モーニング・コーヒー
東京駅のホームから、1人の少女がまだ見ぬ地へと旅立とうとしている。
少女の名前は、石川梨華――。
いろいろあって、現在住所不定のプータローである。
駅のホームに立っていた梨華をチラリとでも見た利用者は、いったい何を思っただろう?
その健康的な肌に似合わず、辺りに発する不幸なオーラ。
おまけに、彼女が両手に大事そうに抱えていたのは遺影と遺骨箱。
このまま飛び込み自殺でもするんじゃないだろうか、誰しもがハラハラしたかもしれない。
だが、少女は電車のホームに飛び込むような事もせず、黙ってうつむき加減ではあったが
無事に(?)入線した電車へと乗り込む事ができた。
――数時間後。
梨華は、とある町の駅前に立っていた。
はじめて見る町の光景は、ほんの少し梨華の心を落ちつかせた。
地方都市独特の、のんびりとしたムードが漂っているのである。
だが、そうそうのんびりと癒されているわけにもいかない。約束の時間まであと僅かしかないのである。
梨華は東京の実家を後にする際、親戚を名乗った今まで見たこともない「叔母」が教えてくれた言葉を思いだす。
『駅についたら、どのタクシーでもいいからそれに乗って”市井家まで”って言うの。
そしたら、勝手に連れてってくれるわ』タバコをふかしながら、面倒くさそうにつぶやいた梨華の知らない「叔母」。
はたして信用できるのか……。
しかし、梨華はその言葉を信じるほかなかった。もうここまで来てしまったのである。
もう、アパートは追い払われてしまっている。帰る場所などどこにもない。
今はこれから会いに行こうとしている”知らない父親”に、自分のこれからの人生を賭けるしかない。
――梨華は強く決心すると、近くに止まっていたタクシーに乗り込んだ。
タクシーの止まった場所。
市井家。
広大な敷地にそびえるその洋風のたたずまいは、あきらかに周りの家とは一線を画していた。
梨華はタクシーが家の前に止まるまで、窓の外に見えている建物は美術館か博物館の類だろうと思っていた。
「つきましたよ」
と、運転手に言われた時、梨華は思わず「え!? ここがそうなんですか!?」と訊ねてしまったほどだ。
「すごい……。私、お金持ちの娘になれるんだぁ」
市井家の重厚な門の前に立ち、家を見上げる梨華。
母親を亡くしてからまだ1ヵ月。その悲しみもまだ癒されていないはずではあったが、
一方で自分にも幸運が舞い込んだのを喜んでいた。
これまで、いわゆる中流家庭と呼ばれる水準までの生活を送っていなかったのでなおさらなのかもしれない。
梨華は肩からずり落ちかけたボストンバッグをかけ直すと、小さく咳払いをして、市井家のインターフォンを鳴らした。
しばらくすると、家政婦らしき女性がやってきて、梨華を家へと案内してくれた。
玄関を入った時、梨華はその目を疑った。今まで見たこともないような世界が、そこに広がっていたのである。
いや、見た事はあった。ただし、それはTVの中や幼い頃に母が読んで聞かしてくれた絵本の挿絵の世界でのことである。
――そこはまさに、お城の舞踏会場のようであった。
「さぁ、どうぞこちらへ」
呆然と立ち尽くしていた梨華は、家政婦の声でハッと我にかえった。
「ここが、梨華お嬢様のお部屋になります」
”梨華お嬢様”という響きに、梨華の顔は緩みっぱなしになった。
つい数十分前まで、自分はこの世で一番不幸な人間だと悲観していた。
これまでの人生も、金銭的な問題で色々と苦労してきた。
しかし、貧しいながらも母親と2人で過ごす毎日を幸福だと思っていた。
それが、突然の病で母親が他界し、その入院費用やら葬儀代やらで借金を背負うことになり、
あげくに未成年者に部屋を貸すことはできないとアパートを追い払われてしまったのだ。
”面倒を見る”と叔母を通して連絡をよこすような父親にも、あまり期待はしていなかった。
今まで1度も娘に会いに来なかったのである。
どうせ、世話になっても同じような生活水準、もしかするとそれよりもさらにひどく、
アルコール中毒でギャンブル好きで酒を飲んで暴れるような、
そんな父親がいる生活に自分は飛び込もうとしているのかもしれない――、
自分はやっぱり世界一不幸な16才なんだと、梨華は半泣きになりながら考えてたりした。
それが……、いざ実際に自分の父親を名乗った”市井”家に来てみると――。
梨華はフカフカのダブルベッドに腰を下ろしながら、自分は世界一幸運の持ち主なのかもしれないと、
その広い部屋の中をニコニコとしながら眺めていた。
ひょっとしたら、これは夢なのかもと疑ったりもしてみたが、何度頬をつねっても覚めることなく同じ光景が広がっていた――。
「ついに、私も幸せを手に入れるのよ」
梨華は部屋の中央で満面の笑みを浮かべて、少し身をくねらせてガッツポーズをした。
――残念だが、そのガッツポーズの振り上げたこぶしは、これから数分後におろさなければならないような事になる。
ふたたび、家政婦に案内されて梨華は1階にある大広間に通された。
そこにはもうすでに、初老の男性がソファに座っていて、何か書類のようなものに目を通していた。
梨華はてっきり、その初老の男性が自分の父親だと思い込み、
「あ、あの、初めましてお父さん。娘の梨華です」
と挨拶をしてしまった。
初老の男性は、ひょいと顔を上げるときょとんとした表情で、頭を下げている梨華を見つめた。
いつまでたっても何の声もかけられないので変だなぁと思いつつも、梨華は頭を下げ続けていた。
その耳に家政婦と初老の男性の笑い声が聞こえて、ようやく顔を上げる。
「いやですわ、お嬢様。あの人は旦那様じゃありませんよ」
「え!?」
「申し遅れました。梨華お嬢様。私、先代からこの市井家にお世話になっております。
執事の藤村俊二といいます。藤村とでもお呼びくださいませ」
と、執事の藤村は笑顔を浮かべて深く頭をさげた。
梨華は顔を真っ赤にしながら、「こ、こちらこそ。よろしくお願いします」とあわてて礼を返した。
どうやら、もうすぐ学校から戻ってくる三女を紹介するために、この大広間に呼ばれたらしい。
藤村の話によると梨華のまだ見ぬ父親――、市井正和は現在海外に長期出張中との事でもうしばらく会うことができないらしい。
長女の”紗耶香”もまた、海外に留学中との事だった。
まずは、これからともに生活をする三女に先を紹介しておこうという事になったのである。
どうやら、これまでは”次女”であったのだが梨華が来た事により、
”三女”になるらしい。つまり、梨華にとっては”妹”となる。
どんな妹なのか梨華は少し気になったが、藤村も仕事が残っているのだろう先ほどから書類の束と格闘している。
聞くに聞けない状況であった。
梨華は、ただひたすら緊張で身を固くして、まだ見ぬ”妹”との対面を緊張して待つこととなった。
どのくらい時間が経過しただろうか、ほんの5分ぐらいだろうか、「こちらでお待ちになっております」
と遠くで微かに家政婦の声が聞こえ、梨華の緊張は一気にピークに達した。
ドクンドクンと心臓が高鳴っているのを自分でも感じていた。
冷静になれ、冷静になれと何度も唱えているが、鼓動は高鳴るばかりである。
そして、高鳴った鼓動のまま、その”妹”と対面した。
「お帰りなさいませ、ひとみお嬢様」
藤村が立ちあがり、ゆっくりとした動作で深々と頭をさげた。
梨華は頭ではわかっていた。
立ちあがり、藤村のように深く頭を下げないまでも軽く笑顔で一礼ぐらいしなければ――と、頭ではわかっていたのだが、
ドアの前に佇む”妹”ひとみを見て頭の中は真っ白になった。
いわゆる”お嬢様な妹”を想像していた梨華だが、ドアの前に佇むその妹はボーイッシュで――。
「へぇー、アンタが私のお姉さんねぇ」
そのバカにしたような微笑と、明らかに皮肉めいたその口調。
とても意地が悪そうな”妹”であった――。
ひとみの上から下へとまるで品定めをするかのようなその冷たい目線に困り、梨華は思わずうつむいてしまった。
「色、クロっ。ハハ、今頃流行んないって」
と、ひとみは笑いながら去っていった。
「ひとみ、お嬢様……っ。まったく……。申し訳ございません、少々お口が過ぎるお嬢様でして。ハハ……」
「……」
さっきまで幸福の絶頂にいたはずなのに、はやくも転落しそうな――そんな予感がする梨華であった。
翌朝。
いったい、皆の前にどうやって顔を出せばいいのか梨華はわからなかった。
家族と言っても、昨日紹介されたばかりの妹ひとみとはあれ以来顔を合わせることもなかったし、
執事の藤村も必要最低限の会話しかしなかったし、ひとみとの対面後はすぐに部屋に戻されてしまったので
多くいるはずの家政婦たちにも紹介されないままだったのだ。
「おはようございますって、普通に入ってけばいいじゃない」
と、頭ではわかっているのだが、もしも自分の食事が用意されていなかったらとか、
もしかしたら誰一人として声をかけてくれないなかったらとか――思考はドンドンとネガティブな方向に陥ってしまい、
なかなか部屋から出られないでいる。
そこへ、助け舟が出された。
家政婦の1人が、梨華を呼びに来たのである。
梨華はホッとして、その家政婦に案内されるまま食堂へと赴いた。
ひとみはもう朝食を食べていた。
新聞のテレビ欄に目を通しながら、ゆで卵を頬張っていた。
梨華からすれば昨日の夕食もそうなのだが、この建物から想像した食生活とは違っていることが少々ショックなことであった。
もっとTVなどで見る豪勢な食事を想像していたのだが、以外と、市井家の食事は質素なのである。
昨日の夕食も、とりわけ豪勢とも呼べない普通の純和風の食べ物だった。
それでも、アパートで暮らしていた頃に比べれば雲泥の差なのだが――。
今朝の朝食は、ベーグルにシーフードサラダにゆで卵にオレンジジュースというものであった。
「これって……、ドーナツですか?」
と、梨華は用意されたベーグルを指さして家政婦に訊ねた。
長いテーブルの離れた場所にいるひとみが、プッと笑い声をあげた。
「?」
きょとんとした顔をあげてみると、家政婦も笑いを堪えているようであった。
なんで笑われているのか、梨華はわからなかった。朝からドーナツなんて、珍しいなぁと思って訊ねただけである。
「梨華お嬢様、こちらはベーグルと言いまして。ドーナツではございません」
「あぁ、これがベーグルって言うんですか」
「ご不満でしたら、お取り替えいたしますが」
「あ、いえ。あの、初めてだから食べてみたいです」
珍しげにそして楽しそうにベーグルを眺めている梨華。
家政婦は、少し困ったような顔で一礼して食堂を出て行った。
「あんたよっぽどの貧乏なんだね」
ひとみの声に、梨華は「?」と顔を上げる。
「今時、ベーグルも知らない人なんていないよ。あんた、東京にいたのにどんな生活してたの?」
梨華は、その言い方に少々ムッとした。たしかに、姉妹なのではあるが、
昨日会ったばかりで延べ時間にして1分ほどしか顔を合わせていない。
まだお互いに本当に姉妹なんだとそこまで思っていないのだから、ほんの少しぐらいは気を使ってもいいのではないか――。
”あんた”や”貧乏”等と平気で口にするひとみに梨華は少々ムッとしていた。
「だって、知らないものは知らないもの」
梨華の口調も自然と、荒くなってしまう。
「――あんた、それより学校は?」
「あんた、あんたって、呼ばないで下さい……」
「じゃあ、おねえさまぁって呼べばよろしいですか? おねえさまぁ」
からかうようにひとみは、声色をかえた。
「……学校は辞めました。だって、借金があって学費……」
「へぇー、すっげー、マジで貧乏だったんだぁ」
「――貧乏貧乏って、バカにしないでよっ」
バンッ、と音を立てて梨華は立ちあがった。
「お金持ちだから何よ。大きな家に住んでるからって何よ。それって、そんなに偉いことなの。
母子家庭でお母さん身体弱かったからすっごい貧乏だった。
でもね、でも、すっごい幸せだったんだから。あなたにバカにされる覚えなんて全然ないんだからっ」
と、梨華はひとみの目を見据えながら瞳を潤ませた。
ほんの少しは反省して欲しかった。少なからず目の前に、ひとみの言葉によって傷ついたものがいるのだから――。
しかし、ひとみの顔色は変わることなく嘲笑を浮かべている。
「梨華お嬢様の編入学手続きは、すでに済ませておいでですよ」
ひとみと梨華は、声のした方向へと視線を向けた。
ドアの前の藤村が、被っていたシルクハットをとって深々とおじぎをした。
「藤村、今、なんて言ったの?」
「ええ。ですから、梨華お嬢様の編入学手続きを済ませてあると。
――お部屋に一式を用意させておりますので、あとでゆっくりとご覧ください」
藤村にそう言われた梨華だったが、なにぶん急な事で展開を今いち理解できなかった。
「あ、あの、私、本当に学校に通えるんですか?」
「前校での成績を取り寄せて検討した結果、優秀な成績でしたので問題ないとのことです。
理事長でもある旦那様が、あらかじめそのように手配していたんですよ」
ひとみの顔が曇ったが、浮かれていた梨華はその表情の変化に気づきはしなかった。
1度はあきらめた学生生活。また、学校に通えるんだと思ったら、自然と笑みが浮かんでくる梨華であった。
「それでは、これで」
と、藤村は一礼して去っていった。去り際に軽く梨華に向かってウィンクをして見せた。
藤村が自分を助けるためにわざわざ食堂に顔を出してくれたことを察し、梨華はなんだか温かいものを感じた。
しかし、そうは上手くはいかないものであり……。
「――あんた、学校で同じ家に住んでるなんて言わないでよ。バレたら、どんなことしてでも、この家から追い出すから」
と、藤村が去った後にひとみが鋭い目をして言い放った。
食事も終わり、ひとみも去った。梨華は広い食堂で一人きりとなってしまった。
学校に通える事はわかった。しかし、そこにひとみがいると思うと自然と気分も憂鬱になった。
「……はぁ」
今日、初めてのため息が、梨華の口から漏れた。
小高い丘の上にある”私立・朝比奈学園”は、150年の伝統があり、これまでに多くの著名人を輩出したことでも有名である。
その名前は、地域のみならず全国的にも知れ渡っている。
――が、梨華は何も知らなかった。
学園の公舎内を教師に案内されながら、いかにこの学園が素晴らしいかを説かれていたのだが、
どうせひとみのような教養も富もあるが人格的に問題のある生徒ばかりなんだろうと――梨華は、あまり聞く耳を持たなかった。
ただ、教師が熱弁しているように素晴らしい”学園”であるのは間違いないと思っていた。
さすが私立であり、梨華が今まで通っていた公立の高校とは違い、オシャレな外観や内装が施されている。
歩きながら辺りをキョロキョロと見渡していると、不意にそれまで熱弁を振るっていた教師が黙りこくった。
先ほどまで聞こえていた生徒たちの笑い声も、いつの間にか聞こえなくなっている。
気になって教師を見ると、縮こまったように頭を下げている。
「?」
と、教師の前方に目をやると、ひとみが冷たい目をしたまま歩いてきていた。
廊下で談笑していた生徒たちも困ったようにうつむいていたり、そそくさと教室に戻ったりしている。
教師に頭を下げさせている人物は、ひとみ以外にはいなかった。
(なんで? 理事長の娘って、そんなに偉いの?)
ひとみに対しての嫌悪感が、梨華の中でまた一つ増えたようである。
そんな梨華の心情を知ってか知らずか、ひとみは梨華に視線を向けることなく、
まるで梨華などは見えていないかのようにその場を通りすぎていった。
(なに、あの態度……)
梨華は、少々ムッとしながら後ろを振りかえった。その様子を見た教師が、あわてて梨華の身体を向き直させる。
「い、石川さん、あなた編入したばかりで何も知らないと思いますけどね、
今、通りすぎた生徒にはぞんざいな態度で接してはいけませんよ」
「……は?」
「あの生徒のお父様は、この学園の理事でもあり、この学園の経営者でもあります。
ご機嫌を損ねるような真似をしたら――。とにかく、あまり関わらないようにした方が懸命ですわよ」
と、教師は少しバツが悪そうに眼鏡のズレを直しながら、廊下を歩いて行った。
(あの生徒のお父様って……。私、一応あの生徒の姉なんですけど……。え!? どういう事?)
自分が市井家の人間として編入学をしていないことに、梨華は気づいた。
市井家にやってきた翌日には、こうして学園の生徒としてこの場にいられるように準備しているのに、
肝心の市井家の娘として手続きがなされていないという事はどういう事なのか?――梨華には、さっぱりわからなかった。
いろいろと難しい準備があるのかもしれないと勝手に納得して、梨華は自分の不安を沈めさせた。
母親が亡くなってから生活はめまぐるしく変化している。
その変化の一つ一つに戸惑っていれば、もともとネガティブ思考に陥りやすい性格なのでキリがない。
精神的にもあまりよろしくないので、梨華はもうあまり周りの変化に関心を持たないようにした。
(ポジティブ、ポジィティブ。負けるな、梨華)
と、梨華は幼い頃からの口癖を心の中でつぶやきながら、教師の後を追った。
お金持ちの人っていうのはどうしてこうも、ちょっと気取った人が多いんだろう。
学園で数時間を過ごした梨華が、その学園生活で最初に出した疑問だった。
編入生として紹介され、少し緊張もしていたが笑顔で挨拶をすることもできた。
休み時間には勇気を奮い立たせて、自分の方から隣の席の女子生徒に積極的に話しかけたりもした。
しかし、どれもつんけんとした返事を返されてしまい、梨華は萎縮してしまうしかなかった。
4時間目が終わり昼食の時間となる頃には、梨華はもうすでに学校を辞めたい気持ちでいっぱいだった。
ともすれば、心細くて今すぐにでも泣いてしまいそうになる。
朝のポジティブ思考はもうとっくに消えていた。
そればかりか、どんどんとネガティブ思考へと傾斜している。
小学校・中学校と”浮いていた”ことを、思い出した。
何事も一生懸命に取り組んではいたが、いつもから回りして、友達から苦笑をかっていたこと――。
その”苦笑”されたことを、一つ一つ思い出しながら、梨華は学園内のカフェで1人黙々と食事をとっていた。
「テニス部の部長だって……、よく考えたら面倒なこと押しつけられてただけなんだ……」
梨華のネガティブ思考は止まることなく、ついにブツブツと独り言をつぶやく段階にまできてしまった。
「そうよね……。ラケットも買えなかったのに、部長なんておかしいもの……」
梨華は目に涙を溜めて、スプーンでカレーライスの皿をこねはじめる。
『石川さん』
「……高校はラケット持込だから、入れなかったし」
ブツブツと言っている梨華が、誰かに呼ばれていると認識するまでに少々の時間がかかった。
ハッと顔を上げると、教室で見たことのある女子生徒がトレイを持って立っていた。
「隣、いい?」
と、その少女は少しはにかんだ笑顔を浮かべてそう言った。
「あ、はい。あ、うん」
梨華はあわてて、となりの椅子をひいた。少女が椅子に座り、テーブルにトレイを置く。
トレイの上には、クロワッサンとサラダとカフェ・オレが乗っていた。
それを見た梨華は、どうして自分はカレーなんかを選んでしまったのかと後悔した。
学園内で使用するプリペードカードを事前に藤村からもらっているので、金銭的に困っているわけでもないのに、
なぜか一番安いカレーライスを選んでしまった。
今頃になって何気なく辺りを見渡してみたが、誰もカレーライスなどを選んでいる生徒はいなかった。
つくづく貧乏性の自分が嫌になったし、つくづくこの学園の校風が自分には合わないと感じた。
「石川さん、カレー好き?」
ほら、と梨華は思った。やはり、自分はどこの場所にいても浮いてしまう存在らしいとあらためて認識した。
「私も、好きなの。替えてもらおうかなー」
「……?」
少女はずっと遠くの調理場の方を、そわそわと眺めていた。
「でも、もう間に合わないか」
そう言ってクスクスと笑う少女を見て、梨華は直感的に友達になれそうな気がした。
「あ、あ、よかったら、どうぞ」
梨華は、バッとカレー皿の乗ったトレイを差しだした。勢いよく差しだしたので、カレー皿の上に置いてあったスプーンが落ち、
静かな食堂にその音が響き渡った。
梨華は知らない。顔を真っ赤にしてスプーンを拾う自分の姿を、遠くの席からひとみが眺めていることを――。
学校から戻った梨華の気分は、浮き足だっていた。
このような気分になったのは、市井家に初めてやって来て、輝かしい未来の姿を妄想して以来のことである。
学園の食堂で出会った少女の名前は、”柴田あゆみ”と言った。
実は彼女も高校からの編入学組で、校風や生徒たちとあまりソリが合っていないという事を知った。
「柴田さん……かぁ。あゆみちゃんって呼ぼうかなぁ。柴ちゃん。
あゆ……は、まだちょっと早いよね」
と、梨華はシルク地のクッションを胸に抱きニヤニヤとしていた。
『あんた、ちょっと危ないよね』
不意に声が聞こえ、梨華は思わず短い悲鳴を上げた。
ドアによりかかるようにして、ひとみが嘲笑的な笑みを浮かべて立っていた。
「きゅ、急に入ってこないでよ。びっくりするじゃない」
「――友達ができて、そんなに嬉しい?」
ひとみは、フッと小さく笑う。その態度に、梨華はカチンときた。
「嬉しいわよ。すっごいすっごい嬉しい」
「……あんたさ、ホントにアタシより年上?」
「何よ。子供っぽいって言いたいの」
ベッドに座ったままムッとして、”すっごいすっごい嬉しい”とピョンピョン跳ねている姿は誰がどう見ても子供だろう――と、
ひとみは思っていた。
今だってそうである。子供のように唇を尖らせているその顔――。
ひとみは思わず吹き出しそうになった。
「な、何がおかしいのよ。で、だいたい何の用よ?」
「――もうすぐメシだってさ」
「え? わざわざ呼びに来てくれたの?」
「は?」
「え?」
きょとーんとしている梨華の顔を見て、ひとみは笑ってしまった。
「んなのするわけないじゃん」
――梨華はただ自分を呼びに来てくれたことで、なんとなく姉妹としての繋がりのようなものが見え嬉しかっただけなのであるが……。
「ハァ……マジでおもしれー」
と、ひとみはドアの柱をバンバンと叩きながら身をよじらせた。
梨華は、なぜ自分が笑われているのかわからずに、きょとーんとしてひとみを見つめていた。
そして、ひとみもこんな風にして笑うことができるんだと、どこか頭の片隅で感心していたりもしていた――。
数日間を学園と市井家で過ごして、梨華にはわかった事がある。
1つ目。
ひとみは、家では梨華をからかいの対象としていること。
2つ目。
学校ではそんな素振りを1つも見せないどころか、無視していること。
3つ目。
”市井ひとみ”ではなく、”吉澤ひとみ”と母方の姓を今だに使っていること。
しかし、梨華と違って誰もが”市井の人間”として扱っている。
4つ目。
学園ではほとんど無表情かつ無関心を決め込んでいること。
そして、5つ目がもっとも不思議な事である。
ある日の放課後、梨華はあゆみに連れられて体育館へと赴いた。
どうせ、帰っても勉強以外は何もやる事はない。以前の生活に比べて、自分の時間というものが多く持てるようになった。
仕事に出かけている母親に代わって掃除や洗濯や炊事に追われることなく――。時間は嫌になるほど余っていた。
文武両道の”朝比奈学園”の体育館というのは、やはりそれなりの建造物であった。
中央のコートを取り囲むように、座席スペースが用意されている――
梨華は中学時代に友達のバスケの応援に訪れた代々木体育館を思い出していた。
「でも、あれほど大きくないか」
思わずポツリとつぶやいた梨華に、さきほどまでうっとりとコートを見つめていたあゆみが「ん?」と反応した。
「あ、ううん。なんでもない。それより柴田さん、バレー部に入りたいの?」
連れられてきてから約30分、あゆみは特に梨華と会話することなくうっとりとした表情で
コートで練習しているバレー部員を見つめているだけであった。
きっと、自分のようにバレー道具が買えなくて、部活に入りたくても入れないでいるのだと――
梨華は、自分の悲しい過去の姿と照らし合わせて涙を流しそうになった。
「あゆみちゃん、頑張ろう」
突然、手を握られて目をキラキラさせてうなずきかける梨華に、あゆみは何をどう頑張っていいのかさっぱりわからなかった。
それよりも、1分1秒でもコートにいる1人の部員の姿を眺めていたかった。
「……?」
梨華は自分へと向けられていたあゆみの視線がコートへと移っていくのを、不思議に感じた。
梨華は、それまでコートにあまり意識を集中させていなかった。
しかし、冷静になって辺りを見渡せば自分たちと同じように、部員でもないのに体育館に来て、
あゆみと同じようにうっとりとコートを見つめている生徒たちが多いことに気づく。
しかも高等部専用の体育館なのに、中等部の生徒たちも混ざっているようだった。
いったい何があるのだろう? バレーの練習だけで何をそんなにうっとりとする事があるのだろうかと、
梨華は彼女たちの視線が集中する場所を追った。
「あっ……」
そこには、ひとみがいた。今までまったく気が付かなかったが、ひとみがコートで練習をしていた。
ひとみのスパイクが成功するたびに、あちこちにいる女子生徒たちから歓喜の声があがる。
あの何事にも無関心なひとみがバレー部に所属しているのも知らなかったし、
これほどまでに女子生徒から人気があるなどとは思ってもいなかった。
どちらかといえば、生徒たちに疎まれているとさえ思っていたのだが、どうやら違っていたようだった。
いったい、この生意気な”妹”の何がどういいのか……。
市井家の中央階段を上がっていくひとみを、梨華は下から見上げていた。
確かにルックスは、その辺の男よりも勝っているはずである。
しかし、ひとみは女性である。今まで共学でしか学生生活を送ったことのない梨華には、女子高のノリはまったく理解できなかった。
(あの見下ろす目……。絶対、またバカにしてる。でも――、大きくて綺麗な目してるなぁ……。普通にしてたら、美人なのに)
と、梨華はぼんやりと自分を見下ろすひとみを見上げていた。
「アタシの顔になんかついてんの?」
その声に、梨華はわれに帰ってオロオロした。どうやら数十秒、ひとみのことを眺めていたらしい。
「ホント、あんたって夢見る少女だよね」
ひとみは階段の手すりに背中をあずけて、嫌味っぽく口元を歪ませた。
「べ、べつに、あなたに見惚れてたんじゃないんだから」
「誰も、アタシに見惚れてたなんて聞いてないじゃん」
「……ほ、ほくろ。ほくろ多いなぁって見てただけよ」
「……」
梨華の出した咄嗟のいいわけに、ひとみの顔が曇った。
「あ……、ごめん……」
と、反射的に謝ってしまった梨華だったが、よくよく考えればここ数日これ以上の嫌味を数十倍言われていることを思い出した。
「……お互い様じゃない」
ひとみは何も答えず、ただ黙って冷たい目で梨華を見下ろしている。
大きくて綺麗な瞳というものは、ただ普通にしている分にはいいのだが、
こうして何かの意思を持たれると非常にわかりやすいものになる。
ひとみの瞳は、あきらかに”怒っている”という意思を表していた。
「……ごめん」
少し腑に落ちない部分もあったが、梨華はその視線に耐えきれずにうつむいた。
「フフ」と、小さな笑い声が聞こえて、梨華は顔を上げた。
「あんた、やっぱり単純すぎるよ」
と、ひとみは笑いながら階段を上がっていった。
「……」
何を言っているのかを理解するまでに、少々、時間がかかった。
ひとみが笑っていたことに対してホッとしていたので、思考回路もほんの少し結論を出すのが遅れたらしい。
”からかわれていた”と、理解した時にはもうすでに、ひとみの姿はどこにもなかった。
「もう……、なに、あの子、すっごいムカツク……」
梨華は頬っぺたを膨らませながら、地団駄をふんだ。人気があるのは、あのルックスに惑わされているだけなんだ――、
梨華は早く友達の目を覚まさせなければいけないと考えはじめていた。
梨華はほぼ毎日のように、放課後の体育館に足を運んでいた。
別に本人の意思ではなかった。学園で唯一の友人、柴田あゆみに連れられての事である。
(ダメ……。柴田さんもみんなも、絶対に騙されてる)
ひとみが何か活躍するたびにわきあがる歓声を聞きながら、梨華は常にそんなことを心の中で呟いていた。
体育館からの帰りは決まって、いかにひとみのプレイがすごかったかを聞かされる。
そんな時のあゆみの目は、とてもキラキラと輝いている。まるで、異性に恋するその眼差しであった。
梨華にはまったく理解ができなかった。理解はできなかったが、
同性に憧れを抱く友人を嫌いになるという事はなかった。
学園で唯一の話の合う友達という事もあるし、なによりも女子高ではそれが辺り前のことであり、
自分だけが少し変わっているのかもしれないと思っていたからである。
梨華も頭では理解した。そのような恋愛もあっていいと――。
だが、やはり実際に自分がとなると、とてもではないが同性に恋愛感情を抱くことはできない。
学園の中には自分と同じような考えをしている生徒もいるのであろうが、
そのような生徒たちは他でちゃんと異性の恋人を作っているので、引っ込み思案の自分とは友達になれそうにない。
やはり自分は、どこか中途半端に浮きあがっていると――梨華の思考はまたもやネガティブ一直線となった。
「じゃあ、私、この辺で」
あゆみの声に、梨華はハッと我にかえった。いつの間にか、いつもの別れ道に来ていた。
「? どうかした?」
あゆみが、ボーっとしている梨華の顔を覗きこむ。
「あ、ううん。なんでもない」
「じゃあ、また明日ね」
「あ、うん。バイバイ」
去っていくあゆみの背中を、梨華はいつまでも手を振りながら見送っていた。
あゆみの背を見送りながら、今日もまたひとみの正体を伝えることができなかったと少々胸が痛んだ。
夜。
梨華は2階にあるバルコニーに出て、夜風を浴びた。
家に帰ってから、ずっと勉強をしていたので、その少しひんやりとした夜風はちょうどいい気分転換になった。
大きく伸びをしながら、いつまでここでこんな生活をしなければならないのだろうと考えた。
確かに、市井家というとても裕福な家に住めることになり、生活には何も困らない。
だが、お世辞にもこの市井家からは”家庭”という感じはしない。
ただ、住まわせて生活させてもらっているだけにしか過ぎないのである。
金銭的な面では裕福になれた。しかし、他のことでは何一つとして以前と比べて良くなったことはない。
貧しいながらも、母親がいた。
浮いていたかもしれないが、自分の好きな友が何人もいた。
ネガティブ思考だが、それでも毎日笑うことはできた。
だが、今はどうだろう――。梨華は自分が、どんどんと無表情になっていっていることに気づき始めていた。
どうにかしたいのだが、元来は引っ込み思案の性格である。
自分1人では、どうすることもできなかった。
仮に自分1人で動いたとしても、きっと周りが何も反応しないであろう。梨華の生活環境はあまりにも、反転しすぎていた。
「お母さん……、私、寂しいよ……」
梨華は夜空を見上げながら、静かに涙を流した。
本当は寂しくて涙を流したのではない。
いつか、自分もひとみや学園にいる多くの生徒たちのように何事にも無関心になるのが悲しかったのである。
梨華のホームシックは、帰る家もないので癒されそうにはない。
――ひとみは、その様子を廊下から眺めていた。
たまたま通りかかって、バルコニーに佇んでいる梨華を見つけたのである。
何やってんだろうと足を止めたら、夜空の明かりにキラキラと反射している梨華の涙に気づいた。
特に何も感じなかった。何も感じはしなかったが、ずっとその様子を廊下から眺めていた。
学園へはいつも、ほぼ同じ時間にひとみと一緒に家を出る。
だが並んで歩きはしないし、家の中から外に出るまでの間に会話もしない。ただ、同じ時間帯に家を出るだけに過ぎない。
最初の頃は、梨華も早く姉として妹として慣れるように気を使って話しかけたりもしていたのだが、
徹底的に無視をされるのでいつの間にか話かける事をやめた。
一歩、家を出ると目を合わす事さえない。
時には梨華が先を歩いたり、時にはひとみが先を歩いたりして適度な距離を保ちつつ、
まるで他人のように学園に到着するのが常であった。
「あ、あの吉澤さんっ」
この日、ひとみは梨華の数メートル前を歩いていた。
学園まであと少しという所で、店の看板の脇から中等部なのだろう一人の少女がひとみの前に現れた。
ひとみが立ち止まると、梨華もなぜか立ち止まってしまった。
少女は顔を赤くして、もじもじとしながらカバンの中から一枚の封筒を取りだした。
ラブレターだと、梨華はすぐに判断した。ただの憧れ的な存在ではなく、恋愛感情の対象としてひとみが見られている事を知り、
なんだか姉としては複雑な気分になる梨華であった。
梨華は、軽いため息を吐くとまた歩きだした。
ひとみの横を通過したと同時に、ラブレターを渡し終えた少女は気恥ずかしくてその場にいられないのだろう、
梨華の横を走り去って行ってしまった。
その少女はきっと純粋にひとみの事が好きなのだろう。そんな感じを受ける梨華であった。
――いったい、ひとみはどんな顔をしているのだろう? あの純粋な気持ちを一体どう受けとめるのか、梨華はとても気になって、
無意識に後ろを振りかえった。
「!」
振りかえった梨華が見たのは、とても冷たい目をしてたった今、渡されたばかりのラブレターをビリビリに破くひとみの姿であった。
「ちょ、ちょっと、何やってるのよ」
梨華は思わずそう呟きながら、ひとみへと足を進めた。梨華は決して同性同士の恋愛を完全に認めているわけではない。
しかし、人を愛する気持ちに男女の差はないと思っている。
たとえ、受け入れられる事ができなくとも、そこまであからさまに自分を好きな人の気持ちを踏みにじる、
ひとみのその行為はとても許されるものではなかった。
「まだ、あそこにいるのよ。もし、振りかえったら、どうするつもりよ」
梨華の視線の先には、まだ走り去っていく少女の背があった。
「まだ中学生じゃない。そんなところ見たら、ショックで」
ひとみは、まだ文句を言いたそうな梨華をジロリと一睨みすると、また何事もなかったかのように歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
駆け出して行きたい気持ちでいっぱいだったが、辺りに散乱したラブレターの破片を拾い集める事にした。
渡した本人に破られ、そしてそれを誰かに読まれたりしたら、あまりにもあの少女が可哀相だと――
梨華はそれらを必死に拾い集めた。拾い集めながら、やっぱりひとみとはソリが合わない事を確信した。
「ねぇ、石川さん」
1時間目が終わってすぐに、柴田あゆみが声をかけてきた。
「?」
次の授業の用意をしていた梨華は、自然と机の前に立っているあゆみを見上げる姿勢となった。
「今朝、吉澤さんと話してたんだって? ねぇ、何の話してたの?
吉澤さんと、知り合い? ねぇ」
誰だかは知らないが、今朝のやり取りを見ていたらしい。よりにもよって、柴田さんに教えるとは――。
梨華は憂鬱な気分で、言い訳を考えた。
「あのね、石川さん……」
「はい?」
「あぁ……、ここじゃアレだから、ちょっといい?」
辺りをソワソワと落ちつきなく、眺めているあゆみ。
梨華は何か嫌な予感がしていた。
あゆみに連れられていかれたのは、人気のない校舎脇であった。
休み時間ももう残りわずかしかないというのに、こんなところまで連れて来られるという事はよほど大事な話なんだろう――
梨華はその大事な話が”ひとみ”と関係ありませんようにと願った。
「私、吉澤さんのこと好きなんだ……」
あゆみのその言葉を聞き、梨華はため息を吐きたい気持ちでいっぱいになった。
ついに、核心を突いた話を切り出されてしまったのである。
「変かな……やっぱり」
実際にこうして顔を赤くしてもじもじとしたあゆみを目の前にすると、
とてもではないが”あの子はやめといた方がいい”とは言えない梨華であった。
「あ……、うん、どうだろう……」
梨華は身をよじらせながら、必死で次の言葉を考えていた。
もしも、もしもである。梨華の言葉によって触発されたあゆみが、一大決心なんかをしてしまったら、
今朝の中学生のように冷たくあしらわれるのは目に見えている。
そんな仕打ちを受けるのが目に見えているので、友としては言葉を選ぶ必要があった。
「入学式の時にね、中等部から彼女が代表して祝辞を述べたの。
私ね、その時に一目ぼれしちゃって……。あ、でも、最初は女の子なのにカッコいいなあの子って思っただけ。
でも、バレーしてる姿見てからは……なんか……」
「そ、そうなんだ……」
「やっぱり、変かな?」
「あ、ううん。変じゃないと思うよ。この学校って、みんなそうじゃない」
「もてるの。吉澤さんって。すごいライバル多いの。体育館もいつも凄いことになってるでしょ」
結局、梨華はあゆみの一大決心に油を注いだらしく、延々と恋のライバルの話を聞かされた。
「私、決めた。いつまでも悩んでちゃいけない。この気持ち、勇気を出して打ち明けよう。
恥ずかしいけど、頑張ってみる。だって、そうしないといつまでも苦しくて……」
「あ……、でも……」
梨華のオドオドとしたその小さな声は、授業開始のチャイムによってかき消された――。
「はぁ?」
市井家のリビング。
クラブの練習から戻ってきたひとみは、梨華の話を聞いてあからさまに嫌な顔をして見せた。
疲れて戻ってきて、いきなり「恋する気持ちに性別は関係ないの」
と説かれては不機嫌にもなるし、なによりもまだ今朝のことを言っているのかと思うと、
普段は無表情なひとみにもその心情が顔に出てしまう。
「だから、たとえ同性に告白されても」
「いい加減にしてくれないと、ぶっ飛ばすよ」
ひとみは、立ちはだかる梨華を軽く突きはなすと中央階段へと向かって歩いた。
いつもの梨華なら、それに怯んで後を追うことはしないだろう。
いや、それ以前に向こうから話しかけてこない限り、声をかけることもない。
だが、今は大事な友達が傷つけられるかどうかの瀬戸際である。簡単に引き下がるわけにはいかなかった。
ひとみの後をついて行き、初めてひとみの部屋の中に入った。
「……」
女の子らしいものを一切排除した、その殺風景な部屋に梨華は思わず息をのんでたたずんだ。
そんな梨華を無視して、ひとみは部屋の一角にあるシャワールームへと入っていった。
我にかえった梨華は、あわててその後を追う。
「ちょ、ちょっと待ってよ。まだ、話おわってないでしょ」
ドアを開けると、ちょうどひとみが制服を脱いでいるところだった。
インナーの薄いシャツは、ほんの少し汗ばんでブラジャーが透けて見えていたが、梨華は特に気にしなかった。
なぜなら、姉妹らしくないとは言え、ひとみは妹だからである。
「あんたね、こんなところまで入ってくるなんてちょっと頭いかれてんじゃないの?
だいたい、何? さっきから黙って聞いてれば、同性の恋愛がどうだとかなんだとかさ。けっきょく、何が言いたいの」
ひとみは髪をかきあげながら、鏡越しに梨華へと冷たい目を向けた。
「……だから、もうちょっと」
「――もうちょっと何」
「もうちょっと、優しくしてもいいじゃない。OKするしないは、あなたの勝手だよ。
私だって、そこまで言う権利ないし言うつもりもない。
でも、断るにしてもなんにしろ相手はすっごい勇気だしてるんだから、それなりに誠意をもって」
梨華は思わず、声を止めた。鏡越しに自分を見つめているひとみが、冷笑を浮かべているからである。
その冷笑の向こうで、自分を嘲っているのをここ数週間の生活で熟知していた。
「そんな目で見られたって、別に怖くもなんともないんだから」
ひとみは、冷笑を浮かべ髪をかきあげながら振り向いた。見る人によっては、その仕種がその冷笑がカッコイイのかもしれない。
でも、私はそうは思わない――。梨華はブツブツと心の中でひとみを否定した。
「どうせ、あんたの友達が、アタシのこと好きなんでしょ?」
「……ち、違うわよ」
「遠くから見ているだけじゃ物足りない。いっそ、打ち明けてしまおう。
それを聞かされたあんたは動揺した。友達がまた冷たくあしらわれるんじゃないかって。だから、こうして」
「ち、違う。私はただ……」
「ひょっとして、あんたって処女」
「は!?」
梨華は呆気にとられた。言葉の意味がよく分からないほど動揺した。
ふつう、姉妹でそんな会話がなされるのか? 今までずっと母親と暮していた梨華にはわからない。
「っぽいし、そうじゃないような気もする。なんか、あまりにも単純だからさ、男に簡単に騙されてそうな気がするんだよね」
「だ、騙されてなんかいないわよ」
「じゃあ、処女なんだ」
梨華は顔を真っ赤にして、うつむいた。
一体なんの会話をしているのか、なんでこんな小悪魔と2人っきりでいるのかと、この場にいる事を後悔した。
「恋だとか、愛だとか、そんなのどうでもいいよ。メンドーなだけ。
あんたの友達に言っといてよ。抱かれたいだけなら、いつでも抱いてあげるって」
ひとみはそう言って、呆然としている梨華をシャワールームの外へと追いやった。
梨華はシャワールームの前で、ぽつんと佇んでいた。
ひとみは冷めているというよりも、人格的にどこか問題があるのではないかと――、梨華は不安になった。
今まで特に姉であると自覚したことはない。ひとみだって、自分を姉だと思っていないだろう。
だが、さっきの言葉を聞いてそれではいけないのではないかと思い始めた。
姉として、人格に問題のある妹をどうにかしなければならないのではないかとマジメに考え始めた梨華であった。
『あー、梨華お嬢様、こちらにおいででしたか』
ぼんやりと振りかえると、開けっぱなしにしてあったひとみの部屋の前に藤村が立っていた。
藤村はぼんやりとした梨華を見ると、なぜかとてもバツの悪そうな顔をした。そして、不自然な笑みを浮かべた。
「もうすぐ夕食の時間ですので、ひとみお嬢様とご一緒に降りてください」
と、だけを言い残すと、そそくさとその場を立ち去った。
何か言いたげで――、でも言えなかった。梨華は藤村から、そんな印象を受けた。
その印象は、夕食中もずっと抱く事となる。そして、その印象の答えは――翌日の朝に知る事となる。
翌日の朝。
梨華は食堂で、衝撃的な事実を告げられた。
「臍帯からDNA解析をした結果、市井家のDNAとは一致しない事が判明しまして……」
藤村は目を伏し目がちにして、決定的な証拠を述べた。
梨華は驚きながらも、頭の片隅で”やっぱり”という感じもしていた。
学園で自分の素性を知らせなかったのも、この家の人間が必要以上に自分と関わろうとしなかった事も、
すべてこのような結果を想定していたのだとすると辻褄があう。
「そう……、ですか……」
梨華には、そう言うだけで精一杯だった。科学的証拠を提示されれば否定できるわけがない。
もっとも、否定したいという気持ちもなかった。
はす向いのテーブルについているひとみは、涼しい顔をしてさも自分には関係ないといった感じで朝食をとっている。
梨華は、そんな態度のひとみにほんの少しショックを受けた。
昨日、やっと”姉”のような気持ちが芽生えたというのに、その翌日にはこうである。
きっと、聡明なひとみにはこうなる事がわかっていたのであろう。
だからこそ、徹底的に他人のように接してきた。
それがわかると、梨華はなんだか無性に切なくなった。
浮かれていたのは、自分一人だけだと分かったら無性に悲しくなった。
「旦那様にご報告してご指示を仰ぐまでは、これまでのようにこらで生活して頂いて結構ですので……」
藤村の消え入りそうな声を聞き、梨華はますます切なくなった。
頭が混乱して、何をしていいのかわからない。
この後の生活のことを考えたら、梨華の頭はちょっとしたパニックを起こしかけていた。
「あ、あの、ごちそうさまでした」
梨華は、そう言い残すと素早く食堂を後にした。
藤村も朝食の用意をしていた家政婦も、とても申し訳なさそうな顔をして走り去っていく梨華の背を見送っていた。
梨華は以前のアパートから持ってきていた数少ない自分の荷物を、ボストンバッグに詰め込んでいた。
家長からの指示があるまで在留してもいいと言われても、ハイそうですかとあつかましく居残る事など梨華にはできない。
赤の他人なのである。売り言葉に買い言葉とはいえ、実子のひとみに対しては酷いことを言ったりもした。
その数十倍、嫌味の雨嵐は受けてきたが、それでも頭のどこかで”妹”という意識があったから許せてきたし、
それなりに受け流すこともできた。
だが、これからここに数日間でも居残れば”住まわせてやっているひとみ”と
”住まわせてもらっている梨華”という主従関係になってしまう。
そうなると、とてもではないがひとみの嫌味には耐えられそうにもない。
梨華は一刻も早く、この家から逃げ出したかった。
『あんたで、6人目だよ』
作業している梨華の後ろから、ひとみの声が聞こえてきた。しかし、梨華は振りかえる事もせずただ黙々と作業していた。
『ここのオヤジは、とんでもないエロオヤジだからね。あっちこっちで遊んでんだ』
ひとみも別に梨華の答えを、待ちわびている風ではなかった。
ただ、ここから去っていく他人に父親のことを聞かせたい。そんな、印象を受けた。
『優秀な遺伝子は、多ければ多いほどいい。バカな持論で自分の行動を正当化してる。
受け継がれるのは、そのバカな遺伝子だってあるのにさ』
ひとみの苦笑は、どこか切なげだった。梨華は思わず、後ろを振り向いた。
ひとみは、いつものようにドアの柱に腕を組んでもたれていた。
「別に、今すぐ出ていかなくてもいいのに」
と、ひとみはまたあの冷笑を浮かべた。ほんの少し、同情した自分がとてもバカらしくなる梨華であった。
だが、それは口にも顔にも出さなかった。
たとえ数週間とはいえ、1つ屋根の下で暮らしていたのである。
たとえ心温まるような事はなかったとはいえ、別れる最後ぐらいは口喧嘩などしたくはなかった。
黙って、また作業に戻った。
『あ、そうだ――。あんた、学校どうすんの?』
通える事ができないのはわかりきっているのに、そんな事を言うひとみに対して梨華はムッとした。
『学校っていうかさ、あんたの友達がアタシに告白するんでしょ?いいの? アタシに告白させて』
柴田あゆみの顔が、頭に浮かんだ。よくはない。
登校時に告白した中学生は、ラブレターを渡した後すぐにその場を去ったので、実際のあの現場を目撃していない。
しかし、あゆみは直接ひとみに面と向って告白しようとしているのだ。
自分とよく似た性格のあゆみが、ましてや1年間も密かに恋愛感情を抱いていたあゆみが、
ひとみの冷たい仕打ちに耐えられないのは目に見えている。
断られて、自殺でもしたらどうしよう。断られて、ヤケになって人生の坂道を転がっていったらどうしよう。等など。
梨華の思考はまたもや、ネガティブ一直線となった。
けっきょく、ひとみの策略というのだろうか、何を企んでいるのか少し不気味ではあったが、
今日だけはと梨華は学園へと向う事にした。
「おはよう、石川さん」
梨華が少しうなだれ気味に席につくと、すぐに柴田あゆみがやってきた。
「ん? どうしたの? 顔色悪いよ」
「あ、ううん。大丈夫。ちょっと寝不足で」
余計な心配をさせないように、梨華はつとめて平静を装った。
顔色もそうだが、胃の辺りもキリキリと痛みだしてきた。
ここ最近、いろいろな事が起こりすぎているせいで、胃の方もストレスによりかなり参っているらしい。
そこへきて、今朝のアレである。このままでは、胃に穴が空いてしまいそうだった。
「あのね、私、決めたの」
胃の痛む原因の一つに、友人がひとみに告白するということもある。それは、きっと彼女には伝わってないだろう。
「決めたって……?」
「もちろん。アレよ。今日の放課後、体育館の前で待つ事にした」
梨華の胃が、キュッと音を立てたようだった――。
その日の放課後までの間に、梨華は相当やつれた。これからの身の振り方を考えると、
胃は痛くなるしこみ上げてくる涙を漏らさぬよう何度も目をこすっていたので隈もできた。
そして、放課後のイベントでひとみがどのような態度に出るのかを考えると昼食も満足にとれなかった。
バレーの練習は、もうすぐ終わる。
ついさっきまで緊張と興奮とで、いつもよりテンションが高めだったあゆみもいつの間にか黙りこくっている。
かなり、緊張しているらしい。かすかに、震えていた。
「柴田さん……」
梨華は震えるその手を、ソッとにぎりしめた。
「ありがとう……。でも、大丈夫。ホント言うとね、返事は期待してないんだ」
「……?」
「だって、やっぱり……ね。いくら周りがそうだとしても、吉澤さんもそうだとは限らないから」
「じゃあ……なんで?」
「やっぱり……」
言いかけた時、体育館の扉が開きバレー部員たちがゾロゾロと出てきた。
その中に、ひとみの姿はなかった。いくらバレーが上手くても理事長の娘でも1年生である。きっと、後片付けなどをしているのだろう。
「私、どうしよう?」
梨華は、あゆみに問いかけた。いくら心配とはいえ、隣に並んで告白が終わるまで待つわけにもいかない。
本当は、告白を止めたいのだが、あゆみの並々ならぬ決意に圧されてそれも言いだせないでいる。
「ここで、待っててくれる? 私、ちょっと行ってくるから」
あゆみのことを自分とよく似た性格だろうと思っていた梨華だったが、
そう言い終わるとすぐに体育館に向って走り去っていくその後ろ姿を見て、自分とは違い行動力のある人だと感じた。
緊張の裏返しで行動へと急きたてているのはわかっているが、
自分なら逆方向に向って駈けだして――逃げ出してしまうんだろうなぁと梨華はあらためて自分のネガティブさに気付いた。
小・中・高と好きな男の子はいた。
しかし、告白などは1度もした事がない。好きな人に、断られて傷つくくらいなら、いっそずっと片思いのままで我慢する。
梨華は、そんなタイプだった――。
告白が終わるまで出口で待っているつもりの梨華だったが、やはりひとみが何をするのか心配だった。
足は自然と体育館内にあるロッカールームへと向っていた。
向かう廊下の途中で、バレー部の1年生部員らしい女子生徒の集団とすれ違う。
その中に、ひとみの姿はなかった。
と、いう事は、あゆみが告白のためにひとみを足止めさせているという事である。
どうしようか? 引き返そうかと迷っていると、ロッカールームのドアが開き、『話がないんなら、帰らせてもらいますよ』と、
ひとみが汗を拭きながら出てきた。
数メートル離れた廊下で、ウロウロしていた梨華は咄嗟に、廊下の角へと身をかくした。
『あっ、待って』
息を潜めている梨華の耳に、あゆみの声が聞こえてきた。
どうやら、いざロッカールームへと向かったもののなかなか話を切り出せなかったらしい。
ひとみの足音が聞こえない。どうやら、ひとみは立ち止まっているらしい。
『あ……、あのね……』
『なんですか?』
(告白するの知ってるのに、なんでそんなに素っ気ないのよ!)
梨華は、こぶしをぎゅっと握った。ひとみは知っているのである。
知っていて、わざと反応を楽しんでいるのである。
それは、この数週間いつもそうされてきた梨華には、すぐにわかる声のトーンであった。
もしも、このままからかうような態度で接するのであれば、友の前に出てガツンと言ってやるつもりだった。
もう、どうせこの学園には通えないし、市井家も出なければならないのだ。
梨華は、少々ヤケクソになっていた。
『あ、その……。もしよかったら・・・・・・、もしよかったらでいいんだけど、お友達になってくれませんか』
梨華は、廊下の角で少しよろめいた。
(え? 告白って、そう言う意味だったの?)
ひとみの微かな、笑い声が聞こえてきた。
(なんで笑ってるのよ! 知ってるくせに!)
『なんだ、てっきり付き合ってって言われるのかと思った』
『……』
『もしも先輩がそういう気で友達になりたいって言うのなら、失礼ですけどお断りします。私、今、付き合ってる子がいるんで』
(えっ!?)
『そ、そうなんだ……』
『ええ』
(……)
『あぁ、うん。わかった。ごめんね、引きとめたりしちゃって』
『いいえ、こっちこそすみません』
『ううん。正直に言ってもらって嬉しかった。これからも、バレー頑張ってね。応援してる』
『――』
『じゃあ』
廊下を走り去っていく足音が、静かな体育館の廊下に響き渡った。
梨華は、その場を動けないでいた。いろいろな事が、頭を駆けめぐった。
あのひとみが、誠意のようなものを込めて対応した事、
そして何よりも驚いたのがもうすでに付き合っている人がいるということであった。
その男が誰なのか、梨華にはわからない。
市井家で過ごした数週間、それらしい気配は全然なかった。
だが、今はひとみの事よりも、あっさりとふられてしまったあゆみの事が心配だった。
梨華は、ひとみのいる方向とは別の方向へと廊下を走った。バタバタとその足音が響いているのも、お構いなく廊下をひた走った。
正門を出ると、その数メートル先に歩いているあゆみの背中が見えた。
「柴田さんっ!」
周りにいる通行人などまるで見えていないかのように、梨華はあゆみを呼びとめる。
振りかえったあゆみ。梨華は、涙など流してはいないかと、とても心配だったが、
振りかえったあゆみはきょとんとして梨華を見ているだけであった。
「なんだ。もう先に帰っちゃったのかと思ってた」
やってきた息の荒い梨華に、あゆみは苦笑しながら自分の持っていたハンカチを差し出した。
「あ、ありがとう」
梨華は、受けとると額の汗を拭った。
「ひょっとして、聞いてた?」
「……ごめん。聞くつもりなかったんだけど、心配で……」
2人は、しばらく無言のまま歩いた。
いつもの別れ道に差しかかる時、不意にあゆみが口を開いた。
「なんか、スッキリしたなぁ」
夕闇に染まった空を見上げ、あゆみはすがすがしい笑顔を浮かべていた。
結果的にはあゆみの願いは叶う事はなかった。だが、今のあゆみの横顔を見ていると、負け惜しみや悲しみを偽るためでなく、
本当に心の底からそう思っている。あゆみの清々しい笑顔からは、そんな印象を受けていた――。
(もう、これで思い残す事もないなぁ……)
いつもと同じ別れの挨拶をして去っていくあゆみの後ろ姿を見送りながら、梨華も清々しい笑顔を浮かべていた。
きっと、こうして市井家への道を歩くのもこれが最後なんだろうなぁ――と、どこまでも続いていそうな長い塀を指でなぞりながら、
梨華はしみじみと帰途へとついた。
門扉まであと数メートルというところで、門の前で佇んでいる少女を見つけた。
向こうも梨華に気づいているらしい。ずっと、梨華を見つめている。誰だろうと思いつつも、梨華は門扉に向って歩き続けた。
視線を感じてはいたが、梨華は顔を上げなかった。ただ、すれ違うほんの一瞬、チラリと互いの目が合った。
ボーっとしているようなそれでいて、何か人を惹きつけるような魅力的な瞳をしていた。
こんな子がアイドルになれば、スターになるんだろうなぁと思いつつ、梨華は静かに門の横の通用口から中へと入ろうとした。
『ちょっと、待って』
(え……?)
声はその少女から発せられた。それ以外は考えられない。
梨華は、自分がなぜ呼び止められたのかを考えつつゆっくりと振りかえった。
「あなた……、誰……?」
「え?」
少女はとても不思議そうに、梨華を見つめている。
「誰って……」
「この家に、なんの用?」
少女の表情は、不審人物を見るものに変わった。梨華は何もしていないのに、その視線にたじろいだ。
その視線の向け方は、どこかひとみに似ていた。この家にはそぐわない。まるで、そう言いたげな目をしているのである――。
「あ、わかった。またかぁ――、そうかそうか」
と、1人で納得する少女。
「またか……って?」
「でもなぁ――」
と、少女はまた梨華の容姿を一瞥した。
その様子を見て梨華は思い出した。たしか、ひとみも初めて会ったときに同じ視線を向けていた。
きっと、ひとみはあの時から自分の存在を疑っていたのだろう。
そう思うと、今、目の前で同じような視線を向けている少女に対して苛立ちがわきあがる。
「あなたこそ、誰? こんなところで何してるの?」
「?」
突然口を開いた梨華に、少女はきょとんとした顔を向けた。
「何か用があるんなら、インターフォン押せばいいじゃない」
きょとんとしていた少女だったが、急に大口を開けて笑い出した。
「な、なによ……。私、何か変なこと言った?」
「別に」
と、少女は笑うのをやめて澄ました表情を浮かべた。
『ごっちん……』
学校帰りのひとみが、二人の姿――いや、梨華の前にいる後藤真希の姿を見て驚いていた。
「おー、よっすぃー、お帰りー」
と、真希は呆然と立っているひとみへと向って駆けていく。
残された梨華は、訳がわからずきょとんとしている。
(なに? よっすぃって……)
そんな呼ばれ方をしている事も意外だったし、なによりもあのひとみが戸惑いにも似た表情を浮かべているのが意外だった。
「退院したんだ」
「手術の痕、見せてあげようか?」
「いいよ」
真希は、ひとみの腕にまるで甘えた子猫のように身をすりよせている。ひとみも、苦笑しつつも真希の話を聞いている。
梨華は、そんな2人をぼんやりと眺めていた。
ひょっとして、ひとみの恋人とは真希なのではないだろうかと、ぼんやりと考えていた。
――身支度。
もう心残りなことは何もない。あるとすれば、友人に最後の別れを告げていないことだけだったが、
別れが辛くなるのでそれは胸にしまったままこの地を離れる事にした。
今朝、あらかたの用意はできていたので、身支度はものの3分ほどで終わってしまう。
友人に別れを告げる事はできなかったが、やはりいくらなんでも市井家でお世話になった人たちには
挨拶ぐらいはしておかなければならない。
ひとみには、簡単に「さよなら」とだけを告げるつもりだった。
だが、よくしてもらった藤村や何人かの家政婦にはちゃんと挨拶がしたい。
梨華は、ボストンバッグを肩にかけて母親の遺骨箱を持って、大広間へと向った。
「な!」
大広間のドアを開けると、そこにはとんでもない光景が広がっていた。
いつもそこで仕事をしている藤村の姿はなく、かわりにひとみと真希がいた。
真希は背中を向けている。
一瞬、2人はただ向かい合って座っているだけかと思った。
だが、それにしては2人の距離が近すぎる。目を凝らさずとも、2人がそこで何をしているのか判断できた。
真希がひとみに覆い被さるようにして、熱い口付けをしているのだった。
ドアの開く音に気づいたのだろう。
ひとみが真希の頭越しに、ドアの方を見た。梨華は、バッチリ目が合ってしまった。
「あ、ご、ごめん……」
と、咄嗟に謝りつつ素早くドアを閉めた。
ドアを閉めてもその場をしばらく動くことができなかった。
ひとみの言っていた”付き合っている子”が女の子であり、”キスまでしている仲”で”ひょっとしたらそれ以上も――
梨華は、顔を真っ赤にして逃げるように玄関へと向った。
心臓がかなりの早さで鼓動を響かせている。
挨拶はまた今度にしよう――呪文のように何度も呟きながら、梨華はドアノブに手をかけた。
『待ちなよ』
ひとみの声。梨華は、振りかえらなかった。そのまま、玄関を後にした。
『待ってったら』
逃げるように市井家の庭を走る梨華。しばらく走ったところで、その肩を掴まれた。
「は、離して」
「そんな格好して、どこ行くつもり」
「あ、あなたには、関係ないでしょ」
「関係あるよ。藤村の留守中に、あんたがいなくなったなんて事になったら、ブツブツ文句言われるだろ」
「離して」
梨華は、激しく肩を振ってひとみの手を振りほどいた。
「市井の人間じゃないのがわかっても、親父が帰ってくるまでこの家にいなきゃなんないんだよ」
「私には、そんな暇ないの。早く働くところ見つけなきゃ」
「そんなの藤村が見つけてくるよ。今までのやつらだって、みんなそうしてきた。
金だってもらえる。だから、親父が帰ってくるまで待ってなよ」
ひとみは、そう言って微かに微笑んだ。
ひとみとしては、ただ微笑んだだけのつもりだったが、梨華はどうやらそうは受け取らなかったらしい。
「――貧乏人だからってね、同情しないで!」
両手を下に突っぱね、アニメ声を辺りにキンキンに響き渡させた。
「誰も同情だなんて言ってないだろ」
「貧乏人、貧乏人ってバカにしてたじゃない」
「だって、貧乏人じゃん」
「くー……。もう、いいほっといて。今までどうもありがとう。藤村さんと家政婦さんにそう伝えといて」
梨華はボストンバッグを担ぎなおすと、肩を怒らせながら力強い足取りで庭園を歩いていった。
『勝手にしなよ、バカ』
梨華はひとみの声に振りかえることなく、市井家を後にした。
「呼びとめるなんて、初めてじゃない?」
真希は、見なれているはずの調度品を眺めながらそう言った。
「別に――、そんなんじゃないよ」
外から戻ってきたひとみは、憮然とした態度でソファへと腰を下ろした。床に落ちていた読みかけの雑誌を手にとる。
「ぜんぜん、似てないから違うってのはすぐわかった」
30センチ程度のブロンズ像を手にとって眺めている真希。
「あんなのと、一緒にしないでくれる?」
ひとみは、雑誌を読みながら吐き捨てるように言った。
「……よっすぃは、よっすぃだよ。いちーちゃんと、比べる必要ない」
ひとみは、何も答えずに冷ややかな笑みを浮かべて雑誌を読んでいた。
優秀な姉、紗耶香。スポーツしか取り柄のない自分。
市井家の正当な実子で、自分は愛人の娘。家の者や生徒や教師たちのあからさまな態度。比べるなという方が、どうにかしている。
――ひとみは、冷笑を浮かべながらも内心は荒んでいた。
市井家を飛び出したものの、梨華には行く当てなどどこにもなかった。
町をうろつくのも恐ろしいので、寝ずに交番のすぐ近くのベンチで一夜を明かした。
何度か、巡回のために交番を出る警察官に見つかりそうになったったが、
そのつどベンチの後ろに身を隠していたので、補導されるような事もなく無事に一夜を明かす事ができた。
「さてと……」
朝食を買ったコンビニの前で、梨華は自分に気合いを入れた。
まずは、仕事先を探さなければならない。朝昼兼用の弁当を買うついでに、アルバイト情報誌も買った。
電車賃ももったいないので、とりあえずこの地で仕事先を決めることにしたのである。
梨華はひとまず、近くにある公園へと赴いた。昨日の昼から、何も食べていない。まずは、腹ごしらえが必要だった。
――公園内には、子供連れの主婦や、仕事をサボっているサラリーマンなどでそれなりに賑わっていた。
梨華は、胸に抱えた遺骨箱の上にコンビニの袋を乗せて、辺りをキョロキョロと見まわした。
時間帯も中途半端で、公衆の面前で食事をするのがただ単純に恥ずかしく、人気のない場所を探した。
通りに面したトイレの横のベンチは、その場所柄、誰も使用している者がいない。
いくら周りに人がいないとはいえ、食事が目的なので少し躊躇した梨華ではあったが、
他の場所を探す時間がもったいないのでそこで食事をする事に決めた。
ベンチに腰を下ろし、ふぅーとため息を吐いた。若いとはいえ、一睡もせずに朝から歩き回っていたのでかなり疲れている様子である。
「……早く、ご飯食べてバイト探さなきゃ」
ポツリと呟いてコンビニの袋から弁当を取りだした。
その時、視界の隅に中年男性の姿をとらえた。スーツ姿のどこにでもいる中肉中背のサラリーマン。
梨華は特に気にもとめずに、弁当のパックのフタを開けた。
ドスンと、軽い揺れを感じた。
フッと横を見ると、先ほどこちらに向かって歩いてきていた中年のサラリーマンが隣のベンチに座って汗を拭いている。
梨華はてっきり、通りに出ていくのかと思っていた。まさか、すぐ横のベンチに座られるとは――。
一瞬、食事をするのを止めて別の場所に移動しようかとも思った。
だが、それではあきらかにあからさまであるし、早く食べなければもうすぐ昼休みの時間帯に入ってしまう。
一刻も早くバイト先を決めて安心したい梨華にとって、時間は貴重であった。
「……」
あまり気にしないように、梨華は食事をする事にした。
薄い卵焼きを少しかじって、俵がたのおにぎりを頬張る。
コンビニの弁当は久しぶりだったので、とてもおいしかった。
ましてや、ほぼ24時間ぶりの食事である。
さきほどまで、気になっていた中年サラリーマンのことなど、すっかり忘れて食事に没頭していた。
94 名前: 12 投稿日:2001年08月20日(月)01時03分12秒
缶入りのお茶を飲んでいる時に、何気なく隣のサラリーマンに目をやった。
中年サラリーマンの濁った目が、梨華の口元をとらえている。
背筋に悪寒がはしり、条件反射的に中年サラリーマンに背を向けた。
(なんなの……、気持ち悪い……)
そう言えば、食事をしている間、ずっと視線を感じていたような気もしてきた。
ずっと、見られていたのかと思うと、恥ずかしさよりも気味悪さが勝る。
梨華はすぐに、その場から立ち去ろうと残っている弁当にフタをした。
ベンチに散らばった、ソースの袋などのゴミを集めていると背後から声が聞こえた。
『こんな時間に、何をしているんだ?』
振りかえらなくとも、誰が誰に向かって喋っているのかは判断できた。
『この時間、学校じゃないのか?』
やたらと高圧的な喋りかたである。梨華の感じた、どこにでもいる気の弱そうな中年サラリーマンとは、
ずいぶんと印象のかけ離れた喋り方であった。
梨華は、もう弁当どころではなくなった。染付いた貧乏性で、残った弁当を持ち去ろうとしていたのだが、
もうそんな事はどうでもよく、ボストンバッグと遺骨箱を抱えると素早くベンチを立った。
その前に、スッと男が立ちはだかる。
「まだ、話は終わってないよ」
それでも梨華は、目を伏せがちにその男の傍らを通りすぎようとした。
「ちょっと、待ちなさい」
再び進路を妨げられた梨華は、少々ムッとしながら顔を上げた。
中年のサラリーマンは、一瞬、梨華の目にたじろいだがすぐに、余裕の笑みを浮かべた。
「どいてください。でないと、警察呼びますよ」
「君、かわいい声してるね」
中年のサラリーマンは、持っていた上着の胸ポケットをまさぐる。
そして、チラリと黒い手帳のようなものを覗かせた。
警察手帳――。
補導――。
梨華の頭に、2つの単語が素早く駆けめぐった。
「おじさんはね、警察のものなんだよ」
梨華はそのねっとりとした声に、返事を返すことなくうつむいたままだった。
もしも、補導されれば自分はいったいどうなるのだろう。もうすでに、泣きそうになっていた。
「家出かい?」
「……」
「だったら、おじさんが住むところを見つけてあげようか?」
「……」
「おじさんの言う事さえ聞いてくれれば、悪いようにはしないよ」
「……」
梨華の足はすくんでしまい、そこを動く事ができなかった。
『もう1度、警察手帳を提示してもらえませんか?』
その声は、わりとすぐ近くから聞こえた。誰の声なのかは分からない。ただ、梨華には神のような救いの声に聞こえた。
中年男の顔色があきらかに変わったのを、顔を上げた梨華は見逃さなかった。
『補導するなら最寄りの交番でこの子の身元確認をするのが、普通なんじゃないんッスか?』
いつ頃からそこにいたのだろう。
通りに設置されている自動販売機の前に、1人の女性がいた。
赤に近いブラウンの髪をした女性。近くに止めてあるバイクは、彼女のものなのだろう。
そのタンクには、大きめのタンクバッグがくくりつけられてある。
梨華には、見覚えがない女性――。
中年男は、小さく舌打ちをすると梨華の元を去っていった。
偽刑事――だった、と梨華が認識するまで少し時間がかかった。
てっきり本物の刑事で、これから補導されるものだとばかり思っていた。
「あなた、もう少し注意した方がいいね」
女性がニッコリと微笑み、優しい声でそう語りかけてくれた時、梨華の膝下は力を失った。
「だ、大丈夫!?」
自動販売機にもたれかかっていた女性は、ヘナヘナとその場に崩れ落ちる梨華を見てあわてて駆け寄ってきた。
梨華の口は、まるで金魚のようにパクパクと動く。
言葉を発したいのだが補導されそうになったことや、それが偽刑事でもう少しで変な事をされるところだったという恐怖や緊張で、
言葉の発し方を忘れてしまったようである。
「ハハ。大丈夫。もう、来ないから安心しな」
と、名前も知らない女性にその小刻みに震えている身体を、優しく抱きしめられた時、
梨華はそこが公園である事も忘れて大泣きした。
――バイクは、赤信号で停車した。
運転しているのは、先ほど梨華を助けてくれた女性。
リアシートには、梨華が乗っていた。
いくら行きがかりとはいえ、変な事になってしまったなぁと女性は腕時計に視線を向けた。
まだ泣いているのだろうか、後ろからはバイクのエンジン音に紛れて鼻をすすっている音が聞こえてくる。
「あ、あのさぁ」
「……グス。はい」
「あー、駅、もうすぐそこだけど」
「……グス。はい」
「――そこから、どこか行くあてでもあんの?」
「……」
「あー、もしあれだったらさ、ちょっと付き合ってもらいたいんだけどいいかな?」
「……グス。でも、私。グス」
「あ、うん。バイト探さなきゃなんないんだよね。それも手伝ってあげるからさ、ほんのちょっと寄り道していいかな?」
「……そんな、初めて会ったのにそこまでしてもらうなんてぇ」
と、今度はなんの涙なのだろうか? 梨華はまた、泣いてしまったようである。
女性は思わず、小さな苦笑をもらしてしまった。
容姿や声から受けた印象通りの女の子だと思うと、ついつい苦笑がもれてしまった。
女性はもう、それ以上は何も語りかけなかった。
ただ、このように涙が止まらない経験は自分にもあった。母親が亡くなった時、しばらくは涙する事ができなかったのである。
涙を流す事ができた時、今度は止める術を知らないかのように流れ続けた。
きっと、後ろで泣いている梨華も何かの理由で涙する事をずっと堪えていたのだろう。
女性は、しばらく思いっきり泣かせてあげようと何も言わずにバイクをゆっくりと走らせた。
医科大学の駐輪場にバイクを止めた時、梨華の涙もやっと止まったようである。
バイクを降りても梨華は恥ずかしくて、顔を上げることができなかった。
ほんの数十分前に初めて出会ったのに、それからずっと泣き続けていたのである。
もちろん、そんな経験は今まで1度もない。
「まぁ、あれだよ。たまにはさ、思いっきり泣くのも必要って事ッスね」
女性は優しく笑いながら、梨華の頭をクシャクシャと撫でた。
梨華はその笑顔をみて思った。ここ数日、そのような笑顔を浮かべる人に出会っていなかった事を――。
きっと、そのせいで精神的に不安定になっていたのだろう。
「あ、悪い。ちょっと、ここで待ってて」
女性は、腕時計をちらりと覗くとバイクのタンクにくくりつけてあったバッグの中から小さな箱のようなものを持ち出し、
きょとんとしている梨華を置いて大学の建物の方へと走っていった。
「名前……」
走り去っていく女性の後ろ姿を見送りながら、梨華は大事な事を聞くのを忘れていた事に気づく。
それと同時に、あんなに嬉しそうな顔をしてどこに向かっていくのかが気になって仕方がなかった――。
――十数分後、女性は戻ってきた。
先ほど手にしていた小さな箱は持っていない。
青い空を少し見上げながら、空と同じような清々しい笑顔を浮かべながら戻ってきた。
梨華はその様子に、ただただ見惚れているだけだった。
自分自身では気付いていないだろう、梨華が女性をボーっと見つめる視線は、あゆみがひとみに向けていたものに酷似している事を。
「お待たせ。行こうか」
「……は、はい」
けっきょく、梨華は女性に名前を訊ねることも忘れ、リアシートにまたがった。
先ほどまでは別に何も感じなかった女性の腰に手を回す動作に、一瞬の躊躇があった。
どうして、そうしたのか梨華にもわからなかった――。
ひとみは、頬杖をついて窓外の風景を眺めていた。
授業中はほとんどそうして、窓の外を眺めている。別段おもしろいものが見えるわけでもない。
窓外に広がる風景は、なんの変哲もないいつも登下校の際に見ている光景である。
市井家の期待に応えようと、授業中はわき目もふらずに授業に集中していた。それがいつ頃からだろう。
こうして、授業中に窓の外を見るようになったのは――。
不意に梨華の顔が、頭の中に浮かんだ。
何がきっかけで――そう。あの頃の自分と梨華を無意識に重ねてしまったせいだと、ひとみは冷静に分析した。
今頃、何をやっているんだろう?
変な大人につかまっていないだろうか?
ひとみは梨華が姉ではないという事を、真希の言う通り初めて対面した時に容姿を見てすぐにわかった。
タイプで別けるのなら梨華は、自分や姉の紗耶香とは対極に位置する容姿である。
最初から信じてはいなかった。それなのに、浮かれている梨華が滑稽でありついついからかってしまった。
「フフ。すぐムキになる性格も、違ってるなぁ……」
ひとみは苦笑しながら小さな声で呟いた。
隣の生徒が、ペンを持つ手を止めてひとみの横顔に見入っていたが、
ひとみはそれに気づくことなく梨華のことをぼんやりと考えていた。
「い、市井紗耶香さん!?」
午後のオープンカフェ。
梨華は思わず、手にしていたカップを落としそうになった。
「そう。アタシのこと、知ってるの?」
真向かいに座っている紗耶香は、首をかしげながら驚く梨華を見つめる。
「あ、あー、いえ……」
梨華は、カップをぎゅっと握りしめて紗耶香の視線から逃げるように、表の通りへと視線を向けた。
「まぁ……、この辺なら知ってても仕方ないか」
知っているも何も、つい昨日まで”市井家”に住んでいたのである。
一昨日までなら、自分の姉であったかもしれない人物。
そんな人と、なんでこうして3時のお茶を飲んでいることになっているのか、梨華は自分の運命が恐ろしくなった。
「ねぇ、石川さんはさ、どんなバイト経験あんの?」
と、紗耶香がアルバイト雑誌をパラパラとめくった。
あの市井家の長女である紗耶香が、アルバイト雑誌に目を通している姿が梨華には不思議でたまらなかった。
と、同時に気恥ずかしさがこみ上げてきた。
「紹介してあげたいんだけど、まったくの未経験の業種よりか、やっぱ経験あるバイトの方がいいでしょ?」
「あ、あの、やっぱりいいです。あ、あの、私、これで失礼します。ほ、本当にどうもありがとうございました」
梨華は急にたち上がり、店を逃げるようにして出ていった。
「え? ちょっと、石川さん」
店の前にやってきた時、梨華は自分の顔がかなり赤くなっていることに気づいた。
あの市井家の長女の背中でずっと泣き続けていたのである。
それが、もしもひとみの耳に入るようなことがあるかと思うと顔から火を吹き出しそうなほど恥ずかしくなった。
「ヤダ、どうしよう。荷物忘れてきちゃった」
かなり動揺していたのであろう。梨華は、ボストンバッグを店の中に置いて来てしまっていた。
絶対に取りに戻らなければならない。
なぜなら、あのバッグの中にはこれから暮らしていくのに必要なものがすべては入っているのである。
ダッシュで逃げ出してしまったために、もう店からは数百メートルも離れてしまっている。
どうして逃げてしまったのか、梨華は今さらのように後悔した。
肩を落としながらトボトボと、数分間かけて店へと戻る。
――店に戻っても、いったいどんな顔をして対面すればいいんだろう。逃げる理由などどこにもなかったのである。
もう、市井家とはなんの関係もない。ましてや、紗耶香は今まで海外に留学していたのである。梨華とは1度も面識はない。
市井家でも話題に上ることがあるかもしれないが、もう2度と会うこともないひとみや藤村たちである。
逃げ出さずに適当な理由をつけて切り上げればよかったと、梨華は重いため息と一緒に店のドアを開けた。
――だが、そこにはもう紗耶香の姿はなかった。
「え?」
辺りを見まわしたが、どこにもその姿はない。
座っていたテーブルへと駆け寄ったが、紗耶香の姿もなければ梨華のボストンバッグもなかった。
「お客様が出て行かれた後、すぐに店を出ていかれましたが。ええ、確かにバッグをお持ちでした」
ウェイターの証言通りだとすると、もうあれから10分近くが経過している。
梨華は、通りに出て左右を見まわした。
バイクを止めてあった場所にも行ってみたが、そこにバイクはなかった。ボストンバッグを持ったまま、移動されたのである。
移動――。
そのまま自分を探してくれていれば良いが、もしも荷物を持ったまま家に戻られたりしたら……。
また、荷物を取りにあの家を訪れなければならない。また、ひとみと顔を合わせなければならない……。梨華は、軽い目眩を覚えた。
「家に帰るまでに、見つけてもらわなきゃ……」
梨華はヨロヨロとしながらも、大通り沿いに向かって走りだした。
きっと、自分を探していてくれるはずである。
もしも、神様がいるのであればもう1度巡りあわせてくれるはず。
梨華は切実なる願いを込めながら、紗耶香の姿を探して通りを走った。
バレー部の練習が長引いてしまったために、ひとみが帰宅する時間はいつもよりかなり遅かった。
ちょっとしたいざこざを、ひとみが起こしてしまった。
それまで許していた練習の見学を、ひとみが独断で中止してしまったのである。
練習の見学は学校側が許可していた。
部活に入ろうとしている生徒のために、まずはどのような部活動が行なわれているのかを見学させているのである。
部活動を行なっている生徒たちからも、特に不満の声はなかった。
見学者がいた方が、緊張感があり練習に力が入るともてると好意的に考えている部員たちがほとんどであった――。
むろん、ひとみも特に不満はなかった。もともと、あまり他人には興味はない。
見学する生徒たちの大半が、ただのミーハー的なものだと知っていたが鬱陶しいと感じるような事はなかった。
それが急に、”鬱陶しい”と感じるようになったのである。
いつものように、練習を始めた。そして不意に、毎日のように練習を見に来ていた梨華のことを思い出した。
いつ頃から、そこにいたのかはわからない。ある日、フッと観客席を見たら梨華が友達の柴田あゆみと一緒にそこにいたのである。
ひとみも、梨華が付き合いで見学しているのはわかっていた。
さっさと帰ってくれないかなと毎回のように内心思いつつも、
家に帰ってどんな風にからかってどんな風に反応されるのかを考えて楽しみにしてたりもした。
「……」
スパイクを決めるたびに、観客席から聞こえてくる黄色い歓声。
不意にそれらが、とても耳障りなものに聞こえた。
練習をストップさせて、監督である教師に告げる。
「今すぐ、あの子たちを外に出してください。気が散って、練習に集中できません」
「は? どうしたんだ、急に」
部員たちも、観客席の生徒たちも何があったんだろうと、2人の動向に注目した。
ひとみは、教師の目を見据えた。その鋭い目に捉えられた教師は、たじろいだ。
「あ、急に、そんな事を言われてもな……。どうした? 何かあったのか?」
教師は、不自然な笑みを浮かべてひとみに言った。
ひとみは教師から目をそらして、うつむいたかのようであった。
それを見た教師は、ホッとした。理事長の娘ではあるが、
今は練習中で他の生徒たちの手前、あまりこれ以上、醜態を晒すわけにもいかなかった。
教師がホッとしたのも束の間、ひとみがキッと鋭い視線を向ける。
「うるさくて、集中できないって言ってるんですよッ」
ひとみの怒声が、静かな体育館に響き渡った。
その声により、体育館に重苦しい雰囲気が漂った。
――その後、数十分、練習は中断された。
部員総出で、見学している生徒たちを外へと追いやり、教師は事の顛末を報告しに職員室に戻った。
ひとみの逆鱗に触れ、退職・退学に追い込まれた教師や生徒も少なくはない。
皆、戦々恐々であった。久しぶりに、ピリピリとした空気が皆の間に広まった――。
練習も再開されたが、皆の空気は重苦しいものであった。
ひとみも涼しい顔をしていたが、それは肌で感じていた。だが、特に何も思う事はなかった。
いつの頃から、自分の回りではそのような空気の流れが当たり前になっていたからである――。
いつものように、家政婦の1人が玄関のドアを開けて帰宅したひとみを迎え入れる。
ひとみは、「ただいま」の挨拶もせずに憮然とした表情で中へと入った。
「ひとみお嬢さま」
家政婦は、ひとみの機嫌が悪いのを悟った。できることなら、声などはかけたくはなかったが藤村からの言いつけなので仕方がない。
できるだけ、それ以上機嫌を損なわないようにできるだけ感情を込めずに事務的な声を発した。
「紗耶香お嬢さまが戻ってまいりましたので、あとで大広間の方にお越し下さいとのことです」
家政婦は、振りかえるひとみよりも先にきびすを返すとそそくさと厨房のある方へと移動した。
「帰ってきた……」
ひとみは、誰もいなくなった広い玄関でポツリと呟いた。
大広間のドアを開けたひとみの目に入ったのは、半年ぶりに会う姉の紗耶香でもなく、
目じりを下げて紗耶香の撮った留学先の写真に見入っている藤村でもなかった。
ソファの上に、置かれているボストンバッグにひとみの興味は引きつけられた。
そのボストンバッグに、ひとみは見覚えがあった。
昨夜、梨華が肩からかけていたボストンバッグ。
それと同じものが、イギリスでも売っていたのだろうか? 一瞬、そんな風に思ったがすぐにその考えを否定した。
ベーグルも知らないような子が、イギリスのボストンバッグなど買うはずがない。
し、どうみてもこんなダサいボストンバッグがイギリスに輸出されるはずもなければ、
イギリス製のはずがあるわけないと判断したのである。
「おー、ひとみ、久しぶりー」
振りかえった姉の紗耶香を、ひとみはぼんやりと見つめた。
日本を発つまでは黒髪だったはずなのに……、そんな頭で学校に通えるんだろうかとぼんやりと考えた。
「あぁ、これ? どう、似合ってる?」
ひとみの視線に気づいた紗耶香は、照れくさそうに笑いながら自分の髪をかきあげた。
「ささ、ひとみお嬢様もこちらへ。積もる話もあるでしょう」
藤村が席を立ち、ひとみが座るスペースを作った。
だが、ひとみは一歩も動く事はなかった。
「? どうかなされましたか?」
「このバッグ、これ……姉さんのじゃないでしょ……」
”姉さん”のところを、ひとみは小さな声で濁した。
「あ、うん」
「お嬢様のお荷物は、昼に航空便で届きましたが」
「あ、これはちょっとね」
と、紗耶香は困ったようにバッグを自分の元へと引き寄せた。
「どこで会ったの」
ひとみは、紗耶香を見据えたまま言った。
「?」
「石川梨華に、どこで会ったのかって聞いてるの」
「……ひとみ、石川さんのこと知ってんの?」
「お嬢様、石川さんにお会いしたんですか?」
「え? 藤村も?」
紗耶香は何がなんだか分からないといった感じで、藤村の顔とひとみの顔を見比べた。
ボストンバッグが梨華のものだと確信したひとみは、無意識に大広間を飛び出していった。
後ろで自分の名前を呼ぶ紗耶香や藤村の声が聞こえたが、今はそれよりも――。
また、あのお人よしで気の強い単純な梨華をからかうことができるかと思うと、ひとみの足は止まることなく外へと飛び出していた。
見慣れた道にさしかかった時、梨華の足は自然と止まった。
この坂道を登れば、高級住宅街へと入る。そうすればすぐに、市井家という大邸宅が否応無しに目に入ってくる。
長いどこまでも続きそうな塀沿いに歩けば、重厚な鉄の門扉にたどり着く。
インターフォンを押せば――、この時間帯ならひとみももうとっくに帰っている頃だろう。
ひとみが対応することなど万が一にも有り得ないが、対応した家政婦が報告するかもしれない。
きっと、おもしろがって出てくるだろう。そして、散々嫌味を言われるのかと思うと、梨華の足はそこから動けなくなってしまった。
「はぁ〜、なんで交番に届けてくれないんだろう……」
あの喫茶店の近くにある交番を、一応は訊ねてみたが、該当するものは管轄内のどの交番にもないと言われた。
紛失届けを一応は提出してきたが、きっと紗耶香はあのまま荷物を持ちかえり市井家に保管してあるのだろうと梨華は推測していた。
市井紗耶香を知っている素振りをしてしまった。本人にも、この町では名前が知れ渡っている自覚はあるはずである。
きっと、家に取りに来るのを待っているはずである――。
市井家とは縁もゆかりもないのなら、簡単に取りにいく事はできただろう。
だが、梨華には簡単には取りにいけない事情があるのである。
近くにまで来たものの、そこから一歩も動ける事ができなかった。
『何やってんの? こんなところで』
背後から声が聞こえ、梨華は短い悲鳴を上げて振りかえった。
街灯の下に、後藤真希の姿があった。手に大きな紙袋を持ち、きょとんと梨華を眺めている。
「……!」
梨華は思わず、背を向けた。
「ねぇねぇ、出て行ったんじゃなかったの?」
と、真希は梨華の気持ちなどお構いなく、梨華が顔をそらす方向そらす方向へと顔を覗かせる。
「ちょ、ちょっと、もう」
と、梨華は後藤の身体を押しのけた。
「痛いなぁ、何すんのさ」
真希は笑いながら、緊張感のない声を出した。
「手切れ金ってのをもらいに来たわけ?」
「ち、違います」
「なんで? 今までの人、みんな貰ってたみたいだけど」
「知らないわよ。今までの人なんて。一緒にしないで。そ、そういうのじゃないんだから……」
「じゃあ、なんで戻ってきたの」
うつむいていた梨華の耳に入ってきた真希の今の声は、若干声のトーンが低かった。
顔を上げたが、そこにはあまり感情のこもっていない真希の顔があった。
昨日見たひとみに甘えるあの顔は、自分の見間違いだったのだろうかと思えるほど無表情な顔をしている。
「……戻ってきたくて、戻ってきたわけじゃない。だ、だいたい、なんであなたに報告しなきゃいけないの? 私もそうだけど……、
あなたもあの家とはなんの関係もないじゃない……」
そう言ってうつむく梨華とは対照的に、真希は不適な笑みを浮かべた。
何かを喋ろうとゆっくりと口を開いたその時、真希は坂道を駆け下りてくるひとみの姿を見つけ、開きかけた口を閉じた。
「アンタのバッグ、ウチにある」
坂道を駆け下りてきたひとみは、荒い息を弾ませながら、梨華へと駆けよった。
手前にいる真希の姿など、まるで目に入っていないかのように。
「……」
なんで、こんな所にひとみがいるのだろう。梨華は、荒い息を整えているひとみを見つめていた。
自分を探していたかのように、まるで自分が近くにいたのをあらかじめわかっていたかのように、自然と声をかけてきた。
すべての事情が、ばれてしまっているのを梨華は確信した。
真希は少し離れた場所に移動し、たたずむ梨華とその前で荒い息を整えているひとみの後ろ姿を眺めていた。
無表情――と、いうよりも、冷めた視線で――。
「ねぇ、バッグだけここに持ってきてくれないかな……」
門の前に立った梨華は、隣にいるひとみに懇願した。
ひとみに何かを頼むのは心苦しくもあったが、中に入って紗耶香や藤村や家政婦たちに
顔を合わせるのはそれよりも心苦しいものであった。
案の定というか、予想通りひとみは梨華の申し出を断り、さっさと門を開けて敷地内へと入っていった。
「もう……、ちょっとはこっちの気持ちも考えてよ……」
梨華は半べそをかきながらも、ひとみの後へと続いて敷地内へと入っていった。
ボストンバッグがなければ、生活ができないのである。ここまできた以上、入らざるを得なかった。
ドアを開けると、紗耶香と藤村が出迎えてくれた。
ひとみの姿は、中央階段にあった。いつかのように、手すりに背を預け、じっと玄関の梨華を見つめている。
「急にいなくなったので、心配しましたよ。さ、どうぞ」
藤村は、温かい笑顔を浮かべて梨華を中へと迎えようとした。
「あ、いえ……。ここで、結構です……」
と、梨華は伏し目がちにしてそれでも笑顔を浮かべながらやんわりと断った。
121 名前: 15 投稿日:2001年08月20日(月)01時44分23秒
「事情はすべて、藤村から聞いた。まさか――って感じで、驚いたけどね」
きっと、照れくさそうに笑っているのだろう。梨華は紗耶香の顔を見ることなく、その表情が鮮明に頭に浮かんだ。
「んーと、だから、そのアレだよ。どこにも行く当てがないんなら、しばらくここに住んだら?
どうせ、部屋はいっぱい余ってるんだし。ね」
「あ、いえ……、そういうわけにもいきませんから……。あの、そろそろ私、行かないと……。あの……、バッグ……」
「今日はもう遅いので、こちらでお泊りになってください。部屋もあのままにしておりますので」
藤村が、とても申し訳なさそうな声を発した。
「そうだよ。これから、夕食だし。一緒に、食べよう。さ、入って」
と、紗耶香は笑顔を浮かべて、梨華の手を引いた。
「こ、困ります」
梨華は、無意識的にその手を振りほどいた。
「石川さん……」
「あ、す、すみません……。あ、あの、でも、私……」
なぜか、梨華の目に涙が溢れ出してきた。梨華にもその涙の意味はわからなかった。
ただ、ここまで優しくしてくれるのに、なんで自分はこうも突っ張ってしまうのかと思ったら、情けなくて惨めで泣けてきた。
紗耶香も藤村も、言葉を失った。
だが、ひとみだけは違った。中央階段から大広間へと向かい、
ソファの上にあったボストンバッグを乱暴に掴み上げると、その足で玄関へと向かった。
そして、静かにうつむいて涙を流している梨華の腕を掴むと、強引に中へと入れた。
「ひとみ」
「ひとみお嬢様」
訳がわからずに呆然としている梨華を引っ張って、階段を上がる。
玄関の前で、紗耶香と藤村が自分たちを見ていたが、ひとみは気にもとめずに自分の部屋へと梨華を連れていった。
ドアを閉めると、ひとみは梨華を突き飛ばすように、ベッドへと押しやった。
梨華は、何が起きたのかわからずにただただ怯えた目をして、ベッドの上に倒れ込んでいた。
ひとみは、何も言わずに梨華の脇にボストンバッグを投げた。
「やめて。この中には……」
梨華はハッとして、バッグの中の遺骨箱を確かめた。中身は割れていないようである。
「あんた、本当にバカじゃないの?」
ベッド脇に来たひとみは、あきらかに梨華を見下す目線をしていた。
「……」
「人の好意は素直に受けとってりゃいいのよ」
「……」
「こんな回り道して、何か得したことがあった? 昨日と今日で、あんたに何か変わりがあった?
ていうか、昨日よりみすぼらしくなってんだけど」
と、ひとみは微苦笑を浮かべた。
梨華は、無意識にパサついた髪を撫で、目の下の隈に手をやった。
「そんなんじゃ、どこも雇ってくれないと思うけどね」
「……関係ないじゃない、そんなの」
梨華の言葉に、ひとみはピクッと反応した。微かにそらしていた視線を梨華に向けると、
梨華は唇を尖らせてひとみを見上げていた。
そう、その目――。ひとみは無性に、嬉しさのようなものがこみ上げてくるのを実感していた――。
「一日で……、たった一日で見つかるわけないじゃない。それに、今日は色々あってバイト探す時間もなかったの」
梨華は、自分をずっと見つめているひとみの視線に耐えきれず、目をそらした。
「住所不定の未青年が簡単に雇ってもらえるなんて、本当に思ってんの?」
ひとみは、軽いため息を吐きながらやれやれといった感じで近くの壁にもたれた。
「貧乏人で、世間知らずで、お人よし……、可哀相に」
「……」
ひとみは、てっきり梨華が何かを言い返してくるものだと思っていた。だが、いくら待っても梨華の声は聞こえない。
静まり返った部屋の中には、やがて梨華のすすり泣く声が聞こえてきた――。
ひとみは、その姿を見て壁から身を起こした。
出会った翌日に、目に涙をためながら言い返してきたあの時の梨華とは明らかに様子が違っていた。
うつむいてその細い身体を振るわせながら、声を漏らさないように泣いていた。弱々しいその姿――。
「な、どうしたの……。そんな、泣く事ないだろ……」
ひとみは、狼狽した。何をしていいのか、本当にわからなくなり意味もなく辺りをキョロキョロと見回した。
「ちょっと……」
「わ……、私だって……、怖いんだもん」
と、梨華は嗚咽して声をふるわせた。
「怖いって、何が?」
「いろいろよ。そんなこと言われなくてもわかってるわよ。でも、仕方ないじゃない。
働かないと生きていけないんだもん。帰る家なんてないんだもん」
梨華はまるでマンガのように、手を目もとに持っていって大声で泣いた。
「だから、ここにいなって昨日から言ってるじゃん」
「いれるわけないでしょ。私、あなたのいじめに耐えられるほど太い神経もってないのっ。
もう、ヤダ、なんで部屋に連れ込まれてまで苛められなきゃなんないのよー」
「わ、わかったよ。ごめん、謝るから」
と、ひとみは大泣きする梨華の横に腰かけて、なんとかなだめようと必死になった。
「ひとみ、あんた石川さんに何したんだよ」
ひとみが顔を上げると、紗耶香があわてて部屋の中へと駈け出してくるところだった。
「べ、別に何も……あっ」
梨華はスッと立ちあがると、紗耶香へと向かって駆けていった。
抱擁する紗耶香。その中で、泣きじゃくる梨華。
ひとみが先ほどまで梨華の肩を抱いていた左手は、中途半端に所在をなくしてしまった――。
その左手でぎゅっと握りこぶしをつくり、ひとみは唇を噛みしめ、部屋を後にする2人の背を睨みつけていた――。
鳥の鳴き声で、梨華は目を覚ました。あぁ、とうとう野宿をしてしまったんだなぁと寝ぼけた頭で考えたりもしたが、どうやら様子が違う。
フカフカのベッド、軽くそして温かい羽毛布団。
あ、そうだ……、ここは市井家なんだと理解するまでにそう時間はかからなかった。
そういえば、昨夜は泣きつかれて眠ってしまったのである。フッとどこで眠ってしまったんだろうと疑問に思った。
かつての自分の部屋だったところは、屋敷の南側にあったのでこんなにも朝日は差しこまない。
「んー?」
と、伸びをしながら寝返りをうった。すぐ目の前に、紗耶香の寝顔があり、梨華は思わず悲鳴を上げそうになった。
思い出した。
昨日の夜、ひとみの部屋から出て行った後、紗耶香の部屋でずっと泣き続けていたことを――。
(ヤダ……、どうしよう。けっきょく、泊まっちゃった……)
梨華の脳裏に、ほらみたことかと嘲笑するひとみの顔が浮かんだ。
どうして、同じ姉妹なのにこうも性格が違うのか――梨華は紗耶香の優しい寝顔を見つめ続けた。
(昨日、初めて出会ったばかりなのに……。なんで、あんなに涙が出ちゃったんだろう……)
自慢ではないが、梨華はあまり人前で涙を流すようなタイプではなかった。
辛いことがあっても、グッと我慢して後で一人でこっそりと涙するタイプだと自分では認識していたのだが――。
現に、市井家に来た翌日からのひとみの嫌味にも涙を堪えて、泣かないようにしてきた――、
苛められて絶対に涙なんか流さないと踏ん張ってきたのではあるが――、
昨日はまるでそのツケを払う日だったかのように何をされても涙が溢れて仕方がなかった。
(いつ以来だろう……、あんなに泣いたのって……)
ぼんやりと思い出していたら、「う〜ん……」と紗耶香が梨華に抱きついてきた。
梨華はもう少しで出そうになった声を、あわてて飲み込んだ。
腕だけではない、眠っている紗耶香は丸めたかけ布団か抱き枕ぐらいにしか思っていないのだろう、足も梨華に絡ませてきていた。
真っ赤になった自分の顔の熱が――、はちきれんばかりに脈打つ鼓動が、
紗耶香に届くのではないかというほど2人の体は密着していた。
その後、数分間、紗耶香が自然と離れていくまで梨華はカチンコチンに固まっていた――。
朝食の時間。
紗耶香は、優雅に食事をとっていた。気品漂うその姿に、梨華は食事をとることも忘れて見惚れていた。
”食事”はその人の人格を表す――と、何かの本に書いてあったのを思いだした。
その時は別に信じもしなかったが、こうして自然に背筋を伸ばし目線を少し伏し目がちにして、
黙々と優雅に食事をしている紗耶香を見ると、あの本に書いてあったことを信じる気になった。
一方、ひとみの方は、確かに紗耶香とは容姿はどことなく似ている。
しかし、肩肘をついて新聞のTV欄を見ながらの食事はどこか気品というよりも大衆臭さが漂っている。
どうして、同じ姉妹なのにこうも違うのだろうか――、梨華は軽いため息のようなものを吐いた。
「――どうかした?」
梨華の小さなため息に気づいたのだろう、紗耶香が微笑みかける。
「あ、いえ。何でもありません」
梨華はあわてて目をそらしながら答えた。
紗耶香はほんの少し微苦笑を浮かべると、梨華の顔を覗きこむようにして言った。
「石川さんは、学校とかどうしてんの?」
「……え? 学校ですか……?」
「うん」
「あ……、その……」
梨華は、ちらりとひとみを見た。
ひとみは、またこれまでと同じように自分とは関係ないと言ったような顔を浮かべて、知らん振りをして食事をとっている。
「一昨日までは、こっちの方に通わせてもらってたんですけど……」
「あ、そう。じゃあ、大丈夫。しばらくウチから通う事にしなよ」
「え?」
「ひとみも、それでいいよね?」
訊ねられたひとみはは、何も答えずに席を立って食堂を後にした。
「あいかわらず、無口なやつだなぁ」
と、紗耶香は苦笑しながらまた食事へと戻った。
無口……。その言葉を聞いて、梨華は違和感を感じた。確かに、あまりひとみが誰かと会話をしている姿を見た事がない。
しかし、市井家では梨華は毎日のようにからかわれていた。
どうしてなんだろう……。
どうして、他の人を無視してるんだろう……。
梨華は今さらのように、ひとみの行動を不可解と感じるようになった――。
たった1日、通わなかっただけで――。
市井紗耶香が戻ってきたという噂だけで――。
学園内の雰囲気は一変した。
大袈裟なのかもしれないが、皆の気分が浮き足立っているような――梨華にはそう感じとれた。
廊下で談笑している生徒たちの話題は、教室へと向かう梨華がすれ違い様に聞いた限りでは、ほとんどが紗耶香の帰国の話だった。
その紗耶香は、まだ登校していない。何か準備があるらしく、午後からの登校とのことだった。
「おはよう。石川さん、昨日どうしたの? 風邪?」
席についた梨華に、友人の柴田あゆみが声をかけてきた。
「あ……、うん。ちょっとね」
「やっぱり、一昨日は調子悪かったんだね。ごめんね、付き合わせて」
あゆみがひとみに告白したのは、もうずっと昔のように感じる梨華だった。
「ね、それより聞いた? 市井さんの話」
”市井”という名前を間近で聞いただけで、梨華は今朝のことを思い出し耳まで真っ赤になった。
「? 大丈夫? まだ熱あるんじゃない?」
「――へ?」
と、向けた梨華の呆けたような顔を見て、あゆみは梨華の風邪は完治していないんだなぁと感じた。
4時間目も終わり、昼食の時間。
梨華は1人で昼食をとっていた。いつもなら、隣にあゆみがいるのだが、委員会の打ち合わせがあるとかで隣にいない。
学園内の雰囲気は変わっているように感じたが、あいかわらず梨華には友達と呼べる生徒は1人しかいなかった。
隅のテーブルで、1人ランチセットを黙々と食していた。
食事もあらかた終わりそろそろ席を立とうかとした時、カフェの中にざわめきが響き渡った。
「?」
なんだろうと、梨華は振りかえった。
「!」
レモンティーを口に含んでいなければ、他の生徒たちと同じように声を上げたかもしれない。
今朝、見た姿とはまるっきり違う市井紗耶香が照れくさそうに笑いながらカフェの出入り口に立っているのである。
セミロングだった髪をバッサリと切り、赤に近かったブラウンの髪も真っ黒になっている。
紗耶香の周りは、あっという間に黒山の人だかりができた。
「お帰り紗耶香」「市井先輩、お帰りなさい」「髪切ったんだ」
「とても似合ってます」「寂しかった」「あの、一緒にお茶でも」
悲鳴にも近い歓喜の声が、遠く離れた場所にいる梨華にもうるさいほど聞こえてきていた。
(いいなぁ……。私も、あんな風にお話したい……)
梨華は、振りかえったままずっと出入り口の人だかりを眺めていた。
紗耶香が移動しているのだろう。人だかりが、一斉に動いた。
どこに向かって行くのか気になって、梨華はずっと目で追っていた。
人だかりの隙間に紗耶香の顔が見えた時、梨華の胸の鼓動が高鳴った。
そして、その変化に戸惑いを覚えた。
(なんだろう……、この感じ……)
胸が苦しくなるほどの激しい鼓動。でも、反対に胸が温かくなるような――。
「あ、石川さん。こんな所にいたんだ。探したよ」
紗耶香の声が聞こえた時、梨華は何となくではあるがそれが”恋による高鳴り”なのではないかと疑った。
だが、すぐに”まさか”と否定した。そんなはずはない。
つい、一昨日までどちらかと言えば否定派だった自分が、そんな女性に恋をするなんて、
しかもあの市井家の長女に、ひとみの姉に――梨華は必死で否定した。
「あ、ちょっと、ごめん」
人だかりをかきわけて、紗耶香が梨華のもとへとやってきた。
羨望と嫉妬の入り混じった視線が、背中に突き刺さっているのを、梨華は感じていた。
「ハハ。あの頭じゃ、やっぱマズいからさ。変かな?」
照れた少年のように笑う紗耶香。
「いいえ。とっても似合ってます」
笑顔で答える梨華。その言葉に嘘はなかった。本心からの言葉であった。
ただ、それよりも普通に言えたことに対してホッとする部分があった。
やっぱりさっきの胸の高鳴りは”恋”ではなく、ただ単に今朝のアレが尾を引いていただけなのだと――。
それから紗耶香は、梨華のもとで少し遅めの昼食をとった。
留学先のイギリスでの話や、音楽の話などをしながら、昼休みの時間を満喫して過ごす事ができた梨華であった。
2人っきりではない。
テーブルの周りには、黒山の人だかりのままであり、紗耶香は梨華だけに話して聞かせているというよりも、
皆に報告していたのかもしれない。
しかし、梨華はそれでもよかった。いろいろと、紗耶香の事がわかったから――。
放課後。
ひとみは、バレーの練習をサボった。
昨日の今日であり、ほんの少し気まずいというのもあるが、
今までさんざん姉の紗耶香の話題が耳に入ってきて苛ついていたというのもある。
とてもではないが、練習に集中する事などできない。
ムシャクシャとした気持ちのまま、帰宅の途についた。
坂道を上がる手前に、真希の姿があった。
向こうもこちらに気づいているらしく、大きく手を振っている。
――ひとみは、歩調を早めることなく真希へと向かって歩いた。
「どうしたの? 早いじゃん、今日」
笑いながら喋りかけてくる真希に、ひとみの不信感は募っている。
手を振る前、ほんの一瞬だけ戸惑いの表情を浮かべたのを、ひとみは見逃さなかった。
見逃しはしなかったが、それを見つけた素振りもしなかった。
「ひどいなー、よっすぃは」
一緒に歩きながら、そうやって肘で軽くひとみをつついた。
「……?」
「昨日、あそこにいたんだよ」
と、振りかえって坂道の下に視線を向ける。
「ぜんぜん、気づいてなかったでしょ。アタシのこと」
真希のいう通り、ひとみにはまったく記憶がなかった。昨日、あの場所では梨華しか見えていなかった。
「何してたの? あんなところで」
ひとみの言葉に、真希の顔がまた一瞬、戸惑いのような表情を浮かべた。
「あ、ちょっとね」
「……帰ってきたの、知ってるんだ」
ひとみは、周りの風景を見ながら何でもないことのようにサラリと言ってのけた。
嘘をつくかどうかの間は、完全に真希の中にあったようである。
そして、真希はこう判断したようだった。
「う、うん……。藤村さんから、電話があって」
正直に話すことにしたようである。
「で、すぐに――。さすがって感じだね」
ひとみは、冷笑を浮かべた。
「違うよ。ただ、ホント久しぶりだから元気かなーって」
「半年ぶりだもんね」
「違うってば。ホントに、そんなんじゃない」
「別にいいよ。アタシに言い訳なんかしなくても」
その言葉に、真希は足を止めた。
振りかえるひとみ。
夕日の逆光に、目を細める。真希の姿が、ぼんやりと霞んだ。
「……よっすぃだって、昨日、アタシに気づかなかったじゃん」
「……」
「すぐ近くにいたのに、アタシのことなんて全然見てなかったじゃん」
「……」
「……アタシのこと、もう……、飽きた……?」
「……」
「……」
首を少し傾けたその仕種。きっと、もうこれ以上は何も言わないのだろう。自分が口を開くのをずっと待っている。
いつも、そうだ――。
ひとみは苦々しく唇を噛むと、くるりと背を向けた。
「……関係ないって、前にも言った。あの子は、他のと違って帰る場所がないから」
「……じゃあ、私にも帰る家がなかったら引きとめてくれた?」
「ごっちんが引きとめてほしいのは、アタシじゃないだろ……」
タッタタタと真希が駆けてきて、ひとみの前に回り込んだ。
だが、何も言わずにひとみを見つめたままであった。
ひとみも、しばらく真希の目を見つめていた。
声が聞こえてきたのは、それからどのくらい経過した頃だろうか。
坂の下の方から、声がした。
『おー、後藤。何やってんの、こんなところで』
真希の視線が、ひとみの肩越しに後ろへと向けられた。ひとみは、その間もずっと真希を凝視していた。
振りかえらなくても声で、そして戸惑いの表情を浮かべた真希を見ていればわかる事であった。
――ひとみは、真希を軽く押しのけると1度も後ろを振りかえることなく、坂道を上がっていった。
「よっすぃ……」
真希は、後を追いかけることができなかった。傷つけてしまった。
そんな後悔から、その場を動く事ができなかった。
やがて、この場所にまでやってくる紗耶香に対しても、どんな顔をして言葉を交わせばいいのか――。
きっと、自然と笑顔がこぼれるのだろう。
傷つけてしまった事を詫びる気持ちと、一方でそんな自分を見られなくてホッとする部分があった。
夜。
遅く帰宅した梨華は、夕食もとらずに部屋へと直行した。
もう、ただの居候でしかない身。自分1人のために、家政婦の手を煩わせることはしたくなかったのである。
歩きつかれてパンパンになった足を引きずりながら、部屋のドアを開けた。
中央に配置されたベッドに、誰かが腰かけている。まだ電気もつけていないので、ただの濃いシルエットでしかない。
だが、なんとなくではあるが、それがひとみだということは薄々感づいてはいた。
シャンデリアのスイッチを入れる。
――やはり、そこにいたのはひとみだった。
「驚かそうと思ったのに」
と、ひとみはつまらなさそうに呟いた。
「……何やってるの、こんなところで」
「別に。どの部屋にアタシがいても勝手でしょ」
「……」
たしかにそうである。ここは、市井家で自分は――。
そんな関係が嫌いだからこそ、梨華は足をパンパンにして夕食もとらずこんな時間までバイト探しで街をうろついていたのだ。
きっと、そんなことを説明してもひとみには分からないだろうと梨華は諦めにも似た気持ちで軽いため息を吐いた。
「――ごっちん、まだいた?」
ひとみは、ベッドに寝転びながらポツリと呟いた。
「え?」
「下」
「あ……、見てない。来てるの?」
「さぁ?」
と、ひとみはごろりと寝返りを打ち梨華に背を向けた。
(なんなのいったい……)
梨華は、また軽いため息を吐いた。
これ以上、相手をしているとまた嫌味の矛先がこちらに向かってくるかもしれない――もう完全に無視を決め込むことにした。
汗をかいたので、シャワールームへと向かって歩き始める。
『姉さんと、一緒にいるよ……』
背後から聞こえてきた声に、梨華は足を止めた。
「……」
『ごっちんは、4人目の候補者だったんだ……』
「……え?」
梨華は、ゆっくりと振りかえった。
「姉さんが好きなんだよ、ごっちんは」
いつの間に、そうしたのだろう。ひとみは、いつの間にか身を起こしていた。そして、悲しげな目を梨華に向けていた。
「好きって……。だって、この前……」
大広間でキスをしていた現場を、梨華はこの目でハッキリと見ていた。
「キスぐらい、誰とだってできる」
と、ひとみは目をそらしながらフッと笑った。あてつけではなく、まるで自虐的に笑った――梨華は、そんな印象を受けた。
いったい、何が言いたかったのか――。
ひとみはそれからすぐ、梨華の部屋をなんともなかったかのように出ていった。
ひとみがいったい何をしたかったのか、梨華にはわからなかった。
ただ、やっぱりどこかこのままにしておけない――、
もう妹ではないがあの虚無感を取払わなければならないのではないだろうかとそんな気になっていた。
市井家に滞在してから5日目に、やっとバイト先が決まった。
それまでの間に、紗耶香や藤村から再三に渡って”バイトなんかしなくていい”と言われつづけてきたのだが、
いつまでも甘えるわけにもいかないので探しつづけていた。
梨華の働き口は、以外にもすぐ近くで見つかった。
学園からほどなく近い場所にある、一軒の白いチャペルを連想させるような喫茶店。
行き帰りに通りすぎる場所にあり、働くならこんなところがいいなぁと足を止めて眺めていたこともあった。
一応、アルバイトは禁止されている。もっとも、生徒たちの多くはアルバイトなどせずとも親から十分な小遣いを貰っているので、
バイトをする必要はない。
中には、アルバイトをしている生徒たちもいるようではあったが、社会勉強や友達や恋人作りを目的のような節がある。
どちらにせよ、梨華のように切羽詰った状況ではない。
喫茶店の前に貼りつけてあったアルバイト募集のチラシを見つけた時、正直なところどうしようか一瞬迷った。
問い合わせをしてみたかったのだが、断られでもしたら登下校の際に気恥ずかしいので二の足を踏んでいた。
それに、教師たちに見つかるかもという危惧もあった。
迷ったが、ひとみの顔がチラリと浮かんだらなぜか中に入る勇気が芽生えた。
「あの、私、アルバイト決まりました」
市井家に帰ると、梨華は真っ先に紗耶香の部屋を訪れて報告した。
ちょうど、勉強中だったらしく机の上にはノートや分厚い参考書が開かれたままであった。
「あ……、すみません。勉強の邪魔して」
「ちょうど、休憩しようと思ったところ。それより、良かったね。で、バイトどこに決まったの?」
「あ、はい。学校の近くにあるシャトレーゼって喫茶店です」
「あー、そこなら知ってる。ケーキの美味しい店だ」
「はい」
「そっか。じゃあ、近い内に店に行っていい? どんな風に働いてるか見てみたいんだ」
「そんなぁ、恥ずかしいです」
と、梨華は顔を少し赤くして身をくねらせた。
「石川さんって」
と、紗耶香はその女の子女の子した動作を見て苦笑した。
「あ、あの」
「ん?」
「その、これからは石川って呼んでもらえませんか?」
「え? なんで」
「なんか、年上の人にさん付けで呼ばれるのって申し訳なくて……。
それにあの、私、中学校の時ずっとテニス部だったから、先輩には石川って呼ばれてたんです。
そっちの方がなんかしっくりするっていうか……」
「――わかった。じゃあ、これからはそう呼ぶよ? ホントにいいんだね」
「はい。お願いします」
と、梨華はペコリと頭をさげた。その様子を見て、紗耶香はまた苦笑した。
過去に5人ほど、この家を訪れた市井家の後継者候補。
1人を除いてはその誰もが、最初は環境の変化に萎縮していた。
しかし、次第にそれらにも慣れ人格は180度変貌していった。
梨華の場合は、萎縮がずっと続いている。もっとも、梨華の場合は市井家に滞在してわずか数週間で、
実子ではないと判明しているので人格が変わる暇がなかったのかもしれない――その辺は家を留守にしていた紗耶香にはわからない。
ただ、ずっとこのまま変わらないでいてほしい――と何となく願ってしまう紗耶香であった。
紗耶香の部屋を出た梨華は、藤村にも報告しようと大広間へと向かった。
だが、そこに藤村の姿はなく、そこにいたのは足を組んでファッション雑誌を読んでいるひとみだった。
「あ……、藤村さんは……?」
スキップしそうな勢いで、大広間へと向かった梨華だったが、ひとみの姿を見つけてその勢いもどこかへと消えてなくなった。
「知らない」
雑誌に視線を落としたまま、低い声で呟くひとみ。相当、機嫌が悪いらしい。
梨華は、どうしていいのかわからずにその場でオロオロとしていた。
「何の用?」
と、ひとみはやはり、視線を上げずに言う。
「あ……、うん……。バイト決まったから、それを……」
「家賃は月に30万。年間授業料200万」
「へ?」
「この家に住んで学校に通うなら、それぐらいは必要ってこと。時給たった800円で払えんの?」
「……」
バサッ――。ひとみが乱暴に雑誌を閉じ、その大きな瞳を少し細めて梨華を見上げる。
「そんな、惨めったらしいことしなくていいって言ってんじゃん。
誰もあんたに金払ってまでここにいろって言ってんじゃないでしょ。
あんたのしてることは、この家に当て付けてんのと同じこと。そんなのもわかんないの?」
「そんな……、当て付けだなんて……」
「それとも何? 私はこれだけ働きます。お金も少しだけなら入れられます。
だから、この家に住まわせて下さいってアピールしたいわけ?」
「……」
ひとみは、自分がサディスティックな感情を煽られていることに気づいていた。
その感情は、帰宅してすぐに2階に向かう梨華を見た時からふつふつと沸きあがっていた。
止めなければ、また家を出ていく――と、頭では分かっているのだが、あの時の梨華の表情を思い出すと止めることができなかった。
「だいたいね――」
うつむいて涙をポタポタと落とす梨華に気づいて、ひとみはハッと我にかえった。
そして、うつむく梨華の頭越しに、こちらへと血相を変えてやってくる紗耶香の姿に気づいた。
「ひとみ、あんたいい加減にしなよ」
大広間にやってきた紗耶香は、涙を流している梨華をそっと自分の後ろにやると、ひとみに向かって低いトーンで言い放った。
「石川さ――、石川だって自分の居場所見つけるために、頑張ってんだよ」
なぜ、石川と呼び捨てにしているのだろう――、ひとみの頭にはそんな疑問が渦巻いた。
「そんな言い方、することないだろ。謝りな」
ひとみは、フッと笑って窓外へと目を向けた。
「ひとみッ」
今にも掴みかからんばかりの勢いの紗耶香を、梨華は制した。
「いいです。もう、いいですから喧嘩しないで下さい」
と、泣いて行く手を遮った。
「石川はなんにも悪くない。責められる必要なんて、どこにもないじゃない。
この家に勝手に振りまわされてるだけだろ。ちゃんとした理由も告げられずこの家に引っ張り込まれて、勝手に学校に通わされて、
挙句に実の子供じゃないって告げられてさ。悪いのは、こっちの方だろ? この家が、石川を翻弄させてるんじゃない」
「……」
ひとみは、くるりと背を向けて完全に窓の方へと向き直った。
「もう、いい加減にしてほしいよ……。こんなことして、いったい何の意味があるの……。何人の人生狂わせればいいの……」
紗耶香は、苦々しい顔をしてうつむいた。
梨華は何も言えなかった。きっかけは、自分にある。
きっかけはあるが、この家に充満している変な雰囲気はもっと根深いところにあるような気がした。
そして、それは今の自分には決して触れてはいけないような気がしていた。
「ごめんな、石川……。本当にごめん……」
紗耶香は、何度も何度も謝った。
市井家の中に、これほどまでに重苦しい空気が漂ったのは梨華の知っている限り、これが初めてだった。
きっと、自分が来る前からこの雰囲気はあったのだろうと考えると、
ひとみの性格があんな風になってしまったのもほんの少し理解ができたような梨華であった。
それからの数日間、ひとみと紗耶香は家でも学校でも目を合わさなかった。
もっとも、それ以前からも生活リズムが違うので顔を合わすことなどほとんどなかったのだが――。
梨華もまた、この2人とあまり接触しなくなった。
学業とバイトに追われて、なかなか2人と顔を合わす時間がなかったのである。
そんなある日、バイト先の喫茶店にフラリと紗耶香が訪れてきた。
「いらっしゃ――市井さん……」
「おッス」
「どうしたんですか?」
「そろそろ慣れた頃かなーってさ、ちょっと気になって」
「あ……」
梨華は、照れたような笑みを浮かべてうつむいた。
訪れてくれた事は嬉しいのだが、働いているところを見られるというのは照れくさくもあった。
夕方のちょうど店が混みはじめる時間帯だったこともあり、あまりゆっくりともてなす事はできなかったが、
紗耶香は本当に梨華の働く姿だけを見にきたらしく、テーブルに両肘をついて客のオーダーをとったり
料理を運んだりせわしなく動いている梨華の姿を眺めているだけだった。
そうして、閉店までの時間を紗耶香はすごした。
帰り道。
梨華は紗耶香と一緒に帰っている。
「大変だね、働くって」
「……?」
夜空を眺めていた紗耶香の横顔を、梨華はきょとんと眺めた。
「ひとみにも、石川が働いてるところ見せてあげたいよ」
そう言って苦笑する紗耶香。
「ひとみのこと、本当に悪いやつだなんて思わないでね……。本当はとっても優しい子なんだ……」
つぶやくその声は、どこか優しさと憂いを帯びた声だった。
梨華は、なにも言わずにコクンとうなずいた。
「ウチの家は、普通じゃないから……」
「……」
「みんな、みんな変わってしまう……。どうにかしたいんだけど、私は当事者の娘だから……。何もすることができない……」
とても、悔しくて悲しそうな声。
梨華の耳には、そう聞こえた。
「ひとみは、6歳の頃にウチにやってきたんだ……。最初の頃はさ、ほんとマジで可愛かったよ。
お姉ちゃんお姉ちゃんって、じゃれついてきてさ。ひとみも一人っ子だったし、私もそうだったから、ほんと可愛い妹ができて嬉しかった」
紗耶香は、昔を懐かしみクスリと笑った。
”お姉ちゃん”とじゃれつくひとみを、梨華は想像できなかった。
ひとみと紗耶香が、正当な血筋で繋がっていないことは梨華にも薄々感づいてはいた。
だが、それが今のひとみの性格を作った原因なのかどうか――その辺は梨華にはまったくわからなかった。
「それがいつ頃からだろう……。あんまり話をしなくなって、いつの間にかひとみは家でも学校でも笑わなくなって……。
気づいてはいたんだけど、その頃にはもうアタシも家の事情なんかがわかっていたから……踏み込むことができなかった」
「……」
「けっきょくさ、ひとみをあんな風にさせたのは、何もできずに逃げまわってたアタシなんだよ。
だから……。ひとみを悪く思わないで……ね」
紗耶香は、笑顔を向けた。
「市井さん……」
梨華は、その笑顔がとても儚いものにみえた。月明かりのせいなのか、
いつか見たキラキラとした清々しい笑顔とはまったく正反対な――そんな儚い紗耶香を見るのは心苦しかった。
これまで、市井家に関わった事を後悔していた。ブルジョワの世界。憧れてはいたが、その現実と理想のギャップに翻弄されて、
毎日の生活はとても息苦しいものであった。
それはきっと、自分だけが感じているものだろうと思い込んでいた。
だが、今は違う。
それはきっと、自分だけが感じているのではなく、紗耶香やひとみもそうである――
いや、むしろ複雑な家族形成でこれまでの人生を送ってきた2人の方が、
自分よりももっと息苦しい思いをしているのではないかと思う梨華であった。
その後、2人は市井家までの道を無言で歩いた。
こんな時、いつか自分がしてもらったようにほんの少しでも、
紗耶香の慰めになるようなほんの少し心を軽くするような言葉を発したかったが、
けっきょく家に帰りつくまで何も思いつくことができなかった――。
世話になっている市井家に、いや、紗耶香の力になりたい。
そんな梨華が一晩悩んだ挙句に出した答えは、以外と簡単なものであった。
――自分が、紗耶香とひとみの潤滑油の役目をすればいい。
それが、梨華の出した答えである。きっと、そんなに簡単に事はうまく運ばないと梨華自身も承知している。
問題はもっと根深いところにあるはずだと。だが、何もしないよりはマシだと梨華は午前4時過ぎにメラメラと燃えた。
朝食の時間。
いつもなら、ただ黙々と食事をしているだけであったが、梨華はまずそこに大きな声で挨拶をして入っていく事にした。
「おはようございます」
朝食の用意をしていた家政婦が、何事かと顔を向ける。
ひとみは、ちらりと視線を向けただけですぐに読んでいた新聞に視線を戻した。
紗耶香は、まだ食堂に来ていなかった。
一瞬、冷たい空気を感じ怯んだが、梨華は負けじと笑顔を浮かべてもう1度挨拶をした。
家政婦は、笑顔で挨拶を返してくれたが、ひとみはやはり無視をしたままであった。
やはり、問題はひとみである。梨華は、集中的にひとみの心を開かせることにした。
学園での昼食時、ここのところ柴田あゆみは委員会活動が忙しいらしく滅多に梨華と一緒に食事をとる事はない。
これは、梨華にとっては大きなチャンスだった。
潤滑油の役目をすることに決めたが、実際のところひとみとは学年も違うし
梨華にはバイトもあるので市井家以外ではあまり顔を合わす時間もない。
その市井家ですらも、あの騒動の後はあまり顔を合わすこともなくなった。
のんびりやっていては、溝はもっと深まるばかりである。
早く仲直りさせたい梨華にとっては、唯一学園内で顔を合わすチャンスのあるこの時間を有効に使いたいと考えていた。
梨華は校内カフェで、一人食事をしているひとみを見つけると、ほんの少し周りを警戒しつつ近くの席へと忍び寄った。
学園内ではまだ、梨華は市井家とは何の関係もないことになっている。
公言するタイミングも、必要性もなかったので黙っていることにしていたのである。
テーブルのはす向かいに席をとった梨華を、ひとみはちらりと一瞥した。
一瞬、何か言いたげな表情をしたがすぐに澄ました顔で食事へと戻った。
「卵好きだね。いっつも食べてるね」
スクランブルエッグをちょうど口へと運ぶ途中だったひとみは、「?」と視線だけを梨華に向けた。
梨華は、窓外の方を向いていた。
「1000円以上買い物したらね、卵1パック1円だったんだよ。私が前に通ってたスーパー」
梨華は、ひとみと目を合わさないようにまるでひとみとは会話していないかのように、食事を口へ運びながらさり気なくつぶやく。
「……」
ひとみは、不思議に思いながらも梨華と同じように関係ない素振りをしながら食事をすすめた。
数日前、泣かしたあの日からひとみは梨華と会話をしていない。
そればかりか、その姿を見たのもほんの数回しかない。
気まずくて、顔を合わせる事ができなかった。
今まで1度も会話を交わしたことのない学園内でなんで急にこうしているのか、
ひとみには梨華の意図はわからなかったが、思いがけずに梨華の方から話しかけてくれたのがただ単純に嬉しかった。
だが、そんな考えはおくびにも出さずにいつものように淡々と食事をすすめるひとみであった――。
今日も、梨華はヘトヘトに疲れてかえってきた。14時半から20時までずっと立ちっぱなしで仕事をしていたのである。
仕事で疲れたというよりも、学園で球技大会があったので、そちらで疲れてしまったのかもしれない。
1年はバレーボール。2年はバスケットボール。同じ室内競技で同じ体育館を使用。
やはり、注目の的はひとみだった。ひとみのクラスの試合が始まると、
2年からも大勢の生徒が1年の使用しているコートへと流れ込んだ。
梨華もまた、あゆみに連れられてひとみのプレイを観戦した。
あの告白以来、あゆみは放課後の練習見学には赴いていない。
いつもそれに付き合わされていた梨華もまた同じであった。
「やっぱり、吉澤さんってかっこいいねぇ」
と、あゆみが目をキラキラと輝かせたが、そこには以前のような印象は受けなかった。
きっと、彼女の中では完全に吹っ切れているのだろうと、梨華はあゆみの横顔を見つめていた。
久しぶりに見るひとみのプレイ。あらためて見ると、他の生徒たちとは群を抜いている。
観戦中、何度かコートの中のひとみと目が合ったが、梨華は家に帰ってまた文句を言われると思い、
あわてて視線をそらしたりしていた。
「いったい、何がしたいわけ?」
ヘトヘトに疲れて帰ってきた梨華に、ひとみは開口一番そう言い放った。
まだ玄関から数歩しか歩いていない。どうやら、待っていたようである。
「へ……?」
腕を組み、壁にもたれて見下すような視線。
いつもなら、怯んでおろおろとしただろうがこの日は疲れていたので、さほど嫌な感じはしなかった。
それに、昼間、必要以上にコートで目が合ったため、今夜は何かあるなとあらかじめ予感していたので、
”ほら”と思っただけであった。
「こないだから、アタシの周りウロチョロうろついてさ。学校では、話しかけないでって言ったでしょ」
「ばれないようにしてるよ」
梨華は、ふくらはぎを揉みながら潤んだ目でひとみを見上げた。
その動作に特に意味はなかった。ただ疲れた足をマッサージして、
疲れ目で潤んだ瞳で背の高いひとみを見上げただけである。
だが、ひとみはその姿にドキッとした。
そのまま見つめられていることが急に恥ずかしくなり、視線をスッと玄関に飾ってある絵画に向ける。
「耳、赤いよ。風邪?」
梨華の言葉に、ひとみはあわてて自分の耳に手をやった。
「べ、別に」
「ちょっと、ジッとしてて」
と、梨華はひとみの額にソッと手を当てた。夜風のせいか、アルバイトで皿洗いでもしていたのか、梨華の手はとてもひんやりしていた。
「熱は――、ないみたい。――?」
ひとみがボーっと梨華の顔を見つめていた。これまでに見たことのない、とても気の抜けた顔だった。
いったい、何があったんだろうか? 梨華の視線に気づいたひとみは、いきなり梨華を押しのけると2階へと駆けあがっていった。
「な? なんなのよ〜……」
何もしていないのに突き飛ばされるとは、なんでそこまで嫌われるのか梨華にはまったくわからなかった。
いい加減にしてほしい、こっちの気も知らないで――と、疲れた足を引きずりながら藤村に帰宅の報告をするため大広間に向かった。
廊下。
角までやってくると、ひとみは足を止めた。そして、軽いため息を吐き、倒れ込むように壁へともたれた。
「なんだ……!?」
思わずそうつぶやきながら、胸へと手をやった。ドキドキと鼓動が伝わってくる。
どんなにキツイ練習でも、これだけ心臓の鼓動が乱れる事はなかった。
梨華の手に触れ、梨華の顔を間近で見ただけで――。ひとみは、かなり戸惑っていた。
翌日。
練習を終えて帰宅しようとしたひとみの携帯に、真希から久しぶりに電話がかかってきた。
今日は梨華のバイトが休みなので、早く家に帰りたかったのだが適当な断る理由が思い浮かばず妙な間があいてしまい、
真希に勘ぐられかけたので、けっきょくのところ会うことになってしまった。
学生たちがよく待ち合わせに使っている、モニュメントの前で2人は久しぶりに再会した。
真希はひとみより先に来ていたようで、いかにも待ち合わせ中というようなほんの少しうつむき加減で携帯に目をやったり、
通りの左右を見渡したりしていた。
ひとみは、その様子を少し離れた場所からしばらく眺めていた。
――左右を見渡した真希と目が合う。ひとみは、仕方なく歩を進めた。
「元気してた?」
気まずい思いをしてたのは、真希も同じだろう。
それでも、いつもと変わらずに間延びした声を発する真希に、ひとみのわだかまりは徐々に薄れつつあった。
「よっすぃ――、なんか、変わったね」
立ち話もなんなので、近くにあったファーストフード店に入った。
窓外の雑踏を眺めていたひとみに、真希がそう言った。
「なんか……、ちょっと変わった」
「何が?」
「なんかわかんないけど……」
真希は、つまらなさそうにストローを口に含む。
「……」
ひとみはずっと雑踏に視線を向けていた。たった2週間会っていないだけで、何が変わるというのだろうか――。
ひとみは、ぼんやりと考えていた。
「ねぇ、よっすぃ。この前ね」
と、真希はおずおずと口を開く。
「この前、いちーちゃんとね」
「いいよ。そんな話」
何も変わっていない。紗耶香の名前を聞いてすぐに反応した自分。
きっと、真希の勘違いだとひとみは結論付けた。
真希は、戸惑いを隠すために、微かな苦笑のようなものを浮かべたままそれ以上は何も言わずにひとみと同じように雑踏を眺めた。
「人の気持ちって、変わると思うんだけどなぁ……」
数分間、2人の間には静かで乾燥した空気が流れていた。それを破ったのは、町の雑踏に目を向けたままの真希だった。
「……」
「大切なのは、よっすぃなのに……」
「……」
「なんで、伝わらないんだろう……」
ひとみの見た真希に、何も変化はなかった。いつもと同じように、ぼんやりと眺めているその横顔は、
市井家に4人目の実子候補としてやってきた2年前と何も変わっていない。
数ヶ月間、その暮らしの中で最初から最後までマイペースを保っていられたのは彼女だけであった。
それ故に好感を抱いていた頃が、もうずっと昔のように感じるひとみであった。
「遅いなぁ」
梨華は、市井家の大広間で壁にかかったアンティーク時計を眺めながらポツリとつぶやいた。
今日はバイトが休みなので、久しぶりに3人で食事ができるのを楽しみにしていたのだが
20時を過ぎてもひとみも紗耶香も帰ってこなかった。
あまり進展らしい進展もないのだが、とりあえずひとみとはここへ来た当初のような状態に戻すことができた。
あとは、直接、紗耶香との仲を取りもつだけである。しかし、それがもっとも難しいことだとは自覚していた。
あくまでも潤滑油である自分としては、あまり2人の間に積極的に入り込むのではなく、
互いに2人が手に手をとるようなそんな風に持っていけたらな――と考えていた。
そのきっかけとして、今日の夕飯を楽しみにしていたのだが、どちらも一向に帰ってくる気配はなかった。
「遅いなぁ」
梨華は、ほんの少し頬を膨らませて窓外を見やった。
通りすぎる車のヘッドライト。
ひとみと真希は、駅までの道を歩いていた。
「はぁ〜……、楽しかった。久しぶりだったからさぁ、なんか喉が痛いんだよね〜」
と、真希はすごぶる上機嫌である。
ファーストフード店を出た後、近くのカラオケボックスへと赴いたのであった。
「なんで、よっすぃは歌わないのさ。楽しいのに」
「……別に、歌手じゃないから歌っても仕方ない」
「ハハ。ホントは歌が下手だからでしょ」
「……」
ひとみは、フッと真希に視線を向けた。真希は、笑いながら腕を組んできた。
「楽しいねぇ、ホンッと楽しいねぇ」
カラオケボックスに入る前に、真希は自動販売機でビールを買っていた。
ほんの2本の缶ビール。1本は、ひとみのために用意していたのだが、ひとみが飲まなかったために真希は一人で2本とも飲んだ。
そして、歌い騒ぎ酔いはほどよく回ったのである。
「♪君を守るため、そのために生まれてきたんだぁ〜っ」
真希の笑い声は、車の騒音によってかき消されている。
ひとみは、軽いため息を吐きながらもよろめく真希を支えながら歩いた。
「ねぇ、よっすぃ。ちょっと、休憩」
「は? 駅はもうすぐそこじゃん。明日も学校」
ひとみの言葉を、真希が遮る。
「休憩しようよ、よっすぃ」
「……どこ?」
「――あそこ」
と、真希の指さす方向に視線を向ける。路地を1本入ったラブホテルの看板が妖しく煌いていた。
「はいはい、もうわかったから。さっさと帰りな」
ひとみは、真希の背中を軽く押しやり無理矢理に歩かせた。
「やめてよ!」
突然、真希がそう叫びながら立ち止まった。通りすぎる人々が、何事かと振りかえる。
「よっすぃ、アタシのこと好きだって言ってくれたじゃん……」
「……」
「いちーちゃんがいなくなってアタシが寂しいと思ったから?
同情で好きだって言ってくれたの? アタシ、わかんないよ」
振りかえった真希の目には、うっすらと涙が滲んでいた。
(半年前も、そんな目をしてた……)
半年前の空港。
飛びたった飛行機を展望ロビーで、いつまでも見送り続けた真希。
ひとみは、振りかえったあの日の真希と、今の真希の姿を重ねていた――。
姉妹となる事はなかったが、真希のマイペースな性格を紗耶香もひとみも気に入り、
これまでの経緯は関係なく市井家を出て行った後も交流を深めていた。
真希は紗耶香を姉のように慕い、紗耶香も真希を妹のように可愛がっていた。
ひとみは、そんな2人をほんの少し距離を置いて眺めるだけだった。
親友とまでは呼べないかもしれないが、唯一、友人として普通に接することのできる相手だった。
それに気づかなければ、きっとずっとそのままの関係だっただろう。
真希が、紗耶香に恋愛感情を抱いていることに気づかなければ――。
「……」
ひとみは、何も言わずにその場に佇んでいた。
それが同情でもなく、ましてや恋愛感情などではないことはひとみ自信が一番よく知っていた。
ただ、それを口に出してしまうほど真希との関係は希薄なものではなかった――。
通りすぎるヘッドライトがまぶしくて、ひとみは自分を見据える真希からスッと視線をそらした。
まるで、それが合図だったかのように、真希は1度も後ろを振りかえることなく走り去っていった。
残されたひとみの胸の中には、ただただ”罪悪感”が渦巻いていた。
それはもう癖のように、車のヘッドライトを微かに浴びながら、皮肉っぽい笑みを浮かべた――。
「ねぇ、藤村」
と、後ろを振りかえりながら紗耶香が大広間のドアを開ける。
事務仕事をしていた藤村は、老眼鏡をかけたままひょいと顔を上げた。
さて、いつの間に帰ってきたのか?
藤村は、テーブルの上に置いてある懐中時計に目をやった。もう午後の10時を回っている。
「紗耶香お嬢様。いくら旦那様がご不在とは言え、少々、夜遊びがお過ぎですよ」
「別に悪い事してないからいいじゃない。ねぇ、それより、石川見なかった?」
「? あぁ、ちょっと下のコンビニエンスストアまでお買い物に行くとか」
「こんな時間に?」
紗耶香は、腕時計に目をやる。
「なんだか、お弁当の材料を買いに行くとかで」
「――ふーん。そっか」
と、きびすを返す紗耶香を藤村が呼びとめる。
「紗耶香お嬢様」
「――?」
「先週、予備校で行なわれた全国模試、平均的に点数が落ちておりますよ」
と、カバンから一枚の用紙を出してヒラヒラとさせた。
「くれぐれも、夜遊びはお控え下さい」
紗耶香は、「あぁ」と軽いため息を吐きながら大広間を後にした。
『ありがとうございました』
コンビニのドアが開き、買い物袋を下げレシートを確認しながら梨華が出てくる。
「高いなぁ……。やっぱり、やめといた方がよかったかなぁ……」
バイトの給料日前、梨華にとっては二千円近い出費は痛かった。
しかし、それが市井家のためになるのかと思うと、仕方がないと割り切ることができた。
「まぁ、いいか。うん。頑張ろうっと」
梨華は小さく気合いを入れて、夜道を歩いていった。
コンビニから少し離れると、そこはもう坂の下にある住宅街である。
密集した住宅街という場所柄、その明かりが煩わしいと判断されたのであろう、あまり街灯というのも設置されていない。
家々に、まだ明かりは灯っているものの、住宅街の通りはほとんど闇に近かった。
家は密集しているので、何かあれば大声を出せば言いのだろうが
やはりしんと静まり返った闇の道を歩くというのはかなりの恐怖感を伴なう。
梨華は、あまり周りを見ないように足早に住宅街の道を歩いた。
コツコツコツ……。
背後から聞こえてくる足音。
梨華は気づいてしまった。
住宅街の真ん中であれば、何も問題はなかった。
しかし、もう住宅街の外れ、坂の下にまで来ている。ここからは、高級住宅街に入るため家々もかなりの間隔を開けて点在している。
(ちょっと……。ヤダ……。どうしよう……)
梨華は、泣きそうになりながらも足を止めることはしなかった。
後ろから聞こえてくる足音=不審者。という図式は、あまりにも自意識過剰過ぎるかなと頭の片隅ではわかっていたが、
やはりまだ16才の女の子である。圧倒的に、恐怖感の方が勝っていた。
コツコツコツ……。
背後から来る人物の、歩調が変わり靴音の間隔が短くなった。
梨華は思わず、走りだした。しかし、そこは坂道。あまり、速度に変化はでなかった。
走りながら、後ろを振りかえる。数メートル離れていた後方のシルエットが、サッと電信柱の陰に身を隠した。
(い、いや……。怖い。怖いよ)
梨華の頭の中で、後方から聞こえてくる足音=不審者100%になった。
もどかしい坂道を、なんとか早く上がろうとしたが恐怖で足がもつれ、その場に転んでしまった。
後方の足音が、タッタッタッというものに変わった。
もう、声を出すしかない。そう判断した梨華が、口を開く寸前。
『石川、大丈夫?』
と、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「い、市井さん……?」
振りかえると、市井はもうすぐそこまで来ていた。月明かりで、その姿がはっきりと確認できるほどの距離だった。
「何やってんの、大丈夫?」
と、転んだままになった梨華を抱え起こすと、梨華の服の汚れを払って辺りに散乱した冷凍食品を集めはじめた。
「こんな時間に、一人で歩いてたら危ないだろう」
と、紗耶香は優しく微笑みながら、冷凍食品を袋につめる。
「い、市井さん……、なんでここにいるんですか……」
恐怖でパニックになりかけていた梨華は、状況がいまいち飲みこめなかった。
「なんでって――、心配だから迎えに。どこかですれ違ったみたいだけど、追いついてよかったよ」
と、笑った。
梨華は、ぼんやりと紗耶香を見つめていた。その笑顔をみると、なぜか思考が停止して心地よい感覚にとらわれた。
「ハハ。何? 変質者かと思った?」
「……」
梨華は、コクンとうなずいた。
「この辺も最近は物騒だから、特に石川みたいな女の子は一人で歩いちゃいけないぞ」
紗耶香は、少しおどけた口調で笑いながら梨華の頭をクシャクシャと撫でた。
「さ、帰ろう」
と、荷物を手にして歩いていく紗耶香の背を眺めながら、梨華はフッと違和感を感じた。
先ほど、振りかえった時に見た、電信柱に隠れたシルエットはもっと背が高かったような――。
梨華は、ゾクッとして後ろを振りかえった。だが、そこには月夜に照らされたアスファルトが、濃い闇となっているだけで誰の姿もない。
気のせいか――と、梨華があわてて紗耶香の後を追ってから、数十秒後に電信柱の陰から黒いシルエットが現われた。
そのシルエットの正体は、ひとみだった――。
帰る途中、数メートル先にコンビニから出てくる梨華の姿を見つけた。驚かせてやろうと、つかず離れずの距離で後をつけた。
わざとローファーの靴音を響かせ、やっとその音に気づいてあわてて逃げ出す梨華の後ろ姿を見てひとみは苦笑していた。
もう、いい加減に安心させてやろうと駈け出した時、今度は自分の後ろから聞こえてくる足音に気づいた。
フッ、と振りかえった時に見えたそのシルエット。
ひとみは、すぐにそれが誰かわかった。
軽い舌打ちをして前を向くのと同時に、梨華がこちらを振りかえった。条件反射的に、近くの電信柱へと身を隠してしまった。
どうしてそのようにしたのか、ひとみにはわからない。
もしも、あのとき隠れずに梨華の元へと駆け寄っていれば、
今自分が噛み締めているような苦々しさを紗耶香に与えられたかもしれないと思うと、
ひとみは咄嗟に身を隠してしまった自分の行動を後悔した。
数メートル先を、仲良く歩いていく2人の後ろ姿。
ひとみは、そのシルエットが見えなくなるまで坂道の途中でずっと佇んでいた――。
いったい、何があったのか……?
梨華には、その理由がまったくわからなかった。
昨日、夜遅く帰宅したひとみは廊下ですれ違った際にもまったく梨華の目を見ることなくその傍らを通りすぎた。
そのような事は今まで何度もあったので、とりわけ珍しいことでもなかったが、
1ヵ月近くを共に過ごしてそのような態度をしてても、ただ単に無視をしているだけなのか、
機嫌が悪くて威圧的に無視をしているかの区別はできるようになっていた。
昨日、そして今朝のひとみはすごぶる機嫌が悪い。梨華には、そのように見えた。
食事もとらずに、乱暴に玄関のドアを閉めて出ていった。
おかげで、梨華は5時起きで作った弁当を渡す事ができなかった。
『なんだ、ひとみのための弁当だったんだ』
振りかえると、紗耶香がパジャマ姿のまま階段を下りてきているところだった。
「あ、おはようございます」
「てっきり、恋人に作るのかと思ってた」
と、紗耶香はなんでもないように苦笑した。
「ち、違いますっ。これは、2人に」
「? 2人?」
「もちろん、市井さんの分も作ってます」
「――そ。ありがと」
と、紗耶香は照れ笑いのようなものを浮かべて、食堂の方へと歩いていった。
梨華は、佇んでいた。
”恋人に作る”
と、いう紗耶香のフレーズが、なんとなく心をドキドキとさせた。
作っている間、そんな事はまったく意識していなかった。
ただ、いつもいつも同じ校内カフェの昼食なので、たまには手作りのものを食べさせてあげたいと思っていただけである。
できることなら、3人で一緒に食べたかったのだがそれは無理な事もわかっていたので、
せめて3人同じものを――何かのきっかけでフッと3人、
いや、ひとみと紗耶香が共通の話題ができるようにと配慮していただけなのだが――。
「恋人に作る……か」
そう呟いた梨華は、頬をポッと赤くさせ、自然とこぼれる笑みを隠しながら厨房へと向かった。
ノートにペンを走らせる音。公式を述べながら、黒板にチョークを走らせる教師。授業終了のベル。風に揺れるカーテン。
何もかもが、ひとみを苛つかせた。
クラスの生徒たちも、ひとみの機嫌が悪いのを察知しているのであろう。
休み時間になっても、教室で談笑する生徒は少なかった。
それもまた、ひとみを苛立たせる原因の一つであった。
ひとみは、ガンッと乱暴に椅子を引いて立ちあがった。
このまま学園内に留まる事は、とても無益なことのように思え、さっさと帰る事にしたのである。
教室を出ていくひとみを、生徒たちは何気に確認していた。
ひとみが、教室を出ていくとあちこちからため息のようなものが聞こえてきた――。
『あれ、帰るの?』
誰もいない廊下を歩いていると、後から不意に声が届いてきた。
ひとみは、辺りに視線をやり足を止めた。
職員室からの帰り、たまたまその姿を見つけた梨華は声をかけようかどうしようか迷った。
ひとみが手にしたカバンに気づいた時、フッと弁当のことが頭をよぎり、思わず声をかけてしまっていた。
「……」
声をかけたものの、昨日から不機嫌なひとみである。
きっと、足を止めることなくそのまま歩き去るのだろうと思っていたが、意外にもひとみは立ち止まった。
しかし、その向けられた背中からはピリピリと不機嫌な静電気が放出されているかのようで、
次にかける言葉がすぐには出てこなかった。
ため息が聞こえてきた。
「ご、ごめん……。でも、誰もいないからいいじゃない」
梨華は唇を尖らせながら、うつむいた。ひとみが振りかえりそうな気配を見せたからである。
「お弁当作ってきたの……。帰るんなら、家で食べる……?」
梨華は、うつむいたまま喋った。ひとみがどんな顔をして、自分を見ているのかはわからなかった。
「時間あるなら、ちょっと待っててくれる? すぐに持ってくるから……」
「いらない」
”やっぱり”と、梨華は思った。だが、紗耶香にはもう渡してある。
せっかく共通の話題ができそうなチャンスなのである。怯むわけにはいかなかった。梨華は、決心すると顔をあげた。
「なんでよ」
「……理由なんてない。いらないからいらないの」
冷めた目でそう言い放つと、ひとみはくるりと背を向けてまた歩きだした。
「ちょっと、待ってよ」
と、梨華はひとみの前に回り込んだ。
冷たい視線を向けるひとみに、たじろぐ事はなかった。
せっかく、仲を取りもとうとしているのにいつもつんけんと突き放すひとみに対して、怒りのようなものが込み上げてきていた。
「あなたのこと、もうホントにわかんない」
「……」
「いっつもそうやって、何かあるとすぐに黙り込んじゃって。悪いことしたなら謝る。
でも、あなたはその理由をいっつも言わないじゃない。わかんないよ。なんで、そんなに怒ってるのか」
ひとみは、瞬間的に”ヤバイ”と判断した。
両手をピンと下に伸ばしたその姿勢は、見境を無くす一歩手前であるのは、この1ヵ月の生活で熟知している。
ここで、大声で喚き散らされれば色々と面倒なことが起きると、ひとみは判断した。
「別に怒ってなんかない……」
と、ひとみは壁に貼ってあるポスターへと視線を移した。
なおも、ひとみを見据える梨華。その目には、きっと悔し涙なんだろうそんな涙がうっすらと滲んでいた。
真希の顔が一瞬頭をよぎったが、それよりもここで泣かれるわけにはいかないので、
ひとみはポスターを見ながら独り言のように呟いた。
「わかったよ……。食べればいいんでしょ、食べれば」
「ホント?」
ワガママな女だと、ひとみは心の中で呟いた。だが、不思議と嫌な感じはまったくしなかった。
そればかりか、先ほどまで抱いていた苛立ちもまったく感じなくなっていることに気づいた。
「じゃあ、じゃあ、ここでちょっと待ってて。すぐに取ってくるから」
梨華は、身を翻して廊下を駆けようとした。
「あ、いい」
「?」
と、振りかえる梨華。ひとみが、視線を伏し目がちにしてこちらを見ている。そして、呟くように言った。
「昼休み、体育館で渡して」
ひとみはそう言い残すと、廊下を戻っていった。
その背中からは、先ほど感じたピリピリトした不機嫌な静電気は見られなかった。
「?」
梨華は、首を傾げてその背中を見送った。よくはわからないが、
これで共通の話題ができ、仲直りのきっかけができるかもしれない――ひとみの変化が例え気まぐれであっても、
ありがたいものだと梨華は思った。
「なに、これ? 冷凍食品ばっかじゃん」
誰もいないひっそりとした体育館に、ひとみの声が響きわたる。
「こんなのだったら、学食の方がマシ」
と、ひとみは弁当のフタを閉じようとした。
「ちょっと待って。よく見てよ、ちゃんと作ったのもある」
と、梨華は立ちあがろうとしているひとみの袖を引っ張った。
「卵焼きでしょ、おにぎりでしょ。そう。ほら、卵好きだから、多めに焼いたの。ゆで卵もあるよ」
と、弁当の入っていたキャリーバッグの中からゆで卵を取りだし、
得意気に掲げる梨華を見てひとみは思わず笑った。
「?」
「ゆで卵ぐらい、誰にでも作れる」
ひとみは苦笑しながら、ベンチに越しかけた。フッと何気なく、梨華の弁当箱に目をやった。
そこには、卵焼きがなかった。ひとみの視線に気づいた梨華は、苦笑しながら口を開いた。
「あのコンビニ生鮮食品売ってないから、冷蔵庫からもらっちゃった。
でも、ほら、あんまり使うと悪いから……。あ、もちろん、お給料貰ったら後で返しとから」
と、梨華は照れくさそうに苦笑した。
「……」
「な、なに……、そんな怖い目しないでよ。ちゃんと、後で返しとくから」
ひとみは、おもむろに梨華の手から弁当箱を取り上げると、自分の弁当から卵焼きを梨華の弁当へと移した。
「あ……」
意外な行動に出られて、梨華は正直なところ戸惑った。いったい、どちらなのかわからなかった。
それは嫌味なのか、それとも優しさなのか――。
ただ、そうして素早く誰もいないコートに向き直り、おにぎりをパクつくひとみの横顔を眺めていた。
「たかが、卵ぐらい……。いくらでも、使えばいいじゃん」
と、ひとみは耳を真っ赤にしながらつぶやいた。
ああ――と、梨華は初めてその一片を垣間見ることができた。
”本当は優しい子なんだ””お姉ちゃんお姉ちゃんって、じゃれついてきてさ”――紗耶香の言葉を思い出し、
そしてあの時は想像できなかった幼い頃のひとみを想像することができた。
(市井さんの言ってた事は、このことだったんだ……)
クスッ。
梨華は思わず、小さな声を出して笑ってしまった。
ひとみの事を、初めて”かわいい”と思った。
気まずくなったのか、それとも何か他の理由からなのか、ひとみは「1人で食べる」と言い残して、
弁当箱を持ってさっさと体育館を後にした。
そんなひとみを、梨華はまた可愛いと思った。
体育館を出たひとみは、周りに誰もいないのを確認すると軽いため息を吐きながらドアにもたれかかった。
ひとみにとって、梨華はずっとからかいの対象だった。
ただ単に自分に食ってかかる人物が珍しくて、遊んでいてやっただけである。
それがいつの間にか……、その対象が別の物に変化していると気づいたのはつい最近のことだ――と、ひとみは分析した。
梨華がいなくなると知った時、柄にもなくほんの少し動揺した。
それは、大事なおもちゃを捨てられそうになった子供の心境に似ていた。
そのおもちゃが手元を離れたと確信した時、また周りの風景がいつものように色褪せて見えた。
距離を置いて接する人物は、つまらないただの物言わぬ人形であった。
なんの興味もなかった。同時に、つまらない人形だらけの日常にも、なんの興味もなくなった。
物珍しい人形の小道具を見つけた時、また一瞬にして辺りに色が戻ったような気がした。
暗闇でもすぐに、その人形を見つけ出すことができた。
いや――、もうその時には人形ではなく。石川梨華という個人として認識していた。
できることなら駆けよって力強く抱きしめたかったが、まだ人形であるとどこかで考えていたようでその衝動を厳しく制した。
梨華がまた去っていこうとした時、姉の紗耶香がいる前で、そんな目立った行動は普段なら絶対にしなかっただろう。
向こうの事もあまり知りたくなかったし、こっちの事もあまり知られたくなかった。
それでも、梨華が去ろうとした時、身体は勝手に飛び出し、梨華の手を引っ張り部屋へと連れこんだ。
そんな情熱的な気持ちが自分にあったのかと思うと、自分でも少し驚いた。
もう、その辺から誰にも渡したくないという強い気持ちが芽生えてたのかもしれない。
――ひとみは、そんな風に分析した。
フッと真希の顔と、紗耶香に向ける梨華の笑顔が重なった。
「……」
ひとみは、ブルブルと頭を振って走りだした。
誰にも渡さない。渡したくない。そんな強い想いが、ひとみの中を駆け巡っていた――。
五時間目の授業中。
どうやら、梨華はずっとニヤついていたらしい。
休み時間に入り、柴田あゆみが心配そうに語りかけてきたところを見ると、相当ハタ目にもわかるほど表情を和らげていたらしい。
それもそのはず、あのひとみの意外な一面を見てしまったのだ。
思い出すと、ニヤけてしまって仕方がなかった。
「あ、あのね」
思わずあゆみに、喋ってしまいそうになり、梨華はあわてて口をつぐんだ。
「なに?」
「あ、ううん。なんでもない」
梨華は笑顔でごまかした。市井家と自分の関係は公言できない。
ましてや、かつてひとみを好きだったあゆみに、ついさっきまでひとみと一緒にいて照れたひとみが可愛らしかったなどとは、
口が裂けても言ってはいけないことである。
(危ない……、危ない……)
と、ホッとしたのも束の間。
教室のドアがガラッと勢いよく開き、一学年下のひとみが何の躊躇もなく梨華のいる教室に入ってきた。
全員が、何事かとひとみに注目した。
ひとみは、教室の入り口で中をキョロキョロと見渡す。
梨華もまるで他人事のように、いったいなんでこんな所にいるんだろうと言った感じでひとみを眺めていた。
そして、ひとみがパッと表情を輝かせるのを見て、何かとてつもない波瀾の予感がしてわれに帰った。
ひとみの視線の先に、皆の視線も集まった。
そこにいる梨華は、ただただオドオドとうつむいているだけであった。
(来ないで。来ないで。あぁ、もう来ちゃダメ)
梨華の願いも虚しく、ひとみは目前に立った。
あゆみが、少し驚いたような顔をして後ずさったのがうつむいた梨華の視界の隅に入る。
(違うの……、あゆみちゃん……)
ドサッと何かが、机の上に置かれた。
チラリと視線を上げると、机の上に先ほどの弁当箱が無造作に置かれている。
「練習遅くなりそうだから、先に返しとく」
(え?)
と、顔を上げた梨華はひとみの不敵な笑みも見たし、その後ろで冷ややかな視線を向けている生徒たちも見えた。
友達は少なかったが、それなりに平穏だった学園生活。
波瀾の波音が、耳の奥でざわざわと聞こえた梨華であった――。
市井家の周りを取り囲むようにある石垣から、名前の知らない小さな花がちょこんと咲き出ていた。
真希は、ひとみが学校から帰ってくるのを待ちながら、もう30分ほどしゃがんでその花を眺めていた。
風が吹くたびにゆらゆらと揺れる花に、自分を重ね合わせていた。
この花は、いったい何を望んでいるんだろう。
ずっと、ここに留まりたいのか。それとも風に飛ばされたいのか。
――真希には、わからない。花は自分であり、風は誰かであるのだから。
『ひとみ、練習で遅いから家の中で待ってなよ』
真希はその声を聞き、しゃがんだまま顔を上げた。
もっと強い風が吹いてくれれば、自分は楽にそちらに行けるのに。
「何があんの?」
学校帰りの紗耶香が、真希の横にしゃがみこむ。
「花か――」
紗耶香はまるでその花を誰かに例えるように、優しい目をして眺めている。
「ねぇ、いちーちゃん」
「ん?」
と、紗耶香が花を見つめながら返事をする。
「この花の名前知ってる?」
「うーん、なんだろう。――わかんない、教えて」
「――後藤真希」
「は?」
と、笑った紗耶香が、初めて真希に顔を向けた。
真希は、寂しそうな笑顔を浮かべて花を眺めていた。
「でも、いちーちゃんには別の名前があるんだよ」
「――別の名前?」
「そ。いちーちゃんには――、安倍なつみって名前」
「……」
紗耶香の表情が一瞬曇ったのを、真希は横目で感じていた。
だが、何も言わなかった。
またいつもの表情に戻った紗耶香は、苦笑まじりに口を開く。
「なに、訳のわかんないこと言ってんだよ。ほら、こんなところでボーっとしてないで家の中で待ってな」
と、制服のスカートのしわを伸ばしながら立ちあがった。
「よっすぃは、なんて名前をつけるんだろう」
小さくつぶやいた真希の声は、どうやら紗耶香には届いていなかったらしい。
「ほら、後藤」
と、紗耶香は真希の腕をひいて、立ちあがらせた。真希は、困惑した笑顔を浮かべた。
いったい誰が、この花に自分の名前をつけてくれるのだろう――。
いったい誰が、強い風となって運んでくれるのだろうか――。
自分にもわからなかった。紗耶香に手をひかれ心を揺らしている自分は、やっぱりいつまでも揺れている花なのかもしれない。
最後にはあの場所で枯れていく花を想像すると、真希は無性に寂しくなった――。
「もうっ、なんで教室なんかに来るのよ」
放課後。
体育館に向かおうとするひとみを、梨華が呼びとめた。どうやら、
そこを通るのを長い間待ちつづけてたみたいであった。
「なんでって、理由言ったけど」
と、ひとみはサラリと言って、再び体育館へと向かって歩いた。
ひとみと梨華の周りには誰もいない。遠くの校庭に練習をしている運動部の姿があったが、誰も2人には気づいていないようだった。
「もう。そうじゃないでしょ。そんなの家に帰ってから、渡してくれればいいじゃない。もう、私、明日から学校に来れないよ」
と、泣きそうな顔になる梨華。
「大袈裟すぎる」
ひとみは、振りかえって笑った。
「大袈裟じゃないよ。見てよ、これ」
と、梨華はカバンの中から、教科書を取りだした。その教科書は、ボロボロに破られていた。
「……購買部で買ってきなよ」
「もう。そうじゃないでしょ」
梨華は辺りに目をやり、ツカツカとひとみに駆け寄ってきた。
そして、目の前で破れた教科書をバッと開いた。
そこには、中傷的な単語がマジックで書きなぐられていた。
「さっきまで、みんなに私たちの関係バレないようにしてたのに、なんでいきなりあんな事するのよ。
バレてもいいけど、物には順序ってものがあるでしょ。あれじゃ、まるで私が……まるで、あなたの恋人みたいじゃない」
ひとみは、チラリと辺りに視線を向けると、梨華を校舎の壁際へと追いやった。
両手を壁へと伸ばし、その間に梨華を閉じ込める。
「へ? ちょっと……」
梨華は、あきらかに動揺した表情を浮かべていた。
「世間知らずで、お人よしで、おせっかいで、ズカズカとアタシの領域に入ってきたあんたが悪い」
「な、なんでよ〜……」
と、梨華は怯えた目でひとみを見上げた。
ひとみは、クスリと笑うと壁から手を離した。
「バイト、遅れても知らないから」
と、手をヒラヒラさせながら体育館へと向かって歩いて行った。
梨華は、呆然とその後ろ姿を見送った。
「な、なんなのよ〜……」
ランニングをしている運動部の掛け声だけが、遠くに聞こえていた――。
ひとみはあれから毎日のように、梨華の前に執拗に姿をあらわしては、学園内での梨華の肩身を狭くさせた。
嫉妬による嫌がらせは、ほぼ毎日のように受けた。
だが、誰がその犯人なのかは分からない。
梨華が、ほんの少し教室を離れて戻ってくると、机の上がカッターのようなもので削られていたり、
カバンの中にゴミが山のように入ってたりするのは、もはや日常茶飯事となりつつあった。
「……まただ」
教室の後ろにある梨華のロッカーは、接着剤により閉じられていた。
何度かガタガタと扉を揺らしてみたが、一向に開く気配はなかった。
梨華は体操着を胸に抱いたまま、うつむいてトボトボと自分の席に戻った。
ほくそ笑むような視線を感じていたので、顔を上げることもできずに、うつむいたままカバンの中に体操着をつめ込んだ。
――昼休み。
チャイムが鳴ると同時に、梨華は教室を後にした。
廊下をうつむきながら歩いていても、そのヒソヒソとした話し声は否応無しに梨華の耳に飛び込んでくる。
誰しもが、自分とひとみの関係を噂していた。
『石川さん』
その声に、梨華はすぐに振りかえった。あの日以来、まともに顔を合わす事もできなくなった柴田あゆみがそこにいた。
「あゆみちゃ――」
あゆみは、誰の視線にも晒されない廊下の角へと梨華を引きこんだ。
「大丈夫?」
あゆみは、うつむく梨華の顔を心配そうに覗きこんだ。
「……」
「ごめんね。なんの力にもなれなくて……」
「あゆみちゃん……」
「びっくりはしたよ。でも、私はあんな事しない」
と、あゆみは真剣な目で梨華を見据えた。
「あゆみちゃんになら、何をされてもいい。ずっと、騙してたんだもん……。
でも、私、あのひ……吉澤さんとは、そんなんじゃないから。今はまだ私だけの判断ですべて言えないけど……、
本当にそんなのじゃないから。信じて」
と、梨華もまた同じように真剣――いや、すがるような目であゆみを見据える。
「もう、いいって。今ね、私、他に好きな人がいるから、なんとも思ってない」
あゆみは清々しい笑顔を浮かべると、おもむろに梨華の手を両手で包みこんだ。
「嫉妬でいろんな妨害があるかもしれないけど、負けずに頑張って。私、応援してるから」
「あ、あゆみちゃん、あ、あのね」
何か勘違いされている。早くその誤解を解かないとと、口を開けかけた時――。
『負けませんよ』
あゆみが振りかえる。
梨華は、あゆみの後ろに視線をやりがっくりと肩を落とした。
ひとみが軽い微笑を浮かべながら、歩いてきていた。
「吉澤さん……」
「お久しぶりです」
ひとみは、あゆみに軽く会釈をする。
「なかなか来ないから、迎えに来た」
「べ、べつに、待ち合わせなんかしてないでしょ」
やって来たひとみは、フッと笑ってあゆみに言う。
「彼女、いつもこうなんです。照れ屋さんみたいで」
何を言ってるのことの人は――と、びっくりしてひとみを見上げる梨華。
あゆみは、苦笑のようなものを浮かべて梨華の肘を突っついた。
「ち、違うの。そうじゃないの」
「あ、先輩に言っておきますけど、あの時、付き合ってるって言ったのは石川さんじゃありませんから」
「あ、うん」
「ちょっと、もういい加減にしてよ」
と、梨華はひとみへと歩み寄る。
「あのね」
と、梨華がひとみの前に立った瞬間、ひとみがその肩を激しく抱き寄せた。
「!?」
「いい加減許してよ、昨日の事は謝るからさ」
悪魔の微笑み――だと、梨華は思った。あゆみがボーっと見惚れているのがその何よりの証拠で、
梨華も思わず見惚れてしまいそうになるほどその微笑みは完璧だった。
「なんか、邪魔みたいだから、私、これで失礼するね」
「違うの、あゆみちゃん」
「じゃあね」
と、あゆみは笑顔で手を振りながら去っていった。
梨華は呆然とその背を見送った。ハッと我にかえり、ひとみから身体を離した。
「最低ッ。なんであんな事、言うの」
「なんでって――、あんたも本当にバカだね。自分の立場、まだわかってないの?」
「誰のせいで、こうなったと思ってるのよ」
と、梨華は泣きそうになりながら訴えた。
「アタシのせいだって、言いたいの?」
「そうじゃない」
「なんで?」
と、ひとみは冷笑を浮かべて、梨華へと顔を近づけた。
「なんでって……、だって……」
「だって、何よ」
「もうっ、顔近づけないでっ」
梨華は、ひとみを突き放した。その距離は、キスをされそうなほど近づいていた。梨華の顔は、真っ赤になっている。
正反対にひとみは、余裕の笑みを浮かべていた。
「自慢じゃないけど、もてるよ」
「……」
「今までアタシと噂になった子は、みんなイジメにあって転校していった」
「……ひどい」
ひとみは、フッと笑って窓外に目をやる。
「知らないよ。ただの噂なんだから」
「……でも、私の場合は確信的じゃない。そうなるのわかってるのに」
顔をしかめる梨華を、ひとみはちらりと見やった。
「最初からこうしたかったの……?」
「……?」
向き直ると、梨華はポロポロと涙をこぼしていた。
「もう、ヤダ……。本当に疲れたよ……」
「ち、違う……」
狼狽するひとみだったが、果たして本当に違うのだろうかと冷静に分析する自分がいた。
確信犯――。そう。ひとみには、梨華がこうして追い込まれる事はわかっていた。
だが、もう一方で梨華を独占するためには絶対に必要な事であった。
だが、はたしてそれは正しかったのか。ひとみは梨華の涙を、正視する事ができなかった。
けっきょく、自分は純粋に人を愛せないのではないだろうかと自虐的になった。
――ひとみが、ふたたび心を閉ざしかけた時、梨華が苦悶の表情を浮かべてその場にふさぎこんだ。
「梨華!」
ひとみは、思わずそう叫んでいた。身体は瞬時に、梨華を支えるために動いた。
額に浮かぶ汗、青ざめた顔色。腹部を抑えて、身体を縮めている。
何が起こったのかわからないが、ひとみは梨華を強く抱きしめて叫んだ。
「誰か! 救急車! 誰か!」
ひとみの声を聞きつけて、大勢の生徒たちが廊下の角に集まってきた。
「梨華! しっかりして! 梨華!」
気が狂わんばかりに叫ぶひとみの姿を見るのは、その場にいた全員の生徒が初めてであった――。
梨華は、学園からそう遠くない医科大付属病院へと救急車で運ばれた。
胃潰瘍を患う一歩手前の状態で、命に別状はないものの3日程度の入院が必要となった。
「ストレスか……」
知らせを受けてすぐに病院に駆けつけた紗耶香は、先に来ていた藤村から事情を聞き表情を曇らせた。
「精神的にもお仕事で肉体的にも、さぞお辛かったんでしょう」
「――ひとみは?」
「ここへ運ばれてから、ずっと石川様のお側に」
「……そっか」
「入院の準備などがございますので、少しお屋敷のほうに戻らさせて頂きますが」
「あ、うん。頼むね」
「では」と、藤村は一礼して去っていく。
――病室のドアをノックする音。
薬によって眠らされている梨華を起こさないように、ひとみは静かにドアへと歩いた。
ドアを開けると、そこに紗耶香が立っていた。いつか来ると予想していたので、特に驚くこともなかった。
「石川の具合……、どう?」
ひとみは、何も言わずに視線だけで促した。
「……ちょっと、いいかな」
と、紗耶香も目でひとみを廊下に誘った。
「……」
心残りではあったが、安静状態を強いられている梨華の周りで声を聞かせるのも悪いので、黙って廊下に出て行った。
「救急車が来てたのは知ってたけど、まさか石川だったなんてさ」
紗耶香は、廊下の窓外に見える中庭を眺めながら言った。
「……ストレス性の胃炎だって」
「……」
「――あの時、ひとみがなんで石川のこと引きとめたのか、アタシにはわかんない。――でも」
紗耶香は、口をつぐんだ。
「……あの家から、追い出すって言いたいの?」
ひとみは、強い視線を向ける。
「追い出すんじゃないよ。たださ、もうあの家にいなくてもいいんじゃないかって言ってんの」
紗耶香は、軽い微笑を浮かべていた。その微笑が、ひとみにはなぜか苛立たしかった。
すべてを悟ったような、その微笑が――。
「父さんが帰ってくるまでは――って、アタシも思ってたんだけど。もう、いいんじゃないかな」
「また、金で解決するつもり……」
と、ひとみは嘲笑した。
「それじゃ、たぶん石川が納得しない」
「言われなくてもわかってる。姉さんより、アタシの方があの子と一緒にいた時間が長い」
「あ、うん。そだね」
ひとみは、舌打ちのようなため息を吐くと紗耶香から目をそらした。
「だから、とりあえず家と新しい学校を手配する事にして、それらにかかった費用なんかはウチが立て替えて、
返せる時に返せる額だけ払ってもらうってのはどうかな。これだと、石川に変な気を使わせることもないだろうし」
「あんなのが1人で生きていけると思ってんの?」
「……どういうこと?」
「お人よしでおせっかいで、そのくせ世間知らず。どっかのバカに利用されるのが落ち。――けっきょく、姉さんは父さんと一緒。
慈悲の目を向けながら、そのくせ何も本質を見ようとしない」
「……」
「……」
しばらく無言の時が流れた。
病院内にいくつもあるはずの生活音はまったく届いていないかのように、2人はそれぞれの内なる世界に入り込んでいた。
その女性は、紗耶香が病院の敷地を出たところからずっと一定の距離を開けて後を尾けていた。
ほんのちょっとしたイタズラ心。いつ気づくだろうと、楽しみにしていたのだが紗耶香は一向に振り向く気配がなかった。
このままだと、駅とは随分離れてしまうと考えた女性は、タッタッタと軽い足どりで紗耶香へと駆けていった。
『紗〜耶〜香』
ちょうど信号で立ち止まった紗耶香を、後ろから手を伸ばしてその視線を塞いだ。
一瞬、ビクッとした紗耶香だったがすぐにその声でわかったのだろう。
「あのね、なっち」
「なんだ、バレてたんだ」
「声ぐらい変えたら」
と、紗耶香は安倍なつみに振り返った。
「へへ。そだね。今度からそうするよ」
なつみは、イタズラっぽく笑った。紗耶香は正直なところ、かなり落ち込んでいたのだが、
なつみの笑顔を見てスッと心が軽くなったような気がした。
「なんか、あった?」
「え?」
「いつもの紗耶香っぽくないね。なんか悩み事?」
紗耶香はそれには答えず、青信号となった道路を歩きはじめた。
なつみもあわてて後を追う。
悩みなのかどうなのか、紗耶香にはわからなかった。
ただ、ひとみにいわれたあの言葉が重く心にのしかかっていた。
”父さんと一緒” ”何も本質を見ようとしない”
なつみの顔を見た瞬間、そのことを忘れてしまった自分。
やっぱり、ひとみの言う通りなのかもしれないと紗耶香は、歩きながら考えていた――。
病院の個室。
窓から差し込む夕日がきつくなり、ひとみはカーテンを閉じた。
ひっそりと静まり返った病室には、梨華の寝息だけが聞こえていた。
「……」
ひとみは、窓際から眠っている梨華をただ見つめる。
穏やかな寝顔。
ほんの少し微笑んでいるような――、何か良い夢でも見ているのだろうか――。
その寝顔を見つめていると、いつの間にかひとみの顔にも自然な笑みがこぼれていた。
梨華のまぶたがゆっくりと開き始め、ハッと我に帰ったひとみは、素早く窓の外に目をやろうとした。
しかし、そこにはカーテンが引かれている。
目のやり場に困り視線を漂わせていると、目覚めた梨華とバッチリ視線が合ってしまった。
梨華はしばらく状況が理解できなかったのだろう。ひとみをジッとベッドの上から眺めていた。
何か声をかけなければと、ひとみが考えている間に、梨華は怯えたように辺りを見渡した。
「ど、どこ……、ここ……」
シーツを掴んで視線だけをキョロキョロと動かすその仕種に、ひとみはただ見惚れていた。
「ねぇ、どこなの……」
「かわいい」
「……へ?」
「……は?」
ひとみは、ハッと我にかえった。
言ってしまった!
心の中で考えていたことを、つい口に出して言ってしまった。
梨華の動作を見ながら、ぼんやりと考えていたことを――。
ひとみの顔は、見る見る内に真っ赤になった。
「かわいいって……何が?」
と、梨華はまた辺りをキョロキョロと見渡した。
見渡してもどこにもかわいいものなどは存在しないのを、言い訳を考え一足先に辺りをうかがったひとみにはわかっている。
「あんた、ホントにバカだよね」
腹を決めて、いつものペースに戻すことにした。むろん、まだ平常心は取り戻していない。
「病院……?」
「そう。学校で倒れてね」
「そっか……」
「ストレス性の胃炎。もう少しで胃潰瘍になるところだったって」
「……」
うつむいた梨華が、さっきの言葉を気にしていないようだったので、ひとみはホッとした。
髪をかきあげながら、平常心が取り戻されつつあるのを認識する。
だが、平常心が戻りつつあるのと同時に梨華に対する懺悔の気持ちが沸きあがってきた。
紗耶香の言うように環境が原因で、梨華はストレスを感じていたのかもしれない。
しかし、その大きな原因は自分にあるとひとみはそう思っていた。
今度こそ、このままでは本当に梨華が家を出ていってしまうかもしれないと不安になった。
「その……」
うつむくひとみとは反対に、梨華が顔を上げる。
「別に……、そんなつもりじゃなかった……。学校でのこと」
「……」
「……」
ひとみは、言葉に詰まった。素直になれない自分がとてももどかしかった――。
そんなひとみを見かねたのか、梨華がクスリと笑う。
「……?」
「もう、いいよ」
「え?」
「その代わり、呼び捨てにしないでよ。あなたより、私の方がほんの少しお姉さんなんだから」
と、梨華は微笑んだが、ひとみにはその意味が分からなかった。
「梨華。しっかりして――って……」
あ……。
ひとみは、思い出した。つい、無意識にそう叫んでいた事を――。
「あ、あれは――」
と、ひとみは顔を真っ赤にする。
梨華はシーツで顔を隠しながら、クスクスと笑った。
たった3日の入院だったが、梨華にとってはとても有意義なものだった。――反面、悲しい事もあった。
有意義なのは、ひとみがほぼ毎日24時間ずっと付き添ってくれた事で、
それだけでも梨華にとっては驚きだったのだが、もっと驚いたのは優しく接してくれたことであった。
病人だから当たり前なのかも知れないと思った梨華だったが、素直にひとみのたどたどしい優しさはとても嬉しかった。
その優しさに触れたことだけでも、とても有意義な入院生活だったと思わなければならない。
悲しいのは、あの紗耶香がただの1度もお見舞いに訪れてくれなかったことである。
藤村から聞いて、入院した当日に来てくれたのは知っていたが、梨華の眠っている間のことであり、
梨華は退院するまで直接、紗耶香に接する事はなかった。
「どうしちゃったんだろう……」
梨華は、病院の個室で帰り支度をしながらそう呟いた。
わずか3日間の入院なので、荷物も小さな紙袋で済む。
しかし、さきほどから紗耶香のことばかりを考えているので、その作業は一向にはかどらなかった。
藤村とひとみが病室を出て行って10分。
病室のドアがノックされた。
「あ、はい」
ハッと我にかえった梨華は、帰り支度がほとんどできていないことに気づきあわてて手を動かした。
藤村が退院手続きを終えて戻ってきたのか、それともロビーで待つのに痺れをきらしたひとみが呼びに来たのか――
どちらにせよ梨華は焦った。
『あの……』
と、女性の声が聞こえ、梨華は「?」と振りかえった。
梨華の知らない女性が、少し緊張した面持ちで立っていた。
「あの、石川梨華さんですよね?」
と、女性はドアにあるネームプレートを確認しながら言った。
「あ、はい」
「はじめまして。わたし、安倍なつみって言います」
「はじめまして……」
と、挨拶はしたもののその女性に梨華はまったく見覚えも心当たりもなかった。
なつみは、ただニコニコとその場に立っていた。
「身体の方、もう大丈夫ですか?」
両手を後ろに回して、笑顔で首を傾げるその姿。ひ
とみが冷笑を浮かべて髪をかきあげるように、なつみのその仕種はその容姿に見事にマッチしていた。
「あ、はい……」
梨華の頭の中では、誰なんだろうという疑問が駆け巡っていた。
白衣を着ているが、医者にしては若すぎる。いったい、誰なのだろうか? 梨華の記憶の中に、その女性は存在しなかった。
なつみもきょとんとした表情浮かべている梨華を見て、不思議な感じがしたんだろう。
「え? 紗耶香の知り合いですよね?」
「紗耶……香?」
「市井紗耶香」
「あ――、はい。知ってます」
と、梨華は作業したままの手を引っ込めて、なつみに向き直った。
「あれ? なんか、おかしいなぁ」
なつみは、困ったように笑いながら頭を掻いた。
――互いの話を総合すると、どうやら紗耶香から梨華に自分の存在を知らされていると、なつみは勘違いしてたらしい。
だが、梨華は今まで1度もその名前を聞いた事がなかった。
「わかんないよねー、ごめんね。だって、お見舞いに行っていいって聞いたら、紗耶香がウンって言ったから、
てっきり私のこと話てると思って。うわー、恥ずかしいね」
なつみは、笑いながらも顔を真っ赤にしていた。
――遅い。
ひとみは1Fのロビーで、足で苛立ちのリズムを小刻みに刻みながら待っている。
玄関先に回した藤村の運転するハイヤーが見え、ひとみはもたれていた壁から身を起こした。
『ごめん。待った』
声のする方向に視線をやると、梨華が紙袋を両手に下げバタバタと走ってきていた。
「たった、こんだけの荷物でなんで30分もかかるわけ?」
と、ひとみは少し拗ねたように梨華から顔を背けた。
「ごめん……」
「――はい」
ひとみが梨華の顔を見ずに、手を差し伸べる。
「――荷物」
「あ、いいよ。これぐらい、自分で持てる」
「いいから」
と、ひとみはまるで奪い取るかのように、梨華の荷物を両手に下げて歩いた。
このたどたどしい優しさが、あれ以来ずっと続いている。
顔を見ないのは照れているからであり、その証拠にひとみの耳が真っ赤になっている。
梨華は入院生活を通して、ひとみの可愛い一面を理解する事ができた。
――と、ぼんやりしてるとまたひとみに怒られそうな気がしたので、梨華はあわててひとみの後を追いかけた。
たどたどしい優しさはあったものの、あいかわらず毒舌は健在だった。もっとも、毒舌というよりも叱られているに近かったのだが。
(これじゃ、どっちが年上なのかわかんないよ)
梨華は苦笑しながら、ひとみの後をパタパタと追いかけた。
繁華街の裏路地にある、小さな飲み屋が軒を連ねた通りを地元の人間は「千鳥横丁」と呼んでいた。
その一軒の小さなスナック「真美」から、真希が出てくる。
浮かない顔でドアの中を、振りかえる。
2階住居に繋がる階段の下には、真っ赤なピンヒールと履き古した男物の革靴があった。
「……」
真希はその2つの靴を、いや、片方の赤いピンヒールを冷たい目で見下ろすと、おもむろにドアを強く閉めた。
2階からかすかに聞こえてきていた情事のそれも、ドアを閉めると同時に聞こえなくなってはいたが、
真希の耳にはいつまでも木霊している。
いつもの事であり、もう慣れているはずだと自分に言い聞かせながら、「千鳥横丁」をフラフラと歩いた。
その目は特にどこも見ておらず、何度かすれ違う通行人とぶつかりそうになったが、
真希の目には何も映っていなかったので気にならなかった――。
梨華のクスッという笑いに、ひとみがすぐに反応して振りかえった。
市井家にある自分の部屋のベッドに腰掛け、梨華はクスクスと笑っていた。
「……なに?」
と、カーテンを開けに行っていたひとみが、いぶかしげに呟く。
「あ、ううん。ちょっとね」
「気持ち悪い。ちゃんと、言って」
「あのね――、ここに帰って来た時にね、なんかすっごいホッとしたの」
「……それって、そんなにおもしろい?」
「だって、ついこの前まで私、ここにいるの嫌だって言ってたんだよ」
と、梨華は終始クスクスと笑っていた。
「ああ、言ってたね」
「なのに、ホッとしたのが可笑しくて」
梨華の笑顔を見ているひとみにも、自然と笑みがこぼれた。
そんな風に考えてくれるようになって、ひとみは内心ものすごくホッとしていた。
「人の気持ちって、いろんな風に変わるんだね」
梨華の何気ない一言で、ひとみは急に現実に引き戻されたような気がした。
真希の顔が頭をよぎり、罪悪感のようなものがこみ上げてきた。
今まで忘れていた。いや、忘れていたというよりも、忘れようとしていた。
梨華の事で頭の中をいっぱいにして、その存在を自分の中から押し出そうとしていたのだ。
だが、ひとみの中に真希の存在は強く残っていた。
真希を自分のものにしたいと思ったのは、恋愛感情や同情ではなく、姉の紗耶香に対する嫉妬からだった。
その罪悪感を認めることができず、ひとみは真希と付き合っていた。
「どうしたの?」
顔を上げたひとみの目に、いつの間にか側に立ち、心配そうな表情をしている梨華が映った。
その純粋な瞳に映る自分が、とても不純なように思えてひとみは思わず目をそらした。
梨華の眼差しを正面から受け止めたい。
そのためには、不純な気持ちのまま向き直るべきではないと、ひとみは考えはじめた――。
――コンコン。
ドアがノックされた時、紗耶香はちょうどシャワーを浴びて髪を拭いていた。
誰だろう。こんな時間に……。
壁の時計は、もう24時を回っている。
寝静まったみんなを起こさないように、静かに帰ってきたつもりだったが――。
藤村でも起きてきて説教が始まるのかと、紗耶香は少々ウンザリとしながら部屋のドアを開けた。
「石川……」
ドアの前に立つ梨華の姿を見て、紗耶香は素っ頓狂な声を出した。
「あ、あの、遅くにすみません」
と、梨華は素早く頭をさげた。
「いや、別にいいけど……。あ、そうか、今日、退院の」
「あ、はい……」
梨華の声は、まるで呟きのように小さく落ち込んだ。退院の日すら、覚えられていないのがショックだった。
「……あ、その、ゴメン。見舞いとか、ぜんぜん行けなくて」
梨華がショックを受けた事は、紗耶香にもハッキリと伝わった。
無意識なのだろうが、梨華の心情は声や表情に表れていた。
「ちょっと風邪ひいたみたいでさ、移しちゃ悪いと思って……」
と、鼻をぐずらせた。適当な言い訳ではなく、風邪を引いたのは本当の事だった。
「藤村にバレるとうるさいしさ。ほら、夜遊びばっかりするなって。別にしてないんだけどね」
紗耶香の笑みを含んだ話を聞いて、梨華にもようやく笑顔が戻る。
「で、どうした? こんな時間に」
「あ、あの、今日、安倍なつみさんって方がお見舞いに来てくれて」
「え? 今、なんて言った?」
「安倍なつみさん……?」
「なっちが?」
なっち。
そう言えば、自分の事をなっちと呼んでいたことを梨華は思い出した。
「退院祝いにって……、鉢植えをもらったんです……」
と、梨華は後ろ手に隠していたピンク色の小さな鉢植えを紗耶香に見せた。
「あ……、これ……」
紗耶香には、その鉢植えの花に見覚えがあった。大学の片隅にある花壇で、なつみが育てていたパンジーだった。
いろいろな花を、なつみは育てていた。中学・高校時代も――。
紗耶香が初めてなつみと出会ったのも、中学校の花壇であり、その時もなつみはパンジーの世話をしていた。
紗耶香はその光景を今でもハッキリと記憶している。
母親が死んで1週間が経過し、久しぶりに学校に向かった日。
授業は耳に入らず、友達の心配する声も気休めにもならなかったあの日。
夕暮れの校舎をフラフラとさ迷い歩きながら、フッとたどりついた校舎脇の花壇。
そこに、なつみがいた。
花に話かけるその姿は、生前の母親を思い出させた。
容姿こそ正反対に違えど、その発する雰囲気がよく似ていたのである。
市井家の庭園で、母親はいつもそうやって花に話かけながら草花に水を与えていた。
その姿がなつみとシンクロして、紗耶香はしばらくその場から動けなかった。
「市井さん、学校に来るの久しぶりだね」
いつ頃から気づいていたのか――、突然、自分の名前を呼ばれて紗耶香はわれに帰った。
「あ……、私のこと……」
「知ってるよ。だって、有名人じゃない」
”有名人”その言葉をもしも他人が言っていたら、紗耶香はきっとムッとしていたかもしれない。
有名なのは自分じゃなくて、母親に気苦労をかけっぱなしだったどうしようもない父親であり、
そんな内情を知らずに地方の名士というだけで有名人扱いする他人を、紗耶香は徹底的に軽視していた。
だが、なぜかなつみからは嫌な印象を受けなかった。
そう言った時のなつみの笑顔の印象があまりにも強くて、
自分の中の父親に対するわだかまりが薄れてしまっていたのかもしれない。
「花もね、楽しい時と悲しい時があるんだよ」
と、なつみは花壇の脇にしゃがんだ。紗耶香はまるで吸い寄せられるように、なつみの元へと赴いた。
「でもね、誰かが気づいてあげないと花はその気持ちを伝えることができないの」
「……」
「人間も同じかもしれないけど、気づいて欲しい時は知らせる事ができるじゃない?」
と、微笑みかけたなつみ。
なぜか、紗耶香の目から涙があふれた。
その理由は今も分からない。
ただ、なつみの前ではすべてをさらけ出していいような気がした。
それまでただの1度も他人の前で涙を流した事などなかった紗耶香が、初めて他人の胸の中で大泣きした。
――あの時のパンジー……。
紗耶香は、梨華の手の中にある小さなパンジーを見て心が温かくなった。
「市井さん?」
梨華の声で、紗耶香はわれにかえった。
「どうしたんですか?」
「あ、ううん。なんでもない。――そっか、なっちが見舞いに」
「あの、それでこれ」
と、梨華がその小さな鉢植えを差しだした。
「?」
「こっちがいいですか?」
と、後ろに隠していたもう1つの手を差しだした。青い色の小さな鉢植え。
「1つは市井さんに渡してって、頼まれたんです」
1つはピンク。1つは青色。
なつみには、自分がどちらを選ぶのかが分かっているはず。
そして、次に会ったときにあの笑顔を浮かべて言うのだ。
”青い鉢植え、選んだでしょ”――。紗耶香にも、なつみの考えている事は分かった。
紗耶香は、クスリと笑って青い鉢植えを選んだ――。
翌日。
身体の方はもうすごぶる順調だったが、藤村や紗耶香に止められてもう1日だけ大事をとって学校を休む事になった。
ひとみもさも当然のように自分も学校を休むつもりでいたが、
藤村の「お嬢様、私が旦那様に叱られます」との涙ながらの訴えに渋々学校へと向かった。
紗耶香もひとみもいない市井家で過ごすのは、梨華にとって初めての経験だった。
身体の調子が悪ければ、その1日を寝て過ごしていればよかったのだが、眠るのがもったいないほど体力も気力も充実していた。
「何しようかな〜……」
指を口元に当てて、窓の外に目をやる。
ちょうど、出窓に飾ってあるピンクの鉢植えの花が視界に入った。
昨夜はそれを口実に、紗耶香と少し話をしたかったのだが、紗耶香が風邪をひいていると言うこともあり、
あのあとすぐに部屋を後にした。
「市井さん……、大丈夫かな……」
今朝の紗耶香は、調子が悪いのに無理をしているように梨華の目には映った。
なんでもないかのように振る舞い、藤村も家政婦も気づいていないようだったが、
なんとなく梨華には紗耶香が無理をしているように感じられた。
「そうだ」
梨華は、両手をパチンと叩き、部屋を駆け出していった。
姉の紗耶香を、学食から戻る途中で見かけたひとみは、その様子がおかしいことに気がついた。
いつものように、紗耶香の周りには友達と呼ぶよりも取り巻きに近い連中が数人ほどがいる。
紗耶香は彼女たちの話を笑顔を浮かべてうなずいているのだが、ひとみにはどこか虚ろな感じに見えた。
通りすぎる際に、チラリと目があった。
その目は少し赤く充血していて、顔もほんのりと赤くなっている。
ひとみに軽く微笑みかけて通りすぎていったが、ひとみはそんな余裕もないだろうとどこか皮肉っぽく心の中で嘲った。
ほんの少しの間だけ、頭の中から真希の存在を消すことができたが、
視界から紗耶香の姿がなくなった今、ひとみはまた真希のことを考えた。
別れを切り出さなければならない――。
だが、それをどう切り出せばいいのか考えあぐねいていた。
恋愛感情はないが、他の者に抱いているような嫌悪感はない。
どちらかに分類すると、真希は”好きな方”であった。
できれば、ずっと友達のような関係でいたいのだが、
それをつまらない対抗心や嫉妬で壊した自分にはそんな関係を望む権利はないように思えた。
――ひとみは、沈んだ気持ちで真希の携帯へ電話をした。
梨華は市井家をこっそり抜け出して、ドラッグストアへとやって来ていた。
風邪をひいた紗耶香のために、風邪薬を買いに来たのである。
それぐらい、市井家にもあるはずであり、ましてや市井家は病院を経営しているので、
わざわざ風邪薬など買い求めなくても、連絡をすればすぐに往診にも来るだろう。
だが、梨華はそんな事は考えもしなかった。
学園での昼食が終わる頃を見計らって、風邪薬を届けてあげようとしか考えていなかった。
「どれにしようかなぁ……。眠くならないやつがいいよね。でも、薬って意外と高いなぁ……」
ブツブツ小さな声で先ほどからもう数十分も品定めをしていた。
『石川さん?』
品定めをしている梨華の背に、女性の声が届いた。
振りかえると、そこに梨華がアルバイトをしている喫茶店”シャトレーゼ”の女主人が立っていた。
白い制服の上に、薄手のカーデガンを羽織っている。仕事の合間に買い物に来たのだろう、そんないでたちだった。
「店長。あ――、おはようございます」
梨華は、手にしていた風邪薬を棚に戻して頭を下げた。
「具合、どう? 大丈夫?」
「あ、はい。もうすっかり良くなりました。あの、長い間休んでご迷惑おかけしました。
あの、明日からは働けるのでよろしくお願いします」
と、梨華はもう1度深く頭を下げた。
「迷惑だなんて、そんな」
女主人は、梨華の今時の高校生らしからぬ律儀な振る舞いに苦笑した。
「紗耶香さんも、よく働いてくれてるから大助かりよ」
「――え?」
と、梨華は下げていた頭を上げた。
「――? 聞いてないの?」
「何を……ですか?」
「石川さんが入院した日に、紗耶香さんが店を訊ねてきてね、退院するまでの間、石川さんの代わりに働きますからって」
「市井さんですか? 市井紗耶香さん?」
「ええ。びっくりしたわよ。あの市井のお嬢様が働かせてくださいなんて言ってくるから。最初は冗談かと思ったわ」
と、女主人は微苦笑しながら近くの棚にあった商品を手にとって眺めた。
(なんで……、市井さんが……)
梨華は当初の目的も忘れで、ただその場にぼんやりと佇んだ。
高校には通わず、日がな一日をブラブラしている真希には時間は有り余るほどであった。
昼間、ぼんやりと街を歩いているときにひとみから電話がかかってき、
待ち合わせの時刻までにはまだ3時間ほどあったのだが、真希は電話をきるとすぐに駅前のモニュメントへと向かった。
どんな理由なのかは分からないが、それでもひとみから「会おう」と誘われたことが真希にはとても嬉しかった。
あの日、駅近くで喧嘩別れのような別れ方をして以来、ひとみと会う事はなかった。
1度、市井家に訪れたもののそこにひとみの姿はなく、代わりにちょうど帰宅した紗耶香と時間を過ごしてしまった。
かなりの時間を待ったのだが、けっきょくひとみと会う事はできずにそれきりとなった。
会おうと思えばいつでも会えたのだが、中途半端な気持ちのままでひとみと会う事はなんだかひとみに失礼なような気がし、
この10日間あまりを自分の気持ちと向き直るために費やした。
自分はいったい、ひとみと紗耶香のどちらが好きなのか――。
答えは出なかった。
出なかったが、ひとみからの誘いはその迷いを吹き飛ばす強い風のような気がする真希であった。
放課後。
ひとみはまたも、バレーの練習をサボった。梨華が倒れてからというものの、1度も練習には行っていない。
だからといって、監督である教師に注意をされることもなければ、チームメイトに練習に出るように誘われることもなかった。
ひとみが扱いにくいという理由もあったが、誰しもがひとみの才能を認めており、
ほんの数日ぐらい練習を休んだからといってその技術が廃れるものではないと知っていたからである。
ひとみは、練習をサボって待ち合わせ場所に指定した駅前のモニュメントへと向かっていた。
ほんの少し、待ち合わせ時刻よりも早くついたにもかかわらず、もうすでに真希はモニュメントの前で待っていた。
なんとなくわかっていたことではあったが、できれば今日だけは真希を待ちたい気分であった。
待ちながら、もう少し考える時間がほしかった。
どんな風にすれば、真希を傷つけることなく別れることができるのだろうか……。
梨華は、喫茶店「シャトレーゼ」から少し離れた場所、店内にいる従業員達に見つからない場所に、
ひっそりと身を隠してその人物が現われるのを待っていた。
正確には、現れないことを願っていたのかもしれない。
(市井さん……)
梨華は、ドラッグストアのビニール袋を胸に抱いた。
紗耶香が自分のために働いてくれているなど、まったく考えていなかった。
そればかりか、入院中にお見舞いに来てくれない事をほんの少しではあるが、”冷たい”と感じた。
喫茶店の女主人からその話を聞かされた時、梨華はそれでもまさかそんな事があるはずがないと否定した。
予備校や受験勉強などで忙しい紗耶香が、わざわざ貴重な時間を割いてそんな事するはずがないと――。
ましてや、風邪気味で今日も少しフラつきながら家を出たのだ。
現われるはずがない……。
きっと、何かの間違いだと――そう、思いたかった。
――止まらない予感がしていた。
同情で自分の代わりに働いてくれているのは、梨華は十分承知している。
だからこそ、現われてほしくなかったし、否定のしようがないものを必死で否定している。
紗耶香の優しさが、梨華には辛い。
紗耶香に対して何の感情もなく、ただの友達または先輩に抱くような感情ならば、ただ感謝するだけでいい。
「ありがとうございました」とお礼を言えばいいだけだ。
しかし、梨華はもうすでに気付いてしまっていた。
出会った頃から、市井紗耶香という女性に恋愛感情を抱いている事を――。
今まで気づかないフリや、考えないようにして、誤魔化してきたが、
もしも紗耶香が現われればその感情を押さえ込む事ができなくなってしまうだろう。
報われないとわかっていながら、紗耶香への気持ちを止められなくなってしまう。
(来ないでください……。市井さん……)
うつむきながら、梨華は心の中でぽつりと呟いた。
通りのずっと先に、喫茶店「シャトレーゼ」へと向かって歩いてくる紗耶香を見つけた時、梨華はもう涙を流していた。
否定しながらも、絶対に現われる事はわかっていた。
なぜなら、梨華は紗耶香のそんなところを好きになってしまったのだから――。
咳き込み、立ち止まる紗耶香を見たとき、梨華の身体は反射的に通りへと飛び出していた。
「あれ……? 石川。何やってんの、こんな所で」
咳き込み涙目になった紗耶香は、それでもいつもの笑顔を浮かべて、
自分の目の前へと突然駆け出してきた梨華に声をかけた。
梨華は、そんな紗耶香を見ただけで涙を止めることができなかった。
「な、なに……? どうしたの……?」
そう言って微笑みながら、梨華に触れようとした紗耶香の手がスッと宙を舞う。
と、同時に梨華の胸へと紗耶香が倒れ込むようにしてもたれかかってきた。
「い、市井さん!」
「あ……、ごめん……」
身を起こそうとした紗耶香だったが、梨華はその身体をギュッと抱きしめた。
「石川……」
抱かれたまま、紗耶香は梨華の耳元で苦笑しながつぶやいた。
「あ……、ありがとう、ございました……」
梨華は、声をしゃくりあげさせる。
「……は? なに……? 急に……」
「私、ぜんぜん気付いてなくて、市井さんお見舞いに来てくれないのも、
私のことなんてどうでもいいから来てくれないんだって思ってました。ごめんなさい。ごめんなさい」
抱きしめた紗耶香の体温は、もうすでに肉体的には限界に近いように感じられた。
ここまで歩いてくるのも、並大抵の気力を要するだろう。
梨華はよけいに涙を止める事ができなかった。
「……なんだ。……バレてたのか」
「ありがとうございました……」
「ハハ。カッコ悪いなぁ……」
紗耶香は、梨華の泣いている声をすぐ耳元で聞きながら微笑んだ。
――行き交う人々を喫茶店の窓ガラスごしに眺めながら、
ひとみはもうすっかり冷えてしまい残り少なくなったレモンティーを一気に飲干した。
向かいの席に座っている真希も、さきほどからひとみの様子がいつもと違うことを敏感に感じとっている。
強い風――、きっとそれは吹かない。
そう、予感していた。
「ごっちん……」
ひとみは窓の外に顔を向けたまま、今までに真希が聞いたことのないような弱々しい声を発した。
「……なぁに?」
「……」
「……言いたい事があんなら、はっきり言って」
真希は、ひとみとは反対に少し強い口調で言い放つ。
「……」
ひとみが、神妙な顔をして真希へと向き直った。
こんなにも緊張したひとみの姿を見るのも、真希は初めてだった。
心の整理ができそうになかった真希は、あわてて今度は自分が窓の外へと視線を向けた。
「……好きな人ができた」
「……」
「たぶん……、好きなんだと思う……」
「……」
真希は、チラリとひとみに視線を向けた。うつむき、テーブルの上に置いた指を絡ませながらのその姿は、
ひとみが本気の恋をしているのを十分過ぎるほど理解できる仕種だった。
「わからないんだ……、自分でも……、でも、たぶん……好きなんだと思う……」
「そんなこと、アタシに言われても……」
「……そうだよね」
2人は、そこでまた黙りこくった。
店内に流れる軽快な音楽が、よけいに次の会話へのタイミングをなくさせる。
恋の歌だった。恋する少女の前向きな気持ちを、軽快なメロディにのせて最近人気の出はじめたアイドルが歌っていた。
その歌が終わって、次の曲がかかるまでの刹那の時間、店内にも静寂が広まった。
「別れよう」
次の曲のイントロダクションが流れ始めるのとほぼ同時に、ひとみの声が真希の耳に届いた。
やはり、風は吹かなかった……。
真希は心の中で、小さな花が朽ち果てていく場面を想像した。
いつか見た名前の知らない小さな花は、やはり誰にも知られることなく朽ち果てていくだけなんだと悲しい気持ちになった。
「お互い、こんな気持ちのまま続けてたっていい事ないよ」
「……」
「ごっちんは、姉さんのことが好きなんだし」
「ずるいよ……」
真希が、涙を溜めた目をひとみに向ける。その目はいつものぼんやりとしたどこを見ているのかわからないような視線ではなく、
あきらかに強い怒りの感情をもった目であった。
「よっすぃが、アタシのこと好きだって言ったんじゃん」
「……」
ひとみは、真希の姿を正視する事ができなかった。だが、逸らす事もできなかった。
ただただ、その視線に耐えるしかない。そう。すべては自分のつまらない嫉妬から始まったんだ――。
「嬉しかったんだよ。本当に嬉しかった」
「ごっちん……」
真希の顔が見る見るうちに、涙でぐしゃぐしゃになった。
「こんなどうしようもないアタシでも、好きだって言ってくれて。本当に嬉しかったんだよ」
「……」
「アタシの中には、今でもいちーちゃんがいるよ。でも、好きだって言ってくれたよっすぃの方が、私の中では大きいんだよ」
ひとみの決心は、揺らぎそうになった。だが、真希に対しては恋愛感情というよりも友情に近い感情しかないのは、
もう随分前から答えが出てしまっている。
また、同じ事の繰り返しだ――。梨華の顔が頭に浮かび、ひとみの揺らぎかけた決心はなんとか元に戻る事ができた。
「もう、決めたんだ」
「やっぱり、アタシが水商売なんかしている家の子だからダメなの? 高校に行ってないからダメなの?」
「そんなこと、誰も言ってない」
「いちーちゃんのことは、忘れるから。絶対に忘れるから」
「もう、アタシに遠慮する事ないよ……」
ひとみは、オーダーシートを手にとって席を立った。
これ以上は、何を話しあっても無駄なような事に思えた。
結局、別れても以前のような関係でいたいと望んだのは、都合がよすぎたんだ――そんな考えを持っていた自分を嘲った。
『いちーちゃんには、他に好きな人がいるんだよ』
立ち去ろうとしたひとみの背に、真希の涙声が届いた。
(好きな人……)
ひとみの脳裏に、一瞬、梨華の顔が浮かんだ。
梨華が戻ってきたあの日、紗耶香は泣いている梨華を抱きしめた。
大広間でも――、夜の坂道でも――。梨華が危険な目に遭いそうな時、いつも紗耶香が現われていた光景をひとみは思い出した。
(まさか……)
ひとみの心の中は、嫉妬の炎で焼け焦がれそうになった。
『もう、何年もずっと。いちーちゃんの中には、あの人がいるの。アタシが入りこむ隙間なんて、どこにもないの』
(何年もずっと……)
真希のその言葉を聞き、ひとみの嫉妬の炎は別のものにすり替えられた。
ひとみはまったく気付いていなかった。あの姉の紗耶香に、もう何年も想いを寄せている人がいる事を――。
今までどうして、その事に気づかなかったのかが自分でも不思議だった。
自分と同じように父親に嫌悪を抱き、男性そのものを愛せなくなったのか分からないが、
確かに紗耶香には男性の影がなかったかのように思う。
女子高という閉鎖的な点を除いても、ルックス・性格を考慮して男性の影がなかったのは、よくよく考えれば不思議な事であった。
ただ気づかなかっただけかもしれない。
ひとみは、そうも考えた。
いつの頃からかひとみは、姉の紗耶香を視界から消していたので、それほど姉の事について詳しく知っているとは言いがたい。
だが、姉が何年も恋をしていようが、それが男なのか女なのかひとみにはどちらでもよかった。
それが、梨華でさえなければ――。
『よっすぃ……、1人にしないでよ……』
「ごめん。ごっちん……。アタシは、姉さんが羨ましかっただけなんだ……。姉さんの大切なものを、奪いたかっただけなんだ」
真希の嗚咽する声を背に受けながら、ひとみは感情を忘れたただのアンドロイドのようにその場を去った。
怨むのなら、怨んでくれればいい。”良い人”で去るつもりはなくなっていた――。
むしろ、”怨むべき相手”として認知される方が、今の自分にとって最適なのではないか――。
ひとみは、無関心・無表情のまま、そうした態度を装いつつ、真希の残る喫茶店を後にした。
藤村はその様子を、開け放たれた大広間から眺めていた。
書類の小さな文字を追うことに疲れて、小さなため息混じりに顔を上げると、かいがいしく動き回るその少女が飛び込んでくる。
その少女の動きは、かつてここにいた1人の女性を思い出させた。
もう遠い記憶の中の断片にしか残らないので、本当に似ているのかは断言できないのだが、
梨華の持つ雰囲気とかつてここに家政婦として働いていた女性の雰囲気はとてもよく似通っている事だけは断言できる。
家政婦としてはあまり要領の良い方ではなかった。だが、それを補う努力は、その当時の市井家で働く者全員が認めていた。
藤村は、おかゆらしきものが入った土鍋を2階へと運んでいく梨華の様を眺めながら、
当時の家政婦の姿と照らし合わせて妙に温かい気持ちになった。
と、同時に自分がもう随分と歳をとった事に気づいた。
執事であり、会計士であり司法書士でもある自分。
もう四十年以上を、この家で過ごしている。
隠居生活を夢見る事もあるが、なかなか市井家の者がそうはさせてくれそうにない。
――まだまだ、ボケるわけにはいきませんなぁ。
藤村は苦笑を浮かべながら、市井家の事業に関係する報告書に目を通した。
紗耶香は、ゆっくりと目を開けた。
そして、自分の額に濡れたタオルを当てようとしたなつみと――、いや、梨華と目があった。
「あ」
と、梨華は短い声を発して、遠慮がちに伸ばした手を引っ込めた。
伏し目がちにして、ゆっくりと一歩ほどベッド脇から遠のく。
紗耶香はその様子を、虚ろな瞳で見つめていた。
虚ろな意識で、どうしてなつみと間違えてしまったのか考えていた。
アルバイトで夜遅くまで働いていたため、もう何日も会っていない。
ただ、その姿が見たくて、その声が聞きたくて、梨華をなつみと間違えってしまったのだろうか……。
会いたい。
紗耶香の虚ろな意識は、そうした答えしか導かせなかった。
心細くなって、今にも泣き出してしまいそうだった。しかし、瞳そのものが熱を帯びているらしく、涙を流すことができない。
やがて、ふたたび熱で重くなった瞼を閉じて、深い眠りへと入った。瞼が閉じるほんの一瞬、梨華がハッとした顔が見えた。
そんなに、心配しなくていいよ……。
声に出したかったが、思考のパルスは神経には届かなかったようで、完全に意識はシャットアウトされた。
あの喫茶店を出てから、どうしても素直に家に帰ることができず、ひとみは夜の街を意味もなく徘徊していた。
真希の泣いている顔、叫びにも近い声、それらがいつまでも頭や耳に残る。
払拭しなければ、家には帰れないような気がしていた。
どこをどのくらい歩いたのだろうか、不意に裏通りへと出てしまった。
昼間とは印象が違うせいで、まったく知らない場所に踊り出たような錯覚に陥った。
冷静に辺りを見渡せば、そこが大通りから2本入った通りであることに気づいた。
大通りとは違って、静かで落ちついた店が並んでいる。
裏通り特有の陰鬱さはなく、どことなく静かな大人の雰囲気を醸し出している通りであった。
ひとみは、その通りを歩いた。
騒々しい通りを歩きながら考えれば、周りの浮ついた人物たちを見て苛立つだけである。
静かな通りを歩きながら、静かな気持ちで自分の中にある、わだかまりを払拭したかった。
――その店の前には、わずかだが人だかりができていた。
露店に毛の生えたような小さな雑貨店”アパール”。
そのショーウィンドウは、まるで季節はずれのクリスマスのように鮮やかに彩られている。
ひとみは、その前を通りすぎるつもりであった。
特に何も欲しい物はない。あるとすれば、物質的なものではなく今自分が抱えている問題の答えが欲しかった。
店の前を通りすぎようとした時、店のショーウィンドウの前に佇んでいたカップルがその場を離れた。
通りすぎるひとみの視界に、自然とそのショーウィンドウは入ってきた。
無国籍アイテムがうりなのだろうか。
ひとみには、ただの統一性のないインテリアやアクセサリーを並べてあるだけのように思えた。
だが、その中の1つのアクセサリーが目に入ったのと同時に、ひとみの足もピタリと止まった。
”ピンク色のカチューシャ”が、ショーウィンドウの端にポツリと置かれていた。
なぜ、そんなモノのために自分の足は止まってしまったのか。
ひとみは、ちゃんと認識していた。モノではなく、梨華の好きな”色”に反応して足を止めたことを――。
このカチューシャをプレゼントすれば、喜んでくれるだろうか?
足を止めたその格好のまま、ひとみは通りのずっと先を見つめながらそんな事を考えていた。
(プレゼント……?)
そんな考えを、一瞬でももった自分がおかしくなった。
柄ではないのは自分自身が一番よく知っている。
もし、これを渡したなら、梨華は変な目で自分のことを見るかもしれない。
その時、自分がどんな行動に出るのかは容易に想像できた。
きっと、冷たく嫌味を言い放つのだろう。自分の動揺を悟られないために、いつもよりずっと冷たい態度をとってしまうだろう。
梨華をただ戸惑わせてしまうだけで、贈り物などは逆効果のように思えた。
むろん、何かをプレゼントしただけで梨華が自分に抱く警戒心を解いてくれるなどとは考えなかった。
いつものように自分を嘲り、ほんの少し口元を歪ませてその場を歩き去ろうと思ったのだが、
なぜか足はそのショーウィンドウの前から動かなかった。
もう1人の自分が、必死でその足を止めていた。
素直になれ――と、もう1人のひとみがその足を止めていた。
薬のせいなのか、それとも熱のせいなのか分からないが、紗耶香は数時間前に1度目を覚ましたたきり、ずっと眠り続けている。
その寝顔を梨華は、もう何時間も眺めていた。
――看病のため、というのもあった。
今は、少し下がったみたいだが、いつまた熱がぶり返してしまうかわからない。
そのために、額に当てたタオルをこまめに取り替えたりしなければならない。
だが、それだけが理由でずっと紗耶香の寝顔を見つめているわけではなかった。
梨華はもう、自分の感情を素直に認めることにしたのである。
ただ「市井紗耶香」という世話になっている人を看病しているというだけではなく、やはりそこには愛する人を想う気持ちがあった。
――藤村は、ひょいと寝ぼけまなこをこすりながら顔を上げた。
大広間で仕事をしている内に、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
フッと、壁時計に視線を向けた。
もう、深夜12時を回っている。
「やれやれ……」
ほんの数年前まで徹夜ぐらいはなんでもなかったはずなのに――、
藤村は疲れた目を押さえながら苦笑した。
ひとみの帰宅には気づかなかったが、さすがにもう帰宅しているだろうと、藤村も就寝することにした。
やはり、使用人としては家の者が全員帰宅したのを見届けてからではないと休むことができない。
藤村は、大きな欠伸をしながら大広間を後にした。
――バタン。
大広間のドアを閉める前に、その音は藤村の後方から聞こえてきた。
「?」と振りかえると、ひとみがバツの悪そうな顔をして玄関に立っていた。
「ひとみお嬢様……、今、帰られたのですか?」
珍しいこともあるものだと、藤村は思った。
ひとみは、その性格に似合わずあまり夜に出歩いたりするような娘ではなかった。
いや、その性格故にだろう。その性格故に、あまり外に友人を作るようなこともしないので外には用がないのである。
反対に、誰しもが品行方正と褒め称える長女の紗耶香の方が、遅い時間に帰宅する頻度が高い。
本人は何もしていないと言い張り、藤村も信じてはいるのだが、
執事として家長の留守を守る身でもあるので注意しないわけにもいかない。
イギリスに留学する前も、帰国してからも、ほぼ毎日のように注意をしていた。
「どこか具合でも?」
ひとみに関しては注意をする以前に、その様子がいつもと少し違うことが心配だった。
だが、ひとみは何も答えずに、その場所を動こうとしない。
わざとそうしているかのように、視線を逸らしている。
それに、さっきから不自然に両腕を後ろに回していることも、藤村は気になっていた。
きっと、何かを後ろ手に隠してあるのに違いない。
それを見られたくないがために、そこを動かないようにしているんだと藤村は察した。
「それでは、私はこれでお休みさせていただきますので。失礼いたします」
そう言って、藤村は頭を下げて自分の部屋のある方へと歩き去った。
ひとみは、辺りをキョロキョロと見渡し、どこにも使用人たちの姿がないのを確認すると中央に位置する階段へと向かう。
歩いていた藤村は、その様子を背中に感じてひょいと後ろを振りかえった。
階段を駆けあがっていくひとみのその手には、やはり紙袋が握られていた。
はにかむような笑みを浮かべて、階段を駆け上がった
ひとみ――。
藤村は、そんなひとみを見るのはもう随分と遠い昔のことのように思えた。
やはり、歳をとってしまった。愚痴るように、腰を叩きながら藤村は自分の部屋へと歩いた。
愚痴とは裏腹に、その顔には孫に向けるような柔和な笑みが浮かんでいた。
ひとみは、梨華の部屋の前で深呼吸をした。
心臓の鼓動はかなり高くなっている。緊張しているのだろう。
だが同時に、妙な昂揚感もありどちらかといえば、そちらを落ち着かせようと必死だった。
(普通に……、普通に渡せばいい……。渡して、今までのことを謝る……。そう。普通に……)
ひとみは、最後に大きく深呼吸すると、開いた右手でドアをノックした。
――――
――しばらく待ってみたが、返事はなかった。
もう1度、ノックしてみたがやはり返事はない。
もう、寝てしまったんだろうか……? ひとみは、ドアノブに手をかけてみた。ゆっくりとドアを開ける。
部屋の中は真っ暗だった。
廊下からさし込む光が一条の明かりとなり、部屋の中を微かだが照らす。
「……」
もう眠ってしまったんだろうとドアを閉じかけた時、ベッドの上が妙に平らになっていることに気が付いた。
(……?)
梨華は、紗耶香の額に当てていた濡れたタオルをソッと離した。
熱は確実に下がってきているように感じられた。
数時間前は、5分おきに変えていたタオルもかなりの熱を帯びていたが、今はもうそんなことはなくなっていた。
ほんのりと赤かった頬も、いつものように紗耶香の白い肌に戻っている。
不規則的で短い呼吸も、規則的な寝息に変わっている。
(良かった……)
梨華は、ホッと胸を撫で下ろした。
――新しいタオルを持ってきて、紗耶香の首筋に浮かぶ汗をふく。
篭った熱を放出するために、部屋のドアと出窓を微かに開けて、風の通りをよくした。
冷たい夜風が直接紗耶香に当らぬように、梨華は紗耶香のベッドのすぐ脇に腰を下ろした。
紗耶香の顔は、もう30センチと離れていない。
静かな部屋。
紗耶香の規則的な寝息だけが、微かに広がる――。
(市井さん……)
心の中で紗耶香の名前を呼ぶたびに、切なくなって涙が出そうになってしまう。
今まで堪えていた感情が、熱の下がった紗耶香を前にして溢れそうになった。
そこからはもう、無意識だった。
整った紗耶香の寝顔を見つめているうちに、身体は自然に動いていた――。
――ひとみは、眠っている紗耶香にキスをする梨華を、ほんの少し開いたドアの隙間から見てしまった。
やっぱり……。
そんな思いが、ひとみの中にはあった。
やっぱり、もう遅かったんだ……。
左手に握られた、ピンク色のカチューシャが入った袋。
悟ったような静かな思考とは逆に、ひとみはその袋をぐしゃリと強く握りしめた。
――梨華は、その音を聞いてハッとわれに帰った。
紗耶香のグロスで、濡れた自分の唇に震える指を当てた。
(なんで……)
自分でも、自分の行動が信じられなかった。
ただ、自分のしてしまった行動について戸惑うばかりだった。
自分をわれに帰らせた音については、その動揺ですっかり頭の片隅に追いやられていた。
ひとみは、もう廊下にはいない。
梨華にプレゼントしようと、まるで幼い少女のようにドキドキしながら買ったピンク色のカチューシャを、
廊下の床に叩きつけてその場を去っていた。
やるせない涙を浮かべながら、その場を去っていた――。
枕もとの時計を確認すると、もうすでに午前10時を回っていた。
「ヤバイ、遅刻だ」
紗耶香は条件反射的に、ベッドから起きあがった。だが、足に思うように力が入らずよろめいた。
そこで初めて、自分が風邪を引いていたことを思いだした。
(そうだ……、石川の代わりにバイトに行こうとして……。あれ?その後)
霞みがかかったかのように、それ以降のことは思い出せなかった。
何があったんだろうと……、しばらく考えながら何気なく視線を出窓へと向けた。
なつみから貰った鉢植えのパンジーが、陽光を浴びている。
(なっち……)
そう言えば、昨夜、なつみの姿を見たような気がした。そして、唇に何かを感じたような……。
しかし、そんなことはあり得ないとすぐに否定した。
この家へは、1度たりとも連れて来た事がないのである。
きっと夢だったんだろうと、紗耶香は病み上がりの重い身体で部屋を出て行った。
「紗耶香お嬢様……。何をしてるんですか。そんなのお持ちしましたのに」
厨房で冷えたジュースを飲んでいると、藤村が現われた。
「もう、大丈夫。熱は下がったから」
「いけません。お休みになっていてください」
「心配性だね」
と、紗耶香は微笑み、ジュースを一気に飲干した。
「心配するのは、当たり前じゃありませんか」
「ねぇ」
「はい?」
藤村は言葉を遮られる格好となり、少々間の抜けた顔を向けた。
「昨日、私の部屋に誰か来た?」
ジュースを飲みながら、紗耶香はおずおずと訊ねる。
「病院の方から医師と看護婦が数名、それと――」
「それと?」
まさか、何かの事情で熱で倒れたことを聞きつけたなつみが、家にやって来たのではないかと期待した。
「石川様が、ずっと看病してくださいました」
「――? 石川が?」
「はい。今朝までずっと」
紗耶香は、思い出した。梨華がベッドの脇で、心配そうな表情を浮かべていたことを。
だが、梨華となつみを見間違えたことは、思い出さなかった。
意識がはっきりと覚醒した今、なつみを見たのは夢の中であると判断していた。むろん、唇の感触なども。
(まただ……)
久しぶりに学園に戻ったものの、梨華への陰湿な嫌がらせの行為はまだ続いていた。
3時間目の休み時間に、ほんの少しトイレへと行っている間に、
梨華の教科書にはマジックで書きなぐった猥褻な文字が羅列してあった。
(なによ……、私、そんなんじゃないもん……)
梨華は、心の中で下品な中傷を否定しながら、持っていたハンカチでその文字を消しにかかった。
幸い教科書の表紙のツルツルとした部分に水性ペンで書かれてあったため、わりと容易に文字を消すことができそうだった。
不意に、昨夜の光景がフラッシュバックした。
眠っている紗耶香にくちづけをする自分。その感触もリアルに甦った。
(……!)
梨華は、顔を真っ赤にして教科書の落書きを消す作業に戻った。
教科書に書かれている娼婦のような、自分がいるんではないか。
不安になった――。
4時間目も終わり、校内カフェに向かおうと席を立ったとき、梨華はひとみの姿を見ていないことに気づいた。
(あ、そうか……。今日、お弁当作ってないからか)
梨華が弁当を作るようになってから、梨華が倒れるまでひとみはほぼ毎日のように、教室へとやって来ていた。
それが、梨華への嫌がらせを助長する行為であり、何度も”来ないで”と注意をしたのだが、それでもひとみは毎日のように現われた。
あの時は、絶対にわざとそうしているんだと思っていた梨華だったが、今は少し違うように考えるようになった。
ひとみが自分の前にちょくちょく姿を現していたのは、
教室で孤立してしまった自分を何気に助けてくれていたのかもしれないと思うようになったのである。
その何気ない優しさは、入院中に何度も感じていた。
ただ本当に何気なさすぎて、意識的に読み取らなければわからない優しさではあったが……。
こうして実際に、昼休みの時間になってもひとみが姿を現さないと、なんとなく寂しさのようなものを感じる梨華であった。
「休み?」
梨華は、そこが静かな校内カフェだと言うことも忘れて、素っ頓狂な声をだした。
1人での食事中、ひとみがいないか何気なく辺りに視線を配ったりしていたのだが、
けっきょく食事が終わるまでひとみの姿を見かけることはなかった。
購買部でパンでも買ったのかと思いつつ、食べ終わった食器をキャスターへと運んでいた。
そこで、ちょうどひとみの担任に会い、気になってひとみの所在を訊ねてみたのである。
すると、担任はひとみが無断で欠席していることを告げた。
(そんなはずない……。だって、朝、私より先に……)
この時になって初めて、今朝のひとみの様子がおかしかったことに気がついた。
昨夜、自分がしてしまった行為のことばかりを考えたり、考えないようにしようと、そちらに意識を向けすぎていたために、
ひとみの事はあまり意識していなかった。
だが、思い返してみると、たしかに今朝のひとみの様子は変だった――。
――朝、平静を装いつつ、いつものように「おはようございます」
と挨拶をして、市井家の食堂へと赴いた。
いつものように、ひとみは先に起きていて、いつものように新聞を眺めながら朝食を食べていた。
昨夜、姉の紗耶香にあんなことをしてしまい、少々ひとみに対しても申し訳ない気持ちになり、
梨華はあまりひとみと顔を合わすことなく、家政婦の用意してくれた朝食を黙々と食した。
『姉さんの熱、下がった?』
今まで、1度もそんな事がなかった。
ひとみから、声をかけてきたのである。
「へ?」
と、驚いて顔を上げたときには、ひとみはもう制服のブレザーを羽織りながら席を立っていた。
何か言葉をかけようと思ったのだが、ひとみは梨華の答えを期待していないかのようにさっさと食堂を後にした。
ドアを閉める間際に、ひとみと目があった。
その瞳は、なぜか少し赤く充血していた。梨華には、その理由がわかっていなかった。
ただ、なぜ急に声をかけてきたんだろう……。閉じられたドアを見つめながら、そんな風にしか考えなかった。
(何かあったのかな……)
梨華は、校内カフェでしばらく佇んでいた。
学園からそう遠く離れていない、丘の上にある公園の展望台にひとみはいた。
何をするでもなく、さっきからベンチに座り町並みを見下ろしている。
町の喧騒は何一つとして聞こえてこない。
鳥たちのさえずりと、風の音だけが、ひとみの耳に届いていたが、それすらもあまり気にならなかった。
ひとみはただ、町並みを眺めながらすべてに対して感覚を閉ざしていた。
そうしなければ、昨夜の光景が浮かんでしまう。
紗耶香にキスをした梨華――。
その光景が、別の光景を見ていても、ひとみの脳裏に浮かんでしまう。
嫉妬で気が狂いそうになる。だが、その嫉妬がすでに見当違いであることにも気づいていた。
梨華に何一つとして気持ちを伝えていない――。
梨華が誰とどうなっても、たとえそれが姉の紗耶香だとしても、気持ちを伝えていない自分が嫉妬するのは間違っていると――。
恋愛感情はなくとも、その嫉妬のおかげで真希との関係を壊している。抱いてはいけない感情だと理解していた――。
だが、それでも自分の中で燃えさかる嫉妬の炎を消すことができなかった。消す術は、もう何も考えないことだけだった。
ひとみは、いつまでも焦点の合わない目で町並みを眺めていた。
『真希、いつまで寝てんの。もう昼過ぎてんのよ』
母親のアルコールでかすれた声。部屋の中に入ってきている事はわかっていたが、
真希は頭から被ったシーツを外そうとはせず寝たふりをして、そのままを過ごした。
『まったく、働きもしないで――。誰に似たんだか』
悪態をつきながら、部屋を出て行った。
それでも真希は、シーツの中から出てこようとはしなかった。
何もかもが億劫で、母親の嫌味すらどうでもよかった。
ただ、今はもうその白い光の中で、市井家での日々を思い返すことだけに集中していたかった。
(いちーちゃん)
紗耶香の名前を呼び、真希はシーツの中でクスリと笑った。
(よっすぃ)
ひとみの名前を呼び、真希はシーツの中でクスリと笑った。
目を閉じれば、あの頃の光景が広がる。
市井家の2階のテラスで、紗耶香と一緒に勉強をした。
その下を部活帰りのひとみが歩いてくる。
気がつき、声をかけるとフッと微笑みかけてくれるひとみ。
勉強を中断して、階下のひとみへと向かう。しばらくの一方的な談笑後、また、テラスへ戻って紗耶香との勉強を再開する。
不幸な人生を歩んできたと自負していた自分が、ほんの一時ではあったが確実に幸福だと思った日々。
3人が共に過ごす事はあまりなかったが、それでも真希は2人が側にいてくれるだけで安心していた。
――血のつながりがないと知らされた時、ショックを受けたのと同時に良かったと思う気持ちがあった。
たとえ、以前のような母親との荒んだ生活に戻るようなことがあっても、紗耶香とひとみがいればもう孤独ではなくなる。
そして、なによりも自分の気持ちにストップをかけないで済むというのが何よりも嬉しかった。
(よっすぃ、アタシね……)
学園近くの公園で、夕方の町並みを眺めながら真希は自分の気持ちを友となったひとみに打ち明けた。
(いちーちゃんのことが、好きなんだ……)
ひとみは何も応えずに、強い視線を町並みへと向けていた。
真希も、特に応えを求めていなかった。ひとみの性格は、熟知していた。ただ、自分の気持ちを誰かに伝えたかっただけだった。
(ウソだよ、そんなの……)
紗耶香がイギリスへと旅立った数日後、突然、ひとみから「付き合おう」と告白された。
今なら、冷静に考えることができるかもしれないが、その時の真希は紗耶香のいない寂しさで、すぐにひとみへとなびいてしまった。
(よっすぃの事が、大切なのに……)
それからは、ひとみを好きになるように努力した。でも、やはり心の中には紗耶香がいた。
どんなに好きになろうとしても、どんなにひとみのことだけを考えていても、紗耶香への想いは圧縮されて残っていた。
(なんで、伝わらないんだろう……)
もしも、ほんの少しでもひとみが本当に自分の事を想ってくれたなら、真希は本当に紗耶香の事を忘れたのかもしれない。
だが、ひとみの中にはただの友人としてしか存在しない事がわかっていた。同情なのか、姉の紗耶香と張り合いたかっただけなのか、
真希にはわからなかったが、確実にひとみの中に自分がいない事だけはわかっていた。
(でも、もう後戻りできなかった……)
真希は、目を開けた。
シーツを通しての陽光がまぶしくて、少しの間目を細めた。
夜。
バイトが終わって帰宅した梨華は、すぐにその足で紗耶香の部屋に向かった。
昨夜は看病をしていたため、ほとんど一睡もせずに学校とバイトをこなしてきたが、なぜかそれほど眠い感じはしなかった。
学園では嫌がらせがあり、常に緊張感を強いられ――。
バイト先では度々睡魔が訪れたが、それでも仕事なのでそんな素振りは微塵も見せずに閉店までをこなした。
家に帰る道々では、紗耶香の病状を心配して睡魔などは完全にどこかへ去っていた。
――紗耶香の部屋のドアをノックしてみたが、いくら待っても返事はなかった。
不審に思った梨華は、そっと数センチほどドアを開けて中を覗った。
「市井さん……?」
小さく呼びかけてみたが、返事はない。
――眠っているはずの紗耶香が、どこにも見当たらなかった。
「?」
シャワーでも浴びているのだろうかと耳を済ましてみたが、物音は何一つとして聞こえてこなかった。
梨華は、辺りをキョロキョロとしながら大広間へと入った。
「お帰りなさいませ」
藤村が書類から顔を上げて、声をかける。
「あ、ただいま帰りました」
と、藤村に頭を下げた。下げながらも、大広間とテラスの方を眺めたりしてみた。だが、どこにも紗耶香の姿はなかった。
「どうかしましたか?」
「あ――、いえ……。あ、あの、市井さん……、病院ですか?」
「?」
「具合、悪くなったんでしょうか?」
不安な表情を浮かべる梨華を見て、藤村はますます意味がわからなくなった。
「紗耶香お嬢様なら、お部屋で休んでいるはずでは?」
「え? あ、さっき見てきたんですけど、どこにも」
「そんなバカな」
と、藤村はひょいと立ちあがり、あわてて大広間を出ていった。
――それから、十分近くして藤村はがっくりと肩を落として大広間へと戻ってきた。
「あれほど、安静にしておくように言ったのに……。まったく」
藤村は独り言のようにそう呟くと、ため息まじりにソファへ腰を落とした。
「どこ、行ったんでしょう……?」
梨華はオロオロと、辺りを見まわす。
「今日は予備校もありませんからね、たぶん、安倍様のところでしょうね」
と、藤村はカレンダーに目をやりながらつぶやいた。
「安倍さんって……、安倍なつみさんですか?」
「? お知り合いですか」
「あ、知り合いってほどじゃないんですけど……、前に」
「まったく、また倒れたりでもしたら旦那様になんとご報告すれば」
藤村は、梨華の存在も忘れて、書類に目を通しながらブツブツとつぶやいた。
梨華も藤村の存在を忘れて、紗耶香となつみの関係について考えていた。
病み上がりの体をおしてまで、会いに行く必要があるんだろうか――? そもそも、安倍さんってどんな人なんだろうか――?
梨華の頭の中は、疑問形でいっぱいだった。
「あ、あのっ」
思いきって、すべてを藤村に尋ねることにした。少々、勇気を出してしまい、自分でも驚くほどの声が出てしまった。
藤村は、ビクッとした拍子に眼鏡がズレ落ちた。
――翌朝、梨華はスッキリとした気分で目を覚ました。
昨夜、藤村から紗耶香と安倍の関係を聞き、ただの先輩・後輩とわかってホッとしたら、
部屋につくなりバッタリとベッドに倒れ込みそのまま夢も見ないほどの深い眠りについた。
梨華は、ベッドの上で制服姿のまま大きく伸びをした。
時間はもう朝の8時を回っていたが、今日は土曜日で学校も休み。
バイトの時間までこのままずっと、まどろんでいたい気分だった。
しかし、そういうわけにもいかない。
もうすぐ、バイトに向かう準備をしなければならないし、その前に紗耶香の風邪がぶり返していないか心配で様子を見ておきたかった。
梨華は、シャワーを浴びて完全に目を覚ますことにした。
紗耶香の身体のことは心配で今すぐ部屋に向かいたかったのだが、
ボサボサの髪や皺くちゃな制服のまま、紗耶香の前に姿を見せるのは恥ずかしかった。
熱いシャワーを浴びながら、不意にひとみのことを思いだした。
(なんで、学校休んだんだろう……。ちゃんと、帰ってきたのかな……)
昨日の朝、ドアの隙間から垣間見たひとみの顔が頭に浮かんだ。
梨華は、ひとみの部屋の前に立っていた。
ちゃんと帰ってきたのかが心配になって来てみたのだが、ドアを開けるのをためらっている。
学校が休みでもバレー部の練習があるので、もう目を覚ましているはずだが、
わざわざドアを開けて帰ってきてるのかを確認するのも気がひける。
それに、なんだか昨日見たひとみが不機嫌そうだったので、なんと声をかければいいのかも思いつかずに、
ノックするのをためらっているのであった。
2分近くもそうして佇んでいると、急に梨華の耳に声が届いた。
『何やってんの?』
その声を聞いて、梨華の胸は高鳴った。あわてて、ひとみの部屋の前から数歩退いた。
パジャマ姿の紗耶香が、照れくさそうに微笑みながらやってくる。
「お、おはようございます……」
梨華は、ドギマギとしながらペコンと頭を下げた。
「おはよう」
梨華の真似でもしているかのように、紗耶香もペコンと頭を下げた。
妙な間が開いてしまい、梨華の心臓は今にも張り裂けそうになった。
何か話さなければ、自分の気持ちに気づかれてしまう。早く何か喋らなければと焦れば焦るほど、言葉が思い浮かばない。
「なに?」
と、紗耶香が少し困ったように笑いながら声をかける。
「あ、あの」
身体の具合を訊ねようと、顔を上げた瞬間、紗耶香の唇が梨華の目に映った。
グロスの濡れた感じではなく、自然なしっとりとした唇。
それを見ただけで、梨華は気を失いそうになった。
(もう。なんで、あんな事したのよ〜……)
これから、市井の顔をまともに見ることができないと思ったら、
そんな事をしてしまった自分にひどい後悔を覚える梨華だった。
「んー、ひょっとして、アタシの風邪が移っちゃったのかなぁ」
紗耶香が、不意に顔を真っ赤にしている梨華の額に手を当てた。
(いっ、市井さん……!)
梨華は、飛びあがりそうになった。
「熱はないみたいだけど……」
と、梨華の額から離れた紗耶香の手。梨華は、ホッとするような、残念なような複雑な気分だった。
「この前は、ありがとうね」
紗耶香は、うつむく梨華の顔を覗きこむようにして微笑んだ。
「あ、いえ……」
と、梨華はサッと覗きこむ紗耶香から顔を逸らした。
「どうしたんだよ〜、ホント、マジで変なんだけど。なんか、あった?」
「い、いえ、なんにもありません」
と、梨華は顔を真っ赤にしながら両手をバタバタと振った。
「――ホントに?」
「ホントです」
「――そっか。じゃあ、いいや。あ、それよりさ――、石川――、明日なんか予定ある?」
「明日――ですか?」
「うん」
「別に何も……。部屋の掃除ぐらいで」
紗耶香は、プッと笑った。
「?」
「あ、ごめん。ちょっと1人で掃除してるとこ想像したら可笑しくて」
「……掃除ぐらいしかすることなくて」
友達のいない梨華は、あっという間にネガティブ思考に陥りそうになった。
「わかった。じゃあ、明日デートしよう」
「へ?」
「この前のお礼。一緒に遊園地行こうよ」
「デート?」
その響きだけしか、梨華の耳には届かなかった。
紗耶香が「?」というような顔をしたが、あっという間に梨華は空想の世界に入りこみ、
観覧車で紗耶香と2人っきりの場面を想像していた。
――2人は知らない。
ひとみが部屋で、その会話をすべて聞いていたことを。
「……」
どうして姉は、自分の望むものをいとも簡単に手に入れてしまうのだろう……。
どうして……。
ひとみは、わなわな震える自分の両手を見つめた。
抱きしめるために必要のない手なら、壊すために使えばいい……。
日曜日の朝、まだ眠っていた真希は枕もとでメロディーを奏でる携帯電話を手にとった。
相手ごとに着信音を設定できる機種ではないため、わざわざディスプレィを確認しなければならない。
こんな時間に誰なんだろうと、真希は昨夜ナンパされた大学生と夜通し飲み明かしていたためその中の誰かからかと考えていた。
ディスプレィには、もっともかかってこないと思われた人物の名前が表示されていた。
真希は、バッと上半身を起こす。
電話なのでそうする事もなかったが、ボサボサの髪を手ぐしで素早く梳かした。
酒でいがらっぽい喉を何度かの席払いで元の調子に戻して、通話ボタンを押――そうとした。
だが、寸前で真希の指は止まった。
しばらく、着信メロディーは朝の乾いた空気の中を舞っていた。
――スッと息を吸い込んで、通話ボタンを押す。
「はい、もしもし」
真希はなるべく、意識しないように無機質な声を発した。
それは、いつもの自分を演じればいいだけだなので、割合と簡単なことだった。
「石川、用意できた?」
紗耶香は、ドアの前で部屋の中にいる梨華に声をかけた。
遊園地へ出かける時間までまだ20分ほどあったが、1時間前に食堂で会ったのでもうてっきり出かける用意はできていると思っていた。
現に、紗耶香はもう用意を済ませている。簡単なメイクをしただけの、簡単な用意だったがそれで十分だった。
『あ、あの、ちょっと待って下さい』
部屋の中でドタバタと音が聞こえた。
(何やってんだろ?)
気にはなったが、待ってと言うのにドアを開けるのも悪いと思い紗耶香は窓の外の木々を見つめながら、
梨華が出てくるのを待っていた。
『やだ〜』
と、部屋の中で梨華の泣きそうな声が聞こえてき、紗耶香はさすがに不審に思って、
「何やってんの、石川?」と声をかけながらドアを開けた。
「いっ、市井さんっ」
梨華があわてて、下着姿のままベッドの向こうに身を隠した。
「あ、ごめん。着替えてたんだ」
梨華は、泣きそうな顔をしてしゃがみ込んでいた。
「? 着替え、そこ落ちてんだけど」
クローゼット前の絨毯の上に、パールピンクのワンピースが無造作に置かれていた。
「石川……? 泣いてんの?」
紗耶香は、ベッドのシーツを手繰りよせながら、シクシクと泣いている梨華に気づいた。
「なに? どうしたの?」
と、紗耶香は部屋のドアを閉めて中へと入った。
「服が破れちゃったんです〜……」
梨華は、顔をうつむかせたままワンピースを指さす。
よく見ると、背中のファスナーの下の辺りが裂けている。
正直なところ、どうしてそれぐらいで泣く必要があるのかと紗耶香は首を傾げてしまう。
「別のじゃ……ダメなの?」
「だって、他にいいのなくて……」
開け放れたままのクローゼットの中には、制服と数着のTシャツとスカートがハンガーにかかっていた。
「アレでいいじゃん。あのシャツと」
「だって」
「?」
唇を尖らせながら、ウルウルとした瞳で見上げる梨華。
紗耶香は、困ったなぁという表情を浮かべてポリポリと頭を掻いた。
――けっきょく、破れたファスナー部分の縫製に時間がかかり遊園地への予定到着時刻は1時間近くをオーバーした。
紗耶香がバイクを駐輪場へと止めると、タンデムシートからパールピンクのワンピースを着た梨華がふわりと降りる。
(ホント、石川って女の子だなぁ)
その様子をサイドミラーで眺めながら、さっきまで泣いてたのがウソのようだと紗耶香は苦笑した。
「市井さん、行きましょう」
と、梨華が笑顔で手招きをする。
「あ――、うん」
ゲートへと歩いていく2人は、まるで対照的な服装だった。
ゲートの前にやってきた時、紗耶香は「なんで?」と声を出して足を止めた。
「え?」
よく聞き取れなかった梨華は、足を止めて紗耶香を振りかえった。
紗耶香は、きょとんとした顔をして一方向を見つめていた。
「? どうしたんですか?」
「なんで、こんなとこにいんの?」
紗耶香は、梨華の問いかけに応えたのではなく、梨華の後ろにいる人物に話しかけたようだった。
梨華は紗耶香の視線を追って、後ろを振りかえった。
「安倍さん」
安倍なつみが、手を振りながらチョコチョコとこちらへと駆けてきていた。
なつみを半ば呆然と見ている梨華の視界に、「何やってんの、こんなところで」と声をかけながら駆けていく紗耶香の姿が入った。
「……」
2人は梨華から少し離れた場所で、何やら言葉を交わしている。
梨華はその様子を、少し伏し目がちに眺めていた。
どうしてなつみがここにいるのかは分からないが、できれば今日だけは2人っきりにさせてほしい――、梨華は心の中で切実に願った。
「ねぇ、石川。なっちも一緒でいい?」
だが、その願いは紗耶香の言葉によって届く事はなかった。
「梨華ちゃーん」
と、満面の無邪気な笑みを浮かべて手を振るなつみを見て、どうして嫌だと言えよう。
梨華は、悲しい気持ちを隠して微笑んだ。
そう。
これはデートなんかじゃなくて、ただ一緒に遊びにきただけなんだと、梨華は自分の浮ついた気持ちを現実へと戻した。
――ゲートの向こうに消えて行く3人の後ろ姿を、真希は駐車場の車の影に身を隠しながら見つめていた。
ひとみがいったい何を考えているのか、真希には何も分からない。
この光景を自分に見せつけたかったのか、だとすると自分はよほど嫌われているのだと感じ、胸が痛くなった。
それと同時に、やはり自分はどうしようもないほど紗耶香のことが好きなんだと胸が痛くなるほど実感した。
真希は、なつみでもなく梨華でもなく、ただただ紗耶香だけを見つめていた。
曇り空の下、梨華はトボトボと市井家の門扉に向かって歩いていた。
時折、振りかえったりして家の近くまで送り届けてくれた紗耶香が何かの急用を思い出して、
戻ってきてくれないだろうかと考えたが、そんなことはあり得そうになかった。
そこにはただ、1本の長い道が続いているだけであった。
「……」
紗耶香と共に過ごす時間は、わずか3時間あまりで終わってしまった。
そこになつみも加わり、2人っきりで過ごせなかったのは残念だったが、気さくで明るいなつみと3人で過ごす時間も楽しかった。
よくよく考えれば、2人っきりで時間を過ごすようなことになれば、
自分はきっと事あるごとに紗耶香を意識して何も喋れなくなり気まずい思いをさせてしまうだろう。
だとすると、そこになつみという存在が加わる事は、良かったのかもしれない――と、珍しくポジティブに物事を考えることができた。
(安倍さんと、どこ行くんだろう……)
フッとそんなことを考えて、門扉の脇にある通用口をくぐる頃には、もうすでにポジティブからネガティブに変わっていた。
一緒に帰ってくるには帰ってきたが、梨華をバイクから下ろすと紗耶香は用事を思い出したと言って、すぐに来た道を戻っていった。
どこに向かったかは、瞭然であった――。
『……長い付き合いだもんね。安倍さん、明るいし。私なんかといるより』
通用口の向こうで、梨華は泣きそうな声でブツブツとつぶやいた。
午後7時。
バレー部の練習を終えたひとみが、帰宅後、着替えもせずに食堂へとやって来た。
「お帰りなさいませ」
食事の用意をしていた家政婦が、ひとみに声をかける。
ひとみは、梨華の姿を探した。
「あの子は?」
低くつぶやくような声。家政婦は、よく聞きとれずに顔だけを上げた。
「もう、帰って来てるでしょ?」
いったい、誰のことを言っているんだろう――。家政婦は、皿を並べながら、もしかしたらと梨華の顔を頭に思い浮かべた。
「今日はご気分がすぐれないとの事で、お食事はしないそうですよ」
「――そう」
ひとみがなぜ、クスリと笑ったのか家政婦には分からなかったが、梨華の事について訊ねられたんだと認識するとホッとした。
もし間違えていたら、何をされていたか分からない。ここ数日のひとみの機嫌の悪さを敏感に感じ取っている家政婦は、
あまり関わらないようにしようと素早く食事の用意をした。
ポツ――、ポツ――、ポツ――。
窓に当たる微かな雨音を聞きながら、梨華は紗耶香がレインコートを持っていたのかを気にした。
元気になったとはいえ、まだ病み上がりなのには違いない。
また、熱が出ないだろうかと心配になった。
(……今日、安倍さんちに泊まるのかなぁ)
梨華は、真っ暗な部屋の中、ベッドの上に寝転んでそんな事を考えていた。
早く眠ってしまいたかったが、紗耶香のことが気になってなかなか眠ることができない。
――ガチャ。
と、ドアが開く音がし、梨華はそちらへと視線を向けた。
ほんの少し開いたドアから、廊下の明かりが伸びる。
「……誰、……ですか?」
ドアの隙間には、一向にドアを開けた人物の姿が見えない。
不審に思って、梨華は上半身を起こした。
「なんだ……」
梨華は、ドアの隙間に見えるほんの少しのシルエットを見て、ホッと胸を撫で下ろした。
ドアがゆっくりと開き、そのシルエットは完全にひとみであることを現している。
”ノックぐらいしてよ”と、言いかけたが、ここが自分の家ではないので、それを口にすることは止めた。
そんなことを言えば、どんな答えが帰ってくるのかもわかっていたからだ。
「何……? 何か用なの?」
ひとみは何も言わずに、ドアの前に佇んでいた。
さすがに、いつもと様子が違うことに気がついた。普段、部屋にやってくるような事はほとんどない。
来たとしても、その時は、からかうことを前提として来ているので、すぐに何か返事ぐらいはするはずだった。
だが、もう1分近くもひとみは無言のまま梨華を見つめている。
――いや、梨華の位置からは逆光になっているので、自分を見つめているのかはわからないが、
なんとなく冷たい目で見つめられているような気がした。
「……何よ」
梨華の声は、微かに震えていた。
部屋の電気をつけようと、身体を起こそうとした時、ドアが力強く閉められた。
部屋の中は月明かりもなく、真っ暗になった。
廊下の明かりを見つめていた梨華の目は、闇に慣れることができずにひとみの姿を見失った。
『楽しかった?』
ひとみの声が以外とすぐ近くから聞こえ、梨華はビクッと身体を震わせた。
『遊園地、楽しかった?』
もう1度声が聞こえ、梨華はひとみがクローゼット付近から声を発していることを察した。
「え……? あ……、うん……」
闇の中から、ひとみのクスクス笑う声が聞こえてきた。
「もう、やめてよ。電気つけて」
梨華は、言い知れぬ恐怖を覚えた。やっとひとみの意外な一面を見つけたばかりだというのに、
今日のひとみはまるでそんな事は自分の妄想だったかのような危険な雰囲気を感じさせた。
『ホントは、2人だけが良かったよね』
「……え?」
『見たんだ、この前』
「ちょっと、もうホントにやめて」
『あんたが姉さんに、キスしてるところ』
梨華は、その言葉を聞き、カッと顔面に血液が集中するのが自分でもわかった。
闇に利点があるとすれば、その赤くなった顔をひとみに見られないというだけだった。
さっきまで聞こえた雨の音が、心臓の高鳴りで梨華の耳には届かなくなった。
どのくらい、自分の動揺を必死で抑えようとしていたのだろう。
いつの間にか、ひとみの気配を闇の中に確認できなくなっていた。
『同性の恋愛がどうとか、エラソーなこと言っちゃって』
と、微かに笑いながらひとみが、梨華の隣に腰かけてきた。
梨華は反射的に、ひとみから逃れようとしたが、その身体を強く押さえこまれた。
「ちょっと」
身悶えして抵抗したが、ひとみの力には到底叶わない。
薄ら笑いを浮かべているひとみの顔が確認でき、梨華の恐怖はよりいっそう強いものとなった。
「は、離して!」
「あんたの気持ちなんて、姉さんには届かない!」
ひとみの強い口調にではなく、その言葉に梨華の動きはピタリと止まった。
2人の荒い息と、窓に当たる雨音。
静かな部屋。長い沈黙の後、先に口を開いたのは、ひとみだった。
「……安倍なつみ。もう何年も姉さんは、その人だけを見てるの」
「……」
「ごっちんも、あんたも、姉さんにはただの妹みたいにしか見えてない」
「……」
窓に打ちつける雨音が、いつしか強くなっていた。
カタカタと防音の分厚い窓を揺らす。相当強い風が吹いているに、違いなかった。
「泣いたら……?」
「……どうして?」
「あんたはある意味で、裏切られてたんだ。惨めだと思わないの?」
「裏切る……?」
梨華は空虚な目で首を少し傾け、天上の僅かに浮かぶ模様を見つめていた。
初めから報われないのはわかっていたが、あらためてそう聞くと、ショックとは違ったなんだか訳の分からない気持ちになった。
「ちゃんと、こっち見て!」
咆哮にも近い叫びを上げ、ひとみは乱暴に梨華の顔を自分に向き直らせた。
驚いて目を見開いたのか、それともひとみの唇が自分の唇を塞いだからなのか、どちらにせよ梨華の目は大きく見開かれた。
――下唇に鋭い痛みが走り、梨華は短いくもぐった悲鳴を上げた。
覆い被さったひとみを押しのけ、ぬるっと生暖かい唇を拭った。
手の甲に擦れ、下唇にまた小さく鋭い痛みが走った。
鉄錆びのような味が口の中に広がり、微かに鼻腔をつく。
噛まれて出血していることは明らかだったのが、闇の中ではその赤いであろう血の色もくすんだ単色でしかなかった。
「なんで……」
梨華は怯えた声を発しながら、ひとみを見上げた。
ひとみは、泣きそうな顔で梨華を見つめていた。何かを言いたげだが、
混乱しているのだろうかただ口元がイタズラに小さく動いている。
梨華が、ひとみの動揺した姿を見るのは初めてだった。
紗耶香に好きな人がいたこと、キスをされたこと、下唇を噛まれたこと、
それらを忘れてしまうぐらいひとみの弱々しい姿に衝撃にも似た感じを受けた。
「安倍さんが来たのは、アタシが連絡したから……」
やっと言葉を思い出したかのように、ひとみはポツリポツリと震える声でつぶやいた。
「……」
「なんでなのか、わからない……」
「……」
「わからない……。どうやって――」
ひとみは虚ろな目で、自分の震える手の平に視線を落とした。
しばらくそうしていた。
梨華も、呆然とひとみのそうした姿を見つめていた。
何か、声をかけなければならないと思いつつ、行動にうつすのがためらわれた。
――やがて、ひとみはフラフラと漂うように部屋を出ていった。
雨音だけが聞こえてくる暗い部屋の中で、梨華はいつまでもひとみが出ていったドアを見つめていた。
幼いひとみが、泣いていた。
誰かにすがっているような、しかしそれが誰なのか幼いひとみを俯瞰的に眺めている”ひとみ自身”にはわからなかった。
遠い記憶の中の一コマなのか、夢が作り上げたまったくの虚像なのか――、それすらもわからないまま、ひとみは目を覚ました。
遮光カーテンの隙間から、嫌味なほどさし込んでくる朝日に背を向けて、そして気づいた。
(泣いてる……?)
両頬を伝う涙。自分の横隔膜が正常に機能してないことも知った。息をすると、嗚咽が漏れる。
初めてのことだった。
泣きながら目覚めることがあるなんて、ひとみはその朝、初めて知った。
――夢の中で、泣いてたのは幼い自分なのになんで……。
ひとみは、あわてて涙を拭い乱れた呼吸を正常に戻そうとした。
フロイトを知らないひとみだったが、夢の中で泣いてすがっていたのは間違いなく今の自分で、
自分から去ろうとしているのは梨華で、昨夜の自分の犯した行動を夢の中で詫びていたんだと理解することができた。
なぜなら、目覚めた今も涙が止まらないのは、今も梨華に詫びているからだった。
ひとみの嗚咽は、しばらくひっそりと広い部屋に響いていた。
「――ねぇ」
カップにミルクティーを注いでいる家政婦に、紗耶香がちぎったパンを口へと運びながら訊ねる。
「はい」
「ひとみ――、もう学校?」
紗耶香は、自分と家政婦しかいないがらんとした食堂を見渡した。
「いえ。まだお部屋に」
「そう――。石川は?」
「補習があるとかで、もう随分前に出て行かれました」
「ふーん……。あ――、ありがとう。ここは、もういいから」
と、紗耶香はやわらかい口調で家政婦に声をかけた。
家政婦も去り、1人っきりになった食堂。
もう、慣れてしまっていたはずだったが、あらためて紗耶香はその広さを実感した。
なつみのアパートのように、ともすれば互いの顔がくっつきそうになるほど小さなテーブルで食事をする方が、
家族が1つになるには最短の近道なのかもしれないと考えた。
咀嚼したパンを、適温に保たれたミルクティーで喉の奥へと流し込む。
――朝からあまり塞ぎ込みたくはないので、別の話題を頭の中で探した。
「――アレ? 2年の補習って放課後じゃなかったっけ……?」
紗耶香はポツリと声に出してつぶやいてみた。
鏡に映る下唇は、端の方に数ミリ程度のかさぶたができていた。
裂傷部を、舌先で軽く触れると案の定小さく鋭い痛みが走り、鏡に映る梨華の顔が微かに歪む。
痛みと同時に、梨華は昨夜の出来事を思いだした。
(なんで……)
梨華は、学園のトイレの鏡に映る自分に問いかけた。
なぜひとみがあのような行動に出たのか、昨夜、その事ばかりを考えて結局、わずか1時間程度しか眠ることができなかった。
紗耶香とのキスを思い出す時、羞恥心が首をもたげるのと同時に淡い陶酔感のようなものもあったが――、
ひとみとのキスを思い出すと、そこにはただ恐怖と戸惑いしかない。
(……)
梨華は昨夜の出来事を振り払うかのようにして、鏡の前から立ち去った。
――それから数日もの間、梨華はひとみとは家でも学園でも顔を合わす事はなかった。
スナック「真美」の店先にあるスタンドが、数度の瞬きの後、ぼやけた赤色の電飾を灯した。
店の中にはもうすでに数人の客がおり、2階住居にいる真希の耳にも喧騒が届く。
「……」
真希は虚ろなため息を吐くと、テーブルの上に置いてあった携帯電話を掴み立ちあがった。
喧騒は明け方近くまで続く、真希はいつの頃からかその時間が来るまで眠れないようになっていた。
外付けの錆びた階段を下り、粗末な木製のドアを開ける。
ムワッとした飲み屋街特有の焼けた肉の匂いや、通りを歩く客の高らかな声が、虚ろを装う真希を現実に戻す。
ドアを閉め、後ろを振りかえった真希の目に飛び込んできたのは、泥酔した酔っ払いでもなく、生活に疲れたホステスでもなかった。
「よっすぃ……」
向かいのレンガ作りの店の壁に、ひとみが腕を組んでよりかかっていた。
獣のようなその鋭い目を、真希は久しぶりに見たような気がした。
「なんか……、あった?」
真希の声は届いているはずだった。だが、ひとみは何も声を発せず、鋭い視線を通りの向こうへと向ける。
肩を組み合ったサラリーマンが通りを横切っていたが、ひとみはそれを見ている風でもなかった。
「……」
真希は、うつむき加減でひとみが向けている視線とは逆方向に歩いていく。
どんな用があるのかわからないが声すらもかけてくれないのなら、この場所に留まることは無用のように思えた。
住む世界の違いを晒されているようで、それは一糸まとわぬ裸体を見られることよりも恥ずかしいことのように思えた。
『ごっちん……』
暫く歩いたところで、街の喧騒に消えいってしまいそうなほど小さく弱い声が真希の耳に届き、真希の足を止めた。
『もう1回、付き合おうか?』
先ほどより大きく聞こえたが、それはひとみが大きな声を発したのではなく、自分との距離を縮めただけに過ぎない――、
振りかえるべきか振り向かないべきか、真希の中で葛藤が生じた。
『今度は、上手くいくと思う。別にいいよ、姉さんのことが好きでも』
「……」
感情のこもっていない淡々とした口調。
紗耶香の顔が浮かび、真希は振りかえることをやめた。
『ずっと、想ってなよ。アタシは、それでもいいから』
「遅いよ……」
『……』
「この前、よっすぃがあんなところ見せるから――、アタシの中、いちーちゃんのことでいっぱいになった」
『……』
「よっすぃが入ってくる隙間なんて、ぜんぜんない」
『……そ』
その声は、さらに小さく聞こえた。遠ざかっていったのだろう、やがて足音すらも聞こえなくなった。
そこでようやく、真希は後ろを振りかえった。
雑踏の中に見え隠れするひとみの背中は、小さくそして弱々しかった。
追いかけて抱きしめたい衝動にも駆られたが、また同じことを繰りかえすだけなら、真希はその衝動を胸の奥底にしまいこんだ。
ひとみの言ったことはすべてウソだと、真希はハッキリとわかっていた。
独占欲が強いひとみが、あそこまで言うからにはよほどのことがあったことも――。
だが、真希は同情の目を向けることはやめた。
自分自身の気持ちも定まらないのに、ここで追いすがれば2人は別の人を想いながら
閉塞的な空間を浮遊するだけの存在になってしまう。真希はもう、その虚しさから自分を解放したかった――。
『最近さぁ――』
キッチンでカップにコーヒーを注いでいたなつみが、「ん?」と振りかえる。
小さなテーブルにノートを広げ勉強をしていた紗耶香は、ペンを持つ手を止め顔を上げた。
「石川とひとみの様子が、変なんだよねぇ」
「変って?」
色違いだが揃いのカップを持って、なつみは部屋へと戻る。
「はい」
と、なつみは紗耶香に青色のカップを渡した。
「なんか、よそよそしいって言うかさ。まぁ、ひとみは前からそうなんだけど……」
紗耶香は、コーヒーを一口飲んだ。飲みながら、なつみへと視線だけを向ける。
片手にカップを持ち空いた手を口元に添え、部屋の中を見渡している。
「何、探してんの?」
「んー? ちょっとねー」
何を探しているのか分からないが、紗耶香も辺りをキョロキョロと見回す。
なつみが高校を卒業し1人暮しを始めてから、ほぼ毎日のように通っているのである。
紗耶香にも、どこに何があるかはある程度見当がつくようになっていた。
「ゼミの先生にね、お菓子貰ったんだけど」
「お菓子?」
と、紗耶香は苦笑を浮かべた。なんとなく、”いい子、いい子”と頭を撫でられながらスナック菓子を貰うなつみを想像したからである。
「あのねー、お菓子って言っても、普通のお菓子じゃないんだよ」
紗耶香が何を考え、何を笑っているのか、まるですべてお見通しといった感じでなつみも笑いながら答える。
「研修で行ってた京都の老舗の、すっごい高そうなヤツ。紗耶香が来たら、一緒に食べようと思ってとっといたんだけどさー」
と、なつみはクローゼットを開けて中を探す。
「寝てる間に、食べちゃったんじゃないの」
「あー」
プッと頬を膨らませるその姿。
紗耶香は、苦笑しながら立ちあがった。
「自分で片したのぐらい、ちゃんと覚えときなよ」
と、紗耶香はキッチンへと向かう。
なつみは、その様子をきょとんと眺めていた。
そこにあるのをあらかじめわかっていたかのように、
紗耶香はキッチンの下にある戸棚の中からまだ包みも開けていない菓子箱を取り出した。
「あ、それそれ。なんで、知ってんの?」
「なっちが隠しそうな場所ぐらいわかる。はい」
と、戻ってきた紗耶香は、なつみに菓子箱を渡した。
「なんか、恋人同士みたいだよね」
と、なつみはイタズラっぽく笑いながら、菓子箱の包みを開けた。
そんななつみを、紗耶香はただ微笑を浮かべて見つめていた。
まだ陽が昇りきる前に、梨華は目を覚ました。
学校にバイトとそれなりに忙しい生活を送り、朝ぐらいはゆっくりと眠っていたかったのだが、
ひとみや紗耶香と顔を合わせるのも気まずいので、疲れた身体に鞭を打つようにして、いつもより2時間早く起床するようにしていた。
(眠いよ……)
梨華は目をこすりながら、フラフラとクローゼットへと歩く。
扉を開けると、その内側に1枚の鏡が貼り付けられている。
(すごい隈……)
自分の目許を、指で軽くなぞってみた。もうこうなってしまっては、簡単なメイクだけでは隠せそうにもない。
だからといって、学校があるのでファンデーションを厚く塗って隠すわけにもいかない。
(……)
下唇の傷は、目を凝らして見ない限りわかりそうもないほど治っていた。早く消えてくれるように、梨華は願っていた。
傷を見るたびに、あの日の光景が甦る。
獰猛な獣のように、近寄ることさえできない。
近寄ることさえ躊躇われる、怯えきった小動物。
どちらも、梨華の記憶の中にイメージされている同じ日のひとみだった。
なんの目的があり、あのような行動に出たのか梨華にはわからなかった。いや、むしろわかろうとしなかった。
常に緊張を強いられる関係に、梨華は身も心も疲れきっていた。
淡い紗耶香への想いも報われないことがハッキリとし、梨華の心の中にはまた市井家から
離れたいという気持ちが現われはじめていた――。
「行ってきます」
と、玄関まで見送りに来てくれた家政婦に声をかける。
それまで浮かべていた笑顔が、玄関の扉を閉めたと同時にフッと梨華の顔から消えた。
ここから梨華は、いつものようにうつむき加減でトボトボと長い時間をかけて学園までを歩く。
あまり早い時間に学園に到着すると、まだ正門も開けられていないことがあり、
その辺を考慮してゆっくりと時間をかけて歩いていくのである。
市井家の門扉を出て数メートルほど歩いた頃だろうか、朝の澄んだ空気の中を紗耶香の声が通る。
『石川』
梨華は、足を止めて振りかえった。
ローファーを履き直しながら、紗耶香が門扉の通用口を出てくる。
(市井さん……)
腕時計を見た。見なくてもわかってはいたのだが、いつもの登校時間までにはまだ2時間以上ある。
「早いなぁ。いっつもこんな時間に出かけてんの?」
と、紗耶香は微笑みながら駆けてきた。
梨華は、ほんの一瞬、紗耶香の笑顔を見て心がスッと軽くなったような感じがした。
だが、すぐにまたあの日のひとみの言葉を思い出し、暗い沈んだ気持ちになった。
「一緒に行こう」
梨華の微妙な表情の変化に気づいた紗耶香だったが、その事については触れることなく、
まだ少し寒くすらある早朝の道を梨華と連れ立って歩いた。
トボトボと時間を潰しながら歩いていくつもりが、紗耶香と登校することにより、わずか15分ほどで学園に到着した。
まだ、6時30分を過ぎたばかりであり、当然、職員も出勤しておらず学園の門扉は閉まったままだった。
「裏から、入ろうか」
紗耶香はそう言いながら、学園の裏手へと回る。
その後ろを歩きながら、梨華は”補習のため早朝に登校している”というウソは完全にバレていることを悟った。
紗耶香はそれについて、何も触れない。
触れないという事は、あらかじめわかっていたという事だ――。
「なんか、ワクワクするね」
と、紗耶香はしんと静まり返った学園の敷地内を歩きながら、そう言って微笑んだ。
イタズラ好きの少年が笑っているようで、梨華の胸はキュッと締めつけられるような感じになった。
校舎のドアというドア、窓という窓は、やはりすべて閉まっており、
2人は仕方なく校舎の正面ロビーに続く階段に座って、職員が来るのを待つことにした。
「あ――、あのさ」
とりとめのない話をして梨華の緊張をほぐしていた紗耶香が、急に思いつめた顔をして梨華に話かける。
あまりにも不意に真剣な表情で見つめられたため、梨華の顔の温度は急激にどんどん高くなった。
「は――、はい――」
裏返りそうになる声を、梨華は必死でコントロールした。
「ひとみと、何かあった?」
単刀直入ではあったが、早く本題を切り出さなければ、生徒が登校し、
そんな時間もなくなってしまう――紗耶香はそう考えあえて核心を突く訊ね方をした。
「……」
顔を伏せるつもりはなかったのだが、あの日のひとみの顔が頭に浮かび、
紗耶香にすべてを見透かされそうな気がして咄嗟に顔を伏せてしまった。
「やっぱり……」
紗耶香は、梨華の表情の変化からひとみとの間で何かあったのを察した。
「ひとみが、何か――した?」
「……いえ」
しばらくの沈黙の後、「……ごめん」と紗耶香がポツリと呟いた。
梨華は、ハッとうつむいていた顔を上げた。
やはり、いつかの夜に見たように、紗耶香から儚げな印象を受けた梨華であった。
「市井さん……」
「もう、疲れたよね……」
「……」
「もうすぐ、父さんも帰ってくる……」
「え……?」
梨華の脳裏に、”別れ”という2文字が浮かんだ。自分でもそのような結末を望んでいたはずなのに、
いざ実際にその時が来るのを知らされると途端に否定したい気持ちが浮上する。
「アタシ、ひとみと石川はうまく行ってると思ってたんだ。だから、あんまり2人の間に入っていくようなことはしたくなかった。
ほら、ひとみはアタシのこと嫌ってるから」
「……そんなこと、ないです」
「だといいんだけどね」
と、紗耶香は笑った。
「このまま、ずっと一緒にいてもらいたかったんだ。なんか、ズルイ考えかも知れないけど、
石川がひとみの心を開かせてくれるんじゃないかって」
「……」
「でもさ、それってやっぱりアタシの怠慢なんだよね」
「……」
「家族のゴタゴタした問題を石川に――、ううん、自分以外の誰かになんとかしてもらおうと思うアタシがいけなかったんだ……」
そう言ってうつむく紗耶香を、梨華はなぜか微笑みを浮かべて眺めた。
たとえ、紗耶香が誰かを見ていようとも、たとえ自分を見つめる事がなくとも、それでもいいんじゃないか――。
市井家を去るまでにあとどのくらいあるのかわからなかったが、最後に1つだけ紗耶香の喜ぶことをしてあげたい。
そう考えると、なぜか自然と笑みがこぼれた。
予備校へと向かう紗耶香を、梨華は市井家のテラスで見送った。
たまたま予備校へと向かう紗耶香を見かけてそうしていたのだが、武者震いのようなものを落ちつかせたい、そんな意味合いもあり、
バイクのテールランプが見えなくなってもしばらくその場に佇んでいた。
「これが最後かもしんないんだから、頑張ろうよ……」
ともすれば逃げ出そうとする自分を、声を出して勇気付けた。
ひとみの部屋へ向かう――。
たったそれだけのことができずに、帰宅してからの数時間をこうしてただイタズラに過ごしていた。
テラスへも、その気分転換のために訪れていた。
以前のような関係は、壊れてしまったのかもしれない。
簡単に部屋に向かうことは、ひとみへの恐怖心を抱いてしまった彼女にとって難しいこととなってしまった。
梨華にとっては、獣の檻に入っていくのと同じだった。
だが、向かわなければこの雁字搦めになった糸を解くことはできない――。
その葛藤で、日も暮れてしまった。
残された時間はもう少ない。
梨華は、勇気を振り絞ってテラスを後にした。
ひとみはもう数時間もベッドの上で身体を横にしていた。
虚ろな目はどこかを見ているようで、どこも見ておらず、カサカサに乾いた薄い唇は、うろ覚えの流行歌のメロディーを口ずさんでいた。
ノックの音も、ドアを開ける音も聞こえなかった。
妙に懐かしさすら感じる独特の高い声を聞き、ひとみはようやく現実の世界に戻ってくることができた。
だが、振りかえるようなこともせずそのままの体勢で声を発した。
「何の用……」
ドアの前に立っていた梨華は、ゆっくりとドアを閉めた。
「学校、ずっと休んでるんだってね……」
「……」
「市井さん、心配してたよ」
虚ろなひとみの目に、生気が戻る。
「明日、一緒に学校行こう」
「そんなことしても、姉さんはあんたのことなんて見ないって言ったでしょ?」
「……」
ひとみは、むっくりと身体を起こした。もう何時間も同じ体勢のままだったので、
まるで自分の身体ではないようなぎこちなさを感じたが、それでもなんとか身体を起こした。
「まだ、わかんないの」
嫌味を言いたいのか、梨華を心配しているのか、ひとみは自分自身でもわからなかった。
また、泣いてしまう。また、泣かせてしまう。
と、頭の片隅でわかってはいたのだが、強い口調を止めることができない。
「あんたも、ごっちんと同じなんだ。みんなと同じなんだよ。結局、姉さんや父さんに取り入ろうとしてアタシを利用する」
「利用なんかしないよ」
「じゃあ、なんのためにここに来たのか言ってみなよ!」
「……」
ドアの前に佇む梨華の口元が、への字に歪む。泣く兆候。
それを見て、ひとみの罪悪感は膨れ上がる。同時に、苛立たしさもこみ上げる。こうなる事はわかってるのに、そんなにまでして――。
「アンタは姉さんの前でイイカッコしたかっただけ、もうわかったから消えて……。もう2度と、アタシの前に現れないで」
うつむく梨華。
そう、そのまま去ってくれればいい。
そうすれば、もう2度と泣かせるようなこともない――。
ひとみは、またベッドに寝転ぼうとした。
『そんなことないもん』
泣いているような声だったが、確かに梨華はそう言った。
ひとみは、中途半端な姿勢のまま視線だけを向けた。間接照明だけの薄暗い部屋だったが、
梨華の瞳が潤みそれでもなお、こちらに強い視線を向けているのがわかった。
「ただ、一緒に仲良くしてもらいたかっただけだもん」
両手を突っぱねるようにするその仕種、梨華が怒っていることはひとみには容易に見破ることができる。
そのような仕種は、きっと自分が一番よく見ているはずだとひとみはぼんやり考えていた。
「それに、あなたのこと心配したのが先だった」
「心配?」
ひとみは、フッと笑いながらベッドの縁に腰掛け、梨華へと向き直る。
「なんで、アタシがあんたに心配してもらわなくちゃいけないの?」
「心配だから、心配なのっ」
まるで子供だ。
ひとみは、さっきから浮かべている皮肉いっぱいの笑みと、そこにため息を加えて間接照明へと顔を向けた。
「人を信用できないって、悲しいことなんだよ」
「信用しすぎるアンタの方が問題あると思うけど」
「そんなだから、心配なのよっ。もっと普通に、誰かを信じればいいじゃない。
惨めだとか、裏切られたとか、なんでそんな風にしか考えられないのよ」
よほど、悔しいのだろう。梨華は、ポロポロと涙をこぼしていた。
ひとみは正視することができそうになく、そのまま間接照明を眺めていた。
「信用しろって言うのなら――、その証拠――、見せてよ」
「証拠って……。そんなの目に見えないもん……」
「もう、いいよ。消えて」
「よくない。なんで、信じようとしないのよ」
「――袋」
思い出したかのように、ひとみは梨華に視線を向けた。
「え……?」
「モスグリーンの「アパール」って店のロゴが入った紙袋、ここに持ってきてよ」
「……紙袋?」
「そ。これぐらいの。何日か前に廊下に投げ捨たから、それ持ってきて」
「そんなの、もうないかもしれないじゃない」
「あると信じて探せばいいじゃん」
と、ひとみは嫌味っぽく笑った。
「……それ探したら、一緒に学校行ってくれる?」
「いいよ」
そんなもの見つかるはずがない。もう何日も前に捨てたもので、とっくの昔に家の裏手にある無煙焼却炉で処分されているだろう。
喜んで部屋を出ていく梨華をちらりと見やり、ひとみは冷笑を浮かべながらベッドに寝転んだ。
――信じて裏切られるぐらいなら、最初から信用しない。
誰も好きになど……。ひとみは、大きなため息と共にムリヤリに目を閉じた。
いつもは、目的地も定めずにフラフラと夜の街をさ迷う。
目立つ容姿、放つ雰囲気により、5分おきに男たちに声をかけられる。
無意識に品定めをするかのような視線を向けて、二言三言男たちの言葉を聞き、
色欲に彩られた煌くネオンを仰ぎながらその場を立ち去る。
――それが、真希の日常サイクルの1つとなりつつあった。
だが今日は、目的地が決まっている。
フラフラとさ迷うことも、男たちの声に立ち止まることもなく、ある目的の場所に向かって足早に歩いていた。
紗耶香の通う予備校のビル。
その出入り口が見渡せる場所につくと、真希はふうーっと微かな笑みを含んだ息を吐き、ガードレールに腰かける。
途中のコンビニで買ったペットボトルを片手に、足をブラブラさせて紗耶香が出てくるのを待つ――、
それも真希の週に何度かの日常サイクルとなりつつあった。
(いちーちゃん、早く出てこないかなぁ)
最近、ことさら無表情な真希が、唯一頬を緩ませることができる時間でもあった。
声をかけることもなければ、近づくことさえしない。
もともと住む世界が違う、こうしてただ眺めているだけで幸せなんだと真希は自分を納得させ、
授業を終えた紗耶香が出てくるのを、ただひたすら待ちつづける。
ひとみは目を覚ますのと同時に、バッと素早く身体を起こした。
いつの間にか眠っていたらしい。
枕もとの時計に目をやると、梨華が出ていってから4時間が経過していた。
もうすぐ日付も変わる。
しばらく耳を済ましてみたが、廊下を誰かがやってくるような気配はなかった。
さすがに、諦めて眠ってしまっただろう――。ひとみは、皮肉交じりにそう考えた。――軽いため息と共に、ベッドから下りる。
――ひっそりと薄暗い厨房には、備え付けてある大型の業務用冷蔵庫がモーターの低い唸りを響かせていた。
その横にある家庭用の冷蔵庫を開けて、ひとみは缶ジュースを取りだす。
オレンジ色のほのかな光でさえまぶしく、ひとみはすぐに冷蔵庫の扉を閉めた。
苛立たしさが込められていたのだろうか、乱暴に閉めたため、予想以上大きな音が静かな厨房内にひろがった。
ここ数日、ほとんど飲まず食わずだったのだが、不思議と空腹感はあまり感じなかった。
ただやはり、喉の渇きだけはどうしようもなく、そのジュースが炭酸だというのに3分の2を一気に飲干した。
ガチャと音がし、ゆっくりと厨房のドアが開く。
梨華――。
ひとみは、条件反射的に振りかえった。
だが、そこに梨華の姿はなく、かわりに寝ぼけ眼の家政婦がいるだけだった。
ひとみの落胆は、大きなため息となって現われた。
家政婦が自分を見て、戸惑っているのは一瞬の表情から読みとることができた。
「何の用?」
ひとみは、くるりと背を向けると冷たく言い放った。
『あ――、ちょっと物音が聞こえたものですから……。あの、お夜食だったら今から作りますが』
「いらない」
『――あ、では……、おやすみなさい』
「待って」
ドアを閉じようとした家政婦は、「?」と振りかえる。
「あの子に、何か訊かれなかった?」
「あの子……? あ、石川様でしたら――、確かに」
「なんて」
「今週のゴミは、もう出したんですかって」
探そうとはしてたらしい。
だが結局、見つけることもできず、かといってそれを報告しにくることもできずに眠ってしまったんだと、ひとみは推測した。
「処分場を教えてくれと、訊ねられました」
「――処分場? 裏の?」
「いえ。清掃局のです」
「は? 裏で燃やすんじゃなかったの?」
ひとみは、驚いて振りかえった。
「ええ。普段はそうなんですけど、先週焼却炉が壊れまして。
業者の方が来てくれる事になってるんですが、何分、部品を取り寄せるのに時間がかかってるらしくて、まだ……」
「……」
ひとみは手にしていた缶ジュースをダストシュートに放り込むと、ドア前に佇む家政婦を押しのけて厨房を飛び出ていった。
残された家政婦は、しばらくきょとんとしていたが、ハッとわれに帰った。
生ゴミ用のダストシュートに、空き缶を投げられてしまった。
ゴミの分別には厳しい藤村の顔が浮かび、家政婦はヤレヤレとため息を吐いた。
ひとみは、勢いよく梨華の部屋のドアを開けた。手探りで、シャンデリアのスイッチを入れる。
一瞬、その明るさに目がくらんだが、臆することなく部屋の中へと入っていった。
ベッドにも、シャワールームにも梨華の姿はない。
まさか、探しに行ったんじゃないだろうか?
ひとみは、なおも部屋の中を見渡した。
この前は暗くて気づかなかったが、出窓にピンクの鉢植えが置かれていることにひとみは気づいた。
ほんの少し開いた窓から、風が吹き込んでいるのだろう。鉢植えの花は、ヒラヒラと揺れていた。
ひとみは、その花の名前を知らなかった。
だがその花を見つめていると、なぜか涙がこみ上げてきそうになった。
無意識に、そこに誰かを重ね合わせていたのかもしれない。
「なんでそこまでして……」
そのエネルギーが姉に向けられていることが悔しくもあり、自分へと向けられない切なさもあり、
ひとみは誰もいない梨華の部屋で1人涙を流しそうになった。
だが、その涙を寸前で堪えるとすぐさま自分の部屋へと戻り、
机の上にあった財布を掴んで入ってきたのと同じ勢いで部屋を出ていった。
明け方近くになって、梨華は身体に生ゴミの匂いを染みつかせたまま市井家へと続く道を肩を落としながら歩いていた。
処分場の警備員に半ば強引に頼んで、探させてもらったのだが、結局、就業開始時間が近づき邪魔だと追い出されてしまった。
疲れと睡眠不足もそうだが、見つけられなかったという罪悪感から、梨華の足は鉛のように重くなっていた。
(見つかりっこないよ、あんな広いところで)
と、開き直ってそんな風に考えたが、ひとみの顔を思い浮かべると
申し訳ない気持ちでいっぱいになり開き直る事など到底できそうになかった。
(これでまた、人を信用しなくなる……)
自分が、ひとみを裏切ったことになる。
市井家が自分の所有する無煙焼却炉で、週に1度まとめてゴミを処分することを梨華は知っていた。
知っていたからこそ、すぐに見つけ出せると考え、そして軽い気持ちで引きうけた。
だが、物事はそううまく運ばず、結局、ひとみが人を信じられるきっかけを、人を信じるように説いた自分が裏切る形となってしまった。
見つからなかった。
と、言い訳が通用するなどとは考えなかった。
もう2度と、ひとみが心を開くことはないと思うと――。ヒクッヒクッと、梨華の嗚咽する声が静かな高級住宅街に広がった。
泣きながら市井家の玄関ドアにカードキーをさし込んだ。
いつもなら気にならない程度のカギの開く音が、やけに大きく聞こえ、それにより梨華の涙は先ほどよりもさらに溢れた。
『石川様……、どうしたんですか、その格好』
誰もいないと思いながらドアを開けると急に声をかけられ、梨華の身体は驚きでビクンと小さく跳ねた。
文庫本を片手に寝巻き姿の家政婦が、あわててこちらへと駆けてきていた。
涙を流し汚れた服装からレイプという最悪の3文字が頭に浮かび、駆け出した家政婦だったが、
梨華までもうあと1メートルというところで、生ゴミのものすごい臭気が鼻腔をつき思わず足を止めた。
「い、石川様……、その匂い……」
梨華は、泣きながら「え?」と聞きなおした。
10時間近く処分場にいたため慣れてしまっているのか、梨華は身体に染みついた匂いにまったく気づかなかった。
鼻を押さえる家政婦の姿を見て、ようやく何を言っているのかが理解できた。
だが、そんなことは今の梨華にとっては、どうでもよかった。
それよりも、ひとみを裏切ったことに対する自分へのやるせなさで、どうしようもないほどの涙を流していた。
「あ、あの、裏の焼却場なんですけど……、ちゃんと隅の方までお探しになりましたか?」
隅っこ……?
梨華は、昨夜の自分の行動を思い出させた。
家政婦に、ゴミは業者に頼んで持って行ってもらったばかりだと聞かされ、
一応、裏手にある無煙焼却炉の中を見たのだが、がらんとしていたのですぐに処分場へと向かったのであった。
「み、見てません……」
と、梨華は嗚咽で声にならない声を上げてそう答えた。
「だったら、そこにお探しのものがあるかもしれませんよ。隅の方は傾斜して段になってますから、そこによく」
家政婦が言い終わらないうちに、梨華は「探してきます」と泣きながら玄関を出て行った。
玄関のドアが閉じられ、裏手へと駆け出していく梨華の足音が遠のくのを確認すると、家政婦はふうーっと大きく息を吐いた。
「なんなの、あの匂い……」
家政婦はそうつぶやくと、充満しているガスを放出しようと、玄関に面している窓という窓を全部開けた。
窓を開けながら、家政婦は首をかしげた。
梨華が何故あのような匂いをさせているのかもわからなければ、ひとみが何故そのように伝言を頼んだのかもわからなかった。
寝入りばなを起こされ、そうして朝まで待たされた挙句に……。
家政婦は大きなため息の次に、大きな欠伸をしながら自分の部屋へと戻っていった。
バタバタと廊下を駆けてくる音を聞きつけ、ひとみはあわててベッドに寝転び目を閉じた。
よほど嬉しいのか、今がまだ早朝とも呼べない午前5時前で、
普通に考えれば誰しもが眠っている時間で、部屋に入るのも遠慮する時間である。
それなのに、梨華はノックもせずに、「あった! あったよ!」
とアニメ声をキンキンに響かせながら駆け込んできた。
それと同時に、ひとみの鼻腔にも生ゴミの匂いがつく。
だが、そうなった理由を知っているので不快には思わなかった。
「ねぇ、あったよ!」
「うるさいなぁ……」
ひとみは、面倒くさそうに起きあがる。
満面の笑みを浮かべて、梨華が袋を差し出しながらベッドの脇へとやってきた。
「これでしょ? アパールって書いてある。この袋でしょ?」
「あ――、うん……そう」
「やったー」
と、梨華はペタンとその場に座り込み、袋を胸に抱きしめたまま何度も「やった」と声を上げていた。
「どこにあった?」
ひとみは、その様子を微笑を浮かべて眺めていた。
袋を見つけたことがそんなに嬉しいのだろうか、それとも姉の紗耶香の期待に応えられるのが嬉しいのか――。
もう、そんなことはひとみにとってはどちらでもよかった。
梨華がただ笑ってくれるのなら、どちらでもよかった――。
「裏の焼却炉にあったの。あのね、私ね、笑っちゃうの」
と、梨華はその後延々と、処分場での出来事をちょっとした冒険憚風に話してみせた。
興奮覚めやらぬ梨華だったが、さすがに自分の匂いに気づいたのだろう。ハッとして、自分の腕をくんくんと嗅いでみせた。
「ひょっとして、私……臭い?」
「別に――。清浄機が壊れてたら、追い出すけどね」
と、ひとみは窓の上の排気溝を見上げてサラリと言ってのけた。
「あ、ごめん……。ちょっとはしゃいでて」
と、梨華はシドロモドロになりながら、あわてて退いた。
ひとみは、苦笑を浮かべて眺めていた。
怒られるとでも思っているのだろうか――。退いたまま何も言葉を発さず、梨華はうつむいたままだった。
ひとみは、そんな梨華の様子を見るのもそれはそれで面白かった。
だが、また泣かれるのは嫌なのでできるだけ普通に声をかけた。
「ちゃんと、今日から学校行く。だから、少し寝たら」
梨華はその声を聞き、顔を上げた。嫌味の1つでも言われるのかと緊張していたが、
また自分を気遣ってくれたことが何よりも嬉しかった。
「あ、あのね……」
「ん?」
「袋の中なんだけど……」
ひとみは、自分の足元にある袋を拾った。
「中に、なんにも入ってないみたいなんだけど……」
「――入ってるよ」
「え? だって、すごい軽いよ」
梨華はひとみの前にツツっとやってき、袋を覗きこむようにして言った。
中に何も入っていないのは、ひとみ自身が一番よく知っていた。
なぜなら、昨夜遅く店へと赴いたものの、もう既に店は閉まっており、
店の裏手にあるゴミ箱の中から、空の袋だけを持ち帰ることしかできなかったのである。
どんなにシャッターを叩きながら叫んでも誰も出てこなかったので、商品を買おうにも買うことができなかった。
「入ってるよ」
と、ひとみは優しい口調でゆっくりと袋を開けた。
袋の中を覗きこんだ梨華は、「?」と首をかしげた。
「何にも入ってないけど?」
と、梨華はひとみを見上げる。
「――バカには見えない」
「――?」
梨華はしばらく、きょとんとひとみを見上げていた。
数秒後、フフっと笑うひとみを見て、やっと自分がからかわれていることを理解した。
だが、不思議とからかわれていることに対しての不快感は起きなかった。
ひとみから、以前のようなあからさまに人をバカにしたような印象を受けなかったからかもしれない。
「もう。いっつも、そうやってバカにするんだから。言っとくけどね、私、あなたより年上なんだよ」
「たった3ヶ月だけどね」
「3ヶ月だけど、学年上だもん」
と、梨華は子供のように笑った。ひとみも、笑顔を浮かべていた。
その笑顔を見つめながら、よかったと梨華は心の底から思った――。
「あのね」
「――ん?」
「ごっちんって子と、何かあったの?」
真希の名前を聞きひとみの表情が曇ったが、梨華はそれでも怯まないようにした。
年上である自分が、ちゃんと道標を作ってあげようと妙な使命感にメラメラと燃えていた。
「ケンカでもしたんでしょ? それでイライラして――。あんなことしたんでしょ?」
「は……?」
何かとんでもない思い違いをしているのではないかと、ひとみは判断した。
「あのね、1ついいこと教えてあげる」
「……?」
「見返りを求めないのが、本当の愛なんだよ」
「……。なに言ってんの?」
スッと冷めた表情に戻ったひとみだったが、梨華は胸の前で指を組み窓の外の白み始めた空に視線を向けていた。
「好きな人に、こんな事をしたんだから、こんな風に思ってほしいとか、してほしいとか、
そんな風に考えるのはまだ本当に相手のことが好きじゃないんだよ」
「……?」
「相手が喜んでくれるのなら、それでいいって思えるようにならないと――。それが、信じるってことでもあるんだよ」
「なに、言ってんの……?」
「ん?」
本当に気づいてないんだろうか?
ひとみは、訳がわからなくなった。この前のあれは、真希との仲が上手くいかなくなり、
ただ単にその苛立ちを梨華にぶつけただけなのだと本当に思いこんでいるのだろうか――?
だとすると――。
「あんた、やっぱり変だ」
ひとみは、声を上げて笑った。
梨華は、きょとんと首を傾げてその様子を眺める。
お人よしで、おせっかいで、世間知らずで、そのくせ鈍感だとわかったら、ひとみは笑わずにはいられなかった。
白み始めた空のように、ひとみの暗闇も白み始めたような――、そんな笑顔だった。
いつまでも笑っているひとみに対して何か文句でも言いたげに、梨華が口を開こうとした。
だが、それを声に出す事はできなかった。
ひとみが、梨華を優しく包み込むように抱きしめたからである。
「……ちょ、ちょっと」
肩口から聞こえてくる梨華のくもぐった声。
「ちょっと、冗談やめてよ……。匂いが移っちゃうよ」
その腕の中から逃れるようにして、梨華はひとみに笑いかける。
「別にいい、そんなの」
耳元で聞こえる、ひとみの吐息のような小さな声。
「でも」と、梨華は笑顔で返した。
笑顔の奥には困惑の色が見え隠れしていたが、そうされていることに対しての恐怖はなかった。
それは、今まで梨華が見たことのないような優しい目や声や雰囲気をひとみがしていたからである。
なので、ひとみが再び梨華を抱き寄せた時、梨華は抵抗しなかった。
ただ黙って、窓の外から聞こえてくる微かな鳥のさえずりを聞きながら、ひとみの両腕に包まれていた。
「認めてあげる。あんたのこと――。でも……」
「へ?」
不意に聞こえてきてやはり吐息にも似たひとみの声に、梨華は顔を上げた。
ひとみは、ただ微笑みを浮かべて梨華の目を見つめていた。
悪魔の微笑みのように思えたその表情も、今は――天使とまではいかないが小悪魔程度の微笑みになっただろうか?
少し可愛くも感じ、梨華はクスリと笑った。
「何が可笑しいの?」
「別にぃ」
2人は互いの目を至近距離で眺めながら、クスクスと笑いながら暫くの時を過ごした。
ひとみとこうして話す日が来るのが、梨華にはとても不思議だった。
ただ、もっと早く打ち解けることができれば糸は複雑に絡まなかったのかもしれないと頭の片隅で考えたりもしたが、
それは言葉にも表情にも現さず胸の奥にしまいこんだ――。
袋を見つけたあの日、梨華は学校を1日休んだ。
学校へ行く準備をするために、一旦、自分の部屋へと戻り、シャワーを浴びたあとベッドに少し横になったのが悪かった。
日々の睡眠不足と10時間以上も処分場で袋を探したりで、体力的にはほぼ限界の所に達していたのだろう。
まるで気を失うかのように、あっという間に深い眠りに入ってしまった。
ハッと目を覚ますと、辺りはもう薄暗くなっており、一瞬、時間の感覚がわからなくなったりもした。
『おはよ』
眠りすぎたせいで逆にぼんやりとし、大広間に入ったもののそこにいる紗耶香に気付くことなく、梨華は食堂のドアを開けようとした。
「あ……、おはようございます」
紗耶香に気づき、照れ笑いを浮かべながら頭を下げる。
「よく眠れた?」
「あ――、はい」
「そっか。――良かった」
と、紗耶香はホッとしたような笑みを浮かべると、手にしていた書類へと視線を戻した。
何の書類に目を通しているのかわからなかったが、邪魔をしては悪いと思い、梨華は食堂のドアを開ける。
早々と立ち去りたい理由は他にもあった。やはり心のどこかに、2人きりで過ごすのは気まずかったからである。
『ありがとう』
「?」
と、梨華はドアノブに手をかけたまま振りかえった。ありがとうとは、いったい何のことなんだろう――。
紗耶香は書類を手に大広間を出ていったので、それを訊ねる事はできなかった。
だが、なんとなくひとみのことを言っていたのではないかと推測することができた。
紗耶香がお礼を言うとしたら、それぐらいしか思いつかない。
(そっか。ちゃんと、学校行ったんだ)
そんな風に考えた自分が可笑しくて、梨華は苦笑を浮かべた。
まるで、幼稚園に行きたくないと駄々をこねる子供と、ひとみを重ね合わせてしまったからである。
梨華は小さなひとみを思い浮かべながら、しばらくクスクスと笑っていた――。
翌日、梨華は久しぶりに予鈴の鳴る10分前に学校に到着することができた。
いつものように1人での登校ではあったが、それまでのようにトボトボと時間を潰しながら歩くこともなく、
うつむき加減で暗い気持ちで歩くこともなく、割合すがすがしい気分で登校することができた。
だが、教室に近づくにつれ、そのすがすがしい気分はどこかへと吹き飛び、
今日もまた休み時間になるとカバンを片手にトイレに避難しなければならないのかと考えたら憂鬱になった。
ひとみとは付き合っていると誤解されたままである。どんなに家でひとみとの関係が上手くいったとはいえ、
嫉妬による陰湿な嫌がらせはなくならない。
むしろ、ひとみがまた頻繁に姿をあらわすことにより、エスカレートしてしまうのではないかという危惧もあったが、
こればっかりは梨華にはどうすることもできなかった。
ひとみとの関係の誤解を解くには、市井家との関係を話さなければならない。
そんなことは、梨華の一存では決められない。
ただただ陰湿な嫌がらせに耐える、もしくは避難する。そうして、1日の授業が終わるのを待つしかない。何ら以前と変わる事はない。
(はぁ〜……)
――梨華は軽いため息を吐いて、教室のドアを開けた。
HRが始まるまでの時間、生徒たちはおもいおもいの場所で友人同士で歓談に興じていた。
だが、談笑でざわめく教室は、梨華がドアを閉めると同時に水を打ったような静けさになった。
(え……?)
静けさもそうだが、皆の視線が自分に向けられていることの方が梨華にとっては不気味だった。
何か余計なことを言って、場の空気を白けさせてしまう事は以前通っていた学校で何度もあったが、
こんなにも注目を集めるというのは初めてのことだった。
梨華がうつむくのと同時に、皆もハッとわれに帰ったらしく、またいつものような談笑が始まった。
(な、なんなの……。怖いよぉ……)
ビクビクしながら、カバンを胸に抱いて自分の席に座る。
敵意というよりも、戦慄にも近いような視線と雰囲気。
いったい、これから何が起こるというのだろうか。梨華は予鈴が鳴るまでの数分間を、戦々恐々と過ごした。
――休み時間。
教室から教師が出ていくのと同時に梨華も席を立ち、カバンを持ったままトイレへと避難した。
――トイレのドアが開閉するたびに、梨華は個室と天井に開いた隙間を見上げる。
昔のドラマに出てくるイジメのシーンのように、
いきなりバケツの水でも浴びせられるのではないかとビクビクしながら確認しているのである。
『石川さん……、いる……?』
何回目かにトイレのドアが開いた時、小さく窺うかのような声が聞こえてきた。
それが、柴田あゆみの声だと梨華は瞬時に聞きわけた。
素早く個室のドアを開けて顔を出す。
「あゆみちゃん……」
学園での唯一の友達で、自分とひとみとの関係を誤解しているとはいえ、それでも好意的に理解してくれている。
あゆみを見て、梨華は泣きそうな声を発した。
「もう、大丈夫」
あゆみはそう言って、トイレのドアの前で微笑んだ。
何が大丈夫なのか、その時の梨華は分からなかった。
しかし、あゆみの口から昨日の出来事を聞き、それはそれで大丈夫ではないのではないかと思える梨華であった――。
昼休みになると、ひとみは再び梨華の教室に現われた。
その時の周りの生徒たちの反応を見て、あゆみの言っていた事はやはり本当だったんだと理解した。
皆、羨望と嫉妬の入り混じった複雑な表情で、半ば強引に外へと連れ出される梨華を見送る。
「もう、友達できないよ……」
――誰もいないひっそりとした体育館で、梨華は購買部で買ったパンをかじりながらポツリと情けない声を発した。
「脅迫じゃない……。イジメたら、退学させるなんて……」
その隣で、ひとみは憮然としパック入りのジュースを飲む。
「で、結局、どっちなの? イジメられたいの? イジメられたくないの?」
ひとみの苛立ちは声になって現われていたようで、梨華はビクンと身体を震わせた。
「イジメられたいのなら、もう1回、イジメてやってって言ってこようか?」
「もうっ。あなたがイジメるのやめてよ」
「別にイジメてないよ。あんたがそうやって、いつまでも文句ばっかり言うから」
と、ひとみは叱られた子犬のような目を体育館の中央に向けた。
それを見た梨華は、ムッとしていた顔を急に和らげる。和らげた表情のまま、ふぅーと息を吐いて観覧席に背中を預けた。
「なんか、もう慣れちゃった」
「は?」
「あなたに、そうやって言われるの。慣れちゃった」
「……」
「なんか、こうやってないといつもらしくなくて、逆になんか不安になってくる」
「マゾなんだ」
「――マゾって?」
首を傾げる梨華を見て、ひとみは「なんでもない」と笑った。
和やかなムードだった。
以前にもあったが、それは束の間のことであり、もう2度と訪れないのではないかと梨華は考えていたが、
またこうしてひとみと普通に接することができ、梨華はそれが何よりも嬉しかった。
「できれば、ずっとこうしていたいね……」
梨華の小さなつぶやきを、ひとみはパンの袋を開ける音で聞き逃した。
それほど小さな小さな、つぶやきだった。
たとえ、聞こえていたとしてもそこにどんな意味が込められているのかはわからなかっただろう。
「ねぇ、また明日からお弁当作ってこようか?」
「――いいよ。どうせ、冷食ばっかだし。学食の方がマシ」
「なんでいっつも、そんなことばかり言うのよ」
「そう思うから、そう口にしてる」
その後、しばらく梨華とひとみの口喧嘩のような会話は延々と、静かな体育館に響いていた――。
ただし、ムキになる梨華の声ばかりだったが――。
予備校の教室も、学園の教室もたいして違わない。
ただ違うところがあるとすれば、そこに男子生徒がいることぐらいだろうか。
何年も通っている予備校なので、初めは感じた違和感も今ではもう何も感じなくなっている。
「あの、ちょっといいかな?」
予備校でも常に紗耶香とトップの座を争っている男子生徒が、教室へと入ってきたばかりの紗耶香に声をかけてきた。
どんな話をされるのかは、容易に見当がついた。
何も感じない違和感も、年に何回か訪れるこんな場面により学園との違いを感じさせられる。
苦手とまではいかないが、あまり好きではない光景だった。
――けっきょく、彼は紗耶香に告白して見事に玉砕した。
紗耶香は誠意を込めて、できるだけ彼を傷つけないように断ったつもりだったが、やはり断られた方としては気分も滅入る。
彼にしては珍しく、その日、授業をサボって帰ってしまった。
悪い人じゃないんだけど……と、紗耶香も若干気落ちしながら、今日の授業の準備をする。
フッ、と数学のテキストを自分の部屋の机に置いてきたのを思い出した。カバンの中を確認してみたが、やはり入っていない。
今日の授業には、絶対に必要なテキストであった。
事務室に行けば、テキストをコピーさせてもらえるのだろうが、
さっき告白された事でなんだか男性事務員と会話するのも億劫になっている。
いっそ、彼のように授業をサボってなつみのアパートにでも行こうかと考えたが、
今日はなつみが最近よく出席しているゼミがある日で、帰ってくるまで暫く待たなくてはいけない。
「うーん」と紗耶香は、わざとテキストに思いを馳せた。
その日の夜、バイトもなく、かといってどこかに遊びに行く友人もいない梨華は時間を嫌というほど有り余らせていた。
部屋の掃除も特にこれと言って片付けるようなものもなく、わずか十分たらずで終わってしまった。
退屈さを紛らわせるために勉強でもしようかと、ベッドの縁から腰をあげた時、部屋のドアがノックされた。
部活から帰ってきたひとみが部屋を訪れてきたのかとも一瞬思ったが、どうやらそうではなかった。
『石川様』
と、閉じられたドアの向こうから家政婦の声が聞こえてきた。
「あ――、はい」
ドアが開き、受話器の子機を手にした家政婦が顔を覗かせる。
「紗耶香お嬢様から、お電話です」
「え……?」
予備校に行ったはずの紗耶香から、いったいどのような用があるのかわからなかった。
そもそも、紗耶香から電話があること自体、初めての事である。ほんの少し、緊張しながら受話器を受けとった――。
ガードレールに腰かけ、足をブラブラさせながら、真希はいつものように予備校から紗耶香が出てくるのを待っていた。
午後10時に、予備校の授業が終わる。
紗耶香はその後すぐに自宅に帰るか、午後11時の閉館間際まで勉強をしているかのどちらかで、
紗耶香が出てくるにはまだあと2〜3時間ほどあったが、真希はその待ち時間は苦にならなかった。
今日はどんな格好しているのか?
どんな表情をしながら出てくるのか?
なんの勉強をしているのか?
――そんな事を考えていると、時間はあっという間に過ぎる。
(……あれ?)
予備校の正面ドアが開き、紗耶香が表の通りへと出てきた。
まだ午後8時を回ったばかりであり、何かあったのかと真希は心配になった。
表の通りに出てきた紗耶香は、誰かを待っているかのような素振りをしている。
(……)
紗耶香が片手を上げ、その人物に自分の存在を知らせるのを、真希は通りの反対側から眺めていた。
通りの東側から駆け寄ってくる人物に、見覚えがあった。
自分と同じ目をして、紗耶香を見つめる人物。
真希は浮かべていたふやけたような笑顔を消し、紗耶香と会話をしている梨華を無表情な目で眺めた。
ただいつもと違う場所で会っただけ、ただ家に忘れたテキストを届けただけ、ただほんの少し話をしただけ――。
ともすれば浮き足立ってスキップでもしてしまいそうな気分を、梨華はとりあえず理性で制御した。
もう、恋愛感情を抱いてはいけない。と、半ば強制的に紗耶香のことを考えないようにしながら、暗い夜道を市井家へと向かって歩いた。
坂道の下にたどりついた時、いつかここで紗耶香が心配して後を追い駆けてきてくれたことを思い出した。
(そう言えば、変質者かと思って逃げたんだった……)
梨華は、坂道を見上げながら苦笑した。
「……」
坂を見上げていた顔からゆっくりと笑顔が消え、ネガティブな思考に陥りかけた。だが、その思考をなんとか振り払う。
好きになってはいけない。好きになられたら迷惑。呪文のように心の中で呟いた。
(……走って、帰ろう)
と、街灯もなく人通りもない暗い坂道を見上げ、梨華はうんとうなずき、
足を踏み出そうとした。――ちょうどその時、後ろで小石の擦れる音がした。
一瞬、紗耶香が迎えに来てくれたのではと淡い期待を抱いたが、そうではなく別の耳慣れた声が聞こえてきた。
『何やってんの?』
その言葉をそっくりそのまま返したい気分だった。なんでこんな所にいるんだろうと腕時計に目を落とす。
バレーの練習はとっくに終わっていて、今頃は部屋にいるはず。
ひとみが滅多に外出などしないことを、この数ヶ月の生活サイクルからわかっている。
――梨華は、ゆっくりと振りかえった。
月明かりの下、見慣れたシルエットが数メートル後方に佇んでいる。
ガサゴソとビニール袋の中をまさぐり1本のペットボトルを取り出すと、
いつものように周りの景色などあまり感心がないかのように正面を見据えて歩く。
「……?」
自分の脇を通りすぎていくひとみを、梨華はきょとんと見送った。
ジュースぐらい、わざわざ下のコンビニまで買いに行かなくとも市井家の冷蔵庫には常時何種類かの買い置きがあるはず。
「あ――、ねぇ」
と、梨華はひとみを呼びとめた。
さも面倒くさいといった感じを背中から漂わせながら、ひとみは立ち止まる。
その様子を見て、自分は今とんでもない思い違いをしてしまったのではないかと梨華はひるんだ。
”迎えに来てくれた”なんて一瞬でも考えた自分が、とても滑稽なように思えた。
「――何?」
と、ひとみがくるりと振りかえり、梨華はハッとわれに帰る。
「あ、ううん。なんでもない」
梨華はあわてて、頭をふった。
「――ちょっと、喉が乾いたから」
と、ひとみは訊ねもしないのに背を向けてポツリとつぶやいた。
それはもうずっと昔の光景のように思えた。
入院していたあの頃、ひとみはいつもそうやって何気ない優しさを見せていた。
背を向けて耳を赤くする事も度々あったことを、梨華は思い出したのである。
(やっぱり、迎えに来てくれたんだ)
――クスっと笑って梨華は、ひとみへと駆けた。
「ありがとう――。ホントは、1人で帰るの怖かったの」
「だったら、出歩かなきゃいい」
そこには、多少の嫌味も含まれていた。
ひとみは、藤村から事情を聞き、梨華がどこに行っていたのかを知っている。
当然のように、それを聞いて良い気分などにはならない。
「……だって」
「あんなの、藤村に届けさせればよかったのに」
「……」
うつむく梨華を横目でちらりと見やり、ひとみは胸の奥が痛んだ。
どうしてこんな言い方しかできないのだろうか?
梨華が存在してくれるだけで良いように思えたはずではなかったのか?
すべて、その時だけの言い訳だったんだろうか……。
同じようにひとみも、うつむきたくなった。
「私は、臆病だから……」
と、梨華はうつむいたままのトーンで、トボトボと歩を進めた。
「臆病?」
ひとみが、その背に語りかける。
「誰かに嫌われるのが怖い――。自分が好きな人に――、あ――、好きっていうのは、いろいろ広い意味で――」
高級住宅地へと続く坂道、小さくつぶやいているのだろうが、あまりにひっそりとしているため、ひとみの耳にははっきりと届いていた。
「ちょっと、待って」
と、ひとみは梨華の後を追った。
「姉さんには、そんな事しても」
ひとみの多少怒気の含まれた言葉を、梨華は首を振って遮った。
「だから、そういう意味じゃなくて」
「……矛盾してる」
「?」
「あんた、この前言ったよね。見返りを求めないのが、本当の愛だって」
「……」
「嫌われたくないって、相手に何かを求めてる証拠じゃないの?」
「……」
「……教えてよ。本当の愛って何?」
その声には、切実さのようなものも込められていた。いったい、何を言い出すのだろう。ひとみは自分のセリフに戸惑いを覚えた。
「まだ、16だもん……。そんなの、わかんないよ……。
ただ、あの時は、あなたが迷ってるみたいに見えたから、年上の私がしっかりしなきゃいけないって思って」
と、梨華は隣にいるひとみへと顔を向けた。
「だって……、ほら……、あなた、言ったじゃない。ごっちんって子は、市井さんのことが……。
どんなにごっちんって子を振り向かせようとしても、それができないで自暴自棄になってるんじゃないかな……って」
梨華は両手を後ろで組み、うつむきながらトボトボと歩いた。
鈍感なのか、はたしてそうでないのか?
ひとみは、またわからなくなった。自暴自棄になった経緯までは、なんとなく当たっている。
しかし、相変わらずどうしてそれが自分に向けられたのかがわかっていないようだ。
「見返りを求めて、焦ってばかりいちゃダメだって……。それって、本物じゃないような気がしてたから……」
「……」
――それからしばらく、2人の間には気まずい沈黙が続いた。
ひとみは何か喋ろうとしたが、呆けたように何も思い浮かばない。
梨華もやはり同じように、話題を変えようと別の話題を探していた。
ひとみにもひとみなりに、恋愛観や憧れのようなものがあるのか?
フッとそんな事が気になった。だが、まともに訊ねても答えてくれないははわかっているので、自分から話してみることにした。
場の空気を変え、尚かつ関連性のある話題なのでピッタリのような気がした。
「あのね、私ね」
梨華はクスクスと笑い、恥ずかしそうに口を開いた。
それにより、気まずい沈黙は破られる。ひとみは、内心ホッとした。
なんの話をしだすのか分からないが、沈黙よりはずっとマシだった。
「夢があるの――。ずっと前にね、TVで見たんだけど」
ひとみは、歩きながら横目で見つめる。
「モーニングコーヒーって知ってる? 喫茶店のセットじゃないよ」
「知らない」
「好きな人とね同じ朝を迎えて、同じコーヒーを飲むの。そういうの、やってみたいなぁって。なんか、いいと思わない?」
組んだ指を下あごの辺りに持ってき、クスクスと笑っている梨華を見て、
ひとみはやはり夢見る少女のように思った。やはり、どう見ても年上のようには見えなかった。
「それってさ」
と、ひとみは苦笑しながら梨華に話かける。
「?」
「夜明けまでHしてましたって、言ってるようなもんだよ」
実際には暗くてそこまでは見えなかったのだが、梨華の顔が見る見る赤くなった感じがして、ひとみは笑わずにはいられなかった。
「ち、違うよ」と反論する梨華の声は静かな住宅街に響き渡り、バカにしたようなひとみの笑いは坂の下にまで届く――。
梨華の目論みは見事に破れ、家に帰りつくまで終始からかわれ続けた――。
紗耶香はこの日、23時まで自習室に居残って勉強をしていた。
数人の顔見知りの生徒たちに別れを告げ、テキストを届けてくれた梨華にケーキでも買って帰ろうかと考えながら、
紗耶香はビル脇の駐輪場に向かった。
(石川ってなんのケーキが好きだろう? なっちは、サバランかクランチ。なんか、石川ってイチゴって感じだよなぁ)
と、紗耶香は苦笑しながら、バイクのキーを差し込みエンジンを始動させようとした。
いつもなら、駐輪場横の道路をそのまま国道とは反対に進んでいくため、国道を振りかえるようなこともない。
だが、この日は少し違った。
パァ〜ンと耳を劈くような車のホーンが聞こえ、紗耶香は反射的に国道へと視線をやる。
車高を低くしたワンボックスカーが、なんのためにホーンを鳴らしたのかわからないが走り去っていく。
だが、紗耶香の視線は、その車に注意を向ける事なくある一点で止まっていた。
紗耶香の視線の先には、ガードレールに腰かけ耳を塞ぎ、ホーンを鳴らしたワンボックスカーを見送る真希がいる。
「後藤……」
向こうも紗耶香に気づいたらしく、ハッとした表情を浮かべると、通りをまるで逃げるように走っていった。
追いかけようとしたが、追いかけても無駄な事はあきらかな距離だった。
見つかった……!
見つかった……!
真希は、夜の街を走った。
紗耶香に追いつかれないよう、必死に走った。
なぜ逃げているのか、なぜ逃げなければならないのか、誰かに問いたい気分でいっぱいになった。
何でこんなことになってんの?
何で、昔みたいに3人一緒にいられないの?
いちーちゃんを好きになったから?
よっすぃと付き合ったから?
何が自分を追い込んでいるのだろうか――、その本当の原因は知っている。
しかし、ひとみもいない今、それを相談できる相手がいない。その事実が真希はとても悲しかった。
誰でもいい。
もう、誰でもいいから。
誰か側にいて!
不意に、あの日の寂しそうなひとみの声がリフレインした。
【もう一回、付き合おうか……】
その時は気づかなかったが、あの日のひとみは孤独に耐えかねてそう言ったのだと、今の真希は理解することができた。
そのひとみを、自分の気持ちを整理するために突返した。
もう、本当にどこにも自分が頼る場所はないような気がして、真希は泣きながら夜の街を走り続けた。
『ひとみ』
そうやって呼びとめられるのは、いったい何週間ぶりなのだろうか?
正直なところ、すべてを悟ったわけではない。梨華が好意を寄せている相手に名前を呼びとめられるのは、
あまりいい気持ちではなかった。
先ほどまでの、梨華との一時が幻だったかのような気分になった。
このまま無視を決め込んで、2階への階段を上がろうかと思ったが、
厨房を出てきたところで帰宅した紗耶香とはバッチリと目が合ってしまっている。
ひとみは、仕方なく階段の下で足を止めた。
『あのさ……』
ロビーの正面にあるイギリス製の大時計の秒針が、コチコチコチと小気味よい音を出しながら時間を刻む。
しばらく、紗耶香は無言だった。
言葉を選んでいる――、背を向けていたがひとみはそんな雰囲気を感じた。
『後藤とのことなんだけど……』
「……」
『さっき、予備校の前で見たんだ……。なんか……』
「――なんかって、なに?」
また、無言の間が流れそうだったので、ひとみはその間を打ち消すようにいつもより早く喋った。
『様子が変だから、何かあったのかなって……』
――フッと、ひとみは笑った。その笑いには、あきらかに嘲笑的な意味合いが含まれている――そんな笑い方だった。
『何が、おかしいの』
紗耶香もそう感じたのだろう、その声は少し苛立っていた。
「前に言ったよね。姉さんは、慈悲の目だけを向けて本質を見ようとしない――って」
ひとみは、紗耶香へと向き直る。
いぶかしげな表情を浮かべる紗耶香を見て、口元を歪ませた。
「鈍感なあのおせっかいと、姉さんは違う」
「――は?」
「あの子は、鈍感だから気づかないだけ。でも、姉さんは本当は気づいていながら、そこから目を逸らそうとする」
「なに、言ってんの?」
と、苦笑を浮かべる紗耶香。
「そんなに誰かを傷つけるのが怖い? そんなに誰かに傷つけられるのが怖い?」
「――ケンカ、ふっかけてんの?」
苦笑を浮かべていた紗耶香が、真剣な目でひとみを見据える。
ひとみも紗耶香の目を見据えながら、やはり冷たい笑みを浮かべた。
「論点がずれてる。アタシは今、後藤の話をしてるの。ひとみは、後藤と付き合ってんだよね?
その後藤が、なんであんなところで寂しそうに1人でいたのか、それが聞きたいだけ。
別に、傷つくとか傷つかないとか、そんなメンタルな話してるんじゃない」
「気になるなら、自分で聞けば?」
ひとみは、くるりと紗耶香に背を向けると、髪をかきあげながら階段を上っていく。
――ひとみの姿が見えなくなると、紗耶香は途端に弱々しい視線を床へと落とした。
部屋に戻った紗耶香は着替えをすることも忘れ、ひとみの言葉を反芻していた。
”気づいていながら、そこから目を逸らそうとする”
――自分に向ける真希の視線に気づいたのは、いったいいつ頃なんだろう。
もうずっと昔のような気もするし、ごく最近のような気もする。
「そこから、目を逸らす……か」
紗耶香は、微苦笑を浮かべた。
たしかに、ひとみの言う通りかもしれない。
その視線を、その視線の奥にあるはずの想いを受け止めることができずに、気づかないフリをして接してきた。
だが、ひとみの言うように”傷つくのが嫌で”逸らしているわけではなかった。
ただもっと単純に、紗耶香にとって真希は”妹”のような存在でしかなく、真希の気持ちを聞き出して断ろうとも思わなければ、
自分の気持ちがどこにあるのかを伝えて傷つけようとも思っていない。
単純に、真希とは姉妹のような関係、またはそれに近い友人関係を継続したかっただけである。
「それって……、ダメな事なのかな……」
紗耶香には、よくわからなかった。
それよりも、ロビーでの出来事の方が印象的だった。
ひとみが何を考えているのかわからないが、そのようなことを面と向かって
自分に言う事などこれまでになかったかのように記憶している。
たとえそれが、自分を卑下するものだとしてもそうして自分の気持ちをぶつけてくれた事が紗耶香にとっては驚きだった。
「石川……って、やっぱりスゴイよな……」
軽い微苦笑と軽いため息を吐きながら、紗耶香はバスルームへと向かった。
――頭からかぶったシーツの中は、月光や星の明かりも届かない闇だった。明け方近くとはいえ、まだ月や星は隠れていない。
真希は、その闇を見つめていた。
通りの喧騒はいつの間にか、聞こえなくなっている。
眠る行為に、最適の環境下ではあったが、真希は重いはずの瞼を閉じる事ができない。
カン……カン……カン……。
と、誰かが階段を上がってくる音が聞こえてきた。
その足音は、眠っているかもしれない真希を配慮して静かに上がってくるでもなければ、軽快に駆け上ってくるでもなかった。
――誰?
やはり、夜が明けてから帰宅すればよかったと激しく後悔した。
枕もとに潜ませてあるペーパーナイフの位置を指先で確認しながら、真希は身を固くし闇の中で耳を澄ませる。
玄関のドアが開き、男の唸りにも似たため息が聞こえてきた。
その声に、聞き覚えがあった。母親の情夫の顔が頭に浮かび、
さっきまで自分の中に色濃くあった紗耶香への想いが汚されたような気になり、情夫の顔を脳裏から振り払う。
『水……』
母親の声が聞こえ、真希は状況を察した。
店で酔いつぶれた母親を、情夫が背負って上がってきたのだ――。
いつもの事だと、真希はどこか空々しい感じでその物音を聞いていた。
この後、母親はトイレで小1時間ほど嘔吐を繰りかえす。母親だとホッとしたのが要因なのか、
重い瞼は急にその役目を思い出したかのように、真希を夢の世界にいざなった。
――真希は、眺めていた。3人が談笑している姿を。
紗耶香と――、ひとみと――、梨華が――、市井家のテラスで談笑している姿を、真希は夢の中でも遠くから眺めていた。
日曜の午後ということもあり、駅前のファーストフード店はいつもの倍近くの客で賑わっている。
紗耶香となつみは、こに落ち着くまでに数軒のショップをはしごしていた。
せめて、昼ぐらいはどこか落ち着いた場所でなつみとゆっくり過ごしたかったのだが、
昼食が終わってもまだ買いたいものがあるらしく、移動しやすい駅前のファーストフード店を選ばれてしまった。
買い物する側のなつみとしては気分の昂揚も手伝い疲れなども感じないのだろうが、
特に欲しい物などなかった紗耶香はただくたびれるだけである。
それに、せっかくこうしてなつみと過ごす時間を持てたのに、気乗りできないのには理由があった。
(後藤……、どうしてんのかな……)
予備校の前で見た真希のことが気になってはいたのだが、先になつみと会う約束をしていたので向かう事ができなかった。
そのことが気がかりだったが、果たして約束がなくとも真希の元へ向かう事にしたのかは、自分でも甚だ疑問である。
その疑問が、紗耶香を憂鬱な気分にさせていた。
「紗耶香――。紗耶香」
声が聞こえてきハッとわれに帰ると、なつみが心配そうに覗き込んでいる顔が視界に入ってきた。
「どしたの? ボーっとして」
「あ、ううん。なんでもない。――それより、行こう」
と、紗耶香は動揺を隠すように、なつみを中へと促す。
ひとみの言葉が聞こえたような気がして、紗耶香は心の中で払拭した。
(逃げてるんじゃない。今は――)
「あ、あの……、市井さんは……?」
夕食で使用した皿を下げようとした家政婦を、梨華はとても申し訳なさそうに呼びとめた。
さきほどから、気にはなっていたのだがテーブルのはす向かいにひとみがいたために訊ねることができなかった。
自分との関係は以前のように戻ったが、姉の紗耶香との関係は依然としてそのままで、
ひとみの前で姉の紗耶香の所在を訊ねるのは、なんだか気が引け、彼女が食堂を去るまでその質問を堪えていた。
「今日はちょっと用があるとかで、夕食はいらないと」
家政婦は、特にいやがる様子も見せずに梨華の質問に答えた。
「……そうですか。あ、すみません呼びとめたりして」
ペコンと頭を下げる梨華に、家政婦は「いえ」と微笑みを浮かべて去っていった。
「安倍さんのところ……、かな……」
誰もいなくなった食堂で、梨華は寂しげにつぶやく。
なんとなく、心のどこかに冷たい風が吹き抜けたような気がした。
恋愛感情を抱いてはいけないと自分を諌めてはいたが、もう一方でそんなことはできそうにないと自覚している自分がいる。
抑えようとする自分とそれを諦める自分――、どちらが本当にいいのか――。
梨華は細い指を胸の前で組み、軽い吐息と共に主のいない紗耶香の席を見つめた。
――食堂でぼんやりと佇む梨華を、ひとみはロビーから眺めていた。
何を考えてその場に佇んでいるのかは、容易に判断できる。
あれ以来、梨華は紗耶香の事を必要以上に口にしない。
だが、意識しないようにしつつ、その心の中は紗耶香のことでいっぱいなのは、ひとみから見ればあきらかだった。
それを感じるたびに、ひとみは心穏やかではなくなってしまう。
ともすれば、再びあの日のような暴走をしてしまいそうな自分がいる。
だが、ひとみはそれを制する術を覚えた。
「なにやってんの?」
ぼーっとしていた梨華が、ひとみの声で我にかえる。
ぼんやりしていたところを見られて動揺しているのだろう。
梨華は、無意味にあわてふためいていた。ひとみは、そんな様子の梨華を微笑を浮かべて眺めた。
「あのさ、明日からまた弁当作ってよ」
「こ、この前、いらないって言ったじゃない。そんな急に言われたって用意してないよ」
「そんなもん、冷蔵庫にいくらでもあるから使えばいいじゃん。料理得意なんでしょ?」
「――また、そうやって嫌味言う」
と、梨華はプッと頬を膨らませながら食堂から歩いてくる。
ひとみは、苦笑を浮かべて梨華がやってくるのを待っていた。
ほんの少しだけ、梨華の中から紗耶香への想いを拭い去ってやりたい。
それは思いやりなのか、それとも形を変えた嫉妬なのか――、そこまでは、ひとみにもよくわからなかった。
螺旋状の短い階段を下りると、1枚の重厚な扉がある。
防音のための扉なのだろうが、存在価値をまったく無視するかのように狂騒は漏れていた。
繁華街にあるとある雑居ビル。その地下にあるクラブに、真希は数分前に知り合った男と来ていた。
男はしたり顔で扉を開けると、真希の肩を馴れ馴れしく抱いて中へと通そうとする。
真希がその手を軽く振り払うと、男は愛想笑いのようなものを浮かべて奥へと歩いて行った。
「……」
狭いロビーに男女がひしめく合う様を見て、真希はもうそれだけでこの場所に来た事を後悔していた。
「こっち。こっち」と、連れの男が真希を手招きする。
言葉など不要の空間だと言わんばかりに、DJブース脇のスピーカーから重低音が飛び出し、天上からは高音部が降り注ぐ。
真希は、香水と汗とアルコールと煙草の匂いが混ざったロビーを顔をしかめながら通りぬける。
言葉だけでなく、思考すらも停止しそうだった。
だが、今の自分には好都合だと真希は、その狂騒の中に身を委ねる事にした。帰る場所などどこにもない。頼れる人もいない。
虚しい刹那的な考えが頭をよぎる――。
「全部、忘れたらいいんだ……」
ロビーの隅にあるカウンターで、真希は虚ろな目でつぶやいた。
連れの男が「え?」と大声で訊ねてきたが、真希は聞こえないフリをして、
先に男が注文していた水割りのグラスを奪うと、一気に飲干した。
文句を言い合いながら出ていくひとみと梨華を、紗耶香は市井家の階段から見送っていた。
登校して行く2人とは違い、紗耶香はまだパジャマ姿だった。
険悪な雰囲気ならば、駆けていき何があったのかを訊ねたのだろうが、
2人からはそうした雰囲気も感じられず、ただそうやってじゃれあっているかのようだったので、紗耶香も苦笑を浮かべて見送った。
「ひとみお嬢様が、石川様の作ったお弁当に文句をつけましてね」
心配なのか、ただ単に面白がっているのか、大広間から顔を覗かせて2人を見送っていた藤村が苦笑まじりに紗耶香に声をかける。
「ひとみお嬢様は、石川様をからかうのが楽しみのようでございますね」
紗耶香は笑顔を浮かべたまま「あぁ」と呟き、藤村の傍らを通りすぎて大広間へ入った。
顔では笑っていたが、ほんの少し切なくあった。いや、羨ましくあったのかもしれない。
ひとみの心を開かせることが出来た梨華に対して、そしてあのように梨華の心を開かせているひとみに対しても――。
『紗耶香お嬢様の分のお弁当、そちらのテーブルの上に置いてあるそうですよ』
藤村の声を背に受け、紗耶香は食堂を覗いた。見ると、大理石のテーブルの上に、ピンク色の可愛らしい弁当箱が置かれている。
ついさっきまで沈んでいた気分も、それを見ると少しは晴れた。
あまりにも梨華らしい弁当箱であり、これと同じものを持っているひとみの姿を想像すると笑ってしまった。
真昼近くの大通り。
通行人たちは、その少女を遠巻きにして通りすぎる。
フラフラと歩き、しまいにはガードレールに凭れかかるようにして腰を下ろしてしまった。
通行人たちの多くは、見て見ぬフリをして歩いていく。
――夜通し飲み明かし、さすがにアルコールに強いはずの真希も足元がよろめくほど酔ってしまった。
昨夜、声をかけてきた男はクラブから出て向かった3軒目のショットバーで酔いつぶれて眠ってしまった。
今頃はきっと、店の脇の路地にあるゴミ置き場で目覚めているだろう。
その姿を想像して、真希はガードレールの低い柱に背を預けたまま笑った。
「酔わせて変なことしようなんて、甘いんだよー」
通りを歩く人々の何人かは、昼間から酔っ払って笑っている真希をいぶかしげな視線を向けて通りすぎていく。
時には、哀れみにも似た目を向けて――。
それでも真希は、笑いを止めなかった。
そんな視線を向けられる自分が可笑しくて仕方がなかったし、
いつか缶ビール2本で酔っ払ったフリをしてひとみに甘えた滑稽な自分を思い出すと笑えて仕方がなかった。
「いーもんねー。どうせ、アタシなんか……。いーもんねー。アハ」
真希は、ガードレールに手をついてヨロヨロと立ちあがると、人の多い往来をふらつきながらも笑って闊歩した。
「ねぇ、石川さん」
柴田あゆみが、4時間目の授業が終わるとすぐにやって来たが、梨華はまだ黒板の数式をノートに書き写しているところだった。
「お昼、どうする? カフェ行く?」
「? あゆみちゃん、委員会は?」
「昨日でやっと終わった」
と、あゆみは苦笑を浮かべて隣の机に腰かけた。久しぶりにあゆみとの昼食――。
梨華にとって、あゆみは学園内でひとみと紗耶香以外に唯一接触できる人物で――、
普通の女子高ライフを満喫したい梨華としてみれば是が非でももっと深く付き合いたい友人だったのだが、
この日はどうしてもその誘いを断らねばならなかった。
「あ……、ごめん……。今日、お弁当だから……」
梨華は、うつむいた。それだけで、察してくれたようであゆみは「あぁ」と小さな声を上げ、机から腰を上げた。
「ごめん。忘れてた。そうだ。吉澤さん――。お弁当かぁ、いいなぁ」
と、あゆみは散々梨華とひとみの関係を羨ましがり、他の友人を誘って教室を出て行った。
教室を出ていくあゆみの背を、梨華は一種の尊敬の眼差しで見送っていた。
かつて好きだった人物が、友人と付き合っている。
誤解なのだが説明していないので、あゆみにとっては事実であり、それなのにあゆみは以前と変わりなく同じように接してくる。
もしも、自分が同じ立場なら果たしてそんな事はできるのだろうか?
嫉妬で相手を傷つけてしまう事はないにしろ、複雑な心境になってしまわないのだろうか?
気持ちの切り替えは、いったいなんだったのだろうか?
――梨華は、黒板の数式が日直によって消されている事にも気づかず、ぼーっとそんなことを考えていた。
学園の裏門に通じる広場の西側に、アクセントの如く木々を蓄えた場所があり、
さらにその中央のぽっかりと空いたスペースに古い石碑が設けられている。
80年前に創立者でもある市井総次郎が、自身の敬う高名な俳人の一句を刻みこんで設置したらしい。
多くの生徒たちは、そこに刻まれた文字を追うことはない。いや、そこに石碑があるのを知らない生徒もいるだろう。
2年前の紗耶香もそうであった。
高等部に入学したての頃、3年生のなつみがその前で足を止めるまで、奥に石碑があることを知らなかった。
「ねぇ、紗耶香」
――白くきめ細やかな肌が煌く太陽の光を浴び、なつみの笑顔をより一層輝いて見せた。
「次の授業、さぼろっか?」
ぽかんと口をあけた紗耶香の手を引き、なつみは木漏れ日の下を奥へと導いた。
どこに連れていかれるのか? この奥に何があるのか?
そして、なぜなつみは急に授業をサボることにしたのか?
謎だらけの紗耶香の視界に、石碑が入ってくるまでそれほどの時間は要さなかった。
「ここねぇ、あんまり人来ないんだよ」
石碑の前の僅かな段差に、なつみはスカートの丈を膝の下に折りこみ静かに座った。
紗耶香はそれに微笑で応じてはいたが、学園内にあった憩いのスペースを興味深げに見渡していた。
「へー、こんなところあったんだね。知らなかったな」
「ここって昼間でもちょっと薄暗いから、みんな怖がってあんまり近寄らないんだよね」
木々の葉がざわめき、そう言われれば昼間でも不気味な感じがするが、
それだけの理由ではなく、もっと単純にこんな場所に用がないから皆は近づかないだけだろうと紗耶香は推測した。
「なっちって、よく授業サボったりするの?」
紗耶香の問いかけに、石碑の前に座っていたなつみは肩をすくめて、
「紗耶香の知らない間に、なっちも大人になったんだよ」
と、クスクス笑った。
――あの時のなつみは冗談で言ったつもりなのだろうが、なつみの事に関して知らない事はないと自負していただけに、
それが妙にショックだったのを紗耶香は今でも葉のざわめきと共に記憶している。
中学1年で紗耶香は中学3年のなつみと出会ったが、その翌年になつみは高等部に進級してしまった。
中等部の校舎は町の東側に位置し、高等部の校舎は市井家にも近い丘の麓に位置する。
当然、校舎が別々の場所に設立されているため、これまでのように頻繁に時間を共有することはできない。
そのタイムラグが、紗耶香のなつみへと対する感情を別のものに変化させたのかもしれない。紗耶香は、そう思っている。
ただの先輩に抱く感情ではなく、恋愛的な感情――いや、その時は理性的な恋愛感情よりも、
本能的な独占欲がふつふつと沸きあがった。
会えないことの不安が、より一層その本能を煽った。
紗耶香は中学を卒業するまでの2年間、毎日の放課後をなつみと会うためだけに費やした。
まるで、離れ離れになり誰かのものになるのを恐れるかのように、紗耶香はなつみの側を時間の許す限り、
相手が不審に思わない限り、共に過ごすようになった。
それが、結果的にいけなかったのだろう。
なつみに費やす時間は、そのまま市井家での不在の時間を意味する。
本能的ではなく、理性で自分の感情を制御できるようになり、はじめてひとみの異変に気づいた。
気づいた時にはもう、ひとみは心を閉ざしていた。
「本質を見ようとしない……。逃げようとする……」
石段の前に座っている紗耶香は、ポツリとつぶやき、薄い雲に覆われた空を見上げる。
言葉が重くのしかかってくる。
2人の仲睦まじい姿を思い出すと、どうしようもないほど自分が虚しい人間のように思えて仕方がなかった。
今朝の光景は、あからさまな結果だった。
逃げなかった梨華と、逃げた自分――。
――湿った風が木々の葉を揺らし、紗耶香はその音でわれに帰った。
ヒラヒラと舞い落ちる木の葉を、なんとなく視線で追いながら、頭の中を切り替えるよう努めた。
それが既に本質から目を逸らすこと以外の何ものでもなかったが、
そうすること以外に、1人で不安や焦燥を取り除く方法を、紗耶香は知らない。
膝の上に乗せた、小さな箱型のポーチ。
木の葉が、その向こうへと落ちていった。
小さな箱型のポーチの中には、今朝、梨華が用意してくれた弁当箱が納まっている。
誰かに見られるのが恥ずかしくて、ポーチを持ったまま4時間目の授業をサボった。
あの日のなつみも、そんな他愛もない理由で授業をサボったのだろうか?
当時、怖くて聞けなかった事を、不意に思い出した――。
昼休みを30分すぎても、ひとみは梨華の教室に現われない。
何かあったのだろうかと心配になった梨華は、カバンを持ってトイレに――ではなく、ひとみの教室へと向かった。
すれ違う生徒たちのほとんどは、もう昼食を済ませているらしく、皆空腹を満たされた穏やかな表情をして友人と談笑している。
すれ違う生徒や、コの字型になった反対側の廊下を窓越しに見やり、
ひとみの姿を探したのだが、結局、1年の教室につくまでひとみを見つける事はできなかった。
――ひとみの教室から出てきた1人の少女に、多少の勇気を出して所在を訊ねると、
ひとみは休み時間になると同時に教室を出て行ってはいるらしい。
(……? どこ、行ったんだろう……? 体育館かな)
梨華は残り15分しかない昼休みを気にしつつ、校舎から離れた場所にある体育館に向かった。
――体育館の中はしんと静まり返っており、誰もいないのはあきらかだった。
「もう……っ、お弁当作れって言ったから作ったのに……」
と、梨華は体育館の出入り口で、ムッと唇を尖らせた。
教室に戻ろうとしたとき、背後から人がやってくる足音が聞こえ、梨華はゆっくりと振りかえった。
ひとみなら、文句の1つでも言いたかったので、その表情はムッとしたままだった。
「い、市井さんっ」
背後からやってくる人物を見て、梨華は慌てふためいた。
「あ……、なんか、邪魔だったかな……?」
紗耶香が、頭をポリポリと掻きながら梨華と距離を開けて立ち止まる。
ムッとした表情を見られたのもあり、どうしてここに紗耶香がいるのかがわからなくもあり、梨華の頭の中は軽いパニックに陥った。
若い看護婦は、病院の廊下を走る女子高生を注意しようとしたが、総婦長に止められてしまった。
2人は何やらコソコソと話していたが、その脇を走り抜けたひとみの耳には届かなかったし、気にすらしていない。
303号室に向かう事だけしか、ひとみの頭の中にはなかった。
病室のドアを開けると、ひとみの視界に点滴を打ちながら眠っている真希が飛びこんできた。
点滴以外に近くに医療器具もなければ、額に3センチ四方のガーゼが当てられているだけで、
命に別条がないのを判断すると、ひとみは額に浮かぶ大粒の汗を拭い、乱れた呼吸を冷静に整えた。
『突然、お呼び出しして申しわけありませんね』
冷静に状況を分析したつもりだったが内心はかなり動揺していたのだろう、
ひとみはその声が聞こえてきて初めて大柄な制服警官が病室にいる事に気づいた。
いったい、何があったのか――。ひとみは、詳しい事は何も知らない。
昼休みになったのでいつものように梨華の教室に向かおうとした時、
真希が交通事故にあったと警察から携帯に電話がかかってきたのである。
詳しい説明を聞く間もなく、ひとみは学園を飛び出してここへとやってきた。
「ちょっと、ニ、三、聞きたい事があるんですが」
と、警察手帳を取り出す様を眺めながら、病室の中を微かに漂うアルコール臭に気がついた。
警官が勤務中に飲酒などするはずもなく、ひとみはその匂いが眠っている真希の呼吸から発せられているのに気づくと、
おおよそではあるがどうしてこのような経緯をたどったのか見当がついた。
(ごっちん……)
ベッドで眠っている真希が、ひとみにはやけに小さく見えた。
昼休みの残り時間もわずかになったが、梨華と紗耶香はまだ体育館で昼食をとっていた。
「すみません、やっぱり前みたいに普通のお弁当箱にします」
と、梨華はポツリと呟いて、箸を置いた。
「あ、いや別に悪いとかじゃなくて、ただなんか恥ずかしくて……。
ほら、石川にはお似合いだけどさ、アタシが真っピンクって似合わないから、ちょっとみんなの前では……と」
うつむく梨華を眺めて喋っているうちに、紗耶香は何かとんでもない事をしてしまったんではないかと罪悪感に捕らわれ、
声のトーンも次第に下がっていった。
「うーん……、ごめん……」
「?」
「今度はみんなの前で、堂々と食べるよ。せっかく石川が作ってくれたんだから」
「はぁ……」
梨華は、ため息にも似た声を発して、がっくりと肩を落とした。
「別に、そんな落ち込むことないじゃん。やだなー」
「だって……」
「ちょ、ちょっと泣かないでよ? ご、ごめん。ちゃんと、謝るから。ホント、ごめん」
真横の席から身を乗りだして、紗耶香は梨華の前で両手を合わせた。
その距離は、呼吸すらも届いてきそうなほどの距離である。
「あ、謝らないで下さい。そ、そんな、泣いたりしませんから」
と、梨華は顔を真っ赤にし、両手をバタバタとさせて身を仰け反らせる。
すぐに、下げている頭を上げて、いつものように微笑を浮かべるものばかりだと思っていたが、
紗耶香からは一向にその気配はなかった。
「い……、市井さん……?」
バタバタと動かしていた両手も、ゼンマイの切れかけたおもちゃのように自然とゆっくりとした動きになる。
しばらくして、不意に紗耶香の閉じた長いまつげが起立した。
顔を上げた紗耶香の真剣な瞳が、梨華の思考を捉え、場の空気とは馴染まないコミカルな手の動きを停止させる。
――昼休み終了のベルが、体育館の中に鳴り響く。
紗耶香は瞳を逸らすことなく、梨華を見つめつづけける。
ひとみの目にも何かしらの人を惹きつける力があるが、紗耶香には及びもつかない。梨華は完全に、紗耶香の瞳に捕らえられていた。
ジンジンと身体全体が火照るような感じは、ただ単純に体育館の中が蒸し熱いだけではなかった。
わずかに残った思考が、理性を呼び起こす。
この感覚を、梨華は以前に1度体験していることを思い出した。
それにより、幾分か身体中を流れる甘美な血流を抑えることができた。
熱で倒れた紗耶香を看病していた、あの時――、火照る思考の浮遊感。
それを思い出さなければ、もう少しで何をしでかすかわからない状況だった。
――視線の呪縛から解放された梨華は、紗耶香からゆっくりと視線を逸らした。
『アタシって、みんなにどんな風に見られてる……?』
しばらくして、耳元に届く紗耶香の疑問。
そこに、いったいどんな意味が込められているのか?
梨華は、質問の意味を冷静に咀嚼しようとした。
しかし、ふたたび甘美な血が全身を駆け巡りつつあったので、脳は正常な判断をできそうにない。
秘めたはずの想いが――、抑えていた恋愛感情が、熱と共に簡単にしがらみを解く。
これは、告白のチャンスなんだと答えをはじき出しつつあった。
(伝える……)(でも、市井さんには……)(私に聞いてるんじゃない……)(みんなから見て)(……でも)
人生最初に訪れた告白のチャンスが、不意に訪れたことにより、梨華の思考は少なからずの混乱を生じていた。
そのわずかな混乱の時間が、チャンスを逃した。
『なんてね、ちょっと聞いてみたかっただけ』
「――へ?」
カラッとした声が聞こえ、顔を向けると紗耶香はいつものように微笑を浮かべて、食べ終わった弁当をポーチの中に収めていた。
「みんなに、どう見られてるのかなぁって急にさ。――ほら、早く片付けないと次の授業始まるよ」
紗耶香は、目を合わすことなく椅子から立ち上がる。
恥ずかしくてまともに顔を合わせられない――と、いうほどの理性が残っていれば見逃していただろう。
そんな理性もないほどに、梨華の頭は真っ白になっていた。
今までにない勇気を振り絞り、いざ告白――と、口を開きかけたら、スッとかわされたのである。
頭の中は真っ白になり、口を中途半端に開いたまま、紗耶香の一挙一動を眺めていた。
そうして眺めていると、紗耶香の浮かべている笑みが、不意に”癖”のように思えた。
何の先入観もなく、頭が真っ白になった状態で呆けたように、紗耶香の顔を見ていると不意にそう印象づけられたのである――。
市井家の運営する総合病院の1つに運ばれたことが、真希にとって幸いした。
大柄な警官もこの病院の主が誰であるのかはもちろん知っていたし、真希の事情聴取にその主の娘が訪れたとあっては、
いつものようなキツイ詰問を浴びせることもできず、事務的な事情聴取を終えるとさっさと帰ってしまった。
「さすがって、感じだよね」
眠りから覚めた真希は悪びれることなく、ベッドの上で笑った。
窓外の風景を眺めているひとみは、ちらりと真希に視線を向けたが、何も言わずにすぐまた窓の外に視線を戻した。
厚い雲の切れ間から、夕暮れの光が漏れている。
「万引きぐらいも揉み消してくれるのかな?」
「……」
「薬は……、さすがに無理だよね」
ひとみは、ゆっくりと振りかえり真希を見据えた。
「……そんな、怖い顔しなくてもいいじゃん。冗談だよ」
と、真希はつまらなさそうに背を向ける。
「冗談でも、言っていいことと悪いことがある」
「……眠いから、寝る。見舞いに来てくれて、ありがとね」
「ごっちん」
「寝るから話しかけないで」
真希は、いつもそうしているようにベッドのシーツを頭から被る。
だがすぐに、無表情にやって来たひとみにそのシーツを剥がされてしまった。
「寝るって言ってんのに、なにすんのさぁ……」
身を縮めた格好のまま、真希は面倒くさそうにつぶやく。
背を向け、目を閉じていたのでひとみがどんな表情をしているのかわからなかったが、
ベッド脇に佇み冷たい目で自分を見下ろしている姿が想像できた。
『お決まりのパターンに走るほど、ごっちんはバカじゃないと思ってたけどね』
「……相変わらず、冷たいね」
『同情なんかしてるほど、暇じゃないから』
「……知ってるよ、アタシ」
真希は横になったまま、くるりとひとみへ身体を向けた。
ベッド脇に佇むひとみは、やはり真希が想像した通り冷たい目をしていた。
だが、ニヤニヤと含み笑いをしている真希を見て、困惑でもしたのだろうか、スッと視線を逸らした。
「よっすぃの好きな子って、あの石川って子でしょ?」
「……」
「アタシさ、思ったんだ。あの子さ、いちーちゃんの事が好きだよ。目を見ればわかる。絶対そう」
「……」
「ホント、同情なんかしてる暇ないよね」
「……」
「――あの日、よっすぃ言ったよね。もう1回、付き合おうかって。あの時、よっすぃがどんな気持ちだったかわかった」
真希の言葉はそのまま、鋭い切っ先を向けてひとみの胸に刺さった。
「やっぱさ、似たもの同士だよねアタシたち。あの時は断ったけど、やっぱもう一回付き合おうよ。ね、そうしよう」
真希はぼんやりと佇むひとみの手を握り、おもちゃをねだる子供のようにその手を左右に振った。
「絶対、今度はうまくいくよ。そうしよう。ね」
「……」
ひとみは、真希の手の動きを止めると、その手をゆっくりと振りほどいた。
「似たもの同士なら、あの時、アタシがなんであんなこと言ったかわかるよね」
「――利用しようとしたんだよね」
「そう……」
目を伏せながらつぶやくと、ひとみは静かに窓辺に佇んだ。
宵闇がもうすぐそこまで迫りつつあった。
「あの時はどうかしてた……。だから、謝って許してもらおうなんて思ってない……」
「……」
真希は、窓の外に向かってトツトツと喋るひとみの声を聞きながら、上半身を起こす。
「ごっちんとアタシは違うよ。正々堂々と姉さんに、自分の気持ちを伝えればいい」
「――そんなのできるわけないの、知ってるくせに……」
「……」
暗くなった室内をセンサーが感知して、天上の蛍光灯がほのかな淡い白色を灯す。
蛍光灯に照らされた真希の顔色は青白く、痛々しさすらさえも感じた。
「よっすぃだって、ホントはアタシを」
「ごっちん」
ひとみは次の言葉を真希の口から漏らさせないよう、強い口調で制した。
「アタシが汚れてるから、そんなに冷たくするんでしょ!」
「ごっちん! それ以上言ったら、終わりだから」
駆け寄ったひとみを振り払うかのようにして、真希はベッドから下りる。
床に着地した衝撃で額に鈍痛が走ったのだろうか、ガーゼの上から手を当てた。
しかし、真希はその痛みにひるむことなく、ひとみに強い視線と口調を投げかける。
「アタシだって、綺麗な身体でいたかった!」
「忘れるって約束したじゃない!」
「できるわけないじゃん! 母親の前の男に無理矢理ヤラれてさ、子供まで」
「ごっちん!」
制しようとするひとみをかわしながら、真希は長く艶のある栗色の髪の毛を乱暴にかきむしる。
「辛かったのに! 寂しかったのに!」
堪えていた感情を一気に爆発させた――。
ひとみは、そんな印象を受けた。ブチブチと髪の毛が引き抜く音がやけに鮮明に聞こえ、ひとみは顔をしかめた。
「ヤメなよ!」
ひとみはその腕を掴んだが、真希は振り払おうともがく。
「離して! もう、いいじゃん。よっすぃにはもう関係ないじゃん。ほっといてよ!」
「ごっちん!」
ひとみは、そう叫ぶと無意識に真希を強く抱きしめた。
真希の身体が震えているのか、自分の身体が震えているのか、ひとみにはよくわからなかった。
ただ、梨華を抱きしめた感触やその時の感情が、どこか遠くへ行ってしまいそうな不思議な感覚がした。
「こんな身体なんかいらない!」
「もう、ヤメて! ごっちんは、汚れてなんかない!」
「いちーちゃんが知れば、そう思うよ!」
「知られることなんてない! 絶対に喋らないから!」
「もう、嫌だ……! 嫌だ! あの頃に戻りたい」
「ごっちん!」
真希は、膝をついて天井を仰ぎながらポロポロと涙をこぼした。
同じようにひとみも膝をつき、荒い呼吸をしながら、数ヶ月前の明るく何でもないと言って
手術室に入っていった真希の姿を思い出していた。
あの時の自分は、いったいどう考えていたのだろうか?
堕胎ぐらい今の時代では珍しくもなんともない、男とはやはりそうしたもんなんだと、どこか白々しく考えていたのではないか――。
慰めはしたが、それは本心からだったのだろうか?
痛みを少しでもわかろうとしたのか?
そんな真希を、姉に好意を寄せているからと言う理由だけで邪険に扱ってしまった。
数ヶ月前の自分が、自分ではないような気がして、ひとみの背筋を悪寒のようなものが走った――。
(あ〜あ……、とうとう今日……か)
日も昇りきらない早朝。
梨華は目覚し時計の鳴る15分前に自然と目を覚まし、布団の中でしばらく冷たい部屋の空気を鼻先で感じながら、
ぼんやりと天上を見つめてまどろんでいた。
(……)
1度も会ったことのない――、紗耶香とひとみの父親。
そして、梨華の父親であったかもしれない人物。
――市井正和が、アメリカから帰国する日である。
(どんな人なんだろう……)
姉妹の父親であることは確実だったが、梨華はその容貌を想像することができない。
写真すらも見たことのない梨華の知っていることといえば、
いつかひとみが皮肉めいた口調で漏らした”エロオヤジ”という単語と、
紗耶香に暗い表情をさせる人物という、あまり良い印象を抱けない人物であった。
その人物が帰国するということもあって、緊張感からか深く寝いることができず、
こうしてまだ日も昇りきらない早朝から目を覚ますこととなっていた。
――だが、それだけが理由で深く寝入ることができなかったのではないと梨華は自分でもわかっていた。
寝返りを打つと、サイドテーブルの上に置かれた数枚のFAX用紙が目に入る。
薄暗い部屋の中では、ただ白く浮かびあがっているだけではあるが、梨華はそこに何が書かれているのかを知っている。
(藤村さんって、凄いなぁ……)
藤村の完璧な仕事ぶりに妙に感心しつつ、FAX用紙の束を手にとって眺めてみた。
そこには寸分たがわず、昨日梨華が注文してあった条件通りのアパートの物件がいくつもあった。
めくって眺めては見たものの、そのどれを選んでも大差のないものであるということはもう既に昨夜の内にわかっている。
そうすることにあまり意味はなかったのだが、ぼんやりとしているだけでは、
市井家での生活を思い出し、朝から塞ぎこんでしまう恐れがあったので、そうして意識を他へと向けていた。
市井正和が帰国する日――、即ち、梨華が姉妹にこの家を出るということを告げなければならない日でもあった。
『あ、あの』
と、声をかけられるまで、藤村は市井家のロビーを横切りながら、頭の中で今日のスケジュールを確かめていた。
午後8時までに全ての仕事を終えて、空港に迎えに行かなければならない。
はたして、それまでに山のように積まれた各病院からの報告書に目を通すことができるんだろうか?
そんな事を考えていたので、一瞬、その声が自分にむけられていることに気づかず、そのまま大広間に向かうところであった。
何気なくひょいと後ろを振りかえってみると、食堂のドア口に制服姿の梨華が佇んでいる。
「梨華お嬢様。これはこれは、失礼しました。何か、ご用ですか?」
訊ねなくても、藤村にはおおよその察しはついていた。
梨華は軽く会釈をすると、スカートのポケットの中から1枚の用紙を取り出しながらこちらへと向かって歩いてくる。
昨夜遅く、自分がソレを手渡したのである。
梨華が何を言いたくて、声をかけてきたのかは充分すぎるほどにわかっていた。
「あ、あの、アパートのことなんですけど」
やってきた梨華はそう口を開き、
「ここに決めたいんですけど、お願いできますか?」と手にしていた用紙を揃え直し恭しく差しだした。
「梨華お嬢様……」
受け取ることに躊躇する藤村が声をかけたとき、2階の部屋のドアが閉まる音がした。
ひとみか紗耶香――、どちらかが起きてきたらしい。
藤村の声を無視するかのように、梨華は中央階段を見上げる。
しばらくして、そこに起きてまだ数分しかたっていないだろう、目もまともに開けていないパジャマ姿の紗耶香が現われた。
「……」
藤村は口をつぐんだ。姉妹のためにも梨華にはこの家に留まってほしかったのだが、
一介の使用人でしかない自分が決める権利はなく、ましてや家を出ると決めたのは梨華自身である。
藤村は喉元まで出かかっていた言葉を静かに飲みこみ、梨華の差しだした用紙を受けとった。
「すみません。ちゃんと、自分で説明しますから……」
その様子を察したのか、梨華は小声でそう言うと軽く頭を下げて、食堂へと向かう紗耶香の後を追う。
見送る藤村の心境は、複雑であった――。
「朝まで勉強ですか?」
食堂へと入るなり、ストンと椅子に腰かけうつらうつらとした紗耶香に、梨華は食堂のドアを閉めながら気遣うように声をかけた。
「ん? うん……。2時間しか寝てない」
ワンテンポ遅れて、紗耶香は苦笑のようなものを浮かべて応える。
やはり、相当眠いらしい。
眠いながらも、こうして食堂に姿をあらわす理由を知っているが、梨華はあえて何も聞かずに普通の会話に徹した。
「大変ですね、受験生って――。あ、市井さんは」
言いかけて、梨華はハッと口を閉じた。
どこの大学を受験するのか訊ねたかったのだが、病院をいくつも経営している市井家の娘であり、
何よりも医学部には安倍なつみがいる。
訊ねなくても明らかで、梨華にも以前からわかってはいたのだが、会話の流れでつい訊ねてしまいそうになった。
(危ない……)
梨華は何事もなかったかのように、テーブルに皿を並べる。
チラリと紗耶香を窺ってみたが、先ほどの会話はもう既に忘れてしまっているのか、眠そうな目をしてボーっと皿を眺めていた。
――時計の針は、容赦なく時を刻む。
ひとみがやって来てから朝食を食べようとしたが、当の本人がいくら待っても現われない。
いつもなら階下に降りてきていい時間であるが、降りてくる気配さえなかった。
「遅いな。今日、休むのかな」
眠い目をこすりながら、紗耶香が壁の時計を見つめてポツリとつぶやく。
「やっぱ……、アタシがいるからかな……」
視線を落としてそう弱々しく笑う紗耶香を見て、梨華の胸は痛んだ。
と、同時にまだ紗耶香への想いを引きずっている自分に気づいたのだが、梨華はそれを払拭するかのように勢いよく席を立った。
「そんなことありません」
「?」
突然立ちあがった梨華を、紗耶香はきょとんとした表情で見上げる。
「あ、あの、ひとみちゃん、起こしてきます」
と、梨華は必要以上に早口でまくしたてると、やはり口調と同じように足早に食堂を出ていった。
「――ひとみちゃん?」
それまで、ボーっとしていた紗耶香は急に意識を取り戻したかのように、背筋をピンと伸ばし目を瞬かせた。
佇むドアの前、梨華はノックの前に耳を澄ましてみたのだが、部屋の中からは物音一つしない。
いつもなら確実に起きている時間。
ひょっとして、昨夜の寒さが原因で風邪でも引いたのではと、梨華は不安になった。
街灯の下に立つ自分の前を、ぼんやりと通りすぎていくひとみ――。
立ち止まり、しばらく夜空を見上げるひとみ――。
どことなく元気のなかった昨夜のひとみを思い出しながら、梨華はソッと音を立てないようドアを開けた。
「……?」
僅かに開いたドアの隙間から中を窺って見たが、どこにもひとみの姿はない。
だが、数分前までは存在していたような温度が感じられた。
作動していたはずのエアコンが、主のいない部屋をまだ適温に保っている。
「どこ行っちゃったんだろう……」
辺りを見まわしながら部屋へと入ってみたが、どこにもその姿は見当たらない。
やはり、紗耶香と顔を合わせるのが嫌で先に登校してしまったんだろうか――。
梨華は、ブルブルと頭を振ってその考えを否定した。
否定する根拠は、昨夜のひとみの笑顔だけで充分であった。
「もう、大丈夫。――うん」
中途半端に開かれたカーテンを全開にして、こみ上げてくる寂しさを振り払うかのように、梨華はそう声に出してみた。
――薄暗い部屋。
襖1枚隔てた隣の部屋からは、母親の寝息が聞こえている。
枕をクッション代わりに胸に抱き、真希は布団の上であぐらをかいて座っていた。
虚ろな目は、遮光カーテンの隙間から漏れる朝の陽光をただジッと見つめている。
もう長い間、そうしていることに真希自身は気づいていない。
薄暗い部屋の中、射しこむ明かりは平面的で、真希の目には光のカーテンのようにも、
現を隔てる異世界への扉のようにも見えていた。
別の世界。
自分の事を誰も知らない世界よりも、自分が誰なのか分からない世界。そんな世界を、真希は切実に望んでいた。
ひとみの言う通り、紗耶香に自分の気持ちを全部伝えてしまえば、何かが変わるのだろうと真希自身にもわかっている。
しかし、完全に吹っ切るとなると――。
この世界に存在し続ける限り、無理なことのようにも思えた。
想いを断ち切るために紗耶香の元へと向かうこともできず、かといって何をしていいのか分からない自分が情けなくもあり、
真希は布団を頭からかぶると襖1枚向こうの部屋で眠っている母親に聞かれないよう、数分前に止まったばかりの涙を静かに流した。
無機質なアナウンスが、通話先である真希の携帯に電源が入っていないことを知らせる。
「……」
ひとみは、携帯電話をきるとスナック「真美」の2階を見上げた。
夜の賑わいが嘘のように、しんと静まり返った千鳥横丁。
2階住居の小さな物音1つでも聞こえるだろうかと耳を澄ましてみたが、
ひとみの耳に届くのは動き始めた街の喧騒が遠くに聞えてくるだけであった。
軽くドアをノックしてみたが、外付けの階段のドアのため、眠っているのであれば到底2階住居の真希には聞こえそうにない。
もう少し強くノックをしようとしたひとみだが、寸前のところでその手を止めた。
自転車に乗った初老にも近い女性が、あからさまに不審者を見る目付きで横を通りぬけていく。
ひとみは、何気にドアの前を離れて、自転車の女性とは反対方向に歩を進めた。
「……」
真希が家に帰っていないことも充分に考えられ、ひとみは自転車の女性が角を曲がって見えなくなっても、
足を止めて引き返すような事はしなかった。
ただ、千鳥横丁を通り抜けるまでに、”いつでもいいから、電話して”と置手紙のようなメールを真希の携帯に送信していた。
あんなに朝早く、どこに行ったんだろう?
学校、ちゃんと来てるのかな……?
休むのかな?
お昼ご飯、どうするんだろう?
そういえば、前も急にいなくなったことあったっけ……。
小さな子供ではないので心配していなかったが、朝からひとみの姿を1度も見かけないというのが、
どこか不慣れで、梨華は午前中の授業のほとんどをそうしてひとみへと思いを馳せることに費やしていた。
ちゃんと、言えるかな……。
ちゃんと、帰ってくるのかな……。
嘘ついたこと、怒られるのかな……。
別れを告げる場面を想像し憂鬱な気分に浸り始めた梨華を、
現実に戻らせるかのように、タイミング良く4時間目終了のチャイムがスピーカーから流れた。
我にかえった梨華は早朝と同じように、つとめて意識を他へと向けることに専念した。
そうしないと、ここが教室であることも忘れて泣いてしまいそうになっていたからである。
教室から教師が去ると、退屈な授業にウンザリとしていた生徒たちの顔には傍目にもわかるほどの生気が戻る。
大きく伸びをしたり、だらしなくぐったりと机に上半身を突っ伏してみたり、すぐさま友達のところに駆け寄ってみたり――。
あらためて眺めてみると、以前通っていた学校とそれほど変わらない光景であり、
いつか抱いていたお嬢様学校特有のつんけんとした印象も自分の中でかなり薄れていることに気づく梨華であった。
『どうしたの? 石川さん』
柴田あゆみの弾んだ声を背後に聞き、結局のところ、友達と呼べる生徒は1人しかいなかった事に気づき、
梨華はネガティブな思考に陥りかけたりもしたが、そうやって声をかけてくれる友達が1人でもいたことを心の中でそっと感謝した。
「ううん。なんでもない」
梨華は、微笑みを返し、机の上のノートと教科書を机にしまう。
「――?」
机の前に周り込んできたあゆみはしばらく首をかしげて梨華を眺めていたが、
急に何かを思いついたかのように、「わかった」と声を上げて机の前にしゃがみこんだ。
「……え?」
微かに仰け反りながら、梨華は声をだす。
「今日、吉澤さん来てないもんね」
と、あゆみは意味あり気な笑顔を浮かべた。
あゆみの言葉を聞き、梨華はほぼ条件反射的に教室の出入り口へと視線を向けた。
コの字型になった校舎、1年と2年は同じ南側の校舎の2階と3階に位置している。
2階と3階を結ぶ階段は、わずか三十段ほど。
どんなに時間がかかろうとも、ひとみは3分もせずに4時間目の授業が終わると梨華の教室に姿を表していた。
しかし、今日はその3分も既に経過しているが、そこにひとみの姿はない。
いつの間にか習慣となった、2人だけのランチタイム。
それも残りわずか、もしかしたら今日で終わりかもしれないと思うと、梨華の目にじわりじわりと涙が浮かんできた。
「い……、石川さん??」
驚いたのは、目の前にいたあゆみだった。
梨華が教室の出入り口を眺めながら、ひとみのことを考えているのは一目瞭然ではあったが、
まさか涙を浮かべるとまでは予想もしていなかった。
「ちょ、ちょっと、どうしたの? 何があったの?」
周りに気づかれぬよう小声で訊ねるあゆみだったが、
その行為自体が他人の奇異な行動に過敏に反応するクラスの生徒たちにしてみれば、
何かあったんだと気付かせるには十分な動きであった。
梨華の周りには、遠巻きではあるが、あっという間に黒山の人だかりができた――。
生徒たちで賑わう校内カフェが、ほんの少しの間、不思議なほど静まり返る。
テーブルの上にノートを広げ、午後からのテストに備えて勉強をしていた紗耶香だったが、静寂が気になり何気なく顔を上げた。
紗耶香の周りにいた友人たちが、気まずそうに目配せをする。
「ひとみ……」
視線の先、カフェの入口に軽く息を弾ませたひとみが立っていた。
登下校の際に着用しているコートそのままの姿は、たった今、ひとみが学園へとやってきたことを物語っている。
ガタンと椅子を引いた音に気付いたのか、中を見まわしていたひとみの視線が紗耶香を捉えた。
一瞬の動揺は確かにあったようで、ひとみはぎこちなく視線をそらすと、もう1度中をぐるりと見まわし、
そこに目的の人物がいないことを知ると、紗耶香と目を合わすことなくカフェのドア口から姿を消した。
「ごめん。ちょっと」
紗耶香は、周りで気まずそうにしている友人たちに声をかけ、ひとみの後を追った。
『ひとみ』
呼びかける声に、廊下を歩いていたひとみは露骨に顔をしかめたが、
後ろから走ってきた紗耶香はその表情を見ずに済んだ。
紗耶香が軽く息を乱しながら、ひとみの前へとやってくる。
そうされれば、ひとみも足を止めざるを得ない。
廊下に出ている生徒たちは、遠巻きに姉妹を眺める。
向けられる視線は、何気なさを装ってはいるが好奇心に満ち溢れていた。
ひとみはそれらの視線を避けるかのように、顔を窓の外に向けた。
中庭にある緑と茶のまだら模様の芝生の上に、何人かの生徒たちが座って昼食をとっている。
無意識に、ひとみは梨華の姿がないかを探していた。
「……」
だが、どこにも梨華の姿はなかった。
フと窓に反射するおぼろげな紗耶香の姿が、目に入る。
呼びとめたものの、窓の外に視線を向けたひとみにどう声をかければよいのか、紗耶香は戸惑っているようであった。
ため息を吐きたかったが、ひとみは寸前の所で堪えた。
姉の紗耶香をあまり冷たく突き放すと、梨華に余計な心配事を増やすだけ――ひとみは、梨華のために折れた。
「なんか用?」
「あ――、うん」
声をかけられたのがそんなに嬉しいのだろうか――、視界の隅に映る紗耶香の笑顔を見て、ひとみの胸は微かに――痛んだ。
「藤村が今日は練習終わったらすぐに帰ってくるようにって」
「……」
「なんかさ、大事な話があるから、今日だけは必ず帰って来てくれって。まぁ、最後の方は私に言ったと思うんだけどね」
と、ぎこちないながらも紗耶香は笑顔を浮かべる。
笑顔を浮かべる紗耶香とは正反対に、ひとみはずっと窓の外に冷たい視線を向けていた。
とりわけて自分にはなんの関係もありそうにない伝言。
そんな事を聞かされるよりも、ひとみは一刻も早く梨華に会いたがっていた。
だが、その梨華のためにもこの場を――、紗耶香を無下に扱うことができない。
苛立ちと焦りのリズムは、無意識に親指と中指の爪を擦り合わせる仕種となって現われる。
「今、来たんだ?」
「……」
「……買い物?」
紗耶香が、ひとみの手にした紙袋を指さす。
「……」
「それってさ、駅前のピーブルって店だよね。アタシもさ、この前、行ったばかりなんだ」
なつみの買い物に付き合っていただけだったが、なぜか、ひとみの前でなつみの名前を出すのが躊躇われ、
そのことは口にしなかった。
「なんか、バーゲンでもやってた?」
「……別に」
ひとみは、素っ気なく応える。
「そ。――なんか、朝早く出かけてたみたいだからさ、そうかなって思って」
「……」
「コート? あ、ひょっとして、石川にプレゼント?」
袋の口から覗いている生地の種類からコートだと判断し、薄いピンクを基調としたコートなどひとみが着るはずもないと思い、
そう口にしたのだが、そのものズバリだったらしく、ひとみは大袈裟かとも思えるほどの動作で紙袋を後ろ手に隠した。
「あ、ごめん……」
気まずい空気が辺りに立ちこめ、会話はプツリと止まった。
次に何を話せばいいのかを考えると、余計に焦ってしまい何も言葉が思い浮かばない。
やはり、梨華が側にいないと上手く接する事ができないのかと考えた時――、
紗耶香の中で唐突に、数日前のひとみの言葉が脳裏をかすめた。
本当にこの手で抱きしめたい人。
その時は、興奮していたせいで、わかりもしなかったひとみの好きな相手。ひょっとして、それは梨華なのではないか。
紗耶香の知る限りではひとみが心を開いた人物は、梨華しか思い当たらない。
家を出ようとした梨華を引きとめたのも、先ほどの動揺も、だからこそなのではないかと、紗耶香は唐突にそう思えた。
プツリと止まった会話に痺れをきらしたのか、それとももう用はないと判断したのか、
ひとみは紗耶香に声をかけることもなく廊下を歩いていった。
「違うかな……?」
紗耶香は、ポツリとつぶやく。あまり自信はない。推測の域は出ておらず、勝手な思いこみで行動に移すことはやめた。
姉としては妹の喜ぶことをしたいのだが、これまでの経験上、上手く行った試しはない。
「……」
紗耶香は小さくなっていくひとみの後ろ姿を見送ると、きびすを返してカフェへと戻っていった。
窓をわずかに開けて、真希は部屋の中に外気を取り込んだ。
「ふぅ……」
声に出したため息は熱っぽく、肌に当たる風は冷たい。
部屋に充満したアルコールの匂いを程よく外気と循環させると、真希はブルブルと身体を震わせて建付けの悪い窓を閉めた。
床にあったウィスキーの空き瓶を蹴飛ばし、敷きっぱなしの布団の上にゴロリと寝転ぶ。
吐いたため息が熱っぽかったのは、午前中から呑みつづけているウィスキーが原因だった。
だが、750mlのボトル瓶1本では、何もかもを忘れてしまうほど酔いきれてはいない。
忘れるほど――、真希は紗耶香への想いを忘れてしまうほど酔いたかった。
しかし、中途半端なアルコールは無駄に思い出だけが甦り、
紗耶香への想いを断ちきりたいはずの意識を翻弄させるだけであった。
まだ、完全に酔えていない。
階下に降り、アルコール度数の高い酒でもくすねとって来ようかと、
ゆっくりとした動作で身を起こしかけた時、部屋の襖がノックもなく、おもむろに開いた。
いつもの事なので、今さら文句を言う気にもならない。
真希は、虚ろな目を窓の外に向けた。
「何やってんの。働きもしないで昼間っから」
母親のアルコールで掠れた声が、窓の外に目を向けている真希の耳に届く。
ヘアスタイルとラフな格好がアンバランスな母親は、美容院帰りなのだろう。
ちらりと見ただけではあったが、真希はそう判断した。
「まったく、ろくな大人になんないね」
と、母親は真希の乱雑な部屋の中を、気怠そうに見まわす。
その言葉を聞いて、真希は窓の方に顔を向けたままフッと笑った。
あんたの子供だもん――と、心の中で皮肉をつぶやいたが、面倒なのでそれを口にする事はなかった。
「はぁ〜あ……。ちょっとぐらいはさ店の手伝いぐらいして、お母様に楽させてくれてもいんじゃないの?」
座り込んだ母親を横目でちらりと見やり、真希は軽いため息を吐く。
今は母親の声など聴きたくない心境だった。
さっさと部屋を出て行ってもらいたかったが、母親は真希の心境など全く察することなく、
美容院で一緒になった同年代の主婦と違い、自分がいかに苦労しているかを延々と愚痴た。
母親のくだらない愚痴も毎日のことであり、むしろ吐き出される息に酒臭さがないだけマシである。
真希は何も考えないようにして虚ろな目で、窓越しに見える向かいの店の看板を眺めていた。
「あんたが、市井家の本当の娘だったら、今ごろ、私も楽ができたのに」
しばらく経って、母親が口にした市井というフレーズが、真希を現実に呼び戻す。
「はぁ〜あ、惜しいことをしたわ。あん時にちゃんと名乗ってくれてたら、コンドームに穴の1つでも開けておいたのに」
と、せせら笑う母親。冗談のつもりなのか、その表情に悪びれた様子は微塵もない。
真希は、そんな母親と同じ血が流れていると思うだけで、吐き気を催しそうになった。
「そしたら今ごろ私は、市井家の正妻……、と、まではいかなくても、
アンタを渡すかわりに何千万かは慰謝料として貰えてたかもね」
襖の柱にもたれた母親は、遠い目をしながらタバコに火をつけ、煙をゆっくりとくゆらせる。
「……ゃえ」
「は?」
スッと立ちあがった真希を見て、母親はタバコを手にしたまま言葉を失った。
汚されたことも知らず、過去の身勝手な遊びのせいでこうして苦しんでいることも知らず、
のうのうとそう言い放つ母親に殺意のようなものすら覚えた真希の目からは、憎悪と共に大粒の涙が零れていた。
「真希……」
「……ゃえ。死んじゃえ! クソババア!」
真希は枕を母親に投げつけ、テーブルの上の携帯電話と財布を掴み取ると、後ろを振りかえることなく部屋を飛び出していった。
真希の理性の箍は、怒りと共に弾け飛んだ。
もう、どうだっていい!
いちーちゃんのことなんて!
夢だった。夢だった。
好きになる資格なんて元々なかった。
真希は溢れる涙を拭うこともせず心の中で叫びながら、鉄錆びくさい階段を駆け下り、
人通りもまばらな午後の千鳥横丁を走りぬけた。
校舎隅にある外付けの非常階段。
梨華はグスグスと鼻を小さく鳴らしながら、うつむき加減で階段に座っている。
「そっか……。そんなことがあったんだ……」
踊り場に立ち、吹きすさぶ冷たい風に目を細め、遠くの景色を眺めるあゆみ。
「ごめんね、ずっと黙ってて……」
「謝ることないって」
「だって、付き合ってもないのに、付き合ってるみたいに……」
愚図る梨華の声を聞き、あゆみは苦笑を浮かべながら梨華の元へと向かう。
「言ったよ。私もう、好きな人ができたって」
「あ、うん……。でも、やっぱりいい気分じゃなかったかなぁって……」
「そんなの気にしてたの? ――もう」
苦笑するあゆみはそう言って、梨華の横に腰を下ろした。
洗いざらいとまではいかない。
肝心のどうして市井家に招かれたのかの理由は、梨華は話さなかった。
そして、姉の紗耶香に告白して振られてしまったことも。
それらは、これからも学園生活を送るひとみや紗耶香を考慮しての事である。
だが、それ以外の事は話して聞かせた。
ひとみとは付き合っていないこと。市井家に世話になっていること。
学園を去る決意でいること。前にも、そのようなことがあり、黙って去ろうとしたこと。すべてを、あゆみに告げた。
非難される覚悟のあった梨華だったが、こうしてあゆみはいつもと変わりなく接してくれる。
それはまた、ひとみや紗耶香から感じる優しさとは違うものであった。
「ごめんね……」
梨華は、もう1度、ポツリと謝った。
それを聞いたあゆみは、ただ困ったような笑みを浮かべ、
遠くに見える飛行機雲の名残りらしきぼやけた一条の雲を眺めているだけであった。
「吉澤さんってさ」
しばらく空を眺めていたあゆみが、まるで空に語りかけるように口を開いた。
「石川さんと出会ってから、変わったと思うよ――。なんかさ、雰囲気が優しくなったっていうか――。
ほら、私、ずっと見てたからわかるの」
「……」
「だからね、2人が付き合ってるって聞いたときも、別に嫌な気持ちじゃなかった。
だって、吉澤さん、すごい優しい目で石川さんのこと見てんだもん。
そんな風にさせる石川さんって凄いなぁって思ったし、吉澤さんも本当に好きな人ができて良かったなぁって思った」
「……え?」
梨華は、うつむいていた顔を上げた。
隣に座っているあゆみは、何でもなかったかのようにやはり遠くの雲を眺めていた。
好き?
誰が? 誰を?
あまりにもあっさりとあゆみが言ったため、梨華はさきほどの話をうまく整理することができない。
「石川さんは、吉澤さんがからかうつもりで付き合ってるなんて言ったと思ってるみたいだけど、誰もそんな風になんか見てない」
「?」
「みんな、吉澤さんが本気で石川さんのこと好きなの知ってるから、嫉妬してあんな子供みたいな意地悪したんだよ」
「ちょっと、待って。本当に、そう言うんじゃないんだから」
「気付いてないのは、石川さんだけ」
あゆみは堪えきれなくなったのか、クスクスと声をだして笑った。
それでも梨華は、きょとんとした表情でそんなあゆみの姿に見入っている。
「だって、みんな昔の吉澤さん、知ってんだもん」
「?」
「誰かをからかったりとかさ、そんなつもりで毎日教室に来たりなんかしない。
そんな事に興味持つような人じゃないの知ってるから」
「――? だって、家じゃ毎日からかわれてたよ」
それを聞いたあゆみは、
「なんか、吉澤さんって好きな子に意地悪する男の子みたい。可愛い」と、足をバタバタさせて身悶えた。
何のことを言ってるんだろう――しばらくぼんやり考えていた梨華だったが、
途切れていた回路が急に繋がったかのようにあゆみの言っていることを理解することができた。
だが、理解した瞬間に回路はショートした。
(そんなの……、絶対ない……。会っていきなり黒いって笑われたし……。嫌味ばっかりだし、何回も睨まれたし……)
あゆみの言葉によって、混乱しかける思考を落ちつかせるためなのか、
あゆみの言葉すべてを否定するかのような出来事が、梨華の頭の中を駆けめぐる。
教室では確かに、ひとみのことを考えて泣いてしまった。
だがそれはただ単に、ひとみとは今まで色んなことがあっただけに、
感慨も一入で、こみ上げてくる別れの寂しさを堪え切ることができなかっただけだと、涙を流した時からわかっている。
決して、あゆみの想像しているような理由で涙したわけではないと否定しようとしたが、
ふたたび口を開いたあゆみの言葉によって遮られた。
「吉澤さんってさ、すごいモテたし色んな人と噂になったりもした。同級生とか、大学生と付き合ってるとか……」
「大学生……!?」
あゆみの口調は、どことなく梨華に聞かせるのを憚るかのようであったが、
それでも、話して聞かせるべきだと判断したのか、あゆみはスクッと立ち上がるとスカートの汚れを払いながら話を続けた。
「実際、私もその噂になった人といるとこ何回か見たことあるけど、何ていうのかな、冷たい目して、
目の前にいるのにその人が見えていないような……」
「……」
その場を目撃したわけではなかったが、何度もそのような目を向けられたことのある梨華の頭の中には、
その時のひとみの表情がハッキリと浮かんでいた。
「付き合ってるのか、付き合ってないのか……。女の人とさ……、そういうのって大丈夫な人かどうかもわからなかった」
「……」
何を考えているのか、よくわからない。昔のひとみには確かにそんな部分があり、梨華は無意識にコクリと小さくうなずいた。
「でも、なんとなくだけど――吉澤さんって、絶対に本気で誰かのこと好きになんてならないんだろうなって事だけはわかってた」
「……」
恋だとか愛だとか、そんなのどうでもいいよ。メンドーなだけ――。いつかのひとみの言葉が、リフレインする。
「特に自分を好きになる相手は――」
あゆみは、ほんの少しはにかんでみせた。
見上げる梨華。刹那の沈黙が、風と共に階段を舞う。
「そこまでわかってんのに、なんで告白なんかって思うよね」
梨華の疑問を汲み取るかのように、あゆみはそう口にする。
「あ……、うん……」
「やっぱり好きだったから――。ちょっと自惚れてるところもあった。
私なら、吉澤さんを変えることができるかもって――。見事にフラれちゃったけどね」
と、あゆみは照れくさそうに笑った。
「だからさ、思うんだ。そんな風にさせる石川さんって凄いなぁって――、吉澤さんも本当に好きな人ができて良かったなぁって」
頭上から空に吹きぬけていくあゆみの声に、梨華は素直に顔をあげる事ができなかった。
頭の中は真っ白で、何も考えることができない。
ただ、昨夜のひとみの無邪気な子供のような笑顔と、紗耶香の少年のような笑みだけが、
何度となく浮かびあがっては消え――を繰り返していた。
「お似合いだと思うんだけどなぁ」
あゆみの残念そうなつぶやきと同時に、予鈴が辺りに鳴り響いたが、
そのどちらの音も、梨華には現実味を欠いた音として耳へと進入した。
むしろ、胸の内側で狂ったように脈打つ心臓の鼓動が、現実味を帯びていた。
非常階段を出て教室へと向かう最中、何も言わずに前を歩いていたあゆみが急に立ち止まった。
その後ろをうつむき加減で歩いていた梨華は、相変わらず頭の中が真っ白で、立ち止まったあゆみに気づくことなく、
その傍らを通りすぎる。
うつむいた視線の先に見えていた廊下の床に、朝比奈学園指定の上履き用のシューズが見え、梨華は漸く顔をあげた。
目の前に立ちはだかるようにして佇む人物。
その瞳をわずか30センチと離れていない距離で見つめ、梨華は思った。
(やっぱり、優しい目なんてしてないよ……)
いつものように、冷たく見下ろすかのような瞳。
そのどこに優しさが込められているのか?
たまに、見せる優しさを知ってはいるが、それは本来持っていたものであり、決して自分にだけ向けられている特別な視線ではない。
やはり、あゆみのいう事は間違いであり、あゆみの勘違いなんだと、
結論付けようとして――梨華の思考は、目の前にいるのが誰かを認識してピタリと止まった。
「じゃあ、先、行ってるね」
身を強張らせて佇む梨華の脇を、あゆみが含み笑いのようなものを浮かべて去っていく。
あゆみは、梨華の目の前にいるひとみに軽く会釈のようなものをして、教室へと入っていった。
入る間際に見せた小さなガッツポーズに、どんな意味が込められているのか――。
ぼんやりと考えている梨華の耳に、微かに遠のいていくひとみの声が届く。
「友達いて、良かったじゃん」
どことなく不機嫌な声の調子に、梨華は思わず顔を上げた。
いつの間にかひとみは梨華のもとを離れて、一向に振りかえる気配も見せず窓際に佇んでいる。
「う、うん……」
なんとか声を出したものの、先ほどのあゆみの言葉を思い出し、梨華はあわてて視線を他へと向けた。
「泣いてたって聞いたんだけど……」
「……え?」
「泣いて、教室出て行ったって。さっき、クラスの人から聞いた」
「あ……」
「何かあったんなら、アタシが言ってあげるけど」
「あ、いい。違うから。そんなんじゃないから」
あわてる梨華の声を聞いて不審に思ったのか、ひとみは振りかえった。
振りかえったと同時に、梨華はハッとした表情を浮かべてうつむく。
「……」
あゆみと2人でいたことに対して、ほんの少しムッとした表情をしてしまったものの、
顔をうつむかせるほど萎縮させるつもりもなかったひとみは、
「さっき来たばっかで、よくわかんなかったから……。ごめん」
と、視線を伏せ気味にして小さく消え入るような声で謝った。
「さっき……って、……あ、……はい」
何に納得したのかよく意味も分からずに、梨華はただ気まずい沈黙が流れるのを避けるかのように声を発した。
「なんか……、変なんだけど」
「べ、別に」
顔を上げた梨華の目に飛び込んだのは、不審そうに見つめるひとみの姿であった。
昨夜まではなんともなかった見つめ合う行為が、途端に恥ずかしくなってしまい、
梨華はまともにひとみの目を見ることができず、慌てふためきながら言った。
「な、なんでもないから。そ、それよりね、今日、大事な話があるから、練習終わったら、まっすぐ帰ってきてね」
「あ――、さっき聞いた。何? アタシにも関係あんの?」
「関係あるよ。関係あるから。絶対、帰って来てね」
「あ――、うん」
「それだけ。じゃ、じゃあ」
と言い残し、梨華はまさに逃げるようにしてひとみの前から走り去っていった。
「……?」
取り残されたひとみは、わけもわからずただ佇むだけであった。
教室に入る間際に、振りかえった梨華の顔はどことなく赤く、昨夜の事が原因で風邪でも引いたのではないかと心配になった。
と、同時に手にしていた紙袋の存在に気づいた。
梨華のために買ってきたコートを、渡せずにいたことを。
後を追って手渡す事も考えられたが、教室の中では梨華が周りの目を気にして受け取るのを拒むような気がし、
一歩を踏み出す事ができず、ひとみはそのまま階下へと歩を進めた。
家に帰ってから手渡せばいい、ひとみはそう考えていた――。
流れる車窓の景色は、どれも数日後に控えたクリスマス一色のものであった。
およそ、キリストの生誕を祝う気もさらさらなさそうな、年老いた老夫婦の経営する小さな金物屋ですら、
ショーケースの中にクリスマスツリーを飾っている。
バスの一番後ろの席に座っている真希には、街全体が浮ついているかのような光景に見えた。
増す一方の疎外感に堪えかねたように、真希は目を閉じる。
閉じる間際に見えた、大通りにある街路樹のイルミネーションが、真希の記憶の一片を呼び起こした。
1年前のクリスマス。市井家では特別これといった”らしい”事は何もしなかった。
そのような習慣がないのか、その日が近づいてもクリスマスツリーどころかケーキを用意する気配すらなかった。
『ねぇ、いちーちゃん』
『んー』
『クリスマスってやんないの?』
不思議に思った真希は、終業式を終えて帰ってきたばかりの紗耶香に訊ねた事があった。
その時の紗耶香は、ただ曖昧な笑顔を浮かべるだけであったが、真希にはそれで全てを理解することができた。
市井家にやって来て半年。家の中を漂う――、姉妹の間を流れる張り詰めた雰囲気は、充分過ぎるほど感じていたからである。
当日、真希は2人を驚かそうと午前中からせっせと厨房で料理作りに勤しんでいた。
夕食の時間ともなると、テーブルの上には見映えこそ悪いものの、それらしい料理でいっぱいとなった。
あとは2人が帰ってくるのを待つだけだと、
真希は誰もいない食堂でテーブルの上に並んだ料理を眺めながら心待ちにしていたのだが、
2人は朝を迎えても帰ってくることはなかった。
さめざめとした食堂で、1人涙を流したことを2人は知らない。
真希は、翌日、別々に帰ってきた2人の前で涙は見せなかった。
いつものように、ふわふわとした笑顔を浮かべて2人をそれぞれ迎え入れた。
(そんなこともあったっけ……)
目を閉じた瞼の向こうで、1年前のことがつい昨日のように思い出されたが、真希はもう何も感じなかった。
バスの振動がアルコールを程よく全身へと運び、酔いの心地よさにすぐにでも眠ってしまいそうになったが、
バス停に停車するたびに乗り込んでくる学生たちの黄色い声が耳障りでもあり、心地よさと居心地の悪さの狭間を、
バスの振動のように揺れるしかなかった。
揺れる。
そう。
全部、自分が悪いんだ……。
いちーちゃんのせいでもないし、よっすぃのせいでもない。
寂しくて、揺れた自分が悪いんだ……。
あの時、ひとみの告白を断っていればと夢想しかけたが、そうすることに何の意味も見出すことができないと判断し、
真希は騒いでいる学生から顔を背け、目的地につくまでの間を何も考えないように過ごすことに決めた。
(もう、いいや……、どうだって……)
閉じた瞼の裏に、いつか見た小さな花が浮かびあがったが、クリスマスの思い出よりも新しいはずのその姿は、
儚い陽炎のようにゆらゆらと揺らめくだけで、真希はハッキリとその姿を捉えることができなかった。
――柱の影に隠れるようにして学園の正面玄関を窺う梨華。
放課後。大勢の生徒たちが、帰宅の途についている。
バレーの部活があるため、ひとみはいつも校舎の西側から渡り廊下を使って体育館に向かう。
放課後のこの時間に、この場所でひとみと遭遇したことなどただの1度もないのだが、それでも梨華は不安で、
すぐに生徒たちの一団に加わることができず、こうして柱の影から辺りを窺っていた。
(あゆみちゃんが、変なこと言うから……)
梨華は昼間のことを思い出し、泣きそうに眉をひそめた。
あれから梨華は、ひとみと顔を合わすことはなかった。
だが、放課後までの時間、その頭の中はひとみのことでいっぱいであった。
まだハッキリと決まったわけでもなく、”あゆみの仮説”でしかないが、そういう風に言われてしまうと、
意識していなくてもそんな風に勘ぐってしまう。
現に今も梨華は、訳も分からずに頬を赤らめてオロオロとしている。
あゆみの言った一言により、違う目でひとみを意識するようになったのは間違いなかった。
「もう、どうしよう……」
と、バタバタと地団駄を踏む梨華。
『何やってんの?』
すぐ背後から聞こえてきた声に、梨華は息を呑むようにして身をすくめた。
ざわめく玄関ホールではあったが、梨華はその声すらも届かないほど混乱していた。
ゆっくりと振りかえったその場所に立っていたのは、首をかしげて佇んでいる紗耶香だった。
ホッとしていいものなのか、それとも――。
梨華の頭の中は、混乱に次ぐ混乱でまともな答えも出てきそうになかった。
けっきょく、梨華は紗耶香と一緒に下校することとなった。
当然、帰りつく場所は同じ家であるため、それまでの時間を共に過ごさなければならない。
これまでにも何回か下校時間が重なり、こうして一緒に歩く事はあったが、
それも学園からわずか三百メートルも離れていないアルバイト先の喫茶店までであり、
なおかつ自分の気持ちを伝える前の出来事である。
心境も状況も、その頃とは大いに違っていた――。
喫茶店を遠に通りすぎ、なおも紗耶香と一緒に歩いていることに対して、梨華は居た堪れない戸惑いを感じてしまう。
紗耶香に告白してフラれてしまったものの、日常生活を共に過ごさなければならないため、
翌日からはつとめて平静を装って接してきた。
しかし、こうして長い時間を共に過ごすとなると、やはり以前と同じように紗耶香を意識してしまう自分がいる。
完全に終わったものとして割りきったはずの自分と、そうでない自分に梨華は戸惑いを感じた。
「でさ、すぐにその子も言ったのね――」
学園の友人のちょっとしたエピソードを、饒舌に楽しげに述べている紗耶香。
そうするように相談して決めたわけでもなく、紗耶香もあの翌日からは何事もなかったかのように接してきた。
それは、そうする事によって気まずい雰囲気を作らないようにと、
紗耶香が気づかってそうしてくれていると梨華は思っていたのだが――。
本当に自分のことを割り切ることができたからこそ、何の意識をすることもなく共に下校し、
笑って話せることができているのだろうかと考えると、ほんの少しだけ梨華の胸に切ない風が吹いた。
と、同時に胸の奥底に沈んでいた”あゆみの仮説”がもたげる。
(やっぱり、ありえない。あゆみちゃん、知らないもん……。
市井さんのこと――好きな相手は、奪ってでも自分のものにしようとしてたこと……。
うん。やっぱり、ありえない。そんなこと……、された……覚え)
”ない”と否定しようとしたが、それらしいことが1度だけあったことを、梨華は記憶していた。
雨の日の夜。
暗闇の中の獣じみた乱暴なキスは、その恐怖と混乱により記憶の片隅へと追いやられていたが、
”あゆみの仮説”に基づくと納得できないこともない。
視線だけを横に動かすと、なおも饒舌に喋りつづける紗耶香の唇が目に入る。
紗耶香の唇は、冷たい風に晒され少し乾いていた。
(キスしたところを……、見られたから……。後藤さんとの仲が上手くいってなかったんじゃなくて……、嫉妬……だった……?)
そこまで考え、梨華は頭を振った。
あくまでも”あゆみの仮説”に過ぎなかったのだが、いつの間にか肯定しようとしている自分に気づき、
あわてて頭の中から”あゆみの仮説”を振り払った。
「石川?」
梨華の奇異な行動に、紗耶香が心配そうに声をかける。
「は、はい」
梨華の声は裏返った。
「顔赤いけど、大丈夫? 風邪でもひいた」
「い、いえ。大丈夫です」
「そう……。ならいいんだけど……。あ、そうだ。風邪で思い出したんだけどさ、今日、ひとみに会った?」
「へ!?」
突然のフレーズに驚き、梨華の声は1オクターブ高い場所でひっくり返った。
梨華の声がひっくり返り、心配して声をかけそうになった紗耶香を呼びとめるよう、携帯電話が着信メロディーを奏でた。
「あ、ごめん」
紗耶香はそう言って、カバンの中から携帯電話を取りだすと、どことなく遠慮がちに耳へと当てた。
突然ひとみの名前を告げられた上に、マジマジと紗耶香に見つめられ落ちつきをなくしていた梨華だったが、
そうした紗耶香の姿を見ることにより幾分か冷静になることができた。
専用の着信メロディーを設定してあるため、紗耶香はすぐさまなつみからの電話だとわかったのだろう。
紗耶香の仕種や雰囲気から、そうだと感づい梨華は、自然と歩を緩めた。
「もしもし。あ――、うん。今、帰るとこ」
梨華に聞こえないように気遣っているのか、紗耶香は声を潜めながら喋るが、
すでに静かな住宅街に入っているため、その声は梨華には筒抜けとなっている。
「今日――? あ、ごめん。なんかさ、今日は家にいなきゃなんなくて。――わかんない。
家にいるようにって言われただけだから。
――ごめんね。――電話じゃダメ?――そう……。わかった。じゃあ、また明日にでも。――うん。――じゃあ」
要件だけの短い電話を終え、紗耶香は携帯電話をカバンにしまうと、なんでもなかったことのように後ろを振りかえった。
梨華はそれ以上は紗耶香に気を使わせないようにと、微かな笑みを浮かべて自分から口を開いた。
「安倍さんですか?」
「あ――、うん」
そう言ったきり、互いは交わす言葉も思い浮かばず、なんとなくうつむき加減で歩いた――。
「やっぱ、まだ時間かかるよね」
しばらく歩いたところで、紗耶香が口を開く。
「え……?」
「なんていうのかな、その……こうして一緒にいても、前みたいにはいかないっていうか」
軽く頭をポリポリ掻きながら、紗耶香は困ったように笑いかける。
「ごめんね。アタシさ、せっかちだから。焦ってばっかりで――。
今日も昼間ひとみに会ったんだけどさ、やっぱ今みたいに何にも話すことできなくて――。
そういうのって、やっぱ気まずいよね」
と、苦笑する紗耶香。
ひとみの名前を聞き、また動揺しかけた自分がいたが、そうした態度を、紗耶香はやはり敏感に感じとっていたのだと反省し、
梨華はなんとか動揺する自分を押さえつけた。
「そんなことないです」
「ホント?」
「あ――、いえ……」
しょぼんとうつむいて返事をする梨華に、紗耶香も思わず苦笑する。
「でも、嫌じゃないです。黙って無視されるより、気まずくなっても……話かけてもらえる方が。
そういうことの積み重ねが……、大事だと……思います」
「――そだね。なんか、また石川に助けてもらったような気がする」
「……?」
顔を上げた梨華の目には、優しく微笑んでいる紗耶香の横顔が映っていた。
市井家へと続く坂道を登る途中、一軒の家の庭先で小さな男の子とその母親らしき人物が、
モミの木にクリスマス用のイルミネーションを施していた。
「そういえば、もうすぐクリスマスだよね。いいよね、なんかああいうのって」
そう言って、母子に温かい目を向ける紗耶香の横顔を、梨華はただ見つめていた。
「ウチってさ、ほら、もう何年もクリスマスなんて関係なかったんだけど、
今年はなんかいいクリスマスが送れそうな気がするんだ」
話題はクリスマスの話に移行したが、梨華には紗耶香のように純粋に楽しげな気分に浸ることができなかった。
数日後に控えた聖夜。
そこに、自分がまがりなりにも1つ屋根の下に暮らせる住人として、参加することはないように思えたからである。
今がすべてを伝えるタイミングのような気もしたが、クリスマスの事を楽しげに話す紗耶香を見ると、
言い出せずにただ黙って聞き役に回るしかない梨華であった。
「そうだ。クリスマスケーキ」
「ケーキ?」
「うん。ツリーとかはさ、家にあると思うんだけど、ケーキは……今から注文しても25日には間に合わないよね?」
「あ――、予約はもう締めきってるとこがほとんどかも」
「だよね。当日も、売り切れてそうだし――」
「ショートケーキじゃ、ダメですか?」
「?」
石川家のクリスマスケーキと言えば、母親が仕事帰りに買ってきたショートケーキが当たり前であったのだが、
その常識は一般を大きくかけ離れ、ましてや市井家では絶対に当てはまらないことを理解し、
梨華は「いえ、なんでもないです……」と顔を赤くしてうつむいた。
「その日、朝から一緒に作ろうか?」
「……え?」
「バイトあるんだったら、無理かもしんないけど」
「あ、その日は午後からなんで。でも、市井さん――」
と、言いかけて、紗耶香が25日と口にしたことを思い出した。特別なイヴは、やはりなつみと過ごすのだろう。
「ん?」
「いえ――。それより、私、ケーキなんて作った事ないんですけど」
と、梨華は微苦笑を浮かべて言った。
「大丈夫。なんとかなるよ。ひとみも……ひとみも一緒に、3人で作ればなんとかなるよ」
25日のクリスマスに思いを馳せた紗耶香は、やはり少年のような屈託のない笑顔で、
澄んだ瞳をキラキラとさせながら、あれやこれやと自分が思い描いていたクリスマスのイメージを、
堰を切ったように梨華に話かけていた。
いかに家族で――、ひとみと過ごすクリスマスに憧れていたか、梨華は訊ねなくとも、
紗耶香のその姿だけで充分に察することができた。
たとえ、1つ屋根の下で暮らすことがなくとも、その日だけは姉妹と共に過ごそうと――、梨華は胸の中で誓った。
僅か数メートル先に見える市井家の重厚な門。
その前に初めて立ったのが、もう随分と昔のように感じる梨華であった。
そんな二人の背中を見送る視線があった。
――坂を上りきった場所にある一軒の家の前、紗耶香に別れを告げるために待ちつづけた真希である。
12月も終わりを告げようとしている寒空の下、取るものも取らずに家を飛び出した真希は、
フードのついた厚手のトレーナーにジーンズという寒々しい格好で、ただひたすらに紗耶香が帰るのを待ちつづけていた。
坂の下にその姿を見つけた時、真希の足は迷いもなく一歩を踏み出すところであったが、
紗耶香の隣にいる梨華の姿――紗耶香の表情を垣間見た瞬間、足は真希の身体を見知らぬ他人の門扉の影へと誘っ
た。
すぐ側を通りすぎていく紗耶香と梨華の姿を、真希は見ていない。
ただ、紗耶香の楽しげな声だけが、背中を向けた真希の向こうを通りすぎていった。
「……」
様々な感情が、去来した。
感情の去来は深淵から噴出した大きな波のようなものであり、無防
備だった真希の中のすべてのものを浚っていった。
視線は固定されたかのように、二人を捉えている。
しかし、紗耶香に向けられる真希の目に憧憬の色はなく、いつものような虚ろさの滲むものでもなく、
くすぶった嫉妬と焦燥が色濃く反映されているかのような視線であった。
2人が門扉の向こうへと消えても、真希は暫くその場に立ち尽くしていた。
真希の脇を、向かいからやってきた運送用のトラックが走りぬける。
軽油車の黒煙と若干の砂が混じった風を、真希は目を細めてしのいだ。
坂道の下へとトラックが去っていくと、辺り一帯には高級住宅地ならではの自然な静寂と、場違いな軽油の残り香だけが漂う。
「……」
真希は、乱れた髪を整えながらきびすを返した。
市井家から遠ざかる真希の目に、いつか見た石垣の隙間に生えている小さな花が映った。
冬の寒さをなんとか乗り越えようと懸命に生き長らえたものの、
もはや限界のようで、疲れきった頭をたれるかのように花は萎れていた。
「……」
足を止めしばらく花に見入っていた真希は、おもむろに萎れかけていた花を引き抜くと、
何の感慨も躊躇なく側溝へと投げ捨て、1度も後ろを振り向くことなく歩き去った。
静かな体育館の廊下、青白い光を煌煌と放つ蛍光灯の下を、ひとみは足早に歩く。
擦りガラスの向こうは、早々と夜の帳を下ろしていた。
練習が終わればすぐに帰るつもりであったが、年明けに控えた県大会のミーティングに思いのほか時間を取られ、
家に帰り着いているはずの時間になっても、今だ着替えも済ませていない状態だった。
「お疲れ様でした」
先ほどまで一緒だった同級生の部員3人が、ひとみの脇をそそくさと通りぬけていく。
ひとみは声をかけることもなく、部室に向かった。
相手も返事を期待していないのは、目も合わさずにうつむき加減で走り去った態度となって現われている。
――軽いため息と共に、ひとみは部室のドアを開けた。
ドアの隙間から漏れる光が、乱雑な部室の一部を照らす。
見える範囲で、雑誌、スナック菓子の空袋、リップクリーム、タオル、無駄毛処理用のためかT字型の剃刀――。
整理整頓には神経質な方であるはずのひとみも、それはもはや日常の光景なので何も感じることはなかった。
ドアの脇にあるスイッチを探り当て電気をつける。
蛍光灯は白く瞬くだけで、一向にその細長い管は維持した光を放つ気配はない。
「は?」
苛つきながら何度かスイッチを左右にスライドさせてみたが、
蛍光灯はその役目を破棄してしまったかのように、瞬きすらもしなくなった。
「……」
落胆なのか、それとも諦めなのか、ひとみは短いため息を1つ吐くと、蛍光灯のスイッチの下にあるもう1つのスイッチを入れた。
オレンジ色の予備電灯しかつかず、誰もいない部室はひっそりと静まり返り不気味な感じも否めない雰囲気ではあったが、
ひとみは物怖じすることなく奥へと入っていった。
そんな事に気をとられるより、早く家へと帰りつきたく、いつもなら練習でかいた汗を奥のシャワールームで流すのだが、
この日は真っ直ぐ自分のロッカーへと向かった。
ロッカーの扉を開けると、紙袋がひとみの視界に飛びこんでくる。
中途半端に開いた紙袋の口から、折りたたんだコートの襟の部分が見えた。
「……」
それを渡すことに対しての、気負いはなかった。
コートを持っていない梨華に、プレゼントしたくて買ってきただけである。
それを渡して、梨華に好印象を与えようなどと言う気持ちはなかった。
ただ、ひとみの脳裏をある出来事がかすめる。
いつか、梨華にプレゼントしようとして買ったカチューシャ。姉の
紗耶香にキスをする梨華の姿を見て渡せなかったことを――。
また、あの日のようなことが繰り返されるのではないかと、
ひとみはショップでそのコートを手にした瞬間に怯えにも似た感情を抱いた。
だが、すぐに陵駕することができたのは、何があっても、あの頃のように嫉妬に狂って梨華を傷つけるようなことはないという、
絶対的な自信であった。
いつか、あの日のことを謝らなければならない。
そうした行動に出てしまった自分を責めるどころか、逆に閉じこもってしまった自分に救いの手を差し伸べてくれた。
単純な言葉ではなく、行動として――。
もっとも、梨華本人は勘違いしての行動ではあったが。
必死になって突っかかってくる梨華や、一人夢見がちに喋っている梨華、
顔を赤くしてうつむく梨華の姿を想像し、ひとみは、やはり昨夜と同じように無防備な笑い声を発した。
目を細めるひとみは口元にやわらかな笑みを残して、コートの生地に手を伸ばした。
「梨華……」
小さく呟きソッと撫でたその指先には、生地の手触りだけでなく、
昨夜の梨華の手の温もりが伝わってくるような感じがし、ひとみの胸はなぜか穏やかな笑みとは裏腹に切なく痛んだ。
市井家の食堂のテーブルの上には、夕食が既に並べ終えられていた。
あとは、ひとみが帰ってきてスープを温めればよいだけである。
紗耶香はイギリスから取り寄せたファッション雑誌に目を通しながら、1人食堂の椅子に腰かけていた。
ひとみが帰ってくる頃を見計らって下りてきたのだが、少々、早かったらしく、夕食の用意をしている梨華に声をかけた後は、
そうして誰の邪魔にもならないよう静かに時間を潰していた。
壁にある時計が、静かに7時を告げる。
フとわれに帰った紗耶香は、雑誌から視線を上げた。
しんと静まり返った食堂。
いつの間にか雑誌を読むことに没頭していたらしい――。
広い空間に1人存在している自分に気づき、幼い頃から何度となく感じている言い知れぬ不安がこみ上げてくる。
紗耶香は、雑誌を置くと落ちつきなく辺りを見回した。
藤村に話があるからと、続きとなった隣の大広間に向かった梨華は、まだ戻って来ていない。
もう、あれから15分ほどが経過している。
そんなに長い時間、いったい藤村との間になんの話があるんだろうかと不思議に思った紗耶香は、
不安に急き立てられるように席を立った。
紗耶香が席を立つのとほぼ同時に、大広間とを繋ぐドアが開き、
うつむいたままの梨華が、藤村に付き添われるような形で食堂へと入ってきた。
つい30分ほど前――、紗耶香が1階に下りてきた時、ちょうど大広間に向かう藤村を見かけた。
その時の藤村の格好は、白いYシャツにサスペンダー姿のラフな格好だったのだが、
今、紗耶香の目にしている藤村は、黒いコートにカーキ色したマフラーと皮の手袋という念の入った防寒の様である。
「石川……?」
事情のわからない紗耶香は、テーブルの前でつぶやいた。
わからないが、先ほどとは違った不安に身を包まれる。
「紗耶香お嬢様」
藤村が、いつもの調子で声をかけてくる。
「ん?」
と、応えたものの、紗耶香の視線はうつむいた梨華に向けられたままである。
「今まで黙っていたことをお許し下さい」
被っていたシルクハットの鍔を摘み、藤村は頭を下げた。
「許すって……、何を?」
紗耶香は、漸く藤村に顔を向けて応える。
「実は、今日の最終便でお父様が帰国なさいます」
「え……」
「何分急なことでしたので、お伝えすることができず……」
語尾を濁す藤村は、決して自分の非をうやむやにしようとしているわけではない。
むしろ、まだ残っている大事なことを言うべきかと躊躇しているような濁し方だと紗耶香は思った。
「それはいいよ……。もうそろそろだな……ってのは、わかってたから。それより、石川……どうしたの?」
「石川様の心境もどうか、お察し下さい」
頭を下げる藤村に、紗耶香はますます意味がわからなくなる。
「石川様、私から伝えましょうか?」
藤村の問いかけに、梨華はうつむいたまま首を横に振った。
「石川、何の話?」
うつむいたままの梨華に、紗耶香は優しく声をかけた。
「大丈夫ですか?」
続けて藤村も、梨華に声をかける。
梨華は、小さく「はい」と今度は声に出して、首を縦に振った。
「では、私はこれから空港へとお迎えに参りますので」
念の入った防寒の様は、車庫までの僅か数メートルの距離の移動とはいえ、藤村の年齢には応じたものである。
紗耶香はどこかのんびりと納得しながら、「あぁ、気をつけて」と返事をした。
藤村は、それまで浮かべていた表情を崩し、名残惜しそうに部屋を出て行ったが、
その表情はうつむいた梨華にも、梨華を見つめている紗耶香にも気づかれる事はなかった。
藤村が去り――、食堂の中はまた静寂に包まれた。
「なになに? そんな深刻な顔して。なんか、怖いんだけどさー」
不安と静寂による息苦しさを振り払うかのように、紗耶香はわざと明るい声を出して席につく。
「あ、わかった。父さんが帰ってくるから、緊張してんでしょ。別に緊張なんかしなくていいよ。
日本に戻って来てもさ、家にいることなんて滅多にないから」
と、紗耶香は雑誌をパラパラめくりながら言った。
「1年の内、そうだなぁ、5回ぐらい顔合わしたら多い方かな。しょっちゅうどっか飛びまわってるから。
気兼ねなんてすることないよ」
「あ、あの……」
紗耶香の言葉を遮るように、梨華が口を開く。
「その事で、話があるんです……」
「だから、何……?」
「あ……、でも……」
と、梨華は薄っすらと赤みを帯びた目で、壁の時計を見上げた。
時計の針は、午後7時4分を指していた。
「帰って来てから……」
「ひとみ?」
梨華は、こくんとうなずく。
「二人一緒の方が、話やすくて……。すみません」
「何? すごい気になんだけど。――ま、いいや。帰ってくるように言ってあるから、もうすぐ帰ってくると思うし。
あ、ねえそれよりさ、帰りに聞き忘れたんだけどさ。昼間、ひとみに会った?」
「昼……? あ、はい……」
「そん時にさ、なんか貰わなかった?」
紗耶香の問いかけに、梨華はしばらく首を傾げていた。
「いえ……、別に何も。何か、持ってたみたいですけど……」
「そう……。やっぱ、違うのかな……?」
紗耶香の残念そうな呟きに、梨華はやはり首を傾げる。
何かを考え込んでいるようで、紗耶香はそれ以降無駄に話をすることはなかった。
ひとみの名前を聞いて一瞬動揺しかけた梨華だったが、混同してはいけないと戒めていたたため、
それ以上の動揺も見せず紗耶香から少し離れた席に静かに腰を下ろすことができた。
着替えもあらかた済み、あとはブレザーを羽織るだけ。
ハンガーにかかったブレザーを、逸る気持ちがそうさせたのか、ひとみはまるで引ったくるようにして取りだした。
それが悪かったらしく、取り出す拍子に内ポケットに無造作に入れていた携帯電話が、弾けるように床へと落ちていった。
あっと気づいた時にはもう遅く、静かなロッカールームに硬質の音が響く。
「……」
また、これで何秒か帰宅時間が遅れる――。
ひとみは嘆息しながら、膝を折った。
携帯電話を手にとった瞬間、真希の顔が頭に浮かんだのは、ほんのした偶然だったのだろうか――。
ごっちん……。
携帯電話のディスプレイに、着信履歴はなかった。
今朝から一度も携帯電話を使用していないのか、それとも拒まれているのか――。
「……」
このままそっとしておくのが、いいのだろうか……。
気弱な迷いが生じ始めたひとみではあったが、視界の隅に入るコートがその迷いをどこかへと押しやった。
突っかかってくる梨華の姿が思い浮かび、フッと笑ったその時、音もなく部室の扉が開いた。
蛍光灯の白色が廊下から伸び、部室の床に反射した仄かなオレンジ色の明かりと溶け合う。
そして――、ゆらめくような薄い影が3色目の色として加わった。
誰……?
ひとみは、いぶかしげな表情でゆっくりと顔を上げた。
中途半端に開かれたドアの向こう、両面を別々の明かりに照らされた真希が、遠い目をしてゆらりと佇んでいた。
その目は焦点が合っておらず、目線と同じ高さにある遠い”何か”を見つめているかのようであった。
「ごっちん……」
奇妙な偶然の一致に、ひとみは息を呑んで腰をあげる。
数秒の間を置き、真希の瞳孔は静かに収縮し――ひとみに焦点を合わせた。
真希の感情のない深い闇のような目に吸い込まれそうになったひとみは、
膝を伸ばしきらない格好のまま身じろぎ一つすることができなかった。
「おー、よっすぃー」
焦点の合った真希は、ふわふわとした笑顔を携え、甘えた子猫のようにひとみへと寄り添ってきた。
中途半端に腰をあげていたひとみは、身体を預けてくる真希の体重を支えきれず、
よろめくようにすぐ後ろにあったベンチに腰を下ろした。
現状を上手く理解できずに混乱しているひとみの鼻腔に、アルコールの匂いがつく。
いつかの光景を思い出し、そして、そのように至った経緯もなんとなくではあるが理解することができた。
「ごっちん……、また……」
「アハ。飲んじゃった」
真希は、床に膝をついたままひとみを見上げて笑った。
「……なんで、ここに」
「んー? だってだって、よっすぃがメールしたんじゃん」
「……」
「近くだったからさ、電話すんのメンドくて来ちゃった」
真希は、そう言ってひとみの太ももに頭を乗せた。
光を鈍く反射する艶のある髪を眺めながらのひとみの目は、どこか物哀しい慈愛に満ちていた。
カチ――。
小さな音を立て、短針がまた1つ時を刻む。
梨華は、壁の時計を見上げた。
いつになってもひとみは、帰ってこない。
昼間、紗耶香からも聞いているはず。そして、梨華自身も告げていた。
何かあったんだろうかと、梨華はそわそわと出入り口へと顔を向けて見るが、
そこには見慣れた木製の扉があるだけで、一向に開く気配もなければ、誰かが近づいてくる物音すらない。
『電話してみようか?』
突然聞こえてきた紗耶香の声に、梨華は振りかえった。
1メートルほど離れたはす向かいの席にいる紗耶香は、いつの間にか雑誌を読んでいる。
「あ……、いえ。もうちょっと待ってみます」
つぶやく梨華に、紗耶香は読んでいた雑誌から視線を上げることなく、「そ」と、吐息のような短い返事をした。
辺りにはまた、静寂が流れた。
時を刻む単調なリズムと紙の擦れる無機質な音だけが、2人だけの空間に存在していた。
どのくらい、無機質な音に耳を傾けていたのだろうか――。
うつむいていた梨華の耳に、雑誌を閉じる音が聞こえてきた。
『あのさ……』
紗耶香のつぶやきに、梨華は視線を向ける。
雑誌の背表紙に視線を落としたまま、紗耶香はつぶやいていた。
「石川……」
「は、はい」
「違ってたら、ごめん……」
「え……?」
「――出てくなんて、言わないよね……」
雑誌から顔を上げた紗耶香の目には、どことなく潤んでいるかのようであった。
やっぱり、似てる……。
梨華は、いつかのひとみの姿を思い出した。
「約束したよね。一緒にクリスマスケーキ作ろうって……」
「……」
「約束したよね」
「……」
「やだなー。なんで黙ってんだよー」
梨華は、笑いかける紗耶香の視線を受けとめられず、そらすように視線を伏せた。
「石川……」
そうした梨華の態度が、紗耶香の中に浮かびあがっていた嫌な予感を確信へと変えた。
「ごめんなさい……。ずっとずっと言おうと思ってたんですけど……」
うつむいた梨華は、小さいがそれでいてハッキリとした口調で告げた。
「ごめんなさい」
「ちょっと待ってよ。冗談でしょ?」
真剣に受けとめたくないのか、紗耶香は笑って言った。
「だから、その……。近い内に……、この家を……、出ることにしたんです」
目に溜まる涙を溢さぬよう上を向いて喋る梨華に、紗耶香の笑みも次第に消える。
「お世話になりました」
「ちょ、ちょっと待ってよ。マジで。ちょっと待って」
頭を下げる梨華に、紗耶香は席を立って背中を向けた。
「私も思うんです。ずっと一緒にいられたらいいなぁって」
「いいじゃん、それで。ずっとこの家にいなよ」
背中を向けたままの紗耶香の問いかけに、梨華は微笑んで首を横に振った。
「いいんだよ、ここにいても。石川がずっといたいって思ってんなら。誰も反対なんかしないよ。
ひとみだって、そう言うに決まってる。急すぎるよ、そんなの」
振り向いた動きで紗耶香の目に浮かんでいた涙が、ポロリと頬を伝ってテーブルクロスへと零れ落ちた。
小さな染みは、次々と零れ落ちる涙を含み、次第にその輪郭は大きさを増す。
ひとみとは違った意味で冷静な紗耶香が、ここまで動揺の色を濃くするとは――、正直なところ梨華は考えてもいなかった。
それだけに、そうした紗耶香を見るのは心苦しく、できることなら視線をそらしたかったが、
伝えるべき事はちゃんと伝えようと涙で滲む目を乱暴に擦り、紗耶香を正視した。
「遠慮とか、そんなの気にしなくていい。あ……、そうだ……。ごめん。アタシか……」
テーブルクロスをぎゅっと掴むと、紗耶香は薄っすらとした自虐的な笑みを浮かべた。
「っと、バカだよね……」
「違います。関係ありません」
「自分のことで、精一杯だったからさ」
紗耶香はうつむいたまま、涙声で悔しそうに呟いた。
「違います」
「アタシが居て気まずいんなら、あんまり顔合わさないようにするからさ。だから」
「市井さん、ちゃんと聞いてください」
梨華は、勢いよく席を立った。椅子が跳ね、床へと倒れたが、
梨華は一切気にせず、うつむいて嗚咽している紗耶香を見据えたままだった。
「関係ないんです。あの日、市井さんに会う前から決めてたんです」
「……でも」
「ううん。もっとずっと前から――。この家の子供じゃないってわかった時から」
「……」
「1人なんです……。私、1人だから……」
顔を上げた紗耶香の目に飛び込んできたのは、そう言って悲しそうに微笑んでいる梨華だった。
「……」
「甘えてばっかりいたら、ダメなんです……」
「……」
「自分でもわかるんです……。前は、あんなに嫌ってたのに、今はずっとこのままだったらいいのになって」
いったい何を思い出したのだろうか?
梨華はフッと視線を伏せると、クスっと小さく笑った。
「だったら……」
堂々巡りしてしまう事はわかっていたが、紗耶香はそれでも口にせずにはいられなかった。
「だったら、ずっとこのままいればいいじゃん」
紗耶香の問いかけに、梨華は微笑みを浮かべて首を振った。
「もう、決めたんです」
「決めたって……」
「本当は、ちょっと気まずいなぁ……って言うのもあるんです」
と、梨華は苦笑した。
「だから、できるだけ顔合わせないようにするから」
「違います。市井さんにじゃなくて」
梨華はそう言うと少し困ったようにうつむき、「この家に……」と小さく呟いた。
「家……?」
「やっぱり、家族でもない赤の他人の私みたいなのが、こんな大きな家に住まわせてもらってるっていう……。
この家の人がそんな目で人を見るような人じゃないっていうのはわかってます。
でも、やっぱり……、そんな風に思っちゃうんです……。それって、すごい失礼なような気がして……」
「……」
「ずっとそんな気持ちのまま……、居たく……なくて」
言い難そうにポツリポツリと呟く梨華に、紗耶香はもう何も言えなかった。
これまでこの家に滞在していた者たちがそうであったように、梨華もまたこの家を去っていくのだ。
単純明快なことである。梨華は、家族ではない。
妹のように接してきた真希も、そうであった。
そのことを忘れて、引き止めるのは酷ではないのか……。
紗耶香は思い出した。
いつか、そのように思って、梨華をこの家から解放しようとしたことを――。
その時は、ひとみに止められてうやむやにしてしまったが、確かに以前はこの家から解放しようという気持ちがあった。
それがいつの間にか、あの頃のひとみのように――、いや、それ以上に必死になって止めようとしている。
それは本心なんだろうか……。
ただ梨華のことを心配して、引きとめているのだろうか?
紗耶香は、自分でも違うような気がしていた。
そこには多分に、梨華の居なくなった後、ひとみとの確執の悪化を危惧――恐れている。
何も変わっていない自分が情けなく、そして、そのようにきっかけを与えてくれた梨華に対して申し訳なく、
紗耶香は顔を上げることができなかった。
「市井さん」
そんな紗耶香の心情を汲み取ったのか、梨華は優しく声をかけた。
「ポジティブです。ポジティブ」
その言葉を聞いて、ゆっくりと顔を上げた紗耶香の目に映ったのは、
やはりいつかのように妙に身体をくねらせてガッツポーズをしている梨華だった。
しばらく、ぽかんと見ていた紗耶香だったが、次第にその顔にも笑みが浮かんできた。
「ごめん。泣いたりして。みっともないよね」
と、紗耶香は苦笑しながら涙を拭った。
それに対して、梨華は何も言わなかった。ただ、薄っすらと微笑みながら、ガッツポーズの手を下ろしただけだった。
「なんかさ、急だったから」
「すみません……。1人で勝手に決めちゃって」
「ううん。別に怒ってるとかじゃ……。ホント、マジでびっくりしただけ」
「あの……、家を出るって言っても、引越し費用とかないし、そんなにも遠くに行けなくて……、
この町でアパートを探してもらったんです。だから、会おうと思えば、いつでも。もちろん、クリスマスの約束も守れます」
「うん……。そだね」
紗耶香はそう言って、微笑みを返した。
「ひとみ。そうだ、ひとみにもまだ話してないんだよね?」
「あ、はい……」
「……」
「……」
2人は押し黙るようにして、なんとなく視線をそらした。
秒針の音だけが流れる静かな食堂で、2人はそれぞれひとみのことを考えていた。
眠るでもなく、何か言葉を発するでもなく、
真希はただひとみの太ももに頭を乗せて視線の延長線上にある何の変哲もない部室の壁を見つめていた。
真希が頭を乗せているその箇所だけがやけに熱っぽくなっているだけで、
ひとみの体温は徐々に暖房も何もない部室の空気に冷まされていった。
それは真希も同じだった。
トレーナー1枚だけの姿。身体は冷えきっているに違いない。
ひとみは、意を決して長い沈黙を破った。
「ごっちん……」
「……」
「そろそろ、帰ろうか……」
聞こえていないのか、それとも無視をしているのか――、いくら待っても真希からの返事はなかった。
格子付きの窓の外を吹きすさぶ風が、幾分か強くなったようで、静かな部室の中、窓を揺らすカタカタという音が、
返事を待つひとみの耳にやけに耳障りに響いていた。
「ねぇ、よっすぃ」
しばらくして、真希が口を開いた。
相変わらず、真希の視線は壁の方に向けられたままではあったが、ひとみはその声を聞いて間違いなくホッとしていた。
「1つ、聞いていい?」
「――何」
「なんで、昨日――、あんなこと、言ったの?」
「昨日……?」
「いちーちゃんと……、いちーちゃんと会えって」
「……」
「今日も、そのことでメールしたんでしょ?」
「……う、うん」
「そんなのって、今まで1度もなかったからさ――。気になって」
質問の真意を計りかねる。
ひとみは、真希の頭から視線を外すと、正面にある洗面台の鏡に移した。
ちょうどその真上に予備電灯があり、一角はオレンジ色を濃くしている。
鏡に映る光景は、すべて別の世界のようにひとみの目には映った。
「ねぇ」
真希の頭が動く振動が、太ももを伝う。
ひとみは、あわてて視線を戻した。見上げる真希の瞳は、儚いほど弱々しく、ひとみの胸は激しく痛んだ。
誰が、ここまで追いこんだのか――。
それはまぎれもなく、自分であった。
だから。
だから――。
「幸せになってもらいたい」
半ば無意識に発したひとみの言葉に、真希は弱々しい瞳をさらに潤ませて、静かに小さく小さく首を振った。
それが何を意味するのか、自分の言葉を否定しているのか、それとも幸せになる事はないと諦めているのか、
或いは、そのどちらでもあるのかもしれない――。
ひとみには、判断しかねた。
「姉さんなんかの、どこがいいの」
「……」
「姉さんなんかよりいい人、この世の中に何人もいる」
「……」
「いつまでも、こんなことばっかりしてたら、ごっちんが――」
真希の頭がふたたび、壁の方を向いた。
言いかけたひとみは太ももに熱い、真希の体温とは違った熱いものを感じて言葉を失った。
「よっすぃはさ、石川梨華って子がいなくなったらどうする」
震える事もなく淡々としたその口調は、露になった太ももに感じている涙が別のもののような錯覚をひとみに思い起こさせた。
「人はいっぱいいるよ。でも、この世の中にいちーちゃんは、1人しかいない」
そう言って、真希は微かに笑っているようだった。
長い髪に覆われたその横向きの顔、表情は読み取れなかったが、きっと微笑んでいるのだろう。
姉の紗耶香だけに向けられる、真希の特別な笑顔――ひとみは、思い出していた。
「それよりさ、さっきの質問……答えて」
「……」
「なんとなく、わかってる――。ほら、アタシとよっすぃ、似た者同士じゃん」
と、真希は笑った。
所在無くぶら下がっていただけに過ぎない両手を、ひとみは胸の前でかざした。
指の間からオレンジ色の光が漏れ、手の平の陰影がより一層濃く浮かびあった。
「好きな人を、この手で抱きしめたかった……」
「うん……」
「ごっちんが悩んで苦しんでるのは、知ってた。知ってたけど、アタシにはどうすることもできないし、
そんな資格もないと思って、今までずっと気づかないフリしてた」
「……」
「でも、気づかないフリをしてただけで、何かあるとすぐにごっちんを思い出すんだ……。
自分だけ幸せを感じてていいのかなって。
ごっちんをこんなにも苦しめてるのは、アタシなのに。つまんない嫉妬で、姉さんからごっちんを引き離したのに。
あんなことしなきゃ、ごっちんは昔のように姉さんの側にいれたのに。それなのに、自分だけ……」
ひとみは、うなだれるように両手を下ろした。
「人を好きになったことなんてなかったから、わからなかった……。
アタシがしたことが、どんなに残酷だったかなんて……。
だから、ごっちんが幸せになるまで、ごっちんのことを本当に愛してくれる人が現われるまで」
「梨華ちゃんには、告白しないつもりなんだ?」
「……」
「アタシのこと思い出しちゃうから――。それってさ、アタシじゃなくて、自分が幸せになりたいからじゃん。
また、アタシを利用しようとしたんだね」
せせら笑うような声で、真希はそう言った。
「……」
絶句するひとみに、真希は「冗談だよ。冗談」と笑った。
「いいんだよ。そんなの気にしなくても。もう、どうでもいいから」
真希は、ゆっくりと立ちあがる。顔に纏わりついた髪をサッと手で振りほどくと、真横にあった洗面台の鏡へと向き直った。
「アタシの幸せは、もう来ないから」
「そんなことない」
ひとみの位置からは、真希の背中が目前に立ちはだかるだけで、その表情までは窺い知ることができなかった。
しかし、声の調子からなんとなく虚無的な目で、鏡に映る自分を見つめているのだろうと推測することができた。
「もう、なんもかも面倒になっちゃった……」
「ごっちん」
「気にしなくていいよ。寂しいからって、甘えたアタシが悪いんだし。
それに、どっちにしたってアタシの気持ちは叶えられることなかったしね」
「……」
「釣り合わないもん。お金持ちのいちーちゃんと、アタシみたいなの。
頭が良くて女の子らしい、安倍さんとか梨華ちゃんとかの方が、いちーちゃんも好きそうだし。あ、よっすぃも」
真希の肩が、小さな笑いと共に微かに動いた。
「それに――、アタシは……」
「ごっちん」
ひとみは、強い口調を放ち立ちあがった。
後頭部越しに見えた鏡の中の真希は、何かを懐かしむような遠い目をしていた。
「別にいいよ。ホントのことだもん。でも、もういいんだー」
「……」
「住む世界が違うよ。アタシは、アタシの世界に戻る。
頭良くないから、あの女みたいな仕事しかできないけど、それがアタシの世界だからさ。
それで、いつか結婚もすると思う。店のお客かなんかと、結婚して、子供生んで、離婚なんかして、
狭くて暗い部屋の中で子供と一緒に暮らすんだ。毎日毎日、お酒飲んで、酒臭い男に抱かれて、
そんな姿、子供に見せて、子供に嫌われて、毎日毎日なんにも楽しいことなく暮らしてくんだ。それがアタシの世界なんだ……」
洗面台に両手をついた真希の両肩が、小さく震え出した。
真希が上半身を屈めたことにより、後ろで立ち尽くしていたひとみが鏡に映る。
鏡に映ったひとみは、先ほどの真希と同じように鏡の中にある”何か”を見つめていた。
「会わなきゃ良かった。いちーちゃんに、出会わなきゃ良かった」
泣き叫ぶ真希の声を尻目に、ひとみはただ鏡を見つめていた。
紗耶香の前で、ふわふわとした笑みを浮かべていた真希。
遠くで見ていた自分は、単純に羨ましかった。誰からも愛される姉が。
純粋に姉を愛する真希が。
側にいるだけで幸せだったんだろう。
ひとみの見つめる鏡の向こうにいる”真希”は、そんな表情をしていた。真希にとっては、それが全てだった。
自分が考えるより遥かに、真希は紗耶香との時間に幸福を見出していたのだ。その幸せを、自分は奪ってしまった。
真希の顔は、いつしか梨華の側にいるひとみの顔に変わり、そして、オレンジ色の光を浴びたひとみの顔になった。
「……」
ひとみの両手は、無意識に動いていた。
泣きじゃくる真希の両肩にそっと、ひとみの手が触れる。
そして、ひとみはゆっくりと膝を折ると、震える真希の身体を両手で包み込んだ。
食堂、大広間、玄関ホール、それ以外にもある部屋の時計が、午後8時の合図を一斉に奏でた。
ちぐはぐな音色もどことなく、ある一定の旋律を奏でているかのように聞こえない事もない。
梨華は、市井家に滞在して初めてその事に気づいた。
今までは、アルバイトやら食事が終わればすぐに自分の部屋に戻っていたりしていたため、
この時間に食堂に居座り続けることはないように梨華は記憶している。
家を出ると告げたその日に、市井家の時計に隠されたちょっとした謎に気づくのが、
どこか皮肉のようで可笑しくもあり、もの悲しくもあった。
もっと、この家にいたい――。
そんな考えが頭をよぎり、閉じた瞼の向こうで紗耶香やひとみとの思い出が甦ったが、
梨華はそれを強引に押しやり、時計の旋律に耳を澄ますことに集中した。
「それにしても、遅いなぁ……」
椅子に腰かけ、目を閉じていた梨華の耳に、紗耶香の声が届いた。
見ると、その手には電話の子機と電話帖を持って、食堂の扉を閉めるところだった。
「私――、やっぱり、ちょっとその辺、見てきます」
梨華は、静かに席を立った。
「あ――、待って。たぶん、どっか寄り道してるだけと思うけど……。
とりあえず先に電話してみるから」
と、紗耶香は電話帳にあるひとみの携帯電話の番号をプッシュした。
呼び出し音は、2メートルほど離れた場所にいる梨華にも聞こえていた。
いつの間にか、時計の旋律はピタリと止まり、食堂の中には静寂が戻っていたようである。
コール音の他にも、梨華の耳に届く音があった。
梨華は、窓に顔を向ける。
室内のシャンデリアを反射し、鏡のようになっている窓に、自分と紗耶香の姿を確認したが、
その向こう、窓の外の木々が風になびいている様も確認できた。
揺れる木々の葉に胸騒ぎのようなものを感じ、梨華は無意識に両手を祈るようにして胸の前で組んだ。
「電話……。鳴ってるよ」
壁際で膝を抱いて座っている真希が、隣にいるひとみを見やる。
ひとみは壁に背を預け、ベンチの上で光と電子音を放つ携帯電話を、どこか遠い目をして眺めていた。
「よっすぃ……」
心配そうに、声をかける真希。
だがひとみは、微動だにしない。
鳴り続ける携帯電話。
しばらく待ってみたがひとみは動く気配すらなく、不安になった真希は、携帯電話を取ろうとベンチへと手を伸ばした。
肩にかけられていた薄いピンクを基調としたコートが、肩からずれ、
袖口が部室の床に触れそうになったが、携帯電話に気をとられていた真希はそのことに気づかなかった。
「出なくて、いい」
ひとみの声と共に、ふたたび真希の肩口にコートがかけ直される。
真希は四つん這いになった姿勢のまま、振りかえった。
「出なくて、いいから」
静かな声で微かに首を振るひとみに、真希はなにも言わずにゆっくりと、先ほどと同じ姿勢に戻った。
30回近いコールの末、携帯電話はようやくその音を止めた。
耳鳴りがしそうなほどの静寂。
暖色であるはずの予備電灯が辺りを照らす部室は、吐く息が確認できるほどまで温度は下がりきっていた。
「寒いね……」
そう言って膝を抱いて背中を丸める真希を、ひとみは無言で抱き寄せた。
コートごと包まれた真希は抵抗することもなく、静かにひとみの肩に頭を預ける。
「暖ったかい……」
真希の言葉を最後に、ひとみの耳には風に揺らされる窓の音しか聞こえなくなった。
「……」
ひとみはゆっくりと、窓に視線を向けた。
窓の外は、冬の冷たい夜風が轟々と舞っているようであった――。
閉じたレースのカーテンの向こうが白み始めた頃、玄関のドアが微かな音を立てた。
市井家の大広間でうつらうつらとしていた梨華は、その音を聞いて身を固くする。
ひとみが帰ってきたのか、それとも、会議に備えて家には戻らず病院近くのホテルに宿をとる事にした市井正和が、
何かの事情で朝早くに帰ってきたのか――。
どちらにせよ、寝ている場合ではない。
隣のソファで寝息を立てている紗耶香を起こさぬよう、梨華は素早く身だしなみを整えると、
眠い目をごしごしと擦り、大広間と玄関ホールを繋ぐドアを開けた。
ドアを開けた梨華の目の前を、ひとみと――ひとみに肩を抱かれたうつむき加減の真希が通り過ぎていく。
え?
梨華は思わず、そう口にしてしまうところだったが――。
「後藤……」
突然、声をかけられ、驚いたのはひとみと真希だけでなく、深く眠っているものと思いこんでいた梨華も同じであった。
いつの間にか、梨華の真後ろに紗耶香が立っていた。
動揺の色を浮かべて視線を伏せる真希に、ひとみは何やら短い言葉を発したが、
離れた場所にいる梨華と紗耶香にその声が聞こえる事はなかった。
真希は、ちらりと紗耶香に視線を向けると、薄いピンク色のコートの裾をなびかせ、中央階段を駆け上がっていった。
呆然と見送る梨華と紗耶香。上手く事情が飲み込めなかったのは、早朝の上手く機能しない脳だけのせいではなかった。
「ひとみ……、あのコート……」
ようやく口を開いた紗耶香に、ひとみは何も応えることなく、くるりと背を向け厨房へと歩を進めようとした。
コートのことを何も知らない梨華は、それよりも別れたはずのひとみと真希がなぜ一緒に帰宅したのか――
そちらに気をとられていた。
ぼんやりとしている梨華の横を、紗耶香がひとみへと駆けていく。
「早く帰ってくるように言ったのに、連絡もしないで何してたの」
そう言いながら、ひとみを振り向かせた紗耶香。
張り詰めた雰囲気に、梨華はあわてて2人の元へと向かった。
ひとみは、駆けつけた梨華に目を向けることもなく、冷たい目を目前の紗耶香に向けたままである。
「後藤といるならいるで、連絡ぐらいしなよ。石川が、どれだけ心配したと思ってんの」
「市井さん」
今にも掴みかかりそうな紗耶香を、梨華は制した。
ようやく、ひとみの視線が梨華に向けられたが、その視線はほんの一瞬のことであり、
ひとみはすぐさま紗耶香へと冷たい視線を戻した。
どことなく、ひとみが意図的にそうしているように思え、梨華は軽く傷つきうつむいた。
「――話がある。ちょっと来て」
紗耶香は臆することなく、ひとみの視線を受けとめたままそう言うと、きびすを返して大広間へと戻っていく。
取り残された梨華は、やはり佇んだままのひとみに小さく「行こう」と声をかけ、
ひとみが動き出すのを待って、その後をついて歩くように大広間へと戻った。
ドア口にひとみが立ち、大広間のソファの前に紗耶香。
2人は向かい合うように立ち、梨華は2人から少し離れた場所にうつむき加減で佇んでいた。
紗耶香から事情を聞いたひとみは、しばらく梨華に視線を向けており、梨華もうつむいてはいたもののその視線を感じていた。
だが、顔を上げたひとみがいったいどのような表情をしているのかを考えると、すぐに顔を上げることができない――。
迷っている間に、ひとみの視線はどこかへとそれたようであり、ようやく梨華は顔を上げることができた。
しかし、その表情を窺い知る事はできなかった。窓へと視線を向けやすくしたのか、
ドア枠に背を預けるようにして、紗耶香にも梨華にも身体を真横に向けていたからである。
「アタシも、最初聞いたときはびっくりしたんだけどさ……。でも、石川が決めた事なんだから……」
歯切れの悪い言葉で、訥々と紗耶香は言葉を繋いだ。どことなくまだ、完全には納得できていないような印象を梨華は受けた。
沈黙の空気。
紗耶香もひとみの言葉を待っているのか、顔をやや伏せ気味にして所在無くその場に佇んでいた。
ひとみに伝えようとしたが、先に紗耶香に伝えられてしまったため、それこそタイミングを失い、
黙りこくっていた梨華だったが、やはりちゃんと自分の口から伝えなければならないと、
声を出そうとした瞬間、ひとみの口から大きなため息が漏れた。
紗耶香と梨華の視線が、ドア口のひとみに集中する。
「だから、何? それのどこが、大事な話?」
冷ややかな半笑いのひとみの口調に、紗耶香は絶句しているようだったが、
梨華はなんとなくその口調や態度にひとみと初対面した数ヶ月前のことを思い出していた。
「何って……。嫌じゃないの? 出てっちゃうんだぞ。ひとみ、前に言ってたじゃん。石川が入院した時」
「……」
「この家にいると石川のためによくないって、アタシがさ、言った時さ、ひとみ反対しただろ」
2人の間でそんな事が交わされていたとは――梨華は、初めて聞く話だった。
しかも、引きとめてくれたのがひとみの方だったとは……。
「その前にもさ、出てこうとした石川、引き戻したじゃん。アタシ、びっくりしたんだよ。
今までひとみ、この家から出てく人にあんな事しなかったじゃん。後藤の時だってさ」
言い続ける紗耶香の言葉を、ひとみはため息で止めた。
「何が言いたいのかわかんないけど、梨華が出ていくって言うのなら止めたりなんかしない」
”梨華”と呼ばれたことに対して、梨華はまったく違和感を感じなかった。
あまりにも自然に、意識することなく、ひとみがそう口にしたせいなのかもしれない。
それよりも、つい数日前にあれほど動揺していたひとみが、まるで夢の中の登場人物のように感じられた。
ただ、からかわれていただけなのかもしれない……。
また自分の勘違いで、そして、もう少しであゆみの言葉に触発されて最大級の勘違いをしてしまうところだった――。
自嘲したい気分だったが、なぜか涙も溢れ出しそうになった。
しかし、それすらもひとみは何も感じてくれないのだろうと、梨華は沸きあがってくる悲しさとは違う涙を必死で塞き止めた。
「ひとみ……」
呼びとめる紗耶香を無視して、ひとみは後ろを振りかえることなく、玄関ロビーを歩いていった。
「……」
ひとみの冷たい態度を目の当たりにして、紗耶香は言葉を失った。
昨日、フと感じたひとみが梨華に抱いているであろう好意は、やはりただの思い違いだったらしい。
そのように感じるきっかけとなった、紙袋の中に見えたコートも先ほど真希が着ていた。
真希がなぜここにいるのか、それも紗耶香にはわからなかったが、
それよりも今は、簡単に話を流されてしまった梨華が心配で、佇む梨華へと顔を向けた。
梨華は、精一杯の笑顔を浮かべてこくんとうなずいた。
声を出すと、涙が溢れてしまいそうなのは、紗耶香の目から見ても明らかだった――。
数ヶ月ぶりに訪れたひとみの部屋は、相変わらず閑散としていた。
真希は、部屋の中央にあるベッドの縁に腰かけ、紗耶香がどうして梨華と一緒にあの部屋にいたのか思い巡らせていた。
ずっと2人っきりだったのは、おおよその察しがついていた。
夕食が終わると市井家の家政婦は仕事を終え、別棟へと戻り、何か用があり内線で呼び出さない限り、
滅多に母屋の方へは現われない。
かつてここで生活したことのある真希には、わかっていることであった。
朝まで2人があの場所にいた事は明白だったが、しかし、それはもう考えてはいけないことだと、
真希は窓の外に見える木々に意識を向けた。
しばらくして戻ってきたひとみの顔は、どこか険しく、階下で何かがあったんだと真希は推測する事ができたが、
それを訊ねる間もなく、ひとみは険しい表情のままシャワールームへと消えていった。
――シャワーノズルから最大限に勢いよく噴出される湯を、制服を脱ぐことなく浴室のドア口で見つめ続けるひとみ。
次第に、その顔が泣きそうに歪む。
やはり、梨華は出ていくつもりだった。
なんとなくわかっていたことではあったが、いざ唐突に告げられると、頭の中は真っ白になった。
梨華の性格からして、止めても無駄な事はわかっていた。
敢えて突き放すような言葉を発したのは、真希を選んだ自分との決別のつもりであったのか――ひとみにもそれはわからなかった。
単純に、梨華が側にいなくなるという事実に、胸が張り裂けそうなほどの悲しみが満ち、涙は止めど無く溢れた。
全ての力が失われたかのように、その場に膝をついて泣いているひとみの背中を、真希は僅かに開いたドアの隙間から眺めていた。
ひとみが泣いている姿を見るのは初めてのことで、見てしまった瞬間、真希の目は大きく見開かれたが、
次の瞬間にはもう感情のない虚ろな目に変わっていた。
寒々しい部室の中でひとみに抱き寄せられた時に感じた幸福感が、1度味わったことのあるまやかしなのだと言うことを、
あらためて実感させられる光景ではあったが、真希は声をかけて全てを失うことが恐ろしく、
ひとみに気づかれぬよう、ゆっくりとその場を立ち去った――。
この町へ越してきて数ヶ月。
その間のほとんどを、市井家と学園の往復に費やしていた梨華は、今だ町の地理に疎かった。
引っ越す前に、1度どのようなアパートなのかを見ておきたく、そのように告げたのは、
紗耶香との2人っきりの朝食が終わった頃だった。
いくら夜通しひとみを待ちつづけていたとは言え、受験を目前に控えた紗耶香は登校するつもりでいただろう。
或いは、休むつもりでいたのかもしれないが、真希が2階で休んでいることもあり、
自分と同じように戸惑いにも似た居辛さを感じていたのかもしれない。
或いは、ただの好奇心だったのか――梨華には計り知り得ぬところではあったが、梨華の諸々の心配を他所に、
紗耶香は梨華と共にアパートを見に行くことになった。
「なんだ。美島町か……。こっから、歩いて40分ぐらいのとこだよ」
紗耶香は、梨華から受け取ったアパートの見取り図に記載されている住所を見ると、ホッとしたように微笑んだ。
もっと離れた場所に位置するものだと梨華は思っていたが、アパートは学園からそう遠く離れていない距離に位置していた。
市井家とは正反対の場所ではあったが、市井家から学園へとほぼ同じ距離のようである。
これなら、アルバイト先を早急に変更しなければならないような事はなく、
しばらくは今までと同じように学園近くにあるシャトレーゼで働けそうであった。
ひょっとすると、学園へ、アルバイト先へと通えるように藤村が配慮して、そのような場所を確保してくれたのかも知れない。
いや、きっとそうだ――梨華は、あらためて藤村に感謝した。
「石川? 何やってんの?」
先を歩く紗耶香が、立ち止まってぼんやりとしている梨華に声をかける。
「あ、いえ」
あわてて駆けてくる梨華を、紗耶香は苦笑しながら出迎えた。
こじんまりとした商店街のような一角を抜けると、同じようなタイプのアパートが立ち並ぶ通りに出た。
「エスカーション橘……。たぶん、ここだね」
と、紗耶香はFAX用紙と5階建ての白い外壁のアパートを見比べた。
「え? たぶん……、違いますよ……」
梨華が思わずそう口にしたのは、自分の思い描いていたアパートの外観とは大きく異なっていたからだろう。
「ん? でも、住所ここだし――名前も」
「でも、なんか家賃高そうで……。あの、私が払える家賃は3万円までで……」
きょとんとする紗耶香だったが、「たぶん、あっちのアパートだと思います」と指さしたアパートを見て、
-ようやく理解することができた。
そこには、築30年は近いであろう木造アパートがあった。
「あのさー、石川。ここ、東京じゃないんだよ」
笑う紗耶香に、今度は梨華がきょとんとした顔を向けた。
「東京じゃさ、土地代も高いから、家賃も高いだろうけど、こっちで3万も払ったら、1人暮しならそこそこの所に住めるよー」
と、紗耶香は笑った。
紗耶香の言葉の意味を理解した梨華は、顔を真っ赤にしてうつむいた。
事前に不動産屋から届けられていたカギで、アパートの4階にある部屋のドアを開けた梨華の第一声は「すごい」の一言だった。
南に面した大きな窓からは、陽光が降り注ぎ、ワックスのかかったフローリングの床や、
染み1つない真っ白な壁がその光を存分に照り返していた。
6畳ほどの部屋と3畳ほどのダイニングキッチン。それほど広くもなく、変哲もない1DKのアパートだったが、
梨華にはそれでもここが自分の家となる喜びが沸き始めたのか、
子供のように忙しなく動きながら、部屋のあちこちを見て回っていた。
「あー、ユニットバスだ」
浴室のドアを開けては、そう声に出し、クローゼットの扉を開けては、
「広い。こんなに服持ってないのにどうしよう」とはしゃぎ、狭いベランダに出ては、
「景色もいい」と大きく伸びをしたりした。
そんな梨華を、紗耶香は戸口からずっと眺めていた。
ひとみに冷たくあしらわれ、気落ちしていた梨華が、理由はどうあれ、
そのように元気を取り戻してくれたのが何よりも嬉しかった。
フと、なつみが1人暮しを始めた日を紗耶香は思いだした。
やはり、なつみも同じように――いや、梨華よりもはしゃぎながらアパートの中を駆け回っていた。
その姿はどことなく子猫のようで、抱きしめたい衝動に駆られたのを、紗耶香は苦笑交じりに思い出していた。
そう言えば、昨日、話があるからと電話をしてきたが、いったい何の話なんだろう――、
もうすぐに迫ったクリスマス・イヴの事だろうか?
なつみが1人暮しを始めたここ数年は、毎年、2人だけで過ごしてきた。
決まり決まった文句のように、「来年こそは、彼氏と過ごしたいね」となつみは笑って言うのだが、
それでいて紗耶香と一緒に過ごすクリスマスを楽しみにしているような節もあり、
その証拠になつみはもう半年も前からクリスマスの事について口にしていた。
今年もきっと、腕を振るった得意の料理が、テーブルの上に所狭しと並べられるのだろう。
ただの友人として交わされるシャンパンに、ほろ苦さのようなものを感じながらも、その状況に甘んじるのは――。
「市井さん」
ベランダから呼ぶ梨華の声に、紗耶香はわれに帰った。
「あそこ。市井さん家が見えます」
はしゃぐ梨華の声に誘われるまま、紗耶香はなつみとの想い出をストップし、ベランダへと赴いた。
目を細めて見ると、向かいのアパートの遥か向こうに、高台にある開けた住宅街が微かに確認できる。
あまり視力の良くない紗耶香には、自分の家までは確認できなかったが、梨華の言う通りそこに自分の家があるのだろう。
「すごい」
と、微笑みながら指を顎の下で組む梨華。
紗耶香はベランダのサッシに頬杖をつきながら、そんな梨華の横顔を笑顔で眺めていた。
遠ざかっていくバイクのエンジン音を、真希は夢と現の狭間で、静かに耳を澄まして聞いていた。
(いちーちゃん、また行っちゃうんだね……)
かつてここで生活していた頃も、そうして何度も、遠ざかっていく紗耶香の運転するバイクのエンジン音に胸を痛めていた。
だが、今は幾分か、その痛みも半減しているのは、薄く目を開けた向こうに見えるひとみの存在なのかもしれない。
足を無造作に放り出すようにし、ひとみはクローゼットの扉に背を預けいる。
傍らにある何かに、虚空を見つめるような視線を落としていた。
たった今、目を覚ました風を装い、真希は大きく伸びをしながら、部屋の片隅にある置時計に目をやった。
午後4時過ぎ。窓には遮光カーテンが引いてあるとはいえ、部屋の中が薄暗いのは、冬の夕暮れの早さのせいだろう。
「おはよう……って、時間じゃないよね」
真希はよろめくようにベッドから下りると、遮光カーテンを開け放った。
勢いよくレールを滑ってカーテンは開く。遠くの空が黄金色に輝き、真希は時間の経過を目の当たりにした。
「よっすぃ、あれからずっと起きてたの?」
振り向いた真希だったが、ひとみは相変わらずの格好であった。
何か話すでもなく、かと言って冷たくあしらわれるわけでもなく、やはり以前のような関係なのかと落胆しかけたが、
真希はそれを振り払うかのようにひとみへと駆けていった。
「おーい。よっすぃ」
傍らにしゃがみ込んだ真希は満面の笑みを浮かべて、ひとみの顔を覗きこんだ。
「目、開けて寝てんの?」
笑いかける真希に、ようやくひとみが焦点を合わせる。
「アハ。起きてんじゃん」
「……」
身体を起こしかけたひとみに覆い被さるようにして、真希はひとみの唇を奪った。
しかし、ひとみは動揺することなく、唇が首筋へと移るタイミングを見計らうと、ゆっくり真希の身体を離した。
「よっすぃ……」
立ちあがったひとみを、真希は弱々しく見上げる。
「――今、そんな気分じゃないから……」
ひとみは、目を合わさずにつぶやいた。
「ごめん……」
「……何か、持って来る」
ひとみは、そう言い残し部屋を出ていった。
残された真希は、しばらく膝をついた格好のまま頭を垂れていた。
視界に入る薄いピンク色のコート。
ソッと手に取ってみた。
「……」
昨夜も今朝も、薄い暗い場所にいたため、色に気をとられる事もなく、
ましてや冷静さを欠いていたため気づかなかったが、コートはあらためて見るでもなく、明らかにひとみ自身のものではなかった。
乾いた唇の感触に喉の渇きを覚えたひとみは、喉を潤そうと階下に下りた。
ひっそりと静まり返った階下の空気に、梨華との数ヶ月間の暮らしが走馬灯のように駆け巡ったが、
ひとみはできるだけ何も考えないよう、機械的に厨房の冷蔵庫から冷えたペットボトルのミネラルウォーター2本を取り出すと、
来た時と同じよう足早に厨房を後にした。
夕陽の光もささない薄暗く短い廊下を抜け、玄関ホールへと出ると、大広間を出てきた梨華とバッタリと出くわした。
この時間帯はアルバイトの時間で、まさか家にいるとは考えてもおらず、
突然の遭遇にひとみはしばらく呆然とし、大広間から出てきた梨華と見つめ合う形となった。
それは、梨華も同じで――、我にかえった2人は互いにぎこちなく視線を逸らすと交わす言葉もなく、ただその場に立ち尽くした。
「今、起きたの……?」
気まずい空気をかき消すように先に口を開いたのは、梨華であった。
「あ……、うん……」
ひとみは手にしたペットボトルを、意味もなく持ち替えながら返事をする。
「あ、あのね。さっき、アパート見てきたの」
「……」
なぜ、梨華がこの時間帯にいるのかを、ひとみは静かに納得した。
梨華が帰宅したであろう時間に聞こえてきたバイクのエンジン音から、それまで紗耶香も一緒だったことも――。
「すごくいいところ、藤村さんが用意してくれて」
「……」
「それで……。その……」
「決めたんだ……。そこに」
「……うん」
小さくつぶやく梨華に、ひとみはやっと視線を向けた。
何か言いたげにひとみは暫く梨華を見つめていたが、口を開いて出た言葉は早朝のそれと同じであった。
「別に止めたりしない」
だが、その口調に冷たさは微塵もなく、むしろどこか穏やかですらあった。
普段ならば戸惑いを感じたであろうそのギャップも、冷静に考えると、ごくごく当たり前のものであった。
梨華は、今、側に紗耶香がいない事を理解した――。
「前に、姉さんに言ったときは、梨華が危なっかしいって思ってただけだから」
「……へ?」
ひとみは、ゆっくりと階段へ向かった。
「今は違う」
「違う……って?」
意味がわからず問いかける梨華に、ひとみはフッと苦笑すると、階段を上がっていく。
帰宅の報告とアパートの正式な契約を藤村に頼もうと大広間を訪れてみたものの、
藤村はまだ帰宅していないらしく、部屋に戻ろうと大広間を出たところで、梨華はひとみと出くわした。
決して、ひとみを追って2階へと向かっているわけではなかったのだが、自然とひとみの後をついて歩く形となった。
階段を上がって、廊下を左に折れるとすぐに梨華の部屋がある。
三つ隣の部屋がひとみの部屋で、時間差で階段を上がったため――、
そして、部屋には真希がいるため、もうすでにひとみは自分の部屋へ戻っているものとばかり思っていたが、
廊下を曲がった所で壁に背を預け佇んでいるひとみを見つけ、梨華は驚くと同時にどこかホッとしていた。
「びっくりしたぁ」
おどけて声を出して見たものの、ひとみは何かを考えこむように腕を組み、握ったペットボトルを小さく揺らしているだけだった。
しばらく返事を待ってはみたが、ひとみからの言葉は何もなく、かと言って自分からかける言葉も見つからない梨華は、
うつむき加減で小さく、
「あ……、じゃあ……」
と、ひとみに声をかけ、ドアノブに手をかけた。
ガチャ――と、真鍮のドアノブを回すのと同時に、梨華の後ろから微かなひとみの声が聞こえた。
「ごっちんと、また付き合う事にした……」
聞こえてきた声はひとみの声として認識し、聞こえた言葉は真希と連れ立って帰ってきた理由を理解することとなった。
唐突なひとみの告白に、梨華の身体はドアノブを握ったまま凍りついた。
「そう……」
と、背を向けたまま、短い返事を返すだけで精一杯だった。
「ごっちんと梨華は、似てると思ってた……」
「……」
「姉さんのことが好きで、姉さんに好きな人がいるってわかってるのに、それでも姉さんの事……」
「……」
「でも、違った……。梨華はアタシの考えているよりずっと強くて、ごっちんはずっと弱かった……」
ひとみはそこまで言うと、急に押し黙り、それきり何も喋らなくなった。
梨華は視界の隅に動くものを感じ、フと顔を上げた。ひとみの部屋のドアが微かに開いており、
そこには佇む真希の姿があり、刹那ではあったが向けられた真希の視線に敵意のようなものを感じた梨華は、あわてて視線を伏せた。
「遅いから……、なんかあったのかな……って」
うつむき加減でタタっとひとみへと駆けてきた真希は、ひとみの腕を取ると、懇願にも似た視線を向け、ひとみに声をかけた。
「大事な話……?」
「……」
「――だったら、部屋戻ろうよ」
小声でつぶやく真希の声は、それ以外の物音1つなく、ましてや数メートルも離れていない梨華の耳には当然届いていた。
足元に伸びるひとみの影が、真希に引っ張られるようにして向きを変え、
去っていくのを目にしながらも、梨華はずっとその場に立ち尽くした。
「……」
また真希と付き合う事になったと聞かされたとき、あきらかに動揺した自分がいた。
ただ、それは紗耶香に好きな人がいると聞かされた時のような動揺ではないように思えた。
もっと単純に、これまでずっと当たり前のように側にいたひとみが、
どこか遠くに行ってしまうような――寂しさに似ていた。
ひとみが部屋へと戻り、しばらくして、梨華はひとみの部屋の方向へと視線を向けた。
伸びた長い廊下の窓という窓から夕陽が射しこみ、薄い藍色の大理石の床と幅狭の茶褐色のカーペットにまだら模様を描いていた。
ぽつんと1人取り残されたような気がし、梨華は今にも泣きそうになった――。
出窓に腰掛けた真希は、ひとみから受け取ったペットボトルの水を一口飲むと、
完全な日没を迎えようとしている窓の外に目をやった。
傍らに置いたペットボトルの水は、もうあらかた残っていない。
昨夜からの空風は弱まってはいたが、そこそこの風は吹き荒れているようで、
窓の外に見える背の高い木の枝は、震えるようにその枝を揺らしていた。
「……」
気だるく眺めていた真希は、焦点を他に合わせた。
窓外の光景にとけこむように、室内のひとみが映えている。
部屋に戻ってからというものの、そこがもはや低位置かのように、閉じたドアの前から一歩も動こうとしない。
腕を組みドアにもたれかかるようにした態度は、いつもと変わらないものではあったが、
それが虚勢であることは真希にも容易に見ぬけていた。
気だるげな表情の真希が、
「なんかさ、アタシが悪者みたいじゃん……」
と、やはり気だるい口調で窓に映るひとみに向かって声をかけた。
窓に映るひとみが、フと顔をあげる。
「アタシ、なんも言ってないからね」
「……」
「アタシと付き合うって決めたの、よっすぃだかんね……」
うなだれるように頷くひとみを尻目に、真希は立てた方膝に覆い被さるようにして顔を埋めた。
ひとみが何故、自分を選んだのか――。
理解できないほど、同じことを繰り返そうとしていることに気づかないほど、真希は愚鈍ではなかった。
だが、それを認めて、ひとみを梨華の元へ送り届けるという、献身的な行為にどうしても出れなかったのは、
迷子の自分が1人取り残されてしまう――不安や怖さであったのかもしれない。
出口の見えない真っ暗闇の迷路。なんとなく、真希の頭の中にそんなイメージが浮かんだ。
きっと、ひとみもそこに閉じこめてしまった。
渦巻く罪悪感を他所に、どこか安心している自分がいるのも確かで、
真希は埋めた膝の上で口元の端に微かな笑みを浮かべている自分に戸惑いを覚えた。
「さむ〜い」
思わず口に出した紗耶香は、こすり合わせている両手に息を吹きかけた。
紗耶香の座っている場所は、いくら屋内にあるアパートの階段とはいえコンクリート剥き出しであるため、
体温は奪われていくばかりである。
あと5分。
あと5分。
なつみの帰宅を待っている間、呪文のように心の中でつぶやきながら、もう既に1時間以上が経過してしまった。
やっぱ、電話してから来ればよかったかな……。
と、後悔するものの、その実、こうしてなつみを待ち続けるのを、紗耶香は嫌っていなかった。
もっとも、それは慣れであるのかもしれない。
どこかで待ち合わせをする場合、なつみは必ずと言っていいほど、待ち合わせ場所に遅刻して現われる。
そして、言うのだ。
「ごめんね〜。待ったでしょ?」
とびきりの笑顔を浮かべ。
元来は時間に几帳面で待たされる事が嫌いな性格の紗耶香は、毅然としたいのだが、
いつもその笑顔で全てをうやむやにされてしまう。
そうしたことを繰りかえす内に、紗耶香はいつの間にか待つ楽しみを覚えていた。
いきなり連絡もせずに訊ねてきた自分を見て、なつみはなんて声をかけるんだろうか?
目と口を丸くして驚き、そしていつもの笑顔を浮かべるのか?
それとも、ムッと唇を尖らし上目使いで――、イタズラな笑みを含んだ目でこちらの反応を覗うのか?
そうしたなつみの表情や態度を夢想するだけで、待つ時間は苦にならずに過ぎていく。
また5分ほどが経過した。
紗耶香の位置する階段は、ちょうど出入り口から真正面に位置する。
5メートル四方の狭い玄関ホールなので、視力の悪い紗耶香にも表の通りは見渡せる。
そこに、一台のタクシーが止まった。
ともすればなつみの笑顔を想像し、緩んでしまっているかもしれない表情を、
ハッと元に戻して、紗耶香は背筋を伸ばして階段の端へと身体を寄せた。
スーツ姿の男性が、後部座席から下りた。
辺りはもう暗くなっていたが、アパートの照明が表まで届いているため、紗耶香にもその姿はハッキリと確認できていた。
歳は20代後半だろうか、フレームなしの眼鏡の奥にある知性的な切れ長の目が、どことなく紗耶香の興味をひいた。
あのまま白衣を着れば、医師そのもの――そんな風な印象をぼんやりと感じている紗耶香だったが、
男に続いて後部座席から出てきた人物を見て思考が止まった。
おおよそスマートな身なりの男性とは釣り合わない、ぼってりとしたコートに身を包まれたなつみが、
タクシーの後部座席から下りてきたのである。
紗耶香は胸に圧迫されたかのような息苦しさを感じ、ごくりと息を飲み、
どことなくリアル感を喪失した光景として、笑顔で言葉を交わす2人を傍観していた――。
翌日の朝、梨華は制服には着替えず、私服のまま大広間へと出向いた。
藤村が昨夜遅くに帰宅していた事を知ってはいたが、藤村の疲れた身体を気遣い、
アパートの正式な契約申しこみを、翌日に持ち越したのである。
大広間へと入ってきた目を赤く腫らした梨華を見て、大よその察しがついたのだろう。
「おはようございます。梨華お嬢様」
と、いつものように声をかけた藤村ではあるが、その声にはどことなく覇気がなかった。
「おはようございます――」
梨華は一礼すると、軽く辺りを見まわした。
「旦那様は、まだでございますよ」
藤村が微かな笑みを浮かべるのは、市井正和の存在に緊張して身を固くさせている梨華を解きほぐそうという意図があった。
「会議のほうが長引きましてね、しばらく近くのホテルに滞在するようになりまして――」
”なので”と、言葉を続けようとしたが、それよりも早く梨華がアパートの契約の話を切りだし、
なんとか家を出ていく事を先送りしたい藤村の目論みは無駄に終わった。
「できれば、今日からでも……」
「今日!?」
「あ、はい……。あの、挨拶は帰宅してからあらためて……って、いうのはダメですか?」
「ダメという事はございませんが、どうしてまたそんな急に……」
藤村の問いに、梨華はうつむいたまま口をつぐんだ。
困り果てた藤村が、口元に蓄えた白い髭を撫でていると、
「いいよ。荷物、今日運ぼう」
と、食堂の方から声がし、制服姿の紗耶香がやってきた。
「紗耶香お嬢様」
咎めるような口調で立ちあがる藤村に、紗耶香は笑顔を浮かべて言った。
「いいんだよ。これから、石川には石川の生活があるんだから」
「しかしですね」
「藤村の言いたい事も、石川にはわかってるよ。それでも、こうして言ってんだからさ」
隣にやってきた紗耶香は、「ね」と、うつむく梨華の顔を覗きこむように言った。
「好きなようにさせてあげようよ」
「あの、本当にワガママばかり言っちゃって、すみません」
梨華はうつむいていた顔を、さらに深くさせ頭を下げた。
藤村は渋々ではあったが携帯電話で直接、担当者に電話をし、
アパートの契約そのものは、ものの5分もかからずに口頭で成立した。
「いなくなるなんて、寂しいな……」
朝食の用意をし終えた家政婦が厨房へと戻ると、紗耶香はテーブルに肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せたまま囁くように呟いた。
引きとめる風でもないその口調は、どこか懐かしむような口調で、市井家での生活を誘発された梨華は、
一晩中泣いていたのにもかかわらず、乾ききったはずの目にまた潤みを帯び始めた。
「あ、ごめん。朝からなんか、しんみりしちゃうよね」
と、紗耶香は笑顔でその場をつくろった。
梨華も、ぎこちないながらも笑顔を返す。
「そうだ。ひとみは? 後藤と……まだ2階?」
ひとみと真希の名前を聞いた梨華は軽く動揺したが、悟られまいと目の前に並んだ皿を意味もなく並べ替えながら、
「後藤さんは、昨日の夜帰りました」と、梨華にしては珍しく事務的な声で返事を返した。
紗耶香はしばらく何かを考えるかのような間を置き、「そっか」とつぶやくとおもむろに席を立った。
きょとんと見上げる梨華に、紗耶香は「ちょっと、ひとみ呼んでくる」と笑顔で声をかけ食堂を後にした。
また、何か揉めるのではと心配になった梨華だったが、後を追うことをしなかった。
明日からは、ここにはいないのである。
多少の荒療治のような意味もあり、その場を動くことなく、僅かに開いたドアの隙間から、
2階へと駆け上がっていく紗耶香を見つめていた。
それだけが理由のように梨華は自分を納得づけたが、もう1つは、
ひとみと顔を合わせ辛いという単純で大きな理由があった。
昨日の告白は、どことなく自分との決別を示唆しているような感じがしなくもなく、
なぜかおいそれとひとみの前に姿を現しにくかった。
ひとみがそのように望んでいるように感じられたのは、ここ数ヶ月間を共に過ごした賜物のような気もしたが、
そのように感じてしまうのも寂しくて、梨華はまた泣きそうになった。
ベッドの縁に越しかけたひとみは、手にした携帯電話のディスプレイに視線を落としていた。
そこには、先ほど届いたばかりの真希からのメールがあった。
<おっはー。行ってらっしゃい。気をつけてね>
昨日の様子からして、真希は全てを悟っていたはずである。
優柔不断な自分に対して、鬱積する不満や不安を吐露し――、自己嫌悪に陥ったのだろう。
真希は、逃げるようにして部屋を後にした。
それなのに、昨日の事は何もなかったかのような、以前と変わらぬ真希からのメールに、ひとみは逆に胸が痛んだ。
そこまでして健気に振る舞う真希が痛々しく、そしてそのようにさせている自分にどうしようもない不甲斐なさを抱いた。
うなだれる耳に届いたノックの音に、梨華の姿を瞬時に想像してしまったことに対しても、ひとみは罪悪感を覚えた。
そのまま立ち去ってくれないだろうかと願うひとみだったが、ドアの向こうから聞こえてきた意外な人物の声に、
また別の居心地の悪さを感じる事になる。
「開けていい?」
しばらくして、躊躇いがちに開いたドアの隙間から、紗耶香が様子を覗うようにして顔を覗かせた。
「なんだ、起きてたんだ」
明るく声をかけてくる紗耶香に対し、ひとみは相変わらずディスプレイに視線を落としたまま。
紗耶香は部屋の中に視線を漂わせながらひとみからの返事を待っていたが、
いつまでもそうした姿勢のひとみを見て、妙に納得したようにクスッと苦笑すると、ふたたび自分から口を開いた。
「あのさ、石川、今日引越しすることにしたんだって」
やけにあっさりとした紗耶香の言葉に、ひとみは伏せていた視線をあげた。
「それでさ、もしひとみ、今日なんにも用事なかったらさ、石川の引越し手伝ってあげてほしいんだけど」
「……」
「藤村も病院に行かなきゃなんないって言ってたし、アタシだけ」
紗耶香が言い終わらないうちに、ひとみはスッと立ち上がった。
そのまま机の上にあるカバンと、椅子の背にかけてあったコートを手にとると、
ドア口に佇む紗耶香の脇を抜けて部屋を出ようとした。
「ちょっと」
「……別に、手伝うほど荷物ないと思うけど」
佇む紗耶香を肩で軽く押しのけ、ひとみは廊下へと出た。
「そういう問題じゃないよ」
尚も突っかかってくる紗耶香に、ひとみは足を止める。フと視界の隅に入ったのは、梨華の部屋のドアであった。
「石川にはさ、世話になったんだからさ……。
別にこれが最後ってことじゃないけど、やっぱそういうのってさ、ちゃんとしなきゃいけないと思うんだ」
「……」
「アタシが居ると、話し辛いのはわかってるから……」
「……」
「声ぐらい、かけてよ。石川、待ってると思うから」
そう言った紗耶香の足音が、背を向けて佇むひとみとは反対の方向に遠ざかっていく。
紗耶香が部屋へと戻るのを確認すると、ひとみは梨華の部屋を一瞥し、ゆっくりと階段を下りていった。
用意された3人分の朝食は、すべて手付かずの状態であった。
紗耶香とひとみが階下に下りてくるのを待っている梨華は、むろん朝食には一切手をつけていない。
待ちつづけているうちに、時間は過ぎていく。
そろそろ朝食を食べなければ、ひとみは朝練に遅れてしまう。
そわそわし始めた梨華の耳に、誰かが階段を下りてくる気配にも似た音が聞こえてきた。
振りかえる梨華の目に、階段を下りてくるひとみが僅かに開いたドアの向こうに見えた。
朝練に遅れそうなひとみを急かそうと席を立ったのは条件反射で、椅子を引いた音に気づいたひとみと目があった瞬間、
梨華は先ほどまで抱いていた感情を思い出し途端に尻込みしてしまった。
「お、おはよう……」
と、一応は声に出したものの、離れた距離にいるひとみに届く筈もなく、
僅かな隙間から見えていたひとみの姿はあっという間にフレームアウトしてしまった。
完全無視された梨華は、「ガーン」というアニメ的な擬音がバックにお似合いな表情をし、
よろよろとよろめくように椅子へと腰を下ろした。
真希と付き合うようになった途端に、ここまであからさまな無視をされるということは、
ひとみにとって自分はただの暇つぶしの相手だったようにすら思え、
梨華の思考は昨日から傾きかける一方のネガティブへとさらに大きく傾斜した。
「いいもん、別に」
と、ブツブツつぶやき始めた梨華だったが、すぐにピタリと止めたのは、背後のドアが静かに開いたからであった。
沈黙の空気が、そこに立っているのが誰なのか――、振りかえらずとも教えてくれる。
「……ご飯、早く食べないと遅れちゃうよ」
梨華は、振りかえらずに声をかけた。
背後に立つ人物は何も答えずに、いつもの席に歩いてくると、着席することなく皿に添えられたゆで卵を手にとった。
ひとみは、何も言わずに黙々とゆで卵の殻を剥く。
梨華は、うつむき加減ではあったがその姿を横目で見つめていた。
慣れがそうさせるのか、ひとみはものの10秒とかからず殻を完全に剥き終った。
毎日のようにその何気ない早業を見ていた梨華は、別段驚くような事もなく、
短い時間の間に、ひとみの側へと塩の入った容器を移動させていた。いつもと変わらない朝の光景に、梨華の気分も次第に
落ちついてくる。
食べる様を微笑みながら眺める梨華を、ひとみは一瞥したきり何も咎めず、黙々と最後の一口までを食した。
ひとみは、何か声をかけてほしかったのかもしれない。
或いは、何か声をかけようとしたのかもしれない。
しかし、梨華はひとみに声をかけることもなく、ひとみも梨華に声をかけることもなく、
梨華はそのまま食堂に残り、ひとみは食堂を後にした。
素っ気無い最後のような感じもしたが、最後までひとみらしい別れ方に、
梨華は誰もいなくなった食堂で1人クスッと声をあげて笑った。
「ひとみ、らしい……か」
アパートへと運んだ梨華の数少ない荷物を整理しながら、紗耶香は苦笑を浮かべた。
「最近、ちょっと優しかったから勘違いしちゃってて」
と、梨華はアパートへ来る途中の量販店で買った大特価のピンク色のカーテンを、苦笑しながらレールに装着している。
「だから、昨日はすごい落ち込んだんですけど、なんか、そういえば昔からこんな感じだったなぁって思ったら、
急に、楽に、なったって、いう、か――」
途切れ途切れの言葉に、衣類をクローゼットに並べていた紗耶香は振りかえった。
踏み台がないせいか、カーテンの取りつけ作業は難航しているようである。
「貸して」
紗耶香は梨華からカーテンを受け取ると、サッシの上に靴下を履いたままの足で立ち、器用に素早くカーテンを取りつけはじめた。
接着面の少ないサッシの上は、いくら体重が軽いとはいえ、足の裏にかかる負担は相当のもので、
梨華も最初はそのようにして作業をしていたが、あまりの痛みに数秒でつま先立ちでの作業に変えたのであった。
「市井さん、大丈夫ですか?」
梨華が、心配そうに訊ねる。
「んー?」
「足、痛くないですか。私、やりますから」
「あ、別になんともない。それよりさ」
「――はい?」
ここへ来る道すがらも、量販店でも、そして引越しの作業中も――。
梨華はひとみのことばかりを話しており、それに気づいていない梨華を揶揄したかったのだが、紗耶香はそれを寸前で堪えた。
せっかくいつもの梨華に戻ったというのに、余計な事を言って水をさすのも悪く、
紗耶香はそのまま曖昧に微笑んだまま作業を続けた。
それと、足の痛みを心配する梨華に、自分の胸の痛みは気づかれたくなかった。
自分の知らないひとみの話を聞いていると、その痛みも和らぐのであった――。
もともと数少ない荷物であったため、引越し作業は30分程度で終了した。
すべての作業を終えた紗耶香は、軽く息を吐いて、腰に手を当て辺りを眺めた。
部屋の中央に置かれた白い小さな卓上テーブルと、その下に敷いた限りなく白に近いベージュの敷物は、
フローリングの床にアクセントをもたらすと共に、四方を囲む白い壁紙ともマッチしている。
部屋の隅に折りたたんだ布団は、ピンクのカバーがかけられ、ちょっとしたソファーのよう――。
生活に必要な物しかない部屋は、簡素としたものではあったが、どこか温かみのある部屋のように感じられるのは、
午前中の陽射しを浴び、一足早い春のような淡いピンクの影を落とすカーテンのせいだろう。
「なんかさ、いいよね」
しみじみと呟く紗耶香の声に応えるように、キッチンにいた梨華が戻ってきた。
「そうですか? なんにもなくて恥ずかしいです」
と、梨華は手にしたグラスをテーブルの上に置きながら、困ったように微笑んだ。
その仕種や部屋の中央に置かれたテーブルが、どことなくなつみを連想させ、
連鎖的に昨夜の出来事が、紗耶香の頭の中でフラッシュバックした。
男。歳は20代後半で――スラリとした長身。知性的な雰囲気。
タクシーから下りたなつみは、笑顔で男性に声をかけ、男性を乗せたタクシーが見えなくなるまで、
やはり笑顔を浮かべたまま手を振って見送っていた。
紗耶香は、男性の正体を知らない。
タクシーを見送ったなつみが、振りかえろうとしたのと同時に、なぜか咄嗟に階段を駆け上がり、
コの字に曲がった上段に身を隠してしまった。
なつみが誰といても構わないし、実際のところこれまでにも何度か男性といる場面も目撃している。
しかし、そのどれもがただの知人であると、なつみから聞かされていたので、紗耶香もまたそれを信じることにしていた。
今回もきっと、ただの知り合いだと聞かされる――。
大丈夫。
大丈夫。
自分にそう言い聞かせながらも、紗耶香の足は、なつみがエレベーターに乗り込んだ気配を察すると、
そのままアパートから遠ざかった。赴いた駐輪場では、すぐにバイクのエンジンをかけることなく、
遠くまで重いバイクを押しながら歩いていた。
エンジン音を聞いたなつみから電話がかかってくるのも避けたかったし、なぜかそうやって歩きたい気分だった。
「市井さん?」
名前を呼ばれて、紗耶香はハッとわれにかえった。
「どうか……しました?」
目の前にいる梨華が心配そうに声をかけるのを見て、紗耶香は自分が記憶の中に浸っていたのを知った。
「あ、別に」
笑ってつくろう紗耶香は、グラスを手にとると気泡を浮かべる炭酸ジュースを一気に飲んだ。
喉もとに炭酸特有のジワジワとした痛みを感じたが、昨日から続く妬けつくような胸の痛みに比べればなんともない――。
紗耶香は、臆することなく一気に飲干した。
数メートル先に見える学園は、授業中であるためにしんと静まり返っている。
足元にある小石を、ブーツのつま先で転がしながら、真希は退屈そうに欠伸をした。
真希は、ここへ到着してから数度目の時間の確認をする。
授業終了までにはまだ30分ほどあり、もう少し窮屈な場所で待たなければならないようであった。
気をつけなければならないのは、帰宅する大勢の生徒の中に紗耶香がいるかもしれないということ。
数人の友達に囲まれて談笑しながら歩く紗耶香が、万が一にでも帰宅路とは別の方向――、
建物の影に身を潜めるように立っている自分に気づく事はないだろうが、用心しなければならない。
自分の位置を確認するかのように振りかえる真希に、耳慣れたバイクのエンジン音が届いた。
「いちーちゃん……」
反射的に向けた真希の目に、正門の前に停車する紗耶香のバイクが映った。
メタリックブルーのフルフェイスは顔こそ見えないが紗耶香であると、真希には瞬時にわかる事ができた。
しかし、その後ろのシートから下りる人物が誰かわからず、真希は潜めていた建物の影から、身を乗りだすようにして目を細めた。
フルフェイスのヘルメットをとった人物の、長い髪がハラリと風にたなびき、その顔を露呈する。
――真希の目が、スッと冷めたものに変わった。
「藤村には、アタシから言っとく。たぶん、休学扱いにされるだろうけど」
バイクにまたがったままの紗耶香は、梨華から受け取ったヘルメットを左腕に通しながら苦笑した。
「あ……、でも」
「うん。わかってる。余裕ができたら、定時制に通うんだよね。ちゃんと説明しとくけど、藤村の性格ってなんとなくわかるから。
それぐらいは、藤村の好きなようにさせてあげたいんだ。そうしないとさ、ネチネチ愚痴りそうだから」
と、紗耶香はフルフェイスの向こうで笑った。
「あ……、はい。じゃあ、お願いします」
「うん。じゃあ――、ここで」
「あの、今日は色々とありがとうございました」
ペコンと頭を下げる梨華。
紗耶香は笑顔を浮かべ、左腕を軽く上げると、颯爽と市井家へとバイクを走らせた。
紗耶香の運転するバイクを見送り、その姿が見えなくなると、梨華は学園へと向き直った。
校舎の壁にかかった大きな時計で時間を確認すると、授業が終わるまでにはまだ時間がある。
梨華は、その前にバイト先であるシャトレーゼに顔を出しておこうかとも考えたが、
そのまま話し込み、バイトの時間に突入する事を危惧して、やはりこのままこの場所で授業が終わるのを待つことにした。
「あゆみちゃん、なんて言うかな……」
小さく声を出しながら、梨華はくるりと方向転換し、門扉に背中を預けた。
「……え?」
と、前方から歩いてくる人物に気づいた梨華は、すぐさま預けたばかりの門扉から背中を起こした。
「なんで、こんなとこいんの?」
真希は、梨華から少し離れた場所で立ち止まると、腕を組んだままそう言った。
棘のある言い方で、刺すような冷たい視線。
さすがの梨華も、真希の感情を読みとる事ができた。
「なんで……って、友達……待ってるの」
「友達?」
「う、うん……。あ、別に、ひとみちゃんに会いにきたわけじゃ……」
と、言いながらも、梨華は果たして全くひとみと会える事を期待していないのだろうかと考えた。
そして、フと気づいた。自分は、いつから彼女のことを”ひとみちゃん”と呼んでいるのか。
そして、ひとみがなぜ急に”梨華”と呼び始めたのかも気になった。
「……たの?」
ぼんやりとした梨華の耳に、真希の言葉尻だけが聞こえてくる。
「ちょっと、聞いてんの?」
「……え?」
「なんで、いちーちゃんと一緒にいたのかって聞いてんの」
「なんでって……今日、引越しで」
「引越し? 何? いちーちゃんに手伝わせたわけ?」
「あ……、うん……、はい……」
「何、考えてんの? いちーちゃん、受験生じゃん。そんなくだんないことさせないでよ」
真希の声の大きさが、跳ね上がった。
「べ、別に手伝ってなんて言ってないもん。なんで、あなたにそんなこと言われなきゃなんないの?」
真希の言い方にムッときたのではあったが、もう一方でひとみと付き合うことにした真希に言われたことに、
梨華はムッとしたのであった。
真希も自覚したのか、急に押し黙り、伏せた視線を落ちつきなく辺りにやっていた。
「あ……、ごめん……」
と、謝る梨華に、真希は何も言わずに反対側の門扉へと歩いていった。
気まずい空気が流れ、あゆみに引越しの事や学園を辞めることを告げるのはまた後日にしようかと考えた梨華だったが、
真希に逃げたと思われるのが悔しく、気まずい空気を肌で感じながらも授業終了のチャイムが鳴るまでその場を動くことはなかった。
チャイムが鳴り、さらに十分ほど経った。
帰宅する生徒たちの一団が、正門から流れ出てくる。
梨華はあゆみの姿を探し、真希はひとみの姿を探していたので、必然的に何度も目が合ってしまう。
2人は、そのつど気まずそうに視線を逸らした。
先にやって来たのは、あゆみだった。
クラスの友達と一緒に帰宅しており、梨華はその友達にあまり面識はなかったが、こ
れでやっと気まずい空気から逃れられると、ホッとしてあゆみに駆けよった。
しかし、その足は数歩進んだところでピタリと止まった。
あゆみの数メートル後ろを、ひとみが1人で歩いてきていたのである。
バレー部の練習があるはずなのに……と、梨華は思ったが、よくよく考えれば、
真希が帰宅する生徒の一団の中からひとみの姿を探している時点で、そうなることを予測しなければならなかったのだが、
つまらない意地の張り合いでそこまで考える余裕がなかった。
軽い後悔を感じつつも、どこか心の片隅で市井家とは関係のない立場となった矢先に、
ひとみと偶然出会ったことに、梨華はちょっとした新鮮な喜びのようなものを感じていた。
「石川さん」
佇む梨華に気づいたあゆみが、パッと表情を輝かせてやってくる。
伏し目がちに歩いていたひとみが声に気づいて顔を上げたが、その視線はすぐに梨華の後方に向けられた。
佇む梨華は、やって来たあゆみに声をかけることもなく、ひとみへと駆けていく真希をぼんやりと眺めていた。
「? どうしたの? 石川さん」
異変に気づいたあゆみが、不思議そうに梨華の視線を追って振りかえる。
「遅いよ。よっすぃ」
そう言いながら、真希は佇むひとみの腕をとった。
帰宅する生徒たちのざわめきが、一瞬、水を打った静けさになる。
ふたたび辺りに舞った生徒たちのざわめきは、それまでとは違い、潜める声が重複して辺りに舞うものであった。
ひとみと梨華の噂は、生徒たちのほとんどが知っており、皆、興味津々と言った感じで、
微妙な距離を置いて佇む4人を眺めながら歩いていく。
真希は周りの好奇な視線を気にすることなく、ひとみと腕を組んで正門へと歩きだした。
通りすぎ様に聞こえてきた真希の声に、梨華は思わず視線を伏せた。
「付き合ってんだからさ、別にいいじゃん」
笑いながらひとみに声をかける真希。その腕に、一層の力が入った。
ひとみは何か言いたげに顔を横に向けたが、視線を伏せた梨華に気づかれる事はなく、
真希に引っ張られるようにその距離は開いていった。
「誰、あの子? 感じ悪い……」
つぶやくあゆみの声に、梨華は漸く顔を上げた。
振りかえったものの、もうすでにひとみと真希は、帰宅する生徒たちの一団に紛れ込み、その姿を確認することはできなかった――。
「あ――、ごめん。昨日は父さんが帰ってきて、家にいなきゃなんなかったから。
――うん。――そう。――だから、電話もできなくて。――ごめんね」
携帯電話を耳に当てた紗耶香は、心配して電話をかけてきたなつみに嘘をついた。
なつみは電話の向こうで疑うことなく、紗耶香に何かがあったのではないかと心配していたことを告げた。
笑って何でもないよと否定した紗耶香だったが、どこか虚しく、その後の言葉が続かない。
声のトーンを聞き分けたなつみは、しきりに、「何かあった?」と訊ねてくるが、それすらも今はあまり応えたくない気分だった。
何か言いかけるなつみを、紗耶香は「予備校に行かなきゃなんないから」
と早々と話を切り上げ、別れの言葉もそこそこに電話をきった。
ここ数日、予備校を何回か休んでいたため課題のレポートが溜まりに溜まっており、
それを済ませてから予備校に向かおうとしていたのだが、
なつみからの電話で勉強を続ける気分はなくなり、紗耶香は大きなため息を1つ吐くと、机の上のノートをカバンにしまった。
昨日から自分が抱いている感情がなんなのか、紗耶香は気づいていた。
だが、そんな感情に翻弄されるのが嫌で、紗耶香は自分の気持ちに向き直ることはせず、
自然に消化できる時間を持とうと朝から奔走していた。
悪しき感情であり、醜いものだと思い込んでいた。
なによりも、なつみにそんな感情を向けてしまうのが嫌だった。
だが、先ほどの電話では、話している最中にアパートの前で見かけた男性の顔や、
男性に笑顔で話かけるなつみの顔が頭をよぎり、つい冷たくあしらってしまった。
「嫉妬……か……」
つぶやく紗耶香は、今までにも何度かそのような光景を目撃したはずなのに、
なぜ今ごろになってかき乱されるのかと心の中で自問した。
呆気なく出るはずの答えに、紗耶香はまたも意識を逸らした。
机の上に置かれているデジタル時計が、予備校に向かう時間を告げている。
大事な模試のある日、休むわけにはいかない――と、紗耶香はカバンを手にした。
フと、梨華の顔が頭に浮かんだのは、梨華に対する自責なのか。
紗耶香は、もう少し――もう少しだけ待ってほしいと心の中で梨華に詫び、
絢爛ながらも寒々しい印象を抱きつづけている自分の部屋を後にした――。
――2日目の夜ともなると、1日目の夜のように孤独感に苛まされ、
電気を消した途端に冷たい布団の中でシクシクと泣くような事もなかったが、
やはりどこか孤独で、梨華はなかなか寝付くことができなかった。
家に帰って誰もいないのは、東京での母親との暮らしで慣れているはずだったが、
それも僅か数時間だけのことで、遅めの夕食時にもなると母親は帰ってきてくれた。
台所に立つ母親の側や食事をしながら、その日あった何気ないことを報告し合うのが、
母娘の唯一の会話の時間であり、それまでをずっと1人で待っていた梨華にとっては至福の時間でもあった。
だが、その母親ももういない。
市井家では家に帰ると、藤村か家政婦のどちらかが出迎えてくれ、
時にはひとみや紗耶香のどちらかと夕食を共にする事もあった。
比較的、アルバイトの終わる時間とバレー部の練習が終わる時間の近いひとみと一緒になることが多かったが、
話かけても「別に」や「まぁね」で終わってしまうので、弾む会話というのはほとんど記憶にない。
それでも、梨華にとってはそれがいつしか当り前になり、それだけでも満足できるようになっていた。
しかし、その暮らしも自分から放棄してしまった。
自分1人でやっていけると思ったのは、ただの思いあがりにしか過ぎなかったんだろうか――と、
梨華はやはり1日目の夜と同じように、冷たい布団の中でシクシクと泣きながら、長い夜を過ごすハメになった。
卓上ライトの下、広げたノートにはびっしりと数式が書き込まれていた。
シャープペンシルを握った紗耶香の手は、尚も止まることなく次々と数式を展開していく。
――フと、その手が止まった。
携帯電話にセットしていたアラームが、音ではなく光を明滅させ、休憩の時間を知らせている。
乾ききった目頭を押さえ、充分な潤いが戻ると、紗耶香は卓上のデジタル時計に目をやった。
午前12時を数分過ぎたところであった。
1時間ごとの休憩をいれているとはいえ、学園から帰宅して以降、トータルに換算すると7時間以上は机に向かったままだった。
ここ数日の遅れを取り戻そうと受験勉強に集中していたとは言え、さすがに疲れがドッと押し寄せてきた。
紗耶香はうなだれるように、机に突っ伏した。
無造作に置いた携帯電話を眺めながら、しばらくの間、ぼんやりとしていた。
ふたたび携帯電話のディスプレイが、青色の光を明滅させる。
休憩時間が終わったのかと、半ば機械的に身を起こしたが、デジタル時計ではまだ10分ほどしか経過していない。
設定していた休憩時間は15分である。
その点滅が着信だと気づくのに、割と時間がかかったのは、疲れてぼんやりしていたせいだろう。
携帯電話を手にとった瞬間、内蔵された伝言機能が作動する。
そこから聞こえてきた声に、通話ボタンへと触れかけた紗耶香の指は止まった。
「あ――、えーっと、なっちだけど。遅くにごめんね。
あのね。えーっと、あー、あのね、24日のクリスマスなんだけど、今年もやるよね?
なんも決めてないから、どうすんのかなーって。あ、えーっと、また、電話ください。じゃあね」
ピーと甲高い電子音を最後に、部屋の中にまた静寂が戻った。
なつみからの電話は、必ず出るようにしていたので、なつみ自身が紗耶香の携帯電話の留守電機能を使用したことはない。
そのせいか、なつみはかなり慌てふためきながら、メッセージを入れていた。
今ごろは、汗もかいていないのに、ふうーっと袖長のパジャマで額を拭う仕種をしているのだろう。
その姿を想像すると、紗耶香は可笑しくて仕方がなかった。
自分の中にあったモヤモヤとした感情が、僅かながらも晴れたような気がしたのは、
慌てふためくなつみの姿を想像しやはり誰よりも愛しく思えたのと、
なつみが例年通り24日のクリスマスイヴを自分と過ごそうと決めている事にあった。
ただの思い過ごしだった……。
漠然とではあったが、なつみの声を聞くとそんな気になってしまう。
単純過ぎる自分にいささか苦笑しながらも、疲れも眠気も晴れた紗耶香は、
その後、何回もなつみからのメッセージを聞きなおした。
「紗耶香お嬢様が控えたと思ったら、今度はひとみお嬢様とは……」
午前1時を過ぎて帰宅したひとみに、寝ずに待っていた藤村は泣きそうになりながら声をかけた。
ひとみは、そんな藤村の悲痛な叫びを悉く無視し、コートを脱ぎながら階段へと向かう。
階下の藤村がまだ何か言っているようではあったが、ひとみは冷えきった身体を微かに震わせながら足早に階段を上がった。
「あ、おかえり」
声を聞きつけたという訳ではなさそうだった。
あまりにもタイミングが良すぎ、なによりも、紗耶香自身がひとみと出くわした事に驚いているようであった。
『ひとみお嬢様、明日は早く帰って来て下さいませよ』
階下から声を大にしての藤村を、紗耶香はチラリと一瞥すると、脇を通りぬけようとするひとみを振りかえった。
「夜遊びも、ほどほど――って、アタシが言うのも変か。あ、ひょっとして、石川のとこ?」
と、やけに楽しげな紗耶香の声に、ひとみは妙に苛つき思わず足を止めた。
てっきり、自分の事を無視してそのまま部屋に戻ってしまうだろうと期待していなかった紗耶香は、
足を止めたひとみに自然と期待も高まる。
「元気そうにしてた? って、まだ家出てから2日目だもんね」
と、紗耶香は笑ったが、その声はしんと静まりかえった長い廊下に虚しく木霊するだけだった。
「違う?」
尚も明るく訊ねる紗耶香だったが、それが自分の勘違いだと思い知らされたのは、
振りかえったひとみが冷めた表情をしていたからであった。
「そうやって、笑ってられるのが嫌いなんだ……」
「え……?」
小さくつぶやく声を、紗耶香は聞き取れなかった。
ひとみは紗耶香に聞こえるように大きなため息を吐くと、
「梨華のところなんか行ってない。ごっちんと一緒にいただけ」
と、面倒くさそうに声を発した。
「あ……、後藤……か。そっか……」
「……」
「後藤と仲直りしたの? 仲直りっていうか……、その……。
もしそうだったらさ、25日のクリスマスさ、後藤も呼んでウチでパーティーしようか? 石川も来るっていうし」
ひとみは、相変わらず何も応えなかった。
かと言って立ち去るわけでもなく、辺りには寒々しくも重苦しい空気が蔓延していた。
向けられている眼差しが軽蔑の眼差しであることは、紗耶香にもわかっていた。
梨華の言葉を思いだしたが、それがひとみらしいと思えなかったのは、
はにかむような笑顔で初めて「お姉ちゃん」と呼んでくれた幼い頃のひとみが色濃く記憶されているせいだろう。
紗耶香はそれ以上何も言わず、うつむいたまま階下へと下りていった。
ひとみもまた、紗耶香が何も言わずに去っていった理由をわかっていた。
やり場のない苛立ちが募り、ひとみは軽い舌打ちをすると、きびすを返した。
2人の空気を察して、駆けつけてくれる梨華もいなければ、そんな苛立ちを解消してくれる出来事もない。
ひとみは泣きたくなった。
震える下唇を噛み締めると、部屋のドアを乱暴に閉め、静かな廊下に苛立ちの音を轟かせた。
「みんな、すごい噂してる」
授業をサボって、学園近くの喫茶店シャトレーゼにやって来たあゆみは、
悪びれることなく通りに面した窓際の席に座ると、注文を取りにきた梨華に開口一番そう言ってのけた。
梨華は、オーダーシートを手にしたまま、「?」と首をかしげる。
「あんまりだから、もう嫌になって出てきちゃった。あ、レモンティーとミックスタルトお願い」
あゆみは、梨華がアルバイトをはじめる前に何度か店に来た事があるらしく、
メニューを見ずに店で一番人気のあるミックスタルトを注文した。
平日の午前中。客はあゆみしかおらず、カウンターの奥にいる女店主も暇なのだろう。
注文の品を作り終えると、小さなテレビから流れるワイドショーを欠伸しながら眺めていた。
「噂って?」
梨華は、あゆみの注文した2品をテーブルの上に置きながら訊ねた。
「石川さんと、吉澤さん……」
言い難そうに声を潜めたのかとも思ったが、どうやらそうではなく、
カウンターの向こうにいる店主に聞こえないようにしているらしい。
「大丈夫。他にお客さんいないから」
と、梨華はそう言って微笑んだ。
あゆみの話によると、どうやら梨華が退学した理由は、ひとみに弄ばれ捨てられたから――。と、言うことになっているらしい。
あゆみに会いに行ったあの日の光景が、尾ひれをつけて生徒たちの間を回遊しているのである。
それについて、梨華は一笑に伏すだけであった。
色々と囁かれたり、嫌がらせも受けてきたので、その手の話題には慣れていた。
ただ、梨華があゆみの報告で気になったのは、ひとみがまた以前のように孤立してしまっていることであった。
他者を寄せ付けない雰囲気を発しながら廊下を歩いている姿を想像した梨華だったが、あゆみの話によるとそうでもないらしい。
「前はね、同じ感じでも、もっとクールっていうか、もっと何ていうのかな、
黙ってても威圧するような感じがあったんだけど、今の吉澤さんは、なんかそれと違うから気になって……」
と、その原因が、いかにも梨華にあるのではないかといった感じの視線をあゆみは向けた。
ひとみから特別な好意はもたれていない――と、ハッキリと一昨日正門の前であゆみに告げていたのだが、
どうやらあゆみはまだ自分の説を覆した訳ではなさそうであった。
「私は関係ない……よ。だって、別に遠くに引っ越したわけじゃないし……。会おうと思えば、いつでも会えるし」
「――なんか、会いに来てくれるの待ってるみたい」
梨華の言葉を聞いたあゆみは、目を輝かせながら言った。
「え?」
「なんか、そんな感じした。今。――やっぱり、あんな場面見せられると会いに行き辛いよね」
と、あゆみはイタズラっぽく微笑んだ。
「ま、待ってなんか――。だいたい、私なんかいなくても別になんとも思ってないよ。
あゆみちゃんの気のせい――。そ、そうやって、私とひとみちゃんのこと見てるから」
「ひとみちゃん? え? 石川さん、普段、ひとみちゃんって呼んでるの?」
尚も、イタズラっぽい笑顔を浮かべるあゆみに、
「もう、からかわないでよ」
と、梨華が顔を赤くして振りかえるのと同時に、店の扉がカランカランと鈴の音をたてて開いた。
中年の女性が2人、歓談に興じながら入ってくる。
梨華は、正直なところホッとした。
これ以上、あゆみの話に付き合っていると、また変な風に勘ぐってしまいひとみとの関係がギクシャクとしてしまう。
「いらっしゃいませ」
ここぞとばかりに声をかけ、オーダーを取りに行こうとした梨華の袖を、あゆみが掴んだ。
「あゆみちゃん、困るよ……」
小声で振りかえった梨華に、さきほどとは打って変った真剣な表情で、あゆみは言った。
「変なの。本当に……。バレーの練習も休んでるみたいだし……。お願い。吉澤さんに会ってみて」
「あゆみちゃん……」
「あんな姿の吉澤さん見たくない……」
「……」
2人の間を割って入るように、「石川さん、オーダーお願いね」と、やわらかいが注意する声が届いた。
「ごめんね。邪魔して」
あゆみは、カウンターの方を見ると肩をすくめて店主に一礼した。
客のオーダーをとりながらの梨華は、その間中も――、あゆみが学園へと戻り、
昼と午後3時の店が混雑する間も、ずっとひとみの事を考えていた。
3日連続という事もあり、ほとんどの生徒に顔を覚えられてしまったらしい。
正門から少し離れた建物の影に佇む真希は、目の前を通りすぎていく生徒たちの視線を一身に浴び、
決まり悪そうにうつむいていた。
高校に通っていない真希は同年代とあまり接する事がなく、それだけで居心地が悪い上に、
誰しもが自分を知っているという事に、羞恥にも似た居心地の悪さを感じてしまう。
それでも、ここに佇んでいるのは――。
顔を上げた真希は、怯えるように辺りを見まわした。
正門から通りの左右に、流れ出ていく生徒たち。
反対方向の通りの先にも、正門の脇にも、真希の探す人物はいない。
もしも、その人物が現れたら、真希は紗耶香と会う気まずさも忘れて、正門の前に駆けつけるつもりでいる。
いつか見た夢の光景が、現実のものになるのだけは嫌だった。
談笑する3人を、遠くから眺める――そんな惨めな思いだけはしたくなかった。
辺りを見やる視線に、こちらへとやって来るひとみを捉えると、真希は一目散にひとみへと駆け寄った。
うつむき加減で歩くひとみは、突然、その腕をとられても別段驚くでもなく、虚ろな顔を上げるだけだった。
駆けてくる足音は聞こえており、そうして気軽に触れてくる人間は他におらず、
なによりも真希の待つその場所に向かって歩いていたのである。
「今日、どこ行こっか?」
訊ねられても、ひとみはぼんやりとした表情を、進行方向に向けているだけだった。
訊ねた真希も、今だ辺りをキョロキョロと見まわしている。
「――補習やってるから、姉さんならまだだよ」
ひとみのつぶやきに、真希は漸くひとみに顔を向けた。
進行方向を見つめたままのひとみは、軽く微笑みを浮かべていた。
「……いちーちゃんじゃない」
「……」
「いちーちゃんのことは、もういい。それよかさ、今日どこ行く?」
あまりここに長居したくなく、ひとみに感づかれたくもなく、真希はひとみの手をとると、
生徒たちの注目の中、学園から少しでも離れようと歩を進めた。
――2人が立ち去って数分後。
反対側の通りから、シャトレーゼの制服の上にトレーナーを着込んだ梨華が息を切らせてやってきた。
休憩時間を繰り上げて来たのだが、もう既に、帰宅する生徒たちの第一陣は去ってしまっている。
(遅かったかな……?)
10分という短い休憩時間。
それでもギリギリまで、ひとみが出てくるのを待っていたが、その日、梨華がひとみに会うことはなかった――。
午後8時を過ぎて帰宅した梨華は、帰りに買ったコンビニの弁当で簡単に夕食を済ませると、
狭いバスタブに湯を張り、芯まで冷えた身体を存分に温めた。
膝を抱えるようにして浸かっていたバスタブで、明日にでも市井家を訊ねてみようかとも考えたが、
二の足を踏んでしまうのは、すぐに迫ったクリスマスに市井家を訪れる事になっていたからだった。
だが、その日にひとみが家に居るとは限らず――、どちらかと言えば、居ない確率の方が高い気もする。
「どうしようかな……」
つぶやいた梨華は、ブクブクとバスタブの中に身体を沈めた。
梨華は頭まで浸かったお湯の中で、二の足を踏む理由がもっと別にあるような気もした。
あゆみの言う通り、ひとみの方から訪ねて来るのを待っているのかもしれない。
梨華は、そんな考えを昼間あゆみに向かって言ったように強く否定できなかった。
バスタブの中に潜ったように、思考の中をさらに深く潜ってその原因を探ってみようとしたが、
それは呆気なくドアのチャイムの音にかき消された。
入浴中の来客に、梨華はちょっとしたパニックになったが、しばらくして廊下に面した浴室の薄い壁の向こうから、
紗耶香の声が聞こえてホッと胸を撫で下ろした。
「誰だろうって、びっくりしちゃいました」
梨華は苦笑しながら、ヤカンをコンロの火にかけた。
「ごめんね。お風呂入ってるとは思わなかったから」
と、部屋の方から紗耶香の返事がかえってくる。
冷たい風を浴びてここまでやって来た上に、数分間もドアの前に待たせてしまった紗耶香に、
すぐに、温かいココアを運びたかったのだが、梨華の部屋に電気ポットはなかった。
お湯が沸くまでの間、梨華は電気ポットが幾らぐらいするのだろうかと考えたが、
今月は何かと物入りだったため特価ですら買う余裕がない。
気落ちしかけたが、ないものは仕方がないと諦め、お湯が沸くまでの間、
部屋にいる紗耶香に聞こえないよう小さくハミングを口ずさみながらタオルで濡れ髪を乾かした。
久しぶりの紗耶香の訪問に、梨華は浮き足立っていた。
単純に遊びに来てくれただけかと思っていた梨華だったが、
それがどうやら違うらしいと察したのは――数分後、カップを2つ乗せたトレイを持って部屋へと戻ると、
部屋の中央で紗耶香が座ることなく妙に落ち着きなく佇んでいたからであった。
「――どうしたんですか?」
声をかけると、紗耶香はわれに帰ったようで、梨華はますます不審に感じた。
反射的にクローゼットの方へ視線を向けたが、扉は閉まりきっている。
他には特にめぼしい物もなく、むしろ何もなさ過ぎて、気まずいのかもしれない。
「ん? あ――、別に」
と、笑いながら応える紗耶香に、梨華はひとみとの間で何かがあったんだと確信した。
癖のような笑顔が、そこに浮かんでいた。
映写室がすぐ後ろにあるため、カタカタカタとフィルムを送る音が絶えず、ひとみと真希の席に届いていた。
場末の映画館。
映像・音響設備ともに最低のランクに位置しそうだったが、
映画マニアには霞んでノイズの走るそれらがいいのか、最終上映時刻にもかかわらず、そこそこの客はあるようであった。
「この映画、どこがおもしろいんだろ」
フラリと入った映画館で、上映されている映画のタイトルすらも禄に覚えていないひとみではあったが、
上映が始まり小1時間ほどが経過しても一言も発することはなかった。
ひとみは自分と同じように、真希も映画に集中しているのだと思っていたが、冷めきった言葉にそうではないことを知った。
「よっすぃだったら、どうする?」
「……え?」
映写室のフィルムの音にすらかき消されそうなほど小さな声で、ひとみは聞きなおした。
「あの人みたいにさ、恋人が別の人と結婚するってなったら」
「……」
ひとみは、スクリーンに視線を向けた。
ただの大きな布切れのようなスクリーンには、苦悶している主人公の男性の顔がアップで映っていた。
普段、映画など観ないひとみが、映画に集中していたのは、その内容にあり、いつしか主人公に自分を投影していたからであった。
真希と同じ質問は、映画を観ながら自分でも頭の中で問いかけていた。
「わからない……」
ひとみは、小さな声でそう答えた。
主人公が歩く姿を俯瞰で捕らえる映像に音はなく、映写室のフィルムを送る機械的な音が薄暗い館内を舞った。
「アタシだったら、自殺するなぁ」
ハッキリとした真希の口調に、数列前にいた初老のサラリーマンが驚いて振りかえった。
「ごっちん……」
「そんな、ビックリしないでよ」
笑う真希に安心したのか、それともセリフが流れ始めたからなのか、
初老のサラリーマンは軽い咳払いと共に前へと向き直った。
冗談かと安心しかけたひとみの耳に、
「当たり前だよ」
と、つぶやく真希の声が届く。
スクリーンの青白い光を反射した真希の顔は、能面のように表情もなく、真っ直ぐに前を向いていた。
「信じてたのに、結局、忘れらんない人のところに行っちゃうなんて……。最低じゃん」
「……」
「最低の裏切りだよ」
正面を向いたままの真希だったが、その言葉は自分に向けられている――。
映画館に入ろうと誘った真希は、この映画がどんな内容なのか、あらかじめ知っていたのかもしれない。
色褪せた映像からしてリバイバル上映であるのは間違いなく、テレビかビデオで見ていたのかもしれない。
ひとみは、何も言わずに映画のスクリーンへと視線を移した。
内容は頭に入らず、外へ出ようとせがむ真希に連れ出されるまでの数分間は、虚ろな目で字幕を追うだけにしか過ぎなかった。
「ひとみちゃんと、何かあったんですか?」
口火を切ったのは、梨華からだった。
もう既に、紗耶香がアパートへとやって来てから30分近くが経つ。
その間、紗耶香はとりとめのない話を延々と繰り返していたのだが、
なんら核心に触れようとはせず、ひとみとの間に何があったのか早く知りたく、
ヤキモキとした梨華は自分から訊ねたのであった。
核心を突かれた紗耶香は、一瞬、動揺の色を浮かべたが、諦めたように肩を落とすと自嘲気味に苦笑して、
訥々とではあるが昨日の出来事を語り始めた。
やはり、梨華の想像していた通りだった。
それならば、あゆみからの報告もうなずけられる。
自分がいなくなって寂しいのではなく、紗耶香との確執にまた自分の殻に閉じこもってしまったのだろう。
――梨華は、そんな風に思った。
「このまんまじゃ、また前と同じような気がしてさ……」
紗耶香は、両手で包み込んだココア入りのカップに視線を落として、微苦笑を浮かべた。
「だったら」
と、言いかけた梨華は、口をつぐんだ。
紗耶香自身にも、わかっているはずである。それ以上の言葉は、酷なような気もした。
堂々めぐりする関係に、活路は見出せないのだろうか?
何が根本的な原因なのかと、梨華は考え込んだ。
「アタシが、いつまでもフラフラしてるからダメなんだ」
聞こえてきた呟き。カップを両手で包み込んだままの紗耶香は、
やはりそのままの姿勢で――、独り言のようなものだったらしい。
「どう言う……、意味ですか……?」
「変わるキッカケを石川は与えてくれたのに、アタシは何も変わろうとしなかった」
「そんなことないです。だって、ひとみちゃんと仲良くしようとしてるじゃないですか」
「今までと同じ程度にね」
穏やかな笑みを浮かべて、紗耶香は梨華の言葉を遮った。
「本質的なことは、なんにも変わってない……。みんなに、良い顔だけして、都合悪くなるとすぐに逃げだすんだ」
「……」
「ひとみもそれを見抜いてる。昨日も、言ってた。無言だったけどさ――。
傷ついたこともないから、軽々しく後藤を誘おうなんて言えるんだって。
どうせ、都合が悪くなるとすぐに逃げるくせにって」
「……」
「当たってるからさ、なんも言えなくなるんだよね」
と、紗耶香はカップに視線を落とし苦笑した。
真希を庇うひとみの姿を、梨華はこれまでにも何度か見てきている。
初めて、ひとみが自分の感情を紗耶香にぶつけたのも、真希が原因であった。
そして、昨日の夜も――。
無言であったにせよ、ひとみは真希を庇ったのである。
ひとみにそこまでしてもらえる真希を、梨華はなんとなく羨ましく思った。
「だからさ……」
そう呟く紗耶香の声に、梨華はわれにかえる。
「だから……、ううん。そうやって、無理に理由つけようとしてんのかも」
「……?」
梨華は、首をかしげた。
「ホントは、ただ――」
刹那の間、梨華の部屋に沈黙の空気が走り抜けた。
だが、それも僅かで、紗耶香は大きく息を吸いこみ居ずまいを正すと、目の前にいる梨華に真摯な瞳を向けて言った。
「こんなこと、石川に話すのは間違ってると思う……。でも、誰かに聞いてもらわないと、またグズグズしちゃって……」
カップを包みこんだままの手が、微かに震えていた。
真摯な紗耶香の瞳に、思わず視線を漂わせてしまった梨華は、微かな手の震えに気付くと同時に、
不意に紗耶香が何を言いたいのかを知った。
「あの、どうぞ。私、もう、大丈夫ですから」
言い辛そうにしている紗耶香に、梨華は笑顔で声をかける。
「ごめんね……。石川の顔しか思い浮かばなくて……。ごめん」
「安倍さんに――」
「……うん」
紗耶香は、申し訳なさそうにうなずいた。
「このままじゃ何も変わらないし――、なにより、自分が今のまんまじゃ嫌だから……クリスマスの日、
思いきって自分の気持ち、ちゃんと伝えようと思うんだ」
傷つく感情が全くなかったといえば嘘になるかもしれないが、
既に1度紗耶香の気持ちを紗耶香自身の口から聞いていたという事もあり、
梨華は言葉や表情を失ってしまうほどの動揺は感じなかった。
そればかりか不思議と落ち着き、なつみに告白することになった紗耶香に、本心から応援する気持ちがこみ上げてくる。
「アタシがフラフラしてたせいでさ、ひとみだけじゃなく、後藤とか石川とかにもさ、迷惑かけちゃったし……」
「迷惑なんてしてませんよ。良かったって思えます」
「……」
「市井さんは自分のこと変わっていないって言うけど、すごく変わったと思います」
「そんなことないよ……。今だってさ、怖くて、まだなんもしてないのに震えちゃってるし」
と、先ほどからカップを包みこんだままの両手を、紗耶香は苦笑いを浮かべながらテーブルの上で開いて見せた。
「ホント言うとさ、今までにも何度も自分の気持ち伝えようと思ったことあるんだ。
でも、ほら、なっちはアタシのこと、ただの友達ぐらいにしか思ってないだろうし……。
けっきょく、怖くなって……、何もできなくて……」
「でも、今度は違うんですよね?」
梨華はそう言って、否定も肯定もせず押し黙ったまま小刻みに震える紗耶香の手を、
穏やかな笑みを浮かべて両手でそっと包み込んだ。
「ここに、こうして来てくれただけで、こうやって話してくれただけで、市井さんはもう変われてると思います。
だって、市井さん、今まですごく私に気を使ってくれてたじゃないですか。私にあの日のこと、思い出させないようにって」
「……」
「それでもこうして話たくなったのは――、今度こそは本当にそうしようって考えてるからなんですよね?
でも、1人だとどうしても弱気になっちゃうから、誰かに聞いてもらいたかった」
紗耶香は、視線を伏せたままコクンとうなずいた。
「好きな人、大切な人に、自分の気持ちを伝えるんですもん。怖いのは、誰だって同じです。私だって、すごく怖かった……」
梨華のか細い声に、紗耶香の頭の中に雨の日の光景が甦る。
「嫌われたらどうしようって……。次の日から、顔も合わせてくれなかったらどうしよううって……。
断られたら、なにもかも終わっちゃうって思ってて……」
「……」
「でも、あの日、あんなことがなければ、今、こうして市井さんとこんな話することもなかったと思うし――。
せっかく話てくれた市井さんに、私はなにも言えないと思うんです……」
「……」
「そう考えると、やっぱり、あのとき勇気出して良かったなって。だから……」
口篭もる梨華。
テーブルを挟んだ2人の間に、しばし沈黙が鎮座した。
通りの喧騒を遠くに聞きながら、紗耶香が梨華の沈黙の意味をすんなりと理解できたのは、
以前にもそのようにして自分に選択の余地を与えてくれたからであった。
自分が変わろうとしなければ、何も変わらない。
それが紗耶香が梨華から学んだすべてであり、実際にここへ来るまでにその言葉通りに自分自身で大方の決心はつけていた。
だが、やはり怯える自分もいた。
キッカケがほしくて、どこかでまだ迷っている自分を後押ししてほしいと、
梨華に辛い役目を負わせるのをわかっていながら、アパートへとやって来たのである。
そんな邪で臆病な自分に梨華は気付いていながら、嫌な顔を1つすることなく、
過去の傷であるべきはずの出来事に触れながら、不安を取り除く考えを与えてくれる。
紗耶香はしばらくの沈黙の後、包み込んだ両手に視線を落としたままの梨華に言った。
「ごめんね。石川にばっか、こんなことさせちゃって……」
顔を上げた梨華は、ニッコリ微笑むと小さく頭を振った。
拭うことができず、零れぬよう上を向いた紗耶香の涙を、蛍光灯の明かりはより一層輝かせた。
「うん。そだね。――頑張る。ちゃんと自分の気持ち伝えて、ちゃんと自分にケジメつける。
どうなっても、そこで終わりじゃないもんね。そっからまた、始まんだもんね」
「――はい」
「ありがとね……。ホント……、ありがとう」
紗耶香の言葉を聞いた梨華は小さくうなずくと、それ以上は何も言わず、
穏やかな笑みをそのままに、紗耶香の手を包み込んでいた両手をソッと離した。
紗耶香の小さな震えは尚も続いていたが、それは先ほどまでの怯えによるものではなく、
こみ上げる涙を必死に止めようとしているものだった。
梨華の思い出の中にある紗耶香の印象というのは、その大半を笑顔の紗耶香が占めていた。
出会った頃の眩しい笑顔や、少し照れ臭そうに笑っていたり。
それが、いつからなのだろう。
泣いている紗耶香の顔が、多くなったのは。
紗耶香は臆病な自分を卑下するが、梨華は決してそうは思わなかった。
争いや傷つくことを避けるのは、紗耶香の優しさであると受けとめている。
梨華は、紗耶香のそんな優しさが好きだった。
だが、泣きながらも着実に前へと進もうとしている紗耶香を、いつまでも想いつづける事はできない。
それすらも、紗耶香にとっては土壇場で二の足を踏ませる理由になり兼ねない。
梨華はいつかの夜を昨日のように思い出しながら、まだ微かに残っていた紗耶香への特別な感情に、そっと別れを告げた――。