サッカー小説完結編「歓喜の145センチ」
第二部・Zinc White
「Zinc White」
亜鉛華などとも呼ばれる顔料。
顔料とは色のついた粗い粉末のことでこれにアラビアガムを混ぜると水彩絵の具、油を混ぜると油絵の具になる。
カラーインデックスでホワイトの4、組成は酸化亜鉛(ZnO)。
水彩絵の具として使う場合、特にチャイニーズホワイトと呼ばれる。
時間が経つとひび割れを起こすため下地には使いづらいが人体に無害で、透明度が高く、どんな色と混ぜても美しく発色する。
色としてはやや黄色を帯びた、温かみのある白。
余暇を利用して、飯田圭織は油絵を描くことが多い。
ビートルズを生み出したリバプールから、故郷北海道を想って。
パレットに、ジンクホワイトをたっぷりと乗せて、カンバス一杯に描く。
飯田は白が好きだ。特にこのジンクホワイトが。
同じ無彩色の黒が何物にも負けない強さを持つのとは違い、繊細で、他の色に染まる白。
いや、一方の色に染まるというよりは、互いに影響を受けながら溶け合っていくようにその姿を変じる。
誰に書き方を習ったわけでもない。誰かに見せるわけでもない。頭の中の描きたいものを描きたいように描く。
時には二枚のカンバスを並べて交互に筆を躍らせることもある。今もそうしていた。
仕上げにジンクホワイトを滲ませ、元の絵の具の色と溶け合わせる。幻想的で神秘的な雰囲気を醸し出す。
できた。二枚の絵が。飯田は満足そうに微笑む。
一枚は、密林の中で鋭く目を光らせる孤独なトラ。
もう一枚は、雪景色の中たくさんの動物に囲まれて優しげに微笑む白衣の少女。
学生の祭典、ユニバーシアード大会が北京で開催されていた。
サッカーの部決勝、日本大学選抜はイタリア選抜に対し、奇跡的にスコアレスドローで前半を終えていた。
大学サッカー界の名伯楽、早稲田大学監督寺田農(みのり)のもと、
徹底したカウンターサッカーでここまで無失点の日本選抜はセリエAプリマベーラ(ユースチーム)
経験者を多く含むイタリアの本家カテナチオからの速攻に再三手を焼く。
ホーム扱いのイタリアはA代表と同じアズーリ、地中海の青をまとい、
疲れた様子で引き上げる日本は炎のエンブレムをあしらった白装束であった。
柴田あゆみはたっぷり汗を吸ったキャプテンマークを右腕から外した。初秋の肌寒さが嘘のような汗だくの顔を袖で拭う。
トップ下、背中には10。五輪代表では石川のサポート役に徹する柴田もこのチームでは女王様、
左足で長短のパスを操り華麗なカウンター攻撃を演出していた。
まがりなりにもプロチームである横浜FCに所属する柴田がなにゆえアマチュアの大会に出ているのか。
柴田はプロではないのである。
横浜フリューゲルス消滅後そのサポーター中心に立ち上げた市民チームは慢性的な財政難、
柴田ほどの選手をプロとして雇える余裕がなかった。
横浜フリューゲルスジュニアユース一期生である柴田はフリエへの忠誠心が強い。
なんとしてもフリエを自分の手で復活させるのだと高校卒業後横浜FC入団を決め、
ソシオ(会員)制度を取るチーム、市民に負担をかけまいと自らプロを断念した。
が、ユースの同朋石川梨華が代表に選ばれるのなどを見れば、悔しさが少なからずこみあげる。
昔は私があいつを使ってやってたのに。
待遇は問題ではない。カネにこだわるならばアマチュアでなんかやっていない。柴田を欲しがるJ1チームはいくらでもあるのだ。
ただ誇れるものが、頑張ってることの証が欲しい。
その人物は、柴田が在学する神奈川大学へアポもなしにやってきた。
元日本代表監督の伯父である寺田農はちゃらい甥とは対照的な哲学者めいた風貌で、低い声で噛砕くようにして切り出した。
「ユニバー代表に力を貸してくれないか。プロの血が必要なんだ」
自分をプロと呼んでくれたのが何より嬉しかった。それにプロとアマ双方で日の丸をつけられることは最高の栄誉だった。
ユニバー代表はユース代表時代の仲間がそのほとんど。
発足当初の五輪代表に名を連ねながら環境の差、学業との兼ね合いで脱落していった者が何人もいた。
もちろん、そうではない者もいるにはいる。
緑色のユニフォームに、チームで一番大きい番号をつけたこの選手がそう。
3、4年生主体のチームにあってただ一人の一年生。
面構えのよさを買われたそうだが、なるほど、目の鋭さや決して端を上げない口元などは肉食獣のそれだ。
リーグ戦から一度のゴールを許してないのも、FWがその顔にびびるからじゃないかと陰口を叩くむきまである。
こっちへ来る。まき散らすかのような殺気にキャリアが上であるはずの柴田も身を凍らせる。
「風を見ろ」
ゴールキーパー、小川麻琴は言った。低く、抑えた声で。
後半、風はわずかに日本の順風。柴田の左右へのロングパスが逆につながらない。
FWに連戦の疲れがあるようで、風に乗って運ばれるボールに追いつけないのだ。
「ぐわっ」
相手GKと交錯した青いユニフォームが地面に叩きつけられる。
日本GK小川は前半にも一人、イタリア選手を「壊して」いた。
そっちが突っ込んできたんだ、勝手に傷んでりゃ世話ないぜ。そんな目で悶絶する選手を見下しているかのようだ。
身を楯にボールを、ゴールを守るキーパーは様々なルールによって守られている。
それを逆手に小川は体を投げ出し、FWをふっ飛ばすのだ。
イタリアは接触を嫌い、スイーパー真鍋かをり(横浜国立大)をかわすと早めにシュートを打つ。
これが決まらない。小川の腹、肩、ももに当ててしまう。上を抜こうとするとゴールまで越えてしまう。
小川の飛び出しがタイミング、スピード、ポジション取りがバランスよく高いレベルで行われているということだ。
左からのクロスに飛び出す。味方ストッパーもろとも敵をはね飛ばしてキャッチ。
その体を飛び越えて走り出し、外野手のバックホームのようなオーバースロー。
右サイドを走る木村アヤカ(上智大)の走るコースへ、真一文字に突き刺す。
アヤカが倒された。ペナルティエリア横からのフリーキック。あと少しでエリアに入れたのに、悔しがるアヤカ。
ボールを抱える柴田。オレンジ色の頭をしたFW広末涼子らがゴール前で待ち受ける。
イタリアのゴールは前半日本が守っていた。DFが目測を誤る中、小川一人が的確に処理していた。
ファーポスト付近の上空付近だけ、順風が逆風になる。
柴田の左足センタリングが風に乗ってファーへ。大きい。
風に戻される。高度を下げて枠へ。後ずさりするGK。
ボールにかけた変化が作動。タイミングを外されたGKの腕の間を抜けた。
「どうだ!」
その後も柴田のスルーパスをアヤカが突き刺しダメ押し。イタリアの反攻は小川が体を張って凌いだ。
タイムアップの瞬間、酒井美紀(亜細亜大)がベンチを飛び出した。
大会二日前に肉離れで戦線離脱していた本来の主将が後輩のMF加藤あいと抱き合う。
その脇で帝京大コンビ友坂理恵と山口沙弥加が日の丸を振り回した。
三年生の真鍋は遅れている就職活動に思いをはせ、広末はさぼりまくっていた授業に出なくてはと考えると気が重くなった。
柴田はアヤカと肩を組んだままベンチに戻り、監督に礼を述べた。
涙は無かった。心地よい達成観だけがあった。
一人だけ笑ってない者があった。無失点優勝の立役者、小川麻琴。
これで世界一かよ。ただ脱力感だけがあった。
怖いと思ったFWがいない。勝負の醍醐味を感じさせる一瞬がなかった。
それにこの報道の少なさ。共同の特派員が一人、専門誌「Goal
Magazine」の記者兼カメラマンが一人。
五輪代表の双子の妹は、忘れ去られた子供たちだった。
少ないカメラの前で、勝利の雄叫び。
「1、2、3、ダーッ!」
成田で、報道陣に囲まれてナイジェリア入りするユース代表とすれ違う。
小川の視線の先に、ワールドユースで評価を得る高橋愛の姿があった。
雪の北大。
「紺野ってのいるか?」
赤いジャージ、金髪、小鼻にピアス。
人を射る独特の視線にとっ捕まった哀れな小羊が視線で周囲に救いを求めるが見て見ぬふりをされる。
「だから紺野だよ。紺野あさ美」
女は焦れるが、この広大なキャンパスに何人の学生がいると思っているのか。
「こんな面した奴だよ。だっさい服着た」
女は自分の頬を下に引っ張り、お目当ての少女の輪郭を表現してみせる。
「イトアマのことですか?」
別の学生だった。
「紺って糸と甘いって書きますよね。うちらイトカンとかイトアマリヨとか呼んでるんです」
かくして金髪鼻ピアス女、石黒彩に授業中にもかかわらず引きずり出された糸甘里予、もとい、紺野あさ美。
お久しぶりですと言うにはあまりに突然で動揺を隠し切れない。
「元気でやってんの」
「はい、なんとか」
二人の出会いは、引退した石黒がコンサドーレ札幌ユースチームの監督に赴任した時。
見た目によらず足が速く、サイドアタッカーの控えだった紺野のプレーをひと目見た石黒、フルバックに転向させる。
最初はウイングと似た仕事の多いサイドDFからストッパー、そしてリベロ。
それは現役時代の石黒がたどったのと同じルートだった。
「ヘタクソ!」
試合のたびにミスを連発し、石黒に罵倒される紺野。それでますます畏縮してはプレーが小さくなりまた罵声を浴びる悪循環。
高い強い速いうまい。サッカーにおけるすべての要素に加え読みの鋭さ、高い戦術眼、時に攻め上がる大胆さも要求されるのがリベロ。
逆に言えば下手なリベロほど手に負えないものはなく、紺野がまさにそれだった。
しかもこの時の石黒が推進していたのが、常時三人で形成するラインDF。
真ん中に鎮座するコンダクターは広大な守備範囲が与えられ、時には中盤のプレッシングにまで指示を出さねばならない。
どちらかといえば紺野は一人でいるほうが好きな性分だ。自分の世界で想像の翼を広げるのが至福の時。
サッカーにしても勧められるまま続けていたらここまできてしまえたような気がする。
だから人に口出しせねばならないリベロが紺野は嫌でならない。変えてくれと何度も言ったし自分よりうまいDFはいくらでもいた。
石黒はリベロ紺野を使い続けた。試合での失敗の原因はあがりだったし、なにより紺野には誰にもない「能力」があって、
それを活かすに最適なのがリベロだったのだ。
しかしチームは、高校卒業を迎える紺野とプロ契約を結ばなかった。
「学校楽しい?」
「ハイ」
北大獣医学部といえば獣医を志す者なら誰もが憧れる最難関。
札幌随一の進学校で五指に入る成績を修めていた紺野も浪人覚悟で受験した。
動物のお医者さんは、紺野の夢の一つだった。
「授業は忙しい?」
「もうすぐ試験が終わりますから、そしたら秋までは暇ですね」
にたりと笑う鼻ピアス。
その手にコンサドーレトップチームの契約書。
頼み事をされたら断りきれない紺野の性分など石黒は熟知している。
「あたし今年からトップ監督なんだ。キャンプまでに体作っといてな」
紺野のもう一つの夢、唐突に叶った。
「ミックスジュース、ミックスジュース、みっくすじゅ〜うす」
変な節回しで歌いながら、平家みちよは朝食を作る。
イチゴ1パック、バナナ2本、つなぎに牛乳をコップ一杯。
ミキサーによって粉砕された果物は、白くにごったどろりとした液体に生まれ変わる。
腰に手を当て、くっとあおる。一気に目がさめる。ついでにお通じもよくなる。
選手時代ほど食生活には気を配らなくなった。ただ朝抜きだと確実に調子が悪いから一杯ひっかけてから、家を出る。
そして、ゲンをかついで。
なんかたんない、なんかたんない。
イチゴバナナがたんない。
1、5、8、7。イチゴバナナ。
アジア予選を戦って、特に弱いと感じたポジションだ。
特にイチゴが危ない。
1、ゴールキーパー。
最終戦のウズベキスタン戦、高橋が傷んだ瞬間、背筋が寒くなった。
バックアップのゴールキーパーのピックアップが急務。
使えるめどが立った高橋にしても不動の地位を確立できてるわけではなく、
彼女と同等の力を持つ選手と切磋琢磨する事で磨かれることが望ましい。
5、センターバック。
正直、このポジションの適任者はいなかった。
予選でここをつとめた戸田はハーフの選手。読みはいいがややスピードに欠け、何度か振り切られる場面が見うけられた。
国際レベルの速さと強さを併せ持ち、クレバーで4番の吉澤と連携のとれる選手。
果たして、そんな選手がいるのだろうか。
が、ここに適任者がいないと3−4−3は絵に描いたモチになる。
8と7、バナナは右のハーフとウイング。
加護、柴田の高い個人技で押し切った感のある左サイドに比べ、右サイドの攻撃はあまりチャンスにつながっていなかった。
それはデータにも現れている。
右サイドをつとめた木村と辻が悪いというよりは、組み合わせの問題だと思う。
辻、木村、新垣、大谷…どの組み合わせがベストか、見極める必要がある。もちろん、新たな血の生まれる事を望むが。
そう、なにより、選手層が薄い。レギュラーと控えに差がありすぎる。
松浦が壊れた時、福田や後藤を急きょ呼ばねばならなかったのがそれを物語っている。
残された時間も少ない。シドニー五輪まで四ヶ月を切った。
しかもその第一戦、ウズベキスタン戦で退場処分を食った石川は出られないのだ。
日本が、出場国最後の勝ち名乗りを上げた国だった。
南米からアルゼンチン、ブラジル、コロンビア。
欧州からフランス、イタリア、ルーマニア、スペイン、新ユーゴスラビア。
アフリカからカメルーン、モロッコ、ナイジェリア。
北中米からアメリカ。オセアニアからオーストラリア。
アジアから韓国、クウェート。
組み合わせも決まらない段階で、協会が出したノルマは「ベスト8」つまり予選突破。
ワールドカップ出場国の半分にあたる16カ国しか出られないオリンピックに出場を決めた国。
どこが来ようが、今の日本に星勘定のできる相手なんていない。
なのに、だ。
今年のキリンカップ、オランダとメキシコのA代表が訪れる試合を五輪代表ではなくA代表で戦うことをサッカー協会が発表。
この時期に強い相手と一戦交えておくことがどれだけの経験値を選手に与えるか分らないのに。
今年のA代表は、11月のアジアカップ以外に大きな大会がないのに。
しかも、これが初めてじゃない。
アジア予選の一次予選と最終予選の間に、ダイナスティカップがあった。
これも五輪代表は戦う事ができなかった。韓国は五輪代表で臨んだというのに。
A代表は韓国を破って優勝。そんな優勝にどれだけの価値があるのか。
オーバーエイジ。
この言葉を聞くだけではっとなる。「オーバーオール」だの「英字新聞」だのでもダメだ。
オリンピックを「U−23世界選手権」と位置付けたバルセロナ大会。
地元スペインが劇的な優勝を収めたにもかかわらず、盛り上がりはイマイチであった。
そこでアトランタ大会、三人まで24歳以上の選手を使っても良いという、オーバーエイジルールが採用された。
注目度も高まり、チームとしても理想的な補強ができる。このシステムは今回も採用されることになった。大した論議もなしに。
これによってオリンピックサッカーはU−23選手権という意味合いすら失ってしまった。
オーバーエイジ是か非か、五輪チーム内でも意見の分かれるところだ。
ともに予選を戦った選手たちへのシンパシーもあるし、まるで客寄せパンダのようにスター選手を補強する姿勢にも疑問を感じる。
明言こそしてはいないものの、平家個人の考えとしては、オーバーエイジを使う事は「否」である。
少なくとも、今の段階では。
そのためには、23歳以下の選手の一層の奮起が必要となる。
だから、メディアを通じてメッセージを送った。
すべての23歳以下の選手のために、ドアを開けていますと。
実際、歩きまくった。試合のはしごも珍しくなかった。
めぼしい情報があれば地域リーグも観戦した。
平家を笑う人もいた。トップレベルで戦っていない者がオリンピックで戦えるものかと。
笑い返してやった。トップレベルで戦う選手なんかみんな知っている。見飽きた。
その代わり、自分の中で不文律を設けた。
選ぶのは、所属するチームのトップチームで戦っている選手だけ。
J1リーグでも、サテライトにいる選手は、使わない。
が、なにごとにも例外がある。
たとえトップチームに所属してなかろうとここにいる選手は目をかけようと思っている。
U−19日本代表。
今秋アジアユースを戦い来年アルゼンチンで行われるワールドユース、ゆくゆくは四年後のアテネ五輪を目指すチームの母体となる。
このチームを見ているのが平家の盟友、信田美帆。バルセロナ五輪予選代表から日本代表入り、
ずば抜けた身体能力で一時代を築いたゴールキーパー。コーチ兼任で続けていた現役を一昨年引退、このチームをみている。
年代間の交流は代表チームを強くする、平家はそう信じている。
「どうよ」
「新垣がコレ」
右肩をくっと上げてみせる信田。
新垣里沙を見いだしたのは平家。ひと世代上の選手に揉まれた経験は、
信田にとってもさほど気を引く選手ではなかった新垣を、チームの中心にまで押し上げていた。
短期間で化ける選手がこの他にもいるかもしれない。そしてそれは信田にとっても望むところだ。
「いくらでも連れてって。リサよりうまいやつはいくらでもいるから」
「それがさ…」
平家が言いにくそうにする。選手のほかに目当てがあった。
「信田さん、うちのチームに力貸して」
自分の下につけ、平家は言った。
「いいよ」
信田はあっさり答えた。
「いつ声がかかるか、待ちくたびれたよ」
「シノちゃん…」
「いいってさ。で、キーパーコーチってことでいいのかな」
「そのつもりだけど、しばらくはトップコーチも兼ねてほしい」
「でさ、一人オマケがいるんだけど、一緒に連れてってくれん?」
オマケと言われてとっさにグリコのオマケを思い出した平家。
「あたし、ってよかキーパーってみんな腰いわせてんのさ。そん時の主治医ってか腐れ縁のやつなんだけど」
「はじめまして。外科を専門にしてる小湊美和と申します」
随分と豪華なオマケだった。
六月。
J1のリーグ中断期間、平家は五輪代表候補25名に召集をかける。タイで行われるキングスカップを戦うためだ。
今回は海外組のFW後藤真希とMF石川梨華、キリンカップにA代表として召集されたMF加護亜依とDF吉澤ひとみ、
そしてとある理由で今回の参加を見合わせたFW辻希美が不参加。
中心メンバーであるこの五人に関しては平家も「当確」サインを出しており、いまさらその力を見ることも無い。
そう、今回は新たな戦力のチェックがその目的。
この中から18、前述の五人を考えれば13の椅子を争う。
シドニーで日の丸をつける十八人を。
「柴ちゃん!」
「アヤカちゃん!」
今回副キャプテンに任命された(キャプテンは戸田鈴音)柴田あゆみが、旧友との再会を喜ぶ。
木村アヤカ、ヴェルディユースから上智大学。昨年の北京ユニバーシアード大会では柴田とコンビを組んで日本の金メダルに貢献した。
まさにゴールデンコンビ。
今季からヴィッセル神戸に加入、カウンターアタックを演出。
テクニックで勝負する、辻とは違ったタイプの右アタッカー。しかも右サイドならFWからDFまでこなす。
その器用さは平家の好むところだ。
意気揚揚と、高橋愛は合宿所に現れた。
最終予選で、より自信をつけた。
自信は望ましい結果を生み、また新たな自信を生む。
シドニーで日本のゴールマウスに立つのは自分だ。そう信じて疑わない。
宿舎の入口で、なにかを蹴った。薄汚れた、大きなバッグだった。
無造作に、それを抱えて持ち上げる。
「これ、誰の?」
かわしきれなかった。
サッカーの中でも最も機敏さを求められるゴールキーパーだが、不意打ちには弱かった。
口唇に焼けるような痛みを感じ、バランスを崩してその場に倒れる。
「勝手にさわんじゃねえよ」
大きなバッグを抱え、不敵な笑みをこぼす影一つ。
なんだ、どうした。人が群れる。
「なんでもないです」
高橋が切れた唇の端をぬぐって答える。
「あんた、名前は」
戸田が、大きなバッグを抱えた人影に訪ねる。
「小川麻琴。私立順天堂大学スポーツ健康科学部二年」
「小川!」
柴田があわてて割って入る。
「高橋、ごめん。ケガなかった?」
小川の名を聞いただけで、その場にいた者が色めき立つ。
越後の虎、小川。ユニバー代表の無失点ゴールキーパー。
いわくつきの選手である。
高校時代まではまったくの無名。五輪代表メンバーのディフェンダー、J2アルビレックスに所属する斎藤瞳は生まれも育ちも新潟だが、
その名前を聞いた事はなかった。
ただ、新潟ユースで流れていたこんな噂しか。
「柏崎からセレクションに来たキーパーがいたんだけど、同じキーパーのやつを二人殴り倒して帰っちゃったらしいよ」
呪われたゴールキーパー、小川にはそんなあだ名があった。
関東一部リーグに所属する名門順天堂大学蹴球部で一年生からレギュラーを獲得。
入学早々上級生を締め上げ、何人かを病院送りにしたという噂があるほどだ。
ユニバーシアード大会直前、代表候補のいた筑波大学と明治大学が試合中に乱闘、
両チームが出場停止を受けたために急きょユニバー代表に召集される。
初戦の前日、正キーパーが練習中に負傷。レギュラーを獲得して優勝。
偶然と呼ぶには、あまりにも不吉すぎる。
それを裏付けるように、そのプレーは荒っぽい。
小川がキーパーなら、ペナルティーエリアには飛び込まないほうがいいと言われるほどのすさまじい嫌われぶり。
かくもすさまじい大学ナンバーワンゴールキーパーが、今回、五輪代表候補として初召集された。
「小川、謝るんだ!」
まるでいたずらっ子を諭す母親のように叱咤する柴田。
「嫌ですよ。そっちが悪いんだから」
「小川!」
今度はアヤカ。
今回の召集メンバーの中に小川が含まれていると知った時、誓ったことがある。
小川を守ろう、と。
可愛げがなく、体育会にあって一切敬語を使おうとしない小川の態度はユニバー代表でも浮きまくっていた。
が、キーパーとしての技量は一級品だ。
ユニバー代表でも反発するチームメイトをなだめ、小川をかばったのは柴田とアヤカだった。
そんな二人の気苦労を嘲うかのように耳を掘る小川。
不敵に笑いながら、言った。
「キライなんすよ、その、ハシモトって人」
合宿二日目の朝。
U19日本代表の10番、名古屋グランパスのMF佐藤聖奈の様子がおかしい。ふさぎこんでいる。
U19監督でもある信田が尋ねると、ようやく
「同室の人が…」
佐藤のルームメイトは、小川麻琴。
「なんか言われたか?」
「いえ。けど、大声でしゃべったり、一人でお酒飲んだり、マルとか三角のいっぱいついた新聞広げてブツブツ言ったり…」
話だけだとまるでおっさんだ。
ナイーブなところがある佐藤はその雰囲気に飲まれてしまったらしく、すっかり自信を失った様子でようやくつぶやいた。
「怖くなってきちゃいました…」
「あははは…」
その話を聞いた平家が大笑いする。
「笑いこっちゃない」
愛弟子を傷つけられておかんむりの信田。
「切り捨てなきゃだけだからね、ああいう和を乱すやつは」
「佐藤が子供なんだよ。自己アピールで、すでに一歩遅れを取ってる」
「小川は爆弾だ。いつか絶対足元をすくわれるよ」
「すくわれてみたいもんだね。シノちゃん、これからうちらは戦争に行くんだ。戦争に必要なのは軍隊であって、仲良しクラブじゃない。
ピッチの上で結果を出せば、浴びるほど酒を飲もうが、首が回らなくなるまで馬券買おうが文句つけるつもりはない」
早速問題児ぶりを発揮する小川麻琴。
そのプレーはまだまだ粗削り。逆に言えば伸びしろも多いということ。
飛び出しには光るものがある。一言で言えば間合いの取り方がいい。前に出るスピードも抜群。
判断の早さにも着目できる。出るか待つか、キャッチかパンチかまず迷わない。
変わったところでは持久走が25人中4位、あまり走らないGKとしては無駄なほどの体力の持ち主。
欠点はパンチングに頼り過ぎること。コーチングにも難あり。
その小川が敵視するのが東京ヴェルディ1969の長身GK、木下優樹奈。
自分よりデカいやつには負けたくねえ。
木下はバスケットボールの経験を生かした、安定したハイボールの処理が持ち味。
クロスを片手でつかみ、胸で抱える独特のキャッチングはバスケのリバウンドキャッチそのままだ。
大きいことが能力の高さに直結するゴールキーパーにとって、長身というだけで仲間の信頼を受けるに足りる。
ただ、足技が致命的に悪い。現代サッカーにおけるGKはバックラインの裏をカバーしなければならないが、
木下はそれを消化しきれていない。
木下が意識するのは、高橋愛。ナイジェリアワールドユースでレギュラーを奪われて以来、リベンジの機会を待っている。
他の二人に場数の多さ、およびキーパーとしての完成度で上回るのが高橋。
オフシーズン、私費で英国短期留学。五輪予選でその経験をフルに発揮した。
高いレベルでバランスが取れた能力も強み。一つでも穴があるとそこを執拗に突かれるのがキーパーというポジションだからだ。
不安材料は、時折顔を覗かせる不安定さ、精神的なもろさ。ワールドユースのナイジェリア戦がその例。
小柄な体が世界レベルでどこまで通用するかも未知数。
その視線の先には、小川がいる。
指輪つきの拳でいきなりぶん殴られた恨みは、もちろん消えていない。
セーフティーボールを高橋キャッチ。その場にポンと置いてドリブルでエリア外まで運び、詰められる前にウイングへ出す。
英国のキーパーがよくやるキックだ。
7番に入った新垣、トラップからセンタリング。わずかに合わない。
「ああっ」
傷の癒えたFW松浦亜弥が首を振る。最終予選以降、気持ちを前に出すプレーができるようになった。
試合に出られないことで積まれる経験もある。
キングスカップ初戦、五輪代表は苦手とするアフリカ勢の中堅国、ザンビアと対戦していた。
平家は全員を一度は試すと明言、短い時間で力を出し切るのが絶対条件だ。
今からできることは少ない。高橋は新しいことを覚えるのではなく、出来る仕事の精度を高めることにつとめた。
堅実。百回に一回の失敗も許されないキーパーにとってこれ以上の誉め言葉はない。
センターDFに入ったのは川崎フロンターレでは右DFのレギュラーをつとめる選手。
急造リベロぶりはいかにもあぶなっかしいが、年上なので怒鳴りつけることもできない。
5番探しは難航していた。求められる条件を満たす若手がいない。
至近距離のシュートを高橋が右手で弾く。5番が拾い、ドリブル。
なんで! 高橋が叫ぶ。あっさり奪われ、押し込まれた。
後半戸田のヘッドで追いついたものの、この1点が響き、日本は勝ちを逃がす。
やっちゃった――5番に入った嘉陽愛子はタイムアップの笛を聞くと半ば呆然と立ち尽くした。
右DF争いに敗れ、これを最後のチャンスととらえていたフルバックは、
土壇場でサイドバックのクセが出たことに悔やんでも悔やみきれない気持ちでいた。
「はははは…」
笑い出した嘉陽。ヤケになったのではない、暗い気持ちのままうなだれていたら失敗を認めることになる。
あれはミスじゃない。あの場面ではあれが最善の策だったと知らしめるため。
周りにも、自分にも。
第二戦、相手はスウェーデンの強豪クラブ、イエテボリ。日本のゴールキーパーは木下。
さすがハイクロスの処理はピカ一。北欧の長身フォワードに一歩も引けをとらない。
ラインとの連携もいい。温かみのある本人の性格がよく出ている。
が、それを差し引いても足技の悪さが目に余る。11人目のフィールダーとは呼べない。
引いてカウンターを狙うならうってつけだろうが、それは平家の目指すサッカーではない。
キーパーとしての技量は申し分ないのに、平家の木下評は低かった。
試合はドロー。セレッソのボランチ鈴木久美子は存在感が薄かった。
「大谷、寄せろ!」
「戸田、押し上げが遅ぇ!」
「どけトッド!」
最終戦、コロンビア五輪代表戦。
この試合が五輪代表デビューとなった小川はいろんな意味で目立ちまくった。
年上の先輩ディフェンダーたちに呼び捨て、タメ口。名前にしても覚えたのではなく、
ユニフォームの背番号の上に書かれたローマ字を読んでいるだけ。だからミカを誰も呼ばない名字で呼びつけたりする。
さんづけなんかしてたら、そんだけ時間食うじゃねえか。
合理的かつ傲慢な理論だった。
サイドをあまり使わずショートパスでゴールを狙うコロンビア、その一対一を跳ね飛ばす。
向こうも本番を控え、ケガはしたくない。なのに小川ときたら、その足をへし折る勢いで突っ込んでくる。
逃げ腰で放つシュートが入るわけがない。
極めつけは右クロスを競った時。FWが軽くぶつかっていき、ついでに小突く。もっと気遣え、親善試合だろうが。
小川の膝頭が鋭くその股倉に食いこんだ。その場に音もなく崩れ落ちるコロンビア人。
取り囲まれてもそ知らぬ顔の小川。あくびまでしてみせた。
こんなに明白な犯罪を、三人の審判だけが見逃した。
「あいつ、オリンピック本番だったらどうする気だ」
「ええやん、本番ちゃうんから」
信田はGK出身者としてああいうエキセントリックなタイプは受け入れ難い。が、平家は小川をいたく気にいったようだ。
突如人込みを蹴散らし、ボールをぶん投げる小川。左サイドには柴田が開いていた。左足一気のクロスパス。
逆サイドにいたアヤカ、集中を切らしたDFの裏を突いてGKを冷静に破った。ユニバーでもさんざ決めた速攻のパターン。
こうして見事コロンビアを餌食にした小川。
逆に左FWをつとめたアビスパの西田奈津美はうまく料理しきれなかった。
この試合をベンチで見た橋本、もとい高橋。ライバルの出現を認めた。認めざるを得なかった。
確かに下手だ。荒っぽく、怖いもの知らず。
でもあいつの持つスケッチブックはまだまっ白で、いくらでも落書きできる余地が残っている。
自分のスケッチブックはそこそこ塗りつぶされてまっ黒。ゴールキーパーとしては完成の域に達しつつある。
水に浸したスポンジのように日々技術を吸い込んでいく小川にやがては――
いかんいかん。かぶりを振る高橋。弱気は最大の敵、そう自らを奮い立たせる。
かかってこいやヘタクソ、軽く蹴散らしてやるからさ。
緩やかな軌道が、打ち下される腕によって急激なものに変化、反対側のコートを襲う。
赤の中の白が翔んだ。倒れながら手のひらで触れ、その軌跡を再び緩やかなものに戻す。
「ののーっ」
キリンカップ終了後大急ぎで駆けつけた加護が熱い声援を送る。
代々木第一体育館。日本バレーボールの本拠地。
昨年のワールドカップで五輪出場権を手にできなかった全日本女子、このプレーオフで4位以内に入れないと、
連続出場記録が途絶えることになる。
危機に瀕した東洋の魔女を救うべく呼び寄せられたのが、かつてセッターとして鳴らした辻希美だった。
リベロ。
サッカーにおけるそれは攻撃参加を得意とするセンターバックのことであるが、バレーボールでは後衛専門のプレーヤーを指す。
一人だけ違うユニフォームを着用(高校生だとLと書かれたビブスで代用することもある)
、
敵のアタックを受けること以外、スパイクもトスもサーブも打てない、レシーブのスペシャリスト。
その代わり1セット何回でも出たり入ったりできる。
ワールドカップの全日本はこの新ルールに対応できず、まるでボールを拾えなかった。
スラップスケートへの切り替えをためらい、長野五輪で清水宏保に惨敗した堀井学のように。
五輪出場の切り札としてサッカーに専念していた辻の抜擢には当然非難の声も上がった。が、辻でなければいけなかった。
サッカーと同じオレンジのユニフォームのオランダ、エースのレフェリンクが二枚ブロックの真上から強烈なスパイクを打ち下ろす。
辻が反応した。左足を出し、稲妻のようなスパイクを無害なものに変えた。
94年、それまで禁止されていたベルトより下でのボール処理が認められた。とはいえこれは死文に近い。
手のように足でボールを扱える選手がどこにいるのか。
辻がいた。辻は通常の倍の守備範囲を持つということになる。
「死ぬ気で助太刀して参れ。命に代えても排球全日本の皆々様を豪州にお連れし、
万が一望みかなわず敗れし時そちの椅子はないゆえ、潔くその場にて腹を切れ」
「へい」
平家の上官命令によりこの大会に参加した辻。いるだけで場の空気を浄化してしまう明るさでたちまちチームにとけこみ、
同じように厳しいアジア予選をくぐり抜けたことで得た経験を落としこんだ。
「のの、きばりや」
観客席から黄色い声援を送る加護はツキを運んできた。
昼間の試合でA代表はこの加護のゴールを吉澤を中心に守りきり、同じオランダ相手に金星をあげていた。
ローテーションでベンチに下がるとルールをよく知らない観客からブーイングが飛ぶ。
コートに入ると大声援。最も小さい選手が最も大きな声に包まれていた。
オランダのブロード。辻の顔面を襲う。
あごを引き、額にボールに当てて勢いを殺してチャンスボールにする。
ようやく辻の怖さに気づいたオランダ。辻を避けたバックアタック。レシーブが乱れ、大きく外へ。
客席に飛び込むボールを辻が追う。
広告の看板を蹴って、飛ぶ。オーバーヘッド。背中から看板の上に落ちる鈍い音。静まりかえる場内。
「…いったぁ〜い」
その場で泣き出した。
攻守にではなく守りに大車輪の活躍を見せた急造リベロは、その瞬間をベンチで迎えた。
勝ってもオランダに2セットを取られたらアウトというしびれる状況でストレート勝ちを収めた日本。
セット率で中国を上回り、見事シドニー行きを決めた。
助っ人に一人ずつ握手を求める全日本女子のメンバー。辻に抱いていた釈然としない思いは、いつの間にかどこかに消え去っていた。
「辻ちゃん、シドニーもこっちでやんない?」
そんなたわごとに辻はしばし見えないお空を眺めてから
「向こうで選ばんなかったら考える」
情けは人の為ならず。絶体絶命のピンチにあった女子バレーに救いの手を差し伸べたごほうび――というわけではないだろうが、
タイから帰国したばかりの平家の携帯電話が早速鳴った。相手はサッカー協会強化委員、平家の親友、稲葉貴子。
落ち着いてな、と自分に言い聞かせるように前置きしてから切り出す。稲葉
「A代表が行く予定だった欧州遠征、監督も帯同するけど指揮はみっちゃんにとってほしいて」
予定のカードはイタリアの、いや世界最高の強豪クラブの一つ、ユベントス。
そして一昨年、自国開催のワールドカップで優勝したフランス代表。
「でも、なんでなん? A代表の監督フランス人やろ。故郷に錦のはずやんか」
「ガックン、契約更改が近いねん。せっかくキリンカップで優勝したのに評価下げたくないんやないか」
さ来年、韓国との共同開催が決まったワールドカップ。
予選敗退の事態を回避すべく紹聘されたのがフランス人ジュスティーヌ・ガックン。
監督就任の記者会見上、目標はとの質問に流暢な日本語で
「…ベスト…16…いや…8…4かなあ…でも…なんでベスト16はじゅうろくって読むのに…
ベスト8や…4は…エイトやフォーなのかなあ…」
という名言を残した。
臆病というなかれ。彼は彼なりに今の日本ではワールドチャンピオンたる祖国に歯が立たないと判断したのであり、
それくらいの繊細さなくして緻密なチーム作りなどできはしない。
なにより、ビッグゲームを目前に控えているのはオリンピック代表のほうなのだ。
ガックンはサッカー協会よりもよほどまともな思考を持っていることになる。
に、してもだ。相手はセリエA閉幕して間もないユーベ、そして欧州選手権を間近に控えたフランス。
東西の両横綱に十両から昇進したての幕内力士が挑むようなものだ。この微妙な時期に戦うに適切な相手かどうか。
「やるよ」
平家は即決した。
もしここで惨敗したら選手も自分も相当自信を失うだろう。それでもなにかはつかめるはずだ。
勝てないまでも、なにも得るようもののないチームではオリンピックで芳しい結果は残せないだろうし、そんなチームを作った覚えもない。
翌日、平家は欧州遠征のメンバー25人を発表。今度は現地で合流する後藤以外のベストメンバーを選んだ。
新たに召集された者はゼロ。時間がないせいもあるがメンバーが固まりつつある。予選後の召集組からはアヤカ、小川らが入った。
注目を集めたオーバーエイジだったが今回も見送られた。
「ちゃお〜」
アルゼンチン前期リーグ最終戦を終えた石川が、半日遅れで合流した。
加護、吉澤、辻に石川。この世代における四天王ともいえる面々が顔を揃えた。
「はい、おみやげ。空港で買ったんだけど」
『名代 ブエノスアイレスまんじゅう』
どう見ても温泉まんじゅうのようだが…
(あれかよ、石川って。へらへらしやがって)
日焼けして一段と色が黒くなった石川を、雪国育ちで透き通るような肌の小川の視線が射る。
現時点ではこのチームのナンバーワンはやつらしい。ならその石川に勝てば、後の連中をシメる手間が省けるというもんだ。
「愛ちゃん」
石川が高橋に、一通の手紙を手渡す。
「中澤さんから」
ブラジル国境付近の河川に旅客機が墜落した。乗客にはこのチームの攻撃の要であったFW福田明日香がいた。
パスポートの入ったバッグなどの遺留品は見つかったものの、福田本人は水の中に投げ出されて見つかっていない。
流れの急な川ではあるし、ピラニアも生息するという。
それでも元日本代表キャプテン中澤裕子はこう言って南米に発った。
生きた明日香を見つけ出すまで、絶対に帰らん。
手紙には大事な時期に一緒にいてやれない弟子へのわびが。
中澤さん…
恩師の心遣いをありがたく思いながら、それでも今会えないことを辛く思う高橋。
今彼女はかつてない恐怖心を抱いている。突如現れたライバル小川麻琴に対して。
どう猛な虎がその研ぎ澄まされた爪でカラスの漆黒の翼をもぎ、鋼のごとき牙を首筋に突き立てんとしている。
正直、怖かった。
初めて追われる立場にある不安を中澤にこそ聞いてほしかった。
が、中澤は今ここにいない。わずかな望みをかけ、地球の反対側を歩き回っている。
大人げない繰り事が、つい口をつきそうになる。
私と福田さん、どっちが大事なんですか?
「どうだ、小川」
柴田がユニバーの戦友に声をかけた。彼女とアヤカの腐心もあって、小川は大きな問題を起こしていない。少なくとも今のところは。
二手に分かれてのミニゲームでも軽快な動きを見せる石川ら四人。他のプレーヤーとは一線を画するものがある。
「練習だけじゃ、なんとも」
そのプレーを初めて目の当たりにする小川がばりばりと頭をかく。
「あ、自分とタメの人がン十万しそうなバッグを軽がるしく持ち歩いているのとか、
ちょっとメシ食うのにポーンと万券使うのにはビックリしたけど」
「なんか言うたか、新入り」
加護が地獄耳をおっぴろげていた。「あいぼん!」
辻がなだめる。
「やめろ小川!」
柴田は止めながらも小川の言葉にどきりとしていた。
柴田も現役の大学生。この世界にいると時々自分の尺度が通用しない人と会うことがある。
普通の感覚を持つことが誇りであると同時に、自分よりヘタクソがでかい車に乗っていたりすると心底腹立たしくなる。
柴田にはサイボーグというあだ名がある。サッカーへの妥協を許さない強い態度からついた。
その裏には、どこまでも人間臭い、ドロドロとした欲望が渦巻いている。
あーあ、あれかよ問題児って。
騒ぎに乗り遅れた吉澤が遠巻きにそれを見ている。
せっかく積み上げたものが台なしになるんじゃないか、そんな危惧が頭をよぎる。
隣の石川はまるで動じない。あんなのは暴走族と同じだ。派手な衣装に身を包み、
デコレーションした車やバイクのマフラーを切って町中で与太をするのは注目を集めたいから。
小川にしてもあれがめいっぱいの自己PRの策なのだろう。
だが大人として教えてやらねばなるまい。力を誇示すれば、いつかより大きな力に駆逐されるのみだと。
ワッパに棒つっこんで派手にこかしてやればいい。
「やかまし!」
平家が一喝するとたちまち静まる場の空気。
「ケンカなら死ぬほどさせたるわ。紅白戦やんで。大谷、Aの2。木村、Bの4」
チームを割り振る平家。Aの2はレギュラーチームの右DF、Bの4ならサブチームの守備的MFといった具合だ。
「吉澤Aの4。柴田Bの6。加護Aの11。ミカBの3。石川Aの10」
柴田やミカはレギュラーであるが、層の薄さを考えバランスを取るためサブチームに入れている。
「高橋A、小川B」
とりあえずレギュラーを守った高橋がほっと胸を撫で下ろす。小川としては攻められる機会の多いほうがアピールできて都合がいい。
「辻、Aの8。アヤカ、Aの7」
MF、辻希美。
アジア予選ではしっかり守れる木村麻美を背後に置き、辻を好きに攻めさせたものの厚みのある攻撃にはならず、
課題を残した右サイド。
辻を一列下げればそのスピードがより生きるのでは。
テクニシャンの右アタッカー木村アヤカが使えそうだと分かり、その思いはさらに強まった。
しかし辻には現代のMFとしては致命的な欠点が。守備意識の低さである。
中盤では前線よりずっと目の細かいザルで敵を掬わなくてはならないのだから。
そんな折だった、バレー協会から辻を貸してほしいと打診があったのは。
辻にやってほしいのはレシーブ専門のリベロだという。
攻めの仕事は一切与えず、ひたすら守るポジションを経験すれば守備意識は上がり、サッカーにもその影響が出るのではないか。
アヤカと辻、点の取れる二人が共存出来れば右サイドの悩みは一気に解消する。
サッカーは足し算ではない。美しい色同士を混ぜても薄汚くなることもある。
11本の絵の具を選び出し、どの組み合わせがベストか考えるのが監督の仕事。
平家が3-4-3にこだわるのは、それが最高のジンクホワイトと信じるから。
色と色とがつぶしあったりせず、美しく溶けあうための。
辻が中盤でボールを持つ。柴田がつく。辻、大谷に預けて前へ。ミカがケア。大谷、内側へのスルーパス。アヤカが中へ。
内に絞るアヤカ、外に開く辻。相性も悪くない。
アヤカ、タッチライン近辺からマイナスのセンタリング。松浦が頭で合わせる。
「てえっ」
小川が余裕をもって右手に当てた。
松浦は強シュートを打たない。ボールの勢いに逆らわず、
キーパーの立ち位置を見極めてその届かない場所に流し込むワンタッチゴールの名手だ。
その松浦がフリーを外した。ただの問題児ではない、それだけ小川麻琴のポジショニングは正確なのだ。
石川がドリブル突破。意地を見せ、木村がぶつかる。主審の信田が短く笛を吹いた。
「えーっ」
不満げな木村。サブチームに回ったことでやや不安そうだ。
やや右よりの、右足では狙いにくい位置。
「全員戻れ!」
小川がニアサイドに八枚の壁を立てる。
音に聞く石川のフリーキック、どの程度のものか。
壁越しにぶつかる視線。鋭く石川をにらみつける小川。
石川は小川の立つファーサイドを身見ながら、小川を見てはいない。
双眸はどこまでも冷たく、小川は鉛色に波しぶく郷里の海を思い出して鳥肌立つ。
逆サイドのネットが小さく揺れた。
「あ、な、なんだよ、あいつ!」
一歩も動けなかった小川が悪態をつく。
石川はキーパーがギラギラした目差しでこっちを見ているのに気づき、にらみ返してから視線を外した。
ギラギラした視線はあっさりそれについてきた。
そっちを見たまま、ハーフスピードで壁を越した。体重までそちらに移していた小川はバランスを崩して倒れるしかなかった。
「ナイス、梨華ちゃん」
加護が石川をねぎらう。
「目線のフェイントだけど、よっぽど単純なキーパーじゃないとひっかからないんだよねえ」
その背後で、ゴールポストを蹴飛ばす金属音が響いた。
レギュラーの右コーナー。またも石川がいく。
さっきのは油断があった。あいつがうまかったからじゃねえ。
ニアへの速いボールに小川が判断よく飛び出す。
吉澤の頭は、小川の拳より高かった。
信じらんねえ、ゴールに転がるボールにうつろな視線が泳ぐ。
石川は容赦しない。鋭利なパスでサブチームの最終ラインを切り刻む。
ラストパスが加護へ。加護、内へ切りこんでDFをかわす。
来ぃや。指でキーパーを誘う加護。誘われるがまま小川が出る。
右にかわす。小川が手を伸ばす。逆に切り返す。足が出る。
倒れた小川の横を加護が走り抜けた。
あんなに熱くなってちゃ、止められるものも止められやしない。
反対側のゴール前で小川を憐れみさえする高橋。久しぶりに飛んできたハイボールを余裕で処理する。
情けはかけない。エリアぎりぎりまでボールを抱え、走った勢いのまま蹴り出す。足を地面と水平に振る、南米式のパントキック。
ライナーに辻が反応した。上がるバックラインの裏を突く、二列目からの飛び出し。平家の待ち望んでいた形。
球足が速い。先に押さえるべく、小川が突っ込む。
その寸前、爪先で辻が触れた。
高橋は小踊りし、小川は地面につっ伏して歯ぎしりした。
「どやねん、おら」
勝ち誇る加護。
「ああ。負けたよ、負けました」
小川が負けを認め、それでも悔しがる。
「覚えとるやろうなー、試合前のカケ」
「ああ、あんたが負けたら、今日一日声をかけられた時に」
「しょっぱなに、アイーン」
頼まれもしないのにアクションをつける加護。
「で、あんたが負けたら、な。あとでみんなに聞いて回るからな、がんばりや、まことちゃん」
「おい、小川」
「グワシ!」
奇妙な形に折り曲げた指を突き出す。
「…小川?」
耐え切れなくなり、その場を辞する小川。くそっ、くそっ、くそったれ!
「あ、いててっ」
「おとなしくなさい」
高橋を凛とした声で叱る小湊。
遠征出発前のメディカルチェック。オーバーワーク気味の高橋は腰を少し痛めていた。
「少し張り切り過ぎよ。あなたらしくもない」
「…必死でやんないと、蹴落とされかねないから」
平家がどんな優秀な画家でも、高橋と小川という絵の具を混ぜては使えない。
試合によってGKを使い分ける監督はいない。
他のポジションのように交代出場させたり少々調子を崩した程度では代えることも少ない。
レギュラーとサブには天地の差、それがゴールキーパーというポジションだ。
「仲良くしなきゃダメよ。信田も、第二キーパーと関係保つのが難しいって」
GK社会は狭い世間だ。練習は必ず一緒だし、部屋割も大抵同じになる。あからさまな嫌悪を表には出せない。
「…難しいですね。私、なんでも一番じゃないと気が済みませんから」
たくし上げたシャツを下ろし、髪を整える高橋。
すれ違いに医務室に入る小川。高橋とは一切視線を交さなかった。
軽く会釈して上着を脱ぐ。むき出しになった上体に冷たい聴診器が押し当てられる。
「次、うつぶせに」
言われるままベッドに腹這いになる小川。
小湊の顔色がさっと変わった。
これは何?
それが小川の腰を見ての率直な感想だった。
生傷が縦横に走り、こぶみたく膨れたり逆に削ったようにひずんでたり…女性本来の持つなだらかなラインとは対極にある。
直に触れるとさらに悲惨だった。背骨はガタガタ、骨盤もボロボロ。皮膚は角質化して固くなり、腰を守る鎧のようになっている。
レントゲン撮影をするのが怖いくらい、小川の腰はいたみきっていた。まるで八十の老婆に。
「引退しなさい。これは、五輪代表チームドクターとしての勧告です」
厳しい口調で告げる小湊。
「このままじゃサッカーどころか歩けなくなるわ」
一瞬の奇跡を生み出すため肉体を限界近くまで酷使するアスリートは、実はこの世で最も不健康な人種である。
小湊もその何人かと縁があり、手を貸してきた。
あるキーパーは鍼灸のやりすぎで腰が甲羅のように固くなり、X線撮影でも腰骨がうっすらとしか映らなかった。
ある選手は爪先に負担のかかる特異なシュートを異状を感じながら打ち続け、親指の骨が浜辺の砂のごとく粉々に砕け散っていた。
が、二人は無理を承知で戦っていた。どこかで体をかばっていたから治療の余地もあった。
だがこれはまるで自傷行為、小川は自らを憎んでいるのか。
「一体どんなトレーニングしてきたの。指導者や周りの大人はなにをしてたの」
「…自分の周りの人間悪く言うのはやめてもらえますか」
この瞬間、小川は五輪チームに加入以来最も腹を立てていた。
高橋を殴り、コロンビア選手の急所を蹴り、紅白戦で大量失点した時よりも。
「はっきり言うわ。あなたの腰は十代のものじゃない。このままサッカーを続けたら車椅子の生活が待っているわ。
感じてるはずよ、日々の生活で、腰が悲鳴を上げてるのを。腰はにくづき、体の要って書くの。
…あんただって、男と腰使うことぐらいあるんでしょ」
「はァ?」
「女には出産っていう人生の一大イベントがある。女の腰はお腹にいる赤ちゃんを支えて、
出産の時体にかかる甚大な負担を受け止める働きがあるんだ。あんただって好きな人ぐらいいるだろ?
その人の子供産みたくないか?」
「そんな人いません」
「これから現れるかもしれないじゃないか」
「それもない。そういうの嫌いだし、自分にとっては今が全てだから」
かたくなだ。どこまでも融通がきかない。どうしてスポーツ選手はこんなのばかりなのだろう。
説得するにせよ、時間がかかりそうだ。小湊はひとまず話題を変えることにした。
「あんた、お里はどこよ」
「新潟の柏崎ってところです。雪が多くて、海に落ちる夕日がきれいで、
原発があって…ちょっと前に幼女誘拐監禁事件てのがありましたね」
「あたしは福島だ。近いな。なんでサッカー始めたの? 新潟ってサッカー盛ん?」
「雪が多いから、バレーやバスケのほうが人気あります。冬はグラウンドが凍るし、雪が溶ければ泥まみれだから」
凍った地表は岩のように堅い。小川が腰を痛めたのもそれが原因かもしれない。
「高橋も雪が多いところに住んでたって言ったな。福井の東のほうだって言ってたかな」
「そうですか」
「サッカーのレベルは低いですよ。新潟県勢、全国じゃ出ちゃ負けですから。
強いのは新潟工、東京学館新潟、最近は長岡帝京とかも」
「ごめん、サッカー自体はあまり詳しくなくて。知ってる学校なんて帝京、国見、清水商、鹿児島実業、あと市立船橋」
「イチフナ、イトコの姉ちゃんが通ってました」
「サッカー部?」
「あたしが初めてサッカーしたのって、その人があたしの実家に帰省した時ですから。
サッカーというか、その人があたしにボールをぶつけるだけだったというか」
「ひどいなそれ」
「でも自慢のイトコですよ。今はドイツにいます」
ドアをノックする音で我に返る二人。長話が過ぎたようだ。
衣類を直し、深く頭を下げる小川。
「ありがとうございました」
「腰を冷やすな。それから、練習中はコルセットを巻いて」
「あれつけると動き悪くなるんだよなあ」
ドアが閉まる。入れ替わりに、ベガルタ仙台のゴールキーパー、村田めぐみが入るなりけげんそうな表情で
「先生、大丈夫でしたか?」
「なにが」
「小川とずっと言い争いしてたみたいですけど」
小川、話したくなったらいつでもおいで。
あんたらはみんな、あたしの子供たちなんだから。
イタリア・ミラノ空港。
お揃いのスーツに高揚した面持ちでこの地に降り立った平家五輪代表を出迎えたのは、
高級ブランドのスーツ姿にレイバンのサングラスをかけた、ファッショナブルな出立ちのスペインリーガーだった。
「待ちくたびれたよう」
パタンとサングラスをたたみ、にっこりと笑う。
石川らをこのチームの四天王と称するなら、その曼陀羅の中央に座するのは彼女しかいない。
日本の誇るワールドクラスプレイヤー、後藤真希。
「あれ、問題児って」
一番後ろについた後藤が吉澤に尋ねる。
あごで差したのは、新垣にヘッドロックをかます小川。最年少で立場の弱い新垣は、小川の格好のオモチャになっていた。
「分かる?」
「そりゃ、元祖問題児ですから」
クラシックサッカーを標榜していた当時の日本代表に、突然注入された後藤は存在そのものが事件だった。
派手なルックス、歯に絹着せぬ発言(本人は至って無邪気なのだが)、
そして桁外れのスキル…あの頃より少しは大人になった後藤は思う。
「一人でいいから、分かってくれる人がいればいいんだよね」
読売ユースにいた頃から注目を集めていた後藤だが、ユース代表に選ばれることはなかった。
当時の後藤はCFW。90分フルに働くより5秒で仕事をするほうがクール、そんな後藤の美学はやる気のなさと映ったのだ。
ダメだこりゃ、日本出よう。
どこか平家に似ている。違うのは平家が国内で結果を出して海外からのオファーを待ったのに対し、
後藤は有り金はたいて海を渡り、自分を使ってくれるチームを自力で探したところだ。
ベティスのアマチュアリーグに入り、働きながらプレーした。
自分の価値を辛うじて感じとれたのは、わずかな報酬によって。
十代の少女の技術も誇りも詰まった報酬をピンはねする輩がいた。代理人とかいう連中だ。
後藤は今もってマネージメントを自ら行う。当時の苦い経験からだ。
三部から二部、一部の下位、ついにビッグクラブ。
古い殻を脱ぎ捨てるようにユニフォームを変え、そのたびサラリーははね上がった。
同時に生き馬の目を抜く世界、裏切りと疑いの繰り返しの中で誰も信じられなくなった自分がいた。
自分自身の価値すら、支払われる金額のゼロの数でしか計れなくなっていた。
夢多き少女は、歪んだ価値観しか持てない大人になってしまったのだ。
そんな折日本から電話があった。読売ユースで仲のよかった福田明日香だった。高いプロ意識を持つ福田を後藤は尊敬していた。
「代表?」
スペインサッカー協会からの帰化要請を蹴ったばかりだった。
「ヤですよ、んな一銭にもならないこと」
「おまえ、いつからそんな金の亡者みたくなったんだ」
呆れる福田。
「そんなんじゃな、いつか何もかもなくすぞ」
「珍しく、説教臭いですね」
「説教じゃない。金にしがみつく奴は、いつか金に手痛いしっぺ返しを食う。後藤、代表に行け。
今のあんたに欠けてるものがそこにあるはずだから」
そうして半ば強引に入れられた日本代表だったが、結果的には吉と出た。
最初はそのレベルの低さにうんざりしたがサッカーは技術のみ、金銭のみでやるものではないことを思い出した。
心許せる友人と巡り会い、なによりボールさえあれば幸福だった時代を取り戻せた。
もし福田の電話がなければいまだに守銭奴のままでいたかもしれない、そう思うとゾッとする。
「大丈夫だよね。うちらだって、最初すっげー仲悪かったもんね」
代表で出会った仲間である吉澤の言葉には
「え? あたし、よっすぃーなんか今でも嫌いだけど」
「ひっでー」
チャーターバスでミラノからトリノへ。
「でかっ」
小雨に濡れるスタジアムの影を目にした加護が思わず大声を上げた。
とはいえ、収容数だけなら横浜国際競技場もひけをとらない。
ここにあって横国にないもの、それは歴史の重さだろう。
加護はその壮厳さを表現する言葉をとっさに見つけられず、そう叫んでしまったのだ。
デレアルピ、セリエA最多優勝を誇るゼブラ、ユベントスのホームグラウンド。
残念ながら日本五輪代表が向かっているのは古いほうのスタジアム、ステディオ・コムナーレ。
そこに、ユベントスの一員となった安倍なつみが。
「おーい」
雨中にもかかわらず、アジア人初のイタリアリーガーらしからぬ気さくさで後輩を出迎えた安倍なつみ。
一昨年のワールドカップ、三連敗と結果を出せなかった日本代表。しかし選手個人は高い評価を受けた。
この大会日本チーム唯一のゴール、そしてワールドカップの日本人初ゴールをマーク、
日本サッカー史にその名を刻んだ安倍も大会終了直後イタリアのFCトリノへ移籍。
低迷するチームで気を吐き、10ゴールを叩き出す活躍を見せると次のシーズンは同じ街に
ホームを持つ名門ユベントスの縦縞に袖を通したのだ。
「安倍ってユーベにいたんだ」
「安倍さんて言いなさい」
柴田が小川をとがめる。そんなことも知らないなんて…
小川もセリエAやプレミアリーグはテレビでよく見る。
逆に見ないのは雑なキーパーの多いスペインリーグ。サッカー先進国と思えない程GKのステータスが低く、
13番をつける控えGKの多いこと。GKが下手なほうがゴールが多くなって面白い、とでも思っているのだろうか。
脇道にそれたが、小川はユベントスのファンではないにしろ、試合は何度か見ている。
が、白と黒の縞模様をまとった安倍の姿はただの一度も見た覚えがなかったのだ。
「ターンオーバーって分かる?」
大きくなりすぎたクラブは年間にこなす試合数も半端ではない。リーグ、カップの国内戦に加え欧州三大カップ。
シーズンオフも世界各地から親善試合に招かれる。
それをクリアし、また豊富な財源でかき集めた選手を余すことなく利用するため二つのチームを作る。
ここでの安倍はカップ戦要員。日本で放映されるのはリーグ戦。
が、柴田にはもっとうまい説明のしかたがあった。
「国士と同じ」
深くうなずく小川。日本で唯一完全な形でこのシステムを採用するのが関東大学リーグとJFLに参加する国士舘大学である。
というわけで、本日の対戦相手はそのカップ戦用のチームである。
少々酷な言い方をすれば、最も重要なリーグ戦には使われなかったメンツ。
とはいえ力は遜色ない。今期ユベントスはスクデットこそ取れなかったもののUEFAカップで優勝。
今日のチームの活躍で面目を保ったようなものだからだ。
自分が作り上げたチームは世界の前にどれだけの力を発揮できるのか、平家は身がしびれる思いでいる。
選手もしびれている。ただし、試合を前にしているからではない。
後藤と安倍、二人が一度も視線を合わせない。
発端は、ある八歳の子供と安倍との交流である。
明るい子だった。サッカーが好きで安倍の大ファン、どこにでもいる子供だった。
ただ一つ、白い血の病に冒されていることを除けば。
血液の癌、白血病。
奇形の白血球が無制限に増殖、赤血球や血小板の生成を阻害。
全身を巡る血が壊れれば体も壊れる。原因が分からないから予防もできず、有効な治癒の術もいまだ見つからない。
急性のものであればあっという間にその生命を奪う。
青い目のサムライと呼ばれたスイス人格闘家が発症から一週間で急逝したのは記憶に新しいところだ。
その子に是非会ってやってほしい、両親がクモの糸にすがる思いたどり着いた安倍に懇願した。
一瞬迷った安倍。マスコミに知られると美談として取り上げられ、売名行為などとささやかれかねない。
だが安倍は雑念を振り払う。自分に会いたいと言ってくれる人がいるならなにを置いても会いに行くべきだし、
自分に接見するまでにこの両親がどれだけ苦労したか考えればとても無下にはできない。
なにより安倍自身、まずその子に会ってみたかった。
もう少女と呼べる年齢ではないが、いつまでも真っ白な心を失わない。安倍なつみとはそうした人である。
二度、その子とは会えた。夕暮れどきの病棟と、外出許可をもらって安倍の試合を観戦に来た競技場で。
明るく、よくしゃべる子で、最初その子が不治の病なんて信じられなかった。
それでも二度目に会った時、ああ、やっぱりこの子は病気なんだと思った。
明るい様子は変わらなかったが、手足が細くなり、髪の毛が不自然に抜けていた。
手紙のやりとりもした。視力が落ち、大きくなってゆく文字で書かれた稚拙な手紙は正視できないほどの痛みを安倍に与えた。
訃報はハーフタイムに聞いた。まだ戦わなければならないのに涙が止まらなくなっていた。
723基金。
白血病撲滅研究、治療にかかる費用の負担、抗生物質で髪が抜けた人へのカツラの無料レンタル
…白い血の病に苦しむ人のために安倍が動いた。自分の持つ知名度を最大限利用した基金を設立したのだ。
ですぎたことを、売名行為、サッカー選手はサッカーさえやってりゃいい。批判や中傷は覚悟の上だった。
いや、悪口でも話題になればいい。それほどまでに腹をくくっていた。
幸い賛同者は多数出た。ただあまり多額の寄付が出ると混乱も起きる。
そこで安倍は募金を一口723円以下に設定した。額の大きさではない、集まった心こそ尊いと考えた。
募金は少しずつ、だが確実に集まった。
安倍自身もシンボルとなるリボンを毎試合右袖につけた。クラブでも代表でも。
順調に見えたが、落とし穴が安倍を待ち受けていた。
イタリアのスポーツ誌を開いた安倍は、その見開きを目にして愕然となる。
【ゴトウは言った「私にはアベが理解できない」】
いつかは来るだろうと思っていた批判記事だった。ガードはできていた。
が、カウンターパンチはまるで予想外の角度で安倍をぶちのめした。
まさか、代表の仲間にそんなことを言われるだなんて。
安倍の小さな体が小刻みに震えた。
完全な誤解である。後藤は安倍を中傷などしていない。
ただ基金のことを聞かれ、自分には人のためにお金を集めるなんてしんどいことは無理だと言ったにすぎない。
それが伝達の過程で微妙に解釈が変わり(記者が後藤にそういうイメージを持っていたのだろう)
スペインからイタリアに届くまでに意味合いが変化してしまっていた。
だが安倍はそんなこととは知らないし、後藤も後藤で誤解を解こうともしないのだから溝は埋まらない。
GK高橋。DF大谷、ミカ、戸田。MF吉澤、柴田、辻、後藤。FWアヤカ、松浦、加護。
そぼ降る雨の中でのキックオフ。
今日は石川の出られないオリンピック初戦の予行演習だった。ゆえに石川、本日は出番なし。
10番には後藤が入った。石川が周りを使うタイプなら自ら動くタイプの後藤、すぐ後ろにいる吉澤と息の合ったところを見せる。
ユベントスは4-4-2、中盤の選手が横並びなのが特徴。ボランチやトップ下ではない、ハーフが横に並んでいるという考え方。
高度な戦術である。四人のいずれもがプレスをさぼらず、なおかつゲームが作れなければ成立しないのだから。
安倍は2トップの右、左はカメルーンの至宝と呼ばれる左足のマジシャン、パトリック・シャクボマ。
シーズン終了間もないユベントスだが体は重そうだ。日本は長旅の疲れも見せず左右から好機を作る。
ゴール正面、松浦が倒された。フリーキック。
後藤に吉澤、柴田がボールの前に並ぶ。石川抜きのセットプレーのパターンはあまり多くない。
吉澤が短く柴田に。柴田、左足で小さく浮かせる。
後藤、右足を振り抜いた。濡れた芝をまき上げ、水滴を散らすほどに低く飛ぶ。
ほぼ正面にきたボールに腰を落とすユベントスのキーパー。右から加護、左から辻が詰める。
雨でボールが腕からすり抜ける。ネットにまとわりついた水滴があらかた落ちた。
ここからだった、眠っていたシマウマが駆け出したのは。
中盤を省略し、バックからトップへ一気の縦パス。これが安倍の、シャクボマの走り込むコースにこれでもかとばかりに決まるのだ。
大谷をかわしたシャクボマから45度のパス。かつてコンサドーレのチームメイトだった安倍と戸田の競争。
戸田が前に出ようとする。安倍の腕が阻む。進めない。
高橋が出る。間合を詰め、シュートに対応しようとする。
さらに安倍が接近してくる。戸田が転ぶ。戸惑う高橋の右を、安倍の弾丸が打ち抜く。
今度は、日本ゴールネットの水滴が舞い散った。
「ぺっ」
戸田が口に入った泥をつばと一緒に吐き捨てる。
引き倒されたのだ、ユニフォームのすそをつかまれた。主審の目を盗む、極めて巧妙な犯罪。
それ自体は対して問題ではない。恥ずかしながら戸田自身もよくやることだ。
問題は何を、ではない、誰にやられたかだ。
まさか安倍が、ダーティーなプレーをなにより嫌っていたはずの安倍がまさか。
当の本人は至って涼しい顔をして自陣に戻っていく。
世界を知ると、人はこれほどまでに変わってしまうものなのか。
戸田の背中に寒気が走ったのは、なにも泥水をかぶったせいだけではない。
自力の差は、後半さらに浮き彫りになった。技術、スピード、勝利への執念…日本は前半飛ばし過ぎたツケをここで払わされた。
特に右サイドは壊滅的な事態に陥っていた。特に辻がパニック状態。
辻は本能で動くプレーヤーだ。攻めろと言われれば攻め続け、守れと言われればその通りにする。
が、臨機応変にやれ、と言われると混乱をきたす。攻守のバランスを考えろなんて言われた日には大混乱だ。
ミッドフィールダー辻は大失敗に終わった。
辻を下げ、木村を入れる。
疲れ果てて戻ってくる辻に平家は腹立たしさと済まなさとを半々で感じていた。
世界との差に翻弄されるばかりの日本だったが、例外もいた。
後藤はスリッピーなグラウンドに足を取られることもなく、効果的なドリブルやシュートでユーベゴールを脅かした。
より間近に世界を知り、勝とうとした後藤。技術以前にハートが違いすぎた。
シャクボマが左コーナー付近でキープ。右、ついで左と揺さぶる。DFが完全にバランスを崩される。
とどめはタイミングを外すループシュート。
背面飛び。ボールの落ち際を叩き、自分がゴールに飛び込むキーパー。
「すげぇ」
思わずベンチでつぶやく小川。
高橋愛、一世一代のゴッドセーブ。
試合終了。1-3。ユーベの得点はすべて安倍によるもの。
高橋が沈黙を守ったまま引き上げる。5点は防いだ自負がある。が、安倍に与えた三度の決定機は一度も防げなかった。
安倍一人に負けたようなものだ。
ベンチで90分を過ごした石川も無念を隠せない。出たかった。傷ついた仲間を見るのが忍びなかった。
一番ショックを受けているのは平家だろう。点差以上の完敗。
今まで積み上げたものはなんだったのか、暗い気持ちになる。
安倍が寄ってきた。試合にはあまり触れず、昔話に花を咲かせた。
去り際に、一言。
「いつでも、力貸すからね」
「はっきりさせたいんだけど」
ミーティングで後藤がいの一番に切り出した。
「やる気あんの?」
全力を出し切り、それでもかなわなかったのなら後藤もこんなことは言わない。だが何人かは力をセーブして戦ってるように見えた。
「負けて当たり前、勝つ気ないんだから」
それは安倍が地元誌に「勝つ気がない相手に勝つほど楽なことはない」とコメントしたのと重なる。
「こっちはバカンスつぶしてんのに。こんなならマックでバイトしたほうがまし」
言いたい放題をさすがに平家がとがめようとすると
「オリンピック、どこまでいきたいの?」
予選リーグ突破。それは協会の課したノルマ。
就任会見でぶち上げた優勝。あれは景気づけ。
平家の中に、明確な目標がない。
あわよくば、なんてムシのよいことが通用しないのは今日痛感した。
チームに合流したばかりの後藤は、このチームの問題点を見抜いていた。恐らく、敵としてチームに接した安倍なつみも。
このままでは、日本はオリンピックに参加しただけのチームになってしまう。
汚くても勝ちを拾いにいくか、勝負は度外視しても美しいサッカーを目指すか。それすら見えてこない。
魂のない器。それがこのチームの正体だった。
言うまでもなく平家は日本が世界に出る前に活躍した世代。世界に最も近いと言われながら、それを体感する前に選手としては散った。
世界に出られない日本、それを象徴する韓国コンプレックスという言葉。
こいつらがいる限り永遠に世界には届かないと思わされたアジアの虎。
それを払拭したのがあの雪の国立。ロスタイムに3連続ゴールを叩きこむなど5点を奪って南北朝鮮合同チームを粉砕、
ワールドカップ初出場を決めた。その試合も平家はスタンドにいた。
根本的な自己への不信感が鎌首をもたげる。
選手や戦術以前、自分では世界に勝てない。
雨の続くトリノでユベントスとの合同練習。若い選手たちは少しでもなにかを吸収しようと貪欲だ。
頭に幅広のタオルを巻いた高橋が黙々とユーベGKコーチの上げるボールをつかむ。
世界の一流どころに比べてボールへの集中が甘いと指摘された。
小川は全体的にプレーが粗い。がさつな本人の性格が出ていると。
「やかましいマカロニ野郎」
悪態をつきながらも素直に従う。
柴田や加護はシャクボマにフリーキックの蹴り方を、松浦は安倍にポジション取りのノウハウを教わった。
平家だけが辞任のことばかり考えていた。隣にユーベ監督がいるのに。
今の平家には相談できる人が身近にいない。仕事仲間の稲葉や信田にはそんな相談を軽々しく出来ないし、中澤は音信不通。
「負けたってな」
からからと札幌の石黒彩が笑った。
「どーしよ」
石黒もコンサドーレ監督として三人の五輪選手を抱える身。いずれも守備要員で、彼女たちからいろいろ聞いている。
「少し、守りの選手を優遇してやってよ」
ディフェンス――取られたら取り返せ、それが平家の目指すサッカー。守りの薄さは前線からの守備で補うと。
が、それだけでは世界には通じない。
平家は、いくつかのファンタジーを捨てた。
パリへ向かう機内で高橋と小川の両GKは隣合わせに。
機内食のカレーライスを流し込む小川に対し高橋はほとんど手をつけていない。
「食わねえのかよ」
小川が袖で汚れた口元を拭う。どうして機内食はおかわりできないのだろう。
味はともかく量には不満を残す小川が不作法にのぞきこむ。
「食べたきゃあげるよ」
礼も言わずに高橋のトレーを自分の簡易テーブルへ乗せる小川。仲良しには程遠いが、少しは口をきくようになった二人。
「どうやったってフランスには勝てない。力の差を見せつけられるだけの勝負にどれほどの価値があるっていうんだ」
一昨年のワールドカップで初優勝を果たしたフランス代表。
美しくも脆かった80年代、暗黒の90年代前半を乗り越え頂点に立った王者は守りに入らない。
間もなく開催される欧州選手権で史上初のダブルクラウンを狙う。
中心はMFシーナ・アップル。現代の中盤に必要なものをすべて兼ね備えた好選手。
奇偶にも安倍のユベントスから後藤のレアルマドリードへ史上最高額での移籍が決定したばかり、今最も旬な選手である。
「フランスがなんでぇ」
小川が高橋のフランスパンを食いちぎる。
「こんな固くてスカスカしたもん食ってる奴らに負ける気がしねえ」
日本人の主食、米。雨量の多い新潟はその日本一の産地である。
冷夏により米が記録的な不作を記録した93年。
市場には安いタイ米が出回ったが新潟の人々だけは意地でもそれに手を伸ばさなかったという逸話がある。
小川の発言は郷土愛という自己愛でしかない。
が、それを差し引いても、世界王者に対して負ける気がしないなどと平然と吐ける人間がどれだけいるか。
少なくともこのチームにはいない。
政府の要人あたりが口にすれば大問題になりかねないこの一言が、
その後ろの座席にいた平家の耳にだけはこの上なく頼もしげな余韻を残したのだった。
フランス・パリのホテル。
軽い朝食の後(石川はほとんど手をつけなかった)ミーティング。
平家がいつもスタメンを告げるのはこの時だ。控え選手がコンディション作りをなまけないように。
「今日はいつもと逆に前からいってみようか」
大した理由は無い。強いて言えば、流れを変えたかった。
「7、木村アヤカ。9、松浦。11、加護」
前はいじらなかった。アヤカはスタメンに定着した感がある。
「10、石川」
「はい」
「8、木村麻美。6、戸田」
柴田、そしてワールドユースから不動のスタメンであった辻が外れた。
替わりに配された木村、戸田は守備のパーセンテージが高い選手。
「4、吉澤。2、大谷。3、ミカ」
ここは変わらず。
「5、後藤」
おおっ、と声が上がる。
技術、身体能力、経験、風格、吉澤とのコンビ…よくよく考えてみれば他に適任者はいないのかも。
それに攻め好きの後藤ならば、より攻撃的な最終ラインが形成できるかもしれない。
逆に中盤でのチェックを強化するためコンサドーレのボランチコンビを投入。
「後藤、できるな」
「ええ。あれだけ大口叩いといてヘマったらかっこ悪いんで」
「最後、1番、小川」
三人のゴールキーパーは固まって座っていたが、その真ん中にいた小川がしばらく状況を把握できずに呆然となる。
イタリアのゲームは惨敗だったが、高橋の出来は上々だった。
この分ならフランス戦も高橋だろう、土産にシェリー酒でも買って帰ろうと内心思っていたのだ。
右にいた木下がわっと泣き出した。この遠征をラストチャンスと考えていた。
「超、悔しい」
それだけを、ようやく吐き捨てた。
左の高橋は、周囲が冷や冷やするほどの鋭い眼差しを、小川の横顔に降り注いでいた。
「分かってると思うけど」
臨時コーチをしてチームに付き添った安倍なつみが続ける。
「フランスは、あなたたちの予想を遥かに上回る力を持っている。今のあなたたち、いえ、フル代表だってかなわない」
断言した。
「けど、そこに落とし穴があると思う。ホームで、しかも大きな大会を前にした壮行試合。
満杯のパルクデフランスはただの勝ちじゃない、完勝しか望んでない。
もし負けたら、いえ、引き分けでも大変な騒ぎになる。そこが落とし穴。
前半は0−0で。とにかく、相手がなにもしないうちにゴールをプレゼントするような真似だけはやめようね」
安倍は、指導者には向かないかもしれない。
いちいち、言葉が優しすぎるのだ。
バスの中での会話――
「出るらしいよ」
「何が?」
「パルクデフランスのアウェーのロッカールーム」
「だかが何が?」
「座敷わらし」
「パルクデはいつからトーホグになっただか?」
「なんかね、子どもが、ふっ。…て座ってるんだって」
湧き上がる悲鳴。
誰もが、限度を軽く超えた緊張から逃れたがっていた。
神経の図太い小川も、神経そのものが見当たらない後藤も。
バスが着く。平家が先頭で降りる。
待ちうける、フランスサポーターの大合唱。
帰れ! 帰れ!
小川がニヤリとする。背中にぞわぞわと泡が立つ。
天性のヒールの血が、燃えた。
もっとだ。もっと騒げよ。
これだけの人間が吠え面かいたら、さぞかし絶景だろうぜ。
バーン、である。
さすがは歴史あるスタジアム。控え室のドアを開けただけで威圧してくる。
スタジアムに染み付いた歴史が、東洋の小娘どもをしびれさせる。
これが真新しいスタッドデフランスならこうはいかない。
まして、幽霊騒ぎなんて。
「こうやって、ヒザ抱えてんじゃないの?」
吉澤の戯れ言に乾いた笑い声が沸き起こる。
石川が、奥から三つ目のロッカーのドアを開ける。
即、閉じた。
「梨華ちゃん?」
加護が石川の異変に気づいた。
「どないしたん」
「ううん、なんでも」
「なんでもないって顔やないで。ゴキブリでも出たか」
誰がゴキブリなんかにこんなビビるかい、この歯抜け。
いたのだ。
ひざを抱えて、目を光らせて。
「そんなもんひっつかまえてチャーハンの具にでも」
加護が開いて、ゆっくり閉じる。
いたでしょ? 石川が震える。
おったおった。加護が何度もうなずく。
「どうしたの?」
ようやく全体が異変に気づく。
「な、なんでもないよ」
「壊れてるみたいやで」
「さっき普通に開けてたじゃない」
後藤がさっとドアをひっつかんで、一気に開ける。
全員の目が見開かれて、その一点に注がれる。
「いやあああああ!!」
「よっ」
座敷わらしは、ぴょこんと飛び降りた。
「なんだよその顔。もーちょっと嬉しそうに出迎えてくんない?」
そんなこと、ロッカーの中で待ち伏せしてた人に言われたくない。
日本代表ミッドフィールダー、狂気の145センチ、矢口真里。
「もうちょっと、顔の出し方考えてくださいよ」
前はいちぢく浣腸、今回は座敷わらしのふり。ろくなことを考えない。
隣で加護が引き付けを起こさんばかりに笑い転げている。恐らくグルだったのだろう。
このドチビ、いつかシメたる。石川が復讐を誓った。
現在の矢口は石川と同じアルゼンチンの名門、ボカ・ジュニアーズの一員。外国籍選手ながらキャプテンもつとめる。
アルゼンチンリーグは前期リーグが終わり、現在はオフ。
とはいえ、地球の裏側まで来るとなれば相当にしんどいことだ。
「どういう風の吹き回しっすか?」
小声で訊ねる石川。
「おまえね、それを言っちゃおしまいよ。人様の行為ってのはもーちょっと素直に受け止めるもんだよ、タコ」
アルゼンチンで流れる日本のプログラムといえば「水戸黄門」に「おしん」それに「男はつらいよ」。矢口の日本語も多少変化していた。
「へへへへ」
「あんだよ、気持ちわりい」
「正直に言ったらどうっすか。梨華ちゃんが心配でいてもたってもいられなくてフランスまで来ちゃったわって」
「…そうだな。正直になんないとな。石川、恥ずかしいから耳貸して。ウフ」
「はーい」
矢口、思いきり石川の耳を引っ張りあげて
「キショッ!!!!」
「うおっ」
今度は矢口が驚かされる番であった。
一瞬、巨大なニワトリが飛び込んできたのかと思った。
まるで遅れてきたビジュアル系ロッカーである。
サイドの髪をなでつけ、センターの髪を「ダイエースプレー」でカチカチにして立たせる。
まあ、それはいい。髪型も一つの自己主張。
問題は、どんな髪型かではなく、誰の髪型かだ。
「りぃんねぇ」
変わり果てた戸田の姿に、安倍が奇声を上げる。
思慮深く、チームの影のまとめ役である彼女が、まさかここまでおバカさんな真似をするなんて。
「…似合わないですか?」
顔を真っ赤にして、戸田が問い掛ける。彼女なりの気合の表現だった。
どの商売もそらろも、酒造りはとくにふしぎらもんでの。蔵には神宿るというろも、たしかに神さまがいつも見なさってて、
酒蔵に対してほうびと罰とを与えてる感がある。(宮尾登美子「蔵」)
夏子 お酒はお日様の光なんだな 神が与えてくれた最高の恩恵なんだな(瀬尾あきら「夏子の酒」)
デンプンを糖質に変え、発酵させてアルコールを作る。
酒を造る過程は、万国共通、いたってシンプルだ。
が、発酵はどうして起こるのか、なぜデンプンは糖に変わるのか、そもそもなぜアルコールが人をトランスさせるのか。
科学的にはいくらでも分析はできる。が、実際はなにも分かってない。
最初の酒は誰が作ったのか。人(猿?)為的とは考えにくい。
酒は神様からの贈り物である。偶然の中に、神の見えざる手はある。
酒には神がいる。だから度を越えると酒の中の神が暴れ出す。
チームメートのバカ騒ぎを横目に、小川はこっそりとバッグからワンカップを取り出す。
新潟は、米が美味い。水の国と言われるほど水も美味い。
その二つを主原料とする日本酒が、まずいわけがない。
小学校一年生の時、母の姉の婚礼の席で初めてお神酒を口にした。
おいしくないけど、縁起ものだから残さず飲みなさい。
生暖かく、刺激臭と甘さの入り混じった匂いのする祝いの杯に、ちゅっと口をつける。
おいしい。くーっと飲み干した。
「おかわり!」
隣で、七つ年上の父方の従姉が大きく目を見開いてた記憶がある。
以来、親が留守の時の盗み酒が楽しみになった。
神様なんていやぁしねぇ。無神論者の小川も、酒に宿る神だけは信じる。
そのユニフォームは、虎の革を思わせる山吹色。酔っ払いを虎と呼び、日本酒の色を山吹色と表現する。
酒とは、つまり、小川そのものだ。
ワンカップの酒を半分まで飲み干し、残りの半分を口に含む。
顔の前に、千葉市内のスポーツショップで買ったキーパーグローブをはめた手のひらを広げる。
(高橋のそれは契約したスポーツメーカー製の特注品で、真っ黒な中にメーカーのロゴだけが赤い)
めいっぱい霧を吹き付けると、柏手を打つようにパンと手を叩いた。
「それ…おいしい?」
「ひ」
ベンチにはいるが口は出さない約束になっている総監督ガックンが指をくわえる。
「ちょっと、残ってるよね…くれる?」
小川がうなずいた。
午後5時かっきり。吉澤主将以下11人の日本代表、シーナ・アップル以下11人のフランス代表が入場。
ホームのフランスはブルー、白、赤と国旗のトリコロールをユニフォームで表現する。
日本は白、青、白のアウェーのいでたち。
柴田が芝を確かめる。さすが、いい芝だ。深くて柔らかい。J2の荒れた芝など比べ物にならない。ドライブをかけるボールを多用する自分にはうってつけだ。
小川が砂浴びする犬のように芝の上を転がる。こんな絨毯みたいな芝なら、何度でも飛んでみたい。
フランス、世界を制した4-3-1-2で日本に迫る。
その「1」に収まる、世界最高の選手、シーナ・アップル。
東洋からの客人に対する最大の礼儀として、フランスはほぼベストメンバーを揃えてきた。
ほぼなのは、今回のチームが24歳以上の選手のみで構成されている点。
フランスが狙うのはダブルクラウンではない、オリンピックも含めたトリプルクラウンだ。
「うおりゃっ」
開始早々、右の角度のない場所からのシュートに思い切りよく体を投げ出す小川。揃えた足の先に当てた。
難しい場面だった。オーバーラップしたフランスのサイドバックが大谷を振り切ってから、ゴール上空を通過するハイクロス。
左右へ揺さぶってのボレーシュート。シャンパンサッカーの名に恥じぬ、流れるような展開。
小川は己を良く知っている。自分には高橋ほどのバネも木下ほど体格もない。
あるのは判断の早さ。位置取りの巧みさ。
決してスキは見せない。ボールとゴールの真ん中に自分のへそがあるか、常に意識している。
「上がれっ!」
号令以下、三枚のDFが一斉に前へ。その裏にボールが。だが旗が上がる。
カバーした小川が蹴り返したボールを後藤が拾う。タイミング的には紙一重で、
前半のうちはオフサイドトラップは多用しないほうがいいみたいだ。
後藤を中央に配した最終ラインは試運転の段階だった。
ムラッ気が多いという理由でガックン率いるA代表で構想外になっている後藤、クラブでは左ハーフのため久しぶりのリベロになる。
吉澤にはたき、リターンをもらって中盤へ。入れ替わりに吉澤が後藤の位置をカバー。この意心伝心ぶりも後藤コンバートの理由。
中盤では吉澤を中心に積極的に守備。大黒柱のシーナにボールを渡さない。
DFから本来の中盤に戻ってきた戸田は、その逆立てた髪が相手の顔を叩く近さに体を寄せて奪いにいった。
ペナルティーエリア内での仕事が多いセンターDFに比べ、まだタイトにいくことが許されるボランチでのプレーが
戸田の本来望むところで、ベストパートナー木村とともに鬼の守りを見せる。
主将同士の対決は、吉澤がシーナの懐の深さにボールを取れずに手を焼いていた。
中央を割られたら最後、そこを突破されないようにだけ注意を払う吉澤。一応のつとめは果たしていた。
石川はパスコースを探し出すのに腐心する。加護、アヤカの両ウイングはサイドバックを警戒し、
松浦にはセンターバックのいずれかが必ずついている。
石川には特定のマーカーはいないが三人の守備的MFは受け持ちを三等分して、
そこに石川が入りこもうとすると速やかな寄せを見せる。
こんな時、ツインコントロールタワーの一角であり、付き合いも長い柴田に預けると、石川には思いもよらない打開策を見せたりもする。
しかし今日彼女の位置には戸田がいる。守備の負担が軽減される分、攻撃ではすべてを一手に担わねばならない。
ベンチでは辻、柴田、新垣、高橋らが出番を待つ。
「どうかな」
出産に立ち会う男親さながらの平家に安倍が声をかける。
「少しは落ち着きなよ、みっちゃん」
「監督と呼べ! …ごめん、呼んでくれ。しめしがつかへんねん」
ベンチを見渡す。安倍、稲葉、信田、小湊…
「矢口は?」
やはり足が地についていない。原因は国際経験のなさだ。
平家の罪ではない。監督が試合の場で取り乱すほど、サッカー協会はこのチームに場数を踏ませてないのだ。
その点隣のガックンはいつもと様子が変わらない。その辺りはさすが。
「加護ちゃん、いいね」
安倍が指し示した方角には、数少ない日本サポーターが陣取っていた。
「ニッポン!」
その中心に、かつての日の丸小僧に戻った矢口真里がいた。
今の矢口はスタンドの名物キャラではなく、日本中の期待を背負ってその声援を受ける立場にある。
身体的な特徴もあって、それが矢口だと気づかない者はいない。
カンケーねーべ、んなこと。やりたいからやるんだ。だから、ほら。
周りが逆に気遣う天衣無縫さで狂ったように騒ぎ、旗を打ち振るう。
踊ろう、人生は祭りだ。
五輪代表チームは、久々に何の気兼ねもなしに応援できる日の丸なのだから。
「後藤、10つけ!」
コーナーキックの指示を出す小川、ワールドクラスも他と差別しない。
本来キーパーとリベロは密な関係を持つべきであるが、平家も気性の激しい二人にそれは期待していない。
喧嘩しながら強固な守りを作ればいいと。
ニアに繰り出される女王シーナからの速いボールに飛び出す小川。吹き飛べ、おフランス野郎。
別のフランス選手がその進路を妨げる。小川が勝手にぶつかったとしてノーファウル。
ボールは密集を抜け、シーナが本当に狙った選手の頭へ。
後藤が鼻先でかき出した。
「小川、出たら触れ!」
「…悪かったよ!」
前半が終わった。0-0。ディフェンシブな作戦が功を奏し、ここまでは狙い通り。
矢口も戻ったロッカールーム。後半、頭からミカを下げ柴田を入れると告げたあとはもっと積極的にいけと言うだけだった平家。
それだけ選手は力を出し切っていた。これ以上求めるのは酷というほどまでに。
一段と引き締まった表情で出て行く選手たち。あとには平家、安倍、矢口が。
人払いの済んだロッカールーム、平家が沈黙を打ち破る。
「このチーム、オリンピックでどこまでいけると思う? これが今の我々の限界だ。フランスに1本のシュート打てないこの姿が」
「ベスト8ならいけると思う」
安倍は欧州五輪予選にあたるU21欧州選手権を視察している。
ベスト4にプレーオフを勝ち抜いたユーゴがシドニーに来るが5か国とも、
いや、予選敗退した国にもいくつか日本が勝つのはかなり困難なチームがあった。
それでも組合せにもよるが、予選リーグ2位通過ならなんとか可能だというのが安倍の見立て。
が、予選を2位突破した場合決勝トーナメント1回戦でぶつかるのは別グループの1位チームに。
恐らく優勝候補などとささやかれている相手のはず。
別に日本が弱いと言いたいのではない。それほど世界の壁は厚いのだ。
「30%」
矢口はさらに手厳しく予選リーグ突破の可能性を予言してみせた。
南米予選、他をまるで寄せつけなかったアルゼンチン五輪代表の試合を幾度となく見せられたため、なおさら点数は辛い。
ナンバーテン・アディクション、10番依存症と言われた時期を脱却、
各年代の世界大会を制した才能が集結したチームには「あいつ」がいる。
矢口達が、いや、日本のサッカーファンが決してその存在を忘れることのできない選手が。
それに五輪はU23世界選手権、内容重視でもいいのではないか。
「それでもあたしは結果にこだわりたいの」
平家が告白する。
「決勝に行きたい。銅よりいい色したメダルがほしいの」
ナイジェリアで自ら手にした銅ではない、自分が生まれる前に元老どもが手にした銅。
あのじじいどもの鼻をあかしてやりたい。多少情けないが、それが平家が自らの中に見いだした答えだった。
矢口もなぜ自分がパリに招かれたかは分かっている。
だが矢口は安倍とは違い、自分がこのチームで戦ってはいけないと考える。
石川と後藤が攻守の軸、加護がムードメーカー、吉澤が黙って俺についてこいとばかりにまとめる、なかなかの好チームではないか。
何も自分が土足で踏み荒らす必要はない。
戦場に向かう選手も、世界と比べた自らの貧弱さは痛感している。FWであれば自分が一本もシュートしていないことぐらい分かる。
ファウルが欲しい。まったく同じことを考えている、二人の選手がいる。
石川梨華、柴田あゆみ。五輪代表の誇るフリーキックの双壁。
コースを狙い、インステップで一直線にぶっぱなす石川の右。
インフロントからインサイド、えぐい弧を描き、壁を無意味なものにする柴田の左。
不利な展開が、膠着した試合がまるで違った方向に動き出す、一回のセットプレーが秘める魔力を知る二人が、静かに爪を研ぐ。
「来るぞ、寄せろよ」
後半も小川の声は途切れない。音域はメゾソプラノからアルト、地面を震わせる低音が芝を這って味方の尻にムチを当てる。
信田には分からない。世界一とはいえユニバーシアードは学生の大会。
アマチュアボクシングのチャンピオンが世界チャンプに気後れせず戦っている。
フランスがスルーパスを狙う。その足に倒れこみ、額をかすめんとするスパイクにも目を閉じない。
打たれる前に奪い取った。拳を振り上げる。
「簡単に抜かれんな!」
小湊も分からない。あの腰ではただ立ったり歩いたりするのも困難なはずなのに。
吉澤がシーナと向かい合う。
シーナには独特のフェイントがある。なんてことはない右足のシザースなのだが、
普通アウトサイドで蹴るふりをしてからインサイドで切り返すのが普通なところ、相手の体重の乗り方を瞬時に見極め、
アウトサイドでそのまま抜けたり、インサイドもダミーにして足裏で後ろに下げたり…安倍に言わせると、
アドリブがとんでもなくうまいプレイヤー。
うかつに飛び込めばかわされ、裸のディフェンスラインをさらけだすことになる。だから吉澤は前半勝負したい自分を抑えた。
いった。
一歩踏み込み、得意の間合いに入る。シーナ、吉澤の裏に。吉澤の長い足が伸びる。
さらに逆。完全にバランスを崩した吉澤。
「よっすぃー!」
背後に控えていた後藤と戸田がシーナをサンド、二人がかりでタッチに追い詰める。
再び吉澤対シーナ。フィジカル勝負なら吉澤に分がある。
いきなり懐に飛びこむシーナ。吉澤、伸ばしてくる腕に腕を絡めカウンターパンチのようにボールをさらう。
とったァ!
一気に右サイドへ。アヤカが追いつく。うまく切り返してDFを置き去りに。
手が伸びる。背中から落ちるアヤカ。柴田が歯を見せた。
エリア目前、正面やや右。左足で狙うにはこれ以上ない好位置。
柴田がボールをセット。石川も一応寄るが柴田は耳を貸す雰囲気ではない。
本当、こんな芝なら、いつまでも試合してたいな。
ポニーのような助走。軸足を傾斜させる独特のフォーム。深い芝が柴田の左足を優しく包み込む。
八枚の壁をまく、ドライブシュート。壁を越え、無人のサイドへ落ちる。
逃げるようなボールにスキンヘッドのキーパーがダイブ。届かない。柴田が拳を固める。どうだ!
金属音。右ポストに嫌われたボールが外に。
「あーあ、もうっ」
苦笑いするしかなかった。
頭を抱えたのは平家も同じ。だがすぐに切り替える。
木村が疲れている。この日中盤は殺人的な運動量を強いられていた。早めに手を打たねば。
「新垣アップ」
パチンコ玉のようにベンチを飛び出した新垣はこの際どうでもいい。
問題なのはその隣で表情を変えた、もう一人の小柄な選手のほうである。
訳も分からず単身バレーボールの助勢に駆り出され、帰ってくるといきなりのコンバート。
ハーフでは使えないと判断され、古巣に戻れるのかと思いきやそこにはアヤカが――
辻希美にとって、この一月あまりは悪夢と屈辱の繰り返しだったのだ。
辻は素直だ。言われた事に何の疑問も抱かない危うさを秘めるほどに。
が、さすがにこの時ばかりは疑問を抱いた。果たして自分はチームに必要なのか、
私はリサちゃんより下なんだ、そんな絶望感とともに。
平家はまず負けたくなかった。スタミナで勝る新垣を入れ守りの安定を狙った。
平家の過失は、辻が冷静な判断を下せない不安定な精神状態にあるのを見落とした点。
試合後にでも、たとえ嘘でもいいからフォローすべきだったのに。
なぜなら、この時のディスコミニュケーションが後のチームに落とす影は、決して小さいものではなかったのだから。
新垣? なんでや。必要なんはののやろが。
前線でボールを追い回し続けた加護はもうヘトヘトだ。
三度の飯より攻めるのが好きな加護がパスを追い回してばかりなのだから、疲労とフラストレーションはたまる一方。
「プレスさぼんじゃねえ!」
後方からは小川のドラ声。うっさいわ離れ目…おざなりになっていた守備に、少しだけリキを入れた。
それがフェイントになる。
敵からのパスが、足に吸いつく。
(嘘やん!)
あわてて突破を図る。スペースを突くが、右からきた大きなブルーに小さな白が派手に転がる。
よっしゃ。石川が快哉を叫んだ。
左45度。さっきよりは距離もある。
だが角度はともかく25〜30メートルぐらいが石川には大好物のポジションだ。
ゴール前に後藤、吉澤が上がる。もちろんマークがつく。
高さがない、このチーム最大の弱点を大半のプレースキックを担当する石川は肌で感じている。
無論この場面で誰かを狙うつもりもないのだが。
ゴール右上隅、最も自信のあるコースへ。ほぼ狙い通り、真っすぐにフランスゴールを襲う石川のフリーキック。
キーパーがつかみきれずにこぼす。松浦が詰め、押しこんだと思われたボールはディフェンダーのスーパークリアに遭った。
静まりかえっていたスタンドから大ブーイングが。それは今までとは違い、大多数の観客が声援を送っていたはずのチームに向けられたもの。
フランスも必死だ。この試合は欧州選手権前最後の試合、負けはおろかドローでも大いなる不安を残すことになるのだから。
おい、いけんじゃねえか。そんな空気が漂い始める日本ベンチ。たかが親善試合でこんな高揚した気持ちになれるなんて。
ただ一人、口元に指を当て、アンニュイな思いを巡らせるのが母国を相手取るガックン。
「彼女、まずくないかな」
視線の先に、飲みかけのワンカップをくれた女の姿。
小川が盛んに喉を気にする。
フルメンバーの五輪代表デビュー戦。敵地。世界一の相手。気負いや重圧、ないわけがない。
とにかく声を出す、出し続ける。大声とともに恐怖を吐き出す。それでここまで持ち堪えた。
力任せに叫び続けた、そのツケがやってきた。
焼けつくように痛む喉。寺社の鐘のように響いた声がかすれ始める。
焦りはわずかずつ小川を蝕んでいく。ポジショニング、飛び出しのタイミングが微妙にずれ始める。
左サイド、柴田が敵と向き合う。裏から選手が飛び出すのを知らせようとする小川。
声が、出なかった。
ストライカーが自らをFWだと最も強く感じるのがゴールなら、失点の瞬間に守備者は自らが何者かを思い知る。
フリーで打たれたシーナのヘディングに触れなかった小川も、自分がゴールキーパーなのだと強く思い知っていた。
「立ちな」
ひれ伏した腕を後藤が引っ張り上げる。
新垣、続いて辻を投入したが、格上相手に守られては勝ち目はなかった。
金星を逃して終了した遠征は可能性と課題、そして限界とを提示して終わった。
このチームは世界と戦える、だが勝ち抜けるかはまた別。
平家は決心した。禁断の果実、オーバーエイジ枠を使うと。
小川の泣き顔は、はっきり言って怖い。歯を食いしばり、まばたき一つしない。
今も人目につかない廊下の隅で、ユニフォーム姿のままかき開いた目からだらだらと涙を流し続けている。
何が悔しいか、頑張り切れない体が悔しい。幾度この身に裏切られてきたことか。
血統的に体が弱く、身内がほとんど何かしらの持病を抱えている家系のる中でも小川は筋金入りだった。
地元アルビレックスユースのセレクションの時には高熱、センター試験の時には腹痛…枚挙に暇がない。
人一倍強い小川の心に、ガラスの肉体がついてこない。
「小川さん」
高橋だった。今一番会いたくない奴だった。
「ほっとけよ。慰めてほしくなんかない。それとも嗤いにきたのか」
言えば言うほど心が寒くなる。だが止められない。
小川の暴言を黙って聞いていた高橋、おもむろに近づいて、壁にもたれて立っていた小川の腹に当て身。
不意を突かれた小川、小さくうめく。
「てンめえ」
「腹式呼吸」
試合中に声を漬すのは喉から声を出しているからだ。
発声の基本、腹式呼吸は声楽のレッスンを受けていた高橋にはごく自然なことが小川にはまるで身についていなかったのだ。
手を添えた腹部を出したり引っ込めたり、かつてない感覚におかしさをこらえる小川。
「礼なんか言わねえからな」
「あ」
そんなこと思いもしなかった高橋。
塩の道を止められていた武田信玄に塩を送ったという言い伝えから「敵に塩を送る」のことわざが生まれた。
が、現代の謙信公は敵に塩を送られたのであった。
ガックンと稲葉に選手の引率を任せた平家、吉澤を連れて渡豪。シドニー五輪組合せ抽選会に臨んだ。
16ヶ国中15番目にクジを引いた吉澤、グループDを引き当てた。
対戦国は対戦順にカメルーン、アルゼンチン、ユーゴスラビア。
「柴田、フリーキック」
「はーい」
J2・横浜FCの練習風景。大学も最終学年を迎え、ほとんど授業のない柴田はほぼ毎日をチームでの練習に費やしていた。
夏なのに枯れた芝、そこここがはげて茶色い地肌がむき出している。
フランスの青々とした芝を思い出し、落としかけたため息を飲み込む。
練習できる場所があるだけ、ありがたいと思わなきゃいけないんだっけ。
柴田は横浜フリューゲルスジュニアユース一期生、中高の六年間をエースとして過ごし、
フリエの未来の10番を確約された女と呼ばれた。
高校卒業の年、チームが消滅するまでは。
翼のエンブレムのついた白いユニフォームをまとい、三ッ沢いっぱいの声援を背に戦う。
それが柴田の未来予想図だった、それしか考えられなかった、そうなるはずだった。
チームへの愛が深かった分、気持ちを切り替えるのもまた遅かった。
いちはやくベルマーレ入団を取り決めた石川と違い、ぐずぐずと進路を取り決めかねた柴田。
そこに降って湧いたように飛び出した新チーム設立の話。海のものとも山のものともつかぬその話に柴田は飛びついた。
大学に進むつもりだったし、先のことは四年間かけてゆっくり考えればいい、先はまだ長いのだし。
新チーム、横浜FCは特例を認められJFLで発足、一年目から主力の柴田が2年でチームをJ2に導いた。
アマチュア契約が幸いし、学生世界一のオマケまでついた。
その半面、18から22歳、選手として大事な時期を高いレベルで過ごせる機会を自ら放棄したことでその成長は頭打ちに。
ユース時代ドングリの背比べだった石川が南米の強豪クラブにいる。歴然とした差がついてしまった。
それでもいい、自分はチームにその青春を捧げたのだから。
その思いが、揺らぎつつある。
この、芝だ。
よい環境に慣れるのはた易い。だがその逆がどれだけ困難か。
帰国した平家が、初めてオーバーエイジの可能性を示唆した。
柴田の五輪代表でのポジションは左MF。A代表のそこにはプレミアリーグ屈指の名門でレギュラーを張るキャプテンがいる。
もっと自分を高めたい。プレーの幅を広げたい。
チームへの愛とプレーヤーとしての欲。サッカーサイボーグの心がかつてないほどに乱れる。
「元気か」
そんな柴田を突然訪れたかつてのフリューゲルスゼネラルマネージャー和田薫。
悪ガキの矢口、石川が巣立っていったのに、優等生だったはずの柴田一人がいまだ手のかかる子供のままなのが、
なんだか不思議だった。
「もうかりまっか」
「ぼちぼちでんな」
少なくとももうかっちゃいない。
「和田さんこそなにしてるんですか?」
「ま、いろいろ」
少なくとも腕利きで人望の厚いこの男が食いっぱぐれることはない。
多忙にもかかわらず、わざとスキだらけの格好でやってきた和田。情と欲の狭間にもがく柴田のために。
「もう、出るべきなんじゃないのか」
またかよ。まるで親の小言だ。分かりきったことを何度、何人の人間の口から聞かされたか。
「言ってるじゃないですか。私はこのチームの人間で、他のユニフォームを着た私は私じゃないって」
予想通りの回答に和田が頭をかく。
「気に入った服だって、体が大きくなればいずれ着られなくなるんだぞ」
「服とチームとは違います」
「似たようなもんだ。現に無理やり着てるもんだから、あちこちほつれかかってる」
柴田が言葉に詰まる。
「着られなくなった服は仕立て直せばいい。だがそれには時間がかかる。矢口や石川だって向こうに骨埋める気はないだろう。
その時は、おまえが二人に声をかけてやれ」
「…はい」
嗚咽混じりの声。どこまでもFの白を愛する柴田には残酷な決断だった。
だが柴田は、今度も自らその道を選んだ。
通常、応援するチームの選手の名がコールされれば喚声が、敵の名前には罵声が飛ぶ。
それが試合開始前、スタメンがアナウンスされる際の風景。
だがその選手、アウェーのコンサドーレ札幌の三番目にコールされる選手だけは違った。
その前の大谷雅恵の名が呼ばれた直後からマジョリティーの鹿島サポーターからは失笑混じりの大喚声、
声援をくれるはずの札幌サポーターからは憎悪そのものがぶつけられる。
「ヘタッピ!」
「バカヤロー!」
「おまえも辞めろ!」
無味乾燥とした男声がその名を告げる。
「ディフェンダー、紺野あさ美。背番号30」
「あの紺野ってそんなにひどいの?」
視察に来ていた平家が傍らの信田に聞く。
「当たりに弱いわ突然不可解なポジショニングをとるわで評価は散々。コンサ不振の責任を一人で負わされてる。
足はあるし、時々いいフィードもするんだけどな」
副官の言葉にいちいちうなずく平家。
「トイメンは松浦か。こりゃボコられるかもな」
欧州遠征から帰国したFW松浦亜弥は8得点でチームの5連勝に貢献している。
「そんなにひどいの、30」
「ああ。なんで石黒はあんな奴を」
それは楽しみだ。今までどれだけ多くのいい選手たちに裏切られてきたか。
パンッ。
アウェー用の控室に乾いた音が響き渡る。
頬を押さえる人、センターバックの紺野あさ美。
手をかざした人、安倍と飯田の去ったチームをキャプテンとして率いてきた戸田鈴音。
固唾を飲んで見守る人、ボランチの木村麻美と右サイドバックの副キャプテン大谷雅恵。
「修羅場」という題名の、一幅の絵画のようなその構図に唯一足りないもの。
コンサドーレ監督、石黒彩の姿はない。13位という不振のチームの責任をとってこの試合の前日、自ら辞任していた。
戸田が放ち、紺野が受けた一発のビンタ。そこには万感の思いが込められていた。
「紺野あさ美だ。この中には見知ったやつもいるだろ」
沖縄キャンプ初日、石黒はそう言って、転校生を紹介するかのようだった。
あいつか。自分と同じ名前を持つユースの後輩を覚えていた木村麻美。
どうってことない選手だったが、石黒だけはやけに彼女を気に入っていた。常にレギュラーをもらっていた。
言葉は悪いが、寵童のごとく。
だがピッチに出ると、石黒は紺野を突き放した。いわゆる怒られ係のようだった記憶が。
それにしても、ユースからトップに昇格できなかった選手が一年の時を経て出戻りするなんて前代未聞だ。
どんなにうまくなってるのかと内心楽しみにしていた大谷の期待は裏切られた。下手にも上手にもなっていなかった紺野。
下手ならそれなりに指導すればよさそうなものを、紺野のミスをなじるばかりでアドバイスすらしない石黒。
それでもずっとAチームで使われる紺野。
まあ、そのうちなんとかなるさ。そう楽観視していた大谷。そのうち戸田、木村とともにオリンピックアジア予選に駆り出された。
帰る頃には事態が好転していると信じて。
ところが帰国した三人が見たのは結果を出せない紺野を使い続ける石黒、それによって分裂寸前になったチーム。
「私がリベロやります」
そう石黒に申し出た戸田。本来中盤の選手だが五輪代表では3バックの中央にいる。
札幌は伝統的に堅守速攻のチーム。戸田と木村がプレス、サイドに逃げたところを大谷が奪ってカウンター。
しかし敵は穴を目がけ早めに放りこみ、紺野がまごつく間にゴールに結びつける。
敵の足元に鮮やかなパスを決めたりもする紺野は、味方への声すら満足に出せない。
戸田にとっても、五輪代表リベロのプライドを賭けた申し出。
それでも石黒は相変わらず鋭い視線を戸田にぶつけて
「紺野は下げない。私が決めることに口出しするな」
だが最も疑問を抱いていたのは木村でも大谷でも戸田でもない。当の本人、紺野あさ美。
自分のせいで勝ち試合をだいぶ落とした今季の札幌、このままではJ2降格の危機。石黒解任? の文字が紙面に踊る。
監督室を訪れ、涙ながらに訴えた。
「私を使わないでください。このままじゃ監督がクビになります」
「そうだよ。だから頑張ってくれ」
石黒は新聞から目を離さずにそう答える。
「私、真剣です」
あたしも真剣だ、そう言いながら立ち上がる石黒。
「選手が自分使わないでくれってどういうこった。普通血眼で私を使えって言うもんだろうが」
「みんなが陰で私をなんて呼んでるか知ってます。
劣等生、落ちこぼれ、役立たず…チームのファンの人もインターネットで私をやめさせる署名を集めてる」
「ンなもん見てる暇があったら練習しなさい」
石黒が呆れたように言い放つ。
「紺野、あんたキンタマついて…るわけないか。コノヤローとか見返してやるとか思わないの?」
使い続ければ分かる。紺野は決してただの劣等生ではない。見込み違いではないことは分かっている。
だが紺野はどういうわけか、自分で自分にブレーキをかけてその才能を封印しているのだ。
「紺野、あたしを殴れ」
キョトンとなる紺野にさらに石黒。
「パーでもグーでもいいから、とにかく一発やってみろ。そしたら一皮むけるかもしんないから」
にじり寄る石黒。いやいやをしながら後ずさる紺野。
「獣医になりたいんだろ。動物ってのは理屈じゃないんだ、どこかで自分のほうが上だって分からせなきゃ言うこと聞かなくなるんだぞ」
ついに背中を、後ろに回した手を監督室の壁につける紺野。
「あんたが殴んなきゃあたしが殴るよ。さあ!」
「できないんです!」
その場に座り込み、涙ぐむ紺野。
「師範代に言われたんです。お前たちの拳は凶器だからって」
「あんた、古武道でもやってたの」
「空手を、やっていました」
紺野を縛るものの正体を石黒は突き止めた。
なんでも型にはめ過ぎるのは日本人の悪い癖だ。
空手道、柔道、剣道に弓道に合氣道。これらの道は道徳の道。ただの武術まで道徳の一部にしてしまう日本人。
ついには野球道や漫画道やラーメン道なんてものまで。
そこには選択肢などない。無限に続く細く険しい道を闇雲に駆け上がっていくイメージがある。
振り返ることも休むことも許されない、少しでも道をそれようものなら邪道外道と罵られる排他的な空気こそが全世界だ。
石黒の考えはそんな狭苦しくない。
たとえるならだたっ広い平野があり、前はもちろん左右にも後ろにも進める。空を飛ぶのも穴を掘るのも自由。
それが可能な世界だから、石黒はサッカーを愛したのだ。
石黒は攻撃的なサイドDFだったが足の故障でスピードを失い、リベロに転向した。
最初は守りだけなんて退屈で嫌だったが、年を取ると肉より魚が美味に感じるようにディフェンスの楽しさを覚えるようになった。
読み、ポジション取り、連携…円熟味を増し、視野を広くしたゆえに分かりえた妙。
もしこの視野を持ったまま昔の肉体を取り戻せたら。
ここに紺野あさ美という選手がいる。幼いくらいに若く、足も昔の石黒に劣らず速い。
そしてどうして身につけたかは知らないが、年に似合わないほどの広い視野を持つ。まだプレーには活かされてないが。
そしてなにより、紺野の肉体には誰も知らない秘密がある。
が、確証はない。確かめる必要があった。
試合での紺野は自分より体格で勝る相手になんとか体をぶつけ返すが、いつも難無く飛ばされる。
だが今は石黒が相手で、完全に無抵抗。
紺野に踊りかかった石黒の体が目標物に触れた次の瞬間、大きく床に投げ出された。大きな音とともに。
「大丈夫ですか?」
足首を押さえて倒れた石黒に駆け寄る紺野。
「大丈夫なわけ、ねえだろ」
「ごめんなさい。でも、なにもしてないのに」
「それでいいんだよ」
紺野に手を借り立ち上がる石黒。確かに、紺野のもう一つの武器をその体で受け止めた。
石黒はなにひとつ教えなかった。才能は初めから紺野の中に息づいていて、
あとは本人がそれを自在に取り出し出来るようになるための環境を整えるだけだったのだから。
だが、まだ仕上げが残っていた。紺野が残す甘えを除去、勝負への厳しさを引き出しニュー紺野を売り出す格好の舞台演出が。
「分かってるよな」
戸田が紺野に、選ばれなかった者が選ばれた者に。
「監督はあんたに、オリンピックへ行ってほしかった。だからわざわざ平家さんが試合を見に来る日の前にやめて、
あんたをたきつけようとしたんだ」
「戸田さん」
「せめて意地は見せてやんないと」
「今日もいつもとおんなじじゃ、何のために監督辞めてったか分からないしね」
大谷と木村が代わるがわる声をかける。
監督――紺野の脳裏に、厳しくも暖かかった石黒の姿が。
時が来て、ジャージを脱ぎ捨てるイレブン。ユニフォームはアウェイ用、冬の北海道の平原と同じ白。
片や本拠地に札幌を迎え打つ鹿島アントラーズ。
なんといってもFW松浦が好調。欧州遠征では試練を味わったが、
やはりオーバーエイジに危機感を募らせてかプレーにキレが戻ってきた。
そして移籍したての柴田あゆみ。
移籍宣言後最初にオファーをくれた鹿島は左DFが長期離脱中。プレーの幅を広げたい柴田と思惑が一致した。
完全移籍。プロ契約。背水の陣で臨んだ新天地で2ゴール4アシスト、左サイドバックながら毎試合得点に絡む活躍ぶり。
だがどうしてもエンジ色になじめない、まだまだ心は白いままの柴田。
鹿島のキックオフで試合開始。
なんっであれがファウルだよー! お前これが見えるか?
そう母国語で叫び、警告を出した主審に指を向ける札幌DF、ユーゴスラビア五輪代表コーディー・カトッチ。
東欧の火薬庫とも呼ばれる地域出身だけある激情の主。
怒りの矛先は止めに入る戸田や木村に。二人が相手にしないと分かると共に中央を守る気弱なリベロに目を剥く。
見てたよな。ありゃーファウルじゃねえよ。な?
すると30番は曖昧に答えるのでさらに詰め寄る。そうしてストレス発散するのが常だった。
この日は違った。紺野は何事もなかったかのようにぷいと後ろを向いてしまった。
なんだよお前、つまんねー奴だなー!
いつもと様子が違う紺野に新たな怒りが込み上げてくるカトッチ。
鹿島ゴールを守るGKケーチ・ヤマモトッチもそのカトッチと同じユーゴ五輪代表。
やや太目の体躯に似合わぬ敏捷なステップで戸田のロングショットをブロック。
遠いからってフリーで打たすなよな!
やはり口は悪い。
札幌にカトッチ、戸田、大谷、木村。鹿島にヤマモトッチ、柴田、松浦。
シドニー五輪予選D組最終戦で一戦交える日本とユーゴスラビア、この試合では両国の選手が敵味方入り乱れて競い合うことになる。
松浦は今日の勝負をいかにしてカトッチのマークを外すかにかかっていると見ていた。彼さえかわせば後は問題ないと。
イタリアで安倍なつみに学んだポジションの取り方。スペースを作り、そこにタイミングよく飛び出す。
それには瞬発力もさることながら、オトリの動きが大事であると。
安倍は今でも、松浦の最も尊敬する選手である。同じセンターフォワードとしても、一人の人間としても。
その人から直々に教えを請い、心の底から嬉しかった。まさかその後、ポジションを争うことになるなどとは想像だにしなかった。
松浦が左サイドを横目で見る。そこでは五輪代表の僚友柴田が、やはり五輪代表の大谷と丁々発止のバトルを繰り広げる。
移籍以来大車輪の活躍を見せる柴田、その裏にはJ1の奴等に負けてたまるかという意地がある。
J2のスター選手がJ1に参入したものの出場機会すら与えられなくなるケースは多い。そして言われる、井の中の蛙と。
自ら望んでJ2を戦場に選んでいた柴田は思う。確かにプレーの質はJ1が段違いに高いが、プロ意識に違いはないと。
横浜FCだけではない、すでにJ2そのものを背負って戦う柴田。フィジカルに勝る大谷を外に抜けてかわした。
柴田からのセンタリング、GKとDFの間を縫う絶妙のコースに。柔らかく曲線を描き、松浦が走る先へ落ちる。
ダッシュの前に松浦が見せた、サイドへ流れる素振りに引きつけられたカトッチが出遅れる。
「きえッ」
裂帛の気合とともに右足一閃、横飛び蹴りでボールをかき出した背番号30。
紺野だけが、一連の動きの結末を読んでいた。
まさか、偶然だ。松浦が気を取り直す。中盤でキープ、今度は右を使う。
MFが札幌のサイドDFを吊り出してコーナー付近にスペースを作り出した。
そこにも紺野がいた。安全第一、先回りしてボールを外に蹴り出す。
聞いた話とは違い、パスの出所に必ずいる30番に少なからず動揺するアントラーズ。
それに輪をかけて動揺していたのが味方のコンサドーレ。あのヘボ紺野が鹿島自慢の攻撃陣を赤子扱いとは。
戸田が大谷を走らせる。センタリングは鹿島GKがパンチで防ぐ。
相手の間伸びしたラインの裏に戸田がロングパス。FWが追いつけない。
ただ一人反応する白い影。背中には30番。GKのつむじを仰ぎ見るループシュート。
目一杯腕を伸ばすヤマモトッチ。指先をかすめたボールがバーを叩いて外へ。
先制点を奪い損ねた紺野、何事もなかったのように戻っていった。
監督の重責から逃れた石黒はこの試合を自宅のテレビで、愛娘と共に観戦していた。
「あのお姉ちゃんはね、ボールとお話ができるんでしゅよ」
普段とはまるで違う優しい口調、単語しか話せない娘に説明する。
ボールと話せる、つまり展開の先の先が読める。
プレッシング全盛の現代サッカーだが人間がやる以上必ずスキはできる。
フィールドのどこかに必ずオープンスペースが、まるで生き物のように現れては消える。
逆に言えばそこをいかに利用するかが今日においては重要になる。
石黒が見抜いた紺野の才は、そのスキマを予知する能力だったのだ。
石黒に見い出された頃の紺野は一流のウイングではなかったが、いつ、どこに飛び出すかを心得ていた。
スペースとは姿を表してから目指したのでは手の届かない、唇気楼にも似たものなのだから。
ただ相手が目の前にあるスペースにも気づかないレベルならその力は意味をなさず、読みを外されたような形になる。
今までマヌケ扱いされた紺野は実は対戦相手を写し出す鏡で、鹿島という強敵を得て初めてその能力は実証された。
が、これだけではまだ半分。紺野は己の全てを見せてはいない。
「あのお姉ちゃん、もう一個すごい力を持ってるの。すごいね」
木村のコーナーをカトッチ頭で合わせる。ヤマモトッチ正面で受ける。
なんで止めちまうんだよー! いいじゃねーか止めたって! 口論する二人。
「キーパー!」
鹿島の速攻。柴田が自分より大柄の大谷を肩でふっ飛ばす。かつてない力強さ、新境地を開きつつある。
紺野をなめきっていた自らの浅はかさを恥じつつも、まだ突破口はあると確信する。
紺野はフィジカルが弱い、すぐに倒される。
「柴田さん!」
松浦の声を無視、中へ切り込みあえて紺野にタイマンを挑む柴田。
来た。身を低くして備える紺野。弾き返すのではない、包み込むのだ。
ぽんよよよよ〜ん…
気がつけばその場に尻もちをついていた柴田。ボールは紺野の足元。
なにが起こったのかまだ把握できない。当たり返しにくるどころかそのまま柴田の突進を受けた紺野。
ベクトルは真綿に包まれるように四散、ゼロになるとそのまま柴田にはね返ってきたのだ。
「あのお姉ちゃんの筋肉は特別なのよ。ゴムボールみたいでね、まるでお相撲さんみたく敵の力を吸い込んじゃうんだ。
あれだとね、海外の大きな選手でも力が通じなくなるんだよ。おもしろいねえ」
甘い声で娘にそう説明する石黒。紺野は柔ならぬ軟のセンターバックである。
柴田が勝手にぶつかって転んだのだからファウルはない。紺野の視線はすでに前線のスペースを向いていて、一気に縦へ出す。
その軌跡がねじ曲がる。松浦が足を出したのだ。
機械だって調子の悪い時はある。そんな時はそんな時なりにできる事を考えなさい。安倍の教えだった。
「松浦必死だな」
スタンドで平家と信田が笑う。
「あの30番、次呼んでみよう」
「マジ? 今日たまたま出来がいいだけじゃないの」
「試してみる価値はあるんちゃうん? うまくしたら後藤のバックアップに育つかもしらんし」
「はいはい。紺野あさ美、マル、と」
平家同様、石黒もケガで選手生命を全うできなかった。
そのことに悔いはない。あるとすれば自らの思い描くバックスの理想に届かなかったこと。
DFは玄人好みのプレーが多い。悪く言えば地味で分かりにくい仕事がほとんど。キーパーにさえ見せ場の数では劣る。
日本でもてはやされるDFはたいてい攻撃的な選手。DFなのに、というフレーズ。
シュートやスルーパスのように、インターセプトだけで喝采を受けるDF。もっといえばポジショニングだけで客をスタジアムに呼べるDF。
石黒はずっとそんなフルバックになりたかった。なれなかった。
だが紺野にならそれができるかもしれない。
確かに一つひとつの仕事は地味だ。しかしそれを積み重ねれば、必ず全ての観客の目はそちらへ向けられるはずだ。
頑張れ、紺野。ディフェンス一本で銭が取れるリベロになるんだよ。
試合は延長まで戦って0-0。ゴールシーン中心のスポーツニュースでは凡戦のように扱われた。
だが紺野を始め柴田と大谷の攻防、戸田と木村のプレス、松浦のフォアチェック、ヤマモトッチのセーブ、
カトッチの敢闘精神…ディフェンスの愉悦に満ちた120分を、試合を見た者に最後まで堪能させた両チームだった。
さて、この試合の日の昼のこと。新戦力の最終チェックとなるテストマッチの相手がようやく決まった。
というのも本来ならカトッチ、ヤマモトッチら日本でプレーする選手の多いユーゴスラビア五輪代表と
七月にテストマッチを行うことで八割がた決まっていたが、
ユーゴが同じグループに入ったため当然この時期の対戦はできなくなってしまった。
「すまん。予備に押さえていたモロッコも結局予定がつかなくなったそうだ」
稲葉がそう詫びたが、事態が好転するわけでもない。
九月にもうひと試合控えてはいるが、これは大会直前のお祭みたいなものだ。
欧州選手権で優勝したフランスにあわや、のところまで詰め寄ったチームの評価は今のところ上々。
だが平家が自らの中で打ち立てた目標、ファイナリストにはまだ遠い。
それにまだ力を試さなくてはならない選手が残っている。皆実力者揃い、問題はチームの戦術に適応できるかだ。
彼女たちが加われば選手層は厚くなり、ポジション争いも激化する。
今大会では反則への罰則が一段と厳しくなりそうなので、レギュラーとサブに差がありすぎりと後で困ることになるのだ。
それだけに、ここで試合が組めないのは痛い。痛すぎる。
「アジアのチームなんてどうだろう」
ガックンの口からコロンブスの卵が転がり落ちた。
早い段階でのつぶしあいを避ける為違うグループに振り分けられたアジアの三代表。
同レベルの相手とまみえるのはこの時期大切だし、同じアジアなら近くて集まりやすい。
「カップ戦にするんだ。負担が少なくなれば協会側の文句も少ない」
「スポンサーに心当たりでもあるんか?」
「IT産業、とか」
「あっちゃん」
「やるしかないやろ。金出してくれそうなとこ、かたっ端から回ってみるわ」
稲葉はそう言って曲がった鉄砲玉のように飛び出していった。
ドリームネットカップの会見が東京で行われ日本、韓国、クウェートの五輪代表監督と主将が出席した。
開催地は日本。期日は八月上旬。方式はキリンカップに準ずる。会場はこれがお披露目となる新潟ビッグスワン他。
平家は別に会見の席を設け、現行の20人に新たに5人を加えたメンバーを発表。これ以上の戦力の上積みは考えてない。
「紺野あさ美、コンサドーレ札幌。矢口真里、アルゼンチン、ボカジュニアーズ。安倍なつみ、イタリア、ユベントス。
飯田圭織、イングランド、リバプール。保田圭、ドイツ、バイエルンミュンヘン」
「アイ」と呼べば加護亜依と高橋愛が、「木村」の声には木村アヤカと木村麻美が、そして木村麻美にもう一人の同名さんが。
紺野あさ美は最初、その程度の印象しか周囲に与えなかった。ミニゲームでもさして目立たず。
だが平家は紺野の非凡さを見抜く。難易度の高い3-4-3を最初から実践できていたのだ。
現役国立大獣医学部生の聡明な頭脳でしっかり予習を済ませていたのだろう。
「紺ちゃん、アイーン」
同い年の辻や自分にさん付けする紺野の緊張をほぐそうとする加護。小川の時とはえらい違いだ。
「あ、あいーん…」
「手の向きがちゃうよ」
その紺野の大先輩、安倍なつみは逸早くチームに合流し貫録の違いを見せていた。
今もってA代表のエース。スピードは衰えていたが、抜群のボディバランスと決定力とでゴール前ではさらに危険な存在になっていた。
精神面でもFWのみならずチーム全体の柱になりうる。
が、相変わらず後藤との間にはベルリンの壁がそびえる。
サッカーチームは仲良しクラブとは違うんだ。どんな奴でも試合で結果さえ出せば文句は言っちゃあいけねえ。ましてプロならな。
ボカのとあるチームメイトの素行に手を焼いていた石川に矢口が言った言葉だ。
「うまいよなあ、安倍さん」
ため息をつく松浦。不動のストライカーの座が危うい。
「私も矢口さんが来たらやばい」
木村麻美がスタメンを辻から奪い返した右MFは攻守のバランスを要求される。
「保田サンに勝てナイかも」
ミカが嘆く。保田のみならず柴田も今回左DFとしてテストされた。
「なに言ってんだ、あんたら」
吉澤が腰に手を当てる。
「実力ではね返すぐらいのこと言えないでどうすんだよ」
そう言って立ち去る背中に木村が思わず恨み節。
「自分はスタメン安泰だからって」
吉澤は平家から絶対の信頼を受けるキャプテンである。
その日の夕食後、乾いたタオルを手にトレーニングルームへ向かう石川。明かりも消されたそこに、乾いた音が間断なく続く。
「そろそろやめなよ」
明るくなる。12オンスのグラブをはめ、汗でずぶ濡れの吉澤がサンドバックにもたれていた。
「…そうだね」
荒い息をつきながら、やっとそれだけを言う。
ボクシング用具一式は吉澤の私物。狭いリングの中、至近距離から放たれる拳が打たれてからよけるのはまず不可能。
ボクサーは相手のわずかな事前動作から次を読み、かわしたりブロックしたりするそうな。サッカーのディフェンスによく似ている。
「怖いよ。めちゃくちゃ怖い」
汗を拭き、ペットボトルをあおる吉澤。
「オーバーエイジが入ってきた時点でもう違うチームだし、信頼だって監督と年の近い安倍さんたちのほうがあるに決まってる」
恐らく吉澤がシドニー行きの18人から漏れることはないが、レギュラーを取れる確証もない。
「それにあたし、やっぱりボランチやりたいんだ」
平家が言う4番、チームの頭脳であり心臓。
A代表での吉澤はここを矢口に奪われ、センターバックをつとめる。
仲の良い二人に今のところ波風は立っていないが、吉澤が悔しくないと言えば嘘になる。
監督が矢口をどのポジションで使うつもりかは知らないが、恐らくは中盤、もし10番なら石川、4番なら吉澤と競うことになる。
つまり吉澤と石川も、間接的にポジションを争う事態に。それが監督の望むところなのだろうが、
使われる立場としてはたまったものではない。イスが11から8になるのだから。
「でもしょうがないんだよなあ、チームが強くなるためだもん」
フォアザチーム、自分が出て負けるよりベンチで勝つほうがいい。吉澤は心からそう思う。
「そうそう。ポジティブで参りましょう!」
石川も笑った。
「あの紺野って子はどう?」
石川が吉澤に尋ねる。
「夕飯の時スイカのパジャマで現れたのはビックリしたけど」
夕飯はジンギスカンだった。食べるのが遅い紺野。反対に早飯早グソ芸のうちとばかりに、
早食いの高橋が紺野の大事に大事に焼いていたマトンをつまんだ。嫌いなのだと勘違いして。
「ケー!」
超音波とともに吐き出した。一味トウガラシが死ぬ程まぶしてあったのだ。
「辛くしとけば誰も食べないだろうって発想がすごいよね。自分で食べること考えてないのかな」
「ディフェンダーには珍しいタイプだね。変人は前のほうに多いから」
「ういっす」
次に合流を果たしたのはA代表のリーダーぶりがだいぶ板についてきた飯田圭織だった。
W杯終了後安倍とともに伊トリノへ。安倍ほどの華ばなしい活躍はできなかったものの、恵まれたサイズを活かしたダイナミックな攻守でレギュラーの一角に食い込む。
シーズン終了後戦場を英国へ移す。ユース時代からの安倍との腐れ縁がついに途切れた。
母国の水がよほど肌に合ったのか、魔術師ブライアン・ルイ監督のもとイタリア時代をはるかに凌ぐ活躍を見せ、
ビートルズを生んだリバプールでオノ・ヨーコの次に有名な日本人女性になった。
わっかいのが増えたよなァ…が飯田の感想。
A代表でも安倍と並ぶ最古参になってしまった。誰からもベテランと呼ばれ、これから世界に挑む若い才能がうらやましいと素直に思う。
口には出さないが。
だから、最後のビッグゲームになるかもしれないシドニーへの意気込みも強い。
恐らく飯田が現役の間に、日本がワールドカップで優勝することはないだろう。
が、オリンピックなら必ずしもそうとは限らないと。
飯田のパスを安倍が冷静に流し入れる。安倍のハイクロスを飯田が頭で叩きこむ。まさに阿吽の呼吸。
オーバーエイジの脅威にさらされるフィールドプレーヤーたちをよそに別メニューをこなすGK。
欧州遠征で危機感を募らせ、変な気取りを捨てた高橋。大学の練習だけでは足りないとジェフやレイソルの練習にも参加する小川。
ゴールマウスを巡る生存競争にさらされる二匹の獣。
過熱するばかりの対抗意識を利用した練習方法を信田は思いついた。
まずは実演。コーナーから高橋が上げたボールを村田と奪いあう。五本中四本をつかみ面目を保った。
一本目。うまく体を入れて確実なキャッチング。高橋。
二本目。ニアへのライナーに判断よく飛び出した。小川。
三本目。蹴った信田が思わず叫ぶ。ごめんと。遠いポイントへダッシュする二人。出しかけた手を慌てて下げる小川。エリア外。ヘッドで競る両GK。高橋が額に当てた。
四本目。高橋を押しのけた小川、横っ飛び。こぼした。拾いにいく高橋。伸ばした手を止めた。風を切る近さで小川のスパイクがクリア。
無言で小川をにらみつける高橋。この時期にGKが手をケガするのがどういう意味か知らないはずはない。場の空気が一気に凍った。
ボカボカッ。
「アホかあんたら」
痛む二人の頭に高い場所から響く飯田の声。
「あなたたちはライバルではあって敵とは違うのよ。互いに尊敬しあいなさい」
明らかに不満そうな二人へさらに
「仲良くするのよ。決定」
「仲良くなんて言われても」
「別に喧嘩してねえし」
何を思ったか飯田、石川を連れてきて小川らの間で肩を組ませた。
「私関係ないですよ」
新米と羽二重餅のように白い肌の二人に挟まれ、その黒さが一層際立つ。
「新潟と福井の間にあるのは富山とどこ?」
「石川県でっす」
チッ、相変わらず電波かよ…
そうは言われても、両者の間に和解の兆しなど見られない。
こんなエピソードがある。
練習が終わり宿舎に引き上げると、焼魚らしき香ばしい匂いが空腹の選手の鼻孔をくすぐる。
ヒカリモノ好きの高橋が小鼻を鳴らして
「サバっすね、こりゃ」
とのたまえば、棒でスパイクの裏をほじっていた小川が
「アジっぽい匂いがする」
とすかさず切り返す。
ひとつ違い、日本海沿い育ち、にしんそばにへぎそば、羽二重餅に笹団子、もんじゅに刈羽原発。
共通点も多い二人の守護神。実は一番近いところにいるのかもしれない。ところで魚はイワシだった。
ずるっ、ずるっ…
「圭ちゃーん、重いよお。もういいでしょお?」
「ダメよ。負けたあなたが悪い」
「だってフランクフルトからずっとなんだからさあ」
「賭に負けて文句を言うな。ほら、見えてきたよ」
「ああ、ハラ減った」
玄関先の物音に石川が吉澤を伴って出て行く。
「矢口さん!」
荷物の山に埋もれて、そこにいた。
「なんか、食わして」
「夕飯終わっちゃいましたよ」
「嘘やーん…」
「おにぎりでもこさえてやってよ。空港から何も食べずにポーターやってくれたんだからさ」
荷物の山の後ろにいたのは、眼鏡をかけた保田圭。
仲間達に先んじること半年。ワールドカップを前に代表を引退した保田は最後の冒険に渡独した。ブンデスリーガ挑戦だ。
新人のような気持ちで飛び込んだヘルタベルリンから1FCケルン、縁あってバイエルンミュンヘンにまで上り詰めた。
古豪復活、今や憎たらしいほど強いとはこのチームのためにある言葉。
レギュラーこそつかめなかったがここ一番で起用されるエースキラーとしてケルベロス(地獄の門を守る番犬)というあだ名で恐れられた。
過去形なのはマイスターシャーレ、そして欧州チャンピオンズリーグ連覇を置き土産に現役を退いたから。
何事かと芋ジャー姿の小川、ネグリジェの紺野までやってくる。
「…姉ちゃん」
小川の顔がひきつる。
「あんた、マコト?」
目をこれ以上ないほど見開く保田。
顔を見合わせる初対面のはずの二人。
「引退したんじゃなかったの?」
「あんたこそ、サッカー続けてたんだ」
「あのー、お二人はどういうご関係で?」
「あたしの母親、旧姓が小川って言ってね。この子のお父さんの姉なの」
「えーと、つーことは」
「従姉妹ですね」
紺野が落ち着いて正解した。
言われて見れば、ギラギラした小川の目は若い頃の保田に怖いくらいそっくりだ。
「来たか保田、矢口」
平家や他の選手が現れ、二人を出迎えた。
「ういっす。矢口真里です。カエルもミミズも皆よろしく!」
「保田圭。最後のご奉公に参りました」
「矢口遅いよ」
「圭ちゃん、ミュンヘンの試合以来だね」
安倍と飯田が旧友と会話を交わす。オーバーエージ枠は三つ、このうち誰か一人が脱落する。
「早く上がりなさい。初めて顔を見る人間もいるだろ」
「よく知ってる顔もいましたけど」
依然消息のつかめない福田を除けば考えうる限り最高の人材を集めたはず。
あとは自分が魂を注ぎ込むだけ、平家が改めて気を引き締めた。
平家には一つの悩みがある。
今まで数多くの選手を見てきた。
しかし最近、あまりに近くで見過ぎたせいか実はよく見えていないのではと思う事があるのだ。
選手を固定観念で縛ってはいないか。新たな可能性を見落としてはいないか。面白い組合せがまだあるのではないか。
専門家の意見ではない、独自の視点を持つサポーターの意見こそ欲しい。それを参考にし、もしかしたら採用するかもしれない。
平家は心配症だ。一つや二つではあまりにさみしいのでなるたけ多数の意見が欲しい。
求む、熱い声。
誰と誰とが最強のイレブンか。
「あんた、名前は」
「紺野あさ美です」
「贅沢な名だねえ。いいかい、今日からお前の名は紺だ」
「はあ…」
「矢口、さっさとアップ」
意外にも練習は和気あいあいとした雰囲気で始まった。
飯田が柴田にサイドチェンジのコツを伝授すれば、保田は若いディフェンダーを集めてマンマークやラインコントロールの指導をする。
平家の頼みを組んでのものだった。いじめ抜かれた平家の左膝はもはや日常生活に支障をきたすまでになっている。
体を使って指導することができない――オーバーエイジ四人は平家の欠点を解消する役割を果たしてくれた。
中でも来季から古巣ジュビロの下部組織で指導者としてのキャリアをスタートさせる保田、
GKを含めたDFとの連携を熱っぽく指導する。
インターセプトからのオーバーラップの動きなど、指導される側の斎藤よりもシャープで、とても現役を引退した選手とは思えない。
保田自身あと二年はやれる自信がある。
それをしなかったのは、やはりどこかに持病の心臓への不安があったからだ。
もう再発する事はないとは医師に言われているのだが…
同じ病を持つ加護がその事を忘れたかのように駆け回る姿を見て、やっぱ若いってそれだけですげーやと思ってしまう。
だから平家から国際電話をもらった時、現役生活の傍らC級のライセンスを取得していた保田は
コーチとしての要請が来たのだと思ったし、その予感は間違っていないようだ。
今プレーヤーとしてのピークにある飯田と安倍、そこに差しかかろうとしている矢口の三人に比べたら自分は見劣りする。
現にオーバーエージ候補が発表された時、断とつで疑問の声が上がったのがただ一人現役のA代表ではない保田である。
それにバイエルンでの保田は守備固め要員、後半からの起用がほとんど。国際試合をフルタイム戦えるか、不安は残る。
平家が欲しいのは、保田の経験なのだと思う。
前回のアトランタ五輪を戦ったメンバーが、福田明日香だけなのだ。安倍と飯田は落選、矢口は候補にも上がらなかった。
依然福田が見つからない、同メンバーだった保田を置いておきたいのだろう。
そして、自らへのアンチテーゼとして。
クライフ率いるアヤックス/オランダ代表、無敵艦隊に唯一の汚点をつけた西ドイツのリベロ、皇帝ベッケンバウアー。
彼の所属チームがバイエルンミュンヘンだった。
古代の王が玉座の脇に愚者をはべらせ、常に自らを客観的に見ることを忘れなかったように。
うまいよなあ。
初めて見る若い世代、高橋や小川、紺野のプレーに目を細める矢口。
最年少の新垣にしたって同じ頃の自分とは比べものにならないほどしっかりした技術を持っている。
不毛、花も実もない、端境期、十年に一度の凶作…からっぽの世代とまで言われた矢口たち。
その最後の生き残りになり、プレーヤーとしても完成の域に近づきつつある。
が、時々思う。これで終わりなのかと。
中盤のダイナモとしての仕事、それが自分に求められているとは分かっている。
それでも矢口はあきらめていない。まだ、なにか残されているに違いないと。
自らの中にある手つかずの小箱。それを探し出し、ふたを開くために、あまり気乗りしなかったオリンピックチームへの参入を決意した。
そして、もう一つ。
予選での対戦相手に、アルゼンチンが入ったこと。
いろんな意味で日本と、矢口と因縁の浅からぬ国。世界の大舞台で、ぜひ戦いたい。
それでなくとも、根っからの日の丸小僧である。代表に選ばれたと聞いてジッとしてられるわけがない。
「矢口さん」
新垣里沙がドキドキしながら声をかけた。
フリューゲルス(ユース)からマリノス(ユース)という経歴、体格、ポジション。新垣は共通項の多い矢口と比較させることが多い。
もちろん自分がその足元にも及ばないことは分かっているし、だからこそ少しでも近づきたいと願っている。
だから勇気を振りしぼって、自分から声をかけてみたのだ。
矢口も矢口で、新垣の顔をまじまじと見る。
なぜか親近感が、と思ったら、似ているのだ。
アルゼンチンに移る前、イースター島で主食として毎日食べていた緑色の大きな豆に。
「あんた、なにができるの?」
矢口が尋ねたのは、当然、サッカーのこと。足が速いのか、パスが出せるのか、誰もが震え上がるハードマークがあるのか。
ところが新垣、なにを思ったか、伸ばした舌を突き出し、ぐるりと裏返してみせた。
「うわっ」
度肝を抜かれた矢口ではあったが、すかさず唇を歪めてハートの形にしてみせた。
「きゃっ」
こんなところも二人はそっくりだった。
体は小さい、特に恵まれた才能があるわけでもない二人はすすんでおどけてみせることで、チームの潤滑油になってきた。
そうしてここまできたのだった。
「矢口さん、あまり一人にかかりきりになるの、あんまよくないっしょ」
石川は矢口が新垣とひっつき虫になっていることに苦言を呈する。
「みっちゃんに言われてんだよ、後輩と仲良くしてやれって。なっちだって圭ちゃんだってやってるべ」
飯田も含め、自分の技術を伝えようと懸命で、平家は頭の下がる思いでいるだろう。
「そうじゃなくって…」
いらだたしげに頭をかく石川が、矢口はいじらしくてならない。飼い主がバカ犬に感じる愛情に似ているかもしれない。
石川はヤキモチを焼いている。新垣に矢口を取られそうで嫌なのだ。
「どーしておまえってそーなの?」
荷物をまとめ、単身アルゼンチンにやってきた石川に矢口がそう言い放った。
W杯終了後、日本の8番に接触しようとした各国クラブのオファーは、
彼女がチリの離島のアマチュアチームに所属していることに驚かされた。
ヨーロッパのクラブからの誘いもあった。ずっと条件も環境もよかった。
それでもボカジュニアーズを選んだ。南米の生活が肌に合っていたし、
アルゼンチンで一番強いクラブチームだというのが決め手だった。
かたや石川はトルコのクラブと契約寸前で決裂、一大決心を固め日本を飛び出したのだ。
「入団テストって受けられますよね」
「そりゃーできなかねえけどさ」
石川は捨て犬の目をしている。あたしがなんとかしないと、
こいつはどこまでも落ちていくんだろうな…それで矢口もつい甘くなってしまうのだ。
「しばらく居候していいっすよね」
「だから勝手に決めんなって」
「うわあ、ダブルベッドだ。とっかえひっかえですか?」
「寝相悪いんだよ」
「一緒に寝れますね」
「お、おまえってそういうシュミの人なの?」
「いやー、レズでも矢口さんとは、ちょっと」
「屁はすんなよ。こもるから」
修学旅行を思い出しながら、寝た。
そんな幸福な時代はとっくに終わりを告げている。
一線を引き、ある程度の距離をおいてつきあわなければならないのに。
石川もたぶんそれは分かってはいるのだ。
けど石川は矢口のことが大好きで、だからアルゼンチンまで矢口を頼ってきた。
矢口もいつまでも石川とつるんでバカやっていられるなら、それが一番いいに決まっている。しかしそれではあまりに風通しが悪い。
本来なら新垣のような若いプレーヤーを石川が引っ張らなければいけないのに。
自分がいると自分を頼ってくる石川が、矢口が五輪チーム入りを渋った理由の一つなのだ。
「紅白戦やるぞ。Aチーム、ポジション順に小川、大谷、ミカ、吉澤、後藤、柴田、アヤカ、木村、松浦、石川、加護。
Bチーム高橋、斎藤、保田、戸田、紺野、飯田、辻、新垣、安倍、矢口、前田」
初めて小川が入ったことを除けば、現在のベストメンバーを揃えてきたAチーム。オーバーエージはBチームに入った。
これが初めての紅白戦になる紺野はBチームのセンターバック。
控えの左ウイングはアビスバ福岡のアウトサイドMF前田有紀が試された。
「負けないっすよ」
石川がメンチを切る。やはりこれで良かったのだと矢口は鼻で笑い返した。
このチームの紅白戦でBチームが勝ったことは過去一度もない。それはレギュラーとサブの差を歴然と示していた。
オーバーエージを全員Bチームに入れてみたのもそのため。また紺野、前田などがどこまで対応できるか。
序盤はやはりというかAチームが攻勢。加護が内に切れこむと読んだ大谷を左にかわした。
センタリングが、大きく外れる。
「のの」
紅白戦なのに、加護の足元へスライディングで飛び込んだのは、ようやく復調の兆しが見えだしたFWの辻。
守備意識を叩きこもうとした平家の思惑が、ようやく実を結ぼうとしている。
吉澤が持つ。矢口がチェックにくるのを見越して左の柴田へ。
「新垣!」
矢口の声が飛ぶ。鬼軍曹殿の命令には絶対服従、二等兵が突撃する。
柴田、それをかわして右へふった。松浦とアヤカが戸田と保田を引きつけてできたスペースに飛び込んだのは、フリーの後藤。
シュートに備え、高橋が身構える。
間一髪、紺野が鋭い出足でかき出した。
「よく見てたね」
保田が倒れた紺野に手を貸す。リベロのオーバーラップは保田も読み切れなかった。
パスを出した吉澤が最終ラインまで下がった。同じ列の石川、松浦も一枚ずつ戻ったのを紺野は見ていた。
小川はその様子を反対のゴール前で見ていた。
最後に会ってからだいぶ経つし、まともにサッカーを教わった覚えもない。
それでも、親族と一緒にサッカーをする心境は、なかなかに複雑だ。
「キーパー!」
左クロスを奪う。課題だったキャッチに安定感が出てきた。
エリアぎりぎりまで走り、スローで放つ。右のアヤカへ。
ヘディングが遮った。
特に意識はしてない、従妹に対してそう言っていたはずの保田だった。
「カオリー」
すぐさま飯田へ。辻が右に開く。
あえて使わず、いきなりゴール前にロングボールを蹴り入れてきた。
落下地点には後藤、そして後藤を背負った安倍。当然、体格差がある。
後藤は振り向かせまいと寄せ、安倍は上体でブロックしながらポストプレーの機会を待つ。
安倍が額でボールを出した。後藤はそこに浮いたボールをあえて出させた。
なぜなら、そこに駆けこんだのは代表屈指のストロングヘッダーの吉澤、
吉澤がマークしているのは不可能なことのたとえに『ヤグヘッド』などと使われる矢口。
ほぼ同時に地面を蹴った。
空中で両手を広げ、ふんばったのは小柄なハーフバック。ヘディング。
GK小川の守るAチームのゴールネットを揺さぶった。
へーっ、やぐっつぁん、あんなヘディングできるようになったんだ。
後藤が安倍と肩を組んで戻っていく矢口の背中を見やる。
「アルゼンチンじゃ、一対一に勝てないとボールを回してもらえないからね」
やはりヘッドが苦手だった石川も、それは強く感じていた。
逆に言えば、いかにもヘディングが不得手に見える矢口が人並にでも競れるようになれればそれだけで大きな武器になる。
小さな体そのものがフェイントの効果を生み出すためだ。
石川の場合はフリーキックだった。きゃしゃな足でズバズバ叩きこむことでチームの一員に認められたのだ。
一本取られた吉澤もやられっぱなしではいない。その後も矢口に張りついて動きを止めている。
よっすぃー、こんなに走れたっけ? 矢口は吉澤の変化を肌で感じ取っていた。
矢口の知っている吉澤は中盤で走り回らせてるうちに、次第にマークがずれてきたはず。それが今日はなかなか離れてくれない。
言われるまでもなく、吉澤も自分に足りないものくらい分かっている。
スタミナ。90分走り切れないことはないが、矢口のような体力バカに引っ張り回されると途中で息切れして、
結果的にチームのバランスを崩してしまっていたのだが。
恵まれた体も良し悪し、吉澤は矢口のように俊敏で小回りのきく選手がうらやましくなることがある。
自分じゃああはなれない…そんな矢先、転機は思いがけずにやってきた。
久しぶりに実家に帰省、テレビの前に寝そべって女子マラソンを見ていた。
シドニーの選考を兼ねたその大会、一人の日本人ランナーが独走している。
同じ女性がわずか二時間半足らずで42キロを走るなんて。あんな小さな体のどこにスタミナを隠してるんだろう。
「人種が違うって感じだよね、お母さん」
「なに言ってんの。先頭の人、うちの親戚よ」
座布団枕から頭が落ちた。
根拠なき自信、そう言われればそれまで。だがそれでも吉澤には大きな支えになった。
自分には、マラソンランナーと同じ血が流れている――その勢いでかみついていくのだからガタイで劣る矢口は次第に形成不利に。
ちっとやり口変えるか。
散らし始めた矢口。ボールは汗をかかない。
木村がチェックにいく。飯田に通させない。新垣が奪い返す。
「てえっ」
石川のタックル。新垣の小さな体が吹き飛んだ。
信田がホイッスルを強く吹く。
「え?」
「完璧ファウルだよ。大丈夫か?」
そう言って新垣を気遣う矢口。ますます面白くない石川。
「強気強気!」
波に乗れないチームを背後から鼓舞する小川。
「威勢いいねー」
「弱い犬ほどよく吠える」
保田は病弱でびーびー泣いてばかりだったマコトがサッカーを続けていてくれたことがまず手放しで嬉しかった。
が、代表となれば話は別。それなりにやってもらわねば。
飯田とのワンツーから抜け出し、浅い位置からセンタリング。キーパーから逃げるように曲がるボール、小川がパンチ。
小さい落下地点に安倍がいた。まったくのフリーで。
またネットが揺れる。小川は目標にしてきた圭姉ちゃんから手厳しいレッスンを受けた。
「ちっとはいいとこ見せろよレギュラー!」
平家が口から泡を飛ばすもなかなか調子が上がらないAチーム。いや、Bチームの変容が著しいと言うべきか。
安倍は多少精度の低い辻のクロスをシュートにまで結びつけて自信を取り戻させる。
矢口は新垣をけなしてほめてやる気を起こさせる。
戸田も元同僚の飯田がいることで攻守にアグレッシブだ。
保田は紺野に、己が身につけた技術を惜しげなくさらしている。
こうやっていると、なぜU23にこだわっていたかが不思議になる。いいことだらけではないか。少なくとも、今のところは。
特にキレているのが安倍で、他のFWが見劣りする。安倍が傑出していると見るのが妥当なのだが。
この世代は特に前線の人材に事欠く。加護、松浦も本来はMF。ついに今回は左DFの前田までウイングで試す羽目に。
石川をFWで試せという声が大きいのも仕方ないところか。
恐らくさらに安倍の良さを引き出せるであろう福田の不在が、ことさらに痛い。
矢口の報告では、それでも中澤はあきらめていないという。
もし五体満足で発見されても使えるかは分からない。
それでも平家は福田を待つ。福田こそがこのチームのラストピースなのだから。
終了間際に後藤が石川のコーナーを決めるがここまで。初めてBがAに勝った。オーバーエイジの力のみでないところがよかった。
新垣、辻…シドニー行きの当落線上にある選手には格好のアピールになったろう。
「…」
保田はあまり顔色がよくない。終盤運動量ががっくりと落ちた。
ドイツでのラストシーズン、自分はディフェンスのスーパーサブであると割り切り、ダッシュやフィジカルの強化に時間をさいた。
フルタイムで動いた事自体久しぶりだ。これからスタミナがどこまで戻るか。
汗を拭い、うなだれる従妹のほうへ歩み寄っていった。
「辻選手をシドニーに連れて行きたいとバレーボールの監督が明言したのですが」
平家を囲んだ記者の一人が言った。最近辻が試合に出てないことを受けての発言だろう。
ルール違反。辻のレンタルは予選だけという約束だったのだから。
だがうまく立ち回らねばなるまい、後のちまで禍根を残さぬように。
「そういうお話があるとしても、最終的に決めるのは本人ですからね」
「続いて新垣選手についてですが」
新垣は今日の紅白戦でもいい働きをしていた。
「彼女のお爺さんがサッカー協会副会長だと聞いたのですが…選考に影響はありますか?」
寝耳に熱湯。一瞬はぁ、そうなんですかと答えかけた。
だがすぐにそれが下衆の勘ぐりだと気づき、頭に血がいきかける。
大喝が喉を通過しかけたところで、力を込めて飲み込む。
極めて、平静を装って
「へえ、そうだったんですか。で、それがなにか?」
実は平家もそんな話は伝え聞いたような覚えがある。だからどないやっちゅうねん。
「辻さんがそのことを不満に思い、バレーの関係者に漏らしたという話もあるんですよ」
辻も新垣も等しく可愛い教え子だし、大体協会に疎まれている自分がなぜそんなご機嫌取りをしなきゃならんのだ。
二日酔いの時はソバがうまい。昆布だしならなおいい。
チームを信田に任せた稲葉は昨晩痛飲した平家をソバ屋に連れ出した。酒臭い息で選手の前に立つ事は許されない。
「代表ってことは、国を背負って立つって意味でしょ。どうしてこんなことするんだろう」
「それだけみんな生きるのに必死なんだ。選考にまつわるスキャンダルなんて格好のネタだしな」
実は事実無根でもない。協会関係者がそれらしいニュアンスをほのめかせたことはあったが、
稲葉はそんなことをわざわざ平家には伝えないし、まして手心を加えるなんて勝負の世界では有りえない。
そば湯で焼酎を割って飲むとうまいが無論自重する。
「それより辻だよ。本人の意志に任せるって、あれはまずいよ。まるで勝手にしろよと言ってるようなもんだ。
きついで、そんなん言われた選手は。嘘でも絶対離さへんと言うべきやった」
バレーボール協会が本気で辻を欲しがっているのは事実で、正式な打診もあった。
確かに平家が辻を使いあぐねているのだが、チーム一の足を捨てるつもりはない。
自分のことだけに集中できた選手時代が懐かしい。
「さ、食うたら帰るで。悪い噂ほど早く広まるいうてな、あらぬ誤解はさっさと解いとくに限んで」
だが稲葉の予想を超える速さでその噂は広がり、すでにチームの全員が知るところとなっていた。
血縁ということで言えば、松浦亜弥の父も元日本代表のFWであることは誰もが知っている。
だがすでにサッカーの世界を離れて久しく、松浦本人もシドニー行きは間違いない力を認められているから
コネうんぬんは今さら言われない。
だが協会の牛耳るといわれる新垣の祖父はメキシコの銅メダリスト。そして新垣のシドニー行きは微妙。
しかも同じ右サイドの辻に持ち上がった問題――日本代表の青か、全日本の赤か――が疑惑に拍車をかけた。
加護あたりは内心穏やかではない。もしののが落ちてあのガキが入ったら許さへん、くらいは思っている。
辻はそれを知ってか知らずか、加護とも新垣とも距離を置いている。
新垣はいつもと変わらぬふうを装っているが、笑顔はない。
こういう家に生まれたことはお前の持って生まれた宿命なのだから、それに恥じぬよう一生懸命やりなさい。
家人にはそう言われ続けてきた。
体に似合わない、激しさを前面に押し出したラフなプレースタイルも、お嬢さん呼ばわりされるのを嫌ってのこと。
だが誰もがハレモノのように扱うのが、新垣の現状だった。
そうでない者も、いるにはいる。
「おーい、あんまり中盤でこねるなよ」
ニヤニヤしながらそう言ってのける小川。彼女だけは聞こえるような嫌味を連発した。周囲がひきつるのもお構いなし。
「残り飯を固めて、中に甘みそ入れて少しあぶるんだ。こねつけっていうんだけど、これがうまくて」
常軌を逸した発言。だが誰もがナーバスになっている。歯を食い縛り、泣くのを必死にこらえる新垣は、
はちきれんばかりのストレスを抱えた他の選手たちのスケープゴートにさせられていた。
「あんた」
小川が顔を上げる。狂犬の目をした保田がそこにいた。
二度、鈍い音が響いた。
「恥知らず! 今すぐ帰れ!」
鼻血を拭いもせず、そっくりな目を保田に向ける小川。
「じゃあ、あいつが残って、自分が落ちても納得できるのかよ。そりゃ別枠だもんな」
「血縁でいったら、あんたとあたしだってそうなんだよ」
「姉ちゃんみたいなぺーぺー関係ねえだろ」
保田の従妹、どれだけそう呼ばれてきたか。小川麻琴の人格なんてどこにもなかった。
ようやく周囲が二人を分ける。
「落ち着け小川」
「かっこつけんじゃねえ。プロは日の丸のあるなしで給料が倍違うんだろ。なのにこんなこと許せるのかよ」
「ぶぁ〜か!」
その顔に、思い切りあざけりの言葉をぶつけた矢口。
「ばーかばーか、うんこちんちん、死ねっ」
「そんな、身も蓋もない」
「うるさい石川。小川だっけ。あんたらは、うちらの代よりうまいよ。うちら冬の時代とか言われてたかんな」
そこで大きく息を吸い
「けどあんたらよか優れてるところもある。仲間の足を引っ張って喜ぶような救いようのないバカ、うちらの代には一人もいなかった!
自分が落とされてなんであいつがって思っても、それを口に出すような心の貧しいやつだっていなかった!」
矢口、保田、そしてここにはいないもう一人。
三人が代表に初選出された時の風当たりの強さときたら、とても今の新垣の比などではない。
ヘタっぴ、不必要…まさにクソミソ。レギュラー争いに加わるのにさえ一年近く要した。
初代表でスタメンだった後藤、かなり早い段階で中軸を担った石川や吉澤とはえらい違いだ。
あの頃はね、加護や辻にそう愚痴りたくなる時もある。
だがそんなことを言っても始まらない。なにより共に闘った『不毛の世代』その戦友たちへの圧倒的なシンパシーが、
異国で頑張る矢口をいまだに支えているのだから。
「それにみんなだって、みっちゃんがどんな人か分かってるはずだよ。そんな理由で選手を選ぶかな?」
「んだんだ。だから新垣も、そんなこと気に病まねっていいからな」
安倍と飯田の仲立ちで、ようやく騒ぎは鎮静した。
「だいたい、キーパーとフィールダーが同じ枠を取り合うわけないし」
高橋の言葉が決定的だった。
「よかったよかった」
そう言って自己完結する石川の頭を矢口がひっぱたく。
「いたっ」
「本当なら、おまえがこういう騒ぎは収拾しないといけないんだよ。相変わらずのてんこ盛りバカめ」
「てんこ盛りまで言いますか」
結局、新しいことには何一つ手をつけられないまま(着手したとしても身にはならなかったろう)ドリームネットカップ初戦、
対クウェート五輪代表戦のため大阪長居スタジアム入りした。まるで勉強せずにテストの朝を迎えてしまったかのような心境だ。
クウェートは母国代表監督経験を持つドイツ人を招き、徹底したカウンターサッカーを貫きイラク、
サウジアラビアといった近隣諸国を押しのけた強敵。簡単には勝てないが策もない。幸い交代枠は七つある。
「今日はいろんなパターンを試す。全部アドリブだ。自分の好きなポジションで使われると思うなよ」
「吉澤さん」
週刊誌の記者が主将をつかまえていろいろ聞き出そうとする。
「控えてもらえませんか。試合前でちょっと気が立ってますんで」
ちょっとなんてものではない、不動明王のごとき赤ら顔でその方をにらみぶした吉澤は、記者をぶん殴った『前科持ち』だ。
ただし今回、吉澤はリザーブ。平家のアドリブだった。
GK高橋、DF2斎藤3保田5後藤、MF4木村麻6ミカ8新垣10石川、FW7辻9安倍11柴田。
クウェートの監督がドイツ人ということで左DFに保田、スピードある両サイドMF対策にミカと新垣を起用。
新垣は、汚名返上のチャンスを与えられた。
クウェートは3-6-1、2ストッパーの背後にリベロでキャプテンのA.I、1トップにその実妹A.Kのマエダ姉妹、
両アウトサイドMFに双子のミクラ姉妹。W杯予選で日本を苦しめた夢の中盤をピッチ全体に広げた形だ。
「イシカワがキャプテンか。大したことないな」
ペナント交換の際、キャプテンのA.I.マエダが日本語でこの日キャプテンマークを巻いた元同僚に語りかけた。
海外組も帰国、クウェートはオリンピックに賭けている。
「いつまでも子供扱いするな」
日本五輪代表最初の試合はこのクウェート五輪代表、0-3と煮え湯を飲まされた苦い経験が。
石川のオープンパスに柴田が追いついて、センタリング。A.I.マエダのスライディングに弾かれる。
ちぇっ、相変わらずバカッ広い守備範囲だこと。
A.I.と石川、柴田、そしてベンチの矢口。かつて横浜フリューゲルスの中盤を彩った同胞が今は敵味方に分かれて戦う。
飯田から定位置を奪い返すのが難しい今、ポジションにこだわっていられない柴田。
監督としての平家は公平だ。しかし人間としての平家は、柴田にシドニーに行って欲しいと密かに願っている。
自分と同じレフティ。石川という強烈な光に隠れ、日の当たらぬ道を歩んできた才能に。
「後藤、上がってもいいぞ」
FW一人にDFが三人残ることはない。保田が後藤に攻撃参加を促す。
後藤も保田のマンマーク能力を欧州チャンピオンズリーグ決勝で改めて思い知らされたばかり、
安心して中盤のパス混ぜに参加できる。
クウェートのA.K.とも元同僚の保田、そのプレースタイルも知り尽くしている。
中央からサイドへ、斜めの動きが鋭い。しかも体つきが一回りでかくなった。
まともにいったのでは勝目はない、巧みな切り返しで裏を取られる。
斎藤、インターセプト。喝采が起こる。
保田の指示通りだった。斎藤はそこにいればよかった。
クウェートの中盤は右マナ左カナの両サイド、前と後ろに二人ずつが横並びのそろばんの珠のような六角形。
新垣とミカがミクラ姉妹に張りついているので、二列目のケアは守備的MFの仕事。
だが本日の4番木村が飛び出してくる選手をつかまえきれない。
「あかんなあさみ。替えよか」
「吉澤? 戸田?」
「そんなん、おもんない。紺野!」
正直紺野の使い道を考えあぐねている平家。足もある、守りも堅い、なにより危機を逸早く察知する超能力? まで持つ。
それを最も有効に活かせるのはどこか。平家に突きつけられた「宿題」だった。
麻美とあさ美がタッチライン上ですれ違う。前半20分過ぎ、紺色の代表ユニフォームをまとった紺野が五輪チームデビューを果たした。
「紺野、落ち着いてな」
「ハイ」
もとはリベロ、センターバックの要素を持つ3-4-3の4番もこなせるはずだ。
その期待に応えるように早めにスペースを消し、クウェートの攻め手を封じる。
「落ち着いとるやないか」
トンデモナイ。この時の紺野、実は生涯五指に入るあがりっぷりだった。
本当ならギリギリまでそこを空けてパスを誘い、奪って速攻にいくのに先にスペースを消してしまうからボールが取れないのだ。
両サイドの戦い、ミカ対K.ミクラ、新垣対M.ミクラも白熱する。
自分と同じタテに抜けるのが速いマナにミカが食らいつけば、小技を駆使するカナに臆せず寄せる新垣。
こういう自分のプレーを好まない人が大勢いることを新垣もよく知っている。
だが新垣にはスピードもテクニックも、センスもフィジカルもない。あるのはハートのみ。
眼前の敵をただひたすらにつぶしまくる。その他に自分が生き残る術はない。
ミカもそうだ。ミカの体には日本人の血が半分しか流れていない。だから日の丸をつけることで、真に日本人になれる気がするのだ。
クウェートのストッパーは安倍と石川についていた。ともに身体能力に優れた大柄な選手で二人に自由に仕事をさせない。
安倍が持つ。マークを引きずりながら相手ゴールへ迫る。その左に青い影が。後藤だ。パス出せ。
打った。先回りしていたA.I.の足に当たってゴールを越えた。
こっちに出せよ、そうジェスチャーで訴える後藤を安倍は見ようともしない。やはり二人の関係は修復されていないのか。
石川の危惧は広がる。
が、それはそれとしてコーナーキックを得た。熱望していた、フリーでボールが蹴れるお時間がやって参りました。
左コーナー。ショートに柴田、ニアに保田、中央に後藤、ファーに安倍、キーパー付近に辻が。
後藤がマークを外した。すかさず狙う。わずかに浮き、ゴール上空を通過してファーに流れる。
安倍がいた。トラップ。角度はない。後藤はフリー。
左足、ふわりとしたセンタリング。後藤がカエル飛び。ハーフスピードのダイビングヘッドがゴールネットに優しく抱き止められた。
日本、先制。
喜び以上に、石川にはショックだった。
「あの二人? とっくに仲直りしてんだってさ」
肩を組んでジャンプする二人を、保田が乱暴に親指で差した。
いつ、どうして、どうやって?
「フランスで、とことん話しあったんだと。そしたら単なる誤解でした、チャンチャン、さ」
「でも、どっちから歩み寄ったんですか?」
二人ともプライドは大変に高いはず。
「仲立ちがあったんだよ」
誰の? と言いかけて、やめた。そんなことをしそうなのは石川の知る限り、一人しかいない。
ロッカーに入って、一発ギャグかましにきたわけじゃなかったのね。
あの人はそういう人だ。代表のためなら、なんでもやる。
ベンチで手を叩く座敷わらしを、横目でちらりと見た。
「後藤だって、本当はチャリティー貧乏なんだ。いつもぴーぴー言ってるから時々怒ってんだけどな」
寄付を求められ、断り切れなかった後藤の姿を保田は何度も見ている。
表沙汰にしないのは、後藤が自らにつきまとう奔放なイメージを壊したくないから。
道端で泣いている子供がいたとする。なんのてらいもなく救いの手を差し伸べるのが安倍。
後藤は注意深く辺りを見渡し、それからようやくどうしたの? と尋ねる。
慈善か偽善か、ここでは触れない。
ただ確かなのは、後藤が安倍を、ほんのちょっとだけうらやましいと感じていることだけだ。
ハーフタイムを終えた日本、一挙三人を交代させた。
新垣を下げて矢口、保田を下げて飯田、斎藤を下げて松浦を入れた。飯田は6、ミカは3、松浦は10、石川は4、紺野は2へ。
「松浦。思い切りよくいこう」
安倍の激励に、元気よく返事する松浦。
飯田が左の太ももの裏をさかんに気にする。本番前に悪化させるのは避けたい。
やっときたか。A.I.はこの瞬間を待っていた。
矢口、石川、柴田。一生忘れないであろう元旦の正月、あの日の四枚の翼たちが、こうしてピッチに揃いぶみした。
やっぱすげえや、お役御免となった新垣が、後半自分の位置に入った矢口のプレーに見入る。K.ミクラに、まるで仕事をさせない。
ありったけの力を振り絞り、相手と自分を相殺させることは新垣にもできた。
矢口は必要最小限の力でそれをこなし、残りはすべて攻撃に費やしている。左の飯田も同様。つけいるスキなんて、ありそうにない。
あー、ちかれた。
保田はなんとかごまかしがきいたことに安堵する。45分の仕事でスタミナ不足を露呈させることはなかった。
やるからには、もう一度、日の丸を狙う。
紺野は右DFに。前半中盤で見せた守備は及第点、だが攻撃ではあまり見るべきものがなかった。
センターポジションに比べ制約の小さいサイドに置くことで、どれだけ力を出せるか。後藤にはスイーパーに徹しろと言い置いた。
両サイドバックのオーバーラップの質を見極めるためだ。
ミカが様子を伺う。逆サイドを紺野が上がるのが見え、足を止めた。矢口が紺野を使う。センタリング。松浦のヘッドはGK正面。
今度こそミカが前へ。だが先をいく紺野にまたも止まる。Why? 順番は守ってよ。
かと思えば今度はなかなか行かない。ミカには理解不能だった。
平家には紺野の考えがよく分かる。中盤の底の石川と右の矢口がポジションチェンジを繰り返し、クウェートが困惑している。
わずかに顔を覗かせたスキマを見逃さなかった紺野。やはりそのスペース察知能力に疑いの余地はない。
ただこのチームのサイドバックは交互に上がる決まり事がある。両DFが同時に上がるとカウンターに対応しきれないためだ。
コンビというと隣のポジションを想像しがちだが、同じ高さの両端も重要なのではないか。
辻と加護、石川と柴田、戸田と木村麻美…時折ハッとなるコンビを見せることがある、最も遠い位置にいながら。
飯田の左足がコンパクトに振り抜かれ、次の瞬間には逆サイドを走る辻の足元に計ったようなパスが入る。
好調な時ならもう少し遠いところに出すのだが、飯田も今の辻にはあまり多くは求めない。
カットされた。普段の辻なら振り切れたはずだ。ボールはタッチを割る。
辻をどうやって使うか、難しいところだ。
「アヤカー、アップ」
今日は出番がないと聞いてたので、あわてて立ち上がる。
信頼を回復するためにスタメンで使ったのが、かえって仇になった。
辻はなにもできないままベンチに下がった。
A.I.のロングパスが右タッチを割る。紺野がボールを拾う。
「来い!」
高橋が寄っていく。年長者の増えたチームにあって、新参で一つ下の紺野は先輩風を吹かせられる数少ない存在だ。
紺野がそちらにスローインを投げ入れようとする。
「待て!」
後藤が叫んだ時はボールは紺野の手を離れ、高橋のほうへ。
クウェート人が目の端に飛び込み、慌てた高橋の胸からボールが大きく弾む。
A.K.と高橋がもつれる。笛は鳴らない。ボールがゆっくり無人のゴールに転がるのをどうしようもできなかった。
若さ、それが裏目に出てしまった。
「あちゃー…」
平家が額をぴたりと叩いた。
「ま、ミスは今のうちにしとけばいいよ。シドニーでやられたら困るけど」
信田も苦笑いする。
「村田を使いますか」
「そうねえ。罰みたく受け取られないかな」
「それもまたよし」
交代を命じられた高橋が、うつむいたまま戻ってくる。
どよめきに振り向く。
石川のパスを受けた矢口が力任せに突破、A.I.をかわしてシュート。キーパーがファンブルしたところに安倍がいた。
松浦もそこを狙っていた。スピードは自分のほうがあるはずなのに、間に合わなかった。
この安倍のゴールが決勝点になり、日本はに2-1と辛勝した。
もっともこの試合、勝敗は二の次。クウェートはサイドを封じられた際の攻め手、
日本は時折見せる若さとそれぞれ課題が浮き彫りになった。
「そっち三人だもん、こっち一人で勝てるわけないよ」
「11対11じゃーん」
元フリエのが旧友たちが無邪気に笑い合い、シドニーでの再戦を誓った。もちろん、今度は100%の力で。
クウェートは予選B組。ナイジェリア、フランス、コロンビアと対戦する。
三日後、仙台での第二戦は2-2のドロー。クウェートは1分け1敗でこのシリーズを終え帰国した。
日本は最終戦、引き分ければドリームネットカップ優勝が決まる。
会場はこれがこけら落としとなる新潟ビッグスワン。
相手はもちろん宿敵、韓国。
国粋主義を貫いてきた韓国だが、ここにきてオランダ人監督を招聘、強化に乗り出す。
無論、日韓共催の決まった2002年ワールドカップに向けて。
予選決勝ではカタールを5-3と派手なスコアで撃破したように、攻撃力の高いチームに生まれ変わっていた。
スタメンはすでに決まっている。小川、大谷、戸田、吉澤、紺野、飯田、石川、アヤカ、松浦、矢口、加護。
紺野を5番、チームの同じ大谷と戸田でサイドを固めた。戸田の左DF起用は6番の飯田との相性を見るため。
懸念の右ウイングは石川を試す。
懸念といえば、どちらを使うか決められないでいるのがゴールキーパーだ。
若いキーパーを使う事への不安は当然ある。韓国もクウェートもGKにオーバーエイジ枠を使っている。
高橋も小川も青い。ユーベやフランスのような格上に見せたようなパフォーマンスを、同等の相手に維持できないところがある。
「シノちゃん」
小湊が信田に一通の茶封筒を手渡した。
「監督さんに渡してくれれば全部分かるから」
自分が直接言えば角が立つ。小湊らしい気遣いだった。
小湊と別れてから、中身を確かめる。ある選手についてのカルテだった。
とりあえず、明日の試合に出られる状態ではないこと。サッカーそのものを続けさせるのも好ましくないと。
握りつぶした。
美和、かませ犬って知ってるか?
ダイヤモンドを研磨するには、ダイヤモンドを使うしかない。
オリンピック、2002年に輝く宝石を磨くため、あいつには捨て石になってもらう。
高橋が物音に薄目を開けると、暗闇の中に黄色い冷蔵庫の光がまぶしかった。
何時だと思ってんだよ…ほふく前進するルームメイトに背中を向ける。
女の子にはありがちだ。食うべきか、食わざるべきか、それが問題だ。辻や加護なら迷わずばくばく食べるだろうが。
「こ…」
うめくほど食べたいんかい。ならとっとと食って早いとこ寝てくれ。
「こ、氷、こおりぃ〜っ」
飛び起きた。
部屋を明るくすると、小川の右脇腹にはまるでリンゴをぶら下げたような腫れが。
「ぶつけたの?」
「いつものことだよ。キーパーやってて、腰がおかしくならないやつのほうがおかしい。てめえだってわかんだろ」
腰痛はGKの宿痾。よほど痛めない限り引退の理由にはならないのだが。
「小湊先生を」
「絶対呼ぶな。呼んだら殺す」
刹那、高橋が吹き出す。
「笑うな」
「だって、その格好で凄まれても」
確かに今の小川はベッドの上にうつ伏せになり、寝間着がわりのジャージをひざまで引き下げた
お尻丸出しの姿で腰に氷のうを当てている。
改めて見れば、小川の背中から腰にかけてのラインにはほとんど肉がなく、あばら骨が木琴のように突出していた。
このむき出しの腰を、越後の冷えきった地表に投げ出していたのか。
高橋も北陸の出だ。日本海特有の厚い雪雲を、降り積もる白魔を割って外の世界に飛び出していった人間だ。
サッカー最大の魅力がゴールシーンにあるのだとすれば、キーパーとはその瞬間を妨害する存在。
「キーパーなんてやるもんじゃねえ」
「生まれ変わったら絶対FW」
けど、もしそんな機会があってもまた自分たちは手袋をはめ、ゴールマウスの前に立つのだろう。
翌日、デーゲームのため午前中に会場入りした日本チーム。
韓国のオーダー表が回ってきて、目を通した平家が
「やられたっ」
オーソドックスな4-4-2、GKにソン・ソニン、MFにリ・アキナ。
オーバーエイジ三人を含め、韓国はベストメンバーを揃えてきた。最終テストを前の試合で終え、今日は勝ちにきたのだ。
オランダ人監督は日本の猿マネ・アヤックスシステムを鼻で笑い飛ばし、こう断言してみせた。
「3-4-3は諸刃の剣だ。使い方を誤ればたちまち自らの首を絞めることになる。今日、それをお目にかけよう」
韓国五輪代表主将リ・アキナは吉澤の元同僚、右アキレス腱断絶の重傷を乗り越え、現在は英エバートンに移籍。
リバプールとのダービーマッチでの飯田との戦いは「トムとジェリー」と呼ばれ、一つの華になっている。
対戦成績は、どちらがネコでどちらがネズミかで推して知るべし。
国籍の違う者との友情は、代表の仲間とはまた違う。吉澤とアキナの試合前の握手にも力が入る。
試合開始直後、センターサークル付近から放った矢口のシュートが日本で育ったソン・ソニンの守るゴールの右へ大きく外れた。
日韓戦は、日韓戦だけは他の試合とは別物だ。
こいつのほうがうるさくなくっていいや。今日コンビを組む紺野に対する小川の感想。腰のほうはあまりよくなってない。
韓国といえば3バック、しかもコテコテのマンツーマンが定番だが今日はゾーン、フラット4。
予選終了後に取り入れた戦術だそうだが若い選手たちはまずまずの手ごたえを感じているようだ。
韓国は二年前の予選で日本を苦しめたアキナがトップ下に、
ファン・アミゴが引退したFWにはアキナらとずっとサッカーをやってきたストライカー、チェ・ダイチ。
センターバックにカン・ジョー。ソニンを含めたこの三人がオーバーエイジ。
戸田が飯田を追い越していく。そこに飯田からのパスが出る。戸田が右にはたく。加護へ。加護から矢口を経由して、石川。
石川がクロスを上げた。この位置まで上がっていた吉澤が松浦に落とす。ワントラップして韓国DFジョーをかわす。シュート。
ソニンが倒れながら胸でキャッチ。
飯田が左サイドにいると、戸田や加護の動きも違ってくる。
安倍という手本を目の当たりにして、ダイレクトシュート一辺倒だった松浦もプレーに厚みが出てきた。
オーバーエージ、誰を連れて行くか。それもこの試合で決めなくてはならない。
GKソニン、一気に縦へ。韓国A代表ではFWをつとめることもある元コリアンジャパニーズ、
その足で蹴り上げたボールをアキナが吉澤に競り勝ち、紺野の裏へ柔らかく落とす。
W杯予選を兵役で棒に振った韓国FWダイチ、今回に賭ける思いは強い。
その足元に、スライディング。派手に転ぶダイチ。
立ち上がりざま、長い髪を振り乱して、叫ぶ。
「吉澤、簡単に抜かれるな!」
A代表キャプテンが、オリンピックのキャプテンにカツを入れた。
狙い通り。韓国は日本を研究し尽くしてきた。
攻撃的でサイドアタック、縦の関係を重視した3-4-3にはカウンターが効果的。それも横に揺さぶるとガタガタに崩される。
サイドを突くためのシステムがサイド攻撃に弱いというパラドクス。
韓国はDFが深く守り、サイドもまるで攻め上がらない。
ウイングを置くチームにコーナー付近のスペースを与えるほど無謀なことはない。
同じサイドからのボールでも、ゴールから遠ければいくらでも対処できる。
日本よ、攻めるのもいいが少しは現実を見たらどうだ。
世界はそう簡単にはチャンスをくれんぞ。
3-4-3がハイリスク? 分かりきっている。
大事なのは点を取られないことじゃなくて勝つことだ。同じ勝つなら、楽しいサッカーで勝つほうがいい。
アジアの力をみくびんな。
薄い守りでも耐え抜けるGKにDF、攻め勝つだけの力を有したMFやFWが揃ったチームだ。
これだけの才能が肩を並べるチームでつまらんサッカーなんがしてみろ、バチが当たる。
韓国が堅い守りをベースにしたチームを作った意図はよく分かる。それだけ粘り強い人材に恵まれている。
それはそれで尊重するが、自分は組織を、個性を生かせない言い訳にはしない。
ボールを持つのは日本、試合の主導権は韓国。
前半44分。右からのクロス。
「OK!」
小川が飛び出した。交錯したのは、なんと紺野。クリアしきれなかったボールがアキナの足元へ。キーパー、手を伸ばす。肱をかすめ、勢いを失ったボールが無人のゴールへ。
全速力で追う人影。
「紺野!」
爪先に感触あり。ふわりとした軌跡をたどって、天井ネットに乗った。
心臓に悪いぜ…小川がへなへなとなりかかった時、思い出したように鈍痛が響いた。
やばい…顔が青ざめる。思わず腰に手を当てた。
ロスタイム。韓国のコーナーキック。
「ぜ…全員戻れ!」
声がかすれる。嫌な心音が止まらない。
頼む。今日だけはもってくれ。今日結果を出さなければシドニーはないんだ。
「紺野、15つけ!」
最終ラインから上がってきたカン・ジョーはやや太目のパワーあふれるディフェンダー。
アキナのコーナー。そのジョーに合わせて、曲げてきた。
最初の一歩で激痛が走った。飛び出しに鋭さがない。
ぼよよ〜ん。
肩を張り、腕ではね飛ばそうとしたジョーのほうが派手に尻餅。
紺野のヘッド、ノーバウンドでタッチを割った。
「後半、やめたほうがいいよ」
ハーフタイム、濡れタオルで腰を冷やしていた小川に声をかけた紺野。
「そっか。あんた医者の卵だってな」
「獣医だけど」
「医者は嫌いだ」
「そんなこと言って…もしオリンピックがダメでも」
「あたしはあんたらとは違う!」
濡れタオルが紺野の胸を叩いて落ちた。
「あたしは、これが最後なんだ…あんたらはそうだろう。オリンピックなんて通過点としか考えてねえだろ。
2002年、06年、10年…あたしの体は、とてもそこまでもっちゃくれない。壊れかけなのを、だましだましやってくしかねえんだよ!」
何度自分の病弱さを呪ったろう。言う事を聞いてくれないこの身がどれだけ悔しかったか。
「自分が信じらんねえ。なんでこんな簡単なこともできねえのか、これだけ努力したのにどうして結果が出ねえのか。
結局、最後は自分自身に行き着くんだ」
絞り出すような悲鳴が紺野の胸を突く。
「才能はねえ、体も弱い、それでも勝ち続けていくしかないんだ」
強迫観念。小川のエキセントリックな性格はこんなところから生まれているのかも、紺野は思う。
「…分かった、出なよ」
小川に顔を上げさせる。
「でも、飛ぶ必要はない。なくしてみせるから」
チェ・ダイチのシュートは小川の正面。紺野がうまくシュートコースを限定してくれるお陰で、小川は後半まだ一つもダイブしていない。
無理はせず、右DFに下がったアヤカにスローする。
後半、大谷に変わって辻が入った。辻が7番に入り石川、アヤカが一列ずつ下がった形だ。
アヤカは中盤でも最終ラインでも頼もしい働きをしてくれ、平家にとってはこれほど有り難い選手はいない。
辻にはこれがラストチャンス。もしこの使い方で結果を出せなければ、シドニーへは連れて行けない。
本人もそれを知っていて、猛烈な勢いでゴールへ迫る。倒された。
フリーキックだ。ソニンが壁を作り、石川柴田矢口が右45度のボールの前に集う。
旗色は悪い。DFの踏ん張りでなんとか無失点で切り抜けてはいるが、そろそろ限界だ。
後半左DFに入った柴田が食い入るようにしてゴールを見つめる。
「柴田、蹴りたいか」
「はい。とても」
珍しく明確な意思表示をしてみせた。
壁は石川を警戒して右寄り。その石川がボールをセット。
柴田が蹴ったボールは壁の右を越える。そのままだと枠を外れるボールが小さく、左へ曲がる。アウトフロント。GKの初動作が遅れた。
「どうだっ」
先制点は、伏兵、柴田あゆみ。
守りのチームが先制されたで。さ、どないする韓国?
平家が攻撃サッカーを信奉する理由の一つがこれだ。
攻めのチームはまた打たれ強い。取られても取り返す。
韓国がミドル、ロングレンジからシュートの雨を降らせる。
紺野が叩き落とす。足で胸で頭で。
「くっ」
攻めあぐねる韓国、アキナを吉澤の長い足が襲う。奪った。
しまった。吉澤のドリブルにアキナが食らいつく。シュート。ジョーが大きく弾く。
落下地点に飯田。チップキック。韓国DFの頭上を越えるボールの落ち際を松浦が左でぶっ叩く。
韓国GKソニンの脇の下を鋭く抜き去った。
どうしたんだ、韓国。まるで手ごたえを感じないぞ。
セットプレーとカウンターとはいえ、あまりにあっさり得点を許し過ぎる。アジアの虎の面影は感じられない。
ピッチの端でオランダ語が甲高く響く。人間関係の問題なのか。
と思ったら、きた。
DFのジョーを前線に。これで日本と同じ3-4-3。
「吉澤!」
吉澤を最終ラインに組み込み、加護と辻をやや引き気味に。日本は4-5-1でボールを拾いにいく。
アキナのマークは石川が受け持った。
早めにジョーに合わせ、アキナが飛び込む。小川のパンチ。腰を強打。
そうだ、こうでなきゃ面白くねえ。
ハイボール責め。荒あらしく単純なれど、球際に強い韓国選手のそれは時に緻密なサッカーを打ち崩すほどの破壊力を持つ。
アキナのキープ力に石川が振り回される。矢口、飯田がフォローにくるとその裏を狙う。
サイドDFをかわし、センタリング。吉澤と紺野が再三空中戦に駆り出される。
飯田が自らの判断で下がってきた。長身を活かし、クロスをはね返す。
めっきり忙しくなった小川も拳を固めてゴールを空ける。
脇腹に、ジョーのひざが入った。つかみかけたボールをこぼしてしまう。ダイチの足元に。笛は鳴らされなかった。
「小川ちゃん」
腰痛と失点、ダブルショックに打ちのめされる小川に紺野が駆け寄る。
「今の、GKチャージじゃない?」
「紺野、もうキーパーチャージって反則はないんだよ」
小川の激しくFWに当たりにいくセービングのスタイルは、
キーパーが特別なルールによって保護されるという前提があって初めて成り立つものだった。
だが日々11人目のフィールドプレーヤーと化していく現代のGK、その特権がついに剥奪された。
かといって、長年培ってきたスタイルが簡単に変えられるはずもない。
小川が笑う。やっぱりあたしは消え去る運命にあるんだな。
残り20分。小川にとっては地獄のような時間が始まる。
ダイチのシュートに半身で飛び出す。ボールがみぞおちをえぐる。
左からのクロスを右手ではたき落とし、そのまま蹴り出す。
ワンプレーのたび腰にかかる負荷が増大していく。
シドニーまではもってくれ。あとはどうでもいい。
小川のサッカー道はオリンピックから先が滝のようになっている。
右クロス。ジョー、フリーで飛ぶ。小川も出かける。
旗が上がる。笛が鳴る。オフサイド。吉澤と紺野、鮮やかな連携だった。
試合が止まる。日本に選手交代が。
加護亜依、アウト。保田圭、イン。
「吉澤、中盤に戻って10(アキナ)のマーク。石川、加護の位置に。15(ジョー)はあたしが見る」
「姉ちゃん」
すがるような小川に保田が小声で
「マコト、腰痛いんだろ?」
「う、うん」
「なんでもないって顔してろ。腰が引けてたら、それだけで狙い撃ちされるぞ」
相変わらずの怖さだ。それでもずいぶん気持ちが楽になった小川。
一緒にサッカーをすること自体何年ぶりだろう。
それがまさか、こんな形で同じチームになるなんて。
「クリア!」
保田のヘッドが派手に打ち上がった。
やはり保田がいるとバック全体の安定ぶりが違う。小川も安心して任せている感じがする。
だが最終ラインも飯田、矢口が中盤を引き締めているからこそ相手の手の内を限定できる。
かといって今日はベンチにいる安倍の決定力は無視できない。
この四人に後藤を含めた五人がこのチームでは頭抜けた力を持っている。
四人のうち一人をふるい落とさなければいけない。
もしこの場に前と中盤をこなせる福田がいれば、安倍か矢口を外してもプラマイゼロなのだが。
U23の枠は平家の中で固まった。あとは手持ちの四枚のクイーン、どれを切るかのみ。
再びアキナにピタッとくっついた吉澤。U17からのライバルも選手としての最盛期を迎えようとしている。
韓国人には珍しい柔らかいボールタッチに加え、随分パワフルになった。どこか英国の香を漂わせるのは、辺り構わずぶつかっていくのではなく、ここぞという局面で居合抜きのようにギラリとした一撃を見舞にいくところか。
もちろん吉澤も昔のままではない。ダイナミックな守備に加え精神的な落ち着きが出てきた。
アキナの突進を吉澤、体で阻む。もつれて倒れる二人。
「アキちゃん!」
先に起き上がった吉澤の背に冷たいものが駆け巡った。
「痛いなあ、このバカ力」
アキナが日本語でそう言い、吉澤の足を軽く叩くとほっと胸を撫で下す吉澤。
だがPKだ。倒されたアキナがそのままボールを抱えてスポットへと向かう。
キーパーは小川。黄色いGKジャージの袖を七分にまくり上げ、11メーター先からのキックに備える。
飛んだ方向は合っていたが、アキナのシュートが速かった。
韓国、同点。タイスコアに持ち込んだキッカーが同胞たちに軽くガッツポーズを向けた。
「今のはしょうがないよ。ほら、始めるよ」
保田がうなだれた小川を励ました。
「のの!」
加護が松浦のつむじを仰ぎ見るロビングを上げる。辻のランニングボレーはGKのパンチングに遭う。
2-2のまますでにロスタイムは3分を超えた。
石川が手早くショートコーナー、受けた矢口が出しどころに悩む。
突如、まだゴールには遠い、誰もいない個所に転がした。
溶けかかったバターのような黄色が、それを韓国の喉もとをかっ切るナイフに仕上げた。
赤いユニフォームの誰か――アキナだった――の額をかすめ、外に出ると悔やむ間も惜しんで背中を向けたが、
長い笛が吹かれるとその場に座り込む。
小川は故郷に錦を飾れなかった。
なんとかこのシリーズを優勝で飾った日本、アウェーで2点差を覆した韓国。最低限の面目は保てた。
肩書を捨て、親友に戻った吉澤とアキナが静かに笑みを交わす。
決勝トーナメントでの再戦を誓いあい、ユニフォームを交換した。
韓国はグループA。相手国はアメリカ、イタリア、モロッコと堅守を誇るチームが揃いぶみだ。
そして日本は、メンバー決定前の全日程を終了した。
あとは出発前、ナイジェリア五輪チームとの壮行試合を残すのみ。テストはすべて終わった。
九月の第一日曜日。
習志野市民競技場に、昨日クラブでの五輪前最終戦を終えた高橋の姿があった。
天皇杯千葉県予選決勝。市立船橋高等学校対私立順天堂大学。
誘われたわけじゃない。ただどんなサッカーをしているのか興味があった。車窓からディズニーランドが見えたのに驚いた。
エンジと青のストライプが順天堂大学。うち一人だけグレーのGKジャージに身を包んだ背番号1。
日差しが強く、あまり肌をさらしたくない高橋はサングラスの上に日傘まで差す。
「あの、サインもらえますか?」
声に振り向くと、ピースサインをした保田がいた。
「ま、一応母校の試合ですから」
保田はすでにドイツの居を引き払っていた。海外組も欧州組は帰国、矢口と石川も地球の向こう側でもう一試合を戦ったらフライトする。
高橋も保田にはいろいろ聞いてみたいことがあるのだ。なぜあれだけ動けるのに現役をあきらめるのか、
そしてなぜ指導者としてのスタートを日本で切るのか。
「小川さんて子供の頃どんな子だったんですか?」
「うーん…子供の頃あいつの実家に帰省するくらいしか会う機会がなかったし、
あたしがイチフナに入って休みのない生活になってからそれもなくなったからなあ」
だからどうして従妹があんなふうになってしまったのか、それを一番知りたかったのは実は保田だったのだ。
新潟の試合前、小川は試合のチケットを四枚手配してくれと頼んでいる。宛先は新潟県柏崎市、しかし実家の住所ではなかった。
保田はそれを控えた。
小川には内証で連絡を取り、試合の翌日会うことに。平家もオーバーエイジに関してはうるさく言わず、それを許した。
JR柏崎駅に下り立つと潮の香りに出迎えられ、子供の日の思い出を呼び起こされた。
待ち合わせは駅近くのファミレス、近くの小汚いパチンコ屋で約束の時間まで暇をつぶした。
危うくコーヒー代までスッてしまいそうになるほど負けてからファミレスを訪れると、お目当ての四人とおぼしき一団が手を振っていた。
類は友を呼ぶ。どんな連中かを見れば、小川がどんな子だったが分かりそうなものだ。
が、ヤンママ風あり、お嬢様女子大生風あり、その個性はてんでばらばら。
「わあ、マコにそっくりだ」
「小川ちゃん、いつも保田さんのこと自慢してたっすよ」
四人は柏崎景虎高校時代の小川の同級生だった。
ただこの学校は小川たちの代で廃校になり、跡地には郊外型の大きなスーパーが建ってしまっているという。
「スケバン、かな」
高校時代の小川がどんな子かを尋ねられて、バックパッカー風の一人がそう答えた。
「特別悪かったってわけじゃなくて、まあ酒タバコはやってたけど」
そういえばバラバラな全員の前に灰皿が並んでいる。
「生従会長だったし、バカ学校だったけど成績トップだったし、かわいかったから」
「うちら、一度はみんなマコちんの世話になってますよ」
「サッカー部は強かった?」
保田が尋ねる。
「ていうか、ねえ」
「うちらの代で廃校決まったんで、下級生が入って来なくて運動部、どこも寄せ集めになっちゃったんですよね」
小川もいろんな部活に駆り出されたという。硬式野球、バレーボール、バスケット、ラグビー、剣道団体戦…
「センターが好きだったよね」
「剣道でも大将じゃなくて中堅だったしね」
「バスケも自分より背の高い子がいるのにセンター」
「負けると大泣きするのな」
「助っ人が一番泣いてどうするってな」
彼女たちの話と今の小川とが重なるのはその辺りだけだ。
同じゴンタでも皆の中心にいるガキ大将と一匹狼。
その締めくくりが高校サッカー選手権。就職試験や入試に追われる級友をかき集めて臨んだ。彼女たちがそのうち四人だった。
4-20、6-28、3-39…長岡にある短大の保育科に通うという彼女が持ってきたスコアボード、そこに記されていたシュート数。
そしてスコアはどれも1-0。
「うちらみんな違う部だったんです。バレー、ソフト、競泳、茶道」
寄せ集めに高い戦術理解を求めるだけ無謀。抜かせるな、カバーを忘れるな、ペナの中で倒すな。
サッカー部主将、いや、唯一の部員小川はそれしか言わなかった。
相手が攻め疲れ、守りにまで気が回らなくなったところで得意の遠投。
ハーフラインに立つ二人、短距離の選手と野球部の1番打者がそれをなんとか決めれば試合は終わった。
強豪ひしめく静岡や千葉では有り得ないこと、新潟という地域だからこそ起こった奇跡だった。
スクラップブックに閉じられたローカル誌の集合写真はちょうど11人。
黄色と黒の縦縞、ダメ虎高とまで呼ばれた出ちゃ負けチームにはタイガー軍団という勇ましい見出しがついていた。
その中心に座る、一人だけ白いユニフォームをまとったGKは、五輪チームでは一度も見せたことがない明るい笑顔を、
まだ幼さの残る顔いっぱいに浮かべていた。
「あの声を聞くと、どんなに辛くても頑張れたんですよ。不思議と」
他の三人も口を揃えた。
口だけではない、プレーも素晴らしかった。
「マコに触れないシュートなんかなかったですよ。韓国戦見てて驚きましたもん、マコでも点取られることあるんだって」
多分それは技術の問題ではない。
この試合を落とせばチームは終わる。さらに学校そのものが、三年間の思い出の地がなくなってしまう。
自然、その集中力は極限近くにまで研ぎ澄まされただろう。
夢を、少しでも長く見続けるために。
「小川ちゃん、国体の県選抜も断ったんです。選ばれてたら大学の推薦の話もあったのに」
栄誉よりも、仲間たちとの限られた時間を、選んだ。
彼女らの言葉を借りるなら、気がつくとベスト4までたどり着いていた。相手は新潟工業。奇襲もごまかしもきかない、本当の強豪だ。
「マコが言うには、町の剣道場に通って三日目の小学生が宮本武蔵と試合するようなもんだって。
でも負けない方法が一つだけある、それは逃げることだって」
その言葉通り、勝負はあきらめたタイガー軍団。キックオフと同時に全員でゴール前を固めた。
体を張って猛攻を凌ぎ、スローイン一つにもたっぷり時間をかける。
武蔵の刀をひたすらかわしまくった。
シュート数、実に0対50。しかしネットは一度も揺れなかった。
「PK戦は自信あったす。小川が練習台でしたから」
その言葉通り順調に決め続けた柏崎景虎。しかし新潟工も小川のセーブをあと一歩のところでかわしてくる。
運命を決めた、新潟工の四人目。
小川が右にワンフェイク入れる。見事につられたキッカー、小川の左手がはたき落とすと絶叫が上がったという。
「そしたら蹴り直し。確かに動くの早かったかもしれないけどそれが初めてでもなかったし向こうのキーパーだって早かったのに。
マコがガクッてなる音が聞こえた気がしました」
自ら蹴ったPKで敗北を決めた小川、その場にうずくまり動けなかった。
奇しくも目の前でもPK戦が行われていた。
順大五人目がきっちり役割を果たすとセンターサークルに陣取った赤と青が爆発し、白が沈んだ。
奇妙なことに全員がキッカーの元に駆け寄り、PK戦の主役であるキーパーには駆け寄って行かない。
確かに小川は一本も止めていない。大学生相手に善戦した保田の後輩が足を吊らせて失敗しただけだ。
だがそれとこれとは無関係。勝者とも敗者ともつかぬ淡々とした表情で引き上げる小川、高橋は残暑の蒸し暑さを忘れかけた。
表彰式でも様子の変わらない小川だったがスタンドに二人を認め、やっと歯を見せた。
「打ち上げあるんじゃないの?」
「あたしがいなくても勝手に始めるさ」
「大学に友達いないの?」
「先輩連中に、コーチングなのに呼び捨てされて根に持つやつとかいるんだ。そんな奴らと慣れあったらサッカーにならん」
ディズニーランドのついでに受験した順大に進んだ小川はしばらくの間地元の友達に水まずい、米まずい、
新潟帰りたいと毎晩のように電話していたという。
アルビレックスユースの試験でGK二人を殴った噂も、強風で倒れたゴールに二人が下敷きになり、
怖くて逃げ出したのが事実だと聞かされた。
虚実入り交じる小川の姿。
なにより心に残ったのは、最後に尋ねられた疑問。
「雑誌で読んだんですけど、マコがトラブルメーカーになってチームの和を乱してるって。嘘ですよね。
あいつを嫌いになる人間なんかいるはずない、嫌われようがないですもん」
保田はにっこり笑って嘘をついた。親友そっくりの笑顔に四人は訳もなくだまされた。
保田は気づいてしまったのだ。
小川は身一つではない。恐らくこの海沿いの小さな町で名もなく一生を終えるであろう彼女たちの、たった一つの夢であり希望なのだと。
ベートーベンの第九交響曲が電子音で流れ、高橋がバッグからあわてて携帯電話を取り出した。
電話の向こうから聞こえたのはまさに歓びの歌。
「18人入り、決定です」
そうなのだ。今日シドニー五輪メンバーの内定が出るという噂があり、
落ち着かなかった高橋は千葉までライバルの顔を見に来たわけだ。
それにしても、飛び上がらんばかりの高橋の喜びようは少し奇妙だ。
嬉しいのは分かるが彼女はメンバー入りは確実視されていた。むしろ安堵の表情がふさわしいのに、
予期せぬ幸運に巡り会ったかのようだ。保田と小川がいぶかしがる。
次に「静かな日々の階段を」が流れると、その疑問は氷解した。
「18だそうです、背番号」
小川が電話を切る。
そうなのだ。つまり高橋に与えられたのはナンバー1。正ゴールキーパー争いで一歩リードしたことになる。
「別に何番でもいいや。それに18はけっこう好きだし。イチがバチかってね」
それはまんざら虚勢でもなさそうだった。勝負はゲタをはくまで分からない――小川はユニバーシアード代表で試合前日にレギュラーを奪った女である。
なかなか三本目の着メロが鳴らない。むしろ高橋と小川がやきもきする。
やっと鳴ったのはダースベーダーのテーマ。
「見事な三段オチ」
緊張から解放された小川が軽口を叩く。
が、電話がやけに長い。二人の時は決まった、背番号いくつ、だけだったのに。
ようやく電話を切った従姉の顔で小川は全て悟り、吐き捨てた。
「見る目ねえな、あいつ」
「自分を選んだ人にそんなことを言うな。監督は初めからそのつもりだったらしいし、あたしもこれでよし」
「え?」
高橋の疑問も解けた。
「2002年を日本代表監督として迎える、その足がかりだ」
「おっ、みんな元気そうやな」
寺田光男はかつて日本代表を率いて戦った「賭博師」の異名を取る名将。
その時のメンバーの大多数が今なお代表に止まっているのを考えればその目の確かさが分かる。
「元気だけが取り得なんで」
矢口も笑う。毀誉褒貶とはこの男の為にあるような言葉だが彼以上にインパクトを与える指導者にいまだ会ってないし、
すべてをひっくるめて尊敬に値する人だと思っている。
だが今日からしばらくは敵だ。彼の今の肩書はナイジェリア五輪代表監督、埼玉スタジアムでこれから行われる壮行試合の敵将だ。
「そういえばな」
この男、いちいちもったいつけて話すところがある。
「アルゼンチンで合宿張ったんや。中澤や市井に会うてきたで」
市井紗耶香――もっともそう彼女を呼ぶのは今では日本人だけになってしまった。
アルゼンチン名をファーストネームに頂くチャム・サヤカ・イチイ、アルゼンチン五輪代表のエースの名である。
「サヤカ元気でした?」
「あ、うん、まあな」
なぜか歯切れが悪い。
アフリカのチームがオセアニアの大会の為に南米でキャンプを張るなんて賢いやり方ではない。
彼なりに行方知れずの愛弟子を心配しているのだろう。
「寺田さん」
「平家、まさかおまえとこんな形で顔合わすなんてな」
彼の誘いを彼女は断った。そこから彼のチームと彼女の運命は微妙に狂い始めたのだ。
寺田にとっても今回は日本代表監督辞任後ツキをなくしてしまった彼にきた久びさの大仕事、気合が入る。
そんな彼が率いるナイジェリアはグループC、ブラジル、豪州、ルーマニアが。なんといってもブラジル。
「大したことない。あんな弱いカナリア見たことあらへん」
勝算はありそうだ。
「それより今日、おもろいことやんねんて?」
「はい。オールスターチームで行こうかなと」
「これより、青のユニフォーム、日本五輪代表スターティングメンバーを発表いたします」
どの試合でもある風景。ただしここからが違っていた。
「ナンバー5、センターバック、後藤真希」
左腕に黄色いマークを巻いた後藤がピッチに飛び出す。
「ナンバー4、ディフェンシブハーフ、吉澤ひとみ。ナンバー11、レフトウイング、加護亜依」
二人が肩を並べて出て行く。
この試合は全世界に放映されている。ただし注目されているのは優勝候補ナイジェリアのほう。
わざわざ手の内をさらすことはない、ファン投票で選ばれた順にスタメンを組んだ。
「ナンバー14、オフェンシブハーフ、石川梨華」
石川は自らその背番号を選んだ。14は石川が初めてA代表に入った時と同じ、そしてクライフと同じ。
「ナンバー8、ライトハーフ、矢口真里」
狂気の145センチ、オーバーエイジでは最多得票。
「ナンバー6、レフトハーフ、柴田あゆみ。ナンバー7、センターフォワード、安倍なつみ」
緊張する柴田の手をベテラン安倍が握っての入場。柴田はA代表未経験者としては段トツの得票をゲット。
「ナンバー10、レフトバック、保田圭。ナンバー22、ライトウイング、辻希美」
予想外の二人が姿を現した。
飯田を不運が襲ったのは二日前。
ダッシュの時ももにブチッという音が走り、その場にうずくまった。
その瞬間、コーチ兼オーバーエイジの補欠だった保田は一人の選手に戻った。
それでも「昨日に戻りたい」とさめざめ泣く飯田を見れば、とても素直には喜べなかった。
さて、平家が飯田に用意した背番号は「10」だった。保田は飯田の代わりとしてエントリーされるのだから背番号も受け継ぐはず。
しかし保田はDFの選手、しかもストッパー。10は本人も嫌がった。
そこで白羽の矢が立ったのが柴田。喜んで受けたが、今日は間に合わず10は保田の背に。
昨夜矢口はトレーニングルームからぺちぺちという間の抜けた音が聞こえるのに気づいた。
見れば加護が吉澤のサンドバッグを屁っぴり腰で叩いている。
「…あんなやつ、もう知らんわ。こっちから絶交したんねん」
辻はバレーボール全日本入りする。スーパーサブよりも、常時試合に出られる環境を選んだ。
矢口の苦笑が加護の気に触る。
「なにがおかしいんですか」
「今まであんたがガキの辻をお守りしてんのかと思ってたけど、あんたもガキだねー」
蜂も蜜のない花には止まらない。より多くの出番を求めるのはアスリートとして当然だろう。
辻は自分が精神的に幼いのをよく分かっている。つまり無知の知。
早く大人にならなければ――その思いが居心地のよい場所を捨てさせた。
今の辻にスタメンは保障できない。平家は辻の決意を尊重し、その上で椅子を一つ用意した。
この大会、正規の十八人にアクシデントが起こった際、
そこから選手の補充ができるバックアッププレーヤーが四人まで登録可能なのだ。
平家は辻をその一人に選んだ。いつでも帰って来られるようにと。
だから今日の試合、辻にとっては仲間とのしばしの別れの試合となる。
「ナンバー13、ライトバック、紺野あさ美。ナンバー18、ゴールキーパー、小川麻琴」
最後に最終予選終了後に選ばれた二人が。ウズベキスタンとの予選決勝を日本で見ていた時は、
とてもこんな事態は考えていなかった。
こうなりたいとは思っていたが、なれるとは思っていなかった。
「続いてサブの選手。1番、高橋愛。9番、松浦亜弥。15番、戸田鈴音。17番、木村アヤカ。2番、大谷雅恵。3番ミカ・トッド。16番、木村麻美。20番、斎藤瞳。21番、新垣里沙。19番、村田めぐみ」
そして、最後に
「12番、福田明日香」
その夜平家は机に突っ伏すようにしてメンバーの絞り込みに入っていた。
選ぶ作業は同時に誰かを切り捨てる作業。胃薬は手放せない。
足りないのはFWだ。バックアップまで含め6人は欲しい。しかし使えそうなのは安倍、加護、松浦、木村アヤカのみ。
辻が使えないのは自分の失態、自責の念が込み上げる。
電話が鳴った。今が午前4時であることに気づく。
受話器を上げると
「みっちゃん!」
「…裕ちゃん?」
「明日香な、見つかったで!」
「ほんま?!」
「あの飛行機事故に遭った日本人の女の子がおる病院が分かったんや。今から確認行くわ!」
それから続報は入っていない。それでも平家は中澤を信じ、最後のFWの欄に福田の名を記した。
今日も日本ベンチでは、FUKUDAと記された12番のユニフォームが、主人の帰りを静かに待ちわびている。
試合はナイジェリア・ハタケチクの左右両足のシュートで2点先制。
日本は柴田、石川のFK競演で追いつくと加護が倒されて得たPKを後藤が決め逆転に成功して前半終了。
後半ナイジェリアが猛攻、18分から25分、マコチャ、シュアシュア、タイセーが立て続けにGK高橋を破る。終了間際松浦が一矢報いるがここまで。
4-5、お祭りらしいスコアが残った。
「カオリってどうしてこう運がないんだろ…」
空港まで見送りに来た飯田がぼやく。
幸い怪我は軽く、日常生活には支障がないし、もうすぐボールも蹴れるようになる。
「ま、お土産楽しみにね」
「矢口、他人ごとだと思ってあんた」
平家はそれでも飯田をシドニーへ連れて行こうとした。コーチの枠がまだ一つ空いている。
飯田はそれを断った。気持ちの整理がついてなかったし、現役選手としてのこだわりもあった。
白は自らを主張しない。ぶつかりもせず、美しく溶け合って新たな色を生み出す。
飯田の白は、五輪チーム全体に染み渡っていた。
もう一人、辻希美も見送りに来ていた。バレーボールチームの出発は明後日だ。
「あんたが自分で決めたんだから、しっかりやんなよ」
安倍の言葉に黙って深くうなずく辻。加護はこの日、一度も辻と視線を合わせなかった。
時間が来た。チャーター機がゆっくりと純白の機体を揺り動かすのが飯田にも見えた。
悔しい。やっぱり悔しい。
その思いを飲み込み、ゆっくりと角度をつける翼に向かって力一杯叫んだ。
「負けんじゃねーぞ!」