サッカー小説「狂気の145センチ」

 

中東カタールのアルアリ・スタジアムのロッカールームの雰囲気は、わずか四十五分の間に一変していた。
ハーフタイムのときにあれだけ興奮していた選手たちの志気は、もはや見るかげもなかった。
あと数十秒守り切れば初のワールドカップ本戦出場となる劇的勝利を目前で逃がした選手たちは、言葉をすっかり失っていた。
グラウンド上で流し始めた涙がいまだに止まらず、ロッカールームに入ってもなお泣き続けている者もいた。
ほとんどの者がベンチに腰掛け、ただうなだれていた。
矢口真里は、ロッカールーム入口近くでロッカーに寄りかかるようにして両足を前に投げ出し、直接床に腰を下ろした。
なんでこんなふうになるんだ、という思いが漠然と頭の中をかけ巡っていた。

やがて敗戦の将となった寺田光男が、傷ついた選手一人一人にねぎらいの言葉をかけて回った。
主将として監督と選手の仲を取り持ったGK中沢裕子に。
背徳のエースと叩かれ、満身創痍で戦った安倍なつみに。
最古参の一人、今は糸の切れた人形のように座り込んだ飯田圭織に。
破綻しかけたディフェンス陣をまとめ上げた保田圭に。
チームの火種として、常に首脳陣や他のメンバーと一触即発と煽られた後藤真希に。
小さな体を寄せあって嗚咽する辻希美と加護亜依に。
この戦いを通じて最も成長した吉澤ひとみに。

次はいよいよあたしの番だ、そう思った矢口の前を、寺田は通りすぎていった。茶色にサングラスの奥の目の表情は、矢口には見えなかった。
監督は矢口など見えなかったように石川梨華、最後に帰化が間に合い急きょ召集されたミカ・トッドの肩に手を置いた。
矢口とは神奈川のトレセン以来の付き合いである石川が、驚きを隠せない表情で矢口を見る。
矢口は、寂しげな笑いと、小さく首を横に振る事でそれに応えた。
監督の、苦々しげな吐露が聞こえた気がした。
ええチームやった。運もあった。けど、最後の最後に、矢口の背ェが足らんから負けてもうた。
ああ、やっぱり戦犯はあたしなんだと、矢口は唇の端をかんだ。

「矢口さん、あんたもう、いらんねん」
代表合宿初日、二人一組になってのボールを使った柔軟体操の時だ。
加護亜依(ガンバ大阪)は肩越しに矢口真里(横浜Fマリノス)の顔をにらみつけた。
マスコミやファンに向ける、愛くるしい笑顔とはまるで別人の、試合さながらの形相で。
初代表ながら各年代の代表に選ばれ、キャリアは十分の加護である。
ガンバユースとの二重登録が許された奈良育英高校では主将をつとめ、選手権で奈良県勢初の四強入りを果たした。
ユース育ちのテクニックと高校サッカーで培った強さを併せ持つ類まれな選手としてトップチーム入り、今やガンバのプリンセスと呼ばれ、主軸で活躍する。
「あんたが嫌いでこんなこと言うてんやないで。むしろ尊敬してる。代表の試合見ながら、いつか矢口さんみたいな選手になりたい思てた」
ポジションは、中盤ならどこでも。低い位置から左足でのロングパスをバシバシ通したかと思えば、猛スピードでゴール前に駆け込む。
「けど、もうあんたの時代は終わりや。世代交代や」
「言いたいことはそれだけ?」
矢口は屈伸をやめ、早くも汗の浮く額を拭う。
同じ中盤でも、ダイナモと称されるタフで泥臭いプレースタイル同様、そのキャリアもまさに叩き上げと称するにふさわしいものだった。
「なに笑ろとんねん」
「別に」
若いな、と思う。まるで昔の自分を見ているようだった。
「むっかつくわ」
「なら、実力でスタメン奪いにきなよ。あたしは、逃げも隠れもしない」
今度は加護が仕返しとばかりに白い歯を見せた。
「だから、その必要はないの」
加護はパーカーの肩越しに、背中を押されて悲鳴を上げる少女の方を見た。

「ひ、ひい、そんなにおさないれ、うんこがもれてしまうのれす」
「なによこの体は、酢を飲みなさい、酢を」
「あ、あい、い、いたっ、あいちゃん、たちけてえー!」
加護が長身ボランチ、飯田圭織にしぼられている少女に微笑みかける。ただし、その目は冷たかったのを矢口は見逃さない。
「あれ、ヒツジって言ったっけ。あんたと同じユース組でしょ」
「辻ですよ。辻希美。学年も同じ、ポジションも同じ」
先月のワールドユースで日本は準優勝という快挙を成し遂げた。今回フル代表入りを果たした四人は、いずれもその主力たちである。
矢口たちの世代では日本はまだ本戦出場すら果たせず、矢口はそのチームの候補にすら入れてなかった。
「うちが戦うんは、あの子一人や。根拠がある。もしベテランと若手を競わせるだけなら、あの子かうちの一方を入れればええ」
ベテラン、という言葉に矢口は戦慄を覚えた。もはや若手と呼ばれることはなかったが、中堅程度だと思っていたのだ。
「けど二人同時に入れたんは、もはや矢口さん、あんたは計算の外いうことでしょ」
「二人並べて使うのかもしれない」
「国際試合で、小柄な選手を複数使うデメリットを考えないなんて、歴戦の勇者とも思えへん言葉やわ」
矢口が言葉に詰まる。空中戦で勝てない、速攻を仕掛けても体で弾き返される。何度そんな目に遭わされてきたことか。
「日本の選手も年々体つきがようなってる。うちらみたく最初からハンデ背負うとる人間は、それに克つための才能がいんねん。
・・・がんばるだけのプレイヤーは、お払い箱やで」

矢口は青ざめていく自分を感じた。
矢口は監督に全幅の信頼を置いてきた。そうすることでポジションを勝ち取ってきたという自負もある。
だが、ふとしたきっかけでそれが崩れそうになることも多々あったのも確かだ。
「・・・口だけは世界でも通用しそうね。でもさ、ずいぶん冷たいじゃない。あの辻って子にはさ」
辻は所属する東京FCで早くもレギュラーを不動にしている。
辛口で知られる東京サポーターを熱狂させるドリブルは将棋の香車のように右サイドを駆け上がる。
あとはその後のセンタリングの精度を高めることが課題だ。
矢口もユースの星・加護と辻が何度も専門誌を飾ってるのを見た。
似たような容姿の二人はいつも双子姉妹のように寄り添い、飛び切りの笑顔を見せていたのだ。
「世界は、そんな甘いもんやない。ユースの本戦で、うちがちょっと調子崩したことあってな。そん時、ののだけがスタメン入りした。
うちが出たんは勝負が決まってから。あの子と交代でやった。そのとき悟ったんや、あ、この子もライバルなんやって」
たまたまでしょ、そんなの。矢口がつとめて明るく発しようとした言葉は、ノドの深いところでつぶれた。
加護の目にはすでに試合中のそれでもない、憎悪とすらいえる表情が浮かんでいた。
たかが一度のスタメン落ちが、そこまでの恥辱を与えたのか。矢口はぬるい汗をたっぷりかいてしまった。
「うちは勝つ。絶対に勝つ。もしうちから日の丸を奪おうとするやつがおったら、誰だろうと戦うまでや」
加護のことばはもはや矢口でも辻でもない、自分自身に向けたものに変わっていた。

「あのチンチクリン、そんなナメたガキだったんスか? 今すぐシメにいこべーぜ、まりっぺよー」
「やーめーなって。そのぺってのもやめろよ」
「まりっぺはまりっぺだべよ」
「それからスカートでウンコ座りやめなって。なにその赤いパンツ。馬場さん?」
「いーじゃん。おれっちとまりっぺの仲だべ」
石川梨華(湘南ベルマーレ)とは、横浜フリューゲルスで同じ釜のメシを食った仲だ。
全日空の全面撤退でフリューゲルスが消滅した際、石川は地元にほど近い当時のベルマーレ平塚に新天地を求めた。
現在は十代ながらキャプテンまでつとめる、そのキャプテンシーを高く評価されての初代表、J2から唯一の代表入りとなった。
ポジションはゲームメーカー。それも、かなりクラシカルな、玄人受けするタイプ。確かにツボにはまった時は怖いが、辛口の批評家からは時代遅れとの指摘さえ受けていた。
確かに中盤でコンビを組んでいた頃、まるでディフェンスをしない石川に幾度となく辟易した。
石川はサッカー人生通じて一度の警告、退場も受けたことがなく、ミスフェアプレーというあだ名まである。
その後ろで手を汚し続けた矢口はイエローカードの女王様と呼ばれた。
それでも関係が壊れなかったのは、やはり石川の持つ天性の愛嬌のおかげだろう。

「おめーよ、あれなに? 最初のあいさつン時。こんにちはぁー、イシカワですぅー、どうぞ、よろしくおねがいしますぅー」
矢口は石川の裏声を真似て見せた。石川は今こうして矢口と自販機の前でくちゃべってるのとはまるで違うキャラクターを演じていたのだ。
「最初はあーやって下手に出るんさ。そーやってうまく転がすんさ」
「・・・どーよ、初の代表は。圭ちゃんと同室なんだろ」
「おもしろい人っすよ」
「ああ見えて苦労人だからね」
「なに言ってんだ。まりっぺ、代表に入りたての頃、あの頬骨踏み台にしてやるって息巻いてたじゃん」
「だーかーら、あたしも若かったのよ。今では、何でも話せる、戦友」
「おれっちとどっちが友達よ」
「あんたは悪友」
「じだいーおくーれのー」
「それは阿久悠。さぶっ」

後藤真希(東京ヴェルディ1969)が、新加入の吉澤ひとみ(浦和レッズ)の前に、就職情報誌の山を積んだ。
「なんですか、これ」
吉澤がおびえきった目で後藤を見上げる。
「埼玉にはこんな本もないの? あんた才能ないよ。とっととサッカーやめちゃいな」
「そんな・・・」
言い返せず、ぐっと唇をかむ吉澤。
「後藤!」
見かねた保田圭(ジェフ市原)が、慌てて割って入る。
代表の看板ともいえる3人によるゾーンディフェンス、通称フラット3。
その一角を担うべく選出されたユース代表のリベロ、赤の貴公(奇行)子こと吉澤であったが、慣れない右サイドに対して、明らかに戸惑っていた。
片や、それまで右サイドで自由に動けた後藤がセンターを任され、動きに制約が出てきた。そのことが後藤を苛立たせているのは間違いない。
「後藤、吉澤にあやまんな」
「なんでよ、ヘボにヘボって言ってなにが悪いのよ」
「バカって言ったやつが本当のバカって言われなかった? いくら本当にヘボでもヘボなんていったらヘボが傷つくじゃないの! 
ヘボだなんて、ヘボだなんて」
「わああああああああ!」
頭を抱えて、吉澤が部屋を飛び出した。
「ほら、見てごらんよ」
「圭ちゃん、それ、あたしのせいじゃない・・・多分」

「聞こえない? うるさい?」
「新メンバーかな。遊んでるみたいだべさ」
代表最古参組であり、ともにコンサドーレ札幌に所属する安倍なつみ、飯田圭織。
だがコンサドーレコンビが、かつてトリオであることを知るファンは少ない。
二人が長距離電話をかけているのは残り一人、今はコンサドーレのコーチとなった石黒彩である。
「四人ともすごくうまい。あたしらが代表入りした頃に比べたら、ずっと、ね」
「でも今のうちらは違うべさ。あんなガキどもに負けるわけはないべさ」
ついなまりが出る飯田の強気は、どこか虚勢めいていた。
彼女たちは知っている。もし若手とベテラン、実力が互角なら、監督は若いほうを使うであろうことを。
「はい、ケガには、気をつけます」
「わがってる。クラブでも働かねばなんねからな」
選手生活の間、ずっとヒザの故障と戦いつづけた石黒の言葉は重い。
ただ、分かってはいる。
ある日、突然正反対に変えられた戦術。
リアクションサッカーへの意向。
アクションサッカーの申し子だった二人は、今やチームのお荷物となりかけていた。

「ま、あんまり気にしないいおーがいいべ。おれっちもタックルのふりしてチョーパン・・・」
背後に独特のオーラを感じ、石川が立ち上がる。
「こんばんは」
口元に手を当てて微笑む石川に
「なにしとんねん、自分ら?」
矢口がベテランなら、この人は間違いなく大ベテランだ。日本代表キャプテン、守護神、中澤裕子(京都パープルサンガ)。
「ちょっと、夕涼みに」
「そっか。ちょっと矢口を貸してくれるか?」
「はぁい。では、ごきげんよー」
ソソとしてその場を離れる石川。

矢口は中澤が苦手だ。新人の頃
「オラへたくそ、どこ見とんねん!」
「トラップひとつも満足にでけんのかい!」
「あんたが代表やるんなら、もううち代表やめるで!」
と、散々コケにされたのだ。特にシュートを外した時には
「いくら自分がチビやからって宇宙に向かってシュートすることないやろ!」
さすがに温厚な矢口もキレた。が、中澤に直接向かっていくことはせず「見てろババア」と書いたボールで思い切りシュート練習した。
ある事件がきっかけで憎しみは消えたが、いまだに二人きりになると矢口はきんちょうする。
「どうだった裕ちゃん、検査は」
「病気じゃないって。残念だけど、年齢からくるもんや」
ここ数試合、ハイクロスに飛び出して、触れない中澤のプレイが何度かあった。いわゆる「かぶる」というやつである。
ミスの許されないゴールキーパーとして、視力の低下は致命的だ。
「ついに来るべき時が来た、いう感じやな」
「なにいってんの、裕ちゃんのいない代表なんてクリープのないコーヒーよ」
「だったらブラックで飲めばいいじゃない」
「そんな・・・」
「矢口、明日、進退伺い出してくるわ。この予選が最後。日本がワールドカップに行っても、うちは代表には残らん」

監督、寺田光男が代表監督に就任して最初に掲げたコンセプトは「クラシック・サッカーの復権」
もはや「11人でやるフットサル」といえる世紀末のサッカーに一石を投じるものだった。
メンバー表を見たプレスは一斉に疑問の声をあげた。どれも無名の選手、または玄人好みの選手ばかりだったのである。
しかもワールドカップ一次予選の壮行試合でエース平家率いる名古屋グランパスエイトにコテンパンにされ、不安は募るばかり。
ところがだ。ふたをあけて見ると、無名軍団は恐るべき力を発揮したのである。

初戦、敵は日本とは相性の悪いタイ代表を、万博競技場に迎える。
キャプテンマークを左腕に巻いた中澤を先頭に登場した選手たちは、不安を隠せはしないものの、ちゃんと戦う顔になっていたのだ。
当時最下位のサンガを解雇されかかっていた中澤は最後尾から声を出し、前線の選手に的確な指示を与えた。
時にはミスもあったが、ありったけの勇気を振り絞り、仲間を鼓舞した。
先制点はあっけなかった。
石黒がインターセプト、そのまま前線へ大きく蹴り出す。
タイの緩慢なオフサイドラインを見切った福田明日香(ヴェルディ)が独走、飛び出したキーパーに追突されながらも冷静に蹴り込んだのだ。
そのまま試合は進み、後半のロスタイム。
タイの苦し紛れのミドルを飯田が長い足で弾くと、笛が鳴った。

苦手タイにスコア以上の勝利を収めると、マスコミは手のひらを返したように新生代表を絶賛した。
中澤がスイーパー石黒とのコンビで敵の攻撃を摘み、中盤では福田がゲームを作りながらドリブル突破を狙う。
かと思えば飯田の高さを利用したキックアンドラッシュを展開する。
そして、日本のFWは十年安泰とまで書かれたエース、安倍なつみは確かなテクニックと得点感覚で攻撃をリードした。
こんなありふれた財産すら、それまでの日本は使えずにいたのだ。

もちろん、すべてがうまくいってたわけではない。
自らもFWとして活躍していた寺田はトラップひとつ、パスひとつにしても選手に注文をつけた。
しかし選手たちもプロである。ヒールパスを注意された福田はつっかかった。
「攻撃での意外性が失われてしまうと思います」
福田はプロとアマの混在する当時にあって、最も高いプロ意識を持っていた。だがそれは「わがまま」「強情」と取り上げられることが多かった。
寺田は笑顔一つ見せず、注意したプレーを自分でやってみせた。
そのひとつひとつが、あんたが試合に出たほうがええんちゃうかと思わせる。確かな技術に裏打ちされた指導者なのだった。
主将の自覚を持ち出した中澤が福田の肩に手を置き、
「まあ、あの人に、付いていってみようや」

六日後、福岡・博多の森。相手はスリランカ。
この日は福田がキレていた。
それまでは切り込み隊長と呼ばれ、エゴの強い点取り屋のイメージが強かった福田。
しかし0・5列ポジションを下げることで、視野を広げることに成功。おもしろいようにゲームを作り、立て続けに安倍のハットトリックを演出。自らも2ゴール。石黒と飯田も1点ずつ決め、オウンゴールのおまけまでついた。
この日ほとんど仕事のなかった中澤は、一戦ごとにたくましさを増すチームに頼もしさを覚えた。
「いける、いけんで」
それは、試合後に監督が漏らした言葉とまるで同じだった。

3戦目。雨の札幌。対中国。
主力3人の地元とあって、悪天候にもかかわらず、大勢の観客が詰め掛けた。
すでに予選敗退が濃厚な中国は5バック、3ボランチでゴール前を固める超守備的布陣。だがこの人の林が、日本の武器である安倍のスピード、福田のテクニックを封じた。
「飯田、前に出ろ!」
後半、監督は飯田をポストに使う作戦に出た。
雨が雪に変わり、寒さに強い中国が優位に立ちかける。わずか二人で仕掛けるカウンターに、石黒が慌てて対応する。
そのバタバタに拍車をかけたのが、後半24分。
3人がかりで飯田を囲んだバックスのスパイクが、飯田の目を直撃したのだ。
「だいじょうぶです! 出してください!」
しかし、中澤はベンチに×を出した。モノが二重に見えるほどの重傷。
大粒の涙をこぼしながら病院に運ばれる飯田。
これが、大人しかった安倍の魂に火をつけた。
「安倍さん、パス!」
福田の声も届かない。
一人、二人・・・鋭角のフェイントで次々と抜き去っていく安倍。4人目につかまった。主審が、ペナルティースポットを指差す。
石黒が、難なく決めた。

UAEとの対戦は、壮行試合と同じ名古屋瑞穂となった。     
結局異状のなかった飯田もスタメン出場。
これに勝たねば事実上の敗退が決まるUAEは、ナイフで切りつけるような激しいタックルを浴びせる。
UAEのスルーパスに飛び出した中澤が腹を蹴られる。つかみかかった石黒がイエローカードを受ける。
「なんでそんな短気やねん!」
十分自分だって短気な中澤が石黒を叱る。
勝負はコーナーキックで決まった。
右コーナーに置いたボールを、安倍がゴール前へ。ライナー性。福田がさりげなくキーパーのブラインドになり、石黒がファーへ屈強なUAEのフルバックを引き付ける。
飯田だった。GKの指が顔面に食い込む。バックヘッド。
反対のゴールでネットがゆれた瞬間、中澤はベンチまで走り、監督やコーチと抱き合った。遅延行為を取られ、警告を受けた。
殊勲者は最初、自分がゴールを決めたと思ってなかった。福田や石黒が嬉しそうに自分の頭を叩くのを見て、初めて、ガッツポーズをとったのだ。
この試合、もう一点を奪った日本。
ネパールとの国立での最終戦を待たずに、勝ち抜けを決めたのだった。

代表、二日目のメニューは持久走から始まった。
(スタミナ落ちたなあ・・・)
あまりスタミナを要求されないポジションとはいえ、ほかのメンバーに比べてあまりに開きの出てきた体力差。
が、もっと気がかりなのは、自分の前を苦しそうに走る安部の姿だ。
代表デビューのころに比べ、明らかにスピードが落ち込んでいた。
原因はウェイトトレーニングの過多。
「こんなサッカーつまんない。ヨミウリのサッカーのほうがいい」
福田明日香がそう言って代表を飛び出した後、監督は安倍と組ませるFWを補強せず、フォーメーションを安倍のワントップに変更した。
これが、安倍の運命を大きく変えてしまうことになる。

安倍は当たりに弱いとされる自分の肉体を改造し始めた。飯田にポストプレーを習い、プロテインを飲んだ。
食が細いほうなのにもかかわらず、吐きそうになりながら一口でも多く食事を取りつづけた。
得たもの。ゴールに背を向けてのプレー。
失ったもの。スピード、ジャンプ力、ゴール内での動き。
肉体が大きく変化したのならそれに合わせてプレーも変えなければならない。
安倍はポストプレイヤーとしての自分になじめず、スランプに陥った。そしてそれは、いまだに続いている。
なのに監督は安倍をはずそうとはしない。パートナーも与えない。
このチームは安倍のチームや、それを繰り返すばかりで。
背徳のエースと呼ばれても、安倍は嫌な顔ひとつしない。
あまりの生真面目さに、中沢は胸が苦しくなる。
なっち、あんたがもっといいかげんな性格やったらな。

「利華ちゃん、邪魔やからどいて」
「はい、加護さん」
石川が背後から走ってきた加護に道を譲る。石川の卑屈な態度に、息ひとつ乱さずに矢口は問いただす。
「なんだよ、加護さんて」
「きのう、ちょっと、遊んだんだよねえ」
「は、はい」
矢口はめまいがした。なにが起きたかは想像がつく。返り討ちに遭ったのだろう。
「どしたんだ、加護」
「飯田さん、今日もおきれいですね」
「そっか? 照れるさ」
(カオリ、あんた転がされてるよ)
アメとムチ。加護は虫も殺さぬ微笑で
「矢口さん。スタミナがあんたのとりえなんやろ。勝負や」
そう言うとスススと前に走り出す加護。
矢口もなにも言わず、その後を追う。
矢口には負けられないわけがあった。

スイーパーからボランチに転向し、つなぎ役として貢献した石黒彩の代表引退表明は、監督をしてチームをリセットするとまで言わしめた大事件だった。
それまでの代表中盤のシステムは下がり目の中央に飯田のワンボランチ、左に石黒。そして右の前目というかワントップ安倍のすぐ後ろに矢口という布陣。

       7安倍

           
           8矢口
   14石黒
       11飯田

しかしこのフォーメーションは、必ずしも成功したとはいい難い。
ボランチ飯田は試合によっては光り輝くようなプレーを披露するが、凡ミスも多い。波がある、というやつだ。コンスタントに力を出せないのが、かつて安倍とのエース争いに敗れた理由でもあった。
そして、A級戦犯は矢口本人だ。
スタミナはある。ボールコントロールも確か。2列目から飛び出すスピードとスタミナもほぼ完璧。
しかし、最も求められる仕事、フィニッシュに難があった。思い切ればワクを逸れ、慎重にいけば背後からのディフェンダーに捕まる。
練習ではあれだけ決まるシュートがなぜ。
そのたび矢口はマスコミから責められる以上に自分自身を責めた。
が、この頃の矢口は、とてもサッカーに専念できなはしなかった事情があった。

「矢口さん、起きてください! えれえことっすよ!」
電話の向こうの石川の声はうろたえきっていた。
「テレビつけてくださいよ!」
いぶかしげにリモコンを操作する矢口。いわれるままにスポーツニュースにチャンネルを合わせる。
「こんなことがあっていいんですか? いけないんです!」
全日空、横浜フリューゲルスのスポンサーを降りる。
これによって、横浜フリューゲルスはチームを存続させることが事実上不可能になった。
だがこれだけでは、まだ矢口を落胆させるだけだった。
矢口が激怒したのは、この翌日。
フリューゲルス・ゼネラルマネージャー、和田薫に呼び出されたその時だった。

「私に、マリノスに移籍しろっていうんですか?」
坊主頭の和田には極度の疲労と憔悴とがありありと浮かんでいた。
「そんな。私があのチームをどれだけ毛嫌いしてるか、和田さんなら知ってるはずじゃないですか!」
もともと矢口は中学時代、マリノスのジュニアユースに籍を置いていた。が、三年間、一度もスタメンで公式戦に出られることはなかった。
中学3年の冬、トップチームには昇格できないことを告げられた。
確かにそれまでの矢口にはひどく脆弱なところがあり、一試合通じて力を発揮することができなかった。
その反省と怒りを胸に、横浜桐光学園では人一倍練習に励んだ。
それまでは自分ひとりの技術さえ磨くことができればいいと思っていたが、この頃から周囲への気遣いもできるようになっていった。
自らも試合に出られない経験が、控え選手のつらさも汲み取ることができる心遣いを育てた。
プロからの話もきた。最も好条件を示したのはマリノスだった。
が、矢口が選んだのはライバルのフリューゲルス、それも全日空社員としてのアマ契約だった。
主将として臨んだ最後の選手権。ハイレベルの神奈川県予選を勝ち抜き、全国でも初芝橋本、松商学園、静岡学園といった強豪を押しのけて準優勝を果たす。
決勝で矢口の野望を打ち砕いたのは市立船橋、そのストライカー保田圭だった。保田との因縁は、すでにこの時始まっていたのだ。

和田は椅子から降り、深深と土下座した。
「ちょっと、和田さん」
「マリノスが、おまえをくれるなら、何人かの選手を引きとってもいいと言ってるんだ」
「それって、抱き合わせじゃないですか?」
マリノスの対応は的確だといえた。弱みにつけこむといえば聞こえは悪いが、この不況下で若い選手やロートルも引き取るといってるのだから悪い条件を提示してるわけではない。
「頼む。あまえがマリノスに戻ることで、路頭に迷わずに済むやつが出てくるんだ」
和田本人は全日空からの出向組だ。社員選手・矢口の直属の上司でもあり、おそらくチームが消滅したら会社に戻るのだろう。
ひとりでも多くの選手の生活を保障すること、それが、和田の最後の使命でもあった。
「わかりました。行きます、マリノスに」
「そうか」
「でも、もうひとつの夢はかなわなかったなあ」
「?」
「スチュワーデス。そのためにプロ契約しなかったんですから」
「その身長でか?」
和田は笑った。矢口も力いっぱい笑った。
そうしてないと、涙が止まらなくなりそうだったから。

このチームで臨む最後の大会、天皇杯。
フリューゲルスは快進撃を続けた。
最後の大会で、念願のキャプテンマークを巻いた矢口。
そして、来季から晴れてトップチーム入りするはずだった石川も、選手登録されていた。
「おれっち、ベルマーレ行くことにしました。地元っすから」
ベルマーレ平塚もまた経営が困難で、すでに大量の主力を放出することが決定していた。それでも石川はあえてそのチームを選んだ。
元旦の決勝。国立競技場。
相手はカップ戦に絶対的な強さを発揮するサンフェレッチェ広島。
右サイドバックとして出場した矢口は広島のエース、尾見谷杏奈を恐るべき速さと強さで完全に封じ込んだ。
こんなに勝ち負けにこだわったことは、それまでになかった。
笑ってサヨナラ、誰が言い出したのだろう。それが白のイレブンの合言葉になっていた。
矢口がスライディングでボールを奪う。寝たまま左にはたいて石川に預けると、立ち上がって右タッチラインを駆け上る。
タメを作った石川から絶妙のタイミングでボールが。
なるたけ丁寧に、ゴール前に上げるだけでよい。
あとは、仲間が決めてくれる。

天皇杯優勝を決めた後、最後の挨拶に訪れた矢口に、和田が言い残したことがある。
「止まるなよ。おまえが止まったら、なにも残らないんだからな」

1周400メートルのトラックを25周。
どっちが早く25周するか。
ギャロップのスピードで飛び出した二つの小さい影。
監督も、黙認していた。
「飛ばしすぎやで、もう」
抜き去られ、周回遅れになった中沢の声も二人には届かない。
「矢口さん」
加護が矢口の左に並び、真っ白な肌を桜色に染めて話し掛ける。
「あとはあんただけや。あんたとは優劣つけときたかってん」
石黒が去った中盤でテストされたのは石川と加護だった。辻は右ウイングで起用されるようだった。
もし矢口がこの4人で中盤を作るなら、フォーメーションはこうだろう。

          14 石川
    19 加護         8矢口
          11 飯田

ところが何通りから試した結果、監督はこのシステムを提示してきた。

         8 矢口  19 加護
 
    11 飯田            14 石川

ディフェンスがザルの石川をボランチ、左足がオモチャの矢口を左サイドで。
なんでこんなシフトを敷くのだろう。
「やっぱ監督、あくまでうちらを競わせたいらしいわ」

「複数のポジションをこなせへんやつはいらん。そういいたいんやろ」
確かに。
GKの中沢は例外にして、ほとんどの選手は二つ以上のポジションで試されている。
ポストプレーヤーだった飯田はボランチで開花した。
保田も左サイドならFWからDFまでこなす。
DFラインをコントロールする後藤もMFが本職だ。
安倍はその意味でも苦労している。ストライカーのポジション以外にできない。つぶしがきかない。
「まずはうち、中盤を制するんや。あんたは邪魔」
加護がさらにスピードを上げた。
矢口はその後ろにぴたりとつく。
まずは加護にあわせている。そして残り2周でつき放す。
加護は飛ばす。矢口も気を抜くと取り残されそうだ。
矢口の角度では加護の表情がわからない。だいぶ息は弾んでるが、まだまだいけそうだ。
残り2周、矢口が前に出る。加護の左についた。
加護の顔は真っ青だった。

「まだおったんかい」
「スタミナ馬鹿だからね」
加護が自分の左胸に手をやる。
「うちかて、まだいけんで」
「無理するな」
矢口の言葉は本心だった。もう勝負はついている。優劣を決めたのはむしろ経験の差だった。
気負いのなかった矢口が加護をうまく手玉に取ったにすぎない。
だが加護は耳を貸そうとしない。意地でも負けを認めようとしない。
しょうがない。叩き潰すしかないのか。矢口はさらにギアを一段上げようとする。
「きーーーーーーーーーーーーん!」
両手を広げた小さな小さな影が、あっという間に二人を抜き去った。
「・・・辻?」
「かちいいいいい!」
辻希美がうれしそうにぴょこぴょこ弾んでいた。

「ちょっと圭ちゃん、なんで邪魔するんだよ」
練習終了直後、保田にくってかかる矢口。
「まさかあたしが加護に負けると思ったわけ?」
「思わなかったから、ああしたの。あそこであんたが勝ってもあの子のプライドが傷つくだけだからね」
保田の考え方には無駄がない。それだけに矢口は彼女の意見を尊重しているのだ。

そのプレースタイルや風ぼうから、ワイルドなイメージの強い保田だが、チームメートは皆、彼女が非常にクレバーな選手であることをよく知っている。将来は指導者としても十分やっていけるはずだ。
「でも圭ちゃん、加護はすごいよ。あたしらが初代表の時、誰もあんなに堂堂としてなかったもんね」
それを聞いて、保田がそのクールな表情を崩してコロコロと笑いだしたのだった。
「矢口、あんた、あんなもんじゃなかったよ」

辻をけしかけて、矢口と加護の勝負をうやむやにしてしまった保田。それが余計なお世話なのよと依然腹の無視の収まらない矢口。
矢口は高校時代の対戦が保田との出会いだと思っているが、保田はそれ以前から矢口をしっていた。それも、選手としてではなく。

年が明けて、二次予選が始まった。
ホームで全試合を戦うことのできた一次予選とは違い、5か国とホーム・アンド・アウェイ方式で戦う長丁場。
12か国を二つのグループに分け、各組1位が予選突破。2位が一発勝負のプレーオフに回る。
日本が入ったグループAは、韓国、サウジアラビア、ウズベキスタン、クウェート、インド。まさに「死のグループ」だった。
その長い長い戦いを占う初戦は、唯一の格下インドをホームに迎えての試合。
その会場に、ジェフに入団したばかりの保田圭の姿が合った。

「保田さん、サイン、ください」
子供の差し出したノートに、いやな顔をするでもなく、微笑みかけるでもなく、淡々とペンを走らせる。
「試合中は、静かに見せてね」
高卒ルーキーながらジェフの超攻撃的左ウイングバックとして暴れまくっていた保田には、早くも代表入りの噂があった。
その会場で彼女の姿を見た者は、その噂はやはり本当だったのだと確信したろう。
だが保田本人はまだ日本サッカー協会から何の打診も受けていない。選ばれる自信はあったが、それは自分の決める事ではないと徹頭徹尾冷静に構えていた。
それに、こんな小手調べにしかならない試合を、わざわざ練習と試合の合間を縫って見に来たたわけではない。

「ニッッッッポン!!!!」
初めて日本代表の試合に来た者は、その異様な姿に一瞬度胆を抜かれる。
巨大な旗、マントに、Tシャツに日の丸。顔面にも大きく日の丸のペインティング。
チアホ―ンをたくさんつけた三輪車にまたがり、極右の活動家のようなその姿に。
近くに寄れば、靴や工事現場用のヘルメットにまで日の丸のワッペンがつけられているその二人組。
来た、来た。
保田がその方を見てニヤニヤする。
代表の試合ですら閑古鳥の鳴いた時代から、三輪車にまたがったあの小さい方は必ずスタンドにいた。
最初は保田も怖くて仕方なかったのだが、あの小さい子が自分と同じ世代の女の子であることに気づくと、急に親近感が湧いた。
いつしか、退屈な負け試合よりも、勝敗にかかわらず血管が切れる寸前まで応援する彼女のほうに目を奪われていた。

あいつ、誰なんだろう。
再会は、今日この試合が行われている国立競技場のピッチでのこと。
選手権決勝。相手の主将は満身創痍で、血を吐きながら勝ち上がったことを小さな体で物語っていた。
試合中、保田と彼女は何度もぶつかった。
決してあきらめないディフェンスは保田を焦れさせた。
振り切っても突き放しても、あきらめという感情が欠落してるかのように食らいついてくる。
謎の日の丸少女と、顔を真っ赤にした目の前の選手が、保田の中で完全に一致した。
試合が終わって、保田はそれを確かめたかったが、そっとしておくことにした。
敗れた彼女がめちゃくちゃに泣いているのと、もし自分があの日の丸少女だとばれたら、二度とあの姿が見られなくなるかもしれないと思ったのだ。
あれから数ヶ月経っているが、昨日のことよりも鮮烈に思い出される。

「おい、あの小さいほう、フリューゲルスの矢口じゃねえか?」
「矢口? 誰だよ?」
「ほら、Jリーグで一番背の低い」
「ああ、145センチってやつ? ほんと、ちっさーい」
同じファッションに、ヘルメットとサングラスと手ぬぐいのほっかむりで顔を守っている石川が困り果てて
「ヤグチさーん、バレバレっすよーぉ」
「うるさいっ。ほら、もっと気合入れて押しなさい」
きこきこきこ・・・
「三輪車押してるほう、ユース代表の石川だろ」
「ち、違いますっ、そんな人知りません! あ・・・」
「ばっかでー」

一方的に押し込みながら追加点が取れず、1対0が続く展開に、ほとんど出番のない中沢は集中が途切れがちだった。
一次予選では最年長ということでの暫定的な主将だったが、この試合から正式にチームを率いていた。
最初は、キャプテンを引き受けるつもりはなかった。もともと高校でもクラブでも一度も腕章を巻いた事がない。
自分にはリーダーの素質があるとは思えなかった。
ゴールキーパーというポジションは極めて特異で、一人だけ試合の波に取り残させるようなところがある。
チームをリードするには常にその波の中にいるべきだと思うし、性格的にも姉御肌の石黒がキャプテンをつとめるべきだたと考えた。
少なくとも、年功序列の考え方でキャプテンを引き受けるのだけは嫌だった。

「じぶん、アマなんやろ?」
監督の言葉に、少なからず中澤はカチンときた。が、次の瞬間、言葉を失う。
「今おまえは、気持ちではプロに負けん。待遇だけで頭ごなしに決めないで。そう思ったはずや」
「・・・私、そんな嫌そうな顔をしましたか?」
「いや、そんな感情はちらとも見せんかった。社会人生活の成果やな」
中澤以外の代表メンバーは全員クラブではプロ契約だ。
サッカーをやって、カネをもらう。それを当たり前の事として享受し、なんの疑問も持たなかった世代だ。
中澤は違う。9時5時の仕事の後、アフター5で練習に参加した。
チームが京都紫光クラブからパープルサンガに名前を変え、ある者はプロになり、ある者はサッカーを離れた。
中澤は念願のプロをあきらめていた。自分の地味なサッカー人生はすでに晩年にさしかかっていたし、あとは一年でも長くプレイできれば、あとは平凡に家事や仕事や育児に追われていればいい。そうけじめをつけていた。
代表候補に選ばれ、代表に選ばれるまでは。

「俺はおまえに、中間管理職みたいな役回りを期待したい。おまえには、他のメンバーにない常識や、まっとうな考え方がある。憎まれ役になったり、つなぎ役や、ひきたて役。おいしい役回りは一個もないかもしれん。それでも、このチームには、おまえの力がいるねん。そのためのキャプテンマークや。決して楽な仕事やない。見返りも少ない。けど、俺はおまえにやってほしい」
人の心をつかむのが、ものすごくうまい人だと中澤は感じた。実際他のメンバーなら涙のひとつも流して即答したろう。
だが、中澤もまた、人の心を読む事につけては人一倍長けていた。
いくらGKが老境にさしかかっておもしろくなるポジションとはいえ、中澤の年齢は初代表としては遅すぎる。
たぶんこの人は、うちの替わりが見つかれば、うちをあっさり捨てるやろ。
そう完全に見抜いた中澤だが、あえて、だまされることにした。
切り捨てられるその間だけでも、ここまで必要とされれば本望。本気でそう思ったからだ。
監督はたぶん、中澤のそんな「純」なところも、見ぬいていたのだ。

その日から、中澤は自分を変えた。
柄にもなく大きな声を出し、人に会わせるのをやめた。
それまでセンターバックの石黒に任せきりだったラインの上げ下げにもよく口を出した。
実際、若いチームはそんなリーダーの出現を待ちわびているようだった。
そして中澤本人、長年勤めた会社を辞職し、サッカー一本にしぼった。
残された年月の長さは問題ではない。その年月を、どれだけ充実させるかこそが重要だったのだ。

「おばちゃあああん、まだ現役やってんの?」
感傷的な回想を絶ち切ったのは、拡声器に乗って届いた耳障りな甲高い声だった。
顔面日の丸の二人組は、青に染まったスタンドの中でもひときわ目立つ。
「やかましいクソチビ、試合中に話しかけんな!」
中澤も応戦する。日本ゴール越しに見えるばかでかい日の丸をいまいましげに見つめた。
「後ろ!」
中澤の肌という肌が泡立つ。あわてて倒れこんで、ボールを押さえた。
「裕ちゃん、なにやってんの!」
「ごめん!」
飯田の頭めがけてボールを蹴り上げた後も、背後からの罵詈雑言はとまらない。
「なーに今のセーブ、昨日は腰使いすぎ?」
「セクハラかます気かい!」
そう言いながらも、中澤はその指摘に内心驚いた。
GK、特に小さい時から固い地面に体の側面を打ちつけられる日本のGKにとって、腰痛は職業病のようなものだ。
もちろん中澤も例外ではなく、常にコルセットを巻いて試合に臨んでいる。
今日のようにあまり腰の調子がよくないと、つい腰をかばうような不自然な格好でのセービングになってしまうのである。
ただの野次ではない。ちゃんとサッカーを知っているから飛ばせる、的を得た指摘でもあったのだった。

左右から警備員が大挙して押し寄せてきた。
だが日の丸小僧(仮名)にとってこんなことは慣れっこだった。
「あばよ!」
「待たんかい、名前ぐらい言うてけや」
拡声器のボリュームを最大限にして、日の丸小僧は思いきり叫んだ。
「フリューゲルスユースの、石川梨華さまじゃ!!!! 石川、石川、石川梨華、よく覚えとけ!!!!!」
そう叫ぶと、三輪車を投げ捨て、サポーターの中に飛び込んだ。
警備員が取り押さえたのは、呆然となった本物の石川一人だった。

「ヤグチ、頼むからこれ以上俺に負担をかけるな。胃に穴が開きそうだ」
和田GMが胃薬を流し込んでも、矢口はけろっとしている。
「だってこれは、ヤグチのライフワークですもん」
矢口の代表への歪んだ愛情表現は、今に始まった事ではない。
好きで好きでたまらない日本代表。けど勝てない日本代表。そして一度も自分を必要としてはくれない日本代表。
そんな日本代表への屈折した思いが、矢口を日の丸小僧(仮名)にしていた。
「おまえ一人でやるのは勝手だけどな、石川まで巻き込むんじゃない」
「へーい」
「おまえに、FAXが届いてるぞ」
「? 日本代表メンバー?」
「新聞社から届いたばかりだ」
ふんふん・・・阿部なつみ、中澤夕子、飯田香織・・・
「和田さん、これひっどい誤植ですね。誰もメンバーの名前があってない。ヤグチ、漢字は苦手だけど、代表メンバーなら全員漢字で書けますよ」
「いいから。続き読め」
「福田飛鳥、石黒亜矢、市井沙耶香。この市井って知らないや。所属チームもない」
「アルゼンチン育ちの選手らしい。俺も詳しい事は知らん」
「安田啓。ああ、あいつか」
保田圭。苦いものが矢口の胸に込み上げる。自分の頭上を、あざ笑うようにして抜けていったループシュートは、その後幾度も悪夢となってヤグチから安眠を奪った。
そして、最後・・・
「最後のこれ、谷口真理。タニグチなんていました? 所属は、うち? えー、ユースにそんなやついたかな」
ん? タニグチ? ヤグチ? え? ええ?
「えええええっ?!」
これは、まさか、まさか・・・・でも、うそだ。でもゆめならさめちゃヤ。
「おめでとう、矢口」
和田は皮肉たっぷりに、うろたえまくる145センチの小兵を祝福した。

数分後、多数のプレスに囲まれ、フラッシュを浴びた。
矢口はここに魂がなかった。
うれしかった。身に余る光栄だった。
けど、果たしてこの体で国際試合を戦い抜けるのだろうか。
フリューゲルスとプロ契約を結ばなかったのも、この身長の事を考えてのことだった。
がんばれば、精一杯努力すれば、ハンデは克服できるものだ。ただしそれは「ある程度」という条件がつく。
自分のように小柄で、国際試合を戦える選手なんて、それこそマラドーナくらいしか知らない。
「がんばります。気合入ってます」
そう言いながら、本当に受けるべきかどうか、矢口は迷っていた。
これがまだ代表「候補」で、合宿を経て正式メンバーが絞り込まれるのであれば、なんのためらいもなくがんばると言えたかもしれない。
だが次の試合、敵地クウェートへ乗りこむメンバーとして、矢口の名前は決まっていたのだ。
行くべきか、行かざるべきか。
矢口は最後の最後まで悩んだ。

眠れない日々をすごしても、疲労がたまれば、体は眠りを要求する。
日章旗のカバーをつけたベッドの上でジャージのまま眠りこけた矢口。
夢を見た。
小さい時の夢だ。
身長が止まっていることに気がついた。担任に相談すると
「矢口、おまえ牛乳嫌いだろ。牛乳飲め」
嫌いではない。大嫌いだった。
しかし身長を伸ばすため、それを口にした。
特にノド越しが最悪に嫌だったので、給食がパンの日は食パンやコッペパンにひたして食べた。
ごはんの日は味噌汁と交互に口につけ、口の中でわけをわからなくなるほど反芻してから飲み干した。
だが、どうすべきか微妙だったのが、ソフト麺が出た時だ。
あのうどんともスパゲティともつかないゴワゴワとした麺を前に、幼い矢口は頭をフル回転させた。
覚悟を決め、牛乳ビンのふたを親指で弾く。
なんのためらいもなく、白い麺の上に白い液体を注ぐ。
そして、味わうことのないよう、一気に、本当に一気に飲み干した。
だが自分の食道の許容量をまるで考えない行動に、苦さと苦しさがこみ上げた。
白い逆流が、教室の床を覆った。

「なんであんな夢見るかなー」
泣きながら床を掃除した苦い思い出に、矢口は一人で苦笑いした。
確かにキテレツな行動ではあったが、あの時は身長を伸ばす事に必死だった。
大失敗したけど、もしあの場面をやりなおせたとしたとしても、きっと自分は同じことをするに違いない。
今だってそうだ。
もう、逃げるなんて選択肢、どこにも残されちゃあいないんだ。
矢口はたんすから旗、Tシャツ、ホーン、ステッカーをかき集め、その全てを、ゴミ箱にぶちこんだ。
さよなら、日の丸小僧(仮名)。

二日後。
合宿場に現れた、三人の新代表。
矢口の右に、おかっぱ髪の少女。
言葉少なく、目を合わせることすらできない。危うい存在。
「市井紗耶香さん?」
「・・・ハイ」
矢口が話しかけると、やっとそう答えた。
矢口の左に、長髪で大きな目。
「縁があるね」
「・・・そうだな」
とりあえず、当面の敵はこの二人だ。まずはこいつらに勝つことだけを考えよう。

応接間のドアが開き、一次予選を戦ったメンバー達が入ってきた。
その目は一様に鋭い。矢口たちに対して、敵意すら抱いているようだ。
(これが飯田か・・・でっけー)
チーム1の長身は伊達ではない。アフリカ選手のようなリーチだ。仮にマークするとしたらどうやって封じたらいいのだろう。
(福田か・・・目も合わさない気かよ)
矢口がポジションを争うとすれば彼女だろう。若き天才、福田。独特の雰囲気を漂わせていた。
(こええ・・・殺ってやる、ってか)
友好的な態度とは対極にいるような石黒の目は、氷壁のような鋭利さと冷徹さを湛えていた。
(ああ、この人は、だいじょうぶかな)
「なっち」の愛称でサポーターに愛される安倍は、うっすらと微笑を浮かべていた。近くだとより小さく、細く見える。
最後に入ってきた一人。
「こんにちは、イシカワさん」
バレていた。

この日は顔合わせとボディチェックで一日が終わった。
精神的にクタクタの三人だったが、最後にユニフォームに着替えて全員の記念撮影があった。
初めて身にまとう、本物の日本代表ユニフォーム。
自分で縫いつけたわけではない日の丸。
それだけで、胸がいっぱいになった。
ひな壇に並ぶ時、やはり小柄な安倍、福田と並んだ。
二人とも撮られ慣れているだけあって、自然な笑顔を見せていた。
矢口は顔に力を込め、なんとか笑顔らしきものを作った。
やっと解放されたと思ったら、今度は新メンバーだけが呼ばれた。
「Goal Magajineですが、写真お願いしまーす」

サッカー雑誌といえばかび臭い書店の片隅に申し訳程度に数冊置いてあって、それを小銭を握り締めて買いに行くのが矢口の月一回の楽しみだった。
ついでにその隣に置いてある薔薇族やJuneをドキドキしながら読んで股間を熱くさせた、若き日の過ち。
それが今はコンビニに置いてあるのが当たり前だ。発売も隔週から週刊になり、厚みもカラーページも増えた。
そして、雑誌の種類も増えた。それぞれに特色があって興味深い。
雑誌の数は、矢口も正確には把握してないが、三大誌と呼ばれる主だったものは「Goal Magajine」「beobachtende Forschung」「SHEEP & WOLF」の三誌だ。

Goal Magajineは三誌の中で一番売れている雑誌だ。
批判的な記事が少なく(というか皆無)で、読みやすいといえば読みやすい。
ただ記事としては「吉澤ひとみクン(三菱養和FC)の魅力に迫る!!」的なものが多く、石川曰く「GMはサッカー雑誌じゃなくてアイドル雑誌ですよ」
矢口が笑ったのは「緊急特集 日本代表はアイドルか?! アーティストか?!」
サッカーチームに決まってるんだろ。

ドイツ語で「観察的研究」を意味するbeobachtende Forschungは、その名の通り評論家、ジャーナリスト、ファンによる熱い討論バトルが繰り広げられている。
「日本ユース代表の司令塔は加護(奈良育英)か辻(東京ガスユース)か」
というテーマでは
「加護には司令塔たるカリスマ性が足りない」
「辻はむしろFWの選手」
「メンタルに難ありの加護」
「辻はラストパスが雑過ぎる。ユースにいること自体疑問」
「加護はボランチ、辻をトップ下で使って縦のコンビネーションプレイが見たい」
「加護も辻も物足りない。第三勢力の登場を望む」
といった意見交換が、まるごと一冊続く。活字の苦手な矢口は一度も最後まで読んだ事がない。

ボリュームで他を圧倒するのがSHEEP & WOLF。
なんといっても二冊分のボリュームがあるのだから。
しかし紙の質は悪く、内容もカルト的なものの多い、アンダーグラウンド臭の極めて強い仕上がりになっている。
記事も「辻希美の人生相談 ののがまたいいこといったのれす」「徹底討論 石川梨華(湘南ベルマーレ)はうんこをするのか」など、頭を抱える内容が多数を占める。
ところが後にこの雑誌を保田が定期購読していることを知った矢口は、思わず保田との付き合い方を考えてしまったものだ。

「はい、いきますよ。もっと顔寄せて」
Goal Magajineのカメラマンが注文を出す。
今思えばSHEEP&WOLFの愛読者だった保田は「GM逝け!」と叫びたいのを必死に我慢していたに違いない。
矢口は市井と保田の間に入り、二人の肩をぐっと抱き寄せた。
「ほら、リラックス。別に魂抜かれたりしないから」
矢口の言葉に、ほんの少しだけ、表情を柔らかくする市井。
写真は三枚取った。
一枚目は真顔で。
二枚目は微笑んで。
三枚目は思いきりバカ面で。

「サル! 突っ込みすぎ! 戻りを早く!」
「ブタ! なんだそのタックル! もっと上半身寄せないと!」
「カッパ! ボールこねすぎ! もっとシンプルにできないの!」
激しさで鳴る日本代表フィジカルコーチ、夏まゆみのシゴキが始まった。
サル、ブタ、カッパというニックネームは、個性も体型もバラバラの新人三人を見て夏が
「まるで西遊記だね」
といったところからついたものだ。
図抜けて小柄で、俊敏な動きを見せる矢口が孫悟空。
ふっくらした顔立ちの保田が猪八戒。
青白い顔でおかっぱ頭の市井が沙悟浄。カッパというあだ名で一世風靡した選手のようにてっぺんハゲだったわけではない。
反応も三者三様。
小さい頃からおサルさんとかモンチッチなんてニックネームで呼ばれることの多かった矢口はすんなりそれを受け入れる。
「なんであたしがブタなのよ」とブーブー文句をたれる保田は、まさにその名がピッタリであった。
生まれてすぐアルゼンチンに移住した市井は西遊記どころかカッパを知らなかった市井は矢口から説明されると「でも・・・私、泳げません」と、えらくピントのずれた回答をしてみせた。

なんなんだろう、この市井紗耶香という少女は。
彼女のおどおどとした態度は初代表のプレッシャーから来るものではなく、彼女の本質であるようだった。
「あの子と一緒にされるの、私やだかんね」
「そんなこと言うんじゃないよ」
保田にはそう言ってみせたが、矢口も本心ではかなりそれと同じことを思っていた。
たぶん自分は、中盤でのつなぎ役、汗かきとしての役割を求められているのだろう。
保田は、層が薄いとされる左サイドの補強。
だけど市井は、悪いがなにもできない。
ボールタッチの柔らかさは自分などの比ではない。それこそミリメートル単位の誤差で決めるトラップは、見ていてため息が出るほどだ。
だが技術を活かすも殺すも、結局はメンタルの強さなのに。今のままでは試合に出てもまるで使い物にならないだろう。

「おもしれえなあ、あの市井って子」
スパイクを磨いていた矢口にポツリと言ったのは、別メニューで調整していた石黒だ。
新人ぞろいの現代表で唯一前回の戦いを経験者。もともと右利きの選手であるがいままでは左足のほうが精度の高いプレーができる。
最初矢口たちをにらみつけたように見えたのは、単にコンタクトをしていなかっただけであった。
「あんな重心の低いドリブルできる日本人は見たこと無い」
「アルゼンチン特有のドリブルだべさ。腰を入れて、なるべく多いタッチでボールこねるんだ。あれだとボールを取りにいきにくい」
飯田も市井を高く評価していた。
新人三人の中で最も早くチームに溶け込んだのは処世術に長けた矢口だったが、いち早く才能を見とめられたのは市井だった。

「カッパ! またあんただけよ!」
期待の裏返しなのかもしれないが、夏コーチの市井への仕打ちは日に日にひどくなる。
「他のやつらもめまいがするくらいヘタだけど、あんたは吐き気すらするよ」
少しは言い返せばいいのに、市井はただうなだれ、涙を流すばかり。
夏コーチの仕事は選手達のスキルを上げ、戦術理解を深める事。起用は監督の決めることなのだから、多少機嫌を損ねたところでかまわないのだ。
萎縮するばかりの市井に、夏コーチも泣きそうになっているのが分かる。
「もう、いいよ。コーチ、この子ほっといて、あたしと矢口だけでやりましょ」
エリートコースを歩んできた保田にはこんなところで足踏みしてる事自体我慢ならないのだ。
矢口も、そんな保田に呆れながらも、それをたしなめることができなかった。矢口もまた市井へのストレスが限界に近かったのだ。
旧メンバーと新メンバー、そして新メンバー内にも確執を残したまま、代表チームはアウェイゲームを戦うためクウェートに旅立った。

初めての海外は砂漠だらけの国。
地面からの照り返しが重油を含んでいるかと思うほど熱い。
練習が終わると、クーラーをMAXでかけ、ホテルの部屋で寝るだけの調整期間。
塩ラーメンと日本食を夢に見ていた矢口が現実に引き戻されると、すすり泣く声がその耳に届いた。

「・・・」
同じ部屋の市井だった。
ベッドの上でひざを抱き、すすり泣いている。
勘弁してよ。そう思いかけた次の瞬間、鼻をつく異臭に気がついた。
まさか。あわてて飛び起き、壁のスイッチを探る矢口。
部屋が明るく照らし出される。
市井の座っていたそのあたりに、水たまりができていた。

そういえば練習中も暑い暑いとミネラルウォーターばかり飲んでいた市井だったが、まさかこの年齢で夜尿症だなんて想像もしなかった。
こっちが泣きてえよ、そう思いながらベッドのシーツを引っぺがそうとすると
「ごめんなさい!」
コンロの弱火を強火にしたように、市井が激しく泣き喚いた。
「ごめんなさい! お父さん、サヤカが悪い子だったの!」
え? お父さん? 矢口の思考が止まる。
「ちょっとなによ、夜中に」
激しい時差ボケに苦しんでいた隣室の保田が浅い眠りを妨害されて、アイマスクをつけたまま乗りこんできたのだった。
「ちょっと、お風呂に水ためて!」
「ほえ?」
「そのシーツ、洗濯機に放り込んで。サヤカの荷物から下着出して」
保田が来た事で我に返った矢口がテキパキと指示を下す。まだ覚醒しきらない保田が言われるがままそれに従う。
市井はますます激しく泣く。なんとか泣きやまそうとする矢口。他のメンバーが起き出したらことだ。なにを言われるか分かったものではない。
特に、あのババアだけは・・・
「ちょっと、あんたらなにやっとんねん」
矢口と保田は、その瞬間だけ、中東の蒸し暑さを忘れた。

ドアもノックしないで入ってきた中澤は、濡れたままの市井の体を優しく抱いた。
「もう泣かんでええんやで。あんたは、なんも悪ない。ええ子や。なんも怖いこともない」
まるで赤子をあやすように、そう言い聞かせる中澤。
矢口も保田も、手を止めてそれに見入ってた。
うち子供苦手や、そう言ってはばからない中澤に、矢口は確かに母性を見た。
「な、もうなにも心配せんでええよ」
中澤の低い声にいちいちうなずいていた市井は、やがて、そのやせた体に顔を埋めて静かに安らかな寝息を立てはじめた。

「監督から聞いてんけど、この子、小さい頃お父さんが死んでもうたらしいんや」
矢口は日本から持ってきたインスタントコーヒーを紙コップに三つ作った。こんばんはもう眠る気にはなれなかった。
「アルゼンチンで事業するために日本出たらしいねんけどすぐに失敗してお父さん蒸発して、スラムみたいな処で暮らしてたらしいわ」
あのボールコントロールはストリートで養ったものだったのか。もしかしたら、ハポネ(日本人)と呼ばれ、いじめられて、一人で丸めた靴下を蹴っていたのかもしれない。
「じぶんら、親御さんは?」
「親ばかというよりばか親なお父さんと口うるさいお母さん」
「うちは・・・父親が厳格なもんで。高校の時イチフナの寮に入ってたのも、親元から離れたい一心で」
保田は頭をかきつつ、答えにくそうにしていた。

「小さい時に親をなくすと、子どもってどこかで自分を責めてまうもんらしいって、テレビでえらい心理学の先生が言うとった。
わたしがもっとええ子にしとったら、って」
眠りこける市井の頬をなでる中澤の指は、歴戦を物語る傷がそこここに走っていた。
この一件が、八人の結束を固めるきっかけのひとつとなった。
そして、中澤もまた、幼い頃に父親を失っていた事を矢口が知るのは、それからずっと後の事である。

中東の試合は消耗戦になる。たとえブラジル代表でも、中東とのチームをアウェイで負かす事は困難だ。
だからスコアレスドローは、日本代表にとっては、勝ちにも等しい価値があった。
後半ロスタイムに入り、日本はここまで一つも使わなかった交代枠をすべて使い切る。
福田、飯田、安倍に替わり、矢口、保田、市井。
三人は、横一線のスタートを切った。

「一位がなんだっていうんですか。まだたったの三戦しか戦っていないんでしょ」
第3節、ホームで中東最強のチーム、サウジアラビアを下した日本は勝ち点7。ゴールディファレンスで韓国を抜き、A組の首位に踊り出た。
代表スタメンデビューを見事な白星で飾れた矢口は、冷や水を浴びせられたように凍りついた。
それにしても、多少浮かれ気味の祝勝会で、いきなりこんな言葉を吐ける福田はチーム最年少である。
ゴールランキングのトップを走る安倍がフィニッシュに専念できるのも、コンビを組む福田が攻撃をビルドアップしているからだし、福田の攻撃センスはチームでも図抜けていた。
ほとんどのチームメートと仲良くなった矢口がいまだに近づきがたいオーラを発しているのも福田一人だった。
もっとも福田は他のメンバーともそんな感じで、一人でいることが圧倒的に多かった。
他のメンバーのレベルに自分を甘んじさせまいと、自分を律しているようにも見えた。

帰国後、矢口は実家に帰省したつかの間の休息であった。
「真里、見てたぞ。出られたな。ビデオ取ったぞ。今度は試合、日本だろ。見に行くからな」
「ちょっとお父さん。真里、他の皆さんに御迷惑かけなかったろうね」
「ねーちゃん、なっちの写真もらってきてくれた?」
一休みして、いつもの本屋にサッカー雑誌を買いに行った。
「真里ちゃん、テレビ見てたよ」
「矢口さん、写真いいですか?」
少しずつ、環境が変わり始めていた。
その中で、自分は変わらずにいられるだろうか。
それとも、変わらなければ、まだ誰も見たことのない高みにまで上り詰めることはできないのか。
いつもの本屋のいつもの場所に、いつもの雑誌があった。
「あ・・・」
Goal Magajineの表紙を飾るのは、こわばりきった笑顔の自分達だった。
この戦いで、なにが起こるのか。それはわからない。
でも、今この瞬間のこの気持ちさえ失わないのであれば、きっとなんとかなる。たとえどんな困難が待っていても。

サウジ戦を前に、ちょっとした「テスト」があった。

現在の布陣(4−4−2。ラインDF、中盤はボックス)

   7 安倍
           9福田

        ?
   ○         ○
       11飯田
 
○               ○
    14石黒    ○

       @中澤

空白となっているトップ下のポジションを矢口、保田、市井の三人から選出しようというものだ。
監督は、ツートップも去る事ながら、ボランチの飯田、ディフェンスリーダー石黒との縦のコンビネーションを重要視していた。
オーディションは、高校日本一となった清水市立商業高校との45×3という変則マッチであった。

吉澤ひとみは浦和レッズのジュニアユースにあたる三菱養和FCから、清水市商に越境入学していた。
理由は高校選手権に出たかったのがまず一つ。地元埼玉はこのところ選手権で芳しい成績を残していない。
もうひとつは、課題である線の細さを克服しようというものだ。
ポジションは攻撃的MFだがU17代表では長身を利してCB。
引き気味のポジションからパスを出す事に面白さを覚えはじめていたこの時の彼女にとって、監督の「ボランチをやってみろ」という今朝の言葉は、思わず笑いをかみ殺さねばならないほどの愉悦に満ちたものであった。しかも、相手は日本代表だ。
今の代表には飯田圭織という吉澤の理想に近いボランチがいる。よく飯田のヘディングや独特なパスのフォームをそっくり真似て、友人の笑いを誘ったものだ。試合が終わったらサインをもらうつもりだった。
「吉澤。おまえは三本全部に出てもらう」
ますます、望むところだった。

一本目は、対面となる位置に6番をつけた選手が出てきた。他はほぼベストメンバーであるようだった。
「なんだ、あんたか」
「ごぶさたしてます、保田さん」
「圭ちゃんと呼べって言ってるだろ」
保田は起用を巡ってジェフ首脳陣と対立、ジュビロ磐田にレンタル移籍をしていた。
同じ静岡ということもあり、時折練習試合で揉んでもらうことがあった。
(保田さんがトップ下?)
ミスキャストだと吉澤は首をひねった。保田がその真価を発揮するにはそのポジションは高すぎるように思えた。
保田自身、手の届くところに左タッチラインのある場所でのプレーが落ち着くようで、自然と左サイドに寄っていってしまう。
すると中盤のバランスが崩れ、守備がしにくくなる。
攻撃に関しても左サイドを駆け上がるオーバーラップを得意とする石黒とポジションが重なり、不発に終わる。
面白いもので、左が崩れると右はさらに崩しやすくなる。それを察知して飯田が右に寄ると、中央がガラ空きになる。
吉澤は面白いようにスルーパスを通し、代表を1−2で破ったのだった。

二本目には、13をつけた選手が。
(なんて言ったって、この人。確か柏に入ったばっかの・・・)
吉澤が名前を思い出せなかった市井は、柏レイソルに入団していた。
(え、なに、この人)
うめえ、うますぎるぜ。吉澤は心の中で連発する。
吉澤がディフェンスで最も重要視しているのは読みの深さだ。いくら身体能力に恵まれているといってもそれだけではおのずと限界が出てくる。
今ボールを奪えなくても、次のプレーで奪えればいい。極端な話、自分の処でカットできなくっても、ゴールにボールが飛び込む前に、その仕掛けが発動すればいいのがディフェンスだと思っている。もちろんすぐ奪えればそこから攻撃をはじめられるという利点があるのだが。
ところが市井は、そんな吉澤の読みをことごとく外してくるのだった。右と見せて左、と判断して左に重心を置くすると本当に右につっこんで吉澤を置き去りにする。それも緩急をうまくつけて、ここしかないというベストタイミングで飛び込んでくるのだ。
たまたま吉澤が読み勝っても、手数の多いそのドリブルは直前で方向転換、寸でのところでタックルをかわし去る。そんな「見切り」が、とんでもなくうまい。
後に「天才的なボールキープ力」と監督に絶賛されて代表入りする吉澤も、この時はまだ市井のドリブルに翻弄され、自分のドリブルに失望するばかりだった。
ただ、それがチームによい影響をもたらしたかといえば、必ずしもそうではない。
なまじキープ力があるばかりに、持ちすぎてしまい、攻撃のリズムを寸断してしまうのだ。せっかくの才能をチームに落としきれていない。
また、ディフェンスの意識も希薄で、ボランチに悠々ボールをさばくことを許してしまう。ボールを持ってない時の市井に、吉澤はまるで恐れを感じなかった。
この試合はスコアレスドロー。

最後に出てきたのは、背番号8。
(これが矢口か・・・ほんっとにちっちぇーな)
身長差、約20センチ。頭の高さが、吉澤の長い首までしかない。
試合開始早々、ボールを持って攻めあがる吉澤がミドルを放つ。矢口のスパイクをかすめてゴールの上へ。清商下級生のラインズマンがゴールを指す。
「コーナーっしょ?!」
確かに微妙だったが、吉澤の感触では間違いなくシュートは枠をとらえていた。それが副審の角度からは見えなかったのか。
逆にいえば、矢口はそこまでの余裕を持ってブロックした事になる。
調子狂うぜ・・・中澤のゴールキックが降って来る。余裕のヘディングで弾き返そうとした吉澤の肩の上に矢口の肩が。
思うように飛べない吉澤に競り勝った矢口が、飯田にボールを落とす。そして自分も走り出す。
このチビ、こんにゃろうめ。吉澤も追う。
「吉澤戻れ! バランス!」
前線と中盤を行ったり来たりする矢口に必死に食らいつく吉澤。すでに一試合分走っていることを完全に忘れていた。
「カオリ!」
右サイドを駆け上がった安倍が飯田にセンタリング。飯田がゴール前に落とす。矢口がハーフボレーにいく。
背中でブロックにいく吉澤。ボールは矢口の足元を抜け、フリーの福田が難なく合わせた。
動けなくなった吉澤は、その時点で交代を命ぜられた。

寮のテレビでサウジの試合を観戦していた吉澤は、スタメンに矢口の名前があるのを見て、やっぱりなと思った。
あの三人の中で、8番は最もヘタだった。体格にも恵まれていない。しかし、その145センチの体躯を最大限に活かす術を知り尽くしている。
それは、チームプレーに徹すると言う事だ。
あの8番を中心に据えたチームを作ろうとする監督はいないだろう。しかし、11人いるスタメンの中にあの8番が欲しいと言う監督は多いだろう。
自分も、そんな選手になりたい。すべての監督とチームメートに信頼される選手に。
あの日から、吉澤はポジションへのこだわりを捨てた。どこを任されても全力を尽くせる選手になろう。そう決めたのだった。

ペナルティーエリアやや手前、ほぼ正面からフリーで持った福田が左足で狙う。十八番のスライスがかかった、キーパーの手から逃げるよなシュート。
手が伸びた。矢口にはそう見えた。グローブのような手でのワンハンドキャッチ。福田が珍しく頭を抱える。
百発百中、決まったと確信していたのだろう。
黒クモの異名を取るサウジアラビアGK、アル・ハラボーのミラクルセーブの連発に、一方的に攻めたてるホームの日本は点が奪えない。
西アジア最強のサウジとはいえ、ホームゲーム。なんとか勝ち点3をあげたい。監督のゲキが飛ぶ。
「矢口、もっと走らんかい!」
そんな簡単に言わないでよ。矢口は正直、司令塔の仕事をもてあましているのだった。
それにツートップにもう少し動いてほしかった。もっと左右に動いてマーカーを揺さぶってくれないと、パスの出し処がない。
平均身長でサウジに10センチ以上引けをとる日本。中でも矢口は「頭二つ」小さいのだった。ちょっとしたフィジカルコンタクトで吹っ飛ばされる。
まるでパチンコ玉の気分だ。
それでも惜しみない運動量で攻守をつなぎ、サイドMFにパスを振り分ける。
どんな堅陣もサイドを突けば崩せる、がサッカーのセオリーだと長い間教え込まれていたのだ。
「矢口!」
左から声がした。左サイドMFの背後を、青い影が抜けていく。
センターバックの位置から、石黒が上がってきたのだ。迷わずパスを出し、その穴を埋めるように最終ラインに走る矢口。
フワリとしたボールが、マイナス気味にゴール前へ。やや大きい。ツートップとサウジDFの頭上を通過する。
矢口と入れ替わりに前へ飛び出した飯田だった。ロビングのヘディングシュートがクロスに入る。タイミングをずらされた長い腕が空を切る。
大歓声に耳がつぶされる。背後から、矢口の小さな背中を中澤が抱きしめた。

ところが、福田がいちゃもんをつけたのは、そのゴールの場面だったのだ。
「あの時間帯、敵のセンターDF、完全に(集中が)切れてました。だからあたしと安倍さんがさんざん縦に走ってスルーパスを待ってたんです。なのにバカの一つ覚えみたくサイド、サイドって。皆さん、本当にサッカー知ってるんですか?」
皆さん、とはいうものの、明らかに矢口のゲームメークを責めている言葉だった。矢口は悔しかった。泣くまいと必死にこらえた。
「福田、謝りなよ」
石黒がずいと前に出る。その右足首はアイシングの氷でガチガチに固められていた。
「福田さんの言う通りだと思います。今日の攻撃、どこかおかしかったですもん」
出番の無かった保田だった。年下の福田をこの頃はさん付けで呼んでいたのだ。
「ベンチは黙ってろよ」
「黙りません。スタメンがそんなにえらいんですか」
「やめなよ、もう」
「もういいでしょう、彩ちゃん」
石黒と保田の間に安倍と飯田が割って入る。険悪な雰囲気に蒼白になる市井を中澤が気遣う。
どうしてだろう。勝ってるはずなのに、なんでこんなことになるんだろう。
矢口には、福田の真意が理解しかねた。

それがはっきりとわかったのは、この試合のビデオを見たときのことだった。
確かにツートップは意思を通わせ、ゴール前に入ったりダミーになったり、せわしなく動いていた。それを矢口はまったく見ていない。
ただサイドに放り込むしか頭にない。
ゴールを奪った時間帯なんかさらにそうだ。パスでもドリブルでも、いくらでも通せそうなサウジゴール前。
石黒、飯田という奇襲を用いなくても、あっさりゴールをわることができたはずだ。接戦にしてしまったのは、自分の力足らずだ。
けど、だからと言って、あの福田の物言いは許せなかった。

この時期が、矢口にとって最も辛い時期だったかもしれない。
所属する横浜フリューゲルスが解散、まるで人身売買のように入団した横浜・F・マリノスではレギュラーをなかなか奪えずにいた。
(なんだよFマリノスって。杉作J太郎かドリアンT助川じゃあるまいし)
このまま代表からもフェードアウトしてしまうのではにかという不安から、ささいなことにすらハラを立てる毎日。
ちなみに昨年末にAFC・アジアサッカー連盟が年間最優秀チームに日本代表を選び、アジアMVPに安倍なつみを選んでいる。
ある意味、この頃がこのチームの絶頂期だったのかもしれない。
(・・・サッカー、やめちゃおうかなあ・・・)
お父さんガッカリするんだろうなあ。仕事なにやろう? でもコンビニのレジ打ってて、あ、矢口真里だとか言われんの、やだなあ。
寮の部屋でゴロゴロしていると、いつぞやのGoal Magajineが出てきた。
この時は、ものすごく夢と希望にあふれていたはずなのに。
いや、今だって、なにも変わっちゃいないはずだ。ただ、いろんなものに自分でフタをしちゃってるだけで。
石川だっていつも言ってたじゃないか。ポジティブ、ポジティブ。
矢口は部屋を飛び出した。再び、走り出した。

なんとか新天地マリノスでレギュラーをつかみかけた頃、代表に召集された。
入ったこと自体が信じられなかった代表も、この頃は名前があってほっとするというほど、矢口の考えは変わっていた。
変わったといえば、福田である。
まるで、別人のようにやる気を失っていたのである。
所属するヴェルディではキレのあるプレーで好調ぶりをアピールしていただけに、スランプとは考えにくい。
「心の肉離れ」
監督は福田をこう例えた。だが、その肉離れが、もはや致命傷になっていたことには気がついていなかった。
「明日香、おなかでも痛いの?」
矢口が軽口を叩いても、一切反応がない。
最初は天才の気まぐれ程度にしか考えてなかった周囲も、次第に言葉を失っていく。
最も心配したのは、コンビを組む安倍だった。片方の翼を失えば、鳥は羽ばたく事が出来ない。安倍のプレーも力が半減してしまう。
「明日香、がんばろうよ。せっかくここまできたのに」
それでも福田は、黙って首を横に振るばかりだった。
そしてその影で、密かに活躍の場を求める者もいた。

春だというのに、アウェイのウズベキスタンは氷点下という寒さであった。
コンサドーレ出身の飯田、安倍が軽快な動きを見せる中、石黒はさかんに左足をかばった。
(この寒さ・・・こたえるぜ)
右足首の痛みとの戦いは四年前、前回のワールドカップ予選から始まっていた。
3バックの左ウイングバックとして出場していた石黒は、センタリングの瞬間、全体重を乗せたスライディングをくるぶしの外側に受けた。
以来手術を繰り返し、一度もベストの状態に戻った事はない。
まさかこの足で再び代表に返り咲くなんてことは考えてなかった。この足がどこまでもってくれるかは分からない。
しかし監督は、他の選手のケツをひっぱたいてでも上げていく強気のラインコントロールを石黒に求めていた。
できるところまで、という約束で、これを引き受けた。
「ぎゃっ」
飯田がラッセルのようなウズベキスタンFWのドリブルに吹っ飛ばされる。すぐさまミドルシュート。左足ではブロックが届かない。
スパイクが脱げるほどの強烈なシュートに石黒の顔が歪む。もう一度ブロックにいく。硬い硬い地面に、石黒の足首が悲鳴を上げる。
シュートは中澤の右を豪快に破った。予選通じて初失点。しかも後半残り時間はあとわずか。
「保田!」
パワープレイに出た。福田を下げて、保田を入れる。飯田を前線に出した。
右から矢口、左から安倍がクロスを放り込む。ウズベクDFが冷静に反応する。クリアボールは前線に。充分な時間稼ぎになる。
ペナルティーエリアを飛び出した中澤が足でボールを処理。
「裕ちゃん!」
僚友、石黒がボールを要求する。ルックアップ。ターゲットの飯田は二人がかりのマーク。かたや保田はミスマッチの選手が一人ついているだけ。
 他に選択肢はなかった。

「くっ!」
ロングボールが出た瞬間、保田はその落下地点へ全速力で走った。体は温まりきってない。小柄だがタフなハーフバックがついてくる。
だが時間がない。このワンプレーが最初で最後の活躍の場だろう。
ゴール前に走る矢口と目が合った。その方に、ボールを落とす。バランスを崩し、顔から落ちた。
矢口が追う。地表が冷えて堅いせいか球足が早い。矢口が追いつけない。終わった。保田はそのまま顔を伏せた。
前に飛び出すウズベクGK。その足元で、荒れた地面にボールが不規則なバウンドをした。
中途半端に飛び出していたキーパーの長い足の間を、ボールが抜けていく。
ゴールの中でボールが止まったのを確認した時、保田はそのまま地面を平手で叩いた。即座に周りの選手がその上に折り重なってきた。
一番熱狂しているのは、ロングボールでのアシストを決めた石黒だった。保田に抱きつき、バンバンとその背中を叩いていた。
ギリギリの引き分けにもかかわらず、まるでワールドカップ優勝を決めたかのような大騒ぎであった。
ただ一人、無言でロッカールームに引き上げる背番号9を除いて。

次の代表合宿のメンバーに、福田明日香の名前はなかった。
そして、二度と代表のユニフォームに袖を通す事は無かった。
失われた熱情は、二度と戻る事は無かった。

「山田鍼灸院・・・ここだね」
ミニスカートから吹き込む風が涼しすぎる。
「北海道の寒さ、なめんでねえ」
「生足はギャルの基本だよ」
飯田の言う通りであった。
一軒家の前にたたずむギャル風の厚底少女。右手にはスイカの入ったネット。
矢口は北海道に来ていた。ウズベク戦で古傷を悪化させた石黒彩を見舞うためだ。

途中、コンサドーレのクラブハウスに寄って飯田の顔を見てきた。GKを立たせて、ミドルシュートの練習をしていた。
「こんな遠いとこまでよくきたねえ」
飯田は心から祝福してくれた。安倍へのライバル心は強いが、非情に徹する事もできない。
そんな気立ての良さが、恵まれたサイズを持ちながら、いまいちブレイクしきれない原因なのだろう。
しかし矢口は飯田のそんなところも大好きだった。
「なっちは?」
飯田がクラブハウスの中を指差す。黙々と筋力アップに励む安倍の姿がそこにはあった。

福田のリタイアが代表チームに大きな影を落としているのはまぎれもない事実だった。
安倍と福田がゴールゲットとチャンスメークを交互に担当する形はそれなりにバランスが取れていた。
だが福田がいない今、その布陣にメスを入れなくてはならない時が来ていた。
福田の位置に誰が入るのか、さまざまな形がテストされた。
矢口では前線からの守備は強化されるが、得点感覚が福田に比べ明らかに落ちる矢口にFWは重荷だった。
飯田は安倍とのコンビネーションは抜群だった。だがすでに飯田はボランチとして固定しておきたい。
保田では安倍との相性という点で疑問が残った。前線に上げるなら、終盤のスクランブルでだろう。
そして、ここにきて安倍をワントップで、という案が出てきた。適格者がいないなら空けておけばいいだけの話。
だがワントップには、前線での高いキープ力、蹴られても動じないフィジカルが必要とされる。肉体改造が迫られた。

「あの子、昔からそうなんだよう。苦しいとか、怖いとか、一切そういうこと言わないの」
歯がゆそうに飯田がつぶやく。
高さと弾丸シュートの飯田。突破力の安倍。二人は小学校時代からツートップを組んできた。だが、友達づきあいをしていたというわけではない。
矢口も最初二人を見たとき、その不思議な関係に大いに疑問を抱いた。必要最小限の会話しか交わさないのに、飯田がスッと手を伸ばした手に安倍が水を手渡していたりする。飯田が欲しいのはタオルかもしれないのに。
フィールドの上でも、この二人は長年連れ添った夫婦のような、二人にしかわからない「間」を見せるのだ。
エースである事は、孤独との戦いなのだろう。
エースとして、黙々とその孤独と向き合う安倍が、飯田には耐えられないのだろう。手を貸して、一言そう言えばいいだけなのに。
「彩っぺにも会ってくか?」
当然だ。そのために苦手な飛行機に乗ってきたのだから。
飯田は石黒の行き付けの整骨院の住所と電話番号を、丁寧にメモしてくれた。

「すいませーん。こちらに、石黒彩さんいらっしゃいますか?」
薄着のギャルに一瞬面食らった受付の中年看護婦だが、すぐに矢口の顔を見て
「今うちの息子、いえ、院長と話してますよ。もう診察終わってるみたいだから、奥の部屋へ」
「ありがとうございます」
靴を脱ぎ、スリッパに履き替える矢口。いきなり15センチも背が縮んだのを見て、看護婦が悲鳴をあげた。
「・・・」
「・・・!」
診察室というプレートのかかった部屋から、なにやら言い争う声が聞こえた。思わず聞き耳を立てる矢口。
「いやっ、やめて、それだけは」
「なに言ってんだよ。おとなしくしろ」
「なんでも言う事聞くから」
「これがおまえのためなんだ」
女のほうは石黒のハスキーボイスに間違いない。男の方は鼻息が荒い。両者とも、切羽詰った感じがする。
「彩ちゃん」
矢口は、扉を蹴破った。涙でくしゃくしゃになった石黒の顔。ベッドに横たわる石黒にのしかからんばかりの大男。矢口の顔に殺意が走る。
「てめえ、このブタ」
145センチが、宙を舞った。
白いカーテンが、赤に染まった。

「ごめんなさいっ!!」
矢口は平謝りだった。
「もういいっすよ。オレ、こんな悪人面だから、子どもとかすぐに泣かしちゃうし」
スイカの汁まみれになった顔をタオルで拭く、鍼灸院の若院長。
「ほんとよ。矢口が来てくれなかったら、今ごろどんなひどい目に遭わされてたか」
「うるさいよ」
サッカーボールが恋人の人生を送ってきた矢口にも、石黒と山田院長が只ならない雰囲気である事は容易にわかる。
こんなに「女」な石黒はそれまで見たことが無かった。
「こっち、骨の専門家。治療は外科、リハビリはこっちでって決めてるんだ」
「山田です」
差し出された名刺を見たとき、矢口はギョッとした。白衣の下から刺青が顔を覗かせたのだ。
「今じゃあたしの体をあたし以上に知り尽くしてくれてるわ」
「誤解されるだろうが」
「真矢、患者さんよ」
受付から声がした。
「分かったよ!  じゃ、ゆっくりしてってください」
「ありがとうございます・・・いい人だね」
「ほんとは気の小さな男よ。必死で自分大きく見せようとして」
「誰かに似てるなー」
「? なんか言った?」
金色メッシュで右の小鼻にピアス穴まで開けた石黒が聞き返した。

「・・・足は、どうなの?」
「開こうかどうかの瀬戸際だね」
こともなげにそう言ってのける石黒。裸足の右足首には、痛々しい手術跡が縦に斜めに走っていた。麻酔を打った注射針の跡も無数に。
「親にもらった体、こんなにして、親不孝だねえ」
まるで他人事のようだった。
「開くって?」
「昨日札幌の病院でレントゲンとったんだ。くるぶしに、こんな感じにヒビが入ってる」
石黒は、傷だらけの足を指でなぞってみせた。
ただの亀裂ならなんとかだましだましやれるだろう。だが骨の中のダメージが深刻なら、選手生命が危ぶまれてくる。
「足を開いて、ボルトを入れる。するとボルトがギプスの役目を果たして、骨のつながりが通常よりも早まるんだって。でもこいつは止めるのよ。
二度と歩けなくなっちまうかもしんねえぞって。ふざけんな、あたしの足だってのに」
石黒がさっきまで山田の座っていた椅子を左足で蹴飛ばす。
「開かない場合は?」
「ギプスで固めて、自然にくっつくのを待つ。そのほうが確実だけど、どれだけ時間がかかるのかは分からない」
予選はちょうど折り返し地点を過ぎようとしていた。来月東京で、ついでソウルで宿敵韓国との二連戦を戦う。
現在首位ながらサウジ、韓国との勝ち点差はわずか2。そこにきて福田がチームを去った。
石黒まで戦線離脱となれば、まさに飛車角落ちで残りの試合を戦わなくてはならない。
石黒がこんなふうに言ってくるなんて。恐らく、考えすぎて煮詰まって、自分でもどうしていいかわからないのだろう。
石黒は真剣だ。ごまかしはきかない。
「彩ちゃん、私は・・・」

「動けないやつが日の丸つけてるなんて、許せない。アクシデントだって実力のうちだよ。
もし私が絶好調なのに、私のポジションに半病人がいたら、爆発してると思う」
苦笑いしながら、石黒はそれを黙って聞いている。
矢口は、言葉を捜した。どんなに辛らつな言葉でもいい。黙ってしまったら、どうなってしまうか。
だが頭の回転が早い矢口でも、咳払いには勝てない。むせ返った後、涙がこぼれた。
こらえきれなかった自分がますます悔しく情けなく、いっそう涙が止まらなくなっていた。
「もういいよ。分かった。ごめん」
石黒は泣きすぎてせきこむ矢口の背中をさすった。最初からこういう子だった。矢口は、チームのことしか考えていない。
代表チームが強くなるためなら自分は憎まれてもいい。そんな矢口の言葉だったからこそ、石黒は聞いてみたかったのだ。
「ほんとはあたしも、試合出たくなかったんだ。次韓国だろ。あたし、一度も韓国に勝てたことないんだよ。ワールドカップ予選でも、日韓戦でも」
むしろ石黒はうれしかったのだ。自分と同じ位、いや、それ以上に代表チームを愛してくれるやつが、若い世代にいたことが。
「彩ちゃん・・・彩ちゃんが戻ってくるまで、私たち、待ってるから。負けないで、勝ちつづけて、待ってるから」
そう言うのが、精一杯だった。

「決めた。手術する」
少しでも復帰が早くなるとしたら、自分もそっちを選ぶだろう。矢口は思った。
「もう知らん。勝手にしろ」
山田はカンカンだった。山田の立場なら自分もそう言うだろう。矢口は思った。
「勝手にします。バイバイ」
どうやら、二人の間ではこんなことは日常茶飯事であるようだった。

石黒は矢口を車で空港まで送ってくれた。オートマなので片足でも運転に支障はなかった。
「矢口、本当の目的はなんだったの?」
「え?」
「とぼけんなよ。わざわざ見舞のためだけに、飛行機乗ってくるなんて、誰も思わないって」
「・・・すごいね」
「DFは読みが命」
矢口は、石黒にぜひ聞きたかったことを打ち明けた。
電話では聞けない、体で教えてもらうことしかできない相談だった。
「ごめん。足がこんなじゃなきゃね」
「あたしこそ」
「カオリじゃだめなの?」
「体が違いすぎるもん。参考にしようがない」
矢口は、あくまでオリジナルを目指しているのだ。いろんな人の意見を参考にしながら、自分のスペシャルホールドを捜し始めたばかりだった。
「あ、そういえば、昨日稲葉さんから電話があったわ。こないだ矢口が来よったって」
代表では石黒の先輩、今は筑波大学で教鞭を取る稲葉貴子のことである。
「やっぱり、今と同じ相談?」
「あれは別口。ツクバっていったら、あれしかないじゃないっすか」
「まあ、いろいろやるのはいいけど、矢口らしさ、なくすなよ」
自分らしさ? ソレハナンダ?
矢口は代表での今の自分にまるで納得していない。
自分がもっと進化していなかければ、アジア予選を勝ち抜く事などできない。
そのためには、なんだってする。
空港が見えてきた。

「みんなには、なにも言わなくていいよ」
石黒は、自分の病状を他に漏らさぬよう何度も矢口に口止めした。矢口も口は軽いが、こればかりは言うまいと心に決めた。
だが、監督にはっきりそれを告げようとした山田の行動も、また勇気あるものだと思うのだ。
恐らく恋人であろう石黒がすがるのを振り切ってでも、彼女の選手生命を守ろうとした・・・それをぶち壊してしまったのは他ならぬ矢口本人だったのだが。
選手生命の終わり。矢口にとって、それは滝のようなものだ。その先がどうなっているのか想像もつかない。
他にする事が無いからとサッカーに携わるのは違う気がした。
第二の人生を、どう生きたらいいのか。
その答えは、今を懸命に生ききる事で出てくるはず。そう自分に言い聞かせ、石黒に手を振った。

数日後、韓国戦(東京)のメンバーが発表される。さしたるメンバーチェンジはなし。もちろん矢口の名前もあった。
石黒の名前もあったが、ボルトを埋める手術を受けたばかりの石黒はそれを辞退する。
ところが翌日、追加メンバーの発表の際、ふたたび石黒の名前は記載されていた。
国際経験豊かなDFの要がいないことが韓国に与える影響はでかい。
しかし、石黒の選手生命を考えるのであれば、再要請などするべきではないはずだ。選手は使い捨てのコマじゃないのに。
なにより、なぜ石黒が一度断ったはずの要請を再び受けたのか、矢口には解らなかった。
(彩ちゃん、ピッチの上で死ぬ気なの?)

「上げろ上げろ!」
「右から17! 捕まえて」
「クリア! 外出せ! ゲーム切れ!」
石黒の低い声は、この大歓声の中でも、フィールドの隅々まで響き渡る。
ただしその声はピッチの外から、ディフェンスラインを指揮する背番号6に向けられているものだ。

石黒の戦線離脱で、監督がその代役として指名したのは好調を維持する保田だった。
それを告げられた時、保田はためらった。ディフェンダーの経験はあったが、高校で経験した4バックの左サイドバックだったり、国体の千葉選抜で二試合だけ演じたストッパーで、他の選手を仕切って動かすよりは与えられた仕事を全うする役割ばかりであった。
それがいきなり韓国との大一番でそれをやらされるなんて思いもしてなかった。
が、即答した。
「やります」
未経験にしては、まずまずのラインコントロールを見せている。しかしゲームを読む力はまだまだで、せっかく前線からのプレスが機能しているのにスイーパーのポジションにいたり、逆にプレスがお休みの時間帯にラインを上げてピンチを招いたりしていた。
そこで、石黒の出番である。影のディフェンスリーダーとして声をかけ、保田を鼓舞した。今のところ、ピンチらしいピンチは日本に訪れていない。
一度だけマークのズレからきわどいシュートを放たれたが、中沢が右手一本で弾き出して事無きを得ていた。

それに引き換え、前線の矢口は、ほとんどチャンスを生み出せないでいた。「点の取れないMF」という酷評を受け、前にかかりすぎて安倍とポジションが重なるのだ。意外性のない攻撃は、韓国伝統の5バックの餌食だった。
しかし点が取れない原因の多くは、その戦術にあった。今回の合宿ではワントップの安倍にボールを集め、そこからサイドに展開、ライナー性のクロスをニアで合わせる。いわゆるアーセナル・ゴールの練習しかしていない。
何年前のサッカーだよ、監督の趣味丸出しのサッカーは選手を辟易させた。
明るい未来は矢口のすぐ後ろにいる二人、ボランチ飯田とレフトハーフ市井だけが感じさせてくれた。
飯田はどんなボールにでも100%の力でいってくれる。長距離のパス、シュートは深深と守る韓国フルバックに少なからぬ脅威を与えた。
もう一人、これが初スタメンの市井は、すばらしいキープ力を見せてくれた。三人に囲まれてもボールを離さず、その中から正確なパスを供給する。このポジションでタメを作ってくれると矢口はとても楽なのだ。
後になって矢口は思うのだ。このころのチーム、決して悪くはなかったと。なかなか勝てなくてイライラしたけれど。

「カベ、ナナ、ナナ!」
韓国にゴール正面からのFKを与えてしまう。中澤が右手でパー、左手でチョキを作りながら壁を修正する。韓国のシュートは中澤の指をかすめてバーを叩いた。
後半からアウェイの韓国が日本を押し込んでいた。保田は足が吊りそうになりながら必死に削りに来る。
「いいよ、絶好調!」
石黒の声もだんだんと届かなくなっていた。だんだん意識が薄れていくような気がした。
後で思えば考えられないようなミスが、ここで出てしまった。
韓国FWのフォアチェックに、前に大きく蹴り出すのではなく、ドリブルでかわそうとしてしまったのだ。
クリアーしてもすぐに拾われるような気がしたのだ。
後ろ足で奪われ、独走を許した。
「戻れ!」
石黒の声はもう聞こえなかった。頭は真っ白で、必死の形相で韓国選手の足元に飛び込む中澤を、遠い国の出来事のようにぼんやり眺めていた。
耳をつんざくホイッスル。主審の指先にペナルティースポット。中澤の頭上にかざされるレッドカード。
矢口が何事かわめいて保田を突き飛ばす。保田はその場に倒れながら、ブーイングに押しつぶされながら、ようやく我に返った。
0対0。ここはホーム。交代要員は使い切っていた。
「ああ・・・」
わびを入れようとするが、目も合わせてくれない中澤。悔しさのあまり、外したキーパーグローブをその場に叩きつけようとした。

そのベクトルを、小さな手が押しとどめた。
「サヤカ」
なにも言わず、中澤のグローブとGK用ジャージをまとう市井。
「サヤカ、代わろうか?」
飯田の申し出にも首を横に振る。
「・・・頼む」
中澤が腰に手を当ててピッチを去る接触プレーでまた痛めてしまったらしい。
チーム最年少の彼女に、チームの運命はゆだねられた。
祈る保田。だが市井の表情に硬さは無い。手は胸の前、小さく構える。
短い助走から六歩、シュート体勢に入るフォワード。
右にモーションをかける市井。だがこれはフェイントで、左に飛ぶ。一流のアスリートにしか許されない、優雅な跳躍。
シュートはその方向に低く飛び、ポストの脇を逸れていった。シュートに失敗したFWが、その場にうずくまった。
当然という顔で、市井はガッツポーズすら作らなかった。

ホームゲームとはいえ、終始押し込まれたこの試合のMVPは、市井だった。
「PKのワールドカップがあったら、アルゼンチンは世界一ですから」

市井の唯一のサッカーパートナーは、フリオという三つ上のインディオの少年だった。フリオには母がなかった。
市井のサッカー仲間はフリオ一人。キッカーとキーパーを交互にするPKだけが、市井のサッカーだった。
シュートは手で止めなくてもいい。心理戦に持ちこんで、ミスを誘うのが本当の優秀なキーパーなんだ。
地元クラブ、ベレス・サルスフィエルドのファンで、いつかベレスのユニフォームを着るのだと。
フリオの時間は、14年目で止まった。
つまらないいさかいに巻き込まれて、背中を銃で撃たれた。
市井は、それからも一人でボールを蹴り続けていた。
日本で仲間を得るまで、ずっと一人で。

監督が更迭され、四年後を目指して結成されたウズベキスタン代表がアウェイでサウジアラビアを破り、日本は辛うじて首位で予選を折り返した。
だがマスコミは寺田監督のサッカーを時代遅れだと非難、退陣説まで流れ始めた。
中澤は一試合の出場停止、石黒も復帰のめどが立たず、慢性的な得点欠乏症。
まだ一度も負けてないはずの日本は、大いなる不安を抱えたまま、後半戦を闘おうとしていた。

ハロースポーツ 6月12日号からの転載

<大一番を前に代表に新たな火種  矢口「キャプテンマークが欲しい」>
W杯アジア予選を戦うサッカー日本代表MF矢口真里(横浜)が本紙のインタビューに答え「次の韓国戦(ソウル)で、キャプテンをやってみたい」と発言した。
「キャプテンマークつけるのって、すごくかっこいいじゃないですか。目立つし。代表でも一度やってみたいんですよね。
私には、その資格があると思う」
日本代表は前節の韓国戦(ホーム)で現キャプテンのGK中澤(京都)が相手FWとの接触プレーで退場、次節は出場停止。
副キャプテンの石黒(札幌)も古傷の調子が思わしくなく、欠場が濃厚。そこでキャップ4ながら主力メンバーに食い込んだ矢口が浮上したわけだ。
これに対して寺田代表監督は「あくまで今度のキャプテンは暫定的なもの。誰がなっても大差あらへん。飯田、安倍(ともに札幌)矢口の中から俺が決める」と明言した。
矢口は高校、消滅した横浜Fで主将を歴任。現在のFマリノスでも副将をつとめるなどリーダーの素質は充分。ただし「古参のメンバーに対し、あまりに配慮に欠けた発言」(協会関係者)との指摘もあり、「あいつ(矢口)は自己中心的。自分がのし上がるためならなんでもやる」(事情通)との声も。
いずれにせよ、勝利の鍵を握るキャプテンを誰にするかという問題が、沈静化したといわれる新旧メンバーの新たな確執ともなりかねない。

「今回ばかりわよ、曲解とか、捏造とか、いろんな言葉の意味を学ばせてもらったぜ、おりゃあよう」
「それだけ有名になったってことじゃないっすか」
すっかりやさぐれモードの矢口を石川が慰める。
Jヴィレッジで行われた矢口たちフル代表とオリンピック、ワールドユース、U17と各年代の代表の合同合宿が張られていた。
各年代の連絡を密にするというのがその目的だが、今回はこの中から新たにW杯予選メンバーを選ぶのではないかという噂だった。
特に二次予選5試合で4得点と得点力不足にあえぐFWの人材発掘は急務で、マスコミではU19代表の超高校級ストライカー松浦亜弥(神戸弘陵高校)などの名がすでに挙がっていた。
「次のキャプテン誰ですか? なんてネタふってくるもんだから、誰になるかわかんないけど、もし自分がなったら一生懸命やりますって言っただけだよ」
「1を10にふくらますのがブン屋さんの仕事ですからね。恨んだらキリないっすよ」
オリンピック代表のゲームメーカー、石川もまた代表入りが噂される一人であった。だが石川はこの時点では、要請されても断るつもりでいた。
少なくともオリンピック本戦が終わるまでは。
もしA代表に入るとしたら、その時石川がポジションを争うのは矢口になる。現に司令塔としての矢口のスキルは疑問視されていた。
今の代表は、矢口の良さを殺しているというのが石川の考えだ。矢口にはもっとプレッシャーのかからないポジションで気のきいたプレーをしてほしいと思っている。労働者が創造者に劣るなんて誰が決めた。
「で、誤解は解いてきたんですか?」
「朝イチで監督とみんなに謝ったよ。みんな笑ってたけど」
「で、キャプテンは誰になったんですか?」
「なっち」
矢口が不機嫌そうに黙る。実は、一番恐れていたのはそれだったのだ。もちろんなっちが嫌いだというのではない。
安倍は矢口のそれとは比べ物にならないほどマスコミの注目を浴びている。背信のエース。チャンスに弱い。
なのに監督は、なお重い荷物を安倍に科そうとしている。期待の表れというよりは、プレッシャーで安倍をつぶそうとでもしているようだ。
だから少しでもその肩代わりをしたいと思った。たたそれだけのこと。
「くっそう、事情通って誰だよ。あんたじゃないだろうね」
「なんで?!」

「それより、見てましたよ、アレ」
「アレ?」
「フリーキック」
スタンドで韓国戦を観戦していた石川は、韓国の赤い人壁の前に矢口が立った時、思わずなんでよと口走った。
それまでJリーグでも矢口がセットプレーを蹴る場面など見たことが無かったのだ。
代表では道産子トリオが主にフリーキックを蹴っていた。
壁を吹き飛ばす、飯田の右。鋭く曲がりながら落ちる、石黒の左。ゴール上隅に正確に飛び込む、安倍の左右両足。
確かにそれらは各国GKに研究され、今予選直接FKによる得点はまだなかった。
かといって、強引にボールを奪った矢口のキックは、国立競技場の月に向かって飛んでいったのだ。
「だからさあ、フリーキック教えてよ。梨華ちゃん得意じゃんかあ」
確かに石川は今季ベルマーレで20試合9得点のうち5点が直接FKによるもの。
その飛び道具は、オリンピック代表でも、幾度もチームを救ってはいた。
「ヤグチさん、向き不向きってあるじゃないっすか」
「うるさい。教えろ。教えないと事情通が新聞社にあることないことしゃべりに行くぞ」

練習が終わったというのにFK用の人壁ボードを引っ張り出し、ユースのGKからジャージとグローブまで借りてきた。
こんなところを見られたら「矢口、韓国戦でGKに!」なんて見出しが新聞に踊りかねない。
「矢口さんがGKなら、簡単すよ」
石川はいつもと目の色が違う。横一列に並べたボールを次々に蹴りこむ。さして早くもないシュートはボードを超え、クロスバーすれすれの矢口の手が届かない高さへ飛び込んでいく。
「これが並程度のキーパーなら、縦に加えて横もギリギリを狙わないと」
ポストをかすめる石川のシュートに懸命に飛びつく矢口。が、止めるどころか触れることもできない。
「それ以上になるとプラスアルファ、絶対届かないところへ、こういうボールを」
アウトフロントにひっかけた、ハーフスピードのシュート。ドライブとカーブがかかり、サイドネットをえぐる。矢口は反応すらできなかった。
「・・・ただのヘタレじゃないんだ、あんた」
「ヘタレですよ。ヘタレだから、何万回も練習したんです」
石川は緑色のビブスで汗をぬぐう。少し熱くなりすぎたようだ。石川だって世界を目指している。このFK一本で。
矢口には矢口の良さがある、それは石川が一番良く知っている。なのに変に色気を出して迷走している矢口に、石川は思い知らせたかったのだ。
「石川・・・」
「はい?」
「もし、世界一のキーパーからフリーキックでゴールを奪わなきゃいけないとしたら、あんたどうする?」
はあ・・・石川はもう、まともに答える気すら失っていた。
「魔球でも蹴りますね。どんな経験豊かなゴーリーでも見たことないボールを蹴るでしょうね」

「あの・・・」
「はい?」
「矢口真里さんですよね?」
見るからに小柄な(とはいえ矢口よりは大きい)二人組が、遠くからこちらをうかがっていた。まるで双子のように似通った顔立ち。JFAと刺繍された青いジャージを着ているから、恐らくは17歳以下の代表候補なのだろう。
「サインもらえますか?」
「私たち、矢口さんのファンなんです」
「うん、いいけど」
二人が顔を見合わせ、見るからにうれしそうにする。
「えーと、名前は?」
「辻です」
「加護です」
「辻さん、加護さん江・・・と。どうぞ」
「ありがとうございます!」
「今度の試合、キーパーなんですか?」
「いやあ、遊びだよ」
「韓国戦、がんばってください!」
「応援してまっから!」
「ありがとう」
飛び上がって、見事な夕日のほうへ向かって去る二人。当然、この時点ではこの予選を共に戦うことになるなど予想だにしていない。
「見ろよ、石川。あたしの知らないあんな子たちまで応援してくれてるんだ。なにもしないでいられるかよ」
矢口は腕組みをしてみせた。夕日がまぶしかった。
なにを言っても無駄、か。石川はあきらめた。
「あたしも・・・代表、目指しますよ」
ここまで燃えられる矢口が、心底うらやましくなったのだ。

ソウル空港に降り立った瞬間、矢口は目が痛くなりそうな匂いにげんなりとした。
(噂には聞いてたけど・・・)
日本を初めて訪れる人が醤油の匂いに辟易するように、キムチの匂いが日本代表チームを襲った。
矢口は香辛料の匂いが苦手だ。台湾遠征のときなど、トムヤムクンに入った香草(パクチー)の匂いにやられた。その匂いがコンビニでもするのだ。結果、練習以外はホテルにこもってファッション雑誌を読むようになってしまった。
これもアウェイの厳しさなのか。これならまだホテルの前でバカ騒ぎされたほうがましとさえ思った。
「行こう」
安倍が胸ポケットからパスポートを取り出した。中沢はいない。石黒も北海道で治療に専念しているチームを、彼女が率いる。
矢口も、もう匂いくらいで打ちのめされたりはしない。
きやがれ、韓国。

韓国は伝統的な3−5−2、コテコテのマンツーマン。
10番は安倍の永遠のライバルと呼ばれるストライカー、ファン・アミゴ。
日本は4−5−1。または4−3−3。

       F安倍
11飯田           8矢口

   MF       MF

       13市井

DF   6保田  DF   DF

        GK 

右ウイング矢口は韓国左サイドバックを牽制し、ポジションを下げさせる事を命ぜられた。
韓国は序盤、日本のシステム変更に戸惑い、マークのズレからたびたびピンチを招く。
「こっちまわせ!」
風車に立ち向かうドン・キホーテのように突破を図り、その背後からサンチョ・パンサのような飯田がサポートする。
安倍は強くなった。キャプテンマークを巻いた腕も一回り大きくなったようだった。
が、それが安倍から本来のよさだった軽やかなドリブルも奪っていた。力比べで屈強な韓国ストッパーに挑むのは、いかにも不利だった。
それでもあきらめず、あまり闘志をむき出しにする事もなく、淡々とゴールに向かっていく。
「なっち!」
矢口が右に開く。安倍がポストプレーではたき、自らもゴール前へ。矢口の足元にボールが出る。韓国選手が二人。
(ここだ!)
その透き間をパスは狙った。韓国人二人が譲り合う。安倍がいた。
「スルーだ!」
左から飯田がフリーで抜け出す。
安倍はボールをトラップした。前へ。横からのスライディングを、飛んでかわした。
かわされたリベロの腕が、安倍のスパイクをつかんだ。
バランスを失った安倍の体が、ひざから落ちた。

矢口の位置からは、完全にペナルティーエリアの中に見えた。しかしアラブ人主審の判定はオブストラクションによる間接フリーキック。
しかもレッドカードどころかイエローカードすら出されなかった。
「あの審判、UAE人だもんな」
日本は一次予選でUAE・アラブ首長国連邦を破っている。
「これが、アウェイだよ」
立ち上がる安倍。ひざから落ちたのだ、痛くないわけはない。しかし痛い素振りを見せたらそこを狙われる。
だがチャンスはまだある。間接ではあるがゴール前でのフリーキックだ。
飯田がらくだのように首を寄せて矢口と話をする。
右から安倍、飯田、矢口の三人がボールの前に立つ。壁を下げろ、飯田がさかんにジェスチャーをする。
安倍が短く出し、飯田が止める。矢口が蹴ったボールは上に向かって飛び、急激に高度を下げる。GKの指先を抜けたサイドネットを揺さぶった。ただし、外から。
しかし枠に飛んでいたらセーブされていただろう。まだこれは、矢口が思い描いているボールではない。
後半に入っても膠着は続いた。
センターバック二試合目となる保田も一見安定しているように見えた。
しかしそれは前でボランチ市井が効いているからだった。守備範囲が広く、当たりも激しい。
ジェフとレイソル、同じ千葉県のチームに所属する二人は代表以外でも顔を合わせることが多く、意思の疎通はほぼ完璧だった。
二人におみそにされたようで、矢口はほんのちょっぴりジェラシーを感じるのだ。

「流せ、流せ」
残り十分を切り、監督から試合をするな、という指示が出た。ここはソウル、引き分けは勝ちに等しい。
こういう時こそ矢口の出番。時間稼ぎは得意中の得意だ。スローインひとつにしても、誰に出すか迷うふりをしてなかなか出さない。
主審の笛が鳴った。遅延行為を取られた。イエローカード。やりすぎたようだった。
それにしても不気味だった。敵エース、アミゴがここまでほとんど汗をかいてない。ケガをしているわけでもないのに。
適当にパスを回す。韓国サポーターのブーイングが飛ぶが矢口はお構いなしだ。
「落ち着け!」
少し浮き足立っているディフェンス陣に声をかける矢口。
ブーイングがとまり、歓声が起こる。
向かって左サイドにわずかなエアポケットがあった。そこへ安倍が走ったのだ。
(バカ、ワナだよ!)
飯田も走る。
バランスは崩された。このサイドで1点取るしかない。矢口も走った。
安倍がエリア外でつぶされる。こぼれ球、ミドルレンジから飯田が狙った。ディフェンダーに当たって跳ね返る。矢口が頭から突っ込んだ。生え際に当たり、GKの懐に。
韓国選手の目の色が変わる音が聞こえたような気がした。
ドロップキックは一気に左(日本の右)へ。矢口がいないサイドを市井がカバーに行く。体で弾き飛ばされた。笛は無い。アーリークロス。保田が競り負け、ゴール前に落とされる。
背番号10、ファン・アミゴ。体をひねり、左足にひっかけるようにして放ったハーフボレーシュート。キーパーのダイビングも、虚しかった。
(しまった・・・)
矢口はほぞをかんだ。アミゴの愛称は「残り5分の職人」たったそれだけで、勝負を決めてしまう。
この時点で、日本にとり返しにいく力はなかった。

(あかん・・・)
試合終了のホイッスルを聞きながら、寺田監督は、全身から力が抜けていくのを感じていた。
「死のAグループ」の一位通過ラインを、監督は勝ち点20と読んでいた。どのチームも簡単には勝てないと。
10試合で勝ち点20とは単純計算で5勝5分け(勝ち=勝ち点3、引き分け=勝ち点1)、つまり全チームにホームで勝ち、アウェイでドローに持ち込めばOKだった。
(けど負けは・・・負けだけはあかんのや)
この時点で日本は6試合で2勝3分け1敗、勝ち点9。ついに韓国、サウジを連破した若きウズベキスタンに勝ち点で抜かれ、3位へ転落。
残り4試合で勝ち点20にまで持っていくには、4連勝するしかない。
(しゃあない・・・かくなる上は・・・)
ドスン。突然ベンチで大きな物音がした。韓国を救ったファン・アミゴが日本ベンチにボールを蹴りこんだのだ。明らかに礼儀に反するやり方だったが、喜びに沸く韓国サポーターには一層の興奮を呼び覚ましたのである。
アミゴは勝ち誇った笑みをぶつけてきた。ご丁寧に、中指まで立てて。
が、この日が韓国のピークでもあった。この試合を境に韓国は大きくコンディションを落とし、結局予選敗退してしまうのだ。
一方、どん底の日本チーム。保田が茫然自失となって立ち尽くす。市井が韓国選手と握手を交わす。
飯田が一人で歩けないほど痛めつけられた安倍に肩を貸す。安倍はボロボロにやられていた。
泣くもんか。矢口は必死にこらえた。ここで崩れたら、本当にこのままズルズルといっちゃう。
スパイクと靴下、シンガードを外し、ベンチに下がる矢口の頬を叩くものがあった。食いかけの鶏の骨だった。瞬間我を忘れ、ぎっと上をにらむ。
信じられないものを見た。
骨を投げつけた者が着ているのは赤ではなく青のレプリカユニフォームだったのだ。
「飛行機代返せ!」
「日本帰ってくんじゃねえ!」
矢口の精神は、瞬間的にせよ、破綻した。何の為に戦ってきたんだろう。金網に向かって、スパイクを投げつけた。
「やかましいわい!」

帰国直後、寺田監督は次節・ウズベキスタン戦のメンバーを、異例の早さで発表した。
出場停止の解けた中澤、リハビリに専念していた石黒の名前もあった。
代わり映えのしないメンバーの中に、一人だけ、新しい名前が。
「MF 後藤真希 スペイン・エスパニョール所属」

「えっと、後藤真希でぇす。ポジションは、キーパー以外だったらどこでも」
金髪のニューカマーは、ぼけーっと立ちながらそうあいさつした。
アジア人初のスペインリーガ、後藤を形容する言葉はいくらでもある。
「金狼」「東洋の魔女」「スキャンダル・クイーン」・・・
だが、矢口を含め、たいていのサッカーファンはこの名前で彼女を記憶している。
「カンフーレディー」
敵ストッパーのえげつない削りに遭った後藤は、ボールを奪ったその選手がクルリと方向転換した瞬間、鮮やかな飛び蹴りをその背中に見舞ったのだ。
TVニュースでそれを見た矢口は受けに受け、翌日、石川を練習台にそのフォームを真似したものだ。
しかし、彼女が日本代表に興味を示したのは、意外という他なかった。常々インタビューでも、ヨーロッパで活躍してる選手にとって代表にいることはなんのメリットもないと発言していたからだ。
「明日香が口きいてくれたみたいやで」
福田明日香。その名前は、いまだに矢口の胸を締めつける。
もし自分がもっと巧みにゲームコントロールできていれば福田をあんなにいらだたせることはなかったはずだ。
そしてその戦線離脱が今のチームの混乱の遠因だとしたら、チームを追い込んだのは他ならぬ私なんだ。
「えっと、みなさんの名前教えてくれませんかあ? 日本のこと、全然知らないんでぇ」
耐えなきゃ。チームの中でいがみあってるひまなんかないんだ。

後藤のプレーは、なるほど、福田の穴を埋めるものかもしれなかった。
激しいディフェンスを誇るのがイタリア・セリエAであるなら、華々しいオフェンスで世界を魅了するのがスペインリーグだ。
その中で揉まれ、洗練された後藤の攻撃センスは福田に一歩も引けを取らない。
ただタイプの違いはあるようだ。福田が密集地帯を抜けていくドリブルを得意とするなら後藤はオープンスペースを突く速度が素晴らしい。
福田はほとんどディフェンスをしなかったが後藤はハードタックルを持っている。福田は状況判断にすぐれていたが後藤は自分のプレーに固執する悪癖があった。
「後藤! そこは取りにいかんかい!」
「???」
都合が悪くなると、日本語が通じないふりをする。馴れ合いを嫌い個人主義を貫いたのが福田なら、後藤はそのワルガキぶりを隠そうともしない。
矢口には監督が後藤を、どの程度の位置付けに考えているのかが分からない。
カンフル剤程度に考えているのならこれ以上は望めないほど適任ではあろう。
が、福田という心臓を失ったチームに移植する新たな心臓として考えているのなら、チーム本体にどれだけ激しいダメージを与えるのか矢口には予想もつかない。
これまで作り上げたチームをゼロにしてしまうのではないかという危惧が、どうしても消えない。

鍼灸師・山田真矢も臨時トレーナーとして招かれていた。もちろんウズベキスタン戦に向けて石黒のコンディションを上げるためだ。
石黒の足は一進一退で、ランニングしても痛みを感じない日もあれば、ベッドの上で痛みに悶絶する日もあった。
監督は石黒の復帰が、次の試合のカギを握ると見ていた。
一躍グループAの2位に踊り出たウズベキスタン代表の武器は攻撃力、そして若さだった。
大会4戦目で日本と当たったウズベキスタンは、試合終了間際保田のゴールでホームでの勝ちを逃した直後監督を解任、オランダリーグ・アヤックスアムステルダムのトップコーチをしていたイワン・イヂッチ監督を後任に選んだ。
イヂッチ監督に与えられた時間は少なく、慣れ親しんだ戦術、よく知った選手を用いざるを得なかった。
すなわち縦のポジションチェンジの激しいアヤックス式の3−4−3システム。
そしてそのアヤックスでプロとして活躍する秘蔵っ子たち、FWヒロコフィエフ、MFエーリン、DFタカコフ、GKヒトエッチ。全員十代の若さである。
小さい頃からともにプレーをした四人はアジアのレベルを超越したスピードでサウジを圧倒、衝撃的なデビューを果たした。
保田はこの試合をビデオで見ている。夏コーチが命がけで撮影したビデオだった。
ヒロコフィエフの絶対的な高さ、エーリンの鋭いパス、タカコフの絶妙のオーバーラップ、ヒトエッチの俊敏な反応。組織的でありながら選手の個性まったく殺されてない、アウェイでやった時とは完全に別のチームだった。
現時点では最強の敵を迎え、自信をを失っている今の保田は少なからぬ恐怖を覚えていた。
横を見れば、石黒がトレーナーとマンツーマンで調整を続けている。
保田は正直石黒が苦手だ。プレースタイルが似すぎているし、言いにくいことも平気で言ってくる。
石黒が代表を離れた時、正直ほっとしたものだ。それなのに
「石黒さん、あとは任せてゆっくり休んでください」
と言うはずが
「石黒さん、お願いです、助けてください」
と言わねばならない今の状況が死ぬほど嫌だった。

「ねえ、ちょっと、今のどうやったのよ。教えて」
矢口が後藤に激しく詰め寄った。その勢いに後藤はたじろくばかりだ。
それは、ミニゲームの時に起きた。
なんでもないフリーキック。レギュラーチームの矢口はGK中澤の指示に従い、ポストの横に立った。コーナーぎりぎりに入ってくるボールをクリアーするためだ。
ゴール正面だがやや距離のある位置に控えチームのFW後藤が立った。相変わらずやる気のないステップで、ポンと蹴ってきた。
それほど強いシュートではない。だが奇妙なクセがついている。まるで回転軸を失ったように、微妙な揺れをはらみながら飛んできた。
「?!」
GK中澤もその正体を見極められず、ただ見送った。矢口がかみついたのはその直後だ。
「どうやって蹴ったの? カベが邪魔で見えなかったのよう」
「そんなこと言われても・・・」
「言いなさい、後藤」
市井だった。部屋割りで市井が後藤の同室になった時、狼のオリに羊を放り込むようなもんだと矢口は思った。
ところが「羊」は「狼」をものの見事に手なづけた。例の調子で後藤がとぼけても、市井がスペイン語でまくし立てれば、もう逃げ道はなかった(スペイン語はアルゼンチンの母国語でもある)。実は市井が当初無口だったのも、ふとしたきっかけでスペイン語が出るのを恐れてのことだった。
時々監督の言う事も聞かない後藤だが、市井の言う事だけは素直に聞く。トランプの一番弱い札が、一番強い札だけには勝つのに似ていた。
「それが、わっかんないんですよ。時々ああいう球が出るんです。ただ、今蹴った時はちょっとはまったなっていう・・・」
軸足がボールよりも前に出たら、普通は打ち上げてしまうはずだ。
そして、矢口の目に狂いがなければ、ボールの模様がはっきり見えた。つまり回転がほとんどなかったということ。
「離してくださいよ」
そう言われて、やっと胸倉をつかんでいたことに気がついた。
踏み込み、軸足、回転のなさ・・・その辺がキーワードになるはずだ。
「なんなの、あいつ?」
後藤は市井に問い掛けた。スペイン語なので他のメンバーには分からない。
「ヤグチは試合の前にだって練習してる。サッカーに取りつかれちゃってるのさ」

9月9日。ワールドカップアジア二次予選グループA第7節。
日本対ウズベキスタン。(国立競技場)天気は曇り。試合の始まる夕刻から天候は崩れるという予報。

開始二時間前。
スターティングメンバ―がコミッショナーに提出される。
懸念された石黒彩の名前も、そこにあった。
「彩ちゃん、大丈夫なの?」
「どうよ、アヤッペ」
「正直なところ、50パーセントってとこ」
足首をテーピングで固めながら石黒が正直に答える。
「この数年、ずっと20とか30だったからね」
正直、ここまでいいコンディションで臨めるとは思っていなかったのだ。一人だったら、途中で投げてしまっていたかもしれない。
ほとんど不眠不休で頑張ってくれた臨時トレーナーに感謝しなけれならない。
安倍と飯田が顔を見合わせる。
二人がコンサドーレユースからトップに昇格した年、石黒はサンフレッチェ広島を解雇され、地元札幌に戻ってきた。
「石黒が来るんだってね」
「盛りを過ぎたロートルだべ」
確かに札幌入りした当時の石黒からは全盛期のスピードが失われ、ケガにも悩まされていた。しかしその代わり長い経験によって培われた鋭い読みと、衰えることのない闘争心が残されていた。現に初めてのミニゲームで、この若きツートップは、この老獪なディフェンダー一人になにひとつ仕事をさせてもらえなかったのだ。
二人はプロ入りしてまず、このベテランを超える事を目標にしてきた。
今なら二人が束になれば石黒に一泡吹かせることも出来るようになった。そして、三人は互いにかけがえのない存在となったのだ。
「がんばろうね」
もういいよ、あとは私たちにまかせて。そう言いたかった。
「頼むよ。アヤッペが頼りだ」
もう休んでて。うちらがワールドカップに連れていってあげる。そう言えたらどんなに気が楽か。
勝ちたい。誰のためでもない、彩ちゃんのために。

開始一時間半前。
緊張がほぐれないのは、その石黒とセンターバックコンビを組む保田だった。
もし負けたらその時点で全てが終わる。その考えに支配され、ここ数日、ほとんど眠れていないのだ。
ウズベキのビデオを見れば見るほど、その強烈な映像に身が縮む。国際試合の怖さに打ちのめされていた。
「圭ちゃん」
その肩を優しく叩くのは、髪を切った市井だ。
「サヤカ、怖くないの?」
「怖い? なんで?」
まるで問いかけの意味が分からないかのように小首をかしげる。
こいつ、いつからこんなに度胸が座ったんだろう。
後藤が加入してからというもの、その影響をモロに受けていたのがこの市井だった。いや、むしろ後藤という異物に触れたことで、眠っていた力が呼び覚まされたと言うべきか。
今間違い無く言えるのは、市井がこのガケップチを心底愉しんでるということだけだ。
「がんばろ、ね」
「・・・うん!」

開始一時間前。
薄曇りのピッチに、どの選手よりも早く現れたのは矢口だった。ウルトラスからのヤグチコールに、笑顔とガッツポーズで答える。
(本当に試合前に練習してる・・・)
後藤は呆れた。あれは市井の言い間違いではなかったのだ。控えキーパーを立たせ、ミドルレンジからのシュート練習に余念が無い矢口を、まるで珍獣を見るような目つきで見ていた。
後藤にとってサッカーとは「お金を稼ぐ手段」だ。億の金が飛び交うヨーロッパサッカーのマーケットで短期間でお金を稼ぎ、あとは寝て暮らしたいと思っている。
だから代表入りを要請されても、そんな一銭にもならんことイヤダと断るつもりでいた。
が、一本の国際電話が後藤の気持ちを揺り動かした。かつてヴェルディで共にプレーした福田明日香だった。
「あんた、十年サッカーして、あとは寝て暮らすって言ってたでしょ? でも十五年サッカーしたら一生遊んで暮らせるよ。その五年のために、一度、代表に入ってみな」
少々謎めいた言葉だったが、福田にだけは一目置いていた後藤は、ちょうどシーズンオフということもあり代表チームに身を置いてみる事にした。
が、その答えは一向に見えてくる気配がない。
ナショナリズムとは無縁の背番号5は、嬉々としてボールを蹴り続ける背番号8を、相変わらず物珍しそうに眺めていた。

開始一時間前。
ウズベキスタン代表監督、イヂッチは若い選手達に得々と作戦を語っていた。
最初監督を引き受けた際、敗戦処理も経験のうちかと思っていた。やりたいようにやろうと。
ところがその好き勝手が効を奏し、今やウズベキスタンはグループAで最も勢いのあるチームだった。
日本対策は万全だ。すでに全試合をチェックしている。非常にクラシカルなチーム。攻撃は7と時々上がる11にさえ注意していればいい。小さな8番はフリーにさえしなければ大した仕事はできない。あとは定評のある守りから1点をもぎ取ればいい。
もし予選突破となれば、国民的な英雄になることは間違い無く・・・
「ねー、おなか減った」
「ヒロコフィエフ、監督が話してるじゃないの!」
キャプテンのエーリンが口を尖らせる。
「・・・ハラジュクとアキハバラ行きたい・・・」
「タカコフ!」
はー・・・こいつら。勢いのある選手達をいかにして手なづけるかが、監督の最大の悩みのタネであるのだが。
「大丈夫っすよ、カントク」
ボブ・マーリィをこよなく愛するヒトエッチが眉毛を整えるカミソリを振り回す。
「うちら、試合になったらいつでも100パーセントですから」

試合開始十五分前。
中澤は帰ってきたキャプテンマークを握り締めながら、トイレの個室で音楽を聴いていた。
早くに父親を亡くしたせいか、中澤にはファーザーコンプレックスのケがある。年上、それも一回りも二回りも離れている男でないと「男性」を感じない。昔から級友がアイドル雑誌を開いてキャーキャー言ってるのを見て「ケッ」と吐き捨てていた筋金入りだ。
だから歌手の堀内孝雄との対談が実現した時は、サッカーやってて良かったと心底思ったものだった。
今イアフォンで聴いているのも、その堀内が在籍したグループ「アリス」のCDだ。
昔、俳優の宇野重吉は末期ガンでありながら、カルメンを聴いて自らを奮い立たせ舞台に立ち続けたという。
それと同じで、アリスの曲に流れる熱い血潮がコンセントレーションをレッドゾーン近くまで高めてくれる。中澤の試合前の「儀式」だった。
中でも代表曲「チャンピオン」が、その気迫をマックスにまで高めてくれた(堀内の詩曲ではないが)。
老境のボクサーが若い挑戦者との勝負に挑み、敗れるというのがその内容で、その皮肉さに中澤は寂しげに笑う。
若きウズベキスタンFW対ベテランの日本DF。今回、マスコミの描く構図である。
若いGKが台頭する中、中澤を使い続けることに対する批判は少なくなかった。
こっちだって好きに年食ってんやないんやで。
勢いよくトイレのドアを開き、ミーティングルームに向かう。
「裕ちゃん、遅い」
「悪いなあ。なかなかお通じがこなくって」
「やだあ、ウンコの話なんかして」
「誰もウ・・・なんて言うてへんやないか」
若いやつらにぶちのめされたりなんかするもんか。
返り討ちにして、戦い続けたんねん。

ウズベキスタン(3−4−3)

      17ヒトエッチ

      16タカコフ
DF             DF

       MF
MF             MF
      Nエーリン

FW             FW
     14ヒロコフィエフ

 

   5後藤     7安倍

 13市井         8矢口
  
   MF      11飯田

DF  6保田  14石黒   DF

      @中澤

日本(4−4−2)

青一色に染まったスタンド、喚声。今の保田にはそれらすべてがプレッシャーになっていた。
入場行進も、写真撮影も、キックオフのホイッスルもよく覚えていない。
ウズベキスタンの選手がけん制のジャブのように小気味よくショートパスをつなぐのを見ただけでもう混乱していた。
「二歩下がれ!」
背後からの声に、ただ従う。そのスペースがポッカリと口を開けた。
当然、ウズベキスタンもそこを使う。
「ハイッ!」
MFエーリンからCFWヒロコフィエフへのパスは青の14番がカットした。一瞬ノーガードにしてみせ、パスを誘ったのだ。
振り向きざま、前線へクリア。
「!」
ウズベキスタンGKヒトエッチがゴールを飛び出した。クリアーではなく、右サイドの7番へ出した特大のロングパスだ。
前のめりになっていた3バックの裏を取られた。
右コーナー付近、手が使えないキーパーと向かい合う安倍。
センタリングはGKの右肩に当たり、コースが若干変わる。
エリア内に飛び込んだ飯田が、無人のゴールにすくい上げるような一撃を見舞った。

あれほど遠かったゴールが、拍子抜けするくらい簡単に飛び込んだ。
先制のアッパーカットをゴールに突き刺した飯田はしがみつく矢口にもかまわずフラフラと歩き、自軍ゴール前の石黒に向かってバンザイしてみせた。
そして、センタリングの後バランスを崩し、やっと立ちあがった安倍にも。
絶対取りたかった。なんとしても欲しかった先制点だ。

一人の世界に入りながら、石黒は何度もやった、とつぶやいた。
動く。イメージどおりに体が動く。痛みもない。当たり前のことのはずなのに、なんてうれしいんだろう。
いける。いけるよ、あたし。

「タカ、なんであんなにライン上げてたんだよ」
迷彩柄のバンダナを拾いながら、GKヒトエッチがリベロのタカコフに詰め寄る。
「だって、ヒトエならカバーできると思ったんだもん」
確かに、それまでの日本には最終ラインからあんなボールの蹴れる選手はいなかったし、まったくフリーで撃たせてしまった11番(飯田)にしても、こんな早い時間帯でゴール前に上がって来た事はなかったはずだ。
「まあ、まだ始まったばかりだ。慌てずにやりゃあいいさ。倍にして返せ、それが、このチームのルールだ」

先制点は取ったものの、スピード感豊かなウズベキスタンに、日本はやや劣勢を強いられる。
一番苦戦を強いられていたのは、他ならぬ先制点を叩きこんだ飯田である。
彼女のポジションはゲームメーカーのエーリンと対峙することが多いのだが、とにかくプレッシングをさぼらないのだ。
確かチームの中で二番目に年下のはずだが、キャプテンを任されているのはそういうわけなのだろう。
が、献身的に動き、盛んにパスを振り分けはするものの、攻撃重視のスリートップに渡らない。
石黒が効いていた。エーリンのパスがセンチメーター単位の狂いもなく送られるとすれば、それをミリ単位の狂いもなく読むのだ。
保田ら他のDF陣は、後ろからの声に従って動くだけでよかった。
真面目さゆえ、パスに遊びがないのだ。その遊びの部分こそサッカーには不可欠なのに。ウズベキスタンの「青さ」だった。
石黒はサッカーをよく知っている。相手が鼻息荒く打ち合いを望むなら、それをクリンチで逃れる狡猾さをもっている。
彩ッぺ、無理せんといてね。中澤は祈らずにいられない。ともにゴールを守り続けてきた仲間として。

つまんなあい。
後藤はあくびをしそうになったが、これはアジアのレベルが低いからではない。クラブチームでのサッカーがそれぞれの良さをぶつけあう力比べなのに対し、代表チームのサッカーはまずはガードを固めて相手の良さを消すところから始まる。それに後藤が慣れてないからだ。
それにしても、活きたパスがこない。なんだかスイッチが入んないよう。
誰もがセーフティーファーストのプレーに終始していて、後藤を刺激するようなものはなにもない。
ほ? こうくる?
ありゃ、そっち? これならどうだ。
そりゃ、えっさ、ほいさ。
せーの。
どっかーん!

日本の2点目は、後藤真希の衝撃デビューを決定付けるものとなった。
左サイドでフリーキックを得た市井から、後藤の肩口へパスが。
それを後藤はチェストパスで市井にリターン。
市井、肩でのリフティングで二人をかわす間に右45度の位置に走りこむ後藤。
ロビングのヒールパスが寸分たがわずそのひざ元に出た。
一気に、右足を振り抜く。対角線に飛んだミドルはキーパー懸命ののダイビングを無効にした。
市井のフリーキックからゴールネットが揺れるまで一度もボールは下に落ちなかった。
まさにラテンの粋。

なんなんだよ、こいつ。
それまでまったくやる気を見せずにいきなりスーパーゴールを決ても笑顔一つ浮かべない後藤を、矢口は素直に祝福できなかった。
あとから来て、チームそっくり変えちゃおうっての? あたしらって、なんなのさ。
サヤカもサヤカだよ。そんなプレー、一度だって見せた事なかったじゃん。あたしらじゃ役不足だったっての?

「おい、おまえら」
早々に2失点を喫したヒトエッチがディフェンダーを全員集める。
「日本のビデオ、全員見たよな」
一同がうなずく。
「全部忘れろ」
日本は完全に別のチームになっていた。強くなったと言うより、完全に異質なものへと変貌していた。

楽勝かも。保田がふとそう思った瞬間だ。
ウズベキスタンの一点目が生まれた。
業を煮やしたMFエーリンが力強いドリブルで突破を図る。石黒の指示で、保田がコースを切りにいく。
エーリンがヒールで戻す。
ゴール正面、ゆうに30メートルはある場所に、フォワードであるはずのヒロコフィエフがいた。虚を突かれた中澤の反応はわずかに遅れた。
エーリンは念を押すようにもう一度ボールを蹴りこみ、返ってきたボールを抱えるとセンターサークルに走った。
石黒の読みが初めて外れた。保田の目を見て、石黒は当然のように言い放った。
「当然だろ。これは戦争だ。武器の代わりにボールを使ったな。戦場じゃ、なにが起こったって不思議はねえよ」
ワールドカップ予選で、一度だって楽に勝ったことはない。一度だって楽に勝たせたことはない。
前半は、まだ二十分も残っていた。

「守れ、守れ!」
一点は取られたものの、相変わらず石黒の読みは冴えた。
飯田がほぼエーリンに張りつき、ヒロコフィエフの高さは前に強い保田がなんとか封じていた。
が、前半も30分を過ぎたあたりから、石黒の足に痛みが走った。特にダッシュの一歩目の瞬間など思わず声が出そうだった。
なんだよ、これぐらい。今まで試合と関係ないとこであれだけ痛んできたじゃんかよ。
エーリンの突破を保田と二人がかりで止める。こぼれたボールを、中澤が一気に前線に。
「矢口!」
安倍がヘディングで落とす。目前にGKが。思いきり蹴りこむ。ヒジで叩き落された。上背はないが、反射神経とカンにおいては充分世界に通用するキーパーだ。
「ヒトエ!」
最終ラインまで下がったヒロコフィエフがボールを受ける。日本の左サイドをゆっくりとドリブルで進む。
「後藤、市井!」
二人がチェックにいく前に、逆サイドへふった。
オーバーラップしていたリベロのタカコフが、がら空きのタッチライン際を一気に駆け上がる。
「カオリ、保田、ゴール前固めろ!」
石黒が指示を出す。それが聞こえたかのように切り返すタカコフ。一気に中へ。サイドバックをぶっちぎる圧倒的なスピード。
しまった! エリア内に侵入を許した石黒が、矢のようなスライディングで向かう。一瞬、シュートが早かった。角度がないところからのシュートはポストに当たり、そのままゴールに転がり込んだ。
「うそ・・・」
矢口はその場に座ったまま、同点ゴールを見送っていた。
「ろくすっぽ守りのできないタカコフがリベロにいるのは、あれがあるからなんだぜ。
一番後ろから、一瞬でゴールを陥れる、超特急並のスピードがさ」
ヒトエッチは勝ち誇った。

「なにぼーっとしてっだ!」
飯田に背中をどつかれた。年がら年中ボーっとしている人間に言われちゃ世話ない。
しかし矢口は、シュートに失敗してその場に倒れる安倍のほうをぼんやりと見ていた。
ごめん、なっち。
チームに入りたての後藤がダイヤモンドのような輝きを放っていられるのは、その後ろに、真珠のような渋い光をたたえた市井がいるからに他ならない。安倍のユニフォームはいつの間にか泥だらけだ。
もっとあたしががんばってれば。明日香の代わりになれていれば。
「だからボケッとしてんなよ」
飯田が矢口の背をはたき、ボールを差し出す。
「スローイン」
キリンの首のように彫心を折り曲げ、矢口に耳打ちする。
「イナバさんい聞いたど。やってみれ」
そう言うと、のしのしとゴール前に向かう飯田。
雨が近いのか、ボールが湿っていくぶん重いのはかえって好都合だ。
ボールを突きながら、逆サイドのタッチラインに向かう矢口。市井とすれ違う。
「真里ちゃん、がんばってね」
ああ、がんばんないと、あんたに置いてかれちゃうしな。
ゆっくりと、フィールドを囲む陸上のトラック部分まで歩いていく。
前半のロスタイムに突入した。

(ロングスローか? 甘いよ)
小柄な選手でロングスローの得意な選手はいない。投げれても、せいぜいニアにぽとりと落ちるボールだろう。
だいたいロングスローそのものがすたれて久しい技術だ。
助走に入る矢口。振りかぶって、投げず、ボールをクッションにして反転する。
(ハンドスプリングスロー?)
日本では筑波大学のお家芸だ。矢口はわざわざ横浜と茨城とを何往復もしてこれを身につけたのだ。
(けど、タイミングが早い)
タッチラインまで、まだ3メートル以上もある。
「でえええっ」
もう一回転した。ダブルハンドスプリングスロー。二倍についた遠心力で、ライナー性のボールは一気にゴール前へ。速すぎてキーパーのパンチも後藤のヘッドも届かず。ノーバウンドのまま、逆サイドのタッチラインを割りかける。
そこに、石黒がいた。ヘッドで中央に折り返す。
ヒロコフィエフに競り勝ったのは飯田。浮き球のヘディングは、キーパーの頭越しに抜けていった。
飯田を中心にゴール前に輪が出きるのを、受け身を取れずに這いつくばったままの姿勢で矢口は見ていた。一人、ゆっくりと立ちあがる。
これでいい。あたしは、誰かの代わりになるために、今ここにいるんじゃない。
このチームを、まだ見ぬ高みに導くためにいるんだから。
あたしが主役である必要は、これっぽっちもない。

「上がるなって言ったろ。無茶しやがって」
自分の足に乗せた石黒の足に鍼を打ちながら山田がぼやいた。すでに麻酔は打っていたが、打てる手はすべて打っておきたかった。
「敵の二点目はあたしの責任・・・取り返さなきゃ」
確かに再びリードしたのはでかかった。
たぶん、この足はもってこの試合限りだろう。石黒が感じている好調は、燃え尽きる寸前のロウソクが見せる一瞬のきらめきのようなものだ。
ちくしょう、世の中ヤブ医者ばっかりだ。こいつの足をすっぱり直してくれる名医はいねえのかよ。こんなことなら、家なんか継がんで医者になりゃよかったよ。
山田は泣きそうになりながら黙々とマッサージを繰り返す。
「・・・もし、二度と歩けなくなっても、鍼灸院の受付くらいならできるだろう。あと四十五分、死ぬ気でやってこい」
行くななんて、言えなかった。

後半開始直後、日本は攻めた。四点目を取れば、今度こそウズベクを止められると信じて。
タカコフにユニフォームを引っ張られながら安倍がポストプレー、矢口にボールを出す。後ろから引っ掛けられ、派手にコロコロと転がる矢口。
「演技すんなよ、みっともねえ」
ヒトエッチに笑顔で助け起こされながら、ぶつけられた言葉だ。
フリーキック。ゴール正面、直線距離にして25メートル。
「蹴らせて」
矢口が立候補した。カベは6枚。平均身長に勝るウズベクの壁はこれまで見たどんな壁よりも高く見えた。
(軸足は前目、押し出すように・・・)
フェイントなし。まっすぐ蹴り出したボールはカベの右を抜けた。これはキーパーサイドに飛びこむ。ヒトエッチが余裕を持って正面で取りにいく。
「?!」
目の錯覚でなければ、ボールは渦を巻いていた。不規則に揺れながら落ちた。驚いたキーパーの胸に当たって、ポストを叩く。
高く跳ね上がったボールにノーマークの市井が頭から飛びこむ。あっさり4点目が生まれた。
(あーあ、代表初ゴール、サヤカにまで先越されたよ)
けど、もう、あまり気にならなくなっていた。

あと40分。二点差を守りきれば勝てる。
ウズベキスタンはヒロコフィエフをターゲットにアーリークロスを放り込む作戦に出た。
「ゴールに向かってだけは打たすな!」
石黒が保田に命じたのはそれだけである。セカンドボールなら、なんとか止めることができる。あとはオフサイドトラップを織り込んで、出足を止める。その使い分けがまた絶妙なのだった。
「ぐえっ」
ヒロコフィエフの頭が保田の左のまぶたにバッティングした。保田のまぶたが切れ、おびただしい出血が青いユニフォームを赤紫に染め上げた。
ウズベクのFWもいらだっている。
出血を止めるために、一時保田が外へ。
右サイドからのセンタリング。保田の代わりに石黒が飛んだ。
「?!」
バランスを崩して、倒れる。地面に叩きつけるヘディングを中澤が左手一本で弾く。ルーズボールをエーリンが押し込む。飯田がももでブロックした。
再びヒロコフィエフ。石黒は倒れたまま。中澤がその足元へ体を投げ出す。わき腹に当たり、スピードの死んだボールがそのままゴールへ。
中澤がきびすを返して追う。間に合わず、ボールもろともゴールの中に無様に転がり込んだ。治療中の保田は地面を激しく蹴り上げた。
(簡単には勝たせてくれへんなあ・・・若いっちゅうのはおっそろしいわ)
後からあとから人間が湧いて出る。何点取られてもあきらめない。
飢えたけだもののような執拗な攻撃が、ボディーブローのように効きはじめていた。
「行こう、裕ちゃん」
石黒が手を差し伸べる。右足がブルブルと震えていた。
彩ッぺ、あんた、まさか・・・

「監督さん、もうダメです!」
山田には、石黒の足が限界に達しているのが分かった。寺田監督が控え選手に交代を命じる。
「10分後にいくで」
「10分?! なんで今すぐじゃないんですか!」
「すぐに替えたら敵が今以上にカサにかかって攻めてくるやないか。交代は、あくまで予定通りをよそわなあかんねん」
「貴様!」
山田が寺田の胸倉をつかみ上げる。寺田はひるまない。
「どうした、殴らへんのか? 殴ったらええやないけ。殴って気が済むなら死ぬまで殴れよ」
山田は、いまいましそうに手を離した。
手塩にかけて育てた選手が地獄の苦しみを味わっている。心が痛まないわけはないのだ。
が、ここで公私の私を取るわけには行かないのだ。

4対3、なのに自分達が優位に立ってる気が誰一人していない。
「ちょっと、あの14番、やばいんじゃないですか?」
石黒の異変に勘付いた後藤が市井に声をかける。
「このままじゃ、二度とサッカーできなくなるかもしれない。すぐにやめさせるべきです」
「確かにそうだ」
市井は、子どもに諭すように言い聞かせる。
「けど、それを決めるのは本人だよ。もし去るべき時だと悟れば、石黒さんは自分で出ていくだろうさ」
カミカゼだ。クレージーだ。後藤は頭をひねる。
福田は言った。選手生命を延ばしたければ代表に入れ。でも、代表には、選手生命を縮めてまで戦っている連中がそろっていた。
福田センパイ、わっかんねえよ。
「後藤! 走れ!」
「はーい!」

左サイドで後藤がキープした。とにかく、こんな試合とっととケリつけて、一刻でも早く石黒を休ませる事だ。
後藤にとっては、選手生命を賭してまで出るべき試合など存在しない。あってはならない。
サッカーは、あくまでサッカーの範疇を超えるものではないはずだ。
度重なる押し上げでさすがに足にきはじめているウズベクDFをマタドールのごとき軽やかなステップでかわしていく。シュートはバーを叩く。
クリアボールを矢口が拾う。オーバーラップしてきた右サイドバックに預け、再び前に出る。
実際、よく動くよ、みんな。金になんねーっつーのに。
リターンを受け、再び挑みかかる矢口。また跳ね飛ばされて勢いよく転がる。演技ではなく、本当に軽量で大きく吹っ飛ばされてしまうのだ。
右寄り、やや角度の厳しい場所でのフリーキック。安倍はすでにベンチに下がっている。
「矢口」
後ろから、聞き慣れた声がした。

カベを作るGKヒトエッチは、小さな背番号8しか見ていない。4点目を奪われた時のフリーキックが頭から離れないのだ。
絶対来る。角度なんか関係ない。もともとカンに頼るタチではあるが、この時ばかりは完全に思い込んでいた。他の可能性が一切頭にはなかった。
向かって左サイドからのキックなのに、カベを左側に立たせた。
矢口が走る。右足に体重をかける。
ワンテンポ遅れて、カベの上をボールがフワリと越え、左に曲がりながら落ちる。完全にヤマを外されたキーパーは一歩も動けなかった。
日本の勝利をほぼ確定付ける5点目は、石黒の左足から生まれた。

ウズベキスタンは、あくまでタオルを投げない。再び奪われた2点のビハインドを、本気で返すつもりでいる。
根拠があった。14番が、ほとんど動けていない。

それまで激痛に耐えていた石黒も、フリーキックを蹴った直後から、右足に力を入れることもできなくなっていた。
ただコーチングと気迫とで、最後尾に留まっているのみであった。
保田が二人分動いた。麻酔もなしにその場で縫った傷跡を包帯で覆い、ひたむきにクロスを弾き返し続ける。
中澤はボールをつかむと、警告を受けるギリギリまでキープして時間を稼いだ。
矢口と市井はとにかく動いた。中盤を引っ掻き回した。
後藤は前線に張りつき、バックスの上がりをけん制した。
飯田は、ついに交代要員がタッチラインに出た瞬間、ほっと胸をなでおろした。
その一瞬を、エーリンは逃さなかった。スルーパスの構え。
「上がれ!」
ディフェンスリーダーが最後の指示を出す。自らも前へ。
かつてなかったような衝撃が、石黒の右足首に走った。バランスを崩し、その場に倒れる。
入れ替わりに、ヒロコフィエフが前へ出た。やられた。石黒が目をつぶる。
日本ゴールへ、思いきり、シュートを叩きつけた。

歓喜に沸くウズベクイレブンに冷や水をぶっかけたのはラインズマンの旗だった。
オフサイドの判定に、当然抗議するヒロコフィエフ。完全に14番は私の前にいたじゃないか!
その肩を何者かが叩く。
「よっ」
そんなバカな。ウズベキスタン人たちの顔に、明らかな落胆の色が浮かぶ。
肩を叩いたのは、日本人ゴールキーパーだったのだ。
パスが出る瞬間、パスを受ける側の前に二人以上の敵プレイヤーがいないと取られるのがサッカーにおけるオフサイドの反則。
残る一人がゴールキーパーでなくてはいけないという規定は、どこにもない。
「こんなアホなトラップ、二度と使えへんな」
が、中澤の機転が、今度こそ若いチャレンジャーに引導を渡したのは間違いなかった。
「立てるな、アヤッペ」
立ちあがれ、もう一度その足で。保田が慌てて手を貸そうとするが、触るな、と一喝した。
「アヤッペ、行くな」
飯田が石黒の腕をつかむ。もう二度と戻ってこないことは誰もが分かっていた。
「・・・ごめん、最後まで戦えなくって」
もう、笑顔を浮かべる余裕もなくなっていた。
「あと、任せた」
矢口は、静かに去っていくこの人の背中を一生忘れられないと思った。
プレーの数々が鮮烈だったからではなく、痛みをこらえながらの笑顔がたまらなく美しかったからだ。

すべての仕事を終えた14番を出迎えたのは安倍だった。
「彩ちゃん、かっこよかった。あたし、彩ちゃんと一緒に戦えて、ほんとによかった」
その頭を、無言でなでた。
「石黒。ほんまにご苦労さん。あとの人生のために、ゆっくり養生してくれ」
サッカー人生、とは言わなかった。もう二度とサッカーのできない体であることを分かっているのだ。
監督に対しては、怒りも感謝もわいてこなかった。この人とは互いの利害が一致した。それだけのこと。
控え室に戻る足音が廊下に響く。壁にもたれながら歩いていたが、痛みに耐えられず、ついにその場に崩れる。
その体を、たくましい二本の腕が支えた。
「よく、がんばった。えらいぞ」
山田は黙って、その体を背中に担ぎ上げた。
その広く、大きく、ごつごつした背中の上で、ようやく涙が出てきた。
日本サッカー史にその名を刻まれるであろう名ディフェンダーは、やっと、ただの女に帰ることができた。
遠くの方で、六回目の大喚声が聞こえた。ウズベキスタンの息の根を止める後藤のゴールが決まったのだ。

「もう、試合見ながら泣いちゃったすよ。人の試合で涙が出るなんて初めてで・・・」
ウズベキスタン戦の翌日、Fマリノスのクラブハウスで石川と矢口は新聞を広げていた。
石川梨華は湘南ベルマーレからFマリノスへ移籍していた。すでにJ2のレベルに飽き足らなくなっていたのだ。
「日本 総力戦を制する」
「復活日本 再びAグループ首位へ」
「後藤2ゴール 鮮烈デビュー」
おおよその見出しはこんなものだ。
「我々は最善を尽くした。100パーセントの力で戦った。負けたのは、相手が150パーセントの力を発揮したからだ」
ウズベキスタン代表監督の弁がすべてを物語っている。
あの試合、誰もが自分以上の力を出し尽くした。
タイムアップの瞬間、無尽蔵のスタミナを誇る矢口でさえその場にうずくまり立てなくなってしまったのだから。
が、支払った犠牲もまた大きかった。
FW安倍は韓国戦で負傷したヒザを再び痛め、途中交代。
そして、寺田監督は試合後の会見で
「残りの試合は、3バックでいく予定です。恐らくこのチームでは、ラインディフェンスを使うことは二度とないでしょう」
それは、チームを去った石黒彩への最大の賛辞でもあった。
類まれな統率力、異常とさえいえる危機察知能力を持ったディフェンスリーダーがいてこそのフラット4だった。

「寺田監督は自らのエゴで一人の選手を潰した。たとえ日本がワールドカップ出場を果たしたとしても、その罪が消える事はない」
ただ一紙だけが、こんな批判記事を載せていた。
確かにその通りだ。石黒の選手生命を最優先するのであれば、たとえウズベキスタンに負け、ワールドカップ出場を絶望的なものとしても、無理して使うべきではなかった。
だが、それは外部の人間だからこそ言えることでもある。
あの試合、全員が異常なテンションの中にいた。あの状況を説明しろと言われても無理だ。あの空間では、チームの下した判断は正しかった。
そして矢口は、ボロボロに砕け散った石黒をうらやましいとさえ思うのだ。
一片の燃えカスすら残さず、真っ白な灰になってきれいに燃え尽きたい。
が、今の矢口にそれを思う余裕は無い。次の戦いはもうそこまできているのだから。

「で、次のサウジ戦はどうなんですか?」
ホームで辛勝したサウジアラビアと、今度は中東の地で戦う。
「クワターが代表に復帰するらしい」
「? だって、あいつ、いくつになるんですか?」
石川が指折り数える。確かアルゼンチン・ワールドカップの年のアジアカップでデビューしたはずだから、四十歳をゆうに過ぎている計算になるのだが。
「最近は、永遠の二十八歳とかいってるらしいぞ」
FIFAが公式に認めるA代表試合最多出場を誇るマジェド・クワターは、西アジア史上最高のストライカーだ。
ニックネームは、ズバリ「砂漠のセックスシンボル」。ゴールを決めた時の卑猥なダンスや、私生活でも十人の妻をかこっているという噂がまことしやかに流れるなど、とかく性的なイメージが強い選手である。
GKにアジアナンバーワンの呼び声高いアル・ハラボーを擁するサウジだけに、クワターの復帰は日本の不安をますます駆り立てる。
「でも、日本には矢口さんのアレがありますもんね」
夢物語であった「魔球」を、矢口の右足はついにモノにしつつある。その研究に一役買ってくれたのが石川であった。
この時点で、石川は自分がこの予選でフル代表に選ばれることはないだろうなと思っている。
あとは二十八年ぶりになるオリンピック出場を果たし、四年後の次のワールドカップ予選を目指す。そう気持ちを切り替えていた。
それだけに、今まさに代表で戦う矢口の力になれることは、この上ない石川の喜びであった。それだけでも移籍してきた甲斐があるというものだ。
フォームはほぼ完成している。あとはそれをコントロールするすべを身につけ、バリエーションを増やす。
それさえできれば、矢口の右足はとんでもない最終兵器になるかもしれなかった。
鋭い、えぐる、落ちる。ボールの変化にはいろいろな形容があるが、矢口の蹴る必殺ボールの生み出す変化はそのどれにも当てはまらない。
蹴るたび微妙にその変化が違う。その動きに石川はある種の〈なまめかしさ〉すら感じていた。
セックスシンボルがなんだ。日本にはセクシー隊長、矢口真里がいる。

「あいぼん、始まるよ」
「わかっとるっちゅうねん」
23時(現地時間17時)という遅いキックオフは、夜に弱い辻希美と加護亜依にとってはかなりつらい時間帯だ。
「あいぼぉん、のの試合見ながら寝ちゃいそうだから、試合中ずっと電話書けていい?」
「あんなあ、電話代いくらかかると思ってんねん。そんなにNTT喜ばせたらあかんわ」
「のののケータイはAUだよ」
「そーいう問題じゃないわ。まだ電車賃のほうが安くつくちゅうねん」
「じゃ、ののがあいぼんの家に行く」
「うち狭いねん・・・」
というわけで、加護が上京する事になった。シカせんべいを手土産に。
「希美の友達? ヘンなやつだけど仲良くしてやってね」
と言う辻のコギャル姉にはびびったが、総じて人の良さそうな家族であった。
こいつのこういうおおらかさは、こういう家庭が育んでるんやろうなあ・・・
ポジションがかぶる自分に対してなぜかよくなついてくる同い年の辻に、加護は好きのような嫌いのような、複雑な感情を抱いている。
そんな葛藤をなにも知らず、辻はただ加護にじゃれてくる、何の疑いも持たずに。
今もこうしておそろいのパジャマを着て、一つのベッドに二人でもぐりこんでお菓子を食べている。
「のの、オーバーウェイト気味や言うてたやない。うちが食べるっ」
「いやー!」

布団にもぐりこんでテレビを見ているのは石黒も同じだ。ただしこちらは札幌市内の病院で、携帯テレビを布団の中に持ちこんでだが。
手術は成功していた。もうサッカーはできないが、リハビリを続ければ日常生活は問題ないところまで回復するという。
いろんなものに感謝しなければならない。
チームメイトに、山田真矢に。なにより、よくもってくれたこの右足に。
そして、入院にはもう一つ理由があった。
妊娠していたのだ。
しかも計算すると、あの試合の時、すでに新しい命は彼女の中に宿っていたことになる。
誰もが意外そうにしていたが、石黒本人だけは妙に納得していた。
あの試合でのパフォーマンスは自分のスキルをはるかに超越したものだった。ビデオで見ても生涯最高の出来だったと思う。
でもそれも、二人分の力だったとすれば説明がつく。
大和魂はフィールドに置いてきた。これからは、人間・石黒彩、いや、山田彩としての戦いが始まる。

もちろん、オリンピック代表の合宿所でも。
「おー、出てきた」
「飯田さん、がんばれー」
戸田鈴音、木村麻美のボランチコンビがコンサドーレユースの先輩にあたる飯田にひときわ大きな声援を送る。ともにユースの生え抜きで札幌・田中監督の秘蔵っ子。ほとんど守備をしない石川が五輪代表の「王様」でいられるのはその背後で鬼のようなディフェンスを見せるこの二人がいるからで、特に戸田には早くも代表入りの噂があった。
「安倍さん、出てないや・・・」
六試合ノーゴールと不振を極めるエース安倍は、この日ついにスタメンを外された。後藤のワントップである。
連戦で傷めたヒザの調子が思わしくない、とは監督の談話だが、それは誰も信じていない。
「やっぱり、あの記事ですかねえ・・・」
ユース代表から「飛び級」で五輪代表入りを果たしたFW松浦亜弥(鹿島)がポツリとつぶやく。
松浦が言ってるのはサウジアラビア・リアドに代表が発った日に発売された写真誌のスクープ。
「日本代表エース、夜のゴール!」
ばっちり顔も撮られており、言い逃れはできないものだった。しかし本人はそれをかたくなに否定した。
もちろん大人なのだからその行為自体には何の問題もない。
問題なのはその写真が撮られたのが、代表の合宿期間だったということだ。安倍は合宿所を抜け出し、逢引していたことになる。
エースとしてはその資質を問われるべき行為であった。

その背後で、やはり飛び級組の吉澤ひとみ(浦和)は、確かにそれはでかかったけど、単なるきっかけにしか過ぎないのではないのかと思っている。
データマニアとしても知られる吉澤はウズベキスタン戦をビデオで繰り返し見て、安倍とツートップを組む後藤との間にまるでコンビネーションが確立されてないのに早くも気がついている。
最初は安倍が何度か後藤にパスを出している。ところが後藤は安倍をまったく頼りにせず、市井にばかりパスを送っている。
やがて、安倍も後藤にパスを出さなくなっていた。
バラバラのツートップをバックスが押さえるなんて、ゆで卵のカラをむくより簡単だ。
好調の後藤と不調の安倍、監督がどっちを選ぶかはべーグルをかじるより簡単だ。
「あ、梨華ちゃん。もう始まるよ」
「安倍さんが外されたって?」
風呂に入っていた石川が吉澤の隣に座る。
なっち? 相当落ち込んでるよ。練習中にはそんなそぶり見せないけどね。
昨日、矢口が国際電話でそう教えてくれた。
これがもし後藤ならさ、あっさり認めてそれでチャンチャンなんだろうけどね。
矢口の言葉に、石川もまったくその通りだと思った。
実は石川も、これとよく似た目に遭ったことがある。
ただし彼女の場合は色恋ではなく、木刀サラシ特攻服グラサンマスクウンコ座りでメンチ切るという、これ以上ないヤンキースタイルで「ティーンズロード」のグラビアを小さく飾っていたという過去の発掘である。
確かに中学時代「横須賀痴耶唖魅夷」というグループの特攻天女だったことはまぎれもない事実なのだが「やだあ、そんなことあるわけないじゃないですかぁ」と、強引に押し切った。
安倍には、後藤のような無邪気さも、石川のごとき開き直りもない。
すべてを静かに受け入れる。
それが、エースとしての誇りなのだろうと。

       5後藤

  13市井         8矢口

    MF      11飯田

DF              DF
    6保田     DF
        DF

       @中澤
   

日本のシステムは、5−4−1という著しく偏ったものだった。
「サウジはこっちで負けた事のないチームや。ドローは勝ちに等しい」
とは、ホームの試合前に「アウェイでもう勝つ気がないぐらいボコボコにのしたれや」と怪気炎をまいていた監督の弁だ。
なにびびってんだよ、このおっさん。矢口は思う。
マジェド・クワターという名前を聞いてから、この日とは平常心をやや欠いているようにさえ見えた。

サウジアラビアの背番号9、マジェド・クワターは、アラブ圏の住人としては大変珍しい事に、ニーチェを愛読する無神論者である。
ブコウスキーとケルアックも愛し、その作品の主人公のように各国名門クラブを放浪した。
美食を愛し、美女を愛し、なによりも美しい歌を愛する。
もしその才能がサッカーのみに発揮されていれば、サウジアラビアはワールドカップを三回くらい制していたかもしれない。
彼がサッカーをするのは、その中に何物にも替え難いエクスタシーが潜んでいるからに他ならない。
久しくサッカーから遠ざかっていたのは、そのエクスタシーを感じなくなっていたからだ。
が、日本とウズベキスタンの試合をテレビで見て、彼は久々に「エレクト」していたのだ。
ぜひ一戦交えたい。再び彼が戦場に立ったのはただそれだけの理由だ。
彼のマークについたのは彼好みのエキゾチックな顔立ちをした背番号6。情熱的に、体をすり寄せてくる。
さあ、昇り詰めよう、一緒に。

「・・・」
保田はその場に座りこみ、一瞬前の出来事を頭の中でリプレイしていた。
右からのコーナーキック。自分はポジション取りで完全に勝っていたはずだ。ジャンプのタイミングも誤ってはいない。
なのに、気がついたら相手の頭は自分の頭のはるか上にあって、芯でとらえたボールをゴールラインに叩きつけていた。
「肩に、腕乗せられてたんや」
ろくに反応すらできなかった中澤がボールを拾ってから言う。
「あんたのジャンプ力を利用して飛びあがった。あんたは9番のお手伝いをしてもうたんや」
それにしても、あの体の柔らかさ。まるでムチのようにしなった。一瞬、中澤も心を奪われそうになった。
なに、考えとんねん、うちったら。

サウジのシステムは、一応3−4−3となっていたが、実際は日本と同じ5−4−1。しかもボランチ二人も引いて守る「7バック」とさえ呼べた。攻撃は完全に9番一人が頼み。
「でえっ」
後藤のミドルはGKの美技に遭った。
あんだよ、あと80分も守りきれるつもりかよ。
後藤は早くも息が乱れていた。
矢口は高い危機感を持っている。ゴール前でああも密集されたのではスルーパスも通せない。
そういう時はロングレンジ、ミドルレンジから狙ってDFを前に釣り出すのが常套手段だが、GKハラボーがバック、バックとさかんに指示を飛ばしている。遠目からなら打たせろというのだろう、大した自信だ。
「真里ちゃん」
市井が寄ってきた。
「圭ちゃんの様子がおかしい。ちょっとカバーしてくる」
確かに先制点を決められたせいか、それともその直後の尻振りダンスを至近距離からモロに見てしまったせいか、保田のプレーが精彩を欠いている。矢口がいいとも言わないうちにとっととボランチの位置まで下がってしまった。あの辺の戦術眼は、さすがだなと思う。

保田は完全に混乱していた。風邪を引いたように頭がボーっとしている。
あんなシュート、どうやったら止められるのだろう。
相手にボールが渡る前にカットするのがストッパー保田の十八番なのだったが、ボールに飛びつく積極性が失われ、後手に回ってしまっている。
「ヤス、チャレンジ!」
中澤が弱腰をどやしつけても、保田の耳には届かない。ボールを持ったクワターにつっかかることもできない。
サイドから鋭いスライディングが入った。市井だ。
ルーズボールは再びサウジ。あくまでクワター一人を狙う。速くて低いクロス。保田の反応が遅れるが、市井がぴったりと張りつく。
が、遠い。速い。切れる。中澤も出てきた。
その左を、黒いものがウナギのようにすり抜けていった。飛び出したGKの逆を突く、スライディングシュート。
「マジっすか・・・?」
顔を見合わせる市井と中澤の間で、寝転がったままの9番がせわしなく腰を突き動かしていた。

ベンチでじっと試合を見守っていた安倍なつみは爪をかんだ。
あたし、なにやってんだろ、こんなところで。
ストレスは頂点に達していた。解放を求めていた。
いいや、たまには、羽目外したって。バレやしない。そんな軽い気持ちだったのに。
電話で掲載を告げられた時、てめえらそれでも人間かよと叫びホテルの部屋にあるものをめちゃめちゃにした。
飯田があわてて止めなかったらどうなってたか。
けど、やはり自分が軽率だったのだ。陵辱されるがままの日本代表を見てその思いを強くした。
「どや、安倍」
はい、監督、反省してます。だから早く試合に出してください。
「サウジの9番は、ワールドクラスや」
え?
「年食ってるからスピードもない。スタミナもない。パワーも全盛期に比べたらはるかに落ちた。けど、あの得点感覚はどうや。
ここに出されたら処置なしっちゅうところに必ず顔を出しよる」
立ち上がっていた監督が、安倍の横に腰を下ろした。
「おまえ、ポジショニングっちゅうことをどれぐらい頭に入れて動いとった?」
安倍が意識していたポジショニングとは、相手が出しやすい場所に動くというものだ。
「9番は決してボールを受けやすい場所にばかりいてるわけやない。けど、そこにボールが出たら多少ズレてても全力で食らいついてくれる。
絶対に決めてくれる」
「・・・」
「そこにおったらパスなんか来ぉへんちゅうとこに、何度自分がおったか数えてみい。アンチ(安全地帯)に顔を出すンは、矢口の役目や。お前は違う。エースなんやから」
「・・・」
「まさかあんなヨタ記事でおまえをスタメンから外したとでも思てんのか?」
「違うんですか?」
「スキャンダルは勲章や。俺なんか、ニューハーフに暴露されたで。おまえのなんか、屁みたいなもんや」

前半もロスタイムだ。
一発目のセニョリータもなかなかだったが、二発目のボーイッシュな大和撫子もオツだった。
そろそろ、フィニッシュといこう。
セニョリータはもう足腰が立たない。大和撫子はちょっと飽きた。
「カオリ! ディレイ!」
大柄な女ってのも、いい。情が深い。股抜きで抜き去る。左足でシュートの構え。
後藤がゴール前まで下がった。金髪は一番の好みだった。ポンと浮かせて、やりすごす。
一瞬ボールが体から離れたのを見計らい、中澤がパンチングで飛び出す。
年増もステキ。
もう一度浮かせた。ボールがゴールに転がり込む頃にはもう左コーナーに走り、「かいーの」ポーズを取っていた。

オリンピック合宿所に三度目の「あーあ」が響いた。
「やっぱ石黒さんじゃなきゃ。保田じゃダメだ」
「ちょっと、なんすかそれ」
戸田に吉澤がつっかかり、木村と松浦がそれを止める。
「データ屋、このまんま負けたらどうなる?」
データ屋と呼ばれた吉澤が、多少ムッとしながら説明する。
「一位日本、三勝一敗三分け勝ち点15得失点差+5。三位サウジアラビア、四勝三敗勝ち点12得失点差+4。つまりサウジは日本に勝てば、昨日クウェートに負けた韓国と日本を抜いて首位に立つことになります」
「このままで終われば得失点もずいぶん開きが出るなあ・・・」
絶望的な雰囲気がその場を覆う。
「大丈夫だよ、みんな、ポジティブ、ポジティブ!」
「梨華ちゃん・・・」
「日本にはね、セクシー大魔王がいるんだから」
「梨華ちゃん? しっかりして、日本が負けそうなのが信じられないの?」
矢口さん、この小娘どもに、がつーんとしたの見せてやってくださいよ。

矢口は保田を探した。前半が終わり、ベンチに引き上げる保田が「もうだめだ・・・おしまい・・・」と終了モードに入っていたのが気になったのだ。
サウジのセンターフォワードは明らかにインターナショナルクラスのプレイヤーで、ゴールへの嗅覚ではワールドクラスでさえあった。
保田一人で抑えられるわけもない。責任があるとしたら、それは個人を封じる事の出来なかったチーム全体の組織にある。
それにしても、たった一人にこうもしっちゃかめっちゃかにされてしまうというというのは、どういうことなのだろう。
長期戦も終盤ともなれば、チームは熟成してくるはずのもの。それが自分達はどこまでも未完成のままだ。
「・・・」
「・・・」
反射的に身を隠した。ひざを抱える6番の背中をさする5番と、頭をなでる13番の姿とが見えた。
「もう泣かないでよ。後半取り返せばいいじゃん」
「でも、あたしが、最初に競り負けてなければ・・・」
「そんなこと言ったら、2点目はあたしの責任だ」
「そっすよ。そんなこと言ってるヒマがあったら、あの痴漢オヤジをどうやって撃退するか考えましょうよ」
「痴漢?」
「あんにゃろう、すれ違いざまにお尻触ってきやがったんだから」
やっと聞こえた笑い声を背に、矢口はその場を静かに去った。
代表に入りたての頃を、静かに思い出す。
あの時、あたしが孫悟空だったのに、後藤に取られちゃったなあ・・・
三姉妹のようにむつまじい後藤、保田、市井の姿に覚えた寂しさは小さいものではなかった。
「矢口」
「なっち・・・」
すでにジャージを脱いだ背番号7がそこにいた。
「お帰り」
「歯がゆかった・・・あたし、なにしてるんだろうって・・・けど、もう逃げない。怖くても、目を逸らしたりしない」
戦う目だった。
「なっち。遠くてもいい、角度悪くてもいい、ファウルをもらって」
「どうする気?」
「後は、あたしがなんとかする」

後半、日本は安倍を投入。左から後藤、飯田、安倍というスリートップを並べた。

 5後藤   11飯田   7安倍

       8矢口
  13市井        MF
        MF

6保田     DF     DF 

       @中澤

(頼む、みんな・・・キーパーは自分の失敗、自分で取り返すわけにはいかんねん)
中澤は祈った。

「せくしいだいまおうはいるんだからああああ!」
「梨華ちゃん! お願い、しっかりして、梨華ちゃん!」
石川は吉澤に往復ビンタされた。

「もう消灯時間ですよ!」
石黒は婦長に見つかった。怒られた。

「んごー・・・」
「くー・・・」
加護と辻はハーフタイム中に寝てしまった。

サウジアラビアの黒い壁が攻撃を厚くした日本の前に立ちふさがる。クワターがセンターサークルで「やりすぎて、煙も出ない」といった風情でのらりくらりしている以外は、全員でゴール前を固める「9バック」。
ばっきゃろー、ちったあ出てこいや。ドリブルもできねえじゃねえか。
「戻せ!」
後藤がヒールで下げたボールを、市井がダイレクトでゴール前に上げる。飯田が飛ぶが、サウジDFが四人がかりでこれを阻止する。
(ちくしょう・・・あたしがあんなヘマしなきゃ・・・)
隣で生あくびするクワターをよそに、保田が唇をかむ。
カオリの高さはサウジに負けてないけど、一人じゃきつい。それならもう一人ターゲットがいれば・・・
「あかん、戻れ保田!」
前に出ようとした6番に中澤の声が飛ぶ。それこそサウジの思うつぼだ。
「後藤!」
市井が後藤に預け、ゴール前に切りこむ。
後藤の右足が、素直に市井へのリターンを返そうとする。
視野が広いとされる後藤の目の端に、なにやら青いものが飛びこんできた。退屈な作業に飽き飽きしていた後藤のいたずら心をくすぐるには、それで充分だった。
触れる寸前足の角度は大きく変わり、ボールは青の7番めがけて吸い込まれていった。

ホイッスル!
主審の指先にペナルティースポット!
サウジDFが故意でないと抗議するが、ラストパスを手でさえぎってしまったのだからしょうがない。人海戦術もまたリスクを伴っているものだ。
(走って・・・みるもんだな)
こんなところに絶対パスなんかこない。それでも、無駄だと思いながら走ってみた安倍は、そこへドンピシャのタイミングでボールが出たのに驚いた。
後藤は、ちゃんと見ているのだ。
洗練されたプレーを心がけるあまり、いつの間にか泥臭くなる事を恐れていたのかもしれない。
後藤に、親指を立てて見せる。照れ隠しなのか、なにそれ? という顔をした後藤。
起き上がった安倍が、145センチのミッドフィールダーに手渡したものはボールではない。
日本代表の運命そのものだった。

この試合、初めてむき出しになったサウジゴールに立つのは「黒クモ」アル・ハラボー。PK阻止率6割という脅威のアベレージを誇る。
その秘訣はなんといっても恵まれた体格と鋭い反射神経にあった。
駆け引きなど必要ない。シュートコース、強さをすべて見極めてから飛んで充分間に合う。
日本のキッカーは8番だ。確かこの選手はこの大会ゴールがなかったはず。入らないなら誰が蹴っても同じだというのだろうか。
緊張を解きほぐすためなのだろうか、さかんに舌なめずりをする。神経質にボールの置き位置を何度も変える。いらだたせるつもりなら無駄なことだ。たとえ一時間待たされたとしてもハラボーの鉄の神経は微動だにしない。
夜空を見上げ、目をつぶる。そして、キッとゴールをにらむ。
助走の距離は短い。その場で足踏みしてから右足のシュートに。
強シュートではない。コースも甘い。弾くまでもなくキャッチできる。
完全に読みきって、右に飛ぶキーパー。
その長い長い両の腕の間を抜けていったボールが、ゴールネットに小波を起こした。

はれま、決まっちまったよ。アジアナンバーワンGKも大したことねえな。
てっきり蹴らせてもらえると思ったPKを矢口に奪われ、少々ヘソを曲げていた後藤。ミスキックがへなへなとゴールに飛びこんだのを見て、やっぱアジアのレベルってこんなものなのねと妙に納得していた。
ちょっとだけ顔色が変わったのは、ゴールを破られたキーパーが悔しまぎれにつぶやいた言葉を聞いてだった。
「不運だ。バランス崩しちまった。それさえなきゃ止められてたのに」
バランス? なに言ってんだ? 完璧な反応していたぞ。

「でえっ」
保田がサウジのロングボールを、ヘッドダイブで弾き返す。
「それっ」
市井がプレッシャーに負けず、オープンスペースにはたく。
「おらっ」
後藤が角度のないところから狙う。人の波に押し返された。
つぶし、つなぎ、きめる。三者の役割分担がより明確になった左サイドが、日本の攻撃を彩っていた。
1点返されたことで、サウジは前半のようにMF二人がやや前に出てくるようになった。そのことで、ほんのちょこっとなんだけど、スペースが生まれる。そこをこの三人はおもしろいように突いていった。
最後尾でゴールの瞬間を待ちわびる中澤は、その中でも特に、ナンバー13の背中を頼もしそうに見守っていた。
時にはひじ打ちも辞さないハードディフェンスと、自信に満ちあふれたボールキープ。キレまくる市井のプレーがどうしてもおかっぱの泣き虫サヤカと結びつかない。
右サイド(日本の左)にサウジディフェンスの注意が引きつけられるのを市井は見逃さなかった。中央の飯田と目が合った。
逆サイドに大きく振った。飯田、ダイアゴナル・ラン。長いストライドでボールを追った。
虚を突かれたサウジディフェンスが、体で止めに行く。
ぶつかって、大きく吹き飛んだ。

ホイッスル!!
右45度、距離にして35メートルの位置からの直接フリーキックをゲットした飯田が、安倍に助けられながら立ち上がる。
古傷の左太ももを強打したようだ。
「痛くない?」
「痛いのは敵さんだっぺ」
サウジが壁を作る。ボールの前には市井と矢口。矢口はボールの向きをさかんに気にしながら
「サヤカ、テレビカメラってどこにある?」
「え?」

センターサークルで、クワターは日本の8番をぼんやり見ていた。
決してロリータも嫌いではないが、出した手が後ろに回るような相手には彼はそそられないのだった。
あの体で直接狙うにはちょっと距離がありすぎるように思えた。キーパーはハラボーだ。1点取られたとはいえ、冷静さは失っていない。
ゴール前では長身の選手が全員ファーポストに走りこむのが見えた。
さっきと同じような助走で8番が走り出す。先に13番が蹴りに行くが、当然これはダミー。
壁の選手の肩の上を抜け、二アサイドへ一直線。逆を取られ一瞬反応が遅れたGKだがすぐにきびすを返し、熊のような手刀で叩き落としに行く。
空を切った手で受け身を取りながら見送るハラボーの視線の先に、再び揺れるゴールネットがあった。
なかなか官能的なシュートだ。勃起したぜ。クワターがにやりと笑った。

ゴールを決めた矢口は仲間を引き連れ、市井に教えられたテレビカメラにしがみつく。一度言ってみたかったセリフを吐くために。
「止められるもんなら、止めてみろーッ!」

日本時間は日付が変わっていた。
オリンピック代表合宿所。
「ほらほらみろみろみろみろあれあれあれあれなんだよおおお!」
言語中枢が破壊され、踊り狂う石川を全員で取り押さえる。ようやく落ち着いたところで水を一杯飲ませてから尋ねる。
今のシュートの正体を。
「まずはリプレイ見てみようよ」
ボールの軌跡を追う。市井のフェイント。矢口のキック。ほぼ一直線に伸びたボールが、人壁を越えたところでゆるやかに高度を落とす。完全にその軌跡をふさいでいたGKの左手だが、パンチのタイミングが外された。
「パンチミス?」
今度はゴール裏からのアングル。やはりキーパーは完全にコースに入っている。手が伸びる。
「うわっ」
キーパーが触れようとした瞬間、ボールは空中で動きを止めているようにみえた。
「止まる魔球?」
「もちろん、そんなことは物理的に不可能だけどね。けど、たとえば120キロで飛んできたボールが突然半分の速度になったら、目の錯覚で止まっているようには見えるわね」
今度は、キッカーを中心に捕らえたアングルだ。ボールが止まった状態からのリプレイ。
「見て、ボールがあの向きだと・・・」
「そう。普通はボールのへそを蹴ることでボールの回転に微妙な狂いが出るから、たいていはへそを下向きにしてセットするんだけどね」
もちろん、フリーキックのスペシャリストである石川も、ボールのへそを蹴るのを嫌うタイプだ。
「けどあのボールは、その不確定要素を利用するのよ。ビリヤードのブレイクショットみたくマークを正面に向けて蹴るけど、完全に垂直に蹴れることなんてほぼありえないことだからね」
「でも、変な角度で蹴ったんじゃ、とんでもない方向に転がるだけだけど」
「見てなよ。再生始まったよ」

横からのアングルだと、普通ボールの真横にあるべき軸足がずいぶん前に出ていることが分かる。
「あれじゃダフるべ」
木村がゴルフ用語を使った。確かに地面を蹴るフォームだ。
「右足首見てよ」
おおっ、と一同が声を上げる。普通は大きく反らせるべき足首が逆、つまりアキレス腱が伸びた状態であることが分かる。これなら、ギリギリで爪先がボールより先に地面を捉えることはない。
「大変だったのよ。自然に出来るようになるまでテーピングで足を固定したりして」
「お、インパクトだぞ」
誰もがインステップだと信じて疑わなかったそのキックは・・・
「トーキック?!」
だった。石川が一人にやついて説明する。
「つま先蹴りであんなスピードボールが蹴れるもんなの?」
「中学で圧力の勉強したでしょ? 同じ力でも、押す面積の小さい方がより大きな力を与えられるって。ボールに当たる面積が一番小さいのがトーキックだからね、理論上はインステップよりも速いボールが蹴れるはず。特に矢口さんの足は体と同じで小さいから、その面積も小さい」
「でも、トーを全速力で降りぬいたら、たいていはミスキックよ」
「だからあのヘソを狙うんだって。あのヘソはマーカーでもあるわけ。もちろん、確実に蹴れるまでには相当蹴らせたけどね」

なるほど、真横から見ると、矢口のスパイクが半分までボールにめりこんでいるのが分かる。なかなかボールから足が離れない。まるで通常の倍のスローモーションを見せられているような錯覚に陥る。
「逆に曲げる足首も、トーキックも、すべてはこのためよ。ボールを蹴るんじゃなくて、前に押し出す」
ボールの模様が完全に肉眼で捕らえることができる。まったく回転していない証拠だ。ドライブ回転はかかっていない。なのにホップしていたボールが急激に高度を下げる。
「ある一点を超えた瞬間、空気抵抗がボールの勢いに勝ってストンと落ちる。けど、それだけじゃない」
いよいよこの魔球の最大の謎、なぜキーパーの手前で奇妙な変化を見せるのか。
「梨華なんて名前だけど理科の成績悪いからうまく説明できるかどうかわかんないけど」
くだらねえ前振りなんかいらねえよ、と一同。
「クスン。ボールのへそをインパクトするって言ったけど、本当にへそをまっすぐ捕らえてたら、そのままストンと落ちるだけだと思うの。ただ人間のやることだから、必ず何ミリかの狂いが出てくるはず。それがあそこで出るんだと思うの。ボールの動きの軸の微妙なズレが、あの変化の正体だと思う」
なるほど、パンチングを鼻先で見事にかわしているのが分かる。
「それから、あのボールをフィスティングで回避するのは不可能だと思う。キーパーがきわどいシュートに指を伸ばすのは指先でボールの回転を変えてコースを変えるからなんだけど、まったく回転してないでしょ。指で弾いてもほとんどコースを変える事はできないわ」
「じゃ、あのボールを完全に止めるとしたら?」
「微妙な動きに合わせて体をずらして、両手と胸の三方から抑えて、最後に体で抑えつける。けどそれにはボールの真正面に回り込まないと。コースを突かれたら、ボールを最後の最後までよく見て、思いきり握り拳で弾き出す。思いつく限りではそんなところかな」

「あれって、練習すればうちらにも蹴れるようになるのかな?」
吉澤が目を血走らせて尋ねる。
「ひとみちゃんの足のサイズじゃ、同じように蹴ってもボールのスピードが足りないと思う。小さい歯車のほうが大きな力を伝えるでしょ?」
「そっか・・・バカの大足だもんな、あたし・・・」
「矢口さんてさ、プライベート、ギャルなんだよ。18センチの厚底履いてるの、見たことない?」
「Goal Magajineで見た見た。代表選手のファッションチェック」
「でね、あの中、全部砂鉄が入ってるんだよ。鉄下駄の三倍の重さはあると思う。蹴り足もそうだけど、ものすごい力がかかったキックだから、軸足がちゃんと地面を噛んでないと上半身を支えきれないのよ。左の足底腱膜、相当鍛えてたから」
「そっか・・・」
まったく、マネできるものなら、とっくにあたしがマネてるよ・・・
「で、あれはなんてボールなの? 名前はあるの?」
「コホン。それなのですが、あのシュートの軌跡って、妙に色っぽいと思いませんか? 女性的と言うか。そこで名づけました」
サタデー・ナイトフィーバーのようなポーズをキメる石川。
「セクシー・ボール!」
「センスねー」
しくしく・・・

鳴れ鳴れホイッスル。日本サポーターが口笛を鳴らす。
ファウルさえ奪えば、矢口の魔球が確実にサウジゴールを陥れるのだ。
サウジのディフェンスがファウルを恐れ、ハードなディフェンスができない。
悪魔だ、悪魔のボールだ。ベンチまでもが慌てふためくサウジアラビア代表。
なにを言っているんだ、と、クワター。悪魔なんているもんか。あの8番は、ロリータの皮をかぶったカルメンだ。バラと革靴の代わりに、白と黒のボールに魅惑的なステップを踏ませるだけの。
「アハッ」
保田とヘッドを競ったクワターが右の肩を抑えて悶絶する。タンカに乗せられた時には、なぜか左の肩をつかんでいた。一流選手は一流の役者、エンターテイナーでもあるのだ。中澤が半ば呆れ半ば感心する。
「攻めろ、時間ないで」
監督がベンチ美声を枯らす。
「めんどくせえっ」
市井がドリブル、低姿勢の突破で逃げ腰のサウジディフェンスを蹴散らした。
「市井さんっ」
後藤が左に開く。空いたコースにグラウンダーの強烈な一撃を見舞う。ハラボーが足で弾く。安倍がセンターリング。飯田がヘッドで落とす。オーバーラップした保田が勢いよく蹴りこむ。ゴールに入っていたディフェンダーが、太ももで弾き出した。
電光掲示板のタイムが45:00を示し、消えた。

左コーナーに向かって歩きながら、矢口は一人だけ落ち着き払っていた。
あれって確か、さっき「かいーの」ってやったフラッグだよなあ。触りたくないなあ・・・
人一倍勝負にこだわる気質が、この時ばかりは、完全に引っ込んでいた。
2ゴール目を叩きこんだ瞬間、なにか憑き物が落ちたような、えらく不思議な感覚に陥ったのを覚えている。
テレビカメラにかじりつき、狂乱の沙汰を演じながら、不思議なくらい心は静かだった。
もっと、もっとビックリするようなことをやってやるんだ。ボールのへそをこっちに向けながら、ゆっくりと下がろうとする。
「矢口、来い!」
ゴールキーパー中澤がセンターラインを越えた。
(一度、やってみたかってん)
おまえ、マークにつけ。俺はこいつのマークだ。おまえはどうだ? サウジディフェンスが一気に混乱する。
矢口はウケた。裕ちゃん、面白すぎ。
とっさにボールのへそを下に向ける。中澤が走りこむファーサイドへ、軽く蹴り出した。

「ウオオオオッ」
アジア・ナンバーワンゴールキーパーの誇りをかけ、アル・ハラボーが両手両足を広げ、ボールの軌跡と中澤の中間に飛んだ。体のどこかに当ててやるつもりだった。
見えへん。ボール、どっちや。中澤は目をこらす。脇か、股か、頭の上か。どこから抜けてくんねん。
抜けてこなかった。ボールは一人のゴールキーパーの誇りをぐっちゃぐちゃに砕ききり、一人のゴールキーパーのバンザイを引き起こした。
(彩っぺ、見てるー?)
石黒が得意としたバナナシュートが、直接ゴールラインを割った。
ただ残念な事に、当の石黒本人はこの瞬間を見届けてはいない。
携帯テレビを奪われ、ラジオでこの放送を聴いていたのだ。ラジオからは
「矢口ゴール! 後半ロスタイム! 魔球炸裂! 日本同点! 同点!! どーてぇーん!」
という半狂乱の絶叫が響いてきて、思わずイアフォンを外してしまったからだ。
「・・・!」
アル・ハラボーが両手で地面を何度も何度も叩く。ボールをよく見ていれば、回転がかかっていることなど容易に見破れたはずだった。
感情的になってしまっていた自らの軽率さを今更悔いても、すべては手遅れだった。
「矢口ィ」
中澤が矢口の首にヘッドロックを決める。
「うちをオトリに使うたあ、ええ度胸しとるやないか!」
他の選手はベンチに走り、サウジ選手をスクリーンして矢口のゴールを「アシスト」した安倍は監督と固く抱きあった。
「ようやった、ようやった・・・」

「まだだよっ」
まだ試合は終わってなかった。
歓喜にむせぶ日本と、落胆に沈むサウジの間で、ただ一人自分のすべきこと分かっていたのは、砂漠のセックスシンボルと呼ばれる彼だけであった。
もう一人の選手を引き連れこっそりとキックオフすると、無人の日本ゴールへ大きく蹴り出す。
唯一危機を察知していた後藤が懸命に走る。間に合わないと知りつつ。滑り込んだ。届かなかった。
一番簡単で、一番難しいシュートが、両チーム通じてこの日七つ目のゴールだった。四つ目のゴールを決めた背番号9はエロティックなステップを踏まず、シンプルなガッツポーズを控えめに作っただけだった。
八つ目のゴールを決めるためのキックオフは、なされなかった。
「ウソやろ・・・」
腰に手を当て、茫然自失となる中澤、だが、誰が彼女を責められるだろう。
うずくまって顔を覆う後藤を抱き起こすのは市井と保田だった。
涙でぐしゃぐしゃになりながら、後藤は福田の言葉の答えを見出していた。
こんな悔しい思いをしたら、ちょっとやそっとのことじゃサッカーやめるわけにいかないじゃないか。
激しく泣き出したのは安倍も同じで、飯田はその場に倒れしばらく動かなかった。
同じ涙でも、アル・ハラボーの涙は歓喜と安堵の涙だった。
誰もがとぼとぼと、サポーターへのあいさつを忘れて、うなだれながら控え室へ戻った。監督さえも。
ただ一人、ゴールの女神には三度も祝福されながら、勝利の女神には見放された145センチを除いて。
矢口はわりとサバサバしたものだった。悔しくないといったら嘘だったが、自分のやりたいことは残らずできた。
どんな美しいゴールも一瞬の幻。闘いの記憶は、右のつま先に残る鈍い痛みだけが覚えている。
たった一人でサポーターに向かって手を上げる矢口に、惜しみない拍手と歓声とが送られる。
負けてこんなにほめられるなんて、まるでだまされているみたいだ。
サポーターはちゃんと見ていた。ハットトリックだけじゃない、一分一秒だって力を惜しまなかった背番号8を。
「よかったぞー」
「また次も頼むぞー」
それを聞いても、やっぱり涙はなかった。
「勝てなくってごめんよ。でも、また見に来てよ」
ワールドカップ出場を決めるか逃すか、それまでは泣くまい。そう決めたのだ。

<番外編・Hリーグオールスターゲーム>

H−EAST

@ GK 辻 希美  (東京FC)
2 DF 大谷雅恵  (コンサドーレ札幌)
3 MF 木村麻美  (コンサドーレ札幌)
4 DF 吉沢ひとみ (浦和レッズ)
5 MF 戸田鈴音  (コンサドーレ札幌)
6 DF 石黒 彩  (コンサドーレ札幌)
7 MF 末永真己  (ベガルタ仙台)
8 MF 市井紗耶香 (柏レイソル)
9 FW 福田明日香 (東京ヴェルディ)
10 FW 安倍なつみ (コンサドーレ札幌)
11 FW 飯田圭織  (コンサドーレ札幌)
12 GK 小湊美和  (モンテディオ山形)
13 DF 信田美帆  (東京FC)
14 DF 北上アミ  (コンサドーレ札幌)
15 MF 斎藤 瞳  (アルビレックス新潟)
16 MF 村田めぐみ (ベガルタ仙台)
17 FW 大木衣吹  (ジェフ市原)

H−WEST

1 GK 中沢裕子  (京都サンガ)
2 DF ルル    (セレッソ大阪)
3 DF ミカ    (清水エスパルス)
4 DF 稲葉貴子  (ガンバ大阪)
5 DF 後藤真希  (エスパニョール・招待選手)
6 DF 保田 圭  (ジュビロ磐田)
7 MF 石川梨華  (湘南ベルマーレ)
8 MF 矢口真里  (横浜Fマリノス)
9 FW 松浦亜弥  (ヴィッセル神戸)
I MF 加護亜依  (ガンバ大阪)
11 FW 平家みちよ (名古屋グランパス)
12 GK 前田有紀  (アビスパ福岡)
13 FW レファ   (大分トリニータ)
14 MF アヤカ   (ヴィッセル神戸)
15 MF 柴田あゆみ (横浜FC)
16 DF ダニエル  (サンフレッチェ広島)

「さあ、ついに始まりました、夢の祭典、Hリーグオールスターゲーム。今、キックオフを前に最多得票を獲得したH−EAST、辻キャプテンとH−WEST、加護キャプテンが固い握手を交わします・・・」

「なんで辻が最多得票なのよ。なかよしやちゃおの人気投票じゃあるまいし」
「しかもなに、そのテカテカのオールバックは」
「ポジションもゴールキーパーだし」
「いいらさん、あべさん、それはののがしんキャプテソだからなのれす。やすら、おちゃをいれるのれす」
「圭ちゃんは敵チームよ」

「おい、加護」
「なんですのん、稲葉さん」
「覚えとけよ、おまえが最多得票取れたのは、このジミーなメンツが西日本に集結したからなんだからね」
「そんな、わかってまんがな、みなさまあっての加護亜依だす。でへでへ」
「ん、それならよろしい」
「(ババア転がしなんざお手のもんや・・・)」

「H−WESTのキックオフ。センターサークルに平家と松浦のツートップが待ち構えます・・・」

「平家さん」
「なに、松浦ちゃん」
「またケガですか。そうや。右ヒザ十字靭帯損傷。世界に通用する逸材と期待されてたわしがケガ、ケガ、ケガで・・・そういえば松浦ちゃん、確か鹿島におったんちゃう?」
「それがジェフに行ったりフロンターレにレンタルされたりブラジルに武者修業に行かされたり・・・気がつけばあんなに真っ黒だった髪が一本残らず金髪に」
「そっか。ま、ストライカーは孤独なポジションや。くじけずにがんばっとったらいつかええことあるってさ」
「(あんたに言われたくないわ)」

「おっと、加護、ヘディングに競り負けます!」

「加護、そのハゲ頭にしっかり当てんかい!」
「これはおでこや!」
「現実を直視しろーっ!」

「さあ、日本代表のチームメート矢口に石黒が迫る!」

「さ、矢口、これをご覧」
「そ、それはラストキッスのジャケット!」
「ふふふ、リンゴほっぺでかわいいわねえ」
「い、いや! 見せないで!」
「この頃のあんたはかわいかったわよねえ。
ぱぱぱだぴょん? 以前のあんたがセンチメンタル南向きなら、今のあんたはおポンチメンタル左巻きよ!」
「いやあああああ! やめてええええ!!」

「右サイドから市井がドリブル、またも代表の保田が襲いかかる!」

「サヤカ!」
「・・・うそつき」
「?」
「なんでジュビロに移籍したのよ。千葉県好きって言ってたじゃない」
「ジェ、ジェフは選手を売ってチームを運営するアヤックス方式なの! 日立ベルフィーユを切ってあんな使い勝手の悪いスタジアムを建てるチームの人間に私の気持ちは分らないわよ!」
「・・・」
「それよりさ、あたしたちの名前って誤植されやすいじゃない。安田とか沙耶香って。でも、くじけることないのよ。
もっと可哀相な人たちだっているんだから」
「? 誰?」
「中村俊輔と俊介に決まってるじゃないの! どこのサイトでも必ず一度は誰か間違えてるわ。そしたらこの間、東京駅地下の東京温泉で見ちゃったわよ! 加藤久がシュンスケにチームプレーを説いてたら俳優の俊介のほうだったのよ! そりゃあ一度は誰でも考えそうなネタだけど、本当にやる人間がいるなんて思わなかったわ。驚いて、何のCMかまったく思い出せないのよ。誰か教えてほしいわ」
「・・・明るくなったね、圭ちゃん」

「さあ、ボールを持った石川に苫小牧スライディング部隊が襲い掛かる!」

「りんねちゃん、あさみちゃん、やめて!」
「はあ・・はあ・・あんたを殺れば・・・」
「カントリー娘。に石川梨華(モーニング娘。)のメインはわたしたちのどっちかに・・・」
{(ち、違う、なにかが違うわ・・・)}

「中沢のゴールキック。これが伸びて・・・お、ゴールに誰もいない? ゴール!」

「ののはキャプテソなのれす・・・むぼうなとびだしはおてのものなのれす・・・」
「辻、おちこむな」
「うるせー! と、いっておくのれす」

「飯田のドリブル、ん、後藤、あっさり抜かれてしまった!」

「んあ・・・時差ぼけ?」

「コーナーキックにアヤカが飛びつく。安倍が競る。折り重なって落ちた!」

「ふぎゃん!」
「あ、だいじょうぶだっぺか?」
「おもしろそー。どっしーん!」
「・・・ハワイさ帰えりてえ・・・」

「さあ、石川にからんでいくのは後半から出場の斎藤です」

「ふふふ、石川さん」
「(なんだよ、このデブ)」
「あなたに矢口さんの妹の座は許さないわよ」
「は?」
「あたし、新潟でギャルだったんだから?」
「はあ?」
「しかもあなたヲタだってことになってる掟ポルシェは本当はあたしヲタなのよ」
「誰?」
「マロンメロンのメロンは私のことだってモーヲタトークライブの二次会で言ってたもん」
「(どうして私だけ、こんなに敵が多いのよ?)」

「PKです! キッカーは後藤、キーパーは後半から出場の小湊!」

「フフフ、打てるものなら打ってごらんなさい。見えない? あなたの腕や足に絡みつく生霊の数々」
「母ちゃんをいじめるな!」
「(・・・左門?)」

「後半もロスタイム、一点を追うH−EAST、信田のスローインです」

「見なさい矢口、あんたのハンドスプリングスローなんて目じゃないのよ。ソウルで見せたこのひねりを御覧なさい!」

「回る回る回る・・・投げたー! ボールは上空高く、たかーく・・・」

「でもあれじゃ届かないですよねえ」
「なに他人事みたいに言ってるのよ、福田」
「斎藤さん? それに敵チームの加護も。何する気なんですか?」
「決まってるじゃない。加護の加、斎藤の藤で加藤よ」
「ああ、それ、ちょっと困るんですよね。一応私にも都合ってもんがあるんで」

「おお、斎藤と加護、有無を言わさず福田の両足をつかむ。そして、ジャイアントスイング! 投げた!」

「加護! なに敵チームの手助けしとんねん!」
「せやかて中沢さん、斎藤さんが言う事きかんとユウザロックにあんたの家バラすって」
「ええからこい! 辻も!」
「の、ののはおやくごめんなのれす」
「やかましい! ダニョー、いけ!」
「モミジマンジュー!!」
「きゃー!」×2

「ダニエル、辻と加護を両足に乗せて、飛ばした!」
どーん!! ぱらぱらぱら・・・

「では、喚声鳴り止まぬスタジアムからお別れいたします。さようなら」

「あいぼん、のの、ほしのひとみのしるえっとの9かんにのっていたばんがいへんをおもいだしてしまったのれす」
「そんな五人に一人もわからんオチでしめるなや・・・」

サウジアラビアに惜敗した日本だが、負けてもチームにさほど暗さはなかった。それどころか、自分たちはあそこまでやれるのだという自信に結びつく敗北ですらあった。
順位は、勝ち点で並んだサウジが1ゴール差で首位。日本は残り試合が勝ち星の計算ができる相手なのに対し、サウジは韓国戦を残している。
クワターは、残り二試合には出ないと明言した。その際のコメントがまた振るっている。
「おま○こってのは一回を長く楽しむもんなんだよ。覚えたての中坊じゃあるまいし、二度も三度も繰り返してなんてできるか!」
日本にとってははた迷惑な話であったが、逆に彼の触手を動かすに足りたチームは、アジアでは日本だけだったということだ。

この試合の翌日、スポーツ新聞を最もにぎわせたのは、もちろん矢口。
すべてセットプレーからの直接ゴールによるハットトリック、名手を翻弄した魔球。センセーショナルな見出しがそこここで踊った。
が、玄人筋でその矢口の評価をしのいだのは13番のミッドフィールダーである。矢口やクワターをしのぐ高得点をつけた雑誌もあった。
「もし勝ってても、今日のMVPはあたしじゃないですよ」
矢口の発言は謙遜でもなんでもない。
彼女だけではない、チームメートが揃ってその名をあげた。
矢口の三得点にしても、すべてその基点となったのは13番のワンプレーである。
あの試合も彼女ががいなかったら、0対6で負けていたかもしれない。
それだけ、市井紗耶香の存在感は絶大であった。

日系ジャーナリストで、この予選を通じて市井を追っていたアルベルト・ホーサイ・ツルオカは、本国アルゼンチンに向け以下のような記事を発信している。

「いまやサヤカ・イチイはアルゼンチンにとってのマラドーナ、コロンビアのとってのバルデラマ、パラグアイにとってのチラベルトとなった。
ヨーロッパのサッカーがエースの不在を組織でカバーし、南米のそれがエースとその運命を一蓮托生するものとするアナクロに倣えば、日本のそれは明らかに南米のサッカーである。
 ただサヤカがマラドーナと決定的に違うのは、マラドーナのように自らがエースであることをアピールしようとはしない。
金髪のスペインリーガー、マキ・ゴトウヤ白雪姫ノ媚とのごときハーフバックのマリ・ヤグチにその主役の座を平気で譲ってしまう。
 それは彼女の体を通う大和撫子の慎ましい血のなせる業。が、その風格はまぎれもなく王者の持つそれである。
いまだアジアを飛び出した事のない日本は、サヤカ・イチイという船に乗り、太平洋を漕ぎ出す事になるのは間違いない。
 哀れなのは、そのサヤカ・イチイを手放してしまったアルゼンチンサッカー協会である。長らく苦戦を強いられてきた南米予選においてついにコロンビアに0対5という屈辱的大敗を喫し、オセアニア1位のオーストラリアとのプレーオフに回らねばならない羽目になった。
 もしビアンコ・ブル(白と水色、アルゼンチン代表のユニフォーム)が豪州で敗北の泥にまみれるとしたら、それはその類まれな才能を見ぬけなかったアルゼンチンサッカー全体の責任である」

が、皮肉にもこの記事が市井を日本代表から去らせ、その結果日本がアジア予選で敗退する遠因となるのである。

福田明日香が東京ヴェルディの練習を終えて自宅である小さな喫茶店に入ると、彼女を待っている客がいた。
「よ、下剤」
「やめてくださいよ、それ」
口の悪い記者が、後藤真希を「効き過ぎた下剤」と評していた。
彼女の投入で慢性的な便秘(得点力不足)から解消された日本代表だが、今度はひどい下痢(大量失点)に悩まされている。
確かに日本のサッカーは大きくその性格を変えていた。最終予選、後藤加入以前が六試合で得点4失点2。加入以後が二試合で得点9失点7。ハイリスクハイリターンというべきか。もっとも、後藤をチームに入れる事自体がギャンブルだったのだが。
福田は、まさか自分以上にマイペースで強力な個性を持った後藤が、ここまでチームになじめるとは思っていなかったのだ。
韓国での敗退の後、寺田は密かに福田の代表復帰を打診してきた。自分が代表に戻る気はないが、他の選手になら心当たりがある、そう言って紹介したのが読売クラブユースで一年後輩だった後藤である。
「でも、まさかあんたがここまで代表にのめりこむなんて、正直思ってなかったよ」
後藤は来シーズンに向けてキャンプインしたエスパニョールには合流せず、昨日、解雇を言い渡されたばかりであった。
今日わざわざ福田を訪れたのもそのことに関係してである。
「ヨミウリの練習場貸してもらえませんかあ?」
「ま、あんたならチームも喜んで迎え入れると思うけど。でも理由を聞かせて。なんで日本に残る決意をしたのか」

「うまく説明できるかわかんないけど・・・」
後藤はエスプレッソに口をつける。
「サウジの試合で、矢口さんのコーナーキックが決まった時、あたしも全部忘れて喜んでたんです。でも、ふと、感じたんですよね。サウジの9番の後ろに、黒いなんかがいるのを」
「黒いなんか?」
「いや、黒いってのは思い違いかも。見えなかった気もする。だって、私はそいつを見たんじゃなくって、感じたんだから」
んなこと言ったって、信じてもらえやしねェよな・・・そうは思うが、後藤は今更適当な嘘を思いつこうともしなかった。
「それは、サウジの9番の後ろにいました。9番の、何倍もでかくって・・・その気配に気づいて、あたしは一人だけ守備に回れた。間に合わなかったけど・・・決められた時、なんて奴だと思ってもう一度9番を見た。そしたら、そこにはもういなかった・・・最初あれは9番の勝負に賭けるオーラみたいなもんかと思ってたけど、違った。まるで、あのわけのわからないあれが、9番にシュートを打たせた、みたいな」
後藤は、そこまで語って、笑い出した。
「ごめんなさい。呆れてるでしょ? 忘れてくださいよ。誰かにしゃべっちゃやですからね」
無理しておどける後藤に、福田。
「わかるよ。それを、私も感じたことがある」

福田明日香が「それ」を感じたのは、他ならぬ自分自身の中にだった。
一次予選、対UAE戦。
後半24分。右サイドで安倍からのパスを受けた福田は、自分ですら信じられないプレーを披露した。
まずチェックにきたのは天才肌のボランチ、アル・レイナ。決して先には仕掛けてこない相手に、ここは勝負を避けようとした。
が、足はまったく逆の発想で行動した。真正面から抜きにいったのだ。なにも考えていないような福田のドリブルにレイナが振り切られる。
ついで屈強なストッパー、アル・ナナと俊敏なサイドバック、アル・リナがいっぺんにきた。
左右からはさみに来る二人を、たった一度のフェイントで置き去りにした。
たまりかね、堅守を誇るGKアル・ミナが福田の足元に飛びこんできた。
飛び越えた。
最後は一度足の裏で踏みつけたボールを、ヒールで流しこむという相手をコケにしまくったシュートで締めくくった。
四人抜きという離れ業を演じ、もみくちゃにされながら、福田は混乱していた。
自分のシュートに、ヒールキックなんて選択肢はどこにもなかった。DF二人をかわしたクライフターンにせよ、たった一度も練習したことのないもの。
とにかくシンプルにまとめることを心がけていた自分自身の今のドリブルが、とても信じられなかった。
福田が精神的なバランスを崩したのはこのことがきっかけだった。ささいなことで当り散らしたかと思えば、一人の世界に閉じこもりたがる。
いらだちがピークに達し、福田は日の丸に分かれを告げた。去るべき時期だったのだ。
さかんに書き叩かれた他のメンバーの確執ではあったが、実際のところは福田自身がその「内なる魔」との戦いに敗れたのである。
ただ、それを後藤には打ち明けなかった。後藤が見たというそれと福田が感じたそれ、両者が同じ者であるとは限らない。
「ねえ、福田さん」
後藤が福田を現実に呼び戻す。
「福田さんは代表に戻らないんですか?」
「それは、ヤグヘッドだね」
ヤグヘッド、という造語に後藤が強い関心を示した。
「それ、裕ちゃんとか、なっちとか時々使ってんだけど、どういう意味なんですか?」

「後藤、がんばれタブチくんってマンガ読んだことある?」
後藤が横に首を振る。
「いしいひさいちのマンガなんだけど、主人公のタブチくんのモデル、田渕幸一(元ダイエーホークス監督)は名スラッガーだったけど、足は遅かった。だからタブチのランニングホームラン、略してタブランってのは実現不可能って意味。ヤグヘッドもそれと同じ」
「矢口のヘディングシュート」
後藤は笑った。同時に、そんなことを平気で言わせておいて平気な矢口の器の大きさに密かに感心した。
「矢口たちが代表入りたての頃、うちらと仲悪くてさ、コーナーキックの練習でも高いボールばっか上げてね。でも、あいつは絶対にひるまなかった。どんなボールにでも飛びついた。あれが、チームを少し変えたね」
福田が恐れをなしたそれを、後藤がやっとその正体を垣間見た「魔」を、矢口だけは最初から知っていた。小さい頃から、数え切れないほどの代表ゲームを見つづけてきた矢口だけは。
それが自分よりもヘタクソな矢口が代表に残ってられる理由だと福田は思っている。
そして、最終盤に押し迫った戦いのカギを握るのも、やはり145センチのナンバー8であると。
「福田さん、あたし、最後まで見届けます。あれが、なんだったのか。・・・コーヒー代、ここに置きますね」
「いいよ。無職から金取るほどひどい店じゃないよ、うちは」

Jリーグセカンドステージは終盤を迎えていた。
J1残留に向けもうひとつも落とせない京都パープルサンガはホーム西京極に、数字の上では優勝の可能性を残した横浜Fマリノスを迎えた。
2−2で迎えた延長後半13分。Fマリノスがゴールほぼ正面でフリーキックのチャンスを迎えた。
「壁、少しあけて! キッカーが見えない!」
サンガGK中澤が指示を出す。
Fマリノスにはフリーキックアーティスト石川梨華、そして魔球を蹴る矢口真里がいた。二人は顔を見合わせ何事か言葉を交わす。中澤が目をこらして唇の動きを読む。
「ハラへった。終わったら焼肉行こうな・・・えー、イシカワ的にはパスタがいいですう・・・そんなもんばっか食ってっからバテるんだよ・・・矢口さんこそニンニクくさいっすよ・・・アホかあいつら」
笛が鳴る。石川がまず動き、(中澤から見て)ボールと壁の左を通過する。そこへ矢口のスルーパスが。飛び出した中澤、充分ひきつけてからのセンタリング。矢口がスライディングで押し込んだ。
無情の笛が鳴る。京都サンガ、事実上終戦の笛であった。
何人もの選手がその場にへたりこむ。泣き出す若手に駆け寄った中澤が
「しゃあない、仕切りなおしや。若い時分にはこんな経験も必要や」
他の十人を引き連れ、サポーターの待つゴール裏へ。一列に並び、顔を上げた。
「ありがとうございましたあ!」

一方、勝ったFマリノスにも失望が待っていた。
「どうですか、カントク」
矢口の言葉に監督がバツ印を出した。
あちゃー・・・
それは、優勝の可能性が完全に消滅した事を意味していた。
セカンドステージは市井が好調のレイソルと、福田と復帰した後藤が活躍するヴェルディに絞られた。
「あーあ、あんな監督じゃだめだ」
石川が濡れタオルで顔を拭く。移籍早々監督と対立、早くも退団の噂があり、田中監督がその才能を高く買うコンサドーレへの移籍が噂されていた。
悪いやつじゃないんだけど、こらえ性がないんだよな・・・矢口はそんな石川が気がかりだ。
控え室に戻った二人の鼻を、異臭が襲った。
「おっ、ひさしぶりれはねえか」

「和田さん!」
元フリューゲルス・ゼネラルマネージャーの和田薫である。現在は全日空を退社、その国際的な人脈と人望をフルに活かして、日本サッカー協会の職員としてワールドカップ招致のため忙しく立ち働いている。二人にとってはかけがえの無い恩人である。
「酒くさいっすよ」
「これが飲まずにいられますってんだ」
「なんかあったんすか? くやし酒ならつきあいますけど。うちらもちょっと飲みたいんで」
「ぶぁーか! ぬぁにがくやし酒だ! そんなんらねえんらよ」
あかん・・・ここまで醜態をさらす彼を矢口は見たことがない。
「和田さん、どうしたんです?」
「おれさまが手塩にかけた才能が代表にまた入ったんだ。うれしいじゃねえか」
「え? それって」
指先まで真っ赤な和田が石川を指差して
「石川梨華ちゃん、代表入りおめれとー!」
「マジですか?!」
「おれがウソつくかっての。明日、監督から正式に発表があります。今日はその前祝!」
「おめでとう、石川!」
喜色いっぱいの矢口の笑顔が、にじんで見えた。
「なに泣いてんだよ。そんなにうれしかったか?」
「そ、そんなんじゃないっすよ」
これで、矢口さんと一緒に戦える。
やっと、矢口さんのために働ける。
そう思うと、石川の涙は止まらなかった。

その翌日、中澤はサンガフロントに呼び出された。契約更改である。
サンガから示された金額は、0円。
つまりは、お払い箱である。
来季はJ2を戦うことがほぼ決まっているサンガ。大幅な年収減が予想され、真っ先に切られるのは年俸の高いベテランだった。
まして、中澤は現役の代表メンバーである。
「天皇杯は別のキーパーを使う。きみは心置きなく、新天地を探してくれ」
フロントの言葉が空々しく響いた。ベテランキーパーを拾ってくれるチームを探すのとても難しい相談だ。フロントとしてもそれは重々わかっていて
「我がチームの数少ない生え抜きとして、フロントか、コーチとして改めて迎え入れようという話もある。優遇するよ」
だが、中澤の頭にあったのはそんなことではない。
天井を仰ぎ、小さくため息をついた。
今までの選手生活が、頭の中を駆け巡る。
「ひとつだけ、お願いがあります。私を移籍リストへ載せるのは、ワールドカップ予選が終わってからにしていただけませんか」
驚いたのはフロントだ。せっかく新しいチームを早く見つけられるように早めの解雇通告をしたというのに。
「今移籍リストに載ると、代表選考に影響が出ると思うので」
「それなら問題ないと思うよ。さっき、発表があった。中澤裕子はクウェートとの試合にちゃんと選出されているよ」

その夜、中澤は福知山の実家に帰省している。
大阪・長居スタジアムで開催されるホームでのラストゲーム、クウェート戦が亡父の命日であるので、先に線香を上げておこうというのだ。
「裕子、この子は球蹴りばっかして、こんなに近くに住んでるのにちっとも帰らんで・・・」
年を取って、母は少し愚痴っぽくなった。例のごとく、無駄だとは知りながら、お見合いの写真を山積みにする。
「もうちょっと待っててよ」
「もうちょっともうちょっとって、あんたのもうちょっとはいつのこと・・・」
「年が明けたらだよ。引退する」
かすれた声で、そうはっきりと言った。
JRの鈍行の中で決めたことだ。
このワールドカップ予選を無事闘い終えたら、サッカー人生に別れを告げる。
もし日本が予選を突破しても、自分の名前は本戦のメンバー表にはない。
「本当かい、裕子。それなら今ここで誓約書を書いてちょうだい」
母親の狼狽ぶりが、おかしくも、かなしくもあった。

翌朝、中澤は一人で父の墓参に行った。
父が亡くなった時、中澤は六歳だった。
お父さん、いつ帰ってくる?
裕子がええ子にしとったら、すぐにでも帰ってくるで。
うん。裕子、ええ子にしとる。
まだ死というものを理解できない娘に説明する、母の精一杯だったのだろう。
小さな御影石の墓をきれいに洗い、花を添え、線香を焚き、静かに手を合わせた。
お父さん、孫の顔も見せずに、せっかく丈夫に育ててもらった体をいじめ抜く不孝をお許し下さい。
もう、少しです。
大切な仲間たちを、最高の舞台に連れていったら、私は普通の女の子に戻ります。

「石川梨華です。横浜Fマリノスのミッドフィールダーで、得意なプレーはフリーキック、弱点は押しこまれると自分を見失う時があることです。以上!」
代表合宿初日。最後のニューカマーたちが、一人ずつ自己紹介をする。
「矢口の舎弟やな」
手を叩きながら、中澤が矢口に耳打ちする。引退の事はもちろん誰にも打ち明けてはいない。
石川の代表入りは、矢口にとってはうれしい限りだった。彼女が二列目に入れば、自分は本来のボランチでプレーができる。
プレーの幅も二倍どころか二乗になる。期待は膨らんだ。
「吉澤ひとみ、浦和レッズ所属。ユースでは一応キャプテンやってます。ポジションはハーフかバックです」
でかくて速い。しかもボールが持てる。レッドデビルスが誇る「赤の貴公子」である。
「目標は市井紗耶香さんと、同い年の後藤真希さんです」
市井は保田と顔を見合わせて少し照れて見せた。後藤はあまり関心がなさそうだった。
最後に、小柄な二人が出てきた。はずがしがる一方をもう一方が引っ張っているかんじだ。
「すみません。この子人見知りするんで。私は加護亜依」
「・・・辻、希美・・・です・・・」
「辻も加護もジュニアユースの中心選手や。辻はスピード、加護はパスセンスを買って代表に入れた。
即戦力いうには苦しいかもしれへんが、いずれ代表の顔になる才能や」
寺田監督が閉める。
新加入選手の顔ぶれについては疑問の声も多かった。辻と加護が若すぎるというだけではない。
目下チームの悩みは失点の多さ。なのにストッパーもこなせる吉澤を除けば全員攻撃的な選手である。
が、監督はちゃんとその答えを用意していた。
後藤真希のリベロ転向である。
バランスの良い能力とその攻撃センスは、リベロとしては理想的であった。

「のの、水ちょうだい」
加護が辻の持っていたペットボトルに手を伸ばす。
辻はからのペットボトルを振り、とがらせた口元を指差した。加護がその口元に唇を寄せてゆく。
うちゅうー・・・加護は口移しの水でのどを潤した。
かと思えば、吉澤は市井のプレーをうっとりそした目つきで見つめている。
「保田さん、市井さんにサインもらってきてくださいよ」
「自分でいきな」
保田に押されて、市井の前に引っ張り出される吉澤。
「あ、あのっ・・・さ、サインいただけますでしょうか?」
きょとんとした顔の市井だったが、やがてにこりと笑って
「悪いけど、ライバルに上げられるサインはないなあ」
(転がすねえ、サヤカ)
それを遠巻きに見ている矢口もまた、ずっと石川とベッタリだ。
「なんだか、女子校みたいやなあ」
中澤は苦笑する。いよいよ、自分の居場所がなくなってくるように思う。
自分が代表に初めて入った時、周りはすべて敵という気持ちでいたのとはえらい違いである。
これも、時代なんだろうか。

時代の流れを強く感じているのは安倍も同じだ。
かつてこのチームは安倍のチームだった。
だが福田というベストパートナーを失い、矢口とはいまいちコンビが合わず、気がつけば後藤がチームのイニシアティブを握っていた。
なっちはもう終わったよ、それが世間での風評だった。
ゴールの奪えないエースに用はないはず。なのに、監督はまだ自分を使ってくれている。それはまだ自分になにかを期待してくれているという証でもある。安倍は、そう信じている。
だが、安倍は自分がもう一度輝くための手がかりを、今日見つけたような気がした。
「アベさぁん」
右からのセンタリングを、ハーフボレーで叩きつける。
新加入した辻からのラストパスだった。
まだまだ荒削りだが、スピードだけなら今の代表でもトップクラスに入るのではないか。
あの子が右のアウトサイドにいれば、自分のゴールパターンも増えるのではないか。
育てたい。私の、新しいパートナーに。

「矢口さん、あのボールは」
「いいかげん教えてくださいよ」
矢口はJリーグであのボールを一度も蹴ってない。吉澤たちには口を滑らせてしまった石川もあれ以降は沈黙を守っている。
そのせいで「あれは単なるミスキックだった」という新説まで飛び出すようになった。
簡単にタネあかしをしてしまう必要はまったくない。相手がセクシーボールしか頭になければ、どんなボールを蹴ってもセクシーボールになるのだから。
「じゃ、せめてあるかないか、それだけでも」
「だから、あるといえばあるし、ないといえばないんですってば」
記者の質問を矢口ははぐらかした。
「ありますよ」
そう答えたのは、新メンバーの一人だった。
「だって、加護もあのボール蹴れるんです」

加護は人壁と控えのキーパーをゴール前に立たせた。矢口と石川、そしてカメラを構えたマスコミがそれを取り囲む。
「気にすることないですよ。ガキが、ふざけて言っただけですってば」
自らの不安を打ち消すように石川が矢口に語りかける。うちらがさんざ時間を費やしたセクシーボールが、そんな簡単に真似できるもんか。
ボールのへそを自分の方へ向け、後ずさりする加護。その顔にはいたずらっぽさと、悪意に満ちたものがごちゃ混ぜになっている。
ゆっくりとした助走から、蹴った。トーキック。ボールは小さく浮いて、落ち、キーパーの胸元へ。
キャッチするその腕をすり抜け、落ちた。あわててキーパーが拾う。
「揺れたぞ」
「でも変化が小さすぎやしないか」
石川は言葉を失った。間違いなく、矢口のボールと同じものだった。変化が小さいのは身体ができきっていないためだろう。
一方、矢口はケロリとしたものだ。どんなに苦心して編み出した技術も、真似するのはそんなに難しくはない。クライフターンもオフサイドトラップもドライブシュートも、そうやって一般化していった。
矢口が面白くないのは、なぜそれを、チームメートの新入りにやられてしまうかという点にある。なぜ仲間の足を引っ張るようなことをやってのけたのか。単なる子どもの無邪気さにしては度が過ぎていた。
加護はすれ違いざま、矢口にだけ聞こえるようにこう言った。
「つま先、大事にしいや」

が、これはただの予震であった。
二日後に日本代表を直撃する、史上最低最大最悪の激震の。

翌日の練習、一人足りなかった。
「カオリ、サヤカは?」
「なんか用事があるって。迎えに来た車に乗って朝早く出てったぞ」
「・・・」
「おい、どこ行くんだ?」
矢口は寝室に戻り、携帯電話を取り出した。メモリーの名前は安倍、飯田、石黒ときて市井だ。
サヤカ、早く出て。お願いだよ。
電波の届かないところに・・・というアナウンスが、むなしく聞こえた。
矢口が胸騒ぎを感じたのはスタッフや視察に来る協会の人間のこわばった顔つきだった。
市井の身になにかあったに違いない。
メモリーの、一番最後の名前にコールする。
出ろよ。出ないとぶっ殺すかんな。
つながった。もしもし、というトーンの低さに、悪い予感が当たった事を直感した。
「和田さん、サヤカは? なにがあったの?」

この日未明、アルゼンチンサッカー協会から日本サッカー協会へ送られた三枚のFAXが、この騒乱のきっかけだった。
一枚目は、英語で書かれたサッカーの試合のメンバー表であった。
その一方、アルゼンチンユースチームのメンバーに刻みこまれた「ICHII」の名前。
二枚目は、選手監督全員で撮影した集合写真。
上段右端のおかっぱ頭の選手にマジックでマルがされている。
そして、3枚目が、正式な書面。
「本来アルゼンチン人であるサヤカ・イチイの返還を求めるものである」

国と国との試合に出た選手は、たとえ国籍を変えても別のナショナルチームに入る事はできない。
もし二重国籍を持つ市井がアルゼンチン代表として一試合でもプレーしているとしたら、これは規約違反ということになる。
チームの失格、国際試合出場停止、永久追放・・・最悪の事態は何パターンも考えられた。
会長、理事といった重鎮の中に、寺田監督と市井は座らされた。
寺田は冷や水を浴びせられた思いがしていた。
視察のために訪れたアルゼンチン、それも二部のチームの控えに、おもしろい選手を見つけた。
ろくな指導者に会わなかったせいかぱっとしないプレイヤーではあった。が、ボールキープはうまかった。センスもあった。
たどたどしいスペイン語でブエナス・タルデスと話しかけると、なんとこんにちはと返してきた。
なんでも、両親は日本人だという。
ちょうど新しく立ち上げたばかりの代表が最終予選を戦おうとしていた時だ。
よし、こいつを中心にしたチームを作ろう。
そうして日本に引っ張ってきたのが、市井紗耶香だったのだ。

なかなか日本チームになじめなかった市井。誰よりも才能はあるのに、生来の引っ込み思案が成長を止めてしまう。
そのショック療法として引っ張り込んできたのが、後藤真希だった。
俗には後藤という異物を取り込んだ事で市井のような地味な選手まで狂い咲きしたと言われているが、実際はまるで逆で、市井の才能を花開かせるために後藤を呼んだのだ。
「あらためて聞こう。ここに載っているのは、君なのかね?」
頼む、市井、嘘やと言うてくれ。
市井はまっすぐと質問者を見据え、堂々と、こう言い放った。
「私です。間違いありません」
おしまいや・・・寺田が、天井を仰いだ。

「保田、後藤、元気ですかー?」
矢口十八番のアントニオ猪木も豪快にスベった。
「どうして、どうしてそんな大事なことを今まで・・・」
後藤が真っ赤に泣き腫らした目を、矢口が小道具の赤いタオルで優しく拭く。
「サヤカだって、きっとつらかったんだよ」
ベッドに座った保田の顔は真っ白だ。
「もし、このことでチームが失格にでもなったら、あたし、あの子のこと許さない」

「そうか・・・なっちもカオリも似たようなもんや。新しい子らは単に失格になるんやないかって心配してんねんけど」
中澤が缶コーヒーをくっとあおった。矢口のけなげさがいとおしかった。辛いのは同じなのに、後藤や保田を気遣うその心が。
大陸を股にかけた大問題ということで、採決はFIFA・国際サッカー連盟が出すことになった。どういう処分であれ、早く決まってくれと思う。
こんなバラバラの心理状態でクウェートと戦えるとは思えない。
「サヤカは・・・永久追放になっちゃうのかなあ」
以前、ワールドカップ予選でサポーターの投げた発煙筒が選手を直撃、試合が無効になるという事件があった。
ところがカメラマンの写真から、発煙筒はその選手には当たっていないことが判明する。負けている試合を無効にするための芝居だったのだ。
その選手は、サッカー界を永久追放された。
「そんなこと」
あるわけないやないか、中澤はそう続けられなかった。
「矢口さーん! 中澤さーん!」
全速力で駆けて来た石川だった。
「・・・だいじょうぶ、です。失格は、ないです。確かにチリとの国際試合だったけど、エキジビションだし、ひと試合に後半から出ただけだから・・・」
ほー・・・緊張の糸が切れた二人が、その場に座りこんだ。
「和田さんが、FIFAの理事一人一人を説き伏せたんです。たった三十五分のために、ひとりの有望な選手を潰すのかって。
英語と、ドイツ語と、スペイン語と、関西弁で・・・」
和田さん、ありがとう。愛してる。

収まらないのはアルゼンチンだ。南米サッカー連盟まで引っ張り出し、市井はアルゼンチン人であると訴訟を起こす準備をはじめた。
執拗な抗議に対し、FIFAはついに、出来の悪い大岡越前のようなお裁きを下した。
日本とアルゼンチン、どちらの国を選ぶか。すべてはサヤカ・イチイの判断に任せる。
この話を聞いた矢口は、あるひとつの出来事を思い出した。

ガケップチに立たされたウズベキスタン戦の前日。矢口は同期の市井と保田、そして加入間もない後藤を自室に誘ってちょっとした壮行会を開いた。
めったに飲まない酒や吸えもしないタバコ、肴は監督やメンバーの悪口。
やがてまったりとした空間で、雑談はサッカーと関係ない方向へ。何回目かのお題は「悲惨な出来事」
トップバッターの矢口は、高校一年の時初めてできた彼氏に「幼稚園児の格好をしてくれ」と言われ、その場でぶん殴って別れたこと。
だいぶ酔いの回っていた保田は「今は楽しいけど、引退したらどーやって暮らしていこう・・・」と落ち込んだ。
後藤は最初にこの金髪にした時、薬品が合わなかったのか頭のてっぺんにでっかいハゲをこさえたこと。
普段無口な市井は、あまりプライベートを語らない市井は、よっぽどこの夜が楽しかったのか、ゆっくりと身の上話を始めた。

あたしの親は、異国での成功を目指して、アルゼンチンに向かった。その時、母の中にあたしがいることなんて知らないでね。
だから、私は日本を、父や母の思い出話の中でしか知らなかった。親が家では日本語をしゃべってたから、日本語は話せたんだけど。
最初はうまくいっていた事業も、だんだんとうまくいかなくなっていくのがわかった。
人間って、調子がいい時はどんないい顔でもしてられるよね。だんだん、夫婦に亀裂が入っていくのが、子ども心にわかってね。
ある日、両親が私を呼んで、こう尋ねたの。
「紗耶香は、パパとママ、どっちが好き?」って。
顔は笑ってるけど、目は笑ってなかった。
その時、分かったんだ。この人たちは、もう、一緒に暮らしていけないんだって。
でも、どっちがすきが好きかなんて、言えなかった。
泣いて、泣いて。
パパもママも、どっちも好き。比べるなんてできない。
もう、ムダだって分かってるのに、そうとしか言えなかった。
あの日の夕陽の色、今でも忘れない。
・・・けど、あの時の辛さがあったから、今はどんなことがあっても耐えられる。
それに、私には、日本にたくさんの家族ができたから。今は毎日が楽しい。監督に感謝しなきゃね。

市井が、自分たちを家族だと呼んでくれたのが、なによりの救いだった。
酒宴は後藤がいびきを立て、空き缶や吸い殻を捨てに三人で廊下に出たところを中澤に見つかって、あんたら試合の前の日になにやってるの! と説教されたところで終わるのだが。

パパとママどっちが好きかと尋ねる親。
日本とアルゼンチン、どっちの国籍を選んでもいいとのたまうFIFA。
どっちも寛大だ。どっちも間抜けだ。どっちもろくでなしだ。
それでも矢口は、市井が自分たちを選ばないなんて、まったく考えてはいなかった。徹頭徹尾、楽観的でいた。

FIFAは、市井紗耶香が、自らの意思で、アルゼンチン代表を選んだことを正式に発表。
同時刻に、市井本人からも、各マスコミに同様のFAXが送られた。
市井が日の丸と背番号13をつけて戦った5試合とひとつのゴールは、彼女のサッカー人生から「なかったこと」になった。

練習は、どこか、しらけたものになっていた。
安倍、飯田はすでに気持ちを入れ替え、クウェートとの戦いに意識を切り替えていた。
新加入のメンバーたちは、むしろこれをチャンスと考えている。
「単純に考えれば、ポジションが、ひとつ空いた、ってことですからねえ」
石川もばつがわるそうにしながら、それでもポジション獲りへの意欲を示した。
一番引きずってしまっていたのは矢口と保田、それに後藤。
特に後藤は、明らかに覇気が無かった。
「あー、足痛い。ちょっと休んできます」
あからさまな嘘をついて、本当に練習の輪から外れてしまう。たまりかねて、矢口が注意する。
「試合は三日後なんだよ。もう、サヤカのことは置いといて」
市井の名をあっさり出してしまうあたり、やはり矢口も引きずっている。
「もう、いいですよ。私だってあんな人忘れました」
ウソだ。後藤にとって市井は、このチームでできた一番最初の友達だった。姉であり、母のようでもあった。
二人の間には、他の誰にも分からない絆があった。
それを、一方的に断ち切られた。その痛みが矢口には痛いほど分かる。だから、矢口はなにも言えない。
「そりゃそうっすよ。アルゼンチンはワールドカップニ回も優勝してる。日本は一度も出たことない。どっち選ぶかったら、ねえ」
もうやめて。言葉の端々に、後藤の苦悩がにじんでいる。
「後藤、いいかげんにしな」
保田も来たが、後藤の頑なな姿勢は崩れない。
「いいから、ほっといてください」

金髪が、突然降ってきた冷水に濡れた。
「ごめんごめん。小娘のションベン臭さがきついもんでさ」
中澤がポリバケツを脇に放る。真夏ではない。もう初冬といってもよい気候だ。まとわりつく前髪をかきあげながら、後藤がゆらりと立ち上がった。
「ババア、この野郎」
胸倉をつかまれても中澤はひるまない。
「第一問。南米サッカー協会の会長の名前を答えよ。世界を股にかけとるあんたなら答えれるやろ」
「知ってらぁ。ホセ・アントニオ・フスコ。アルゼンチン人。だから南米協会まで丸め込んであんなことしやがったんじゃねえかよ」
「第二問」
「裕ちゃん!」
「黙っとき矢口! 日本と韓国が招致しようとしてるワールドカップ、その開催地はどうやって決められるでしょうか?」
「だから、五大陸の理事が一票ずつ投票・・・」
後藤を後ろから取り押さえていた保田が、今度は力の抜けたその体を両腕で支えた。
「やっと分かったようやの。たった五票しかない投票権を、南米協会の会長も持っとる。その機嫌を損ねることは、日本のワールドカップの誘致に致命的なマイナスになる」
「そんな、だからサヤカは・・・」
「わかんねえよ、そんなら、ワールドカップなんかいらねえよ! 韓国にくれちまえばいいじゃん!」
「後藤、言いすぎ」
昨晩遅く、中澤は市井からの電話を受けていた。
あたし、裏切り者になっちゃった。
裏切り者なんて・・・みんな、分かってくれるて。
もう、このチームで戦う事はできないけど、新しい目標ができた。アルゼンチン代表として日本と戦うって目標が。もちろん、ワールドカップで。
・・・そん時、うちはもう代表にはおらへんから。スタンドで、両方の旗振って、応援させてもらうわ。

「それなら、アルゼンチンはそこまで見越して、サヤカを横取りしたってこと?」
「恐らくな」
「日本も、その駆け引きのために、サヤカを人身御供にしたってこと?」
「あくまで、サヤカの自由意志という形でな」
矢口は、クラブハウスの壁を拳で殴った。二度、三度・・・それでも飽き足りず、ついに額を打ちつける。
同じだ。フリューゲルスが消滅した時と。組織の事情の前に、個人はあまりにも無力すぎる。
サヤカ、一人で悩んで、辛かっただろう。苦しかっただろう。
「裕ちゃん、圭ちゃん、後藤・・・悔しいよ・・・この悔しさ、どこにぶつけたらいいんだよ!」
「アイデアは、ある」
中澤が腕組みした。
「サヤカをうちらの元に戻す事はもうできない。その代わり、うちらが今度の事に対して、ほんまに怒ってるんやっていう意志表示には充分なる。
罰則の対象にもならへん」
「ほんとに?」
「せやけど、リスクはめちゃでかいで。チーム一人残らずの協力もいる。それでもやれるか?」
「やるよ」
三人が口を揃えるのを見て、中澤はにやりと笑う。
「ババアの悪知恵、見せたろやないか」

「さあ、小雨のぱらつく大阪・長居スタジアム。ワールドカップ予選も大詰め。サウジアラビアと韓国が引き分けたため、日本は今日勝てばみたびグループAの首位、そして最低ノルマである二位以内を確定させることができます。今、青のユニフォーム、日本イレブンが・・・イレブン?」
アナウンサーは我が目を疑った。雨よけの帽子を深くかぶった中澤を先頭に、入場行進する日本代表スターティングメンバーは11人いる、ではなく、11人いない、のである。

一人少ない人数でこの試合を戦う、それが、中澤の提案した「悪知恵」であった。
ルール上は問題無い(試合に出ているのが六人以下になると失格)が、監督はチーム全員で決めたこの決定に
「いったい何を考えとるんや」
「責任はぜんぶ私が持ちます」
中澤は引かなかった。
市井を私たちのフィールドへ返せ。
かけがえの無い仲間を奪った者達への、精一杯の抗議の手段だった。
「負ける気なんかい?」
「勝ちます。もし負けたら、いえ、1点でも取られたら11人目を入れて、私も下げてもらって結構です」
うちはいつだって、目の前の試合を最後やと思うとる。
「分かった。けどもし負けたら・・・」
寺田監督は、一通の封書を取り出した。そこには大きく「辞表」と書かれている。
「俺も、これを出すわ」
もともとこのチームは、市井を中心とするチームにするはずだった。
監督は選手達に対して、それ以上の感情を抱いた事はない。
それをしてしまえば他のメンバーの自分への求心力が急激に落ちる事は分かりきっているからだ。
が、市井だけは例外だった。寺田は市井の才能に恋をしていた。
市井がチームを去った以上、自分がこのチームでなすべきことはない。この試合が終わったらスッパリ辞めるつもりでいた。
が、自分の頭でこんなことを思いついたバカどもに、もう一度だけ、賭けようという気持ちになっていた。
「分かった。今日の11人目のスタメンは市井紗耶香や。市井は最後まで下げへんで!」

矢口と石川は試合前日、クウェートのキャプテン、A・I・マエダを尋ねている。
A・Iは横浜フリューゲルスで矢口のパートナーをつとめていた。フリューゲルス消滅後、日本で移籍先を探していたがかなわず、現在はカナダ1部リーグで活躍している。現役の大学生であり、語学に明るい。もちろん日本にいる間も通訳はつけていなかった。
矢口は明日の試合、日本は十人で戦うかもしれないと告げた。かつての戦友のプライドを傷つけたくなかったのだ。
「サヤカ・イチイの件は、非常に残念に思っている。ぜひ彼女とも戦いたかった。クウェートサッカー協会としても、近く抗議文を発表する予定だよ」
矢口のひとつ下なのに、A・Iはひどく大人びている。彼女もまた「Fの悲劇」の生き証人である。それだけで、すべてを察していた。
「だからといって容赦はしない。私たちは強いよ。A代表よりもね」
数字の上でもワールドカップ出場がなくなったクウェートは、前の試合からメンバーを総入れ替えした。全員二十歳までの選手、つまり二年後のオリンピック予選を戦うためのチームである。クウェート本国ではドリームチームと呼ばれ、現に日本戦前の練習試合ではA代表を破っていた。
各ポジションに好素材を揃える中でも、タレントの宝庫と呼ばれるミッドフィールドは黄金の中盤とまで呼ばれていた。
トップ下にA・Iの妹でチーム得点王のA・K・マエダ。セレッソ大阪所属。
両サイドにコンビネーション、サイドアタックに長けたM・ミクラとK・ミクラの双子姉妹。
そしてボランチに一流の支配力とカリスマ性を兼ね備えたキャプテンA・Iマエダ。
その結束力からファミリーと呼ばれるチームにあって、中盤は本物の二組の姉妹が仕切っていた。
「手加減は、しないよ」
石川の表情はこわばる。以前結成間も無いオリンピックチームで、日本はクウェートに0−3と大敗しているのだ。

日本はDF三人、MF四人、FW二人という変則フォーメーション。

    7安倍    FW

   8矢口      16加護

     11飯田  14石川

6保田    5後藤     DF
 
       @中澤

新メンバーからは加護と石川がMFとして起用された。安倍が熱望した辻のスタメンは見送られた。
「やったんねん・・・初出場初ゴールや」
「なんでボランチなんですか。自信ないっすよ」
代表デビュー二人の反応は対照的だった。
代表初デビューといえば、矢口の代表デビューも同じクウェート戦だった。
交代出場を告げられた時、真っ先に不安が襲ってきた。残り時間は少ないけど、もしあたしがなんかヘマして負けたら・・・
ふと横を見ると、右に市井、左に保田が、今にも泣き出しそうになってそこにいた。
矢口は二人と手をつないだ。
だいじょうぶだよ。死にゃしない。
「矢口」
その保田が、国歌斉唱の後、隣にいた矢口の小さい肩をつかんだ。
「ウズベキスタン戦の前、なっちとカオリがどんな気持ちだったか、わかる気がする」
あたしもだよ。矢口が無言でうなずき返す。十人しかいない、イレブンとは呼べないイレブンに騒然とするスタンドを見上げる。
十人で勝つこと。それが、このチームに、市井紗耶香という選手が存在したことの証明になると信じて。

両キャプテンがセンターサークルで固い握手を交わす。
「お久しぶりです、ナカザーさん」
「元気やったか」
中澤とA・Iは過去Jリーグで何度となく対戦していた。いわゆる手のうちを知り尽くした仲だ。
コイントス。A・Iが中澤に選択権を譲る。
「裏」
中澤の勝ち。キックオフは日本。
勝った。中澤は小さくガッツポーズを作りながら、円陣の中に入る。
「大丈夫。今日は勝てるで」
「え?」
「ここんとこな、振り駒に勝ったら負けてへんねん」
「?」
なんのことか分からなかったが、とりあえずキャプテンが自信まんまんなので、それには乗っておくことにした。
「がんばっていきまー・・・」
「っしょい!」

ボールのへそを下に向ける。壁の位置、キーパーの位置、敵味方の位置、すべて頭に入れた。
「でえいっ」
矢口の魔球、セクシーボールが壁を越えて、揺れながら落ちる。逆を突かれたキーパーが飛びつくが、ボールが一瞬早い。
ネットが揺れたのを見て、ガッツポーズを作る。が、主審はフリーキックの蹴りなおしを命じた。
「なんでよ?!」
「矢口さん、オブストラクションは間接フリーキックですよ」
石川が頭をかく。間接フリーキックを直接蹴りこむなんて、聞いた事がない。
「ちっ、触れよヘタクソキーパー。触ってりゃゴールになったのによ」
「オウンゴールじゃないっすか」
この幻のゴールが、両チーム通じて最初のシュート。ここから先、中盤でのつぶし合いが展開される。
特にかつてのチームメート、矢口とA・Iマエダのマッチアップがすさまじい。
矢口がドリブルを仕掛けてもA・Iが密着マークで先に行かせない。
が、A・Iがロングパスを狙おうとすると矢口が激しくかみついて自分の背後にボールを通させない。
「飛ばしすぎじゃないんですか?」
デビュー戦とは思えない落ち着きをみせる加護が抑揚なく声をかける。
が、矢口は耳を貸さず、トラップミスをした石川の背後に回りこんでフォローする。
「石川、もっと積極的に!」
前半からこれじゃ、パンクせえへんか? 加護は目を丸くする。
加護の目には、まるで矢口が自滅するために走ってるように見えてしかたがない。

「後藤! おまえリベロやろ! もっと声出して仕切らんかい!」
中澤が慣れないポジションでやりずらそうな後藤をどやす。攻め好きな後藤にこのポジションは酷なのだが、チーム事情というものがある。
「おケイ、サイドのカバーもな!」
保田はマークするクウェートのストライカーにまるで強さも速さも感じてない。ファン・アミゴ、ヒロコフィエフ、マジェド・クワターと渡り合ったナンバー6はエースキラーとして急激な成長を遂げていた。
後藤という攻撃の大駒を真ん中に据えた事で、保田もまた活きてくる。
(後藤が中飛車で、おケイが金やな)
中澤は引退後の趣味にと最近覚えた将棋に二人を当てはめる。
十人で戦うこと、つまり市井というもう一方の大駒を外して戦うことにさほど怖さを覚えていない。角落ちならそのスキに相手を誘えばいいのだ。
案の定、面白いようにクウェートは中澤の読み通りの攻めを仕掛け、つぶれていく。
(それにしても、ごっつい中盤やなあ・・・)
黄金の中盤の二つ名は伊達じゃない。
なんといってもボランチ13番(A・Iマエダ)が効いている。前にも強いが横の揺さぶりにも振られない姉に守られた11番(A・K・マエダ)が左右のオープンスペースへ斜めに飛び出す。この二人がクウェートの飛車角。
番号まで紛らわしい右の9番(M・ミクラ)と左の6番(K・ミクラ)は、頻繁なポジションチェンジで飯田と石川を翻弄する。まさに瓜二つなデビル・ツインズだが、当然違いはある。9は右利き、6は左利き。典型的な香車(ヤリ)である9に対し、緩急つけて中にも割って入る6はトリッキーな桂馬。
「後藤! そいつまっすぐ来るで! 止め!」
スライディングタックルに、M・ミクラが飛んだ。

「なにへたってんだよ、石川」
「すんませんっ」
スタミナ切れではないが石川の動きはいつもより重い。ユース、オリンピック代表と国際経験は豊富だが、A代表はまるで違う。
しかもこれは身も心もナイフで削られていくワールドカップ予選なのだ。
矢口は石川たちを、少し哀れに思う。矢口たちの時はベンチで先輩達の試合を見る期間が与えられた。育てられている、という実感があった。
しかし今度入ってきたメンバーは、試合の中で、大人になっていくことを求められているのだ。
「ゴトさん、こっちください!」
もう代表を五十試合も戦っているような雰囲気で加護がボールを要求する。斜めにパス。その先には走りこんだ安倍がいる。
「ぐわっ」
蹴倒された。ひざを抱えて、悶絶する。
「なにすっだ、おめ!」
安倍を削ったクウェートディフェンダーに飯田が詰め寄る。もみ合った。あわてて両チームの選手が止めに入る。
飯田とディフェンダー、両者にイエローカード。
「ごめん、大丈夫、だから・・・」
安倍が片足を浮かせながら、とても大丈夫には見えない表情で立ちあがった。
「みんな、なっちのファイト、無駄にすんなよ!」
フォワードは歩だ。前にちょっとずつしか進めず、何度も何度もつぶされる。
が、歩は敵陣に飛び込めば金将になる。歩のない将棋は負け将棋ともいう。
矢口がボールを拾った。今度こそ、フリーキックだ。

飯田、石川、加護、矢口がボールの前に立つ。それぞれフリーキックには定評がある。
まずボールから離れたのは加護だった。
「カベに入ってきますぅ」
そう言うが早いか、七枚の人壁のど真ん中に、小さな体を割り込ませた。大胆というか、ずうずうしいと言うか。
瞬時に、作戦は決まった。
「石川、右ポスト!」
矢口はそう言って、反対のポストに走る。リバウンドを狙うために。遅れて石川も走る。
残った飯田が、砂煙を巻き上げるごときグラウンダーを壁のど真ん中に放つ。
加護が片足を上げ、巧みにコースを変える。キーパーの逆を突いたボールが右ポストを叩く。
(あいつ!)
大きく跳ね上がったボールが戸惑う石川の前へ。
「伏せろ!」
あわてて頭を抱えてその場にしゃがみこむ石川。その頭上へ、矢口がカンフーキックで飛んだ。
「アチャー!」
ボールはゴールのど真ん中へ。バランスを崩して落下する矢口、石川がそのクッションになった。
「さんきゅ」
「・・・どうもっす」

「よっしゃ!」
矢口のジャンピングハイボレーシュートが決まった瞬間、逆ゴール前で中澤がガッツポーズを小さく作った。
1点で十分。あとは、うちが全部止めたる。

前半が終了。辻が加護に水を手渡す。心配そうに顔を覗きこむ。
「どう? あいぼん」
「たいしたことないわ。まだまだ全然いけんで」
実のところ、そこまでの余裕はない。
トイメンにあたるのは双子の6番のほうだが、対等にやれてるとは思っていない。振りきられないように食らいつくのでいっぱいいっぱいだ。
9番に変わられると混乱の一歩手前になる。
のの、そろそろ代わってぇな。のどまで出かけた言葉をぐっと飲みこんだ。
今ここでこの子に代わったら、うちはまたベンチウォーマーに逆戻りや。
うちらは似すぎてる。共存はできひん。
せっかく、ののより先にスタメンつかんだんや。そんな間単に手放せるもんかい。
「後半も、全快でいってくんで」
あんたの出番なんか、ないようにな。

「どうよ、圭ちゃん、守りの方は」
「全然怖くないよ。裕ちゃんが当たってるし。それより後藤かな。何回か上がりすぎて裏取られかけてる」
市井の仇を取りたい気持ちはわかる。が、今日の後藤はリベロなのだ。
「前はどうよ、矢口」
「石川はまだ足がついてない感じ。それよりあの加護は、怖いね」
飯田のフリーキックのコースをとっさに変えたあのプレー。味方の矢口さえ読めなかった。
いずれ代表の中軸を担う選手。監督の評価は間違ってないのかもしれない。
いずれ、私も・・・
保田は今が自分のピークであると感じている。今この状態ならどんなやつが来てもポジションを取られる気はしない。
が、四年後には、きっと若いやつらが・・・
今回が、私にとっても、ラストチャンスなんだ。
「矢口、あたしも、気持ちは後藤と同じだよ」
市井をゴールで見送りたい気持ちは保田も変わらない。が、彼女の仕事は、ゴールを上げさせないことなのだ。
「勝つんだ、勝つんだ・・・」
熱にうなされたように、保田は繰り返した。

後半は、クウェートのキックオフ。
センターサークルにはミクラ姉妹が笛を待って立っている。
その背後を守るように、マエダ姉妹もぐっとポジションを上げてきた。
「あれが、クウェート本来のフォーメーションです」
石川が矢口に耳打ちする。四人が前線に出てくるこの布陣に、日本ディフェンスはズタズタに切り裂かれたのだ。
ミクラ姉妹が後ろにはたき、左右に散開する。
「圭ちゃん、9見て」
保田がM・ミクラ、指示を出した後藤がK・ミクラにつく。
「中だ!」
ベンチからの吉澤の声。A・I・マエダのロングパスは中央のA・K・マエダへ。オリンピック代表で吉澤が煮え湯を飲まされたのはまさにこの形だった。
「アホッ」
最後の砦、GK中澤が前に出る。
玉は下段に落とせ、という将棋の格言がある。低い位置に追い詰められた王は詰みに持ちこみやすい。
王様がケツ見せてどないすんねんな。
一瞬、フォワードが早い。だが寄せは十分。足元に飛びこんだ。
「裕ちゃん!!」
鈍い音に、矢口が顔を伏せた。

いったぁー・・・
中澤が目を開けると、見慣れた顔がいっぱいあった。
「ここはどこ? あなたは誰?」
「ここはハリウッド、私はメグ・ライアン」
中澤は何事もなかったように立ちあがり、激突で吹っ飛んだA・K・マエダを気遣った。
「ケガしてへんよな」
「うん。ありがとう」
まだあまりうまくなってない日本語で礼を述べるA・K。左ひじに大きなすり傷ができていた。止血のため、一度ピッチの外へ。
中澤が落ちた帽子を拾い上げる。水を吸った白い帽子はけっこうな重さになっていた。
ズキンッ。
中指に、鋭い痛みがあった。

双子の後ろに下がり目のセンターフォワードのようにA・Kマエダ、その背後にA・IマエダというY字型のフォーメーションを取ったクウェート。
攻撃の基点をより前に押し出した事で、クウェートは中盤での潰しあいを回避した。
矢口はあくまでA・Iとのケンカを望み、三人目のボランチのようにジリジリとポジションを下げていく。
「こらぁ矢口! 銀がそんなに下がるなあ!」
何の事かわからず、それでも言われるがまま前に出る矢口。
中澤が言っているのは銀将を上げていく棒銀という戦術の事。棒銀は銀将が五段目まで上がれば成功、というのが定説だ。
たとえその銀は奪われても、そこからさらに有利な展開に持ち込む事ができる。
なまじスタミナがあるだけに、ディフェンスもさぼらないだけにディフェンシブな選手と思われがちだが、矢口にはハーフウェーラインより前でボールを奪ってほしい。監督が矢口をボランチで使わなかったのは、英断だった。
飯田から右サイドに、オープンパス。矢口が追うが届かない。
「後藤!」
リベロの後藤がドリブルで駆け上がる。将棋とサッカーの違いは、すべての駒が自分の重い通りに動いてくれるとは限らないところにある。
タッチライン際を一気に駆け上がり、センタリング。安倍と矢口がヘッドで飛んだ。
GKがパンチ。DFがクリア。一気のカウンターに後藤が真っ青になる。あわてて戻る後藤!
「そこにおれ!」
どうせ戻っても、間に合わない。
A・K・マエダからM・ミクラへ。保田が裏を取られた。一度抜かれると保田は弱い。金将の弱点は、斜め後ろには動けないこと。
M・ミクラ、右足でシュート。中澤がダイビングするのを見計らい、その鼻先でK・ミクラがヘッドでコースを変える。
「くわっ」
めいっぱい伸ばした左足の、くるぶしではたき落とした。なおもA・I・マエダが狙う。石川が寄せた。下から突き上げ、ボールを奪う。
「中澤さん!」
バックパス。中澤が大きく右サイドへ蹴り出す。戻らずに残っていた後藤に渡った。
「いけっ! 向こうディフェンス、ガタガタやで!」

サヤカ先輩、先輩なら、どうしますか・・・
日本のカウンター。ボールを持つ後藤のドリブルにA・Iがピッタリと張りつく。
スピードは変わらない。切り返したらクウェートに守りを固める時間を与えてしまいそうだ。
段々と追い詰められる。はた目にはゴールに向かって後藤が突き進んでいるようにしか見えないのだが。
感じた。
やつは、左にいる。
すべてを飲みこむような、圧倒的な存在感をもって。
・・・こいつ(A・I)はそんなに速くない。速く感じるのは、ストライドが大きいせいだ。
左足アウトサイド。足首を返すようにして出したボールはクウェート人の足の間を抜け、石が水面を跳ねるように、濡れた芝の上を走っていった。

「ナァーイス、パス、ゴトさんっ」
ゴール正面、オフサイドラインに引っかからないように並走していた加護が一気に飛び出した。
レギュラー獲りをアピールするには、なにはなくともゴールを奪う事だと知っている。やや球足が速い。懸命に詰める。
「うわああああっ」
前方から迫るクウェートGKに、思わず足が止まる。
アホ、うちのアホ、なにしてんねんな。
そうは思っても、その迫力に動けなかった。
左へ抜けていったボールを、加護のさらに裏を走っていたナンバー8が、無人のゴールへ難なく押し込んだ。

はた目には、完璧なコンビネーションだった。
中澤のロングキックから後藤が走りながら股抜きのスルーパス。加護がGKを引きつけておいてのスルー。矢口はただボールに触れるだけ。
が、後藤は加護がすぐ左を走っていたことなど、ゴールが決まってもまったく気づいちゃいなかった。
あの「魔物」が迫っているのを肌で感じたのだ。
魔物がそのボールを食らいたがっていた。だから、捧げた。
魔物は、祝福を受ける矢口の背中に留まり、消えようとはしない。
福田明日香は言った。矢口だけがあの魔物の正体を知っていると。
だが後藤は思った。もしかしたら、矢口本人が、その魔物なのではないのかと。
あの魔球も、今のすべてを悟ったような動きも。
そして、今の自分自身が魔物への供物のように捧げたパスもだ。
もし市井が今の自分だったら、きっと、あんなパスを出していただろう。
もしかしたら、市井もまた、魔物にとりつかれていたのではないか。ただ後藤がそれを感じなかっただけで。
「後藤、早く戻れ!」
保田の声が聞こえた。後藤は走りながら、頭を振る。
そんな。いくらなんだって、非科学的すぎる。
もう一度矢口を見る。あの気配はもうなかった。が、後藤は一抹の不安を、吹っ切れずにいた。

加護もまた喜びの輪には入らず、うなだれていた。
ちっくしょう・・・なんでつっこめへんかったんや・・・うちのドアホ・・・
試合が止まった。ハーフラインで線審が旗を揚げている。
その横に、22番をつけた辻と、4番をつけた吉澤が。
交替か。しゃあないわ、やってもうたもんな・・・
とぼとぼと、腰に手を当てて二人の待つほうへと歩いていくと
「どこ行くのよ、あんた?」
「だって交替・・・」
予備審判が掲げるボードには「7」と「11」が。
「あたし?!」
安倍が思わず自分を指差す。辻が入ってくると分かった瞬間、思わず、やったと思ったのに。そんなぁ・・・
飯田とともに、捨てられた子犬のような目をしながらピッチを去る。不完全燃焼だった。
かたや、元気一杯に飛び出しっていった交替メンバー。吉澤が監督からの伝令を伝える。
「私が飯田さんの位置(ボランチ)に。梨華ちゃんが前、私が後ろに。加護ちゃんが6、辻ちゃんが9のマーク。保田さん、安倍さんの位置に」
保田にとっては久しぶりのフォワード起用だ。
「保田さんにはもうひとつ伝言です。死ぬ気で1点取って来い、矢口と後藤はもう仕事したで、と」

 

     6保田    FW

  8矢口          MF
        14石川

        4吉澤
  22 辻        16加護
        5後藤  

        @中澤

いつしか、誰もが日本が十人で戦っている事を忘れていた。
たった一人、日本代表の最後尾、中澤裕子を除いては。
ナニ考えとんねん、あのおっさん。
確かに保田ではスピードある6と9を抑えるのは厳しかろう。だからってFWの、まして代表デビューの選手ばかりで守りを固めるなんて。
焦ってるのかもしれないと思った。
「のの、スイッチくる!!」
「あい!」
明らかに戸惑いが見える中、必死で敵ツートップに食らいつく二人が、前線でボールを追い回すあどけない頃の安倍と福田にダブった。
「削れ、削れ!」
A・Kへのパスを長いリーチでカットする吉澤は飯田に、
「OK! OK!」
細い体を張って士気を鼓舞する14番は石黒に重なって見えた。
「ツージー! ディレイ! 左見ろ!」
そして、一番後ろで全体ににらみを効かせる後藤は、中澤本人。
そっか・・・
うちだけやない、最初に集められた五人はみんな、ワールドカップのための捨て駒だったんやな。
別にそれはショックではなかった。今自分にできることは、これからの人たちに、自分の行き様を見せること。
枯れて落ちる前に、少しでも、なにかを見せてゆくこと。
傷んだ拳を握った。シュートを受けるたび、その傷みは強くなっていく。
それが代表キャプテン、中澤裕子の誇りだった。
「さあ、どっからでも来んかいクウェート!」

右サイドからボールを持った双子の片割れがくる。右足で、センタリング。辻が飛び込む。
「ツージー、フェイク!」
切り返した。ウイングは左利きのK・ミクラのほうだった。切り返して、左足のセンタリング。
A・I・マエダが飛んだ。背後から吉澤も寄せる。満足な体勢では打たせない。ヘディングシュートは中澤の読んだ通りの場所へ。
「!」
中指に痛みが。ゴールラインでボールを落とし、上から押さえつける。
「・・・重てえんだよ!」
もつれて、のしかかってきたA・Iを吉澤が跳ね除ける。ややエキサイトした両者を石川が分けた。
「ひとみちゃん、こんなところでカードもらってどうするの!」
両チームの戦いはここだけではない。いずれオリンピック予選、四年後のワールドカップ予選で再びみたびあいまみえる相手だ。
ハッキリさせておく必要がある、どちらが上か。
「それっ」
後藤がA・Kの強行突破をスライディングで阻む。
「後藤! リベロがそんな簡単にケツつけんな!」
頼むわ、あんたら、このオバちゃんから、ちょっとでも多くのモノ吸収してってえな・・・

裕ちゃん・・・
前線でボールを待ちながら、保田は中澤はこの試合限りで去っていくのを予感していた。
ウズベク戦の石黒、サウジ戦の市井。みんな、最高のプレーを披露して、代表のユニフォームを脱いでいった。
左に開いたA・Kがセンタリング。遠目からA・Iが吉澤に競り勝って、ヘッドで落とす。
双子が同時にボールにいく。日本は加護と、ゴールを飛び出した中澤が。
「ぐうっ」
至近距離からのシュートは、中澤の手を弾き飛ばした。勢いなくボールが日本ゴールへ・・・
「あちゃー!」
矢口の真似なのか、奇声を発しながら、辻がボールを顔面でかき出した。大きく跳ねあがったボールをA・Iがキープ。
待ってたよ、これを。
横から、矢口が体を寄せる。不意打ちを食らったA・Iからボールを奪った。

ペナルティーエリア目前、矢口の独走は後ろからのラグビー・タックルに阻止された。
A・I・マエダに、一発レッドカード。自らの失態は自ら償う義務があった。
倒された矢口が、倒したA・Iの肩を優しくなでて慰めた。奇妙な光景だった。
これで10対10。が、勝負はほぼ決していた。
残り10分足らず。得点は2点差。クウェートは大黒柱を失った。
なのに矢口はその場にボールを、へそを真正面に向けてセットする。
「矢口さん、おれっちが蹴るって」
石川の言葉も耳に入らない。退場者を慰めたのとは別人がそこにいた。
姉からキャプテンマークを託されたA・Kがキーパーの代わりに指示を出す。
狂っとるわ。あのキックがどんだけ・・・加護は背番号8を信じられないものを見るような目でながめていた。
ギャロップ。渾身の力で、つま先をボールのへそに叩きつける。
壁の上を越えたボールが、ゴール右上隅に悪魔のような旋回で沈む。キーパーは動けない。
A・Kがコースに入った。双子も飛ぶ。三人誰かの体にぶつけるつもりで。
「わあああっ」
三人を、背番号6が一人でふっ飛ばした。逆サイドへ、叩きつけるヘディングが、天井ネットに突き刺さる。
勝った。中澤は、クウェートの投了の声を聞いた。
かたや、約束を果たした保田。
「よくあのボールを芯でとらえたね」
「だって、他のものが全部揺れてて・・・あのボールだけが止まって見えて・・・」
保田が崩れ落ちた。吉澤と石川が支える。
「保田さん、やす・・・タンカ!」

9番が右へ走る。その足元へ6番のパスが。6はそのまま開く、と見せて中央へ。9からのパスをリターン、さらに右に走ってリターンのリターンを受けて、シュート。
加護が、ももでブロック下した。
「へっへーん、もうだまされへんで」
「あんたたちのコンビはもう見きったもんね」
加護と辻はミクラ姉妹を凌駕していた。それぞれ一人ずつ抑えようとするから混乱する。二人を二人がかりで止めればいいのだ。
双子のコンビがなんだ、こっちだってずっと一緒になってきた仲だ。
吉澤のガードをかわし、A・Kが苦し紛れのロングシュートを。中澤が指先でコースを変え、コーナーに逃れる。
コーナーキックを、後藤が大きく弾き出す。
笛が鳴った。中澤はその場にひざまずいた。
3−0。この時点で日本はプレーオフ出場の2位以内を確保した。
辻が泣き出した。うれし泣きではない。抜かれやしないか、ずっとおびえていたのだ。
「アホ、なに泣いてんねん。まだ決まったわけやないやろ」
そういう加護の目も赤い。
大泣きする吉澤を石川が支える。ベンチで勝利の瞬間を迎えた保田が飯田に担がれてフィールドに戻る。安倍が大きな日の丸を両手で振る。
「裕ちゃん」
A・Kとユニフォームを交換した後藤が右手を差し出す。その鬼気迫るセービングに何度救われたろうか。
中澤が差し出しかけた右手を引っ込めて、左手を出した。
「裕ちゃん、指」
すべてを察して、中澤がうなずく。
がんばったよ、ほんとに、裕ちゃん、がんばったよね。
全てを譲り渡して、一葉は、落ちた。
「ごっちん、肩、貸してんか?」
「どーぞ」
ほんの数ヶ月前まで、一回りも歳が離れた同性が自分の肩で泣きむせぶことなど、後藤は考えもしていなかった。
監督の胴上げが始まった。次いで、中澤のはずだった。
「うちの前に、一人、胴上げしたいやつがおんねんけど」

「サヤカ、おるんやろ!」
明日アルゼンチンに旅立つ市井紗耶香は、ずっと一人で試合を見守っていた。
この勝利は、フィールドに立てなかった十一人目の日本選手に捧げるものだった。
そして、試合が終わって、やっとその輪に入る事ができた。
「サヤカ、あんたのこと許さないかもって思ってた。本当にごめん、ごめんね」
試合が終わる前から涙が止まらなくなっていた保田だった。その体はちっとも試合の熱が引いていない。
市井の胴上げが始まった。市井がピッチの外で戦ってくれなかったら、勝てなかったかもしれない。
胴上げが終わり、一人一人と抱き合いながら、市井は笑顔のまま大粒の涙をこぼした。
なっち、カオリ、裕ちゃん、圭ちゃん、後藤・・・新しい子たちも。
「来年、絶対に会おうね。私も、絶対オーストラリアに勝つから」

その中で、たった一人だけ、喜びの輪からたった一人取り残された選手がいた。
まるで狂人のようになにごとかをつぶやきながら、小さな体を背を丸めてさらに小さくしていた。
普段のその陽気な様子を知る者ほど、その異様さに近寄りがたさを感じていた。
その時、彼女にインタビューしたインタビュアーは二人。一人の
「十人で戦った事に対して、批判的な声が上がったらどうしますか?」
という質問に対しては
「十一人目の選手は、心の汚れた人には見えないんですよ」
とそっけない皮肉をもって答え、もう一人の
「勝利の感想は?」
という単純な質問には、
「バッカじゃないの」
と、掲載不可能のコメントを寄せた。

矢口とて、勝利の瞬間はうれしかったのだ。
しかしそれは単に勝ち点3を得たこと、市井を奪った全てのバカヤローどもに唾を吐きかけてやった痛快さだけだ。
予感はあった。三点目のフリーキックの時、石川が止めようとしたことだ。
たぶん石川は、その時点で99パーセントの勝利を確信していたのだ。それなのにあのボールを蹴る事はないと。
が、矢口は残り10分で2点差、3点差がひっくり返った試合をいくらでも目の当たりにしている。
サッカーは2点差が一番怖いってことくらい、どうして分からないのだろう。
だから、まるでワールドカップ出場を決めたようなそのバカ騒ぎに、心は一気に冷えていった。
まだなにも決まってない、なにも終わってないのに。

後にして思えば、この不安を声を大にして叫びさえしていれば、チームは救われていたのかもしれない。
だがこの時の矢口は、いつもの彼女とは正反対に、内へ内へこもっていくだけだった。
小さな背中、その背後でどんどんその体積を増してゆく、どす黒くまがまがしいものに支配されてしまったかのように。

二日後。午前五時。
まだ夜の明けきらない横浜の郊外を、オレンジのジャージ姿で疾走する矢口がいた。
「おはようございます」
「おはよう。毎朝がんばるね」
「学校、遠いから、今くらいの時間に走らないと」
ジョギングでよく顔を合わせるおじさんたちには素性を明かしてない。
Jリーグは見なくてもワールドカップ予選は見ている人はたくさんいるので、ジョギングのときはスッピン。
ナチュラルメークはかえって時間がかかるのだ。
問われれば、英文科に通う大学生だと答えるようにしている。大学は千葉の幕張。バイトはサテン。就職はアパレル関係を志望。

もともと、真ん中でゲームを動かすゲームメーカーだった。センスだけでサッカーをやっていた時代もあった。
それが、マリノスユースにはよりセンスがあるやつがいっぱいいた。高校でも背の低さからなかなか使ってもらえなかった。
それで、思いついた。
スタミナにスランプはない、と。

正直、今も走るのはあまり好きじゃない。
でも、1キロ走れば、走った分だけバテるまでの時間が伸びる。その分が余裕になる。周りのサポートにまで頭が回るようになる。
そんなに走るのが好きなら陸上やれ、駅伝部に紹介しようかとからかわれても、耳をふさいだ。
そんな連中を相手にしている時間がもったいなかったからだ。
努力は裏切らない。当たり前のことだが、それが今日の矢口を作り上げてくれた。
が、矢口は逆に、その昔の自分に追い詰められている気が最近し始めている。
昨日10がんばって、今日10しかがんばらないのでは進歩が無い。11、12とがんばらないと、いや、それでも進歩しないのでは・・・どんなにどんなに最善を尽くしたつもりでも、まだある、まだがんばれるはずと、常に声が聞こえる。
恐らくその不安は、いつかスパイクを脱ぐ日まで続くのだろう。

闇夜が暁色に染まる。この深い藍色が矢口は好きだった。吐息が朝の冷気に溶ける。
焼き肉屋の右に曲がる。このコーナーを過ぎると、クラブハウスだ。右足をぐっと踏み込む。
パキッ。
枯れ枝でも踏んだのかと思った。だがアスファルトのそんなものはどこにもない。
勇壮な朝日が昇る。
履き古しのスニーカーの先端が、濁った赤に染まっていた。

「まったく、情けないったらないよ・・・」
浜松市内の病院。
試合後、病院に運ばれ、A型肝炎と診断された保田を矢口と石川が見舞っていた。
「でも、B型じゃなくってよかったですねえ。B型ってたしかSTD・・・」
「アホ」
食べ物などから感染するA型に対しB型は注射針の回し打ちや性行為から感染するとされている。
どちらにせよ、連戦に次ぐ連戦が、保田の体から抵抗力を奪っていたのは間違いない。
肝炎では出入国は許されないから、次の試合、インドでのAグループ最終戦はテレビで観戦することが決まった。
「神様が休めって言ってるんだよ。焦らず、ゆっくり直せよ、圭ちゃん」
保田だけではない。修羅場を戦い続けた初期からのメンバーの戦線離脱がここにきて重なっていた。
市井はアルゼンチン代表に召集され、中澤は代表からの引退を発表。コーチ、スポーツキャスターなどの転身の話はすべて断っていた。
「普通の女の子ってのはちょっとおこがましいんで、普通のお姉ちゃんに戻りたいと思います」
一方、チームに残ったメンバーも満身創痍だ。
安倍は右ひざだけではなく、積み重なった疲労も極限に近い。
累積警告で次の試合に出られない飯田も左太ももの裏を傷めている。
アウェイでの最終戦を、相当若いメンバーで戦わなくてはならない。まるで小学校の先生や、と監督もこぼしている。

「ねえ、矢口、石川」
保田が聞きにくそうにたずねる。
「みんな、どうよ?」
「どうって、最近なっちが辻をやたら誘って、辻が人見知りしてますます加護とひっつき虫になってる」
「そうじゃなくって・・・」
「分かってるよ、後藤と吉澤でしょ?」
同い年の二人の確執は、チームの新たな火種に育ちつつあった。
トラブルメーカーのように書かれがちな後藤ではあるが、意外と誰と不仲、というのはない。
そう見えてしまうのは単に後藤の方で「相手にあまり興味がない」だけなのだ。
それは傲慢とかいうのではなく、後藤真希という人間の気質の問題である。
よく言われる安倍との関係にしても、安倍はその複雑な胸のうちをあらわにするほど無分別ではないし、
後藤も代表を引っ張ってきた安倍へのリスペクトをにおわせる節がある。
が、このケースに限れば、それはあてはまらない。後藤は積極的に吉澤を「嫌っている」のだ。
たとえばセンターバックでコンビを組むと、スイーパーの後藤は、ストッパーの吉澤に、そりゃ絶対無理だろというボールまで、
平気で「追え」と指示を出す。吉澤も吉澤で全力で飛びつく。それがさらに後藤の嗜虐心をあおるという悪循環。
吉澤にも原因はある。というより、後藤が面白くないのも当然と言う気さえしてくる。
監督が吉澤に求めたもの。それはとどのつまりが「市井のコピー」である。
中盤の将軍となれる視野の広さと強さ、なるほど吉澤と市井は重なる部分がなくはない。
市井と後藤が互いに競い合ってそのスキルを高めていった事を考えれば、後藤と同い年の吉澤は後藤のライバル心をあおるにはうってつけかもしれない。
あまりにも乱暴な話だ。それは吉澤ひとみの「個」を否定するものですらある。たとえチームというものが各人の我慢で成り立つものだとしても。
が、この生真面目な赤の貴公子は、その難事業になんのためらいもなく取り組んでいった。しまいには、市井の低い重心のドリブルまでコピーしてみせた。そして、そのクソがつくほどの真面目さが、ひねくれ者の後藤には一層腹立たしく映るようなのだ。

「どうしたもんかねぇ・・・」
ストレスもこの病気には毒だと言われているのに、保田は髪をかきむしる。
保田は、後藤も吉澤も好きなのだ。
後藤の才能と無邪気さ。
吉澤の真面目さ、ひたむきさ。
それは決して相反するものではないはずなのに。
「圭ちゃん、そんなに自分責めないでよ」
矢口がその手に自らの手を重ねる。
「圭ちゃんは、病気の事だけ考えばいい。圭ちゃんのいない代表なんてさみしすぎるよ」
「矢口・・・」
「二人の事は、うちらでもできるだけのことはするから。な、石川」
「あ、はい」
「圭ちゃん、今自分の真っ先にすべきことはなに? 早く退院する事だよ。次の試合には間に合わなくっても、
まだ圭ちゃんの力の必要な場面はいくらでもあるんだから」
ドアをノックする音。
「保田さん、面会です」
「どなたですか?」
「五十島さんという方が」
「五十島って、サンフレのスタッフだよね。圭ちゃん広島行くの?」
「まだわかんないけどね、そろそろ環境を変えてみたい、とは思っている」
「そっか。じゃ、うちら行くわ。他に寄るところもあるし。じゃ、早く病気治すんだよ」

同日午後、清水エスパルス・グラウンド。
レギュラーチームで、左サイドからセンタリングを上げ続ける長髪の選手に、矢口が声をかける。
「ミカちゃーん!」
J屈指の左アウトサイド、ミカ・トッドは日本人の母を持つが、ハワイ生まれであるため米国籍である。
現在帰化申請中であるが、晴れて日本国籍になるのは来年以降になるというのが大方の見方であった。
小柄ながら独特のリズム、抜群のスピード、えぐるようなセンタリング・・・左ウインガーに人材を欠く日本にとっては一刻も早い加入が待たれるのだが。
「矢口サン」
「石川、この子すごいよ。前にあたしと対戦した時、それこそチンチンにされたもん」
「やだぁ、矢口さん、オチンチンの話なんか」
ぶりっこキャラ全開の石川は放置。
「焦っちゃダメだよ、ミカちゃん」
「ハイ。でも、もっと早くに帰化決めてたら・・・」
普段は陽気な彼女も、なかなか降りない日本国籍に、やや苛立ちを隠せない。
「だって、国を選ぶって、ものすごい大変な決断だよ。あたしだって明日からフランス人になれなんて言われたら困るし。
味噌汁とクロワッサンって一緒に食べていいの? とか」
「そういう問題じゃないですよ」
「黙れ石川。・・・今さ、代表のレフトバックが壊れちゃってるんだよ。だから、ほんとに、ミカちゃんが必要なんだよ。
腐んないでさ、コンディション上げといてよ。いつ日本国籍になってもいいように」
「ハイ・・・アリガトございます、矢口サン」
最後にミカは、うっすらと涙さえ流してみせた。

「この二重人格」
帰りの新幹線の中、うなぎパイと鯛めしとかまぼこを食い散らかして寝息を立てる矢口を石川が罵る。自分のことは棚に上げて。
保田には早く戻ってきてと哀願しながらミカには今左サイドが空いてるからと励ます。
ほんとのおまえはどっちなんだと言いたくなる。
が、矢口にとってはどっちも本心なのだ。少なくとも、その瞬間はどちらも真実なのだ。
もし矢口が、自分がのし上がるために二人に正反対の事を言ったのだとすれば、石川は矢口を見限っていたかもしれない。
矢口には、そんな私心や野望は一切ない。
ただ、日の丸のために。
日本代表をワールドカップに導くために、望んで汚れていく145センチがそこにはいた。
もうすぐ、新横浜だ。

「あ。ごっちん」
呼び止める吉澤、無視する後藤。
二人はぶつかった。狭い廊下に、吉澤の用意していたトランプが散らばる。それには目もくれず、合宿所の共同浴場に入っていく後藤。
一人残され、手の中に残ったトランプを握りしめる吉澤。痛いほど強く。
自らも世界を目指す吉澤にとって、世界をまたにかける後藤の存在は特別なものだった。いつか自分も、そんなあこがれであり目標。
後藤がいるいないで代表の価値自体も変わった。
しょうがねえよ、あたしがもっとしっかりやってりゃごっちんだって...散らばったカードを拾おうと腰を落とす。

「ヨシザワさん」
赤ちゃんのように小さい手でカードをかき集める。
「辻ちゃん」
辻が拾い集めたカードを吉澤の手のひらへ乗せる。
「なにを隠そう、私は卵売りなのです」
あわててトランプをポッケに押し込んだ吉澤の手に、ゆで卵を二つ乗せる辻。
「絶対秘密ですよ。あいぼんに見つかるとしばかれるから。あんた、そんなん食うてるから肥えるんやーって」
「辻ちゃんはカゴちゃん好きなの?」
「嫌いな時もある、けどだいたい好き」
ゆで卵、丁寧に皮までむいて頬ばる。胸が苦しくなった。
「あ、塩がない」
「いいよ、十分しょっぱい」

かたや後藤。
「分かってます、そんなこと、安倍さんに言われなくても」
ふてくされたような口ぶりだが、本当に分かっているのだ。吉澤が本当に市井の代わりになどなれるわけないことなど。
吉澤がどれだけ絶望的な努力を重ねているかも、後藤にどれだけ嫌われようとそれをやめないであろうことも。
なにより、そんな自分を、吉澤がどんなに慕ってくれているかも。
が、吉澤が頑張るほど、後藤は吉澤と市井を比べてしまう。
結局後藤が本当に嫌で仕方ないのは、そんな自分自身なのだ。冷めているくせに大人になりきれていない後藤真希なのだ。

「なに、それ」
安倍はあっけらかんとした口調でそれをかわし、一枚のCDジャケットを後藤に手渡した。
レッドホットチリペッパーズ、ブラッドシュガーセックスマジック。
「サヤカに借りっぱなしになってたんだ。貸してあげるから、あんた返しといて」
あたしには、サヤカと直接会える機会はもう残ってないかもしれないから。
実際、安倍の両ひざはひどいことになっていた。できれば休みたい、しかし代表に選ばれた以上断るわけにはいかない。
なのに常時試合には出られない。
長い葛藤の中、傷だらけのエースは今の自分の役割をようやく見いだす。

若きエースと呼ばれた安倍も今回の合宿では最年長。期待されているのは、チームのまとめ役としての働き。かつての中澤裕子のような。
もしこんな時中澤なら後藤と吉澤を並べこんこんと説教を始めるだろう。安倍は違う。性格もあるが、今の後藤の心境がよく分かるのだ。
後藤、吉澤、市井はそのままかつての安倍、矢口、福田に置き換えられた。言葉にはしなかったが安倍の矢口へのストレスは相当なものだったのだ。
それを解決したのは、時間。安倍が歩み寄り、矢口が安倍の信頼を勝ち取ったから。
だいじょうぶ。あたしは、後藤も吉澤も信じてる。

「うっわ、インドってほんとに国中カレーの匂いなんだ」
「服まで黄色くなりそう。このピンクのスーツ、お気に入りなのに」
「毎日カレーでもいいですねえ。食べ続けるのです」
「あんた、それ日本にいる時とあんまかわらんで」
「ちょっと。ここはアウェイなんだよ。専属のシェフが作るもの以外は口にしちゃダメ」
まるで遠足気分の若いメンバーに矢口と安倍は苦笑する。ソウルで敵地に飲まれまいと気を張っていた自分たちとはえらい違いだ。
ワールドカップを巡る長い旅も、もうすぐ終わりを迎えようとしていた。
ここで決める。ここで勝つ。

「…!」
矢口が目を向き、拳を震わせる。小刻みに震えているのは拳だけではない、唇の端も怒りにけいれんしていた。
石川が立ち上がり、三白眼で矢口をにらみぶす。唇が切れ、鼻血も出ている。無抵抗のまま殴られる石川に、矢口はようやく平静を取り戻せたのだ。
その表情のまま、石川がスッとつぶやいた。
「わかってねえよ、矢口さん。うちらがそんなに信頼できないんですか?」
「分かってないのはあんただよ」
矢口がポツリとこぼす。
「ワールドカップ予選なめすぎ」
インド戦を数時間後に控え、ユニフォーム姿の二人が迎えた修羅場。

発端は日本での練習最終日。
「いてえっ」
紅白戦でシュートしようとした矢口が地面を蹴り上げたのだ。
「石川、肩貸して」
言われるままにする石川。
「あれー、医務室そっちじゃないすよ」
「いいんだよ」
更衣室のソファに腰を下ろす矢口。スパイクを脱ぐ。右足の爪先に血がにじんでいた。靴下を脱ぐ。
「う…」
石川が思わず目を背ける。親指の爪が縦に割れ、爪自体も半分くらいはがれそうになっている。矢口は石川に構わずバッグから瞬間接着剤を取り出す。
「ったく、効きゃしねえこの接着剤」
「これ、今やったんじゃないんすか?」

「うちが説明したる」
目ざとくついてきた加護だった。
「矢口さんのあのシュートは、足の一番小さい面である爪の先で蹴ることで生み出すめちゃでかい力と微妙な動きがキモや。
逆にいうたら、それだけのごっつい力を爪先だけで支えとる、ちゅうことにもなる。その結果がその足や」
「そんな…」
考えもしなかった盲点に石川が震える。傷口を接着剤でふさぐ矢口は聞く耳持たない。
「一回マネただけで分かったわ。これは足の命縮めるボールやて。それから、こんなボール蹴るやつのアホさ加減もな…悪いこと言わへん、そんなボール蹴るのやめえな」

「やめねえよ」
矢口はピョンと立ち上がる。
「心配してくれるのはありがたいけどな、あれをやめるつもりはない。予選勝ち抜けるまで、何度でも使う。指が腐り落ちてもな」
あっけに取られる加護。魔球の正体は知っていても、矢口真里という人間までは見抜けなかったようだ。

かたや、魔球の危険性には気づけなかったが、矢口なら知り尽くしているのが石川だ。この状況で自分がなにを言っても聞く訳がない。
周到にワナを張るしかない。しかも、そのワナが、ギリギリのところで作動するように。
矢口さんはこんなところで終わるべき人じゃない。

繊細に。かつ大胆に。
「矢口さん、これ飲みます?」
「なんだこれ。ヤバイ薬じゃないの」
「スタミナ剤ですって。石川家の男はこれを飲んで夜のキックオフに臨むわけです」
「一晩中バキーン」
「ニョーボがガリッ」
チビ二人がはやすのも作戦のうち。矢口の性格からして場を盛り上げるため飲まざるをえない。まして皆が緊張する試合前日ならなおさら。
石川が率先して飲んでみせると警戒を緩めた矢口もそれを含み、日本から持ち込んだ水で流し込む。
「あー辻にもくださあい」
「子供はダメ」
石川は誰にも見られぬようそれを吐き出した。

試合当日。会場入りしアップする矢口に血相を変えた夏コーチが
「あんた、試合出れないよ」
「え?」
「ドービング反応が出た」
訳の分からぬまま連れ出され、再び尿検査。結果を待つ間夏がおかしなものを食べてないか問いただす。
ここはアウェー、食べ物にも水にも細心の注意を払ってきたはず。なのに、なぜ。
「あんた、風邪ひいてない? 風邪薬でドービング反応が出るって」
結果が出た。やはり陽性。試合に出られなくなった矢口は立ち上がり、犯人の待つ控室へ。
「矢口さん、疑うってことしないんだから」
石川の鼻に拳を打ち込んだ。

あわてて駆けつけた安倍たちによって分かたれた二人だがにらみあいは続く。
「もしこれで日本が負けてワールドカップに行けなくなっても私は構わない。矢口さんを失うほうが怖いですから」
「分かってねえ。おまえ、全然分かってないよ」
「もういいでしょ二人とも。石川は手当してもらってきなさい」
安倍は二人を完全に分けた。
「勝ちますよ」
いつもの甘ったるい高音ではなく、うなり声でつぶやく石川。
「勝ちゃいいんだろそしたら文句ないんだろああ勝ってやらぁなあみんな!」
誰もが石川の豹変に言葉を失う。
「…みたいなー。アハ」

ワールドカップアジア二次予選、日本対インド。
緑のユニフォーム、ホームのインドはここまで2分け7敗のダントツ最下位。日本でのこのカードは日本が快勝している。
その時のメンバーが、今日のスタメンには一人もいない。2ゴールをあげた安倍がベンチにいるだけだ。
リベロに後藤、ストッパーに吉澤、ボランチに石川、トップ下に加護、フォワード辻。
日本のキャプテンには後藤が選ばれた。慣れないキャプテンマークをさかんに気にしている。
ずっと空席だったエースナンバー10をつけた加護は得意げだ。
代表初スタメンが最もプレッシャーのかかる最終戦になってしまった辻は表情が硬い。
相変わらず強硬な姿勢を崩さない後藤を吉澤は気にしないようにした。自分の仕事を完遂すれば間違いないと。
石川はスタンドに陣取る矢口に下から一瞥をくれて、円陣に加わった。
矢口は遠のいていく14番から目を離さない。
そうだよ。勝ちゃ文句ねえよ。頼むから勝ってくれ。
祈る思いだった。

先制点は、理想的な形からだった。
加護のなんでもないミドルをインドGKが処理を誤り、ボールを大きく前へこぼす。
詰めて来た辻に慌てたディフェンダーがゴールラインの外へ蹴り出した。
労せず手に入れたコーナーキック。日本はバックス陣も前へ。
キッカーは石川。右からのコーナーは得意だ。
せっかく上がってきたんだし、使ってやるか。
ロビングを、ニアポストへ。丁寧に上げたボールは計ったような正確さで吉澤の頭へ。
飛び出そうとしたゴールキーパーが後藤の背中に勝手にぶつかって転ぶ。
「どわっ」
長身が鮮やかに舞う。石川の位置からはその上半身が完全に見えた。生え際に当て、上体をひねる。
吉澤がその高さと強さを存分に発揮したバックヘッドがサイドネットに突き刺さった。
が、本当の見物はここから。
ゴールインを確認した吉澤はその場で足踏みをはじめ、開かないドアを叩くかのように両手を振る。
抱きつこうとした加護と辻を跳ね飛ばしてもお構いなしだ。
あとで聞いたら、祭り太鼓のパフォーマンスだったとか。
吉澤が赤の「奇行」子とも呼ばれる所以である。

日本にとって不運だったのは、吉澤の先制点が前半3分に決まってしまった事だ。
なんだ、楽勝じゃん。
若いチームにそんなムードが漂い始める。
実際、その後も日本は順調にインドゴールを脅かす。
辻とのワンツーから加護がシュート。
吉澤のヘッドがまたもインドゴールへ。
石川のフリーキックも。
が、あと一歩の詰めが足りない。

「やべえよ、おい、早く点入れろよ」
矢口は、インドに対して危機感を感じているわけではない。
インドは1トップ2シャドー3ボランチ4バックの「クリスマスツリー」と呼ばれる、日本から見て逆三角形のフォーメーションを取っている。
つまりゴールに近づくほど相手の人数が増えるわけで、それは1点を取られても変わらない。これ以上失点することを恐れているかのようだ。
むしろ若い日本代表がヤバい。
慢心ではないが、どこかスキを感じる。追加点への貪欲さに欠ける。
それでも、インドとの力の差はそれを凌ぐほどでかいのもまた事実で、そのうちもう1点取れるだろうと気楽に考えることにした。この時は。

「石川、早く点取れよ!」
スタンドから響く金切り声に、うっせえなあと顔をしかめる。
あんなに亀みたくひっこまれたら、崩しようねえじゃん。
ミドルやロング打とうにも、見ろよ、このボコボコの足場。まともにシュートなんか打てやしない。
でも矢口さん、あんたを休ませたのはやっぱ正解だったよ。このひでえ足場、あんたがいつもみたく走り回ったら即足を壊すよ。
すげえキックバックがきついもん。
「梨華ちゃん!」
OK、辻ちゃん。
そういえばずいぶんバックラインにボールがきてないな。一度下げよ。

石川からの不意を突くバックパスに、後藤は戸惑ったようだった。
そこへインドのワントップが詰める。
ダイレクトで出したボールは、インド人フォワードへのラストパスのようだった。
独走を許し、あっさりと決められた。
矢口は石川を見る。放心状態の背番号14がそこにいた。

「アホか、おまえは!」
ハーフタイム、たまらず控え室に戻った矢口は飛び上がって石川の頭をはたいた。
「そんな、いきなりアホなんて言わなくたって・・・」
「勝つんだろ、勝ってあたしのハナあかしたいんだろ! なら勝てよ、勝ってみせろっての!」
石川と矢口だけではない。
「のの、もっとこっち寄ってくれな」
「でもそうするとマークも一緒に来て・・・」
「それが狙いやんか。その空いたスペースをうちが使うんや」
「ごっちん、気にする事ないよ、さっきの」
「・・・」
「・・・」
「ちょっと、みんな、監督の話聞いてる?」

その困惑と喧騒の中、一人自分を保っていたのが、安倍だった。
こんな時、裕ちゃんなら、なんて言うんだろう。
ちょっと黙りぃ、話聞けっちゅうねん、くらい言うんだろうか。私には無理だ。
でも、なんて言ったらいいんだろう。勝とうよ、じゃ当たり前過ぎる。わかんない。でもなにか言わなきゃ。
「さ、後半行くで!」
「おう!」
・・・間に合わなかったか。

考えられないようなことが起こるのがワールドカップの予選だ。
ふてぶてしさを売りにする後藤が敵にラストパスを出すなんて普通じゃ考えられないことだ。
まして、後半開始二分、なんでもないドリブルをゲームメーカーの加護が戻ってディフェンスするなど。
それがペナルティーエリアのはるか外なのに、笛を吹いた主審がペナルティースポットを指差すなど。
だがここはアウェイの地。なんでもありは当たり前。
あっさり、逆転を許した。

「石川、まだあるんだから落ち着け!」
石川は完全に舞いあがっていた。もともと受け身になると弱いタチではあったが、その動揺はこっけいでさえあった。
それは、セットプレーの場面で如実に現れている。いくら吉澤が高いといっても、一人だけを狙って制空権を握るなどインドが許さない。
加護と辻は必死に走るが、それらはすべて無駄走りに終わる。時々、なにか口喧嘩らしきしぐさも。
後藤が攻め上がる回数が増える。自然、守備は手薄になる。吉澤が追い回される。
次のゴールは、その吉澤が叩きこんだ。右からのクロスを長い足で。
自軍ゴールへ。
カバーリングに駆けずり回った結果だった。
のろのろと帰ってきた後藤が、やってらんねえよとでも言いたげに首を振る。
「ふざけんな!」
座り込んだ吉澤の慟哭が、スタンドにまで届いた。

「監督、出してください! アップはもう済んでます!」
安倍が懇願しても、ベンチにどっかと座り込んだ寺田は耳を貸そうともしない。ただ、あかん、を繰り返すばかり。
監督にもさまざまなタイプがある。
膨大なデータをもとに敵味方を分析、綿密な計算の元に試合を組み立てる知将。
カリスマ性を持ち、時の感情を露にしてチームを牽引する闘将。
寺田はそのどちらでもない。己の勘を信じ、イチかバチかの勝負にその天分を全うする賭博師だ。
その賭けは今までピタリと当たっていた。外れても次勝ちゃええと選手のうなだれる肩を叩いてきた。
が、今安倍の目の前にいる男は、次の札を切ることすらしようとしない。
スタンドの矢口も、今こそ安倍を投入すべきだと考えている。ゴールを奪えるかはともかく、混乱したチームを立て直すにはベテランの力が有効だと。
それはサポーターも同じ事で、日本からの大応援団のなっちコールがベンチにも届く。
「お願いです、監督、脚はどうなってもいいから、早く私を使ってください!」
「あかん、安倍、おまえは今日、使わん」
望みは、断たれた。
安倍の足は震え、とてもそこには立っていられない。なんとか体を支えながら、監督に詰め寄る
「それは、選手としての私にはもう用無しってことですか」
「・・・」
「ならなんで、私を選手として登録しているんですか?」
「簡単なこっちゃ。おまえをベンチへ置いとく、相手はそれだけで反撃を警戒する。強かった頃のおまえを知ってるやつは特にな」

安倍なつみ。
なっち。
コンサドーレの顔。
日本代表のエース。
背信のストライカー。
自分に向けられたすべての記号が、形骸化していくのを感じた。
今の自分はただの置物。それ以外をなにも求められてはいない。
なんなのよ、私って。
「おい、ちょっと待て、どこ行くねん」

「なっち」
ジャージ姿の安倍がタッチライン際のコーチャーズボックスに走り出したのを見て、周囲があわてふためく。
「みんな、まだ時間はある! もう一回自分の仕事を確認して! 最後まであきらめないの! がんばって! 試合を捨てないで! お願い…だか…ら……」
監督(と通訳)以外のチーム関係者がコーチャーズボックスに入ることは禁じられている。安倍が軽い注意を受け、夏コーチに付き添われてベンチに戻る。
すべてのプライドと意味が打ち崩された安倍の中に、負けないでという強い願いだけが残された。

安倍の激励が届いたのか、日本はにわかにまとまりを見せた。
落ち着きを取り戻した石川がボールを散らし、加護と辻が左右に散る。
吉澤がカウンターを封じ、後藤がたびたびインドゴールをおびやかす。
しかし、インドもなかなか崩れない。砂時計の砂が落ち切るのを必死に耐えて待つ。
ゴール正面で加護のパス。辻がリターン、と見せかけてゴールへ切りこむ。ユニフォームをつかまれ、引き倒された。
PKにはならなかったが、直接フリーキックを得た。
「梨華ちゃん」
石川も今は自らの過ちを認めていた。もしこれで負けたとしたら、インドにではなく、自分自身に負けたのだと。
が、石川もあきらめの悪いタチだ。そう簡単には死なない。
向かって右に壁。右利きのの石川対策には正しい壁の作り方だ。
目をつぶり、軌跡をイメージする。ももを上げて走り、インサイドで蹴った。
壁の右を低い弾道で逃げていくボール。だが枠に飛んでいない。インドGKが見送る。
(なむさん!)
地面に当たったボールが、大きく左に方向転換。あっけに取られるキーパーをあざ笑うかのようにゴールに飛び込んだ。
石川はちゃんと見ていた。荒れたグラウンドでも、特にゴール前は土も芝もめくり上がっていたのを。それを使わない手はない。
が、石川に代表初ゴールの余韻を愉しむ余裕はない。詰めていた加護がボールを抱えたのを見ると、自らも大急ぎで戻る。
さあ、早く始めようか。

インドは攻めてこない。十一人で守りきろうとする。
日本は吉澤を最前線に上げ、セカンドボールを辻と加護に狙わせる。が、ゴールは遠い。
ロスタイム。ようやくボールを奪ったインドが大きくボールを蹴り出す。
一人残っていた後藤が拾った。主審がホイッスルをくわえたのを横目に、40メートル以上ある場所から思いきり狙った。
「うおっ」
シュートはディフェンスの壁を超え、キーパーの手もかわし、クロスバーをこすり、ゴールの中に落ちて、大きくゴールの外に飛び出した。
「どっちだ?!」
副審は、ノーゴールの判定。吉澤が食い下がる。彼女の位置からはボールが完全にラインを割っているのがはっきり見えたのだ。
が、判定が覆るわけもない。
三度、長い笛が吹かれた。

試合終了のシュート、これがもし決ってい「れば」。
というのも、同日に行われたサウジアラビア対クウェートの試合は1対0でサウジが勝利。
もしこのシュートが入って「れば」引き分けた日本はサウジと勝ち点で並ぶものの、得失点差で1上回り、グループA一位勝ちぬけできていたのだ。
が、敗れたことでサウジが再逆転。日本は中国、イラン、イラクがしのぎを削るグループBの二位チームとの三位決定戦に回らねばならなくなった。

「お疲れ」
自分達の運命をまだ知らない選手達が、無言でロッカールームに引き上げる。足を引きずる辻だけは安倍に肩を貸されていた。
「冗談やない。あんな審判の笛で試合なんかできるか」
2点目のPKを献上してしまった加護がぼやく。
「あたしも代表長いつもりだけど、負けて言い訳するやつは、始めてだよ」
矢口は容赦ない。
「……すんませんでした」
1ゴール1アシスト、なのに敗れた。石川はサッカーが団体競技であることの怖さを思い知った気がした。
「次は、あたしが出る。絶対勝つ」
その言葉で、サウジ戦の結果を知らされてなかった出場選手達は、自分達が一位になれなかったことを初めて知ったのだった。
「……!」
後藤が泣き出した。主将の務めを果たせなかった悔しさからだった。
吉澤が、自分もなんとかこらえながら後藤を支えた。
日本代表の、そして狂気に突き動かされる145センチの戦いはまだ続く。

その時、スタンドからは失笑が漏れた。
0−2で迎えた後半35分、寺田監督はFWで起用した後藤を下げ、辻を投入。
その149センチの辻が右ウイングへ。
148センチの加護が左ウイングへ。
そして、後藤から託されたキャプテンマークが大きく見える145センチの矢口がセンターフォワードへ出てきた。
インド戦の後ベンチワークに批判が集中したが、ここまできたらやぶれかぶれにしか見えない。
全員の身長が150センチ未満の3トップは日本代表にとっても大事件だ。
矢口らにとっても一度も練習したことのない形、ぶっつけ本番。
が、やるしかない。

グループBの2位はイランに決まった。うまくて速く、なにより体格で勝る。
仮想イランとして急遽豪州とのテストマッチが組まれた。オーストラリアはアルゼンチンとのプレーオフ一回戦を引き分けている。
アルゼンチン代表市井紗耶香の出番はなかった。
「なにやってっだおめら」
「腸ねんてん起こすかと思ったわよ」
飯田と保田が復帰した日本は中盤から最終ラインが落ち着く。
が、それと入れ替わりに、ついにヒザにメスを入れる決心を固めた安倍が渡米、チーム離脱。
「俺の承諾も得んとあいつは」
寺田はエースの勝手な振る舞いに怒りを露に。

市井のためにオーストラリア、ボコボコにしたろやないか。そう言ってイレブンを送り出した寺田だったが
「こっちがボコボコやないか」
特にセンターバック後藤とライトバック吉澤が狙われた。確かにリベロは攻撃的イメージが強いがあくまで守備第一。
なのに後藤はひんぱんに攻め上がるので吉澤が中に入ってカバー。空いた吉澤のサイドを突かれ先制されると後藤の上がりはさらに顕著に。
「上がるな後藤!」
保田に言われ足を止めてもすぐ出たがる後藤をたまらずトップに上げるも控えディフェンダーでは豪州選手を止め切れずあっさり追加点を許す。

市井、おまえがおらんようになって俺は魂まで抜かれてもうた。
勝利が唯一絶対の代表監督なんて性に合わんもん引き受けたんはな、どうしてもお前を使いたかったからなんや。
日の丸のまん中で活躍するおまえが見たかった。
このチームは市井、おまえのためのもんやったんや。
矢口に辻、加護。似たようなタイプを三人取ったのもおまえが攻撃に専念できるための、取り換えのきく番犬をできるだけ揃えときたかったからやで。
見てみい、主を失うた子犬が三匹駆け出しよるわ。福田も石黒も安倍も中澤もいなくなったチームに似合いの末期的光景やろ。

「イシカーさん」
力任せに削ってくる豪州にいらだっていた石川から辻がスローインのボールをぶん取った。歩いて下がり、上体をふりかぶったままで走り出す。
「とおっ」
フィールド中央まで届いたボール、矢口が胸で左前方へ落とした。
「おんどりゃあ」
勇ましい掛け声もろとも、加護が身を投げ出した。
左足、糸を引くようなミドルがニアサイドに飛び、意表を突かれたキーパーのセービングをかわしてゴールネットを揺さぶった。
「っしゃあ!」
会心の一撃に加護がガッツポーズ。
矢口はゴールに転がったままのボールを拾い上げて走った。

豪州は守りに入らなかった。すかさず飯田のチェックが入る。
「飯田さん」
石川とのコンビでボールを奪い、寄ってきた加護にはたく。
加護はドリブルで上がり、囲まれる前に右のオープンスペースへはたいた。
コーナー付近、ダッシュでディフェンダーを置き去りにした辻が、ダイレクトでゴール前へ。
待ち構えていたのは矢口。肩でマークを押さえつけ、マイナスのセンタリングに足を突き出す。
加護が技アリならこちらは力技。回し蹴りのようなハイボレー。ヘディングシュートのように一度地面に叩きつけて突き刺した。
残り時間、あと二分。

ロスタイム突入直後。オーストラリアの突進を吉澤が体を張って止め、こぼれ球を後藤が拾う。
「後藤!」
矢口がボールを要求する。後藤からのロングフィードを矢口が右にはたく。加護がさらに裏へ。
スルーパスに飛び出したのは辻。快足を飛ばしてパスに追いつく。が、ファーストタッチが長すぎた。必死に追う。逆を取られたキーパーも続く。
ボールはそのまま豪州ゴールへ静かに転がりこんだ。
「はりゃあー」
自分の逆転弾が信じられない辻を追撃弾の加護、同点弾の矢口が祝福する。辻を中心に手をつないだ三人は揃って大きくジャンプした。

「丁が出るか半と出るか分からんかったけど、ツボ開けたら出来過ぎなぐらいや。確変30連チャンぐらいの大騒ぎやろ、な。
とは言うても連携甘いけどな、まだ時間はある。思いつき? アホ言うなや。
おたくどこの新聞? ちゃあんとあの三人の適性見て決めたフォーメーションや、ちゅうねん。怒るデしかし。今の似とった? あ、そう。
加護のテク、矢口の強さ、辻のスピード。完璧なバランスやないか。ほんまは本戦用にとっときたかってんけどな、しゃあない、非常事態や。
けどイラン戦までにさらに鍛える。あの三人だけでようけ点取れるようになんでぇ」

「賭博師から、詐欺師に降格」
寺田のインタビューを読んだ矢口の第一声。
矢口に言わせれば、あんなものはただの奇襲だ。たまたま前線に似たような背格好の選手が三人並んだから敵は混乱をきたした。
それ以上でも以下でもない。
が、使えなくはない。
錬金術のように、嘘からまことを、ひょうたんからコマを生み出す。
魔球はあれから一度も使ってないが、休んでるわけでもないのでよくなってもいない右足。
切り札は一枚でも多い方がよい。
矢口はその日のうちに、東京の夏コーチのもとを訪れた。

「でさぁ、矢口、あんたはなにをしたいの」
突然の来客を自室であるワンルームマンションで迎えた夏まゆみが、目覚めのトマトジュースをぐっと流し込む。
夏は今はなきNKKサッカー部に所属(ポジションはフルバック)していたが、選手として大成することはなかった。
引退後、教員のかたわらコーチ留学を繰り返し、やがて高校サッカー界にその人ありとまで呼ばれる指導者に成長。
寺田監督の要請を受け、このチームが立ち上がった時からコーチをつとめている。
代表に集められたすべての選手達は例外なく夏によってしごかれ、鍛えられてきた。無論、矢口も。
「わかりません」
「……じゃ、コンセプトだけでもいいから」
「わかりません」
「矢口、おまえケンカ売ってんの?」
「はい」
「あぁ?」
「オランダがトータルフットーボールを確立するまでには、監督と選手はほとんどつかみあいになりながら思考錯誤を繰り返したそうです。
もし、必要なら、ケンカもします」
鬼だな、鬼がいる。夏はこの時の矢口にただならぬ殺気を感じている。少なくとも軽い気持ちで言ってるわけでないことぐらいは読み取れた。
「あんた、加護亜依、辻希美。この三人でのコンビネーションを考えたらいいんだろ。せめてなんかとっかかりをくれ」
「強いて言えば、訳分からなさ……サッカーにおけるパンク・ムーブメント。……22世紀のサッカー」
セックス・ピストルズでドラえもんなサッカー。なんとなくイメージは浮かんだ。
「けど、時間はないよ。不完全なものをさらけ出すことになるかもしれない。大恥かくかもよ」
「覚悟の上です」
「わかった。手弁当でやってやるから。その代わり勝てよ。負けたらカニおごれ」

「びぇ……ぐし……」
辻が泣きじゃくる。
「こんなん、やってられへん」
加護がふてくされる。
「そうじゃないですよ! イランは3バックなんだから!」
「サイドにばっかこだわってちゃダメ!」
矢口と夏が顔を突き合わせる。
こんなんで、本当に大丈夫なの……? 練習に駆り出された石川の表情は重くなるばかりだ。
四人は夏の部屋で、イランのビデオを何度も見た。
フォーメーションは4−4−2ということになっているが、実際はDF登録のAがワントップ気味のIのすぐ後ろにつける3−6−1。
強い。グループBを一位通過したイラクを攻守に渡って圧倒している印象だ。
「激しく波があるチームなのよ。調子がよければイラクも中国も圧倒する。調悪ければ格下にころっとやられるし」
三位決定戦は第三地カタールでの一発勝負だ。コンディションが整わない状態でイランが臨むとは思えない。
とりあえず、三人の前に立ちはだかると思われるのは屈強な3バック。
褐色の体は米軍兵かプロレスラーのようにビルドアップされているのがユニフォームの上からでも分かる。二の腕なんか石川の脚よりも太い。
「タベタイナー!」
「タベタイナー!」
イラン語で叫びながら次々と敵をスライディングの餌食にしてゆく。それだけで辻は青くなっていた。
まともにいったらやられる。スピードとテクニック、そしてこずるさをうまく融合させないと、シュートにすら持ちこめない。
練習が始まった。が、練習はおぼろげなイメージを具体化していく作業から始まるものだからひどく手間がかかる。夏の叱責は容赦ない。
矢口は妥協を許さない。
次第に殺伐となっていく雰囲気に、加護はいたたまれなくなっていく。
「もう、ええわ。大阪帰る」

アスファルトの日陰に座り込む加護。
左胸に、錐で突かれたような痛みが走る。息さえできない。拳で何度も胸を叩く。
ふうー……
ようやく沈静化した痛みに一息つく加護。
時々こうなる。インド戦の時もそうだった。痛みがおさまってもその後怖くて自分のプレーがまるでできなかった。
押し込まれる展開の時にそうなるのだから精神的なものだとたかをくくっていたが……
「あいぼぉん」
「なんやねん、のの」
辻が座り込んだ加護の顔を心配そうに覗きこむ。
「練習戻ろう。みんな待ってるよ」
「いやや。大阪帰る」
「がんばろうよ。あいぼんいないとさみしいよ」
「いや」
うち、この子のこういうとこ嫌いや。くどいねん。場の空気読めへんし、子どもやし。
「もう、ほっといてぇや。ののかてうちがおらん方がほんまはええって思うてんねんやろ? 
うちら同学年ちゅうことはずっとポジション争いしてかなあかん。ユースでもそやった。うちだって最初あんた見たときイヤやったわ。
なんでおないでこんなうまいやつおんねんやって」
なに言うてんや、うち。止まらへんくなっとるやんか。
「一緒にがんばろうって。それで、うまくなったほうが試合に出ればいいでしょ?」
「なにええ子ぶっとんねん」
あかん、言うな、うちのドアホ。
「うちな、あんた嫌い。むっかつくねん」

「知ってたよ、それくらい」
辻が、顔を上げる。
「ずっと一緒だったもん。ああ、あいぼん、のののこういうとこ嫌いなんだなって、感じることはある。
けどののもサッカー選手だから、日の丸つけてるから、譲れないところは、あるんだ」
真剣に加護を見つめ、目をそらさない辻。その右目から、一筋の雫がこぼれる。
普段は精神の均衡を保つために大泣きする辻の、こらえきれない涙だった。
「だけど、サッカー以外のところでは、ずっと友達でいようよ。ユニフォーム着てない時まであいぼんに嫌われるのはいやだよ。耐えきれないよ。
悪いところがあったら、直すから」
自らの不安を受け止め、包んでくれた辻を、加護は自分よりずっと大きな人間だと感じていた。
「なんや、アホのくせに、全部分かっとったんやないか。知らんかったわ。なんや、うちのほうがアホに思えてくんで……」

「良かったっすね、矢口さん」
「あと十分は泣かせとけ。そしたら練習再開」
「矢口さん……」
「悪いけどな、矢口、石川」
物陰からずっと二人の様子を覗いていた矢口たちの間に夏が割って入る。
「午後から別の客がくるんだ。だから今日はこれでおしまい」

午後の来客とは、保田だった。手土産は阪神タイガースサブレ。
オーストラリア戦直後、保田はジュビロ磐田からセレッソ大阪への完全移籍を発表していた。しかも異例の若さでのコーチ兼任で。
「あんたらしいといえばらしいけどねぇ」
矢口たちに見せたビデオを、保田にも見せる。
「アタックはIとJが要注意。イランの全ゴールの8割をこの二人で叩き出している」
言われなくても分かっている、イランの誇る最凶のツートップ。
Iアリ・バシタカは長身で足元にも強いセンターフォワード、昨年のアジアカップ得点王。
Jファハド・マサーヒーは対照的に俊敏で抜け目のないシャドーストライカー。ともにドイツでプレーし、コンビは抜群。
「無失点で切り抜けようなんて考えないほうがいい。失点しても、いかにそこから持ち堪えるかがポイントだろう」
「ええ……」
保田が歯切れの悪い返事を寄越す。
「なんだよ、あの二人、まだうまくいってないのかよ?」

あの二人とはもちろん、後藤と吉澤のことだ。
インドに負けた後、いくぶん、歩み寄りの姿勢を見せ始めた両者ではあるが、連携はまだぎこちない。
オーストラリアとの試合でも、1点はこの二人の責任である。
が、ディフェンスは今のところこの三人でいくしかない。控え選手ではイランFWをとても止めきれないし、他のポジションから選手を引っ張ってきたのではチームの全体のバランスが崩れる。
「メンバーの入れ替わりが激しい割には、ちっとも層が厚くなんないのよね、このチームは」
「ほんっと、そうっすよ」
保田がフローリングの上に寝そべる。放り出されていたスクラップ帖が眼の端に飛び込んだ。何気なしにパラパラとめくった。
「キャンディーズですよね」
「言っとくけど、あたしの趣味じゃないよ。寺田ちゃんが遊びに来た時置いてったんだから。あの男、酔うと昔のアイドルの話しかしないんだから」
しょーがねーなー……しかし、膨大な量だ。サッカーでは自らの運を信じる男も、趣味の世界ではデータマニアらしい。
「あれ?」
保田がちょっとしたことに気づく。初期と後期、一度もメンバーチェンジのなかったはずの三人を見比べる。
「夏さんはリアルタイムで、キャンディーズ、見てるわけですよね」
「トゲのある言い回しだね。そうだけど」
「じゃあ、これ、どういうことですか?」
夏が2枚の写真を見比べ、知ってる限りのことを伝える。
保田の顔に、満面の笑みが。
「そっかぁ……あたし、なんてバカだったんだろ。こんなことにも気づかなかったなんて」

成田国際空港・第二ターミナル。
「おい、あれ飯田じゃねえか? 日本代表の」
「ほんとだ。でっけえな」
長身痩躯の飯田はとにかく良く目立つ。レイバンのサングラスにTシャツ、ジーンズという軽装。
荷物も小さいことから、誰かを迎えに来たことが分かる。
「安倍じゃん」
「なっちだ」
パスポートをバッグにしまいながらゲートをくぐったのは安倍なつみ。アメリカで両ひざの手術を終え、ついに帰国した。
「よく今日だって分かったね」
「メンバー発表に間に合うギリギリに帰ってくることぐらい分かったさ」
次の飯田の一言に、安倍は思わずニヤリとなる。
「おめの相方、何年やってっと思ってんだ」
「エースのお帰りなのに、お迎え一人ってさみしくないかぁ?」
安倍はどこか吹っ切れたようだった。チノパン姿の足取りも軽い。飯田がそのトランクを持つ。
「みんなで、もう一人を迎えに行ってる」
安倍が戻った今、唯一、空白になったままのポジションを埋める選手のもとへ。

んはー……
見合い会場となったホテルのトイレで、メンソールを吹かす中澤裕子の姿があった。
サッカーを離れた途端、プロになって以来遠ざかっていた喫煙の習慣はあっさり戻ってしまっていた。
髪は黒く染め直したし、カラーコンタクトもしていない。なんだかずいぶん子どもっぽく見える。
おまけに成人式で着て以来の振り袖だ。さすがに恥ずかしくなったが
「なに言うてんの、あんたただでさえ演歌顔なんやから、地味な服着たらババ臭く見えるやないの」
と、あっさり母親に押しきられた。もともと母親主導の見合いである。中澤は相手の条件に「年下だけは絶対ヤダ」としか言ってなかった。
昼まで寝て、本を読んで、将棋を指して、飲み歩いて……時間はあっという間に過ぎ、ずいぶんと太った。
サッカーも試合の結果を新聞で読むだけ。時々矢口や保安倍から電話がかかってきても、あまり立ち入った話はしないようにした。
自分はもうチームを離れた人間なのだから。
けどな……まだ骨のつながらない右手中指のギプスに思う。
ほんまは、まだやれたんやないやろか。
いや、それは今やから思うことやて。もうあのチームで自分にでけることは全部やった。
これからは自分のための戦いや。玉の輿乗ったんでぇ。
個室を飛び出し、歯を念入りに磨いた。

「こちら、杉本健二さん。第九證券にお勤めで……」
三つ年上。メガネをかけた、優しそうなタイプの人だ。中澤はこういうタイプにはあまりときめきを感じないが、まあ安パイだとは言える。
「御趣味は?」
「川釣りです。海もいいんですけど、なかなか休みが取れなくて」
よどみなく答えるあたり、見合いには慣れてるなと感じた。
こっちが見合い始めてというのは伝え聞いているだろうし、練習させてもらえばいいかな。
「中澤裕子さん」
「はい?」
「代表の試合、見てました」
「はあ、どうも」
「すごかったです。感動しました」
やばっ。これは本気の目だ。
「でも、あの中澤とここにおる中澤はまた別モンやし……」
うわっ、矢口、助けてくれぇ。

ドンドン……
「ゆーちゃあーん」
矢口?
ドンドンドン……
「ナカザワさぁーん」
石川?
ドンドンドンドンドン……
「裕ちゃん」
「中澤さん」
吉澤、後藤。
ジャージ姿の代表メンバーが、ガラス戸を叩き続けている。
「お願い、戻ってきてっ」
「中澤さんの力がもう一度いるんです」
「裕ちゃんじゃないとダメなんだっ」
「中澤さん!」
ホテルスタッフが慌てふためいて制止しようとする。が、音は鳴り止まない。
声と、窓を叩く音とが、スタジアムの喚声と太鼓の音とに重なり合う。
狩り立てられるように中澤が立ちあがった。
「ごめんなさい、あたし、家庭の匂いがダメなんです。子どもも嫌いで。中澤裕子、この償いは一生かけてもいたしますっ」
横を向き、母親に向かって
「ごめんおかん、私行くっ」
振り袖のすそをつかみ、草履を脱いで走り出した。袖からタバコとライターが滑り落ちた。
ガラス戸の向こうで、みんなが待っている。

「はぁー、これでニ度と実家帰れへん」
バスの中で、中澤が荒いため息をつく。
「ほんま惜っしいことしたわぁ。證券会社のエリートさんやで」
「證券会社がなんぼのもんじゃい」
矢口が中澤の肩に腕を回す。
「わしの愛人にしたるさかい、機嫌直せや裕子」
「言うたな矢口。約束守れよ。うちは金遣い荒いでぇ」

日本代表、カタール入り。
安倍は独断で手術を受けたことを監督とチームメイトとに謝罪し、その上で代表復帰。
が、両ひざに走る傷は生なましく、現地入りしても別メニューでの調整を続けている。
かたや、中澤は元気だ。長い間体を休めたことでかつてないぐらいコンディションがよいし、体重もほぼベストに絞りこんできた。
唯一治りきらなかった右手中指の骨折は今回のため作った石膏入り特製GKグローブでカバーする。
長い戦いが続き、どこも傷めていない選手はいない。その痛みがむくわれるのか、それとも無意味なものに終わるかもうすぐ決まる。

「ヤグチさぁーん……」
石川が情けない声を上げるのも無理のない話で、ホテルに荷物を置くや否やランニングに駆り出されたのだ。辻、加護も一緒。
矢口の時差ボケ対策である。ホテルに入ってすぐ寝るとなかなか体内時計が対応してくれない。
走ってれば寝ることはないし気候に慣れることもできる。
「サウナん中みたいやんか」
「アイス食べたい……」
「あんたらね、試合になったら90分走るのよ。もっとしゃんとしな」
三人は先頭をサクサク走る矢口の背中をただ目で追う。
サッカーが楽しくて仕方ない、まるで子供のようなその小さな背中を。

「……」
加護が胸を押さえて、立ち止まる。
「加護?」
「大丈夫です」
「あんた、前にもそんなことあったよね。メディカルチェック受けた?」
「当たり前ですよ」
それならいい、と言わんばかりに再び走り出す矢口。石川が加護の横につく。
「ちゃんとした精密検査受けたほうがいいよ」
「ほっといてんか」
説得が無駄と分かると、今度は矢口に寄っていって
「ヤバいですってあれ。矢口さんからもビシッと言ってやってください」
「本人がいいって言ってんだから別にいいじゃん」
おかしいよ、それ。
うまく言えないけど、狂ってるよ。

ん、なに石川?
心臓病を抱えたままサッカーは続けられるのか保田さんの意見が聞きたい? なんじゃそら。
そういえば市船にいた頃、心臓病隠しながら試合に出てたやつがいたな。なんで隠すのかって? レギュラー取られたくないからだよ。
命が惜しくないのか? 自分は大丈夫って思い込みが半分、時として目の前のプライドがなによりも大切に感じる時もあるんだよ。
で、なんでそんなこと聞くのさ。それを話すと腹を切らなくてはならない? なに時代の人間だよ、あんたは。
おい、どこ行くんだよ。理由ぐらい話してけっての。逃げるな、おい。

決戦を二日後に控えた日本代表チームの士気を極限にまで高めてくれるイベントがこの日の深夜あった。
矢口が召集をかけ、自室に選手を招き入れる。結局寝てしまった辻と加護、それに「とても冷静には見られへん」と言って断った中澤を除く全選手が集まり、保田の部屋を第二会場に。
ワールドカップ予選、南米・オセアニア地区プレーオフ第二戦。アルゼンチン対オーストラリア。会場はアルゼンチン、ブエノスアイレス。
メルボルンでの第一戦はスコアレスドロー、南米屈指のストライカー、ガブリエル・ヒロミストゥータも不発に終わっている。

「始まりますねぇ」
矢口の部屋に残ったのは飯田、石川、後藤。
「サヤカ、出るだかなぁ」
飯田がポツリとつぶやいた。
前の試合ではベンチにすら入れなかった。今日はベンチ入りは果たしたもののまだその姿は確認できていない。
「使わないんだったら、返してくれよって感じですよ」
後藤の言葉が日本チーム全体の思いを代弁していた。
主要メンバーの離脱を繰り返すたび各人が血を吐く思いでその穴を埋めてきたこのチームにあって、市井の替わりにだけは誰もなりきれなかった。そしてその傷口をふさげないままここまで流れついたのだから。

飯田はヒロミストゥータを抑える豪州ストッパーの動きに注目している。イランCFバシタカをマークするのが決まったからだ。
力や経験に優る相手をどう止めるのか、またとないテストケース。
「オーストラリアは点取りにいくでしょうね」
後藤がつぶやく。
「この試合アウェーゴール二倍方式なんです。仮に1-1で終わるとするじゃないですか、二試合の得点が並んだら敵地でのゴールを倍にして計算、2-1でオーストラリアの勝ち。アウェーチームにも攻めさせようってクソルールですよ」
ホームタウンデジション対策か。だけどホームのほうが不利なんて。

無得点のまま後半へ。生きたパスのもらえないヒロミが苛だつ。
「おめもあれっくらいしつこくやってくれよ」
飯田が守備意識が高いとはいえない石川にチクリ。
試合が、動いた。FKからつないで、粘り強く押し込んだオーストラリアが歓喜の輪を作る。
「なーにやってんだぁ」
安倍が落ち着かない様子で入ってきた。代わりに飯田が保田の部屋へ。
……。
薄い壁を通して、隣室から声が聞けえる。保田の、飯田の、吉澤の声だ。
「よーっし、こっちも」
負けじと手を叩き、声を合わせる矢口、安倍、後藤、そして石川。
さっやっか、さっやっか。

日本代表でレギュラー取るのがやっとだったやつがアルゼンチン代表に入れるかよ。あいつはもう終わった。あとは忘れ去られるだけさ。
そんな声に、かつての仲間たちは一切耳を貸さなかった。あいつがどれだけ根性持ってるか知らないくせにと鼻で笑った。
確かにあの子は一番ヘタクソだったけど、ビリッケツからうちらをどんどん抜いて一位でゴールテープを切って、そのまま地球の裏側まで走り去って行ったのさ。
そう、うちらは誰一人あんたが消えるなんて思わなかった。信じるなんて言葉が空ぞらしいほど当然のこととして待ってた。
ね、サヤカ。

「サヤカだ」
「え? どこ」
「ほらあそこ、画面の端に」
「うっわ髪赤っ」
ウインドブレーカー姿のその選手がダッシュやジャンプを繰り返すたび、金というより赤毛に近い髪が激しく揺れる。
変わり果てたその姿に日本を去って後の苦闘を垣間見た。
そんな市井に近づく、場違いなテンガロンハットに派手なシャツの若い男。市井になにか伝令を伝え、ベンチにふらふらと戻っていくその顔を見、
一同声を揃えて
「後藤だ」
「弟っすよ」
市井がブレーカーを脱ぎ捨てる。白と水色の縦縞のユニフォームの下からは鍛え抜かれた肢体が顔を覗かせた。

「父親の葬式にも帰ってこないドラ息子だけど南米の主要クラブには顔きくんで、サヤカ先輩のマネジメントさせてます」
「二人は恋人?」
「知りません。興味ないです」
何とも言えずさみしげな後藤の笑みがすべてを物語る。親友を肉親に取られるのは友達に彼を取られるより辛いかも知れない。
試合が止まる。シャツの裾をパンツにねじこみながら予備審判のもとへ。ホームアルゼンチン応援席のものすごい声援が。
「ブーイングですよ。お前なんか知らない、この日本人めって」
自国サポーターに洗礼を受け、市井は二度目の代表デビューに臨んだ。

カラーゴムで前髪を上げた背番号17はDFの選手と交代、中盤右サイドに入った。
「サヤカ先輩、右苦手なんだよな」
「関係ねえよ、んなもん」
この場面で投入される選手には二通りの道しか残されていない。英雄か、愚か者か。
ファーストタッチが肝心だと矢口は考える。いつ、どこで、どんな形でボールを受けるかで試合に入っていける度合が違う。
市井のアルゼンチン代表ファーストタッチは投入30秒、ハーフウェーラインとタッチラインの交差点付近、左からフリーで受け、
ダイレクトでゴール前へ。
走りこんだヒロミストゥータが頭でねじこんだ。

「Goooooo!」
アルゼンチンの英雄と呼ばれるストライカーはユニフォームを脱いで喜びを表現した。
「すげー…」
石川はまずその正確なボールコントロールに舌を巻いた。左からのパスは決して易しいものではなかった。それをいとも簡単にさばき、絶妙のクロスを上げてみせた。
が、本当に驚かされたのはヒロミストゥータを追ったリプレイを見てからだった。
パスの瞬間走り出したヒロミは全速力で走り、一度も速度を緩めずに押し込んでいる。
要求されて出したのではない、相手に要求したパス。市井は完全にヒロミを使っていたことになる。

安倍は市井から目を逸そうとしない。

時々、私には友達なんていないって思う
私だけが私の友達だって

レッドホットチリペッパーズ「アンダー・ザ・ブリッジ」の一節。
ファンクやパンクやヒップホップをごちゃ混ぜにした音楽を股間に靴下をかぶせるだけのフルヌードのイメージとともにたれ流していたLAのチンピラは、メンバーの死を悼むこのバラードで名を高めた。
サヤカ、あんたもそうなんだね。
誰といても、人間は一人だって知ってる。だから、あんたは、どこに行っても強いんだね。
あたしも同じだよ。ただ、あんたほど強くはないけど。

アルゼンチンが喜びもそこそこにキックオフの用意を。まだ負けているも同然なのだ。
市井は右ウイングに上がった。当然オーストラリアも警戒する。寄せが早いと見るや、ダイレクトプレーに切り替える市井。
市井へのパスが乱れた。荒れた地面に不規則なバウンドを見せたボールに豪州DFが足を出す。
赤毛が、踊った。
サッカー漫画よろしく両足にボールをはさんだ市井は着地と同時にドリブルを開始、大男の森をかき分けるようにして突き進む。
「いけっ」
後藤が立ち上がる。
GKに挑みかかる。斜めに切り込み、GKも手を伸ばす。吹き飛ばされた。

主審がPKを宣告した瞬間、その声は上の階から聞こえてきた。
「よっしゃあー、ようやったサヤカ」
なんだ、結局見てんじゃんかオバちゃん。
PKスポットに立つのはG・ヒロミストゥータ。右か、左か。
右足でどまん中に叩きこんだ。キーパーは分かってても止めきれなかった。
ゴールを決めたストライカーは先ほどのように上を、そしてあろうことか白いパンツまで脱ぎ赤いビキニパンツ一丁になって市井のもとへ。
やめろ、その格好でサヤカに近づくな。
「Japaaaaaan!」
この日本人を心から歓迎するという意味らしかった。

やれっ、脱げ。
場末のストリップのごとき声援は、もちろん裸になりたがるストライカーのハットトリックを期待してのもの。
程無くして笛が鳴り、アルゼンチン人の芋を観察する野望だけは打ち砕かれた。
やれやれと解散しようとした時、部屋の電話が鳴った。矢口が受ける。
「ハロウ」
「ヘイエビバデカモンオイエオイエウチライーイージャーン」
何語かも判別できないほどまくし立てる電話の声に後藤に助けを求める矢口。
「んあ? いいから早くサヤカ先輩に代われよ」 後藤の弟らしかった。日本語まで忘れてしまったのだろうか。

「サヤカ先輩、おめでとうございます。なに言ってるんですか? ちょっと聞き取りにくいです」
矢口が受話器を奪う。
「サヤカ!」
「あ、まりっぺ?」
近くでアルゼンチン人がバカ騒ぎしているせいでかなり声は聞き取りにくい。
「サヤカだよね。ほんとにそうだよね」
「そうだよ。FWなのに一本もシュートの打てなかった市井紗耶香」
やっぱりサヤカだ。
「こっちは約束果たしたよ。待ってるからね」
約束とはもちろん、最高の舞台での再会。
電話の向こうで大声が。
「祝勝会始まったみたい。ごめん、じゃ」
電話は慌ただしく切られた。

アルゼンチンの勝因はスーパーサブ、サヤカ・イチイがリズムを作り出したことにあるというのが大筋の見方だ。
が、私はむしろイチイの投入によってオーストラリアが勝手にリズムを崩したと見る。
先日豪州はイチイの第二の祖国日本とのテストマッチで2点リードしながら終了間際で逆転される悪夢を見た。
外見は完全に日本人であるイチイが入った瞬間、そのトラウマがなんらかの作用を及ぼしたとしても不思議はない。
日本はかつての同僚を助け、イチイは決戦に赴く日本チームに勇気を与えた。それもまたひとつの得難い蜜月の形である。(A・ホーサイ・ツルオカ)

「おあよ」
「ん…」
翌日、赤い目と生あくびの一団が練習場に向かうと、すでに辻と加護がシュート練習を始めていた。そしてシュートが決まるたび
「ごおおおお!」
「じゃぱーん!」
昨夜の試合のチーム内視聴率が100パーセントであることが判明した。

整髪料で満たした両手で一気に頭を撫でつける。後れ毛を残さないように、何度も手櫛を滑らせる。
「裕ちゃん、なにやってんの?」
「わあぁ、その髪型」
「変かなぁ? オールバック」
中澤の世代にとっては最も気合の入った状態を象徴するリーゼントが、矢口たちの世代には新鮮に映る。
「ううん。かっこいいよ」
「ホントです。その髪型、私たちの年齢だと似合わないんですよねぇ」
「なんか言うたか、石川」
「いいええ、なんでもありませんよ」
そう言う矢口たちは、上から下まですべて白で統一されたユニフォーム姿。文字通りの白装束。
「裕ちゃん、ていうか、みんなにだけど、お客さん来てるよ」
「試合前にか? 誰やろ」

「みっちゃん!」
「お久しぶり、裕ちゃん」
未完の天才、平家みちよ。
左足の強烈なシュートを持つ天才肌のストライカーとして名を馳せ、寺田監督も当初彼女を中心とするチームを作るつもりでいた。
が、平家はそれを断った。
皮肉にも、寺田日本代表のお披露目はその平家率いる名古屋グランパスとの試合。名古屋は代表を3−0で撃破した。
平家が一人で、代表をねじ伏せたようだった。
が、そこから平家の苦悩が始まる。ケガにつぐケガ、運気まで落ち、世界に通じるとまで言われたその実力は二度と戻らなかった。
引退後、この経験は絶対生きると指導者の道を選ぶ。指導者としての初仕事が、五輪代表チームのコーチである。
もしあの時代表に入っていたら、そう思わないではない。が、あの時の自分の選択を誤りとは思いたくない。
「がんばりや、裕ちゃん」
「うん。気張ってくんで」
交わしたのは、わずかな言葉と、万感の思い。

「今日は、こいつらの社会見学やねん」
「梨華ちゃん!」
「わ、みんな」
松浦、木村、戸田……石川、吉澤の五輪代表のチームメートである。
「応援してるから」
「絶対、勝ってくださいね!」
「うん、ありがとう!」
「はいはい、あともう一人、特に矢口に会ってほしい人が来てるんだなぁ」

Tシャツに半ズボン、見なれたショートカット。
矢口は、そのシルエットだけで泣きそうになった。
「明日香」
かつての同僚、福田明日香がそこにいた。
チームを去って以来、福田が会場にまで来て試合を見るなんてなかったことだ。それがこんな場所で会えるなんて。
「元気だった?」
「なに言ってんの、こないだJで顔合わせたばっかですよ」
「そうだっけ?」
矢口はもうメロメロだった。
「矢口、とにかく、がんばれ。悔い残さないように」
「うん!」

「ほんまはなぁ」
平家が続ける。
「石黒も来ててんで」
臨月のはずの石黒の名が出たことに動揺する中澤。
「アヤッペが? どないしたん?」
「破水してもうてん」
「産まれるの?!」
「陣痛きてるのに、今ここで産んだら子どもがカタール国籍になる、日本に帰って産むって聞かないのを旦那が引きずって病院に」
「海外でお産かァ。不安だね」
それでも、いかにも石黒らしかった。

「裕ちゃん、やぐっつぁん、梨華ちゃん!」
後藤が手招きする。
「がんばってね」
「おう、応援しててな」
「かっこいいですよ、石川さん!」
「いつもでしょ?」
「じゃ、ね」
「うん」
三者三様の言葉を残し、中澤、石川、矢口は走り去った。
「梨華ちゃん別人だね」
「かっこよかったーっ」
はしゃぐ五輪メンバーたち。この中から、また、新たに代表メンバーが生まれる。そうやって、チームは少しずつ変わって行く。
「明日香」
一人冷静な福田に、平家が声をかける。
「あんた、石川と同い年だよね」
「はい。そうは見えないって言われますけど」
「ていうことは、次のオリンピックに出る資格はあるわけだ。五輪チーム、FWに人がいないのよ。
松浦の後ろでドリブルしたり、ゴールを狙える選手が欲しいの」
五輪代表で結果を残せば、また、A代表に呼ばれる可能性も出てくる。
もしあの時代表に入っていれば、そう思う夜が平家にはある。
少なくとも、この後悔を他の誰かにはしてほしくない。

「せっかくですけど」
福田は、静かに首を横に振った。表情ひとつ変えず。
「代表チームは私には晴れがましすぎる場所です。その光栄さに、自分のプレーができなくなる。
今の私にとっては、自分のプレーができなくなる代表入りは、考えられない事です」
「未練ないんか? まだ若いんや、変に意固地になったら後悔するで」
「もし意固地に見えるとしたら、それも含めての福田明日香なんです」
惜しい、本当に惜しいと平家は思う。
確かに福田は自分の居場所を失って代表を去ったかもしれない。
が、今の代表には、激しく形態の変わるチームに対応しきれた人間だけが残ってしまったような気がするのだ。
確固とした自分を失わない福田こそが、今の日本代表に必要な人材ではなかろうか。

日の傾きかけた午後六時、蒸し暑く、風はない。
フェアプレーのテーマに乗って選手が入場。
青のユニフォーム、イラン代表の先頭はファハド・マサーヒー。
白のユニフォーム、日本代表の先頭は中澤裕子。
試合前、スタメンを発表した寺田監督は、キャプテンマークを中澤へ託した。
安倍、後藤、矢口と渡り歩いた黄色いアームバンドは、最後に中澤の左腕を選んだ。
「誰にするかいろいろ考えてんけどな、やっぱおまえしかおらんねん、俺のチームのキャプテンは」
それは、愛情にあふれた言葉だった。
決して若くはない、穴はないがGKとしては平均的な能力しか持たない中澤を使い続けることには批判の声も少なくなかった。
一度は協会からも他のキーパーにチャンスを与えてはどうかと勧告があった。
寺田はそれをすべて突っぱねてきた。中澤を外すなら俺も監督辞めるとまで言い切った。
それは、中澤がGKとして最も必要な精神的な強さを持っていたからだ。そして中澤は、見事にその期待に応えてくれた。
中澤だけではない、ここに残った選手、去っていった選手、そのすべての力でここまできた。自分の力なんてわずかなものだ。
だから監督はこの試合を、選手たちにあげるつもりでいた。
負けてもええ、この大舞台、思う存分にやれと。まあ勝つに越したことないけどな。それだけ言って、教え子たちを送り出した。

国歌斉唱。イラン主将マサーヒーの歌うイラン国歌は二万人の観衆が失笑を漏らすすさまじいもので、日本選手の緊張も少しそれでほぐれた。
本人もさしてそれを気にしているでもなく、気持ちよさげに歌っていた。
そして、恒例の写真撮影。中澤は定位置の後列右端に下がっていく。
「裕ちゃん、こっちおいでよ」
ともにチーム立ち上げからの生き残りである安倍、飯田がその腕を引っ張り、強引に前列の真中に引っ張っていく。
「ええは、後ろで」
「なに言ってんの。たまには目立たなきゃ」
中澤は照れながらもその位置に収まった。
一方、その前列中央が写真撮影の時の指定席だった矢口、練習球も持ってきて
「後藤、石川、肩貸して」
二人の肩をつかんでボールの上に乗り、後列中央におさまった。こうしないと顔が写らない気がしたのだ。実際はそこまで小さくはないが。

キックオフを取ったイラン、鼻息の荒いアリ・バシタカを猛獣使いといった体のマサーヒーがなだめている。
笛が吹かれ、マサーヒーが一度ボールを下げる。
「かかれーっ!」
矢口、加護、辻が三方から踊りかかった。有無を言わさず、ボールを奪い取る。
夏とさんざん練り上げたコンセプトは結局未完成のまま。が、夏は
「試合が最大の練習なんだ。自分のひらめき、それから互いを信じろ」
と送り出した。
加護が辻へ。辻が加護へ。ショートパスの乱れ打ちで中盤を突破。が、イランの巨漢3バックが二人の行く手を阻む。
「戻せっ」
加護がヒールで下げる。走りこんだ矢口、右足で思い切り叩く。枯れた冬芝を巻き上げる低空飛行のシュートをイランキーパーが前にこぼす。
「押し込め!」
二人がリバウンドに飛びつく。が、GKがボールに覆い被さった。矢口が舌打ちする。が、これでいい。二人には自由にやれと言ってある。
尻拭いは自分がするからと。

マサーヒーからバシタカへのスルーパスが通った。が、フラッグが上がる。
「オフサイド?!」
マサーヒーが困惑する。ここ何試合も日本はオフサイドトラップを仕掛けていなかったはず。が、パスの瞬間ディフェンスは一斉に上がった。
誰が指令を出した? 6(保田)か? 5(後藤)か?
「よっし」
4番をつけた吉澤が、他の二人と顔を見合わせながら小さく拳を握っていた。
保田は能力では申し分のないこのメンツが力を出し切れない原因がポジションのミスマッチであることに気が付いた。
それまで右サイドだった吉澤をセンターにコンバートすると、まるで水を得た魚のように働き始めた。
その高さと強さ、そしてユース代表でも多用していたオフサイドトラップ。
石黒のように急激に上げていくことはせず、後藤や保田の様子を見極めてのラインコントロールに最初は戸惑ったが、これも彼女の優しさゆえだろう。
ボールに触れずボールを奪うこの戦術は、なによりもGKを含むDF全体の信頼と相互理解が重要視される。
不安なのはその点だったが、今の一糸乱れぬ上がりに保田は確信を得た。いける、と。

が、オフサイドトラップがディフェンスがゴールをあけることで成り立つ以上、
そのタイミングを見誤れば敵に剥き出しのゴールをさらすというリスクがある。
イランがロングボールで左サイドを狙う。マサーヒーがタイミングを見切って前へ。フラッグは、上がらない。
「どかんかい!」
中澤がペナルティーエリアを飛び出した。マサーヒーがボールへ向かうコースに体を入れる。空いたゴールは戻ってきた吉澤と保田がカバー。
マサーヒーがあまり長くはない足を伸ばしてボールを奪おうとするが、中澤も背中と広げた両腕とでブロック。蹴られながらもボールを守る。
さらにボールは転がり、そのままタッチを割る。
後藤がスローインしようと中澤のほうへ寄っていく。中澤は自らスローインを入れ、後藤の胸にボールを渡した。
「裕ちゃん、張り切りすぎだよ」
「今日張り切らんでいつ張り切るねん」

この日、初めてバシタカがボールを持った。
「カオリ、ディレイ!」
正面に回りこんだ飯田だがむやみにボールを奪いにはいかない。まず時間を稼ぎ、援軍を待つことを何度も言い含められていた。
「カオリ!」
バシタカの背後から矢口と加護が囲んだ。
ツートップの右に入った辻はともかく、オフェンシブハーフの二人は中盤のプレッシングにも参加する義務がある。
形成不利と見たバシタカは横目で場をチラリと見やり、右にはたく。
「ほいっ」
マサーヒーへのパスを軽快に飛び出した石川がカットした。
10(バシタカ)は囲まれると必ず11(マサーヒー)を探す。データ通り。
「石川っ」
サポートに走った矢口がパスを要求する。が、石川はドリブルで前へ。ダッシュ、ターン、フェイントを織り交ぜ、前へ。
目の前にこんなにおいしそうなスペースが口を空けてるのに、誰が渡すかよ。
「ほいっ」
DF三人の動きを止める、石川必殺の「ブリザード・スルーパス」が右サイドへ。

走りこんだのはナンバー5、後藤真希。吉澤とポジションを交換したことで、より攻撃のチャンスが増えた。
インド戦、最後のシュート。届かなかった何十センチか。それを埋めるために、今日、ここまで来たのだ。
ノーマーク、右30度からの弾丸シュート。ダイブしたGKが伸ばした手を軽々と弾くが、ポストに嫌われる。
「くっそ」
「ごっちん、早く戻って!」
全速力で、後藤が駆け戻る。

日本(3−2−3−2)

    7安倍      22辻

 MF 10加護    8矢口

    11飯田     14石川

6保田     4吉澤    5後藤

        @中澤

「梨華ちゃん、すごいね」
「うん」
スタンドの木村麻美、戸田鈴音は顔を見合わせる。
石川がA代表に呼ばれた時、まさかボランチで使われるなんて思ってもいなかった。
自分たちの前でゲームを作っている時の石川は攻撃にのみ神経を使っているようで、
石川が守らない分おまえらが汚れ役に徹するんだと教えられてきた。
ボランチが欲しいなら、本職の自分たちが呼ばれるべきではないか。口に出さないまでもそんな悔しさは絶えずあった。
が、今の石川は、すでに五輪代表での一試合分は走っているように見えた。
矢口のフォローに走り、後藤が上がったら空いた右サイドをカバー、時には辻の裏を走ってセンタリングも上げる。
攻撃センスでは二人は石川には及ばない。その石川があれだけ献身的な動きをすれば、かなうはずもない。
代表チームとは、石川のものぐさまで直してしまうすごい空間だと二人は実感した。

一方、その隣で頬杖をつく松浦亜弥。元日本代表FWの父を持つサラブレッドとして早くから注目を集めるストライカー。
線は細いがチャンスメーク、ポストプレー、フィニッシュとオールラウンドな能力の持ち主で、プレースタイルのよく似た安部なつみとよく比較され、
一部では「安倍二世」とさえ呼ばれている。
松浦本人、正直、ありがたくないなと思っている。現役時代「釜本二世」と呼ばれた父は、釜本を超えることなく終わったのだから。
「松浦、どや、今日の安倍は」
平家が尋ねる。
「ううーん…って、感じです」
以前の安倍は、ボールを持ったら必ずなにかをやってくれた。松浦はそのたびにドキドキしていた。
今日の安倍にはそのドキドキをみじんも感じない。3、13、23のスリーバックにすぐつかまり、蹴倒され、泥にまみれる。
今日はユニフォームが白いからそれが特に目立つ。
「あんた、安倍嫌いだっけ?」
「好きだけど・・・」
二世という呼び名には抵抗を感じるが、自分のプレイが安倍に似てるとしたら、その影響を多分に受けているからなのだろう。
だから、それだけに今の安倍が見るに耐えない。
「松浦、あんた、ブラジル行くんだよね」
「オフを利用しての短期留学ですけどね」
「今の安倍のすごさがわかんないんじゃ、行っても意味ないよ」
這いつくばり、傷を隠そうともせず向かっていくエース。
「チビ三人が自由に動けるのも、中盤でプレッシングがかけられるのも、安倍のチェイシングが効いてるからよ。
中盤のプレスが甘ければ最終ラインも上げられない。安倍がいなければ、チーム全体が機能しなくなる」
「・・・でも、フォワードの仕事は、点を取る事です」
「こうすれば必ず結果が出る、ってものじゃないでしょ。調子が悪いときどうすればいいか、今の安倍はそれを実践してるのさ」

「明日香、あんたはどう思う?」
今度は右に座っていた福田に意見を求める平家。
「イランに、これといった動きがないのが不気味ですね。まずはガードを固めて、日本の手の内を見てるようなそぶりが、
気に食わないといえば気に食わないです」
やはりこの戦術眼は尋常ではない。平家もまったく同じことを考えていた。
ここまでのシュート数、日本の4に対しイランは0。90分守りきろうとでもいうのだろか。
「おうっ」
矢口が倒された。倒したのはイランのボランチ、スナイパーの異名をとるDゴローニザデ。正確にボールを狙ってきた。
これまでの敵同様、イランは矢口のフリーキックを恐れて悪質なファウルはしてこない。
矢口をマークするゴローニザデもクリーンなタックルが持ち味だ。たまたま今反則を取ってもらえたのは日本には幸運だった。
ゴールやや左寄り、右足で狙うには絶好の位置での直接フリーキック。後藤、矢口が立つ。
「エイト! エイト!」
イランGK、K・シンゴママーが念入りに壁を作る。矢口のセクシーボールを止めれば日本の歯車は狂うと。
ボールに矢口が走る。空振り。後藤がスルーパス。走りこむのは辻。シンゴママーが早い。辻が吹っ飛んだ。
シンゴママー、すぐさまパントキック。イランのカウンター。

「戻れぇっ」
GK中澤が指示を出す。が、イランも両サイドが上がり、保田と吉澤がサイドに引きつけられる。
ボールを持つマサーヒーに、向かい合う石川。
「飛び込むな、ここ耐えろ!」
言われなくってもわかっている。そのはずだった。
「チキン」
マサーヒーのその一言が、石川の思考を狂わせた。チキンが臆病者のことだってことくらい石川だって知っている。
少なからずムッとなった石川に追い討ちをかけるように、マサーヒーはボールから足を離してみせた。完全なおちょくり。
石川が飛びついた。寸でのところでボールをコントロール、石川のスライディングをやりすごしたマサーヒーがゴール前にロビングを上げた。
ゆらりと飛び上がったイランのエース。飯田と競りながら、横っ面で逆サイドに叩きつける。中途半端に飛び出していた中澤が完全に逆を突かれた。
先制ゴールを叩き込んだアリ・バシタカは頭を抱えながら叫んで見せる。
「I play to win!」

「く……」
飯田がゴールに転がったボールをにらみつける。
半端ではない屈辱だった。飛びあがろうとした瞬間、足を踏みつけられたのだから。
「あっはっはっは……」
見れば、座り込んだ中澤がけたたましく笑っている。
「カオリ、笑とけ。悔しがったりしたら、相手を調子乗らせてまうで」
笑った顔のまま中澤の言葉に、飯田も一緒になって笑い出す。
「わっはっはっは」
「あっはっはっはっは」
「うわっはっはっはっは」

おいおい、もうキレちまたのかよ。後藤が首をかしげる。
「気をつけろよ。オバちゃんたち、なんか企んでるぞ」
矢口がボールを抱えて、センターサークルに走っていった。

イランの名伯楽、ノリタケ監督は早々に手を打ってきた。
後藤に押されまくっていた左アウトサイドを下げ、このポジションに右サイドにいたツヨポン・ナギンチェフを回した。
小柄だがアジアでも屈指の技巧派サイドバックのナギンチェフを前目に張らせ、後藤をけん制させる狙いだった。
これによって、後藤はうかつに上がれなくなる。
「前半、あと二回はチャンスがくる」
矢口にはそう言われたが、ナギンチェフは後藤が上がろうとすると前に飛び出すそぶりを見せた。
「ごっちん」
「梨華ちゃん」
「今度マイボールになったら、迷わず上がれって後は心配するなって」
ついで石川は、飯田にも同じことを伝えた。
「って、10のマークどーすんだよ」
「まかせてください」
「任せらんねえよ、危なっかしくて」
「あははは……」

イラン、バックラインからのロングボールに吉澤が反応する。
「上がれっ」
後藤、保田が前へ。長すぎるボールをイランは追いもしない。中澤がエリア外ギリギリで流れてくるボールも待つ。
「行けっ」
右から後藤、左から飯田がそのまま前へ。ナギンチェフが後藤を追う。
その道筋を、日本の背番号8がさえぎる。
「いてぇじゃねえかよ」
道を変えようとすると、さらに背番号14が
「ちゃお〜」
中澤がセーフティーにキャッチ。胸に抱えたまま、なかなか離さない。
1秒、2秒、3、4、5……
「どりゃあ!」
どんどん飛距離を伸ばしたキックは一気にイランゴール前に。
走りこんだ勢いのまま、飯田が飛ぶ。イランの3、23もともに飛ぶ。
マークを引きずりながら、安倍もゴール前へ。
カオリなら、きっと落としてくれる。私の一番欲しいところへ。

その年の全日本少年サッカー大会北海道予選決勝は、二人の六年生少女ストライカーの対決となった。
長身でヘディングなら中学生にも負けない「札幌のファン・バステン」飯田圭織。
小柄だが抜群のテクニックと勝負強さを併せ持つ「室蘭のマラドーナ」安倍なつみ。
が、対決ムードをあおる周囲とは裏腹に、本人達はいたって暢気にアイスなんかしゃぶっていた。
「へぇ、そこ、あたしの産まれた病院と同じだよ」
「誕生日も二日しか違わないんでしょ? うちの母さん、あんたなんかうちのコじゃないってよく言うんだよね」
「本当にそうだったりして。取り違えて」
「安倍さんちも? うちもー。今度うちにおいでよ。この子があなたの本当の娘ですって」
試合は、このレベルでは他を超越した二人のゴールショーだった。
飯田がキーパーより高い打点のヘディングを見せれば、安倍は五人抜きドリブルシュートを披露。
飯田が長いリーチを利したボレーを豪快に決めれば、安倍は鮮やかなループで対抗する。
結局延長を含め、5点ずつを決めた二人は、PK戦のラストキッカーに。
先攻の飯田は外し、後攻の安倍は決めた。泣きじゃくる飯田の肩に手を置いた安倍の目にも涙が浮かんでいた。
「全国、絶対優勝してくるから」
安倍はその約束を果たし、優勝旗は初めて青函トンネルを越えた。
翌年二人は揃ってコンサドーレジュニアユースの門を叩く。
以来、ずっとチームメートとしてやってきた。クラブでも、代表でも。

わかってたよ、たぶん、なっちのほうが上だって。
けど、だから、あたしはなっちを超えようって頑張ってきたんだ。
あの子はどーかわかんねえけど、あたしはあの子をライバルだって思ってる。
安倍なつみがいつも前にいたから、飯田圭織はここまでやってこれたんだ。
今までも、これからも。

「カオリィー、強めに落とせ!」
中澤が叫ぶ。浮きダマではイランに時間を与えてしまう。
両サイドをガードされながら、飯田が首をしならせる。
ヘディングなら、あたしはなっちにも負けない。
DF二人に完全に競り勝ち、右にボールを落とす。
安倍が飛びついた。GKも前へ。
強シュートは右ポストを叩き、高く跳ね上がった。
フリーで詰めた選手がいた。上体を傾けて、前へ飛ぶ。
空っぽのゴールにボールごと飛びこんだ後藤はひざまずいて白いゴールネットをつかんだ。
「うおおおおっ」
ネットを何度も揺さぶった。歓喜の雄叫びとともに。

後藤のダイビングヘッドで追いついた日本、追いつかれたイランともに無理はしない。
右FW辻、右サイドハーフ矢口、リンクマンの加護は激しいポジションチェンジを繰り返すが、ゴール前に張りついた3バックの壁は厚い。
「オバちゃん、へばるなよ」
加護にすれ違いざまそう言われた矢口だが、あれくらいの年ならあたしもオバちゃんかもなと思い直す。
実際、自ら編み出したこの戦術は、すさまじい消耗を矢口に強いていた。どこまでこの動きが続けられるか矢口本人にも分からない。
その矢口、イランのボランチ、ゴローニザデにも苦戦している。
中東のディフェンダーにしてはえらく華奢なこの男は、小柄な矢口にもほとんど当たってこない。
周囲の選手との連携を保ち、追い詰めておいてパスを奪うクレバーな選手だった。
やりにくいったら、ない。
矢口が欲しいのはファウルなのだ。ゴール近くでフリーキックをゲットし、セクシーボールをイランゴールにねじこむ。
しかしイランもまた、日本をよく研究していた。
「くそっ」
フリーなのにフリーにやれない矢口がドリブルで挑む。が、3バックが行く手を阻む。
「矢口さんっ」
左に辻が開いた。さらにその裏を加護が走る。辻、加護とつないで再び矢口。
読みきっていたゴローニザデ、両手を広げて通せんぼ。
「矢口っ」
「矢口さん!」
加護と安倍が左右に開いた。
矢口が放ったロビングがゴローニザデに防がれる。
笛が鳴る。ハンドリング。だがそれをしなければゴール前、フリーのFWにパスを渡していた。
ゴローニザデからファウルを奪うにはこれしかない。矢口の作戦勝ちだった。

ゴールほぼ正面からのFKに、イランが壁を作る。日本は矢口と、今度は石川がボールの前に立つ。
イランGKシンゴママーは若いが恵まれた体躯と駆け引きの巧みさで日本を苦しめている。
「ナンバー8、カモン!」
矢口に蹴ってこい、と要求するシンゴママー。彼は知っている、矢口のフリーキックを止めれば日本を意気消沈させられると。
おもしろいじゃんか。けど、ここで決められたらかなり間抜けだぜ、おまえ。
シンゴママーとて、絶対の自信があるわけではない。が、ここが勝負であると。
大丈夫か、止められるのかとマサーヒーが寄っていく。大丈夫だ、と、力強くうなずくシンゴママー。
「おれっちが蹴るよ。あいつ、矢口さんが蹴るって決め付けてるもん」
「いや、いずれ蹴らにゃならん。蹴ってこいってんなら蹴るまでだ」
「はぁ」
「まさか止められると思ってんじゃねえだろな?」
矢口の決心が固いと見るや、引き下がる石川。が、ここでもっとしつこく食い下がってればと、後悔するのである。
ボールのへそをこちらへ向ける矢口。しばらく蹴ってないが、感覚は覚えている。
むしろ、早く蹴りたかったのだ。またいつ爪が折れるか分かったものではない。一発決めてビビらせておく必要があった。
矢口も、やはり焦っていたのだ。
笛が鳴り、ボールに向かってダッシュ。振り上げた右足のアキレス腱をぐっと伸ばす。ボールのへそ目掛け、つま先を突き立てる。
「?!」
ボールが壁の右から2番目にいたナギンチェフの頭上を超え、落ちる。シンゴママーが回り込む。
胸で、弾いた。大きくこぼしたボールをGKがキャッチ。
大きく、ガッツポーズを作った。何度も、何度も。

ミスキックだ。石川には分かる。落ちる角度も甘かったし、独特のブレもなかった。
だけど、なぜ。インパクトは完璧だった。フォームもおかしくなかった。
前半終了を告げる笛が鳴った。

「くっ」
矢口が右足のスパイクを投げ捨てた。乾いた音がコンクリートの床に響き、白いソックスから鮮血がしたたる。
「インパクトの瞬間ですか?」
「めっちゃ痛かった。根性でボール飛ばしたけど、ダメだったね」
作り笑いに、脂汗が浮かぶ。
「参ったね、イラン強えよ。韓国やサウジよりも……」
「個々のレベルでは、たぶんアジア最強でしょうね」
「10、11、4、5、2……いいチームだよ。こんなとこで当たりたくなかった。石川、バッグから接着剤とテープ」
石川が矢口のバッグをあさっている間、矢口はソックスを脱ぐ。血と汗で、なかなかスムースに脱げてくれない。力任せに引っ張る。
「うお……」
絶叫すらかすれた。かつてないほどの痛み。振り向いた石川が、泣きそうな声で
「矢口さん、指、折れてる」
血まみれの矢口の右足親指が力なく揺れていた。魔球が与える負担が疲労骨折を招いたのだった。

「もうダメです。交替してください。これ以上続けさせるわけには」
「だからどうした」
「壊れちゃいますよ!」
「あたしはまだ動ける。動ける限り、下がる気はない」
「イタリアに行けなくなってもいいんですか?!」
矢口には初耳の話だった。石川が、うつむきながら続ける。
「和田さんには黙ってろって口止めされたけど、矢口さん、セリエAのチームからオファーが来てるんです。
正式にじゃないけど。あんなシュートは見たことないって」
「そうなんだ。すごいね」
「なんでそんな他人事みたいに。日本、いえ、アジアで初のイタリアリーグプレイヤーですよ。矢口さん、なりたくないんですか?」
「ワールドカップのほうがあたしには重要だ」
「今回出られなくたって、矢口さんの年ならあと2回か3回はチャンスあるんですよ。
今ここで無理したら、ワールドカップどころか、二度とボールも蹴られなくなって……」
石川は言葉に詰まった。胸がいっぱいになって、言葉をつむげなくなる。
矢口はその背中や頭をさすりながら、優しく諭した。
「あたしはなにも、ワールドカップに出たくて無理してんじゃないんだよ」

「サッカーが好きで、日本代表が好きで、自分もその一員になれたらって、ずっと思い描いてきた。
 でも身長が止まって、小さいからだのままで、代表もプロもあきらめた。
 それが、日の丸をつけることができた。幸せすぎて、死んでもいいやって思ったよ。
 でも、今はちょっと違うんだ。
 選ばれなかったヤツ、間に合わなかったヤツ、事情でチームを去ったヤツ。
 そんなヤツらの思いも背負って、今うちらはここにいるんだって。
 簡単に、逃げちゃいけない。ていうか、逃げたくない」
「……わかりました。もう、なにも言いません」
石川が顔を拭く。
「自分は代表なんて、実体のないもののために自分捨てる気はないです。
 でも、矢口さんのためだったらこんな木っ端みたいな命、いくらだってくれてやりますよ」
「そうだよ、おまえ、横須賀ヤンキーの根性見せてみろよ!」
矢口が石川の柳腰をどついた。

そして、文字通り命を削っているのは加護だった。
他はどこもおかしくない。けど、心臓だけがギリギリと締めつけられるように痛む。
このまんま、死ぬんかなぁ……死にたないわぁ。
なんだか、サッカーだけの人生だったような気がする。まともな恋愛も、遊びも、友情もなかった。
ただ前へ、前へ。それしかなかったこれまでの自分を静かに振り返る。少しだけ心臓が穏やかになってくれるような気がした。
「あいぼん、ここにいたの?」
辻はずっと加護を探していた。
ずっとライバルだと思ってきた辻が、ただ一人親友と呼べる存在になっていた。
「後半も、がんばろね」
このコ、うちがいんでもうて大丈夫やろか……心残りはそれだけだ。
「がんばりや、のの」
「?」
今は、少しでも長くサッカーをしていたかった。
限られた時間を、慈しみたかった。
大好きやで、のの。
「辻チャン、加護チャン」
「ミカちゃん」
二日前に帰化申請が通り、追加メンバーに登録されたばかりのミカ・トッドだった。
「ワタシも後半、出ます。ガンバリマショウ!」

アリ・バシタカは不機嫌だった。俺が一番強いんだ。なのになぜ一本しかシュートが打てないんだ。
そんなことをブツクサ言いながらピッチへと入っていく。
「ミスター・バシタカ」
日本の6番がその横に並んだ。
「ユーのお相手は私がするわ。よろしくね」
保田のウインクにバシタカはウエッとなった。

後半の日本(3−2−4−1)

        7安倍

3ミカ  10加護   8矢口   22辻

    11飯田     14石川

  6保田   4吉澤   5後藤

        @中澤

     

「あのぉ、矢口真里さんですよねぇ」
「そうだけど、なに?」
「私のこと、覚えていませんかぁ? 神奈川のトレセンで一緒だった石川っていうんですけどぉ」
「ごめん、覚えてないや」
「そんなぁ」

高校選手権準優勝の金看板を引っさげてフリューゲルス入りした矢口真里。
高校を中退し、フリューゲルスユースに加入したばかりの石川梨華。
二人が互いを生涯かけてつきあっていく仲であると確信するのに、練習が中止になった午後を費やせば十分だった。

「あんたさぁ、なんでそんな喋り方なの?」
「わたし、三人姉妹の真ん中なんですけど、姉と妹ができがいいんです。
わたしだけみそっかすでぇ、しょうがないから言葉遣いだけでもしっかりしようと思って。そしたら、梨華ちゃんはお行儀がいいねぇってほめられて。
それから、緊張するとこんな話し方になるようになっちゃいました。友達と喋るときはもちろんかんなんじゃないですよぉ」
「へぇ、あたしと喋るのも緊張するんだ」
「そりゃあそうですよ」
「そんな緊張しなくていいのに。まぁ、ちょっとずつ慣れるだろうさ」

「矢口さん、午前中は全日空でコピーとったり、お茶入れたりしてますよね。どうしてプロ契約しなかったんですか?」
「身長だよ。あたし自身はそんなの関係ないって思ってるけど、監督によっちゃこの身長だけで使ってくれない人もいるからね。
試合に出られなきゃプロはお払い箱だもん。これは親の希望でもあってさ」
「関係ないじゃないですか、親なんて」
「そうじゃなくって、心配するのよ。親ってのは。元スポーツ選手よりはOLのほうが嫁のもらい手もあるだろうって。確かにそうだろうし」
「やっぱりおかしいです」
「いいんだよ。心は完全にプロフェッショナルだから」

朝起きて、横浜の自宅から満員電車に揺られて都内の会社へ。
午前中、事務の仕事をこなす。
正午を過ぎると、東横線でフリューゲルス練習グラウンドへ。
プロ選手に比べて練習できる時間は少ないが、その分集中するよう心がける。
練習が終わるともう遊びにいく余力は残っていない。帰宅して、死ぬほど眠る。
それが矢口の日常になっていた。

朝起きると、一人暮しのアパートから徒歩で専門学校へ。
西神奈川では結構上位にいるサッカー部のある高校は、ほとんど通わずにやめてしまった。
学校が終わると、高校の授業を終えた他のユース選手と共に練習。
中途で入ってきた石川は、必ずしも他の選手とうまくやってるとはいえなかった。

一日一日を薄紙のように積み重ね、それがほどほどの厚さにまでなった頃。
二人の結束を決定的なものにした一夜は訪れた。

携帯電話が鳴る。矢口はスーツのまま眠りこけていた自分に気がついた。部屋は暗い。
「はい、もしもし」
「ヤグチさん」
「石川……いま何時だと思ってんだよ」
とはいえまだ午後十時過ぎ。深夜とはいえない時間だ。
「いまから言うこと、聞き漏らさないでくださいね」
切羽詰った口ぶりに、矢口が姿勢を正す。
「最近、やけにイタ電とか増えて、その内容も部屋を覗かれてるみたいにリアルなんですよ。話しましたよね?」
「警察に届けるとかって言ってたやつだろ?」
「ええ。あんまりおかしいんで、昨日一日かけて部屋引っ掻き回したんです。そしたら宅電の裏から出てきたんですよ」
「何が?」
「盗聴器」
あまりのことに言葉を失う矢口。
「実家にいた頃の、ちょっと、ワルっぽい友達がいるんですよ。その子が一度アパートに遊びにきて、盗聴器仕掛けていってたんです」
「なんで?」
「そういうのって、カネになるらしいんですよ」
「ひでえな」
「ええ。あまりアタマにきたんで、横須賀帰ってそいつ締め上げたんです。そしたら」
時計の針が11時を回った。

「そいつ、ヤクザの車パクって、ヘマやったらしいんですよ。弁償しろって、金策に走らされて、それで困って」
「友達売ったのかよ。最低だね」
「……これから、そのヤの字の処行って、ナシつけてきます」
「なんであんたが?」
「ダチですから」
なにを言われたか分からず、一瞬、矢口の思考が停止する。
「なに言ってんだよ、あんた、自分がなにされたかわかってるの?」
「分かってて、言ってるんです」
「なんで」
「ダチは信じて、守ってやるもの。それができないやつはクズってもんです」
変人呼ばわりの総理大臣、白血病撲滅に奔走するロックミュージシャン。
横須賀とは一風変わった価値観を持った人物を輩出する土地柄ではあるが。
「なにを考えてんだよ。自分が言ってる事、分かってる?」
矢口の震える声に、石川の笑い声。
「なにがおかしいんだよ。今どこだよ。あたしも行く」
「ダメです。矢口さん、今大事な時期じゃないですか」
確かに当時トップチーム入りしたての矢口はレギュラーをとれるかどうかの最も大切な時期にあった。
「関係ねぇよ。あんたの身柄のほうがよっぽど」
「あたしも同じですよ。仲間の命が、最優先なんです」

暗闇の中、矢口の頬を涙が伝う。情けなさに涙が止まらなかった。
「じゃあなんで電話したんだよ。なにもできないならどうしてあたしを頼ってきたんだよ」
「お願いが、あるんです。明日の朝6時までにもう一度連絡します。もし連絡がなかったら、警察に電話してください。
どの道沈んでるとは思うんですけど」
「沈むって?」
「海か、フロかに」
矢口はめまいがした。
「連絡がなかったら、警察に連絡して、横浜港さらってもらってください。親もマンジュウ(遺体)見るまでは納得できないだろうし。
電話する時は、どっかの泡姫になってるから、それは親は知らないほうが幸せじゃないですか」
「バカ。やめろ。早まるな」
「矢口さん。お世話になりました。……矢口さん、あたしは日本代表になんてなれないってこぼしてたけど、そんなことないと思いますよ。
見る人はちゃんと見てますから。サヨナラ」
電話が切れた。かけ直す。当然電源は切られていた。
スーツのまま家を飛び出した。
確かに横須賀港ではなく、横浜港と言っていた。ならこの近辺にいるはず。
タクシーを拾った。横浜の繁華街に出た。
横浜、関内、桜木町。めちゃくちゃに走り回った。
ふたたびタクシーを拾った。ソープランドなら川崎に多い。
国立競技場の夏芝の中に一本だけまぎれたニラを探すようなものだとは分かっていた。
が、矢口はそれでも歩いた。次につかむ一本がニラの葉ではないとは限らない、そう信じて。

夜の闇が暁色にその身を変じようとしていた。
矢口は大好きな青紫をこの朝ばかりは呪った。
「石川……」
一晩休まずに歩き回り、足が痛い。まだ6時になんないのかな……携帯をスーツの内ポケットから取り出す。
「あ」
着信が入っている。なんで気がつかなかった。リダイアル。
「やぐちすぁん」
「石川、生きてるか?!」
「いまね、じぇーあーるのかわさきえきにいるんすよ」
ラッシュアワーのサラリーマンやOLが白い眼で見ていく。
駅の一角の床に、柱にもたれ、ボロ雑巾のようになった石川が座っていた。
「すっげぇ格好じゃねえか」
小さな顔は三倍くらいに腫れあがっていた。
「はなしのわかるひとたちでたすかったれすよ。なぐるけるだけでゆるひてくれまひた。
でもおれっち、さっかーせんしゅれすから、あしはまもりましたよ」
確かに上半身はボコボコだったが、腰から下にはかすり傷ひとつ受けてない。
「バッカじゃねえの」
「ともらち、すくないんれ、たいせつにしねえと」
石川に背を向け、しゃがみこむ矢口。
「いいんれすか?」
「友達だろ、あたしら」

まりちゃんと、りかちゃんは、そのひ、ほんとうのともだちになりましたとさ。

ゴローニザデのスパイクが矢口の右足を狙う。もはや矢口のフリーキックを恐れてはいない。
へん、削りたければ削ったら。
替えのすね当てを割って添え木にした右足で加護にショートパス。加護がさらに左足アウトのチップキックではたく。
「ハイ!」
ミカ・トッド、左サイドを疾走。どれだけこの時を待ったか分からない。
まだ時差ボケが残り体調万全ではないが、モチベーションの高さがそれを払拭していた。
「後藤サン!」
左足での豪快なサイドチェンジ。それまでの日本に欠けていたダイナミズムあふれる攻め。
逆サイドで後藤がトラップ。ルック・アップ。ナギンチェフが腰を落として待ち構える。
「ごっちん!」
石川がその背後を走る。パスが出る。横須賀じゃファウルでしか止められなかったスピードスターが右タッチライン際を駆け上がる。
マサーヒーが回り込んだ。その股間を通し、抜き去る。マサーヒーの右手が石川のシャツをつかみ、引き倒した。
「大丈夫、梨華ちゃん?」
「だいじょうぶだよう」
お尻をはたきながら、とびきりのスマイルをマサーヒーにぶつける石川。
「ニワトリが逃げたわね」
(ニワトリが逃げる=股抜きのスラング)
マサーヒーが足元につばを吐いた。

さて、フリーキック。
ポイントは右タッチとハーフラインの交差点の5メートルほど前。
イランはセンターサークルにバシタカを残し、全員が守りに戻った。
さて、どうすんべか。石川は腰に手を当てる。
ニアポストに吉澤、ファーポストに飯田。
ミドルを狙える位置に後藤、安倍。
エリア外でルーズボールを拾う辻、加護、ミカ。
センターサークルでカウンターに備える保田、矢口。
イランは3バックが日本のツインタワー飯田、吉澤に張りつくかと思いきや、なぜか距離を置いている。そして、しきりに互いの顔色をうかがっている。
なんだ、一対一は強いけど、組織プレーはサッパリかよ。
一度ボールに向かって駆け出し、ボールの前でズッコケてみせる石川。
が、これは石川の「サイン」だ。ヘタな照れ笑いを浮かべながら構え直す。
二日前、テレビの中の市井が見せたアーリークロスがこれくらいの位置からだったはずだ。
あの荒れた芝で、一瞬で動いているボールを手なずけて見せた市井は確かに凄い。
けど、おれっちだって止まったボールならそれくらい、いや、それ以上のことができるんだぜ。

14番が再び助走を始めた瞬間、GKシンゴママーが号令をかける。
「タベタイナー」
3バックが上がる。
日本の11、4も続いて下がる。
「タベタイナー」
3バックがさらに前へ。
二列目にいた5、7も逃げていく。
「タベタイナー」
3バック、どこまでも前へ。
むき出しのゴールに、後方にいた日本選手が三方から向かっていく。
「グー!」
ニアサイドから22、身を縮めて飛びつく。
「チョキ!」
中央から10、片足を上げて飛びこむ。
「パー!」
ファーから3、両手両足を広げて飛びかかる。
チビども、俺様が弾き飛ばしてくれる。
シンゴママー、掛け声もろともゴールを飛び出した。
「OHA−!」

フリーキックは「後出し」だった。
前に出るGKの動きを完全に見切って、さらに遠目にロビングを上げた。
あのアホ、なんちゅうところへ。
センターサークルから駆け出したナンバー8が前へ。
145センチが舞う。伸び上がって、つむじに当てた。
シンゴママーがそれに気づくのは、ブラインドになった三人の背後から大きく浮き上がったボールが頭上を越えてからだった。慌ててきびすを返す。味方のレシーブミスを追うバレーボールのリベロのように飛びついた。
ボールはワンバウンドして、イランゴールを静かに陥落させた。
「ウガーッ」
完全にハメられたシンゴママーは、その場で自らのユニフォームを引き千切った。

「平家さん、見ました、あれ」
珍しく福田が興奮してみせる。
「ヤグヘッドですよ」
矢口のヘディングシュート。絶対不可能なことのたとえだった。
すごいよ、矢口。
まさか、こんな大一番で不可能を可能にしてみせるなんて。

矢口、ちょっと早すぎやで。
石川のアタマを小突きながら戻ってくる矢口を中澤はどんな顔して迎えて良いか分からない。
確かに厳しい時間帯が来る事は覚悟している。が、いくらんなんでも早すぎた。
「おケイ! ごっつぁん! よっしー!」
が、守ってみせる。それしか道はない。
「集中せぇよ集中!」

オフサイド崩れを突いた矢口のゴールで、この日初めてリードを奪われたイラン。ナギンチェフを本来の右サイドに戻し、点を取りに行く。
そのナギンチェフがミカと向き合う。投入されたばかりで有り余るスタミナを誇るミカを崩しきれず、中央のゴローニザデへ。ゴローニザデが左へ。マサーヒーが一点目と同じようなロビング上げる。こちらもリプレイのようなヘディングを逆サイドへひねり出すバシタカ。
が、今度は中沢が回り込み、正面でキャッチ。
アホちゃう? 同じ手が二度も通用するかい。
串揚げかてソースを二度つけたら飲み屋のおっちゃんにどやされんで。
時間はまだたくさんあった。

バシタカはピッチの端で水を飲みながら、いっこうに離れてくれない6番に辟易していた。こいつならトイレにまでついてくるんではないか?
前半シュート数は一本だったが、その一本を決めた。
後半はすでに3本シュートできているが、決定的な形で打てたものは一本もない。
偶然が三回は続かない。バシタカもさすがに気づく。シュートを打たされていることに。

バシタカがポットを投げ捨てると、保田もその後へ続く。本当は自分ものどが乾いているが。
飯田には悪いが、前半、バッチリ研究させてもらった。
このタイプのストライカーに正面からぶつかってはだめだ。誘って、向こうが仕掛けるのを待つ。
3バックの並び順を変えようと思い立った時、最初に考えたのは自分がセンターに立って後藤と吉澤を分断することだった。
それに、一回くらい真ん中でラインコントロールをしてみたかった。
が、残念ながら自分はそのガラではない。
ストッパー保田圭の集大成として、このイラン人ストライカーは申し分のない相手である。

マサーヒーが焦れたようにドリブルで突き進む。パートナーのバシタカが封じこまれている今、なんとか突破口を開かねば。
左サイドを駆け上がるマサーヒーを後藤がケア。センタリングに飛びつく。足に当て、吉澤が大きくクリア。矢口が拾いにいく。
「げふっ」
後ろから突き飛ばされ、仰向けに倒れる矢口。
ゴローニザデがミドルレンジから狙った。狙いすました一撃が中澤の虚を突く。
「ほいっ」
いつの間にかそこにいた選手が、ジャンピングボレーでコーナーキックに逃れる。
「ありがとな石川。助かったわ」
中澤が倒れた石川に手を差し出す。
「いいってことよ」
「は?」
「やば……ま、いいや。どうせあんた、これが最後だもんな」
石川が舌を出しながら、イランのコーナーに備えてニアポストへ立つ。
「おまえ、そういうやつやったんか。んならもっとはように本性出しとけば、友達になれたかしんないわ」
「やだよ。めんどくせぇ」
マサーヒーが低くて速いボールを入れてくる。
「石川、クリア!」
「ほいっ」
顔面ブロックで弾き出した。

残り時間が二十分を切った。イランはリスクを承知で3トップに。
後藤、吉澤は抜群の安定感を見せ、保田はバシタカをフリーにさせない。
一見、日本ディフェンスは安定してるかに見えた。
が、イランはチーム全体が「1点を取るんだ」という意識統一が自然となされている。
一方、日本にはそれがなかった。個人の試合のビジョンがバラバラだった。
吉澤は「なんとしてもこの1点を守って勝つんだ」と思っている。
後藤は「守りきれるわけない。もう1点こっちが取って勝つ」と思っている。
保田は「とにかくあたしが破られなければ勝てる」と思っている。
意思の統一を図る、最も大事なはずなのに。

イランのロングパスを吉澤がヘッドで叩き落とす。後藤がフォローし、そのまま攻め上がる。
「深入りすな!」
後藤は聞かず、センターサークルまで上がり、そこから中央の矢口へ。
矢口も後藤と同じ考えでいた。3点目を入れ、一気にカタをつける。
左サイドからスライディングにいくゴローニザデ。矢口の左足パスが早い。
「があっ」
スパイクが矢口の軸足に食いこんだ。審判がアドバンテージを見て流すが、矢口はその場にうずくまった。
右のオープンスペースに出たボールに辻が飛びつく。ニアポストめがけて速いセンタリング。
安倍が飛び込んだ。ニアに飛び込み、ボールにちょっと触れてファーに流し込むアーセナルゴールは安倍の十八番だ。
GKシンゴママ―、両拳を握りしめて飛び込む。GKが一瞬早い。シンゴママーの全体重が、安倍のひざにのしかかった。
「ぎええっ」
矢口が立てない。安倍が悶絶する。
ルーズボールはイラン。ゲームを止めない。二人が倒れているのにも気づかない。

イランの右アウトサイド、ナギンチェフにボールが通った。
前に出すぎていたミカがあっさり裏を取られる。合流して日が浅く、連携がまだうまくいってない。
加護が追う。背後からぴったり体をつけ、必死にゴールをカットしにいく。少なくとも時間稼ぎにはなる。
ナギンチェフもそれは承知していて、焦りが表情に出る。
テクニシャンは総じてしつこいマーカーを嫌う。加護のマークは特に執拗だった。
つい、やってしまった。
「ぐ……」
ナギンチェフの右肘が、加護の左胸をえぐった。加護が力なくその場に倒れる。
もちろん許される行為ではないが、主審はファウルを取らなかった。加護もナギンチェフの足を蹴っていた。
ハイクロスが上がる。無論バシタカを狙って。保田が飛ぶ。
「げぇっ」
吉澤の位置からは、まるで赤い花が咲いたかのように見えた。
保田の頭からおびただしい出血。ウズベキスタン戦で受けた古傷が開いたのだ。
「保田さん!」
「バカ、くんな!」
吉澤の逡巡は致命的だった。ルーズボールを拾ったマサーヒーが日本ゴールにノーマークで切りこんでいく。

一対一。中澤が飛び出した。ギリギリまで距離を詰め、相手が仕掛けるのを待つ。
が、マサーヒーもそれくらい読んでいた。左に走り、キーパーまでかわしにいく。
中澤が捨て身で飛びつくその手をかわし、シュート体勢に。
もう一方の手の反動を利用し、中澤がさらにとびつく。
この時マサーヒーが冷静に逆にかわしていれば、真正面から無人のゴールに蹴り入れる大チャンスが訪れていたはずだ。
マサーヒーは明らかに中澤の影におびえ、さらにサイドに流れた。
中澤のセーブはかわしたものの、ゴールへの角度がほとんどない位置まで追いやられてしまっていた。
パスしようにもバシタカは倒れたまま。後藤も戻ってきた。
ゴールには石川がカバーに入っている。細身だがわずかなシュートコースは完全にふさがれていた。
マサーヒーが狙ったのはその石川の顔面。思いきり蹴り入れたボールに、石川の体が浮き上がる。
「ごふっ」
ボールもろともゴールに押し込まれた石川がネットにもたれ、その場に音も無く崩れ落ちた。
おまえが悪いんだぜ、そんなところにいたりするから。

凄惨なゴールに、イランサポーターまで静まり返る。
さっきまでべとついていた汗が今は冷たかった。
福田の背中にも鳥肌が立っていた。
「つ……強え……」

「……しかわ、石川!」
頭がクラクラする。まばたきしながら意識を取り戻すと、中澤の顔が飛び込んできた。きっちり塗り固めていたリーゼントがばらけてしまっている。
「ボールは、ゴールは?」
中澤が首を横に振る。
「すんません……ちっくしょう」
「なに言うてんねん。ナイスファイトや」
右を向けば、血染めのユニフォーム姿の保田が飯田に付き添われている。
よほど傷が深いのか、額にやった手の指の股からも赤いものがとめどなくしたたる。
「痛い?」
飯田がたずねても首を横に振るだけの保田の心情が石川には痛いくらい分かる。傷の痛みなんて、ゴールを許した痛みの比べたら。
「おら、立てよ!」
呆然となってひざまずいていた吉澤の胸倉をつかんで立たせたのは後藤だった。
「あんたもプロだろうが! てめえのヘマはてめえで取り返せ!」
吉澤は後藤の顔をまともに見ることができない。
石川は体を起こす。矢口は? 安倍は? 加護は?

「なっちぃ〜」
うつぶせの矢口が顔を起こす。
「なんだヤグチ」
仰向けの安倍が首を傾ける。
「生きてるかぁ」
「死んでる」

「今日の安倍は最高だな」
「ええ。あんなにキレてる安倍さん、久しぶりに見ます」
スタンドの松浦は、平家と福田の会話に首をかしげる。
蹴倒され、ひざまずき、チャンスも決められない安倍が、どうして。
「ひとつひとつのプレーに迷いがない」
「勇敢で、積極的です」
ひとつのゴールのため、センターフォワードは何度でも死んできた。
あげたゴールは決して多くはない。
サッカー以外の無駄足もさんざふんできた。
それでも安倍は、日本のエースでありつづけた。
「もう一試合くらいなら、代表、戻ってもいいかな」
福田は心からそう思った。一瞬だけだが。

魔物がいる。それも、二匹だ。
肩を組んで戻ってくる安倍と矢口に宿るおどろおどろしい影を、後藤ははっきりと見ていた。
が、それをもう恐ろしいとは思わない。それが何であって、そしてそれがどうして自分にだけは見えるのか、はっきりと分かっているからだ。
魔物とは、己の中の第三者、その執念。勝ちたい、ワールドカップに出たいというのとは違う。もっと原始的で、正体不明のもの。
血が命令する。動け、走れ、蹴れ、と。
日本でその境地に立っているのがあの二人だ。
そしてなぜ後藤にはそれがわかるのか、言うまでもない。
後藤も三匹めの魔物を、その足に飼っているのだから。

「あいぼん」
「加護チャン」
「だいじょうぶやって。こんなん平気や」
顔は青白く、汗は冷たく、表情はない。別人のように生気を失った加護がゆらりと立ちあがる。
が、矢口や安倍が不死身と錯覚させるのに比べ、やせ我慢の色がありありと浮かんでいた。辻とミカが戸惑っていると
「できんだろ、加護」
「あったりまえやろが」
矢口にたきつけられ、加護が歩き出す。
「あんたこそ、足だいじょうぶなんかい」
「ちっともだいじょうぶじゃねぇ。けど、今あたしがいなくなったら、確実に負けちまうからね」
「うちもまるでおんなしこと考えとったわ。それに、やられっぱなしで下がれるかい」
二人は、肩を組んだ。

「早くしてください、早く!」
止血のためゲームに戻れずいらだつ保田に手を焼くチームドクター。しかし傷が深すぎて、ワセリンでは傷口がすぐ開いてしまう。
業を煮やし、保田が叫ぶ。
「もう、ここで縫ってください! 麻酔要りませんから!」
「こんな環境で縫合したら、傷跡が残るぞ」
「いいっすよ。もともとブサイクですから」
「そんな自分で……」
とにかく言われた通りにする。ライターで先をあぶった針に糸を通し、裂けたあたりに近づける。
「い! ……たくないです」
痛さを忘れるため、十人でキックオフを開始した日本代表を見守る。
ひとりの動きがあきらかにおかしい。しきりに胸に手を当て、ダッシュのひとつひとつに苦悶の表情を浮かべる。
動きの質自体が落ちてないため誰も気づいてはないが、外から見ている保田には分かる。
「監督、すぐ加護を下げてください!」
眉から針と糸をぶら下げたまま保田が懇願する。
「あのこの心臓、パンクしちゃいます!」

一時的に保田を欠く日本はボランチ飯田、石川が両サイドに広がり、変則の4バックのような形を取っていた。
しかしこれによって中盤にスペースを作り、イランがそこをドリブルで突いてくる。
イランの縦パス。吉澤がクリアーか、キープか、ダイレクトでつなぐかで迷う。前からナギンチェフが詰めてくるのを見て、完全に舞い上がった。
思いきり蹴り出そうとして、豪快に空振り。ナギンチェフが完全に裏を取られた。
「バカヤロウ」
背後から後藤が追う。全速力。明らかに獲物を狙う目だ。
「後藤、やめえ!」
中澤が前に詰める。
ペナルティーエリアに入ったナギンチェフが絶叫とともに倒れた。
ひとりでに。
後藤はタックルにいこうとする体勢のまま、止まっていた。
イランのテクニシャンは転んだ上に赤っ恥をかき、イエローカードまで頂戴した。
役者が違うよ、後藤は笑って見せる。
こいつは、どこまで腹見せん気や。中澤は苦々しげに笑い返す。
「裕ちゃん!」
飯田が左に開く。中澤がオーバースローでボールを渡した。

攻守が激しく入れ替わる。
飯田がボールをキープしてタメを作る。このチームで一番長くプレーしてるのが飯田だった。
好不調の波が激しいという批判はもはや彼女には当てはまらない。アジアトップクラスのボランチとして今日も中盤に君臨していた。
左タッチライン際にグラウンダーのパス。ラインにかかったところで右にスピン、追いかけるミカの走りこむ足にピタリと合う。
ミカがルック・アップ、中にはまだ人が揃っていない。中央の矢口に戻す。
「矢口さん!」
斜め右に加護が走る。有刺鉄線に縛られたように心臓がきしむのもかまわず。
いくで、のの。
一瞬のアイ・コンタクトののち、ボールを受ける。そのままシュートの構えに。
おう、あいぼん。
その時辻は、キーパーの死角にいた。完全に消えておく必要があった。
加護のインパクトの瞬間、辻が猛ダッシュ。
「!」
ポストを狙ったシュートをシンゴママ―が見送る。ワクを捕らえていない。
「とわっ」
サイドからゴール前にボールを上げるのがセンタリング、ならばこれはサイドリングとでも呼ぶべきか。
中央の加護から左に回りこんだ辻へ。ライナーのボールに飛びつく。フリーで叩きつけたヘディングシュートがシンゴママーの脇足元で弾み、脇の下を抜ける。
ネットが揺れた瞬間、辻は満面の笑みを浮かべ、両手を上げた。
笛が鳴る。線審の旗が上がっていた。ラストパスの瞬間オフサイドポジションにいたのは辻ではなく、同じサイドにいたミカだった。
Oh,Jesus! ミカが十字を切る。
なにをやってるんだ! 命拾いしたシンゴママーがDFをどやす。
「ごめんね、あいぼん。あんなに練習したのに……」
辻がうつろな視線を向けた先には、再びうずくまる加護の姿があった。

「ゴメンネ、加護チャン」
「ええよミカちゃん。もっと、ちゃんとコンビ合わす時間あったら、うまくいったはずやもん」
ふらりと、加護が歩き出す。
「あいぼん」
「来んでええ!」
泣いてる顔なんて、見られたないわ。
加護がベンチに向かって小さくバツを出す。控え選手がジャージを脱ぐ。
「加護、どこ行くんだよ」
「矢口さん、すみません。うち、もう、走れへん」
背番号10は矢口のほうを向こうともしない。そんな力がもう残ってはいない。
「ふざけんなよ。シッポ巻いて逃げる気かよ」
「すみません」
「走れなくていいよ。おまえがいるだけど敵はビビるんだよ。行かないでよ頼むからさ」
止めようとする矢口をミカが押しとどめる。
「あいぼん!」
辻が、呼びとめる。まだなにが起ころうとしてるのか把握できていない。
「のの、もっと、ええパートナーさがせよ」
「戻れ、戻ってこい加護!」
矢口の慟哭が、夜空に消えた。

ハーフウェーラインとタッチラインの交差点で交代選手とすれ違った瞬間、加護亜依のワールドカップ予選は終わった。
水とタオルを手渡される。ベンチの脇に座ると、水の入ったポットを地面に叩きつける。水滴が美しく散った。
「悔しいか、加護」
ほぼ傷口の縫合の済んだ保田だった。
「悔しいに決まってます。けどそれだけやのうて」
「無理をして試合に出続けた後悔、二度とサッカーできないんじゃないかって恐怖、だろ」
加護が保田のほうを向く。ドクターが糸を歯で食いちぎっていた。
「あたしもそうだったからな」
保田は自ら包帯を巻く。もう一度傷が開いたら交替だぞとドクターが念を押す。
「高校二年の時、心臓病になった」
「ほんまに?」
「ああ。それをずっと隠しててね。練習試合の時、ぶっ倒れてさ。病院に運ばれながら人生終わったって思った。けど、一年で戻ってきた。
そしてあのチビをコテンパにしたのさ」
ただし、そのせいか自分の体の強度にはイマイチ自信がない。ゆえに来年からはコーチを兼任する事にしたのだ。
恐らく、心臓への感覚は、健康な人とは違うものを持ちつづける事だろう。
が、それでもいい。そんな心臓と、一生、つきあっていく。
包帯を巻き終わった保田がゆっくりと立ち上がる。
「もう一度、戻って来いよ、加護」
手負いの獅子が戦場に戻っていく。挽歌を口ずさみながら。
「圭ちゃん」
「矢口、あんた、加護の心臓の事」
「知ってたよ。けど、あいつがいなきゃ、中盤でのマジックは発生しないんだ」
保田がいきなりその頬を張った。
「あんたとの仲、この試合限りにさせてもらう」
「いいよ。その代わり、試合が終わるまでは絶交なしよ」
同期で代表入りした二人の決定的な違い、それは保田が最後まで自分を失わなかった点にある。それは人間としてとても大切な事だ。
が、まともな人間だけでワールドカップに行くチームは作れない。
そのプレーに狂気を宿した者のみが、最後の扉をこじ開けるのだ。

飯田のロングパスはますます冴えた。ここへきて、蓄積された経験が一気に花開こうとしていた。
ミカが走る。ナギンチェフとスピード勝負。上げたが、やや長い。
一度ペナルティーエリアを横断したボールに、逆サイドの辻が飛びつく。
マークにきた3番とは大人と子どもほど体格は違うが、辻には武器があった。抜群のバネ、そしてポジショニングのよさ。
ボールにはえぐいほどのスピンがかかっている。それに上空は風が強い。
3番がかぶった。その背後から、頭で中央へ折り返す。
ディフェンダーを背負いながら、安倍がつま先にひっかけるボレー。シンゴママーの正面を突く。
「ぐえっ」
止めきれず、前にこぼした。矢口が積める。シンゴママーが長い足でかき出した。
「あうう……」
辻が左足首を押さえる。着地の際にひねったか、踏まれたか。
べそをかく辻の大口に、矢口がベンチから持ってきたスニッカーズをねじこむ。ものを食っていればとりあえず辻は泣き止む。
「加護の苦しみは、そんなもんじゃなかったぞ」
「矢口さん」
「石川、おまえ中盤仕切れ。今日のカオリとならできるだろ」
「矢口さんは」
「FWに出る。一点取る」
「リスキーですよ、中盤二人なんて」
「チャンスは多く見積もってあと1、2回。時間的にも、体力的にもな。延長なんて嫌だ。性に合わねえ。それに、見てみろよ」
矢口がイランゴールに目をやる。GKは盛んにトウェンティーツー、ケアと繰り返す。
イランは明らかに辻の幻のゴールを引きずっている。
「加護ほどの安定感はねえけど、辻には一発がある。最終盤じゃ、一番嫌がられるさ」
二本目のスニッカーズを頬張る辻。
「あいつら、辻にびびってやがんだ。利用しねえ手はねえよな」

アリ・バシタカがドリブル突破を図る。飯田がケア、保田がカバー。
ヘディングの競れない保田が足元、飯田がハイボールと自然と決まっていたアリ・バシタカのマーク。
右を少し空け、バシタカを誘う飯田。突破で足元を離れたボールを保田がスライディングで狙った。
ボールを弾き出し、勢い余ってバシタカまでなぎ倒す。笛が吹かれた。激しすぎた。
「なんでだよ、ちゃんとボールにいってたろ!」
「おケイ、カオリ、はよ戻り!」
中澤がゲキを飛ばす。
右サイドからのフリーキック。ナギンチェフがシンプルにバシタカの頭に合わせる。
「吉澤!」
「はい!」
飯田と吉澤、二人がかりでこれを封じる。ルーズボールはゴローニザデ、左からダイレクトで。中澤がパンチで飛びつく。23番と激突、受け身を取れずに腰から落ちた。こぼれ球、至近距離からマサーヒーが蹴りこむ。フリーだ。
「ほいっ!」
石川、今度はももで完全にブロックした。最後は必ずマサーヒーでくる、石川の読み勝ちだった。
「ぐう……」
中澤が悶絶する。
「裕ちゃん!」
「大丈夫や、だいじょうぶやでぇ」
自分に言い聞かせる様にして立ち上がる。腰だけでなく、23番にひざを立てられたみぞおちもズキズキ痛んだ。
その23番も肩を押さえている。脱臼したようだ。タンカで運び出される間、水分補給しながらナギンチェフとゴローニザデが顔を見合わせる。
「まるで野戦病院だな」
「こんなんで、肝心のワールドカップ本戦はどうなるんだろうな」
「おまえら、バッカじゃねえの?」
マサーヒーだった。

「おまえら、あのキーパー見てみろよ」
中澤の特注GKグローブは、もうボロボロだった。
「6番はどうだ」
保田の足はスライディングでそこここずるむけになっている。
「中盤も、FWもだ」
右足太ももをガチガチにテーピングした飯田。
前線に戻るだけで顔をしかめる矢口。
傷の上に新たな傷をこさえ続ける安倍。
「あの中の何人が、ワールドカップで戦えるよ。本戦に出られないくらい、もうボロボロになっちまってるじゃねえか」
捨て身。言葉にすれば簡単だが、どれだけの選手が本当の意味でそれを実感できているだろうか。
「それでもこの試合だけは、俺たちに負けまいとしている。いや、こんなことを言ってる時点で俺らの負けかもしれない」
捨て身という言葉の意味を考えないほど、日本はこの試合に集中しきっている。
その意識は、現実と幻想との境目を泳ぎながら、それでも仲間を信じて。
「延長だ。延長に持ちこむぞ」
「時間内じゃ勝てないってのか」
「そうだ。時間内は流して、一度この空気を切る。この時間帯に全力を尽くしてるってことは、もはや延長を戦う力がないってことだからな」
イランはアリを倒すにも全力を尽くす獅子か。それともネズミをさんざ弄んでから食らう猫か。

イランは露骨に流してきた。中盤から最終ラインにかけて、セーフティーなパス回しに徹する。いわゆる「トリカゴ」だ。
「辻、ミカちゃん!」
中盤の三人が、加護の分までといわんばかりにボールを追いまわす。後半から出たミカでさえ肩で息をし始めてる。
「追えよ! 足止めるな!」
声を張り上げ、自らを鼓舞しながら矢口がプレッシャーをかける。13番がたまらずGKまでボールを戻す。
「それだ!」
バックパスを辻が狙う。イランGKが飛び出してクリアー。詰めていた安倍の肩に当たってゴールの方向へ。
「入れ!」
天井ネットの上に乗った。
今のでいいぞ。GKが手を叩く。なかなかゴールキックにいかない。時間稼ぎだ。
同点だが、アドバンテージはイランにある。

どうして。吉澤には分からない。
矢口たちの、身をすりつぶすかのようなサッカーのわけが。
ここは体力を温存して、延長に備えるべきじゃないのか。
「梨華ちゃん」
さあ、と、石川は首を振って見せる。
「結局、アホになった人の勝ちってことかな」
きれいにやろうとか、効率良いサッカーとか、実はよくわからないんだ。
ただ、ここに立っていられる喜びを、どうやって表現すればいいか。
どうやったら、サッカーの神様とお話できるのか。
あの人たちは、それしか考えてないんだよ。

ゴールキックも短くつなぐイラン。安倍が絶望的なフォアチェックにいく。
とうとうヒザが笑い出した。まともにシュートすら打てない二本のつっかえ棒が。
「なっち、もうええ。休め」
孤独のポジションといわれるゴールキーパー中澤がつぶやく。
中澤は福知山のサッカー少年団でそのキャリアを始めて以来、ずっと一人だけ違うユニフォームを着ていた。
一回くらいFWやらせてよ。ずっとそう思い続けていた。
勝てばFWが誉められ、負ければGKが攻められる。
だから生まれてこの方FW以外のポジションをしたことがない安倍が心底うらやましかった。いつも喜びの輪の中心にいるエースが。
けど、あんたも一人やねんな。
たった一人で、四人の大男に挑み続けるナンバー7。
いつしか一人で、その大男四人に脅威すら感じさせていた。
たまらず、イランは中盤にまでボールを上げた。まるで矢口たちをいたぶるかのようなダイレクトパス。
ふらつき、めまいがしても、矢口は足を止めない。
あたしは加護の分まで走らなきゃいけない。その義務があるんだ。
目の前を行き交うショートパスに、よろめくような足取りで飛びつく。が、そのわずか先をボールは通過していく。ちゃんと計った間合いだ。
「くっそ」
「あかん後藤! 上がるな!」
イランのアウトサイドは絶えずタッチラインに張り出している。スキあらば日本の背後を突いてくる気だ。
それでも、センタリングは上げてこないだろう。分かっているのに後藤は上がる事が出来ない。
残り5分を切った。
ゴローニザデが矢口にボールをちらつかせる。矢口にはもう、ボールしか見えていない。
ゴローニザデ、その足を引く。ヒールパスだ。
ゴローニザデには見えてなかった。小さな8番の影から、大きな4番が飛び出すのが。

「よっすぃー!」
センターバックの吉澤がイランのボールを奪ったのは、ハーフウェーラインの10メートルほど手前だった。
当然、日本ゴール前にはポッカリと穴が空いたようになっていた。
「吉澤、戻れ!」
吉澤は保田の制止など聞こえないように、前へ突き進む。
リベロがこの位置でパスカットするのも予想外なら、そのままボールを持って上がるのも予想外。まだ体力は充分。
4tトラックのようなドリブルがイランディフェンスのど真ん中を叩き割る。
「どうしよ、裕ちゃん」
「みんな上がれ!」
「マジ?」
「もうこのアタックで決めるしかないやろ!」

左からのスライディング。長いストライドでまたいだ。アフタータックルも勢いで跳ね飛ばす。

小学校の頃からドリブルは得意だった。中盤から一人で持ちあがって、キーパーもかわして無人のゴールにシュートするのが大好きだった。
けど、試合には使ってもらえなかった。個人プレイヤーのレッテルを貼られた。
ダイレクトパスが幅を利かせる現代サッカー。吉澤はドリブルを封印し、高いボールキープ力は影を潜めた。
そうすれば喜ばれる。試合で使ってもらえる。

右からのガード、ヒジで頬をえぐられた。そのヒジごと跳ね飛ばす。イラン選手が派手に尻餅をついた。

バカだった。やりたいようにやりゃあいいんじゃん。
いつの間にか自分をなくしていた。他人から誉められる自分しか自分じゃないと思いこんでいた。
あげくの果てにミスで自分を小さく小さくしてしまっていた。
進むんだ。自分のバカさ加減を返上しに。

「すげえよ。あいつ、あんなドリブル持ってたんだ」
右の頬は無残に腫れ上がった。スパイクされた左足も痛まないわけはない。
が、なにごともなかったように吉澤が突き進む。
右からは後藤、左からは保田が走る。DFの三人はまだ余力がある。
ともにゴールを守ってきた中澤が念じる。
もししくじっても、うちがおる。思う存分攻めて来い。

ペナルティーアーク内、吉澤がついにつぶされる。
右にこぼれたボールを後藤がダイレクトでぶっ叩く。
低い弾道、抑えのきいたシュートをシンゴママーが左手で弾く。飛びすぎて、腕がネットにからまった。
ガラあきの逆サイドに、吉澤がDF二人にはさまれながらヘディングを叩きつける。
「タベタイナー!」
残る一人のディフェンスが、打ち返した。前線めがけて。
それを押しとどめたのは背番号6。初速130キロにもなるボールを、左胸で受けた。
「保田さん!」
ベンチの加護が立ち上がる。
勢いの殺されたクリアーボールが保田の足元に落ちた。
覚えとけよ、加護。心臓ってのも鍛えりゃ強くなるんだ。
左右に引きつけられたディフェンス。身動きの取れないキーパー。
保田渾身のシュートはゴール正面へ。
シンゴママー、腕にからみつくゴールネットを引き千切った。体のどこかに当たれとばかりに巨体を広げる。
吉澤が詰める。キーパーの鼻先でコースを変える。イランDFも左右から詰める。
鈍い音がした。
「よっすぃー!」
「シンゴ!」
ゆらりと立ちあがったのはイランGK。その腕にはボールが。一気に蹴り出す。日本ゴールは丸裸だった。

ロングボールを追う飯田とバシタカ。ボールとの距離を測りながら、ギリギリ飛び出せる位置まで間合いを詰める中澤。
飯田がひとりでに足をもつれさせる。前に倒れた。バシタカがボールをキープした。
万事休す。中澤が飛び出した。狙いではボールではない。バシタカの足。
これは全員攻撃を指示したうちの責任や。
点はやらん。PKもやらん。
くれてやるのはうちの命や。
ペナルティーエリアの外でぶち倒せば、レッドカードとフリーキックだけで済む。ひとつまみの希望が残る。
なっち、カオリ、おケイ、後藤、矢口、辻、よっしー、石川、ミカちゃん。後は頼んだ。
「やめえ中澤」
「裕ちゃん!」
「中澤さん!」
バシタカが宙を待った。
主審はイエローカードの裏に「JAPAN 14 ISHIKAWA」と走り書きする。
「あーあ、カードもらったことないの、自慢だったのにさ」
石川のタックルはボールをちゃんと捕まえていた。バシタカのそれは大袈裟なアクションだった。
倒れたままの石川に中澤が手を差し伸べる。その手には捕まらず、中澤の胸倉をつかみ上げる。
「今度玉砕なんてざけたこと考えたら、絞め殺すぜ。日本のゴールマウスに立てるのはあんただけなんだからよ」
「だいじょうぶか、石川」
「だーいじょーぶですよー。ガッツでいきましょー!」

あの14番め。マサーヒーは心底いらだっていた。
日本で警戒すべきは7、5、8。そんなものだと思っていた。
DFラインを仕切っていた前の14(石黒)ならともかく、今の14は古臭いっきりのハーフバックだと。
が、もしかしたら今の日本は、そのバカにしきっていた14のチームなのかもしれない。

「コーチ、梨華ちゃん、すごいことになってる」
スタンドの木村は悪寒すら覚えていた。あんな石川はオリンピックでもJリーグでも見たことがない。まるで飢えたけだものだ。
実は同期の中でその実力を最も疑問視されていたのが石川だったのだ。
しかし今の石川は、飯田のサポートを受けながらも完全にゲームをコントロールしている。四匹目の魔物が、その背に宿りつつあった。
「石川、本当にもうワンチャンスしかないよ」
矢口がその背中を叩く。
「分かってます。命に代えても、絶対矢口さんにつないでみせますから」
イラン、ゴール正面からのフリーキック。ゴローニザデが横に出す。ナギンチェフに合わせたスルーパス。ミカと奪い合ったボールがタッチを割る。
「マイボッ」
イランボール。すかさずナギンチェフが投じる。マサーヒーがシュート。石川が額で弾き返す。
角度のないところからナギンチェフが狙う。中澤が横っ飛びでかき出す。
GKの頭上を狙う、ゴローニザデのループシュート。中澤の手の上を越えるボールを後藤がハイボレーで止める。
そのボールがバシタカの目の前へ。吉澤、飯田、保田が前に。一番弱そうな奴はどいつだ?
バシタカが吉澤に躍りかかる。真正面から、と見せて右にターン。吉澤も食らいつくが、腕によるブロックを崩せない。
「おらあっ」
保田のスライディングが決まった。ボールがゴールラインを割る。
「ありがとうございます!」
「おまえがガードにいったから取れたんだよ」
DFは一人じゃない。みんなで守れ。

イランのチャンスは続く。右(日本の左)コーナーキック。
俺たちは上がるのか? 3バックがシンゴママーに尋ねる。
作戦では守りきって延長、のはず。しかし今のマサーヒーは明らかに3点目を狙っている。
「上がるな。三人とも残れ」

なんで上げねえんだよ、シンゴ。
コーナーフラッグに向かうマサーヒーの頭にさまざまなセットプレーのパターンが浮かぶ。しかしそれらはほとんど複数のターゲットを必要とする。
バシタカ一人ではどうしようもない。
ま、いいか。時間もない。延長でいくのは最初からの作戦だもんな。

「吉澤5! カオリとおケイ10! 後藤2! 石川ニア! 矢口ファー!」
中澤がマークを再確認させる。左右に振られることの多いコーナーキックが中澤は大の苦手だ。
今がもう後半何分なのか確認する余裕すら失っていた。
なかなか蹴ってこないマサーヒーに中澤がじれる。
「ショート!」
ミカの声だった。日本はコーナー付近に誰も立たせていなかった。ナギンチェフが寄っていく。
果たして、その足元に小さく出された。ナギンチェフが鋭い切り返しでミカを置き去りに。
平家が目を伏せた。ボールが予期せぬ角度で入ってきたら、ほとんどなす術はない。相手のミスを願うくらいしか。
マサーヒーがほくそえむ。苦肉の策だが、まんまとはまった。あとは五秒後に起こる惨劇を見物するのみ、だ。
「ぶはっ」
「のの!」
ライナー性のセンタリングを、戻っていた辻が受けとめた。顔面で。
こぼれたところ、横からかっさらったのは石川。
「倒れるな、走れ!」
すれ違いざまのその声に辻が踏みとどまった。
「石川!」
逆サイドを矢口が走る。
中央を飯田が走る。
センターサークルで安倍が待つ。
吉澤たちもラインを力強く押し上げる。
足を止めるな。次に足を止めるのは、ボールがイランゴールで止まってから。
これがラストチャンス。
すべてを、この一瞬に。

それまで力をためていたかのような石川のドリブルに、イランDFが次々置き去りにされる。
技術自体はシンプルだが、そのすべてのプレーがトップスピードでくるから防ぎようがない。
かつては湘南の黒豹と呼ばれ、その鬼気迫るドリブルで注目を集めていた石川梨華。
が、ある日自分と同い年のプレーヤーのドリブルを一目見て、ドリブル一本で食っていく夢を捨てた。
そのプレイヤーの名は、福田明日香という。

唯一石川に追いついたのがマサーヒー。つかず離れず、ピタリとマークする。
チキン呼ばわりして悪かった。おまえは本当にすげえやつだよ。
けどな、おまえの考えは読みきってるんだ。
8にパスを通す。頭の中にはそれしかねえ。
だから、14と8の間にいれば、必ずボールは奪える。
石川のヒールパスは、背後の飯田へ。
「なにっ」
飯田からミカへ。ミカのセンタリング。
矢口へつなぐ攻撃のパターンが、石川にははっきりと見えていた。
読みは悪くねえよ。けど、頭は使ってるつもりさね。

マイナスで入ってくるグラウンダーのセンタリングを矢口がミドルで狙う。
一瞬早く、ゴローニザデが弾き出した。
そんな単純な攻めでイランゴールを陥れられると思ったのかい、おバカさん。
クリアーボールは吉澤。吉澤のパワーなら充分狙える位置。
やりたいようにやればいい。それを考えれば、体が勝手に動き出す。
長身をぐっとかがめる。先ほどの長いストライドではなく、より多くボールに触れるテクニカルなドリブル。
「サヤカ先輩」
重心が低く、手数の多いアルゼンチン特有のドリブルで密集地帯を抜けていく吉澤。3バックがその目前に。
感じろ。
無意識にパスを出した。そしてディフェンスの裏へ。
後藤からのリターンパスを、ダイレクトで叩く。
「ぐわあっ」
シンゴママーの手を吹き飛ばした弾丸が、クロスバーを激しく鳴らす。

なまじ勢いのついていたボールはセンターサークルで大きく跳ね上がり、日本陣内へ。
バシタカ、そして保田が回りこむ。保田は上がらなかったのではない、辻が突っ立ったまま動けないのでラインを上げられなかっただけだ。
バシタカがフェイントをかける。保田は振られない。
バシタカは心底いらだっていた。後半はまるでいいとこなしだった。このブラディ・シックス、血まみれの6番のせいで。
少なくとも、その借りだけは返さないことには。

来る。保田が身を固くする。
こんなことをすれば、体がどうなってしまうかくらいは分かった。
おそらく、これが自分のラストプレーになるだろう。
加護、よく見てろよ。
そして、あんたは絶対こんな真似すんじゃないよ。

「ぐええっ」
わずか50センチの至近距離。ミサイルが一直線に保田の心臓をえぐった。
バシタカの計算では、ナンバー6は真正面に飛んでくるシュートに反応できないか、かわしてくるかのどっちかだった。
まさか、そのまま受け止めるとは。
勢いの死にきらないボールが、さらに保田の顔面を直撃する。白い包帯が朱に染まった。

保田が倒れ、ボールはどんどん高度を上げていく。
保田の時間稼ぎで、飯田が落下地点に入った。バシタカとスクリーニングのかけあいに。
ここは絶対に取る。じゃなかったら、圭ちゃんのファイトが無駄になる。
飯田が長い腕を伸ばしてバシタカをブロック。ようやく高度を下げ始めたボールに、飛び上がる。
「いたっ!」
飯田の頭皮に激痛が走った。バシタカが苦し紛れに飯田の長い髪を引っ張ったのだ。
クリアーしきれないボールが芝の上を弾む。二人が追う。
バシタカが当たり、飯田が競る。
バシタカのシュートを飯田がブロック。
再び、ヘディング勝負。髪をつかむ手を、今度はひじで払った。
「裕ちゃん!」
垂直飛び1メートルはいったろうか。バシタカに完全に競り勝ち、ヘディングで中澤へボールを送る。
中澤が胸でボールを落とした。

中澤があろうことか、ドリブルを始めた。唖然となるバシタカの横をすり抜ける。
「キーパーより後ろにいるフィールダーがあるかい!」
行こう、裕ちゃん。バシタカを置き去りにして、飯田が走る。
こんなもん邪魔だ! 包帯を投げ捨て、生傷をさらした保田が走る。
「のの走れ! 走らんともう遊んだらへんで!」
辻も、走る。

中澤も、自分のしていることがよくわかっていたわけではない。
が、こうせずにはいられなかった。
バシタカが右からチャージをかける。ここで奪えば、今度こそ日本ゴールはもぬけの殻なのだから。
中澤も当たり返す。GKとしては決して大きくはない体で。
その当たり返しに、バシタカがさらに肩を当てに行く。
中澤は、いなした。空振りしたショルダーチャージの体勢で、バシタカが無様に倒れる。
ゴールは守ったで。さ、1点取ってこいや。
正確なインフロントキックで、左サイドにボールを出した。

落下地点に石川とマサーヒー。
先ほどの石川にマサーヒーは失望していた。確かに裏はかかれたが、マサーヒーが望んでいるのは一対一の勝負なのだ。
全力でこいよ。そして、俺をもっと駆り立ててくれよ。
石川が高く飛んだ。が、足を上げるのが早い。空を切る。
「ほいっ!」
テニスでいうバックハンドのように、右足アウトサイドでボールに柔らかく触れる。琉球空手でいうネリチャギの応用。
横須賀の米兵がストリートファイトで使ってたのを真似たのだった。
そうだよ。そうこなくっちゃ。でも単純過ぎるぜ。マサーヒーがふわりと頭上を越えてくる軌跡の落ち際を狙う。
目の前でワンバウンドしたボールが、急角度で戻ってきた。反応しきれないマサーヒー。
これもテニスのバックスピン・ロブの応用。ドリブルを捨て、フリーキックを極めることを選んだ石川のはスピンのエキスパートになっていた。
「カモン!」
石川の目の端に、ゴール前に走る背番号8が飛びこむ。
この試合が終わっても、うちらはずっと一緒にやっていく。
そうっすよね、矢口さん。
マサーヒーが石川の華奢な腕に自分の腕を絡めた。腕を固め、自由を奪う。
石川の腕が伸びたように見えたのは、肩を脱臼したからだった。
構わず、石川が頭でボールを中央へ。今度は素直なボールで。
二人がもつれて、倒れる。
だらりと伸びた腕を押さえ、石川がその場でのたうった。

その間にも、辻は走っていた。胸を反らし、息を切らせて。
喚声は聞こえない。
ただ、親友の声だけが鼓膜に切り替えし響く。
苦しいよ。ゲロしちゃいそうだよ。のどから血の味がするよ。
あいぼん、のの、どれだけがんばればいいの? どしたら許してくれる?

「22が来る! 絶対フリーにするな!」
シンゴママーが叫ぶ。
最後は絶対に奴だ。伏兵ほど怖いものはない。

「のの! 走れ! 走れ! 走れ!」
どうして自分は今ピッチにいないのだろう。
加護はその無念のすべてを、自分の分身のようだった辻希美に託す。
のの、お願いだからがんばって。

きっと二人は、一緒だったからここまで来れたんだ。
もし一人だったら、途中でくじけていただろう。
でも、今辻は一人だ。
走れ辻、加護の分まで。

よし、いいぞ辻。最高のダッシュだ。
あのスピードで最後尾から来れば、ディフェンスは守りにくい。自然、マークは拡散する。キーパーもヤマを張りきれない。
それでも、石川から約束どおりのパスが出た瞬間、矢口の前にはゴローニザデ、斜め後ろには二人のミッドフィールダーがいた。
狙いは分かる。シュートやパスは封じられた矢口はトラップするしかない。
サイドに落としたら二人のMF、前に落としたらゴローニザデが待っている。完璧な囲い込みだった。
それで完璧のつもりかよ、うざってえ。
完璧なものに風穴あけてなんぼの商売だぜ、うちらは。
矢口のトラップは前に出た。
ふふ。僕もなめられたもんだ。ゴローニザデがボールに足を伸ばす。
ボールその足をすり抜け、背後にこぼれた。
ゴローニザデを追い越して、矢口がボールに追いつく。
石川サンキュ。こんなにうまくいくとは思わなかったよ。
インプレーでのセクシーボール。石川がほとんど回転のないボールを送ってくれたおかげで、ボールのへそを「目押し」することができたのだった。
シンゴママーの背中に戦慄が走る。セットプレー以外でもあの悪魔のシュートが打てるとしたら。
「シュートコースつぶせ! 死んでも止めろ!」
ヒステリックに叫ぶGKを、矢口にはあわれむ余裕すらあった。
迫り来る3バックの目前、ボールを右にはたく。
辻が上がってきた。

ボールを右サイドで受けたのは後藤だった。辻は矢口、ミカとともに3バックに一人ずつかかっていく。
一瞬で目の前の世界を把握する。
揺さぶりは充分だったが、まだ完全に崩しきってはいない。3バックの壁が異様に厚かった。
まさかこんなに自分が代表チームにのめりこむなんて思わなかった。
一戦ごとに、それまでの自分が崩れていくのを後藤は肌で感じていた。
身を削るようなハードな闘いの連続に、めまいと、恍惚を覚えていった。
それはクラブチームでのものとはまるで別の、そこにしかない喜びだった。
福田センパイ、このことだったんですね。あと五年サッカーを続けたければ代表に入れって。
最高ですよ、このチーム。
そして、最高の舞台は、最高のプレーで締めくくりたい。
左から迫るイラン選手を、吉澤が体を張ってガードする。
道が見えた。
オズの魔法使いが住むお城へ続くイエロー・ブリック・ロードが。

後藤の動きに呼応して、矢口が号令をかけた。
「下手、はけ!」
矢口が3を、ミカが13を、辻が23を引きずったまま左サイドに走る。
右タッチラインに張り出していた辻は、逆のタッチラインまで全力疾走した。
GKの指示どおり、23番が辻にへばりつく。が、スピードなら辻が上だ。
23番が自分の足につまずき。辻におおいかぶさるようにして倒れた。

空白の右サイドを、ラストパスが駆け上っていく。

背番号7は、この時のことをほとんど覚えていないと後に語る。
それが本当かどうかはともかく、異常とも言えるコンセントレーションでその瞬間を戦ったことは間違いない。
右コーナーに出た後藤のパスはさほど荒れてないタッチライン際の芝を順調に滑っていく。
その球足に、イランディフェンスは早くも足を止めた。
なのに、安倍は足を止めない。必死に追う。ボールしか見えてないかのように。
ボールがコーナーフラッグの根元に当たって戻ってきた。後藤の与えた試練に安倍は勝った。
この試合、初めてエースがフリーでボールを持った。
ゴールへの角度はない。飯田や吉澤がゴール前に入ってくる。
「なっちさん、後ろ!」
福田明日香は反対側、日本陣内のスタンドにいた。だからその声が届くわけはなかった。少なくとも、物理的に考えれば。
だがこのシーンでの安倍の唯一覚えていることは「福ちゃんの声が聞こえて、後ろからのスライディングをかわした」ことだけなのだ。
ナギンチェフを内に入ってかわしたことで、わずかながらゴールへの角度が生まれた。
その瞬間、安倍の頭からセンタリングという選択肢は消えた。
長旅の終わり、すべての思いを込めたボールが左足から解き放たれる。
シンゴママーが伸ばした手をゆっくり越え、曲がりながら、落ちる。石黒が得意としていた、ドライブ回転のかかったバナナシュートだった。
左ポストに当たり、内側に跳ね返る。
日本ゴール前で、中澤がひざまずいてのガッツポーズ。
右コーナー付近、エースは右手を高々と上げた。
右サイドネットが、静かに波打った。

ざまあみやがれ。矢口が勝ち誇りきった笑みをゴローニザデにぶつけた。まさに確信犯の顔。
最初から自分はオトリのつもりだった。後藤のセンスを、安倍の執念を信じていた。
「ユーアークレージー、ファッキンクレージーガール」
この気狂い女め。イラン人ボランチにとって、それは最大の賛辞だった。
もしゴッホがサッカー選手ならきっとフィールドにあんな絵を描いてみせるだろう。それは天才を越えた、狂人の領域。
「矢口さん!」
辻とミカが矢口に飛びつき、勢いあまって倒れた。矢口から一瞬前の悪魔の表情は消え、年相応な笑顔が戻った。

「おおーっ!」
普段はゴールを決めても淡々としているエースはコーナーフラッグをつかみ、何度も拳を振り上げた。どん臭いガッツポーズが逆に安倍らしかった。
松浦は涙が止まらない。なんて恥ずかしい事を言ってたのだろう。
福田は複雑だった。これが安倍との間に生まれた最後のコンビプレーかと思うとせつなかった。
代表に未練などないつもりでいたが、もう一度だけ、あそこに立ちたいという気持ちがわき上がる。
「これで日本が勝てば、またあんた呼ばれるかもな」「やめてくださいよ」 平家のざれごとに、福田はそっぽを向いた。

保田の肩を飯田が抱いた。
「やったよ圭ちゃん、勝てるよ」
多量の失血で保田の意識はもうろうとしている。それでも電光掲示板の数字を確認、安堵のため息をついた。
ふと横に目をやる。予備審判が6のカードを掲げていた。
お役ご免、ですか。保田がゆらりと歩き出す。
傷がふたたび開いたら下げるという約束にはなっていたが、せめて、タイムアップの笛はピッチの上で聞きたかった。
日本ベンチがにわかにざわめく。違う、保田、戻れ。
と、いうことは……
「ロスタイム、ながっ」

石川が抜けた肩を一人ではめた。脱臼はくせになっていたから元に戻すのもわけない。
小さい頃リカちゃん人形の手足をもいで遊んだ、その報いだろうか。
けたたましい声が耳をつんざく。マサーヒーがすでに泣きの入ったシンゴママーを立たせてどやしていた。
イラン語は分からないが言いたいことは分かる。
俺たちはあいつらより弱いのか? 違うだろ。ならなぜ負けてる? 勝ちたい気持ちで劣ってるからだろ。そんな負け方、俺は絶対に嫌だ!
文句があるならかかってらっしゃい。石川梨華は日本の女王なのです。何度でも地面にキスしていただくわ。

なんか言ってるね、ごっちん。
ああ、うるさい。やだね男のヒスって。
最後、なんで安倍さんにやっちゃったの?
なんでだろ。わかんない。それよかすごいふくらんだほっべだね。ヒマワリの種でも入ってる?
ひっでーな。名誉の負傷だってば。
怪我しないのが真の一流だ。あたしなんて怪我らしい怪我、したためしがない。
バカは風邪ひかない、ごっちんは怪我しない。
あんだと。もかたっぽのほっぺぶん殴って、左右均等にしてほしい?

後藤と吉澤は、これらの会話を視線のみでかわした。
市井の呪縛が、ようやく二人を解放した瞬間だった。

「のの!」
タッチライン際に加護が出てきた。
あいぼん……辻が歩み寄っていく。再三スパイクされた左足を引きずりながら。
「ありがと、ありがとな」
「なんでそんなこと言うのさ。あたし、なんて言っていいかわかんなくなるじゃん」
二人は小さな体を寄せ、固く抱きあった。
「辻! 加護! まだ終わってないで!」
不思議とこの声を聞くと、うわついた気持ちが消えていく。
中澤の心は澄みきっていた。様々な思い出が胸を去来する。出会い、別れ、反発、結束、敗北、勝利。感傷的な思いを投げ捨てる。
全員でむしり取った点、絶対守る。

6分というロスタイム。日本には永遠のように長い。イランには一瞬よりも短い。
「ナギンチェフ! ウイングに出ろ!」
「ちんたらボール回せ! 攻めんでええ!」
両チームベンチがあわただしく動き出した。
「ほいっ」
マサーヒーへのサイドチェンジは石川が読んでいた。
イランは結局この11番頼りなのだ。どこをどう経由しようと、仕上げは彼にゆだねられる。
それにもっと早く気づいてれば、こんなに苦しむ事もなかったはずだ。
「石川」
飯田がパスを要求した。そのほうへ転がした。
そのパスを、さえぎった者があった。
そのまま、全速力でドリブルを開始するナンバー8。

冗談じゃねえ。6分間も守りきれるかよ。
向こうが前のめりになってる、頼みもしねえのにディフェンスをガタガタにしてくれてる今が、4点目をねじこむ格好のチャンスだ。

なに考えてんだ、カウンター喰らったらどうすんだよ。
そう思いながら石川が左を走る。辻が右を走る。
矢口は二人にはさまれ、中央を駆け上がる。数的優位はできていた。
その小さな体を支えているのは、サッカーへの飢餓である。
145センチの中には、その指先にまで、狂気が詰め込まれている。

「矢口さん!」
一度、左の石川にはたく。石川が中に切れ込む。
全速力で戻ってきたマサーヒーがショルダーチャージをかけた。傷めた右肩がきしむ。
そう、こなくっちゃ。石川が当たり返す。マサーヒーがよろめく。そこにスペースが生まれた。
マサーヒーの股間を抜く、石川のサイドチェンジ。
辻が中央に、矢口が右にポジションを移動する。
辻の頭上を越えたボールが、斜めに走る矢口へ。
シンゴママーが目前まで詰めていた。
その鼻先で、中央に折り返した。
辻がフリーで飛びこむ。
捨て身で、ディフェンダーが背後からのタックル。
シュートは、ゴールのはるか上空へ。
「うぎゃあーっ!」
ひざ裏を抱き、辻が芝の上で悶絶した。

石川の背中に冷たいものが走ったのは辻が倒れたからではない。
その背後の矢口が、今まさに辻を削ったディフェンダーに飛びかかろうとしていたからだ。
真後ろ、完全に足を狙った、スパイクの裏を見せたスライディング。それが辻の足を削った後、両足で辻の足をはさみ、ねじり倒した。
言い訳の出来ない悪質なタックルではあったが、それでも手を出したら退場になる。石川の場所からでは止められない。
やめて、矢口さん。石川が心の中で悲鳴をあげた。
「この野郎、うちの選手になにすんねん!」
一瞬矢口より早かったのは、ピッチの外から走ってきた寺田だった。イランディフェンダーの胸倉をつかみ上げる。
中澤はすこし意外だった。
寺田はこのチームに対し、もう冷め切っているのかと思っていたのだ。
現役時代の寺田は、あまりぱっとしない選手だったと記憶している。成功したのは監督業に就いてから。
チームが勝てば勝つほど、指導者として名をあげるほど、現役選手としての寺田は黙殺されてゆく。
たぶん、寺田が最も好きなのは、プレイヤーとしての自分。
監督としての認知度が高まることは、このチームへの憎しみが募る道程でもあったのだ。
が、彼にもまだチームへの、選手への愛情は残っていたようである。
辻を削った選手にレッドカード、監督でありながらピッチに足を踏み入れた寺田には退場にあたる退場処分が課せられた。
「ま、ええ時間かせぎにはなったわな」
悪びれた様子も泣く、寺田はポケットに手を突っ込み、静かにピッチを去った。

「ううー・・・・・・」
ひざから地面に落ちた辻が涙ぐむ。今まで傷めた事のない箇所だった。矢口が歩み寄る。
「靭帯、伸ばしたんじゃねえか?」
「だいじょうぶです。できます」
そうは言うものの、歩くたびひざには激痛が走り、涙がボロボロとこぼれる。
「辻、交替だ。動けねえやつはいらねえんだよ」
「矢口サン、ひどい」
辻に寄り添っていたミカが反発する。が矢口は構わず続ける。
「辻、ひどく傷んだふりして、ゆっくり外に出るんだ。その分だけ時間が稼げる。できるな?」
辻がうなずく。
矢口がベンチの夏コーチにバツ印を出す。
夏が、バツを出し返した。
すでに、保田を下げていたのだ。
交替枠3のうち、二つ目を使ってしまったことになる。三つ目はGKにアクシデントが起こったときのために残しておく必要があった。矢口が舌を出す。
「作戦変更。おまえはどっこも痛くない。ピンピンしてる。いいな」
辻のおでこを、指で弾いた。

 

「レフリッ、レフェリー!」
「やめましょう。審判が気ぃ悪うします」
左手首を右人差し指で叩いて試合終了を促す保田を加護が止める。ここまで公平な笛を吹いてもらってるだけに、印象を悪くしたくはなかった。
「石川、ミカ、サイドバックの位置に下がって!」
「ちょっと、夏さん」
退席処分を喰った寺田の代わりに急きょ指揮をとる夏まゆみに保田が異議を唱える。
「いくらなんでも守りに偏りすぎですよ」
「矢口みたいなアホなことさせる気はない」
「そうじゃなくて、中盤がガラガラじゃないですか」
保田と交替した選手もストッパー、そして飯田もバシタカに張り付いてるから、6人が最終ラインにいることになる。
「せめて石川はもっと前に。ミカちゃんも中盤で動いてくれたほうがバックの負荷も軽くて」
「うるさい! あんた選手だろ、口出しするな!」
夏は明らかに舞い上がっていた。無理もない、何の前振りもなく導火線に火のついた爆弾を手渡されたようなものだ。
恐怖で投げ出してしまわないだけ上出来といえた。

「平家さん、ロスタイム何分経ちました?」
「4分25秒……4分半」
福田は爪を噛む。あたしがあそこにいればボールキープができるのに。
もう、はやく終わってくれよ。イライラする。

吉澤がバシタカに競り勝つ。まぶたは腫れ上がり、首は軽いムチウチだ。
それでも闘志をみなぎらせ、勇敢に立ち向かう。
「吉澤、クールにいけ!」
中澤が檄を飛ばす。
後藤のクリアーボールを拾ったゴローニザデがロングシュート。ブロックに飛んだのは矢口。
シュートの強烈さにスパイクが飛んだ。骨の折れた親指が、ちぎれたかと思うほど痛んだ。
浮き球がフラフラと日本ゴール前に上がる。
見慣れないユニフォームが飛んだ。シンゴママー、捨て身のオーバーラップ。GKはもちろんノーマーク。中澤が身構える。
左に落とした。マサーヒーが狙う。石川スライディング。フェイントでやりすごし、左足の強シュート。中澤のどてっぱらを直撃。
が、こぼさなかった。我が子を守る母のようにしっかりとボールを抱えた。シンゴママーがあわてて駆け戻る。
中澤はあわてない。ボールは6秒まで持てるのだ。ゆっくり数える。1、2、3、4……
笛が鳴った瞬間、中澤はボールを大きく蹴り出し、その喜びを表現した。
勝った。ついに終わった。仲間の顔を見た。

主審は中澤の立っていた位置を指差した。
中澤が6秒以上ボールをキープしていたとして、間接フリーキックの判定を下したのだ。
「え? 終わりじゃないの?」
「PK? エリア内の間接フリーキック?」
「切り替えろ! 集中集中!」
そうはいうものの、中澤もPKより近い位置でのフリーキックなんて経験したことがない。
「矢口さん!」
シュートをブロックした矢口が立てない。
「だ、だいじょうぶだって。時間稼ぎよお」
顔は真っ青、脂汗だらだら、目はうつろ。たいした演技力だ。これが本当に時間を稼いでいるだけとしたら。
平家が時間を見る。6分は回った。このプレーをもってタイムアップだろう。
主審が日本の壁を下げさせる。とはいえこの近さ、壁はゴールラインにずらりと並ぶことになった。
ゴールの左三分の一を中澤が、右の三分の二を壁が守るという形になった。矢口も靴をはき、飯田と吉澤の間に入る。
ボールの前にはバシタカとマサーヒー。
笛が短く鳴った。
マサーヒーがチップキックを、エリアの外に。
イランゴールを向いたその選手が身を翻すと、その背中の2番が隠れた。
虚を突くバイシクルシュートに中澤が一歩も動けない。
来る。矢口は一番小さい自分の頭上にボールが飛んでくると予測していた。
イメージ通りのコースで飛んでくるボール。
タイミングを計る。
痛むつま先で硬い地面を蹴った。
生え際にボールの感触があった。
背中から落ちながら見送ったのは、無情に揺れるゴールネット。

折り重なるようにしてゴールライン上に倒れる日本選手。
「なんでだよー!」
ベンチの保田は顔を覆ってしまう。
中澤はその場に座り込み、ぐしゃぐしゃになった頭に手をやる。
飯田はひざを抱えてしまった。
「くそったれ」
矢口は地面を叩いた。
「読んでたのに……触ったのに!」
5センチだった。あたしの身長が、あと5センチ高ければクリアーできていた。
145センチの身長を埋めるための狂気は最後の最後で、皮肉にもその身長によって水泡に帰した。
かたや、イランはGKまで飛び出しての狂喜の輪を作っていた。
その中心には殊勲の背番号2、決勝点の男の異名を取るメージ・キムラタクヤの姿があった。
89分は死んだふり、最後のワンプレーで勝負を決める。まさしくFWの鑑だった。
「攻めろーっ!」
静まり返ったスタジアムに、福田明日香の慟哭が響く。
ボールを抱えた安倍と後藤がセンターサークルに走る。
イランはGKシンゴママーまでゴールを空けていた。
安倍が小さく出したボールを、後藤が前へ蹴りだす。
シンゴママーが追う。飛びつく。長い足でかき出す。自らがゴールに転がり込んだ。
今度こそ、後半終了の笛が鳴った。

3対3。延長突入。
15分ハーフのゴールデンゴール方式。
それでも決まらなければ双方五人ずつが出てのペナルティーシュートアウト。
いずれにせよ、完全決着しかありえない。
「まだやんのかよー」
「もうPK戦でいいじゃん」
「いや、両方ともワールドカップ出場!」
「だったらこんな試合する必要ないでしょ」
加護が辻のひざをアイシングする。保田が水とタオルを配って回る。
疲労以上に、落胆の色は濃い。
そして、最後の言葉をかけるべき監督は、すでにそこにはいなかった。
「みんな、ちょっとええか」
中澤主将が立ち上がる。
「みんな、誇ってええで。うちら、時間内では負けへんかったんやからな」
「なに言ってるの裕ちゃん。まだ延長があるのに」
飯田が顔を上げる。
「無理すんなや。そんな体力、残ってるんか」
安倍がVサインで応える。
「だってうちら、若いもーん!」
一次予選からの生え抜きトリオが、場を和やかにした。
5分の休憩はあっという間に終わった。
「裕ちゃん」
ゴールマウスに向かって歩き出す守護神に、矢口が声をかける。
「実は、ほんのちょっとだけ、延長になってよかったって思ってるんだ」
「なんでや?」
「だって、裕ちゃんと一緒にサッカーできる時間が、ほんのちょっとでも伸びたんだもん」
「やせ我慢やろ」
「バレた?」
中澤が矢口の頭をくしゃくしゃにした。
全身日の丸ルックスで罵声を浴びせてきた姿を、昨日のことのように覚えている。
延長開始。1点取ったらそこで終わり。
イランは短期決戦にきた。バシタカのポストからナギンチェフが飛び出す。中澤が飛びついた。ナギンチェフが吹っ飛ぶ。
「日本代表なめんなや、死ぬ気で来んかい!」

マサーヒーのシュートが大きく右に逸れる。
主審の笛が高らかに鳴った。
延長後半終了。勝負はフットボールの究極形、PK戦に委ねられる。
シュート数1対8。後半は安倍まで下がり、ほとんどの時間帯を守りに費やした日本を何度も救ったのは中澤のミラクルセーブ。これだけリズムに乗っていれば、PK戦でも期待が持てた。
サウジアラビア戦の後から3位決定戦を想定して、PK戦の準備は万端。誰が蹴るか、順番も当然決めてある。
「二人目だけど……」
「ワタシがいきます」
「だいじょうぶ?」
「もっちろんですよう」
「矢口、順番、変わってくれる?」
「いいよ」
中澤はタオルをかぶって、静かにその時を待つ。
先攻は日本。
先にゴールに入るシンゴママーとすれ違う。延長戦ではほとんど出番の無かった彼がすっと手を伸ばしてくる。
視線は交わさず、タッチだけをかわし、互いの健闘を祈った。

キッカー一人目は、後藤真希。ボールを脇に抱え、のっしのっしと歩き出す。
若く、勢いのある後藤が決めればチームは一気に乗れるという思惑からだった。プレッシャーに打ち勝つ図太さにおいてもベストキャスティング。
イランGKシンゴママーが大きく腕を広げ、後藤を威圧してくる。
確かに後藤の神経は限りなく太い。が、神経がないというわけではない。心を落ち着かせるべく深呼吸を繰り返す。
シンゴママーが呼吸を合わせてくるのに気付き、タイミングをずらす。
助走は短い。コースは右上へ思い切りと決めてある。振りかぶった瞬間、向かって右に倒れるGKを確認した。
打ち上げてしまった。急激な方向転換が災いした。
「うわあ……」
後藤がその場にうずくまった。
中澤がその体を起こす。
「まだ大丈夫や。うちが止めたる」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
後藤の顔を、早くも涙が伝っていた。

シンゴママーがゴールを出て、中澤が入る。
イラン一人目はアリ・バシタカ。
このタイプは自分の絶対自信のあるコースに、力いっぱい蹴りこんでくる。
右足シュート。軸足の向きを見極め、中澤が右に飛ぶ。
右手のひらで受けた。が、その手が大きく弾かれた。
「くそっ」
ゴールの転がり込んだボールを、中澤が手ではたく。
バシタカはポパイのようなガッツポーズをチームメートに作ってみせた。

日本、二人目は石川梨華が出る。
「石川」
矢口がガッツポーズをみせる。石川も同じようにしてみせる。
本来、セカンドキッカーは冷静な市井紗耶香のはずであった。そこに石川自ら志願したのは理由があった。
日本代表は、リタイヤした選手の穴を、新しく入った選手が埋めてきた。
福田の穴は矢口が、石黒の穴は保田と後藤が、それぞれ血を吐く思いで埋めてきた。
だから、市井の穴は自分が埋める。石川はひそかにそう思いつづけていた。
それにペナルティーキックだってセットプレーだ。ゴール正面、壁なしに11メートルの距離から蹴られるフリーキックだ。
これを外すわけにはいかない。
神経質に、何度もボールを置きなおす。
石川は一切キーパーを見ない。キーパーがどう動こうが、このコースに一定以上のスピードで蹴れば物理学上人間の身体能力では絶対に止められない領域がある。
だから、キーパーのフェイントなんて無意味だった。キーパーの飛んだ方向とは逆の右に石川のシュートは飛んだ。
金属音に、思わず目をつぶる。足元に転がるボール。狙いすぎて、ゴールポストに嫌われた。
いまさら何をしても無駄だ。が、叫ばずにはいられなかった。
「チクショー!」

まだスコアがゼロの日本。うなだれて、仲間の下へ戻る石川の肩をすれ違いざまに叩く者があった。
イラン二人のキッカー、マサーヒーだ。
中澤は小さく構えながら、マサーヒーの目を見る。このタイプは相手の動きを見極めてから蹴ってくる。絶対に先に動いてはいけない。我慢比べだ。
ももを高く上げる助走から、マサーヒーのシュート。ハーフスピードのボールにタイミングを外された中澤がボールを見送る。
石川とは逆の左ポストに当たったボールに、中澤が安堵の表情を浮かべかけた。
が、石川のシュートほど勢いが無かったのが幸いして、ボールは内側に力なく跳ね返った。ネットが静かに揺れる。
中澤が思わず地面を叩いた。0対2。PK戦では絶望的な点差がついてしまった。
どないしょ。こんな負け方、いやや。お父ちゃん、力貸してえな。

ああーーーーー!!!
「なんではずすんだよお・・・・」
「狙い過ぎなんだよ・・・」
「中澤次止めろよ・・・・」
「3人目は誰だ?」
「飯田に蹴らせろよ!」

「あんたらなあ」
飯田圭織がおかんむりだ。
「ワクに飛ばないシュートが入るわけないっしょ」
そのまま大股でペナルティーエリアに侵入する。
ゴール裏の日本サポーターに向かって、あおるように手を上げる。
なんでそんなに静かなんだって。騒いでくんなきゃ気分でないべ。
思い出したように、カオリコールが起こる。
無表情な奴だぜ、考えが読めない。シンゴママーが迷う。
日本イレブンはいつのまにか全員が手をつないでいた。
ヤマをかけて、シンゴママーが左へ飛ぶ。
シュートはど真ん中。突き上げるような勢いでゴールに突き刺さった。
どだ? 仲間に向かって親指を突き出す飯田。
カオリにゃかなわねえなあ。矢口はニヤリと笑った。
「サンキュ、カオリ」
「スコアなんて考えなくていいからね。裕ちゃんの好きなようにやんな」
役目を果たし、背番号11は仲間の下へ小走りに戻っていった。

誰やねん、次は。なんや、自信家の優男かいな。
ボールを置いたのはキムラタクヤ。
手を広げ、大きく息を吐く。
ズキン、と、右手中指に痛みが走る。
さっきのバシタカのシュートでやられたのだろうか。
イラン人はそのわずかな中澤の表情の変化を見逃さず、走り出した。
強シュートだ。指先ではコースを変えきれずゲットされそう。ならば。
「くわあっ」
握り固めた拳を、ボールのど真ん中へ思い切り叩きつけた。
倒れながら、転々と転がっていくボールの行方をはっきりと見た。
苦笑いするイラン人に、言ってやる。
「あんたの蹴るコースなんかなあ、蹴る前から分かっとんねん」
中澤が、初めて一本を止めた。

ヨッシャーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!
「飯田最高だぜ!!」
「だから飯田に蹴らせろっていったろうが!!」
「なんで最初に蹴らねーんだよ・・・」
「俺は飯田さんについて行くよ」
「さあ、中澤止めろよ」
「イランは誰が蹴るんだ?」
「大丈夫。絶対逆転する・・・」

「なっち」
安倍なつみが静かに立ち上がる。
本来ラストキッカーの彼女が、四人目の矢口と順番を変えてもらったのはまったく正解だった。
現在三人ずつが蹴って1対2。
もしここで安倍が決めて、イランの四人目が失敗すれば一気にタイスコアの持ち込める。
が、もしも安倍が外せば、イランの四人目を中澤が止めないと日本の負けが決まってしまう。
「お願いします」
後藤が胸の前で手を組んで哀願する。安倍は緊張した面持ちのまま、ゆっくりと歩みだした。
PKはうんざりするほど蹴ってきた。いまさら特別なことをするつもりはなかった。
が、いざペナルティースポットの前に立つと、とんでもないいたずら心が芽生えたりもするものだ。
笛が鳴る。ゆっくりと助走。急にダッシュをかける。シンゴママーがあわてて右に倒れる。
安倍が狙ったのは、飯田と同じど真ん中だった。まさか二人連続で真ん中にくるとは考えまい。
が、イラン人キーパーは、恐るべき反射神経を見せた。上体はサイドに流れながらも、残った右足で低く飛んでくるシュートを蹴り上げる。
真上に上がったボールが、天井ネットの上に落ちた。
安倍が思わず頭を抱えた。自らを罰するように、何度もその頭を叩く。
「あんたは、本当、最後まで手が焼けるよ」
中澤が傷心のエースの肩を抱いた。
本当のがけっぷちだった。が、これからが、チームの真価を問われる時だ。

ああああああああああ!!!!!!
「マジかよ・・・・・」
「何やってんだよ安倍・・・」
「おい、今キーパー動くの早くなかったか?」
「なんで3人もはずしてんだよ・・・」
「ばかやろう!!お前は代表に来るな!!!」
「おいおい、次止めねーと終わりだぜ」
「中澤・・・頼む・・・・・」

「あいぼん、今何対何?」
延長後半で脚が吊って動けなくなり交替した辻が加護に尋ねる。
「日本はゴトさんが宇宙開発で、梨華ちゃんがポスト、飯田さんが決めて、安倍さんが止められたやろ。イランは10と11が決めて2が外したから」
「次、イランが決めたら、日本は負けだよ」
保田の言葉に青くなる二人。
今思うとあたしが下がったのは正解だったね。PK、全然ダメだから。
イランが送り出したのはボランチのゴローニザデ。レフティーらしく、それまでの選手とは逆の立ち位置にいた。
ゴローニザデには、まるで中澤が笑っているように見えた。
実際、笑っていた。
こんなに集中した、密度の濃い時間を、それまでの中澤は経験した事がなかった。すべてに感謝したい気持ちですらあった。
左だ。中澤の呼吸とキッカーの呼吸がピッタリと合う。甘いコースにきたシュートを、中澤がガッチリとつかんだ。
日本、首の皮一枚つながった。安倍と飯田、後藤と吉澤、保田と辻と加護が抱き合う。
「矢口さん」
中澤のセーブを見届けて、狂気の145センチがゆらりと立ち上がる。
後藤、石川、安倍。ワールドカップの魔物を宿したプレイヤーたちが連鎖反応を起こして失敗した。
が、今の矢口は魔物に呑まれるどころか、その魔物すら凌駕する殺気にあふれていた。
右足よ、砕けるなら砕けちまえ。
日本がワールドカップに出られるんなら、こんな足、安いもんだ。

それは、いつのことだったかも忘れてしまった戯言だった。
「みっちゃん、うちなあ、二つ夢があんねん」
「結婚と出産」
「違うがな。ひとつは日本代表に入ること。それは叶ってんけどな」
「あとひとつはなによ?」
中澤裕子は、ゴールキーパー一筋だった。
平家が後で調べたところによると、プロになってからはおろか小学校時代からPK戦のキッカーすらつとめたことがないのだ。
おとなしいから、手でやる球技がうまいから、でかいから、ジャンケン弱いから。
そんな理由でキーパーが決まってた時代の選手だった中澤は、ただの一度もシュートをしたことがなかった。
「一回でええ。入らなくってもええ。シュートってやつがしてみたいねん」

どわあああああーーーーーーーー!!!!!!
「ヨッシャーーー!!!ナイスナカザー!!!」
「ヨシ!!ヨシ!!よく止めた!!」
「いけるぞ!まだいける!!」
「だから言うたやろが・・・うちの姐さんは土壇場に強いねんて・・・」
「中澤!!さすがベテラン!!!」
「最期は誰蹴るがよ!」
「おい!お前らもっと声だせま!!!」

中澤が主審になにごとかを告げ、自らペナルティースポットに立った時、矢口は間抜けにも立ち止まった。
PK二発をストップした自分の運を信じたかったのだろうか、腰に手を当て、ホイッスルを待つ背番号1。
それを突っ立ったまま見守る矢口。
右足から放たれた中澤生涯最初で最後のシュートがクロスバーに弾かれ、死闘は終わった。
安倍や後藤は狂ったように泣き崩れ、飯田は力尽きて座り込んだ。
辻と加護を両脇に抱えた保田がチームメートを慰めにくる。鬼コーチ夏まゆみの目も赤かった。
ミカがこの世の終わりのように泣き喚くそばで、石川が何度も地面を殴る。それを吉澤が泣きながら止める。
控え室から走ってきた寺田監督が、中澤の下に駆け寄る。それを見た中澤が緊張の糸が切れたように、子どものように泣き出した。
寺田もその頭を優しくなでた。
それは、目を覆うような惨状だった。
ただ一人、矢口だけは泣かなかった。泣けなかった。
取り残されたように、あたりを見渡す。
イラン選手が泣きながら喜んでいる。
ゴール裏、日本サポーターが沈んでいる。
平家や福田、松浦らも泣いている。
「ってえ……」
忘れていた体中の痛みがぶり返してきた。
心の痛みを感じ取るには、もう少し、時間が必要かもしれなかった。

<エピローグ、あるいは、狂気の代価>

語るべきことはあまりにも多い。
まずは、選手たちが血と汗と涙とを流した直後の会見である。
以下、寺田監督のコメント。
「まず、勝てんくてすんませんでした。
 選手たちはほんま、すばらしい活躍をしてくれました。
 それは今日に限らず、また、今日戦った選手に限ったことではありません。
 これだけの人材に恵まれながら負けてしまったのは、つまり、監督がアホやということです。
 すべての敗因は自分にあります。
 帰国後、我々への風当たりの強さは覚悟していますが、どうか、選手、そしてスタッフは暖かく迎え入れたってください」
事実上の辞任会見。稀代のギャンブラーは、その引き際までも鮮やかにセルフプロデュースしてみせた。

人材に恵まれた――それはこの日アジアサッカー連盟が発表したアジア予選ベストイレブンが裏付けしていた。

GK  中澤裕子(日本)
DF  後藤真希(日本)
    アーメド・チネン(イラク)
    アル・ジェフ・ノザワ‘ケガニ’(サウジアラビア)
MF  矢口真里(日本)
    ファハド・マサーヒー(イラン)
    知 念里(中国)
    デミトリー・エーリン(ウズベキスタン)
FW  安倍なつみ(日本)
    アリ・バシタカ(イラン)
    ファン・アミゴ(韓国)
得点王 アリ・バシタカ
MVP 後藤真希

予選敗退したチームから最多の四人が選ばれるのは異例中の異例、日本がいかに高い評価を得ていたかが分かる。

次いで、キャプテン、中澤裕子のコメント。
「今は・・・・・・(早くも目が潤む)みんなに、お疲れさんと言ってあげたいです。
 (今後のことについては、という質問に対して)とりあえず、みんなでもんじゃ焼きでも食べに行きたいなと(一同爆笑)
 ただ、今日をもちまして、中澤裕子、現役を卒業したいと思います。
 サッカー選手として、ワールドカップを目指す事は当然の事です。
 けど、四年後は、今の私にとってはあまりにも遠い響きです。
 でも、今度は、日本代表の応援団長として、いちサポーターとして、関わってまいりたいと思います。
 結婚? 日本がワールドカップで優勝すると同じくらいの確率ですねえ(笑)
 今まで、本当にありがとうございました」
こちらも、事実上の引退会見となった。

「もう、一生、PKは蹴りたくないっす」
石川がぼやいた。うめくような声だった。
帰りの飛行機、三人がけの椅子に、矢口は石川と吉澤とにはさまれて座っていた。
サッカーの記事に触れる事もイヤで、新聞も読めない。
飲んでも寝ても悔しさは消えてくれず、いらいらとしながら不快な空の旅が続いていた。
「それでも蹴れただけいいじゃんかよ」
矢口が愚痴り返す。親指は添え木と包帯とで固定してある。
矢口の親指に起きた惨劇を目の当たりにしたチームドクターが再び泣き出したほどだった。
「私、いつも飛行機に乗る時、落ちるなって念じてるんですけど、今日は落ちてもいいってちょっとだけ思います」
吉澤だった。12ラウンドを戦ったボクサーのように腫れ上がった顔を、大き目のサングラスでカバーしている。
「なにが悔しいって、試合のたび違うポジションで使われたことです。
 ボランチだったり、サイドバックだったり、リベロだったり。
 こんな使われ方されて、それで吉澤の力はあんなもんだなんて思われたら、たまんない」
我慢強い吉澤である。起用法がよほど腹にすえかねていたのだろう。矢口は吉澤がそんな風に悩んでたなんてちっとも気付かなかった。
矢口が代表に招集された時は、しばらくベンチを暖める日々があった。
その期間にチームに慣れ、プレーや戦術を学び、そして試合に出たときその経験を活かせた。育てられているという実感があった。
が、吉澤や石川は、いきなり試合に使われた。わけのわからないまま。試合の中で大人になっていくことを強要された。
口にはしないが、石川も吉澤と同様の悔しさを抱えている事だろう。
矢口は若き戦士たちの手を握る。かつて初めての代表ゲームに臨む保田と市井とにしたように。
だいじょうぶ。四年なんて若いあんたらにはあっという間さ。だから、あきらめるなよ。

右足のレントゲン写真を見ながら、骨のエキスパートという紹介を受けて矢口が頼った外科医が難しい顔をする。
この女医はシングルマザーの名医としてマスコミにもよく出てくる小湊美和である。
「先生、それであたし、あと何年生きられるんですか?」
告げられる結果が怖くて、わざと茶化してみせた。
「折れてるね、それもきれいに」
いきなりの返答に思わず椅子から滑り落ちそうになる。
「わかってますよ、自分の体なんですから」
「重要なのは、きれいにってことさ」
通りの良い声でそう言った後、折れた個所をボールペンで叩いてみせる。
「複雑骨折、治療に要数年、リハビリにさらに数年、完治した時は選手として峠を越えてしまっている・・・・・・その一歩手前だったってことさ」
矢口の頬がばら色に輝く。
「奇跡的に神経もほとんど傷んでいない。まあ親指の爪が多少不恰好になるのはあきらめなさい」
「ネイルアートがもうできないのね」
「付け爪があるわよ」
小湊が椅子に座り、カルテを書きながら
「でも本当にがけっぷちだったのよ。何度も親指に集中的に負荷をかけてたでしょ。それも上からじゃなくて前方から。
あたし、サッカー全然わかんないんだけど、指に垂直の負荷がかかると、骨は折れるというよりは潰れるの。
骨って縦からの衝撃には強いから普通ボール蹴ったくらいじゃそんなふうになるはずないんだけど。
あんたボールじゃなくってつっこんでくるダンプでも蹴飛ばしてたの?」
「まあ、似たようなもんで」
「もしあと1、2回同じような衝撃を加えていたら、足全体がいかれてたでしょうね。選手生命が終わる一歩手前ってのは嘘じゃないんだからね」

「だから中澤は自分でボール蹴ったんだね」
「泣かせるじゃないの」
その晩、矢口は約束どおり夏にカニすきをおごっていた。なぜか和田まで一緒だった。
「で、どうやって治療するの」
「開いたほうがてっとり早いって言われました」
「いつ手術するんだ?」
和田は矢口とは旧知の仲だ。彼女の性格なら迷わず開いて、一日も早い復帰を望むだろうと。来週から中断されていたJリーグが再開する。
傷心の戦士たちは休息する間もなく新たな戦いに刈り出されるのだ。
が、今時間を与えられたところで、選手たちは深く思い悩んでしまうだけだろう。
試合によって傷ついた心は、試合によって癒すしかないのかもしれない。
矢口は力なく首を横に振る。
「開かず、ギプスで固めて、自然治癒に任せることにしました。先生(小湊)にもそのほうがいいと言われたし。
それっきり、矢口の口と手は止まってしまった。
145センチのミッドフィールダーが日の丸のために捧げた狂気の代価は、むしろ心のほうに大きく作用した。
ワールドカップ・ドランカー。
石川たちのようにオリンピックというわりと近い目標がある年代ならともかく、矢口にとっても四年後はあまりに遠い。
それまでの、ただ金や名誉のためのサッカーは、矢口にとって苦痛以外のなにものでもない。
夢破れた矢口は、目標を見失い、さまよう少年のようだった。
「夏さんは、これからどうなさるんですか?」
和田が矛先を変える。寺田監督の退陣によって、寺田に招かれた夏も職を失った。
「環境を変えてみるつもりです」
「また高校サッカーに戻られるんですか?」
「いえ、もっと低い年代――小学生や中学生に、基本技術の大切さを学ばせます。予選を戦って、日本選手はまだまだ技術が粗いなと実感しまして」
矢口は耳が痛かった。

「あ、そうだ。こんなことあったんですよ」
矢口は、試合後、寺田が最後の仕事として選手一人一人を慰めて回った事を二人に話した。
もちろん、寺田が自分のところだけを飛ばしたことも。
それを矢口は、イランの3点目が矢口のせいで入ったと一時的に責任転嫁したのだと思っている。
「ほんとに? あたしもそこにいたけど、気づかなかったなあ」
「たぶん、わざとだろうな」
和田が腕を組む。
「監督は身長というリスクを承知でおまえを代表に入れた。けど、最後の最後でおまえの身長が足らなくて同点ゴールを許した。
そりゃ、おまえのせいにもしたくなるよ。信頼してただけにな」
やっぱりあれはわざとだったんだ。矢口は納得する。
「けどそこまでこれたのはおまえの力だ。それは監督もわかってるはずから、誇りを持て」
鍋の中で、手付かずのカニが固くなっていた。

その一週間後、矢口は辻を伴い、大阪市内の病院を訪れた。
「うわあ、矢口さん、おひさしぶりです」
帰国直後心臓にメスを入れた加護。術後の経過は順調だった。
なにより先に、矢口には言わねばならないことがあった。
「加護、本当にごめんなさい」
もしあのまま加護に試合を続けさせていたら、取り返しのつかないことになっていたかもしれない。
「ええんですよ、もう。あの戦いが今は遠い昔のようですわ」
まだあどけなさの残る二人にはあまりにも過酷な戦いだったかもしれないが、なにかをつかんだはず。
この経験はこれからのサッカー人生に絶対に有益なはずだ。
「あいぼん、いつからサッカーできるの」
「早くて一年。遅いと・・・・・・どれくらいやろか」
「あんたらの歳ならあと20年は現役続けられるでしょ。1年なんて短い短い。そういえばさ、傷跡ってどんなもんなの?」
加護も年頃の女の子である。胸に傷が残るのを気にしないわけがない。
「このへんに、こんな風に走ってるんやそうです。まだ抜糸も済んでへんのやけど」
加護がピンクのパジャマの左の乳房の下あたりを指でなぞる。
「のの、冷蔵庫開けて」
「うん・・・・・・うげっ」
辻が2ドア冷蔵庫内の光景に目を背ける。すべての段にビン牛乳が敷き詰められているのだった。
「胸大きくせな、傷が隠れへん」
腰に手を当て、冷たい牛乳をあおる加護の姿に、二人は気分が悪くなった。

実家に帰省した矢口の毎日は、筋トレとリハビリに明け暮れるだけの、ひどく単調なものだった。
相変わらず新聞は読んでいない。テレビもほとんど見ない。メディアを通じて「ドーハの悲劇」が伝わってくるのが怖かった。
だから、完全に情報から取り残されていた。
それでも最近、昔の試合のビデオを見る事が出来た。福田最後の試合となったアウェーでのサウジアラビア戦だ。
この頃は中澤の顔もまだ優しかった。
石黒にどやされる保田が、小さい声でしかボソボソと言い返せないでいる。
そして矢口はといえば、本当に安倍と福田に甘え、本当にやりたいようにやっている。
イラン戦ではその矢口が、辻と加護にやりたいようにやらせていたのだから、隔世の感すらある。
少しずつ慣れていこう。今度は本屋に行った。今日はゴールマガジンの発売日だ。
「真里ちゃん、残念だったね」
そんなあいさつも本当はつらいのだが、とにかく微笑み返す。
とりあえず一冊小脇に抱え、他の買わないサッカー雑誌を立ち読みする。
「決定! ワールドカップ全出場国!」
その記事を読んだ矢口は、手がワナワナと震えるのを感じた。店を飛び出す。
悔しさがあふれたのは、イランのページに目をやったときだった。
ちくしょう。あたしたちはこいつらより絶対強かった。なのに、なんだよこの差は。

その日、矢口は消息を絶った。何日待っても連絡がない。
「石川、心当たりないか?」
首を横に振る石川。三日、四日・・・・・・
行方不明から一週間。
横浜Fマリノスは、契約不履行を理由に、矢口真里を解雇した。

「うひゃあ。よくきたねえ」
矢口は市井紗耶香を尋ね地球の裏側、南米パラグアイを訪れていた。
パラグアイなんて国は映画「ブラジルから来た少年」でしか知らない矢口も、今ここにいる自分がどこか信じられないほどであった。
代理人である後藤の弟が市井の新天地として選んだのはパラグアイの人気チーム、セロ・ポルテーニョであった。右ウイングバックとして活躍。
すでにパラグアイリーグ優勝、リベルタドーレス杯出場と着実に成果を上げている。
すでにヨーロッパのリーグからオファーが届いていたが、後藤弟に言わせると「まだ値が上がる。ワールドカップが終わるまで待て」とのこと。
「いーなあ。ワールドカップかあ」
「まだレギュラーで出られるって決まったわけじゃないよ」
そう言いながらも市井の目は燃えている。燃えカスがブスブスとくすぶってる自分とはえらい違いだ。
「で、これからどうするの?」
「マリノスに戻る気もないからさ。このまんま、サッカーやめちゃうかも」
「もったいないよ。アルゼンチンでも、パラグアイでも、矢口みたいな選手見たことないもん。今やめたら後悔するし、第一やめてどうするの?」
わかっている。わかっているけど、どうしても気持ちがついてこない。
「怪我ってわけじゃないんでしょ?」
骨はもうくっついている。あとは感覚を取り戻すだけだ。
が、果たしてどこまで自分のプレーが戻ってくれるのか。
「まあ、好きにしなよ。でも、あたしは待ってるからね。次のワールドカップ、日本と当たるのを」
矢口は、あいまいに笑う事しかできない。
「で、当面はどうするの?」
矢口がグラビア誌を突然持ち出す。
「ここに行ってみようかなと」

「でっかー!」
チリの海岸から3,800km。
タヒチから4,000km。
日本からは15,000kmも離れた南太平洋に浮かぶ孤島、イースター。
イースター島がチリだということも知らなかった矢口だが、モアイ像だけは知っていた。
特に深い考えがあったわけではないが、こんなあてどない旅でもなければ立ち寄る事もなかろうと寄ってみたのだった。
が、居並ぶ顔、顔、顔。矢口は思わず圧倒される。
孤島に巨大な石の顔。理屈抜きでのインパクトの強さは、小田原城公園で見たゾウ以来だ。
モアイを堪能し、港近くのレストランで豆料理を食べる。
今の時期は秋ぐらいの気候で、緑色のマメにかけるチリソースもいくぶん甘めに作るのだと知ったのは後のことだ。
さあ、いざ支払いという段になって、矢口が青ざめる。
財布がない。
スーパーマリオみたいな顔をしたマスターがテーブルをコツコツと叩く。
「アントニオ!」
赤とくすんだ緑のユニフォームをまとったインディオの少年が、血相を変えて店に飛び込んできた。次いで、肩をかつがれた男が入ってくる。
どうやらマスターはこのアマチュアサッカーチームのオーナーでもあるらしい。怪我をしているのはエースのようだ。
こんな島にもサッカーチームってあるのねと感心していた矢口だが、名案を思い浮かべた。ここぞとばかりに、片言の英語と後藤に習ったやぶれかぶれのスペイン語を駆使して、自分を売り込んだ。

「日本じゃ女がサッカーやってるのかよ」
快晴の空。荒れ放題の芝。ビール片手に寝転がる観客。相手はなんでも島一番の強豪とか。
センターサークルでキックオフを待つ、インディオの少年。
少年は顔はあどけないが、身長は軽く180はある。細身で、目が大きい。
ブカブカのユニフォームを着た矢口は馬耳東風だ。というより、耳を貸す余裕がない。
何ヶ月振りの試合になるだろうか。不安と高揚が矢口の五体を包み込む。
ああ、やっぱ、あたしはサッカーなしじゃいられない体なのね。
「名前くらい聞いてやる、チビ」
「マリだよ。マリ・ヤグチ。あんたは?」
「マリオ・サンチャゴ」
「名前もきにいらないわね」
「お互い様だ」
笛が鳴る。矢口はボールを転がし、前に駆け出した。

「げふっ」
矢口の体がメンコのように吹っ飛ぶ。
技術はないが、当たりは激しい。さすが南米サッカー。
「どうした日本人、豆料理一皿分くらい働けないのか」
マリオが孤立していた。パートナーを失い、思うように身動きが取れない。
「こっち!」
矢口が裏に走る。荒れた芝に、バスが大きく跳ねあがる。
「くえっ」
ヒールキック。浮いたボールが飛び出していたキーパーの頭上をあっさり破った。
「オー!」
「ヤマトナデシコー!」
急に湧き上がった歓声に、投げキッスで応える矢口。
「調子に乗るな」
マリオが釘を刺した。
おっかなびっくりではあるが、徐々に感覚が戻りつつある。
パス、トラップ、ドリブル。わずかずつ、しかし確実に。
スライディングで大男をぶっ倒し、イエローカードをもらう。
ひじにすり傷をこさえる。
スルーパスに飛び出す。軽いフェイクをかけて、センタリングをあげる。マリオは頭で触れるだけでよかった。
これで、豆料理の分は、働いたぜ。矢口は親指を立てた。

「石川」
JR新大阪駅に降り立った石川を出迎えたのは保田だった。
マリノス首脳陣と対立、飼い殺しとなっていた石川をセレッソに引き取るよう働きかけてくれた。
「どうも、お世話になります」
「ビシ、バシ、しごいてやるからね」
「あははは……お手やわらかに」
顔を見合わせると、やはり話題になるのは、矢口の事だ。
「なにやってんだかね、あのバカ」
「あの人はタンポポですから」
「フワフワしてるくせに、しぶといから?」
うふふふ、と石川が笑った。
「矢口さんから、手紙が来たんですよ」
「ほんとに?」
石川が手渡したエアメールには、見たこともないような切手が貼られていて、中にはタンポポの押し花が入ってるだけだった。
「今、日本に原生しているタンポポのほとんどが、セイヨウタンポポっていう帰化種なんです。菜の花なんかもそうですよね。
 新しい環境にいち早く適応して、そこを自分の家にしてしまう。矢口さんにそっくりでしょ?」
確かに最後、日本代表は矢口のチームになっていた。
「あの人なら、きっと、どこでもやってける。だから私はちっとも心配してません。
 もし、また力が必要になったら、地球の裏側からでも飛んできてくれる。私はそう信じてます」
「あれ、このタンポポ、セイヨウタンポポじゃないよ?」
「え?」
「だって、このがくの下の部分(総包)ふくらんでる。セイヨウタンポポなら反り返ってるはずよ」

サウス・イースターFCの切れ味鋭いセンターフォワード。
兼レストランのキュートな看板娘。
時には頭脳明晰な日本語の通訳。
矢口の新しい日常が始まった。
試合も練習もない日のひまな時間には、マリオのべスパに二人で乗ってデートに行く。
「マリ、君に見せたいものがあるんだ」
海をにらむモアイ像の根元に、マリオの見せたいものはあった。
「こんな珍しい花、見たことがない。小さくて、快活で、可憐で。まるできみを見ているみたいだ」
ラテンの人は平気でこんあことを言ってしまえるが、それを気にしていたらこの国では生きられない。
それよりも矢口は、この黄色い花のほうにひきつけられた。
日本人の矢口には珍しくもなんともない、ただの黄色いタンポポだった。
が、よく見ると、これが日本原産のカンサイタンポポであることが分かる。
恐らく日本人観光客の服にでもついていたタンポポの種がここに落ちて、花を咲かせたのだろう。
「マリ?」
しゃがみこんだ矢口が、目にいっぱいの涙をためている。
ずいぶん遠くにきたな。
ドーハ以来、忘れていた痛みがようやく戻ってきたかのように、大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。
「マリ、そろそろ、きみのことを聞かせてくれ。きみの国のこと、生い立ち、そしてどうしてここに来たのか」
涙をふき、いつものように笑顔を作りながらうなずく矢口。
いろいろあったんだよ、いろいろとね。