天使たちが荒野を往く
♯1
「よっすぃー!」
突然名前を呼ばれ、吉澤は振り返る。
クラスメートの後藤が放課後すぐで混み合う廊下を、強引に人を押し退けるようにして駆け寄って来る。
「明日さ、ガッコ終わったらパルコのバーゲン行かない?」
「え? バーゲンって今日からじゃないの?」
「今日でもいいけど、でも、よっすぃー、今日は都合いいの?」
「いや・・・今日はちょっと・・・野暮用っていうか・・・」
「そ。じゃあ、やっぱ明日ね」
「うん・・・」
と、後藤は突然吉澤の目の前まで顔を寄せる。「明日、泊まってもいい?」
吉澤は困ったように笑みを浮かべ、頷く。後藤が泊まりに来る、ということはつまり、そういうことだ。
にんまり笑うと後藤は、「じゃーねっ」と、手を振ってまた教室に戻っていった。
吉澤の中で、今の会話の何かが引っ掛かった。
まさかね――。
吉澤は心の中で呟くと、思い浮かんだ考えを自嘲気味な薄い笑みで打ち消し、靴箱に向かって階段を下りていった。
学校を出て、いつものように電車に乗る。まわりは女子高生の嬌声が弾けていた。時々あちこちから携帯の着メロが鳴る。
車内は帰宅する学生で混んでいた。吊り革につかまっていた吉澤の目に、遠くのビルの間から薄い夕焼けが映った。
ふと、時計を見る。後藤が誕生日にくれたものだ。
大丈夫。予定通りだ。吉澤は心持ち、形のいい唇を引き締めて顔を上げる。
大きな分岐駅で、またいつものように列車を降りる。帰宅ラッシュを控えた駅は、様々な学生服が行き交っている。
ここからはいつもと違う。
吉澤はトイレに向かう。幸い、一番奥の個室が空いていた。
個室に入ると吉澤は鞄から着替えを取り出し、速やかに紺ブレの制服を脱ぎ、ネクタイを緩めた。
3分後、個室から颯爽と出てきた吉澤は、黒のハーフコートにジーンズという地味な出で立ちだった。
靴も、よくフィットしたグレーのシューズになっている。洒落た感じよりも動きやすさ重視の服装だ。
鏡の前に立って手早く乱れた髪を手櫛で簡単に整えると、貸しロッカーに鞄を放り込み、家とは別方向の電車のホームに降りる。
そして、そのままホームの最後尾まで一定のペースで、人波を縫うようにして歩きつづける。
最後尾まで来ると突然、しかし、さりげなく振り返った。
瞬時に目を凝らす。尾行はされていない。
そこから快速に乗って3駅。降りるとそこは、郊外の高級住宅地が広がっている。
初めて来る場所だが、吉澤の頭の中では、これから行くべきところ、これからやるべきことを、きっちりと理解している。
駅前のロータリーを横切り、迷いなく道を進む。駅から離れるにつれ、人波も疎らになり、やがて吉澤ひとりになった。
吉澤の後ろで瞬きながら街灯が点いた。
すっぽりと夕闇に包まれていく閑静な住宅街を歩きながら、吉澤はコートのポケットに手を突っ込み、その感触を確かめる。
ひいやりとするそれは、いつも吉澤に落ち着きを与えてくれる。
交差点にミラーがあった。吉澤は、目だけで尾行がないのを確認する。尾行なんてないに決まっているが、癖になってしまっていた。
その角を折れるとすぐに、目的の家があった。高い塀が囲む敷地は、隣近所の家の倍はあるだろうか。
きちんと手入れされた庭木のてっぺんがコンクリート塀の上から覗いている。
まずは通り過ぎるだけ。横目で表札を確認する。そして、ひと気がないのを確かめ、再び門の前を通る。
辺りは静まり返り、吉澤の靴がアスファルトを踏みしめる音だけが微かに響いている。
吉澤は立ち止まると塀の上に両手を掛け、軽くアスファルトを蹴ると同時に、肘に一瞬力を込める。
嘘のようにふわりと吉澤の身は浮き上がり、しなやかに塀の向こうに消えた。
素早く庭木の陰に身を隠し、芝生の向こうにある家の中の様子を窺う。
1階はカーテンが閉め切られており、中の様子は分からない。
しかし、すでに日は沈み、人がいれば電気を点けるだろうから、誰もいないと判断する。
2階に目をやると、端の部屋に明かりが灯っていた。
やはりカーテンが引かれていて中の様子は分からないが、吉澤は四角に切り取られたその明かりを見つめた。
間違いなく「目標」はそこに、いるはずだ。
勝手口に回り、横の配電盤を開ける。思いがけずキィッと金属製の甲高い音が鳴り、咄嗟にカバーを開けるのを止める。
小さく舌打ちしながら、情報通りの配置である事を確認すると、ナイフで必要最低限のリード線を切っていく。
これで、警報装置の電源だけが落ちたはず。
次に勝手口のドアノブに取り掛かる。表玄関はカードキーだが、勝手口はアナログな鍵式だ。
吉澤は2本の針金を取り出し、手馴れた動作で鍵穴に差し込む。
まるで手術でもするような繊細な手つきで、15秒も掛からないうちに鍵穴の奥でカチリと小さな音が鳴った。
そっと扉を開け、台所に忍び込む。
薄暗い中に、システムキッチンとカウンター、ダイニングテーブルが浮かび上がる。
テーブルの上にはひと盛りのコサージュが彩りを添えている。
吉澤はダイニングを通り過ぎ、シャンデリアが吊られた広大なリビングを通り抜けると、まっすぐに階段へ向かう。
ここで外界からの光は完全に遮断され、真っ暗になる。目を凝らし、手で周囲を探りながら階段に足を掛けた。
家の外観は美しいが、おそらくリフォームしたのだろう、一段一段踏みしめる度に、意外なほど家鳴りがする。
吉澤は家鳴りを避けるため、出来るだけ荷重が集中しないように気を払いながら、1歩ずつ階段を上がっていく。
そのうちに目が慣れてきて、真っ暗な中に周囲の輪郭が浮かび上がってきた。
2階に上がるといくつかのドアがあった。吉澤は一番奥のドアに近づくと、耳をドアに寄せた。
カコ・・・カ、カコ・・・
何の音だろう? ワープロか何かのキーを叩いている?
吉澤は息を殺し、そっとドアを開ける。真っ暗な廊下に光がひと筋伸びた。
6畳ほどの書斎だった。いや、それは吉澤には分かっていた。問題は、部屋にいるのが「目標」かどうかである。
男が机のデスクトップ・パソコンに向かい、背を向けていた。モニターには吉澤も使っているメールソフトが開いている。
こちらの気配には全く気付いていないようだ。
数メートルの距離を空けたまま、手を伸ばし、吉澤は壁を軽くノックした。
男の肩がビクリと震え、男は振り返った。
その視線が吉澤を捉え、男の表情が驚愕に変わる一瞬前に、吉澤は男の顔を視認する。
「目標」を同定すると同時に、真っ直ぐに伸びた右手の先に握られた銃から鉛の弾丸が放たれ、男の胸を撃ち抜いていた。
「がッ?!」
うめく男は血糊が広がる胸に手を当て、椅子から崩れ落ちた。
さらに1発。
音もなく発射された弾丸が、今度は男のこめかみから頭蓋骨の中にめり込んでいた。
男は声もなく、その肥満気味の身体を重々しく床に横たえると、そのまま動かなくなった。
しんと静まり返る中を、鮮血がフローリングの床にじわじわと広がっていく。
無表情のまま吉澤は素早く筒型の消音装置を銃口から外すと、銃もろともコートのポケットの奥にしまい、
身を翻して部屋を出ようとした、その時。
物音がした。
瞬時に身を固くして、吉澤はドアのわずかな隙間から外を窺う。
不意に廊下の明かりが点いた。
誰かが階段を上がってくる。少女だ。
吉澤はその制服に見覚えがある。通学の電車の中で見かける、名門女子高のセーラー服だった。
有名デザイナーを起用したというデザインは華やかさと清楚さが同居し、吉澤は特にタイの結び目のエンブレムがかわいいと思っていた。
丁寧にふたつ分けにした黒髪は艶やかで、顔立ちも美しい少女だった。見覚えがあった。男のひとり娘だ。確か、吉澤と同い年だった。
まったく計算外だった。金曜日、いつも娘は部活で遅くなるとのことだった。
だからわざわざ、男が家で必ずひとりになる金曜日の夕方を選んだのだ。
見ると、少女の華奢な手には鞄とテニスラケットがあった。たまたま今日は、部活が休みか、あるいは早く終わったのだろうか。
階段を上がると、少女はいちばん近くのドアノブに手を掛けた。
必要以上の殺しはあらゆるリスクが倍以上になる。そのまま部屋に入ってくれれば、殺さなくて済む。
そうしたら、気付かれずに家を出ればいい。その自信はある。吉澤は祈るような気持ちで、少女の動きを見つめていた。
すると、少女はドアを半分開けたところで足を止め、こちらを見た。
反射的に吉澤はドアから顔を離す。気付かれてはいないはずだ。
しかし、彼女が近づいてくるのが肌でじんじん分かる。ポケットの中の銃を握り、その感触を手のひらに馴染ませる。
ドアが僅かだけ動いた。中の様子を窺っているのか、しばらくそのままドアは動かない。
息を呑む気配。おそらく父親が倒れているのに気付いたのだろう。
すぐにドアが大きく開き、少女はおずおずと書斎に入ってきた。
机の前で倒れたままの男の手前まで近づき、そこで歩を止めた。しばらく立ち尽くしたまま男を見下ろしている。
がちりという重い音に、少女は振り返った。
ドアの影に潜んでいた吉澤が銃を構え、少女の頭を真っ直ぐに狙っていた。
少女の目が驚きで見開かれる。しかし一瞬あとにそれは、穏かな表情になる。
「お父さん、殺したの・・・?」
少女が細く、しかし、くっきりと言った。その声は、それだけ聞けば、実際よりも幼い年齢を想像するだろう。
それぐらい、夢のようにあどけなく、可愛らしい声だった。いつか見た、ディズニーアニメのお姫様の声に似ていた。
吉澤は少女の声と表情に、なぜか引き金を引けずにいた。鼓動が高鳴ってくるのが分かった。
名前は確か、梨華っていったっけ。早くに両親は離婚し、長年、父親と二人暮しのはずだ。
銃を構えたままの吉澤に、少女が意外な言葉を口にした。
「ありがとう・・・」
そして、ふわりと笑みを浮かべた。細めた目と緩めた口許は、本当に率直な喜びに溢れているようだった。
「なんで・・・」
吉澤は呟いた。音を立てて、血液が逆流していくようだった。混乱していた。
銃を向けられているのに怯えた素振りも見せない。しかも父親を殺されたばかりで、それも、殺した張本人が目の前にいるのだ。
初めてだった。銃を構えている自分に怯えない人間を見るのは。
それに、父親を殺されて「ありがとう」とはどういうことなのか、さっぱり理解できない。
「怖くないの?」吉澤は眉根を寄せ、尋ねた。
「怖い、って・・・どうして?」不思議そうな口調で少女は訊き返す。
「怖くないのかって、こっちが訊いてんのっ」込み上げてくる苛立ちに、自ずと語気が荒くなる。
「仕事」に関しては常に冷静でいる吉澤にとって、珍しい事だった。「怖いんでしょ? 怖いって言いなよ!」
「銃は怖いけど、あなたは怖くないよ」柔らかな口調で少女は言う。
吉澤はかっとなった。胸の早鐘はすでに痛いほどになっている。なんだか自分を全否定されたような気がした。
もう一方の手で少女の肩を掴むと壁の方に向けた。
「壁に手を突いて!」
それでも振り返ろうとする少女にさらに吉澤は、「早くッ!」
少女は鞄とラケットを床に落とすと背中を向け、言われた通りに壁にぴんと伸ばした両手を突いた。
「足を広げるのっ」
吉澤は少女のふくらはぎの内側を蹴った。はずみで身を崩しそうになりながら、少女は言われた通り、両足を肩幅に広げた。
壁を見たままで少女が、「どう、するんですか?」
「黙って!」
息遣いが荒くなっていた。銃を構える手をさらにもう一方の手でホールドして、少女の背中に近づく。
吉澤は、「なんで怖くないの・・・?」努めて冷静な口調で訊いた。
しかし、少女は黙ったまま答えない。
「なんで怖くないのって訊いてんのッ! 答えなよッ!」大声になる。
「だって・・・」と、少女の背中が言った。「さっき、『黙って』って・・・」
調子を狂わされっ放しだ。
どうしてなのか、吉澤は分からない。殺すしかないはずだ。現場を見られた。顔を見られた。殺すしかないはずなのだ。
なのに、躊躇っている自分。この状況で殺すのなんて、簡単なことだ。なのに、なぜ殺さないのか。
「本当は、怖いんでしょ?」吉澤は、今度は諭すような口調だ。唇の先がびりびりする。
少女はこうべを振ることで答えた。さらさらの肩までの黒髪が揺れた。髪からうっとりしそうないい匂いが広がった。
吉澤は、自分の目尻がヒクついているのに気がつく。銃を後頭部に当て、少女の小さな頭を壁に押し付けた。
少女のかたちのいい額が壁に擦りつけられる。しかし少女は「うっ・・・」と小さな悲鳴を上げただけで、また沈黙してしまう。
気に入らない。このコの全てが気に入らない。
吉澤は銃を握る手に力を込め、銃口で後頭部をぐりぐりと押し付ける。
強がりを言っているだけだ。バカな事を言う。「怖くない」だって? そんなことがあるはずがない。
自分の一瞬あとの命がないかもしれないのだ。怯えない方がおかしい。このコは怯えている。私を怖がっている。
そうに違いない。そうでなくては、そうでなくては・・・・・・。
「あなたはわたしのこと、殺さないと思う」
少女の発した、まるで挑発するかのような言葉に、冷静さを取り戻そうとする吉澤の思考はますます大きく揺れた。
吉澤は大きく息をつくと、意を決したように、「これでも怖くないの?」と言って、銃を握った手をいきなりスカートの中へ潜り込ませた。
その刹那、少女の腰がひけた。
その小さな仕草に、吉澤は微かに満足する。
固く冷えた銃口が、少女のショーツ越しに股間を撫で上げていた。
「わたしが引き金を引けば、あなたの大事な部分から脳天まで弾丸が貫いて・・・死ぬ」吉澤は低い声で囁く。
少女のふくらはぎが震え始めた。
上擦りそうな声で少女が、「こんなことして・・・どうなるんですか・・・?」
「怖いんでしょ?」
「怖く・・・ありません・・・」
吉澤は銃口で少女の肉襞をゆっくりと撫で続ける。
「意地張らなくてもいいじゃん」
「んっ・・・」
息遣いが荒くなってくる。少女だけではない。吉澤もだ。胸の辺りが熱くなってくる。
「怖いんでしょ? 怖いって言ったら、殺さないであげる」
「あなたは・・・どっちにしても、殺さない・・・」
「いい加減にしなよ!」叫びながら吉澤が一歩踏み出し、少女の背中に身を押し付けるようにした。
不可思議な苛立ちは頂点に達していた。「このっ!」
少女の細い身体が壁と吉澤にぴしゃりと挟まれてしまう。
銃口が少女のショーツを引っ掛けて下ろしていく。スカートの裾からいびつに伸びた白いショーツが覗いた。
膝の上までショーツを下ろすと、銃を今度は背中に押し付ける。
そして今度は、空いている手がスカートの中へ潜り込んだ。間もなく、指先が少女の媚肉を探り当てた。
吉澤は驚いた。
少女は濡れていた。
引き下げたショーツの中央に、うっすらと染みが広がっていたのに気付く。
「な・・・なによ・・・何感じてンの?!」
心の暗闇の奥底で、何かに火が点いた。
「怖いでしょ? つらいでしょ? 恥ずかしいでしょ? 悔しいでしょ?」
言いながら指先を引き抜き、銃口を再び潜らせる。指の腹は少女の蜜でじっとりと濡れていた。
少女の吐息が湿り気を帯びてくる。
「はあ・・・はあ・・・・・・あっ・・・」
銃を握る手が動くたびに、プリーツスカートの裾がこすれてひらひらと踊る。
少女の肩が小刻みに震えてきたのが分かる。
吉澤は完全に我を忘れていた。吉澤を支配していたのは征服欲だった。自分を恐れない女を蹂躙し、思い知らせてやる。
それはある種、防衛本能のようなものだったかもしれない。
少女が頭を振り乱し、丁寧にセットされた髪が乱れた。
「あっ・・・んああっ・・・・・・」
少女の口を突いて出る喘ぎが、熱っぽくなってきた。
思えば、異常な状況だった。男の死体が転がり、その前で男の娘を、男を殺した女が好きなようにしているのだ。
吉澤はつい興奮の余り、引き金を引いた。
かちん、と小さく渇いた音が響いた。
その瞬間、少女は背をひくんと反り返らせた。
「ひくっ・・・うは・・・あ・・・ああっ・・・」
これまで懸命に少女の身を支えていた細い両足ががくがくと震えた。
壁に手をついて崩れ落ちる少女を見下ろしながら、吉澤は徐々に正気を取り戻していた。
急速に熱が冷めていく。いつの間にか、今さら殺そうという気持ちは消え失せていた。
銃口が濡れまみれ、艶やかな黒い光を放っている。
「空は3発目だけよ」
言い放つと、吉澤は部屋を出て行こうとした。
その背中に、乱れた息遣いもそのままに、少女の声が追ってきた。「やっぱり殺さなかった・・・」
振り返ると、少女がぺたりとフローリングに座り込み、上気した頬で吉澤を見ていた。
どうにかなりそうだ。これまでずっと守っていたものを壊されてしまいそうだ。
でも、殺せない。なぜかは分からないけれど。
もしかしたら殺さない事で、やはり自分のなかの何かを守っているのかもしれない。
「名前・・・」少女が言った。
「え?」
「なんていうの?」
「もう会わないんだから、名前なんて必要ないでしょ」
「・・・・・・」
吉澤は踵を返し、廊下に出た。
階段を下りる吉澤に、さらに少女の声が降って来た。「誰にも言わないよ」
足を止めて見上げると、少女が柔らかく微笑みながら、手を振っていた。
怪訝な表情を浮かべ、吉澤はなぜか眩しさを感じた。
「今日夕方6時ごろ、石川物産の社長、石川博光さん47歳が、自宅の2階にある書斎で倒れているのが発見されました。
石川さんは頭と胸に銃弾を受けており、発見された時にはすでに死亡していたとの事です。
今日は夕方から石川さんひとりが家におり、帰宅してきた長女の梨華さんが倒れている石川さんを発見し、警察に通報しました。
死亡時刻は夕方5時頃と考えられ、梨華さんが帰宅する直前に殺されたものと思われますが、
梨華さんは不審な人物は目撃していないということです。家には鍵が掛かったままでした。
石川物産はここ数年で、インターネット商取引きで業績を伸ばし、昨年は東証1部にも上場しました。
また、政界とのパイプも何かと取り沙汰されています。
警察は捜査本部を設置し、怨恨の線で周囲の聞き込みなどの捜査をしていますが、
配電の一部が意図的に切られていること、家の中に荒らされた痕跡がなく、遺留品も見つかっていないことから、
一部の捜査員はプロの仕業ではないかと話しています。また情報が入り次第、このニュースをお伝えします。
では次のニュース・・・」
「どうしたの?」頬杖を突いたまま、後藤が訊いた。
「え・・・何が?」突然のことばに、吉澤の声が微かに上擦る。
「なんか、あった?」後藤の目が、真っ直ぐに吉澤のそれを見据えている。
吉澤は目を伏せて、「別に・・・」
ふたりはセミダブルのベッドで肩まで布団を被り、横たわっていた。
夜。壁掛け時計はちょうど2時を回ったところ。
吉澤の部屋。インテリアも最低限しか置いていない、すっきりした部屋だ。3LDKに独り暮らしは広すぎるが、ひと部屋は遊ばせている。
「なんで?」吉澤は逆に後藤に訊く。
「今日、なんか、カンジ違ってたから」
後藤はさっきの「行為」のことを言っているのだ。後藤の責めに、いつも以上に乱れてしまったのは吉澤自身が感じていた。
行為のあいだ中、吉澤の頭に浮かんでいたのは、昨日出会ったあの少女だった。
後藤の唇が乳首をついばめば、あの少女の黒目がちの瞳を思い出し、
後藤の指が秘部の媚肉をなぞれば、あの少女の髪からほのかに漂う香水の匂いを思い出した。
すると、自ずといつもより敏感になってしまったのだ。
だから、事が終わったあと、後藤とはなんだか話しづらかった。目を合わせづらかった。
「別に何もないけど・・・そんな日もあるよ」
そう言って、吉澤はぎこちない笑みを浮かべた。
「ふ〜ん・・・」後藤は仰向けになると、あはっと笑った。「あんなよっすぃー見たの、初めてだなー。
だってさ、『早く、イかせてーッ!』だもんね」
吉澤の頬が、かあっと赤くなる。「言ってないって!」思わず大きな声になる。本当に覚えていなかった。
「言ったよ」後藤がニヤけたままで言う。
「言ってない」
「言った」
「言ってないって」
「あ、イッてないの?」
「・・・っ?」
次の瞬間、後藤の唇が吉澤の耳を探っていた。
「ふぁあッ・・・!」
突然に弱いところを捉えられ、吉澤の顎が上がる。
「だったら、ちゃんとイかないとね」耳元で直接後藤が囁く。甘い息が耳たぶをくすぐる。
「あっ・・・ちがっ・・・んんっ・・・」
「もっと、よっすぃーのえっちな声聞きたいなぁ、っと」
後藤の手が吉澤のしなやかな身体を這い回りだした。
吉澤にとって、後藤はとても都合のいい友人だった。
何せ、こんなにいい部屋に住んでいても吉澤には何も訊いてこない。両親はどうした、とか、生活費はどうなってるの、とか。
もし後藤がそういうことに興味を持つようだったら、こんな関係になってはいなかっただろう。
逆に、吉澤も後藤の事を何も訊かない。なぜ頻繁に外泊できるのかなんて興味はない。
後藤が学校で誰かと仲良さそうに話しているのを見たことはない。
吉澤も、親友と呼べる人はいなかった。
お互い寂しいから、こんな風に身を寄せ合っている。愛があるのかどうかなんて、どうでもいい。そう思っていた。
隣に誰かがいて欲しい夜がある。後藤でも誰でも良かった。例えば・・・。
嬌声を上げながら、吉澤はまたあの少女の事を思い出す。あの、吸い込まれそうな漆黒の瞳の色を。
♯2
記憶を遡って行くと、辿り着くのはマンハッタンに立ち並ぶビルということになる。
初めてひとを殺した日。
9歳だった。
堂々と近寄って行っても、ヒスパニック系の太った中年オヤジは、アジア系の黄色いガキが目に入らなかったらしい。
至近距離で懐からいきなり銃を出され、オヤジは一瞬の驚愕に満ちた表情のあと、単なる肉塊となって崩れ落ちた。
黄昏が迫るひと気のないブロンクスの波止場で、予定通り「目標」を射殺した後、ほのかに漂う硝煙の臭いを鼻腔の奥で感じながら、
吉澤はなんとなく動けずにいた。感慨はなかった。ただ、何かを失ったような気が、した。
目の前に崩れ落ちたままの禿げ頭から何気に振り返ると、
目に映ったのはイーストリバーを挟んで遠くに霞んだマンハッタンのビル街だった。
金色の夕焼けを受けて琥珀色に染まったそれはまるで、いくら走っていっても辿り着けない別世界のように見えた。
そのとき初めて、切なさというものを知った。
頭痛で目を覚ました。
「痛ッ・・・」呟いて吉澤は身を起こし、ベッドから抜け降りる。
隣に眠っている後藤はまだまどろみの中にいるようで、涎をたらしたまま、小さないびきを立てていた。
右の後頭部から頭頂部にかけて、太い針金をぐいぐいとねじ込まれていくような痛み。
口許を歪めながら思い出した。昨日の夜、薬を呑まなかった。痛みはきっと、そのせいだ。
痛い辺りの頭を軽くさすりながら、吉澤はリビングの戸棚から薬の入った小さな紙袋をいくつか取り出す。
窓の外はまだ薄暗い。遠くに見える山の上端の境界がうっすらと見え、夜明けが近い事を教えていた。
吉澤は袋を逆さにして中の薬を全部出す。炬燵机にはカプセルや錠剤、粉薬の袋が無数にがささッと散らばった。
息遣いも荒いまま、キッチンでグラスいっぱいに水を汲んでくると、扇形に広がった薬の山から手際よく必要なものだけ選び出す。
夜の分はもう間に合わない。とりあえず朝の分と、頭痛の時に呑むよう貰っている臨時の痛み止めを選ぶと一気に口の中に含み、
グラスの水で全て流し込んだ。
最近、ひどくなってきている。規則正しく薬を呑んでいても、2、3日にいちどは、これほどではないにしても、頭痛がやって来る。
頭痛だけではなく、ものが二重に見えることもある。思っている以上に進んでいるのかもしれない。
薬が効いてくるまで20分ぐらい掛かる。
症状の軽快を待つ間、吉澤が炬燵に突っ伏していると、不意に、
「どうしたのぉ?」
間の抜けた声がした。
「ごめん、起こしちゃった?」吉澤は顔を上げて、ベッドで目をこすっている後藤に言う。
「ん〜、いーけど・・・」と、後藤もベッドから抜け出すと、のろのろと炬燵に入った。「また頭痛?」
「うん・・・」
「それってさ、直らないの? お医者さんに診て貰ってるんでしょ?」
「・・・うん」
吉澤が頭痛で体育の授業を見学したり、保健室に行くことは珍しい事ではなかった。後藤も心配そうに声を掛けてくれる。
しばらく辛そうな吉澤の表情を見ていた後藤だったが、腰を上げると吉澤の後ろに回り込み、背中からぺったりと抱きしめた。
「ありがとね・・・」笑顔を作って吉澤は言った。「もうちょっとしたら、マシになると思うから・・・」
後藤の体温を背中に感じながら、吉澤は明るくなってきた空の色を見ていた。
――あと何回、朝を迎えられるんだろう。
吉澤はそう思うと、少し洟をすすった。
不意になぜか、昨日、「仕事」の「現場」で出会ってしまった少女のことが思い出された。
携帯が鳴った。
吉澤は充電器に差したままのメタルレッドの携帯に手を伸ばした。
『あ、吉澤か?』
「はい」
ちょっとハスキーがかった、独特の艶のある関西弁。いままでの吉澤の人生の中で、いちばん付き合いの長い声だ。
『今、ええか?』
「ちょっと・・・待って貰えますか」
吉澤は回されたままの後藤の手をやんわりと解いて立ち上がり、後藤に手刀でゴメンとやると、携帯を持ったままベランダに出た。
夜明け前のよく澄んだ空気が吉澤の頬を微かに痺れさせる。
「どうぞ」
『昨日の仕事の報酬払うから、来月の25日、どうや?』
「ずいぶん先ですね、3週間ぐらい先」
『すまんな、いろいろ忙しくてな。生活費はちゃんと振り込んでるやろ、足らへんのか?』
「いえ、大丈夫です。で、25日、何時ですか?」
『それはまた追って連絡するけど、夕方ぐらいやな』
「いいですよ」
『じゃあ、そういうことで頼むわ』
「はい」
携帯を切る。
その様子を後藤が窓越しに、なぜか笑みを浮かべたまま見ていたことに、吉澤は気付かなかった。
英真女子高校。吉澤と後藤が通う学校である。それなりの進学率、それなりの生徒の質、それなりの教師の質。
すべて、可もなく不可もない学校だ。
1年D組の教室。
吉澤は授業中、ずっと空ばかり見ていた。
外は雨だった。重々しい灰色の雲が幾重にも重なり合って空を覆っている。降りしきる雨は、しばらく止む気配はなかった。
古文の授業はサイテーだ。大昔のことばを習ってどうなるっていうんだ。第一、教え方が良くない。
面白さを伝えようとする教師の情熱というものが全く感じられない。テストの点が悪かったら、それは教師のせいだ。
読経のような和歌の解釈の説明が延々と続く中、吉澤は窓枠に切り取られた空を眺め、あの少女の事を考えていた。
なぜ少女は怖がらなかったのか。
なぜ少女は父親を殺されて「ありがとう」と言ったのか。
なぜ少女は自分の事を警察に話さなかったのか。
答えが出るはずもなく、繰り返されるそれらの疑問が、吉澤の心の襞にあの少女の姿を刻み込んでいく。
父親の死体の前で、「ありがとう」と静かに言った少女の柔らかな微笑みが思い出される。
それはその時、吉澤の心の奥底にある何かに確かに、触れたのだ。
あれから2週間になる。しかし、そうした感情がますます濃厚になっていくのに気付いていた。
昼休み時間になった。後藤が予め買ってあった菓子パンを抱え、吉澤の席にやって来た。
空いていた前の席に後向きに座るなり、後藤は言った。「なーんかヘンだよね」
「なにが?」鞄の中から作ってきた弁当を出しながら言う。
「よっすぃーが」
「ヘンって? 別に、いつも通りだよ」
すると後藤は机の上に顎を乗せ、上目遣いになって、「恋だ」
「なにそれ」
後藤の目の前に、吉澤の弁当箱が開かれる。鮮やかな色合いの鳥そぼろご飯だ。
「だってさ、ヘンだよ、絶対。授業が終わっても、ボーッと外見てるしさ。
これはさては浮気に違いない」そう言って、後藤はへらっと笑った。
「違うよ、ごっちん」と、吉澤。目を伏せて、箸を口に運ぶ。
「ふーん、ま、いっけどね。」後藤もヤキソバパンの袋をびりびりと破った。
そのあとしばらく、後藤が昨日見たというテレビの話を延々と聞くことになった。
ふたりとも昼食を食べ終わった頃、
「あ、雨、上がったね」と、後藤が外を見て言い、「あれ?」と、立ち上がった。
「どしたの?」吉澤は後藤を見上げた。
「よっすぃ、ほら、見て」外を見遣ったまま、後藤が言った。
「え?」と、吉澤も外を見た。
「ね、あの煙突の辺り」
後藤が指差した先を見る。
「あ・・・」吉澤は思わず声を漏らした。
うっすらと虹が出ていた。雲の切れ間から薄日が差して、虹はその足にあたる部分だけを気恥ずかしそうに浮かび上がらせていた。
「虹って、久々に見たー」嬉しそうに後藤が言う。
吉澤は虹を見ながら、何となく思った。
――会いに行ってみようか・・・?
帰りの電車の中でも、中吊り広告や車窓を見て気を紛らわせようとしたが、それは上手くいかない。
あの少女に会いに行く必要がない理由を探した。次に、会う必要がある理由を探した。だが、どちらも答えは出なかった。
ただ、予感めいたものはあった。それだけが吉澤を動かしていた。結局迷いながらも、足はあの少女の通う女子高に向いていた。
万が一会ってしまったときの言い訳を考えていたが、いいアイディアが思いつかないまま、
少女の通う女子高の正門の前まで来てしまった。
――何してんだ、わたし。何かを期待してんの?
――だいいち、会ってどうするって言うんだ?
そう思いながらも、校門の前に吉澤は立ちつくしていた。下校する生徒たちが鈴なりになって、吉澤の傍を通り過ぎていく。
他校の制服を、もの珍しそうな視線が舐めていく。
ときおり風が吹いて吉澤の髪を軽く舞い上げ、吉澤のうなじを冷やす。吉澤は巻いていたベージュのマフラーを結び直した。
校門の脇に赤いスポーツカーが止まっていた。屋根がフードになっているやつ。おそらく学校帰りの誰かを待っているのだろう。
若い男が運転席でタバコを噴かしている。
ここにいてもどうしようもない。でもなんとなく、もうひと目、見たい、気がする。
そんな葛藤の中で、吉澤は思い出した。少女は今日も部活のはずだ。当然帰りも遅くなる。会えるはずがない。
そこまで考えると、吉澤は安心した。だがすぐに、なんで安心するんだ?と自問自答する。
そのとき、ひとりの少女が人波を掻き分けて走ってくるのが見えた。
どきりとした。思わず目を逸らす。
しかし、人違いだった。そのコが吉澤の隣を軽やかに通り過ぎ、スポーツカーに近寄ると、
運転席の男に「待った?」などと話し掛けている。あの少女に髪形が似ていた。
落胆と安心。ふたつの感情がない交ぜになって、吉澤はため息を漏らした。
吉澤はそんな風に感情を振り回されている自分を振り払うように踵を返し、下校する生徒の波に混じって駅に向かおうとした。
そのとき、突然背中をぽん、と、叩かれた。あの少女だった。
「こんにちは」
少女はそう言って、にこりと笑う。
「あ・・・」吉澤は焦った。何て言えばいい。
口を半開きにしたまま困った表情を見せていると、少女が言った。「わたしに会いに来てくれたの?」
「た、たまたま通りがかっただけ・・・」目線を逸らして言う。下手ないい訳だと思う。どう考えたって、こんなところを通りがからない。
だが、「そうなんだ」と、少女は意外に素直に納得する。そして吉澤の全身を上から下までざっと見て、言った。
「英真なんだね」
「え?」
「制服、それ、英真でしょう?」
本当にどうかしていると思った。制服のまま来てしまったなんて。
「ホント、通りがかっただけだから」
そう言って、吉澤はその場を辞そうとした。
制服を言い当てられた事で、これまで侵された事のなかった自分のテリトリーに危うさを感じたからかもしれない。
「あ、待って」
「なに?」
「名前・・・教えて」
「名前なんて教える必要ないでしょ」
吉澤はそれだけ言い放つと、勝手に歩き出した。自分が歯痒かった。自分はわざわざここまで何をしに来たというのか。
「わたしね」と、少女が吉澤の横に追いついて言った。「石川梨華っていうの、よろしくね」
「知ってるよ」視線もくれず、そっけなく吉澤は言った。
吉澤が歩く横を、石川も並んで歩く。
吉澤は立ち止まり、「付いて来るの?」石川の顔を見て、眉を潜めた。
合わせて立ち止まった石川は、「でも、こっち、駅だから」けろりと言う。
「今日、部活じゃないの?」
「あ・・・すごい! ホント、何でも知ってるんだ?」石川は嬉しそうに声を上げる。
砂糖菓子みたいに、可愛らしくて甘い声だなと吉澤は思った。
「目標」に関する資料には、当然、娘のことも詳細に書かれていた。
すべてに目を通し、不測の事態にもできるだけ対処できるようにしておく。吉澤はいつもそうしている。
石川梨華の生年月日、趣味からクラスの出席番号、所属しているテニス部の成績に至るまで、吉澤は知っていた。
「でもね」と、石川は続けた。「昨日で部活、辞めちゃったの」
「部長なのに?」
「えーっ、そんなことまで・・・」石川は再び、嬉しそうに驚いた。「テニスはね、辞めちゃったの。この間・・・あなたと初めて会った日」
「ああ・・・」ばつが悪そうに目を伏せる。それであの日、帰りが早かったわけだ。
「なんで部活やめたの?」
「他にもっと好きな事が出来たから」
「他の好きな事って?」
「知りたい?」
「あ・・・」不意に訊き返されたその問いで、すっかりノセられそうになっている自分に気付き、「別に・・・」そう呟くように言って、また歩き出す。
早足になる吉澤に、歩調を合わせて付いて行きながら石川が、「いい色のマフラーだね」
「・・・・・・」
「でも、わたしはねえ、ピンクがいっとう好きなの。あなたは何色が好き?」
「・・・・・・」
「わたし、あゆが好きなんだけど、あなたは普段、誰聞いてるの?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
吉澤は黙ったまま歩いていく。駅の無愛想な鉄筋の屋根が見えてきた。
しばらく石川も黙ったままだったが、
「・・・絵をね、始めたの」思い出したように口を開いた。「だから部活、やめたの」
しかし吉澤は聞く耳を持たないまま、切符の自販機の前に行く。
コートのポケットから財布を取り出した、その瞬間、横から出た手がそれをするりと奪い取った。
「ちょっ・・・なにすんのッ」
吉澤が声を上げた時には、石川は財布を手に笑っていた。
「返せっ!」
吉澤の手を逃れるように石川は背を向けて屈み、財布の中の生徒手帳を取り出した。
「吉澤ひとみ、1年生、わたしといっしょだ」
前に回りこんだ吉澤が無理矢理財布を奪い返した。
「あっ」
石川も身を起こす。そこへ吉澤の平手が飛んだ。
小気味のいい音に、周囲の人々が目を向ける。コンコースの売店のおばさんも何事かと出て来て見ている。
セーラー服の襟を掴み上げ、吉澤は微かに震えた唇を開きかけた。しかしそれよりも先に、
「殺す?」徐々に赤く染まってくる頬に触れもせず、石川が静かに訊いた。
吉澤は言葉に詰まる。
まるで心を鷲掴みにされているようだ。
彼女は理解している。吉澤にそんな気はないのを。
お互いにその理由は把握していないが、すでに心のどこかで何かを共有しているかのようだった。
決して誰にも触れられた事のない部分に触れられている気がした。しかも、それは決して悪い気がしない。
むしろ心地いい。だからこそ、吉澤は戸惑っていた。
「友達にならない?」と、石川は言う。「ケイタイの番号教えてよ」
答えずに手を解き、吉澤は券売機に向かう。ホームに降り、電車を待つ。
電車に乗っても、ずっと石川は付いて来ていた。「電話番号聞くまで付いて行っちゃう」のだそうだ。
何かを話し掛けてくるでもなく、ひたすら隣にぴたりとくっついていた。
たまに彼女に目を遣ると、「教えてくれる?」と、口の動きだけで言った。このままでは家にまで付いて来そうだ。
吉澤にある思いつきが浮かんだ。わずかに罪悪感があったが、仕方なかった。
とある駅で吉澤が降りた。石川は勿論、何も知らないまま付いて行く。
駅前の商店街を抜けると、少し寂れた街並みが続く。
斜め前の吉澤が突然、歩の向きを変え、モルタル造りの白い建物の前に開いている地下への階段に入った。
石川は戸惑いながらも、吉澤の後を慌てて追う。
薄汚れた階段の壁には、スプレーで様々な落書きが所狭しと埋め尽くされている。
なかには石川が思わず赤面してしまうような卑猥なものも少なくなかった。
視線を漂わせながら、石川は吉澤の背中に続き、階段の奥にあるドアの中に入った。
途端に鼓膜をびりびりと震わせる音楽と喧騒が石川を包んだ。それは石川にとって、不快以外の何物でもなかった。
ドアの向こうに広いホールが広がった。
薄暗い照明の中で、外のひっそりした雰囲気からは想像できないような人込みが、
それぞれに身体を好き勝手に踊らせているのが、浮かび上がっている。周囲に設けられた丸テーブルは埋め尽くされ、
タバコを吹かしたり、男が女の身体をまさぐったりしている。
換気装置がきっちりと働いていないのか、悪心を催すような空気の悪さに胸が詰まりそうになる。
石川の中に徐々に不安が込み上げてきた。
吉澤は人込みを縫って、ホールの奥に足早に歩いていく。見失わないように、石川も後を追う。
制服を着ているのはふたりだけのようだった。周囲の視線を浴びているのを感じる。
入り口とは反対側の奥まったところから廊下が伸びていて、吉澤はそこに入って行った。
続いて石川が廊下に入ったとき、吉澤の姿は跡形もなく消えていた。
あれ?と、石川は周りをきょろきょろ見回す。ドアがひとつあって、上にはトイレの表示があった。
トイレのドアを開け、石川は中を覗いてみる。
ぎょっとした。
薄暗い照明のなかで、男性用の便器がふたつ並び、個室がひとつあった。個室の中から、女の嬌声が聞こえてくるのだ。
いっしょにぎしぎしと妙な音、おそらく便器の蓋が軋む鈍い音が聞こえてくる。ときおり男の荒い息遣いも聞こえる。
呆然としたままの石川の背中に野太い声が掛けられた。
「どうしたの、彼女、迷子?」
石川が振り返ると、そこには3人の男が狭い廊下を塞ぐように立っていた。
「あの・・・あ、人を探してるんですけど」本能的に危険を感じた石川は、声の震えを抑えて言った。
「紺のブレザーの制服を着た女の子なんですけど・・・知りませんか?」
「見たか?」スタジャンを着た、太った男が言った。さっきの声だ。
「いーや、見なかった」答えたのは肩まで伸ばした髪を赤く染めた男だ。
「それよかさ」と、最後のひとりが黒ずんだ歯茎を見せながら言った。ぴったりとしたシャツがひょろながい胴体を包んでいる。
「ヒマだったら一緒しない?」
「でも・・・」石川が目を伏せながら言う。
「ひとを探してるから・・・」
「どーだっていーじゃん、ね?」
赤毛が屈んで石川のカオを覗き込んだ。
「たのしーよ」デブが言う。
「な?」と、痩せっぽちが石川の細い手首を掴んだ。
「きゃあッ!!」
石川は反射的に叫んでいた。
「離してッ! 離して下さいッ!!」
痩せっぽちの手を振り解こうとするが、びくともしない。
石川は無理矢理トイレに連れ込まれた。
締まったままの個室のドアを赤毛がノックして、「入ってますかァ?」間延びした声で訊く。
さっきまで悦楽の声を上げていた男女の声はしんと黙り込んでしまっていた。
赤毛がドアを開けようとするが、ガタガタさせても開かない。
デブが「ココ、使いてーんだよ!」と怒鳴り、ドアを蹴りだした。
ともすれば木のドアを蹴破りそうな勢いの蹴りに、「出るよっ、出るからっ」と男の焦った声がして、
すぐに下半身を露出させたままの男女が服を抱えたままトイレを駆け出していった。
石川は奥歯を噛み締めて、その様子を見ていた。
痩せっぽちが石川の顔をまじまじと見て、「ちょっと、めちゃ可愛くねー?」
デブが「おお、当たりだよ、大当たり」と、口許をだらしなく緩めて言う。
「どうする?」赤毛が言う。
「輪(ま)姦(わ)すか?」
「輪(ま)姦(わ)しますか?」
「輪(ま)姦(わ)すしかないでしょ?」
「大人しい顔してるコほどスケベだったりするしね」
石川は後ずさっていく。しかし、狭いトイレだ。すぐに靴の踵が壁に当たってしまった。
卑猥な視線で舐めまわされながら、石川はきっと吉澤が助けてくれると信じていた。しかし、他にひとの気配はない。
石川は個室の壁に押し付けられ、デブが押さえ込んで動きを封じた。デブの息遣いが耳元にかかり、吐き気がした。
「いい匂いだなー」デブがうっとりした口調で言った。
「いやっ! やめてっ! いやああッ!!」
「るせーって!」赤毛の手が、叫ぶ石川の頬を挟み掴んだ。
「ほらあ、美人が台無しじゃぁん」
涙目になって、石川はそれでも「やめて、下さい・・・」と、細い声で言う。
「だめェ〜〜」ふざけた口調で痩せっぽちが両手で大きな×を作ると、石川のスカートの中に両手を入れ、
ショーツを掴んで膝まで一気に引き下ろした。
急に股間がひんやりする。石川は力を振り絞って全身をくねらせるようにし、デブを振り解こうとするが、
「元気だなあ、何発でもやれるなあ」と、デブはますます石川の華奢な身体を押し付ける力を強くする。
赤毛が横から手を伸ばしてセーラー服のタイの結び目を緩め、胸元を露出させた。
上品な光沢をたたえたシルクのスリップが隙間から覗く。
「いーねー」痩せっぽちが拍手する。
「じゃあ、頂きますか」と、赤毛が石川の首筋にキスしてきた。
おぞましい感覚が石川を襲う。逃れようにも、首を少し傾けるのがやっとだった。ぬるぬるした生温かさが首筋を這い回る。
デブの大きな手のひらが服の上から胸の膨らみをまさぐり始めた。
「おっ?! 意外にでけえよ」デブが嬉しそうに言う。
デブの肩越しには、痩せっぽちがジーンズのベルトを弛めているのが見えた。
「や、めて・・・え・・・」
恐怖で石川は、もはや叫ぶ事さえ出来ず、頬を引き攣らせるしかなかった。
その時。
石川の目に痩せっぽちの背後に一瞬、人影が映ったかと思うと、次の瞬間には、
「ぐッ?!」
小さな叫びを発すると、痩せっぽちは脇腹を抱えてうずくまっていた。
「ひとみちゃんッ!」
石川の顔が途端にぱっと輝いた。
小刻みに震える身体を横たえたままの痩せっぽちの後ろに、吉澤が立っていた。
「もうその辺でやめといたげたら?」吉澤は落ち着き払った口調で、無表情のまま言った。
赤毛とデブが振り返る。
「お前、このコのお友達か?」赤毛が殺気を孕みつつ言う。
一瞬の間のあと、「まーね」吉澤は答えた。
「ちょうどいーや、お前も一緒に楽しまねえ?」デブが言う。
「お誘いは嬉しいけど、謹んで辞退しとく」
「つれないなあ」と、赤毛が吉澤に歩み寄った。しかし吉澤は動かない。
「そんなこと言わずにさぁ・・・」
赤毛が吉澤の肩に手を掛けた瞬間、吉澤が赤毛の手を払い除けた。
「なんだ? 挑発してんのか、自分」
赤毛は嬉しそうに言うと、ジーンズのポケットに手を入れた。そして、出してかざした手にはバタフライナイフが握られている。
吉澤の目の前で素早く刃を躍らせて見せる。
「お約束通りだね」と、しかし、吉澤は平然としたままだ。
赤毛は適度な間を保って吉澤と対峙する。
と、赤毛のナイフが吉澤に向かった。
吉澤は最低限の動きでそれを平然と紙一重で避けると、次の瞬間にはスカートを翻して高く伸びた足が、
赤毛のこめかみにヒットしていた。床のタイルに頭を打ち付けるようにして、赤毛は倒れ込んだ。
「手前ェ・・・」
デブは押し殺したように言って、石川を個室の壁に打ち付けるように放すと、吉澤と向かい合った。
「口ばっかの奴ら・・・」吉澤はつまらなそうに呟いた。
「心配すんな、あとでオレが思いっきりヒーヒー言わしてやるからよ」デブが口許を醜く緩めた。
「突いて突いて突きまくってやるから」そう言って、上唇をぺろりと舐める。
吉澤は「ホント? 意外に可愛らしいんじゃないの?」
言いながら、石川に目で「逃げろ」と合図を送る。
石川は小さく頷くと、トイレを飛び出していく。
「あッ! 待てッ!」
デブの注意が逸れた瞬間、吉澤の足がデブの脇腹に飛ぶ。
「うおっ?!」
意外なほどの俊敏さでデブは避け、革靴の先がわずかにスタジャンの裾を掠る。
しかし吉澤は攻撃の手を緩めない。避けた拍子にバランスを崩してよろけたデブのみぞおちの真ん中に、吉澤の拳が食い込んだ。
「ぐっ・・・」デブは小さく息を詰まらせる。
「ヒーヒー言わせてやろうか?」吉澤は訊いた。しかし、その余裕に満ちた表情はすぐに掻き消されてしまう。
見上げたデブの顔がにやりと笑みを浮かべたからだ。
咄嗟にデブの懐から抜ける。
なにか格闘技を心得ているのかもしれない。
吉澤は心の中で舌打ちした。肉弾戦は苦手だ。吉澤は格闘技に関しては素人に毛が生えた程度だった。
そもそも、石川を放っぽり出して、勝手に帰るつもりだったのだ。
それが、自分が仕掛けた事にもかかわらず、なぜか心配になって戻り、ドアの隙間から石川が蹂躙されている様子を見ているうちに、
勝手に体が動いてしまっていたのだ。
――ホント、なにやってんだか、わたし。
デブの拳が吉澤の胸元を襲う。またもや敢えて紙一重でかわしつつ、吉澤は間を取るべく後ろに飛び退いた。
着地の瞬間、後頭部に鋭い痛みが走った。
しかも、頭痛だけではなかった。デブの輪郭が二重に見えた。眼球がヒクヒクと痙攣しているのが分かる。
――ちくしょ・・・こんな時に・・・ちゃんと薬呑んでるのに・・・。
と、吉澤の目の前が急に暗くなった。
一瞬集中力が途切れた間に、何が起こったのか分からなかった。
汚れた床に身体をうつ伏せに押し付けられて初めて、デブに全身で押さえ込まれているのに気付いた。
「どうやらヒーヒー言うのはそっちの方だな」背後からデブの声がした。
「さっきのコの代わりに、お前にするわ」
「くっ・・・この・・・」
吉澤は必死に抜け出そうとするが、ずっしりとその体重を掛けられていて、微動だにできない。
「まったく手間掛けさせやがって」と、デブは後ろ手に吉澤の右手を捻り上げる。
「ぐあああッ!!」
苦痛に悲鳴を上げる吉澤に満足そうにデブが言った。「ちょっと油断すると怖いからなあ、悪ィがこうさせてもらうぜ」
デブの手が吉澤のスカートを捲り上げた。青いショーツに包まれた尻肉が露わになる。
吉澤は屈辱を顔に滲ませながらも、どうする事も出来ない。
男の図太い指がショーツを引き下げ、白い柔肉を揉みしだいた。
「へへ」と、デブの笑いが漏れる。「締まりも良さそうだ」
指先を口に含んで舐めると、秘部に潜めた。
吉澤は異物感に唇を噛み締めて耐えていた。
指先が股間の奥に入り込んでいき、敏感な個所に触れようとしたその時、鈍い音が響き、
それが合図のように男の体重が抜けていった。
「?」
男は倒れているようだった。吉澤が顔を上げると、石川が立っていた。
頬は上気し、息遣いは荒く、その手にはどこから持って来たのか、消火器が握られていた。
「間に合った・・・?」石川はあどけない笑顔を見せた。
仕方なくケイタイの番号を教える事にした。悪い事をしたんだから、そのお詫びだと吉澤は自分に言い聞かせた。
石川の電車とは逆の方向だった。ホームで互いのケイタイのディスプレイを見せ合う。
「やっぱりわたしたち、友達にならない?」にこやかに石川が言った。
「なんであんたと」
「さっき友達って言った」
「あれは、成り行きで・・・メンド臭かったし・・・」決まり悪く吉澤は目を伏せた。
「わたしは共犯者だよ」
「共犯者?」
「そう。共犯者。犯人隠避もリッパな犯罪だよ」
そうだ。テレビのニュースで知る限り、石川は吉澤のことを警察には話していないようだった。
共犯者という言葉に甘美なものを感じた。これまでずっと、仕事はいつもひとりだった。
不意に、切なさが込み上げた。あのマンハッタンの風景が思い出された。どんなに走って行っても辿り着けない。
「なんで、そんなに泣きそうな顔してるの?」
吉澤は答えられない。
――自分はいま、どんなカオをしているだろう・・・?
――なんでこんなに・・・なんでこんなに、このコが・・・愛しいんだろう・・・?
♯3
吉澤は青いガウンを着て、横たわっている。無機質な白い天井がちょっとずつ下へ動いていく。
やがて、吉澤の頭は巨大なリング状の装置に徐々に呑み込まれていき、完全に首から上がすっぽりと入ってしまった。
中は暗い。しかし吉澤は目を開けたまま、暗闇を見つめていた。装置の出す重々しい轟音だけが響き続ける。
1時間後、制服に戻った吉澤は診察室の丸椅子に腰掛けていた。
午後の最後の診察だけあって外の待合も閑散とし、しんとしている。
時折、看護婦のパンプスの靴音だけが外の廊下をゆっくりと行き来する。
大学病院の脳神経外科の外来である。通い始めてもう3年になる。
「お待たせ」と、主治医の中山という女医が、フィルムの入った大きな封筒を抱えて診察室に入ってきた。
袋の表にはマジックペンで「吉澤ひとみ」と書かれている。
中山医師は袋からさっき撮ってきたばかりのMRIのフィルムを何枚か取り出し、1枚ずつシャーカステンに引っ掛けていく。
端にあるスイッチを入れると、シャーカステンの蛍光灯が瞬きながら点灯し、フィルムが浮かび上がった。
そこには、吉澤の頭の切断面がずらりと並んでいる。
「あぁ・・・」吉澤から嘆息が漏れた。
もう何度も見た自分の脳の断面である。どこに何があるかは一目瞭然だ。
下手をすると、フィルムを初めて見る医者よりも詳しく説明できるかも知れない。
中山医師は、吉澤がフィルムの所見を完全に理解したと思ったのか、それ以上、フィルムについては説明しなかった。
実際、吉澤は分かっていた。
脳の下方にある、明らかに周囲の脳の色とは違う色をした、いびつな楕円形が、3ヶ月前よりも若干大きくなっていることに。
「まあ、こういうことなんだけれど・・・」と、濁して結果を言うと、中山医師は椅子に軽く腰掛けた。
「どう? 最近の調子は」
「頭痛がちょっと、ひどくなってます」神妙に吉澤は答えた。
「ちょっと・・・?」眉を潜め、中山医師は念を押すように尋ねた。
「滅茶苦茶ひどいわけではなくて・・・」
「そう。他には? 例えば――」と、中山医師はフィルムに細めた目を向けて、「ものが二重に見えるとか・・・」
吉澤は思い出したように、「あ・・・あります。時々ですけど・・・でも、今みたいに忘れちゃってるほどの、時々、です」
「そう・・・」
それきり、中山医師は黙ってしまった。救急車のサイレンが近づいてきて、ひときわ大きくなったと思ったら急に止まった。
患者が運び込まれたらしい。
眉間に小さく皺を寄せたままずっと黙り込んでいた中山医師に向かって、「仕方ないですよね」吉澤は平然と肩をすくめて見せる。
中山医師は吉澤を見遣った。その視線は、明らかに同情を孕んだものだった。
堂々と、自然に振舞っているから却って痛ましい、という風に。
「んもう、先生、別に世界がお終いになっちゃうわけじゃないんだから、そんな辛気臭い顔しないで下さいよっ」
吉澤は沈黙を埋めるように、明るく言い放つ。
「先生って、そぉ〜とぉ〜、心配性ですね」
結局、薬は先月と同じ物に加え、頭痛時の薬を増やして出して貰った。
待合いのソファに座って薬を待っていると、コートの中の携帯が震えた。取り出してディスプレイを見るや、吉澤は大きな溜息をついた。
まただ。この1週間のあいだ、「会いたい」の一点張りだ。
携帯をそのまま仕舞ってしまう。ようやく止まったと思ったら、10秒も間を開けず、また震え出した。
「もおっ」吐き捨てるように呟いて立ち上がると、吉澤は小走りで玄関の自動ドアを通り、外に出た。
携帯のスイッチを入れて耳に当て、「もしもし」つっけんどんな口調になる。
『いるんなら出てよう』砂糖菓子の声だ。
「・・・会わない」
『まだ何も言ってないよ』
「じゃあ、何の用?」
『会いたいよー』
からかわれているのだろうか、と、本気で思ってしまう。
「今日はダメ。このあと、人と会うから」
『じゃあ、明日は?』
「あのさあ・・・」と、吉澤は溜息交じりに、「ウチら、別に友達でもなんでもないんだからさ」
『だからあ、お友達になりましょうって言っ――』
石川の言葉が終わるのを待たずに携帯の電源を切ると、吉澤は再び病院の中に入って行った。
「友達」の前にわざわざ「お」を付けるような人とは、一生縁がないに違いない。この間はきっと、どうかしていたんだ。
疲れていたんだ。吉澤はそう思うことにしていた。
――これまで通りに。すべてこれまで通りにやっていく。しかし、石川は自分をかき乱そうとする。
もしかしたら怖いのか? あんな小娘が? まさか、まさか・・・。わたしは平気で人を殺す女だ。どうして? 馬鹿馬鹿しい。
「悪いな、遅くなって。ちょっとニューヨーク行っとったんよ」
ドアを開けて吉澤を招き入れながら、髪を鮮やかな金色に染めた女が言った。
真っ白なバスローブで風呂上りのスリムな身体を包んでいる。
「どうやったんや?」
「なにがですか?」吉澤はリビングの長いソファに座る。程よい固さの革張りの感触が吉澤の尻を心地よく包んだ。
「今日、病院やったんちゃうの?」女も、ソファの斜め前に置かれた安楽椅子にゆったりと腰掛ける。
「あ、なんで分かるんですか」
「吉澤、病院行ったあと、絶対に常陸堂のベーグル買ってくるやん」
「そうでしたっけ?」と、吉澤は膝に置いていた常陸堂のロゴが入った茶色の紙包みに視線を落とした。
「そうや」金髪の女が笑った。
常陸堂は、病院の帰り道にある老舗のパン屋である。ここの、1日50個限定のベーグルは絶品で、吉澤のお気に入りだ。
都内、高級ホテルの最上階。何十畳もあるこの部屋に泊まっているのは、彼女ひとりである。
中澤裕子――アメリカにいた頃からずっと吉澤の面倒を見てきた女。
さらに、もう少し詳しく説明すると、事故で両親と兄弟を亡くし、異国で行き場を失った幼い吉澤を拾って育ててくれた女であり、
吉澤に殺しを含めた裏の世界の全てを教えた張本人でもある。
3年前、吉澤と共に帰国し、以来、時折殺しの依頼があるのは、すべて中澤からだ。
彼女は手を伸ばしてテーブルに置いてあった細長いワイングラスを取り、中にたっぷりと満ちた鮮やかな赤を揺らした。
「検査の結果は、まあ、いつも通り、どうってことはないです」
「そーか」中澤はワイングラスを口許に付け、ほんの少しだけ、赤を口に含んだ。
今日はこのあいだの――つまり、石川物産の社長暗殺の、報酬を貰いに来たのだ。
中澤から受け取った分厚い茶封筒をバッグに仕舞うと、「じゃあ、失礼します」と言って吉澤は席を立ち、軽く会釈した。
「待ちいな」静かな声が吉澤の足を止めた。
やっぱりな・・・。吉澤は思う。
背後から中澤のすらりとした腕が、吉澤の首に回される。
「このまま帰るんか?」囁きながら、耳にワインの香りが混じった甘い息を吹きかけてくる。
「ん・・・」吉澤の吐息が漏れる。
吉澤の身体の扱いは、誰よりも、もしかすると吉澤自身以上にも知っている中澤だ。吉澤をその気にさせるのに時間は掛からない。
「吉澤・・・」
呟いて中澤は吉澤の肩をそっと抱いて自分に向け、吉澤の唇を吸った。
中澤のキスに比べれば、後藤のキスは実に子供っぽいと思ってしまう。同じ感じるのでも、深さが違う。
中澤の薄い唇はときに吉澤の下唇を軽くついばんだり、舌先で吉澤のそれの横側を抉るように探ったりと、あらゆる変化に富む。
キスだけで、吉澤はいつも濡れてしまう。実際今も、すでに瞳はとろんと潤み、腰の力は抜けていた。
「ご褒美や」
グリーンのコンタクトが入った瞳でそう囁くと、中澤は吉澤のスカートの中に手を伸ばしてきた。
「んぅ・・・ッ」吉澤の顔が反り返る。息遣いがにわかに熱くなる。
ホテルを出ると、すっかり暗くなっていた。歩いていると、腰の辺りが重い。
久々の吉澤だったからか、中澤は執拗だった。吉澤は何度か失神寸前まで追いやられた。
帰りの駅のホームでひとり電車を待つ間、ベーグルをひとつ、紙包みから取り出して食べた。いつもより甘味が少ない気がした。
学校が終わり、帰ろうとすると、制服姿の石川がいた。ガードレールに腰を預け、校門から出て来た吉澤に気付いた様子だった。
今日は黒いストッキングを穿いていて、すらりと伸びた細い足がやけに艶かしく見えた。
「なにしてんの?」駆け寄って来た石川に向かって、怪訝な表情で吉澤は訊いた。
「ひとみちゃんを待ってたの」口許を緩く綻ばせ、石川は答える。
「なんで?」
「だって、電話しても会ってくれないから」
「・・・あの、だからって・・・いきなり来るかなあ・・・」
「ひとみちゃんだって、この間、いきなり来たじゃない」
「あれは・・・」それ以上、何も言い返せない。決まり悪く、吉澤は頭を軽く掻いた。
石川は、してやったりという満面の笑みを浮かべ、「お茶でも飲まない?」と訊いた。
ある駅で降り、石川が先を歩く。
時々後方に妙な気配を感じて、吉澤は小さく振り返る。だが、怪しい人影は見当たらない。
「どうしたの?」石川も足を止めて、訊いた。
「いや・・・誰かに尾けられてるような気がして」
「あぁ」と、石川は、「マスコミかもしれない」と言う。
「マスコミ?」
「週刊誌とか、テレビとか」
「ああ」「結構巧妙に追いかけて来るのよー」
石川の話では、石川の父親の死は、業界にとってそれなりのセンセーションだったらしい。
当然ワイドショーや週刊誌も記事に取り上げた。
実際、吉澤もコンビニで立ち読みをしていると、週刊誌の表紙の見出しに「石川」という字をよく見掛けた。
ところが、ひとしきりネタが尽きてくると、今度は石川を「父親を自宅で射殺された悲劇のヒロイン」として扱うようになったのだそうだ。
容姿端麗、学業優秀のお嬢様とくれば、マスコミが飛びつくのも分かるような気がした。
「最近やっと、収まったと思ってたのに」不満そうに石川は漏らした。
吉澤はちょっと心苦しかった。自分の放った銃弾が彼女をこんな立場に追い込んでしまったのだから。
ただ、マスコミのような素人の尾行は、自分なら気付いてるんじゃないかと吉澤は思った。
あるいは、身体の調子と相まって、神経過敏になっているのかもしれない。
「絵のモデルになって欲しいの」突然に石川は切り出した。
石川の案内でやって来た、裏通りのカフェ。こじんまりした店内にはサティの曲が流れ、落ち着いた雰囲気だ。
趣味のいい店だと吉澤は思った。窓際の席で向かい合い、吉澤の前にはホットレモネード、石川の前にはアイスティーがあった。
「モデル?」訊き返す吉澤。
「この間言ったでしょう? 絵を始めたから、部活をやめたって」
「そんなこと言ってたっけ?」
吉澤はとぼけた。本当は彼女の発した一言一句を逃さず聞き、それらはしっかりとインプットされてしまっていた。
しかし、いちいち細かい事でつい、突き放してしまう。
石川は「言ったよー」と、少しがっかりしたように言うと、それでもめげまいとして、
すぐに明るい調子を取り戻し、「ひとみちゃんってカッコイイでしょ? モデルとして抜群だと思うの」つぶらな瞳をきらきらさせる。
「ちょっと、あの・・・その前にひとついい?」
うん?と、石川は首をちょっと傾げた。
「その、ひとみちゃんっていうの、やめてくれない?」
<ひとみちゃん>と呼ばれる度に、何だかこそばゆい感じがして落ち着かなかった。
「じゃあ・・・」と、石川は頬に手をやり、「何て呼べばいいの? 学校で何て呼ばれてるの?」
吉澤は答えに詰まる。このコに<よっすぃー>とか<よしコ>と呼ばれると、余計に落ち着かないと思い、
「やっぱ・・・呼びやすい言い方でいいや」
「ひとみちゃんね」
仕方ない。
「モデルをやるとして、じゃあ、条件があるんだけど」と、吉澤が言った。
「絵のモデルをする代わりに、これで金輪際付き合いは、なしね」
「えーっ!」
石川は心底落胆したようだった。落ち着き無く、しばらくアイスティーのストローをぐるぐる回し、ちょっと飲んだ。
少し俯き加減で眉間に皺を寄せ、黙ったまま考え込んでいる。
我ながらホント、ヤな奴だな。吉澤は思った。傷つけたいわけじゃない。でも、突き放してしまう。
どうしてなんだろう。考えるが、よく分からない。
結局は自分の気持ちを自分で理解していない。自分の事自体、あんまり考えた事がなかった。
自分の心のかたちとか色が、よく分からない。
「うんっ!」石川は声を上げた。
突然の事に、吉澤は目を瞬かせる。
「いいよ」石川は言った。「それでもいい。モデルになって」
どうせ、このままでもなかなか会ってくれそうにないから、それならせめて、絵を描かせて欲しいとの事だった。
3日後の日曜日、場所は石川の家、ということになった。
その日はよく晴れていた。
前日に後藤が、いいクラブを見つけたから行こうと言ってきたが、その日は都合が悪いから、と、やんわりと断った。
駅を降りる。1ヶ月前、ポケットに銃を潜めて降りた駅だ。
昼下がりの高級住宅街は街全体が欠伸をしているようで、どこか呑気に見えた。
道すがら、何度か後ろを振り返った。やはり誰かに尾けられている気がした。しかし誰もいない。
ほとんど病気だな、と、吉澤はひとりシニカルに笑い、石川の家に向かった。
立派な門構えの脇にある呼び鈴を押す。
しばらくしてインターホン越しに、「はいー?」と、間延びした高い声が返ってきた。石川の声だ。
「あのう、吉澤だけど」
「ひとみちゃん! 今行くから待ってて」
この家には初めて来たわけではないが、改めて玄関から入るのは初めてなので、妙な気がする。
などと吉澤が思っていると、門の奥、石段を少し登ったところの家の引き戸が開いた。
サンダルを履いて玄関から出てきた石川は、
袖がハイカットになっているライトピンクのセーターにギンガムチェックのミニスカートという出で立ちだった。
真っ赤なカチューシャがよく似合っている。思えば、彼女の私服姿を見るのは初めてだ。
なぜか自然、鼓動が高鳴るのを感じて、吉澤は戸惑う。
「ひとみちゃん、カッコイイ・・・」門を開けて、石川がうっとりと吉澤の立ち姿を見た。
古着屋で買った、色褪せたジージャンに黒いボトムズ、太い革のベルトが絶妙なアクセントになっている。
石川にしてみても、私服の吉澤を見るのは初めてだった。
こういう、まろやかな雰囲気は苦手だ。まるで、初めてのデートをする中学生みたいだ。
吉澤は、「さっさとやろ」と、そっけなく石川を促す。
2階の石川の部屋に通される。ドアの前で、いちばん奥のドア――初めて石川と出会った部屋を一瞥すると、胸がちくりとした。
部屋に入ると開口一番、吉澤が呆然と声を上げた。「なんだぁ、こりゃあ・・・」
石川が吉澤の隣を通り抜け、「なにがー?」と、訊く。
「いや、だって、これはちょっと・・・」言葉を詰まらせる。
ピンクずくしの部屋だった。ベッドカバーがピンク、ピンクのクッション、ピンクのクマのぬいぐるみ、ピンクのカーテン。
頭がくらくらする。
「テキトーにそこいらに座ってて」と言う石川はそんな吉澤の様子を解することもなく、
ちょっと何か飲み物もって来るね、と、部屋を出て行ってしまう。
とりあえず、テーブルの前のクッションに座り、部屋を見回した。
すぐにコーヒーを持って戻ってきた石川は、「服はここにね」と、プラスチックの網籠を吉澤の足元に置いた。
その言葉に吉澤は激しく狼狽した。「服脱ぐのっ?!」
「うん」平然と石川は答え、大きなカンバスをセットしている。
「そんなの聞いてないって!」吉澤は声を荒げた。
「言わなかったから」
吉澤は言葉を失う。
気が遠くなったまま立ち尽くしている吉澤に、「だって、ひとみちゃんのからだを描きたいんだもん」臆面も無く石川が言う。
溜息混じりに吉澤が、「ヌードなら、そう言いなよ」
「でも、ハダカって言ったら、来てくれてた?」
「・・・来てないよ。当たり前じゃん。だって、よく知りもしないひとの前でハダカになれると思う?」
「これ以上、何を知る必要があるの? ひとみちゃん、わたしのコト、なんでも知ってるじゃない。それにね、不公平だよ」
「不公平って、なにが」
「わたし、ひとみちゃんのこと、何も知らない・・・」
「なんで、そんなにわたしにこだわる訳?」
「ひとみちゃんが好きだからよ」吉澤を見据えて、石川はくっきりと言った。
明け透けな石川の言葉に、胸がかッと燃えるように熱くなった。早鐘が痛いほどだ。頬がにわかに上気していくのが分かる。
戸惑いながら咄嗟に返す言葉を探し当てると、目を伏せて吉澤は言った。
「何も知らない人を好きになれるの? 意外にあんたって、カルイんだね」
思ってもないことを言ってしまっていた。どうしてこうなるのか。
午後のしんとした部屋に、沈黙が降り積もっていく。
間が保たず、吉澤は黙り込んだままの石川を見た。
どきりとした。
石川は、吉澤を見詰めていた。微かに潤んだ瞳で。その表情は、怒っているようにも悲しみに満ちているようにも見えた。
「お願い・・・もう付きまとわないから」石川は切実な口調で、ゆっくりと言った。
「だからお願い。せめて、本当のひとみちゃんを、いちどでいいから見せて・・・」
石川に正面から見詰められている。
吉澤は一糸纏わぬまま、石川にその姿を晒していた。
用意されたスツールに浅く腰掛けて両手を軽く股間の辺りで組み、真正面を向いている。
石川の視線が吉澤の身体の輪郭を隈なく辿る。
目鼻立ち、肩の曲線、小ぶりな乳房の丸み、緩やかなエッジのお腹、すらりと伸びた足。その目は吉澤とカンバスの間を行き来する。
石川の華奢な手に握られた鉛筆の芯がカンバスを滑る音だけが、部屋に微かに響き続けている。
すでに、どれほどの時間が流れただろうか。ゆったりとした時間が部屋に満ちている。
少しあけた窓から時折風が忍び込んできて、ピンクのカーテンを小さく揺らし、その度に柔らかな光の柱がカーペットに伸びた。
着ているものを一枚一枚脱いでいった最初こそ羞恥で一杯だったが、今や吉澤は、得も知れぬ安らぎに包まれていた。
この間石川が言った、共犯者という言葉が思い出された。
絵を描く。絵に描かれる。
もしかしたらそういうのも、ある種の共犯関係と言えるのかもしれない。吉澤は何となくそう思った。
ふたりの間にしか存在しない、濃密な意識のやり取り、心地いい不思議な交歓。
『ひとみちゃんが好きだからよ』
石川の言葉が何度も脳裏をよぎった。そして吉澤は気付いた。誰かに「好き」と言われたのは、生まれて初めてだということに。
石川は、全てを網膜に焼き付けようとでもするかのような、すごい集中力で吉澤を見詰め、筆を走らせて続けている。
その視線が吉澤の胸を焦がしていく。
――濡れてる・・・・・・。
込み上げてくる恍惚に、吉澤は微かに震える睫毛をそっと伏せる。
「お疲れ様」
石川の言葉に、吉澤は一気に現実に引き戻された。止まっていた時間が、思い出したように流れを取り戻した。
「終わったの?」吉澤は訊いた。
「うん、デッサンは終わったから・・・ありがとう・・・」石川の言葉には、寂寥感が滲み出ていた。
これで終わりだ。ひとときの幸せな夢は終わってしまった。「服、着てもいいよ」
吉澤が服を着ている間、石川は無言のまま画材を片付けていた。ひとつひとつの物音が、物悲しく響いた。
「見せて貰ってもいい?」ジージャンを羽織りながら、吉澤は訊いた。
石川は「気に入って貰えるかどうか分からないけど」と、少し照れながらカンバスを裏返して吉澤に向けた。
見た瞬間、感嘆と共に吉澤は目を見張った。
そこには鉛筆の柔らかな線で、ひとり座っている吉澤が描かれていた。
何より驚いたのは、吉澤の背中から鳥のように2枚の翼が伸びていたことだ。
「翼・・・」吉澤は呟いた。
石川は「描いてるうちに、付けちゃったの」と、照れを隠すように薄く笑った。
その大きな翼は緩やかな曲線を描いて柔らかく開き、それは神々しささえ感じた。
「どこまでもどこまでも、飛んでいける翼だよ・・・どこまでも高く、どこまでも遠く・・・。ひとみちゃんによく似合ってる・・・」
始めて間も無いという事もあって、ずば抜けて上手いとは言えないが、
線の一本一本が微妙な均衡を保ちながら丁寧に描かれ、吉澤への想いに溢れているのは確かだった。いい絵だった。
「どうもありがとう・・・見送りはしないから。玄関の行き方分かるでしょ? ひとみちゃんはなんでも知ってるんだもんね・・・」
言葉を詰まらせ気味にしながら、俯いて石川が言った。まるで何かを振り切るような早口で。
「もう会う事もないけど・・・」
見ると、俯いたままの石川は、込み上げる嗚咽を懸命に耐えているようだった。
――知らない。
――わたしはこのコの事を何も知らない。
「共犯者は・・・」と、吉澤は言った。「共犯者は、ほとぼりが冷めたら、密に連絡を取り合わなくちゃいけないんだよ」
――分かっていたはずなのに。
――ただ、怖かったんだ。
――誰かを好きになるのが。
吉澤は理解した。どうして初めて会ったときから、石川の事が気になっていたのか。
――好きだったんだ。わたし、このコのこと、好きだったんだ。
――初めて出会ったときから、彼女の瞳を見たときから。
にわかに吉澤の中で、何かが溢れ出しそうになった。そして次の瞬間には吉澤は、その細い肩を強く抱き寄せていた。
「ひとみ、ちゃん・・・?」突然の吉澤の抱擁に、石川は戸惑いを隠せない。
「わたしも、好きなんだよ・・・その・・・えっと・・・」
「・・・梨華でいいよ」石川は静かに目を伏せると、吉澤の背中にそっと手を回した。さっきとは違う涙がひと筋、頬を伝った。
「梨華・・・梨華ちゃん・・・好き・・・好きだよ・・・」
この世界でたった一つの確かなものを抱きしめている――愛しい体温を感じながら、吉澤はそう思った。
16歳にして、初めて恋というものを知った。
互いの事を何も知らないふたりが抱きしめ合うのを、カンバスの中の天使だけが見ていた。
ブロンクス、ニューヨーク。
春、1994年。
街角の小さなダイナー。
小さな額に入った黄ばんだ写真が壁を埋め尽くし、それなりに風情のある店だ。
しかし、夕食どきだというのに店の中は閑散としている。
吉澤はさっき初めてひとに向けた銃を膝元で握り締めながら、テーブルについていた。
向かいに座っている中澤が優しく言った。「ようやったな」
「うん・・・」誉められて、吉澤は嬉しそうに答えた。
ブロンドの太ったウェイトレスが皿を持ってきて、吉澤の前に置いた。中澤の前にはジョッキのビールが置かれる。
「ご褒美や」中澤が言った。「食べや」
白い皿の上に丸いパンがふたつ載っていた。
中央には包丁で入れた切れ込みがあり、そこからレタスとスクランブルエッグがはみ出している。
温かく香ばしい匂いが立ち昇って吉澤の鼻腔をくすぐった。
「この店自慢のベーグルサンドや。美味しいで」
中澤の言う通り、美味しかった。初めての味だった。
夢中で食べている吉澤に、ジョッキを少し空けてから、中澤がゆっくりと話し始めた。
「ええか、これからお前はいろんな事を覚えなあかん。
でもな、どんなことを覚えても、いっつも頭に置いとかなあかんことがある。それはな、誰も信じない事や。
油断したら、一瞬で足元を掬われる。あたしのことも信用するな」
「中澤さんのことも、ですか?」吉澤は訊き返した。
中澤は手を伸ばして、吉澤の頬に付いたケチャップの赤を親指の腹でそっと拭いながら、
「そうや。いつあたしがあんたを裏切って敵になるかも分からへんで。あたしもあんたを信用はせん。
そんな世界にあんたは生きていくんや。せやから、誰も信用したらあかん、誰も好きになったらあかん。
結局人間は、どこまでいっても独りや。自分が可愛かったら、生きていたかったら、信じるのは自分だけ、
好きになるのも自分だけや。せやないと、死ぬで。これはホンマのことや」
♯4
ブロンクス、ニューヨーク。
夏。1996年。
街全体が、煮えたぎった鍋の中に放り込まれたような猛暑だった。
アスファルトからはゆらゆらと水蒸気が立ち昇り、裏通りからは腐乱した食材の臭いが漂って、人々の気力を奪っていた。
吉澤はこじんまりしたバァの、まだclosedの札の掛かった戸をくぐった。
照明が落ちた薄暗い店内では、店主がひとり、カウンターでグラスを傾けていた。
入ってきた吉澤に一瞥をくれると、またグラスの中に視線を落とした。
吉澤は黙って店の厨房の奥にあるドアを開け、すぐ下に伸びる急な階段を颯爽と駆け下りる。
階段を降りたところの木の扉を開けると、そこにはコンクリートで囲まれた広い空間が広がる。
そこは、倉庫を改造しただけの簡単な射撃場だ。
長いテーブルが手前に置かれ、遥か奥には的を吊るための糸がだらりと垂れている。
吉澤は持って来たバッグからホルダーに収められた銃と、的になる厚紙を取り出した。
厚紙にはフリーハンドで3重の丸がマジックペンで描かれている。
奥の糸に的の紙をふたつの洗濯バサミで吊ると、またテーブルまで戻り、銃に一発ずつ弾を込める。
3発目は空ける。いつも3発目は、必ず当たらなかった。
3発目を空けると、他の弾の命中率が上がった事から、以来、そのようにしている。
テーブルの手前で心持ち腰を落とし、銃を構える。微かに揺れる的が照準に重なる。
静寂の中に降り積もる、心の痺れ。
目を細め、引き金を引く。
銃声が空間の密閉された空気をびりびりと震わせ、的が大きく揺れた。
さらに1発。
3発目は空砲。
さらに1発。
さらに1発。
さらに・・・・・・
ひとしきり幾度かの轟音が響き渡ったあと、空間は沈黙を取り戻す。
硝煙の臭いが漂う中、吉澤は銃を静かにテーブルに置き、的のもとに行く。
丈夫な紙だが、何度か銃弾を受けたそれはボロ布のようになり、微かに焼け焦げた臭いが漂う。
調子がいい。しかし、吉澤は笑うこともない。黙々と、的を新しいものと取り替えるだけだ。
特別な事だとは思ったことは一度もない。何しろ、慣れてしまっていた。
弾丸を放つ事、放った弾丸が相手の肉を裂き、深みに達する事の恍惚さえ、今はもう、ない。
計理士は計算し、エンジニアは部品を組み立て、政治家は嘘をつき、詩人は言葉を紡ぎ、医者は処方箋を書き、暗殺者は暗殺する。
それだけのことだ。それだけの。
そうだ。そう思っていた。数年後、彼女に出会うまでは。
◇
ある寂れた雑居ビルの階段を上がると、「michiyo」と表札の付いたドアがある。
ちりん、と可愛らしい音が鳴る。ドアの上に据え付けられたカウベルだ。
吉澤が足を踏み入れた店の中は温かくて、意外に奥行きがあって広い。入ると同時に、甘い匂いが吉澤の鼻腔をくすぐった。
「ああ、よっしー、いらっしゃい」と、落ち着いた、美しいアルトの声。黒いエプロンをした女性がカウンターの中でにこやかに出迎える。
コンロで何かを火に掛けているらしく、お玉を手に持っている。甘い匂いの源は、これらしい。
「しばらくぶりです、みちよさん」言って、吉澤はカウンターの中央の席に腰掛け、
背負っていた黒い小さなバックパックを隣のスツールに置く。
吉澤に「みちよさん」と呼ばれたこの女性は、この店の雇われマスターだ。
柔らかい物腰と落ち着いたトーンの関西弁が好感を抱かせる。
他に客はいない。大体、繁盛するはずがない。繁華街からは離れて過ぎているし、
裏通りだし、雑居ビルの2階だし、何より、看板のひとつも出してはいない。誰がこのショットバーを気付くものか。
まるで構わないでくれって言っているようなものだ。
というのは、そもそも、そんなに客が来ては困るのである。この店は、いろんな事情を抱える者たちの吹き溜まりだ。
そんな彼らが情報交換、取り引き、そして、ひととき緊張を忘れて安らげる場なのである。
そして、この店のオーナーは中澤であり、客はみな、中澤の息の掛かった者ばかりだった。勿論その中には、吉澤も含まれるのだが。
「いい匂いですね」腰掛けるなり、吉澤はコンロで火が掛かっている鍋を覗き込んだ。
「でしょ? 今夜は冷えそうやから、エッグノックなんて作ってみたんよ。よっすぃー、ちょっといっとく?」
「頂きます」と、ブルゾンを脱ぎながら吉澤は笑顔になる。
ちょうどその時、店の奥にあるトイレのドアが開き、同時に威勢のいい声が響き渡った。
「ああっ! よっすぃーじゃぁんっ!!」と、駆け寄って来た小柄な少女は勢い、飛びつくように吉澤にキスしようとする。
「うわぅ」少女の行動を予測していた吉澤は落ち着き払ったまま身を引き、
少女はカウンターに激突しそうになるところを辛うじて手で支えた。
「なんで避けるかなあ。矢口のコト、嫌いなのかよぉ?!」
いきなりのアタックが空振りに終り、吉澤に食って掛かっているこの少女は、この店でバイトしている矢口真里。
気さくで性格は抜群なのだが、太陽のような明るさが、時には吉澤にとっては眩し過ぎて困ってしまう。
「いや、そういうわけじゃないんですけど、なんとなく・・・」吉澤は苦笑しながら取り繕う。
仕方なく、矢口の額に“ちゅっ”と、軽く口付けてやる。
「いっつもそんな風にして誤魔化すしいー!」口を尖らせて不平を言うものの、その表情の愛らしさは憎めない。
「まあまあ」と、みちよが間に割って入る。「矢口、そこの戸棚からコップ取ってや」
「は〜い」
矢口はカウンターに戻り、戸棚の上のほうにあるプラスチックのコップを精一杯背伸びして、手に取った。
そして「あのう、マスター」と、矢口。
「ああ?」
「あたしもちょっとだけ貰っていいかなあ?」
「ええけど、酔わへんようにな、一応仕事中なんやから」
「やりぃ」と、矢口は同じコップをもうひとつ取る。
みちよさんがお玉でエッグノックを掬ってコップに入れてくれる。矢口が「はい」と、吉澤の前に差し出した。
暖かな湯気がいい匂いをのせて立ち昇る。
吉澤がコップに口を付けようとすると、カウンターの中から矢口の視線を感じた。まるで、吉澤が飲むのをじっと待っている風だ。
「矢口さん」コップを持った手を止めて、吉澤が言った。
「え? なに?」矢口もエッグノックの入ったコップを手に答える。
「コップ、替えッコしませんか?」
「えッ?!」矢口の顔色がにわかに変わる。その表情は笑みをたたえてはいるが、頬は凍りついている。
「い、一緒だよ、よっすぃーのと一緒」と、ぎこちない笑顔。
「一緒だったら替えて下さい」にこっとして吉澤が言う。
「ええがな」と、見かねたように、みちよが「はい」と、固まったままの矢口の手からコップを抜き、
黙って吉澤のコップを「はい」と、その空いた手に持たせる。
吉澤は取り替えられたコップをぐいっと傾けると、「YES!」と声を上げた。
温かい塊が、喉から腹にゆったりと広がりながら落ちていくのが分かる。
「くぅ、おいしい!」
「良かった」みちよが満面の笑みを浮かべる。
「矢口さんも飲んだら? いけますよ、これ」吉澤がコップを指差して勧める。
矢口は、救いを求めるように情けない視線をみちよに向けたが、彼女は(仕方ないじゃない)といった風に肩をすくめて見せた。
矢口は悔しさと不安を必死に隠しながら、震える口にコップの縁を近づける。
30分後。
吉澤の隣でカウンターに突っ伏したまま、心地よさそうに寝息を立てている矢口がいた。
彼女は、いつもにも増して高笑いを繰り返したり、喋りまくったりしてテンションを高く保っていたが、
やがてゼンマイのネジが切れたブリキの玩具みたいにぱたん、とカウンターに突っ伏してしまったのだ。
眉毛がハの字の笑顔でみちよが言った。
「堪忍したってな。これも、このコのやり方やねん」
どんなやり方だよ、まったく、わたしを眠らせて、何をしようとしてたんだか、などと思いながらも、
「まあ・・・悪い人じゃあないから」と、苦笑する吉澤だった。
無邪気に笑うと小悪魔のような矢口だが、少なくともこうして寝顔を見ていると、可愛らしい天使のようだ。
「さてと」ひと息ついて、みちよはカウンターの中に腰を下ろすと、取り出した小包を吉澤に差し出した。
「裕ちゃんから」
「あ、はい」
吉澤は包みを受け取ると、そのまま持ってきたバックパックに入れる。包みの中身は、次の「仕事」の資料だ。
中澤が忙しい時は、いつもこの店で受け取る事になっている。最近は専らそうだ。
中澤とみちよとの関係を、吉澤は理解していない。
みちよが中澤の情婦であることは確かなのだが、中澤が吉澤に手を出している事をみちよは知りながら、
決してその事を口に出さないのである。
「ねえ」と、吉澤はみちよに話し掛けた。
みちよは残ったエッグノックを掬って瓶に詰めていたが、その手を止めて、
「なに?」
「みちよさんってね、中澤さんのどこがいいんですか?」
みちよさんはお玉を鍋に置き、大仰に腕を組んで、
「それは難しい質問やなあ」と笑みを浮かべ、首を傾げた。
「水が合うっていうか、なあ。あれ? あんたは裕ちゃんのコト、嫌いなん?」
「わたしは、嫌いとか好きとか、そうゆんじゃなくて。彼女がいないと、今のわたしはいない訳だし」
「じゃあ、感謝してるんだ?」
「感謝っていうのとも違うけど・・・うーん・・・あ、みちよさんの話だよ。水が合うってよく分かんないんですけど。
中澤さんとみちよさんが一緒にいるトコ、見たことないからかもしれないけど」
「あれ? そうやったかなあ。あのコとも長い付き合いやし、
まあ・・・あのコもイロイロあるし・・・ひとはそういう風にしか生きられへんっていうのがあるからな。
あのコも、ああ見えて、哀しいコなんやで」
そう言って、みちよは聖母のように優しい笑顔になり、脇に作っておいた水割りをひと口飲んだ。
「哀しい、ですか?」
「そうや。生きていくと誰しも、いつかは『誰か』にならなあかん。
でも、それが自分の望む誰かやなかったとしたら? そら、みんな、どこかそんなコトは抱えてるもんやとは思うけど・・・
例えば、自分はもっと出来るんや、とか、こんなハズやなかった、とかな。せやけど、それは大抵そいつの努力が足らんねん。
それ以上にやな、もっと、何か大きな力が働いて、何て言うか・・・『こうなるはずやない誰か』になってしもたら?
でも、それでもその『誰か』を続けなあかん。誰もが自分をやめることは出来へん。
裕ちゃんは、きっと、そういうところが多分にあると思うねん」
それはわたしも同じかもしれない、と、吉澤は思う。
『銃を持ってないひとみちゃんって、すごくかわいいよ』という、あの少女の言葉を思い出した。
――どうしてひとは、思うように生きることが出来ないんだろう。実はそんなことは、意外に簡単なコトなのかもしれない。
でも、そのやり方を、わたしや中澤さん、みちよさんは知らないのだ。
そして更に、石川はもしかしたら、そのやり方を知っているのではないか。未来を選ぶ、自分が望む「誰か」になれる、簡単なやり方を。
自分を追って、あの薄汚れたクラブに堂々と入ってきた石川の向こう見ずを思うと、そんな気がした。
さらにみちよは続ける。「裕ちゃんのどこがええか、っていうのは、わたしもよう分からんわ。
ただわたしは、そんな裕ちゃんの行き場のない苛立ちとか歯痒さを引き受けるだけで、充分幸せな事は事実なんよ」
吉澤は大げさに溜息をつき、「ごちそーさま」
「ああッ、別にノロけてるわけやないよ」みちよが手を掲げて振る。
「ノロけです、リッパな」
カウンターを挟んだふたりは、仲のいい姉妹のように笑い合った。
ひとしきり笑うと、不意に沈黙が訪れた。店の壁掛け時計が夜8時を伝える鐘を鳴らした。
「あんた、何か変わったんちゃう?」沈黙を埋めるように、みちよが言った。
「は?」
「身体の調子、どうなん?」
「ああ・・・ええ、お陰さまで」
「いや、わたしのお陰じゃないけどさ」
「あはは。でも、絶好調ですよ」
「ええ事でもあったんかいな?」
「えー? 別にないですよ」
「恋人でも出来たんか?」
「違います」
「ホンマかぁ?」みちよは吉澤の目の前に人差し指を差し出し、
「ホンマか、ホンマか、ホンマかぁ?」と繰り返しながら、指先で宙にぐるぐると渦巻きを描き出す。まるで、何かのまじないのようだ。
その仕草に吉澤は可笑しくなって、つい吹き出してしまう。
「あははっ、ははッ、なんなんですか、それぇ?」
「あッ、目を逸らしたっちゅうことは、さては図星やねんな?!」
「どうして、あはッ、そうなるんですか?」
確かに、石川と出会ってから、頭痛は少なくなったような気がする。
珍しく、一発で仕留め損ねた。距離はそんなに遠くなかったはずなのに。
深夜0時半。みちよの店で資料を受け取ってから1週間後。
1週間のあいだに吉澤は「目標」に関する全てを理解し、最も狙いやすい時間と場所を選んで待ち伏せていた。
ここは霞ヶ関、地下の駐車場。車で埋まっているスペースは1割程度だ。
吉澤が構えたライフルから放たれた銃弾はわずかに逸れ、偶然前に回ったボディーガードの肩に当たって血飛沫を上げた。
背後の柱のコンクリートに、スプレーでペイントしたように放射状の赤が広がった。
「目標」の老人は「ひぇああッ」と、日本経済の一端を牛耳るには似つかわしくない、
あられもない声を上げながら、ひとり扉を開けてメルセデスに転がり込む。
肩を押さえて倒れたボディーガードを捨て置いて、もうひとりが銃声の方向――
吉澤のいる駐車場の出口の方に向かって銃をかざして走ってくる。
――銃は本物だけど、やる事は素人だな。
吉澤は柱の影に身を隠し、様子を窺った。
「目標」以外に構っている時間は無い。こういう場合、必ず誰かがすでに警察に通報している。
ライフルを肩に提げ、さっさとカタを付けるべく、吉澤は柱の影から現れた。黒いロングコートが吉澤の身体を若干大きく見せる。
コートのポケットから、念の為に用意してきた短銃を取り出す。
ぱりっとした背広を着こなした大男が銃を前に突き出して、走りながら銃弾を放つ。
――当たるもんか。
吉澤の予想通り、1発目はあらぬ方向に大きく外れた。
しかし、またすぐに放たれた2発目の銃弾は吉澤の頬を掠め、そのきめ細やかな肌に細筆で引いたような血を滲ませた。
ぴりッと熱さが走り、目尻が微かに震える。髪の毛が焦げる臭いが一瞬鼻を突く。
――当てずっぽうにしては悪くない。
吉澤は銃を両手でしっかりとホールドし、狙いを定める。男との距離はもはや30メートルもない。引き付けて、引き付けて・・・。
と、キュキュキュと、コンクリートがタイヤを磨り減らす音がした。
正面を見据えながらも、吉澤は少し焦った。「目標」が動き出したようだ。
確信のないまま、1発目を放つ。男の走ってくる手前の地面が小さく煙を上げた。
走って来る男がまた撃つ。しかし、吉澤の後方に止まっているセダンのドアの真ん中に穴を開けただけだ。
はやる気持ちを抑え、吉澤は深く息を吸い込む。気管が冷えた外気で満たされる。
「ああああああッ!」男が獣のような雄叫びを上げた。
うるさい。吉澤は口の中で呟き、その瞬間、目を細め、引き金を引く。
銃声が走ると同時に雄叫びが途絶え、男は何かにつまづいたように前のめりに転げた。
そのまま茹でられた海老のように丸くなり、腹の辺りを押さえている。おそらく助からない。
本来はそのまま頭にもう1発放つところだが、時間がない。
男がもう動けなくなった事を認めると、すぐに吉澤はメルセデスに目を走らせた。
ちょうど遠巻きに大きな弧を描いて走り出したところだった。
後輪からはもうもうと白煙を立ち昇らせ、よっぽどの慌てぶりが見て取れる。
けたたましいブレーキの音と共にメルセデスはその巨体の向きを変え、出口の方向に向かって猛スピードで走り出した。
出口に差し掛かる真ん中に立ち塞がるように吉澤は仁王立ちし、再び銃を構える。
向かってくる黒のメルセデスのタイヤに照準を合わせる。
引き金を引く。
鈍く何かが破裂するような音がして、メルセデスは失速しながら吉澤の立っているすぐ横を通り過ぎ、
大きく尻を振って、出口の傍の壁に側面から激突した。
ひしゃげたボンネットの端から漏れた細い煙の柱が何本か、ゆったりと上がる。
吉澤はコートの裾を翻し、今や見る影も無いメルセデスに向かって、真っ直ぐ足早に近づいていく。
歩きながら3発目の空砲の引き金を引く。
車まで目測3メートルというところで銃を片手で構え、後部座席のドアに近づく。
フィルムが張られた窓ガラスは衝撃で細かくヒビが入り、全面が真っ白になっている。内部で何かが動く気配は無い。
吉澤は銃の柄を軽く掲げると、振り下ろす勢いに任せて後ろのドア・ウィンドウを叩き割った。
鈍い音を立ててウィンドウの半分があっけなく砕け散り、細かな破片が暗い車内に降り注ぐ。
隙間から内部を覗き込むと、皺とたるみが顔面を覆い尽くした和服の男が顔を引き攣らせて反対側のドアにもたれ掛かっていた。
運転している背広の男はフロントグラスに頭をぶつけたまま動かない。
老人は掠れ声を震わせて言った。「何だ、お前は・・・何が望みだ? ええっ?!」
中からは吉澤の顔は蛍光灯の影に隠れてはっきりと見えない。
影に向かって弛んだ瞼を思い切り開き、老人は続ける。
「この・・・阿呆が! お前がどんなに汗水垂らしたところで持てないものを、わしは持っとるんだぞ。妙なことをしてみろ、きっと後悔す――」
老人の言葉を遮るように、重い銃声が駐車場を貫いた。
その反響音が消えないうちに、パトカーのサイレンが聞こえてきた。
ひと気のないホームに立ち、吉澤は携帯を取り出した。青く光るディスプレイが、冬の夜の澄んだ空気の中でやけに眩しい。
電話帳の画面を出し、「石川梨華」にカーソルを合わせたところで少し、ためらう。
時間も時間だし・・・と、自分を納得させて、携帯をまたコートのポケットに仕舞う。
と、ひときわ強い照明が吉澤をくっきりと浮かび上がらせた。顔を上げると、終電の明かりが遠くから近づいてくるのが見える。
ホームに滑り込んできた列車はどの車両も空いていた。
酔っ払って赤ら顔のサラリーマンや、疲れて顔を伏せたままのOLたちがボックス席の所々に座り、
車内全体が深い溜息をついているような気だるい雰囲気が漂っている。
吉澤は乗り込むと、扉際に張り付くようにもたれ掛かった。さっき受けた傷を車窓に映してみる。
頬に赤みが滲んで、その周りが少し腫れていた。そっと指で触れてみる。じゅんと熱い痛みが走る。
窓の外を走り抜けていく家々の明かりが殆ど消えているのに気付き、不意に切なくなる。
――傷、か・・・。
頬の赤味をもう一度見る。
吉澤は車内の揺れに身を任せながら、この間の石川との熱い夜を思い出していく。
先にシャワーを浴びた吉澤は、淡いイエローのキャミソールだけになって、ピンクのベッドに浅く腰掛けていた。
足を軽く浮かせてぶらぶらしたりと、落ち着かない。
窓の外はもうすっかり暗くなり、名残惜しそうに夕焼けが西の空の地平近くに細く横たわるだけだ。
電気をつけると、部屋の中に溢れたピンクが眩しい。
何気に、さっきまで石川が筆を走らせていたカンバスに目をやる。
その先には、しなやかな裸体を晒した天使が、吉澤を見詰める。それは、さっきまで石川を見詰めていた吉澤の視線だ。
翼には一枚一枚の羽が柔らかに描かれ、今にも動き出しそうに思えるほど、生々しさが息づいている。
手を伸ばし、指先が触れようとした瞬間、手を止めた。
――美化し過ぎだよ・・・。
吉澤が自虐的な笑みを浮かべたとき、階段を小さな足音が上がってきた。
「ごめん、お待たせ」ドアを開けた石川はバスタオルを巻いて、華奢な肩の丸みを見せ、
細い足はタオルの裾からすらりと伸びて、艶かしい。石川が一気に大人になったような気がして、吉澤はどきりとする。
石川はベッドに座る吉澤と向かい合うように勉強机の椅子に座り、ふふ、と小さく笑った後、
「どう、しようか」照れを隠すように俯きがちに言った。
「そうだね・・・」高まる鼓動に押されるように、吉澤はぎこちなく身体を前に乗り出すようにして、石川に顔を寄せる。
石川も緊張しているようで、薄く開けた唇から漏れる息遣いでそれが伝わってくる。
こんなにどきどきするキスは初めてだと吉澤は思った。後藤のときは、キスなんてどうってことはない。
そっと目を伏せた石川の唇に、吉澤は自分のそれを静かに重ねた。
シャワーから出たばかりの石川の唇はしっとりと濡れていて、思いのほか冷たかった。
吉澤は腰を浮かせ、合わせて石川も立ち上がるのが分かった。
舌を先に動かしたのは吉澤だ。薄く開いた口の中に舌を滑り込ませていく。
「んっ」と、石川は鼻を鳴らし、石川もためらいと共に舌を絡ませ始めた。
「んふ・・・ん・・・んんっ・・・」
「ん・・・ん・・・っ・・・・・・・んうっ」
徐々に激しくなっていく互いの息遣いを感じながら、それにつれて、絡み合う舌の動きも忙しなくなる。
くちゅ、ちゅ、ちゅくっ、と、いやらしい音が大きくなる。
吉澤の中で緊張は形を変え、次第に熱情となって溢れていく。
――好き・・・大好き、梨華ちゃん・・・・・・大好き・・・。
唇を離す。潤んだ瞳が見詰め合った。吉澤が照れ臭そうに薄い笑みを浮かべ、つられたように石川の口許も緩む。
石川が電気を消し、タオルを脱いで椅子の背もたれに掛ける。
夕闇が微かに残る薄暗い部屋に、石川の抜群のプロポーションがひっそりと浮かび上がった。
石川は胸と股間を両手で隠し、立っていた。
「梨華ちゃん・・・綺麗・・・」吉澤は自然に呟いていた。
ウェストの細さは想像していたが、胸の膨らみは意外にあって、
絵のモデルなら自分自身がなればいいのに、と、多少の嫉妬を孕みつつ吉澤は思った。
「あんまり見ないでよー」と、恥ずかしそうに笑うと、石川はさっさとベッドの中に入り、掛け布団を首まで引き上げてしまう。
ベッドに入るときの動作に、僅かな違和感を覚えた。それは、「普通の」人間なら気付かない程度のことだったが。
あれ? なんだろう、と吉澤は微かに引っ掛かったが、それが何かは分からなかったし、気にしなかった。
吉澤もスリップを脱ぎ、布団をめくって中に入る。石川が場所を空けるために横にずれる。
横たわって向かい合わせになった。改めて近くでじっと見た石川の睫毛は、長くて綺麗だと思う。
おずおずと顔を近づけ、またキスをする。
舌を絡ませ合ううちに、次第に石川が上になり、唇を離すと吉澤の上半身を見下ろす形になった。
薄暗い中に石川の顔を見上げると、互いの唾液で濡れた唇が薄く光の帯を放っている。
「お願いがあるの・・・」石川の唇が動いた。
「本当のわたしを知っても、嫌いにならないで・・・」それは、いつにない切実な口調だった。
吉澤は尋ねた。
「本当のわたし、って、どういうこと?」
すると、石川は問い掛けには答えずに、
「ひとみちゃん、愛してる・・・」
そう囁くと、再び吉澤の唇を貪り始めた。唾液を交換し、舌先は互いを飽きることなく求め合う。
と、石川の指が吉澤の乳房を這い上がってくる。その細い指先が乳房に広がって張り付き、やわやわと優しく揉む。
繊細さが手のひらから伝わってくるかのようだ。
「んふ・・・ん・・・」と、吉澤の息が漏れる。
後藤よりも遥かに稚拙な石川の愛撫だったが、そのいちいちに、吉澤は熱くなった。
石川は唇を頬へと滑らせ、耳たぶに至る。
「ひとみちゃん・・・かわいい」そう耳元で囁くと、石川の舌先が吉澤の耳をぞろりと舐めた。
「ひぁ・・・っ!」
吉澤の声のトーンが急に変わる。
(えっ?)という風に石川は一瞬動きを止めたが、そのすぐ後には、耳たぶへのキスの雨を降らせていた。
吉澤は顎を反らし上げながら、
「ん、ふあ・・・だめ・・・梨華ちゃ・・・んッ・・・」
早くも吉澤の弱いところを見つけ出して悦に入っていた石川だったが、
途切れ途切れになりながらも制止する吉澤の声を聞くに至って、さらに舌先を伸ばして耳の穴の周りを責め始めた。
「あっ、ばか・・・ちょっ・・・・・・ひう・・・」
吉澤は肩をすくめるように動かして逃げようとするが、石川の唇は耳を捉えたまま離そうとしない。
石川はそれどころか、吉澤を快感の防壁で包囲していく。
乳房を包む手は、すでに興奮で充血してしこり立った吉澤の乳首を指の間に挟むように、微妙な強弱をつけて揉む。
一方、空いている手はいつしか反対側の耳に達し、だらりと力を抜いた指先でそちらの耳たぶの内側を撫で回している。
「ああっ・・・梨華・・・ちゃ・・・・・・やめ・・・ああッ」
「耳、弱いんだ?」石川がようやく唇を離して囁く。
すでに耳たぶは、石川の唾液でべとべとに濡れまみれていた。
いったん休ませてあげようと思ったのか、胸や反対の耳を責めていたての動きも止まる。
だが、吉澤は「やめちゃ、やだ」と言ってしまいそうになるのを、精一杯の理性を働かせて飲み込んだ。
初めて身体を重ねる相手に、最初からこんなに戸惑いなしに乱れるのは初めてだった。
「でも」と、吉澤はあえて強がりを言ってみる。
「大した事ないね。もっとすごいの想像して――っ」
吉澤の言葉は、石川が耳たぶを甘噛みしたことであっけなく途切れてしまう。同時に、石川の手がまた蠢き始めた。
「んくっ・・・あ、あ・・・!」
「大した事ないんならぁ、なんで声出してるのぉ?」
意地悪っぽい石川の声が吉澤の耳を甘くくすぐる。
石川は耳たぶから首筋へと移動する。舌先をうっすらと流れる筋肉に沿って滑らせ、鎖骨の窪みを舐め、さらに白い膨らみを窺う。
いきなり、舌の滑らかさとざらつきが同居した感触が、一気に頂まで這い上がり、じんじんと甘く痺れる頂点の肉の蕾が吸い上げられた。
「ひあッ!」
自ずと吉澤の顎が跳ね上がる。
石川はなおも吸い上げた蕾の表面を舌先で弾いて刺激を与えながらも、「んふふっ」と、息遣いだけで密やかに笑う。
「はあ、はあ・・・あっ・・・」
為されるがままの吉澤は、何だか悔しくなってきた。勿論それは、不快なものではない。
ただ、石川の感じた声を早く聞いてみたいと思ったのだ。
吉澤は胸に覆い被さる石川の頭に手をやり、手櫛ですくように優しく撫で、その手をさらに首筋から背中に流していく。
「ん・・・っ」と、石川が微かに喘いだ。
さては背中が弱いのかな、と思った吉澤は、石川の肩に手を置いて身体を引き離し、石川の背後に回ろうとする。
しかし、吉澤の狙いに気付いたのか、石川が「だーめっ」と言って、吉澤を再びベッドに倒した。
「わたしも、梨華ちゃんを気持ち良くしたいよ」
吉澤はそう言って石川から抜け出そうとするが、やはり彼女はそれを許さない。
「ひとみちゃんの感じてるときの顔って、滅茶苦茶かわいい・・・」
頭を吉澤の下半身に移動させ、指先をそろそろと叢の奥へと潜ませていく。
「ぁあ・・・ッ!」
吉澤の目が切なさに潤み、息を呑む唇の先が震える。
石川の指先が、秘肉の奥まった部分に達していた。
石川の指は、はやる気持ちを抑えながら肉襞をそっと割り開き、吉澤の最も敏感な肉芽を露出させる。
すでに秘肉を充分に濡らしている愛密が絡みついた指の腹は、スケート靴が氷上を滑るような軽やかさで肉芽の表面を優しく撫で回す。
たっぷりと充血したそれは、快感を少しでも多く得ようとするかのように膨らみ、
石川の指との接触面からは悦楽の粒子が全身に飛び散って、吉澤の理性をじわじわと溶かしていく。
指が局所を責めている間も、石川は股間近くの太腿の内側を丹念に舐めて、微妙な刺激を送り続ける。
身体の芯を抜かれたように、すっかり全身がだらりとなった吉澤は、石川の愛撫に身を委ねるしかない。
「あ、あ・・・んああっ」
唇を噛み締めても喘ぎが漏れてしまう。胸の鼓動は張り裂けそうなほどに強く、熱く、速まっていく。
「ひとみちゃんを飲んであげる・・・」
呟くように言うと、こんこんと湧き出す泉に石川の唇が吸い付き、わざといやらしい音を立てながら秘裂の入り口を吸い上げる。
「ひや、やああ・・・ふッ」
羞恥と快感。ふたつがない交ぜになって脳髄を溶かし、吉澤の口調はいつものクールさからは程遠い、だらしない恍惚に満ちている。
次いで、石川は舌先を伸ばして秘裂の入り口を舐め回す。息遣いも肉襞をくすぐるのが分かる。
「だめ、り・・・ふあ・・・あ、あくっ・・・」
吉澤はこうべを振って、悦びを訴える。まるで下半身がどろどろに溶け落ちそうだ。頭の中は、とっくに白濁化している。
「ひとみちゃん、素敵・・・」
石川は顔を上げ、嬌声を上げ続ける吉澤の顔を見上げた。
自分は今、とても情けない表情をしているに違いない。吉澤はそう思いながらも、石川の視線がなぜか、心地よかった。
石川が吉澤の身体を這い上がってきて、唇を寄せてくる。
久しぶりとも思えるキスに、吉澤も精一杯舌を絡ませて応える。しかし、
「んっ・・・んぁあッ!」
石川の指先が吉澤の熱い秘裂に潜り込む事で、吉澤の思考が途絶する。
送り込まれる快感の奔流。火照り切った秘肉は石川が挿入した3本の指を柔らかく締め付け、
指の動きからもたらされる、ぎこちないバイブレーションを飲み込んでいく。
「だめっ、だめっ・・・ひうあっ、あっ・・・ぁあっ」
「イく? イくの? ひとみちゃん?」
「ひっ・・・くぅ・・・あああっ」
「いいよ、イっていいよ、ひとみちゃん・・・」
石川の舌が再び吉澤の耳を捉える。空いている手も乳房にあてがわれ、強く揉みしだいている。
もちろん、秘部をまさぐる指の動きもますます激しくなり、吉澤は高みに近づいていく。
「ひうあっ、ああっ、だめっ、梨華ちゃ・・・ああ・・・っ」
「かわいい、ひとみちゃん、かわいい・・・」
「うあっ、あああっ、ああぁああぁあッ!!」
吉澤はとことん追い詰められた果てに、ひときわ大きな嬌声を上げ、昇り詰めてしまった。
秘裂をまさぐる石川の指が軽く締め付けられ、耳元に唇を寄せる石川の頭を抱き、興奮の余り髪をくしゃくしゃにする。
小さく反り返った背筋はすぐに脱力し、ぐったりとベッドに沈んだ。
ひう、ひう、と、乱れた息遣いは徐々に落ち着きを取り戻してくる。ぼうっとした意識がクリアーになってくる。
石川の手が、汗だくになった吉澤の額に張り付いた前髪をすいてくれる。
と、石川が嬉しそうに自分の顔を見ているのに気付く。
「な・・・何?」吉澤は訊く。
ふふっ、と石川は笑って言った。
「ひとみちゃんが素直なトコ、初めて見ちゃった」
つい今しがたまでの自分の痴態がにわかに思い出されて、吉澤は「な、何よ・・・」と、そっぽを向く。頬が紅潮してくるのが分かる。
向けられた吉澤の背中に、石川が言う。
「銃を持ってないひとみちゃんって、すごくかわいいよ」
「そんな、こと・・・一緒だよ」
「違うってば」石川は心持ち、語気を強くして言った。
吉澤は振り返り、石川を見た。その瞳は潤み、優しさが満ちていた。
わたし、愛されてるんだ・・・? 何となく吉澤は思った。
「ねえ」と、吉澤は言う。「初めて出会ったとき・・・どうしてわたしが怖くなかったの?」
ずっと気になっていることではあった。
「さあ・・・何でだろう? わたしもよく分かんないんだけど・・・」と、石川は言葉を選びながら答える。
「ひとみちゃんの目を見たら、絶対ホントはいいひとなんだって」
「・・・買いかぶりすぎだよ。事実、いちどは梨華ちゃんを危ない場所に誘い込んだし」
「でも、ちゃんと助けてくれたじゃない」
「・・・助けるつもりはなかったのに・・・身体が勝手に・・・」
「それってね、つまりぃ、えっと、細胞レベルでわたしのコト好きってことなんじゃないの?」
普通のコだったら、こんな事を言えば感じ悪く聞こえてしまうだろうが、石川の場合、それでも許せてしまう何かがあった。
それにしても、目を見れば分かるとは、また、お人良しにも程がある。
「もうひとつ訊きたいんだけど」と、吉澤が言った。「どうしてお父さんを殺されて『ありがとう』って?」
「ちょっと待って。わたしにも訊きたいことがあるの。質問は交互に」
「・・・いいけど・・・」
「どうしてわたしのコト、殺さなかったの?」
「・・・それってだいたい、梨華ちゃんが言ったんだよ。『あなたは、わたしのことを殺さない』って」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「あれは・・・あれも、目を見て・・・」
吉澤は吹き出してしまう。
「ねえ」と石川は続けた。「本当は、どうしてわたしを殺さなかったの?」
「それは・・・梨華ちゃんの目を見て・・・」
そう言ってから、自分も同じじゃないか、と、吉澤はまた笑った。石川も笑った。
「じゃあ、今度はこっちの番だよ」と、吉澤は笑いを抑えて言った。「どうしてお父さんを殺されて『ありがとう』って?」
「もお・・・いいじゃん、その話はまた今度・・・」石川はそう言って、再び吉澤の乳房に手を伸ばしてくる。
「ちょっと・・・またぁ?」呆れたように言う吉澤だが、その表情は満更でも無さそうだ。
「いいじゃない・・・ひとみちゃん、かわいいんだから」
「だめだよ、今度は梨華ちゃんの声が聞きたいよ」
吉澤は石川の肩を掴み、腹這いにしようとする。
「だめっ! やめて、ひとみちゃん」
石川は身を引いて吉澤の手を逃れようとするが、
「何よ、背中が弱いの、気付いてるんだからぁ」
と、吉澤は足を絡ませて石川を逃がさない。
「やめて、お願いだから、やめてッ!」
その石川の語気の切実さに、吉澤は興奮して気にも留めない。そのことを十数秒後、吉澤は激しく後悔する事になる。
「やだッ、ひとみちゃん、怒るよっ!」
「すぐに悦ばせてあげるから」
吉澤は半ば意地悪っぽい、ふざけた口調になって、石川を捕まえて、とうとう腹這いにし、その上に乗っかる形になった。
「ふふふ、捕まえたっ」吉澤は嬉しそうに言う。
しかし、石川はうな垂れたように、枕に顔を突っ伏したまま、動かなくなってしまった。
しなやかな腰から尻へ流れるようなラインが丸見えになって、はっと息を呑むほどの色っぽさだ。同い年とは思えない。
うっとりと見とれていると、薄暗い中に徐々に浮かび上がったものに、吉澤は絶句した。
「梨華ちゃん・・・これ・・・」
痣。
痣があった。真っ白な背中一面に、茶褐色の線が縦横無尽に走っていた。
全てを理解する。
吉澤の鼓動が速まる。
父親を殺されて、「ありがとう」と、石川が言った意味。
ベッドに入る際の、まるで背後を隠すような、微妙に不自然な動作。
そして、背中を向けたがらない石川の過剰とも思える抵抗。
それらの点が、ひとつの線で結ばれる。
「あーあ、見つかっちゃったか・・・」と、石川は諦めきったような溜息と共に、言葉を吐き出した。「せっかく、楽しかったのに・・・」
石川の言う通り、さっきまで流れていた甘ったるい空気は、まるでそれが嘘だったかのように、今は息を潜めていた。
父親にやられたのか。それはもう、訊くまでもなかったが。
「これ見ちゃうとね、もうオシマイなの」沈黙を裂いて、石川が言った。
「みんな、引いちゃうの。現実的すぎる、って」
「梨華ちゃん・・・」
「どうする? ご飯、食べて行く? ピザでもとろうか? それとも、すぐ帰る?」
「梨華ちゃん・・・」
「いいよ、無理されるの嫌だし、別に慰めてくれなくてもいいよ」
「梨華ちゃん・・・」
「気にしないで。慣れてるから。いちいち気にしてたら、気持ちがもたないから」
「梨華ちゃんっ」
吉澤は思わず背後から手を回して石川を抱きしめていた。
「どう、して・・・?」
「分かった気がする・・・どうして、わたしが梨華ちゃんを殺さなかったか・・・」
「ひとみちゃん・・・?」
「愛してる・・・」
吉澤は、痣のひとつひとつに沿って、舌を滑らせた。
「ひ・・・う、あ・・・」
石川が声を漏らす。弱い、というのは確かなようだったが、それだけではなかった。吉澤の思いやりが、愛撫に込められていた。
石川は乱れた。何度も昇り詰めた。
全てを洗い流すように、執拗に吉澤は責め続けた。
ふたつの魂は、ふたりしか知らない秘密の場所に導かれて行く。
吉澤は思う。「こうなるはずじゃない誰か」になってしまったのは、自分も、石川も同じだと。
だから石川に対して、こんなにも優しくなれる。石川の想いを、こんなにも感じる事が出来る。
結局、石川の家の最寄駅で降りてしまった。
しかし、吉澤はまだ迷っている。改札を出たところで、ポケットの中の携帯を握り締めたまま、立ち尽くしていた。
もう遅い時間だ。寝ているかもしれない。そう思う。いや、そう思うことで、本心を誤魔化そうとしているのにも気付いている。
本当は会いたかった。しかし、会うべきじゃないと思った。硝煙の臭いがコートに染みた今の自分は、会ってはいけないような気がした。
終電が出て行った駅の構内は吉澤以外に人影はなく、眩い蛍光灯の光の中で吉澤の吐く息が白く光る。と、ひとつ、くしゃみをした。
とりあえず駅を出る。ロータリーの一角で、ひときわ明るい光を放っているローソンが目に入った。
その明るさに、なぜか吉澤はほっとする。
店に入って肉まんをひとつ買った。
店の前で、青白い街灯に照らされたタクシー待ちの長い列が伸びているのを見ながら、ひとりで肉まんを頬張る。
温かくて甘くて、美味しい。
この駅を通って、石川は毎朝学校に行っている。自分と知り合う前からずっと、毎朝。このコンビニも、何度も利用しているだろう。
そう思うと、吉澤は何だか不思議だった。出会いは奇跡なんだと思った。
食べている際中、店を出てきた若い男のふたり連れに声を掛けられる。「ねえ、ヒマなの? オレらとどっか遊びに行かねえ?」
「ごめん、もうすぐカレシ来るんだー」
吉澤がそう返すと、ふたりは「あ、そう」と、凹む様子もなく、あっさりと離れていった。
――何してるんだろ、わたし。
肉まんの袋をくしゃくしゃと丸め、ごみ箱に放り込む。
前は、「仕事」が終ると後藤の家に行き、一緒に寝た。
仕事の後、帰って独りで眠るのは、とても気持ちが殺伐として、やるせなくて、人恋しかったからだ。
しかし今日、求めているのは後藤ではなく、石川だった。
石川と愛し合ったとき、後藤との決定的な違いを発見した。
後藤と寝るときは、熱くなるのは局所だけで、石川とのときは、全身が熱くなるのを感じた。
いや、今夜は愛し合わなくてもいい。せめて、隣に眠ってくれているだけでも良かった。あの優しい体温がそばにあればいい。
晴れた夜空の高みには、微塵も欠けていない満月が浮かんでいた。
いつもよりちょっと、赤味が差しているように見えた。月を見上げながら、こうしていても仕方がないと思った。
――帰ろう。
切なさを押し殺し、吉澤がタクシーの列に加わろうと、ゆっくりと歩き始めたその時だった。
「やっぱりひとみちゃんだ!」
脳裏に深く刻み込まれた声。出会ってから、一日たりとも思い出さなかった日のない声。
――うそ・・・ッ!
目を見開いて吉澤が振り返ったその視線の先には、自転車を押して近づいてくる石川がいた。
厚手のウィンドブレーカーを着込み、寒さのせいか、頬を少し赤く染めている。
「なにしてるの? こんなトコで」目を瞬かせて、石川は吉澤の前で歩みを止めた。
「梨華ちゃん・・・」呆然と呟く。
「ねえ、なんでなんで?」笑顔で、跳ねるような声。
「いや・・・梨華ちゃんこそ、こんな時間に何してんの?」
「シャンプー切らしてたの忘れてて、買いに来たの」と、石川は、さっき吉澤が肉まんを買ったローソンを指差した。
「それで、ひとみちゃんは?」
「え? わたし? わたしは・・・・・・」
石川は、視線を泳がせて言い淀んでいる吉澤の様子に、「何か、あった?」と、少し声を潜めて心配口調になる。
胸の辺りにふんわりと温かさが広がって、吉澤のまぶたがにわかに熱くなった。
「ホント、何やってんだろうね、わたし・・・」
なぜか、無性に情けなかった。自分が。
俯くと、そのはずみで涙がひと粒、アスファルトに落ちて、丸い染みを作った。
「どうしたの?」石川が驚いたように訊いた。
吉澤は思う。
いつからわたしは、こんなに弱くなってしまったんだろう。いや、もともと弱かったのかもしれない。ずっとそんな自分に気付かずにいた。
ただ、心のどこかでいつも、思っていたのだと思う。時には誰かにすがって、思い切り泣きたい、と。
何かが憎いわけじゃない。運命なんて恨んでも仕方がない。
何かが悲しいわけじゃない。ひとを殺しても、気が重くなることなんてなかった。
でも、今は泣きたかった。幼い子供のように何も気にせず、ただ泣きじゃくりたかった。
なぜだろう。
石川が覗き込むようにして、「傷が・・・ホントにどうしたの?」と、そっと吉澤の頬に手を伸ばした。
しかし、傷はもう沁みない。その夢のように温かい感触に自分の手を重ねると、
全身の細胞のひとつひとつに温かさが宿ってくるようだった。
込み上げてくる嗚咽を堪えようとする吉澤に、
「いいよ、何があったか分からないけど、泣けば? わたしなんかで良かったら、だけど・・・」
と、戸惑いながらも石川が吉澤の頭をそっと腕に抱き、小さな肩に引き寄せた。
「ごめん、ごめん・・・わたし・・・ごめん・・・」
震える口許から石川の肩越しに漏らした吉澤の言葉は、澄んだ夜空に吸われた。
♯5
東京。
春。1999年。
「帰国子女なの?! すっごいっ! 初めて見たよっ!」目を輝かせながら、興奮気味に後藤真希は声を上げた。
入学式直後の教室。同じ学校の者同志は当たり前のように親密な空気を漂わせ、話し込んでいる。
だがほとんどの生徒は知らないもの同士なので、探り合うような会話が教室の所々で小さな輪を開いていた。
そんな中で、日本に戻ってきて間もない(と言っても、日本にいた頃の記憶はおぼろげにしかなかったが)吉澤は、
やや緊張の面持ちで座っているだけだった。考えるのは、すでに中澤から言われていた日本での初仕事のことだけだった。
特に望んでこの女子高に入ったわけではない。なにしろ、入学試験すら受けてはいないのだから。
そこにやってきた少女が後藤真希だった。
吉澤と後藤の席はかなり離れていたにも関わらず、まるで予め目星をつけていたかのように真っ直ぐ吉澤のところにやって来て、
のっけからくだけた口調で話し掛けてきたのだ。
知っている日本人のイメージと違うな、と、吉澤は思った。
日本人はもっと思慮深く、付き合いの最初はストレートな感情表現をしないものだと思っていた。
彼女は自分の出身中学を述べたが、勿論吉澤には分からない。
「あなたはどこ?」と訊かれ、アメリカから来たことを話したのだ。
後藤は「すごい」を連発した。そう言われて、悪い気はしなかった。
「わたしが東京の事、いろいろ教えてあげるよ」という後藤は、特別な友達が出来たように嬉しそうだったし、
吉澤にとっても日本での暮らしに関する力強い味方が出来たと思った。
ふたりはそれから毎日のように連れ立って出掛け、あらゆる場所に吉澤は案内された。
中学時代からかなりませた部類だった後藤は、交友関係も広く、
連れて行かれるのは大抵は東京に住んでいる者なら誰もが知っているスポットだったが、
時には夜の街を探索し、ヤバイ系のクラブに連れて行かれることもあった。
ちなみに、後に、付いて来る石川をやり過ごすために入ったクラブは、後藤に教えてもらった場所だった。
後藤はいつも屈託がなく、適度にアバウトなその性格は、吉澤が一緒にいても気兼ねを必要とせず、心地よかった。
それに、彼女には独特のクールさがあった。必要以上に人のテリトリーには踏み込んでこない。それも吉澤には都合が良かった。
吉澤の呼び方はいつしかよっすぃーになっていた。
余談だが、みちよや矢口がよっすぃーと呼ぶのは、学校でのニックネームを訊かれた吉澤が答えてからである。
それから半年ぐらいが経った頃。吉澤は仕事でへまをしでかした。
「目標」は的確に仕留めたものの、そのガードに付いていた複数の黒服に延々と追い回され、挙句の果てに下水道に逃げ込んだ。
迷路のような暗い下水溝を歩き続け、気分は最悪だった。
歩きつづけるうちに水は重々しく足の動きに絡まり付き、自分の意志とは無関係に足が勝手に身体を運んでいるようだった。
初めて自分のやっていることに惨めさを感じた。プライドはボロボロだった。
どれほどの時間、歩き続けただろうか。地上に出ると、そこは後藤の家に近い事に気付いた。
自宅まで帰る気力はすでに残っておらず、携帯で後藤に連絡した。
これまででいちばんの危険と惨めさを感じた事で、理性はすでに薄れていたのかもしれない。
後藤は訳も分からない様子で「とりあえず、おいでよ」といってくれたので、吉澤は後藤の家に向かった。
いつもは何があろうと落ち着き払っている後藤も、さすがに吉澤の身なりには驚いた様子で、
すぐに吉澤を部屋に招き入るとシャワーを使わせ、服を貸した。
それでも後藤は何も訊こうとしなかった。こんな格好になったのだから、
それなりのアクシデントだとは思っていただろうが、吉澤が口を開かない以上は何も訊くつもりはないようだった。
季節は秋になっており、夜は徐々に冷えてきていた。
時折強い風が吹いて、窓をがたがた鳴らした。シャワーを終えた吉澤に、後藤がコーヒーを煎れて手渡した。
後藤の煎れたコーヒーは美味しかった。
後藤は「美味しい・・・」と呟く吉澤の顔を、じっと見守っていた。
控えめな温かさが心にじんわりと染みて、気が付いた時には吉澤は後藤の手を引き寄せていた。
◇
「うああッ、あ・・・あ、あ・・・んうっ」
吉澤の唇が背中を這い、石川の嬌声が一段高くなる。
お尻の方から秘裂に潜めた指先は石川の中を掻き回し、粘り気をたっぷり帯びた生温かい蜜を絡みつかせる。
自分が好きな人に喜びを与えている。そう思うだけで、吉澤も濡れている。
石川を仰向けにし、
「梨華ちゃん、わたしのも・・・」
そう言って石川の手首をそっと掴んで、指先を自分の秘部に導く。
指先が濡れ塗れた吉澤の中にぬるりと入り込んでしまうと、
「すごい・・・ひとみちゃんの中・・・」
石川が潤んだ恍惚の瞳で呟く。
見詰めあい、ふたつの唇は引き合うように重なり合う。
貪りあうような激しいキス、互いの中を探り合う熱い舌の応酬。感じあう汗の匂い、乱れた息遣い。
もう何度か身体を重ねたふたりは、それぞれ相手の弱い場所を知っていた。
石川は指先をくの字に緩く曲げ、入り口からわずかに入った場所を軽く抉り、
一方、吉澤の指先は秘裂をまさぐりつつも、親指の腹で敏感な肉芽を撫で回す。
そうして最も効果的に相手を絶頂に導くために、神経を集中する。
「あ、あッ・・・んうッ、あああっ!」
「あ・・・梨華ちゃ、あッ、あ、あッ」
互いに高め合うように、指の動きは徐々に激しさを増していく。湿り気を含んだ喘ぎも切迫したようになってくる。
しかし、ずっとリードしていた吉澤の方に多少、余裕があった。
次第に石川の指先の動きが、おろそかになってくる。快感のシャワーが石川の全身に降り注ぎ、吉澤の秘部に至る手を浮かせているのがやっとという風である。
「ひと・・・ちゃん、あッ!・・・あ、あ、うあ・・・ッ!・・・め、だめぇッ!」
石川はこうべをぶんぶん振って、絶頂が近い事を訴える。
「いいよ、梨華・・・ちゃん、イッて・・・」
吉澤は耳元でそう囁くと、石川の乳房の頂きを軽く吸い上げた。
「やだっ、やあぁッ、いっ、しょ・・・あああッ、んああ・・・ッ」
石川の身体が大きく仰け反り、背筋が浮いて小さなブリッジを作る。
すぐにぐったりと身を沈める石川だったが、空ろな瞳のまま、吉澤に伸ばした指先の蠢きを再開する。
自分だけ先に達してしまったことの、吉澤への気後れだった。
そんな石川の優しさが心に染みて、吉澤もにわかに身体の昂ぶりを大きく感じる。
「ひと、み、ちゃ・・・も・・・」乱れた息遣いを整えながら、石川が笑みを浮かべて囁く。
しかし、吉澤の指も再び石川の中をまさぐり出した。
「あッ、ダメだって、ひと・・・ふあッ?! あ、ぁあッ」
「・・・女の子は・・・あッ、何回でも、ね・・・んうッ」
石川の火照り切った柔肉は瞬く間に熱を取り戻していく。収まりかけた愛蜜の奔流も、すぐに勢いを取り戻す。
すでにシーツは、石川が垂れ流した蜜が大きな染みを作っている。
「ずるい、よ・・・ひとみ、ちゃん・・・ああっ、こんな、あっ・・・ああ!」
「なん、で・・・梨華ちゃんに・・・いっぱい、イッて・・・欲しいだけ、あく・・・っ!」
「せめて、はう・・・いっ・・・しょに・・・」
切なげに眉根を寄せる石川の表情に、吉澤は欲情する。
石川の肩越しに、力なく枕に顔を突っ伏してしまう吉澤。
これ幸いとばかりに、石川はちょうど横に来た吉澤の耳たぶをついばむ。
いきなり思いもよらないところを責められて、吉澤はまだ余裕があったはずの絶頂までの距離が一気に縮まったのに気付く。
身を捩っても、石川の唇は執拗に耳を責め苛む。しかし、石川に潜めた指先を動かすのを忘れない。
「わたし・・・あ・・だめ・・・もうっ」
「イ、く・・・? ひとみ、ちゃん・・・ッ」
「梨華、ちゃん・・・ッ」
「わた、しも・・・ひくッ」
ふたりはほぼ同時に昇り詰める。
びくッ、びくッと小さな痙攣をしながら吉澤の身体が虚脱し、やはりぐったりした石川の身体に覆い被さる。
ふたつの双球が重なって、互いを平べったく潰しあう。
石川は心地いい重みを感じ、腕を回して吉澤を抱きしめた。
吉澤も、愛しさをこめて石川の肩口にキスをする。汗のしょっぱい味。石川の味。
静かな部屋に、ふたりの欲望の残滓だけが、乱れた息遣いとなって響き続ける。
「・・・いよ・・・」
「え?」吉澤は、石川の言葉が良く聞き取れなかった。
「ひどいよ・・・」石川が顔を上げて、吉澤を罵る。
「はあっ?」
「ひとのコト、好き勝手にもてあそんでっ」
「え・・・あの、ごめん・・・」吉澤は、とりあえず謝った方が良さそうだと思った。
「疲れた・・・」
石川はそう呟くと、背を向けてしまった。
「あ、あの、つまりね・・・」と、しどろもどろになって吉澤は弁明する。
「好きで好きでたまらなくって、そういうときって、相手を無茶苦茶にしたくなるって、ない? だからさ、愛情表現なんだって。
えと、気を悪くしたんなら、謝るから、ね? ね?」
必死な吉澤の口調に、石川はとうとう堪えきれずに笑い声を漏らしてしまう。
「くふ・・・んふふふっ」
吉澤はようやく、怒った仕草は石川の芝居だったことに気付いた。
「りーかーちゃーん・・・」低く抑えた吉澤の声は、少し怒っているように聞こえた。
「ごめんっ、ひとみちゃんっ」と、振り返ろうとする石川の肩を、吉澤の手が押さえる。
「え?」
吉澤の意図が分からず、石川は戸惑う。
だがすぐにそれは、舌のざらっとした生温かい感触が背中を這い回り始めたことで理解する。
「ちょっと、ひとみちゃんっ?!・・・んっ!」
「逃がさないよーだ、背中こっちに向けてるのが悪いんだからね」
「ホントに、あの、わたし、も・・・2回も・・・あっ、ふあ・・・っ」
石川が辛うじて口にした諌めには耳を貸さず、
「そーんなに苛めて欲しいんだったら、もう遠慮しないからっ」
吉澤はそう言うと、首筋から背中まで、舐め回す。
無数の痣が残る背中。しかし、もう気にしなくなった。
こんな風に身体を重ねる事で石川を癒し、自分も一時でも全てを忘れられるならそれで良かった。
前に回した手が石川の乳房をやわやわとこね回す。
程よい弾力を保ったそれは、まるでそっちの表面から吸い付いてくるような心地よさだ。
石川の喘ぎ声のトーンが上がっていく。
と、そんな時、吉澤の携帯の着メロが鳴り出した。
床に脱ぎ捨てたコートのポケットの中からくぐもって聞こえてくるそれは、「夜空ノムコウ」だ。
「ひとみ、ちゃん・・・携帯・・・」
石川がためらいがちに言うが、吉澤はそんな事は気にも留めず、愛撫を続ける。
着メロが途切れる。
「いいの・・・?」石川が少し振り向いて言う。
「なんだ、まだまだ余裕あるじゃん」イタズラっぽく言うと、吉澤は乳房にあてがっていた手を肌に沿って下降させていく。
「あふ・・・ひとみ、ちゃ・・・」
吉澤の指先が秘局を捉えようとしたとき、また着メロが流れ出した。
さすがに2回目ともなると、気が散ってしまう。
吉澤は大きな溜息を深々とつくと、手を伸ばしてコートを引き寄せ、携帯を取り出した。
ディスプレイを見て、吉澤は一瞬固くなる。
――後藤真希――
さりげなく石川の方を窺う。石川は、布団を首まで被って身を固めたまま、吉澤の様子をじっと見ている。
「出ないの?」鳴り続ける着メロに、石川はぽつりと言った。
「あ、うん・・・」
吉澤はベッドに座って速まる鼓動を抑え、携帯をそっと耳に当てる。
『あ、よっすぃー? 今、いいかなあ?』
いつも通り、元気な後藤の声だ。
「え? なに? ごっちん」動揺を隠して吉澤は答えた。
『遊びに行かない? 何かヒマでさー、ほら、こないだ行けなかったクラブ、行こうよ』
「今から・・・?」
『うん』
「あの・・・ごめん、今はちょっと・・・都合悪い」
『・・・そっか』
「ごめんね」
『ううん、いーよ、また明日ね』
特に気を悪くした風でもなく、後藤から電話を切った。
ツーツーという発信音を確認すると、吉澤も携帯を切る。嫌な後味が胸にどろりと広がった。
後藤が夜中に突然遊びに誘ってくるのは珍しい事ではないし、吉澤も大抵は誘いに乗って出掛けていた。
ただ、こんな状況で掛かってくるなんて、想像しなかった。
石川とこうして会うようになってからも、後藤とは毎日学校で顔を合わせていたが、一緒に夜を過ごすことはなくなった。
泊まりに行ってもいい?と訊かれる事はあったが、何かと理由をつけて、やんわりと断っていた。
――後藤は自分の事をどう思っているんだろう?
――何となく付き合うようになったが、後藤は自分との関係をどう思っているのだろう。
先送りしていた問題をいきなり目の前に突きつけられて、吉澤は陰鬱になる。
吉澤が暗くなった携帯のディスプレイを見詰めていると、
「良かったの?」
後ろから石川がおずおずと訊いてきた。見るとその瞳は、少し不安に揺れているようにも見える。
「え?」
「断っちゃったんでしょ?」
「うん・・・大した事じゃないから」と、吉澤は笑みを浮かべる。
思えば、こうしてふたりでいるときに、他者が介入してくるのは初めてだった。それが石川を心なしか不安にしているのかもしれない。
吉澤は布団に入り、石川の不安を払拭してあげようと、キスをする。
しかし、それ以上する気は、もうなかった。気持ちの昂ぶりは細かく弾けた泡粒のように、どこかへ消え失せていた。
石川も、そんな吉澤の気持ちをどこか冷めたキスで敏感に感じ取ったのか、特に身体を求めてくる事はなかった。
本当は、電話の相手との関係を訊きたくてたまらないというピリピリした感じが、
時々触れる石川の手の甲から伝わってきたけれど、訊かれても吉澤は話すつもりはなかった。
どこかばつの悪い空気が流れる中、ふたりは並んで横たわったまま、眠れずにいた。
初めてふたりきりの夜を過ごしてから、石川からの電話に、吉澤はこれまでと違って、ちゃんと応えるようになった。
何度かデートもした。もっとも吉澤にとっては、単に買い物をしたり、
映画を観に行ったりといった程度はデートと呼べるものではなかったが、
石川は「デート、デート」とひとり楽しそうに騒いでいたりして、それはそれで、まあいいか、という感じで、
そんな彼女の振る舞いを微笑ましく見ていた。
少しずつ、距離が縮まっていくのを吉澤は感じていた。しかしそれと同時に、そこはかとない不安が醸成されてくるのも感じていた。
それが果たして何なのかは分からなかったけれども。
どれほどの沈黙が流れただろうか、薄暗い天井を見据えたまま、石川が静かに口を開いた。
「ひとみちゃん・・・まだ起きてる?」
「うん・・・?」吉澤も天井に目を向けたまま答える。
「・・・これからもさ、ああいう仕事、続けるの?」
「ああいう、って?」
「分かってるくせに」
どうやらずっと気になっていたらしい。吉澤が普通一般の女子高生とは違うということを。
「・・・ああ、仕事、ね・・・多分」
「なんで? 確かご両親、もう亡くなってるって言ってたよね。生活のため・・・?」
「それだけじゃなくて・・・まあ、生活のためってのもあるけど・・・今はやめられない」
やめられない、のところに確たるニュアンスを感じた石川は、
「ひとを殺して楽しいの?」と、責めるでもなく、あくまで柔らかな口調のまま訊いた。
「楽しくはないよ」
「じゃあ、悲しい?」
「・・・悲しくもない」
「どうして?」
「どうしてって・・・昔からそうしてきたから・・・」
「ひとが死ぬってことはさ、その裏で泣いてる人がきっといるんだよ。
お父さんが死んで、わたしは嬉しいほどだったけど、でも、外の女の人とか、何人かの部下のひとは悲しんでると思う」
「よく分かんないんだよ・・・そういう、ひとを殺すっていうのがどういうことなのか。
知識としては知ってるよ、ひとは殺してはいけません、当たり前だ、って。でも、なんでか良く分からない。
昔からずっと、そんなことしてきたからだろうね」
「ひとを殺すって事は、そのひとの明日を永遠に奪うってことなのよ。
そのひとが、明日やろうと思っていたことや、明日好きな人と会うっていう約束も全部、奪っちゃうって事なのよ。これは大変な事よ」
「例えば・・・・・・」少しためらった後、吉澤は続けた。
「わたしが死んだら、梨華ちゃんは悲しんでくれんの?」
「当たり前じゃないっ」
石川の口調が急に強いものになった。吉澤は驚いて、石川の顔を見る。
石川は思い詰めたように言葉を繋ぐ。
「明日から永遠にひとみちゃんの顔を見られなくなったら・・・」
「見られなくなったら・・・?」
「・・・死ぬわ・・・」
「ええッ?!」いきなり出てきた結論に、吉澤は思わず声を上げる。
「なによう、死に対して鈍いみたいなコト言っときながら、結構マトモじゃないー」石川が少しおどけたように言った。
「でも、後追いなんて・・・いまどき」
「もし・・・ひとみちゃんが今やってる・・・仕事? やめるんなら、今のひと言、取り消すよ」
「なんでそれとこれとが関係あるんだよー?」
「関係あるよっ! だって、危険じゃない。危ない事だってあるでしょ? 死にそうになる事だってあるんじゃないの?」
「大げさだよ」
決して大げさではなかった。危ない橋を渡ったことも何度かある。
でも石川の性格を考えて、ここはとりあえず、といった風に、吉澤は軽い口調で返す。
「だって、ひとみちゃん見てたら・・・」と、石川はしゅんとした口調になる。
「こないだ、駅にいたでしょう? どうしたのって訊いても答えてくれないし。あのときね、すごく不安だったの。
ひとみちゃん、その場からすうって消えちゃうような気がしたもの」
なによ、それぇ、と、吉澤は笑うが、石川は至って真面目な表情を崩さずに続けた。
「ホントだよ、ホントにそう思ったの。だから、ひとみちゃんの感触を感じて、すごくホッとしたんだから」
「梨華ちゃんってさ・・・」
「うん?」
「ヘン」
「・・・ひとみちゃんっ!」
一向に真面目に取り合おうとしない吉澤に、痺れを切らしたように声を荒げる石川。吉澤は、そんな彼女を抱きしめてやる。
吉澤は思う。石川といるのは楽しい。いつも、何か得をしたような、胸の辺りがほわっと温まるような気がする。
抱きしめた肩越しに、石川が言った。「話、誤魔化したでしょう?」
「え・・・?」
石川はどこか呆けている割に、ときに妙に鋭かったりする。
なるほど、テニス部の部長にしては、これぐらいのキャラクターがよかったのかもしれない。
「仕事やめる、っていう話だったでしょ」石川は詰問口調になる。
「あ、ああ、もういいじゃん、やめよ」
「ねえ、じゃあ、なんで仕事やめないの?」
「梨華ちゃん」と、吉澤は急に深刻な口調になる。
「本当に今は、言えない。でも、そのうちきっと分かるから、だから、ね?」
「ひとみちゃん・・・」石川の静かな息遣いだけが耳元で聞こえる。少しの間を置いて、
「分かった・・・」と呟き、石川は吉澤の背中に回した手に力を入れた。
「その代わり、わたしの前から消えちゃいやだよ、ね?」
「・・・うん」優しい口振りで吉澤は頷く。
「共犯者は勝手にいなくなったらダメなんだよ」
「分かったってば」と、石川の髪を撫でてやる。
そうだ。今はそう答えておけばいい。吉澤はそう思った。
そのままふたりの話は終わり、しばらく経ってから先に寝息を立て始めたのは石川の方だ。
吉澤は、窓から染み込んでくる月明かりに照らされて淡く光る石川の寝顔を、しばらく見ていた。
その穏かな顔立ちを眺めながら、どんな夢を見ているんだろう、と思った。
寝入りばなに、吉澤の脳裏に不意に甦ったのは、幼い日、中澤から聞いた言葉だった。
――自分が可愛かったら、生きていたかったら、信じるのは自分だけ、好きになるのも自分だけや。せやないと、死ぬで。
それはこれまで、事あるごとに思い出された文句だ。
それからしばらく吉澤は目を閉じて、瞼の裏の闇を見詰めていたが、
何かを振り払うように、しかし石川を起こさないように静かに寝返りを打つと、大きく息をついた。
確かに吉澤は、今までずっと知らなかった何かを取り戻そうとしていた。
次の日、吉澤は早めに起きて、予め用意してきた替えの下着を着け、制服に着替えて石川の家を出た。
学校まで、いつもより少し余分に時間が掛かる。
玄関のドアを開けたところで、すでに制服に着替えていた石川が「行って来ます」のキスを求めてきたが、
「ハズいからやだ」と、そっけなく言い放ち、吉澤は外に出た。石川はちょっとがっかりした顔をしていた。
門を出てからちょっと歩いたところで、歩調が緩やかになる。
やがて何かを思いついたように吉澤は踵を返し、また石川の家に戻っていく。
「梨華ちゃーん!」玄関を入ったところで、大声で呼ぶ。
奥で階段を駆け下りる音がして、石川はちょうどブラッシングの途中だったのか、ヘアブラシを手にしたまま、玄関にやって来た。
息せき切って石川は、「何か忘れ物?」
「うん・・・」
息を弾ませたままの石川を引き寄せ、吉澤は頬に軽く口付けすると、「行って来るね」と軽く手を振り、また出て行った。
「あ・・・」
ひとり玄関に取り残された石川は、唇の温もりと湿りが微かに残る頬に手をやり、
「キャーッ」と、込み上げてくる気恥ずかしさと喜びにひとり叫ぶと、自分の身を抱きすくめた。
その日の授業中、後藤の視線を時折感じていた。
しかし吉澤は気付かない振りをして、窓の外を見たり、さして興味のない教科書を読んだりして、後藤の視線をやり過ごしていた。
休み時間は後藤が近寄ってくる前に教室を出て、屋上に出たり校内をウロウロして時間を潰し、
チャイムの音がしても教室の前で教師を待って、やってきた教師が教室に入る直前に自分が教室に入るという念の入れようだった。
それらを吉澤は極めて自然に振舞ったつもりだったが、おそらく後藤にとって、そういった吉澤の行動は合わせて考えてみれば、
非常に不自然に映ったに違いなかった。
しかし、吉澤は時間が欲しかった。昨夜の石川との激しい夜を思い出すと、
後藤との関係をハッキリさせなくてはいけないとは思うのだが、果たしてどう切り出したものか、
そして何より、自分はどうなる事を望んでいるのかが分からず、後藤と話す前に、それらについて結論を出しておきたかったのだ。
だが、4限目の体育の時間にとうとう後藤に掴まってしまった。
ジャージに着替えた吉澤は体育の担当教師と並ぶように、
すでにジャージに着替えたクラスメートがばらばらに待つグランドにやって来た。ここまでは計画どおりだった。
授業の最初に2人1組になってストレッチというのはお決まりのパターンだった。
いつもは後藤とペアを組むのだが、今日はいち早く隣にいた生徒に声を掛けて、ペアになろうと思っていた。
しかし隣に声を掛けようとした瞬間には、離れた列にいたはずの後藤の腕が背後から吉澤の肩に回されていた。
「なんっか、避けてないっすかー?」吉澤にぴったりとくっついて、後藤はいつもの呑気そうな声を出した。
吉澤は心臓が止まるかと思った。その後藤の言葉にではなく、後藤に掴まったことにでもない、
それ以前に、ずっと視界の端でマークしていた後藤がいきなり背後に回りこんでいたことに対して、である。
仕事の時と同じくらいの緊張をもって捉えていたはずなのに・・・近寄って来る気配すら感じなかった。
「あ、何が? ごっちん・・・えと、やろっか」
できるだけ動揺を悟られないように、吉澤は返したつもりだったが、言葉の端々は微かに震えていた。
まず、横に並んで両手で互いを引っ張り合う。最初は後藤が引っ張った。
「避けてるっしょー? 後藤のコト」
吉澤が引っ張る。「えー? 避けてないよ」
後藤が引っ張る。「そっかなー、あからさまに避けてると思うけど」
吉澤が引っ張る。「そんなことないよー」
後藤が引っ張る。「そー? だったら・・・いいけど」
「いっ、痛いって、ごっちん」と、吉澤は手を振り解いた。
次は背中合わせになって上げた両手をつかみ合い、相手を背中に引っ張り上げて乗せるストレッチだ。
後藤が引っ張る。「夕べはなんか、あった?」
後藤がプライベートに関して突っ込んで訊いてくるのは珍しい。意外に感じながら、吉澤は引っ張る。
「え・・・あ、うん、ちょっとね」
後藤が引っ張る。「そっか」
吉澤が引っ張る。「うん・・・」
後藤が引っ張る。「今日、行ってもいい?」
吉澤は引っ張らない。「どしたの?」と、後藤は振り返って訊く。
確か石川は今日、新入生歓迎会実行委員とやらで遅くなると言っていた。
「いいよ、ちょっと話あるんだ、わたし」吉澤は覚悟を決めた。
時間どおり、夜9時に後藤はやって来た。
だが、後藤はこちらから話を切り出す前に、吉澤の唇を求めてきた。
「とっと、だめだって」と、吉澤は後藤を押し返そうとするが、「ごっち――」
結局は組み敷かれて、好きなように貪られる。久々の後藤の感触に、つい吉澤も流されそうになる。
――やっぱり、上手いなあ・・・。
だが、それ以上は許すつもりはなかった。
ひとしきり唇を味わい尽くすと、後藤は顔を上げた。
「話、聞いてよ、ごっちん」吉澤は抗議するように言った。
「でも、わたし、よっすぃーの話、聞きに来たわけじゃないから」と、後藤は吉澤の言葉を気に留めず、吉澤の胸元に手を伸ばした。
「ダメだって、だめッ、ごっちん・・・ひぅ・・・」
後藤が吉澤の耳たぶに息を吹き掛ける。痺れるような快感が吉澤の全身を駆け巡る。
後藤は、何を切り出されるか分かっている。吉澤は思った。だから、こんな風に無理矢理にしようとしようとしているんだ。
それでも、「ごっちん!」と、吉澤は声を荒げた。「ごっちんと、もうこんな風に・・・もう、やめよう、こんなの」
吉澤の言葉に、後藤の動きがぴたりと止まった。後藤のビー球のように綺麗な瞳が吉澤を捉える。
「ほかに好きなひと、出来た?」
吉澤は唇を強く引き結んで、小さく頷いた。本当は、「ごっちんのことも、どれほど好きなのかも分からない」と言いたかったが。
「じゃあウチら、セクフレでいーじゃん」
「セクフレ?!」
「女同士でもセクフレっていうのかなあ? まあ、いっか」と、後藤は服の上から胸をまさぐる手を動かし始めた。
「ごっちん、違うよ、違うの。本当に好きな人とするってのとは――」
「気持ちよさが違う?」
「・・・・・・違うよ。本当に好きな人とは、心の底から通じ合えるの。本当に感じ合えるの。だから――」
「よっすぃーの言ってること、よく分かんない」後藤は不機嫌そうに言った。
「もう、こんないい加減な気持ちでごっちんとこんな風に出来ないよ」
「ふーん、じゃあ、我慢してみてよ、気持ち良くないなんて言わさないんだから」言って、
後藤はにんまりと笑うと、再び吉澤に覆い被さってきた。
吉澤は耐えた。しかし一方の後藤は、そんな吉澤の表情を楽しそうに見ているようでもあった。
いつもよりもやけに密やかで集中した行為は、完全に後藤のものだった。
吉澤はあっけなく嬌声を上げ、いちどたがが外れたそれは、どんどん溢れてくるように吉澤の口を突いて出てきた。
――わたし、滅茶苦茶、情けない人間だ・・・。
吉澤は絶え間なく送り込まれる快感の中で、悲しいほどそう思っていた。
♯6
東京。
夏、1998年。.
「親御さんとか、今日はいらっしゃってないのかな?」
中山医師は不自然なほど妙にニコニコして、吉澤に尋ねた。
MRIのフィルムが掛かったままのシャーカステンの青白い光が、中山医師の顔をくっきりと明と暗、半々に分けている。
「わたしひとりです」
「そう・・・じゃあ、今度、家の人と一緒に来てもらえないかな。
あなたひとりに説明しても、検査の結果は理解しきれないかも知れないから」
「家族はいません」吉澤はさらりと言った。
「あ・・・そうなん、だ」目を逸らし、申し訳無さそうに中山医師は言う。
別に悪い事も言っていないのに、おかしなひとだな、と、吉澤は思った。
こんな大きな病院に来たのは初めてだった。無機的な廊下、消毒薬の臭い。
医師や看護婦は、みんな同じ色の白衣を着ている。こんなところで毎日働いていると、頭がおかしくなるんじゃないかと吉澤は思った。
でも、診察室に待っていた中山医師は、人の良さそうな美人だった。長い髪を後ろに束ねて清潔感が溢れ、好感が持てた。
中山は腕組みして、「誰か信頼できる身内のひとはいないかな?」
吉澤は中澤の事を思い出したが、信頼するなと言われているから、彼女のことは口にしなかった。
「いません。わたしひとりです」
「そっ・・・か・・・」と、中山医師は整った眉根を寄せて、考え込んでしまう。
「わたしひとりじゃ、ダメなんですか?」
「いや、そういうワケじゃないんだけど・・・」
中山医師の、どうにも奥歯に物が挟まったような物言いに、吉澤は苛立ってきた。このあと中澤と待ち合わせがあった。
「検査の結果、悪いんですね」
ほとんど決め付けるように吉澤が言うと、中山医師は無言で小さく頷いた。
さらに「腫瘍とか、ですか」と訊くと、
「うん・・・」今度は中山医師は、はっきりと口に出して言う。
「頭痛の原因は間違いなく、これね」細い指先が伸びて、MRIのフィルムの一点を指し示した。
何年か前から実は、ときおり強烈な頭痛があった。しかし数分堪えていると、じきに症状は遠のいていった。
だがここ数週間、症状が急に激しくなってきた。近所の医院に行くと、念の為に精密検査を受けた方がいいと言われ、
紹介状を書いてくれたのだ。
事実を告げてもなお、中山医師の口は重そうだった。吉澤はわざと挑発してみる事にした。
「でも」と、吉澤は打って変わって軽い口調で言う。
「このまま放っておいても大丈夫なんでしょ? もう帰ってもいいですか?」
吉澤が一方的に席を立とうとすると、中山医師は吉澤を厳しく見据えて言った。
「このままだと、命の危険に関わるの」
そして言ってしまってから、慌てて言葉を継ぎ足す。
「あ、すぐにじゃなくて、だから、今日明日どうこうってワケじゃないの。
でもね、このままだと、この腫瘍は寄生虫のようにじわじわとあなたの命を吸い続ける事になるの。宿主であるあなたの命が尽きるまでね」
◇
「チャオ〜!」と、いきなり後ろから思い切り抱きつかれて、吉澤は前のめりにつんのめる。
「うわっ! 危ないって!」
「だってえ」と、石川が肩越しに甘えた声で言う。「ひっさしぶりだぃ」
後藤に半ば無理強いされたあの夜以来、石川のことを考えるたびに、吉澤の中には罪悪感が芽生えていった。
だから、石川に誘われても適当な言い訳を考えて断ってきた。
本当は会いたかった。しかし、あの後藤に半ば無理強いされてなお、すっかり溺れてしまった夜の情けない自分のことを思うと、
後ろめたさが先に立った。例えば石川とデートしている今だって、どこか気が引ける部分があって、
吉澤の表情は鮮やかさに欠けているようだった。
どこへ行くかとかを決めていなかったので、とりあえず適当な喫茶店でお茶をする。
昼間はすっかり温かくなって、街を行き交う人々の服装も徐々に軽いものが多くなった。
柔らかな光の粒子を浴びて、色合いもカラフルなものが目立つ。
「もう春って感じだねー」石川が窓の外を見て、のんびりと言った。
「ああ、うん。そだね」
吉澤は外を見るでもなく、目の前のアイスティをひと口すする。
口許を小さくゆがめると、砂糖瓶からひと匙すくってカップに落とした。
石川ははっきりと、そんな吉澤の様子の変化に気付いている。
頬杖を突くと、「どうせ何も言ってくれないんでしょう?」少し拗ねたような口調で言った。
「え?」
「いかにも『実は嫌な事があったんですよー』って顔してるけど、『どうしたんですかー』って訊いても、
どうせ答えてくれないんだろうなあって思って」
「別に何もないよ、嫌な事なんて。なんで?」
「・・・もういい」石川はきっぱりと言い切ると、小さく溜息をついた。
「あ、ねえ」と、吉澤が取り繕うように口を開いた。
「こないだ一緒に見た映画、何ていったっけ? ほら、あの――」
「あのね」と、石川は背もたれに身を預ける。
「わたしって、そんなに頼りにならないのかな? 悩みを聞くことぐらい出来ると思うんだけど」
石川の気持ちはよく分かるし、嬉しい。でも、こればかりは口が裂けても言えない。自分ひとりで解決するべき問題だ。
「ねえ、もっと頼ってよ」
「うん」吉澤は笑顔を取り繕った。
どうにも煮え切らない吉澤の態度に、石川はヤレヤレといった風に肩をすくめた。
しばらく気まずい空気が流れる。ふたりとも、どうしたらいいか考えていた。
店内に流れる安っぽいインストゥルメンタルが、ふたりの間を辛うじて満たしていた。
不意に石川が口を開いた。「ひとみちゃん、誕生日、いつ?」
虚を突かれて、一瞬キョトンとなって吉澤は、「・・・4月12日だけど」
「そう!」と、石川は目を輝かせる。そして、「行こう!」とテーブルの隅にあった伝票を手に取って席を立った。
「行くって、どこへ?」
戸惑いながらも、吉澤も腰を浮かせる。
「ひとみちゃんのバースデイ・プレゼントを買いに!」
まだ1ヶ月も先だよと言うと、石川は、いいじゃない、今買いたいの!と言って、どんどん歩いて行ってしまう。
また今度でいいよと言うと、だったら、去年の分!と言う。
どこへ行くのかと思えば、マルキューだった。石川にはどうやら狙いがあるようだった。
とあるブティックに入り、吊られているスカートをひょいひょいと手に取っては吉澤に渡す。
「スカートなんてヤだよ!」という吉澤の言葉なんてどこ吹く風、石川は上機嫌でスカートを見繕っていく。
「穿いた事ないし、気持ち悪いよ」
「でも、毎日制服着てるじゃない」
「制服は別だよ」
吉澤は両手にいっぱいになったスカートを抱えながら、石川の機嫌が良くなるならいいかと思った。普段着はジーンズが好きなんだけど。
「はい、じゃあ穿いてみて!」と、吉澤は試着室に押し込められてしまった。
溜息混じりに吉澤は、次々に手早く身に付けてみる。
「きゃあッ、ひとみちゃん可愛過ぎっ」
カーテンが開けられる度に、石川の笑顔と黄色い嬌声が出迎えた。
「ねえ、そこでくるっと回ってみて!」
辛気臭く試着室の中でぐるりとひと回りすると、「梨華ちゃんさ、わたしで遊んでるでしょ?」と、両手を腰に睨む。
石川は、「だって、楽しいんだも〜ん」とはしゃぐ。
やっぱり可愛いくて愛しいと思った。
思わず手を引き、石川を試着室に引っ張り込んでいた。素早くカーテンを引く。
「あ、ちょっと靴――」咄嗟に言った石川の言葉が途切れる。
吉澤は唇を重ねる。押さえ込んでいた想いが溢れる。もう、我慢しきれない。強く抱き締めて、石川の唇を吸った。
薄暗く狭い空間の中で、ふたりの息遣いだけがしばらく交錯する。目も眩むような恍惚が降り注ぐ。
唇を離すと、ふたりはこつんと額を付け合い、ふふ、と照れ臭そうに小さく笑い合った。
結局石川の勧めで、赤いスカートを買った。そのまま穿いて帰ることになった。
最初抵抗があったものの、石川があまりに「可愛い」を連発するものだから、吉澤は、こういうのも悪くないかも、と思えてきた。
そのあと、石川は雑貨屋でクッキーの型を買った。天使の羽の形をした、アルミ製のやつだ。
帰ったら早速作ってみよう、と、嬉しそうだ。
最初、絡まりがちだった歯車にたっぷりと油がのり、ふたりは久々のふたりの時間を楽しんだ。
今日は沢山歩いた。ひと気の少ない夕方の公園のベンチで、ふたりは少し張った足を休ませていた。
石川が自販機でジュースを買ってきた。ふたりで缶を傾けながら、木々から漏れる夕暮れの光を見ていた。
目の前の大きな池の水面は金色に輝き、その中を連れ立った水鳥たちが悠々と滑っていく。
「ねえ、今日、ひとみちゃんトコ、泊まりに行ってもいい?」恐る恐るといった風に、石川が切り出した。
「・・・うん、いいよ」
黄昏色に染まった吉澤の笑顔を見て、石川は吉澤の肩にゆったりと顔を寄せた。
微かな風が心地よく髪を撫でる。漂う土と草の匂いが春の訪れを告げている。
いいなあ、と、吉澤は思った。自分にこういう時間があるということ、こういう相手がいるということ。
石川がいることで、自分が今ここに、確かに生きているということを実感できる。
と、その時、
「よっすぃー!」
声がした。吉澤が聞き覚えのある愛嬌のある声。見ると、果たして矢口だった。
その華奢な身体が大きく手を振ってこちらに歩いてくる。
「知り合い?」石川が訊く。
「ああ、うん・・・」
曇った声になる。できれば、「仕事」の世界に関わる人間を石川には会わせたくなかった。
「何やってんの?」目の前まで来た矢口は、ちらと石川を一瞥しただけで、その存在を無視するように話し掛けた。
「買い物とか・・・なんとなくぶらぶら歩いてるだけ」
「なによ〜、誘ってくれればいいのにさ。今日オイラ、ヒマこいてたのに」
「なんで矢口さんを?」
「つれないなあ。あたしとよっすぃーの仲じゃん」
キャハハハと、甘えた声ではしゃぐ目の前の少女に石川は戸惑いながらも、「あの、初めまして」と、間に割って入る。
手はいつの間にか、横の吉澤の腕に回されていた。
「うわ。ナニこの女、超カンジ悪くない? 陰険っつーか」
さり気ない石川の仕草を見ると、口先を尖らせて矢口はぶちぶちと言い始めた。
「わたし、ひとみちゃんと付き合ってるんです!」
吉澤の腕に自分のそれをしっかりと絡みつかせ、挑戦的な口調で石川は言い放った。
そのあまりに突飛な石川の言葉に一瞬怯んだ矢口も、負けじと、「あんた、よっすぃーのキャラと違いすぎるんだよね。お嬢はお嬢らしく、どっかのぼんぼんと付き合ってればいーのっ」
「釣り合わないのはあなたの方ですっ」
そう言って、石川が立ち上がる。矢口を見下ろす形になる。ちょっとでも威圧感を与えようとしているらしい。
しかし矢口は、そんなのは慣れっこだとでも言うかのように、口調を和らげようとしない。
お互いの闘争本能に火が点いてしまったようだ。
「ちょっと。それってどーゆーコト? なにチョーシブッこいてンの、あんた」
「あなたみたくちっちゃい人だったら、キスするのもひと苦労じゃないんですか?」
「あんたこそ、そんなフニャフニャなアニメ声だったら、よっすぃーもその気になるのに苦労してるんじゃない?」
「アニメ声って言わないで下さいっ!」
「あんたこそ、“ちっちゃい人”って超むかつくんだけど!」
「ねえ、ちょっと、もうやめなよ」と、吉澤がふたりをなだめようとすると、
「行こ」と、石川は立ち上がって吉澤の手を握った。
「行く、って、どこに?」
「この人のいないトコ!」
そう言って、一方的に石川は走り出した。吉澤も強く手を引かれて走り出す。買ったばかりのスカートの固い裾が翻る。
「あーっ、なにバックレてンだよぉっ!」矢口もふたりを追うが、厚底ではとても追いつかない。
「いまどきそんな厚底履いてるからですよーっ!」石川は振り向きながら、たどたどしい足取りの矢口に勝ち誇ったように言う。
吉澤の変化に気が付かなかった。
石川に手を引かれて立ち上がった瞬間から頭痛が走った。
急に目に見えるすべての輪郭が二重になった。吐き気が込み上げてくる。
脳みそが頭蓋骨の中でミキサーにかけられているようだ。足が重くなり、石川の手を逆に引っ張る。
「ちょっと、待って・・・梨華ちゃん・・・っ」か細い声で吉澤は言った。ちょっと走っただけなのに、息遣いも乱れている。
さすがに石川も、吉澤の妙な様子に気がついた。
「どうしたの? ひとみちゃん」
立ち止まり、吉澤の顔を窺う。汗がこめかみを伝い、真っ青な顔色だった。
「ひとみちゃん?!」
吉澤はその場でうずくまってしまう。
――薬、飲まなきゃ・・・。
矢口がようやく追いついてきた。
「よっすぃー、大丈夫?」吉澤の隣に屈み込んで、背中をさすってやる。
「どうしたの、ひとみちゃん、身体の調子悪いの?」
心配そうに声を掛ける石川に向かって矢口が、「あんたさ、何も知らないの?」非難するように言った。
「知らないって、何を?」石川はオロオロし、上擦った口ぶりで訊き返す。
「いいから・・・矢口さん」矢口にだけ聞こえるように吉澤が言った。
矢口はハッとしたように一瞬黙り込むと、「近くにコンビニあるから、トイレ貸してもらお。ね、立てる?」
柔らかな矢口の促しで、ゆっくりと吉澤は腰を上げる。
「大丈夫?! ひとみちゃん」と、石川も付き添おうとするが、
「今日はもう、あんた、帰んな」矢口が薄い眉根を寄せて言った。
「え、でも・・・」
「どうせ今日はもう、よっすぃーダメっぽそうだからさ、わたしに任せて。いい?」
それは、有無を言わさぬ真剣な口調だった。
「ごめん、梨華ちゃん。埋め合わせはするから」と、振り向いて吉澤は笑顔になる。
でも石川の目にはそれは、明らかに無理していると分かった。
石川は遠ざかるふたりの姿を見送りながら、
――何も知らないの?
さっきの矢口の言葉が突き刺さる。
吉澤はポケットの中の薬を取り出し、洗面台にすがり付いたまま、カプセルを口の中に放り込んだ。
矢口はずっと吉澤の背中をさすっていた。
乱れていた息遣いがやがて収まってくる。鏡に映った吉澤の顔の血色も戻ってきた。
「あの女、よっすぃーの何なの? カタギのコみたいだけど」
矢口が尋ねると、吉澤は困ったような、照れたような笑みを鏡越しに浮かべる。
意識にだいぶ余裕ができてきたみたいで、矢口はホッとする。
「あのコに何にも言ってないの?」
「ええ・・・」
「・・・そっか、本気なんだ・・・」
「ごめん・・・矢口さん」
たっぷりと間を空けて、ふん、と鼻を鳴らすと、「謝らなくていいよ」と、矢口は吉澤の頭を撫でる。
その表情は柔和だった。「痛み、だいぶマシ?」
「はい。すみません・・・」
「ん。いいって」そして、「そのスカート似合ってるね」
矢口がそう言うと、吉澤は満面の笑みを浮かべた。
「あのコの見立てでしょ?」
「なんで分かるんですか?」
すると、何か困ったように矢口は薄く笑った。
石川にはその夜、携帯で連絡した。もう心配要らないこと。今日、スカート買ってくれて嬉しかったこと。
最近、少し体調を崩していて、それでなかなか会えなかったこと。
それでも石川の口調はどこか沈んだままだ。
今から泊まりに来る?と訊いたが、石川は遠慮した。
矢口の言った事なら気にしないでと言うと、少し気が楽になったみたいで、少し嬉しそうに「うん」と言った。
中澤は機嫌良さそうだった。「いやあ、助かったわ」と、吉澤に礼金の入った封筒を渡す。
「依頼主も満足しとったし」
今日は中澤の車の中だった。とは言っても、だいぶん前に乗った中澤の車は黒のクラウンだったが、
今日は(名前は知らないが)シルバーの左ハンドル車だった。
吉澤を待ち合わせ場所の公園で後部座席に拾うと、港のひと気のない埠頭まで走った。
どうやら今日は、吉澤を抱くつもりはないらしい。
吉澤は封筒を受け取ると、懐にしまい、中澤の背中に言った。
「お願いがあります」
中澤はちょっと意表を突かれたように目をぱちくりさせて、バックミラーの中の吉澤を見た。
中澤の知る吉澤は、無欲な少女だった。
これまでの長い付き合いの中で、中澤に対して何かを求めた事は、殆どと言っていい程なかった。
その吉澤が改まって懇願するとは、一体何なのだろう。
吉澤はいつになく神妙な表情で言った。「お金を貸してください」
少し間を置いて中澤は、「・・・いくら用立てたらええの?」
「一千万円」
カネを貸して欲しいといわれた瞬間、その額は予想していた。中澤はさらに確かめるために訊いた。「手術費用、か?」
「はい」吉澤は顔を伏せる。
「どないしたんや、急に命が惜しくなったんか?」
「わたし・・・死ぬ訳にはいかなくなりました」
ふーむ、と、中澤はまだ半分以上残っているメンソールを丁寧に揉み消した。
「なんか大切なものでも出来たんか」
吉澤は沈黙する。だがそれは中澤にとって、雄弁な答えだった。
「お願いします」吉澤は頭を下げた。そのままの姿勢で繰り返す。
「お願いします、中澤さん」
吉澤が頭の中に爆弾を抱えているのを知ったのは、もう3年も前になる。
それは徐々に、しかし確実に増殖を繰り返し、吉澤の脳実質を圧迫していく。
悪性ではなかったのが、せめてもの救いだ。ただ、良性の腫瘍とは言え、いかんせん、出来た場所が悪かった。
手術したとしても、手術次第で一歩間違えれば一気に植物状態になりかねないような微妙な場所にあるのだ。
日本で脳神経外科の権威と言われる何人かの医者のもとを訪ねたが、皆、吉澤の脳のMRIフィルムを見た瞬間、さじを投げた。
皆、手術するのを怖がった。
似たような腫瘍の手術を成功させた医者がアメリカにいるのを知ったのが2年前。
それから吉澤は「仕事」の報酬の一部を、いつか受けるための手術の費用として貯める事にした。
「次の『目標』の値段は高くついてるねん。せやな、あんたには――」と、中澤は開いた手を掲げた。細い5本の指がぴんと伸びている。「今までのぶんと併せたら、充分足りるやろ」
値段の高い人間。値段の分だけ、社会的に重要な人間ということだ。つまりは、それだけリスクも伴うことになる。
「誰なんですか?」
「資料は近いうちに渡すから待っとき」
石川に出会うまでの吉澤は、自分のことなんて考えた事もなかった。
その昔、中澤が言っていたとおり、どこまで行っても人間は所詮ひとり。
天涯孤独の自分が死んだところで、悲しむひとはいない。
強いて言うなら、吉澤を「仕事」の手足として使っている中澤が不便を感じるぐらいか。
しかし中澤にしたって、「手足」は吉澤だけではないはずだった。
腕のいい「掃除屋」は、自分の他にもいる。自分の代わりはいくらでもいるのだ。
自分の生きている価値が見出せなかった。自分がこの世界に生きている意味。大体、そんなもの、あるんだろうか。
いつ死んでもよかった。だから、手術費用を稼ぐために、がむしゃらに仕事をする事もなかった。
リスクの高い「仕事」も、平気で引き受けた。手術費用が貯まる前に力尽きても、それはそれで構わないと思っていた。
自分が今生きている世界と、死んだ後の世界を考え比べた時、何も変わらない事が分かった。
――でも、今は違う。わたしには、梨華ちゃんがいる。
全ては変わろうとしていた。いや、もう変わっている。
中山医師は、3年前に言った。「短ければ3年」
その見立てが確かなら、今年がリミットだ。
『ひとを殺して楽しいの?』
石川がそんなことを言っていたのを思い出す。
楽しいなんて思ったことはない。悲しいとも思ったことはない。ただ、こんな自分になるしかなかっただけだ。
幼い頃は確かに強い人間になりたいと思っていた。
でも、銃を振りかざしたところで、それは本当の意味で強い人間でもなんでもなかった。弱さを誤魔化すだけのものだ。
こうなるはずじゃなかった自分。それが、今の吉澤だった。
――「仕事」は、これで最後にする・・・。
吉澤はそう心に決めた。わたしは、強い人間になりたい。そして・・・・・・。
刺すような冷たい雨が降っていた。石川は駅前のコンビニでビニール傘を買い求めた。
家に帰ったら、吉澤にモデルになって貰った絵の続きをやろう。今日からは色を付ける。
How
to本と首っ引きだが、なかなかどうして、自分でも意外なほどにいいものに仕上がってきた。
吉澤のことを考えれば胸の辺りが温かくなって、寒さはどうって事はなかった。
家の前まで来ると、ひとりの少女が石川の家の門にもたれ掛っていた。
耐水性の真っ赤なジャージを着て、フードを頭に被っている。フードの裾からは目鼻立ちがくっきりした、
愛嬌のある顔立ちが垣間見える。ただ、ジャージの下の服装は見覚えがあった。英真女子のブレザーだ。
少女は石川の顔を見て、「石川梨華、さん? だよね?」
どうやら石川の帰りを待っていたらしい。澄んだガラス球のような瞳で、石川を見ていた。
綺麗だけど、冷たい。感情の発露が感じられない。そんな印象の瞳の色。
石川は記憶を手繰り寄せたが、やはりこの少女には覚えがない。
「あの・・・どちら様ですか?」戸惑いながら、石川は尋ねた。
「わたし、よっすぃー・・・吉澤ひとみのツレなんだけど」
「ひとみちゃんの・・・?」
石川が訊き返すと、少女は急に、ししし、と、笑いを堪えるように俯いて表情を隠した。
自分が笑われたような気がして、石川は何が可笑しいのかと、きゅっと唇を結んだ。
彼女の笑い方に、直感的に(このひととは合わない)と思った。
立ち尽くす石川に気付き、少女は「ああ、ごめん」と、顔を上げると、「ひとみちゃん、ね」と、その呼び名を口の中で転がすように言う。
「何か話、あるんですか?」
一向に用事を切り出す気配のない少女に、石川は急かすように言った。妙に苛立ってきた。
「えっとねー、まあ、こんな所じゃナンだから、ね?」
家に入れてくれというのか。図々しい。それは本来、わたしから切り出すセリフじゃないのか。
石川は、心の奥底に嫌悪感がふつふつと泡立ってくるのを感じていた。
「あなたがひと・・・吉澤さんと知り合いかどうかも分からないじゃないですか。大体、名乗りもしないし。
よく分からないひとを家に上げる訳にはいきません」石川は毅然とそう言い放った。
同じ制服だし、おそらく少女は嘘をついているわけではないとは思ったが、それでもこの少女には、
関わり合いたくないと思わせる何かがあった。
「でも、知らないひとが勝手に家に上がって、あなたのお父さん、殺したんじゃないの?」
石川は驚きに目を見開いた。少女が恐ろしい事を余りに飄々と、しかも初対面の人間に向かって口にしたからだ。
返す言葉が見つからなくて沈黙してしまった石川に向かって、
「わたし、よっすぃーと付き合ってるんだけど」少女ははっきりとそう言った。
石川は少女の発した言葉の意味を上手く理解できないでいた。
――ひとみちゃんと、つきあってる・・・?
呆然としたまま固まっている石川に、少女はへらっと笑って見せた。
石川を置き去りにしたまま、少女は続ける。
「色々ねえ、ハッキリさせとかなくちゃって思ってさ、んで、今日はお邪魔しようとハルバルやって来たわけですよ」
それは真面目なのか、ふざけているのかよく分からない口調だった。
降りしきる雨が止む気配はない。むしろ、雨脚は強まってきているようだった。
後藤が被っている真っ赤なフードに雨粒が細かく弾けて、赤が滲んで見える。街角に雨音だけが響き続ける。
「か・・・」何とか石川は口を開いた。「帰ってくださいっ!」精一杯少女の顔を睨みつける。
しかし少女は一向に動じず、「イヤ〜ン、カワイイなあ」と、笑みを絶やさずに、一歩一歩ゆっくりと石川に近づいていく。
「強がり言ってても、目が怯えてる」
少女が近づいてくる。しかし、微動だに出来ない。足が竦んでいた。
石川はこんなに恐怖を味わったのは初めてだった。相手が何を考えているのか、全く分からないのだ。
ただ話しているだけなのに、追い詰められていくような感覚が全身をじわじわと包んでいく。
いよいよすぐ目の前まで来ると、少女はポケットに突っ込んだままの手を、ジャージの裾を引っ張るようにして石川に突きつけた。
石川の目が見開かれる。
その冷たく固い感触。
覚えがあった。いや、忘れられるものか。
銃口だ。
なんでこのコが・・・・・・。
「あんたが死んだら、よっすぃー、悲しむだろうなあ」
にっこり笑ったまま、後藤は歌うように言った。
♯7 出来心
東京。
1998年、春。
日本に着いた吉澤が用意された新居よりも先に中澤に連れて来られたのが、みちよの店だった。
客はいないようだった。開店前なのかなと吉澤は思った。
この店に客がいる事自体がまれだということに気付くのはもっと後になってからのことだ。
みちよの店は情報交換の場所でもあり、緊急避難所でもあった。
もし何かあれば、必ずこの店に来る事。それが、この国で「仕事」をする上で最初に教わったルールだった。
吉澤を店に送り届け、カウンターの中で何か仕込みをしているみちよに2、3言小さく声を掛けると、
中澤はひとり、さっさと出て行ってしまった。
「これからよろしくな、なんでも相談してや」と、みちよはにこやかに言った。
「こちらこそ」と、吉澤は深々と頭を下げた。
礼儀正しいコは大好きや、と、みちよはミックスジュースを作ってくれた。
吉澤がカウンターに着いて飲み終わろうとする頃、カウベルが鳴って、小柄な少女が店に入ってきた。
「みっちゃん、今日、なんか暑いっすよ〜。ん?」矢口は目ざとく見知らぬ客の存在に気付いた。「いちげんさんだ」
みちよは「吉澤ひとみちゃんやで」と紹介した後、今度は吉澤に「あ、こっちは矢口真理いうてな、ウチのスチャラカアルバイトや。
仲良うしたってな。あ、東京初めてやし、色々このコに訊いたらええわ」
「スチャラカって・・・」矢口は白い目でみちよを見た。
「よろしくお願いします」みちよのときと同じようにぺこりと頭を下げる。
「ああ、うん」矢口は口だけでいい加減に返事をして、吉澤の顔をまじまじと見た。
突然の視線に戸惑いながら、吉澤は、「あの、何か付いてます?」
「いんや、オトコマエだなあって思って。口説いちゃおっかなー」
と、ニヤニヤする矢口に、みちよが、
「あかんよ、矢口、ヘンな事教えたら」
しかしその声を聞き流し、矢口は続ける。「ねえ、いくつ?」
「なんや、雇い主やっちゅうのに放置プレイかいな・・・」みちよが寂しそうに呟く。
「え?」
「トシ。ね、ん、れ、い」
矢口は目線の高さを少しでも合わせるために、吉澤の隣のスツールに腰掛ける。
「えっと、13です・・・」
「13歳! 仕込みがいがあるな〜」
「コラコラ!」みちよが暴走する矢口に横槍を入れる。
「仕込むって、何をですか?」吉澤はキョトンとして訊き返す。
「ちょっと!」矢口が急に声のトーンを上げる。
「はい?」
「まずね、その無愛想なトコ、何とかしたいなあ」
「ブアイソー?」
「ん、笑ってみ?」
「笑う、んですか?」
「そ。笑ってみ」
吉澤は笑って見せた。
しかし、「それ、違うよ、ほっぺた引き攣ってるし」と、矢口は人差し指を立てて吉澤の眉間をとん、と突いた。
「じゃーさ、『キムチ』って言ってみ」
「?・・・・・・キムチ」
吉澤が言い終わるや否や、「ハイ、ストップ!」と、矢口が大きな声で言った。
自然、吉澤の顔は「チ」の発音のまま固まってしまった。
矢口は得意げに、「そーよ、その顔が笑顔ってコトだよ」
みちよが苦笑混じりに、「無理あんなあ」と、しかし、微笑ましそうにふたりの様子を見詰めている。
それが吉澤と矢口の出会いだった。
その日からふたりは事ある毎に会う事になった。
単に吉澤が遊びに連れて行ってもらうこともあったし、色々と顔の広い矢口から「仕事」に役立つ情報を貰う事もあった。
時には矢口は本気で口説いてくる事もあったが、どこか「恋人」という関係になるには波長が違うような気がして、
吉澤はさらりとかわしていた。
最近はちょっと諦めムードの矢口だったが、それでも、
「ヤグチはよっすぃーのコト、ずっと待ってるからね」というのが矢口の口癖だ。
◇
突然言われたその言葉に、目の前の風景がぐにゃりと捻れたような気がした。
「どういうコト?」絶句していた吉澤だったが、なんとか言葉をひねり出す。
『ごめん・・・』細い声が携帯越しにそう言った。
「ごめん、じゃ分かんないっ」
怒鳴ったようになってしまい、吉澤は思わず辺りを見回した。中年の男性が怪訝な目つきで通り過ぎていく。
線路側を向いて、少し声を潜めて続ける。
「急に『もう会わない』なんて言われたってさ、納得できると思う? ワケ分かんないって」
『お願い・・・』
「ねえ、梨華ちゃん、今どこにいんの?」
微かな間のあと、電話はぷつっと切れた。
受話器を放すと、周囲の音が浮かび上がってくる。
サラリーマンがホームを歩いていく硬い靴音、近くの高速道路を走る車の音、駅の構内アナウンス、風の音。
その全てが耳障りで、訳もなく腹立たしかった。
確かにこの間のデートは、悪い事をしたと思った。
だから次に会う時のために、石川の喜びそうな美術館や面白そうなショップの情報を集めたりと、吉澤なりに考えていたのだ。
それが、いきなり別れを切り出されたのである。出鼻を挫かれた形で、吉澤はやりきれない気持ちになる。
とりあえず、納得のできる説明が欲しかった。しかし、それでさえ石川は話そうとしない。
何度か電話をしてみたが、ぬかに釘だった。
時には言い訳をする事もあったが、急に北海道に行かなくちゃいけない、
とか、今すごく精神的にネガティブだから誰とも会いたくない、とか、およそ納得できるものではなかった。
いい加減、苛立ってきた。石川が会ってくれなくなって、早やひと月が経とうとしていた。
みちよから電話があった。中澤から「仕事」の資料を預かっているが、なんでも用事があるとかで、矢口に託すとのことだった。
矢口が待ち合わせ場所に選んだ公園は、街外れの寂れた通りに沿ってあった。
早く着きすぎた吉澤は、ブランコに腰掛けて軽く揺らしながら、ぼんやりと石川のことを考えていた。
春らしい温かい風も、吉澤の心を少しも潤してはくれない。
と、その時、目の前に矢口の顔がいっぱいになった。
そして、次の瞬間にはキスされていた。吉澤が反応する暇すらなかった。柔らかな感触が吉澤の唇を微かに湿らせる。
「びっくりしたぁ・・・」吉澤は茫然と呟く。
「びっくりしたのはヤグチの方だって・・・」
矢口から仕掛けてきたというのに、なぜか本人が吉澤以上に驚いている。
「なんで矢口さんがビックリしてるんですか?」と、吉澤は笑う。
「だって、いつもみたく上手くかわすと思うじゃん! そしたらモロ受けってカンジなんだもん」
早口で言ってひと息つくと、「あー、びっくりした・・・」と、再び漏らす。
「あー・・・ちょっとボーっとしてて・・・すみません・・・」
「謝らなくてもいいんだけどさ」と、矢口は苦笑して、隣のブランコに座る。
「こんな事なら、もっとガバーっとやっとくんだった」
吉澤は思わず笑みをこぼす。
矢口は、彼女の身にはアンバランスなボリュームのショルダーバッグを肩に提げていた。
矢口が屈んで丸くなれば、同じ大きさになるのではないかというほどの大きさだ。
「これ」と、バッグごと吉澤に渡す。「今回の資料。すごいね、量が」
バッグを受け取ると、見た目よりも意外なほど重くない。
「ホント。でも、あれ? なんか柔らかい・・・」
バッグの中には黄色いラッピングを施してある包みが入っていて、それがバッグの中身の大半を占めていた。
それは家に帰ってから見るとして、あとはいつものように資料類のコピーの束。
いや、見慣れないものがもうひとつ入っていた。横長の封筒だ。封を開けてみる。
中に入っていたのは、上質の紙にプリントされたインビテーションカードだった。
上品な草木の淡い模様が囲んだ中には、印刷で場所と時間、そして招待された人物の名が手書きで記入されていた。
その名前を見た途端、吉澤は苦笑した。
――吉澤レイコって、誰?
カードに目を落としながら吉澤は、ねえ、と話し掛けた。「矢口さん、このあとヒマ?」
すると、矢口はぽかんと口を半開きにして吉澤を見詰めている。
「どうかしました?」
「いや、よっすぃーから誘ってくれるのって初めてだから嬉しくて、ボーゼンとしてた」
そして、へへっと屈託のない笑みを浮かべる矢口を可愛いと思う。
わたしって、いい加減なんだろうか。吉澤は思った。
「仕事」の手伝いをしてくれたのだから、とりあえずお茶ぐらい奢ろうと、近くの喫茶店に入る。
ミルクティーをひと口すすると、矢口はしみじみ言った。「よっすぃー、近頃変わったねえ」
この間、みちよさんにも同じ事を言われた気がする。
「変わりましたか?」
「なんかねえ・・・ほら、さっきだってヤグチが近づいてくるの気付かなかったじゃん。前はそんなコトなかった。
いつもピリピリしててさ、周りになんて言うんだろうな、目に見えないバリアーみたいなのがあったの」
「バリアー?」
「そう、バリアー。触ると感電するぜ、みたいなね。ピリピリーって」
芝居じみた矢口の口調に、吉澤に思わず笑みが零れる。
矢口は続ける。「そのバリアーがね、なくなったんだよ」
「バリア・フリーですね」
しかし、吉澤のジョークに笑うことなく矢口は真面目な調子で尋ねた。
「・・・ねえ、なんかあった?」
吉澤が答えようと口を開きかけたとき、
「別に」
と、先に吉澤の答えを言ったのは矢口自身だ。
おそらく、この国に来ていちばん付き合いが長く信頼できるのは矢口だろう。
当然、吉澤の勝手も知り尽くしている。してやったりという感じで矢口はにんまりと笑う。
「ね? ヤグチで良けりゃ、なんか力になろっか?」
吉澤はじっと矢口を見詰めた。
「よっすぃーから誘うなんて、よっぽどのことがあったんでしょ?」
かなわないな、という風に、吉澤は目を逸らす。窓に映る自分自身と目が合う。
どうしてわたし、笑ってるんだろう。相手からの一方的な拒絶で寂しくて、悲しくて、辛いはずなのに。
もしかしたら、本当にそんな気持ちの時は、人間はむしろ笑ってしまうものなのかも知れない。
「なんなら慰めてあげよっか?」
窓越しに注がれた矢口のその濃密な視線に、吉澤の心は揺れた。甘えたかった。疲れていた。
出来心、というのは、こういう気持ちのことを言うのだろうか。
吉澤は矢口を抱きたいと思った。一向に取り合おうとしない石川への当て付けという思いも多分にあった。
広さは8畳ほど。細長い部屋には、シンプルなパイプで出来たベッドとちゃぶ台。
ちゃぶ台の上にはノートパソコンが置かれている。
矢口の部屋は清潔感に溢れ、無駄がなかった。悪く言えば、そっけない部屋だ。
例えば壁や天井には様々なポスターやら装飾やらが彩りを飾っていたり、もっと散らかっていると想像していた吉澤だったが、
実際に見ると、こういうスマートでクレバーな部屋が本当の矢口らしさなのかも知れないと思えてくる。
知り合ってからかなり経つというのに、自分でも意外なことに、矢口の部屋を訪れたのは初めてだった。
ショルダーバッグを置き、吉澤はテーブルの周りにだけ敷かれたカーペットに腰を下ろす。矢口はベッドに座った。
「なんか飲む? それともお風呂? それともヤグチにする?」と、ふざけた口調の矢口。
「じゃあ――」と、吉澤は矢口を引き寄せ、腕を小さな身体に巻きつかせた。「矢口さんにする」
「こーゆうさ、カラダのおっきさを誇張するようなやり方、結構むかつく」
互いの息遣いが感じられそうな距離で顔を寄せ合ったまま、矢口は少し引いた視線で吉澤を睨む。
「じゃあ、やめます?」
「ンなワケないじゃん」と、矢口は吉澤の首に手を回し、口付けた。
ふたりはお互いの服を脱がし合うと、ベッドに入る。
「するのとされるのと、どっちが好き?」矢口が吉澤の髪を軽くすきながら訊いた。
「どっちでも」
「じゃあ、よっすぃーが、して」と、矢口は微笑んだ。
吉澤は矢口を下にすると、上から見ると華奢な矢口の身体は完全に隠れてしまう。
吉澤は首筋から形のいい小ぶりな乳房へと唇を滑らせていき、矢口のきめ細やかな肌の感触を味わう。
矢口の胸の先はすでに硬く尖っていた。
恥ずかしいから、まじまじと見るなよう、と、矢口は笑った。
「夢みたいだよぉ、よっすぃーとこうしてるの」
薄く笑い、吉澤は乳房の頂点に咲いた瑞々しい蕾を甘噛みする。
すると、うっすらと開いた矢口の唇の間から、日頃のあっけらかんと明るい彼女からは想像しにくい、艶かしく湿った吐息が溢れ出る。
「ん・・・っ、ん・・・」
「矢口さんって、感度いいですよね」
「よっすぃーだったら、どこでも感じちゃうよ・・・」
実は、行為を始めてから、吉澤は戸惑い始めていた。
頭の中がますます石川の事ばかりで埋め尽くされていくのだ。
矢口の髪から漂う柑橘系の匂いを意識すれば石川の髪のしっとりと落ち着いた匂いを思い出し、
矢口の体温を意識すれば石川のよりも少し高いんだなあと思う。
今は矢口さんに集中しなくちゃ、と思えば思うほど、ますます困惑していく。
「よっすぃー・・・?」
矢口の声で我に返る。いつしか一方的に行為を中断していたらしい。
「これって、焦らしてんの?」
お腹の辺りにキスしていた吉澤は顔を上げて、「あ。そういうワケじゃ・・・」
矢口と目が合う。その刹那、矢口の目がふっ、と微かに冷めたような気がした。
なんだか見透かされたような気がして、吉澤は責めを再開する。丹念な愛撫を重ねる。さっきよりも少し激しく。
淡い茂みの奥の、矢口の敏感な個所はすっかり溢れ返っていた。
吉澤の指がそろりとその中を撫で上げる。たっぷりと粘り気を帯びた生温かい蜜が絡みつき、火照った柔肉が指先を包み込む。
「ひ・・・う、んん・・・っ」
矢口の目が切なげに伏せられる。小さな身体が、吉澤に包まれたまま身悶えする。
指先の動きを徐々に速めていく。それにつれ、矢口の息遣いは乱れ、白い肌が汗で湿り気を帯びていく。
しばらくそんな調子で行為は続いたが、
「ちょっと待って、よっすぃー・・・」
矢口がためらいがちに言葉を掛ける。それでも吉澤の手は止まらない。
「よっすぃー・・・やっぱダメだわ」
矢口の手が吉澤の頭に触れ、軽く押し返す。そしてやっと吉澤は動きを止めた。
「は・・・どうしたんですか?」
夢の中にいるようなぼんやりした口調で吉澤が訊いた。
頬をほんのりと赤く上気させたまま、矢口は何かを押し殺したように言う。
「あんまり・・・バカにしないで欲しいんだよね」
聞いた事のない矢口の引き声に、ビクッとする。吉澤の瞳が、微かに怯えたように揺れた。
矢口はその小さな顔にシニカルな笑みを浮かべて言った。
「ヤグチ、まだガキだし、聞き分けよくないからさ、カラダだけのあっさりした関係って我慢出来ないワケよ」
「どういう、コトですか?」
分かっていながら、吉澤は尋ねる。甘ったれた人間だと思う。
「あのコの代わりに抱かれるなんてゴメンってコト」
そう言って、矢口は気だるそうに身を起こした。
「顔はヤグチの方を向いてたけど、目はヤグチ見てなかったね。ってゆーかさ、ざけんなってカンジ」
「・・・・・・ごめんなさい・・・」
吉澤はこうべを垂れて、素直に謝る。
「あのさ」と、言い過ぎたと反省したのか、矢口は急に優しい口調になる。
「いま、よっすぃーがいるべきトコ?っていうの、ココじゃないんじゃないの?」
吉澤は黙って俯いたままだ。
「早く行きなよ。ヤグチとしたいんだったら、少なくとも、あの黒髪のアニメ声少女とは縁切って来て。ね?」
矢口の優しさが痛いほど心に染みた。
吉澤は立ち上がり、手早く服を着ると、矢口に軽く会釈をして出て行った・
そして部屋でひとり残された矢口は服を着て、冷蔵庫からよく冷えたミネラルウォーターを取り出すとラッパ飲みする。
実のところ、吉澤の手によって滅茶苦茶に感じていた矢口の喉はカラカラに渇いていた。
残っていたボトル半分の水を一気に飲み干すと、「あーッ!」と、矢口は苛立ちに任せて叫び、頭を掻きむしった。
「ヤグチのバカバカ! もう、何やってんだよー、オイラ・・・」
泣きそうな声になってしまう。
分かっていた。出て行ったのは吉澤だけではない。吉澤の心も、もう戻って来ない。
あのまま行為を続けていれば、吉澤が自分のものになる可能性もあったかもしれないのに。
わざわざ恋敵に塩を送るような真似をしてしまった。
煌々とした電灯が作った足元から伸びる矢口は、ひどく寂しそうに見えた。
なんだか悔しいから、火照ったままの身体を自分で慰めるのだけはやるまいと思ったが、結局その決意は10分ももたなかった。
呼び鈴を押しても、中からの応答はない。間延びした電子音だけが、ひっそりと静まり返った街角に繰り返し響くだけだ。
2階にある石川の部屋の明かりは灯っている。ピンクのカーテンが閉められて中の様子は窺い知れないが。
吉澤の胸の辺りには、ふつふつと怒りさえ込み上げてきた。
どうして会ってくれないんだろう。別れるとしても、せめてものマナーがありそうなものだ。
恋しくて、切なかった。
これまでいかなる時も冷静だったはずの吉澤の理性はかき乱されていた。
そして吉澤自身、そんな自分に混乱していた。
それは、さっきほとんど犯したのと同然の行為で矢口を傷つけてしまったことの責任転嫁も多少あったかもしれない。
とりあえず、また忍び込むのはどうかと思う。
吉澤は辺りを見回し、ちょうど向かいの家の駐車場に大き過ぎない石を見つけた。
拾い上げると、石川の部屋の窓に向かって投げつけた。
ぱりん。
あっけなくガラスを砕く音が間抜けに聞こえた。
カーテンにはすらりとした石川のシルエットが浮かび上がる。カーテンが揺れて、その隙間から石川の顔が垣間見えた。
明らかに玄関先を見下ろしたその瞳は驚きに満ちている。口許が小さく動いた。なにか小さく呟いたようだ。
そして石川の姿は窓越しからふっと消えた。
しばらくして玄関の引き戸が開き、石川が姿を現した。
「梨華ちゃん!」様々な思いがこもった叫びを吉澤は発した。
玄関まで来ると、格子戸を挟んで石川は口を開いた。「もう会わないっていたのに・・・」
目を合わせ辛そうに、石川は震える睫毛を伏せている。
2階の石川の部屋に通される。ふたりは向かい合わせに座った。冷え冷えとした空気だけが二人の間を満たしている。
「何か飲む?」さっきとは打って変わった明るい調子で石川は言い、腰を浮かせかかる。明らかに無理していると分かる。
「いらない」ぴしゃりと吉澤は言って、「何があったの? 聞かせて」
吉澤の促しにも、石川は浮付いた視線を膝元に落としたままだ。迷っている。
「わたしのコト嫌いになった、ってコト・・・?」
石川は小さくこうべを振る。
「じゃあ、他に好きなヒトが?」
すると石川はキッと顔を上げ、「ひとみちゃんのことがいちばん好きよ」初めて吉澤の目をしっかり見て言った。
「じゃあ、言ってごらん。何があったの?」と、優しい口調で吉澤は石川の華奢な両手を取り、軽く揺らす。
「わたしたち共犯者じゃない。共犯者は相棒に何かあったら、ちゃんと知っておかなくちゃ」
「ひとみちゃん・・・」と、石川の黒目がちの瞳が潤むと、しゃくりあげるようにしてぽつりぽつりと話し出した。
その内容は少なからず吉澤を驚かせた。まさか石川の口から後藤の名前が出てくるなんて、夢にも思わなかったから。
少女はジャージのポケットの中に潜めた銃を石川に突きつけたまま、石川に続いて家の中に入った。
雨でびしょびしょになったジャージの裾から水滴がぽたりぽたりと落ちて、カーペットに染みを作った。
それはまるで自分の縄張りを作っているようだった。
リビングで頼りない棒きれのように立ち止まった石川に向かって「梨華ちゃんの部屋を見たいわ」と後藤は促した。
吉澤に「梨華ちゃん」と呼ばれると、その度に小さな恍惚を感じるというのに、
同じ言葉でもひとによってこれほどまでに心に響くものが違うというのか。
この少女が発する「梨華ちゃん」は、石川に恐怖以外の何ももたらさない。
石川の部屋に入ると、石川は強い力で後ろから突き飛ばされた。ベッドに仰向けに倒れる。
身を起こそうとしたが、少女が馬乗りになって両目の間に銃を突きつけた。吉澤の持っている銃とは少し形が違った。
震える唇で石川は言った。「なにが、目的なの・・・?」
少女は確かに言った。吉澤と付き合っている、と。
しかし、例えばわたしに身を引けというのなら、わざわざ銃を突きつけてまで押し入ってくるだろうかという単純な疑問があった。
大体、付き合っているというけれど、それが本当なのかどうかも怪しいものだった。
「梨華ちゃんは何も訊かなくていいのよ」と、後藤は銃口を石川の口にこじ入れた。「質問はわたしがするから」
歯が銃口に当たり、かちかちと音を鳴らした。舌先に銃口の冷たさが苦く広がり、唇の端からは涎が流れる。
「後藤はねえ」と少女は言ってから、「あっ、名前言っちゃった」と、へらっと笑った。
名前を耳にしてしまった。こういう場合は殺されてしまうんじゃないのだろうか。
相手のミスで自分が殺されてしまうという理不尽さに改めて恐怖した。
石川は目で訴えた。
お願い、助けて・・・。
「そそるね、梨華ちゃんって。このまま犯しちゃおうかなあ」後藤はますます上機嫌のようだった。
銃が口から引き抜かれた。銃口からぬるりと涎の細い糸が引く。
セーラー服の銃口は石川の方を向いたまま、胸元に滑り降りていき、セーラー服の上から石川の乳房をまさぐり回した。
黒く光る銃口が年齢の割に豊かな乳房の輪郭を確かめるように這い回る。
心臓は今にも胸から飛び出しそうな勢いで鼓動を打ち続けて、苦しいほどだ。
石川はそっと目を閉じ、顔を背ける。
「やめ、てぇ・・・」
後藤は侮蔑するような目つきで、小さく身をよじる石川を見下ろした。
「エロそうなコ・・・その身体でよっすぃーを誘惑したのね」
「ちっ、ちが――ひッ!」
スカートを食い込ませるようにして、銃口は股間に食い込んでいた。
「この淫売・・・」
銃口はまるで後藤の指のようにデリケートに石川のクレヴァスをなぞっていた。
スカートとショーツ越しなのに、ダイレクトに触れられているような感じがする。
石川の目に涙が溢れた。感じてしまう自分が許せない。悔し涙だった。
はじめて吉澤と出会ったときとシチュエーションこそ似ているというのに、溢れてくる感情の渦は全く違ったものだった。
まるで正反対だった。優しさや迷いといった、人間らしさの欠片もなかった。強制的に発情させられるような、暴力的な責め。
不意に股間をまさぐっていた銃口が持ち上げられたかと思うと、次に後藤は石川の耳元にキスをしてきた。
生温かく濡れた舌先が這い回る感覚に、石川の背筋に悪寒が走る。
耳元に唇を寄せたまま、後藤は呟いた。「よっすぃーって、耳が弱いんだヨねえ」
その瞬間、石川の表情が悲痛に歪んだ。
後藤の責めに辛うじて正気を保っていられたのは、後藤が言った「よっすぃーと付き合ってる」という言葉を信じなかったからだ。
言うだけなら、何とでも言える。
だが、もはやその命綱さえ奪われてしまった石川は、ぐったりと身を沈めるしかなかった。
石川の様子が微妙に変わったのに気付いた後藤は、
「あれ? 今のはさすがに効いちゃったかなあ?」と、涼しげに言う。
「好きに、すればいいわ・・・」
石川は空ろな調子で言った。全身から力を抜き、乱暴にされても少しでも痛みを感じないようにする。
「う〜ん・・・こうなるとねえ、面白くないんだよねえ」
石川には、その後藤の言っている事がよく分からない。
「やーめたっ」
その言葉と共に、石川の身体から荷重が抜けた。しかし、もう起き上がる気力も残ってはいなかった。
やりきれないのは、石川の秘部はしとどに蜜で溢れていたということだ。身体よりも、精神をレイプされたような気がした。
「いやぁ、つい夢中になって、本来の目的を忘れるトコでしたぁ」
石川の反応がないのを見て、後藤は独り言ちるように続けた。
「今後一切、よっすぃーと会わないで欲しいんだよね。もし会ったらそのときは・・・」
後藤は石川の顔を窺うように覗き込む。
「わたしのコト、殺すんですか?」石川が細い声で訊いた。
「それじゃ面白くないじゃん。あんたか、よっすぃーの、どっちかを殺す事にするわ」
自分か、好きな人か、どちらかが死ぬ。これほど悪趣味な提案があるだろうか。
そして、後藤は部屋を出て行こうとする。
と、ドアの傍に立て掛けてあったカンバスに目を留めた。
その絵は・・・。
「よっすぃーじゃん・・・」
それまで明るかった後藤の声の調子が、なぜか微かに曇ったようだった。
小さく鼻を鳴らし、後藤は部屋を出て行った。
顔立ちや話し方も聞いてみたが、聞けば聞くほどそれは吉澤の確信を強めるだけだった。
間違いない。後藤真希だ。
どうして後藤は石川に近づき、さらに自分との仲を引き裂こうとしたのか。
嫉妬? しかしそれは、後藤とは最も無縁に思える言葉だ。
そして何より、なぜ後藤は銃なんて持っているのか。もしかして、自分と同じような仕事をしているのか。
そうだとしても、偶然が過ぎるような気がする。
吉澤は、後藤は確かに学校のクラスメートであり、これまでそういう関係があったことを話した。
でもね、と吉澤は続ける。
もう後藤とは別れるつもりで、二度とそういう関係は持たないつもりだ、と。
石川は黙って、いちいち頷きながら吉澤の話を聞いていた。
「それから・・・」と、そこで言葉に詰まった。今日の矢口とのことを話すべきか迷った。
結局、話すことにした。それで愛想をつかされるなら、それは自分への罰だ。
石川が恐怖や切なさと戦っている間、自分は勝手なことばかり考えて、石川のことを信じていなかったのだ。
石川は変わらぬ様子で、吉澤の話に耳を傾けているようだった。
話し終えると、
「ごめんっ」
吉澤は床に額を擦り付けるほど頭を下げた。
「ひとみちゃん・・・」と、石川はしゃくりあげる声で話し掛けた。「顔上げて・・・」
言われた通り顔を上げたとき、一瞬石川の涙で泣き濡れた顔が見えたと思った次の瞬間、吉澤の頬は強烈な平手を食らっていた。
もんどり打って、吉澤は真横に倒れてしまう。
倒れたまま、吉澤は「ごめん・・・」もう一度、呟くように言った。
石川が倒れたままの吉澤に抱きついてきた。そして、その背中に顔を押し付けるようにして、大声を上げて泣き始めた。
すごく怖かった。本当はひとみちゃんに会いたかった。
好きでもない相手に好きなようにされて辛かった。ひとみちゃんのことを愛してる。ずっとわたしのそばにいて。
くぐもった声で背中越しに聞こえてくる石川の声を聞きながら、吉澤は決めた。
何があっても、たとえ命に代えても石川のことを守る。
「ウチのこと、好き?」
身を起こした吉澤は、石川の両肩に手をのせ、訊いた。
石川は涙を浮かべたまま頷いた。温かい雫が床に落ちる。
「だったら、行こう」
「どこへ?」すっかり鼻声の石川が訊く。
「とりあえず、この家を出よう」
盗聴されているのは間違いないと考えるべきだろう。自分の部屋だって怪しいものだ。
なにしろ、これまで何度も堂々と後藤が入っているのだ。
後藤の目的が何かは分からないが、いちどは命の危険に晒されている。警戒し過ぎることはないだろう。
石川は身の回りの品と貴重品を手早くまとめ出す。
「梨華ちゃん」と、吉澤はボストンバッグに衣類を詰めている石川の背中に尋ねた。
「パスポート持ってる?」
「え? どうして?」
「話はあと。急ごう」吉澤は立ち上がった。