娘。十夜
第1夜
こんな夢を見た。
どこかのテレビ局の楽屋のようだ。
壁際に散らばっている、大きさも形もさまざまな鞄たち。
中央にすえられたテーブルの上には食べかけの弁当、紙コップ、ペットボトル、筒からこぼれ落ちているスナック菓子、黒いコードをのたくらせたMDウォークマン
――雑多に散らばるモノの広場。
椅子の背に重ねてかけられた、色とりどりの衣服。
床の上に石ころみたいにごろごろと転がっている靴。
これらのすべてが取っ払われてしまえば、きっと、見る影もない殺風景な部屋になる。
私は長方形のテーブルをはさんでちょうど真ん中の椅子に腰かけている。
正面に座っているのはカオリだ。
部屋の中にはみんなの空気が漂っているのに、いるのは二人だけ。
ざわざわ、ざわざわ。
ざわめきさえ聞こえてきそうなほどなのに、ここにいるのは二人だけ。
こちらをじっと見つめるカオリの瞳は、相変わらず吸いこまれそうに大きい。
「後藤。カオ、悩んでるの」
『そうなんだ』
「めっちゃ深刻なの」
『そうなんだ』
「後藤、聞いてくれる?」
『あはぁ。後藤でいいの? 自分で言うのはナンだけど、ごとー頼りになんないよ』
「いい」
『そう? んと、なら、どうぞ』
「……後藤……カオリ怖い?」
『ええっ? ナニ、怖くないよう。ぜんぜん』
「カオリ、気持ち悪い?」
『そんっなことないってっ、マジで。ぜんっぜん』
「みんな気持ち悪いって言う」
『あー。カオリやっぱし気にしてたんだ。うたばんだよね……。あのさあ、よっすぃーだって、梨華ちゃんだって、たぶん悪気があって言ったんじゃ……』
カオリの大きな瞳からぽろぽろと涙がこぼれた。
涙の粒が大きすぎるせいか、それはテーブルにしみ込むことなく、
はじかれて、ころころとビー玉みたいに卓上を転がっていく。
ころころ、ころころ。
涙は、次から次へと、テーブルの端から床に落ちてははじけ、液体に変わる。
少しずつ、楽屋の床はカオリの涙で湿っていく。
私の足の裏が冷たくなる。
「カオリ、みんなのこと好きなの」
「わかるよ、カオリ……」
「すごい、娘はぁ、イロイロ、イロイロ、変わってきちゃって、前の娘。じゃなくなってる。………。けど、カオはぁ、いつの娘。も好きでいたいの。前に戻りたいって思う時もあるよ。あるんだけど、いつでも、一番輝いてる人になりたいの。カオリはみんなといっしょに輝きたいの。でも、キモチワルイって……。そんなこと言われたら、カオリ、カオリ……」
私はどうしたらいいかわかんなくて、カオリの頭をなでてみる。
「カオリ、泣かないでよぉ……」
カオリの涙は止まらない。
小さなシャボン玉みたいに床ではじけ続ける。
ころころ、ぱしゃん。ころころ、ぱしゃん。
すごい早さでひたひたと上がってくる水が、くるぶしまで来ていた。
カオリはとうとう両手で顔をおおってしまった。
私まで泣きたくなる。
黙ったままカオリのきれいな黒髪をなでる。
カオリのつくった涙の海はどんどん水位を上げて、もう私の腰の辺りまで来ている。
服、鞄、靴、お菓子……部屋の中のすべてのものがぷかぷかと浮き出して、ゆっくりと周囲をただよう。
楽屋はまるでイロトリドリの具の浮かんだ、鍋の中のよう。
がんばって踏ん張ろうとする私の体もだんだん浮かび出してしまって、けれど机に突っ伏しているカオリは重りでもつけられたみたいに浮かんでこない。
海藻のように長い黒髪が揺れる姿は、透明の水の底に沈んで行く。
私は涙の浮力につれて浮かんで行きながら、カオリに向かって言った。
「ねえ笑って」
「……ヘンな夢」
「なぁに見てんだこら〜!」
大きな目を見開いて真顔で叫んだカオリに、並んで座っていた辻ちゃんが振り向いた。
「あ、みっ、見てないよ……」
怒鳴られた張本人の私は、あわてて首を振る。
カオリはにこおっ、と笑った。
「後藤ビビってる〜」
「んん、そんなことない」
「いい。カオリ怖いんでしょ。知ってるもん」
「え、怖くないよぉ」
「いいの。みんなそう思われても、ちゃんとカオがわかってるから、いいの」
「そんなぁ……」
「いいださん、コワくないです」
まっすぐにカオリを見上げた辻ちゃんの頭を、カオリは嬉しそうになでた。
その光景を見た私の丈夫な胃袋は、なぜだかちくりと痛んだ。
第2夜
こんな夢を見た。
どこかのテレビ局の楽屋のようだ。
壁際に散らばっている、大きさも形もさまざまな鞄たち。
中央にすえられたテーブルの上には食べかけの弁当、紙コップ、ペットボトル、筒からこぼれ落ちているスナック菓子、黒いコードをのたくらせたMDウォークマン
――雑多に散らばるモノの広場。
椅子の背に重ねてかけられた、色とりどりの衣服。
床の上に石ころみたいにごろごろと転がっている靴。
これらのすべてが取っ払われてしまえば、きっと、見る影もない殺風景な部屋になる。
私は眉間にしわを寄せた。
なんだか前にも見た気がするんですけど、この光景。
私は長方形のテーブルをはさんでちょうど真ん中の椅子に腰かけている。
正面に座っているのはよっすぃーだ。
部屋の中にはみんなの空気が漂っているのに、いるのは二人だけ。
ざわざわ、ざわざわ。
ざわめきさえ聞こえてきそうなほどなのに、ここにいるのは二人だけ。
こちらをじっと見つめるよっすぃーの瞳は相変わらずきらきらとしていて、思わず惚れちゃいそうな美形さんだ。
「ごっちん……あたしさ、実は悩みあるんだ。聞いてくれる?」
『……なーんでみんな、急に悩みを打ち明け出すのぉ?なに? 後藤のお悩み相談室開設?』
「ごっちんわけわかんないよ」
『いや、あたしの方がわかんないんだけど……。あ、でも聞くよ。他ならぬヨシコの相談だもんね』
「んん……あの……さあ」
『なになに』
「うーっと、うー。なんつったらいいかなぁ」
『そんなに言いにくいこと?』
「いや……うん。言う。実はさ……梨華ちゃん……その……ウチに惚れてるかもしんない」
たっぷり十秒、私は動きを止めた。
『……あー。あははははははぁ。なにそれ?』
「信じてないね……。そりゃそうか」
どう答えていいかわからない私は、半笑いを四分の三笑いほどに上げてみた。
よっすぃーの顔をじい、と見つめる。
……本上まなみに似てる……。
なんてことはどうでもいい。
『ええと……。ホレてるってその、惚れるの惚れるだよね……。ラブマッスィーンのラブだよね。どんなに不景気だってインフレーションのアレだよね?』
「イエス」
『ええと……。それって……それって……その、アレなの?そのう、梨華ちゃんは、女の子が好きってこと……?ええー。だって彼氏いたことあるじゃん』
「わかんない。女の子全般にそうなんかはわかんないけど」
『よっすいーには……そうだって?」
「わかんない。けど、そんな気がするんだよう!」
突然よっすぃーは立ち上がった。
なんだか追いつめられたような目をしている。
「なんか、めっちゃくっついてくるんだよう!めっちゃ、こっち見てくるんだよう!やたらとちゅーしようとしてくるんだよう!温泉で着替えてた時、なんか、なんかな目でこっち見てたんだよう!楽屋でうたた寝してて目ェ覚めたら顔のぞきこまれてて、にこって笑われたんだよう!それから、それから……」
ぜえ、ぜえとよっすぃーは荒い息をはく。
普段はのんびり屋のよっすぃーの取り乱す姿に、私はそれでなくても開いた口がふさがらなかった。
「ご、ごめん……ずっと誰かに聞いて欲しくってさ」
『あ、いいんだけどさ。……ねえよっすぃー』
「ん?」
『……カン違いだと思うよ』
「え?」
『だってくっついてくるってさー、メンバーみんなそうじゃん。キスだってしまくってるしさ。それだったら裕ちゃんとかのがよっぽどヤバイよ』
「ちっがうんダヨッ」
タカさんの口調で否定するよっすぃー。
「なんか……わかる? わかんないかな?違うんだよ、そうゆうのとはさあ……。なんか、マジっぽいんだよ、目とかがさぁ、こう、色気のある目っていうか」
正直よくわからない。
しかし、いつもの適当精神を発揮して、私はふかぶかとうなずく。
『そっか。嫌なんだね』
「ううん、梨華ちゃんはもちろん嫌じゃないんだよ。めっちゃいい子だしさ、好きなんだよ。だからこそなおさら、こんなこと考える自分もイヤなんだよう……う。けど、ちょっと今、二人っきりになったりするのが怖いかもしんない。なんか、言われたりしたら困るじゃん」
テーブルの上に、梨華ちゃんが座っていた。
しかも正座。
なぜ気づかなかったのだろう。
まるで時間を止められて、その間に置いていかれたようで、私は目を丸くした。
よっすぃーの端正な顔がみるみる真っ青になって行く。
“チャーミー石川”の衣装を着た梨華ちゃんは、ホトケサマのような表情で目を閉じている。
しかし……きちんと膝の上で揃えられた指先は、小刻みに震えていた。
よっすぃーは「あっ、あのっ、これはっ!」と叫んだ。
「ひとみちゃんは八方美人」
目を閉じたまま、梨華ちゃんは無表情な甲高い声で言った。
なにかの呪文みたいに。
「ひとみちゃんはいい子ちゃん」
「ひとみちゃんは誰にも嫌われたくない」
「ひとみちゃんはウソツキ」
「ひとみちゃんはナマケモノ」
「ひとみちゃんはテキトー」
拡声器で叫んでいるのではないかと思わせるほどの大音量。
ひとことごとに1オクターブずつ高くなって行く、もはや声とは言えない突き刺さる音のカタマリ。
耳が痛い。よっすぃーも私も、両手で耳を押さえた。
どこからともなく、エコーのかかったやぐっつぁんの笑い声が聞こえてくる。
「キャーッ、ハッハッハーハハーハハハハハハーハハハハハハ」
こちらも負けず劣らず甲高い。
二つの音が入り混じって割れまくって、マイクのノイズのような、黒板を引っかいたような、
ビデオの時短早送りのような、神経に響く高音が、狂ったイナゴみたいに部屋じゅうを飛び交う。
「ひとみちゃんはよっすぃー」
「キャーッ、ハッハッハーハハーハハハハハハーハハハハハハ」
「よっすぃーはヨシコ」
「キャーッ、ハッハッハーハハーハハハハハハーハハハハハハ」
「ヨシコはヨシオ」
「キャーッ、ハッハッハーハハーハハハハハハーハハハハハハ」
「ヨシオはピーター」
「キャーッ、ハッハッハーハハーハハハハハハーハハハハハハ」
「ピーターは元爺」
「キャーッ、ハッハッハーハハーハハハハハハーハハハハハハ」
「元爺はひとみちゃん」
「キャーッ、ハッハッハーハハーハハハハハハーハハハハハハ」
「ひとひとひとひとひとひとひとひとひひひひひとひひとひひとひとひひとひひとひひひとひひとみみみみみみみみみちゃちゃちゃちゃ……」
「キャハキャハキャハキャハキャハキャハキャハキャハキャハキャハキャハキャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ……」
鼓膜が破れそうだ。
私は『やめてよ、梨華ちゃん!』と叫ぶ。
よっすぃーは頭を抱えた。
高い声でビリビリ空気が震えて、部屋中の鏡が派手な音を立てて砕け散って行く。
『よっすぃーも、止めてよぉ!! 耳つぶれちゃうよっ』
私はよっすぃーの腕をつかむ。
よっすぃーは目に涙をためて首を振った。
『なんでさあっ?』
耳の奥がピリピリ言う音を聞きながら、私はよっすぃーに叫んだ。
『急がなきゃ……間に合わんでえっ』
「……だってそうっす、そんな気がするっす……むにゃ」
よっすぃーに、小さい頃のアルバムを持ってきて、としつこくねだる梨華ちゃん。
裕ちゃんのやぐっつぁんへのセクハラに、「ヤだぁ」となぜか顔を赤らめてよっすぃーをたたく梨華ちゃん。
「見せて見せてー」とよっすぃーのプリクラノートを定期的に点検する梨華ちゃん。
楽屋に入って開口一番、「よっすぃーは?」という梨華ちゃん。
「よっすぃーほんっとカッコいいよね」と確実にハートマークつけて言う梨華ちゃん。
よっすぃーが用事があると言うと「後藤さん、今日はまっすぐ帰るんですか?」と確認して来る梨華ちゃん。
誰かのギャグに大笑いしたあと、よっすぃーの顔を確認する梨華ちゃん。
げんなりと息を吐くよっすぃーに、私はそっと近づいた。
「大変だね」
「え? えっ、なにが?」
必要以上のオーバーアクションで振りかえるよっすぃー。
「梨華ちゃん」
「なっなっなっなっ、なにが!? なーに言ってんのごっちんっ」
「いやなにって……ヨシコ実は悩んでんでしょ? ごっちん知ってんだ」
「え? なにっ? よっすぃーなにか悩み事あるのっ!?」
私たち二人のものとはまったく違う色の声が、けたたましく響いた。
いつの間にか背後に忍び寄っていた梨華ちゃん。
びくり。よっすぃーの肩が震える。
「よっすぃー、なにか悩みがあったら相談してって言ったじゃないっ。なにっ? 言ってっ。梨華になんでも話してっ!!」熱い。
梨華ちゃんを振りかえった時にはすでに、よっすぃーはいつものやさしい笑みを浮かべていた。
「やだなー。なにもないって。ちょっとごっちん、変なこと言わないでよぉ。さ、振り付けの確認しなくっちゃねー。ピーター、イソガシイデース」よっすぃーはさっさと逃げ出してしまう。
「あ。待ってよ、よっすぃ〜」
「ごっちん、誤解だからね」
最後にひとこと言い残して去って行ったよっすぃー。追いかけていってその腕にまとわりつく梨華ちゃん。
その光景を見た私の丈夫な胃袋は、なぜだかぴりりと痛んだ。
第3夜
こんな夢を見た。
どこかのテレビ局の楽屋のようだ。
壁際に散らばっている、大きさも形もさまざまな鞄たち。
中央にすえられたテーブルの上には食べかけの弁当、紙コップ、ペットボトル、筒からこぼれ落ちているスナック菓子、黒いコードをのたくらせたMDウォークマン
――雑多に散らばるモノの広場。
椅子の背に重ねてかけられた、色とりどりの衣服。
床の上に石ころみたいにごろごろと転がっている靴。
これらのすべてが取っ払われてしまえば、きっと、見る影もない殺風景な部屋になる。
『どうなってんの……』
思わず、ほっぺたを指でつねってみた。
痛いだけ。
私は長方形のテーブルをはさんでちょうど真ん中の椅子に腰かけている。
正面に座っているのは梨華ちゃんだ。
部屋の中にはみんなの空気が漂っているのに、いるのは二人だけ。
ざわざわ、ざわざわ。
ざわめきさえ聞こえてきそうなほどなのに、ここにいるのは二人だけ。
こちらをじっと見つめる梨華ちゃんの表情は、相変わらず暗い。
『ええっと……どうも』
「あ、ハイ」まいったな。
私は梨華ちゃんがちょろっと苦手だ。
大勢だったらともかく、二人きりで話したのなんて数えるほどしかない。
それでもがんばって口を開く。
『……梨華ちゃんも……なんか悩んでるんのかなぁ』
「……そう――ですね。悩みって言うか、なんていったらいいんだろ……」
『あの……ね』私は恐る恐る口を開いた。
「ハイ?」
『その……よっすぃーのことだったら、あたしに相談しても、役に立たないんだよね。ほら、昔から言うじゃん。お医者さまでも草津の湯でも〜、だっけ。あ、人の恋路を邪魔するモノは〜、だっけ。ま、どっちでもいんだけど、恋カンケーの話はさ、他人が口出しすることじゃあ……』
梨華ちゃんは黙って首を振った。
『あり? 違うの?』こくん。
『えっと……じゃあなに?』私は考えをめぐらせた。
トークが寒いことだろうか。
歌がヘタなことだろうか。
顔が薄いことだろうか。
どことなく全体で浮いていることだろうか。
ピンク色に自分でも疑問を感じはじめたんだろうか。
思いあたることは多すぎだ。
梨華ちゃんは思い切ったように口を開いた。
「私、目に光がないんです!」
『え?』思わず聞き返してしまった。
ほかにもっと悩まなあかんことあるやろやろやろやろやろやろやろ―――――――――。
そんな裕ちゃんのツッコミが、どこからともなくやまびこのように聞こえてくる。
こちらを見つめる梨華ちゃんの目は怖いくらい真剣だ。
『光って……』
「目が……目が生きてないと思うんです」
よく理解できない私の目の前に、梨華ちゃんはテーブルの下から出した手鏡を、さっと突きつけた。
いきなり視界いっぱいに入る自分のとぼけた顔。
「後藤さん、なんで髪直してるんですか?」
『あ、ごめん。つい』
「よく見てください、自分の顔。目、きらきらしてますよね」
言われてみて、私は瞳の部分に目を凝らした。
確かに。
自慢ではないが、けっこうきらきらしている。
『んん、そだね』
「でしょう」
梨華ちゃんは鏡を下ろす。深いため息。
「アイドルにとって目の輝きは不可欠な要素なんです。あゆだって、あみだって!矢口さんも、よっすぃーも、メンバーみんな目、すごいきらきらしてますよね。安倍さんなんか、どうかと思うぐらい輝いてるし、保田さんだって、かわいいかわいくないは別にして、目は輝いてると思うんです」
かわいい顔して、言ってはいけないことを平気で口にしている。
『うーん、けど、ELTのもっちーさんなんかも、目、輝いてないような気が……』
「だから最近パッとしないんですっ!」
梨華ちゃんは机をばん、とたたいた。
紙コップ中のジュースが揺れる。
私は多少ビビリながら
『でもそんな――どうしようもなくない?
だって、整形にしたって、目ん玉なんて、きっと変えらんないよ』
「わかってます、だから……」
梨華ちゃんはまっすぐに私を見た。
確かにその目にはなんとなく、いきいきとしたものがない……気がする。
目というか、全体の表情だよな、うん。
「後藤さんにお願いがあるんです」
……私の目をよこせとか言わないよね。
そんなホラーな展開はお断りだ。
どきどきしている私に、すばやく、梨華ちゃんが細長いモノを突き出した。
『ひっ』
思わず椅子からずり落ちそうになる。
それは刃物ではなく……一本のサインペンだった。
なつかしのサクラマーカー。
『これ……これで私にどうしろと』
「目を描いてください」
『どこに』
「目の上に」
今度は本当に椅子からずり落ちてしまった。
志村けんさんのギャグじゃあるまいし。
『梨華ちゃん、冗談だよね……』
「めっちゃ本気です。きらきらした目を、私の目の上に」
『いや、あたし絵はヘタで……』
「後藤さんに描いて欲しいんです」その気迫に気押されて
「わ、わかった……」
私はうなずいた。
もうどうとでもなれ。
夢なんだし、本人がいいって言ってんだもん。
キュポン。
サインペンのフタを開けた。
『できた』
私は汗を拭いた。
梨華ちゃんの閉じられたまぶたの上、私の描いた大きな目は、楽屋に転がっていた誰かの「ベルサイユのばら」を参考にした自信作だ。
星が三つほど入っている、少女マンガの目。
「できましたか?」
『う、うん……』
そのあまりのまぬけさに、笑うよりも、申し訳なくって激しい後悔の念が襲ってくる。
梨華ちゃんは目を閉じたまま言った。
「では、いっしょに呪文を唱えましょう」
『はい?』
「いいから。私の言うとおりに続けてくださいね。トゥトゥルトゥトゥルトゥトゥトゥルトゥル〜さ、いっしょに」
『う、うん』
二人で指でリズムをとりながら、唱える。
「「トゥトゥルトゥトゥルトゥトゥトゥルトゥル〜」」
「きれいに」
『き、きれいに』
「「ならっないかな〜」」
パァァ。
部屋が真っ白に光った。
私はおそるおそる顔を上げる。
あごがはずれそうになった。
『りっ、梨華ちゃんっ。目、目が』
梨華ちゃんのまぶたに私が描いた目は、完全に皮膚と一体化していた。
形はそのままで、本当の「目」になっていたのだ。
厚く上下にはね上がったまつげ、顔の上、三分の一のサイズで並ぶ、
縦横比が同じ白目のほとんどを占める、きらきらした黒い瞳。
そう、まるで
――リカちゃん人形だ。
「どうですかっ。後藤さんっ」
きらきら。
「どうして黙ってるんですかっ。後藤さんっ」
きらきら。
どうしよう。
――気持ち悪い。
アニメ声で詰め寄ってくる梨華ちゃん。
でっかい目が、私に近づいてくる。
怖い、怖すぎる。
カンベンしてください。
泣きそうだ。
私は半泣きになりながら言った。
『いやーん』
「はあっ! はあっはあっはあっ……ゆ、夢か」
「ど、どうしたんですか、後藤さん」
現場で顔を合わせるなり、腕をつかんで鼻先が触れるほどの距離でその瞳をのぞきこんだ私に、
梨華ちゃんはほんのりと頬を染めた。
その目は相変わらず、おとなしそうな静かな色だ。
私はほっとして手を離した。
「いやあ……心底、夢でよかったよ」
「はい?」
「あ、ひとりごと。あのさ梨華ちゃん、今月のVOCEに載ってたけどさ、目をきれいにするには、昆布とか食べるといいんだって。あと、目薬さすと、黒目が際立つんだってさ」
梨華ちゃんは「はあ」と困ったようにうなずいている。
「石川さん、準備お願いしまーす」
かかった声に「はいっ」と返事する梨華ちゃん。
駆け足で撮影スペースへと移動する。
今日の撮影は新メンバー四人セットのようだ。
満面の笑みをカメラに向ける四人。
ライトを浴びているみんなの目はきらきらとしている。
超美形のよっすぃー。
無邪気な辻ちゃん。
愛らしい加護ちゃん。
そして、梨華ちゃん。
ほんの少し輝きが足りなく見えるのは、昨日の夢のせいだろうか。
その光景を見た私の丈夫な胃袋は、なぜだかじわっと痛んだ。
第4夜
こんな夢を見た。
どこかのテレビ局の楽屋のようだ。
壁際に散らばっている、大きさも形もさまざまな鞄たち。
中央にすえられたテーブルの上には食べかけの弁当、紙コップ、ペットボトル、
筒からこぼれ落ちているスナック菓子、黒いコードをのたくらせたMDウォークマン
――雑多に散らばるモノの広場。
椅子の背に重ねてかけられた、色とりどりの衣服。
床の上に石ころみたいにごろごろと転がっている靴。
これらのすべてが取っ払われてしまえば、きっと、見る影もない殺風景な部屋になる。
『またかよ……』
思わずひとりごとが出た。
私は長方形のテーブルをはさんでちょうど真ん中の椅子に腰かけている。
正面に座っているのはやぐっつぁんだ。
部屋の中にはみんなの空気が漂っているのに、いるのは二人だけ。
ざわざわ、ざわざわ。
ざわめきさえ聞こえてきそうなほどなのに、ここにいるのは二人だけ。
こちらをじっと見つめるやぐっつあんの化粧は、相変わらず濃い。
『後藤真希、お悩み相談室ぅ。どんどんどん、パフパフパフぅ』
「はい? なに言ってんの。ごっちん」
『はいっ! 今夜のゲストはタンポポの矢口真里さんでーす。いぇーい。で、やぐっつぁんの悩みは、なんなんデスカ〜?』
「……なんか気にいんないなぁ、その態度。まいいや、聞いてくれる?」
『はいなぁ』
「実はさ」
『おや?』
私はなんだか突然違和感を感じて、首をかしげた。
やぐっつぁん、不審そうな上目づかいになる。
「なーに、ごっちん」
『うん? あれ……えっと』
夢の中なのは最初っからだし、自分が何に対して「ヘンだぞ」と思ったのかがわからなくて、私はまじまじとやぐっつぁんの顔を見た。
「なーによう」
小さなやぐっつぁん。散らかりまくった楽屋。
大丈夫、何もおかしいところなんてない。
私はへらっと笑った。
『なんでもないー。続けて続けて』
「……なんだ? まいいや。実は悩みってのはさ……裕ちゃんのことなんだ」
『あー』
「あれ? 後藤ぜんぜん驚いてないよね」
『んん、だってなんかわかる気もするもん。あたしもきっとやぐっつぁんと同じクチだし』
「そっか……」
私はウンウンとうなずいた。
やぐっつぁんもため息をつく。
『キスだけはほんとカンベンして欲しいもんだよねぇ』
「キスくらいはいいんだけどさぁ」
ハモった。
『ん? ええっ。ねえねえ、キス嫌じゃないの?』
「別に減るもんじゃないし……それで裕ちゃんのご機嫌が良ければ、いんじゃない?」
『はー。大人だねェ』
「そう。矢口は大人さ」やぐっつぁんはエッヘン、とない胸を張った。
なかなかかわいらしい。
セクハラしたくなる裕ちゃんの気持ちもちょっとはわかる。
――おやおやおやぁ?
また違和感を感じた。
私は目をこする。でも、なにがおかしいのかはっきりわからない。
私の様子に気がつかないやぐっつぁんはつづける。
「でも……それとまったく関係なくはないかなぁ。あのね、矢口、メンバーの中でめっちゃヒイキされてると思うんだよ」
理由のわからない違和感になんとなく不安を覚えながら、私は真剣に話しつづけるやぐっつぁんに相槌を打つ。
『裕ちゃんに』
「そう」
『されてるね』
「だよな。あのねえ、ああまで露骨にやられるとさあ、辛いんだ、こっちが」
『いいじゃん。かわいがってもらえてさ。後藤なんて、入ってすぐとか、まったく相手してくんなかったよ。市井ちゃんに“嫌われてんのかな?”って聞いたら、“人見知りなんだよ”って言ってたけど、そん時は正直ヤだったよ。だってさぁ、リーダーじゃん。こっちはビビくって入って来てんのに、そこをやさしくフォローしてくれんのが、オトナの心意気ってモンだよね。あのヒト、めちゃめちゃ怖いじゃん、最初。やぐっつぁんらの代も大変だったんでしょ? だいたい……』
「ちょっと待ちなさい。後藤の悩み相談じゃないっちゅうねん」
やぐっつぁん、裕ちゃんの関西弁がうつってきてる。
『あ』
思わず、またしても口が開いてしまった。
違和感の正体にようやく気がついたからだ。
「なんだよ〜」
両腕をテーブルに投げ出してこちらをにらむ、やぐっつぁん。
その腕で確か、さっきは頬杖をついていたはずじゃなかったっけ?
屈んでいるわけじゃないのに、やぐっつぁんの上半身は、こちら側から肩口しか見えなくなっていた。
私は目をぱちぱちさせた。
『あ』
なんだかまた小さくなった気がする。
驚いたことに、やぐっつぁんは、私がまばたきするごとに、ちょっとずつ小さくなっていってるようだ。
そしてそれに本人はどうやら気づいていないらしい。
『ね、ねえねえ……』
「ちょっと後藤。なんでさっきから話の腰折ってばっかなの?」
『いや、なんかやぐっつぁん……』
「こっちは超マジトークなんだぜ〜。ちゃんと聞いてくんなきゃ、後藤にはもう話してやんない」
まずい、ちょっと怒ってる。
どうしよ……やぐっつぁん、気づいてないみたいだし、まあいいか。
気のせい気のせい、目の錯覚。
私は『ごめんごめん、で?』と先をうながした。
「うん、だからね……。今、ごっちんの言ってたこととか、すごいカブってくるんだけど。裕ちゃんてさ、こう、の人なんだよ」
やぐっつぁんは両手を上げると頭の横に揃え、耳の隣から前へずいっと突き出した。
「でね、矢口は今明らかに、裕ちゃんのこう、の真っ正面にいるの。自分で言うのナンだけど、もう、すごい矢口矢口じゃん」
『うん』
「……なんで後藤、こっち側にまわって来てんの?」
『んん? 見えなくなって来たからなんだけど……。あ、なんでもない、気にしないで』
「……ヘンなヤツ。ま、いいや。でね、それって、どうなのかなって。矢口、良くないと思うんだよね。リーダーなんだから、もっと、裕ちゃんには俯瞰的にみんなを見てて欲しい」
『フカキョン的?』
「……あとで辞書引きなさい。要は、あんまり一人にこだわるんじゃなくって、周りをもっと見てほしいってことだよ、うん。実際そりゃあ、苦手とか、十人もいたらいろいろいるのはわかるんだけど、いたって、それはそれでいいんだけど、そういうの、あんまり出すべきじゃないんだよ、リーダーは。新メンバーだってきっと、ちょっとなあって思ってるだろうし、矢口自身も息がしにくくなるよ」
やぐっつぁんは、もう、ウチで飼ってるイグアナのパパよりもちっちゃくなっていた。
ちょこんと椅子に座っているその姿はお人形のようだ。
『ふうぅん』
「なんだよ〜? 口開けて」
『やぐっつぁんってぇ、イロイロ難しいこと考えてんだね』
「みんなが考えなさ過ぎなんだよ」
私はしゃがみこんだ。
しゃがみこんだちょうど目線の位置で腕組みをしているやぐっつぁん
――モノサシ一本分くらいのサイズ。
めっちゃかわいい。
まるでディズニーアニメの世界だ。
これ以上縮んだらどうなるのかと、ふと、イタズラ心がわいて、やぐっつぁんを見つめたまま、私は目をやたらとぱちぱちさせた。
「なに見てんのさぁ。ごっちんまばたき多いよ? カオリみたぃ……」
やぐっつぁんの声はだんだん聞き取りにくくなってくる。
どんどん小さくなって行くのがおもしろくって、私はシャッターを切るみたいにばちばちまばたきをしまくる。
「…………」
なにかを一生懸命言ってるらしいやぐっつぁんの声は、ほとんど聞こえなくなってきてる。
私は顔を近づけた。
そのサイズはもはや目に見えるか見えないかほど。
どうしよう。
私はどきどきしてきた。
ビンに入れて飼いたい。
その時。
「ごっちーん、なに見とんねーん」
どこからわいて出たのか、突然背後から抱き付いてきたのは裕ちゃんだった。
がしっ。のしかかってくるその重みに、不自然な体勢でしゃがみこんでいた膝がくずれ、私は椅子に顔面をつっこんだ。
『あ』
ぷち。
ささやかな音がした。
「これがホントのプッチモニ、なーんつって……あはぁ…あはははははぁ」
「おっはよ、後藤。………なんだよ〜」
出会い頭に無言のまま見つめられたせいか、やぐっつぁんは眉根を寄せて、私の顔を見返した。
ばちばちばち。
顔を近づけて目をしばたきまくったが、どうやら縮む気配はないらしい。
「なにやってんだ。ウィンクの練習? 矢口にしてどうすんだよお」
よかった。ツブれちゃったのは夢で本当によかった。
私は「ううん。なんでもない」と首を振った。
それにしてもこのヒトは相変わらずハゲしく厚底だ。
今日はスニーカーの私と、目線の位置が変わらない。
「はあ。それにしても眠いよ。なんかもう最近ぜんぜん疲れとれないんだよね」
「ミニモニも忙しそうだもんね」
「う。そのことにはふれないでくれ」
「なぁんで」世間話をしながら肩を並べて楽屋へ。
「ねえ、やぐっつぁん……今さ、なんか悩んでることとかって、ある?」
「うん? なんだよ。朝っぱらからよー。別にないけど」
「……そうなんだ」
「あってもさぁ、そういうのって口に出してもしょうがないじゃん。だって、その悩んでることに関してなんの手出しもできなきゃ、口にするだけムダでしょ。言ってる方も、聞く方も暗くなるじゃん。こう、笑って毎日生きてりゃあ、そのうち悩みなんて消えてくのさ」
「……やっぱ、やぐっつぁんオトナだ……」
「そう。矢口は大人さ」
エッヘンと胸を張ったあと、やぐっつぁんは首をかしげた。
「おんやぁ? 今のやり取りってどっかで……」
「え?」
「やーぐーちー」がばー。
派手に割り込んで来たのは予想通りの裕ちゃんだ。
「おはよー、矢口。裕ちゃん今日めっちゃ眠いわぁ……」
やぐっつぁんの小さな背中にもたれかかって、目を閉じる裕ちゃん。
「もううう。重いっつうの……」
裕ちゃんを引きずるようにして歩いて行くやぐっつぁん。
私はぽつんと取り残される。
「やぐっつぁん……夢……なんだよね」
ビスケットを運ぶ蟻のような、二人の後ろ姿。
その光景を見た私の丈夫な胃袋は、なぜだかぎゅっと痛んだ。
第5夜
こんな夢を見た。
どこかのテレビ局の楽屋のようだ。
壁際に散らばっている、大きさも形もさまざまな鞄たち。
中央にすえられたテーブルの上には食べかけの弁当、紙コップ、ペットボトル、筒からこぼれ落ちているスナック菓子、黒いコードをのたくらせたMDウォークマン
――雑多に散らばるモノの広場。
椅子の背に重ねてかけられた、色とりどりの衣服。
床の上に石ころみたいにごろごろと転がっている靴。
これらのすべてが取っ払われてしまえば、きっと、見る影もない殺風景な部屋になる。
少しばかり怖くなってきていた。
ここはいったいどこなのだろう。本当に私の夢の中なんだろうか。
私は長方形のテーブルをはさんでちょうど真ん中の椅子に腰かけている。
正面に座っているのは圭ちゃんだ。
部屋の中にはみんなの空気が漂っているのに、いるのは二人だけ。
ざわざわ、ざわざわ。
ざわめきさえ聞こえてきそうなほどなのに、ここにいるのは二人だけ。
こちらをじっと見つめる圭ちゃんの顔面は、相変わらずマトモに視線を合わせにくいものがある。
「紗耶香のいないモーニング娘。なんて……」
圭ちゃんはテーブルの上を鋭い目つきでにらみながらつぶやいた。
まだ言ってやがる。
ていうか、前置きもなんもなしかよ。
私は少々うんざりした気分で口を開いた。
『圭ちゃんさぁ、こだわり過ぎてるよ。そりゃ、あたしだってさびしいけど、しゃーないじゃん。言ったって、市井ちゃんが戻って来るわけじゃないんだし。つーか、もう10月だし』
現実ではとてもこんなことは言えないのだが、夢の中の私はやけにすらすらとこんな言葉を口にしている。
圭ちゃんは鋭い目のまま、顔を上げた。
その眼力をマトモに食らう直前に、私はすっと目をそらす。
目を合わせたら石にされてしまう。
なぜだかわからないけど、そんなカクシンが、電光石火で頭によぎったからだ。
そんな私をまったく気にしないで、圭ちゃんは続ける。
「モーニング娘。はこんなことでいいの? 歌番組に出て歌わないなんて」
『あー。あれは確かにねえ、けど後藤が思うに……』
「新メンバーたちはあんなことでいいの?緊張感のカケラもないじゃん。こんなのモーニング娘。って言える?」
『えー。あたしは、みんなそれなりにがんばってると……』
「リーダーだって信じらんない。すっかり毒気抜けちゃって。仲良くなるのは結構だけど、しわ寄せが来るのはアタシなんだよ」
『…………』
「I WISH、ほんとにいい歌だってみんな思ってんの?あんな気の抜けた偽善だらけの歌詞と、ダサイ衣装で、誰が元気付けられるって言うの?アタシたちはあんな歌を学芸会みたいに歌うために、娘。やってんの?」
『…………』
「なんで後藤黙ってんのよ。なんか言いなさいよ」
私はへらっと笑った。
『……やー。そんないっぺんにいっぱい言われると、後藤ワケわかんなくなって来るんだけど……ええと、最初なんだっけ?』
「バカ」
投げ捨てるようにつぶやくと、圭ちゃんは横を向いてしまった。
呆れられてしまったらしい。
私はかえってほっとする。
圭ちゃんの横顔は相変わらず険しいままだ。
その目がにらんでいる先に放り投げてあった、ベーグル&ベーグルの紙袋が、乾いた音を立てて石化して行く。
あ、やっぱり石になっちゃうんだ。
よっすぃー、あんなの食べたら歯が折れちゃうよ。
圭ちゃんが身じろぎする気配を感じて、私はぱっと目をそらした。
夢の中とはいえ、石にされてはたまらない。
「後藤はいいよね」
ぽつりとこぼれた言葉の重い調子に、思わず顔を上げた。おっと。
視線の焦点は右斜め上、圭ちゃんの目線をさりげなくかわして聞きかえす。
『なにが?』
「どこ見てんのよ、アンタ」
『んん? なにが?』
ずいっ、圭ちゃんは椅子から立ち上がって、私の視線の先に顔を突き出した。危ないっ。
私は左斜め下に眼球だけを動かす。
『なにが?』
「アンタ、なんでそんなに視線泳いでんのよ」
『ええっ? ええっと、あの、目の体操っ。アイドルにとって目の輝きはフカケツな要素なんだよ』
「……ふううん」
『気にしないで、つづけてチョーダイ』
圭ちゃんはまた私の視線の先に、体をかがめて顔を突き出した。すいっ。
私の視線は天井に移動する。
圭ちゃんはテーブルに頬を寄せたまま、小さくつぶやいた。
「後藤はね、いいねって……言ったの」
『……………』
上目づかいで天井を見上げる視界に、また圭ちゃんのアップが飛び込んでくる。
だあっ、しつこいっ。私はがくんと下を向く。
そんな耳に響いてくる、言葉。
「あんたはなにも考えないでやってけるでしょ。バカでーすって顔してへらへらして、それでみんなとうまくやってけて、みんなにかわいがられて、本人、でもそんなことなんとも思ってなくって、だから、ますます愛されて、さ」
悪意の感じられない、いつもの毒舌。
さすがに“バカでーす”はちょっと失礼なんじゃないかなと、人ごとのように思ったが、口には出さない。
そんな言葉の毒よりも苦いものが、私の中にめずらしく生まれていたからだ。
「でも、うらやましくはないよ。アンタと私は違うから。私が私である限り、私は私らしくがんばるしかないんだから」
“I WISH”の歌詞のようなことを、圭ちゃんは“私”という言葉を4回も使って言った。
そして“私”は……私は。
テーブルを見つめたまま、なんだかもやっとしたものが、のどの奥にこみ上げるのを感じていた。
『あたしだって』
ばっ。顔を上げてしまった。ばちっ。
目が合ってしまった。圭ちゃんの四角い顔面、見開いた瞳。
なんだかPVの効果のように、フラッシュがかかっている気がする。
なんの関連もなく、「見ぃたぁな〜」という加護ちゃんの怪談声が頭に響く。
瞬間、ぴきんと固まった。
圭ちゃんが。
私じゃなく、目の前の圭ちゃんが、石になっていた。
見開かれた目ん玉。
くわっと歌舞伎のヒトみたいに閉じられた口のはしからは、
にょっきりと大きな牙がはみ出している。
石というか、犬みたいな形をした置物。
なんだっけ、これ……なんだっけ……。
そうだ、狛犬。
狛犬だ。圭ちゃん狛犬になってるよ。
そして私も狛犬だ。狛犬になってる。なんだか体も口もうまく動かない。
そういえば神社に狛犬って、絶対二台あるよね。
じゃあ私は、やっぱり口を開けた方か。動けない。
すっかり固まってしまった体と口。
一方は口を閉じて、一方は口を開けて、黙ったまま見つめあう狛犬二台。
なんだか悲しそうな顔でこっちを見ている圭ちゃん(狛犬)に、私は動かない口で言った。
『悩みのないヒトなんて、きっといないはず……だよ……』
「あ、足、つったっ……!」
「おはよ、後藤」
「あ、狛犬」
顔を合わせた瞬間口をついて出た言葉に、けっこう本気でどつかれた。
即座に反応してくるところを見ると、誰かに言われたことでもあるんだろうか。
「だぁれがなんだってっ!?」
「ないっ、なんでもないっす。ギブギブっ」
襟首をつかまれて、私は首をぶんぶん振る。
しめつけられているのも痛いが、超アップの圭ちゃんの顔面の方が怖い。
手を離されて、大息をつく。
「……ね、圭ちゃん。今のモーニング娘。嫌い?」
「は?」
「I WISH嫌い?」
「はい? まったく。朝からこの天然ボケは……」
ぶつぶつ言いながら圭ちゃんは髪をかきあげる。
その指に、ちかりと光ったシルバーのリング。
市井ちゃんと確かおそろいで買ったヤツだ。
「それ……その指輪。市井ちゃんとおそろいのだよね」
ああ、と圭ちゃんは右手を上げた。
「圭ちゃん……市井ちゃんいなくなってさみしい?」
「……さっきからなに言ってんの」
不思議そうに圭ちゃんは私の頭をぽんぽんとたたいた。
「いつの話だよ。もう5ヶ月もたってんだよ?紗耶香にはやりたいことがあって、そのために辞めてったんだからさ。しょうがないじゃん」
どうやら圭ちゃんは、そんなことを言う私がさみしいと思ったらしい。
めずらしく頭をなでなでなんかしたあと、そこにあることを確かめるように、広げた手を目の前にかざした。
窓からさしこむ朝の日差しに、指輪が光る。
目を細めている圭ちゃんの顔は、怖かったけど、やさしかった。
その光景を見た私の丈夫な胃袋は、なぜだかきりきりと痛んだ。
第6夜
こんな夢を見た。
どこかのテレビ局の楽屋のようだ。
壁際に散らばっている、大きさも形もさまざまな鞄たち。
中央にすえられたテーブルの上には食べかけの弁当、紙コップ、ペットボトル、筒からこぼれ落ちているスナック菓子、黒いコードをのたくらせたMDウォークマン
――雑多に散らばるモノの広場。
椅子の背に重ねてかけられた、色とりどりの衣服。
床の上に石ころみたいにごろごろと転がっている靴。
これらのすべてが取っ払われてしまえば、きっと、見る影もない殺風景な部屋になる。
『もう前置きはいいよう……』
私はテーブルに額を押しつけた。
私は長方形のテーブルをはさんでちょうど真ん中の椅子に腰かけている。
正面に並んで座っているのは辻ちゃんだ。
部屋の中にはみんなの空気が漂っているのに、いるのは二人だけ。
ざわざわ、ざわざわ。
ざわめきさえ聞こえてきそうなほどなのに、ここにいるのは二人だけ。
こちらをじっと見つめる辻ちゃんの表情は、相変わらず子供っぽくてかわいらしい。
「こんばんは」
『こんばんは〜』
「えへへっ」
『えへへへへ〜』
にこにこと二人で無意味に笑う。
『辻ちゃんの悩みって想像つかないなぁ……』
「はいっ」
辻ちゃんはすいっと手を上げた。先生の気分になる。
『おお、なんだね、辻さんー』
ふざけて答える私。
「へいっ」
口をきゅっと結んで辻ちゃんはこっちをじっと見てる。
本人はまじめなんだろうけど、どうにも微笑ましくて、笑ってしまう。
『はい、どうぞ』
辻ちゃんはまっすぐに私の顔を見た。
「えと、辻は……その、もっと、普通にしたいんです……」
というと、恥ずかしそうに下を向いてしまう。
『……というと?』
組み合わせた自分の手の指を見つめながら、辻ちゃんは考え考え言葉をついだ。
「その、今の辻って、ほんとの辻とちょっと違うんです。しゃべりたいことたくさんあるのに、それとは違うこといっつもしゃべってるって言うか……。辻の……私の思ったこと、私の考えた言い方で、しゃべりたい。テレビでも、コンサートでも、中澤さんやいいださんみたいに、ちゃんと自分の思ったこと、自分の言葉でしゃべりたいんです。それで、ほんとの私を、ファンの人とかに好きになって欲しい……」
言葉はたどたどしいものの、言っている内容がひどくしっかりしていることに、私はいまさらながら感心していた。
『うん……わかる』
私がうなずくと、辻ちゃんは心配そうにこちらを見上げた。
「そうですかぁ」
『うん。実はよくわかんないんだけど、むずかしいってこと、わかる』
「どういう意味ですか」
『あっとね、あたしはあんまりそういう苦労って感じたことなかったんだけど、“キャラを出すまでは大変だ”って、圭ちゃんも、その、前いた市井ちゃんも悩んでたし……。今、よっすぃーも、悩んでるみたいだし、けっこうみんな苦労してるらしいのよ。ほら、梨華ちゃんとかも苦労してるじゃん』
「あれは、ある意味キャラ立ちしてるから、いいんじゃないですか」
『ははぁ。言うねぇ、辻ちゃん』
辻ちゃんは、額のあたりを軽くかいた。
その仕草にはなんの意味も感じられない。
笑わないと、急にこの子は大人の顔になる。
「辻は……私は確かに子供だけど、オトナじゃないけど、でも、なんか違うんです。テレビに出てる私、違う子みたいなんです。でも、みんなそうしろって言うし……。みんなが好きになってくれるの、どっちの私なんだろって……そんなこと考えると、ほんとの私がいなくなっちゃいそうで、私も――私なのに、ほんとの辻希美忘れちゃいそうで、なんか、コワくなってくるんです』
辻ちゃんはため息をついた。
テレビではあまり見せることのない表情だ。
その心細そうな顔に、最近になって生まれて来たお姉さん本能が、むくむくとわきあがってくる。
私はどん、と胸をたたいた。
『よしっ。辻ちゃん、じゃあキャラを出せるように、あたしといっしょに練習しよう』
「ほんとですか?」
『まかせなさい』
「ありがとうございますっ。後藤さん」
きらきら笑う辻ちゃんは、急に子供の顔になる。
私はひとさし指を立てた。
『じゃあ、練習してみようか。辻ちゃん、普通にしゃべってみてね』
「はいっ」
『さんはいっ』
「ちゃっきりちゃっきりちゃっきりなーっ。辻のぞみーっ。十三さいっ」
『ちょっと待ったあっ』
両腕でガッツポーズを作る辻ちゃんに、思わず私はなつかしのねるとん紅鯨団つっこみをいれていた。
『ダメじゃん、それがだめなんでしょ?』
「あ、そうでした。ちゃんとします」
てへへとおでこをたたく辻ちゃん。
「がんばりまっす!」
私は思わずこけてしまう。
その仕草も、表情も、辻ちゃんの嫌いな辻ちゃんのままだったから。
辻ちゃんも首をひねる。
「あれっ、おかしいなぁ」
『うーん。ま、もっかいいこ。さん、にぃ、いち、キュー』
「メェェェェェェェェェェ」
『お、その調子』
「コケーッコッコッコッコッ」
『そうそう。
って、なんか違う気が……モノマネ……うーん』
私は首をひねった。
『おや?』
周囲は、いつの間にか楽屋じゃなくなっていた。
頭の上には真っ青な空。
ぽかりと浮かぶ白い雲。
ゆるやかな傾斜の、目にまぶしい草原の緑。
小高い丘の上。
金髪の女の子が「ティモテ」の歌を歌いながらスキップしてそうな光景だ。
どこだここ?
初の屋外ロケ?
私はあたりを見渡した。
まるでいつか見た花畑牧場みたいだ。
ふいに、丘の下から、白い固まりがはね上がった。
『なんだ?』
目をこらすと、どうやらそれは羊のようだ。
いや、羊にしてはちょっとおかしい。
ぽんぽんぽーん。ぽんぽんぽーん。
ポップコーンをはじきだすように、丘の下から、白いかたまりは次から次へと飛び出して、くるくる回転して着地する。
後ろを見る、右を見る、左を見る、もう一度前を見る。
ぽんぽんぽーん。ぽんぽんぽーん。
丘の下、全方向から空中に向かって、羊大砲は発射されていた。
ぽんぽんぽーん。ぽんぽんぽーん。
宙に舞う、ウール100%。
1匹2匹3匹4匹………数え切れない、とにかくたくさん。
白白白、何百、何千、ヘタしたら何万の、綿菓子みたいな白いかたまり。
すごい勢いで小さな丘を取り囲んで、地面を埋め尽くして行く。
メェェェェェェェェェェ。
突然、魔法みたいに、白い固まりがいっせいにはじけた。
もくもくと動く。私は息をのんだ。
羊じゃなかった、羊の着ぐるみの辻ちゃんだ。
メェェェェェェェェェェ。
一声叫ぶと、ひ“つじ”たちは大声で鳴きながら、すごい勢いで丘を駆け上がって走って来る。
正確な間隔で刻まれる足音に地面が割れそう。
おろおろして私は、隣の辻ちゃんを見下ろした。
『辻ちゃん、どうしよう。辻ちゃんだよっ』
いつの間にかそこにいたはずの辻ちゃんの姿は消えていた。
『ええっ?』
私はたった一人。
全方向から押し寄せてくる辻ちゃんスマイルの洪水。
どどどどどどどどどどどど。
メェェェェェェェェェェ。
どこにも逃げ場はない、どうしよう。
……なんて考えているうちに、来た。
ぽよよよん。
四方八方からやってきた白いカタマリに、私は宙高く跳ね飛ばされた。
すぽん、と羊の海から体が飛び出す。
くるくる回転しながら見下ろす地面は、白一色。
見渡す限りの白一色。
地平線まで白一色。
どこに落ちても白一色。
視界の端では、流れる雲に飛びのったよっすぃーが、こっちに向かって手を振っている。
私は目が回りそうになりながら、羊の海に向かって叫んだ。
『マジっスか!?』
「ひつじが1匹、ひつじが2匹、ひつじが………また寝てどうする」
「後藤さん、眠そうですね」
テーブルにべったりほっぺたを押し付けている私に、辻ちゃんが話しかけてきた。
「あははは……最近夢見が悪くって……」
「なんかしんどそうです」
「うーん、体調も悪いんだよねぇ、なんか……。嫌だねぇ」
心配そうにこちらを見る辻ちゃんに、私はあいまいに笑った。
あくびをかみ殺して、顔をしかめる。
「アメ、食べますか?スースーするのだから、目、さめるかも」
「サンキュウ」
もらったアメは、ミントのやさしい味がした。
ミュージックステーション本番中。
「最近辻はどうなの?」
いつものように、タモリさんが急に辻ちゃんに話を振ってきた。
モニターの中にふいに飛び込んだ辻ちゃんの顔。
「えと、辻はぁ……」
とまどいからスマイルへ、カメラのフィルターにかかったとたん、辻ちゃんは満面の笑顔になる。
ちょっと恥ずかしそうに頬まで染めて。
「カワイイ〜」
隣のなっちの笑い混じりのささやき。
にこにこ笑っているほかのゲスト、お客さん、オトナたち。
その光景を見た私の丈夫な胃袋は、なぜだかきゅうっと痛んだ。
第7夜
こんな夢を見た。
どこかのテレビ局の楽屋のようだ。
壁際に散らばっている、大きさも形もさまざまな鞄たち。
中央にすえられたテーブルの上には食べかけの弁当、紙コップ、ペットボトル、筒からこぼれ落ちているスナック菓子、黒いコードをのたくらせたMDウォークマン
――雑多に散らばるモノの広場。
椅子の背に重ねてかけられた、色とりどりの衣服。
床の上に石ころみたいにごろごろと転がっている靴。
これらのすべてが取っ払われてしまえば、きっと、見る影もない殺風景な部屋になる。
ここは私の夢なんだろうか。
それとも、ヒトの夢の中に、私が出張しているんだろうか。
そもそも、夢っていったいなんなのさ。
なんなのさったらなんなのさ。
「なにぶつぶつゆってんですか」
私は長方形のテーブルをはさんでちょうど真ん中の椅子に腰かけている。
正面に座っているのは加護ちゃんだ。
部屋の中にはみんなの空気が漂っているのに、いるのは二人だけ。
ざわざわ、ざわざわ。
ざわめきさえ聞こえてきそうなほどなのに、ここにいるのは二人だけ。
こちらをじっと見つめる加護ちゃんの瞳は相変わらず黒目がちで、子犬みたいだ。
「後藤さん後藤さん。加護悩みがあるんです。聞いてください」
『加護ちゃんも悩みなんかあるの?』
「後藤さんっ、バカにしちゃい〜け〜ま、せ〜んっ」
立ち上がってポーズを取る加護ちゃんは、ふざけているようにしか見えない。
『ないんだったらムリに考えなくっていいんだよ。悩みなんてない方が絶対いいし』
「だからあるって言ってるじゃないですか」
加護ちゃんはふくれた。文字どおり、本当にほっぺたをふくらませる。
『ふうん。なになに、ごとーさんに言ってみなさい?』
ちょっとお姉さんぶってみる私。
「実は……ナイショなんですけど」
加護ちゃんは一拍置いた。
「……関西弁、しゃべりたいんです」
『……しゃべればいいじゃん』
私の言葉に、加護ちゃんは呆れたように私の肩をぽんとたたいた。
「なにゆってんですかあ。そう簡単にしゃべれたら、誰も苦労はしてません。キャラがカブっちゃうじゃないですか」
『辻ちゃんと?』
「なんでやねん」
気持ちのいいツッコミが入る。
「それはキャラっちゅうか見た目でしょう。あ、けど関西弁でしゃべったら、ののとも区別つけてもらえるようになると思いません?」
『うん。だからしゃべったらいいじゃん。裕ちゃんとはかぶんないでしょ、年がちがうんだから』
「って、わかってんじゃないですか。いや、私もそう思うんですけど……そこはその……」
『んん?』
「心狭いじゃないですか……ちょっと。誰とは言いませんけど」
『あはははぁ』
「笑い事じゃないですよ〜」
『でもほら、コンサートでしゃべってるよね』
「カンベンしてください。あんなNHKの朝ドラみたいな関西弁、ダメダーメ」
どう違うんだろうか。
「だいたい、自分の言いたいようにしゃべりたいやないですか」
『……同じようなこと、辻ちゃんも言ってたなぁ』
「関西人は傲慢なのよっ!」
突然天から声が降ってきた。
見上げた私の目に映ったのは――圭ちゃんだ。
「ひっ」
加護ちゃんが小さく悲鳴を上げる。
どこもとっかかりのない白い天井に、なにをどうやってかこちらに背中を向けて、圭ちゃんはヤモリみたいにぴったりとはりついている。
首だけがぐるりとねじ曲げられてこっちをにらんでいる姿は、誰がどこから登場しても不思議ではないこの夢の中でも、インパクト大だ。
「なんで関西人だけ、テレビで堂々とお国言葉を話すことを許されるの?私だって、紗耶香だって、ガマンしてたのに……」
言いながら両手両足をわさわさと動かして、壁づたいに降りてこようとする姿はゴキブリのよう。
思わずカメラを探してしまいそうになるスゴイ画だ。
「そうだ」
低い声。
振り返ると、細く開けられたロッカーの隙間、5センチほどの幅から、カオリがこちらをじっと見つめていた。
濡れたような黒い瞳、黒髪。鉄製の扉の影になって、いつもよりいっそう色濃く隈どられた目の下。
「カオリ、北海道大好きなのに」
ガッタンガッタンガッタンガッタン。
……ロッカーが16ビートで揺れながら近づいてくる。
隙間から流れ出ている黒髪が、前後にゆらゆらと動く。
出ればいいのに、なぜ中に入ったままこっちに来るのだ。
天井の圭ちゃん、ロッカーのカオリ。
タカさんがうたばんで言ってた、ナントカのナントカ・ナントカのナントカ状態だ。
「そうさ」
テーブルの下から第三の声がした。
「なっちだって……」
「おまえは言うな!!」
テーブルの下から出て来かけていた太目の物体は、二人の鋭いツッコミに再び下にもぐってしまった。
その時。
「はっはっはーんだ」
なんだか芝居がかったイヤミな高笑いが楽屋に響いた。
「なんで関西人がテレビで関西弁しゃべるかって?そんなん、関西人のが東京人よりおもろいからに決まっとるやん。お笑いも関西、食べもんも関西、男も関西、野球も阪神、次のオリンピックも大阪、倉木麻衣も立命館。なんぼ長嶋ジャイアンツが優勝しても、地球は関西中心にまわっとんねん!」
裕ちゃんだった。チャイナドレスを着ている。
テーブルの上に仁王立ちしているので、スリットの隙間からあまり見たくもないパンツが見えそうである。
次々とあらわれる濃い面々に、加護ちゃんの口はもう開きっぱなしだ。
「加護」
裕ちゃんの声に「はいっ」と加護ちゃんは背筋を伸ばした。
加護ちゃんのドキドキがこちらにまで伝わってくる。
私と加護ちゃんの予想を大きく裏切って、裕ちゃんはやさしく微笑んだ。
「ええねんで、関西弁しゃべっても」
「え、本当ですか?」
「ほんまや」
裕ちゃんは圭ちゃんとカオリを見て、あごを上げた。
「ローカル地方に用はないねん。世界の中心は関西なんじゃっ」
裕ちゃんがさけんだ瞬間。
ガタンッ。
飛んだ。加護ちゃんが。椅子を蹴って高々と。
お正月の大作アクション映画を思わせる、カレイな跳躍だった。
空中で加護ちゃんは大きく振りかぶった。
ものすごいスパイクを決めようとするバレーボール選手のように。
右手にしっかり握られているのはスリッパ。
「あんたみたいな関西人がおるから、嫌われんねんっ!!」
言葉と同時に一気にスリッパが振り下ろされる。
もちろん、裕ちゃんの脳天直撃セガサターンだ。
スパーン。
楽屋に閃光が走った。
目を開けた時にはすべてが消えていた。
加護ちゃんも、圭ちゃんも、カオリも、なっちも、裕ちゃんも、たった一人取り残された私は呆然とつぶやいた。
『……なんだ?』
「あんもだよぉ……ぐう」
「関西弁かわいいよね」
番組収録の合間。
隣に立っていた加護ちゃんに突然そう話しかけると、うれしそうに背を伸ばして顔を近づけてきた。
「そうですかっ?」
「うん。そ〜と〜、かわいい」
「そ〜と〜」
「そ〜と〜」
例の口調で同意すると、加護ちゃんはにひひ、と笑った。
「もっとしゃべっていいんだよ」
加護ちゃんは肩をすくめて首を振る。
「もうでも、東京弁慣れちゃいました」
「子供って順応が早いらしいよ。
外国とか行っても、一番に言葉覚えるんだってさ」
隣からよっすぃーが口をはさむ。
「子供はおまえじゃ〜」
不服だったらしく、加護ちゃんはよっすぃーのボディにパンチを食らわせた。
さっきから聞いていたらしいカオリが、こちらを振り向く。
すでに自分的ツボに入っているらしく、笑いをこらえている顔だ。
「じゃあさ、超オトナだよね……」
指さした先にいるのは……
タイミング良くこちらを振り向くなっち。
「なにさぁ」
いつまでも直らない、狙いすましたようなそのイントネーションに、三人は爆笑した。
その光景を見ながら私の丈夫な胃袋は、しくしくと痛みつづけている。
第8夜
こんな夢を見た。
どこかのテレビ局の楽屋のようだ。
壁際に散らばっている、大きさも形もさまざまな鞄たち。
中央にすえられたテーブルの上には食べかけの弁当、紙コップ、ペットボトル、筒からこぼれ落ちているスナック菓子、黒いコードをのたくらせたMDウォークマン
――雑多に散らばるモノの広場。
椅子の背に重ねてかけられた、色とりどりの衣服。
床の上に石ころみたいにごろごろと転がっている靴。
これらのすべてが取っ払われてしまえば、きっと、見る影もない殺風景な部屋になる。
そう、ここは部屋だ。出口があって入り口がある。
私は立ち上がった。
そこにあることは知っていても、ふれたことのなかったドアノブに手をかける。
驚くほどあっけなくそれは「がちり」という音とともに回った。
ドアが開き、外が見える……そこにあるのは同じ“部屋”だった。
かまわずにドアを大きく開けて“部屋”を出て“部屋”に入る。
まったく同じ“部屋”。
振り返るとそこは白い壁。私の入って来たドアは溶けてしまっている。
ため息をつくこともなく、私は定位置に戻った。
私は長方形のテーブルをはさんでちょうど真ん中の椅子に腰かけている。
正面に座っているのは裕ちゃんだ。
部屋の中にはみんなの空気が漂っているのに、いるのは二人だけ。
ざわざわ、ざわざわ。
ざわめきさえ聞こえてきそうなほどなのに、ここにいるのは二人だけ。
こちらをじっと見つめる裕ちゃんの額には、相変わらずバカボンのパパを連想させるしわが三本刻まれている。
ちなみにこれは圭ちゃんの顔と同じく、娘。内トップシークレットだ。
思っていても、口に出したら命はない。
ちなみに梨華ちゃんの命はもうすでに一回なくなってたりする。
「うん? ごっちんか」
裕ちゃんは、私の顔を見て、寄せられていた眉根をほどいた。
見れば、テーブルの上には、薄い朱色の冷酒の徳利が一本。
その脇には、パックに入ったイカリングが置かれている。
『なんでお酒飲んでるのぉ』
私の言葉に、裕ちゃんはじろり、とこちらをにらんだ。
相変わらず無意味にすごむ人だ。
「あんたなあ、裕ちゃん毎日毎日、娘。のために、好きなお酒ガマンしとんねんで。夢ん中でくらい、飲ませてくれたってバチ当たらんやろが。……ほい」
裕ちゃんは空になった杯をずい、と私の目の前につきだした。
『え、飲んでいいの?』
「あほかっ。あんた未成年やろが。つげっちゅっとんねん。酒屋のくせにお客さんに催促させるなんて、客商売失格やでほんま」
『酒屋っていうか、小料理屋なんだけど。それに、別にあたしがやってるわけじゃないじゃ……』
「かーっ。言い訳すんな。ほれっ」
すでにだいぶできあがっているようだ。
酔っ払いに逆らうのは賢明でない。
私は徳利を取り上げて、お酒をつぐ。
べべべべべべ。
注ぐと、なんかヘンな音がした。
「おっとっとっと」
裕ちゃんは嬉しそうにさっそくに口をつけている。
お酒か……そんなにおいしいもんなのかねぇ。
「ほい」
『ん? あ、はいはい……』
飲むの早いな、この人は。
べべべべべべべ……。
徳利に仕掛けでもしてあるんだろうか。
“とくとく”という音の代わりに、注ぐ時に変わった音がする。
『ちょっとちょっと裕ちゃん、あたし今思い出したんだけど』
「なによ」
一息に飲み干してしまう裕ちゃんの目じりは、ほんのりと紅く染まっている。
『ここに来る人はさ、後藤に悩み事をいっこ打ち明けて帰るっていう、オキテがあるんだよ。だから、裕ちゃんもぉ、なんか悩みプリーズ』
「あほか。なーんで私がごっちんに悩みを相談せなあかんねん」
裕ちゃんは鼻で笑った。
「ほい」
『ああ、はいはい』
なんで私お酌してんだろ、そう思いながらもつぐ。またしてもきゅーっ、一気にそれを飲み干す。
「くぁーっ、うまっ。で、なんやったっけ。……そうそう、別に裕ちゃん悩みなんかないもん」
『ほんとに?』
「ないで? つーか、あっても相談せぇへんがな」
『ええー。じゃあ裕ちゃんなんで来たのさ?ここにお酒のみに来たの?』
「知らん。ま、飲めたらなんでもええけどな」
にやにや笑いの裕ちゃんは、また杯を差し出す。
徳利はとうとうカラになってしまっていた。
裕ちゃんは眉を上げた。
「もうなくなってもうたんか」
ばちん。
なんだか堂に入った仕草で指を鳴らす。
「お待たせいたしました〜」
明るい声とともに登場したのはやぐっつぁんだ。
なぜかミニモニのTシャツを着たやぐっつぁんが、左手の指三本で、お盆をささげ持って立っていた。
お盆の上には新しい徳利が一本。
透明な青色をした、小さなガラスの徳利。
「おおっ、ナイスタイミング、さすが矢口やなぁ」
裕ちゃんは嬉しそうに笑みくずれる。
「裕子ぉ、飲みすぎんなよ」
徳利をテーブルに置くと、やぐっつぁんはひとさし指を裕ちゃんにびしっとつきつける。
そのとたん。
しゅる。
その姿がふいにケムリみたいににじみ、やぐっつぁんは徳利の中に吸いこまれた。
昔読んだ“そんごくう”の絵本のさし絵みたい。
『ええっ』
「サンキュー矢口。さ、飲も飲も」
上機嫌の裕ちゃん、やぐっつぁんが吸いこまれた徳利をうきうきとかたむけた。
『ちょ、ちょっとマズいんでない?これ、やぐっつぁん、入っちゃってるよ』
「せやなぁ、きっと矢口の味がすんでぇ」
どんな味やねん。
心の中でつっこむ私をよそに、裕ちゃんはさっさとお酒を杯に注いだ。
せくせくせくせくすぃびびびび……。
またしてもヘンな音。
透明のきれいなお酒には、小さな金箔がちらちらと浮いている。
「いっただきまーっす」
裕ちゃんはまたしても一気飲み。
ああ、やぐっつぁんが飲まれて行く。
「うまい」
裕ちゃんは叫んだ。
「甘くて、それでいてさっぱりっ。ちょっと効かした塩味がたまらんな。まさに矢口の味っ。矢口最高っ、矢口大好き〜」
裕ちゃんは悦に入っている。
『ねえ裕ちゃん……』
私は一本目のちょっと太目の徳利を爪ではじいた。
ちん、と涼しい音がする。
『これは、誰が持って来たの?』
「うん? なっちやで。ちょっとモチモチしとったけど、そっちもなかなかうまかったわ」
深く考えるのはやめよう。
私は気を取りなおしてやぐっつぁん徳利を持ち上げた。
『でさぁ、悩み事よ』
「なんやねん。なんやねん。なんでそないに悩み事聞きたいんや。そんなに裕ちゃんのことが気になるかっ、このっこのっ」
『やー。そういうわけじゃないけどさ。(ここで“素で返すなやっ”と裕ちゃんのツッコミが入る)……ここに来たからには、なんか悩みを言ってもらわないとダメなような気になっちゃってんだね、モハヤ』
「ふうん」
つぶやくと、裕ちゃんは注がれたお酒をまたしても一口で飲んでしまう。
ぷはー、とひと息。
「けど私はリーダーやからなぁ。悩みを聞いたる方の立場やろ。
もしほんまに悩んでることがあったとしても、よう打ち明けんわ」
『悩み、やっぱりあるんじゃん』
無言でさしだされた杯に、また注ぐ。
この分だと、やぐっつぁんはすぐになくなってしまうだろう。
「あるっちゅうか……悩みねぇ。しかしまあアレやなぁ、めっちゃええ感じになってきたわ……」
裕ちゃんはでっへっへとオヤジくさく笑った。
確かにその顔はかなり真っ赤になってきている。
そりゃそうだ。
飲まない私にも、尋常じゃないペースだということはよくわかる。
「ん」
『はや……』
小さい徳利のやぐっつぁん酒はもうなくなってしまった。
もうちょっとだいじに飲んであげたらいいのに。
裕ちゃんはすっかり座ってしまっている目で、私を見た。
「ごっちん、酒」
『……ないって。つーか、飲みすぎなんじゃ……』
「あらっ、あらあらあらあら。そんないじわる言わんといてやー。いつからそんなに悪い子になったんや。お母さん、真希ちゃんそんな子に育てた覚えはないでっ」
『あたしも裕ちゃんに育ててもらった覚えはないんだけど……』
「まあっ、反抗期かしら。お父さんもおらんくなって、真希ちゃんにまでそんな態度とられたら、お母さんどうしたらええの。この親不孝ものっ」
裕ちゃんは涙目でばしばし私をたたいてくる。ダメだ、こりゃ。
ため息をつく私をよそに、裕ちゃんはまたしても右手をぱちん、と鳴らした。
テーブルの横に立ったのは辻ちゃん加護ちゃん。
やぐっつぁんと同じくミニモニの衣装。
辻ちゃんの右手と加護ちゃんの左手の間に器用に乗せられたお盆の上には、絵の具を塗りたくったようなカラフルな徳利。
「お待たせしました〜」
「しましたっ」
「おおっ、来たでっ」
裕ちゃん、大喜びで手をたたく。
二人は徳利をテーブルに置くと、かわいく片手をおでこにつけて例のポーズをとった。
「ミニモニでしたあっ」
しゅるん。
やぐっつぁんと同じように、その姿が徳利の中に消える。
「うしゃ。飲むでえっ」
止める間もなく、裕ちゃんは手酌で辻加護酒を注ぐと、一気にあおる。
「うーん。ちょっと甘いし、味に深みはないけど、ナカナカやね」
もういいや。どうせ夢なんだし。
「なにをぶつぶつ言っとんねん」
『なんでもない……』
ふと、裕ちゃんは手酌の途中で手を止めて、私の顔をまじまじと見た。
『なに?』
「なあ。ごっちんは娘。入ってどんぐらいなるんやったっけ」
私は徳利をひきとって注ぎながら考える。
『……んー。一年くらいになるねぇ……』
「年、いくつやったっけ?」
『15歳』
「15かぁ」
わかりきっていることなのに、裕ちゃんは、はじめて知ったような声を出す。
「若いな」
『そう?』
「殺すで」
『あ、いやいやいやぁ。あはは。よく言われるけど、だって自分ではわかんないもん。辻ちゃんとか加護ちゃんの方が若いしさ』
「じゅうご。15の夜やなぁ。十五夜お〜つきさ〜ん〜、なんつってな。……あんたにだけはそういう目でみられたくないわ。それにしても、私15の頃なにしてたかなぁ。正直あんまり覚えてへんねん。私にとってはそれくらい昔のことや」
『ふ〜ん』
「でもな、世界がすべて自分の思うようになるって―――根拠もないくせに、自分は絶対なんかを手にすることができるって、そう考えてたのは覚えてる。そういう感覚、わかるか?」
私が首を振ると、裕ちゃんはやさしい目をした。
「そやな……。ごっちんはそういう感情とはあんまり縁のないタイプやと思うわ。まあ、わからんでもええねん。そいでな、だんだん……年を重ねて行くにつれて、それが本当はすごくむつかしいことで―――実現させることよりもずっと、それを―――なんちゅうか、自分にとって大切なものを追いつづける気持ちを持ちつづけることの方が、難しいってことに気づいてきたな……」
こんな裕ちゃんの顔は、はじめて見た気がした。
酔ってるからマジメなのか、それともマジメにしたいから飲んでるのか。
わかんない。
「あきらめかけたこともあったけど、結局ずっとこだわってたからこそ、私は今ここにおれんねんやろな。でもな……そのために捨ててることっちゅうのも、実際あるわけや。いろんなモンを……ひょっとしたら私はすべてを捨てて、娘。やっとんのかもしれん。でも、そんなこと帳消しになるくらい、今は私にとってすごい大切やし、モーニング娘。のこと、みんなのこと、めっちゃ愛してる。けど、今の娘。は……」
言葉が止められる。
『なに?』
一瞬こちらを見ると、裕ちゃんはごつん、と私に頭突きをかました。
『いだ。なにすんのぉ?』
裕ちゃんはにたにた笑い出すと、私の髪をぐしゃぐしゃにかきまわした。
『ぎゃ。おぐしが乱れる』
「すまん。ごっちんに言う話ちゃうかったな。気にせんといて。ごっちんがもうちょっとお姉さんやったら、遠慮なく言わしてもらうねんけど」
『なにそれ』
「ハイ。辛気臭い話終わりっ。酒っ」
『ないよう』
私は手を広げてテーブルの上を示した。
そこには、なっち酒・やぐっつぁん酒・辻加護ちゃん酒・よっすぃー酒・カオリ酒・チャーミー酒……色とりどりの徳利が、ごろごろと転がっている。
長い話の間に、次々と裕ちゃんの胃袋の中におさまっていったのだ。
「うそおん。マジ?」
『そういや、け……』
「はああ。しゃーないなあ。全部なくなってもうたなぁ」
『だから、け……』
「しゃーないしゃーない。……じゃあごっちんでもいただこっかなー」
裕ちゃんはふらり、と立ち上がった。
『ええっ、あたしも飲むのぉ』
「あたりまえやがな。へっへっへ。さぁて、ごっちんはどんな味なんかなぁ……」
とてつもなくいやらしいことを言われているような気がするのはなぜだろう。
私はひきつった笑いを浮かべながらつぶやいた。
『アララララ……』
「……なんか酒くさい……」
「うう、頭痛い」
投げ出すような言葉と同時に、隣にべっちゃりと誰かが座りこむ気配を感じた。
今日はダンスレッスン。
スタジオの床はひんやりとしていて気持ちがいい。
「二日酔い?」
高いところから、なっちの茶化す声が聞こえる。
「ちゃうわ。昨日なんて一滴も飲んでへんもん」
「マジでェ?」
三人目の声。
顔を上げなくてもわかる、例の三人組。
「どれどれ……。うわっ、クサイ! なっち〜、この人めっちゃ酒くさいよぉ。ウソつくなよ裕子ぉ〜」
ぺしっ。
肌を軽くたたく音。
「痛いがな矢口〜。ほんまやっちゅうねん……」
「けどほんと元気ないよね。裕ちゃん、そこまで飲んじゃだめじゃん。仕事に差し支えるようじゃ、リーダー失格だね〜」
「うっさいわ……」
反論にも力がこもっていない。
「でぇ、こっちはどうしたんさ?」
つんつん。
私の太もものあたりを足先でつついているのはなっちらしい。
「知らん。そういやさっきからずっとこうなっとるな。寝てるんちゃう」
「お〜い、ごっ……」
「あ。すいません、なんかお腹痛いらしいんですよぉ。ちょっと寝かしといてあげてください」
遠くから入る、よっすぃーのフォローがありがたい。
「そうなんだ」
「ひょっとしてごっちんも二日酔いなんじゃないの?裕ちゃんに飲まされてさぁ」
「あほか」
「裕ちゃんだったらやりかねないよねー」
「ねー」
「ちゅうか、飲んでへんゆうとろうが!」
なんだかテレビの中の声を聞いているようだ。
近くても別世界。
遠いざわめきを感じながら、私の丈夫なハズの胃袋はぎりぎりと痛みつづけている。
第9夜
こんな夢を見た。
どこかのテレビ局の楽屋のようだ。
壁際に散らばっている、大きさも形もさまざまな鞄たち。
中央にすえられたテーブルの上には食べかけの弁当、紙コップ、ペットボトル、筒からこぼれ落ちているスナック菓子、黒いコードをのたくらせたMDウォークマン
――雑多に散らばるモノの広場。
椅子の背に重ねてかけられた、色とりどりの衣服。
床の上に石ころみたいにごろごろと転がっている靴。
これらのすべてが取っ払われてしまえば、きっと、見る影もない殺風景な部屋になる。
私は天井を見つめている。
もう考えるのもめんどくさい。
私は長方形のテーブルをはさんでちょうど真ん中の椅子に腰かけている。
正面に座っているのはなっちだ。
部屋の中にはみんなの空気が漂っているのに、いるのは二人だけ。
ざわざわ、ざわざわ。
ざわめきさえ聞こえてきそうなほどなのに、ここにいるのは二人だけ。
こちらをじっと見つめるなっちの瞳は、相変わらずまっすぐできらきらとしている。
「ごっちん、なにやってんの?フフ。……こんなトコで、さぁ」
くすくす、くすくす。
なにがそんなにおかしいのか、なっちはこみ上げてくる笑いを止められないらしい。
笑いながら話す。話しながら笑う。私も笑顔で答える。
『後藤もよくわかんないんだけど。ここ、悩み相談ルームみたいなんだよね』
「あはは。悩み相談?」
『うん。あたしにね、みんなが“聞いてくれ〜”つって悩みを相談するの』
「ナニそれ〜」
くすくす、くすくす。
さざ波みたい。
胸の中から出てくる笑いで、なっちの声が、目元が、唇が震えている。
私の目にしっかり目線を合わせたまま、なっちは言う。
「なっちはないけどね。悩みなんて」
『そうなんだ』
「そうよ〜」
くすくす、くすくす。
また笑う。
笑い声がなんとなく私の心をいらだたせる、落ちつかなくさせる。
なっちはあくまで楽しげに、そんな私の顔を見つめたままふっくらした頬をほころばせている。
「信じられない?」
あわてて胸の中のよくわからない感情をつくり笑いで押しつぶし、首を振った。
『ううん。あのね、みんなないって顔してるけど、実はけっこう悩んでるみたいでね。ここだと、なんか、ぶぁーって出てくるんだよ。あ、でもね、なかったらいいんだよ、うん』
「聞きたい?」
なっちの目がすこし光った気がした。
くすくす、くすくす。
私を見つめるなっちの目は三日月みたいに細められている。
どんなに見つめ返しても、その中にある感情をうかがい知ることはできない。
さっき押しつぶしたハズの感情から不安がにじみだす。
『え。だって、ないんでしょ?』
「聞きたい?」
くすくす、くすくす。
部屋の空気がだんだん重くなる。
そんなわけないのに。
圧迫感を胃のあたりに感じる。
私の鼓動が早くなる。
なっちのつぶらな瞳から目が離せない。
『あ……』
私はうまく動かない唇を開いた。
『あたしはぁ……』
聞きたくない。
くすくす、くすくす。
なっちは笑っている。
私はますます不安になる。
不安はもやもやとうごめきながら、私の中で形を変えていく。
心の中から聞こえる危険信号。
しかし、それにあらがって、私の口はこう言った。
『聞きたい』
なっちの目が大きく細められた。
とても、かわいい笑顔だった。
その目を見た時、自分の感じていた不安の正体が「恐怖」だったことに私は気がついた。
「後藤死んで」
その言葉は確実になっちの口から出た。
「後藤消えて」
楽しそうな声だった。
笑い声は止まらない。
ついになっちは天井を仰いで爆笑した。
「くっ、アハハアハハアハハハハハハハ、アハハハハハハハハハッアハハハハハハ、アハハフフフフフゥ……ははぁ、ふふふふふっ」
高い、かすれた――狂った悲鳴にしか聞こえない笑い声が耳に突き刺さる。
「アハ、アハハハハ………ねえ後藤。悩み聞いてくれるんでしょ?なっちの悩み、聞いてちょうだいよ。フフ……アハハハハハ」
なっちは足をばたばたさせた。テーブルをばんばんたたく。
乱れた前髪の間からのぞく、笑いすぎの涙に濡れた瞳。
震える唇がピンク色に輝いている。
「ねえごっちん。アハ、アハハハハハ……なんでなっちばっかりこんなツラい目にあうの?なっちはさ、アハハ、今までずっと楽しくやって来れたのに、みんながなっちの味方だったのに。誰だって、ヘヘヘヘヘヘェ、なっちを……ふふっ、愛してくれた、かわいいって言ってフフフ、くれた。それは芸能界に入っても、変わんなかった。ね、はは、そうでしょ?なっちの人生はずっとこうやって続いて行くハズだった。アハハハハハ、フフフ……フフゥ……。後藤のせいだよ。後藤がハハ、なっちからすべてを奪ったんだ。あはははははははハッ、後藤のせいで、なっちのなにもかもが、アハァ、狂った。後藤がなっちを狂わせた。返してよ。アハハハハハ! ねぇ!あたしを返して!そこはなっちの場所なのっ。そこにいるはずだったあたしを、こんなんなっちゃったなっちを、元に戻してよ!こんなこと考えるようになっちゃった、なっちを元に戻してッ!」
もうなっちは笑っていなかった。
私はわかんなかった。
どうしたらいいのかも、なにを言えばいいのかも。
痛い。
たまらない。
どうしよう。
どうしよう。
ごめんなさい。
でも謝っちゃいけない。
視界がにじむ。口がきけない。
口を開けたら大声で泣き出してしまう。
夢なんだ。夢なんだ。
そう言いきかせても痛くてたまらない。
早く醒めて。助けてよ。ダメだよ、こんなのヤだよ。
こんなのウソだ。そろそろ誰か乱入してくれるはずなんじゃないの?
なんで夢なのに思い通りになんないの?
なんで誰もなにも言ってくれないの、誰も来てくれないの。
誰でもいい、たすけてよ。
はっとしたようになっちは額を押さえた。
柔らかそうな頬が、ぐしゃりとゆがむ。
右目から涙がこぼれた。
ぼろぼろぼろぼろ、こぼれた。
「うそ、違うの、キライじゃない、キライじゃない、後藤。いい子、好きなの、けど、憎いの。ごめん、ごめんね、ごと……。ごめんなさい、ごめん、ごめん……。ねえ、なっちどうしたらいい?こんな気持ちから誰か救い出してよ。助けて、ごとう。ねえ助けて」
なっちは私の肩をつかんでがくがくと揺さぶった。
私は下を向いた。
『………………』
なにも言えなかった。
「……………………泣いてら……」
胃が、ずきずきしている。
「おはよっ、ごっちん。なーに、なんか眠そうだねェ。いかんよ寝不足は」
屈託のない笑顔。
見なれた笑顔。
昨日の夢と同じ笑顔。
私の口から返事のあいさつはでなかった。
屈託の……屈託のない……悪意のない……本当にそうなの?
なっちのその顔はなんなの?
笑ってるの? 泣いてるの? わかんないよ。
私の見てるこの世界はなんなの。
――嘘ばっかり。
夢でしか本当のこと言えないんだったら、ほんとは夢こそ現実なんじゃないの。
ここには、ほんとのことなんてなにひとつないんじゃん。
私の目に映る世界は全部マボロシなんだ。
だったら現実ってどこ。ここってどこ。
「おはよ、後藤」
「おーす」
「おっはー」
「おはようございます〜」
「おはようさん」
カオリ、傷ついてるくせに、どうして笑ってるの。
よっすぃー、ビビっちゃってるくせに、どうして梨華ちゃんといちゃいちゃしてるの。
梨華ちゃん、コンプレックスを抱えて、どうしてそんなに笑ってられるの?
やぐっつぁん、そんなバカ話ばっかりじゃなくって、もっと裕ちゃんと話したいことあるはずだよ。
圭ちゃん、傷ついてるのは自分だけだと思ってる?
辻ちゃん、加護ちゃん、本当じゃない自分たち、オトナにつくられた自分に疑問を感じてるんでしょ?
裕ちゃん、本当に今は楽しいの? 人生をかけている裕ちゃんの、本当に今は最高の時って言える?
そしてなっち。あたしが嫌いなんでしょう?
そして私。本当に嘘ばっかりなのは、ごまかしてばっかりなのは、私。
そんなことない、そうなのかもしれない。わかんない、わかんないよ。
もうわかんないよ。
気持ち悪い。
私は胃のあたりを押さえた。
下を向いたまま口を開く。
「ね。なっち……あたしのこと、好き?」
「はいい? 突然なに言ってんの、ごっちん」
「……好き?」
なっちはにっこり目を細めた。
「大好きっ」
その笑顔を見たとたん、私の丈夫なハズだった胃袋に、ねじれるような激痛が走った。
視界が暗くなる。
「ちょっと、ごっちん! 後藤っ」
「うぉ。なんや、どうしたん!」
「あ、あたしマネージャー呼んでくるっ」
みんなの声を遠くに聞きながら、私の意識は沈んで行った。
行き先は、きっと、あの、夢の中。
第10夜
こんな夢を見た。
やっぱり。
わかりきっていたことだから、がっかりすることもなかった。
見覚えのある楽屋、夢の中の楽屋。
でも、いつもとは違う楽屋。
部屋中にあふれかえっていたモノたちが一つ残らず消えてしまっているからだ。
テーブルと椅子だけ。なにもないこの部屋はまっしろ。
色のついているモノは私だけ。
私はおでこをテーブルに押しつけた。もう顔は上げられない。
目をつぶったまま、この夢から醒めるのを待つことにする。
だけど。
醒めたとしても、そこにあるのは嘘ばっかりの現実。
夢も現実も、あたしにやさしくはない。
だとしたら、私はどこに行けばいい。
どうすればいいの。
じゃらん。
私のシリアスな思考とはかけ離れた、間の抜けた音が耳に飛び込んで来た。
ギターの弦を、一気に上から下へと弾き下ろす音。
また誰か来たんだ……。
予想していたことだった。
でも誰が。
娘は10人。もう全員出たはずなんだけど。
下を向いたままの私の耳に、重ねてギターの音が催促するみたいに響いてくる。
弾いてるというより、ただ鳴らしてるだけ。ヘタクソだ。
顔を上げないでいると、じゃかじゃかじゃかじゃか、むちゃくちゃに音を出しはじめる。
うるさい。
私は顔を上げた。
じゃん。
嬉しそうな音。
嬉しそうな顔。
組んだ膝の上には、その華奢な体に不釣り合いな、大きなギター。
「おうっ」と軽く右手を上げる、そんな小さな仕草さえ、いちいちカッコつけずにはいられない市井ちゃんを私は嫌いじゃない。嫌いじゃないけど。
まったく同じ動作を逆に繰り返してまた下を向いた私に、市井ちゃんは
「ちょっとちょっと〜」と例のテンション高い声で言った。
「無視か〜。ひっどいなぁ」
ちゃららららん。
高いギターの音。
なんだかむしょうにムカついてくる。
私は下を向いたまま口を開いた。
『ひさしぶり、市井ちゃん。でも、後藤今めっちゃブルーなの。だからなんか言いたいことがあるんだったら、適当に言って適当に帰ってクダサイ』
「ずいぶんな態度じゃないっすか。後藤さんさぁ」
『いい』
「いや、あんたはいいだろうけどさ……。わざわざ出て来た私に、それはないんじゃない?」
『あたし、今いっぱいいっぱい。市井ちゃんの悩みなんて、聞いたげる余裕ない』
「カン違いしてるなあ、この人は」
困ったような大きなため息が私の髪にかかる。
「あのね、べつに私には悩みなんてないし……」
『うそだね』
弟と話す以上に、意地悪なくちぶりになるのを止められない。
『悩みのない人間なんていないんだ。みんな悩んでるんだ。なんでもないような顔して、人には隠して、心の中に抱え込んでるんだよ。それなのに表面上はにこにこして、楽しそうにしちゃってさ。みんな嘘ばっかり、ごまかしてばっかじゃん』
テーブルに向かって、もやもやしてるものを吐き出す。
口もとにこもる熱を持った言葉の息が、生温かくってキモチ悪い。
言っても言ってもぜんぜん楽になんない。
『市井ちゃんもウソツキ。あの時……悩んでたクセに誰にも、圭ちゃんにだって相談しなかったじゃん。みんなそうなんだ。ほんとのことはみんな言わない。みんなが言ってくれるのは嘘だけなんじゃん。嘘なんかあたし、聞きたくない』
「――そうだね。嘘ついてるっていうのは否定できないかもしれない。ウソツキかもしれない。私も、みんなも。けど……」
がたんと大きな音がして、伸びて来た白い手が私の顔をむりやり上げさせた。
「あんたもでしょ」
テーブルの上に乗り出した市井ちゃんの顔が、こちらをじっと見てる。
そして「あんたこそ、なにがツライの?」と言った。
『ナニ……なに言ってんの? 後藤なんもツラいことなんてないよ』
「きっと私は聞きに来たんだ」
『ナニを』
市井ちゃんはにっこり笑った。おばちゃんっぽい笑顔。
「後藤の、お話をさ。あんたの番なんだよ。だから、ゆっていいんだよ」
市井ちゃんは相変わらず市井ちゃんだった。
すぐに私の顔から手を離すと、市井ちゃんはギターをあちこちにぶつけながら椅子に座りなおす。
なにを言えばいいんだろう。
言葉はスムーズに浮かんでこなかった。
市井ちゃんがギターを抱えなおしながら、ちらりとこちらを見る。
「なんでもいいよ。思いついたこと、普通にしゃべったらいい。なんでだかわかんないけど、だいたいのことは私知ってるみたいだし」
『うん……』
私はギターを指さした。
『どしたの。それ』
「そう来るか。へっへっへ、買っちゃったんだよん」
じゃん。
いい音が細い指先から響く。
そして市井ちゃんは興味深そうに部屋の中を見渡した。
「それにしても……なんなんだろね、ここは。あんたの夢? 私の夢?」
『わかんない』
「私と後藤は同時にこの夢見てんのかな。それともどっちかの中にどっちかが……。あんたの中に私がいるのかな。私の中にあんたがいるのかな」
『わかんない』
「ひょっとしたらさ、この私は実際の私じゃなくって、あんたの心の中にいる“市井”ってイメージが作り出したモノなんかも知れないよね。だとしたら、今までに出て来たみんな、後藤の中のイメージってことになんのかな?」
『むつかしいよ』
「私もぜんぜんわかんない。そもそも、夢みたいに不確かなモンに理屈をつけようってのが無意味なんだな」
市井ちゃんはなんだか楽しそうだ。
すこしだけ重い気分が浮上する。
まだうまく言えない気がするが、私は口を開いた。
『あの、ね』
「うん?」
うながす声はやさしい。
『みんな、いろいろ、いろいろ……めっちゃイロイロ、後藤に言うの。みんなね、悩んでるみたいなんだ。どんな悩みかとかはプライバシーのシンガイだから、言えないんだけどさ。夢の中でいっぱいいっぱい、後藤が考えてもなかったこと、話してくれる。でもあたし、なんもしてあげられないから、ぼーっと聞いてるだけなのね。でね、目が覚めて現実で聞くとさ、みんな絶対そんなこと顔に出さないの。“なに言ってんの?”って。“そんなことない”って。悩んでるくせに、言ってくれない』
市井ちゃんは知った風な表情でうなずいた。
「そりゃ言わないさ」
『なんで』
思わず出たキツイ響きを軽く聞き流して、市井ちゃんは言う。
「だって言えないから悩んでんだよ。違う?」
『…………』
「口に出したら現実になっちゃう。だからみんな、ほんとのことは言わないのさ」
『あたしは知りたいよ!キライなのに、仲いいフリされてるのなんて、そんなのヤだよ。キライだったらキライって、ムカツクんだったらムカツクって言って欲しいもん!』
「じゃ後藤聞くけどさ。本当にメンバー全員平等に好き?この人と二人だけになるの、ちょっと苦手だなぁ、とか、この人のこういう所めちゃめちゃムカつく、とか、そういうのってない?」
『……そりゃ、ある……けど』
「だろ。もちろん私だってある。ない人間いないよ。だけどみんな口に出さないじゃん」
しぶしぶうなずく。
市井ちゃんは満足げに笑った。
「口に出さないのはそこに愛があるからなんだよ。そこに愛はあるのかい?ってなんかのドラマみたいで嫌なんだけどさぁ」
市井ちゃんは似てないモノマネに、でへへとだらしなく自分で笑った。照れているのだろう。
「まとにかく、そういうことだと思うのよ。好きだからさ。ツライこと、ヤなことあっても、みんな気づかないフリして、気づいても忘れたフリして過ごしてんだ。それはきっと壊したくないからで、傷つけたくないからで、この毎日が好きだからだ。みんなウソツキかもしれないけど、私も後藤もウソツキかもしれないけど、それでいいんだよ。私は、そう思うけど」
『でも……』
私は胸の中に今もぐるぐるしている、消えない痛みに心を凝らしながらつぶやいた。
市井ちゃんの言葉が、ずっとごまかしていた傷に、私の意識を戻す。
私はそれをじっと噛み締めた。
(キエテ)
(シンデ)
気分がまた悪くなってくる。
『だったら、なんであたしは知っちゃったの?もう知っちゃったんだもん。知らないふり、なんて、できないよ』
口が大きく横に開いた。
涙がこぼれる。
私は上を向いて泣き出してしまった。
ばかみたいに泣きじゃくる。
カオリの時みたいに、涙の洪水でこの部屋が沈んじゃえばいいのに。
わーん、わーん。
ほんとばかみたい。それでも涙は止まらない。
市井ちゃんは立ち上がると、私の頭をなでた。
ますます泣きたくなる。
なつかしいとか嬉しいじゃなく、なでられる側からなでる側になってしまった私には、その感触がもう気恥ずかしくなってしまったことに。
「いつかきっと……本当に知って欲しい時が来たら、言ってくれる。もし来なければ、それはきっと知らなくていいことなんだと思う」
市井ちゃんが私の背中をぽんぽんとたたく。
「だから、後藤も。辛いことは、ここに閉じ込めて行きな」
めちゃめちゃにしゃくりあげながら、私は“そんなことできない”という意味のことを口にした。
「大丈夫。忘れちゃえばいんだよ。人間ってうまいことデキてんだ。ツライことは、自分で忘れるようになってんのさ。……ホントうまいことできてるから。これ、夢なんだし、簡単に忘れられる。忘れようとしなくても、きっと覚えてないから」
私は市井ちゃんの顔を見上げてつぶやいた。
『 』
心配そう、というよりは真剣過ぎてにらむみたいな目つきでこっちを見てるのは、市井ちゃんだった。
その膝の上にはギター。
「なに……まだ起きれてないんだ……困ったねぇ」
ぼそぼそとこぼれた私の言葉の意味がわからなかったらしい。
細い眉を寄せると、市井ちゃんはこっちに向かってぐぐっと体を乗り出した。
「なに言ってんの、あんた?」
「んぅ? いや、だから……あれ」
私は自分の体がベッドの上に寝かされていることに気がついた。
ゆっくりと体を起こす。
「ちょっと! 起きるのはまだ早いでしょ」
あわてた市井ちゃんの声。
白い部屋、白い天井、ギターを持った市井ちゃん。
夢と同じ、でも、ここは、違う。
病室。
ぎり、としめつけられる感じがして、私はお腹を押さえた。
「だめだって」と市井ちゃんが私の体を支えるようにしてもう一度ベッドに寝かせる。
おとなしく再び横になった。
なんだか唇がかさかさしている。のども痛い。
「ばっかもう……寝ぼけてんじゃないよ」
市井ちゃんはあきれた声で私を見下ろすと、ギターを抱え込むようにして再びパイプ椅子に座る。
「ね。ここって病院?なんであたしこんなとこいるの?なんで市井ちゃんこんなとこいるの?」
「あんたは胃炎で倒れてこの病院に運び込まれて、私はお見舞いに来てるんだよ」
「胃炎……」
「そう。軽いモンらしいけど。気ィつけなよ、胃はクセになるぞ」
「うん……。でもなんで?」
「なにが」
「市井ちゃん」
ああ、と市井ちゃんは髪をかきあげた。
「矢口からメール入ってさ。行けるの紗耶香だけなんだから、行ってあげてくれって。今日こっちに用事あったから、ついでだし、寄ってみた」
「ふうん……」
私は枕から浮かせていた首の力を抜いた。
やわらかさに頭が沈む。
「で、どう?お腹痛くない?」
「ん……痛いけど、前ほどハゲしくはないみたい……」
「そか。お姉さんとお母さん、今ご飯行ってるからそのうち戻って来ると思うよ」
「げ。……そんなにおおごと?」
「そりゃそうだろうよぉ。だってあんた、みんなの前で倒れたんだぜ。バターン、て」
「そっか……」
私は天井を見上げている。
そういえばここんところずっとずっとお腹痛かったんだよね……。
まさか倒れるなんて。ドラマじゃあるまいし。
「なんかさ……なんかさ、ヘンな夢いっぱい見たよ」
「夢?」
「うん。市井ちゃんも出てた。みんな出てた。すごい長いの、連続ドラマ」
「へえ。どんな」
「……えっと……」
おかしいな。
さっきまでは覚えていたのに。
考えこむ私に、市井ちゃんは首を振った。
「ま、今度ゆっくり聞かせてちょうだい。なんか欲しいモンある?」
「うん……とくに」
「お茶とか……。あ、でもお腹だもんな。勝手にそんなんあげちゃだめかも。先生呼んでこよう」
立ち上がりかけた市井ちゃんに、私は首を振った。
「まだいい」
「けど……」
「いいからさ」
どうしてだろう。
とても心細い気分だった。
市井ちゃんは素直に腰を下ろす。
私はいちいちじゃまそうなギターを指さした。
「どしたの。それ」
「ん? ああ。言わなかったっけ?」
「聞いてないよ」
「へっへっへ、買っちゃったんだよん」
後藤意識が戻ってよかったの歌〜、といきなり叫ぶと、
♪よかったよかったよかったなーん、とかなんとかデタラメな歌を口ずさみ、ギターをじゃかじゃかいわせる市井ちゃん。
所ジョージさんみたい。
――と言ったらきっとショックを受けるだろうから、黙っておこう。
私はひゃらひゃら笑った。
ひさしぶりで、そこまでテンション上がってないくせに、無理してそういうことする市井ちゃん。
しかもちょっと寒い。
そういうとこ、どうかと思うけど、口には出さない。
ほかにいいところがあるの、知ってるからだ。
脱退の時、急にそんなこと言い出した時、正直めっちゃムカついた。
実は今もムカついてる。うまく話せない。
だけど言わない。困らせたくないからだ。
「ああ」
私は大きな声を出した。
こういうことなんだ。
「なんだよ、でかい声出して……」
市井ちゃんがきょとんとこちらを見る。
「あ……」
なにがこういうことなんだ?
自分でもわからなくて、今考えたことをもう一度巻戻し再生する。
やっぱりよくわからない。
でもわかる気もする。
私はへらへらと笑った。
「わかんない」
「なんだ、そりゃ」
笑い声にあわせて、私の丈夫な胃袋が大きな鳴き声を上げた。
エピローグ
「紗耶香!」
自分の名を呼ぶ声に私は振りかえった。
背中にかけたギター越しに、帽子を目深にかぶった小さい姿が駆けて来るのが見える。
「おお」
私は目を丸くした。
「なに? なんでこんなところいんのさ?今日みんな仕事って聞いたけど」
「うん、ちょっと抜けて来た」
「マジぃ? そんなんできんの?」
「うん」
彼女は膝に手をつくと、ハアハアと荒い息をはく。
抜けてくるといったって、そう簡単にできることではないはずだ。
私はなんとなく感じた釈然としないものをそのまま口に出した。
「ねえ、なんでなっちがそこまで心配すんの?いや、メンバーなんだから心配するの、あたりまえだけどさ。今日だってワザワザ私に行ってくれだなんて……。それも、名前出しちゃダメだとか」
なっちは額にふきだした汗をぬぐって、私に笑いかけた。
「だから――それは昨日も説明したっしょ」
「後藤と……ケンカしたからって?」
「うん。で、具合どう?」
急きこんでたずねるなっち。
「うん。大丈夫そうだったよ。もう明日にも退院できるみたいだし、雑誌いっぱいあげて冬物研究でもしときって言ったら喜んでた」
「そう」
なっちは静かにうなずいた。
自分から聞いておきながら、なんだか上の空に見えるのは気のせいだろうか。
なっちは私のギターをつついた。
「でっかい。バンド少年みたいだね、紗耶香」
「今日習いに行ってたから。ヘタなのに持って歩くの恥ずかしいんだけどさ」
「ふうん」
会話は広がらない。彼女の心はふわふわと違うところに浮いているようだ。
他人に興味がなさそうなのはいつものことだけど。
人が話している時も、自分が次にする話のことを考えている子だ。
なっちは私のギターに目を合わせたまま
「ごっちんさ、なんかなっちのこと言ってなかった?」
と言った。
私は首を振る。
「やー、なんも」
「そう……」
なっちは笑った。
心底ほっとしたみたいに。
「なんだかなぁ。気にし過ぎなんじゃないの?後藤ぜんぜん普通だったし。まあ、病気だから元気はなかったけどさ……あ、そういえば」
「なに?」
「あ、カンケーないけどね。ヘンな夢いっぱい見たって言ってたな」
「夢……どんな」
「イヤな夢もイイ夢も、たくさん見たって。ま、倒れてからこっち、けっこう長いこと眠ってたみたいだし夢も見るわな。でも、どんな夢? って聞いても“忘れちゃった”って。後藤らしいね」
「夢……そう。夢」
「……なっち?」
なっちは私の顔を見た。
なぜだか見てはいけないものを見た気がして、なっちの視線を振りほどく気分で、私はずり落ちてくるギターケースを揺すり上げた。
目を閉じる。沈んで行く、大好きな眠りの中。
もうきっと悪い夢は見ない。
おやすみなさい。