時を駈ける少女
第一部
「保田圭と」
「後藤真希の」
『プッチモニ、ダァ〜イバ〜〜イェー』
「素コンブを食べながらお送りしてま〜す」
「なんだよそれ」
市井ちゃんが、娘。を抜けて一ヶ月が過ぎた。
10人体制の娘。にもすぐに慣れるだろー、って思ってたけど、実際はそうはいかなかった。どうしてだろう?
こー言っちゃ悪いけど、彩さんの時は(悲しいのは悲しかったけど)別に引きずることもなかったのに。
ラジオの収録も、相変わらず、2人でギクシャクしている。
(市井ちゃんがいたら、ここはなんて言うだろう)
(市井ちゃんなら、どうフォローしてくれるだろう)
「そこんとこ、後藤的にはどうよ?」
ぼーっ、としてた。
圭ちゃんからの問いかけをよく聞いてなくて、へ? て顔で返した。
沈黙が続いた。
ディレクターが慌てて曲をかけた。『バクバクKISS』だった。ちょっと笑った。
「トイレ行って来ま〜す。すぐ戻りますから」
曲の間に、席を立った。圭ちゃんが何か言いたそうだったけど、わざと無視して、スタジオを出た。
ふっ、と(このまま消えてしまいたい)って思った。
楽屋に戻る。大きな鏡の前で、自分の顔を見る。
(あんましいい顔してないな〜)
こんな顔、市井ちゃんに見せられない。
私は、ここで何をしているんだろう?
私は、どこにむかって歩いているんだろう?
(市井ちゃ〜ん、私、どーしたらいいか分かんないよお)
難しいことを考えると頭痛くなってきた。
しかも眠い。すっごく眠い。
もう、スタジオに戻んなきゃ…………。
きゅ〜……
◇
「後藤さん、後藤さ〜ん」
スタッフの呼ぶ声に、がばっ、と跳ね起きた。
しまった、完全に寝てしまっていたっ!!
「わあああ」
と、楽屋を飛び出しかけて、鏡をみて、凍り付いた。
金髪だ。
金髪の後藤真希が、鏡の向こうからこっちを見ていた。
「な、なにこれ、なんのイタズラ?」
横には、カメラクルーがいる。私が寝ていたところをずっと撮影していたらしい。
(スターどっきり?)
一瞬、そう思ったが、違う。彼らは、アサヤンのスタッフだった。
「???」
昔は、娘。にぴったり張り付いて毎週放送していたアサヤンも、最近は改編とかなんとかで、こっちには来なくなってしまった。気楽にはなったけど、少し淋しかった。事務所がどーのこーの言ってたけど、よくは分からない。
「懐かしいですね〜。どうしたんですか?」
「寝てるところ、撮っちゃったよ。全然緊張してないね」
「緊張? どうしてですか?」
「これから、ジャケ写して、そのあと、先輩たちが来るから。ずっとカメラ回ってるけど、気にしないでね」
「そりゃあ……」
慣れてますから、と言いかけて、そろそろ、違和感に気付いた。ここは、さっきまでの、楽屋とは別の場所だ。
メイクさんが私を呼びに来て、私は、よろしくお願いします、と挨拶し、カメラのクルーさんたちにも頭を下げて、楽屋を出た。
「素人なのに、現場慣れしてるな」
なんてアサヤンスタッフの話し声が聞こえた。素人?? 何言ってんだろ。
衣装さんが着せてくれた、キラキラした、ピンクの、ワンピース。
それを見て、分かった。ジャケ写って「Loveマシーン」のことだったんだ。
すっごい昔みたいな気がするけど、去年の、8月、なんだよなー。
あの時は、撮影中に、みんなと合流したはず。
(そのとき、初めて市井ちゃんに会ったんだ)
ようやく、理解出来た。
夢だ。
本当の私は、まだ、楽屋で寝ているんだ。
早く起きて、ラジオの収録に戻んなきゃ……と一瞬戻ったけど、(……撮影中に、みんなと、合流した……)実際のところ、ラジオの収録なんてもうどうでも良かった。
すっぽかすことになるなら、別にそれでもいい。
それよりも、夢の中ででも、市井ちゃんに逢える方がいいや。なんかこっちの方が楽しいし。
私は、カメラマンさんの指示で、視線を向けたり笑ったりしながら、みんなを待った。
当時は、舞い上がってて何も分からなかったけど、こうして落ち着いて見てみると、スタッフさんたちが緊張をほぐそうといろいろと気を使ってくれてるのが分かる。
「はーい、そう、その感じね」
「可愛く撮って下さいよ〜」
スタッフさんたちから笑い声があがる。いい雰囲気だ。
あの時は、途中で娘。たちが来ちゃって、一時撮影は中断させてしまった。
今日はサクサクと進んだせいで、私一人での撮影は全部終わった。
「お疲れさまでした〜ありがとうございました〜」
スタッフの一人一人に、笑顔でお礼を言う。あいぼんやののも、これくらいはちゃんとやって欲しいんだけどなあ、とふと思う。
「こりゃ凄いな。凄い新人が出てきたもんだ」
スタッフさんたちの会話が耳に届く。
(この程度で凄い新人も何もねえよ、なんだかなあ)なーんてプロ気取りでおすまししながら、スタジオ内をキョロキョロ見回す。いた。
「和田さ〜ん」
パタパタと靴を鳴らして走る。
「先輩の皆さん、いつ到着するんですか?」
(市井ちゃんには、いつ逢えるの?)
「ん……ああ、もうすぐだよ」
怯んだ感じで言った。和田さんが耳から外したイヤホンからは、ラブマのカラオケが流れてきた。
急に思い出した。
「あー、和田さん、この曲百万枚売れたら……」
娘。全員連れて、十万円の料亭に連れてってくれる、って約束したのに──
と言いかけた。やばいやばい。
「ん? ああ、この曲ね。新機軸だよ」
(新機軸って……私が入ってからは、こーゆー曲しか知らないんだよね)
「やっぱ、しっとりした曲より、元気になれる曲の方がヒットしますからね。
♪ニッポンの未来は〜、ですよ」
和田さんは驚いたような顔で何か言おうとしたけど、その時、扉の向こうで真里っぺの大きな笑い声が聞こえてきたので、私はそれでは、と言って、
出入り口まで走った。
待ちきれず、こっちから扉を開けた。
「わっ」
向こうもちょうど取っ手に手をかけていたらしく、驚いた声をあげた。
(あ〜裕ちゃんだ〜〜)
なんか、一年前なだけなはずなのに、若い。
慌てて、場所をあけた。値踏みするような視線が、私に突き刺さった。
(こっわ〜、威嚇してるよこの人)
だから、元ヤン疑惑が生まれるんだよねー、本当はかおりんがヤンキーだったりするんだけどねー、などという内心はおくびにも出さず、ニコニコしながらメンバーを迎えた。
向こうの方が、緊張しているようだった。
市井ちゃんも、そこにいた。
久々の再開に、心臓がバクバクいい始めた。
市井ちゃんの表情は、硬い。仕方ないか、あっちは初対面なんだし。
でも、少し淋しいな。
「ね、ね? 貴方が新メンバー?」
緊張していない人が約一名。真里っぺだ。
「はーい、後藤真希です。13才です。よろしくお願いしますっ」
「私、矢口真里です、よろしくお願いしますっ」
2人で、キャハハ、と笑った。♪金髪〜金髪〜、って歌いながら、真里っぺは私の髪に触った。
あっ、と思って、私は真顔に戻った。そう言えば、アサヤンのスタッフさんたちがカメラを回してるはずだ。挨拶するシーンも撮りたいだろう。
振り返ると、カメラを構えてちゃんとそこにいた。
「嬉しくて、ついはしゃいじゃいましたー。TVの構成考えないでごめんなさーい」
カメラさんたちがどっ、と笑う。
「どうします? もう一度、入ってくるところから撮り直します?」
私は、スタッフさんたちに提案した。
裕ちゃんが、目を丸くしていた。
後から市井ちゃんに聞いた話なんだけど、市井ちゃんは裕ちゃんに呼び出されて、こんなことを言われたみたい。
「な、紗耶香。この前な、あんたを後藤の教育係にしよういうて、和田さんやつんくさんと話しててん」
「私、ですか」
「そや。あんたももう先輩なんやから、甘えてもいられへんやろ。ええ勉強にもなるやろし、って最初は思うてたんやけどな──後藤、あれ、てごわいな。
ジャケット写真なんか、普通新人は後ろやで。そやのに、和田さん、後藤が真ん中のバージョン撮らしとったやろ、あれ、なんか考えあるで」
「……新人、って感じじゃないですね。私の時と、全然違う」
「あの落ち着きよう、13の素人とちゃうなあ。どないする? 和田さんにゆうて、教育係は石黒辺りに──」
「私、やります。っていうか、やらせて下さい」
「……それやったら、ええねんけど。無理や思うたら、すぐに言うてきいや」
そんなやりとりを後から聞いた私は、汗……だった。だって、本当は一年以上のキャリアがあるんだし、勝手も分かってるから、落ち着いてて当然なんだよね。
でも、市井ちゃんは、すっごく私にコンプレックス感じてたみたい。それが原因で、後になって、あんなことになってしまうんだよねえ。
夜、私は部屋で悶々(もんもん)としていた。
いつまでも、夢が覚めないのだ。
(もしかしたら、ここは、本当に過去の世界なのでは)
そう思い始めた時には、もう窓の外は明るくなっていた。
翌日。
早々に、ラブマの歌入れが始まった。
(きゅ〜)
「ちょっと、後藤、後藤」
身体を揺すられて、ふにゃ、と目を覚ます。スタジオの控え室で、ぐっすり眠ってしまっていた。
「わあ、市井ちゃんだ」
「市井、ちゃん……?」
市井ちゃんは、一瞬、茫然とした。世にも珍しい、市井ちゃの点目だ。
かっわいい!!
「あのさあ、先輩たち見て、何も感じない?」
無理して、怖い表情を作っているのが分かる。……今、私は指導されてんのかな?
「あ〜」
みんなは、貰ったばかりの楽曲を聴きながら、歌詞を見、声を出して、自分の中でイメージを膨らませる作業中だった。
行為に没頭しているように見えるけど、こっちのやりとりをさり気なく気にしている感じがする。
「ごめんごめん、昨日、寝てなかったんだ。でも、この歌はもうマスターしてるから、大丈夫だよ」
「マスター、した?」
「うん」
「それ、違うと思う」
がたん、と立ち上がったのは、かおりんだった。
「後藤はさ、マスターした、って思ったかも知んないんだけど、そこから、もっと歌を聴いて、歌を理解して、歌の心になって、ウチらの歌を聴いてくれる人たちにも伝わるようになるまで、何回も何回も、練習して、ってそれがプロってもんなのよ」
マスターした、ってんなら、ちょっと歌ってみ、とかおりんは私を促した。
私は、フリつきで、サビの部分を熱唱した。
「え〜、なにその手つき、かおりにも教えて」
「この指は、ラブマシーンのエルを表してるの。そんで、ウォウ×4の時に、前に突き出していって」
「ふんふん、面白いね〜」
「で、イェイ×4の時は、頭の上で、横に振るの」
「よ〜し、2人でやってみよ〜」
「せぇーの、『♪ニッポンの未来は(ウォウ×4)せっかいがうらやむ(イェイ×4)』」
後ろに忍び寄っていた真里っぺもこっそり振りを合わせてきたので、3人でのラブマがバッチリ決まった。3人で、いぇーい、と笑った。
「ちょっと、いい加減にしなよ」
圭ちゃんが、大きな声で言った。しまった、調子に乗りすぎた。
かおりんと真里っぺと3人で、しゅん、と小さくなった。
「市井も市井だよ。教育係なんだから、ちゃんと指導しなよ」
(私のせいで、市井ちゃんも怒られちゃった……ごめんッ)
「いや、おもろい、おもろいで」
パチ、パチ、パチ、と拍手の音がした。
「あ、つんくさん、お早うございます」
「お早うございま〜す」
「おう、練習続けて続けて。ほんま、後藤はおもろいなあ。その振り、自分で歌イメージしながら考えたんか?」
あ……まだ、夏先生から振りの指導受けてなかったんだっけ……。じゃあ、元々知ってました、ってのは不自然だよね。
「ええ、まあ」
「ふ〜ん。今回の振り付けは、まゆみに一任してるんやけど、そんな感じの方が、よさげやな」
とかなんとか、口の中でブツブツと呟いていた。
「まあええわ。よし、じゃあマスターしてる、っていう後藤からブースに入り。
歌入れ本番行くで」
そう言って背を向けたつんくさんに、市井ちゃんが、「えっ、もうなんですか? 後藤は、まだこの世界のことが良く分かってなくて、だから、先輩たちのやり方をよく見せてから」
「ええからええから。市井、お前、うかうかしてたら、こいつに足下すくわれるで」
「はい……」
嬉しかった。市井ちゃが、私を気遣ってくれてる。
(大丈夫だよ、ちゃんとやれるから)
そっと、市井ちゃんに耳打ちする。でも、私を見た市井ちゃんの表情は強ばっていた。
「♪いつ火がつくのかヅァイナマイッ……恋はヅァイナマイッ!」
「そうっ!『ヅァ』イナマイッ、の方がええなあ。後藤、分かってるやないか」
つんくさんは、楽譜に何か書き込んだ。
「後藤、お前、身体でリズムとるんはエエけど、ヘンな振り入ってるよなあ。なんや、全部通しでマイ振り付け考えてたんか」
どうしても、じっとして歌えない。自然に、身体が小さく振りの動きをしてしまうのだ。
「後藤、お前、ほんまエエで。エエなあ」
いつもは何テイクも録らされるんだけど、歌い慣れたラブマ、ということもあって、すぐに録音は終わった。娘。8人の中で、私の収録が一番短かった。
ヒマになったので、真里っぺにセクシービームのポーズを教えたり(大ウケだった)なっちとピスタチオ食べたり(すっごく痩せてた)彩さんに付き合ってる人のことをこっそり探り入れたり(しらを切られたけど、知ってるんだよね〜♪)して遊んでた。
ちょっと青い顔をして、ブースから出てきた市井ちゃんを見つけた。
「あっ、市井ちゃ〜ん、ちょっといい?」
私はパタパタと市井ちゃんに走り寄った。
廊下の隅で、
「さっき、本当にゴメンね。私のせいで、市井ちゃんまで怒られちゃって。市井ちゃん、私の教育係だから、私が自分勝手したら、市井ちゃんにまで迷惑かかっちゃうね。ほんと、ゴメン」
「教育係なんて……」
市井ちゃんは、私と目を合わせなかった。マズイ、市井ちゃんまで、怒ってる?
「私、後藤に何も教えることなんてないよ。後藤の方が、ずっとうまくやってるよ。私なんて、全然ダメだよ」
げげっ、なんか知らないけど、市井ちゃん、落ち込んでる。
「市井ちゃん、プッチのリーダーなんだから、そんなこと言ってちゃダメだよ」
「……プッチ?」
あわわわ、まだプッチじゃなかったっけ。
と、人の声が近づいてきた。何となく気まずい私たちは、物陰に隠れた。
つんくさんと、和田さんだった。
「彼女、つんくさんと同じセンス持ってますね」
「そやろ、後藤がやることいちいちピーン、と来るねん。彼女な、確かに増員候補の五人の中ではズバ抜けてる、思うたけど、こんなにやとは思わんかったわ。これ、後藤のパートもっと増やしても行けるんちゃう?」
「いけるんじゃないかな」
「振り付けもな、まゆみが考えてたやつ、もっとスタイリッシュやってんけどな、後藤がやってた、ちょっとバタくさいやつに変えよ思てんねん。この曲、イケるで。なんか、こう、手応えあるし」
「そう言えば、後藤、ジャケ写の時に、百万枚売れたら、何かして欲しい、みたいなこと言ったなあヒャヒャヒャ」
「そりゃあ、頼もしいな。売れるヤツは、最初からそんな感じや」
2人でははは、と笑っている。そーかー、私、ラブマじゃあコーラスだけだったのに、ソロパートも入れてくれるんだ。ちょこっと嬉しいな。
(ねね、あんなこと言ってるよ)そう市井ちゃんに言おうとして、振り向くと、もうそこに市井ちゃんはいなかった。
夜。
もぞもぞと服を脱いで、パジャマに着替える。
ベッドに潜り込んで、今日一日を振り返る。
(私は、未来を知ってる)
(元々は、ラブマで、私のパートなんて無かったはずなのに、気がついたら、私の個人パートが一番多くなってる。少しずつ、元いた世界と状況が変わってきてる)
(なら)
(私、市井ちゃんの脱退を、阻止出来るかも知れない)
なんだか、ワクワクしてきた。ここで、目を閉じて、次の日起きたら元の時間に戻ってしまったら、と少し心配しながら、眠りについた。
第二部
LOVEマシーン9月9日発売。
私は、14才になった。髪の色を黒に戻した。
「なんかさぁ、なっち、ショップ見に行ったんだけど、売り切れで無かったべさ」
「つんくさんと浜崎あゆみのデュエット、とりあえず、あれよりはトータル売れとかんとな」
「裕ちゃん、嫉妬〜」
「そんなんとちゃうわ」
「でもさぁ、今回の曲って、すっごい挑戦な訳じゃん。歴代の娘。の曲に比べて、どれくらいさあ、聴いてくれる人たちが気に入ってくれるのか、そこいら辺が心配なわけよ」
「大丈夫ですよ〜。これから、もっともっと上行きますから」
「上?」
メンバーの視線が集まる。
いつも、予言めいた発言をしてるんで、なんか私がそれっぽいことを言うと、みんなが注目するようになっていた。
「何? また何か感じるん?」
「あの〜、とりあえず、オリコン一位取って、100万枚越えます。で、紅白出場して、その次のシングルも100万枚売れるんです。あ、その前に娘。中から別のユニットが出来て、そのあと、赤青黄のシャッフル計画があって、娘。増員が──」
思いついたことをダラダラと喋った。
(それと、彩さんと、市井ちゃんの脱退……)
「なにそれー?」
「なんやよう分からんわ」
「無茶苦茶だよ後藤〜」
(プッチが結成されるのが、10月、だったねえ……市井ちゃんが、脱退を考え始めるのも、確か、それくらいからだったって言ってたよな〜)
ミッション名『市井ちゃんの脱退をやめさせよう』は、いつ頃から発動させればいいんだろう。今のところ、端から見て、市井ちゃんは娘。活動に一生懸命だ。
(市井ちゃんて、いつも一生懸命なんだよ。プッチの合宿の時も熱出しても頑張っちゃうしさ。それで、そのまま娘。も駆け抜けていこうとしちゃうんだから)
「へへへ、一緒に寝ていい?」
米子市公会堂での新曲発表会と握手会のイベントが終わって、ホテルに戻った。
私は市井ちゃんの部屋に、枕を持って訪問した。
「ん? いいよ。どうしたの。後藤、淋しいのか。子どもだなあ」
知ってるんだ。市井ちゃん、一人じゃ寝れなくて、結局、真里っぺや圭ちゃんの部屋に行って、一緒に寝てんだよね。許せないよね。だから、今日は後藤が一緒に寝てあげるんだ。
「は〜い、じゃあ明日も早いから、電気消すよ〜」
私は豆球だけ残した。市井ちゃん、真っ暗なのも怖いんだよね〜可愛いよね。
「ね、後藤さ」
「うん? 何?」
「おととい、新ユニット出来る、って後藤言ってたじゃん」
「言ったよ」
「あれさ、その……信じてる訳じゃないんだけど、後藤はどうしてそう思うの」
「そう思う、って言うか……そうなるんだよ」
「じゃ、さ」
「うん」
「メンバーは、誰になるの?」
「私と、市井ちゃんと、圭ちゃん」
「えっ、私も?」
「そだよ。ユニット名は『東京モーニングネットワーク』通称TMNだよ」
「マジか、それ?」
「ウソウソ。本当は、3人の名まえから1文字ずつとって『市後保』(イチゴタモツ)」
「……」
「それもウソで、本当は『コンモニ』」
「もういいよ。オラはもう寝るよ〜」
背中向けちゃった。いや〜ホント、市井ちゃんはからかいがいがあるなあ。楽しいなあ〜。
市井ちゃんの背中にぴたー、と身体をくっつける。
「わあ、あっちいよ。後藤、離れろ」
「やだ」
「離れろったら」
「……やだもん」
「実力行使だ」
ゴソゴソ。
「ひゃいっ、ひゃはははははっ」
「ほ〜らほ〜ら、近づいてきたら、揉むぞ〜」
「うう……実は、童謡『さっちゃん』には、秘密の4番目の歌詞があって……」
「? 後藤、何言ってんの?」
「その歌詞っていうのが『さっちゃんはね、踏切で足を無くしたよ、だから今夜、おまえの足を貰い』──」
「うわわわ、やめろ後藤、悪い、悪かった」
「……くっついてていい?」
「わーった、わーったよ」
ふふふっ。市井ちゃんの背中、冷たくて気持ちいい。
「それじゃあ、モームスダイバー『はじまるよ〜(しんちゃん風味)』」
3人の初レギュラー番組が始まった。
和田さんに呼び出されて、3人でラジオやれ、って言われたとき、私は(ははあ、プッチ計画が動き出したか)なんて思ってた。市井ちゃんは「まさか」って顔で、私を見ていた。
「宣誓。わたくしはモームスダイバー精神にのっとり、本当は保田圭は暗くない、という事を証明する事を誓います。保田圭!」
「宣誓。わたくし市井紗耶香はモームスダイバー精神にのっとり、この番組を2時間番組にさせちゃうくらい楽しい番組にしちゃうぞ、っていうのを誓います。市井紗耶香」
「宣誓。私はモームスダイバー精神にのっとり、にがうりを食べれるようにする事を誓います。後藤真希」
この東京FMラジオ収録の時点で、すでに3人で新ユニットを組む話は聞かされてる。アサヤンのスタジオで、市井ちゃんの様子をこっそり見てたら、『市井紗耶香』ってつんくさんが名まえを言ったとき、鼻の穴がぷくっ、て膨らんで、面白かった。
10月24日。歌入れの日。
例によって、私はつんくさんからすぐにオッケーを貰った。
一番最初に、つんくさんが昔教えてくれた歌い方で軽く流してみせたら「よし、それでいこう。ホンマ、後藤は優等生やで。俺のイメージしてること、言われる前にやってまうねんからな」で、完了。
市井ちゃんが、それを見て、ひどく焦ってた。これからは、少し、手を抜いて、要領悪くやってみよう。
新ユニット結成から、ちょこっとラブ発売まで、一度経験済みだったんだけど、それでも毎日はすっごく忙しかった。
私や圭ちゃんも、一生懸命やってたんだけど、市井ちゃんの力の入れようは異常だった。
夏先生の、ダンス指導のあったその日。
「ねー市井ちゃん、合宿、やめとこうよ」
市井ちゃんの高熱がぶり返して、結局中止してしまうことは分かってる。
合宿用のマンションに向かう車の中で、私は市井ちゃんを説得しようと必死だった。
「大丈夫だよ。熱下がって来たし」
「私知ってるよ。和田さんが医者から貰って余ってた、熱冷まし貰ったんでしょう(しかも座薬……うぷぷ、ここで笑っちゃダメだ)。市井ちゃん、倒れちゃうよ」
「後藤、さ」
市井ちゃんは、辛そうに、シートに身体を預けている。
「後藤、ダンスレッスン、余裕あったろ?」
横目で私を見ながら、そう言った。
夏先生曰く「これまでの娘。のダンスの中でも最高難度」のちょこっとLOVE。
私は、もう身体が覚えてたんだけど、なんか簡単にこなすと、市井ちゃんがライバル心燃やしちゃうんで、適当に間違えたりしながらやった。
夏先生には「やる気がない」って見えたらしくて、結構怒られちゃった。
(市井ちゃんには、バレてたか)
「私さ、後藤にだけは負けたくないんだよね。ううん、娘。全員がライバルだけどさ。私、後藤みたいに才能ないから、頑張るしかないんだよ。後藤と同じ努力してたら、いつまでたっても、後藤に追いつけないよ」
えー私はどうなのよ、と圭ちゃん。
「勿論、圭ちゃんにも負けたくないよ」
「単なる負けず嫌いなだけじゃん」
ははは、と市井ちゃんは力無く笑った。
「ね、ホントに、マジでさ。市井ちゃん、明日には薬の効き目が無くなって、39度もっと熱が出ちゃうんだよ。お願いだから、今日は中止して、病院行こうよ」
「なんで後藤にそんなこと分かるのさ」
市井ちゃんは、いぶかしげに私を見た。
「それは……」
ここで、言うか? 私が、未来から来たって。
頭がおかしくなった、って思われちゃうかな?
私は、唇を舐めて湿らせた。大きく深呼吸する。無理矢理、言葉を吐き出すように、
それでも小さな声しか出なかった。
「私、知ってんだ。娘。の先のこと。ダンスも、実は経験済みなの……。なんでかって言うと、ね」
「ふんふん」
ん……? 今の合いの手は、圭ちゃん?
って、市井ちゃん、寝てるじゃん! ベタベタじゃん!
「何よ〜、なんで知ってるの? 教えてよ〜」
「圭ちゃんには教えない」
「こら後藤、私は仲間はずれか」
「そうとも言う」
「私が一番年長なんだぞ〜〜」
いいじゃん。圭ちゃんとは、これからもプッチでずっと一緒なんだから。
今は、悪いけど、市井ちゃんの方が大事。
結局、合宿は予定通り実行されてしまった。
初日は、私がギャーギャー言って、予定よりも2時間早く終わらせて、消灯にしたんだけど。
したら、市井ちゃん、5時には起きちゃって、ご飯なんか作ってたんだよね。
私は、8時まで寝てた。起こせよ〜って感じ。
朝のジョギングの後。
「市井ちゃん、熱計ってみて」
私が差し出した体温計を、めんどくさそうに脇に挟む。
「どう?」
「後藤の言ったとおりみたい。9度6分だって」
「バカ、市井ちゃんのバカッ」
タクシーの窓から手を振る市井ちゃんを見送りながら、私は泣きそうになっていた。
私に才能なんてある訳ないじゃん。ズルしてんだよ? 未来から来たんだから、出来て当然じゃん。市井ちゃんが私と比べること自体、間違ってるんだよ。
市井ちゃんが、脱退する、って聞いたとき、もっと修行してビッグになりたい、って理由を聞いたとき「どうして?」って思った。
でも、こうやって、もう一度市井ちゃんと過ごして来て、分かってきた。もしかしたら、私のせいなのかも知れない。市井ちゃんは、私のせいで、自分の中に危機感をため込んで、それが、脱退、って形になってしまったのかも。
(私が悪いんだ)
マンションに戻って、アサヤンのカメラのない場所を探して、一人で泣いた。
11月の終わり。
仕事が終わってから、娘。全員が集められた。
控え室に、一人一人入ってくるように言われて(ああ、今日がその日なのか)って思った。
「なんだろね。またアサヤンがらみ? プッチに関係してることだったらやだなー」
きっと、今日の出来事も、市井ちゃんの決心に少なからず影響を与えていたんだろう。
「なんだよ後藤、表情暗いぞ」
市井ちゃんが、私の頬をペチペチ叩いた。ちょこっとラブの売り上げが好調で、機嫌がいいのだ。
「市井さん、最初にどうぞ」
スタッフが、市井ちゃんを呼びに来た。これから、あのことを伝えるのだろう。
私はざわついてきた娘。たちを見回した。彩さんと目が合う。
私は(お疲れさまでした)って感じで会釈した。彩さんは訝しげに私を見て「後藤、ちょっと」って私を廊下に呼びだした。
「もしかして、後藤、知ってるの?」
「うん、おめでとうございます」
「おめでとうって……後藤、なにかカン違いしてない?」
「服飾デザイナー目指されるんですよね」
「うん、そう。って、それ知ってるだけでも驚きなんだけど、で、おめでとうってのが引っかかって」
「真矢さんです」
かっ、と彩さんの顔が真っ赤になった。
「そそりゃ、付き合ってはいたりしたりするけど、その、おめでとうってのは、まだ──」
あわわわ、とひとしきり混乱後、
「黙っててよ」と少し低い声で言った。
「結婚は、まだ先だったと思うんですけど」
「だから、それはまだ分からないって」
「その……ちゃんと、した方がいいですよ」
「ちゃんとって何を?」
「アレ、です」
頭の中で、指折り数えてみるに、多分、12月くらいにそれがあったのだ。
「……まどろっこしいな、ハッキリ言いなよ」
(セイフティセーックスッッ!)なんて言える訳ねえだろう! と心の中で叫ぶ。
「後藤、顔が赤くなってるよ」
「もういいです」
楽屋に戻る。
彩さん脱退を、マネージャーさんから聞かされたとき、市井ちゃんの脱退を初めて聞いたことを思い出して、ひどく泣いてしまった。
最近、泣いてばかりだ。
12月に入ってすぐ。
ちょこっとLOVEの、オリコン順位が発表された。
(知ってたけど)初登場一位。
市井ちゃんと圭ちゃんは、すっごく喜んでた。
「後藤、嬉しくないの?」
「ん……嬉しいよ」
(市井ちゃんが、喜んでくれてるのが嬉しいな。ずっと娘。にいたい、って思ってくれたら最高なんだけど)
さて、これから娘。の忙しさはピークに達する。
ラブマが売れたせいで、スケジュールが殺人的になってきたのだ。『恋ダン』の収録もそろそろだし、紅白も待っている。
スケジュール表を見る。
2週間後に、今年最後のオフがある。(その間、オフはない(涙))来年に入っても、シャッフルだ何だでなかなか休みがとれなくなる。
「ね、市井ちゃん。今度のオフにさ、市井ちゃんのところに泊まりにいってもいいかな?」
「お、いいね〜。オリコン一位記念に、プッチの3人でパーティしようか」
「圭ちゃんはダメ」
「え? なんで?」
「市井ちゃんに、大事な話があるの」
「お、おう。そうか」
最近、市井ちゃん、男言葉をよく使うようになった。かっこいい。なんだか、ドキドキする。
「おじゃましま〜す」
「いらっしゃい。外、ひどい雨だったっしょ。タクシーで来たの? うっわ、なんでそんなに濡れてんだよ、風邪引くぞ。お風呂入ってきなよ」
湯上がりの市井ちゃんが、お出迎えだ。髪がぺしゃんとなってて、横分けになっている。男前だ。
お風呂から出てくると、私が着てきたトレーナーが無くなっていた。
「市井ちゃ〜ん、私の服、どこいったの?」
「それね、濡れてたから洗っちゃった。私の服、置いといたから、そっち着てなよ」
「……」
『娘。命』と習字? で大きく殴り書きされたTシャツ。
「なにこれ、だっさ〜い」
私がそれを着て出ると、キッチンからひょいと顔を出した市井ちゃんがおなかを抱えて笑い出した。
「それ、それさ(ひゃはははっ)まだ、私もさすがに着れ(はははっ)ない、ないんだよね、それをごと、後藤が着て、着てひーひゃひゃっ」
「もー、笑い方が和田さんになってる〜〜」
ふくれっ面で、私もキッチンに入る。
市井ちゃんは、結構料理が上手だった。
半分は、スーパーで買ってきた出来合の品だったけど、テーブルいっぱいに美味しそうな料理が並ぶと、それだけで口元が弛む。ちょっぴり、お酒もある。ハーフボトルのワインだ。
「後藤ん家はさ、料理屋やってんじゃん? それに比べりゃマズイかも知んないけどさ。……マズかったらゴメンね」
丁度、口の中一杯に頬ばっていたので、ぶんぶんと、首を振って答えた。
もぐもぐもぐもぐもぐ。
「ひぇんひぇん、おいひーよ」
ごっくん。
「ありがと。後藤もかわいーよ」
ぼん、と音を立てて、一気に顔に血が上った。
「なななにを全然カンケーないじゃん」
「んーん。なんとなく、そー思っちゃったんだなあ。後藤、顔赤いぞ。俺に惚れたな」
「お酒を飲んだからなのです」
「あー、未成年はいけないんだぞ」
「市井ちゃんだって、未成年じゃんか」
幸せな時間。
このまま、ずっとずっと、一緒にいれたらいいな。
市井ちゃんと、ずっと一緒にいたいな。
夜の12時。
市井ちゃんの部屋。
「うっわー、これ、全部レコードなの?」
「うん、まだそんなにないんだけどさ。レコードの音って落ち着くんだよね。昔の曲をレコードで聴くと、雰囲気あっていいよ」
ふーん、さすが市井ちゃん。趣味が渋い。ふと、一枚のレコードのタイトルが目に入った。『時を駆ける少女』って書いてあった。
(なにこれ、私のことじゃん)
「ねーねーねー、これ聴きたい聴きたい〜」
「後藤、この歌知ってんの?」
「知らなーい」
「じゃあ原田知代は?」
「ハラダトモヲ? 誰??」
「後藤って、わっかんねーなー」
市井ちゃんは、ターンテーブルにレコードを置いて、針を落とした。
シンプルなメロディが、スピーカーから流れ出す。ハラダトモヲってあっさりした声だ。
『あなた、私の元から、
突然、消えたりしないでね。
二度とは、逢えない場所へ、
一人で行かないと誓って。
私は、私は、さまよいびとになる』
(なんて悲しい歌だろう)
(なんて悲しい歌なんだろう)
(本当に、これ、私のことだ)
(市井ちゃんが、私のところから、突然いなくなる……)
うわ〜〜〜〜〜〜ッ!!
叫んだ。いや、叫ぶように、泣いた。
「ど、どどどうしたの後藤」
「やだやだやだ、市井ちゃん、いなくなっちゃやだ。ダメだよ、帰って来るって言ってたけど、一度失ったら、取り戻したつもりでも、きっと、微妙に違ってるはずでー、ってあゆも言ってんだよ〜」
「後藤、超わけ分かんねえよ」
私は、ぴたっ、と泣きやんだ。市井ちゃんを睨んだ。
「市井ちゃん、娘。辞めようって思ってるでしょ」
「え……」
市井ちゃんは絶句した。
「すっごく悲しかったんだよ。悲しくて悲しくて、死んじゃうかって思った。息が出来なくて、すごく苦しかったんだから」
私は、バカだ。ここまできて、やっと分かった。
どうして、こんなに悲しいのか分かった。
どうして、ずっと引きずっていたのか、分かった。
私、市井ちゃんが好き、だったんだ……
泣きながら、しゃっくりが出る。私は、私の泣き方が大嫌いだ。
もっと綺麗に泣ける大人になりたい。
「イヤだよ、市井ちゃん、娘。辞めないでよ、私を置いていかないでよ……」
えっ、えっ、と嗚咽する。
市井ちゃんは、何も言わずに、部屋を出ていった。嫌われたのか、と、とてつもなく不安になる。でも、涙は止まらなかった。
しばらくして、マグカップにホットミルクを入れて、市井ちゃんが戻ってきた。
「飲みなよ。落ち着くから」
市井ちゃんだけ、こんな大人みたいなことが出来てずるい。私は、市井ちゃんに促されて、ミルクを飲んだ。市井ちゃんが差し出したティッシュで、
「はい、後藤。チーンして」鼻をかんだ。う゛ー、私だけ子どもだ。
レコードはいつの間にか終わっていて、ブッ、ブッ、と針が一番内側で、小さな音を立てていた。
「落ち着いた?」
優しく、市井ちゃんに言われて、こっくりと頷く。
「後藤って、不思議な子だな」そんな優しい顔、反則だよ。
「いつも、後藤に同じこと聞いてたような気がするんだけど、また聞くよ。どうして、そう思ったの?」
「知ってたからだよ」
ふてくされて、言う。
「私さ、彩っぺとあれから話したことあったんだけどさ。後藤、彩っぺの脱退のことも、知ってたんだよね。どうして?」
「私、未来から来たの。市井ちゃんの脱退を辞めさせるために、未来からやって来た、時を駆ける少女なの」
「はあ?」
さすがの市井ちゃんも、ついてこれなかったようだ。
「ちょっと後藤、マジメに話してよ」
「市井ちゃんは、もっとビッグになるために、海外に留学したいと思ってる。そして、市井紗耶香として、デビューしたいって。目標は、吉田美和さんなんだよね。今の娘。とは、方向性が違うから、だから、市井ちゃん、娘。を辞めようって思ってるの。ううん、まだ、今の市井ちゃんは、決心が出来てないかも知れない。でも、この話、私は市井ちゃんから直接聞いたんだよ。私がいたのは、来年の6月の世界。だから、当然、ラブマも恋ダンも、その次のシングル、ハピサマも歌えて踊れて当然なの。ゴメンね。信じて貰えないかな?」
市井ちゃんは、ずっと黙っていた。
「辞めないで、市井ちゃん。私を置いていかないで」
ダメだ。私は、ダメな人間だ。ずっと、市井ちゃんの脱退を阻止するために、いろいろ考えてきたはずなのに、いざとなったら、懇願することしか出来ない。
私は、もっと強くなりたい。こんな、弱い人間でいるなんてイヤだ。
「ごめん、後藤」
届かないの? また、私は、市井ちゃんを失ってしまうの? イヤだ。絶対に、イヤだ。
「本当に、ごめん。でも、私、本気なんだ」
絶望感で、身体じゅうの力が抜けた。
心底打ちのめされると、涙も出ない。
「やだよ、やだやだやだやだ……」
市井ちゃんは、泣き笑いのような表情で、私を見ている。
「どうしたら、本気だって信じてくれる?」
「キスしてよ」
なんの躊躇(ちゅうちょ)もなく、市井ちゃんは、私の唇に、唇を重ねた。びっくりして、息を吸い込んだ。喉が、きゅ〜ん、と鳴った。初めてのキスは、冷たかった。
頭の奥が、痺れている。そっと目を開けると、市井ちゃんは、視線を私から外して、目を細めて窓の外を見ていた。胸が押しつぶされた。
なにか、とてつもなく大きなもので全身をぶん殴られたかのようなショックを、感じた。地面がぐわ〜ん、と揺れた。めまいがした。
私は、市井ちゃんを突き飛ばした。
「もうヤダ。何もかも、全部、イヤだ」
叫んだ。
(こんなに、こんなにも悲しいんだったら、もう娘。は辞める。私、娘。に居たくない)
靴を履くのも忘れて、私は、外に飛び出した。
雨足は、さっき、市井ちゃんの部屋にワクワクしながら来た時よりも、もっとひどくなっていた。
顔に降りかかる雨が、もう出なくなった涙の代わりだ。
全身を濡らして、歩いた。
市井ちゃんは、追っかけてきてはくれなかった。
第三部
(……このまま、高熱だして、寝込んじゃえば、市井ちゃん、心配してくれるかな)
疲れた。
びしょぬれになって、家に帰ると、お母さんがひどく驚いていた。いろいろ聞いてきたけど、返事もしないで、シャワーを浴びた。
(市井ちゃんのところに、トレーナー置いてきちゃったな)
濡れたTシャツを脱ぐ。『娘。命』と書かれたそれを見て、笑った。笑うと、ちょびっとだけ涙が出てきた。
(ああっ、もう)
部屋に戻る。
ベッドに、腰掛ける。じっとしていると、さっきの情景が頭の中をぐるぐる回り出す。
(もーもーもーッ)
枕をつかんで、壁に投げつけた。
本棚に並べていた、化粧水や鉛筆立てに当たって、ガチャガチャと大きな音をたてた。
「ふん、だ。もう市井ちゃんなんて、どうでもいいよ。後藤を置いて、外国でもどこでも行っちゃえばいいんだ」
(市井ちゃんのばーか)
ぼすっ。
(市井ちゃんのばーか)
ぼすっ。
(市井ちゃんのばかばかばか)
ぼすぼすぼすっ。
しばしの間、枕を相手に格闘した。
少しだけ気が晴れて、ソファーに座り込んだ。
疲労が、両足からじんじんと広がってくる。今日はいろんなことがあった。
(私、どうしたらいいんだろう。市井ちゃん、本気だって言ってた)
(市井ちゃん、私のこと、嫌いなのかな?)
枕を抱き締める。
(私がいなくなって、市井ちゃんが悲しいって思ってくれたらいいのに)
難しいことを考えると頭痛くなってきた。
しかも眠い。すっごく眠い。
寝るんなら、ベッドに戻んなきゃ…………。
きゅ〜……
◇
恐ろしい予感が、脳裏を走った。
(寝るなあああッ)
がばっ、と跳ね起きた。いや、そうしようとして、わずかに足をバタつかせただけだった。
ソファーから転げ落ち、そのまま、また睡魔に引きずり込まれそうになる。
・・・・・・・・・・・・・
これは、あの時と同じ眠気だ。ヤバい。激ヤバだ。
(眠っちゃダメだ)
確信があった。ここで眠ってしまってはいけない。違う場所に、飲み込まれていきそうだ。耐え難い、誘惑。
(元の時間に、戻されちゃう……)
必死で眠気にあらがう。はうう、と大きく息を吐く。そのまま、沈み込んでいく……。
(市井ちゃん……)まだ、全然だよ。私、ここで、まだ、何も出来てないよ。まだ、私は、
(市井ちゃんに、この気持ちさえ、伝えてない)
このまま、戻ってしまったら、もうそこには、娘。の市井ちゃんはいない。
私の教育係、プッチのリーダー、私の大好きな、市井ちゃんの、いない世界。
(苦しいよ市井ちゃん、苦しくて、死にそうだよ、市井ちゃん、市井ちゃん……)
さっき、枕が当たって、床に鉛筆が散乱している。その中の一本を、つかむ。
(……眠気を覚ます、定番だね。怖くない、怖くない)腕の、目立たない辺りに、鉛筆の先を強く突き立てた。
「──っ!!」深呼吸する。痛みが、現実感を連れてくる。
(負けるもんか)……。
ゆっくりと、異常な睡魔が去ってゆく。時計の秒針の音が、部屋の中に響く。
(……もう、大丈夫みたい。良かった)
ほっ、とすると、急に心細くなってきた。血が出てる腕も、じんじんと痛んだ。
(私は、いつまでもここには居られないのかも知れない)
(いつか、また、あっちに戻っちゃうんだ。きっと)
独りぼっちだ、と、急に思った。
淋しくて、淋しくて、たまらない。
鼻をすすりながら、ぐずぐずと泣いた。
「市井ちゃん、助けて。市井ちゃん、私、一人じゃなんも出来ないよ。市井ちゃん、助けて……」
その日は、結局、一睡も出来なかった。
私は、膝をかかえて、朝を迎えた。夜通し考えて、とある決心をした。
「お早うございまーす」
ハロプロコンサートの、リハーサル場。
年明けから始まる、彩さんの最後の舞台だ。
この行程がまたキツイ。二十何人もの事務所のメンバー全員が出るのに、リハーサル日は、五日間しかないのだ。
「おう、後藤、早いやないか。今日は遅刻せーへんねんな」
にこやかなつんくさんも、最終日辺りになると、余りにもやることが多すぎて、イラついて、周囲をピリピリさせるようになるんだよね。
(早いって、寝てないからねー。……んーと、今日は、和田さんが来てるはずなんだけど)
なるべく、娘。メンバーが来る前に、用事を済ませておきたい。私は和田さんを見つけて、声をかけた。
「和田さん、お早うございます」
「ああ、後藤か。お早う」
「ちょっといいですか?」
「なに? 今日は、顔出しに来ただけなんだ。最近、忙しくてなあ」
「マネージャーの引継で、ですか」
「何だって?」
(和田さんも、マネージャー、3月で辞めちゃうんだよね。みんな、娘。からいなくなる。私は、私が入ったときの娘。が大好きなのに)
「それは、まだでしたよね」
「おい、後藤ちょっと」
衣装室みたいなところに入った。
「あんまり、ヘンなことは言うなよ。微妙な時期なんだからさ。で、なんだ。なにか、話でもあるのか」
「はい」
私は、手を後ろで組んで、胸を張った。
(市井ちゃん、私に勇気をちょうだい)
「私、娘。を脱退しようと思っています」
一息に言った。
ハロプロ、リハーサル3日目。
ここ2日間での、トータル睡眠時間は、5時間。
娘。たちはもとより、太シスのみんなや、ココナッツたちも、フラフラだった。
「もうダメだ〜」
「出来ませーん」
みんな不満タラタラだった。
忙しいのには慣れてるつもりだったけど、このスケジュールはさすがにひどい。
(……おなか、痛い)
実は、このリハーサルの初日くらいから、腹痛に悩まされていた。
市井ちゃんの態度が冷たいからだ、きっと。
(楽屋にいるときなんて、眼も合わせてくれない)
私、嫌われちゃった。嫌われちゃったんだ。へへっ、と一人、壁に張ってある、恋ダンのポスターに向かって笑ってみる。
「後藤ー、なんか、かおりんみたーい」
なっちが、けらけら笑う。それはそれで、ひどい言い草のような気がする。
「なっちも、どこかおかしくなってきてるぞ」
「あー、ひっどーい」
2人で、なにが可笑しいのか、ゲラゲラ笑う。向こうでメイクを落としていた真里っぺも、急いでこっちに来て、一緒になって笑った。
「はいはいはい、もう、明日も早いんだから、早く帰って寝なよ」
圭ちゃんは、目の下にクマを作っている。
「明日も早いって、もう朝の7時でーす」
なっち、壊れてる。
ゲラゲラゲラ。
「なんかさあ、ここまで忙しいと、どうでも良くなるよね、ははっ」
かおりんも、テンションが高い。
ゲラゲラゲラ。
いつもなら娘。をまとめてくれる裕ちゃんは、すでにグロッキーだ。
「いい加減にしてよ」
がたん、と席を立ったのは、市井ちゃんだった。
「はしゃぐだけの余裕があるなら、もっと練習に気合いいれなよ。明日はみんな頑張ってよね。それじゃ、お先に」
さっさと荷物をまとめて、市井ちゃんは楽屋を出ていった。
冷静なその声に、みんな、しん、となった。
「ホンマはそれ、私が言わなアカンねんけどな〜。もうみんな、ホテルに戻り。はよ寝ぇ。お疲れお疲れ〜」
「お疲れさまでした」
「お疲れさま〜」
三々五々、その場は解散となった。
事務所がリハーサル場近くに、ホテルを予約してくれてあった。昼の12時から、リハーサル再開だから、手際よくシャワーを浴びて、それでも4時間くらいしか寝られない。
でも、私には、することがあった。タクシーをつかまえて、私は、原宿に出かけた。
原宿からの帰り。リュックの中には、大事な大事な紙包み。タクシーの中で、30分ほど、仮眠をとった。リハーサル場に戻ったのは、12時5分前だった。
(……つれぇなあ)
睡眠不足にくわえて、腹痛が我慢できないくらいになってきた。今は、一番、
頑張らないといけない時なのに。
「後藤、どうした? 大丈夫か?」
和田さんが、私の様子がヘンなのに気付いたのか、休憩中に、話しかけてきた。
「ごめんなさい。少し、おなかが痛くて。でも、大丈夫です。やれますから」
「お前、脂汗かいてるぞ。今日はいいから、病院に連れていってやる。すみませーん、後藤、体調不良です。医者に見せてきますー」
話しておきたいこともあるしな、と和田さんは言って、強引に、私をリハーサルから連れ出した。
「後藤、寝る前に、ちょっと聞いてくれ」
和田さんの運転する車に乗り込んだ瞬間に、私は眠ってしまっていた。途中で、和田さんに起こされた。
「娘。を辞めたいって言ってた分な。考え直してくれたか?」
「……気持ちは変わりません。私、娘。は卒業します」
「ま、とりあえず、来年初めにはコンサートもあるし、新曲も出すからな。一区切りつくまでは、何て言っても、すまないが辞めさせる訳にはいかないんだ。この件は、しばらくの間、俺の胸におさめさせておいてくれ」
私はおなかが痛いのと、あまりにも眠いのとで、適当にうんうん、と相づちをうった。和田さん的には、今は、それでいいみたいだった。
「私が、体調悪そうだって、どうして分かったんですか?」
「ああ、市井が、後藤の調子が悪そうだ、って教えてくれたんだ──」
市井ちゃん、私を見ててくれたのかな……。ぼんやりと考えながら、私は眠りについた。
病院では、ストレスからくる腸炎、と診断された。
その日は病院に泊まって、次の日には、リハーサルを見てるだけでいいから出てくるように、って事務所から言われた。
(市井ちゃんを見るだけでいいんなら、そりゃあ行くに決まってるじゃん)私は、タクシーを飛ばして、会場入りした。
「ちょっと後藤、あんたここで何してんの?」
いつもは私のこと無視してたのに、市井ちゃんが私の姿を見つけて駆け寄ってきた。すっごく嬉しかった。
「ああ、市井ちゃん、お早う」
「お早うじゃないよ。和田さんに聞いたよ、腸炎なんでしょう? なんでそんな無理するの」
私はしゅん、となった。リハーサルに来れば、市井ちゃんを近くで見られるから、とはとても言えない雰囲気だ。
「事務所に言われたんだね。分かった。和田さんから、デスクに文句言ってもらう」
ずんずんと、男らしく、歩いて行った。
途中で振り返って、
「バカなんだから」って怒ったように言った。
「ごめんなさい……」
きっと、また、市井ちゃんに嫌われてしまった。
市井ちゃんから話を聞いた和田さんは、すごい剣幕で、
「おれたちの仕事は生き物を扱ってるんだ。具合が悪いのに見さすだけ見さすとはなんだ」って怒鳴っていた。
みんなが、娘。を大事に思ってくれている。私がしてることって、わがままなのかな。私の望みなんて、ちっぽけなことなのに。
年の瀬を迎えた。12月31日。今日は、朝からNHK入りだ。娘。としては2回目なんだけど、私にとっては初めての紅白出場だった。
「後藤、ちょっと来」ラブマのメイクの途中、裕ちゃんに呼び出された。
「こんな時に悪いな、後藤」
「いいえ」
裕ちゃんの真剣な顔を見て、ああ、脱退のことか、と思った。
「和田さんから聞いたで。あんた、娘。辞める、って言うてんのやって?」
「はい」
「どうしたん。何か、不満でもあるんか? 裕子姉さんに相談できんことなんか?」
「ごめんなさい」
「もしかして、男がらみか?」
「それは絶対にないです」
「なあ、今の娘。から、後藤が抜けることがどういうことか分かってるん?」
「……」
「彩っぺももう来週が最後や。後藤は知らへんけど、ウチは明日香の脱退も経験してる。これ以上、娘。が辞めて行くのを見るんはこりごりなんや。こんな思い、もう十分やねん」
ムチャクチャ怒られる、と思ったのに、裕ちゃんは、何だか泣きそうになっていた。
「なあ、後藤。今、返事せえとは言わん。頼むから、もう一回だけ、この裕子姉さんにチャンスくれへんかな。後藤が、娘。にいて良かった、って思えるように一生懸命頑張るから、ほんま、頼むわ」
私だって、と思う。私だって、決心したんだ。市井ちゃんを辞めさせないためになら、何でもする。
何だってやってやるんだ。例え、そのせいで、娘。全員に嫌われることになったとしても。例え、市井ちゃん本人に、嫌われることに、なっても……。
「今の話、どういうことかな」
「……市井ちゃん」
「紗耶香」
市井ちゃんが、すごく怖い表情で、扉のところに立っていた。
「紗耶香、聞いてもうたんか。でも、なら、話は早いわ。紗耶香、後藤の教育係やってんからな。ちょっと聞いてや。後藤な、娘。を──」
「後藤、答えな。どういうつもりで、そんなこと言ってるんだい。冗談ですむ話じゃないよ」
私は足がすくんだ。市井ちゃんが、私を睨んでいる。でも、ここで引く訳にはいかない。
「私、もっとビッグになりたいって思ってる。海外で修行して、大きくなって、後藤真希、として、再デビューするつもり。モーニング娘。のライバルとして──」
ぱあぁん。私の頬が鳴った。
「後藤、あんた、最ッ低だよ」吐き捨てた。
叩かれた頬よりも、心の方が、痛かった。
「ち、ちょっと紗耶香、あんた、一体、どないしたん」
市井ちゃんは、返事もせずに、部屋を出ていった。私は、ぽたぽたと涙をこぼして、声を出さずに泣いた。
「ほら、後藤。行くで」
「……はい」
裕ちゃんにうながされて、私はステージに飛び出した。紅白の出場順序は、娘。が一番初めだ。
精一杯の笑顔で、LOVEマシーンを歌った。ちらっと横目で市井ちゃんの様子をうかがう。
さっきまでのことなんて、全然感じさせない、パワフルな市井ちゃんがいた。
(……)見とれちゃって、音を少し外した。
「はーい、じゃ、プッチモニの皆さんは、衣装室までお願いします」
プログラムを見ると、この後プッチの三人は、伍代夏子さんの曲紹介に着物を着て出ることになっている。
女性スタッフ三人がかりで気付けをして貰う。……胸をぎゅうぎゅう締め付けられて、苦しい。
「あのー」
「なんですか?」
「トイレに行きたいんですけど」
「急いで下さいね」私は、廊下を走った。
楽屋で、今日のために持ってきていてた紙包みを、リュックの中から取り出す。
シンプルな作りの、シルバーのリングだ。『GtoI』と刻印して貰った。
『たんじょうび、おめでとう。ごとうまき』って書いたメッセージカード入りだ。
市井ちゃんのカバンの中に、忍ばせる。
「ハッピバースディ、市井ちゃん、
ハッピバースディ、市井ちゃん、
ハッピバースディ、ディア、市井ちゃ〜ん、
ハッピバースディ、市井ちゃん〜〜〜」
ぱちぱちぱち。一人で拍手。今日で、市井ちゃんは16才になる。
(本当は、直接、渡したかったな)
今そんなことしたら、絶対受け取ってくれそうにない。やばっ、と思って、紙包みを開いて、メッセージカードを抜き取った。
包装を元に戻そうとしたんだけど、うまくいかなくて、きたなくなってしまった。
(贈り主の分からないプレゼントって、気持ち悪いかな)でも、『ごとう』の名まえつきで贈るよりはマシだろう。カードはくしゃくしゃにして、ゴミ箱に捨てた。
楽屋から出てくると、和田さんと会った。
「あれ、和田さん、どうしたんですか?」
「今日、市井、機嫌えらく悪いな」
どきっとした。やっぱ、怒ってるんだ。
「さっき、そこで会ったんだけどさ、ほら、今日市井の誕生日だろ? ヒステリックグラマーのパーカー買っといたんだけど、持ってくるの忘れちゃってさ。そしたら、市井『あぁ、いいっすよ、気にしないでください』ってキレた感じだったよ。なんだかなあ」
和田さんは、面倒見がいい。私も、エルメスのブレスレッドを貰っている。(あんまし好きなデザインじゃなかったんだけど)
「それはそうと、後藤、こんなところでぼんやりしてていいのか?」
「あ、やばっ」
慌てて衣装室に戻る。
気付けの終わった市井ちゃんが、すらり、と立っていた。
(は〜……綺麗……)
凛々(りり)しい市井ちゃんを見て、のぼせてしまった。
「後藤、早くしなよ」
冷たい口調も、今だけは、格好いい。私は、こくこくと頷いて、衣装さんのところに戻った。
プッチの三人の出演予定はすべて終了した。紅白の途中だったけど、家に帰ることになった。元日の昼から「LOVELOVEあいしてる」の特番生放送に出演する予定なのだ。
途中で、裕ちゃんに、声をかけられた。裕ちゃんは、川中美幸さんの曲紹介で出ることになっている。
「あ〜もう、忙しいな。紅白終わったら、いきなし新年会やで。和田さんは、『社長が来るから10分だけ顔出して』とか言うてるけど、そんなん、10分
で済むわけないやんか」
ひとしきりボヤいたあと、
「な、後藤。明日の夜、ウチの部屋に来。紗耶香のこともあるし、いろいろと聞きたいことあるねん」
うん……と渋々うなずいた。
翌日、LOVELOVEの収録中に、スタジオから生で新年のお祝いを言おう、って企画があって、裕ちゃんの家に電話した。裕ちゃんは寝てたみたいだった。
「それじゃあとでね」って言いかけて、慌てて「また明日よろしく」と言い直した。
(明日からは、ハロープロジェクトハッピーニューイヤー2000が始まるのです……)
裕ちゃんも、なんかとまどってた。
収録を終えて、着物を脱がせてもらった。私が手間取ってるうちに、市井ちゃんは、帰り支度を終えていた。私とは眼も合わさないで「お疲れさまでした〜」って誰に言うでもなく、出ていった。
(誕生日プレゼント、受け取ってくれたかな? それとも、捨てちゃった?)なんか、せつないね。
裕ちゃんは、まだ眠たそうだった。
「お客さん、いるの?」
「なんで、ウチは一人やで」
「靴が二つあるから」
裕ちゃんは、しまった、って顔をした。分かり易い。
「それ、平家の靴や。新年早々、朝まであいつと飲んでてな。酔っぱらってハダシで帰りよってん」
ムチャクチャだ。なんか、話したくない秘密でもあるのかな。(それとも、本当に平家さんはハダシで帰ったとか)まあいいや。
「ええからええから、中に入りぃな。自分の家や思うてくつろいでや」
ペットボトルに入ったお茶を、コップに注ぐ。
「なにこれ、ヘンな味」
「今度、ウチら娘。がCMで宣伝するお茶らしいで」
そう言えば、飲茶楼って飲んだことはなかった。
「マズイね」
……。
……。
気まずい沈黙。
「なあ、後藤」
「ね、裕ちゃん」
同時に話す。
「なんや、後藤」
「裕ちゃんが先に言ってよ」
「後藤が先にゆうたらええやん」
「うん。……やっぱり、マズイ、は言い過ぎた。取り消す」
「そっちかの話かい! ……って、漫才はええねん。今日は、そんな話しに来たんとちゃうやろ」
「裕ちゃんが来い、って言ったんじゃん」
「もう分かった分かった。すぱーっ、と聞くわ。娘。を脱退したい、ってどういうことなん。ううん、なんや、外国で修行したい、とかなんとかゴチャゴチャゆうとったんは聞いた。それ、どういうことなん?」
ふと。
また、不自然な眠気が来た。
「裕ちゃん、ちょっとゴメン」
私はトイレ貸して、って言って、席を立った。
実は、例の未来へ戻そうとする睡魔は、あれから何度となく私の元を訪れていた。ある程度の痛みで、その眠気をうち消せることが分かった私は、もうパニックにならずに対応出来るようになっていた。そでをめくる。
何度となく傷つけた皮膚は、そろそろ衣装でも隠しきれなくなって来ていた。
ようやくかさぶたになったその傷を、親指でぐりぐりとこする。脊髄に、イヤな感じの鈍い痛みが走る。これっくらいでいい。目を閉じ、腕の痛みに集中する。
じきに、眠気は去ってゆくはずだ。
「後藤、何やってんの!」
裕ちゃんが、びっくりした表情で、トイレの扉の前に立っていた。しまった、鍵をかけ忘れてた。
「様子がヘンや思うて……血が出てるやないの」
「ん……大丈夫だから」
「大丈夫やないっ」
私は大げさに腕に包帯を巻かれて、無理矢理、裕ちゃんのベッドに寝かされた。
「後藤、ホンマ、疲れてるねんて。軽いノイローゼになってるで。本当は、悩みがあるんやろ。ええから、全部裕子姉さんに話し。気が楽になるから」
「うん……」
私は、すべてをうち明けることにした。
「娘。を辞めたいっていうのは、ウソ」
裕ちゃんは、ほっ、としたのか、険しかった表情を緩めた。
「本当に娘。を辞めたがっているのは、市井ちゃん」
裕ちゃんは、すっごく間抜けな顔をした。
「ちょっと待ちいや。今度はなんなん。誰も彼も娘。辞める辞めるて」
「私、市井ちゃんのことが大好きなの。市井ちゃんと一緒に娘。もプッチも、
やっていきたい。だから、市井ちゃんに辞めて欲しくない」
私はぼそぼそと言った。
「私が先に脱退する、ってことになれば、大騒ぎになって、もう市井ちゃんは辞めるどころじゃなくなる、って思って」
裕ちゃんは、膝をポンと叩いて、
「なるほどなあ、それはエエ考えや、……なんて言う訳ないやろーッ!!」ノリツッコミで怒られた。
「ごめんなさいっ」
「そもそも、や。あんたのその、頭悪いアイディアには致命的な欠陥があるやないの」
ちめいてきなけっかん? 私はベッドから起きあがった。
「そんなのないよ」
「なんでやねん。紗耶香の脱退、やめさせる代わりに後藤が辞めたら、結局一緒には娘。出来へんやないの。……って、なんやの、その奇妙なポーズは。あんた、ホンマに、今、それに気付いたん?」
マジで、私、バカだ。
市井ちゃんの脱退をやめさせることで頭が一杯で……そうじゃん、私が辞めたら、結局一緒じゃん。
「裕ちゃん、私、どうしよう……」
「どないもこないもない。でも、そやな。本当に脱退を考えてたんは、紗耶香やったんか。あいつ、そんなそぶり、一切、見せへんかったからな」
「ねえ、後藤。私が、どんな思いで、娘。の脱退を考えたんだと思う?」
え? この声は、市井ちゃん?
「紗耶香、まだ出るの早い──」
「後藤は、私の気持ち、考えたことある?」
市井ちゃんは、震えながら、泣いていた。
私はベッドを降りた。
「市井ちゃん、いつから……?」
歩み寄ろうとして、市井ちゃんの開いた手に遮られた。
「後藤、あんた、本当にバカだよ。なんで、私にそんなにこだわるの? ノイローゼになるまで、悩んじゃったりしてさ。和田さんから聞いたよ。腸炎で病院行ったとき、お医者さんが、後藤の腕に自傷の痕を見つけた、って。だから、和田さん、今は後藤は疲れてるから、そっとしておいてやれ、って」
そうか。そんな話があったんだ。だから、次の日、私が病院抜け出してきたら、あんなに怒ってたんだ。
市井ちゃんは、ぎりり、と歯を食いしばった。
「後藤は、娘。にいる時が、一番輝いてる。娘。にいるのが一番いいんだ。でも、私は違う。私は、娘。にいたら、もうこれ以上はないんだ」
市井ちゃんは、何度も唾を飲み込んだ。ぶんぶんと、頭を振った。
『私はどうしたい? 私は、どうすればいい?』
市井ちゃんは、自分自身に呟くように言った。
あの夜の、泣き笑いみたいな表情になった。
市井ちゃんは、大きく息を吸った。ひゅうひゅうと、肺から息が漏れた。
「結局さ、……後藤は自分勝手なだけなんだよ。……私は……、わたしは、……」
苦しそうに、きつく、胸に手を当てて、言葉を吐き出した。
「紗耶香ッ」
裕ちゃんが、叫んだ。
「私は、後藤が、大嫌いだ」
どくん、と心臓が鳴った。視界が、うずを巻いた。
『わたしはごとうがだいきらいだ』
上下の感覚が、無くなった。
(死んじゃう)
(言葉に、殺される)
四つん這いになって、
『だいきらいだ』
吐いた。
「後藤っ」
誰の悲鳴かは、もう分からない。
圧倒的な、あの眠気が、私を連れに来た。私の存在が、ぐにゃり、と歪んだ。
もう、私には、抵抗する気力は無かった。
第四部
(くうううっ)
悪寒と吐き気。
キモチワルイ。
(後藤を嫌いになんて、なれる訳ないじゃん)
(つらいよ。そりゃあ、つらいさ。後藤と離ればなれになるなんてさ)
何? 何これ? 市井ちゃんの声?
(好きだよ。ずっと前から、好きだったよ)
(どうして、こんなに不器用で一生懸命な子を、嫌いになれる?)
(ねえ、後藤)
(本当にゴメンよ)
(だから、目を開けてよ)
私、元の時間に戻るんじゃなくて、死んじゃうのかな。だって、市井ちゃん、こんなにやさしいんだもの。
(ねえ、後藤、後藤ったら)
(後藤、行かないでよ。帰っておいでよ)
ゆっくりと、目を開く。
泣き顔で、ぐじゃぐじゃになった市井ちゃんが、そこにいた。
「市井、ちゃん?」
「ごとおおおううっ」
結局、飛ばされてゆく私を抱き留めてくれたのは、市井ちゃんだった。
私は抵抗を諦めたのに、元の時間に戻っていなかったんだから、きっと、そうなのだろう。
裕ちゃんは、後から教えてくれた。
「ウチはな、ホンマ、ヤバい思うたで。後藤、なんか硬直して、冷とうなってくるし、反応ないし、ヘンなクスリでもやって、ウチの家で死んでもうたんかい、って」
「そしたら、紗耶香や。本当に気が狂ったんちゃうかっちゅーくらいやったで。ウチが警察や救急車や、ゆうてんのに、ずっと、後藤、後藤、や。1時間や2時間とちゃうで。ずっと、後藤に話しかけてた」
「近所から警察に通報されるんとちゃうん、ってえらい心臓に悪かったわ。ま、後藤が目ぇ開いたときは『これで、明日の一面だけはまぬがれたな』ってホッとしたけどな」
裕ちゃんらしい。すっごく心配させちゃったな。ありがとね、裕ちゃん。
時計を見ると、夜中になっていた。4時間ほど、私は、意識を失ってしまっていたらしい。
「市井ちゃん、心配かけちゃったね。ゴメンね。すごい顔だよ」
「後藤だって。っていうか、後藤臭いよ」
「裕ちゃんの絨毯(じゅうたん)に吐いちゃった」
(大丈夫じゃないの? いつも、平家さんと飲んでるみたいだから、きっとゲロゲロだよ)
ひそひそ声で、耳打ちされる。2人で、くすくすと笑う。
「洗ったげる。お風呂、入ろっか」
頭の中が、だんだんはっきりしてきた。同時に、戸惑いが心の中に広がった。どうして市井ちゃんは、急に、こんなにやさしくなったんだろう。
「なに怯えてんのよ。襲ったりしないから、来なよ」
「あ〜」
裕ちゃんが、所在なさげに、立っている。
「なんか、毒気にあてられそうや。その、ウチは、みっちゃんところに行ってくるわ。そこの若い2人、あんまり、ハメ外しなや。うら若き女性の一人住まいやねんからな。近所でヘンな噂流れたらたまらんで」
そう言って、裕ちゃんは部屋を出ていった。
「いってらっしゃ〜い」
2人で声を合わせて言う。
「ああもう、にくたらしいな」
ぶつぶつ言いながら、裕ちゃんは去ってゆくのだった。
2人でオフロに入って、ピカピカになった。裕ちゃんの冷蔵庫を勝手に開けて、ジュースやらなんやらで乾杯した。
「後藤には、心配かけちゃったね」
私は、ぶんぶんと頭を振った。
「でも、後藤のやること、滅茶苦茶だよ。娘。辞めるとかさ」
「だって……」
市井ちゃんは、私の頭をぎゅっ、ってやって、よしよし、と撫でてくれた。
「あー、もういいもういい。後藤を嫌いなフリしてれば、きっと後藤も諦めてくれると思ったんだけどなあ。後藤、しぶといよ、本当に。私の方が、先に、まいっちゃった。ね、どうして、私にそこまでしてくれるの?」
今だ。今こそ、言うんだ。行け、後藤真希。
「市井ちゃんのことが、……好きだから」私の中の時間が止まった。
……やっと言えた。ちょっと感動だよ。なんか、じーんとなっちゃった。
ここに来るまで、どれだけ時間がかかっただろう。
「私も好きだよ」あっさり返される。
市井ちゃんのは、なんかちがーう。
「私の言う『好き』は、こーゆーヤツなの」
ほっぺに、ちゅっ、ってする。
「じゃあ私の『好き』はこんなの」
手のひらにキスされた。そのまま、市井ちゃんの唇が、つつーっ、と上がって来た。
「うひゃい、くすぐったい」
「へへへ、おとなしくしろいっ」
じたばた。市井ちゃんは私の両腕をつかんだ。あっ、って思ったら、もう私は押し倒された。馬乗りになった市井ちゃんは、私をじっと見下ろしている。
「後藤……」
市井ちゃんの声がシリアスになる。
「ケガ、させちゃったね」
私の、腕の傷を見て、言う。
これは、眠気を追い払うために出来た傷だったんだけど、市井ちゃんは、追いつめられた結果の自傷痕だと思ってるみたい。市井ちゃんの唇が、私の傷に触れる。
「んっ」
じわり、と良く分からない感覚が私を襲う。
甘い、痛み。
「恥ずかしいよ……」市井ちゃんの舌が、優しく傷を舐める。
「んんっ」ちょろっ、と舌先を出している市井ちゃんの横顔、すごくエッチだ。そんな市井ちゃんを上から見てると、ヘンな気分になる。
市井ちゃんの頭が上下するたびに、髪が腕に触れる。市井ちゃんのシャンプーの匂い。いい匂い。
傷口を舐めるのに飽きたのか、ゆっくりと市井ちゃんの唇が上にあがってくる。
……二の腕……肩……首すじ……(私は、目をぎゅっと閉じた)……あごのライン
……耳……頬……そして、
そして、
……鼻……額、
「って、おーい」
「キスされる、って思った?」
唇。
(きゅ……んっ)
なんか、不本意だ。
2人で、ベッドに入る。電気を消して(豆球はつけて)いろんなことを話した。
「なんだか、おかしいね。後藤、どうして私なの? ほら、格好いい男の子なんて、いくらでもいるじゃん。わざわざ、私になんてさ」
「市井ちゃんじゃなきゃ、ダメなんだもん。格好いい男の子だから好き、ってそんなのヘンじゃん。私は市井ちゃんが好きなの。市井ちゃんが女だからおかしいとか、男ならいいとか、そんなの間違ってるよ」
「ありがと。うれしいよ。うれしいさ」
良かった。市井ちゃんに、嫌われてるって思ってたから。良かった。過去に戻れて。私の本心に気付くことが出来て。市井ちゃんに、好きだって伝えることが出来て。
市井ちゃんは、娘。を脱退することについて、いろいろと悩んだって話をしてくれた。
「後藤と離ればなれになるのは、そりゃあ一番悲しいよ。でも、前へ前へと歩くことを止めた時、私は私じゃなくなってしまうんだ」
確かに、プッチの時とかの市井ちゃんの頑張りを間近で見ていると、よく分かる。
「娘。は、私に勇気をくれた。それまでの私は何も知らない小娘だったよ──こら、後藤、そこは笑うところじゃない──つんくさんにも、裕ちゃんにもかおりにも、なっちにも福ちゃんにも、彩っぺにも、圭ちゃんにも真里っぺにも、みんなに感謝してる。勿論、後藤にもね」
私が、市井ちゃんの脱退を阻止しようと思ったのは、まだ自分の本当の気持ちが分かってなくて、その気持ちを伝えることが出来なかった後悔からだったって思う。だから、今なら、
(今、なら)市井ちゃんの、新しい旅立ちを、祝福でき──
「後藤、なんで泣くかなあ。だから、後藤を置いていけないなーって思っちゃうんだよ」
「市井ちゃんだって泣きそうじゃん」
やば、湿っぽくなっちゃった。折角の夜なのに、こんな雰囲気で終わっちゃうのはイヤだ。
「ね、市井ちゃん」
「何?」
「目の前でさ、こんなに可愛い女の子が、しくしく泣いてるんだよ。もし、市井ちゃんが、男だったら『もう泣くなよ』とか言って、これから、いろいろとどうにかなる、んだよね」
「そういうことになるかもね」
「女同士だと、そーいうのはないのかな」
「ん? 後藤はして欲しいのか? よーし」
市井ちゃんは、がば、と毛布に潜った。
「いーよいーよ、ウソウソ、冗談だよっ」
ひょこっ、と足の間から、市井ちゃんの顔が覗く。
「後藤は、何を期待してるのかな?」
私は身体を硬くする。もう不意打ちはくらうものか。
ふふっ、と市井ちゃんは笑った。
「私だって分かんないよ。別に、こーしてたら気持ちいいから、それでいいんじゃない?」
ごそごそと、市井ちゃんは私の隣に来て、ぎゅうっ、て抱き締めてくれた。
「うん。気持ちいいー」
(後藤、覚えてる? あんたの身体、一瞬透けちゃって、ゴメンね、それまで、私、信じてなかったんだ。でも、その瞬間『後藤を無くしちゃう』って思って。わけ分かんなくなっちゃった)
(うん。覚えてるよ。市井ちゃん、私を、ぎゅっ、ってつかまえてくれたよね。「後藤のこと、嫌いになれる訳ないじゃん」って言ってくれたよね。嬉しかった。本当に、嬉しかったよ)
2人で、朝まで抱き合って眠った。幸せな夜だった。
最後の一週間が始まった。
このことについては、市井ちゃんとよっく話をした。
『戻そうとする力があるなら、もしこのまま我慢を続けて、6月を迎えたときに、後藤がどうなってしまうのか分からない』
『本当なら次の後藤が、8月に戻るはずだから、その時の後藤が存在していないと、最悪、後藤自身が消滅してしまうってこともあり得る』
って、なんかたいむぱらどっくすっていうのを紙に書いて市井ちゃんが説明してくれたけど、???だった。
でも、
「うん。分かった。ハロプロのコンサートが終わったら、戻ることにするよ。……でも、淋しいね、淋しいよ」
分かったフリをした。
またぐじぐじし始めた私の頭をポンポンと叩きつつ、
「後藤、その、未来へ行っちゃうってヤツ、どれくらいの間隔で来るの?」
「ん〜3日にいっぺんくらい」
「後藤一人でがんばってたんだね。気づいてあげられなくてごめんね」
「ううん」
私は笑顔を作る。
「だって、おかげでこんなにいっぱい、市井ちゃんと一緒に居られるんだもん」
ケナゲだねえ、と市井ちゃんはもらい泣きする仕草。
「ね? そーなったら、後藤、その腕をグリグリして、戦ってるだよね?」
「うん。そうだよ」
「これからはさ、もし、そうなったら、私に言いに来て。私がなんとかしたげるから」
なんとかする? どうするんだろう。市井ちゃんのぐーぱんちとか?
市井ちゃんは、まかせてよ、とか言いながら、ニヤリと笑った。なんか企んでるっぽい。やだなあ。
彩さん最後の舞台、ハロープロジェクトハッピーニューイヤー2000が始まった。オープニングを終えて、楽屋に戻る。
「ハロプロのコンサートが終わったら、今度はシャッフル計画なんだよ」
「なによ、それ」
「娘。は当然で、あと平家さんとか、T&Cボンバーとか、ココナッツとかを混ぜこじゃにして、3ユニット作るの」
あたたた、と市井ちゃんは頭を抱えた。
「相変わらず、つんくさんの考えてること、訳分かんないよね。で、ボンバーって誰?」
「……? ああ、太陽とシスコムーンさんたちの新しいユニット名」
ははは、と力無く笑う市井ちゃんである。
プッチモニの寸劇が終わって、衣装を着替えようとしてた時、それが来た。
ずどん、と落ち込む感じの睡魔。
「市井ちゃん、市井ちゃん、来たよ、あれだよ。どうしたらいい?」
「こっちおいで、後藤」
倉庫みたいな場所に連れ込まれる。
「目、つむってな」
「うん」
怖いな。
「んっ」
市井ちゃんは、ぎゅっ、て押しつけるようなキスをした。頭の中がずばーん、ってなった。
「どう? 後藤」
「……ふっとんだ」
「へへっ、良かったね」ふーん、こんなやり方も……あったんだねえ、うふふふ。
コンサート3日目にも、また目眩めいた眠気が来たんだけど、市井ちゃんの威力は大したものだった。
例の眠気は、市井ちゃんのとろけるキスで、簡単に消え去った。私をこの世界に引き留めているのは、私と市井ちゃんの愛なんだねえ、でへ〜。
最終日を明日に迎えた、反省会のあと。二人っきりの楽屋。
「市井ちゃん市井ちゃん」
唇をつきだす。
「なに、またやばいの?」
ちゅっ、って市井ちゃんが私に魔法をかける。
「ねえ、後藤。あんた、単に求めて来てるだけじゃないの?」
「ううん。眠かったり眠くなかったりで、そりゃあもう大変ですぞー」
「……」
じと目で、私を睨む市井ちゃん。だって、すべてが終わったら、帰らないといけないんだもの。だから、今、いっぱいキスしてもらうの。
「ちょっとあんたら、なにレズってんねん」
裕ちゃんが、タオルで汗をふきながら、こっちを見ている。2人っきりだと思ってたから、びっくりした。
「いや、いやあこれは、その、後藤がステージで緊張するって言ってるから、緊張をほぐすおまじないを」
しどろもどろの市井ちゃん。
「ふーん、なら、姉さんもおまじないしたげるわ。後藤、こっち来」
「はーい」
たたたーっ、と裕ちゃんに走り寄る。
「なんや、びっくりしたな。この娘、マジなん」
裕ちゃんにぴたーっ、てくっついて、市井ちゃんを振り返る。
うぷぷぷ。
「市井ちゃん、裕ちゃんからもおまじない貰っていい?」
「……好きにしなよ」
市井ちゃん、怒ってる。これまでいじめてくれた仕返しだよ〜ん。
「なんやええんか。じゃあ、ごちそうになろうかな」裕ちゃんの唇が迫る。
「やっぱ、ダメっ」
「ヤダっ」
同時に叫ぶ。私は、市井ちゃんのところにダッシュで戻る。
「あんまり裕ちゃんをからかうんじゃないのっ」
「うん、ゴメ〜ン」
市井ちゃんに、怒られちゃった。でへ〜、と笑う。最近、このしまりのない笑い方が身についちゃった。
分かったんならいいけど、って市井ちゃんは頭を撫でてくれた。
「あのなあ、大人をダシに使いな」ぽつん、と一人で立っている裕ちゃんは、なんだか淋しそうだった。
ハロプロのスケジュールの、すべてが終わった。彩さんは、今日で娘。を卒業した。
私は、楽屋に来ていたつんくさんのところへ向かった。
「つんくさん、お疲れさまでした」
「おう、後藤か。お疲れさん。どないしたんや」
最後の挨拶に来ました。
「これまでの後藤って、ちょっと異常だったんです。これからの後藤もよろしくお願いします」
「なんや後藤、相変わらず、よー分からんな」
イタズラ心がむくむくと頭をもたげた。
「次は、石黒さんの結婚お祝いソングですよね。新しい四人と力を合わせて頑張ります」
「結婚、て、石黒は衣装やるって言うとったやんか」
のほほん、としていたつんくさんが、次の瞬間、表情が変わった。
(……でも、そうやな、ウエディングソング、ってのは新しゅうてエエかも知れん。そうか、その手があったか)
ブツブツと呟いている。
「後藤、最後の辺り、なんて言うた?」
「新しい4人と頑張ります、って」
(4人やて……)
つんくさんの目かキラリ、と、
「すまん、後藤。それはまだついていけんわ」
光ったりはしなかった。笑いながら、後藤、ええキャラや、とか言ってた。
普通だったら、(気持ち悪いなあ)とか思うはずなのに、やっぱり、つんくさんて、どこかおかしい。
先に始まっていた打ち上げ会場に、市井ちゃんの姿を探した。
「市井ちゃん、市井ちゃん」
「おう、後藤、お疲れさま」
「ねえ、やっぱり、今夜辺り、来そうなんだ」
「そっか」
「うん」
「私んところ、来る?」
「うん、泊まってく」
2人で、会場を抜け出す。おそろいのパジャマで、最後の夜を過ごすことにした。
「私が帰るとさ、ここには何も知らない後藤が残ると思うんだ」
「素直で可愛い後藤が残る訳だ」
市井ちゃん、最後なのに、いじわるだ。
「その後藤には、脱退のこと、ギリギリまで言わないでいて欲しいんだ。余裕があると、きっと、どーにかできちゃうんじゃないか、って思っちゃうんじゃないかな」
「後藤が暴走すると怖いからね」
ししし、とケンケン笑いをする市井ちゃん。
「でも、確かにそうだよね。ちょっと可哀想だけどさ、ショックがピークに達して、ラブマの頃に飛んじゃうんだよね? そしたら、今の後藤と入れ替わり。それが一番、しっくりくるよね」
「市井ちゃん」
ぎゅっ、と市井ちゃんの手を握る。
「私のこと、忘れないでね」
「忘れるもんか。後藤の方こそ」
「私は、一生、市井ちゃんのモノ」
「後藤は私のモノ」
「だから、市井ちゃんは私のモノだよ」
「なんかやだな」
「……」
「ウソウソ、市井の心も身体も、後藤のモノです」
「……」
「おい、泣くなよ〜泣くんじゃないぞ〜」
「あー、なんか、しんみりしてきちゃったじゃないのさ」
「……私、元いた時間は、6月だったんだけど」
「じゃあ、もう、私の脱退後なんだよね」
「うん。6月12日のプッチモニダイバーの収録中に抜け出して来ちゃったんだよね」
「オイオイ、ちゃんと仕事しろよ、後藤」
「もし、元いた時間にちゃんと戻るんなら──良くは分かんないけどさ、
『バクバクKISS』が流れた後から、今の私になってるはずだから」
「『バクバクKISS』って何? プッチの新曲?」
「つんくさんが作ってるけど、女子プロ選手が歌ってる」
「つんくさんも、仕事選べよなあ」別れの時間が迫っている。
「ラジオ聞いててね」だんだん、泣きそうになってくる。
「うん、分かった」市井ちゃんも……泣きそうだ。
この、なんともいえない空気は、そうだ。あの、市井ちゃんが卒業の時の、プッチモニダイバーだ。
「最後くらい、明るく……別れたかったのに、ダメだあ」
ひーん。ヤダよう。市井ちゃんと、離ればなれになるのは、ヤダあ。また同じことの繰り返しだ。分かってるよ、市井ちゃんのやりたいこと。私、
応援してるよ。でも、市井ちゃんと離ればなれになりたくないんだ。
泣くな、泣くな。泣いたら、きっと、市井ちゃんも泣いてしまう。だから、ガマンするんだ。頑張れ後藤。
「可愛いなあ、後藤、可愛いよ」
ずるい。ここで、その言葉を使われて、ガマンできる訳ないじゃんか。ずるいずるい。うわーん。
泣きたくなかったのに。泣きたくなかったのに。
だって、
「ずーっ」
「うわっ、後藤、きたねえよ」
こーなっちゃうからさ。もう。
目をしばたたかせる。
「ははっ、来たよ」
「……ん」
お別れだよ、市井ちゃん。
「これ、後藤にあげる」
市井ちゃんが差し出してくれたのは、私が市井ちゃんに贈ったのと、同じリング。
内側には、「ItoG」の刻印入り。
市井ちゃんは、自分のリングも左手のくすり指にはめて、
「お揃いだよ」って言ってくれた。
「ねえ」
市井ちゃんに、最後のおねだり。
「キスしてよ。優しいやつ。私が、市井ちゃんを、ずっと忘れられないようになるやつ」
目を閉じて待つ私に。
そっ、と。
羽毛が触れるかのような、優しいキス。
あまりにも幸せで、幸せで、……せつない。
あ……身体が持っていかれる感じ。
「じゃね、さよ、う、なら」
市井ちゃんが、最後に、ぎゅうっ、ってしてくれた。
「いつも、私は後藤と一緒だよ」
「いつでも、どこにいても、私は後藤と一緒だよ」
うん。私も、市井ちゃんとは、いつも一緒だよ。
最後に見たのは、涙でぐしゃぐしゃになりながらも、無理やり笑顔を作って、私を抱き締めてくれている市井ちゃんの姿だった。
(さよなら、市井ちゃん)
(さよなら……市井、ちゃん)
◇
本当は、目を覚ましたくなかった。眠りながら、泣いていた。でももう、起きないとね。顔をあげる。
ああ、ここは、ダイバーのスタジオだ。時計を見る。多分、収録を抜け出してからそれほど時間は過ぎてないはず。
左手のくすり指には、シルバーのリング。
(市井ちゃんとの想い出)夢じゃあ、なかったってわけだ。
スタジオに戻ると、まだ収録は終わってなかった。圭ちゃんが、リスナーのハガキを読んでいた。
遠距離恋愛のことを言ってるらしい。
『──だから、遠くに離れていても、私は大丈夫です』
ゴソゴソとブースにもぐり込む。
(きっと、はたから見たら、よくある話なんだろうね。好きな人と遠く離れてしまうことなんて。でも、私と市井ちゃんくらい強い絆で結ばれてる2人は、きっと、どこにもいないよ)
圭ちゃんは、どこ行ってたのよ、って感じで、私を睨んだ。
『ラジオネーム、後藤ラブさんからでした。リクエストもあるみたいなんで、それ行きます。どうぞ』
(後藤、あんたなにやってたんだよ)
(ははは、ゴメンゴメン)
ジジ……と針がレコードに乗る音。
そして、聞き覚えのあるメロディー。
『 あなた、私の元から、
突然、消えたりしないでね。
二度とは、逢えない場所へ、
一人で行かないと誓って。
私は、私は、さまよいびとになる 』
(……っ!)
がーん、ってなった。いろんな出来事が、ぐるぐると頭の中をめぐった。
悲しかったこと、嬉しかったこと。楽しかったこと、ヤだったこと。
それもこれも、みんな、みーんな、市井ちゃんとの、幸せで大切な想い出。私が私であることの証。
このリクエスト、市井ちゃんがしたんだ。市井ちゃん、このラジオ、聴いてくれてるんだ。
涙が出てきた。圭ちゃんが、横で、びっくりした顔をしていた。
『 時をかける少女、愛は輝く舟
過去も、未来も、星座も越えるから
抱きとめて 』
歌が終わってからも、私は、金縛りにあったみたいに動けなかった。市井ちゃんは、約束を覚えてくれていて、時間に合わせて、リクエストしてくれたんだ。
圭ちゃんも、私を見て(理解不能な事態だったんだろう)しばらく茫然としていた。
「あー、時間です。それじゃ、今日はここまで」
圭ちゃんは、慌てた様子で、エンディングに入った。
「プッチモニの保田圭と」
(ほら、後藤。ちゃんとしゃべれ)
圭ちゃんが、ひじでつついてうながす。
「市井ちゃんも頑張れー、私も頑張るよ〜、後藤真希でしたあ」
うわ〜ん、という泣き声は、ラジオには入らなかった。
そして、夜が来る。久しぶりの、ひとりきりの夜。
シルバーの指輪を、豆球に透かしてみる。大好きな人の姿を、思い浮かべる。
(市井ちゃん、ただいま)
今日のラジオ、聴いてくれたよね。きっと、市井ちゃんも、どこかで、こうやって、私を思ってくれてるよね。
(私と市井ちゃんは、同じ指輪でつながっているんだから)
これまでと、同じように見えて、違う世界。私と市井ちゃんの、新しい未来。
(いつも、私は、市井ちゃんと一緒だよ)
(どこにいても、なにをしていても、私、市井ちゃんと一緒だよ)
こうしていても、市井ちゃんを感じている。こんなにも、市井ちゃんへの想いであふれている。だから、淋しくないよ。淋しくないさ。
でも、今度は、今度はいつ、逢えるのかな?
私、大丈夫だから、心配しないで。大好きだよ。市井ちゃん、本当に大好きだよ。うん、だから、大丈夫。
瞳がうるんでくる。まばたきすると、涙がひとすじ流れて落ちた。
「市井ちゃん、おやすみ」そして私は、瞳を閉じる。