シアター

 

やけに明るかった朝日のせいだろうか。目の前の光景は全て、現実感を喪失して見えた。
隊列を組み、山荘を取り囲む無数の制服警官。銀色の盾をかざすその最前列には、私服の刑事が数人混ざっていた。

‥まるで、テレビ。くるくる回るパトカーのサイレンを、身を隠すことも忘れぼんやりと見つめる私の姿に気付いたのだろう。
拡声器を通してひび割れた声が窓越しに響いた。「犯人達に、告ぐ。無駄な抵抗はやめて、
おとなしく出て来なさい。繰り返す。無駄な抵抗は、やめて、-------------。」

私はゆっくりと窓から離れて、手の中の拳銃に目を落とした。黒い鉄の塊は、
しばらく握っていた私の体温のためにぬるく温まり、そして、ずっしりと重い。
もはや、これまで。吹き出してしまいそうなくらい手に馴染んだその拳銃を、私は再び握りしめた。

               ◇◇


第1部


彼女に始めて出会った時のことを、私は今でもはっきりと思い出せる。あれは、入学式の日。
前日なかなか寝付かれず、案の定ねぼうした私は、だいぶ遅れて学校についた。雨の日だった。
式はとっくに始まっていて、会場の体育館は固く閉ざされ、雨の中を急いだ私の制服は、水を吸っててかてかに輝いていた。
「どうしよう‥。」ハンカチで拭ってもなお制服の染みはおさまらない。
いや、問題はむしろ会場に入れないことで、それから気を反らすために、私はただ制服を拭き続けたのだと思う。
とにかく、素直だった当時の私は真剣に動揺し、ひさしの下で制服をたたきながらひとり途方に暮れていた。
体育館は、校門を入ったすぐその脇にあった。制服のことを半ば諦めていた私は、ためいきをついて校門の桜を見上げた。
立派な桜の樹だったが、4月を過ぎてすでに葉桜になっている。かろうじて残っていたはずの残り少ない花も、昨晩から降り続いた雨でそのほとんどが散っていた。

----------どうしたの?

高く澄んだその声に背後から呼びかけられたのは、絶望した私が排水溝に溜まった無数の花びらを、ぼんやりと見つめていた時のことだ。
心臓が止まりそうなくらい驚いて、反射的にふり返った私の視線の先には、上級生だろうか、かたわらに黒いファイルを抱えた一人の女子生徒が立っていた。
雨のせいで蒼みがかった風景の中で、白い歯をのぞかせて清潔そうに微笑む彼女のまわりだけ、やけに明るく感じたことを覚えている。
「そんなにびっくりしないで。あなた、新入生?」
言われて初めて気がついた。当時から私には、極端に驚いたとき、目を見開いて大きく息を呑むくせがある。
今になってもそれは治らない。おだやかな微笑をうかべて私の様子をうかがう彼女に、あわてて返事をしようとしてうなずいたけれども、声はうまく出なかった。
「だいじょうぶよ。式、まだ始まったばかりだから。あなた1人くらい、私がもぐりこませてあげるわ。自分のクラス、わかる?」
クラス発表は、まだ見ていなかった。遅刻したことだけで頭がいっぱいだったのだ。
「そう。じゃ、あなた、名前は?」
彼女はファイルを開いて言った。
「‥吉澤ひとみ、です。」
「よしざわさんね。よしざわ、よしざわ‥。あった。1年6組、吉澤ひとみさん。」
ファイルから顔をあげてにっこりと笑う彼女の瞳につられて、思わず私も微笑んでしまった。
「あれ?あなた、ブレザーすごい濡れちゃってるね。ふふ。一生懸命走ってきたの?」
「‥遅刻したら、いけないと思ったんです。」
私が目を伏せて答えると、彼女はおもむろに自分の上着を脱いだ。
「良かったら、コレ着ない?それは新品じゃないけど、でも昨日クリーニングから戻って来たばかりだから。」
そう言って差し出されたブレザーは、しっかりとプレスされていて、私のものとの違いはほとんどないと言って良かった。
むしろ水を吸っていない分、新入生のものとして相応しかったろう。しかし、いくらなんでもそこまでしてもらうわけにはと思った。
「でも‥。」
「だって、風邪ひいちゃうよ?それとも、‥自分のじゃないとイヤ?」
少しだけ遠慮がちにそう言うので、私はあわてて首を振った。そもそも彼女が引け目を感じる理由なんてないのだ。
「ぜんぜん、そういうことじゃなくて‥。」
すると彼女は安心したように笑って、私のブレザーに手をのばした。
多少のとまどいは残っていたけれども、私は彼女のブレザーに袖を通した。
なんだかやけにドキドキしたけれど、そんな私を気にするふうでもなく、彼女は笑顔で言葉をつづけた。
「少し大きいみたいだけど、いいよね?式が終わったら、またここにいるから、その時にでも返して。
あ、あなたのブレザーは私が持っててあげるわ。それまでに渇くよ、きっと。ね?」
私が頷くのを確認すると、彼女は快活に踵を返す。
「じゃ、行こっか。1年6組ね。一緒に来て。」
そういって私に向かってにっこりと微笑むと、彼女は裏口の方へ歩き出した。
私たちは館内に入って、壁に張り巡らされた紅白幕の内側を進んだ。
ずいぶん慎重に歩いたつもりだったけれど、それでも幕は少しだけ膨らんだりしたかもしれない。
しばらく歩くと、彼女は幕の切れ目から式場をのぞいた。
「そこにいるのが、一年生たち。ほら、6組、ここから近いじゃん。よかったね。」
ひそひそ声で言う彼女。私もホッとした。ほんとうに近くて、これならなんとなく目立たなそうだ。
うんうんうなずく私の姿が滑稽に映ったのか、彼女は軽く吹き出した。
「ほら。早く入って。だいじょうぶだから。」
背中に当てられた彼女の手に、私を促す優しい力が込められる。
「あの、‥。」
「ん?」
「‥ありがとう、ございました。」
クラスの列に混ざってなんとかおちついた私の様子を確認したあと、彼女は幕の裏側を戻っていった。
彼女の動きを追うようにして、やっぱり幕は少しだけ膨らんだ。
その影が前方の非常口に消えた後、私は彼女の名前を聞きそびれたことを後悔したが、式が終わたらまた会うのだから、それはそれでよしとした。
じっさいには彼女は忙しく、ブレザーを返した時にも結局それは聞けずじまいだったのだけれども。
ありがとう、ございました------私の感謝のことばに、クスリとひとつ鮮烈な笑みを返した生徒。
あのとき名前を聞くことはできなかったけれど、いわゆる彼女は優等生で、かつ目立つ生徒だった。
だから彼女の情報に関して不自由したことはない。たとえば、成績優秀でいながら、控えめでわきまえた言動が男女問わず人気を集めていること。
幼少のころ母親を亡くして、現在は議員を務める父親と2人ぐらしであること。

2年1組・石川梨華テニス部所属、生徒会副会長。

学校生活をしばらく送るうちに、それらは自然と耳に届いたのだ。
入学式の日、携えていた新入生名簿で彼女は私のクラスを調べた。
当然そこには担任教師の名も載っていたはずで、それに彼女がきづかなかったというのは不自然だ。
私うんぬんよりもむしろ、それ以前の問題で、そもそも中澤裕子が担当するクラスを梨華が知らないということがありえるだろうか。
担任の中澤裕子は梨華が所属するテニス部の顧問を務めていた。
じっさいには、梨華と中澤の間には何かとふくざつな事情があったのだけれど、それを差し引いたとしても、自分の部の顧問が担当するクラスの生徒であることがわかった時点で(例えば、あの時の私達)、それなりの反応というか、感想というか、そういうものを示すのが普通なんじゃないだろうか。
それを敢えて口にしなかった彼女。
きっと、あの場面には必要ないと判断したんだろう。
それはまるで彼女の、潔癖な優等生たる一面を端的に現しているようで、今となってはとても微笑ましい。
担任の中澤とはよく気が合った。
テニス部での彼女はともかく、教室での中澤はいいかげんで、熱血とは程遠い。
彼女の専門は数学で、その授業はわかり易かっ終わわけれども、実際やる気があったのかどうかについては疑問だ。
受け持ちの生徒への指導も最低限のことしか言わず、いかにも怠惰な教師ぶりを発揮していたが、
教職を聖職と見ず、ある意味軽蔑さえしているような彼女の態度の内側に、筋の通ったなにか、あるいは真摯な情熱のようなものをかんじた。
わたしの好意が伝わっていたのかどうかはわからない。ただ、彼女も私のことを多少なりとも気にかけていてくれたようだった。
2学期に入ったある日。相変わらず厳しい残暑が続くなか、その日は比較的にすごしやすかった。
開け放った窓から入る風はサラリとして心地いい。机に座ってただ授業を受けているのが急にバカバカしくなった。
不愉快なほど通る声で話す社会科教師に向かって、私は手を挙げた。
「先生。」
「ああ?なんだ吉澤?」
強豪と言われるソフトボール部の顧問を務めるその男の、威圧的な態度が嫌いだ。
「気分が悪いので、保健室に行っていいですか?」
「お前、ほんとうか?顔色だってぜんぜん普通じゃないか。」
「‥ほんとうに、気持ちが悪いんです。」
私がそう答えると、その男はジロジロと探るような目で私を見た。
「ふん。まあいい。治ったらすぐに帰ってこい。」
教室を出た私はまっすぐ屋上へと向かった。私を疑ったあの男の事を考えると非常にむかむかしたが、実際ウソなのだし上手くぬけだせたのでそれ以上考えるのは止めた。
階段を上った先には少し錆びた鉄のドアがある。それを開けると同時に、昨日までと比べて随分やさしくなった太陽が私を迎えた。
教室で感じたよりも風は少しだけ強い。日射しによって熱される半袖の腕を、その風は程よく間隔を置いて冷ました。
「お。サボリ発見。」
屋上の端にポツリと置かれたベンチに腰掛けて、私は遠くに見える山々を眺めていが、突然掛けられた声に驚いて振り返った。
中澤だった。うろたえて動く事ができない私を気にする様子もなく、中澤はスタスタと歩いて来る。
「すみません‥。」
ようやく自分を取り戻してそう言うと、彼女は私の横に座った。
「今、何の授業やった?」
「‥地理。」
「誰やったっけ、先生‥。あ、ミニラか。」
ミニラとはあの教師の名前だ。背が低く小太りな彼は生徒の間でそう呼ばれている。
同僚のあの男を中澤がそうやって呼ぶのはとても奇妙に感じたが、普段の彼女を考えると、べつに不自然ではないと思った。
「先生。」
「なに?」
「‥怒らないんですか?」
おそるおそる聞いた私に彼女は少し考え込んでから答える。
「んー、べつに。だってあんたの問題やもん。サボって一番困るのは自分ちゃうの?結局その時間ぶん他のコより遅れんねんから。」
中澤の言うことはまともだ。しっかり目を見てそう言い切る彼女の姿からは冷たさとかそういうものは何も感じなかった。
「ゆってもうちかて怒るで、そら。生徒によってはな。でも、吉澤はそこら辺よくわかってそうやから。」
あたりの景色を眺めながら中澤は淡々と言葉をつなぐ。なぜかそれは私を安心させた。
「けどどうしたんよ?自分普段めっちゃええ子やん。何かあったん?」
「‥べつに、なにも。風が気持ち良くて、外が明るかったから‥。ミニラの声とか聞いてるのが嫌になったんです。」
私があまりにも正直に答えたのがおかしかったのか、少しだけ中澤は笑った。
「ああ。あの小男なあ。ほんま偉そうよなー。いまどき流行らんっちゅうねん。ちょっと前まで棒持ち歩いてたんよ?頭おかしいでほんま。」
中澤は心底嫌そうに言う。あまりにひどい言い方をするので、私は吹き出してしまった。
「あ、せや。あんたの部の顧問の先生がなー、誉めとったわ。あんたのこと。めっちゃセンスあるって。バレー部、たのしい?」
「ハイ。てゆうかもうレギュラーなった。」
小学校の時にバレーボールを始めた私は、そのままバレー部に入っていた。それほど強いわけではなかったが、目標をもってチームメイトと練習に打ち込むことは単純に楽しかった。
「お、頼もしいわ。なにげに自慢しとるし、こいつ。」
中澤は笑って言った。私も笑ったところで、授業終了のチャイムが鳴る。
「あ、終ってもうた。次、うち3年生の授業あるんよ。めんどくさ。あんたももう帰り。一緒にそこまで行こうや。」
私は頷いて、ベンチから立ち上がった。
階段を降りる途中、少し前を歩く中澤が振り返って言う。
「次の授業はちゃんと出んねんで?1年生のうちからサボリ癖がついたら、大変やからな。ある意味大物やけども。」
「はい。出ますよ。ちゃんと。」
「ならよし。」
中澤はその後特に話しかけて来なかったが、職員室の前まできて私が挨拶をすると、思い出したように私を呼びとめた。
「吉澤、あんた今日、日直なんちゃうん?今の時間の記録もきっちり日誌に書けよ?」
なんだ、そんな事か。言われなくてもわかってるよ。
「はい。ちゃんと誰かに聞いておきますから。」
私の返事を聞くと中澤は頷いて職員室に入っていった。
放課後。日誌をつけ終えた私は部活用のユニフォームに着替え、軽く教室の机を整頓してから職員室へと向かった。
荷物を持って急ぐ私は数人の生徒と衝突しそうになった。思ったより早く終ったので、急げば練習開始までに間に合うかも知れない。
そう考えた私は勢い良く階段をかけ降りた。
普段は閉じられている職員室のドアが、その日に限って明け放されていたのは偶然か。そのドアの向こうに、思いがけない光景を見た。

----------やろ?----------何言ってるの、せんせい。

自分の席に座っている中澤と、その脇に立つスコート姿の梨華。それはごく親しい者どうしの仲睦まじい談笑だった。
普段あまり笑わない中澤が、ものすごくやすらいだ顔をしているのにも驚いたけれど、
特に教師に対して優等生的な態度を決して崩さない梨華の、安心しきって敬語を使わない様子といったら。
入学式の日以来壇上で話す彼女の少し固めの声しか知らなかった私に、マイクを介さずリラックスしたその口調はとても印象的だった。
それは不思議な感情で、嫉妬とも違うし孤独とも違う。
敢えて言えば憧憬というものに近かったように記憶する。
2人を取りまく空気がなにやら貴重な宝石のように思えて、それを壊してしまいたくなかった。
どれくらいそうしていただろうか。とても長かったようにも思えるし、ほんの一瞬だったような気もする。
立ちすくむ私に気付いた中澤が名前を呼ぶまで、私はぼんやりと立ちすくんでいた。
「何やってんねん、吉澤。入ってき。」
それまでの笑顔のまま中澤が手招きをする。梨華がいることに対してほんのり緊張した私は、それを振り切るように2人の元へ近付いた。
それでもやっぱり、私はおどおどして映っただろうか。
「あー、終わ川。こいつ吉澤。うちのクラスやねん。めっちゃ頭ええねんで。運動も得意だしな。」
努めて冷静に差し出した日誌を手にし、それに目を通しながら中澤が言う。
「こんにちは。吉澤ひとみさん。その後、元気だった?」
私は驚いた。顔はともかく、梨華は私の名前をもう忘れているものと思っていた。
それは予想外で、私はまた目を見開いてしまったかも知れない。
「‥こんにちは。あの時はありがとうございました。」
彼女のブレザーを着た時の感触を思い出して、私は少しどきどきした。
梨華は普段どおりの鈴のような声で、明るく言う。
「どういたしまして。」
「なに?お前ら、知り合いなん?なんや裕ちゃんおもろないわ。」
ゆうちゃん。今日の中澤はすごく明るい。そんな中澤にとまどって梨華を見ると、彼女は相変わらず微笑んでいた。
2学期になって梨華はテニス部の部長になったようだった。
練習の指示を顧問である中澤に聞きに来たらしい。部長と顧問の間柄であれば、信頼関係もある程度強いのだろう。
2人の親密さを、その時の私はそう理解した。
「せや。」中澤がおもむろに私の腕をつかむ。
「よっしー、あんた生徒会入ったら?石川と一緒にやったらええよ。」
よっしー。頭の中そう反芻していたため、中澤の言葉を理解するのに時間がかかった。
それを遅れて辿っていると、驚いた面持ちの梨華が言った。
「やだ。先生。私、来期は立候補しないよ?」
「せえへんの?なんで?」
今度は中澤が不思議そうな顔をした。
「だって‥。部長にもなっちゃったし‥。ほんとうは、人前に立つの、そんなに好きじゃないから‥。」
梨華はそう言って、恥じらうように俯く。人前に出るの、あんまり得意じゃなかったんだ。
あんなに落ち着いて見えたのに。梨華の本当の姿を少しだけ見たような気がした。ほんとうは緊張していたんだ。
「石川さんがやらないなら、私もやりません。」
冗談半分、本音半分、私の言葉に中澤が反応する。梨華はそれをどうとっただろうか。
驚いたような目をして、それでも楽しそうに私を見ていた。
「なんや、よっしー。さてはあんた、好きやろ?石川のこと好きなんか?言うてみ。裕ちゃん差別せえへんで?」
中澤の反応がおかしくて私は吹き出した。困ったように笑う梨華のスコートは、ひらひらとかすかに揺れていた。
「もう。先生はすぐそういう方向に話を持っていくのよ。困る。」
ねー。そう言いながら梨華は私を見る。
「さあ。そろそろ行かなくちゃ。吉澤さんだって、早くいかなきゃだよね?じゃ、先生。はやくコートに来て下さいね。」
中澤に挨拶する私を可憐な梨華の手が促した。
職員室を出ると、梨華の手は自然に私の腕から離れる。少し残念な気がした。はにかむよう微笑んで梨華がいう。
「中澤先生はいつもああなの。もうたいへん。」
「石川さん、仲いいんですね。中澤先生と。」
「‥うん。」
と、とつぜん梨華は私の手首を掴んだ。
「あれ、吉澤さんも右の手首に痣があるんだね。私もあるよ、ほら。」
そう言って差し出された彼女の手首には、確かに小さな赤い痣があった。私のものと場所も同じで、形もずいぶん良く似ている。
私と彼女共通点を見つけたようで、私はとても嬉しくなった。
「ほんとだ。なんか似てる。偶然ですね。」
あれこれを話しているうちに、私達は昇降口まで来た。私はこっちで、彼女はあっち。別れは惜しかったけれど、それは仕方のない事だ。
「今日はなんか、いろいろ話せて楽しかったです。じゃあ。」
そう言って体育館へ向かおうとする私を彼女が呼び止めた。
「吉澤さん。」
「はい?」
「中澤先生はいい人よ。私の恩人なの。」
梨華はなぜか、思いつめたような、真剣な眼差しでそう言ったが、私はその真剣さがどこから来るのか実際には理解していなかった。
「‥? ハイ。」
顧問の教師に対してそういう気持ちを抱いても特に不自然ないんだろう。
梨華の言葉を私はそう受け止めた。
それからというもの、中澤はことあるごとに私と梨華を引き合わせた。
初めの頃、梨華は優等生特有のある一定な距離感をなかなか解こうとはしなかったが、時間が経ちお互いを知るにつれて、それが徐々に緩んでいくのを感じた。
私達2人は手首の痣以外にも何かと共通点が多い。
それぞれ積み重ねた物によって表層の性格こそ違うものの、基本的に価値観の似た彼女との会話は、実際楽しいものだった。
親しくなってしばらく経つ頃、練習を終え制服に着替えた私は下校中の梨華を見つけた。
彼女がいつも、同じテニス部で比較的家の近い一人の女子生徒と共に帰っている事は知っていた。
その友達は、見た感じ梨華とは正反対のタイプで、明るく染めた髪と人なつこい笑顔が印象的なその彼女は、梨華をよく笑わせていた。
その友達がたまたま欠席でもしたのか、俯きがちに歩く彼女はあの日ひとりだった。
普段朗らかな笑みを浮かべて下校する2人の姿を見慣れていたからなのかどうかは解らない。
オレンジ色に染まった校舎の脇を、ひとり校門へと向かう梨華がひどくに儚げに映った。
優等生である梨華は一緒に帰る友達を他に持たないんだろうか。なんだかたまらなくなった私は、梨華に向かって駆け出していた。
一緒に帰るはずだったバレー部仲間数人は適当な理由をつけてごまかした。
「りかっち!」
ちょうど校門を出るところだった彼女は、少しだけびっくりしたように振り返った。私を認めて微笑むその歯は、今日もせつない程白い。
「あれ。ひとみちゃん。」
「なんで一人なの?今日あの友達一緒じゃないの?」
息せき切って話し掛ける私の勢いに少しだけ驚いているようだったけれど、それでも梨華は笑って答えた。
「どうしたの?そんなに急いで‥。
あのね、今日部活早めに終ったんだけど。でも私だけ、来週の試合のことで中澤先生と打ち合わせしてたの。私、ぶちょうだから。」
笑う声を抑えるように話す梨華の様子はいつもと何の変わりもない。私はそれを確認してひとまず息を吐き出した。
私達はそのまま一緒に帰った。私も梨華もあの日なぜか黙りがちで、これといった会話もない。
ただそれが私にとって不快ではなかったということ。そういう梨華の態度は、私に対する彼女の信頼の証拠だと感じた。
川沿いの公園では季節はずれのモクレンが、甘く重いにおいをその花弁から撒き散らしていた。
夜になりかけた風景のなかで狂ったように咲く白くて厚い花びらがやけに青白く、ぼんやりと浮かび上がって見える。
「すごいね。」
そう言って指差す梨華は、何か眩しい物を見つめるような瞳をしていた。陽は既に落ちて辺りは暗いのに。
「‥うん。」
「すごい匂い‥。でもなんで?いまどきこんなに咲いてるなんて‥。」
私は木に近付いてその硬い葉を一枚裏返す。葉の裏面には、大小の白い斑点がぽつぽつと浮かんでいた。
「病気だよ。害虫にやられてる。」
私は側に落ちていた小枝を拾い上げて、幹に空いた小さな穴へ差し込んだ。再び出した枝の先には白っぽいおがくずが多く付着していた。
「ほら。中はもう死んでる。」
差し出した枝を確認した梨華は、顔を上げて私を見つめた。
「じゃあ、もうダメなんだ‥、この木。きれいなのにね。」
そう言って再び花に目を戻す梨華に、感情の変化は読み取れない。ひどく冷静な視線はどこか、安堵さえしているようにも見えた。
私達は再び歩きだした。しばらく行くうちに突然梨華が口を開く。
「ひとみちゃん、植物のこと詳しいね。こないだもひまわりのこととか中澤先生よりも良く知ってたし‥。」
中澤がエロ教師だと言うことを私も既に気づいていたが、数学科の教師である彼女は生物についてもそれなりの知識を持っていた。
「うーん。お父さんの影響かな。てゆうかうちのお父さん、ずばり植物学者なの。だからあたしも詳しくなっちゃった。」
「え、そうなの?」
「うん。」梨華の目がなにやら楽しげに輝き出した。優等生の梨華だったけれど、こういう時はとても無邪気だ。
ある意味取り澄まして見える彼女が、時折こんな様子を見せる事を知ったら、皆きっと好きになる。私はそう思った。
「あのね、あんまり関係ないんだけど。うちのお母さんもすごく詳しかったの。花のこととか‥。
だから私もけっこう知ってるよ。ま、ひとみちゃんには負けちゃうケド。」
亡くなった母親のことを懐かしそうに梨華は語る。淡々と短い言葉で思い出を話す彼女は、それでも穏やかな笑みを浮かべていた。
とても大事そうに、その幸福な記憶をささやくので、私もなぜか暖かな気持ちになった。
「私が小学校の2年生の時に死んだの。お父さんに連れられて夜中に病院へ行ったわ。」
私は肉親の死を知らない。静かに話す梨華に、私はただ頷いた。こういう時に返すべき言葉を私はまだ知らなかった。
「お母さんがいた時は、すごく幸せだったな‥。悩みなんてなかった‥。」
ぽつりと呟いた口調がそれまでのものと違っている事に気がついて、私は梨華の顔を見た。
入学式の日随分高いところにあった彼女の瞳は今、私のものと同じ高さにある。それがなんとなく感慨ぶかかった。
また、あの表情をしている。俯いた梨華の輪郭を見ながら、私は思った。唇を軽く結び、輝きのない瞳で一点をじっと見つめる。
こういう梨華の表情を、初めて見たのはいつだったか。はっきりとそれを思い出せない。
親しくなるにつれて私はいつしか、彼女の影の部分を意識するようになった。私はふと、いつか中澤が言った言葉を思い出した。
「石川はな、優等生なだけに自分の内面を上手く他人に見せられへんねん。
もしかしたらそういうのを隠してるうちに、自然と優等生になってしまったのかも知れんな。」
私は再び梨華を見つめた。ごく親しい者しか知らない彼女の空虚な表情。
その瞳から感じるのは、悲しみとか怒りとか、そういう類いのものではない。
それはむしろ諦観に近く、圧倒的な何かを静かに享受しているように見えた。

中2の冬休み。すべてはあの電話から始まった。
梨華と言葉を交さなくなって、かれこれ半年以上経ったある日、私は誰もいない家でぼんやりとテレビを眺めていた。
少しも面白くない番組にうんざりした私は竹でできたカゴからみかんをひとつ手にとって、大きく息を吐き出した。
パチパチと他のチャンネルも回して見たけれど、半端な時間のプログラムはやっぱりどれもつまらない。
-----梨華は、どうしているだろうか‥。
頭に浮かぶのは彼女のことばかりだ。あの時の自分の軽率さがものすごく悔やまれる。
あれ以来梨華は、学校で会っても私を避けるようになってしまった。
何度も話しかけようとしたけれど、梨華は辛そうに目を伏せて、いつでもスッと逃げてしまう。
ぐらぐらする思考を吹き飛ばそうと、再びため息をついた私が2つ目のみかんに手を伸ばそうとしたその時、脇に置いた携帯が着信を知らせた。
液晶を確かめて思わず目を疑ったけれど、改めて確認しても表示はやはり梨華だった。
「も、しも、し‥。りかっち‥?」
呼吸をいったん整えてから出たものの、それでも心臓はばくはつしそうで、声はかすれた。
彼女とこうして話すのは、何ヶ月ぶりだろう。
様子がおかしい。
「もしもし!りかっち!?どうしたの!?‥もしもし!」
梨華は無言だった。ただ、なにやらとても緊迫していることだけは受話器を通しても明確に伝わる。
「りかっち!?もしもし!?」
何度目かの問いかけにようやく口を開いた彼女はひどく怯えていた。
「‥ひとみちゃん。わたし、わたし‥。」
その高い声はいつにも増して細く、はっきりとわかるほど震えている。
たまらなく不安になった私の頭の中を、ひとつの最悪な予感が襲った。まさか‥!
梨華はポツリと理由を話した。私の予感は当たった。
「今からすぐ行くよ。とにかく落ち着いて。すぐ行くから。どこにも行っちゃダメだよ。」
とりみだした様子の梨華に、できるだけ冷静に指示を出した。
電話を切った私は自分の部屋からコートをつかみ、そのまま玄関を出て自転車に飛び乗る。
漕ぎ出してすぐ手袋を忘れたことに気がついたけれど、そんなことを気にしているひまはなかった。

私たちがひとつずつ進級して、「来年もアンタをうちのクラスにして見せる。」
と、常々宣言していた中澤が予告通り2年連続で私の担任になった頃、梨華と私の関係はいたって良好だった。
毎日ではないけれどたまに一緒に帰ったり、時々電話で話したり。
そういう私たちの様子に、中澤も嬉しそうな顔をしていた。
基本的に梨華は優等生な姿勢を崩さないものの、それでも私に対してちょっとしたわがままやささやかな意地悪を言ったりするようになったし、
なんだか以前よりもよく笑うようになった。ただ、取り繕うことをあまりしなくなった分、例の表情を見かける回数も必然的に増えた。
ある日の休み時間、廊下を歩いていた私は中澤に呼び止められた。
振り返ると中澤は授業の帰りなのか、巨大なコンパスとか三角定規とか、そのほかにも教科書やらチョークやらとにかく両手一杯に物を抱えていた。
「あら、いいとこで会ったね。細腕のうちを手伝ってくれへん?」
私は軽く頷いて、中澤の荷物を半分持ってやった。
「おい、最近どうよ?ずいぶん仲良いみたいやんか、石川と。」
「ええ、まあ。」
わざとこともなげに言ってみせた私に中澤が笑った。
「ええこっちゃ。アンタならあいつと友達になれると思っとったわ。」
そうだ。中澤に相槌を打ちながら、私はふと思いついた。中澤なら知っているのかもしれない。梨華の影の原因を。
「ねえ、先生。りかっちがたまに暗い表情とかしてるんですけど、あれってなんなのかな。知ってますか?」
私の言葉に、中澤はしばらく何も答えなかった。なにかを考えているようだった。しばらくして期待を込めて見つめる私と視線をあわせず、中澤は静かに言った。
「よっしー。アンタ、石川のことが好き?」
中澤の問いは唐突で、すぐにはその真意をはかりかねた。
「どういう意味ですか?」
「いや。言葉通りの意味。」
私は少し考えて、やがてゆっくりと頷いた。中澤は相変わらず私の目を見ない。
「じゃ、今日部活終わったら裏門で待っとって。話しておきたい事があんねん。」
職員室はもう側だった。ドアのところで再び私から荷物を受け取った中澤は、私の返事も確認せずに、そのまま中へと消えてしまった。
部活動を終えた私が裏門の駐車場へ向かうと、既に中澤は赤い国産車に乗り込んでいた。
私を見つけた彼女はクラクションを2度程鳴らしたが、本来警笛であるその音は未だ練習が続く野球部の声によって昇華され、どこか牧歌的にさえ響いたのだった。
「おつかれ。まあ、乗り。」
ドアを開けて私が乗り込むと、中澤は荷物を後部座席に置くかと訊ねたが、私はそれを断わって膝の上に荷物を抱えた。
クラス内の出来ごとや私の成績の事など、とりとめもない話をしながら中澤は車を走らせたが、信号につかまってブレーキを踏んだ時ふと遠くを見つめて口をつぐんだ。
「石川の、あの顔なあ」
しばらくして中澤が口を開く。信号は既に変わっていて車も発進していたけれど、中澤の様子は先程と変わらない。
動作としての運転はしているものの、車線を追うべき視線にはしかし別のものが映っていた。
「遅かれ早かれ、あんたやったらそら気がつくわなあ。」
中澤はとつとつと話す。だからなんなのさ。私は焦れたが、急かしてはいけないように思えて制服の裾を握りしめた。中澤の口元を、息を詰めてただ見つめた。

あのコが入部してきたばっかりの時はな、まあ大抵の子らが思うとるように、うちも石川の表面の部分が全てだと思てたんよ。
有名な議員さんとこの一人娘で、お母さんおらんくても、それはそれは蝶よ花よと育てられたお姫さんやってさ。
同学年の子らはもちろん、上級生にも好かれとったわ。
きっかけはね、あのコが出た初めての試合。夏休みやわ、1年生の。
それまでうちと石川は普通のかんけいやったんよ。他の生徒と同じ。顧問と部員。
で、その試合な、あのコ勝ったんよ。しかも相手は向こうの副部長やってさ。当然上級生や。そんなもん。
あたしが顧問しとるだけあって、もちろんうちのチームは弱小でねー。だからみんな大驚きの大喜びや。
全員が石川のまわりに集まってめっちゃ盛り上がっててん。キャーキャーゆって。あ、もちろんウチもね。
みんなの輪の中にいる時、石川はいつもの石川やった。普段通りの、お嬢さんやった。
強い相手に勝ったのに、ぜんぜん奢ったりせえへんねん。お人形さんみたいにニコニコしててな。
出来たコやわーって思ったわ実際。そのあとすぐにね、エース同士の試合が始まったんよ。皆勢いづいてたからな。
もちろんうちのエースも調子乗ってよ、かなり頑張っててん。だから全員がそのゲームに熱中しとったんよ。
その時やわ。その日輝いてしかるべきのあのコの様子に気づいたんは。
みんながめっちゃ張り切って応援しとる中でよ、石川だけ後ろの方で、なんやぽーっとしてんねん。
まあ、うちも初めはただ勝利の味?ってやつ?に酔うてんのかなーぐらいに思っててんけど、どうも様子がおかしいんやんか。
まったく覇気がないってゆうか。全部を諦めてるってゆうか。あの、みんなのアイドル、優等生のリカちゃんがよ?あの試合で一番の功労者のリカちゃんがよ?
なんかさ、無表情やねんけど、ひとりだけ違うところにいるかんじ?とーおい空の上で、自分がいる高さに気がついて動揺してるかんじ?
あら。なんや裕ちゃん詩人やわあ。まあいいや。わかれへん。とにかくずっと見ててんけど、そしたらあのコ、もともと周りに敏感な子や。
気づきはったんよ。うちの熱視線に。
しばらく、いや一瞬だったかも。とにかく目が合うて、で、すぐにあいつがハッとなって目ぇ反らしてん。
そのあと、試合中でもあのコがあんな表情してたんが気になってな、ちらちら見とってんけど、ぜんぜんいつも通りやねん。
しっろい歯みせてやー、みんなと一緒に騒いでんねん。あいつ。
で、なにやら気になって、なんだかんだそれから石川のこと見るようになったんよ。
練習中の時とか、あのコのクラスの授業の時とか。そしたら、やけに多いねん。あの表情。
なんで周りのヤツら気づけへんのやろ。最初のころはそう思っとったわ。
けどさ、ふと気がついてんけど、あ、前にあんたにも言ったよな?あいつ、そういうの上手いねん。
外にぜんぜん出さへんねん。あとであいつもゆってたよ、びっくりしたって。いままで誰にも気付かれたことなかったんやて。
なんでうちが気付いたかっていうと、それはやっぱり、経験豊富やから?そら、そこらへんの厨房と一緒にしてもらったらあかんがな。
笑てる?笑うてない?よかった。ええコやねよっしーは。あ、裕ちゃん話ながい?だいじょうぶ?
まあともかく、中学生のする顔やないよ。あんなん。で、なんやごっつい心配やったから、練習のあと一度、呼び出して聞いてみたんよ。
自分悩みとかあるんちゃうの?って。
そしたら、気のせいやって言われた。勉強とテニスで、ちょっと頑張り過ぎただけやって。大変だけど楽しいです、って。
笑いながらそう言っとったけども、あたしにはわかったよ。つうかバレバレや。ちょっと経験積んだオトナには。
けど、本人がそう言うのをムリに聞き出すのもおかしいやん。だからウチはそれ以上どうもできんかったんよ。
けどやっぱ心配やったから石川に言った。なんかあったら言えって。
それから何度か、あの表情を見る度にゆっとったんよ。相談しいやって。
そしたらな‥、そうしたら‥。

そこまで一息に話して中澤は言葉を切った。
車はとうに私の家への道を逸れ、町の中(といっても私の町は小さく結局は家からそう離れてもいないのだけれど)をぐるぐると遠回りしている。
ずいぶんと時間が経っていて、夕飯の時間に遅れた私を母親が怒るだろうか?まあいいか。叱られたってかまわない。
中澤についてゆくと決めた。べつに怖くない。
「そうしたら‥、どうしたんですか?」
ふと目に入った中澤の両手は、ハンドルを強く握りしめているせいで血の気が引き、ずいぶん白くなっている。
中澤は適当な場所に車を寄せエンジンを切ったが、それでもなかなか話し出せずにしばらく目を閉じていた。
初めて見る中澤の表情はなんだかとても息苦しくなったけれど、それでも私は次の言葉を待った。
どうしても続きを聞かなければいけないのだ。神様なんて信じていないけれど、その時の私がなにか宿命のようなものを感じていたことは確かだった。
それは長い沈黙だった。ずっと握りしめていた制服のスカートの裾が手の汗でしわくちゃになっていた。
しばらくの間瞬きを忘れていたようで、目の渇きに気づいた私はあわてて目蓋を2、3度閉じた。

ある日、その試合から随分経ったころ、夜遅うになって家のチャイムが鳴った。石川やった。
ウチはちょうど、テストの採点があって、酒も飲まんと家に居たんよ。
「どうしたん?何かあった?」
もちろん、何かがあったんやっちゅう事は解っていたよ。あんな時間にうちとこ来るんやもん。
連絡なしで。その時の石川は、曖昧に笑っとって何も言わんかったけど、とりあえずうちは、中に入れたんよ。
そんなに近くもないのに、歩いて来たんやて。外もだいぶ寒くなってたし。
「中間テストですか?」
うちがココアを渡してやると、テーブルの上に乗っとった答案の束を指差して石川が聞いた。
「そうや。あんまり見たらあかんで。」
「わかってます。」
そう言った石川はテーブルの横に座って、テレビを見てた。あ、うちはテレビつけながら採点しとってん。
で、しばらく様子見てんけど、何も言い出さないからさ。石川の隣で、また採点を始めたんや。
「好きなもん勝手に見いや。」
そう言って石川にリモコン渡してよ。
時間にしてどのくらい経ったか。いまいち覚えてへんけど、石川が急にチャンネル変えよったんよ。
で、それに気付いたうちがふと顔をあげると、石川は目を伏せてリモコンを握りしめとった。
「どうしたんよ?なんかあったんやろ?」
そう言いながら、うちはなんやごっつい不安になってん。
「とりあえず夜も遅いしお家に連絡すんで。心配しとるやろうから。」
そしたら、受話器を取ったウチの手を、石川がギュっと掴んでん。
「やめて‥!」
驚いたウチは石川の顔を見て、ふと思い出した。さっきまで流れとった番組は確か‥、映画や‥!父と娘の絆を描いた‥。
その映画自体はありふれた、安っぽいもんやった。嫁入り前のある娘とその父の葛藤、とかそんなもん。
石川はウチの手を掴んだまんまや。ずっと顔を伏せていたから、泣いとるんやないか?って思たけど、べつに石川の目に涙はなかった。
ただ大きく目を見開いててな、ウチを掴む手が弱く震えとった。

家に着くと夕食はとっくに終わていて、心配した両親が理由を尋ねたが、玄関口まで中澤が来て一緒に謝ってくれたので、彼らも安心したようだった。
「お上がりになって下さい。お茶でもいかがですか?」
私の父親がそう促したが、丁寧にそれを断わって中澤は帰っていった。
母親が温め直してくれた夕飯を一人で食べ、入浴を済ませた私はすぐに自室へ戻った。
私の部屋にはテレビがないから、普段その時間はたいてい居間で過ごしていたけれど、あの日は家族と会話するのがひどく億劫だった。
「ウチは‥、ダメな人間やろうか‥?」
別れ際、家の前まで見送った私に中澤がポツリと言った。
私は部屋に入ってすぐ、電気を消してベッドに寝転んだけれど、目を閉じても今日聞いた話が頭の中をぐるぐるぐるぐるまわっていて、ほんとに勘弁してほしい。
梨華の家はもともと大きな地主で、いまでも地元では知らない人のない名家だ。
地位もあり有力者であるその当主は、若い頃梨華の母親にそうとう熱をあげ、なかば強引な手をつかってなんとか結婚したらしい。
結婚当初母親は父親のことをずいぶん恨んでいたらしいが、それでもすぐにすぐに梨華が生まれた。
そして母親の方も家族としてその男の誠意を見るにつけ、表面上ではあるけれど態度を軟化させていったようだ。
家族3人の生活は上手くいっていた。少なくとも梨華はそう思っていた。
それからしばらくして梨華が小学2校年生のとき、ふとした病気がもとで母親が死んだ。
父親はとても悲しんでいたが、それでも梨華を大事にして、2人で頑張ろうとかなんとか、どうやらそんなかんじだったみたいだ。
その時の父親の言葉に嘘はなかったようだけれど、年月が経つにつれて梨華を見る父の目がおかしくなっていった。
梨華の父と母。母親がまだ生きている頃、梨華にとって彼等は良い親で、自信に満ちた父親とその貞淑な妻、
つまり彼女の母が言い争っているところを梨華は見たことがないそうだ。
小学校の高学年になった頃から、梨華は自分を見る父親の視線になにか性的なものを感じるようになった。
その頃父親は仕事で大成し社会的にますます高名になっていたけれど、表の顔とは裏腹にその内面は確実に蝕まれていた。
梨華の知らない両親の思い出をえんえんと話す。
梨華を呼ぶ時に間違えて妻の名を呼ぶ。面影を多く残す娘に、男が自分の妻を重ねて見るようになるまでそれ程時間はかからなかった。
その事に対して梨華はもちろん恐怖を覚えたけれど、それを打ち明ける相手が周りに誰もいなかった。

そして、あの日。中澤を梨華が訪ねた日。父親はとうとう梨華を‥。あの日梨華が帰宅すると、普段は遅くなることの多い父親が帰っていた。
お前の母さんは俺を愛してくれなかった。なあ、お前は俺を許してくれるだろ?あれ?お前はどっちだ‥?梨華?母さん?
普段食事を作っている手伝いの女性は早めに帰されていたのだそうだ。
それを語る最中、梨華の目に涙はなかった。淡々と機械的に話したらしい。それが帰って痛々しかった、中澤はあとで私にそう言った。
一人の少女が抱えた闇。それを知った彼女は驚愕し、しばらく何も言えなかった。顔を背ける中澤を梨華はじっと見ていた。
「誰にも‥、誰にも言わんよ‥。」
自分の声が震えている。そして自分の言葉は梨華にとって何の救いにもなっていない。
それは中澤にもはっきりと解っていたけれど、それより他に何も浮かばなかった。
振り絞るようにそう言って、やっとの思いで顔を上げる。すると梨華は微笑んでいた。いつも見せるような、優等生的あのスマイル。
ああ神様、彼女の闇はこれ程深い‥!
「オマエは汚れてへんよ!」
カッとなった中澤がそう叫ぶと、梨華の表情に初めて動揺が走った。
「せんせ‥い?」
「あんたなんかまだまだやわ。ウチのほうがこれだけ汚れとる!」
中澤は梨華を押し倒し、そのままやみくもに口づけた。

「それから、ウチは‥。父親と何かあるごとに、石川を抱いた‥。」
「ウチは、ダメな人間やろうか‥?」
赤い車にエンジンをかけた中澤は私にそう聞いたけれど、私には何もわからなかった。
「先生は、りかっちのこと‥?」
「わからん‥。」
好きかどうかを聞いたつもりだった。中澤は解ってそう答えたのか。梨華は中澤を恩人と言った。
すぐに中澤は車を出したが、十字架を背負っているだろう彼女はしかし、その時聖人のような微笑みを残した。
徒然なるままに思考を追って、疲れた私がようやく眠りについたのは小鳥の鳴く声がそろそろ耳につき始めた頃と記憶している。
目覚ましは普段どおりけたたましく鳴って私の意識を呼び戻した。
睡眠に入ってそれほど時間が経っていなかったから体を起こすのはとても大変だったけれど、それでも私はなんとかベッドを抜け出した。
私はそんなに真面目でもないから今まで何度か仮病をつかって学校を休んだりしたこともあったが、あの朝はそうしなかった。
中澤の告白を聞いたからこそ、いつものとおりきちんと登校しなければいけないと考えた。
案の定中澤もちゃんと学校へ来ていて、何もなかったような顔でホームルームを済ませた。
教壇に立つ彼女はクラスへの連絡事項を告げながら何気なく一度だけ私と目を合わせたが、それ以外特に何も言って来なかった。
同じ学校へ通っているのだから、それ以降も梨華と顔を合わせないわけにはいかない。
梨華と話す時心の中は相当ドキドキしていたが、努めて私は明るく振る舞った。
彼女の仕種の全て------それはもうほんとうにささいな物まで、が私の胸をいちいちチクチク痛ませたけれど、
私は本当に必死で、痛みが深ければ深いほど一生懸命笑うようにした。

そういうふうにして日々は過ぎ、学校は夏休みに入った。
夏の大会に敗れた私達のチームから3年生が引退して、気分も新たな私がバレーに打ち込んでいたある日、梨華が電話をよこした。
「もしもし、ひとみちゃん? 梨華です。」
「あ、りかっち?久しぶり。元気?」
中澤の話の衝撃を忘れていたわけではなかった。
部の練習に精を出していたのも、要するにそれを考えずにいたかったからで、梨華と話をする事に私は未だに動揺していた。
しかししばらくぶりに聞く梨華の声はやっぱり高くて可愛いらしくて、実際気持ちが昂揚したのも本当だ。
「りかっち、聞いたよ。試合残念だったね。」
梨華もまた、他と同様、テニス部を引退していた。とても頑張ったのだけれど、いかんせん相手が悪かったのそうだ。誰かがそう言っていた。
「ひとみちゃんは、部長にはならなかったの?」
「ならなかった。てゆうかなれなかった。人望ないみたい、あたし。」
くすくすと笑う梨華の声が受話器を通して耳をくすぐる。その裏には深い影があるのだと思うと、本当に悲しくなった。
「りかっちは毎日なにしてるの?勉強?」
「うん。息が詰まりそう。」
「ねえ、明日会お終わわよ。時間ある?」
「私も。なんだかみちゃんに電話したの。」
「じゃ練習終ってから待ち合わせしよう?終ったら電話する。夕方になっちゃうけど。‥てゆうかじゃあ泊まったら?うちに。」
「え、うん‥。いいの?」
梨華が家に泊まる。私はその考えがとても素敵だと思った。あの家から例え一日だけだとしても梨華を引き離す事ができるし、私てきにもすごく嬉しい。

翌日、練習を終えた私は校門のところで梨華と待ち合わせて、夕暮れ近くに家に着いた。
「友達が泊まりに来るよ。」
あらかじめ話しておいた母親が玄関で出迎えたが、おいしいごはんを作っておくわ。
そう言って張り切っていたから、家のドアを開けたときから良いにおいが立ち込めていた。
「初めまして。石川梨華です。」
流石に梨華は挨拶がうまい。笑顔でにっこり。こういう自己紹介をする彼女を嫌う大人がいるだろうか。
そう感心していると、ふと目に入った母の表情に、なぜか狼狽が浮かんだ気がした。
「石川、さんって‥、あの代議士先生のところの‥?」
母が梨華の父親のことをが口にしたので、一瞬戸惑った私があわてて梨華を盗み見たが、梨華の様子に特に不審な所もない。
もう慣れてしまってるんだろうか、こういうのは。
「ハイ。」梨華が微笑んで頷く。
「お母さん、お腹空いた。はやくご飯にしようよ。りかっちも早く上がって。」
そう言って私は乱暴に靴を脱いだ。とりあえず話題を変えたかったのだ。
いくら待っても私の父親は帰って来なかったので、母と私と梨華で食事をした。私の母親は普段から明るい。
しかしその日はいつにも増して元気で、勢いあまった彼女は手を滑らせて皿を2枚割った。
いつも明るく、時々はしゃいで見せるものの、母は決して不器用な方ではない。
普段はしっかり者の母が、あの日は2度も皿を落とした。それを不自然となぜ思わなかったか。
母の様子を見抜くには私は幼く、そしてあまりに無知だったのだ。
食後少しだけテレビを見てから、私達は自室へ戻った。私は机の椅子に座って、梨華はベッドに腰掛けている。
雑誌を見ながらあれこれ言ったり、お互い気に入っている音楽をかけたり。
それ程多くを語り合っていたわけでもないけれど、私は十分充足していた。
クーラーを効かせているから部屋の窓は閉じていて、遮断された空間には私と梨華が2人きり。
蛍光灯のひかりは清潔で、照らし出された部屋がまるで虚構のように浮かび上がる。
梨華は私の側に座り、そして時々静かに微笑む。このまま、ずっとこのまま。私はふと思った。
彼女をずっと、この部屋に隠してしまえたら。梨華の話に相槌を打ちながら、私は空想に夢中になった。
果たしてそれは可能か。用のない世界に背をむけて、このまま2人で逃げきれるか。
楽しい時間は続かない。そんなのは当然で、だからもちろんこの瞬間もそれほど長くは続かなかった。
きっかけは、中澤の話題。夏休みに入って私はしばらく彼女と会っていなかったけれど、梨華いわく中澤は今、新チームの練習に熱を入れいるのだそうだ。
「珍しいね。中澤先生がやる気を出すなんて。」
私はできるだけ、当たり障りのないように答えたつもりだった。腫れ物に触れないように、何も知らないふりをして。
「でも、意外と熱血なのよ。あの人。」
「そうなの?そうは見えないけど。」
そうだよ。そう呟いて梨華は黙った。
私達の間を気まずい空気が流れたように感じたけれど、私が知っているということを梨華はまったく知らなかったから、
それはやっぱり気のせいで、私は焦っていたんだろう。
その時梨華は、既にベッドを移動して直接床に座っていた。
目の前の小さなテーブルに両肘を乗せて、ぼんやりとしたうつろな目。その表情に私は十分慣れていたはずだった。
けれど。見慣れているはずなのに、あの時どうしてもやり過ごす事が出来なかったのだ。梨華に対する確かな想いを、自分でもどうにもできなかったのだ。
「りかっち‥!」テーブルの上に組んでいた梨華のひじを私は掴んだ。我に帰った梨華が、戸惑った目で私を見つめる。
「ひとみ、ちゃん?」
「私、りかっちのことが好きだよ‥。」
「え‥。」
梨華は困ったように視線を伏せた。梨華の腕を掴んだまま行き場を失った私の右手が、ほんの少し汗ばんだのを覚えている。
「だから‥、だから、りかっちが抱えているものを、わたしが一緒に、背負ってあげたい‥!」
ガチャン。閃光が走るのに似ていた。言い終わったか、終らないか、それは微妙なところだ。
私の言葉を聞いていた梨華の体がその瞬間ビクッと震えて、テーブルの上のグラスを倒した。
一瞬グラスに目を奪われた私がもう一度梨華に視線を戻したが、あの時の彼女の表情を私は忘れられない。凍り付いていた。
ガラス玉のような瞳に息をのんでいると、突然その両瞳に透明な涙が溢れる。
「知ってたの‥?」
「ちが‥っ!」引き止めようとしたけれど無駄だった。
「いやっ!!」
全ての存在を拒む切り裂くようなその悲鳴。梨華の腕を掴んでいた手に私が力を込めるより、ほんの一瞬だけ早く彼女は去って行ってしまった。
物音を聞き付けた母につかまったからかも知れない。あるいはあまりに悲痛な声に、一瞬躊躇したからなのか。
懸命に探したけれど、結局梨華を見つける事ができなかった。
疲れ果てた私が家に戻ってすぐ、携帯が鳴った。中澤だった。液晶画面からすると、私は2時間走り回ったことになる。
梨華は今、中澤の家にいるそうだ。何も持たずに飛び出したから、私の部屋には梨華の荷物が抜け殻のように残っていた。
その後、中澤は梨華の荷物を取りに来た。私が走り回っている間、何度も連絡を入れたそうだ。
中澤の家を突然訪れた梨華は、激しく息を切らせていたが、その顔面は蒼白だった。
ひどく取り乱していた梨華は理由を尋ねても涙をこぼすばかりで、万策尽きた中澤が安定剤を彼女に与えた。
「ひとみちゃんに‥、悪い、事を、した‥。」
ベッドに移して毛布をかけてやると、眠りに落ちていきながら梨華は夢うつつで呟いたそうだ。
「何が、あったんよ‥?」
中澤が誠実な眼差しでそう尋ねたが、私は無言で荷物を渡した。白い梨華の携帯が、皮肉なほどに眩しく見えた。
「今は、何も言いたくありません‥。落ち着いたら、また、話します。」
「‥そう。」
頷いた中澤は私の髪をわざと乱暴にかき回して、静かに車に乗り込んだ。
去って行く中澤の車を見つめながら、私は自分の非力を嗤った。
私の家を飛び出した梨華は今、中澤の家で、中澤の庇護のもとに眠っている。
それでも。無事であるならいい。帰る場所を失って、ひとりで外を彷徨うよりは。中澤は大人だ。
梨華を包む、実質的な術を持つ。とうぜんだ。私は何も持たないのだから。

焦燥?嫉妬?敗北?希望?果たして中澤は梨華を抱く?

中澤が頭を撫でたから、それまで私の中で張り詰めていたものが突然弾けた。私にもし、力があれば‥。
夜道に赤いテールランプは、とっくに見えなくなっていたが、それでも私は動けなかった。拭っても拭っても涙を止められなかった。

それ以来梨華と連絡を取っていない。
自宅に電話をしても取次いでもらえず-------常に手伝いの女性が出たので、私と梨華の父親が言葉を交わす事はついになかった-------、
携帯電話もすぐに新しいものへと変えたようだった。
2学期になって学校が始まればまた以前のように偶然顔を合わす事も何度かあったけれど、気付いた私が話しかけるよりも前に彼女は辛そうに逃げてしまう。
その頃になって全てを知っていた中澤は「焦るな。」そう言って私の肩を時々叩いたが、その他は見て見ぬフリをして口を閉ざしていた。
あれは10月の終り。枯れ葉散る白い、テラスの午後3時。梨華が一度、私を見つめていた事があった。
私はちょうど校庭で体育の授業があって、3年生はその日進路相談か何かで早めに日程を終え、ちょうどその時下校時間だったようだ。
大勢が一斉に昇降口から出てきていたし、私もだいぶ離れたところにいたから、すぐには梨華に気付くことが出来なかった。
「3年生、帰ってるよ。いいねー。」
そう言う誰かの言葉につられて視線を向けると、数人の友人に囲まれるようにして歩く梨華の姿が目に入った。
その輪の中心にいながらも、梨華は私の方を見ていたのだ。
ハッとした私が顔をあげ、改めて視線を合わせると、彼女も一瞬なにか言いたげな顔をしたが、それでもすぐに背けてしまった。
授業中で自由に行動できなかった私は、梨華の姿を視線で追った。
それは私の勝手な思い込みだったかもしれない。しかしその時梨華の瞳は、確かに涙が滲んでいるように見えた。
また、何かあった‥?そう考えてたまらなくなった私は放課後、部活の前に中澤をつかまえて話を聞いた。
梨華のことを中澤に相談するのはなんだか悔しいような気もしたけれど、頼れるのは彼女しかいない。
そもそも中澤が悪いわけではないのだ。むしろ彼女は梨華のためにも、そしておそらく私のためにも、誰より心を砕いていて、もしかしたら一番苦しんでいる。
頭でそう考えることはできたが、実際気持ちはやりきれなかった。理由はどうあれ中澤は梨華を抱いた。その事実をそう簡単に割り切れない。
「石川?ああ。最近あんまり来えへんよ。そういや、あそこの高校受けるそうやで?」
中澤は私立の某有名女子校の名をあげた。その学校は単に名門なだけでなく、難関としてもかなり有名だったけれど、梨華の事だ、きっと合格するんだろう。
「それより先生!りかっち最近お父さんとは‥。」
中澤はしばらく黙ってから答えた。
「わからん。最近あんまり話してへんねん。裕ちゃんエロいから、嫌われてまったんかな?」

なあ、吉澤?

中澤はあの時、明らかに悪役を、それもわざと演じていた。しかし当時の私は単純だ。ヘラヘラ笑う中澤に、本気で腹を立てていた。
「先生は梨華の事、好きなの?好きなんだったら、私はべつに。身を引くけど‥。」
「好きや?めっちゃええ体しとるわ、アイツ。だったら何?好きちゃうかったらどうすんねん?」
中澤の演技に私は気付かない。
「それだったら‥。いつか梨華を連れて行く。先生からもあの父親からも奪う。」
今思えばとても恥ずかしい言葉だ。しかしあの時、私は確かに決意していた。いつか、いつか必ず。
「ああそ。せいぜい頑張り。」
中澤は窓の外を眺めていたが、しばらくすると視線を戻さずそう言った。
中澤の表情は相変わらず笑っていたけれども、口調が微かに震えている気がした。
私は少なからず違和感を覚えたけれど、それ以上話していたら涙が出そうだったので、堪えていられるうちに彼女に背を向けた。
誰もいない廊下を早足で歩く。少し遠ざかってからやっぱりそれが気になって、中澤を振り返った。
すると彼女は清楚な、まるで誰より純粋な少女のように笑っていて、その場所のまま私を見送っていた。

じつに半年以上ぶりの、梨華からの電話。その電話を切った私は、コートを掴んで自転車に飛び乗った。
急がなきゃ。それにしても今日は部活がなくて良かった。冬休みは基本的にオフ。
それが顧問のポリシーで、部員の私達はそれ程学校へ通うこともなく、決められた量の基礎トレーニングを各自自主的にこなしていればよかったのだ。
手袋を忘れたから、自転車で急ぐ両手が切れるように痛い。今日は多分帰れないだろう。
誰もいない家にメモを残すのを忘れたけれど、あとで電話しよう。携帯持ってきて良かった。
「石川は多分。もうアンタの事好きやで。」
あの日振り返った視線の先で、眩しく笑った中澤は言った。全力でとばす私の喉はもう血の味で、それなのに吐き出す息は白い。
なんで錆びた赤色をしてないんだろう。それがひどく不思議だった。
古めかしい、大きな門は開いていた。呼び鈴を押しても応答はない。だから勝手に入った。
玄関の立派な観音開きの扉も、鍵はかかっていなかった。だから勝手に入った。
「梨華ーーー!!!」
私は大きな声で叫んだ。おそらく彼女は、ひとり大きなこの屋敷で(もしくは2人で)、怯えて隠れているんだろう。
お手伝いさんは今日はいない。私はそう確信していた。片っ端からドアを開けて、部屋を探して回る。
途中で靴を履いたままだったことに気がついて、そこら辺に脱ぎ捨てた。
「りーかーーー!!!」
式はとっくに始まってに黒いファイルを抱えた一人の女子生の瞳につられて思わず私もふふ一生懸命で
彼女の潔癖な優等生威圧的な態度が嫌いだ何言ってるのせんせいおどおどして映っただろうかいい人よ恩人なの
甘く重いにおいはもう死んでアンタならあいつと友達なれる宿命のようなものがこれだけ汚れと友達が泊まりに抜け殻のよう。
梨華はいた。いちばん奥のおおきなベッドルームに。ベッドの横に、父親と思われる男がうつぶせに倒れていた。頭から血が大量に流れていた。
「おとうさんをころしちゃったの」
私は初めて実物の死体を見ました。そして初めてキスもしました。テレビにはマキちゃんが映っていた。

 

第2部

 

あの人を殺した事、後悔はしていません。
15年もの間、家族として私を育ててくれたという事実を考えると、混乱して息が苦しくなりますが、やはりあの人はそれだけの事を私にしたのだと思います。
その瞬間の事はあんまり覚えていないんです。
あの日は私、家にいて、ずっと受験の勉強をしていました。
志望していた女子校は随分人気の高いところでしたし、先生がたは楽観なさってるようでしたけど、だからと言って手を抜くということでもありませんから。
昼食をとってすぐ、でしたから、多分2時頃だったと思います。
父から電話がありました。電話を取ったのは私ではなく、昔から来て頂いているお手伝いの女性です。
鈴木さんという方で、生きていれば多分母と同じくらいの年齢だったと思います。
世話好きで、少しだけお節介なところもありましたけど、人のよいほがらかな方で、私は好きでした。
食後に少し休憩を取った私は、部屋に戻って再び机に向かいました。
午前中にやり残していた英語の長文を終えたところで、電話の鳴る音が聞こえたのですが、いつも鈴木さんが応対してくれていたので、構わず問題集を進めたんです。
しばらくすると部屋のドアをノックして鈴木さんがやってきました。いつもどおりの、人なつこい笑顔を浮かべて。
「梨華さん、お父様は今日、お早めに帰られるそうですよ。」
ついでに運んできた冷たい飲み物を机の横に置きながら鈴木さんは言いました。
これもまた普段の通り、どこか弾んでいるような口調でした。
お父様が帰ってくる--------。私はお腹の中に大きな鉄の塊を呑みこんだような気分になりました。
あの人は、父はいつもおかしかったわけではありません。
普段の日は帰りが遅く、同じ家で暮らしていても週の大半は顔を合わさない事のほうが多かったんです。
ただ、月に一度か二度、早い時間に帰宅する日がありました。
そしてそういう日には必ず‥。
以前、どうしても嫌で一度理由をつけて外泊してみたこともありましたが、そうすると父の機嫌は悪くなって行為は次の日一日中に及びました。
学校はむりやり休まされました。
「そう‥。」
ぼんやりしている私を不審げに見る鈴木さんの視線に気付いて私は慌てて返事をしました。
「どうかしました?顔色が少し悪いみたいですけど‥。」
「いいえ、大丈夫です。最近ずっと勉強してたから。そう見えるだけですよ。」
「そうですか、気を付けて下さいね。じゃ、お父様が帰ってらっしゃるのですから。
いつものように早く上がりますね。お父様もおっしゃってたけど、やっぱり親子水入らずの方がいいものね。」
鈴木さんの口調には、飽くまで邪気と言うものがありません。彼女は何も知らないのです。
「‥ええ。」私は曖昧に笑ってそう答えました。
手早く夕食の支度を済ませた鈴木さんが帰って行ってから、父の帰宅までにはまだ少し時間がありました。
なんだか急に疲れた私が勉強をやめてベッドに腰掛けると、ふと、彼女の事が頭に浮かびました。

あの夏の日、私が家を飛び出して以来、彼女とは口を聞いていません。
今はもう冬休みで、庭の木々は寒そうにすっかり葉を落としています。
この4ヶ月間、彼女は学校で顔を合わす度に何度か話しかけて来たけれど、私はそれを拒否し続けました。
携帯を新しいのに変えて、家の電話も鈴木さんに協力してもらって‥。
初めて会った時、入学式に遅刻して、雨の中体育館の入り口でひとり佇んでいたひとみちゃん。
当時はまだ私より背も低くて、少し頼りなげだったけれど。あの時の事を思い出すと自然に顔が微笑んでしまいます。
なんだかかわいい。今となってはあんなに頼れるひとみちゃんなのに、まだ子供だったんだなあって。
中澤先生のはからいで再び彼女と顔を合わせて以来、私達はすぐに親しくなりました。彼女は太陽みたいな人。
明るくて、素朴で。そして、強い。年下でも、もともと頭も良かった彼女に私が心を許すようになるまで、それ程時間はかかりませんでした。

あの日、ひとみちゃんが私に、好きだと言ってくれた日、同性の彼女からの告白はそれほど不快でもありませんでした。
むしろ嬉しかったんです。今考えると、私はあの時すでにひとみちゃんと同じ気持ちだったのかもしれません。
でもそれ以上に、彼女に全てを知られていたという事のほうがショックでした。
数年続いていた私と父の忌まわしい関係、そしてそれに巻き込んでしまった中澤先生との事実‥。
私は自分が他の女の子のように誰かを好きになったりしてはいけないのだと思っていました。
皆が持つ、そういう権利を私だけは持っていない。私は汚れているから、そう思っていたんです。
何度も言うようですが、ひとみちゃんは太陽のような人です。健全な彼女を、これ以上私に関わらせたくなかった。
ひとみちゃんまで巻き込んでしまうのが、本当に怖かったんです。だから私は彼女を避けるようになりました。

なにげなく見上げた窓の向こうには、冬の午後の太陽が優しく輝いているのが見えました。少し傾いたその陽光は弱く、けれど確実に全てを包み込みます。
まるで柔らかいパウダーのような日射しの下では何もかもが例外なくトーンを落とし、その漂白された風景はとても切なく私の胸に迫りました。
冬の冷たい大気のせいで、随分遠くの景色までもはっきりと見渡すことができたんです。
そしてその時、私は自覚してしまった。
考えないように考えないように、気づく事を無意識のうちにためらって、胸の奥深くに追いやっていた自分自信の本当の気持ち。
いつの間にか私の両目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちていました。
ひりひりと焼け付くような喉と胸の痛みに気が付いて息を吐き出すと、
温かく湿った嗚咽と共に彼女の名前を発音する自分の声が、震える空気を伝って私の耳へと届きました。
あまりにもいっぱい涙が出てくるので、景色はもう見えなくなっていましたが、窓のガラスを透過して部屋に入り込んで来る光が、さらに優しく私の頬を照らし続けている事がはっきりと感じられました。ひとみちゃんが好き。
この時もし、私がこの気持ちに気づくことがなかったら、私はあの人を殺していなかったのかも知れません。
重い玄関を開ける暗い音が遠くで響いて、あの人が帰ってきたのがわかりました。靴を脱いで‥。
きっと私を探しているのでしょう、ずいぶん古くなっていた廊下をぎしぎしと音を立てて徘徊する足音が、階上の私の部屋まで聞こえました。
居間と応接室を覗いた後にあの人は階段を上がって、今から数分と経たないうちに今度は私の部屋へとやってくる‥。
それはいつものパターンでした。あの人の立てるいかにも陰鬱な足音をじっとして聞いていると、恐怖と緊張で私はいつも押し潰されそうになるんです。
それが分かっていたので、私はベッドから身を起こして、だいぶ収まっていた涙を指先で軽く拭いました。
やがてドアのノブが無機質な音を立て、部屋の扉がゆっくりと開きました。
ドアの開閉なんてありふれた、ひどく日常的な光景のはずなんです。
けれどあの人の手によって開く時に限って、やけにゆっくりとまるでスローモーションのように私には映るのでした。
「梨華‥。」
ノブを掴んだまま、身体に絡み付くような声で呼ぶあの人の声。完全には開き切っていないドアの陰に隠れて、その横顔はあまりよく見えませんでした。
「寝室に‥、来なさい‥。」
「はい‥。」
私の返事を確認した後、ひと呼吸置くようにしてから、何も言わずあの人は去って行きました。
重い気持ちで立ち上がった時に深く吐き出した私の息が、切れ切れに震えているのが自分でもわかりました。
無駄な事とは解っていましたが、それでも私は部屋を出る前に乱れた衣服を少し整えました。
あの人の寝室、正しく言えば以前はあの人と母のものだった家の主寝室に入って、しばらく経ったところから私の記憶は途切れています。
どうしても、思い出す事ができないんです。
「脱ぎなさい‥。」
あの人の言葉に刃向かう事に、私はとっくに疲れていました。そんな事するだけ無駄なんだっていう事は、とっくに解っていたんです。
何も考えない、何も感じない。黙って従う事がもっとも大事なことなのだと、それまでの経験を通して私は知っていました。
何も言わず背を向けて、ひとつひとつボタンを外す私の肩のあたりに、やがて生暖かい父の吐息を感じました。
込み上げる嫌悪感を呑み込もうと反射的に目を閉じると、首筋に熱い唇が押し当てられた‥。
襲いかかる生理的な拒絶に耐え切れず私の全身は粟立って腕にはひどい鳥肌が立ちましたが、あの人は気づいていたのかどうか。
少なくとも私には一向に気にする様子もないように思えました。
熱を帯びぬるぬると湿ったあの人の手が私の顎を掴み、不自然な姿勢のまま後方にねじ上げるまで、私は私自身でした。
まだ自分を抑制する事が出来ていました。人形のように感情を殺して、時間が過ぎるのをただ耐えてさえいれば済むことなんです。
目をつぶって、じっと我慢していればすぐに終わる。それまでもそうして来ましたし、その日もそうするつもりでした。
しかし。あの時はそれができませんでした。無理に振り向いたその体勢が苦しくて、思わず目を開いてしまったんです。
私の視線のすぐ前には黄色く濁った父の瞳が。その両眼は行為の最中において決して閉じられる事はなく、狂人的な冷静さで全てを観察していたのでした。
「いやっ!」
思わず声を出してしまって、無我夢中で父を振り払いました。私の存在はこの人に冒されるためにあるんじゃない。
私の唇はこの人とキスする為にあるんじゃない。一度そう思ってしまうと、わき上がる気持ちを止める事はできませんでした。
私には好きな人がいるのに、世界中の全ては狂っている。その全てが憎くて仕方ない。なにもかも消えて欲しい。
そんな感じでした。そこから先は覚えていません。混乱し暴走する思考の中、ふと部屋の隅に彼女を見たような気がしたんですけど、それは幻覚のようでした。

しばらくの間(それが果たしてどのくらいの時間だったのか、はっきりとはわかりません)、私はその場に座り込んでいたようです。
肌寒さを覚えて辺りを見回すと、大きなベッドの向こうにうつ伏せて倒れているあの人の右足が見えました。
次に目を落とした私の腕は裸で、手のひらは血にまみれていました。柱に凭れて座った、投げ出した私の足の側には、金属製の重たい時計が。
ベッドボードに置かれていたはずの、そのいかめしい飾り時計もまた、私の手同様にべっとりと血に染まっていました。

何を いまさら。

ひとみちゃんには何度か謝った事があります。私は彼女の人生を大きく狂わせてしまったんです。
私とさえ関わり合わなければ彼女には普通の、いいえ、優秀な彼女のことですから、きっと人並み以上の人生がその未来には待っていたはずでした。
私が、あの時助けを求めてしまったから‥。しかし彼女はその度にからかうような笑顔を作って答えました。
気に病む私を安心させようと、わざと冗談めかして本当にサラリと答えるんです。
私はなぜひとみちゃんに電話をしたんだろう、自分でもわかりません。
あのひとの呼吸が止まった後、自制を無くした私は、ガタガタと震える指でひとみちゃんの番号へと電話を掛けたらしいのです。
記憶は実際定かではないのですが、彼女への送信を伝える履歴が部屋の隅に転がった父の携帯に残っていたので、きっと事実なのでしょう。
それにしても‥、なぜ。確かにあの時、私の心の中にはひとみちゃんが既に大きな存在となって確実に息づいていました。
大切な大切な存在でした。でも。だからこそ避けていたのに。巻き込んでしまう事を何よりも恐れていたはずなのに。
こういう場合には中澤先生の方が相応しかったはずでした(そういう考え方をする私は卑怯です)。
中澤先生とは、新入生の私がテニス部へ見学に行った時に初めて会いました。4月中旬にしてはなかなか日射しの強い午後でした。
私の学校のテニスコートの周囲には、防風用の背の高い木が数本植えてあったのですが、
その葉陰をついて尚も差し込む幾筋かの光が、きっと眩しかったのだと思います。
中澤先生は両手をポケットに入れたまま、不機嫌な様子で顔をしかめていました。
入部当初、新入生たちはその無愛想さを多少敬遠していました。
それでも時間が経つに連れ、外見とは裏腹に悪意のない人だという事を知って、みんな親しみを感じるようになっていったんです。
当の本人はと言えば、私達の好意をわかっているのかいないのか、誰をひいきするでもなく、ごく公平に教師として一定の距離を保ちつつ生徒に接しているようでした。
気紛れでマイペースなように見えて、実は皆に優しい中澤先生。
分け隔てないその公平さ、あるいは一種の無関心で生徒を差別することなどなかった中澤先生。
その中澤先生の興味を特別私が惹くようになったのは、一体いつからだったのでしょう。
もう覚えてはいません。気が付くと、先生は私に頻繁に声を掛けてくるようになっていました。
表面上はなんとか体裁を保っていましたけど、あの頃の私の内面は、募る父への不信感によって暗く沈みこんでいました。
当時はまだ、父が体の関係を強要するようになる前だったのですが、それでも、露骨に性的な態度を示す間隔が以前よりも随分短くなってきていたので、
常にそういう緊張に苛まれていたんです。
けれど、その事を相談できる相手は誰もいませんでした。
周りの友人たちは物質的に恵まれた私の境遇を単純に羨ましがり、純粋な瞳で私に笑いかけるのです。
父親は私以外の人の前で常に鷹揚な人間で通っていました。
家で2人きりになることが多かったお手伝いの鈴木さんは、これっぽっちの疑問も抱いていないのです。
私にしても、そんな尋常ではない事を他人に打ち明けるという発想自体がそもそも浮かびませんでした。
父親と2人の生活の中で、感情を抑え体面を整えることがすっかり身に付いてしまっていた私です。
内心の動揺を隠して、とりあえずそれまでと変わらぬ態度を心掛けていました。
その私の嘘に誰よりも早く気が付いて、助け舟を出してくれたのが中澤先生です。
けれども私は、急激に近付いてきた彼女に初めのうちは警戒を解くことができませんでした。
なにしろ必死に、一人きりでずっと隠し通してきた私の心の奥底だったんです。
悩みがあるのか、そう言って差しのべられる優しい手を、こわばる笑顔でただひたすらに拒み続けました。
キケン、キケン。心の中にいるもう一人の私がそう警報を鳴らしていました。
しばらくの間、私達の間でそういうやりとりが繰り返されましたが、中澤先生は決して諦めようとはしませんでした。
「何かあるんだったら言いや。力になったるで。」
笑顔を作ってはいてもそっけない私の態度に関わらず、いつでも笑ってそう言いました。

そして、あの日。父親によって、初めて体を開かされた日。
気の済んだ父が眠りについたことでやっと解放された私は、なかば放心して家を出ました。
汚らわしい家に汚らわしいあの人と2人きりでいる事が耐えられなかったんです。
あの時は秋も随分深くなっていたのに、何も考えず家を飛び出した私は上着を忘れていたんです。
あてもなく歩き続けるうちに、やがて私は寒さに身を震わせました。
それほど遅い時間でもないのに街を行く人はまばらで、近くの自動販売機だけが青白い光を放って、ブーンと低く唸っていました。
中澤先生の家へは、行こうと初めから決めていたわけじゃなくて、もくもくと足を動かしている内に偶然近くまで行ってしまっていたんです。
駅近くの商店街の裏側にある大きくてこぎれいなマンションは、確かに見覚えがありました。
以前に一度、部のみんなと遊びに行ったことがあったんです。
おぼろげな記憶をたどって頭上を仰ぐと、先生の部屋らしき窓にはオレンジ色の明かりが点っていました。
それ以来私は、中澤先生に縋るようになっていったんです。
先生のこと、好きだったのかどうか自信はありません。私は一度ひとみちゃんに、中澤先生を恩人と説明したことがありました。
そう、恩人‥。中澤先生との行為は私を醜悪な現実から連れ去り、遠い世界の彼方まで私を逃がしてくれました。
めくるめく快感にさらわれて、私の頭の中はいつだって真っ白になったんです。
事に及ぶ最中、先生はまず何よりも私を快楽で埋めつくそうと、それだけを一番に考えているようでした。
中澤先生と私のこんな関係はやはり非難されるべきものですか。
背徳、禁断。誰もがそういう言葉で形容しますか。
けれど当時の私には、あの何もかもを忘れさせてくれる、理性も品性もすっかり吹き飛ばしてくれる中澤先生との瞬間が、
自分を解放できる貴重な唯一の場所だったんです。
望むがままにそれを与えてくれた中澤先生には、本当に感謝しています。
追い込むような愛撫によって私は一旦リセットされ、胸がやけるような現実を暮らすことができたんです。

バタン。

寝室のドアが勢い良く開き、その激しい音はあやふやな私の知覚でさえも感知することができました。
うつろな視線を彷徨わせた先には頬を赤く染めた彼女、息で肩を弾ませたひとみちゃんが立っていました。
ああ、今でも覚えています。颯爽とした登場は、いつか母と見た舞台のよう。死んだ屋敷に吹き込んだ、暖かで強い夏の風みたいだったんです。
「幻覚‥、また‥。」
私はその光景を俄に信じる事ができませんでした。あまりにも鮮烈すぎて‥。
あの人を殺す直前に見た、例のまぼろしの続きだと思いました。見えるはずのないものをまた見ている。
そんな私はもう壊れちゃったのかな‥。はっきりしない意識の中でそんな事を考えていました。
もしかしたら声にも出してしまっていたかも知れません。
彼女は戸口に立ったまま、怯えたような、それでいて意志に満ちたような、そんな表情でこっちを見ていました。
それは本当はものすごく短い時間だったのかも知れないのだけれど‥。
私には壊れたビデオテープの、永遠に変わらない停止画像のように思えました。
規則正しく上下する息せき切った肩以外、手も足も全く止まったままだったんです。
普段と変わらず強く輝く瞳でさえ、瞬くことはなく固まったままでした。
ふふ‥。私は少し笑いました。どうせ幻覚なんだから、少しくらい夢を見たっていいよね‥。
「ひとみちゃん、こっちに来て‥。」
心の中でそう願った瞬間、架空であるはずの彼女が意志を持って動き出しました。
硬い表情と力強い足取りが、幻想にしてはやけに現実味を帯びています。
その姿は生命の力であふれ、ますます混乱する私にどんどん近付いて、ついにその手を私に伸ばしました。
ひとみちゃんはその時、何度か私の名前を呼んでいたそうですが、錯綜するイベントを飲みこむことさえままならなかった私に、彼女の声は届きませんでした。
虚構と現実の判断が全く達成出来ていなかったんです。
両肩にかけられたひとみちゃんの手にガクガクと身体を揺さぶられるまま、目の前にある、
けれど決して像を結ばないひとみちゃんの顔を、ただぼんやりと眺めていました。
その時。いぜんぼやける私の視界がいっそう激しく滲み、次の瞬間、温かく柔らかい感触で私の唇がふちどられました。
「あ‥。」
私に触れているのは、確かにひとみちゃんの唇。ただ重ねるだけの、子供のようなキス。
それはとても不器用だったけれど、そのぶんだけ真直ぐでした。
これは、私が待ちわびたもの‥。ずっと。ずっと‥。
柔らかで激しいその衝撃によって、ばらばらに分散した私の思考が、まるで立ち上がるクララのようにゆっくりとひとつにまとまったのを覚えています。
かみ合った意識のなかで最初に私が見たものは、ものすごく近いところにあるひとみちゃんの顔でした。
目が覚めたのは夜中でした。ひとみちゃんに会って急激に安堵した私は、あのあとすぐ彼女に倒れこみ、そのまま眠りこんだたらしいのです。
身体を包む暖かい感触に少しだけ首を動かすと、自室のベッドに寝かされていて、
足元の床の上には座ったままのひとみちゃんがベッドに凭れがっくりと頭をたれていました。
かすかな音で寝息をたてていましたが、少し前まで起きていたのか、電気がこうこうと点り、部屋の隅にあるTVは控えめな音量で付け放されていました。

夢を見ていた。
鮮やかな緑の芝生の上で、みんな楽しく食事をする夢。
華麗に装飾された鉄製の白いテーブルと、それに組んだ硬いけれど座り心地の悪くない椅子。
私の家族も梨華の両親も、きらきらと輝く太陽のもと、おだやかに微笑んで白い皿から料理を食べた。
「なんか。眠い‥。」
唇を離してしばらくの間、私の胸に凭れこむようにしていた梨華は、そう言って瞳を閉じてしまった。
父親を殺害した後、意識の混乱著しかった彼女だから、このまま二度と目覚めなかったら‥、
そう思って一瞬動揺したけれど、彼女の呼吸は安らかで、私は信じることにした。
とりあえず梨華をかついで、彼女の部屋のベッドへ運ぶ。大丈夫。梨華はかならず目を醒ます。
梨華をベッドに寝かせて喉の渇きを覚えたので、階下にある台所から勝手に水と氷をもらった。
裕福な家らしく、冷蔵庫にはさまざまな飲み物が並んでいて、選択の幅がとても広かったのだけれど、
なんとなく味のする物は嫌だった(冬ではあっても暖かい飲み物で私の喉は潤わない)。
カラカラ音をたてるグラスを手に再び梨華の部屋へと戻ったけれど、何も考えたくなかったし
-----やっぱりそれは不可能だったが----、とりあえずTVの電源を入れた。
梨華を起こしてしまわないよう、音量は最小限に留める。
これから梨華におこるだろう吐き気のしそうな出来ごとのうち、当時の私が思いつくあらゆる事が想像され、胸が張り裂けそうに感じた。
番組をぼんやりと眺めているうちに、私もいつしか眠ってしまっていたらしい。
凭れていたベッドから微かに伝わる振動に気が付いて慌てて頭を持ち上げると、目を醒まし半身を起こした梨華と、まるで当然のように目が合った。

夢の中で梨華は私の隣に座り、向かって左が私の両親。
右手には知らない筈の梨華の母親と、さっき死んじゃった父親。
彼に対して悪い印象しか持っていなかった筈なのに、他同様、やけにやさしく笑っていたっけ。
死んだら人は、皆善人になるんだろうか。
正面の席で中澤先生が、白い笑顔で私を見ていた。
その眼差しは慈愛に満ち、なにか語りかけているようだったけれど、それは決して私に届くことはない。
すると突然彼女の隣のマキちゃんが私の皿からハムを一枚、手を伸ばしてさらって行った。
「りかっち‥。良かった。目、醒めて。」
ああ。さっき見ていた番組に、マキちゃんが出ていたんだっけ。
「ひとみちゃん、私‥。」
「うん‥。」
起き上がった梨華は静かな口調で私に訪ねた。どうやら全て自覚しているらしい。
それは果たして彼女にとって良いことなのか。私はただ頷くことしかできなかった。
「お父さんは、まだあの部屋‥?」
「‥うん。」
「そう‥。ひとみちゃんが、ここまで運んでくれたの?‥ありがとう。」
「‥ううん。」
梨華はひどく冷静だった。罪を認め、全てを精算するつもりだ。人生と、ひきかえに。
「迷惑かけて、ごめんね。もう、大丈夫だから‥。」
一言一言しっかりと、微笑みすら浮かべて梨華は話す。うつむいた横顔を見ていたら鼻の奥がつーんとした。
そもそもさ、これは一体りかっちの罪?捕まったらさ、彼女はそれからどうなるの?
「明日、自首する。」
「りかっち‥、」
「明日、自首するから。だから。今夜だけは‥、一緒に、」
「りかっち!!」
言葉を遮って大きな声を出した私に、梨華は驚いて顔を上げた。
「一緒に、逃げよう?」
え‥?不思議そうな顔をして、梨華は私を見つめた。意味をつかみかねているのかいくらか首を傾けている。
目から涙が溢れてくるのを、私は止めることができなかった。
「一緒に、逃げようよ。」
沈黙が2人の間を流れてしばらく経った頃、肩を震わせたはずみに切れ切れの息が私の口から漏れた。
自然と落とした視線を戻すと、梨華は怒ったような怖い顔をしている。それすら、かなしい。
「何‥、言ってるの?」
全てをその華奢な身体に引き受け、たった一人針山で笑い続けてきたのだ。彼女は。
「自分が言ってる事、解ってるわけ‥?」
そしてこれからも。その覚悟を痛いほど感じて、私は途方に暮れた。
ねえ、私じゃだめ?私と一緒じゃ嫌?しゃくり上げながら立ち上がった私は、そのまま梨華に近付いて思わず彼女を抱きしめていた。
なかば、縋り付くように。顔を埋めた肩口からは、ほのかな梨華の清潔な匂いがした。
「やめてよ‥、どうかしてる。」
「本気だよ。夜が終わったら、死体、埋めよう?」
いつまで逃げ切れるかわからない。ただ、彼女と今離れたくなかった。
夜が明けるのを待って、私達は死体を運び出した。梨華の家は広大で敷地も広い。
早朝であることも手伝って、他人の目を気にする必要はそれ程なかったのだけれど、万一のための用心と、
それから死者である父親への畏怖の感情から死体には厚手の布を被せた。じかに触るのはやっぱり気味が悪かった。
成人男性の体重は重く、私達2人では持ち上げることができない。
仕方がないので私が右肩、梨華が左肩を持ってずるずるとひきずることにした。
ずいぶん長いことひきずっって、腰と腕がだんだん痺れてきた頃、私達は裏庭に桜の木をみつけた。
ふんだんに養分を含んだ根元の土は黒ぐろと湿り、柔らかくいかにも掘りやすそうだ。

空が白むまでの間、梨華の部屋で私達はたいした言葉を交わさず過ごした。
梨華が意識を取り戻し、それからすぐ私が浅い眠りから醒めたのがだいたい夜中の2時頃。
私はベッドの、梨華の脇に座り、ずっと彼女の手を握っていた。
梨華は私の肩に凭れてしばらく起きていたのだけれど、相当疲れているのか、また少し眠ってしまった。
それからしばらく、私は両親のことを考えていた。私がいなくなったら、彼等は大騒ぎするだろう。
穏やかで物知りな父と明るくたくましい母親。
叱られたりするのはしょっちゅうだったし、時に大げんかもしたけれど、結局いつだって一番の理解者で、無条件に守ってくれた。
その私は家族を捨てる。梨華には誰もいないのだ。
「友達の家に泊まるから。」
先程、正確に言えば昨日、電話を入れた時のぶつぶつと小言を言う母の声が思い出された。
「まったく、あんたは奔放なんだから。今日はお鍋だったのよ。人数分用意しちゃったじゃない、もう。」
ごめんねお母さん。さようなら。
一時間程で全作業はあっけなく終了し、掘り返した土を元通りにならして仕上げに足で踏み固めながら、私は頭上の木を見上げた。
冬の朝の寒さは本来厳しいはずだけれど、私も梨華も体を動かしていたから、それはほとんど気にならない。
うっすらと汗ばんだ体から吐き出される息だけが白かった。
これでこの桜の木も、根元の死体の血を吸って、さらに美しい花をつけるだろう。
薄い霜をまとった幹をぼんやりと眺めていたら、梨華が無言で横に来て、私の手をつないだ。
昼過ぎまでかけて、私達は出発の準備をした。
梨華は何も言わなかったが、ためらっている様子が明らかに見て取れたので、殺害現場の寝室は私が一人で始末した。
私はまず床に転がった金メッキの飾り時計を丁寧に布で拭い、元のベッドボードへ置き直した。
父親が倒れていた辺りには血液が多量付着していた。
いくら拭いても染みがきえなかったので、私は大きなベッドを一人で動かし、なんとか不自然に見えないよう注意を払って隠した。
その間梨華は鈴木さんに電話を入れ、今日は休んでもらったようだ。
屋敷の庭には、死体をひきずって出来た跡が、まるでどこまでも続く線路のように伸びていた。
それをホウキで消し終わって私が居間へ戻ると、ソファには背筋を伸ばした梨華が小さめのボストンバッグを前にやけに姿勢良く座っていた。
「終わったよ。ソレ、着替え?」
バッグについて訪ねる私に梨華は首を振り、無言でファスナーを開けた。
「ぉおー‥。」
思わず私はため息をついた。中味はなんとぎっしりと詰め込まれた一万円札の束だったのだ。
かつて、これほどの大金をナマで見たことはない。一体いくらあるのか、私には見当もつかなかった。
「うちのお父さんね。裏のお金を、しばらく家に置いておく習慣があったの。
もらってすぐ口座に振り込むと、何かと嗅ぎ回られるからって‥。これは、この間の高速道路建設で、落札した業者から貰ったお金。
全部で6千万。何かと便宜を計ったらしいの‥。」
目を伏せながら、何事か恥じらうように梨華は話した。
「私は、お金のありかを知っていた。一度父が、酔って私を抱いた時に、私に話したの。
『今日は儲った。』って‥。お父さんはもともとボンボンで、お金に不自由したことがないから、それほど執着はなかったのかも‥。
だって、いくら身内だからって、私に話してしまうんだもの‥。」
たんたんとした梨華の言葉だけれど、私は複雑な気分だ。お金はともかく、父親との関係が、私の心に波を立てる。
「そう。」
なんでもないような顔をして私は答えたが、内心複雑だった。
嫉妬じみた感情にまかせて、このまま梨華を奪ってやりたい、そういう衝動にかられたが、私にはできなかった。
この年にして梨華は性を知っているのだ。
それも、普通以上に。そんな彼女に釣り合う自信がなかった。
なにげない自分のひとことがこんなにも他人を動揺させるなんて、一体梨華は気づいているのだろうか。
私はジェントルだ。や、単に臆病なだけか。
「闇のお金だし、秘書の人たちもそれほど騒がないと思うの‥。だいたい隠し場所自体、父を除いたら私しか知らないんだし‥。」
「そう。じゃあ、それを持って行こう。そしたら着替えとか、べつに要らないよね。身軽でいいかも。」
「だよね。」
梨華はなにか吹っ切れたようだ。ここまで来たのだ。行くしかない。
昨日から何も食べていなかった私達は急に空腹を覚えた。
冷蔵庫には鈴木さんが用意した昨夜の夕食が手付かずで残っていたので、2人してそれをたいらげた。
私も梨華も笑える程すごい食欲で、鍋いっぱいにあったビーフシチューが8割方なくなった程だ。
その時付けていたTVにも人気絶頂かつ出ずっぱりのマキちゃんは出ていて、『人類みなごろし〜。』なんてカッコイイことを言っていた。
満腹になった私達はしばらく居間で休み、札束をバッグからリュックサックに詰め替えて(このほうが持ち運びに便利だ)まるで旅行にでも出かけるように家をでた。
人目に付かないよう夜を待つことも考えたが、遅い時間に子供2人でウロウロしているほうがよっぽど目立つ。
そんな結論に達して、まっぴるまから出発したのだ。
それにしても梨華には笑った。家を出てすぐ、近所のおばさんに出くわしたのだけれど、普通にそれも例の優等生ちっくな笑顔で、
「こんにちはー。」なんて言っているのだもの。怖いものだ。習慣とは。
3時を少しまわった頃、私たちは駅に着き、主都行きの列車を待っていた。
この小さな私の町から、大都会へと向かう列車は日に数えるほどしかない。
次の発車までには、まだかなりの時間があった。
「ねえ、りかっち‥。電話、かけたほうがいいと思う。中澤先生に‥。」
すると梨華は視線を外した。
「うん‥。かけなきゃ。って、思ってた‥。」
左肩に提げた女の子らしいバッグから、梨華は携帯電話を取り出し、ゆっくりとした動作で中澤のメモリーを呼び出した。

「もしもし、先生?石川です。」
つながったようだ。特徴ある中澤の独特な声が、ごく部分的ではあるけれど私の耳にも届いた。
晴れた冬の午後、駅のホームに人はまばらだ。
宣伝用の白いセスナが微かなエンジン音を立て、遥か上空を飛び回っていた。

うん‥。うん‥、先生、ありがとね。
え?別にイキナリじゃないよ?ただなんとなく言いたくなっただけ。
ふふ‥。先生は今、何してるの?え、そうじ?ああ、大掃除‥。
うん、今年ももうすぐ終わるね。
え‥?うん‥、私、片付けるのけっこう得意だよ。
今度行ってあげる。片付けてあげるね。
ふふ‥。‥あ、今ね、ひとみちゃんと一緒なの。
うん、よっすぃー。そう。ちょっと代わるね。

「もしもし。」
おー、よっすぃー。元気?部活がんばっとる?
「はい。」
なーんやオマエー、いつの間にリカちゃんと仲直りしたんよ〜?やめてやー。
ゆうちゃんのおらんところでそんなんしたらあかん。断わり入れえやー、マジでよう。
「はは。おかげさまで。」
なんなん、あんたら、今どこにおるん?
「今?今は駅。」
どっかでかけんの?アラ、楽しそうやね。
「まあね。」
おー、ええなー。楽しんで来ぃやー。
「はい。」
ほな、また来年ね。
「はい、また新学期に。じゃ、りかっちに代わります。」

またね、先生。

少しだけ話をして最期にそう言った梨華は電話を切り、手の中の携帯をそっと私に差し出した。
細い手が震えていたのは決して私の幻覚じゃない。
「これ‥。」
「うん‥。」頷いた私はコートのポケットを探り、2つの携帯を取り出した。
ひとつは自分の。もう一つは、梨華の家の寝室から私が拾っておいた彼女の父の携帯電話。
梨華のものと合わせ、計3つの携帯が私の手のなかにはあった。
しばらくじっと見つめた後、私達はホームを歩き、設置されたごみ箱へとそれらを捨てた。
プラスチックの箱の底からくぐもった音が地味にひびき、うつむいた梨華は黙ったままで私も顔を上げられなかった。

さようなら中澤先生。もう会わない。

 

第3部


第1節

 

「ああ見えて、相当な曲者。近付かないほうがいいよ。」

カウンターの隅にひとりぼっちで座る彼女を一瞥した矢口さんは冷たく、そして無関心に言った。
ゆっくりと穏やかだけれど、どこか本能を刺激するような、ループされた音楽が薄暗い室内を満たす。
決して満員になることのないこの店では様々な種類の煙が吐き出されて、甘美な芳香を放つまでに充満しきったその粒子は、
既に空間を構成する大気となって私達を優しく包む。集まった客は全て、いかにも優雅に退屈をもてあました。
矢口さんはいわゆる、「持つ」側の人間だ。私達と年齢もたいして違わず驚くほど小顔な彼女は、その歳にして多くの物を所有していた。
新興ではあるが不況においても勢いの衰えない数少ない企業を経営する家に生まれ、持てる者の余裕に由来する人なつこくてこだわらない性格が、
若くして驚異的な人脈をその周囲に集めた。
出自が良いという点で梨華も決して劣ってはいないのだけれど、梨華にはない矢口さんの屈託のなさ、あるいはその気紛れさは、
あらゆる面で完璧に飽和した日々の生活からくるものだった。

主都の玄関口となる巨大な駅に到着した私達は、金銭に余裕があるのでしばらくはホテルに暮らしていた。
それ程高級でもないかわりに清潔でさっぱりとしたホテルでは、個人情報の偽造など容易いことだった(そうは言っても私はやっぱりビクついていた。
しかし他でもない梨華がこういう事には慣れていたのだ)。
翌朝買った新聞に私達の事件が小さく報道された。その規模、または記事からすると桜の根元に埋まった死体は発見されていないらしい。
警察はまだ殺人事件とは断定せず、『事件に巻き込まれた可能性』というくだりが文章の最後に添えられていた。
もっともそれが時間の問題だと言うことはだれよりも私達がいちばん理解していたのだけれど。
ホテル側から怪しまれないよう、しばしば外出はしていたが、それでもだいぶ籠り気味だった生活に私達はとうとう倦み、思い立って遊びに出掛けた。
環状に運行する路線で繁華街に出た私達は、買い物をしたいと言う梨華の提案で筒型に設計されたショッピングモールに入った。
すでに地域のランドマークと化したその建物には、いまや絶滅と思われたいでたちの女子がどこからともなく集まり、
そのひしめきあう具合はまさにカナリアの群舞と言えた。
「痛ッ!」
あっけにとられしばらく呆然としていた私は、突然真横であがった梨華の悲鳴に、ようやく自我を取り戻した。
梨華は身体を傾けながらしきりに顔を顰めていて、とっさに落とした視線の先には飛び抜けて立派な厚底が威風堂々と聳えていた。
「あ、ごめんね!」
本人にそのつもりがなくても、常に笑いを含んだような、ハイトーンなその口調。巨人・矢口真里との出会いはそんなものだった。

矢口さんの後輩の、その先輩だかが経営するこの店で私達は働くようになった。
同情すべき家出少女2人と私達を見たのか(いや決して間違っているわけでもないか)、矢口さんは私達が店の2階に住めるよう先輩だか後輩だかに頼んでくれた。
それから2ヶ月程が経ち、環境に慣れた私達の興味は次第に常連客へと移って行った。
享楽的。まるで阿片窟のような、溶け出した自我が世界と混ざり合う事を至上とする集団の中で、その存在は異彩を放った。
「なんか、ヤバイ関係のパトロンとかいるらしいよ。」
人指し指で頬に傷をつくって見せる、見慣れたジェスチャーをして矢口さんは付け加えた。脇に座る梨華は驚いて眉を寄せた。
きりりと結んだ口元と、生真面目に顎を引いた姿は、厭世的な瞳と相まって意志の存在を強調する。
端正な少女人形のような、多分に純潔の面影を残す彼女の可憐な容貌をそれがいっそう際立たせていた。
「でも、あの人。すごいかわいい‥。」
「見た目はね。」
梨華はため息をついたが矢口さんは相変わらず興味が無さそう。
「あの人、名前なんて言うんですか。」
最小限に絞ったネオン管の曖昧な光源に浮かび上がる横顔を私はぼんやりと眺めた。
「安倍なつみ。」
飲みかけのドリンクから氷をひとつ口にいれ、矢口さんはつまらなそうに答えた。
ここではおおむね、一日は午過ぎに始まった。太陽が軌道を昇りつめてしばらく経った頃、私と梨華は目を醒ます。
表の通りから聞こえて来るのは、活気に満ちた昼間の音。健全な喧騒は夜毎開かれる密やかな饗宴をまるで嘘のように覆い隠した。
部屋の南側、くわしく言えば南東の方角には大きな窓があった。
その窓からは少し先の高架道路が、ビルの谷間を縫って見える。
昼間、道路は慢性的に渋滞し、夥しい数の車両が列をなしのろのろと徐行した。
まき散らされる排ガスと騒音は付近の住民の間で一時期問題視されたようだけれど、建設から十数年経った今、人々は諦め関心を失ったようだ。
午後8時に開く店は真夜中過ぎにたいして大きくもないピークを迎え、翌朝4時頃客が引き上げ切ったところで営業を終える。
几帳面な梨華をキャッシャーに指名したオーナーは、背が高く体力のある私をフロアにまわした。
仕事を始めてまだ日も浅い頃、それ程忙しくないとは言え、現金とそしてカードも扱う梨華は何かと覚える事も多く面倒そうだったけれど、
もともと優等生な彼女は聡明で物覚えが良い。
一月も経った頃には全てをそつなくこなすようになり、時々知ったような顔で売り上げをどうこう言っては、聞いている私を愉快な気分にさせた。
この店にダンスフロアはない。壁で仕切られた一画にビリヤード台があったけれど、その白くて硬い光ですらここでは人を集めない。
フロアに間隔を開けて置かれたソファやら椅子やらにそれぞれ腰を下ろし、人々はつかの間の夜の夢を過ごすのだった。
音楽と、囁き合う人の声。境界をなくしたそれらはいつしか暗い胎動に変わり、人々は好んでそれを受け入れる。
甘い闇に憑かれ自我を融合させた人々。テーブルの間を足取りも軽やかに私はアルコールを運び、梨華はもくもくと金を数える。
安倍なつみに関する良い噂はほとんど聞かなかった。
店を開けて間もない時間、梨華はレジで現金を数えていた。昨晩のラスト時と金額が合わないようだ。
矢口さん今日は来るのかな。
そんな事を考えながら客の少ないフロアで退屈していると、奥のソファに陣取ったギャル風の2人連れから、メソメソとすすり泣く声が聞こえた。
「で、アンタは結局どうしたいの?振ったんでしょ?」
「‥。振ったよ?あたしだってプライドあるもん‥。」
どうやらコイバナだ。硬そうな灰色の髪に銀のメッシュを入れた方がしきりに鼻をすすっている。
恋人と別れたばかりらしい。その友人なのか、脇には痛んだ茶髪と黄緑色のセーターが特徴的な女性が座り、しきりに連れを慰めていた。
「ほんと、許せないよね。次々と人のオトコにちょっかいかけてさ。今までウチらの仲間何人やられてると思ってんの?」
憤まんやる方ない、そんな素振りで吐き捨てた聞き役が目の前のドリンクをぐいと掴んで一気にあおった。
「ひとみちゃん。」
ニヤニヤしながら聞き耳を立てていると、梨華がレジカウンターから呼んだ。
「どうしたの?なんかニヤニヤしてる‥。」
駆け寄ると梨華は怪訝そうに眉をしかめた。
「奥にいる2人、なんか恋人とうまくいってないみたいで。おもしろいからちょっと立ち聞きしてた。」
すると梨華は小さくため息をつき、上目遣いに私をにらんだ。
「もう。やめなよ。下品。」
相変わらず几帳面だ。そう思ってさらに頬をゆるませていると、帳簿を閉じた梨華は小さな封筒を手渡した。
「これ、昨日の分のチップ。ひとみちゃんの分、ちょっと少なかったみたい。ごめんね。」
「ああ、だから合わなかったんだ、金額。てゆうかりかっちが持ってて良かったのに。どうせ一緒に住んでるんだしさ。」
「うん‥。まあね。でもそこはキチンとしようと思って。」
レジスターの椅子はそれほど低くもないが、それでも立っている私の視線のほうが梨華よりも少し高い。
目を伏せ、テーブルに肘をついた梨華を見下ろす格好の私だったが、生え際の整った彼女の額はいかにも生真面目だ。
それがやけに可愛らしく見えて、私はまた笑った。

11時を過ぎた頃から店は次第に混みだし、私も梨華もそれぞれ仕事に没頭していた。
その日、矢口さんは普段より早く顔を出し、先に集まっていた常連客と中央のソファへ座った。
彼等は決して学校などの友人ではなく、この店または街で矢口さんが知り合った男女だ。
あくまでもそれだけの付き合いで、プライベートの知り合いを矢口さんがここへ連れてくることはなかった。
オーダーされたドリンクを矢口さん達のテーブルに運ぶと、その中の一人がしこたま酔っているらしく、テーブルの上にグラスを倒した。
見れば全員顔を赤くし、相当できあがっているようだ。
それはテーブルに置かれたグラスの数からも容易に想像できたが、その中でひとり矢口さんはお酒に随分強いのか、
それともコントロールしているのか、ともかく非常に冷静で、ビールを被った男のコのじっとりと濡れたジーンズをハンカチで拭ってやっていた。
「大丈夫ですか?」
甲斐甲斐しい素振りで介抱を続ける矢口さんに私が声をかけると、矢口さんは顔を上げ、剽軽に片目をつぶって見せた。
「ごめ〜ん、よっすぃー。悪いけど、雑巾持ってきてあげてくれる?ちょっとハンカチじゃ足りないみたい。」
「はい。」一目見て高価とわかる濃紺のハンカチがアルコールを吸ってべっとりと濡れていた。
「悪いねー。」
「いえ。」
そう言って踵を返した私が他に要るものはあるだろうか、
そう思ってもう一度テーブルを振り返ると今しがた人なつこくおどけてみせた矢口さんの表情から笑みが消えていた。
トイレへと続く通路に、用具入れのロッカーはひっそりと置かれていた。
隔離された通路は白いライトの下、ある種独立して浮かび上がり、フロアでは極めて有機的に広がる音楽も、ここではやけに遠く、乾いて聞こえる。
従業員も客も熱に浮かされた自我をこの通路では一瞬取り戻すのだった。
一息つくのも束の間、バケツと雑巾を手にフロアへと引き返す私の横を一人の客が通り抜けた。
ギャル。派手な服装と裏腹に表情は悲痛で顔は俯いている。ああ、さっきの人だ。
先程店がまだ混み出す前、男の話をしていた2人連れの、その彼氏と別れた方。
すぐに思い出して興味を覚えたが私は振り返らなかった。早く持って行かなければいけないのだから。雑巾を。
「あー、よっすぃ−。」
急いで戻った私は矢口さんのテーブルへ早足で近付いた。
矢口さんの表情にはいつもと同じ明るい笑顔が、再び浮かんでいた。
「お待たせしました。」
「サンキュー。」
先程見た矢口さんの表情に少しだけ違和感のようなものを感じたが、それを考えている暇はその時無かった。
矢口さんが自ら雑巾を持って床を拭こうとしたのだ。常連とは言え、流石に客にやらせるわけにはいかない。それは私の仕事だ。
「あ、私がやりますから‥。」
遠慮する矢口さんからなかば強引に私は雑巾を受け取り、テーブルの下に跪いた。
矢口さんの厚底はいつみても立派だ。
その場を片付け終えた私は、もう一度通路に戻った。使用した物をロッカーに戻す為だ。
しばらく下を向いてかがみ込んでいたからか、頭がクラクラし、少し汗もかいたようだ。私は一息いれようと体を壁に凭せかけた。
フロアよりも1、2度低く感じられる通路の空気は、ひんやりとして心地よい。
誰もいない通路で壁に凭れたまま、私はぼんやりと天井を見つめていたが、しばらくすると奥のトイレから「がたん」と物音が響いた。
「なに?」
いかにも不審だ。そろそろ一日の疲労がたまりつつある体を、弾みをつけるようにして壁から離した。
人の気配がしたのは女子トイレの方。
少し様子を伺ってから、えい。とドアを開けると、果たしてそこにいたのは安倍さんだった。
「あ、来てたんだ‥。気付かなかった。」
そう思った直後他に2人、女のコの姿も目に入った。
見覚えのある2人は一瞬固まっていたけれど、私が視線を向けると気まずそうに顔を見合わせた。
安倍さんは鏡を背に追い詰められるような格好で立ち、その正面に例の、さっきコイバナをしていた2人連れ。
先程振られた方の彼女とは通路ですれ違ったが、あの時もう一人は安倍さんを呼びつけに行ってたんだろう。
そして2対1で(だいぶ一方的な)ケンカ。おおかたそんなところか。安倍さんは醒めた顔をして、ずっと口をつぐんでいる。
私が一歩、足を踏み出すと、2人のうち慰め役の方が動揺した声を出した。
「‥従業員が何の用?」
「あ。ちょっと手を洗いに。」
実際私の手は、先程矢口さんのテーブルを掃除したので、ベトついて気持ちが悪かった。
答えながらちらりと安倍さんに目をやると、彼女は下を向いたまま微かに笑いを堪えていた。
あからさまに訝しさを表情に出す素直な2人組。それらを無視し、私はつかつかと水道へ歩いた。
蛇口をひねって水を出した私は、ソープを押し出してゆっくりと手を洗う。
そうしているうちに2人は諦めたのか、慰め役の方がキイキイと耳障りな声で言った。
「つうかテメー、今度やったらマジ許さねえからな!」
強烈な捨てゼリフを残して2人が去って行くと、安倍さんは我慢できなくなったのか、とうとう声を出して笑った。
その声は多分にヒステリックだった。
時間をたっぷりかけて手を洗った私がフロアに戻ると、梨華と矢口さんがカウンターに座っていた。
店内を見渡したけれど、あの2人連れの姿はない。どうやら帰ったようだ。
「あ、ひとみちゃん。どこ行ってたの?」
隣の席についた私に梨華がドリンクを手渡す。薄緑色の液体はよく冷えて、グラスの外周に透明な水滴をつけている。
メロン味を期待した私だが、予想に反しそれはキウイだった。
「うん。ちょっとトイレ。手洗ってきた。矢口さん、お友達はいいんですか?」
私は矢口さんがいたテーブルを振り返った。
私とも多少顔見知りだけれど、あまり言葉を交わしたことのない男女数人のグループは、
もはや意識を朦朧とさせ、中にはだらしなく開けた口から涎を垂らす者までいる。
酒以外のモノもヤった。明らかにそんなかんじだ。
「ああ。だってアイツらつまんないんだもん。バカでウザいし。」
さっき一緒にいる時、あれほどまめまめしく皆の世話を焼いていた矢口さんは手のひらを返したように冷たい口調。
「またまた。そんな事言って。」
「どーだっていいよべつに。」
冗談と思った私が笑って返すと、カウンターに誰かが忘れて行ったライターを、矢口さんは拾い上げて弄んだ。
「ねえ、今トイレ行ってたんならさあ‥。」
カチ。突然、思いついたような顔をして矢口さんはライターをつけ、蒼く小さな火を私の顔の前にかざした。
「アイツ、囲まれてたでしょ?」
私は眩しさに思わず目を細めた。ついさっきまで退屈に無表情だった彼女の瞳は今、炎のむこうで愉快そうに煌めいている。
「え‥?」
目を見開いた私がしばらく言葉につまっていると、とりすました声の梨華が聞いた。
「アイツって?」
ふふ。
「ア・ベ・さん。」
弾むような口調でそう言った矢口さんは、ライターをフッと吹き消した。
夜明けを待たず客はその日早めに引ききり、フロアの隅では帰りを意識し始めた他の従業員がそわそわしだした。
朝陽が昇る直前、仕事を終えた私達は階上の部屋へと戻ったが、私の頭の中から安倍さんの笑う姿が消えない。
けたたましく響いた高い声は、あかるすぎてどこか悲痛。
「人のものを取るのが趣味なんじゃないの?」
矢口さんは言っていた。
確かに安倍さんは人目をひく。白くて透き通るような肌。真直ぐで柔らかそうな髪。
一見かわいらしい少女のようなその顔は、じつは相当整っている。
よく男の人に声をかけられているのも知っているし、常連客の間で賭けの対象として話題に上がっているのも度々聞いた。
つまり落とせるか、どうか。
気まぐれな彼女の行動は、男を含む数人から恨みを随分かってもいるようだけれど、
つきまとう黒い噂(パトロンがあっち関係の人だとかどうとか)のせいで、実際に手を出す者はいないようだ。
「ヤクザの愛人ねえ‥。」
ソファに足を投げ出した私がつい口に出して呟いたので、ベッドで雑誌をめくっていた梨華は顔を上げて私を見つめた。
「安倍さんのコト、考えてたの?」
「うん‥。」
「安倍さんねえ‥。確かに、私から見ても、あの人は憧れちゃうな。すっごく可愛いっていうか、可憐。」
「うん。ちっちゃくて、なんか守ってあげたい。ってかんじ。またあのアンニュイな雰囲気がさ、周りを惹き付けるんだよねー。
ま、いろいろ噂はあるけど‥。綺麗なバラにはトゲがある、ってかんじだよね、あの人、ほんと。」
マイペースに語ってしまった私がふと気付いて視線を戻すと、梨華は静かに微笑んで私を見ていた。笑ったままで何も言わない。
「あれ‥、りかっち‥?ナニ。怒った‥?」
言い過ぎか?不自然に長い沈黙にいたたまれなくなった私がたまりかねて口を開くと、梨華はクスリと小さく笑った。
「なんで?なんで私が怒るの?」
「いえ‥。べつに‥。アレ?」
私はしどろもどろだ。怒ってないなら別にいいんだけど。そんな私を見つめる梨華はあいかわらずの優しい微笑み。
なんだかスリル満点なかんじ。息をのんで固まった私の額を、冷たい汗がゆっくりと流れたその瞬間‥!
「それより。ヤクザの愛人なんて。そんな言い方やめない?安倍さんに悪いわ。」
「あ‥。うん。」
それだけ言うと梨華はまた雑誌に目を戻した。怒ってないなら、べつにいいのだけれど。嫌な汗をかいた。
まさか殺されやしないだろうな‥。私はちょこっとだけそんな事を思った。
それからしばらく経った日。私は相変わらず仕事に励んでいた。生活は今や完全に夜型になっている。
この間陽光の中を外出したのはいったい何時だったか?今日、矢口さんは店に来ない。なんでも、テスト期間中なのだそうだ。
この間連した時矢口さんは相当焦っている様子で、本人曰く「今回ちゃんとやっとかないといい加減ダブる。」らしい。
今日、店は随分早い時間から繁盛していた。
最初のうち店は人の出入りがいつもよりずっと激しく、私も梨華もかなり大変だったのだけれど、集まった客の群れは次第に2組へと別れて行った。
すなわち一部の者は去り、一部の者は残る。
しかし真夜中を過ぎて見ればなんのことはなく、客の数は普段のこの時間、つまり普段のピークの時間とたいして変わることもなかった。
むしろ気持ち少ないくらいだ。
けれども、客の流入出が止まったとはいえ私の仕事はウェイトレスだから、そう暇になるわけでもない。
キャッシャーの梨華の場合、人の出入りが落ち着き、それが停滞しだすと仕事も安定を取り戻すのだけれど、私は相変わらずテーブル間を歩きっぱなしだ。
ヨッパライに呼ばれるがまま、私はフロアを歩くがまま。そんな感じに。
いちばん奥のテーブルまで注文を運ぶ途中、仕切られたビリヤードの一画からチラリと白いものがのぞいた。
ん?誰かいるんだろうか?ビリヤードで遊ぶ客は今ではほとんどいなかったので、少しだけ興味というか疑問が沸いた。
けれど、傾斜しないように手のひら全体でバランスをとったトレイの上には飲み物がいくつか載っている。
グラスを客に出し終えた私はカウンターまでの帰り際、今度は少しゆっくりと歩き、ビリヤード場を確かめてみた。
さっきは一瞬だったし角度的に壁が邪魔したからよく見えなかったけれども、あの時私の目を捕らえた、白くてひらひらした物は薄いワンピースの裾だった。
薄くてヒラヒラした、安倍さんの白いワンピース。
「ああ。安倍さんか。」
今日、店に来ていることは知っていたけれど、私はなんだか忙しかったので、彼女の姿が見えないことにはいかんせん気が付かなかったのだ。
それにしても安倍さんは。今日もお盛んです。私は思わず足を止めて、息をのみしばらく見入ってしまった。
あれは誰だったっけ?安倍さんは一人じゃない。壁に凭れ、煙草をくゆらせつつ安倍さんの肩を抱く男。
尊大な自信に満ちているのは、確かに見覚えのある顔。誰かの彼氏だ。この間の二人連れ、それとはまた別の、以前よく顔を出していた違うギャルの恋人。
フロアを満たす音楽が、その一画ではトーンを一段落とす。
真上から台を照らす蛍光灯の永遠に繰り返される無限の、高速の点滅がやけに寒々しく空間を切り取る中、
白いワンピースの安倍さんはまるで蒼白く発光さえしているようだった。
肩に置かれた手は次第に位置をずらし、やがて安倍さんの腰をぐっと引き寄せる。
安倍さんは男にゆっくりと寄り添い、目を伏せて秘密めいた微笑みを浮かべていたが、
生々しい大人の性を感じさせる男の口が彼女の耳もとに何事か囁くと、安倍さんはくすと声を立てて微かに笑った。
なんだか、すごくエロい。それまで清楚なイメージだった白い色のワンピースが、こんなにも官能的に見えるなんて。
そう思った瞬間、時間を忘れ立ち尽くす私の姿を、なにげなくこちらを向いた安倍さんの視線が捕えた。
「あ‥。」あまりの気まずさに目を見開く私。男は気付かない。
男の腕の中で安倍さんも一瞬固まったのだけれど、すぐにその表情から驚愕の色は消えた。
彼女はそのまま私をじっと見つめていたが、やがて意味深な笑顔を浮かべると何事もなかったように目を反らした。
「名前、なんていうの?」
そう話しかけて来たのは、安倍さん。
現場を目撃してから少し経った頃、ようやく休憩をもらった私が人気のない通路で休んでいると、
突然姿を現した安倍なつみが、そう声をかけて来たのだ。
「え‥?」
私は戸惑った。
「さっき、私のこと見てたじゃない。‥あ、その前はトイレで助けてもらったわ。」
「ああ‥。あれは別に。手を洗いたかったので。あの、お連れの方は、いいんですか‥?」
「ねえ。名前を聞いてるの。」
先程見とれてしまった気恥ずかしさと、盗み見た事への罪悪感が、私の緊張をさらに煽っていた。
けれど安倍さんはあくまでもマイペース。
安倍さんは今決して笑顔というわけでもないけれど、それでも例えば8割方の人間なら魅せられ足を踏み入れてしまう、そんな感じの誘発的な表情をしていた。
それは果たして意図されたものか。それとも本人は全く無意識なのか。私には判断できない。
「よ、吉澤です。」
「ねえ、好きな人いる?」
「いますよ。」
「あの、キャッシャーの子。付き合ってるんでしょう?」
「知ってるんですか。」
「かわいいから。あのコ。清楚で真面目そう‥。」
そう言って横へ来た安倍さんは私と同じく壁に背中を預け、意味ありげに沈黙した。
「ねえ、月が笑うところ‥、見たことある?」
ふと、思いついたように口を開いた安倍さん。どこか、夢でも見ているような口調。
わらう‥。月‥。頭だけこちらに向けてじっと見つめる目がひどく真剣だったので、私は少なからずどきどきした。どういう意味?
「え‥。ないです。なんですか、ソレ。」
訪ねると安倍さんはほんの一瞬だけ視線を落として、また私を見上げた。こうして近くで見ると、安倍さんは本当に可愛かった。
気がつくと通路の入り口に梨華が立っていた。
「なんか。安倍さんとひとみちゃんが通路の方に行くの、見えたから。今、ヒマだし。」
梨華は、以前よく見かけた隙のない完璧な微笑をたたえて言った。コンクリートの壁に響いて、その高い声は少し膨張した。
安倍さんもまた口角を上げ、目を細めにっこりとした無表情を顔に張り付けている。
梨華がやってくるまでの間、私と安倍さんには特に何も起こらなかったから、
(確かに安倍さんのかわいさに驚きはしたけれど、それはそれ。
それ以上の感情がお互いになかったことに私は確信を持つ)
私にやましいところはなかったのだけれど、笑いあう二人に流れる空気はとても緊迫していた。
その場を牽制する言葉を考えたけれど、口で私は梨華にかなわないと知っていたし、
そもそも言葉をはさめるような雰囲気でもなかったので、とりあえずなりゆきを見守ることに決めた
「安倍さん、ひとみちゃんには手を出さないでくださいね。」
口火を切ったのは、相変わらずにこやかに笑っている梨華。彼女がこういう内容をストレートに口にするのは、すごく珍しい。
一体どうしたっていうんだろう。その一方で安倍さんは一呼吸置いたが、それでも微笑みを崩さない。安倍さんは毒を含んだ口調で答えた。
「手を出すとか、出さないとか。そもそもそんな感情、私達の間にないけど?」
「油断していると危ないから、早めに釘を刺しておこうと思って。」
「コワイね。そんなんじゃ『ひとみちゃん』も息が詰まっちゃうんじゃない?その間になっちが獲っちゃったりするかもね。」
「自分の事、『なっち』って呼ぶんですね。かわいい。」
業の深い女の人。その2人の対峙。初め私はそう思ってドキドキしていたけれど、いつしか私は気付いていた。
梨華の口調は明らかに‥。その証拠に梨華は私を一度も見ない。ほんとうに。いつまで経っても優等生。お節介なんだから。
2人から見えないように下を向いて、私は少し笑った。
「すご腕ですね。狙ったエモノは逃さないんでしょう?」
「まあね。余裕だもの、オトコなんて。あなただってその気になればイケるんじゃない?もっともその気になれば、ね。」
「いいんです、私。大切な人いるし。それに、周りに余計な敵、作りたくないですから。」
極端に挑発的な梨華との冷ややかな舌戦。それがしばらく続いた後、少々分が悪くなった安倍さんはなかば諦めたように言って視線を反らした。
「もういい。どっちでも。あなたのひとみちゃんには手を出さないから安心して。」
「私に言い負かされて逃げ出すんですね。」
「ばっかみたい。ちょっとからかっただけじゃない。」安倍さんはそれ以上梨華の言葉にはのらなかった。
梨華の横をゆっくりと通り抜け、安倍さんはフロアへと歩いてゆく。そのあくまで可憐な後ろ姿を梨華が突然呼び止めた。
「安倍さん!」
「なあに。」
面倒そうに振り返った安倍さんだったが、終始冷静に微笑んで一貫して煽りに徹していた梨華の、急に変わった真剣な様子に少し驚いたようだった。
安倍さんの顔からも梨華の顔からも、笑いは消えている。
「自分を安売りするような事‥。必ず後悔する日が来ますよ?わかっているんでしょう?」
多分、こういう事を梨華は初めから安倍さんに言うつもりだった。普段から生真面目な梨華が積極的に口論をしかけた。
普通に言っても安倍さんは聞く耳を持たないから。どう見ても自虐的な今の安倍さんに梨華は自分の過去を見てしまったのかもしれない。
ほんの少しの間、今度は本当の緊張が私達を覆った。耳よりもずっと下の方にある腕時計が刻む音を、私は聞いたような気がした。
「あなたに何の関係があるのよ。」
突き放すような視線でやがて安倍さんはそう言ったけれど、その口調には戸惑いが溢れ、几帳面で清潔なある意味災厄めいたものをもはや隠し通せてはいない。
再び歩き出した安倍さんがフロアの奥へと消えるまで、私は動くことができずにいた。
梨華との一件があった後も、安倍さんはペースを崩す事なくそれまで通り頻繁に店に現れた。
あの時は確かに動揺していた風の安倍さんだったが、しかしそれ以降何かが変わったかと言えばそんなこともなく、
相変わらず淫らな噂の渦中に常にその身を置いているのだった。
私にはあいさつ程度の微笑みをくれるようになった安倍さんだけれども、梨華の前では男の人と、これみよがしに少しわざとらしい素振りで通り過ぎる。
梨華は梨華でそんな安倍さんを徹底的に無視し、あれ以来安倍さんの話題を一切口に出さなかった。
その日梨華は起きた時からコンコンと少し咳をしていて、なんだか体調が悪そうだった。
多分風邪をひいたんだろう。今朝、仕事が終わってから私達はコンビニへ行った。
このところぐずついていた天気がその途中とうとう崩れ、帰り道雨に降られた。
コンビニはすぐ近くだったしそれ程濡れたわけでもないけれど、私達は最近休みなく店に出ていたから疲れが溜まっているんだろうか?
「具合悪いんだったら今日は休めば?」
顔色のすぐれない梨華に私はそう勧めたが「べつにこれくらいなら平気。」
梨華は元気ぶって笑って見せる。それでも風邪はひき始めが肝心だ。私が薬を渡すと梨華は苦そうに、けれど素直に飲み下した。
仕事中梨華は多少ぼんやりしていて、やっぱり少し咳をしていた。
矢口さんは辛くも留年は免れたらしいが、今度はどうやら補習が忙しいらしい。
やっぱり今日も来ていなかった。
そもそも矢口さんの学校はエスカレーター式だけれども、そこそこ名が知れているだけに、内部は足切りやらなにやら実は相当厳しいみたいだ。
矢口さんの両親は娘の好き勝手を黙認する代わりに、その学校の卒業を条件として出しているようで、
やめるにやめられない矢口さんは試験の度に毎回切羽詰まるって聞いた。
安倍さんは9時を回った頃に来て、しばらく一人でいたのだけれど、2杯目のドリンクを運んで行く頃には、男の人が隣に早速座っていた。
なんだかすごく高級なまるでどこかの娼婦みたいだ。
安倍さんは今日も背筋を伸ばし、自信と余裕に満ちた笑顔で男の話を聞き流している。
私がテーブルにドリンクを置くと安倍さんは赤いチェリーだけを優雅に、あたかも水鳥のような動作で抜き取り、「アーん。」
私の口を開けさせて、ポトリと落としてニコリと笑った。
特有の薬臭い甘さが私の口の中にじわっと広がる。
安倍さんの空いた方の手をしきりに撫で回していた男は一瞬だけムッとした表情をしたが、
すぐに作り笑いに切り替えると、寛大さを誇張した滑稽な笑顔を私達の方へ向けた。
「おいしい?」
そう聞いてはいるけれど、安倍さんはもはや私を見ていない。
私の肩ごしに、レジカウンターの梨華を伺っているのだ。
黒いバラのようにとびきり意地悪で最高に華やかな安倍さんの微笑み。
念のため振り返って確認すると、案の定梨華は私達を見ていた。
醒めた表情で店の対角にいる私達を、梨華はただ見ている。
楽しそうな安倍さんの瞳は更に挑発の色合いを強めたが、梨華は冷たく一蹴し、無表情のまま視線を反らした。
風邪で喉が渇くのか、梨華はそのままグラスをとってコクコクと水を飲んでいる。
「体調は?大丈夫?」
安倍さんのテーブルを離れてフロアを横断した私は梨華に近付き声をかけた。
「うん。」
意地張りな梨華は何事もなかったような表情を作り、ゆっくりと私を見上げる。
今しがた安倍さんの悪ふざけには一切触れようとしない。こういうところが微笑ましい。
梨華は全く几帳面だ。だから敢えて私は弁解をしなかった。
「もしさー、アレだったら。明日は休んだら?なんか辛そうだよ。」
「うーん。そうしよう‥、かな?」
首を傾げ、そう答える側から梨華は小さく咳きこんだ。心持ち顔が少し赤いようだ。
「どれ?」梨華の額に手を当てるとちょっとだけ熱い‥、ような気がする。
「あー、ちょっとあるかもねー。熱。」
「うーん。そうかな?」
「吉澤!」
そうこうしていると、バーテンダーが大きな声をだして私を呼んだ。
今日は1人休んでいるので、フロアの担当は私ともう一人しかいない。
いつもどおり3人いれば、この店はたいして忙しくもないのだけれど、やっぱり一人とは言え抜けた穴は大きい。
できあがった飲み物がカウンターにいくつか並んでいた。
バーテンは普段親切で面倒見の良い男だったけれど、そのせいで今日は気が立っているようだ。
「ホラ、ひとみちゃん。早く行って。私なら大丈夫だから。」
「‥うん。」
梨華に上目遣いで促されて、私は渋々返事をした。
深夜を過ぎ、店が一番盛り上がりを見せる時間に、その事件は起こった。
慌ただしくフロアを飛び回る私の元に、例の気のいいバーテンが早足で近寄って来たのだ。
「おい、お前ら、ちょっと隠れとけ。」
バーテンは普段カウンターから出る事がほとんどない。
抑えてはいるが緊張した声と、こわばった表情からただならぬ気配を感じた。
「なんですか?どうしたの?」
「警察だよ、ケーサツ。今入り口にいる。お前ら未成年だろ。早く行け。」
その言葉を聞いた途端、私の目の前が一瞬暗くなった。
警察‥!動悸が激しくなり冷たい汗がどっと吹き出す。警察。私達を、捕まえに‥!?
「おいっ!」
肩を揺すられて我に帰った。慌ててレジを振り返ったが梨華はいない。
「あいつなら先に行かせたよ。トイレにいるから、早く!個室でカギでも閉めとけ!」

梨華が殺した父親を私が埋めてから、およそ4ケ月‥。
私達の失踪についてメディアは、一度小さく報じただけで、それ程大きく取り上げなかった。
それ以降も新聞とかニュースとか、随分気を配ってはいたが、それらしい報道は何もなかったはずだ。
しかし警察はおおむね情報を隠すものという事も常識として知っている。すると、とうとう死体が見つかったのか?
トイレのドアを開けると、顔面を蒼白にした梨華がひとりきりで待っていた。
暦の上では春ということになるが、朝と夜は未だずいぶん冷え込む。
タイル張りのトイレももちろん例外ではなかった。
あまり長いこと居たくはないけれど、店の通用口も抑えられているようだ。
「ひとみちゃん‥!」
追い込まれた瞳の梨華は、声がはっきりと震えていた。
極度の緊張と、気温の低さ。かわいそうに。
風邪をひいているのに‥!そう思ったらなんだか無性に腹が立ったが、どうすることもできない。
舌打ちしたい気持ちを抑えて私はカーディガンを脱ぎ、梨華の肩からかけてやった。
「大丈夫、きっと。普通の取り締まりだよ。クスリやってる人多いし、ココ。」
ともすれば崩れそうになる自分自身に叱咤して、たとえ根拠のない事を言っても梨華を安心させたかった。
いつになく取り乱した梨華は聞く耳を持とうとしない。
「イヤ、今はイヤ!捕まりたくないの、私!」
「だから大丈夫だって。私がついてるってば!」
大騒ぎした割に、結末はなんともあっけなかった。
30分も過ぎた頃、もうひとりのウェイトレスがやって来て、警察が去ったことを告げたのだ。
私が言ったでたらめは予想に反して現実となり、常連の2人が薬物所持の現行犯で逮捕されたそうだ。
その2人は普段から見境なくあれこれと手を出していたから、当然と言えば当然だけれど、聞いたところによると誰か密告した人物がいるらしかった。
とりあえず危機を脱したと思った私は息を吐き出してほっと胸を撫で下ろした。
けれども梨華はまだ何ごとか考え込んでいる。
それが少し気になったけれど、ともかく梨華を連れて私はトイレを出た。
寒すぎるのだ、ここは。私に手をひかれ通路をフロアへ歩く途中、もともと体調が悪かった梨華はとうとう倒れてしまった。
ポツリと小さな声でその一言を呟いて。

その日、朝陽が顔を出した頃、私はようやく仕事を上がって、鉄だかアルミだかで出来た階段を一足飛びにカンカン上がって梨華の眠る部屋へと戻った。
薄暗い店内に慣れた視線は昇りかけの太陽の、ごく柔らかな光線にも敏感に反応する。
建物の外につけられた階段を私は顔を顰めながら昇ったけれど、それでも全体に薄蒼く他の時間帯よりも湿気をやや多めに含んだ空気がピリピリ冷たく清々しかった。
吐き出す息は未だ白い。どこか遠くの方で鳥の鳴く声が聞こえたが、その姿はとうとう発見できなかった。
安倍さんの行動は意外だった。
警察の登場でもともと体調の悪かった梨華は心身の均衡を崩して倒れてしまった。
暖房がイマイチ届かずにしんしんと冷え込む通路から、梨華の腕を肩にかけ、
なかば引きずるようにしてフロアへと戻った私は、早退させてもらうべくオーナーへ掛け合ったのだけれど、普段親切な彼は果たして渋面を浮かべたのだった。
警察が帰って店はいつもどおりの賑わいに戻っている。そのうえ今日は従業員が足りない。
「そうですよね‥。」
息を吐いた私は梨華を振り返った。
気を失った直後に一度意識を取り戻したけれども、彼女は今、フロアの隅の比較的静かなソファに体を預け、青い顔で再び眼を閉じてしまっている。
それにしても店内は空気が良いとは言えず、切れ目のない喧騒にしたって病人には良くないに決まっていた。
「そしたらとりあえず、りかっちを部屋に寝かせて、またすぐに戻って来ます。」
「ああ。そうしてくれないか。悪いな。」
右手を顔の前にかざしてオーナーがそう言うと、シェイカーを振りつつもチラチラとこちらを伺っていたバーテンが心配そうに声をかけた。
「お前、大丈夫か?手伝おうか?」
「ううん、平気。注文けっこう詰まってるじゃないですか。」
それはとても嬉しかったのだけれど、私は断わって笑った。
彼の前にもまた空のグラスがいくつも並んでいて、酒が注がれるのを今や遅しと待ちわびているのだ。
相変わらず心配顔のバーテンが不安そうに見守る中、店を出た私は梨華をおぶって階段をゆっくり上がった。
梨華は軽かったし、こう見えて私もかなりの力持ちだからそんなにツラくもなかったけれど。
けれどやっぱり息は切れるのだった。
ハァハァと背負った梨華の速くて浅い呼吸を耳元に感じながら、私の呼吸の間隔もだんだん短くなっていって、
それは一体どっちの物なのかそろそろ区別がつかなくなってきた頃、一歩一歩踏みしめるように昇っていた私の足元をサッと一つの影が覆った。
不思議に思ってなんとなく顔を上げた私の視線の先、ちょうど2、3メートル上のおどり場のところ。そこに安倍さんが立っていた。
「もっと早く来ると思ってた。こんなに待つんだったら、上着持ってくればよかった。」
少しも笑わずにそう言い切る安倍さんは、階段の上で月と街灯に照らされ、シアン色に染まった姿は、
幽かに揺れるそのスカートも、そして安倍さん自身も、限りなく透明に近い希薄な水影のようだった。
「安倍さん‥、どうして?」
部屋で私はまず、梨華をベッドに寝かせた。
私について部屋に入ってきた安倍さんは、その間窓から外を眺めていたが、私が問い掛けるとなんでもない様子で平然と振り返った。
表情に相変わらず笑顔はない。安倍さんは素早く2、3度瞬きをした後、真直ぐに私の眼を見て話し出した。
「さっき、なっちもトイレの近くで隠れてたんだけど。
警察が帰ってフロアに戻る時、石川梨華さんが通路で倒れるのが見えたから。
その後にあなたがオーナーの人と話し合ってるのも見てたよ。お店忙しいんでしょ?」
「え?ああ、まあ‥。」
私は水のボトルを冷蔵庫から取り出してグラスに注いだ。目が覚めた時、梨華はきっと喉が渇いているだろう。
「そろそろ戻らなくちゃ。安倍さんも‥。」
私はベッドまで歩いて、脇のテーブルに水の入ったグラスを置いた。
その様子をじっと見ていた安倍さんは私の言葉を無視するようにして立ち上がり、ゆっくり部屋を見渡した。
「タオルは?」
「え?」
「タオルどこ?よっすぃーがいない間、なっちが看ててあげるよ。このコ。」
ビックリした。けれども安倍さんが梨華に対して興味っていうか、親近感みたいな物を抱いている事は彼女の言動から知っている。
誰に対しても素っ気無い安倍さんは、梨華には必要以上に絡んでいた。
そして梨華も。不器用な安倍さんの裏腹な態度には、彼女もきっと気付いている。
意地っ張りな2人はお互い、決して口には出さないけれど。
「それは‥、助かりますけど‥。いいんですか?」
「いいよ、ヒマだし。」
「連れの男の人は?」
「ああ。いいんじゃない?別に。だいたいあの人誰か、なっち知らないし。ねえ、タオルは?こっち?」
そう言った安倍さんは、スタスタと洗面所へ歩いていってしまった。苦笑する私を尻目に。
数時間後、仕事を終えた私が再び部屋へ戻ると、安倍さんはベッドから少し離れたソファにじっと座っていた。
「すみませんでした遅くなって。りかっちは?」
「うん、寝てるよ。汗かいてたからさっき着替えさせた。」
安倍さんはなぜか私の目を見ない。
「ほんとにいろいろありがとうございました。
あ、コーヒー飲みますか?今、いれます。」
安倍さんの様子に少し不思議な感じがしたけれど私は特に気にとめず、自分のカバンを肩から下ろし、
そして店に置いたままだった梨華のバッグをキッチンテーブルに置いた。
「うん、ありがとう‥。」
お湯はすぐに沸いた。安倍さんに背を向けた私がコポコポと注いでいると、その間黙っていた安倍さんが唐突に口を開いた。
「ねえ‥。クローゼットにあったリュックさ、彼女の服とった時に上から落としちゃって。
中味、見えちゃったんだけど‥。あのお金って‥。」
突然そう言われた私はハッとして、ビクッと震えた手元が狂った。
カップに入りそこねたお湯が指先に少しだけ跳ねる。
動く事のできない私に、安倍さんは更に続けた。
「警察が来た時、トイレの中であのコ確か、『つかまりたくない。』とかなんとかって言ってたよね?ごめん‥。
聞こえちゃった‥。あの時はよくわからなかったけど。アナタ達、一体‥?」
部屋の中を重い沈黙が流れた。
「ま、言いたくないなら聞かないよ。」
私は安倍さんを振り返った。梨華はぐっすりと眠っている。
「彼女を‥、守りたいんです。理由は言えないけれど‥。」
「そう‥。」

このコって、お嬢サマだよね?見ててわかる。気が強くって‥。
潔癖で、なっちとは全然違うよ。あ、頑固なところは似てるわ。ねえ。なっちの顔ってさ、可愛いでしょ。
それに軽くてバカだから、男とかどんどん寄ってくるの。ふふ。当然女のコからは嫌われるよ。
まあ別にそんなのは気にしてないけどね。悪いけど敵じゃないし。でもこのコさー、正面から挑んで来たんだよ。
このなっち様に。すっごい久しぶり、ってかんじ。
ぬるくなったコーヒーを飲みながら、安倍さんは言った。偽悪的な物言いと裏腹にとても柔らかく微笑みながら。
新鮮‥。本当の彼女はこんな風に笑うんだ。ふと、私は思った。こういう笑顔をもっと人に見せればいい。
そうすれば安倍さんは楽になれるんじゃないだろうか?
「安倍さん、『笑う月』って何ですか?」
「ああ。言ったね。そう言えばあなたに。」安倍さんは恥ずかしそうに笑った。

あのね、なっちね。昔、ちっちゃい頃、今よりもっともっと可愛かったの。もっともっと幸せでさ。
誰からもちやほやされてね。皆の事が大好きだったし、皆からもすごく大事にされてた。
近所に、偏屈で有名なお婆さんが住んでたんだけど。そのお婆ちゃんもね、なっちにはすごい優しいの。
なっちにだけ。へへ。いっつもおやつとかくれて。でも、そのお婆ちゃん、周りの人には好かれてなかったから。
みんなは、うちの家族とかも『一緒に遊んじゃだめだよ。』ってよく言ってたんだけど。
でもなっちはお婆ちゃんが大好きだったから、いつも内緒で遊びに行ってたの。
あれはお婆ちゃんと最後に遊んだ日。秋が深くなって、木枯らしで落ち葉がカサカサ舞ってた日。
近くの山で柿をとったの。2人で。帰るのが少し遅くなってね。だからお婆ちゃんが手をつないで、なっちを家の近くまで送ってくれたの。
夕方で冬が近かったから、もう随分暗くて。暗いけどきれいな星空に、明るい満月が浮かんでた。
一緒にとった柿が嬉しくてね。柿を詰めた紙袋の中を何度も覗きながら、なっちは歩いてたの。
そしたらお婆ちゃんが言った。『なっちゃんは気をつけなけりゃいけないよ。かわいい子はお月様に妬まれてしまうんだ。
月はいつだって明るい物にやきもちをやくからね。いつだってお日様の陰にかくれているだろ?だから皆に愛される子も嫌いなんだ。
ホラ、ちょうどこんな満月の晩さ。真ん丸で、笑っているように見えるじゃないか。月はね、嫉妬をすると笑うんだよ。
そうしないと、その子にバレてしまうからね。そうして騙しておいて、子供をさらって行くんだよ。皆の元から。
遠い、闇の世界へ。笑う月を見た子は皆、連れて行かれてしまうのさ。』
いつも、なっちには優しいお婆ちゃんだったけど、あの時はなんだか、知らない人みたいに見えた。
まるで、月。そのものみたいに。あの日、月はやけに大きくて。
色も、いつもよりぜんぜん濃いかんじで、なんだか本当に気味悪く笑っているように見えたの。
『怖いかい?』そう言ったお婆ちゃんは、もう普段のお婆ちゃんに戻っていたけど。でもやっぱり怖くて。
つないでた手を振り離して、そこから家まで走って帰った。家までは、まだ少しあったんだけど。
一人で。暗い畦道の途中に、お婆ちゃんを残して。
その日あった事は誰にも言わなかったけど、それからなっちは二度とお婆ちゃんと遊ばなかった。
一緒にとった柿も食べなかった。あの時走りながら、なっちは何度か振り返ったんだけど。
振り返る度にどんどん小さくなるお婆ちゃんは、なっちをずっと見てた。寒くて透き通るくらい澄んだ景色のなか、ずっと、ずっと‥。

随分と長い話を、安倍さんは、ただ静かに語った。
かすかに微笑みながら話す様子は、まるで熱にでもうかされているようで、フワフワした口調がなんだか本当に目の前から消えてしまいそうだった。
呼吸とか瞬きとか、それら微細な動きさえも私には許されていないように思え、安倍さんがいなくなってしまわないよう、息を詰めて見つめていた。
「ま、今となっては迷信だって事くらい、ちゃんとわかってるけどね。
多分そのお婆さんも、もう生きていないと思うし。」
私の様子に気付いた安倍さんは一瞬気恥ずかしをうな顔をしてから、すぐに笑って強がって見せた。
私の視線を避けるようにして、すでに冷たくなっていたコーヒーへと手を伸ばす。
カップに口づけた彼女の。言葉の最後の方ははっきり聞き取れなかった。
「アンタ達2人なら、もしかして見た事あるのかなー、なんて思っただけ。
‥なっち以外にも、‥そういう人いるかな、なんてさ‥。」
「え?」
「なんでもないよ。あらー、このコーヒー冷たい。ねえ、新しいのいれてよ。温かいヤツ。」
「え‥。あ、はい。」
安倍さんを支配するもの。それは、孤独‥?
「よっすぃー、いいコだから。今度いいモノをあげるよ。」
私がいれなおした新しいコーヒーを半分も飲まないうちに、安倍さんは帰って行った。
なんか照れ臭いし、何話していいかわからないから。と、梨華が目を覚す前に。
「駅まで送って行きますよ。」
立ち上がる後ろ姿に私は声をかけたが、安倍さんは断わった。
「その間に梨華ちゃんが起きたら、彼女一人でかわいそうじゃない。側にいてあげて。」
明るい日射しの中、とっくに動き出していた街は、騒がしいラッシュのピークをすでに越えていた。
ずいぶん落ち着いた道をのんびりと駅に向かう人々の、そのゆるやかな波に、
安倍さんがまるで溶け込むように消えて行くのを、私は部屋の窓から見ていた。
梨華が倒れて以来、連日店に出ていた私達の体を気遣って、オーナーは仕事を減らしてくれた。
矢口さんの口添えもあったのだろうか、週3で休めるようになった。
それはそれで相当嬉しい事だけれども、部屋にただで住まわせてもらっているし、
未成年の私達を使いといった危ない橋を渡らせている負い目もあったので、本当にそれでいいのかどうかもう一度確認したが、いいよ、全然。
彼はそう言って笑った。
「それに未成年のお前らが店に出る回数を減らした方が、実際危険は減るんだなこれが。」
とも。もっともだった。薬物が横行し逮捕者を出す店を余裕ヅラして仕切りまわす、この男はいったいいくつなのか。
よくわからないけれど邪気のない目は案外若いようにも思える。
矢口さん。朗らかで面倒見がいいけれど、あの年齢でこういう人脈を持つあいつも一体どんな人物か。
弱冠15才。学校に行かなくなってしまった私には世の中わからないことだらけだ。
けれど彼女がただのギャルじゃないことだけは解る。そう言う私達にしたって殺人犯とその幇助者だ。
休みがもらえるようになってしばらく経った日の午後、そんなことを考えていた。
仕事のない日だったからぼんやりしていたら、いつの間にか時が流れ、点け放しのTVでは料理番組が始まった。
郁恵と井森は今日、ハンバーグを作るらしい。バンバン言ってる歌をバックに素敵なタイトルが現われた。世の中平和ってかんじだ。
「手作りのハンバーグなんて、ひさびさに食べたい‥。」
郁恵のはじける笑みを見ていたら、自然とそういう気分になった。
自分でも気付かず漏らしてしまった私の呟きを、梨華は聞き逃さないのだった。
「そうだね。最近そういうの食べてないよね。」
ゆっくり相槌を打ってから、思い出して私を見る。
「でもひとみちゃん、お肉ダメじゃないの?」
「あ、ひき肉は平気なの。言わなかった?」
そうだっけ?そう答える梨華はあまり興味がなさそう。
画面では今日もまた、井森がヘマをやっていた。8割方蓄膿確実な声で『エヘヘ』と井森が笑う。
一方、鼻の通りの良さそうな梨華は風鈴みたいな声で言った。
「山瀬まみは料理上手いのに。」
TVを切った私達は近所のスーパーへ出かけ、ひき肉と玉ねぎ、それから卵とサラダを買った。
「卵3つも要らないよ?1つでいいんだよ?」
キッチンで手を洗った梨華に玉ねぎを渡して、私はそれから必要な材料をテーブルに揃えた。
とりあえずまだ使わないものを冷蔵庫にしまっていると、梨華が不審な視線を向ける。
「いいの。他の2つは今茹でとくの。で、明日の朝食べるの。」
「あ、そっか。」
初期、毎日ゆで卵を食べる私を不思議がって、何かと梨華は好奇の目で見てきたけれど、今となっては慣れたもので、彼女は普通に納得した。
梨華が炒めた玉ねぎを肉と一緒にボウルに入れ、そして卵とパン粉も合わせて私が素手で練りに練った。
「良くコネた方が、より美味しくなるのです。」
フライパンを準備した後、サラダを冷蔵庫から取り出した梨華が、まるで家庭科の先生みたいに言ったからだ。
背筋を伸ばし私を見つめる彼女の両目は、さっき刻んだ玉ねぎの名残りで、まだ少し赤い。
ゆっくりと力を入れると、ひき肉が手のひらからこぼれる。
特有のにゅるにゅるした感触が指の間を通る度、微妙にざらついた感覚が喉の辺りに込み上げたが、それが不快なのかどうか、自分でもよく解らない。
柔らかくテラテラと光った肉が、自分の手から次々と押し出されるのを見つめていたら、頭が少しクラクラした。
水道の蛇口をひねり、梨華は使い終えた調理器具を洗い出した。しばらくカチャカチャと音を立てていたが、思い出したように呟く。
「最近、安倍さん来ないね。」
「ほんと。どうしたんだろう?」
私はネタを丸め、ハンバーグの型に整えていたが、相槌を打って手を休めた。
流しに向かう梨華は私に背中を向けたままだ。手は動かしているけれども、他の何かを考えている背中に向かって、私は構わず言葉を続けた。
「でも矢口さんは来てるよね。進級できたみたいで良かった。そう言えば、こないだ珍しく知らない人と一緒だったよ。学校の友達かね?」
「あの、背の高い人?」
「うん。」
「きれいだけど、なんか不思議な感じのする人?」
「そう。」
おおかた洗い終えた梨華は水を止め、手を拭いた。
そのまま私の横へ来て所在なさげに胡椒の小瓶など弄んでいたが、やがてため息を吐くと、テーブルに手をついて凭れかかった。
「まだお礼言ってない‥、安倍さんに。借りがあるみたいで、なんかイヤ。」
居心地が悪そうに視線を落としながら、唇を結ぶ梨華。頑なな幼い少女の仕種がまだ抜けない。苦笑する私。
「本当に素直じゃないよね。気になって仕方がないくせに。ふふふ。」
「べつに‥。そんな事はないけど‥。」
「ねえ、『笑う月』っていう話を、この間人から聞いたんだけど‥。」
私はふと思いついた。梨華はどう感じるのか。『笑う月を見た子供は連れて行かれてしまう。』安倍さんの名は出さず老婆の語った所だけ、私は梨華に話してみた。
こころもち眉間をひそめながら、梨華は黙って聞いていた。
「信じる?」思った以上に神妙な様子が興味深かった。話し終えた私が思わずニヤけながら聞くと、梨華は少し考えて答えた。
「信じない。今は。単なる迷信だよね。でも子供の時に聞いてたら、信じてたかも‥。
確かに月って、見てると、へんな興奮を喚起するもの。怖いような、懐かしいような。‥そんな感情。」

ピンポーン。

ジュージューと小気味良い音を立てつつ梨華は肉を焼き、私が食器を並べていると、突然ドアのチャイムが鳴った。
手が離せない梨華をキッチンに残し、玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは眼鏡をかけて帽子を目深にかぶった安倍さんだった。
「安倍さん‥!」
「よっス。久しぶり!」
突然の訪問に驚きながら聞くと、色のついた眼鏡の奥で安倍さんは満面の笑みを浮かべた。
「ほんとお久しぶりです。どうしたんですか?」
「お店行ったら休みって言われてさ。で、部屋の電気ついてるのが外から見えたから、なっち来ちゃった。」
気のせいか少し痩せたように見えるが、今日の安倍さんはとても機嫌が良さそうだ。
「今、ハンバーグ作ってるんですよ。良かったら食べて行きませんか?」
「うん、すごいいい匂いする。けど、あんまり時間ないから‥。」
安倍さんが玄関先で肩をすくめた。安倍さんと梨華は今日こそ仲良しになるだろう。
3人で食事ができたら、きっと楽しいはず。そんなふうに期待していたから、少し残念だった。
「コレ。」
そんな気持ちを知ってか知らずか、安倍さんは桜色の紙袋を、とても得意げに差し出した。
目の前の小さな紙袋には、同色の持ち紐が通してあった。
「なんですか、コレ?」
「この間、約束したでしょ?『いいものをあげる』って。ハイ。」
半ば押し付けるように手渡された少女趣味の紙袋は、見た目の可愛らしさに比べて、予想以上の重みがあったけれど。
ただ、目の前の安倍さんが本当に嬉しそうに笑っていたので、私は目を反らす事が出来ず、つられて曖昧な笑顔を作った。
「こんにちは。」
一段落ついたのか、そこへ梨華がやって来た。
「こんにちは。」
安倍さんの笑顔はほんの少しだけ悪戯っぽくなった。けれどそこに挑発の色がない。
はにかんでいるけれど、嬉しそうな顔。例えばシャイな少年なら、こんな風に笑うだろうか。
「この間は本当にありがとうございました。なんだかお世話をかけてしまって‥。」
「どうしたの?やけに素直じゃない。別に、単にヒマだっただけよ。」
顔を上げた梨華も少しだけ目を細めて、眩しそうに笑っている。
「相変わらずへらず口ですね。」
「そういうアンタだって、相変わらず一言多いわ。」
ふふ。幸せそうに笑う2人を見ていたら、私は嬉しくなった。
2人はやっぱり似ているし、初めから2人もそれをわかっていた。
安倍さんには久しぶり、そして梨華にはおそらく初めての、対等な理解者になり合うはずだった。
少なくとも私はそう思ったのだけれど。
ふと目を落とすと、手に提げた紙袋の中味が見えた。黄色っぽい包装‥。油紙‥?
これって‥。
「じゃ、行くね。今日は本当に、ちょっと急いでいるの。」
ハッとした私が顔を上げると、安倍さんは手をドアにかけていた。
「安倍さん、コレ‥!」
踵を返しかける彼女の腕を慌てて掴むと、振り返った安倍さんはその反動を利用して逆に私を引き寄せた。
劇的に詰まった私と安倍さんとの距離を、梨華は何も言えず目を丸くして見ている。
そんな梨華に向かって安倍さんはいつもの、不敵で自信に満ちた笑顔をつくった。
華やかな、華やかな微笑。至近距離で見る迫力にただ圧倒されていた私の耳元へ、安倍さんがそっと囁いた。

しっかり、守ってあげて。

静かな声だっだけれど、はっきりと聞こえた。様々な断片がその一瞬、頭の中を駆け巡った。
今が、すごく幸せなの‥。捕まりたくない、そう繰り返した梨華が、倒れる直前に残した言葉。
笑う月を見た子供は‥浮遊しているような、まるで消えてしまいそうだった安倍さん。
そして‥。
こっち系のパトロンとかいるらしいよ。頬に傷をなぞりながら、矢口さんが言った噂‥!
トン‥。
動揺し、動けない私を軽く押して、安倍さんはドアを開けた。
事態が呑み込めない梨華は、その場にずっと固まったまま。
ドアが閉じられた後、すぐ我に帰った私は、夢中でドアの外に出た。安倍さんを、追って。
「こんなことして‥、安倍さんは大丈夫なんですか!」
安倍さんはすでに廊下を抜けて階段を下っていた。
「平気だよ。ちょっとくすねてきただけだもの。」
安倍さんがどんどん遠くなって行く。
階段の上から、私は夢中で安倍さんを呼んだ。
夜の街に溶けるようにして消えて行った安倍さんは、最後ににっこりと微笑んだ。
世界中の誰も、冒せないような笑顔で。安倍さんが置いていったピンク色の紙袋。
油紙に包んだ改造済みのピストルが、その中には入っていた。
「元気で。」
そう言って手を振った彼女の姿を、私は忘れない。安倍なつみと会う事は、その後一度もなかった。

 

第2節

 

なんだかものたりない‥。最近外出できないし。辻とも部屋違っちゃったし。
あの2人もどっか行っちゃって、矢口も全然会いに来てきてくれない。
なんだよ、みんな。どうしたんだよ!?‥ふう。カオリ、ヒマ。

<証言> 飯田圭織

1日目

えっとー、あの2人に会ったのはぁー‥、そだ。矢口にバーに連れてってもらったトキだ。
あの時は、ガイハクキョカが出てたんだよたしか。あの頃はさー、結構しょっちゅう外に出さしてもらってたんだよねー。
週1くらいで。で、その時に矢口がナイショで連れてってくれたんだよね。え?ああ、だからそのバーに。
カオリのお父さんとかお母さんとかもぉー、矢口が一緒だとけっこうオオメに見てくれんだよね。普段。
ホラ、カオリ矢口とー、ずっと一緒じゃん?ヨウチ園のトキから。
矢口ってさ、結構シッカリしてんじゃん。だからウチのオヤとかも頼っちゃってー。
ママなんてさあ、「カオリの事ヨロシクね、マリちゃん。」なんつってー、超ムカツク。
カオリだってシッカリしてるっちゅーの。いい加減コドモ扱いすんなよ?ってかんじ?
ん。なんだっけ?ああ、アノ2人の話だ。えっとね。だからー、その、矢口と行ったバーでー。
ああ矢口は常連みたいだったケドね、ソコの。で、そこでー、あの2人を紹介されたワケよ。矢口に。
ん?イシカワとヨシザワ?っつったっけ?やー。あの2人ー、なんかワケアリってかんじだったけどー、なんつうか、超ガンバッテるってゆうかー。
すんごい、なんてゆうの?青春?てかんじ?したからー、カオリけっこう気に入ってー。いろいろハナシも弾んだワケよ。
で、その時、ヨシザワがね。クルマ買うとかなんとか言っててー。まあ、あのトキはまだ。
そんな、本決まりってわけじゃなかったんだけどね。ケドなんか、車のセールスしてるヒトと知り合ったみたいで。
つーかあのコってさ、まだ15かそこらじゃん?だからカオリ超ウケてー。
「ナニ言ってんの?アンタらまだ免許取れないっしょー。」とか笑いながら言ってたんだー。
したらそのセールスの人ってゆうのが、なんかオンナノヒトみたいなんだけどー。も、ワケわかんなくて。
そこらへんの事?書類とか免許のコトとか?なんか、ゴマかしてくれる?みたいなんだー。てゆうか、超ウケない?フツー売るかよ、子供に?ねえ。
ナンダソリャ?とかって思ったんだけどー、矢口も平気なカオしてっからー。だから。カオリも。なんか。そういうモンなのかなー、って。
で、さあ。ホラ、カオリって免許持ってんじゃん。うん。取ったんだよ。入院する前に。クルマの運転とかって、なんかめっちゃ興味あったからー。
18になった時ソッコー取った。気持ちよさそー!とか思って。ああ、好きですよ。運転。
今度教えてやろっか?いい?ちょ待って、上手いんだって、こう見えて。ほんとにいいの?そ。残念。
はい。続きね。そう、なんだかんだ言ってあの時ハナシが進んでー。で、カオリ運転上手いからー、カオリが教えてあげるよ。
って事になったんだよ。矢口は免許持ってないしさあ。アイツ誕生日遅いから。
それに、あのコたち、なんだか教習所みたいなトコ行きたくないみたいでー。ん?‥つうか、なんで?ナニモノ?あの2人?なにやったの?矢口も。
あれ?カオリって、矢口の何なんだっけ?矢口って、カオリの知ってるヤグチなんだっけ‥?

2日目

こないだは、すみませんでした。なんだか取り乱しちゃって。最後の方。暴走しちゃう癖、自分でもわかってるんです。
けど、なんか。なんかダメなんですワタシ。止まんないんです。今日はがんります。ハイ。ちゃんと話します。
次に会ったのは、3週間後です。ピッタリ3週間。その週は、えっと。ちょっと大きな検査があったんで、ちゃんと覚えてるんです。
矢口の家で会いました。外出日でした。えーと、前、同室だった、辻希美っていう子がいるんですけど、その子も一緒に。
カオリは、その日、矢口たちと会うコトになってたんで、午前中から支度とかしてたんですけど。
ふと、隣のベッド見たら、辻がボーっとしてて。
その日、外出日だったから、他のコとかもけっこう楽しそうに準備とかしてたんですけど、辻だけ、
ひとりでボーっとして、ベッドに座って、窓の外見てたんです、ひとりで。
で、カオリ不思議に思って、辻に聞いたんですよ。「今日予定ないの?」って。
そしたら、辻は、振り返って首を振るんです。醒めた目で。「ない」って。あ、もちろん声には出しませんけどね。
知ってるかもしれないですけどー、辻って、失語症なんです。
鬱とかも、かるーく入ってんのかな? ま、何があったのかは良く知らないですけど。
なんか、甘いモノとか好きみたいで、グミとかアメとか、よく食べてました。窓の外見ながらね。
時々、機嫌がいい時があるみたいで、そういう時はカオリにもお菓子くれました。少しだけ、本当に少しだけ笑いながら。
もちろん何も言わないですよ。フラフラ−って立ち上がって、カオリのとこまで来るんですよ。で、黙って差し出すの。アメ。2、3粒。
愛想のない子なんですけど、カオリはまあ、可愛がってたんですよ。だってかわいくなっちゃうじゃないですか。そんなんされたら。
考えてみたら、辻に誰かがお見舞いに来てるところって、ほとんど見た事ないんですよ、カオリ。
いっつもひとりでポカーンとしてるんですよねー、辻って。あ、だからって辻が悲しそうな表情してるってことじゃなくて。
いたって、普通なんですよ。辻本人は、別にそんなのどうでもいいみたいで。
同じ部屋の誰かにお見舞いの人が来て、楽しそうに喋ってる時も、べつに羨ましそうなかんじじゃなくて、ただずーっと外見てる。
グミとかくちゃくちゃしながらね。
ケド、カオリ思うんですけど。そういうのって良くないじゃないですか。
辻なんて、ただでさえ失語症なのにー。
そうやって、誰とも話さないってゆうか、誰も話しかけなかったら、治るどころか、どんどん悪くなっちゃうじゃないですか。
言葉なんて忘れちゃうじゃないスか。
カオリ、常日頃そういうふうに思ってたんですけどー。
なんか、その日はもうムラムラ来ちゃって。辻も一緒に連れてったんですよ。
「辻。カオリと一緒に遊びに行こうよ。」そう思って後ろ姿に声をかけたら、聞こえてるんだかないんだか、なんか、無視なんですよ、初め。
で、もう一回「辻!」つって、肩掴んで振り向かせたらー、すっごい不思議そうにヒトの顔見んの。
目、ぱちぱちさせて。「でかけるよ。」ってムリヤリ立たせたんですけど、まだボーっと突っ立ってるからー、
カオリ、辻の荷物開けて勝手に服とか選びだしたんですよ。
したら、まあ、けっこう普段から可愛いパジャマとか着てたしー、なんとなくわかってたんですけど。
めっちゃいっぱい持ってるんですよ。服とか小物とか。
しかもすっごいカワイイのばっか。いいウチの子なんですかね。けっこう高そうなのばっかだったしね。親とか見たことないけど。
辻は、ずっと、服の詰まった箱を、つまんなそうに見下ろしてたんですけどー、そんなの無視してカオリは勝手に取り出しましたよ。
スカートとTシャツと靴。あ、そんなコトはどうでもいっか。でも、けっこうかわいいカンジに選んだんですよー。カオリは。
で、その間辻はー、カオリのことじっと見てたんですけど。ただ見てるだけでなんにも言わないから。
拒否とかもしないし。だからべつに、イヤじゃないんだなー。って思って。
てゆうか、意思表示しないってコトは、イコール嫌じゃないって事ですよね?あれ?そう思うのってカオリだけ?
ま、そんなこんなでー、辻、着替え始めたんですよ。ノロノロとだけど。
辻が、相変わらず無表情で着替えてる間、カオリは前髪つくりながら待ってたんですけど。
あ、カオリけっこう前髪とか気にするんですよー。前、もっと前髪ソロってたんですけど、あん時は超タイヘンだった。
キマらない日は、学校とか休んでました。あ、そんなのもどーでもいいですね。えへへ。
約束の時間、てゆうか、いつも矢口が迎えに来てくれるんですけど。
それまでにまだちょびっと時間があったんで、カオリ、辻の髪、おだんごにしてあげました。
普段は辻、髪、おろしてるコトが多いんですけど、絶対、辻は、2つ結びが似合うってカオリ思ってて。
耳の上でおだんご2つ作ってあげたら、案の定、超似合ってやんの。やっぱね。って思った。
その後、すぐに矢口が来て。ドアんところに現われた矢口は、髪の毛おだんごにしてた。
もっとも、辻と違ってぜんぜん茶髪なんだけど、矢口は。「今日、辻も一緒に連れてくけど。イイ?」ってゆったら、矢口。
何回もカオリんとこ遊びに、ってゆうかお見舞いに来てくれたりしてたから、辻のコトも知ってて。
「いいよ。」って言った。ちょっとだけ唇ゆがめて、いつもみたく笑いながら。ま、ダメって言われても連れてくけどね。
つか、矢口は言わないか、そんな事。ぜったいに。知ってますよカオリは。
「おそろいだね、今日。」辻の頭を見て矢口は言ったんだけど。その時辻が少ーしだけはにかんだのを、カオリは見逃さなかったよ。
いつも無愛想なのにね。それでも少しはウレシイのかね。矢口はその日もニヒルで、気がついてたのかどうかは知らないけど。
タクシーにのって、カオリ達は矢口の家まで行ったんだよ。まあ、矢口家はいつ見ても立派で大きいやね。
門の前でタクシー降りてさ、そっから広い庭を歩いたんだけど。ガレージのとこに見慣れないクルマが置いてあったわけよ。
赤い、4駆?「アレ?矢口の家、また新しいクルマ買ったの?」矢口のオヤジが税金対策とかでクルマとか
しょっちゅう買ってるの知ってたから、そう聞いたんですけど。「あ、あれ。よっすぃー達のだよ。」普通にそう答えやがった。
辻はそれより広い庭が珍しいみたいで。でっかい松の木とかその下の池とかめっちゃ見てた。けどカオリ超ウケてー。
「ヤダ。ほんとに買っちゃったんだー。アハハ。」とか言ってー、すっごい笑ってたんですよ。2人は、もう来てたよ。
そんなかんじのコトをー、矢口は応接間の窓を指差して言ったんだけどー。指差しながら、矢口もめっちゃ笑ってたよ。
「あの2人はどう?」ってカオリが言ったらー、「イヤ、今日もめっちゃ仲いい。」とか言って。またまた笑ってるんですよ。
えっと。
その日はそれからー。そう、運転教えたんですよ。前に約束してたとおり。場所は、遊園地です。
てゆうか遊園地のウラ。矢口の家からー、クルマで25分くらい行ったとこにー、あるんですよ遊園地が。
けっこう大きいヤツ。カオリとかも元気だった頃よく行きました、そこ。プールとかがかなり充実しててー。
なんか、その遊園地、中学校のトキになぜか流行ったんですよねー。なにかっつーと行ってたな、みんな。
近いし。でも最近はみんなもオトナになって。そんな。皆の関心とかが薄れちゃってるんですけどー。
で。そこの裏っ側が、なんか。ちょっと雑木林みたくなってるんですけど。一応、道とかもちゃんとあってー。
そこら辺通るクルマってー、みんなその遊園地入っちゃうからー、その奥の林になんて誰も来ないんですよね。
矢口ん家の応接間でー、「ドコにする?」とかいって、みんなで話してたんですけどー。
その時に矢口がそこのコト思い出したんですよ。カオリもー、なんか超なつかしくなってー。
「いいねそうしよう。」みたいなカンジで。ま、他の3人は地元違うし、どこでもいいみたいなカオしてましたけど。
あ。そこまでの道ノリは、もちろんカオリが運転したんですよ。つーか入院以来カオリ運転止められてたからー。
ほんとはいけないんだけど、ひさびさにハンドル握ったら、なんか超たのしかった!カオリ、クルマとか自転車とか、
すごい好きなんですよー。だってドコにだって行けるじゃないですか!楽しいよね、ホント。自由ってカンジです。
「ぶーん」とか言って、ちょっと調子のって運転してましたけどー。でも、カオリ、ちゃんと安全運転ですよ?
スピードとかきっちり守りますもん。基本ですよ。安全第一。
クルマの中ではー。えっと。矢口が助手席に座って、カオリに道教えててくれたんですけどー、後ろはイシカワが真ん中でー、
で、辻とヨシザワが挟んで座ってました。なんかね、あの2人、めっちゃ面倒見いいってカンジ。
イシカワとかなんて、きっと、クラス委員とかやってたんじゃないかなぁ。辻ってさ、ホラ、あんま笑わないじゃん。
人見知りとかもめっちゃ激しいし。喋んないから、普通のコだったら多分、敬遠しちゃうと思うんですよ。実際、病院の他のコとかもそうなノデ。
ケド、あの2人は違うの。特にイシカワなんて、すんごいアレコレ話しかけてるんですよね。
「いくつなの?」とか、「頭、かわいいね。」とか。ニコって微笑みながらね。あー、なんか、「保健係」ってかんじですかね。
どっちかって言うと。クラス委員とかよりも、もうちょっと気さくなカンジしたなあ。違いますか?
まあ、なんていうか、辻はね、やっぱ。初め、初対面のひとたちだから相当緊張しててー、ずいぶん、警戒?とかしてる
カンジだったんですけどー。でも、なんだかんだあの2人が話し掛けるうちに、少しココロを開いたみたいで。
ま、やっぱり固くはなってはいるんですけど、辻なりに、一生懸命、イシカワの言うコトに答えてるんですよ。
首を振ったり、指つかったり。時々、声の出ない口とかも、動かしたりして。真剣なかんじでねー。
でね、そんな2人を、ヨシザワがめっちゃ優しいカオとかして見てんの。
ヨシザワ自体は、あんまり何かを話す、ってかんじでもないんだけど。
辻の返事にいちいち目を丸くしたり、ニコニコ頷いたりして、すっごいちゃんと聞いてるんだよねー。うーん。
そーいうのが、ミラー越しに見えてさぁ。カオリ、なんか嬉しくなったよ。
辻が、いっつも窓見てる辻がさ。ほっぺたとか赤くしちゃって、ちょっと興奮気味なカオしてるんだもん。
ああ連れてきてよかった。ってホント思った。矢口?矢口はその間、ずっと景色見てたよ。
口数少なかったけど、時々見えた横顔が穏やかなかんじで笑ってたよ。たぶん、同じような事を考えてたんだとカオリは思うけど。
そー、途中さー。コンビニ寄ったんだー。飲み物とか欲しくて。
したら、ほんと。チョ−仲いいの。ヨシザワとイシカワ。イシカワの飲みたいモノが、棚の、
ちょっと上の方にあったのね?で、イシカワが、手、届かなくてー。そしたら、ヨシザワが、ほらヨシザワって背高いじゃん。
ま、カオリの方が高いけど。カオリ168cm。ちっちゃい時はー、そうでもなかったんだけどー。
いつの間にすくすく育ったんだよねー。背の順とかなんて、まんず一番ウシロでした。なにげに自慢なんだけどー。
あ、すみません。それはいいんです。でね、えーと。そう、で、そしたらー、ヨシザワがー、背伸びしてるイシカワの横からー、
スッと手ェ伸ばしてー。てゆうか、取ってあげてるんですよー。で、なんかその雰囲気がー、‥めっちゃ甘いの。「ありがとう‥。」
とかってイシカワが、例の、あのアニメっぽい声でー、言っちゃったりしてー。ヨシザワもヨシザワでー、なんだか嬉しそうにしてるしー。
なんかカオリ照れた。
そうそうカオリと辻が矢口ん家に着いたトキもね、なんか。
ウチらが応接間に入ったら、2人は同じソファに、ちょっと間隔あけて座ってたんだけど。
「こんにちは。」なんつって、すっごい自然なワケですよ。2人の様子は。
きちんと座ってるんだけど、ちゃんとそれなりにくつろいでるっぽくね。
ケドその自然なカンジがさー、コレまたなーんか甘いんですよ。わかるかな。
カオリが言ってるコト。その、いかにも自然な2人の位置が、やけにハマってる距離の取り方ってゆーかー。
なんてゆうか、ビミョ−にエロいってゆうか。よくわかんないですけど。
なんか2人は2人っきりでいるコトにー、慣れてるってかんじだったんですよー。
モロ付き合ってます、ってかんじで。ハレンチですよねー。なんっか超ラブ×2。やってらんない。
あー。でね。その日は、夕方、カオリ達の戻んなきゃいけない時間まで運転教えて、またタクシーで病院に戻りました。
矢口に送ってもらって7時半頃だったかな?はじめはー、ちょっと広いとこで基本的なコト教えてたんですけどー。
なんか、やっぱヨシザワは、そういうの、スジがいいみたいで、けっこうすぐ、コツとか掴んでましたよ?んー、イシカワはね。
ちょっと苦労してたけど。オートマなんだけどさあ、やっぱ梨華ちゃんオンナノコですよ。感覚つかむまでにちょっと時間かかりましたね。
はじめ、みんなしてクルマに乗ってたんですけど。途中から辻と矢口は降りちゃいました。
酔っちゃって、青い顔して。カオリはー、真剣に指導してたからー全然平気だったんですけど。
ヨシザワも、なんか平気なカオして、ずっと乗ってましたよ。それで、イシカワが失敗した時とか、「りかっち、ダッサーい。」
とか言って、超からかってるの。で、イシカワは「もう。ウルサイ。」とか言って、ちょっと目に涙とか浮かべそうになってるんだけどさー。
それもまた甘いんだよね〜。なんだかんだ言ってるヨシザワは、もうホント、『萌え〜。』ってかんじでイシカワ見てるし。
まあ、カオリから見ても、一生懸命なイシカワはちょっとかわいかったです。真面目なお嬢さん、てかんじで。
そんなこんなで、クルマの中、窓とか開けてるのに温度が1〜2度高かったんですけど。
あてられながらも、カオリがしきりに奮闘してるのを、矢口は石に腰掛けてぼんやり見てました。
で、辻はその間、しゃがみこんで花を摘んでた。もくもくと首飾りとか作ってました。
あの日は、梅雨に入る前の、最後の土曜日でしたよ。よく晴れてました。

3日目

ヤグチって、交友関係とか広いじゃないですか。
カオリも時々、「なんでこういヒトまで知り合いなの!?」とかツッコミたい時もある程、そりゃもうスバラシく広いんですけど。
ヤグチってほんと、誰に対しても愛想いいからー。
偉いですよジッサイ。だってカオリにはできないもん。
カオリ的にはー、あんま。全然知らないヒトとか、あと気が合わないヒトとかって、ほんと、一緒にいたくないんですよ。
カオリ、そういうのガマンできないから。
でも、ヤグチは違うの。本当にどんなヒトとでも仲良くできるんですよねー。
ん。どんなヒトにでも合わせられる、って言った方がいいのかな。誰とでもうまくやれるんです。
そういうトコロ、カオリすごく尊敬するな。すごいコトですよそれは。
だって普通、できなくないですか?てゆうかカオリはできない。
昔はー。小学校くらいまでかな。ヤグチってめっちゃワンパクでー。
今でも小さいですけど、あの頃から、ひときわちっちゃかったんですよ。もうまれに見る小ささってカンジで。
学校中でも話題になる程の小ささでした。でもヤグチ、ほんっときかん気つよくってー。
嫌いな女の子はもちろん、男の子までも、めちゃくちゃ泣かしてましたね。またその理由とかがひどくてー。
おまえの弁当よこせ。とかそんなレベルです。
もう、その暴れっぷりたるやすごくて、とにかくやんちゃだったんですけど。
今思えばホント、仲良くしてて良かったなってカンジです。けど、根っからのガキ大将肌っていうんですかね?不思議と人を惹き付けるんですよ。
逆らったり、気に入らないコに対しては、思いっきりそういうのカオに出すし、めっちゃイジワルとかするんですけどー。
差別とかヒイキとかも激しいのに。それでもヤグチのまわりには、いっつも大勢のコが集まってるんですよ。
ヤグチと遊びたくて。
なんってゆーか、遊びの天才みたいな?そういうところがヤグチにはありました。
鬼ごっこにしてもかくれんぼにしても、それこそおままごとにしたって、ヤグチが入ると2、3倍楽しくなるんですよね。
なんでなのかよくわからないですけど。そういうカリスマチチックな子って、周りにいませんでした、小さい頃?
そういうかんじで、すごく傍若無人だったヤグチなんですけど。
今みたいになったのって、うーん、中学校ぐらいかなー?ウチってほら私立だし、エスカレーターだから、中3になっても受験勉強とかってほとんどないんですよね。
ちょっぴりテストの勉強するくらいで。ケド、まあ、いちおカタチだけは進路相談みたいなのがあったんですよ。
親も呼んで。担任と自分と3人でやるヤツ。そういうの一番最初にやったのって、中2のはじめぐらいだったような気がするなー。。
そのくらいから、ヤグチがだんだん変わり始めたんですよ。なんか落ち着いたってゆうか。オトナになったってゆうのかなー。うん。
相変わらずおもしろくて、みんなのリーダーなんですけどー。その中から、キョーボー性ってゆうか、好戦的な部分がなくなったんです。
あ、ワガママじゃなくなったってかんじです。それまでだったら気に入らないコとかを完膚なきまで叩き続けて来てたんですけどー。
その、中2くらいから、誰に対しても、平等に明るく振舞うようになって来たんですよね。
どっちにしてもおもしろいし人気者なトコなんかは変わってないんですけどね。
うーん多分ねー、カオリの推理では。ヤグチの家って大金持ちだし、それに、子供、ヤグチとお姉ちゃんしかいないじゃないですか。
男子の跡取りがいないってやつ?だからー、多分、親からいろいろ言われ出したんじゃないのかなー。しっかりするように、って。
カオリ思うんだけどー、それって結構プレッシャーですよねー。年頃の女子には。もしかしたらヤグチが跡目を継ぐコトになるかも知れないし。
結婚なんて、それこそ好きな人となんて絶対できないだろうしねー。まあカオリにしてみれば、がんばれよ、ってかんじです。
えーと、ヨシザワ達にはその後も何回か運転教えたんですよ。外出日のたびに。
辻はねー、喋らないコトにかわりはないんですけど、それでも一緒について来るんですよね。やっぱ楽しいのかしら?ね。
辻、その頃ちょっとだけ顔色とか良くなってたし、なんか、前よりも表情とか少し増えたみたいでした。
ヤグチはね、最初の一回は来たんですけど、その後はなんか、来たり来なかったりってかんじでした。いろいろ予定がつまってたみたいで。
ま、友達多いし、ヤグチにもいろいろあるんですよ。昔も今も、ヤグチって人気者なんです。
一回、ドライブに行ったことがあるんですけどー。てゆうかそれが、最後です。2人に会ったのは。えっと、その日はね。
海に行ったんですよ。その頃はもう、ヨシザワ、だいぶ運転うまくなってたんで。ヨユウで、公道とかするする走れるようになって。
だから、今度はヨシザワの運転で、どっか行きましょうよってことになってたんです。
前の回、運転教えた時に、あ、その時はたまたまヤグチも来てたんですけど。ヨシザワが「今度どっか行きましょうよ。私が運転しますよ。」
ってカオリに言ったんです。お礼にって。で、「遠くでもいいですよ?」ってヨシザワが付け足したら。そしたら、辻。
なんかー、超嬉しそうなカオしてんのー!辻が!カオリ見たことないよ、あんな辻。パーッって顔輝かしてさー、すっごいハシャぎながらカオリの腕、掴んでー。
ぶんぶん揺らすのー!
だからカオリ驚いてー。「おお!」とか思って、しばらく辻のコト見ちゃいましたよー。そしたらヤグチにー、カオリが固まってたからー。
「てゆうかカオリ見過ぎ。気持ち悪いとかまた言われちゃうから。」とかって笑いながら突っ込まれて。で、我に帰ったんですけど。
てゆうかカオリ的には、そんなに気持ち悪いかなー。ってかんじなんですけど。ヨシザワたちに聞いたら、2人ともちょっと笑ってました。
そんなことはともかく、辻に聞いたんです。やっぱカオリお姉さんですから。カオリはー、お花畑とか行きたかったんですけどー。
でもホラ、辻が超喜んでるから。やっぱここは辻の行きたいとこ、連れてってやるべきでしょー。とか思ってー。
「辻、どっか行きたいとこあるの?」ってゆったらー、辻。ちょっと上目づかいにカオリのコト見てー。顔、めっちゃ赤くして、
 う み
ってゆったんです。きゃーカオリ感動ー!!あ、言ったってゆーか、口をそうやって動かしただけですけど。
その時、そこにいた全員が、辻のコト見てたからー。多分、辻、緊張してたんですよね。カオリの腕、掴んでる手が、ちょっとだけ汗かいてた。
力はいってたし。でね、カオリを見上げる目が、すごいなんか、「あ、ドキドキしてるんだなコイツ」ってかんじで真剣なんですけど、
でも、けっこう積極的なんですよねー。
もーカオリびっくりしちゃってー。何回も使っちゃって恐縮ですけど。
なんか、クララが立ったー!ってかんじでした。ほんっとカオリもう、じーんと来ちゃってー。またじーっと見てたら、また言われちゃったんですよー。
「飯田さん、見過ぎ。」って。今度はヨシザワに。
どっちか忘れましたけど、イシカワか、ヨシザワか、ヤグチに聞いたんですよ。「矢口さんも、海でいいですか?」って。
カオリ達のコト、ニコニコ顔でヤグチは見てたんですけど、ゆっくり振り返ってうなずいてました。
「いいよ。ヤグチ、海、だいすっきだもん。」いつもの通りですよ。
優しくていいヤツです。カオリほんと、ヤグチとはずっと一緒に遊んでたかったけどな。
で、次回、てゆーかその、海行った日です。その日もガイハク許可とってあったんですけど。
ヤグチとイシカワとヨシザワが、迎えに来てくれることになってたんです。もちろん、ヨシザワの運転です。
もうめっちゃワクワクしててー。カオリどころか、辻もけっこうテンション高めにスタンばってたんですよ。ほんとに。
実はカオリその日ー、前髪ちょっとイケてなかったんですけどー、も、そんなの全然いいんですよ。関係なくって。
辻のおだんごは、なにげにかなりカワイくてー。いつもだったらマジ、クヤシイしいから負けてらんないってかんじなんですけどー。
その日はほんと。前髪なんて、ヘッ。ってかんじでした。辻の頭、逆に誉めちゃったりして。で、今か今かと待ってたんですけどー。
その週はもう、とっくに梅雨入りしてたんで、雨がずーっと続いてたんですけど。でも別に気にしませんでした。
そんな強く降ってるわけじゃないし、関係ないっすよ。ってかんじで。
それが、ビックリです。来てみてビックリ!めっちゃ雰囲気悪くなってんの。
誰って、あの2人ですよ!イシとヨシですよ!ヤグチがー、病室まで迎えに来てくれてー。
で、カオリたちも外に出てクルマ乗ったんですけどー。ヤグチも居づらかったんですかね。
3人で。いつもだったら、もちろん誰かひとりがクルマに残ってて、それでももう一人は必ず一緒に病室まで上がってくるってかんじなのにー。
その日はヤグチがひとりでした。クルマに向かう病棟の途中、ヤグチは何も言いませんでしたけど。
クルマには、助手席にイシカワが座ってて、運転席にヨシザワ。ウチら3人は後ろに座りました。
なんつーかもう、ドア開けた瞬間から、雰囲気重いの。いつもだったら絶対、なんか楽しそうに、2人して喋ってるハズなのにー。
2人とも、黙って窓の外とか見ながら待っててー。
なんかー、それまでなんてー。めっちゃ仲良かったじゃんあの2人?ムカツくくらい甘ったるかったのに。
それなのにいきなりー、超空気冷たくてー。「ナニがあったの?一体?」ってかんじでした。
もちろん声に出しませんけど。だって、聞ける雰囲気じゃないんですもん。
辻も、なんか、ヤバい空気を敏感に感じ取ったみたいで、軽く眉しかめてカオリのコト見てきました。
カオリもわかんないから、ヤグチの方を見たら、ヤグチは知ってるのかどうか、カオリにはわかんなかったですけど、
無言で肩すくめてから、首をちょっと、ヒネリました。
でも、なんだかんだ言って、ヨシザワも、イシカワも、ウチらには気を使って、いろいろ話しかけてくるんですけよ。
でももうねー、それがウチらには余計ツラいの。だって、ヨシザワもイシカワも、カオリ達には普通に話しかけてくるのに。
それにウチらの話にも普通に入ってくるのに。ケドお互いには何も会話とか交わさないんですよ?
例えばー、カオリがー、「ヨシザワほんと運転上手くなったよね。」とかって振るとするじゃないですか。
そうすると、ヨシザワ、「そうですかー?飯田さんのおかげですよー。」とかって、ふつーに答えるんですよ。笑ったりして。
ああ、免許のコトはね、なんか、そのクルマのセールスしてる人?ヤスダさんとかって聞いたような‥?が、偽造してくれたみたいですよ。
きっともう、それもわかってますよね。だってカオリのことまで調べてるんですもんね。
で、それで、その、ヨシザワの言った事に対して、カオリが、「いやー、これでイシカワも、いろんなところに連れてってもらえるね。
いいなー。」とかってイシカワに返すと、イシカワも、「そうですねー。」
なんて言って、ニコヤカに笑うんですけど、そのあと、しーん。とか。
会話がプッツリ途切れちゃうのー!続かないんです、それ以上。
辻は辻でいろいろ気を揉んで、なにかとカオリの言う事とかに、珍しく頷いたりして、いろいろ応援とかしてくれてるんですけど、いかんせん辻、喋れないし。
あんまり、戦力とかにならないんですよ。
ヤグチはヤグチで、知、ら、なーい、みたいなカオして、あんまり絡んで来てくれないし。
もう、カオリ辛っ。ってかんじでした。まあ本当は、ヤグチみたいにして関わらないのが一番いいのかも知れないですけど。
でもカオリそういうの苦手なんですよ。なんかできないの。耐えられなくて、そういう空気に。
これでもカオリ、けっこう気つかってるんですよ。ヤグチは、そういうの慣れてたりするのかな。
元、ガキ大将ですし。知ってるんですかねー。そんな場合の身の振り方を。くやしいがオトナってかんじです。
クルマの中の空気をー、ほんっと強調するみたいにー、小雨は、ずっと。続いてたんですけどー。
梅雨の、雨が、しとしと降る中をー、カオリたちのクルマがザーッて走っててー。で、その中は、重ーい空気が。
たまたまかけてたステレオの曲だけ、なんか。あーとうさんかーあさーんとかいっててー。皮肉な事にやけに明るいんですよ。かなり浮いてました。
あ、途中高速使ったんですけど。ヨシザワはー、初めてだったんでー、けっこう、緊張、してるみたいでしたけど。
重い空気の中でさらに。でも、ちゃんと上手かったですよ?ハイウェイ、ちっとも混んでなかったし。
2時間弱くらいで、目的の海岸に着きました。時間的にもう夕方に近かったんですけど、雨なんで、明るさとかは別に変わりませんね。
ずっと薄暗いまんま。太陽出てないから。
人かげとか、予想以上にまばらでした。そりゃー雨降ってはいるけどー、もっと、サーファーとかいるかな?って思ってました。
あ、午前中じゃないから?あれ?サーファーって、もっぱら朝から活動してるっていうイメージが、カオリの中にはあるんですけど。
違うんですか?ま、いいや。ほんとね、人、ほとんどいなくて。時々、向こうの方を、犬つれた人が通るくらいでした。
ケドうちらやっぱ、海ってゆーか、港とかじゃなくて、ビーチに来たのなんて久しぶりだしー。
そりゃ雨降ってっけど。でも波打ち際とかー、ほんと今年初だったんでー、それなりにはしゃぎましたよ。
特に、辻。辻はたぶん、海自体、初めてだったんじゃないかなー。あ、もちろん入院して以来ですけど。
クルマの中の、かなり居心地の悪い空気から開放されて、なんか、波追い掛けて、パシャパシャやってました。
空なんて超どんよりしてたし、海も、向こうの方とかかなり荒れてるんですけど。ほんと楽しそうにしてましたよ。
もう、いかにも、「キャーッ」っていう声が聞こえてきそうなカンジでした。ゆってませんけど。
カオリ達も、なんか、ね。やっぱ密室出たからー。なんか、空気、抜けたってゆうか。
2人のモメゴトとか、ちょっと、どうでも良くなりました。あー、ま、どーでもいーってゆうか、気にならなくなった?まあそういう時もあるか。
ってかんじで。やー、改めて見るとねー、どうも、イシカワの方が、ヨシザワを避けてるようなカンジなんです。
ヨシザワの方はー、けっこうそれなりに、イシカワのコト、気つかってて。チラチラ見たりしてるんですけど。
クルマ降りる時とかも、傘とか渡してあげたりしてて。はーん。どうやら、イシカワが、意地はってるのねー。
ってかんじでした。その時とか、傘、一応受け取るんですけどー、視線、ぜったい合わせないんですよ。
ケンカ?って始めは思ってましたけどー、なーんだ。イシカワがー、一方的にヨシザワ避けてるだけなんじゃーん。
みたいな。つーかその避け方もさー、無理してるってゆうのが見え見えなんだけど。どースかコレ、ってかんじで。
でも、ヨシザワも、多分、アレだね。躊躇しちゃってるんですよー。もう一歩つっこめば、さーあー?カオリ、思ったけどー。
イシカワも、上手く素直になれそうなカンジなのに。ヨシザワ、普段わりとオトナなくせに、今回、テンパりすぎ。
見えてないんだよねー、そこら辺。なによー、どうしたのよー。冷静なんじゃなかったのー?ってカオリ思いましたけど。
よっぽど、一大事なんでしょうかね。どうしていいかわかんなくて、よけいギクシャクしちゃってんの。
だからよけいぶっきらぼうっぽくなっちゃって。
そう思ったら、カオリ、なんかヨユウになっちゃってー。やっぱコドモだねー。とかなんとか、その時は思ってたんですけど。
あとで人から理由聞いたら、めっちゃビックリしましたよ!まーじーでー!!!ってカンジ。聞いた日、一晩眠れませんでした。
まあ結局、その日カオリがとった行動は、我ながらナイスだったんですけど。
あ、いかんせん仲直りさせたんで、カオリ的にはそう思うんですけど。
辻は、相変わらず波とたわむれてて。ヤグチとヨシザワは、なんか、しゃがみこんで、棒倒しとか始めちゃったんで。
あ、もちろん雨の中で。それも、かなり熱中した様子ですよ。
今さら入っていける雰囲気でもなかったんで、それに、ヨシとイシは今ヤなかんじになってるから、カオリなりに気を遣って貝殻、拾いに行きました。
イシを誘って。
えーと、そうは言ってもー。そんな、きれいな海とかじゃないし。そうそうたいした貝殻とか、落ちてなんてないんですけど。
けどカオリ、浜辺とかによく落ちてる、ガラスが丸くなったヤツとか好きなんですよ。だからそういうのも拾いました。
なんか、パステルみたいな色になってて、キレイじゃないですか?
で。カオリ、「ヨシザワと、なんかあったの?」って、イシカワに聞いたんですよ。2人して歩く途中。
あ、もちろん目は、めぼしいモノ物色してたんで、地面に向けたままだったですけど。ケド、イシカワ。
しばらく何も答えないからー。カオリ、「言いたくないんなら、べつに。いいけど。」って言ったんですよ。
なんか、ウチらまで気まずい雰囲気になるの、ヤだったんで。なにげにキョドっちゃったかも。傘とかクルクル回しちゃったり。
あー、あのせき払いとか、今考えてもすっごい不自然だった。もうカオリったら。
けど、カオリがまた歩き出したら、イシカワがなんか、後ろから、言うんですよ。
「ケンカ、した、ってわけじゃ‥、ないんです‥。」これ。ネガティブな声でまた。
カオリが振り返ったら、イシカワは言葉を続けて。「ひとみちゃんが悪いとか‥、そういうのじゃ‥、ないんです。
誰が悪いとか、そういうかんじじゃなくて‥。ただ、私、どうしていいかわからない‥!」それだけ言うと、突然辻のいる方へ走ってっちゃいました。
カオリを残して。も、カオリ、呆然としちゃった。「?」ってカンジでしたよ。
けどなんか、悩んでいるんだなー、ってことだけは薄々解りました。「ちょっと待てよー!」つって、慌てて追い掛けたんですけど。
あ、ひとりでそこに取り残されたまんまでいるのが、なんか恥ずかしかったんで。でも、思わず出遅れました。
だってイシカワのダッシュが、めっちゃ速かったんです。
いやー。なんか。なんだかんだ、7時過ぎまで遊んじゃってー、結局。
海岸にはとうとうヒトッコヒトリいなくなっちゃってて。民家とか近くにないし。
マジでウチら以外誰もいなかったです。穴場ですよ、ここ。コイビト同士は行った方がいいってかんじです。
6月だったし、全然寒くはないんですけどー、けっこう皆、つかれ気味だったんでクルマに入ってまったりしてたんですよ。
カオリ的には、「そろそろ帰んべ。」ってかんじで。
ヤグチとヨシザワは、あれから3時間くらい、ずーっと棒倒しやってたんですけど。
最終的に勝ったのは、ヨシザワみたいでした。「ヨッスィーの本気加減、マジすごいよ。
見せたいホント。もうヤグチ、負けでイイ。」とか、苦笑しながら言ってるのを、みんなで聞いてました。
イシカワも、ひそかに笑ってた。ちょっとだけだから、みんな気付いてないんだけど。てゆーか、相変わらずイシとヨシは口きいてないんだけどー。
ウチらもほんと、その頃になると慣れてきちゃってー。辻も、ヤグチの話を、にやにや笑って聞いてましたよ。
「で、どうする?帰る?てゆかゴハン食べよーよー。カオリハラ減った。」って言ったら、辻と、あとイシカワもうんうん頷いたんですけど。
そしたら、ヨシザワが、ちょっと黙り込んで、で、ヤグチのコト、チラって見てからポケットから何か取り出したんですよ。
「コレ‥。」そう言ったヨシザワの手にのっかってるのは、拳銃でした。ヤグチは、知ってたみたいで、驚いてなかったです。
ああ、イシカワは、今日持ってきてるってコト、知らなかったみたいで、ウチら、カオリと辻?と同じくらい、本当にびっくりしてました。
辻が、唾を呑み込む音が、ゴクって聞こえて、カオリははじめ、びっくりしてたケド、けどおもちゃだと思って、手を伸ばそうとしましたんですよ。
「良くできてるねコレ。改造ガンってとこが、それっぽいよね。」とか言って。ピストルには、銃身?に同じ黒い色のテープが、ぐるぐるまきになってました。
そしたらヤグチがカオリの手を止めて、「本物。」って静かに言うんです。
で、ヨシザワも続けて言った。「たぶん、そう。ある人から、貰ったんです。」
クルマの中を、さっきとは違った緊張が流れて、しばらく、誰も、喋りませんでした。
車内灯は消していたので、メーターとか、オーディオの、緑色のライトが、多少ぼんやり、光っているだけ。
みんなのカオは、それに照らされて、ぼーっと浮かんでるんですけど、少しだけ、粉っぽいような、ざらざらしたかんじに、カオリには見えました。
ヨシザワが、体を、少しだけ動かして、そしたら、手の上の銃が、ギラって光って、その瞬間、ヤグチが、口を開いて、そのあと、ヨシザワも頷いた。
「弾はいっぱいあるの。」「撃って、みたいんです。」一瞬、カオリは、カオリ達が撃たれると思って、超コワかった。
辻も、同じこと思ってたみたいで、カオリの腕に、強くしがみついてきた、けどー。
「ちょ、誤解しないで、ってば。別にカオリ達を撃つワケないじゃん!しーないっつーのマジで。
ただー、カンとか撃って、ちょっと練習したいだけ。」「えー!?しませんよ、そんなこと!なんでですか!」
ウチらの動揺にヤグチがすぐに気付いて思いっきり否定したんだけど、そしたら、ヨシザワも、
ウチらがそう思ったコトがそうとう意外だったらしくて、超首振ってた。
「なーんだよ、カオリ、アセったー。ビビらせないでよね。」
とか言って、カオリのみ込んでた息吐き出して、シートに座り直したら、辻もやっと手を離した。
そしたらさ、ヤグチが、ちょっと真剣なカオして、カオリに言うのよ。
「ねえ、カオリはどう思う?ウチら、撃っちゃっていいかなあ。」
ちょっと、震えてるのがわかった。ヤグチには珍しかった。
「カオリを撃つの?」念のため、もう一回聞いたけど、
「じゃなくて!銃を撃つっていう行為を、カオリはどう思う?ウチら、やっても平気?カオリ的にアリ?ナシ?」だって。
ヨシザワも、「飯田さんて、その辺りの判断、正しそうじゃないですか。真実、知ってますよね。」
とか言って。カオリ、そんなコト言われても困る。だってカオリだよ?
病院入ってるし、ちょっとおかしいコですよ?はっきり言って。なんでカオリに聞くの?
‥て思ったけどー。真実知ってそう、とかそういう言葉にー、カオリちょっとくすぐられてー。
その時、真剣に考えましたよ。
なんつーか。カオリ、ボウリョクとか許せないしー。ピストルとかも、ほんとは嫌いなんですけどー。
けど、イシカワとヨシザワは気まずくなっちゃってるしー、ヤグチも現実けっこう大変そうだしー、
辻なんて言葉喋れないしー、カオリはもう、気が狂っちゃってるしー。
そんなかんじで。なんかみんな、息が詰まっちゃいそうなカンジだったんで。
決めました。「撃つか、みんなで。」ってコトで。
そうと決まったら、早速みんなで外に出ました。ちょうど近くに手ごろな岩があったんでー。
ヤグチとヨシザワに、空き缶集めて来てもらって、上にそれらを並べました。一列に。慎重に。
カオリは現場を指揮してて、で準備してる間、イシカワと辻は、近くに座って、見学させてました。
だってあの2人、なんかあぶなっかしいんですよ。
夜の海岸とかで放っといたら、どっか行っちゃいそうじゃないですか?わるい悪魔とかにそそのかされそう。
で、準備かんりょうして、辻と、イシカワが、ヤグチ・ヨシザワよりも後ろにいることを確認して、カオリは、声をかけました。
「いいよー。」って。あ、もちろん、自分の安全も、しっかりカクホしてますよ?位置とか、ちゃんと考えて。
カオリ、狂ってますけど、さすがにまだ死にたくないもん。
ピシュッ。とか、そんなかんじの音がして、で、カンッ、つって20mくらい先の缶が弾き飛んでました。
なんか、サイレンサー?とかいうヤツがついてるみたいで、銃声はあんまりしませんでしたよ。思ったよりかは。
暗いし、それにけっこう距離あるのに。初めて撃ったヨシザワがイキナリ当てたからー。カオリ、なんか超楽しくなってー。
「カオリにもちょっと撃たしてみ?」つってー、ヨシザワから銃、受け取りました。
もー、みんなシツレイなことにー。そうっとうカオリから離れててー。しかも。固まると危ないとか言ってー。
ひとりひとり、5mくらいずつ間隔空けて立っちゃってー。なんだよアイツラ。当ててやるからしっかり見てな。ってかんじでした。
で、指に力入れたらー、また、空気が抜けたみたいな音がしてー。「キャッ。」って、カオリ、あまりの衝撃に、しりもちついちゃいました。
カオリの予想に反して、缶は倒れなかったんですけどー。でも、あの時の自分の声、今思うと、けっこうかわいかったと思います。
男の子がいたら、たぶん好きになられてたな。マジあぶねぇ、ってかんじです。
「よーし、もう一回。次こそ当てる!」っていきごんでー、もう一回撃ったんですけどー、やっぱり弾は当たりませんでした。
なんでー?とか思ってたらー、ヤグチの声が聞こえてー。「もう近付いていいー?」とか言うからー、振り返ったらー。
なんか、みんな。身を低く伏せてた。いい加減にして欲しかったです。
で、ヤグチの命令でー、おそるおそる近くに来たヨシザワに、ピストル渡したらー。やっとみんな、近寄ってきてー。
「どうだった?」ってヤグチに聞かれたんで、「いや、楽しいよ、コレ。」って答えました。「なんか。
撃った瞬間、ガンって体に衝撃が来て、で、脳が揺さぶられて、いろんなコトが、吹っ飛ぶカンジ。カオリは、その瞬間、花が見えた。
いっぱ咲いてる。」
みんなはちょっと、「え!?」ってカオしてー、ヨシザワを見たんですけど。そしたら、ヨシザワ、
「ま、でも、だいたいそんなカンジ。間違ってはないです。」って言った。つうかカオリには花が見えたんだってばー。
こんなコト言ったら、また退院とか遅くなるかなー。なんつって。べつにどうでもいいです。
いやー、でもカオリ、こりゃ是非辻に撃たせなきゃいかん。て思ったんですよ。その衝撃?
てゆうか、頭、つき抜けてくかんじ?めったにないと思ったんで。いや、辻はやるべきだ、って。
「撃ってみな、辻。」てゆったら、案の定、辻は興味しんしんなかんじでした。
ヨシザワが、構え方とか、辻に教えてるあいだー。カオリ達、談笑しながら見てたんですけどー。
でもカオリ、ふと思いついてー。イシカワにも言ったんです。「いやー、イシカワは、いいです。」ってー、
彼女イヤがってたんですけどー。「撃っとけばいいのに。」とか「ないよ?なかなか。」とかヤグチとカオリに言われてて。
ケド、まだためらってました。そしたら、なんか。向こうからヨシザワが、それ見てたっぽくてー。
辻に教えながら。「撃ちなよ。」って声をかけました。一言。つよい口調で。で、イシカワ。
ちょっとカチンときたみたいでー。ちょっと息すって、ヨシザワの事チラって見て、で、またすぐに下向いたんですけど。
そうこうしてる間に、辻は撃ち終わってー。ヨシザワは、挑発するみたいなカンジで、イシカワを見てました。
なんか、火花散ってました。辻は、撃ったばっかで、なんかぼーっとしてるしー。
ヤグチとカオリは、2人の視線の間に挟まれちゃって、カオリなんて、オロオロしながらなりゆき見守ってたんですよ。
そしたら、ヨシザワが、「怖いの?」って。で、イシカワは「じゃあ撃つ。」って、ヨシザワの言葉にかぶせるようにして言ったんですよ。
カオリ、緊迫した空気をかんじてー。イシカワが、ヨシザワの方に、ずんずん向かって行くのを、呼び止めようとこころみたんですけどー。
そのカオリを、ヤグチが止めました。「ま、見てなよ。」つって。も、カオリー。
ハラハラしながらー2人のコト見てたんですけどー。ヨシザワは、ゆっくり、静かな口調で、撃ち方、教えてんのね。
イシカワは、なんか。口ちょっととがらして、たまに頷いてんだー。ヨシザワはイシカワの目みて、しっかり確認するみたいに話してんだけどー。
イシカワは、ぜーったい目合わせないの。
イシカワが、ピストル構えたときー、ヨシザワ、両手で、イシカワの肩、後ろから押さえてあげてて。
で、なんかカオリ、その辺りからまた、も、どーでも良くなって。なーんだよ。こりゃ仲直りするよあの2人。
ばっかみたい。気つかってソンした。ってかんじでした。そんなカオリを見て、ヤグチは笑ってたけどね。
「目、つぶると危ないよ。」ヨシザワがそう言った後、イシカワは一度頷いて、引き金をひいた。
はい。それだけ。これで終わりですよ。その後、会ってないもん。その帰り、ゴハン食べて帰って以来。
あの2人のコトが、テレビとかで騒がれるようになって、カオリと辻、そっこー部屋べつにされちゃったけど。
カオリなんて、一人部屋だよ。超つまんねー。
あ、ヤグチだけはその後、一回会いに来てくれました。一回だけ。それも夜中。カオリはその時、寝てたんだけど。
なんか人のケハイがして、目開けたら、ヤグチが立ってました。一人部屋の、カオリのベッドの横に。
で、カオリ。ヤグチだー。久しぶりじゃーん。とか思って。ケド起きたばっかで声、でなかったんですよ。
だから、カオリはただ、へらへら笑ってたんですけど。ヤグチは、ずっと黙ってたんだけど、少し経ってから
しばらく、会えないと思う。
って、そう言いました。ちょっと淋しそうにしてたから、カオリ、気になったんだけど。ケド、眠くて眠くて。
気がついたら、朝で、ヤグチはいなくなってました。せんせいとか、かんごふさんとか、みんな夢だよって言うんですけど。
カオリは見たんだけどなー。みんな信じてくれないんですよ。まーた退院遠のいたってかんじです。
ま、いいですけどね。も、ほんと、どうでもいいんですよ。狂ってるとか、電波とか、そーゆーコト言われても、べつにいいや。
まーじで。それがカオリの生まれてきた宿命かなー。なんつって。ほんっと。
昔、テストでー、学校行ってる間にー、メイン奪われたことも、もう忘れる事にします。ねえ笑って。
あ、そう言えばね、辻にも。その日は会ったんだけど。廊下で、なんか移動中っぽかった。
その時、辻、なんか暴れてて。介護のおねえさん達に、両側から抑えられちゃってたんですけど。
「ののちゃん、落ち着きましょうね。」とか言われちゃって。ケドそのわりには、けっこう手荒な扱いとか受けちゃってて。
で、介護の2人、カオリが廊下の反対側から見てるのに気がついて。ハッとして、なんか動揺して、手元が弛んだみたいで。
その拍子に、辻、するって抜け出して、カオリの方まで走ってきました。正確には、その途中でタックルされてたけど。
すごいカオのおねえさん達に。
はは。なんかウケた。辻、廊下に転びながら、両手結んで、ピストルのカタチつくって、カオリの方向けんの。
「バーンッ!」つって。ま、ジッサイは声を出してませんけど。でも、聞こえたような気がした。片目つぶってそう言うから。
八重歯がのぞいて、すごく強く見えたよ。

 

第3節

 

安倍さんの死体が埠頭に上がった。
一晩泣いた私達は翌朝一番の電車に乗り、現場周辺の空気が排ガスその他で汚されてしまう前、
つまりまだ蒼く透明なうちに赴き、海面に向かって花を投げた。
死者に送る白い花。白い安倍さんのワンピース。波間を頼りなく漂う花束を黒い服に身を包んだ私達が、2人で、とても長い間見つめた。
半月程経った夜、バーに一人女性客が現われた。普段と同じく、ひそひそと交わされる会話が、他人には漏れない程度混み合っている。
未だ早い時間。カウンターの一番はしにひっそりと座る彼女が、私の興味を特別ひいたのは、ストイックな、その服装ゆえだった。
「ご注文は?」
「そうね、ドライ・ジン。ロックで。」
黒いスーツにネクタイ、下はちなみに膝の丈のスカート。
髪をしっかりと分け、痛そうな程に撫で付けた彼女の注文もまた、その容貌と同程度には変わっていると思った。
ジンをそのままで飲む女性に、出会った事がそれまでなかったから。
「おかしいかしら?」
「いえ。」
だいたいマティーニとかギムレットとか、そういう事を思っていたら、大きくて強い目が、ギロリと私を見た。
「そう。」
ローファーを履いた足元には、軽そうなジュラルミン・アタッシュ。
彼女はすぐに視線を戻し、言葉をそれ以上続けなかった。
彼女のペースは早かった。あっと言う間にもう3杯目。
相当強いのか、姿勢ひとつ崩れていない。私が4杯目を運び、空のグラスを下げた時、とても唐突に彼女は言った。
「ねえ、クルマ買わない?買いなさいよ。」
「は?」
本当に突然だったので、思わず私はひるんだ。やはり酔っているんだろうか?戸惑う私。
その隙にふたたびジンをあおり、今度は大きな声で言った。
「いいから買えばいいじゃない!買いなさいよ私から!」
途中からは大粒の涙が、その勝ち気そうな瞳の淵に、ひとつ盛り上がっていたのだが、
それがボロリとこぼれた瞬間、「わーん」と彼女は一言叫び、そのままカウンターの上に泣き崩れてしまったのだ。
腹の底から声を張り上げ、激しく慟哭する彼女。激情に身を焦がして、やっぱり酔っていたみたいだ。当然私はうろたえたのだった。
周囲に助けを求めたけれども、ひたすら人々は遠巻きに見守るばかり。注目してはいるのだけれども、誰も近寄ろうとしない。
うろたえる私をよそに、彼女のエキセントリシティが増す。
「話ぐらい、聞きなさいよっ!」
ひときわ大きく叫びつつ、泣き止む気配が一向になかった。息をのむ店内。ああ今、ヒーローはいない。
「あ。じゃあ、お話だけでも‥、聞かせてもらおうかな‥。なーんて‥。」
「本当?」
私が口を開くと、周囲の緊張が弛むのがわかった。中には頷いたりしている人も、ちらほらいるみたいだった。
嘘のように涙がひき、顔を上げた彼女の拳が、私の服の袖をきつくきつく掴んでいた。
「あ、でもー‥。今、ちょっと手が離せないんでー‥。また、次回にでも‥。」
「次っていつよ!」私の言葉にかぶるせるようにして、彼女は言い放った。
「あ、それは、その、お店がヒマな日とか‥。」
「今日何時に終わんの!」
「いや、もう、朝‥。明け方。」
「待ってるわよ!じゃあ!話聞いてよね!」
そういうやりとりが少しの間続いて、結局私は押し切られたのだった。
午前3時。客が退いた。薬なのか酒なのか酔って立ち上がれなくなった2〜3名を除いて。
彼らがそれぞれ、思い思いのソファにゴロンと仰け反り、各自、白目を向いたり、時々、何かを呟いてはクスクスと笑ったりしている。
そんな中で私は黙々とテーブルを拭き、床を軽く掃いた。
金を数える梨華の仕事は、しばらく終わりそうもない。
絞っていた光源が通常に戻り、白々しくもこうこうと照らされた店内に、煙草のケムリが白い幕を創っていた。
私を待つ間、彼女は片肘をついて、ずっと同じ場所に座っていた。
随分長くそうしている様子だったので、とても忍耐強い人だなあと私は思ったものだ。
しぶしぶ側へ行くと、彼女はニコリともせず、視線だけを軽く合わせた。
「思ったより早かったじゃない。」
そうですか?とかなんとか私も適当に答えてとりあえず横にすわると、彼女は改めて私を見て、そこで始めて笑った。
「じゃ、さっそく。説明に入らせてもらいますね。私は保田圭。よろしく。」
そしてブリーフケースを開けた。
ガタッと得意げに音を立てたジュラルミンだったが、照明を反射してギラリと鈍い煌めきを放った。
未だ明けきらず薄暗い部屋で、私は遠いスコールのような、シャワーの音だけを聞いていた。
どんなに疲れていても寝る前に梨華は必ずシャワーを浴びる。
曰く、「染み付いた匂いがイヤ。」
なのだそうだ。大きく息を吐いた私は高い天井を見つめて、保田圭さんの事を考えた。
クルマ‥、あったらそれは楽しいんだろうけれど。
「私達、免許持ってないんです。」
アニメ声。私に遅れること20分。仕事を終えた梨華がカウンターにやってきて、私の横の席に座った。
保田さんに押される私に、とうとう味方がついた。
「そうそう。それに実は、クルマ乗れる年じゃないし‥。内緒にして下さいよ?」
助力を得た私も意気揚々と言ったものの、保田さんは更に聞く耳を持たない。
「だーかーらー、とりあえず話だけっつってるでしょ!だいたいねー、
買うだけだったら誰でも買えんの!‥‥こちらのステーションワゴンなんていかがですカ?」
だめだこりゃ。梨華の方を見たが彼女も半ば諦め気味。
とりあえず、気が済むまで話をさせましょう。そんな空気だった。
かつぜつ良く話し続けた保田さんだったが、依然煮え切らない私達の態度に、次第に業を煮やし始め、だんだん話が逸れて行くのだった。
もともと私達に買う気はないのだし、話だってかなり強引に聞かされているのだけれども、彼女はキレ気味のようだ。
「だいたいアンタ達!付き合ってんの?カップルなんでしょ?いーわよ別にそんなのどうだって!
女同士だからってねー、私が気にするワケないジャン!‥たーだー、カップルなんだったらー。
例えば、2シーターぐらい?乗ってなくってどーすんのYo!ってハナシ!!!」
やってらんない!!保田さんは最後にそう付け足して、プイっと横を向いてしまった。
そんなふうに言われても私達は困った。
‥とは言え、新車ばかりのカタログがまた魅力的なのも確かだ。保田さんの理論はともかく。
さいわい、カネならある。‥けれども、免許がない。私達は首を振った。
「ごめんなさい。やっぱりムリです。」
あーあ。そう言って再び振り返った保田さんの、先程までの凄まじい勢いはその表情から消え、
妙に達観したような、言い換えれば醒めた視線に戻っていた。
「ま、そうよね。アナタ達未成年ですものね。そりゃお金ないわよ。だいたいこんな高いモン、私だって売ってるけど買えないわよ!」
「あーあー、もー仕事変わろっかなー。やーだーなー。」
手足をブラブラさせる保田さん。私が言った言葉は、すごく不用心だった気がする。話が上手い具合に進んだから良かったようなものの、
これからは控えるべきだ。今回は保田さんが相手で良かったが、以後言わないように気をつけたい。
「お金なら、まあ、あるんですけど‥。」
「ナニ?」保田さんの目は光った。
「お金があるんだったら、買えるじゃないよアンタ達!」
「でもやっぱり免許‥。教習所だって行けないし。」
「ばーかーねー!ナニいってんの?免許くらい、このアタシがなんとかするわよ!ああこりゃ初めて売れるわ。危ない橋だって渡れる気がする!」
しごく興奮ぎみの保田さん。私達は信用しなかった。そんな事普通できないし、普通しないでしょう?
「ま、見てなさい。」
保田さんはケースを閉じ、念入りに確認する。
「書類関係をクリアすれば、買ってくれるのね!?サァ、買うんでしょッ!?」
「ええ‥まあ。」絶対むり。
「OK。じゃあごきげんよう!近いウチにまた来るから!」
帰り支度に余念のない保田さんの隙をうかがい、私と梨華は顔を見合った。
「できるわけないじゃん。」
「ねー。」
あれから結局、あまり眠れなかったせいで、頭が少しボーッとしている。
背を向けたまま悶々と妄想をめぐらす私の横へ、乾かし終えた髪に数回櫛を入れ、かるくバサバサと揺らした梨華は、
小さな息をひとつついてから静かに入って来た(もっともこれらは物音から私が推しただけなので、正確には少し違うかもしれない)。
普段から割合寝付きの良い梨華は、びくびくしている私をよそに、やがて健やかな寝息を立て始めた。
部屋にはベッドがひとつしかないから私達2人は毎晩、布団を共にする格好になっているわけだが、
このベッドというのが、オーナーの不要品を譲り受けたもので、キングサイズで寝心地が良い。
とても大きくて、例えば私達が両隅ぎりぎりに横たわるとすると、3メートル弱の距離が空く。
これが極端な例としても、ともかく広いベッドの上で、私達はそれほど接近することもないのだった。
寝返りをうった時、偶然梨華の寝顔に遭遇することが、ごくたまにあるくらいか。
開店間もなく、まだ空いている時間に矢口さんはやってきて、友人を私達に紹介した。
飯田さんというきれいな髪の長い女性で、なんでも2人は幼馴染みだそうだ。
矢口さんがここへ、本当に親しい人を連れてくることはあまりないから、少し意外な気がしたが、
普段周囲を盛り上げつつも、いつもどこかで気を張っている矢口さんが、背伸びをやめ、むやみに愛想をふりまいていないところが、やけに印象に残った。
歴史というか時間というか、2人の間にはそういうものがたくさんある。お互い、信頼関係が余程の強いのだろう。そういうかんじだ。
「矢口さん、こんにちは。」
「おう、よっすぃー。こんにちは。」
暇だった私が矢口さんに声をかけると、矢口さんは少し笑って、飯田さんの肩を叩いた。
「この人、幼馴染みなの。飯田さん。」
「どうもー。飯田圭織でーす。精神科に入院してまーす。」
「あ、どうもこんにちは。吉澤ひとみです。矢口さんにはいつもお世話になってるんです。」
「別にどこも悪くなんてないじゃん。」
眉根を上げた矢口さんが吐き捨てるように言うと、飯田さんは身をガバッと乗り出し、食い下がるように矢口さんに迫った。
「わーるいんだって!狂ってんの、カオリは!」
「別におかしくないよ。普通普通。」
「そーかなあ。」
矢口さんが言い募ると、飯田さんはうかない顔をして不満げに、そしてしきりに首を捻っていた。
一見、大人っぽくて、モデルみたいにスレンダーな飯田さんは、案外フランクな人のようだ。
多少笑顔をつくって、矢口さんごしに私へ、きれいな首をコキンと折った。
入院うんぬんは、現にここへ来ているのだし、飯田さん特有の(それは時に凡人に理解されにくい)いわゆるひとつのジョークだと思った。
そこへ梨華もやってきて、4人しばらく談笑していたのだが、突然飯田さんが、私達を指差した。
ハッブル展望台について、彼女が熱い思いをひとしきりぶちまけた直後のことだ。
「ところで2人はつき合ってんだべ?」
ドリンクを口に含み、今まさに飲み込まんとしていた私は、その唐突さにむせかけたが、それよりも、飯田さんのダイレクトな物言いに、妙に感動した。
梨華は目を丸くしている。
「は、はい。まあ‥。」
「やっぱねー。カオリすぐわかったよ。だってなんか、エロいもん。」
梨華はしばらく固まっていたのだが、やがてニッコリと笑うと白い歯をちらつかせて控えめに、飯田さんに聞き返した。
「エロい‥、ですか?」
「うん。エロい、エロい。つーか甘い。甘い夜ってかんじだよ。」
例によって矢口さんは知らんぷりを決めこんでいて、プライベートな話題にはあまり関わろうとしない。
聞いた当人の梨華は飯田さんの見透かすような視線に、耳まで赤くなってしまっている。
私はそれとない笑顔をつくり、なんとか体裁を保った。けれど。
内心穏やかではない。甘い夜?何もないのに?手を出せずにいるのに?‥ふふ、おかしい。他人にはそう映っているんだ?
しばらくの間、軽い沈黙が続いたのだが、梨華が、それを振払うように口を開いた。
「あの、この間、クルマのセールスの人がやって来て‥。」
まるで、飯田さんの追求をかわすように。急に話題なんて変えて、しらじらしいよ。
茶番と思いながらも、私の視線を意識してか、いまだ頬を赤らめる彼女が懸命に話し始めたので、私もところどころ補ってやった。
車を買うかも知れないこと。免許証を含む書類すべてをそのセールスウーマンが偽造すると豪語して去ったこと。
例え車を買っても教習所へは行けないから、独学で技術を学ばなければならないこと、等。
矢口さんと飯田さんは私達の話を、思いのほか真剣に聞いていた。
「危ない橋でも渡って見せる、って、その人。とても息巻いていたんです。」
最後に梨華が付け加えると、飯田さんはケタケタと笑い出した。
「てゆーかさー。できないって、そんな事ー。ムリムリ。」
「まあ、そうだとは思うんですけど‥。
けど、なんかその人、不思議っていうか、つかみどころのない人だったんで、もしかしたら‥?って思っちゃうんですよね。」
梨華に同意し、うーん、と私が首をかしげたところへ、飯田さんはさらに続ける。
「あるワケないじゃん。なあヤグチ?キミら、アレだね。騙されたんだよ。ただの話好きな人だったんじゃん?」
尚も愉快そうに笑う飯田さんの横で、矢口さんはしばらく黙っていたのだが、
やがて(いっちょまえに)組んでいた腕をほどくと、ドリンクを一口飲み、冷静に口を開いた。
「それ、いつの話?」
「昨日です。昨日っていうより、今朝方。」
答えた私の目を、じっと見つめる。
「じゃ、今日はまだ来てないのね。ま、昨日の今日じゃ、まだ判断しようがないか。
ホントかウソか。実際そのウーマン、奔走してる最中かも知れないもんね。」
「そうですね。まだ、なんとも言えないですよね‥。うーん。本当なのかなあ。」
言葉をつなぎながら、梨華と目を合わせはしなかったけれど、自分の肩ごしにも、
横に座った彼女が私の言葉を見守っていることが、はっきりと感じられた。
全員、それから思い思いのことを黙って考えていたのだけれど、しばらく経って客がだんだん入り始めたので、私達は席を立とうとした。
私が梨華を促していると、急に飯田さんが顔を上げた。何か思いついたのか、瞳を輝かせている。
「じゃ、カオリが教えてやろっか、運転。免許持ってるんだよカオリ。実は運転上手いし。」
驚いて返事に窮する私達を無視し、俄然張り切る飯田さん。動転した様子の矢口さんが、飯田さんの腕を押さえた。
「ちょっと待って。カオリ病気じゃん。ダメだよ。」
飯田さんはびっくりしたように矢口さんを見つめ、少しキレ気味に言う。
「なんだよオマエ?さっき普通って言ったばっかじゃん。」
矢口さんは少しばかりひるんだが、やがて意を決し、言い放った。
「病気だよ!」
「ムカツク!違うよ!!」
どうやら飯田さんは本気で入院患者らしかった。
考えてみれば案外重い話なのだけれど、2人のやりとりは愉快だ。
精神病棟の飯田さん。私は話してみて、おかしいとは感じなかった。
そこがポイント。もし、万が一クルマが届いたならば、飯田さんに運転を習おう。
そう思った。医師がどう診断しても、飯田さんは普通だ。私は私の目しか信じやしない。
「じゃあ、教えて下さい。」
矢口さんはそれまでの言葉と裏腹で、案外楽観視しているのか、仕方ないと言わんばかりの苦笑を見せていた。梨華も頷く。
「もし、車が無事手に入ったら、のハナシですけど‥。」
飯田さんは頼もしく、顎をこころもち上げて見せた。大きな瞳は得意げに細められ、私達を見下ろしている。
「もちろんそうよ。連絡はヤグチを通して。ホラ、なんせカオリ携帯使えないから。ダメじゃん?病院て。」
な、いいよな真里。そう言って肩を叩く飯田さんに、矢口さんもしぶしぶ頷いた。
仕事を終えた私達は部屋に入って、ソファに腰を下ろした。
飯田さんを気づかってか、矢口さんたち2人は、早い時間に引き揚げていった。
明け方、仕事は滞りなく終わり、店を出た私達は、まだ暗い階段を部屋へと黙って昇った。
いつにない緊張が走っていた。近頃の私にはそれも珍しくない事なのだが、今日は梨華も言葉を発しなかった。
飯田さんの言葉のせいだ。
いつもならさっさとシャワーを浴びている梨華が、私の横に座っている。
相変わらず黙ったままだ。張り詰めた空気に耐えきれずに、私は口を開いた。
「クルマ、本当に買えるのかな。保田さんはまた、現れるんだろうか。」
「うん。」俯いている梨華が、小さな声で頷く。
しばらくの間、焦りにまかせてぺらぺらとまくしたてていた私だったが、初めのうちはそれに反応してくれていた梨華も、いつの間にか黙ってしまった。
「な、何か飲む?」
いたたまれなくなった私がそう言って立ち上がると、
「いらない‥。」
かすかに呟いた梨華が私を見つめた。しばらくの沈黙。動けない私。
「エロい、って、言われたね。今日‥。」
梨華の言葉に動悸が速まる。私はまだ‥怖かった‥。
「そうだねハハ。何もないのに‥。おかしいよね、ホント。」
梨華を傷つけないように、なるべくサラリと言ったつもりだった。が、それは逆効果だった。
「シャワー浴びてくる。」
涙の滲む目で詰るように言った梨華は立ち上がり、私の横をすり抜けようとしたが、
すれ違う瞬間、私は梨華の手首をとっさに掴んでいた「!」梨華が驚いて振り向く。
私は私で反射的に掴んだものの、それに続く言葉が出ない。どうしたものか思案にくれていると、梨華が消えそうな声で呟いた。
「ひとみちゃんは私のこと、好き‥?」
もちろん。そう言おうとしたけれども、梨華と目が合ったら、声が出なかった。
視線を逸らした私を見て、梨華は少し笑う。
「不安‥。」
笑っている梨華は泣いていた。涙なんて出ていないけれど、明らかに泣いていたのだ。
私は梨華を抱き寄せた。心臓がばくはつしそうだ。
「聞こえる‥?し、しんぞうの音?はれつしそう。好きすぎて、手が出せない。こわい‥。」
しばらくそのままでいた。心音が次第に遅くなるのがわかった。
きつく抱き締めていた腕から少しだけ力を抜くと、梨華が、静かに言った。
「私が2人の人と寝ているから‥?」
「‥うん。」
「私に笑われそうと思う‥?」
「‥うん。」
私の返事にしばらく黙っていた梨華は、やがて柔らかな声で言った。
「いくじなし、だね‥。」
梨華を抱き締めたままで私は、離すこともできずにいた。普段はまったく優等生な梨華。
耳もとをくすぐったのは、甘い甘い囁き。
「キス、してよ‥。」
「うん‥。」
顔を上げた瞬間、ぶつかった視線がどこまでも深く、吸い込まれてしまうと思った。
結局まだ、コドモだったという事だ私は。
じっと覗き込む瞳に、さながら魂のひとつも吸い取られる勢いで梨華と唇を重ねた私は、暖かで、
とろけるような感触と、その全身を駆け抜けた甘いシビレに、へなへなと腰砕け、その場に座り込んでしまったのだった。
なにこれ‥、強烈‥。あの時は暴走していた。とはいえよく平気でできたもんだ。
などと、ショートした回路でかすかに思っていた。改めていたしてみると、キスってすっごい‥、等。
壁に凭れて放心著しい私の視界に、梨華の優しく微笑んだ笑顔が、ゆっくりと入って来た。
私の正面に立っていた彼女もまた、その場にしゃがみ込んだのだ。
自失し、しばらく言葉など発せない私。目を、そしておそらく口も、ポカンと開いていたことだろう。
まるでアホの子みたいに。焦点の定まらないままで、私はゆっくりと瞳を巡らせる。
目と目が合った瞬間、少しだけ梨華はクスッ。と、声を出して笑った。
「安心、した。」
彼女はそう言ったのだけれど、実際その時の私には、いまひとつ伝わっていなかった。
馬耳東風かつ猫に小判。その時の状況を今の私はこう判断するのだけれど、どうですか。
注がれる梨華の慈愛に満ちた視線に反応し、私はともかく一度だけ頷き、頬の筋肉に力を込めた、
つまり笑ったのだが、妙な私の笑顔に梨華は相好を更に崩して、
「やだ、しっかりしてよ。」
なんて言う。天井のライト、その黄色い色を反射し、光をふんだんに湛えた彼女の瞳に、私は、大地に太陽を浴びて咲く、大輪のひまわりを見た。
きらきらと痛い位光って、それは思わず目を細めてしまう程、全くの陽なるもの。
殺人を犯した彼女の裡に、これ程の正を見る私。私達はどうなるんだろう。
遊離して行く思考をどこまでも追って行くうち、そっと梨華が耳許へ囁いた。
「焦っているなら、やめて。ゆっくりでいいよ。」
そして一瞬口籠る。接近した距離を感じ、私の頬は熱い。
「私べつに‥、ヤ、ヤリマンッテワケジャ‥、ナイもん‥。」
消え入るように言った梨華は直後、私の頬に素早くキスし、そのまま立ち上がってバスルームへと消えてしまった。
梨華が唇をあてた部分に空気が触れ、ひんやりと冷たい。それはそのまま私の熱さえ冷ましてゆく様だ。
ゆっくりでいいんだ。私は手をあて、自分の勇み足を理解した。
自分は中澤と、ましてやあの父親とも違う。ゆっくり行く方向で。
同時に、はっきりと認識した。梨華が彼等から受けていたもの、それと同じ物を与えてやる力量が、今の私にはまだない。
不幸にも歪んだ形をとってしまったが父親の梨華に対する溺愛は疑う余地がなく、そして、中澤の献身的な愛は、梨華に替えがたいやすらぎを与えた。
その2人を、いつか私は超えるだろう。
なぜなら。梨華に咲くひまわりを最期まで守るのは、私。他でもないこの私であるから。
以後、気負いのなくなった私の変化に伴い、私達の間には平穏な空気が流れるようになった。
一時に比べ、とても自然な時を過ごす梨華と私。気が向けばキスなど交わすし、手を繋いだりなんかもする。
随分と甘酸っぱいようだが、急ぐことをやめた私に今、それ以上進む気はなかった。
しばらくたったある午後、保田さんは再び現れた。梨華と私が、バーへ観葉植物を運んだ日だ。
前日、近所のゴミ置き場に捨てられていたその樹を、偶然通りかかった私達は見つけた。
味気ないいくつかのゴミ袋の中にあって、ますます枝葉は観賞用であるその本来の性質に特化し、不自然なまでに目をひいたのだった。
白いプラスチックの鉢を覗いてみると、中の土はまだ養分を辛うじて含んでいるようで、いくらか黒く湿っている。
樹本体も水分の不足から多少しなびてはいるものの、決して生命を終えているというわけではない。むしろ健康と言って良かった。
普段から店内の空気の悪さにへきえきしていた私達は、ほんの気休めにしかならなくても、少しでも改善試みようと、それを拾って来たのだった。
「こんなカンジでいいよね。」
「うん。」
だいぶ傾いた太陽の、窓から差し込む西日が数本、店内に光の筋を伸ばしていた。
いろいろと悩んだ末、結局カウンターの脇に鉢を置いた私達が、しばらくその姿を眺め、悦に入っていた最中だった。
「ごきげんよう!!来たわよ!」
日光のせいで普段より更に埃っぽく、白くかすむ店内に、こんなふうに形容するのはとても失礼けれどまるで、
カラスを絞め殺したような、無駄に陽気な声が響いた。
突然の再会はさらに半信半疑でもあったので、入り口を誇らし気に塞ぐ保田さんに私と梨華は目を見張った。
が、それに臆する様子など微塵も見せず、保田さんはガタガタと板張りの床を進んでくる。
「御げんこ!」
見守るばかりの私達の前で、保田さんはずいぶん機嫌が良いのか、片手を上げてそう言った。
この間とは対照的で、今回の保田さんは髪をツンツンに立てている。装いもどことなくアナーキー。
なんとなくだけれど、片手に提げたジュラルミンケースを除けば、グレイあたりにこういう人がいそうだと、私は思った。
「ああ、保田さん。こんにちは。‥今日は何の用?」
素早く観察を終えた私は口を開き、やっとの思いでそれだけ言った。
梨華もなかば私の影に隠れるようにしているものの、なんとか笑顔を作って、その一挙手一投足に着目している。
「何の用ってあんたねー‥。」
保田さんが苦笑する。と、その瞬間、俊敏な保田さんの視線が、私の右の拳を捕えた。
私は右手の中に、黄緑色の養分ポットを握りしめていた。
「ン?なにソレ?なに持ってンの?」
「あ、これ、薬。植物用の。さっき、花屋で買って来たんです。」
握った手を私は、保田さんの前で広げて見せた。梨華が付け足して樹の鉢を指差す。
「アレ。捨ててあったのを、拾って来たんです。ひとみちゃんと2人で。ココの空気が、少しは良くなるかな、って。」
「なるほどねー。で、なんて木?」
「ポトス。とても、育っているケド。」
澱みない梨華の受け答えに、保田さんは少し驚いていた。頷きながら腕を組み、しげしげと梨華を見つめている。
「なんっつーか‥、詳しいのね。」
梨華は躊躇うことなく言った。
「母の影響です。母が、好きだったんです。でもひとみちゃんの方が、もっと詳しいんですよ。
ひとみちゃんのお父さん、植物学のなんです。」
過去の事を口にする梨華に私は少し驚き、彼女の瞳の色を探った。
随分注意ぶかく伺ったつもりだけれど、そこには一遍の翳りもない。
忘れたとまでは行かなくても、こんなふうに笑って話せるようになるところまで、梨華は来ていた。
それが少し嬉しかったので、私も調子にのって、知識をひけらかしてやった。
「ポトス、って。あまり日光に当てなくてもちゃんと育つんです。寒さにも強いし。だから、こんなバーの中でも平気かなって思って。」
「フーン。あたし植物なんて、ペンペン草ぐらいしか知らないけどな。昔よくむしったわ!かたっぱしから根こそぎ!あれって音が鳴るのよね!」
こう。ぺんぺんさ。右手を揺らす保田さん。梨華が、生真面目に言った。
「根こそぎって‥。いちおう生き物なんですよ?」
「は?サムいこと言ってんじゃないわよ!あたしはねー、やりたいようにやるの!弱肉強食!!」
ふふ。どちらも正しい。そう思いながら、私は微笑ましく見つめていた。
本当は2人の意見をもっと詳しく聞いていたかったのだけれど、それに見合う十分な時間がなかった。逸れていた話題を私は、本題へ戻した。
「‥それはまあ、ともかく。で、車の件、どうなったんですか?上手く行きそう?」
梨華とにらみ合う格好になっていた保田さんが、ニヤリと笑う。
「全部揃ったから。」
「ほんとう?」
驚いてすぐには言葉が出なかった私の横で、つい今まで顔をしかめていた梨華が、代わって感嘆の声をあげた。まさか。できるなんて思ってなかった。
「ほんとよ。あー、さんざんっぱら走り回ったわ、この一週間!私の暗躍ぶり、あんたたちに見せてあげたいくらいジャン!」
保田さんは肩に手を置き、息をついて首をまわした。おかげで私痩せたわ!そう言いながら。
しかし私はいまだに警戒を解いていない。訝し気に見つめる私をよそに、保田さんはアタッシュを開けた。
「ほら。これ、車庫証明。で、こっちがウチの契約書。見なさい。」
私と梨華は頭を寄せあい、ペラペラした薄い紙を覗き込んだ。
各欄きちんと記入されていて、全ては準備を終えているようだった。
もちろん、知らない名義ではあったけれど。他人の名前が記載されたそれら数枚の書類に、私達はしく、息をひそめ目を通した。
「これが、私達のものなの‥?」
「すごい‥。区役所の判もしっかり押してあるよ。一体、どうやって‥。」
しばらくしたのち、ため息まじりの梨華の言葉につられ、私も口を開いた。保田さんは上を仰ぎ、得意げに眉を寄せる。
「それは、大変だったわよ。ハジメはね。正直このヤスダさんも、どうしていいかわかんなかった。けどある日、一冊の本に出会ったのよ‥。」
色を濃くした西日の黄金の光を燦々と受け、遠い目をした保田さんの顔面は激しく輝いていた。

その本は、マニュアル本でね。一時流行ったんだけど、知ってるかしら。
自殺とか、失踪とか、いろいろあるのよ。
私はさ、当てもないまま彷徨ってる途中、ブラっと立ち寄った古本屋でね、なつかしいその本見つけたのよ。あ、『失踪』の方ね。
そりゃ、そんなモノ即信じる程、ヤスダさん、コドモじゃないわよ?
‥けどさ。もしや?って思って。
本に書いてあるとおりにさーあ?区役所行ってみたのよ!アラやだ!けどまあ。
まさか〜。とかなんとか思いながらよ?そんな事、できっこないジャーン!とか。思いながら。
そしたらさッ。アンタッ!貰えるじゃないッ!他人の戸籍!嘘でしょッ?って思ったけど、
ついでに、その戸籍で他の書類も申請してみたら、通っちゃうのよッ、コレが!びっくり!!
いや〜。ヤスダさんびびった。成功しといて、こんなこと言うのもアレだけど、さッ!世の中って、なんていうか。こんなもんなのね〜。

「あ、言っとくケド、車。外にもう停まってっから。」
熱を込め、アツく語った保田さんの話にあてられ、しばし私達は考え込んでいた。]
うーん。世の中って、そんなモンなんだろうか。つい今し方まで、語る自分に酔ってさえいたふうの保田さんはしかし、唐突にそう言った。本当にケロリとして。
「えっ!?」
突然の事に焦る私達。カシャッ。光るストロボ。いつの間にカメラを手にしていた保田さんが、その瞬間の顔を写真に納めた!
「激写!!」
ファインダーを覗いたままの保田さんが、おかしな口調で言う。
「ひゅ〜いい写真とれたぜえ〜。もらったぜ〜?」
驚愕は既に去っていたのだが、それでも、なんとも言えないままの私に、早々に背を向ける保田さん。今度は梨華にレンズを向けた。
「はい、リカちゃんストップ。笑って〜。そう、いいよ〜。」
多少ぎこちないものの梨華は、いつも通りの笑みを浮かべてカメラの中に治まった。その写真は、免許証に使うんだそうだ。どうでもいいけど。
「ねえ。」
しばらくして、大切なカメラをケースへしまった保田さんは、何かを考え込むような顔つきで、私のもとへと近付いた。
「写真撮って気がついたんだけど‥。」
そう言って、私の左腕を掴む。保田さんはそれから、少し離れていた梨華の事も呼んで、手で招いた。

「コレ、さあ。」
保田さんは両手には、それぞれ、梨華と私の手首が握られている。
そこには、同じかたちの痣があった。手のひらから三分の一くらい、肘へと向かったところ。
場所も、ほぼ同じ。もちろん私達はそれに、とうに気付いていたけれど。
まじまじと見つめる保田さんに私は言った。
「そう、ウチら、同じところにアザがあるんですよ。場所も。おもしろいでしょう?」
すると保田さんは、おもむろに腕をまくる。差し出された手首に、私達は息をのんだ。
「私も、あるのよ‥。」
微妙に形状は違ったけれど、確かに保田さんの左手首にも、同じような痣があった。
場所も近い。どういう事‥?唾液を飲み込む私。梨華も真剣な瞳で、3本の腕を見比べていた。
「似てる‥。」
「なんていうか、オドロキね‥。」
掠れ気味に漏らした梨華の言葉に、保田さんも頷いた。
保田さんが帰った直後、私は矢口さんへ電話を入れた。
保田さんの言った通りで、店の前には注文した4駆がすでに停まっている。
暮れなずむ路地の新車は周囲のくすんだ景色さえも俄に輝かせ、ピカピカに磨かれた車体が先程の痣の件を、私の頭の隅へと追いやっていた。
「へえ。本当に買ったんだ。」
「ハイ。お金はまだ払ってないんですけど。」
経緯を聞いた矢口さんは驚いていた。しきりに感心する矢口さんに、私は用件を伝える。
「ひとつ、相談があるんです‥。」
「なに?」
「車、停めておける場所‥、どこかいいトコ知りませんか?」
もちろん私は確信している。矢口さんに頼めば、必ずどこかが見つかるはず。
私達は矢口さんにいつも頼ってばかりいるから、それでも極力遠慮がちに切り出したつもりだけれど、
返って来た矢口さんの口調は随分とあっさりしたものだった。
「あー、じゃあウチに置けば?」
「え。平気なんですか?」
「いいよ別に。」
受話器をあてたまま、傍らの梨華を私は見た。
目配せで駐車場確保の旨を伝えると、梨華は楽し気に2、3度頷き、白い歯を見せてニッと笑う。
「ヤグチ、今日、用があってそっち行けないんだけど。
誰か適当に頼んでクルマ取りに行ってもらうから。
うん大丈夫、ちゃんとした人行かせるよ。連絡入ったらカギ渡して。」
そんな私達を他所に電話越しの矢口さんはテキパキと話を進めていた。
剛胆で気紛れなリーダー、そういうイメージを他人にまず抱かせる矢口さんだが、実際は加えてたいした実務家でもあるのだった。
「わかりました。ありがとうございます。」
「あ、それと。カオリにも連絡しとくよ。けどアイツ本当に教えれんのかよ。ってカンジだけど。あはは。」
しばらくたった休日。約束した時間の通りに、梨華と私は矢口家を訪れた。
私達が運転を教わる最初の日だった。矢口さんは飯田さんを迎えに行っていて、まだ病院から帰っていない。
矢口さんの家が立派だという事は周囲から聞いて知ってはいたのだが、留守の間に通された居間の高級な調度に、
梨華はともかく私は、とりあえず姿勢を正した。
すぐに彼女たちは現れた。まず最初に部屋に入って来たのは飯田さん。
矢口さんはその後ろで、控えめに笑っていた。勢いよくドアを開けた飯田さんだけれども、
矢口家の廊下を、当の矢口さんよりも先頭に立って、ずかずか歩いて来たんだろうか。
頼もしい姿を思い浮かべたら、思わず笑みがこぼれてしまった。
「ひさびさ。」
目が合った瞬間、飯田さんはなぜか少しだけ頬をピンク色に染めたのだが、やがて不器用に片手を上げて、ぶっきらぼうにそう言った。
久しぶりに会ったので、いくらか照れてもいるんだろうか?飯田さんの動作が、よりぎこちないように思えた。
驚いたことに、飯田さんのスカートの裾には、ひとりの少女が隠れていた。飯田さんが私達の視線に気付き、少女を前に押し出す。
「このコは辻。」
人見知りするたちなのか。
「こんにちは、辻さん。」
梨華と私が笑顔を向けると少女は顔を真っ赤にして、飯田さんの腰のあたりに再び隠れてしまった。
少女----辻さんはどうやら言葉を話せない様子だ。
後から聞いたところによると、なんでも飯田さんとは病院でベッドを並べる仲らしい。
心因性の失語症を患っていて、詳しい原因などは飯田さんも含め、他の入院仲間の誰も知らないそうだ。
それからしばらくの期間、私達は飯田さんの教習を受けた。
精神の病気。医師にそう烙印を押された飯田さんだった。
彼女の運転は思っていたよりずっと上手く、そして何より楽しそう。
週に一度ほどのペースで通算5、6回教えてもらったわけだけれども、大声で歌いながら飯田さんはハンドルを握る。
そんな彼女を見る度、私は昔読んだ伝記の、ジャンヌ=ダルクを思い出した。天真爛漫な笑顔でスピードを上げ続ける飯田さん。
自由へと馬を駆った中世の魔女もきっと、こんな姿だったに違いない。
車の運転に関して、私はいわゆるセンスがあるみたいだった。一日目の練習で、私はおおむねのコツを掴むことができた。
アクセルに載せた足に初めて力を込めた時は、もちろん恐々としていたのだけれど、私はそれにもすぐに慣れた。
一方の梨華は随分苦戦していた。
テニス部の部長を勤めたりして、運動神経などは特に悪くもないはずなのに、
エンストと急発進を無限に繰り返す彼女の運転に、最初はつき合っていた矢口さんと辻さんだったけれど、
30分も経った頃、とうとう体調不良を訴え、2人は車外に出てしまった。
本当の事を言えば、私も気分が悪くなりかけていたのだが、ハンドルを握って悪戦苦闘する梨華の真剣な姿がとてもおもしろくて、結局最後まで乗って見ていた。
「ねえ。今度、どこかに連れていって。」
一ヶ月程経って、公道も遜色なく走れるようになった私にそう言ったのは、その頃既に運転を諦めていた梨華だ。
「いいよ。免許が来たらね。どこ行きたい?」
「うーん‥、遠いところ。ドライブがしたい。」
車を届けたついでに免許用の写真を激写し、同じ痣を見せつけて帰って行った保田さんから、以後連絡はない。
相変わらずの音信不通ぶりだが、神出鬼没な彼女なのでぼちぼちやって来るだろう。
だいたい支払いがまだ済んでいないのだし、遠からず現れるに決まっている。
「じゃあ、飯田さん達も連れて、みんなで行こうか?」
「うん‥。本当は、ひとみちゃんと2人がいいけど‥。うん。でも、そうしよう?ふふ。ホントに、お世話になったもんね。」
私の言葉に、少し残念そうな表情を見せた彼女。すぐにおどけて肩をすくめた仕種にかなりときめいて、私は彼女の頬にキスした。
数日後、ついに保田さんから連絡が入った。
「ごきげんよう。ヤスダです。」
非通知の携帯を訝しみつつ出てみると、それは果たして保田さんだった。
「あ、こんにちは‥。」
「来週の中頃に免許証をお届けに伺いますのでその時に支払いの方もどうぞよろしくね。」
低いトーン。そして早口。しかし不思議だった。携帯の番号、保田さんには教えてなかったはずだけれど‥。書類も偽造だし。
「はい‥、わかりました。‥あのう、保田さん?」
「なんでしょうか。」
「その‥、このケータイの番号、どうして知ってるんでしょうか?」
「そんなコト今は問題じゃないわッ!!」
「ひッ。」
私が聞くと、なぜか保田さんの口調が一転した。私は驚いた。
「では。来週お目にかかります。ごきげんよう。」
ドキドキしている私にかまわず電話を切った保田さん。その口調はまた、元の低いトーンに戻っているのだった。

海。失語症の少女が発したその短い言葉を、おそらく私は忘れない。
保田さんに会うまでに、飯田さん矢口さんののちゃんに会う機会があったので、以前梨華と2人で話していたことを彼女達に伝えたのだ。
「飯田さんが決めて下さい。遠くても平気ですよ。」
私達の誘いに瞳を輝かせた飯田さんは、白く長い腕を組んで真剣に考え始めた。
「んー、カオリはねー。自然のキレイなトコに行きたいんだけどー。うーん‥、どこがいっかね。」
目をぱちぱちさせつつ長い間決めかねる飯田さん。矢口さんが口を挟んだ。
「ホラ。カオリ。どこでも行けるんだって。いちばん行きたいトコって何処?」
「えー。それはー。一面、超咲いてる花畑だけどー。でもカオリ、どこにあるのか知らないよ。
‥そうだ辻!辻が決めな!ねえヨシザワ。辻が行きたい所に連れてってあげて!」
まるで小さい子供みたいに、すっかり顔を上気させた飯田さんは、顔中を笑顔でいっぱいにして少し興奮気味に叫んだ。
ドライブ、そう聞いたののたんが、いつになく喜んでいる事はすぐに解った。
飯田さんの腕をずっと掴んでいる手が、相当リキんでいるのが、見てはっきりとわかる。
その頃になってだいぶ私達にも慣れてきた彼女は、出会った当初に比べ、
随分と笑顔を見せてくれるようにもなってはいたけれど、それ以上に今日はずっとにこにこと笑っているのだ。
「ののちゃん、どこがいい?」
ののたんの顔を覗きこみ、梨華が笑いかけた。
ついさっきまで目をきらきらさせていたののたんは今、急に白羽の矢が当たり息を飲み込んでしまっている。
皆の視線を知った彼女は耳までも朱く染め、耐えきれず俯いてしまった。
「ホラ、辻!言ってみな。」とは飯田さん。
「どこでもいいよ。」と私。
「ののちゃん。」と梨華。矢口さんは微笑んだまま、特に何も言わなかった。
「え、なに?もう一回!」
顔を上げたののたん。口を動かした直後に梨華が目と口を開ける。
どうやら見逃してしまったようだ。矢口さんの視線も同様、いまだののたんの口から離れてはいない。
飯田さんはすでに視線を逸らし、足下の雑草を見つめていた。頑な口を一文字に結んで、目が少し赤い。
私にも聞こえた。聞いた事がないはずの、ののの声。海。彼女は今、そう言ったんだ。

数日後。午過ぎに鳴った電話で私達は目が覚めた。
「今から行くから。店にいてくんない?」
保田さんだった。仕事を終えベッドに入った時、外はすでに白み始めていたから、6、7時間は眠ったろうか。
シャワーを浴びた私は急いで身支度を済ませ、梨華と一緒に店に降りた。
札束の入ったバッグもまたクローゼットから取り出して、忘れずに持っていった。
今から行く、保田さんはそう言ったが、しかしなかなか現れなかった。
通常の出勤時刻にはまだ随分間があり、私達2人を除いて店内には誰もいない。
穏やかに晴れた昼下がり、柔らかい日ざしが静かに差し込むフロアは、私と梨華の靴音のせいで多少の埃が舞い立った。
「うーん。やっぱり目が醒めちゃってるみたい。寝れない」
横になっていた身体を勢いをつけて起こすと、向かいの梨華も目を開けていた。
保田さんが来るまでの間、それぞれ一つずつソファを占領し、私達は再び眠ろうとしたのだ。
けれど無理矢理起こした頭は思ったよりも冴えていて、期待した眠気は一向に訪れる気配がない。
しばらく目を閉じてみたのだけれども、すぐに飽きた。
「私も。」
そう呟いた梨華も半身を起こす。私達は顔を見合わせ、ため息をついた。
「遅いよね、保田さん。起こしといてさあ。」
「ほんと。私お腹すいちゃった。何か作ろうかな。ひとみちゃんも食べる?」
「うん。キッチン何か残ってるかな。」
厨房の冷蔵庫を開けると、ピーマンとハムがあった。それらを炒めてパンに挟めば、きっと美味しい。
あいにく卵は切れていたが、それはそれでよしとした。
「べつに簡単だし、私が作るから。ひとみちゃんは座ってていいよ。」
手伝おうと思ったけれど梨華がそう言うので、私は素直に従って再びフロアに戻った。
ふと目に入ったポトスの鉢。暇だし水でもやろうか。
観葉植物を置いたことで店の空気は果たして良くなったのかどうか、私に実感はなかったけれど、こうした陽光の元で葉の緑を見るのは、目に確実に心地よい。
通路の物置きからじょうろを持って来て、3分の1程水を満たした。
鉢植えの前にかがんで根元にぱらぱら播いていると、幼い頃の記憶がなつかしく胸に蘇った。
あれは父がまだ、助教授だった頃。
他の家と比べると割合帰宅の早かった彼が、普段よりも遅くなって帰った。

夏の夕暮れ。夕飯の準備はとっくに整っている。空腹のせいで私は、無邪気に苛立っていた。
連絡を入れずに遅くなった父の帰りを、母と2人で待っている。不機嫌に口を尖らせ、TVアニメを見る私。片手に麦茶のグラス。
風鈴が鳴った。
「もう食べちゃおうか」
時計を見た母が私の頭に手をのせた。と、瞬間、玄関を開ける音が聞こえる。父だ。私は立ち上がって駆け出した。
「遅いよパパー」
「ゴメンな、ひとみ。ただいまっと」
足元に抱きついて、そのまままとわりつく私を、父は優しく抱き上げた。
「悪い、連絡も入れずに」
エプロンで手を拭きつつスリッパを鳴らしながら現れた母は、それでも安堵した表情で、2言3言軽い文句を言った。
片手で私を抱いたまま、父は廊下を歩く。もう一方の手には鞄ともう一つ、白いビニールの袋を共に提げていた。
「ねえ、それなにー?」
父の腕に抱かれ、すっかり機嫌を直した私が指をさした先。一旦目線を落とした父は、私に再び笑顔を向けた。袋の中。根元を紙で覆った苗木。
「これはお土産だよ。一緒に育てよう」
白いプランターに父が植えかえた小さな木に、次の日から私は夢中になった。
おもちゃの小さなじょうろで水をあげるのが、毎日とても嬉しくて、朝と晩の2回、それがしばらくの日課になった。
気に入っているあまり私は、隙を伺って時間外にも水やろうとするのだけれど、そうするとなぜか、父か母かに必ず見つかる。
「あげ過ぎてもダメなんだよ」
そう諭されて、歯がゆい思いをしていたっけ‥。ふふふ。懐かしい。

「何ひとりで笑ってんのよ、気味悪いわね!」
突然かかった声に振り向くと、保田さんが立っていた。
鉢の前にしゃがみ込んだ私の背中を見下ろし、歯を見せて笑っている。
悔しいが私は驚いて、そのまま尻もちをついてしまった。
この女いつの間に‥!知らない間に背後を取られていたことに私は憤りを覚えたが、おののきのあまり言葉がでない。
「や、や、保田さんこそ何ですか!気味悪いのはそっちですよ!」
震える声でそれだけ言うのが精一杯だった。下から仰ぐ格好になった保田さんの表情は、言い知れぬ迫力に満ち溢れている。
「フん!」
しばらく私の瞳をじっと見つめたあと、おもむろに保田さんはそう言った。なんとも不敵な表情を浮かべ、そのままプイと踵を返した。
ソファに腰掛けた保田さんは無言でアタッシュを開く。私も落ち着きを取り戻した。立ち上がって正面に座る。
「石川は?」
保田さんが聞いた。
「キッチンでサンドイッチを作ってます。急いで店に来たから、私たち何も食べてないんです。」
「ふーん」
うってかわってサッパリとした口調。少し、怒りがこみあげた。
「だいたい遅いですよ!『今から行く』って言ったくせに!」
「ああ。ごめんごめん。なんていうかこう、ちょっとした抗争に巻き込まれてね。」
語調を荒くした私をなだめるように、保田さんは片手をかざした。表情があくまでも得意げだ。
「ハァ?抗争?」
「そう、犬がさあ。」
つまるところこの先の埋め立て地で、2匹の野良犬が1匹の雌をめぐってケンカをしていたらしい。
偶然通りかかった保田さんは放っておくことができず、そこへ仲裁に入ったという。
見れば保田さんのスーツの裾にはかすかに土がついていた。
「犬の‥、ですか‥?」
「そうよッ?大変だったわよッ」
真剣な様子でため息をつく保田さん。武勇伝に逞しくも鼻を広げる。
「その2匹があんまり聞かないからさッ、もう、私、噛んでやったッ!」
ソファに座る自身の外腿を、顔を顰めた保田さんは激しく叩いた。
「そしたら!そいつら仲間なんて呼びやがって!そっから小一時間、野犬の大群と!もう、ガチの睨み合いよッ!」
そんな保田さんをよそに、私は話題を変えた。
「支払いは、キャッシュでいいんですよね。」
「そうよ。その方があんたたちもなにかと楽でショ。」
保田さんは何度か首をまわしたのち、がさがさとアタッシュを探った。封筒をひとつ取り出して、テーブルの上にひらりと置く。
「はい、コレ。こっちも全部渡したわよ。」
なかば放り出すように置かれた茶封筒には、2人分の免許証が入っていた。
「あ、どうも。いろいろと本当にありがとうございました」
割と本心からそう言った私は、あらかじめ示されていた金額を揃え、保田さんへ押し出した。確認する保田さん。私は免許証に目を通した。
「ちょっ‥!コレ!ヤバくないですか写真!」
「あー、それ。ほんとにブサイクよね」
大声を出した私に、保田さんも顔を上げる。札を鞄にしまう途中だった。
驚いたひょうしに撮られた、例の私の写真。それは予想以上にイケてなかった。ポカンと開いた口、微妙に膨らんだ小鼻。目など半目だ。
「てゆうか、いいんですかこんな写真?免許ってちゃんと写ってなきゃいけないんじゃないの?」
動揺する私。保田さんは余裕だ。
「平気よそのくらい!むしろイケイケよ!」
「ほんとうですか?」
取りあえず頷いたけれど、運転する際には細心の注意を払わないといけない、私は激しくそう思った。
「保田さん。来てたんですね。気がつかなかった」
調理を終え、梨華がやってきた。手に持ったトレイにミルクとサンドイッチを載せている。振り返った保田さんはニッコリと微笑んだ。
「元気、石川?なによソレ、おいしそうじゃん」
「あ。よかったら食べます?けっこう多めに作ったんです」
梨華がトレイを置いた。保田さん用に私はもう一つのグラスを取りに、カウンターへと席を立った。
「できれば私、コーヒーがいいんだけど。」
保田さんがそう言うので、カウンターで湯を沸かした。
ソファに座った保田さんは、出来あがった免許証を、梨華にも見せている様子だ。
楽しげに、いくらか高くなった梨華の声が、私にも聞こえた。
「アハ。私、やっぱり黒いですよねー。美白しようー。」
「待ちなさいよ!アンタなんてぜんぜんイケてんじゃん!吉澤の写真見てからでも遅くないわよ!ホラ」
その言葉に反応し、私は敏感に顔を上げる。同時に、深く反省した。免許証をすぐにしまっておくべきだった。
「どうよコレ?ヤバくない?」
「ヤバい‥。強れつ‥。」
そう言って、ケタケタと笑う2人。いれたてのコーヒーをこぼさないように、精一杯の注意をしながら、私は早足でソファへ戻る。
「うるさいなあ。見ないで」
ふてくされてみせると、2人はますます笑った。
案の定のスマイル、梨華の免許証、彼女が自分だけ可愛く写っていたことは、私が言うまでもない。
「はー。食べたわ。ごちそうさま。」
ひとしきり笑ったのちに先に食事を終えた保田さんは、コーヒーを飲んで息をついた。
私達は本当にお腹が空いていたから、保田さんよりも多く食べ、その分時間も長くかかった。
「なんだかアンタたちよく食べるわね。微笑ましいわよ!」
しばらくの間、ニッと笑いながら私達を眺めていた保田さんだったが、やがて大きく息を吸い込み、両手を上げて身体を伸ばす。
「あー、売れた売れた!」
ミルクに手を伸ばしながら私は保田さんを見た。ほおばったパンのせいで、口は開くことができない。
「初めて売れたの。言ったわよね?あー。気分イーいなー。」
頷いたりしている私の横で、梨華が微笑んだ。
「保田さんにはいろいろして頂いて‥。本当に、ありがとうございました。」
「何言ってるのよ!アンタ達のおかげよ!さしずめ、今日は記念日ってトコねッ!ありがとう!感謝しているわよッ!」
保田さんの言葉に、左右に首を揃って振った私達。そんな様子を見た保田さんは目をカっと見開いて笑った。
その後、ひと呼吸置いたのち、妙に真摯な瞳になる。
「いいモノ‥、見せてあげようか。アンタ達いいコだから。」
その頃になってようやく食べ終えた私は聞いた。
「え?いいモノって?‥なんですか?」
食後、肺から持ち上がる空気をなんとか抑えつつ保田さんに注目する。
「それは、おたのしみ。でも、なかなかスゴいわよコレ。2人には特別にやってあげる!」
「なに?」
不思議そうに呟いた梨華。私達は思わず互いに顔を見合った。
構わずに立ち上がった保田さんはテーブルを回って、私達の正面に立った。
そんな彼女をただ見守るばかりの私達。背中をかがめた保田さんは意味ありげな顔をして、私達を覗き込んだ。
突然の挙動。とまどう私と梨華。
保田さんは言った。
「深く腰掛けて。‥そう、楽に。」
やけに静かな口調によって私達は逆に気圧され、言葉をついのみ込んで、保田さんに従った。
そんな様子を確認した保田さんは、続いて、私達の手をとる。右に梨華の手、左には私の手をそれぞれ握った。
事態がつかめないうちに急変した、その厳かですらある空気に、私達は息を詰めた。
「コレを見て。」
顔の下に右の手を持っていくと、保田さんは人さし指を立て、アゴのホクロを指差した。梨華の手は、握られたままだ。
「え‥、ホクロ‥?」
「そうよ。」
吐息にも似た私の言葉に答え、上げていた右手を保田さんは戻す。一体ナニ‥?からかってるんだろうか。
「集中して。良く見なさい。」
私の動揺を見透かしたように保田さんが言った。静謐さを増す口調。
抗いがたい雰囲気をひしひしと感じ、言われた通りにホクロを見つめる。
動悸が速まって行くのがはっきりとわかった。突然、保田さんが叫ぶ。
「深呼吸して!逝くわよ!」
「あっ!」梨華が小さく息をのんだ。

ホクロが‥!動いた‥、今!?
瞬間、波にさらわれる感覚と共に、周囲の景色が暗闇へ変わった。

気がつくと私は、薄明るい無の中にいた。黄を帯びた灰色。
なまぬるい空気だけがXにもYにも、永遠に、ひたすら伸びてゆく空間。
否、空間という表現すら正しいのかどうか、それさえも解らない。俄に不安が襲った。
一生懸命に目を凝らしたが2人の姿はおろか、他のいかなる物体が、何も像も結ばない。
「ここ‥、なに‥?」
そもそも目を開けているのか、それ自体定かではなかった。怖い。
「りかっち!保田さーん!」
夢中で叫んだ。それが声となって果たして発せられているのか。そういう判断なども同様につかなかった。
(うっさいわね。いるわよ!!)
私の予想に反し、案外近いところから保田さんの声が聞こえた。耳の裏側、声よりはむしろ、意志というべきなのか。
「キャッ、保田さあん!」
(うるさいっつってんの!響くのよアンタの声。叫んじゃって小心ね!)
やっぱり意志が、直接届くみたいだ。気がつけば私の体も消えている。
が、かすかな感覚は残っていた。外界とのボーダーは、とても曖昧だったけれど。
「あれ?りかっちは?」
保田さんの声が聞こえて急に安堵した私は、さっさと平静を取り戻し、梨華の所在を尋ねた。
(さあ。そこら辺にいるわよ)
保田さんはこともなげに答える。するといつもの声が聞こえ、手を繋ぐイメージが私の中枢を駆け巡った。
「ひとみちゃん。ここ‥。」
「あ、コレ、りかっちの手‥?」
「うん‥、たぶん。」
突然上がる保田さんの嬌声。
(ええ!アンタ達、こんなトコで手なんて繋げんの!?だって何も見えないでしょ!?)
「でも、手を伸ばしたら、ソコにありました‥。」
ぽつりと答える梨華。
(スゴイわよ!よっぽど深い繋がりがあるのね!)
そんなやりとりを聞いて、得意になる気持ちを私は抑えきれない。
やっぱり私たちって素敵ね。愛しあっているのだから、当然と考えた。
「で?ここ、なんなんですか?」
(知らない!!)
梨華と手を繋いで、気が大きくなった私。あろうことか保田さんは、きっぱり言い放った。
このアマ‥!そう思ったけれど、やはり落ち着かなければいけない。それでも語気には隠し難い険が、強く現れてしまった。
「知らないって!困りますよ!こんなトコに連れて来てッ!」
(あー、知らないってゆうかー。ここがなんなのか、ワタシにもわかんないのよ。けど何回も来たことあるよ?)
「どういう事ですか?」
憤慨する私に変わり、今度は梨華が尋ねる。
(なんかー、私。過去に行けんの!人も連れて来れるし!だからアンタ達にも見せてやろうと思っただけよ!文句ある!!)
ハァ?過去?およそ信じられない話だった。からかうにも程があると思った。
「有り得ませんよそんな事ッ!早く元に戻して下さい!どんなトリック使ってんだッ!」
(信じる信じないはアンタ達の自由だわ。)
飄々然な態度をあくまでも崩さない保田さん。とうとう、私の怒髪は天をついた。
「このやろうッ!」
激昂する私と、梨華の繋いだ手。ギュッと、瞬間、力が込められた。すっと息を吸って、梨華が呟いた言葉。
「保田さん‥。」
(何?)
「私‥、お母さんに会いたい。」
「!」梨華は真剣だった。握られた手からそう感じた。
(いいわよ。)
「ほんとう?本当に会えるの‥!」
(実際に、会う事はできない。ただ見るだけ。)
梨華はゆっくりと、そして深く頷いた。
「‥それでもいい。」
(オーケー。で、吉澤。アンタはどうすんの?)
梨華の気持ちを考え、私の胸が張り裂けそうになった事は事実だ。けれど今さら。
素直にうんと言えない。梨華には気の毒だと思うけれど、私はそんな話、やっぱり認めない。超常現象とか、非科学的な話は大嫌いだ。
「でもたぶん嘘だよ。」
精一杯冷たく言った私。寂し気に笑う梨華。
「それでも‥、いいよ。」
そんな物を信じてまで、母親に会いたいと梨華は願う。なんだか痛々しくて、梨華の見えない姿から、私はそれでも必死に目を背けた。
ゆるゆると空気が動いた気がした。あるいは実際気のせいなのかも知れない。
やがて虚無以外の、何もなかった空間に、自然と目の焦点が合わされていった。
先程から梨華は言葉を発さなくなった。靄状のものが幽かに出始めた一角。
瞬きもせずに見つめ梨華は、淡い期待を抱いて記憶を懸命に辿っているのか。
「なんだか胸がざわざわするよ‥。」
そのまま梨華が、遠くへ行ってしまいそうだ。
私は不安のあまり話し掛けたけれど、返事のない指先から、興奮した彼女の心理状態だけが、振動となって伝わるばかりだった。

意味をなしていなかった靄が、やがてなんらかを形成し始め、それらが合わさって物体を象ってゆく。
見る間に現れた広い庭。見覚えがあるけれど、矢口さんの家とは明らかに違う。私は舌打ちした。石川家だ。
いつの間にか私達は古風に手入れのされた、庭の中へと入り込んでいた。私の記憶よりもやや古びていない屋敷。
特別大きな柘榴の陰に、私達は身を寄せていた。
気がつけば私達の体はもう透明でなくなっていたが、なぜか保田さんだけは相変わらず見えない。
すると、軒先に佇む若い女性が見えた。少し距離はあったが、梨華の母であると私にはすぐ解った。似ていた。

「ママ‥」
夢見るような口調だった。ふらふらと歩き出そうとする。
(出て行っちゃだめ。)
厳しい口調で保田さんが言った。母親の足元には、幼児がしゃがみこんでいて、地面に小石で、絵を描いている。赤い服を着た梨華。
(あれはアナタよ。気付かれたらいけないの。)
聞こえていないのか、梨華はそれでも近寄ろうとした。私は必死に彼女を抑え付けた。
「嫌‥。離して‥。」
うつろに呟く梨華。恐ろしい程の力。懸命に抱き止める私の手の甲に、温かな水滴がぽたぽたと落ちる。たまらず叫んだ。
「もうやめて下さい‥!」
相変わらず姿の見えない保田さんに、私がそう願った時だ。
「その子が、梨華なのか‥?」
若い男性の張りのある声。ふいに強い違和感を感じ、私は顔をあげた。
木の陰が邪魔して、男の顔は見えない。サンダルを履いた梨華の母親は、男に声をかけられ、文字通り凍り付いていた。
様子からして男は、私達が埋めた父親ではない。前進をやめた梨華は背筋を強張らせ、黙ってただ見つめていた。
先程から私の心臓は、激しい動悸を繰り返している。
「一度だけ、俺にも‥抱かせては貰えないだろうか‥。」
やはり‥!聞き覚えのある声!
「お願い、さや造(仮名)さん‥。帰って下さい!」
「俺の子でもあるんだ‥!なつみ(同上)ッ‥!」泣き濡れて首を振る梨華の母親へ、男が大きく一歩踏み出た。顔が見えた。

神様。

「パパ‥。」口に出さなければ良かったと思う。私だけの胸に秘めていれば、何も起こらなかったかも知れないのだ。
けれど。ことのほか大きな声で私は呟いてしまった。
吉澤さや造。彼を知っている。不用意な私の言葉で、驚愕に見開かれた梨華の瞳。
ぶつかった視線を最後に、あたりは再び闇に戻った。
時間旅行、サイコキネシス、地底の王国。我ら科学の子、そんなものに今さら惑わされやしない。
月の裏側に潜む敵艦隊の群れなんて、今さらどこを探したっているはずないんだ。
そういう世界から私は少なくとも、とっくにさよならしたはずだった。
一方的に連れて行かれた、およそ信じ難い空間。目にした光景。信じる信じないは自由。
そう保田さんは言った。出来ることならば頭ごなしに否定して、笑い飛ばしてしまいたかったけれど。
普段の私であれば、必ずそうするはずだけれど。
では、いつかの母の動揺ぶりは?手首にある同じ痣は?草花を愛した梨華の母親は?植物学者の私の父は?
偶然か、それとも、必然か。思い返してみれば、あまりにも辻褄が合うのだった。
気がつけば私は、再びソファに座っていた。
ひどく動揺した保田さんは私が目を開けたとたん、気まずそうに視線を逸らしたのだが、私は何も言わず、横に座る梨華を見た。
手を繋いだままの梨華は、未だ戻って来ない。
あまりにも静かで、本当に息なんてしてるんだろうか?そんな私の不安がぎりぎりまで高まったところで、梨華はようやく目を覚ました。
瞳を開けた彼女は、私と目が合った瞬間、繋いでいた手を反射的に離した。
「な、なんか、凄いモノ見ちゃったけど‥。その‥、あんまり‥、き、気にしない方がいいわよ‥。」
張り詰めた空気に耐えられなくなった保田さんは、「鬱だ氏のう‥」そういう呟きをひとつ残して済まなそうに帰っていったのだが、
私の中では、保田さんを責める気持ちなど、とっくに萎えてしまっていた。
彼女に責任を押し付けたところで、事態はもはや、好転など決してしないのだから。
やがて2人きりになった私達は、しばらくの間、言葉を探し続けていた。
けれど、良い台詞は見つからないまま、梨華は私に背を向けてしまった。
彼女のピンと伸ばした繊細な背中に、私は手を触れようとしたのだけれども、華奢な肩の張り詰めた脆さに、伸ばしかけた手が行き場を失った。
「まさか信じてるなんて事ないよね。」
仕事を終え部屋に戻るなり、私は梨華に言った。
ひどく動揺する内心を彼女に悟られないために、わざと傲慢な声を出した。
梨華は仕事中、ずっと私を避けていた。他の従業員の手前、私とも一応は言葉を交わす。
それなりに笑顔もつくってはいる。けれど、決定的に違う。決して視線を合わせないのだ。
「あんなの、嘘に決まってるよ。」
用心深い私はもう一度、念を押すように繰り返した。そうであって欲しい。
それは同時に、ともすればくじけてしまいそうな、自分への鼓舞でもあった。
沈痛なおももちで梨華はソファに腰掛け、口を開こうとしない。
苛立った私はつかつかと歩み寄り、彼女へと詰め寄ったが、横に私が座った瞬間、
まるで梨華は怯えてでもいるかのように、立ち上がって、窓辺へ逃げてしまった。
何も言わずに避けるだけ。そんな梨華に腹立たしさを覚えた。私はただ、賛同の言葉が欲しいだけ。
本当でも嘘でも今さら関係ないわ、とか、そんなふうな言葉が欲しいだけなのに。
「まやかしだよ!なんで逃げんのッ!?」
激昂した私は立ち上がって、梨華の後を追った。
「嘘に決まってる!証拠なんてないじゃん!あんなもの信じてるの?どうかしてるよ!」
支離滅裂なのはわかっていた。けれど、止まらなかった。
部屋の隅に梨華を追い詰め、早口でまくし立てた。依然梨華は視線を反らし続ける。
苛立ちが焦燥に変わり、不安のあまり私は彼女の肩をつかんだ。
「ねえ‥っ!!りかっち!!」
少し目眩がした。頭に血が昇ったからだ。力まかせに梨華を、ガクガクと揺さぶった。望む返答が得られない。涙が出そうだ。
「いいかげん見なよ!私の目!!」
なかば祈るようにして心から叫んだ私を、彼女はようやく視界に入れてくれた。
苦悩の混じった自虐的な笑みを、薄く浮かべる梨華。永遠にも感じられたほんの一瞬を私は呼吸さえ忘れて待った。
「私‥、もう。何がなんだか‥。少し、時間をちょうだい。」
絶望的。すがりつく私に、まるで同情でもするような、梨華の弱い瞳。少なくとも私にはそう見えた。
曖昧に頭を振ったのち、一言ずつ梨華は呟く。
「もしかしたら、ひとみちゃんは‥、たったひとりの、妹かも知れないんだもん‥。
どうしたらいいのか‥、わかんないよ。‥私ね、一人っ子じゃない?‥兄弟ってずっと、憧れていたの。」
息が苦しくなった。姉妹だとしたら、私達の関係は、これからどうなる‥?
今までみたいに梨華は、私を見てくれるんだろうか?それとも恋人では、なくなってしまうの?
「やだよ!そんなの‥ッ!!」
脇にあったベッドに私は梨華を力ずくで抱きすくめ、そのまま押し倒した。
「ちょ‥っ、やめ‥て!」
「ねえ、エッチしよう今ならあたし出来る。しようよ」
一方的に言って、梨華の服を無理矢理たくし上げた。梨華は激しく抵抗した。
「イ‥ヤッ‥!時間が欲しい‥て、言ってるでしょ‥!‥ッ離して!」
梨華は渾身の力を込めて私を押し退けようとしたが、その突っ張った腕を、更に私が、強いちからで押さえ付けた。
「やめて、‥よッ!」
荒くなった呼吸と共に吐き出された梨華の言葉に、もう私は答えなかった。
もがく体に全体重をかけてのしかかって、無我夢中に唇を奪った私は、彼女が息を吸い込むその一瞬の隙をついて、口腔に侵入した。
そのまま蹂躙をし続けているうち、いつしか梨華は抵抗をやめた。
やがて唇を離すと、梨華の咽が鳴った。
梨華の頬に涙が伝っていることは、キスの最中目を閉じていた私にもわかっていたのだが、無視した。
彼女が泣いていたところで、別にどうでも良いとさえ思った。
おとなしくなった梨華の服を本格的に脱がそうと、顔を上げた私の視界に、それを遥かに凌ぐ衝撃映像が待ち受けていた。
凍り付いた私は即座に醒め、自分の愚かさに胸が悪くなった。見開かれてはいるけれど、何も映さない梨華の瞳。
「ゴメン‥。」
私は呟いた。果たして許されるべきか。梨華は無機質な声で言った。
あの男と、どこが違うっていうのよ‥。
ベッドの脇には小さなテーブルがあるのだけれど。小振りのナイトランプの他に、大きなガラスの灰皿がひとつ。
指輪とか、ピアスとか、こまごましたものを入れる為に使っていた。
ベッド下にだらりと垂らされた細い腕の先に、その決して軽くなどない鈍器がしっかりと握られていた。
それは、私に向かって振り下ろされはしなかったけれど。梨華はそれでも、許してくれていたのだけれど。
ほどこしようのないばか者。殺されていた方が、よっぽど救われたろうに。
憔悴した私はよろめきながら立ち上がった。フラフラと、おぼつかない足で後退ると、梨華の手から灰皿が落ち、ゴトリと床が硬い音を立てた。
無造作に転がったガラスの灰皿。周囲には、ばらまかれたアクセサリの類が、薄暗い部屋で鈍く光っていた。
梨華は仰向けに横たわったまま、うつろに瞳を見開き、時折ぶつぶつと何事かを呟いている。こめかみに伝う涙など拭おうともしない。
私はただ跪き、床に散らばったピアスやらを、両手で、すくうようにして集めた。
アゴが床を擦るくらい上体を落とし、まるで這いつくばりでもするように無心に手を動かした。
一度手に入れた、少なくともそう思っていた梨華の気持ちを、焦燥に駆られた私は自ら手放してしまった。
涙なんてもう出なかった。圧倒的な喪失感。そこから来る放心だけが、私を支配していた。
部屋の一つしかないベッドではなく、私はソファに横たわり、クローゼットから取り出した一枚の毛布を、妙に冷えた体にかけた。
ソファは2人掛けだったけれど、女子にしては身長のある私が、自由に手足を伸ばせる程大きいわけでもなかった。
背中を丸めた姿勢はかなり窮屈だったけれど、それでも良いと思った。
あんな事をしでかして尚、梨華の脇で眠れる程、私は強いわけではないから。
梨華と離れて休むことで、物理的な距離を置いた。が、そうしたところで安眠など、簡単には訪れない。
体はひどく疲弊しているのに、なんだか、ぐちゃぐちゃに絡まった神経が眠ることを許さなかった。
体の向きを何度も変えた結果、快適な体勢などは無いことだけが解った。
途方に暮れた私がごわごわした毛布を頭の上まで持ち上げた時、太陽は既に随分高くなっていた。
梨華は以前の彼女に戻った。単に私が忘れていただけだ。梨華にとっては単純な、規定通りのパターン。

ピピピピ/ピピピピ

神経に障る目覚ましの不快なアラームの音で、浅く不確かな微睡みから再び呼び戻された時、梨華が寝ていたはずのベッドに、彼女の姿はなかった。
ほとんど眠れなかったせいでズキズキと頭が痛む。
朦朧とする意識の中で、瞳を巡せてみると、ベッドのシーツの角が綺麗に揃えられていた。
更に耳を澄ましてみても彼女の気配はなかったのだが、私はべつだん驚かなかった。
先に仕事に行ったのだろう。そう思ったからだ。
私が目を覚ます前に、梨華のいれたコーヒーが、キッチンのコーヒーメーカーに温かいままで残っていた。
梨華との対面が多少なりとも延期された事によって、私は安堵し、目を開けた瞬間から続いていた動悸が少しだけマシになった。
私は冷蔵庫から、茹でておいた卵とそしてバナナを2本取り出して、コーヒーと共に食した。
食欲がなく、胃も、相当ムカついていたけれども黙々と、我慢して詰め込んだ。ましてや寝ていないし。
食べなければ力がでないのだ人間は。梨華は、何か食べただろうか?
予想に反し梨華は普通だった。と、いうよりもむしろ、それが梨華の普通。そう言い換えるべきか。
「おはよう。」
思った通り彼女は先にバーへ来ていた。張り詰めた、ある種ドラマチックな対面を想像して、緊張していた私を裏切り、
梨華はいつも通りの、どこか淋しげな、けれど眩しい微笑みを、これまた、いつものように浮かべていた。
まるで昨日の事など、全部忘れてしまったように。
「‥あ、‥うん。先に来てた、んだね今日は‥。」
戸惑った私の答えは、ひどく曖昧で、おかしなものになってしまった。
「ひとみちゃん。2番のテーブル、ドリンクおかわりだって。」
仕事中梨華は本当に、普段どおりに振る舞った。
何も知らない他人、例えばくだんのバーテンダーなどからすると、むしろ、普段よりも明るく映っているんだろう。
「石川。なんか、機嫌がいいねぇ。かわいいよ今日すごく。」
その証拠に彼は、ニコニコと微笑んでレジスターに座る彼女に、そう声を掛けていた。
「えー。そう見えますかー?」
一見無邪気に顎を上げて、軽く、可愛らしく返す梨華。あしらっている。
最初こそその真意を計りかねた私だけれど、それ程時間もかける事なく、やがて理解することができた。
清潔感があって、誰からも好かれる特有の笑顔。やや憂いを含んで、それが逆に、見る者を惹き付けずにいない瞳。
私にはわかった。何も映していないのだ。あの頃と同じ。完全に。そう言って良かった。
全てを呑み込むような、包み隠すような、優等生の微笑み。よく知っている。
レイプまがいの行為を梨華に押し付けようとした私。
そんな私をもっとあからさまに、言ってみれば単純に、梨華は拒絶するものと思っていたのだった。
嫌悪されて蔑まれて視界にすら入れない-----、そういうかんじの青い覚悟を私はしていた。けれど、そうじゃなかった。
考えてみれば単純なことなのに、最近の私は忘れていた。
あの頃の梨華は中澤に縋る事で、辛うじて微笑んでいられた。では縋る者のない、今の微笑みは?
「あ、今持ってく‥。」
すれ違いざま、同じ調子で声をかける梨華に、忙しいフリをした私は視線を上げずに頷いた。
動揺し、梨華を正視することができない。ある意味懐かしいよ‥。
足取りも軽く遠ざかる彼女の背中を感じながら自虐的に呟いてみる事だけが、私の私に出来る唯一のポーズだった。
家に2人でいる間、梨華は口を開くことがなく、ただ黙って微笑んでいた。
多少青ざめた表情で静かに目を伏せ、うつむきがちではある。
けれど、沈痛な表情を決して見せない。ひたすら楚々と。ただ控え目に。
彼女がそうして私を避ける以上、私は無言で従うしかない。うなだれ、頭を垂れて過ごした。
あの日以来、眠れぬ日々が続いていた。ソファに横になったところで一睡もできず、そのまま仕事に出てゆく事もしばしばあった。
一応ポリシーだったから、何かしら食べるようには心掛けていたけれど、食欲はどんどん低下し、何を食べても美味しく感じない。
数日たったある日。仕事中。私は体力の限界を感じていた。眠れないから食べられず、食べられないから眠れない。
そうした悪循環の中で目のまわりがひどく黒ずみ、立っている事さえ辛いのだった。
「お前の顔、土みたいな色してるぞ?平気かよ?」
「ええ、なんとか‥。」
明らかに様子がおかしい私。自覚はある。心配した従業員に何度か声をかけられる度、笑顔を作ってそう繰り返した。
もっともきちんと笑えているのか、自分でも解らなかったけれど。
「どうだっていいよ‥。」
人知れず呟いて壁にもたれ掛かる。
(つかれた‥。ヤバいかも私‥。)小さく息を吐いた。ふと上げた視線の先にキャッシャー。
梨華。すると、今日髪を染め直したばかりというウェイトレスが、やや軽薄な足取りで梨華の元へ近付いた。
片手に摘んだ一万円札をひらひらさせて。大方客に両替でも頼まれたんだろう。
快く受け取る梨華は満面の笑み。テキパキと紙幣を揃えコインと共に銀皿に載せる。
つられて微笑むウェイトレス。人を惹き付けてやまない梨華のあの笑みが、とってつけた仮面と知ったら皆驚くだろうか?
早速踵を返し、客の元へとウェイトレスは急ぐ。立ち上がった梨華が、その後ろ姿をニコニコと見送る。
いつもの事だ。そう思い、壁から背中を離した瞬間。「‥!」ゆっくりとその場に、梨華が崩折れてしまった。
私よりも早く、梨華の方が参ってしまった。不眠は等しく彼女の上にも訪れていたというのか。
私は気づいてやれなかった。ああ‥、そう言えば食べているところをほとんど見なかった‥。
「お前達はさあ、一体どうしたっていうんだよ‥?」
揃って呼ばれたオーナーの部屋。彼は当惑した声を出した。
吸いかけのまま放置された煙草が灰皿の中で、今、燃え尽きようとしている。
「石川は倒れちまうわ‥、吉澤は死人みてえな顔してやがるわ‥よぉ。」
「すみません‥。」私は力無く謝った。梨華は横で黙っていた。
気丈にも笑っていた梨華が、フラフラとしゃがみ込むのを目にした瞬間、疲れた体も忘れて私は反射的に走り寄った。
誰よりも早く。声を出す事が億劫で、私が黙って抱え起こすと、覗き込む無言の視線から、梨華はすぐに瞳を逸らす。
「ちょっとした貧血‥。大丈夫だから‥。」細い二の腕を掴んで私は彼女を支えていたが、梨華はそう言ってやわらかく逃れた。
「とにかく、」オーナーは言った。
「今日はもう上がっていいから。ゆっくり休んで、2人とも、体調をなんとかしろ。」
口調は厳しかったけれど、いたわりが感じられた。気を抜いたら泣いてしまう。優しくされたら特に。
「はい‥。ありがとうございます‥。」
力無く立ち上がった。梨華はもう笑っていなかった。
部屋に戻った。ベッドに浅く腰掛けて、梨華は窓を見上げている。ずっと続いている雨。
自分の感情に精一杯になって、梨華を気づかう余裕がなかった。可哀想な自分を憐れむことに無我夢中の私は、それ以外のものが見えなかった。
完璧な笑顔に騙されていたのは私。梨華の仮面、唯一その存在に気づいていたこの私‥!
クローゼットからヤッケを取り出した。フードを被って、ポケットに携帯をしまう。例のバッグから2枚程、一万円札を抜き取った。
「出かけるの‥?」
「うん‥。」
やっと梨華が私に、私だけに向けて口を開いた。まるで随分長い間、声を聞いていなかったみたい。そう漠然と感じた。
「私がここにいたら、りかっちは‥、眠れないでしょう?‥だからどっか行く。」
「‥雨だよ?」
「大丈夫。少しお金、持って行くね。」
「そう‥。」
梨華が辛そうな顔に見えたが、私の希望的な観測かもしれない。
「でもすごく、疲れているんでしょう?」
「私がどれだけ強いか、りかっちはまだ知らないんだよ。心配しないで。最悪、ホテルにでも泊まる。」
財布をおおげさに叩いて見せる私。不安げに見上げる梨華の瞳。そんな目で見ないで。
切なさに一瞬逸らしてしまった視線を、私は再び梨華にもどした。
「明後日、海に行く日だよ?飯田さんたちと。りかっちも行くでしょう?迎えに来るよ。」
私の問いに答える代わりに、梨華はただ笑った。私もそれ以上突き詰めようとは思わなかった。
「気をつけて‥。ね。」
「うん‥。」
玄関に向けて向き直った私。梨華の声に振り返らず答えた。
深夜と言うには少し早い時間。残り少ない気力を容赦なく奪ってゆく霧のような雨を避け、とっくに閉まった商店街の、とある店の軒先で、私は携帯を取り出した。
向かいの自販機が硬くて青白い照明を放つ。それが逆光になって、手元の液晶が見えづらかった。大気中に充満した6月特有の湿気のせい。吐き出す息が白い。
「どうしたー?」
2回半、呼び出し音を聞いた後、例の明るすぎる声が受話器を通して響いた。つかまった-------。少しだけ脳に障る声が、ひどくなつかしく感じた。
「矢口さんこんばんは。」
「ナニよ?」
いつでも笑いを含んでいる口調。また飲んでいるのかな。ひどくまわりが騒がしいけれど。
私は軽く咳払いした。
「イヤ、何してんのかなーって思って。」
はぁ?イキナリ何?そんな感じの間を置いた矢口さんだった。
「飲んでるけど?今日も。」
「そう。楽しいですか?」
泊めてもらうのはやっぱり無理だろうか‥。
「ああ?悪いけど聞こえない!もう一回言って?」
なかば怒鳴るように言った矢口さんの向こうで、酒特有の嬌声が上がった。派手な悲鳴にも似た。
「あー‥。やっぱいいです。楽しんで。」
「何?ちょッ‥待っ‥。」
最後まで聞かなかった。気落ちする心のまま、私は通話を切った。
心なしか雨が強くなった気がした。多少気温も下がったようすだ。
「寒いなあ。」
私はひとりごちた。参っているせいか、ひどい逆境にいるように錯角する。まるで全てに見放なされたような。
「まあ、矢口さんは人気者だしね。急につかまるわけないか‥。」
足元の空き缶を蹴飛ばしてみたって、何かが変わるわけない。
‥いけない。自分を憐れむのはやめようと決めたのだった。全く私は放っておくとすぐそっちに向かおうとする。
馬鹿じゃないの?自分?そう罵倒してみると少しだけ元気が湧いた。けれど、いい加減体力が限界だ。眠い。
(とりあえずホテル探そう‥。)雨のそぼ降る街を、私は駅方向に歩いた。
捨てる神あれば拾う神あり。この場合、双方とも矢口さんなのだけれど。
重い足を、さながら引きずるようにしてとぼとぼと歩いていると、携帯が着信した。矢口さんからコールバック。少し、期待が膨らむ。
「もしもし。」
「よっすぃー?つうか急に切んなYo!で、ナニ?」
先程に比べて、矢口さんの背後はとても静かになっていたのだが、私がその旨伝えると、
「や。ちょっと移動した。気になったから。」
あくまでも軽く矢口さんは言った。優しい‥。
「てゆうか今日、仕事なんじゃないの?」
「はい、まあ‥。」
「てゆうか梨華ちゃんは?」
「いや、ちょっと‥。」
「ナニ?ワケアリ?」
「‥そんな感じです。」
ふうん。矢口さんはしばらく神妙に考えていたが、受話器越しに頷いて再び明るい声を出した。
「よっすぃー今どこにいるの?これから来る?えーっとねぇ場所はー‥」
居場所を説明する矢口さん。私は困った。疲れてなければ行きたい。パッと騒ぐのもいいだろうこんな時は。けれども。
「あの‥、眠りたいんですよ私。矢口さんの家に泊めてもらえませんか‥?」
わがままなのは承知していたけれど、思いきって言ってみた。
しばらく考えた矢口さんは、これみよがしにため息をつき、わざとらしく舌打ちまでした。
最終の電車にはギリギリ間に合った。20分程乗って、着いた先の駅。
近くのファミレスで一時間あまり、時間を潰した。コーヒーを飲んで暖まった体に、ひどい眠気が襲った。
やがて、携帯が鳴った。矢口さん。
「今帰って来た。もう来ていいよ。玄関の前で待ってる。」
私のわがままにムカついているくせに、相変わらず優しさが口の端に滲み出してしまっている。
やっと眠れるよ‥。のろのろと立ち上がった私はレジで精算をすませ、矢口家までの道のりを約5分ほど歩いた。
都心を外れた閑静な住宅街に矢口さんの家はあるのだが、立派な屋敷ばかりが、
夜のしじまにひっそりと息づくその一角において、一際目立つ和風のいかめしい門の前に、
厚底を脱いだ矢口さんがスニーカーでぽつんと佇んでいた。
「コンバンワー。」
電柱のライトに切り取られ、浮かび上がる雨粒。どこか取り澄ましたような表情で、ぼんやりと見上げる矢口さんの横顔。
私は声をかけた。夜中だからもちろん声は落として。
「てゆーかホントムカつくよ、オマエー‥」
つれない表情のまま振り返った矢口さんは、私を見て眉をひそめた。
「てゆうか傘は?」
無理もない。雨の中私は、ヤッケだけで歩いて来たのだから。
目深に被ったフードの先から滑り落ちた雨の雫が、目の前を2、3粒かすめた。
前髪が、けっこう濡れちゃったな‥。
「へへ‥。持って来なかった‥。」
ポケットに入れた両手を出すことなく、私は笑って答えた。矢口さんはスニーカーだから、いつもよりも視線が低い。
「馬鹿じゃないの?こんな雨の中‥。途中で買えばいいじゃん‥!お金持ってるくせに!」
「ふふ‥。」
「ふふ、じゃないよまったく‥。早く入んな!」
差している傘を頸でささえ、矢口さんは門を開ける。ぼうっと立っている私を振り返り、急かすように手招きする。
「ほんと。すみませんね。」
「ほんとだよ。今日けっこうイイカンジの男子とかいたんだから。」
なにさまだよオマエ、ぶつぶつ言いながらも帰って来てくれた矢口さんの好意が心に沁みた。
「ありがとうございます。」
「も、いーイから!早く入って!」
矢口さんは小さい。

ねえ、梨華。ママはね、結婚前。すごく、好きだった人がいたの。高校が一緒でね。若かったから、私達は。出会ってすぐに恋に落ちたわ。
すごく格好いいの。会話もいかしてたから、彼は人気があった。少し、キザで。ドジなの。
でもそういうトコロも、魅力的なのよ?女の子にも随分モテてたみたい。
ママと付き合うようになってからも、彼は手紙とか、よく貰ったりしていたわ。
疑ったママが、嫉妬して、怒っちゃって、困らせた事がたくさんあった。
でも、その度にね。彼は。不安で、泣いているママを、しっかり抱きしめてくれるの。俺達は結婚するんだ、心配するな。って。
真顔で彼は言うんだけど、ママ、吹き出しちゃった。だって。その頃はまだ高校生なのよ?アツイ人なの。ふふ。怒ってるのも忘れちゃうくらい。
毎日一緒にいたわ。誕生日には必ずパーティーを開いてくれて。旅行にも行ったの。あの時買ってもらった指輪は、まだ持っているわ。

「今、よっすぃーから連絡があって。」
ひとみちゃんが出て行って、一時間ほどたったあと、矢口さんから電話がありました。
私が受話器を取るなりそう言った矢口さんは、今、家に帰る途中なのだそうです。
雨の中、傘も持たずひとみちゃんは一人で出て行ったから。寝ていなくてフラフラなのは私と同じなのに‥。
消息さえわからないままじゃ、眠れるわけがないもの。心配していたところでした。
とりあえず今日は家に泊めるから。そう言った矢口さんに、私は心からお礼を言いました。
「安心しました。矢口さん、教えてくれてありがとう‥。ひとみちゃんをよろしくお願いします。とても疲れているんです。」
「大丈夫。梨華ちゃんも今日は眠って。何があったか知らないけど、あなたもよっすぃーも、すごい声してる。」
私の声が、普段よりずっと掠れているからかしら‥。矢口さんは相変わらず無愛想に言ったのですが、返ってそれが優しさを強調していました。
そう言えば、ひとみちゃんもほとんど声が出ていなかったわ‥。心配しないで。出がけに残した彼女の、明らかに力のこもらない口調を思い浮かべていました。
告白してしまいます。私は彼、-----ひとみちゃんのお父さんであるという事が保田さんのおかげで最近解りました----、その存在を知っていました。
随分小さかった頃、生きていた母がよく話をしてくれましたし、綺麗な口紅を目当てにこっそりと開けた母の鏡台から、
私は彼らしき写真を数枚発見した事がありましたから。
古く小さな宝箱でした。若い頃の母の思い出。ほんの少しだけ色褪せた写真が、おもちゃの銀の指輪と一緒に大切にしまわれていました。
少しだけ口を尖らせて、斜に構えたような視線。学生服。
どの写真でも、必ず母の脇に寄り添うその男性こそが、例の『彼』であると、私にはすぐ解りました。
『彼』について話す母と、写真の母の表情が、まるで恥じらっているみたい。全く同じでした。
圧倒的な幸福に、じっと耐えているような。ある種のかなしみさえも換気させる微笑。
誰にも言ってはダメ。ママと梨華の秘密よ?『彼』の事を話した後、決まって母は言ったんです。
香水と化粧品の大人びた匂い。むせそうになりながらも私は、あまりに可憐な母と、強い目をした隣の少年にいつまでも魅入っていました。
自分もいつの日か、こういうふうになるのか。そう考えて、少し興奮しました。
それ程までに愛し合っていた吉澤さや造と、母・なつみが何故別れ、どのようないきさつから、
それまで私が父と思っていたあの人と結婚するに至ったのか、今となっては解らないし、調べることも出来ません。
ただ、私の記憶に残っているのは、父が(実際は疑問なのですが便宜上こう呼びます)あたかも崇拝でもするように、母を愛していたという事。
父と母は、仲の良い夫婦でした。いつも微笑んでいる母と、頼もしくて威厳のある父。
私は常に羨望の目で見られていましたし、私自身、それを自慢に思っていました。
実際母が生きていた頃、彼は良い父親だったのです。忙しかったけれど、家族に対するサービスのようなものに、彼は力を惜しみませんでした。
まだ父が、秘書だった頃。ついていた代議士の選挙を目前に控えた夏。
定例だから。ひとことそう言った父は私達を海水浴に連れて行ってくれました。
父の多忙さを知っていて、遠慮した母と私の言葉など、一向に聞き入れず。
ギリギリまで父の仕事が入っていたので、私達が伊豆に着いた頃には、辺りはすっかり暗くなってしまいました。
着替えもせずにそのまま運転して来た父のワイシャツ。背中と腕に皺がきつく寄っていた事を、今でもはっきり覚えています。
ルームサービスで夕食を済ませて、誰もいない夜の海岸。私達は3人で、すいか割りをしました。
入り江の向こう側に時々上がる花火の煙が、こちらの浜まで微かに匂って来ていました。
堤防の内側にはみやげもの屋が、びっしりと、並んでいました。極彩色のネオンが淡く届いて、夢のような色に、砂浜が染まっていました。
『彼』の事を母が、最後に私に語った時。私が小学校に上がったばかりの頃だったと記憶しています。
「ほんとうは、もっと大きな秘密があるの。それは、あなたには辛い事かも知れないけれど‥。
でもママ、後悔はしていないの。あなたが大きくなったら、きっと話すわ。」
結局。その「もっと大きな秘密」を母の口から直接聞く日は、とうとう来ませんでした。
例えばそれが、私の出生にまつわる事と仮定します。すると父が、少し不憫に思えました。
お前の母さんは俺を許してくれなかった、父は私にそう言いました。
だからと言って彼が私にした事を許すつもりなど毛頭ないんですけど。
それはともかく。私が父の子ではないと父が知っていたとしても、あるいは逆に知らなかったとしても。
父が可哀想であることに、結果は、変わらないのです。
こういう言い方を自らするのは、とても、気が引けるんです。
けれど、過去の経験を通して私は、無理矢理体を求められること、つまりそのような際に自分の感情をコントロールする術を、
多少なりとも身につけているつもりでした。人と体を合わせること、それまでの私にとっては、あまりたいした事ではありませんでしたから。
それがどうしてか。ひとみちゃんとだけは嫌だった。ああいうかたちで、関係を持ってしまう事‥。
ひとみちゃんとだけは。
姉妹であるという事実(私はそれを真実であると考え始めています)があの時、
ひとみちゃんを拒んだ私の行動に全く影響を及さなかったといえば、嘘になります。
一人っ子の私は実際、兄弟というものに憧れていましたから。
けれど、近親相姦に(ああなんてイヤな響き!)少なくとも私は免疫のようなものがありました。
結局は殺してしまったのだけれど、私はあの男との行為には、何度も耐えていられたんです。
血の繋がりを信じているという点において、ひとみちゃんとあの男、彼等の間に差は無いんです。
どうして。あの男に無理矢理奪われるのは、ギリギリだけど、耐えていられた。
ひとみちゃんの時は、ほんの少しの時間も我慢することができなかった。
その違いは。
翌日、昼過ぎに目を覚ました私は、ひとみちゃんの姿を無意識に探していました。
昨日出ていってしまったから、隣に寝ているはずなんてないのに‥。そもそもあれ以来、私達は別々に眠っていたんだわ‥。
今さらのように思い出して、少し涙が流れました。
奥手なひとみちゃんだったから、私達は今まで、一緒に眠っても肌を合わせることなどなかった‥。
それこそあの事件以来、彼女はソファに寝て、そして会話もろくにしていなかったけれど、ひとみちゃんが同じ部屋にいる事が、
どれだけ私を安心させていたか、ひとみちゃんには、わかっていないんです。

「ハイ‥。」
けたたましく鳴った電話の受話器を、私は静かに取り上げました。バイトに行く身支度を沈んだ気持ちで整えている最中のことです。
「梨華ちゃん?調子は?」
落ち着いて、澄んだ口調。矢口さんでした。
「まあまあ、です‥。」
もしかすると、電話の主はひとみちゃんかも知れない、そう期待していたので、落胆が口調に現れてしまったのだと思います。
「その割には、元気のない声してるけどね。」
「そう‥、ですか?」
案の定矢口さんには、それが伝わってしまったようで、彼女には失礼なことをしてしまいました。
「あのね、よっすぃーが。今日はバイト休むって。」
矢口さんは言いにくそうに切り出します。
「梨華ちゃんに電話して欲しいって、頼まれちゃって‥。自分でしろって言ったんだけど‥。いやー。」
私を気づかうように、揶揄を絡めつつ矢口さんはひとみちゃんを非難します。けれど、私はそれに特には答えませんでした。
「ひとみちゃんは、今どこに‥?」
「あ、家にいるよ。ベッドで、布団かぶってる‥。」
「そう‥。矢口さんは、私達のコト‥。」
「うん、聞いた‥。まさか、姉妹だったなんて‥。なんて言ったらいいのか‥。」
私達の間に立って、骨を折っていただいている矢口さん。私は丁寧にお礼を言って電話を切り、そのままバイトへ向かいました。
私まで休んでしまったら、きっと、いけない‥。
私から逃げるようにしてバイトを休んだひとみちゃん‥。
彼女の事を考えて、辛くて、涙がまた滲みましたが、私は懸命に堪えました。
バーへ続く鉄の階段が、私のサンダルのヒールの足元をカンカンと追うように、乾いた音をずっと、立て続けていました。
次の朝。海へ行く日。なのに雨が、しとしとと降り続いていました。重たい雲をどんよりと冠した近頃の空と同じよう。
私の心もまた、暗く曇っているのです。
昨夜のバイト中、私の休憩時間を、まるで見計らったように携帯が鳴りました。矢口さんでした。
「明日、海、お昼頃迎えに行くから。ごめんね、梨華ちゃん、バイトの後、あまり、眠れないけど‥。」
2人がこんな状況のまま、海なんかに出かけて行くのは、あまりにもしらじらしく思えたのですが、
楽しみにしてくれていた飯田さん、特にののちゃんの笑顔を思い出すと、断る事など出来ませんでした。
もちろん私だって、こんな事さえなければ、とても楽しみにしていたんです。
それにしても、こんな連絡の電話まで矢口さんにかけさせるなんて、ひとみちゃんは‥。弱虫だわ‥。
そう思って、少しだけイライラしていたから、お昼を少し回ってひとみちゃんが私を迎えに現れたとき、
その場に矢口さんがいるにも関わらず、私は気持ちを表情に出してしまいました。
ひとみちゃんと出会ってから、私はどんどんおかしくなって来ている様です。
以前はもっと辛い事でも、誰に気付かれることなく、隠し通していられた。それなのに、今は。
動揺した表情。そんな私の前に立ち、ひとみちゃんは弱々しく、目を伏せて笑いました。
「こんにちは‥。」
横を向いた彼女が投げやりに呟いた挨拶。
ぎこちなくかざされた右の手の平に、なんだか乗り越え難い壁を感じて、私は答える事ができませんでした。
「早く行かないと、あの2人が暴れ出すから」
私達の空気を敏感に感じとった矢口さんは、まるで、救いの手を差し出すように明るく、可愛らしい声を出しました。
「梨華ちゃんは、準備いい?」
私は軽く頷きました。
その後私達は、病院で飯田さんとののちゃんを拾って、まっすぐ海へと向かいました。
気を遣った矢口さんは、戸惑う私を助手席へ乗せてくれましたが、私の心は晴れる事がありません。
こんな気持ちでひとみちゃんの助手席に座ったって、嬉しいはずがないもの。後部座席の方が気楽だったわ。
気付かれないようひとみちゃんを伺ってみると、ひとみちゃんは無表情に、ただ前方を見つめていました。
最悪の雰囲気、ともすれば皆が黙り込んでしまいそうな車内を、飯田さんはなんとか和ませようと、いろいろ話題を提供してくれました。
盛り上がるよう気を遣って、あれこれ話し掛ける飯田さんに、ハンドルを握るひとみちゃんは、とてもにこやかに笑って、普段通りに答えていました。
さっきまでの、私と矢口さんと3人でいた時までの様子が、まるで嘘のよう。
その笑顔が、本当にいつもの彼女のものとほとんど変わらなかったので、なんだか私は悔しくなって、負けじと笑うようにしました。
なによ、私の方が気持ちを隠すの上手いんだから。あなたがそういう態度をとるなら、私だって負けないわ。そういう気持ちでした。
雨の海岸は、少し肌寒くて。私は上着をもう一枚持って来なかったことを後悔しました。
仲良さそうに手を繋いで、波打ち際へと走って行ってしまった飯田さんとののちゃん。
少し離れた場所をブラブラと歩く矢口さん。
「寒い‥。」
彼女たちの後ろ姿を目で追いながら無意識に両腕をさすった私の横を、ひとみちゃんがあっさりと、追い抜いて行きました。
すれ違いざま、無言で、自分の上着を私に渡して。突然の事だったから、私はお礼も言えなかった。
見る間にひとみちゃんは矢口さんに追い付き、並んで歩きながら談笑を始めました。
「関係ないよ!」
そう言ったくせに、あんな風に私を襲ったりして、姉妹うんぬんを気にしていたのは、いつだってひとみちゃんの方。
勝手に出て行って、傷付いたふりをして、こんなふうに優しくされたって、どうしていいかわからないよ。
随分長い間、遊んで、疲れて、そろそろ帰ると思っていたから、ひとみちゃんがピストルを出した時、私は本当に驚いたんです。
撃ちたいだなんて、この人、何を考えているの?安倍さんに貰った改造銃。ひとみちゃんが今日持って来ている事を、私は知りませんでした。
私を迎えに部屋まで来た時に、クローゼットから取り出したのでしょうか。
矢口さんは知っていたみたいでした。けれど、さすがの矢口さんもピストルを発射する事に、何か、抵抗のような物を感じているようでした。
そう、銃なんて、ライセンスのない私達は、所持、ただそれだけで既に犯罪なんです。
ましてや人を殺傷するためだけに、基本的には存在する凶器。矢口さんの手は、震えていました。
結局、飯田さんの一言で撃つ事が決まって、私達は車外へ出ました。
雨はその時上がっていたけれど、暗くなっていたし、風がでて、気温が下がっていました。
カオリ部長の指揮の元、矢口さんとひとみちゃんがセッティングを始め、その間私とののちゃんは飯田さんの横に立たされていました。
しばらく経って、私達が充分離れている事を確認したひとみちゃんが、岩の上に、きれいに並んだ空き缶から、
少し離れた場所に立ち、一度私達を振り返ってから、静かに銃を構えました。
両腕を突き出して、右の頬をこころもち、その肩に押し付けるように、顎を引き狙いを定めるひとみちゃんは、少しだけ素敵でした。
このまま、連れ去ってくれたら‥。
迷い無く引き金を引いた彼女の弾丸で、アルミの缶がひとつだけ吹き飛び、飯田さんが悲鳴を上げ、
矢口さんが息を呑む間、要領を得たひとみちゃんは、もう一度撃って、その弾も、命中させました。
ずっと私の腕を握っていたののちゃんの手には固い力が込められていて、まるで喘いでいるみたいに、息で肩を弾ませていました。
飯田さんが撃ち終わって、ののちゃんが撃ち終わって、そうしたら
「石川も撃ってみたら?」って、飯田さんに言われました。
人ひとり、殺しちゃってる私が言うのも、なんだかおかしな話ですけど、私はやっぱり怖くって、
「いいです。」って、断ったんです。
「滅多にない機会だから」とか、
「やっておいた方がいいよ」とか、飯田さんや矢口さんに勧められている私を、ひとみちゃんが向こうから見ていました。
撃ち終わってまだぼんやりとしている、ののちゃんの薄い肩。
そこに、休めるようにひとみちゃんは手を置いて、相変わらずためらっている私の様子をしばらく見つめていました。
飯田さん矢口さんの間で、私は彼女の視線にも気がついていたけれど、なんとなく気が引けて目は合わせませんでした。
「なかなか。気分がいいから」
「やっておいた方がいいと思うけど?」
2人のそういう言葉に、私が口籠っていた時です。
怖いの?
挑むみたいな声が、耳に届きました。
私がハッとして、視線を上げた先。
腰に手をあてたひとみちゃんが、首を少し傾けて、なんだか色の薄い瞳で、私を見下ろしているのでした。
冷淡な表情。尊大な態度。
どういった理由から、彼女がそうして見せたのか、後日私は尋ねましたが、ひとみちゃん自身にも、はっきりとはわからないそうです。
「なんとなく。」そう言って普通に笑っていました。
もちろん私は頭に血が昇ってしまいました。もともと。負けず嫌いなんです。
怖い?ですって?アンタねー。散々逃げ回っといて、その顔は、ナニ!?どうしてそんな態度とれるの!?
私の頬が、みるみる紅潮したので、飯田さん達は言葉を失くしていました。
込み上げる気持ちに、わなわなと私は震えていたから、自分のワンピース
のピンク色の裾が、視線の片隅であたかも同調するように、かすかに揺れているのがはっきりとわかりました。
「じゃあ、撃つ。」
一度、目を閉じてから答えた私。
「一応、肩、抑えてるから。」
故意に事務的に発せられた言葉。
砂の上をずんずんと、ひとみちゃんに向かって歩き出した時から、恐怖なんてもうなくなっていました。
なのに、涙が出そうなのは、なぜなんだろう?拳銃なんて構えてる、異常な事態だから
それとも、肩から伝わる、ひとみちゃんの手の温度?
よくはわからなかったけれど、とにかくがんじがらめのストレスから、私は早く逃げたいと思っていました。
小さく見える空き缶がいくつか、正面には並んでいるんです。
ホラ。私が躊躇しているから、滲むみたいに、ダブって見える。まるで笑っているみたいに。
少し腹が立った私は、それらを引き裂こうと思って、引き金を引きました。
進むしかもう‥、ないよねウチら。瞬間、耳許で囁かれた言葉を、私は忘れないと思います。
銃を撃った衝撃、それ自体はそんなに大したものではありませんでした。
それなのに私は、足から力が抜けてしまって、砂の上にへなへなと座りこんでしまった‥。
ワンピースに砂がついてしまうけれど、その時は気になりませんでした。
強くなった風が、雲を散らしたからでしょうか。砂浜にはいつの間にか明るい月が出ていました。
呼吸が整ったところで見上げたひとみちゃんの顔は、影になってよく見えなかった。ただ、差し出された手に、私はつかまりました。
立ち上がった私のワンピースの裾を叩いて、砂を、ひとみちゃんが払ってくれました。
飯田さん達が向こうから見ていたけれど、私はもう気にしていません。
「そんな事とっくに知ってた。好き。」
そう言った私に、ひとみちゃんは白い歯を覗かせました。
風が逆向きに吹いていたから、皆にはきっと、聞こえていないよね。
「今度マジ、手料理でもごちそうすっから。」
病院の玄関の手前で2人を下ろした時に、飯田さんはにこにこと笑いながら言いました。
道すがら矢口さんは先に、家に降していました。
帰り道、食事に寄った国道沿いのファミレスは、あまりおいしくなかったんです。
口なおしのつもりなのか、ののちゃんはさっきからずっと、飴をなめ続けていました。
「本当ですか?うれしい!」
ひとみちゃんは言います。心からの素朴な、柔らかな笑顔に戻って。
「また、連絡してよ。つうかカオリからも電話するし。」
「もちろん。また遊んでくださいね。ののたんも。」
上目遣いのののちゃんが口の中で飴を噛み、小気味のよい音がカリカリと漏れました。
「ちょっと、遅くなっちゃったから。怒られちゃうかもね。」
そう言った飯田さんはののちゃんの手を取って、ガラスの入り口へと歩き出しました。
「ありがとう、今日は楽しかった。」
2人して、何度も振り返りながら。
私達は非常灯の、緑色の明かりに浮かぶ2人の姿が、やがて見えなくなってしまうまで、いつまでも見送っていました。
2人きりになって、家に向かう車中、私達はあまり話をしませんでした。
タイヤが回転する音と、ウインカーの、時々カチカチ言う音。
無機的なくせに心が落ち着くそれらのリズムに、私は耳を澄ませていました。
部屋に帰った私達は、ソファにしばらく座っていました。
とりたてて何か、するわけでもありません。何か話をするわけでもありません。
さっきいれたコーヒーが、どんどん冷たくなってゆく。ひとみちゃんはずっと、黙っています。
そのくせ私の手を、握ったまま離さないから、すごくドキドキしていました。
ひとみちゃんの手にだんだん力が入ってきたから、
「いよいよ、かな。」
って、私は思ったけど。不思議なくらい、心臓が音を立てて、ひとみちゃんに届いてしまいそう。
とても恥ずかしかった事を今でも覚えています。
重圧に耐えかねた私がソファから立ち上がりかけた瞬間(理由はコーヒーをいれなおすとでも言おうと思っていました)、
ずっと下を向いたまま微動だにしなかったひとみちゃんが、急に私へ向き直りました。
「りかっち‥、」
そう言って私の肩を掴むんです。
(来る‥!)
「な、なに?ひとみちゃん」
彼女の視線がまっすぐだったから、返事をする私の声も、思わず上ずってしまったんです。
そうしたら、いきなり。
「私のこと、とみこって呼んでいいよ?」
「え?」ワケがわからなくて、私は固まってしまいました。
「なんつって。」
冗談なのか真剣なのか、よくわからない顔をしたひとみちゃん。どうしていいかわからないチャーミー‥。

すると、ひとみちゃんは、突然両手に力を込め、つよく私を抱き締めました。
「今さらだよね‥。」
「うん‥。」
私は、すごく驚いていたけれど、ひとみちゃんが何を言っているのか、すぐにわかった。
「姉妹だって何だって、今さら関係ないわ。ここまで‥。来ちゃったんだもん‥。」
私がそう言うとひとみちゃんはとても嬉しそうな顔をして、目と耳と口に、順番にキスをしました。
ひとみちゃんはそれ程、キスが上手いってワケじゃないけど。私はとても敏感になってしまって。
「あ‥。」
唇が、首筋を通った瞬間、私は声を出してしまいました。なんだか、小指の先が、ピリピリと、甘く痺れる感じ‥。これが‥、愛?
「ちょっ‥と、待‥って‥。」
だって今日、海で遊んで来たんです。シャワーを浴びなければ、いや‥。
しぶしぶ、私から体を離したひとみちゃんは、
「一緒に入ろうか?」
なんて、余裕ぶって言ったけど。
「‥そうする?」
って、私がわざと言ってみたら、急に照れちゃって。
「ウソ。ま、まだムリ。」
赤くなった顔を、凄い速さで振ったりするんです。おかしい。気が弱くて‥、ふふ。
おかげさまで、無事、私達は結ばれました。
「いつまで、一緒にいることが出来るのかしら‥。」
なぜか私の腕に頭を預け、ぐっすりと眠るひとみちゃん。
規則正しい寝息を首筋のあたりに感じながら、そんな事を考えていました。
見上げた窓の向こうには、綺麗に月が見えています。
するとひとみちゃんが、苦しそうに息をつきました。ウンウンと、首を捩るひとみちゃん。
私の胸に顔を埋めて眠っているのに‥、うなされてる‥。複雑な気持ちで見守っていると、やがて歯ぎしりをしながら
「だ‥、や‥す‥。」
そう、何度か繰り返すんです。
「保田さん‥?何‥?」
私はそう思ったけれど、そろそろ眠かったんです。
ひとみちゃんの髪を撫でているうちに、いつの間にか眠ってしまいました。

 

第4部


第1節

 

最寄りのコンビニに於いてつい最近発売されるようになったこのヨーグルトは、とある牧場より直送とラベルにあり、
初め、ピンクの小花柄といった愛らしいパッケージに思わず手を伸ばした梨華は一口食べ、
思いのほかまろやかなその口当たりにすっかり夢中になってしまった。
今朝方、バイトが終わった後にコンビニまで彼女がわざわざ買いに行ったくだんのヨーグルトといくつかの
調理パンを数時間後、昼過ぎに目覚めた私達は食べ、バイトまでの空いた時間をソファでだらだらと過ごすうちに私はまたもや眠くなった。
夢見が悪いから、あまり深く眠れないせいだ。つけ放したTVの音が、ああまるで、子守唄のよう。‥。
居眠りから目覚めると梨華が覗き込んでいた。
「確かに気になるケドね。でも、そこまで夢に見る程?」
と、いうことはまた、私はうなされていた。ほんの少し微睡んだ、こんな短い時間のあいだに。
数十分前、共に座っていた梨華の肩に凭れ掛かるようにして、うとうと眠りに落ちた私だけれども、
目を開けた今、いつの間にか頭部を、彼女の膝の上に預け、両足を伸ばし横たわっている。
あ。膝枕されてる‥、やさしい‥。
嬉しさの為に少しだけ甘えたくもなったが、それをダイレクトに悟られるのは妙に恥ずかしい事とその時思い、私は敢えて眉を顰めた。
「自分でもわからない。どうしてこうまで、うなされるのか。でも可動式のホクロと、‥あの痣ッ!もう気になって気になって‥。」
とみこ、しっかり!私は心の中で自分を叱咤し、頭を左右に振った。更に気合いを入れるように、ピチャピチャと顔を両手で叩いた。
膝の上でおおいに暴れる私を梨華は目を丸くして、声を上げて笑うのだった。
「私達だって姉妹なんだから、別にいいじゃない。今さら身内が何人増えようと。関係ないんじゃなかったの?」
「うーむ‥。」
私は口籠った。納得して良いものか。
と、その時。時報とともに切り替わったTV画面に、一人の少女が映し出された。
複数から同時に向けられるマイクと夥しいシャッターの罵声。
まるで乱国の兵のように一斉に押し寄せる記者達の中を、ほんの数名のスタッフに守られ、彼女は無言で進んで行く。
たった今降りた灰色のヴァンから十数メートル歩いた彼女の、最後の数歩は駆け出すように、白く、目深に被った帽子は建物の奥へと消えて行った。
梨華の膝に頭をのせたまま、私はその映像をいまいましい思いで見つめていた。
普段なら特に、ワイドショー等には興味のない私だけれど。
‥なぜならそれが真希ちゃんだからだ。彼女は今、叩かれている。
直後、しらじらしい程明るい曲が番組のタイトルとともに流れ、挨拶を終えた司会者が端から順に出演者を、ひとりひとり紹介してゆく。
一番隅に座った自称芸能評論家は、他の2人のゲストと比べて倍に近い時間を取り、熱く、不愉快な程かつぜつ良く喋った。

彼女の場合アイドルであり、且つG教(※作者注。『ジーきょう』と読んで下さい。)
というカルトの教祖といった肩書きも同時に持つわけですが、今回の教団本部、売春斡旋疑惑が仮に真実だとすると、
彼女も当然絡んでいる、そう考えて間違いないと思います。
メディアを通した圧倒的な人気、主として中高生に強い影響力を持つ彼女自身が広告塔になるため、
少女売春の対象となる素材、つまり彼女に憧れた未成年女子信者ですが、その多数獲得が可能になるんです。
僕はそういうのは許せないッ!生理的に吐き気がするんだ。
まあ、今回の事は政財界も巻き込んだ大騒動になりかねないのですが、それよりも僕は今日、
後藤真希本人に関する欺瞞をここで徹底的に検証して帰りたいと思っています。
今のところはまだグレーだが、そもそも彼女には黒い噂もピンクの噂も、それこそ掃いて捨てる程あるんだ。
シロであろうとクロであろうと、この際はっきりさせた方が彼女のためにも良いと思いますよ。未成年ですし。
そういう意味では今回の騒動も彼女にとっては決してマイナス面ばかりではないということですかね。

ハァ?つうか長い。
小ぎれいな身なりをしていても話すうちに興奮し、やがて、歯茎を剥き出してしまうのは、近頃テレビで良く見かける、この男の耐え難い癖だ。
セーターなんか肩からかけて、むしろお前の鼻の下のその溝の深さの方が、よっぽどの大問題なんだよ。
真希ちゃんはなあ‥、真希ちゃんはなあ‥っ!!!拳を握りしめる私。
「ほんとコイツら『死ね』ってカンジ。」
諸々の、真希ちゃんのあまりの言われ様に体温が上がってしまったのか、鼻の通りがやけに良い。
途中、梨華の膝から身を起こして、怒りに震えていた私だが、結局、真希ちゃん関連の部分は全て最後まで見てしまった。
下唇を無意識のうちせり出していた私に、梨華が遠慮がちな声を出す。
「売春疑惑‥。どうなんだろうね、ほんとうのトコロ‥。随分いろいろ言われてるケド‥。」
「さあね!けど私は真希ちゃんを信じるよッ。」
『黒い噂』に『ピンクの噂』。週刊誌なんてもっと酷い。
返答する声が、どうしたって不機嫌になってしまうのは、とりあえず誰にも責めて欲しくない。
すると梨華は、両手を上げ、大袈裟に驚いて見せるのだった。
「まあ?逆ギレかしら?怖いこと〜。」
その独特の、息を果たして吸っているのか吐いているのか、実際よくわからない発声法に、私は一気に怒気をそがれ、傍らの電話に腕を伸ばした。
「保田は今日、出社しておりませんが。」
対応に出た女性は、明るいが事務的な声で答えた。
保田さんからの連絡はあれ以来ないし、彼女からの電話は常に非通知だったから、彼女のプライベートな連絡先を私達は結局知らない。
かといって、あの痣のことを気にかけているのもいい加減うんざりだったので書類の入った、
社名の印刷された封筒を頼りに、記載された番号へこちらから電話をかけてみたのだ。
私達は運がよく、取次ぎの女性はそこそこ話好きな方なのだろう。
書類偽造等、負い目もあった為私が適当な偽名を使い顧客である旨を伝えると、彼女は少しも疑う様子を見せず、
保田さんが昨日から無断で欠勤していること、直属の上司が連絡を取ろうとしているが彼女が捕まらない事、
等を声をひそめつつも明らかに楽しんでいるとわかる口調で話した。
バレたのだ----、私は一瞬にしてそう直感したが、ともかく書類上の私達に関する記述は全くの出鱈目だったし、
保田さんが捕まって口を割っていない以上、私達のプロフィールが保田さんの勤める会社をはじめ、
その他もろもろの関連機関に伝わってしまう事は不可能であることも次の一瞬で理解することが出来たので、とりあえず様子を見ることにした。
梨華のくるぶしに、小さくまだ新しい傷をひとつ発見したのは、電話を切った私が彼女の腿に再び体を預けようとした矢先だった。
既に横たえてしまった体勢のまま、梨華の膝越しに私はその下方についたすり傷を指さす。
そういえば、オキシドールを切らしていたっけ。そんな事が即座に連想された。
「これ、何?」
そう聞いた私の声に、尋問めいた色合いなど、これっぽっちも含まれていなかったはずだ。が、梨華はなかなか答えなかった。
「うん‥、今朝、ちょっと‥。」
梨華の返事を待つ間私は傷に触らぬよう、そっとその周辺へと、静かに指を這わせていた。
微妙に、うわずっている声。真希ちゃんへのTV報道に対し憤慨する私、或いは保田さんと連絡が取れずに落胆する私。
その両方を、先程までいつも通りの軽い笑顔をたたえ、穏やかな空気で見守っていた梨華。
そんな彼女が見せた、突然変わった不自然な様子。
「今朝?ヨーグルトを買いに行った時?」
梨華のひざ元からゆっくりと頬を離し、そのまま起き上がって私はソファを降りた。
彼女の正面へ回り込み、床に座って梨華を見上げる。
「うん‥。ちょっと‥。走ったら転んじゃった。ハハ、私ドジだから‥。」
「暗かったし、やっぱり一緒に行けばよかった。そう言ったのに。」
「別に、コンビニくらい‥。」
隠し事がないとは言わせない。何故‥、走った?
私はおもむろに手を伸ばし、梨華の足首をささげ持った。
「今度から、絶対一緒に行くから。」
紅く、滲んだ傷はまだ、乾き切っていない。見つめているうちに、自然と唇が吸い寄せられた。
梨華の命、そう言って良いと思われる誰よりも細く、そして綺麗に伸びた足。
私が実際こう思っていると知ったら、彼女は果たして怒るだろうか?こんな小さな傷ひとつ、許す事ができない。
あの日がバイトに出た最後の日だったから、店内の雰囲気とか、客層とか、細々としたところまで、本当に良く覚えている。
スピーカーから漏れる重いギターの音。そこそこ入っていた客の、拡散した喋り声。
それらは混じり合い、膨らんだ波のような層を構成する。
更にその上部には煙草の煙が薄い雲となって、天井付近に澱んでいるのだった。
普段真面目なバーテンは随分機嫌が良かったのか、アルコールを注ぐ合間に自分もグラスをあおっていた。
照れて、シェイカーを嫌う彼が、おどけて作った綺麗なカクテル。
くわえ煙草で出されたグラスをテーブルへと運ぶ途中、私はそれを耳にしたのだ。
客の年齢層がいつもより若干高めだったから、はりきった様子の2人の服装は余計に目立って映った。
大人びたミュール。さんご色の爪。あどけさが残る口元は多分、高校生‥?
トレイを持って横を通り過ぎる瞬間、なにげに私がチェキを入れた瞬間だ。

結婚するんだってね、ヤグチ。聞いた聞いた。

囁き交わされる感心の薄そうな声が、私の耳へと届いた。
マジ?びっくりしてバランスを崩しそうになったけれど、私はなんとか持ちこたえた。
運動神経の良い私だけあって、酒はこぼれずに済んだ。早く梨華に言わなくっちゃ。足早に歩く。
「ウソ?」
カクテルを出した帰り、直行したキャッシャーデスクで、梨華は目を丸くした。
サンダルを履いた足を、梨華はきっちりと組んでいたから、くるぶしにあるべき傷は、ちょうど私から見えなかった。
「わかんないけど。そう話してた。」
肩ごしに私は、高校生とおぼしき先程の2人を、視線のみで梨華に示す。なにげない風を装い、その先へ瞳を巡らす梨華。
「あ、」
梨華が小さな声を上げた。
「あの2人、知ってる‥。何回か、矢口さんと一緒に来てた‥。」
「そうなの?じゃあ本当に結婚するのかな、矢口さん‥。」
梨華の視線は動かない。彼女へ向けていた視線を私も例の2人組へと、そうと気付かれないように注意深く戻した。
「いや、本当だけど?」
休憩時間。ちょうど席を立った2人を、私は入り口付近で呼び止めた。
従業員は2名同時に休憩を取ることができないから、
梨華は相変わらずキャッシャーカウンターから離れる事ができないけれど、店を出ようとする2人に気付いて私が走り寄る瞬間、
一度だけ梨華とも目が合った。
「父親の取り引き先の息子だってさ。」
「向こうがすごい気に入ってるんだって。けっこう年上の人らしいよ?」
2人のうち髪の明るい方がそう言うと、もう一方の唇を過剰につやつやさせた方もすかざず相槌をうった。
「そうなんですか、知らなかった‥。でも随分急なんですね‥。」
腕を組む私。
「急だから大変なんだよ。稽古ごとやら何やら、かなり大変みたいだし。」
「そう言えば。最近、矢口さん来てないけれど‥。」
「軟禁もいいとこらしい。ウチらだって全然会ってないよ。てゆうか遊んでないんじゃん?」
「あの矢口さんがですか?」
「そ。可哀想だよねー?」
「ねー。」
矢口さんの飲み仲間。この頃から私は違和感を覚え始めた。2人はしきりに頷き合うが、声がいたって軽薄なのだ。
「そうだ。」
突然。グロスの方が愉快そうに、軽快に私を指差した。
「つうか、あんた。ヤグチと仲いいじゃん。私、知ってるよ?よく一緒に座ってんの見た。」
ちょっと前、一緒に海に行ったばかりだ。この人たちって、飯田さんとかののたんとか、知ってるのかな。
「ええ、まあ。」
「でッしょー?ならさー、助けてやりゃいいじゃーん。てか名案じゃない?」
ギャハギャハと笑いながら言われたので、少し腹が立った。なんだ、コイツら?からかっているの?
ひそかにそう思ったけれど、私は笑顔。
「てゆうか、なんで私なんですか? 無理に決まってるじゃないですか。ハハ。」
「だよねー。可哀想だけどー。しょうがないよねー。」
「お嬢のくせにあんだけ遊びたおしてたんだし。ま、年貢の納め時ってコトじゃん。なんつってちょっと早いけど。アハハ。」
嫉妬?こういうヤカラはどこにでもいる。矢口さんの前じゃこんなクチ聞けないくせにさ。
しばらく立ち話をした後、挨拶をした私が扉を開けてやると、2人は笑いながら出て行った。
「また来て下さいね。」
現在は互いの恋バナに夢中。私の声なんて耳になどとっくに入っていない様子。なんて。
今の私にはそんなこと、とっくに重要ではなくなっているけれど。
数時間後。バイトから帰った私は、ベッドに仰向けに横になった。
昨日のほぼ同じ時間帯、梨華が足に傷を作った理由を、あれから私は特に聞き出してはいないけれど。
ともかく彼女は今日、コンビニに行きたいとは言わなかったし、あれ程毎日のように食べていたヨーグルトも明日は我慢するらしかった。
梅雨も末期となった今、雨は決して止まない。
長いこと水を吸い続けたこの建物も、そろそろその昇華の限界を迎えているのか、雨漏りこそまだしていないが、
天井の片隅にはいつしか輪郭のぼやけた染みが、いくつかぽつぽつと浮かぶようになった。
梨華がシャワーを浴びる間、私は眠るでもなく、曖昧に黒ずんだ染みの数を懸命に数えたりする。
スニーカーを履いていたから矢口さんはあの日、いつにも増して幼かった。
梨華を襲った後、家を飛び出した私が雨に濡れて訪れた夜。

周囲が寝静まった時間。青白い電柱の灯りに降り続く雨が切り取られ、飽和した水分のせいで、全てが静かに発光していた。
立派な、大きな門の前で傘を差した矢口さんはひとり。ひっそりと私を待っていたが。
まるで、いるわけない遠い存在に、それでも思いなんかをひそかに寄せてでもいるよう。
ぼんやりと斜め上空を見つめる矢口さんの、時折白い息を吐きだしたりする横顔の、なんと美しく、そして、なんと孤独だったこと。
濃い色の上着の、フードまですっぽりと被った私は一瞬の間、本当に一瞬の間だけ声をかけるのをためらって、彼女をじっと見つめた。
声をかけた途端、矢口さんは普段の様子に戻った。
予想通り。一度、意地悪そうにわざと睨んで見せて、直後、ニッとゆるんだ口元。良く動く奔放な瞳のまま。
「早く入って。」
常に大人ぶろうとする。
不自然に明るい玄関で濡れた靴を脱ぐ私に、厚い大きなタオルを矢口さんは投げてよこした。
広い家。廊下の奥の方は、暗くてよく見えない。
それでもやっぱり、声は響いてしまう?
私の育った家はこんなに大きくなかったから、知る由はないのだけれど、果たして梨華ならどうか?
そう考えて私は苦笑した。だって。つうか姉妹じゃん。
そんな私を見て、矢口さんはそっと、唇に指を当てた。
「静かに。お風呂沸いてるから入って。着替え、新しいのあったから、出しといてあげたよ。仕方ないから。」
言われるまま私は矢口家風呂へ向かった。
浴槽に浸かったら、体の末端部分がここちよくじんじんと痺れて、自分の体が随分冷えきっていたのだということに、そこで初めて気がついた。
数カ月前、初めて会った矢口さん。それ以来随分良くしてもらった私が彼女に対して思うこといくつか。
頼りがいがあって、優しい。人当たりは良いけれど、決まってどこかクール。
現在の矢口さんは周囲に対し、常にドライな態度を崩さないけれど、本来の彼女は、自分のことと同じくらい、他人のことが好き。
ほんの数年前までの彼女が、やりたい放題の豪快なガキ大将だったことからも容易に想像がつく。
人は幼い頃の欲求を、大人になるにつれ上手に隠す事ができるようになるけれど、それらを全く消してしまうことは、不可能に近い。
他人を好くにしても、嫌うにしても、対象に費やすエネルギーはほぼ同量であるし、外部に向け、あらゆる感情を常に発散しつづける程、
以前の矢口さんがバイタリティーに溢れていたということは、その外部に対する矢口さんの興味、要するに周囲の人間へ向けた矢口さんの好意が、
旺盛だったという理由に他ならない。
わがままひとつ言うにしたって、相手に対する、ある種の信頼じみた感情(たとえそれが一方的であるにせよ)が、
矢口さんの中にはしっかりと存在している必要があるからだ。
飯田さんいわく
「わがままさがなくなった」
という現在の矢口さんは、つまり周囲に無関心になった。
もしくはそう装うようになった。情熱を失くした最大の理由は、おそらく絶望。
無防備な好意は今の世の中、災厄を自分に呼び込んでしまう。ましてや豊かな家庭に矢口さんは生まれた。
近寄って来る人間といちいち本気で相対するうち、彼女はいつしか学んでしまった。
わがままを通して生きて行く方が、この時代よっぽど難しいこと。いちはやく大人になった方が、全てにおいて有利であること。
そうしてガキ大将のいじめっこは消え、クレバーなリーダーができあがった。
威圧感を与えない生まれ持った身長の低さと、昔とった杵柄の、人なつこい黒い瞳。
あらゆる人脈を吸収する際、それらはおおむね好ましくはたらいた。
あわれな家出少女2人に、矢口さんが何を見たのか、私は今でも知らない。
出会った日、矢口さんは気前よく住居と仕事を用意してくれた。
彼女の手際の良さ、そしてあまりの旨い話ぶりに私と梨華は訝しんだが、結局、矢口さんについて来て悪い思いはしなかった。
感謝の気持ちでいっぱい、とか。そういったようなかんじだ。
しかし、かならずつきあたる疑問。私達のどこを、矢口さんは気に入ったのか。
影?逃亡者にありがちな?もしくは殺人者の血におい?まさか。私達にそんなもの、ありはしなかった(と、思う)。
一般的な矢口さんの遊び友達には、恵まれたバックグラウンドを持つ、いわゆる選ばれた子女が多い。
そして矢口さんには彼ら或いは彼女らに決して見せない表情があり、私の知る限り梨華と私、もしくは飯田さんとののたんあたりが、それを見る事ができる。
例えば海に行った日。銃のアリ・ナシを震えながら問う姿とか。
或いは安倍さんの話題で見せた、無邪気な悪意の表情とか。一段深いところにある、矢口さんのひそかな感情。
私達にしか見せないのは、安堵しているから?
私達には未来がないから?
そこまで考えて少し笑った。さすがにこれは失礼か。
矢口さんはそんな人じゃない。‥と、いうよりもむしろ、どっちだっていい。
実際の彼女が私達に向けるもの、例えそれが同情だろうと、憐憫だろうと、私にはあまり関係ないのだった。
世の中は主観で成り立っている。彼女が私達を愛していると私は考えているし、私も彼女が大好きなのだから。
それ以外の世界へ私が足を踏み出すことなど、まったくもって不可能に違いない。
風呂を出た私は矢口さんの部屋へ向かった。
以前、何度か訪れたことがあって家のつくりはだいたい頭に入っていたから、長い廊下にも、東西2つある階段にも、私は迷う事がない。
夜中だし、もちろん足音には気をつけたけれども、なんなくたどり着く事ができた。
部屋のドアをノックして開けると、ベッドに腰掛けた矢口さんはTVの深夜放送を見ていた。
バラエティ番組。乾いて聞こえる笑い声が、ますます深夜の気分を煽り、私はふと、自分が世間から切り離されたように感じた。
「あ。真希ちゃんだ。」
まだ、叩かれる以前の真希ちゃんが画面に一瞬映ったので、素早く目の端に捕えた私は、思わずそう呟いてしまった。
「え。ファンなわけ?」
矢口さんに聞かれ、うろたえる私。
「いや‥、エ? ああ‥、まあ‥。」
つきまとう恥ずかしさはなんだろう。
もしや。真希ちゃんがあまりにイケイケだから?‥うう。
私はごまかしまぎれに、濡れた髪をごしごしと拭いた。
ヲタだとばれたくない。大きなバスタオルは動揺を隠すのに都合がよかった。
幸運なことに、矢口さんはそれ以上突っ込んでこない。
手に持った麦茶を飲みながら、少しだけ楽しそうに私を眺める。
「よかった。あんまりピチピチじゃないね。」
「ああ、着替え‥。快適です。」
矢口さんの視線は、私が身に付けているTシャツと短パンにそそがれていた。私の趣味とは違って、女の子らしい色で可愛い。
「よっすぃー、デカイからさ。お父さんのヤツとか出してきてあげようかな。とか思ったんだけど。けどあの人たちもう寝てるし。たんす、寝室にあるんだよ。」
「ああ。でもほんと平気ですよ?ホラ。」
腕をぶんぶん振って見せた私。矢口さんも満足そう。
「それ。ヤグチが持ってる中で一番大きいヤツだもん。つうかおまえデカすぎ。」
「‥つうかおまえが小さすぎ。ふふ。」
苦々しい思いが満ちたあの部屋から抜け出し、ここ最近で初めて息をしたような気分になった。
真夜中の明るい部屋。起きているのは2人だけだと錯覚した。
誰かに聞いて欲しかったのは、私が弱っていたせいも多分にある。
しかしそれだけではなく、矢口さんはそんな告白をした私をもきっと許し、
今まで通り受け入れてくれるというかんじの勝手な期待を抱かせるような、そういうオーラがあった。
梨華の殺人を除いた全て、家出、金、銃、それから、当時大問題となっていた、私と梨華との異母姉妹説まで、
私はもろもろを、矢口さんに打ち明けてしまった。
もちろん、私が梨華を襲ったことも。
殺人のことは敢えて話さなかったが、なぜなら、いくら矢口さんとは言ってもさすがに重すぎる話だろう、個人的にそう判断したからだ。
銃入手のいきさつについて目を丸くした矢口さんは、殺された安倍なつみについて
「そういうアツイ部分もあったんだね、あの人。」
と、ごく簡単なコメントを述べた。続く保田さん関連の、梨華と私の血の繋がりにおいては、あっけにとられ、言葉など出ない様子。
しばらく息を呑んだまま、まじまじと私を見つめていた。
私は疲れていたはずだったが、矢口さんの親身な聞きっぷりがとても心地よく、えんえんと話し続けてしまった。
絶望にくれた私の論調は、混乱も甚だしいものだったけれど、矢口さんはそれらめちゃくちゃな言葉のひとつひとつを、
時にはなだめ、時にはすかしなどして、真剣に耳を傾けてくれた。
そして。レイプ騒動のくだり。その他を話したのに、最大の罪を話さないわけにはいかない。
ここで隠せば私は永遠に卑怯ものとなるのだった。
人前で泣くのは恥ずかしいし、なるべく冷静に話すつもりだったけれども、身体の震えは止まらなかった。
矢口さんは牧師のように、ただ目を伏せていた。
「嫌がる彼女を、押し倒したんですよ私。最低‥ですよハハ。灰皿は‥振り降ろされなかったんです‥。」
語尾の方に、奇しくも涙が混ざる。泣きたくなんかないのに。
「どうしよう‥、私。りかっちに捨てられたら、生きて行けないのに‥。」
「そう‥。ならなんで襲ったりしたの?」
「だって‥。もう怖くて。姉妹だったりしたら、彼女は結局‥。他の人のところへ行っちゃうと思って‥。」
ああ‥!わたし用。ベッド脇に敷かれた一組の寝具。ブランケットで顔を隠し、私は両手で涙を拭った。
「かわいそうなよっすぃー。」
慈愛に満ちた声で矢口さんは言った。
「けど、梨華ちゃんも同じだね。それは。」
それはもう。本当にわかっていた。頷く私。けれど、不意に襲った嗚咽のせいで、それはぎこちないものになった。
すでに外聞などなく、ひたすら私はしゃくりあげた。矢口さんは相当大人。
姉妹なんて関係なくても、別れるトコロは別れるし、続いてくトコは続いて行くよ。アベックってやつは。
問答にも似たやりとりは、明け方まで続いた。
空は明るさをいくらか取り戻したが、天気は相変わらずの様子。
私達はそれぞれの場所に横たわり、雨が紡ぐ、単調な音だけを聞いた。
すなわち矢口さんはベッド、私はふとん。消耗著しい身体に睡眠は逆に訪れない。
泣いたから、興奮しているのだ。天井をずっと見つめた。
「矢口さん。」
そう声をかけたのは、疲れた彼女の呼吸が一定のリズムを刻み始めた頃。
彼女が眠ってしまった後に、一人になるのが嫌だったため。
律儀に答えを返す彼女は、決して不機嫌などではなかった。いつだって優しいんだ。
「何?」
私は努めておどけた声を出した。号泣してしまった照れもある。
「一緒に寝てもいいですか?」
それほど本気ではない。矢口さんにも解っているはず。
しかし。答えはしばらくなかった。予想外。考え込んでいるのか。それとも眠っている?
「矢口さん。」
「だめ。」
ほぼ同時だった。返事を待ち切れなかった私が再び口を開いた時だ。
焦れた様子の私の声に矢口さんがかぶせて言った。それにつけても私はひどい鼻声なのだった。
「なんで?」
「早く寝なよ。」
「いいじゃないですか。」
「もうなんなの?どうしたいの?」
「わから、ないけど。」
「早く寝なってば。まだ声が震えてるよ?ヘンな声。」
そもそも返事をしてもらってる事が嬉しい、眠れない私。
「さっきまで泣いてたくせに。」
なかなか引き下がらなかったから、矢口さんはとうとう言った。
「つーか。ヤグチの事一番好きな人とじゃないと、ヤグチはそういうのしないんだけど?それに--------。」
「ハイハイ知ってますよ。眠れなかったからちょっと聞いてみただけですよ。」
珍しく真剣になった矢口さんが愉快だった。
すっごい遊んでるフリして意外と真面目なのを私は知っている。
フフフフ。笑う私に矢口さんは呆れ顔。その後、少しからかう口調。
「じゃあ、明日。梨華ちゃんに電話しなよ?自分でかけてよね。」
「いいですよ?できますとも。」
「言ったね?」
「余裕です。」

矢口さんが、結婚する‥。
長く回想している間に梨華はシャワーを浴び終えて、寝仕度を整えたようだった。
私は目を閉じていたから、私が眠っているものとてっきり思ったんだろう。
物音を気にする様子で静かにベッドに近付き、上がけをそっとめくった。
「りかっち。」
「きゃ‥っ!」
端から驚かすつもりで、突然私は声をかけたから、案の定彼女は小さく、かわいい悲鳴を上げた。てゆうか大・成・功。
「起きてたんだ。本当にびっくりしちゃった。」
「まあね。」
ベッドに入った梨華に私は腕を伸ばし、そのまま、半ば抱きつくようにしながら、もぞもぞと距離を詰めていった。
梨華は軽かったし、私もなかなか動いたから、2人の間に空いた距離などあっという間に縮まった。
「明日さー‥。てゆうか今日起きたら。行ってみようと思うんだよね。」
私は少しも笑わずに言った。
「矢口さんの家?」
「うん‥。仕事、明日ないし。携帯にさっき電話してみたけど‥、やっぱりでなかった。一応メール、入れたけどさ。」
「なんて?」
「まあ、それはいいとして。」
超直前の梨華の顔は、(雨だけど)朝の、青い光にさらされて綺麗。
私と梨華の額は、あとほんの数ミリ動くと、ぴったりと重なってしまいそう。そんな至近距離で私達は、お互いの瞳を生真面目に覗き合う。
「会えるかは解らないけど。でも会って確かめたい。」
「結婚のこと?」
「うん‥。」
「本当に矢口さん結婚しちゃうのかしら。」
そろそろ眠くなった私は、不安そうに囁いた梨華を、一度改めて抱き寄せた。
瞬間、ふと開けた視界に、天井の染みが映る。
黒くぼやけた輪郭は先程よりも大きくなっていた。薄れる意識の中で私は考える。あんな感じの形、どこかで見た事ある‥。
ああ。ガン細胞に似ているんだ。
目の前には大量のゆで卵が積まれている。殻を剥くのは私の仕事だ。
私はそもそも茹でた卵が大好物だから、殻を剥くのも得意なわけだ。
まず、白い小山をざっと見渡し、その中からひとつ、そこそこ大きくすべすべとしたものを選び取る。迷いはない。
カツカツ。
私は机の角を使い、表面に適当な割れ目を入れた。
出来たひびに沿って殻をペリペリと剥いてゆく。慣れたものだ。
今まで何個剥いたと思ってるんだ。少しも経たないうちにつやつやした白味が、陶器がかった白い肌を露にした。
芸術的とも言える。
「これは安倍さんの分。」
そう呟いた私は脇の皿の上に、剥いたばかりの卵を加えた。
皿の上には既に剥き終えたゆで卵が、実は相当数積み上がっているのだけれど、私は気にもとめない。
次に剥くべき卵へとさっさと腕を伸ばす。殻を剥くのは得意だったし、それが私の役目だ。
そうこうする間に、はやくも次の卵を剥き終えてしまった。
「これは矢口さんにあげよう。」
さて。次はおでこで割ってみようか。
調子にのった私は手中のゆで卵をひとり眺め、秘密裏にほくそ笑んだ。
殻を剥く自分の職人並みの手際の良さに、得意な気持ちがこみあげるのだ。
ゴッ。「痛ッ。」

ペリペリペリ。

あれ?これは誰にあげるんだっけ?私はふと考えた。
予想以上の衝撃に、目には涙が滲む。安倍さんと矢口さんの分は、もう剥いてしまった。
梨華の両親までも含めて、知り合いの分は全て剥き終えている。
私自信は食べない。梨華も食べない。飯田さんも、多分食べないことだろう。
あとは誰に剥いてあげるんだった‥?
「あれ?」
私は首を捻る。
「ま、いいや。」
ペリペリ。作業を再会した。いずれ新しい誰かが必ず食べるのだから、剥いておいて損はない。
カツカツ。
‥カツーン。
ん?カツーン‥?音が違う‥?
目よりも先に、耳の方が起きたらしい。
軽い衝突音のようなものが、私をうつつへ連れ戻した。
数秒遅れて目を開ける。見なれた天井がゆっくりと広がり、ガン細胞に似た染みも、隅の方には健在だった。
私はまず隣に眠る梨華を眺め、とりあえずここが現実なのだと、ぼんやりしながら確認する。
「卵‥、剥く‥、のは夢‥か。しかし‥。」
少し混乱の残る脳には、理解を越えた夢なのだった。我ながら見てしまったがじつに意味不明だ。
私はそんなふうに思いつつ、慣性にならって身を起こした。
すると、また衝突音。カツン。
私は音源を求め、視線を巡らせた。夢の中の、卵の外殻にひびを入れる音‥?
と、似ているが同じではない。『あれ?卵は?』なんて、目が覚めてきた私は、もう混同しやしない。
「なんだ‥?」
注意深く聞き耳を立てる。正体はすぐにわかった。窓に小石が当たっているのだ。
誰?うちの窓に、石なんてぶつけて。危ないじゃないか!
そう憤慨した私だが、立ち上がった体は意志に反してよろけた。寝癖の激しい頭のまま、ヨロヨロと窓辺に寄る。
果たして窓の下には、もっか行方不明中の保田さんがいたのだが、どういうわけか黒いサングラスをかけている。
石をぶつけていたのは、すなわち訪問の合図だったらしい。
それにしても随分アナログな方法で私達を呼び出したものだが、そんなことより、ずっと探していた彼女が自ら現れてくれた事にびっくりして、一気に覚醒した。
「保田さん‥!」
私は半ば叫びながら、急いで窓を開けた。
逃がすわけにはいかない。今日こそ話してもらわなければ。
全てを。眼下の保田さんは、次の小石を振りかぶっていたが、窓辺の私を確認すると、その腕を下ろした。
保田さんの瞳は濃い色のサングラスに隠れていたけれども、それでも、私を見上げる彼女の微笑みが激しく輝いているのがわかった。
約3分後、梨華を起こし急いで階段を降りた私達に、保田さんは開口一番言った。
「その通りよッ!!」
「?」保田さんは笑顔。何が?目は覚めているけれど頭がボサボサな私と、まだ眠たげに目をこすっている梨華。
保田さんの言う意味が汲み取れず、思わず眉を顰める私達に、保田さんはもう一度繰り返した(厳密には私が途中で阻んだ)。
「その通り----」
「何がですか。」
保田さんの今日の格好は、どう見たって普通じゃない。
頭には白く、つばの広い帽子を被り、全身にはこれまた揃いの白いスーツを着込んでいる。
ズボンではなくスカート。サングラスをかけ、重そうなスーツケースを傍らに置いた姿は、明らかに怪しかった。
どこの大女優?と、いったようなかんじだ。
「バレたのよ。アンタもそう思っていたでしょう?」
訝しがる私達を前に、保田さんはひとつ咳払いをした。サングラスのせいで、彼女の正確な感情は伺えない。
「あ。偽造が、会社に‥。ですか?」
「そうよ。」
やはり、油断のならない女だと思った。
保田さんが会社を休んでいると聞いて確かに私はそう感じたが、それを見事に言い当てられるとは。唇を噛みしめた。
保田さんは更に付け足すように、一言ずつ区切りながら話した。
「会社に‥、私の犯罪がバレた。‥そう。だから私、飛ぶわ。」
「え‥ッ?じゃ、海外へ‥?」
「そうよ。ちょっとブラブラしてくるつもり。中南米あたりでね‥。」
「そうですかぁ‥。へえ‥。」
口髭を生やした半裸の男たちが保田さんを取り囲み、しきりにもてはやしている姿が、私の頭の中でただちに広がっていた。
熱いラテンの国々へと縦横に想像を巡らせる私。
その真横で、梨華は掠れているが割と冷静な声を出した。
いくらか目を細めているところを見ると、まだしっかり開かないのだろう。
昼前に起きるというのは、今の私達にとって随分珍しい事なのだ。
「じゃあ、車は‥?私達、もう乗らない方がいいんですか‥?」
そう、私が聞きたかったのはそれだ。
「ええ、そうとも言う。‥でもまあ、大丈夫だと思うわ。
アンタ達の身元は、まだバレてない。私も脱出するから、きっと誰も知り得ないわ。
さしあたっての問題は、ナンバープレートだけど‥。なんなら、そうね。
いい板金工を紹介するわ。私そこで、バイトしてたんだ、昔。」
保田さんの紹介をむげにするつもりはなかったけれど、梨華と話し合った結果、それは矢口さんに頼もうと決めた。
保田さんのいでたちからして彼女はこの後、すぐに飛び立ってしまうに違いない。
すると私達は彼女の元・バイト先へ直接出向いて行かなければならないわけだが、さすがにそれはためらわれる。
ムシの良い話だが、危険をおかしたくない。
矢口さんは花嫁修行に勤しむ日々との噂だから、場合によっては時間がかかってしまうだろうけれども、
例え多少待ったとしても彼女のルートに頼った方が、より安全だと感じた。
矢口さんならばそういった方面へのツテも必ずあるに決まっているし、何よりも、私達とプロとの間に、
第三者をかならず挟んでくれるという信頼感情が私の中にはあったからだ。
保田さんの様子からして、彼女のフライトまでには、まだ多少の時間があるように思えた。立ち話もなんだと思った私は、
「良かったら中へ入りませんか?」
と、聞いたが、「スーツケースを持ち上げるのが面倒だから。」と、保田さんが断った。
さて。本題はこれからと言っていい。もう一つ、聞かねばならぬ事が私達にはある。
とんでもない過去を見せつけられた、そもそものきっかけ。例の痣。
これだけ震撼させられた私と梨華の2人から、理由を訊ねる権利を奪うまっとうな理由など、この世に一体存在するだろうか?
もっとも、仮に保田さんが私達の姉だとすると、父・さや造(仮名)には他所にもう一人、子供がいた事になる。
そうなると私の中の父親像は見事に一転し、優しかった父はその実とんでもない男だったということが、ダメ押し的に判明するしくみだ。
「保田さん。」
「何?」
けれども、全てを受け入れる心構えはできている。
(愛していたよ、父さん。朗らかに笑う父の顔を思い出していた。)
「同じところにある痣‥、それはつまり、保田さんが私達の姉‥、そういうことでいいんですか?」
サングラスをかけたままの保田さんは、曇った空をしばらく見上げていた。
何事かに思いを馳せているようだった。
今さら姉妹が何人増えようと構わない-----過去に梨華はそう豪語したが、さすがに関心を隠せない様子だ。
既に眠気などとは完全に決別した瞳で、眉を寄せ、保田さんをじっと見守っているのだった。
黙り込んでいた保田さんが、口を再び開き出すまで、それほど大量の時間を費やしたというわけではない。
が、それでも、私達が立つ道の、歩道の反対側なんかを、ニャーと鳴いた野良猫が用心深く歩いて行ったり、
付近に住むお年寄りが、それぞれ散歩がてらなのか、数名ヨロヨロと行ったり来たりした。
「どこから、話したらいいのかしら‥。」
保田さんがサングラスを取り、ゆっくりと語りだしたのは、------都心には逆に老人が多く住むのだと、私が改めて実感し直している最中だった。
あたい、こう見えてもサ。昔は結構な不良(ワル)でさ。
先公なんか、決してわかっちゃくれねーし、気の合うダチも、あの糞みてーなハイスクールじゃ、どこ探したって見当たらなかった。
「つまり結果から言うとね、私の痣‥、あれはヤキの痕なの‥。」
思い掛けない言葉に、私は耳を疑った。
自称、「ナイフみたいに尖ってた」保田さんは高校生だった頃、当時としてはバリバリに最先端なコギャルとして他の生徒を圧倒していた。
が、いわゆる、生徒会だか風紀委員だか、ともかく上級生を含む、
多少ギャルも入っているが保田さん程イケてない女生徒達の反感を多いに買い、何かにつけ意地悪をされたそうだ。
それでも保田さんは「他人は他人、自分は自分」と、当時から割と分けて考えるタイプだったから、
教科書をビリビリに破かれても、画鋲を上履きに仕込まれても、相手の仕打ちがどんなに馬鹿馬鹿しくとも、黙って無視していた。
しかし、そういう保田さんのノーブルな態度もまた、イケてない面々のコンプレックスをよけいに刺激したようで、
どんなに挑発しても決してのって来ない保田さんに業を煮やしたそのグループは、ある日、校内の人気のない場所へ保田さんを呼び出したらしい。
保田さんの入学から、一年と経っていないある放課後の事だそうだ。

ソイツらがいい加減ウザイからー、あたいもまあ、体育館裏、行ってやったわよ。
まあ、イザとなったらあんな人たち。ワンパンで逝かす自信あったし。
初めのうちは、さあ。まあ、生意気だァなんだァ、向こうがぐだぐだ言ってんの、聞いてやってたのよ。
「ザコどもが、アラ。吠えるコト。」ってね。
ちょうど、チェックしてた再放送あったし、
「早く終わらないかしら。」
とか、つま先見ながら思ってたの。そうしたら、その中のボスみたいなナオンがさ、
「つーか、くせーんだよ、オマエの髪!」
って、いきなり、私の頭を掴んだ。
いいえ、臭くなんかない。朝シャンなんて、もち、してたわ。あの頃。
今の私なら、
「ほっときなさいよ。」
なんて、軽く受け流す器用なマネなんかも、覚えちゃってるけど。当時はホラ、若かったからサ、あたいも。カッとなっちゃって。
「クサくなんかないわよッ!その手を放しなさいッ!」
って。おもいっきり、振り払ったってワケ。
私の形相に、奴等、一瞬ビビってたけど、そのうち、
「んだとテメー。」
とか、ゲス野郎みたいなコトバを吐きながら、下っ端の、いかにもトロそうな女が、牛みたいに掴み掛かって来たわ。
早く帰りたい、ってのもあった。
あの日は再放送見た後、パー券とステッカー捌かなきゃいけなかったし。
でも、一番の理由はね‥。ナメられたら終わり‥、ってトコかなぁ。
殴りかかられる瞬間さ。ちょうどそのバカ女、タバコふかしてたんだけど。
その、火のついたタバコ奪って、ア然としてるタコども全員の前で、押し付けてやった。フフ。自分の腕にね。
熱かったし痛かったけど、効果はあった。奴等、あっけに取られて、私のこと、口開けて見てたわ。
その時にさ。
「腐ったミカンじゃねーゴルァ!!!」
って、覚え立てのセリフを、ついでに言ってみたら、アイツら、完全にビビッちゃって。
「覚えてろ、ブス!」
とか、低能丸出しな捨てゼリフ吐いて、クモの子みたいに散ってったわ。
次の日私は、そんなこともすっかり忘れて、いつも通り学校に行った。昨日捌ききれなかったパー券のことで、頭がいっぱいだったの。
喋る友達なんて、もちろんいないから、誰に話し掛けることもなく、いつも通り席に着いたわ。
そこら辺までは、いつもと変わらない朝だった。でもひとつだけ、普段と違う所があったの。
教室中の皆が、クスクス、私を見ながら笑ってた。
そんなこと、いちいち気にするヤスダさん、て思ってもらっちゃ困るの。よくわかんないけど勝手にしなさい、って、ずっと無視していたんだもの。
そのうち、クラスの中でも大人しくて羊みたいに目立たなかった子が、こっそり寄って来て、私に耳打ちしてくれた。
「ヤリマンとか尿道とか、わけわかんない噂が学校中に広まってます。」
って。その親切な、人の良さそうなメガネちゃんを、なんだかムシャクシャして、私は殴ってやったけどね。
噂の数々はやがて、先公たちの耳にも入って。私はこってり絞られた。私がそうだって、アイツら、勝手に決めつけんのよ。
表向きはホワイトカラーの学校に、私は嫌気がさしていた。
「あたいの居場所はここじゃない。」
って、飛び出して、夜中にバイクで走り出したわ。ま、今風に言えば、さっさと退学してやった、ってコトなんだけど。
行く先もわからぬまま、辿り着いた十五の夜。腕に着いたヤキの痕が、かさぶたになって、たまらなく痒かったわ。
私は、耐えられなくて、掻きむしった。かさぶたも、つい剥がした。それを繰り返しているうち、痕は、とうとう消えなくなった‥、ってわけ。

言ってみればメモ青、ってかんじかな‥。ゴメンなさい、こんなオチで‥。

「その後よ。ジョニーと出会うことになるのは------」
「ちょっと保田さん‥!」
遠くを見つめて話す保田さんを、多分に険を含む声で梨華がそう遮った事は、私にとって少し意外だった。
痣の真相はともかく、保田さんの青春列伝の方により深く、単純な私が感銘を受けていた時のことだ。梨華の肩は震えていた。
「それが、今度の件の真相だって言うんですか? ‥私、納得出来ません!
そんな事が発端で、私達の間にどれだけの亀裂が走ったか‥!もう少しで‥、
もう少しで私達‥、ダメになってしまうところだったッ!」
「だーかーら、ゴメンねっつってんでしょーが!!私だってビックリしたわよ!
『こんなトコロにも、ピュアーなキッズがいた!意外ねッ!共に語り合いましょうッ!』
ぐらいにフツーに喜んでたんだから!だいたいねー、あんた達の痣にそんな理由があったなんて、思いもよらなかったわ!
根性ヤキじゃなかったなんてッ!こっちこそギョウテンよッ!!」
「でも納得いきませんッ!!」
「ハイハイ!全ての原因は私です!って言えばアンタの気も収まるのかしらッ?」
私は何も言わなかった。2人のやりとりを黙って聞いていた。
今回の事件で、梨華は私に比べてかなり冷静に振る舞っていたと言える。
その梨華が事後、保田さんに対しこれだけ言い募るほど、実は動揺していた事は、意外だったけれど、やはり嬉しいのだった。
結局、保田さんに悪気はなかったという事で、決着がついた。
今回の事件は乗り越えるのに多少苦労したけれど、そのおかげでより深い絆を私達は得る事ができた、というような感じの私の言葉に、梨華も納得した。
「わかってくれればいいのよ‥。でも本当にゴメンね。私も、軽はずみだったわ‥。」
「いいえ、私こそ‥。久しぶりに母に会えて‥、実はちょっとだけ嬉しかったんです‥。」
梨華は少し涙ぐんだ。腕を組んだ私は、ただ頷いた。
「さて。湿っぽいハナシは嫌いよ。もう行かなくっちゃ。」
保田さんは鼻をかんだ。
「最後に、言っておく。」
外していたサングラスを再びかけ直してから、呟いた保田さんの言葉は、とてもあたたかい物に聞こえた。
「私は‥、アナタたちを未来に連れて行くことも出来る‥。でもそうしなかった。‥理由はわかるわね?」
「ハイ。」
「何が見えたって、結局いいことないのよ。」
私達は頷いた。保田さんの瞳は、隠れていて見えない。
その後、私達3人は大通りへ出た。肩にもうひとつ荷物を提げた保田さんの為に、スーツケースは私と梨華が押してやった。
「ヘイ、タクシー!」
そう言ってさっそうと手を挙げた保田さんに、一台の空車が間もなく停まった。
「あ。」
スーツケースを後部トランクに押し込み、まさに今乗り込まんとする際、思い出したように保田さんが叫んだ。
「忘れてた。そもそもコレを渡そうと思っていたんだわ。」
差し出されたのは、白く小さな紙切れだったが、2つ折りを開いてみるとどこかの電話番号が、ボールペンで記されていた。
記された電話番号は、その数字の並びから、すぐに携帯電話とわかった。
私は言葉を発さず、保田さんを黙って見上げた。
「いつか‥。もし本当にピンチが来たなら‥、それを使いなさい。きっと助けてくれる。」
そう、微笑みながら言って保田さんは車内に乗り込み、直後、バタンと固い音を立てて、タクシーのドアは閉まった。
「アディーダース!!!」
保田さんのそんな嬌声とともに、車は発進した。それを言うならアディオスだろう。
と、私は思ったけれど、なんとなく感慨深いものもあって、無心に手を振り続けた。
同じく梨華も、私の横で大きく手を振っていたが、やはり無表情だった。
今後、出会いと別れを一体何回私達は繰り返すのか、そんな事を考えていた。
保田さんの残した番号。それが、その日のうちにすぐ必要になると、私達はまだ知らなかった。
連絡のとれない矢口さんの家へ、とりあえず行ってみようという事にその日はなっていた。
私がシャワーを浴び、出かける準備をおおむね整える間、梨華はキッチンでサラダを作っていた。
「あり合わせで作ったから、こんなカンジだけど‥。」
と、ほんの少し遠慮がちに出されたサラダは例えばベーコン、ツナ等といった動物性タンパク質がなく、
本当に野菜のみだったけれど、トマトやコーンの色合いはむしろ普段よりも美しく見えた。
保田さんを見送った淋しさからなのか、私達は2人とも言葉少なだった。
私は食欲が旺盛なので、サラダの他にシリアルも少し食べた。
惰性で点けていたテレビはやがてワイドショーに変わった。
随分牛乳にふやけたシリアルを、ボウルの底から私が懸命に掬っている最中のことだ。
「ワタシはあのコと仕事した事もありますケド、収録中以外では挨拶もきちんとするし、ああ見えてとてもいいコだと思いましたよ。
それは教祖と言う立場上‥、時々度を越した言動も有りますケド。
今回の事件に対する関わりはともかく、彼女はその辺はわきまえているコなんです。
仮に‥、仮にG教に関する噂が事実だとしても、ワタシは彼女自信は潔癖だと信じていますワ。
実際にはそんなこと‥、とてもできるようなコじゃない。
一連の報道で彼女のファンはたいへん胸を痛めていると思いますが、
かくいうワタシもそうですケド‥、今、本当に、本当に辛いのは、真希さん本人なんです。」
「実際の彼女が思いのほかマトモだなんて、そんなコト今は問題じゃないんだ‥!いいですか?
一般の青少年、後藤真希を試聴する主な層である子供達には、そんなモノは伝わらないんですよ!
普段彼女が言っている言葉の数々を思い出してみるといい。皆殺しとかミラクルだとか‥。
言葉遣いや態度だって良いとは言えない!そういう彼女を使った番組が視聴層へ与える影響を各局はもっと考えるべきだ!
このまま若い信者が増え続けたら、この国はいずれ売春天国になってしまうかも知れない‥!悪の芽は早く摘むに越したコトは無い!」
‥馬鹿馬鹿しい。
「もう出よう?」じっと画面を睨んでいた私が、突然そう言って電源を切ったから、梨華は少し驚いていた。
「え、見ないの?」
「別に。」
頷きながら私は男の鼻の下の溝を思い出していた。
この芸能評論家は昨日の番組で、真希ちゃんの真実を追求するといいながら、結局は妄想の域を出ない猥雑なスキャンダルを、
だんご虫のようにひたすらこねくりまわして終わった。一方の擁護派は中年の、以前はそこそこの人気を誇ったという女優。
真希ちゃんの過去の共演者の一人。今回の放送を見る限り彼女は真希ちゃんに同情的であるようだ。しかし。
「なんで?やっと真希ちゃんのコト応援してくれる人が出て来てたじゃない。」
「いいの。この人だって鼻溝男とたいして変わらないんだよ、きっと。」
芸能界は鬼の住む場所と聞いた。
その時は特に気にしてもいなかったけれど。家を出て駅に着いた時、男は確かに私たちの背後にいた。
午後4時をまわった時間。急行が停まらない私達の最寄り駅は、朝のラッシュ時を除くとあまり混み合ったりすることがない。
しきりに汗を拭きながら携帯で話すサラリーマン、肉色のストッキングを履いたおばさん、私達を含め上り線を待つ人々は静かに、
そして測ったような等間隔を置いてプラットフォームに立っていた。
やがて、アナウンスを伴って構内に滑り込んだ銀色の車両に私達は乗り込んだ。
駅同様、車内はあまり混雑していない。ドアを入ったすぐのところに苦もなく空席を見つけて、私は梨華と並んで座った。
カタコトと音を立て、まるで終点など無いように淡々と電車は進んでゆく。
車内は冷房が効いていて、外の不快な蒸し暑さはほぼ完璧にシャットアウトされていると言ってよかった。
梨華はお行儀よく座り、移りゆく車窓にじっと目を向けている。
その横で私は車体の天井を見上げた。この快適な空気がいったいどこから運ばれてくるのか、送風口の位置を確認したい気持ちになったからだ。
送風口はなかった。
-------ただれた日常・後藤真希(15)の交友関係!!正確に言えば、そう誇らしげに印刷された車内広告の陰にかくれて、
私の座る位置からは見ることができなかった。
おそらくはその裏側から、快適な風は付近一体に運び込まれている。
その証拠に、びっしりと文字がつまった芸能週刊誌の派手派手しい広告が、車体の揺れとは別な一定の間隔でひらひらと揺れている。
中央のひときわ大きな見出しの横には「関係者30人の証言!」とかなんとか、過激なピンク色の文字が添えられていた。
苦々しい気持ちでしばらく見つめるうちに、私は顔を上げた本来の目的を忘れてしまった。
正面に座る男と目が合ったのは、憤懣やる方ない私が例の広告からプイッと視線を逸らした時だ。
「ねえ、りかっち------」本当は、真希ちゃんは-------、といったような感じで始まる、メディアですら解ききれない論争を、梨華に持ちかけようとした矢先。
正面に座る男(この男が私たちと同じ駅にいて、私たちに続き同じドアから車両に乗り込んだ事を、私は覚えていた)が薄笑いを浮かべて私達を見ていた。
私はすぐに視線を落としたし、目が合っていたのは多分、1秒と経たない間だったろう。
けれど男はその短い一瞬の間に、たとえようの無い不吉な印象を、私の胸へと刻み込んだ。
黒目が異様に大きいのか。
皮膚の裂け目、すなわちまぶたの奥に伽藍の空洞でもあるかのような、真っ黒い三日月型の瞳。
のっぺりと伸びた鼻と、不気味に歪む薄い唇。
その笑顔、というよりも白い開襟シャツを着た男の体全体から発する、得たいの知れない陰鬱な空気に、私は冷水でも浴びたような心地に陥った。
「なに?」
声をかけたまま固まってしまった私に梨華が続きを促した瞬間、電車は次の停車駅に到着し、
すぐに開いたドアから大量の女子高生が雪崩れ込んできた。
空いていた車内は同じ制服で瞬く間に埋め尽くされ、同時に持ち込まれた喧騒もしくは熱気のようなものが、
ある意味非現実的でもあった車内の空気を一気に覚醒させた。
「‥なあに?」
梨華はもう一度繰り返した。私の、落としたままの視線の前には今、革靴と白ソックスの足があたかも品評会のように、ズラリと並んでいる。
奇妙な男と私達の間にそういった遮断壁が出来たことで、私はひとまず持ち直し、ようやく顔を上げることができた。
「う、うん。‥ううん、なんでもない。」
「何よ?どうしたの?」‥今、変な人がいた。
明らかにぎこちない私の挙動に梨華は眉をひそめた。梨華に言ってしまっても良かったのだけれど、怖くてなんとなく言い出せなかった。
自分自身とても動揺していたので、咀嚼して吐き出すのにもう少し時間が必要だった。
「うーん‥。ほら、矢口さんいるといいよね。」
「え‥?うん。それを言おうとしたの?」
------アイツ、ヒトのムネめっちゃジロジロ見てくんの、マジ最悪。エロ教師。
------明日マラソンやだな。生理とか言って休もうかな。
------期末の範囲写した?気がついて見ると、車内はそんな会話で溢れていた。
目の前に立つ2人連れ。つり革につかまって話しながら、時々携帯を覗いたりしている。
そのうちの片方がほんの一瞬だけ、本当に一瞬だけ梨華と私をチラリと見下ろし、そしてすぐに視線を戻して、直後、連れとの会話に再び戻っていった。
制服を着た同い年くらいの少女たちに四方を囲まれ、梨華は少し、居心地が悪そう。
例えばあの時、何も起こらずにいたら。
血の繋がりはないにしても、梨華の父がもし、ごく一般的な父親であったなら、私達の未来は一体どんなふうだっただろうか?
目の前につきつけられた、私達が過去、手放してしまった生活。
優等生でそれに執着し、ひたすら耐えてきた梨華はその分、後悔とまではいかなくても、多少戸惑ったりもするのだろう。
膝に手を置いて俯きがちになった彼女の耳元に私は口を近づけ、ひそひそと言ってやった。
「けっこう慣れたよね、こういうのにも。」
(とっくに置いて来たモノ。)
「遠い過去だね。」
「うん‥。ふふふ。」
私が少しおどけて言ったので、梨華も顔を上げて頷いた。
私の言葉。嬉しそうな彼女の笑顔。
遮断壁の向こう側に座っているはずの男、そして決して明るいと思えない私達の未来さえも、梨華が一緒ならば、私は忘れてしまえる。
やぐの家に行くには一度、巨大な駅で乗り換えなければならない。
私達の最寄り駅とは比べものにならないほど、そのホームは混みあっている。
もともと混雑しているところへ休むことなく新たな車両が到着し、街に終結する若者をダイヤ通りに吐き出して、また去って行く。
その繰り返し。
特に、私達が降りた時にはプラットフォームを共有する反対側の線路にも電車がちょうど停まっていたので、
私達の車両をほぼ満杯に満たしていた女子高生の制服は、向かいの電車から下りた一派と交じりあい、
組んずほぐれつ、私などはもう前の人のかかとを踏まないように注意して歩くのが本当に大変だった。
すごいね。こんなに人がいるとなんか酔いそう-------。
周囲と歩調を合わせ俯きながら歩く私達が何気なくそんな会話を交わしていた時だ。
私の、梨華のいる側とは反対側の手首を、誰かが突然掴んだ。
もちろん私は驚き、振り返ると例の車内で正面に座っていた男が、いつの間にか横に並んでいた。
依然、私の手首を握る男の手は、混雑し蒸し暑さの増しているはずのホームにいながら、なぜかひどく乾燥していた。
そのくせ異常に体温が高い。
熱を汗として発散しない男の手のざらついた感触に、私は鳥肌が立った(もっとも、男の手が汗でぬるぬるしていたとしても、それはそれで戦慄だ)。
先程車内で目が合った時の得体の知れない恐怖が、腕を掴まれた今、最高潮に達した。
-----やだ、キモい!!こみ上げる嫌悪感に、私が顔を歪めた時だ。男は妙に機械じみた声で言った。
「吉澤ひとみちゃんだろう。ちょっと一緒に来てもらうよ。」
けたたましいベルの音とともに、また新しい車両が到着し、ホームの雑踏は更に密度を濃くした。
様々な雑音が複雑に混ざり合い、既に音は音としての機能を果たしていない。
「くく‥。リカちゃん。ヨーグルトはもう買いに行かないの?」
いびつな笑いを含んだ囁き声が、耳のすぐ真後ろで聞こえた。
私の手を掴んでいる開襟シャツの男ではない。声がもっと若い。
「りかっち!」
ハッとして振り返ると、梨華の姿はそこになかった。
それよりほんの、3,40センチほど後ろ、制服姿の女子高生を2,3人ほど、私から隔てた場所。
顔面を蒼白にし、緊迫に瞳を見開いた梨華が、金髪の男に腕を引きずられていた。
私達のこんな危機に、無関心な周囲は誰一人気付かない。あるいはこんな事、たいして珍しくもないのか。
「ひ‥みちゃん‥!」
雑音の間を縫い、切れ切れに聞こえた梨華の逼迫した叫び声に、私は我に返った。連れ戻さなきゃ。
大衆は関心を寄せずに流動する。その波に逆らい、梨華のもとへ私は駆け出そうとした。
が、踵を返した瞬間に男は、私の手首を掴む手に更に強い力をこめた。
「ちょっと!離して下さい!!」
「無駄だよ。」
「何が?‥何が目的?大声出しますよッ?」
がっちりと手首を押さえられたまま、私は繰り返し体を捩り、何度となく梨華を振り返った。
しかしそうして確認するたび、梨華は金髪の男に肩を掴まれて、じりじりと距離を開けてゆく。
パニック。梨華と離されるのが、嫌で嫌で仕方なかった。りかっち‥っ!焦り、じたばたする私。
すると男は余裕綽々に、歯のすき間からくぐもった笑いを漏らす。
「騒ぎになって困るのは、キミたちの方だ。違うかい?」
何‥、その言葉に私は、暴れていた身体を硬直させ、まじまじと男を振り返った。
息を呑んだまま私は、私の腕を掴んで陰湿に笑う男と、たっぷり5秒間程見詰め合った。
私と男を、ぞろぞろと押し流そうとする背後の人々のうねり。離れてゆく梨華と金髪。目の前で男が笑う。苦しい呼吸。
誰‥?何を知っている‥?
「警察だよ‥。」
一瞬で硬直した私をまさに嘲るように男は一瞥し、直後、空いている方の手で億劫そうに自身のIDを示した。
すなわちシャツのポケットから覗いたものは、見慣れた黒い手帳。
「嘘ッ!」
私はそう、とっさに叫んだけれども、致命的な動揺を隠すことはできない。
自然の摂理でも復唱するようにそれをやすやすと見透かした男は、虫みたいな声を出して更にこう付け加える。
「信じても信じなくても、それは構わない。重要なのは今、我々が圧倒的優位に‥。立っているということさ‥。」
ニヤニヤする細い目‥。
「うるさいッ!離せ、バカ!」
そんな場合じゃないんだよ。もう一度振り返った梨華は、もうずいぶん向こう。
距離にしておよそ、12、3メートルくらい。
背があまり高くない彼女は、間に挟んだ人々の動きに既に呑みこまれ、ほとんど姿を確認することができなくなった。
金髪の男、その背が高く頭ひとつ出ていることが、唯一の希望。私はイナズマのように叫び、賭博性の高い攻撃にでた。
目つぶし。私自身の体と人ごみによって男から死角になる位置から、私は掴まれている方ではない手、
つまり左の手のひらを固く握りしめ、不意に、男の眼前へ突き出した。
右利きの私が繰り出したのは左手による攻撃だったから、つき立てた2本の指は的である眼球をまんまと外れ、男の鼻梁と眉根のあたりに、
それでも相当な手ごたえをもって突き刺さった。
女子供である私たち2人に対して、成人男性2人をして臨んでいることが、相手に余分な余裕を与えていたことも確かだ。
私は私で突き指しそうだったけれど、油断が過剰だった男へ、期待したよりも大きな眩惑を私は与えることができた。
「おお‥、」
突然襲った痛みか或いは混乱の、そのどちらかに耐えようとしているのか、呻いた男は一方の手で顔を押さえた。
ひるんだ男の一瞬の隙をついて、私は踵を返し、無我夢中で進みだす。
目つぶしをくらわした瞬間、渾身の力を込めて揺すったから、私の腕は、乾燥した男の手の平から完全に自由になっていた。
「りかっち!」
人の波を押しのけ、進みながら私は声を出した。けれど、梨華の見えない姿同様、返事もまた返ってはこない。
梨華を連れているはずの金髪の男。その、人々の間をぬっては時折見える横顔。
耳に、派手なピアスをぶら下げる男の背中を、私は目標にして進んだ。
うごめく駅利用者の流れに私は逆向きに進んでいたから、何度も何度も、その単体とぶつかった。
わき目も振らずにひたすら人ごみをかき分け、金髪男を目指す私。
ぶつかった人々はもちろんその周囲までもが、迷惑げな表情を私にむけたけれども、私は足を止めなかった。
途中、動向が気になっていた開襟シャツを一度振り返ってみると、あの男はまだ顔を押さえていた。
そのままで首を左右に振り、見失った私を探している。
開襟シャツと金髪、2人の男のあいだの、私はちょうど中間といった位置まできている。
梨華まであと半分、逃げ切ってみせる。喧騒と人いきれで膨張したプラットフォームで、私はひとり、密かにそう決意した。
その時、また新しい車両が到着し、その際の騒音と、意味などはとっくに持たなくなったアナウンスによって、ホームの煩雑度は更に増した。
私が進む付近の開いた車両のドアからは、第三勢力とも言える新たな女子高生の群れが相変わらず大量に下車してきた。
その制服の群れがまたひとつの塊となり本流に加わる直前に、私は肩から下げていたカバンをすばやく胸の前へ引き寄せた。
男達2人には、大きな誤算があった。
おそらくは多少の抵抗などもしているだろう梨華を押さえ、同じ状況下で進む金髪の男は、私よりも随分不利だ。
私と梨華たちの距離は思ったよりもスムーズに縮まっていった。
きっと、私よりも後方に位置する開襟シャツの男の、顔を押さえて一人たたずむ姿、
あるいはもしかすると既に私を追いかけて人ごみをかき分ける姿等を見つけて、金髪も異変に気付いたのか。
階段方向へ進みながら、男は何度もふりかえった。
けれども、私と金髪男の面識は私の知る限りではほとんどなかったし、周囲をうごめく女子生徒の群れが私の姿を上手い具合に隠していたから、
結局男は接触するまで、私を発見できなかった。
つい先程、女子高生の集団をまとめて吐き出した車両は、しばらくの間ホームに留まっていたが、
私と金髪男との距離がぐんと近づき、ついにはその間に2〜3人を挟むまでとなった時、軽やかなメロディが流れて、その列車の発車を告げた。
梨華を奪い返すタイミングを息を詰めて私は見計らっていたが、すでに彼らとの間に、女生徒の壁は一列しかなかった。
梨華は男に歩かされながら、それでも懸命に抵抗などをしている。その彼女が身体を捩った瞬間に、私達2人の視線が出会った。

--------ひとみちゃん!!私を見て、驚きと喜びが入り混ざったような顔をした梨華は目を見張り、そう声を出しそうになったけれども、
間もなく訪れるはずの絶好のチャンスを私は逃したくなかった。
--------シッ!人差し指を口に当てて大慌てで遮った私の、思わず目までもつぶってしまった必死な表情を後に梨華は、
「あまりに一所懸命すぎて、ちょっと面白かったよ。」
と、そんなふうに評した。
それを言うならその直前の、男に抵抗して脇腹にエルボーをかまそうとする梨華自身の、
尖った口だって相当ウケたけど?と、私だって言ってやった。
男たち2人の最大の誤算は、この日の私が、銃をもっていたということだ。
出発する列車のドアが閉まり始めた瞬間、胸に抱えたバッグから私はピストルを抜き取った。
梨華の腕に手を伸ばし、そして思い切り強く引くと、男もその反動を感じ取った。
腿の裏側に銃口を押し当てられているとも知らず、男は面識の浅い私に瞬間、怪訝な表情を浮かべたけれど、
すぐに私と認め不遜な笑みを滲ませたところへ、私は構わず引き金をひいた。衝撃に驚いた男はとっさに太ももに手をやった。
続いて訪れる予期せぬ激痛に、何が起こったのか、まだわかってはいない様子。
直後、梨華と男の間にすばやく体を入れた私は、梨華の手を取るすれ違いざま、もう一度男を振り返った。
そしてもう一発。顔を歪め、腿を押さえる男の肩口に、私は銃口を押し当てる。
「そんなモン持ってるなんて‥俺ぁ聞いてねえぞ‥。」
私が人を撃ったというのに、その時梨華は嬉しそうな顔をした。
消音装置を備える2発の銃声は、ホームを出る車両のけたたましい音によって完璧にかき消された。
「痛ェ‥。」
金髪男の弱々しい声が耳に届いたけれど、梨華の手をつないだ私は速度をゆるめず進んだ。
二発目を発砲した際、驚きに目を見張る男の肩越しに、依然立ち止まったままの開襟シャツと視線がかち合ったからだ。
私を見つけた瞬間、男は嬉しそうに一度目を輝かせた。直後、即座に無表情へ戻って、人ごみを掻き分け私達の方角へ進み始める。
追ってくる-------!私はそう直感した。
私と梨華が、ホームから地下へ抜ける階段にたどり着いた時、後方でキャーという悲鳴が上がった。
被弾し血を流す金髪の男に、そろそろ周囲が気付きだしたのだろう。
急いではいたけれど、確認の意味も含め私は人ごみを一度振り返った。
すると、案の定金髪がいると思われる付近に、ぽっかりと穴ができていた。
開襟シャツの男はもっとも、仲間であるはずの金髪にもはや興味を失ってでもいる様子だ。
その穴を既に通り越えている。私達が振り向くと、すぐに姿を認識できる位置までその距離を詰めている。
「急ごう。」
踵を返した私達は何とか転倒などもせず、人々がひしめき合う階段を下った。
先程の例から、極端な人ごみも危険なのだと判断した。
私達は改札を抜けた後、街に出ることはせず、そのまま、適度に人目のある駅ビル内部へと逃げ込んだ。
なんとか男をまこうとして、巨大デパートの上から下までそれこそ縦横に売り場を動き回ったけれども、
何度振り返ってみても、開襟シャツの男は小走りの私達より少し離れたところを執拗に、犬みたいについて来る。
そして、いつしか追っ手には、更にもう一人新たな男が合流していた。
さっき撃った金髪同様、これもまた随分若い男。リストバンドを嵌めた腕の、肩には派手な刺青を入れている。
(若い2人はともかく‥、)エスカレーターを梨華の後ろから駆け上がりながら、新たな男の出現について私は考えた。
(開襟シャツの方は、もしかしたら本当に警察‥。それか‥。そっち関係のプロ‥。)
警察にしても民間にしても、そういった組織は2人組での行動を常に崩さないらしい。
そういう内容のテレビ放送を見たことがあった。ひとり年の離れた、中年の開襟シャツの男が、彼らのおそらくリーダーだと思われた。
その開襟シャツを中心に据えた彼らの動き方もまた、くだんの放送の内容にまったく良く似ていた。
30分以上もフロアを変え、休まずに移動し続けて、次第に私達は疲労を感じるようになった。
それでなくても冷静に状況を考える、少しまとまった時間が欲しい。
どちらともなくそう切り出した私達は小走りのまま、息を切らしつつ意見を出し合ったが、結果、階下の婦人服売り場までひとまず移動することに決めた。
背後の男達は駅ビルに入ってから、小走る私達の後ろを、ただひたすらついて来るだけ。
人目など多少気にしたりしているのか、先程のプラットフォームの時のようには気安く襲ったりしてこない。
が、それでも、人気の無い階段や密室になってしまうエレベーターを、私達は当然避けた。
「試着、いいですか?」
現れるなり手近な服をそれぞれ2,3着、それもロクに選ぶ様子もなく手にとって私達は詰め寄ったから、
売り場の、若くこぎれいな店員は目をシロクロとさせた。
背後の男達は相変わらずさりげない距離を保ってはいるけれど、私達のそんな動向からも、目を片時も離さない。
店員について試着用個室へと通される間、私は彼らの方を振り返り、しばらくじっと見つめてみた。
中年の、つまり開襟シャツの男は私の視線をがっちりと受け止め、ニヤニヤ口を歪めていている。
その脇、リストバンドの男は早くも飽き始めているのか、目を時折、辺りの商品へと伸ばしている。
人数分2つの試着室を店員は用意したけれども、私達はその一方を断った。
2人して一つの個室に入ったのだから、店員が、ますますおかしな顔をしたというのは、しごくまっとうな反応と言える。
内部には壁の一面全体を使って、巨大な鏡が据付けられていた。思っていたよりそこは広かったけれども、鏡が照明を大量に反射するので、へんに明るく感じた。
梨華は靴を脱ぎ内部にしゃがみこんだ。私は特に理由もなく、ドアの内鍵をなるべく静かにおろした。
「警察だ、って‥、言ってたよアイツが‥。」
脇に腰を下ろしながら、梨華にまずそう伝えた。壁に背中を寄せながら彼女の反応を待ってみたが、ただ無言に頷かれただけ。
梨華がずっと壁を見ているから、私ひとりが喋っていた。
「でもおかしいよね。リーダーっぽい男はともかく‥。若い2人はどう考えても違う。
だってさ‥、金髪とかタトゥーとか、そんな警察いるわけないじゃん。‥ねえ?」
私の舌はいつもより数段滑らかに動いていた。次から次へと言葉が浮かんだ。
そのくせ頭の中で私は(鏡に映った私達がなんだか4人もいるみたい。)とかなんとか、ひどくちぐはぐな事を、思ったりもしている。
「この間りかっちがケガしたから‥。それになんか‥、様子もおかしかったし、だから今日、ピストル持って来てたんだ。
‥でも持って来て良かったよね?‥ね。なかったら大変だったよね。」
要するに興奮していた。
しばらくペラペラと話し続けていた私だったが、梨華が壁から目を離して私の方へ顔を向け出した頃から、だんだんと苦しくなっていった。
膝を抱えて壁に寄りかかる。
私達2人はいつの間にか、同じ体勢で座るようになっていた。
膝の上に組んだ私のひじの辺りに、ためらいがちな視線を梨華が固定した頃ともなると、
既にだいぶしどろもどろだった私は、沈黙のほかに取る道がなくなった。
個室内にも冷房は効いているはずだったけれど、温度が少し高いように感じた。
重苦しい時間のみが静かに流れる時間が流れ、そっと盗み見た梨華の唇が、かすかに薄く開かれていた。
なにか言いたげ。タイミングをじっと、懸命に測っている様子。やがて梨華は、息を吸い込んだ。
反射的に私は一度、まばたきをする。それから先手を打ってしまって梨華が切り出す前に、自ら核心に触れた。
すなわち、人を撃ってしまったこと。ため息交じりの言葉に梨華は、今度は静かな返事をかえした。
「やっちゃったよ私‥、とうとう‥。」
「うん‥。」
「撃ったとき‥。あんまり、実感がなかったんだ。」
「そう‥。」
「ひとみちゃん‥。」
「なに?」そう切り出したのは梨華。声にはなんらかの、追い詰められた調子が随分混ざっている。自然と顔を向ける私。
「ごめんね、私。いつもなんか‥。弱くて‥。」
「いいよべつに‥。」
すると梨華は、ゆっくりと頷くような動作を繰り返しながら、まるで自分自身に言い聞かせるみたいに、穏やかな口調で話し始めた。
「私が、もし‥。もっと力とかあったらさ、あんな男なんかに、簡単に‥連れてかれたりしないのにね‥。
そうしたらひとみちゃんも、ヒト撃ったりしなくて、済んだかのも知れない。」
「どうかね‥。でももう仕方ないよ。やっちゃったんだもん‥。」
傍らにあるカバンには、中に拳銃が入っている。
取り出して一度、その存在を確かめたい衝動にかられたけれど、その一方でなんとなく怖く、
私は結局、カバンの肩ひもを少し引き寄せただけでやめた。
「金髪の男がりかっちをひっぱって行く時、なんか、言ってたけど‥。あのコンビニの帰り‥、やつらに、何かされたの?」
「後をついてきたの‥。金髪の人、ひとりだけだったけど‥。いろいろ、話しかけたりしてきて‥。
私の名前も知ってて‥。怖くなって走ったら、つまずいて、転んだ。
『大丈夫?』なんて、‥ニヤニヤ笑いながら手を差し出してきたけど、気持ち悪いし振り払って、夢中で家まで走ったの。
男は家の階段の手前まで追いかけてきて‥。
私は階段を急いで上ったけど、なんか、それ以上、ついてくる気配がなかったから、途中で下を見て確認した‥。
そしたら近くの電柱の脇を、金髪は、のんびり歩いてた。口笛吹きながら。」
「そうだったんだ、あの時‥。」
相槌を打ちながら私は、店に来たことのある顔をできるかぎり思い出してみた。けれども彼ら3人は、見覚えのない顔だった。
開襟シャツの男は今日、最寄りの駅についた時から私たちのそばにいた。
梨華の話と考え合わせると、彼らは私たちの住所を確実に掴んでいる。名前も知られているし。
開襟シャツの、リーダーっぽい男はともかく、若い男2人はやっぱり警察なんかじゃない。
そう私は思った。見た目は明らかに街のチンピラふぜいだし、金髪の方は朝方梨華に近づいたりして、
行動の仕方も明らかにおかしい。そうなると、そんな2人とつるむ開襟シャツの男も警察とは考えにくい。
すると、誰?
はっきりした見当は、まったくつかなかったけれど、とにもかくにも、非合法的なニオイが、ぷんぷんと漂っていた。
「あ。てゆうかさあ。」
しばらく考えているうちに、私はふと思い出した。言いたい事があったのだった。
「なんで言わないの!?そんなことがあったならもっと早く?」
「だって怖かったんだもの‥。」
申し訳なさそうに、梨華は肩をすぼめる。
「名前とか知られてたし、言わなきゃな、って思ってたけど。なんか。言ったら、悪いことが‥、本当に起こりそうな気がして‥。」
さっき電車の中で感じた開襟シャツ男への恐怖を、私は思い出していた。なんとなく、わかるような気がする。
「そう‥。でも今度からは、ちゃんと言ってよね。私もなるべく、全部りかっちに言うようにするから‥。」
「さて。どうしたもんかね‥。これから。」
私が考え込んでいると、梨華が状況を、ゆっくりと整理していった。ぽつぽつと紡ぐ梨華の言葉に、私はいちいち頷いたりした。
「家に帰るのは‥、危険だよね。場所とか‥、だって知られているんだもん‥。」
「うん。」
「ホームには‥、カメラがあったね‥。私たちが撃ったこと‥、映っちゃってるのかなあ‥。バレちゃうのかしら‥。」
「うーん‥。」
そう、返事をしつつ私は、なにげなく囁かれた梨華の言葉に少し驚き、まじまじと梨華を振り返った。彼女は、優等生だったはず。
「え?何‥?」
ふと感じた違和感に私はしばらく目を見張っていたから、梨華は不思議そうに聞き返した。そんな彼女はまだ、自分の言葉のおかしさに、少しも気付いてはいない。
「なんかさあ、りかっち変わった?」
「え?」
私の言葉に、動揺した素振りを見せる。
「なんか、『バレるとかバレないの問題じゃないモン』とか、そういうノリじゃなかった?昔?」
「え、うーん‥。まあ、どっちかって言ったら‥。」
「てゆうか、絶対そうだったよ。真面目で、お嬢様だったじゃない。」
からかうみたいな私の口調に、梨華は少し照れたように笑った。
「そうだね。私、変わったかもね。」
白い歯をこぼし、まっすぐ私を見つめて、直後、ハッとしたように真顔になる。
「え、ちょっと待って。ダメ‥?」
「ううん。いい。なんかかっこいいってカンジ。」
出会ったばかりの頃は、虫も殺さないお人形さんだって、私は思っていたんだよ。
「私が金髪を撃った時‥、りかっち、嬉しそうな顔したでしょう。」
「うん。‥でもね私。変わったって言っても、ひとみちゃんを巻き込んでしまったことに‥、やっぱり罪を感じずにはいられないの、今でも‥。
でもあの時は。ひとみちゃんがあいつを撃って、私を助けてくれたときは。本当にちょっと嬉しかった‥。
まだ一緒にいられるんだなって‥。ごめんね。私のせいでひとみちゃん、人撃っちゃったりしたのに‥。
喜んだりして、ほんとうに勝手だよね‥。私といると、ひとみちゃんもどんどん変わっちゃうね‥。」
「だから、もうそれはいいよ。後悔してないもん、私。そんなにあやまらないでよ。」
後悔とか動揺とか、そういった気持ちがまったくないわけではなかった。
けれども私は、本当は、より決定的な罪を犯したことに、むしろ満足していた。
殺人という重責を背負う梨華と、逃亡を幇助する私。今回私が人を撃って、
その十字架がまた一歩、梨華に近づいたのだと私は考えていた。彼女と同等、もしくはより近い罪を私も犯したことで、
梨華の重荷を半分背負ったような、そんな気分になっていた。
もっともこんなこと梨華が悲しむだろうから、絶対に言えないけれども。私の罪がいつかもっと大きくなって、
梨華の殺人など覆い隠せるようになると良い。
きっと試着室の外には男達がまだいる。なんとか無事に家、もしくは矢口さんの家にたどり着けたとしても、
私たちが発砲したことはそのうちバレる。男達とそして警察にも、近いうち追われることになるんだろう。
そもそも今まで無事だったこと自体が、かなり奇跡に近いのだと思う。
私はズボンの尻ポケットを探って、保田さんの残した、少し皺のよった紙を取り出した。
------本当にピンチの時に使いなさい。保田さんの言葉を思い出す。
「まさに今ってカンジだよね‥。」
2つ折りを開くと、梨華もゆっくり頷いた。
――この番号、誰から聞いたの?記された番号の持ち主は、繋がるなり、そう唐突にたずねた。
「や、保田さん‥。保田圭から聞きました‥。」
静かだけれども、なにかしら威厳のようなものを感じさせる口調に、私はやや緊張気味。
――それで?保田さんと聞いた相手は少し黙り込んだのち、やがて再び尋ねる。話し方は随分落ち着いているけれども、
声質自体から、相手は案外若いと感じた。
「あの、ピンチなんですけど‥。助けてくれませんか。」
――フフ。じゃあ場所は?短く笑った声はやはり若い。
――わかった。今あなた達は、4Fの試着室にいる。その外で、男が待っているのね。
この電話を切って10分たったら、そこから出て売り場から走って。左に向かった先に、本館の東階段がある。
そこを8階まで駆け上がるの。いちばん重要なのは、きっかり15分後に7Fを通過すること。
それができなかったら、計画は上手くいかないと思う。
まるで建物を完全に把握しているよう。電話の向こうで、彼女はすらすらと、澱みなく話していた。
――だいたい、こんなかんじ。経路は頭に入った?繰り返して欲しい?
「いいえ‥。大丈夫です。」
たいして複雑なわけでもない。左に走って15分後に、7階。そう声に出して復唱した。
脇の梨華も、2,3度頷いたりしている。
あまりに単純だ。私は少し疑った。ハナシがうまく進みすぎる。物事はこんなにスムーズではないはず。
――もっともあなた達が、私を信じれば、のハナシ。そう思っていた矢先の言葉だったから、
相手がそう言った時もあまり驚かなかった。
――私を信じる?そうしたら助けてあげるよ。
「信じる、‥って言っといた方が、良かったんじゃないかしら。嘘でも‥。」
梨華は息を弾ませながら、いくらか不安そうな声を出した。電話を切った私たちは数分後、
タイミングを見て試着室を出、与えられた指示の通りに東階段へ向かって走り出していた。
男達ももちろん、私達が再び姿を現したからほんの一瞬だけ意外そうな表情もして見せたけれども、
私達の後ろを私達に合わせ、先程よりもずっとペースを上げてついて来る。
「うーん‥、」
足音もはばからずに売り場を駆けてゆく私たちを、周囲の客は怪訝な目で睨んだ。
私は何度も背後を振り返りつつ、次第にあがり始めた呼吸を押さえつけるようにして答えた。
「でも、さあ。あんなふうに、聞かれてさ。」
梨華と背後に気を取られ、多少の前方不注意。
「あ、すみません‥!『ハイ信じます、』って言えちゃう程、幸せな道、進んできたわけでもないじゃん‥、ウチら。」
セール中のワゴン前、靴下を眺める中年の女性に、私はいきおいぶつかりそうになったが、直前でよけた。
あの時。
「わかりません。」信じるのか、という問いに、私はそう咄嗟に答えていた。
『信じない』と突っぱねるには、状況はあまりに差し迫っていたし、逆に、
『信じる』というこたえをすんなりと口にできる程私は純真でも、或いは大人でもなかったからだ。
「信じるも‥、何も。私たちには、他に、方法なんて思い浮かばないんです。」
それでも少し後悔した私が弱い口調で付け加えると、電話の向こうの彼女は
――ふーんそう。じゃあお楽しみに。と、一度、軽く笑って切った。
すぐに私たちは指定の階段へ突入した。そこは思っていた以上に人影が乏しく、
駅や他の入り口から考えてちょうど使いづらい位置にあるのか、
それともエレベーターやエスカレーターでしか人々はフロア間を移動しないのか、
わからないけれどともかく売り場とは壁で隔たれ、およそ半閉鎖的な空間はこころなしか照明なども暗い。
方角と階数を示す黄色いペイントが側面の壁にやたらと大きく記されているほかは、
トイレなどもなくてまるで通用かと思うほどに淋しく、そしてひっそりとしていた。
男達との差は時間にして十数秒。婦人服売り場を有する4階から私たちは階段に飛び込んだわけだけれども、
そんな私たちがそろそろ5階へさしかかろうとする頃、私たちより更にけたたましい靴音を響かせ、男達2人も侵入してきた。
隔絶された場所ですでに人目など気にする様子もなく、彼らはついに本腰を入れ凄まじい勢いで追って来る。
今度こそ確実に私とそして梨華を捕らえようとしていた。その頃になって私にはもう背後を振り返る余裕などなくなっていたが、
後方から響いてくる彼らの靴音と激しく息をつく音から、それらは容易く判断された。
息をつく暇もなく私達は合計100段近く疾走した。階段はまるで永遠に続く螺旋とも思われた。
更なる加速を試みたけれども、次第に意識が朦朧とし始め、筋肉の上下動が鈍ってゆく。自分でもそれはわかったけれど、
背後の男達との距離が徐々に縮まりつつあった。気を抜く暇などなかった。
破裂しそうな心臓を片手で押さえ、必死で私は梨華を促し続けた。
先程のプラットフォームでは一瞬の隙をついて梨華と引き離されてしまったから、デパートに入ってからというもの私は、
私に比べて力の弱い彼女の常に後ろから行動をとるようにしていた。その、2,3歩先をゆく背中もまた同様に苦しそう。
肩が激しく上下している。「もう少しだから‥」
そう励ましたつもりだけれども、苦しい喘ぎに紛れて、声には多分なっていなかった。
いくつめかの踊り場で方向を変えた時、私の顎は無意識のうちにに上がっていたのだが、
その拍子にE7と記された壁が前上方に目に入った。E7。腕の時計を咄嗟に確認した。
例の電話を切ってからちょうど15分だった事を覚えている。
それから約一分後、E8と記された踊り場で、私たちは壁の隅に追い詰められていた。
「おとなしく一緒にくれば、手荒な真似はしないさ‥。さあ、観念した方がいい‥。」
男はにやつきながら、顔中に滴る汗を右腕で一度拭った。
途中から登場したリストバンドの男も潜在的な狩猟本能というものに火がついたのか、ほりのの深い両眼に異常な煌きを宿している。
東階段を4階から8階まで駆け上る、15分後に7階を通過することが重要――。
私たちは時間通りに7階を走り抜けた。電話での指示を、ほぼ完璧に私たちは実行した。けれど何も起こらなかった。
期待した救いは差し伸べられる気配もなく、8階まで到達した私達は一瞬躊躇して足を止めた。
すると消耗した筋力や気力は、一度弛めてしまうと再び起動させるのが容易くない。
そうしてそのすきをついて、男達に追いつかれてしまった。
「そうすればキミも、あんなチンピラに発砲せずにすんだものを‥。」
梨華は強い力を込めて、私の手をずっと握っていた。巨大にペイントされた背後のE8という文字に擦れ、
固くざらついた感触を手の甲に感じた(信じるって答えていたら、助かっていたんだろうか‥。)
背中のカバンを片手で手繰り寄せながら、私はそんな事を考えていた。
「おっと、そいつはムダさ‥。」
そう言って男は、傍らの若い相棒の腕を唐突に引いた。ゆるゆると私が銃を取り出したからだ。
「な‥、何するんスか‥。」
突然肩を押さえられた男は動揺した声を出したが、中年の男は意にも介さない。
銃を構えるためゆっくりと持ち上がる自分自身の腕を、私はまるで映画でも見るように見ていた。
「もっとも‥、キミのような美しいコに撃ち殺されるというのも、実は甘美でいいかも知れない。」
「じ、冗談やめてくださいよ‥。」
背後から仲間の首に腕をまわした男は、笑みを崩さぬまま、じりじりと迫ってくる。
盾にされた男がひきつった笑顔で言う姿が、とても滑稽だった。
梨華と繋いでいた手を離して、私は拳銃をゆっくり両手で握った。少し体を前に出して、梨華を背後に隠すようにした。
「フフフフ‥。」
男はやっぱり、どこかおかしいのかも知れない。顔をいびつに歪めて笑っている様子は相変わらず。
仲間の体を盾にとった男は、拳銃を突きつけられているというのにひるむ様子など微塵も見せない。
(この2人を殺せばよいのだ。)額に汗の浮いた若いリストバンドの男の喉元に、私の銃口は正確に向かっていた。
このまま指に力を込めるだけ。後ろの中年男だって、べつに、その後やってやればよい。
例えばその真っ暗闇な目でも撃ち抜いてやったら、また少し、私たちは逃げ延びる事ができる。
「おまわりさんおまわりさあん。こっちでえーす。」
(焦って撃つのは嫌だ。万一外したら、大変だし‥それにちょっと、格好悪くはないだろうか‥。)
両肩に背後から添えられた梨華の手のひらはかすかに震えていて、その感触を感じながら、
そういったどちらかといえばくだらない事柄が私の脳裡をよぎった。
それは、落ち着いてコトを遂行するため、私が一度目をつぶった瞬間だった。
馬鹿馬鹿しいくらい能天気な声がコンクリートの階段に響いた。
「ここなんですぅー。お財布おとしちゃったんですぅ〜。」
男達との間で張り詰めていた空気が一瞬で覆った。声の主は後に加護亜依と名乗った。

 

第2節

 

薄暗い部屋で加護亜依の視線はずっとテレビのスクリーンへ向けられている。奇妙な部屋だった。
大きなサッシ窓のある部屋の西側を除いた三方の壁の壁紙には、空や山脈や河川といった雄大でパノラマ的な光景が全面にプリントされている。
部屋は広く、加護亜依の点したテレビ音声以外には閑散としていて、
音といえば他にはビル自体の空調設備が低く静かに唸っているくらい。
部屋の中央よりもやや壁によったかたちで大きなグランドピアノがあって、今は蓋が閉じられている。
「あのピアノは‥誰が?」
照明の点されない部屋で、テレビの光源のために逆光となった加護亜依の背中に私が声をかけると、加護亜依は首を振って
「誰も弾きません。」
と、無関心な声で答えた。依然としてテレビに夢中で、私のほうは振り向かない。
加護亜依は一本のビデオテープを繰り返し流していた。昨日今日のワイドショーのほか最近の真希ちゃんのテレビ出演部分、
細かなところまで全部。彼女の曲も数曲含んだ内容でそのテープは構成されている。それらはテレビ放送から録画されたものらしいが、
CMなどは全てカットされていた。全長一時間弱のビデオを加護亜依が何度も巻き戻してはずっと流し続けていたおかげで、
私はあの気に入らない男の言葉をも正確に覚えることができた。
後藤真希本人に関する欺瞞をここで徹底的に検証して帰りたいと思っています。今のところはまだグレーだが、
そもそも彼女には黒い噂もピンクの噂も、それこそ掃いて捨てる程あるんだ。
シロであろうとクロであろうとこの際はっきりさせた方が彼女のためにも良いと思いますよ。
数時間ほど前、男達に追い詰められて窮地に陥っていた私たちの目の前に加護亜依は舞い降りた。

「ここでお財布おとしちゃったんですぅ〜。」
とかなんとか、そんな嬌声を上げながら背後に本物(少なくとも私はそうだと信じた)の制服警官を
引き連れてバタバタと階段を下ってきた。その時まさにE8という文字の前で緊迫していた梨華と私と男達は、
その直前に聞こえた「おまわりさん、おまわりさん」と言う声に一瞬動揺して、まるで弾かれでもしたような勢いで、
揃って右上方にある踊り場を見上げたのだった。上階へ続く踊り場の角からまず最初に現れたのが、
まともな神経ではとても履いていられないような黄色いミニスカート――ピンクのカツラと共にそれがステージ衣装だったのだと、
後に私たちは知ることになる――に身を包んだ加護亜依。
都合の良い救いなどまやかしだったのだと自分に言い聞かせた矢先の出来事だったから、ぴらぴらした黄色い布地が目に入っても、
何が起こっているのか瞬時にはわからなかった。人が来たというのに私は、男達に向けて構えた拳銃を隠すことすら忘れていた。
本当に吃驚していたのだ。私の服の肩のあたりを後ろからぎゅっと掴んでいた梨華はもちろん、正面の男達でさえも、
重たい空気を切り裂き現れたアニメのヒロインのようないでたちの加護亜依に、私同様、目を奪われていた。
私たちから見て上の、加護亜依が立つ踊り場と、私達がいるフロア、その2点間をつなぐ階段に派手な靴で一歩踏み出す前に、
加護は一瞬だけ、本当に一瞬の間だけ動きを止めた。感情の読み取りづらい、
ついさっき聞こえた伸びやかな嬌声とはまったく裏腹でずいぶん日常的な目をして、4,5メートル上方から私達を一度見たのだ。
やがて、「この辺やったとおもうんですよぅ〜。」と、
また素っ頓狂な声で叫びながらすぐに段差を下りだしたが、けれどもそのごく普通の視線が、今度は私のみを向いていた。
その後すぐ、もたついた足音を響かせ茶色い革靴と紺色の制服が踊り場の手すり越しに複数現れたのだけれど、
彼ら制服警官たちの姿が完全に露出する前に、私は拳銃をカバンにほうりこんでいた。それまで放心しきっていた私だったけれども、
加護亜依に見つめられたことによって我にかえる事ができたのだ。
私たちを追い回していた男達はいつの間にか姿を消していた。本当のことをいうと私達はその時、
奇妙な格好をした加護が期待をした救いの舟であると、まだはっきりわかっているわけではなかった。
目の前を大げさな身振りでちょこまか動き回る少女と、律儀にもそのあとをいちいちついてまわる人のよさそうな警官2人を只、
梨華とともに見守るばかりのありさまだった。
「ん〜?」とか「お〜い。」とか、さながらそのいでたちにぴったりとはまったメルヘンチックな口調でガランとした踊り場をまるで
蝶でも追うようにふらふらと歩き回った加護亜依だったけれど、やがてしばらくするとふいに立ち止まって「あれ〜?」と、
舌足らずな声をだす。スカートの中に手を入れ、ポケットでもついているのか、ちらちらと見え隠れするアンダーショーツの尻のあたりをそれから探る。
「あー。ありましたよぅー。こんなところにいぃ〜。」
ややはにかむようにしてピンク色の小銭入れを取り出してみせた加護亜依に、2人の警察官は口をあんぐりと開けた。
それでもにこにこしながら「よかったなあ。」などとばからしい言葉を加護亜依にかけて、警官達2人はにこにこしながら去っていった。
それをへらへら笑いながら見送った加護亜依は残された私たちをチラリと一度だけ見てから
「5ひゃくおくせんまんおくえんになります。」
と、ひどくでたらめな事を言った。
加護亜依に連れられデパートを脱出した私たちはすぐに車に乗せられた。
私と梨華と加護亜依を乗せたワンボックスカーは夕暮れの首都をぐるぐる走り、
やがて新開発地区にそびえる真新しいマンションの前で停まった。
長旅を終えた川が湾にそそぐ河口付近だ。その沿岸の埋め立て地に立てられた高層マンションの最上階、
もしくはその付近のフロアを多く占めると思われる広いこの奇妙な部屋には、
ソファや椅子はおろかクッション座布団等といった応接設備めいたものが何ひとつ置かれてない。
固くて毛足の短いカーペットのようなものが、床一面に敷き詰められている。それにしても。
グランドピアノの蓋に刻まれた白く小さな紋章が私の目を捕らえて離さないのだった。
私がさまざまなことを考えていると、依然として画面に見入る加護亜依の背中に、梨華が立ち上がって声をかけた。
「ここは‥、あなたは、G教とは‥、」
梨華も気付いていたらしい。画面に夢中で反応を返さない加護亜依に近づいてゆく途中で、ピアノの紋章に指を這わせた。
「このロゴ‥、シンボルよね‥。教団の‥。」
不恰好な白いハンマーを逆さにしたような、あまりに有名なマーク。
「真希ちゃん、かわいいね。」
やがてピアノを通過した梨華は、そう白々しい口調で言って加護亜依の脇に並んで座った。
頷いた加護亜依と梨華の、画面の光に照らし出された2つの青白いシルエットに向かって、私もゆっくり腰を上げた。
「加護亜依ちゃん‥。何て呼べばいいのかな、そう名乗っていたけど‥。」
近づく私に加護亜依は答えない。ビデオテープの青白い光源に私の瞳孔が反応し、
ゆっくりと縮んでゆくさまをひどくはっきりと自覚した。
「1。広すぎる部屋、ヘンな壁紙!個人が所有しているとは考えにくい。それか加護さんは、相当なお金持ちのなのか。
2。そこにあるピアノ。とても立派。しかもG教のシンボル入り。こんなモノ‥、関係者以外持ってる?
3。真希ちゃんのビデオ。繰り返し見ている。よっぽどのファンなのか、それとも。」
演説めいた口調で私がそう切り出すと加護亜依は突然立ち上がり、画面を目で追ったまま左右に身体を動かし始めた。
真希ちゃんが出演したこのあいだの歌番組に、ビデオの画面が切り替わったのだ。視線のみ画面に固定したままで、
無心に加護亜依は振り付けを追いかける。黄色いスカートを履いたまま、リモコンを手に握ったまま。
「ちょっと加護さん!」
無軌道な加護亜依に私は焦れていた。私の中にある一種複雑な期待感を、知ってか知らずか絶妙に加護亜依は煽る。
結論を急いだ私の声は自然と大きいものになった。それは誰も責めまい。床に座った梨華はひとり、
加護亜依と私のやりとりを見つめ、ひそやかに息を呑んでいる。
「ここ!教団本部!?あなた信者!?」
ちょっとの間続いた根比べのようなものに、私は先に耐え切れなくなった。
マイクに見立てたリモコンを依然揺らし続ける加護亜依に私が不様にも足を踏み出し、そう言い募った時だ。
パチリという何かが爆ぜる音と共に、辺りが急に明るくなった。心臓が飛び出そうだった。
と、言うのは決して大げさじゃない。突然襲った夥しい外的変化に私の体は取り残され、
明るくなった部屋で私は数秒の盲目状態に陥った。晧晧と明るい光線はまるで水でも浴びせかけられたような感覚。
痛む目。梨華も、そして加護亜依でさえもきっとそう。保守的な神経が覚える生理的な不快。けれど私は胸を弾ませていた。
それまでの不安や焦燥、更には努めて抑圧していた期待までをも全て帰結させる声を、白みながらも再び現れはじめる色彩の中で私は聞いたからだ。
「その、どちらでもないよ。」
甘味があるのに、どうしてか落ち着いて聞こえる声。根底に冷たく、暗い川が流れているような‥。
なかなか正常に機能しない視覚で、私は必死に目を凝らした。やがてぼやけて現れた輪郭に、天と地が逆になる程の驚愕を覚える。
(真希ちゃん‥、まさか‥!!)声など当然発することもできずに、ひたすら入り口に目を凝らす。白い靄が去ると共に、驚愕が確信へ変わった。
(会えるなんて‥思ってなかった‥。)後藤真希。まさしくそう。これは夢?むしろ全てが夢‥?
鉄筋コンクリートでできた巨大かつ高層なる建築物の中に、なかばむりやり和の空間をしつらえようとする時、有機と無機が混ざり合って部屋は特有の化学臭をもつ。
「ここに居ていいよ?」
と、ひとなつこく後藤真希が言って、直後加護亜依により通されたのは、同じ建物の階下にある、そういったこぎれいな和室だった。
広くはないが狭くもない。きれいな畳と新しい床の間。私達が入った時、既にやわらかそうな布団が2組、きちんと揃って敷かれていた。
翌朝、慣れない布団の清潔な違和感に薄く目を開くと、梨華はまだ隣の布団で健やかな寝息を立てていた。
午前特有の硬い日ざしが窓の障子を通過して、青い透明なシートになって、私達を静粛に包んでいる。
(ここは‥、)くだんの人工的な匂いのせいか。正体のわからない昂揚を覚えて、私はとりあえず身を起こした。
(そうだ、G教だ‥。ああ、G教なのかな、ココ。それとも、真希ちゃん個人の家かしら。)衝動的に立ち上がって、
理由もないまま障子をあけると、腐った湾と埋め立て地が、眼下に清々しく広がった。
「う‥、ん。」
と、背後で小さく呻いたのは、物憂げに眉をひそめた梨華。差し込む太陽を嫌がって、たった今ひそかに寝返りをうった。
いまさらこんなの随分見慣れていたけれどいかんせん環境が新鮮だったので、私は普段よりもときめいてしまった。
これから何が起こるんだろうか。真希ちゃんと仲良くなれるかな。
しばらくして梨華も起きたが、勝手の知らない場所で私達は、とりあえず何をして良いかわからなかった。
障子を閉めた私は再び布団の上へと移動し、昨夜用意されてあった木綿のパジャマを着たまま、
梨華と2人何をするでもなく、手持ち無沙汰にしていた。すると、突然ドアがノックされて、こちら側のふすまが開いた。
「朝食の用意ができています。それともシャワーを、お使いになりますか。」
突如として出現した中年のふくよかな女性は白い上下を着ていた。その生地のガサガサとした具合が、なんとなく医者の術衣を連想させた。
ああここは、真希ちゃんと加護以外にも人がすんでいるんだな‥。と、私が妙に納得していると、梨華が遠慮がちに口を開く。
「あの‥。」
敷居の向こうに座ったまま女性は静かに頷いた。
「お風呂は、昨日いただいたので、今は、けっこうです‥。でもちょっと、身だしなみを整えたいので、
できればドライヤーなんかを‥、お借り出来ないでしょうか‥。」
「では先に、洗面所のほうへご案内します。」
中年の女性はいかにも善良らしく、前歯を見せず微笑んだ。
ここにいる間ほぼ毎朝私達はこうして食事を告げられたが、当番制でもあるのだろうか、呼びに来る女性は毎回違った。
彼女たちは皆一様に親切で、落ち着き払っていて、言葉少なだった。例えばトイレがどこにあるとか、
豪華な風呂や洗面所は、備品も含めて自由に使って良いとか、必要なことは懇切丁寧に教えてくれたけれども、
何か特別な基準でもあるのか、意外と些細な質問がそれとなく受け流されたりした。
新都心の凡庸な高級マンションと見えるこの建物は、本部ではないがやはり教団の所有で、主には教祖の居住区と、
その他に信仰者用の集会スペースがあるという。ここにいる人々は皆出家信者で、側仕えというわけで随分高位の者たち。
加護亜依は正確には信者ではなく、主にその集客性を、要するに次期資金源として素質を買われた一人らしい。
従って教団内部での地位は低いが、どう取り入ったのか(とはあくまでもその女性の言葉)
真希ちゃん本人が大変加護を気に入っているため、特別近くに接する事を周囲から許されている。
私達の質問にじつに淡々と答えた女性は、私達が食事を取る間に、どこかへ消えてしまった。
そして誰もいなくなった静まり返った食堂で、おいしく食事をいただいたが、食後、
どこへ食器をさげてよいのかわからなかったので、テーブルの上をそのままにして出ていったら、
約30分後には、それらがきれいに片付いていた。トイレに行こうと再び食堂の前を通り過ぎ、
そのピカピカに磨きあげられたテーブルを私は見たわけだが、なんだか、とても恐縮した。食べた食器は自分で、
といった習慣がしばらくの2人暮しでは当然だったからだ。
けれども、そもそも真希ちゃんと加護以外の信者と遭遇すること自体、朝の通例を除けば私達には稀で、
建物内は常に、ちょっと神経質なくらい綺麗に掃除されていて、確実に、それも大人数の気配があるのに、
どの部屋あるいはどの通路も、私と梨華が存在するかぎり、全くがらんとしていた。
これら顔のない群集といい、私達が毎朝早く起きようが遅く起きようがまるで監視でも
しているように絶妙のタイミングでふすまを開ける日替わりの女性信者達といい、
メディアでの報道のされ方や教祖自身のパブリックイメージに反して、随分規律だった組織のようだと私は思ったけれども、
同時にこれまでの人生で全く馴染みのなかったカルトという特殊な集団を、改めて意識せずにはいられなかった。
そして他でもない後藤真希こそがこの集団の教祖だということも。
あるいはある程度どこからか監視されていたのかも知れないが、私と梨華はほぼ自由に施設内を動くことができた。
もちろん特別に施錠された部屋もあるから、完全にフリーというわけではないけれども。
しかし私達はそれら教団の秘密のようなものに全く関心がなかったし、且つ敢えて距離を置いた。
大量の少年少女を末端の信者として有し、そして真希ちゃんを最高位に据えた集団だとしても、
やはり好んで踏み入れたくはなかった。
真希ちゃんと加護は朝から不在だった。私達は朝食後、あてがわれた和室でしばらく過ごしたが、
やがて昼間の和室がもつ独特の閉息感に耐えきれなくなり、携帯を持って階段を上った。昨晩感じた通り、
最上階はパノラマ壁紙の部屋でほとんどの面積が閉められていた。広大な部屋に2人きりは確かに心細かったけれど、
思えばこの二日間、私達は開放に飢えていた。サッシに寄って日射しを浴びると、少し生き返った気がした。
平行四辺形に切り取られた日光が、広さにしておよそたたみ3畳半くらい。
2人して寝そべってなお高い空を見つめると、輝きのなかで私は全てを忘れそうになった。
私達は何も言わずしばらくそうしていた。やがて梨華は起き上がって光の帯から外れた。
「ダメ、焼けちゃう。」そう言って立ち上がった梨華は、日陰でまた大の字になった。
この部屋はここちいい‥。人の気配がしない‥。目を瞑っていると、頭上の方角から梨華の声が聞こえた。
「ひとみちゃん。」
「んー?」
「矢口さんに-----、電話、しようよ。」
まだ梨華も寝そべっている。おそらく仰向け。
「うん-----。」
かすかに鼻にかかった、声の調子でわかる。
「お昼だねー、ちょうど。そう思っていたトコ!」
私は意気込んで立ち上がって、よろめきながら梨華に近付いた。学校は、お昼休みだ。
でるかなー。さあ。最近ぜんぜん連絡とれなかったもんね。
私はそう囁きながら、ポケットから携帯をとりだした。瞬間!ブルルっと携帯が振動し、着信音が流れ出した。
「誰!?」
「矢口さん‥ッ!!」
計ったようなタイミングに、私は驚いて息を呑んだ。梨華と見つめ合いながら電話を耳にあてる。
「もしもし‥?」

-----げんきー?やぐちだけど。

矢口さんの声の向こうには、がやがやした喧噪が聞こえた。懐かしい、この感じ。学校。
「や、矢口さんは元気なんですか‥?」
-----まあ、元気だよ。
矢口さんは明るく答えた。
「矢口さん、ケッコン‥-----、」
「今、どこにいるの?」
お互いの関心はお互いの安否。要するに。らしくない矢口さんの珍しく頑なな口調で、私の質問がかき消されてしまった。
矢口さんは人気者で、もともと多忙な人物だ。婚約したという現在は聞くところによると習い事が増えてなおさら。
このところ音信不通だったが、昨晩私達が家に帰らなかったことを、おそらくどこからか聞いたんだろう。
忙しいはずなのに昨日の今日でさっそく電話してきた矢口さんの愛というか、
一定以上の感情を普段ならつとめて隠そうとする、そんな矢口さんが向けてくれる私達への好意を、
改めて私は噛みしめずにはいられなかった。
こみあげる感謝と親愛の気持ちを私は特にそうする必要もないのに、照れ隠しの苦笑に変えて通話口の奥へと送った。
私の折り畳んだ膝に無意識に手をついた梨華は、矢口さんと私のそんなやりとりを真剣なおももちで見守っている。
「もう知ってるんですか。矢口さん早いなー。」
「ちょっとした用があって、昨日マスターに電話したんだよ。それで聞いた、帰ってないらしい、って。
正確にはバーテンが騒いでたみたいなんだけどね。『部屋の明かりがついてない!!』ってさ。」
ああ、心配してるんだろうなー‥、と少し胸が痛んだ。昨日、私達は仕事が休みだったけれども、もともと私達は夜遊びをあまりしない。
仕事のない夜はたいがい部屋で過ごしていることを、おせっかいなバーテンは知っていた。
「とにかく‥、無事なの!?」
世話になったあの店を思い出して私がしばらく黙り込んでいると、矢口さんの口調に心配している様子が強くあらわれた。
「‥はい。」
「どこにいるの?‥外?」
「いえ‥。快適な‥、室内です。今は、‥安全です。」
場所は、しばらくはまだ言わない方が良いと判断した。
「矢口さん、」
私は深呼吸をして、問われる前に話を始めた。
「昨日、警察って名乗る人に、ウチら、いろいろ絡まれて‥。
家を出てすぐくらいから、ずっと後を‥、尾けられてたみたいです‥。
手帳とか見せられて、なんか本物っぽかったし、きっとホンモノの刑事なんだと、私は、思ったんですけど。」
「う‥ん。」
理由を聞いた矢口さんもやっぱり戸惑ったみたいだった。
言葉としては冷静なものが返って来たのだけれど、発声の仕方が矢口さんとしてはぎこちなかった。
「でも、逮捕っていう雰囲気じゃなくて、なんていうか、狩られる‥っていうか、追い詰めて、楽しんでる、みたいな‥。
ヘンなチンピラっぽい若い仲間連れてたし、とにかく気味が悪いんです。」
「それで‥?」
「それから‥。私達のこと‥、随分知ってるみたいでした‥。」
能面のようだった男の顔を思い出した私は、話ながらいつのまにか汗をかいていた。
いったん言葉を切って額を拭うと、眉間に皺をよせた梨華の顔が目の前にはあった。
私の膝の上にある華奢な梨華の手は先程から固く握りしめられていたが、私と目が合った瞬間に梨華はハッとして、思い出したようにその力をゆるめた。
私はいちど息を吸った。
「ねえ、矢口さん‥。」
「何?」
「私ヒトを、撃っちゃいましたよ‥。昨日‥。」
矢口さんは何も言わない。
「でも不思議と、後悔してないんです‥。」
「‥そう。」
ほんのしばらく黙ったあと、矢口さんはそれだけ答えた。
私からも梨華からも、それに電話の向こうの矢口さんからも、不思議な程何も言葉が出なかった。
みんなそれぞれに考え込んで、次に何を言うべきなのか、探していた。
それ程長くもないけれども、かと言って決して短くなかった沈黙を、最初に破ってくれたのは、やっぱり頼りになる矢口さんだ。
それでもその声は暗くて、そしてそれなのに良く透き通っていた。
「わかった‥。じゃあ、あのバーにはしばらく戻れないんだね‥。」
(おそらく永遠に‥、という事をお互い知っていたけれど、口に出さなかった。)
「はい‥。」
「うん‥。ヤグチからそう伝えておくよ。心配しないで。しっかりやる。」
「忙しいのに、ありがとうございます。私達が近付くと、皆に多分迷惑がかかります。」
「そうだね‥。」
それから矢口さんは、テキパキと物事を決めていった。声が低く多少重苦しいほかは、矢口さんの口調に目立った澱みはなかった。
「とりあえず車は、ヤグチの家にこのまま置いといてあげる。」
「部屋の荷物は、処分してもらえるようにオーナーに頼んでおくよ。‥いい?」
「お金は、ヤグチの家に持って来るようにしとく。ハハ。一枚くらいはくすねちゃうかもね。嘘。安心して。他に、持って来て欲しい貴重品があれば‥。」
「一度、折りを見て会おう。その時、預かってたモノ、もろもろを渡すよ。それでいいかな。」
矢口さんのこれら献身的とも言える提案を聞いている間、私は少なからず戸惑っていた。
矢口さんはなぜ、こんなに優しいのだろうか。これほどまでに良くしてもらえる何かを、過去私達は矢口さんにしたのだろうか? わからなかった。
「矢口さん‥、なんで‥、」
「なんでって?」
「こんなにいろいろしてもらって‥、ウチら、正直、恩返しできるかどうか‥。不安です。」
受話口から漏れ聞こえる言葉を、梨華も、多少なりとも拾っている。チラリと窺うと、梨華は瞳を伏せている。
「そんなコト、今は考えてる場合じゃないよ。だって、ヤグチがそうしなかったら、よっすぃーたち、すごく困るでしょう?」
「‥ハイ。」正論。
「ヤグチがこういう事するの、イチバン合理的じゃん。誰も困らない。みんな助かる。そうじゃない?」
「それは、そうですけど‥。でも、矢口さんは‥?忙しいんじゃないんですか?」
「まあね、忙しいよ?」
「そもそも、結婚するって本当ですか?」
すると、矢口さんはけたたましく笑った。随分久しぶりに聞いた、矢口さんの大きな笑い声だった。
私はびっくりして、何がそんなに可笑しいのかさっぱり見当もつかないまま、携帯を少し、耳から離した。
「やっぱ知ってるんだ!? ちょっと、‥モシモシ!?」
「‥ハイ。」矢口さんの声から笑いは消えない。
「ちょっと待って。順を追って話させて、イイ?‥ああおかしい。」
「何がですか。笑いごとじゃないじゃないですか。」
「そうだね、わらいごとじゃないね。」
笑いながら矢口さんは咳き込み、それを押さえ込むように静かに息をついた。
「結婚するのは、本当。」
それから、妙に落ち着いた声が聞こえた。直接本人から聞くと、やっぱりちょっとくるモノがあった。
その正体が何なのかは、自分でも、説明できないのだけれど。
「今、花嫁修行やらなにやらで、ものすごく、忙しい。勉強も‥、頑張って点取らなきゃいけないし。
正直遊んでるヒマないけど、そもそもこれは遊びじゃないじゃん。よっすぃーたち今、矢口が必要でしょ?ならやるよ。
それくらいの時間、取れるよ。」
「でも‥。」
「そのかわり、会っていろいろ渡せるのは、ちょっと先になっちゃうかも知れない。
いつ会ったりできるかは、まだはっきりとは解らない。予定が開いたら、こっちから連絡するよ。
よっすぃー達にも、リスクはある。ヤグチが言ってるのって、その程度の事だよ?どう、納得した?」
私はそれでも躊躇っていた。それを軽く笑い飛ばした矢口さんはその後、再び神妙な口調に戻る。
「バーにはやっぱり‥、直接連絡するのはやめたほうがいいかもね‥。大丈夫。
あの人たちは優しいよ‥、詮索なんかしない。時々人が消えたりとか‥。
そういうこともあるって、ちゃんと知ってるもん。」
直後、受話器の奥から鐘の音が響き、会話中ずっと矢口さんを包んでいた背後の喧噪が、ひときわ激しくなった。
「あ、予鈴。」
そう言った矢口さんに私は慌ててお礼を言って、切る前に、もう一度だけ聞いた。どうして、そんなに?つまり、良くしてくれるのか。
自分でも、よくわからない-----。それが矢口さんの答えだった。
矢口さんとの電話を切ってから、ひとみちゃんは考え込むような顔つきでしばらく黙っていました。
腕を組んで、そう。視線をちょっと落として。私には、わかる。ひとみちゃんがそうして、何を考えているのか。
矢口さんに対して、ありがとうって思う気持ちと、すみませんって思う気持ちが、心の中で行ったり来たりしてるのよね。
私もそう。結婚の噂が本当だったっていうのも、やっぱりショックだよ‥矢口さん、有能だもの‥。
この頃になると私はもう、ひとみちゃんの考え方とか、感情の起伏とか、そういったモノをだいたい読み取れるようになっていました。
私だってすごく分かりやすい方だから、きっと、ひとみちゃんも同じ。
信頼、そういう意識が、私たちの中に確実に根ざして来ていました。
いろいろな事を乗り越えて私達は、これからもきっと上手くやって行けるのでしょう。
後藤真希ちゃんと出会ったのが、良い事なのか、悪い事なのか、この時の私達にはまだ、はっきりと解らなかった。
(でもやっぱり、アイドルってかわいいなー、と思いました。)
昨日、真希ちゃんが現れて、それからいろいろ話している間に、ひとみちゃんの目は、なんだかポーっとしてた。
ひとみちゃんは見栄っ張りだし、表情をあまり変えない方だから、真希ちゃんにも加護ちゃんにも、
その幸福は多分バレてないと思うけど、私にはわかるよ。すごく嬉しいんでしょ?
でも私はなぜか、それで良いと思いました。
真希ちゃんに見つめられて、照れて、でもとても楽しそうな瞳の輝きに正直、嫉妬しないかと言えば、それは嘘になります。
でも私はお姉さんだし(ある意味本当に)、それにひとみちゃんがどれだけ私の事を大切に思ってくれているのか、
ちゃんと知っていたから、だから平気。許せる。ひとみちゃんには私、いっぱい苦労をかけたから、
これはきっと頑張ってるひとみちゃんへの、神様がくれたご褒美なのだと思います。でも私にも、ちゃんと優しくしてね。
真希ちゃんがいいコで良かったね。
携帯を床に置いたひとみちゃんは、黙り込んでいろいろ考えているみたいでした。
しばらくして私は離れて、置いてあった雑誌をパラパラめくりました。
加護ちゃんが多分、ゆうべこの広い部屋に忘れていったのだと思います。
雑誌はテレビの脇に、ポツリと放置されたように置いてありました。
アイドル雑誌だったから、やっぱり真希ちゃんは載っていた。
それどころか、大きな特集を組まれていました。
ティーン向けだから扱いは、ワイドショーなどとやはり違います。
カリスマとしてもてはやされ、陰口の類いはまるで見あたりません。
大きな見開きのページには、真希ちゃんが珍しく、シンプルなシャツを着せられて映っていました。
テレビなどで良く見慣れた普段のカッコいい真希ちゃんもいいけれど、こういう清楚な雰囲気も本当はよく似合うんだな‥。
と、感心していた時、ふと、思い出しました。
真希ちゃんを叩いている雑誌のうちの、特に有名なものの一つと、このアイドル雑誌の出版社が、確か同じだったこと。
大きな会社だったし2つともとても有名な雑誌だから、私にもわかりました。
父と家に住んでいた頃、この2つが並んだ新聞の広告を目にした事が何度もあるんです。
「キャッ。」
私はびっくりして、声を上げてしまいました。
立ち上がったひとみちゃんが、歩いて来て、突然うしろから覆いかぶさってきたからでした。
「もう、何かヒトコト言ってよ。びっくりするじゃない。」
ひとみちゃんは無言でため息をつきます。
私の横の髪の毛が、サラサラと少し揺れました。
「ひとみちゃんさー、」
肩に絡んだ長い腕に、私は自分の手を重ねて。
「考えたって、今の私達にはできる事がないんだわ。
なりゆきに任せるしか‥。好意は素直に受け取っておこうよ?ていうか。それしかなくない‥?」
「‥そうなんだよね。」
ひとみちゃんも解ってはいるようです。
「でも、そうやって何でも真剣に考えちゃうトコも、結構好き。ホラ、テレビでも見よう?」
側にあったリモコンに手をのばすと、私の肩口からひとみちゃんが顔を上げました。
ウィンと軽く唸ってテレビの電源が入り、すぐににぎやかな音声が辺りを満たし始めます。
かわりに、それまで絶えず聞こえていた部屋の空調の回転音が、全くどこかへ消えてしまい、
やがてそれすら忘れた頃に、真希ちゃんのCMが流れました。
2人して、しばらくテレビを眺めていました。
昼間だし、あまり面白そうなのはやっていなかったけれど、他に特にやる事もなかったんです。
この建物をでるのもやっぱり危険だし‥。
でもバーにいた時も、私達は昼のあいだよくこんなふうに過ごしていたわ‥、
環境変わっても、あんまり生活変わらないね、って、ちょっとおもしろくなって、横のひとみちゃんを見てみると、
ひとみちゃんはそれに気付いた。「なに?」って不思議そうに。ふふ。
「なんでもない。」
って、もっとニコニコ。すると、
「梨華ちゃんてさー、どんどん変わっていくよね。前からおかしいと思っていたけど、最近ますますヘン。」
って、ひとみちゃんが笑ったから、私はまた嬉しくなった。
いろいろ難しく考えるのを、私はもうやめました。ただひとみちゃんと一緒に行くだけ。
ひとみちゃんは考えるのを多分やめられないだろうから、私達はそう、きっとそういう役割分担なんでしょう。
笑っている私を見て、ひとみちゃんはきっと救われ、私の事をもっと好きになると思います。
そうでしょう、ひとみちゃん。
(笑っているワタシが好きなんでしょう。ひとみちゃん。エ、そう言ってみなさいよ。)って、
言ってみたかったけど、やっぱりやめておきました。
真希ちゃんが何時の間にか、部屋の入り口に立っていて、それは昨夜の登場の仕方にとてもよく似ていました。
違う所といえば、昨日はもう暗かったこと。今はまだ明るい。
この部屋の特徴的な壁紙は昼間、部屋全体をさらに眩しく明るく見せ、それでも入り口の扉は北の方角についているから、
彼女がいま立つ付近は少しうす暗いのだけれど。
「ただいま。」
って笑う真希ちゃんが壁の山脈や虹と妙にマッチしていて、私は一瞬、これはポスターか何かだろうかと、一瞬目を疑った程です。
「おかえり、‥!」
そうひとみちゃんは言ったけど、私と同じで、さっきまでテレビとか雑誌の中にいた真希ちゃんに、やっぱりちょっと落ち着かないみたい。
やっぱり、すごく不思議なカンジ。昨夜の出来事は嘘ではなく、ここがG教なのもまた嘘じゃない。
真希ちゃんを見ていると、現実と非現実が私達の場合、いったいどこから逆転してしまったのか‥、と、そういう不思議な感情が巡ったりしました。
私達の様子を特に気にするわけでもなく、
「腹減った〜ン。」
などと言いながら、真希ちゃんはずんずん近付いて来ます。私達の横に来て、ぺたりと腰を下ろします。
まるで蝶の鱗粉のように、自分がオーラをまき散らしていること、それに彼女自身、一体気づいているのでしょうか?
きらきらした残像を目で追いかけていたひとみちゃんはやがて、不器用に言いました。
「あ、ええと。早いんだね、なんか。もっと遅くなるのかと思ってた。」
「今日は本部に行ってきただけ。あとはオフよん。」
「加護ちゃんは?」と、私がたずねると
「あのコは今日ずっと仕事。でも、そんなに遅くなんないんじゃないかなー。それよりそうめん食べる?」
と、逆に聞き返されちゃいました。
最上階の広大な部屋のとなりは、意外なことに、まるで新築のマンションのようなスペースが設けてありました。
壁紙の部屋を出て、ピカピカの木の廊下を歩くと、ベージュに塗られた鉄の扉が。
真希ちゃんについて中に入ると、また別な素材の廊下が伸びて、奥には、洋風と和風を足して割ったような居間。
そしてきれいなキッチン。
「へえー‥。」
と驚いて、私達が感心していたら、
「へへ。いいでしょ。」
と、真希ちゃんは楽しそうに笑いました。
「頼んで作ってもらったんだ。自分で料理つくって、よくココで食べるよ。私。
ま、メンドクサイ時は下の人に作ってもらうけど。でもたいがいココに運んでもらうなー。
あいぼんがいる時は一緒に食べるし、いない時はひとりで食べる。落ち着くのよ〜。」
置いてあるインテリアの類い、その全てがとても高価であると私はすぐに気付きました。
真希ちゃんの為に用意されたスペース。ある程度は予想できたはずなのに、それはあまりにも豪華で、嫌味なく上品で。
何気なく壁にかけられた絵も、空間を仕切る柱も、出された座布団と湯呑み、全てがそう、完璧で本物。その完全な、主張し過ぎない調和。
けれど、これら最高峰の調和の中において、最も高級で、最も完成された存在は、真希ちゃん自身でした。
腕に注射痕がいくつもある事に、私だって気付いてた筈なのに、私はそう直感しました。真希ちゃんこそが、王女。
王女がそうめんを茹でてるんだわ。
ここでの生活はまるで止まるくらいゆっくりと流れ、それはどこか温かな水中を緩慢に漂っているようでした。
保田さんのおかげなのでしょうか。私達はここでとても良い扱いを受けています。
使わせてもらっている和室は最上層から一段下りた階にあって、この層はきっと賓客用なのだと思いました。
真希ちゃんの最上階に比べたら、それは控えめで、やっぱり常識的だけれど、ここだってずいぶんな品格なんです。
ちょっとしたホテルみたいです。
はじめの数日が平和に、やや怠惰に過ぎて行って、ひとつ意外だったことは、真希ちゃんが結構、時間をもてあましていた事。
真希ちゃんくらい有名で-----って言うよりなにかと渦中のヒトです、-----寝る間もないくらいに
忙しいんじゃないかなって私は思っていたんですけど‥。真希ちゃんはなぜか、家にいることがほとんどでした。
ひとみちゃんと真希ちゃんは、同い年なんです。私達にとって現在の状態で、接する人間の絶対数は決して多くありません。
だからそれも手伝って、真希ちゃんたちとは必然的に打ち解けることができました。
お当番の信者の方を除くと、真希ちゃんとひとみちゃんと私。多くないどころか、本当に少ない。
加護ちゃんはその頃お仕事がいろいろ忙しかったみたいで、昼間はいないことがよくありました。
でもちゃんと仲良くなれた。とてもいいコで、かわいいし、すごく頼りになる。
ある朝、食事を済ませた私達がいつものように上層へ上がると、真希ちゃんはもう起きていました。
壁紙の部屋の真ん中で、寝転んで本を読んでるんです。
「おはよう。」
って、ひとみちゃんが声をかけると、うつ伏せのまま顔だけ上げて、
「おはよう。」
真希ちゃんはやわらかく笑いました。
「何読んでるの?」
私が覗き込むと、真希ちゃんはぼーっとしたカオで手もとの表紙を確認して。
「んー‥、『智恵子抄』‥。」
TVなどから受ける印象とは違って、とても予想外だったけれど、実際の真希ちゃんは普段から、本をよく読む子でした。
それこそ一日中ずっと、というわけでもないけれど、一日のうち決まって数時間、かならず読書をしています。
感心した私はいつだったか、一度聞いてみた事がありました。
「ほんとうによく読んでるよね。」
真希ちゃんはその時も本を、片手に持っていて。
「ま、でもコレはマンガだよ。」
「何?」
「スケバン刑事。」
「真希ちゃんが本好きだなんて、私、意外だったな。」
「うん、最近ね。なんかちょっと、世の中をいろいろ知りたいなー、なんて。」
真希ちゃんは、あまり積極的に自分のコトを話さないから、ちゃんとハナシをしたのって、あの時がたぶん最初でした。
真希ちゃんは、もう「派手に遊びに行ったりするのは、さんざんやり尽くしたからイイ。」
のだそうです。自信に満ちた横顔は、とても大人びて見えます。
「そうよね、まさにそんな感じ。」
私はヘンに納得してしまった。だって今みたいな真希ちゃんの雰囲気って、ちょっとやそっとじゃ出せそうにないもの。
ちなみに、豪華で快適な居間ではなくて、決まっていつも壁紙の部屋で、固い床の上で本を読むのは、
広い部屋でぽつりと、ストイックな感じが気に入っているから。なんだそうです。
これを言う時の真希ちゃんはでも、ちょっと照れて笑っていました。
その日の午前中、真希ちゃんは少し離れたところで高村の詩集を読んでいました。
私達も同じ部屋にいてTVを点けていましたが、真希ちゃんに遠慮をして、音量は当然控え目です。
「平気だから気にしないで。」
って、そう言われたから、まあいいかなってつけたんですけど‥。
真希ちゃんは本当にテレビの音とか気にしなさそうだったけれど、やっぱりちょっとでも邪魔はしたくないし。
ケーブルのミュージックチャンネルに合わせて、ミュージックビデオをぼんやりと眺めていました。すると、
「も〜、疲れたッ!!」
本に没頭していたはずの真希ちゃんが、バタリと床を響かせました。
振り返ってみるともう本は閉じていて、仰向けになって、手足を投げ出しています。
やがて床を転がり始めて、真希ちゃんはそのままゴロリゴロリと、私達の側までやって来ました。
ていうか距離、けっこうあるのに‥。流石カリスマなだけある‥。って、ちょっと思いました。
天真爛漫なところはでも、TVでのイメージとほとんど同じ。
て言うより、もっと奔放?そのぶんとやかく人にも言わない、真希ちゃんのそんな優しさを既に私達は愛しはじめています。
「もー限界。とりあえずカナふって欲しい。漢字に。」
「でもさ、ずっと読んでたじゃん。すごいね。」
「私も。詩、ニガテ‥。いっぱいは読めないな。おもしろかった?」
こういう時の真希ちゃんて、本当に素直でかわいいんです。
グイグイと首を捻って。
「わっかんない。とりあえず『アタタラ山』ってドコ?ってなぐらいの感想。高尚過ぎた。アタシには。」
「あたし的には真希ちゃんが『高尚』っていう言葉知ってるコト自体が、ちょっとしたオドロキかなー。」
もちろん大好きなんだけれど、真希ちゃんとは思った以上に波長が合うようで、ひとみちゃんは時々、真希ちゃんをからかったりするようになりました。
「よっすぃーはさ、心底バカって思ってるでしょ、あたしの事?」
「そんなことないよ。学校行ってないからって、あんまり気にしないほうがいいよ。」
真希ちゃんは笑いながら掴み掛かって、ひとみちゃんもニコニコ応戦。
あまり仲良くなりすぎて次のステップに発展されても、私としては困るんですけど、でもこうやって時々じゃれ合う2人は、
子犬みたいでちょっとカワイイ。私と2人でいる時の、しっかりしててカッコイイひとみちゃんもすごく好きなんだけど、
こういう姿を見るのも、やっぱり嬉しいものです。
ファンだという事をひとまず置いておいても、ひとみちゃんにとって真希ちゃんは、久しぶりの同い年のコだったし、
2人の様子を見ていると、本当に楽しいんだろうなーと思います。
真希ちゃんも、多分。触れあう人間の絶対数なんて、私達よりもむしろ、真希ちゃんの方が少ないような気もするし‥。
プレッシャーをかけないように、ひとみちゃんは黙っているけど、もともと真希ちゃんのファンなんです。
もちろん一概には言えないけれど、お互いこのまま良い理解者になってゆくのは、2人にとって幸福な事かも知れません。
お昼を食べた私達は、真希ちゃんの居間で午後を過ごしていました。
隣の壁紙の、開放的な部屋の雰囲気とは対照的。この居間の四方に窓はありません。
なのにきらきらとキッチンが輝いているのは、その上に明かり窓があるため。
近頃の私達は本当にTV番組に詳しくなっていて、日中では3人とも、午前の番組の方が好きでした。
午後のものよりも全体的に、雰囲気が気楽なのです。
「トランプでもしようか。」
「いきなり?3人で?」
再放送のドラマなども特にチェックすべきものがなかったので、そう真希ちゃんが提案しました。
聞き返したひとみちゃんは少し訝しげで、真希ちゃんはへらへらと時計を見上げます。
「ん〜?加護が多分そのうち帰って来るよ。今日はちょっと早いみたい。4時頃。」
「そう。じゃ、やりながら待ってるか‥。」
ここに逃げ込むまでの随分長い間、ひとみちゃんは真希ちゃんのファンだったから。
だからそんなひとみちゃんがその本を目にとめたのは、やはり必然だったのだと思います。
むせかえるように白く咲き誇る大きな百合の花束の隣の、文具棚の引き出しをひとつひとつ開いては閉じて行きます。
真希ちゃんの示す通りに、トランプケースを探して。
「ここ?」
「あー、その上だ。そこの上の引き出し。」
場所的にひとみちゃんは一番近いところに座っていたから、自分から立ち上がってくれたんです。
「あった。」
取り出した黄緑色のケースをかざして。笑って見せるひとみちゃんどこか得意げ。
そのまま戻って来ようとして、足を一歩踏み出しかけた直後。
「ねー‥、これは何?」
何かを見つけてしゃがみこんだんです。
脇にある花瓶台の下に、ひとみちゃんは顔を近付けてなにやら探っていました。
作り付けの棚に、台の下はなっていて、そこには数冊の大きな本があまり堅苦しくなく並べてあります。
「コレ、ちょっと。見もていい?」
その中から一冊、重そうな本をひとみちゃんは取り出し、軽々と持ち上げて、私達を振り向きます。
愉快そうに瞳を2、3度、瞬いてみせたりして。
「もー、いいよそういうの出して来なくって〜。」
真希ちゃんは、ちょっとした悲鳴を上げます。おおげさに顔をゆがめている。
本の濃いピンク色の表紙には、布地に教団のロゴが大きく型押しされていて、一見それは卒業アルバムを彷佛とさせました。
ひとみちゃんの目の輝きに真希ちゃんも抵抗を諦めたみたいで、
「G教の歴史と、まあ教典みたいなのを、一冊にまとめた本。それは。」などと、苦笑しながら付け足しました。

ひとみちゃんはいそいそとテーブルまで戻って来て、私の横、つまり真希ちゃんの正面の位置にやけにぴったりと私にくっついて座り、
そして、喜色満面のおももちで表紙をまずめくりました。
「写真とか載ってるワケ?」
目次を開いたところで、ひとみちゃんは尋ねます。(アンタ一体何者なの!?)って、ちょっとツッコミたいような口調でした。
「うん、ちょっとだけ。」
真希ちゃんは肩をすくめて。
「水着とか?」
「ないよ。」
外見がアルバムっぽいせいもあって、中身もさぞ写真が豊富なのだろうと、私もひとみちゃんも期待をしていたのでした。
けれど実際はそうでもなく、細かな文字の文章がほとんど。
写真は挿し絵程度に時折入っているだけ。
それでも巻頭の数ページには真希ちゃんのポートレートをはじめ、カラーでけっこう載っていたので、私達はそれなりに楽しむ事が出来たんです。
真希ちゃんは初め嫌そうに顔をしかめていたけど、もともとあまり物事にこだわらないタイプなのでしょう。
困ったような呆れたような。そんな特有の笑顔を作って、私達とページとを、交互に見比べたりしています。
「この写真すっごい若っけー!ぽっちゃりしててかわいいったら!!」
まだ黒い髪の真希ちゃんを見つけて、ひときわ高い声をひとみちゃんは出しました。
すると、真希ちゃんは机に、ガバッと顔を伏せてしまった。
照れちゃって。ほうり出された、豊かでつやつやとした髪が、柔らかく光をたたえていました。
「なによりそれを見られたくなかったんだ‥。まあね‥、どうもありがとう‥。」
真希ちゃんはモゴモゴ呟き、そのとてもシャイな仕種に私もちょっと吹き出してしまった。
「ねえ、どうして表紙の色、こんなに派手なの?教典なのに‥、いいの?」
少し気の毒になってそう話をそらすと、
「あたしの襲名記念だから‥。好きな色にさせてもらった‥。」
両腕の陰から真希ちゃんは上目づかいで、そして耳が少し、赤いの。
そんな真希ちゃんを尻目にひとりページをめくったり、また前後したりして、
ずいぶん気ままだったひとみちゃんはやがて、「おッ!!」って叫んで、視線を固定させました。
新たな標的を発見したみたいで、隅に載っている中くらいの写真を指差し、恐る恐る口を開きます。
「コレって‥、保田さんでしょ‥?もしかして。」
真希ちゃんは顔を上げて、指の先を覗き込んだ。
「ん、そうそう。」
さっきまでの動揺はどこかに消えてしまったみたい。確かめるように2、3度、懐かしそうに頷いています。
「そっか、本当にG教だったんだね‥、保田さん。」
「そ。努力家でさ‥。偉かったんだよ。チカラあったし。」
感心する私達に、真希ちゃんは言いました。目を細めて、とても穏やかな表情。
うってかわって急に大人っぽくなった真希ちゃんの笑顔を見たら、私はなんとなく、父と母と3人で暮らしていた日々の事を思い出したりしました。
保田さんの、チカラ。それはつまり、過去や未来に行ける‥、といった、ああいった能力のことでしょうか。
私はもう一度、写真に目を落としました。そこに映っているのは、溌溂とした笑顔。
3人の少女。一人は保田さん、もう一人は真希ちゃん。ひとみちゃんは飾り気無く、率直に聞きました。
「ねえ、どうしてフラフープなんか回してんの?こんな山奥で‥。」
真希ちゃんをまっすぐに見つめる。確かに私にもそれは、少し奇妙な風景に映りました。
あいかわらず輝く保田さんの表情。は、ともかく。真希ちゃんの笑顔が、あまりにも無垢‥。

写真‥。背景には枯れた雑木林。水色の空とフラフープ。白い、山荘。

真希ちゃんは少し、考えてから言いました。
「そこは教団の別荘。秘密だから山の中にあんの。フラフープはまあ、ちょっとした修行みたいなモン‥。って言ってた。」
やわらかな笑顔を真希ちゃんはまったく崩していません。
「この、もうひとりのヒトは‥?」
更に続いたひとみちゃんの質問に真希ちゃんは特別、表情を変えなかったけれど。笑ったままで結局、何も答えてくれませんでした。
その時。
「ジョニーにハートブレイクッッ!!」
「ばかじゃないの!?オマエ〜!?」
「おぉ‥!!お帰り〜。」
けたたましい音を響かせ、帰って来たのは加護ちゃんです。
この、居間まで続く2重の廊下を全力で駆け抜けてきたみたいで、加護ちゃんは前髪がパラリと上へめくれてしまっています。
息を切らしながら加護ちゃんが叫んだ言葉の、その意味を私達はまだ理解していないかったけれど。
一生懸命な顔色とか眉毛の上がり方などが微妙に可愛いらしくて、私もつい、くすくすとつられて笑ってしまったんです。
加護ちゃんの言動にまっ先に、すごい勢いで反応を返した真希ちゃんは、それからひとりだけ、一番笑っていました。
私達4人ではその後、トランプをして過ごしました(トランプケースはしばらくの間すっかり放り出されていたので、
『どこだっけ?』と探すのにまたひと苦労しました)。
七並べ、ババ抜き、そのあたりの気軽なゲームをずいぶんやったなかで、意外に、‥って言っていいのか、
加護ちゃんが、素晴らしい強さを発揮していたんです。
彼女のの勝つ確率がだいたい半分を越えた頃、「タイム。」って、
一度中断して真希ちゃんは立ち上がり、そのまま柱の電話器へとおもむろに歩き出しました。
ゲームに熱中してそれまでのはしゃいでいた姿と違って、
すんなり受話器を掴んだ真希ちゃんの様子がことのほか冷静だったので、
加護ちゃんは慣れているのかそうでもなかったけれどひとみちゃんと私はなんだか注目してしまった。
「あ、どうも。」
受話器を耳にあていくつかのボタンをプッシュした後、真希ちゃんはすぐに話し出します。
「今夜、夕ごはん要りません。ハイ、皆。お菓子を結構食べちゃったので、あんまりおなか空いてないです。」
確かに机の上にはトランプと、そして開けられたいくつものお菓子の袋が散乱した状態でした。
そう、だいぶ食べてしまった。私達はとっくに、お腹がいっぱいでした。
(気をつけないと太っちゃう。最近運動してないし。)そう思う側から、私はまたひとつ、スナックをつまみ上げます。
(だって、おいしいんだモン。)解っているけど、なかなか。目が食べたいの!
「はい。すみません。要らないですから。」
最後に一言謝って、真希ちゃんは電話を切りました。
「毎回そうやって、電話を入れてるの?」
なにくわぬ顔で戻ってきて、再び座りなおす真希ちゃんに私は聞きました。
「うん。」
「なんだ。もっと勝手にやってるのかと思ってた、教祖だし。」
ひとみちゃんも同調します。
「だって、悪いじゃん。もし作っちゃってたらさ。
私、料理するの好きだけど下の人につくって貰う時も、まああるし。なんかさ、そゆとこ。キチンとしないと嫌なのワタシ。」
「へー‥。」
なんていうかすごく‥、道徳的でした。返す言葉も発見できず私はひとみちゃんと目を見合わせます。
テーブルの中央にトランプのカードは、ざっくばらんにまとめられていて‥。スナックのお菓子の汚れが、ちょっとついちゃったかな‥。なんて。
「あのー‥、なんかごめんね? トランプ。ちょっと、油ぎっちゃった‥、よね?」
ひとみちゃんもちょうど同じ事を思っていたようで、ぎくしゃくした口調でなんとなく謝ります。
「ああ、」真希ちゃんは言いました。
「別にいいよ。また買えばいいじゃん。ねえ?」
悪意のみじんも感じられない、明るい笑顔を浮かべて。
加護ちゃんは私達のそういったやりとりに全く興味がないようで、ひとりテレビのリモコンなどをキョロキョロと探し始めています。
たとえば雲の上の存在なのだと、私は改めて思いました。
私達よりもきっと、一段高いところにいる。
実際、雲の上などといった世界が本当に存在するとしたら、それはこの建物の、今いる最上層かも知れません。
白い羽衣を持った、華やかな死者の世界‥。
そういう快楽的な、少し陳腐な想像が頭の中に浮んできてしまって、私は慌てて、速やかに打ち消しました。
突然。『ワッハッハ』って、聞き慣れた音声であたりが包まれ、退屈した加護ちゃんが、TVをつけたようでした。
その後に沸き上がった空気、あれは果たして、事件と呼べるものなのか。
次の日になると2人は、まるで何ごともなかったように仲良くしていましたし、私も敢えて追求をしなかったので、
今回の事がその後の私達にどういった作用を実際にもたらしたのか、私は結局、知る事ができませんでした。
テレビを点けた加護ちゃんはもともと、前回選択されたまま設定が残っていたチャンネルを、しばらく眺めていました。
その時放送されていたのは、他愛のない、でも割りと人気のあるバラエティ番組のひとつです。
なんとはなしに見入ってしまった番組でしたが、その意図にのせられ、私も真希ちゃんもひとみちゃんも、小さく吹き出したりしていたんです。
やがて5分程たった頃、次の展開を期待させて、番組はコマーシャルを挟みました。
すると加護ちゃんは当たり前に、(って言うよりまるで何かに憑かれたみたいに)、他の面白い番組をパチパチと探し始めています。
手の中あるリモコンはずっと、握りっぱなしでいたようでした。
私達が4人でいる時、チャンネルの主導権はたいがい加護ちゃんに集中していて、それが日常の流れでした。
特に見たいモノでもなければ、誰も何も言わない‥、って、言うより、気難しい末っ子さんの可愛いワガママとして、むしろ好意をもって、迎えられていたんです。
ひとみちゃんも真希ちゃんも、その時の番組にはこれといった未練がないようでした。
2人はすでに顔を見合わせ、ちょっとした談笑を始めています。
時間帯の関係かコマーシャルの局が多く、加護ちゃんのチャンネル選びには、しばらく時間がかかっていました。
だから私も、真希ちゃんとひとみちゃんの会話の輪に、とりあえず入ろうとしていたんです。
『許さない方がいい、』冷静ですが、断定的で、鋭い口調が耳に入って、私は画面を向き直りました。
『やはりあの集団は解散、少なくとも教祖を改心させるべきだ。
心ある媒体がこれだけ糾弾をしている状況だと言うのにですよ、彼女は未だ、露出を続けている訳です。
なんら反省もなく。まず憂慮すべきは、安易な人気取りで彼女を持ち上げるメディアが、いまだ多く存在すると言うことです。
また彼女ものうのうと顔を出すんだ‥、未来が不安ですよ。』
出た。と、私は率直に思いました。ひとみちゃんの表現を借りるところの、いわゆる、『鼻の下の溝』の、人。
彼は最近本当にこまめに、いろいろな番組へ出演していたから、こんな、真希ちゃんのいる状況で彼の論調を聞くような日が、
いつかきっと来るんだろうな、と、少しは私なりにも気構えていたたりもしたんです。
芸能評論家(自称です)は、真希ちゃんへの呪詛ともとれる発言を、ひたすら続けていていました。
固まった-----私が個人的に、そう感じた、空気。
けれどやっぱり、それを破ってゆける力を、無邪気で純粋な強さのような物を、私は持っていませんでした。
一度ひとみちゃんが、私のことを『強い』って言ってくれた事があって、その時は嬉しくて『そうかな』なんて気軽に笑っていたけど‥。
でもやっぱり、弱い。
加護ちゃん早くチャンネル変えてよ、って、私はひたすら願っていました。
けれど、彼女はいっこうに、まわすそぶりを見せません。
ひとみちゃんに負けないくらい、加護ちゃんは真希ちゃんを真剣に愛していて、そして、
すごく憧れているんだろうなっていうのは、普段の様子から私にも解っていた事です。
画面に見入る加護ちゃんの感情は、私が座っていた位置から、わずかな角度の横顔でしか窺うことができませんでした。
何かを推して計るにはその条件が足りな過ぎたし、実際いつもの加護ちゃんの様子と、そう変わらないようにも見えました。
「真希ちゃんがさあ、」
おもむろに、呟くようにそう言ったのは、ひとみちゃんでした。
意外に冷静な声が、救世主だと確かに感じられて、私は期待をこめた視線をひとみちゃんへと向けました。
いつも偉いひとみちゃんの第一声のおかげで、なんとなく場の雰囲気がフッとゆるんだ気がしたんです。
けれど。
違いました。振り向いた私はひとみちゃんの表情を見て、そのカンが間違いだった事に、すぐ気が付きました。
冷静さを必要以上に、全面へ、押し出そうとしている感じ‥。
だいたいにおいてひとみちゃんはとても穏やかでしたが、ごくたまに、こういうカオをする時がありました。
「今けっこう暇そうに家にいたりしてるのって、例えば、こういう叩きとかに、関係あるって感じなワケ
 ちょっとさあ、聞きたいんだけど。」
「ん〜。まあそれもある、ちょっとは。 なんてネ!」
細心の注意を払って、気をつかって、重くならない言いまわしを選んでいながら、ワザとつっけんどんで、冷たい言い方をして見せるのは。
矢口さんを意識して、ちょっとみならっているような。
真剣で、その言葉の裏に悲壮なくらいの覚悟を、じつは秘めてひとみちゃんが投げかけたのは、
彼女なりの渾身な問いかけだったのですが、真希ちゃんは全く気が付かないのか、ニコニコと笑って答えました。
いつものように、もしかしたらそれ以上に明るくあっさりした物言いだったので、
真希ちゃんの真意がこのときいったいどこにあるのか、私には判断がつきませんでした。
2人の間にある決定的な温度の違いをひとみちゃんは軽く受け流せるほど割り切った考え方をしていません。
もっとウェットで、ナイーブでした。
矢口さんを見習っていても、彼女のような洗練されたスマートさをじっさい手に入れるまで、
まだ少し時間とか、経験などがひつようなのです。ひとみちゃん本人もそれをよく解っているはずだったけれど、
もしかしたらここへ来て、一人で気に病んでいたのかもしれません。
ひとみちゃんはしばらく反応を返さず、真希ちゃんをぼんやりと見つめていました。そしてやがて我にかえって、
画面を見つめ直します。まるで覚醒した暗い目を、悪魔からいったん反らすみたいにして。
私の目から見ても、あの時の絢爛な居間での光景は少し、異常な感じがしました。前方に座る加護ちゃんは、微動だにせず、
食い入るように画面を見つめています。きつく腕を組んだひとみちゃんは、高く立てた膝でそれを覆い隠すように縮こまって座って、
神経質な、鬱屈した表情をしている。
テレビの中の男は、声が既に張り裂けんばかりでした。私の後方の位置からは真希ちゃんの笑い声が、
「アハアハ」と、絶えまなく聞こえているのです。
とにかく我々はG教、なかでも後藤真希の存在が平然と罷り通る世の中を、なんとか改善しなければいけない。
腐っているんだ!存在が、根本的に!
あからさまな悪意で執拗に罵倒され、その存在を、全て否定されているも同然な言葉なのに、
真希ちゃんがそれを聞いてこんなに笑っているのは、経歴から来る余裕や自信の果たしてあらわれなのでしょうか?私はなんだかすごくタブーな気がして、真希ちゃんを見れませんでした。
『皆さんが一体どういう見解をお持ちになってるか知らんが、売春、薬物、詐欺!彼女は必ず、尻尾を出しますよ!
いつか、近いうちに必ず!実際もう、ちょっとずつ見せて来ているんじゃないんですか!?
僕はそう思いますね!』着席した机を叩いて、男は口上を終えました。
いつの間にか番組が終わりに近付いているのか、ディスカッションに参加していた数人の出演者たちの中から、
年長者の俳優が意見を求められて、もっともらしく、そして公平なコメントをしています。
私が時計を見上げると、2本の針は確かにそういった時刻を示していて、
『後藤真希さんッ、見て居ますかッ?私は君の反論が是非とも聞きたいッ!』と、司会者の、
誠実そうに溜めた言葉を最後に、番組は締められエンドロールが流れました。
画面にまたコマーシャルが流れ始めたころになって、ひとみちゃんは今度は、吐き捨てるように言いました。
「反論すればいいじゃん。」
口調には険があり、不快さを、もう隠そうとしていません。真希ちゃんの笑い声はすでにその時止んでいましたが、
でも彼女の顔には笑いのなごりのようなモノがまだ充分に残っていました。
少しきょとんとして。
「‥なんで?」
「マゾですか?あんなに言われて平気なの?おかしい。
真希ちゃんが何も言わないからアイツら調子にのるんでしょう!?」
「よっすぃー。」
ひとみちゃんはその激しい憤りのせいで、顔の色を反対に失くしています。
対する真希ちゃんは苦笑していて、やさしい声音でひとまず、なだめようとしました。
「相手にするだけ、無駄なんだよ? てかヨッスィ〜知ってんでショ?
わかっててブリッ子してんなよ?きゅ〜ん?」
途中から剽軽な、いつもの調子に真希ちゃんが戻ると、ひとみちゃんは、また黙った。
けれどこの噛み合わせてもらえない状態に、ひとみちゃんがずいぶん苛立っているのは、
一目瞭然だったんです。真希ちゃんだってそんなひとみちゃんの心理を、本当は解っているはずなのに。
て、言うか、わかっていなかったらちょっとおかしいと思います。
背後で起こっている事態に、一体気付いているのかどうか、加護ちゃんは一度もこちらを振り返らず、
次の番組を見始めています。
居間にある、大きいけれど一枚板のテーブルに、私達4人は、着いていました。
ニコニコとあくまで罪のない顔で真希ちゃんが笑っていて、その正面のひとみちゃんは激昂で唇を震わせている。
加護ちゃんはそれを完全無視。そういう密室だったんです。
私はでも、その雰囲気を無理に立て直そうと思いませんでした。ひとみちゃんの言うことは全然間違っていないと思うし、
かといって真希ちゃんの-----挙動はともかく、言葉は現実の正当性に、みちあふれているんです。
この衝突の行き着く先、それを最後まで見続ける事が、ここで私に与えられた最大の役目だと思いました。
2人は妥協することなくもっと仲を深めて欲しい、と、思ったのは、ひとみちゃんを思う親心なのでしょうか。
万が一決裂したとしても、それはそれで私達のさだめで、仕方がないなと思っていました。
「あのねー、ヤなんだよね。あんだけボロクソ言われて、それをヘラヘラ笑って見てるアンタが。具合悪くなる。
そのうち皆信じちゃうよ?いろいろ叩かれて書かれてる事。」
「だっていいもんそんなの。なに言ってんの?有名税だってば。ん、有名って、自分で言っちゃッた。ワハハ。」
ひとみちゃんが体制を立て直してもう一度議論を再開しても、真希ちゃんは決して土俵に上がらず、
受け流しているばかりでした。真希ちゃんにとってひとみちゃんは、やっぱり本気を出す相手では、
ないのかも知れませんでした。少なくともこの時点では、ひとみちゃんが一方的に、振り回されていました。
それでも、食い下がること30分。そして。
「私、知ってるんだよ。」
とうとうかなわないと思ったのか、ひとみちゃんが弱々しく呟くと、真希ちゃんはとても楽しそうに、
ひときわ大きく笑いました。
「も〜〜〜、なにを?ワタシの何をよっすぃ〜が知ってるの? ありえね〜〜!」ひとみちゃんは首を振って。
「違う‥、そういう訳じゃ、ないけど‥、」
「じゃあナニ?」
真希ちゃんは目を細めて、笑顔のままで尋ねました。
「ここに来る前、バーで、働いていたんだけど‥。」
ひとみちゃんの言葉と同時に私も頷いたりしました。ひとみちゃんがこれから言う事、
私にはもう、だいたいわかっていた。(言っても、どうにもならないと思うけど、それでも言いたいなら、
言えばいいと思うよ。)そう考えていました。
「うん、知ってるよ‥。」
いつのまにか真希ちゃんは、どこか労うような、優しげな表情になっています。まるで聞く姿勢を積極的に示すように。
「そこにはさあ‥、」
「うん。」
「マリファナ吸ってる人が、たくさんいたんだ‥。」
「‥それで?」
やさしくて、あたたかな声。真希ちゃんは続きを、待ち望んでいました。
「それにもっと、ツヨいのをやっているヒトもいたよ‥。だから知ってるんだ‥。
ああいうのを長く使い続けて‥、そのヒトたちが最期に、どうなってしまうのか‥。」
ちょうど一瞬だけ舞い降りた、真希ちゃんは幸福を自覚したみたいに。ひとみちゃんが言葉を区切ると、
微かに、でも本当に、やわらかく笑ったのです。
けれど。「で、なんの関係があるんだろ、ソレ。ワタシと?」
それはすぐに消えてしまった。ひとみちゃんはあの顔を、きちんと見れたのでしょうか?
言いにくそうに目を伏せていたから、やっぱり無理だったのかな‥。
ひとみちゃんは、続けました。
「だから、週刊誌とかに、書かれているコト‥、あの評論家が言っているコト‥。」
「クスリ‥、やめなよ。」
「ぶ〜〜〜〜ッッ!なんだそりゃ〜〜〜〜!!??」
すると、真希ちゃんはおおげさにおどけて、ひっくり返ってみせたんです。
「なにソレ?なに言ってんの?ヤメテヨね〜〜〜。」
でもひとみちゃんは、ちっとも笑わない。
「腕を見ればわかるよ‥。もう、そういうのも、やめよう。真面目に、答えて欲しいよ。」
真希ちゃんは本当におかしくてたまらないみたいで、目の涙を拭っています。
「あーもう。コレの事でしょ?もしかして?」
そうして真希ちゃんは軽々とソデを捲りあげ、私達へと突き出しました。
至近距離で見た痛々しい腕に、私は思わず、息を殺した‥。
「あたし、こないだ病気してさー。だから点滴なんだってコレ。病院で、辛かったよ。
注射なんてキライだもん。小っちゃいトキからず〜っと!ほんとカンベンしてよね〜。」
って、また笑いはじめたけど、ひとみちゃんはやっぱり、かたくなに黙ってしまっているのです。
2人がこれ以上続けるコトに、もう私は、意義を見出せませんでした。あの腕は確かに疑わしいし、
真希ちゃんを思うひとみちゃんの気持ちもわかる。でも現場を見たわけではないから、
もしかしたら本当は、真希ちゃんの言う通りかもわかりません。アヤしいケド。
でも、コトの真偽はともかく、真希ちゃんのような立場の人に私達が本当に意見をすることなどできないのかも知れないし、
そもそもひとみちゃんの頭に、こんなに血が上ってしまっては、望んだようなよい成果など、
得られるはずないと思いました。(そろそろ仲裁なんかに、入ってみた方がいいのかしら‥?)
上手くおさめる自信なんて、毛頭なかった。けれど。それでも私なりになんとかやってみようと、思い立った時でした。
真希ちゃんの素直そうな笑顔が、いつもと変わっていた訳ではありません。口調だってやわらかだったし、
どちらかと言えばのんびりしていた‥。なのにそのときの一連の動作は、支配者たる誇らしげな威厳と風格を、
何重にも纏わせていたのです。
オイオイよっすぃ〜。信じるべきはアタシ?それともアイツら?どっちなんだよ、ん?
ゆっくりと身を乗り出して真希ちゃんが掴んだのは、目の前に座ったひとみちゃんの胸ぐら。
引き寄せる腕はむき出しでちからづよく。
「とりあえずマキちゃんて、呼ぶのやめるトコから始めな。」
ぶつかるくらいに顔を近付けた真希ちゃんはさらにそう言ってから、ゆっくりと手を離しました。
ひとみちゃんは迫力にのまれ、瞬きを忘れているようでした。それでも肯定も否定もせずに、ただ緊張していました。
「は〜いよっすぃ、じゃ、仲直りしよ?ね?ここにチューして。チュッて。」
突然、真希ちゃんがそう言ったから、更に私は呆気にとられて。かわいくって、甘えた声。一瞬、
出遅れてしまったから、止めるのがぎりぎり間に合わなかったんです。
「それはダメ!」
って思った時、ひとみちゃんの唇は、もう真希ちゃんのバラ色の頬へ‥。悲しいね‥。
ちょっとひとみちゃん!何つられてんのよ!
って、私がムッツリしていると、真希ちゃんは今度はなんと、私のほっぺにキスをしました。
「これでだいたいOKじゃない? 梨華ちゃんも、ありがとうね。」
ほとんど口を挟まずに、じっと2人を見守っていた私への、それは真希ちゃんの気持ちなのでしょうか。
クチビルのカンショクはやわらかかったけれど、それどころじゃない気が、もの凄くする。
これで決着して良いのか。わかりませんでした。
一連のできごとは真希ちゃんのペースで進んでいたし、
最期にはひとみちゃんもやり込められたカンジだけど、どうかな‥。正確には‥。
そういう事を考えていた時、加護ちゃんがいまさら振り返りました。本当に興味がなさそうでしたが、
眉間に皺を寄せていました。
「ジョニーがウンコなんが悪いんやで。」
加護ちゃんが顔をしかめている時、それが必ずしも不機嫌を指しているとは限りません。
そんなトリックスターは、またひとつ謎めいた言葉を残し、立ち上がって、部屋を出ていってしまった。
「じょにーちゃんはウンコじゃないよ〜!何度言ったらわかるのよ? ちょっと加護!!訂正してゆけ!」
と、言った真希ちゃんの叫び声が、ウサギみたいな加護ちゃんの後ろ姿を廊下のほうまで追い掛けましたが、
でもやっぱり無駄でした。
矢口さんからの連絡が再び入ったのは、前回の電話からだいたい半月が過ぎた頃だった。
「もしもし?」
と言った声はいつも通り高かったが、少し掠れていた。忙しくて疲れているのかと思ってそう尋ねたけれど
「風邪気味だったんだよ、でもそんなに重症じゃない。」と言って彼女は笑った。
「とりあえず、時間があいたから、預かってたモノ、渡そうと思う。
急で申し訳ないんだけど、明日は、どうかな。出て来れる?」
上手くいけば明日、私達は荷物を受け取る事になるわけなのだけれど、中でももっとも場所を取る車については、
前もってあらかじめ、真希ちゃんに聞いておいた。
「ねえごっちん。車を、さ。保田さんから買った車‥、ココに持って来たとして、
置き場所とか‥、ある?」
「お、とうとう来るんだねー。いいよ。地下に駐車場があるからそこに置けばいいよ。
広いよ〜?5台でも10台でも。」
ごっちんというのは、あの翌日に決まった呼び名だ。ごっちん‥、ゴッティソ‥。
真希ちゃんにとって、『真希ちゃん』、そう期待を込めて呼ばれるのは、
あまり嬉しいことじゃなかったみたいだ。それはつまり親近感の問題らしかった。
「真希〜、‥。ヘイ、真希〜‥。んーなんか違う。
じゃあ、いっその事『ごとう』でどう? ‥おい、ごとう!! ‥ごとうこら!!」
いろいろ考えては口に出して、私は模索した。真希ちゃんはその姿をずっと見守っていてくれたけれど、
私は決定打を、いつまでたっても出せずにいる。
「うーん‥。でも、」梨華も首を捻る。
「なかなか難しいよね。今まで『真希ちゃん』で、長い間慣れてたんだモン。」
でも、もともと梨華は、私に任せるつもりだった感じ。自分の案はあまり出さずに、
私の事を笑って見てる。
「真希‥、ごとう‥。いや、真希‥。はたまた、ごとう‥。」
そう繰り返して呟いていた時だ。加護亜依が口を挟んで来たのは。
「じゃあ、もう、中間をとって『ごっちん』でいいですよ。はっきりいって聞いてらんないです。
ボケりゃいいと思ってクソが。」
加護亜依の言葉が珍しく難解ではなかった。ダイレクトなぶん余計に説得力をもって届き、
罵倒されたことすら忘れた。とりあえず「ごっちん‥。」そう呟いてみる。すると真希ちゃんは笑った。
「うんうん。そのほうがちょっとしたトモダチって感じ。雰囲気出てる。イイ、イイ。」
胸のすく広い部屋の、パノラマの中央で真希ちゃんはその日『ごっちん』になり、
加護亜依もその後『あいぼん』になった。梨華は、そして人知れず呟く。
「でも。いったい何と何の中間だっていうのかしら‥。 ウフッ。」
そんなおハナシ。
危険なのは知っていた。矢口さんと外で会うこと。物品の受け取り場所。
もしくはそこまでの道のり。今、外に出て、あの開襟シャツの男が追って来ないとなぜ言える?
ここは安全。あの男の手はおそらく届かない。なにもかもは真希ちゃんのおかげ。真希ちゃんの懐にいれば、全ては安らかに。
「はい。なんとか大丈夫だと思います。明日、会いましょうよ、外で。」
なのに私は承諾した。
1. 矢口さんならきっと、本人が直接来なくても誰か人を通して、車とお金をここまで運べる。
2. でも直接会いたい。矢口さんの顔を見て話したい。
3. ココまで来てもらうのは、忙しいのに悪い。それにG教にいるって、
矢口さんにはまだ言っていない。だいたい言って良いものなのかも、よくわかってない。
そういう心理が強くはたらいたのだった。一度息をしないと、私は、ダメになってしまう。
「出来ればなるべく、人目の欺ける場所がいいです‥。お願いします。」
また我が儘。私がその時出した声は、やっぱり情けなかっただろうか。
「あー、それは勿論。」
いかにも聡明そうな相づちを、矢口さんはうってくれた。
「じゃあ、明日。ヤグチの学校が終わってから。あ、でも。
ちょっと用事があるかも知れないんだ。だから‥、7時‥頃かな、カンペキなのは。
じゃあ7時に『きぼうヶ丘』で。そ。駅に着いたら一度連絡ちょうだい。くれぐれも気をつけろよ。わかんないけど。」
「ハイ。じゃあ明日、7時に。」
そう言って電話を切ったあと、私は理由もないのに、辺りをそっと見回した。誰もいない。梨華ですら。
あたりまえだけど。なんとなく一人になりたかったから、私はわざわざ和室の階の、
誰もいない洗面室で話していたのだ。(明日はタクシーで行こう。それも何台も乗りかえて。
ココの裏口まで、呼んでもらえば-----、てゆうか自分で呼べばいいか。できる事は自分で。)
ここの車を使わせてもらうのも、なにかと都合が悪い。
タクシー代はどうしても真希ちゃんに借りることになるし、別にこのハナシを梨華はおろか、
真希ちゃん、加護、あと教団の人たちにだって特に内緒にする必要はないのだけれど、
私は電話中なぜか背筋をまるめ、手で通話口を覆って話した。そしてそんな自分の姿が豪華な洗面カガミに映ったりしたので、
我ながら少し可笑しかった。梨華は連れて行く。2人で行くのはもしかしたら目につきやすくて、
より危険なのかもしれないけれど、でも万が一、ひとりで行ったうえに何かが起こって、
離ればなれになってしまう方がもっと嫌だからだ。
これは脱出じゃない。大好きだからこそ、ほんのちょっとの間、出てくるだけなんだよ。

オオゲサか。ゴッチン。

翌日。
「時間だわ。ごっちん、そろそろウチら行く。」
「ぬぁ〜、気をつけなよ〜?」真希ちゃんは3万円貸してくれた。札入れではなく、
折りたたみ式のきれいなおサイフからナマで直接くれたので、それらはピン札ではなく、
普通に皺が寄っていた。
「え、いいよこんなに。」
「うん。使わない。」梨華も頷く。
「だってさあ、なんかあったらヤじゃん‥。」
そう言って真希ちゃんは顔を顰めた。
「そんなのぜんぜん足りないぐらいだよ、‥50万くらい渡そうか〜?だってどうすんのよ、
帰って来れなくて‥。路頭に迷ったりしたら〜?」
「へいき、へいき。だってワタシがついてるモン! ね、ひとみちゃん。」
「そうとも言うね!」
身震いをしてみせたゴッチンに梨華はハシャいで言った。私の手を取って。まるで、遠足へ出かけるみたいに。
「不安だよ〜〜〜。」
(ずいぶん前に、あったな。こんなコト。センセー元気かな。)そう、漠然と思っていた。
もっとも今回は、ちゃんと帰ってくるケド。
すると、真希ちゃんは急に笑顔に戻った。
「けど今回は、なんか平気な気がする。カリスマの勘でわかる。」
気楽そうな、のほほんとした。真希ちゃんがその時どんな気持ちでじっさい言ったのか、
私にはまだわからなかった。けれど確信した。
「でしょ?やっぱり?」
真希ちゃんがそういう顔で言うなら、余裕ってカンジだった。
軽い変装をほどこした私達はG教の北側、地下駐車場の出口脇にタクシーを呼びつけた。
梨華が被っている帽子と私がかけているセルロイドのおしゃれ眼鏡は出がけに真希ちゃんが貸してくれたもので、
それぞれ私達によく似合った。私達は今日、外に出る為の用心として服装にも気を使っていた。
いつもと違った雰囲気を出すために梨華はスカートをやめて、ストレートのGパンと固いスニーカーで足元を隠している。
逆に私はオバサンみたいな長さのスカートを履いた。長くない髪をムリヤリ2つに縛って、
横でわけた前髪をピンできつく留めたら、ほんの少しの事だけど、これでずいぶん違った。
「別人。」
「ね。」
今朝、着替えた時に私達は呟き合って納得したのだ。
結局、タクシーは3回乗りかえた。どの車もそれほど渋滞でつまずく事はなく、
目的地への道のりをするするとうまく進んだ。野良犬でもいそうな場末の安い路地やネオンの大通り、
それから古い住宅地のうっそうとした木立の中をタクシーはわけへだてなく進み、
私と梨華は座席の中央に寄り添って座ったりあるいはそれぞれ窓のほうへ、分かれて座ったりした。
大きな交差点で止まった時に窓から外を覗くと、歩道をゆく大勢の人々の中に真希ちゃんの姿がてんてんと混ざっているような気がした。
それも何人も。ただその存在のひとつひとつが希薄で、どれを目で追い掛けても決してつかまらない。
真希ちゃんに借りた眼鏡の奥で、私は目を閉じた。ひそやかな昂揚にしばらく身をまかせていた。
車は動きだしたが、私達はあまり話さなかった。
『ゴメン、ほんのちょっとだけ遅れる、5分か10分。悪い、ほんともうしわけないケド、
先行ってて。大丈夫。安全。ヤグチを信じて。』
「そろそろじゃない?」
「うん。」
希望ヶ丘の駅にほど近くなった頃、梨華がそう言ったので、私は携帯を取り出した。
駅についたら電話をする、そういう取り決めだ。タクシーの中から電話を入れると矢口さんはすぐに出た。
けれど、遅れるみたいだ。
「えー、マジっすか?」
携帯を握った私の返答に梨華も不安そう。
「矢口さん、なんて‥?」
(ちょっと待って、)そう身を寄せて来るのを、手と目で私は制した。
「ハイ、あ?駅から走れ‥?でもそれじゃ、余計に目立つんじゃ‥?」
「アハハ、なら歩いてきな。駅からは近いよ。店自体は安全、よく知ってるところ。
働いてる知り合いに頼んでおいたよ。入ったら、ヤグチの名前言って。」
矢口さんと話しているあいだにタクシーは駅に着き、ロータリーに入った。
受話器を耳にあてたままで私は車を降り、お金は梨華が払った。
指定された店の入り口、赤い鉄の扉に手をかけた時、私達2人はハァハァと息を切らしていたし、
そのうえ笑っていた。
電話で矢口さんに言われるままに、私達は道のりを早足で歩いていたのだった。
「あー、そのコンビニを左に曲がって、真直ぐ行ったところ。3〜40メートル。じゃあ、あとで。」
電話で店の近くまで誘導して、そう言って矢口さんは切ったのだけれど、周囲はその時点で、
すでに人通りがほとんどなかった(駅から3分くらいの距離だったのに!)。なんだか心細く感じながらコンビニの角を入ると、
道は更に細く、ひっそりとしている。もともと競歩選手のように私達は歩いていたのだけれど、
怖さに負け、ついに走り出してしまった。それはまるで100メートル走のように。そんな行動は本来恐怖心から出たものだったけれど、
2人して猛烈に加速していくうちに、本末が転倒した。夜の街、と言うか、外じたいに出るのがずいぶんと久しぶりで、
やっぱり興奮していたせいもある。暗い夜の道を全力で一直線に走ると、その疾走感からか、
途中からなにもかもが全て可笑しく思えた。スリルとストレス。或いはトレイン・トレイン。
前をゆく梨華はスニーカーだからすごく早い。でも、笑ってる。
ショシ〜〜〜だか、ひょひ〜〜〜〜だか、あんまり覚えてないけど、私達はそんな怪しげな嬌声すら上げ、暗い夜道を爆走した。
10秒もたたないうちにそして見つけたのは、言われた名前の小さな看板。(edenというその名前が、矢口さんは好きなのだそうだ。)
「はぁ、はぁ。ひとみちゃん、ココだよ‥。」
「うん‥。だね‥。アハ、アハハ、‥。」
肩で息をしながら私達は止まった。走ったから苦しいのか、それとも笑ったから苦しいのか。
知らない。感情の糸が、完全に絡まっていた。
力を入れて扉を開けたとたんに、とても懐かしい空気に私達は触れた。白く霞んだ室内の、
そのところどころに浮き上がる暗いネオン管の色彩。
「IDを。」
「あ‥、矢口さんと、待ち合わせを‥、」
ドアマンは頷き、私達は通された。
音楽と喧噪が解け合って、意志を持って押しつぶそうとするみたいな、やけに濃厚な洪水や、
そして、昼間は一体どこに隠れているのか、明るくて暗い、顔のない群集の、ひと、人、ヒト-----。
もっともバーなんて、どこも似かよっているのかも知れなかった。このエデンという名の店は、あのバーに似ている。
「ゴメンほんっと、悪い!!大丈夫だった!?」
それから予告通り、きっかり10分遅刻して、矢口さんは現れた。良かった、無事に会えた。とりあえずホッとする。
(でも制服だ‥。いいのかな‥。いいのか。)お化粧はいつものようにすごく決まっていて、抱き締めたいほど可愛い。
「はい。平気でした。でも結局、走っちゃいました。ね、りかっち。ウケたよね。」
「うん、なぜか。矢口さん、お久しぶりです。」
「なんだよソレ。」
矢口さんは、笑うのを隠すように短く言って、ガタリと椅子をひく。
「げんき?」
なんだかキレイになって。少し痩せた?
ほんの気休めでしかない観葉植物の厚く不健康な黄緑いろの葉が、
それでもちょっとした目隠しのように周囲の視線から私達の肩を少しだけ隠していた。
奥の方まで伸びている通路にほど近いこの席へ、ドアマンではなく彼に耳打ちをされた店員によって私と梨華は通されたのだが、
矢口さんは案内をつけずに、フロアをひとりで横切って来たみたいだった。
「えーとさ、」
矢口さんは話し出す。飯田さんたちと海に行った日、あれを最後に矢口さんとは会っていなかったから、
およそ3ヶ月弱。電話で話していたせいもあるのだろうけれども、そのブランクを感じさせない矢口さんの口調だ。表面的には。
「とりあえず、その格好はどうしちゃったの? しばらく会わないウチに2人とも趣味変わった?
よっすぃはヤケに女の子っぽいし、梨華ちゃんはすんごいボーイッシュだし。マジ最初わかんなかったんだけど?」
と、笑った。それが照れ隠しなのだと、私も梨華もちゃんとわかっているけれど。
「席はいちおう入り口で聞いたけどヤグチ背低いしー。近付かないとわかんないしー。」
すると、梨華が、
「少し変装しようかなって‥。似合います?」
パーカーのフードを立てつつ、キャップを被ったまま、服装に合わせて低い声を出そうとした。
けれど甘いシャーベットのような感じは、やっぱりどうしても残ってしまった。
「うん、‥まあ似合う。そう、新鮮だけどね。」
「ひとみちゃんも、ホラ。なんか、カワイイでしょう?見てこのヒザ小僧!そしてこの前髪!」
「うん、キャワイイ〜よっすぃ〜。なんかオトメって感じ。ホれちゃいそう!」
そう言って矢口さんは私にキッスを投げた。そして私も。
「OH,マ〜リ〜。よせよせ真理〜。じゃ今夜(きょんや)待ってます。このコにはナイショで。」
なんつって。いつもの事だ。
「キッツー。」と、矢口さんが言った。
「大変だな、ワタシは。‥ほんっと、どこ行っても。」
と、梨華も言った。そんなのはほんとに、いつもの流れだからべつに。
「矢口さん、飲み物は?」
「2人とも何飲んでんの?」
「私も理科ッ血もウーロン茶です。」
「真面目だねー。矢口もそれでいいや。」
「私達、お酒はまだちょっと‥。ね。それにひとみちゃんは今日、
運転して帰らなきゃだもんね。あ、免許持って来た?」
「持って来たよ。すみませんウーロン茶もうひとつ下さい。てゆうか矢口さん今日制服じゃないですか。」
3人とも、テンションが高かった。というかここでは音楽と人の話し声で会話が紛れてしまうので、
普段よりも大きな声で話さないと伝わらない。それでも30分もすると耳が慣れるのか、
それともお互いのむやみな緊張がほどよくトッパラワレテくるのか、次第にトーンを落として、私達は真面目な話へ入っていった。
「今日は遅れちゃって本当にごめん。絶対間に合うと思っていたんだけど、ちょっと、
思った以上に時間かかっちゃってさ。」
「いえ、大丈夫ですよ。なんだかんだ言って、スパイみたいで楽しかったんです。」
「本当に、矢口さんには何から何まで‥。ひとみちゃんといつも言ってるんです。悪い、悪いって。ね。」
「スイマセン‥。」
「いいよ。」矢口さんには一体何回謝っているんだろう?でもこんな非生産的な私の態度もつっぱねる事なく、
いつだって聞いてくれて、根気よく笑ってくれる。矢口さんは受動的な優しさにあふれている。
「今日は、学校から直接来たんですか?それとも、何かお稽古ごとですか?」
半分ほど減ったウーロン茶をまた一口飲み、顔を上げて矢口さんに私が尋ねた。
矢口さんはいつもの少し悪ぶった笑顔で、わざと目を輝かせて答えた。
「お稽古って?花嫁修行のこと?」
「まあ、平たく言えばそうです。」
「いやー、いろいろ聞いてんだねー。どうせなんかガラの悪い連中がいろいろ言いふらしてんでしょ。
どうでもいいけど。今日は、違う。警察に行って来た。」
「警察!?」梨華の声と私の声が重なった。その後少し、私はむせた。
「け、警察‥、ですか。」と、梨華。
「ちょっと2人とも。そう警戒すんなって。クラスの子が、昨日万引きで捕まったの。
お嬢だけど常習者でさ。いろいろ余罪が出て来ちゃって、改めて調書とるから今日も来いって言われたんだって。
なんか知らないけど、『一緒に来て、お願い。』なんてヤグチに泣きながら言うからさあ。付き合ってあげた。」
「そこの親は‥?」
「知らない。忙しいんじゃないの?」
「お腹空いちゃった。なんか食べない?」
そう言って矢口さんはメニューに手を伸ばした。
その、なかなか泣き止まない友達をなんとかなだめて矢口さんはいったん家に戻り、
そして、着替える間もなく車と荷物を持って、ここまで来たそうだ。‥と、いうことは。
「矢口さん、ここまでひとりで来たんですか?」
この店まで矢口さんは、運転を誰かに頼んだのだと私は思っていた。
またはあらかじめヒトに頼んで、車(と荷物)だけ先にこの辺りまで運んでもらっていたとか。
今までの矢口さんのやり方からして、てっきり。
「そうだよ。フフ。」矢口さんの目に俄な輝きが宿った。
「言ってなかったよねそういえば。ヤグチも取ったの。免許。」
「嘘、スゴーイ!!」ぱちぱちと梨華が手を叩く。
「ホントですか!?早くな〜い!?」
「うん。まあね。なんていうか、花嫁修行の一貫?あ〜んなんか照れるケド。」
運転、なんかワタシ、置いてかれちゃったカンジだなー。
そう呟いた梨華はそれでも自分の事のように微笑んでいる。
「花嫁修行って、他にはどんなコトしてるんですか?」
続けてそれも楽しそうに聞いて、そっちにも興味があるみたいだ。
はしゃいで瞳を輝かせた梨華をあからさまに焦らすように、矢口さんは息をゆっくり吸って答えた。
「聞きたい?」
「聞きたい聞きたーい!」
「お茶、お料理、お花、免許。それから作法。‥それと、避妊。育児、授乳。四十八手。‥プッ、その顔!!」
矢口さんの冗談に梨華は顔を赤らめていた。ということはつまり知っているということだ。破廉恥。
うまくやりこめられたかたちの梨華にそ知らぬ振りをして(けれど本当はすごく得意げに意識して)、
矢口さんはメニューを眺めていた。ここに来るまで私は気持ちが張り詰めていたから、
食欲などはどこか頭の隅の方へと押しやられていたのだけれども、
無事、矢口さんに会って緊張もだいぶほどけて来た頃から、じつは空腹を感じ出していた。
矢口さんと同じで、梨華も私も、夕食をまだとっていない。
けれど、それでも何かを頼もうと自発的にしなかったのは、先程羅列された数々の習い事に加え、
勉強でもそれなりに成績を取らなければいけない、忙しい矢口さんの身を案じての事だ。
「矢口さん。これから、時間あるんですか?」
だから気を使って、メニューに目を落とす飄々とした矢口さんに訪ねると、
「うーん、そんなにはナイ。でも食事ぐらいしようよ?」
と、肩をすくめ、なんだかくすぐったそうな笑顔と返事が、矢口さんからかえって来たのだ。
チキンとサラダと揚げたじゃがいもを私達はそれから頼んだ。空気の良くない店内は更に客数が増えている。
料理を運んで来たウェイターがあの頃の私によく似ている。と、粗い喧噪を聞き分けながら私は思っていた。
暗いフロアを颯爽と横切り、乱暴でもなく、そして丁寧でもない、良くなれた手付きで目の前に皿を置いてゆく。
「カッコいいですか?」
と、聞いたのは梨華。大味で量が多いアメリカン料理を真剣にそしてもぐもぐと、
私達がおおかた、食べ終えようとする頃だった。私達は食べるのに集中していたし、
それでなくても梨華はあの後、発言を控えている感さえあったのだけれど。
「え、なんのハナシ?」
「ン? だ・か・ら。矢口さんの婚約者。」
先程の失敗(?)にもめげず、再び反旗を翻した梨華は、テーブルに両肘をついた。
そしてそのまま、ニコニコと矢口さんを見つめている。無邪気なのか、計算なのか。
私にはわからなかったけれど、そんな梨華の姿はとても好ましいと思った。
「どんな人なんですか〜?気になる〜。ね、ひとみちゃん。」
「ウン。」
(梨華と私は‥、結婚なんて出来ないんだろうなー。どう考えても。)そんな事を考えつつ。
(というか、人並みのシアワセなんて、ウチらにはもったいないっすよ。)
「べつにいい!ってゆうかけっこう幸せ!」脈絡も気にせず、思わず口に出してしまう。
私達のそんなやりとりを、すました笑顔で矢口さんは見ていた。且つそのすました笑顔の矢口さんを、
ひそかに私が見守っていた。(どんな人と、結婚するのかな‥。)今では私の一番の興味も、そこへ移っている。
何故、結婚をするのか、と、いうことについてはきっと私にはわからない、
矢口家の由緒正しき事情のようなものがおそらくあるのだろうと、すでに納得している。本当のことをいうと私は、
こんな質問を矢口さんはいつもの声で笑い飛ばすだろうと考えていた。こういった一歩踏み込んだ質問に、
矢口さんはこれまで、答えた事がなかったから。
けれども違った。矢口さんはきちんと答えた。
「かっこいいよ?頭いいのに、けっこうワイルドでね?あと、すごい優しい。」
(特有の視線は混乱を促す。意地悪で可愛くて、スマートで瀟洒な。)
店を出る直前、店内の雰囲気にすっかり慣れた梨華は、一度手洗いへ立った。
店は一応IDをチェックしているし、なにより矢口さんが安全と何度も太鼓判を押した。
いくら安全とはいえ通路の奥までひとりで行かせるのはやっぱり少し心配だったけれども、
矢口さんと2人きりになったこの機会を利用して、私は矢口さんに、ひとつ頼みごとをした。
「あの、クスリが欲しいんです‥、使ってみたいんです‥、一度。」
「ハァ?」
あの時矢口さんの顔には、一瞬だったけれど、明らかな蔑みの表情が浮かんだ。
考えてみれば矢口さんにあんなふうに見られたのは最初で最後だった。間違いなく。
「ちょっと待って、なんで?」
それでも一応は理解してくれようとして、笑顔を作って、諭すように。
「はっきり言って、くだらないよ?カッコわるいし。」
「お願いです。こんな事はこれっきりです。」
「あれ、矢口さんは?」
なにくわぬ顔をして無事戻って来た梨華は席に矢口さんがいないことに気がつき不思議そうに尋ねた。
「ん、トイレ行った。会わなかった?」
私はシラを切る。そのついでに、隣に手を伸ばして、梨華の椅子を引いてあげる。
「うん‥。会わなかった、けど。」
すぐに矢口さんは帰って来て、また席についた。表情はいつもと同じだったし何も知らない梨華は気がつかなかったと思うけれど、
そんな無表情の仮面の下で矢口さんが苛立っている事が私にはわかった。
「おまたせ。」
梨華に向けて笑顔をつくりながら、矢口さんはテーブルの下で小さなプラスチックバッグを私によこす。

梨華には、黙っているつもり。

「ひとつ、聞いてもいい?よっすぃ達今、一体どこで暮らしてるの?」
店を出て車を停めてあるという近くの立体駐車場へ私達は向かっていた。暗い通りを先導し、
先に立って歩いていた矢口さんが視線を前に向けたまま聞いた。うーん‥、ひとみちゃん‥?
そういった感じで梨華が私を覗きこんでくる。居場所を言うか言わないか、判断を私にまかせるつもりだ。
「G教です。」
ことのほかあっさりと私が言ったので、梨華は少し驚いていた。矢口さんの表情は影になって見えない。
「そっか。じゃあ、安全なんだね‥。警察も、入って来れない‥。」
「ハイ。」
「でも気をつけて。いろんな噂を聞く‥。テレビとかだけじゃなく、実際に、元信者のコとか‥。
うつろな目で、そのへん彷徨してるよ‥。」
「わかって、ます。」
駐車場は無人だった。暗い裏通りにそのうす緑色のライトが寒々しく際だっていた。
無音の音を辿っていると遠くでクラクションが鳴った。ぼやけている空には星がいくつか。
三回建ての駐車場の天井のない最上部に、見慣れた赤い四駆はポツリと停まっている。
そこから私達は飛び出し、明るい方、つまり駅を目指しアクセルを踏んだ。
駅で矢口さんを降ろす為に。本当は、「家まで送って行きますよ?」
と、何度も誘ったのだけれど
「いいって。無事に帰らなきゃいけないんだから、遠回りなんかすんなよ。
ホントならヤグチが送ってってあげたいぐらい。」
と、矢口さんは頑に断る。
「本当にいいんですか?ウチら平気ですよ?」
「いい。タクシーで帰る。」
矢口さんを家まで送っていってあげたかった。私の運転で。梨華、矢口さん、ごっちん、そして自分。
生きて行くうえで優先順位をつけなければならないのは仕方のないことだけれど、それはほんとうに辛く悲しい事だ。
「じゃ、せめて駅まででも‥。」
あくまでも笑って拒む矢口さんを私は無理矢理座席にのせた。ナンバーも、
しっかり変えられている車。けれど間違いなく私の車。
結論からいえばその外出は滞りなく終わり、私達は真希ちゃんの元へ無事帰り着いたのだけれど、
特筆すべきことがあるとすれば帰り道、検問をやっていたことだ。
「梨華ちゃん、やべぇ!」
と、思った時には既に遅く、私達の2台先ではもう審問が始まっている。
「や、ちょっ、なにこれ?」
「怖え〜‥!」
今から逃げても逆効果。必ず捕まってしまう。
「どうしよう!?」
と、2人して青い顔でジタバタしているうちに、若いカンジの女性警官が2人、コツコツとこちらに近寄って来る。
その髪の長い方の合図に従い、私はドキドキしながら窓を開けた。
「シートベルト、良し。お手数ですが、免許証を拝見。」
「ハイ‥、」
低いのに、どこか明く響く声に好感を覚えながらも私はぎこちない手付きで免許をさし出す。
緊張しながら待っていると、女はいきなり笑い出した。
「ギャハハハハハ。なにこれマジ!?ちょっと来て〜〜〜!!」
そう言って、車の後ろに回っていたもうひとりの仲間を呼ぶ。
ハッとして私は顔を上げた。そう言えば‥、その写真‥。
『ヨユーよッ、むしろイケイケよッ!!』あの時保田さんが言った通り、その普通じゃない写真は効力を発揮した。
「やべ〜、コレ。超ウケル。良くこんなん通ったねー、免許とる時。」
「ほんとー。マジブス。考えた方がいいよ〜?」
などと、その2人は口々に言いながら、結局そのまま通してくれた。やけにほっそりとしている足。
2人とも制帽で、顔がよく見えないけれど。
「行ってよし。」
私はミラーに充分気を配りながらしっかり右にウィンカーを出し、2、3度点滅させてから、慎重に発進した。
付近に停まっていた一台の白バイ(白いスカーフをまいたそれも、どうやら女性だったみたいだ)と、
数台のミニパト、検問を構成するそれら組織の姿が完全に見えなくなってから梨華はようやく口を開いた。
「焦ったー。本当。」
「ね。マジで。あいつらがバカで良かった‥。」私も息を吐く。とても大きく。
「けどさー、見た?」
「何?」
「あの警官、鼻にピアス開けてたよ?いいのかね?」
「本当?でも、そう。そういわれればあの人たち、スカートやけに短くなかった?」
「うん‥。本当にいるんだね‥、ああいうの、いいのかな。公務員なのに‥。おっと。」
赤信号。車にあわせて、なぜか黙り込む私達。やがてすぐに、青に変わった。
「まあいいよ。なんともなかったじゃん‥。」
「そうよ、ね。」

前略、おふくろ様(と、お父さんと弟達2人。)

元気ですか。きっと、急にいなくなった私の事、とても心配しているでしょう。
けれど心配しないで下さい。私は姉と2人(----アッと、お母さんに対して
こういう言い方していいのかな、)、元気にやっています。これからもできる
限り梨華を助け、2人して行けるところまで頑張るつもりです。
そんなことより、あの土手を覚えていますか?そうだよ、家の近くの。家族
みんなでよく行きましたな。
私がまだ小さい頃、川はまだ結構キレイで、夏は水に入って遊んだ。秋は枯れた
芝生の土手をダンボールとか、時にはプラスチックのそりで滑ったりして。
春はセリやヨモギをつんで、草餅や炊き込みご飯にして食べたね。あの冬の、
街中を騒がせた枯れ草の大火事、じつはあれが、たき火をしようとした私と
弟達の仕業だと知ったら、お母さんは怒りますか。

川に囲まれた平和な街から、私は、そして梨華も、ずいぶん遠くまで来てしまった。
もう2度と戻ることはないでしょう。
でもなにげに明日にでも捕まってしまって、もしかしたら案外すんなりと、
そこでまた暮らす日が近いうち来るのかも知れません。
わからない、わたしには。梨華を守って信念に従い、ただひたすらゆくだけです。

あの川、あの風。はっきりと覚えているんだ。幅の広い土手に架かった、大きな
鉄橋も。頭上を駆け抜けてゆく電車の轟音も。西の空に見える山脈、夕焼け。
そしてこっちがわで煌めく、小さな市街の明かりも。

お父さん、お母さん。
あの記憶を私が失うことは一生ありません。
幸福に、丈夫に育ててくれてありがとう。
そしてごめんなさい。
私は今日、薬物に手を出します。

地下の駐車場に車を停め、そのまま最上階に上がって、私達は真希ちゃんと再び対面した。
時間はだいたい、10:30頃。真希ちゃんはさながら、広い体育館の真ん中にひとりでぽつりと座っているカンジに、
壁紙の部屋の前部にあるテレビの正面に座っていて、更にその反対側の隅では、
まだ起きている加護がうつ伏せになって雑誌を読んでいた。
「ただいま。」
「お〜、お帰り〜!!」
外出していたのはほんの2、3時間だけなのに、部屋に入る時私はなぜだか人見知りをしてしまって、
顔が少し赤くなっているのが自分でもわかった。
「よくぞご無事で〜。」
真希ちゃんは満面の笑みを浮かべ、どこか遠い国の親善大使のような口ぶりと身ぶりで私達を迎える。
その笑顔が明るく眩しいので、私はやっぱり一瞬うろたえたけれど、「おっ、あいぼん。コドモは寝ないとだめだぞ?」
なんて、向こうの加護に一言かけ、余裕を演出しながら真希ちゃんに近付いた。
正面に見えるサッシの奥には夜の暗い闇が広がり、川の向こうの高層ビルでは避雷針が赤く点滅している。
真希ちゃんの目が赤く、まるで泣き腫らした後だということに私が気が付いたのは、梨華とともにテレビの前へ、
真希ちゃんと並んで腰をかけた時だ。
「で、どうだったのよ?ちゃんと会えた?」
人なつこく覗き込んでくる真希ちゃんに、梨華と私はいろいろ答えていた。
と、真希ちゃんの頬が、いつにも増して赤い。良く見ればうっすらと涙の痕が残っている。
「あれ、ごっちん、もしや泣いてる?」
「うーん‥、ちょっとね。あは、わかる?」
(もしかして、私達が帰って来ないと思って、心配して泣いてたのかな‥。なんて。)
ありえないと私は知っていたけれど、いくらか自嘲の意を込めて、敢えてそう思ってみた。
「どうしたの?」
いつもの生真面目な様子で聞いた梨華に真希ちゃんは、
「ちょっと〜。恥ずかしいからあんま見ないでよ〜。」
と、あくまでも明るく笑った。小脇のティッシュ箱に手をのばしてそのままチーンとやり、
それを丸めて屑篭に投げたけれども、距離があり過ぎて届かなかった。
「さてはごっちん、淋しかったんでしょう〜?ウチらがいない間〜?」
と、私は冗談めかして。(‥わかってるけど。そんなワケ、ないって事。)
べつに何かが変わるだなんて思っているわけじゃなかった。こんなちっぽけな私が、
こんなに小さな罪悪に身を染めたところで、到底真希ちゃんを理解し、並列な位置へ自分を導くことなど、
そんなのできるはずはない。しっかりと解っていた。ましてや救うコトなど。
或いはそれは口実で単に私は逃げているだけなのかも知れなかった。真希ちゃんにたいしても、
それに、なにげに矢口さんにたいしてだって感じるコトや言いたいコトが数え切れない程あるのに、
肝心な事を言えない。と、言うより、何が肝心な事なのか、気持ちの整理がおそろしくつかない。
2人から発せられる相当危険な信号だけは、ビリビリと敏感にキャッチできるのに。
理由もなく溢れて来るこの妄信じみた不安や焦燥を私が言葉にさえ変える事ができないのは一体何故だろう?
『彼等の為に何かをした、』そんな免罪符が、ただ欲しいだけなのかも知れない。梨華のように、
2人を連れて逃げるわけにはいかない。
真希ちゃんと私の、一種のディスコミュニケーションは、思えば出会った時から明確に存在していた。
『私のヒーローは私に無関心でなければいけない』なんて、あの頃は単純に考えていたけど、
実際には真希ちゃんの無関心の対象はべつに私のみではなく、そこから来るやさしさや素直さが、
世の中の万物を照らしている、そんな感じだった。
『淋しかったんでしょう〜?ウチらがいない間〜?』と、いう、冗談めかした私の質問に真希ちゃんは笑ったり首を傾げたり、
更にはふざけて「きゅ〜ん」などと言ったりして、特に何も答えなかった。別に私の方もそれほど情熱的に聞いたわけでもないから、
それなりに自分で何かを言って、その場を流そうとしたのだけれども、すると、あいぼんが遠くから、あからさまに舌を鳴らした。
「後藤さんは、映画観て泣きまくってただけです。情報料、500まんおく円。」
ごっちんの代わりに答えてくれた。(苛立っている声と突き刺さるような口調は、
加護亜依特有の複雑な気づかいなのだと私が勝手に思うようになったのはこの頃だ。)
真希ちゃんが観ていた映画は、ちなみに、『グーニーズ』だった、そうだ。あの話
----洞窟の先に、片目の海賊の宝が眠っている話。ハッピーエンドだし。泣くような内容かよ!?
と、私は真希ちゃんに言及したけれど、梨華は「なんだかごっちんらしい。」
と言って笑って、そして真希ちゃんも。「でしょでしょ!?」
って。その笑顔はさっきまで泣いていたとは思えない程、健やかに、明るく。
「いや、でも結構心配してたんだよ?加護はあんなふうに言うけどさあ。」
「わかってるって。ありがとうね。」
ちょっと疲れちゃったんだ、今日は。私達はそう言って、早めに和室に戻った。借りていた眼鏡と帽子とお金を返して。
「べつにいいよ〜、お金なんて。」と、苦笑する真希ちゃんに微笑みながら、りかっちは、いいよ?
まだ話してても?と、私が言うと、梨華は真希ちゃんと私を見比べながら少し悩んだあげく、結局、
私と一緒に和室へ降りた。
矢口さんから渡された、ジップロック式の小さなビニール袋の中には、白くて、正方形の形をした小さな紙片が、
一枚入っていた。大きさ的には、一辺が約1cm弱、およそ、7mm程度だと思う。画用紙みたいな厚さの紙に、
成分を染み込ませた薬。なんていうんだっけ、コレ。見た事は‥、あるんだけど‥。
壁紙の部屋を出る際、『おやすみ』と言った私達に、手を振った真希ちゃんの笑顔を思い出しながら、
手のひらの小さな紙片を私はしばらくながめていた。梨華は洗面所に向かい、そのままお風呂にも入って来るみたい。
その隙をついて、飲む。(私、1年くらい前なんて、バレーボール部のエースだったんだよなあ。
生徒会にも‥立候補するとかしないとか‥。そんな感じの生徒だったんだっけ。)そんな事を考えながら。
飲み方は、以前バーで見た事があるので、苦労はしなかった。小さな紙切れを4つにさらに細かく折って、
そのまま口の中に放り込むんだ。
やっぱり怖いから、お風呂はやめておいた。浴槽につかることで体内のクスリが急激な変化を起こしたら嫌だし、
それに万が一、入浴中に倒れちゃったりしたら、皆に迷惑をかけて、目も当てられないからだ。
心境としてはなにかと複雑なのだけれど、意外と冷静だった私は、静かに布団に横たわった。
(けっこう時間がかかるんだな‥。もっといきなり、くるもんだと思ってたけど‥。)クスリが効いてくるまでの間、
目を閉じ動かずにいると、やがて梨華が帰って来た。けれど、私がずっと目を瞑ったままだったので、
梨華も隣の布団に入って、何も言わずに眠ってしまった。
いろいろ近くで接するうちに、真希ちゃんの強さはすなわち痛覚の無さだと、私は考えるようになった。
何度もはがしたかさぶたは、最期には痛みを感じなくなる。たとえばそういう感じじゃないかと、私は思っていた。
高速で回転する惑星みたいにはずみのつきすぎた自転を、真希ちゃん自身、どうにもできないのかも知れない。
と言うか、そういう事自体、真希ちゃんは気付かないんだろう。だからこそ、カリスマなんじゃないだろうか。
しばらくしてそれはやって来た。
ずっと見上げていた天井が、まず、波を打ち出した。ズンドコズンドコと、なんかウーハーのきつい音楽みたいに、
多分、私の鼓動に共鳴して揺れている天井の板の張り合わせの部分を、
私はまるで波乗りでもしながらあみだくじをたどるように、面白く眺めていた。
いくら眺めてもそれは飽きなかったので、波打つ天井を私はずーっと、微笑さえ浮かべながら見張っていた
(実際どれくらいの時間だったのか、あまりはっきりと覚えていない)。やがて胎動は部屋全体へと広がり、
柱からフスマから、となりに寝ている梨華の布団までも、よせてはかえし、よせてはかえしと、伸縮を始める。
とても自由で楽しい気分のはずなのに、私は無意識に口を閉じていて、奥歯を何度も、きつく食いしばっていた。
顎の痛みに気付いては、それを、つまりは歯を食いしばるのを何度もやめようとするのだけれど、
数分経つとすぐに忘れて、また顎の痛みに気づく。その繰り返し。
例えばどうだろう?真希ちゃんがカリスマ・スーパーアイドルでなく、普通の一学生として、私の学校にいたら?
矢口さんも真面目な先輩として、同じバレーボール部にいたら?矢口さんはちっちゃいから、マネージャーかな。
面倒見もいいし、よく働くだろう。黒い部分もあるけれど、そこがかえって頼りになったりするかな。
ごっちんとは2人して、全国目指しちゃったりして。なんでもできそうだから、2人はチームの美少女エース!?
でも悪いけど、人気NO.1の座は、そこでは渡せませんぞ!
‥その世界では、何も起きないんだ。梨華の父親も存在しない。だから殺人は起こらない。銃と金とも無縁な生活。
平凡に‥、平和に‥。
その時だった。
「ひとみちゃん、泣いてるの‥?」
暗闇の中から、梨華の声がした。もうずいぶん夜更けだったし、寝てるから、何も気づかれていないはずだった。
「え‥、何!?あたし、泣いてる‥!?」
「うん、さっきから‥。」
手をやると、梨華の言う通り頬には涙が伝っていた。
「アレ‥?なんでだろ!?やだな‥。」
私は動揺していた。何から弁明すべきなのか、かいもく見当がつかなかった。自分で気づいていなかったくらいだから、
私の泣き声はきっとたいしたものじゃなかったと思う。となると梨華はずっと起きていたのか。
「あ、起きてるの?」
「もしかして起こしちゃっ、た?」
などと、なんとかとりつくろうと二言三言弁解をしながら、私は梨華に背を向けて慌てて目のあたりをこすった。
けれども、咽をつく嗚咽は自分でも意外な程にしつこく、思う通りの呼吸が、なかなか戻って来ない。電気をつけず暗いままでいるのが、せめてもの救いだ。
涙としばらく格闘していた。梨華が掠れ気味にそう言うまでは。
「矢口さんから、聞いてるの‥。『クスリ、渡した』って。」なんだ‥。そうだったんだ‥。
「飲んだの‥?」
梨華の声に、責めている調子はなかった。それどころか静かで暖かだったので、私の心と、肉体と、
私を構成する全てのものが脱力し弛緩してゆくのを感じた。
「こっち、おいで。」
私が黙っていると、梨華は自分の布団を開けて隙間をつくってくれた。私は逆らう事が出来ず、梨華の言う通りにした。
梨華は布団に入った私を、そのままやさしく抱きしめてくれた。
「気分は、どう‥?」
「どうって、ちょっとエッチな気分だよ。」
「真剣に聞いてるのに。‥もう、これっきりにしてよね。」
「わかってるよ‥。」
梨華の腕の中で、私はその後、泣いた。結構本格的に、大きな声をあげて。
初めっから、解ってた事だ。真希ちゃんに、なれるワケがない。