サッカー小説完結編「歓喜の145センチ」
第一部・The Cried Red Monster
「The Cried Red Monster」
なにごとにも順序がある。
膨大な事象を語り尽くすため、このチームを立ち上げた人物のことをいの一番に語らねばなるまい。
彼女こそは、サッカーの鬼であった。
ワールドカップ予選を戦い抜いた狂気のイレブンの影に隠れ、その才能のかけらほどの栄光にすら預かれなかった。
最初の物語は赤鬼と呼ばれた一人の天才プレイヤー、そして彼女が流した幾筋かの涙について。
左膝から下が、奇妙なまでに前に突き出していた。
ももの骨とすねは直接つながっているわけではなく、クッションの役目を果たす半月板と呼ばれるものと、四本の靭帯によってつながれている。
前後左右の膝の動きを安定させるのが、四本の靭帯の役割である。
すねが前に出ている。これはひざの中央で後十字靭帯とクロスしている前十字靭帯の異状を意味していた。
倒れた時、太いゴムが切れたような音がした。
声も出ないような苦痛にまみえながら、それでもこれらのことを判断できたのは、これが三度目の大怪我だったから。
だけど、それがどうしたというのだ。
彼女は、依然、絶望の中にその身を置いていた。
神様、いるんでしょ。
返事、してくださいよ。
これ以上、私のなにを試しはるつもりですか。
選手生命の危機を囁かれた二度目の怪我、左ヒザ外側副側靭帯および半月板損傷。
彼女はその怪我から、通常の半分のリハビリ期間でカムバックを遂げた。
熱意があった。焦りもあった。やりたいことの半分もかなえてなかった。
だが、次はもうないと言われていた。
だから、待った。主治医のOKが出るまで必死に耐えた。
そして、今日は待ちに待った復活の日。新たに道が開けた瞬間だった。
その第一歩が、奈落への落とし穴。
焼けるようなひざを抱え、赤鬼は泣いた。
底無しの闇へ、どこまでも落ちていった。
平家みちよが初めて赤いユニフォームに袖を通したのは四日市中央工業高校一年の時。ユース代表に抜擢された。
当時の日本代表のユニフォームは赤だった。日の丸は入っていなかった。
マレーシアでのアジアユース、日本は一次予選で敗退する。
いいとこなしだったチームにあって孤軍奮闘していたのが最前線でボールを持ち、一人で切れ味あるカウンターを披露していた平家であり、
その気持ちを全面に押し出したプレーは海外のプレスからも高く評価された。
この時初めて平家はこう呼ばれた。レッドモンスター、赤鬼と。
平家の魅力は、なんといってもその左足に尽きる。ユースではセンターフォワードだったが、
高校では本人が最も好むトップ下のポジションから巧みに振り分けるパスの下地は、そのどこまでも柔らかいヒザ関節。
そして、ゴールが見えるや否や、瞬時に陥れるその爆発的なキック力。
誰もがその自在な左足に期待する。メキシコ五輪以来長いトンネルに足を踏み入れた日本サッカーのゆく道を照らす魔法の杖に。
平家本人も、その期待に答える用意があった。
それが、あの日を境に、なにもかもが変わってしまう。
高校三年の時である。
その一報を聞かされた平家、思わず耳を疑った。
バルセロナ五輪予選日本代表候補に選ばれたのだという。
長くプロの出場を認めていなかったオリンピックサッカーは、この大会から23歳以下世界大会という位置づけがされた。
年齢的には次のアトランタ大会にも出場権のある平家の選抜はまさに異例。
平家は悩む。当時は二大会連続の出場が認められていなかったのだ。
もちろん、光栄の極みではある。が、軽はずみに承諾しては四年後に後悔するかもしれない。
そしてもう一つの悩みを抱えていた。
プロへ行くべきか、否か。
「なんだ、高校生かよ。荷物運び要員だな」
自分も昨年まで高校生だったフジタの攻撃的レフトバック、石黒彩が気さくに声をかけてきた。
「一番若いんだから、せいぜい勉強していきな。なくすもんなんかねえだろ」
すでにA代表にも定着しつつあった日産の守護神、信田美帆。
「今回見送るか、それとも賭けてみるか、この合宿でゆっくり考えたらいい」
大学ナンバーワンゲームメーカー、そしてキャプテンとしてチームを率いる稲葉貴子(東海大学)。
いずれもその後の日本代表を支える若獅子が、五輪予選代表の主軸を担っていた。
一次予選最終戦、対中国。
0対0。引き分けなら得失点差で中国に負ける。しかも石黒が二枚目のイエローをもらって退場。
そんな状況で平家の出番は巡ってきた。図太さが売りのように言われてきたその肩にずしんとのしかかるプレッシャー。
ピッチに飛び出すと、パチンコ玉のような勢いで走り出す。交替出場の時はとにかく周囲のテンションに早く合わせること。
が、この時ばかりはいっこうに気持ちが高ぶってこない。
体が温まれば温まるほど、脳ミソの中心に氷の釘でも打ち込まれたかのように、異様な冷静さばかりが平家の神経を支配していった。
道が、見えた。
肉眼にではない。目の前には万里の長城のごとき高く厚い壁が幾重にも張りめぐらされている。
でも、間違いなく平家には見えたのだ。
その道が消えてしまわないうちに。
「稲葉さん!」
最年少の遠慮からか、それまでパスを要求することなんてありえなかった平家が走りながら足元を指さす。
稲葉からのパスを受けた時、中国のプレスはまだ甘いものだった。
ゴールまでかなりの距離があり、しかもボールを持ったのはどう見てもひ弱な高校生だったから。
が、それが完全に見込み違いだったと思い知るのは、わずか5秒後のこと。
ルックアップ、数歩前に出てからいきなりトップスピードに乗ったドリブルを開始。急激なリズムの変化についていけない中国DF。
そのうろたえぶりなど気にもとめない平家。
その紅潮した顔の表情は圧巻で、第二次世界大戦時に悪鬼と呼ばれた日本軍兵士の怨霊が乗り移ったかのよう。
唯一反応していたのが当時東アジア最高のリベロと呼ばれ、日本の松下電工でプレーしていたルル。
その足元に、両足を揃えたスライディングを仕掛けた。
飛び越えた。真正面から左足で突き刺した。
左腕を高だかと掲げながら決心した。
よし、サッカーで生きていこう。
この頃には、平家=赤鬼というニックネームがすっかり定着していた。
確かにすごい顔をしてボールを追ってるとは思うけど、女子高生に鬼はないんやないやろか。
けど、あの赤いユニフォームに袖を通すと、確かに身が引き締まる。
そして日本へ帰り、四中工の白いユニフォームに着替えても「高校生オリンピック代表・平家みちよ」であることには変わらない。
鬼の首をとって手柄を立てようとする桃太郎きどりが群がってくる。
だあぁ、もう、うっとうしい。マジで鬼になったる。
平家はそのたびに、金棒ならぬ左足をぶん回し、あざといタックルを蹴散らした。
が、グラウンドの外、増殖した親戚と友達の皆さんにはそうもいかない。
サッカー以外では、一人になりたい時間が、すっかり増えてしまった。
そして、赤という色について。
名字で分かるように、桓武平家の末えいである彼女。
そう、源氏の白旗、平家の赤旗。
まっ赤に染め上げられた鎧をまとえば、体中の血が燃えたぎるのは当然だった。まさに遺伝子レベルの問題だったわけである。
それに気づいて以来、平家は赤鬼と呼ばれるのを嫌わなくなった。試合となれば血の色を浮かせ、
今にもツノが生えてきそうな形相で荒あらしくゴールを襲っては敵を震えあがらせた。まさにリアルななまはげのようだった。
その名を呼ばれたことで、平家の中に眠っていた本物の「鬼」が覚醒したのである。
「みっちゃん、これ聴いてみな。絶対はまるって」
ロック好きの石黒が、それまでほとんど音楽に興味を示さなかった平家に送ってきたのはイギリスのロックバンド、
クイーンのマイベストテープだった。
ぶっ飛んだ。ロックとオペラ、ゴスペルまでも消化しきったその圧倒的に深い歌声に。
フレディ・マーキュリー、クイーンのボーカリストだ。
確かに凄い歌い手だ。けど、なんでわざわざ編集までして送ってくれたのだろう。
答えはテープの最後の歌にあった。
スペインのオペラ歌手モンセラート・カバリエとフレディのデュエット「バルセロナ」。
「フレディは親日家なんだ。フレディがきっとバルセロナに連れてってくれる」
石黒の手紙の結びの言葉を平家も信じた。バルセロナ行きチケット、必ずゲットできると。
最後の全国選手権の組合せも決まり、地元に近い名古屋グランパス入りを決めた晩秋。
巷にはやたらボヘミアンラプソディやウィーアーザチャンピオンがかかっていた。石黒を思い出し電話する。その声は重かった。
「フレディ、死んだんだよ」
そのままカラオケボックスで一人クイーンを熱唱する平家。
声を枯らしながら、赤鬼は泣いた。
バルセロナで会いたかったよ、フレディ。
年が明け、最後の選手権が始まる。
平家は、この大会で最も注目を集める選手だった。
ローカルな人気者は、あまりサッカーを知らない人にまでその名を知られるまでになっていた。
いわばこれが初お披露目。全国デビューの瞬間。
が、相手は自分と同じ日本の高校生。プロとも渡りあってきた自分には吊りあいの取れない相手だという自負もある。
開始30秒、ポストプレーから足元にボールが落ちる。
必殺の左足一閃、耳をつんざくような音とともに揺れるネット。
もちろん、たったワンゴールで許すはずはない。
さあ、地獄を始めようか。
選手権優勝という金看板を下げ、平家は五輪代表に戻った。三月から最終予選が始まるのだ。
状況は一変していた。A代表の監督が突如、総監督として指揮を取ることになったのだ。
総監督はさっそく改革の大なたを振るう。
足が速い、という理由だけで、DF未経験の平家を左のウイングバックにコンバートする。本来ここの選手だった石黒はポジションを失った。
確かに一次予選をアップアップしながら通過したチームではあった。
でも、なぜ。
この不可解な監督交代が、日本サッカー協会に対して、平家が初めて疑問を抱いた瞬間だった。
「協会の意向だ」
「またかよ」
「手柄の横取りか。ふざけやがって」
稲葉がうめき、信田が吐き捨てる。石黒は天を仰いだ。
日本サッカー唯一にして最大の金字塔、メキシコ五輪銅メダル。日本サッカー協会をいまだに牛耳るのはその関係者。
総監督は、メキシコ五輪GKだった。
「そんな。この土壇場に」
指揮官交代は敗因につながりかねない。平家の疑問はもっともだったが稲葉はさびしげに首を横に振り、信じられないようなことを告げた。
「それはそれでOKなんだよ。うちらが負けることで、メキシコの栄光がかすまずに済むんだから」
マレーシア・クアラルンプール。
日本を含む六か国がバルセロナ五輪アジア枠二つを賭けてリーグ戦を行う。
しっかり守ってカウンター、という意識統一だけはしてマレーシア入りした日本チーム。
が、内部はすでに崩壊していた。
守れないサイドバック平家は首脳陣からもマスコミからも叩かれた。
このあたしがフルバック…平家のプライドはすでにズタズタだった。
それでもキレずに耐えられたのは、石黒の存在があったから。
試合に出られない悔しさをこらえ、平家にディフェンスのノウハウを指南してくれる。
ああ、やらなくちゃと思った。
「平家、水ばかり飲むな!」
聞いてなかった。浴びるように飲み、頭からかぶった。
まさかこんなに蒸すとは。日本も高温多湿だからなんとかやり過ごせると思ったのが甘かった。
緒戦、対UAE。タッチライン際を行きつ戻りつしていた平家は後半、ガタッと運動量が落ちた。
夜にもかかわらず30度を越す亜熱帯、慣れないポジションをこなす気疲れにすっかり参っていた。
しまいにはもう、いいやという気にさえなってきた。
自分がダメなら石黒が使われる。それはそれでいいかも知れない。
結局UAEのカウンター一発で沈んだ日本は黒星スタート。
クウェートとの第二戦。平家はまたも左アウトサイドでスタメンに。生まれて初めて、試合に出たくないと思った。
相変わらずタッチライン際が平家の職場だった。
サイドを守り、稲葉がボールを持ったらオーバーラップしてセンタリングを上げる。それ以外の仕事は与えられなかった。
格下相手によもやのドロー。収穫はスイーパーが負傷、石黒に出番が巡ってきたくらいだ。
試合後、選手が自発的にミーティングを開いた。
「もう分かってると思うけど」
か稲葉が口火を切った。
「このままじゃ勝てない。みんなで考えよう、どうすれば勝てるのか」
対バーレーン戦。日本の布陣が変わった。
ストッパー二人+リベロの3バックから、左ストッパーをサイドに張らせた4バックへ。余った平家は左ウイングに。
完全な命令違反だった。
積極的にラインを上げる石黒、その背後をカバーする信田。前線では稲葉が絶妙な配球を見せる。
平家は左サイドで自由に暴れた。
背後からのボールを左足インサイドで斜め前方に落とし、ぐん、と押し出すように中へ。ゴールが見えるやシュートの構え。
DFのカバーを嘲笑う左膝の柔らかさ、瞬時の判断。
シュートをフリーで走る稲葉へのラストパスに早変わりさせた。
最大の山場、韓国戦。スタメン表に平家の名はなかった。
規律を乱したというのがその理由だったがなんのことはない、ただ自分の意のままに動かない選手が気に食わなかっただけ。
完全な感情論だった。
冷たい怒りを抱え、平家はベンチで試合を見守る。予想通り赤の韓国に白の日本が押される展開。
しかし崩れそうで崩れなかったのは石黒の踏ん張り、そして信田の脅威的なセーブがあったから。
引き分けかも。そう平家が思った時、韓国のロングボールがDFとGKの間に落ちる。
かっさらわれて、決められた。
かすかな望みすら消えてなくなった。
悔しかった。けど、涙はこぼれてこなかった。
記者会見で、総監督がのたまったというその言葉を聞くまでは。
「技術、戦術理解とも日本の選手が一番劣っていた」
敗軍の将が兵をそう語ったそうである。
その発言に、誰も表だった不満を漏らさない。あきらめているようにも見えたし、なにか言ってにらまれるのを恐れているのかもしれなかった。
左サイドバックを演じさせられた高校生ストライカーだけが違った。
拳を震わせ、クアラルンプールの夜空をにらむ。生ぬるい空気を切り裂いて吠えた。
「ふざけんな!」
赤鬼が泣いた。悔し泣きだった。
屈辱にまみれた予選敗退から平家が得た教訓。
日本サッカー協会は敵、日本サッカーはアジアですら通用しない。
もう、うんざり。
このまま箱の中で腐っていくなんてまっぴらだ。
平家は日本の赤を捨て、名古屋グランパスの赤にのみその心血を注ぐことに決めた。
その後、A代表で長年活躍する稲葉たちとは袂を分かった。
もちろん、一生名古屋で終わるつもりはない。
世界に出てやる。
この左足一本を、とことん極めてやらあ。
この誓いが平家の、ひいては日本代表の名運を大きく変えてゆく。
名古屋グランパスエイトに入団した一年目から、平家は狂ったようにゴールを狙った。
ヴェルディやアントラーズ、強いチームほど戦意が駆り立てられた。
名古屋はそれほど強いチームではなく、その闘志が空転することも多かったが、
それも「東欧のブラジル」と呼ばれる国からやってきた選手を迎えるとすべてが好転した。
三点取っても四点目を狙う。その貪欲な姿勢が、ついに海外からのオファーを呼び込んだ。
オランダリーグ三大名門のひとつ、PSVアイントホーフェンが、正式に名古屋フロントに打診してきたのだ。
平家は、即座にサインした。
「オランダかあ。ええなあ。すごいなあ」
子供のようにそう繰り返すのは、中澤裕子というベテランのGKだった。
対戦したことはない。彼女の所属する京都サンガは現在のJ2にあたるJFLを戦っていた。
そんな中澤には海外という響きがまぶしくて仕方ない。
が、中澤もまた、まばゆい宝石を手にしていた。
言うまでもなく、日本代表のユニフォーム。プロでやるかすら迷っていた中澤にとってそれは天啓に他ならない。
平家にはこの平凡なGKのよさがよく分からない。
新生日本代表の旗揚げ、そして平家の日本ラストゲーム前、合同練習でのヒトコマ。
日本代表のユニフォームは平家の慣れ親しんでいた赤から空色に。上腕部には日の丸が縫いつけられていた。
若いチームをまとめるのはかつての同僚、石黒。平家が代表に決別した後も親交は続いていた。
中澤、石黒率いる守備陣はまだコンビが甘く、平家はそこを容赦なく攻めた。
マークのズレを突いたヘディング、石黒が中心に立つDFラインをかいくぐってのドリブルシュート。
あっという間に2点を奪い迎えた後半ロスタイム。
道が見えた。平家はもう待ってられなかった。
左足を振り抜く。中澤が次にしたのはゴール内のボールを拾うことだった。
「みっちゃん、気合入りすぎ」
試合終了直後、足を引きずりながら苦笑する石黒。それほどこの日の平家はキレていた。怖いまでに。
「ま、若いやつらにはいい薬になったさ」
嵐になぎ倒された樹木のように横たわる青いイレブン。
手加減しなかった平家が言えることは一つだけ。
はい上がれ、このどん底から。
「絶対成功しなよ」
「がんばりや」
石黒と中澤が同時に差し出した手を握る平家に涙はなかった。
この時、誰が思い描けたろうか。
この日がトップコンディションの平家を見られる最後だと。
これから赤鬼が見る地獄を。
オランダ行きを二日後に控えた深夜2時。
身の回りのものを揃えていたら、足りないものがいくつかあった。
同僚の車を借り、コンビニに買い出しに出た。
雨が降っていた。
対向車線のバンが中心線を越えてきた。居眠り運転だったらしい。
ハンドルを左に切った。とっさに左足をかばおうとしたのだと思う。
スピードはさして出てなかった。ただ、路面がスリッピーだった。
制御を失い、その先に電柱があった。
衝撃がまっ先に全身へ伝わり、ついで大音に鼓膜がしびれた。
つぶれた右足がまっ赤にジーンズを染め上げる。
地獄の幕明けだった。
右足の骨は、くるぶしから下が粉々に砕け散っていた。
ヘタ打った、とは思ったが、絶望はしてなかった。またやり直せばいいと。
気分を明るくしてくれたのはテレビで見るワールドカップ予選、試合を重ねるごとに結束してゆく日本代表の姿が素直に嬉しかった。
「元気か?」
チームメートのユーゴスラビア人が見舞いに来てくれた。
「複雑骨折やてな、じぶん。よかったなあ、骨折れたんは絶対完治するもんなあ。ほんまよかったわ」
平家が教えた関西弁を巧みに使ってのきつい励ましがあったかく、やさぐれかけた平家の心に優しくしみた。
事実、日本でリハビリに専念した平家の回復には目を見張るものがあった。
折れた足で歩くのは恐怖が伴うものだが、骨がつながるのを待ってたら間に合わないとばかりに、オーバーワーク気味にメニューをこなした。
同時に、秘密のリハビリも始めていた。
こっそり、ボールを蹴り始めたのだ。
ボールを扱う感覚は存外忘れ易い。休むことで日一日とヘタになっていくのが耐えられなかった。
一人で蹴るだけだから接触はないし、決して無理はしなかった。
が、この努力は後のち仇となる。すべてが裏目に出てしまうその後の平家を象徴していた。
「平家さん、フォーム、変わりました?」
名古屋のサテライトでいよいよ本格的に始動しようとした時だ。
否定したが、内心痛いところを突かれたと思った。
無意識に右足をかばう癖がついてしまっている。
骨はつながっている、頭では分かっていたのだが。
途中、左膝に違和感を覚え、大事を取って休んだ。アイシングをして一晩様子を見ることに。
翌朝。目を覚ますと膝が動かない。くの字にロックされた足を無理に動かそうとすると、この世のものとは思えない激痛が走った。
欠けた半月板が筋肉に突き刺さる、その痛みだった。
右足をかばう負担が左足に、それも平家のプレーにとって命ともいうべき膝に出るなんて。
初めて膝にメスを入れた。除去した半月板の一部は、トリの軟骨を連想させる色をしていた。
今度は、動かないことがリハビリであった。
Jリーグと日本代表、忙しい合間を縫って中澤が見舞いに来てくれた。最終予選が始まった代表チームだがあまりうまくいってないらしい。
新しいメンバーともうまくコミュニケーションが取れないとこぼしていた。
「なにより点が取られへん。みっちゃん、待ってるからな」
少なからぬ励みになった。復帰するかは別として。
「これでも見て自家発電こいとけや」
ユーゴ人は大量の「裏ビデオ」を置いていった。
ギリシャリーグの試合、オランダリーグの下位チームの試合、イングランド二部、ドイツとルクセンブルクのW杯予選…
レアでマニアック、日本にいては見ることのできないゲームの数々。
平家はそれらを貪るように観た。病院のベッドにいながら、ヨーロッパ中を飛び回っているようなものだった。
感じたのは、頭を使うことの重要性。自分がどれだけ考えながらサッカーをしていただろうか。
早くサッカーがしたい。
今なら前よりずっと気の効いたプレーができる。
平家は待った。ひたすら耐えた。
協会の中には、代表に背を向けて海を渡ろうとした平家の現状を密かにほくそえんでいる向きもあるらしい。
それを聞いて涙をこらえた。泣いたら負けを認めるようなものだ。
左膝にかすかな、それでも消えない痛みを感じ、これはなにかと執刀医に訪ねた。
執刀医はいくぶん僻易しながらも、まあそんなもんだよと曖昧に返した。
その言葉を信じて待った。ひたすら耐えた。それこそ体が苔むすほどに。
だが心までは苔がつかなかった。
復讐の紅蓮の炎を絶やすことなく燃やし続けた。
静かな、孤独な戦いが続いた。
時は来た。それまでの欝憤を晴らすべくピッチに立った平家。
その足元にはやはり道がある。今度足を踏み外したらそこに戻れることはもうあるまい。覚悟はもうできていた。
にもかかわらず、平家は三度目の転落を味わった。その日のうちに。
大した接触ではなかった。着地もしっかりしていた。少なくともいきなり無傷の靭帯がブッツリいくような衝撃はなかった。
平家はうめいた。
「あのヤブ」
診断ミスだった。膝を開いた時、靭帯も痛んでるのに気づかなかった。もしかしたらメスで靭帯を傷つけたのかもしれない。
終わった。すべてが溢れた。
一度なら同情もされる。
二度やれば不注意をとがめる向きもでてくる。
三度となれば、もう笑い者にしかならない。
どうして、私だけ。
白いシーツに顔を埋め、ひくひくと嗚咽する平家。
前の二回とは比べものにならないほどの重傷。
度重なる故障に契約はついに破棄され、治ってもプレーするチームすらない。
テレビを見れば見限ったはずの日本代表チームが破竹の快進撃。
こんなはずじゃない。もがけばもがくほど運命の糸が複雑にもつれ、平家をがんじがらめにする。
悩んだ。ここから解き放たれるには糸を切る、つまり引退しかないとさえ。
が、気がつけば平家は再びボールを蹴り始めていた。
引退したところで、他にできることなんてありはしない。
失ったものは確かに、そしてあまりにでかかった。
左膝の可動域は極端に狭まった。360度、どの方向へもボールを出せた柔らかさは見る影もない。
左足にこだわり、右足をつっかえ棒としか考えてなかったツケが出た。鬼の金棒はさびつき、細った。
けど、それがどうしたっていうんや。キックなんてインサイドとインステップさえでけたらええねん。
拾う神もいた。地元三重のチーム、JFLコスモ四日市からのオファーが。二つ返事で契約した。
観客は変わり果てた平家の姿に声を失った。
黄金の左足はテーピングでガチガチ。しかもポジションは最終ラインの前、つまりボランチ。
ただ、ユニフォームの色だけが同じだった。コスモのチームカラーも赤だったのだ。
全盛期に比べスピードははるかに落ちた。運動量もさほどではない。
その代わり深い読みで手堅く攻撃の芽を摘むとボール回しの中心になる。
ロングパスで攻撃を活性化し、時折ロングレンジから放つシュートが西濃運輸をおびえさせた。
なにより仲間を叱咤する高いリーダーシップ。それまでになかった平家の姿だった。
思い通りにならない膝。わずかな観衆。土のグラウンド。
周りから去って行く人達。「落ち武者平家」「おごる平家は久しからず」という野次。
満足はしてないが、それでも平家は幸せだった。
三度のケガの前に比べ、明らかに周りが見えていた。さまざまなことに気を配れるようになっていた。
もしこの視野の広さを、ケガの前に持てていたら。そう思わなくはない。
膝は最悪の調子なのが当たり前で、いつピッチの上で身動き取れなくなってもおかしくなかった。
それでも平家は試合に出た。引いた位置からでも、FW以上に貪欲な姿勢で得点を狙った。
日本代表は得点力不足にあえいでいた。
韓国に日本で0-0、ソウルで0-1。
ありていに暴露すればその瞬間、平家はしめたと思った。
これで自分にチャンスが巡ってくる。監督も自分の存在は頭に入っているはずだ。
日本代表。かつて何の未練もなく捨てたそれは、いつしか平家の赤い炎を燃やす最後のエネルギーになっていた。
「みっちゃん、力貸してえな。試合見とってもちっとも点入る気しぃひん」
出場停止でソウルの試合を日本で見ていた中澤からもそんな電話をもらった。
平家は呼ばれなかった。
呼ばれたのは金髪のスペインリーガーだった。
その試合を平家は国立のスタンドで見ていた。
日本はこの予選最高のサッカーを展開、ウズベキスタンを終始圧倒した。
自分の選んだ道は間違ってたのだろうか。
まばゆい光を放つ青のユニフォーム、平家の胸の赤い灯は音も立てずに消えた。
翌日、日本快勝に沸く紙面。その片隅の囲み記事に引退の文字があった。
今期で解散するコスモのラストゲームが平家最後の試合だった。
相手は稲葉、信田、ルル、中澤といった顔なじみ達。試合に出られなかった石黒から大きな花束を渡された瞬間。
赤鬼は泣いた。
安堵と寂しさとが同時にこみあげたのだ。
それでも、平家の人生は続く。
サッカーを離れるつもりではいたが、具体的になにをしたいかというのもない。
一時的に、目標を見失ってしまっていた。
「ちっとは骨休めでもしたらどや。旅行でも」
ユーゴ人に相談するとそんな答えが返ってきた。
幸い、まだ少し貯金が残っていた。
オランダ行きに使えなかった10年用のパスポートを握りしめ、機上の人になった。
あてどない放浪の旅。世界中を巡った。
その中で実感したことがある。
地球はサッカーの惑星であると。
サッカーの盛んな国は避けて通ったつもりだった。なのに北欧では夜九時を過ぎてもボールを蹴って遊ぶ子供の姿があった。
サッカーが根づかないとされるアメリカにおいても、学生レベルではサッカーが盛んに行われている。
アフリカの小国でも、南米の落ちこぼれと呼ばれるベネズエラでも、やはりサッカーはナンバーワンスポーツであった。
平家は確信し、そして覚悟した。
この星に生きている限り、サッカーから逃れることはできないと。
赤いパスポートがスタンプで埋め尽くされ、平家は日本に戻った。
突然の帰国に、時間を割いて出迎えてくれたのは日本代表コーチである夏まゆみだった。
赤くゆで上がったカニの足をもいで桃色の肉を頬張ると、ほろほろとした甘味がいっぱいに広がる。
そういえば、平家蟹というカニがいる。
壇ノ浦付近に生息、甲羅がすさまじい形相をした人間のように見えることから
この地で滅亡した平家一門の怨念が乗り移ったという伝説がある。
その俗説を裏付けるかのようだが、この蟹には猛毒がある。
平家残党の官女が平家蟹の肉を浸した酒で那須与一の弟を殺害するのが歌舞伎の「平家蟹」だ。
私も、こんな顔をしていたんだろうか。
もちろん今食べているのは毒のない蟹だが、その甲羅をしげしげ見つめる平家。
鏡で見るその顔は、現役時代に比べてずいぶんおだやかになってしまっていた。
「平家さ、これからあてあんの?」
「いえ。でもサッカーに携わろうとは思ってます。ライターとか」
「ライター? 無理無理」
夏はにべもなく断言する。
「指導者になる気はないの?」
「無理ですよ。名選手必ずしも名監督ならずって言うじゃないですか」
「あんた、よく自分で言えるなあ」
冗談半分、本気が半分。
名選手になれる可能性はあった。けど、なれなかった。
「あんた、よく言ってたじゃん、道が見えたって」
平家が時折見せる破天荒なプレー、それを説明する際、よくそんな比ゆを使っていた。
「私はそんなもん、一度も見たことがないよ」
現役時代にパッとせず、コーチとして花開いた夏がぽつりとつぶやく。
「あたしは地獄は見たけど、選手として天国は見えなかった。あんたが見たのはその天国への階段だったんだろう。
昇ることはついにできなかったけど」
プレイヤーとして大成しながら監督としては失敗する先例は多い。
それは恐らく、地獄をあまり見ずに済んだからだろう。
平家は天国を仰ぎながら、地獄に沈んだ。
それが、天国の扉すら拝めなかった夏とは違う点だ。
その後、二人はそれまでのように黙々と蟹をむさぼった。
平家から指導者という選択肢を外させていたもの、それは名監督には成功、失敗問わず、DFやGK出身の選手が多いという点だ。
現役の終着駅付近ではボランチやリベロも経験したがあくまで自分はアタッカーだと思っている。
なによりも、まず攻めるのが大好きなのだ。
旅の垢も落とさぬうちに、平家は次の旅支度を始める。
行く先はあの予選で敗れ、たどり着けなかったスペイン・バルセロナ。
アタッカーとしても、監督としても超一流であった男がそこにいる。
トータルフットボールの開祖、ヨハン・クライフ。
平家が最も好んでつけていたのは、彼の代名詞である背番号14だった。
あわただしく決まったバルセロナ行きだったが、残念なことに実りは少なかった。
平家はカタルーニャの空気を吸うだけで成長できるとでも勘違いしていた自分を恥じた。
指導はBチームのコーチが行う、ひどくおざなりなもの。
日本にいても学べるようなものごとを、東洋人というだけで向ける好奇の目をもって語られた。
仕方ないのかもしれない。クライフ監督に憧れる指導者の卵なんて世界中に、佃煮にするほどいる。
が、なにより失望を隠せなかったのはそのクライフ率いるトップチーム、FCバルセロナの現状だった。
無名のベルギー人プレーヤーが生活を守るため起こした訴訟は選手の移籍の自由を認めさせ、
ひいては欧州全土を巨大な金が乱れ飛ぶ一大マーケットに仕立て上げてしまった。
世に言う「ボスマン判決」はヨーロッパの至るところに札束でスターをかき集めたドリームチームを出現させた。
赤と紺の縦縞、バルセロナもそんなドリームチームの一つだった。
相手はやはりドリームチーム、白い巨人レアル・マドリード。
確かに素晴らしいメンツには違いない。けど、試合は面白くなかった。
その後もカンプノウに足を運んだが、やはり感想は変わらながった。
たとえばラーメン好きな人がラーメンを食べ続けたとする。
いつかは、飽きる。
巨額の年俸と移籍金とでかき集められた選手に求められるものは一つ、完璧な勝利のみ。
力でねじ伏せる豪快で、しかし一本調子なサッカーには機能美が欠ける。随所にハッとなるプレーがあったとしても。
持てるチームがそうなれば、持たざるチームには亀のように首をひっこめ、
カウンターとは呼びたくない偶然性に頼り過ぎる貧弱な攻め手しか許されない。
かたや胸やけするほど具の乗ったラーメン、かたや麺と汁だけのかけラーメン。
もうどっちも食べたくはなかった。
失意とあきらめを手土産に帰国しようとしていた平家。
その前に、どうしても顔を出さねばならぬ場所があった。先送りしていたが、オランダへ飛んだ。
PSVアイントホーフェン。なにごともなければ、平家はこのチームのユニフォームに袖を通すはずだった。
「引退してたのか、そりゃ残念だ。コーチになろうってのかい、そいつは結講」
世話になったスリナム系黒人のスカウトマンの言葉はあまり心がこもってはいなかった。
昔を懐かしむつもりはなく、結果的に迷惑をかけてしまった相手に詫びにきただけだった。
「それより試合、見て行けば」
PSVのホームだった。
アウェーチームは、ひるまなかった。いくさの神の名をチーム名に頂く赤と白のイレブンはホームゲームのように戦ったのだ。
黒人が多い。双子もいる。2m近いGKは足技巧み。元スーパースターと十代の選手が並んでプレーする。
クールに配球する10番はW杯とは縁遠いフィンランド人という。
とにかく攻める。リードしててもセンターバックが攻め上がる。取られたら倍にして返す。
3バック。しかもラインの3。前線には絶滅したはずのウインガーが張る。
アヤックス・アムステルダム、その攻撃性は異様だが嫌味ではなかった。
3-4-3システムはMF、DFに人数を割く昨今の流行にからは逆行している。
が、徹底した前線からの守備はモダンサッカーのそれだし、ゴール前ではね返すよりサイドで上げさせない守備は理にかなっている。
ウイングがサイドバックと連携して囲い込むのが当たり前なのだから。
同時に3-4-3は菱型の中盤の底にいる選手が最終ラインに入るとダブルボランチの4-3-3、
そのままでトップ下を下がり目のセンターフォワードととらえれば4-2-4。
ウイングが引くと4-5-1や3-6-1、サイドバックが前に出れば2-3-5にさえなる非常に有機的なフォーメーションなのだ。
とはいえラインの3バックはいかにも尻軽だし(ハーフが引いて5バックにもなるが)体格も特質も異なるオランダ人のための
タクティクスがそのまま日本人に使えるかどうか。
そして気になったのは戦術至上主義にあってプラスアルファの部分を担うのがフィンランド、ナイジェリアらの外国籍選手だったこと。
組織に打ち勝つだけの異質な個性が不可欠なのだ。
その証拠に、ほとんどがアヤックス出身者で占められ、戦術までアヤックススタイルを踏襲したオランダ代表をほぼ同時期に観たが、
こちらには何の魅力も感じなかった平家である。強かったのだが。
オランダサッカーはいまだにトータルフットボールなのだなあと思う。
74年と78年、二度W杯準優勝を遂げたオランダナショナルチーム。が、その評価は天地の開きがある。
四年の歳月を経たチームの唯一の違い、14番がいるかいないか。
クライフこそはトータルフットボール完成のラストピースだった。天才なきチームは機能的な秀才集団でしかない。
桁違いの才能が簡単に現れるはずもない。アヤックスは異なるバックボーンを背負った外国人を置くことでその代用としている。
代表チームではそれもかなわない。
絵に描いた餅。そんな思いもよぎった。
そのうち一つの疑念が払拭されたのは、北中米カップを視察した時。
他のチームがブラジルやドイツの戦術を踏襲する中、唯一3トップで勝ち進んだチームがあった。この地域の王者メキシコ。
守備範囲の広いGKを後ろ盾に極端にラインを上げ、サイドでボールを狩って平面的なサッカーに持ち込む。
小柄で俊敏、高いスタミナと技術。メキシコ人は日本人とよく似た特性を持つ。メキシコにできるなら日本にできないはずはない。
その意味では、自信を深めた平家。
もう一つの問題。組織か個か。
頭抜けた存在のないメキシコはまた、世界の強豪でもない。
「アシスタントコーチをやってもらえないか」
帰国後C級ライセンスを取得、母校四日市中央工業高校で指導者としてのキャリアをスターとさせた
平家にそう誘いをかけたのはあのバルセロナ五輪予選の日本チーム主将、その後A代表として活躍した稲葉貴子だった。
引退後20歳以下日本代表チームをワールドユース八強に導く。
現在はベスト8組を母体とした五輪代表、その下の世代にあたる19歳以下代表の監督を掛け持っていた。
「みちよにはU(アンダー)19を見て欲しいんだ。S級(ライセンス)ないて? 試合の時はあたしがベンチにいるから心配すんな」
WYベスト8入りし、ユース世代のエポックメーキング的な存在になった前回のチームは、守りのチームだった。
ディフェンスリーダーに副将で広い視野と深い読み、抜群に強いフィジカルと三拍子揃った吉澤ひとみ(浦和)。
ダブルボランチが札幌の戸田鈴音、木村麻美。
吉澤とともにバイスキャプテンをつとめる戸田は冷静さと激しい当たりが持ち味の5番タイプ、
木村が豊富な運動量や的確な散らしで勝負する8番のタイプ。他にも足腰の強い右DF大谷雅恵ら守りのコマは揃っていた。
逆に攻撃は主将でエースの石川梨華一人に頼りきり。ベスト8が限界だった。
新しい教え子は、海のものとも山のものともつかぬ「子供」たちだった。
平家がどれだけの選手だったかを知らない。またそれを示そうにも平家の膝はもうほとんど動いてくれない。
稲葉がひと芝居打ってくれた。
バーレーン五輪代表とのテストマッチを控え、選手に見せたのはバルセロナ五輪予選でのバーレーン戦だった。
「ユニホームが青くない」
FW辻希美のつぶやきがすべてを表していた。
今の自分達と変わらない年頃の平家がそこにいた。
ユニフォームが赤い時代に、韓国に永遠の格下と呼ばれていた頃にこんなサッカーをしていた人がいた。
平家がまずしたのは選手の体力検査だった。
「誰がどんな選手かよくわかんないから。海外長かったしさ」
無論嘘で、実際は選手の適性を適正に見極めたかったのだ。
日本ではFW一筋、MF一筋といった選手がとかくもてはやされがちだ。
アヤックスユースではすべての選手に複数のポジションをさせ、守備のできるFWやゲームメーカーの心が理解できるストッパーを育てる。
いわゆる何々バカはいない。
かくてゲームメーカーだった松浦亜弥(鹿島)がセンターフォワードにコンバート。
右ウイング辻、ゲームメーカー加護亜依らと魅惑の攻撃陣を形成する。
松浦亜弥は極めて精度の高いプレー、心憎いほど冷静な頭脳の持ち主。
意外性には欠けるがミスもほとんどないことから、多少の皮肉も込めてサッカーマシーンとあだ名される。
日本最大の課題、決定力不足。日本のストライカーはゴールに近づくほど心拍数が上がる。
ボールが来たドキドキ、ディフェンス抜いたドキドキドキ、キーパーと一対一だ、ドカーン…
松浦は違う。中盤でもサイドでも、シュートチャンスになってもテンションが変わらない。インサイドできっちり隅に転がす。
ゴールにパスを送るように。決めた後もただ無表情。戦慄すら覚えさせる。
が、当の松浦は当初コンバートを渋る。
理由があった。松浦の父親もまたサッカー選手で、日本代表にまで上り詰めた。しかもポジションはFW。
ただでさえあの松浦の子供と呼ばれてきたのに、ポジションまで同じになったらますます比較される。
が、それも一瞬。すぐ転向を受け入れた。冷静な判断と正確なシュート、小柄な割にヘディングも良かった。
幸い、プレースタイルが違うこともあり、父と比べられることは少なかった。
むしろ現役代表のエースストライカーに似ていると、こんなフレーズが専門誌を賑わせた。
安倍なつみ二世、と…
ここからだった、平家が脅威的な「引きの強さ」を見せたのは。
麻雀ほど運に左右されるゲームはない。イカサマでもしない限り、名人さえツイてる奴だけには勝てない。
カンチャンが連続で入る。A代表に入った辻、加護が一回り大きくなって帰ってきた。
暗刻が裏ドラで乗ってノミ手が満貫になった。清水の左ウイングミカ・トッドの帰化がなり、辻加護松浦とのスクウェアが実現した。
場に三枚さらされていた牌を一発で引き当てた。
ルール変更でWY二大会連続出場が可能になり、前回メンバーだった木村がチームに加わる。守りにも一本芯が通った。
「おら、攻めろ!」
腕を組み、仁王立ちしたまま顔を紅潮させてそれだけを叫ぶ平家監督(代理)。その顔は赤鬼と呼ばれた頃のそれに戻りつつあった。
攻めて攻めて攻め抜く。2点取られたら3点奪い返す。
1-0や0-0が日常的な国際試合にあってその「イケイケ」なサッカーは明らかにバカげていた。
そのバカバカしいサッカーでアジア予選を勝ち抜き、ワールドユース本大会行きをあっさり決めてしまう。
それも他を寄せつけない、圧倒的な強さで。
勝つことによって自信をつけ、自信をつけるからまた強くなる。
誰より、平家本人に勝ち癖がついていた。
どうだろう、この強運ぶりは。
名目上はU19チームの監督である稲葉が、まだS級ライセンスすら取得できないほどコーチになって日の浅い
平家の横顔をまじまじと見つめる。
運は消耗品だ。人それぞれ手持ちが決まっており、いつかはなくなる。命運尽きてなんて表現もあるくらいだ。
選手時代の平家は素晴らしい才能がありながら、足に才能を活かしきるだけの強さがなく、それが平家の不運のエースに仕立て上げた。
しかし幸運自体を消費したわけではなく、ガラスの足という枷から解放された平家には幸運のストックがたんまりと残されていたのだ。
幸運幸運と繰り返したが、運を呼び込むだけの裏付けを平家が持ったのも事実。
稲葉と出会った頃ドイツとフランスの違いは言えてもルーマニアとブルガリアの違いは言えなかった。
サッカーを知りすぎ、固定観念に縛られると逆に怖さを失うのがFWなのだから。
今は違った。様々な攻守の雛形、時間帯や点差ごとの試合運び、敵や審判との駆け引き、すべてを熟知していた。
自ら動かずとも、病院のベッドでも旅先でも食事中も夢の中でもずっとサッカーをしていた。
シミュレーションで確実に経験値を積んでいた。これでサッカーに無知ならどうかしている。
稲葉は憤慨し、またなんて言い訳してよいか頭を悩ませていた。
ナイジェリアで開催されるワールドユース本大会に向けてのカレンダーを協会側から見せられた。
現地入りしてから第一戦まで三日しかない。ヨーロッパを経由しての長旅なのにだ。
経費節約の意図が見て取れる。しかもその言い訳が、治安の悪い彼の地では連泊できるホテルの手配ができない、ときた。
せめて練習試合ぐらいさせてやりたかったのに。
平家に、どんな顔を見せればいいのか。
「好都合だよ」
平家は至って明るい。
「ナイジェリア行きの経由地はどこだっけ?」
「アムステルダム…あ」
「アヤックスユースとの練習試合も手配してある。本物と比べてどこが甘いかの確認だ。
協会もまさかオランダでホテルが取れないなんて言えないだろうしね」
からからと笑う平家。
稲葉は平家のくぐり抜けた地獄を改めて思う。幾度も涙をこぼし、
それでも立ち止まらず歩き続けた者だけにできる心からの笑顔がそこにはあった。
金食い虫と陰口を叩かれつつもオランダキャンプで貴重な経験を積んだユース代表、ナイジェリア入り。
大会前、平家は二年前のベスト8組であるMF木村麻美をキャプテンに選出する。
もちろん前回の経験を活かしてチームを引っ張ってほしいのが一つ。
それとこのシステムでは前からセンターフォワード、ゲームメーカー、ボランチ、リベロ、ゴールキーパーが連なり、
縦のラインの中心が、木村のつとめる中盤のダイヤモンドの底(平家はここを4番と呼ぶ)であるためだった。
早い展開が平家の求めるもの。チームの活殺はこのポジションにかかっている。
だから平家は木村に腕章を手渡した。木村は温厚な性格を活かし、若いチームの姉貴分をつとめあげた。
日本はH組に入った。個人技のカメルーン、カウンターのチリ、高さのイングランドの順に対戦。
上位2チームが決勝トーナメントにコマを進める。
この年代では世界トップクラスのアフリカ勢になんとか引き分け、チリには絶対勝って、星勘定次第でイングランドとの戦い方を決める。
普通ならそうするだろう。
平家は違う。口調が熱を帯びるほどに血色をにじませる白目をむき、いつものように「全部勝ちにいくぞ。三戦全勝だ」
このチームはDF及びGKに不安があった。守りきれるわけじゃないんだから点を取りに行け、というのが偽らざるところだった。
「もっと離れて!」
普段の舌足らずな口ぶりとは違う声で、7番(右ウイング)辻希美が、10番(トップ下)の加護亜依を叱咤する。
A代表での二人は、年齢が低いこともあり、周囲に甘えながらある程度好きに攻めることができる。
この若いチームでは違う。二人は攻撃の主軸であり、ゲームをつくりゴールを狙わなければならない。当然マークも二人に集中する。
加護はボールを受けると、真っ先に付き合いの長い辻を探す。あまり距離を取りたがらず、徐々に中央から辻のいる右サイドに寄っていく。
が、辻にしてみればただでさえカメルーンのハードマークに手を焼いているのに、加護がさらに多くの敵を連れてくるのが耐えられない。
二人が距離を置けば、それだけ敵も警戒を解くのに。
そして、冒頭の言葉を吐いた。
なに言うてんねん、あいつ・・・加護が地面につばを吐く。国際舞台にはとてもふさわしいとは言えない、ボッコボコのグラウンドだ。
FIFAの会長が、次回の会長選挙でのアフリカ票を狙って強引に決めたナイジェリア開催だったらしいが、
この芝を見れば確かにそんな気もする。
持病を克服した加護は、アジアユースでもフルタイムでは戦えなかった。
10番を背負った今回も、徐々にコンディションを上げながら戦っていくつもりだった。
しかし、このディフェンスはどうだ。
加護をケアする4番のボランチは、編み込んだ髪にビーズをつけていて、頭を動かすたびにそれが加護の顔を叩く。あぶないったらない。
不安から、加護は辻を探す。
だが辻は加護を突き放すように、右タッチラインに張りついていく。
なんでやねん、のの。そうやないやろ。
二人の間に、徐々に溝ができはじめた。
「もっとハードに行け! 倒れるな!」
平家がが声を枯らす。
あいつら、人の言う事、右の耳から左の耳にスルーさせちまったよ。
子は親の鑑、ユース代表はA代表と同じ特徴を持つことが多い。
不屈のライオン、カメルーン代表のゲームではカードがバンバン乱れ飛ぶ。まるでカードが勲章でもあるかのように。
そして、最初の5つのプレーをしっかり見ろ、と。
主審がゲームをコントロールできるか否かは、序盤のプレーに対して明確なジャッジができるかによる。
ここまでならよし、ここからはダメ(ファウル)。うまいチームは最初にきわどいタックルでデッドラインをさぐってくる。
メキシコ人の主審は、カメルーンのスパイクの裏を見せたタックルにファウルは取ったがカードは出さなかった。
カメルーンはそれで、勇気を持ってタックルを仕掛けるようになった。
その線引きを見逃したブルーのイレブンはジャッジへの不信感を募らせた。
そのユニフォームの色の通り、日本はまだ「青かった」。
左腕に赤いマークを巻いた木村麻美は、まだこのチームをコントロールできずにいた。
前回のワールドユースでは、連れて行ってもらったという印象が強かった。
だから今回はなんとかして若いチームの模範になろうと、気合を入れた。
なんとか打破しないと。ルックアップして情況を見極めようとする。
「あさみ!」
ボールをかっさらわれた。素早くサイドに散らされる。
早い段階でサイドを突かれると尻軽さを露呈するのがこのシステムの弱点だ。
正確とはいえないセンタリングに、とんでもない高さで合わせられる。
ヘディングシュートが決まった。
後半立ち上がりにも追加点を許し、いよいよ後がない日本。
左サイドをミカ・トッドが突破、クロスを上げるがカメルーンの高さに弾き返される。
クリアーボールを木村がヘディングで落とし、倒れながらスルーパス。
加護がゴール前へ。体をひねりながら左足でシュート。
決まった、と誰もが思ったシュートはGKのセーブに遭う。
ダメか、そう思った瞬間、青い影が飛び込んだ者がいる。
不規則に変わるバウンドに、アイスホッケーのスティックを押し出すように、正確なインサイドで合わせた。
9番、松浦亜弥。冷静に決めた。
試合終了。1−2。
内容は悪くなかった。終盤はかなり押した。が、なにかが足りなかった。
うなだれて引き上げる選手を見て、怒鳴り散らしたい衝動にかられる平家。
のどまで出かかった言葉を、ぐうっと飲みこむ。胸焼けがした。
稲葉や信田といったあの時の仲間とささやかに壮行会を催した時、酔いの回った石黒に言われたことがある。
「負けても絶対選手に責任押しつけんなよ。勝ったら選手のおかげ、負けたら監督のせい。そういうもんなんだからさ」
頭から冷や水を浴びたような気にさせられた。
監督として、万事を尽くしたのであればそれも許されよう。
けど、自分は、どうだったのか。
初戦の堅さから選手を解放する努力すら怠ってたではないか。
もう一度息を呑む。そして、笑う。
「よくがんばった。次、勝てばチャラだ」
なのに、だ。
「やる気あんのか!」
チリ戦終了後、やってしまった。
前の試合出来の悪かった加護を外し辻をトップ下へ。木村を8番(右MF)に上げて左とのバランスを取った。
が、ボールが拾えなくなってしまい、その破綻から左サイドを破られて先制を許した。
後半、加護を投入。辻、木村を本来の位置に戻す。
加護は反発をプレーで表現した。持ち過ぎて漬された反省を活かし、少ないタッチで左右に振り分けてチャンスを作る。
チリがサイドを警戒して開いたその一瞬を逃さなかった。
右の辻を見ながら左の松浦へ。松浦、軽く流しこんだ。
後半37分。辻がひっかけられ、右サイドでフリーキックを得る。
ボールの前に加護とミカ。角度はやや厳しいが、ミカが左足で狙える距離。チリが壁を作る。
加護が短く出し、ミカが軽く止める。加護がペナルティアークに蹴りだすと待ち構えていた木村がフリーで狙う。GKが弾き、DFが外へ。
辻が拾った。慣れない左足で上げたボールを松浦がハーフボレーで叩きこむ。
殊勲のエースはいつものように淡々とした表情で仲間の祝福に応じた。
平家はこの瞬間、さすがに勝利を確信した。
なのに追いつかれた。ロスタイム、一点目のリプレイのような形で。
問題はその後だ。集中の途切れた日本選手はまるで負けが決まったかのようにへたりこんでしまったのだ。まだ、時間はあったのに。
自ら試合を放棄したかのような態度が、我慢できなかった。
が、夜、見たくもないその日の試合を見ると、いかに両サイドの守備が徹底されてないか感じた。
口を酸っぱくして言い続けている前からの守備が、時間を追うごとにできなくなっているのだ。
選手のスキル不足、指導者の教え方が悪い、3-4-3の限界…最後だけはあってほしくない。
平家が初めてぶち当たる壁だった。
H組は最終戦を残すのみ。首位は一勝一分けのイングランド。チリとカメルーンが一勝一敗で並び、勝ち星のない日本が最下位。
しかも最終戦の相手が首位イングランド。早い段階でクロスを入れる、今の日本には最も嫌なタイプ。
思いきった改革に平家は迫られていた。
次の試合のオーダーを組む。
ゴールキーパーに、この大会で初出場となる選手を入れる。
この選手を紹介してくれた友人の言葉を思い出す。
「この子な、ちっちゃいし細いけどセンスあんねん。それにな、大舞台に強い」
その選手の部屋を訪れ、出場を告げる。
「カラス、出番だ」
<カラスについての考察>
黒い羽根、甲高い鳴き声、ねじ曲がったクチバシ。都会に多く生息し、ヒカリモノを好み、
堅いクルミの殻を車に踏ませて割るほど知恵も発達している。
洋の東西問わず不吉の象徴とされてきた鳥は、その予言者めいた姿から霊鳥とも呼ばれてきた。
日本書記には天照大神の使者として神武天皇の道案内をする三本足の八咫(やた)烏が登場する。
八咫烏は三種の神器・八咫の鏡にその名を残し、
日本サッカー協会のエンブレムにはサッカーボールにその足を乗せた姿がデザインされている。
高橋愛というありふれた名前よりは、京都パープルサンガの黒ずくめのゴールキーパーといったほうが通りがいいかもしれない。
真夏でも黒タイツ。今どき髪の毛も烏の濡れ羽色。肌の白さとのコントラストを描く。
一年目の昨年からサンガのゴールマウスに立つ高橋はGKとしては小柄、線も細い。
相手を威圧してナンボのポジションにあってはいかにも不利だ。
黒い服はそんな自分を強く、大きく見せてくれると高橋は信じている。
中学卒業と同時に故郷を離れ、サンガユースへ。そこで元日本代表GK中澤裕子の教えを受けた高橋が今世界の晴れ舞台に立つ。
「とにかくクロスを弾き返せ。ラインを高くして、浅い位置から上げさせる。判断を早くして、声を出す」
平家がこれだけを繰り返す。
イングランド、勝ち点4の得失点差+1。
カメルーンとチリ、共に勝ち点3の±0。
日本、勝ち点1の−1。
最終的に得失点で順位が入れ替わる可能性もある。勝利が絶対条件の上一つでも多くのゴールが欲しい。
そのためには守りを薄くしても攻める必要がある。
そんな状況でスタメンを任された高橋を近畿選抜の同期、松浦と加護が励ます。
「いくで、タカーシ」
「愛ちゃんなら大丈夫やんな」
勇気を、得た。
イングランドのエースは昨年のワールドカップに出場、ゴールも決めたヤイコ・オーウェン。
未来のスター候補を探す大会にあって、彼女だけがすでにスターだ。オリンピックならともかく、
まさかこんな小さな大会にまでエントリーしてくるとは予想外だった。
高橋はすでに臨戦態勢にある。
この大会が新しい新しいユニフォームのお披露目だった日本代表。
八咫烏のエンブレムの入った黒いGKジャージは、まとうだけで力を与えてくれる。
高橋、日の丸をつけるのは国そのものを背負うことなんや。覚えとき。
日本代表を愛した恩師の言葉をかみしめる。
なにをやらせても一番、という子供がたまにいる。
勉強、スポーツ、容姿。
そのカリスマ性が周囲をひきつけ、いつしか世界はその子を中心に回り出す。
彼女は知らない。井戸を抜け、その狭い空を抜けた瞬間、狭苦しかった井戸が箱庭のような楽園だったと思い知るなど。
福井時代の高橋愛が、まさにそんな少女であった。
第一志望 宝塚音楽学校
そう力強く書かれた進路調査表を前に、担任がすっかりはげあがった頭をなでつける。
「高橋の成績なら学力考査は問題ないし、なにより努力してるもんな」
そうなのだ。ピアノ、声楽、クラシックバレエ。
タカラジェンヌになるための努力は、惜しまなかったつもりだ。
みんな知っている。高橋の夢を。
そこに、この北陸の田舎町ではかなえられないまばゆい光を見ている。
高橋もそれをわかっている。この小さな町は、自分には狭過ぎる。
抜け出してやる。光あふれる世界に飛び出してみせる。
「お世話になりました」
高橋はサッカー部の顧問に頭を下げる。
「そっか。行くか」
この顧問は、高橋にしつこくサッカー部入りを勧めたのは彼だった。
高橋が宝塚に行きたがっているのはもちろん知っているし、その夢は応援したいと思う。
が、それは同時にとても危険なことだとも感じていた。
もし、その夢がかなわなかった時――
彼は高橋にサッカーをすすめた。
こんな世界もあるんだってこと、知っておいてほしかった。
最初はマネージャーとして雑務をさせた。
少しでも腐ったような態度を見せたらどこでだろうと容赦なく叱り飛ばした。
ずっと主役できていた高橋は、そのたびに薄い唇をかみ、悔し涙を浮かべた。
周りのために身を粉にして働く、ということが、当時の高橋の頭にはまるでなかったのだ。
が、どんなに強い言葉を吐いても、顧問が絶対にしなかったことがある。
他の生徒には、状況に応じて体罰を与えることもあった。
高橋には、一発のビンタもしなかった。
高橋が将来、顔を売り物にする世界に飛びこんでゆくのを知っていたから。
高橋にしてみれば、かつてないぐらいの屈辱の日々。
どうして私がこんな目に――しかもバレエやピアノのレッスン時間を削ってまでやらされるようなことなんだろうか。
宝塚歌劇団に入るには志願率10倍の難関、宝塚音楽学校に入らなくてはならない。
宝塚フリークの母によって、二歳からあらゆる習い事に行かされた。音楽やダンスはもちろん、お茶にお華も。
自然、子供心に特権意識が芽生える。思い込みはやがて何の裏付けもない信念に。
ああ、私はそうなるために生まれてきたのだと。
それが、粉々に砕かれた。サッカーによって。
その日、高橋は練習試合の線審をするはずだった。
審判用の黒の上下を家から着て鞄に旗、そして退部届。
グラウンドがなにやら騒がしい。一人しかいないゴールキーパーが急病で来られないという。
はい、と即座に挙手する。どうせ今日で最後なんだからと思い切って立候補したのだ。
願いはあっさり聞き入れられた。が、高橋に合う大きさのGKジャージがない。
黒い審判服のままピッチに立った高橋は、雨あられと降り注ぐシュートをことごとく防いでみせた。
試合後に知ったのだが相手は北信越王者、丸岡高校。
退部届は、必要なくなった。
顧問にしてみれば、ひなたの道しか歩いたことのない高橋に挫折を味わってほしかったのだ。
が、高橋の放つ光はかすむどころか、その強さを増すばかりだった。
生まれつき強い星を持った人間がいるとすれば、高橋こそがその人なのだろう。
見た目の華やかさではない、生き方そのものに宿る華。
意志も強い。県内の高校ならどこにでも受かる学力を持ちながら、一握りの者にしか栄光を許さないスミレの園に身を投じる15歳。
すべては順調だった。顧問がなにげなく、その言葉を口にするまで。
「あとは福井弁、なんとかせえよ」
言われてみればずーずー弁のオスカルやミャーミャー話すアンドレ、ばってん荒川さんのようなマリー・アントワネットなんて見たことない。
方言。抑揚がなく平端な印象を与える福井弁のイントネーション。
言葉遣いは気をつけていたつもりでも、発音までには気が回らなかった。高橋の目の前がまっ暗になる。
「お母さん、私、宝塚受けない」
「なに言ってるの、あんた」
母に諭される、福井弁で。
言葉遣いだけでもと、TVタレントを真似て話す。
「愛ちゃん、変」
友達に言われる。福井弁で。
絶望だ。致命傷だ。高橋はパニックに陥った。
後になって気づくのだ。福井の言葉を恥じていたのではない。自らが田舎者なのを恥じていただけだと。
冷静に考えれば宝塚花嫁養成所と呼ばれるほど厳しい教育で、訛なんてあとかたもなく矯正されたはずだ。
もし落ちたとしても三年後、再受験の道があったはず。
なのにこの時はなにもかも見失った気がした。大いなる勘違い、である。
いよいよ宝塚受験の日が近づく。ついて行くと言う母親をなだめ、一人大阪行特急に乗った高橋。
京都で、下りた。
鞄には筆記用具と楽譜ではなく、ジャージとグローブとが入っていた。
京都パープルサンガユースのセレクションに集まった43人、うちGKは8人。
8人中ひときわ目を引く高橋。一人背が低く、しかも異様な姿。
全身、黒。
ジャージの上下、スパイク、グラブまでマジックで塗りつぶした。
アピールできる時間は短い。服装で目を引こうというのが一つ。
そして、黒が自分に幸運を呼び寄せてくれると信じて。
「あいつ、ええんちゃう」
トップチームのベテランGKが目を止める。
「センスある。リズムも持ってるしコーチングの声もええわ」
「でも身長が。履歴書、相当サバよんでますよ」
「中三やろ、背なんて伸びる」
そのGK、中澤裕子鶴の一声でサンガユース入り。親の猛反対を押し切って単身京都へ。
中澤の鬼のしごきに耐え、ユース最終学年にはトップチームのベンチへ入る。
中澤引退を受け、トップ昇格と同時にレギュラー獲得。以来正キーパーの座を守る。
波乱に満ちた、端目には順調な日々。
節目は決まって九月十四日、誕生日に訪れた。
15歳の誕生日、セレクションで中澤に見いだされる。
18歳の誕生日、初めてトップチームに入る。
そして今日、20歳の誕生日。
GK王国イングランドに対し、自らのすべてをぶつける。
開始早々決定的な形を作るイングランド。サイドを突破してのハイボールにヤイコが飛びつく。
闇夜にカラスが舞う。GK高橋、ジャンピングキャッチ。音も無く着地、助走をつけドロップキックで縦へ。
南米のキーパーが多用するサイドキックは前へ一直線に伸びる。弾道が低いから、飛び上がって競る必要もない。
松浦がいた。マーク二人を背負い、胸でトラップしたボールを横にはたく。
加護がいた。一気にエリアに飛び込み、GKの脇の下を抜いた。
反対側のネットが揺れた瞬間、高橋はジャンプした。鳥が翼を広げるようにガッツポーズも作った。
「切り替え、切り替えろ!」
コーナーキックに失敗し引き上げる仲間に、最後尾から声をかける。キーは高いが聞き取り易い。
声楽をやっていたため発音がはっきりしている。
しかも、それだけではない。
そのソプラノには味方を落ちつかせ、逆に敵をおびえさせるなにがが潜んでいるのかもしれない。
全てを見渡せる位置にいるキーパーの指示の大事さを表す言葉に「後ろの声は神の声」がある。
高橋の場合、言葉ではなく声そのものに神性が宿っている。
そういえばマリア・カラスというソプラノ歌手がいた。戦後最高と言われるオペラ歌手だ。
イングランドのハイクロス責めにも高橋は勇敢に対応した。背が低い分は、前に出ることで補わなければならない。
が、次第に飽きてきた。
リズムが単調過ぎるのである。
壊れたレコードプレーヤーが同じ場所をひっかき続けるようにクロス、クロス、クロス。
またハイクロス。
飛び出した瞬間、しまった、と思う。
クロスの落下地点が、少し遠い。パンチ。わずかにコースを変えることしかできない。
高橋の裏に回りこんだヤイコ、下がりながら頭で触れた。
獲物を取り逃がしたカラスが、わずかに唇を震わせた。
前半をタイで折り返した日本に、同時刻に始まったカメルーンとチリも引き分けてるとの情報が入る。
平家、心臓バクバクものだがあえて平静を装う。
「敵は引き分けでも勝ち抜けなんだ。無理して攻めてはこない。落ち着いて攻めればチャンスは来る。決勝点なんて遅いほどいいんだ」
読みは見事に外れた。
騎士道精神を今に残すイングランドサッカーは、引き分け狙いなどという卑怯な算段は毛頭ない。自軍ゴール前に釘付けになる日本。
「打たせろ!」
高橋が舞った。五条の牛若丸よろしくひらりひらりと優雅な動作で敵の攻めを封じてみせた。
ピンチの後には必ずチャンスが訪れる。
右サイドの深いところで辻が押し倒され、フリーキックをゲットする。
松浦がファーに飛び込む。加護、ニアポストに速いボール。
松浦と交差するようにファーからニアに駆けたミカ、ダイビングヘッド。キーパーの脇を抜いた。
その直後、キックオフからの放り込みを、キャプテンらしくなってきた木村が読んで、加護に渡す。
小魚の軽快さで敵陣に攻め入る加護。敵を引きつけてミカへ。
ミカ、左から中へ。グラウンダーで松浦にはたく。
松浦、ボールをまたぐ。
フリーの辻がスライディングで押し込んだ。
よっしゃ。3点目が決まった瞬間、平家が小さく拳を握る。
もう一つの作戦がものの見事に的中した。
前の二試合、日本の全得点にあたる3点を叩き出した松浦は当然厳しいマークを受ける。
だから今日は、その松浦をダミーに使った。
見事にはまった。松浦が囮役に徹し、巧みに敵を引きつける。その後ろでいくぶん自由になれた加護が決定的な仕事をする。
数少ない好機を辻とミカが確実に生かした。
攻撃陣を背後で支えた木村の働きも見逃せない。
優しすぎる性格がキャプテン向きではないかとも思われたが、若いチームをよくまとめた。
ようやく過ちに気づいた母国も捨て身で襲いかかる。
「引くな! 辻、松浦、チェック!」
日本はフォアチェックで対抗する。3トップが必死にボールを追い回す。
前線で起点が作れないイングランドは浅い場所からアーリークロスを放りこむ。日本DFがきっちり対応。
40mの左クロスを高橋がパンチングてクリア。木村が蹴り出す。
ヤイコがセンターサークル付近で拾う。サイドに引きつけられていた中盤が薄い。スペースを突く高速ドリブル。20m、30m…
木村が滑り込む。ジャンプでかわされる。
高橋が飛び出して距離を詰める。頭上を鋭く抜かれた。
ロスタイム。ヤイコ、最後のドリブル。加護と木村がその進路をふさぐ。
左にはたき自らは前へ。パスアンドゴー。
辻がウイングと対峙する。内にくる、と見せて外へ。辻も追う。センタリングに足を出す。届かない。
完璧なヘディングがゴールマウスを襲う。
「くわっ」
指を伸ばす高橋。体は小さいが、ピアノで鍛えた繊細な感覚を持つ指は高橋の意志を確実にボールに伝える。
キャッチは無理。トスで逃げてもコーナーになる。
指の腹にわずかにかすったボールがバーを直撃、上空へ。高橋の懐に飛び込んだボールがその手を離れた。長い笛が鳴る。
どうなった? 試合を終えた選手がベンチに険しい視線を送る。
待て、と制する平家。チリ対カメルーンが2-1で終了と一報が入ったばかり。
「こりゃあ…」
平家と稲葉が顔を見合わせる。
それはまさに珍事だった。
4チームの成績はすべて一勝一敗一分け。のみならず得失点差も全チームがゼロ。まさに四すくみ。
すぐに総得点の勘定に入る。勝ち点、得失点差で並んだ場合ゴールの多いチームが上位になる。
日本6チリ5イングランド4カメルーン3。
図らずも攻撃サッカーの正しさが立証され、最後のシュートが入ってたらと思うと背筋が寒くなった。
本当にわずかな差だった。いや、差なんてなかった。
敗戦の将が平家に握手を求める。英国紳士らしい、毅然とした態度。
「ナンバー10とキーパーがエクセレント。イギリスに連れて帰りたい」
まんざら社交辞令でもないようだった。
もてまくりだったのが高橋。何人もの英国人にユニフォームの交換を求められる。結局エースのヤイコに烏色のジャージを渡した。
「今度はオリンピックでね」
そう言って別れた。
後で知ったのだがイングランドは五輪には参加できない。イギリスという単位でしか参加できない英国四協会は五輪参加を断念していた。
四強入りをかけた決勝トーナメント一回戦。対ポルトガル。
一人一人が非常に高いスキルを持つエンジ色のイレブンに翻弄される日本。
特に中盤争いで完敗。木村−加護のラインが寸断され、FWまでボールが届かない。
GK高橋を中心にポルトガルの猛攻を徹底的にはね返し、前半をしのぐ。
後半も同じ展開。
至近距離からのシュートを高橋、体を投げ出して防ぐ。こぼれた先にはエンジ色のユニフォーム。
ゆっくりゴールに転がるボールを、はいつくばったまま見送った。
その瞬間平家がベンチの一番隅に小さく座る選手に
「ビーバー、アップせえ!」
横浜Fマリノスユース所属、唯一の高校生。
ビーバーとあだ名されるように飛び出した前歯、小動物然とした容姿、そして抜け目なくチャンスをうかがうまなざし。
早く出せよ、ずっとそう思っていた。
外から見ていれば、なにが足りないかよく分かる。中盤がないのだ。
このチームには高さがない。左右から放りこもうにもターゲットになれる高さがない。
だから、中盤につなぎ役がいる。
元旦のスタンドで見た、四枚の翼と呼ばれた若き戦士達。小さな体で走りまくった右の翼のように。
新垣里沙。彼女もまたFの血を引く者。
すると、新垣は辻の控え、または辻の後ろが主なプレーゾーンですか。
そうなると、小川真琴はゲームメイクの出来るボランチ?
センターラインに位置する選手ですよね。
それで・・・紺野はFWとしての能力は未知だが、ゴールへの嗅覚が買われて
召集され、最後に出番、ですかね。以上、予想。
いつも楽しく、時には涙で読ませていただいてます。
サッカー&娘。好きにはたまらないですよね。続き、期待しています。
「あさみさん!」
右のハーフに入るや否や、パスを要求する新垣。受けるとすぐはたいて、自分は前へ。
平家がこの小さなミッドフィールダーに求めたのは、ヘモグロビンの仕事。
赤血球に含まれ、血液を赤く見せているこの複合タンパク質は酸素と結合し、体中に酸素を行き渡らせる仕事を負う。
死に体のチームを活性化させるための投入だ。
が、それだけではない。
代表の試合を観戦に行くと必ず姿を見た。
声ひとつ出さず、試合に見入るその顔を平家は忘れてはいなかった。
日の丸に憧れるその心意気にこそ、平家は賭けた。
「ぎゃっ」
ドリブラーが軸足をかっさらわれ、一回転して背中から落ちる。新垣の頭上にイエローカードがかざされる。
抜かれたらおしまいという場面での鮮やかな削りだった。
チームのためならば汚れ仕事も厭わないそのプレーが、失われたリズムをチームに与える。
もともと攻撃的MFだった木村が前に出てボールを散らし、ウイングを走らせる。加護が辻とのワンツーでゴールを狙う。
かと思えば松浦が最終ラインの前でポルトガルのスルーパスをカット。
決勝トーナメントでのテーマ、縦のポジションチェンジ。それがようやく機能し始めたのだった。
どんないいゲームをしても負ければ次に進めない。追い詰められる日本ユース。
エリア外からのFKを高橋が高く蹴り松浦に合わせるがクリアが先。
木村が拾う。赤い腕章を巻いた左腕で味方を鼓舞し、あきらめそうになる自分に喝を入れる。
その左をすり抜ける風。足元にはたく。
新垣はフリーでシュートを打てた。まだゴールまで相当距離があり、山なりの一発はDFの一人の正面へふらふらと上がっていく。
彼のミスはボールに注意を払いすぎたこと。彼は辻のマーカーだった。
一瞬誰の視界からも消え、体ごと軌跡に入る辻。最後は腹で押しこんだ。
ゴールデンゴール方式の延長戦でも決着がつかず、PK戦に。
先攻ポルトガル。高橋がよく反応したが、わずかに届かなかった。
日本、最初のキッカーは平家の信頼厚い松浦亜弥。
それが、インサイドの柔らかいシュートはポスト横30センチ右を通過していった。
内心は分からない。が、松浦はいつもの淡々とした表情で引き上げてきた。
ポルトガルの二人目。またも狙いを的中させた高橋だがコースがよすぎた。
日本は辻が出る。長い長い助走を取り、ほぼ真っ正面にシュート。辛うじて残したキーパーの手を弾いてゲット。まだ勝負はついていない。
ゴールマウスに向かう高橋の額に汗がにじむ。ストレートパーマをあてた毛先がまとわりついて気持ち悪い。
一人目も二人目も左だった。ヤマをかけて右に。左。ポストが防いでくれた。天を仰ぐキッカー。高橋はPKの皮肉を感じずにはいられない。
ミカ、ポルトガル、加護と決めて、五人目。
ここまですべて左を狙われている。恐らく小細工せずにキーパーの取れないコースに打てと言われてるのだろう。
もはや高橋に気負いはない。しびれる状況だが、向こうもしびれているだろう。
左。ボールに触れる。虚空に消えるシュートにガッツポーズが出た。
ラストキッカーに木村麻美が出る。試合を重ねるごとにそれまで足りなかった落ち着きが出てきた。
それでもこの時は心臓が飛び出そうなほどの緊迫感に包まれていた。
ボールを置く。先にキーパーが倒れるのを見て逆に。
重圧から解放された瞬間、頭がまっ白になってその場にひざまずく。その背に辻、加護、ミカ、松浦らが続々と重なる。
その脇で殊勲の二人、高橋と新垣がハイタッチを交わした。
ベンチでは平家と稲葉が固く握手。平家は早くも準決勝へ思いを巡らせていた。
稲葉が考えているのはそれとはまるで違う、ある重大な決意だった。
ここまで日本の選手で特に高い評価を受けているのが加護と松浦に木村、そして高橋。
特に国内でも無名の存在だった高橋は小さな体ながら華麗なセービングフォーム、
勇気ある飛び出しが受けて一気にスター候補に上り詰めた。
地元ナイジェリア戦を前に、J2では考えられなかった取材攻勢を受ける。
舞い上がるなよ、と平家に釘を刺された。
試合前、ユニフォームの色が告げられる。
ナイジェリアのユニフォームはダークグリーン。黒と混同しやすいので高橋は黄色のGKジャージ着用を命じられた。
嫌な予感が、した。
幸運の黒いジャージを手放してしまったこと。
ホスト国を相手にする重圧。
そして、それまでは考えもしなかった周囲の目。
試合開始前から、高橋の様子は明らかにおかしかった。心臓がいつもの倍の速さで脈打っている気がした。
前半2分、ナイジェリアのコーナーキックが鋭くニアへ。
飛び出した高橋、両手のパンチングでクリアにいく。
面が、ずれた。
クリアボールはそのまま、ナイジェリアへの絶妙のアシストに。
時間はまだ十分にあったはず。なのにこの後高橋はリズムも鋭さも失い、消極的なプレーに終始した。
結果は0-4、完敗だった。
一様に泣き腫らした目で引き上げる選手を迎える平家。泣きたい時泣けるっていいよな。もう人目をはばからずに泣けない立場の平家。
その中で、高橋だけが感情が抜け落ちたような顔で引き上げてくる。一人だけ違うユニフォームと同じで。
敗北を、現実のこととして受け入れられないのだろう。誰が、なにを言っても届かない。
その後の練習でも精彩を欠いた高橋を、平家は三位決定戦のスタメンから外す。
ガーナ相手に日本は加護、松浦の得点で勝利。銅メダルを獲得し加護と辻が大会ベスト11に選ばれた。
平家監督、初めての戦いを終えた。
帰国後の平家に休息はない。
母校四中工の選手権三重県予選が始まる。
年が明けるとオリンピックイヤー。稲葉の補佐として予選を戦う。本大会までにS級ライセンスを取るのが稲葉との約束だったのだ。
怒濤のごときワールドユースを戦い抜いた後に待ち受けていた、まさに忙殺の日々。
四中工が決勝で敗れ全国行きを逃がした翌日、吉報があった。
平家のS級ライセンス取得を知らせるものだった。
嬉しかったが、早すぎる。
次いで、信じられない知らせが来た。
稲葉が五輪代表監督を辞任、後任を平家に任せて日本サッカー協会入りするという。
「ごめんな、事後報告になってもうたわ」
稲葉が謝る。平家は何も相談を受けてなかったのだ。
よりにもよって、協会入りなんて。
相変わらず平家の上層への不信感は根強い。A代表の強化には湯水の如く金を使うのに、ユースにはしぶちん。
協会の不誠実さに憤りを共にしていたはずの稲葉が自分たちを捨てる。保身に走ったのかと勘ぐりたくなる。
「裏切り者だよな」
稲葉がさみしげに笑う。
「せいぜい、嫌われてくるよ」
すべてを察し、平家がはっとなった。
敵の懐に飛び込み、五輪チームの為に少しでも多くの強化費用をむしり取ろうとしている稲葉。
それがどれだけ非難を浴びる行為かを知りつつ。
赤鬼は泣いた。あえて嫌われ者になることを選んだ青鬼の優しさに。
「やめなよ。監督譲ったのは、あんたのほうが勝てると思ったからだ。あたしの力じゃ予選は勝てても、本戦では勝てない。
あたしのチームにも、いい選手がたくさんいる。あんたの力なら、きっとブラジルやイタリアと互角に戦えるチームが作れる。
あんたのサッカーを、世界の舞台で見せてくれ」
監督就任の会見の席についた平家はまず時間のなさ、五輪世代の選手について詳しいことは把握してないのを正直に告白した。
その上で、間もなく始まる予選への構想をぶち上げる。
「格下相手となる一次予選を戦術浸透の実践、最終予選を完成の場ととらえます。
前の監督が積み上げたものを捨てるわけだから苦しい戦いになるとは思いますが、覚悟の上です。
こうしないと、五輪本戦には間に合いませんから」
最後に目標はと尋ねられ、人さし指を高だかと突き上げた平家。それ以外の目標なんてあるのかと言いたげに、にやりと笑って
「金メダル」
注目されたのは、間もなく始まる予選のためにそれまでのチームを踏襲した戦い方をするか、
それともユース代表で採用していた攻撃的な戦術をとるのか。
平家は、後者を選んだ。
それは、選ばれた代表候補を見ても分かる。
石川、吉澤、戸田といったそれまでの五輪代表が半分。
そして加護、辻、松浦、ミカ、木村、新垣らナイジェリア銅メダル組が半分。
自分がよく知り、また自分のやりたいことを理解してくれている選手が多いほうが、短期間でチームを作り上げるには好都合だからだ。
例外もあった。
高橋愛は、呼ばれなかった。
例によって、紅白戦をする中で選手をコンバートしていく平家。
それまでラインコントロールを担当していた吉澤ひとみは、アヤックスの短期留学経験を持つ。
唯一、平家の考えを過不足なく実践できる吉澤をシステムの要となる中盤の底に据え、新しいキャプテンに任命した。
反対に守備的ハーフの戸田鈴音は、冷静で我慢強い長所を見て最終ラインに組みこんだ。
ナイジェリアで自信をつけた木村には右ハーフのポジションを与えた。
しかし一人だけ、どこのポジションに置いていいやら平家も迷う存在がいた。
それまでのキャプテン、石川梨華である。
アルゼンチンリーグで活躍する日本のエースである。
スピードがあり、当たりにも強い。周囲を自在に使えてなにより右足から放たれる強烈なフリーキックはたびたび相手ゴールを陥れる――
という触れ込みだ。
確かにFKは凄い。紛れもなく努力と才能との結晶だ。
が、もし平家が全盛期の力を取り戻せたとしたら、今の石川にかなわないと思えるのはそのFKくらいだ。
このままではただうまいだけの、FKの一芸選手で終わってしまう気がした。
石黒が言っていた。あいつにはなぜか期待をかけたくなると。
平家もまた石川に自らの夢を重ねていた。
アジアの出場枠は3。亜州全土を三つに分け、各グループの優勝国が本戦に進む。
日本はグループBをさらに四分したB4グループで中華台北、スリランカ、モンゴル、アフガニスタンとホームアンドアウェイを戦う。
ここで一位を取ると最終予選。グループB残りの3グループの首位とトーナメントを戦う。
恐らくウズベキスタン、中国、オマーンが来るだろう。
開催国はマレーシア、会場はクアラルンプールかジョホールバールになるだろうとのこと。
ジョホールバールになってくれればいいなと密かに願う平家。
クアラルンプールには、いい思い出がない。
第一戦、対モンゴル(ホーム)。
注目のトップ下に入ったのは石川でも加護でもなく、J2横浜FCに所属する柴田あゆみだった。
10番をつけた加護は左のウイング、ミカは左DFに下がった。
16番、少し背中が重くなった石川は、左のハーフに。左サイドの中継点、サイドチェンジなどが役目だ。
ぶ然とした表情を隠すことができないでいる石川。
前の監督が指令塔の出身だったこともあり、それまでは特別待遇を受けていた。
それが監督が変わり、10番、キャプテンマーク、トップ下のポジション、すべてを奪われてしまった。面白いはずがない。
3−4−3システム、及び各ポジションの名称
9
11 7
10
6 8
4
3 2
5
1
1 ゴールキーパー(GK)
2 右サイドバック(RB)
3 左サイドバック(LB)
4 守備的ハーフ (DH)
5 センターバック(CB)
6 左サイドハーフ(LH)
7 右ウイング (RW)
8 右サイドハーフ(RH)
9 センターフォワード(CF)
10 攻撃的ハーフ (OH)
11 左ウイング (LW)
平家はポジションの呼び名を数字、または英語で呼ぶ。
日本くらいである、リベロ(イタリア後)ボランチ(ポルトガル語)トップ下(和製英語)などとチャンポンで使うのは。
これに照らすと最終ラインは2番大谷、3番ミカ、5番戸田。
中盤に4番吉澤、6番石川、8番木村、10番柴田。
前線が7番辻、9番松浦、11番加護となる。
多少面倒だが、番号とポジションの関係を覚えていただきたい。平家はこの番号で短く、鋭く指示を出す。
左サイドでコンビを組む加護は右足利きで、中に入っていくプレイのほうが得意だ。
石川も右利きだからポジションが自然かぶる。
平家の叱責は二人に飛んだ。
特に石川には、右サイドへの素早いサイドチェンジを要求する。
そんなこといわれても、無理だ。
サイドチェンジには40メートル級のパスを正確に横断させるキック力が必要だが、左足でそこまでのボールが蹴れないから、
一度切り返して右に持ち直さないといけない。
その間に、詰められる。
4−0。
内容は、最悪だった。
ただ一人、コンスタントに力を発揮できてたのは9番に入った松浦一人。
この人には、好不調の波がほとんどない。
左右から飛んでくるセンタリングを、冷静にインサイドで流しこむ。
チームの調子いかんにかかわらず、淡々とゴールを重ね、今日も3得点。
ただし、ボールが来ないのであれば、どうしようもないのだが。
続く第二戦、対アフガニスタン。アウェイゲームにもかかわらず政情不安定を理由に日本での開催となった。
アフガニスタン五輪代表は経費削減のため試合前夜に成田入りという慌ただしいスケジュールを組んでいた。
「石川、11番に入れ」
レフトウイング。一体自分になにをさせたいのか、石川には分からない。
それよりも気まぐれとしか思えない布陣で自分にポジションを奪われ、ベンチスタートになった加護が哀れでならない。
が、加護本人は至って呑気に
「ええやないですか。監督には監督の考えがあるんやし」
石川はもともとFWでそのキャリアをスタートさせた選手。
ポジションはたいていツートップの右。左タッチラインに触れる近さでプレーすることなんてなかったので、ある意味新鮮だった。
コンビを組む柴田は高校時代フリューゲルスユースでコンビを組んだ仲。石川が欲しいタイミング、ポイントに確実に出してくれる。
恐らく敵は、ほとんど準備なしで来日したのではないか。それほどマークは緩慢で、一体感がない。草サッカーのようだと思った。
地を這うグラウンダーのセンタリング。松浦が、正確な左足ボレーで決めてくれた。
6-0。2アシストを決めた石川に笑顔はない。
浮かない顔の石川に吉澤が寄り添う。
これまでも石川のよきパートナーとして一歩引いた位置からチームを支えてきた吉澤。
「わかんないよ、もう」
すねたように吉澤にもたれかかる石川。
無理もない。監督のやっているのは、いたずらに石川のプライドを傷つけるような仕打ち。
が、平家自身日本の高校レベルの相手に快勝できないことで非難されている。
石川を真ん中で使わないのには、何らかの意図があるとみて間違いない。それが正しいかは別にして。
「もうちょっと、我慢してみようよ」
次の試合はスリランカ(ホーム)。なめてかかれば苦戦する可能性もある相手。
平家が石川に与えたポジションは右サイドバックだった。
ディフェンダー…
壊れかける自我を必死につなぎ止め、ようやく石川が口にした言葉。
「理由を、説明してください。自分のどこが悪いんですか」
「サイドバックは調子の悪いやつがやるポジションなのか?」
平家の鋭い切り返し。吉澤が凍りつく石川に助言する。
「監督は選手に対して起用について明確な理由を示すべきではないですか」
「それはしない。控えや、選ばなかった奴にまで説明する必要があるか?」
そう突っぱねた平家、その夜アルゼンチンに電話している。相手は石川の旧知、今また同じチームでプレーする日本人。
「ここまでやってええんかな?」
平家も現役時代左DFにコンバートされた時は激怒したから石川の痛みは分かっている。分かっていながら、やっている。
電話の向こう、小柄なハーフバックがカラカラ笑う。
「いいんだよ、そんなこと気に病まなくて。あいつは叩けば叩いただけ伸びるやつだから」
最後は少しさびしげに
「がんばれよ、みっちゃん。オイラはアトランタの候補にもなれなかったからあいつらがうらやましいもん」
また今回、センターDFをつとめていた戸田鈴音がスタメンを外れ、代わりにJ2アルビレックス新潟所属の斎藤瞳が入った。
平家はこの予選での戸田のラインコントロールに満足していない。守備範囲の狭いGKを気遣ってか位置取りが低くなる傾向が強すぎる。
そしてその負担をかぶるのはすべてボランチの吉澤なのだ。
戸田もまた、この大会からリベロにコンバートされた。が、守らないFW同様攻撃力のないDFも平家は必要としていない。
ワールドユース以来急成長を遂げ、今回ついにトップ下をつとめるまでになった木村麻美とは、あまりに対照的だった。
その年のコンサドーレユースは存在そのものがちょっとした事件だった。
なにせ天皇杯の北海道予選で優勝、予選免除のトップチームを除けば文字通り道内最強のチームだったのだから。
全日本ユース選手権にも出場、高校勢が強さを発揮するこの大会にあって堂々準優勝、全国的にもトップレベルであることを証明してみせた。
その中でも特に頭抜けた三人をA代表の安倍なつみ、飯田圭織、石黒彩になぞらえ新コンサトリオと呼んでいた。
その一人が戸田で、その戸田らに憧れて単身苫小牧から札幌を訪れたのが当時中学三年の木村だったのだ。
難関をくぐり抜けてコンサユースに入った木村ではあったが、肝心の三人は戸田一人を除いてチームを去っていた。
もちろんトップチームに行ったわけではない。
一人は、もうこの世にいなかった。あまりにバカげた事故が稀有な才能を奪い去っていった。
もう一人はその死に心底ショックを受け、サッカーを続けることすらできなくなってしまった。
一人残った戸田も心そこにあらず。後に振り返っても人生最悪の時だったと思う。
が、やたら自分になついてくる新入りがいる。最初は気にもとめなかったが、少しずつ、その存在が気掛かりになっていった。
「あいつの光になってやって」
木村に言ったのはトップチームの飯田だった。雲上人に話しかけられ気が動転しかけた木村だが、
仲のよい戸田をなんとかして今の状況から救い出したい飯田の真心に触れるにつれ、次第に自分もなんとかしたいという気持ちになる。
だから、多少煙たがれようと戸田につきまとった。
戸田もやたら自分に絡む木村のプレーを見るうちに、今いる攻撃的なMFよりポジションを下げたほうが生きると気づく。
その日から戸田は、マンツーマンで木村にボランチの英才教育を仕込む。
戸田の目は、少しずつ光を取り戻し始めていた。
木村のスルーパスに石川が飛びつく。センタリングは直接ゴールラインを割った。
主従交代か。戻りながら自虐的に笑う石川。
確かに木村のゲームコントロールはなかなかだ。球離れが早いからつかまりにくい。が、ゴール前での鋭さがない。
加護はその逆で勢いよく飛び出したきり戻ってこないことしばしば。接触プレーを嫌う柴田はサイドにいるほうが良さを出せる。
本当、人のことはよく見える。
どのポジションにいても、10番のほうを見てしまう。性ってやつだろうか。
「ニーガキ!」
途中交代で右MFに入った新垣里沙にパスを要求する。
後半8分、2-0。
ハーフラインと右タッチラインの交差点付近でボールを受けた石川、一気に逆サイドへ。
誰も追わない、えらく的外れなキックに思えた。
ただ一人だけが、石川が左サイドをチラチラ見てくるのに気がついていた。
50メートルクラスの斜めに走るパスの終着点で炸裂する、加護のダイビングヘッド。クロスバーを激しく鳴らす。
一瞬のことで棒立ちになる味方に
「押しこめーっ」
我に帰る日本。スリランカゴール前に殺到、最後は吉澤が長い足で押し込んだ。
味方のプレーにど肝を抜かれた日本ベンチで、平家だけがほくそえむ。
なぜ石川を様々なポジションで試したか。その答えを石川本人が出してみせたからだ。
石川という選手は根っからのゲームメーカー、逆にいえばそれ以外のプレーができない特質を持つ。
ディフェンダーになればカバーもする、タックルにもいく。が、ひとたびボールを受けたらゴールのことしか頭になくなる。
さまざまなポジションにつとめたことによって、どの場所からでも攻撃が始められることを身をもって示した石川がこの大会初ゴールを決めた。自らが倒されて得たPKだった。
前半戦最後の試合。始めての敵地、中華台北戦。
トムヤムクンに使うパクチーの匂いに顔をしかめるチームメートが多い中で、石川は一人平気な顔をしている。
今回はスイーパーを命じられた。いまさら抵抗は感じなかったし、なにより初めてのセンターポジションだ。
とはいえ、未経験のポジションだけに吉澤や戸田に意見を請い、練習では左右のDF、ミカと大谷とのコンビを何度も確認した。
練習以外の場では一人になりたがる石川だったが、そんなことは言ってられなかった。自腹を切ってでもみんなを誘い、街に繰り出した。
「まったくあんたらは…」
平家がツノを生やすのも無理ない。石川に着いて行った人間がほぼ全員鬼のような下痢に悩まされていた。
試合当日の朝だというに。元気なのは昨晩自重した柴田や戸田、端からゲテモノを受け付けないミカぐらい。
木村はカエルの唐揚げを一口かじって気分が悪くなった。松浦は匂いを嗅いだだけでホテルに引きこもってしまった。
「梨華ちゃんのお腹はダイヤモンド製だね」
鉄の胃袋に任せてバリバリ食った辻があきれたように石川を見る。
イモリの丸焼きに豚のこう丸、なにを食っても悲しいぐらいに平気な石川であった。
そして、もう一人。
(う、うちには分かる)
すっかりトイレの便座と仲良しになった加護、心の叫び。
(あれはさかった牝猫の眼や)
吉澤ひとみは最初に入った蛇料理の店で、不妊の特効薬とされる蛇頭とクコの実のスープにこわごわと口につけた。
キャプテンらしく場を盛り上げようとしたのだろう。
わずかにすすると、憑かれたように薄い褐色のスープを飲み干す。
「おかわり!」
飲むも飲んだり、四杯のスープを平らげた吉澤。
ギンギン、ムラムラ。普段の湖水のごとき静かな目差しとは正反対、血潮たぎるまなこのまま一睡もできずに朝を迎えた。
6番に入った柴田のスルーパスに反応した松浦のシュートがGKに阻まれる。
台北は日本をよく研究していた。得点王の松浦はセンタリングに合わせるのが得意、縦に飛び出す形を苦手としている。
中盤でのプレスをおろそかにする分、サイドアタック対策に人を割いた。加護と辻、両方のウイングには密着マークをつけた。
その間隙を、10番に入った背番号4が突いた。
エリア手前にぽっかりと空いた穴に飛び出し、右足で貫いた。
右辛夷を振り上げ、歓びのジャンプ。
「どっしーん!」
台北のスルーパス。フラッグが上がる。オフサイド。
石川は意識的に2、3番の大谷、ミカより3〜5メートル後ろに引いている。
それを見て敵FWがサイドバックより前に出るところでツツっと距離を詰め、パスの一瞬前にダッシュ。効率よくオフサイドにはめた。
間接FKをボランチの戸田が下げる。ボールを受けた石川がツルツルと上がり、入れ替わるようにして戸田が最終ラインに入る。
吉澤の鼻息が荒い。気合充分、トモの張りも抜群。が、前が詰まっている。
「ウイング、開け!」
鞭を当てる。前が開く。
4番、カッケーヨッスイー、わずかにあおる。猛烈なまくりで追い立てる。
GKの突進を、鼻先でかわした。
もはや万馬券ではない、本日の一番人気馬の背に石川が飛び乗った。
今日の吉澤は紛れもなく別人だ。
普段の控えめな、周りへの気遣いが影を潜め、よい意味でのエゴイストになりえている。
前へ、前へ。吉澤の発情は止まらない。
石川が再三中盤に上がり、木村、柴田とのパス混ぜからこれでもかとサイドに散らす。
食った分は働けコラ。
体調最悪の辻には、まさに鬼のパス。それでも追いつき、センタリング。ちょっと長い。
加護がフォローする。そのまま左足で低く折り返す。
松浦のボレー、DFの足に当たって、まるでラストパスのようにナンバー4の足元に吸い寄せられる。
迷いなく右足を振る。GKの正面。前に突き出した両腕を弾き、ゴールの中にこぼれた。
後半42分、吉澤、プロになって初めてのハットトリック。
少々下品な、股間から突き上げるようなガッツポーズで応えた。
(あーあ…)
中華台北五輪代表監督、ルルはこの一戦にすべてを賭けてきた。
監督も選手もよく知っている。試合のビデオも頭が痛くなるまで見た。
しかも日本人が最も忌み嫌う4(死)試合目だったにもかかわらず、だ。
すべては、計算通りだった。
ただ一人だけが誤算だった。
日本には、4のジンクスを吹き飛ばすもっと強い4がいた。
ロスタイム、石川がショートコーナーで出したボールを柴田が左足で上げる。
大きく弧を描き、GKをかわしたボールに戸田が頭で合わせる。
GKもDFもいない。そのまま入るボールだった。
四たび吉澤が触れた。額で微妙にコースを変え、台北ゴールのど真ん中に叩きつけた。
両手を広げ、ダブルピースを決める青のナンバー4。
ルルはめまいがした。そしてそれは、その会場にいる全ての人間が感じていた。
ただ一人、本人を除いて。
4試合目、4杯のスープを飲んで、4ゴールを決めた、日本の背番号4。
もしオリンピック予選に魔物がいるとすれば、4つの4に守られた吉澤ひとみこそがこの日の魔物だった。
後半戦、日本の快進撃は続く。
モンゴル戦、石川は8番、右ハーフでの起用。
このポジションは敵の左ハーフ、つまりゲームを作る選手とぶつかるだけに6番に比べてディフェンシブになる。
必要なのは安定した守備力、つなぎ役としてのボールコントロール、そして運動量。石川のよく知る選手に、ぜひやってもらいたいものだ。
が、それだけは面白くないので、逆サイドで柴田がやるようにロングフィードでのサイドチェンジを狙う。
左サイド、加護が必死に追い、追いつき、中に切れこんで左足で決めた。
加護も石川も、当然、という顔で次に備えた。
アフガニスタン戦は3番、スリランカ戦では7番。
石川はそつなくそれらのポジションをつとめあげ、チームの大勝に貢献した。
最終戦、日本に台北を迎える。
日本は7戦全勝、得点32失点0。ゴールの内訳は松浦13、吉澤7、加護5、辻4、石川2、木村1。
台北は6勝1敗得点16失点5。
日本は10点差以上で負けない限り最終予選に進める。
ホームでの大差負けが痛かった台北も、前後半5点ずつ奪って勝つと怪気炎。
絶望的状況にあって、台北は日本の死角を見いだしていた。
キャプテンで攻守の要、吉澤ひとみが累積警告で出場停止処分を受けたのだ。
「石川、吉澤の代わりに4番な。それと、これ」
キャプテンマークを手渡す平家。
指導者にサディスティックなまでの期待を抱かせる女、石川梨華。この予選を通じて平家はその秘密を見た気がした。
石川は天性のM。体中から常にいじめてオーラを発し相手のし虐心を喚起する。
ただのマゾと違うのは、与えられた困難をバネに自分の能力を肥え太らせる雑食性にある。
ポジティブシンキング恐るべし。
「死に者狂いで攻めてくるのを逆手に取ってカウンター狙い、でいいんですよね?」
先に言われた。こんなところが知らずにS心をそそるのだろう。
スタンドに陣取る吉澤は前の試合のハーフタイムに、平家からわざと警告を受けろと指示されていた。
決勝ラウンドにカードを持ち越すのは得策ではない。
言われた通り、スローインをなかなか投げ入れず、あからさまな遅延行為を取られて予選二枚目のイエローカードをもらった吉澤。
流れの中でやむなく受ける警告は仕方ない、しかしこういうのは頭では理解できても納得するのは難しい。
よくも悪くも、吉澤にはそんな融通の利かないところがある。
予想通り、台北は長身のツートップに合わせてロングボールを放りこむ。吉澤不在の日本の弱点を突いてきた。
「ウイングーッ」
石川が指示を出す。加護と柴田、辻と木村がコンビでボールの出所を絶つ。厳しいチェックでタッチラインに追い込みミスを誘う。
あるいはフォローに回った別の選手へのパスをカット。
いっぱしの中盤の指揮官になった石川に目を細めるスイーパーの戸田も落ち着いてボールを処理。
平家イズムは、確実に浸透していった。
台北が強引にスルーパスを狙い、石川があっさりカット。すぐさまロングフィード。
長い、吉澤が舌打ちする。加護は低い位置にいた。
その加護を追い越し、タッチライン際でボールに追いつく青い影ひとつ。
ゼッケン3、左サイドバックのミカ・トッド。後ろからのオーバーラップを石川は見逃さなかった。
左足で送ったロビング、松浦の頭、キーパーの手を越えサイドネットを直接揺らす。
アンビリーバボー! ミカが喜ぶより先に頭を抱えた。
またも石川からタテ一発。辻が追いつき、ダイレクトでシュート。DFの好ブロックに遭ってゴールラインを割る。
コーナーキック。左のフラッグチトンに石川がボールをセット。すぐそばにゴールに背を向けた柴田。
石川、短く出す。
柴田、スパイクの裏で止める。
真っすぐに蹴り入れたボールはニアに立つ松浦へ。バックヘッド。ワンバウンドして、上がっていた戸田の足元でぴょこんと跳ねる。
どフリー、至近距離。足元に飛びこむキーパーともつれながらねじこんだ。
それでもクールな戸田の背中に、満面の笑みを浮かべた木村が飛び乗った。
後半、通常の布陣に戻した台北。次につながる一点を狙いにいった。
ドリブルでの突破を図る日本。辻、石川、木村までもがボールを持って攻め上がる。
中に切れこんだ加護がアフタータックルにひれ伏す。
エリア目前、真正面からのフリーキック。石川の右を恐れ、左に壁を作る台北GK。
なめんなよ。石川と並ぶFKの二枚看板、左の大砲が舌なめずり。
壁の端の選手の肩すれすれに飛んだボールが曲がる、落ちる。
予想外のコースにあわてて飛んだGKの指をかすめ、ゴールの中で跳ね上がる。
落差と精度ならこちらが上、柴田あゆみの直接FKが決まった。
松浦の4点目に沸く神戸ユニバーで、吉澤は一人気に病んでいた。
あたしのポジション、残ってるんだろうか?
それくらい、今日自分のポジションにいる選手は抜群に輝いていた。
吉澤自身が課題としている素早い守りから攻めの切り替えを石川は難なく、恐ろしくハイレベルでこなしていた。
後ろにも目があるかのように味方の動きを読み、決定的なパスを下す。
敵も審判も釘付けにするプレーは誰もが酔いしれる…などと思っていた矢先、パスをさらわれる石川。
ポン、ポンとつながれ、あっさりと押し込まれる。
日本五輪代表、今大会初失点。
「あにやってんだぁ、石川!」
平家のカミナリが落ちる。が、これでいいとも思っている。
失敗なくして反省なし、反省なくして成長なし。課題も見えてきた。
ありがとうな、ルル。選手と狂喜乱舞する敵の指揮官に無言のサンクス。
それでも仕上げはやはり石川。
柴田の時よりやや遠目で右寄り。
小細工一切なし、いや、できない。
得意の右足、キーパーの手を楽々と越え、ネットを揺さぶる豪快な一発。
石川の5点目が決まったところで、長いホイッスルが響く。
日本、第一関門突破。
平家の第一声は
「疲れたー…」
だった。
五月に行われる最終予選の地はクアラルンプールに決まった。バルセロナ予選で涙を飲んだ地。平家には鬼門とも言える場所。
コマを進めてきたのは予想通りウズベキスタンとオマーン、そして中国を連破する番狂わせを演じたタイ。
日本がまず当たるのがそのタイ。勝てばウズベクとオマーンの勝者と、泣きごと無用の一発勝負。
メンバーは固まっていたものの、何人かが新たに加わる。
再召集がかかったのは高橋。一時期調子を落としてたが開幕したJ2で復活した。
高校を卒業した新垣は晴れてFマリノスのトップへ、プロのサッカー選手になった。
練習グラウンドは雨でぬかるんでいた。
復帰して間もない高橋愛は言いようのない胸騒ぎを試合二日前のマレーシアで覚えていた。
荒れたピッチを見ると漠然としていた不安は具体的なものに。いつもよりも熱心に屈身した。
予感は的中する。ただし厄災が降りかかったのは高橋自身にではなかった。
平家もまた、痛む古傷を気にしつつ、晴れない気持ちでいた。
小雨ぱらつく中での紅白戦。
「魔の刻」は訪れた。
BチームのGK村田と競った後左足で着地、はげた芝に足を取られバランスを崩す。
ひざをしたたかに打ちつけた松浦が泥上にのたうった。
幸いケガは軽いもので済んだ。休みさえすれば完治する程度で、麻酔を打てば強行出場も可能。松浦本人もその気でいた。
問題は、この後だった。
箝口令を敷いていたはずのこの一件がどこからか外部に漏れてしまったのだ。これも協会のサポートの甘さが引き起こしたもの。
当然敵の耳にも届いたろう。激しさで鳴るタイ、徹底して松浦を狙うことは想像に難くない。
もしここで松浦が重傷を負ったら、ここは勝ち抜けてもオリンピックは本戦は。
が、ここで敗れては本番もない。
悩む時間すら与えられなかった平家は即決する。鬼になると。
「嫌です」
普段無表情な松浦がぼろぼろと涙を流す。
松浦の涙はそのまま平家の涙だ。一次予選でチームの3分の1以上の得点を叩き出した稼ぎ頭を手放すことが、
チームにとってどれだけの痛手になるか。
が、平家の決心は揺らがなかった。
「とにかく、今は休め」
「でも」
松浦を振り切って医務室を出た平家。
松浦を試合に出さないのは松浦を思いやってではない、それがチームの勝利のためだから。
自分もあれだけケガに苦しんだのだからケガした選手には親身になれる、そう思ってたのに。
平家はそんな自分が嫌になりかけた。
時間がない。平家は即座にスペインに国際電話を入れた。
「ゴトーの力はいらないって言ってたじゃないですかあ」
マドリードの後藤真希は抑揚なく喋る。正確には予選を勝ち抜くに後藤の力は必要ない、と言った平家。
「どの道ダメですよ、その日カップ戦の決勝あるんで出られません。その次の試合なら大丈夫ですけどね」
そこをなんとか、と頭を下げてはみるが、約束は先にしたほうを守ると後藤の意思は変わらない。
「あ、ちょっと待ってください」
あきらめて受話器を置こうとした平家に、思い出したように後藤が
「ブラジルに電話しますね」
サンパウロからフランクフルトを経由してクアラルンプールへ。試合開始5時間前に単身会場入りして日本イレブンを出迎えた。
うわあ、本当に来てくれたよ。それが平家の率直な感想。
「自分で来いと言ったくせに」
強豪パルメイラスに所属する福田明日香が自分たちと同世代だということに改めて違和感を覚えるイレブン。
それぐらい早熟だった福田。なにせ前回の五輪も経験している。
全員守備全員攻撃を掲げる今回のチームにあって攻めダルマの福田はいかにも浮いている。
が、松浦の穴を埋める適任者が他にいない。平家は福田のセンスに賭けた。
「待ってください」
石川が口をはさむ。
石川が同学年の福田に対し、敵意に近いライバル心を燃やしているのは誰もが知っている。
しかも二人は今、同じ南米のアルゼンチンとブラジルにいる。
剛のアルゼンチン、柔のブラジル。隣接しながらまるでスタイルの異なる両国は敵対している。日本と韓国のように。
その土壌で育まれた二人、コンビが合うのか。
監督への不満もある。なにもFWは松浦だけじゃない、
控えだっているのになぜ一度も合宿に呼ばなかった福田を地球の裏側から呼び寄せたのか。
その怒りを石川が代弁する、誰もがそう考えた。
「私が9番に入ります」
9番、センターフォワード。
「10番は福田さんにしてください」
平家は石川の前に福田を配するつもりでいたが、MFのほうが福田の良さが出るのは間違いない。
かたやセンターフォワードは最も狙れやすい。まして今日の相手は荒っぽく削ってくるのが容易に想像がつく。
それでも石川は、せっかくのトップ下をライバルに譲ってまで九つ目のポジションを選んだ。それが、チームのためと自分に言い聞かせて。
「みんな、亜弥ちゃんをオリンピックに連れて行こう」
「梨華ちゃん…」
微笑する吉澤。それはあたしに言わせてよ。
ベタベタする。あの時と同じだ。
確実に違うこともある。自分たちの時は大部分がアマチュアだった。あわよくば、くらいの気持ちでしか世界を目指してなかった。
その時の仲間だった稲葉は今日ベンチにいない。松浦の足の異状を隠し通せなかったことに責任を感じているのだろう。
誰も責めやしないのに。
今回の選手はプロ。そしてこの大会を通過点ととらえている。
もしかしたら、一番プレッシャーを感じているのは自分かもしれない。そんなびびりの自分を叱りつける平家。
親が自分の子供に自信持てなくてどうする。大丈夫だ。
スタメンはGK高橋。DF大谷、戸田、ミカ。MF吉澤、柴田、木村、福田。FW辻、石川、加護。
「高橋」
黄色いアームバンドを左腕に通した吉澤が五輪チーム初召集のゴールキーパーに寄っていく。
「大丈夫ですよ」
高橋はリラックスしている様子。その身を包む、黒いGKジャージ。
「加護ちゃん、辻ちゃん」
両ウイングを呼び寄せる石川。
「私がバックを引きつけるから、あなたたちが決めてね」
そして福田は一人集中を高めていく。
時差ボケもしてるし長旅の疲れもある。
が、呼ばれたからには期待に答える。
タイのキックオフで試合開始。
「遅い!」
一瞬顔を覗かせた左のスペースへ出したパスに追いつけなかった加護に、福田の容赦ない声が飛ぶ。
四匹のスッポンをけしかけてきたタイ。日本の3トップと福田に食らいついたきり離れないマーカー。
日本もそれは予想していた。タイとてオリンピックに行きたい気持ちは同じ、日本をよく研究してきた。
石川を日替わりで違うポジションで試すお遊びをしながら勝ち進めたのは、3トップの高い個人技があったから。
逆に言えば一次予選の相手とはそのレベルだった。
タイは違う。より組織を強固にしなければ勝てない。
「2番、3番!」
大谷雅恵。室蘭大谷高校から鹿島、札幌へ。高校時代全国大会でハットトリックを完成したほどの攻撃力を誇る右DF。
右ウイング辻がライン際を攻め上がる、その内側に切れこむ。福田からのパス。ミドルレンジから右足でぶっ叩く。
ポストに阻まれるが初めて決定的な形を作り全速力で戻る。
代わりに左からミカが上がる。クリアボールをタイMFと競り、体を入れて強引に奪う。小柄だがぶつかりあいには負けない。
即、左足で上げた。グングン伸びて石川の頭に合う。
マークにはさまれてのヘディングシュートはあさっての方向へ。
左右のDFには交互に攻め上がるよう指示してある。
ただでさえ守りが手薄なのに両サイドが同時に上がって奪われたら壊滅的なことになる。
奇しくもフランス人監督率いるA代表も3バック、しかも「フラット3」と自ら名付けた三人のラインDF。
ただこれは言葉のマジックではないかと平家は密かに考えている。
確かにサイドDF二人はFWに張りつくわけではないが、ハーフラインを越えて攻めることもない。
サイドに入るのはクラブチームでストッパーやボランチをつとめる選手ばかり。
フラット3とはつまり守備的な布陣の隠れみのなのではないか、と思う。
平家の採用する3バックは少し違う。
簡単に言えばセンターバックの一人を中盤に上げた4バック。
2か3(大谷、ミカ)が上がると5(戸田)がそのサイドを埋め、中央に空いた穴に4(吉澤)が入る。
リスキーではないかという批判にはこう説明する。あなたとはディフェンスに対する考え方が少し違いますね。
上げられる前に、出所を封じる。
ウイングを置いているのもそのためだ。MFとのコンビでボールを奪い、敵DFの上がりを牽制する。
辻と加護はそれをよく実践しているではないか。
それがこのチームにおけるディフェンスのメゾットなのだ、と。
それでもゴール前が薄いのは否めず、タイが浅い位置から早めに上げる。
黒衣のGK高橋、再三の空中戦に挑む。
ハイボールをパンチングで大きく弾き返す。
ミドルシュートを余裕を持ってトス、コーナーに逃れる。
そのコーナー。ニアを狙った鋭いボール。
平家の脳裏をナイジェリアでの悪夢がよぎる。
「オケッ!」
高橋、両手で小さく三角を作る。飛び上がり、水も漏らさぬ確実なキャッチ。すぐにスローでフィード。
堅固な城には必ずひとつスキがある。
敵はその小さななりにだまされる。黒い翼を広げたカラスがどれだけ飛べるかも知らずに。
左サイドを上がるミカがファウルすれすれのタックルに飛ばされる。
そのサイドを突くタイ。戸田がカバーにいく。構わず突っ切るタイ。不用意には飛びこまず、時間を稼ぐ戸田。
吉澤が戻り、大谷が中に絞る。出し所を失ったタイが下げたボールを柴田が奪った。
「ごめん!」
戸田に謝る吉澤。前に出過ぎて、戻るのが遅れた。
このシステムの中心は4番。ハヤリの2ボランチではなくシングル。そしてストッパーもこなす。
それこそセンチ単位のポジショニングミスが即命取りになる、チームの大動脈。それだけに吉澤はやり甲斐を感じているのだが。
一次予選では守りに徹していた両サイドDFが再三上がってくることで、そちらもケアしなければならないタイ。
自然、前のマークがずれてくる。
辻と加護がサイドに広がって敵を引きつけ、石川と福田がドリブルで挑みかかる。
が、ドリブルすら対照的な同い年の二人。
石川のドリブルは、蹴散らす、という表現がぴたりとくる。
華奢な体躯ながら巧みなボディコントロールで削られてもひるまず、ぶつかり返す事で活路を開く。
一方、福田はかわすドリブル。
柔らかなボールコントロールを武器にタックルの、チャージの5センチ先に体を通してゆく。
根っからのたたき上げと典型的なエリート。そのドリブルに二人の生き様がよく出ていた。
そして、先に血路を切り開いたのは石川のドリブルだった。
一人目を肩で弾き飛ばし、二人目のスライディングをジャンプしてかわす。
尻餅をついたタイDF、青いユニフォームの袖を引いた。
「うぜえ!」
構わず突き進んだ石川。袖をつかんだまま離さないDFをそのまま引きずる。
DFの体がわずかに宙に浮き、横倒しに叩きつけられた。
石川はわき目もふらず、タイゴールに襲いかかる。
久しく見なかった、ケダモノになった石川の姿。
ここで負けたら、松浦が一番辛い思いをする。
一対一。シュート。力んで、キーパーの胸に当ててしまう。
もう一度拾う。キーパーに詰められる。
ヒールで後ろへ。自分はわざと倒れる。プレーする意思がないことをレフェリーにアピール。
夜空に虹がかかる。
きっちりフォローしていた福田のループシュートが、石川の頭上を越えていった。
105メートル先でネットが揺れた瞬間、高橋は喜びもそこそこに電光掲示板のほうを見た。
22:35。
ちょうど前半の折り返し。先制のタイミングとしては良くも悪くない。
が、これで言い訳ができなくなった。張りのある高音でDF陣に集中をうながす。
「次、次くるよ」
無表情のままで味方の祝福を受け終えた福田の前に、子供がおちょうだい、をするみたいに両方の手のひらを差し出す石川。
にたりと笑って
「ナイスアシスト、でしょ」
福田はポーカーフェイスのまま、石川の手の上に、申し訳程度に指を乗せた。
タイが攻める。日本はプレスをかけ、ラインを上げ、カバーに入り、ボールを奪い、短くつなぎ、あるいはいきなり放り込んで、
時にはドリブルを折り混ぜながらゴールを目指す。
2点取れ、2点取ったら試合は決まる。平家がベンチで戦況を見つめる。
圧倒されたタイはロングボールに頼りきり。GK高橋が冷静に対応する。
ナイジェリアから帰国した時、中澤に言われた。
ミスはしゃあない。うちかてする。けどなんやねん、その後のていたらくは。
キーパーは孤独のポジション、セービングや読みより大事なのは心の強さ。
気持ち一つで、名手になれる。
ハイクロスを高橋、吉澤、戸田が粘り強くはね返す。
タイはこれでもか、とゴール前に上げてくる。小柄な選手が多く、さして効果があるとは思えないのに。
タイが左サイドで持つ。オフサイドトラップにはめようと上がる日本DF陣。
浮き球に二列目から飛び出したタイ。旗は上がらない。
待つか、出るか。一瞬迷い、勇敢な選択をした高橋が飛び上がる。
ペナルティエリアぎりぎり、先に触れられたボールが脇腹に当たって落ちる。体をかぶせた。出遅れたのがかえって幸いした形だ。
前半、終了。45分を守りきった。
「いってぇー」
ハーフタイム、福田はユニフォームをめくりあげた。
飛びひざ蹴りを食った脇腹に見事な青アザが出来ていた。
これだから、国際試合はあまり好きじゃない。サッカーは戦争、なんて言えばカッコはいいが、プロレスまがいのタックルには心身が萎える。
ただ今回は後藤が合流するまでのつなぎで、どうしても断れなかった。
それにここ半月くらい試合が組まれてなくて、サッカーに飢えていたこともある。
この先、五輪代表に参加し続けるかはまったくの白紙。
が、今日は、今日だけは絶対勝つ。
「立ち上がり、立て、立て!」
後半キックオフとともにGK高橋が叫ぶ。キーパーの仕事の半分は声を出すことじゃないかと思うぐらいだ。
味方の得点を待つ身としては追加点が欲しい。タイの守りは厳しさを増すばかりだからせめてもう1点、いい時間帯に。
DFはあまり上がらず、前もショートパスをつないで組織力で点を奪いにいけ、と指示があった。
平家は実のところ、前半の戦いぶりにはあまり満足していない。
ボールは支配できていたものの、試合そのものを支配していたわけではない。
ささいなきっかけで形勢逆転、なんていくらでもある話。
加護が一度柴田に戻す。柴田のサイドチェンジ、大谷を走らす。
大谷のセンタリング、密着マークをかいくぐった石川がボレーで合わせた。キーパー正面。
インパクト直後蹴倒された石川、黙って立ち上がる。
気づいていない、右から辻がまったくのフリーで飛び込んできていたのに。なまじゴールが近いせいか、視界が狭まっている。
右サイドで木村が倒された。柴田のFKがファーからニアに走った吉澤へ。ダイビングヘッド。ボール半分、ポスト右にそれた。
「バカーッ」
自らをそうなじる吉澤。2点目が遠い。松浦の不在が痛い。
嫌な空気を吹き飛ばしたのは、天才のひらめき。
その瞬間まで福田はほとんど仕事をしてなかった。力をためていたかのように。
マーカーの懐に飛びこみ、寸ででかわして置き去り。二人目の股を抜き、三人目はチップキックで回避。
石川も食らいつくように並走、タイのマークが拡散する。
四人目を右にかわした時、ゴールへの角度はほとんどなかった。構わず打つ福田。GKを抜き、しかし枠にもいってないボールは石川の顔面を直撃。勢いよくネットを揺らす。
「ちー…」
「ナイスヘッド」
タッチを要求する福田。石川の手が勢いよく振り下された。
反対側のゴールにまでタッチの音が響いた時、高橋は再び電光掲示板を見ていた。
14:26。
早すぎる。タイの猛攻を30分以上も凌ぎきれるだろうか。
いや。かぶりを振る高橋。
気持ちを強く持て。相手が捨て身でくるなら、こちらも捨て身でかからねば礼儀に反するではないか。
攻めこまれてなんぼの稼業がゴールキーパー、ヒーローになれるチャンスが来たと思えばいい。
そでを伸ばし、グローブをはめ直した高橋。口もとに手を当て、またも甲高い声を飛ばす。
「はい集中、シューチュー! タイ死ぬ気でくるよ!」
カクテルライトの降り注ぐピッチで、上空を飛び交うボールが白く輝く。
大好きなヒカリモノに飛びつくカラスのごとく、何度でも高く舞い上がる。
往年の覆面レスラー、ミル・マスカラスもかくやという華麗なフライングクロスチョップで突進、勢い余って敵FWと激突する。
目方がないぶん遠くへはね飛ばされたが、死んでもボールは離さない。
2-0になってからDFへの負担は増大するばかり、それでも崩れそうで崩れないのは番人が背後の扉を死守し、
その前の段階でDFが決定的な形を作らせないからだ。
タイのミドル。高橋、横っ飛びでかき出した。
「ニーガキ、ニーガキーッ」
ピッチ中央、吉澤が新垣投入を要請する。30分過ぎ、前の四人の動きが目減りしていた。
その負担がすべて後ろにくるのだからたまったものではない。
平家だって分かっている。一気に二人を投入。新垣と斎藤。下げるのは福田と
「あたし?!」
プラカードに自分の番号を見、釈然としない表情で引き上げる吉澤。
「どうして私なんですか」
「あんた、相当動き落ちてたよ。自分で分からない?」
平家は吉澤に、もっと縦に動いてほしかったのだ。
吉澤には平家が、あんたはスタミナが足りないと言っているように聞こえた。
交替した二人はよく動いた。チームの、勝利のためもあるがなんといっても少ない時間でアピールする必要に迫られている。
10番に入った新垣はとにかくボールを追い回し、斎藤は体を張ったディフェンスでタイに前を向かせない。
久々に日本にチャンス。FKを石川が狙う。壁に当たり、大きくはね返る。
タイの速攻。スピードに乗った突破、吉澤から手渡された腕章を巻いた戸田が振り切られて独走を許す。
一対一のシュートは高橋の苦手な左下へ。低く手を伸ばすが触れない。外れるかに見えたがスピンして、隅に小さく収まる。
高橋が地面を叩いた。
失点。ゴールキーパーである限り、いつかはこの憂き目に遭う。
が、この絶望感だけは何度味わったところで慣れることはない。一瞬、サッカーをやめたい気持ちにさせられる。
小競り合いの声に顔を上げる高橋。
戸田がタイ選手と、まるで子供のようにボールのひっぱりあいっこをしている。時間を稼ぎたい日本、早く攻めたいタイ。
サッカーは戦争。そのことを思い出す。
ここで崩れたら、ナイジェリアでの失敗をなにも生かしてないのと同じことになる。
立て、立てあたし。
高橋愛、あんたはトーナメントに強いキーパーのはずだろ。
1点は失ったものの、高橋の集中は途切れるどころかさらに研ぎ澄まされた。
かすれない声でのコーチングは鋭さを増し、無理めに見えるボールにさえ競り負けることはなかった。
その笛が鳴った時、なにかファールがあったのかなと思って周りを見た。
赤いユニフォームが崩れ落ち、青いユニフォームがところ構わず抱きあっているではないか。
そこで高橋の頭は真っ白に、その後の記憶もすっ飛んでいる。
マジック1となった日本。ベンチでは福田と吉澤が固く握手。隣で一人うなずく平家。
まだだ。嬉しいけどまだ喜ぶには早い。
「もう一試合ぐらい、いればいいのに」
「急に試合が決まったから仕方ないです。南米って、そんなところですから」
本当は見送りもいいと言ったのだ。なのに、全員で空港に押しかけた。
所属するパルメイラスの試合が急遽組まれ、福田はブラジルにトンボ帰りすることになった。
「本大会は出てくれるんでしょ」
「わからないですね、そんな先のことは」
キザ。石川は胸くそ悪くなる。が、福田がいなければ今頃全員で日本に強制帰国させられているはずだった。まさに職人、必殺仕事人。
「それに、代役の役目は終わりましたから」
「違いますよう。あたしがアスカさんの代役なんですってばあ」
欧州カップウィナーズ杯を制したばかりの後藤真希(レアルマドリード)、決勝の会場トルコから直接マレーシア入りした旅支度のまま。
全員が空港に来たのはその出迎えでもあった。
「じゃ」
「あの」
石川が福田に頭を軽く下げる。
「アリガトウ」
少し照れ臭そうに笑い、小さな鞄を背負ってタラップに向かう福田、その背中が小さくなるのを見守る。
平家の左膝がシクシクと鳴く。なんでこんな時に。
試合前日の早朝、国際電話で叩き起こされた。中澤だった。
「テレビつけえ!」
さながら、悪魔の創造したオブジェだった。
泥の色をした大河のど真ん中に、白い機体の前半分が埋没している。翼の端がわずかに濁流に顔を覗かせていた。
フランクフルト発サンパウロ行き大型旅客機はリオデジャネイロ上空でエンジントラブル発生、
という連絡を最後に消息を絶った後大きく航路を外れ、パラグアイとの国境を流れるパラナ川に墜落した。
炎上こそまぬがれたものの機内に大量の水が流れ、さながら沈没船のようであった。
ハッチを開いて脱出した人も速い流れに飲まれ、数名が岸に流れついたのみという大惨事にまで発展してしまった。
なんてこと…覚醒しきらない平家の頭。それでも必死に情報を整理しようとする。
今度こそ、はっきりと目が覚めた。
「明日香!」
サンパウロ行といえば福田の乗り込んだ便ではないか。
「飛行機に邦人が乗ってたかはまだわからん」
中澤が事実だけを淡々と述べる。
頭を抱える平家。あたしのせいだ。やはり、無理にでも引き留めるべきだったのだ。
「どうしよ裕ちゃん」
「落ち着き。すぐあっちゃん起こして話し合い。…ちょい待ち。テロップ出たわ。
事故機の乗客リストに日本人一人、福田明日香さんの名前があったと航空会社が発表…」
中澤はすぐ現地へ飛び、南米在住の友人と連絡を取り合いながら逐一報告を入れると約束してくれた。
稲葉も既に起きていて、対処を話し合った。
選手にどこまで話すべきか。二人の意見は分かれた。
平家はすべてを包み隠さず話してさまおうと強く主張し、最終的には稲葉もそれに同意した。
同時に選手の動揺を考え、試合の延期をアジアサッカー連盟に申し入れることも決めた。
「みんなには、あたしから話そか?」
「いえ、私の口から告げます。それも監督のつとめですから」
平家は言い切り、稲葉は従った。
窓の外が明るくなり始めた。
「私がケガなんてしなかったら」
朝食前に開かれたミーティングは朝飯前なんて言えない重苦しさに包まれ、その沈黙を切り裂いたのが冒頭の松浦の嗚咽だった。
「そんな、亜弥ちゃんのせいじゃ」
前の試合は、その松浦を救済するための戦いだった。
なら今度は福田の弔い合戦だとでもいうのか。乗客手続きだけして、うっかり乗りそびれたのかもしれないじゃないか。
「もう、やめない? 誰のせいだとかっての」
そう言って立ちあがったのは読売(現東京ヴェルディ1969)ユースで福田の一年下だった後藤。初めて代表に入ったのも福田の誘いだった。
「運命なんだよ。うちら全員、いつか死ぬ。違うのは順番だけ。それを決められるのは神様だけだよ。
松浦ちゃんだってアスカさんを事故に遭わせるつもりだったわけじゃないだろ」
福田がもうこの世にいないと決めつけたような後藤の言葉に反感を覚えた者も少なくない。
これはあくまで死生観の相違だ。人間どうなるか分からない、後藤はそれを言っているにすぎない。
その証拠に、結局延期にならなかった試合前、喪章をつけることを一度拒否している。福田は死んでいないと。
それでもこの事故で大勢の人が亡くなったのだからと言われて承諾した。
GK高橋。DF大谷、ミカ、吉澤、戸田。MF柴田、木村、新垣。FW辻、後藤、加護。
3バックを放棄した。ウズベキスタンも3トップ、吉澤をCFヒロコフィエフにつけた。
石川を外した。タイ戦の疲労が色濃く、福田の事故に受けたショックが大きいと判断した。
中盤の中央に新垣を起用。10番のエーリンのマークにつけた。90分持たなくていいからとにかくへばりつけ、
すねは蹴ってもいいがひざや足首は絶対狙うなと言い聞かせた。
平家の目は赤い。ほとんど寝てない。事故への質問に選手がナーバスになるからやめてと言う彼女が一番ナーバスになっていた。
千葉県印旛郡――
順天堂大学蹴球部合宿所。
この大学の学生は最初の一年、学校の寮で生活することが義務づけられている。
千葉のさくらキャンパスで生活する体育学部の学生にしても例外ではない。各部の寮にいるのは二年生以上。
当然、しつけ以外のさしすせそはすべて二年生の仕事になるのが体育会系の掟だ。レギュラー、控え関係なく。
先輩も意地悪で、下級生が仕事をしたくない時間にどかっと洗濯物を出したりする。
この日もそうだった。自分たちの同世代であるオリンピック代表の決戦を前にできた衣類の山に途方に暮れる二年生たち。
「やるよ」
二年生の一人がにこりともせずに言う。
みんな知っている、やってやるからあっちに行けという意味であることを。感謝の弁もそこそこに散る他の二年生。
普通こんなことをすれば上級生が余計なマネをするなと言いそうなものだが、彼女に限ってはアンタッチャブル。
四台の洗濯機は今どき全自動ですらない。ごうんごうんとうなりを上げる渦巻きに目をやる。
夜空に洗濯物を干しに行く時、自分より一つ上の黒服少女の緊張した面持ちが映し出されたテレビ画面を目の端に捕らえる。
アジア予選で騒ぎ過ぎだ。こちとら世界一だっての。
同時刻、北海道――
札幌の春は短い。
同じように、北海道大学理科三類の春も短い。
二学年春学期の教養学部を終え専門に移ると遊ぶ時間はなくなり、
道路脇の雪が汚れてゆくように白衣を日々薄く汚すばかりの長いながい冬が始まる。
先輩は言う、専門が始まるまでにせいぜい遊び倒しておけよ、短い春を謳歌せえよと。
バイトばかりにかまけてはいられない。ゆえにおいしいバイトは教養学部生に代々受け継がれる死守すべきシマとなる。
円山公園の花見でビールや枝豆を運ぶ期間限定の仕事もその一つで、夕方からの数時間で日給は九千円にもなる。
「腹減った」
「ラーメン食べてくべさ」
暴走した大人の遠足の相手も連夜続くとしんどい。バイトを終えた学生が花冷えする夜道をとぼとぼと歩く。
「イトアマは?」
「タクシー拾って帰った」
「男?」
「そんな甲斐性ねーべ」
死守すべきシマゆえに穴を空けることは許されない、この日都合つかないから代わりしてくんないかな――
イトアマだイトカンだの好き勝手なあだ名で呼ばれる彼女は、見たいテレビがあるから、などという理由でそれを断れなかった。
録画すればと言われるのがオチだから。それでは無意味なのに。嫌われるのも怖かった。
夜空にいっぱいの洗濯物をかざす千葉の娘。
タクシーの中でさかんに時間を気にする札幌の娘。
そして決戦の時を迎える、赤鬼率いるクアラルンプールの娘たち。
役者は揃った。
すべての場所のすべての娘の思いを飲み込んで、運命のホイッスルが鳴り響く。
柴田のコーナーキック。DFクリアをエリア外にいた木村がワントラップ、シュート。クロスバーを鳴らす。
リバウンドを拾う後藤。打てない。左に流す。加護が狙う。ふかした。
ウズベキスタンがアーリークロス。空中戦。吉澤、強い。ヒロコフィエフを軽く吹き飛ばす。
エーリンの突破。キャリアも実力もケタ違いの相手に新垣が向き合う。飛び込まずに耐える。
ウイングがエーリンの裏に走る。ボールが出る。ミカが飛び出してカット。コンビプレイ。
頼もしかった。まるであぶなげない。高橋は安心して試合を後ろから見れた。
今日のウスベクにさほど怖さを感じないのは平家も同じ。
日本をさんざ苦しめた恐るべき子供たちは、あの日からさほど伸びていない。
確かにアヤックスから(この試合は同門対決でもある)し欧州の名門に巣立ったが時期尚早だったのかもしれない。
だから、いつかはゴールを奪える。そう楽観していた。
そのいつかが、いつになっても訪れない。
ウズベクDFタカコフが涼しげな顔のままサイドからの後藤への配球を遮断し、
ケガによる長期離脱から復帰したGKヒトエッチがミドルやロングをはたき落とす。
はためには互角の守りあいで前半が終了した。
バン、という音がロッカールームに響く。
「ボール持っとるのと勝っとるのはちゃうわ! そんなん持たされとるだけや!」
思わず関西弁が出る。選手がこちらの要求にほぼ応えられてるだけに心苦しいがここはあえて鬼になる。
「向こうもオリンピック出たいねん。ソ連から分かれて歴史ない国やしな。その必死さ侮ったらやられんで。吉澤、つなぎはもっと正確に。
木村、辻と大谷の動きを見て。柴田、サイドチェンジが遅い。新垣、奪ったボールはこねるな。後藤、打ちまくれ」
最後にこうしめくくって送り出す。
「一点、無格好にむしり取ってこい」
悪い予感はえてして当たる。
ウズベキスタンは前半とは別のチームになっていた。
吉澤はヒロコフィエフに前を向かせないようにするので精一杯、ポストプレーまで封じることはできない。
新垣は別人の荒々しさで迫るエーリンに苦もなく跳ね飛ばされる始末。
「おまえが削るほうやろが」
とはいえ両者の実力を考えれば、前半の健闘をほめるべきなのだろう。
「石川」
ベンチの一番端でじっと戦況を見つめていた選手を呼ぶ。
「アップ。後藤の後ろだ」
ついにきた。念願の10番のポジションである。
石川に笑顔はなく、無言のまま立ち上がる。
新垣のジャンピングニーパッドがエーリンの背骨を直撃。エーリンは海老反りに身悶え、新垣はイエローを頂戴する。
チーム最年少のハーフバックはカードなんざ屁とも思っていない。
ビーバーは小さな前歯で枝を削り、それを組み合わせて大きな巣を作る。水辺の建築家と呼ばれるゆえんだ。
新垣も同じだ。小さく幼いなりに似合わぬハードマークで相手エースを削り、味方のリズムを作る手助けをする。
ラフプレー自体は決して褒められることではない。
が、新垣は誰もが嫌がる汚れ役を引き受けること以外自分がチームに貢献できる道を知らなかった。
吉澤をはね退けるヒロコのヘディング。高橋の手を越え枠外へ。
後半は完全に五分。日本も攻めながら詰めが甘い。
すごいなあ。高橋は反対のゴールで美技を連発するGKヒトエッチに熱い視線を送る。
小柄なキーパーは不利だなんて嘘に思えてくる。大切なのは瞬発力と読み、なによりリズム感。
自らも決して体格的には有利ではない高橋は大きな勇気を得た気持ちになる。
エーリンがコーナー付近でボールキープ。背後から新垣がはりつく。
新垣のスパイクがエーリンの足に。振り向きざま、エーリンの平手が新垣のおでこに当たる。
短く、笛が鳴った。
なにが起きたのか、当事者にすら分からなかった。
主審はウズベキスタンの10番を呼びつけ、その頭上に赤紙をかざす。
報復行為。新垣に足を蹴られ、とっさに仕返しをしたととられたのだ。
濡れ衣を着せられ、思わず新垣をにらみつけるエーリン。だがすぐに泣き崩れ、ヒロコフィエフに慰められる。
ナイス、とからかい半分に言われ慌てて首を横に振る新垣。
そんなつもりはさらさらなかったが、彼女が与えられた任務を完遂したのには違いない。それも、望みうる最高の形で。
ミスジャッジとも言い切れないが、日本すら同情するアクシデントだった。
が、平家は今一度勝負の鬼になる。
膠着した展開で敵センターラインの一角が崩れ、数的にも優位に立った日本。
幸運は続く。攻守の要エーリンを失ったウズベクはそのポジションにヒロコを下げた。
そのマーカー吉澤も一緒にミッドフィールドへ、日本の中盤の構成力が上がった。
時は来た。今こそたたみかけるべし。
「石川!」
エースの体は熱くほてっていた。シンガードをつけ、シャツの裾をパンツに入れる。
役目を終え、こちらに引き上げる新垣とすれ違う。
「お疲れ」
「お願いします」
後半28分。石川梨華、ついにピッチに勇姿を見せた。
後藤のポストから石川がドリブル、後ろからひっかけられ絶叫もろとも倒れる。
ファウル、と思いきや笛は鳴らない。それどころか主審は石川に警告を与えた。
「大根」
平家が吐き捨てる。あの演技力のなさはなんとかならんものか。
フリーキックをもらいにいったのがバレバレだった。ダイビングを奨励する気はないが、どうせならもっとうまく倒れてほしい。
とはいえ、普段の石川ならわざと倒れたりはしない。軽くかわすか、こらえて突き進むかする。
平家の誤算だった。今日の石川は想像していた以上に悪かった。心身ともに限界に近かったのだ。
石川不調の最大の原因、それは福田明日香だった。
ずいぶんじゃんか、勝手にいなくなっちまうなんて。勝ち逃げでもしたつもりかよ。
まるで読みかけの推理小説の残りページを破り捨てられたがごとき、怒りにも似た感情とらわれる。
が、石川はその怒りをサッカーに還元できないでいる。集中を欠いたプレーは日本に流れかけた試合を再びカオスへと導く。
勝敗はまだどちらのものでもなかった。
吉澤が長いリーチを駆使してヒロコを止め、自ら前へ。左に開いた石川がパスを欲するがロビングは直接ゴール前へ。
後藤のジャンプボレーがGK正面に飛ぶ。
なんでくんないんだよ、吉澤をにらみぶす石川。
吉澤にすれば、梨華ちゃん疲れてるし、リズムを変えようと思いついたにすぎない。
が、パスがノーマークの自分を素通りしていったことで、石川のプライドはいたく傷つけられた。
そして疲れ果て、眠っていた闘魂に火が着いた。
冗談じゃねえぞコノヤロー、やったろうじゃねえかダーッ。
ウズベキスタンのロングキックを頭で叩き落とす。こぼれ球にも食らいつく。
あまり賢いやり方には見えなかったが、狂ったようにボールを追い回し、その一本をむしり取ることに成功。
馬鹿になれ、石川。
ヒロコフィエフのドリブルをスライディングでカットする石川、倒れたまま柴田へ。
左から突破にかかる、とみせて後藤の足元へクサビを入れる柴田。
後藤、DFを背負いながら左へはたき自らも前へ。
ボールは加護。左足インサイドでセンタリング。後藤が間に合わない。
辻がいた。タカコフとの競争に勝った。胸で落とし、右足ボレーで低く狙う。
至近距離のシュートにヒトエッチ奇跡的な反応を見せ、足元にはたき落とした。
そこまでだった。
ガラ空きのサイドにフリーで駆け込んだ後藤に残された仕事は、片目をつむってでもできる簡単なものだった。
後藤のゴールが決まった瞬間、平家は思わずベンチを飛び出した。
コーチャーズボックスでガッツポーズすると喜びを押しやり、鬼の顔で叫ぶ。
「戻れ、戻れ!」
時計を見る。42分30秒。
ベンチで独自に計っていたロスタイムは3分19秒。
「ロスタイム5分!」
選手にはわざと多目に言った。そのほうが集中が持続する。
まだ終わんないの? と思ってるうちに点を取られるよりも思ったより早く笛が鳴ってもう終わり? と思うほうがよほどいい。
審判団からの正式なロスタイム表示は、4分だった。
間もなく電光掲示板が45:00を差し、消えた。
後のなくなったウズベキスタンはタカコフも前線に出してのパワープレー。すべてのボールをヒロコの頭へ。
ヒロコが落とす。エリア目前、タカコフがボレーに。
石川のブロック。表情ひとつ変えずに動きを止め、石川をやりすごしてから再び狙うタカコフ。
石川の体は流れ、どうしようもないかに見えた。
止めた。
手を使った。
当然笛が鳴る。ウズベクにフリーキック、石川に本日二枚目のイエローカード。
途中から出て最後まで戦えない屈辱を味わった石川は黙って起き上がり、
決定機を妨害したことをタカコフに詫びてからゆっくりとピッチを出た。
10対10。時間的にもこれが最後。
日本は全員で壁を作り、ウズベキスタンはGKヒトエッチがボールをセット。
「吉澤さん、も少し左」
初めてのピンチらしいピンチに日本GK高橋の顔が堅くなる。
ボールは壁を避けて逆サイド。最後もヒロコの頭。高橋が拳を固めて飛び出す。
空中で押された。バランスを崩し、腰から落ちる高橋。
戸田が手を上げる。副審がNoのジェスチャー。キーパーチャージは取られなかった。
加護を振り切り、こぼれに飛びつくタカコフ。
楽勝のはずのシュートは大きく弾かれ、タッチライン上に落ちた。
「ぐ…」
高橋がその場でもがく。飛ぼうにも下肢がしびれて動かない。黒い翼で地面を蹴ったらたまたまボールが体に当たった。
ウズベクのスローインが投げ入れられることはなかった。
日本、オリンピック出場決定。
高橋かそのまま顔を覆い、スタンドで戦った松浦は泣き崩れて座りこんだ。
だが選手でそうしているのは少数、あとはひたすら安堵していた。予選突破は目標ではなくノルマだから。
クイーンのWe
are the championsが大音量で流れる。バルセロナで聴けなかったフレディの歌に赤鬼は泣いた。
あれから八年が経っていた。