ノノジャーノンに花束を

 

けえかほおこく1−3がつ3日

 さくらいはかせわののが考えたことや思いだしたことやこれからのののまわりでおこたこと
わぜんぶかいておきなさいといったれす。
 なぜだかわからないけともそれわ大切なことでそれでののが使えるかどうかわかるそうれす
。ののを使てくれればいいとおもうれすそれはのののあたまをよくしてくれるかもしれないと
いったかられす。ののわかしこくなりたいれす。
 ののの名まえは辻希美れす。しごとはモーニング娘。れす。ののの年わ13さいで6がつに
たんじょお日がくるれす。
 うまく文しょーがかけませんとさくらいはかせにいったけれろもそれわかまわないからしゃ
べているよおにかけばいいからといってたれす。さくらいはかせはどんどんかきなさいといい
ましたけどもう考えれないからかくこともないからきょーわこれでやめれす・・・・かしこ辻
希美

 

けえかほおこく2−三がつ四日

 きょーわけんさがあったれす。ののはしぱいしたとおもうれす。ふう、うつれす・・・。
どういうことがあったかというとドアに心理とかいてあるちーちゃい部屋で男のしとがかーど
を見せて希美ちゃんこのかーどになにが見えるかといったれす。こぼれたいんくが見えたので
白いかーどにいんくがこぼれているのが見えるれすきれえなぽちぽちもようれすねといったれ
す。
 男のしとはいんくの中に絵が見えるだろうといったれす。いしょけんめ見たれすがいんくし
か見えませんれした。ほかのしとはいんくのしみからいろんな絵をそーぞーするのらそうれす

 ののはこのてすとにうかたとわおもわないれす。

 

だい三けえかほおこく

三がつ五日
 かーどのいんくのことわ気にしなくてもいいよとさくらいはかせがいったれす。ののはいん
くの中に何も見れなかたれすといったれす。みんなわそれでもののを使うつもりだといったれ
す。
 さくらいはかせがとてもまじめな顔でいったれす。希美ちゃんきみわ知っているだろうがこ
の実けんがしとにどんなえいきょうをあたえるかわからないのだいままでわ動ぶつだけしか実
けんしていないからね。
 ののは痛い目にあってもかまわないのれすののわかしこくなりたいのれすといったれす。
 このけえかほおこくわあまりたくさんかかないですむといいなとおもうれす。
 どおしてかとゆうとうんと時間がかかるのれだんすのれんしゅうができないのれののはおぼ
えがわりいのれだんすをしぱいすると安倍しゃんにどなられるかられす。
 安倍しゃんはののが何かしぱいするといつもどなるけどのののせんぱいなのでのののことが
好きなのれす。
 もしもののの頭がよくなったら安倍しゃんわびっくりするれしょうね。

 

けえかほおこく4

3がつ6日
 きょうはもっとへんてこなてすとをしたれす。
 絵を見ておはなしをつくるてすととか穴のなかにぴたしはめるぱずるとかをやったれす。
 めえろというげーむもやったれす。えんぴつではじめとかいてあるところからどの線もわた
らないでおわりとかいてあるところまで行かなければならないのれす。
 めえろげーむわよくわからないので紙を何まいも使てしまたれす。するとしけんの先生が白
いねずみをもてきました。これわノノジャーノンといってこのめえろげーむをとてもじょおず
にやるそうれす。
 先生はノノジャーノンをねじりまがったりいろんな形のかべみたいなものが立っていてあの
紙みたいにはじめとおわりがついている大きな箱のなかへ入れたれす。これはりったいめえろ
というそうれす。
 するとれすねノノジャーノンはどんどん走て正しい道をとーってとうとうおわりのところま
でたどりついてしまたれす。
 ののはくやしかたれす。そしたら先生がノノジャーノンときょおそーしないかといったれす
。のぞむとこれすといってののは紙でノノジャーノンはあの箱にはいってそれから十回もやっ
たけれどもいつもノノジャーノンの勝ちでののわおわりとかいてあるところへ行く道がどおし
てもわからなかったれす。
 ねずみがこんなにりこうとわ知らなかたれす。

 

けえかほおこく5−三がつ6日

 さくらい博士わこういったれす希美ちゃんわれわれわ長年この研究をしてきたけれどもノノ
ジャーノンのような動物だけにやってきた。にく体てきな危険わないとかく信するがやってみ
るまでわよそくのつかないことがおこるかもしれない。あいQが68の人間がきゅうに高くな
るのでぐわいが悪くなるかもしれない。失ぱいにおわるかもしれない。
 ののわなにもこわいことわないから平気れすといったれす。
 しじつがすんだらかしこくなるようにがんばらなくてわいけませんね。いしょけんめいがん
ばろー。

 

第六けえかほおこく−三がつ8日

 ののはこわいれす。大学ではたらいているしとや医がくぶのしとたちがおーぜえ幸うんをい
のるといってくれたれす。
 しじつがおわたらノノジャーノンを負かしてやれるかなとさくらい博士にきいたらたぶんと
いった。もししじつがうまくいたらあのねずみにののだってあんたと同じくらいりこーになれ
るしもっとりこーにもなれるんだとおせえてやるれす。それからののわもっと上手に読むこと
や字をかくこともできるようになるしいろいろなことをいぱいおぼえてほかのしとたちと同じ
になるだろう。きっとみんな警くれしょうね。わーいののがみんなみたいにかしこくなったの
がわかたら警くれしょう。

 

経過報告7−三月十一日

 しじつわ痛くなかったれす。眠ているまに桜井博士がやったれす。看ごふさんが経過報告と
いう漢字をおせえてくれたれす。
 のののかいているこの経過報告は実けんの一部で報告書をしらべてそうすればののの考えの
うごきがわかると他の先生がいったれす。
 でもとにかくこれわ科学なのでののわほかの人たちと同じように頭がよくなるようにがんば
らなくてわならないのれす。そして頭がよくなったらみんなののとしゃべってくれるでしょう
から加護ちゃんや吉澤さんや安倍さんたちと同じように話をきけるようになるれす。ののもみ
なさんみたいに話し合いたいのれす。
 もしののの頭が良くなったら話す友だちがたくさんできるからののわもうずーとひとりぼち
じゃなくなるのれす。
 経過報告にわまわりで起こたことわぜんぶかいてよいけれどもそれよりも感じたことや考え
たことや過去のことでおもいだしたことなんかをかきなさいと田原教授がいったれす。

三月十二日
 田原きょー授がこれからはまい日はじめに経過報告とかかなくてもいい。はじめに月日だけ
かけばいい。時間の節やくになる。といったれす。なるほろいい考えれす。

三月十三日
 きょう市井先生が面かいにきてくれて辻さんとっても気分がよさそうねといったれす。
 市井先生はこの大学びょう院でのののような人たちに読み書きをおしえてくれているのれす

 ののは気分わいいのれすがりこうになったみたいな気分がしないといったれす。しじつがお
わったら頭がよくなっていていろんなことがわかるようになってみんなみたいにえらいことを
読んだり話したりできるとおもていたのれす。
 そんなわけにはいかないのよ辻さんと市井先生わいった。きき目はだんだんにあらわれるも
ので頭がよくなるにわうんといしょけんめい勉きょーしなければならないの。
 そんなこと知らなかったれす。でもののわうんとうんとがんばってかしこくなるようにする
れすと市井先生にいいました。ののがかしこくなったところを見たらみんなきっとびくりする
でしょう。ののの頭がよくなったのを見たらもうののを追ぱらたりわしないでしょう。
 市井先生わののの手をそっとたたいてあなたならできるとおもうわといった。わたしわあな
たをしんじてる辻さん。

 

経過報告8

三月十五日
 ののは退いんしたけれどし事にはまだもどらないのれす。なにも起こらないれす。てすとを
たくさん受けてノノジャーノンといろんなれーすをやったれす。ののはあのねずみがきらいれ
す。いつだってののを負かすかられす。あのげーむはもっとどんどんやらなくちゃならないし
てすとも何ども何ども受けなくちゃならないと田原教授がいったれす。
 あんなめえろなんてばっからしい。それからあのいんくのかーどもばっからしい。それから
ぱずるもうまくできない。
 たくさん考えたりおもいだしたりしようとするとづつーがするれす。桜井博士はののを助け
てくれるといったのにちとも助けてくれないれす。
 市井先生があいにきてくれたれす。なにも起こらないと先生にはなしたれす。いつののの頭
はよくなるのれすか。あなたは心ぼーしなければいけないわとてもゆっくり起こるからいつ起
こったのかわからないの。でもちゃんとよくなっているのよと先生はいったれす。
 でもあのれーすやてすとはばっからしいし、こんな経過報告をかくのだってばっからしいと
思うれす。

三月十七日
 けさ目がさめたらすぐにりこうになったかなとおもったのてすがまだなってないれす。まい
朝りこうになったかなとおもうんですけどもなんにも起こらない。きっと実けんがうまくいか
なかったのれしょう。てすとはきらいだめえろもきらいだノノジャーノンもきらいだ。
 前にはののがねずみよりばかだなんてしらなかったれす。経過報告なんかかく気がしないれ
す。いろいろな事を忘れるのれす。市井先生は心棒しなさいというのれすがののはもううんざ
りの気分れす。それからずうっとづつーがするれす。経過報告はかきたくない。

三月二十日
 モーニング娘。のし事にもどったれす。桜井博士が田原きょー授にし事にもどったほうがい
いといったかられす。でもし事のあいまにまいにち二時かんずつ研究室にきててすとを受けな
ければいけないしこのばからしい報告もかかなくてはならないのれす。うつれす。
 し事にもどれてうれしいモーニング娘。のし事やめんばーのみなさんやいろんなおもしろい
ことにあえなくてさびしかたから。
 桜井はかせはなにかおもいだしたりなにかとく別な事が起きたりした日だけかけばいいので
まいにちは報告はかかなくてもよいといったれす。
 ノノジャーノンがあのめえろれーすでいつもののを負かしてしまうのはノノジャーノンもあ
のしじつを受けたからなのれす。あれはとく別のねずみでしじつを受けてからずーっとかしこ
いままでいる第一ごーの動物なのれす。それは知らなかったれす。じゃあののはふつうのねず
みよりはあたまがいいのれす。いまにきっとノノジャーノンを負かしてみせるれす。わーい。
そうなったらすごいれす。
 桜井博士はノノジャーノンはどうやらええ久にかしこいねずみでいられるらしいこれはいい
しるしだというのはののは同じしゅるいのしじつをうけたかられす。

三月二十一日
 きょうはモーニング娘。の楽屋でおもしろいことがたくさんあった。加護ちゃんがおい辻の
しじつしたとこみてみー脳みそでも足したんかといった。
 みなさんにはののがりこーになるしじつをうけたことはないしょなのれす。
 すると矢口しゃんがののはまぬけだからどあのまえでころんで頭を打ったんじゃないといっ
たらみんなわらった。ののもおかしくてわらてしまったれす。みんなののの友だちでみんなの
ののことを好きなのれす。
 ときどきだれかがつじってるとかいうれす。なんでそんなことをいうのかわからないけれど
もみんながいつもわらうのでののもわらう。きょうは石川さんがりはーさるでまいくをおとし
たときに安倍しゃんがどなった。石川あんたいつからつじになったの。なんで安倍しゃんがあ
んなこというのかののにはわからない。ののはまいくをおとしたことなんかないのれす。
 ののも中澤しゃんのようにソロになれますれしょうかとつんくさんにきいたれす。つんくさ
んは変な顔をしてののの顔を見ていました。そしたら矢口しゃんがのののいったことをきいて
げらげらわらったれす。
 ののはつんくさんやほかの人たちにのののほんもののしじつのことを話してやりたかったれ
す。ほんとうにあのしじつがきいてみんなみたいにかしこくなれればいいとおもうれす。

三月二十四日
 田原きょー授と桜井はかせがこんばんのののへやにきてなぜきめられたとおりに研究室へこ
ないのかといったれす。ノノジャーノンときょーそーするのはもういやれすとののはいったれ
す。それならしばらくきょーそーはしなくていいがとにかくきなさいと田原きょー授がいった
れす。
 桜井はかせが希美ちゃんきみにはまだわからないだろうがきみはどんどんかしこくなってき
ているよといったれす。われわれはてすとやきみの話し方やこーどーや経過報告なんかでその
変化を追う事ができる。きみがもうじき高い知のーをもった少女になるのはまちがいない。わ
かりましたとののはいったれす。
 それからいつになったら市井先生の組にもどれますかときょー授にきくと市井先生はののを
とく別におしえるために大学のてすとせんたーにもうじきくることになっているといったれす
。それはうれしいれす。しじつをしてからずっとあっていないけれども市井先生はいい人れす

三月二十六日
 ののはきょうおもいだしたことがあるれす。それは市井先生のことや読み方をならいにいっ
た学校のことれす。

 昔お父さんにつれられて大学びょう院の精しんちたいセンターというところへいったれす。
そこには大きなへやがあって何人かの人がドアのそばにいたれす。ののは読み方や書き方をな
らいにいくときいてうれしかったのれお父さんが他の人とはなしていたのでひとりでドアの方
へはしっていったれす。そこにいた女の人に読み方と書き方をおしえてくらさいののは本が呼
んでみたいのれす。てへてへ。といったれす。その人が市井先生だったのれすがそのときは知
らなかった。ええいいですよでも読み方をおぼえるまでには長い時間がかかります何年もかか
りますからそれを承知しておいてください。そんなに長くかかるとは知らなかったでもどうし
てもならいたいのれす。
 女の人はののとあくしゅしてよろしくね辻さんといったれす。わたしがあなたの先生になり
ます。名まえは市井紗耶香です。ののと市井先生はこうしてはじめてあったのれす。

 考えたりおもいだしたりするのはたいへんれす。ふう。

三月二十八日
 頭つうがするれす。でもこの頭つうの原因はわかってるれす。それはパーティーのせいれす

 加護ちゃんと矢口しゃんと安倍しゃんと飯田さんがののをパーティーへ誘ってくれたのれす
。ウィスキーは飲みたくなかったのれすがおもしろいことがいっぱいあるよといわれたのれ飲
みました。とてもたのしかったれす。ののはスタンドのかさを頭にのっけてテーブルの上でミ
ニモニのダンスをおどったりしてあそんだのでみんなわらった。
 それからいろいろ話しもしたれす。みんなはお酒をいっぱい飲ませてくれて辻はよっぱらう
とおもしろいといったれす。つまりみんなはののが好きだといっているんだろう。
 パーティがどういうふうにおわったのか覚えていないれすけれどもみんながあの角をまがっ
て雨がふっているかどうか見にきてくれといったので見てきたらもうだれもいなかったれす。
きっとののをさがしにいったのれすね。ののはおそくまでみんなをさがしまわったれす。しか
し道がわからなくなって迷子になってしまったれす。ノノジャーノンなら迷子にならないとお
もうとかなしくなりました。
 そのあとののは親切なおまわりさんに家まで連れていってもらったそうれす。もうウイスキ
ーは飲まないようにしようとおもうれす。

三月二十九日
 ののはノノジャーノンを負かしたれす。二度目はののが負けましたがそれはとても興ふんし
ていたかられす。でもそのあとは八回もまかしたれす。ノノジャーノンみたいなかしこいねず
みを負かしたのれすからののはきっとりこうになったのれしょう。でもりこうになったような
気はしないれす。
 ちょっとだけノノジャーノンを抱かしてもらったれす。ノノジャーノンはきれいなねずみれ
す。綿みたいにやわらかいれす。目をぱちぱちやっていて目をあけると目は黒くてふちはピン
ク色れす。ののはひつじさんが好きれすがノノジャーノンもかわいいれす。
 ののが負かしてしまってかわいそうれすし中よしになりたいとおもったのでえさをやっても
いいれすかときいたれす。でもノノジャーノンは問題をとかないとえさをもらえないのだとい
われました。もし答えられなかったら食べられないからおなかがすくだろうとおもってののは
かわいそうになったれす。
 ののはノノジャーノンとお友だちになりたいれす。

三月三十日
 こん晩し事のあとで市井先生が研きゅー室のそばの教室にきたれす。ののを見てうれしそう
だったのれすがそわそわしていたれす。ののがおぼえていた市井先生よりも若く見えたれす。
 かしこくなろうとおもっていっしょうけんめいがんばっていますとののはいったれす。先生
はあなたにならできるとおもう。あなたはほかの知えおくれのひとたちのためにいいことをし
ているのですといったれす。

 

経過報告9

四月一日
 きょうはののがメンバーのみなさんの振り付けを全部できるといったのれみんなが驚いたれ
す。それはこんなふうに起こったれす。
 タンポポとプッチモニどう時リリースの新きょくのプロモーションで生ばんぐみに出たのれ
すがののはおまけのミニモニでちょっとだけ出えんするためにそこにいたのれすが放送のちょ
く前に保田さんが倒れてしまたのれす。みんなすごくあわてていました。しかし後藤しゃんが
辻あんた保田の変わりにやってみたらどうといったれす。加護ちゃんや矢口しゃんがげらげら
笑ってそうだよ新生プッチモニであんたもユニットデビューしなよといったれす。ののはこわ
かった。そのときはまだ自分が歌詞も振り付けもおぼえているなんてしらなかったのれす。み
んなやれといったのれすが石川さんだけはやめようよどうしてこのかわいそうな娘をほうって
おいてあげないのといったれす。でも誰も聞いていなかったようれした。
 でもののはうまくできたのでみんなとても驚いていてとくに矢口しゃんがおどろいていたれ
す。そのあと他のきょくやいろんな人のパートをやってみたら全部おぼえていたれす。みんな
がまわりに集まってきてこのことを話したのでののはこわくなったれす。だってみんな変な顔
をしてののを見るしみんな興ふんしているかられす。矢口しゃんが近ごろ辻はおかしなところ
があるといったれす。すると吉澤さんもうんわたしもそう思いますといったれす。
 このことでつんくさんや他の人たちにすごくほめられました。でもどうして矢口しゃんや加
護ちゃんがののにあたりちらすのれしょう。
 これはののがかしこくなったということなのれしょうか?

四月四日
 のののおぼえ方は早いと市井先生がいうれす。ののの報告を読んでののをおかしな顔でみた
れす。あなたはいまにみんなの鼻をあかすでしょうねと先生は言ったれす。なぜれすかとのの
はきいた。きにしなくてもいいけどみんながあなたの考えているようないい人じゃないことが
わかってもがっかりしちゃだめよと先生はいったれす。ののの友達はみんな頭がいいしみんな
いい人れすよとののはいったれす。みんなのののことが好きでいじわるなんかしたことないれ
すよ。すると市井先生の目になみだがたまってきて洗面所へ走っていってしまったれす。
 教室で待っているあいだに市井先生はのののむかしのお母さんのようにいい人だなーと思っ
たれす。お母さんはののにいい子になりなさいといつも言っていたれす。

四月六日
 今日、ののはならった、れす、句読点を、これ、が、読点、れす。市井先生、が、これ、は
大切です、と、いった、れす。なぜかというと、文が、わかりやすく、なる、から、れす。
 先生はいう、れす、みんな、読点を使う、だからのの、も使う、みんなのように、、、、、、

四月七日
 ののの読点の使い方は間違っていたれす。市井先生が辞書をひいたり文法書を読んだりして
覚えなさいといったれす。
 とにかくこういうやり方で句読点という字も正しく覚えたれす。市井先生はそれからいろい
ろな記号をおぼえなければならないといったれす。
 先生はいったれす。あなたは。それらを!組み合わせ?て使わなければ――ならない。先生
は教えてくれた?ののに」それらの!組み合わせ』方を、もう!ののには。色色な(種類の句
読点を――ののの。文章、の中に!組み合わせることができる?たくさんの、規則を――『お
ぼえなければ?ならないが。だんだん、おぼえてきたれす。
 市井(先生?が。好き、なのは、ひとつは?のの」が、質問――すると、かならず!理由』
を話、してくれる」ことれす。先生は」天才れす!ののも?先生−のように−かしこくなれれ
ばいいれす?

四月八日
 ののはなんてアホなんれしょう!!先生のいっていることを理解しようとすらしなかったの
れすから。昨夜文法書を読んだら全部説明してあったれす。そのとき市井先生はこれと同じよ
うにののに教えようとしていたんだと気づきましたが、あのときはわからなかった。真夜中に
おきたらすべてがはっきりと理解できたれす。
 句読点の働きをよくのみこんでから、前の報告をはじめから読み返してみました。やれやれ
れす、なんというめちゃくちゃな文章を書いているのれしょう!全部読み返して間違いを訂正
したいと先生に言うと、「だめよ、辻さん、田原教授はこのままがいいと言ってるの。報告書
をコピーしてからあなたにわたしているのはそのためなの――自分の進歩を確かめさせるため
よ。あなたは急速に進歩しているのよ、辻さん」
 それを聞いたらいい気分れした。学習のあとでノノジャーノンとあそんだれす。もう競争は
しないれす。

四月十日
 気分が悪いれす。胸の中がからっぽになったみたいで、なぐられたような感じと胸やけがす
るような感じと両方れす。
 昨夜、矢口さんと加護ちゃんがまたパーティーにさそってくれたれす。男の子がたくさんい
て後藤さんや飯田さんもいたれす。この前のことをおもいだしたので、飯田さんにお酒は飲み
たくないれすといったれす。飯田さんはそのかわりにコーラをくれたれす。
 しばらくのあいだはとても楽しかったれす。
「二宮と踊りなよ」と後藤さんがいったれす。「ステップを教えてくれるわよ」それから後藤
さんは目の中になにか入ったみたいに、彼にむかって目をぱちぱちさせたれす。
 後藤さんはののを二宮さんに押しつけたれす。それで彼はののと踊ってくれました。ののは
三回ころんだれすが二宮さんとのの以外踊っている人がいないのにどうしてころんだのかわか
らなかったれす。だれかの足がいつも突きだされるのでののはころんでばかりれした。
 みんなののたちの周りに輪になってののがころぶたびにどっと笑ったれす、ののもとてもお
かしかったので笑ったれす。でも最後に転んだとき、ののは笑わなかった。ののが起きあがる
と加護ちゃんがまた押したおしたれす。
 そのときの加護ちゃんの顔つきを見ると胃の中が妙な感じになったれす。
 みんなげらげら笑っていました。
 矢口さんがいったれす、「こんなに笑ったのはあれいらいだよー、ほらこいつに雨が降って
るかどうか角をまがって見てきなって言ってそのまま帰っちゃったじゃん!」
 みんなはののを笑いものにしていたのれす。矢口さんや安倍さんがののを連れ歩いたのはの
のを笑いものにするためだったのれすね。みんなが「つじってる」っていうときどういう意味
でいっているのかようやくわかったれす。
 ののははずかしい。

四月十三日
 みんながののを笑っていたことがわかってよかったと思うれす。このことをよく考えてみた
れす。それはののがとてもばかで自分がばかなことをしているのもわからないかられしょう。
ひとはばかな人間がみんなと同じようにできないとおかしいとおもうのれしょう。
 とにかく自分が毎日少しずつりこうになっていくのがわかるれす。句読点も知っているし、
字もまちがえなくなったれす。むずかしい言葉は辞書でひいて覚えるれす。本もたくさん読む
し、市井先生はののの読み方が早いというれす。それから読んでいる内容もだいたい理解でき
るし、頭にもよく入るれす。ときどき目をとじて読んだページをおもいうかべるとページ全体
が絵のようにそっくりそのままおもいだせます。

四月十四日
 今日も博士の研究室へ行ったれす。桜井博士は精神科医であり脳外科医れす。ののはそれを
しらなかったれす。ただの医者だと思ってたれす。博士はきみは自分自身を知ることが大切で
、そうすればきみの問題を解きあかすことができるのだといったれす。
「きみは知能が高くなるにつれていろいろな問題をかかえることになるだろう、希美ちゃん。
きみの知的成長は感情的成長を追い越している。助けがほしいときはここに来ればいいよ。」
 どういうことなのかののにはまだよくわからないのれすが、大切なのは記憶の中の人物が何
をいっているのか思いだすことで、それはすべて昔ののののことで、何があったか思いださな
ければならないのらそうれす。

四月十五日
 近頃ずいぶん本も読むし、読んだことはほとんど頭に入ってます。歴史や地理や数学のほか
に外国語もはじめたほうがいいと市井先生がいったれす。
 二、三週間のうちに大学の課程を学ぶようになるまで心理学の本は読んでわならないと桜井
博士に言われたれす。読めば頭が混乱してしまうのだそうれす。
 でも小説なら読んでもよいといったのれ今週は『我が闘争』、『アメリカの悲劇』、『約束
』、『天使よ、故郷を見よ』を読んだれす。

四月十六日
 今日はだいぶ気分がいいのれすが、それでもみんながののを笑いものにしたりおもしろがっ
ていたのかと思うと腹が立ってくるれす。田原教授のいうようにののの知能が増大して、七十
というのののIQが二倍になればきっとみんなののを好きになって友達になってくれるかもし
れない。
 のののはいま百ぐらいで、もうじき百五十を越すらしいのれすが、彼らはののにもっと中味
を注ぎこまなければならないれしょう。ののはどうしてIQなんてものが数字でわかるのかと
ても不思議に思いました。
 明後日ロールシャッハ・テストを受けるようにと田原教授がいったれす。ロールシャッハと
は何れしょう?

四月十七日
 昨夜いやな夢をみたです。けさ目がさめてその夢のことを考えているうちに過去の記憶がよ
みがえってきました。彼の名は和哉。わたしは思い出す・・・・・・

 辻希美が見える――八歳の。
 ときどき子供たちがボールの投げっこをしているときに彼女を真ん中に入れてくれるので彼
女はみんなにとられないうちにボールをとろうとおもうです。彼女は真ん中に入れてもらうの
が好きなのです――ボールは一度もとれないけれども――そしていつだったかその中の一人が
ボールをとりそこなって落としたときに彼女が拾ったのに投げさせてくれず彼女はまた真ん中
に入れられた。
 女の子はみんな和哉くんが好きだった。サッカーが得意で、話もおもしろい、そしてとても
かっこいい。
 彼はほかの子みたいに彼女をからかったりしない。それで彼女は彼が気になっていた。だか
ら彼女は彼のまえで踊ったり、へんなことをしてみる。そうすると彼は笑ってこう言う。「お
い、辻をみてみろよ。あいつ、おかしいんじゃないの?ねえ、あいつ、ばかじゃないの?」
 今日はバレンタインデーで、女の子たちは和哉くんにおくるチョコのことを話している。そ
こで希美はこう言う。「ののもかずやくんにバレンタイムをあげるのれす」
 みんなが笑う。
 彼女は母にチョコとメッセージを贈るためのカードを買ってもらい、翌日の昼休みにそれを
彼女の友達の一人のところへもっていきメッセージを書いてくれと頼む。
 こう書いてくれと友達にいう。「大好きなかずやくんへ ののはかずやくんが世界でいちば
ん大好きれす。ののと結婚してほしいのれす。てへてへ。ののの恋人になってください。――
かしこ、辻希美」
 友達はげらげら笑いながら紙に大きな字をとてもていねいに書いた。

 希美は怖いけれども和哉くんの家まであとをついていき、彼が家の中に入ってからチョコと
カードの入った包みをポストの上において、それからベルを二度ならして急いで隠れた。
 和哉くんが出てきて不思議そうにあたりを見まわす。それから包みに気付いて、それをもっ
て家にもどった。
 あくる日彼女は学校までずっと走っていくが、時間が早すぎて和哉くんはまだ来ない。胸が
どきどきする。
 やがて和哉くんがやってくるが彼女のほうを見向きもしない。つんとしている。その後も何
も言ってこない。廊下ですれちがったのできいてみようとおもって近づくと彼はものもいわず
に彼女を押しのける。
 校庭に出ると彼のお姉さんがふたり、彼女を待ちかまえている。
「あんたね、弟にいやらしい手紙を書いたのは。」
 希美は、いやらしい手紙なんて書かないという。「ののはバレンタイムの贈り物をしただけ
れすよ」
「弟に近寄るんじゃないよ、このバカ女!そもそもお前なんかこの学校にいられる人間じゃな
いんだ」
 ふたりは希美に乱暴する。顔をおもいっきりはたく、地面にけたおしてお腹を踏み付ける、
二人がかわるがわる蹴る、それから校庭にいた他の子供たち――希美の友だち――がわいわい
やってきて手をたたきながらさけぶ、「喧嘩だ!喧嘩だ!希美がやられてる!」
 服が破けて鼻血が出る。声も出せない。二人が行ってしまうと彼女は歩道にしゃがみこんで
泣く。血はしょっぱい味がする。子供たちは笑ってはやしたてているだけだ。「希美がやられ
た!希美がやられた!」それから学校の先生がきてみんなを追い払う。希美を洗面所へ連れて
いき、血と泥を洗いおとしてから家に帰れという・・・・・・

 みんなが言うことを真にうけていたわたしはずいぶんばかだったと思う。カードを書いても
らった子にしろ誰にしろ信じるべきではなかったのだ。

四月十八日
 ロールシャッハというものがわかったです。インクの染みのテストで手術の前に受けたテス
トです。そうとわかったとたんにわたしは怖くなったです。わたしにはあのカードの中に絵な
ど見つけられないからです。
 試験官がカードを出した瞬間に、わたしは心のバランスが崩れてしまった。恐怖と怒り。試
験官の要求に応じられないことに対する恐怖と、本当はカードに絵などは見えなくて、彼らが
わたしを騙しているんじゃないかという疑惑から来る怒り。突然すべてが爆発したのです。昨
日の夢のせいだろうか?
 わたしはロールシャッハのカードを机にほうり投げて試験官にあたり散らした。彼はなにも
悪くないのに。
 騒ぎを聞きつけ田原教授が部屋に入ってわたしの腕をつかんだ。
「落ちつけ。いったいどうしたんだ?」
「みんながわたしをからかうのにうんざりしたんれす。それだけれす。知らないほうがよかっ
たのかもしれない。でも知ってしまった。わたしにはそれがたえられない」
「ここにはきみをからかったりするものはいないよ。辻くん。落ちつくんだ。」
 わたしはしばらくは興奮が収まらなかったが、どうにか平静を取り戻したです。その後で田
原教授がわたしになにが起こったのか説明してくれたです。わたしは新しいレベルに達したの
だそうです、そして怒りと疑惑がまわりの世界に対するわたしの最初の反応だったのです。
 それから改めてロールシャッハをしたです。カードをゆっくりめくっていったです。今度の
わたしの反応は違っていました。インクブロット(染み)にいろいろなものが見えました。人
やこうもりのシルエットなど。わたしはいろいろなものを想像した。今のわたしにはちゃんと
絵が見えたのだ。

 

経過報告10

四月二十一日
 わたしはミニモニのCD発売のお祝いに昼食でも食べに行きませんかと矢口さんと加護ちゃ
んに言ったのですが、二人とも用事があるという。彼女たちがわたしの変化に慣れるには時間
がかかるでしょう。
 みんながわたしを怖がっているようにみえる。中澤さんに質問しようと近づいて肩をたたく
と彼女はとびあがってコーヒーをこぼしそうになる。保田さんは、わたしが見ていないと思う
ときはわたしをじっと見つめている。娘。のみんなは誰も前のように話しかけてこないし、か
らかったりもしない。だから仕事をしていてもひとりぼっちでさびしい。
 そんなことを考えていると、以前わたしが立ったまま居眠りをして矢口さんがわたしの足を
うしろから蹴飛ばしたときのことが思いだされる。
 不意にがくんとして・・・体がよじれて・・・体の下になにもなくなって、頭が壁にぶつか
る。

 それはわたしだ、といってもまるでだれか他の人間がそこにころがっているみたいだ――も
う一人の辻希美が。なにがなんだかわからない・・・頭をさする・・・矢口さんを見上げる、
中澤さんがその後ろにいる。
「ほっといてやらんか」と中澤さんがいう。「おい、矢口、あんたはどうしてそういつも辻に
ちょっかい出すんよ?」
「どうってことないけどね」と矢口さんが笑う。「けがさせるわけじゃないし。こいつにはな
にもわかってないし。そうだよな、辻?」

 希美は頭をさすりながらちぢこまっている。自分がまた何かへまをやって、それでこんな罰
を受けたんだと思って震えている。
 その様子をなんとなしに見ていた後藤さんが言った。「ねえ、みんな、辻はI WISHの
クラップ(手拍子)のところ覚えられるとおもう?」
 中澤さんがテーブルに片肘をついて言う。「どうしてこの子をほうっておいてやらんねん?」
安倍さんが代わりに答える。「いや、本気だよ、裕ちゃん――まじめな話、クラップみたいな
簡単なことならおぼえられるんじゃない?」
 その言葉が中澤さんの興味をひいたらしく彼女は振りかえって希美をじっと見る。「そやな
ー、おい、辻、ちょっとこっち来てみー」
 吉澤さんが言う。「こんなことはやめたほうがいいんじゃないですか?かわいそうです。」
「まー、まかしとき。」安倍さんの提案に乗り気になった中澤さんは言う。「きっと大丈夫や
って。いいか、辻。あんたもなんか覚えたいやろ?みんなみたいになりたいよな?」
 希美は彼女を見つめる、中澤さんの望んでいることはわかる、希美は窮地に追いつめられた
ような気がする。中澤さんをよろこばせたい、だけど習うとか教わるとかいうことで希美には
いい思い出がない――厳しいおしおきを思い出す。
 希美は後ずさりするが、中澤さんが腕をつかむ。「おい、こら、安心しぃ、痛い目にあわせ
るんやないんやから。ほら、よく見てるんやで。」
 みんなが見ている中で中澤さんが希美に手拍子を教え始めた。「さあ、私がやる通りにあん
たもやるんや。」しかし希美は動きが速すぎるのでとてもついていけない。首を振る。
「わかった。こんどはゆっくりやるからな。私のやる通りにしっかりついてくるんやで。」
 希美は眉をよせて中澤さんの手の動きを眺める。そして、同じ様に自分もやってみる。やっ
ているうちに、頭の中で声がひびく、ちゃんとやるんだ、そうすればみんなが好いてくれる。
希美は中澤さんにも矢口さんにも好かれたいのだ。

 中澤さんは手拍子を止める。だから希美もそうする。
「へえ、すごいやん。見た?矢口。辻がちゃんとやったで」
 矢口さんがうなずく。希美は吐息をつく、こんなふうに成功するなんてめったにないことだ。
「よしよし、辻」中澤さんの顔は大まじめだ。「こんどはあんたがひとりでやってみな。最初か
らやったことを全部思い出すんやで。さあ、やってみぃ。」
 希美は自分の両手を見つめる。するとふたたび恐怖が希美を襲う。最初はどうだったかな?手
はどんな格好にしたのかな?指は?どんなタイミングだった?・・・いろいろな考えがごっちゃ
になって一度にわっと浮かんできて、希美はぼんやり笑って突っ立っている。希美はやりたい、
矢口さんや中澤さんをよろこばせて、自分を好きになってもらいたい。どうしても手が動かない
。しくじるんじゃないかと心配で、身動きがとれない。
「もう忘れてるよ。きゃはははは!」と矢口さんが言う。「頭にのこらないんだ」
 希美は頭に残したいと思う。眉をよせて思い出そうとする。もっと時間をくれれば思い出すだ
ろう。頭のこのもやもやが晴れれば思い出す。もうすこしで思い出すんだ・・・・・。
「よし、辻」と中澤さんはためいきをもらした。「もういいわ。気にせんでええ。あんたはいつ
もみたいにすわって漫画でも見てな。」
 希美はうなずいてニコッと笑い、それから自分のカバンから漫画をひっぱりだして部屋の隅の
ほうにすわりこんで漫画の絵を見る。ページをめくりはじめるとなんだか泣きたくなったけれど
も、なぜだかわからない。なにか悲しくなるような事があったのかな?

この事はわたしのこれまでのどの記憶よりも鮮明だ。しかし矢口さんや中澤さんは、当時と比べ
てのわたしの変わり方を見てどう感じ、どう考えているのだろうか?

四月二十二日
 娘。のみんなは変わってしまった。私を無視するだけではない。敵意を感じる。やりきれない
のは、みんなが私に腹を立てているために前のように楽しみがなくなったことである。彼女らを
いちがいに非難はできない。私の身になにが起こったか彼女らには理解できないのだし、私も話
すわけにはいかない。みんなは、私が期待していたように私を誇りにおもってくれない――少し
も。
 しかし話し相手は必要だ。明日の晩、市井先生を映画にさそうつもりである。勇気をふるいお
こせたらであるが。

四月二十八日
 昨日、母が父と小学校の先生にむかってわめいている夢を見た・・・・・・

「この子は正常よ!正常です!他の子供たちのように成長するはずです。他の子より立派に」母
はすごい剣幕で先生に詰め寄るが父がひきとめる。「この子はきっと大学へ行くようになる。い
まに大物になる。」母はわめきつづける。
 私たちは校長室にいて、大勢の人が困ったような顔をしていたが、教頭先生は笑ってむこうを
向いていたので誰にも顔は見えなかった。
 夢の中の校長先生は私を指差して言った。
「この子は特殊学級へ行くべきだ。養護学校に入れろ。ここに置いてはおけない」
父は母を校長室から引きずり出したが、母は泣きわめく。顔は見えないが大きな涙の粒が私にふ
りかかる・・・・・・
 私はさらに思い出す――母が見える、やせていて、すごい早口で喋ってさかんに身振りをする
女。いつものように顔はぼやけている。彼女はいつも大きい白い鳥のようにばたばたととびまわ
っている――父のまわりを、そして父は彼女の突っつきまわるくちばしから逃れられない。

 床に座って一人で遊んでいる私の上で、母が父にわめきたてている。
「あたしは連れてはいかないわ。この子に悪いところなんかないんだから!」
「どこも悪くないなんて思いこもうとしたってどうにもならないんだよ。この子を見てみろよ、
もう六つだっていうのに――」

「この子はばかじゃない、正常よ。みんなと同じよ。ほら希美、そんなものじゃなくて、ひらが
なの積木で遊びなさい」
母は私の好きなぬいぐるみを荒々しく取り上げた。私はびっくりしておじけづく。体が震えはじ
める。
「おねがいだ、この子をほっておいてくれ。この子をおびえさせているのがわからないのか。始
終こんなことをやっていたんじゃ、かわいそうに、この子は――」
「じゃあ、どうしてあたしをたすけてくれないの?あたしはみんなひとりでしなくちゃならない
。毎日、この子に教えこんで――他の子に追いつくようにしてやらなくちゃならない。この子は
飲み込みがおそいだけ、それだけのことよ。他の子と同じように勉強すればできるのよ」
「おまえは自分を欺いているんだよ。それは、自分や俺に対しても、この子に対しても卑怯だよ
。この子が正常だと思いこもうとしている。そして無理に教えようとしてこの子を追いつめてい
る。なぜなんだ?」
「他の子のようになってもらいたいからよ。」
それから、母は自分に言い聞かせるように言った。
「今度の4月には小学校へ戻って、またもう一年やりなおすのよ」
「どうしてあんたは真実を見ようとしないんだ?普通学級で授業を受けるのは無理だと先生がい
ったじゃないか」

こんな口論が度々行われていた。それは自分のせいなのだと幼い希美は知っていた。お母さんと
お父さんを喜ばせたい、どうすればいいのかな?お母さんがいつも言うようにかしこくなればい
いのかな?ののがかしこくなればもう喧嘩をしなくなるのかな?

 

経過報告11

五月一日
 今日やっと市井先生を誘う事に成功した。私たちは映画に行き、それから夕食を食べにいった。
 一本目の映画は戦争ものだったが、そこそこおもしろかった。二本目の映画は、心理もので、
愛しあっていながらお互いに傷つけ合っている男と女の映画だった。しかしこの映画の内容に私
は腹が立った。その様子を察してか、市井先生がロビーで、どうかしたのかと訊いた。
「あれはうそれす。物事はああいうふうにはいかない」
「それはいかないわよ」彼女は笑った。「あれはお話の世界だもの」
「ちがう!それじゃ答えにならない。たとえお話の世界だって、ルールがなくちゃならない。部
分部分が首尾一貫していて、ぴったり整合しなくちゃいけない。むりやり辻褄をあわせている、
だから不自然なんれす。」
 彼女は私をじっと見つめた。私たちはカフェテリアに向かうために外に出ていた。
「めざましい進歩ね。あなたはいろいろなことを洞察し、理解しはじめたのよ」
「理解できてるなんで思わない。混乱してしまうんれす。自分の知っていることが何なのか、も
うわからなくなりました」

「辻さん、落ちついて。これだけは忘れないで、あなたはひとが一生かかってやることを数週間
でなしとげたということをね。あなたは知識を吸いこむ大きなスポンジよ。あなたがどんどん進
歩していくにつれてまわりの世界がもっともっとひらけてゆくのよ」
 カフェテリアへ入って食事をしながらも彼女は続けた。
「ただただ神さまに祈ってるの。あなたが傷つかないように」
しばらくなんと言ってよいかわからなかったが、ようやく彼女が何を恐れているかわかったので
、私は冗談ぽく返した。
「どうして私が傷つくんれすか?前より悪くなることはないれしょう。ノノジャーノンだってま
だ頭はいいじゃないれすか?彼ががんばっているかぎり私も大丈夫なんれす。それに田原教授が
絶対に失敗はありえないと断言していました」
「そう祈ってるわ」と彼女は言った。「どこかで失敗するんじゃないかって、どれほど心配して
るかあなたにはわからないでしょうね。一部はあたしの責任ですからね」
 彼女が私によくしてくれるのは、単に彼女が親切だからというわけではなくて、自分が私を被
験者として推薦したことに責任を感じているからなのだろうか?

五月十五日
 学習のほうは順調にいっている。大学の図書館はいまや私の第二のわが家である。大学側は
私に個室を用意しなければならなかった。私が書物の1ページを吸収するのにほんの一秒もか
からないので、好奇心にかられた学生たちが、ページをパッパとめくっている私を見にまわり
に集まってくるからである。
 現在私がもっとも興味をひかれているのは、古語の語源研究と変文法の新しい研究とヒンズ
ー教史である。一見ばらばらに見える事物が統合していくさまには驚嘆する。
 大学の食堂で学生たちが歴史や政治などについて論じているのを聞いていると、ひどく幼稚
に思われるのはなんとも奇妙だ。
 大学の教授達も同様だ。彼らは私が意見を伺おうとしても、己れの知識の狭隘さが露呈する
のを恐れてそそくさと逃げていってしまうのだ。
 今までは彼らがなんとちがって見えることだろう。そして教授連を知性ある巨人と思いこん
でいた自分のなんたる愚かさよ。彼らはただの人なのだ――そして世間にそれを気づかれるの
を恐れている。

五月二十日
 モーニング娘。を脱退することになった。過去にしがみついているのは愚かしいとわかって
いるが、ここには心のよりどころがある・・・私にとってモーニング娘。は、わが家なのだ。
 彼女らがこれほどまでに私を憎悪するとは、私がいったい何をしたというのか?
 つんくさんを責めることはできない。彼は商売のこと、他のメンバーたちのことを考えねば
ならない。
 彼は私を事務所に呼び、顔もあげずにこう言った。「オレは、おまえをクビにせなあかんよ
うになった。」事務所に一人で呼び出された事で、なにかあるとは思っていたがあまりに急な
事で私は動揺した。「なぜですか?私は与えられた仕事はちゃんとやろうとおもって最善の努
力はつくしましたし。一生懸命やりました。」
「それはわかっとるわ、辻。おまえの仕事ぶりはちっとも悪ないんや。でもな、何かがおまえ
の身に起こった。それが何なのかオレにはわからん。オレだけやない。みんながそう言っとる
。この何週間というもの、みんなが何回となくここへやって来た。みんな気分が苛立っとる。
ゆうべ中澤が来てな。辻、オレも商売は大事やからなあ。悪いな。」
 無駄な事とわかっていながら、私の中の何かが彼に叛意させようと望んでいた。
「どうか私をここに置いてください、つんくさん。もう一度だけチャンスを与えてください。
私にはこの仕事が必要なんです。」
「いや、辻。おまえに娘。が必要かどうかは関係ない。娘。におまえが必要かどうかや。お前
は知能遅れ初のアイドルという話題性と、あの天然キャラが売りやったんや。ところが今のお
前はどうや、天然キャラで周りを和ますどころか、みんなお前を死ぬほど怖がっとる。ホラ、
見てみい、中澤が持ってきた陳情書や。8人の名前が書いてあるやろ。」
私は陳情書を見た。石川さんを除いて、全員の名前が書いてあった。安倍なつみ、加護亜依、
後藤真希、矢口真里、飯田圭織、吉澤ひとみ、保田圭、中澤裕子。石川さんは、恐らくあった
であろう圧力や脅しにもかかわらず、ただひとり署名に応じなかったのだ。私はこの事に勇気
を得てもう一度だけ懇願した。

「もしみんなが気を変えたら?みんなを説得してみせます」私は彼が予想していたよりも強硬
だったようだ。彼はとうとう溜息をついた。「そんだけ言うんやったらやってみい。でもな、
結局自分が傷つくだけやで」
 部屋から出ると、矢口さんと加護さんが近くにいた。つんくさんの言ったことは本当だとそ
のとき悟った。彼女らにとって私が目に触れるのは耐えがたいことなのだ。私はみんなを不快
にさせている。加護さんに声をかけると彼女は言った。「今ちょっと忙しいねん。またあとで
な――」「いや」と私は食い下がった。「今でなくちゃだめれす。あなたたちは二人とも私を
避けています。なぜれすか?」
 矢口さんがちらっと私を眺め、それから言った。「なぜだって?言ってやろうか。あんたに
何があったか知らないけどさ、いきなり難しい本を読んで訳の分からない質問をしたりして私
達を馬鹿にしたからだよ。あんたは自分が私達より偉いと思ってるんだろ?なら、どっかほか
へ行きな。」
 これはつまりこういう事だ、彼女らは私を嘲笑することができるかぎり、私をさかなにして
優越感にひたっていられる、しかし今では白痴に劣等感を感じさせられている。私のめざまし
い知的成長が彼女らを萎縮させ、彼女らの無能さを際立たせているのだ。このことがやっと私
にもわかりはじめた。私は彼女らを裏切ったのであり、彼女らはそのために私を憎んでいるの
である。
 結局、万事がこんな調子で彼女らの考えを変えることはできなかった。だれひとり私の眼を
のぞきこもうとするものはいない。敵意がひしひしと感じられる。以前、彼女らは私を嘲笑し
、私の無知や愚鈍を軽蔑した。そして今は私に知能や知性が備わったゆえに私を憎んでいる。
なぜだ?いったい彼女らは私にどうしろというのか?
 この知性が私と、私の愛していた人々とのあいだに楔を打ちこみ、私をモーニング娘。から
追放した。そうして私は前にもまして孤独である。ノノジャーノンを他のねずみと一緒の大き
な檻に戻したらどうなるであろうか。彼らもノノジャーノンに背を向けるだろうか?

五月二十五日
 かくして人間は自己嫌悪に陥るのである――己れが間違ったことをしているのを知りながら
、それをやめることができない。市井先生に電話して、すぐに彼女のアパートへ向かった。彼
女は驚いたが中へ入れてくれた。
「びしょぬれじゃない。顔にしずくがたれている」
「雨が降っているんれしょう。市井先生・・・話ができるのはあなただけれす。」
「さあ、タオルで拭かなきゃ。肺炎になってしまうわ。服も乾かして・・・それからお話しし
ましょう」
 私は彼女の用意した服に着替え、彼女がコーヒーを入れにいっている間にあたりを見まわし
た。もちろん彼女の部屋に入ったのはこれが初めてだ。
 何もかもきちんと整頓されている。小さな本棚の上には磁器の人形が一列に並んでいて、み
んな同じほうを向いている。ソファの上のクッションは、無造作に投げ出されているのではな
く、同じ間隔をおいて並べてある。本棚の中の雑誌類も背表紙をこちらにむけてきちんと置か
れている。
「この二、三日、研究室に来なかったわね」彼女はキッチンから声をかけた。「田原教授が心
配してたわ」
「あの連中と顔を合わせられなかった」と私は言った。「なにも恥ずかしがる理由はないんれ
すが、毎日、なにもしないで――モーニング娘。のみんなと顔も合わせずにいるというのが、
なんとも空虚が感じで、耐えがたいんれす。ゆうべもおとといの晩も、溺れる夢を見ました」
 彼女はテーブルの上にトレイを置いた。「そう難しく考えてはいけないわ、辻さん。あなた
にはもう関係がないことなんだから」
「自分にそう言い聞かせてもだめなんれす。メンバーのみんなは――これまでずっと――私の
家族だった。なんだか自分の家からほうりだされたような感じなんれす」

「つまりそれよ」と彼女は言った。「これはあなたが幼児期に体験したもののシンボリックな
反復なのよ。両親が自分のことをいらないんじゃないかと――」
「ああ、やめてください!なにもきれいなレッテルを貼ってもらわなくてもけっこうなんれす
。問題は、この実験にかかわる前には友達がいたということなんれす、私を好いてくれる人た
ちが。いま私が恐れているのは今までに感じたものと明らかに違うんれす。娘。から追い出さ
れたという恐怖、これは漠然としたもので、私には理解できない恐怖なんれす」
「しっかりするのよ、辻さん」
「あなたには、この恐ろしさはわからないれす」
「つまりあなたはこれまでずうっとモーニング娘。にいる事で庇護されていた部分があったの
ね。こんな形で追い出されるのは、あなたにとっては、予想以上のショックだった。そういう
事でしょ?」
「頭でわかっていてもだめなんれす。私はもう自分の部屋でひとりでいられない。昼も夜も街
の中へさまよい出ていく、自分の求めているものがわからないまま・・・。いったい私は何を
さがしているのれしょう?」
 私が話せば話すほど彼女はますます途方にくれた。「あたしに何かできることがあるかしら
?辻さん」
「わからないれす。私は、居心地のいい安全な檻からしめだされた動物のようれす」
 彼女は私のわきに座った。「みんな、あなたをせきたてすぎているんだわ。あなたは混乱し
ている。ひとりぼっちで怯えている」彼女は私の頭を自分の肩に引き寄せて慰めてくれようと
した。髪を撫でてくれた時に私は耐えかねて泣きだした。彼女の腕の中で、私は泣き疲れて眠
った。

 

経過報告12

六月五日
 ほぼ二週間、私が経過報告を提出していないというので田原教授は慌てている。福岡で開か
れる国際心理学会はあと一週間に迫っている。ノノジャーノンと私は彼の報告の目玉である展
示物なのであるから、この経過報告はできるだけ完璧にしたいと望んでいるのだ。
 それから私は桜井博士の提案で今日から報告書の作成にワープロを使うことにした。今では
一分間に七十五語近く打てるようになったので、だいぶ楽になった。
 桜井博士はまた、誰にでも理解できるようにもっと易しく、わかりやすく話したり書く必要
性を指摘した。彼は言語がときとして心を通わせる道ではなく障壁であることを気づかせてく
れる。知能というフェンスのあちら側にいる自分を発見するとは皮肉である。
 市井先生とはときどき会うが、あのときの事を話し合ったりはしない。モーニング娘。を辞
めさせられてから三晩のあいだ悪夢にうなされた。あれが二週間前のことだったとは信じがた
い。

六月六日
 今日初めて市井先生と諍いをする。自分のせいだ。私は彼女に会いたかった。彼女と話すこ
とが私の気分を引き立ててくれるのである。だが彼女を連れ出すためにセンターまで行ったの
は間違いだった。
 手術以来、精神遅滞センターへは戻ってなかった。で、あそこを見られると思うと胸が踊っ
た。
 彼女の組は八時に終わるのだが、私は、あの教室を見たいと思った――ついこの間まで――
そこで私は簡単な読み書きに四苦八苦し、つり銭の数え方を習ったりしていたのだ。
 建物の中へ入り、教室に忍び寄り、姿を見られないように窓をのぞきこんだ。市井先生は机
の前に座っていて、みんなもいたが私の知らない顔もいくつかあった。
 私はついに勇気を奮いおこして中へ入った。
「ののちゃんだ!!」あみちゃんが言って車椅子をこちらへ向けた。私は彼女に手を振った。
 林檎ちゃんが、顔をあげてニタッと笑った。
「どこ行ってた、のぞみ?いい服だね」
 私を覚えていた何人かが手を振り、私も振り返した。市井先生の表情でふいにわかった。彼
女は迷惑がっている。

「そろそろ八時ですね」と彼女は言った。「お片づけの時間ですよ」
 各自が定められた仕事を持っていて、チョーク、黒板消し、教材の片付け等を手際よくやっ
ている。そんな中、あみちゃんだけが仕事をせずに私をじっと見つめている。
「どうしてののちゃん、学校へ来なかった?どしたの、ののちゃん?また戻ってきたの?」
 他の連中も私を見た。私は市井先生の方を見て、彼女がかわりに返事をしてくれるのを待っ
た。長い沈黙があった。彼女らを傷つけないような返事の仕方があるだろうか?
「ちょっと寄ってみただけれす」と私は言った。
 すると林檎ちゃんがクックッと笑い出した。
「なんだかエラブツみたいな口きいてる」彼女はクックッと笑う。
「さあ」市井先生が鋭い声で割って入る。「今日はこれでおしまい。明日の晩六時にまたね」
 みんなが帰ってしまったあと、持ち物を乱暴に戸棚に放り込んでいる様子で彼女が怒ってい
るのがわかった。
「ごめんなさい」と私は言った。「廊下で待っているつもりだったけれど・・・。気になった
んなら謝ります。」
「何も――何も気になることなんかないわ」
「言ってくらさい。今のことでそんなに怒るなんておかしい。何かわだかまりがあるんれす」

 彼女は持っていた本を叩きつけるように置いた。「いいわ。知りたいのね?あなたは前とは
違ってしまった。変わったわ。あなたのIQのことを言ってるんじゃないの。他人に対するあ
なたの態度よ――自分は同じ人種じゃないとでも思ってるの?以前のあなたには何かがあった
。よくわからないけど・・・温かさ、率直さ、思いやり、そのためにみんながあなたを好きに
なって、あなたをそばにおいておきたいという気になる、そんな何か。それが今は、あなたの
知性と教養のおかげて、すっかり変わって――」
 私は黙って聞いていられなかった。「先生は何を期待しているんれすか?しっぽを振って、
自分を蹴飛ばす足をなめる従順な犬でいろとでもいうのれすか?」
「そんなこと言ってないわ。ただ最近あなたと何かの話をしていて、あんなふうにいらだたし
そうな目であたしを見つめると、ああ、あなたはあたしを笑っているんだなって思うの。あな
たが何か説明してくれて、あたしにそれが覚えられないと、あたしが興味がないから、そうす
る気がないんだと考える。でもあなたは知らないのよ、あなたが帰ったあとあたしがどれだけ
苦しんでいるのか。あたしが死に物狂いで読んだ本のことも、大学でとっている講義のことも
。なのに、あたしが何か言うと、なんだ子供っぽいことを言っているなという顔をしてあなた
がいらいらしているのがわかるの。もうあたしはあなたと会話ができないの。あなたが知能を
高めることをあたしは望んでいたわ。あなたに力を貸し、あなたと努力をともにしたいと思っ
た――ところがあなたは、あなたの生活からあたしを締め出してしまった。」
 学校を出ると彼女は声をしのばせて泣いた。そして私は言葉もなかった。バスに乗っている
あいだ、いつのまにか立場が逆になってしまったのだと思った。彼女は私を恐れている。
 IQ百八十の私は、IQ七十であった私と同じくらい市井先生と離れてしまったのだ。

 

経過報告13

六月十二日
 私とノノジャーノンは今日、国際心理学会で披露された。私達は関心の的になった。田原教
授と桜井博士は、私達のことが自慢そうな様子だった。
 最初うけていた印象とは反対に、私は田原教授がちっとも天才とは思えなくなってきた。た
しかに頭は良いに違いないが、その頭脳も、自己猜疑のもやの下でもがいているようだ。彼は
みんなに天才だと思われたいのだ。そして自分が巨人のあいだで竹馬に乗って歩きまわってい
るのがばれるのではないかと恐れているのだ。
 これに比べれば桜井博士のほうは、まだましな方だと言えよう。しかし彼の知識範囲は、あ
まりにも限られているように私は思う。彼は伝統にのっとって、せまい専門教育をうけてきた
のだ。彼の読める外国語が英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語しかないのを知って、私
は驚いてしまった。
 彼らは天才のふりをしていたのだ。手探りで仕事をしている凡人にすぎない。彼らだけでは
なく私が知っている人間はすべて、見かけ倒しだった。
 世界中から集まった権威であるはずの彼らの議論を聞いていても私には不毛に思えてしかた
なかった。
 このことを田原教授の下で研究をしている学生の一人に聞いてみた。
「つまりきみは長い道程を急ぎすぎたんだよ」と彼は言った。「きみはいまとびきりの頭脳を
もち、はかりしれない知能と、大方の人間が一生かかって吸収するよりもたくさんの知識を得
た。だがきみはアンバランスだ。きみは物事を知っている。物事が見える。しかし理解力とか
寛容とかいうものが未発育のままなんだよ。きみは彼らをいかさま師だというが、あの二人が
いつ、自分達が完璧な超人だと言った?彼らは凡人。きみは天才だ。」
 私は天才なのか?そうは思わない。教育学の婉曲語法を借りれば、私は特殊なのである。私
は生涯を通じて特殊であったというわけだ。
 学ぶという事の奇妙さ。奥深く進めば進むほど、存在すら知らなかったものが見えてくる。
51 名前:RIFF 投稿日:2000年10月29日(日)11時59分48秒
 それから今回の研究発表の中で田原教授が私が知らなかったことを明らかにした。
 知能の極点においてノノジャーノンの行動が変則的になったというのである。彼の報告によ
ればノノジャーノンは、あるときは作業を行うことを拒否し――明らかに空腹なときでも――
またときには、問題を解いても、食物を摂ろうとはせず、籠に体をぶつけるのだという。
 この情報が私に隠されていたということはすぐにわかった。その理由を推測して嫌悪の情に
かられた。
 私には思ったほどの時間はないのかもしれない・・・・・・

 

経過報告14

六月二十三日
 今日のことだった。ノノジャーノンが私に噛みついたのだ。私は今日、実験室へノノジャー
ノンに会いにいった。ところが、籠からとりだしてあげた私の手に、彼は噛みついたのだ。私
はもとの籠にもどして、しばらく様子を見守っていた。ノノジャーノンはいつになく機嫌が悪
く、険悪な気分のようだった。実験動物の係りを受け持っている学生がノノジャーノンは変わ
ってきているといった。前よりも非協力的で、迷路を走ることをこばみ、一般の刺激にたいす
る反応も減退している。食事もずっと摂っていないという。これはどういうことを意味するの
か。誰もが動揺している。

六月二十五日
 ノノジャーノンは餌をあたえられてはいるが、もう迷路を走ろうとはしない。みんなはノノ
ジャーノンを私になぞらえている。ある意味では、私達はおなじ新種なのだ。みんなはノノジ
ャーノンの振舞いは、ことさら私に関係はないというふりをしている。だがしかし、この実験
に使用された他の動物たちも、奇妙な振舞いを示している事実は、隠し難いものなのだ。
 桜井博士と田原教授は、もう私に実験室へ来ないようにいった。彼らの考えている事はわか
るが、私には受け入れがたい。私はやはり計画通りに彼らの研究を推進する役目をつとめるつ
もりである。科学者としての彼らにそれ相当の敬意をはらいながら。しかし彼らの限界は百も
承知している。もしなんらかの解答があるものなら、この私の手で探し出したい。こうなると
にわかに、時間がきわめて貴重なものに思われてきた。

六月二十九日
 私は自分だけの実験室を提供され、研究をすすめる許可を得た。実験室に簡易寝台を運んで
きた。

六月三十一日
 桜井博士は、私が働きすぎると考えている。田原教授は私が、一生かかる研究と思考をわず
か数週間のうちに圧縮しようとしているという。休息が必要だとは自分でもわかっているが、
なにか内部のやむにやまれぬものに駆りたてられているのだ。ノノジャーノンの急激な退化の
原因を、なんとしてもつきとめねばならない。私にも同様の現象が起こるものなのか、起こる
とすればいつか、それを探り出さなければならないのだ。

七月四日
桜井博士あての書簡(写し)

 同封にて私の報告『ノノジャーノン効果。または増進せる知能の構造的ならびに機能的研究』
をお送りいたします。それをお読みの上、公に発表していただきたいのが、私の希望であります。
 ごらんのとおり、私の実験は完成しました。私はこの報告中に、私の発見した全ての公式を
含め、また補遺として、その数学的分析も添付してあります。むろんこれらが実際的立証を待
つものであったことはいうまでもありません。
 あなたと田原教授のために重要だと考えて(私の為であることは勿論)、私は結果に誤りが
あってはならぬと、再三再四、検討をくわえました。遺憾ながら、結果はすべからざるもので
した。とはいえここに、人間知能の作用および人間知能の人工的増進に関する法則に一片の知
識を付け加えることができたということは、科学の為に喜ぶべき業績であると考える次第です。
 怱々
 辻 希美 拝
 報告書添付

七月五日
 あまり感情に流されてはいけない。私の実験でわかったいろいろな事実や結果は明瞭だ。そ
して私自身の急速な知能上昇の事実も、桜井博士、田原教授の二人の展開した外科手術による
知能の三倍化が、人間知能の増進にたいする実際的応用の可能性皆無かほとんど皆無に等しい
という事実を、覆い隠す事は出来ないのだ。
 ノノジャーノンに関する記録やデータを検討してみると、ノノジャーノンは肉体的には未だ
に幼年期にあるにも関わらず、知能的にはすでに老化の兆しをみせていることがわかる。運動
能力は損われ、腺分泌にも全体的な退化がみられるし、統合作用の衰弱も刻一刻と速さを加え
ている。
 また一方、進行性健忘症のつよい徴候もみられる。
 私の報告にも記してあるように、こうした肉体的ならびに精神的な症候群は、私の公式を適
用すれば、統計的に重要な結果を伴って予知することができるのだ。
 私とノノジャーノンがうけたところの外科的刺激は、結果として、あらゆる精神過程を激化
し、促進することになったのだ。
 私があえて『ノノジャーノン効果』と名付けたこの意想外な発展は、知的機能促進の論理的
な促進段階にほかならないのだ。ここに立証をみた諸仮説を一言にしていえば、次の様になる。
 すなわち、人為的に増進された知能は、その増進に要した時間に正比例して、同じ速度で退
化していく。
 まだ書く能力が残っている間に、私の考えた事を、この経過報告に記しておくとしよう。し
かしながら、いろんな徴候からみると、私の知能退化は非常に急速なものであるらしい。
 感情の不安定と物忘れとに、私はすでに気付きはじめている。これは最初の燃えつき症候群
である。

七月十日
 退化は進行している。私は放心状態をつづけている。昨日ノノジャーノンが死んだ。明け方
四時半、川べりを歩きまわって実験室に戻ってみると死んでいた。――体を横にして、檻の隅
に伸びていた。まるで眠りながら走っているようだった。
 解剖の所見は私の予測が正しかったことを示している。ノノジャーノンの脳は正常の脳に比
し重量が減少し、脳回の全般的萎縮と脳溝の開大が見られた。
 同じ事が現在私にも起こりつつあることを考えると恐ろしい。
 ノノジャーノンの亡骸を小さな金属の容器に入れ、家へ持ち帰った。彼を焼却炉に投げ込ま
せるのは忍びない。ゆうべ夜が更けてから彼を裏庭に埋めた。墓に野の花を供えながら私は泣
いた。

七月十五日
 桜井博士が、またわたしに会いにきた。わたしはドアをあけず、帰ってくれるようにいった
。一人にしておいて欲しかったのだ。わたしはわずかなことにもびくつき、神経質になってき
ている。自殺の想念をふりはらうのがむずかしい。こうした内省の記録が、いかに重要なもの
であるかを、たえず自分にいいきかせている。
 わずか一、二ヶ月前に読んで、面白いと思った本を、もう一度ひらいてみて、ぜんぜん憶え
ていないと知ったときの気持ちは、なんとも奇態なものだ。
 なにかにすがりつかねば、どうしてもやりきれない。なにかわたしが、いままで学んだもの
に。ああ、神さま、おねがいです。なにもかも奪い去らないでください。

七月十九日
 わたしはときどき夜になると散歩にでかけます。昨夜などは、自分のすんでいる住所もわか
らなくなってしまいました。警官がわたしを連れてかえってくれました。ふしぎなことですが
ずっと以前にこれとそっくりおなじ状態に自分がおかれたような気がします。

七月二十一日
 どうして思い出せないのでしょう。なんとかして闘わなければなりません。わたしがだれな
のか、どこにいるのかもわからずに、何日もベッドで寝たっきりでいます。すると突然、稲妻
のように、すべてがぱっとよみがえるのです。健忘症にみられる心身耗弱状態です。老衰の徴
候――第二の幼年期です。わたしはそれが訪れるのを眺めることができるのです。じつに残酷
なばかりに論理的です。わたしはあまりにも多くを、あまりにも速やかに学んできました。こ
んどはわたしの頭脳が、急激に退化していくのです。わたしはそんなことになりたくない。闘
わねばならない。昔の記憶・・・ぽかんとした表情、まのぬけた笑い、嘲笑する人たち。いや
だ――おねがいです――二度とあんなにはなりたくない・・・・・・

七月二十三日
 わたしは最近まなんだことがらを忘れはじめました。
 わたしは『ノノジャーノン効果』の報告書を読みかえしてみて、これは別な人間が書いたも
のではないかという、はなはだ奇妙な印象をうけました。わたしには理解さえできない部分が
あるのです。
 運動機能に障害がおこってきた。わたしはいつもなにかに蹴つまずいている。ワープロを使
うことが、しだいに困難になってきた。

七月二十三日
 ワープロの使用をまるっきりやめてしまったです。統合作用が思わしくないのです。だんだ
んと動きがにぶくなるのが感じられるのです。

七月三十日
 1週間ぶりで、またペンをとることにしました。しかし、指のあいだから砂がもれるように
、書くことが思いどおりにならない。わたしの手もとにある本は、いまのわたしには難しすぎ
るものばかりです。わずか二、三週間前には、ちゃんと読んで理解できたのに。
 わたしの身に起こっていることを、だれかに知ってもらうためには、ぜひともこの報告をつ
づけなければならないのだと、たえず自分にいいきかせています。でも言葉をかんがえたり、
漢字を思いだしたりすることが、だんだん困難になってきました。ごく簡単な言葉でも、いち
いち辞書をひかなくてはならないのです。いらいらいらいらします。
 桜井博士は、ほとんど毎日やってくるのですが、わたしはだれにも会わないし、だれとも話
をしないのれすといったです。彼は罪を感じているようです。みんなそうです。でもわたしは
、だれも責めようとは思わないです。なにが起こるかはわかっています。でも残念な気持ちも
あります。

八月十日
 書くことはむずかしいれす。ぜんぶの言葉を字引で見つけなくちゃならないのは大変でいつ
も疲れてしまうれす。
 そのうち名案を思いついたれす。長くてむずかしい言葉のかわりにやさしい言葉を使うよう
にすればいいのれす。これで時間がはぶけます。わたしは一週カンに一回はノノジャーノンの
おハカに花束をささげているのれす。おとうさんはそれを見てかなしそうな顔をしたのれ、お
とうさんもノノジャーノンがしんでかなしかったのでしょう。

八月二十五日
 ののは前の報告書をみていたのれすがおかしなことがあるものれす。自分の書いたものがま
るっきり読めないのれす。いくつかわかることばもあるのれすがぜんたいの意味はちっともわ
かりません。
 市井先生が戸口までやってきたのれすがののは帰ってくらさい合いたくないのれすといった
れす。先生が泣いてののも泣いたれすがののはどうしても入れたくなかったわけはののは笑わ
れたくなかったかられす。ののはあんたなんかもうきらいれすといったれす。そしてもう二度
と利口になんかなりたくないれすといったれす。それはウソれす。ののは先生が好きれすし利
口にもなりたいのれすが先生をかえらせるためにそういったのれす。
 おねがいれす・・・どうか読み書きだけは忘れさせないれくらさい・・・・・

八月二十八日
 ののわ今日ばかなことをやってしまったれす。もう前みたいに市井先生のキョウ室にいるん
じゃないことを忘れてしまったのれす。ののわはいっていって前のようにキョウ室のうしろの
席にすわると市井先生がへんな顔をしてののをみて辻さんといったれす。
 ののわこんにちわ先生きょうわ勉きょしにきたのれすがいままで使ていた本をなくしてしま
いましたといったれす。
 先生わ泣きだして教室から出ていてしまったのれみんなはののを見たのれすがほとんどのひ
とがのののくらすにいたひとでわなかたれす。
 そのとき突ぜんしじつのことやののの頭がよくなったことをおもいだしたのれありゃののわ
またつじってるをやっちゃったのれすといったれす。先生がもどてくる前に教室を出たれす。
 ああいうことわ二どとやりたくないれす。市井先生にのののことをかわいそーとおもわれた
くない。ののはののがむかし天さいでいまわ本を読むこともできなくて字もうまくかけないっ
てことをだれもしらないところにいきたいれす。
 ののをだれもしらないところにいったらそしたらののは本を買っていしょけんめいれん習し
てしじつをするまえのののよりもりこうになりたいれす。
 いちいせんせいもしこれを読んでもののをかわいそーとおもわないでくらさい。ののわりこ
うになるための二度目のきかいをあたえてもらたことをうれしくおもていますなぜかというと
この世かいにあるなんてしらなかったたくさんのこともおぼいたし、ほんのちょとのあいだだ
けれどそれが見れてよかたとおもているのれす。
 どうしてまたばかになてしまたかののがなにかわりいことをしたかわからない。きっとのの
がいしょけんめやらなかったからかもしれない。でもうんといしょけんめにべんきょーすれば
もうちょとりこーになって言葉もみなわかるよおになるれしょうね。
 そういうわけれすからののわりこうになるようにがんばるれす。いろんなことをしることや
りこうになることわいいことれす。いますぐまたりこーになりたいな。すわって一日じう本が
読めたらいいな。
 さよならいちいせんせいさくらいはかせみなさん・・・・・・

ついしん。どーかついでがあったらうらにわのノノジャーノンのおはかに花束をそなえてやてください。