145センチシリーズ ファイナル

 

「カオリ」
ブリスベーンに現れたのは、日本代表キャプテン、飯田圭織。太もも痛のリハビリを終え、陣中見舞いにやってきた。
やはり旧知の仲である五輪代表監督・平家みちよが出迎える。
「みんな、元気そうで」
「矢口がひっっくり返った。しかも病院で。アジなことするよ」
「どうしたの?」
「関根、関根勤ってうなされてる」
わけがわからない。
もっとも安倍なつみ、保田圭、そして矢口真里のオーバーエイジトリオはすでにその役目を終えている。
予選リーグ突破。
そのためにこの三人は最大限の力を尽くした。そして、目的を果たした。

実は飯田、この日の昼にアデレードで行われた決勝トーナメント1回戦、アルゼンチン−ナイジェリア戦を観戦している。
スコアレスドロー。PK戦でアルゼンチンGKワカナが4人目をストップ。最後に自らが決めてヒーローになった。
ただ、5人決めたアルゼンチンのキッカー。ギンナン、チャム、ノリカ、ヒロミストゥータ、そしてワカナ。
背番号を順に並べる。
10、11(ジャック)、12(クイーン)、13(キング)、1(エース)。
ロイヤルストレートフラッシュの完成。いかにもあの男らしい。
ポーカーフェースの指揮官は、飯田もよく知るあの男だった。

「和田さん」
関係者以外立入禁止の箇所にずかずか入っていった飯田圭織、かつて日本サッカー協会で働いていた和田薫を見つけだした。
「待て、俺にもいろいろ事情があるんだ。借金とか、浮き世の義理とか」
「別に和田さんみたいな小物に用があってきた訳じゃないんです」
「小物って…」
元日本代表監督、寺田光男がアルゼンチン五輪代表に就任した。それも、ナイジェリア五輪代表を電撃解任されてからわずか半日で。
そしてやはり元日本代表監督、そして飯田のかけがえのない仲間だった石黒彩がその補佐についた。
チームにはチャム・サヤカ・イチイ、日本名市井紗耶香と、もう一人。
このメンツで、あの女が一枚かんでなかったらおかしい。
緑一色だって、發がなけりゃただのチンイツ、タンヤオにすぎない。
「カオリやないか」

予想通り、その女は現れた。
前日本代表キャプテン、中澤裕子。
飯田の予想が正しければ、すべてを仕組んだのは彼女。
そしてもしそうだとしたら、私は裕ちゃんを許さない。
「単刀直入に言うね」
飯田が切り出す。
「まあ、待ちいや」
小汚い喫煙所に飯田を誘う中澤。ずいぶん、やせたようだ。
ライターの火打ち石が火花を発する。が、なかなか火がつかない。
「あの10番、明日香でしょ」
日本五輪代表FW福田明日香。飛行機事故で行方不明になった彼女を捜し出すために中澤は南米に旅立った。それなのに。
なかなか、火がつかない。
薄くルージュを引いた唇から、ぽとりと、火のつかないたばこが落ちた。
「…他に、うちに何ができたって言うんよ」

その電話を受けたときの手の震えを、中澤はよく覚えている。
「ほんとにですか? 日本人? 間違いない?」
単語を並べるしかできないスペイン語で、必死に受け答えする中澤。
ブラジル中の病院や療養所を片っ端から当たり、すべて無駄に終わった。
パラグアイ側に問い合わせても梨のつぶて。
それが、まさか、アルゼンチンの病院にいるだなんて。
「無事なんですね?」
「は?」
うまく、ニュアンスが伝わらない。
「体、大きな、怪我」
「ありません」
やった。間に合う。
大急ぎで電話を入れる。まずは日本、そして、ブエノスアイレス。

「ほんとに明日香なの? 裕ちゃん」
国際免許などもちろん持っていない中澤が運転するジープ。それでもすれ違うのは牛や羊ばかり。
のどかな、村である。
助手席にはチャム・サヤカ・イチイ、いや、この時ばかりは市井紗耶香の顔になっていた。
「合宿勝手に抜けて、また罰金だよ」
それでも、市井の顔は心底楽しそうだ。
ほとんどあきらめていた明日香が生きていた。そして、もうすぐ会える。
たとえもうすぐ敵になるとしても、市井はうれしかったのだ。本当に。

海があって、山がある。
漁と放牧が同時に成り立つ。
ブラジル、パラグアイとの国境にあるギンナン村は豊かな土地だ。
その小さな診療所に、福田明日香はいるという。
間に合う。ギリギリ間に合った。
受付に話をつけるのは当然スペイン語の巧みな市井、いや、チャム。
「一番奥の部屋だって」
一番奥、とはいえ、そこに小さなドアは見えている。
大きく、開け放つ。
いた。確かに、いた。
二人のよく知っている、福田明日香が。

だがベッドに座ったパジャマ姿の福田は、きょとん、とした顔で二人を見ている。
確認したとおり、どこも怪我をしている様子はない。
「なんやねん、おう、心配かけさせてからに」
大仰に近づいてくる中澤に、なぜか警戒の色を示す福田。
「裕ちゃん、なんか変」
市井が気づく。福田の様子がどことなくおかしい。
「なに言うてんねん。あんたのほうがどうかしとるわ」
中澤は完全な躁状態で、福田の目に走る怯えの色を読みとることができない。
ものすごいジャンプ力で飛び跳ね、市井の後ろにいた看護婦の背中に隠れた。

「なに遊んでんねん、明日香」
なおも近づこうとする中澤を市井が止める。福田はふとっちょの看護婦の背中に隠れ、小さくした体を震わせている。
「…明日香?」
それで、ようやく中澤も異変に気づいた。
市井が駆け寄り、看護婦に説明を乞う。
その顔から、みるみると血の気が失われていく。
「彼女は…しゃべることができない…ここにくるまでのことを、なにも知らない…自分の名前も、どうしてここに来たかも。まるで、0歳の赤ん坊のように」
中澤、その場にすとんと座り込んだ。お尻が冷たかった。
そういうわけだったのだ、体は無事だというのは。

記憶喪失。別名、健忘症。
脳損傷あるいは重度の情緒的外傷に起因する、記憶の喪失。
頭部にこれといった外傷のないことから、福田のケースは後者と思われる。
そして、原因ははっきりしている。
迫り来る、死の恐怖。
墜落する直前か、あるいはその後、運河に突き刺さった機体から逃れる時か。
体は出口を求めて必死に動いたが、精神がそれに耐えきれず…リセットしてしまった。
あの、福田が。
よっぽど、怖かったのだろう。

舞い上がりすぎた分、落胆ぶりも底なしの中澤。
真っ先に思い出したのは、平家の顔。
ぬか喜びさせてもた…なんて言って詫びたらええんやろか。
とりあえず、日本に電話。
「え…もう明日香の名前、最終メンバー入りしてるよ。今テレビでやってる」
フリーになったばかりの石黒彩、あきれたように言い放った。

「本当に、これが明日香…なんだよなぁ…」
本人曰く「コーナーでもアクセル全開で」地球の裏側までやってきた石黒。
あどけないさまの福田に、ただただ絶句する。
「うちの娘と変わんないじゃん」
確かに、すべての記憶を失ってしまった福田明日香は赤ん坊も同然だ。
とにかく何も考えずに飛行機に飛び乗ったわいいが、なにかができるわけでもない。
ただ、途方に暮れた頭が一つ増えただけだ。

「福田、おまえ、こんなんなってもうて…!」
ナイジェリア代表の合宿のついで、いや、合宿のほうをついでにアルゼンチンに来ていた寺田がぼろぼろと涙を落とすのを見て、さすがに中澤はのけぞった。
こういう時は、男のほうがもろいのかもしれない。
まして、あのくそ生意気な福田が見る影もないのだから。
役立たずの悩める頭が、四つも揃ってしまった。

「どないすんねん…」
「…」
「どないすんねんな!」
「そんな大声出さんといてくださいよ!」
まるで冷え切った家庭のようだ。
中澤、石黒、そして寺田。
まさか、こんな形での再会になるなんて。
「あたし、医学的なことってわかんないんだけどさ…」
辛うじて平静を保つ石黒が、重い唇を開く。
「記憶喪失って、最近じゃ薬で治すって聞いたよ」
「そんなん、毛生え薬みたいなもんや。進行を止めるとか、そんな効果でしかない」
「じゃあ、どうしたらいいんだよ!」
分かっている。自分たちがいくら当たり散らしたところで、何も変わらないことは。

その頃、当の本人はといえば、療養所の庭で市井と「遊んで」いた。
遊び道具は、羊の腸を膨らまして作った即席のボール。
だ円のそれを、市井は福田に投げ、福田は手で突いてそれを返す。
やがて新しい遊びに慣れてきた福田は、それを手で扱う以外の方法を見いだした。
足で、それを蹴り返してみせる。思ったよりうまくいく。
おやおや、もしかして。
少し、意地悪な球を蹴る。
これも、ひざで押し返す。
もしかしたら。
市井、自ら頭でトントンと繰り返してリフティング。
福田も真似してトントントン。
忘れてない。
名前も言葉も忘れても。
ボールを蹴っていた記憶だけは、消えていない。

市井の目に、ぶわっと涙が浮かんだ。
こんなになっちまっても、サッカーのことだけは、忘れてないんだ。
思い切り、その首っ玉にしがみつく。
明日香、明日香、明日香。
あなたの声が聞こえる。
救ってよ、助けてよ、誰でもいい。
私は、あなたの言葉できっかけを作ることができたんだ。
だから、今度は、私があなたを救う番だよ。
絶対、元通りにしてあげるから。

「唯一、記憶を留めているのがサッカー…」
鍵穴を、見つけた。
けど、肝心の鍵は、誰が持っているんだ。
「日本、代表」
中澤がぼそっとつぶやく。
「平家がそんなこと承知するわけないやろ。そんなんなった福田をチームに入れるわけ」
「いえ、日本代表と戦わすんです」
「おまえ、頭のどの辺でそんなこと考えよるんや」
「いえ、それしかないと思います」
「ちょっと待って、裕ちゃん」
石黒が先走る中澤を止める。

「記憶喪失って、案外簡単に治ったりすることもあるって聞いたよ」
「そんなん、待ってられへん」
中澤がつっぱねる。
「明日香は今、選手として一番ええ時期にさしかかろうとしてる。それをこんな、わけのわからん状態で無駄に過ごさせるやなんて。もし数年後、なんかの弾みで記憶が戻ったかて、まるで浦島太郎やないか。そんな残酷なこと、うちにはさせられん」

「ええかげんにせえ中澤!」
寺田が大喝する。
「今自分がなに言うてるんか分かっとんのか? そんな神仏に背くようなこと、俺は断固反対するで…なにがおかしいねん」
「いえね。監督の口から神や仏なんちゅう言葉が聞けるとは思いませんでした。それでちょっと、ガッカリしたんです」
「中澤…」
「うちはとうに腹くくりましたよ。明日香を元に戻すためなら、神さん仏さんなんか頼られへん。うちが鬼にでも、悪魔にでもなったる」

「で、どうするつもりなの裕ちゃん」
「やっぱコンビの合わせられるやつがおったほうがええ。紗耶香に口きいてもろて、アルゼンチン代表のイス一個空けてもらいましょ」
「そんなスーパーにナス買いに行くみたく簡単に言うな。それに市井とアルゼンチンの監督は今ドンパチや、そんなん聞くはずない」
「じゃ、監督の首、すげかえてもらいましょ」
「あ?」
「南米サッカー協会の会長は、あんな真似までして紗耶香をアルゼンチン人にした大の紗耶香贔屓や。あの子が言うたらころーっていってまうわ」
「あかんな。市井はそういうところめっちゃ固い女や。そんなん、するわけない」
「じゃ監督は、明日香がずっとあのまんまでええ言わはるんですか?」
「監督言うな…今の俺はナイジェリア五輪代表の監督や。おまえらの監督ちゃう」

「よっしゃ。あたしはのったよ」
「石黒」
「彩ちゃん!」
「あたしは別に明日香を救おうなんて気持ちでやってるわけじゃない。ただ、アルゼンチンの指揮をとれるかもしれないなんて、それだけでドキドキしちゃうからね」
「アホかい。…俺は帰るで。あとはじぶんらでなんとかせえ」
怒って荷物をまとめる寺田。
「大丈夫だよ。きっと戻ってくる」
石黒の言葉は自信に満ちていた。
「あの男が、こんなおいしい話に飛びつかないわけがない」

その日から市井の、そして中澤の暗躍が始まった。
だが大会まで日がなく、せっかく予選リーグで日本と当たるチャンスに恵まれず、結局はチャムとは犬猿の仲であるマットーヤ監督の元で戦うことになった。
五輪代表から邪魔者を追い出したとき、すでに日本戦は終わっていた。
同じ予選グループを戦った者同士が再びまみえる場はひとつしかない。
もちろん、決勝戦だ。

「この、通りや」
マットーヤ解任の朝、寺田はナイジェリア選手たちにジャパニーズ土下座を見せつけた。
この男ははったりが服を着てるのと同じ存在だ。
ただし、この時のはったりは、誠意あるはったり。
もう逃げられないのは知っていた。それでも、共に戦ってくれた選手を捨てることは無情の苦しみだった。
「顔を上げてくださいな」
とハタケチク。
「そんなんされたら、うちらにはどうしようもないですわ」
とマコチャ。
「うちらに出来ることがあったら、なんでも言うてください」
とタイセー。
ありがとうな、ほんま、ありがとう。
今度日本に来い。吉原でもすすきのでもつれてったるさかいに。

その日の昼、アルゼンチン代表に合流した寺田。
一言、こともなげにほざいた。
「よう考えたら、天国なんてわしゃ好かんねん。どこまでも堕ちらろやないか」
ああ、この人についていこう。中澤はそう思えた。

が、大変なのはここからだ。
アルゼンチンはワールドカップ2回の強豪。
かたや日本、まだワールドカップで一度も勝っていない。
自分たちより格下の国の人間に、なぜチームを仕切られねばならないのか。頭を失ったアルゼンチーナの反発は容易に想像できた。
まずは大物から懐柔すること。これには石黒の亭主が一役買った。

山田真矢が、ヒロミストゥータの背に灸を据える。
吉澤、エガッチ、シノラ…ストッパーたちに削られまくった背中は青あざだらけ。だから、血行をよくすればいい。
それにしても、ものすごい雰囲気を持った背中である。若い時分、だいぶやんちゃをした頃に、こんな背中をよく見た。彼らの背中には龍やら弁財天が描かれていたが。

「お姉さま、あんな日本人、のさばらせておいてよろしいんですか?」
同じように灸を乗せたワカナの手は突き指をしている。石川のシュートを防いだ時か、安倍と交錯した時か。ともかくこのせいでPKを止められなかった。
「不思議よ。あんなにしつこかったももの張りがずいぶんと楽になったの」
栄華を極めた者が最後に求めるものは決まっている。永遠の若さだ。
ヒロミストゥータ、ノリカにとってもっとも重要なのはオリンピックではない、2年後だ。
そのためにこの治療を受けておくのは、決して悪い取引ではない。

そして最終的に全員を招き入れたのはカメルーン戦の4時間前。
まず、フェイスガードを施した福田、いや、発見された村の名前からとったギンナンを引き合わせる。
「これからおまえら、全員、俺の言うことに従ってもらう。嫌なら返ってくれ」
目をつむり、100をカウント。
そして、目を開ける。
「別に俺たち、あんたについていく気はない。ただチャムは俺たちの世代の代表だ。ついてこいと言われれば、従うまでだ」
ええ仲間に恵まれたな、市井。新監督の言葉に黙ってうなずくチャム。
「石黒、数えてくれ」
「1、2、3、4…14、15」
「15人か。多すぎるぐらいや」

そして、カメルーンから4点を奪い、グループDを逆転首位で突破。皮肉にも自らが育てたナイジェリアと戦うことになった。
だが、待ってほしい。アルゼンチンは勝ちさえすればD組2位以内が確定したのだから無理に大量点を奪う必要者はなかった、いや、奪ってはいけなかった。それがなぜ。
それが寺田光男、せめてものけじめだったのである。
自ら作り上げたチームを自らの手で葬り去る。そうしてまた彼も退路を断った。
その試合を、飯田はプレス席で見た。
中澤が去り際に残した言葉を思い出した。
全部うちの仕組んだことや。地獄に堕ちるんは一人でええ。
無性に、せつなくなってきた。
明日香をさらし者にする行為を許すことはできない。
けど、憎むなんてとてもできない。
どうしてみんなが苦しい思いをするのだろう。誰も悪くないのに。

「飯田さーん」
石川が尺八のおばけのようなものをいいだの眼前に突き出した。
全体にアボリジニーアートが施してあり、音階をつける孔はない。
イタギとかディジュリドゥーとか呼ばれる、先住民族の単音楽器である。
石川が風呂たきでもするかのように思い切り息を吹き込む。が。うんともすんとも言わない。
「貸せ」
ほら貝と同じ原理で鳴らすと聞いたことがある。輪郭に沿って唇を密着させ、その震動で音を出す。
ぶおおおおおーん。
「すっごーい、飯田さん、アボリジニーになれるんじゃないですか?」
「なれるわけ、ねえべ」

平家は信田と稲葉を自室に呼び、明日に控えるアメリカ戦のプレミーティングを開く。
ビールと一緒にボードをテーブルの上に広げ、1から22までの数字か書かれた磁石を並べる。もちろん、日本選手の背番号に対応している。
まずは前の試合のスタメンの通り、3-4-3の形に並べる。キーパーから順に18、2、6、4、15、10、17、16、7、14、11。
このうち使えない7と2を拾い出す。安倍は今季絶望の重傷、退場処分の大谷は3試合の出場停止を受けもう使う事ができない。

まずセンターフォワードには9を入れる。これは問題なし。現在得点王の安倍の穴を埋められるか、松浦亜弥。
次に13の石をつかむ平家。2のいた右サイドバックに置くとみた二人の予測を裏切り、15を外してディフェンスの真ん中に。
「紺野センターで使うの?」
「うん。やっぱりスイーパーは本職に任せたほうがいいと思って。キーパーの小川とも仲がいいみたいだし」
ついでにと6を外して3を置く。
「できるかなあ」
「やってもらわな困る」
オーバーエイジはもう使えないのだから。

問題は右サイドだ。予選から全試合フル出場を果たしてきた大谷の穴を埋めるのは、誰か。
平家は迷わず、右ウイングにいた17の石を二列後ろに引き下げた。
「ウイングはどうすんの?」
「そろそろ、こいつが戻ってくるだろ」
それまで一度も使わず、うっすらホコリをかぶりかけていた22の石を、17のいた場所にバチリという音とともに置いた。
最後に控えの七人を無造作につかみ出す。1、5、6、15、19、20、21。
それまでずっとベンチに置いていた12を、平家はついにあきらめた。

かたやアメリカ、オーバーエイジを使わない国としては唯一の八強入り。人気は4大スポーツには及ばないが、もともと学生レベルではサッカーも盛んで、ブラジルに惜敗した自国開催のワールドカップ以降状況は好転した。
このチームに関しては柴田あゆみと木村アヤカが詳しい。この二人と小川麻琴を擁した大学選抜は昨年の北京ユニバーシアード大会においてこのチームの母体となったアメリカ大学選抜と引き分けている。ゴールデンコンビと呼ばれた二人がゴールを奪えなかったただ1チームがアメリカだった。

予選では攻撃的なチームとばかり当たってきた日本だけに、初めて対する守りのチームとなる。
堅守を受け持つのはキャプテンのレフア、GKダニエル。レフアはプレミアリーグに在籍するセンターバック、ダニエルは豪快なセービングとハイボールへの強さが売り。
速攻を担当するのはFWチェルシー、MFエイプリル。ともに俊足で抜群のコンビネーションを誇り、ともにゴール、アシストを決められる。
守りのチームと当たる時は、まず先に失点しないことを心がける。ましてここから先は一度の負けも許されないトーナメントなのだから。

決戦の朝。
小川は八時きっかりに目を覚ました。さわやかな目覚めだった。
「う…ん」
大きく伸びをする。あくびする。目尻から涙が落ちる。
なぜだろう、やけにすがすがしい。よく眠れたのは確かだけど、なにかが違う。
ベッドから立ち上がった時、やって気づく。
腰が、痛くもなんともない。
回しても、飛んでも、あのへばりつくようだった痛みが感じられないのだ。
嘘だろ、おい。
まだ惰眠をむさぼる紺野の、豆大福みたいなほっぺを力いっぱいねじり上げる。
「…いたひ」

気分良く目覚めた小川と、朝からひと汗かいた高橋がロビーで出くわす。
志願して、信田に稽古をつけてもらったのだ。
リーグ戦なら負けた後流れを変えるためにキーパーが変わることがある。まだチャンスがあったが、負けたらそこでゲームオーバーのトーナメントではそれもない。
唯一残された可能性は運が試されるPK戦。高橋は自らの強運を信じるし、PKストップにも自信がある。
だから二時間、有り余る体力でPKの練習だけをみっちりと行った。
無駄だよ、小川は鼻で笑う。こんなに調子がいいのは、何年ぶりか自分でも分からないんだから。

そして、戻ってきた。
「おかえり」
中国にフルセットの末敗れた全日本バレーチームが下位の順位決定戦に回ったところで、助っ人たる彼女の役目は終わった。
本来ならシドニーでそのまま待たせ、準決勝から合流させたかったが安倍の離脱などフォワードのコマ不足がさらに顕著になり、急きょ召集された。
最後に会ってそんなには経っていないが、少し顔つきが違う気がする。
「ただいま」
辻希美、参上。

軽い昼食を済ませ、バスで会場に向かう日本五輪代表。
バスのテレビで女子マラソンを観戦していた。
ゴールテープが切れた瞬間、おもちゃ箱をひっくり返したような騒ぎになった。
テープを切ったのは日本人ランナー。金メダルはオリンピック女子陸上競技、初の快挙。
しかも彼女、サッカー五輪代表キャプテン吉澤ひとみの遠い親戚にあたる。
興奮冷めやらぬ車内に、その吉澤をさらに有頂天にする一報が入ってきたのは会場が見えてきてから。

「韓国がフランスに勝ったって」
ワールドカップ、欧州選手権を制し、この大会でトリプルクラウンを目指したトリコロールの夢を打ち砕いたのはアジアの虎なんて、誰が想像しただろうか。
「得点者はリ・アキナ」
GKソン・ソニンを中心にフランスの津波のような攻撃を止めまくり、ロスタイムのカウンターでフランスゴールをこじ開け、赤い悪魔の面目躍如とした。
いずれも決勝トーナメントに進んだアジア3代表、そして世界王者を下してのベスト4入り。まさに快挙。
吉澤のボルテージが一層上がる。世界の頂点で日韓戦、考えたけでゾクゾクする。

「キーパー小川。ディフェンス右からアヤカ、紺野、ミカ。ハーフ後ろ吉澤、左柴田、右あさみ、前石川。ウイング右辻、左加護。センターフォワード松浦」
試合開始一時間前。改めてスタメンが告げられる。
「のの」
ブリスベン入りしてすぐの辻、さすがに疲れは隠せない。加護が気遣う。
そりゃ、喧嘩もするが、やっぱり相棒がいてくれたほうが心強い。そのことは予選リーグで痛感した。
辻は黙って歯を見せるだけ。加護は拍子抜けした。

スタメン復帰したミカ・トッドだがいつもの元気がない。
オーストラリアにそのルーツを持つ日米ハーフのミカにとって、オーストラリアでのアメリカ代表との対決はこれ以上を望めない晴れ舞台なのだが。
アルゼンチン戦でチャムにチンチンにされ、ユーゴ戦ではスタメン落ち。代わって入った保田がMVPに選ばれたのだから無理もない。
どうして、今日は保田サンじゃないんだろう・・・
「タレッサ」
このチームでミカをミドルネームで呼ぶのはただ一人、木村アヤカだけだった。

「は・・・そうなんですか」
思い出のすべてが詰まったよみうりランドから、下北沢までの記憶が一切ない。
ただ猛烈に足が痛むので、小田急の線路に沿って歩いてきたことだけは確からしい。
木村アヤカ、18歳。
プロになるために、ただそのためだけに青春のすべてを費やしてきた。
だが、読売日本サッカークラブは、ユース最高学年になった彼女に、トップチーム契約の意思がないことを告げた。
未来に向かって伸びていたはずの階段は、ずっこーんと、奈落へと落ち込んでいた。
ばっかやろー、読売。ばっかやろー、あたし。

幸い、英語だけはよくできた。いずれ海外でプレーをしたいと考えていたから。
これを活かして上智大学に一芸入試で合格した。
上智大学サッカー部は当時東京都大学リーグの2部、サッカーに打ち込もうとする者の入る学校ではなかった。
当然、アヤカはサッカー部には入らなかった。
「笑っていいとも!」で目覚め、ふらりと授業を受け、夜になると本領発揮。
ギンギンにおしゃれして、単身クラブへと乗り込んだ。
もちろんサッカークラブでも、お姉さんが薄い水割りを作ってくれるナイトクラブでもない。
踊り狂ったり、時には卓を廻したり、失った青春を取り戻すかのごとく遊び狂った。
悪い遊びも覚えた、少しだけ。

「オイドンはダニエルでゴワス!」
「あたくしはチェルシーざますのよ」
「それがしはエイプリルでやんす」
遊ぶのにも飽き、通訳にでもなろうかと留学したハワイ。
が、いきなりのカルチャーショックを受けたアヤカ。
言ってることがわるで分からないのだ。話せばやや通じるのだが。
ひとつにはアメリカは人種のるつぼ、いろんな国から人がいるわけで、イントネーションも十人十色。それを聞き分けなければいけない。
もうひとつは、学校で習う英語と、実際に話されてる英語とは、やはり別物だということ。
言葉が通じず、へこみかけたアヤカを救ったのはやはりサッカー。ハワイのハイスクールのサッカークラブは存外レベルが高かった。
仲間もでき、こうしてとっても正しい日本語をチームメートに教えるまでになっていた。

「あんまり変な日本語教えないで下さい」
そうアヤカに言い放ったのは、控えのいつも元気な女の子だった。
発音正しい日本語で。
「へえ、日本語うまいね」
「母が日本人です。父はオーストラリア人ですが、私はアメリカ国籍を持っています」
東洋の血を引いてるにしてはやけにはっきりした目鼻立ち。
強いて言えば、その背の低さが日本人っぽいが。
「あんたハーフなんだ」
「ダブルと言ってください。父と母、両方のよいところを受け継いで私ができたのですから」
それがアヤカとミカ・タレッサ・トッドとの出会いだった。

「なんであんたがサブなんだよ」
海に沈む夕焼けを見ながら、アヤカがミカに尋ねる。
注目して見ていれば、ミカのスピード、技術は図抜けている。とてもこのチームでベンチを温めるべき存在ではない。
「U.S.A.ではBig is greatだから」
あきらめたようにミカが言う。
確かにアメリカで人気のあるスポーツは体格に左右されるものが多い。バスケットボールのポイントガードだってマジック・ジョンソン以降はセンターみたいなガタイのいい選手がやる時代になった。
けど、サッカーってそうじゃない。機敏さやテクニック、それに判断力が求められる。小柄さが有利に働くことだってあるのだ。
このまま、埋もれさせるのは、あまりに惜しい。
「タレッサ」
アヤカの顔の半分が朱色に染まる。
「日本においでよ」

アヤカの目に狂いはなかった。
アヤカの口利きでJ数チームのテストを受けたミカは清水エスパルスに入団、日本のブラジルと呼ばれるほどサッカーの盛んな清水サポーターをうならせるプレーを見せた。
アメリカ国籍から、母の国、日本国籍へ。
「君が世と納豆から始めろ」と激励の言葉を送る前に、代表へ召集。
そこから、アヤカの運命も大きく揺らぎ始めた。
日本へ戻ると、上智大は都一部に昇格していた。
意を決し、中途入部したアヤカは春季リーグでいきなりの得点・アシストの二冠を達成する。
遠くとおくにいるライバルに見せつけるように。
ある日、試合会場で渋めのオジサマにナンパされた。
「北京行かない?」
それが寺田農・ユニバーシアード監督(当時)であった。
読売クラブ仕込みのテクニックとゴール感覚、なにより高いプロ意識。柴田のパートナーを探していた彼にとって、アヤカはそのベストキャストだった。

アヤカは自らが見出したミカについに追いついた。
こうしてお揃いの日の丸を胸に、同じチームの両サイドを守ろうとしている。
しかも相手はかつての同僚たち。ダニエル、チェルシー、エイプリル。
弱気は最大の敵、そう信じるアヤカには今のミカが不甲斐なく見える。
が、どやしつけたりはせず、その手をぎゅっと握り締める。
3-4-3は両サイドの守りがどうしても甘くなる。それをサイドバックの技量のせいにされ、ミカもずいぶん叩かれてきた。
見返してやろうよ、そいつらを。
この試合はサイドバックで勝った、そう言わせてやろうじゃん。

暗幕を引いたようにとっぷりと日が暮れる。
カメルーン戦では満月だった月が、もう半月よりも細くなっている。
「まこっちゃん、本当に出るのかなあ」
「出ないわけないじゃん」
「ていうか、本当に小川なんだよな」
「ちっきしょー、この席遠すぎ」
高校時代の小川の親友たちも訪れていた。0泊3日、炎の弾丸ツアーで。ただしそれを当の本人は知らない。
ダーンダダーンダーンダンダダダダーン・・・
アンセムが大音量で流れ、FAIR PLAY PLEASEの旗と審判団に続き、青と白の列が入場。
青の列、吉澤を先頭に進む日本代表。
その最後尾、今日も黄色いユニフォームをまとった18番の背中が見えた。
「マコトー!」
もちろん、聞こえるわきゃあ、ない。

サイドバックとゴールキーパーが負けないチームの肝。
これはマジ。高校サッカーで控えサイドバックだった俺が言ってんだから間違いない。
俺が試合にでたら勝てないんだもん。でもボランチででたら勝てるんだ。
サイドバックでは負けてボランチなら勝てる。
つまりチームの鍵はサイドバックの堅さにある。
ボランチのミスよりサイドバックのミスのほうが怖いってことだよ。

アウェー扱いの白のユニフォーム、アメリカの国家「星条旗よ永遠なれ」が先に流れる。
ミカは複雑な思いにとらわれた。
その思いを振り切るがごとく、続く日の丸を口ずさんだ。
吉澤とレフアのコイントス。吉澤が勝ち、ボールをゲット。
円陣を組み、散る青のイレブン。
センターサークルに石川と松浦。
その脇に加護と辻。
さらにその外側、タッチラインとハーフウェーラインの交差点、フラッグの立てられた辺りに、左右のサイドバックが立った。つまり六人がほぼ一直線に並んでいることに。小川がニヤリとなる。
「吉澤、紺野、下がれ!」
ホイッスルが轟く。
3と17が、前に出た。

余計なおせっかいではありますが、
今のルールではトスに勝った方が攻めるエンドを選択して、
負けた方がキックオフを行います。

小川がハイボールをキャッチする。
ボールを抱え、前身。
「・・・と」
思い切り投じようとして、やめた。
中盤の四人に、いずれもガードがついている。
アメリカ名物、バスケットボール並のオールコート・プレス。
いかに小川の肩が強いとはいえ、ニュートラルな体勢いきなり投げられるもんじゃない。
つかんで、状況を見ながら前へ、その勢いを借ってペナルティエリアぎりぎりから思い切り腕をしなわせてもせいぜい40メートル前後。つまりぎりぎりハーフウェーラインを越えるかどうか。
体力だけなら図抜けているといっていいアメリカ。そのプレッシングを、何分間続けられるのか。
「くっ」
寄ってきた紺野にアンダースローで放した。

アメリカのシステムは4-4-2あるいは4-5-1。きわめてオーソドックス。
4ボランチなんて言われるほどの堅固な中盤。
レフア率いる鉄の棒のような最終ライン、山のようなゴールキーパー、ダニエル。
チェルシー、エイプリルのツートップは駿足を誇る。
日本が攻撃は最大の防御と攻めのチームを作ったとすれば、アメリカは身の丈にあった堅実で少ないチャンスを確実に活かすチームにしてきた。
日本は両サイドバックが交互に上がってMF、FWと再三絡む。
センターバック紺野は積極的にディフェンスラインを押し上げていく。
序盤は、静かに流れていった。

「似るよなぁ」
平家の言葉に、信田と稲葉がうなずく。
水は血よりも濃かったりする。
この日がスタメンデビューとなった紺野あさ美、鋭い号令とともに最終ラインを押し上げ、アメリカのツートップをワナにはめていく。縦に速いだけのFWは案外オフサイドトラップにひっかかりやすい。
普段はおっとりとしているが、真ん中で仕切る様は、三人が8年前オリンピックを目指したチームのディフェンスリーダーを思い出させるに十分。
石黒彩の教えが、紺野の体には色濃く刻まれている。
そして紺野が前に出られるのも、前線からの守備が効いてるから。
3トップ、石川、柴田と木村麻美、吉澤。後ろにいくほど目の細かくなる網が確実にアメリカからボールを奪う。

「出ないんだ、ん、分かった」
自分がもう試合に出ないのを聞かされた時の従妹の反応を、保田は改めて思い出す。
あ、これなら大丈夫。あと三試合ゴールを守るであろう小川の姿を見、安心したものだ。
あのハナッタレが、ずいぶん偉くなっちゃって。
「OK!」
チェルシーからエイプリルへのパス。紺野がエイプリルの進路に体を入れる。前に出た小川がボールを奪った。

「ドスコーイ!」
松浦のボレーシュートを防ぐ米GKダニエル。体ごと投げ出していった。恵まれた体あって初めて許されるセーブ。
左サイドをえぐり、マイナスのセンタリングを上げたミカが首を振る。
「タレッサ!」
アヤカが戻りを促す。彼女が教えてくれた、日本には43/4フィート(145センチ)しかない代表選手がいる、5フィート(152センチ)のあんたはずっと恵まれてるんだよ、と。
145センチだけではない、148や149センチの選手がこのチームにはざらざらいる。背の低さは、言い訳にならない。
ミカは左サイドを全力で駆け戻った。

石川の右コーナー。吉澤が飛ぶがダニエルがパンチ、ルーズボールを辻がミドルレンジから打つ。闇夜に消えたが、今までの辻があんな長い距離を自ら狙うことはなかった。
アメリカの高さは脅威的で、今の日本では互角に渡り合えるのが吉澤ぐらいしかいない。今さらながら、安倍の存在の大きさを痛感する。
かたや辻は元気だ。疲れてはいるもののコンディション自体は良好。なにより攻めること、勝つことに飢えている。

前半も30分を過ぎ、依然0−0が続く。
レフア、ダニエルを中心にパワフルに日本の3トップを跳ね返すアメリカ。
紺野がよく統率し、アメリカの速攻を未然に封じる日本。
石川が柴田に預け、前へ。柴田からのリターンがロブで。
ダニエル、そのままのっしのっし前進。
「ドッコイショー!」
軽くトスしたボールに、豪快な張り手一閃。「十戒」の海のごとく、ピッチを真っ二つにする。
アヤカは自らの判断でラインを押し上げた。
紺野の指示が一瞬遅れた。
ミカは引いて守るものだと考えた。
ともかくボールはアヤカの背後に落ちた。

しまった。あわててきびすを返すアヤカ。
だがアメリカMFエイプリルが先に追いつく。距離が縮まらず、腕を伸ばして引き倒すこともできない。振り切られた。
「くそっ」
イチかバチか、18番を背負った小川がゴールを開け放った。コーナー付近まで飛び出してスライディングを敢行。
センタリングが、一瞬早い。
いち早くゴールカバーに入ったのは紺野。
だが、ミカもまた、無人のゴールに入ってしまう。
ペナルティエリアに侵入するチェルシーは、まったくのフリーだった。
互いに相手がFWにプレッシャーを与えにいくものだとばかり考えていた二人の間を、先制ゴールが豪快に突き抜けた。
前の試合と総入れ替えになったディフェンスラインの乱れが、致命的なミスを引き起こした。

やっちまった・・・あきらかに自分のミス。立ち上がれずにうずくまる小川。なまじ調子がいいと思うと、これだ。
それを差し引いても、あんなフィードは見たことがない。
キックならともかく、腕でいきなりウイングに出してくるなんて。女か、いや、人間か?
「ゴッチャンデース!」
逆サイドで吠える怪物ゴールキーパーを見やる。
「小川」
アヤカが手を差し伸べる。ユニバーシアード代表からの顔見知りだ。あのチームで失点したことのない小川、こんな風にアヤカに助け起こされるなんてなかった。

守りのチームに先制を許す。
最も得点の少ない球技のひとつであるサッカーで、最もやってはいけないことのひとつをやってしまった日本。
しかも最も調子づかせてはいけないタイプのチームなのだ、力任せのアメリカは。
「紺野、来る!」
小川、吠える。押し上げをためらうリベロのケツをひっぱたき、サイドバックの上がりをうながす。
3トップにサイドバックが一人(時には二人)前線に加わると、確かに前は分厚くなる。辻と加護が昔でいうインナー(センターフォワードとウイングの間にいる選手)のポジションで松浦と絡み、ミカとアヤカがタッチライン際を駆け上がる。
が、4人や5人のFWではいかにも頭でっかち。
中盤が圧殺されているというのに。

空回り。あまりにも悪い流れのまま前半が終わってしまった。0−1。
平家も、かける言葉が即座には見つからない。
みんながんばっている。個々の動きは悪くないのだ。
加護とミカの左、辻とアヤカの右、どちらもチャンスを作っている。
紺野と小川も、失点の場面以外ではさしたるミスもなかった。
調子の上がらない中盤にしたって、プレスの掛け合いでは互角に渡り合っていた。
ただ、アメリカの牙城を崩すことだけができない。
今のメンツでは、これが精一杯なのだろうか。

石川は冷たい廊下の上に身を投げ出す。頭からはタオルをかぶって。
試合に出てなくてもいい、こんな時、矢口がいてくれたら。
保田が落ち込む小川をケアしているのを見て、一層その思いを強くする。
だが矢口はいまだ、関根勤の悪夢にうなされている。
「カマキリ男、黒子とグレ子、日光江戸村…」
なにがそこまで矢口をさいなむのだろうか。試合とはまったく関係のない思考が石川を支配する。
アルゼンチンの10が誰であるか、石川も薄々は感づいている。だがそれが関根勤とどう結びつくのか。
「りーかちゃん」
急に名前を呼ばれ、はっとなる。
太陽が、いた。
日本代表を凍りつかせる空気を、一瞬にして吹っ飛ばす夏の太陽が。

後半開始前から、その選手はアップしていた。
皿に入ったヒビをカバーするのは、特注の黒いひざ当て。愚弟がメーカーを駆けずり回って作らせたものだ。
これがあれば、右ひざへの衝撃を最小限に留めてくれる。
心臓かばくんばくんいってる。
初めて日の丸をつけた試合を思い出す。
あの時だって、平気そうな顔をしていたけど、本当は胃に穴があきそうだった。
彼女は自分が周囲にどう見られてるかをよく分かっている。
負けたって、誰も同情なんかしてくれない。
そうやって自分自身を追い詰め、勝ち続けてきた。
負けて得るものもあれば、勝ち続けることで見えてくることもある。

後半が始まっても、重苦しい、どんよりとした雲が日本五輪チームの頭上だけを覆っていた。
あかん、やむなしや。
「行くで」
開始5分、早くも投入とあいなった。
ボールがタッチラインを割る。
やっぱ、うちらだけじゃダメなんやろか…
「加護、なんて顔してんだよ」
鼻にかかるその声に、はっとなる。
後藤真希が、戻ってきた。
アウトになった木村麻美のいたライトハーフにそのまま入る。
右サイドでのプレーなら、右ひざへの接触プレーは少なくてすむはず。

ポジションは関係ない。
安倍が春の陽だまりなら、後藤は真夏の光線。
彼女のいるいないで、チームはまったく別ものになる。
そしてそれは努力で身につくものではない、紛れもない才能。
立ち込めていた暗雲は、瞬時にして打ち払われた。
長短高低、さまざまなパスが中盤を駆け巡る。
石川、吉澤、柴田の動きも前半とは見違えるようだ。
後藤は日本代表の輝ける太陽である。

中盤が再び機能し始め、前線や最終ラインにもその元気が伝わってくる。
アメリカのロングパス。紺野が勇敢にラインを押し上げる。チェルシーがボールを追うこともできない。
日本の陣地の深いところで左タッチを割った。日本ボールのスローイン。
小川が寄って行く。自らスローを入れるようだ。南米などではよくある光景。ミカがレシーバー役を買って出るべく近寄る。
「伏せろ!」
あわててしゃがむミカの髪を巻き上げ、ロングスローが直接敵陣左サイドの柴田へ。
柴田、間髪入れずに逆サイドへロングパス。弧を描くサイドチェンジ。そこに疾風のごときアヤカ、頭でトラップして中へ。ユニバーシアードでも点を取った形。
レフアが潰した。吹っ飛ぶアヤカ。笛が鳴って、フリーキック。

PKでは? と思うようなペナルティエリアぎりぎりの位置。右寄り。これは柴田のエリア。
「ケショーマワシ、ツクレー!」
壁を作るGKダニエル。柴田がセットしたボールの前に石川も立つ。
笛が鳴る。柴田がボールを飛び越し、ヒールで後ろに流す。
石川、思い切り叩くと見せ、ジャンプした壁の足元をグラウンダーで抜く。
右45度から走り込んだ背番号5、レフアを振り切り、ぶちかましセーブにいくダニエルのタイミングを完璧に外した。
ピッチに入ってわずか3分、後藤の同点ゴールが決まった。

アルゼンチンチームは、一足先にシドニー入りしていた。
ホテルの部屋が真っ暗なのは、相部屋のギンナンがすでに寝息を立てているから。
暗い部屋の中で、テレビの画面だけが煌々とついている。
チャム・サヤカ・イチイ、一人で、ベッドの上でひざを抱えて座っていた。
日本は、後藤の投入で息を吹き返した。
けど、チャムはそれまで応援していた日本代表に、負けろ、と念じていた。
むかつくんだよ、後藤。

後藤が太陽なら、あたしは月だ。
太陽の光を反射して、ようやく月は光を放つことができる。
昼に出る月は、悲しいくらいおぼろだ。
月は闇の化身。太陽のように人を暖めることはできず、ただ心の闇を青白く浮き立たせるのみ。
太陽が近づけば近づくほど、その醜い貌をさらけ出すことになる。
それでも太陽は無邪気に月に擦り寄って、その炎のようなトゲで月のプライドを傷つける。
後藤、あんたは知らないんだろうけど、あたしはあんたなんか大っ嫌いなんだよ。
仲間の祝福を受けるブラウン管の向こうの太陽を、月は嫉妬に狂った目でにらみつけていた。

後藤最高!!
オーバーエイジ亡き今、やっぱり後藤が頭1つ抜けてるね。
怪我に負けずにがんばって!

よっしゃ、ええで後藤。
負傷はしたものの、その存在感はやはり別格だ。中盤どころかチーム全体を変えてしまった。投入は正解だった。
右サイドに張りついて奔放な動きはなりを潜めたが、ロングパスで逆サイドの加護やミカを動かすなどフィールド全体を支配、アメリカの密集守備の空白地帯をズバズバ突いてくる。
逆転や。平家が膝をさする。
ヒザ? 我に帰り、左膝に置かれた自らの手に気づき、青ざめる赤鬼。
膝が、泣いている。
待ってよ。今度は誰やねん。誰が壊れるっちゅうねん。

紺野がじっと戦況を見つめる。あの失点は私の責任だ。自分で取り返したい。
だが両チームともにアグレッシブで、プレス地獄とでも呼びたくなる中盤には、紺野が飛び込めるようなスペースのかけらも見当たらない。
「紺野!」
それを見透かし、待てをかける小川。吉澤も背後を気遣う余裕がないし、サイドバックの上がりも盛ん。リベロにまで上がられたら前半の二の舞だ。
信じろ、前を。
うちらがただの田舎モンだった頃から、世界を相手に戦ってたやつらがいるじゃねえか。
同い年の、うちらの世代の代表だった二人が。

加護が左サイドを巧みなドリブルで抜け、スルーパス。柴田が左足で叩く。ポストの右へ反れた。
アウトサイドは合わせ鏡だ。一方がタッチ際を駆け上がるならもう一方は中に切り込むほうがバランスがいい。
辻は典型的な香車、それに合わせて左から内に入るプレーに限定されていた加護。予選リーグで右ウイング木村アヤカは逆に加護に合わせてくれたので中に外に自由に動けた。
そして、阿吽の呼吸の相方が戻ってきた。辻はかつてないぐらいゴールへの意識が高まっていた。
ならば加護の仕事は決まってくる。そのおぜん立てをすること。

チェルシーが中央突破を図る。日本も囲みにいく。前から紺野、後ろから吉澤、左からアヤカ。
唯一残った右に走り込むエイプリルの姿を発見、素早くそのサイドへゴロを送り込むチェルシー。
レシーブ!
ミカがインターセプト。狙い通り。余勢を借って前進、左ウイングへロングキック。速く、低く。
トス!
コーナーに回り込んだ加護、ダイレクトで上げた。
ゴール前に殺到する松浦、石川、後藤。その頭上を柔らかく抜けるセンタリング。
アタック!
フリーで放った辻のヘッド、ダニエルの脇の下を抜け、ゴールラインを叩き、ネットを揺らした。

後藤の投入からわずか9分間の同点、逆転弾に沸き返る日本ベンチ。ピッチでも紺野と小川が抱き合い、ミカの背にアヤカが飛び乗る。まるで優勝したかのような騒ぎ。
辻も嬉しかった。たまった鬱憤を吐き散らすかのような、気合十二分のヘディング。ロッキー山脈のようなアメリカDFを150センチない辻が上から突き崩したというのもまた痛快。
だがこのゴールを最も祝福してやらねばならないはずの11番の姿は、依然左コーナー付近にあった。
左胸に手を当て、小さく吸って、吐く。
ようやく呼吸が落ち着くと、ゆっくり歩き出した。

「オーマイガッ!」
両手で地面を叩くダニエル。よりによってあんなチビに上から決められるなんて。
元同僚に立て続けにやられてしまった。後藤のゴールを生んだセットプレーはアヤカがゲットしたものだし、辻のゴールもミカのパスカットから始まった攻撃だった。
「ビー、クール!」
叫ぶレフア。彼女は大学選抜からの昇格組ではない。今年に入ってチームに加わり、プロ意識を叩き込んだ。
U.S.A. is No.1!
移民の国であるアメリカ人を結束させるのは愛国心とプライドだ。負けて泣くくらいなら誇り高く死ね。

おおカッコイイ!
豚の自由はいらない、誇り高き飢えた狼を選ぶ
の精神だな。

レフアが本来のポジションであるボランチにまで上がってきた。アメリカのプレスは一層厳しさを増し、スルーパスがツートップを走らせる。攻撃に関しては中盤無視を貫いてきたアメリカに日本の誇るMF陣のプレスが襲いかかる。
プレッシャーを嫌い、再度ポジションを下げるレフア。
アメリカ、徐々に日本の術中にはまりつつあった。

「圭ちゃん」
平家がどっかとベンチに腰を下ろした保田に声をかける。
「圭ちゃんなら次誰を替える?」
もともと平家は保田を自らの右腕として豪州に連れて行くつもりでいた。今こうして役目を終え、選手と首脳陣のつなぎ役のようなことをしている。
雑談なのかな、とも思ったが予選リーグの最優秀監督が試合中に雑談を持ちかけるはずもない。
もし誰かがケガをしようとしているなら、早く替えてあげなければならない。たとえ劣勢になろうともだ。
状況を見極めんとする保田。膝に爆弾を抱える後藤か、自分と同じ病を持つ加護か。それとも…

時間を追うごとに日本の3バックは安定感を増していった。紺野が柔軟にラインを上げ下げすればミカはスピードとスタミナをフル活用してエイプリルを封じ、アヤカはずる賢いディフェンスでチェルシーに仕事らしい仕事をさせない。
その後ろではチームでただ一人のアマチュアプレーヤー、ゴールキーパーの小川が声を張り上げて指示を飛ばす。平家の見立て通り紺野との相性は抜群のようだ。
吉澤がその前でワイパーとしての仕事を忠実にこなす。前の三人もサボらない。
全員が飛ばしていた。いつまでそれが続けられるのか、考えもせずに。

辻のゴールへの貪欲さは衰えることを知らない。自ら持ち込み、左からのボールにも飛ぶ。
パスの供給役はもっぱら加護だ。カメルーン戦こそ後半下がったが以降は全試合フル出場、疲れは一つのピークに達している。
飛ばし過ぎやちゅうねん。そう思いながらも再三左サイドを駆け上がる加護。この時もセンタリングを上げた。
松浦が頭で流したボールをもらい、レフアを飛び越え、シュートにいく。
「チェストーッ!」
ダニエル電車道。激突し、ピッチの外まで転がり出た辻。
「うー…」
左膝を押さえてうずくまった。

「ののっ!」
駆け寄る加護。
「ううーっ…」
脂汗を流して悶える辻。膝にコールドスプレーを吹きつけられる。
だが同時にチャンスでもあった。後半31分、ペナルティーキックの大チャンス。これを決めれば3-1、今の流れからすればほぼ日本の勝利は確定する。
「ごっちん」
石川が後藤にボールを譲る。この日の調子なら後藤が蹴るべきだと判断した。
PKスポットに立つ後藤、不知火型で構えるダニエル。
助走なし。右足。高い。左に反れた。舌を出し、天を仰ぐ後藤。辻も足を引きずりながら戻った。勝利はまだどちらのものでもない。

残り10分を切った。
アメリカは左サイドを重点的に攻めた。日本右サイドの運動量が落ち込んだからだ。負傷した辻、PKミスで落ち込んだのか後藤。
レフアからチェルシー。アヤカが向かい合う。抜かれた。その背後をカバーしたのはミカ。
浮き球で抜いた。落下地点にエイプリルと紺野。ヘディングシュートがバーを鳴らす。
エイプリルが反応。小川が左手を伸ばす。
交錯。
うつぶせの小川、仰向けのエイプリル。主審の指先にPKスポット。

「大丈夫だよ」
左手を振る小川。セーブの際に手がかかったという判定。
キッカーはレフア。ボールを抱えてスポットに立つ。
小川、左に飛ぶ。逆を突かれた。タイスコア。
ベンチの高橋が複雑な思いでそれを見ていた。
ファウルについてはしょうがない。あれで反則になるならキーパーはどうやってゴールを守ればいいのか。
ただしあのPK。接触した手のサイドに蹴ってくるという読みはいい。けど、飛ぶのが早すぎだ。
あたしなら、止めれたのに。
後半終了の笛が鳴る。わずかな休憩をはさみ、ゴールデンゴール方式の延長が始まる。

後藤が小湊をつかまえ
「バケツあります?」
ひったくるなり、いきなり
「うえええーっ」
嘔吐した。
久しぶりの試合、PK失敗…ストレスが胃にきていた。
辻はよほど痛むのかスプレー一本使い切る勢いで膝に吹きつける。
「加護」
保田が寄っていく。変に遠慮するところがある奴だから、ちゃんと聞いてやらないといけない。
「大丈夫なの?」
「なにが? おばちゃん」
とぼけてるのか、それとも本当に何ともないのか加護が歯を見せた。
それを横目に見つつ、小川は口に含んだ水を左手に吹きつけ、立ち上がった。

延長前半開始直後、レフアのロングシュートが小川を襲う。
「甘えっ」
左手一本で弾き出す。
紺野は相変わらず高い位置でラインをキープ、後藤もスッキリとした顔で動きにキレが戻った。辻、加護も両サイドを鋭くえぐる。
だがプレスの掛け合いとなった中盤。先に悲鳴を上げたのは日本だった。体力勝負はアメリカに軍配。
平家が腕組みしながら戦況をにらみぶす。チャンスはそうない。控えの選手全員にアップを命じた。まだ二人までの交代が許されている。

延長前半14分、石川が倒された。左サイド、深い位置でのフリーキック、石川自らがセット。
シンプルに上げた。ファーポストの吉澤が頭でニアへ。後藤も折り返す。
飛び込んだのは紺野。右足で軽く合わせたがダニエルにはたき落とされる。
カウンター、中央を突破したエイプリルのシュート、小川の左手を弾いてゆっくりとゴールに吸い込まれる。
加護、全力で駆け戻り自らゴールに飛び込みながら頭でかき出した。
「…加護」
ネットにもたれた加護が動かない。保田の背にさぶいぼが立つ。
「…ぢがれだー」
情けない声が、出た。

前半終了。休憩はなく、陣地が替わるだけ。そのまま両チームの選手がすれ違う。
辻が呼ばれた。交代。ピッチの端まで保田が迎えに出る。
「あんた、ヒザ大丈夫?」
右足見て、左足見て。
「どっちでしたっけ?」
替わって入った新垣里沙、センターフォワードへ。仕事はレフアからの生きたボールを出させないこと。
いまだアップを続けている者が一人。控えのキーパー高橋愛、信田のキックを黙々と受け続ける。ずっと観察していた。誰が何利きで、どんなクセを持っているかを。

「後半、もっとライン下げような」
小川はお見通しだ。自分の異変に気づいた紺野が、中盤にろくなプレスがかかってないのにラインを押し上げているのに。
確かに引いて守ったほうが紺野だって楽だ。しかし。
「水くせえな。もっと頼ってよ」
小川がその肩に腕を回した。
「あたしがあんたらの仲間でいられるの、この試合で最後なんだからさ」
そんなにひどいのか。改めて愕然となる紺野。
「…そうだね。医者だって末期ガンの患者には好きなことさせるっていうし」
「ヤなこと言うね、お前」

後半、日本は引いて守った。加護と石川がDFの両端にまで下がり、アヤカとミカがツートップを徹底マーク。紺野はほころびができそうになるとすかさずそこを塞いだ。
フリーキックをなかなか蹴らなかった柴田が警告を受ける。次の試合には出られない。吉澤、後藤が最終ラインにバリアを張る。
小柄な新垣が大柄なレフアのすねを蹴って倒す。松浦がダニエルのフィードを妨害する。どちらがFWか分からないしつこさだ。
日本は守っていた。攻撃的に、ゴールを守っていた。

そして最も忙しかったのが小川だった。シュートの雨に、センタリングのあられにその体を投げ出した。
素材としては高橋にはるかに及ばない。それでもレギュラーを取った。
勇気。
身を呈してゴールを守る勇敢さでライバルを蹴落とした。
その心は雨上がりの夜空より晴れやかだ。明日のことなんか、何も考えなくたっていい。
アメリカの右コーナーキック。落下地点に新垣とレフア。ミスマッチ。
小川が腕を伸ばす右手で受け、左手を添える。
腕で押された。空中でバランスを崩す。
不吉な音が甲高く鳴り響く。頭からゴールポストに落ちた。

「小川!」
仲間の声が、遠くに聞こえる。
耳鳴りがするし、頭がぼーっとする。
でも、やれる。
頭を振って起き上がる。
やってやる。
「マコト!」
大丈夫、姉ちゃん、そんな情けないツラすんな。

そこからの日本のキーパーは、明らかにおかしかった。
激突したアメリカの選手が悶絶するのに、けろりとした顔で立ち上がる。
完全にタイミングを外したシュートにも触れてしまう。
不気味な存在感。
焦点の定まらない眼。
だらんと垂れ下がった腕。
表情の抜け落ちた顔。
逸れていく。おびえたようにボールが逸れていく。
アヤカを引きずりながらのチェルシーのシュートが紺野に当たって、こぼれる。
ミカを押しのけ、前に出るエイプリル。
小川の右腕が伸びる。
親指と人差し指が、これ以上無いくらい伸びきる。
ボールは、そこから1ミリも動かなかった。

ファウルを取られた。キックにいこうとボールを置くキーパー。
「小川!」
紺野がそれを押し止める。
黒いユニフォームを着たライバルが、その場に飛び跳ねている。
まだ、できるのに。
ゆっくりと歩を進めるキーパー。
すれ違いざま、その耳元に言葉を残す。
「え?」
聞き返す。が、小川は振り向かない。
「高橋!」
その名を呼ばれ、背番号1が慌ただしくピッチに入った。

電光掲示板のOGAWAの文字が消え、TAKAHASHIの文字が浮き出す。すでにロスタイムだった。
「お疲れ」
平家や信田には目もくれず、黙ったまま保田のもとへ。
「外して」
そう言って、グラブをはめたままの腕をぬっと突き出す。
左から外す。人差し指と中指が真ん中からだらりと垂れ下がっていた。
右も外す。親指と人差し指の股がざっくりと裂け、真っ赤に染まっていた。
脂汗のにじむその顔を、保田がにらみつける。
バカだ、あたしは。
加護ばかり気づいて、まったく気づいてやれなかった。
痛いとか絶対に言わないこいつの性格、あたしが一番よく知ってたんじゃないか。
「あんた、なんでそこまでして」
そう言われれば、なんでだろう。小川も苦笑いするしかなかった。
スタンドがどよめく。高橋のパンチミスを紺野がクリア。
仁義無きロシアンルーレットの幕開けを告げる笛が鳴った。

助かったPK戦の前に点入れられたらシャレにならんもんなでも向こうのキーパーでかっていうかお前曙か武蔵丸かよあんなんでゴール立たれたんじゃシュート打つ場所なんてあるんだかないんだかでもPKはガタイじゃなくて読みとカンと運だって中澤さんに教わったよなよし気合入れ直していくべ落ち着け落ちつけおちつけおちけつおけけつおけけっつのぱー…
バチンッ。
「うひゃあっ」
紺野の猫だましがガチガチの高橋の目の前ではじけた。

誰が蹴る? 円になって座ったイレプンから志願者を募る平家。何人かが手を上げ、順番を指名していく。
吉澤が戻る。先攻を取った。
「いいですか?」
普段無口な北陸人キーパーが口をはさんだ。ライバルが去り際に残したあの一言を。
「マジ?」
「試す価値はあるかも」
「あたしは信じるよ」
吉澤が左腕に巻いた腕章を外す。その手に全員が手を添える。赤いキャプテンマークは日本チームの名運をつなぐタスキに変じる。
思いを、込めて。
「がんばっていきまー…」
「しょい!」

日本、石川梨華が左腕に腕章を巻いた姿で登場する。ゴールキーパーはもちろんダニエル。腕を広げる。
高橋の言葉を胸の中で反芻しながら、助走に入る。まっすぐゴールをにらんだまま目は逸らさない。
ダニエルは右、ボールは左。勢いよくネットが揺れる。
「ッシャ!」
平家がガッツポーズ。一番手が決めればチームは勢いづく。
喜び勇んで仲間の下へ戻る石川。真っ先に吉澤が出迎える。
「二年前みたくポストに当てるかと思ったよ」
「しないよ」
日本1−0アメリカ。

「一人目は誰だ?松浦か?加護か?」
「一人目は石川だろう」
「アメリカに負けたらシャレにならんぜ」
「しかし日本はもろに守りにはいってたな」
「PKなら自信があるのか」
「高橋がいきなりの大一番だぜ、大丈夫なんかよ」
「おい、一人目がでてきたぞ」

「ッシャア!!!」
「さすが石川、なんなく決めたな」
「やっぱ吉澤と仲がいいな、一番に抱きついたぞ」
「さあ次、高橋とめろよ」

高橋がゴールに入る。ジャンプしてクロスバーに触れる。
アメリカのファーストキッカーは石川に決められたばかりのダニエル。
キーパーかよ。さすがにキックのくせは分からない。けど、力任せに蹴ってきそうだ。
ペナルティキック。ドイツ語ではスポットからゴールラインまでの最短距離である11メートル、スペイン語では最大の罰と表現するそうだ。
PKを防ぐのは、物理的に言って、不可能なのだそうだ。だからキーパーは勘を働かせたり、フェイントをかけるなど悪あがきをする。
高橋もいくつかの方法を持っている。これはそのひとつ。
左右、上下でエリアを四分割する。そのいずれかに当てずっぽうで思い切り飛ぶ。
左上に飛んだら、手の中にすっぽりと収まった。
センターサークル付近で手をつなぐチームメートに拳を振り上げた高橋。

「オッシャー!!」
「きたあ!高橋いいじゃねーか!!」
「あのデブキーパーざまあミソラシドォ!」
「二人目誰や、いったれー!!」

主審の笛が鳴る。なんと蹴りなおし。動き出しが早かったというのだ。
「何でよ!」
珍しく、高橋が声を荒げた。ふざけんなよ。何回も止められるってわけじゃないんだぞ!
「高橋!」
ベンチから聞こえたドラ声。我に返る高橋。誰の声かは確かめなくても分かる。
そうだ、抗議したって何にも変わらない。
息を大きく吸い込み、再び目の前のキッカーを見る。
まず同じ方向には蹴ってこない。逆だ。フライングしないようにギリギリ粘って、今度は右に低く飛ぶ。
わずかに、届かなかった。
「くそっ」
悔しがる高橋。それでも、冷静さまでは失っていない。
日本1−1アメリカ。

次は後藤だ。右の拳にキャプテンマークを握り締める。
試合中、一度PKを止められている。
が、そんあことはとっくに忘れた。
ゆっくりと助走、コンパクトにサポーターを巻いた右足を振りぬく。左に低く飛ぶダニエル。その指先の15センチ先をボールは通過していった。
本当だ。高橋の言葉は正しかった。
後藤、ある意味高橋を試した。そしてその正しさを確かめた。
「ごっちーん」
うれしそうに、右手を振った。
日本2−1アメリカ。

「あの審判は糞だな」
「なんかアメリカびいきなんだよ」
「どこが先に飛んだ言うがよ」
「まあ落ち着け、これからや」

「よし、後藤よく決めた」
「落ち着いてんじゃねーか」
「お前も落ち着けよ」
「もっと熱くなれよ」

アメリカ2番手、先制点を決めたチェルシー。
こいつは確か左利きだったな。裏をかくのが好きだった。
このタイプにはギリギリまで粘って…いや、逆だ。思い切り来るぞ。
なるべく動かず、ここと思った瞬間に飛ぶ。
右足に闘志を込める高橋。右上。方向ドンピシャ。が、指先のはるか先。
そのまま、ゴール裏まで抜けた。恐らく読みを当てられてさらに厳しいコースを狙ったのだろう、それで力が余計に入ってしまった。
今度こそガッツポーズ、を取りかけて、スポットにうずくまるキッカーに気づいてしまった高橋。
近づいて、その耳元にささやく。
「But I know, you're very good player」
日本2−1アメリカ。

「オー!!はずしたぞ!!」
「高橋も読んでたな」
「高橋が相手に声をかけてるぞ」
「なんかかっけーな」

「柴ちゃん」
石川の心配そうな声を背に背番号10がゆっくり歩みだす。
キャプテンマークを腕に巻いた柴田あゆみ、略してキャプしば。
ダニエルが低く身構える。そろそろ止めとかんと、やばい。
柴田が左利きであるのは承知してるし、立ち位置からしても左足で来るだろう。インステップで蹴ると踏んで左、キッカーの右に飛ぶ。
三たび、左。三たび、ネットが揺れる。
「柴ちゃん!」
石川がうれしそうに手を振るので、ぐっと親指を立てる。
大役を終えた柴田、安堵のため息。
これで決勝戦までお役ごめんだ。

「シット!」
ダニエルが仁王のような憤怒の形相を見せて吠える。
本当だ。高橋が小川の言葉が本当だったことを思い知った。
左を狙え。あのキーパー、右膝やっちまってるぞ。
本当に左への跳躍は、右ほどの鋭さがない。恐らく辻と激突した時だろう。
同じように、痛みを抱えながらゴールを守ってきた小川だからこそ見破れたのだった。
日本3−1アメリカ。

「ヨシ!ヨシ!ヨシ!」
「柴田うまい、渋いね」
「柴田ってなんか目立たねーよな」
「アホ、レフティやぞ」

追い詰められたアメリカの3番手はエイプリル。どこから見てもアジア系だが、胸の前で十字を切る。
こいつは本能で来る。勘を働かせろ、そうすれば相手がコースを教えてくれる。
重心を低く持っていった高橋、左へ低くダイビング。地を這うシュートの感覚が指先に。
が、エイプリルの執念が勝った。コースを変えられてもなおゴールネットを揺さぶる力が残っていた。
今のは止められた。左下への苦手意識がどこか頭をかすめてしまった。
「くそッたれ!」
両手で地面をバンと叩いた高橋。自らへの不甲斐なさを抑えることができなかった。
日本3−2アメリカ。

「ああーー惜しい!!」
「もうちょいやったんに」
「今度いれたら勝ちやの?」
「まだやわいよ、次は吉澤か?」

日本の4番手は、木村アヤカ。ダニエルとは旧知の仲。
本来ラストキッカーの吉澤が気を遣い、先に蹴ろうか? と申し出た。丁重にそれを断った。
これを決めれば、アメリカはもう後がない。いわば引導を渡す役を、アヤカは自ら引き受けた。
ハーフパンツをたくし上げるダニエル。飛ぶコースはすでに決めてある。
実は右膝は予選リーグの韓国戦で傷めた。リ・アキナの突進を体で阻んだ時だ。
が、あえてテーピングはしなかった。弱点をさらけ出すような真似はできなかった。
左へ、すでに麻酔の切れた膝に力を込めて飛んだ。
右だった。アヤカは前三人とは反対に蹴った。
アヤカ…! 四たびひれ伏したゴールキーパーが、キッカーを恨めしげに見上げる。
キッカーは背を向け、今の仲間に腕章を巻いた右腕を振った。
思いは、伝わっていた。

「ヨシャーーーーーー!!」
「いける!いけるぞ!!」
「落ち着け!まだ勝ったわけじゃないぞ!!」
「でも流れはきとる、高橋とめたってくれ」

アメリカ、三人が蹴って一人が失敗。日本は四人全員がノーミス。
次は、ない。
悲壮な決意を胸に、キャプテンのレフアがスポットに向かう。
勝てた試合だった。それを守られてしまった。その罰が下ったのだ。
だが、まだ負けてはいない。
こいつは読めない。高橋はどっちに飛ぶかを決められない。
主審の笛が鳴る。助走は短い。
左右上下、そして最後の選択肢。
高橋は五つ目の方向を選んだ。
真正面、つまり、飛ばない。
最後まで動かなかったキーパーの「動き」が、キッカーのミスを誘った。
跳ね返されたールが、うなだれたキッカーの足元で止まる。
キーパーは心地よいしびれの残る手を、黒いグラブを、そのまま月に向かって突き上げた。
黒い翼に、神様が舞い降りたのだ。

「オッシャ、勝ったぞ!ヤッターーーー!!」
「高橋!高橋!!タカーシーーーーーー!!!」
「飲め!ビール持ってこい!!祭りや!!!」
「日本つえーーーーー!!!!!」

勝利の瞬間、青が歓喜に弾け、白が悲しげに崩れた。
真っ先に駆けつけた紺野に、殊勲の高橋が飛び乗る。
吉澤が後藤に抱きつき、石川が柴田と一緒に飛び跳ねた。
ベンチの辻が保田とともに加護のもとへ。
「あんた、ここは?」
保田が自分の胸を叩く。
「保田さん、言うたでしょ。心臓も使えば鍛えられるて」
「あいぼん!」
勢いよく抱きついた辻が加護を浴びせ倒した。
「勝ったー…」
「まだ、早いですよ」
目を潤ませる松浦に寄り添う新垣は冷静だった。

勝者がいれば、敗者がいる。
レフアはその場に立ち尽くし、ダニエルはその場で泣きじゃくった。
「ダニョル」
ミカがその大きな体に寄り添う。
こうやって、敵と味方になるなんて、ハワイにいた頃は考えもしなかった。
呆然となるエイプリル、チェルシーにはアヤカが。
「金メダル取るよ。そうすれば、アメリカは優勝した日本に負けなかったただ一人のチームになるから」
アヤカの言葉に、二人が痛みを取り戻したように泣き出した。
誇り高く歩き出したレフアに、同じキャプテンの吉澤が寄って行く。
「Nice game,U.S.A.」
「Good luck,Japan」
また、負けられない理由が増えてしまった。

やったやったやったやったやったやったー
あいぼんもぶじでよかった

「やっとシドニーに行けます。ご感想は?」
「ええ、ほんとにもう、感無量です」
平家の勝利インタビューの次は奇跡の復活を遂げたエース、後藤。
「これ、シドニーにも流れてます?」
インタビュアーがうなずくと、後藤は大きな笑みを浮かべて
「市井ちゃん待ってろ! あと一つだぞ! 今度は借り返すからね!」
次いで高橋が呼ばれる。PK戦のヒーローだ。
「え? ヒーローはあたしじゃないよ。じゃ、あいつも呼んできます。小川! どこだよ、小川!」
興奮状態で高橋が叫んだ。

他人の夢のような遠さで、大歓声が聞こえる。
背番号18は、控え室へと続く廊下を重い足取りで歩いていく。
アヤカのショットが決まった瞬間、小川は一人ベンチを離れていた。
PK戦というスターシステムは、最後の最後に正義の味方のように現れた高橋をヒーローに仕立て、119分ゴールを守った小川を誰の記憶からも消し去った。
頭が痛い。二日酔いなんてもんじゃない。
棒のようになった両腕をぶら下げ、痛む体で控え室に向かう。
ヤニ吸いてえ…体がニコチンとタールを欲していた。

「マコト」
「小川ちゃん」
四つの人影が、控え室の前に立っていた。
渡豪していたことは、小川には知らせていなかった。
試合が終わったら控え室の前に小川の友人たちが来れるよう手配してたのは保田だった。
この四人は、小川の活躍を忘れてはいなかった。
最後は交替してしまったけど、それまで鉄の意志でゴールに立ちはだかったのは、彼女たちの自慢の友人だったのだ。

なんだ、おまえら。なんでこんなとこにいんだよ。
さっきまでオーストラリアにいたと思ったんだけど、いつ新潟に帰ってきたんだっけ。
ヤニ持ってねえ? もう吸いたくて吸いたくて。
ここ禁煙? かてえこと言うな。昔便所でしこたま吸ったべ。
あ、手、こんなだからさ、くわえさせてくんねえか?
メンソールかよ。そんな軽いのじゃダメだ。他にない? じゃいいよそれで。
これ一本吸ったらさ、サッカーすんべ。な。日が暮れるまで、おっかあが迎えに来るまで。
明日も、あさっても、その次もずっと。
お、火か、わりいな。

ライターの火を迎えにいった小川の上体が、ぐらりと崩れる。
薄い唇から、メンソールが音もなくこぼれ落ちる。
ボロクズのような体が、受け身も取れずにコンクリートの床に叩きつけられた鈍い音が、廊下全体に響き渡った。
「マコト!」
「小川ちゃん!」
抱き起こされても、何の反応もない。
旧友の悲鳴も、手のぬくもりも、力尽きたキーパーにはもはや届いていなかった。

日本 2−2 アメリカ
(PK4−2)

GK 小川(119分高橋)
DF ミカ
紺野
木村ア
MF 吉澤
柴田
石川
木村麻(50分後藤)
FW 松浦
加護
辻(105分新垣)

得点 ア 37分 チェルシー(エイプリル)
日 53分 後藤(石川)
日 59分 辻(加護)
ア 85分 レフア(PK)

警告・退場
柴田(警告・遅延行為)

Woman of the match
後藤 真希(日本)

同時刻、メルボルンでベスト4最後のチームも決まった。
こちらもPK戦での決着。
A.I.マエダのPKが弾き出された瞬間、クウェート代表の夢は潰えた。
崩れ落ちる姉に、左腕を三角巾で吊るした妹が寄って行く。
その瞬間、大粒の涙が込み上げた。
ヤグチさん、イシカワ、シバタ、ごめん。
シドニーへ、行けなくなっちゃったよ。

確かに日本の高橋、アルゼンチンのワカナ、ともに神様を味方につけた。
だがここには神そのものがいた。
オーストラリア0−0クウェート。
PKのスコア、3−0。
ミクラ姉妹、そしてA.I.マエダを三連続ストップ。
もはやこの男の守るゴールを破ることは不可能なのか。
オーストラリアの歓喜の輪の中心に、この大会まだ一度もネットを揺らされていないゴールキーパーの姿が。
その背には、誇りの証、背番号14。
14は公式戦無失点試合の自己最高。
大会前、ブンデスリーガで9試合無失点。
つまりこの試合で公式戦無失点記録は自己タイまであと一つの13にまで迫った。
あと二つをゼロで抑え、金メダルを手にする。してみせる。
オリバー・ケイン、月に吠えた。

準決勝の組み合わせ。
第一試合、豪州対日本。
第二試合、アルゼンチン対韓国。

「俺が抜かれない限り、豪州に敗北はない。つまり負けるわけがない」(オーストラリア代表主将オリバー・ケイン)
「とにかく勝つ。あと二つとかじゃなくて、決勝戦が二回あるのだと思って戦う」(日本代表主将吉澤ひとみ)
「負けるつもりでいるなら、最初から代表になんか来ない。韓国は好きなチームだ」(アルゼンチン代表主将チャム・サヤカ・イチイ)
「すばらしい結果が残せたと思う。アルゼンチンと全力で戦って、決勝戦で日本と当たれれば最高だ」(韓国代表主将リ・アキナ)

同様に白熱するのがタイトル争い。
得点王は予選リーグで荒稼ぎした安倍が5点で単独トップ。3点に六人がひしめくが逆転の可能性があるのはヒロミストゥータ、ギンナン(アルゼンチン)ケインの弟ジェイン(豪州)チェ・ダイチ(韓国)。アシストはリ・アキナが3アシストでトップ。全チームあと二試合戦えるのでチャンスは大いにある。
MVPは優勝したチームから選ばれるが候補に上がりそうなのは日本で唯一フル出場を続ける吉澤はじめケイン、ヒロミストゥータ、アキナといったところか。ベスト11もここに上がった名前プラス数名の形になりそうだ。

シドニー入りした日本の最大の敵。
世界屈指のGK、ケインではない。
その弟、駿足FWのシェインでもない。
クラッシャーの異名を取るマシュー・イケタニーでもない。
筋骨隆々としたMFショーエーでも肉体の限界に挑戦し続けるDFフライングモンキー(本名・ノムラマサキ)でもない。
最大の敵は、アウェイの洗礼。

「ちょっと、何とかしろよ!」
たまらず矢口がホテルのフロントに乗り込んだ。
「なにをそんなに起こってるのさ。今夜はお祭りだよ、楽しもうじゃないか」
「ドンチャン騒ぎならよそでやれ! こっちは明日試合なんだよ!」
眠れない午前2時。
ぐるーっとホテルを取り囲む楽団、車、酒盛り…眠らせない気だ。
「もういい、警察呼ぶ! 全員射殺だ!」

平家も眠れないでいた。ただし、原因は騒音ではない。
左膝が、またも痛み出したのだ。冷やしても暖めても効果ない。
予選の松浦から始まって、エントリー直前の飯田、アルゼンチン戦の後藤、ユーゴスラビア戦の安倍、アメリカ戦の小川。ことごとくその怪我を当てて見せたこの膝。
だから、なんだというのだ。
分かったところで、防ぎようがない。
こんな足、膝から切り落としてしまいたい。
それに、なんでこんなことが起こるか不思議でならない。
予言する膝。
なにか、入ってるのだろうか。
金の卵を産む雌鶏の寓話も知らず、平家の手が冷たい刃物を握る。

「なにしてんねん!」
どうせ眠れないのだからと寝酒でもやろうかとした稲葉が果物ナイフを取り上げた。
無理もない。今やこのチームの快進撃は国民の関心事だ。プレッシャーに押しつぶされても何の不思議もない。
けど、あとひとつなのだ。
明日の試合にさえ勝てば、銀メダル以上が確定する。あの小うるさいメキシコ五輪銅メダル組の鼻をあかしてやれる。
精神安定剤を与え、頭から布団をかぶった。

あまりさわやかじゃない朝を迎えた。
「んがああああ…」
のどチンコを震わせる矢口の大あくび。
「だらしないっすね」
石川は元気だ。よく眠れたらしい。図太い奴はうらやましい。
今日は正午からの試合だ。昼間の試合はこの大会始めて。
会場はシドニー・オリンピックスタジアム。
結局一睡もできなかった平家が、スタメンを告げる。

「キーパー、高橋」
「はい」
朝食のクロワッサンを置き、高橋愛が静かに立ち上がる。
あの試合は、一人のGKでは勝てなかった。
あんたはキーパーを見て、あたしはキッカーを見てた。
二人の力で勝った試合だった。
あんたのこと、うとましくも思ったけど、あんたのおかげで自分を高めることもできた。
今日も同じだ。な、小川、二人で勝とうよ。
「人を勝手に死人扱いするな」
がっちり包帯を巻いた手で高橋の後ろ頭をひっぱたく小川。
脳波異常なし、至って健康。

「ディフェンダー、アヤカ、紺野、ミカ」
前の試合と変わらず。相手の守備力を考えれば失点は許されず、気合が入る。
「ミッドフィールド、吉澤、りんね、あさみ、石川」
出場停止の柴田に代わって入ったのは戸田だった。
ボランチよりは「中盤の底」という無骨な響きが似合う、鬼の守備を見せるハーフバック。
中盤の四人、稲葉が監督として率いたユースチームからの付き合い。攻撃は石川の双肩にかかってくる。

「フォワード、辻、松浦、加護」
ワールドクラスのゴールキーパーを打ち破れるか、五輪代表の誇る3トップ。
特に松浦は4試合でゴールは1、ストライカーとしてはややさびしい数字。
そろそろ、大観衆を沸き立たせたい。
「控え、村田、斉藤、保田、矢口、新垣、後藤」
怪我人続出、もはやベンチ入りの7人さえ揃えられない日本。
試合開始4時間前、8時ジャストにバスで宿舎を後にした。

で、二時間以上が経過。いまだバスの中。
東京も真っ青の交通渋滞に巻き込まれた。
「なにやってんだよ…」
昼に試合のある日は朝から何も食べない石川のイライラが助長される。いくらなんでも会場まで20分足らずの宿舎からこんなに時間がかかるなんて…
「でも矢口さん、コカコーラってもうかってるんですね。あの大きな看板、さっきから何回も見ますよ」
「カレー屋もいっぱいあるぞ。インド系移民が多いのか」
顔を見合わせる矢口と新垣。
「辻! 加護!」
現地で手配したドライバーを二人が引きずり下ろし、矢口がふんじばった。

結局バスを乗り捨て、駆け足での会場入りが試合開始の40分前。
「Jap! Jap!」
「Yellow cab, go home!」
悪役レスラーよろしくオージーの波をかき分ける。もはやこの状況を「楽しむ」しかない。
「勘弁してほしいですよ。試合前からこれじゃ」
「なに言ってんだ」
久しぶりのモヒカン頭で気合を入り具合を表現する戸田がその背中を叩いた。
「これがアウェイだよ。この程度でへっこんでちゃ、とてもこの試合勝ち残れないよ」

「あの、例の件なんですけど…」
そう保田に呼びかけた紺野。
紺野あさ美、実はオリバー・ケインの大ファンである。
そこでバイエルンミュンヘンの同僚、もとい、元同僚の保田に頼んでサインをもらおうとしたのだが
「あとあと! 紺野、それよりアップ!」
「げっ」
オーダー表を見た吉澤の表情が凍りつく。
「主審、ミノリカワだって」
「げーっ」
「マジ?」
Jリーグが招へいしたこともあるイタリア人レフェリーだが何かといえばすぐカードを出し、明らかに日本のサッカーをバカにしていた奴だった。
ザ・ジャッジ。
嵐の予感がした。

「ファイナルアンサー?」
酒焼けした黒い顔を吉澤に向けるミノリカワ。
「………………………………残念!」
たかがコイントスじゃねえか。
自信満々に西側のエンドを取るケイン。わざと後半不利なサイドを取るのが彼は好きだ。
小川、高橋、ワカナ、ソニン、ダニエル、ヤマモトッチ…キーパーに好素材の揃った今大会にあってもその存在は際立っている。そしてそれこそがオーストラリアの抱える問題である。
ケインはまごうかたなきワールドクラス。しかし他にはインターナショナルクラスすらいない。
豪州は、ケインのワンマンチームだ。

ジョージ・ベストはマンチェスターユナイテッドの黄金期を築いた当時世界最高のプレーヤーの一人だったが、ワールドカップに出たことはない。彼は英国四協会のおちこぼれ、北アイルランド代表だった。
豪州は決して弱いチームではない。ただ日本にとっての韓国、アルゼンチンにとってのブラジルのような身近なライバルがおらず、真剣勝負の場に恵まれないため代表チームの強化は極めて困難。ワールドカップ予選でも一発勝負のプレーオフに放り込まれる「オセアニアの王」にとって、個別の枠が取れた自国開催の今大会はこれ以上ないチャンスだった。

早ばやと日本にチャンスが来た。
ショーエーをかわした石川のスルーパスが右サイドのオープンスペースへ。辻がDFを振り切ってセンタリング。松浦が頭から飛びつく。
GK、出た。抜群の脚力を生かし、瞬時にコースを消し去る。ハンドボールのキーパーのように空中で手足を振る。足に当てた。
「Yes!」
ケイン吠える。まずは一つ止めた。
怖いのがただでさえ有能なキーパーがこの大会、絶好調という点。試合ごとにヒロインが現れた日本とは逆に、ここまで全試合白星のホストカントリーはすべてキーパーで勝つ試合を演じてきたのだ。

次は加護だ。テクニックをフルに生かし、左サイドから中央へ。
なんやねん、その内股は。
膝を絞り、そこから下を広げた構えは確かにあまりかっこよくはない。
一対一。その股間をインサイドで狙った。
素早く両膝を落とし、ボールの侵入を阻む。
手を広げ、ももをくっつけたフォームはその形状が蝶に似ていることからバタフライと呼ばれる。
フォーホール、つまり抜かれ易い肩口と脇下に並ぶ五つ目の穴を塞ぐのに最適の構え。アイスホッケーのキーパーのトレンドだ。

三番手は辻。石川が短く出したパスを思い切り叩いた。走り込んだ勢いの乗った弾道が意外に反応しにくい頭上を襲う。これもパンチでかき出した。
「巻き足かよ」
スタンド観戦していた小川、柴田と大谷にレクチャー。
「古式泳法の足技。膝から下をボクシングのコークスクリューパンチみたいにひねって水をつかむんだ。水球で飛び上がる時なんかに使う」
小川も様々なスポーツをかじったが、こんなタイプにはお目にかかったことがない。
キーパーオブキーパー、天性のゴレイロ、オリバー・ケインのプレーには彼の経験が余すことなく残されている。

それでもベンチの保田には、かつてのチームメートがどこか違って見える。
バイエルンのケインはあんなスタンドプレーヤーではなく、ディフェンスとの連携でピンチを未然に防ぐ手管に長けていた。
今のケインは、仲間を手駒としか見ていない。それも、ひどく使い勝手の悪い。
確かにオーストラリアの最終ラインは脆弱だ。「FCハリウッド」とは比べものにならない。
彼一人が傑出してしまっていることが、あまりよいほうには作用していない。
ケイン、日本をなめるな。一人の力で勝てるほどうちらは甘くないぞ。

「紺野、もっとライン上げていいよ」
帽子をかぶった高橋が指示を出す。もちろん日差しが視界を妨げないためだが、ファッションとしての帽子が好きなのもある。
前の試合ではいきなりの出番でヒーローに仕立てられてしまった面もあったが、今日はコンスタントに力を発揮することを求められる。
紺野ともっと仲良くしておけばよかったと思う。レギュラーだった予選と大幅に入れ替わった最終ライン。
それにしてもボールが来ない。試合が始まってまだ一度もボールに触れてない。ファーストタッチを大事にしたいのはどのキーパーも同じだろう。

石川がやや浅い位置でボールをもらう。
アメリカ同様フィジカルのチームの印象を受ける。違いはアメリカが持久力に秀でていたのに対し、瞬発力が爆発的な豪州。
開始10分で決定機を三回防がれたことでやや前線の出足が鈍い。
こういう時柴田がいると随分楽違うのだが、しょうがない。今日は戸田、木村麻美のサイドハーフも頑張ってくれている。
その戸田が左に寄ってくる。リターンをもらおうと一度預け、前に出る石川。
カットされた。主審、ミノリカワの突き出した足に。
そのボールが、オーストラリア選手につながってしまった。

オーストラリア代表、通称「サッカルー」の逆襲。攻めにばかり気を取られ前のめりになっていた中盤が小気味よいパスに引き裂かれる。
一番後ろからケインがフリーを教え、上がりを促す。
それでも紺野は落ち着いて、本当は少しだけ慌てていたが、サイドDFと連絡を密に取り、ラストパスの直前にオフサイドトラップの号令をかけた。
FWは二人かかり、副審はそれを認めて旗を上げた。
ミノリカワは無視した。副審との意見が食い違った場合、主審は自分の判断を優先してよい。
豪FWオサルに、独走を許してしまった。

選択肢は二つ。一つは何がなんでもペナルティーエリアに残り、イチかバチかの勝負を賭ける。もう一つはエリアを飛び出してひっかける。より確実だが、退場覚悟でいく必要がある。
高橋は後者を選び、猛然とダッシュを開始した。
だが、待てよ。
退場になるのはいい。しかし後はどうなるのか。最後のキーパー村田は悪いが自分より落ちるし、このチームでの実戦経験もとぼしい。安心して任せられるとは言い難い。
一瞬よぎった考えが致命的ミスを呼んだ。
「あのバカ」
小川が立ち上がる。
鋭さに欠ける飛び出しがオサルにあっさりとかわされた。

真後ろからぶっ倒した。悲鳴を上げ、バンザイして仰向けに倒れるオサル。
もちろん死刑に値する重罪。しかし時計は止まらない。すでにボールは無人のゴールに転がり出していた。
最後の仕事は決まった。打った胸の痛みにもかまわず、その方向に再び倒れ込む。
両腕に、抱え込んだ。
ようやく笛が鳴る。緊迫した空気が場に満ちる。
主審はまず豪州のフリーキックを宣告し、ついで反則者に起立を促す。
小さな体を起こすことはできたが、顔は上げられなかった。出されるカードの色は分かりきっていた。
木村麻美に、レッドカードがかざされた。

戸田が抗議した。石川からのパスをカットした動きは誰の目にも故意に見えた。だが通るわけはない。主審は神なのだから。天罰はイエローカード。
「もういいよ」
「あさみ」
いいわけがない。退場処分を受けたら次の試合にも出られない。チームは大事な仲間を永久に失ってしまうのだ。
分かっている、もう何を言おうが無駄だなんて。それでも言わずにはいられない。
「本当にもういいよ。だから」
その後が続けられなくなり、顔を伏せたままその場を後にした木村。
言えなかった最後の言葉。だから、絶対に勝って。

「高橋!」
呆けて座り込むキーパーの胸倉をつかみあげたのは石川。
「分かる? なんであさみちゃんが自分を捨てたのか。自分を犠牲にしてまで、何を守ろうとしたか分かってる?!」
「梨華ちゃん!」
止める戸田と吉澤も気持ちは石川と同じだった。
冷淡に試合再開を促すミノリカワ。お嬢さん怒りっぽいね。カルシウム足りないよ。ココア飲みなさいココア。
「…とりあえず、このピンチ、絶対止めなさいよ。もしそれができなかったら、あなたのこと許さないから」

あさみがやっちゃったね
日本はファウルが多いな
あさみが何を言いたかったのかよくわかんないな

「六枚! もっと右! 9と7マーク!」
壁を作る高橋。昔恩師に言われたことを思い出す。
あんたは頭がええ。センスもある。けど一番大事なモンが欠けとるわ。気持ちや。こなくそ止めたるいう気迫が足らんと思うことが時たまある。
少なからず反感を覚えた。気持ちなんてヘタクソの言い訳じゃないか、アホらしい。
アホはどっちだ。言い訳してたのはどっちだ。
木村の残していった気持ちが、自分のヘマを帳消しにしてくれた。
もし決められたら木村の気迫が無意味になる。
自分に欠けていたものが分かった。
止める、たとえ命に換えても。

「やっちゃいました。すみませんでした」
木村が志半ばにして戻ってくる。だが誰も責められない。
残り時間を10人で戦うほうが、ここで失点するよりよほどまし。それくらいこの試合に於ける1点は重かった。
木村はそれを分かっていた。だから自滅の道を選んだのだ。
オージーの期待の声が失望に変わった。
ショーエーのシュートが高橋の指に触れてポストに弾かれる。リバウンドにシェインが詰める。
高橋が飛んだ。FWと激突しながら、ボールはこぼさなかった。
涙を新たにした木村。あまりに唐突にシドニーが終わってしまった。

一人少なくなった日本、辻が少し引いて7番(右ウイング)と8番(右ハーフ)の間くらいの位置、言わば9.5番ならぬ7.5番にポジションを取る。
その辻が右サイドを駆け上がり、センタリングにいく。すてんっ。派手に尻餅をついた。
左からミカのオーバーラップ。ロングフィードにいく。つるんっ。枠はボールすら越えた。
日本選手だけが、なぜか足を取られる。
「芝か」
うかつだった。シドニースタジアムの芝は、まるでグラススキーでもするかのような長さに刈り揃えられていたのだ。慌しく会場入りした日本、ピッチのチェックをする時間さえなかった。

シュートを打つにある程度の芝の長さは必要。柔らかな芝がティーアップの役目を果たしてくれるからだ。
しかし過ぎたるは及ばざるがごとし、あまりに深い芝は底無し沼のように選手の自由を奪い、シュートを打とうにもボールの下を蹴ってしまう。
石川もふかした。イメージ通りにならなかったことに苛だつ。
14番対決。この一戦を語る際、最も多く使われたフレーズ。
オランダスタイルを貫く平家監督がこのチームのクライフに指名した石川梨華。
オセアニア初、GKとしてもヤシン以来のバロンドール受賞も囁かれるケイン。
因縁の対決だった。

昨年末、連続完封試合の自己記録であるケインの「14」がさらに大きな数になりそうだった。
DF陣好調のブンデス、無風の五輪オセアニア予選を経て迎えたクラブ世界一決定戦、トヨタカップ。この試合をゼロで終えれば自己新記録の15に伸びるはずだった。
風は強かった。が、コーナーキックを直接狙うなんて考えの外だった。
記録にとらわれぬよう果敢に前に出たのがかえって仇になった。
石川の左コーナーはケインの手を越えた。
その後のPK戦でも成功した石川。一試合に同じ選手に二度もネットを揺らされたことで屈辱の度合いはさらに高まった。

リスタートは怖い。たった一度のセットプレーが試合をひっくり返すなんてざらだ。
この深い芝は石川封じ。鋭い足の振りを飲み込み、思うようなボールを蹴らせない。
卑怯ではない。これがホームタウンデジション、地元有利。
クラッシュ続出の日本に対し一人も転ばないオーストラリアは全員がポイントの長い靴を履いていた。スパイクタイヤとスタッドレスの違いだ。
そして一番長いスタッド――実はルール違反の長さ、試合前主審がわざと見逃した――をつけたDFイケタニーの足裏を見せたスライディングが、ドリブルする松浦の右足首を直撃した。

緊迫する空気。ファールは取られたがカードは出ない。足の裏を見せたタックルは最も危険なものとして厳しく取り締まるべきもののはず。
なのに主審ミノリカワ、小ずるそうな目の反則者に注意すら与えずに平然としている。
「いくらか握らされたんじゃねえか」
矢口がぼやく。少なくともミノリカワが日本に好意的でないことだけは間違いない。
副審は比較的まともなジャッジをしている。しかし最終的な決定権は主審にあり、そのことに大した意味はない。
ようやく気づいた。日本は今11対14、いや、10対14の戦いを強いられているのだと。

「大丈夫ですよ」
生まれたての仔馬のように震えながらゆっくり立ち上がる松浦だが、青い靴下が赤黒く染まっていた。止血しなければ試合に参加できないので加護に肩を借りて一度ピッチ外に出る。
負傷個所が足首のため靴下を足先までずり下げる。すね当てのないところにスパイクの跡がぞろりと残され、そこから鮮血がしたたっていた。
やや遠目のフリーキック。石川が短く出し、戸田が得意の左足で狙う。壁にはね返された。
「てめえで狙わんかい」
矢口が小さく吐き捨てた。

紺野はラインを上げなくなった。
あんなジャッジをされて、リスクの伴うオフサイドトラップを仕掛けろなんてほうが無理だ。
つまり俊足のオサル、パワフルなシェインの二人を身体能力のみで抑え込まなくてはならない。
下手に接触はできない。紺野の仕事場は自軍ペナルティエリア。
クールに、ダンディに。
韜晦をやめた。

木村麻美の退場劇がきっかけだった。
名前が同じの自分を妹同然にかわいがってくれた木村が、あんな形でピッチを後にしなければならなくなった。
次の試合にも出られない木村には、もう汚名返上の場すら与えられない。
もうなにかを恐れる必要はない、ダメな自分を装う余裕もない。
ミカをちぎったオサルのセンタリングにシェインが飛ぶ。ともに飛ぶ紺野。空中の椅子取り合戦。
シェインの肘が紺野の頬をえぐった。もちろん笛など鳴らない。
が、紺野のバランスはびくともしない。カにでも刺されたかのような表情で、ボールをタッチにまで弾き返す。
「水」
高橋が投げよこしたミネラルウォーターを口に含んでは吐き、吐いてはまた口にする。
血が混じっていた。

ディフェンダー、ことにセンターバックを思い切り大ざっぱに分けると2タイプある。
クレバーなタイプ、タフなタイプ。
石黒は前者の典型、保田は後者のモデルのよう。
紺野は石黒も好きだし、保田にもあこがれている。
欲張りなのは分かっているが、どちらのようにもなりたい。
そして、プラスアルファ。
点の取れるリベロに。
石川のコーナーキックにハーフウェーラインから走りこみ、30メートルのシュート。ボール半分、右に逸れた
「…ダッシュが半歩遅い」
「すみませんでした」
キッカーの声に頭を下げた。

時を追うごとに凄みを増す紺野。豪の全得点を叩き出したツートップが一人のスイーパーに手も足も出ない。
自然、ミドルレンジ、ロングレンジからのシュートが主体となる。
右へ、左へ。高橋がことごとく止めた。
確かに速いし強い。けどリズムがあまりに単調すぎる。
ひらひらと左右に飛ぶことの多い高橋のプレースタイルは安定感に欠けるという評価もある。ファインセーブを連発するキーパーは真のキーパーではないと。
それは確かにそう思う。が、高橋はキーパーとしては最も小柄な部類に入る。
危なっかしくても、大きく飛ばにゃ止められないのだ。
またも右サイドからオサルのセンタリング。ショーエーと紺野が競ったところ、確実につかんだ。

わしわしと脇にボールを抱えたまま前進する高橋。
確実に中盤の選手につなげることができる小川の遠投は、これまでの日本にとって大きな武器だった。
高橋はあそこまでの鉄砲肩はない。が、足がある。
キーパーは11人目のフィールドプレーヤー、そのフィードから攻撃が始まる。
そして、足は手よりも大きくボールを飛ばせられる。
エリアぎりぎりでボールを放し、右足を真横に振りぬく、ラテンスタイルのパントキック。
前線に残っていた加護と辻が引き、少し下がり目になっていた松浦が抜け出す。
その背後に、サメのような目をしたイケタニーが迫った。

マシュー・イケタニー、通称壊し屋。
例えばユーゴの人間魚雷、エガッチなんてのは「天然」で、もちろんそこが怖いのだが、彼は真剣に、本当に純粋な気持ちで敵を抑え込もうとしている。
イケタニーは違う。
完全な確信犯。
クウェート戦でも、好調だったFWA.K.マエダの右腕を後ろから極めて、へし折っていた。
そして、この日の獲物は、日本の背番号9だった。
「あぎゃっ!」
この世のものとは思えない絶叫を残して、松浦が前のめりに倒れた。
「折れたな」
矢口が他人事のようにつぶやく。
松浦の右ひじが、奇妙な形にねじれていた。

もがく松浦。殺気立つ日本イレブン。へらへらしているイケタニーにつかみかかろうとする吉澤を戸田が体で止める。
ミノリカワ、またもカードを出さなかった。ただフリーキックを宣告したのみ。
吉澤の怒りは、今度は主審に向けられた。彼の位置からイケタニーの行為が見えなかったはずはないのだ。
「どうしあれがレッドじゃねえんだよ! 目ン玉腐ってんじゃねえのか!」
もともとこの赤の貴公子は血の気が多いことで有名だった。
だから平家はあえてその彼女をキャプテンに指名した。石川や戸田といったところは黙っててもチームのために尽くしてくれるから。
キャプテンマークは、まるで孫悟空の頭の輪っかのように吉澤を戒めていた。
が、この一瞬だけ、吉澤は昔の姿に戻ってしまった。
やめろ、よっすぃー。石川も止めようとしたが遅かった。
吉澤の頭上に、黄色い長方形の紙がかざされる。
アルゼンチン戦でも警告を受けている吉澤、これが通算二枚目。
もしこの試合に勝っても、決勝戦には出られない。

嘘でしょ…絶句する吉澤。初夏のような暑さの中、氷水でもかけられたように真っ青になる。
やがて、子どもがすすり泣くような声が聞こえ始めた。
なんてことしちゃったんだろう…自分への不甲斐なさと絶望感から涙が止まらず、青いユニフォームのそでで顔を覆った。
「よかったじゃん」
石川が吉澤に寄って行く。
「まだ、この試合で取り返せるんだから」
もう、それすらできないやつだっているってのに。
控え室で祈りを捧げているであろう木村、タンカに乗せられ運び出された松浦。
早く蹴りなさい、蹴らないと遅延行為で警告するよ。
それからあんた肌荒れひどいね。ビタミン不足。トマトを火であぶって食べなさい。
石川、ニコニコしながら黒い毛ガニみたいな尊大なイタリア人に、甘ったるい声で言った。
「むかつく」
もちろん、言葉が通じないことを分かって。

「なんだよあいつ、媚びやがって」
ベンチの保田が矢口に不平を漏らす。
「媚びた? あたしにはのび太にしか見えないけど」
媚びたのと野比のび太は違う。
ジャイアンにいぢめられながら、のび太はドラえもんに言いつけてヒーヒー言わせたると復讐の機会を練っている。
今までドラえもんは矢口だった。しかしドラえもんはタイムマシンに乗って22世紀の未来に行ってしまい留守だ。
自分の力でなんとかするしかない。
石川の足は、四次元ポケットだ。
同じことをスタンドの柴田も感じている。
シドニー組の中で一番石川とつきあいが長いのが柴田あゆみである。
地元湘南から単身フリューゲルスユースに乗り込んできた石川を初めて見た時、なんだこいつはと思った。
ヘタクソだったし、センスもなかった。
ただ、その背負っているものの重さだけは理解できた。
力の差を考えず、誰に対しても敵意を剥き出しにして、ひたすら攻めの姿勢を貫くその姿が異様だった。
今の石川が、そのときにダブって見える。

どんなに緊迫した試合であっても、フリーキックの壁に立つ選手の手つきだけはどこかユーモラスだ。
豪州の屈強な男たちも、自らの股間にちんまりと手を揃えて立っている。
その壁の横に、石川のシュートコースを余計に消すようにして立つ主審は左手を上げ、右手を添えたホイッスルをけたたましく吹いた。
石川は「ミスキック」をした。
こちらを向いて立っていたミノリカワの股間に、渾身の力を乗せたシュートをぶつけてしまったのだ。
天国と地獄が脳天へと突き抜ける。
白目をむき、泡を吹いて倒れる黒毛ガ二。
「女には分からないこの痛み、くーっ」
プロ野球珍プレーのナレーションのようなことを言って、矢口が足をバタバタさせた。
審判は神、審判は石ころ。
ちなみに睾丸は片一方が潰れても生殖行為に支障はないそうである。

哀れミノリカワは病院へ直行、急きょ第四審判が笛を吹くことになった。石川におとがめはなし。
前半残り5分。逆行が厳しく、平家はサングラスをかけて戦況を見守る。
「出してください」
テーピングで右腕を体に固定させた松浦が出場を志願する。
馬鹿げたことを。それは平家もよく分かっている。
けど、松浦はストライカーだ。やられっぱなしでいることを、ゴールを上げられないことをなにより恥じる人種だ。
それは同じストライカーだった平家が一番よく分かっている。
「前半が終わるまで。それでええか?」
松浦がうれしそうにうなずく。
「監督さん」
「小湊先生、それよりお願いがあるんですが。先生理系ですよね」
文系の医者に会ってみたいものだ。この際、つかえるものは何だって使わせてもらう。平家が小湊に頼んだのはある「計算」だった。
「シノちゃん、前半のビデオ、今の時間までのでええから調達してきて」
賭けに出た。勝負は後半だ。

松浦に集めろ! 平家の声に従い、クロスが再三入れられる。
あたし、なにやってんだろ。片方の翼がもがれた姿で、必死に飛びつく鳥がいる。
松浦の父は高名なサッカー選手だった。父は兄をサッカー選手にしたかったようだ。
次女の亜弥はほったらかしで育った。あの松浦の子どもというプレッシャーに耐え切れず、兄がサッカーをやめてしまうまでは。
好きだったテニスで行き詰まってしまったこともあり、中学まで遊びでしかやってなかったサッカーに専念した。
そうすることで、辛うじて崩壊する家族が持ち直せたから。
サッカーなんて、好きじゃなかった。

石川がスルーパスを通した。松浦が追う。
疾風のように迫る老雄フライングモンキーを加護がひきつける。
松浦、持った。目の前にはケイン。
イケタニー、松浦の傷めた肩へチャージ。松浦の表情が歪み、大きくバランスを崩す。
足を伸ばし、必死に持ちこたえた。今度こそ完全にフリーに。
右足、最後のシュート。
ヒヨコの歩みのようなそれは、力なくキーパーのネストに捕らえられた。
前半、終了。
死力を振り絞ってプレーした松浦に、この日一番の拍手が送られた。
涙が出てきたのは、情けなかったから。
安倍さんみたいに、かっこよく決めて、去りたかった。

「イカロス、どういうこった」
控え室へ戻ろうとしたオリバー・ケインを捕まえ、こう問い詰めた保田。
イカロスとはバイエルンでのケインのニックネーム。もちろんギリシャ神話に登場する鳥人間イカロスからつけられた。その重力を無視したかのようなフレーに。
「そんなに勝ちたいのか、手を汚してまで手に入れた優勝が価値あるのか?」
「放してくだサイ」
ケインは少し日本語が話せる。保田やチャムに教わったものだ。
「ホストカントリーのデスティニーです」
地元チームが出ない、また早々に負けてしまう競技ほど盛り上がらないものはない。
ましてそれが、サッカーのような人気種目であればなおさら。
「保田サンも覚えておいたほうがイイ。さ来年、日本でワールドカップがあるでしょう」
「ケイン」
「それにボク、絶対に勝ちタイ。日本とアルヘンティーナには」

ケイン目当てで来たんだが・・。
あの日本の13番のDFの名前はなんていうんだい?どこのチームの選手?
代理人くん、さっそくだがあの選手について調査してくれたまえ。
え、買うに決まってるだろ?
うちで育ててあとでビッグクラブに高く売りつけるのさ。

忘れもしない、三年前のワールドカップ予選。
ケイン・シェインの父であるショー監督に率いられたオーストラリア代表は「今度こそ」本大会出場が有力視されていた。
プレーオフの相手がアルゼンチンと聞いた時には焦ったが、それでも地元メルボルンでの第一戦はケインの奇跡的なセーブもあり、ドローで凌いだ。
いける、今度こそいける。チームには勝者のみが持つ空気が充満していた。突如、日本からテストマッチの申請があった。イランとのアジア第三代表決定戦を控えた日本からだった。
胸を貸してやれ、そう言われて「格下」をアデレードに迎え撃った。相手DFのミスなどもあり、終盤までは楽勝ムードだった。
ところが相手のエースが下がり、小さな22番が入ると様相が一変した。

自棄になったように150センチ以下の選手を前線に揃えてきた日本。
その縦横無尽、無茶苦茶なエネルギーの放出にオージーたちは混乱の極みに達した。
左足ミドルが二アを抜ける。
豪快なボレーに貫かれる。
とどめは、トラップミスがそのままゴールへ。
ただの一敗では済まなかった。試合後、誰もが敗因を他人に押し付けた。ケインもまだ若かった。
家族のようだったチームは崩壊し、ブエノスアイレスでは同じ日本の血を引く後のチームメートにしてやられた。
世界への切符は指の間をすり抜けて消え、父は解任された。

これは三年前のリベンジだ。同じ順番で立ちふさがる日本とアルゼンチンを下し、世界一を手にする。もちろん無失点で。
そうすることで、これだけのチームがワールドカップに出られないという論争が必ず起こる。予選のたび南米やアジアや欧州に振り分けられる不遇を指摘する声が出てくるはず。
ワールドカップの予選枠、オセアニアが個別にひとつ取る。これがケインが勝利のみに固執する最大の原因である。
そのためなら、神の手は、ロウで固めた翼は汚れてもかまわない。
すべては、サッカーを愛する豪国民のために。
「どいてくだサイ。ミーティングがありますカラ」
ケインが保田を押しのけてロッカールームに消える。
その一部始終を、紺野は見ていた。
「もういいです。あんな人のサイン、欲しくありません」

「マジですか?」
「うちがウソこいたことがあったか?」
平家が授けた後半の作戦に一同、目を丸くする。
「そしたらはよいけや。スパイク、長いスタッドのにせえよ」
追い出すようにして選手を送り出す平家。
「石川、吉澤、戸田は残れ」
敵を欺くにはまず味方から。
三人にだけは、作戦の真意を告げた。が、三人の反応はさっきと変わらず「マジっすか」だった。
「世界屈指、いや、今現在なら世界一のキーパーが大当たりしとんねん。他に手があるなら聞くけど」
確かに、ない。
「石川、頼む。チャンスは一度っきりや。吉澤、戸田…次のことは、考えんでええから」

「あれって、わざとなの?」
スタンドでの風景、若い日本人男女の会話。話題は主審が運び出された際のフリーキック。
「当然。審判は石ころ、わざとだって分かんなきゃなにされたって文句は言えない。自分のことならなにされてもヘラヘラしてるけど、仲間が傷つけられたら黙っちゃいない。そういう女だよ、あいつは」
彼は彼女にそう自慢してみせたのだった。

「ねえ、本当に石川梨華ってあんたの知り合いなの?」
彼女は彼の言葉が信用できない。つきあってたこともある、なんていわれても。
向こうは日本サッカー界の中心選手、彼は普通のサラリーマン。確かに出身地は一緒らしいが、接点なんかどこにあるのか。
「高校が同じだったんだよ。あっちがすぐやめたけどな」
「中退か。根性ないんだね石川って。あたしそういう人嫌い」
「根性あっからやめたんだって、平田」
「ヒラタじゃない」
旧姓平田の彼女は、サッカーになんか興味のない亭主がやけに石川、石川と言うのが面白くなかった。当然だろう。
それなのに蜜月旅行をシドニーなんかにしたものだから、成田離婚の危機さえ迎えていた。

石川梨華は、確かに彼の青春の1ページにいた。
すばらしい輝きを持っているのにもかかわらず、どこかで自分を幽閉している雰囲気が、彼には居た堪れなかった。
彼もまたテニスのトッププレーヤーを目指し、肘を壊してしまった身だったからだ。
今隣にいる新妻にしてもそうだが、彼は気になる異性を苗字でそっけなく呼び捨てにする。この時もそうだった。
できれば、ずっと一緒にいたかった。そうしようと思えばしてくれたはずでもあった。
けどそれは、石川の才能を考えればできることではない。こんな片田舎で、自分なんかのそばで朽ち果てていくような人間ではなかった。
彼は心を鬼にして、彼女の背中を押したのだ。

彼の目に狂いはなかった。彼の手を離れた石川はその後見る見る輝きを放った。
時々試合のチケットも送ってくれていたが、行かなかった。
最高に光り輝いているかつての想い人に比べ、自分はあまりにもみすぼらしかったからだ。
けど彼は今、やはり輝きを手に入れた。
大学のサークルで出会った彼女。こ同じように体育会系の女。古風なようでいて気は強かった。
それで、やっと、試合を見に行く気になれた。
「で、本当はどういう関係だったの」
「ふられたんだよ。俺の片思い」
「そうだね。あんたいい人で終わるタイプだもんね」
色白でふっくらした彼女だが、その面影に、どこか険しい顔でピッチに現れた青の14番と似通ったものがあった。

オーストラリアにメンバーチェンジはない。
日本は松浦が下がり、新垣里沙を入れてきた。
そして、フォーメーションが変わった。
9人のフィールドプレーヤーが三人ずつ、三列に並んでいる。
後列、右からアヤカ、紺野、ミカ。これは変わらず。
中列、右から石川、新垣、戸田。
前列、右から辻、吉澤、加護。
なにをおっぱじめようてんだ、ジャップ。神話のイカロスのように、ケインは太陽をにらんだ。

おっぱじめたのは、イングランドもびっくりのキックアンドラッシュだった。
サイドで持つ。ドーン。浅い位置から、ドーン。
ターゲットはすべて吉澤の頭。もちろんそんな時代遅れの戦術が、世界最高のGK擁するオーストラリアに通用するわけがない。すべて弾き返される。
3-4-3システム、最大の弱点である。
一歩間違えれば、一つ覚えの放り込みになってしまう。ケインは鼻で笑った。もはやニッポン、恐るるに足らず。
そんなことはわかっとんねん。平家が戦況を見守る。
「みっちゃん!」
信田がベンチに飛び込んだ。小湊の弾き出した数字を手に。
「多少の誤差はあるかもしれないけど、今の段階ではこれが一番信用できる数字だって」

吉澤がイエローで決勝出られずか・・・
吉澤の気持ちはとても解るがバカなことをしたなあ
とりあえず決勝で吉澤が使えないのはサポーターや解説者側からすると痛い
しかし石川は大人になったもんだ
戦闘マシーンモードがまた見たいところ

システムの中心に位置する新垣の役目は、とにかくボールを拾うことだった。
ピッチのどこにでもいい、ボールが出る場所に必ずおれ。
いわゆる馬鹿っ走りを繰り返した。
熊みたいなオージーに比べれば小動物にしか見えないその体躯を弾丸のようにして、ボールを拾いにいく。
そして、コロコロと他愛なくも転がされる。
9割がオーストラリア人の観客から冷笑が漏れ聞こえても、表情ひとつ変えずにボールを追いつづける新垣。
だってそれが、自分の役割なのだからと。

ロングボールでラインの裏を突かれる日本。
追うシェイン、突っ込む高橋。
手首でかぶっていた帽子のつばをはらい、ヘッドでクリア。
「もっとライン下げろよ!」
帽子を拾いながら絶叫する高橋。何せ目の前にはがらんどうとしたスペースが広がっているのだから。
紺野は相変わらず高い位置でラインをキープする。
高橋が小川より優れているのはその機動力。多少ラインを上げたところでカバーできるだけの足を高橋は持っている。
ちっくしょう、やったろうじゃんか。
左からのミドルを飛び上がってキャッチ。
巧みな駆け引きを実践する紺野、気迫を前面に押し出せるようになった高橋。
二人の背中に、かつて日本のゴールを守った戦士の影が見える。
石黒彩、中澤裕子の影が。

石川が吉澤にクサビを入れ、自らも前へ。豪DFフライングモンキーが石川につく。
だが石川はダミー。吉澤のパスは辻に出た。駿足を飛ばし、ボールに追いすがる辻。
ケインが城を空けた。エリア外でスライディング。辻が肩から落ちた。
「ファウルだろ?!」
だがこれは正当なチャージ。ケインの足は正確にボールを捉え、その後で辻がのしかかってきた。
この男は本当に神なのだろうか。あらぬ疑問が吉澤の胸に。ハードな削りに足も腰もズキズキと痛む。
そんなはずはない。監督の言葉を、梨華ちゃんの力を信じよう。

デスマッチ。そんな言葉が平家の脳裏をかすめる。
もし勝っても、スタメンを組むのが困難なほどに日本イレブンは脱落者を出してしまった。
そして、左ひざの鈍痛はまだ消えうせてはいない。
石川がボールを持つ。中央突破だ。
後ろからジョーズのごとくイケタニーが迫る。松浦のみではまだ「満腹」ではないようだ。
同じように後ろ手を絡め取り、鯖折りにかける。
「石川!」
矢口が絶叫する。
だが石川の腕はそこにはなく、くの字に曲がって、全力で突っ込んだイケタニーの眼前にあった。

ファウルを取られたのは、顔面を押さえて悶絶するイケタニーのほうだった。
前歯がへし折れ、鼻が捻じ曲がっている。
救護班がピッチに入る。石川は無表情にボールを拾い上げた。
イケタニーがキレた。救護班を押しのけ、ゆらりと立ち上がる。
このアマ、ぶっ殺してやる。
血を垂れ流す唇から奇声を吐き、もはやサッカー選手ではなくなったただのチンピラが、猛然と石川に迫る。
ボールを投げ、半身でそのほうに構える石川の精神状態もまた尋常ではない。その男をとっ捕まえてやろうと本気で考えている。
来いや。その鼻、逆向きにしてやんよ。
「石川さん!」
加護が目を伏せた。

14番を救ったのは、14番だった。
イケタニーを後ろから羽交い絞めにしたケイン、前を向かせ、その腹に当身を入れた。
声も出せずにイケタニーが沈む。
「こむら返りを起こしたらしい。すぐに交替させる」
気を失ったチームメートを肩にかつぎ、ゴミのようにピッチの外に投げ出すと、何事もなかったかのように再びゴールの前に戻る。
「やっるぅー」
小川が口笛を吹いた。
保田が安堵のため息を漏らす。
ケイン、やっぱあんた、クソ野郎じゃなかったね。
角度のないところからのキック、吉澤の頭に合わせたがケインにキャッチされた。

すでに後半も20分が過ぎた。巧みな守りでツートップを封じながら、攻撃では相変わらず単調な放り込みに頼る日本。
クリアはなるべく外へ、が鉄則。日本のアーリークロスを豪がクリア、サイドで新垣が拾って預け、また放り込み、の繰り返し。
時々その新垣が倒される。右なら石川、左なら戸田がもらって、そこからフリーキックを吉澤に合わせる。
数少ない日本サポーターも、一向にゴールの生まれる予感がないことにブーイングを飛ばす。
「だあってろ!」
スタンドの彼が叫び、細君にいさめられた。
日本は控え選手全員にアップを命じた。矢口や保田も。
後藤は、できるだけ使いたくない。
こんな荒っぽい相手では、膝がもってくれるかどうか。
「みっちゃん、きたで」
稲葉が時計を突きつける。
小湊の弾き出した計算が確かなら、今から6分間だけ、天岩戸がかすかに開く。
「いくでえっ!」
声の限り、平家が叫んだ。

加護が豪エリア内でダイブした。イエローカード。冷静に接触を避けたケイン。
一気に前線へ蹴りだす。オフサイド。
もっと頭を使え! おまえの脳みそはカモノハシか?! 弟を叱り飛ばす。
もともとケインはストライカーだった。しかしいくら点を取っても、それ以上に失点してくれる仲間に対して失望し、まず点を取られないことだとキーパーに転向した。
俺がもう一人いれば、このチームは強くなるのに。
オセアニアの王は、裸の王様だった。
途中から入った小柄な21番が左サイド、ハーフウェーラインをわずかに越えたところで倒される。ファウル。
また4に合わせて来るのだろう。前に出て、指示を出すケイン。
わずかだが、ボールから目を離した。

いたた…ふくらはぎをしたたかに蹴り上げられた新垣。
駆け寄って、ボールを機敏にセットする戸田。
「どいて!」
背後から迫るその声に、新垣は慌てて飛びのいた。

「ケイン!」
仲間の声に、我に返る。
ボールのほうを見ようとしたその目が、すさまじい光に射抜かれた。
「ぐわっ」
両目を潰され、それでも圧倒的な光の中に、なんとかボールの影を見出そうとする。
わずかに、その片鱗が見られた。
飛び上がり、手を振り上げる。
小指の先に、わずかに触れた気がする。
王者はその場にどう、と崩れ落ちた。

新垣と戸田を左右に、フリーキッカーはその軌跡を見守った。
ネットは揺れた。が、これが果たしてインプレーと認められるか。
永遠よりも長い一瞬が流れる。
主審の笛が響く。オーストラリアゴールを指し、センターサークルを指してキックオフを促す。
石川梨華の直接フリーキックが決まった。

スタジアムにオージーの沈黙が流れ、日本サポーターの陣取る一角のみが沸き返った。
石川は絶叫して、その場にひざまずく。戸田、新垣、アヤカがのしかかる。ゴール前では紺野と高橋、ミカが体をぶつけ合った。
「のの、加護」
すべてはこのためだった。ゴール前にいること自体が、この一発のためだけのカムフラージュだった。体の痛みも忘れ、吉澤が小さなウイング二人と喜びを分かち合う。
改めて石川が立ち上がる。ひれ伏したゴールキーパーに言ってやる。
ざまあみろ、ケイン。
神? 王? 違うね。あんたはただのヘタクソ。
その背中の数字、これでまだ14のままだね。
そしてこの地上にあたしがいる限り、その数字は永久に増えることはないのさ。

「うおっしゃー!」
平家も絶叫した。
小湊に頼んだのは、太陽の光が屋根に反射してオーストラリアのゴール前、つまりケインのプレーエリアに最も強く降り注ぐ時間帯、そして角度の計算だったのだ。
単調な攻撃、しかもフリーキックで一度プレーが止まるとなれば、いかに鉄の心を持つケインといえど、一瞬スキを見せる。
どうしたってボールを打ち上げてしまう長い芝。いきなりの試合再開を主審が認めるかというギャンブル。
そして直線距離にして60メートルを一瞬にしてゼロにする、石川の豪快かつ正確なプレースキック。
これらすべての要素があって、初めてあのゴールは成立した。
もちろん、二度は使えない。そのプレッシャーをものともせず、石川はどでかいキックをやってのけた。
全豪国民を、絶望の淵に叩き落した。
「すげえ、すげえよ石川」
矢口も保田と抱き合う。
石川、あんた、完全にあたしを越えたね。

「ガッデム!」
ケインが地面を殴った。まただ、またあの14番にやられた。しかもあんな馬鹿げたキックで。
オーストラリアの精神的優位は、ケインが絶対にゴールを割られないことにあった。
しかしその無失点神話が崩れ去った今、その支えは消え去った。
「兄者!」
弟シェインがボールを求める。力なく投げ返した。
それでも、まだ時間はある。
あきらめることはできない。ホストカントリーの意地と名誉にかけて。

赤く燃えたつ 太陽に
ロウで固めた鳥の羽
みるみる溶けて 舞い散った
翼奪われ イカロスは
落ちて命を 失った

サッカルー、捨て身の作戦に出た。
交替枠をすべて使いきり、長身のフォワードをずらりと揃えてきた。
力ずくで、同点に追いつこうという算段だ。
容易に想像がつく猛攻に、紺野が胸の数字13の3を握り締める。
本当、あなたには頼りっきりだね、三本足。
でも、また力を貸してほしいの。
絶対に、負けるわけにはいかないんだ。

なんのことはない、先ほどまでの日本と同じキックアンドラッシュ。
ただし身体能力の高さをフルに活かし、日本とは桁違いのパワーで迫る。
たまらず平家、加護を下げ、ストッパーのの斉藤瞳を入れた。
ヘディング要員の斉藤、これが大会初出場だが、まずまずの動きで左右からのクロスを弾き返す。
さらに辻も下げ、後藤まで投入。文字通りの総力戦だ。
上がってきたフライングモンキーのヘッドが高橋の手を越える。
ゴールライン上、後藤が額でかき出した。

石川、おまえ、どうしちゃったの。
矢口がそう言いたくなるほど、石川の動きは鋭かった。
中盤でボールを追い回し、時にはファウルで巧みに相手のいい流れを切ってくる。
フリーキックは石川の十八番だったが、同時に一発決めてしまうと、その後の動きが緩慢になる短所もあった。
まして、あれだけのシュートを決めたのに、だ。
石川にも分からない。気づいていない。
音が波になって襲ってくるような大歓声の中に、その声が混じっていることに。
石川、走れ、おまえはもっとやれる奴だろ。

吉澤がゴール前でシェインと競り合う。肩と肩がぶつかり、体全体がきしむ。
紺野が声を張り上げ、盛んに指示を飛ばす。まさにディフェンス「リーダー」だった。
高橋が飛ぶ。高く、低く。自分が抜かれたらもう後はないのだと。
後半、37分。
新垣がショーエーに吹っ飛ばされる。石川が追った。その背中に腕を伸ばす。
「あうっ」
倒された。しかしイエローカードが提示されたのは石川ではない、正面から激しく当たった15番の選手。
「あと、頼むね」
この日二枚目の警告を受けた戸田鈴音、退場。

とうとう9人になった日本、全員がゴール前に張りつく。
超アドバンテージがついてオーストラリア、地元の声援を受けて、日本ゴールに襲い掛かる。
センターサークルに陣取ったケイン、ボールが来たら蹴り返すつもりでいる。
ハイクロスが日本キーパーのパンチに遭い、大きく蹴りだされる。
はやる気持ちを抑えようともせず、前進してボールを奪いにいく。
その時を、待っていた。
猛ダッシュで詰める石川。
その足から、ボールを奪い去った。
走る。石川走る。無人の豪ゴールに向かって。
追走するケイン。ボールとゴールの間に身を置きながら、奪い返すチャンスを窺う。
石川がシュートモーションに。足元に飛び込むケイン。
全体重の乗った軸足を、華奢な足首をかっさらった。
ペナルティエリアの中だった。

「うー…」
石川が立てない。足首を押さえ、芝に顔を埋めている。
「梨華ちゃん!」
すぐさま駆け寄ったのはフォローに走っていた吉澤。その手を借り、ようやく立ち上がると、左足を引きずりながらボールを拾い上げる。
「お願いね、キャプテン」
五輪代表主将としての最後の仕事を、吉澤に与えた。
そして、ケインにレッドカード。この試合三人目の退場者は威厳を損なうことなく、威風堂々とピッチの外へ出た。
両チームとも交替枠は使い果たしている。控えのキーパーを入れられないオーストラリア、シェインが兄のユニフォームに袖を通す。
両手を広げ、必死に威嚇する。
が、吉澤のPKに、飛びつくことすらできなかった。
試合を決めたキャプテンは、その左腕を、太陽に向けてかざしたのだった。

笛が鳴る。
2−0。
日本、決勝進出。
この時点で銀メダル以上が確定し、メキシコ五輪銅メダルを超えた。
赤鬼の目からとめどなく涙が落ちた。控え室の木村、戸田も抱き合った。
激しい試合だった。勝者も敗者も関係なくその場に崩れ落ちる。
いってぇー…ひねった左足首を押さえ、石川もその場にうずくまった。
「石川」
抱き起こし、その背に石川をおぶったのは矢口だった。
「よくやったよ、最後の最後まで。あんたにしちゃ上出来だ」
「矢口さんに誉められると、気持ち悪いっすね」
あいさつもそこそこに、引き揚げようとした時だ。

「石川」
その声は、空から降ってきた。
信じられなかった。なんで、あんたがこんなとこにいるんだよ。
「マジですごかったよ。感動した」
スタンドから身を乗り出し、今にも落ちそうになっているたまらなく懐かしい顔を、矢口の背中から見上げる石川。
「石川さん!」
隣の女が手のひらをメガホン代わりにして叫ぶ。
「石川さん、本当にこの人の知り合いなんですね。この人、ちょっとだけ見直しました!」
「え、結婚したの? おめでとう!」
「バカ、おめでとうはこっちのセリフだよ! 決勝も勝てよ! ずっと応援してるかんな!」
石川は、慌ただしく引き揚げていった。

「なんだよ、あのへなちょこりん」
矢口が悪態をつく。彼と石川がどんな関係かは知らないのだが、だいたいの想像はつく。
「そうですね。へなちょこ男です」
でも王子様だった。
優しいキスなどではなく、横っ面をひっぱたいて石川を目覚めさせてくれた本物の王子様だった。
サッカーがあってもなくても、同じように接してくれたただ一人の人。
もしサッカーがなかったら、あの人の場所に今いたのは自分だったのかもしれない。いや、きっとそうだったろう。
けど石川は彼をふって、サッカーという悪い男のもとへ走った。
「矢口さん、さっきよくやったって言ってくれましたよね」
「あん」
「ひとつだけ、お願い聞いてくれますか」
「なんだよ」
「…ちょっとだけ、泣かしてくれますか」
「いいよ。こんな小さな背中でよかったら」

「ひっ…ひっ…ひっ…」
さざなみのような嗚咽が始まった。
先ほどオーストラリア全土を地獄に突き落とした悪魔の姿はどこにもなかった。
自分のことなど、とっくに忘れてると思ってた彼が、ずっと自分を応援してくれていた。
けど、自分と彼の人生は、もう二度と交わることはない。
自分の歩んできた道のりの長さに、石川の涙は止まらなかった。
矢口はただ黙って、その涙を、小さな背中で受け止めていた。

最高だ−−−!!!
凄過ぎるよ。平家も石川も。
それに比べてパルマは今日も負けたよ・・・
無策のパルマと試合に出れない中田にがかり。
パサレラ監督が平家に、中田が石川にならないかと思っちゃうよ。
そんな現実のパルマ戦より、このオリンピックの日本代表が気になる俺はやっぱりモーオタかな(w

日本2−0豪州

GK 高橋
DF ミカ、紺野、木村ア
MF 吉澤、石川、戸田、木村麻
FW 松浦(45分新垣)加護(74分斉藤)辻(77分後藤)

得点
日 70分 石川(FK)
日 88分 吉澤(PK)

警告・退場
木村麻(退場・著しい不正行為)
吉澤(警告・主審への抗議)
加護(警告・不正行為)
戸田(退場・警告二回)
ケイン(退場・危険な行為)

Woman of the match
石川梨華(日本)

控え室はバカ騒ぎだった。
劇的な勝利の余韻を弄ぶかのように。
いよいよ目前に迫った金メダルに熱狂して。
最後にきたやつがチームを救うとはアズーリ(イタリア代表)のジンクスだが、同じ色のユニフォームをまとった日本も、最後にやって来た女に救われた。
紺野あさ美。このシドニーで最も成長した。
その紺野、どこから持ってきたのかせんべいを食べている。
「なに食ってんだよ…銘菓ペルージャせんべい?」
草加せんべいとどう違うのか。
「さっきいただいたんです。ガウチさんて方に」

ルチアーノ・ガウチといえばセリエAに所属するペルージャのらつ腕会長である。そんな人がなぜ紺野に。
「うちに来ないかって言われました」
えええええっ、と全員の注目が紺野に集中する。
「で、で、で、何て答えたの?」
「お断りしましたよ。日本に帰って試験受けて、絶対に獣医学部に入りたいからって言いました。イタリアの大学で獣医免許取れるほど語学に自信ないですから」
こんな寓話がある。
樽の中で本を読むのが好きな賢者がいた。
ある日王が賢者の入った樽の前に立ち、おまえの望みをなんでも叶えてやろうと言った。
賢者は自分の望みを述べた。そこをどいてくれ、暗くて本が読めやしないと。
紺野はこの賢者の生まれ変わりなのだろう。

紺野だけではない、このチームのうち何人かはそれらしいオファーを受けてはいる。
柴田にはFCポルト、グラスコーレンジャーズといったポルトガル、スコットランドの強豪チームから話が来ている。このうちポルトと大筋で合意、日本人初のポルトガルリーガー誕生は秒読みの段階に。
アヤカにはスペインのバレンシア。しかしこれは丁重にお断りした。2002年まで日本を出る気はない。
ふるっているのが3トップの松浦、加護、辻。それぞれアヤックス、PSVアイントホーフェン、フェイエノールトに誘われている。いくら順応性を期待されてとはいえ、同じ国の代表FW三人が同時にオランダ三大名門クラブに誘われるというのはいささか出来過ぎた偶然。

吉澤には泣く子も黙るビッグクラブ、バルセロナから話がきた。しかし返事をためらっている。
いきなりそんなでかいクラブに行って舞い上がってしまわないか不安だ。
そこでもうひとつのオファー、イングランドの古豪、アストンビラのほうに気持ちが移りつつある。
バルセロナは吉澤と石川の同時獲得を狙っているのだが、その石川はブンデスリーガに照準を絞った。
数チームから話が来ているが、石川の心はそのうちのハンブルグで固まっている。
なんたって、ビートルズが青春を過ごした街だ。
いずれにせよ、自分で決める。
矢口がアルゼンチンを出ることは今のところない。

どこか、空気は弛緩していた。
まるで戦いを終えたかのように。
そう、戦いは終わっていた。いや、そうせざるを得なかった。
このチームに、決勝戦を戦う力は残されていない。
安倍、小川に続いて松浦も負傷リタイヤ。
大谷のみならず戸田、木村麻美、そして吉澤までもが出られない。
センターフォワード全滅、中盤は壊滅。
福田明日香は戻ってこない。
オーバーエージの二人を除けば、わずか12人。うち二人はキーパーだからフィールドプレーヤーはサブすらいない。
左足首に氷塊を当てる石川、右膝の黒いサポーターを外す後藤。
もう、いいよ。充分だよ。
平家は心の中で、一人一人に頭を下げた。

「そろそろ、どいてんか?」
聞き覚えのある声にはっとなる一同。
ワカナ・ゴンザレス。
ノリカ・アルベルト。
ガブリエル・ヒロミストゥータ。
マサミ・ハピネル・ナガサワ。
ギンナン。
チャム・サヤカ・イチイ。
石黒彩。
寺田光男。
中澤裕子。
水色と白、アルゼンチン代表。

「決勝進出おめでとさん。けどこっちも急がんと試合始まってまうねん。はよどいてんか」
「なんだよ、その態度」
矢口が中澤につっかかる。
行方不明の明日香を探しに行ったんじゃないのか。
そして後ろのほうでちっちゃくなってる、SMみたいな仮面をつけさせられた少女。
「返せよ、明日香返せ!」
つかみかかろうとする矢口を保田が羽交い締めにする。
「裕ちゃん」
平家が親友を見据える。
「どういうことなの。せめて、理由だけでも説明して」
「サヤカ一人やったら、かわいそうやんか」
素っ気無く答える中澤。

「平家、おまえと俺とはよっぽど反りが合わんようやな」
かつて自分のチームに来ることを拒んだストライカーが、指導者となって再び牙を剥いて来ようとは。
「中澤さん」
恩師を見据える高橋のまなざしはあまりにも真っ直ぐで、一瞬中澤は目を背けた。
ごめん、かんにんしてぇな。
「紺野、まあまあのライン作れるようになったじゃないか」
半歩引いていた石黒が教え子をひとつ誉めて
「でも時間によって上げたり下げたりってことがまるでできてたじゃないか。前半は足のあるフォワードが二回もフリーになってたよ。それからもっと当たり厳しくしないと…」
「彩ちゃん、ええ加減にしい」
へろっと舌を出す石黒。

「市井ちゃん」
後藤がゆっくりと立ち上がる。
「後藤」
チャムは見事に体を絞り込んできた。顎のたるみは消え、太もももすきっとした。
なにより目が違う。迷いの去ったその双眸で、かつての相棒を厳しく見据える。
「ケガさせたのは、悪かった。本当にごめん」
「いいよ、それは」
「けど、決勝でもう一回戦うことになったら、それ以上の目に遭わせるかもしれないから。それだけは覚悟しろ」
「市井ちゃん」
荷物を持ち、控え室を出る日本イレブン。
矢口の罵詈雑言が中澤の耳を離れない。
本当のことを言ってしまえればどんなに楽か。だがそんな馴れ合いの勝負が、福田の記憶を呼び覚ますとは到底思えない。
なんとでもほざけ。うちはもう、人間やないんや。何も感じひん。
流せる涙は、もう涸れてもうたわ。

チャムの左コーナーキック。両チームの選手が密集するゴール前を嫌うようにペナルティアークへ低いボールを入れる。
左足を振るうノリカ。コンドルが飛んでいく。
韓国ゴールキーパー、ソン・ソニンの手を越えるドライブシュートが決まった。
「ナイスミドル」
不仲が報じられる二人、チャムの皮肉にノリカ、口の端を歪めた。
シドニー五輪準決勝第2試合、アルゼンチン対韓国。
後半20分を過ぎて、ようやくアルゼンチンに追加点が決まった。

お寒い内容。前半はまさにそんな感じだった。
韓国はエース、リ・アキナをチャムに張り付かせ、相手の良さを消すことから始めた。
しかし司令塔を失った韓国の攻撃に鋭さはなく、今大会失点1のアルゼンチンを崩すに至らない。
チャムがマークを引きつけ、その間に左のノリカがサイドチェンジ、右のギンナンがクロス、ヒロミストゥータが得意のヘッドで突き刺して先制したアルゼンチン。
そして今、邪魔を受けないセットプレーで加点。省エネサッカー。
アルゼンチンベンチには現役ナイジェリア代表、タイセーがいる。彼はKリーグでのプレー経験があり、韓国人選手を熟知している。
こいつら、嘘ばっかりだ。スタンド最上段に陣取った矢口はそのほうをぎっとにらむ。

チャムは2トップの背後に位置する。いわゆる1.5列目。
2トップは右にギンナン、中央にヒロミ。左はオープンスペース、ここにチャムや左アウトサイドのノリカが飛び込んでチャンスを作る。
チャム以外の中盤の選手はチャムの守備の負担を減らし、前を向いてボールを持てるようにする以外の役目を与えられていない。
最終ラインは登録上は4バックだが時間帯によって3バックや5バック、時には二人や六人もなる。有機的で流動的。
それを可能にしているのはFWからコンバートされたマサミ・ナガサワのセンスだった。
マサミは石黒が以前から目をつけていた選手だった。もしDFやれば、超一流の選手になれるのになあ、と。
アルゼンチン五輪代表の指揮が取れると決まった時、自分の分身は彼女にすると決めていた。
最高の殺し文句を用意していた。
あたし、あんたのお父さんのファンだったんだ。サインも持ってる。

韓国はアキナを司令塔に戻す。そうせざるを得なくなった。
そのアキナから攻撃が始まる。ノリカの裏を突くスルーパス。センタリングにダイチが飛びつく。ワカナが弾き、マサミがつなぐ。
チャムと競り、再び奪うアキナ。
ヒトミ、約束したよな。世界のてっぺんで韓日戦しようって。
左足を傷めていた。予選リーグでの接触プレーで。
その左足を思い切り振るった。たまたま最高のコースにいった。
ポストに当たり、内側に転がった。
ガッツポーズひとつ見せず、アキナはゴールに転がったボールを拾い上げる。
まだある。まだ終わってない。
アジアの虎は、まだ死んでいない。

1点差に追いつかれはしたが、まだ余裕があるはずだった。
だがアルゼンチンを率いる寺田の胸に、忘れかけていたコンプレックスが蘇った。
韓国コンプレックス。彼もまた、韓国にはさんざ痛めつけられた世代である。
せっかく惜敗で故郷に錦飾らせたろ思たのに、なんやねん、その態度は。
市井、やれ。
1点取ったことなんか、忘れさせたるんや。
親指で、首筋をかっきるジェスチャーが、合図だった。
羊の皮を脱ぎ捨て、狼になれという。

アキナは荒々しくチャムを削る。アルゼンチンのエースはキレやすいと評判で、自滅してくれれば好都合だった。
予選リーグのチャムならそれもありえなくはなかった。
だが今のチャムには勝敗よりも大きな目的がある。
それを果たすまでは負けられない。まして自滅なんて。
倒されても、笑顔で立ち上がる。
そのフリーキック。右寄り、ノリカが蹴ったほうが有利な位置にボールはあった。
韓国GKもそれしか頭になかった。
ボールに先に走ったのはチャム。糸を引くようなシュートが壁の左を抜けるのに、キーパーはまったく反応できなかった。

今度はドリブルでみせる。正面に回ったアキナをグイグイと追い詰める。
左に抜き去った。右にギンナン、中央にヒロミ。スルーパスはどちらに出る。
左サイド、オープンスペースへ。走りこんだのは7番、マサミ。
アルゼンチンのジョーカーが、飛び出したキーパーの股間を左足で鮮やかに破った。
最終ラインを統率し、中盤でチャムにボールを供給、そして前線に飛び出してフィニッシュ。
石黒の薫陶を受けたマサミ、リベロとしての理想的なスタイルを確立させつつあった。

強い。予選リーグで対戦したときとは別のチームと言っていいだろう。
しかしこれは果たしてアルゼンチンの強さなのだろか。
ボールに食らいつく執念。おどろおどろしいまでの気迫。泥臭さ。
強く、それ以上になにか物悲しさを覚えずにはいられない。
こんなチームに、矢口は心当たりがある。
以前の自分たち、日本代表。
ヘタクソだった。不恰好だった。それでもサッカーへの「飢え」は、予選で戦ったどのチームをも凌駕していた。チーム全体がその魔物に支配されたかのような不気味さに満ち溢れていた。
時が流れ、日本は強くなった。矢口もうまくなった。
が、あの時自らの内に感じた狂気はなくなった。アルゼンチンにはそれがある。
今の日本は十一人のサッカー選手。昔の日本、そして目の前のアルゼンチンはボールに群がる十一匹の餓鬼。
これから日本が戦おうとしているのは昔の仲間ではない、昔の自分たちだ。

ロスタイム。すでに勝敗は確定している。だがなおもチャムは突き進む。まだ足りないとでも言わんばかりに。
アキナが背後から迫り、その袖を引く。
どけ。
肘がそのわき腹に入った。崩れ落ちるアキナ。ソニンとの一対一。
ボールはキーパーの頬をえぐり、ネットを荒々しく揺さぶった。
それでもチャムは自分でも制御を失い、まだ攻めにいこうとボールを拾い上げる。
顔を押さえるキーパーの足元に転がったボールに駆け寄るさまは、すでに気絶した喧嘩相手の腹に蹴りを浴びせにいくかのような風情で、思わず矢口の背に鳥肌が立った。
「サヤカ!」
11番の背中に、10番が声をかける。
オペラ座の怪人のようなマスクの奥の目がおびえている。どうしたんだよ、サヤカ、怖いよ。
そうだな…チャムはゆっくりとボールを拾い上げ、センターサークルに投げ放った。
市井は福田を救うためにピッチに立った。
だがギンナンに自らが救われていることに、チャムは気づいていない。

試合終了。5−1、アルゼンチン決勝へ進む。
2得点2アシスト、電撃的な復帰を遂げたチャム・イチイ、スタンド最上段にかつての仲間を見つけた。
矢口、なんで出てこない。
下りてこいよ。日の丸、八つ裂きにしてやるからさ。
矢口も立ち上がる。かつての同僚を、すさまじいばかりの眼光で見下ろした。
上等だよサヤカ。水色と白の旗、あんたらの血で赤まだらに染め上げてやんよ。
頭上に輝く、朧月夜。

韓国の仇をとる機会を奪われた吉澤の胸中はどうなんだろう。
市井と後藤の対決において吉澤ひとみという存在は邪魔ということか?

加護の体が持ち上げられ、マットに叩きつけられる音が響く。
無慈悲な笑みを浮かべた吉澤はそれを何度も繰り返し、歓声と悲鳴とに応える。
やがて吉澤の肩の上に高橋が乗り、十字に腕を組んで立てない加護に向かって飛びかかる。
間一髪辻が高橋を空中で捕らえ、そのまま脳天から落とした。
すかさず矢口小鉄のカウントが入る。カットにいく吉澤の足を加護がつかむ。
「へへへ、行かせまへんで」
加護…!
ワン、ツー、スリー!

「なーにやっとんねんあんたらっ!」
平家の雷が落ちた。決勝を明日に控え、選手が自主的にミーティングを開くというからそっとしておけば、なぜか部屋からドタバタとした音が聞こえ、顔を出せばこれである。
まあまあ、となだめに入った矢口の背にアントンコール。みるみるそのアゴが尖りだす。
「っしゃあ、来いコノヤロー!」
床に背中をつけ、ローキックで平家を威嚇する。
平家、その足首をつかみ、脇に抱えてジャイアントスイングを開始。
1、2、3…20回転目で宙を舞った矢口、床を滑って壁に頭をぶつけた。

電話越しにチャムの明るい笑い声が聞こえ、保田は一層目を細めた。急に向こうから連絡を取ってきたのには驚いたけど。
「呆れて止める気にもならない」
「圭ちゃんだってプロレスラーみたいじゃん。これで何回目の引退試合だっけ」
雑談で、明日の試合に自分と矢口が出るかも知れないとばらしてしまった保田。人が足りない今の状況ではいたしかたなかった。
しばらく、昔話に花が咲いた。
「サウジ戦覚えてる?」
「忘れてないよう、圭ちゃん」

ワールドカップ予選、対サウジアラビア戦。矢口とマジェド・クワターのゴール合戦にあって、二人を凌ぐ輝きを放った市井紗耶香は試合が終わるとダウン、そのまま病院に直行した。40度近い高熱をおしての強行出場だったのを誰も知らなかった。
病室の市井は熱のせいかやたらハイテンションで、後藤と保田を心配させた。
やがて、後藤がぽつりと言う。
「いつまで、こうやってられるのかな」
「ずっとだよ」
市井が即答した。
「ずっと一緒にやってこうよ」
まさかこの時、この日の試合が日本代表での最後になるなんて思いもせずに答えたのだ。

ギンナンという選手のことを、保田はなにも聞けずじまいだった。
ただ互いに健闘を誓い、電話を切る。
明日の今頃には勝者と敗者とに分けられる親友同士の会話を、糸のように細くなった月だけが聞いていた。

明星が輝き、空が白む。月が消える。
シドニーに新しい朝が来た。決戦の朝、世界一を決める夜へとつながる朝だ。
いつものように朝食を取る日本五輪代表。会話の内容はこのチームの思い出話やファッション、おいしいもの。サッカーの話にはあまりならない。
ミーティングが始まり、平家からスターティングイレブンが告げられる。

あー、このあとが楽しみやな
スタメン発表からドキドキもんなんてのは
現実の日本代表のときと一緒や

「ゴールキーパー、高橋愛」
落ち着いた返事を返す。PKストップ、完封勝利は大きな自信につながった。
「負けて帰ってきたら慰めてやるよ」
小川と軽いキックの応酬。
「ライトバック、木村アヤカ」
右のスペシャリスト。全試合出場は加護と彼女だけ。
「レフトバック、保田圭」
地獄の番犬、最後の戦い。後にはミカも控える。
「センターバック、後藤真希」
悩んだが、やはりアルゼンチンの繰り出す攻撃は彼女にしか止められない。いや、止めてほしかった。
「…がんばってください」
紺野の言葉に、後藤が静かにうなずいた。

「ディフェンシブハーフ、矢口真里」
吉澤の代わりは結局いなかった。バックアップを探す気にもなれないほど、絶妙のバランスが取れた選手だった。
対照的なスキルを持つ矢口を指名したのは、吉澤とはまったく違う4番像を演じてくれると期待したから。
「断っとくけど」
矢口が先手を取る。
「あたしに吉澤のプレーを求められても無理だからね」
何人かが笑った。
私もその一言さえ言えてれば、要らない苦労をせずに済んだのに。

「レフトハーフ、柴田あゆみ」
石川とともに日本の中盤を彩ってきたレフティー。
「ライトハーフ、新垣里沙」
「は、はい」
チーム最年少、短い時間でも結果を出してきた。これが初スタメン。
「オフェンシブハーフ、石川梨華」
満身創痍、捻挫した足首に麻酔を打っての出場。出られない者の魂を胸に。
「…ん?」
柴田が気づいた。
「今日、勝てるよ」
「え?」
「見なよ、このメンツ」
矢口、石川、柴田、そしてフリューゲルスJrユースにいた新垣。
元旦の国立に翔んだ伝説の中盤、通称四枚の翼。これはそのシドニー版だ。

「ライトウイング辻希美、レフトウイング加護亜依」
説明の必要もない名コンビ、今日はなにをやらかすか。
「センターフォワード、紺野あさ美」
懸念されていたストライカーには、意表を突く人選がなされた。
「FW…ですか? 練習でもやったことないのに」
「余計なことはしなくていい。前に張って、ここぞってところに飛び込んでくれさえすればいいから」
保田の進言だった。危険地帯を察する紺野の能力は、裏返せば得点できそうな場所を見つける能力である。つまり、ゴールへの嗅覚。
「最後、キャプテンはあんたにやってもらう」

「あたし?」
腕章を手渡された矢口が戸惑う。
このチームは23歳以下の選手のもの、吉澤が出られないのなら副将の後藤が石川が任されるべきなのに。
「シドニー五輪日本代表チームは、前の試合をもって解散したんだ」
平家、稲葉、信田。三人は八年前、バルセロナに行けなかったチームの話をした。
敵ではなく、味方のはずの日本サッカー協会から受けた屈辱。
今回のチームはその悔しさを晴らす思いから始まり、豪州に勝ってメキシコ組を越えたところで完結した私怨のチームだった。平家はそのことを選手全員に詫びた。
「正直、すまんかった」

「だからこの試合は、2002年の一番最初の試合と思て戦おう。矢口、あたしはあんたが、その時にキャプテンをやっててほしいと個人的には思とるんや。嫌か?」
もちろん嫌ではない。現在A代表のキャプテンは飯田だが、その座を密かに狙っていたのだから。
「なにか一言、キャプテン」
冷かすように石川が言う。
むろん、言うべきことはひとつ。
「よーし、絶対勝つぞ!」
日の丸の旗のもと、改めてチームが一丸となった。

私には二つの名前がある。
青い目と茶色い目の人は私をギンナンと呼ぶ。
黒い目の人は私をアスカと呼ぶ。
黒い目の人たちはチャムをサヤカと呼ぶ。私と同じで、名前が二つあるみたいだ。
黒い目だけど、マサミは私をギンナンと呼ぶし、ユーチャンは目が青いけどアスカと呼ぶ。
カントクという人だけはフクダって呼ぶ。
私は誰? なんで名前が二つもあるんだろう?
サヤカ、どうしたの?
え、これ、はずしていいの。うれしいなあ。
暑いし、前が見えないし、嫌だったんだあ。

「ええんか、紗耶香」
ギンナンの顔を覆っていたフェイスマスクを取り払ったチャムを、カラーコンタクトをつけた目で見やる中澤。
「だって、世界一を決めるパーティーだよ。こんなもんつけたら仮面舞踏会になっちゃう」
そう言うチャムもサイドの髪を左右に小さくまとめ、柑橘系の香水をつけている。試合になれば髪は乱れ、汗まみれになるのに。
「じゃ、うちは行くで」
「ベンチにいないの?」
「うちは監督でもコーチでもない、部外者や」
「裕ちゃん」
「うちにできるのはここまで。あとは、あんたに任すわ。言うたやろ、いつか日本とアルゼンチンが戦うことになったら、スタンドで二つの旗持って応援させてもらうて」

「市井、ええか」
アルゼンチン代表ユニフォームを身にまとったチャムの背には11番。
左腕には、無造作に巻きつけた赤いキャプテンマーク。
チャム、市井紗耶香はもともと寺田自身が発掘し、日本代表を彼女中心のチームにしようと手塩にかけて育ててきた選手だ。
旗は違うが、再び彼女と同じチームになれ、指導者冥利に尽きるというもの。
誰もがこの試合が終わった後のことを考えてはいない。
この一戦のために、全てを投げ打ってきた。
日本の日の丸と同じように、アルゼンチン国旗の中心にも独立戦争のシンボル「五月の太陽」がデザインされている。
一つの空に、太陽は二つも要らない。
「いくぞ!」
主将の号令に、水色と白が吠えた。

晴れ渡る夜空に月は見えない。新月だ。風は冷たい。
「ヒトミ」
「アキちゃん」
吉澤をアキナが見つける。昼間の三位決定戦で韓国は豪州に3−2と競り勝っていた。
「銅おめでとう」
「よせ。めでたくも何ともない」
世界各国のチームが、一番いい色のメダルを求めて戦った。それが今や2チームしか残ってやしない。
そして、その2チームの中でも、選ばれた22人だけしか、そこには立てない。
選ばれなかった二人の口から、異口同音に漏れたつぶやき。
「いいなぁ〜」

「ここ、よろしいですか?」
ええにきまっとるやろ、こんな端っこの席…
「カオリ」
「裕ちゃんならこの辺にいそうな気がしたんだ」
飯田が中澤を見つけ、その隣に座る。
カオリがおってくれてよかった。うち一人やったら、今ごろ途方に暮れてたかもしれん。
神様、明日香を目覚めさせてください。誰よりも、裕ちゃんのために。
新旧日本代表主将が、互いの存在のために祈った。

試合前の入場行進を前に、両チームの選手が二列に並ぶ。
チャムを先頭に立つ水色と白、アルゼンチンは予選リーグで一度死にかけた。
崩壊したチームは十五少女少年の漂流を経て蘇った。
矢口を先頭に立つ青の日本は、友の屍を踏み越えて決勝トーナメントを勝ちあがった。
アフリカ、南米、欧州、北米、オセアニアのチームと戦う十四日間世界一周の末、ここまでたどり着けた。
もう隠すものはない。あとは、全てをこの夜に投げ打つのみ。
今宵、世界一のチームを決める宴が始まる。

アウェイ扱いになる日本の「君が代」が流れる。
チャムはこの歌を聞くと、いつだって複雑な気持ちにさせられた。だが今は違う。寺田も福田も石黒もいる。
記念撮影。決勝戦だけは両チームの選手が一緒に写真に収まるのだ。
矢口は保田と後藤、そしてチャムを誘い、写真の中央に収まった。
「市井、わかってるやろな」
寺田がつぶやく。
たとえ勝っても、つまんない試合したんじゃ話にならへん。
福田の脳味噌にショックを与えるような激しい試合にせなんだら、何の意味もないんやで。
「思いっきりやってこい、矢口」
あんたはずっと休んでたんだ。疲れた他のメンバーを、あんたが引っ張るんだ。

センターサークル、矢口とチャムが握手を交わし、ペナントを交換する。すでに敵同士の目に戻っていた。
コイントス。矢口が裏を取る。裏。矢口が向かい風のエンドを取った。
それぞれのサイドに戻る二人。試合前の円陣を組む。
それを見守る日本ベンチには首脳陣の他は村田、斎藤、ミカ。そして今日合流した安倍に小川、松浦の姿も。十八人までがメダルを受けられるためだ。
「えーと…」
気合入れって、なにを言ったらいいんだっけ。
「ショイ!」
アルゼンチンから、まったく同じ気合入れの声が。なんだ、同じなのかよ。
「矢口さん、早く」
「あー、じゃ、がんばっていきまー…」
「しょい!」
二十二人が散った。センターサークルにチャムとヒロミストゥータ。
キックオフのホイッスルが、風に吸われた。

チャムがいきなり左サイドに大きく展開、ノリカを走らせる。アヤカがカット。セーフティーにタッチラインに蹴り出す。
「チャム!」
素早くボールを拾い上げたのはマサミ・ナガサワ。走りこんだ勢いをそのままボールに乗せて投げ入れる。
矢口とチャムが競る。チャムがファーポストへと流すのに成功。
保田を振り切り、ギンナンが右足でコンタクト。GK高橋必死のダイブをかわしてゴールネットを揺らす。
わずか14秒。
サッカーでは30秒あれば1点取れるとは有名な格言だが、その半分もかけずに、アルゼンチンの先制ゴールが生まれた。

「わりー、競り負けちまった」
苦笑いする矢口。もちろん、アルゼンチンもまだ小手調べといったところ。
すぐにキックオフの笛が鳴る。
左から柴田とのコンビで加護が攻め上がる。が、ゴール前をこじ開けるには至らない。
「戻せ!」
声のする方向に低く出す。
走りこんだ矢口、左足でひっぱたいたボールがアウトにかかり、ゴール左上隅の絶妙なコースへ。
ワカナ、右手一本で弾き出す。
左コーナーに石川がいく。
右足でシンプルに上げたボールが逆風に乗って外に。
エリア外、今度は矢口がチャムに競り勝って、頭で鋭く落とす。
足元に飛び込むワカナよりも一瞬早く、後藤が蹴りこんだ。
先制を許してわずか3分後、あっという間に追いついた日本。
壮絶な点の奪い合いの幕が切って落とされた。

両チームともに最終ラインの修正を行ってきた。
日本はチャムのマークの受け渡しを確認。中盤の中央から左が主なプレーゾーンのため、中央にいる時は矢口、左にいる時は新垣が必ずつく。FWエリアにまで来たら後藤がマーク。
アルゼンチンのエースと日本の控えのマッチアップはまさに月とスッポン。それでも新垣は落ち着いている。その冷静さが可愛げないと受け止められることも多い。
それでも、この試合が終わった時、きっと自分は泣くのだろうと思う。それは、試合に出られると分かる前から思っていたことだった。

紺野をトップに上げる奇策に石黒は舌を巻いた。
メンバー表にはDF紺野FW後藤とある。メンバー表とポジションが異なるのはルール違反ではない。(GKは除く)
紺野なら自分の手の内をよく分かるだろうと読んだのだろう。そしてそれは平家一人の案ではあるまい。
早々の失点後は矢口とのコンビでチャムとギンナンのホットラインを寸断している青の6番を見やる。
そういうのを、猿知恵って言うんだ。
日本、オフサイド。前に人数を割く3トップはそれだけトラップにかかりやすい。
「マサミ!」
自らの分身であるDFリーダーを呼びつけた。

GKワカナが前に出て、DFラインの上げ下げを指示する。
マサミは紺野にぴったりくっついた。これが見事にはまる。
紺野が綻びを見つけて出て行く。必ずマサミがついていく。マサミはワールドユースのMVP、オープンな一対一なら紺野など敵ではない。
予測できなかった事態にも混乱せず、瞬時に紺野殺しの手を打った石黒のセンスはやはり本物。
そしてその指示を忠実に実行するマサミ。
最初FWを降ろされた時は憤った。しかしチャム、ギンナンのコンビを見て、仕方ないのかもと思った。
確かに二人のプレーからは、自分には分からない絆が伝わる。

オーバーラップしたノリカのグラウンダーのシュート、通称サイドワインダーがゴール左下を鋭く襲う。
「くわっ」
高橋、逆シングルのパンチング。なんとかコーナーに逃れた。
いたたた…右手を振る高橋。やけにこのコースばかり狙われる。
あ、そうか。
アルゼンチンのバックには高橋を指導した人がいるのだ。当然、弱点も筒抜けになっていると思われる。
やりにくいったら、ない。
「13、後藤さん、13ついて」
しかし、それでも戦わなくてはならない。

セットプレーが試合の鍵を握ると保田は見る。日本には石川と柴田、アルゼンチンにはチャムとノリカ、それぞれに左右のプレースキッカーがいる。狙いが絞れない分、守る側には厳しい。
コーナーに立つチャム。
「圭ちゃん10!」
分かってるよ、後藤。
この試合を心待ちにしていたのは、なにもあんただけじゃないんだから。
シュートのように速いクロス。ショートに立った矢口の髪を巻き上げる高さでニアへ。
「せえっ」
左足、ジャンピングボレーでクリア。アルゼンチン陣内まで飛び込んだ。

ワカナがエリアを飛び出し、足で止める。
紺野が詰めていく。
「パス!」
マサミが一度紺野から離れ、開く。
こんなザコ、ドリブルで十分だ。
ワカナが左足アウトサイドでボールを押し出す。
かわされた紺野の背後から、辻の足が伸びた。ボールが内側にはね返る。
最後に飛び出したのは加護。無人のゴールに軽くプッシュすればよかった。
紺野の影に隠れていた二人。もしワカナが逆にかわしたら加護がカット、辻が決める手はずだった。
作戦を授けてくれたアフリカの英雄に、感謝のものまねで答える三人。
「せーの、アイーン!」

「なにやってんだあいつは」
キーパーの愚かな行いに頭を痛める石黒。だが寺田は高笑い。
「ええがな。取られた分は取り返したらええねん」
「しかしですねえ」
「まだ前半が半分も残っとる。それにこの試合が2-1なんてスコアで終わるわけないやろ」
石黒には悪いがこの試合、ある程度ディフェンスには犠牲になってもらう。
それに、そろそろあいつらの体もぬくまる頃やろ。
市井、福田、取り過ぎて困るもんやない、いくらでも点取ったれや。

チャムがセンターサークル付近でボールをキープする。が低く身構える新垣を右にかわす。矢口がわずかに浮いたボールにあまり長くない足を伸ばし、カットした。
「ニーガキ、今のでいい!」
「ハイ!」
今のチャムを一人で止めるのは困難、新垣と矢口が前後に重なるようにして二人でいく必要があった。
片や石川は激しさで鳴るアルゼンチンのボランチ、コマイヌに手を焼いていた。ファウルすれすれの当たりは、万全のコンディションではない石川を萎縮させるに十分なもの。
チャムと石川、日本五輪代表司令塔の座を争うはずだった二人である。

ボランチの位置まで引いたチャム、マサミからボールを受ける。すかさずマークにいく石川を右にかわす動作。足を広げる石川。その間をボールが抜けた。石川が一番嫌う抜かれ方「ニワトリの股くぐり」だ。
柴田が俊足に振り切られる。新垣の小さな体が弾かれる。
「サヤカ!」
スライディングで襲いかかる矢口をハイジャンプで飛び越えた。四枚の翼がたった一人にズタズタにされた。
五人目の刺客は後藤。右から体を入れる。振り切ろうとするチャムに後藤の足がかかる。
両者、トップスピードのままでもつれて倒れた。ペナルティーエリア内だった。

主審がスポットを指す。だが後藤が真っ先に気遣ったのは、仰向けに倒れたままのチャムだった。
「…くそっ」
平手で芝を叩くチャム。PKを狙う気など毛頭なかった。
「市井ちゃん」
よかった。後藤が差し出した手につかまって立ち上がるチャム。
高橋が目をつむって集中を高める。蹴るのはノリカかヒロミストゥータか。
チャムにその背を押されたのはギンナンだった。曇りのない視線から何も読み取れない高橋、堪えきれず逆に飛んでしまった。
2-2、同点。そして大会5ゴール目を決めたギンナンは安倍と並ぶゴールランキングの首位に踊り出た。

日本の動揺をアルゼンチンは、チャムは見逃さなかった。今度は右サイドで持ち保田を翻弄するチャム。
圭ちゃん、うちら長いもんな。だから圭ちゃんが一度抜かれたら脆いのもよく知ってるよ。
柔らかなセンタリング。後藤はヒロミに張りついていたため矢口がマークしてはいたが、ギンナンが倒れながらのダイビングヘッド。左下へ低く飛び、またもネットが揺れた。これで抜かれた安倍の得点王はなくなった。
再逆転のアルゼンチン。寺田がほくそえむ。
見たか。点なんてすぐ入る。一瞬で試合ひっくり返したわ。まだ足りひんぞ、もっと点取らんかい。

立て続けに同点、逆転を許した日本。
チャムとギンナン、まるでバスケットボールのように簡単にゴールを重ねてくる二人に自然マークが引きつけられ、他へのマークが薄くなる。
ペロンとエビータが、これを逃すはずがない。
「GO!」
フリーキックからチャムが出したボールをヒロミストゥータが右足で蹴り込む。壁に立っていたアヤカが崩れる。その穴めがけ、もう一度シュート。
高橋横っ飛び。右手一本で横に弾き出す。
左サイドで拾ったのはノリカ。ギンナンのマークを外した保田のチャージを受けながらも、矢のようなセンタリングを低く繰り出す。
「げふっ」
辻、ダイビングヘッドでカット。顔面を強打してうずくまる。

「立て!」
145センチの体を振り絞り、声を張り上げる矢口。
残り時間あと10分。ここを堪え抜けば、後半に望みがつながる。
それはアルゼンチンもわかっている。ここで1点奪えば後半が楽になる、2点奪えばほぼ勝負が決まる。
「ストッパー!」
まるで負けているチームがするように、ディフェンダーも全員攻撃に参加させるチャムが、左コーナーに向かった。

「紺野ニア! 加護ファー! 辻ショート!」
高橋が指示を飛ばす。日本はFWも全員ゴール前を固める。
チャムが高く上げた。辻の頭上を越え、ゴール前も過ぎる。
逆サイドにギンナンがいた。保田がつく。深くえぐって、高く上げた。
ヒロミストゥータが飛ぶ。足を折り曲げ、腕を張ってポジションを獲得する。後藤がゴールとの最短距離に身を置き、シュートを打たせまいとする。
ヒロミ、ヘッドで外に出した。
ノリカが奥歯を噛み締める。サッカー選手は、歯が命。
またもサイドワインダー。左に低く飛ぶ高橋。
最後の仕上げ。その鼻先に、マサミが飛び込んだ。逆を突かれたキーパーが足を伸ばす。が、届かない。

ボールがクリアされた瞬間、水色と白の選手が一斉に手を上げた。
が、主審は首を横に振る。
さらに食い下がるアルゼンチン。
当然だ。
クリアした紺野の右手には、しびれるような感覚が残っていた。
わざとではない。脇も締めていた。
が、手に当たってしまった。主審も故意ではないと認めたから不問にした。
神の手ではない、三本目の足が日本を辛うじて救った。

「新垣」
矢口が新しい舎弟を呼びつける。
「あたしがサヤカにつくから、あんたはノリカ姉さんが上がってきたら止めるんだ」
「できますか、あたし一人で」
「できるか、じゃない、やれ」
矢口の前後は故障を抱えた後藤と石川、ただでさえ矢口の負担は大きい。その上サイドにまで引っ張り出された日にはいくら体力があっても足りない。
「コツを教えてやる。絶対縦だけは抜かせるな。それから、いざとなったら真正面から身体をぶつけてけ」

とにかく言われたようにする。
おどき遊ばせ、お豆さん。
石ころを蹴飛ばすような軽い気持ちでつっかけていくノリカ。
「ひるむな! 当たってけ!」
本当に踏ん張って逃げなかった新垣につまずくノリカ。転がされる新垣。日本ボール。
「どうしてあたくしが?!」
矢口が新垣に親指を立てる。
ちっちゃい子が頑張れば、ちょっとはオマケしてくれる、そんなもんだ。
「ノリカ!」
同じようなシチュエーションでチャムがパスを要求する。が、ノリカはきかない。
今度こそ、と見せかけて、大きく右にふった。
「もらい!」
左ハーフの柴田がカット、速攻。

サイドではあまりガツガツこない、柴田が正対する右DFをドリブルでチンチンにする。
サイドチェンジ返し。辻が猛烈なスピードで追いついてヒールでバックパス。矢口が上げた。
ニアに紺野が飛ぶのが、保田の位置からもよく見える。
そうだ、恐れずに飛び込めばなんとかなる。
オランダの14と同じように、ドイツでの背番号13番は特別な意味合いを持つ。
二十世紀最高のセンターフォワード、独式爆撃機ゲルト・ミュラーの背番号だ。
マサミに押されながら、ももで押し込む形になったボレーキックがポストに嫌われる。
石川がフォローした。フリーで狙う。ワカナの好ブロックに遭った。
舌を鳴らす石川。インパクトの瞬間、軸足がぶれた。この足さえ万全だったら。

チャムのスルーパスにギンナンが反応。腕を振り上げ、行かせまいとする保田。
思えば保田は福田と交替した試合で起死回生のゴールを決め、福田はその試合を最後に一度日の丸を捨てた。
足を伸ばす保田。バックパス。高橋が大きく蹴り出そうとするが、カス当たりしたキックがチャムの胸に。青ざめるキーパー。
「うおりゃっ」
後藤が肩をぶつけながら奪う。チャムが追いすがる。予選リーグのリプレイのような場面に矢口が寄っていく。
後藤はパスを出さない。意地でもチャム、いや、市井を抜き去る気だ。
体格で優る後藤、肩で跳ね飛ばした。ノーファウル。
「よっしゃ!」
大きく蹴り出した。

前半終了の笛が鳴ると、まるで試合が終わったかのように矢口と保田がその場に倒れこんだ。
ここで引き離されると状況がさらに悪化するのを分かっていた。なんとしても止めねばならなかった。
「矢口さん」
「圭ちゃん」
それぞれ新垣と後藤に支えられて立ち上がる二人。確かに頑張ったが、内容は完敗に等しい。チャムにはいいように中盤をかき回され、ギンナンにはハットトリックを許してしまった。
「お疲れ、二人とも」
ベテランコンビを暖かく迎え入れる平家。これで後半に希望をつないだ。
ロッカールームに戻ろうとした一歩目を踏みしめた左ひざに、またしてもあの鈍痛を覚え、泣きたくなった。
もう、いいかげんにしてえな。
どこまであたしを苦しめたら気が済むねん、このバカ足。

「もう1点欲しかったですね」
「ええがな。石黒、これで日本は後半、攻めに出なあかんやろ。そこをカウンターで狙う。福田と市井だけで充分や」
寺田がほくそえむ。かつての教え子をいたぶるのはそれほど快感なのか。
並んで引き上げるチャムとギンナン。
無垢な目を自分に向けてくるギンナンに、チャムの表情が曇る。
もし、この試合が終わっても、明日香の記憶が戻らなかったら。
前半が終わったのに、きっかけすらつかめない。
嫌な予感が現実味を帯びてきた。
チャムの背筋は凍った。

「いたたた…」
控え室に戻るや否や床に座り込んだ石川を柴田が気遣う。
「大丈夫かよ。休んだほうがいいんじゃない?」
「冗談」
鋭くその方をにらむと矢継ぎ早に
「あいつがもう3点も取ってるのに、タコで引き下がれるもんか」
もちろんあいつ、とはアルゼンチンの10、そして日本の誇る天才。
柴田は石川をライバルだと思っていた。
でも、気づいてしまった。
石川はもう、柴田など眼中にはないのだ。
「そんなこと言ったら、あたしなんかヤキトリだっちゅうの」
「え?」
「なんでもない。後半、絶対点取ったろうな」
「おう」

加護が熱気のこもったスパイクを床に投げ出し、靴下も放り投げる。足がむくむのだ。
「ほい」
辻がタオルと水をくれた。水分の補給はこまめにしている。
…実は、引退を考えている。
特に理由はない。ぼんやりとした不安があるだけだ。
終生のライバルと呼ばれる辻希美。現在は加護が一歩抜け出しているというのが通説だ。
だが加護は、辻の才能をよく知っている。それも、痛切に。
才能のない分、自分は精一杯努力してきた。それでも、もうカツカツだ。
心臓との戦いに疲れてるだけかもしれない。けど、もう走れない自分を感じてしまうことも、ある。
いや、今はこの時に集中しよう。サッカーを通じて知り合った最高の親友とともに。

「ざけんなよ、てめえ」
へたり込む高橋につっかかる小川。手がこんなじゃなければ胸倉つかんで往復ビンタかましてやるところである。
「そんなこと言わないでよ。じゃ、だったら」
鼻の頭がツンと痛くなるのを我慢して、ようやく言い返す高橋。だが小川はその言葉尻を取って
「代わってやるよ。ベンチで泣いてろ泣き虫」
「なに言ってんのそんな手で」
「ゴールはここで守んだよ」
胸で胸をど突いた。
「おめえにゃここが足んねえ。何のための1番だ。自分の後ろには絶対球行かせねえって気持ちが、一番大事なんじゃねえかよキーパーは」
高橋は叱られた。優しく、叱られた。

「派手にやられたね」
まだ眼帯の外せない安倍が矢口に悪態をつく。
「外野は黙ってて」
矢口がやり返す。
それをまぶしそうに見ていた保田。
この二人だって、最初は相当険悪だった。あの頃を思えばまるで隔世の感がある。
このチームは二年後、そのまま最高の舞台に立つチームになる。
そしてその時、チームをまとめ上げるのはこの二人なのだ。
自分も、そこにいたい。
けど今は11時15分だ。
後半の45分が終わると、保田の夢の砂は尽きる。
本当に最後なんだ。そう思うと、少しだけ目元が熱っぽくなった。

「あと45分。本当に、45分だ」
平家が笑ってそう言う。
決勝戦が他の試合と違うのは、勝っても負けても、これが最後の試合だということだ。
本当に長い間、このチームで戦えた幸福を思う。
もし負けたとしても、それは不幸でもなんでもない。不幸さえサッカーという大きな幸福のほんの一部分なのだから。
結果はどうあれ、矢口たちが、大きな歓喜に包まれていることは、絶対に間違いがない。
「細かいことはは言わん。あと45分、ボール使て遊び倒したれ」
その言葉に背中を押され、青きイレブンは飛び出していった。初めてボールを蹴った時のような新鮮な気持ちで。

GK オリバー・ケイン(豪州)
DF ノリカ・アルベルト(アルゼンチン)後藤真希(日本)レフア(米国)
MF 吉澤ひとみ(日本)チャム・サヤカ・イチイ(アルゼンチン)リ・アキナ(韓国)ドラガン・オカムラビッチ(ユーゴスラビア)
FW ガブリエル・ヒロミストゥータ(アルゼンチン)安倍なつみ(日本)ギンナン(アルゼンチン)

ハーフタイム中、記者投票による大会ベストイレブンが発表された。
内訳はアルゼンチン4、日本3、韓国・豪州・米国・ユーゴスラビア各1。
並んで試合を見守る吉澤とアキナの名もあった。
トーナメントは戦ってないが予選のベストバウト、日本−ユーゴスラビア戦で活躍したオカムラビッチと安倍も入った。
MVPはアルゼンチンが優勝すればチャムがギンナン、日本は後藤が有力。吉澤が決勝に出ていれば間違いなく彼女だったが。
その意味でも、あのイエローの代償はでかかった。
「おう、2号」
中澤と飯田に、後藤ユウキがコーヒーを持って現れた。
「あんたも辛いな」
「いえ、ちゃんと見届けようと思います」
二人の、対決を。
それによって、自分のこれからにも、もしかしたら答えが出るのかもしれない。

日本がピッチに出ると、アルゼンチンはすでに11人が散っていた。
その中心に、チャムがいる。
一番後ろから現れた後藤がその目に引きつけられた。
なんて目、してやがんだ。
まるで追い詰められたネズミの目だ。自分たちが猫のはずだろうに。
なんで、どうしてそこまでうちらを憎めるんだよ、市井ちゃん。
喉もとに食らいついて、血管を引きちぎって、骨までしゃぶりつくしてやる。
自分だって、昔は、そんな目をしていた。
チャムの異常な目つきに気づいたのは矢口も同じだ。
優しくなりすぎたのは、自分のほうなのかもしれない。
狂った者に勝つには、自らも狂う必要があることを忘れていた。
ふつふつと、闘志が湧き上がる。
勝ってやる。絶対、負けねえ。

後半開始30秒、石川のパスに飛び出した紺野が右足でぶっ叩く。
マサミの足をふっ飛ばし、ワカナの腕を弾き出して、クロスバーを削って外に。
何事もなかったかのように最終ラインに戻っていく紺野。紺野と後藤は後半、ポジションを入れ替えていた。紺野が5番、後藤が9番に。
石川がショートで出す。逆サイドから柴田が回ってきて、さらに中央へ。
矢口がミドルで狙う。アルゼンチンのブロックに遭う。
加護がさらに打つ。辻が頭から飛びついてコースを変える。バーを越えた。

「あがれ!」
紺野の号令で保田とアヤカが前へ。
矢口のプレッシャーに耐えながらスルーパスを出したチャム。しかしヒロミはオフサイドポジションにいた。
「そりゃ!」
高橋がフリーキックを入れる。右サイドの辻へ。その裏に左ウイングのはずの加護が回りこむ。ノリカを出し抜いて切り込む。
またも紺野が上がってきた。マサミが混乱している。徹底マークを命じられたため、紺野がリベロに回ってもついていってしまっている。そのため後藤がフリーになる。
ワカナを引き倒してのヘディングがネットを揺らす。が、ファウルを取られた。
守るだけでも、攻めるだけでもない。
全員がよく攻撃に絡み、守備に貢献する。
それは平家の指示ではない。
トータルフットボールの真髄に、このチームはようやく到達したのだ。

「マサミ! 紺野にはつかなくていい!」
「市井! サイドに逃げえ! 矢口から離れ!」
石黒と寺田が並んでコーチャーズボックスに立つ。
因縁の2チームを巡るもうひとつの戦い。モダン対クラシカル。
全員攻守の日本、与えられた仕事を完遂するアルゼンチン。
前半はアルゼンチンの圧勝だったが、後半は俄然日本が押している。
その中心に145センチのミッドフィールダーがいる。新しい日本の心臓が、チームのペースを作っている。
昔の矢口が戻ってきた。技術はそのままに、命を削るようにしてサッカーをする小さく獰猛なけだものが。
そしてそのけだものに激しく挑みかかるのも、やはり「アニマル」だ。

チャムが中央突破を図る。矢口が体をぶつけにいく。
骨と骨がきしむ、鈍い音がする。矢口の肩が焼け、チャムの脇腹が燃える。
一度離れ、もう一度奪いにいく矢口の足を、ももでブロックするチャム。
矢口、ファウル取られるって、あんたの替えはいないんだよ。平家が肝を冷やす。
市井、持ちすぎや、もっと周りを使わな司令塔とは言えへんで。寺田が言葉を飲み込む。
矢口が蹴り出したボールがチャムのひざに当たって、大きく上空に上がる。
いち早く反応した矢口が飛びつく。不利な体勢からチャムも追う。
空中でも、一歩も引かなかった。
両者、大きくバランスを崩して、不自然な形で落ちた。

「ぎ…」
歯を食いしばるチャム。とっさに突いた右ひじを押さえてもがく。
かたや矢口は声も出せない。したたかに腰を打ち、背中から落ちた。
ファウルを取られたチャムがタンカに乗せられて運ばれる。
矢口が石川に助けられながら立ち上がる。
白い8番が泥まみれで、まるで背中に毛がびっしり生えているように見えたので石川が軽く払った。
「うぎゃっ!」
腰の右側を押さえて、矢口がうつむいた。
「ありゃ相当いてぇぞ」
腰痛持ちの小川がうめいた。

「辻、新垣」
矢口がすぐに右サイドの二人を呼びつけた。
「辻、ノリカ姉さんのマークな」
「私、なにかまずいことしましたか?」
不安そうにする新垣。
「あんたはサヤカのマーク」
「私が、ですか」
そんなこと、できるわけない。それにアルゼンチンのエースは医務室に下がっていった。戻ってくるとは限らないし、アルゼンチンは控え選手をアップさせている。
「サヤカは絶対戻ってくる。…あたしは、もうあんたらを助けてやれないから」
「できないですよ」
「だからできないなんて言ってる限り、あんたは永久にチャンスを逃し続けるんだよ。何度も言わすな」
「でも…」
「じゃ、あいつのケガしたほうの腕を狙え。骨折か、捻挫かしてるはずだ」
「もし、それでもぶつけてきたら」
「腕折ってやれ。自業自得だ。腕折ってサッカーやめる奴はいない」

腰の右をやってしまった。こちらサイドに切り返されたらついていけないだろう。
「アヤカちゃん」
右サイドバックに二人のフォローを頼む。
「石川、柴田」
かつての同朋、今また同じチームで戦う二枚の翼に声をかける。
「紺野、高橋」
日本サッカーの守り神、八咫烏の化身となってゴールを守る二人に。
「後藤、加護」
アタッカー二人に。
「圭ちゃん」
同期の仲間に。
ベンチの安倍に、小川に、松浦にミカに村田に斉藤に。
スタンドの吉澤に。
見てろよ、これから始まるんだ。

「当たってもうた…」
平家が思わず頭を抱えた。
矢口が壊れた。本来なら下げるべきところだろう。
が、フィールドの控えはDF二人のみ。それ以前に、矢口の控えなんていない。
ここまでして戦わねばならない理由が、どこにあるのだろうか。
笛が鳴る。
新垣がペナルティエリアの手前正面で倒された。
辻とのコンビでノリカからボールを奪い、中央に切り込んだ。
慌てたマサミが手を使って倒してしまった。決してノーファウルで止められなかったわけではないのに。

蒼白な顔で壁を作るワカナ。日本のフリーキックは要注意だったはずなのに。
ほぼ真正面、左右どちらでも狙える位置。距離的にも23メートルと最も狙いやすく防ぎにくい。
珍しく慎重にボールを置いた石川が柴田と相談をする。時折笑顔を交わして。決まった。
笛が鳴る。低く身構えるワカナの背に緊張が走る。
柴田がまず走る。空振り。これはキーパーも読んでいた。
石川も空振り。これは考えていなかった。わずかに重心を崩す。
左、右と揺さぶりをかけて真打ち登場。
狂気を取り戻したミッドフィールダーの爪先が、正面を向いたボールのへそに、垂直に突き立てられた。

大きく壁を越えてきたボールがまったく回転してないのにワカナが戦慄を覚える。これでは回転を読んで飛ぶことができない。
空気の壁に押されるようにして、急激に落下してくる。スピードも極度に落ち込み、キーパーは戸惑いを覚える。
が、幸いにもほぼ真正面に飛び込んできた。腰を落とし、捕球に入るキーパー。
ボールはその右でバウンドし、ゴールの中に静かに転がり込んだ。
「うっしゃあ!」
飛び上がる矢口。
実は、失われたシュートを取り戻すため、毎日少しずつだが練習していた。急にやってはまた親指を壊してしまう。
が、最後の微妙な揺れだけがどうしても取り戻せなかった。どうしてそれがこの土壇場で。
腰を打ったことが、いつもと違う感覚でボールを蹴れたことが結果的に吉と出たのだと思う。
着地すると、その腰が猛烈に痛んだ。バカなことやった。
魔球、セクシーボール復活。3−3、日本、再び追いついた。

「バカヤロウ!」
このワンプレーが終わったら復帰するはずだったチャムが怒鳴りつける。
水色と白の下は、テーピングで固められている。
折るまでもない。すでに膝の骨が折れていた。麻酔を打ったために復帰が遅れてしまった。
で、戻ってみればこの醜態ぶり。
日本なめてんじゃねえよ、アル公ども。
後藤がそれを見つけ、くい、と親指を引いてくる。
早く来いよ市井ちゃん。そろそろ決着つけようぜ。
チャムの背中に、前半終了後に感じたものとはまったく別の戦慄が走った。
太陽が黄金の炎で月を焼き払おうとする。
月は三日月の剣では、その炎を打ち消せないのか。
月が太陽に勝てないのは自然の摂理か。
自分は後藤に金輪際勝てないのか。
冗談じゃない。脇役はもうたくさんだ。
蹴散らしてやる。もう一度、あんたらを地獄に叩き落してやる。
決着の時まで、あと30分足らず。

チャムが中央から左に切れ込む。矢口が追おうとして体重移動。
その瞬間、腰に激痛が走る。それでも走るが、追いつけなかった。
矢口が行こうとしたスペースに、その分身が走り込む。
突如姿を現した小さな21番が寄せてくるので右腕を伸ばしてブロック。それをかいくぐって激しくぶつかっていく新垣、腕を弾いて潜り込み頭をチャムにぶつける。
チャム、バランスを崩して倒れた。
チャムが腕を負傷しているのは誰でも知っている。そこをあえて狙う新垣にアルゼンチンはもとより、一部の日本サポーターからも辛らつなブーイングが浴びせられる。

このオリンピックから三つ前のロサンジェルス大会、柔道の男子無差別級決勝で山下泰裕のケガをした足を一切攻めずに負けた選手がいた。美談としてあまりにも有名だが、バカじゃないかと新垣は思う。
どうして四年間の努力を捨てるようなマネをしたのか、心のどこかにそんなことしなくても勝てるというおごりがどこにもなかったと言い切れるのか。
新垣はチャムを尊敬しているし、自分一人の力で抑えられる相手ではないとよく分かっている。
だから、弱点があれば迷わずそこを攻める。それが本当の意味での正々堂々だと信じるからだ。

それはチャムのほうでも十分わかっていて、抗議もなにもしない。矢口の動けないサイドに流れるのもまたアンフェアなのだから。
そういえばこの試合、まだ一度もメンバーチェンジがなく、そして一枚のカードも出されていない。主審の方針もあろうが、決勝というある意味なんでもアリな空間を考えると脅威的なことである。
時間はゆっくり、だが確実に少なくなっていく。
つまり次のゴールが、世界一を決めるゴールになる確率が少しずつ高くなっている。
そしてその宝のようなゴールを、誰もが海賊の目で狙っているのだ。

しかしどちらの宝も名うての門番によって守られている。
決勝までの5試合でわずか2失点のアルゼンチン(日本は5失点)。今日は3失点もしたもののセットプレーとGKのイージーミスによるもので、完全に崩されてのゴールはまだない。
中盤での運動量は矢口の動きが落ち込んだ日本を大きく上回り、マサミ・ナガサワの仕掛けるオフサイドトラップは時に複数のフォワードを罠にはめた。
後半、紺野が本来のポジションに戻って守りが安定した日本。前半は不安定さの目立った高橋も立ち直った。
アメリカ戦の数分間、豪州戦、そしてこの試合の後半。
この二人が一緒にゴールを守っている時、日本はまだ一度もゴールを割られていない。

中盤で石川がドリブル開始、中央突破を図るが前が厚い。
「こっち!」
声に促され、左にはたく。
背番号11の左ウイングが斜めに走り、ダイレクトで浮き球に加工してゴール前にはたいた。
辻が爆発的なスピードで上がってきた。ノリカを押しのけ、短くグラウンダーで転がす。
後藤の目前、マサミがスライディングでカットした。時間をかけられたのが幸いした。
「ドアホ!」
加護が吠えた。
のの、なんで自分で打たへんねん。あんたにパスやれるの、これが最後になるかもしれへんのに。
せめて、最後に二人で最高のゴールを決められたら、晴れ晴れとした気持ちで独り立ちできるのに。

ノリカとアヤカが向き合う。まず中へは絶対入れさせない。外へ、外へ。
サイドチェンジを狙うノリカ。しかし柴田が絶えず目を光らせている。今日の柴田、むしろ守備での貢献が光っていた。
センタリング、ハイボールがヒロミストゥータへ。
紺野が競り合う。空中で押されてもあっさり受け流す。
高橋が飛び出した。水も漏らさぬキャッチで、確実に押さえる。
「上がれー!」
高橋が大声で叫ぶ。
紺野はアルゼンチンほどには浅いラインを保とうとしない。
終盤に差し掛かろうというのに、むやみにラインを上げるのはリスクが大きい。
気づいている。アルゼンチンがトラップを多用するのは、日本のフリーキックを恐れているからだと。

「圭ちゃん」
日本のコーナーキック。センターサークルにはヒロミストゥータと保田。そこの矢口も寄って行った。
「ばててんだろ、おばちゃん」
「おばちゃん言うな。今じゃあんたがあたしの次におばちゃんなんだからね」
同期の桜。決して仲がいいわけじゃなかったが、一緒にがんばってきた。いわば戦友。
矢口には後ろにも目がある。保田の動きが少しずつ遅くなってきたのに気づかぬわけがない。
たぶんチャムもそれを待っているのだろう。保田がバテて、ミカと交替するまでの間にギンナンへスルーパスを通し、決めさせる。そうすれば試合は終わると。

「明日香のマーク、あたしがやる。圭ちゃん少し休め」
「サヤカはどうするんだよ」
「新垣が今んとこなんとかできてるし、石川を引かせればなんとかなるっしょ」
「あんたこそ、全然動けてないんですけど」
「動きの質で勝負してんだよ」
確かに矢口も腰を打ってから精彩を失った。それは本人もよく分かっていて、石川や柴田や新垣を声で動かしてその分を埋めようとしている。
「休んでなんからんない」
「誰がサボれっつったよ」
矢口は恐るべき計画を耳打ちした。
「…鬼」
保田の口から、思わず漏れたつぶやき。
「これでサヤカの計画をご破算にしてやるんだ。痛快じゃん」
石川の蹴ったコーナーはGKワカナに阻まれる。すぐさまキック。保田がヘッドで競り、矢口がフォローした。
残り時間、あと20分。
世界一のゴールは、まだ生まれない。

「矢口の動きが悪い」
「サヤカかてボロボロや」
両軍キャプテンの動きを見守る新旧日本代表キャプテン二人。
それでも平家は、寺田は二人を下げないだろうと思う。
動きうんぬんではない、敵に食らいつこうとする意思において二人は傑出している。
二人を支えているのは、恐らく意地だろう。
矢口は何よりも愛する日本代表としての誇り。
チャムはその日本を捨てた意地。
子どもの喧嘩だ。カラータイマーが鳴ってるのに戦い続けるウルトラマンだ。
だがウルトラマンが強いのは、カラータイマーが鳴ってからだともいえる。

「みっちゃん、矢口と保田を下げよう。もう限界だ」
信田の言葉に平家は耳を貸さない。
もし二人を下げなかったことで負けても、あたしが全部泥をかぶる。
矢口、保田。あたしはあんたらに賭ける。
あんたらが必ずやってくれるて信じる。

「監督、まずいですよ。サヤカの腕、もう上がってない」
「それがどうした」
石黒の進言も聞き入れられない。
なにやっとんねん、市井。
おまえのプレーは、まだ福田の根っこにまで届いてへんぞ。
じぶん、なんのために日本捨てたんや。根性見せえ。

中盤に引いた後藤がスルーパス。縦のポジションチェンジを行った石川が前へ。
絶対決める。その一心で石川はやや冷静さを失っていた。
突進してくるGKに、体ごとぶつかっていった。
交通事故のようにひしゃげた車が二台転がる。右二の腕を押さえるアルゼンチン車、左足首を押さえる日本車。
だが頑丈にできている二台の車は、やがてなにごともなかったように立ち上がり、互いに健闘を誓い合った。
時間がもったいなかった。
世界一のゴールは、まだ決まらない。

勢いは日本にある。だが自力に勝るのは当然アルゼンチン。
ノリカ・アルベルト、左サイドから豪快な攻め上がりを見せる。
アヤカがつく。が、今度はあっさりフェイントにひっかかり、最もやられてはいけない中央への切り込みを許してしまう。
紺野のスライディングをかわし、ペナルティーエリアに侵入。
まずい。矢口が福田のマークを外しチェックに。ノリカほどのパワーシューターをぺナの中でフリーにするなんて自殺行為だ。
が、遅い。すでにガラガラヘビが解き放たれていた。
芝を切り裂いて飛ぶシュートに手を伸ばす高橋。だがボールの伸びは予想以上、やむなくキャッチから左手でコースを変えるのみに変更する。
が、それでも遅れた。
耳よりも後ろ側でボールに触れる。
コースの変わったシュートはゴール裏に抜けた。
「…あが」
声にならない絶叫が、キーパーの喉を突いて出た。

「高橋!」
スタンドの中澤が立ち上がる。
発狂したように暴れる高橋を周囲が押さえつける。
左腕が肩からだらしなく垂れ下がっているのを見て、失神しそうになった。
黒いユニフォームを脱がされ、タンクトップ一枚になるとよくわかる。脱臼していた。
信田が上体を押さえつけ、小湊が肩をはめる。肩には固くテーピングが施される。
第三キーパーの村田が急きょアップを始めた。
苦痛に顔を歪め、ユニフォームを着なおす高橋。試合は再開されるがとんでもないウィークポイントをさらけ出してしまった日本。
チャムではなく、ギンナンがコーナーに走る。

「紺野二ア! 石川さん13! 新垣11!」
指示を出す間も、高橋の左腕は上がらない。
とにかく二アポスト、つまり自分の左腕の側にだけは打たせまいと人を動かすのがよく分かる。
時折肩を回し、不安そうな表情をする。
センターサークルで後藤をマークしていたマサミが前に出てきた。
「戻れ!」
中央やや遠めで新垣と押し合いながらチャムが制する。日本語で。
ギンナンが入れた。速く、低く、二アへ。
前に出たチャム、肩を広げて腕を張る。背中で押さえつけられた新垣は身動きが取れない。
チャムのバックヘッド。高橋の左手の方向へ。
「くわっ」
渾身の左ストレート。ゴールポストに背中から直撃。
もう一度ギンナンが上げる。ヒロミストゥータの頭へ。
「柴ちゃん!」
石川がヒロミと相殺、柴田が頭で跳ね返す。
ボールは三度、ギンナンの足元へ。

待っていた、これを。
神出鬼没、145センチのハーフバックがきっちりと寄せ、強引に奪い去った。
矢口、ためていた力を一気に放出させる。
前を見る。
日本は後藤がセンターサークルに、左右から加護と辻が競り上がってアルゼンチンのサイドバックをひきつける。
アルゼンチンは結局残ったマサミが声を振り絞り、連絡を取り合う。
そしてもう一人、11番が全速力で駆け戻る。月が太陽の引力に接近するかのように。
矢口がドリブルのスピードを落とした。ギンナンに追いつかれる。
あまり上手ではないタックルをかいくぐって、ロングパスの体勢に入る。
上がれ! マサミの号令以下、アルゼンチン選手がGK一人を除いて前進する。
ただ一人を除いて。
チャムは、後藤にはりついていた。

日本ゴールが危なすぎる
早く誰かクリヤーしてくれ!

矢口の縦パスは、その二人と、タッチライン際の加護のちょうど間に出た。
猟犬のダッシュで飛び出したのはエースキラー、保田圭。チャムがオフサイドラインを下げてくれたことでトラップにはひっかからず、フリーで前に出られた。
ワカナが飛び出す。退場覚悟でひっかけにいく。
保田の体が中を舞う。だがその目はしっかりと、右足アウトでコンタクトしたボールの行方を追っていた。
本当は左足で狙いすまして打つはずが、予想外にキーパーが早かったため、近いほうの足でなんとか触れるしかなかった。
勢いはない。だが確実に無人のゴールにバウンドしている。
保田の影を追い越して戻る、アルゼンチンの7番、リベロのマサミ。間に合わないと見るや、スライディングで飛び込む。
自らがネットに捕らえられながらボールは外へとかき出した。

笛が鳴る。なにかファウルでもあったのだろうか。
線審の旗が上がっている。主審が駆け寄って確認する。
主審が、アルゼンチンのキックオフを促した。
クリアの前に、ボールがゴールラインを越えたという判定だった。
保田のシュートが、ゴールと認められたのだ。
「圭ちゃん!」
おとりに使われた後藤が真っ先に飛びついた。
「やるやんか、おばちゃんのくせに」
加護が、辻がその体を組み伏す。
ゴールなんて何年ぶりだろう。足の、それも右足のゴールなんて。
それが最後の試合で、それもこんな重要なゴールで。
辻を首からぶら下げたまま立ち上がり、パスをくれた戦友に向かって拳を突き上げる保田。
決して美しくはないゴールは、不毛の世代と呼ばれた二人には似合いすぎだった。

「…!」
高橋の目から早くも熱いものが。これで勝てる。それを新垣と紺野が押し留める。
石川と柴田、そしてアヤカも口々に騒ぎあって抱き合う。
「姉ちゃん! 姉ちゃん!」
小川がベンチを飛び出して飛び跳ねる。目標であり主にでもあった保田の力を、改めて見せ付けられた思いがした。
圭ちゃん、矢口、やったな。
苦労人二人を安倍が片目で見つめる。
平家と信田も抱き合った。まさか自分たちの目が黒いうちに、サッカーで日本が頂点に立てるなんて。そしてそのチームを自ら指揮してるなんて。
スタンドの吉澤らもそうだ。喜びの中に、その輪に加われないのを空しく思う気持ちを押し込めて。
もう一度言う。後半34分、世界一のゴールに最も近いゴールが生まれた。
4−3、日本、リードを奪った。

マサミが主審に猛烈に抗議する。入ってない、一番近くにいたあたしが言うんだから間違いないと。無論、聞き入れられるはずもない。
ワカナが顔を伏せる。激突の痛みより、ゴールを決められた痛みのほうがずっと重い。
チャムはうつむいていた。
後藤を意識するあまり、守りの足を引っ張ってしまった。
保田のオーバーラップなど、まるで考えていなかった。
保田が後半運動量が落ちることなとチャムも知っていた。それを走らせたのは、まだ走れるのだと自分に思わせるため。そのためだけのバカっ走りだったはず。
それが、こんな重要なゴールを生み出しなんて。一番驚いてるのは当の矢口たちなのではないだろうか。
一度だけ保田に愚痴ったことがある。後藤は太陽、あたしは月だと。
保田は笑い飛ばした。んなこと言ったらあたしなんて名前もないくず星だと。
そうだ。くず星だ。
太陽の周囲を周るチリのような星屑二つを、月は見逃してしまった。

「サヤカ! はようキックオフせえ!」
中澤の声が届いたわけではないだろうが、弾かれたようにボールに向かい、拾い上げて小脇に抱えるチャムの姿があった。
チャムはこの瞬間、初めて市井紗耶香ではなくなった。
自分の前に小さくキックオフのボールを出した小柄な10番を福田明日香ではなくギンナンと見た。
負けを意識し、仲間の記憶でを取り戻すためではなく自分の尊厳のために戦おうとした。
今まで、なんのために戦ってきたんだ。
口にできない悔しい思いだってさんざ味わってきたじゃないか。
それもすべて、日本に、後藤に勝つためじゃなかったのか。
負けたくない。負けられないんだ。

「まだだぞ! アルゼンチンはまだ死んでねえからな!」
「10はあたしが見る! 11、12、13は絶対フリーにするな! 他も上がってきたら必ずチェック!」
矢口と保田がそれぞれ中盤と最終ラインで確認する。
「アルヘンティーナ! アルヘンティーナ!」
試合開始直後のように紙ふぶきがばら撒かれる。
「サヤカ、聞こえるか?」
そう語りかける中澤。
サヤカ、聞こえるか。
今これだけの人があんたを応援しとんねん。
敵の矢口や保田も、あんたがこのままで終わらんことをどこかで願っとんねん。
そしてあんたがボールを持てば動き出す10人の仲間がおる。
あんた、たぶん気づいとらんと思うけど、今世界で一番の幸せ者、あんたなんやで。

「新垣、紺野、はさめ!」
背後から矢口が叫ぶ。右から新垣、左から紺野がチャムのドリブルをサンドイッチにする。スピードを落とすのに成功。
「キーパー!」
高橋が猟犬のダッシュで飛び出し、ボールを奪う。倒れたその体を三人が同時に飛び越えた。
ふーっ…一息つく矢口。まだチャムは死んでない。今だって三人を引きずったままゴールまで飛び込んでいきそうだった。
「やぐっつぁん」
矢口をこう呼ぶ人間は一人しかいない。後藤真希。
「あたしにマークさせて。つーか、させろ」
あんたセンターFWやんか、とツッコもうとしたが、飲み込んだ。
そうだよな。やっぱ、最後はこの二人でケリつけなきゃな。
ベンチの確認を取り、その背中を押す。
「行ってきな」

じーっ…
「なんだよ、キモいな」
じとーっ…
なんで真希ちゃんには美味しそうなお菓子をあげたのに、梨華には何にもくれないの? そんな目で矢口をねめつける石川。
しょーがーねーな…頭をかきむしる矢口。
「圭ちゃん、ヒロミについて。新垣、ノリカ姉さん。紺野、カバーリング」
矢口が石川のアゴをくっと持ち上げ
「抜かれたら殺す」
いそいそとギンナンにつく石川。
矢口は中盤の底に戻る。ここにいれば、どのポジションにも動ける。
もう時間もない。この腰イワすまで走り回ってやらあ。

残り時間は10分を切った。ブラジルでもない、ドイツでもない、極東の島国に敗れ去ろうとしている。
が、希望は捨ててない。それどころか時間内の逆転もあるとアルゼンチンは踏んでいる。
日本のゴールキーパーの左腕が上がっていない。
ノリカ、老骨に鞭打って日本の右サイドを深くえぐる。
新垣が必死に寄せる。L字に曲げた左肘がノリカの頬を深々とえぐる。
センタリング。
保田とヒロミストゥータ、空中戦。陣取り合戦に勝利したのはアルゼンチン人ストライカー。
キーパーの左腕めがけて飛ばしたヘディングシュート。あまりに完璧だったため、着地の瞬間ガッツポーズが出た。YES!、タカスクリニーク!

月の見えない夜空に、カラスが羽ばたく。
左腕が高々と上がる。手のひらで、大きく押し出した。
受け身を取ると、ゴールキーパーは咆哮した。
「せやった…」
中澤は思い出した。京都に来たばかりの高橋を食事に誘った時の事を。
だいぶ酔いの回った中澤は高橋に一発芸を要求した。
一発芸になるかどうか分かんないですが…そう言って、自分の肩に中澤の手を添えさせた高橋。
次の瞬間、ぐきっという音とともに、高橋の肩が外れたのだ。
脱着可能やったんや、あいつの肩は。
そしてノリカ、コーナー付近につばを吐いた。
フラッグに跳ね返った白いものは、折れた歯。一番固い奥歯。

今度は逆サイド。石川を抜きにかかるギンナン。
福田の身になにが起こったか、石川は知らないし、知りたくもない。
ただ目の前に福田がいて、福田を打ち負かしてやれさえできれば、それでよい。
仕掛けるギンナンに石川が寄せる。が、不用意には飛び込まない。矢口に殺されたくはない。
無理はしないギンナン、背後に寄ってきたパートナーの影に気づき、はたいた。
エリアの外、チャムの前に、後藤が両手を広げて通せん坊。
フェイントをかけるチャム。つられない後藤。
この時間帯にはDFも疲れがたまり、フェイント一発でつられたりするが、後藤はそんな愚行をしたりはしない。
「くっ」
抜けそうな気がせず、後ろに下げるチャム。

市井ちゃん。建て直しを計る敵エースを見ながら、万感の思いでいる後藤。
初めて日の丸をまとった日を、昨日のように思い出した。
後藤真希という名前だけで、その金髪におびえるやつらばかりだったのに、市井紗耶香だけが違った。
たぶん、自分に負けるなと言い聞かせながらだったのだろう。それでも恐れずにぶつかってきてくれた市井の姿に、後藤の渇いていた心が潤された。
できれば、ずっと一緒にいたかった。
いつまでも、同じチームで笑ったり、泣いたりしあいたかった。
けど、市井はそれを望まなかった。
市井ちゃん、時間はもう少しだけど、いっぱい遊ぼうよ。

チャムが深い位置からパス。ノリカが胸でトラップ。
サッカー選手は歯が命、欠けた奥歯では充分体重を乗せたキックは蹴れない。
それでも新垣のタックルをかいくぐり、左足で浮き球を直接ひっぱたく。
矢口の足が伸びた。大きく蹴り返すと、中盤へ高く上がった。
落下地点にはチャムと後藤。
行け、マサミ。マンツーDFは背後からの飛び出しに弱いはずだ。
ヘディングで競り勝ったチャム、日本ゴール前に落とす。
アルゼンチンのリベロ、昨年ワールドユース得点王マサミ・ハピネル・ナガサワ、最終ラインから走りこんだ勢いそのまま左足を思い切り振り上げた。

旗が上がった。オフサイド。
紺野が上げていた右手を、ガッツポーズに変えた。
最終盤のマサミのオーバーラップはデータから分かりきっていたから、どこでくるか、どうやってトラップにかけるかが勝負だった。
読みあいに、紺野は勝った。
前半、センターフォワードに入った紺野は、自分をマークしてくるマサミをずっと観察していた。
リベロを演じているストライカーの動きをなめまわすようにして分析し、すべてを頭に叩き込んだのだった。
すべては、この一瞬のために。
「紺野…」
石黒がうめく。
兄弟弟子の対決は、紺野あさ美に軍配が上がった。

「キーパー!」
紺野が手早くセットしたボールを高橋が大きく蹴り出した。
敵陣深くへと落ちたキック。アルゼンチン陣内にはGKのみが残っていた。エリアを飛び出し、拾いにいく。
「のの!」
「おう!」
右から辻、左から加護。同時にシュート体勢。完全にその動きを見落としていたワカナが慌てる。
どっちかの足に当たったボールがワカナの頭上を越え、クロスバーをかすめて外へ。
「なんやねんのの、あれっくらい決めえや」
「あれ蹴ったのあいぼんじゃん」
「ののやて」
「あいぼん」
こうやって、いつまでも一緒にいたい。
けど、もうすぐ、夢は覚める。

保田とヒロミストゥータの額がかち合う。外に出した保田。
手早くスローを入れるノリカ、ギンナンへ。
「でえっ」
石川のスライディングがファウルを取られる。左サイド、あまり角度のない位置からのフリーキック。チャムがポイントに立つ。
日本は全員がゴール前に集まり、アルゼンチンもワカナを残して殺到。
「12、OK!」
紺野がノリカについた。
黒い翼をめいっぱい広げ、チャムを威嚇する高橋。
三本足の魂を胸に、ノリカを押さえ込もうとする紺野。
二人は日本をかつてない高みへと乗せて運ぶ守り神、八咫の烏になれるのか。

大きなモーション、それでも右上を狙った。
ブーメランを投げたかのように大きな弧を描き、壁に立つ新垣と矢口を越え、高橋の伸ばした手もかわす。
「紺野!」
高橋が前のめりになり、わずかにできた背後のスペースを見つけ、飛んだ。額でかき出す。
あまりに高く飛びすぎて、脳天をクロスバーにしたたかに打ちつける。
こぼれたボールは勘を働かせて詰めたギンナンの目前。迷うことなく、右足で思い切り蹴りいれる。
「かあっ」
高橋のアゴが浮く。頭上をやんわりと抜けていくボールを両手で押さえた。
ボールは、ラインにかかる位置に落ちた。
「おー…」
頭を抱え、突き刺すような痛みに耐える紺野。
「がほ、がほ…」
背中から落ち、思い出したようにむせ返す高橋。
がく…アルゼンチン選手の肩が落ちる。
その中で、唯一あきらめてはいない選手に後藤がつく。
獣臭い吐息、熱い汗、血の色を浮かべた双眸、すべてが後藤を駆り立てる。
チャム・サヤカ・イチイ、今この瞬間は世界一あきらめの悪い女だ。
ロスタイムの表示が出る。3分。
日本サポーターのカウントダウンが始まる。
「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、ゼロ!」

「マーク確認! もう一度集中し直せ!」
電光掲示板の時計の数字が消えた瞬間、矢口はキャプテンマークを巻いた左腕を振り上げ、叫んだ。
一番怖い時間帯が来た。
死ぬ思いで奪った1点を、あっさり返されたこともある。
もうダメだという絶望的な状況を、3点連取してひっくり返したこともある。
ロスタイム、とんでもない結末が用意されているかもしれない、神の領域に飛び込んだ。
日本にとっては最後の試練、アルゼンチンにはラストチャンス。
ちゃんとわかっているチャム、その好機を活かそうとする。
が、後藤の壁はあまりに高く、厚い。
奪われ、サイドに出された。

柴田とアヤカがサイドでパスの交換。1秒でも長く時間を稼ぐ。
「よこしなさいっ」
プライドをかなぐり捨て、ボールを奪い返そうと二人の間を行き来するノリカ。だがこのユニバーシアードの金メダルコンビはどうすれば優勝できるかを熟知している。冷静にボールを回し、ベテランフルバックを寄せ付けない。
柴田からアヤカ、アヤカから柴田。アルゼンチンのブーイングが心地よい。
柴田のパスに猛然と飛び込む影ひとつ。慌てたアヤカのわずかなトラップのズレを見逃さなかった。
「明日香!」
どこに、まだそんな力が。
アルゼンチン伝統のナンバー10、ギンナンがドリブル。チャムの直線的なドリブルに慣れていた日本DF陣をトリッキーなフェイクで惑わす。
高橋が飛び出す。構わず、シュートにいくギンナン。
真横から石川がスライディングブロックに。だが執念の差か、太ももに当たったボール、勢いが死にきらずにゴールへ伸びる。
ループシュートのように、高橋の上を抜ける。
石川が頭を抱えた。

間に合え。矢口が追う。決死の形相。最悪の場合、手に当てることも考えながら。
頭上から降ってくるボール。
振り向きざま飛び、タッチに蹴りだす。
ゴールネットが小柄な体躯を受け止めてくれた。
もたれながら、主審を見る。クリアは間に合ったのか。
線審の旗は、上がらなかった。
ツキにも見放されたか、アルゼンチン五輪代表。
勝ったかな。確信に近いものを得る矢口。
あれだけギラついていたチャムの目が、今のワンプレーで光を失ったのだ。
日本の壁の前に、力尽きた。
午後8時を回らないのにもかかわらず、夜明けはそこまできていた。
日の丸が空を翔け、月が消えうせる夜明けが。

マサミのロングスローを胸で落としたチャム、最後の突破。だが先ほどまでの鋭さが消え失せた。
「なにやっとんねん、あほう」
苛立つ中澤。祈る飯田。
「そんなドリブルで明日香シビレさすことできるわけないやろが」
もうダメなのか。全部ムダに終わるのか。
福田の記憶が戻って、日本が勝ってくれればそれが一番と思っていた。
だが優先順位は無論福田が先。
時間よ、止まれ。
チャムが前方に出るのを、あらかじめ伸ばした腕で阻止する後藤。
ボールがチャムの足からわずかに離れるのを矢口は逃さなかった。
ショルダーチャージ。バランスを崩すチャム。勢いあまって後藤までが。
もつれるようにして、三人が倒れた。

空白地帯に落ちたボール。
ヒロミストゥータのシュートが、保田の左胸を経由し、左ポストに弾かれる。
呼吸困難に陥った保田がその場に崩れる。
落ちたボールの周りには、誰もいない。
一番近くに、それでも5メートル近く離れていた青い人影がダッシュするのを見て、矢口が身を起こしながら叫ぶ。
出せ! と。
もちろん主語は、タッチラインの外に、だ。勢いは失われたがアルゼンチンの時間帯であるのには違いない。一度時間を止めて立て直す。
いや、スローインを入れる前にタイムアップの笛が鳴らされるかもしれない。
だから、出せ、だった。
そこはペナルティーエリアの中だった。だから青の21番は、その外からボールをかき出そうとした。
彼女はチーム最年少、冷静には見えても追い詰められていたのかもしれない。
新垣のクリアは、小さかった。

ぼけたような軌跡を描き、エリア外に飛び出すボールを追う二つの影。石川とギンナン。
10のついたギンナンの背中を追いながら、石川は次に飛び出すプレーを予測する。
ゴールに背を向けた状態。一度ターンするか、近くの味方に預けてリターンをもらわなければシュートできない。
ターンかリターンか。石川はターンに賭け、きつく寄せていく。
読みは当たった。ただし、右か左かの予測はできなかった。
ギンナンの右足が、力強く地面を蹴り上げる。逆さまに見える日本ゴールに向かって、ナタを振り下ろすようなオーバーヘッドキックを放つ。
その美しすぎるフォームに心奪われた石川、一歩も動けなかった。

弓につがえた矢のように身を起こした矢口。アルゼンチンのラストショットの軌跡に入る。
ドーハでのロスタイムが蘇る。間接フリーキックからのバイシクルシュートに、骨の砕けた足で飛んだ。あと数センチ高く飛べていたら、防げたはずだった。
この数年間、あの数センチを埋めるために、がんばってきたのかもしれない。
そしてその時は来た。腰は痛むが、あの時の足ほどではない。
高く飛び上がる予備動作、体を沈めた瞬間。
青白い、オバケのような影が矢口の視界からボールを消し去った。
その人影の背後に浮かび上がる、サソリの尻尾のような後ろ足。
月のない夜空に浮かんだ月のように。
完全に飛ぶタイミングを見失った矢口の頭上を山なりに抜けていくボール。
高橋の手も、紺野の足も届かない。
風が過ぎ去り、ネットが揺れる。
新垣がその場にへなへなと座り込んだ。
彼女のクリアミスが、死火山になりかけたアルゼンチンを噴火させてしまったのだ。

「あんなのアリかよ…」
保田が惚けたように立ち尽くす。
真後ろから来るオーバーヘッドを、一度も振り返らずにかかとで蹴り上げるなんて。
一万回、いや、十万回に一回のシュートだ。それをこの大舞台で、それもこんな土壇場で決めるだなんて。
普段の練習の成果がどれだけ出せるかがスポーツだ。だが賭けてもいい。チャムはあんなシュート、一度だって練習したことがないはずだ。
すげえ、すげえよ市井ちゃん。
チャムのシュートを倒れたままで見送った後藤も口あんぐりだ。
「あははは…オレもーダメだー…」
こともあろうに、矢口は笑い出した。こんなシュートを決められて、どんな反応をすりゃあいいんだ。
試合は、四たび、振り出しに戻された。
サッカーの神様はまだこの試合をご覧になられたいらしい。
タイムアップの笛が鳴る。ゴールデンゴール方式の延長戦だ。

入った…のか?
胸から落ちたチャム、まだ自分のゴールが信じられないでいる。
ボールは最初背中に当たった。どうしていか分からず、とにかく前にボールを運ぶことを考えたら、あんなシュートになった。
「明日香!」
思い出したように立ち上がり、相棒の姿を求める。
うずくまっていた。ぴくりとも動かないギンナンの姿を認め、抱き起こそうとする。
「触るな!」
石川が止める。頭から落ちた。下手に動かしたらかえって危ない。呼びかけて反応を見るしかない。
指が、動く。頭が、持ち上がる。チャムと石川の口から同時にため息が漏れた。
「あたたた…サヤカ? 久しぶり」
何言ってんだ、ずっと一緒だったじゃないか。
「…あれ、ここ、どこ?」
明日香?
「ねえ、なんであたし、アルゼンチンのレプリカなんて着てるんだ?」
「あんた、自分が誰かわかる?」
「福田明日香」
その瞬間、立ち膝になったチャムが抱きついた。
「どうしたの、サヤカ」
なんでもない、なんでもないんだ。
「なんだかさ、ずーっと寝てたみたいに頭がぼーっとするんだ」
そうだよ、あんた、ずっと夢を見てたんだ。
悪い夢から、今ようやく目覚めたんだよ。

チャムが頭の上で大きなマルを作ってみせた瞬間、スタンドの中澤と飯田が抱き合った。
もうすぐ延長戦が始まる。両チーム選手がピッチの上でつかの間の休息を取る。
「ほんっと、あんたってやつは手間かけさせるよ」
石黒に小突かれても、まだ状況の把握できない福田。
「どういうことなのか、説明していただけませんか?」
「5分で説明できるかい」
寺田もニヤニヤするばかり。
もう、策は尽きた。
「細かいことは言わん。今はとっとと1点取って来い」
首をかしげながらもうんうんとうなずくギンナンの首に、チャムがおどけて腕を回した。

「ごめんなさい…すみませんでした…」
平家が言葉を発する前に、新垣がおんおんと泣き出した。
足を引っ張ってしまった。
この試合が終わったら泣くかもしれないと思っていた。でも試合が終わらなかったことで、こんな形で涙することになるなんて。
もちろん、みんな思っている。最後の最後でヘマしやがって、このバカヤローと。
が、それはそれ、まだ負けたわけじゃない。楽しみが少し先に伸びたと思えばよい。
「まったく、なにやってんだよ」
矢も盾もたまらず、スタンドから降りてきた吉澤だった。大谷、戸田、木村麻美も。

延長戦は15分ハーフ、ゴールデンゴール方式。次のゴールが、間違いなく、世界一を決めるゴールになる。前後半戦ったても結論が出なければ、PK戦という多数決に採決はゆだねられる。
どっちにしろ、引き分けはありえない。
世界一の夜は、まだ終わらない。
5分なんてあっという間だ。ポジションの確認だけを済ませると11人、そしてベンチの安倍、小川、松浦、村田、斉藤、ミカが円陣を組む。
それをベンチに戻った平家、稲葉、信田、小湊が見守る。
気合入れが済むと、全員が受け持ちのポジションにつく。
ゴールキーパー、高橋。サイドバック、保田、アヤカ。リベロ、紺野。左サイドハーフ、柴田。トップ下、石川。ウイング、辻、加護。センターフォワード、後藤。
右ハーフの新垣に、ボランチの矢口が寄って行く。
「あんたラッキーなんだよ。今すぐチョンボを取り返せるチャンスなんだから」
あたしは、ずいぶんと時間がかかった。
わずか数センチを埋めるまでに。

アルゼンチンがそれを待ち受ける。
チャムとギンナン。
ヒロミストゥータ、ノリカ、ワカナ、マサミ。
ベンチの寺田、石黒。
すべてがクリアになった。何の心配事もなく、残りの時に打ち込める。
無心で。
もはやどちらもが王者にふさわしいチームである。あとは、どちらがよりふさわしいのか、それだけ。
笛が鳴り、ボールが転がり出した。

「まわせー」
Vゴール発祥の地であるJリーグで育った子どもたちがゆっくりとボールを回す。急ぐ事はない。
最初はサドンデス(突然死)というフレーズが使われていたが、アメリカワールドカップで自殺点を入れてしまったコロンビアのエスコバル選手が帰国後にマフィアと思われる一団に暗殺されて以来、自殺点をオウンゴール、サドンデスをVゴールまたはゴールデンゴールと呼ぶようになった。
勝ったほうには黄金のメダルを、負けた方には突然訪れる死のような恐怖を与える。
前後半合わせて30分のうちにゴールネットを揺らせばいい。無論、相手より先に。
「新垣」
矢口がボールを回す。
特別な事はするな。ただ、顔を上げろ。

「のの!」
真っ先にチャンスをつかんだのは日本。加護が左サイドを軽やかに抜ける。まるで、たった今試合が始まったばかりのように。
サイドチェンジ。辻が回り込んで、再び加護へ。
辻へ、加護へ、辻へ。
この二人のコンビネーションだけは、誰にも読めない。
加護から辻へスルーパス。わずかに飛び出しが早く、オフサイドフラッグが上がる。
「ちっ」
「今のえええで」
のの、楽しいな。
ほんま、あとちょっとしかないけど、めいっぱい遊ぼな。

ヒロミストゥータがオフサイドにかかる。これは狙って取ったもの。
守備陣を指揮、一糸乱れぬラインコントロールを披露した紺野が淡々とした表情でボールを拾う。
「紺野!」
高橋も飛び出し、万一の時のカバーは万全であった。
その高橋のロングキック。後藤とノリカの競り合い。
マサカリのように打ち下ろすヘッド。弾んで、ゴールの上に消える。
狙っている。世界一のゴールを。
それが最愛の親友にできる、最高の恩返しだと信じて。

チャムには矢口、ギンナンには保田がつく。ベテラン二人がキープレーヤーをそれぞれついているから、他の選手が伸び伸び動き回れるのだ。
ギンナンがチャムの位置に下がる。保田がついてくる。
ギンナン、そこにスルーパスを突き刺した。走り込むのはチャム。
矢口のスライディングが決まった。
チャムとギンナンだけじゃない、この二人も、抜群のコンビネ―ションを誇っている。
「新垣!」
矢口のロングパスに反応する新垣をマサミが倒す。やや遠いが、フリーキックをゲットした。
ボールをセットする柴田、石川に矢口が寄っていく。
「おまえらだけでやってみろ」
向こうも矢口のキックを警戒している、そこが狙い目だ。
先に石川が走る。短く出す。柴田が左足で打った。壁に当たる。
外に開いたアヤカのセンタリング。ゴールを大きく越えた。
あちゃー…舌を出す柴田。慣れないことなんてするもんじゃない。
笛が鳴る。もう、延長前半が終わった。いよいよ残り15分だ。

「監督、福田も市井も」
バテてます、という石黒の言葉をさえぎった寺田。
「攻めたいだけ攻めさせたれや」
攻めても攻めても点が入らない、その時人はPK戦を意識する。
その一瞬が、勝負だ。
あと1点取る力ぐらいは、二人ともとっているはずだ。

22人が陣地を入れ替えるのを俯瞰する中澤と飯田。
「アルゼンチン、死に体だね」
「あれが手や。油断させといてガブリ。前半サヤカと明日香、ほとんど動かなかったやろ。力をためとる証拠や。後先考えず飛ばした日本のほうがやばいで」
「アルゼンチンはPK戦なら勝ったも同然だし」
「高橋かてPK強いで。それに寺田さんがPK戦狙いなんて退屈な手使うか?」
確かに。
「…もうお腹一杯や。引き分けでええやんか」
「裕ちゃん、選手がそんなこと考えて試合すると思う?」
自分のほうが強い、だから打ち負かしてやる。それしか頭にないはずだ。

日本ベンチ。
「稲葉さん、PK番どうしたらええやろ」
「んな気の早い」
だが平家は獲りもしない狸の革を数え続ける。
「四人目までは前と同じでええねん。問題は五人目やねん。矢口は」
「大舞台のPKはいい思い出がないから嫌や言うてたで」
「保田」
「あかん。ヘタクソや」
あとは誰だ? 加護、紺野、辻、新垣、高橋…うわの空の平家の頭に、最後のキックオフの笛の音が響く。

チャムへのミドルパスを矢口が頭で撃墜する。その勢いを借り、猛然と駆け上がる。
勢いがついていて、生半可なチャージでは逆に弾き返される。
ノリカが腕を伸ばし、えりをつかんで引き倒す。ファウルしか止める手段はなかった。
145センチない体躯のどこに、それだけの力が残されているのか。石川は味方ながらその存在を不気味に思う。
「石川、狙え」
「でも」
「決めたくねえのかよ、世界一のゴール」
アルゼンチンは八枚の壁を作る。ヒロミも壁に立った。
チャムがボールの前に立つ石川の背中を腰に手をやって見守る。
センターサークルにはギンナン、紺野と保田。
石川が助走に入った。

得意の右。ヒロミとノリカの肩の上を抜け、ゴール右隅へ。
4失点を喫したキーパーがプライドを取り戻す唯一の手段、この延長をゼロでしのぎ、PK戦を勝つこと。
そのためには、これを通すわけにはいかなかった。
壁を破るシュートに食らいつく。
左手を弾き、ポストをかすめ、外に出る。
主審はゴールキックの判定を下した。
「コーナー!」
石川が叫ぶ。
「ここや!」
寺田が、総攻撃の合図を送る。
ワカナのゴールキックを、左に開いたノリカが受ける。
矢口が寄せるが、すばやく中央へ。
壁が、ぐわっ、と、前にせり出す。
完全に出遅れた日本。
アルゼンチン、最後のチャンスを得た。

チェックにいった保田の頭上を、チャムのダイレクトパスが抜ける。
センターサークルにいたギンナンと紺野、同時にスタートを切った。
紺野の俊足は折り紙つきで、足そのものはさほど速くはないギンナンには負けない自信があった。
が、ここはトラックではなく、サッカーのピッチ。
腕を伸ばし、肩をぶつけ、足を蹴りにいくピッチの上なら、福田明日香より先にボールを奪える者などいない。
先にボールに触れた相手に対し、回り込んでドリブルのコースを消しに行く紺野。その裏を取り、紺野の走りこむコースと交差するようにして日本ゴールに迫るギンナン。
高橋が飛び出した。左にかわすギンナン。飛びつく高橋。さらに逃れるドリブラーに対し、指を伸ばし、かすかにボールに触れた。
それでも追いついたギンナン。角度はない。無人のゴールが見える。

「ぐわっ」
左から新垣がぶつかっていった。激しいチャージ。肩の骨がきしむ。
が、ボールは奪えない。少し体を離し、再び肩をぶつけにいく。
ギンナンが左足を開き、それをブロックに。
瞬間、スキが生まれた。ギンナンが両足を開いたことで、真後ろから見ると、ボールはまったくのノーガードだった。
矢口スライディング。ボールだけを、正確に狩った。トータルフットボールの真髄のひとつ、ボール狩り。
ボールはそのまま、主のいないゴールへと向かう。老雄ヒロミストゥータが、最後の力を振り絞って、ボールに詰める。
「圭ちゃん!」
あと数分の選手生命を全うするか、背番号6のストッパーが足を伸ばす。アルゼンチンのストライカーが、その足につまずき、倒される。
ギンナンが飛びかかる。
ただのクリアなら、並のディフェンダーにだってできる。
相手を掻き分けるようにして、左にフィード。

エースナンバー10、柴田あゆみが受けた。
決してこのチームの中心ではなかった。しかし、そのサイドチェンジは不可欠だった。
左から右へ、大きく虹をかける左足。
ゴールデンコンビ、木村アヤカが右サイドから駆け込む。センタリングのフォームを見せてから、さらに中へと。
ノリカが立ちはだかった。ナナハンタックルと恐れられる凶悪なスライディング。
バランスを崩し、肩から落ちるアヤカには見向きもせずに再び前へ。
私はあなたなんか嫌いよ。でも、このチームにいてよかったと思っているわ。さあ、点取ってらっしゃい。
ギンナンと競ったのは紺野。ギンナンの当たりを柔らかく吸い込み、そのままの力ではね返す。尻餅をつくギンナン。
自ら切り込む必要もない。アルゼンチンゴールは形になってない。
ロングキックにワカナが拳を固め、ゴールに背を向けた辻がヘディングを狙う。
ワカナを背中でブロック、辻がポストプレイ。
加護、右足のランニングボレーシュート。
正面に回り込んで顔で受けたマサミ、天にも昇る気持ちでその場に崩れ落ちた。

再三の波状攻撃の後、ボールをフリーで拾ったのは、石川梨華。
14番を受けた日本のクライフの前には、剥き出しのゴールに立ちはだかるキーパーがいるのみだった。
その手を砕き、ゴールネットにボールを突き刺せば、世界一のゴールは彼女のものになる。
が、その右足にアルゼンチンを単独で打ち破るだけの力は、もう残されてなかった。
だから、右に、浮き球をはたいた。
まったく、あんたって人は、体のどっからそんな力を出してるんだ。
空飛ぶ日本人、狂気のミッドフィールダー、145センチの日の丸特攻隊。
ノリカが放った殺人タックルを飛び越え、反対のゴールから走りこんだ勢いを、矢口は短い右足に乗せた。

日の丸小僧の魂が乗り移ったジャンピングボレーに、アルゼンチンGKはあえて触れなかった。ボールは自分とゴールの間を抜け、もし触れればそのままゴールに入ってしまいそうだった。
だがこのボールは枠にいってない。あまりに角度がなさすぎた。
ボールが自分の脇を通過した瞬間、ワカナはその判断が誤りであったことに気づく。
その軌跡に、日本のセンターフォワードが入ろうとしていた。シュートではない、センタリングだった。
ダイビングヘッドにいく後藤に飛びついたのは、全速力で駆け戻ったチャムだった。負けたくないという思いだけが、満身創痍の体を突き動かした。
二人は同時にボールに触れた。
だがチャムはここまで4試合をフルに戦っていた。後藤はチャムとの接触で膝を傷めたことで、ほとんどが途中出場だった。
まだ力の余っていた後藤を跳ね返すだけの力は、なかった。
ふたりはもつれ、そのままゴールになだれこんだ。ボールもろとも。

延長後半11分38秒。
後藤真希のゴールデンゴールがすべてに幕を引いた。
思わずゴールを飛び出した監督、平家みちよは自分の足につまずいて、倒れた。
「あたー…」
左膝を抱える。
こいつめ、今度の今度こそは、予想が外れたようやな。
これからも、よろしゅうな。
稲葉と信田に助け起こされた。
赤鬼の、最後の、涙だった。

「柴田! 木村さん!」
ユニバーシアード日本代表のDFだった眞鍋かをりは、テレビ局のレポーターとして今回のチームを追っていた。
試合終了の瞬間、仕事を忘れ、かつての同僚二人に寄って行く。
「痛い、痛いよ」
抱きついた柴田が冷静なのに、軽い怒りを覚える。
「見てよ、あそこ」
眞鍋の指差したほうには、仲間たちの姿がある。
地上の星、ユニバーシアード日本代表。
柴田とアヤカは、その方に、何度も手を振った。飛び上がった。体で、歓びを表現した。

「姉ちゃん!」
小川が保田のほうに走っていく。今日、このときほど、自分の従姉が誇らしかったことはない。
「なんだよ、冷静じゃんか」
「泣きたいんだけどさ、これ世界中に流れてんだろ。あんまり泣き顔に自信なくってさ」
小川が自分のベンチウォーマーを脱ぎ、保田の頭からかぶせた。
「おら、とっとと泣け」
黒いベンチウォーマーが、小刻みに震え出した。

ピッチの中央では、加護と辻が抱き合っておいおいと泣き出した。
だがその涙の質は少し違っていた。
辻の涙は、一番高いところまで行けたという達成感からくるものだった。
悔しいこともたくさんあった。一度はバレーボールチームに身を置いたりもした。
それでも、最後はこうして大好きな加護と一緒に優勝できたことがうれしかった。
加護の涙は、いつまでもこうしていたいという思いからくるものだった。
離れたくない。いつまでも、ここにいたい。

「安倍さん!」
「ミカ、松浦、村田!」
再びスタンドから吉澤たちが下りて来た。
「ありがとう、みんな、一緒に戦ってくれてたんだよね」
安倍の言葉どおり、ユニフォームは着ていなくとも、全員の力で戦っていた。
心の中で、選手たちとともに。
輪になって、泣き出した。

「なんで、自分で決めなかったんですか?」
ひとしきり喜んだところで、石川が矢口に問いただした。
矢口にはシュートしやすいパスを出したはずだし、決めようと思えば決められたはず。
「オレは凡人だ。世界一のゴールは、スターが決めるべきだろ」
そうだろうか。
その世界一を決める試合でフリーキックを決めた上、3つもラストパスを出した人間を凡人などと呼べるだろうか。
ちなみに矢口の叩き出した5アシストはチャムの4を抜いて今大会最多。
「…矢口さんのそういうとこ、好きですけどね」
「だからキショイっつーの」
矢口にはどうしても行かねばならぬ場所、かけてやらねばならぬ言葉があった。

「新垣」
最後の最後、共にゴールを死守した高橋と紺野に支えられ、21番が歩いてくる。
「ありがとうな。あんたが明日香に捨て身でぶつかってくれなかったら、あのスライディングは間に合わなかった」
だって、あたしがヘマしなかったら、こんな延長はなかったのに。
なんで、そんなこと言ってくれるんですか。
「わあ…」
新垣が、矢口にしがみついて泣き出した。
紺野はアルゼンチンベンチに、高橋はスタンドに向かって深く黙礼した。
石黒は苦笑をもって応え、中澤は飯田とともに涙交じりで拍手した。

ゴールネットにしがみつき、ようやく後藤は立ち上がる。
体中が痛くて、ゴールの余韻に浸る余裕もない。
傍らに、力が抜けて動けない親友の姿を認める。
「ごめんね」
「謝るくらいなら、ゴールなんか決めんな」
市井紗耶香の目に、涙はなかった。
アルゼンチンのキャプテンとして、ピッチのあちらこちらで物悲しく震える水色と白をねぎらうのが最後のつとめだった。
アルゼンチンとはその地方を指すラプラタと同義語(ラテン語)。
ラプラタとは、スペイン語で、銀。
チャム・サヤカ・イチイはすべての選手の涙を受け、一人になれた時、静かに泣くのだろう。
まずは顔を覆ってすすり泣くマサミに声をかける。
私たちは精一杯やった。胸を張って帰ろう。
まるで、自分に言い聞かせるようにして。

「ありがとさん」
敗戦の将、寺田光男はヒロミストゥータとノリカに握手を求めた。
事情が事情だったとはいえ、よく自分なんかに、このワールドクラス二人がついてきてくれた。
「楽しかった。でも、悔しい」
ヒロミが偽らざる感想を述べる。
「二年後もやってみる気はない?」
ノリカがアルゼンチンA代表就任の要請をかける。
「…めぐり合わせが、よきゃあな」
さすらいの賭博師はさすがに返答に困った。

石川は矢口の最後の選択にまだ納得していない。表彰式でメダルを受けている最中にもかかわらず質問責め。
「どうしてごっちんにパスしたんです? あれじゃ市井さんのプライドに傷つけるみたいにやったみたいで」
「そのつもりでやったんだよ」
シルバーメダルを受けるアルゼンチン代表。
ふてくされたようなギンナンの横に、さすがに目の周りを赤くしたチャムの姿が。
「二年後、アルゼンチンとはまたやりあうだろ。ここでぶちのめしておくことはムダじゃない」
これは始まりの終わりなのだと。
「逆効果のような気もするんすけどね」
敗れはしたが、チャムはMVPに輝いた。
9得点に絡んだ(3ゴール4アシスト2PK奪取)ことが評価され、後藤を僅差でかわしての受賞。
準優勝チームからMVPが選ばれたこと、彼女が大会No1プレーヤーであることの証明だった。

「それから、これ」
矢口が手にした金メダル。もちろん首にはひとつ下げている。
メダルは18枚、この試合の日本の登録メンバーは17人。
「本当は明日香の分なんだけどさ、さっき本人に聞いたらいらねえって」
「渡したい人がいるんですけど」
スタンドから試合を見守った、本来のキャプテン、吉澤ひとみに。
矢口も異論はない。
退屈な授与式が終わる。
「ワタクシ、ここらで吠えちゃってよろしいでございましょうか」
どんぞ、と石川が言うやいなや
「勝ったぞコノヤロー!!!」
小さなキャプテンを先頭に、ビクトリーランが始まった。

日本5−4アルゼンチン

GK 高橋
DF 後藤、保田、木村ア
MF 矢口、柴田、石川、新垣
FW 加護、紺野、辻

前1 ア ギンナン(チャム)
前4 日 後藤(矢口)
前21 日 加護(辻)
前28 ア ギンナン(PK)
前29 ア ギンナン(チャム)
後13 日 矢口(FK)
後34 日 保田(矢口)
後44 ア チャム(ギンナン)
延後11日 後藤(矢口)

警告・退場
なし

Woman of the match
矢口 真里(日本)