145センチシリーズ 番外編・野獣の森

 

金メダルという快挙を成し遂げて帰国したサッカー日本代表チームを待ち受けていたのはテレビ、ラジオ、雑誌等あらゆる触媒からの取材のマラソンだった。
矢口は石川は早々にアルゼンチンへ向かった。彼の国を打ち破った二人にしばらくは辛い日が続くのだろうが、それでもまるで国民的アイドルのような扱いからは逃げたかった。
他の海外組も同じ。
だが取材を受けるメンツはたいてい決まっている。
泡沫のメンバーには、すぐ日常が戻ってきた。
それでも、金メダルの力は偉大である。
今まで語られることのなかった名も無き星々にまで、脚光を当てられることになったのだから。


エーム!

「…石川打つか。打たない。右にはたく。矢口センタリング! 後藤! 押し込んだ! 金メダル! ニッポン、前人未到の金メダル!」

(ナレーション・田口トゥモロー)
熱狂のうちに幕を閉じた、シドニーオリンピック。
サッカーではアルゼンチンを破り、みごと金メダル。
日本サッカー界、史上初の快挙とうたわれた。

(表彰式の風景。右端にいる二人にスポットが当たる)
しかしこのちょうど一年前、日本サッカーはすでに、世界の頂点に立っていた。
その時のメンバー三人が、シドニーでも、戦った。
その三人、一人の男、そして、名も無き女たちの、知られざる戦いが、そこにはあった。

プロジェクトM 〜妥協者たち〜

(中島みゆき「地上の星」が流れる)

1999年(画面・柴田あゆみを先頭にした入場行進)
知られざる 金字塔(画面・日の丸を口ずさむ木村アヤカ)

ミイラと呼ばれた男(画面・戦況を見つめる寺田農監督)
メキシコの呪縛(画面・セピア色の写真、その右端で笑う寺田)

消滅したチーム(画面・元日の天皇杯でゴールを決めた柴田)
プロとアマの確執(画面・シドニーの試合を見守る眞鍋かをり)

問題児の加入(画面・ゴール前で指示を出す小川麻琴)
キャプテンのリタイア(画面・松葉杖をついた酒井美紀)

欲しいのは(画面・ネットを揺らす柴田のフリーキック)
黄金色のメダル(画面・敵陣を切り裂くアヤカのドリブル)

宿敵 韓国を打ち破れ(画面・韓国のヘッドを弾き出す小川のセービング)

♪地上にある星を 誰も覚えていない みんな空ばかり見てる

学生の反乱 もうひとつの金
〜北京ユニバーシアード大会 日本サッカーの快挙〜

キャスター二人の前に飾られた二つの金メダル

窪ズン子「これは、金メダルですね」
肉井マサピコ「はい。そうなんですが、違いが分かりますか?」
窪「どっちも金メダルですが…デザインが違いますね」
肉井「ええ。右がシドニーオリンピックの金メダルです」
窪「見てました。もう、テレビの前で大騒ぎでしたよ」
肉井「そしてこちら、左の一回り小さいほうが、今日の主人公たちが北京でもらった、金メダルです」

セットの写真がぐるりと回る。

肉「彼女たちが、昨年の北京ユニバーシアードの日本代表メンバーです」
窪「この選手わかります。10番の、柴田選手。これは木村…アヤカ選手のほうですね。それからキーパーの小川選手」
肉「そうです。この三人がチームの中心であり、そしてシドニーでも金メダルを取った歓喜のイレブンに名を連ねました。今夜のプロジェクトM、その忘れられた戦士たちの戦いに迫ります」

暗転。

昨年のスポーツ新聞見出し。
サッカー欄にでかでかと
平家「ワールドユース獲る!」

今回のシドニー五輪チームの母体であり、監督となった平家みちよの初采配を大きく取り上げた記事である。
その下方に、小さく載った試合結果がある。

サッカー 日本「金」
ユニバーシアード決勝(北京)
日本2−0イタリア
(日本は初優勝)

三行広告のようなそれこそ、彼女たちの偉業を日本に伝えるすべてだった。

この結果についてテレビのサッカー番組でコメントを求められた在日ブラジル人のコメンテーターはこう答えた。
「まあ、学生の大会ですからね」
鼻で、笑った。

早稲田大学サッカー部練習場。
学生の動きを見守るロマンスグレーの男。

「おら、もっとキビキビやれ!」

寺田農(みのり)、日本サッカー界に、初めての金メダルをもたらした、男。
以前は、鉄拳制裁が当たり前で通した、筋金入りの体育会系。

「まあ、昔と今は違いますからね。特に女の子は手を上げてもダメ。ディシプリンを築き、コミュニケーションを取って、モチベーションを高めないと」

それでも、いざという時は、握り固めた拳が容赦なく、飛んだ。

現役時代のあだ名は、ミイラ。
蹴られても、倒されても、向かっていく、不死身のフルバック。
ミイラと呼ばれた男には、甥がいる。
日本代表の監督もつとめた、寺田光男だ。
「ほんっと、めッチャ、怖かったですよ。ちょっとしたことですぐにガーンでしたもん。鬼みたいでした。あんな風にはなれんなと思って、僕は我流で通しました」
ミイラには、過去がある。
メキシコ五輪の銅メダリストという、燦然と輝く過去だ。

映像・ゴールを決め、ガッツポーズを作る釜本邦茂。

日本サッカー界の不滅の金字塔、アステカの奇跡と呼ばれた銅メダル。
この活躍を原動力に、Jリーグの前身となる日本サッカーリーグが、設立される。
当時早大四年だった寺田は、このチームから、唯一、実業団へは進まなかった。

「ボクはサッカーも好きだったけど、本を読むのも好きだった。就職なんかしたら本が読めなくなる。今でこそ加藤(久・元早大助教授)君のような人もいるけど、当時は無理だった。サッカーだけさせてくれる読売クラブ(現・東京ヴェルディ1969)みたいなチームがもっと早くできてたら、とは思うけどね」

寺田は大学院へと進み、助教授業の傍ら、後輩たちにサッカーを教えた。
学生たちがドリブルしても、彼を抜くことは、できなかった。


「もしかしたら、あそこで銅なんか取らないほうがよかったのかもしれないな」

引いた位置から、その後の日本サッカーを見てきた寺田は、言う。

「過去の栄光にすがるという、最大の愚行を犯してしまった。後続を育てることを怠ってしまった。今のサッカー人気だって、メキシコじゃなく、サッカー漫画がもたらしたものだろう」

日本サッカーは、長い低迷期に入った。
メキシコワールドカップ、バルセロナ五輪、あと一歩で涙をのんだ。
Jリーグ開幕。ドーハの悲劇。夢物語は現実に近づいた。
そして、奇跡のイレブンたちが、夢を現実にした。

日本がフランスの地を踏んだその年、寺田は、北京で開催される学生の祭典、ユニバーシアード代表監督就任を、打診された。

「まるでゴミタメだな。そう言いました。ゴミタメですよ。そりゃカチンときますって」

青山学院大学監督、ユニバーシアード代表で寺田の補佐をつとめた椎名桔平は、寺田が最初に言った言葉を忘れてはいない。

「キッペイの怒りは分かる。けどゴミタメはゴミタメだ」

集まった選手のほとんどは、プロを目指し、サッカーにその青春を捧げてきた。
しかし、Jリーグというふるいにかけられ、ふるい落とされてきた者たちだ。
どこかに、劣等感が、あった。

しかし、その劣等生の中にも、中心となる選手は、いた。
亜細亜大学のゴールキーパー、このチームのキャプテン、酒井美紀である。

 

清水商業出身、国体の静岡県選抜でチームメートだった浦和レッズの吉澤ひとみは、語る。

「最初からプロでしたね。子どもの中に一人だけ大人がいるみたいで。よく叱られましたよ。でも怒り方がお母さんみたいで、憎めない人でした」

古豪清水東高校では生徒会長もつとめた。
が、プロになるには足りないものがあった。身長、だった。
その酒井も、最初は寺田に強い反発を覚えている。

「メキシコ、イコール嫌な奴ですよ(笑)ジンマシンが出そうで。でも自分が不満タラタラじゃチームがまとまらないですから、素直に従いました」
寺田もまた、メキシコの呪縛に、縛られていた。

寺田は酒井に強い信頼を置いていた。
が、まだ足りなかった。

「サッカーの仕事は大きく分けて三つある。潰し、繋ぎ、極め。それぞれに要となる選手がいるチームは強い。メキシコなら俺、森、ガマ。今の代表なら後藤、矢口、安倍。潰しは酒井がいる。けど繋ぎと極めがいない。このチームでは、勝てない」

寺田は全国の一部、二部の大学リーグの試合を数多く観戦した。
その間、本業である早稲田の指導はおろそかになった。
しかし、要となる選手は、見つからない。
寺田に、決断の時が迫っていた。
チームの運命を決めた英断は、彼の独断で下された。

窪「今日お一人目のスタジオゲストは…私たちMHKの山本山アナウンサーです」

山本山ピロシキアナウンサー、登場。

山「どうも、でいいんでしょうか?」
肉「いえいえ。山本山アナは、MHKのスポーツ中継、特にサッカー中継では第一人者と呼ばれていますが」
山「いえいえ」
窪「最も印象に残っている中継をひとつ上げろと言われたら」
山「…元日の天皇杯決勝戦、横浜フリューゲルスの決勝戦です。やはり」
肉「山本山アナウンサーと、これから登場する選手との間には、不思議な宿縁があります。天皇杯、ユニバーシアード、そしてシドニー五輪。山本山アナが実況した決勝戦で、この選手は一度も負けていないのです」

私たちは忘れないでしょう、横浜フリューゲルスという非常に強いチームがあったことを
東京国立競技場、空は今でもまだ、横浜フリューゲルスのブルーに染まっています

前の年の暮れ、日本サッカー界を激震が襲った。
全日空が佐藤工業との共同出資で運営するプロサッカーチームからの撤退を表明した。
これにより、Jリーグ開幕当初の加盟チームだった横浜フリューゲルスは、姿を消すことになった。
ある者はうろたえ、ある者は悲しみに暮れた。
しかし、全員十代の、このチームをこよなく愛する四人の少女が、崩れかけたフリューゲルスを救った。
サポーターたちは四人をこう呼び、最後の夢を託した。
四枚の翼、と。

ショートコーナーからのクロス。頭でつないだボールを左足でサンフレッチェゴールに突き刺す柴田

劇的な幕切れだった。
四枚の翼は、最後の大会になった天皇杯で、優勝という最高の結果を出した。
そして、これをもって、横浜フリューゲルスは解散。
映画のクライマックスのような幕切れに、人々は、酔った。

左の翼と呼ばれたゲームメーカー、柴田あゆみは、横浜フリューゲルスジュニアユース一期生。
誰よりも、フリューゲルスへの思いが強く、フリューゲルスサポーターを中心とする有志が立ち上げたチーム、横浜FCに、入団した。

だが、フリューゲルス再興という大事業に着手した柴田を待ち受けていたのは、現実という名の荒波。
練習場の確保すらままならぬ、流浪の民のような練習。
考えがコロコロ変わる首脳陣。
アマチュアリーグからの出発、荒っぽいタックル。
ユース日本代表、神奈川大学の学生としての多忙な日々。
そんな柴田を決定的に打ちのめしたのは、そんな生活が二年目を終えようとしていた時の出来事。

柴田は、買ったばかりのマウンテンバイクで横浜市内を走っていた。
苦しいクラブ経営への配慮から、アマチュア契約を結んでいた柴田。
必死にやりくりしながら、ようやく買った、念願のマウンテンバイク。
JFLから、J2リーグへ、チームを昇格させた自分へのごほうびだった。
クラクションが鳴り、後ろを振り向く。
かつての同僚が、外国製の乗用車に乗っていた。
自分にプレッシャーをかけるためだと言って、笑った。
ピカピカに輝いて見えたはずのマウンテンバイクが、みすぼらしく見えた。
そう感じる自分の心が、さらにみじめに思えた。

寺田が白羽の矢を立てたのは、プロチームとアマチュアチームと契約を結び、なおかつ現役の大学生でもある柴田だった。
柴田あゆみには、ユニバーシアード代表チームに加入する資格が、ある。
卓越したゲームメーカーであり、左足のフリーキックを武器に得点力もある。中盤の要、つなぎ役として申し分ない。
考えさせる時間を与えてはいけない。あえて事前に連絡を取らず、直接、大学へ乗り込んでいった。
柴田は、戸惑った。彼女は大学のサッカー部には所属していない。
それでも、寺田は強引に誘った。きみの高いプロ意識が、必要なんだ。
プロという言葉に、柴田は落ちた。
横浜FC、オリンピック代表に続き、三つ目のユニフォームに袖を通した。

柴田のユニバーシアード初練習は、横浜FCのナイトゲームの翌日のこと。
疲れていた柴田は寝過ごし、練習に20分、遅刻した。
寺田の鉄拳が、炸裂した。
あまりのことに、柴田の精神は、一時的に破綻。荷物をまとめて、帰ろうとした。
それを止めたのが、酒井だった。

「プロっていっても情けないねって、言ってやりました。一発殴るのは監督のあいさつみたいなものだったし」

柴田は、思いとどまった。
同僚たちの顔に泥を塗るのが、嫌だった。

ユニバーシアードチームにのめり込んでいく寺田に、落とし穴が待っていた。
本来監督すべき早大サッカー部が、関東大学リーグ2部降格の瀬戸際に立たされていた。
自分たちの教え子の指導を怠ってきた寺田に、OBの目は、冷たかった。
入れ替え戦の相手は、躍進目覚しい、上智大学。
エース広末涼子を出場停止で欠くとはいえ、まさか昨年まで都の2部のお荷物だった上智に負けるはずはない、そんな楽観ムードが、ぬぐえなかった。
寺田も、長くチームを空けていた負い目からか、あまり厳しいことを、選手に言えなかった。
それが、甘い考えであると思い知らされるに、三十分もかからなかった。

上智大学のエース、木村アヤカは高校時代読売ユースに所属。
しかしトップチームに上がることはできず、しばらく、サッカーすら忘れる日々が続いていた。
忘れていた情熱を取り戻したのは、ハワイへの観光気分での留学生活。
日本人を母に持つ、一人の少女との出会い。
ミカ・タレッサ・トッド。日本人となって、日本代表に名を連ねた。
負けられない――木村の、くすぶっていた情熱が、大きく燃え上がった。
結果は、5−2。早大は上智に、いや、木村に敗れた。

この時、敗戦の将である寺田は、傷ついた教え子を慰めるより先に、上智大学のストライカーに寄っていった。

「私はいろんな会場に試合を運んだつもりでいた。全国、津々浦々。しかし都のリーグとは考えなかった。木村の持っていたゴールへの貪欲な姿。まだ足りない、足りないという飢え、これがユニバーのストライカーには欠けていた」

寺田は、最後の一人を、見つけた。
だがその寺田に対する、OBの目は、辛らつを極めていった。
自らの立場をわきまえない愚か者、いっそ監督などやめてしまえ。
だがその寺田をかばった者があった。
スタンドで試合を見守ったエース、広末だった。

 破れたジーンズにトレーナー姿の広末、椅子の上で膝を抱えている。ガムをかんでいる。

「てゆっか、あの人にやめられたらまずかったんですよね。授業出なくても練習と試合にさえ出てりゃ卒業させてくれるってから早稲田入ったのに。勉強嫌いだし、授業に出てまで卒業したいなんて思わなかったですよ、あの頃は。今は違いますけどね、ビミョーに」

中学時代に四国のトレセンメンバー入り、中学を卒業すると横浜マリノス(当時)ユースへ。
オールラウンダーの点取り屋として鳴らすも、当時、マリノスは、FWの人材が、余っていた。

こうして、柴田と木村、二人の異端児が、ユニバーシアード代表の門を叩く。
しかし、二人は決して、歓迎ムードをもって迎え入れられたわけではなかった。
広末と同じ四国選抜に選ばれ、南宇和高校時代「愛媛の頭脳」と恐れられたディフェンダーの眞鍋かをりは、特に柴田の存在を、うとましく感じていた。

眞鍋、きっちりとしたスーツ姿。質問者のほうをしっかり見据え、就職師試験を受ける学生のようなハキハキとした受け答え。ナチュラルメーク。

「…プロのチームの人が、なんで、自分たち学生の中に入って来れるんだろうって。正直言って、その神経を疑ってしまいました。反則じゃないかって、そう思いませんか?」

そう語る眞鍋、野望があった。
そのために、一般入試で難関・横浜国立大学を受験した。

「スポーツキャスターになりたいんです。プロサッカー選手になれないのは、高校の時思い知りましたから。それでも表舞台でサッカーに、スポーツに携っていたかった。誤解を恐れないでいってしまえば、ユニバーシアードも、セールスポイントのひとつになるって。英検や運転免許のような資格と同じように、サッカーで大学選抜になってましたって言えば、見る目は違いますからね」

柴田には、そんな真鍋が信じられなかった。
自分のすべてである、サッカー。
そのサッカーを、立身出世のための武器にしようとする真鍋が。
サッカーに対し、柴田はあまりにも、潔癖すぎた。


チームは分裂した。
バラバラになってしまった。
美学とも言うべき自らの信念を押し通そうとする柴田。
どこか一歩引いて、チームの輪に加わろうとしない木村。
なんとかまとめようとする酒井の苦悩は続いた。
柱となる選手を置くことで、チームを固めようとした寺田の決断は、失敗したかに思えた。

年が明けた。
1999年、ユニバーシアード開催の年の春季リーグ。
事件は起こった。

それぞれ代表候補に名を連ねるキーパーがいる、筑波大学と明治大学の試合。
カードが乱れ飛ぶ、荒れた試合。試合を充分コントロールしきれなかった主審にも、責任はあった。
乱闘が始まった。
二人のキーパーは、友人同士。
必死になって仲間を止めた。

筑波大学、明治大学、ともに、一年間の対外試合禁止。
もちろん、二人のキーパーのユニバーシアード大会出場は、消えた。

「ロックバンドのメンバーの一人が覚せい剤で捕まる。すると残りのメンバーも活動ができなくなる。おかしいと思わないか? あの二人は必死に止めたんだ。それでも連帯責任というなら学校単位で責任をとればいい。なんで個人レベルで出場するユニバーシアードに出られなくなるんだ?」

寺田の意見は、通らなかった。
次の日から、キーパー探しが始まる。
このチームの正キーパーは酒井。しかし、万が一に備え、実力的に遜色ないサブキーパーを用意する必要に迫られた。
寺田のお眼鏡にかなったのはただ一人。
この春入学したてながら順天堂大学のゴールを守る、不適な面構えの、無名のキーパーだった。

プロジェクト、エーム…

窪「では本日、お二人目のゲストです。北京ユニバーシアード、シドニー五輪金メダリスト、現在はポルトガルリーグで活躍される、柴田あゆみ選手です」

ささやかな拍手に迎えられ、パンツルックの柴田、登場。

山「山本山です」
柴「あ、はじめまして。いつもお世話になっています」
山「いえいえ。それより、私、シドニーの時、言ってしまいました」
柴「仰ってましたね、思い切り(含み笑い)」
山「かつてない偉業というつもりで前人未到という表現を使ったのですが、大嘘になってしまいました(冷や汗)」

肉「柴田選手はオリンピックとユニバーシアード、二足のワラジをはくことになったわけですが、不安はありませんでしたか?」
柴「…人に来てくれと言われることは、幸せなことですから。不安がなかったといえば嘘ですけど」
肉「でもその努力が実って二つの金メダルを獲得された」

目の前の二つの金メダルがクローズアップされる。

肉「オリンピックとユニバーシアードの両方で金メダルを取ったケースは、これが初めてだそうですね」
柴「ええ」

肉「もう一人のダブルゴールドメダリストである木村選手とは?」
柴「Jリーグのユースの試合で何度か当たったことはありました。向こうがヴェルディの右、こっちがフリエの左。速いし、うまいし、嫌な奴でしたよ」
肉「その嫌な奴が今度は味方になった。心強かったんじゃないですか」
柴「話が通じるのが、木村と、酒井だけでしたから…プロに行った奴と話してて、ズレって感じるんです。それがアマの選手との間にもあって、正直、自分がどっちなのかわからなくなりました」

窪「そしてもう一人、三人目のダブルゴールドホルダーが、登場します」

寺田「とにかくね、顔が気に入った。現代人の食生活をしてるとは思えない。野生児の顔ですよ」

眞鍋「嫌な奴が来たって思いましたね。順大の小川っていったら、乱暴者の代名詞でしたから。なんであんな奴まで呼んだんだって」

酒井「まるで山から出てきたみたいな風貌で。そう本人に言ったら、山じゃない、海から来たって真顔で言われたのは笑っちゃいました」

順天堂大学の一年生ゴールキーパーは、まったくの無名だった。
全国大会はおろか、選抜歴も無い、どこにでもいる選手だった。
入学当初、出番を与えられるとそのケガを恐れないプレースタイルで、並み居るストライカーを震え上がらせた。
小川麻琴、まさに、隠れた才能だった。

「なんで大学に入ったかって? …他に行くとこがなかったから」

「暴れてやろうとか、そんな気は全然なくって」

「…ディズニーランド、行きたかったんですよ。で、同じ沿線にある学校を受けた。そしたらそこだけ受かっちゃった」

順天堂大学で一般入試で入った選手がいきなりレギュラーを奪うのは、極めて異例のこと。
それでも、大したことじゃないと小川は言う。

「運がよかった。謙遜じゃなくて。あの時は、本当に運があった。自分でも驚くくらいにね」

そう小川が言うのは、初参加の際、彼女が起こした事件が理由だった。

発端は、コーチである椎名の些細な言葉だった。
なんて学校でやってたんだ?
椎名は、常に裸で選手に向き合う。この時もそうしたに過ぎなかった。
余計なお世話だと、小川は無視した。

「誰も知らない学校ですよ。そしたら、ふーん、て、鼻で笑うに決まってるんだ。仲間バカにされたみたいで、むかついた」

小川の横柄な態度に、椎名の張り手が飛んだ。彼もまた、そうした中で育ってきた男だった。
小川は、椎名を、殴り返した。

小川の巡る処分を、選手全員で検討した。
もし満場一致で小川を否決するのであれば、彼女は、チームを追放される。
採決がなされた。
追放に、反対する者はたった一人。
キャプテン、同じゴールキーパーの、酒井だった。

「人間性とかなんてわかんないですよ。悪い噂もずいぶんあるやつだったし。でも、キーパーとしての力量はすばらしかった。ああいうキーパーがベンチにいると、ケガを恐れることなく、存分に動けるんですよ」

「助かった、もうそれだけですよ。酒井さんには、感謝してます」

小川は、寸でのところで、追放を免れた。
だがチームは、不協和音を打ち消せないまま、決戦の地、北京へと、向かった。

小川には、七つ離れた従姉がいる。
日本代表の守りの要であった、保田圭。
その存在が、小川には、重荷であった。

保田圭(現・ジュビロ磐田ユース監督)
「あいつが中学三年生の時、私の母校の市立船橋高校に入らないかって誘ったことがあるんです。あっさり断られました。あ、この子はとことんサッカーをやっていくって気はないんだ、その時はそう思いました。もちろんそれはそれで尊重したかったんだけど、正直、かなりガッカリはしましたよね」

「冗談じゃない、って思いましたね。イチフナになんか入ったら比較されるだけ。有名な学校に入ってたらどこでも同じ。あの保田の、って言われるのは絶対嫌だった」

小川は、従姉の存在を、ひた隠しに、した。

酒井は、違った。
北京の宿舎で、同室だった酒井に、小川はそのことを打ち明けた。

「ああ、そうなんだ、いい従姉がいるね。それだけです。こんな人もいるんだって、驚いた」

酒井は、小川を色眼鏡なしで見ていた。
小川は、酒井を、実の姉のように、慕った。

しかし、チームは相変わらずまとまらなかった。
依然、溝が、消えなかった。

柴田「でもそれって当然なんですよね。18人いれば、そこには18通りの考え方がある。ユースやオリンピックみたいに、考えが統制されてることが前提になってる世界のほうがむしろ異常なのかもしれない」

眞鍋「柴田みたいに純粋な気持ちでサッカーやってる人間を見てると、自分がすごく不純な人間に思えてくるんですよ。いつからこんなに打算的な人間になっちゃったのかなって、すごく悲しくなったし、それを認めるのが嫌で反発を感じてたんでしょうね」

それでも、なかなか、歩み寄りがなされることはなかった。
開戦前夜、あの夜の出来事の前までは。

午後八時。
寺田と椎名の部屋の電話が鳴る。
椎名が取った。
酒井だった。
風呂場で転んだ、起き上がれないからすぐ来てくれ。
数分後、椎名に抱えられて部屋を出る半裸の酒井と、酒井に言われてフロントまで新聞を買いに行っていた小川が廊下ですれ違った。
英字新聞が、小川の手から、落ちた。
長い夜が、始まった。

午後11時。
誰一人として眠らずに待っていた酒井は、左足に、ギプスをはめた姿で戻ってきた。
誰もが、かける言葉を見つけられない。
ごめんなさい、そう言って、酒井が泣き出した。
つられるようにして、小川が泣き出した。
運命を呪いたい気持ちより先に、詫びを入れてきた酒井の気持ちが、痛ましかった。

全員が涙する中、一人腕を組み、事態をじっと静観する者があった。
木村アヤカだった。

「とても危険な光景に見えた…団結とファッショは時に似ている…冷静にならなければと思った」

それでも、酒井が言った。
試合に出たいと。
寺田が怒鳴りつけた。
現役時代、満身創痍で、体中に包帯を巻きつけて試合に臨み、ミイラと呼ばれた男。
同じ道を、教え子には、歩ませなかった。

時間が、なかった。
試合は、明日に押し迫っていた。
小川が、ゴールマウスに立つことになった。
柴田が、新しいキャプテンに選ばれた。
真鍋は、言う。

「酒井さんは本当にキャプテンなんだなと思いました。あのケガがなかったら、きっと、バラバラの気持ちで、大会に臨んでいたと思います」

体の傷は、時が経てば癒える。
しかし、友の負った心の傷を癒せるものは、黄金色に輝くメダル以外にありえない。
ユニバーシアード代表は、ひとつになった。

日本大学選抜の快進撃が始まった。
これが、あのバラバラだったチームかと、寺田や椎名は目を見張った。
小川の体を張ったセーブ、眞鍋の鋭い読みが相手にチャンスすら与えない。
柴田が持ち前のテクニックでゲームを支配、広末と木村のツートップを走らせる。
緒戦のアメリカ戦こそ引き分けたものの、その後はすべて無失点勝利。
気が付けば、ベスト4にまでたどり着いていた。
しかし、そこが最大の難関。
現役の代表選手四人を擁する、韓国大学選抜が、待ち受けていた。

韓国は二大名門、高麗大学と延世大学の連合軍。
この前の年の初め、韓国と北朝鮮の合同チームはワールドカップ予選を日本と戦い、敗れている。
その時の選手が、この日のチームには四人もいた。
総合的な実力でも、日本を大きく上回る。
今度こそは、の思いが強かった。

日本チームには、ユース代表経歴の選手が何人かいる。
アジアユースで戦った時は、韓国に苦杯を飲まされた。
韓国コンプレックスは、まだ死語ではなかった。

韓国に対し、苦手意識のない者も、いた。
柴田はオリンピック代表で確実に自信をつけ、世界の強豪に対しても物怖じしないだけの経験を積んでいた。
木村はヴェルディユース時代、監督が韓国人だったこともあって何度も韓国遠征を積んでいた。
そして、小川は、少し変わった理由でコンプレックスがなかった。

「港町で育ったんで。ロシア人とか、韓国人とか、ウロウロしてるんですよ。ケンカしても、フットサルしても、負けたことなかったもん」

そして、寺田も。
「メキシコ五輪の予選で、韓国に勝っとるんです、私は。韓国コンプレックスなんていわれ始めたのは、我々の後なんですよ」

日本は、眞鍋を中心に五人で扇形の最終ラインを作る。
さらに二人の守備的な選手をその前に配し、キーパーを含め八人でゴールを守る。
前線には三人。右に木村、左に柴田、中央に広末。
中盤は韓国に明け渡し、ゴール前で勝負する。実を取ったサッカーを、寺田は選んだ。

試合開始前、先発メンバーが酒井にギプスに触れる。
結果の出せなかった広末が誤ってギプスを蹴ってしまった右足でゴールを決めた。
ギプスは、日本の守り神になった。
皆、足や、手、頭、思い思いの場所に触れて、控え室を、出て行った。

自分より力の上回る相手と戦う時は、絶対、先に点を取られてはいけない。
だが、前半終了間際、日本はPKの反則を取られてしまう。
眞鍋が、倒した。
眞鍋は天を仰ぎ、おかあちゃん、助けてと思ったという。
PKはあまり得意ではない、小川はキッカーを見た。
目が、血走っていた。

「あ、向こうも余裕ねえなって。こっちに動きを見て蹴るとかはしないと思った」

確率は二分の一。右に飛んだ。
ボールは、小川の懐に、収まった。

そのボールを、小川が柴田に投げる。
柴田が、巧みなドリブルで左サイドを駆け抜ける。

「おもしろいいもんでね、サイド攻撃の強いチームは、自分がサイドを突かれると弱いってことがあるんだ。韓国もそうだった」

小川の読みは、当たった。
左コーナー付近。柴田が、センタリングを上げる。
キーパーをひきつけた広末の頭上を越えたボールは、その右へ飛び込んだ木村の額に吸い寄せられた。
ネットが揺れると、それまでクールネスを突き通して来た木村が、大きく、ガッツポーズをした。

後半、韓国は早めに日本ゴール前にボールを上げる作戦に出た。いわゆる、キック・アンド・ラッシュ。
勝算はあった。
高いボールを処理しに出るキーパーの小川は、両腕を上げている。
その無防備な体に、激しいチャージをしてきたのだ。
酒井の故障は明白だった。二人しかキーパーのいない日本、もし小川が出られなくなれば、そこですべてが終わる。
小川は必死に耐えた。ベンチで試合を見守る酒井の気持ちを考えたら、短気は起こせなかった。

それが、韓国の狙いだった。
押し込む攻めに慣れていた日本は、中盤で韓国がボールを持っても、飛び出して奪いにいけなくなってしまっていた。
スルーパスが、出た。
虚を突かれた小川の飛び出しが遅れ、韓国にシュートを許す。
が、オフサイドの反則。韓国、幻のゴールに。
とっさの判断でラインを押し上げたのは、眞鍋の声。
こんな展開でも、周囲と連携を図る冷静さは、失っていなかった。

守備陣の頑張りに、攻撃陣が応えた。
木村が右サイドで粘り、コーナーキックを得る。
柴田の左足がボールに触れた瞬間、広末、眞鍋は二アサイドに走った。
ボールは誰にも触れず、そのまま、韓国ゴールに飛び込んだ。
相手キーパーが前に出るのを見切って、直接狙ったものだった。
これで、試合の大勢は決した。韓国は守りの人数を減らして攻めにいかなばならず、その間隙を縫う日本のカウンターが冴えた。
終了直前、今度は日本にPKのチャンスが。木村が倒されたのだ。
反対側のゴールから走ってきた者がある。小川だった。

「蹴らせろって、それだけ」

たまりにたまった鬱憤を、その一蹴りで、晴らした。

イタリアとの決勝。すでに柴田のゴールでリードしていたが、まるで負けているかのように日本は攻めた。
もう1点取ったら、あいつを出してくれる。選手は寺田と約束していた。
スペースを作る動きに腐心していたこの日の広末の動きから、木村が飛び出していく。
寸分たがわぬ正確さで、その足元に柴田のパスが通る。
その瞬間、椎名は手にした金槌で、幸運のギプスを、粉々にした。

「ゴールキーパーが交代します。小川に替えて、酒井」

二人のキーパーは、笑顔ですれ違った。
柴田は本来のキャプテンに、キャプテンマークを手渡した。
わずか数分の出場が、酒井の、引退試合となった。

優勝の瞬間、誰もが歓びを爆発させた。
感情を露にすることを避けてきた木村も、当たりはばからず泣いた。
多忙の中、ギリギリの精神状態に陥りながらもやり遂げた柴田も、心地よい達成感に包まれていた。
日本サッカー史上初の、世界の頂点。
自分たちは歴史を作ったんだ。
名も無き戦士たちは、絶頂にあった。

そんな中、素直に喜べない者がいた。
無失点優勝の立役者となった小川だった。
登りきってみれば、あまりになだらかな山だった。
これが世界のてっぺんであるはずがない。
暗い失望だけが、残された。

小川の予感は当たった。
凱旋帰国したユニバーシアード代表への反応は、ひどく冷淡なものだった。
その半月後、二十歳以下代表がワールドユースで三位入賞を遂げると、まったく忘れられた存在になってしまった。
「国を背負って戦ってるんだって意気込んでた自分が、哀れになりましたね」
「向こうも金だっていうなら分かる。でも銅でしょ? なにそれ? って思った」
しょせん、学生の大会。
それが、現実だった。

肉「日本に帰ってみて、なにを思いましたか?」
柴「月並みだけど、現実は厳しいなあって。でもすぐに切り替えましたよ。五輪予選が近づいてましたから」
窪「ユニバーシアード代表として戦って、なにか得られたものは?」
柴「技術的にはあまり…でも、精神的には、大きな経験ができたと思います。なにより、この仲間と出会えたこと、自分はこいつらの分までやらなきゃいけないんだってことを五輪代表で思えた、それが大きかったと思います」
窪「では、ここでもう一方、ゲストをお呼びしたいと思います。ユニバーシアード代表のキャプテンだった、酒井美紀さんです」

スーツ姿の酒井、登場。
柴田との空気が、なぜかぎこちない。
窪「お二人はどれぐらいぶりの再会になるんですか?」
酒「…北京以来だよね」
柴「シドニー来なかったもんな」
肉「そして、酒井さんがお持ちなのが…」
酒「はい。あの時のギプスです」
酒井、透明なビニール袋いっぱいの石灰の破片を見せる。
肉「ところどころ何か書いてありますが」
酒「寄せ書きみたいに、みんなが落書きしてったんですよ」

窪「この物語はこれで終わりません。意外な結末を迎えます」

中島みゆき「ヘッドライト・テールライト」が静かに流れ出す。

酒井美紀は、いくつかあったチームの誘いを断り、日本中央新聞に入社。
スポーツ面ではなく、社会面を担当する第三社会部を自ら志望、配属された。
柴田、木村、小川がメンバーに入ったシドニー五輪の優勝の瞬間は、部内にいた。
手に持っていたホットコーヒーを、撒き散らしてしまったという。
「見に行くことなんて、できませんでした。私には、その資格は無い」

帰国後、酒井の足を診断した医師は驚きを隠せなかった。
どこにも、傷など無かったのだ。
ケガは、酒井と椎名で仕組んだ、狂言だったのだ。

「小川と話してて、驚いたんですよ。彼女は韓国に負けるなんてことを考えてもいない。私は、勝てるなんて、考えたこともなかった。その瞬間思ったんです、こいつはもう私を越えてるんだ、こいつでなきゃ世界を相手にはできないんだって。でもキャプテンがそんな理由で降りられないから、あんなことしたんです――道を譲った? 違いますよ、逃げたんです。だから、もう、サッカーも続けられなくなりました」

会社のデスクの引出しには、今も、メダルとギプスが収められている。

眞鍋は、リポーターとして、シドニー五輪サッカー日本代表を追った。
金メダルを足がかりに、着実に、自分の夢を実現させようとしている。

広末は、授業に出るようになった。
八年かけて、ゆっくり、卒業できればいいと思っている。

寺田は早稲田を再び関東大学リーグに復帰させた。
当面の目標は、一部昇格になる。

そして、シドニーで二つ目の金を手に入れた三人。

小川は大学を通信制にと切り替え、ジュビロ磐田に入団。
練習の傍ら、子どもにサッカーを教えている。

木村はJリーグで好調だ。
新人王は、ほぼ確定と言われている。

柴田は、ポルトガルに移った。
現役生活の最後は、横浜に戻りたいと考えている。

志の異なる者が、ともにつかんだ金メダル。
その輝きは、追憶の中で、ひっそりと、息づいている。

♪旅はまだ 終わらない…

いくとかの出会いと別れ。
涙と笑顔。
対立と和解。
勝利と敗北。
旅は永遠に続くような気がした。
しかし、明けない夜がないように、旅にもいつか終わりが来る。
終わりと呼ぶにははばかりあっても、一区切りはつけねばなるまい。
すべてはこの日のためにあった。

2002年、二十一世紀最初のワールドカップ、開幕。
ホスト国、日本のファーストゲーム。
さいたまスタジアム2002に、ベルギー代表を、迎え撃つ。


「行こうぜ、みんな!」
「行こうぜ!」
青のユニフォーム、日本代表の行進。
先頭に、145センチのミッドフィールダー、キャプテンの矢口真里。
続く石川梨華、加護亜依、吉澤ひとみ、紺野あさ美、辻希美、飯田圭織、安倍なつみ、高橋愛、後藤真希、新垣里沙。
ベンチで腕を組む保田圭、その傍らに小川麻琴。
「がんばっていきまー…」
「しょーい!」
キックオフの笛が鳴る。

「立ち上がり、大事にいけ!」
2001年春、日本代表を率いていたガックン監督が祖国フランス代表監督の急逝に伴い帰国、そのまま新監督に就任。
監督と選手の掛け橋になっていたアシスタントコーチがそのまま監督代行就任、大陸間王者の集うプレワールドカップとでもいうべきコンフェデレーションズカップに準優勝。
そのまま、代行が取れた。
保田新監督の誕生である。
コンフェデレーションではガックンのやり方を踏襲するのみだった保田も、その後の一年で自分の色を出してきた。

「姉ちゃん、そんなにあわてんなって」
「姉ちゃんて言うな」
小川麻琴は、選手登録はしてあるものの、事実上このチームの副官をつとめている。
本人曰くパシリ、しかし練習メニューを組み立てたり、マネージメントを担当したり、専門であるゴールキーパーのコーチをつとめたり、八面六臂の活躍で監督経験の浅い従姉を支えている。
本当は教育実習と時期が重なったのだが、もちろんこちらを優先させた。
「大丈夫、自分の努力と選手の力、それに運を信じようぜ」

「辻、慌てて取りに行く必要ないぞ!」
右サイドの辻を叱咤するのはキャプテンマークを左腕に巻いた矢口。
システムは3−5−2だが、中盤の形に少し特徴がある。
菱形に選手の張り出したフォーメーションの中心、前後と左右の選手を線でつないだ交差点にいるのが矢口だ。
前の石川のケツをひっぱたき、後ろの新垣とともにボールを奪い、サイドの加護と辻が上がったサイドをカバーし、時には前線や最終ラインにも入っていく。
トップ下でもボランチでもアウトサイドMFでもない、「ハーフ」の矢口に、保田が与えたポジションだった。

左タッチを切りそうで切らないボールを、飯田がテーピングをガッチリ巻いた左足でクリア。
ポジションは左のDF。保田は3バックの端の二人に強さと高さ、なによりゲームを作れる能力を求める。
古傷との戦いは予想以上に長引き、治療に専念するため矢口にチームを任せ、なんとか間に合った。
右の吉澤も、地元の声援を受けて、伸び伸びとプレーしている。
シドニー五輪での反省を活かしたのか、冷静にことを運べるように。
その間に挟まれるのがスイーパーの紺野。この年代では世界でも指折りのセンターバックと言われている。
ベテラン、中堅、若手。年齢的にもバランスの取れた3バック。時にゾーンで、時にマンマークでベルギーを止める。

加護がテクニカルなドリブルで左サイドを突破する。
右の辻との両サイドからのアタックはいまだ健在。
ポジションはMFだが、スタミナを活かし、ウイングからサイドバックのポジションまでこなせよと言われている。
一度、監督になる前の保田に相談した。
このまま続けていけるかどうか分からないと。
保田は軽く受け流した。できるとこまでやったらいい。やめるのなんかいつでもできるんだ、そう思えばいい。
胸のつかえが、すっと降りた。
もう、やめようとは思わなくなった。

敵のストライカー、ユーカレンスを引き倒す新垣。
シドニーで見た天国と地獄は、小さな彼女を大きく成長させていた。
二年後のアテネ五輪代表チームでは不動のエース。辻や加護とともに2002年以降の日本を引っ張る存在として注目されている。
「リサちゃん!」
その新垣のパスを受け、右サイドを突っ切る辻。
相変わらず加護とのコンビは抜群だが、以前のように加護がいなければ何もできなくなるようなことはなくなった。
今も時々、バレーボール全日本チームを手伝っている。

辻のセンタリングに、日本のツートップが飛ぶ。
左の後藤が頭で落として、右の安倍がダイレクトでシュート。上に消えた。
「ごめん!」
安倍はチームの精神的支柱となっていた。
恐らく、これが最後の大舞台になるだろう。
「なっつぁん、もう一回!」
後藤の願いはただひとつ。
もう一度、アルゼンチンと戦うこと。

この試合、チャム・サヤカ・イチイは札幌の石黒彩の家で見ていた。
現地で観戦したかったのだが、アルゼンチン代表は明日、イングランドとの大一番を控えている。
死のグループに放り込まれたアルゼンチンにとっても、日本との再戦は並大抵ではない。
が、チャムはその時を心待ちにしている。
後藤、日本、今度こそ負けない。
「どうよ、いけそう?」
石黒がビールをあおる。明日のアルゼンチン戦を彼女はテレビ解説する。
「こんなところで消えてもらっちゃ困るよ」
それは、心からの言葉。

「日本、いけそうですね」
「いや、まだまだ。ベルギーも弱ないですしね」
実況席の寺田光男が首を横に振る。
今戦っているのは、そのほとんどが彼に見出された者たち。
そして、彼を越えていった者たち。
指導者、冥利に尽きる。
しかしギャンブラーの性、負けるのは大嫌いだ。
今度こそ、じぶんらをヒーヒーいわしたる。そんなチームを作ったる。

「明日香、出たかったんちゃうか?」
プレス席で見守るのは、横浜のロシア戦を解説する中澤裕子と、ゲストに招かれる福田明日香。
いかなる理由があれ、一人の選手が複数のナショナルチームのユニフォームを着てしまった、その罪は重い。
FIFAが福田に課したペナルティは、二年間の国際試合出場停止(クラブチームではその限りではない)。
自国開催のワールドカップに出られない福田は、それでも動じない様子でいる。
その涼しげな顔に、つい意地悪な問いかけをぶつけた中澤。
「お祭りは苦手です」
福田は、やはり、フクダだった。

「おら、いかんかい、ボケッ」
大阪のチュニジア戦を解説する平家みちよは、母校・四日市中央工業のサッカー部室で、教え子と一緒にテレビ観戦していた。
オリンピックの金メダル監督は、日本サッカー界から追放された。
毎年末に選考される、日本五輪代表チームに授与されるはずだったFIFA最優秀チームの名誉を独断で辞退してしまったのだ。
主力四人が出場停止で決勝に出られないアンフェアなチームがそんな名誉にはあたらないというのがその理由だがもちろん表向き。
日本サッカー協会への、最後のあてつけだった。
当面の目標は、選手として優勝した高校選手権で、監督としてもう一度頂点を見ること。

矢口が転がされる。
でっけー…自分の腕を引いて、助け起こしてくれるベルギー選手に圧倒される矢口。
トップも、ハーフも、バックもキーパーも。
山だ。赤い山脈だ。
足のサイズなんかすごい。矢口の倍はありそうだ。
オランダに隣接する小国。強豪という印象は無い。スタープレーヤーもいない。
ただ、大きな大会には強い。
伝統的に守りがいい。特にキーパーには世界的な人材をコンスタントに輩出し続けているのがベルギーだ。
こういうチームにとって、なにが重要か。
点を取ってくれる選手がいるかいないか。

ジャン・マリー・フカキョン。矢口を倒し、腕を引いて起こした選手。
この選手がキーだという。
蹴ったシュートが、空中で一度止まるのだという、オカルトな選手。
そのキックには、
「マメミムメモ・マメミムマモ・マメミム・マジカルキック」
という名前がついてるそうだ。あまりに長いのでマジカルキックと略。
そう、矢口との「魔球対決」でもあるのだ。

試合前から日本を刺激するような発言を繰り返していたベルギーGKワダーキコのロングキックを、FWユーカレンスが新垣に競り勝ってヘッドで落とす。
フカキョン、そのドナルドダックのように幅広い足でインパクト。
足の甲で包み込み、押し出すようにして前に。
日本の守護神高橋、予備動作に入りながら、小川の言葉を思い出す。
二人で、さんざフカキョン対策を練り上げた。
キーパーは体を沈め、飛びつき、弾き出す動作を1、2、3のリズムで行う。
飛びつく動作を、半拍遅らせる。
どれだけ、飛びつく直前に粘れるかが、マジカルキックを防げるかどうか。

低い。左。
足を広げ、ぐっ、と腰を落とす。左足に体重を乗せる。
ここで、ふんばる。飛ばずにこらえる。
ボールが失速する。空気抵抗を受けるためだ。
ベルギーの魔法が、日本ゴールに襲い掛かる。
黒い翼が、その行く手を阻む。
タイミングが、ぴたりと合った。
「石川さん!」
低い弾道で蹴り出した高橋。カウンター開始。

トップ下に入った日本のゲームメーカー石川が赤い壁に挑む。
加護との壁パス。鋭い切り返し。浮き球を用いてのフェイク。
仲間を使い、時には単独で敵陣を切り裂く。
湘南あたりをうろついていた一匹の野良犬は、さまざまな経験を積み、多くの友に囲まれて、大人のサッカー選手になれた。
一発の弾丸になって、ゴール前に切り込む。
華奢な足を、かっさらわれた。

「梨華ちゃん!」
「石川!」
足首を抱えて倒れる石川に寄って行くイレブン。
「…なんてねー」
小さく笑ってみせる石川。もちろん、審判には見えないように。
「少し大げさに倒れておけば相手もガツガツ当たりに来にくくなるしね。あ、ダイビングじゃないですよ。靴下に少し泥がついてるでしょ?」
本当に、少しだけだけど、演技もうまくなった。
さも足が痛むように、よろよろと起き上がる石川。ごていねいにガクガクと足を震わせながら。

フリーキック。ベルギーGKワダーキコが壁に指示を与える。
ベルギー本国ではゴッドシスターという名で呼ばれている、カリスマ的存在。
ことあるごとに、日本をボロクソに言いつづけてきた。その発言に愛情や尊敬は感じられなかった。
ボールの前に、後藤と石川、それに矢口が立つ。
飯田と吉澤がベルギーゴール前に上がっていく。
「ゴトーも行くー」
ボールの前には、石川と矢口。
「蹴る?」
「どうぞ、お先に」
矢口が、ボールのヘソを正面に向けた。

ピッチの上で、一番背の低い青の8番が、中澤の位置からは点に見える。
矢口、おまえなら分かっとるはずや。
選ばれた11人にいることの意味が。
あんたの目の前にあるんは、ボールのようであってボールやない。
サッカーに携る、ちゃう、すべての日本人の希望なんや。
今、あんたの一蹴りは、この試合を見ている人間すべての喜びと悲しみとを操るんや。
そこにあんたがいるんは、権利やない、義務や。
そこの立てなかった人間、すべての思いを背負って、あんたは戦っとるんやで。

矢口は目を閉じる。
これまでのことが、一瞬で胸のうちを過ぎる。
初めての代表。
フリューゲルス消滅。
その身を支配した狂気。
国立に起きた奇跡。
南半球での歓喜。
すべて、このためだった。
目を開く。
スローモーションのように、ゆっくりと歩き出す。
アキレス腱を伸ばし、爪先をボールに突き立てた。

ボールがゆっくりとボールを越えてくる。
白と黒がはっきり肉眼で捕らえられるほど。
ワダーキコ、しっかりと目でボールを追う。
ボールがゆっくりと、高度を下げてきた。
腰を落とし、捕球に入るワダーキコ。
しかり捕らえていたはずのボールが、ブレて見える。
大きな体を投げ出し、体で当てにいく。
その腕をすり抜け、足元で弾み、股間をくぐって、ゴールネットが揺れた。

六万人が、ふるえた。
日本中が、熱狂した。
保田が小川と。
辻が加護と。
飯田が吉澤と。
後藤が安倍と。
石川が新垣と。
高橋が紺野と。
チャムが石黒と。
寺田が解説者と。
スタジアムの外で偽物の姉のサインを売っていたユウキが客と。
平家が部員と。
中澤が福田と。
抱き合った。

セクシーボールをベルギーゴールに叩き込んだ矢口真里は、両腕を高くかざした。
もちろんこれは始まりだ。
長いながい旅が、ようやく始まるのだ。
その道連れである、日本代表イレブンに向かって、叫ぶ。
「ヤッホーイ!」
145センチの身体が、高く高く、空に舞い踊った。

To be… 2002 FIFA WORLD CUP KOREA/JAPAN