サッカー小説完結編「歓喜の145センチ」
第三部・Time of Blue
「芸術は、悲しみと苦悩から生まれる」(パブロ・ピカソ)
今から約百年前、友人を伴ってバルセロナからパリに移り住んだピカソはロートレックに衝撃を受け、大都会の享楽的な空気に溺れた。
だが友人が恋人との関係がこじれ、精神を病んでしまう。ピカソは彼を伴いスペインへと戻るが、友人はパリへ戻り自ら命を絶ってしまう。
自身もパリへ戻り、友人の借りていたアパートの一室で、来る日も来る日も描き続けた若き日のピカソ。
その絵には、それまでとは明らかな変化が起こっていた。
ウルトラメール・フォンセ。ブルー・アズール。ブルー・ド・プルス。ブルー・ド・コバルト。
青年ピカソは青という青を生み出し、これでもかとばかりにカンバスに叩きつけた。
ピカソにとって青は闇の色。深い青は、限りなく黒に近い。
そして、信じられない行為を。
友人が自ら生を絶った原因である恋人を、その手に抱いたのだ。
罪悪と絶望の青にピカソが見たのは、自らの深淵。生と死。
その時期に描かれた自画像には青の背景に、こけた頬、鋭い眼差し、二十歳の青年とは思えない青白い顔の苦悩する一人の男の姿がある。
バルセロナに戻っても、ピカソはその青で最下層の人々を描き続ける。
友人の死、その恋人の聖と俗、そして自らの弱さと愚かさとを消化し、昇華させた『LA
VIE』へとたどり着く。
闇に怯え、光に背を向け、ようやく青の呪縛から解放されるまでの三年間。
俗に言う、ピカソ、青の時代である。
青春・朱夏・白秋・玄冬。
青春という言葉は人の一生を四分割させた中国古来の哲理、五行から来ている。
青は東の色、春の色。
洋の東西問わず、青とは若さの象徴である。
若さとは迷いと苦しみの時。
だがこの青を越えねば盛りの時、実りの時も訪れない。
サッカーが芸術であるのなら、幾多の悲しみ、苦しみとを踏み越えてこそ成熟の時を迎える。
さあ、うら若き青のイレブン、日本五輪代表。
戦え。開拓者の地にその名を刻め。
始めよ、黎明の空のごとき青の時代を。
「お、出てきた」
スタンドの石川がラクダ色のコートのえりを立てる。9月の豪州は早春にあたり、漆黒の夜空の下はまだ肌寒い。
キャンベラ・ブルーススタジアム。
アンセムに乗って緑のピッチを進むフェアプレーフラッグの黄色、審判団のグレー、そして二列の帯、緑と青。
青の列、日本代表。先頭をゆく4番の左腕に真っ赤なキャプテンマーク。必勝を期して伸ばした髪は目指すメダルと同じ金色に輝く。
その背中に続く5、11、8、17、3、7、9、2、10。最後に山吹色の18。
最後の最後までもつれた正守護神争いを制したのは、小川麻琴だった。
高橋はベンチに座って入場行進を見ていた。
眼鏡をかけた平家監督がいる。その隣に信田。ともに表情は堅い。
逆に後半のその時を待つ保田はリラックスしている。その隣に木村麻美、戸田、村田、斎藤の順。
そして平家が最後の最後まで待ち、ベンチ入りの七人に加えた12番のユニフォーム。
今日は9月14日、豪州の真上にある日本も当然9月14日。
高橋は自らの転機が誕生日に訪れるジンクスを知っていた。だからこの試合に出られるのは自分、そう信じて疑わなかった。
だが今回、バースデーマジックは届かなかった。呪われたゴールキーパーの前に。
「石川さん」
新垣がホットコーヒーを買ってきた。さすがオージーサイズ、でかい。
それ以上にでかいのは新垣のショックではないだろうか。
アジア予選最終戦で退場処分、この試合に出られない石川。バレーボールチームに合流、シドニーにいる辻にはベンチ入りできない理由がある。
新垣里沙にはそれがない。サードキーパーの村田めぐみや、ここにいさえしない福田明日香がサブメンバーに名を連ねているというのに。
泣きたくなる自分に新垣は問いかける。今は人生で一番辛い時?
安っぽい涙など流してはいけない、そうやってしつけられてきた。
だがもっと大きなショックを受けているであろう紺野あさ美は、今この場にいない。
昨日の練習後、新垣と同室のホテル。紺野はナイフでスパイクの泥をこそげ落としていた。別段珍しい光景ではなく、新垣はベッドに座って英語のポケモンを見ていた。
「あっ」
そんな大事とは夢にも思わず、そちらを見た新垣は失神しかけた。
紺野が足元に広げた英字新聞がおびただしい朱に染まっていたのだ。
へばりついた泥を落とそうと知らずに力が入り過ぎ、滑ったナイフの先端が右足を通過したのだった。傷口がピンク色だったのを思い出すと今でも寒気が走る。
病院へ直行、12針を縫う。十日間の安静。トップコンディションに戻るまでになお十日として、紺野のオリンピック出場は絶望となった。平家の評価は高まるばかりで、右サイドバックのポジションをつかみかけた矢先だったのに。
それでも皆、幸運だったねと口を揃えたものだ。
紺野が自らを傷つけたのは右膝上6センチ上。一歩間違えたら選手生命の危機なんてこともありえたのだから。
だが当の本人にそんな気休めが届くわけもない。紺野はベッドにこもり、食事にもまるで手をつけていない。
せめて紺野に勝利を――皮肉にもチームは一層団結した。
緑を基調にしたユニフォーム、カメルーン。
ツートップは安倍のチームメート、パトリック・シャクボマと顔に張りついたような笑みが不敵なフランシス・カズキ・エナリ。
DFリーダーはアフリカのキャプテンと呼ばれるステファン・イカリヤ、GKはジョセフ・カトチャーン・ペッのオーバーエージ。さらに切り札とも言えるもう一人。
「あいつですよ」
加護があごで指したのは、編み込んだ髪にじゃらじゃらとビーズをつけたボランチ、アンドレアス・シノラ。
「ワールドユースでガーンと」
口の端を引っ張り、歯が一本欠けた個所を矢口に見せた。
「円陣組むよー」
伸びた髪を無造作にひっつめた姿はどこかジゴロめいて、マスキュランなたたずまいを見せるキャプテン吉澤。
円陣が組まれる。吉澤から時計回りに大谷、柴田、矢口、松浦、安倍、ミカ、加護、小川、後藤。
「大会緒戦です。千里の道も一歩からと言います。手堅く勝って、幸先のよいスタートと参りましょう」
安倍と矢口がいるためつい敬語が出てしまう吉澤。オーバーエイジは今回正副主将就任の意思がないことをあらかじめ平家に伝えていた。キャプテンやりたがりの矢口を含め。
「それではがんばっていきまー…」
「しょい!!」
勝て。勝てないならいっそ負けろ。
平家が刺激的な言葉で選手をたきつけたのには理由がある。
アフリカのチームは一度波に乗ると手がつけられない。逆に出鼻をくじけばライオンもハリコのトラだ。
GKを高橋ではなく小川にしたのも、よりマイペースに仕事ができる小川のほうが対応できると考えたためだ。
勝ってスッキリと次に臨むか、さもなくば負けて捨て身になったほうがよい。
ただし根性論ばかりではない、平家とスタッフたちはこの不屈のライオンたちを、それこそしゃぶり尽くすように研究してきた。あとは選手がそれをどこまで生かせるか。
カメルーンのアフリカ予選のデータを集計すると、いろんな特徴が浮かび上がってきた。
時間帯ごとの得失点データを見ると得点は時間が経つほど増え、後半30分過ぎにピークを迎える完全な右肩上がり。失点は前後半の開始と終了の10分間に集中している。
そこから浮かび上がったプランはこうだ。
後半10分までに三回は来るであろうチャンスを二つ決める。その後来るであろう総攻撃を1点以内で凌いで2ー1で逃げ切る。
ちなみにこれとまったく同じ作戦でカメルーン五輪代表を破ったチームがいる、寺田光男率いるナイジェリア五輪代表だ。
ジャンプ一番、シャクボマへのロングパスを吉澤が頭ではたき落とす。矢口がフォロー、すぐさま右のオープンスペースへ。
右ウイングの木村アヤカがいた。一度タメを作り、クロスボールを安倍へ。
安倍、ゴール前でイカリヤを背負いながら胸トラップ、グラウンダーをゴールと正反対の方向へ。
吉澤のカットと同時に、猛然とカメルーンゴールを目指したリベロ後藤がそのままの勢いで一撃を見舞う。GKペッの正面を突いたが、これがこの試合のオープニングシュート。
すぐさまパントキックを入れるGK。最終ラインに入った吉澤が冷静に対処した。
Wユースで日本から先制ゴールを奪ったエナリがワントップ、シャクボマはやや引いた位置からゲームを作ってくる。前でフラフラ泳ぐエナリはゾーン、あまり動かないシャクは吉澤と矢口が見る。
抜群のバネと年齢に似合わぬ老練なプレーが身上のエナリ、安倍曰く「なにもしないことがフェイントになる」ほど底の知れない思考を持つシャクボマ。
ボランチのシノラは加護の前歯を折ったハードマークで松浦にへばりつく。
もう30年以上も一緒にやってきたイカリヤとペッは親分格のイカリヤ、場を和ませるペッがチームのアメとムチの役目を果たしている。
吉澤、シャクボマと1on1。右にフェイクを入れてから左へ抜けるシャク。
なめんな。吉澤は読んでいた。ショルダーチャージ、ぐらりと揺れるシャクの上体。
「なぬっ」
完全にバランスを崩したはずのシャクが起き上がりこぼしのように再浮上。あっけに取られた吉澤を抜き去った。
左足、ふんにゃかとしたロブに力強いベクトルを描いて飛びつくエナリ。フリーで放ったヘッドを小川、倒れながらつかむ。ボールをクッションにして腰への負担を弱める。
「後藤、ノーマークにすんな!」
だって圭ちゃん、あのエロ小坊主、チチ揉んできやがったんだよ。
ふーっ…小川がため息をつく。ヤマをかけて倒れたところにナイスパスが来た感じだ。
実は少し風邪気味なのを卵酒で治した。
寒い。風が強い。寒さは腰痛の大敵、しかしこの日の小川には強い味方があった。
大学の宿舎に届いたそれを見て笑い、そして涙した小川。
腹巻き、しかも千人針が縫いつけてある。
「麻琴ガンバレ! 絶対応援に行く 友人一同」
千人針は出征する兵隊に玉が当たらぬよう千人の女性が一針ずつ縫いつけてゆくもの、GKは自分に球を当てるのが仕事。裏返して、肌着の上から巻いた。あったかかった。
「小川!」
吉澤が開きながらパスを要求する。
素早く立ち上がった小川、遠投を試みて、やめた。
焦るこたぁない、時間はまだたっぷりあるわけだからさ。自分勝手な早打ち男は女に嫌われるぜ、ジゴロのあんちゃん。
「後藤!」
吉澤に背中を向け、アンダースローで短く出した。
なんだよ、それ…袖にされた吉澤がぶんむくれた。
互いに一発ずつパンチは見舞ったものの、ファーストマッチということもあり全体的に動きは固く、小さなミスも多い。
こんな時重宝するのはやはりベテラン。
カメルーンならイカリヤとペッ。歴戦の勇者、二人とも頭は薄くなったが中身までは衰えていない。後方から若手を叱咤激励する。
日本は当然安倍、そして矢口。明るく声をかけて回る。
かと思えば、時折矢口が安倍のそばに寄っては何事かささやき、見つめあっては笑顔を交わし…幼なじみの悪友二人が次にどんなイタズラをしでかしてやろうか相談しているかのようだ。
左サイドで加護が持つ。逆サイドを見て、我に返る。
せやった、ののはおらんねや。
知らず知らず辻を頼っていた自らに愕然となる。自分でなんとかせな。
ドリブルで中に切れ込む。松浦にはたき、リターンをもらおうと斜め前へ。イカリヤに入られた。
退路を断たれた松浦、シノラと向き合う。この荒っぽいマーカーに手を焼いていた。
松浦、左を見る。下見て、右見て、ぐるーっと黒目を一回転。
視線でかけるフェイントに惑わされたシノラを抜き去る。右足ミドル。ペッがトスで逃れた。
「いいよ松浦!」
安倍の声に笑顔でこたえた。
右のコーナーフラッグに柴田あゆみが向かう。石川のいないこの試合、セットプレーの全権を任されている。
左ハーフのレギュラー、そして堂々の10番。いずれも飯田の離脱によとてタナボタ式に得たものだが、ピッチに立てば関係ない。フリエ消滅、横浜FCでの苦闘、北京ユニバーシアードの金…質はともかく、くぐり抜けてきた修羅場の数なら誰にも負けはしない。
ゴール前に安倍、松浦、矢口、加護。ショートにアヤカ。自軍ゴール前から後藤、吉澤も上がってくる。カメルーンはツートップも下がり、全員でゴールを固める。
柴田、左足。曲げてきた。
直接ゴールを狙うかのような強烈なカーブのかかったボールがニアへ。後藤が頭から飛びこむ。
カメルーンGKペッ、一瞬早くコンタクト。パンチでクリアされたボールはそのまま右タッチラインへと転がる。
「おらあっ」
ライン上、大谷魂のスライディング。アヤカが拾い、今度はファーの吉澤を一直線に狙う。イカリヤが読んでいた。禿げ上がった頭でかき出す。
エリア手前ゴール正面で加護が拾う。
それを背後から追い越す青い影。のの! 迷わずはたく加護。
だがそれが辻であるはずがない。
矢口真里、左サイドを深々とえぐる。
ナイジェリアとの壮行試合、あれは貴重なレッスンだった。
とにかく、バカ高い身体能力にキリキリ舞いさせられたがその身体能力ゆえ連携をおろそかにし、個人プレーに走るきらいがある。同じブラックアフリカンのカメルーンもしかり。
寺田は元教え子たちに無言のレッスンを施した。多くの人間で、しぶとく攻めろ。そうすれば必ずボロを出す。
見るまでもなく、矢口にはゴール前の様子が手に取るように分かる。
後藤と吉澤が両ポストに敵を引きつけた上、左右へ揺さぶった。真正面に大穴が空いているはず。
自分と同じイマジネーションを持つ者がいるのを信じ、チップキック。
下がりながら背番号7が飛ぶ。最も自由を与えてはいけないはずの安倍をフリーにしては、情状酌量の余地はない。
ゴールラインと直角に突き刺すヘディングシュート。見事にカメルーンゴールのど真ん中に叩きこんだ。
前半26分、日本、先制。
「いもなっちー!」
その背に矢口が飛び乗った。
かたや、うなだれるカメルーン。
「オイッス」
くぐもるようなイカリヤの声。
「…オイッス」
小さな返事がいくつか聞かれる。
「声が小さい。もいっちょ」
イカリヤは呪術師でもある。アフリカの人々は他人に自分の本当の名前を知られ、呪術師に呪い殺されるのをいまだに本気で恐れているからだ。それだけ彼らは自然や神や悪魔と近い場所で生きているのだ。
イカリヤは繰り返し呪文を叫び、また叫ばせ、心から弱気の悪魔を追い出そうと試みる。
「オイッス」
「オイーッス!」
「オイッス」
「オイーッス!」
ようし、次いってみよう。
後藤の敷くラインDFはさすが攻撃的だ。クリアするとサイドバックを伴い、ハーフライン付近まで一気に押し上げる。
大谷、ミカとの間隔はやや広め。ブラックアフリカンにもひけをとらない身体能力、そして前で吉澤が効いているからだ。
3バックの背後をカバーするのはキーパーの仕事。
エナリがラインの裏に飛び出した。オフサイドはない。
エナリがキープした瞬間小川が1メートルの距離に。腕を広げ、隙のない構えで詰めていく。本職のストッパーのような冷静さにエナリのほうが動揺する。
鋭い右足の振り、ボールごとエナリをなぎ倒した。
「落ち着いてやんなあ」
日本ベンチもやんやの喝采。普通のキーパーならあわてて飛び込んでかわされそうなものだが。
「中学も高校も、紅白戦も組めない小さなサッカー部だったから、キーパーなしのフットサルばかりやってたんだって。インターセプトは得意中の得意だとさ」
うまくなるはずだよ――保田の言葉に高橋が関心する。
正面に回りこみ、なるべくダイビングしないのも冷えた地面の上になるべく飛ばずに済むにはどうするか考えて培ったものだろう。
小川のプレーには小川の、高橋のプレーには高橋のたどった道そのものが反映されている。
松浦が胸から落ちる。息ができない。
「松浦!」
大丈夫、必死にジェスチャーする。
石川の代役でトップ下に入った松浦はこの日、カメルーンの中盤の底シノラに徹底マークされていた。Wユースでも加護に仕事をさせなかったエースキラー。
「亜弥ちゃん、矢口さん」
タッチライン際で平家の伝令を受けていたアヤカ。
「ポジションの変更です。矢口さんが10、亜弥ちゃんが7、私が8へ」
まるで逃げるみたいではないか。絶句する松浦に矢口
「点の取れる奴がつぶされたら後のち困るからだろ。任せな、おりゃあ頑丈だけが取り得だからよ」
さて、このフリーキック。やや左寄り。柴田が狙うには遠すぎる。ファーポストに後藤、安倍、松浦。
笛が鳴る。
「柴田!」
声のするほうへ短く出す。
受けた矢口、今度は左へ。
「おりゃっ」
走りこんだ加護、右足のロングシュート。抑えの効いた低い弾道がゴール左隅を襲う。逆を突かれたペッ、バランスを崩しながらもなんとか右手に当てた。
「くそっ」
詰めていった安倍の頭になにかが降ってくる。あわてて立ち上がり、安倍の手から奪ったそれを頭に乗せる。
(カツラだったのか…でもなんでわざわざハゲヅラを?)
ロスタイムの表示が出た。
「3分!」
平家がわざと長めに残り時間を叫ぶ。1-0で前半を折り返したかった。
アヤカが右サイドで持つ。深いところにいる松浦に渡し、コーナー付近でキープさせる。
その考えが、松浦にまでは伝わっていなかった。センタリングをシノラが左足でクリアに。
矢口が、詰めた。
シノラ、その顔面を狙う。
矢口は目を反らさず、あごをくっと引く。
額に当てた。
完全に勢いを殺し、イカリヤが押し上げたDFの裏に落とす。
やや引いていた安倍が飛び込んだ。
ペッの出足を完全に見切り、得意の右足でネットを揺らした。
「いもなっちー!」
「いもいも言うな」
矢口と安倍がじゃれあう。
「どうして分かったんですか?」
「えー、なっちなら飛び込んでくれると思ったし」
「だって矢口のやりそうなことじゃん」
笛が鳴った。
前半終了、2-0。
「オイッス!」
「オイーッス!」
ようし、後半戦いってみよう。
ショックの色濃いカメルーンもイカリヤが早めに手を打ってきた。
「松浦、なんであそこでセンタリングを上げた」
開口一番、セオリーを無視したストライカーを責める平家。
「いいじゃん、結果オーライで」
安倍がかばうが平家は聞き入れない。
「なっち…安倍が決めてくれたからよかったけど、あれでカウンターを食うこともあるんだからな」
「まあ、見てよ」
矢口が松浦の袖をまくり、続いて自分の背中を見せる。どちらも赤や青に彩られていた。
「蹴るどつくつねる、これだけやられたら仕返しの一つもしたくなるわさ」
保田が眉をひそめる。彼女が一番嫌うのは目的と手段とを取り違えたストッパーなのだ。
僥倖ともいえる二点差での折り返しでも気を抜く者はいない。カメルーンは後半、尻上がりに調子を上げるチームなのだから。
そして、カメルーンにはまだ切り札が残されている。点差が開いたことでその投入が早まることもありうる。
「まずは初めの10分、大切にいこう。後藤は攻撃参加を控えて。DFだけで楽しめるはずだから。吉澤、シャクのマークを外さない。保田、すぐアップ。いつでもいけるようにして」
再びピッチに姿を表した日本五輪代表、カメルーンベンチを見る。
やはり、な。
入念なアップを行い出番を待つ9番は老雄ロジェ・シムラ。
「出てきたな」
「来ましたね」
石川と新垣もそれに気づいた。
なぜかこのチームには彼のファンが多い。いや、全員がそうだと言ってもいいかも。
それだけ彼は偉大である。カメルーンの名物ストライカー、ロジェ・シムラ。
歳こそイカリヤやペッより下だが、瞬発力やダッシュを繰り返すスタミナを要求されるFWのポジションを考えれば、代表にいることはおろか現役であるのすら脅威的である。
なのにこの男はいまだバリバリ。後半出場してはやる気のないプレーに終始すると思いきや、たった一瞬で勝負を決めてしまう怖さを秘めている。
開始30秒。後藤、矢口、安倍、加護と渡って最後は吉澤。35メートル砲がカメルーンゴールのクロスバーを派手にぶち鳴らす。
かと思えばハーフラインを越えたミカのクロスパスにアヤカが反応、右足でジャンピングボレー。ペッの足に当てる。
柴田の左CKを大谷が落とし松浦がシュート。ネットを揺さぶるもオフサイド。
日本、平家の言葉など忘れたかのように激しく攻め立てる。
カメルーンの反撃、シャクボマが左から上げたセンタリングをエナリが狙う。
「どけオラッ」
ボールごとエナリの横っ面を張り倒す小川のパンチング。
シムラが仕上げに入る。保田もいつでもいける状態に。
志村が緑のシャツをパンツに入れたところで保田もシンガードを装備する。交代の申請も二人同時だった。
ボールデッド。
「いやーっ出たくないーっ」
嫌がる加護を無理やり矢口が引きずり出した。
遅いよ。ごめんごめん。三人目の悪ガキを安倍が出迎えた。
保田が3番、ミカが11番。
同時に松浦も木村麻美に代え、守備の強化を計る。平家の考案した「シムラシフト」である。
「すみません、シムラさん」
いんぎんに頭を下げるエナリ。
「だっふんだ」
「は?」
「間違えた。だいじょぶだぁ」
この年になっても自分の娘みたいな女と浮名を流すだけあり若い娘っ子は大好物であるロジェ・シムラ。幾度も自らの老いに立ち向かい、そして勝ってきた。
若い時分から自由気まま、やりまくり。イカリヤあたりにはだいぶお灸を据えられてきた。
それでも、継続は力なり。大事なのはやってやって、やりまくり続けること。
シムラはいつしか怪人と呼ばれ、気がつけば周りは彼に憧れてサッカーを始めた若者だらけになっていた。
「姉ちゃん」
GK小川が最終ラインの一角に入った従姉とタッチを交わす。
保田、仕切り直すカメルーンの布陣を見ながら伝令を的確に伝える。カメルーン、向かって右からシャクボマ、エナリ、シムラ。
「吉澤、少し右に開いて。左の麻美が引いて吉澤と並ぶ感じ。アヤカはFWに戻って」
中盤が少しいびつになる。後ろが木村と吉澤、前が柴田と矢口。ウイングも下がって安倍の1トップに。
「圭ちゃん、ラインはどんな感じ?」
「引き気味で。3トップの中盤省略でくるからプレスもかかないしね」
ここまでは予定通り。ここから始まる。
エナリのヘッド。木村麻美が競って小川が正面でキャッチする。
「上がれー!」
カメルーンの攻めがぐっと厳しくなったのをGKは肌で感じている。
これまではシャクからエナリというワンパターンな攻撃が、右サイドにキープできるシムラが入ったことで的が絞りにくくなった。
それでも、まだ決定的な仕事をさせるには至っていない。
シムラのトイメン、日本の左DFが効いているからだ。小川もその背を頼もしく感じている。
「シムラ、後ろ!」
シムラの背後から迫った保田のスライディングタックル。ボールだけを正確に狩った。
「ぐあっ」
145センチが宙を舞う。矢口への削りはいよいよ熾烈を極めた。
シノラはファウルすれすれのタックルをカードすれすれに変えてきた。それでも矢口はひるまず、言葉と行動とで中盤をリードする。
見てるか、石川、吉澤。ほんまならあんたらがああやってチーム引っ張らなあかんのやで。平家が心の中で叫ぶ。
「安倍戻れ!」
「なっちそのまんま!」
CK、GKと左DFが違う指示をFWに与える。
「勝手に口出すなよ」
「見な」
センターサークルに立つ安倍。イカリヤが上がれず、カメルーンは三人を残す。2得点の安倍への警戒が強い証拠だ。
カメルーンのCK、シャクの蹴るボールに小川が手を伸ばす。競りにいくシノラ。つかんだボール、小川がこぼした。シムラが詰めるが後藤がクリアして事なきを得る。
シノラに伸びた右手をつかみ上げる左手。
「なんだよこの手」
保田の手を振り払う小川。
「あいつの髪が目に入ったんだ」
細い三つ編みをいくつも作り、それをビーズで飾ったシノラは頭を振るだけで危険ではある。
「それが向こうの手だろうよ。チョンとつつけば派手に倒れて一発レッド。あんたみたいな単細胞ハメるなんてわけない。矢口見なよ、我慢強いこと。少しは見習いなさい」
蹴られまくる矢口にしても当然フラストレーションは高まっている。自分に仕事をさせないのが向こうの役目なのだが、何のためらいもなく足を狙い、それを喜々としてこなすさまには怒りを覚える。
「ケケケ…」
耳障りな笑い声がむかつく。
だが今の自分は若手の見本にならねばならないのでもある。冷静に、冷静に…
「いい加減にしろよ、てめえ」
耳元で囁いても効果はない。ボールのないところでも遠慮なしに蹴ってくる。
柴田のサイドチェンジが頭上を通過する。受けたアヤカが折り返したボール。
シノラが飛んだ。矢口の下顎を狙って。
矢口が腰から落ちた。痛みに声も出ない。
「矢口さん!」
日本イレブンが駆け寄る。その額にはぞろりと半月状の歯形が刻まれていた。
「ギャギャーッ!」
口元を押さえ、羽をもがれた蛾のようにもがくシノラ。指のすきまから滝のように赤いものがあふれた。
「うわあ…」
むごたらしい光景に新垣が目を伏せる。
「おーお、我慢強いこって」
「自業自得だ。先に狙ったのは向こうなんだから」
嫌味たっぷりの小川、冷静に受け流す保田。
「バカヤロー!」
前歯がそっくりなくなった口で泣き叫ぶシノラ。矢口はチーム初のイエローをもらった。
左DFがディフェンシブな保田に替わったことで、日本の攻撃は右に重点が置かれた。
大谷が持ち上がる。木村とのワンツーで狭いところをくぐり抜ける。
中央の後藤がそのスペースをふさぎに右へ流れ、吉澤が後藤の位置へ。
小川の前に右から後藤、吉澤、保田が並ぶ。
深い位置まで上がった大谷、柴田を狙ったセンタリング。ペッが飛び出してキャッチ。イカリヤから引いていたシムラへ。
「アイーン!」
シムラ百面相、ひるんだ木村をあっさり抜きさった。
右にエナリ、左にシャク。カメルーンのカウンターアタック、手薄な日本ゴールを急襲。
「吉澤9(シムラ)! 後藤10(シャク)! 7(エナリ)OK!」
DFリーダーを差し置いて保田が手早く指示を下す。
ここがヤマだ。ここを防げば勝てる。
吉澤が出る。琉球舞踊をベースにしたというシムラのステップに惑わされず、冷静に時を稼ぐ。
シムラ、左にパス。シャクがサイドに流れ、後藤が追う。
打って変わった真剣な表情で後藤と向き合う。一発で上げたボールが後藤の肩をかすめた。
うそっ。
エナリ、どフリー。握り拳を固めて小川が出た。エナリ、早い。飛び上がった小川の足元を抜いた。
「はっ!」
カバーに保田が上空高く蹴り上げた。主審を見て、小川を指し、次いで自分の腕を示す。
主審が、短くうなずいた。
「マコト、キャッチ!」
小川、シムラと競りながら、キャッチング。
「どーいう守り方だよ」
「うるさいわね。コンビプレーとお呼び」
「てめえが目立ちたいだけじゃんか」
「小川! 圭ちゃん!」
保田がラインを上げる。
心臓病のくせに、心臓に毛が生えた背番号6を、小川が目で追う。
遠くからずっと目標にしてきたその背を。
姉ちゃん、楽しいよ。
サッカーがこんなに楽しいの、久しぶりだよ。
「うおおおおっ」
久々の大遠投。
右タッチをボールが切れる。シュートを防がれた矢口がシノラをにらむ。その目を見れないシノラ。
故意か、事故か。それを知るのは矢口以外にはない。退場にならずに済んだのは不確定な要素の多い空中戦だからで、それを考えるとなにかが見えてくる気がしないでもないのだが…真相は闇の中。
「マサオ!」
タッチに立つ大谷にボールを要求する矢口。トラックで弾ませて首を横に振る。
「チェンジ!」
片やゴール前、ここにいてはいけない山吹色のユニフォームが。
「もう1点入れりゃ終わりだろうが」
小川の侵入に戸惑うカメルーン。
おあつらえ向きの空気圧のボールを手に矢口、助走開始。ラインのはるか手前でボールを地に沈ませる。一回転、二回転。
「せやっ」
前転スロー、ゆったりと弧を描いてファーへ。
小川が飛ぶ。つられてGKも飛び出す。両者タイミングが合わない。
抜けてきたボール。フリーの保田、頭で中央に戻す。
三たび安倍。イカリヤの目前、倒れながら左足で抜いた。
小川保田のハイタッチ。幼き日、近所の駄菓子屋を荒らしまくったコンビそのまま。
「いもー、いもなっち」
「ああいもですよ。悪いか」
ハットトリックを矢口が祝福した。
後半33分、ダメ押しとも言える3点目に声も出ないエナリ、シャク、シノラ…魂を抜かれた若きライオンたち。文明社会に、自分たちより数段上手のエコノミックアニマルたちを見た。
「オイッス」
返事はない。
「オイッス!」
もはや声も出ない。イカリヤは若いチームの限界を思い知り、短く吐き捨てる。それは事実上の降伏宣言。
「ダメだこりゃ」
保田すげーな。一気に流れを引き寄せてるじゃないの。
保田のリーダーシップが効きまくってるね。
この一戦は完全にオーバーエイジがゲームを引っ張ってた。
矢口は相変わらず人と違うことをするし、安倍もゴール前に強くなった。
次戦はいよいよアルゼンチン。
日本はゲームメーカー石川の復帰。10番で使ってくるんじゃないか。
しかし矢口がイエローカードを一枚もらっているため守備的には使いにくいか。矢口には関係ないかな。
チャムがいよいよ登場するけど、どういった守備シフトを敷くかね。
絶好調の保田もどこから使うか気になるところ。
「集中しろよ集中ッ」
コーチャーズボックスで声を張り上げる平家。柴田を下げ戸田を入れて逃げきり態勢に。
シムラがタバコを吸いたいのを我慢して突破を計る。後藤がカバーに入り、小川が飛び出す機会を伺う。
保田がかわされた。小川が前のめりに。
「出るなっ」
後藤のタックルをやり過ごした、シムラのループシュート。ゴールラインで粘った小川、平行移動。頭の上でつかんだ。
タイムアップの笛が鳴る。勝利の喜びを、地面にボールを大きくバウンドさせて表現した。
3-0。内容のみならず大差をつけての勝利は、リーグ戦であることを考えればこの上ない滑り出しであった。
チームメイトのシャクボマに安倍が寄っていく。明暗を分けた二人だが試合が終わればまた元の友人である。
ピッチの上だというに早くも一服つけだしたシムラのもとへ加護が寄っていき
「マネできるんですよ」
と彼のゴール後のキメのポーズをそっくり再現してみせた。
本当は勝って実物を見せたかったが仕方ない。そしてまたこれで一線を退くつもりもない。
「アイーン!」
オリジナルは、迫力が違った。
「矢口」
平家の顔に笑顔はなかった。
「あれ、わざとだろ」
確かめるまでもない、相手の前歯を根こそぎ叩き折った一件だ。
「あの場面で赤は出ないよ」
ワールドカップやオリンピックでは審判もまた見られている。予選リーグの働きで決勝トーナメントの笛を吹けるかが決まってくる。
レッドカードを出すのは審判にとっても勇気のいる行動で、間違えた提示をすれば試合をぶち壊してしまう。その決断を一瞬で求められる、しかもあの場面では矢口も傷んだ――一発退場はまずない。矢口はそれを知っていた。
「なんで故意にラフプレーを仕掛けたか聞いてるんだ」
フェアであれ、平家は常々そう説いてきた。自らも現役時代はさんざ削られ、悪質なタックルで選手生命を脅かされるのがどれほど愚かしいか身を持って知っている。
「みっちゃん」
矢口はズレを感じずにはいられない。
アルゼンチンに渡って鮮明に感じたのは選手がサッカーではなく、喧嘩をするためにグラウンドにいること。一度後頭部に頭突きを食らった時などなぜ仕返さないと矢口が叩かれた。
「次やったらメンバーから外す」
矢口がベテランでなければ、予告なしにメンバーを外したろう。
もっとすごいことになっているのが小川と信田。
「調子にのんなよ」
信田が口の端を切った小川の前髪をつかみあげる。
「あんたなんか、次の試合でお払い箱だ」
体育会系嫌い、小川の本質がここにある。
上級生も下級生も友達みたいな環境で育ってきた小川には、ただ自分より年を取っているだけでいばっている連中が理解できない。
それが爆発したのが大学に入ってすぐ。推薦ではなく一般入試で入った小川はコーチもいないBチームに入れられた。Aチームには、どう見ても自分よりヘタクソなキーパーがゴロゴロしていた。上級生というだけで。
試合に出せと直訴した。生意気な一年、しかもBチームのくせに――たちまち目をつけられた。
因縁をつけてきた先輩を殴った。今度は部室に呼び出された。
格技室に忍び込み、木刀を手頃な短さに切り落とした。
真夜中、五人の先輩が待つ部室。まず石を投げて蛍光灯を割った。暗がりに慣らした目で、狭い部室の壁にぶつからない長さにした木刀をぶん回した。
相手の手の甲を、腕を、肩を砂のように砕いた。
不名誉な暴力沙汰は1対5の正当防衛として表面化せず。附属病院に運ばれた五人のGKは二度と部に戻らず、居座った小川が正位置を奪った。
そして今、体育会の権化のような信田が目の前にいる。自分のような存在を許容できない相手。
身に降る火の粉は払う、たとえ手を焼かれようとも。
再度襲う張り手をつかみ取り。もう片方の腕も封じ、床にねじ伏せる。もがく腕にひざを乗せた。
「形勢逆転てか」
小川が信田の首に手をかける。
「大学で習ったんだ。頸動脈って10秒絞め上げるだけで頭がパーになるんだって。パーってどんなかな、楽しみぃ」
実験、実験♪ 指にゆっくり力を込める小川。声も出ない信田。
「小川、取材だぞ」
高橋の声に、首にかけた手を離す。
「命拾いしたな」
日本3-0カメルーン
前半 2-0
後半 1-0
SH 8-12
GK 小川
DF 大谷
ミカ
後藤
MF 吉澤
矢口
松浦(後12木村麻)
柴田(後35戸田)
FW 安倍
加護(後12保田)
木村ア
得点
前26 安倍(矢口)
前44 安倍(矢口)
後33 安倍(保田)
警告・退場
矢口(警・ラフプレー)
Woman of the match
安倍なつみ(日本)
「Nacci,Nacci,Nacci!」
「Old is
beautiful」
地元誌も日本の活躍を大々的に取り上げていた。
最も高い評価を得ていたのはやはりオーバーエイジの三人。中盤を完全に掌握し全得点をお膳立てした矢口、敵エースを完封した上DF全体を引き締めた保田、そしてゴール前で抜群の勝負強さを発揮した安倍。経験の差を見せつけ、主役のはずのU23選手の存在はすっかりかすむ結果となった。
だが日本の名が一面のトップを飾ることはなかった。
さらにでかいことをやってのけたチームがあったのだ。
「ほんまは2-0でも勝ててんけど、点が多く入ったほうがおもろいやんか」
ブラジルを3-2で下したナイジェリア監督の談話である。
さらに日本以外のアジア勢の健闘も光った。
韓国はモロッコを4-2で撃破。リ・アキナ、3アシストを記録。
クウェート、スペインの猛攻を凌いで0-0に持ち込む。
苦戦したのがアルゼンチン。10人のユーゴスラビアに手こずり、終了間際のPKをガブリエル・ヒロミストゥータが決めて1-0。優勝候補としては不安なゲームに。
その他の結果は以下。豪州1-0ルーマニア、米国0-0イタリア、フランス2-0コロンビア。
さて、紺野あさ美である。
試合の前日、用具の手入れの際の不注意で右ひざ上を12針縫う大怪我を負い、今大会の出場が絶望となった紺野。
診断の結果を小湊から言い渡されると、淡々とそれを受け止めた。
強い子だなと安心していたらそのまま自室にこもり、食事にも手をつけない陰遁生活に入ってしまったのだから女の子は分からない。
「せめて食事ぐらいは摂らせないと…」
「メシ食ったら試合に出られるようになるんか。違うだろ」
小川だった。
「なんもしてやれないんだったら、したいようにさせてやれよ」
紺野が怪我をした当夜にもこんなことがあった。
矢口が突き放すように、紺野本人を前にしてではないが、プロ意識の欠如を説いた時こう反論した。
「控えが一人いなくなっても関係ねえよ」
「紺野一人の問題じゃない、どれだけの人間がこの事で迷惑こうむるか分かって言ってる?」
「サッカーチームじゃん、勝てばトントンだろうが」
相変わらず口は悪いが、小川はこの時も紺野をかばっていた。それが分かったから保田も口をはさまなかった。
暴君に、変化の兆しが見える。
午前二時。むっくりと体を起こす紺野。
寝入る新垣を起こさぬように忍び足でトイレに入る。
出てくるとテーブルに並べたペットボトルの封を切る。現地の硬水でお腹を壊しては元も子もないので、譲ってもらった日本製のそれを無理にでも飲み干す。空腹を紛らすのと、老廃物を少しでも排泄するために。
それが済むとまた尿意を感じるまでベッドでじっとしている、右手は患部に当てて。
人の右手からは治癒のオーラが出ていて痛い場所に右手が伸びるのはそれを無意識に利用しているから、手当てという言葉もそこから来たと聞いたことがある。
怪我をした猫が何も食べず動かないでいることがある。
食事をすると食べたものを消化するために血液は胃の周辺に集中する。腹の皮が張ると目の皮がたるむと言われるのも脳が一時的な血液不足に陥るためだ。
猫は断食で消化を促す分の血を全て患部に送り込み、通常よりも早く傷を治してみせるのだ。
紺野もそんなやり方で傷が治ると頭から信じているわけではない。しかしまともな方法では間に合わないことだけははっきりしている以上、思い切って「大自然の知恵」に頼ることにした。ワラにすがる思いで。
泣いてる暇も、迷っている暇もなかった。
ベッドでも眠れるわけではない。すでに昼も夜もない状態でさまざまなことを考える。
小川には悪い事を言ってしまった。怪我で試合に出られなくのを恐れる彼女に次があるなどと軽々しく言ってしまい、反発を偏屈で変わり者な性格のせいにした。
試合に出られないのがどれだけ辛いか、自分の身に厄災が降りかかってみて初めて思い知る。
罰が当たったのだろう。自分の無神経さを戒めるために、あの子が私の足を傷つけたのだ。
証拠がある。紺野が怪我をしたのは右足のひざ上なのだ。
伏龍。
水中深く潜り、天へ昇る時を伺う龍の姿は、伏して傷の癒えるのを静かに待つ紺野と重なる。
それは気の遠くなるような時間。にもかかわらずそれをやり遂げるつもりでいる。
知っているからだ、最後まで生きるのをあきらめなかった命があったことを。
小さな生命をその手にかき抱き、それでもなにもしてやれなかった三日間。その記憶と現在の紺野あさ美とを切り離して考えることはできない。
獣医学部生としての紺野も、サッカー選手としての紺野も、すべてここから始まっているのだから。
高校受験を控えた中三の晩秋。金曜日だった。
塾の帰り、CDショップを回った後、いつもと違う道を選んで帰ったのは単なる気まぐれ。
いつもと違う曲がり角を折れた時、運命の出会いがあった。
この子をもらってください。
仔猫一匹のためにしては大きすぎる段ボール箱。恐らく鮨詰めだった他の兄弟と、弱々しく鳴く斑猫との運命を分けたものは右前脚。膝から先がないのだ。生まれつきか、考えたくもないがいたずらによるものか。
冬の忍び寄る札幌の夜を耐え切れるわけがない。紺野は仔猫を抱き上げる。助けたいのではなく、見殺せなかった。
幸い、急患を引き受けてくれる獣医が見つかった。伊東四朗似のお爺ちゃん先生で、口の中を見たり、注射を打ったりしてくれた。
「肺炎だ。今晩が峠だね」
本当はこの段階ですでに処置なしだったのだと後で聞かされた。多産の犬や猫には必ず一匹はこんな弱い子がいる。生存競争を勝ち残れないみそっかすが。
あえて嘘をついたのは、今にも落涙しそうな紺野に事実を告げられなかったのと同時に、わずかな可能性を信じたい気持ちもあった。
無数の患畜の中には理屈に合わないような生還劇を見せたものが少なくない。この三本足もその一つだと。
紺野家はパニックに陥った。成績優秀、スポーツ万能、反抗期すらなかった自慢の娘が夜遅く帰宅した途端部屋に閉じこもったのだから。受験ノイローゼ? 勉強しろと口やかましく言った覚えはないのだけれど。
とにかくあったかくすること。紺野は頭から毛布をかぶり、三本足を包んだ。
ミルクも飲ませたがすぐに吐いた。下痢もした。紺野の体臭と入り交じり、部屋は異様な匂いに満たされた。
もうダメかもしれない。鳴き声が小さくなるたび、指に骨が当たるたびにそう思った。
いや、紺野は首を横に振る。
私がおまえを絶対に守ってあげるからね。
昼と夜も分からなくなった頃、信じられないことが起こった。
紺野は三本足と話せるようになっていた。向こうの意志表示を読み取るだけではない、もっと込み入った話が可能になっていたのだ。
足は初めから一本足りなかったこと。目が開き、生まれて初めて見えたのが眼鏡をかけた男の人の大きな手であること。兄弟は他に六匹で、自分以外の最後の兄弟が拾われた時毛布まで持って行かれて寒い思いをしたこと。
異様な経験だったが、寝呆けていたわけでもない。だって彼はこう言っていた。
僕、早く元気になりたい。いろんな場所を歩いてみたいんだ。
紺野は筋ばったこの猫が元気に飛び回る姿を想像もできなかったのだ。
もはや息をするのさえ苦しげ。もういいよ、楽になりな、そう言ってあげたかった。
少女は悟った、絶望の真意を。全ての命が幸せになれるわけではないのを。
「もしかしたらおまえは、生まれて来ないほうがよかったのかもね」
残酷な問いかけに仔猫は最後の力を振り絞って答えた。お母さん、と。
抜け殻になったそれを抱きしめながら泣き始めた時、永遠とも思えた三日間が終わった。
バイバイ、みそっかすの三本足。
せめて名前くらいつけてあげればよかったね。
それ以来だ、少し異常な能力が紺野に備わったのは。
三日後の昼食のメニューが突如思い浮かんだり、携帯電話の画面を見る前に誰からか分かったり、ここだと直感した場所にボールが転がり出たり。
あの濃密な三日間が、紺野の第六感を異様に鋭くしてしまったとしか説明のしようがない。
そして尿意ではなく、便意を感じて目覚めたのは午前五時。うっすらと明るくなった空がカーテン越しに分かった。
便器に転がり落ちたのは、宿便と呼ばれる白い個体。
できること、やるべきことはすべて終わった。
「別人だねあんた」
天の岩戸を押し開いてようやく姿を見せた天照大神の頬はこけ落ち、顔は青白い。それこそピカソ青の時代の自画像のような紺野の姿に誰もが声を上げた。
「今おかゆ煮てもらってるから、その間に包帯取り換えるわよ」
小湊が薄汚れた包帯を紺野の右足から取り除く。
「こんなことって」
診断ミスだろうか。いや、小湊も三日前の状態を見ていた。一週間で治るかも怪しいほどの深さだったはず。それが、なぜ。
確実に言えるのは一つ。紺野の右ひざ上を走った傷は完全に塞がっている。今すぐ抜糸が可能な状態にあった。
「お、病人がフラフラしとるわ」
そうからかわれながらノロノロとボールを運ぶ紺野は見るからにあぶなっかしい。体力が戻りきっておらず、まだ休んでろと言われてるにもかかわらずよく動き、かえって周囲の不安をかき立てる。
かつて石黒にきつく言われていた。あんたはにぶいんだから人の三倍ぐらい気を回しなさい、試合に出られない時にしかできないことだってあるんだから。
「前田さん、これ、ここでよかったですか?」
自分の怪我があと三十分早かったら選手として追加登録されていたはずの前田有紀の指示に従って、こまごまと動いた。
「あの、保田さん」
「はい?」
人の話を聞くのも、試合に出られない時にやっとけと教わったことの一つ。自分が動いている時はよく見えないことも、止まっている状態でならはっきりする場合がある。
石黒彩は、このドイツ帰りのフルバックをあまり好きではないようだった。人間的にではなくDFに於ける価値観の相違が原因らしい。
ただ保田のマンマークの力だけは認めていた。
話を聞く前に、相手の尊敬できるところを一つ探しなさい。バカにしてる相手の言葉を取り込める人なんていないんだから。
石黒は保田を嫌いながら尊敬もしてたのだろう。
聞き上手だな、それが保田の紺野への率直な感想。聞く態度が真剣だし、変なタイミングで腰を折らない。こちらのことをよく理解している証拠である。
頭がいいと聞いていたが、むしろ素直な性格で言われたことを吸収する素地を持っているだけなのだ。
相手が経験や苦労を重ねて培ったものを一度話しただけで自分のものにしてしまう。こういう選手は当然上達も早い。
せめてこの半分でもあいつにこういう美点があったらねえ…小川の顔を思い浮かべ、ため息をつきたくなる保田。
「どうしたらいいDFになれますか?」
さすがにこの質問には戸惑った。いいDFとは何?
一定以上のスピードと的確なフィード、ヘッドと当たりの強さは不可欠だろう。精神的には統率力と戦術眼、読みの深さにずる賢さ。機を見て中盤に上がってパスを回すセンス、時にはゴールを脅かすシュート力と大胆さがあれば完璧だろう。
ただしそんなパーフェクトプレーヤーばかりのサッカーは果たして魅力的に映るだろうか。
だから保田は紺野に問い返す。それはどんな生き方をしたいのかという問いにも似ている。
「あなたはどんなDFが目標なの?」
「後藤さんなんてすごいですよね」
「あれと自分とを比べたら不幸よ」
確かに後藤はほぼ完璧な選手だ。若いのに経験も豊富で、しかもまだ隠された才能を秘めていてどこまで伸びるか想像もつかない。
ただし後藤が11人いるチームが常勝軍団になれるかというとそうではない。総合力で後藤に劣ってもなにが一芸に秀でた他の10人がいるチームのほうがバランスが取れているし魅力的に思える。
紺野もやはり、その他10人のほうだろう。
「DFがいいんだね。FWとかMFじゃなくて」
「…はい。性格的にも、自分向きだと思いますし」
ディフェンダーと一口で言ってもセンターバックにサイドバック、ボランチやアウトサイドMFもその一形態と言えるだろう。
センターはストッパーにスイーパーにリベロ、フラット4におけるゾーンもマンツーもやるタイプ。サイドバック/アウトMFにも攻撃型と守備型。ボランチにもつぶし役つなぎ役中盤のリベロ役とさらに細分化できる。
保田は今や本職となったストッパーの他左アウトもできる。紺野の師匠格石黒は典型的なフラット4のDFコンダクター。今の後藤は攻め上がりで個性を発揮するリベロ。明確な色分けは今日かなり難しくはなっているのだが。
紺野はどうだろうか。
激しい当たりを柔軟に受け流す体、ボールの出所を事前に知っているかのような勘の鋭さは確かにセンターバック向きではある。
しかし紺野には足という武器がある。辻のように初めの一歩の突発的な速さではなく、ある程度走ってからスピードに乗る走りはサイドバックのオーバーラップに最適だ。中盤で敵の攻撃の芽を摘ませてもなかなかの働きをする。
あとは紺野がどこをやりたいのか、またどのポジションが手薄なのか。
確かに大きく出遅れてしまったがこの長い戦いはまだ始まったばかり、チャンスはまだいくらでもある。
まあ、一度に多くを言えば混乱するばかりだ。だからヒントを一つあげるに留めておいた。
「DFの一番大事な仕事はなに?」
「敵に点を取らせないことだと思います」
「つまりいいDFとは敵のFWにとってどんな奴?」
「一番嫌な選手ですね」
「だからいいDFがどんなかをよく知っているのは」
「FWの選手」
よくできました。
「ではこのチームで一番強いFWは誰でしょう」
「えー? 嫌なDF? どんなだろー? うーん」
安倍なつみは悩んでいる時も笑顔を絶やさない。
「紺野はどう思う?」
それが分からないから尋ねているのだが…
「なっち小さいから背の高い選手は嫌かな。蹴ってくる人も嫌いだし、足が速いやつに先回りされてもイライラするよ」
「あの、申し訳ないのですが、どれか一つに絞っていただけませんか?」
困り果てる紺野に安倍が微笑みかける。
「紺野はどう? どんなFWが苦手?」
「え…あきらめないタイプが苦手ですけど」
「なっちも同じだよ。これでもかって食らいついてくるDFが一番苦手」
「あ、すみませんでした。こんなボケた質問してしまって」
「いいよう」
聞きたいことがあればいくらでも尋ねてほしい、それくらいの心積もりはしてきた。
むしろ同じポジションである松浦の、自分と一線を引こうとする態度のほうが気になる。
目標とする選手はいません、若い選手がよく口にする言葉だ。
だがそんな選手に限って似たり寄ったりで没個性のプレーしかできない。自己流の限界がそこに見える。
ライバルはいない? あなた何様?
真似するのは悪いことではない。誰かのコピーをしたとしても、その人の個性は必ずどこかに出る。
奇偶にも新垣に対し似たようなことを説いていたのが矢口だ。
カメルーン戦ではベンチにも入れず、さぞ不平不満がたまっていると思いきや案外サバサバとした顔でいる。
「マリノスで出られなかったらチクショーって思うけど、代表はいられるだけで光栄な場所だし、やっぱり勝ってくれれば嬉しいですよ」
こいつは見どころがある、矢口は新垣をすっかり気に入った。今時珍しいくらいのフォアザチームの精神である。
ただし矢口は気づいていない、今時の若いモンはなどと言い始めたら、すでにオバちゃん化がかなり進行していることになど。
「最近よく言うじゃん、自分のために戦いますって。なに考えてんだって思うよ。負けても自分のために戦ったから満足だって言うつもりか、はなから言い訳してんじゃねえって。自分が晴れ舞台に立つためにどれだけの人間が犠牲になったか考えたら、自分のためなんて言えるはずないんだけどな」
カメルーン戦の後ガチガチだったと告白した矢口。ベテランでも緊張するのかと尋ねたら、お婆さんも生まれた時は赤ん坊だよと笑われた。
新垣は矢口という人を少し理解できた気がした。今まで幾多のプレッシャーと戦い、負けても逃げ出さなかった人なのだと。
新垣と同じように前の試合で出番のなかった高橋に吉澤が
「腐るなよ」
どちらかと言えば高橋のようなGKが吉澤の好みである。タイプが違うだけで実力は遜色ない。
エリート高橋にとって、これが初めての挫折に違いなかった。立ち直るのに時間がかかるかもしれない。
吉澤も最初の挫折を代表で知った。吉澤に与えられた役目は、すれ違うようにしてチームを去ったある選手のコピー役だったのだ。無理な注文に立ち向かった自分の無鉄砲さに気づくのはずっと後のこと。
今の吉澤から高橋に言えるのは一つ、この苦しみは後で必ず成長のための糧になる。
そしてその高橋から定位置を奪った小川は風を切って左右に飛ぶシュートになぎ倒される。
「そんなんじゃアルゼンチンのシュートには反応もできないよ!」
石川のゲキが飛ぶ。
強シューター揃いのアルゼンチン、それを肌で知る石川は先発濃厚なGKを特訓した。
正面にきたシュートを前に弾く。
「こぼさないの! ゴール前で拾われたら一巻の終わりなんだから!」
悔しいが、全力で蹴ってるとも思えないシュートに触るのが精一杯の小川。言い返したくても格好がつかないので黙ってシュートを受け続ける。
見てろアルゼンチン、吠え面かかしたる。
黄色が飛び上がり、青が崩れ落ちるさまを、高橋と小川は我が事のように見ていた。
豪州1、ブラジル0。
セカンドジャージをまとったカナリヤは、唄うことなく大会を後にすることになった。
かたや優勝したかのように踊り狂うオーストラリアオリンピックチーム、地元の声援に答える。
テクニックに勝るのは徹底的なフィジカル強化、全員がヘラクレスのように鍛え抜かれたオージーたちの輪の中に、金色に輝く背番号14をつけたゴールキーパーがいた。王者ブラジルを玉座から引きずり下ろした彼こそが新しい王だった。
オージーの14番はバイエルンミュンヘンの守護神でもある。従姉への義理もあってオーストラリアを応援していた小川もしばし言葉を失った。
高橋もしかり。確かに史上最弱などと揶揄された今回のブラジルチームではあったが、まさか予選リーグ敗退一番乗りを決めてしまうなんて、にわかには信じ難い。
ワールドカップとオリンピックとは別物なのだとつくづく思う。だからこそ日本のような新興勢力にもチャンスがあると言えるのだが。
いずれにせよ勝者にふさわしい戦いをしたのはオーストラリアで、この試合はGKで勝ったゲームだった。
コンコン。
「はぁい」
「新垣です」
オートロック、解除。高橋がドアを開ける。
「どったの?」
「紺野さんがケーキ買ってきたんです。四つしかないから高橋さんと小川さんと一緒に食べようって」
「怪我人がなにやってんだか」
だが自由時間の街の散策も断食で筋力の落ちた紺野にはリハビリの一環である。
「よっしゃ、行くべ」
そう言ってバッグからとっておきの酒を取り出す小川。
「酒のみが甘いものも食うのかよ」
「あたしゃ甘党だよ。雪見だいふくにビールなんて最高だね」
うわ、ホントに一緒に食ってるよ。
右手に冷酒、左手にモンブラン、唇に満面の笑みの小川。
呆れる高橋はフルーツケーキに水。本来は夕食後なにも食べないが、さすがに角が立つのでカロリーの低そうなものを選んだ。
新垣はチョコムースにレモンティー、紺野はショートケーキに砂糖入りコーヒー。
「脂肪もだいぶ落ち込んだから食べないといけないんだよね」
「絶食でケガを治す奴なんて初めて見たよ」
「小湊先生が科学的根拠のないことをするなって怒ってましたよ」
「あたしにゃ無理だな。飲まず食わずなら死んだほうがいい」
ふわっ、と紫煙が立ち昇る。小川の口からゆらめくそれに驚く新垣。
「ノドが弱いとか言ってるやつがなにやってんだか」
ルームメートの高橋だけは小川の喫煙の習慣を知っていた。
「だからこれでノドを鍛えてんだよーん」
息を吹きつけ、文字通りけむに巻いた。むせかえる高橋。
ニヤニヤする小川の手からタバコを奪い、同じように小川に煙を吐きつけた。
「人の吸った煙のほうが人体には害なんだからね」
きょとんとする小川、高橋、新垣。
「常習じゃないよ。けど旧帝大の学生だからね、先輩の飲め、吸え、歌えには逆らえないだけ」
新しいマイルドセブンの封を切り、全員が一本ずつ手にする。
「6ドル25セント(約500円、1オーストラリアドルは約80円)もしやがんの。これ、全部税金」
くわえタバコの小川が16本残った箱をちらつかせる。
「嗜好品は課税しやすいですからね」
新垣がまずそうに吸い込み、苦い顔で吐き出す。
「よかった、大学に行ってこんなもん吸うようにならんで」
口にはしない白い線香から立ち昇る煙を揺らして遊ぶ高橋。
「高卒がなんか言ってるわ」
学歴が無意味な世界だからこそ、紺野のようなブラックユーモアがギリギリ通用する。
「小川は大学で覚えたわけ?」
「んにゃ、高校。こんなもんいずれやめられると思ったんだけどな」
「プロでやる気なら今のうちに手を切りなよ」
「プロにゃなんねえ。これが終わったら引退だ」
他の三人はプロだ。二年後を嫌でも意識する。小川はそこにいる自分が想像できない。
「ユニバは?」
「一度登りきった山にゃ興味ない」
「もったいないじゃないですか。他にやりたいことでもあるんですか?」
「特に。こっから先は滝だ、別に死んじまったって構わねえ」
「簡単に死ぬなんて言うなっ!」
それまで黙って話を聞いていた紺野だった。
「なにマジギレてんだよ。例えばの話じゃん」
口先では突っ張る小川だが、明らかに紺野の剣幕に気圧されている。
「冗談でも言っていいことと悪いことがある。酒やヤニならピッチで結果出せば文句言わない。けど、命って、一度失われたら二度と戻って来ないんだから」
高橋新垣が二人を分ける。おっとりした紺野が見せた、初めての激情。
「なんでもっと、今ここにいられることを感謝しないのよ」
「まま、これ飲んで落ち着いて」
「あたしの酒じゃねえか。九千円もすんだぞ」
コップになみなみ注がれたそれを、紺野がきゅーっとあおった。
「紺野、おまえ空手やってたんだって。三角飛び教えろ。キェーッてやりたいんだよ」
「ゴールマウスがひっくり返るべさ」
「高橋さん、この二人どうしましょうか?」
「冷めた視線で観察してあげようね」
アルゼンチンとの決戦前夜、同期の親睦を深めるために開かれたお茶会は、なぜか収拾不能な酒盛りになり果てていた。
同時刻、緊急ミーティングが開かれていたのをこの時の四人は知る由もない。
どういうわけか連絡がいかなかったのだが、それでかえって良かったのかもしれない。
日本五輪代表、分裂の危機を迎えていた。
ミーティングの議題は、言うまでもなくアルゼンチンとどう戦うかだった。
今回のアルゼンチン、登録は21人。オーバーエイジも二人だけ。
欠番になっているのはもちろん10。
「今の我々は10番を必要としない。天才一人のためのチームなど笑止」
監督はそう息巻いたが、ユーゴ戦を見るかぎりでは「10番」ではなく「中盤」のないサッカーをしていた。
ちなみにこの国のサッカー界で最も幅をきかせているのが86年W杯関係者、ついで78年関係者。
五輪チームの監督は78年の優勝メンバーだった。どの国でも似たようなことが起きる。
前半最大のヤマである優勝候補との対決。カメルーンに勝っておきたかったのもこの試合に余裕を持って臨みたかったがため。怒濤の攻めを展開するであろう相手に引いて守りカウンターを狙うしかないだろうと考えていた。
それが揺らぎ始めたのは、あまりにも悪すぎたアルゼンチンの戦いぶりを見て。日本が上にさえ思える中盤でのアイデアの乏しさ、放り込みなら後藤と吉澤で十分対応できる。
なにより適材適所という大前提すら守られていない――日本が最も恐れる若きエース、チャム・サヤカ・イチイ、日本名市井紗耶香が右FWで使われていた。
「前半は相手の出方を見よう。それでもあんな調子なら後半点を取りにいく」
監督が大まかなプランを提示するといの一番に異を唱えたのは出場停止の解けた14番。
「弱気すぎます。あんな相手になに慎重になってるんですか。そういうの、あつものに懲りてなますを吹くって言うんです」
「まあ待て」
145センチのハーフバックが後輩をたしなめる。
「アルゼンチンはスロースターターだ。まず様子を見るほうが賢いだろ」
「二人ともおかしい」
立ち上がったのは3得点のストライカー。
「首位なんだからリスクを犯す必要ない。引き分けで十分だよ」
意見は真っ二つどころか三つに分かれた。
絶対勝ち点3を取りに行こうと強く主張する石川、加護、松浦。前試合不完全燃焼だった若きアタッカーたち。
臨機応変にいこうとする平家監督以下矢口、後藤、柴田、両木村。中盤の、ラテン気質の選手が多い。
点を取られないようにと訴えるのは当然守りの選手。吉澤、保田、戸田、大谷、斎藤、村田らにFW安倍が含まれるのは勝ち点1の重み知っているから。
大国との対戦で手柄を立てるべく野心を燃やす者、長い戦いの一つと受け止める者、特別な思い入れを持って挑む者…温度差があった。
「ゴトーこの試合のためにシドニーに来たんだから負けたくないし、つまんない試合もしたくない」
「ごっちん、うちらのことも考えてくんないかな」
「守備側の人って単にアルゼンチンて名前に負けてるだけじゃないんですか?」
「松浦…そうじゃないよ」
「だいたいあんたらスケベ根性出し過ぎ」
「ちゃいますよ矢口さん。そんなん言われたら悲しいですわ」
「折衷案なんて言えば聞こえはいいけどさ、結局はどっちつかずですよね。それで通用するほどアルゼンチンは甘くないですよ」
「石川…監督に向かってなんて口の聞き方だ」
まずいぞ、こりゃあ。
守備側に加担していた保田が気づいた。
議論を戦わせていたはずが、いつの間にかいがみ合いのような事になっていた。場を束ねるべき平家まで口から泡を飛ばす有り様。
個と個が集まって集団が出来る。集団が一つになるためには様々な努力の積み重ねと長い期間を要する。だがぶち壊すにはたった一つの出来事、数分間あればいい。
もはや冷静な者を探すほうが困難な状況、目を合わせた信田はお手上げとでも言いたげに首を横に振る。
刹那、備え付けの電話が鳴る。近くにいた保田が受話器を取った。
「ハロウ」
「勝ったよーーーーーーーーーーー!」
「…辻?」
シドニーの辻希美だった。
バレーボール全日本女子は女王キューバに高さに圧倒されストレート負けする苦難の船出を迎えたが、今日は拾いまくる粘りのバレーでセットカウント0-2からの大逆転勝利を収めた。しかも、相手はアルゼンチン。
「のの、おめでとなー」
さっきまで目を三角にして吠えていた加護がニコニコと対応する。ピンと張りつめていた空気が緩み、保田がとりあえず胸を撫で下す。。
辻の最大の才能が、崩壊しかけたチームを救った。
17日、早朝――
「あの、後藤真希さんですか?」
「ちげぇよ」
後藤には違いないが下が違う。
うらぶれた生活が、姉譲りの美貌に一種の凄味すら与えていた。
後藤ユウキは南米を中心に雄躍していたエージェントだった。
ケチのつき始めはパートナーとの決別。ケンカ別れだった。若い二人にはありがちなこと。
欧州で成功を収めたパートナーとは対照的に仕事運が目減りし、契約金の二重取りなどの暴挙に出た。
信頼第一の世界であるまじき行為――開店休業状態が続いて一年近い。
姉ちゃん、俺もう疲れた…胸ポケットからは空っぽのタバコ箱。
「あんた、タバコ持ってない?」
「吸いません」
舌を鳴らしたユウキは、隣に居合わせた女性がかつて姉と戦った相手であることに気づかない。
韓国五輪代表GKソン・ソニンは約三年ぶりに舞い戻った日本で祖母と無言の対面を済ませてきたばかりだった。
モロッコとの試合の後、スタッフがあえて隠していた悲報を知らされ、涙の乾かぬうちにシドニーから関空へ。駆け足で対面を済ませ、イタリアとの試合がある今日、赤道を再び越えた。
試合があってよかった。立ち止まったら歩けなくなりそうだった。
「よろしければどうぞ」
ソニンと逆隣に座っていた小柄な背広の男が差し出したマルボロにおずおずと手を伸ばすユウキ。
背広の男、和田薫はテンガロン帽の青年が自国エースに瓜二つであることに気づかないほどある事に気を取られていた。
どこか、いらだっているように見える。
オリンピックは日本でビール片手に見るはずだった。
だが浮世の義理、そしてなにかが起こりそうな予感が彼からお気楽なTV観戦の場を奪った。
また、眠れない日々が始まりそうだった。
ナイトゲームを控えた日本チームが会場入りすると、他会場の結果が続々と入ってきていた。
グループA、米国対モロッコは2-1。韓国にも敗れたモロッコは脱落。
グループBはクウェートがコロンビアを2-1と破る金星。コロンビア脱落。フランスもスペインを3-0と大破、余裕の勝ち抜け。
グループC、ナイジェリア対ルーマニアは3-1でナイジェリア。二勝を上げたナイジェリアはグループ2位以内が確定、豪州とともに決勝トーナメント行きを決めた。
グループDは首位が日本。次いでこれから戦う相手、アルゼンチンが追う。残るイスは、あと五つ。
「ホホホホホ…」
赤い口紅、ラメ入りアイシャドー、毒々しいマニキュア、ミンクの毛皮、ハイヒール…まるでクレタ・ガルボ。そんな女が矢口、石川と親しげに話しているのを紺野と小川が見つけた。紺野、寄っていくなり
「矢口さんのパトロンさんですか?」
「ま、愉快なお嬢さん」
女、小川のグローブをはめた手を見て
「あなたゴールキーパー? 指の骨が砕かれないようお気をつけ遊ばせ。オホホホホ…」
そう言って扇子を広げて立ち去った。
「誰? あのお色気過剰なババア」
ノリカ・アルベルト・マンクーソ。アルゼンチン史上最高とまで言われるレフトバック。
長らく欧州で活躍してきたが現在は古巣ボカに戻っている。今回マットーヤ監督の要請に従い、オーバーエイジの一人として参加した。
最大の武器は左足から放たれる弾丸シュート。左サイドから切り込んでよし、フリーキックを直接狙ってよし、センタリングやサイドチェンジに使ってもよしとオールマイティ。
攻撃力だけではない。アルゼンチンのディフェンダーらしい激しい削りは「ノリカチェック」と呼ばれ、世界各国のFWを震え上がらせてきた。
「気をつけてね」
紺野が挑戦状を叩きつけられた小川を気遣う。紺野は今日もベンチ入りできない。
小川の動きはいい。昨夜のご乱行の残滓は早朝ランニングで汗にして流した。
酔ってはいたが、小川は紺野の怒った顔をはっきりと覚えている。
龍は喉もとの逆さに生えた鱗に触られると怒り狂うという。小川は紺野の逆鱗に触れてしまったのだろう。
エリートの奴らなんて、その思いが今まで小川を支えてきたが、そこには雑草ゆえのひがみもあった。
だがエリートもまた、複雑な思いを抱えながらその場にいるのが昨晩の酒で少し理解できた気がする。
「チャム、日本の人達と会わなくていいんですか?」
FWマサミ・ハピネル・ナガサワは控室に籠ったきりの同胞を気遣う。
昨年のワールドユースMVP。FCバルセロナでも活躍。
若い彼女の経歴で特筆すべきはその出生――静岡県生まれ――元アルゼンチン代表MFの父がヤマハ発動機に所属していた時日本人の母との間に授かった一粒種である。
父の引退とともにアルゼンチンへ。14歳でU17チームに選ばれて以来各年代で主力をつとめ、五輪南米予選でも得点王になったのに肝心の本大会でベテラン、ガブリエル・ヒロミストゥータに控えに追いやられていた。
「マネージャー!」
その脇でゴールキーパーのワカナ・ゴンザレスは携帯電話片手にプロモーションに忙しい。リバープレートきっての人気選手で、ボカ石川とのFK勝負は因縁の対決に花を添えていた。
こと一対一に抜群の強さを発揮、最終ラインへの指示も迅速かつ的確で、難ありとされるこのチームの守りを引き締めるDFのエース。またアルゼンチンのGKらしくPK戦では無敵。
イタリア移籍を熱望する彼女にとってもこの大会は絶好の機会。ユーゴ戦でも再三の危機を防いだように、日本もゼロで抑えるつもりでいる。
「いいんだよ」
チャム・サヤカ・イチイは頬杖をついていた顔をゆっくりもたげた。
不評だった赤毛をやめ、黒髪を肩まで伸ばしたチャム。日亜ハーフの自分とは違い、両親ともに日本人ながらA代表のエースをもつとめる彼女をマサミは心から尊敬している。南米予選でコンビを組めた時は心底喜んだものだ。
しかし目の前のチャムは少しふっくらしていた。調整に失敗したのか。
焦悴しているようにも見受けられる。神経質すぎるくらい繊細なところがある人なのだが…背番号はドリブラーの11。ドリブルは得意でも、チャムは決してドリブラーではない。
日本のスタメンはカメルーン戦に同じ。勝った試合のオーダーをいじらないのはサッカー界の常識。
唯一の例外は矢口とアヤカのポジションを入れ替えたこと。矢口を右FWに出して敵の左DFノリカの上がりを最低限に抑えようとした。
GK小川。DF大谷、後藤、ミカ。MF吉澤、柴田、アヤカ、松浦。FW矢口、安倍、加護。サブは高橋、保田、石川、戸田、木村、斎藤、そして依然戻らない福田。
アルゼンチンは4-3-3、3トップの真ん中にキャプテンのヒロミストゥータ、右にチャム。なぜ左にマサミを置かないかは国内でも議論されるところではある。
絞り込めていないチャムの体に保田が熱い視線を送る。
シャイなチャム、ドイツになかなかなじめず、バイエルンで結果が出せなかった。
顔見知りのプレーヤーを入れれば力を出せるようになるのでは。白羽の矢が立ったのは当時二部だったケルンでプレーしていた元日本代表DF。
自分がチャンピオンチームで戦えたのは市井のお陰、保田はそう言ってはばからない。
だがそのマークにつくのはためらった。互いを知り尽くした仲、足でかき回されたら90分抑え切る自信はない。
ミカちゃん、できるところまでやってみて。保田は祈る気持ちでいた。
ユニフォーム。アルゼンチンが紺色、日本が白のともにセカンドジャージ。
アルゼンチンがあまりに有名なセレスティブランコ(水色と白)の縦縞、日本がスカイブルーのファーストはともに青系統だというので変更を義務づけられた。ちゃんと見比べれば、まず間違えるはずなどないのに。
色も文化だ。虹の七色も青と紫の間の藍色を省き、六色にする地域も少なくない。かと思えばアフリカの試合で黄色とオレンジのチームが戦った例もある。
この試合に関していえば最初からどこか落ち着きがなく、それをいつもと違うユニフォームの色が端的に表していた。
左DFミカ・トッドは元もと左攻撃的MFであり、ワールドユースではウインガーとして出場、得点もマークした。
DFにコンバートされたのは小柄ながら速さと強さ、攻め勝つチームらしい攻撃力を買われてのこと。
このチームの弱点が両サイドの守りにあると言われて久しい。それでも平家は右の大谷とともにミカを使い続けた。攻められた分だけ攻めてくれることを期待して。
平家がミカに対して与えたチャム対策は一つ、外へ追い込むこと。ユーゴ戦のアルゼンチン唯一のゴールは中へ切り込んだチャムが倒されてのPKによるものだった。
左足アウトフロント、アルゼンチンの11番が中へ。白の3番が振り切られる。
後藤が流れる。一対一。パスを出せば中は薄い。それでも挑みかかるチャム。もつれた。日本ボール。
まるで意固地になっているかのように中へ、中へと突破を計るチャム。まるで目の前の5番が誰かも分かっていないようだ。
サヤカ持ち過ぎ。心の中で保田が僚友をたしなめる。悪い癖がもろに出てしまっているチャム。
左サイドの均衡はある程度保たれていた。抜かれるたびにミカが傷つき、ボールを奪うたびに後藤が失望するのと引き換えに。
片や右サイド。ハーフライン近辺、ボールを持ち上がる12番ノリカを矢口、アヤカが囲む。
アヤカが縦を切り、矢口が横を固める。このゾーンで持たれる分にはさして怖くない。怖いのはここから展開された時。
「ハイッ」
サイドチェンジも鮮やかな今日のノリカ。コンパクトなスイングで矢口の頭上を抜けたクロスパスが逆サイドへ。
「柴田!」
背番号10、利き足ではない右のアウトでボールをはたき落とした。
同じレフティーの柴田あゆみ、一気にタテへ。ある程度呼吸は読める。キープレーヤー、ノリカのマークは事実上三人であいつとめる。
加護が抜け出す。中が揃わない。GKの出足を見、左足で浮かす。
ひょい、と柿の実でももぐように空中にあるボールを奪い取った。
上はとおんないよおチビさん。アルゼンチンGKワカナ、余裕の笑み。
ムチのようにしなう長い足で蹴り出すと強い風に乗り直接日本ゴール前に。
「OK!」
小川が両手を振り上げる。アルゼンチンFWも殺到。
骨と骨のきしむ音。小川、背中から叩きつけられるもボールは離さない。
そういうことかよ。
信田の言葉を思い出す。次の試合でお払い箱だと。
腰を狙われた。群がったFW全員がヒザを立ててきた。
結局平家は折衷案を採用。自分の考えを押し通した。
前半はなんとしてもゼロに。出方を見極め、付け入るスキあらば勝負を賭けてみる。ただしリスクは控えて。カメルーンとユーゴスラビアはこの試合と同時進行だが、引き分けさえすれば最終戦にアドバンテージを残せる。もちろん勝てば二位以内を大きく引き寄せるわけで、少なからぬ色気もある。
だが戦術と起用法が矛盾しているのに若い指揮官は気づかない。
前半守りきるつもりならなぜ守備的な保田を先に使わないのか。
誰もが首をかしげる事象がまかり通る、一般社会にもままあることではある。
「トッド! コース切れ!」
ミカを引きずり、またも中に切り込むチャム・イチイ。斜めから入るドリブルに後藤がスライディングをかける。
飛んでかわすチャム。が、高さが足りない。わずかに後藤のスパイクが足をとらえ、着地でバランスを崩した。
小川が飛び出した。体に当てやがれ。
スライド。横倒しになる小川、立ち上がり、角度のない場所へ追い詰めた。後藤、戻った吉澤もゴール前を固める。
至近距離、右足で狙う。ごうん、という風の音が小川の耳を鳴らす。
サイドネットが揺れた――外側から。
へっ、枠に飛ばねえシュートが入るかよ。立ち上がり、ボールを拾い上げる。
手のひらから、落ちた。
小川の手が、小刻みに震えていた。
いちーちゃん、なにやってんのさ。
期待していたユーフォリアがチャムから伝わってこないことに後藤のフラストレーションが蓄積される。
確かに目の前にいるのは優秀なアタッカー。それは認める。
でもそれだけじゃん。
いちーちゃんのほんとの力、そんなもんじゃないだろ。
もっと、マジになってよ。
全然たんない。
あたしの背中、ずわーって、泡がいっぱい立つくらいすごいの見せつけてよ。できるだろ?
後藤と同じことを保田も感じている。他の選手はその技だけで翻弄されている感があるが、フィニッシュのキレの無さは隠し切れない。今のシュートも小川の手を弾き飛ばすぐらいはできたはず。
バイオリズム? いや、気分屋の後藤とは違う。浮き沈みのなさも彼女の魅力のはず。
戻る足並みも思い11番の背中に問いかける。
なにがあったんだ、サヤカ。ドイツで別れた時のあんたは、まるで悪魔みたいだったのに。
吉澤は少し違う。
市井紗耶香と比較されることで鍛えられた彼女は、本家を越えるためには勝利を上げることしかないと考える。この場合の勝利とは、ゼロ。
チャムには何の恨みもないが市井は殺してやりたいくらい憎い。泣きが入るまで削り倒してやりたい。
だが自分がサイドに寄ればチームのバランスが崩れる。
だから、まずは無失点。
あたしはあんたのコピーじゃない、吉澤ひとみだ。その言葉を突きつけてやるために。
矢口はそれどころではない。ショルダーチャージに転がされた。
「ごめんあさぁせ」
チームメートに対してもえげつないぜ、今日のノリカ。
12番のノリカ、13番のヒロミストゥータ。オーバーエイジ二人が補欠の背番号を付けているのは、このチームが23歳以下の選手中心のチームだからと、恐妻家で知られるマサタカ・マットーヤ監督は説いた。
だがふたを開けてみれば、チームはペロンとエビータのようなこの二人を中心に回っていた。ノリカの腰巾着のようなGKワカナはともかく、チャムやマサミのような実力者が冷や飯を食わされていた。
そこには、日系人への差別がある。
アルゼンチンは白色人種がマジョリティ、ついでインディオ、わずかな黒人、そしてパーセンテージにも表れない移民たち。
マサミはハーフ、チャムに至っては血族的には生粋の日本人だ。肌の色、そしてサッカーのヘタクソなハポネ――二重の差別があった。
マラドーナとラモン・ディアスのようにブラジルをズタズタに切り刻んだ――しかも仲はすごぶるよい――片羽を失ったチャムは、ノリカに向けて怒りを爆発させた。年寄りはいらないと。
ノリカも応戦した、女は25過ぎてから。
アルゼンチンのセンターフォワード、ヒロミストゥータにはりつく吉澤。ゴールに背を向ける相手に厳しく寄せる。振り向かせたらおしまいだ。
腕が伸びた。負けずに食らいつく。倒した。奪った。笛鳴った。
「どーして?!」
「完全ファウルじゃん」
後藤にたしなめられる。
「全員戻れ! 八枚! 後藤、松浦と代われ! 吉澤その左!」
小川が二つのポストの間を行き来しながら壁を修正してゆく。
いつになく丁寧に指示を出す虎の視線の先には、猛獣遣いがいる。その左足に二匹のけだものを宿したノリカが。
「コンドルとサイドワインダー(ガラガラヘビ)?」
矢口に呼び出された高橋と小川の横顔に照明とゴールネットの影が揺れる。
「ノリカのFKは柴田より鋭く落ちるドライブと石川より速いストレートの2タイプがある」
その二人を前に言い切る矢口に石川も同調する。
「しかもそれが、まったく同じフォームで襲ってくる。違うのは蹴るポイントだけでね」
「獲物を求めて空から急降下するコンドル、砂漠をうねるサイドワインダーとを飼い慣らす左足、アルゼンチンの人はノリカの左足をそう呼ぶんだ」
人工壁をはさみ、ゴールマウスに高橋、ボールの前に石川と柴田。
「ノリカは絶対自信のあるコースしか狙わない。曲げるなら右上、真っすぐなら左下」
二人同時に走り出す。柴田が先。高橋が右足に体重を乗せる。空振り。石川の右足がネットを揺する。
「見極めてから飛べ!」
とはいえ反応が一瞬でも遅れたら間に合わない。
「次、小川!」
すっかり打ちのめされた高橋と入れ違いに構える。
石川が先。左に飛ぶ。柴田のキックが壁を越えた。
「PKじゃねえんだ、ヤマをかけて飛ぶな!」
両GKはさんざしごかれた、日本で、オーストラリアで。
ノリカが小刻みなステップでボールとの距離を縮めていく。矢口はその真後ろに立ち、インパクトの瞬間を待つ。左足インサイド。
「右!」
小川の足に力がこもる。コースは体が覚えている。声を信じ、思い切り良く飛んだ。
イメージ通りの軌跡に、想像以上の速度で走り込むボール。ぴんと伸ばした指先をかすめる。鋭いスピンがかかっているだけあり、少し触れるだけでも大きく動きが変わる。クロスバーのはるか上に消えた。
「うおおっし!」
虎の爪がコンドルの羽をへし折った。
小首をかしげる姿もセクシーさ、今日のノリカ。
「攻められっぱなしじゃねえかよ」
「前線でボールキープできる選手がいねえんだよ、松浦は何やってんだよ」
「矢口も引きすぎなんじゃねえのか?なんかプレーが縮こまってんな」
「つーか石川出せよ、攻撃ができねえじゃねえかよ」
「アルゼンチンの11番がすげーな、抜きまくってくるな」
「小川が絶好調じゃねえか、好セーブ連発だよ」
「吉澤がいるのかいねえのかわかんねえな、いつもみたいに上がってこねえのか?」
「おい、吉澤のファウルだ、嫌な位置だな」
「相手はアルゼンチンだぜ?先制されたら終わりだって」
「止めろよ小川・・・」
よし。よくやった小川、矢口。平家が立ち上がってガッツポーズ。その脇で石川と高橋も笑顔を向け合う。
「加護!」
この日初めてコーチャーズボックスに立ち、守備の修正点など細かい指示を与える。特に前線からのチェックを徹底的に、と。
再びベンチに座る。ふと、古傷の左膝をさすっている自分に気づく。うずくのだ。
こんなことが以前にもあった。アジア最終予選のマレーシア、雨の日の練習前のこと。その練習で負傷した松浦は残り試合に出られなくなった。
飯田の時も、紺野の時も。
そんなアホな。否定する前に、背中が小さく震えた。
ガスンッ。鈍い音はゴール裏の集音マイクが拾うほどでかかった。
体の真芯を貫くかのごとき衝撃が小川を襲った。苦痛に声も出ず、ひれ伏してもがくばかり。息もできない。
コーナーに飛び出したキーパーにヒロミストゥータが膝蹴りをお見舞いしたのだ。
GKも横から襲われたのならももを上げてガードすることもできる。だが背後から骨盤の辺りを狙われたのならまず防ぎようがない。
ヒロミ、涼しい顔をしている。そっちは手を使える、これくらいはハンデキャップくれないとね。それが世界標準のFWが持つ思考だ。彼が悪いのではない。
「高橋、アップ!」
弾かれるようにベンチを立つ高橋。第二キーパーが出番を得るには正キーパーが不調に陥るかアクシデントに遭うしかない。
体を、心を温めていく。
「マコト、立て! 立つんだ!」
保田が叫ぶ。
苦痛に顔を歪めながら小川がゆっくり立ち上がった。
ほー…高橋が安堵しながらも無念そうにベンチに引き返す。
それ以上に不安から解き放たれたのが平家だ。悪い予感はとりあえず外れた。
しかしすぐ顔を引き締め、叫ぶ。
「保田、石川、軽くアップ」
前半も残りわずか。しかしミカの顔はうつろ、攻めは形にならない。
「引いてー」
後藤がDFラインに指示を出す。中盤にプレスがかかっていない。
後藤自身もうこの試合に抱いていた期待が裏切られつつあるのに気づきつつあった。
技術は高いが、緩急もアイデアもない。凡百のFWになり果てたチャムに失望すら覚えた。
足がワラのようになったミカを振り切り、もう何度目になるか分からない中央突破を計ったチャム。
どこ見てんのさ、いちーちゃん。
上の空でサッカーをしているようにさえ見える親友にもはや後藤は遠慮しない。
身体能力の差に任せ、足を伸ばしてボールを奪い去るとそのまま上がる。チャムが追う。
アルゼンチンの選手を蔑む時に、アニマルという表現を使う。とにかく、すぐに手が出る印象が強い。
相手の退場を誘うずるさと同時に、同じような誘いに乗って自滅する脆さ――それがアルゼンチンのもう一つの顔、熱くなりすぎるラテンの血。
チャム・サヤカ・イチイこと市井紗耶香の体にはラテンの血は一滴も流れてはいない。その代わり彼女には繊細すぎるくらい繊細なところがある。
繊細の裏返しだったのか、その暴挙は。
後藤を追った、そこまではよい。
ただそのタックルが狙いを定めたのは、ボールとは程遠いところにある後藤の右膝だった。
「わあーっ!」
この世のものとは思えない絶叫に、ずり下げたソックスにすね当てを入れていた保田が振り向いた。11番のマークという仕事を与えられ、あとはGOサインを待つばかりだった。
なにが起きたの? 隣の石川をつかまえ、事実を聞き出すと目の前が真っ暗になった。
サヤカ、なんで、どうして?
にじんだ視線に映るもの――右膝を押さえ苦悶する後藤、その足元で大きなバツを出す小湊ドクター、チャムの頭上にかざされるレッドカード、そのチャムを胸で突き飛ばし罵声を浴びせた矢口にもイエローカード。
終わった。前半39分だった。
「あ…交代です」
スタンドの新垣が小さくつぶやく。タンカに乗せられた後藤が外に運び出され、代わりにろくに体もあたためていない15番の戸田が入る。
本来はボランチの選手。それがそのまま最終ラインの中央に入ってゆく。
隣の紺野はチームメートの戸田がDFで使われるジレンマを口にしていたのを聞いたことがある。私さえケガしなければ――右足を悲しそうに見やる。
やってもうた――その真下で平家も紺野とは反対のヒザを恨めしげに見つめた。
後半保田を投入、守りを固め後藤の攻め上がりに全てを託すゲームプランが崩れ去ってしまった。
自身への警告に対しなおも主審に食い下がる矢口を周りが止める。これ以上無用な行為を続ければ日本まで10人で戦うことになる。怒りのはけ口が見つけられない矢口。
一方チャムは静かにピッチの外へ出た。手は腰に、下を向き、残る誰とも言葉を交さずに。ベンチのマットーヤ監督も傷心のエースを黙殺した。
「チャム」
ただ一人、マサミだけが気遣って出迎えた。
疲れ切った顔を上げたチャム、首を横に振った。一人にしてくれとでも言いたげに。
ともに中軸となる選手を失った両チーム、そこはかとなく緩んだ空気が流れる。
そこにつけ込むのがベテランの、そして強者のしたたかさだ。
松浦へのパスを遮ったノリカ、そのまま持ち上がる。電車道、木村アヤカが後退するしかない。
アヤカの背後を大谷がカバー、後ろからは矢口、ノリカをはさみ打ち。
ノリカ中央へ。矢口が背後から追う。
「矢口さん!」
遅かった。呼応するようにサイドへ流れたヒロミストゥータについていた吉澤の腹に、矢口の頭がめりこむ。
最も危険な二人が、ゴール前でフリーになってしまった。
コースは分かりきっている。それでも小川はギリギリまで待つ。先に動いて逆を突かれぬよう。
ノリカ、思う存分左足を振るう。インステップ、サイドワインダー。
ガラガラヘビがやってくる、お腹を空かせてやってくる。
拳を握り固める小川。まともに受けて腕ごと持っていかれたGKが大勢いる。
強く、できれば外へ。
低く飛ぶ。軌跡と直角に伸びた左ストレートがボールを捕らえる。虎の牙がガラガラヘビの頭と胴を絶った。
だがヘビは頭を切り離されてなお動く生命力を持つ。
勢いの死にきらないシュートがポストにはね返り、高く舞い上がった。
青が飛んだ。
守備はほとんどしない。スピードも確実に衰えている。
それでも彼が祖国の英雄と呼ばれるのは、ゴール前での抜群の強さあってのこと。ガブリエル・ヒロミストゥータ。
明らかに動きの固い戸田を押しのけ、確実に頭で落とし込む。
アルゼンチン先制。日本初失点。
「く…!」
何もできなかった小川が倒れたまま芝をむしる。あと数センチ外へ出せてればコーナーになったのに。
「立って、みんな!」
安倍が仲間を促す。
が、笛が吹かれた。
前半終了。日本、ビハインドを背負ってのハーフタイム。
守りきるはずだった前半、それもロスタイムに失点。成熟したチームのやることではない。
「ゴーデース!」
ゴールの女神(Godess)に感謝するヒロミの叫びを聞きながらうなだれて引き上げる若き日本イレブン。
が、最も青さを露呈してしまったのは皮肉にもベテランの矢口。失点の原因を作ってしまったのみならず、累積警告で次の試合には出られない。
「矢口」
その背中を捕まえたのは保田。マークすべきチャムの退場で、自身の出場の可能性はほぼなくなっていた。
「なにやってんだ、あんた」
「しょうがないじゃん、全部あたしのせいかよ」
「そうだよ」
保田は容赦ない。
「どうしてあの後、サヤカに飛びかかっていったのさ。あれでサヤカ、後藤に謝るチャンスをなくしたんだよ。後藤だけじゃない、サヤカがどれだけ、うちらとやれるかを楽しみにしてたか、分からないあんたじゃないだろうに」
悔しげに下唇を噛みしめる矢口を見やりながら、実のところ保田が一番責めたいのは自分自身だった。
後藤、チャム、ミカ、戸田、矢口に紺野も…もし自分が最初から出ていれば、誰も傷つくことはなかった。
「姉貴!」
男がなかば違法侵入して医務室を訪れた時、後藤はベッドに仰向けになっていた。顔にはタオルをかぶせ、立てた膝にはとりあえずのアイシングが。
「…ユウキ?」
姉が弟の名を呼ぶ。ずいぶんさまにならない再会の姿だ。
ユウキには針のムシロ。実姉をこんなにしたのは自分の元パートナーなのだから。
すべてを察して、後藤がつぶやく。
「あれは、わざとじゃないよ。あたしには分かる」
「姉ちゃん」
「それよかあんた、日本に帰んな。お父さんに線香も手向けてないだろ。お母さんも心配してっから」
後半10分過ぎ、一人少ないアルゼンチンが動く。
左のウイングを下げ、守備的MFを投入。
もう守り固めかよ。首を傾げる吉澤、ベンチに指示を仰ぐ。
当然、攻めろ! の声。
だがとっかかりが見つからない。矢口や柴田が遠目から狙うもGKワカナのセーブに遭う。
アルゼンチンは中央が弱そうだ。安倍や松浦がドリブルで突っかけるが人の波に押し流される。
くっそう。ゴールに背を向けるヒロミがいまいましい。5分しか仕事をしないストライカーに90分つかなきゃなんないなんて。
平家も闇雲にけしかけるだけではない、ちゃんと撃つべき手は考えている。スーパーサブの投入だ。
14番が、エースの石川梨華がパンツにシャツの裾をしまう。
この大会、予選ではコマ不足のFWで使うと言われていた。手詰まりしたらサイド、がサッカーの常套手段。試合に出られりゃポジションはどこだっていい。
「石川!」
平家に呼ばれる。そして、指示を受ける。
「え?!」
「なんだ?」
「い、いえ」
マジかよ…絶句する石川。ほとんど上の空で説明を聞く。
交代を申請、タッチライン沿いに立つ。
第四審の持つカードに表示された数字は、8。
あたし? 信じられない、という顔をしたのは矢口本人だけではない、ピッチもスタッフもだ。
攻撃にはなかなか絡めないでいたが、ノリカへのフォアチェックという意味合いではまずまずの成果をあげていたし、まだまだ持ち前のスタミナにかげりは見られなかった。
むしるその背後の木村アヤカが、時折立ち止まり、苦しそうにうめいていた。
アヤカを下げ石川投入、矢口を右ハーフに下げて石川のケツをひっぱたかせる。それが当然だろうと。
無論平家もそれを真っ先に考えた。
だが前半終了間際、矢口はカメルーン戦に続いての警告を受けた。ユーゴスラビア戦には出られない。
恐らくアヤカと石川で組むであろう右サイド、その予行演習をと考えた。
まだアルゼンチンとのゲームが終わってないというのに、眼の端で次の試合を追ってしまった。
まぎれもない采配ミス、平家もまた監督としては青かった。
とにかく、矢口は石川とすれ違いにピッチを出た。
明らかに不満の残る目で平家を見、白のユニフォームを投げ捨てた。
そして、平家が自分のミスに気づくのは間もなくのこと。
ついにアヤカが動けなくなった。ノリカにいいようにスペースを与え、攻撃のために入れたはずの石川がそのフォローに走り回る始末。
たまらず、木村麻美を呼びつける。
後半半ば過ぎ、平家は最後のカードを切らざるを得なくなった。
後藤を戸田に、矢口を石川に、木村アヤカを木村麻美に。
ベンチワークは、もう、しっちゃかめっちゃかだった。
残り20分をゆうに残し、ピッチに立つ11人には一人の脱落者も許されなくなった日本。
たとえそれが、ゴールキーパーであっても。
アルゼンチンの「リンチ」が始まった。標的はもちろん、日本の最後尾。
MFが浅い位置からのクロスをヒロミに合わせる。小川が腕を伸ばしきったところへ、膝が入る。
「げえっ」
うずくまり、それでもボールはこぼさない。熱く酸いものが喉にまでせり上がる。
九千円、九千円。昨日の酒の値段を必死に唱えると不思議とそれが収まった。恐るべし、貧乏症。
「もっとちゃんとファウルをとってもらえませんか?」
キャプテンとして抗議する吉澤を小川が止める。
「見えねえようなやってるに決まってんだろ。それより、早く点、取ってくれよ」
攻撃をもって攻撃を制す、それまで力をためていたかのような石川の激しさにノリカが防戦一方に。
「松浦!」
センタリング。ワカナと松浦が競る。こぼれは加護。左ポストに嫌われる。
松浦は戻らない。点を取ろうとする意識が高いあまり安倍とポジションが重なり、存在を消し合ってしまっていた。
いいよ松浦。そんなに攻めたいなら思う存分攻めたらいい。
安倍が自分の判断で、ポジションを松浦の位置にまで引き下げた。
試合も終盤になってようやくエンジンのかかった選手もいる。吉澤だ。
カメルーン戦ではオーバーエイジに遠慮し、この試合も相手エースとの因縁に縛られ試合をコントロールするには至らない。
だがチャムも後藤も保田も矢口もいなくなって、ようやく自分がなんとかしなければという気持ちが芽生え始めた。
アジア予選の、圧倒的な存在感を見せつけた吉澤に戻りつつあった。
ヒロミストゥータの背中に膝蹴りをいきなり一発。フニフニとその場に崩れるヒロミ。小川への仕打ちの仕返しのような行為に、主審がイエローカードを手にした。
「吉澤、熱くなるな」
ようやくフィットしてきた戸田が吉澤の行為をたしなめる。
吉澤は冷静だった。あわてたのは敵のベンチ。エースを予選で使いものにならなくされたらたまらない、すぐに控えのFWを準備させる。壊されてもいい選手を。
逃げ腰のアルゼンチンに腹が立っていた吉澤。勝負にこだわる姿勢は正しい。けど、それって世界の強豪の戦い方? その臆病さが命取りだ。
アルゼンチン、ガブリエル・ヒロミストゥータが下がり、7番、マサミ・ハピネル・ナガサワが入った。
「戸田、7見ろ!」
言われなくともマサミにつく。
制服のように着こなしたユニフォームからもまじめそうな雰囲気が伝わってきて、DFとしては考えが読みやすい。少なくとも百戦練磨のヒロミストゥータほど怖くはない。
利き足の左でシュート、戸田の足に当ててコーナーを取りにいく。
「OK牧場!」
親指を立てる小川。なんと鼻歌混じり。あれだけ蹴られまくったというに…その頑丈さに恐れ入る。
コーナーにも上がって来ないアルゼンチン。ノリカもハーフラインに。
マサミのキックを両手でつかむ小川。
「石川!」
右サイドへ投げ放つ。
石川が押す、押す、押し切る。
木村麻美がサポートする。その木村との壁パス、センターDFを置き去りにしてGKと一対一に。
そんなに重たそうな毬二つも下げてんだ、これはやんねえ。
右足、至近距離からの一撃はワカナの大きな乳房へ。不完全なパンチを弾き、右ポストを打ち鳴らした。
逆サイドへのルーズボールを加護が中央へ。松浦がジャンピングハイボレーでミート。これまたクロスバーに嫌われた。
アルゼンチン、クリア。日本ベンチからため息が漏れ聞こえた。
センターサークル付近、吉澤が拾った。まだ、終わっていない。
吉澤に併走するマサミ。このFWは守備もする。
吉澤、長い腕でブロック。チャージにいったマサミがすっ転ぶ。
ファウルだ。一斉に足を止めてしまうアルゼンチン。
が、笛は鳴らない。つっかけたマサミが勝手に転んだという判定。
吉澤は足を止めなかった。ルックアップ、前方に一人、集中を途切らせてないFWを発見。
右足が梓弓のようにしなう。
運命のロングパス、50メートル先の安倍なつみへ。
ノリカと安倍の陣取り合戦。ノリカが胸を張り、安倍が肱を曲げる。
同時に飛んだ。腕を広げた安倍が空中で粘る。
崩れるノリカ、持ちこたえる安倍。だが三人のフォワードが一人としてフリーにはなれていない。
自らの足元に落とした。派手に尻餅をつくノリカを尻目に安倍、ペナルティエリアに侵入。
かわしにかかる安倍の足をGKワカナの手が引き倒した。
けたたましいホイッスル。スポットを指す主審の指。
「なっち?!」
平家の背筋に冷たいものが走る。
仰向けに倒れた安倍の右手が、真っすぐにVサインをかざした。
「大丈夫ですか?」
石川が自らペナルティキックを蹴ると言い出した安倍を気遣う。
無言の笑顔で答える安倍。
スネ当ての裏に小さく記した二つの名前、飯田圭織と福田明日香。口にはせずとも胸に期するところはある。
カオリの分まで、福ちゃんが帰ってくるまで。
二人の魂が乗り移ったようなヘッドとドリブルでゲットしたPK、誰にも任せられない。
イエローを食らったワカナにも動揺したところは見受けられない。
止めたらヒーローの座は自分のものだし、PKストップは得意中の得意だ。
腰に手を当てた安倍、ニュートラルに構えたワカナ。その距離11メーター。
安倍が猛ダッシュ、右足インステップ。
キーパーは軸足の向いた方向に左手を伸ばし、触れた。
勝利を確信したはずのワカナの顔が苦痛に歪む。
痛んだ指から、力が急速に抜けていった。
ネットを揺さぶる音で、安倍は自らの存在を証明してみせた。
This
is ストライカー。得点王を独走する安倍なつみの4点目は、日本をガケッ淵からすくい上げる同点ゴールだった。
まさかの同点にマットーヤ監督、怒り心頭。
ウイングに出たノリカが大谷をぶっちぎって中に。シュートの構えに小川が身を固める。鳥? ヘビ?
インフロントでもインステップでもない、アウトフロント。ゴールから逃げるボールがマサミの左足に合う。逆サイドめがけて、渾身の力で振り抜いた。
やられた、うつむく日本。
これ以上ないほど強く芝を蹴り、腕を伸ばし、つかんで地に叩きつけた。伸び切った体は受け身も取れない。
マサミが下唇をかむ。足元にではなく手前にもらい、滑り込んでニアを抜きたかった。チャムならそうしてくれたはず。
1-1。青と白が幾重にも交錯した緑のカンバスの上には、泥のように疲れ果てた21人が取り残された。引き分け、いや、どちらも勝てなかった。
「さ、あいさつに行こ」
キャプテン吉澤が動けないでいる仲間を促す。チームの今後を考えればこのドローは大きい。
しかしその吉澤にしても、この次を考えると気が重い。
矢口は出られないし後藤の負傷は相当ダメージがでかそうだ。攻守の要として彼女にかかる負担は一層増大するだろう。
それでも今日はこの結果を素直に受け止めよう。
「せーの…ありがとうございました!」
日本1−1アルゼンチン
SH 10−19
GK 小川
DF 大谷
ミカ
後藤(前40戸田)
MF 吉澤
松浦
柴田
木村ア(後29木村麻)
FW 安倍
矢口(後22石川)
加護
得点
前44 ア ヒロミストゥータ
後38 日 安倍(PK)
警告・退場
チャム(退・前39・ラフプレー)矢口(警・前39・相手選手への暴行)吉澤(警・後34・ラフプレー)
Woman
of the match
吉澤ひとみ(日本)
試合終了後、アルゼンチン控室。
逆立ちをしくじった角兵衛獅子をぶつようにマサミを怒鳴り倒すマットーヤ監督。勝ち試合を落としたチームは戦犯を必要としていた。
鬼嫁として知られる彼の細君は、もし日本に勝てないようなことがあれば彼の秘めた性癖――自慰行為を好む、つまりオナニスト――を公表すると彼に釘を刺していた。
もうおしまいだ、自暴自棄になり、ついに手を上げた。乾いた音が何度も響く。
さらしものになるマサミ、完全に壊れ崩れ去ったチームの末期の姿だった。
打たれるがままのマサミをかばった者がある。チャムだった。
ああ、もうどうだっていいや。半ばヤケだった。
恐らく自分も代表を半永久的に追われることになるだろう。もっと上に掛け合えばなんとかなるだろうが、そこまでして続けたいものでもない、サッカーそのものを奪われるわけではないのだから。
あたしって、本当、代表に縁がない。
日本人、日本人、日本人! ついに本性を表したマットーヤ、チャムにも手を上げようとする。
その手を押し止めたのはノリカ。
「あれは、アベに競り負けた私の責任だ」
「ほんと、あんたは頑丈だね」
「あたしを壊したいんならミサイルにマシンガンでも持って来いってんだ」
力こぶを作ってみせる小川。さんざ蹴られまくったのが嘘のようにピンピンしている。
横目で信田をにらむ。どうだよ、と。
他に話題が移ってから小声で保田に
「トイレってどこ?」
「出て左に曲がって突き当たり」
「連れてって。オバケが怖いの」
「なに言ってんだよそのツラで」
「あんたに言われたくないよ。頼む」
言い回しにただならぬものを感じ、やむなく連れて行く保田。
角を折れたところで異変は起きた。
「いてぇーっ!」
ユニフォーム、腹巻き、肌着をたくしあげるとすさまじい事態になっていた。
スパイクの形についたアザは無数に走り、ミミズ腫れが縦横に走る。熱を持った腰をさする保田。
「いてえ、いてえよお、姉ちゃん、助けて」
緊張の糸が切れ、汗が滝のように顔を伝う。ここまで傷めつけられて、それでも仕返さなった。
「なんだってそこまで我慢したの」
「だって、終わる、終わっちまう」
うなされながらそれを繰り返す。
苦痛に気を失ってしまえればどんなに幸せだったろう。だがそれすら許されなかった。
試合の終わりは、地獄の始まりだった。
「後藤は?」
病院から帰った付き添いの稲葉が
「膝の皿にヒビが入ってる。精密検査はこれから。精神的には安定してる」
まさか、こんな結末が待ち受けているだなんて。
「小川は?」
「小湊先生に麻酔打ってもらって、やっと寝た」
己の体を楯にするプレースタイルを貫いた。それが選手生命を自ら削る行いと知りながら。
「うなされてるって。終わる、終わるって」
「キーパーがケツ向けたらおしまいさ」
信田だった。
「ハーフが抜かれてもバックがいる。バックが抜かれてもキーパーがいる。でもキーパーの後ろにゃ誰もいないからね」
違った。
終わりとは、彼女の高校最後の試合。
みんな足がつってPKを蹴れない。だから小川は自ら歩み出て、思い切り蹴った。ボールは空に消えた。
泣きじゃくる小川をみんなが慰めた。負けた悔しさより、もうこいつらと一緒にいられない悲しさに涙が止まらなかった。
敗者には何も残らないことをこの時肌で感じたのだった。
小さい頃から、まるで本当の兄弟のようにつるんできた友達との関係が終わってしまった、しかもその引き金を引いてしまったのは自分だったのが情けなくてしかたなかった。
昨晩のバカ騒ぎが本当に楽しかった。あそこまで自分を解放できたのは久しぶりだった。
無慈非な削りをこらえることができたのは、ケガの紺野やベンチに控える高橋やベンチにも入れない新垣の顔が頭をかすめたから。
自分が短気を起こせばすべてパーになっちまう。
彼女達は仲間。たまたまサッカーの才能に恵まれ、日の丸という旗のもとに集った。
だから試合中に体が痛むとブルース・スプリングティーンのBoan
in the USAを文字った歌を口ずさみ、自らを鼓舞した。
日本に生まれた、日本で生まれちまったよ、と。
「予選突破は間違いねーよな」
「アルゼンチン相手に引き分けとはよ、日本つえーよ」
「カメルーンとユーゴの結果はでたのか?」
「後藤大丈夫かなあ、次の試合は後藤なしかな」
「矢口もいねーって、それにしてもアルゼンチンの11番なめてんな」
「市井だろ?あいつ元日本代表だぜ、確か」
「マジかよ!めっちゃ巧かったじゃねーか!!なんでアルゼンチンでやってんだよ!!」
「石川はやっぱうめーよ、あいつのプレーは何かを期待させる」
「つーかメダル獲れるって、日本は確実に強くなってるよ」
「いちーちゃん、来ないかなあ」
キャンベラ市内の病院では、まるでサンタクロースを待つかのような無邪気さで後藤が市井を待っていた。
「来るわけねえじゃん」
ユウキが悪態をつく。その頭にティッシュの箱を投げつけた。
「あんたに決められたくないね」
「自分の足ケガさせたようなやつになに期待してんだよ」
「あれは事故だもん」
「だからその根拠はどこにあんだって」
「あたしがそう信じてるから」
つきあってらんねえ。ユウキがため息をついた。
後藤が一晩待ってもチャムは来なかった。
祖母へのレクイエム――韓国の決勝トーナメント行き決定をメディアはこう報じた。
すごい試合だったらしい。雨あられと降り注ぐイタリアのシュートをGKソニンがことごとく封じ、間隙を縫って韓国が先行。カテナチオからのカウンターというお家芸を奪われたイタリアは完全にリズムを崩し、焦りからカウンター、の悪循環…3-0という信じられないスコアを残し、腐ったトマトの雨の降る母国への強制帰還が現実味を帯びてきた。
なぜならモロッコに2-1で勝った米国は最終戦で韓国に引き分ければ、二位での勝ち抜けが確実になったからだ。
勝ち抜けを決めたのは豪州、韓国、ナイジェリア、フランス。フランスはともかくW杯予選敗退の常連やらW杯にすら出られない国やら…ナイジェリアにしてもここ10年で力をつけたチーム。
ブラジル、イタリア、アルゼンチン…敗退決定、もしくは瀕死のチームのほうがよほど豪華だ。
矢口が英字新聞を読むのを横から覗きこむ加護。英語はさっぱりだがサッカーの記事ぐらいは分かる。
「ワールドカップとオリンピックはやっぱ別物なんだな」
「ほんまにそうなんですかね」
口をはさむ加護。
「サッカーは死んだんちゃいますか?」
ニーチェは言った、神は死んだ。
レニー・クラヴィッツは歌った、ロックンロールは死んだ。
そして加護亜依も言ってしまった。サッカーは死んだのだと。
「あんた、怖いこと言うね」
「ちゃいますよ。もう大国が当たり前に勝つ時代やないいうことですよ」
ニーチェやレニーが否定したのは神やロックそのものではなく、それにまつわる幻想のほうだ。
強い国が勝つんじゃない、勝った国が強いんだ。そんな当然の世界に、サッカーもようやくなったのだと。
そしてそれを象徴するのが、10年足らずで爆発的な進歩を遂げた日本サッカーかもしれない。
そしてその日本の予選最後の相手がカメルーンを4-1で破ったユーゴスラビア。唯一勝ち抜けチームの出ていないグループDは勝ち点4の得失点差+3の日本、同じく勝ち点4で+1のアルゼンチン、勝ち点3の+2ユーゴに可能性がある。日本はユーゴに分ければ勝ち抜けが決まる。
だが不気味なのがユーゴの大ベテラン、長年名古屋グランパスでプレーするFWドラガン・オカムラビッチのコメント。
「後藤が出ぇへん? なら安倍しかおらん。あとはカスばかりや」
そして、これも当然の摂理か。マットーヤ・アルゼンチン監督が解任さるた。後任は未定。
「部屋。変えてもらいたいんですけど」
予選最終戦の会場であるメルボルンに移動した夕方のこと、赤い目でそう訴えた高橋。ここ二晩ろくに寝てない、小川が夜中に頻繁にトイレに起きるのが気になるのだとか。
下痢が止まらないのだ。腰へのダメージが内臓をも蝕んでいた。ベッドに戻ってもうわごとが一晩中続く。
それでも平家はユーゴ戦のGKを誰でいくか明言を避けていた。理由は簡単で、前の試合に引き分けてしまったからだ。なるたけオーダーはいじるたくない。
小川の回復を祈りつつも高橋のコンディションも上げたい、相部屋は限界だった。
「あんたなんだ」
意外そうに顔を上げる小川はやつれ、目だけが以前にも増して鋭い眼光を放つ。
ケガをした者同士、紺野なら小川の気持ちを分かってやれると踏んだのだ。
「そんなに痛いの?」
「いっそ殺してくれって言いたい」
「じゃ、死ねば? 生きようとする望みを捨てた動物は名医にも治せない」
「誰が望み捨てたって」
「出てえけど」
「監督が高橋を選んでくれれば幸いだ、チームのために身を引くなんてバレバレの嘘はつけない、でしょ」
ぐうの音も出ない小川。
「本当に出たいんならどうして味方もだます、くらい考えないの?」
天国と地獄を分ける大一番の前日。午前行われた紅白戦に小川、そしてケガ以来初めて紺野が出場した。
そんなには良くない。小川は腰の状態をそう告げた。
紺野の筋肉はほぼ元通り。あとは鈍った勝負勘をどの程度まで取り戻せるか。
ともにBチームに入った二人、まずまずのプレーを見せる。
小川はキャンベラから移動する時歩く事すらできず、保田におぶさっていたのが嘘のように軽快な動きを見せる。
紺野は積極的にボールを奪う姿が目を引いた。攻め上がりは一切見せず、できることからコツコツ積み上げる彼女の性格がよく表れていた。
「聞いたことないよ、そんなの」
気でも狂ったのか。練習試合のために麻酔を打ってくれだなんて。
「どうしても必要なんだ。紅白戦でいいとこ見せらんないと明日使ってもらえねえ」
「断る」
「…でしょうね」
予想通り、と言わんばかりに首を振る紺野。
「しょうがないね。あれをやるしかないか」
「マジかよ。頭おかしくなんねえか?」
不穏な会話に小湊は耳がダンボに。
「なにをやらかす気なの」
「実は獣医学部の先輩に頼んで馬用の麻酔を航空便で送ってもらったんです。それを希釈して腰に打ってみようかなと」
もちろん紺野の仕組んだハッタリだ。
小湊はそれを分かった上で、小川の腰に4ccの麻酔注射を施した。
「麻酔ってのは痛みを消すものじゃない。傷めた個所を酷使すれば、麻酔が切れた時ダムが決壊するように痛みが押し寄せるものだってことは覚えときなさい」
それだけは言い置いて。
結局この大会絶好調の安倍に2ゴール許したものの二人のプレーは及第点といえた。
なぜだ。信じられないといった顔をする信田の横で密かにほくそえむ小湊。自分の進言をもみ消した友人への、ささやかな復讐でもあった。
当然、リーグ戦の最終試合はグループごと同時刻に始まる。
この日の昼、グループA韓国対米国、イタリア対モロッコ。
すでに勝ち抜けを決めた韓国はどこか締まらない試合運び。引き分けでOK、負けても得失点差次第で二位の米国が面倒な点数計算などごめんだと言わんばかりの力強さで韓国を圧倒。3-1で逆転のグループ首位。イタリアもモロッコを5-0と大破したが時既に遅し。
1位の米国、グループDの2位チームと決勝トーナメントで対戦する。
2位の韓国、この夜最終戦の行われるグループBの1位と当たる。
フランス最後のシュート。リベロのA.I.マエダが顔面でブロック。朦朧とする意識のキャプテンを祝福するイレブン。
価値あるドロー。押されっぱなしだった90分をゼロで凌いだクウェート、フランスとともに決勝トーナメント行きが確定。ブックメーカーも驚く高倍率をひっくり返しての快挙。可能性の残されていたスペインはコロンビアに逆転負けを喫して涙を飲んだ。
グループB首位、フランス。決勝トーナメント一回戦で韓国と対戦。
2位クウェート、グループCの首位と戦う。
「1、小川」
試合当日、朝食後のミーティングでスタメンが告げられる。
「2大谷、3保田、5戸田」
保田のスタメンは自ら志願したもの。ミカが自信を失っていることもあり、首脳陣との思惑と一致した。
「4吉澤、6柴田、8あさみ、10石川」
松浦を外し汗かき役の木村を入れた。石川も本来のポジションで起用。
「7アヤカ、9安倍、11加護」
数少ないチャンスを確実に決める、まさに安倍さまさま。
「ベンチ高橋、村田、斎藤、松浦、紺野、ミカ、福田」
いつ来るか分からない福田は平家にとって宗教のようなものかもしれない。
「え…そうなんですか。はい、どうも」
移動中のバス。グループC最終戦の結果が稲葉の携帯電話に入ってきた。
「ナイジェリアが負けたと」
すでにこのグループの勝ち抜けはナイジェリアと豪州に決まっているが、日本が1位になった場合このグループの2位と当たるのだ。その2位にナイジェリアがなってしまった。
予選三試合をすべて1-0で勝った豪州は16チーム唯一の全勝でトーナメントへ。やはり堅い守りのクウェートと当たる。
だが稲葉が驚かされたのは、もう一つの情報のほうだった。
そんな、まさか、でもなぜ。稲葉はそれらの言葉を飲んだ。
「あの試合がぶち壊しになったの、別に姉ちゃんのせいじゃねえからな」
すでにGKジャージ姿の小川が肩を回しながら近づいてくる。
贖罪。生まれながら人は原罪を持つというキリスト教の考え方をクリスチャンでもない従姉が抱いていたのを、さらりと見抜いた。
大勢の人を傷つけた償いをする気持ちが確かにあった保田。腰に麻酔を打ってここにいる従妹も含めて。
お互い、あまり丈夫でない体を持って生まれてしまった二人だから。これが最後かもしれないといつも思っている二人だから。
「いこうぜ」
それ以上はなにも言わず、笑顔で肩を組んだ。
「じぶんが監督とはどういうことやねん」
ユーゴスラビア五輪代表の監督兼選手ドラガン・オカムラビッチが平家と談笑する。
90年代初頭、約束されていたはずの将来を狂わせたのは戦争だった。国際舞台での活躍の場を失った彼は流れつくようにして極東へ。その彼を慕い、今では多くのユーゴ人がJに参入した。日本選手も彼と対戦し、まねることでレベルアップしてきた。
こんな弱いチーム見た事ない。元同僚率いる日本五輪代表をけなしてきたオカムラビッチ。ただしその後に、こんな弱いねんから協会は金かけて強化したらなあかんと必ずつけ加えて。
試合前の平家をいらだたせるのは、こびりつくような左膝の痛み。
まさか、今度は誰が。
「みっちゃん」
その視線の先に安倍がいた。ここまでチームの全得点を叩き出してきた彼女にどれだけ救われてきたことか。
「頑張ろうね」
ともに代表のエースの座を争っていた頃と変わらぬ笑顔で語りかけてくる。もう少しで平家は涙をこぼしそうになった。
なっち。点取れんでもええ、負けてもええ、どうか無事に帰ってきてくれ。頼むから。
「そろそろやぞ、テレビつけろ、ビール用意せえ」
「スタメンの発表はあったか?やはり後藤は抜けとるんか?」
「今日の解説は誰や?セルジオ?それってどうなんよ?」
「ユーゴもつえーな、カメルーンと4対1か、オカムラビッチ健在だな」
「引き分け狙いで上等だろ、アルゼンチンが負けるわけねーし一位通過でナイジェリアとぶつかるほうがやべーよ」
「アホか、ユーゴは本気でくるぜ、後藤がいねーならマジでやべーよ」
「司令塔は石川か?あいつは性格的にはやく試合にでたくてたまんねーだろ」
「平家もアホやな、いいかげんサブから福田をはずせよ」
「辻ヲタは黙ってろ、バレー会場逝ってこい」
「高橋はもう出番ねーだろ、小川が絶好調だもんなあ」
「お!ピッチでアップが始まったぞ!・・・後藤は・・・・・やっぱいねーか・・・」
試合開始。オカムラビッチに保田、長身FWのヤベッチにフィジカルの強い大谷がつく。マンツーマンではないがこの二人の責任は重い。
「オカムラにつきたかったんじゃないですか?」
「やなこった」
スタンドで新垣が矢口に軽口を叩く。
矢口がJデビューした試合で与えられた仕事がオカムラビッチの密着マークだった。来日間もないオカムラは本場とのレベルの違いに対するいらだちからか、とにかくキレやすかった。同じく小柄な矢口にしぶとくつきまとわれたら即自滅するだろうとの読みで。
期待通りの働きを見せた矢口にオカムラはキレた。
オカムラビッチが矢口を平手打ちした瞬間、横浜F首脳陣は快哉を叫んだ――次の瞬間、矢口がそれ以上の力で殴り返すまで。
両者ともに退場になった初対決以来、オカムラビッチ対矢口といえばJきっての名物カードとなった。矢口が海外に移籍するまでは。
「それより新垣」
矢口がその顔をにらみ返す。後藤の戦線離脱により紺野がDFの控えに回ったことで、辻を除けばベンチ入りもないのは新垣一人になってしまった。
「あんたオーストラリアにコアラやカンガルーでも見に来たわけ? もうちょっと欲かいたらどう?」
最初のチャンスはユーゴスラビア。10分、オカムラビッチが右足で蹴る右CKに小川が飛び出そうとするのを見て保田が
「出るな!」
だがすでに体は前に出ていて、逃げるボールに手が伸びる。
さらに曲がり、小川の手をかわす。かぶった。ヤベッチのヘッドがバーを越える。
「出るなっつったろ!」
思わず安堵のため息を漏らす小川に保田のカミナリが落ちた。
オカムラビッチのボールはよく曲がる。それこそ悪魔の蹴ったような曲がり方で。チームでただ一人Jリーグで戦った経験のない小川が軽いカルチャーショックを受けるほどに。
ユーゴはコテコテのマンツーマンDFを敷いてきた。
安倍にDFのエース、カトッチをつけてくるのは当然として、石川にはアリノッチ、加護にはハマグッチ、吉澤にもサリナッチをつけた。アルゼンチン戦のような吉澤のロングフィードを警戒したのだろう。
アヤカのミドルはGKヤマモトッチがほぼ正面でキャッチ。ふくよかな体型のわりにそのステップは軽やかだ。
石川が冷静にGKを観察する。うまいったってデブだ、サイドの厳しいコースを突けばどうしようもないはず。
だが石川についたアリノッチは粘着マークでまとわりつき、彼女を手こずらせていた。
技巧派オカムラ、老練な保田の対決は見応えがあった。
まずボールを受けるところから戦いは始まる。ツートップを組むヤベッチはポスト役、というよりそれ以外に仕事を与えられておらず、とにかく体を張ってエースにボールを供給しようとする。
保田はまず大谷の動きを見る。どこに落とされそうかを予測、そこに走り込む。だが決して無理はしない。
オカムラに取られたらまずスペースを消しサイドに追い込んで時間を稼ぐ。自分のところで取れなくても背後の戸田、小川が止めればよし。
最善策、次善策、次々策。すべてその頭に叩きこまれていた。
20分が過ぎても両チームともに決定的チャンスを生み出すには至らない。
こうなれば引き分けでも2位以内が確定する日本が有利。平家の指示もマークの確認やら前線からのボールの追い回しやら守りに関することばかりに。
余裕がないのがユーゴスラビア。この試合引き分けたらアルゼンチンが負けない限り予選敗退が決まってしまう。しかも同時進行するアルゼンチンとカメルーンの試合、アルゼンチンが2点を先行したと連絡が入ったのだ。
始まったばかりのワールドカップ欧州予選でも早くも本大会が絶望視されるほど負けが込んでいるというのに。
すごいなあ。うまいなあ。ベンチの紺野の目がキラキラと輝く。
後藤という大黒柱を失ったDFを保田が完全に掌握している。戸田と大谷の動きもアルゼンチン戦とは見違えるようだし、小川や吉澤も精神的に安定するのかぐっと落ち着きを増している。
いつか紺野は後藤みたいなDFになりたいと言った。なれるかはともかくとして。
だが保田のようなDFにはなれなくもないなと思う。後藤のような圧倒的な華はないものの、そこにいるだけで安心感を与えられる存在。サッカーをよく知ろうと努力し、日々を無駄にするけことさえしなければ。
だが当の本人、目の前の小さな巨人の一挙手一投足に集中しきって、そんな視線に気を払うどころでなはない。
「腕上げたやないか、おばちゃん」
オカムラビッチが関西弁でそう言ってくる。この男にとって最も脂の乗った時期を極東の島国で送ったのは損失だったかもしれない。だが日本にとって東欧のブラジルから来たサッカー界の至宝と過ごせた年月はとてつもない財産になった。特に保田のようなストッパーにとっては。
感謝の言葉は述べない。態度で、最高のプレーで恩返しする。
「まだまだいくよ、小さいおっさん」
30分が経過。両者無得点。
オカムラビッチのシュート。力無く転がるそれを小川がネスティング。鳥の巣(ネスト)をすくいあげるようにボールを拾うとすぐ「広がれー!」と声を出す。
ここまでまだ一度も腰に負担のくるようなシュートは浴びていない。従姉の存在の大きさを改めて感じる。
「そらっ」
その保田にボールを投げて寄越す。遠投は使っていないしその必要もなかった。
ペナルティエリアすぐ外で受けた保田、長く持つ。
普段あまり守備をしないオカムラビッチがスライディングをかける。さっとかわし、吉澤に渡すと倒れたオカムラビッチにウインクまでしてみせた。
右サイドの深いところ、大谷がヤベッチを追い込む。逆サイドでは柴田がそこからのパスを首を長くして待つ。
この二人に斎藤、村田を加えた四人、つるむことが多い。
共通項はJ2にいる、またはいたことがある。そしてこのチームで地味なポジションを担っていることか。斎藤、村田は補欠。大谷はチームの弱点なんて書かれるし、10番の柴田にしても得点につながる仕事をまだしていない。
この四人、昨日の昼食を一緒にとりながら大いに盛り上がった。
なんか、やってやろうぜ。
うちら、別に脇役になりにここへ来たわけじゃないんだから。
大谷の激しいチェックにたまらずボールを下げるヤベッチ。
だがサリナッチへのボールは吉澤がインターセプトする。
吉澤、左へのクロスパス。柴田が懸命に走る。だが長い。追いつけない柴田。
その裏に走った保田が受けた。この日初めてハーフウェーラインを越え、スピードに乗った攻め上がり。加護がハマグッチをサイドに引きつけスペースを作る。
もともとFWだった。プロに入ってアウトサイドに転向、そしてストッパーに。
なぜ保田が3バックの申し子と呼ばれるか。サイド攻撃を重視した3バックの左サイドプレーヤーとしても一流だからだ。
左から入る柔らかなセンタリング。GKが飛び出せない場所へ。
安倍が落下地点に。カトッチ、厳しく寄せてゴールを向かせない。
腕を押さえ込まれながら飛び上がる安倍。カトッチも飛ぶ。
額に当て、背後に流した。
石川が走り込んだ。試合に出られなかった悔しさを右足に乗せて。
安倍とカトッチがブラインドになって、ヤマモトッチの反応に鋭さがなかった。
ネットが揺れる音が耳をつんざく。
石川を中心に輪ができる。安倍や保田、保田もそれぞれ囲まれる。
その影で柴田と大谷、苦笑いする。やっぱり、主役にはなれない運命なのかね。
「あたしゃなっちに決めさせるつもりだったんだがな」
ハーフタイム。控室に戻る石川を保田が小突く。
実際大きな1点だった。アルゼンチンが3点目を奪ったという知らせが。もはやユーゴはまな板の鯉。
「これで勝てばまた矢口さんが戻って来られますもんね。負けらんないっすよ」
何のてらいもなく言ってのける。
「あのね、石川」
「はい?」
いや、黙っておこう。
「姉ちゃん」
「マコト」
腰は? 指でOKマークを作る小川。麻酔はひと試合分打ってあるし、準備は万端。
楽しもうな。あんたとサッカーできるの、たぶんこれで最後だし。
「安倍さん」
「ん?」
「…なんでもないです」
松浦の育った兵庫、こと阪神間は女子テニスのメッカ。園田女子、夙川学園等の名門から伊達や沢松を輩出した。
サッカー部が廃部になると同時に会社を辞めた父は郷里の姫路に戻った。そこから松浦は私鉄を乗り継いで朝練に通った。強烈なサーブ&ボレーを武器に県でも屈指の名手と呼ばれた。
だが壁にぶち当たる――テニスには一番が一人しかいない。日本一は、世界一は二人もいらない。
だがサッカーは違う。日本一が、世界一が11人いる。
だが今、サッカーもテニスと同じかもしれないかもと思い始めている。
自分より優れたセンターフォワードがいる。だから自分は試合に出られない。
ゴールの数でその価値が決まる、ストライカーとはなんともシビアな稼業。
でも安倍は石川にゴールを譲った。なぜか聞きたかった。でも、プライドが許さない。
全てを見透かしたように安倍が口を開く。今の松浦が聞く耳を持たない事を知りつつ。
「私があなたたちに残せるものって少ないから。それに、私はこの試合限りだからね」
飯田を含めた四人で話しあって決めた事だった。
「リーグ戦は経験が重要になる。けどトーナメントは勢いが大事だと思うんだ」
「八強入りはノルマだからそれには手を貸す。あとは若い奴らに任すよ」
「あいつらだってオバちゃん連中に連れてってもらったなんて思われたくなかろうしね」
「その代わり、私たちが得た経験は、あの子たちに全部伝えていくから。吸収してくれるといいんだけどな」
だからこの試合が安倍と保田、出ていないが矢口にとってはラストゲーム。持てるもの全てを惜しみなくチームに落としていこうと思っている。
「おい、勝ってるぞ」
「ユーゴ相手に互角以上の展開じゃねーか」
「吉澤が効いてんだよ、ユーゴの中盤に仕事をさせてねえ」
「石川も何度か惜しい場面があったけど、あそこで安倍の落としをよくブチ込んだよ」
「オカムラビッチがらしくねーんじゃねーか?もう歳か?」
「後半は誰を使ってくるかね、石川をさげるのは下策だと思うがね」
「セオリー重視なら、守備固めだろーが」
「アルゼンチンが3点目だってよ、予選通過は決まったな」
「あと45分・・・・・頼む・・・」
後半開始4分、ヤベッチのヘッド。カバーに入った保田の肩に当たる。
直後、オカムラビッチのハーフボレー。小川が逆を突かれるが右ポストに救われた。
後のないユーゴスラビア、予想通り攻めてきた。しかしまだまだツキは日本に。
ケイにマコト、男みたいな名前の分、幸運の女神が多少二人には色目を使ってくれるのかもしれない。
だけど運は運でしかないのもまた事実。そんな不確かなものに頼りきる者に未来はない。
勝利の女神は甘くない。
大谷がヤベッチをタッチに追い込む。先ほどは吉澤に手柄を取られた形になってしまい、今度は一人での気持ちが強い。
相手とボールの間に体を入れる。今度はヤベッチがそれを妨害にきた。後ろから蹴ってくるヤベッチ、この後起こる悲劇を思いもしないで。
絡みつく腕を振りほどこうとしただけだ。確かに力は入り過ぎていたかもしれない。
大谷の曲げたひじは、ヤベッチの鼻っ柱を折った。
崩れ落ちるヤベッチ、逆サイドの柴田の汗が凍った。
救護班のバツ印。その中で大谷一人が状況を把握できない。
その頭上に、レッドカードがかざされるまで。
泣くことすらできず、呆然と立ち尽くす大谷。
「大谷さん」
柴田が寄ってきた。その仔犬みたいな顔を見て、ようやく痛みに気づく。
「わざとじゃないのに…」
それだけ言って顔を覆う。皮肉にも、あれだけ欲しがっていた注目を一心に浴びていることに気づきもしない。
タッチで柴田と別れ、斎藤と村田に出迎えられると痛みが新たに蘇ってきた。
気の緩みを見せた日本、見逃さなかったオカムラビッチ。
事件のあった地点から蹴ったFK。曲げず、一直線に伸びるボールに小川がまったく反応できない。
フリーのカトッチが頭でねじ込んだ。1-1。
流れを変えてしまうワンプレーというものがある。まさにこの大谷がそれを体現させてしまった。
オカムラビッチがベンチに指示を出す。ヤベッチに替えて、アルゼンチン戦でヒロミストゥータに水平チョップを見舞って退場になったDFエガッチを投入、安倍のマークにつけた。カトッチを2トップの右、左にオカムラビッチ。
一人少ない日本は石川を大谷の位置に下げてオカムラビッチのマークにつけるがあくまでこれは応急処置。平家も動く。
「紺野、アップ! 5分でいくぞ!」
安倍がはね飛ばされる。ファウル。腰に手を当て、主審を指さして抗議するエガッチ。
「いったー…」
苦痛に童顔を歪める安倍。FW人生長いが尻で倒されるなんて初めてだった。
ハードゲイ、もとい、ハードマークで知られるユーゴDFエガッチ。エースキラーとしては欧州屈指だろう。
スタメンで使われない理由は、無論、その性格。異常にキレやすいため90分ピッチにいた試しがない。
それでもオカムラビッチ、彼を呼んだ。日本の7番はそれくらい危険な人物だった。
流れが向こうに傾きつつある分、セットプレーが重要になる日本。正面やや左寄り、25〜30メートルのフリーキック。
「柴ちゃん」
石川の言葉に耳を貸そうとしない柴田。柴田が狙うにはやや遠いのだが、すでにゴールを決めている石川は譲った。
へそを下に向け、笛と同時に助走開始。七枚の壁を越えたバナナシュートが角度を下げてゆく。ゴールを確信し拳を握る柴田。どうだ!
GKヤマモトッチ、壁の裏に回り込んだ。芝の上を滑りながらも胸でキャッチ。
どうして。柴田はショックを隠せない。狙い通りのボール、最高のコースだったのに。
「やっと気づいたか」
「なにがですか、矢口さん」
矢口は柴田に言い続けてきた、いつまでJ2にいる気だと。柴田はそれを無視した。
曲がるボールは時代遅れ。トレンドは速く、真っすぐをピンポイントで。数年前まで曲げるボール主体だった石川も世界を見てストレート一本に絞った。
ましてユーゴにはオカムラビッチがいる。柴田の曲球など止まって見えることだろう。
「もっと上のランクでやってればとっくに気づいてたはずなんだ。それをあいつ、いつまでもフリエに義理立てするもんだから…J2に甘えてきたツケを今こうして払わされてんだよ」
「そういえば柴田さん、サイドチェンジも」
新垣も気づく。左ハーフの右ウイングへのロングパスはこのチームの攻撃に彩りを添える。それが一度も決まっていない。右サイドバックに入った石川が加護へのクロスをビシバシ決めているのに。
こういう言い方は卑劣だ。だがあえて矢口は口にする。
「カオリなら小さいモーションで、ウイングの足元にズバッと決めるぜ」
やがて、柴田へのパスが激減した。
背中の10が、泣いていた。
サイドMFヒナッチ、ミツウラッチの飛び出しをつかまえるのに忙しくなる吉澤。
石川はなんとかオカムラビッチにしがみついている、が、旗色は悪い。戸田が幾度と無く引きずり出される。
保田はトイメンがカトッチになってからやりにくそうだ。体力に任せ、ガツガツ当たってこられると疲労の度合いがけた違いだから。
くっそ、なかなか針が進まねえ。恨めしげに電光掲示板の数字をにらみつける。
13:23。
「姉ちゃん!」
後ろからの声にハッとなる。カトッチがドリブルで侵入。DFだけあり、保田の死角に入ってくる。一度抜かれた保田、それでもすがりつく。が、差が詰まらない。
ランニングシュートがGKほぼ正面へ。小川、十字に組んだ腕でブロック。左に転がるボールを体を倒しながら押さえつける。受け身を取る余裕はなかった。稲妻が天から地へ抜ける。
やばい…息が切れた。保田が下を向く。
まずい…麻酔が切れた。小川の背を冷たいものが走る。
あと30分以上ある。相手はまだ体力が有り余ってる。気取られてはいけない。呼吸を整える青の6番。
酒飲みは麻酔が切れるのも早いって聞いたことはあるけどさ。わざと大声を出し、空元気を見せつける黄色の18番。
まずは、時間を稼ごう。わざとタッチラインの外にパントキックを蹴り上げた小川。
ピピッ。試合が止まる。
タッチライン沿いに、その名と同じ青をまとった13番の姿を認める。その膝は、真っ白なテーピングで固められていた。
お役御免か…保田がうつむく。走れなくなったディフェンダーには用がない、と。
「どこ行くんだよ」
従妹の声に我に返る。
紺野の横のカードにある数字は、17。
「ジャパン、ナンバー17、アヤカ・キムラ、アウト。ナンバー13、アサミ・コンノ、イン」
緊張のためか青白い顔の紺野あさ美が平家の指示を伝える。
「石川さん、7番へ。吉澤さんはサイドハーフと並ぶようにポジション取り。安倍さんは引き気味で」
次いで、DF陣へ。
「戸田さん、左へ回ってカトッチのマーク。私が右」
「じゃ、私は?」
「真ん中(5番)へ」
リベロ? 自慢じゃないが、保田はラインコントロールなんてやったことない。思わずベンチを見た。
静かな表情で、うなずく平家を確認する。
あ、そうか。
安倍にとってはこれが大会最後の試合。保田にとってはこれが現役最後の試合。
花持たせようってか。甘いよ。
「保田さん」
「ああ。紺野、落ち着けなんて言っても無理だと思うから、ファーストタッチ、思い切りよくね」
「はい!」
紺野の顔は、どこまでも青かった。
めちゃイケイレブン好評みたいでうれしい。この章もそろそろ終わりが見えてきたかな…
そのスローイン、ミツウラッチがタッチ沿いに長く出した。
思い切り、思い切り。そう念じながら右足を振るった紺野あさ美のファーストタッチ。ふくらはぎをかすめて、あろうことかオカムラビッチへのエンジェルパスに。
カクッとなりかけた膝を立て直しカバーにいく保田、身構える小川。
「ドーーーン!」
スイーパーの左足、キーパーの右手、そのボール一つ分のスキマを戦慄が駆け抜けた。ネットの揺れる音が二人の耳に痛い。
ジャンプするオカムラビッチ。若い世代に何かを伝えようとするのは、なにも日本人に限られたことではない。
なんでだよ、なんであんな単純なシュートが止めらんなかったんだ。小川がへたりこむ。
「あれがただのシュートに見えるならあんたもまだまだだね」
酸いも甘いも知り尽くした男の執念が乗り移ったボールだ、やすやすと止められるわけがない。
「ごめんなさい」
紺野がそれだけを二人に告げる。
「…別に、あんたなんか最初からあてにしてないから」
口とは別に、小川の心から流れる声が紺野に届く。今にも泣きだしそうな声が。
勘弁してよ。あたしは点を取りに行くことができないのに。
後半16分、日本は攻めなくてはならなくなってしまった。
石川が右サイドを切り裂く。センタリング。安倍が合わせるが枠をそれる。
相変わらず危険な匂いをプンプンさせる安倍、エガッチのマークをかいくぐって狙う。
こちらもやはり性格的にはFW向きなのだろう、石川の高速ドリブルはユーゴの左サイドを火の車にした。
が、肝心の得点が入らない。
かたやその背後、日本の右サイドもオカムラビッチにいいように使われていた。中盤右サイドの木村麻美、リベロの保田が再三引きずり出され、全体のバランスが崩れている。逆サイドではチームメートのカトッチをまずまず抑えているのに。
「姉ちゃん、代わったほうがよくねえ?」
小川が持ちかける。紺野はスイーパーの選手、マンマークは辛そうに見える。鼻の頭なんて赤いではないか。
保田は聞かない。
鯉は滝を昇って龍になるという。
オカムラビッチという流れは速く冷たい、それでもこの厳しさを泳ぎきればきっと大きくなれる。私たちも、そうやって大きくなってきた。
半泣きになりながらも、オカムラビッチに必死に食らいついていく紺野の目に熱いものが見える。
光る涙ははがれた鱗。身をよじり、震えながら泳ぐんだ。
誰にも、あんたを笑わせたりしないから。
しぶとい紺野を腕でブロックするオカムラビッチの足元に保田のスライディングが決まる。
「おーお、おばはんが無理するよ」
「マコト逆サイ見てんのか! 戸田カトッチ放すなよ! 吉澤、あんた下がり過ぎ! 負けてんだから! 紺野、今のでいい!」
リードされている時こそディフェンス。追加点を奪われたらそれこそ決勝トーナメントが消えてしまう。
平家が保田を真ん中に据えたのは、そのよく通る声があるから。動けない分コーチングで役立ってもらう。
その声が、味方を勇気づける。敵をおびえさせる。
守りの芯が保田なら、攻めの軸は安倍だ。エガッチのぬめりつくようなマークにも慣れ、シュートも次第に精度が上がってくる。
決してあきらめない、かつて紺野に話して聞かせた「嫌なFW」そのままのプレー。
エガッチもそれが分かっていて、あざといタックルを仕掛けてくる。
安倍の中央突破。エガッチが併走。急ストップに前のめりにバランスを崩すエガッチ。
再度切り込みにかかる安倍。
ストッパーには、それを阻止する義務があった。
安倍の顔面を、エガッチの後ろかかと蹴りが襲った。
「ぐわっ!」
安倍が右目を覆って倒れた。ピッチに殺気がみなぎる。両チームのキャプテンが事態を収拾しようと体を張る。
アラブ人の主審の判断は迅速だった。著しく危険な行為、当然のレッド。
が、唯一納得してないのが当のエガッチ。俺様の天才的なヒールタックルが。ガッぺむかつく。
「とうっ!」
主審の首筋へフライングクロスチョップ。クリティカルヒット。止めたアリノッチ、ハマグッチも飛び蹴りの犠牲に。
「あのアホ…また長期の出場停止かいな…」
オカムラビッチが頭を抱えた。
ともかく、フリーキック。自信を失ったのか柴田は名乗り出ない。
「石川!」
平家が胸に手を当ててなにかサインを送る。うなずく石川。
壁の左を通過するスルーパス。コーナーめがけて放たれたブリザードパスに加護が走る。
「わっわっわ」
オカムラビッチが右から寄せる。並んだまま走る二人。センタリングは直接ゴールラインを割った。
おまえの考えなんかお見通しや。オカムラ、元同僚に歯を見せて笑いかけた。
「安倍、これ何本だ?」
小湊がピースサインを突き出す。
「ニッポン、チャチャチャ」
おどけて、その手を払いのける。
「ちょっと」
「小湊さん!」
平家が首を横に振った。安倍はベテランだ、その意思を尊重しよう。
フォア・ザ・チームの精神を大切にする安倍、もしもう働けないと判断すれば自ら出て行く事だろう。
またも当たってしまった。左膝が予言したのはこのことだったのだ。
「…松浦。いつでもいけるようにしとけ」
「安倍さん」
左のタッチから入ってきた安倍に柴田が寄っていく。
「すみません」
自分が、もっと気のきいたパスを出せていたら。
血が出ているわけではない。が、そのまぶたが青黒く腫れ上がってきた。視界をふさぐのも時間の問題だろう。
「なんて顔してんの」
痛むだろうに、それでも安倍は笑顔だ。
その笑顔が、ふっと消えた。
「…でも、そろそろ頼むよ」
後半、38分が経過。
残された時間は、7分間とロスタイムのみ。
もう日本は安倍にすべてを託すしかない。
石川が右からこれでもかとクロスを上げる。が、お岩さんのようになった右目では視界が十分ではなく、どうしてもタイミングが合わない。
そして、左サイドは死んでいる。ハマグッチの密着マークに苦しむ加護、完全にパターンを読まれている柴田、カトッチマークで手一杯の戸田、上がる余力のない保田。
時間だけがいたずらに過ぎる。
吉澤が木村麻美とのワンツーから抜け出し、右足を振りぬく。GKヤマモトッチの正面。
平家の顔に焦りが、オカムラの顔に余裕が見える。
後半、40分経過。
柴田がヒナッチを背負い投げるようにして倒した。イエローカード。
「あーあ、焦っちゃって」
「いいんだよ、あれで」
いぶかしげに矢口の顔を覗き込む新垣。
「今まで柴田は運命に流されるだけ流されてきた。戦う、疑う、逆らう。一度だってしなかった。じゃなきゃあんだけの才能を持ったやつがあんなとこにいるわけがねえ。それが今やっと、ああやって自分の運命に立ち向かおうとするようになったんだ。…少し遅かったかもしれないけどな」
「上がれ!」
リベロの背中をどやしつける小川。保田が自分を気遣って上がらないのが分かる、それが歯がゆい。
「おまえが行かないならあたしが行く!」
本気でオーバーラップを試みそうなキーパー――実際ロスタイムに入ったら上がる気でいる――の気迫に半ば気圧され、前にゆっくり出始める保田。ったく、偉そうな口叩きやがって…
「吉澤、一緒に来い!」
長身のボランチも引き連れ、勝負にいく。
「急げ!」
時間が無い。本当に無い。
足が吊りそうになるのをこらえ、石川がタッチ際を駆け上がる。中が揃っているからといえ浅い場所から放り込んだんでは何の意味もない。なるたけ深くえぐり、ピンポイントで合わせねば。
ターゲット、吉澤の頭。ライナーのセンタリング。サリナッチに競り勝ち、正確に落とす。
元FWの意地、倒れこみながらの左足ハーフボレー。右ポストにはね返された。
まだある。まだあきらめない。加護が滑り込む。
ミツウラッチのクリアが一瞬早い。落下地点にフリーのオカムラビッチ。平家の唇からため息が漏れた。
オカムラビッチ、日本陣内の深い位置でキープ。あとはこうして時間を稼げばよい。
目の端に、日本の交代選手の姿。胸には9、傍らのカードには7。
安倍か…まだあどけなさが残っていた頃からよく知っている。もうほとんど動けていない。これ以上さらし者にしておくのも忍び無い。
5メートル先のタッチラインにボールを蹴り出す。
それを押し止めた青の13番、紺野あさ美。
なんやねんそれ。武士の情けと思ってしたこと、それを踏みにじられて怒り狂ったユーゴ人、紺野に踊りかかった。包帯のきつく巻かれた、その右膝めがけて。
紺野が、笑った。
ぷりりーん。
勢いよく転がるオカムラビッチを置き去りに、紺野が右サイドを疾走。まるで警戒していなかった攻撃パターンにユーゴスラビアが戸惑いを見せた。あわててそのサイドに詰める。
だが紺野の足元にボールはもうない。天翔ける龍のごとく、ピッチを横断するボール。
落ちたサイドには柴田がいた。まったくのどフリーで。そしてそのことが彼女のプライドを痛く傷つけてしまった。
ふざけんじゃねえ。このあたしを自由にしたこと、死ぬほど後悔させてやる。
左足で大きく押し出す。ドリブルが始まった。
薄くなった中盤を一気に駆け抜ける。だがユーゴDFにはどこか油断がある。10なら止められる。
ゴール前が厚い。そこに差しかかる前、柴田得意の左。人の群れを越え、GKヤマモトッチの伸ばした手をも越えた。
クロスバーが激しく鳴り、内側へこぼれる。
ゴールの女神に祝福されたのは吉澤でも保田でもなかった。
エースの前には、GKもDFもいなかった。
ただ、ゴールネットだけが見えた。
痛む、頭で。
ネットが揺れた瞬間、そこここで日本選手が抱き合った。
だが本人、安倍なつみだけは静かだった。
どうだ、どうだ、どうだ! 細身を震わせ、何度もガッツポーズを作る柴田。あたしを見ろ、あたしの名前を呼んでみろ。まさに尊厳の一発。
かたや、安倍なつみには笑顔一つない。仲間の祝福を淡々と受け止める。
「まだ…同点だから…」
だがこれで日本は再び優位に立った。天国から地獄に落ちたはずのチームはまたも7番に救われた。
頭痛がすさまじい。吐き気すら覚える。それでも仕事を果たした。
主審が安倍を呼ぶ。タッチには松浦が待っている。
「じゃ、行くね」
安倍にようやく笑顔が戻った。
出番を待つ松浦とすれ違う。松浦の目はうっすらと赤い。
凡百の言葉より、たった一つのゴールがなにかを雄弁に物語ることだって、ある。
松浦、私を越えていけ。
「あと、頼むな」
「はい」
醜くまぶたを腫らした7番の手が肩に触れると、弾かれたようにして9番がピッチへと飛び出した。
3試合5得点1アシスト。それ以上にすさまじい最後のゴールを残して、安倍なつみのシドニーは終わった。
ベンチに戻る。
安倍は笑顔を絶やさず、こう尋ねた。
「みっちゃん、かっこよかったかなあ?」
腕組みしたままの赤鬼の目から、大粒の涙が伝った。
「まだやでー!」
小さいおっさんはあきらめが悪い。恐らくこれが最後の国際舞台。
「集中し直しよ!」
おばちゃんもぬかりない。現役生活があと数分で終わる。
その二人が競り合う。オカムラのつむじが保田の目に入り、まぶたが切れた。止血のため一旦外へ。
こんなの、なっちに比べたら。
「すぐ戻る! 点取られたら承知しないからね!」
ああ、うるっせえ。
「吉澤真ん中入れ! 木村、柴田引け!」
カトッチが切り込んでシュート体勢に。その足元に小川が飛び込む。
顔面で、止めた。
「よし、そのまんまキープ…」
やなこった。
強肩がうなる。
柴田が頭で石川につなぎ、石川が浮き球で左へ。
加護がいた。まだ何も仕事をしていない。ハマグッチと向き合う。中に切り込むとみせ外に、さらに切り返して右足でセンタリング。
体ごと飛びついたのは松浦。ヤマモトッチと競り合いながら頭でコンタクト。無人のゴールに叩き込んだ。
力一杯加護と抱擁する松浦。かつてない球際の強さに安倍の遺したものを見た。
「おっしゃ」
起点となるスローを見せた小川が仲間に寄って行く。が、なぜかみんなが逃げる。
紺野が鼻を指さすのでそでで拭う。
「うおっ」
手首が赤く染まった。
ワセリンで傷口をふさいだ保田、右の鼻の穴に詰めものをした小川。流血姉妹が必死の形相でゴールにふたをする。
ロスタイムがそろそろ尽きる。オカムラビッチがラストシュートの構えに。保田が詰め、コースを限定する。狭まったほうに小川が飛び、まったく同じところに紺野も回り込んだ。
両者、激突。
ボールが夜空に消え、ようやく笛が鳴った。
「いてえじゃねえか」
紺野にヘッドロックをかます小川。
日本、予選突破。
ユーゴスラビアが負けたことで、グループDのもうひと枠は自動的にアルゼンチンに決まる。八強がすべて出揃った。
「飼い犬に手かまれるてこういうことやな。日本になんか行かなんだらよかったわ」
平家にこうつぶやいたオカムラビッチ。
保田がともにゴールを守った従妹に寄って行く。なんとか90分持った。
「姉ちゃん」
痛む腰でゴールを守った小川がその胸ですすり泣く。
控室にいた大谷が戻ってきた。村田、斎藤が柴田を呼ぶ。号泣の合唱が始まった。
一人空を見上げた紺野、胸の番号の3を握りしめる。名無しの三本足に見守られ、ドラガン・オカムラビッチと戦い抜いた紺野は、青い鱗のドラゴンになった。
石川が矢口を出迎える。が、一人足りない。
「のの、勝ったで! 八強入りや!」
シドニーの親友にいの一番に勝利を伝えたかった加護。だが電話の向こうの辻希美は元気がない。
「な、どないしたん…あ、亜弥ちゃん、梨華ちゃん。今ののに電話しとんねん。な、どないしたんや。勝ったんやでうちら」
やがて、電話の向こうから泣き声が聞こえてきた。
「だってみんな自慢すんだもん!」
バレーボール全日本女子、昼の試合でクロアチアに敗れ、決勝リーグ行きの可能性がなくなってしまっていた。
日本3−2ユーゴスラビア
GK 小川
DF 大谷
保田
戸田
MF 吉澤
柴田
石川
木村麻
FW 安倍(87分松浦)
加護
木村ア(58分紺野)
得点
日 43分 石川(安倍)
ユ 52分 カトッチ(オカムラビッチ)
ユ 59分 オカムラビッチ
日 87分 安倍(柴田)
日 89分 松浦(加護)
警告・退場
大谷(退場・ラフプレー) エガッチ(退場・ラフプレー) 柴田(警告・ラフプレー)
Woman
of the match
保田圭(日本)
「なっち、おめでとう」
翌日、メルボルン市内の病院を矢口と保田が見舞った。安倍が記者の選ぶ予選のMVPに選ばれたのだ。他にも吉澤と保田がベストイレブン、次点に小川と加護、最優秀監督に平家、ベストチームに日本。無論予選に出場した全チームが対象、世界各国の記者が選んでの話。
保田も安倍と同じように右目に眼帯をしている。ただし保田はただの裂傷。安倍は頭がいこつ陥没という重傷、年内のプレーは絶望。幸い手術は良好だがしばらく飛行機での移動ができないという。
だが栄誉より、ゴールより、チームに貢献できたことが安倍にはうれしかった。
それは矢口、保田も同じで、やはり日の丸を背負い、戦う歓びは格別のものがある。そして勝てたのだから嬉しさは限りない。
たとえ大怪我しても、現役最後の試合だとしても、どこか不完全燃焼だったとしても、楽しかった? と尋ねられたら迷わずこう答えられる。
楽しかったよ、とっても、と。
だから三人は今静かな、大きな歓喜の中にいた。南半球の早春のこもれ陽に包まれて。