サッカー小説「歓喜の145cm」

 

あらすじ

Jリーグでもっとも小柄な選手であり、日本代表をこよなく愛するミッドフィールダー、矢口真里は初のワールドカップ出場を狙う日本代表に召集される。矢口は選手生命を縮める魔球・セクシーボールを駆使して奮戦するも、あと一歩のところで涙を飲む。
これは、その後の矢口と仲間達の話。

 

プロローグ 〜計算違い〜

「ここでタイムアップのフエ! 0−3! ニッポン、ピョンヤンで行われた 21世紀初の国際試合を落としました! ホームでの第二戦を残しながら、もはや絶望的ともいえる状況に追いこまれました!」
東京のスタジオから、泣きそうな声でアナウンサーが伝える。
東欧革命、ベルリンの壁崩壊、旧ソ連解体。第二次世界大戦から続いてきた冷戦が、80年代終わりから90年代初頭にかける激動の嵐の中終結した。
その中、ただひとつ、いまだ西側の国にその内情を見せない国がある。
北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国。
異常な空間だった。
日本人はサポーターはおろか、プレスすら入国を許されなかった。この放送にしても国際電波を見ながらアナウンサーと解説者がコメントをつけていたのだ。
ピッチの周りには銃剣を構えた兵士達が取り囲んでいた。フーリガンから選手を守るためであったが、点を取った日本選手を射殺するためにも見えた。
スタンドからアリランがこだまする中、日本のナンバー10、石川梨華がうちひしがれる。
世界で一番軽い10番とののしられた彼女にとって、この試合は重要な意味合いを持っていた。
が、結果はこのザマだ。
情けなくって、涙も出なかった。



 

おいでませ! イースター

あっちぃわ〜…
ミネラルウォーターをちょっとずつ含みながら、中澤裕子はボリカロボ通りを歩いていた。もっとガンガンあおりたいが、硬水なのでお腹がくだらないか心配なのだ。
そして、この日差しのきつさだ。持参したSTF40の日焼け止めでは効果がないかもしれない。
ネコも犬もこの暑さにだれきっている。
島は広いが、人が住んでるのは島南部にあるこのハンガロア村のみ。
地球の裏側から来た人間を探すのはそう大変ではないだろう?
「エクスキューズーミー」
人のよさそうなおばさんを捕まえる。
「ドゥーユーノー、ジャパニーズリトルガール」
現地の言葉でまくしたてられる。英語は話せないらしい。
「ベリーベリーリトル、こんくらいでな、ほんまちっちゃいねん」
哀しげに首を振るおばちゃん。
「矢口真里っていう」
その名前を聞いた瞬間、おばちゃんの目の色が変わった。中澤の腕をつかみ、強引に引っ張っていく。
ちょっと、矢口、あんたここでなにしたん?


「うるせえよ、後藤2号」
矢口真里は後藤ユウキを口汚くののしる。
「2号って、やめてくださいよ」
「うっせえな、帰れ暇人」
「悪い話じゃないと思うんですが」
「今仕事中なんだよ」
暑さの厳しいイースター島では、午後1時から3時まで、レストランを除くほとんどの店が昼休みを取る。
自然、レストラン「バナナシュート」にとっては一番の稼ぎ時。
矢口が小さな身体をフルに動かしているときに話しかけるものだから余計頭にくる。
「だから、なんであなたにたいな人がこんなところで」
「知るか。ほら、これ持ってけ」
ドスンと出したのはチリの代表的果実、チリモジャの盛り合わせ。パパイヤ状の果肉にオレンジジュースをぶっかけて食べるデザート。渋々持っていくユウキ。
イースターでの暮らしには慣れたが、この時間だけは、日本での慌しさを思い出すのだ。懐かしくはならないけど。


「マリ!」
サマンサおばさんだ。毎日の野菜は朝市で、ほとんどこの人から買っていく。鮮度のよい野菜を安く売ってくれるこのおばちゃんに矢口は頭があがらない。
「今日本人が来てね」
こんな孤島でも、日本人観光客は大勢来る。
南米なんてところは観光地としては上級者向き、逆にいえばいろんなところへ行き倒した御仁が行くとこないし行ってみるべと訪れるような場所なのだ。
頼まれれば無償で通訳兼ガイドを引きうける矢口だが、正直な話、あまりいい印象を抱く客は少なかった。
「金」の匂いが強い人間をもともと受け付けなかったのが、この島へ来てその拒絶反応に拍車がかかってしまったような気がする。それでも、引きうけないことには。
「どんな人?」
「きれいな女の人だよ。30歳くらいの」
うわー。一番嫌いなタイプかもしれない。ユウキのアロハシャツのそでで手を拭き、覚悟を決めて、店の外に出ていく。
見なれた顔が、そこにはあった。
「おっす、矢口」
「裕ちゃん!」
サマンサおばさんは、突如抱き合った二人に、ただならぬ雰囲気を感じた。

遠い記憶

中澤裕子と矢口真里はかつてサッカー日本代表として初めてのワールドカップを目指し、最後の戦いに臨んだ。
痛みきった足に鞭打ち、PK戦のラストキッカーとしてゴール前に立とうとした矢口。
が、ボールの前には、すでに中澤が立っていた。その直後、長い戦いにピリオドが打たれた。
最後のキックを蹴らせてくれなかった中澤を最初は恨んだ矢口だったが、あとひと蹴りで足が壊れていたことを医師に告げられ、中澤に感謝したのだ。
もしサッカーをやってなかったら、中澤と出会うこともなかった。
それだけで矢口は、あの戦いをくぐり抜けてきてよかったと思う。
ワールドカップに出られはしなかったが、あの時の仲間たちに感じた思いは永遠のものだったと思う。

酔っ払いトーク

「でさあ、裕ちゃん今なにやってるのお?」
チリといえばワインだ。閉店後の店内でとっておきの一本を惜しげもなく空け、矢口は早くも上機嫌だった。
ワールドカップ予選をもって、中澤は現役を「卒業」していた。
「ちょっと待ってな、吸うてもええ?」
「いいよ。灰皿? いらんいらん。床に捨てちゃえ。火だけ消して。おら二号、早よつまみ作れ」
ユウキが泣きながらサーモンマリネのようなものを運んでくる。
中澤がセーラムをうまそうにくゆらせる。
「こっちタバコ高いな。日本の倍したで」
「課税率が違うからね」
くわえたばこのまま、中澤が名刺を取り出す。
「日本サッカー協会客員顧問、中澤裕子…すごいじゃん、VIPじゃん」
「ただのスカウトや。ただ肩書きが偉そうなほうがハッタリ効くっちゅうだけでそない偉そうなことになってんねん」
「まあいいや。客員顧問にカンパーイ」
「なんでもいいんじゃないっすか」
「っせーな二号。しょっぺーぞこれ」
「アテなんだからそんなもんじゃないですか…」

舎弟@南米大陸

「そういえばアンタ、後藤の弟やんな。なんでこんなところにおるん?」
中澤はユウキとは初対面だ。が、一発でこれが噂の、後藤の弟かと分かった。
ユウキの本職は代理人である。代理人といえば弁護士の資格を持ったインテリと思われがちだが、ユウキの場合はもっと山師めいていた。姉にもとっくに愛想をつかされている。
が、この若さで彼が日本から南米に渡る選手(プロアマ問わず)のほとんどを把握し、転がしているのは事実だった。
「あたしとサヤカを抱き合わせで売ろうとしてんの」
「抱き合わせって、ただ気心知れた矢口さんとプレーしたほうが、市井さんも活きるから」
市井紗耶香。その名は日本サッカーファンにとって悔恨とともに、そしてともにプレーした中澤らにとっては郷愁とともに記憶される名だ。
かつてその名は日本代表の中にあった。が、馬鹿げた政治的思惑から、彼女は生まれ育ったアルゼンチン代表を選択せざるを得なくなった。
が、今も大切な友人であることには変わりない。市井の活躍のニュースは日本にも伝えられるし、矢口も一度パラグアイにその試合を見に行っている。
市井はますますプレーに冴えを見せ、こういうくくりになるのは悲しいが、日系人として初めてリベルタドーレス杯に出場した。南米クラブナンバーワンを決めるこの試合に優勝すれば、トヨタカップで日本に逆輸入される可能性もある。

決意

「みんな元気? ケガしてない?」
「それはこっちのセリフやっちゅうねん。いきなり行方不明になってからに、あんたは」
中澤が卒業なら、矢口はサッカーを「中退」していた。
敗戦後、足のリハビリ中だった矢口は突然姿をくらました。所属していた横浜Fマリノスはとうに解雇されていた。
「みんな心配してんで。あんた小さいから誘拐されて変態オヤジのオモチャにされてるんやないかって」
「ヤダーーーー!」
そのシチュエーションを想像し、青くなる矢口。
変わってへんわ、あんた。あの戦いがまるで昨日のことのようだ。
いかんいかん。ノスタルジックな気分に中澤が釘を刺す。
自分の目的を、改めて確かめる。
こんな孤島に、自分は観光に来たわけではない。
「矢口」
「なに、裕ちゃん。怖い顔して」
「頼む。力貸してくれ。もう一回、代表に戻ってきてほしいねん」

先走る中澤

「補欠代表決定戦でな、ピョンヤンでコリアに大負けしてん。彩ちゃんはへこむしカオリは暴走するし石川はスランプやし吉澤は記者殴るし」
「ちょっと待った裕子。二号! オレのも!」
ユウキに水を要求する矢口もすっかりあてられていた。
「でな矢口」
「待って裕ちゃん。あたしに質問させて」
わからない単語が多すぎる。ひとつひとつ、噛み砕いて説明を受ける必要があった。
いったい何がなんだかわからない矢口である。
「どーぞ」
「ビールじゃない!」

サッカーの悲劇

まずは整理しておく。
今は、2年以上の長きにわたって繰り広げられたワールドカップアジア予選終了の数ヶ月後。
年が明けて、ワールドカップイヤー。
すでに32の各国代表は出揃っている。
アジアからはサウジアラビア、イラク、イラン。すべて中東のチーム。
ワールドカップ招致をめぐってしのぎを削る日本、韓国は涙を飲んだ。
「まずはその、補欠選挙だ」
「補欠代表決定戦。矢口、新聞とか…読んでへんやろうな」
当然だ。日本は最後の最後でつかみかけたキップを手放した。
そしてそれは「ドーハの悲劇」として、日本の至る場所で語り草となった。
矢口が日本を離れたのも、メディアを通じて繰り返してあの惨劇に触れるのに耐えられなかったからだ。
ここにはテレビはない。新聞も三日遅れだ。
すべての時が、ゆったりと流れている。
「イラクが、ワールドカップ、出られなくなってん」
アジア地区最終予選は、一次予選を潜り抜けた10チームが二つのグループに分かれて戦った。
A組に振り分けられた日本は、B組を1位で通過したイラクとは対戦していない。
当然、矢口とイラクに接点はない。
が、出られないとは由々しき事態だ。当然のように尋ねた。
「なんでよ」
「戦争や」

サッカーは戦争だ、しかし …

クウェート市民は、その朝、市外を走る戦車の物音であわただしく目覚めた。
それは、クウェートを自国領土と主張する独裁者の侵攻。
そして、世界への宣戦布告だった。
ワールドカップは、イラクにとっても悲願だった。
その出場を決めた事で、著しいナショナリズムの高揚が見られた事は想像に難くない。
アメリカの対策はもたつき、イラクは大使館の人間を楯に強引に交渉を推し進める。
交渉は決裂した。
アメリカは、イラクを空爆した。東側の国々の提案する戦争回避案は虚しかった。
テレビゲームのような画像、その結果の生々しい惨劇、黒く汚れた海。
戦力の差は歴然。イラクはあっけなく降伏したが、世界はイラクの横暴を許さなかった。
FIFA・国際サッカー連盟は、イラクのナショナルチーム・クラブチームに対し、4年間の国際試合出場停止を課した。
アジア予選を戦い、栄光を勝ち取った代表選手3人をはじめとする多くの選手が戦死したイラクは、次のワールドカップ予選に出る機会すら奪われた。

矢口の怒りは止まらない

「なんだよ、それ」
矢口は吐き捨てた。
ワールドカップ出場を巡り、中米エルサルバドルとホンジュラスは本当の戦争にまで至った。
ゴットハンドと五人抜き、マラドーナのあまりに有名な二つのゴールで知られるアルゼンチンとイングランドの試合も、その背景には四年前のフォークランド紛争があった。
その他にもフーリガン同士の殺し合い、自殺点を入れたために暗殺されてしまった選手。サッカーにまつわる悲劇の種は尽きない。
悲劇とうたわれた日本の敗退も、それはあくまでサッカーという幸福の一部分である。
が、これは別物だ。サッカーとまるで関係無い出来事でサッカーを奪われることなど、断じてあってはならない。それなのに。
顔も知らないイラク選手のために、矢口は泣く。
企業の論理で、彼女を育ててくれた恩義あるクラブチームはあっさり切り捨てられた。謝罪の言葉ひとつなく。
ワールドカップ招致を巡る駆け引きのために、彼女たちのかけがえの無い仲間は代表を永久に去らねばならなくなった。
もう嫌だよ。こんなばかげたこと、あと何回繰り返せば気が済むのさ?
「ふざけんなよ」

そして、もう一方の国には

クウェート共和国。
もう一方の主役、侵攻された国は、矢口のかけがえのない友人の国である。
かつて同じ釜のメシを食い、アジア予選で敵としてまみえたアジアトップクラスのボランチ。

現役ブラジル代表の獲得に失敗したフロントが連れて来たのは、まるで地味な留学生のように見えた。
ようやく金の取れる選手になっていた矢口は、わりと年の近い彼女となかなか近づけなかった。
ヒマがあればペーパーカバーをめくり、パソコンに向かう。
学生の自分から勉強嫌い、じっとしてることが嫌いな矢口には、そのインテリぶった態度がどうも気に食わなかったのだ。
サッカー場以外では会話をかわすこともなく、このままこんな関係でいくのだろうなと思っていた。
それがあの日を境に、矢口とA・I・マエダは急速に接近したのだ。

Fの悲劇

その日、矢口は秋風邪をこじらせ、会社を休んでいた。
矢口は全日空の契約社員として、横浜フリューゲルスに出向している身分だったのだ。
当時の矢口は、まだプロとしてやっていける自信がなかったのだ。
さて、風邪は下痢を併発し、水分を補給してはトイレに駆け込む。つまり最悪の体調。
その繰り返しに疲れうとうとしかかった頃、静寂は突き破られた。
電話の向こう側にいたのは、ユースチームの石川梨華。
「矢口さぁん」
今にも死にそうな声。
「あんだよお、石川」
「矢口さん、矢口さん」
小刻みに震える声。
「チームが、フリエが…なくなっちゃいます」
「はあ?」
チームがなくなる? なに言ってんだ?
「テレビ、つけてください」
スポーツニュースに合わせた。
一回くらい顔を見た事がある程度のお偉いさんがしゃべっていた。
「業績悪化、累積赤字のため、これ以上のチーム存続が、不可能となりました。よって、全日空佐藤工業サッカークラブは、今年度を持って、解散と本日の理事会で決定となりました」

「合併ってなんですか!」
矢口はフリューゲルス・ゼネラルマネージャー、和田薫の机をバンと叩いた。
親会社・佐藤工業の完全撤退により、全日空一社でのチーム経営は困難になった。
そこで、天敵・横浜マリノスとの合併の話が持ち上がった。出資率は日産自動車7、全日空3。事実上の合併吸収。愚かにもJリーグ側はこれを了承した。
「フリューゲルスの名前を残すには、一縷の望みでも捨てるわけにはいかんのだ!」
和田も憔悴しきっていた。三日三晩、一睡もしていない。目は落ち窪み、白髪も見えた。
「あまりにバカにした話ですよ! Fって、たった1文字を残すことに何の意味があるんです?」
すでに新チーム名が横浜Fマリノスとなることが一部マスコミで報道されていた。神経を逆撫でされるってこういうことなのだろう。
「話になりません」
「どこに行く」
「クラブハウス。みんなに会って来ます」
「おまえは社員選手なんだぞ。仕事に戻れ」
「その前に横浜フリューゲルスの一員です!」
壊れそうな勢いでドアを閉めた。

その日、クラブハウスを訪れた人間の中では、矢口は最後の客であった。
皆一様に疲れ、不安そうな顔立ちでいる。
矢口の立場は微妙だった。社員選手である彼女は、チームを「潰した」側の人間なのだ。
誰もが押し黙り、空気は重くよどむ。
「ミナサン」
沈黙を押し破ったのは、その中で最も若い選手だった。たどたどしい日本語で、涙ながらに、それでも力強く訴えた。
「ワタシ、日本大好きデス。日本のサッカー、大学のトモダチ、サポーターのみんな、なによりこのチーム大好きデス。ミナサンと別れたくないデス。日本離れたくないデス」
A・Iがそれっきり顔を覆うと、そこここからすすり泣く声が聞こえ始めた。
こんな時になって、どれだけ自分がこのチームを愛してる思い知った。
そして、このクールな異邦人が、どれだけ熱い思いを持っているのかも。
矢口は小さい腕を、その震える肩に回す。
「戦おうよ。うちらがどれだけいいチームか見せつけてやるんだ。そしたら新しいスポンサーがつくかもしれない。別れないで済むかもしれない。うちらは、サッカー選手なんだ。すべての悔しさは、ピッチの上で晴らすしかないんだ」
矢口はその日、辞表を書いた。ともに闘うためのケジメであった。

その翌日のセレッソ戦。フリューゲルスはすべてにおいて、セレッソを圧倒した。
それは消化試合とは思えない、すさまじい気迫をフィールドで表現してみせた。
怒り、悲しみ、悔しさ、憎しみ、そしてわずかな希望。そのすべてをあますことなく叩きつけた。
特にゲームメーカー矢口、ボランチA・Iの働きはすさまじかった。
矢口はアジアの壁と呼ばれる中国代表ストッパー、ルルのマークをものともしない。
開始30秒の叩きつけるようなボレーシュートを皮切りにゴールの山を築いた。
苦手のヘディング、三人をかわしてのドリブルシュートで前半だけでハットトリック。
後半も鮮やかなループシュート、混戦からの泥臭い押し込み、A・IのミドルをGKの鼻先でコースを変える心憎いシュートと、J新記録のダブルハットトリックを達成。
そしてその背後のA・Iはセレッソのゲームメーカー稲葉のみならず、すべての中盤の選手を圧殺してみせた。たった一人で。
他の選手の先頭に立ち、親会社とのケンカの矢面に立ったのがこのクウェート人だったのだ。
日本での再就職を考えるのであればそれは自殺行為だった。ただでさえ外国籍選手は不利であり、しかも堂々と上層部とやりあう姿を見せれば、扱いにくいやつという印象を与えてしまう。
が、A・I・マエダは一歩も引かなかった。この騒乱の中、最も「男」を上げたのは間違いなく彼女だった。
「男の中の男」「男マエダ」いつしかサポーターは彼女をそう呼び、激しくクリーンなタックルでボールを奪うたび絶賛を惜しまなかった。
その男コールが最高潮に達したのは後半ロスタイム。
矢口がゴールラインにGKとDFを追い詰めて、センタリングを上げる。
A・Iのオーバーヘッドが、無人の逆サイドへ突き刺さった。

「矢口!」
試合終了後、セレッソサポーターのフリエコールを心地よく聞いていた矢口を呼び止めたのは稲葉。
その手には、二つの紙の束。
「これはうちらから、こっちは裕ちゃんから預かった。京都駅前とクラブハウスで集めてくれたんだ」
フリューゲルス存続のための署名だった。
試合前の全日空側の説明は空転、完全に平行線をたどっていた。
会社側には何の誠意も情熱も感じられなかった。
もうほとんど望みはない。なのにこれだけの熱い思いが集まった。矢口はありがとうと繰り返す事しかできなかった。ルルとA・Iがその隣で固く抱きあっていた。

「まだあきらめんなよ」
「くじけないでね」
「うちらにできることあったら、何でも言え」
試合前、石黒彩、安倍なつみ、飯田圭織に励まされたコンサドーレ戦。
全日空の譲歩は一切なし。限りなく厳しい状況下で、それでも結果を出すしかなかった。
伝説のゴールは、そんな状況下から生まれた。
札幌の右アウトサイド、大谷雅恵のセンタリングを飯田がヘッドで落とし、安倍がハーフボレーで狙う。
この必勝パターンをA・Iが読みきっていた。安倍から奪ったボールを矢口につなぐ。
矢口はセンターサークル付近で、札幌の誇るボランチ、戸田鈴音と木村麻美との囲まれていた。
それを、くるぶしのワンタッチでかわす。いくら名手といわれる二人でも、まるで予期せぬ方向からボールが出るのでは処置なしだった。
さらにストッパー北上アミを鋭いターンで、大谷をダッシュで、追いすがる木村をショルダーチャージで弾き飛ばす。
迫るのは札幌最後の砦、石黒彩。裏を取られないようギリギリの位置まで間合いを詰め、そこから一気に奪いに行く。
ボールを守るため、矢口がゴールに背を向ける。石黒が寄せる。
その股間を、ヒールキックが抜けた。石黒がブラインドになってGKは一歩も動けなかった。
ゴールネットが静かに揺れた瞬間、伝説のゴールは完結した。

「矢口さん」
「アイ(A・Iの愛称)ちゃん」
石川梨華、柴田あゆみ。
もしフリューゲルスが何事もなく存続されていれば、来年から間違いなくトップチームのユニフォームにそでを通すはずだった二人も、必死に署名をかき集めていた。
その中には、吉澤ひとみ、辻希美、加護亜依。まだ見ぬ仲間達の名もあった。
フリューゲルスユースはマリノスユースに吸収されることが決まっていた。
が、来年トップに昇格する年齢の二人については、宙ぶらりんのままだった。
全日空スポーツは事前通告なしに合併の基本合意書に調印、横浜フリューゲルスの消滅がここに確定した。
矢口ら数選手がその新チームに行くことが決まっていたが、まだ発表はされていない。
矢口は、監督に直訴した。
「最後の大会、新人やベテラン、あまり出番のなかった人たちを使ってください」
就職活動。もはやチーム存続の望みが絶たれた以上、勝つ事自体はその手段ではなくなっていた。
とはいえ、勝つ事をあきらめたつもりは、これっぽっちもなかった。
四回戦からの登場になった本当に最後の戦い、天皇杯。
フリューゲルスの中盤は、全員10代という異常に若いメンバー構成に。
尾翼、前に強く気迫溢れるディフェンスを披露するA・I・マエダ。
右翼、抜群の運動量と抜群のリーダーシップを誇るキャプテン矢口真里。
左翼、鋭いパスセンスとミドルシュートに冴えを見せる柴田あゆみ。
プロペラ、カミソリドリブルとFKが必殺の切れ味を持つ石川梨華。
今なお、旧フリエサポーターの語り草となっている「四枚の翼」だ。

「同情はするよ。憤りも感じてる。けど、負けてやるつもりはない」
ジュビロ磐田キャプテン、保田圭はきっぱり言いきった。
事実上の決勝戦といわれた神戸ユニバーでの準決勝、フリューゲルス対ジュビロ。
前半はA・Iを中心とするプレスがジュビロの中盤を殺した。それはゾーンプレスなどという空虚なうたい文句ではなく、一人一人の寄せの早さ、気迫が磐田を凌駕していた。
先取点も、そのプレッシングからだ。左アウトサイドに入っていた保田から矢口が強引に奪い、サイドチェンジ。全速力で走る柴田の足にピタリと合う。ダイレクトのセンタリング。ゴール前で石川が潰れ、抜けたところをA・Iがミドルで豪快にぶちこんだ。
後半、退場者を出したジュビロに対し、かさにかかって攻めるフリューゲルス。しかし王者ジュビロも気迫を見せる。
一瞬の隙を突き、オーバーラップした保田がディフェンダー二人を引きずり倒してシュート。GKに弾かれたボールにも食らいつき、強引に頭でねじこむ。試合前の言葉が嘘でないことを証明して見せた。
衝撃の決勝弾は後半30分過ぎ。
矢口が倒されて得た直接フリーキックに石川が出る。
先制点の場面で脱臼した右肩をユニフォームの上から包帯で固定して、強行出場していた。
右45度、距離にして35メートル。
6枚の壁は何の意味もなさなかった。
キーパーが一歩も動けない力技を見せつけた石川は、自由のきく左腕を高々と掲げた。
試合が終わり、敵と味方ではなくなった矢口と保田が泣きながら抱き合う。
「圭ちゃん、ありがと。本気で戦ってくれて」
「矢口、うちにこい。一緒にやろうよ」
特筆すべきは、この時のジュビロサポーターだ。自らのチームをコールするよりも早く、フリューゲルスの名を叫んだのだ。こんなことは後にも先にもないことだった。

石川がコーナーキックを短く出す。
矢口がダイレクトでハイクロス。
A・Iがヘディングで背後に流す。
柴田がゴール右隅に突き刺した。
揺れる白いネットは、大空へ羽ばたく白鳥の羽根のように美しく舞い散った。
コーナー付近で石川と矢口は固く抱き合った。
「やったぜーっ!」
「ざまーみろ!」
遅すぎるくらい遅かったVゴールの瞬間。
最後の大会での優勝。屈辱を与えたものたちへ、これ以上ないリベンジを果たしたはずだった。
が、体を下から上へと突き抜けるような喜びはなかった。
ただ、すべてが終わってしまったという哀しみが二人を、いや、白のイレブンを覆っていた。
優勝の瞬間は、Jリーグから横浜フリューゲルスというチームが消滅した瞬間でもあったのだ。
が、泣かなかった。涙を見せるような選手は一人もいなかった。
しおらしく泣いてやったりなんかするもんか。みんな、笑ってサヨナラするんだ。

あなたが私にくれた物 145センチ矢口真里
あなたが私にくれた物 超クソマジメなクウェート人
あなたが私にくれた物 色黒ぶりっ子石川ちゃん
大好きだったけど 合併するなんて
大好きだったけど 最後のプレゼント
BYE BYE FUCK YOU 全日空
サヨナラしてあげるわ

最後のサポーターソングに背を押され、フリューゲルスイレブンが表彰第に立つ。
矢口が天皇杯を受け取る。A・Iが賞状を受け取る。その他の選手の首にも金色のメダルがかけられる。
「イエ―ッ!!」
奇声を発して、石川と柴田が壇上に飛び上がる。合併吸収を容認した日本サッカー協会のお歴々に向けたお尻をぶつけるダンス。それは、J初年度のフリューゲルス選手が見せていたゴールのダンス。あるお偉方はあ然となり、別の重鎮は苦々しげに見つめ…
ジュニアユースからの生え抜きだった柴田。神奈川県西部の高校を中退して中途でユースチームに入った石川。二人は、決して仲がよかったわけではない。
が、ただひとつ、共通点があった。
この腰振りダンスに象徴される、決して強くは無かったが、おもしろいサッカーを一貫して続けてきた横浜フリューゲルスをこよなく愛していた点だった。
びっくりしながら様子を伺っていたA・Iに、和田がノンアルコールのシャンパンを差し出す。頭の良いA・Iはそれだけですべてを察した。
矢口がようやく抱えていた天皇杯に、金色の液体が注がれる。それに気づいた矢口、カップの耳を持って、それを飲み干しにかかった。A・Iがその頭に、残りのシャンパンをぶちまけた。
野武士のような乱痴気騒ぎだった。
が、勝って舞い上がってたわけでも、チームを潰した者たちへのあてつけでもない。
Never forget.
忘れないで、翼という名を持つチームがあったことを。

三が日が明けた。一月末日を持って全日空を退職、プロ選手として横浜Fマリノスへ移籍する矢口は、横浜フリューゲルス球団事務所に出向を命じられた。
電話応対、事務処理、書類をシュレッダーにかける…地味で、実りのない作業が延々と続いた。
石川は地元にほど近いベルマーレに移籍が決まっていた。
柴田は大学進学を目指しながら、市民が立ち上げる新チームのセレクションを受けるつもりでいる。
そして…
「アイちゃん」
日本で移籍先を探していたA・Iマエダだったが願いはかなわず、帰国することになった。意地でも全日空の飛行機は使わないという。
「どうするの、これから」
「一度国に帰る。そして、落ち着いたら、今度はナショナルチームに賭けてみようと思う。今のクウェートにはワールドカップ予選を勝つだけの力はない。けど、若い世代には強い選手が多い」
「じゃ、今度会う時は敵同士だね」
「ヤグチさん、イシカワ、シバタ…いい中盤だった。黄金の中盤(82年ワールドカップのブラジル代表。ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾ)にも劣らなかった。あの中盤を目指すよ」
別れの時がきた。二人は固く握手を交わした。
さよならは言わなかった。これからいくらでも戦うのだから。

再び、イースター島

日本で敵として再会した時、A・Iは言っていた。予選が終わったら、オリンピックに備えて帰国するのだと。
「ねえ、裕ちゃん、アイちゃんは?」
「行方不明や」
矢口が、ストンとその場に落ちる。
「妹(A・Kマエダ、セレッソ大阪所属)が連絡を取ろうとしても、つながらへんのやて」
「もうやだあ」
「甘ったれんな矢口!」
中澤が一喝する。
「チャンスやねんで。イスがひとつ空いた。それをモノにせんでどうすんねんな」
「裕ちゃん、変わったね。そんなに無神経な人じゃなかった」
「変わったんはあんたや。いつからそんな弱虫になってん」
「まあ、まあ」
ユウキが仲裁に入る。
「イラクには気の毒だけど、FIFAにしてみれば、極東のチームにワールドカップに出てもらいたいってのがあると思いますよ」
「どういうことだよ」
「だって、ワールドカップ招致合戦している日本と韓国のどっちもがワールドカップ本戦に出てこないんじゃしらけるじゃないですか」
バカ、という口を中澤がする。
矢口はいまさら驚かない。
ただ、身勝手な論理に怒りを露にするだけだ。
「なんじゃそりゃー!」

サッカーボールが丸いのは

「…」
矢口は天井を仰いだ。裸電球の周りを蛾が飛んでいる。
「後藤2号」
「はい、お水」
「ほんっと気ぃまわんねーな、おめーは。酒だよ」
ほろ酔いなんか、とっくに地球の裏側に消え去っていた。いらだちに任せてまくしたてる。
「イラクが出られなくなったら日本が繰り上げ当選ってのが筋じゃないの?」
一理ある。三位決定戦に敗れた日本がそのまま補欠当選、恥ずかしながら本大会初出場でも不思議はない。
「予選を勝ち抜いて出場、という形にこだわっとんのやろ」
イラクへの制裁に政治的な思惑が絡んでいる分、その辺へのこだわりがFIFAには強い。
今回はこのような不幸な出来事がありましたが、代わりに出てきたチームもそれは激しい試合を勝ち抜いてきた、ワールドカップにふさわしいチームでござい。そんな建前がありありだ。
ユウキがピンガの小瓶を持ってきた。サトウキビの汁を発酵させた甘めの酒だが、アルコールは40度と非常にきつい。カクテルに使うそれをライムソーダで割り、一気に飲み干す矢口。
むかつく。ほんとにむかつく。
うちらは牛か? 馬か? ただ使役されるだけの存在なんて、もううんざりだ。
「矢口、なんでサッカーボールは丸いか知ってるか?」
中澤が問う。見当もつかない矢口に、その答えをそっと教える。
「世界中で、いろんな人の涙を吸ってきたからや」
中澤もそうだった。現役を引退したら、サッカーからきっぱり足を洗うつもりでいた。
が、現役最後となった試合。日本サッカー史に刻まれた激闘を締めくくったのは、中澤のミスキックだった。
あの涙がなければ、今またサッカーに携わる事もなかったろう。

Koreaという国

「で、日本の相手や。朝鮮半島には二つの国があるっちゅうのは知っとるな」
それくらい知っている。
1950年、東西冷戦の前、米ソの代理戦争として朝鮮半島を真っ二つに引き裂いた朝鮮戦争は半島に二つの国を生んだ。
大韓民国と北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国。
両国は、サッカーの世界でも日本と幾多の死闘を演じてきた。
戦後幾度となく日本と戦い、日本を「永遠の格下」と呼んではばからない韓国。
ワールドカップアジア勢最高の成績(66年イングランド大会のベスト8)をあげた北朝鮮。
今回のワールドカップ予選、韓国は日本と同じA組を戦い、日本との対戦成績は1勝1分けながら後半戦大きく崩れ敗退。
かたや北朝鮮は90年代後半からほとんどの国との交流を絶ち国際舞台から遠ざかっている。当然今回の予選も不参加。
「せやけど、今回、統一チームがなったんや。不可能といわれてた南北朝鮮統一チームが」

アリラン峠を越えて

韓国で公開され、過去最高の収益を得た「シュリ」は日本でも大ヒットした。
サッカーの南北朝鮮統一チームを選抜するための交流試合が開催、それを観戦に来た韓国大統領と北朝鮮主席を狙う女テロリストと阻止する公安の許されない恋がテーマだった。
現実にも前例がある。
91年、ポルトガルで開催されたワールドユースサッカー。その二ヶ月前に千葉で開催された世界卓球選手権同様に南北朝鮮統一チームが組まれ、堂々ベスト8入りを果たしている。サッカーが団体競技であることを考えればこれは掛け値なしに快挙だった。
そして今回、不可能とまで言われていたフル代表での統一チームが結成されたというわけだ。
「でもさ、そんな国はどこにもないわけじゃんか。そんなチーム作ってはいいいですよってほど、FIFAって寛容なわけ?」
「イギリスかてイングランド、スコットランド、北アイルランド、ウェールズって四つもチーム持ってるやない。サッカーでも、ラグビーでも。その辺はわりとあいまいやねん」
地図のない国。矢口はどうも納得いかない。
地図にない場所といえば、統一チームの歌になっている朝鮮半島の民謡「アリラン」に出てくるアリラン峠もそうだ。

アリラン アリラン アラリヨ
アリラン峠を 越えてゆく
わたしを捨てて 去りゆく人よ
十里も行けずに 痛む足

アリラン峠は、韓国にも北朝鮮にもない地名だ。
アリランがどういう意味で、いつ生まれた歌かも分らない。
朝鮮半島の各地で歌い継がれ、これが正調アリランであるという確かな詞もメロディもない。
だからこそ、アリランは民俗の歌として愛されているのかもしれない。
少なくとも、歌うことを拒否されたり、強制されたりする日本国歌よりはるかに幸せな歌だ。

ドラマチックな話だ。が、現実はそう甘くない。
今回の統一チームには、多分に政治的な思惑が加味されてなったものだ。
統一チームでワールドカップに出て、ワールドカップ招致に弾みをつける。
それが韓国側の真の狙いであった。


まずはA組3位の韓国の代わりに新チーム「コリア」がB組3位の中国とホームアンドアウェーを戦い、それぞれ4−0、2−0と撃破。
そして日本と再びホームアンドアウェーを戦い、勝ったほうが出場権を得る。
「これが、ピョンヤンのアウェーゲームのビデオや。21世紀初めて、北朝鮮で行われたスポーツの国際大会でもある」
「あ、ここ、デッキないよ」
中澤がデジカメを取り出した。こんなこともあろうかと、ビデオ画像をちゃんと落としておいたのである。

新生日本代表

「今回、プレスもサポーターも、日本人は一切入国許可、降りんかってん。だからテレビの映像や」
つまり、ショウとしての視点。コリア攻略の映像としてはあまり用を足さないことになる。
スタンドに打ち振られるのは韓国国旗でも北朝鮮国旗でもない、白地に朝鮮半島を染め抜いた「コリア」の旗。
トラック部分をぐるりと取り囲むのはカーキ色の軍隊。マネキンのように身動ぎひとつしない。
が、おかしなことに、彼らは客席に背を向け、ピッチ方向を向いている。
「なんだよ。あれ」
あれも、日本攻略の一環なのだろう。アウェイの威圧感を増幅させるための。
注目のコリア、入場。ユニフォームは白、肩に赤いライン。確か北朝鮮のユニフォームだ。
先頭に立つのは、10番、ファン・アミゴ。彼女がコリアのキャプテンだ。
そして、アウェーチーム。
ドーハで涙にまみれたユニフォームではない。
青が濃くなり、炎のようなデザインが組み込まれた。
新姓日本代表、入場。

新監督

カメラが、日本ベンチで腕組みする、小鼻にピアスを空けたまだ若い女性を捕らえる。
「彩ッぺじゃん」
かつての同僚だった。鋭い読みと巧みなラインコントロールを武器とするディフェンスリーダーとして、Gk中澤とともにゴールを守った。
「急に決まった試合やからな、1からチームを作り直すわけにはいかんかってん。ある程度ドーハのチームを踏襲してやらんと」
というより、ほとんどあのチームと変わってない。違うのは、GKが若く、145センチのMFがいないことくらいだ。
「監督は違うんだね」
「寺田さんか? もちろん一番最初に話がいったわ。けど断られてん。もう運は使い果たした、せやからギャンブルちっとも勝てへんて」
次にチームをよく知るのが、このチームで戦った選手であろう、そして白羽の矢が立ったのが…
『石黒彩監督が険しい表情でピッチを見つめます』
あれ、と矢口は思う。
石黒はホームでのウズベキスタン戦、古傷の右足首をかばいもせずに、壮絶なプレイの数々を見せつけた。
足は砕け散り、チームを去った。
今はその復帰を支えたトレーナーと結婚したはずだったのだが。
「離婚したんやて」
「はやっ」
「ケンカ別れやないで。ただ、石黒彩ってのが勝負師の画数なんやて。チャンスを確実にモノにするっちゅう」
妥協を許さない、石黒らしい選択だった。

新主将、新エース

先頭を歩く選手の左腕に、日の丸の入ったキャプテンマークが輝く。
チームで最も長身の11番は、寺田前監督がチームを立ち上げた時からの最古参の一人。
「キャプテンはカオリかあ」
飯田圭織。コンサドーレ札幌ではFWだが、代表では不動のボランチ。歴戦の勇者だ。
「なっちじゃないんだ」
続く安倍なつみは日本のエースストライカー。やはり生え抜きの一人。
もう一方のエース後藤真希、赤の貴公子吉澤ひとみ、俊足右ウインガー辻希美…見なれた顔が続く。
矢口の目は、11番目に入場する選手に注がれた。
「石川」
矢口にとってはフリューゲルス時代からの同朋、そして出来の悪い妹のようでもある石川梨華が、固い表情のままカメラに収まる。
その背には、エースナンバー10。
「石川がエースかよ。レベルひっくー」
「彩ちゃんがいたく石川を気に入ってな。ポジションもなっちと辻の後ろ、トップ下やもん」
それは破格の扱いだった。石黒は石川が隠す、自分と同じヤンキー魂を見出したのだろう。
四面楚歌の中、キックオフの笛が鳴る。

韓国の虎

コリアキャプテン、ファン・アミゴは日本でもおなじみの選手だ。
強く、速い。韓国歴代エースの系譜を脈々と受け継ぐセンターフォワード。
同年代、似たような背格好で比較されることの多い日本のエース安倍にうまさ、しなやかさでは劣るが、ガンガンと攻めあがるドリブルは圧巻。
そのパートナーをつとめるのが韓国五輪代表のゲームメーカー、リ・アキナ。X字を描く中盤の要に位置し、ゲームを支配する。他の中盤の四人も全員五輪代表のメンバーである。
チェックにいくのは日本のボランチ、五輪代表副キャプテン、そして浦和レッズでアキナのチームメートでもある。
無骨なイメージのつきまとう韓国選手だが、この世代にはテクニシャンが多い。
そして韓国の持ち味であるマスゲーム的な、どこか軍隊じみた結束は失われていない。
兵役のある国とない国との差だった。
吉澤を外し、サイドへ切りこんでセンタリング。
アミゴが飛ぶ。胸を反らし、ヘッドで狙う。力強くネットが揺れた。

北緯38度線

「あー、なにやってんじゃキーパー」
矢口が頭を抱える。どう考えても飛び出すべきボールに、若い日本のGKはぼけーっと突っ立ってるだけだった。
サッカーは11人のスポーツだ。が、換えのきかない選手がいるのもまた事実。
日本のゴールマウスに君臨していた中澤が引退した今、日本はGKの人材難に苦しんでいた。
「次はディフェンスや」
コリアは4バックのゾーンディフェンスだ。韓国といえば扇形の5バック、コテコテのマンツーマンと相場が決まっているのだが。
「DFは全員北朝鮮国籍の選手や」
なるほど。攻めは韓国、守りは北朝鮮か。特に守備での連携で破綻しがちな混成チームの弱点をうまくカバーしている。
特に気になるDFはいない。一人長身の短髪のストッパーがやや目を引くくらいで、それも際立った個性があるわけではない。どうやら守備の実権はその背後に控えるGKが握り、四人はそれに従うのみのようだ。
が、ゾーンディフェンスなのだが、妙なのだ。
普通ゾーンと言えばある程度持ち場が決まっていても、互いにコーチングしながら、マークの受け渡し、カバーリングといった連携があって当たり前なのだ。そうしないと、あまりに効率が悪い。
が、この四人のフルバックは、四等分した自分の受け持ちエリア内にしか動かない。そして、そこに侵入したFWを、全力で蹴散らかす。カードをもらってもお構いなしだ。
他は知らない。その代わり、自分の陣地に入ってきたら惨殺する。本当の意味での「ゾーン」ディフェンスだった。
「確かに北朝鮮の守備って荒っぽいけど…」
「向こうではあのラインを、38度線て呼んでるそうや」
「分りやすいな、非常に」
両国の境に横たわる、北緯38度線。
そこを踏み越えようとする者には、死あるのみ。

北朝鮮の秘密兵器

そして、最も目を引くのが、守りの全権を握るゴールキーパーだ。
なにが目を引くといって、そのルックスだ。
鮮やかな金髪。陶器のような肌。迷彩柄のバンダナ。豹柄のGKユニフォーム。ラメ入りのGKグローブ。
「おっかしなカッコしやがって」
中澤はあまり気に入らないようだが、矢口はこういうセンスの持ち主は嫌いじゃない。
唯一手を使えるGKは、フィールドプレーヤーとの区別をつけるために違うユニフォームの着用が義務付けられている。
逆にいえば、ユニフォームで「遊べる」ということだ。
特に南米のキーパーは個性的なユニフォームを着る事で有名。ホセ・チラベルトのブルドッグマーク、カンポスのラインマーカーで書いたような派手な色彩、ナバーロ・モントーヤは自分の似顔絵…列挙にいとまがない。
「ハマサキータじゃん」
ユウキが身を乗り出す。
「アユ・ハマサキータ。以前コロンビア代表候補になった選手ですよ」
確かにそのルックスはとても朝鮮人には見えない。
「たしか、ポジションは、フォワード」
そのGKとしての技術はおせじにもうまいとは言いがたい。GKはシュートに対して直角に飛ぶのが基本中の基本だが、それすら守れていない。キャッチングもお粗末で、日本のそこらのユース選手の方がよほど安定感がある。
「うがっ」
思わず矢口が奇声を上げる。安倍のシュートに対しカエルのようなジャンプで飛びつく。体の横を完全に通過したボール。上体を反らし、これを手に当てる。
美しき野獣。そんなフレーズが矢口の頭をかすめた。
そして、当たり前のようにエリアを飛び出し、浅いラインの裏をカバー。現代GKにとってそれは当たり前の行為だが、あくまで緊急のもの。
ハマサキータのそれは、当たり前のようにゴールを空けていた。11人目のフィールドプレーヤーのように。

許されざる罪

「げっ」
矢口が度肝を抜いたのは、後半16分のタックルだ。
オーバーラップした後藤が、バックスの一人に後ろから削られた。
完全に足にいっていた。狙っていた。
リプレイが流れる。後藤がオープンスペースに走る。追うDFが、一瞬、後藤から視線を外し、小さくうなずく。
そして、アキレス腱を蹴り上げた。
その視線の方向にいるのは、GKしかいない。
「ちくしょ、わざとだ」
それほどきわどい場所ではなかった。なのに足を狙った。まるで、それが目的であるかのように。
さらに矢口を激怒させたのは、この退場させるべき罪に対し、警告すら出なかったことだ。
「金でももらってんのかよ?」
「矢口、周りには銃を構えた軍人がたくさんおんねん。審判かて、命が惜しいわ」
冗談じゃねえ、これのどこがサッカーだよ。
突如、コリアGKがドリブルを始めた。あわててチェックにいく安倍の顔面を裏拳で横殴りに。ぐらりと揺れて倒れる安倍。口元を醜く歪めるハマサキータ。笛は鳴らない。
スピード、テクニック、パワー。どれをとっても一級品のドリブル。疲れの見える日本選手を、風のようなステップで置き去りにする。
そして、シュート。
スライスしたボールが、日本キーパーのポジショニングミスを突いて、ゴール左上に飛び込む。
半島旗が打ち振られ、矢口は顔を覆った。

迷走

「なにやってんだ石川」
矢口は舎弟の不甲斐なさが悔しくてならない。
結局、ツースピアヘッドを活かすも殺すもトップ下次第なのだ。なのに石川ときたら再三のハードタックルに腰が引け、無難なパス回ししか見せない。
向かっていくのが怖いなら、それなりにサッカーをせずに、もたもたとした展開に持ちこめばいいのだ。ホームチームが遅々とした試合運びしか出来なければ、コリアサポーターも不機嫌になる。そうすれば敵サポーターを味方につけることができるのに。
テクニシャンタイプにありがちだが、石川はハードマーカーにつかれると弱い。徐々に集中力が殺がれ、力を失っていく。
安倍や辻、後藤がいくら削られても立ち向かっていくというのに。
恐らく、石川自身もそんな自分が歯がゆいのだろう、倒されるたび、悔しさをにじませた表情が大写しになる。
頭ではわかっている。が、体がついてこない。どの世界にもありがちな事だ。
別のいらだたしさを、中澤は飯田と日本キーパーとに感じている。
腕章を巻き、必死に仲間を鼓舞しようとする飯田。見よう見真似、必死に声を張り上げている。
が、混乱している時に騒いでも、チームはますますパニックに陥るだけだ。
こういう時はやはりゲームを切って、落ち着かせる事を心がけるべきなのに。
そして、GK。
ひどいことを言うようだが、明らかに代表キーパーとしては役不足。
自分で言うのもなんだが、このチームは、中澤裕子の穴を埋めきれていない。
ファン・アミゴの3点目が決まった。

追い討ち

デジカメは砂嵐。
矢口は体に力が入らない。
それでも、うめくような声で、かろうじて言い放つ。
「ひでえよ」
コリアも、日本も。
こんなの、サッカーじゃない。
少なくとも、矢口の愛していたサッカーは、日本代表は、こんなんじゃなかったはずだ。
「こんなの、試合って認めちゃっていいの?」
アウェーの怖さというのはある。が、ここまできたらそれを逸脱している。
「これだけやないねん」
中澤が、成田空港で起きた事件をとつとつと語り出した。
惨敗した代表メンバーを罵声で迎えるサポーター。
中でも集中砲火を受けた石川。ジュースをスーツにぶちまけられ、それでもこらえていた。
吉澤がその楯になる。体を張ったディフェンスで、孤軍奮闘していたのが彼女だった。
予選敗退後、本格的に始動していた五輪代表から、石川とともに急に召集された。
試合後、励ましの声も聞き入れようとしない石川を元気づけたくて、必死に明るく振舞った。
無遠慮に突きつけられるマイク。その中のひとつが、石川の額を傷つけた。
その後の事は、吉澤は一切記憶にない。
気がつくと目の前に切れた唇を押さえるプレス、割れたサングラスのレンズ。
そして、痛む拳。

中澤が懇願する。しかし矢口は …

「で、どうなっちゃったの」
恐る恐る尋ねる矢口。
「吉澤は、無期限の謹慎処分や。とりあえずやけどな」
「どうして? 石川をかばったんでしょ?」
「石川は命の危険にでもさらされてたんか? 吉澤は石川をかばったんやない、自分がむかついたから殴ったんや」
「友達が恥かかされても怒っちゃいけないの?」
「吉澤がそこらのお姉ちゃんならそれでもええわ。けどあいつは日本代表選手や。一億人から選ばれて、国を背負って戦うサッカー選手やで。普通の人間やないんや。普通の対応してどないすんねんや」
中澤の言うことはいちいち正論だ。それだけに矢口はむかついた。
中澤とて、吉澤が人一倍仲間思いである事はわかっている。
が、これはどう転んでも言い訳のしようがない。
「もうすぐ、日本で第二戦がある。限りなく厳しい状況や。せやから矢口、あんたの力が必要やねん。頼む、日本戻ってくれ」
「アウェーで0−3でしょ? ホームで4点差で勝てますか? 勝てるんなら行けばいいじゃないですか。俺もそのほうが高く売れてうれしいしね」
「第二戦はいつ?」
「三月九日」
「行かない。ていうか、行けない」

忠誠

矢口は薄暗い店内に飾られたユニフォームを指差す。
かつて日の丸に捧げられていた矢口の忠誠心は、あの赤と緑の縦縞のためだけにあった。
矢口が籍を置くFCサウスイースター。
もともとこのレストランのオーナーの酔狂だったこの草サッカーチームは、一人のプロ選手が入った事で大きく変貌した。
補強らしい補強はないまま、先週、チリの地域リーグトーナメントで優勝の大番狂わせを演じたばかりだったのだ。
「九日は、2部リーグとの入れ替え戦の日なんだ。約束は、先にした方を守らにゃ」
「そうか…」
中澤がうなだれる。今の矢口の生活を犠牲にする権利は中澤にはなかった。
「2号、ケータイなら外で使えよ」
ユウキが外へ出ていく。
「みんなには、がんばってねって」
矢口の性格だ。もうてこでも動くまい。中澤が苦い酒をあおる。
空気が重いのは、じとっとする気候のせいばかりではあるまい。

男気

「矢口さん、話つきましたよ」
ユウキが携帯電話を胸ポケットにしまいながら店内に戻る。
「チリサッカー協会に、試合の順延を申し込んだら了解してくれました」
「はぁ?」
「だから、九日は空いたってことですよ」
あっけらかんと語るユウキ。ぽかんとなる二人。
「どーしてそんなことができんの?」
「日本人は、お金持ちですから」
「サイッテー」
「冗談ですよ。マリ・ヤグチがどうしても日本に帰らなくちゃならなくなった。九日は、どうしても試合に出られない。だからなんとかしてくれって。相手チームの都合もあるが最善を尽くすと言ってくれましたよ」
「2号」
「勘違いしないで下さいね。日本代表がワールドカップに出て、そこで活躍してくれた方が高値がつきますから」
「あたしはあんたを代理人だなんて思ってないよ」
「それにチリの人達も、やっぱり矢口さんが好きなんですよ。矢口さんのいない試合なんて、見たくないんですって」

復活の日

3月3日、繰り上がった入れ替え戦。
相手のホームであるチリ本土に乗りこんだ矢口たち。観客は300人ほど。
「ヤグチー」
本土にも矢口の名前はとどろいているようで、観戦をきめこむ中澤は満足げだ。
相手チームには元プロがうようよしている。体つきもだいぶ違う。
それに対して、サウスイースターのプロ経験者は矢口と、チリの名門コロコロに2シーズン在籍したストライカー、今は肉屋のマリオ・サンチャゴ。FCサウスイースターの攻撃はこの「マリ・マリ」コンビに頼るしかなかった。
「とにかく、前半は守るんだ。後半カウンターで1点取って勝つ」
キャプテンマークを巻いた背番号8、矢口が吼えた。
ところが前半5分、いきなりのアクシデント。
味方GKがFWと接触、ひじが伸ばせないほど傷んでしまった。そして替えのキーパーが
「いない?!」
「南米って地面、固いでしょ。誰もキーパーやりたがんないの。どーしよ…」
「ああ、もう、しゃあない!」
中澤が日傘を投げ捨てた。矢口が自分のバッグからGKジャージを取り出す。
「矢口…あてつけか?」
「まっさか。偶然だって」
中澤がそでを通したユニフォームの背には、背番号28。

カピトン

引退後、初めて立つピッチ。背中に心地よい緊張が。
「ナカザー」
「ナカザー」
観客が自分の名を呼んでいた。これはなぜなのだろう。矢口に尋ねる。
「ドーハの悲劇は、こっちでも有名だからね」
戸惑ったのは、コーチングを英語でこなさなくてはならない点だ。
後ろの声は神の声。しかしコーチを誤れば愚か者の声になる。
「セブ…いや、エイト!」
コーチングが狂い、センタリングが上がる。中澤が出る。借り物のGKグローブが空を切る。押し込まれた。
中澤がブカブカのスパイクで地面を蹴る。何回ゴールを守っても、たった一度破られるたび、キーパーを屈辱にまみれる。
なんで引退しても、こんな思いせなあかんねん。
「裕ちゃん、ドンマイ!」
キャプテン矢口が手を叩く。チームメートは彼女を名前で呼ばない。もう一人のエースと名前がまぎらわしいからだ。
「カピトン」
もちろん、キャプテンと言う意味だ。
生まれついての、というフレーズがある。
矢口真里は、生まれついてのキャプテンだ。
上に可愛がられ、下に慕われ。率先して動き、仲間のために汚れることをいとわない。
カピトンが走る。カピトンが奪う。カピトンがパスを出す。
カピトンのパスを、マリオ・サンチャゴが右足で決める。
カピトンの周りに、歓喜の輪が出来あがる。
矢口が単にうまいだけの選手だったら、地球の裏側まで誘いにきたりはしない。
中澤が探していたのは、強烈なキャプテンシーの持ち主。
かつて闘将として日本代表を牽引した、自らの分身。

ゴレイロ

マリオ・サンチャゴが2点目のゴールを決める。守って守ってのカウンターからだった。
あと20分守れば、片田舎のサッカークラブが全国リーグへ昇格の快挙を成し遂げる。
「ナカザー!」
中澤の体はキレていた。十分休んだことで、悪かった個所はずっとよくなっていた。

「裕ちゃん、力貸して!」
帰国すると真っ先に尋ねてきた石黒に、頭を下げられた。
「あと一試合、どうしても負けるわけにはいかないの。今の日本代表には精神的支柱とGKがいないの!」
「んなこと言われても…」
中澤にとって、2度目の引退だった。一度引退した人間が再び戦場に戻るために費やす精神的なエネルギーは半端ではない。
「やめてえな。また歳よりの冷や水呼ばわりされるわ。キーパーとリーダーやろ、それっくらい、うちが見つけてきたるわ」

大見得を切ったからには、手ぶらでは帰れない。
精神的支柱はやっと見つけた。が、国内外を走り回ってもキーパーが見つからない。
もし残り時間、守りきったら、身をもって責任を取る。
「裕ちゃん!」
DFラインを破られた。中澤が前に出る。得意な間合いだ。足元へ飛び込む。
滑り込む脇の下を、ボールが抜けていった。
どうしてやねん…完璧な間合いやったのに…
ゴールインのホイッスルを聞きながら、中澤が身を起こせないでいる。
衰え。寒気の走る言葉だった。
「裕ちゃん、ボール!」
矢口に促され、ボールを投げる中澤。
決意は、固まっていた。

二度目の、そして初めての

ロスタイムだった。FCサウスイースター、コーナーキックを得た。
キッカーはもちろん矢口。マリオ・サンチャゴには2枚のガードがついている。
個々の力で劣るサウスイースターは足が吊る選手が続出、延長など考えられなかった。
このコーナーが、すべてだった。
ボールの出所を探す。が、突破口が見つからない。
出した。低く、遠く。
走りこむのは背番号28。もちろんどフリー。
ドーハで決められなかった悔しさが乗り移ったボールは、DFの肩に当たり、キーパーの逆を突く。
中澤裕子、生涯2度目のシュートは、初めてのゴールになった。

「矢口、行くで」
中澤がパスポートとチケットを取り出す。
「ちょっと、日本へ帰るならブラジル経由だよ」
「ええねん。もうひとつ、寄る国がでけてんから」

沈黙

少し時間を遡る。
日本代表がピョンヤンから帰り、中澤がチリに発つ前。
J2開幕戦、昨シーズン入れ替え戦に敗れJ2降格の憂き目を見た浦和レッドダイアモンズは、大宮アルディージャとの埼玉ダービーマッチで辛勝していた。
が、その内容は決して誉められたものではなかった。J屈指の厳しい目を持つ浦和サポーターが、不安を込めてあいさつにきた選手にブーイングを飛ばす。
中でも辛らつな声にされされたのが背番号24、キャプテンマークを巻いたリ・アキナ。
アキナは本来のキャプテンではない。今年の浦和キャプテンは、現在謹慎中の吉澤ひとみである。
「韓国帰れ!」
アキナはピョンヤンの試合に、南北朝鮮統一チーム・コリア代表としてフル出場している。
負けるわけにはいかなかった。祖国の為に、そして、同朋の為に。

「じゃ、いくわ」
韓国五輪代表チームのエース、チェ・ダイチとカン・ジョー。
二人は兵役の為に、この統一チームに参加することができなかった。
万国共通、軍隊で最初に叩き込まれる三つの掟。
上官の命令は絶対、自分たちはいかなる時も正しい、祖国の為に命を捨てろ。
アキナたちは戦場に向かう。祖国の勝利のために。
ダイチたちは銃を取る。祖国を守るために。

アキナがJリーグ参戦を決めた時、抗議の電話やメールがひっきりなしだった。
「売国奴」「日帝侵略の屈辱を忘れた恥知らず」
しかしアキナは日本という国に興味があった。ソニーやホンダのように、高性能なサッカーを見せ、力をつけつつあった日本。
韓国のサッカーにはないエレガントさ。それを自らも吸収したかった。

ピョンヤンでの試合、アキナが命ぜられた事。それは日本のボランチ、11番と4番を「殺せ」ということだった。
が、仲間たちが手を汚していく中、アキナ一人はそれに同調しなかった。ハードに、しかしクリーンなチェックに徹する。
生まれて初めて、上官の命令に背いた。
が、韓国内での評価は散々だった。
「魂の抜け落ちたプレー」「日本の垢にまみれたエース」
そして日本でも、ボールを持つたびにこうして罵声が飛んだ。
アキナはなにも語らない。ただピッチの上で自らの心が雲より白いことを訴える。

気遣いメーラー吉澤

帰りのバスの中、アキナが携帯電話を取り出す。
メールが入っていた。

(;゚〜゚)げんき〜?
かいまくせん、みてたよ。さいたまTVで。
も〜ちょ〜どきどきしたよ。
かってくれてほんとありがと〜。まけたらおわびのしよ〜もなかったぞ〜。
アッちゃんがぶ〜いんぐあびながら(ゆるせねえ!)ひっしにぼ〜るおってるのみて、ないちゃったぞ!
もういちど、ほんとにサンキュ!
はやくふっかつしたい(○^〜^○)でした。うごかないからふとっちゃったYO!

漢字を一切使わない親友からのメールに、アキナの胸が痛む。

「アンニョン! ナムン、イルボンサラム、ハムニダ。ヨシザワ・ヒトミ」
アジアU17やアジアユースで何度も対戦した選手だった。ゲームメーカーのアキナのトイメンになり、恵まれた体と鋭い読みで攻撃を封じてくる嫌な奴。
そんな嫌な奴にいきなりハングルで語りかけられたものだからその戸惑いは大きかった。
清水商業から鳴り物入りでレッズ入りした吉澤ひとみはサッカーエリートでありながら実に気さく、都内の外語大でハングルを専攻している現役の大学生でもある。
マンチェスターU、カイザースラウテルン、そして韓国ナショナルチーム。吉澤の口から出る好きなチームは、そのままアキナの好きなチームでもあった。
「赤って、見るだけでこう、血が燃えるんだよね」
「前世はスペインの牛だったのかもしれないな」
「日本代表もさ、ユニフォーム赤に戻せばいいのに」
「我々はあの青を見ると燃えるんだ。蹴散らして、玄界灘に放り込んでやろうと」
吉澤のハングルが、アキナの日本語がなめらかになるたび、若い二人は接近していった。

駒場の惨劇

が、これがルーキーシーズンとなる二人にとって、今年のレッズでの戦いは試練の連続だった。
相次ぐ主力の欠場、監督交代、若い二人がぶち当たるプロの壁…チームはズルズルと順位を下げ、年間総合順位15位でシーズンを終えた。
猫の目のようにルールの変わるJリーグ。この年の入れ替え戦は、J2の2位とJ1のブービーとで行われることになっていた。(J1最下位とJ2優勝チームは自動降格・昇格)
入れ替え戦は、浦和レッズとコンサドーレ札幌、すでに冬の舞う札幌での会場は使えず、駒場スタジアムでの一発勝負で天国と地獄が決まる。

「因縁の対決」
マスコミがそうあおった。
仁将・田中監督が手塩にかけて育て上げたユースチームの選手達が、ここに来て大輪の花を咲かせようとしていたコンサドーレ。
ユース一期生である飯田、大ベテランの石黒、エースキラー北上、中盤でのつぶしとつなぎを一手に担う木村と戸田、右サイドのつむじ風大谷…J1チームもうらやむタレントの宝庫だった。
が、一人だけ足りなかった。
札幌の、いや、日本のエース。
J2降格が決まった時、飯田と彼女は打診された。
札幌で最も高給取りは飯田と彼女、そして石黒。
チームの構成上、石黒はどうしても外すことはできない。
だから、飯田か彼女、ポジションのかぶるどちらかに、一年、J1のチームにレンタル移籍してほしい。
それを聞いた瞬間、彼女が即答した。どうしても行ってみたいチームがあったのだ。
その翌日、コンサドーレ札幌はFW安倍なつみの浦和レッズへの期限つき移籍を発表した。

負ければクビが飛ぶ札幌・田中監督はこの一戦に賭けていた。
かねてより獲得を熱望していた石川梨華をこの一戦のためだけにレンタルで獲得。懸念されていたゲームメーカー不在を補い、石黒と飯田とのセンターラインを確保した。
浦和も負けてはいない。
やはり舌禍で飼い殺しになっていた東京ヴェルディの福田明日香をレンタルで移籍させ、2トップの一角に座らせる。
そして、福田を呼んだのにはわけがあった。福田でなくてはいけないわけが。
浦和に移籍したものの、ケガでシーズンのほとんどを棒に振ってしまった安倍なつみが、古巣との大一番に合わせて調整を続けていたのだ。
現札幌と元札幌、日本A代表同士、日本ユース代表同士、日本ユース代表対韓国ユース代表。
それは単なる入れ替え戦という枠を越えた、骨肉の争いであった。


札幌(アウェイ)

     GK

大谷 北上  石黒 DF

   木村  戸田

     石川  MF

   FW  飯田


   福田  安倍

    アキナ
MF        MF
   MF  MF

  DF    吉澤
     DF

     GK

浦和(ホーム)

 
     

安倍なつみは、情報の少ないコンサドーレ選手の特徴を、余すことなくレッズの選手に伝えていた。
「カオリがゴール側の肩を上げる時はニアへ叩きつける。肩の高さが揃ってる時はファーに流すヘッド」
「ボランチの二人、最初に飛びこんでくるのはりんねのほう。だからボールを持ったらあさみにつっかかる。受けに回るとあさみは崩れる」
「彩ちゃんがトラップをかけるときは前しか見てない。いよいよって時になって、チラ、チラと右と左を一瞬ずつ見るんだ。それだけで呼吸を合わせて、一気に上げてくる。飛びこむのは前から視線を外した瞬間だからね」
出るわ、出るわ。長年ともにプレーし、来季は戻るチーム。その秘密を安倍は惜しげもなくさらした。
移籍とはいえレンタル。正式にはまだコンサドーレの選手である安倍をこの試合で使う事を疑問視する声は少なくなかった。
が、安倍は本気で勝つつもりでいた。もし浦和が勝てば、来年、J2で戦うことになると知りながら。
そしてもうひとつ、安倍が勝利に執念を燃やす理由があった。
「フクちゃん」
福田明日香はすでに日本代表チームから離脱していた。
そして、その瞬間から、安倍の苦悩は始まっていたのだ。
それが、こんな形で、もう一度ツートップを組むことになるなんて。
「なっちさん」
福田も、決して安倍が嫌いではなかった。ただ生来の一匹狼の性質が、それを表に出させなかっただけで。
ともにスピードがあり、テクニックにすぐれる二人がコンビを組むとその個性がより引き立つ。機動力においては歴代の日本代表チームでも最強のツートップだろう。
二人は静かに必勝を誓った。
そして、吉澤とアキナも、勝利をかたく誓いあっていた。
もしJ2降格になれば、お互い、放出の危機にさらされるからだ。
別れたくなかった。国籍を越えて得た親友と。

そして、安倍がコンサドーレでツートップを組んでいたのが飯田圭織だ。
J1チームであるレッズは露出度も高く、データは万全。情報戦では断然有利のはずだった。
が、ここまで高卒ルーキーのストッパーに抑えられ、無得点の飯田。
熱狂的な敵サポーターの声援もあり、やりにくさを覚えていた。
「なっちが全部情報流したいたいだね」
「ああ。めっさむかつくっぺ、彩ちゃん」
札幌キャプテン、石黒彩はくるぶしに麻酔を打っての強行出場。
「あんなガキになめられんじゃないよ」
「わあってるって」

なっち、あんたは知らないだろうが、この一年、うちらはナイフで切り合うような削り合うようなハードなゲームを毎週こなしてきたんだ。
荒れた芝、基本のキも知らないような荒削りなタックル、勝ち点1に一喜一憂する日々。
昇格を、再び1部に戻る事を、何度あきらめかけたかわからない。
あんたがいれば、もっと楽に勝てるのにって。
が、弱音は一度だって吐かなかった。涙をこぼした瞬間、すべて終わる気がしたからだ。
泥臭く、しぶとく、いつも紙一重の差で生き残ってきた。
そしてJ2最終戦。2位を賭けた試合。
延長終了直後、混戦からスパイクの裏で押し込んだ決勝ゴール。
あの瞬間、なにかが変わった。
ようやく、独り立ちできた気がしたんだ。
なっち、あんたには負けない。絶対に負けない。

飯田がボールを持つ。吉澤が手を広げて待つ。
来いよヒヨッコ。あんたじゃ役不足だけどな。

それ以上でかくなると、動けなくなるんじゃねえか。
中学生のころ、周囲をどんどん追い抜いていく吉澤にそんな軽口を叩いた友人がいた。
その時は笑って切り返したが、正直、かなり傷ついていた。
日本ではまだ、大型選手が大成したためしはない。
このまま背が伸びつづけると選手としておしまいになる。そんなコンプレックスが吉澤にはあった。
だから、その瞬間は衝撃的だった。
ワールドカップアジア一次予選、対UAE戦。
安倍の蹴ったコーナーに飛んだその選手は、UAE選手の伸ばした手の指を顔面に食い込ませながら、全身全霊の宿ったヘディングをUAEゴールに叩きこんだ。
TVの前で吉澤は叫んだ。わけはわからず、ただむちゃくちゃ興奮していた。
スピードはない。が、そのサイズをフルに活かした、迫力満点の動き。
吉澤よりさらに5センチも高い飯田圭織こそ、日本が初めて手にした大樹だった。
その憧れの飯田とこんな場面で戦えるなんて。吉澤はその気持ちをどう表現していいかわからない。
ただ、全力でぶつかっていく。
長い足を伸ばし、ボールを奪おうとする。
が、飯田の伸ばした長い腕が吉澤の行く手を阻む。
細い、だが力強いブロックに吉澤の焦りが募る。
いちかばちか、スライディング。
が、ボールはそこにはない。
吉澤がいた場所に飛びこんだ札幌MF戸田が、苦手な右足で軽く蹴りこんだ。

「なにやってんのよー!」
安倍が金切り声を上げる。飯田に前を向かせた時点で、吉澤の負けは確定していた。
前を向いた飯田を止められるディフェンダーはアジアに5人といない。だから代表では常に前を向いてプレーできるボランチをつとめているのだ。
浦和サポーターがうなり声で攻撃をうながす。
福田、安倍、アキナ。日韓のスピードスターたちが札幌ゴールに襲い掛かる。
「それっ!」
札幌DFが一斉に上がる。オフサイドトラップにツートップをはめた。
試合前、田中監督は石黒に、安倍と福田の二人にマンマークをつけようと提案した。
石黒は突っぱねた。今季はずっとフラット4できた札幌である。それを土壇場で変える事に何のリスクもない。
それに、あの二人を一対一で止めきれるストッパーなんて今の札幌にはいない。もちろん、石黒にも無理だ。

石黒が北海の壁と言われていた学生時代、一目見て衝撃を受けた試合がある。
89年のトヨタカップ、ACミラン対ナシオナルメデジン。
当時の日本はスイーパーシステムが全盛で、石黒のポジションもそのスイーパーだった。
ところが両チームの4人ずつのディフェンスは、まるで一本の棒のように横一列に並んでいた。あれで裏取られたらどうすんだよ。石黒は我が事のように冷や冷やして見た。
が、そんな心配は杞憂だった。ミランは中盤で集中守備で有効なパスを封じ、バレージがディフェンスを完璧に統率する。メデジンはGKがスイーパーの役割を果たしていた。
これだ。石黒の目からうろこが落ちた。
フラット4、プレッシング、オフサイドトラップ。オランダのトータルフットボールの進化形がそこにあった。
翌年、イタリアW杯で、西ドイツがクラシカルな、ゲルマン魂にあふれた、逆にいえばそれしかないようなチームで退屈な決勝戦を勝った。この時の3−5−2システムがその後日本でも主流になった。
が、石黒はこのトヨタカップの両チームを忘れなかった。そしてその方向性は、まったく間違ってなかったのである。

大谷がオーバーラップした左サイドを福田が突く。
中央に流れたボールを、アキナが柔らかく加工する。
右サイドに流れた安倍へのパスを、石黒が目前でカットする。
石黒は読みきっていたのだ。福田のインターセプトの瞬間、終着駅が安倍であることを。

前半終了間際、札幌MF石川が倒される。ウイングの位置からドリブルで切りこみ、ひっかけられたのだ。
角度にして右20、いや、15度。センタリングに備え、飯田がファーポストに張る。
ヨコセヨ。上がってきた石黒がボールを要求する。スイーパーながら安倍のいない今季、ほとんどのセットプレーをその左足で担ってきた。
イヤダネ。石川がにらみ返す。痛い思いしてもらったフリーキックだ、なんでゆずんなきゃいけねえんだ。
石黒に逆らう選手なんて札幌にはいなかった。なにかこの華奢な選手に感じるものがあり、石黒もゴール前に入った。
ボールをセットする石川。赤いカベはわずかに2枚。近いが、直接狙えるような角度ではなかったからだ。
ボールとは逆のサイドにヤマを張っていた浦和GKは、ファーサイドのほうの足に体重を乗せていた。

そのオファーを聞いて石川はひっくり返った。
札幌J1昇格のため、1試合だけ力を貸して欲しい。
勝てば300万円を即金で。が、負けたらびた一文出せない。北海道への運賃も持たない。
ケチだなあと最初笑ったが、その翌日、温泉旅行をキャンセルして北海道に向かった。
サッカーにツキを残したいのでギャンブルの類は一切しないが、バクチそのものは大好きだった。
五輪代表で一緒の戸田、木村もいるし、不安はなかった。
そして、同じように浦和がこの試合のため補強した同い年のプレイヤーにも興味があった。
福田明日香に、吠え面かかせてやりてえ。

右足を一閃する。ボールは2枚のカベの間をすり抜ける。GKが飛ぶ、というより遮断機のように倒れこむ。その指の先を嘲るように抜けていくボール。
浦和サポーターの悲鳴を聞き、石川が拳を突き上げる
伝家の宝刀、フリーキック。一発300万円也。

後半、浦和はアキナをボランチに下げた。札幌のリンクマン石川はほとんどボールを追わない。ここにタメを作れる選手がいれば、大きな展開を期待できる。
本当は、吉澤をこのポジションに持ってきたかった。が、今日の飯田を抑えられるのは吉澤以外にいないと浦和ベンチは判断した。
が、これが過ちだった。3点目を奪われるリスクを犯してでも前のめりにいくべきだったのだと吉澤は悔恨する。
確かに中盤は浦和が制した。が、前線の厚みがなくなった。
札幌は木村と戸田を引かせ、GKと6人のディフェンスとで浦和のツートップを封じにかかった。
福田と安倍の間には必ず石黒が目を光らせている。しかたなく二人はドリブルで札幌に挑む。一人かわしても二人目、それをなんとかかわしても次。北の選手達が次々と湧いてくる。
なんていう分厚さだ。いつもより低い位置でゲームを作るアキナが、次第にパスの出し所を失っていく。
その一瞬を、アジアユースでこのアキナ率いる韓国代表に苦杯を飲まされたばかりだった石川は見逃さなかった。体を入れ、ボールをむしり取る。
ゴール前にチラリと目をやる。五輪代表のチームメート、吉澤がいる。
ごめんな、よっすぃー。
右にはたく。サイドバック大谷が久々に上がってきた。浦和の弱点、サイドの裏。
ほとんどフリーで、ゴール前に上げる。
飯田だけではない。もう一人のFW、左サイドMF、戸田、木村、DFの北上までもがここぞとばかりに上がってきていた。吉澤は狙いをしぼり切れない。
それでも、最後は飯田だった。飛び出したキーパーの拳よりさらに高い位置でボールを捕らえる。ヘディングシュート。無人のゴールに突き刺さった。
残っていた石黒が思わずジャンプする。
残り時間は2分。とどめの一撃となるはずだった。

浦和サポーターは静まり返っていた。すすり泣く声ばかりが聞こえた。
ロスタイム間近。得点は0−3。もはや応援どころか、罵声を飛ばす気力も失せていた。
勝敗の行方は決まりきっている。誰もがそう思っていた。
センターサークルでボールを転がした安倍なつみもそうだった。
だから、大きく前に蹴り出されたボールを見ても、なにが起こったのか分らなかった。
フクちゃん、そんなボール出しても、誰も追いつけっこ…
「キーパー!」
最初に我に返ったのは石黒だった。前に出ていた札幌GKがあわてて後ずさる。
福田明日香のロングシュートが決まった。老獪な石黒もこればかりはどうしようもない。
「…」
石川は言葉を失う。まさしく、天才の領分。
安倍が祝福する手を思わずはらう福田。この1点で札幌DFは再び引き締まる。そうなればもう攻め手はない。幸運があと2回も転がり込むのを期待するには、あまりにも時間がなさ過ぎる。
つまり、何の意味もないゴールだった。
それでも福田はなにもしないではいられなかった。
自分を必要としてくれたレッズのため。そして自分自身のプライドのため。
数分後、タイムアップの笛が鳴る。

「アイゴーッ」
アキナがその場にひれ伏して泣く。吉澤が泣かずになだめる。
「どうして泣かないんだ? 悲しくないのか?」
「日本人は悲しくてもこらえるんだ。こらえた涙のぶんだけ強くなるって言ってね」
この結末が信じられないようにひざを抱えた安倍に、飯田と石黒が寄っていく。飯田が安倍の頭を抱いた。
自分の名誉のために戦った安倍、チームのため力を尽くした石黒たち。その差が天国と地獄を分けたのかもしれない。
そして一年間の地獄をくぐりぬけた札幌イレブンは、安倍の想像を越えてたくましくなっていた。その地獄を、来年は浦和が味わうことに。
負けちゃったぁ…福田が夜空を仰ぐ。冬の星座が冴え渡っていた。
浦和の人達に悪いことしちゃったなあ。心の中でわびながらスパイクを脱ぐ。
手を差し伸べてきた者がある。同じように助っ人として敵チームに呼ばれた石川だった。
確かに浦和と札幌は勝敗が着いた。だが二人は1ゴールずつ。引き分けだった。
同い年の二人は、固く握手を交わした。互いを強く認め合った証として。
浦和の選手は打ちひしがれ、札幌の選手も心からは喜べない。
「もう、こんな試合は二度としたくない」
試合後の飯田のコメントがすべてを物語る。これが勝者の言葉だろうか。
この年を最後に、入れ替え戦は廃止された。

焼け野の花

アキナは解雇を覚悟していた。浦和の宝である吉澤ひとみをチームが手放すわけがない。
だから、自分の契約更改に吉澤がついていくと言い出した時、それを止めた。無意味なケンカをする必要はないのだと。
だが吉澤は珍しく押しの強さを見せた。そして、こんな言葉で口火を切った。
「うちらはまだ半人前です。それが身にしみました。だから、給料も半分でいいです」
二人が給料を半分にする。つまり、二人が一人分の給料でチームに残る。
「ヒトミ」
涙ぐむアキナに、吉澤はニカッと笑いかけた。
さすがにチームも給料半分まではせず、それぞれ20%、30%カットで二人のレッズ残留を決める。
そして若い二人のチームへの愛に敬意を表し吉澤を新キャプテン、アキナを副キャプテンとしてチームを任せた。
そうして、新しい船出に漕ぎ出したばかりであった。
それなのに、アキナは敵ばかりか味方サポーターにまでヤジを浴びせられる。
それがどうした。
ヒトミは、試合に出たくても出られないんだ。
ヒトミ、待ってろ。
あなたが戻ってくるまで、私は負けない。ウラワは負けない。

石川と吉澤

『おかけになった電話は、電波の届かないところにあるか …』
石川が携帯を壁に投げる。真っ二つに割れた。
吉澤との連絡はいまだ着かない。浦和の寮にいるから会いに行けばいいのだが、謹慎中では面会もできない。
彼女は自分をかばっただけなのに。
本来、罰せられるべきは自分のはずなのに。
ふざけんなよ。真面目にやってるやつが、どうして。

「どうしたの、吉澤さん?」
五輪合宿でのこと。いつも明るい声でコミュニケーションをはかる吉澤ひとみに元気がないので、キャプテンらしく石川梨華が声をかける。
「なんか、悪い事しちゃったなって」
「なにが?」
「今日の朝ご飯、カレーだったでしょ。お腹へってたから3杯食べちゃって、そしたら他の人のおかわりの分まで食べちゃってて。配慮たんないよね」
それが吉澤の「悪い事」だった。
ちなみに石川にとっての「悪い事」とはステゴロ、万引き、飲酒喫煙、シンナー、スピード違反、その前に無免許運転、不特定多数との不純異性交遊…
叩き上げとエリート、ヤンキーと秀才。
正反対だからこそ、石川は吉澤にひかれたのかもしれない。

その吉澤が石川の気の強さに恐れ入ったことがある。吉澤が清水商二年の時だ。
よっすぃー、どうして? 石川が激しく吉澤に詰め寄った。
広島国体準決勝。吉澤率いる静岡少年選抜は準決勝で地元広島選抜に敗れ、石川の神奈川選抜と決勝で戦う約束は果たせなかった。
が、それだけで石川もこんな風に怒ったりしない。吉澤は相手GKを殴り、退場処分を受けたと聞き、すっ飛んできたのだった。
「いくら赤好きだからって、赤い紙もらう必要ないでしょ?」
違うんだ。吉澤は弁解する。

石川は広島選抜GK尾見谷杏奈につかみかかった。肩押されたのに顔に手やって倒れるなんて不思議な人ね、精一杯の嫌味をぶつける。
知らないわよ。とぼけないで。言葉の応酬。
もう、いいよ。吉澤が石川に、そしていいがかりつけてごめんと尾見谷にまで謝るのを見て、ようやく石川も手を離した。
が、石川の腹の虫は収まらない。迷惑そうな広島GKをボコにしてもいいが、恥をかくのは吉澤なのだ。

翌日、別会場で行われた三位決定戦に勝った静岡選抜のもとへ決勝の結果が伝わる。エースが4本のFKを沈めた神奈川の圧勝。広島GKは大泣きしたらしい。

友達のいない石川(前)

石川が苦しんでいる。
ピョンヤンでの惨敗以降、目に見えて調子を落としている。
セレッソ大阪のユニフォームを着た国立での代表メンバー発表前最後のリーグ戦でも、周囲から孤立していた。
ほとんどフリーで放ったミドルも、FC東京GK信田美帆に弾き出される。
その様子を、ベンチから保田圭が見守る。今年就任したブラジル人監督が4バックを採用したため、3バックの申し子保田は出番を失っていた。
石川、なんで、もっと周りを信用しない。
次第に石川が一人でボールをキープする時間が長くなる。が、決して出し所がないわけではない。
ただ、一度ミスした相手にはもうボールを渡さないだけだ。
入部して二日で辞めた高校、横浜Fユース、ベルマーレ、Fマリノス、そしてセレッソ。
出世魚が自分の体に合わなくなった水槽を飛び出すというより、少し水が合わないとすぐにもっと居心地のよい場所を探そうとする、石川の悪癖。
矢口さん、つまんねえよ。ちっとも楽しくねえ。

ののが新リーダーなのれす

かたやFC東京、辻希美は元気だ。
今日も右サイドから切りこみ、角度のないところから先制点をゲットした。
その右腕には、白いキャプテンマーク。普通左に巻くところを右にするところが個性なのか。
もちろん、チーム最年少の辻はキャプテンの器ではない。
が、周囲に頼りがちになる辻に中心選手としての自覚を持たせるため、なかば無理矢理キャプテンを任せたのだ。ピョンヤンでの試合でいいところなしで終わった辻も今が正念場だった。
そして、その試みは今のところ実を結んでいた。
中央に切りこんで、ストッパーを外す。
苦手というよりオモチャに等しい左足でシュート。
GKの肩口を抜いた。

私が保田大明神よ!

ついに保田が投入された。フィールドに入るや否や、石川の首根っこをひっつかむ。
「なにやってんだよ、てめえ」
「なにって、普通にやってますよ」
「普通にやってどうすんだ」
「がんばってますよ」
「へえ」
保田が指差したのは、チームメートのクウェート人。
「あの子の前で言ってみろよ。がんばってますよって」
セレッソMF、A・K・マエダはA・Iの実妹。たった一人の姉の生死すら知れない状態で、今日も淡々とゴールを狙っている。
DFは相手の心を読んでなんぼ。くさりながらやってるやつなてすぐにわからあ。
保田は辻の前に立つ。辻の表情が堅くなる。
「よろしくね」

モーレツ! しごき狂室

石川とのワンツーでA・Kが抜け出す。狙いすまして放った左足シュートをGKが余裕で弾き出す。
こぼれ球に石川が寄せる。これも肩に当てた。
大ベテラン信田は中澤の前の代の代表GKだ。日本人離れしたルックス同様、驚異的な身体能力を武器に一世を風靡した。
腎臓はひとつしかない。左ひざの半月板はレントゲンに写らない。腰なんかボロボロだ。引退したら杖なしでは歩けなるんじゃないかと不安になる。
夜明け前に、それでも日の丸に魅せられた戦士だった。
かたや辻に仕事をさせない保田も、ピョンヤンの試合には召集されてない。現役時代から折り合いの悪かった石黒が監督になった瞬間、それはほぼあきらめていた。
ドーハでマークしたイラン人ストライカーに誘われた。おまえのサッカーはブンデス向きだ、ドイツへ来いと。
残りの選手生命を考えると、決断の時かもしれない。
そんな二人の日本代表が試合前に顔を合わせた。そして、賭けをした。
信田が石川に、保田が辻に点を取られたら相手に1万円ずつ払う。
試合を通じて、二人を鍛え上げる。代表には選ばれなくとも、二人とも心は日本代表のままなのだ。

やすらさんをたおすのれす

辻が吹っ飛ばされた。小さな体が横に転がる。
「加護がいないとなにもできないんだな」
加護の名前を出され、辻が差し出された保田の手を払う。
大阪に引っ越した事もあって、保田はひんぱんに加護をたずねていた。驚異的なペースでリハビリをこなす加護から出るのは辻の事ばかりだった。
もしかしたら、加護の心臓病は、二人が独り立ちするために与えられた神様からの贈り物なのかもしれない。
保田がベストのポジションから右にずれ、辻を誘う。辻がドリブルで挑む。保田の足が伸び、辻がまたもはいつくばる。
後藤の身体能力、吉澤の読み、飯田のサイズ。
そのどれにも恵まれず、心臓にハンデを抱えた保田は独自のスキルを磨いた。
それは「駆け引き」というスキル。
辻にフルスピードを出されたらかなわない。だからドリブルのコースを限定する。フェイントをかけてスピードを殺す。
辻が体を入れてボールを守る。保田も寄せて、ワンサイドカットに徹する。
じれた辻が突き放しにかかる一瞬、足から離れたボールにタックル。勢いあまってスッ転ぶ辻。
「代表が代表じゃないやつに止められてちゃ、世話ないね」
保田の言葉に、そこら中に小さな傷をこさえた辻がにらみ返す。
絶対抜いてやる。

友達のいない石川(後)

石川の得意プレー、ドリブルとフリーキック。どっちも個人技だ。
相手DFを凍らせる「ブリザードパス」にしても、受け手に冷たいという皮肉が込められている。

人一倍負けず嫌いだった。極端な話、ジャンケンに負けても悔しがるような子どもだった。
サッカーやってもお山の大将。負けても笑ってるやつがいたら容赦なく怒鳴りつけた。
そうすれば、みんなもっとがんばるはず。強くなるはず。
けど、そううまくはいかなかった。気がつけば誰もいなくなってた。足元に転がる五角形と六角形のボール以外は。
まさにボールはトモダチだった。残酷な意味で。
ほんとのことを言うのはいけないんだな。そう思い知った。
ぶりっ子キャラを作るようになったのはこの頃からだった。
サッカーへの飢餓は一人でもできるドリブルとフリーキックとで晴らした。
仮面をかぶり続けることで生じるストレスは、中学のチンピラ連中との刺激的な遊興で発散した。
優等生の自分。ヤンキーの自分。そのどっちも自分じゃなかった。

石川梨華は天下を取れるのかっ!?

石川が中盤でのパスカットを許した。辻へのロングフィードを、保田が弾き返す。
A・K・マエダがドリブルで突き進む。何度祖国へ帰りたいと思ったか分からない。
けど、今立ち止まればそのまま歩けなくなるような気がした。
石川がDFラインの裏を狙う。
肘で突かれた。突き返した。
試合が止まる。
相手ともども、レッドカードをもらった。生まれて初めての退場。
あまりのことに、金魚のように口をパクパクさせて動けない石川の腕を、保田がつかんだ。
「早く出てけよ」
その目が三角だったのは、決して信田がほくそえんでいたからではない。
ピッチの外に出た石川がシンガードを外す。
罵声に顔を上げる気にもならない。
もう、いいや。どうにでもなれ。

狂騒の果てに

終了間際、辻にハットトリックを許した保田を待っている者があった。
「お久しぶりです」
代表監督・石黒彩だった。
「聞きたい事があるんですけど」
「代表から落とした理由なら話せないけど」
「石川のことです」
保田は、以前ならその目も見れないくらい怖かった石黒のほうをぎっとにらんだ。
「あいつが代表の主軸を張るなんて、いくらなんでも早すぎます。石川をつぶす気ですか?」
「まさか」
石黒が腕組みする手を組みなおす。
「あれはそれっくらいでつぶされるたまじゃねえよ。いじめていじめて、いじめた分だけ光り輝くのさ」
保田にはとてもそうは思えない。
石黒は現役時代、足首の故障に悩まされ続けた選手だった。
かたや石川は若い。ほとんど故障のない、体を酷使するスポーツ選手には珍しいほどの健康体だ。
思わず不吉なことを考えてしまう自分を必死に否定する保田。
「それから、国立の試合にはあんたを使うから」
今度こそ意外だった。まさか石黒が自分を選ぶなんて。
「あんたには潰れてもらうから。相手のストライカーと刺し違えてもらう」
「…よろこんで、やらせてもらいます」
心からの言葉だった。

石黒の苦悩

非情な言葉を吐いた石黒にしても、実は追い詰められていた。代表選手は 22人にのみ与えられる特権階級だが、代表監督は国に一人しかいない。まさに身に余る光栄。即引き受けたものの、前のチームをベースにという協会からの注文は実に高いハードルだった。
個性豊かといえば聞こえはいいが、てんでばらばら。
が、石黒が中盤でのプレス、そこからの早い展開を狙う以上、ボランチ二人が肝となる。飯田を新主将に指名したのもそのためだ。
戸田や木村は守りでは申し分ないが、展開力に不満が残る。点を取るべき状況下で吉澤が使えないのは痛すぎた。

永久欠番

石川にエースナンバー 10を与えたのも石黒だった。石川が代表加入時につけていた14は石黒の背番号を引き継いだものだった。
石川は、石黒が見てきた限り三指に入る才能の持ち主だった。
努力する才能には恵まれなかった、足に裏切られ続けた、学業や家庭の事情でサッカーを捨てた。せっかくの宝を活かせなかった天才を石黒は腐るほど見てきた。
石川はそんな障害ひとつなく、センスだけでやり倒すサッカーでここまでのし上がった稀有な存在だ。そんな選手に、自分の番号はつけさせられない。足首に泣き続けた自分の番号だけは。

テレフォン、サッカー、ロックンロール

石黒は北海道の前夫に長距離電話をかけていた。目下の悩みは DF及びGK。石黒の理想は高くて強いCB、速くて攻撃参加のできる両サイド、そして浅いラインの裏をカバーできるGK。いずれにも人がいない。
「彩、サッカーのポジションをロックバンドのパートにたとえてみろ」
アマチュアバンドのドラマーでもある前夫が妙なことを言い出した。
「FWがボーカル。フロントマンていうくらいだ。花形のMFがギター」
「あ、分かった。一番後ろででんと構えるGKがドラムス」
「正解。で、DFがベーシスト。そのこころは、どちらもラインがつきものです」

理想的ベーシスト

代表 DFをベーシストにたとえてみる。エレガントな吉澤がポールマッカートニー、前に出たがる後藤がスティング、石黒自身はビルワイマンか。ワイマン脱退後のストーンズ? ただのおっさんバンドだ。
「今必要なのはラリーグラハムだろ」
ベース弦を指で叩き大音を出すチョッパー奏法の生みの親。
「あれはドラムが遅刻ばっかで、ベースを打楽器にできないか考えて編み出されたんだ。今のおまえらにぴったりだろ」
石黒はファンクやソウルの根底に流れる暗い情念が好きではない。が、好き嫌いを言える時期は過ぎた。
適任は、保田圭一人だった。

Messiah has come!

保田を向こうの CFにへばりつかせ、退場覚悟で仕留めてもらう。あとはどうやって点を取るか。吉澤の穴は誰で埋めるか。GKには尾見谷か信田か。
インスタントコーヒーの量が減り、吸い殻が増える。
決戦の朝が来た。薄暗い、鉛色の空から舞い散るものが見える。
「おまっとさんでした」
ドアが開いた。
「裕ちゃん!」
南米視察から帰ってきたばかりの中澤の両脇には、二人の選手。
「待たせてごめんな。でもそれだけの選手、連れて来れたつもりや。救世主二人お届けや」
石黒がその場で顔を覆う。もうその心意気だけで十分だった。

ラストバトル

頭がガンガンする。限界だった。水を張った洗面台から顔を上げ、荒い息を吐く石川。冬の冷気に薄暗いうちに目を覚ましたら窓の外に雪が散っていた。
試合の朝、必ずこうしてどれだけ息を止めてられるか試す。殺すのは、自分の中の弱虫。
石川は鏡の中の自分をにらみぶす。しょぼい顔してやがる。これから戦おうって顔には見えない。
もう、サッカーなんてどうだっていい。けど負けたまま逃げるのはしゃくだから、今日は4点取って勝つ。ドリブルで2点、FKで2点。
W杯出場決めれば協会からボーナスが出る。それでしばらくは暮らせる。あとは知らん。

再会

「カンチョー!」
「うぎゃん!」
突然臀部を襲った痛みに飛び上がる石川。
振り向くと、揃えた人さし指を鼻に持って行く見慣れた顔が。
「くっせー。ウンコした後ちゃんとケツふいてっか?」
「そんなものしません! …矢口さん」
よっ、と手を上げるのは、狂気の145センチと呼ばれたハーフバック。
「なんだその茶髪、似合わねー」
「矢口さんこそ脱色済みボブマーリィみたいじゃないですか」
ダメだ。石川は泣けてきた。
「どこ行ってたんすか、今まで」
「お魚くわえたドラ猫おっかけてたら忘れ物に気づいてさ」
W杯という忘れ物に。

ニューカマー

中澤が紹介したのはアズキ色のつば付帽子を深くかぶった女性。表情は伺い知れない。
「勝谷衣諌さん。うちが発掘してん」
かちゃいいさ? ふざけた名前だ。
「ポジションは、ゴールキーパーだ」
確かに最も懸念されているポジションであり、代表守護神であった中澤の眼鏡にかなったからにはそれなりの力はあるのだろう。
「けどGKはDFとの連携が命なんですよ。いきなりコンビ合わせるったって」
DFリーダー後藤が苦言を。
「それは大丈夫やんなあ」
うなずく矢口。
「せめて帽子くらい取りなよ」
伸ばした後藤の手を勝谷は軽くかわした。

帰ってきた女

「よっすぃー」
石黒に連れられて現れたのは、長らく姿を消していた吉澤ひとみだった。
「吉澤の謹慎処分が本日解けた。和田さんが力を尽くしてくれたんだよ」
石川と目が合う。が、互いにどう言葉をかけてよいか分からない。
そんな石川の頭をおさえつけ、ぐいっと下げさせた者がある。
「本当、このバカのせいでご迷惑おかけしました。ごめんなさい!」
「いえ、自分こそチームに迷惑かけてしまって」
吉澤は矢口のほうに謝った。
これでほぼベストメンバーが揃った。3点差のついた厳しい状況ではあるが、反撃態勢だけは整った。

恨(ハン)

「この雪は恵みの雪である」
コリア監督、韓国人のキムは熱弁を振るう。
「西暦1954年3月7日、初めての韓日戦もこんな雪であった。神宮球技場で行われたスイスワールドカップ極東予選。気温は氷点下近くまで下がり、小雪がちらつく中、ウリナラの英雄達は日帝の狗どもを散々に蹴散らした。スコアは1−5、いいか、一戦目のことは忘れろ。日本チームは寒さに弱い。我々は氷点下10度の中で鍛錬を続けてきた。5点差をつけて勝て! 負けても得失点差があるなどと思うな! もし負ければそれは韓日併合以来の屈辱である! 積年の恨みを、今ここに晴らすのだ!」

 

日本の中の韓国

韓国代表の若きエース、リ・アキナはそれをうざがってほとんど聞いていない。
韓国の指導者は一人一人に作戦をさずけた後、決まってこう言う。それ以外のことはするな、と。
韓国の強さとはベンチ入り(銃後ともいう)の選手を含む、軍隊的な結束にある。
が、逆にいえばそれはまるで遊びのないサッカーで、それがアジアでは勝てても世界では勝てない韓国を作ってしまったのだ。どうしてそんな簡単なことが分からないのだろうと、ため息をつきたい気持ちでいる。
表にはそれを出さず、望むがままに大声を張り上げながら。

韓国は終戦まで日本軍に虐げられた国々の中でも、とくに反日感情が強い国柄だ。
台湾や香港のティーンエイジャーが留学希望先に真っ先に日本を上げる(これにはジャニーズ事務所のアジア戦略が一役買っている)中、韓国では10代の半数以上が日本を嫌いだと言いきる。
アキナも祖父母から日本軍の皇民化政策のひどさをイヤというほど教え込まれた。が、祖父母が日本語を教え込まれたおかげで、アキナもわずかながら日本語を覚えた。それが彼女のJリーグ参加のきっかけともなった。
韓国の指導者も、日本憎しの感情を選手に植え付けるため、ある一つの屈辱的な事件を上げる。
日本サッカーの金字塔といえばメキシコ五輪銅メダル、通称「アステカの奇跡」であるが、それ以前に奇跡をもって語られるのは優勝候補スウェーデンを破ったベルリン五輪である。
その前年、選考の意味を兼ねて行われた全日本総合選手権大会、当時日本の植民地だった朝鮮(当時)から出場した京城蹴球団は圧倒的な強さで優勝したものの、そこから代表に選ばれたのはわずか二名。それももちろん、日本代表としてだ。
それは二重の恨みだ。公平に扱われないことと、朝鮮民族の誇りを傷つけられたことの。

 

ジェネレーションXXX

が、X世代が現れた。日本でいう新人類。
キムチが嫌い、ドラゴンボールや宮崎駿が好き、NONNOを愛読、タバコはマイルドセブン…
アキナはさらにそのひとつ下の世代、日本文化をごく自然に享受してきた。
韓国の早稲田、高麗大学進学を蹴り、日本行きを選んだこともごく当然の選択だった。
一番最初にできた日本の友人は、アジアユースで何度もアキナを削りに来た長身のボランチだった。
本当にいいやつだった。一発で好きになった。
今まで彼女のことを知っていたつもりで、実は何も知らなかった自分が恥ずかしくさえ思えた。
韓国人全体も、そうなんじゃないか。
半島からいまだアキナへの非難は漏れ聞こえる、が、アキナにはそれを聞き流す余裕さえあった。
くだらないいさかいは、私達の世代で終わりにできるかもしれない。そう思っていた矢先だ。
くだんの、教科書事件である。
それを読んだとき、アキナは泣いた。そして確信した。日本人は変わっちゃいねえ。
幾度と無く妄言を繰り返してきた日本政府も再三の修正要求を突っぱねた。
日本はやはり日本だ。半世紀経とうとそれは変わらない。
蹴散らしてやる。この赤いユニフォームに賭けて。

 

韓国と北朝鮮

かたや、はなっからその話を聞いてない連中も存在する。アユ・ハマサキータ率いる北朝鮮国籍の選手たちだ。
ハマサキータ以外のDF四人は、この日総入れ替えになっている。全員一枚ずつイエローカードを受けているためだ。
他の選手は、GKのための使い勝手のいいコマであればいい。その意味で北朝鮮の選手は軍隊式以上のものを持っていた。共産主義では宗教は排除される。国家そのものが宗教であるからだ。
ミーティングが終わり、バナナが与えられる。
真っ先に手を伸ばしたのはハマサキータと韓国のエース、ファン・アミゴだ。
伸ばしかけた手を、アミゴが止める。
何事も無かったようにハマサキータがバナナの皮をむき始めた。
朝鮮戦争以来引き裂かれた二国もまた、サッカーにまつわる深い因縁がある。
66年イングランドW杯。アジア、アフリカ、オセアニアからは三地域合わせてたった一国の出場国しか出せないことになった。それまであまり芳しい記録を残せてなかったからである。
日本は抗議の意味を含めこれをボイコット。韓国もこれに同調。
そんな中出場した北朝鮮はイタリアからアジア勢初の1勝を上げ、現在に至るまでアジア勢最高のベスト8入りを果たした。
が、アミゴがハマサキータに譲ったのはそれが原因ではない。
ソウルで日本に煮え湯を飲ませたのを最後に、韓国は大きく調子を崩し、一度は予選敗退をしている。いまや、チームの実権は韓国には無い。監督もハマサキータの傀儡である。
ひとつのチームの中に、二つの国がある。それはとても危ういことのように思える。
が、こんな実例もある。
94年アメリカW杯、美学すら感じさせるカウンターサッカーを貫き、高い評価を得たルーマニア。
攻撃の中心は東欧革命の中銃殺されたチャウシェスク大統領(当時)の子飼いだったゲオルゲ・ハジ。
守りの要は反チャウシェスクの立場を貫き4年前のW杯をボイコットしたミオドラグ・ベロデディチ。
が、この二人はみごとにチームをまとめ、ルーマリアを世界八強にまで押し上げたのだ。

 

雪の国立

名残雪が、国立の芝を白く染め上げる。
「さっみー」
矢口が身震いする。南米チリは真夏だった。
「これっくらい普通だよ」
保田が笑いながら答える。すでに体はあったまっていた。
雪の国立。保田にとっては縁起が良い。
高校最後の選手権。悲運のイチフナと呼ばれ、どうしても優勝できなかった当時の市立船橋高校を幾度と無く救ったスーパーサブがいた。
心臓病が発覚して一年以上のブランクがあった保田圭だ。
守りを固めて前半をやり過ごす。後半20分過ぎになるまで最小失点に食いとめる。
そこで登場するのが保田だ。フル出場できない代わり、限られた時間でためた力を爆発させ、必ず得点に絡むプレーをする。
準決勝までで得点王をほぼ確定させる6点。が、5試合で125分という出場時間を考えると、1試合で4点近くを叩き出すという恐るべき決定力だった。
マスコミはスターを欲しがる。マイクは保田に向けられる。だが保田は必ず言った。
「みんなが自分が出るまで必死に守ってくれるから。自分はただのおいしいとこどりです」
逆ブロックを勝ちあがるのは神奈川県の無名校、桐光学園だった。桐光が強豪として名を轟かせたのはこの大会以降である。
チームワーク良く、泥臭いサッカーを11人が惜しまない。
目立つ選手はいないが、目につく選手がひとりだけいた。大会選手中最も小柄なその2年生は、中盤で動き回った。ある監督は「あの8番は、実は三人くらい居るんじゃないか」と呆れた。
PK戦でも鍵を握るのはその選手。GKにサインを送り、飛ぶ方向を指示する。それが不思議なほどよく当たった。5試合中4試合がPK戦で、GKは10本ものPKを止めた。
関係者は惜しんだ。あと5センチ背が高ければ、と。
そしてその選手、矢口真里率いる桐光学園と、保田の市立船橋がぶつかった。大会史に残る、雪の決勝戦である。

 

決勝戦

2年生ながら攻守の要である矢口。保田はいつものようにベンチでキックオフのフエを聞いた。
雪でぬかるむピッチを苦にしながら、それでもボールを回す両チーム。
内容自体は蹴り合いに終始する凡戦。が、このコンディションでは仕方なかった。
試合が動いたのは前半ロスタイム。イチフナの一瞬のスキを突いた矢口がグラウンダーのシュート。ボールがはじいた泥が目に入り、GKは目測を誤った。
開始直後と終了間際、もっともゴールの入りやすい時間帯を狙っていた。
後半直後、ディープブルーのユニフォームをまとった保田が入ってきた。この大会30分以上プレーしてないエースがである。
層の厚い市立船橋でさまざまなポジションをこなしてきた保田は、その経験を活かした。
敵の心臓はこのチビだ。こいつにどっちか上かを思い知らせる。
中盤でボールを持つと、矢口がチェックにくる。
その頭上を浮かして抜いた。矢口のジャンプは届かず、ボールを見失ったGKも反応しきれなかった。
そして直後、さほどぬかるんでないサイドをドリブルで上がり、中へ。桐光DFはファウルでしか止められない。
PKだった。矢口がサインを送り、GKが止める。
が、こぼれたボールがぬかるみに止まった。保田と矢口がスライディングをかける。保田が、早かった。
桐光はあきらめなかった。が、格上に土壇場で逆転を許しては、もう打つべき手はなく、そのままタイムアップ。
冷たくなった体で仲間と抱き合う保田。手足のしびれるような冷たさは風呂に入っても取れなかった。
矢口は泣きじゃくる仲間を抱き起こしていた。涙は止まらない。それでも、こう言いきった。
「楽しかった」

「あたしにとっちゃ、こんなにゲンの悪いもんはないさ」
今の矢口真里がぼやく。
「あれか、試合球」
保田がオレンジ色のボールを指差す。雪用のカラーボールだ。
やはり、日本にとっては縁起の雪かもしれない。
あのボールがセンターサークルに置かれれば、巨大な日の丸が出来あがる。

 

スタメン

コリア(赤・青・赤)

      1ハマサキータ

DF   DF    DF    DF


  MF          MF

       11リ・アキナ

MF               MF

      Iファン・アミゴ


日本(青・白・青)


   7安倍       22辻

        10石川

  J飯田   4吉澤   8矢口


3ミカ  6保田   5後藤  2大谷

        1勝谷


      

 

ようこそ、青の地獄へ

アキナは吉澤の姿を見つけると、思わず安堵の笑みをこぼす。吉澤はこの試合に出られないらしいと聞いていたからだ。
が、すぐに表情を堅くし、にらみつける。吉澤も吉澤で有閑マダムのような冷たい表情でにらみ返した。

ハマサキータがゴール前でジャンプする。GKとしては小柄な部類に入るのに、ジャンプするとバンダナを巻いた頭がクロスバーの上にまで届く。人間離れした跳躍力だ。
「びびってんじゃねーよ、石川」
矢口がたきつける。今日の日本はトレス(3)ボランチ。鬼ディフェンスの吉澤、ロングパスの飯田、運動量の矢口。司令塔石川へのサポート態勢は整っている。

「なんか、あの人不安なんですけど」
後藤が保田に寄っていく。新キーパーがどんなやつか、まるでつかめないのだから仕方ない。
勝谷衣諌は日本代表の帽子を深くかぶり、なにごとか祈っている。
「ま、仲良くやんな。あたしは知らん」
保田がアミゴに張りつくため、日本は事実上フラットの3バック。後藤と勝谷の連携は一層重要になる。

スタンドには、雪にもかかわらず大勢の日本サポーターが詰めかけ、大横断幕を揺らす。
Welcome to BLUE HELL.
我々は銃で脅したり、宿舎に押しかけることはしない。サポーターの唯一の武器は、声だ。
一方、コリアゴール裏にも少数精鋭の赤いサポーターが詰めかけ、打楽器を激しく打ち鳴らす。
彼らの多くは、韓国が恨の民族と呼ばれることを嫌う。
誰もが、破壊を望んだりはしない。
だが、だからこそ代理戦争としてのサッカーは一層の激しさを増す。
コリアのキックオフ。アキナがアミゴに軽く蹴り出す。
アミゴが前を向きかけた時だ。
その体が大きく浮き、雪の上に投げ出された。

 

ごあいさつ

保田の横殴りのスライディングタックルは、ボールごとアミゴの足をなぎ倒した。
試合が止まり、パンツの雪をはらう前に保田がしたことは、胸元のカードに手をやりかけたペルー人ジャッジマンに頭を下げた。
「ごめんなさい、つい力が入りすぎて」
FW二人を追い越しといてついもないもんだが、主審はなにも持たない右手を保田の頭上にかざすのみだった。次やったらこうだよ、と。思わず笑い声が漏れた。
ソーリーソーリーと馬鹿丁寧に繰り返し、次に保田は蹴倒した韓国人に手を差し伸べる。
アミゴは保田からは顔を背け、黙って手を借りて立ち上がった。保田は拍子抜けした。
A組予選のソウルでも保田は同じように開始20秒でアミゴを倒した。その時のアミゴは保田をにらみつけ、この足は誰の足だかわかってんのかといわんばかりだった。その気迫に保田の方がびびったくらいだったのだ。
だが今はどうだ。辻でさえにらみ返してきたのに。
ベンチの石黒がなにやってんだとばかりに保田をにらみつける。保田は首を横に振る。
だいじょうぶさマスター。もはや刺し違えるまでもない。こいつ、最初から死んじまってるもん。理由は知らないけど。

 

舞台裏

キックオフを確認すると、和田薫はサッカー協会のお歴々にかました猿ぐつわをほどいていった。
「わ、和田君! こんなことして、どうなるか分かっておるのかね!」
もちろん、分かってたらこんなことはできない。
数時間前、メンバー表の提出ギリギリの時間に、石黒は一人分空白になったメンバー表を協会役員の一人にたたきつけた。
「ここには、吉澤ひとみ以外の名前が入れられません。どうか吉澤の出場停止を解いてください」
互いに引かない。つかみかからんばかりの勢い。
千日手にピリオドを打ったのが、脇に控えていた和田だった。役員を羽交い締めにすると、大声で叫んだ。
「吉澤の出場停止は解けた。早く呼びに行け!」
それだけですべて察し、石黒が駆け出す。その騒ぎに役員たちが駆けつける。あとの大立ち回りはよく覚えていない。
鼻血は出たし、歯も折れた。
が、不思議と和田の心は澄み切っていた。
「それにあのキーパーは…」
うるさいので、もう一度、猿ぐつわをかませた。

 

冷たいパス

石川がコリアボランチ二人をかわし、インサイドで払うように右へ。低く、短く、速い。しかも DFの鼻先をかすめるような弧を描く、思いきり意地悪なパスだ。
辻の動きだしが遅れ、やや流れる。しかも強いスピンがかかっているものだからトラップそのものが乱れ、クリアされた。
あかん、あれじゃダメだよ石川。
代表でも孤立しがちなのがよく分かるワンプレーだった。
確かにあれを丸め込めれば展開はぐっと有利になる。が、辻にそこまでの技能はない。それに辻はスペースに出されるほうが力を発揮できるFWなのだ。
矢口は祈る、大人になれ石川。

 

キーパー競演

序盤は守りあいだった。コリアの最終ラインはハマサキータの統率で一糸乱れぬ動きをみせる。 38度線は本日も視界良好。
かたや日本も保田がアミゴにまるで仕事をさせず、後藤との連携も上々。両サイドバックの大谷雅恵、ミカの二人もウイング的動きをするコリアの攻撃的MFをうまく止めていた。
が、守ってばかりもいられない。特に早い時間帯にゴールが欲しい日本、雪上戦に慣れた札幌勢を中心に攻めたてる。
吉澤と二人で奪ったボールを飯田がロングパス、右サイドの大谷を走らせる。早めのセンタリングはDFの肩に当たり、その裏にこぼれた。

辻が飛び出した。優秀なDFを引き離す、一瞬のダッシュ。GKのポジションを見て、インサイドで流し込む。ラメ入りグローブで止めた。
安倍が詰め、逆サイドへ蹴る。まっ赤なシューズではね返す。
とどめは石川だ。二列目から走りこんだ勢いそのまま豪快に狙うのは意外と反応が難しいGKの頭上。
交差させた腕が、ボールを上空へかき出す。落ちてきたボールは、そのまますっぽりとその懐に収まった。
まさに守護神。立て続けに襲った決定機すべてに対しビッグセーブを披露した。点が欲しい日本の前にコリアGKアユ・ハマサキータが立ちはだかる。

笛が鳴る。ミカが天を仰ぐ。コリアのライトハーフ、チェ・ヒカリが倒れたままガッツポーズ。ファン・アミゴがペナルティースポットにボールを置いた。
このPKはあたしの責任だ。後藤は唇をかむ。寒さで動きの悪い、南国育ちのミカを気遣ってやれていれば。
窮地に立たされたキーパー勝谷をちらりと見やる。相変わらずのポーカーフェイス。後藤が気難しげに腕を組んだ。
短い助走から、アミゴのキック。得意のコースへ思いきり蹴った。
まるで、キーパーの懐を狙ったように、勝谷の胸に飛び込んだ。絶叫するアミゴ。日本イレブンが飛び上がる。

主審の笛がヒステリックに吹かれた。なんと蹴り直し。キーパーの動き出しが早かったというのだ。後藤が抗議する。
「後藤!」
勝谷が一喝した。なぜか後藤はサーカスのライオンのような心境になり、身をすくめた。なぜだろう、初めて会う人なのに。
コリアはキッカーをアキナに変えた。勝谷は相変わらずのんびりと構えている。
逆へ。丁寧にコースを突いたテクニカルなシュート。これにも勝谷は完璧に反応、指先をピンと伸ばし、コースを変えたシュートがゴールラインを割った。今度こそ日本イレブンが勝谷を囲む。だが殊勲のGKは
「コーナー!」

 

中澤のいらだち

「入らんなあ…」
「でもGK出身の中澤さんには両キーパーの好守は見応えあったんじゃないですか?」
「あほう、そんなこと言うとれる状況か」
中澤とユウキはスタンドからこの試合を見守っている。久しぶりに日本の地を踏んだユウキはこの寒さに縮み上がっていた。
「なにやっとんねん矢口」
矢口の足取りは確かに重い。持ち前の運動量が影を潜め、コリアの早いチェックにつぶされる石川をフォローできてない。
チリを発ったのが六日の夜、三回の乗り継ぎを経て今朝九日成田に着いたばかり。ベストとは程遠いが。
中澤が紙包みを投げつけた。

 

矢口復活!

スローインのためにピッチの外に出た矢口の足元にそれは落ちた。あっぶねえな。目をやる。
新聞にくるまれたその物体。しかも、南米の新聞。
矢口が新聞をはがした。茶色の小瓶が。奥歯で封をかみ切りながらスタンドに目をやる。
ありがと、裕ちゃん。
ピンガの瓶を一気にあおり、空にした矢口が足元の雪をすくって口に運ぶ。凍えきっていた体が燃えるように熱かった。
ボールを抱え、タッチラインから離れる。ダッシュ。雪で滑る足元を利用したロングスロー。ポストに当たったところへ安倍が詰める。ハマサキータがトスで辛うじて逃げた。

 

サッカーはイマジネーションのスポーツ

左サイド、両足を揃えたタックルにミカが倒される。
背後からフォローしたのは矢口。センタリングはゴールラインを割る。
「矢口さん」
右ボランチの仕事を逸脱した矢口を石川がたしなめる。
「あんだよ。右のハーフが左にいっちゃいけないなんてルールあんのかよ」
サッカーをつまらなくしたのは誰だ。
人を傷つける本を書くのは誰だ。
信じられない殺人事件を起こすのは誰だ。
犯人は、想像力の欠如。自分の行動で相手がどう思うか、どうすれば驚くか考える力がないから。スターは近代サッカーに奪われたのではなく最初からいなかったのだ。

 

ボランチ

サッカーからアイディアを奪ったら、ただボールがそこに転がっているだけ。
そして小柄な矢口を日本のトッププレーヤーに押し上げたのもその想像力。夢見る力だけは無限だ。
石川のパスの瞬間、38度線の兵士が駆け上がる。日本の2トップが下がり、入れ替わりに右サイドから矢口が飛び出す。タッチを割りそう。
ラインにかかったボールが、ネズミ花火のように左へ曲がって矢口の足元へ。
上げる前に、矢口がニアポストへ目をやる。それを見たGKも左足に重心をかけた。
見てろ石川、こうやってやるんだ。
矢口のハイクロス、ファーサイドへ。

逆を突かれたハマサキータが拳を固めて飛び出す。ボールの落下地点には日本代表主将、長身の11番が。

「矢口、これ」
試合前、飯田は矢口にキャプテンマークを手渡そうとした。自分はその器でないことを前の試合で痛感していた。
「あ、そ」
あっさり手を出した矢口に飯田がその手をひっこめる。軽い気持ちで引き受けないでよ。
もちろん矢口の猿芝居だ。日替りでつとまるほどキャプテンは楽じゃないのだ。

ハマサキータの拳が迫る。飯田は逃げない。繰り出された拳が飯田の頬をかすめた。
それでも飯田は競りかった。頭でボールを中央へ。

無人のゴール前。詰めるのは三人目のボランチ吉澤。コリアは小柄だがヘッドの強いアキナ。日韓のストロングヘッダーが飛ぶ。
勝ったのは吉澤。足場の悪さを気にもせずに飛び上がったとたん、ネットがヘディングとは思えないほど大きく揺れ動いた。
だが吉澤に派手なパフォーマンスはない。転がったボールを即座に拾う。トータルではまだ1-3で負けているのだから。
が、倒れたアキナに吉澤は手を差し伸べる。
ヒトミ、甘いよ。
そう思いながらアキナはその手を借りて立ち上がり、まるで肩を並べるように笑顔で歩き出した。

 

石川はわかってくれない

矢口さん、なんでそんなしちめんどいことを。石川が首をかしげる。
確かにファーに振って揺さぶれば、よりゴールを陥れ易くはなる。
が、ニアにライナーを出してれば吉澤がギリギリで間に合ったはずなのだ。少なくとも石川が描いたのはその形だった。
矢口のやったことは、目の前にシュートコースが見えるのにボールをこねくっているような非効率的なこと。少なくとも石川にはそう見えた。
だが石川は気づかない。打点の高いヘディングで折り返しアシストを記録した飯田が自信を回復し、悶々と自問自答する日々を送った吉澤が欝憤を晴らしたのに。

 

サイボーグ・キーパー

初失点を喫したハマサキータではあったが、別に動じた様子はない。淡々とした様子で立ちあがる。
雪が溶け水滴のたまったゴーグルを軽く拭く。
その奥の双眸が何を見据えているのか、誰も知らない。
その素性も、なぜ北朝鮮国籍を取ったかも。
他の選手が白い息を吐く中、その息は無色透明。
指先は変温動物のように冷たい。
アユ・ハマサキータこそは、サッカーのために生まれた異生物である。

 

コリアのキックオフ。アキナがボールを持ち、四人の韓国人がその四方を固める。
チェ・ヒカリ、ハ・アリサ、キム・ナツ、カン・モエ、そしてリ・アキナ。
五人は小学校から高校まで、その人生の半分近くをともにプレーしてきた。今は共闘できない二人の仲間とともに。
日本では高校→Jリーグがサッカーのエリートコースであるが、韓国では高校→大学→ドラフトでKリーグがそれにあたる。
高麗大に進むヒカリとアリサ、延世大に進むナツとモエ。そしてアリサは
「日本に行く。自分一人の力でどこまでやれるか試したいんだ」
ユース代表キャプテンであり、将来韓国のエースと目されるアキナの希望に当然のごとく四人は反対した。日本にだなんて、下手になってしまう…
が、アキナの決心は固かった。引き下がる気配はなかった。
「もしかしてアキナ、日本に行ったきり帰ってこないんじゃないか」
ヒカリがぼつりとつぶやいたのを、一笑に伏すアキナ。左胸をドンと叩く。
「私の血が赤いのは、韓国代表のユニフォームと同じ色だからだ。どこへ行っても、この誇りだけはなくさない」
四人はアキナの言葉を信じた。
日本に渡ったアキナを再び韓国/コリア代表に呼び戻すのを危ぶむ声も聞かれた。
が、四人は信じていた。アキナは祖国を忘れない、より強くなって帰ってくると。

 

五つ星

「くるよっ」
コリア右サイドハーフのヒカリが左ボランチ、ナツへ。ナツから右のモエ、左アウトサイドに開いたアリサへ。
吉澤は決してアキナから目を離さない。雑魚がどんな小細工をしようと、中盤の要はあくまでアキナ。
アリサが大谷と向かい合う。外に切りこむと見せて、一発のサイドチェンジ。
ミカとヒカリが競り合う。ヒカリが高い。上がってきたナツへ落とした。
ナツがアーリークロスを上げた。後藤が頭で弾き返す。
またもコリア。選手が次から次へ湧いてくる。モエが背後から上げた。
後ろからの難しいボールに、アキナが飛ぶ。吉澤も競る。
ヒトミ、さっきはあなたのほうがボールに近い場所にいた。でも、五分のポジション取りなら、あたしは負けない。今みたいにね。
胸を反らせる。先に伸ばした腕で吉澤をブロック。滞空時間が長い。垂直に振り下ろす。吉澤が空中でバランスを崩す。
反応できない勝谷の大きく開いた足の間を抜けた。

 

心の声

やられた! 中澤が、ユウキが、スタンドが、ベンチが、青のサポーターが目をつぶる。
青い影が、舞った。
GKの背後で、ボールを蹴り出す。GKの背中に当たってオウンゴールにならぬようサイドへ。
雪の上を滑って泥だらけになった保田に、GK勝谷が声をかける。
「ナイス、圭ちゃん」
あんた、誰なんだよ。保田が口篭もる。
聞こえたのだ。ここへこい、という声が。
それが誰の声であるか分からないまま、保田はアミゴのマークを外し、そこへ走った。
そして、寸分たがわず、アキナのヘッドはそこへ出た。
寒さで冷え切った保田の頬を、なぜか大粒の涙が伝う。
なぜ泣くのか、保田自身にも分からない。
心の奥で小さな小箱が開き、そこからせつなさがこみあげてきた。

 

ハーフタイムの告白

前半終了の笛が鳴った。最小失点に食い止めたコリア、後半に望みをつないだ日本。ともに最低のノルマだけは達成してのハーフタイム突入となった。
日本控室。石川が濡れたユニフォームと下着を脱ぐ。
「梨華ちゃん、割とムネ大きいね」
後藤の言葉にあわてて乳房を隠す石川。スケベオヤジか?
「そんなことないよぉ」
「梨華ちゃん、サッカーやめちゃうの?」
「なんで」
「見たんだ。今朝鏡に向かってブツブツ言ってるの。やめてやるーって」
後藤がタオルで髪をふきながらこともなげに言う。
「ダメだよやめちゃ。後藤もやめるんだから」

「サッカーをじゃないよ。代表をね。このチームで後藤のやりたいことはできたからさ。あとはヨーロッパに戻って、死ぬまで遊んで暮らせるお金を稼ぐ、と」
気まぐれな後藤のことだ、どこまで本気かなんて分からない。が、石川は一応言っておく。
「ワールドカップは出ようよ。その権利はあるんだからさ」
考えとく、と言って替えのソックスを取りに行く後藤。石川が着替え終わると矢口が
「まだ着替えてたのか、とれーな。客が来てるよ」
かつての石川の同僚、現在J2横浜FCの柴田あゆみだった。
「しばっちゃん」
懐かしい顔がもう一つあった。

 

再会

「アイちゃん」
行方不明になっていたはずのA.I.マエダだった。横浜フリューゲルスの黄金期を築き上げるはずだった四枚の翼が同じ国立で揃った。
「捕虜になりそうだったんでサウジに逃げてたんだ。なんとか連絡を取りたかったんだけど、不自由の多い生活でね。国へ帰ってからも臆病者呼ばわりさ」
矢口が首を横に。生きてこそ、だ。
「イシカワ、コリアは強いか?」
「強いとは思わないけど、まだなにか隠し持っている感じがして気にいらない」
矢口もうなずく。コリアはまだカードをすべて切っていない。
「私も仕事してない。10番が泣くよ」

 

顔が鮨

「あんた」
着替えを持って消えようとした勝谷に保田が声をかける。
「サヤカだろ」
その場には二人しかいない。代表の同期で、無二の親友だった自分に隠しだてすることなんかないはずだ。
勝谷は雪をすっぽりかぶった帽子を外さない。正体を明かしたがらないのはなにかしら理由があるのだろう。が、尋ねないわけにはいかない。勝谷が今やアルゼンチン代表である市井だとしたら日本は失格をまぬがれないからだ。
が、帽子を奪ったりするのは礼儀に反する。
だから、尋ねた。
「あなたは、サヤカなの?」
帽子が横に揺れる。
「カチヤイイサ」

 

ナンバー9

スパイクは右から履き、紐は左から。この選手唯一のゲンかつぎだった。が、かつて若き天才と呼ばれたこの選手は周囲に気どられないよう極度の神経を遣いつつ、ごく自然にそれを行う。
復帰を決めたのは一つは中澤の強引なすすめ。もう一つは悔しさだった。
安倍とのコンビは今も史上最強と自負している。が、駒場で久々に組んだコンビは不発。それが悔しかった。
そして一度は戦いを挑み、敗れたワールドカップの魔物を、今度こそ見極めてやる。
「福ちゃん」
復帰したベストパートナーに安倍が微笑みかける。
福田明日香、復活。

 

後半スタメン

   7安倍     9福田

       10石川
             22辻
  J飯田
       4吉澤
3ミカ           8矢口

    6保田   5後藤

       1勝谷


右サイドバック大谷を下げ、FW福田を投入。
福田の位置にいた辻を中盤右サイドへ、中盤は右肩上がりのダイヤモンド型。
右サイドバックに入った矢口は左のミカとともに前半より前目にポジションを取る。
大幅なポジション変更ではあったが、少なくとも2点取らねばならぬ状況で攻撃力のある辻はどうしても下げられなかった石黒。
保田はいよいよ切羽詰った時間帯ならともかく、事実上後藤との「2バック」で残り45分を戦うなんて無謀だと感じている。
が、アキナをマークする吉澤を二人目のストッパーと勘定すれば3バックだと自分を納得させた。
前のめりなこの布陣、吉と出るか、それとも・・・

 

ドリー・ダガー

石川の両手に、細身のダガー(短剣)が一本ずつ握られている。
冷たく、重く、この上なく研ぎ澄まされた一対のダガー。
もちろん、一本だけでも十分鋭い。
しかし、二本を同時に使いこなすことで、その切れ味はすさまじく増大する魔法のダガーだ。
だが、使い方を間違えれば自らの腕がなますのように切り刻まれる。
かつてその刃を手にし、身も心もズタズタにされた矢口が忠告する。
あの二本は、使いこなそうとする人間の力量に応じてその姿形までも変える。
アドバイスできることがあるとすればただひとつ、まず自分がご主人様であることを分からせろ。

キックオフのボールがセンターサークルの二人から下げられる。
真正面へ、思いきり蹴り出す。GKの頭上を越え、ゴールの5メートル上を通過する。
シュートミスに恥じることなく石川が二人を見る。俺がご主人様だ。

「なに考えてんだ、あいつ」
安倍なつみが首をかしげる。
「でも私、ああいうプレイ嫌いじゃないですよ」
福田明日香が歯を見せる。
「自分、感情さらけ出すの苦手なんで、あんな風にできたらいいなって」
「ヘンなの」
安倍も笑い返す。こんな気持ちっていつ以来だろう。
飯田と組むときは飯田がポスト役になり、自分はムービングストライカーとしてその周りを惑星のように動く。
辻と組むときは逆に辻を走らせ、自分はボールキープに徹する。
だがボールが持て、チャンスメークからフィニッシュまでまんべんなくこなせる、自分によく似たオールラウンドな福田と組むと、安倍もいろんなプレイが可能になる。
飯田や辻が悪いわけではないが、福田に関しては別格であるとさえ安倍は感じる。
不思議だ。普通似たタイプの選手は反発しあい、ポジションを奪い合いがちになる。
だが安倍と福田は共存どころか、一緒にプレイすることによって互いの長所を引き出せあえる。辻と加護も然り。
安倍と福田。二本の短剣が、機関銃を抱えた38度線の兵士に挑む。

 

中澤の祈り

「きばれや明日香」
中澤は母のような思いで、背番号9を見つめる。
実は中澤が最もしつこく誘ったのは、この福田だったのだ。
やはり、安倍のワントップは正直辛い。かといって安倍の力を最大限に引き出せるFWが代表にはいなかった。
それは数字にも表れている。福田が代表在籍中は7試合で5ゴール、だが福田が去ってからは6試合でわずか1ゴール。対戦相手や安倍自信のコンディションが違うので単純に比較は出来ないが。
そこで、福田の復帰だ。頑固で冷めたところのある福田を説得するのは一筋縄ではなかった。が、中澤はあきらめなかった。
福田は情では動かない女だ。自らの中に動くべき理由を見つけ、初めて行動を起こす。
だから、それを待った。そしてその甲斐あって、福田が日の丸に再び袖を通したのだ。
そして、中澤がそこまでして福田にこだわった理由。
真っ白に燃え尽きた自分や石黒とは違う、不完全燃焼のまま代表を去らねばならなかった福田明日香。
常に冷静なその表情に、時折、悔恨の色が浮かぶのを中澤は見ていた。それはわずかな、しかし、あきらかにブスブスとくすんだ消し炭。
中澤は、福田をその煮え切らない思いから救いたかったのだ。

 

ハートに火をつけて

右サイドバック矢口がコリアの左サイドの連携の乱れを突き、易々とボールを奪う。
純粋なDFの経験はほとんどない。尻上がりに運動量の上げてきた背番号8は慣れないポジションをこなしている。
辻が右を走る。一度渡し、リターンをもらうふりをしてスルー。
中央の石川にフリーで渡った。
ツートップが左右に散る。
矢口の言う通りだった。この二人は並べて使って初めてその真価を発揮する。安倍の動きが別人のようだった。
低く、右へ走る福田へ。後ろをちらと見た福田が左へ方向転換。
(マジかよ)
DFの裏を取った福田。その足元へ、コリアDFの頭上を越えるバックスピンロブが吸いつく。同じチームでプレーするのは初めてなのに、完璧に自分の意図を読んだ福田になぜか腹立たしくなる石川。
が、かわしたDFに袖を引かれ、引き倒された。
「明日香!」
福田はこともなげに起きあがる。
「ベンチで見てる時ほど、怖くはないですね」
まだまだ天才の闘争本能に火はつかない。石川は唇をかむ。
見てろよ、絶対本気にさせてやる。

 

アサシン(暗殺者)

一方コリアも中盤のシフトをマイナーチェンジしてきた。四人のハーフの対角線の交差点にいたアキナをボランチの後ろへ。 X字がV字へ。
前半アキナにはりついていた吉澤が対応に困る。
「乗るなよ、吉澤」
エース完封に奇跡的なクリア、ここまでのMVP保田が声をかけた。
最終ラインでゆっくり回し、好機を伺う日本。吉澤もボール回しに参加する。
前方からアキナ。スピードに乗って詰めてくる。吉澤が落ち着いて左の飯田にはたく。
十分距離はあった。だから吉澤はなにもアクションを取らなかった。
ぶつかるはずはなかった。故意でもなければ。

 

殺人狂時代

「吉澤!」
保田が駆け寄る。つかみかからんばかりの後藤と矢口を飯田と石川がそれぞれ押さえる。
「だ、大丈夫です」
古傷の右膝を押さえつつ立ち上がる。やれそうだ。
吉澤がアキナを見る。が、アキナは吉澤を見ていない。視点は定まらず、なにごとかを口ずさむ。
それは、映画の名ゼリフを皮肉っぽく文字った言葉。
路上で人を蹴れば刑務所に入れられるが、ピッチ上でならば英雄になれることもある。
監督は言った。歴史に残るのは勝者の名だけ。どうやって勝ったのかは問題ではない。
不惜身命。祖国のために死んでこい、と。

 

突破口

中盤は引き気味に、しかし最終ラインの大胆な押し上げはやめないコリア。プレッシャーの最もきつい地帯から、 DFラインの裏へスルーパスを通す石川。
が、ツートップへ渡る前にハマサキータが出足よく奪う。
ドリブルで突破を図ろうとすればDFに阻まれる。
「なに遊んでんだよ、おめー」
矢口が10と書かれた背中をバチンとひっぱたく。矢口には石川が急ぎ過ぎているように見えた。緩急をつけるということが頭にない。
安倍と福田を使いこなせないでいる石川。
「こんなDF、二人抜きでも突破できらぁ。見てな」
矢口が舌なめずりした。

 

急所

右 MF辻の裏から矢口がオーバーラップ。矢口は一度ボールを止め、ゆっくり中央へ。
安倍と福田がセンターDFとサイドDFを引きつける。
矢口はサイドバックの位置からゲームを作ろうとしている。それもサッカーの自由度の高さを物語る。
いきなり蹴りだした。前に出ていたハマサキータが後ずさりながらセーブ。
「ああ、惜しいっ」
石川が膝を叩く。浅いDFラインの裏をカバーするため飛び出すことの多い相手GKのプレーを逆手に取ったループシュートだった。
やっぱりな。矢口にとって今のワンプレーは確認のため。そして確信を得た。次は、抜ける。

 

勝ちゃいいさ

日本代表 GK勝谷衣諌は、腰に手を当ながら戦況を見守っている。
もともとGKの選手ではない。が、旧知である中澤に熱心に誘われた。
別にうまいGKなんか必要あらへん。今日本に必要なんは、勝てるGKやねん。
中澤は最年少で、それこそなにもできなかった彼女の成長とともに、たくましさを増していった日本の奇跡をもう一度見たかった。
だが彼女には国籍の問題がある。そして、彼女が日本代表を去らねばならなかったのもそれが原因だった。仕事上のパートナーである後藤ユウキを見る。ユウキは矢口にどつかれ、泣きそうな顔で
「なんとかします」

下手したら、自分のサッカー人生はこの試合限りになるかもしれない。けどハイリスク、ノーリターンのギャンブルにあえて乗った。
ひとつは最後までともに戦えなかったこと。ドーハの敗戦を知らされた、泣いた。あの時たった一試合アルゼンチン代表として出たばかりに、最後まで戦えなかった後悔。忘れようとしていた感情は、冷たい十字架としてその胸から消せなくなった。
そして、成長した仲間と、もう一度同じチームに、という夢。
圭ちゃん、後藤、矢口、カオリ、なっち、それに明日香まで。
みんな、強くなった。名乗れないのがせつなかった。

ハマサキータからのロングキック。白色人種とは思えないほどバネのあるキックから出たボールは日本の最終ラインを一気に破る。
勝谷が前へ。アミゴとのスピード勝負。エリアの外まで飛び出した勝谷。手は使えない。帽子のつばを握り、頭から離す。あの頃とは違う赤毛が向かい風に踊った。
ボールを額でなるたけ大きく弾き返し、再び帽子を深くかぶり直した。
向かってくる赤い影と、もろに激突した。が、手足でガードして衝撃を最小限度に食い止めた。
ファン・アミゴ、その上にのしかかった。倒れざま、アミゴのエルボードロップが勝谷の鳩尾へ。

再び緊張状態に陥る両チームを分けたのは、外ならぬ勝谷自身。両手を広げてボールを取りに行く時上体がまったくの無防備になるGKは最も削られ易いポジション。だからこそキーパーチャージというルールで守られているのだが、それが適応されるのはゴールエリアという限られた空間でのみ。
急所めがけて体重の乗った肘鉄を落とされ、痛くないわけはない。が、これも駆け引きだ。痛みを恐れ、プレーが小さくなることこそ勝谷は恐れる。
アミゴの頭上に出されるイエロー。が、プライドをかなぐり捨てた韓国人は恥じる様子もない。
祖国の勝利のために。

 

俺達はペ天使じゃない

お願い、腕なんか折ってもいいから、足にケガしちゃダメ。それから帽子は絶対取られないで。
ユウキは勝谷、いや、もう隠すまい、市井紗耶香に祈る。
無理が通れば道理が引っ込む、そしてユウキの道理を蹴散らしたのが隣に座るこの性悪年増だ。
市井を日本に連れて行くと言い出してパラグアイを訪れた時、なに考えてるんだよこのオバさんはと呆れた。
が、市井の目がどんどんマジになっていくのを見て、初めて、ヤバいと感じた。
代理人にとって選手は株券だ。常にその価値は変じ、高騰することもあれば一瞬で紙くずになることもありうる。
すでにアルゼンチン代表に定着していた市井にとって、それは何の見かえりもないギャンブルである。
「ユウキ君、代理人は選手が面倒な事に心を煩わせる事ないように配慮する存在であるべきだよね」
「市井さん、だから反対するんです。この人たちがどんな計画を立てているかは知りませんが、あなたはもう日本人じゃないんですよ」
「日本人だよ」
市井は常時肌身はなさず携帯しているパスポートをユウキに突き出す。
名前 SAYAKA ICHII.
国籍 JAPANESE.

中澤と二人で日本サッカー協会の代表としてFIFAの役員にそのパスポートを突きつけに行く直前、通訳に駆り出されたユウキはトイレに行った。
寝ショベンたれと姉に罵られる幼き日の残像がよみがえってきそうだった。
「これ見てください。市井は日本人なんですよ。なんで日本人が日本代表の試合に出られないんですか…と言ってます」
完全に屁理屈である。国籍を選ぶとはいってもそれはサッカー業界内でのお約束で、本当の国籍が何処であるかは関係ないのだ。
が、中澤は本気で、この無理を通そうとしていた。仲間を奪われた痛みと悔しさは、いまだあの時のメンバーの中でくすぶっている。
特に市井を実の妹のようにかわいがっていた中澤は、これを機会にFIFAの腹黒さを自分の目で確かめておきたかった。
「アルゼンチンを選んだのはイチイである…だそうです」
「そんなん、あんたらが組織ぐるみでサヤカを追い込んだんやないか! ふざけんなや! …と言っております」
中澤とFIFA役員にはさまれ、ユウキは泣きそうだった。なんで俺がこんな目に。協会ににらまれては自分の仕事だってしにくくなるのだ。
その騒ぎを聞きつけてきたのが韓国サッカー協会の役員である。年配の役員は日本語が話せる年代。通訳の必要はなかった。鬼の首を取ったような横柄さで
「国籍の違う選手を登録させる段階で、失格だ。そんな国にはワールドカップに出る資格はない!」

それこそ、中澤が待ち望んでいた右ストレートだった。
「言うたなあんた、失格言うたな。2号!」
「はい。この報告書を提出いたします」
VIP専用の机の上に投げ出された紙の束。一枚目には中澤の名とともに横書きのタイトル。
『レネ・ハマサキータに関する報告書』
中澤はずっと不思議だったのだ。これだけの選手の経歴がほとんど謎なのか。
確かなのは北朝鮮に渡ってからのわずかな期間。しかもなぜ北朝鮮に渡ったのか。コロンビアB代表だったのもユウキに聞かされ初めて知った事だ。
韓国の役員にさっきまでの余裕はなく、真っ青な顔をしている。が、切った張ったの世界を行き抜くユウキの目には、それがもうおしまいだ、という絶望ではなく、なにが起こるんだ、という不安さに見える。
「かいつまんで話しますと、この女、とんでもない食わせもんです。2年前、チリとエクアドルの友好試合にエクアドル代表で出ています。その前の年にはホンジュラスの五輪代表、ボリビアのユース、エルサルバドルのU17…」
中澤が証拠写真とメンバー表を照らし合わせながら説明する。髪の色、顔つき、どれも微妙に違っているが、ハマサキータによく似ている。
「南米には似たような名前がよくいる。偶然の一致かもしれないだろう」
ようやく、韓国人が反論する。確かにそうだ。韓国ならキムにリー、日本なら佐藤に鈴木。ハマサキータもそう珍しい名ではないのかもしれない。
ようやくの反論は、しかし中澤の思う壺だった。
生年月日の欄を指差す。どれにも1978・Oct・2とある。韓国人が崩れ落ちた。

「どうしても、外す事はできなかったんだ。北韓(北朝鮮)は、ハマサキータを絶対に使えと要求してきた。断れば、北韓からの選手は一切貸し出せないと。そうすれば南北共同開催というワールドカップ承知の大義名分が崩される。素性のしれない選手であっても、使わないわけにはいかなかった」
たぶんに、政治的背景もあるのだろう。中澤が哀れむように視線を落とす。
「とにかく、日本とコリアの処分は追って」
「処分だぁ?」
中澤が目をむき、調査書を床に投げつける。日本にとって本当の敵はコリアではない。
この厚顔無恥の、FIFAのフランス人である。
「我々が弾劾したいんは、あんたらや。どうしてそんなことが可能やねん。うちらは一つの国しか選べへんねや。それをあんたらが勝手に決める権利がどこにある」
ユウキが通訳するまもなく、中澤が背を向けた。
「どこへ行く」
「この問題、あんたらの法律でさばくわけにはいかん。スポーツ裁判所へ持ってくわ。一人の選手にいくつも国を選ばせたまぬけさと、一人の選手が戦いたいチームで戦えヘんように仕向けたのを容認した罪とを白日のもとにさらしたるわ」
暴れる中澤をあわてて引き止めたFIFA役員が下したのは、玉虫色の判決。
ハマサキータに関しては、不問に帰す。
ただ、すでにアルゼンチン代表として名の通った市井に関しては、本人と誰にもばれないようにするという条件で、このひと試合のみ出場を許す。

ごめんな、サヤカ。
そういって魔女は、市井をひと試合のみのシンデレラに仕立て上げる魔法の帽子を手渡した。
充分だよ、裕ちゃん。
ダメでもともとのつもりで来日した市井は、その帽子をふかぶかとかぶる。
名乗る事は出来ない。それをすれば不文律が崩れ、日本そのものが失格になりかねない。
中澤もずいぶんな無茶をしてくれたものだ。日本での母であり、姉であった女性をまぶしそうに見つめた。
そして、深く頭を下げた。

中澤は、足場の悪さにも負けず左右に飛ぶ市井を見下ろす。
石川が福田にパスを出している。
ベンチで石黒が声を張り上げる。
改めて思う。
これは夢なのだと。
意地悪なサッカーの神様が見せてくれる、つかの間の幻なのだと。
が、神様はあくまで意地悪である。
その試合を、中澤だけがこんな遠くで見ているのだから。

うちは天使やない。天使がこんなあくどいことはせんやろ。
かといってペテン師なんて呼ばれたない。
ただ、掛け替えのない人を返して欲しかっただけや。

 

デルタの攻防

吉澤がコリアの攻撃を摘んでいく。アキナのマークから解放され、本来の動きを取り戻す。
個々の能力は高くとも、司令塔を失ったコリアは吉澤の読みの前に、頭を失ったヘビのようにうなだれるばかり。
後半、コリアが削りにきているのは分かっている。削る相手には早いボール回しで対抗する。左の飯田へ。
先制点をアシストした飯田は徐々に調子を取り戻していた。ダイレクトで、大きなサイドチェンジ。
逆サイドを辻が走る。「ここ」とばかりに出しその後の辻のプレーまで決めてくれる石川より「このへん」で出して辻に選択の余地を残してくれる飯田のパスが辻は好きだった。
日本の2トップが左右に散る。遅れて石川も前へ。
門のように立ちはだかる北朝鮮人のツーストッパー。その二人の距離が開いていく。
矢口が耳打ちしたコリアの急所。GKが前に強いため開きがちになるセンターバックとGKが形成するトライアングル。そこが、エアポケットになる瞬間。

辻から石川へのセンタリングはジャンピングボレーで跳ね返される。アキナだ。
後半ポジションを下げたのはこのためだ。石川を「殺す」ために。
実際監督からは「消せ」と言われた。つまりハードタックルで痛めつけろと。
だがアキナは無視した。自分の動きで、日本の司令塔を生殺しにする自信はあった。
クリアは吉澤が拾い、石川へロビングで送る。
ヒトミ、あんたとはやっぱり友達にはなれないのかな。
今度こそアキナが削りにいく。石川もひるまない。闘志を剥き出し、当たり返す。
先にボールに足を伸ばす。その足にアキナがつまずく。もつれ、倒れた。
「マイボ!」
コリアボール。アキナが左足首を押さえて立ち上がる。
石川も文句ひとつ口にせずに立ち上がる。恥ずかしいプレーはできない。伝説のナンバー9の前で。

 

福田のメンバー評

かたくなだなあ、と福田は雪を払おうともしない石川を見て思う。
久しぶりに代表に戻った福田は、一人冷静だ。
安倍はややスピードが落ちたものの、プレーの幅がぐんと広がった。自分が出ていった後の努力と苦労がしのばれる。
飯田はメンタルの部分で成長したようだ。キャプテンに指名されたのと無関係ではあるまい。
保田はようやく居場所を見つけたみたいだ。エース殺しというポジションを。
矢口はへたになったんじゃないかとさえ思う。最終予選終盤の、なにかが乗り移った感じが消えている。
後藤については言うべきことはなかった。ヴェルディのチームメートは、相変わらず。
初めてのメンバーについては。
勝谷は重要なひとかもしれない。今チームに欠けているものを補ってくれるような。
吉澤は昔から有名な選手だったが、押し込まれると弱い点があった。そこはかなり改善されている。
辻はろくな指導者に出会ってない気がする。せっかくのスピードを活かす技術がまるで身についてない。
ミカは見たまんまだ。速いし強いしうまい。なによりサッカーに飢えている感じがいい。

 

ゲームメーカー

寺田前監督がチームを立ち上げた時、なにを旗印に掲げたか、福田ははっきりと覚えている。
クラシックサッカーの復権。
11人がひとつの生物のように個々の役割を果たしながらオールラウンドなスキルを持ってないと使ってもらえないモダンサッカー。
寺田がしたことは、それにあえて逆らうことだった。
フィジカルの弱い安倍。守備をしない福田。波が激しい飯田。ケガ持ちの石黒。守備範囲の狭い中澤。
魅力も多い、しかし穴も大きい選手をチームのベースにした。
自分の最も得意なプレーさえ完遂すれば勝てるチームを目指し、結果を出してきた。
が、クラシックなチームには不可欠なものがこのチームには足りなかった。
ゲームメーカーである。
どこからでも攻撃をスタートさせられる、逆に言えば王様を置かない、背番号10も10番目の選手にすぎないと定義するのがモダンサッカーとすれば、ゲームメーカーの存在こそクラシックサッカーのアイデンティティ。
矢口は完全な期待はずれだった。彼女は汗かき、労働者、チャンスメーカー。できるわけないゲームメーカーを任されたことが、後に彼女を大化けさせたのはあくまで結果論だ。
市井がいた。市井こそ寺田の理想の司令官であった。しかし、彼女も理不尽な出来事の前にチームを去らねばならなくなる。

 

ベストパートナー

石川梨華は、今時珍しいくらいの、純然たるゲームメーカーである。
パスはうまい、ドリブルは鋭い、アタッキングエリアには入ってこない、守備はよくサボる。
もし20年前に生まれていれば、どこの国でもコントロールタワーとして重用されたはずの選手だ。
しかし今は二十一世紀。石川のような選手は、怖くて使えない。
が、このチームにとっては、石川こそがパズルのラストピースなのだ。石川のプレイメークがあって、初めてこのチームはチームとして完結する。
確かにまだそのプレーは弱く、荒削りだ。
だが使い続ければ選手は化けることもある。石黒も同じ思いでいることだろう。
そして、福田がまた代表に復帰したのも、石川が大きな要因だった。
今、福田が真剣に一緒のチームでプレーしてみたいと思う三人。
安倍なつみ、後藤真希、石川梨華。
このすべてが集うのはこの試合のこのチームしかないから、戻ってきたのだ。

 

私にはなにもない

相変わらずだね、明日香。
福田が自分を認めてくれていないのを、矢口はそのプレーの端々に感じている。
サッカーは芸術であると言い切る福田。その目には矢口のような才能がないぶんを必死に埋めようとする矢口のような選手は見苦しく映るのみなのだろう。
矢口にはなにもない。一芸選手の集まりのようなチームにあって、他に秀でたものはなにも。
安倍や福田のような技、決定力。飯田や吉澤のような高さ、パワー、展開力。後藤や保田みたいな守備の要にこの体でなれっこない。取り得のスピード、運動量も辻と加護に抜かれてしまった。

 

そんな矢口が唯一誰にも負けないと誇れるもの。日本代表を愛する心。
日本代表をバカにする日本人が矢口には信じられない。だったら日本人やめちまえ。
いつの時代も、日の丸戦士たちは矢口のヒーローだった。ば声を浴びせても見捨てたことは一度もない。
夢にまで見た日の丸をつけても変わらない。
矢口が代表チームでナンバーワンになったことはない。安倍や福田は抜けなかった。後から入った後藤、そして今、自分を慕う石川にまで追い抜かれようとしている。
それを矢口は、心の底から喜んでいた。日本が強くなるなら、望んで踏み台になるよ。

 

最後の狂気

石川がデルタへロブを落とした。ただの浮き球ではない、ごつい逆回転をかけた。 GKの手前でこっちへ戻ってくるバックスピン。
ボールは、なにごともなかったかのようにハマサキータの懐へ。
アホかあいつ。この雪と泥にまみれた地面でまともなスピンがかかるかよ。
矢口が、いつまでたっても手のかかる出来損ないの妹分に眉をしかめる。
せっかく鍵穴の位置を教えてやったのに、鍵を見つけることができない石川。
しょうがねえ、あたしが鍵になってやるか。
ハマサキータがボールをサイドスローで離す。そのコースをふさいだのは、狂気の残り火。

 

捨てごま

矢口がアキナへの短いパスをカットした時、石川はフォローに走ることすらできなかった。中盤の底にいたアキナの背後でボールを奪えば、そこには 38度線の門が大口を開けている。
ハマサキータの唇が小さく動く。
消せ。
開きすぎるCBのことなんて百も承知。本当に堅固な城には、敵を誘う弱点が一つだけある。
ペナルティアークの中。
矢口の左右から雪を蹴散らすスライディング。矢口の右足を、はさんで砕く。
逃げろ矢口。保田の思いは声にならない。
福田にはただの犬死にしか見えない。未来を信じない愚か者。
鈍い音に、石川が目を伏せた。

 

狭き門

矢口のスパイクが安倍の足元にまで飛んできた。一瞬、矢口の足首が切断されたのかと思ってしまった。
ようやく目を開けた石川の目に飛び込んできた地獄絵図。
足を押さえて悶える二人のディフェンダー。
そして、身動きすら取れず、足首を抱えてうずくまる矢口。
「…ぅああ」
ようやく声が出て、試合が止まる。二つしかないタンカが運ばれる。
主審が起き上がれない二人にそれぞれイエローカードをかざした。
「レッドじゃねえか!」
吉澤が詰め寄る。審判としても苦渋の選択だった。悪質だが、二人をいっぺんに退場させると試合そのものがぶち壊しになる恐れがあったからだ。
だがそれは誤った判断だった。ここで一線をはっきりとし示さなかったことにより、この後試合はさらに荒れる。
アキナが十字を切った。日本にもこんな選手が。
韓国は儒教の国だが、近年クリスチャンが飛躍的に増えている。アキナもその一人だ。
マタイ伝第7章13節。「狭き門より入れ」
誰もが通ろうとする広き門は滅びの道へつながっている。
力を尽くし、狭き門より入れ。
アンドレ・ジイドの古典や、ドアーズの「ブレーク・オン・スルー」のインスピレーションともなった、あまりに有名な一節。
その門を、矢口はサッカー選手の命である足と引き換えにくぐり抜けた。敵二人を道連れに。

 

遺言

辻が泣きながらハマサキータにつかみかかる。というか、子供がするように腕をブンブン振り回して飛びかかるが、軽くかわされた。
「やめろ、辻」
矢口は顔をしかめながらようやくそれだけ言う。熱にうなされるように、顔には玉の汗が浮かんでいる。この息も凍る気温で。
「矢口さん」
「石川、これが、ひとつのやり方。あんま賢いとはいえないけどな。いってえ、もっと優しくしてよ」
新しいタンカの上に、矢口が乗せられる。
扉をこじ開けることは出来なかった。が、鍵を渡すことはできた。
「んなしょぼい顔してんじゃねえや。…戻ってくっからさ」
ゆっくり、矢口が運び出される。戸田と木村がアップを始めた。
鍵は、オレンジ色の丸い形をしている。
石川は顔を上げた。もうコリアゴールしか見えてない。
独り立ちのときがきた。

 

見えない壁

PKよりフリーキックのほうが簡単だ。
FKのスペシャリストだったジャンフランコ・ゾラ(イタリア)の至言である。
確かにPKは11メートルという至近距離で、真正面から、なんの障害もなしにシュートを蹴りこむことができる。
かたやFKは、PKの倍以上の距離を、そのたび違う場所で、人壁というやっかいなものをかわして打たねばならない。
ここに、落とし穴がある。
PKは決めて当然、FKは三本に一本決めれば名手と呼ばれる。
コリアGKアユ・ハマサキータはそれをさらに一歩進めた対処をする。
壁は置かない。キッカーに目くらましに使われるのを嫌う。
DFはボールに一直線に並べる。ボールより前に敵が出られないようにオフサイドラインを上げるためだ。
ちょうどPKの倍の距離がある位置から、決めて当然というシチュエーションを作り出す。
キッカーの背に40kgの負荷をかけるのは、野獣の本能。

 

トラウマ

後藤が、自分がフリーキック蹴ろうかと持ち掛けに石川に寄って行く。石川はピョンヤンでもすべてのフリーキックを、この手で防がれていた。
その歩を福田が止める。
「アスカさん」
「やらせなよ。仇、打ちたいんだろ」
コーナー付近でアイシングを受ける矢口に福田が視線を走らせる。
後藤は福田の態度が解せない。さっきも飯田のように冷静を装って仲間を止めるでもなく、平然としている。
ハートのない選手。福田を叩くマスコミの常套句だが、今だけはそれが正しい気さえしてくる。
石川がポイントの周りに積もった雪を足で固める。がつがつと、小さな山を作る。こんな足場でまともなボールが蹴れるかよ。
主審が注意に行く。芝を傷つけるなど、ピッチの形を故意に変えることはルール違反だ。
「ハーフタイムに雪かきするじゃないですか。あれと同じですよ」
気圧される審判を尻目に、薄高い雪の山が出来あがった。ゴルフのティーアップのように、その上にボールを乗せる福田。
顔を起こす石川。GKはだらりと両腕を垂れ下げているだけ。本当に距離が倍になっただけのPKのようだ。
軽い吐き気がした。
ドーハでのPK戦を思い出す。
2番手に出た石川は1番得意なコースにスピードののったシュートを蹴り、ポストにぶち当てていた。絶対の自信のあるコースだったのに。
以来、あまり厳しいコースを狙えなくなった自分でも分かる。
雑念を振り払うように、顔を手のひらで叩く。
乾いた音が二度響き、石川が走り出す。
スミなんか狙わなくても、取れなきゃいいんだ。

 

アゲイン

ほぼ正面に飛んできたボールにハマサキータが戸惑う。
ボールが分裂して、折り重なって飛んでくるのだ。両手ではたき落とす。
泥の上で止まったボールはオレンジ色の表皮が破れ、中から黒いチューブがはみ出していた。
過酷な条件下で表皮が傷ついてたとはいえ、ボールを蹴破るほどのすさまじいキック力。
そんな細い体で、どうしてそんなボールが蹴られるんだろう。不思議な人だ。
福田は思う。たぶん、そのすべてをさらけ出してないところへ、誰もが夢を見るのだろう。
石川梨華という、ミッドフィールダーに。
だからこそ、矢口は我が身を楯にした。石川に一発の銃弾を託して。

「ふー…」
石川がため息をつく。蹴り直しになった。命拾いした。
顔面を狙ってみたが、きっちり反応された。やはり力のみでは無理のようだ
心技体、すべてが最高レベルでバランスの取れたボールでなっければ、あのキーパーは破れない。
サッカーをやめようと思っていた今朝の出来事が遠い昔のようだ。
それは、最初からわかっている。
自分の人生から、サッカーを消すことなんて、もう不可能なんだ。

 

負の理由

たとえば、広島にある原爆ドーム。
世界で唯一の被爆国である日本、その悲惨な記憶を風化させないため今も広島の町を静かに見下ろしている。

プロになりたい、ワールドカップに出たい。それが正しい夢だとすれば、複雑な思いにかられた「やめられない理由」もある。
そして、本当にやめるかやめないかの瀬戸際に立たされた時、もう一度立ちあがる力をくれるのは、この「負の理由」であることが多い。

矢口がよく石川に語る「負の理由」それは、中学三年の時の進路相談。
進学したい高校の名前を書くべき欄に、矢口はプロサッカー選手と書いた。
職員室に呼び出されて、怒られたという。
もっと自分の将来を真剣に考えろ。おまえが言ってるのは逃げだ。
すでにマリノスジュニアユースに在籍していたころの矢口にである。
そりゃ、一握りの人間にしかかなわない夢ではある。が、矢口にはほかに選択肢がなかったのだ。
でも、あの悔しさがなかったら、今ごろサッカーやめてたかもしれない。今投げたらあいつの言った通りになっちまう。だから意地でもやめらんなかった。
マリノスユースには昇格できず、せっかく入ったフリューゲルスは消滅。決して平坦なサッカー道を歩んではいない矢口の言葉だけに、石川の胸に迫った。

そして、石川の「負の理由」は、短かった高校生活にある。

 

青春の1ページ

「ねー、梨華ちゃん、トイレいこー」
「ううん、ちょっと予習しなきゃいけないから」
ったく、便所くらい独りでいけねえのかよ。
石川梨華、横須賀市内にある公立高校の一年生。
はっきりいって、浮いていた。
結構勉強頑張って、一応進学校で通ってるこの高校に入ったのは、この近辺ではダントツの強さを誇るサッカー部がめあてだった。
が、入ってみれば、監督は自分の好みでしか選手を選んでない。反乱分子や性格的に難のある選手にはユニフォームを与えない。
アホくさくなって、二日目で幽霊部員になった。
以来、魚の腐ったような毎日を送っている。
仲のいい友達は私立の進学校か中卒で働いている。なにより「よさげ」な坊ちゃん嬢ちゃんたちに、ちっともなじめなかった。
かったりい。学校も辞めちまおうかな。
そう思ってた時期に、その出会いはあった。

「なんだ。黒板の前に人がいたのかよ。あんまり黒いんで気がつかなかった」
彼は右手でシャーペンをクルクル回していた。少なくとも、石川のタイプの男ではない。
そのシャーペンで目潰したろか、という怒りは表にせず、ごめんなさいといいながら横にずれた。
「石川さぁ」
苗字を呼び捨てにされたことに石川が反応する。悪い反応ではない。
石川さん、梨華ちゃん、りかっち。同性にならなんと呼ばれてもかまわない。
ところが、異性からの呼ばれ方には、石川は異様にこだわる。
まずちゃんづけがダメだった。鳥肌が立つ。
さんや、考えたくもないがくんと呼ばれるのも違和感がある。
かといって梨華なんて言われた日にゃ殺すぞと思う。おりゃあおめえの女じゃねえよと。
石川には、石川、と苗字で気易く呼び捨てにできるような雰囲気がなかった。本人も気づいてないが。
だから、その垣根を軽々と越えてきた彼に、少なからず、憎めないものを憶えた。

「にあわねーな、それ」
彼は笑い出した。厚木市内の名画座前でのことだ。
デートなんて、改造バイクの後ろにまたがるとかしかしたことない。それもダブル、トリプルで。
つまりタイマンのおつきあい、しかもカタギの男の子と。石川はすっかり混乱した。しかも、着ていく服がない。
しょうがないので姉の春らしいブラウス(妹のでは胸がきつい)に妹の桜色のフレアスカート(姉のではウエストがブカブカ)を借りた。気合入りまくりだったわけである。
なのに、これだ。
「全然おまえのイメージと違うもん。背伸びがバレバレ」
そう言う彼はよれよれのトレーナー。
けど、彼だけは石川を見抜いていた。
ぶりっ子でも、突っ張ってる姿でもない、本当の石川を。
映画は「ペーパームーン」と「イージーライダー」と「ひまわり」という何の共通点もない三本立て。
ソフィア・ローレンが疾走するひまわり畑の黄色は、石川が見たこともないような鮮烈さで石川の胸を打ち、思わず隣の彼を見た。
彼は寝てしまっていた。
「ここだとさ、どんなやつ連れてきても一本は気に入る映画見れるからいいんだ」
昨年、この映画館は取り壊された。

「まあ、普通の家だよ」
昨日の彼の言葉に対し、どこが普通なんじゃワレとどつき回したくなった石川。
普通の家には外車が三台もない。
普通の家には敷地内にテニスコートなんてない。
普通の家にはお抱えのシェフなんていない。
平屋借家に一家五人暮らし、昨日の晩飯は石川唯一のレパートリーである醤油ぶっかけコロッケ丼という石川家の日常とは、あまりにも違い過ぎた。
この暑いのに、彼は相変わらず長袖だ。
「若気のいたりでさ、もうクリカラモンモン。うちのパパ、ヤーサマなのよ」
実際は貿易商なんかをしているらしい。お母さんはテレビにもよく出るコラムニスト。
シャルロットなんたらという大袈裟な名前のオレンジババロアをお手伝いさんが運んでくる。坊ちゃまと呼ばれるのを彼は嫌った。
お上品なお味など、石川の貧乏舌には理解できない。
「うまいか?」
「う、うん」
「そっか。俺はあんまり好かんけど。おまえなんか作れるの?」
「え…と、コロッケ丼」
「あ、それうまそうじゃん。食いたい。今度作ってよ」

「すご…」
彼の部屋には、おびただしい数のトロフィーと賞状とが、所狭しと飾られていた。
しかもその肩書きが半端ではない。県大会優勝、関東大会優勝、全国ジュニア3位…
「テニスやってたんだ」
「別に好きじゃなかったけどな。ただ、俺が勝ちさえすりゃ、オヤジたち仲良くしてたし」
石川が目を伏せる。スポーツを続ける理由としては、あまりにもさみしい。
「やってみっか?」
彼の手に、ラケットが二本。

彼が右手で打つボールは、ものすごく力強い。初めてテニスラケットを持つ石川は両手でやっと打ち返す。
もちろん、彼が石川のレベルに合わせてくれているのだが。
「石川さ、やっぱおめえ、気ぃ強ぇな」
「どうして?」
「初めてテニスやるやつが、そんなにネットに出てくることって、まずねえもん」
ぱかーん、と、上に打ち上げられたロブを石川が見送る。どう見てもアウトのボールが、ドライブシュートのように下に向かって伸び、ラインぎりぎりに落ちた。
「これがトップスピンロブ」
ロブを警戒した石川がやや後方に。それを見逃さず、上から下に振り下ろしたサーブが石川の前に落ち、逃げるように戻ってネットに触る。
「バックスピンドロップ」

「おもしろいねえ、テニスって」
それが、石川の偽らざる感想だった。
「もう、決めた。あたしテニスやる」
マンガにありがちな、他の競技から転向して勝ちまくるパターン。それが石川の頭に、完全にイメージされていた。
「石川、ちょっと待てよ」
その時の彼の表情は、これまでに見せたことのないシリアスなもの。
「本当にそれでいいのか? 後悔しないか?」
「しないよ」
「俺、ちゃんと見てたんだぞ。昼休み、おまえが一人でボール蹴ってたの」
そうなのだ。いまだサッカーへの思いは断ちがたく、そんな未練がましい自分がまた石川は嫌なのだ。
だから、テニスじゃなくてもよかった。再び自分を奮い立たせてくれるものでさえあれば。
不意に彼が立ちあがった。
ストライプの冴えないシャツを脱ぎ捨てた。

「おまえに、ここまでテニスに打ちこむことができるのか」
知らなかった。彼が左利きであることを。
知らなかった。彼の左ひじに、無数の生々しい傷跡が残されているのを。
知らなかった。それだけの苦悩が彼をさいなんでいたのを。
知らなかった。どれだけ、彼がテニスを愛していたのかを。
「最初、ただのテニス肘だと思って、痛くてもほっといてたんだ。ある日痛くて目が覚めて、まる一日冷やしてたら治ったから医者行かなかったんだ。そしたら次の日、肘がロックしたまま動かなくなっちまってた」
その日から彼のもうひとつの戦いが始まった。
傷が増えるたび、彼の力強いプレーは少しずつ色あせていった。
「石川、おまえ、どっこも悪くないんだろ。やろうと思えば、一番好きなこと続けられるんじゃんよ。なんでやめちまうんだ」
矢口は男の涙を嫌うが、石川は結構つられて泣いてしまう方だ。この時もホロリときた。
その時初めて、石川は、彼がどんな思いで自分と一緒にいたのかを考えた。
必死になればなんでもかなえられる境遇にいるのに、ただ無為に時間をすりつぶしていく自分が、もしかしたら嫌いだったのかもしれない。
それでもともにいてくれたのは、たぶん、自分を愛してくれてたからだろう。
だが、石川自身は、残酷なくらいに、彼のことをまったく異性として見てなかった。それにも今気づいた。
そんな石川が、たったひとつ、彼に対して示せる誠意の形。
もう一度、今度こそサッカーをやりなおすこと。

シーズン途中でもユースのセレクションを開催してくれたのがフリューゲルス、ヴェルディ、サンフレッチェ。
このうちフリューゲルスとサンフレッチェの試験に受かり、同じ神奈川県内のフリューゲルスを選んだ。
高校に退学届を出したり、親を説き伏せたり、めまぐるしく時は過ぎ、気がつけば旅立ちの日だった。
わざわざ駅まで見送りに来てくれた彼は、なぜかチキンカツサンドをせん別に渡した。
「たんぱく質を補給するには魚かトリがいいんだ。おまえ細いから、もっと肉つけろよ」
この後、石川は、大の男が声を張り上げて泣くのを初めて見ることになった。

その後フリューゲルスユースで順調に力を伸ばし、ついにユース代表に選ばれた石川。高校生ナンバーワンストライカー、松浦亜弥にこの話をした。松浦は中学時代までテニスとサッカーをかけもち、テニスでも関西では名の知れた存在だった。
彼の名前を聞かされたこの関西人は、ただでさえ大きな目をことさら大きく見開いて驚きを表現した。
「その人、ジュニアオリンピックの代表候補にもなった人ですよ。ケガで引退ですか…あの変化球は、世界に通用するって言われてたのに」

以上、たったこれだけである。
その後、彼が結婚したとか、交通事故で死んだとか、そんなドラマティックな展開にはならない。今は実家近くの私立大学に通ってるらしい。
連絡は一切取ってない。試合のチケットを送ったこともあったが見に来なかったようだ。
石川がそんな彼を思い出すのは、どうしても辛くなったとき。
そして、おなかが減ったとき。
石川は試合の日ほとんど食べない。空腹の方が体のキレもいいしテンションも上がる。
が、セットプレーなど、一度プレーが中断すると、どうしても忘れかけていた胃の感覚が蘇った。
青春の1ページの唯一の心残りは、彼にコロッケ丼を食べさせるという約束を果たせなかったこと。
あいつ、昼飯、なに食ったんだろう。

 

Love letter

コリアGKハマサキータは、 10番の様子がさっきと一変しているのにいち早く感づいた。
さっきまでは殺気が爛々としていて、それだけになにを考えてるか読みやすかったのが、今はその気配がまったくかき消されている。
ようやく、真剣に身構える。

石川にとって、彼は永遠のスペシャル・ボーイフレンドである。
たとえもう二度と会えないとしても、彼を一生忘れることはない。
そして、フリーキックのたびに、石川は言えなかった思いを乗せる。
ありがとう。恋じゃなかったけど、大好きだったよ。

石川が新しいボールに、右足を叩きつける乾いた音と同時に、ハマサキータが右上へ飛ぶ。
それは、石川の最も得意なコース。
ボールは速い。強い。まともにキャッチにいっても届かない。
異能のキーパーは腕を思いきり後ろに回した。鈍い音がする。肩の関節をはずしたのだ。
脱臼した腕がボールに伸びる。ボールは予想以上に速い。上体を反らせる。
体の後方、両腕でつかんだボールを胸元に引き寄せる。
届かなかった。石川が頭を抱えた。

 

真里ーシア

「ちょっと待ったぁ!」
自分とは反対のタッチライン際にいたラインズマンにその選手が駆け寄っていくのを見て、誰もが呆気に取られる。福田以外は。
やっぱり、な。
忍法、抜け身の術。
結局医務室送りになったコリアディフェンダー二人が左右から狩ったのは、矢口のスパイクのみ。当然、すべての衝撃は互いの足へ。でもなければあんな高だかとスパイクが飛ぶわけがない。
マリーシア。
亜麻色の髪の乙女を連想させる美しい響きだが、実際はそんな甘っちょろいもんではない。
ポルトガル語で狡猾、悪賢さ。
ギリギリの勝負を決めるために必要なセコさという意味で使われる。
さて、足を引きずる様子もない矢口。主審も呼んで時計を止めさせる。今の日本には一分一秒が命より貴重なのだから。
「レフェリー、あんたの位置からはどうだったんだ?」
「入ってたようには見えた。が、一番頼りになるのは線審の目だ」
「それが、キーパーの体の陰になってよく見えなかった。入ってるようにも見えたが」
「反対から見れば、あきらかに入ってたよ。あたしはこの目で確かに見た」
「ちょっと、なによ」
ボールを抱えたハマサキータがかすれた地声でまくし立てながらその輪に加わる。ちなみに会話はすべてスペイン語だ。
「ちゃんとつかんだじゃない。なにか文句あるの」
「横っ飛びでつかんでから胸に抱えたのは、うやむやにしようとする意図があったんじゃないか?」
「なんですって」
「実演してみようよ。それが、早い」

『ただいま審議中により、今しばらくお待ち下さい』
突如流れた場内アナウンスに中澤が吹き出す。相撲かいな。

福田は、そんな矢口がすごいと思う。自分には絶対できない。
なら、これも才能と呼べるのかもしれない。
矢口真里のマリは、マリーシアのマリである。

 

勝訴

「じゃ、ちょっと横になって」
「嫌よ。なんであたしがそんな冷たい思いをしなきゃいけないの」
ハマサキータが拒否したため、代わりに矢口が実演してみせることに。
「こんなもんですか?」
「ちょっと。そんなに体こっち(ゴールの中)じゃなかったでしょ」
「あんたとあたしじゃリーチが違うんだから。それにあんた、肩外したでしょ」
「そんなことできるわけないじゃないのよ」
南米出身のハマサキータ、本場のマリーシアを見せつける。
「頭の位置は、どんなもんでした? ゴールに入ってたのは半分くらい?」
「3分の1…耳が少しポストの陰になってたような」
「じゃ、こんなもんか」
「それ、3分の1どころじゃないじゃない。半分もいってるわよ」
矢口がその中間くらいに身を置き、めいっぱい腕を伸ばす。
交通事故の現場検証みたいなものだ。完全な再現なんて不可能。警官、この場合は審判を納得させた者の、勝ち。
主審が矢口の手にあるカラーボールを上から覗いた。
消えかかった白いゴールラインを、完全に割っている。
日本2−0コリア(トータルスコア2−3)。
ゴールインの笛が吹かれ、日本イレブンが飛びあがり、コリアイレブンが審判に食ってかかる。
見事ゴールを盗み出した小柄な盗賊は、ボールを抱えてセンターサークルへと走る。
その右に、石川が並んで走る。
「おっ、礼ならいいぜ」
「違いますよ…一発殴らせてください」
「へ?」
こきーん★

 

ジャンヌダルクたち

「思い出せ」
うなだれる仲間に語りかけるアキナ。
「我々の父祖にやつらがしたことを。日帝三十六年の支配がどれだけの恨みを我々に残したか」
韓国人たちが意外そうに、親日家のはずのアキナを見つめる。まるで彼女がサボってばかりだった民族教育や国史の教師だ。
「我々は大極旗を頂き国を、韓民族を代表し戦う者である。我々の敗北は民族の敗北だ」
負けたくない。日本にも、吉澤にも。
彼女たちは、ユ・ガンスンの子孫達である。朝鮮独立運動の最中逮捕、十六歳で獄死した韓国のジャンヌダルクの魂は、全ての韓国少女に受け継がれている。

 

右サイドを狙うコリア

コリアは負傷した二人のストッパーをあっさり交代させた。替わった二人もさして力は落ちないし連携もまずまず。コリア DFの要はあくまでハマサキータ。
こちらは攻撃の要ファン・アミゴ。保田と後藤の前にポスト役としてすら機能しない。
そしてアキナはポジションは上げず、低い位置からゲームを作る。
石川のマークはダブルボランチに任せ、奪ったボールをロングパスで、徹底的に日本の右サイドへ。
辻とアリサが空中で競る。韓国代表でも指折りのパワーを誇るアリサが、日本で最も軽い辻に力比べで負けるわけもなく、負けた辻が尻もちをつく。

 

右サイドを守る日本

「おりゃあ」
矢口のスライディングタックルが派手に決まった。飯田、ミカの逆サイより自分と辻のこっち側が狙われやすいなんて百も承知。引いて守って、目方負けしないスライディングで勝負。
こぼれ球は吉澤。が、赤い風がさらう。オーバーラップしたアキナだ。空白の日本の右を駆け上がり、後藤をおびき寄せてからハイクロス。二人が吊り出され中が薄い。
「でやっ」
飯田が長い足でかき出す。危機を察知した主将はとっさの判断でポジションを下げていた。
右サイドのヒカリが拾い、上げる。ミカが足に当て、ゴールラインを割った。コーナー。

 

ウリナラの魔物

クロスに合わせゴール前に行ったアキナがコーナーに向かう。これでいい。日本に走り負けしない限り勝てる。
左足首をふと気にする。国際試合とJ2の荒っぽい当たりでアキレス腱が炎症を起こしていた。今日も麻酔を打ち、化膿止めを飲んでの強行出場だ。

アキナについていた吉澤、今ほど彼女を怖いと感じたことはない。
エースを封じ、ゲームを作り、ゴールを決める。アキナはそのすべてをやってのけるつもりでいた。
一見無謀だが、今のアキナには不可能さえ可能にする不気味があった。
吉澤は顔を上げる。なおさら自分がアキナを止めなければ。

 

信じて守るべきもの

単純に上げてきた。十分 GKがつかめる場所。
「OK!」
市井が飛び出す。迫り来るコリアFWをももでガード。
だがそちらはダミー。本当の刺客アミゴが無防備な市井の脇腹に膝を立てにいく。
「ぐわっ」
楯になったのは保田。二人の間に割り込み、背中で膝蹴りを受ける。
またおまえか。邪魔だ。
先に落ちた保田の足の甲を、力任せに踏みつけた。
声も出せない保田。再びエキサイトする両軍。カードは出ない。アミゴは巧妙だった。
「圭ちゃん!」
その場で靴下を脱いだ保田の足はみるみる赤黒く腫れあがる。プレー続行すら難しいように思えた。

どうしよう真ちゃん。石黒が頭を抱える。
ここまで日本がピンチらしいピンチを迎えずに済んだのは保田がアミゴに仕事をさせてないからだ。もし保田が使えなくなればせっかくの上昇ムードがぶち壊しだ。
足を引きずりながら戻ってくる保田。目の前で見るとさらにひどい。プレーどころか選手生命にかかわってくる傷だ。
石黒もケガに泣かされた選手だ。その痛みがよく分かる。体と、心で。
「保田。まだやれるな」
石黒が一度口ごもってから
「いや、やれ」
それを聞き、保田が
「もし交代なんて言ったら、のどをかみ切ってやるところでしたよ」

コリア、逆サイドからのコーナー。混戦の中、市井は確実にトスで逃げていた。
「10オッケー!」
「なっち!」
自らの判断で治療を受ける保田の代わりに韓国人ストライカーについたのは、福田と共に前に張っていた日本のエース。
ライバルと呼ばれ比較されてきた安倍とアミゴはともにFWの選手、こうして直接対峙するシーンはなかった。
ずっとあなたのライバルと呼ばれる事を誇りに思ってきた。けど、今はそう思わない。
これ以上あなたが私の仲間を傷つけるなら、私があなたを削る。
アミゴに合わせたセンタリング、安倍が先にコンタクトした。

どうなってんのさ、みんな。石川には分からない。
見ず知らずの選手をかばって倒れた保田。まだ負けている状況でストッパーに回ったFW安倍。石川にすればそのどちらもが正気の沙汰ではない。
「信じてるからに決まってんだろ」
石川の心を見透かす矢口。
今の自分の仕事は必ず自分以外の誰がが引き受けてくれる。だから安心して目の前の事に没頭できる。
「それよりおめえの仕事はなんだ? さっきのは半分あたしのゴールだかんな。嫌になったらチーム飛び出すのもいいさ。けどあんたが入れる代表チームは、世界中に一つしかないんだからな」

 

石川の焦り

安倍が守りについたことで、 1トップ福田のすぐ後ろに入る石川。
が、コリアのDFライン攻略の糸口がつかめない。三角地帯をどう利用すべきなのか。矢口のような手はもう使えまい。
常にゴールを遮るアキナも目障りだ。ちきしょう、どっか行けよ。
突破口が見当たらず、右の辻に流す石川。
なんでもない横パスに、わずかに曇るアキナの顔。
そのボールをカットした者がある。吉澤だ。走った勢いそのままの一発を左足で受けたアキナ。なんてバカ力。足首から下がしびれる。
吉澤が戻る。これでいい。入らなくてもアキナの上がりへの牽制にはなる。

 

石川の計算

「ひとみちゃん」
その背に石川が
「あいつを日本陣内にひきつけることってできる?」
吉澤が返答に困る。アキナに前に出てくれば、それだけ日本ゴールが危険にさらされるということなのに。
「確かめてみたいことがあるんだ」
混成チーム、守備範囲の広いGK、守る区域を完全に分担したフラット4、下がってきたアキナ、そしてそのアキナが一瞬見せた動揺。
もし石川の予想が正しければ、38度線は一気に突破できる。残り時間は20分を切ったが十分逆転は可能。
石川が福田に目をやる。
見てろよ。その足元に、完璧なパスを出してやるからな。

 

吉澤の決意

石川のアイディアに吉澤は舌を巻いた。
さっすが梨華ちゃん。自分にその発想は無かった。
確かにおかしいなとは思っていた。
なぜ日本の右を狙うならサイドバックがオーバーラップしてこないのか。
なぜコーナーキックにセンターバックがゴール前に上がらないのか。
吉澤はその理由など考えもしなかった。
が、もし石川の予想が正しいなら、説明がつく。
吉澤は石川の読みを信じることにした。

 

吉澤の挑発

「飯田さん!」
左サイドでボールをキープする飯田に、ボールを要求する。
ボールを持ち、ゆっくりと上がる。
アキナを要に扇形に開くコリアの中盤はサイドハーフ、ボランチが徐々にコースを狭め、アキナのところでボールを奪ってそこから攻撃を始める。
だから、ある程度まではプレスなしで選手を進めてしまう。
そこを吉澤が余裕を持ってドリブルする。そしていよいよプレスが、というところで横パス、あるいは戻す。
なにを考えている、ヒトミ。ボランチの後方に位置するアキナがその意図を読めない。
ボランチがサイドを固めると見るや、今度はヒールで上がってきた後藤に戻す。
「待て!」
ボランチの二人、ナツとモエが飛び出そうとするのを制する。
恐らく、吉澤は奪いにこうといっているのだ。もちろん、アキナに。
遊んでんじゃねえよ。アキナが飛び出した。

 

勝負!

火の玉のような勢いでアキナが吉澤につく。
吉澤が長い腕でブロックをしながら、ボールの出し所を探る。アキナをおびき出す事が吉澤の役目だったのだ。
体格で劣るアキナが、なんとか吉澤のガードをかいくぐろうと足を伸ばす。もはや城は空けた。ここで抜かれれば一気に劣勢に陥る。
よっすぃー、お願いだから勝って。
石川は38度線を前に、祈るような気持ちでいる。ここで吉澤が負ければ一気にピンチを迎える日本。
福田が前を気にする。
「まだ!」
石川が強い口調で制する。

石川の意図をいち早く汲み取ったのは最終ラインにいた安倍だった。
「矢口! ミカちゃん!」
両サイドバックのオーバーラップを促す。後藤も上がり、もし吉澤が負ければ数的不利を招くことに。
小学校時代からFWひと筋の安倍だが、まずまずの動きでアミゴを止めていた。
が、決してダーティーなタックルは使わない。相手がどんな手で来ようとあくまで正々堂々と立ち向かう。それが安倍なつみという選手だった。
が、アミゴも、保田相手に比べ多少やりやすくなったことは確かだ。

吉澤が背を向けた。その背中にアキナが張りつく。
右にはたく吉澤。飯田がダイレクトで返す。吉澤と、張りついたままのアキナの頭上を越えていくロビング。
右サイドを駆け上がる矢口が、コリアのボランチ二人の間にスルーパスを突き立てる。
石川に、渡った。

 

ツギハギ

石川はずっと不思議だったのだ。
半世紀以上も前に敵味方に分かれた同士、どうしていきなり一緒にやれと言われて納得できるのか。
フリューゲルスが消滅した時、実は石川にもマリノス入りの話が持ち上がった。
石川は断った。マリノスだけは、同じ横浜をホームとするチームにだけは。
かつては同じ国の人間、それだけに選手には複雑な思いがあってしかるべきだ。そう簡単に納得できるもんじゃないはず。
だから、石川はずっと探していた。ツギのあたった場所を。
CBとGKの間、ボランチにプレスがかからないこと、それ以上の急所が絶対にあるはずだ。
そして、それはあった。あまりにも大胆にあったのでなかなか気づけなかったのだ。
一つのチームに、二つの国家がある。
メッキははがれた。
あとは、どうとでも料理できる。

 

38度線上のアリア

しまった。アキナが舌打ちする。もし自分が戻れば吉澤も攻め上がるだろう。先制点のヘッドを許した場面がリフレインする。
その時、石川と福田はなにをしていたのか。ただディフェンスラインの前でパス交換をしていただけである。それも、フリーで。
前に出て取りにいこうとするセンターバックをハマサキータが止める。飛び出せばラインが崩れ、スルーパスを通される。
矢口が加わった。三人で横につなぐ。
ミカも加わった。四人が横一杯に広がり、ひたすら横パスをつなぐ。
好き勝手につながせるパスをカットにいくのは本来ボランチの役目。が、二人は動こうとしない。ハマサキータの声も聞こえぬふりだ。

コリアはFWとMFが韓国籍、DFとGKが北朝鮮国籍。
完全分業を貫き、一切口を出さないルールがあった。
韓国ボランチにもプライドがある。攻撃の時手を貸してくれない奴らの言う事なんか聞けるかよ。
それは傲慢と呼ぶのは事情を理解していない人間のすること。五十年の歳月、イデオロギーとは一言で語れるものではない。
そこに、意思の疎通はない。
ともに戦い、笑い、涙してきた日本のような結束は存在しない。
コリアの本当の敵は、自らのなかにあった。
本当の38度線はMFの裏、DFの手前に厳然と敷かれていた。

こわごわつっかけるDFを、横につないでいなす。
日本は待つだけだ。コリアディフェンスが集中を切らすのを。

 

金剛石と黒曜石

矢口、ミカがタッチライン際にサイドバックを釣り出す。
コリアのセンターバック二人がますますサイドに引き寄せられる。
横パスは追えば追うほどへばる。コリアディフェンスを、じわじわとなぶり殺す石川。
その右で、福田は集中を切らしたようにぼけーっと歩いている。
天才て、そういうもんなんだろうな、福田さん。
気のないふりをして、おいしいとこをさらっていく。
一瞬の輝きはダイヤモンドのようで、自分みたいな凡人にはとうてい出せないよ。
だから、おいしいとこはくれてやるよ。もってけドロボー。
CBがこれ以上ないくらい伸びきったところで石川が仕掛けた。中央からドリブルで割って入る。
中央から左へ。サイドに走ればキーパーもうかつには飛び出せない。
その瞬間、福田も目の色を変え走り出す。石川とは逆に、中央から右へ。
福田は石川を、縄文人が矢尻や槍の穂先に使った黒曜石のようなプレイヤーだと感じる。
磨かなければ路傍の石だが、磨けば鋭い武器となる。そして、戦いの中でその切れ味は増していく。
ただきれいなだけのダイヤよりよっぽど使いでがある。
雪の残るゴールラインから、さらに内へ切れこむ。
DFをダッシュでかわし、ハマサキータをポストへ追い詰める。
マイナスのセンタリングを、ファーポストへ。

 

本能の勝利

小柄な福田だが、ヘディングは苦手ではない。
マークされた長身選手とフリーの小柄な選手、どちらが有利か。
福田はほとんどのゴールをペナルティーエリア内で上げている。ロングやミドルはFWのシュートではないとさえ思っている。
その分の練習時間を、ゴール前での浮き球の処理に費やしている。実際混戦で浮き球の処理の得手不得手がどれだけ敵に与えるプレッシャーに影響するか。
小さな体がゴムマリのように弾んだ。どフリー。上体がしなう。額で叩きつけ、ライナーでまっすぐ飛ばした。
会心の当たりに、着地しながら小さくガッツポーズを作る福田。
逆サイドから、雌豹が背面飛び。中国拳法でいう掌底でゴールラインにかかったボールに触れ、ポストに当たって跳ね返るところを胸で受けた。
「くっそ」
石川がみぞれを蹴る。完璧なセンタリングだった。福田のヘッドもほぼ最高のコースにいった。練習でも不可能なくらいのフィニッシュだった。
が、ハマサキータの本能がそれを上回った。この足場の悪さをものともせずに。
「あいつを破るためには、まだ、なにか足りないってことだね」
そう淡々と語る福田が、ひそかに握り拳を震わせているのに誰も気づかない。
ハマサキータがエリアギリギリまでボールを運び、そこからドリブルをはじめた。
中盤が前のめりで、両サイドバックも上がった日本、ディフェンスはガタガタだ。

 

アキナの思い

カウンターに反応したのは吉澤。いや、鋭いダッシュで飛び出したアキナという磁場に引きつけられたというほうが正確か。
それくらい、今のアキナは圧倒的な存在感で吉澤に迫ってきた。
かたや一心不乱に日本ゴールを目指すアキナ。
どうしてもなじめない両韓選手、彼女はずっとその橋渡しになろうと腐心してきたがうまくいかず、せめてプレーだけでも両国間の溝を埋めようとしてきた。
正直、中盤と最終ラインが開く欠点を見破られた時はやられた、と思った。
が、北の同胞達はそれを裏切ってくれた。嬉しい誤算だった。
今度は自分たちの番だ。

 

もうひとつの戦い

「保田さん」
ピッチの脇、ようやく血の止まった足に痛みどめを打とうとしていた保田を、木村麻美が止める。
「あさみ、邪魔」
「医務室に行って下さい。交代です」
「なんで。まだいけるわよ」
行け、とまで言われたのに。
「いえ、単に戦術的な選手交代です」
やや気圧されながら答える木村。保田が電光掲示板の時計を見る。31:55。
保田はベンチに「あいつ」の姿を探す。ラスト15分、抜群の攻撃センスを持ったその選手を投入することは予定事項だった。
あいつはいない。保田は麻酔を打った。
あいつと替わるまで、ピッチにいたかった。

 

ここ耐えろ!

「辻、飯田さん開いて!」
「開くな! つぶせ!」
後藤とGKの指示は正反対だった。ハマサキータの両サイドを韓国人のウイングが駆け上がる。サイドへ出されたらイチコロだ。
「後藤! なっちカバー!」
後藤の背中に電気が走る。GKの声が、なぜか猛獣遣いの打ち鳴らす鞭の音に聞こえた。
「サイドは明け渡せ! その代わり真ン中は絶対破らせるな!」
怖いもの知らずの後藤だが、その声には有無を言わさぬ力を感じていた。
後藤の胸に、遠い記憶がかすかに去来する。
なつかしさと優しさ、痛みとを伴った、かえがえのない日々の記憶が。

 

野獣来襲

中盤に残っていたのは辻、飯田。飯田が出た。自分がおとりになり、ドリブラーの足元から離れたボールを辻に狙わせる。
スライディング。長い滑走。巻き上げる冷たい泥水が雨よけのゴーグルに降りかかり、ハマサキータの視界を塞ぐ。
しめた。意図したことではなかったが、ハマサキータがひるむのを予測、さらに深いタックルを仕掛ける飯田。
が、長い脚は獲物を取り逃がした。残されたのは飛び上がった獣が投げ捨てたゴーグルだけ。
目前の敵をにらみつけるハマサキータ。その目の色は、血の赤。
「ひ」
臆した辻が、無抵抗で突破を許した。

 

神の仔

アユ・ハマサキータはアルピノである。先天性色素異常。血管も透ける白い肌、銀に近いプラチナブロンド。目が赤いのは血液の色がダイレクトに反映されているから。
生まれは人種のるつぼ、ブラジルはサンパウロ市。黒人の父とインディオの母との間に生を受ける。
当然赤子は喜びより驚きをもって迎えられた。特に白人嫌いの父は妻の不義をなじった。
母に罪はない。アルピノの原因の多くは近親姦による遺伝子異常。アユの父方の祖父母は従兄妹同士、隔世遺伝だった。
だが父の憎しみは幼いアユへの虐待に転じ、アユは家を飛び出す。八歳だった。

ストリートチルドレンになった少女アユに残された生きる道は、もろもろの犯罪。生きるため、金になるのなら何でもやった。
が、売春、ドラッグというお決まりのコースにははまらなかった。
サッカーがあった。
ポジションはFW、白人離れした(本当は黒人なのだから)バネのきいたプレーはすぐに噂になり、契約したいというクラブが出る。
が、アルピノには知能障害が現れることが多く、アユも五歳児程度で頭脳の発達が止まっていた。
代理人もいないアユは無茶な契約を結ばされ、年間300試合のスケジュールをこなす羽目に。
当然、逃げ出した。

気がつけばアユは南米中を放浪していた。飯の種はサッカー。食いぶちになるならそれが国際試合でも草サッカーでも変わらなかった。後のハマサキータに様々な国での代表歴がつくのはこのためである。
流れ着いたのはコカインとマフィアの国コロンビア。警察すらカルテル(地下組織)の支配下にあるこの国で、運命的な出会いがあった。
フランシスコ・マツウラ。かつてコロンビア屈指の名将とうたわれながら、八百長事件の渦中に巻き込まれ職を追われたいわくつきの男。
彼はアユに手鏡を向けた。
この赤い目は神話の神々と同じ色。お前は神の子供だ。

アユにとって、サッカーをしている時以外の自分を認めてもらえることが生まれて初めてで、それだけで彼を信じた。
FWからGKへ転向したのも彼の勧めだ。なり手がないからポジション争いも少ないし、一人だけ違う服が着られて目立つぞ。
もちろん、北朝鮮に渡ったのも。おまえを迎え入れたいという方がいる。去る国におられる、とても偉いお方がおまえをたいそう気に入っておられる。サッカーボールが唯一の肉親でありアユにはそれがどこでもよかった。
ハマサキータは彼を信じきっている、彼がどれだけのウマ味を吸い上げているか考えもせずに。

 

ナチュラルボーンサッカーウィメン

ハマサキータが突き進む。一人で、本当にたった一人で。
ハマサキータにとっては、自らに従わない者はチームメートであろうとも敵である。
美しいパスも、流れるようなドリブルにも興味はない。
ゴールを守る。ゴールを奪う。ハマサキータの頭にあるのはフットボール究極の形。
そして、ゴールが見えれば、狙う。
足が出た。35メーター地点から打ったシュートが大きく上に。
あんた、サッカー漫画の見過ぎだぜ。
生まれついてのサッカー選手なら日本にも一人いる。
その小さな体に赤い血ではなく、サッカーボールを循環させている背番号8が。

 

エースの執念

矢口がブロックしたボールが日本ゴール前にフラフラ上がる。落下地点に安倍とアミゴ。
安倍を背負い、ゴールに背を向けたアミゴが胸でトラップ。振り向かせまいとさらに寄せる安倍。
ぐいっと、安倍の脇の下に腕を差し込む。安倍がバランスを崩した。
勘違いするなよ。ファウルしたのは上官命令だからだ。まだ1、2点取れる力は残っている。
安倍と、カバーに入った後藤のブロックをかいくぐるボレーシュートが日本ゴールを襲う。市井が右に飛んでつかむ。
「く…ぐわっ」
ボールに乗り移った執念が市井の腕をふりほどき、後ろにこぼさせる。

 

相討ち

右ポスト方向に転がるボールに近づく二つの影。吉澤とアキナ。
アキちゃん、ヒトミと呼びあう睦まじい親友の姿はない。ただの敵がいるだけ。
吉澤を押しのけ、アキナが前に出る。アドバンテージを取られた吉澤が足を伸ばす。
狙いはボールのみ。後ろから足を刈らないのは友の情けではない。ここはペナルティーエリア。
ボールへ全体重を乗せたタックル。
アキナが、左足で受けた。足首が信じられない角度で曲がり、その場に崩れる。
思わずアキナに目をやる吉澤。その目前に迫る、白いゴールポスト。
赤の11番、青の4番が折り重なって倒れた。

 

あいつの登場

「どないしたん」
保田に「あいつ」呼ばわりされたその選手は、医務室からピッチへとつながる廊下を、はやる気持ちを抑えつつ歩いていく。
急に明るくなった。目を細めると、ピッチ上に二つの人だかりができているのが分かる。
「なにあったん」
十七歳以下関西選抜以来の付き合いになるFW松浦亜弥をつかまえ、問いただす。
「クロスプレーや。吉澤はんと向こうの選手がもつれて、倒れてん」
「よっすぃーが?」
「吉澤はんはポストにごつんこしただけやけど、向こうはやばいかしれへん」
「よかった」
「ちっともようない。PKやちゅうねん」

 

残酷な結末

「よっすぃー、何本か分かる?」
ようやく意識を取り戻した吉澤が、後藤が出した指の本数を正確に答える。軽く脳しんとうを起こしたかめまいがして、額に手をやる。手が赤く染まった。
「一度止血しないと」
だが問題はそんなことではない。
「アキちゃん」
もう一方の人だかりの中心に、左足を押さえ苦悶するアキナの姿。韓国の同胞たちが吉澤をなじる。
吉澤にとって不幸だったのは、自分の犯した罪の罰を自分で受けられないこと。
吉澤自身には退場どころか警告もなく、これで本日のヒールの座を射止めてしまった。

やめろ。
吉澤につかみかからんばかりだった仲間をアキナが止めた。
以前から傷め、だましだましてやってきたアキレス腱だった。その引導を渡す役目を吉澤に負わせ、むしろ済まないような気持ちでいる。
「ヒトミ、手を貸して」
吉澤に手助けされながら起き上がるアキナ。タンカに乗せられて運び出されるなんてプライドが許さなかった。
「ごめん。ほんとにごめん」
涙と鼻水とをぼろぼろとこぼす吉澤。だがアキナは
「なぜ謝る。PKをもらえて、感謝しているよ」
肩を並べ外に出る二人と入れ違いに、治療を終えた保田が入る。最後の戦いに。

「サヤカ」
「え?」
「やっぱりサヤカ」
三度目のPKを迎え、さすがに緊張の隠せない市井の正体を見破ったのは福田。
「よくわかったね」
「後藤だよ。あのじゃじゃ馬がぶっつけでコンビ合わせられるとしたら、あんたしかいないだろ」
「お見事。もっとも本人はまるで気づいてないようだけど」
それぞれの事情で再び日の丸をつけた二人が小さく笑いあう。
「サヤカ、あなたは何のために戻った?」
「クウェートとの、戦えなかった90分を取り戻すために」
「そうか。私は、ウズベキスタンで凍りついたままになった時計の針を動かすためにだ」

ピッチの外へ転がったボールに二人の手が伸びた。
ファン・アミゴとハマサキータ。
もはや試合は残りわずか。試合の大勢を決めるペナルティーシュートだけに譲らない両者。
アミゴには同じ韓国人が身を呈してゲットしたPKを自ら決めたい気持ちが強い。
だがハマサキータに感情論は通用しない。すでに一度(記録にはついてないが)ミスしているアミゴに任せる気にはなれない。
エースと心中する、それができないコリアはまだチームになりきれていなかった。
しばらくにらみあいが続き、蛍光ボールを手にスポットへ進んだのは、ハマサキータ。

市井には止める自信がゼロ。ただでさえPKを三連続で防ぐなんて無理なのに、相手はキッカーとしての癖がまるで読めないキーパー。
絶望的な気分が動きにも出た。フェイントにひっかかり、左に動いてしまう。逆を突くシュートをただ見送るだけ、のはずだった。
低いシュートが、ゴールライン手前の水たまりで止まった。
あわてて飛びつく市井。ハマサキータの進路を塞ぐのは復帰間もない保田。
サヤカ、名乗りたくないならなにも言わなくていい。まさかまたあんたとやれるなんてね。
市井、守った。ボールを主人不在の相手ゴールへと投げつけた。

「ああ…」
アキナが顔を覆う。左足を犠牲にしてまでもぎ取ったチャンスは、今や大ピンチに。
GK不在のコリア陣内。ゴールとセンターサークルに北朝鮮選手が二人ずつ構える。
日本の9番がセンターサークルで二人をかわした。
「ナツ、モエ」
カバーしたのは韓国人のWボランチ。
9はそれでもボールを離さず、4人を引きずりながらゴールに迫る。桁外れのキープ力。
エリア手前、反則覚悟でひっかけた。9が崩れる。
9の意思を乗せたボールだけが密集地帯を抜け、右へフリーで走った7へ。
7の余裕たっぷりのシュートがカバー二人の間を抜けた。

 

幸福な結末

まさに線の上だった。首を伸ばしての顔面ブロックが安倍のシュートをかき出したのは。
大きくはね上がったボールが、必死に駆け戻ったハマサキータの胸に飛び込む。
アミゴだった。ただ一人安倍のフィニッシュを読んでいた韓国の虎が、絶対的なピンチからチームを救った。
ボールを抱え、息を切らしたハマサキータが倒れたままのアミゴに手を差し伸べる。
アミゴも黙ってそれにつかまった。
その脇で安倍が信じられないといわんばかりの表情。福田は黙って立ち上がりカウンターに備え戻る。
アキナがいとしそうに足をさする。無駄じゃなかった。

 

すり抜けた前髪

「やばいなあ」
「ええ、この超決定機に決められなかったのは痛いですね」
「あほ、んなんちゃうわ」
中澤がユウキの頭を平手ではたく。
「それより、あいつら見てみい」
韓国籍の選手と、北朝鮮籍の選手にあった障壁が消えた。
38度線が、崩壊した。
コリアは、初めて、ひとつになった。
もし安倍のシュートが決まっていれば、その時点で日本の勝ちは決まっていたはず。
チャンスの神様には前髪しかない。
その前髪をつかまえなければ、ツキは逃げていく。
「もう、ダメですかね」
「いいや」
中澤は強気な態度を崩さない。
日本には、もう一枚、切り札が残されている。

 

ただ去りゆくのみ

いよいよ、残り時間が 10分を切る。
日本、苦しい。しかしコリアも苦しい。
攻守の要であったアキナがリタイアを余儀なくされ、控え選手が急ピッチで心肺機能を高めていく。
コリアサポーターがことさらに強烈なブーイングを飛ばす。止血を終えた吉澤が復帰したのだ。飯田が寄っていく。
「吉澤、大丈夫?」
「…はい」
「あんたがわざとあんなことをするような卑劣なやつだなんて、誰も思ってないから」
保田がタッチ沿いを見る。
保田の背番号である6を表示したプラカードを掲げる第四審。
その横に、ようやく間に合った「あいつ」が。
コリアも日本と同時に最後のカードを切ってくるようだった。
まもなく投入される両国の選手が、なぜか親しそうに言葉を交わす。
石川のパスが辻に渡らず、そのままタッチラインのほうへ。
ああ、切れるな、止まれ。
保田の願いは届かなかった。
笛が鳴り、審判が試合を止めた。

「圭ちゃん」
お別れの時が来た。すれ違う一人一人と、軽くタッチを交わしていく。
いつか見た風景だと思った。
こうやって、同じディフェンダーを保田は見送った覚えがある。
心臓に手をやる。力強く、止まることなく鼓動を刻んでいる。
ここまで、本当によくやってくれたと思う。
そして、この日の丸のユニフォームを着て戦うことももうない。
ワールドカップには間に合わなかった。
それでも、保田は自分のサッカー人生に満足している。
歩を刻むたび、最後の時が迫る。
タッチラインの向こうで、新しい魂がその躍動の瞬間を待っている。
未来は、あんたのものだ。
すれ違いざま、互いの心臓に近いほうの手を重ねた。

すべての仕事を終えた保田は、まず石黒の元に歩み寄り、深く頭を垂れた。
「ありがとうございました」
同じDF出身でも、石黒はマンツーマンディフェンスを嫌う。組織的ではないサッカーには未来はないという考え方がその根底にあるからだ。
それでも、この大一番に石黒は保田を起用した。それは石黒自身がプライドを捨て、勝利に固執したことの表れでもある。
保田はその期待に応えたつもりでいる。
石黒が手を差し伸べる。
石黒自身、今の保田の立場であった時、監督のそっけなさに失望した覚えがある。
が、同じ立場になってみてわかった。感謝の気持ちであふれそうだが、言葉にするのが照れくさいのだ。
だから、無言のまま、態度で示した。
保田がその手を、強く握り返した。

 

ジョーカー

「選手交替のお知らせをいたします。日本代表背番号6、ディフェンダー、保田圭に代わりまして、背番号 16、ミッドフィールダー、加護亜依が入ります」
抜群のパスセンスを誇るミッドフィールダーが投入されたことを告げる場内アナウンスが流された。
「あいぼん!」
ここまでいいとこなしだった辻が、心臓病のため15分だけの出場を許されたスーパーサブに寄っていく。
そのホホを、つまみあげられる。
「のの、あんたまた肥えたなあ。うちの目はごまかせへんでえ」
「ああ、あいぼん、いたいのれす」
「遊んでんじゃねえよアホ」
矢口が寄っていく。最終予選の終盤で、日本の攻撃を担った小兵達が顔を突き合わせる。
「来たなハナタレ。ここに立った以上、あんたの心臓のことは忘れるから。覚悟はいいね」
「いいですよ。…サッカーは、30秒あったら1点取れるていうやないですか」

加護の投入は、そのまま、スクランブルに突入した事のシグナルでもあった。
大きく布陣を変えた日本にどよめきが起こる。

 

スクランブル@日本代表

  7安倍   J飯田  9福田

       10石川

3ミカ           22辻
    8矢口   16加護

  5後藤       4吉澤

       1市井  

 

遠い記憶

飯田をセンターフォワードに、安倍と福田の両ウイング。
トップ下に石川。アウトサイドにミカ、辻。ボランチに矢口、加護。
最終ラインは後藤と吉澤のみ。GKがリベロの役目を果たす。
極端にサイドバックが前に出た4−3−3システムというか。とにかく攻撃にウェイトを置いたフォーメーション。
報道陣シャットアウトで極秘練習したのが、このシステムだった。
「飯田のセンターフォワードかよ。大丈夫か」
「見たことねえよ、こんな形」
後ろの席の、いかにもサッカー通ぶった少年二人の会話に吹き出しそうになる中澤。
安倍、飯田、福田。
この3トップで戦った試合を、中澤は一試合だけ知っている。
そしてそれが、すべての始まりだった。

 

early day's 中澤

中澤裕子がその知らせを受けたのは、大阪市内のオフィス街で。
中澤が5時まで事務の仕事をしている会社がそこにあった。
「中澤さん、電話ですよ。京都紫光クラブの方から。困るんだよね、私用電話はたいがいにしてもらわないと」
私用って言うなよ。イヤミ言いの小太り課長に心の中で反論する。
中澤は関西の名門、京都紫光クラブに所属するゴールキーパーである。定時に仕事を切り上げるとスーツをユニフォームに着替えて京都にあるグラウンドに向かう。
最近、若手の台頭で出番を失いがちで、近々チームがJリーグ参入を目指す中、戦力外通告を受けるのではないかと思っている。
「はい、中澤です」
「中澤さん…落ち着いて聞いてね」
「はい」
ついに解雇通告だろうか。が、わざわざ電話でなんて。
「きみ、日本代表に選ばれたから」
「はあ?」
この日、新体制による、新しい日本代表が立ち上げられる事すら知らなかったのに。
まさに、晴天の霹靂。
「課長…生理休暇取らせてください」

 

early day's 安倍&飯田

「おーい、集合」
東芝FCはコンサドーレ札幌としてJリーグ準加盟を申請、本拠地も札幌に移し現在のJ2にあたるJFLを戦っていた。
そのクラブハウス。田中監督が練習を中断、トップチーム全員を呼び集める。
「さっき日本代表のメンバーが発表になってな。うちからも選手が選ばれた」
「Jリーグじゃないのにですか?」
「おう。オレ、あの監督よく知ってるけど、通好みの選手を使いてえみたいだ。じゃ、発表すっぞ」
ひときわ高い身長を誇る飯田圭織は、隣で目を輝かせる安倍なつみに目をやる。
現在売り出し中の若きツートップ。高さと強さの飯田、速さとうまさの安倍。
おっとりとした安倍は気づいてないかもしれないが、飯田は安倍に対し、異常なまでのライバル心を抱いている。
先に代表に入るのは、絶対に私だ。
「まず、安倍」
「私?」
芝居なのか、それとも本当に予想してなかったのか、小さな顔の上でこれ以上ないくらい安倍の目が見開かれる。
飯田の唇がブルブルと震えた。動揺を抑えきれない。激しい嫉妬の念に襲われる。
「次、飯田」
ほー…思わず、ため息をつく。
「最後、今日はここにいねけど、石黒」

 

early day's 石黒

「代表?」
石黒彩は鍼灸院でその報を聞いた。
かつては全日本の特攻隊長と呼ばれた俊足ドリブラーであったが、日韓戦でくるぶしを折ってからトップコンディションには戻らず、以来代表を離れている。
石黒自身、もう代表はあきらめていた。あとはクラブで玄人好みのプレーができさえすればいいと。
「いいだろ。行けばいいじゃん」
サンフレッチェを解雇され移籍先を探した時、最も気にしたのが、この足ととことんつきあってくれるトレーナーがいるかいないかだった。
唯一JFLからのオファーだった地元札幌は、この条件を聞いて
「うちの専属じゃないけど、市内に一人、若いけど腕の立つ鍼灸師がいる」
と、教えてくれた。
その彼、山田真矢は大きな体を揺らして豪快に笑い
「行ってこいよ。多少のムチャなら聞いてやるからさ」
それで、迷いを吹っ切った。

 

early day's 福田

「代表? アスカさん、気は確かですか?」
いっこ下の後藤真希にさんざからかわれた。
読売クラブの人間にとって、全日本は体育会系で、軍隊式で、ただ走らされるっきりの、とにかく近づきたくない空間だった。
現に福田明日香自身も、そうした世界の実情にあってない全日本のサッカーを見下すようなコメントを発し続けていた。
どんなに実力があっても、福田に声をかけようとする代表選手は一人もいなかったのだ。
だから、これが初選出になる。後藤は福田がこれを断るであろうと当然思っていた。
が、福田はこの候補合宿に行く、と返事した。後藤はあきれ果て、冒頭のような言葉を吐いたわけだ。
理由は二つ。
ひとつは、今度代表監督に就任した寺田光男という男への興味だった。
メキシコ五輪金メダル以来日本サッカーに君臨してきた古河、三菱、日立の日本リーグ三大派閥以外から初めて選出された監督。
現役時代彼の所属したヤンマーが、読売と同じブラジルスタイルであったこと。
もうひとつ。福田は一度も、代表に選ばれても辞退するなんて言ってない。インタビュアーが勝手にそう受け取っただけのこと。

 

惨敗

試合終了。
0−3。テストマッチは名古屋グランパスエイトの圧勝。
寺田丸の船出は、最悪のものとなった。
皮肉にも引導を渡したのは寺田が最も期待し、チームのエースとして構想に組み込みながら海外挑戦の準備を理由に辞退した名古屋グランパスのエース、平家みちよのハットトリックだった。
1点目、飯田に競り勝ってのヘディング。
2点目、石黒のオフサイドトラップをかいくぐっての冷静なシュート。
3点目、ガチガチになった中澤の緩慢なポジショニングを突いてのミドル。
福田はここまでなにもできない自分に驚きさえした。安倍はろくにボールにすら触らせてもらえなかった。
勝敗を分けたのは、結局プロ意識の差だった。
舞い上がって、なにをしてよいかもわからない代表。自分の夢の為に日の丸を拒絶した平家。そこには、歴然とした差があったのだ。

 

脆い守り

チームは、二つの病巣を抱えていた。
「オレ、フォワードやったし、守りのことはようわからんねん。おまえに全部任すわ」
そう言って守備の全権を掌握した石黒。
やりたかったのは、フラット4のラインディフェンス。中盤で激しいプレスをかけ、FWはオフサイドトラップにはめる。
ところがラインディフェンスではスイーパーの役目を担うべき中澤はゴールラインの上を守る、古いタイプのゴールキーパーだったのだ。守備範囲は狭く、フィールドプレーヤーの経験がないため足技も拙い。
中澤に罪はない。人にはそれぞれ長年かけて培ったプレースタイルがある。中澤が巡り会ったのがたまたまGKにセービング以外を求めない指導者ばかりだったのだから。
が、後ろが中澤では、背後が大きなスペースになってしまうラインDFはあまりにリスキー。テストマッチでもそこを突かれ、やらずもがなの失点をしていた。
これが若いGKなら石黒は容赦なく怒鳴りつけもできただろう。が、GKは史上最年長で日本代表入りした中澤なのだ。
中澤も中澤で、石黒に気を遣い、どんどん萎縮していく。
確固たる信頼を築かねばならないDFリーダーとGKがこれでは、守備が安定するはずもなかった。

 

迷走する攻め

そして、攻撃陣もだ。
当初監督は平家をFWの核に据え、ターゲットに長身の飯田を使う構想でいた。
が、平家が不参加。福田、飯田、安倍の三人で、さまざまな組み合わせを試した。
グランパスとのテストマッチでは、コンサドーレの2トップ、トップ下にテクニシャンの福田を配した攻撃的布陣を取った。
が、福田が誤算だった。
中央突破にこだわりすぎる読売クラブ伝統の悪癖をしっかり受け継いでいた福田のプレーはチーム全体のリズムをぶち壊した。が、福田だけではない。
安倍は線が細すぎる。激しいコンタクトが当たり前の国際試合では、とてもではないが耐え切れない。
飯田は感情の起伏が激しく、つまらないことですぐカードをもらう。安定感にも欠けた。
どの組み合わせがベストか――監督の苦悩は続いた。

 

微笑む刺客

組み合わせも最悪だった。
前回のワールドカップ出場国であるUAE・アラブ首長国連邦に加え、タイと同じグループに振り分けられたのである。
日本とタイ、実力ではあきらかに日本。が、対戦成績は限りなく悪い。ロサンゼルス五輪予選では2−5と完膚なきまでに粉砕されている。
いわゆる、鬼門というやつだ。

伝統的に小柄だが、テクニックとタフさ、強烈なキック力とを併せ持つ好チームを毎回送り込んでくるタイ。
それには国技であるセパタクロー、キックボクシングの原型となったムエタイの盛んな国であることと無縁ではない。
が、今回に限っては、さらにいわくつきのチームでもあった。
微笑の国の人々すら、その笑顔を引きつらせる経緯をもって、このチームは出来あがったのだから。

 

鉄の女

我が国史上最強のチームにして、国家の恥。
タイのマスコミが、このチームをそう評した。

サトリー・レック(鋼鉄の淑女)という名を頂くこのチームは、圧倒的な強さをもってタイの国体に優勝したランバーン地区選抜チームがその母体となっている。
が、これだけならなにも国家の恥呼ばわりされることはない。
問題は、チームを構成するメンバーにあった。ほぼ全員が。カートゥーイだったのである。

カートゥーイ。
オカマ、ホモセクシャル、ゲイ、ニューハーフ…つまり、男の肉体を持ちながら男が好きな人間を、タイではひっくるめてこう呼ぶ。
タイではオカマがナチュラルに町の風景に溶け込んでいる。
その反面、カートゥーイは宗教的な観念から「治癒すべき存在」ともされている。
国体でも、さまざまな差別や迫害をもろともせずに勝ちあがったのである。この乙女達は。

 

キャプテン・オキャマ?

夏コーチがバンコクで撮影したタイ空軍との試合のビデオを、選手達は宿舎で見た。
うんざりした。その強さとリアクションに。
とにかく、どこからでも、どんな形からでもゴールを狙う。非常に力強く、バリエーションも豊富だ。守る側にとっては非常に嫌なタイプである。
そして、FWからDFまで、全員が粘っこいマンマークを見せつける。しかもなぜか、実に楽しそうに見える。攻める側にとってはたまらないだろう。
ゴールを決めればフィールドプレイヤー全員がお尻を突き出し、ムカデのように連なってワイクー(ムエタイの選手が試合前に祈るかわりに踊るダンス)を捧げる。空軍チームが戦意を喪失させるさまが手に取るようにわかった。
勝てるか、このチームに。
「勝つしかないやろ」
寺田が腕組みしながらつぶやいた。
「一番やりにくそうな相手がいっちゃん最初に回ってきただけや。安倍、飯田、福田。タイ戦は3トップでいくで。もうおまえらの組み合わせ、どないしてええかわからん」
「ちょっと待ってください」
石黒が止める。
「ずっと4−4−2の練習しかしてないんですよ」
トップを一枚増やす分、中盤を減らすのであれば、それだけ中盤のプレスがかかりにくくなる。ラインを上げにくくなる。
「ホームゲームやで。点取りにいかんでどないすんねん。3トップや。攻め勝つで」

 

仮初のキャプテン

寺田は、黄色いキャプテンマークを、チームのお荷物になりかけていたベテランゴールキーパーの前に置いた。
「暫定やけど、年長の中澤に、この試合のキャプテンを任せたいと思う」
「待ってください」
中澤が関西のイントネーションで小さくつぶやきながら立ち上がる。肩にかかる長い髪がかすかに揺れた。
「私、今までキャプテンなんてやったことないです。私よりも経験の豊富な石黒さんのほうが」
「石黒、おまえはどうや」
「別にどうでもいいです。自分がキャプテンになっても、増える仕事はコイントスくらいですから」
腕章をつけたから自分の意識がどう変わるわけでもない、石黒はそう言いたかったのだ。
「言うたやろ。あくまで仮のキャプテンや。選手の投票で決めようにもまだお互いの事をあまりに知らん。一次予選が終わったら改めて投票して正式なキャプテンを決める。もっとも、一次予選で負けたらその必要ものうなるけどな」
一次予選を勝ち抜いた後全員一致でキャプテンに信任され、代表の歴史に名を残すキャプテンも、最初はこんなものだった。

翌日、中澤は美容室へ行き、長かった髪にはさみを入れた。
ふっきれたのではない。早くふっきりたかった。

 

VSサトリーレック(1)

決戦の舞台は大阪・万博記念競技場。花冷えのする春の夜、空には星が。
この試合を、一風変わった視点で見守った者がある。当時ガンバユースに所属、ボールボーイに駆り出された加護亜依である。
加護は試合前の様子を日記にこう記している。
「日本にはチームとしてのまとまりがなかった。全員が押し黙って、入場行進はまるでお葬式に参列してるみたい。どの選手も背中に分厚い鉄板でも入れてるみたいにガチガチ。あ、こらあかんなと思った。それに比べてタイはキャーキャー騒いだり、やたらベタベタしたり…リラックスしすぎや、いくらなんでも」

タイのキャプテンもゴールキーパーだった。背は低く、面立ちにもあどけなさが。
後で聞けば、なんと17歳だという。もちろんチーム最年少。
そして、中澤とペナント交換と握手した時、彼は浅黒い頬を赤らめた。
「なんや、あんたノンケかいな」
そうなのだ。カートゥーイばかりのチームにあって彼はストレートだった。
GKは選手生命が長い。この年ならあと20年は現役を続けられるだろう。
中澤は自分の競技人生がとっくに短いほうに入ってしまっていることを知っている。素直にうらやましく思った。
うちは、これが最初で最後のチャンスなんや。

「彩ちゃん」
ゴールマウスに立つ前に、石黒のほうに近寄る中澤。
「やっぱライン上げるんか?」
「中盤三枚じゃおあつらえむきのプレスがかかるか怪しいし。でも、上げるべき時は上げる」
「あんまり無理に上げんといてな」
中澤が半ば哀願する。スペースが空くのは、やはり、どうしても怖かった。

センターフォワード飯田が両ウイングの安倍、福田を集める。
「とにかく、ハイボールくれ。あのバックスの高さなら、いくらでも勝てる」
飯田はこの3トップがテストであることを知っている。点を取ったやつが、このフォワード戦争を制する。

「ぅおまえらぁ!」
背後から聞こえた耳をつんざく甲高い声に中澤が思わず振り向くが、この大観衆ではスタンドのどのへんから聞こえたものかすら判別できない。
「もし負けてみやがれ、夜中の3時に宅配ピザ届けてやるからな!」
脅迫だかなんだか分からないが、とにかくよく通る声だ。
「無視しなよ、あんなの」
石黒がアドバイスする。
「代表の試合になると必ず来るんだ。顔は知らないけど。一度シメとくべきだったな」
小鼻にピアスを通した石黒は、盛んに右足首を回す。彼女もまた大きな不安を抱えての船出だ。
長い戦いの幕が今あいた。

キックオフ。タイはタカアキ・スギウラーンサワットから双子の兄(姉?)カツアキ・スギウラーンサワットへ。
もっとも、このチームで二人を本名で呼ぶ者はない。タイには命名と同時につけられる、チューレンという公式なニックネームを全員が持っている。
二人もそれにならい、オスギとピーコで通っている。
そのピーコから、背後のヨシモット・フジータカシへ。彼のチューレンはホット。ホットがDF、オスギがMF、ピーコがFW。タイ自慢のセンターラインである。
ホットがパスを振り分け、オスギとピーコが入れ替わりに、時に同時に前線へ飛び出す。

最初のチャンスは日本。前半5分、安倍の左センタリング、フリーの飯田がライナーのヘッドで叩いた。
タイのGKが、カエルのように飛び上がった。パンチでかちあげ、コーナーに逃れる。
「なんでコース突かないの」
「まさかあの背で届くと思わなかったんだよ」
が、これで日本は敵のGKを「のせて」しまった。
福田の単独突破に、ホットとのコンビで出足良くセーブ。
石黒のドライブフリーキックを横っ飛びでかき出す。
極めつけは、前半終了直前、安倍がエリア内で倒されて得たPK。
キッカーは安倍。低く構えるキーパー。
慎重に、右下を狙ったシュート。フェイントにかからなかったGKがきっちり反応する。
その腕に、すっぽりとおさまった。

ハーフタイム、観客席での会話。
「タイのポスト、ちょっと太いんじゃねえか?」
「そんなこと、あるわけないでしょ」
「でも福田てのはすげえな。おまえとタメ年とは思えねえ」
「矢口さんより二つも下でね」
「うっせーよ。石川、おまえ今からモロッコ行ってこい」
「はあ?」
「性転換してこいよ。オカマにはオナベだ」
「わけわかんないっすよ」

石黒がロッカーを蹴飛ばした。飯田が一人の世界に入り込む。
目に見えない重圧がチームを覆っている。
なにやってんねん。うちはキャプテンやねんで。元気つくようなこと言わな。
中澤がなにか声をかけようとして、迷う。
「後半も、システムは変えへん。細かいことは言わん。勝て」
それでも監督かよ。安倍が腐る。
福田は頭からタオルをかぶり、ぼそりとつぶやく。
「ふざけんなよ」

恐らく、ゲームを支配しているのは日本だ。ボール支配率を算出すれば60%は優に超えるのだろう。
タイはほとんどボールをキープしない。ワンタッチでほとんどのボールをさばく。同じダイレクトプレーでも、微妙にタイミングを変えることで日本のリズムを狂わせてくる。試合巧者と呼ぶほかない。

後半、早々のコーナーキック。安倍からのボールを石黒がヘッドで狙う。GKが両手のパンチングでしのぎ、こぼれをDFがクリアー。
「切り替えろ! 戻れ!」
中澤がリーダーを欠くバックス陣に指示を送る。2本、3本とダイレクトパスを通され、ゴール正面でストッパーがシャツを引いた。
本当に真正面からの直接FK。中澤がどちらに壁を立てるかを迷い、向かって左に壁を作る。
壁の上から右利きのピーコ、左利きのオスギがボールの前に立つのが頭だけ見える。
笛が鳴る。
突如、ホットがボールの前に立ち、中澤の視界をふさぐ。
双子が同時に走り、同時にシュートのモーションに入った。どっちや、見えへん。
ほとんど回転のかかってないシュートが壁を越える。中澤がサイドステップからダイブ。が、反応が鈍い。
ネットが揺れる。一瞬遅れて、腰に痛みが走った。届かなかったときは、止められた時の3倍は痛い。

タイの選手が内股で飛び上がり、辺り構わず抱擁する。
日本は、まるで負けが確定したかのように、がっくりとうなだれる。
「立て!」
中澤が仁王立ちで叫ぶ。
本当は誰よりもうつむきたい気持ちでいる中澤が、ボールを抱えて一喝する。
「あと40分しかないねんで!」
自分で自分が信じられない。センターサークルにボールを蹴り出し、キックオフを促す。
日本のキックオフ。が、敵GKが集中を切らさず、鋭く、冷静に、勇敢に対応する。
残り30分、20分…無為に時間が消えていく。
「彩ちゃん、上がり」
「え?」
「ラインを上げて、前の連中のケツをひっぱたくんや」
石黒が、強気のラインコントロールでハーフライン付近まで上がっていく。
その背後に広がる広大なスペースを、タイがロングボールで狙う。
そのたび、中澤が飛び出した。決してうまいとはいえない足さばきでボールを動かし、サイドに放り込む。
前線でも動きがあった。前線に張っていた飯田が、自らのトップ下の位置まで下がったのだ。
両ウイングが自然と中に寄り、日本は2トップになる。
福田がドリブルでチャンスを作る。飯田がロングレンジから積極的に狙う。安倍が飛び込んでタイゴールをおびやかす。
「これを待ってたんや」
寺田監督がつぶやく。
監督がなにを言おうと、試合が始まりゃチームは選手のものになる。自分達で考えて、決めえや、と。
ただ、それを監督自ら言ってしまうわけにはいかない。監督の言う事をまったくきかなくなってしまうからだ。
だから、身をもって気づいてもらうしかなかった。

石黒が、高い位置で奪ったボールを右にはたく。
そこには福田が走りこんでいて、タイDFの髪を巻き上げる高さの絶妙なセンタリングを送る。
安倍がフリーでいた。スイーパーのホットを飯田が体でブロックして、ガードにいかせない。
上体をねじるような、豪快なハイボレーキック。タイGKが前に弾く。安倍が詰める。一瞬早く、頭で押し込んだ。
チーム発足以来、公式戦で初めてのゴールを決めた背番号7は、小脇にボールを抱えて走った。ここは日本だ。ホームでのドローは負けに等しい。
タイの双子が日本ゴールを襲う。オスギがドリブルで日本の最終ラインを突破。シュートモーションに入るところ、中澤がコースをせばめに前へ。
「出るな!」
背後からの声に躊躇する。石黒がわき腹でブロックしたボールがゴール中央に転がる。ピーコが詰める。
中澤が飛び出した。さして大きくもない体を投げ出して、止めて見せた。
ロングキック。飯田がホットに競り勝ち、ヘッドでタイゴール前に流す。
GKの前へ出るスピードが速い。トラップしてたら間に合わない。
福田が、飛んだ。背後からの浮き球にあわせて
タイのお株を奪うシザーススパイク、ジャンピングハイボレーがGKの足元で大きく弾み、頭上を抜けていった。

日本は、辛勝で緒戦を飾った。
敗れたカートゥーイたちはユニフォームのそでをかじって悔し泣きする。
ゴールを死守し、それでも敗れたタイのキーパーが中澤に握手を求めた。
汗で濡れた顔は思いの他幼く、手も小さく、あの鬼神のようなセーブの数々が信じられないほどだった。
これでまだ17歳。少なくとも、あと10年は日本の前に立ちはだかるであろう選手の背中を見送ると、あの声の主を観衆の中に探る。見つけられるわけはないのに。
礼くらい、言いたかったな。汗を吸った黄色いキャプテンマークを外しながらぼんやり思った。

この白星に勢いづいた日本は、全勝で一次予選を突破する。
そして、最終予選も近づいたある朝、中澤はスポーツ新聞に隅に小さく載ったその記事を見つける。
「タイ代表GK ガンで急逝」
中澤の口から泡のついた歯ブラシが落ちる。あれからまだ半年も経っていないのに。

 

恋の記憶

あの試合以来の3トップを俯瞰しながら中澤が思う。
めぐり合わせとは奇妙なものだ。
もしあの試合がなければ、あの試合の相手がタイでなければ、そして彼がタイにいなければ。
日本は一次予選を通過できなかっただろう。
そして、中澤もまるで違う人生を歩み、サッカーに負い目を感じていたかもしれない。
あの試合を通じてバラバラだったチームはひとつにまとまり、代表とはエゴとチーム―ワークの狭間で身もだえする光芒であると誰もが誘ったのだから。
原点回帰。石黒もあの日を強く心に留めているから、今あの日と同じフォーメーションを採用したのだろう。
そして、あの時中澤を救った声の主が、中澤の抜けたチームの中心で叫んでいる。
「辻、加護、動け!」

友達になりたかった。いつか日本に来たら、観光ガイドくらい引きうけたのに。
中澤は時々、あの好敵手のことをぼんやり思い浮かべる。

 

コリア最後の刺客

スーパーサブ加護の投入にわき上がる国立競技場。
その加護と交代直前まで親しげに話していたコリア選手にはほとんど注目が集まらなかった。ちなみに加護はハングルをまるで話せない。そして彼女自身も。
が、彼女の投入こそ歴史的事件だった。それも、両チームにとって。
彼女が入り、コリアはいよいよ多国籍軍化する。GKが南米、DFが北朝鮮、MFが二列目に下がったアミゴを含め韓国。
そしてFWが彼女。
彼女の名は、在日。
「コリア、選手交代のお知らせです。背番号11、リ・アキナに替わり、背番号18、フォワード、ソン・ソニンが入ります」

 

コリアン・ジャパニーズ

「ソニン!」
中澤の顔色が変わる。
「知ってるんですか」
「知ってるもなにも、チームメイトやってん」
ソン・ソニンは去年まで京都パープルサンガに在籍していた選手。練習生契約ながらサテライトリーグではチーム得点王だった。
だがJ2行きが決まったチームは大量のリストラを迫られる。
在日――日本で生まれ育ちながら日本国籍を持たない彼らは、本国からも無視される存在。もちろんナショナルチームに召集されるなどありえない。プロサッカーチームが営利団体である以上、まっ先に切り捨てたのは優秀でも集客にはつながらない彼女だった。

ソニンは四国生まれ、その頃の記憶はあまりない。たった一つの出来事を除いては。
幼稚園で一番仲のよかった友達がある朝よそよそしいのでなんで遊んでくんないの? と問いかけた。
パパとママが、あのこザイニチなんだっていってたの。
子供ほど残酷なものはない。たぶんこの子も自分がいないところで両親が低い声で会話しているのを聞き、在日イコール怖いものだと考えたのだろう。
当時のソニンが在日とはなにかと考えても答えは出ない、親に聞くのもためらわれた。
自分が他の人とは違うのだけは分かっても、どう違うかが分からなかった。

ソニンの就学と同時に、家族は祖母の住む神戸に移った。
神戸は日本サッカー発祥の地、戦前までは静岡以上に有名なサッカーどころだった。
ソニンは神戸の朝鮮民族学校に九年間在籍することになる。父母も苦慮の決断ではあったのだろうが、ソニンにとっては苦悩の日々だった。
まず民族学校は基本的に在日朝鮮人、つまり北朝鮮国籍の子女が通うということ。ソニンは韓国籍だった。
日本人の中には両者をひっくるめて在日朝鮮人と呼ぶ人がいる。乱暴な話だ。サンガ時代インタビュアーが彼女を在日朝鮮人と呼んだ時、温厚な彼女が不快感を露にした。

後になって両親に尋ねた。なぜ民族学校だったのか。
両親の答えは明確だった。おまえに朝鮮民族であることを忘れてほしくなかったから。
校内で日本語を話せばビンタの上自己批判という名のやり玉にあげられる。ハングルがまるで話せなかったソニンも日常会話は問題なくこなせるようになった。
が、どうしてもなじめなかったものもあった。
偉大なる首領様。宗教を否定する社会主義国家にとってその存在はキリストや釈迦のようだ。
その人生を学ぶ時間割、真剣に聞き入る周囲を見るたび自分は朝鮮人ではない、韓国人なんだと痛感させられた。

登下校の際もいろんなことがあった。
民族学校の制服といえばもちろんチマチョゴリ。ただ電車を待つだけでも注目が集まる。
見ず知らずの男子中学生にすれ違いざまチョン呼ばわりなど当たり前。ソニン自身の体験ではないが制服をトマトジュースで汚させられたり、はさみで切られた子もいた。憐れみすら覚えた、加害者の側に。
ソニンは陸上をやっていた。特に中距離走が得意で、少しでも記録が伸びれば有頂天だった。
監督はソニンを呼んで言った。サッカーやらんか、と。
監督は知っていた。在日である以上、活躍の場はごく限られてくることを。

朝鮮学校のサッカーといえば、イギリス人もびっくりのキックアンドラッシュ。放り込み、ヘッドの繰り返し。それのみ。これは偏見でも誇張でもない。
ロングキックを頭でゴールに突き刺せればそれは最も効率いいが、そんな簡単にはいかないから様々な攻めの形を使う。普通は。
この人たちは発想からして違う。そのシンプルな形を徹底的に磨き、絶対の自信をつけることが強くなる近道と疑わない。負けた時もまずは一対一で負けた場面を責められるほどだ。
サッカーそのものに触れるのが初めてだったソニンは、これが普通なんだと思い込んでしまった。

ヘプタスロン(陸上の七種混合)をやっていたこともあり、身体能力が全体的に高い。接触プレーが嫌い。それまで球を足でさばいたことがない。
ソニンはキーパーとしてそのキャリアをスタート。抜群のバネ、投てき種目で鍛えた鉄砲肩、そして前に詰めるスピード。あっという間にその実力を開花させたソニン。
その年の全国朝鮮中級学校体育大会にいきなり優勝、神戸にソニンありと一躍その名は広まる。ただし、関係者の間のみで。
当時全国中学生体育大会は朝鮮学校への門戸を開いておらず、神戸朝鮮中級学校は幻の強豪の地位に甘んじることになる。

進路選択の時期にさしかかる。高級学校に進むか。学校基本法第一条に定められた一条校、つまり日本の学校に通うか。
前者なら大阪朝鮮しかない。大阪朝鮮はすでに民族学校に対し門戸を開かれた高校総体で全国大会に出場していた。
後者なら兵庫県には神戸弘陵と滝川第二がある。ともに全国レベルの名門だ。
一度民族学校に入ったら民族系の高校、大学と進むのが当然。ソニンはそれを破った。
Jリーグには1チーム一人の在日枠がある。日本生まれで前述の一条校を卒業した外国人を日本人と同じ扱いにするというもの。将来を見据えての選択だった。

滝川第二の門を叩いたソニン、入部したその日に大きな壁にぶち当たる。
ものすごくうまいキーパーがいたのだ。それも同学年に。
負けたくなかった。懸命に技術を磨いた。始めて間もないサッカーだけに伸びしろは大きい。メキメキ実力を伸ばしながらライバルと明確な差をつけられないソニンは常にベンチを温めた。
ソニンは、在日とはどういうことか思い知った。
二人の間にタイプの違いはあれど実力に大差はない。なら使われるのは同じ日本人のほうだろう。
しょうがない。ライバルを凌ぐ力を持たない自分が悪い。
ソニンは、静かに決断をした。

ソニンはフォワードに転向した。
フィールダーからキーパーに転向する選手は多いがその逆は稀。他の部員の反応が冷ややかな中、唯一励ましてくれたのはライバルのキーパーだった。
「ソニンはフィールド向き。キーパーなんてやめて正解だよ」
フォワードを選んだのはサッカーが相手より点を取るのを目的とする以上、ゴールが最も説得力があるプレーのはずだから。
とにかくシュートを打つ。スピードを、跳躍力を、柔軟さを生かして強引にでもフィニッシュにもっていった。守る側にとって一番嫌なフォワード像をキーパー出身のソニンは知っていた。

この二人が最後学年になった時滝川第二は選手権で県勢最高の四強入りを果たし、ソニンは外国籍選手初の得点王に輝いた。
ソニンはプロ、キーパーは大学へ。最初はうとましかったライバルが、いつしか最高の親友になった。
「ソニンてさあ、やっぱ韓国人だよね」
別れ際に言われた。
「一対一の時、すげー怖いもん。ここで負けたら命がないぐらいの気迫で」
そうかもしれない。古臭くて嫌だった民族学校でのサッカーが高校で生きた。ソニンを一人で止めたディフェンダーはいなかった。
ソン・ソニンは韓国人でも日本人でもない。在日コリアンだ。

 

イギョラ!

走る、追う、飛びこむ。
とにかく止まらない。投入されるや否や、コリアの18番は一瞬たりともその足を止めようとしない。
「あんなフォアチェックするフォワード、南米にはいないですよ」
呆れかえるユウキに中澤が説明する。
「サンガにおった時はディフェンシブセンターフォワードって呼ばれとったんや」

「松浦、あいつ、どんな選手なんだ?」
入念なアップを続けるFW松浦亜弥に戸田鈴音が尋ねる。弘陵の松浦、滝二のソニンといえば関西高校ストライカーの双璧であった。
「とにかく、疲れないんですよ。80分走って(高校サッカーは40分ハーフ)最初と最後で運動量が変わらない。試合終了間際の方がよく動いてるくらいで。なに食ったらあんな走れるんだろうって、滝二とやるたび不思議がってましたわ」

「加護、あんたあいつ知ってるんだろ」
「矢口さんと安倍さん、飯田さんを足して3で割ったような選手です」
動けて、シュートがうまくて、なおかつ強い。

コリアは中盤でパスを回す。時にはバックラインまで下げる。まだトータルスコアで勝っている。このまま時間稼ぎをすればいい。
連携はぎこちないものの、韓国のダブルボランチは北朝鮮DFの衛兵になろうとしていた。先ほどまでのようにだらしなく横パスを通させるようなことはしない。
だが、せっかく消し去った38度線とは別に、コリアには新たな、そして意図的に国境を引いた。
今度は、MFと1トップとの間に。

ソニンは、最初からパスなんか期待しちゃいない。
サンガを解雇され、背水の陣で単身、初めて故国の土を踏んだ。
Kリーグ・城南一和の入団テストを受けるためだった。
この日本野郎、ミニゲームの際に浴びせられた言葉だ。
半島に住む人達にとって、在日は、日帝支配による苦しい生活を逃れるため日本列島に渡った裏切り者だ。ある意味、日本での差別よりも厳しいものがあった。
が、ソニンも子どもではない。
ディフェンスより、アシストより、ゴール。
ゴールが、すべてのわずらわしいことを拭い去るのを知っていた。
朝鮮学校でも、滝川第二高校でも、京都サンガでもそうだったように。
ソニンはゴールを決めた。自分でも歯止めが利かぬように、何度も。
Kリーグは彼女を迎え入れた。
そして初めての公式戦でも、ソニンは呆れるほどシュートを打ち、そのいくつかでネットを揺らした。
そしてついに、大極旗の縫いこまれた赤いユニフォームを手にしたのだ。

「イギョラ!(負けるな) イギョラ!」
日本ゴール裏に陣取ったわずかばかりのコリアサポーターがそう叫び、太鼓を打ち鳴らす。
ソニンは、どうもこのイギョラという言葉が好きではない。
前向きとかポジティブとかもそうだが、無責任なイメージが拭い去れない。
なにに向かって頑張ればいいのかわからない人だって、いっぱいいるってのに。
だが、それもささいなことなのかもしれない。
民族学校のチームメートがいる。滝川第二のチームメートがいる。
自分を含め彼らにごちそうしてくれた三宮の焼肉屋のおばちゃんがいる。
イギョラ、イギョラ。
私達の分まで、戦ってくれ。

「辻! ミカ! 下がるな!」
石黒がソニンの横の動きに釣られて下がりそうになる両サイドを叱咤する。
実際、コリア監督の狙いはこれだった。
ボールに対して常に飢餓状態にあるソニンに前線でボールを追わせることで、日本ディフェンスの上がりを抑制する。
つまり、守りのためのFW投入。
日本は攻撃的布陣の3トップがまだ機能していない。
残り時間は、確実に少なくなる。
この展開は、時間が早く経って欲しい側、つまり、コリアに有利だ。
石川がスペースを探す。3トップはかえってやりずらく、右にはたく。
「下がるな! ライン上げろ!」
市井が後藤と吉澤に声をかける。
うるさいハエを追い払うには、食べ物を除けること。18の使命がDFラインのかく乱にあるのなら、DFが前に出ればゴールから遠ざかるをえない。
が、市井は読み間違えていた。
18番の頭には、ゴールしかない。

その時、エースはフリーだった。
ボールの出所を失い、チャンスをうかがうばかりの小柄なハーフバックが二人いるだけだ。
向かって左の16番が、右の8番に目をやる。
コリアのエースは、左に走った。

目でフェイントをかけた加護から辻へのパスは、アミゴへの足元に吸い寄せられた。
その目前に、広大なスペースが。
「あほうっ」
矢口が追う。止められないが、並走してコースを限定する。
肩で当たり、矢口を吹き飛ばそうとするアミゴ。
平気な顔で当たり返し、バランスを取る矢口。
眼の端に飛びこむ、味方の姿。
滑りながら、吉澤が雑念を振り払う。さっきのは事故だ。
退路を矢口がふさぐ。詰めだ。
長い足は、ボールの5センチ後ろに。届かなかった。浅かった。
それでも矢口が食らいつく。シュートにいくアミゴ。
回り込んだ後藤のスパイクをこすり、大きくコースの変わったボールが、大きくゴールラインのほうへ浮き上がる。
韓国の虎はあきらめない。なおも前へ。後藤に矢口、立ち上がった吉澤も追った。
コーナーキックを阻止するため、出ようか迷った市井が止まる。どう見ても間に合わない。

俗に喧嘩に使う頭突きをチョーパンという。
これはもちろん「朝鮮パンチ」の略で、朝鮮人が喧嘩の際、接近戦で拳をつかえない時に相手の胸倉をつかまえ、引き寄せながら自分の額を相手の鼻に打ちつける手をよく使うことからついた。
実際読みようのないこの奇襲は役に立つ。
反面、最初からチョーパンを使って喧嘩するやつもまずいない。眉間に人中に延髄、チョーパンは急所の塊である頭部を相手にさらけ出す捨て身の技でもあるからだ。
日本人は、いいことわざを作った。能ある鷹は爪を隠す。

誰もがラインを割ると思っていたボールに、ソニンだけが反応した。
浮き球にまっすぐ走らず、外から回り込むようにして、追いつく。
キーパーが二アポストで身構える。センタリングならなんとかなるが、直接狙われたらキーパーの責任だ。それも「キーパーの目」を持ったソニンの読み通り。
左のこめかみで、押し出すように。ソニンの代表ファーストタッチ。
着地はゴールラインの上だった。

大きな虹を描き、センタリングがファーポストへ。
アミゴが後藤が吉澤が矢口が詰め寄る。
市井が後ずさりながら手を伸ばした。背面飛び。反らせた指先をすり抜け、ゴールの中に落ちた。
日本2−1コリア。トータルスコア2−4。

韓国のフィジカルの強さ。日本のボールコントロールの柔らかさ。
在日コリアンにしか打てないシュートは一方の国のサポーターを黙らせ、もう一方の国のサポーターを狂喜の渦に突っ込んだ。
静まり返ったスタンドで、狂ったように鳴り物を打ち振るう一角にソニンが走る。
その背中をチームメートが追う。名刺代わりの一発は、あっという間に国境線を打ち消した。
ソニンは18と書かれたユニフォームを脱ぎ、その下のTシャツに殴り書きしたメッセージをぶつける。
No Border?
国境はいらないのか? コリアン・ジャパニーズは問い掛ける。
国境があるから民族間の悲劇は絶えない。確かにそうだろう。
でも、国家が諸悪の根源ならば、祖国のために戦うことがどうしてこうも誇らしいのか?

 

泣き虫のキャプテン

やられた。完全にやられた。
前のめりになったところを見事に突かれた。
赤い悪魔が、日本を飲みこもうとしている。
「…」
泣き声が聞こえた。辻か加護が泣き出したのかと思った。
「うっせぇな。まだあるん…」
顔をぐしゃぐしゃにして泣いているのは、チームで一番背の高い11番だった。
「どうしよう、負けちゃうよ」
センターフォワードに立ちながら、シュートの一本も打てないまま絶望的なゴールを先に上げられた飯田が長い腕で涙をぬぐう。
中澤からキャプテンマークを譲り受けた飯田圭織にとって、毎日がプレッシャーとの戦いだった。
偉大なる前任者の影におびえ、必死に立ち向かい、今敗れようとしている。
「まだ、時間はあります」
甘いスライディングしかできなかった吉澤が立ち上がる。彼女もかつて、日本を支えたミッドフィールダーの亡霊に抗い続けた。
「そうだよカオリ。まだ負けたわけじゃないんだ」
矢口も、若き天才の穴を埋めるべく奔走しボロボロに傷ついた。
「こらあ吉澤、なにやってんだ!」
ベンチからゲキを飛ばす保田も、二代目のディフェンスリーダーとして幾度も血を吐く思いをした。
誰もが、内なる敵と戦ってきた。
その重圧に比べれば、目に見える敵なんて。
11人がコリアゴールを見据える。
来やがれ、赤い悪魔ども。

 

統一

コリアがやけに長い休みを取る。ハマサキータとソニンが下がり、戻ってこない。ケガをしたわけでもないだろうに。
「レフェリー」
矢口が審判の腕時計を止めさせる。この様子だと戻ってくるまでにはロスタイムに突入しそうだ。
インジュリータイムの表示は、この小休止を除いて3分。トータルで5、6分だろうか。
加護が水分補給しながら呼吸を整える。失点はうちのミスや。取替えさな。
ハマサキータとソニンの二人が戻ってきた。
ハマサキータが赤いフィールドプレイヤーの、ソニンが黄色いGKユニフォームに身を包んで。
「ポジション交換かよ」
コリアが、動いた。
センターバックとボランチ、ウイングとサイドバックがポジションを交換した。韓国人がDFに、北朝鮮人がMFに、FWはアミゴとハマサキータのツートップ。
残り時間を考えれば、MFもゴール前に下げるカテナチオで逃げ切れる公算が大だろう。
が、コリアには、勝利よりも大きな目的があった。
国家の再統一。南北に引き裂かれた双子の兄弟は必死になって分れまいとしている。
経済、思想…統一後の旧東ドイツを見れば、その道は平坦ではないのは分りきっている。
それでも、兄弟達は、また共に暮らす事を望んでいる。
「なめやがって」
矢口が吐き捨てる。
「あれ、使うぞ」
ミカ、加護、辻にそう言い放つ。
「けどあれはワールドカップ用の」
「非常事態だ。ここで負けたら次はないんだから」
嗚咽を繰り返す、日本のキャプテンにも眼をやる。
「カオリに恥かかすんじゃねえぞ」

 

旧友再会

座りこんでいた GKの頭に、なにかをふわりと乗っけた者がある。
「市井ちゃん」
あわてて後藤から顔をそらし、帽子をかぶり直す。
「どうして」
後藤にとって代表で唯一心を許せる存在だった人が、こんな近くにいる。後藤の胸は締めつけられる。今すぐに抱きつきたい気持ちを必死に抑える。
「もう一度だけ、みんなと戦いたかったんだ」
日の丸をつけられなくなった市井の前で、日本は10人で、市井の席を空けて戦い、勝った。その借りを返しにきた。
「バカだねえ」
後藤が笑う。
「そうだねえ」
市井もつられて笑う。
サンキュ。

 

失われた狂気

8枚の壁の上を抜けた石川のFKはコリアGKソニンに阻まれる。安定したキャッチ。
ボールを抱えて走り、オーバースローで放つ。一直線に伸びたボールはノーバウンドでセンターサークルのツートップへ。
アミゴとハマサキータ、両エースのコンビこそ南北統一のシンボル。ずっと一緒にやってきたかのような息のあったプレーで後藤と吉澤を翻弄。
石川が戻った。パスカットに成功したボールをロングキックで左ヘ。リベロの位置からだってゲームは作れる。
安倍が激しいチェックをかいくぐってハイクロス。飯田に合わせるもGKソニン、パンチでクリア。

「石川戻れ!」
矢口が怒鳴るが、石川はちっともボールが回って来ないことに苛ちを隠せなかった。
日本の3トップをマーク、ラストパスを弾き返する韓国の壁。
後方からのパスの供給の一切を遮断する北朝鮮の壁。
二層の壁に阻まれ、生殺しの石川。なんとかしなくちゃ。石川もまた、エースの重責に耐えていた。
「10番がチョロチョロしてんじゃねえっつの」
走り回るのはうちらの役目だ。あんたは真ン中で偉そうにしてりゃいい。
エースってのはチームそのものなんだ。てめえの出来がよくても、負けてエースが評価されるなんてありえねえんだ。

ゴールに背を向けた飯田の足元にクサビのパスが入る。
この布陣での飯田の使命。徹底してオトリになること。
前線でキープしてタメを作り、マークを引きつけてフリーの選手にはたく。蹴られても突かれても倒れるな。耐えろ。
たぶん、キャプテンとはそうした損な役回りを一手に引き受ける存在のことなのだろう。中澤が去って、その偉大さに気がついた。
自分みたいに気分屋で、嫌われるのが苦手な人間には最初から無理なのだ。でも、だからこそ。
飯田が振り向く。その涙でくしゃくしゃになった形相にDFがビビる。抜いた。カバーがきた。倒れた。

飯田が直接FKを獲得した瞬間、転がったボールに石川が反応する。
「どけ」
矢口がボールを奪った。敵ばかりか味方ばかりも凍りつく。
最終予選において幾度となくチームを救った魔球。無回転で揺れながら落ちる独特の軌跡は何人ものGKを恐怖に陥れた。
だがキッカーの足にすさまじい負担を強いる諸刃の剣は矢口を再起不能寸前に追い込んだ。
予選以来矢口は試してない。
が、残り時間を考えればどうしてもここで1点返したい。石川の言葉は届かない。
日の丸の為ならば命も捧げる。その言葉に偽りはない。
ボールのへそへ、爪先を突き立てた。

ボールは、矢口の足元から3mの地点で止まった。あわてて石川がシュート。打ち上げた。
動かない矢口に石川が駆け寄る。まさか、また足が。
「…」
「矢口さん」
石川の表情が強張る。
「ふ、くく、あはははは」
あまりのことに、笑いが止まらない矢口。
足があのボールの蹴り方を忘れちまっていた。

幻となったセクシーボールとともに、矢口真里の体から狂気は消え去った。
試合の時間経過を知らせる針が45分を差して止まる。
ロスタイムは4分。
ここから、日本代表、奇跡への挑戦が始まる。

 

ロスタイムの奇跡

きせき【奇跡・奇蹟】
(1)常識では理解できないような出来事。「―の生還」
(2)主にキリスト教で,人々を信仰に導くため神によったと信じられている超自然的現象。聖霊による受胎,復活,病人の治癒など。
   原始キリスト教では当時の魔術信仰に対抗するため,また使徒(預言者)のしるしとして特にこれを宣伝した。

スポーツの世界ではしばしば使われるフレーズである。サッカーの世界でもまたしかり。
その多くは信じがたい結末にとっさに理由の思い浮かばなかったものが「奇跡」と表現することで無理に理由をつけようとしているにすぎない。
サッカーは最初と最後の5分に点が動きやすい。ロスタイムにゴールが決まっても特別不思議ではない。
それでも、2点となれば話は別だ。3点ともなればまさに人間業ではない。
起こしてみせよう、奇跡を。
おれらが、その奇跡そのものだ。

「稲葉さん!」
「おう」
臨時コーチとして招かれたU−19監督の稲葉貴子がストップウォッチを押した。
ロスタイムの表示は4分、残り時間は4分0秒から4分59秒の間ということになる。
昨年引退したばかりの石黒はプロ選手を指導するのに必須であるS級ライセンスを持たない。
一昨年引退しガンバユースで一年以上選手を指導、なおかつ中澤の前の代の日本代表主将としてAマッチ27試合をこなした実績を買われ、C級からS級に飛び級でライセンス取得した稲葉がベンチにいることで監督(正確には監督代行)としてベンチにいることができる。
稲葉はあまりでしゃばらなかった。主に出られない選手をケアし、新しい選手を連れてくる中澤との連絡役など黒子の仕事に徹した。
その「ピアノの担ぎ手」の手の中で、ストップウォッチが冷徹に時を刻み出す。
「10秒」

ソニンがなかなかゴールキックを蹴らなかったために、警告処分を受ける。当然作戦のうちだ。
なおも靴ひもをしばり、GKユニフォームのそでを直して、高く蹴り上げる蹴り上げる。これで20秒近く稼いだ。
吉澤がヘッド。ただ弾き返すのではなく、石川へ確実につなぐ。
目前でカットされた。せり上がった38度線がフィヨルドのように立ちはだかる。
矢口が拾った。プレッシャーはさして感じない。
まずはこの第一の壁をどう突破するか。

国立での試合開始前のスタメン発表では、選手の名前と顔写真とともに身長、体重が発表される。
矢口はそこに修正してくれるよう依頼した。
身長を、145センチから、144・5センチへ。
たかが5ミリというなかれ。145なら四捨五入して150になる。心のゆとりが違う。

代表に選ばれたばかりのころ、振り落とされまいと必死にあがいていた。
傍目には同期の中で最も順調そうにみえた矢口が、心理的には常に追い詰められていた。
その中で、あの魔球が生み出された。
が、今にして思えば、あれは「降りてきた」ような感覚だったような気もする。
サッカーの神様がみずぼらしい娘の足元に降り立ち、魔法をかけてくれた。
でも、そこまでしてもらって、それでも矢口はチャンスを活かせなかった。
なにやっとんじゃおどりゃあ、せっかくのわしの好意を無駄にしくさって。もう知るかボケ。
そう言って神様は去っていかれた。なぜ関西弁なのかは不明だが。
今思っても、あれは信じがたい日々だった。もう一度ああなれと言われても無理だろう。
低くなった5ミリは、消え失せた狂気の分。
144・5センチの、身の丈の背番号8には、背伸びも狂気も必要ない。

「…50秒経過」

「いくぞー!」
矢口の号令以下、サイドに散っていたミカ、辻が中央に固まった。
矢口から前方の加護へ。加護がヒールで矢口に戻す。矢口から右に回りこんだミカへ。さらに右の辻へ。左にはたいて辻とワンツー。
短く、速く、強く。5メートル四方で四人が激しく動きながらショートパスを乱れ打つ。雪が解け、ようやく芝が見えだした地面の上を快調に滑り出すボール。
北朝鮮のディフェンスは完全分業のゾーンディフェンス。一人に狙いをしぼり、細かく刻んだダイレクトパスで翻弄する。
一人がつぶされても、あとの三人でつなげられる。
イラン戦の前、世界照準の試合で使うべく磨いたダイレクトショートパスのフォーメーションは、辻希美の技量不足でお蔵入りになった。一人でもボールさばきが拙いと狙い撃ちされ、何の効力も持たない。
悔しかったのだろう、辻はその後、一人でダイレクトでボールをさばく練習を繰り返し、それがようやく日の目を見た。
四人はひとかたまりになり、北朝鮮ディフェンスのど真ん中を突き破った。第一の壁、突破。

「1分経過」

「散れーっ」
韓国の壁を目前に、四人が本来のポジションへ拡散する。
「ボールはひとつだ!」
ソニンがディフェンスを引き締める。向かって右からその足元を見る。
そのどこにも、ボールがない。
ボールが抜けてきたのは矢口と加護の間だ。ボールを託された石川のミドルがソニンの正面に。
不意を突かれ、前に大きく弾き出す。
拾った石川が、左に蹴り出す。
ミカ、矢口、加護、辻。流れるようなショートパスに韓国人がいいように揺さぶられる。
辻の目に、目を腫らした長身の選手が映る。
飯田さんを、泣かしちゃ、いけないんだ。
「のの、まくボールやで!」
右サイド、やや浅い位置からフリーで上げた。

辻が右のインサイドで上げたセンタリングは風をはらみ、キーパーの鼻先をかすめるフックのように逃げていく。
ソニンが飛び出せず、待ち受ける。
飯田が飛ぶ。マークは三人。前に二人、後ろに一人。
腕を大きく広げ、いかにも飛ぶぞとフェイクをかける。一人がひっかかった。
一人を背中で押さえつける。残りは一人だ。
上体を寄せ、ゴールに向かって打たせまいとする。
飯田はゴールには打たなかった。流れに逆らわず、微妙にセンタリングのコースを変える。
フリーで安倍がいる。マークを引きつけ、エースにラストパスを送る。飯田は最高の形でそのプレーをしめくくった。
安倍がキーパーの位置を確かめ、左足を振りぬく。
大きく、弾け飛んだ。アミゴだ。危機を察して戻った韓国のエースが、寸ででフィニッシュを阻んだ。

辻のセンタリングが上がった瞬間、石川はゴール中央に向かって走り出した。司令塔としての役割を放棄して。
飯田と安倍にマークが引きつけられている。ゴール前はエアポケット。そこのボールが転がり出れば…
読みは当たり、コリアDFに当たり、大きく浮き上がったボール。
その進路をふさぐ、背番号9。
日本代表が誇る、若き天才。

石川の世代が指導者に怒られる時、必ずといっていいほど言われることがある。
あまえらと同い年で日本代表に選ばれてるやつがいるんだぞ。それにひきかえおまえらは。
多くの若者は思う。しゃあねえじゃん、才能が違う。
石川だけが違った。そんなにそいつが偉いのかよ。じゃあ、追い越してやる。
その選手が、なかば自ら代表を辞退したと聞いたとき、石川は再起を賭け横浜に引っ越したばかりだった。
ふざけんなよ。そんなにチャンスがいらないならオレにくれよ。オレのはもう、他に生きる道がないんだ。
いつしか、会ったこともない福田明日香は、石川の中で羨望と畏怖、そして憎悪の対象となっていった。

初めてチームメートになった福田明日香を振り向かせようと、いつしか石川はやっきになっていた。
鳥肌が立つようなパスを足元に突きつけてやる。
けど、福田はこちらを見ようともしない。
涼しい顔をして、いつものように淡々と試合を運んでいるだけだ。誰もが握った手にべっとり汗をかくこの状況下で。
福田はまだ幼さの消えない瞳で、誰を見ているのか。
石川ではない。安倍でもない。そしてコリアでもない。
気まぐれと言われている天才は、己の中の敵と、常に対峙している。唯一逃げられない自分自身とだけ。
もう一人の明日香が福田に問い掛ける。
あなたはなにをやっているの? 本当のあなたはそうなの? あなたは福田明日香のサッカーを完遂できているの?

ボールはキーパーとキッカーの中間にある。
福田がダッシュをかける。間に合うかどうかわからないボールに、猛烈な勢いで飛びこむ。
どちらのものでもないボールに、キーパーが握り拳を固めて飛びつく。
駒場での試合を思い出す。
すでに絶望的な試合の中で完全に足を止めていた福田に対し、安倍は最後まであきらめなかった。
たとえ、追いつくのは無理でも、自分も同じようにボールを追っていたら、もう1点くらいは返せていたかもしれない。
けど、同じようにしようとすると、明日香が止めた。無益なことだと。
ウズベキスタンでもそうだった。矢口はまだキャップ2、我慢してあわせてやるべきだったのだ。
が、明日香は許さなかった。矢口のセンスのなさに呆れ、失望した。
わかっている。もう一人の明日香が、天才というレッテルが、福田明日香のサッカーを妨げている。
突きぬけるんだ。私は天才じゃない、ただの明日香だ。

おおよそ、福田らしくないゴールだった。
ルーズボールに対して、体ごと投げ出した。
ボールはGKの足元を抜け、ゴロゴロとゴールの中に転がった。
福田はおおいかぶさってきたソニンの体の下から這い出す。
すでに安倍がボールを抱え、センターサークルに走り出している。
恐らく、福田が滑り込むことなんて、初めてのことだった。
だから、それ自体が、フェイントになった。
天才の殻を破った福田明日香は、しかしまだ表情を変えない。
彼女の腕時計の針は、まだ時を刻み出してはいない。

「1分58、59、2分!」

日本3-1コリア(トータル3-4)。
コリアがついにプライドをかなぐり捨て、全員がゴール前に。安倍にアミゴ、飯田にハマサキータがへばりつく。
シュートもパスも通すスキマがない。時間だけが減っていくばかり。
「石川!」
もはや溶けて一本になった二枚の壁に、矢口がドリブルで挑みかかる。その背後を石川がフォロー。
一人、二人と軽やかにかわす。危険地帯でのファウルを恐れるあまりコリアDFのチェックが甘い。
「矢口さん!」
「矢口!」
FW、MFが左右に開きパスを待つ。矢口はそちらを見ようともしない。
矢口は、一人で決める気だ。

この戦いをサッカーの試合以上のものにしてしまった犯人は想像力の欠如だと先に述べた。
考えろ。頭と心をフルに使って。
ピッチの外では相手が望む通りしてやれ。
ピッチでは、相手の一番嫌がることを。
イマジネーションなき者よ、滅べ。
ついに壁を抜けた。矢口一人の力ではない、両サイドを走りDFを引きつけた仲間と作った好機。
ソニンが前へ。自分がGKになって追いつかれたら恥辱。矢口ごとボールを狩るつもりでその足元に。
ヒールパス。十戒の海のように割れたコリアDF、矢口の後ろには石川。
ソニンは止まれなかった。鈍い音がした。

飯田が、安倍が、加護が、うつぶせに倒れた矢口にかぶさる。
なんで流してくんねえんだよ。無人のゴールに放りこんだループシュートを無効にされた石川だけがちょっと腐る。
コリア選手が倒れる。死んだような顔で。
主審はペナルティースポットを指さした。
「ナイス演技」
むっくりと起き上がった矢口の肩を安倍が叩く。矢口はニヤニヤするだけだ。
「なっち蹴る?」
「なに言ってんの」
「石川、おまえは」
「矢口さんのゲットしたPKっしょ」
後藤は上がってこない。飯田も譲る。
まいったな。
それは余裕の笑みではなく苦笑いだった。

矢口の左足は、ひざから下がしびれていた。GKと激突した際神経を傷めたか。
面の皮は厚い。表面には出さない。本当に苦しい時こそ笑え。

「後藤、カウンターくるよ」
市井は万一に備えている。この試合市井はPKを全部止めている。
PKの連鎖反応とは不思議なもので、敵の失敗すら影響することがあるのだ。

自ら招いた危機を前に、ソニンは祖母の言葉を思い出す。
在日はな、普通に頑張っても認めてもらえへんねん。人の倍、三倍やらなあかんえ。
稲葉のストップウォッチは、矢口が倒された3分2秒で止められたまま。

ドーハでの戦いを思い出す。
イランとの息詰まるPK戦。ラストキッカーのはずだった矢口は、中澤にその役を奪われた。
蹴りたかった。足が二度と使いものにならなくなっても構わないから。
わざわざ地球の裏側から舞い戻ったのは、もしかしたら、このためだったのかも知れない。
インパクトの瞬間、上体がぐらりと揺れた。
ソニンは最後まで粘って飛ばず、力のないボールを鋭くブロックした。両手を振り上げ、何度もガッツポーズをするGK。やった。勝った。
さっきまでとは逆の反応を示す両チーム。
矢口はうつむかない、時の砂が尽きる時まで。

日本はあきらめない。時間を惜しみミカがショートコーナー、受けた石川が上がってきた吉澤の頭に。
コリアも譲らない。先に触れてクリア。
後藤が蹴り返そうとして空振り。ただ一人残っていたハマサキータ独走。
飛び出したGKがチェックにいった。当然ゴールはがら空き。
市井は奇跡を信じているわけではない。ただ、間もなく解ける魔法が効いているうちは、全力で戦うと決めた。
ハマサキータが横にはたく。ファン・アミゴが走りこむ。後藤が戻った。
二人はそのまま攻め上がる。シンプルなワンツーで揺さぶりをかける。
これが最後のコンビ。

市井が右サイドヘロングパス。人間が密集するゴール前と違い、ノーガードになったサイドから福田が切り込む。
やはりドリブルが混乱したディフェンスには効果的だ。が、一人の力には限界がある。三人目につかまった。
「福田はん」
フォローしたのは加護。前に飛び出した辻のヒザの高さにセンタリングを。これもはね返された。
石川が拾った。やはりドリブル。少しでもボールを進めるんだ。

「稲葉サン、あと何分ですか?」
「あ!」
「ど、どうしましたか」
「時計止めっぱなしだった」

石川の背に、ずしりと重い負荷がかかった。勝利へのプレッシャーか。いや違う。
その頭には、キーパーすらかわしてゴールを奪おうとする現実離れした考えしかない。
ようやく、降りてきやがった。
石川の背に乗ったもの。それはワールドカップ予選という特異な空間が生み出した正体不明の異物。それは狂気とも魔物とも呼ばれる。
今度はコリアも体で止めにいく。石川もひるまず当たり返す。
あと一人。そう思った瞬間、左からスライディングが。飛んでかわす。
着地地点に三人のDF。飛べば一瞬無防備になる。それがコリアの狙いだった。

「梨華ちゃん!」
倒れた石川に駆け寄る吉澤。
「石川!」
矢口もまた駆け寄る。石川は肩を押さえている。それも脱臼がクセになっているほうの右肩ではなく、左の肩を。
「着地した時勝手にくじいたんだ。ファウルじゃない!」
アミゴ、ハマサキータ以下コリア選手が主審を取り囲むようにして抗議する。もちろん判定は覆らない。
石川は猛烈に痛む左肩に右手をやり、それでもボールに左手を伸ばす。FKだ。
他の選手は試合などそっちのけだった。
その選手だけが、まるで違うものを見ていた。
主審は、時計の針を止めてはいなかったのだ。

天才は、凡人の狂気など鼻で否定する。
石川が倒れた位置に両手でボールを置き、すぐさまリスタートしたのを誰もがぼんやり眺める。
ただ一人、キッカーの相棒を除いて。
サイドに流れたボールにステップを合わせながら、GKの位置を確かめる。
右足アウトサイド。飛び出したソニンの動きを見極め、逆を突いた。
ネットが静かに揺れるのを確認すると、安倍なつみはパスをくれた福田明日香に抱きつく。
ゴールデンコンビ、ついに炸裂。
安倍の抱擁を受けながら、人さし指で手首を叩く福田。
ようやく、凍てついた時計の針が進みだしたのだ。

日本4-1コリア。トータル4-4。
ついに追いついた。
「喜ぶな!」
言えなかった危機感を今度ははっきり口にする矢口。もう一度あのゴールネットを揺さぶって、初めて逆転劇は完結する。
狂気は去ったが、経験は残った。
「立て!」
交代後もベンチに残ったアキナがうなだれる仲間に叫ぶ。まだ同点になっただけ。
日本ベンチは残された正確な時間を把握してないが、せいぜいワンチャンス程度だろう。
ボールをはさみ、にらみあう両国のツートップ。
最後のコインを手にするのは牙むく両韓の英雄か、復活した黄金の二人か。
薄日が差してきた。

「あうっ」
石川が苦痛に顔をしかめる。保田に抜けた左肩を入れてもらったのだ。
「じゃ、いってきます」
「待った。テーピングするんだ」
「試合終わっちゃいますよ」
「うるさい。脇とヒジくっつけろ」
まったく、このチームはバカばっかだ。足が折れても、心臓が壊れても。
「試合時間内の復帰は無理だね」
「は? 全然ダメじゃないですか」
「延長がある」
「今負けたら延長もないでしょ」
「あんたね、もっと仲間を信頼したらどうなの。あんた一人でサッカーやってるわけじゃないんだからな」
保田に肩をはたかれ、石川が吠えた。

第一戦、日本0-3コリア。
第二戦、日本4-1コリア。
この試合はアウェイゴール2倍ルールを採用していないため、このまま終了すると15分ハーフのゴールデンゴール方式の延長戦に入る。それでも決着がつかなければ、PK戦に勝敗を委ねる。
日本は、ようやくコリアに並んだ。
ようやく、ドーハでの自らのチームに並んだ。

サッカーは2点差が最も怖いという。その言葉通り、瞬時に2点のビハインドがタイになった。
が、それだけではこの格言のすべてを言い表したことにはならない。
追いつかれたコリアは呆然自失、目はうつろ。
かたや日本は浮かれきり、一時的に目標を見失った。集中がとぎれ、気のゆるみが初めて生まれたのだ。
安倍の同点ゴールがもたらしたのは均衡の消滅、カオスの出現。
コリアのリードか消え、中盤のキープレイヤー石川とアキナが離脱。
気まぐれな勝利の女神はどちらの肩に下りようか、いまだ決めかねているかに見えた。

だから普通は、その流れに乗せられることを嫌い、試合が落ち着くまで不用意に手は出さない。ヤケドするのがオチだからだ。
が、チームが個人の集団である以上必ずアンチテーゼとしてのマイノリティーは存在する。
アユ・ハマサキータ。彼女はビーベ(赤子)でありロッコ(狂人)。子供や気狂いに理屈は通用しない。
ゆえに、より真実や本質に近いところに位置する。
今動けば負ける可能性もあるが、勝てる可能性も上がる。
大きく振り抜く。シュートが低く走る。
GK市井飛びつく。シュートの勢いに押され、指がポストに叩きつけられる。

落下地点にまたもハマサキータ。圧倒的な威圧感に、日本DFは金縛りにあったように動けなくなる。
だからフリーで打てるはずだった。現にシュート体勢は完璧だった。
矢口が、止めた。
シュートに合わせて、しびれているほうの左足を振る。
タイミングは素晴らしく合い、真っすぐにコリア陣内に落ちた。
この瞬間、主審は口に笛を運んだ。タイムアップのホイッスルを吹くためだ。
が、公平であるべきその目が誰のものでもないそのボールを追う青い人影を見つけた時、笛を口から故意に落とした。
見届けたかった。その小さな選手が間に合うのか。

 

おさげとお団子

千葉は検見川。
全国を8ブロックに区切り、中三から高二までの有望な選手を集めたユース地域選抜研修会が開かれた。
当時すでにA代表だった福田、ユース代表の常連吉澤などは呼ばれておらず、二年後のアジアユースに向けての生き残りを賭けた敗者復活戦だった。
ゆえに実力さえあれば特例は認められるわけで、関東選抜に一人、関西選抜にも一人、ひと世代下になる中学二年生がまじっていた。
東京ガス(当時)ジュニアユースのゲームメーカー辻希美と、ガンバ大阪ジュニアユースの点取り屋、加護亜依である。

「おーい双子」
同学年、よく似た顔立ち、背格好。唯一の違いは髪型のみ。
選考会初日、まだ顔と名前の一致しない者が小柄な二人をひっくるめてこう呼んだ。
「似てへんわなあ」
「そうれすよねえ」
「そのれす、ってのやめえや」
「そんなこといってないれす」
他に同い年がいないせいか、おさげ髪の辻はシニョンの加護にくっついてくる。それでますます双子みたく映る。
練習は全地区の選手が交じって行われる。
辻が引いた位置からシンプルに球をさばけば、加護は強引にゴール前に切り込む。
当時の二人はプレースタイルが今と逆だった。

「石川さん、それ、とってくださる?」
「はーい、柴田さん」
関東選抜のフリューゲルスユースコンビ、柴田あゆみと石川梨華。
前回のU-17では代表候補にまでいきながら本戦のメンバーにはなれなかった柴田は左利きのフリーキッカー。
かたや石川はフリエユースに入るやいきなりツートップの一角に食い込んだ気鋭のドリブラー。
柴田は石川を横須賀のカッペと嫌い、石川は石川で取り巻きに囲まれた柴田をキャンディキャンディのイライザのようだとうとんじている。
当時の二人は、表面上は取り繕いながら激しく忌み嫌いあっていたのだった。

二日目、東西二地区に分かれての総当たり戦が行われる。
関東選抜は北海道東北選抜、北信越選抜、東海選抜と。
関西選抜は中国選抜、四国選抜、九州選抜とそれぞれ20分ハーフを一日で戦う。
コートが二枚しかないので同時に8チームは試合できない。
加護は関東と北信越の試合を寝転がって見ていた。
辻のパスワークは意図が明確だ。球離れよく、偏りなく散らしてゆくさまはバレーボールのセッターをほうふつとさせた。
うまいなあ。舌足らずの口ぶりからは想像つかない小気味よさについ引きつけられる加護だった。

「辻さん、どこおるん」
九州選抜との試合を終えた加護が辻を探す。もうすぐ試合なのに姿が見えないのだ。
「う…」
水道の蛇口で右ひざを冷やす辻。ひざ頭がこぶになっている。
「あかんやん。医務室に行かな」
首を横に振る辻。
「試合か? あかんわ。うちらのトシで無理したらえらいことになんで」
「とうざいせんにでないと、さっかーがつづけられないのれす」
辻はバレーとの兼業選手、指定強化選手に選ばれた。
この合宿で結果を出す、優秀選手として東西戦に出られなければバレーに専念しろと言われていた。
「あかん。休みい」

「辻ちゃん、遅い」
どこほっつき歩いてやがったこの言語未発達児。
石川がどす黒い本音を抑えつつ、おさげ髪の少女にほほえみかける。
「すんま…ごめんなさいなのれす、てへてへ」
緊張感のない笑い方が難しい。
関東対東海。吉澤らユース組がいないとはいえ静岡勢のレベルはバカ高い。
「辻ちゃーん」
まだ使われる存在だった石川がいつもよりパスのタイミングが遅いのにじれる。
せやった。シンプルに。

次の試合、関西対中国。加護とツートップを組む松浦亜弥が相方の異変に気づく。
「息荒いよ」
一試合こなしてんから当たり前や。

関西選抜の試合を終えた加護はシニョンをほどき、辻希美になると関東選抜の試合に出る。
石川も、柴田も、誰も気づかなかった。
辻になりきり、左右にボールを散らしてゆく。石川に何本かいいパスを出し、パサーとしての快感にすっかり味をしめた。
試合、休み、試合というローテーションの中、加護だけが出ずっばり。少しずつ動きが悪くなる。
それでも根性で、ピッチに立つ加護。柴田にパスを出す。柴田、倒された。
「だ、大丈夫」
「あとは任せて」
ムリヤリ柴田を担架に乗せ、ボールを置く。
だって邪魔だし。
試合で初めてFKを決めた。

加護はもう自分が誰なのかも分からない。
過労を患った小さな体をコンクリートの壁にもたれさせる。10分だけ休めた。
静かに、寝息を立て始める。

気がつくと、すっかり寝入っていた。青くなってグラウンドへ。
「やったのれーす」
加護が見たのは、松浦のパスを受け、瞬時に二人をかわしてシュートを決めたシニョンの辻希美だった。

二人はともに東西戦のメンバーに選ばれ、辻はサッカーを捨てずに済んだ。
だが後遺症も残った。
この日を境に辻がドリブラー、加護がパサーに。プレースタイルがあべこべになってしまったのだ。

 

ミラー・シャドゥ・ユニゾン

二人は同時にユースに、五輪に、A代表に入った。
少し背が伸び、足が速くなり、ボールさばきが巧みになっても変わらないものがある。
二人の、距離。
辻が大きな苦しみを抱えながらこの試合に臨んでいるのを加護は知っている。
知っていて、なにも言わない。
私はあなたの鏡。
私はあなたの影。
私たちは調和する。

 

逆転劇の完結

辻が背後からのロングパスを頭で落とした。スピードは緩めず、そのまま突き進む。
「ちゃっきり、ちゃっきり、ちゃっきりなあー!」
たった一人でコリアDFに挑む恐怖を振り払うように絶叫する辻。
誰も追いつけないコリア。苦しまぎれのクリアとしか思えないボールに追いついてみせた日本のフォワードにチンチンにされた。
ソニンが出る。アミゴが辻の右を固める。
トップスピードのまま、辻が左にはたく。
延長? うちに延長はないねん。
すでに16分プレーした加護だった。
「うあああっ」
無人の逆サイドへ。
力強く、突き刺してみせた。

 

舞い下りた栄光

「よっしゃあー!」
加護が何度も拳を振るう。その首に辻がしがみつく。さらに背後からサポートしていたミカが二人の肩を抱く。ミカだけが二人の仕掛けたカウンターに反応していた。
一瞬静まったスタジアムが沸いた。
安倍が、飯田が、吉澤が、後藤が、市井が、福田までもが我を忘れた。
「まだだ!」
ただ一人、矢口だけが表情をさらに堅くした。
下手な縄師の亀甲縛りのようなテーピングを施された石川がピッチに戻る。
コリアのキックオフ。アミゴが石川を狙って肩をぶつける。石川がぶつけ返す。
二人が倒れ、笛が三度鳴らされた。

 

狂気を越えて

日本5−1コリア。
トータルスコア、5−4。
ワールドカップ・アジア予選、補欠代表決定戦は、ロスタイムの攻防を制した日本に凱歌があがった。
タイムアップの笛が鳴った瞬間、辻は真っ先に飯田のもとへ走った。
「飯田さん」
「辻、ありがと、ありがと」
細長い体を、辻の小さい体にもたれさせる。あふれる涙を拭おうともしない。
よかった。飯田さんに、恥かかせないで済んだ。
加護は保田のもとへ。
「加護、だいじょうぶか?」
加護が左胸に手をやる。
「まだ一試合くらいできそうですわ」
「ナマ言ってんじゃねーよ」

「彩ちゃん!」
「稲葉!」
中澤、信田、平家がベンチに入ってきた。石黒、稲葉と堅く抱きあう。
世界に挑戦し、あと一歩のところで韓国に阻まれてきた世代。
韓国コンプレックスという忌まわしき伝統を、ついに払拭した。
「イシカワ!」
柴田とA・Iが、倒れたままの石川のもとへ。
「なんか、ずいぶん水あけられちゃったな」
さみしげにつぶやく柴田に、石川は首を横に振る。
勝ちはしたが、自分自身の出来にはとても満足していない。
自分を欠いた場面で、しかも足手まといとしか考えてなかった辻と加護がどでかい仕事をやってくれた。
結局、自分は周りに支えられてここまで来れたのだ。
よかった。本当によかった。

福田は胸に手をやり、静かに喜びをかみしめる。
これで不義理を帳消しにできた。
ようやく、これで心置きなく日の丸と決別できる。
「アスカ!」
大きな日の丸を背負った安倍だ。土壇場で復活し、最後の最後で大爆発したゴールデンコンビ。
「行こうね、一緒に世界に!」
安倍は明るい未来を、戻ってきた相棒がずっと自分の隣にいてくれることをこれっぽっちも疑ってはいない。
福田はあいまいに笑い、安倍に託された日章旗のもう一方の端を照れくさそうにつかんで走り出した。ウイニング・ランの始まりだ。
そして、後藤はベターハーフ、良き片羽の姿を探す。
が、どこにもいない。残されたものは、帽子一つ。

喧騒を逃れるように、市井はユニフォームのままハイヤーに乗りこんだ。
「寒いけど我慢してくださいね。空港に着いたら機上手続きは僕が全部しますんで。その時に着替えとシャワーを」
先に乗りこんでいたユウキが、成田空港と運転手に告げる。
中澤から借り受けたGKグローブを外す市井。
指先がしびれている。寒さのせいではなく最後のシュートを弾いた時に突き指か骨折かしたのか。
これからパラグアイに戻り、リベルタドーレス杯の準決勝を戦わねばならない。
「いい休暇でしたか?」
「うん。ユウキ君、本当に、ありがとう」
「選手に気持ち良く働いてもらうのが、代理人のつとめですから」
市井が、泥まみれの顔を手で覆った。
みんな、つかの間の夢だったけど、本当に楽しかった。
今度は、敵として、会おう。

敗れはしたが、コリアの選手の戦いぶりも称賛に値するものだった。
韓国の虎、ファン・アミゴが若い選手達に立ち上がるよう促す。
下を向くな。我々は誇り高く戦った。胸を張ってソウルに帰ろう。
吉澤は負傷退場したアキナのもとへ。
「握手は勘弁してよ。こんなに悔しいのは初めてだからさ」
「ごめんねアキちゃん。最後まで戦いたかった」
「ヒトミ、世界の壁は厚いぞ。私も、早く治して、この屈辱を晴らすからな」
最後は、結局抱き合った。
仰向けに倒れ、呆然とするソニンのもとに駆け寄ったのは、意外にもミカだった。
韓国人として日本に生を受けたソニン。日本とアメリカ、二つの祖国を持つミカ。感じ合うものがあったのかもしれない。

すげえなあ。本当に起きるんだな、奇跡って。
スコアボードに刻まれた数字を、矢口はしみじみと眺めた。

13min. JAPAN YOSHIZAWA
57min. JAPAN ISHIKAWA
81min. KOREA SON
90min. JAPAN FUKUDA
90min. JAPAN ABE
90min. JAPAN KAGO

ロスタイムに3点が入った試合は矢口の記憶にはない。
まさに奇跡だった。それ以外に形容のしようがない。
が、偶然がいくつかの必然から生まれるのであれば、この奇跡にも理由があるはずだ。

一番大きかったのはやはり監督の采配だろう。三枚のカードをいつ、どのように切ったか。
日本は非常にわかりやすかった。後半開始と同時に右サイドバック大谷を下げFW福田、終盤にストッパー保田を下げ攻撃的な加護を入れた。
大谷の代わりに不調の辻を下げる事もできたはずだが、攻撃的な選手を残して、攻めろ、という意図をその度に再確認する。石黒の絶妙な采配だった。
結果的に福田が1ゴール1アシスト、辻と加護のコンビで決勝点を入れた。この三人なくして奇跡はなかった。
一方、コリア。
負傷退場したストッパー二人はともかく(悪いことをした、と矢口も思っている)一つのヤマがアキナとソニンの交代だった。
アキナは混成チームをまとめあげる要の役割を担っていた。このチームにとっての最重要人物はアミゴでもハマサキータでもなくアキナ。
それが交代を余儀なくされたところで、突発的に出番を得たのが、在日コリアンのソニンだった。

ソニン本人には何の落ち度もない。角度ゼロからのヘディングゴールなんて矢口には絶対無理だし、今日世界で最も不幸なキーパーにしてしまったことを済まなくさえ思う。
ただ、あのゴールが決まってしまったことで、コリアが思わぬスケベ根性を出してしまった。
ワールドカップの出場権は、ピョンヤンと国立の2試合の結果で争われる。トータルで考えればその時点で2点のリードを奪ったコリアは当然守りに行くべきだった。
が、コリアはむしろ攻撃的な布陣をとってしまった。なぜか。
単純に今日の試合だけを考える。日本は吉澤と石川がゴールを挙げていた。コリアはようやく1点を返しただけ。
今日に限って言えば、コリアは1−2で負けていたのだ。
俗に西洋の文化は罪の文化、東洋の文化は恥の文化といわれる。
そして、その恥の感覚は、日本より韓国の方がケタ違いに強い。
1勝1敗、ゴール差で勝利よりは1勝1分けのほうが、当然体面は保てる。
2点差がついたことでコリアは慢心した。それが、奇跡の呼び水になってしまった。

ソニンとハマサキータはポジションを入れ替えた。
が、矢口にとっては急造GKのソニンより、ハマサキータが前に出たことのほうが重要だった。
両韓の英雄が並び立つ事がコリアには重要であった。
が、矢口の目には、ハマサキータとアミゴの違いは歴然としていた。
確かに二人は技と力では甲乙つけ難い、すばらしい選手ではある。
だがアミゴにはしのぎを削り合う空間の歪みが生み出す正体不明の力、たとえるなら狂気がまるで感じられなかった。
ハマサキータは違った。魔力とも呼びたくなる強烈な瘴気をはらんだプレーは日本を絶えず威圧した。
ハマサキータがコリアゴールに90分立ちはだかっていれば、奇跡は起こらなかった。シュートはことごとくその手に吸い寄せられていただろう。
が、前線に立ち、足元にボールを引き寄せることで、日本は狙いをしぼることができた。
チームを世界に導くために宿した黒い魔物の感覚を、矢口は忘れてはいない。
切れ味鋭い狂気が、コリアにはかえって仇になってしまった。これ以上の皮肉はなかなかない。

それにしても、だ。
矢口はしびれたままの左足に、忘れて久しかったあの感覚を思い起こした。
シュートをダイレクトで蹴り返すというアイディアは、サッカーマンガで読んだ。そのまま相手ゴールに突き刺さる様を見てんなこたぁないよと笑った。
あれは、とっさの判断だった。
どう思い起こしても、正常な思考ではない。
サッカー選手が最も前のめりになるのは、味方選手がシュートを打つ瞬間だ。だからそのシュートを真っ直ぐ蹴り返せば必殺のカウンター・パスになる。
理屈ではそうだが、発想自体が完全に現実と遊離している。
もう戻ってこないと思っていた魔物を、あの瞬間だけは確かに自分に感じた。
あのプレーは想像力と狂気、二つの相反するものが融合して生まれた。
その意図を汲み取ったのが加護たちだけだった。
あれは狂気の残りかすか。それともまだ、矢口の中に魔物は息づいているのか。
「ナイス・ゲーム」
ハマサキータが話しかけてきた。ユニフォームを交換したいと言っている。
「あの豹柄のがいいなあ」
「あれは自前なんだ。ものすごく高い」

 

瞬間の残像、瞬間の永遠

日韓戦に、また一つ名勝負が生まれた。
この時の日本代表チームは「奇跡のイレブン」として語り継がれることになる。
石黒監督は、自分の力では世界を勝ち抜けないと辞任の考えを明言した。
保田は代表からの引退とドイツリーグ挑戦の意向を発表。
福田、後藤もワールドカップ本戦には参加しない事を表明。特に、福田の意志は固いとみられる。
加護は本格的復帰に向けてリハビリを開始した。
辻は再び、バレーボール全日本チーム入りを打診されている。
そして、市井はもちろん…
またコリアも財政面などを理由に挙げ、当面は統一チームを作らないという考えであると発表。
ドリームチームは、まさに幻のチームになった。

今日戦った同じ顔ぶれで、また一緒に戦えるとは限らない。
でも、だからこそ、今日という日が、日々薄れる記憶の中できらめきを放つ。
代表チームという特異な空間で培った友情が永遠に輝き続ける。
永遠は、人の心にのみ存在する。

 

イマジン

「矢口さん!」
石川に促され、矢口が勝者の列に加わる。
安倍と辻が旗を振る。福田が加護と肩を組んでいる。
吉澤と飯田が騎馬戦のように石黒を担ぎ上げている。
後藤は市井が残していった帽子をかぶっていた。
松浦、木村、大谷、尾見谷ら影でチームを支えつづけた面々もいる。
「カッコわりいよ。最後オイラが足引っ張っちまったもん」
「んなこと、みんな忘れてますって」
矢口の目には、すべてがまぶしく映る。もうなにも見えない。
空を見上げた。
厚い厚い雲が割れ、金色の光線が一条の光の列を形作る。
天国はない、ただ空があるだけ。

 

エピローグ〜新たなる戦いへ

「うー…」
中澤はガンガンとなる頭を水に打たせる。
祝勝会で、年甲斐もなく暴れすぎた。
なぜかカーネルおじさんが自室で添い寝していた。パンストはビリビリだった。
歯を磨き、スーツに着替え、メイクをほどこし、勢い良くマンションを出る。
去る者追わず、来る者拒まず。
いなくなった人間の分は、自分が足で稼ぐ。
スカウト、中澤裕子の戦いはまだ――

つづく。