裕ちゃんは、ホント涙もろいね」
「歳のせいや」
矢口は笑顔を浮かべたまま、目を閉じた。そして、”過去視”の能力を発動させた。もう未来を見る事はできないかもしれない。
しかし、過去を見る能力だけでも残っていることが嬉しかった。
この2つの能力で、中澤と出会うことができた。もしも、自分に能力がなければ出会う事はなかっただろう。
もしもの世界、どこかに出会う事のない2人が存在するはずである。
能力のおかげで、普通の平凡な人生を送る事はできなかった。
しかし、決して不幸ではなかった。むしろ、幸福すぎるほどの時間を共有した。
出会うまでは疎ましく思っていた能力、未来を見える力はなくなってしまったが、今は”過去視”だけでも残っているのが嬉しかった。
残っている力でもう少し時間が共有できるのが、矢口にはとても幸福であった。
ひとみは車を走らせていた。
――どこへ?
――向かう場所は東京に決まっていた。
飯田の心の声は、梨華が代弁した。
「この大きな流れを止めるのには――、力が必要……。私たちは宇宙の意思によって導かれている――。
混沌と――、無限に広がり続けた世界。終息の流れは世界を連鎖し、やがて宇宙全体を覆い尽くす――」
運転席のひとみは、何も言わずに黙ってハンドルを握り続けていた。
意味はわかるようなわからないような感じではあったが、どちらにせよ、”全員の力”が必要なのである。
それだけがわかると、ひとみには後のことはどうでもいいことであった。
飯田の代弁を終えた梨華が、助手席から後部座席の飯田に話かける。
「ののの力で、この流れを変える事ってできませんか……? 例えば、5年前に戻って中澤さんや市井さんに未来の出来事を伝えるとかして」
(可能だけど、この世界には影響がない)
「……可能でも、影響がないってどういうことですか?」
(そこから、分岐するだけ)
「分岐……。新しい平行世界が生まれるってことですか?」
飯田は、大きくてクリクリとした目を見開いてこっくりとうなずいた。
ひとみはその話を運転しながら聞いていた。
”平行世界”と”確定された未来”、この2つのキーワードは密接に関係している事を、以前、中澤に教えてもらった事がある。
自分のいる世界をAとして、1本の線に例えられた。
矢口はこのAの線の先(未来)や後ろ(過去)が見えるらしい。
Aの世界を変えようと思うならば、過去に戻りBの世界を作らなければならない。それはただ”見る”だけの矢口にはできない。
希美の持つ”時間移動”だけが、可能らしい。
過去に戻り、大きな分岐点を作る。だが、Aという世界は消滅しない。
Bという平行世界を作るが、もともとの線であるAは続いている。
もちろん、Aから分岐したBの世界も新たにCという世界を作ってもBは続いていくのである。そして、そこから分岐する無数の世界も――。
もちろん、A自体もどこかからか分岐した線なのである。
分岐しても、自分のいる未来は変わらない。
分岐はするがそれは自分の世界とは関係なく、自分たちのいる”確定された未来”は変わらないという事であった。
そこには、飯田の言う”宇宙意思”が大きく関係しているようなのだが、それは中澤にもわからなかった。
”確定された未来”を変更できるのは、別世界に移動できる希美だけである。希美の能力は”時間移動”ではなく、”平行世界移動”であった。彼女だけが別の世界で過ごす事ができるのである。
「じゃあ、せめてののだけでも……」
梨華がひとみの意識を読み取ったのであろう、今度はひとみに向かって話かけてきた。
「……?」
「ののだけ、この世界から」
「――それは、辻が決める事だと思うよ。そうでしょう? 飯田さん」
ひとみはバックミラー越しに、後部座席の飯田に語りかけた。
飯田は、静かにうなずいた。互いの肩にもたれかかるようにして眠っている加護と希美。
この先、どんな未来が待ちうけているのかは分からない。ただ、ひとみは皆と明るい未来に進む事だけを願っていた。
東京に戻る途中に通過する町。
その1つに、朝比奈町がある。ひとみは朝比奈町に入ったのは、道路標識や周りの風景でわかっていた。
しかし、何も言わずに通りすぎようとした。もちろん、何も考えないようにしてである。
一刻を争う時に、個人的な理由だけで到着を遅らせてはいけないと考えていた。
「ひとみちゃん」
「――ん?」
「家族に会わなくてもいいの?」
ほんの一瞬、家族の顔が頭をよぎったのであろう。真横にいる梨華は、それを敏感に感じ取っていたようである。
「また会えるからいいよ。どうせ、心配してないだろうし」
と、ひとみは前を向いたまま苦笑した。
「あの時……、海外に留学って事にしたよね」
「あ、うん」
「留学生ってどの国でも、国外退去になってるよ……」
ひとみは、ハッとした。両親がひとみを迎えにきた時、ひとみは両親の記憶を書き換えてくれるように梨華に頼んだ。
その時、不在の理由として”海外留学”ということにしたのであった。
しかし、世界の情勢は『ミュータント』の出現により大きく変化した。
「……」
「家に帰った方が」
「梨華ちゃん」
「うん。わかってる。でも、せめて顔だけでも……」
「……」
「家族がいるのって、ひとみちゃんだけ……。心配してくれる人を、安心させる義務があると思う」
「……」
ひとみの心は揺れた。意識の下へと追いやっていた家族との思い出が、溢れ出してくる。
七五三・弟の誕生・幼稚園のお遊戯会・母親との遠足・家族4人でのキャンプ・下の弟の誕生・両親の笑顔・弟たちの笑顔……。
どういうわけか、良い思い出しか溢れてこない。
「ウチら、待ってるで」
不意に後部座席から声がしてきた。ひとみがルームミラーを覗くと、いつの間に起きたのだろうか、加護と希美がニコニコと笑っていた。
――ひとみは、目を伏せると小さく「ありがとう」と呟いた。
朝比奈町の中心部は、ほぼ壊滅状態だった。
通学に利用していた駅ビルは砲弾でも浴びたのだろうか、ところどころに大きな風穴を開けていた。
梨華の勤めていた花屋「アップフロント」は、被害こそなかったもののもう随分と長い間、営業されていないようであった。
2人の思い出の場所がなくなって、ひとみと梨華の気分はなんとなく落ち込んだ。
ひとみの住む地域は、『ミュータント』の襲撃も暴徒の襲撃もなく、昔と変わらない光景であった。
ただ、出歩いている人が極端に少なかった。
この地域を離れていったのか、それとも家の中で息を殺しながら生活しているのか、
ひとみにはわからなかったが町並みだけは昔と変わっていないのでホッとする事ができた。
マンションの前にたどり着いた時、ひとみは最初1人で家族に会おうとしていた。
顔を見せて無事である事だけを報告すると、すぐに車に戻って来るつもりでいたのである。
しかし、車を下りてロビーへと駆け込もうとした時、加護に呼びとめられた。
振りかえると、顔を伏せた梨華がドアの外に立っていた。
加護が後部座席の窓から、顔を覗かせている。
「あんなー。梨華ちゃん、よっすぃと離れるん嫌なんやってー」
と、クスクスと笑った。
「あ、あいぼんっ」
顔を赤くした梨華が、加護へと詰めよった。
ひとみの位置からは、加護の顔とその前に立つ梨華の後ろ姿しか見えなかった。
さっきまで笑っていた加護が、笑顔を消して小さな声で梨華に何か二言三言声をかけているようだったが、
少し離れた場所にいるひとみには聞こえなかった。
時間がもったいないと思ったひとみは、その場所から声を出した。
「梨華ちゃん、行こうっ」
振りかえった梨華は、さきほどよりもさらに顔をうつむかせてひとみへと駆けてきた。
「?」
涙目で見上げる梨華。めずらしくひとみの手を強く握りしめ、戸惑うひとみをエレベーターホールへと引っ張っていった。
「り、梨華ちゃん……」
引っ張られながらも後ろを振り返ると、加護と希美が笑顔で手を
振っていた。
ドアを開けるとそこには憔悴した母親が待っており、
その後ろには対照的にふっくらとした弟たちが久しぶりに会う姉に少し戸惑っているのか不自然ながらも笑みを浮かべて立っていた。
父親は、ちょうど自治会の会議に参加しているらしく不在だった。
母親からは”今までなんで連絡しなかったのか?”・”今までどうして帰ってこなかったのか”などの質問が矢継ぎ早に飛んできたが、
ひとみは適当に”あぁ”や”うん”と返事をして返していた。
家族が無事であることがわかれば、もうあまりこの場にいる必要はない。――と、ひとみは自分に言い聞かせていた。
本当は久しぶりに会う両親に強く抱きしめてもらいたかったし、久しぶりに会う弟たちを強く抱きしめたかった。
しかし、家族よりも大切なものを見つけてしまった今、自分の弱さに甘える事はしたくなかった。
「お母さん」
ひとみは、なおも質問してくる母親の言葉を遮る。
「……」
母親の目は、もう何もかもお見通しのような目をしていた。黙って、娘の目を見据えていた。
「――わがままな娘で、ごめんね……」
ひとみが言えたのは、その言葉だけだった。頭の中ではもっといろいろな言葉を考えていた。
しかし、けっきょくこれ以外の言葉は出てこなかった。
母は目を閉じて、娘を抱きよせた。
「……」
ひとみも黙って、母に抱かれた。そのぬくもりは、梨華とはまた違ったぬくもりだった。
”母親”その偉大な存在が、ひとみをほんのしばらくの間、もうずっと昔の幼い少女に戻した。
――どのくらい、そうされていたのだろう。母親からスッと身体を離されたとき、ひとみはまたもとのひとみに戻った。
「遠くに行くのね……」
母親は、遠い目をして微笑んだ。
「……うん」
「でもね、必ず……帰ってきなさい。ひとみの家は、ここなんだから」
「……うん」
「その時は、ちゃんと連絡するのよ」
「……うん」
ひとみはもう、ちゃんと声を出すことができなくなっていた。視界は涙で滲んでいる。
「ひとみの好きな料理作って、待ってるからね。じゃあ、行ってらっしゃい」
母親は泣き崩れそうなひとみの肩に手をかけると、その身体をくるりと玄関の方へと向き直らせた。
「お母さんね、とっても心配だけど。とっても嬉しい……」
「……」
「輝いてるひとみの顔見てたら、とてもじゃないけど引き止めることできない」
「……」
「お父さんには、ちゃんと伝えておく。ひとみは無事だった。そして、成長してたって。だから……」
母親は嗚咽を必死で堪えているようだった。
「だから、ちゃんと戻ってきてその姿をお父さんに見せるのよ」
ひとみは唇を噛みしめながら、ポタポタと涙を流した。
「さ、行ってらっしゃい」
と、母親がひとみの背中をポンッと押した。
ひとみは振りかえりたい衝動を堪えて、そのまま玄関へと向かった。
今さらではあるが、もっと母親と話しておくんだったと後悔した。
しかし、その後悔はこの大きな流れを止めることができた時に晴らそうと、ひとみは自分を奮い立たせて玄関のドアを開けた。
マンションの廊下に出ると、梨華が立っていた。
「ひとみちゃんは……、ここに残って」
ひとみは何も言わずに、つかつかと梨華へと歩み寄った。
そして、梨華の身体を強く乱暴に抱きしめた。
「ひ、ひとみちゃん……」
確かめるようにひとみは梨華の、その髪を、その頬を、その唇を、その腰を、激しくまさぐった。
「家族より大切なの。梨華ちゃんのことが。何をするにも、梨華ちゃんの顔が先に思い浮かぶ」
「わ、私も……、でも」
「もう、終わらせよう。誰のためでもない。私たちのために、こんな世の中終わらせよう」
梨華の心に、ひとみの心が届く。今までのどの思いよりも熱くそして力強い意識――。
梨華は自分自身で、決心や身体が溶けていくような感じがしていた。
検問所の前に車を止めると、加護は躊躇することなく力を放った。
後藤ほどの威力はないにせよ、道路を封鎖していた数台の装甲車を瞬時にスクラップにした。
警備にあたっていた警察官や自衛隊員は、異能力者の力を見るのが初めてだったのか、
それともこれまで遭遇してきた異能力者の力に触れ『ミュータント』ほどの力はないとタカをくくっていたのか、
加護の力を目の当たりにすると悲鳴を上げながら逃げ去っていった。
「ののはこれからどうする?」
加護は軽く手を払いながら、止めてある車の助手席側に回り込んだ。
希美が助手席側の窓から、顔をだす。
「ん?」
「ウチなぁ、このまますぐにゼティマに行きたいねん。駅まで送ることできへんけど、それでもいい?」
「ん?」
「よっすぃも梨華ちゃんもそうやけど、ののも飯田さんももともとゼティマには関係あらへんやん」
「関係あるよ」
希美が、あわてて車からおりてきた。
「捕まって、病院に閉じ込められた」
「逃げようと思ったら、ののはすぐ逃げれたやんか」
「……逃げてもどこにも行くとこないもん」
希美が、悲しそうに目を伏せた。
加護は、もう少しで”あっ”と小さな声を出しそうになった。
「飯田さんも、病院に閉じ込められてたよ。辻も飯田さんも、ぜてぃまと関係あるよ。あいちゃん、そんなに辻のこと嫌い?」
「き、嫌いやないよ。めっちゃ、好きやで」
「じゃあ、いっしょに行こう」
「うーん」
「ね、行こー。で、終わったらまたいっしょに遊ぼー」
「そやなー。保田さん助けて、はよ帰ろうー」
「おー」
加護と希美は、無邪気に笑ってそれぞれの席へと戻った。
飯田は後部座席でずっと目を閉じながら、アカシックレコードを眺めていた。
やがて自分は宇宙の意識と1つになる。たとえ、仮に加護とここで別れたとしても希美は必ず、自分の制止も聞かずに加護の後を追うだろう。
そして、自分もまた希美の後を追うのはわかっている。ほんの少し分岐するが小さな分岐はまたもとの確定された未来に戻る。
そして、自分は宇宙の意識の1つとなる。――飯田は、その時が来るまでに、希美のために、とある世界を探していた。
Chapter−4 <集結>
各国への諜報活動が行なわれているのは、市井らの証言により中澤も知っていた。しかし、こうして実際にその関係資料に目を通して見ると、それは諜報活動というよりもこの日のためにつんくが用意した世界制服のシナリオの一遍にしかすぎないような気がしていた。
ゼティマの会長室に残っていた資料は、表向きな資料ではないはずである。表向きな諜報活動も行なっていたのであろう。
そして、その報告書は、主要機関にちゃんと提出されているのであろう。
しかし、今、中澤が目を通しているのはそれとは違う、つんく自らが計画して能力者に活動させた報告資料である。
市井が日本国内の能力者のスカウトという任務を任されていたのも、うなずける話だった。
この資料に書かれているような活動を市井が知っていたとするならば、もっと早くにつんくの野望を食いとめたはずである。
その計画は、あきらかに市井らの”ユートピア”計画とは異なっていた。
「みんな、こんなために死んでいったんちゃうで……」
中澤はやりきれなくなり、資料をデスクの上に置いた。
「……?」
側で辺りを警戒していた矢口が、中澤の小さな声に気づいて振りかえった。
やりきれない思いでいっぱいな中澤だったが、そうもしていられない。
雑居ビルの一室から地下通路を通って、国会議事堂の地下にある<Zetima>にやってきたのだが、
機能の中枢をもうすでに他に移しているらしく、つんくの姿はもうここにはなかった。
中枢を他に移しているという事は、保田もまたここには運ばれていないことになる。
しかし、そこがどこなのか中澤は知らない。もう1度、資料に目を通してみた。頻繁にコンタクトを繰り返している各学会の権威たち。
それらが何を意味しているのか――中澤は必死で考えた。
「それってさ、寺田なんとか研究所ってのに関係あるんじゃない?」
いつの間にか横から資料を覗きこんでいた矢口が、いとも簡単に答えを導きだした。
「なんか、このシュタイナーとかって名前の人、ラジオで聞いたことある。ドイツのスゴイ偉い生物学者でしょ」
「寺田……。そうや、つんくの苗字は寺田やった」
「?」
中澤が矢口の手を引いて、隠し通路へと戻ろうとした瞬間、地下全体を包み込むような衝撃音が鳴り響いた。
衝撃で一台のモニターのスイッチが入った。モニターには、駐車場の光景が映っていた。
無駄に広いと思われていた<Zetima>の駐車場は、後藤のために用意されていた。
敵が襲撃してきた時、後藤がその力を存分に使えるように市井がわざわざ作りなおさせたのである。
まさか、その駐車場を襲撃する立場として利用するなど、その時の市井は考えもしなかったであろう。
「誰も出てこないね」
後藤が辺りをぼーっと見渡しながら、つまらなさそうに呟いた。
「とりあえず、中に入ってみよう。広すぎて、圭ちゃんの意識届かない」
と、傍らにいた市井が先に歩きだした。
後藤も、ぼんやりとではあるが辺りを見まわしながら市井の後を追った。
市井の触手のレーダーの網に、何人かの意識を捕らえることができた。
しかし、その誰もがもうすでに戦意を喪失している。監視モニターで市井と後藤の姿をとらえたのか、
それとも自らの能力で2人の存在に気づいたのかはわからないが、市井のもとに流れ込んでくるスタッフの意識は”恐怖”であった。
だが、肝心の保田の意識はどこからも流れてこない。能力を封じる特殊装置の施されている部屋に閉じ込められているのだろうかと、
各部屋を1つずつ覗いていったが、そのどれらの部屋にも保田の姿はなかった。
「あれ? 裕ちゃん、やぐっつぁん。何やってんの、こんなとこで」
とある部屋の中を見て周っていた市井は、見張りとして部屋の前に立たせていた後藤の声を聞いて振りかえった。
ドアの前に、息をきらせた中澤と軽く息をきらせた矢口が立っていた。
「裕ちゃん……」
「あかん。圭坊、ここにはおらん。他のところや」
「なんで……」
「紗耶香、ここまで車で来たんか?」
「あ、うん」
「よっしゃ、じゃあ、それで移動しよう。――矢口、行くで」
と、ドアの前から走り去ったので、中澤と矢口の姿は見えなくなった。
残された後藤は、きょとんとした顔をしていつまでも廊下の一方向を眺めている。
市井は、小さく笑った。
「けっきょく、こうなんのか。もう、いいや」
市井の声を聞いて、後藤が振りかえる。
「後藤。ワクワクしてきたね」
久しぶりに見た市井の笑顔。後藤はしばらく見惚れていた。
まだ加護が市井のセクションに加入する前。市井はよくこうして笑っていたのを、後藤は思いだした。
4年前の初めて出会ったあの日も、市井は笑っていた。力が使えなくて、わんわんと泣いていた後藤を市井は笑って頭を撫でた。
『もう、自分の力を怖がる必要はないんだぞ』
そう言って、笑っていた。
最初の2年間は、市井は後藤の教育係と称して力の使い方を教えてくれた。
能力についての勉強も、学校で習うような勉強も、後藤はあまり好きではなかった。
しかし、市井の能力を知り、市井が側にいる限りもう誰にも危害を加える事がないとわかったら、
毎日24時間でも勉強をしていたい気分になった。
やがて一緒にいたいと願う気持ちは、それだけではなくなった。
もう何も教えられるものがないと市井が言った時、このまま離れ離れになると勘違いした後藤は感情が高ぶってしまい市井の側で泣いた。
そして、これまで市井の前ではどんなに感情を表に出しても放たれることのなかった力が、市井の頬を切り裂いた。
『後藤の力、成長してるな。スゴイよ』
市井は、頬の血を拭い楽しそうに笑った。
笑う市井とは正反対に、後藤はもう市井の前で素直に感情を出さないようにした。
優しさに甘えていれば、いつかとんでもない取り返しのつかないことをしてしまう――後藤は自分の力を心の底から恐れた。
やがて、後藤は新たに加入してきた加護の教育係を任されることになる。
その頃からだろうか、市井もまたあまり笑顔を見せなくなった。
「後藤。なに、ぼーっとしてんの。行くよ」
市井が目の前を通り過ぎた時、後藤はハッとわれにかえった。
あの頃は大きく見えたその背中。今はもう自分よりも小さい。
しかし、やはり後藤の目から見る市井と存在は大きくて、とても大切な人だった。
「ちょっと待ってよー、いちーちゃん」
後藤はふにゃあとした笑顔を浮かべると、市井のもとへと駆けていった。
後ろからその腰に抱きついた。
「コラ、後藤」
「へへ」
二人のふざけあう声が、誰もいないひっそりとした廊下に響き渡った。
<Zetima>の地下駐車場に、四人が出てきた。
目の前の光景を見て、市井は口元を歪めた。
「やっぱ、おとなしく帰してもらえないか」
後藤が、スッと市井の前へと歩みでた。
「今度もまた、狼くんかな?」
中澤は、矢口を自分の後ろへと追いやった。
「紗耶香はアタックに専念し。向こうのアタックからはウチが守る」
「だって。じゃあ、後藤、アンタも思いっきりやりな」
「いいよ」
大型トレーラーが地下駐車場の出入り口を塞ぐようにして止まった。
「なんだ……?」
後藤が目を丸くして、その光景に見入った。
「やったじゃん。後藤、アレ待ってたんだろ?」
「そうだけどさー……、ちょっと多すぎ……」
市井と後藤が初めて遭遇したタイプの『ミュータント』が8体、トレーラーの後部から出てきた。
「まとめてこっち向かってきてくれると、こっちも動き止めやすいんだけどなぁ……」
「見てよ。アイツら、バラバラになってこっち来ようとしてる」
「右の4体はなんとか止めれると思う。残り4体、大丈夫?」
「いいよ」
「ごっちん。ウチから、あんまり離れたらあかんで。アイツら、トラックの中からアタックしてるからな」
中澤の視線を追う後藤。
後藤の視線がトレーラーの運転席を捉えたと同時に、運転席は轟音をあげて大破した。
「ご、ごっちん!!」
矢口が悲鳴にも似た声をあげる。
「やぐっつぁんさ、前に言ったよね。アタシの力は、大切な人を守るためにあるって」
後藤は矢口に背を向けたまま言った。
「う、うん……」
「それでいいんだ……。正義はいらない」
「ごっちん……」
「行くよ! 後藤!」
市井の声と同時に、2人は左右へと飛び出していった。
右前方から向かってくる4体の『ミュータント』は、市井へと攻撃目標を定めたようである。
市井は、すばやく触手を伸ばし『ミュータント』の動きを封じた。
一方、後藤の方は苦戦していた。
後藤の放った力では大したダメージも与えられずにいる、ほんの数秒そのすばやい動きを止めるだけで、
すぐに左右から次々と8本の鋭い爪をもった腕が襲いかかってくる。
それをよけながら、力を放つだけで精一杯であった。
市井は、その状況を見てさすがに少し危険な感じがしていた。
いくら後藤でも力を放ち続ければ疲れて、その集中力も衰えてしまう。
集中力が衰えるという事は、動体視力も落ちて、いずれあの攻撃をまともに食らうことになるだろう。
頭部を直撃でもされれば一たまりもない。
市井は、後藤の元へと走った。
後藤との距離はおよそ200メートル。市井が触手を伸ばせる距離は、およせ100メートルほど。
後藤が相手をしている『ミュータント』の動きを封じると、市井を攻撃目標としていた『ミュータント』の動きが元に戻る。
市井の力では、8体の動きを同時に止めることはできない。
「後藤! 頼む」
後藤は市井の後ろから、襲いかかろうとしている『ミュータント』に力を放った。
いくぶんか、これまでよりも強い力が放出されたが、それでもその肉体を吹き飛ばすことはできなかった。
「いちーちゃん!!」
『ミュータント』の攻撃をよけきれなかった市井の背中が、その鋭い爪により大きく引き裂かれた。
「「紗耶香ッ!!」」
倒れた市井を見て、駐車場へと駆け出そうとした中澤と矢口。
しかし、そこに駆けつ市井を救出する時間はなかった。
市井の背中を裂いた『ミュータント』が、次の一振りを振り下ろそうとしている。
後藤も攻撃を受けた。
苦痛により市井の触手が少し弱まったのだろう、それまで止まっていた後藤の前にいた『ミュータント』が突然動きだした。
なんとか直撃は免れたものの、とっさに横に飛んでしまったため、体勢を立て直す時間が必要だった。
それでも後藤は、倒れたまま市井を守るために力を放った。
だが、その力はミュータンとに当ることなくはるか向こうにある駐車場の壁を破壊しただけにすぎない。
市井に力が当るのを恐れて、大きくそれたのである。
後藤がパニックになりかけたその時、市井の後ろで爪を振り上げている『ミュータント』の両目が弾けた。
後藤に襲いかかろうとしている『ミュータント』の両目も弾けた。
後藤にも、そして痛みで顔を歪めている市井にも何が起こったのかわからなかった。
ただ、市井はすばやく自分の背の傷を治すと、後藤に襲いかかろうとしている他の三体の動きを封じた。
そして、すばやく自分も後藤の元へと駆けよった。
後藤は見ていた。
市井を追いかけてくる『ミュータント』の両目が次々と潰されていくのを――。そして、聞いた。その声を――。
「後藤さーん。ウチ、コントロールいいでしょー」
いつの間にやってきたのだろうか、加護が赤いスポーツカーの前で大きく手を振っていた。
「加護……」
後藤は思わず涙が出そうになった。お世辞にも、加護に市井から受けた教育を施したつもりはない。
加護のことよりも、自分が市井といる時間を優先させたいがために、
それほど真剣にプライベートの時間を割いて教育をした覚えもなかったし、それほど親しく接した覚えもない。
それなのに、加護はどこへ行くのにも2人の後を楽しそうについてまわった。まるで、親とはぐれた子犬のように。
いつしか後藤も自分と同じ力、自分とよく似た境遇の加護のことを妹のように思えるようにはなったが、
それでも自分が受けた優しさの半分も与えられなかった。
「後藤さーん」
と、加護がニコニコと笑いながら駆けてきていた。
その姿を見て、後藤は自分にも市井のような気持ちを持つことができているのを感じた。
また1つ、市井に近づけたような気がして嬉しかった。
「加護ちん、危ないからそこで見てなー」
後藤はのんびりとした声を出すと、ゆっくりと立ちあがった。
両目を潰され、動きをなくした4体の『ミュータント』に力を放つ。
随分と昔に、市井から受けた基本的な力の使い方。自分には合わないと、自分の力なら一発で大丈夫だと驕り高ぶり使わなかった方法。
ドーンッドーンッとその連続する衝撃音だけで、見ているメンバーたちの身体は揺れた。
吹き飛んだ『ミュータント』は、壁に埋まった。しかし、後藤は力を緩めなかった。
後藤が力を放つたびに、壁はまるでスポンジのように『ミュータント』を吸収していく。
後藤が力を止めた。
メンバーは、その様子を見守った。もしも、穴の開いた壁の中から『ミュータント』が何事もなかったかのように飛び出して来ようものなら、
もう自分たちに勝ち目はない。誰もがそう思っていた。
――静寂。
長い間の静寂中、聞こえてくるのは市井の触手によって再び動きを封じられた4体の荒い鼻息だけであった。
「最初から、そうしろよな」
市井が苦笑しながら、ゆっくりと4体の『ミュータント』から離れた。
へへと笑う後藤は、市井が離れるのを見届けるとおもむろに残りの『ミュータント』に向かって力を放った。
女が瓦礫の向こうに連れ去られるのを、運転中の石黒は偶然に視界の隅でとらえた。
東京のアパートも目前だったので、一瞬、気づかなかった事にしてそのまま走りすぎようかと思った。
有事により理性のタガが吹き飛び、これまで抑圧されていた負の欲望が溢れだす。
無法地帯となった大都市東京では、よくある光景のはずであった。
ここまで移動してくる間に、石黒の感覚もまた麻痺を起こしかけていた。
無残に転がる無数の死体。生気をなくした人々が、群れをなしてさ迷う姿。
強盗・レイプ・殺人・放火、これらのニュースを騒がしていた事件はもはや、大都市では日常茶飯事となっている。
見知らぬ女性がレイプされることよりも、すぐにアパートに戻って夫の所在を確認することのほうが先決だと石黒は思ったが――、
その足はブレーキを踏んでいた。
後部座席の方から軽いため息のようなものが聞こえたが、石黒はもう気にすることもなかった。
車を下りると、近くに転がっていた角材を強く握りしめ足音を立てないように、女が連れ去られた方向へと歩いて行った。
しばらく歩いた後、後ろで車のドアが閉まる音が聞こえ、石黒は驚いて振りかえったが、そこには誰もいなかった。
男は自分自身を世紀末に現われた、大魔王サタンだと思い込んでいた。ノストラダムスの大予言が外れたのは、
大魔王サタンである自分が新世紀を向かえるためにアンゴルモアの大王を消し去ったのだと本気で信じ込んでいた。
ある意味で自分は人類を救った救世主なのだが、やはりサタンであるが故に世界を混乱に陥れたことをほんの少し心の片隅で詫びていた。
今まで繰り返してきた数々のサイドビジネスが、とある住宅団地の営業を失敗させてしまったせいで、
警察に追われる身となってしまったのである。
こっちだって被害者だ。
男は世間にそう叫びたい気持ちもあった。若妻を殴り、おとなしくさせ、いざ行為に及ぼうとしたら旦那が帰ってきたのである。
そして、何度も殴られた。顔面は大きく膨れ上がり、前歯の数本も折られた。
かろうじて逃げ出すことには成功したが、翌日から指名手配の身になってしまった。
大ケガをさせられたのである。それなのに、警察はなぜ旦那を捕らえない。――男は理不尽な思いでいっぱいだった。
こんな理不尽な世界など滅んでしまえばいいと思った翌日、世間は大混乱となった。
日本国内だけでなく、世界中が『ミュータント』と呼ばれる生物のせいで大混乱に陥った。
超能力を持った者が、『ミュータント』に変化すると政府の発表があったとき、男の脳裏に一瞬サキヤマ町で出会った少女の顔がよぎったが、すぐにその顔を消し去った。
男は『ミュータント』は自分が召還した地獄の使者であると思い込んだ。
なぜならば、世界の混乱を願ったのは自分でありそのようになったのは自分が大魔王サタンであるからだと信じ込んだ。
なので、自分に危機は関係ない。このような混乱を巻き起こしているのは自分自身なのだから、
自分の身に危険があるはずもないといつものように街を歩く女性を物色していたのである。
しかし、このような時勢に大都市を歩く女性の姿はなく、獲物を求めて地方へと向かおうと駅に向かった時、
偶然にも自分を窮地に追い込んだ若妻によく似た女性を発見したのであった。
やっぱり、自分は大魔王サタンである。――男は、そう思った。
石黒が瓦礫の影からそっと顔をのぞかせた。男に組み伏せられて、その下で暴れている女。
誰がどう見ても、恋人同士の同意によるものではない。
「ちょっと、何やってんのよ!」
石黒は、瓦礫の影から飛びだした。男は女を組み伏せたまま、顔だけを石黒へと向ける。
「……」
石黒は一瞬、その顔どこかで見たことがあると思い、それがどこだったのか必死で記憶の糸をたどったが思い出せることはなかった。
男の視線は石黒の顔から、ゆっくりとその大きくなった腹へと移動した。
そして、ニヤ〜と歯のない口元を歪ませた。
石黒の背筋に悪寒が走った。
男は組み伏せていた女から身体を離し、ゆっくりと立ちあがった。
「……こ、こないでよ」
石黒は、握り締めた角材を前へとかざしながらも後ずさった。
男の後ろで、女が立ちあがって近くの石をつかんだかと思うと、その石で男の頭部を殴打した。
男の膝は崩れ落ちたかのように見えたが、すぐに体勢を整えると片手で後頭部を押さえたまま薄気味の悪い笑顔を浮かべた。
女はもう1度手を振り上げたが、振りかえった男の笑顔を見て体が凍りついたような錯覚に陥った。
「自分の血が流れないのは、大魔王サタンになった証拠である」
男の意味不明な言葉に、石黒も女も男が狂っている事を理解した。
男は薄気味の悪い笑顔を浮かべながら、石黒の元へと歩み寄ってきた。
「さぁ、その胎児をよこしなさい。新しい時代の生贄に捧げなさい。
そうすることによって新世紀がはじまるのです。――新……、新世紀……」
男の動きが止まる。男は一瞬、白目を向いた。そして、頭をかきむしり始めた。
「まただ。まただ! 心を読むな! 止めてくれ! 止めて! 止めてよ! おばさん、止めて! いじめないで! 嫌だ! ぼく、
そんな事するの嫌だ! おばさん、止めて!! 痛いよぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!!」
突然、両手を後にして叫びだしたかと思うと、白目をむいて口元から泡を吹きだし卒倒した男。
石黒も女も、ただ呆気にとられて見ている事しかできなかった。
『やっと、捕まえた。寺田……、研究所……か』
石黒の耳元で、声が聞こえた。ハッとわれに帰った石黒は、辺りを見渡した。
「だ、誰……」
恐怖に怯えて、辺りを見渡す石黒にその光景を見ていた女が口を開いた。
「誰って……、すぐそこにおるやん」
女の指さす方向を見る石黒。しかし、石黒の目には何も映らなかった。
「ど、どこ?」
石黒は、怯えながら女の元へと駆け寄った。
「あ、向こう行ってもうた……」
女が視線は瓦礫の向こうにある、通りの方向へと向けられた。
「だ、誰がいたの……?」
「誰って、見えへんかったの?」
「だ、だから、誰よ」
「あんたがここに来た時から、ずっと横におったで。これぐらいの背した女の子」
女がその背丈を、手で示した。
「……」
石黒に心当たりはなかった。だが、ほんの少しではあるが脳の中が軽くなったような気がしていた。
「あ、あんなぁ自分。ちょっと、TV局寄ってもらえへんかな?
『ミュータント』対策本部でもええねん」
「……は?」
「ウチの従業員が、石川梨華って子と安倍なつみって子が『ミュータント』予備軍と間違えられてんねん。捕まってたら、どえらい事やねん」
女はさっきまで自分が危険な目にあっていたという事も忘れて、必死な形相をして石黒へと詰めよった。
2人の名前を聞いた時――、石黒はまた渦中の真ん中に身を投じようとしている事を悟った。
石黒はまず先に、自宅のアパートへと立ち寄った。まずは、どうしても10日前に連絡の途絶えた夫の生死を確かめておきたかった。
アパートはやはりというべきだろう。ほぼ瓦礫の山と化していた。
『ミュータント』による襲撃なのか、暴徒と化した市民によってなのか、それとも軍隊によってなのかわからないが、
炭化した瓦礫が積まれているだけであった。
「真ちゃん……」
石黒は道路にヘタヘタと座り込んだ。連絡は取れなくなったものの、必ず生きていると石黒は信じていた。
生きて、そして少し怒った顔をして、そしていつものように笑顔に戻って自分を出迎えてくれるものだと信じていた。
しかし、現実を目の前にしてその生存を絶望視した途端、身体から力が抜けてしまった。
「ちょちょっと、石黒さん」
男から暴行を受けていた女――平家みちよは、突然、腰を抜かした石黒の姿を見てあわてて車から下りてきた。
「どうしたん、急に……」
石黒は静かに頭を振った。そして、もう何かが吹っ切れたような表情を浮かべると平家の手を借りてゆっくりと立ちあがった。
「もう、これ以上は後悔したくない……」
「……?」
「早く……、早く助けないと……」
石黒は自分の腹を抱えると、ヨロヨロと車へと駆けていった。
平家はその後ろ姿を見送りながら、やはり自分は間違っていなかったのだと確信した。
店を、町を後にするとき、常連の1人は東京へ向かうことを反対した。しかし、どうしても梨華をなつみを救いたくて、
その反対を押しきって電車へと飛び乗った。
危険な目にはあったが、こうして自分と同じように命をかけてまで梨華やなつみを救おうとしている人物と出会えたことで、
自分は間違っていない、梨華やなつみはメディアが伝えるような人物ではないとハッキリと確信する事ができた。
Chapter−5 <導かれし先>
特殊バリケードに行く手を阻まれ、”寺田生物工学総合研究所”はもう目の前だというのに、中澤らはかなりの時間足止めを食らわされていた。
”特殊バリケード”その構造がどういう構造なのか、中澤らにはわからなかったが、後藤・加護の放つ力がほとんど無効化されている。
特殊バリケードの向こうには戦車が控えてあり、砲弾による攻撃は後藤と加護の力で防げるものの、攻撃を返す事ができない。
「なんやねん、これ」
建物の影に身を隠した中澤が、苛立たしそうに吐きすてた。
「まただよ」
通りに出ている後藤が、こちらへと向かってくる砲弾に力を放った。
先ほどから隠れる場所、隠れる場所へと撃ちこまれる砲弾にさすがの後藤も苛立ちを覚えていた。
「圭ちゃん……」
市井も爪を噛みながら、そわそわと落ちつきをなくしている。
唯一落ちついているのは、さきほどからずっと宙に視線を泳がせている飯田ぐらいのものであった。
希美はその手をぎゅっと強く握り締めて、通りで防戦している加護を見守っている。
中澤は矢口の肩を抱きしめ、通りで防戦している2人を見守りながら作戦を練っていた。
力が使えない以上、自分たちはただの女性の一団でしかない。
それが特殊軍隊とどう戦えばいいのか――。
考えを張り巡らせていると、突然、となりの矢口の身体が大きくのけぞった。
「矢口ッ!」
中澤の声に、市井・希美も矢口を見る。
矢口の目は、どこも見ていなかった。まるで飯田のように――。
「ど、とないしたんや、矢口ッ! 矢口ッ!」
未来視・過去視をしているとき、たびたびこのようなトランス状態に陥る事はあったが、それもほんの数秒の出来事である。
しかし、1分経過してもその意識は戻ってこなかった。
「さ、紗耶香」
「うん……」
市井は、触手を伸ばして矢口の意識下に入った。だが、どこにも自我がない。まるで、その心がどこかに行ってしまったかのようだった。
この意識の構成を、市井は知っていた。
市井は素早く触手を戻すと、すぐにその手を矢口の心臓にかざした。もう片方の手で、頭を触った。しかし、矢口の意識が戻る事はなかった。
「な、なに……、紗耶香、矢口に何があったん……」
中澤が震える声を出した。
「森のおばあちゃんも、こうだった……」
「ウソや……。ウソやそんなん……。矢口ぃ、矢口ぃ」
中澤はぐったりとした矢口の身体を、力いっぱい揺さぶった。しかし、ただその身体が大きく揺られるだけであった。
(戻ってくる。今は、さ迷っているだけ。圭織が導いてあげる)
飯田の心の声が聞こえ、市井はあわてて振りかえった。だが、飯田はいつものように視線を宙に漂わせている。
市井は以前、飯田と希美の能力を探ろうとして触手を意識下に伸ばした事がある。
そこでわかった事といえば、飯田の意識は混沌(カオス)そのものであるという事だけであった。
人々の意識は、ある程度の秩序があり構成をされている。
層をなしているのが普通なのではあったが、飯田の場合は市井も見たことのない構成をされていた。
しかも、飯田の意識は市井の触手さえもその特殊な構成に取り込もうとした。もう少しで、市井は元に戻れなくなるところであった。
直接、触手を伸ばして知る事が理解するのには一番手っ取り早い方法なのだが、そのような特殊な意識下のためそうする事は難しい。
「さ迷ってるって……、どこに」
市井は、声に出した。
それで梨華と飯田のように会話を試みようと思ったのだが、飯田の意識はその場所にはないらしく何も返事はこなかった。
異変が訪れたのは、すぐその後のことであった。
矢口の身体を抱きしめていた中澤の身体が、「ちょっと痛い〜」と押し返されたのである。
「や、矢口ぃ〜……、戻ってきたんやな。戻ってきたんやな」
と、中澤はもう1度強く矢口の身体を抱きしめた。
「ちょっと、マジで痛いって。裕ちゃん」
「矢口、あんた……」
市井の言葉に矢口は、ハッと反応した。
「伸ばさないで!」
「は……?」
「矢口の意識、探っちゃだめ。絶対にやめてね」
いつになく、矢口は真剣な顔をしていた。
「別に探らないけど、どこ行ってたの」
矢口は、ニヤニヤと笑った。
「宇宙」
「はぁ? 宇宙ってあの宇宙?」
抱きついていた中澤が、身体を離す。
「そっ。あの宇宙で、圭織と同じもの見てた。あかしなんとかってヤツ」
「アカシックレコード……」
市井は、ポツリと呟いた。
「すごいよ。すっごい興奮した。あのね、アカシックレコードってレコードじゃないんだよ」
「知ってるわ。記憶されてる場所やって教えたやろ」
「ハハ。矢口、レコードみたいなの想像してた。でも、違うんだ。
あのね、電気屋さんにさテレビがバーっと並んでるでしょ、アレがね空間全部にあるっていうか、なんていうのかなー。
とにかくさすごい数の映像が見えるんだ」
「なんや、まさかそれ見てて戻って来んかったんか?」
「ハハ。実はさ、そうなんだよねー。全部が全部、そうじゃん。
だから、どっち向いて戻ったらいいのかわかんなくなっちゃって」
「圭織は……、圭織が助けてくれたんでしょ?」
市井の目は真剣だった。もしも、矢口の言っていることが本当だったとすると、5年前の光子は死んでいなかったことになる。
「あ、そうだ。案内してくれてありがとね」
矢口は今だ、視線を宙に漂わせている飯田に向かって片手を挙げた。
「案内……。そうか……」
市井が呟く。
「そうかって、なんやねんな」
「圭織は辻のナビゲーターなんだ」
「は?」
「そうだろ、辻。圭織が、どこに向かってどこに帰ってくるのか教えてくれるんだろう?」
圭織の側にいた希美が、少し伏し目がちにしてコクリとうなずいた。
「矢口、あんたマジで危なかったわ。圭織がおらんかったら、戻って来れんところやったで。そのまま死んでしまうところやったんやで」
と、中澤の目にまた涙が溢れだしてきた。
「年上の裕ちゃんが一番泣き虫でどうすんのさ」
矢口は笑いながら、その涙をぬぐってやった。
「だとすると……。辻、今から過去に戻ってくれない? で、みんなに伝えて。これから起きる出来事を」
希美が、きょとんと顔を上げた。中澤と矢口も、市井を見る。
「5年前……、森のおはあちゃんは死んでなかった。アカシックレコードを見ようとして、意識が迷子になっちゃったんだよ」
「まさか……。心臓も脈も停止してたんやで。老衰やったって。紗耶香もどうする事もできんかったやないか」
「意識だけじゃなく魂ごともっていかれた。さっきの矢口だって、そうだったでしょ」
「じゃあ、うちら……、戻ってくる可能性のあったばあちゃんの身体……」
「いや。もう戻ってくる事はない。森のばあちゃんは、”絶対的な者”って呼ばれてたけど、圭織や辻のような能力はなかった」
「……過去に戻ってどうするつもりなん?」
「――ユートピアを作るんだよ」
後藤にもその声が聞こえた。そして、その隣にいた加護にも。
2人は放たれる砲弾を撃破するために、一瞬でも戦車から目を離すことはできなかったが、
市井のその声を聞くと市井がどんな表情をしているのか用意に想像することができた。
「過去に戻っても、この世界は変わらんのやで」
市井は、すがすがしい笑顔を浮かべてうなずいた。
「こっちの世界は、ウチらがウチらの手で作り上げればいい。
でも、もう1つの世界は、森のおばあちゃんが作ってくれるよ。あの頃のみんなとね」
「……みんなと」
「そう。そして出会う。矢口とも後藤とも加護とも圭織も。石川と吉澤は、辻がみんなに教えてあげればいい。
そうすればきっと、みんな出会える」
もう1つの世界。そこはどんなに素晴らしい事だろう。誰もの胸に、温かいものが込み上げてきた。
「辻、圭織のナビで5年前に戻ってくれるね」
市井はしゃがんで、希美と同じ視線になった。
「飯田さんは、身体を持っていく事できないれす……」
「向こうにも、圭織はいるよ。5年前だから、そうだなぁ。まだ、北海道にいるんじゃないかな。
おばあちゃんが知ってるから、連れてってもらいな」
「そんなの、辻が知ってる飯田さんじゃないれす。辻が知ってるあいぼんやみんなじゃないもん」
「……うん。そうだよな。――でもな、辻はみんなを助けなきゃいけない。アタシたちだけじゃなくて、この世界のみんなを。
辻の力は、それができる。そういう意味のある力なんだ」
「……」
辻の目に涙が滲んできた。必死に堪えているが、やがては溢れてしまうだろう。過去に戻ることはできる。
しかし、今まではそこに自分の居場所を見つけることができないので、力を使わずにいた。
しかし、市井の言うようにいつか出会う別世界ならば――。争いのない楽園のような場所ならば――。希美の心は揺れた。
「戻ってきたいなら、戻ってきな。ウチらはいつでも待ってる」
市井は微笑みながら、希美の頭を撫でた。ツインテールのその髪が揺れた。
「帰ってきたら、思いっきりチューしたるからな。頼んだで」
中澤と矢口は、希美に笑顔を向けた。
「……辻は、ぜったいに……戻ってきます」
希美は声をしゃくりあげさせた。
「頼むな」
「はい……」
希美はこくんとうなずくと、通りへと顔を向けた。
「あいちゃーん、ぜったい帰ってくるからねー」
希美の声は通りまで聞こえてきた。
加護は、泣いていた。泣いてすぐに声を出す事はできなかった。
「加護、行っていいよ。アタシがやってるから」
後藤の声に、加護はゆっくりと首を振った。そして、ビルに向かう砲弾に力を放った。放ちながら、建物の陰にいる希美に大きく手を振った。
顔は見なかった。見ると涙で向かってくる砲弾が見えなくなるからであった。
辻希美は、過去へと旅立った。
誰もが希美との別れを悟っていた――。なぜならば、飯田がこのような世界に希美を連れ戻すようなことはしないからである。
自分たちが飯田のような力を持っていたら、きっとそうするだろうと誰もが思っていた。
希美が過去へと旅立って以降、現状は以前として何も変わらなかった。後藤と加護にも、次第に疲れが見えはじめている。
「このままやったら、マズイで……。1回、撤退するか?」
中澤が建物の影から、研究所を覗く。
「もうまる2日……。圭ちゃんの怪我が心配だよ」
市井の声は、放たれる戦車からの砲弾によって打ち消された。
「いちーちゃん、また向こうからも来たよー」
通りから、後藤が大きな声をあげた。
「けど、なんか変ですー」
続いて加護が、少し声を上ずらせた。
「ちょっと、いちーちゃん、来てよ。スゴイ」
中澤らのもとに、ゴゴゴゴゴ……と地響きが聞こえてきた。3人は顔を見合わせて、表の通りへと駆けだしていった。
もちろん、壁に持たれて座り込んでいた飯田を無理矢理に起きあがらせてである。
通りへと飛び出した中澤らが見たもの、それは自衛隊の戦車団であった。
通りを埋めつくした数十台の戦車や装甲車が、寺田生物工学総合研究所へと一斉砲弾をしている。
特殊バリケードは、能力者に対してその効力が発揮されるが、通常の攻撃の前には何の効力も発揮せず、
いとも簡単にその砲弾の前に敗れさった。その後ろに控えていた戦車も、まさか味方の攻撃を受けるなどとは思ってもいなかったのだろう。
反撃を返す間もなく、そのほとんどが攻撃を受けて大破した。
「なんや……。つんくの裏工作がバレたんか?」
中澤はとなりにいる矢口に声をかけたつもりだったが、矢口は通りを呆然と見つめたまま何も答えなかった。
しばらくして――、隣にいた市井が、急に声をあげて笑いだした。
「なに、いきなり」
と、中澤はサッと身を引いた。
「吉澤って、ほんとマジで最高だよ」
と、市井は笑いつづけた。
後藤も加護もわけが分からず、きょとんとした顔をしていた。
「はぁ?」
中澤は目を凝らして、その戦車団を眺めた。先頭に黒塗りの高級車が、止まっている。戦車団を誘導してきたのは、この車であった。
スモークの貼られていない車内は、中澤の位置からでも誰が乗っているのか確認できた。
政治家なのだろうか、恰幅のいい初老に近い男性が後部座席に座っており、前にはやはり同じく初老の運転手。
助手席には、秘書らしい少しやせ細った男が座っている。
「よっさんなんか、おれへんやん」
と、振り返ろうとした時、戦車団の後ろから一台のハーレーダビッドソンが颯爽と――ではなく、ヨタヨタと道路へと出てきた。
「わっ、ちょっと梨華ちゃん、揺らさないでよ」
「揺らしてないよー」
ひとみはなんとか両足を踏んばって、持ちこたえた。
「ふぅ」とため息を漏らすと、右手をかざして前方にある研究所を眺めた。
「ひとみちゃん、あれ」
タンデムシートの梨華が、一方向を指さした。見ると、中央分離帯の向こう、こちらに向かって駆けてくるメンバーの姿が見えた。
ひとみと梨華は、バイクを降りると皆と一緒に抱き合って再会を喜んだ。
中澤は涙で顔をグシャグシャにし、市井は苦笑のようなものを浮かべて、後藤と加護はただひたすらの笑顔で、
そして矢口はひとみに抱きつき、あの飯田も久しぶりに微かな笑顔を浮かべていた。
しばらくして、ひとみと梨華は希美が過去へと戻った事を知った。
そして、飯田が過去へと旅立った希美に戻ってくるポイントを教えなかった事も飯田の心の声によって全員が知った。
だが、もう誰も涙を流さなかった。たとえ、世界が違っていても、もう2度と会うことがなくとも、
希美が幸せに暮らせるのなら誰も悲しむことはなかった――。
「あ、そうだ。加護、あんたねぇ……」
ひとみは加護と会うことがあったら一番最初に文句を言おうと決めていた。
マンションでひとみと梨華を置き去りにする計画をたてたのは、加護であったからである。
だが、その文句を引っ込めることにした。今はそんな雰囲気ではなかった。
「それよりよっさん、これどうしたん」
中澤が視線を、すぐ側に止まっている戦車団に向けた。
「ゼティマに向かう途中で、梨華ちゃんが防衛庁のエライ人の意識を捉えたんです。ちょうど、つんくのところへと向かう途中だったらしくて。ね」
と、ひとみは梨華にうなずきかけた。
「拠点をそっちに移したことも、研究所の前に戦車を配置させて警備してることもわかったから……」
と、梨華は困ったような顔をして、ひとみを見上げた。
「じゃあ、いっそのことその人を操って一気に。あ、梨華ちゃんが考えたんじゃないんですよ。
アタシが無理にお願いして。もうさっさとこんなの終わらせたかったから」
「はぁー。よっさん、ほんま男前やわ。すごい。感心した。ウチら、そんなん全然考えつかんかったわ。なー」
中澤は、市井らに笑いかけた。
「どうせ、あの建物もそんな装置ばっかりやろうな。――よっしゃ、せっかくやから、これこのまんま使わせてもらおう」
「ダメです」
「?」
「つんくらがいるのは地下の核シェルターみたいなところだから戦車の攻撃じゃとても……」
ひとみは、とても残念そうにつぶやいた。
「よっすぃ、それは……?」
後藤が、ひとみが肩にかけているバッグを指さした。
「あ、これは、その……」
と、ひとみが口篭もると、市井がたしなめるように口を開いた。
「大丈夫。そんなの使う前に、終わらせてやるから」
「?」
後藤も加護も中澤も矢口も、市井の言っている意味が分からない。
ただ、ひとみと梨華だけがバツの悪そうな顔をして佇んでいた。
日も暮れて、辺りが闇に覆われはじめてきた。
いよいよ、これが最後の戦いになる。皆の胸の中にはそんな思いが渦巻いていた。
中澤・矢口・市井・後藤・加護・飯田・ひとみ・梨華の8人は、
覚悟を決めて不気味にひっそりと静まり返っている研究所の敷地内へと入っていった。
遊歩道の両側に、針葉樹の木が立ち並んでいる。
クリスマスも近いこの時期、街の至るところにはイルミネーションで彩られているはずなのだが、20世紀最後のクリスマスは殺伐としていた。
キリストの生誕を祝う余裕など世間にはなかった。
「よっさん、あんたずっとノーヘルできたん?」
歩きながら中澤がひとみの頭を指さした。
「あ、ヘルメット1つしかなかったから」
「よっすぃ、その頭めっちゃカッコイイよ」
矢口が、さも楽しげに笑う。
「?」
「オールバック」
と、中澤が笑うので、ひとみは自分の髪を撫でてみた。
たしかに、風を受けて髪の毛が後ろに流れてはいるが、それほどオカシイ髪型なのかは手元に鏡がないのでわからなかった。
わからなかったが、梨華が少し顔を赤らめながらぽつりと「かっこいいよ」と言ってくれたのでまんざらでもなかった。
頬を赤らめ、うつむき加減に歩いていた梨華が、突然、ハッとして顔を上げた。
「保田さん! 保田さんの意識です。保田さん、生きてます。私たちに気づいてます」
梨華の歓喜にも似た声を聞いて、皆の心は浮き立ちだった。
”精神感応”の能力が弱い市井には、まだ保田の意識は届いてこなかったが、
周囲300メートル以内のどこかにいるのは間違いないと市井は辺りを見渡した。
「あの建物――、あそこの3階です。私たちのこと、見てます。市井さんとごっちんの名前呼んでます」
梨華が研究所の建物を指さして、はしゃいでいた。
「行こう。いちーちゃん」
後藤は市井の手を引いて、建物へと向かって駆け出していった。
他のメンバーも2人の後へと続いた。
メンバーの襲撃を知っているのか、建物の内部には人の気配がなかった。
逃げ出したのか、もともと配置されていないのかわからなかったが、余計な力を使わずに済むので、
一同はホッとしつつかつ迅速に保田のいる3階へと向かって駆けていった。
(紗耶香……。来ちゃダメ……)
市井の”精神感応”が、保田の意識を捕らえた。もうすでにその声を聞いているのだろう、
つい先ほどまで笑顔を浮かべていた梨華の顔は曇っていた。
それでも市井は、階段を駆けあがった。
駆けあがりながらも、辺りに触手のレーダーの網を広げるのは忘れなかった。
保田は敵の襲来を教えているのかもしれないと、市井は思っていたからである。
<Zetima>で活動を共にしている頃は、そうしてサポートしてくれていた。
(来ないで……、紗耶香……)
しかし、保田の心の声のニュアンスからしてどうやらそうではないらしい。
まるで、自分とは会ってほしくない。自分の元へは来てほしくない。そんな感じだった――。
市井はフッと足を止めた。
続くメンバーも何事かと、足を止める。
(私はもう、みんなとは一緒に帰れない……)
(来ないで紗耶香。来ないでごっちん)
(私はもう、みんなとは一緒に帰れない……)
保田の心の声に、市井は叫んだ。
「何言ってんの圭ちゃん。一緒に帰るんだよ。帰ってみんなと一緒に暮らすんだよ」
「紗耶香。なんやの、急に」
「圭ちゃん、一緒に帰れないなんて言うんだよ」
「紗耶香……」
市井の目に涙が滲んでいるのを知り、中澤は言葉を失った。
そして、遠い記憶に思いを馳せた。”泣き虫、紗耶香”そう呼ばれていた頃を、中澤は思い出していた。
「梨華ちゃん……」
ひとみは戸惑いの表情を浮かべていた。
市井の涙というのにも戸惑いを覚えているのだが、何よりもあの冷静な市井を何がそこまで動揺させているのかがひとみの不安を駆りたてた。
「わからない……。でも、すぐそこにいる……」
ひとみは梨華が向けた視線を追った。
近くにいた後藤や加護や矢口も、同じような表情で梨華の視線を追う。
広いフロアのはずなのに、ドアはそこしかない。
1枚の何の変哲もない室内ドア。
中澤はゆっくりと、そのドアへと足を進めた。
(開けないで、裕ちゃん……)
「何でだよ! 圭ちゃん! 聞こえてるんなら答えてよ!」
市井の叫ぶ声を聞いて、中澤はドアの前で振りかえっている。
(開けないで、裕ちゃん……)
(来ないで……)
(開けないで、裕ちゃん……)
「開けていいんか……。紗耶香……」
ドアの前で躊躇している中澤に、紗耶香は肩を怒らしながら駆けよった。
「圭坊は、なんて言うてんねんな」
「知らないよッ。答えてくんないんだから」
紗耶香はツカツカと歩み、おもむろにドアノブに手をかけた。
中澤はドアが開けはなれたため、壁の方へと追いやられる形になった。
中を見て、たたずむ市井。
息を呑んで、見守るメンバー。
壁に追いやられた拍子に、肩を軽く打ちつけたのだろう中澤は肩をさすっている。
(あーあ……、開けちゃダメって言ったのに……)
市井の身体が、小刻みに震え始める。
「ああ……。ああ……」
まるで呼吸のしかたを忘れてしまったかのように市井は胸を押さえ、低くかすれた呻き声をあげた。
異変に気づいたメンバーが駆けよる。
そして……、全員が部屋の中を見て呆然とした。
広く白い部屋。
薄く青白い液体の入った円筒が、いくつも並ぶ。
実験で使用したのであろう、何かの組織が漂っている。
部屋の中央にある大きな円筒。
その中に浮かぶ脳と2つの眼球が、ドアの方を向いていた。
(だから、来ないでって言ったのに……)
リモートコントロールされているのか、それとも外で動くものがあれば反応するようにプログラムされているのか、
円筒が鈍いモーター音をたてて庭の方向へと動いた。
(こうして、侵入者を知らせてるの……。ううん。知らせるつもりはないんだけどね、勝手に見たものを流しちゃうの……)
脳から細いコードのようなものが円筒の上部に繋がり、円筒の後ろから太いいくつものコードが壁の中へと伸びている。
(辻は、もういないんだね……。見てたよ、ここから……)
腰を抜かした加護の動きに反応して、円筒が、2つの眼球がまたメンバーへと向き直った。
(ハハ。加護、パンツ丸見えだぞ)
「圭坊なんか……」
中澤は、やっと言葉を思い出せた。そして、やっとそれが――。
「圭坊……。圭坊……。あぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
中澤は部屋に飛び込むと、円筒の前で泣き崩れた。
「圭ちゃん……」
後藤の目にも涙が溢れ出してきた。となりの市井が、その身体を強く抱きしめる。
「いちーちゃん……、圭ちゃんが……、圭ちゃんが……」
市井は何も言わずに、力強く後藤を抱きしめつづけた。涙が溢れ出してはいたが、そんな姿を保田には見られたくない。
後藤の肩に顔を埋めて、声を押し殺していた。
(みんなの声は、耳がないから聞こえないんだ……。でも、紗耶香と石川には、アタシの声、聞こえてるんだろ?)
梨華は両手で口を抑えて泣いていたが、力強く何度もうなずいた。
そして、市井は後藤の肩に顔を埋めたまま「あぁ。あぁ」と何度も声に出してうなずいた。
(だったら、みんなに泣くなって言って……。アタシは泣くこともできない。涙はこの中に紛れてしまうからね)
保田の心の声は、苦笑していた。
その苦笑が、市井や梨華には痛々しかった。
脳と2つの眼球だけとなってしまった保田なのに、苦笑している保田の顔が思い浮かんで仕方がなかった。
「わかったよ……。みんな、圭ちゃんが泣くなって……」
だが、市井のその声はどうしようもないほど震えていた。
後藤はその声を耳元で聞いて、必死で感情を押し殺した。そして、市井の身体を強く抱きしめかえした。
ひとみは腰を抜かしている加護を抱え起こした。
加護も嗚咽しながら、必死で涙を堪えようとしている。
矢口と飯田は、その目に涙を溜めて目を伏せていた。
(裕ちゃん、1人年上で大変だろうけどみんなのこと頼むね)
「中澤さん」
梨華が泣きながら、中澤に声をかけた。
「中澤さんのこと、話してます」
「なんて? 圭坊なんて言ってんの?」
「みんなのこと、頼むって」
市井が震える声で、叫んだ。
(飲みすぎて、身体壊さないようにね)
「飲みすぎて、身体壊すなって」
中澤は、声にならない声で何度も何度もうなずきかけた。
(ごっちん)
「ごっちん、呼んでる」
梨華の声に、後藤は顔を上げた。
(紗耶香にもごっちんは必要なんだよ。これからもずっと側にいてあげて)
「市井さんにも、ごっちんが必要。これからも……、これからもずっと側にいてあげてって」
後藤は、梨華に向けていた視線を保田へと向けた。
「ありがとう、圭ちゃん……」
(ありがとう……か。ハハ。後藤の口から、そんな言葉が聞けるなんて。見直したよ)
「ありがとうって、保田さんに伝わったよ。見なおしたって」
梨華の声を聞きながら、後藤はへへェと笑った。
(加護、ちゃんと聞けよ)
「あいぼん」
加護は嗚咽をあげながら、保田へと向き直った。
(加護の力は、本当に頼もしかったよ)
「あいぼんの力、頼りになったって」
加護がまた口をへの字にして、泣きそうになった。だが、彼女はそれを必死に堪えようとしている。
(いっぱい注意もしたけど、加護の無邪気な笑顔本当に好きだったよ)
「あいぼんの笑顔、大好きだったって……。あいぼん、泣いちゃダメ」
そういう梨華も、声を震わしている。
加護は深呼吸をすると、口元を緩ませた。不自然な笑顔ではあったが、それが今の精一杯の笑顔であった。
(矢口はとにかく明るかったね。私にもその明るさをわけてほしいよ。矢口が側にいた裕ちゃんが羨ましい)
「矢口さんの明るさ、わけてほしいって。矢口さんが側にいた中澤さんのことが羨ましいって」
矢口はその言葉を聞くと、笑顔を見せた。
(圭織はいっつも交信ばっかだったよね。でもさ、辻や加護に見せる笑顔は好きだったよ。優しいお姉さんみたいで。――ねぇ、笑って)
「飯田さんが笑ってるところ、見たいって。ののやあいぼんに見せる笑顔好きだったって」
飯田は涙をぬぐうと、ぎこちないながらも笑顔を向けた。
(ハハ。怖いなぁ。――吉澤と石川。二人を巻き込んだことは、本当に悪いと思ってる)
「そんな事ありません」
保田に向かって泣き叫ぶ梨華を見て、ひとみは今自分たちのことを言っているんだと理解した。
(ただ、反対に、二人に出会えたことにすごい感謝してる。二人のほのぼのしてる空気は、確実にアタシたちの何かを変えたよ。
力がないのを気にしてる吉澤に言ってやって。吉澤の力は、温かい勇気だって。その温かい勇気が私たちを変えたって。
力があってもなくても、大切な人を守るアンタのその温かい勇気は誇れるものだって)
「はい。――ひとみちゃん」
梨華は涙をぬぐいながら、ひとみに向きなおった。
「ひとみちゃんの力はね、”温かい勇気”だって。大切な人を守るその勇気は、とても誇れるものだって」
「保田さん……」
自分が気にしていたことを、保田は感じていてくれた。しかし、今までそんな素振りを見せた事は1度もなかった。
きっと、そのままでいいんだと暗に教えてくれていたのだろう。
ひとみは、深々と頭をさげた。
(紗耶香)
顔を伏せていた市井にも、さっきから保田の声は聞こえていた。
しかし、途中から声も出せないぐらいに泣きじゃくっていたので、保田の声を皆に聞かせることができなかった。
(やっぱ、性格って直らないもんなんだね。そうやって裕ちゃんに泣きついてたのが、つい昨日のように感じるよ)
「……」
(自分1人で全部考え込まないでさ、たまにはそうやって他のメンバーを頼りなよ。みんな、紗耶香が心開いてくれるの待ってんだから)
「もう、やめて圭ちゃん……」
(あぁ、たぶん私も泣いてんだろうなぁ……。なんか、頭の中がゴチャゴチャになってきちゃった……)
「圭ちゃん……。圭ちゃん……」
(ねぇ、紗耶香。最後に私のお願い聞いてもらえるかな……)
「……なに?」
(……痛いんだ。頭と目がピリピリして痛いの)
「……」
むき出しになった脳と眼球が、液体の中を漂っている。脳に刺さった電極のようなもの――。
(だから、お願い……。最後に、みんなの顔が見れてよかったよ)
市井には保田が何を言いたいのか、すべてわかっていた。もう10年以上の付き合いである。家族だった。姉であった。
「市井さん!」
後藤から離れて保田の元へと歩きだした市井の前に、梨華が立ちふさがった。
「どけ、石川」
「嫌です。どきません」
「……みんな、すぐにこの部屋から出て」
市井の低い声に、全員が声をなくした。市井のしようとしていることが、わかったのである。
「いちーちゃん」
「市井さん、このまま帰りましょう」
後藤と加護が、必死で市井にすがりつく。
「痛いんだってさ……。アタシにはもう治せないよ。こうするしか、圭ちゃんの痛み和らげることできない……。
早く楽にさせてあげたいんだ。変われるなら、変わってあげたいよっ」
唇を噛みしめていた中澤が、後藤と加護の肩をガッと掴んでドアへと歩いていく。後藤も加護も呆然として、抵抗する力をなくしてしまっていた。
ひとみも、泣きじゃくる梨華を連れて部屋を後にした。
「……」
誰もいなくなった部屋。市井と保田は、向かい合っている。
コポコポと円筒の中に、気泡が昇る音だけが市井の耳に届いていた。
「……」
市井の動きに合わせて、円筒がその向きを変える。保田は見ているはずである。壁に立てかけてあったモップを拾い上げる市井の姿を。
しかし、何も心の声は発さなかった。
お互いにもう言葉はなくとも、伝わりあっていた――。
青白い円筒のガラスに、涙を流しながらモップを振り上げる市井の姿が映った――。
間際に聞いた保田の心の声。
(ありがとう――紗)
Chapter−6<導かれし先2>
中澤たちは、完全に後藤と加護の姿を見失った。
あの部屋の外へと連れ出した後、2人は階段を駆け下りていった。
――地下。
きっとそこに向かったはずだろうと、中澤らは市井を残したままにして、すぐに後藤と加護の後を追った。
地下への入り口は、エレベーターのほかにスロープ状になった通路があった。
エレベーターの方は主電源が切られているのであろう、まったく動く事はなかった。
中澤たちは、すぐさまスロープ状の通路を駆け下りていった。
今まで捕らえていた2人の意識が、スッと梨華のレーダー網から消えた。それはすなわち、2人が力を制御した部屋に入った事を意味している。
「やっぱり、地下にもあの装置があります」
梨華は走りながら、中澤に叫んだ。
中澤は小さく舌打ちをしただけで、真っ白な地下を走りつづけた。
入り組んだ通路は、<Zetima>の建物を連想させたが、それよりもさらに、複雑に入りくんだ建築構造をしていた。
地下の安全性によほど自信があるのか警備する者もおらず、辺りには不気味な静寂が漂っている――。
遠くで爆発音が聞こえた。
一瞬、梨華は後藤の意識を捕えたが距離が離れすぎているのであろう、今度はレーダー網の範囲外に出てしまった。
暴走した後藤の力は、あちこちに破壊の爪あとを残していた。
だが、わざわざそれらに驚く時間はなかった。今はただ、早く後藤らを見つけて合流しなければならない。
何が潜んでいるか分からない、伏魔殿なのである。
中澤の進む先に、頑丈な扉があった。
行き止まり――そう思って引き返そうとした時、扉が開き中から血まみれの白衣を着た男たちが飛び出してきた。
どうやら日本人ではなさそうだった。
口々にアジア系の言葉を悲鳴にも似た声で発しながら、そこにいた中澤らなど見えないかのように廊下を走り去っていった。
「あいぼんっ、この中にあいぼんがいますっ。あっ、ダメ」
梨華は、加護の意識をとらえた。しかし、すぐに見失ってしまった。
中澤らは、そのフロアへと飛び込んでいった。
そして、またおぞましい光景を目にすることになる。ガラスの通路の下は、まるで工場のようであった。
ベルトコンベアが回り、その上をクリアケースに収められた人体の一部が規則的に流れている。
人体加工工場――。まさに、そんな感じであった。
だが、もっとひどいのはその至るところが血の海と変わっているところである。
壁、機械、そして数メートル上にある廊下のガラスにまで、大量の血液が飛び散っている。中で何が起こったのかは、容易に想像できた。
暴走したもう1人の能力者、加護が行なったのであろう。
後藤なら、このフロアすべてを破壊しているはずである。
「や、矢口さんッ」
ひとみの声に、その場にいた全員が振りかえった。気を失いそう
な矢口を、側にいたひとみが倒れる寸前に支えたのである。
「矢口っ」
中澤があわてて駆けてきた。
「大丈夫か。しっかりしぃ。宇宙なんか行ったらアカンで」
「ハハ……。違うよ。ちょっとアレ見て、気分が……」
「そうか……。よし、ほなちょっと休もうか?」
「何、言ってんだよー。ごっつぁんと加護の力、抑えられるの裕ちゃんだけだろ。矢口、ここで待ってるから早く行って」
「なに言うてんねん、こんなとこに矢口1人おいてけるわけないやろ」
「もう、いい加減にしてッ」
矢口は、抱きついてこようとした中澤の体を突き放した。
「今は、そんな甘いこと言ってる場合じゃないでしょ! すぐに助けなきゃ、2人の命が危ないんだよ。
ここは大丈夫だから、もう誰も来ないよこんな場所。だから、ほら早く行って!」
「矢口……」
「もう嫌だ、あんな悲しい思いすんの……」
と、矢口は目を伏せた。
「……よっしゃ、すぐに戻ってくるから。ここで待ってるんやで」
矢口は目を伏せたまま、ニ、三度うなずいた。
それを見届けて、中澤はひとみらを連れて走っていった。
その姿を見送った矢口は、ヘナヘナとその場に座り込んだ。
科学者だろうか、物理学者なのだろうか、それとも生物学者なのだろうか――青白い顔に少し黄ばんだ白衣を着た男たち3人は、
その震える手で小さなボードのようなものを自分たちの体の前に押し出していた。
「こ、このガードの前では、お、お前たちの力なんて、か、関係ないんだぞ」
白衣を着た一人の青年が、震える声を出しながらそう言った。
だが、3人の男たちの前に冷たい目をして立っている後藤の耳には何も入ってこなかった。
「だ、だから、は、はやく、ここから」
言いおわらない内に、男の身長は3センチ程度となった。
贓物や返り血を浴びたほかの2人は、狂ったように泣き叫んだ。
だが、決して差しだしたボードを引っ込めようとはしなかった。
「つんくは、どこにいんの?」
後藤の冷たい声は、男二人の耳には届かなかった。
そしてまた、1人の男が横向きに吹き飛び、壁の中へと埋まって辺りを血や汚物で汚した。
残された1人は、もう声をあげることもできなくなっている。
「つんくは、どこかって聞いてんの。頭いいクセして、こんな簡単な質問にも答えらんないの?」
男はボードを投げ捨て、叫んだ。
「き、君たちも人間だろう! な、なんでこんな、ひ、ひどい事を平気でできるんだ!」
「……どうでもいいや。ねぇ、つんくはどこかって聞いてんの」
「ち、地下3階だ。な、なんで、ボクたちが殺されなきゃいけないんだ! ボ、ボクたちはただ雇われてるだけなんだぞ!」
男は突然、返り血の浴びた白衣や服を脱ぎだした。
「ここで働いてる……。それだけで、十分だよ」
後藤は男がスボンを脱ぎ出す前に、力を放った。男の体は、ズボンを脱ごうとした格好のまま残った。頭部はもう跡形もなく、消えていた。
「保田さーん、この部屋の中、誰かいます?」
加護はドアの前でニコニコと笑いながら、誰もいない空間に話しかけていた。
「保田さんと仕事してたら、メッチャ楽ですねー。だって、相手の動きまるわかりなんやもん。どこに隠れたって、すぐに見つけられるし」
空間はただ広がっているだけだった。
――加護の笑顔は消えた。
続く長い廊下。加護はそこに一人ぽつんと立っている。放たれた力が、分厚い扉を切り刻む。
真っ暗な部屋。
加護は、目を細めた。自動でライトがつく部屋だったのだろう、パチパチっと数度の瞬きの後、その部屋のライトが点灯した。
2メートル程の高さのあるのクリアカプセルの中に、男女関係なく数十人の人々が全裸のまま眠らされている
「なに、これ……?」
加護は首をかしげながら、部屋を奥へと進んだ。
通路の両脇に、全部で48個のカプセルが並んでいる。
皆、完全に眠らされているようであった。加護はそのカプセルを軽く叩いてみた。
薄いガラスのように見えたそれは、なかなかの厚みをもっている――そんな鈍い音が帰ってきた。
加護は辺りを見渡した。
だが、この人々を眠りから覚めさせるような装置はどこにもない。
もし仮にあったとしても、加護には自分が使いこなせるかどうか分からなかった。
一応、<Zetima>で保田からあらゆる機械に精通するような知識を覚えさせられたが、
教育係の後藤と同じようにあまり真剣に取り組まなかったので今でも覚えている自信はない。
加護は、カプセルから伸びたコードを追った。コードは隣の部屋へと伸びているようであった。
加護も先ほどから隣の部屋は気になっていた。黄色と黒で縁どりされた「WARNING」と書かれたドア。
「入って大丈夫ですか? 保田さん」
加護はドアを見つめたまま、ポツリとつぶやいた。
「くそッ」
中澤は銀色の扉を、力まかせに蹴りあげた。
さっきから何度も暗証番号を押しているのだが、そうそう開くはずもない。
「中澤さん、下がっててください」
ひとみは袋から、ショットガンを取りだした。
「よっ、よっさん、あんた、なに持ってんねん」
驚く中澤を尻目に、ひとみは弾を装填する。
「前に――、前に武器を渡してくれた人が、船の中にたくさん隠してたのを見てて――。ここに来るまでに、寄ってきたんです。
必要だと思ったから。危ないから、離れててください」
ひとみはドアから少し離れると、照準をあわせてトリガーを引いた。
ドアキーは粉々に砕け、重い扉がゆっくりと開いた。
「行きましょう」
と、ひとみは中澤に声をかけると、梨華の手を引いてどんどんと先に歩いていった。
「……はぁ。惚れるね」
その言葉に、飯田が軽く苦笑した。
――シグナルが点滅して、中澤たちの行く手に分厚いゲートが現われた。直感的な危険を感じ、中澤は横にいたひとみの腕を掴んで走った。ひとみと手を繋いでいた梨華も、自然と引っぱられる。
「圭織ッ!」
気づいて振りかえった時、通路に取り残された飯田の姿が閉じられたゲートにより見えなくなった。
「圭織ッ! 圭織ッ!」
中澤は必死でその分厚いゲートを開けようとしたが、ビクリとも動かなかった。
ひとみは、持っていたバッグの中をさぐった。
「これ、使えるかな……」
ひとみは手榴弾を手にとった。
使い方はわからなかったが、とりあえず持っていて損はないだろうと数個手当たり次第にバッグの中につめ込んでいた。
「よっさん、そんなんなんで剥き出しで持ってんねんな」
中澤が眉をしかめながら、ゲートから退いた。
手榴弾を続けざまに放ったが、その分厚いゲートはびくともしなかった。こちらからの問いかけに、飯田も何の反応も示さない。
だが、梨華にはこの分厚い扉の向こうから、飯田の声が聞こえてきている。
(みんなとは、たぶんここでお別れ)
「そんな、何言ってるんですか飯田さん!」
中澤とひとみが、ゲートの前で振りかえった。梨華は、両手に握りこぶしをつくって届くはずのないゲートの向こうに叫んでいた。
(圭織はもうすぐ宇宙の大きな意識とひとつになる。そして、破滅の連鎖をストップさせる。
圭織はそのために生まれ、そのためにみんなと出会ったのかもしれない)
「言ってる意味がわからないです。宇宙と1つになるって、破滅の連鎖ってなんですか!
そんなの知りません! みんなで一緒に帰りましょう! 飯田さん!」
(あぁ、辻……。戻ってこようとしてるんだね……。ちょっと、大きくなったみたいだね……。辻……。大きな流れと1つになった圭織を許してね。圭織はあなたを助けてあげたいんだよ。許してね、辻……)
「飯田さん! 飯田さん!」
梨華はゲートに駆け寄ると、そのか細い腕を何度もゲートに激しく叩きつけた。
――中澤とひとみは悟った。飯田がこの世界から消えてしまった事を。
きっとこのゲートの向こうには、飯田はいるのであろう。
しかし、もうそれは飯田ではないはずである。意識――魂の抜けた、ただの抜け殻にしか過ぎない。
――ひとみは、梨華をゲートから離すとその赤くなった手を頬に当てた。
「行こう……。もう、止まる事できない」
泣いてまるで子供のように首をふる梨華を見て、ひとみは自分の無力さを呪った。
中澤もまた、出口の見えない闇の未来に2人を道連れにした事を心の中で詫びた。
自分の使命とは、いったいなんなんだろう――。
石黒はそんな事を考えながら、新聞社の編集長と向き合っていた。
”能力者=世界を混乱に陥れた”とする証拠は山のように揃っている。
ホテルの爆破。自衛隊・アメリカ軍基地の襲撃。原子力発電所の爆発事故。
そのどれもに、梨華たちや他の能力者たちの姿が映っている。TVでも放送された。
ただでさえ、”能力者=ミュータント”という図式が世間の人々の間には浸透している。
これらを目の当たりにした世間の人々は、完全に”能力者=悪”と決めつけていることであろう。
それを覆す証拠を、石黒は何も持っていなかった。ただ、自分の直感を、梨華となつみを信じるだけである。
それは、石黒の隣にいる平家もそうであった。
「仮に、君たちの知りあいがそうでなくとも、現にこうして他の異能力保持者は事件を起こしている。
新聞社としては、君たちの知り合いに対して訂正はできる。訂正はできるが、世間がどう受けとめるか……」
「せやから、この子たちは関係ないって一面に大きくですね」
「異能力保持者には変わりはないよ――」
また、同じ結論に戻ってしまった。
石黒は、軽いため息を吐いた。先ほどから何度も、同じことを繰り返している。
編集長の言うように、もっと確実で影響力のある証拠を掴まなければ、世間は、いや世界は動かない。
そして、先ほどから石黒の頭の片隅に引っかかっている疑問――。
そもそも、なぜ、ロシアはこのような生物兵器を日本に送り込んできたのか――。
なぜ、日本の異能力保持者がテロ活動をしていたのか。
別々に考えていいものなのか、それとも他に何かがあるのか――、石黒はずっとそのことも考えていた。
「だいたいね、このなんとか研究所っていうのが怪しいやないですか。世界のお偉いさんがいるんかどうか知りませんよ。
なんで、超能力者が変な怪物に変身するんですか。マンガやないんですよ」
「変身って……、君が思い浮かべているようなものじゃない。細胞的な変異だよ。
能力者は我々ヒトゲノムとは違う遺伝子配列をしているらしい。故に我々にはない力を持っている。
それが成長と共に、身体的な変化を遂げさせるらしいんだ。
だから、君たちの知り合いはまだ人間の体を保っているだけにすぎないかもしれないぞ」
「……」
「妖怪・悪魔・怪物、われわれが空想上の生物だと嘲り笑っていた生物たちは、かつて存在していたのかもしれない。
その眠れる遺伝子が世紀末の世に」
「いい加減にして下さい編集長」
石黒は、おもむろに席を立った。
「平家さんの言ってることが正しい。編集長、私たちの仕事は真実を伝えることです。
与えられた情報だけをそのまま信じるわけにはいかないんです。
自分の足で取材して、少しでも腑に落ちないところがあれば徹底的に調べなければなりません。ジャーナリストって、そうじゃありませんか?」
編集長は、バツの悪そうな表情を浮かべて窓の外に目をやった。
「商業ベースに、そんな余裕はないよ」
「世の中がこれだけ混乱してるのに、商業ベースとか言ってる場合じゃないでしょう」
「……しかしね」
「原点回帰する時代がきたんです。ペンは剣よりも強し。今が、その時なんじゃないでしょうか」
「……」
「取材チームを編成して下さい。時間がないんです」
石黒は、その力強い目を決して編集長からそらそうとはしなかった。
――数時間後、各マスコミから取材チームが各地へと飛び出していった。石黒や編集長の呼びかけに、多くのマスコミが賛同した。
打算的なマスコミもあることだろうが、今はそれよりも人海戦術を駆使してできるだけ多くの情報を集めなければならない。
石黒もまた自ら情報収集へと、赴いた。
行き先は――、『ミュータント』の情報発信源である”寺田生物工学総合研究所”であった。
「梨華ちゃんとなつみちゃん、無事なんやろか」
助手席の平家が、ジッと前を見つめながらつぶやいた。
運転をしている石黒は、あたりまえのようにそこに座っている平家に苦笑してしまった。
「ん? なに?」
「あ、いや。なんでもない。きっと、2人は無事よ」
ほんの数時間前に知り合ったのに、まるで昔からのパートナーのような気がする石黒であった。
地下3階のフロアに、『ミュータント』数体が姿を現した。
今まで遭遇したどのタイプとも違い、後藤の力でもまったく太刀打ちできなかった。
「なんだ……、これ……」
後藤は肩で荒い息をしながら、後ずさりをはじめていた。
廊下を歩いてくる『ミュータント』。
その緑色の体は透き通っており、中の臓器が丸見えになっていた。
後藤の放つ力は、その『ミュータント』の身体に攻撃を加えることはできる。
だが、その弾け飛んだ身体はしばらくするとまるで各肉片が意思を持っているかのように集合し、そしてまた元の姿へと戻ってしまうのだった。
力を放ちつづけたが、まったくダメージを与えられない。
そればかりか、中央フロアに通じるありとあらゆる廊下から『ミュータント』が集まりはじめている。
出入り口を塞がれた後藤は、自然とフロアの中心に追いやられる。
あと少しで、つんくのいるフロアにたどり着けるのに――。
後藤は、唇を噛みしめた。
再生までの短い時間にフロアを突破するには、疲れている後藤の足では出来そうにもなかった。
「いちーちゃん……、ごめん……。もう、ダメかもしんない」
後藤が目を閉じて一筋の涙を流した時、フロアに轟音が響き渡った。驚いた後藤が目を開けて見たものは――。
業火により、溶けて蒸発する『ミュータント』の姿だった。
フロアにいた100体近いすべての『ミュータント』が、後藤があれほど苦戦した『ミュータント』が、一瞬にして蒸発した。
『後藤。あんたの力は、向こうにバレてんだよ』
後藤はその懐かしい声に驚き、振りかえった。フロアに通じる廊下の1つに福田明日香が立っていた。
そして、その隣には虚ろな目をした白髪の少女が立っていた。
「ふ、ふくちゃん……」
後藤にとって、福田の存在は恐怖だった。<Zetima>に、いや、すべての能力者に対し異常な敵対心を持っているのである。
市井がずっと側にいたので、直接的に何かがあったわけではない。
だが、後藤は本能的に知っていた。市井が側にいなければ、明日香に勝つ事ができないのを。
明日香の触手によって、後藤の力を封じ込めることは無理だろう。
しかし、明日香が恐ろしいのは”封じる”のを目的とせず、”壊す”ことを目的にその触手を伸ばしてくる事であった。
「なに、後藤。久しぶりに会ったのに、そんな怖い顔しないでよ」
明日香のその笑顔も、後藤はあまり好きではなかった。
「紹介する。私の新しいパートナー。安倍なつみさん」
後藤はその名前を聞いたとき、思わず梨華の顔を思い浮かべた。
明日香の隣にいる少女が、梨華から聞いていたなつみの印象とはあまりにも程遠かったからである。
「ここまでの道のりは、ほんと遠かった」
と、明日香は微笑を浮かべた。
「意識を消して逃げられたら、さすがに見つけにくいからね」
「ずっと、ウチらのこと狙ってたの……」
「さぁ」
明日香のその余裕めいた笑いに、後藤は思わず力を放った。
しかし、その力は炎の壁により相殺されてしまった。
「やめときな。勝ち目はないよ」
「勝ち目はなくても、戦わなきゃいけない」
「――紗耶香のためにね」
後藤は連続的に力を放った。炎の壁に大穴を開ける事ができたが、すぐにその後ろに出現した新たなる壁により後藤の力は相殺される。
だが、後藤は力を緩めなかった。その衝撃音だけで、フロアの天上がパラパラと崩れ始める。
炎の帯がフロアの床を後藤めがけて、一直線に突き進んできた。
ハッとした後藤はとっさに、横に飛びのいた。それにより、放つ力が止まってしまった。
”殺される”そう意識した瞬間、明日香の笑い声が聞こえてきた。
「殺すつもりなら、もっと簡単に殺してる」
「だったら、さっさと殺しなよ! ふくちゃん、いったい何がやりたいのさ」
「――いい質問だね」
「ふくちゃんは、いっつもそうだよ。みんなの邪魔ばっかりして、ふくちゃんが協力してくれてたら、こんな事にならずに済んだのに、
圭ちゃんだって死なずに済んだのに!!!!」
後藤の放つ力を封じるように、炎がフロア全体を覆った。
鈍い音が響き渡り炎のあちこちに穴が開き、そこを貫通した後藤の力がフロアの壁を抉りとった。
「この建物、崩すつもり?」
と、明日香が苦笑する。
「他のみんなも巻き添えにするなら、してもいいけどね」
その言葉を聞いて、後藤はヘナヘナとその場に座り込んだ。
また、怒りに任せて力を放ってしまった。もしも、明日香がなつみの炎でその力を弱めていなかったら――、後藤の戦意は完全に消失した。
ぼんやりと焦点の合わない目で、後藤は自分の死が来るのをまっていた――。
『アタシのかわいい後藤に、何してくれてんだよ』
ぼんやりと眺めていた後藤の目に、明日香の不適な笑みが映った。怒っているような笑っているようなその声。
後藤は、市井の声が以外と高いことを考えながら、ぼんやりと明日香を眺めていた。
「久しぶり、紗耶香」
後藤は、そう言いながら笑顔を向けた明日香の視線の先を追った。
フロアに通じる別の通路から、市井が出てきた。
「いちーちゃん!」
市井の姿を確認してわれに帰った後藤は、その場に座り込んだまま泣きそうな声で叫んだ。
「圭ちゃんの言いつけ守らなかったバツだぞ」
と、市井は笑いながら、後藤の頭を撫でた。
「だって」
「わかったから、もう泣くな」
市井は、胸に顔を埋めた後藤を抱いたまま、明日香へと顔を向けた。
「戻ってきたのは知ってたよ」
「ほんのちょっと見ない間に、ずいぶん、丸くなったんじゃない?」
「――明日香もね」
「そうかな?」
と、明日香は笑顔を浮かべた。
「戦う気もないのに、後藤のこと苛めるのやめてくんない?」
と、紗耶香が苦笑を浮かべた。
「助けてやったのに、こんなことするから」
「後藤。立てるか?」
後藤はコクンとうなずき、市井に手を引かれて立ちあがった。
明日香が不意に、深いため息をついた。
「ホント、しつこいなぁ」
「なにが?」
市井が、訊ねる。
「吉澤みたいなのがもう1人、あ、2人に増えたんだ。あんなのが、2人いるんだよ」
「は?」
「こんなところまで来るとは、思わなかったな――」
と、明日香はなつみを引き連れて廊下の奥へと消えて見えなくなった。
『私は別にアンタたちの仲間じゃないから。後藤。次に会ったとき、あんたの質問に答えてあげるよ』
廊下の向こうから明日香の声が、聞こえてきた――。
Chapter−7 <導かれし先3>
矢口は、自分の使命を果たすために小さな体を振るわせながら、1人で誰もいない静かな通路を歩いていた。
このまま通路を歩いていけば、やがて飯田が倒れている現場にたどりつく事を矢口はあらかじめ知っている。
戦車からの砲弾を受けていたあの建物の陰で、矢口は未来視を試みた。今まで試みて未来が見えることはなかったが、
この現状をなんとか打破したいがために、今までにないほど強く念じたのである。
すると、矢口の意識は宇宙へと不意に投げ出されてしまった。
まぶしいトンネルのような場所を抜けると、そこはアカシックレコードと呼ばれている場所であった。
はじめて見る場所なのでそこがアカシックレコードなのかはわからなかったが、
ありとあらゆる映像が無秩序かつある一定の秩序を持って広がっているのでここがそうなんだろうと感じていた。
しばらく、そこにある映像を眺めていた。どれも自分たちには何の関係もなさそうであったが、あらゆる星での出来事が珍しくて見入っていた。
どのくらいそこでそうしていたのだろうか、急に誰かに引き戻されるような感じがしてまたあのトンネルへと戻った。
通過している最中に、不意に矢口の目に自分の未来が飛び込んできた。
それは、自分の”死”までの映像である。
だが、矢口は取り乱す事はなかった。
なんとなくではあるが、自分の能力が――、未来を見る能力が劣った理由を、もうずっと前に理解していたからである。
ただ、一人ぼっちで死んでいくのが寂しかった。
できることなら、中澤にそしてメンバー達に看取られながら死んでいきたかった。
――しかし、今はその考えも少し違っている。
保田の姿を目の当たりにした時、強烈な悲しみで心が裂けそうになった。
あのような思いは、誰にもさせたくはない。矢口は今、そんな風に思っている。
廊下の角を曲がり、目の前に倒れている飯田を見つけた時、矢口はやっぱり自分の見た未来は変えられない事を知った。
中澤は、ひとみと梨華を後ろにして、その切り刻まれた部屋の中を覗きこんだ。
薄明かりの部屋の中、通路の両側にカプセルのようなものがいくつも並んでいたが、その中には何も入っていない。
中澤は誰の気配もないのを感じると、少々、拍子抜けした顔を浮かべて後ろを振りかえった。
ひとみと梨華も、緊張していた。梨華がいくら意識の網を広げていても、『ミュータント』の意識を感じる事はできないのである。
廊下の角を曲がるのも、部屋の中を覗くのも非常に緊張する瞬間であった。
その緊迫した空気の中、部屋の確認をし終わって後ろを振りかえった中澤が突然、叫び声をあげたものだから、
ひとみも梨華も同じように叫び声をあげてしまった。
叫びながらも、ひとみはとっさに銃を構えて後ろを振りかえった。
そこに『ミュータント』でもいると思ったのである。
しかし、ひとみの見たものは『ミュータント』ではなく、銃に驚いて腰を抜かした希美の姿だった。
「つ、辻……」
誰もが、言葉を失った。帰ってくるはずのない、希美がそこにいたのである。
「ただいまれす」
希美は、腰を抜かしながらも白い八重歯をのぞかせた。
「あ、あんた、なんで……」
「飯田さんが、教えてくれました」
「圭織が……」
「はい」
ほんの少しだけ成長した感のある希美だったが、あの舌っ足らずな喋り方だけは何も変わっていなかった。
中澤とひとみと梨華は、黙って顔を見合わせた。宇宙意思の一部になった飯田がどうして――、そんな疑問から顔を見合わせたのである。
「辻は悲しくないれすよ……。いいらさんは、この星を守るって言ってました。らから、悲しくありません……。最後にいっぱい、お話したから」
辻のその愛くるしい目に、涙が滲む。しかし、気丈にもその涙を堪えている。
「そうやな……。圭織は圭織で戦ってるんやな……。それより、辻はなんでここに戻ってきたん? あっちの方がよかったやろうに」
中澤は、希美を立ち上がらせると、母のような笑みを浮かべてその臀部の汚れを払った。
「中澤さんも、市井さんも、保田さんも、みんないました。森おばあちゃんにも辻は優しくしてもらいました」
「そうか……。圭坊もおばあちゃんもおったか……」
「辻は、森のおばあちゃんや中澤さんたちにこれから起きることを全部話しました。
そして、森のおばあちゃんはつんくの意識下にあるなんか悪い考えを見つけたみたいで、そのすべての記憶を消したんれす」
「……意識下にあったんや」
「中澤さんがリーダーになって、これからは力を持った人を集めるそうれす」
「そうれすって、あんたその先、知らんの?」
「?」と、希美が首をかしげた。
「いや、もしかしたらまた別の未来が始まってるかも知れんやないの」
「大丈夫れす。ここに戻ってくる前に、飯田さんがこの世界で星の”れんさ”が止まるって言ってました」
「あかん……。また、圭織や……。わけわからんねん、あの子の言ってること」
「辻はわかりますよ」
「は?」
「増えすぎた世界は、端から消えていっているのれす。消えていく世界にもいろいろな原因があります。
自然淘汰、環境破壊、戦争。でも、そのほとんどが独裁者による戦争が引きがねれす。
人間の負の感情が、世界に影響を与えて、星そのものの命を削るのれす。星の命は、花や木や鳥や動物や人間の意識れす。
それがなくなったら、星は死にます。星が死ねば、星の意識がエネルギーの宇宙も死んでしまうのれす」
「連鎖って、そう言う意味やったんか。圭織はそれを止めようと……。けど、どうやって……」
「独裁者を倒すのれす。独裁者から生まれる意識は、人々に負の感情を伝染させる。それがそのまま分岐した先の世界にも影響する。
だから、独裁者を倒しなさい――って、飯田さんが言ってました」
「独裁者って、つんくのことやな」
「たぶん。――飯田さんは、ただ独裁者と言ってました」
「どっちにしろ……。戦わなあかんのやな」
中澤は微笑を浮かべて希美の頭を撫でると、廊下を歩いて行った。
「行こう、のの。みんなから、離れちゃダメだよ」
と、梨華は軽く希美の頭を撫でると、その小さな手をとり歩こうとした。
「あのね、梨華ちゃん」
のぞみが、梨華を見上げながら軽く手まねきした。
どうやら、耳を貸してほしいらしい。梨華は、それを察して膝を曲げて希美の口元に耳を近づけた。
後藤と市井は、3階で足止めを余儀なくされていた。
地下4階につんくはいるはずなのだが、そこに通じる道がどこにも見つからないのである。
「隠し通路みたいなのがあるのかな?」
後藤が辺りを眺めながら、市井に語りかけた。
他のフロアとは違った構造。きっと市井たちの進入を計算にいれて、作られているのだろう。
中央のフロアに追い込んで、あの『ミュータント』でまとめて消し去る予定だったはずである。
――市井には、そう考えられた。
どの通路も奥は行き止まりであり、通路の両脇にはあの『ミュータント』を格納していたと思われる殺風景な部屋しかなかった。
だとすると、ここは単に市井たちをおびき出すためだけに作られたフロアであり、
地下4階に通じる通路は別に用意されていないのかもしれない。
――市井は後藤を連れて、もう1度地下2階に戻る事にした。
希美を連れて歩いていた梨華の足が急に止まった。
「梨華ちゃん?」
希美の声に、前を歩く中澤とひとみが振りかえる。
身を強張らせた梨華が目を閉じて、意識を研ぎ澄ます。
ひとみは、そっと辺りを見まわした。
しかし、入り組んだ地下のそのフロアは廊下の角があちらこちらに点在し、もしも敵ならばどこから現われるのか見当もつかない。
「福田さん……。福田明日香が来てます……」
梨華はポツリとそうつぶやくと、ゆっくりと閉じていた目を開いた。
「明日香が……。どこや……」
「ここから、300メートルほど……。もう、感じません……」
梨華の指さす方向は、先ほど自分たちが歩いてきた道でもあった。
どうやら、上のフロアに通じる通路へと向かっているらしい。
「なんで、今頃……」
中澤はいつまでも、梨華が指さした方向を見つめている。
その思いは、ひとみも梨華も同じだった。
「安倍さん……。安倍さんも一緒でした……」
「向こうは、こっちに気づいてた?」
ひとみの問いかけに、梨華はゆっくりと首を振った。
「ややこしい事になってきたで……。けど、今は明日香よりつんくや。早う後藤と加護に合流せな。行くで」
中澤は希美の手を引いて、廊下を突き進んでいった。
研究所の敷地の中で、石黒と平家は『ミュータント』に取り囲まれていた。
「やっぱり、ここ相当怪しいわね……」
石黒はジリジリと後ずさりしながらも、『ミュータント』から目を離そうとしなかった。
「こんなに集中して出てくるんが、おかしいもんなぁ……」
平家もまた、同じである。
牙を剥き出しにしたその『ミュータント』は、闇夜の向こうから次々と集まってきていた。
「彩ちゃんは、早よ逃げ。ここはウチが囮になるから」
「なに言ってんの」
「お腹に赤ちゃん、おんねんで。こんなとこで死んだりなんかしたら、あかん。絶対にアカン」
「……まだ死ぬわけにはいかない。私にはまだやりのこしたことあるから」
『――。へー、そんなことのために、わざわざ来たんだ。ご苦労様です』
石黒らに向かってにじり寄っていた『ミュータント』が、その声に反応して振りかえった。
闇夜の向こうにボッ、ボッと音を立てて小さな炎の玉が浮かぶ。
揺らめく炎。
照らしだす人物の顔に、石黒も平家も見覚えがあった。
「あ、あなた……」
死んだはずの福田明日香が、そこにいた。石黒の脳裏に、あのサキヤマ町での出来事が強烈に思いだされた。
「あの子や、彩ちゃんの側におったん。あの子やで」
と、平家が呆然としている石黒の肩を揺らす。平家が男に教われていた時、その少女はたしかに石黒彩のすぐ側にいた。
しかし、どういうわけか石黒は少女なんかいないと突っぱねるのである。
平家は、襲われたショックで自分の頭がおかしくなっていたのではと何気に気にしていた。
「死んだはずじゃ……」
石黒のその言葉に、平家は背筋に冷たいものが走った。”幽霊”それが平家はこの世でなによりも恐ろしかったのである。
「こっちもそのはずだったんだけどね。また、戻ってきちゃいました」
と、明日香はおどけて笑った。炎により顔の陰影は濃くなっている。
その笑顔は、不気味な笑顔だった。
「ひょっとして……、ずっと私の側に……」
「あの子たちの意識探している途中に、たまたま見つけてね。いつか合流するだろうと思って」
「……」
「見られると面倒だから、私たちのこと認識できないようにしてたの」
「私たち?」
――ボッとまた炎が上がる。
照らし出される白髪の少女を見て、石黒と平家は思わず叫んでしまった。
「な、なっち!」
「なつみちゃん」
駆け寄りたい衝動でいっぱいだったが、明日香らの間には多数の『ミュータント』で埋め尽くされている。
「そう。私たち」
「なっちに何をしたの! なんでそん……な……に……」
石黒と平家の記憶の中にある、あの愛くるしい顔をしていたなつみはもうそこにはいなかった。
原因はなんなのか分からない。度重なる疲労によるものなのか、
それとも他の何かなのか、まだ出産予定日にまでは1ヵ月以上あるはずである。
決定的な証拠まで後一歩というところで石黒は強烈な陣痛に襲われた。
脂汗が浮かび、立っていることもできなくなり、その場に膝をついてしまった。
「あ、彩ちゃん!」
あわてて平家がその身体を支える。見ると、破水したのだろう。
羊水によって地面が濡れていた。
「あぁ、どうしよう。こんなときに」
うろたえる平家は、周りに何もないのを知っていたが思わず辺りを見渡してしまった。
「車で連れてったら。すぐそこに付属病院があるから」
「なっちを……、返して……」
石黒は痛みでふるえながらも、手を差し伸べた。
明日香はニッコリと微笑むと、こう言った。
「答えは、国会議事堂の地下にある」
突然、吹き上げる炎。その炎に包まれる『ミュータント』の姿を見ながら、石黒は痛みにより気を失った。
ただ、意識を失う寸前になつみが笑ったかのように見えたが、それは揺らめく炎の陰影による錯覚であったのかもしれない――。
加護はその『ミュータント』の両目をまず潰した。
そして、視力を失い突進してくる『ミュータント』を冷静に交わすと、静かに距離をとって静かに力を放った。
首の薄皮が一枚剥がれただけにしかすぎなかったが、加護は冷静に同じ威力で同じ場所に力を放った。また、数ミリその首もとを切り裂いた。
5回……、10回……、20回……、30回……、『ミュータント』の頭部は薄皮一枚で首と繋がっていた。
もうすでに、『ミュータント』は絶命していた。辺りに鮮血を撒き散し、床に倒れている。しかし、加護は力を緩めなかった。
32回目でその頭部と首が完全に切り離されたのを確認すると、加護は部屋を出ていこうと振りかえった。
ドアの前に、青ざめた顔をした矢口が立っている。
加護は完全に狂っているのかもしれない……。矢口はそう思っていた。
顔に飛び散った鮮血をぬぐう事もなければ、そこは研究室なのだろう辺りに散乱した死体に眉1つ動かすことなく、佇んでいる。
たまたまドアの前を通りかかった時、矢口はまた新たなる敵がそこにいるのだと思った。だが、それは加護であった。
加護は冷たい目でぼんやりと、こちらを見つめている。
あの無邪気な笑顔を浮かべていた加護が……。矢口は思わず、泣きそうになってしまった。
「あ、矢口さぁん」
対面してもう数10秒が経過した頃、やっと加護が矢口を認識した。
それまで浮かべていた冷たい表情から、いつもの愛くるしい笑顔を浮かべる。
「……あんた、こんなところで何やってんの」
矢口の見た未来に、加護はいなかった。このあと、加護はどこに行ってしまうのか不安で仕方がなかった。
「矢口さんこそ、どうしたんですかぁ?」
「あたしは……」
「加護はですね、保田さんの身体を探してるんです」
「圭ちゃんの……?」
「はい。そうなんです」
「……加護、圭ちゃんはもう」
加護はまた冷たい表情を浮かべ、矢口から顔を背けた。
死を認識するにはまだ幼い。ましてや、それがあのような別れ方ならば、なおさらである。
加護は狂ったのではなく、認めたくないだけなんだと――矢口はそう感じた。
このまま1人にしておくわけには行かないので、矢口は加護の手を引いて研究室を後にした。
「ごっちんと市井さん、こっちに向かってきてます」
梨華が急に振りかえって、そう言った。
皆の顔に、安堵の色が浮かんだ。
「紗耶香も一緒か……、良かった」
中澤は、フロアの奥に通じる扉をひとみと一緒に、バールを使ってこじ開けていた。
「じゃあ、これごっちんにやってもらおうか?」
「そうですね」
ひとみは、額の汗をぬぐいながら扉から離れた。
「ひとみちゃん」
「ん?」
床に座り込んで一息ついていたひとみに、梨華が話しかけてくる。
「もうすぐ、終わるよ」
「なんで?」
「このむこうから、私たちの意識を探っている人がいるの」
「敵なの?」
ひとみが、パッと立ちあがろうとした。
「違う……。人なんだけど……」
ひとみは梨華のその口調や表情から、この扉の向こうににいるのは、あの保田の状態のようになった”人物”なんだと理解した。
「教えてくれるの……。この下のフロアにいるって……」
「あいつ、ホント人間じゃないよ……。なんで、こんなこと」
ひとみは、怒りで震えた。
「私たちのような力を持っている人間と接したことによって、未知なる力に対する恐怖が芽生えたんだと思う。
たとえそれを利用して、自分の欲を満たそうとしてもその恐怖心は消えない」
「……」
「だから必死になって、私たちより強い力を手に入れようとしてるのかも……」
「記憶を消された向こうの世界のつんくは、どうなったんだろう……」
「きっと、普通に暮らしてると思う。力を持った人たちと出会わなかったんだから、利用することもないし恐れることもない」
「――梨華ちゃんは、その優しさずっと持っててね」
「?」
きょとんとしている梨華に、ひとみは微笑んだ。無意識なのだろう、梨華はつんくに慈悲の心を持ち合わせている。
いや、結局すべての人間に対してそうなのだろう。どんなに悪行を行なったものに対しても最後はきっと許してしまうのだ。
――ひとみは、そんな梨華が好きだった。
「梨華ちゃん」
「ん?」
ひとみは、その頬に唐突に口づけをした。顔を赤くして、目を丸くする梨華。ひとみはイタズラっぽく笑いながら、その表情を眺めていた。
「もう、ひとみちゃん」
と、梨華がひとみを突き飛ばそうとした時、市井と後藤が駆け込んできた。
――最後の戦いは、すぐそこに迫っていた。
Chapter−8 <導かれし先にあるもの>
地下4階に下り立った時、中澤・市井・後藤・ひとみ・梨華・希美の6人はまるで地上にいるような錯覚に陥った。
広がる緑の森。
どこかから、風のようなものも舞っている。
明るい陽射し――のような光が天から降り注いでいる。
中澤たちにはどことなく長野の<Zetima>を思い出させ、ひとみたちには日本旅館を連想させた。
その光景に見惚れていた6人だが、不意に聞こえてきたその声により現実に戻される。
『つんくタウンへようこそ』
スピーカーでも隠されているのだろう、その声は四方から流れてきた。
『って、まだなんもできてないんやけどな』
と、その声は笑った。
「アンタがやりたいんは、こんな事やったんか!」
中澤が、叫ぶ。
『まぁ、こんなところで立ち話もあれや。部屋で待ってるわ。誰もおらへんから、ゆっくり話しようやないか』
声は消えた。
また、その森に静寂が戻った。
「部屋ってどこやねん……」
見渡す限り緑の森である、建物らしきものはどこにも見当たらない。
「裕ちゃん、ちょっとどいてなよ。危ないよ」
後藤が、中澤の前へと歩み出てきた。中澤が、後藤から離れた瞬間、森の木々が吹き飛んだ。
辺りは、ただの平野となった。
そして、数キロ先にまるで箱のような小さな建物が見えた。
「あれだ……」
希美のひとみと組んでいた腕に、ギュッと力が入った。
「辻……」
不安そうな表情でずっと一点を見つめる希美の頭を、ひとみは軽く撫でた。
「大丈夫。もうすぐ終わるよ」
「あいちゃんと、矢口さん……」
「ああ。早く終わらせて、一緒に帰ろう」
「……うん」
何もない平野は、どこかもの悲しげであった――。
そこを歩いていく6人にも、その思いは去来していた。
おかしい……。
矢口は電子制御室の前で、加護の手を引いたままぼんやりと佇んでいる。
アカシックレコードから戻る途中で見た自分の未来は、ここへは1人でたどり着くはずだった。
しかし、今はとなりに加護がいる。加護と一緒にいる未来など見ていない。確定された未来がどうして――。
加護はぼんやりと佇む矢口をよそに、その扉を切り刻んだ。
「矢口さん、開きましたよ」
と、無邪気に微笑んだ。
矢口はただ、ぼんやりとするだけであった。もしも、あの時見たのが別世界の未来だったとすると……。
ほんの少し離れただけの未来だとすると……。
自分たちの未来は――。
「矢口さん?」
「あ、うん。――行こう……」
薄暗闇の部屋の中を、矢口は加護の手を引いて入っていった。
この先の未来、電子制御装置を近くにあった鉄の棒で破壊する。
そうすることにより、この建物にあるはずの能力を封じ込める装置が作動しなくなるはずである。
その後、矢口はその部屋に入ってきた発狂した研究員の手によって、撲殺される運命であった。
だが、加護が側にいる現在、本当にそのような運命をたどるのか――。
そもそも、この部屋に来るまでに加護はいない未来を見ていたのである。
そして、矢口が壊すはずだった電子制御装置を加護が力を放って呆気なく壊してしまった。
「矢口さぁん、これでいいんですよね」
「あ、うん……」
「じゃあ、もうみんなのところ行きましょう」
と、呆然としている矢口は、加護に手を引かれて電子制御室を後にした。
それまで太陽のような光を放ちつづけていた天上のライトが、不意にブーンという鈍い音を立てて消えた。
一瞬、辺りは暗闇に覆われたもののすぐに予備電源に切り替わったのであろう、すぐにそのフロアに明かりが戻った。
しかし、先ほどよりもあきらかに薄暗い光を放っている。
「なんやねんな……、急に……」
中澤は、天上を見上げながらつぶやいた。
対照的に市井と後藤は、立ち止まることなく建物へと進んでいった。
――数分後。
6人は呆気ないほど、その建物へと足を踏み入れることができた。
そして、呆気ないほどつんくのいる部屋へと足を踏み入れることができた。
「誰やねん、電気ストップさせたんは……」
つんくはデスクの鉄製の椅子に座っていた。
出入り口には、背を向けているので、その表情を読みとることはできないが苦笑しているようだった。
市井と梨華は、触手をつんくの意識下に伸ばしたが、頭を覆っているヘッドギアによってその行く手を阻まれた。
しかし、こうして体面に近い状態の今、特に意識下を探る必要もなかった。もう、これですべてが終わるのである――。
「けっきょく、このヘッドギアだけか。役に立つのは」
「あんたの与太話はどうでもええねん。あんたは絶対に殺すからな。
圭坊のためにも、圭織のためにも、死んでいったほかの人のためにも、アンタだけは絶対に許されへんねん……」
「保田には、悪いことした……。けど、謝れへんで」
「そんなとこで、ブツブツ言わんとこっち向けや!」
「あいかわらず、やなぁ……」
苦笑するつんくの声を聞いたとき、後藤のイラつきはピークに達し思わず力を放ちそうになった。しかし、寸前で市井によって止められた。
「いちーちゃん……」
「待って。なんか、変だ……」
「そんなの、関係ないじゃん」
「いいから、待て」
「……」
後藤は、軽くため息を吐くとそっぽを向いた。
「お前らは、俺が世界征服でも目論んでると思うてんねやろ」
「その通りやないか。こうするために、今まで動いてたんやろ。
ちゃんと証拠かて残ってんねん!」
「なんや、バレてんのか」
部屋のライトが瞬き、また少し暗くなった。
ひとみは、横にいた梨華と希美を自分の側へと引き寄せた。
「けどな、そんな大層なもんちゃうで。俺はただ、この世界をもう一回作りなおしたかっただけや。
――周り、見渡してみ。この世の中は腐ってるやろ。
一部の人間だけが甘い汁ばっかり吸い上げて、弱い人間はいっつも誰か他人や社会に虐げられて生活するしかない。お前らかてそうやで。確かに他人にはない力をもっとる。しかも、強大な力や。けど、そのせいでつまはじきにされてきたやろ」
中澤らは、ただ黙ってその話を聞いていた。
特につんくの話が聞きたいわけではないが、ここまで来た以上、その真意を知っておく必要があると思っていた。
「俺かてそうや。自慢やないけど、頭だけはええ。けどそのお陰で、嫉妬や妬みぎょうさん受けてな……。この世の中に失望した……。
そんな時に、お前らに出会ったんや。無能どもがのさばるこの世の中で、なんで優秀な人間が虐げられなあかんのやって……。
ばあさんが死んだとき、俺は誓ったんや。いつか、こいつらと共にこの世の中を叩き潰してやるってな」
「何が共にやねん。結局、アンタは自分のエゴのために、みんなを利用しただけやろ。何が世の中腐ってるや。腐ってんのはアンタの方や!」
「考え方の違いや。特にばあさんに育てられたお前ら――。あのばあさんの考えは、聞こえはいいけどホンマはちゃうねんで。
自分らだけの理想郷なんか作ったら、他で苦しんでる能力のないヤツらはどうすんねや。自分らさえよかったら、それで満足なんか?」
「ああ。それで満足だよ。この世界を壊す気なんてない。
ただ、誰も自分の持っている力で悲しんだりしない場所がほしかっただけ。ウチらは――、ただ普通に暮らしたかっただけさ」
市井は、強い目をつんくの背に向けている。
「……せやから、邪魔やったんや」
「けっきょく、あなたは自分が一番優秀な社会を作りたかった」
梨華が、ぽつりとつぶやいた。
「……独裁者はそういうもんやねんな。けどな、教えといたるわ。独裁者は必ず最期には滅びるねん。
けど、俺はそれ知ってたからな、わざわざ自分が表に出る事はなかった。この日本もホンマは守るために動いてたんやで。
被害国のように見せてたやろ」
「あんたのせいで、何人死んだと思ってんの」
ひとみの叫びに、つんくは微苦笑を返した。
「もし俺が、張本人やとバレたら日本は全滅やで……。なんぼなんでも、あんな『ミュータント』使っても世界は相手にできへんわ。
夢のためなら多少の犠牲も止むおえん……」
「そこが、違ったんだ……。もっと早く気づいてたら、こんな事にはならなかった。圭ちゃんも死なずにすんだ……」
市井はつんくの背に視線を向けたまま、目に涙をためた。
「アイツラは、ホンマに狂ってるわ……。何もかも実験に使われた……。俺の計画がメチャクチャや……。
もっとも、こんな身体では計画もクソもないけどな……」
つんくの椅子がゆっくりと動きだした。
回転して中澤らに向き直ったつんくは、老人そのものであった。
老人――と、呼ぶよりも壊死した皮膚に覆われた人物が正しいのかもしれない。
もはや、人の形をかろうじて留めているだけにすぎなかった。
「アイツラは、俺の資金力を目当てに近づいてきた……。結局、俺も利用されるだけされたら、この通りや……。
細胞分裂を早める薬打ってさっさと高飛びされてもうたわ……」
「自業……、自得や……」
そう言いながらも、中澤はつんくから顔を背けた。
「ドイツチームはほんまにくわせもんや。まさか、アイツの脳を保存してたとはな……。1回、この目で見ときたかったわ……。
あのマヌケな独裁者みたいにはならんとこう思うたのに……」
「独裁者……」
中澤は、その独裁者の顔を思い浮かべてみた。1人、独裁者として思い浮かぶ人物がいたが、もうすでに半世紀前に息絶えている。
「独裁者……。飯田さんの言ってた通りれす……」
希美は、中澤の背に隠れながらつぶやいた。
「誰やねん……、その独裁者って」
「ヒトラー……。アドルフ・ヒトラー。聞いたことあるやろ」
”アドルフ・ヒトラー”歴史上の人物がどうして……。
皆の頭に、同じような疑問が浮かんだ。
「アドルフ・ヒトラー……。あの世界を破滅にまで追いやろうとした悪魔が世紀末に甦りおった。今度はアイツも、表には出てこん……。
陰からゆっくりと世界を征服するつもりやったんや……。俺と一緒や……。けど、俺と一緒の誤算もしたわ……」
「誤算……?」
「ああ……。お前らの存在や……。いずれ、立ちはだかるのは目に見えてたからな……、ホンマはもっと早うケリをつけたかった。
けどお前らは……、なかなか姿を現そうとせん……。市井や後藤は血の気が多いからな、すぐにやってくると思うてた」
「行くつもりだったよ。けど、裕ちゃんに止められたんだ」
後藤がポツリと、別の方向を見ながらつぶやいた。
「その内に……、こっちも色々ゴタゴタしててな……、この研究所の施設を作ったり……、『ミュータント』の実験もあったりしてな……。
お前らのことを後手に回してたわ……。けど、それも運命やったんかも知れんな……」
むせび笑いをしたつんくは、その場に大量の血を吐いた。
「……」
希美は、思わず顔を背けた。
「お前らが存在することによって、どうなるのかまったく予測できんようになってもうた……。俺の知ってるところ、お前らの力は最強や……。
ただ、国相手にどこまで粘れるかわからん……。
けどな……アイツが世界を手中に収めたら……世界は破滅や。
俺はまだ、ほんの少し人類を愛してた……。血やのうて、その可能性をな……」
つんくはせき込んだ。顔面の腐敗した肉が、その衝撃で剥がれ落ち、そして大量の血を吐きつづけ絶命した。
皆、その場に凍りついたように立ち尽くした。
これですべてが終わるはずだったのに、まるでつんくの今の言葉はこれからがはじまりのような――そんな最期の言葉だった。
『ウチらは、まだ導かれてる途中なんだ』
その声に、全員が振りかえる。
建物の分厚い扉の前に、矢口と加護が佇んでいた。
加護が希美の姿を見て少し驚いていたようだったが、すぐに2人は互いの存在を確かめ合うようににっこりと笑顔を交わした。
「破滅の連鎖を止めるため、ウチらは宇宙に導かれてる。ウチらが休めるのは、本当の平和を手に入れてからだよ」
「その先に……、何があんねん……」
その先に何があるのか、誰にもわからない。
しかし、確定的なのは自分たちが破滅の連鎖を止めることができるという事である。
宇宙の大きな意思が、その大きな意思の1つとなった飯田が、きっと自分たちにとって、
いや全人類にとって良い方向へと導いてくれるはずである。
「――本当の楽園か……。圭ちゃんや他の子のためにも、私は行くよ」
市井は微苦笑を浮かべると、きびすを返した。
「あ、ちょっと待ってよ。いちーちゃん」
と、後藤があわててその後を追いかける。
「のの……」
加護が目に涙を溜めて、希美の手を握った。希美はすべて理解しているかのような、天使のような笑みを浮かべてその手を握り返した。
「一人ぼっちで少し 退屈な夜〜」
「?」
「私だけが寂しいの? Ah Uh」
「なに? その歌」
と、おどけて振りつきで歌う希美の姿を見て、加護にもいつもの笑顔が戻った。
「いっぱい覚えてきたから、練習しよー」
と、希美がテヘテヘ笑いながら加護の手を引いて出ていった。
「ホンマ、あの子らは……」
「辻も加護も、いい大人になるよ……」
「矢口は、いつまでも小っちゃいまんまでいてや」
「ん?」
「いつまでも、こうやって抱きつくねん。矢口ぃ」
抱擁しようとした中澤の腕はスッと空振りした。
「矢口はもう大人なんだからね、そんなことしませんよーだ」
と、矢口は舌をべーっと出して、キャハハハハと笑いながら去っていった。
「かわいい。矢口ぃ、待ってー」
残されたひとみと梨華は、苦笑を浮かべていた。
「けっきょく、いつもこんなだね」
「ん?」
と、梨華がひとみを見上げる。
(緊張感なくない?)
「あ、うん」
梨華はまた微笑んで、みんなの去った方向に視線を戻した。
「ドイツか……、遠いね……」
「……」
「梨華ちゃん……」
「?」
「その先に何があっても――、ずっと側にいてね」
「――うん。ずっと一緒にいようね」
ひとみは軽く微笑むと、梨華の肩を抱いて歩きだした。届いてくるひとみの意識――、それは梨華にとって甘い吐息のようなものだった。
――明日香は、上のフロアから意識の網を広げていた。
そこへ流れてくる中澤らの意識。
目的を果たすためには、どうやらもう少し彼女たちと行動を共にしなければならないようだった。
1週間後――。
各メディアが集めた情報が集約され、全世界に向けて放たれた。
『突然変異体襲撃事件 日本が中心的関与』
石黒は病院のベッドで、自社の新聞を読んでいた。
この記事により、日本の立場は危うくなってしまった。
しかし、この計画の中心的な人物がもうすでに死亡していることや、
政府関係者らからも直接的にこの計画に荷担したものが出なかったため、連合軍から攻撃を受けるようなこともなかった。
日本はすぐさま国際連合軍に、多額の援助金と世界各地に今も残っている『ミュータント』討伐の兵を出した。
未知なる者に対しての恐怖心も、世間の人々から薄れていった。
異能力者が突然変異を起こしてあの生物に変化するわけではないことが、今回の一連の取材により明らかになった。
むしろ、異能力保持者は人体実験に使われた被害者だったことが判明した。
平家の呼びかけにより、数日後に異能力者と交流のある人物が全国から集まりTV出演することが決まっている。
それにより、さらに世間の偏見はなくなるだろう。
もう、異能力者が言われなき迫害を受ける必要もないのである。
「みんな……、どこに行ったんだろう……」
石黒は新聞を閉じると、その瞳を窓の外へと向けた。
スモッグに覆われていた東京の空も、今は綺麗に晴れ渡っている。
東京は、ほぼ壊滅した。皮肉なことに、そうして東京は青い空を取り戻したのである。
ドアがノックされ、夫の真矢がまだ生まれて1週間しか経っていない娘の玲夢を抱いてやってきた。
「玲夢ちゃ〜ん、おっぱいの時間だよ〜」
夫の真矢は、生きていた。
勤務中にアパートを何者かに放火され、ずっと会社で寝泊りしていたらしい。
彩が病院に運び込まれたあの日、新聞社から連絡を受けすぐにやってきた。
「おっぱいとか、大きな声で言わないでよ」
「いいじゃん。産婦人科病棟なんだから」
と、真矢は椅子に座って娘をあやし始めた。
――あの日、最重要能力保持者として全国に指名手配された11人は保田圭と飯田圭織の2名が死体となってあの研究所から発見された。
しかし、残りの9名は依然として行方不明のままである。
そして、吉澤ひとみも同じく行方不明となっていた。
能力保持者と非能力保持者であるこの2人が、まだ一緒に行動を共にしているとは石黒は考えなかった。
梨華はひとみの前から姿を消した。そして、ひとみもあれほどの大怪我を負っていたのである。
TV出演を頼もうと久しぶりに、実家へ連絡すると両親から失踪を告げられた。
まさかと思った石黒だったが、思い返せばやはりどこかあの2人は永遠に行動を共にするような雰囲気があったのを思いだし、
今はただもう2人が幸せに暮らしているのを祈るしかなかった。
『ドイツで内紛勃発か』
石黒は、新聞すべてに目を通したわけではなかった。新聞の世界情勢欄に小さく載ったその共同通信発の記事。
石黒はその記事を見落とし、娘の玲夢に母乳を与えていた。
――石黒が、10人の死亡を確認するのはそれから3日後の事である。
――そして、12人の軌跡を石黒がたどり、彼女たちの生涯を出版化するのは1年後のことである。
石黒の出版した伝記は世界的なベストセラーとなり、その売上金はすべて一連の事件で失われた多くの犠牲者のために使われることになる。
動乱の裏に潜んでいた悪の欲望と、幼い少女たちを含む12人の孤独な戦いは世界に何かを問いかけた。
日本そして異国の地でその命を散らせた12人の異能力保持者により、世界は大きく変わる。
後に、その12人が戦った日は、『新世紀革命』として歴史に名を残す――。
#
「ねぇ、ひとみちゃん……」
「……ん?」
「ののね、私たちがはじめて出会ったあの駅のホームにいたんだって……」
「……へぇ」
「ひとみちゃんと、目が合ったって言ってたよ。あ、声もかけたって」
「……ハハ。覚えてない……」
「ののは、戻ってくるまでにいっぱい、いろんな世界を見てきたんだって……。
なんかね、私たちってアイドルとしてデビューしてる世界もあったって……。
ほら、あいぼんとののがこっちに来てからずっと歌ってた……、あれがそうなんだって」
「……へぇ。……ゴフッ」
「大丈夫? ひとみちゃん」
「大丈夫……。アイドルかぁ、なんか想像つかないね……」
「モーニング娘。って言うんだって」
「ハハ……。変な名前……」
「みんないて、とても楽しそうだったって……」
「梨華ちゃん……」
「ん? なに?」
「今度生まれ変わっても、また出会おうね……」
「うん」
「平和になってるかなぁ……」
「なってるよ……。みんな、頑張ったもん……」
「今度は素直に、愛してるって言えるといいな……」
「愛してるよ、ひとみちゃん……」
(アタシも……)
「眠っちゃだめだよ……。お話しよう。そうだ、もうすぐ私の誕生日……。16才だ……。ひとみちゃんより、ちょっとだけお姉さんになるね……」
「……」
「……ひとみちゃん?」
「……」
「……」
「……」
「ヤダ……。ヤダよぅ……」
「……」
「ひとみちゃん、起きて……」
「……」
「ねぇ……、1人にしないで……」
「……」
「私のワガママ……、聞いてくれるんでしょ……?」
「……」
「眠っちゃダメだってば、ひとみちゃん……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
「もう……、疲れたね。おやすみ……。私も、疲れちゃった……」
梨華は血だらけの身体を引きずりながら、ひとみの持っていたサブマシンガンを手にすると、
目の前にあった核発射装置に向かって撃ち放った。粉々になったのを確認すると、梨華はその場にゆっくりと倒れた。
視線だけをひとみへと向けた。
壁にもたれるようにして、眠っているひとみ。ひとみの身体を貫通した無数の弾が、壁に穴を開けている。
梨華は涙をぬぐうと、将校や自分たちの血で濡れたその床を、最後の力を振り絞ってひとみへと向かって這い進んだ。
(………………)
(…………)
(……)
(…………)
(……)
(……………………)
(……………………)
(…………)
(……)
「なんだ……、みんな……、待っててくれたんですね……」
(…………)
「うん……。わかった……」
ひとみのもとへ戻った梨華は、ひとみの膝の上で眠るようにその生涯を閉じた。2人のその顔は、とても安らかだったそうである――。
吉澤ひとみ=ミュンヘルン核ミサイル発射基地内で死亡。
石川梨華=同所で死亡。
中澤裕子=迎賓館内ヒトラー総統室で死亡。
矢口真里=同所で死亡。
市井紗耶香=迎賓館前で焼死。
後藤真希=ハイレブラル空軍基地にて自殺。
加護亜依=シュタイナー記念研究所で死亡。
辻希美=ルート177で死亡。
福田明日香=バルト海沖で水死。
安倍なつみ=同所で水死。
保田圭=寺田生物工学総合研究所で死亡。(日本)
飯田圭織=同所で死亡。
ドイツ軍=壊滅。連合国軍の監視下のもと新国家として再建中。
【導かれし娘。】 終
Short Story <加護亜依>
加護は希美と一緒に、ワゴン車の中でみんなが帰ってくるのを待っていた。
一緒にいると騒ぐので、目立たないようにおとなしくしてろと保田からキツク言われたのであった。
今日はいつもの町ではなく、ほんの少し”街”といった感じの場所にあるショッピングセンターにまで足を伸ばしていた。
「保田さんって、怖いね」
「ホンマは、メッチャ優しいねんで」
「あいぼん、保田さんのこと好き?」
「うん。メッチャ好き。加護にとっては、市井さんも後藤さんも保田さんも、お姉ちゃんみたいやねん」
「辻も飯田さんのこと、お姉ちゃんみたいに思ってる」
「中澤さんは、先生みたいやな」
「怒ったら、怖いけどねー」
と、2人は顔を見合わせてクスクスと笑った。
「ウチな、ゼティマに入るまでずっと施設で1人で暮らしててん」
「そうなんだ」
「お父さんもお母さんもおったんやけど、どっか行ってもうてん」
「そうなんだぁ……」
「6才の誕生日になぁ」
と、加護は視線を車の外へ向けた。
「お父さんもお母さんもなー、ウチの力、気味悪がってたから……」
「――」
加護は昔を思い出していた。
2年前――、ゼティマに入る前のことである。
加護の力は、誕生の瞬間に放たれていた。
産道から出てきた加護を取り出した医師が、その頬に1ミリにも満たない傷を負った。
だが、その時は誰も気がつかなかった。
医師は頬に軽い痛みを感じただけで、
それが生まれたばかりの加護が発している異能の力によるものだとは今も思っていないことだろう。
家の中に置いてある物が、よく壊れるようになった。
まず一番最初に気づいたのは、加護の母親だった。
ただ壊れるという表現にまでは達せず、どちらかと言えば”切れている”というのが正しい。
ガラス窓や壁に走る無数の引っかき傷のような跡――。
娘のために用意したぬいぐるみの腕が千切れる――。
部屋の中に干していた洗濯物が切れる――等の現象が続いた。
最初はあまり気にしていなかった母親だが、あるとき旦那の帰りを待ちながら何となく見ていたテレビ番組が、
このような不可思議な現象について述べていた。
家の中から小さく弾けるような音が聞こえたり、物が勝手に動いたり、
勝手に壊れたりするような事を”ポルター・ガイスト”現象と呼び、それは幽霊の仕業であると述べていた。
恐ろしくなった母親は、旦那が帰ってくるとすぐにこれまで自分だけが奇妙に感じていたことを喋った。
しかし、旦那は一生にふすだけでまともに取り合おうとはしなかった。
気づかなければいい事。
気づいても気にしなければいい事というのは多々ある。
しかし、母親は無関心を装う事もできなくなった。
加護が4才の時、母親は昼寝をしている幼い加護を残して近所のスーパーに買い物に行った。
歩いて1〜2分の距離であり、買う物も決まっている。10分もあれば帰ってこれるはずであった。
しかし、近所の知り合いにつかまり、予想以上の時間を世間話に費やしてしまった。
50分後、やっとアパートにたどりついた母親が見た光景。
家の中は荒れ果てていた。
あらゆる物の面という面に、これまで以上の深くて鋭い傷が無数についている。
空中を漂っているのは、カーペットなのだろうかそれとも布団なのだろうか、細切れになった繊維が漂っていた。
目覚めた時、母親が側にいなくて心細かったのだろう。加護はその部屋の中でわんわんと母の名前を呼びながら泣いていた。
だが、母親は駆けよってあやす事ができなかった。
――加護が母親の名前を呼ぶたびに、部屋の中に風が走り、物に亀裂が走っていたからであった。
母親はその日の夜に旦那に相談したが、またも一笑にふされただけであった。
「育児で疲れてんだよ。明日、俺休みだから亜依の面倒見ててやるよ。たまには、友達と遊んでくるとかすれば」
と、晩酌のビールを飲みながらTVのバラエティ番組を見ていた。
だが、旦那は加護と過ごすその1日で妻の言葉を信じた。
加護をおもちゃで遊ばせている間、旦那は昼間からビールを飲みながらTVを見ていた。
そして、フッと何気なく隣の部屋にいる加護に目を向けた時、異様な光景を目撃した。
テディ・ベアのぬいぐるみが、まるでダンスをしているように空中をフラフラと漂っていたのである。
しかもそれは、娘の視線に操られているかのように――。
「幼稚園も行った事ないねん。ののは、行った事ある?」
車の窓外を見ながら、そうつぶやく加護。
「うん。あるよ。でも、覚えてない」
と、テヘテヘと照れたように笑った。”覚えてない”と言ったのは、希美のちょっとした優しさからであった――。
加護の持っている不気味な超能力に気づいた両親は、途方にくれた。
どこの誰に相談をすればいいのか?
まだ若い両親には思いつかなかった。
まるで厄介者を追い払うかのように、6歳の誕生日を迎えたその日に加護を児童養護施設に預けた。
11歳になり、<Zetima>のスカウトマンが現われるまで、加護は養護施設を点々とした。行く先々でトラブルを起こしていたからだった。
ある時は無意識にふとした瞬間に力が放たれ、ある時は意図的に物を破壊したり人を傷つけたり――。
そのたびに、施設の子供や職員は未知なる力に怯え、そして加護もまた自己嫌悪に陥り孤独感を感じた。
「だんだんなぁ、力を使う事がなんで悪いねんやろうって思い始めた」
その当時の加護は、孤独感を自分を特別な存在と思い込む事で癒そうとしていた。
「――」
「けどなぁ、そんな時に市井さんと後藤さんと保田さんが、ウチを迎えに来てくれた……」
とある養護施設の前で、加護はその力を使って自分に因縁をつけてきた同じ施設の上級生を、
まるで弄ぶかのようにその皮膚を数ミリ単位で切り刻んでいた。
泣いて謝る上級生を見ながら、加護はほんの少し笑っていた。
けっきょく、強い者が勝ち弱い者が負ける。弱い者は強い者に怯え、強い者は優越感に浸ってればいい――。
加護に、そんな感情が芽生えていた。
『いい加減、その辺にしとけば?』
間延びしたその声が聞こえた時、加護はフッと我にかえった。
目の前にもう泣く力すらも残っていない、血まみれの上級生が転がっていた。
加護はしばらく、呆然とその上級生を見下ろしていた。ここまでするつもりはなかったのである。
それが気がつけば……。加護の中でまた自己嫌悪感が沸き上がってきたが、すぐに頭を振って打ち消した。
強い者が1番――呪文のように心の中で繰り返していた。
『あんたは、まだまだ強くなるよ』
加護の視界に、ショートカットの少女が現われた。その少女は、傷つきぐったりとしている上級生の前にしゃがみ込んだ。
加護は一瞬、何が起こっているのか理解できなかった。
少女が手をかざした次の瞬間には、上級生の身体にあった数百の細かい傷がすべて消えてなくなった。
『でも、この社会じゃ、強い者は苦労するだけだ……』
少女が逃げ出す上級生の背を見送りながら、ポツリと悲しそうにつぶやいた。
『加護さん、私たちと一緒に来ない?』
振りかえると、退屈そうに欠伸をしている少女と、眼光の鋭い女性が立っていた。
『その力を恐れる事のない、夢の街を私たちと作らない?』
”力を恐れる事のない街……”、加護はぼんやりと心の中で繰り返していた。
はたして、そこには自分を捨てた両親はいるのだろうか――。
そこでなら、一緒に普通に暮らす事ができるのか――。
加護は、5年間1度も会っていない両親との再会を夢見て、その日、施設から姿を消した。
「最初はなぁ、お父さんとお母さんに会いたいから、ゼティマで働いてたんやけどなぁ、
だんだんとなぁ、みんなと一緒におる方が楽しくなってん」
窓の外を見ていた加護が、急にハッとしてその身体を窓へと近づけた。
「市井さんたち、帰ってきた?」
希美の問いかけなどまるで聞こえていないかのように、加護は窓外を見つづけた。
「ウチなぁ、みんなと一緒におる方が楽しいねんで」
車内に流れていたしばらくの沈黙を破ったのは、依然として窓の外を見つづけている加護だった。
「よかったねー」
希美は、白い八重歯を覗かせて明るく振る舞った。
「ウチは、メッチャ幸せ者やねんでー」
「ねー」
「ののとも、会えたしなー」
「なー」
「もう……、お父さんも……、お母さんも……、いらんねん……」
窓の外を見る加護の声が、震えている。
「あいぼん……?」
希美は窓の外に視線を向けた。
加護の見つめる先には、ある一組の夫婦がいた。幼い子供を抱いて、
夫婦は談笑しながらショッピングセンターへと歩いて行っている。
「もう、ウチ、子供ちゃうねん……」
加護はうつむいて、ポロポロと涙をこぼした。ひざの上でぎゅっと握られたこぶしの上に、その涙が落ちる。
「あいちゃん……」
「弟かなぁ……、妹かなぁ……」
希美はまた窓の外に視線を向けた、しかし、涙で滲んで何も見えなかった。
先ほど歩いて行った夫婦は、加護の両親だった。
ここに移り住んでいるのか、それとも他の町からやってきたのか希美にはわからない。
ただ、ほんの少し時間を戻って残酷な光景から、加護の目をそらさせてあげたいと思った。
保田と市井と後藤が、買い物を終えて戻ってきた時、加護と希美が泣きながら飛びついてきた。
買い物袋を両手にさげて、3人は何があったのか分からず戸惑った。
――しかし、しばらくして市井にはその原因がわかった。
市井は、買い物袋を下ろすと、二人の頭をクシャクシャと撫でた。
「あんたたちの家族は、ここと旅館で待ってるみんなだよ」
加護と希美は、その言葉を聞いてより一層大きな声をあげて泣いた。
後藤と保田は、顔を見合わせてきょとんとしていた――。
Short Story <後藤真希>
いつ頃からこの力が使えていたのか、後藤にハッキリとした事はわからなかった。
一番古い記憶は、昔、同じ幼稚園に通っていた”吉澤ひとみ”という女の子の前で園児3人に向かって力を放ったことである。
しかし、それは記憶に残っているだけで、本当はもっと前から使っていたのだろう、
なぜなら古い記憶の中にある家族の顔を思い浮かべると、動揺した顔しか思い出されないからである――。
ただ、その両親の顔というのももうぼんやりとしたものに変わっている。
それが両親だという認識している意識と、怖がっていたという言葉に近い記憶しかない。
”吉澤ひとみ”のことは、ずっと記憶の新しい層に記憶されていた。たぶん、初恋の相手だったからだろう。
幼稚園に通っていた頃、しばらく”吉澤ひとみ”を男の子だと信じ込んでいた。
ボーイッシュな雰囲気はその頃からあったし、幼い後藤には男と女の区別もついていなかった。
ただ、自分を守ってくれる強い”吉澤ひとみ”が”好き”だった。自分をよく苛める健太やその仲間は、男の子ではあったが”嫌い”だった。
好きな”吉澤ひとみ”が泣きそうになったのを見て、幼い後藤の中に激しい殺意が芽生えた。
その後の事はよく覚えていない。
気がつけば、目の前は血の海で異臭が漂っており、気を失った”吉澤ひとみ”がそこに倒れていた。
怖くなった後藤は、その場を走り去った。それから後の事も、あまり記憶になかった。
後藤の記憶の中に自分が現われるのは、11才の時である。
いつの間にか、家族はいなくなった。引越しもしていた。
児童養護施設のような場所で、年老いた無口な男性と一緒に暮らしていた。
何をするにものっさりとした動作で、後藤の食事などを用意してくれた。
後藤の記憶の中には、小学校に通った記憶はなかった。
ただ、その施設の中にある薄暗い部屋の中でその老人に読み書きや計算を習い、
日がな一日中何をするでもなくぼんやりと過ごしていたような記憶しかない。
周りで遊ぶ子供たちの声が毎日のように聞こえ、自分も一緒に遊んでみたいと、
こっそりと老人の目を盗んでその部屋から出たことも度々ある。
だが、その度に外でトラブルを起こした。仲間に入りたいがために、自分の力を周りの子供たちに見せたりもした。
だが結果的にそれが、後藤をどんどんと孤立していった。
ある時、老人と食事をしながら後藤はその不満を老人にぶちまけた。
どうして自分だけが他の子と違うのか、どうして自分だけがこんなところに閉じ込められなければいけないのか、
どうして両親はいなくなりこんな所に自分はいるのか――。
その時、後藤は簡単な答えを見つけた。
目の前で、ただの肉片と成り果てた老人。その向こうの壁に開いた大穴。
この力を使えば、怖いものなんかない――、後藤はそんな答えを見出し、その日の内に施設を脱走した。
しばらくは自由を満喫した。
住む場所は人目につかない場所であればどこでもよかったし、
欲しい物があればその店を破壊してゆっくりと持ち去ればよいだけであった。
しかし、その自由も唐突に終わりを告げる。
とある洋服店での事だった。
後藤は閉店間際のこの店の前を通りかかった時、自分の服が汚れているのに気づいた。
たまたま、ショーウィンドーの中にカワイイ洋服を見つけた。
ほんの少しサイズが大きいようだったが、後藤はどうしてもそれが欲しくなり、店の中へと入っていった。
大通りに面した店だったので、さすがに店の前で力を放つ事は避けたかった。
2名の女店員は、後藤が放った力に腰を抜かせて店を這うようにして出ていった。
後藤はゆっくりとその店の中にある洋服を品定めしていた。
放った力により、電気系統をショートさせてしまったので店の中は薄暗かったが、
それでも表の通りからさし込む明かりでなんとか服のサイズや色やデザインは認識できた。
――後藤は、とっさにその身をワゴンの下に隠した。
突然、店の中に人の声が響き渡ったからである。
ただし、人の声に驚いただけではなかった、その声を発する人物たちから異様な雰囲気を感じとったからであった。
「あら? どこにもいない。おーい、後藤真希ちゃん隠れてないで出てきてよ」
その声を聞いた時、後藤は何で自分の名前を知っているんだろうとぼんやりと考えていた。
ひょっとしたら、施設から誰か迎えに来たのかもしれないと考えた。
「施設じゃないけど、あなたを迎えに来たんだ」
後藤はその声を聞きながら、何で自分の考えていることがわかったんだろうとワゴンの下で身震いした。
「圭ちゃん、そっから見える?」
「ん? ちょっと待って」
もう1人いる。後藤の恐怖感は高まった。
「あ、あのワゴンの下にいるわ」
もう一人の声は、さも当たり前のように後藤の居場所を当てた。
このままでは、またどこかの施設に閉じ込められるかもしれないと怯えた後藤は、力を放つ事にしてワゴンの下から這いでた。
しかし、そこにはもう声を発していた人物の一人が立っていた。
「はじめまして。後藤真希ちゃん」
後藤は力をもうすでに放っていた。その人物の足が視界に入った時には、自分の出せる力の限界を放っていた。
それなのに、その人物は涼しげな声でそう言ったのである。
「後藤は……、力が強すぎたんだね……」
その声は、少し悲しげだった。
「ねぇ、圭ちゃん。ちょっとつんくさんに連絡してくれない?」
「はぁ? なんで?」
「この子、このままじゃダメになる……、しばらくアタシの元に置いときたいんだ」
「――わかった。ちょっと待ってな」
もう一人の声が、遠く小さくなった。後藤は目線を下に向けたまま、くやし涙を流していた。
――ポタンとポタンと天上から水滴が落ちる。
その内の1つが、温泉の縁に頭を乗せてぼーっと昔を思い出していた後藤の顔に当った。
「うっ……、なんだ?」
後藤はあわてて身体を起こすと、顔についた水滴を払った。
反対側の湯船にいた市井が、目を閉じたまま苦笑した。
「ん?」
後藤はきょとんとした顔で、市井を眺めた。
「後藤、お前、かわいいなぁマジで」
「はぁ〜、なに、急に」
と、言いながらも後藤の顔はニヤけていた。
「あの頃の後藤は、ホント、ヤバかったよ」
「……昔の話じゃん。やめてよ、自分でも恥ずかしいんだから」
と、湯船の中を這いながら市井の横へとやってくる。
そして、市井のとなりで同じように縁に頭を乗せて天上を見つめた。
「なんか、つい昨日のように感じるよ」
「感じるねぇ」
「教育係やってたね」
「やってたね」
「なぁ、後藤」
「ん?」
後藤は顔を市井へと向けた。いつの間にか市井は目をあけて、天上を見つめていた。
「いつかもしも、離れ離れになっても、ちゃんとやっていくんだぞ」
「……?」
「あの頃みたいにヤケになったりしないで、自分のやるべき事はちゃんとやりなよ」
「――はい」
「ハハ。なんだよ、やけに素直じゃん」
「教育係の言葉は、ちゃんと守る」
「もう、教育係じゃないんッスけど」
「それに、後藤といちーちゃんが離れ離れになることなんてないから」
後藤の言葉に、市井はクスリと笑った。
「なんで、笑うのさー」
と、後藤は市井の身体にじゃれついた。
「やめろよ、バカ。裕ちゃんみたいな事するなよ。ハハ、やめろって。
コラ、後藤」
湯船の中でじゃれあいながら、後藤は絶対にそんな日が来るわけないと信じていた。
導かれる運命に逆らうかのように、何度も何度も祈った――。
Short Story <矢口真里>
「前任の夏先生に代わって、今日からみなさんの担任になります中澤裕子です。みなさん、よろしくお願いします」
――矢口真里が中澤裕子と出会ったのは、中学2年の秋だった。
矢口は特に、それほど驚かなかった。なぜならば、その数十分前に中澤が教壇に立っている姿を”未来視”していたからである。
教室の中はざわめいた。
とりわけ、男子生徒は若い担任の教師に喜びの声をあげていた。
矢口がひそかに想っている男子生徒も、少し照れくさそうに笑いながらも隣の友達とはしゃいでいる様子であった。
(なによ、あんなデレデレして……)
矢口は嫉妬の目を、出席をとっている中澤に向けた。
少しブラウンがかったロングヘアー、びっちりとスーツを着こなしているが、
その姿はどことなく大人の女性というよりも水商売風の女性という印象の方が強かった。
(あんな、ババァのどこがいいのよ……)
とにかく、矢口の中澤に対する第一印象はあまりよくなかった。
その日の放課後、矢口はまた”未来視”をした。
数分後か数十分後かわからないが、誰もいない校舎の片隅で中澤と2人っきりでいる自分の姿。
どうしてそこに、中澤と2人っきりでいるのか分からないが、この頃の矢口は未来は確実であるということを認識していた。
考えようと考えまいと、中澤と2人っきりになるのである。と、どこか冷めた感じで、人気の少なくなった校舎をくつ箱へと歩いていった。
『あ、矢口さん』
大人の声で呼びとめられた時、”ほらね”と矢口は心の中で呟いた。振りかえらなくても、それが中澤である事はわかっていた。
しかし、無視をするわけにもいかないので、嫌々だがゆっくりと振りかえった。
プリントの束を胸に抱くようにして、中澤がすぐそこに立っていた。
窓からさし込む夕日で、そのブラウンだった髪はキラキラと光りまるで金髪のようになっていた。
矢口は、しばらくその光景に見惚れていた。純粋にそのキラキラと光っている姿が、”綺麗”だったのである。
「先生の顔に、何かついてる?」
と、中澤は少し困ったような笑みを浮かべた。
「あ、いえ……。別に……」
矢口はうつむきながら、頭の片隅でやっぱり大人の女性には敵わない早く自分も大人の女性になりたいとぼんやりと考えていた。
中澤は辺りをキョロキョロと見まわしながら、矢口を校舎の片隅に連れ出した。
その手を強く握られていたため、矢口は逃げることができなかった。
もっとも逃げる理由などなかったので、多少不気味な感じがしていたけれど、逃げ出したいという気持ちはなかった。
「……あんなぁ」
校舎の片隅に立ち、辺りを見渡した中澤が誰もいないのを確認すると、小さな声で呟いた。
そのイントネーションは、関西のものであった。
矢口が実際に関西の人と接したのはこれが初めてだったので、そのイントネーションに戸惑いを覚えた。
「未来は、どこまで見えた?」
おもむろにそう訊ねられた時、矢口は別の戸惑いを覚えた。
(なんで、アタシの力のこと知ってるの……)
矢口はこれまで自分の能力をひた隠しにして、この10年近くを過ごしてきた。
まだ物心つくかつかないかの頃は、未来を言い当てたりして皆から疎ましく思われたりしていたのだが、それももう昔の話である。
物心ついてからは、自分の能力を認識し、自分の見たことを決して人に言ってはならないと誓っていた。
幸い、矢口の能力は家族や親戚などのごく限られた人にしかバレていないはずである。
それも、本当に信じているかどうかわからない。ただの、偶然として納得している節もある。
それなのになんで?――、目の前にいる今日初めて会ったばかりの教師が知っているのか――。
「未来の映像は偶発的に、けど過去の映像はいつでも見れる。そうやろ?」
「な……、なんのことですか?」
「さぁ」
「……」
「利用価値は存分にある。誰にどう利用されるかが、問題なんやけどね」
「……言ってる意味が分かりません。もう、用がないんなら帰らせてもらいます」
矢口は、ピョコンと頭を下げるとその場を逃げるようにして去った。
走りながら後ろを振りかえろうかと思ったが、
中澤がどのような顔をして自分の事を見ているのだろうと想像すると恐ろしくて振りかえる事ができなかった。
理由はどうであれ、中澤は自分の力のことを知っている――矢口は額に汗を浮かべながら自宅まで一気に走った。
それから数週間、矢口は中澤を避けるようにして過ごした。
あの日以来、中澤からも何も言ってこないので、ひょっとしたらただ当てずっぽうに言っただけかもしれないと思いはじめていた。
1日に何度も訪れる未来の映像。
少し遅くなった学校からの帰り道、今日もまた、中澤と接触する未来がなかったのでホッとしていると、
不意に未来からの映像が飛び込んできた。
暗い道――。誰か数人の男女が闇に身を潜めている。
そして、矢口がその場所を通ると、闇の中から現れる。近くには黒い車も止まっている。抵抗する自分。
男の手を振りほどき、暗い夜道をひた走る。そこへ現われる中澤。
「この子は、あんたらには渡せへんで」
中澤は立ち並ぶ、男と女に向かってせせら笑うような声を出した。
矢口は今、自分が見た未来に立っていた。
少し離れた場所に立ち尽くしている男女は、必死な形相をしている。それとは正反対に中澤は目を閉じて涼しい顔をしている。
なぜ男女がそんなに必死な顔をしているのか、このときの矢口は何も知らなかった。
男女の放つ力が、中澤の能力によって”無効化”されている事を。
やがて男女は、額に大粒の汗を浮かべ呼吸を荒げてその場に倒れ込んだ。
きょとんとした矢口の手を引き、中澤は悠然とその場を立ち去った。
「せ、先生……」
「ん?」
矢口が声を出す事ができたのは、それから数分後の事であった。
あいかわらず手を繋いだまま、暗い夜道を歩いていた。
「あ……、さっきの……」
「ん? ああ……、ちゃんと話とかなあかんよね」
「……」
矢口は暗い夜道を歩きながら、<Zetima>という組織の存在を中澤から教えられた。
未来が見える矢口の力は、<Zetima>にとっては必要らしく、きっとこれからも同じように能力者がやってくるだろうとも忠告された。
「そんな……。じゃあ、私はこれからもずっと狙われ続けるって事なんですか?」
「まぁ、そういう事やね」
「そんな……」
と、矢口は唇をとがらせて今にも泣きそうな顔になった。悲しかったのではなく、怖くてとても心細かったのである。
そんな矢口の表情を、中澤は誰かに重ね合わせるかのようにずっと見つめていた――。
中澤が本物の教師ではないということを、本人の口から告げられたのはそれから数日後の休み時間の事であった。
その数日間は、とくに危険な目にも遭わなかったので、その告白は少し衝撃的なものであった。
「まぁ、簡単な事やねん。こんなことは」
さもなんでもないように笑う中澤に、矢口は少々不信感を抱いていた。
自分を仲間に引きこもうとする謎の組織の事も気になっているし、こうして偽の教師を演じてまでも自分の側にいる中澤の真意も気になる。
中澤があの男女の属する組織と敵対する組織の一員ならば、そんな”組織”なんかに入りたくない矢口にとっては、中澤もまた”敵”なのである。
「中澤先生も……、あたしの事、誘拐しに来たの?」
無意識に、そう訊ねていた。心のどこかでは、必死で否定してほしいと願っている自分がいる事に、矢口は自分自信で気付いていた。
「……」
中澤は、矢口を何も言わずに見つめていた。
その静寂の間。
辺りに聞こえている生徒たちの騒がしい声も、矢口の耳には入ってこなかった。
もしも、中澤がそうならばもうこうして一緒にいる事もないし、守ってもらう必要もない。
また、自分の能力を気づかれないように、静かに生活していくだけである。
ただし、それにはこの場所を離れなければいけない。中澤がどちらにせよ、もう片方の組織はあきらかに矢口を狙っているのである。
「矢口さん……」
矢口は伏し目がちにしていた視線を、中澤へと向けた。
背の小さい矢口は、自然と中澤を見上げる形になる。
互いに見詰め合ったまま、無言の時が流れた。
「あ――」
中澤の唇が、ゆっくりと開く。そこから、どんな言葉が漏れてくるのか、矢口は少し身を固くした。
「かわぁいい」
身をよじらせる中澤。
「は?」
矢口は、思わずそう口に出してしまった。
「もう、辛抱できん。真里ちゃん、かぁわいいわぁ」
と、抱きついてきて頬ずりをしてくる中澤に、矢口の思考能力は停止した。頭の中はずっと、?マークが飛び交っていた。
――矢口は隣で眠っている中澤を眺めながら、昔の事を思い出していた。けっきょく、その日、中澤は「組織とは関係あらへん」
と言ってくれたので、矢口は中澤を信じる事にしたのである。
たしかに、そのときの中澤は組織<Zetima>とは関係なかった。
スカウトという名目で学校に潜入してきてはいたが、もう<Zetima>とは見切りをつけていたのである。
その後、何度か<Zetima>のスカウトマンがやってきたが、事前に逃走した未来を見たり、
中澤に守ってもらう未来を見ていた事により、直接的な被害を受ける事はなかった。
このまま、中澤に守ってもらいながらこの場所で生活できる――そんな風に考えていたある日。
矢口は”遠くからやってくるスカウトマン3名”の未来を見た。
そして、その様子を中澤に伝えた。1人は自分と同じぐらいの年齢でセミロング。もう1人は目がつりあがっておりポニーテール。
もう1人は、ソバージュヘアーの少し年齢が上の女性。であることを、中澤に伝えたのである。
その日から、矢口と中澤の逃避行生活は始まった。
あの3人の内の1人は、矢口は知らない。でも、残りの二人はそれから数年後に出会い、そして今1つ屋根の下で暮らしているのである。
あの時、中澤が浮かべた複雑な表情を矢口は今でも覚えている。
きっと、かつての仲間たちとはどうしても戦いたくなかったのだろう。
葛藤。まさに、そんな表情をあの時の中澤はしていた。
「裕ちゃんも、いろいろ苦労してたんだね……」
矢口は軽く微笑みながら、隣で眠っている中澤の頬をツンツンと突っついた。
名前も知らない虫たちの、ジージーという鳴き声だけが響き渡る静かな旅館。
う〜んと寝返りを打つ様子を見て、矢口はクスクスと笑った。
Short Story <保田 圭>
「ったく、掃除しとけって言ってあったのに、あの2人どこ行ったんだよ」
露天風呂の周りに、落ち葉が降り積もっていたので、保田はその掃除を加護と希美に頼んであった。
しかし、数分後にその場所を保田が訪れるとすでに2人の姿はなく、竹箒が2つ虚しく転がっているだけであった。
どうせ、どこかその辺で遊んでいるんだろうと――、保田は自分の能力である”透視”を使って辺りを眺めてみた。
旅館の中。
飯田が部屋で、交信をしている。
(また、交信中かぁ……)
その隣の部屋で、後藤とひとみと梨華がトランプをして遊んでいた。
(そういや加護が、石川はトランプに真剣になるって言ってたな……)
縁側で市井が黄昏ているのは、保田も肉眼で確認できている。
(いつから、あんなに考えこむ癖がついたんだろう……。もっと、頼ってくれてもいいのに……)
土間の八畳敷きでは、矢口が中澤のセクハラ攻撃に逃げていた。
(もう、病気だね。裕ちゃんの矢口好きは――)
どうやら、旅館の中には加護も希美もいないようであった。
建物の向こう側にある大庭園にも、2人の姿はなかった。保田はそのまま視線を旅館の表へと向ける。
(いた)
加護と希美は、表に止めてあるワゴン車の中にいた。
<Zetima>に在籍していた頃、保田は加護にありとあらゆる機械に精通する知識や技術を教えてある。
あまりマジメに聞いてはいないようではあったが――。
どうせ、得意気になって希美に車の知識を披露しているのだろうと、保田は少しため息まじりで、旅館の表へと足を進めた。
自分の能力は、それほど大した物ではない。後藤や加護のように、主戦力となるなるようなものではないのはもう随分前から自覚していた。
だからこそ、自分は決して驕り高ぶることなく徹底してメンバーのサポートに周る事にした。
だが、たった1度だけ自分の能力を過信して友の命を亡くした事がある。
今からもう3年前――、まだ加護が<Zetima>に入っていない頃だった。
市井の所属するセクションには、市井・保田・後藤のほかに、PKタイプの稲葉貴子やESPタイプのRuRuなどがいた。
後藤以外は、共に森光子が設立した<Zetima>時代からの友であった。
つんくが全権を握った<Zetima>は会社組織となってしまい、その能力によりメンバーの地位が決定付けされた。
しかし、前<Zetima>時代からのメンバーは、たとえ一番歳下の市井が役職のある地位になったとしても誰も妬んだりはしなかった。
誰もが市井の力を認めていたし、それよりも早く光子やみんなの願いだった”自分の力を恐れる事のないユートピア”を作りたかったのである。
数十人いた前<Zetima>時代からのメンバーは、各部署に転属された。
皆が一丸となってユートピア作りに取り組んでいれば、その夢はもっと早くに実現するのに――保田は常日頃からそう考えていた。
だが、ユートピアの暮らしを継続させていくだけの多額の資金が必要であり、
そのためには政府からの補助金が必要で、多くの仲間たちを救うにはまずは組織としての基盤を固める事が大事だと、
つんくや市井にそう説かれれば、保田には反論する事ができなかった。
生活には金銭が必要で、多くの能力者が住める町を作るとなるとそれはごく辺り前の事であった――。
だが、どこかでそんな町などは必要ないのではないだろうかという疑問も芽生えつつあった。
長野にあった<Zetima>のように決して裕福な暮らしではなかったが、
誰もが笑顔で暮らせる――そんな小さなユートピアでもいいのではないかと――。
保田は心の片隅に疑問を抱えながらも、組織的なユートピア作りに活動していた。
ある日、受け渡された能力保持者の資料。それは、これからスカウトに向かう15才の少年のことが事細かにかかれていた。
稲葉や後藤と同じPKタイプであり、能力的には二人には随分と劣る。しかし、この少年はその力のために社会から孤立しかかっていた。
保田は稲葉とRuRuと共に、資料を受け取るとすぐにその場所へと向かった。
――港のコンテナ置き場。そこが少年の住処らしかった。
そこに到着したのが深夜という事もあり、辺りは闇に包まれ不気味な静寂が広がっていた。
「ココハ チョット ヒロスギルネ ルル ノ チカラ ミツケルコト デキナイ」
と、RuRuが触手のレーダー網を引っ込めたようである。
「ほな、圭ちゃん、頼むわ」
稲葉が辺りに鋭い目を配らせながら、そう呟いた。
資料によるとその少年は、自暴自棄となり多くの人々を殺傷していた。
このような場合、必ず市井と行動を共にする事になっていたのだが、
あいにく市井は後藤と共に別のスカウトに赴いていたため、保田の独断で今回の任務を遂行したのである。
後藤ほどの力はないものの、稲葉もPKタイプである。その触手の範囲は数メートルと狭いながらも、RuRuもESPタイプである。
遠隔透視のできる自分のサポートがあれば、必ずスカウトに成功すると保田は思っていた。
だが、実際に3人で来てみると――。不気味な不安に駆られて、市井と後藤を連れてこなかったことを後悔していた。
ごく稀に、複数の能力を併せ持つものがいる。森光子や市井がそうである。
そして、その少年もそうであった。
保田は自分の能力である”透視”で、数百メートル向こうにいる少年の姿を捉えることに成功した。
空きコンテナの中で、膝を抱いたままブルブルと震えていた。
「見つけた……」
保田たちは、その方向へとゆっくりと突き進んだ。稲葉はいつでも力を放てる状態にし、
RuRuはその触手の網を自分の伸ばせる範囲限界まで伸ばしていた。
もうすぐ、その少年のいる空きコンテナまで到着しようとしたとき、稲葉がいつものように指で保田に合図を送る。
攻撃的な能力のない保田は相手がPKタイプの場合、市井が側にいない場合、直接スカウトの現場には立ち会わないようにしている。
スカウトの際、相手が抵抗すれば保田には見を守る術がないと同時に、
足手まといにもなり兼ねないので自主的にそのようにしていたのだが、それがいつの間にか恒例となってしまっていた。
この日も、保田はそっとその場を離れてコンテナの陰で稲葉とRuRuを見守ることにした。
「!」
たしかに、少年は空きコンテナの中にいたのである。ほんの数秒、空きコンテナに向かう稲葉とRuRuに視線を向けた。
しかし、すぐに視線を空きコンテナに戻したのだが、そのたった数秒の間に少年の姿は消えていた。
(テレポテーション……!)
保田の本能は、危険のシグナルを鳴らしていた。保田はすぐさま、辺りを見まわした。
だが、どこにも少年の姿は見つからない。接近する稲葉とRuRuの気配に気づいて逃げ出したのであろうか?
それならば問題はないが、もしもどこかからか攻撃の隙を覗っているのであれば……。
保田が稲葉とRuRuを引きとめようと、コンテナから飛び出そうとした瞬間、
稲葉の首が吹き飛ぶのをコンテナ越しに見てしまった。
「……」
RuRuの叫び声が、足がすくんで呆然としている保田の耳にも届いた。
そして見た。
RuRuの身体が、鋭い見えないナイフのようなもので切り刻まれていく様を――。
少年は絶命した2人の前に、見えない空間のドアを開けてきたかのように姿を現した。
その目には、なにも感情のようなものは覗えない。ただ、地面に横たわった2人の遺体を眺めている。
「……」
保田は全身が震えて、声を出す事もできなかった。
自分の過った判断のせいで、2人の命を一瞬で終わらせてしまったのである。仲間・友・姉・家族であった2人を……。
涙は出なかった。ただ、自分の犯した過ちの大きさにより崩壊しかけている自我を、必死で保とうとしているだけであった。
――少年は保田に気づかずに、また空間の中へと消えていった。
その後の事はあまり詳しく覚えていない。
<Zetima>にどうやって戻ったのかすら、覚えていないほどである。
ただ、別のスカウトから戻っていた市井と後藤がいて、市井が自分の記憶を少しだけ修正したのは覚えている。
そして、後藤が目に涙を浮かべながらジッと唇を噛み締めて、天上を見上げている姿だけはハッキリと覚えていた。
――その後、少年は後藤の手によって命をなくした。暴走した後藤の力を、市井は止める事はなかった。
ただ黙って後藤の側にいて、少年が放つ力を無効化してやっていただけである。
保田も咎めることもなく、目をそらすこともしなかった。
もう、何かが皆の中で狂い始めたのもその頃からであった。
死んでいった仲間たちのためにも、絶対にユートピアを作らなければならない――。
その決心は、どこか強迫観念にも似ていた。
目の前の車の中で、戯れている加護と希美。
保田は門の手前から、その光景を眺めていた。加護もかつては、その流れに身を投じて自分を見失っていたはずである。
しかし、こうしてその流れから外れた今は、彼女本来の性格を取り戻している。そして、それは自分にも当てはまる。
あの頃を振りかえると、何もかもが狂っていたように思う保田であった。
――結局のところ、保田は加護と希美に掃除をさせることなく、自分で露天風呂の周りに降り積もっている落ち葉を片付けた。
のんびりと時間をかけて――。
Short Story <辻 希美>
休み時間中、図書室で『世界の不思議』というタイトルの本を読んだ。
ネス湖のネッシーや、ヒマラヤの雪男や、UFOなど、そこには子供の興味をひくようなことがたくさん掲載されていた。
ちょうどその頃、学校ではちょっとしたオカルトブームが訪れていたので、希美の興味はさらにひかれていた。
ふだん、あまり本の読むことのない希美だったが図書室で借りた『世界の不思議』は1日で読みきった。
その中には、”超能力”についての記述もあった。その中でも希美が一番興味があったのが、時間移動である。
「いいなぁ」
空想好きの希美は、すぐにその世界に迷い込んだ。
――つい半年前の運動会。リレーのバトンを渡し損ねて、2位になってしまったこと。過去に戻って、ちゃんと手渡せている自分を想像した。
――去年のクリスマス。もっと別のプレゼントをサンタさんにお願いしたら良かった。
――男の子にチョコをあげてからかわれたので、あげなければよかった。
時間移動の超能力があれば、それらはすべて解決するはずである。
「いいなぁ、こんなちょーのーりょくほしいなぁ」
同じ部屋だった姉の文子は、2段ベッドの上から聞こえてくる妹の独り言に、
また始まったと軽いため息を吐きながら少女マンガを読んでいた。
――学校の帰り道、希美は奇妙な感覚にとらわれた。
身体が軽くなったような、そんな感じがしていたのである。
小さな身体にその重いランドセルを背負っていたので、そんなはずはないのではあるが、
まるで宙に浮かんでいるような感覚にとらわれた。
通行人は、見ていた。
希美の身体が数十センチ浮遊したかと思うと、スッとその空間に吸い込まれるように消えてしまったことを。
辻希美は、その世界から消えた。
消えた希美がたどりついたのは、宇宙のとある場所だった。
「――? どこ、ここ?」
自分の声なのに、そうではないような気がしていた。
周りに無限の映像から、無限の音が聞こえる。耳障りで自分の声など聞こえそうにないのに、
その声はハッキリ四方八方すべてから同時に聞こえてくる音と共にと聞こえた。
最初は、その光景に見惚れていた希美ではあったが次第に恐ろしくなり、家に戻りたいと後を振りかえった。
しかし、そこもやはり同じように無限の映像が広がっている。
”道”という概念は、その空間にはなかった。はたして、そこが”空間”なのかさえも希美にはわからなかった。
怖くなった希美は、目を閉じてがむしゃらに近くにあった映像へと飛び込んだ。
そこは夜の世界だった。
辺りには闇が広がるだけで、建物らしい建物もない。陰影を濃くしただけのドーム状の何かが遠くに点在しているだけであった。
希美がまた目を閉じると、あの無限の声が聞こえてきた。
そして目を開けると――、どうやらまた同じ場所に戻ってきたらしい。
希美は次に、”人”のいる映像を探した。
歩くという表現が正しいのかどうかはわからない、とりあえず希美はその空間を”人”のいる映像を探して歩いた。
その映像を運良く見つけることができたが、”人”のいる映像も無限に存在していた。
そこには、希美がTVや教科書で見たことのある世界も同時に存在していた。
そしてまだ見たこともない”人”のいる世界も――。
希美は自分のいた時代に近い映像を選んで、そこに飛び込んでいった。
希美の脳裏に、「タイムトラベル」という言葉がよぎったが、それについて詳しく考えている余裕もなかった。
見知らぬ土地だった。
だが、そこには”日本人”がいる。場所はわからないが、そこが日本であるという事だけは希美にもわかった。
希美は近くにあった公衆電話へと駆けよった。
見たこともないデザインだったので、一瞬、嫌な予感がしたが希美はとりあえず制服のポケットから母親が
いつも持っていなさいと持たせていたテレホンカードをとりだした。
――しかし、テレホンカードは使えなかった。ためしにランドセルの中の小銭を取りだそうとしたが、
その挿入口も見たこともない形をしていたのであきらめた。
「……」
周りをよく見渡すと、そこは日本らしいのだがどこか微妙に違和感を感じた。
公衆電話もそうだが、建物も、車も、洋服のデザインも、微妙に希美のいた世界とは違っていた。
――希美は、目を閉じてあの空間を思い浮かべた。しばらくすると、またあの無限の音が聞こえてきた。
そして、数十回同じ行為を繰り返したが、その世界はすべて希美のいた世界とは違っていた。
あの空間に戻った希美は、もう元の世界に戻ることはあきらめた。
あきらめたというよりも、これは夢の出来事なんだと思って、ただただその空間を漂っていた。
不意に誰かの声が聞こえたような気がした。先ほどから、周りに誰かがいるのには気づいていた。しかし、その姿を見ることはできない。
きっと、自分もそうなんだろうと希美はまた目を閉じた。そして、その声が聞こえてきたのである。
(あなた、そんなところで何をしてるの?)
何度目かにその声が聞こえてきた時、ひょっとして自分を呼びかけてるんじゃないかと目を開けた。
(あなた、なんで身体があるの?)
「わかんない。ここに何で来ちゃったのか、わかんない」
(……ふーん)
「帰して。ののはお家に帰りたい! 帰して!」
希美は声をあげて泣いた。果たして涙が流れているのかその空間ではわからなかったが、希美は確かに泣いていた。
(家って言われても……。わかった……。赤く光る道を通って)
「赤く光る道?」
視線の先に赤く輝く部分があった。希美はそこに近づいた。トンネルのようなものがあり、どこかに続いているようだった。
「ここで、いいの?」
しばらく待ったが、返事は返ってこなかった。だが、他に行く当てもない。希美は意を決して、そのトンネルへと飛び込んだ。
――たどりついた場所。そこには白衣を着た人物2名と、その白衣を着た人物に両脇を抱えられている髪の長い少女がいた。
白衣を着た人物2名は、突然現われた希美に呆然としている。
「テレポテーション……?」
「……つんくさんに電話だ」
「はい」
と、白衣を着た女性の1人が、道に停車させていた通りへと駆けていった。
希美は辺りを見渡した。
どうやら、そこは国会議事堂前らしい。希美にも、その建物は見覚えがあった。
――東京。そこが東京であるとわかると、希美の足は反射的に動きだした。
「ちょっと、待ちなさい」
その声が後から聞こえてきた瞬間、希美の前方にあった街路樹の太い枝が折れた。
「止まらなかったら、次、ケガするわよ」
希美の足は、そこから一歩も動けなくなった。”ちょーのーりょく”という言葉が頭の中で何度もグルグルと回っていた。
「辻は、たぶんこの世界の人間じゃないように圭織は思う」
数日後、<Zetima>の所有する病院へと運ばれる車中で飯田は、希美にそう”言った”。
「お父さんは? お母さんは? お姉ちゃんとお兄ちゃんは?」
「いるかもしれないし、いないかもしれない」
「……もう、会えないんれすか?」
「いつかまた会えるし、今も会ってるかも」
「……?」
「辻の運命は、特別。あなたは宇宙ですら把握できない。だから、とても危険」
「……?」
「辻が力を使いすぎると、世界の秩序、宇宙の秩序が乱れる。宇宙はその力を敬遠する……。
圭織は今から、無口になる。無口になって、守ってあげる。だから、辻も力を使っちゃいけない。
圭織は宇宙の秩序を正す使命を帯びている。だから、無口にならなければいけない。
そうしないと、辻が利用されて秩序が乱れる。辻は力を使わない。圭織は無口になる」
「……?」
遠い目をしてブツブツと喋る飯田に、希美はほんの少し不気味さを感じていた。
言っている意味のほとんどが分からないことでもあったが、力を使ってはいけないことだけは、なんとなくわかった。
それから3年間、飯田と希美は<Zetima>にその真の能力を隠しつづけたまま、生活を送ることとなる。
――旅館の裏山に群生しているマイタケを採りながら、希美はこれまでのことを加護に話していた。
「ほな、ののは家族の人にそれっきり会ってないん?」
「……うん」
「ふーん、そうなんや……」
2人はそこで少し気まずくなったのか、それとも互いにこれ以上は深くその話をしたくなかったのか――しばらく珍しく無言で作業していた。
「ねぇ、あいちゃん」
「ん?」
「これ、ナイショだよ」
「うーん?」
「実は、飯田さんね――」
希美が加護の耳元で、こそこそとつぶやいた。それがくすぐったいのか、加護は笑いながら身をよじらせる。
いつしか、その会話は意味をもたないようになり、いつしかそのマイタケをとるという作業も忘れられて、
2人は笑いながら互いの身体をくすぐりあっていた。
数分後――。様子を見に来た中澤に2人は怒られる。
Short Story ― ?? ―
加護亜依……。
――が、そこにいたように、彼女は記憶している。
逃げ出した。
その途中、誰かに突き飛ばされて身体が反転した。
振りかえらないようにしていたのに、その反動で自然と視線が背後の闇を捉えた。
黒と黄色で縁どりされた部屋。
扉は開いていた。
いや、開いていたというよりも切り刻まれていたが正しいのかもしれない。
扉の向こう側の、薄暗い闇――。
そこに、小さな少女の姿を見た。
薄暗闇だったのでよくは見えなかったが、小さな少女が佇んで、ぼんやりとした目で、逃げ惑う人々を見ていた。
「この子に、間違いない?」
山田彩と名乗るフリーライターが、一枚の写真を取りだした。
どこかの民宿のような前であろう。
何人かの女性が、その写真の中に笑顔で収まっている。
その中の1人の少女を、山田彩は指さしていた。
はっきりとした確証は、彼女にはなかった。はっきりと見えたわけではない。
なによりも、彼女はそこから逃げようとしていたのである。
薄暗闇の向こうにいる少女に、かまっている余裕などなかった。
だが、なんとなく記憶の片隅に山田彩の指さす少女を記憶している。
「たぶん、そう……です」とだけ、彼女は答えた。
もうすぐあれから、6ヶ月が経過する。
世界中にいた『ミュータント』も、連合軍によりほぼ全滅している。もう誰も、あの狂乱の時を語らなくなった。
今さら、いったい何の用があって訊ねてきたのか彼女にはわからない。気になった彼女は、それをそのまま山田彩に伝えた。
「まだ、すべてが終わったわけじゃないのよ」
山田彩は、手帳にペンを走らせながら微笑んだ。
いったい何が始まりで、何が終わりなのか彼女にはわからなかった。
ただなんとなく、今、彼女が手にしている写真の女性たちが、そのすべてを荷っているような感じはしていた。
”寺田生物工学総合研究所”
あの悪魔の実験室から救出してくれたのは、ここに写っている少女であり、
きっとあの研究所を破壊したのはここに写っている女性たちだと彼女は思った。
「あの……、この人たちは……」
彼女は、山田彩に写真を返すときに訊ねてみた。
山田彩は、少し困ったような顔をして微笑みながら、大事そうにバッグの中へと写真を戻した。
ちらりと見えたバッグの中には、もう一枚写真があった。ショートヘアーの愛くるしい顔をした女性の写真だった。
「この世界を救ってくれた人たちよ」
山田彩は、微笑みながらそう言ってのけた。
それからほんの少しだけ、日常的な会話を交わして2人は別れた。
山田彩は次の取材先に向かい、彼女は保養施設へと戻った。
”世界を救った”という言葉が、彼女の頭にはずっと引っかかっていた。
たしかに、異能力者48人は救われた。自分もその内の1人ではあったが”世界を救った”というのは大袈裟すぎる。
現に世界は、『ミュータント』の姿こそなくなったもののまだまだ混乱中である。
大国のロシアはほぼ壊滅した。ドイツも内紛により、国としての防衛機能は壊滅してしまった。
他の国々も、あの騒動で何かしらの損害をこうむっている。
何一つとして、世界は救われていないはずである。
そして、かつて程の非人道的な事はないにせよ、人々の中にはまだ異能力保持者への偏見が残っているのも確かである。
だからこそ、こうして彼女は政府が作った保養施設にて保護されているのである。
彼女だけではなく、全国各地から異能力保持者が集められている。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
廊下から聞こえてくるけたたましい叫び声。
まただ……、彼女はベッドのシーツを頭から被ってその叫びを遮断した。
異能力保持者が多数、施設内にいるのである。
混乱は日常茶飯事だった。誰も望んでこんな所に入っているのではない。
疎外感からくるフラストレーションは、あちこちで毎日のように爆発していた。
あの悪魔の研究所から救い出してくれたのは、本当に良かったんだろうか――彼女はシーツカバーの中で考えていた。
あのまま眠ったまま『ミュータント』になるのも、悪くないのではないか。目的もわからずただただプログラムされたように動く。
その方が幸福だったのではないかと、彼女はこの6ヶ月間ずっと思い悩んでいた。
ましてや、自分は何も能力を持っていない。
それなのに、ただ異能力保持者のリストに名前が挙がっていたというだけで、
研究所のスタッフに誘拐され、そしてその後は政府に半ば強制的に施設へと入所させられた。
何度も施設の職員に抗議した。自分は間違ってリストに名前が挙がっていただけだと。
だが、国家公務員である施設の職員は、一切を聞き入れなかった。
彼女のフラストレーションも、彼女自身の気づかないところで相当膨れ上がっていた。
――彼女は知らなかった。
――山田彩のバッグの中にあった女性が誰なのか。
そして、その女性も、彼女と同じように自分を普通の人間だと思っていた事を。