Virtual World
-1- first prologue
薄暗くて狭い密室。
その中で繰り返される唾棄すべき行為。
きっとここは仮想空間。
全てが虚構で現実に存在する何かを溶かしていく。
人から発する熱で蒸された雄と雌の匂いがたまらなく臭いけど、その分カラダを刺激する。
降り注がれるのは”愛”と称した粘質液。
「好きだよ……」
男の乱れる息遣いの中からは価値一つない言葉。
私にはそんな感情なんかカケラもない。
でもこの感覚はたまらなく好きなんだ。
「あんたなんて、どうだっていいんだ」
うっすらと目を開け、上下に揺れる汗まみれの男の額を見ながらつぶやいた。
だが、男の耳には届かなかったようで、その恍惚に埋もれた軟弱な表情を変えはしない。
終わりを告げる液体の生温さが下の感部から脳細胞に伝わってくる。
「最高……だったよ。うさぎちゃん……」
男はイモリのような顔をしてネバネバした声で囁く。
黒ブチの分厚いメガネをかけ直し、私の首筋に色の薄い唇でキスをする。
私のはだけた小振りの胸は未だに乳首がツンと立っていて、その先が男の胸毛に触れている。
毛の間から汗が浮いており、ぬるっとした感触は感じるというより気持ち悪い。
「ねえ、アレ言って……」
男は萎えたカラダを私から離してそう言った。淫猥に満ちたその目は常人には決して理解できないほど偏屈している。
私はすぐに何を言ってほしいのかがわかる。数分前に半分脱がされたきらびやかなドレスを着直す。
立ち上がり、ぐったりしている男を見下ろして、単二電池が2本入ったバンダイ製の変な棒を振り回した。
真ん中の赤色のライトが貧弱に光り、棒からは町内放送のようなくぐもった効果音が流れる。
「月に代わっておしおきよ!」
私は1オクターブ高い声を男に向かって発した。
男は絶頂の表情を見せた。
さっきのフィニッシュの時よりも、明らかにイっている。
変態だ。
ココロの中でツバを吐いた。
もしかしたら、最初からこのセリフを言っていれば、何もしなくても仕事は終わったんじゃないか。
そう思うと、シーツにべっとりと付着した白濁液の生々しい匂いが鬱陶しくなる。
私は何人もの変態を知っている。こんなことをしていると様々な性癖の人に出くわす。
自分のペニスを全く見せようとせず、ただ大小さまざまなバイブで私をイカせようとするやつ。
服を着せたまま、じっと見つめるように指示し、オナニーをはじめるやつ。
逆にオナニーを強要するやつ。
SMプレイ。
制服プレイ。
幼児プレイ。
いろんな人のいろんな性癖に私は付き合ってあげる。
ま、一番の変態は私なんだけどね。
ココロは幼い頃に憧れとして見つめていた遥か遠くの星へと消えていった。
カラダはタールのようにドス黒く溶けていく。
性の奴隷。
そのニュアンスはあまりにも適しすぎていて、口に出したら笑っちゃいそう。
引き裂かれそうなココロとカラダ。
私はその乖離を求める。
だってあの子が求めているから。
私のカラダなんて、ホントは携帯電話の月額基本使用料より安いんだから。
それを高値で買ってくれる人たちには感謝すべきことなのかもしれない。
私は手を差し出した。
「5万ね」
男のダブついた腹や、汗でベトベトの髪の毛を見ると、私はこんな人間とヤったんだ、と一応、相応の罪悪感を覚える。
しかしそれは本当に一瞬で、すぐに水酸化ナトリウムに塩酸を混ぜたようにいつもの状態に中和されていく。
男は脱いでいたズボンから財布を取り出した。フケが付着していそうなボロボロの黒い財布だ。
尻の形に合わせて歪曲になっており、四隅にはほころびが見える。どう見てもブランド物ではない。
その財布から2、3度、慣れない手つきで枚数を数えて私に渡した。
大抵の人間はこの動作を慌てながらする。それを全身裸でやるのだから滑稽な光景だ。
「ねえ、最後に……フェラして……」
ボソボソと伺うように男は言った。
私がお金をしまい、自分の制服に着替え終え、無香臭のデオドランドスプレーをカラダ中に吹きかけている時だった。
男は下腹がたるんだ醜い裸体を見せたまま懇願しているので乞食のようだ。
「いいけど、別料金だよ。プラス3万」
乾いた声に男は少し驚く。
「でも……まだ時間が……」
「さっき、お金の受け渡ししたでしょ?だから、それで終わりなの。
また何かするんだったらまた新たなお客さんだよ。だからホントは5万なんだけど、
そこを3万にしてあげるって言ってるんだから感謝してよね」
私はさっき男が5万円を出した時、財布の中を覗きこんでいた。
もう男には3枚の札しか残っていなくて、その一枚は間違いなく千円札だった。つまり、男は3万円を持っていないことを知っていたのだ。
本当は別にしてあげてもよかったんだけど、フェラはキライだ。
私には何にもメリットがない。例の感覚に襲われることもない。
感じる人もいるらしいけど、私の口の粘膜には性感帯がないようだ。
それにさせられている最中は男の奴隷になっているようで、とことん後味が悪い。
同じ理由で騎乗位もキライだったりする。私が奴隷になるのは、”性”であって決して”男”ではない。
もちろん、普通の時間にやってくれと言われるとやるしかないけど、極力避けるようにしている。
だから、3万円という請求は単なる拒絶の意だった。
この客のように未練たらしく「最後に……」と言ってくるやつはたまにいる。
客によってはカッとなって、襲いかかる奴もいることはいるが、この男は抵抗しないだろう。経験よりそのタイプでないことはわかる。
日常生活は臆病で、上司にもOLにも妻にもあまつさえ子供にもへりくだるような侮蔑すべき人種。
分厚いメガネの向こうの何の力もない目を見れば一目瞭然だ。
「じゃあ、いいや……」
悔しそうに半立ちのペニスを無意識に自分でしごく男。家に帰ったらまた私の裸体を想像しながらオナニーでもするのだろう。
いや、セーラームーンのビデオでも見ながらするのかもしれない。
なんて愚鈍な生物だ。
人間という崇められるべき種に明らかに反旗を翻す性に囚われた野獣たち。
臭い息を吐き散らし、精神が歪められた欲望に支配され、最重要項目としてその悦楽に溺れる。
男の数時間後の光景を思い浮かべ、下らないことを妄想しちゃったと自分を嘲る。
「本当によかったよ。また指名していい?」
「ごひいきに」
「名前……何て言うのかな?」
私は大げさなため息をついた。
この男に限らず、ここに訪れる客はよく聞いてくる。
こんな場であってもあたかも私を本当の恋人にでもしたかのような錯覚を覚えているらしいのだ。
名前を聞き、それを反芻し、”幻想”に近いこの場を”現実”のものに固めようとしていく。
人によっては架空の恋人として数少ない友達に触れまわるやつまでいるらしい。
「それも別料金だから」
「いくらなの?」
男は財布の中に手をかけた。
「う〜んと、2万1千円」
中途半端な数と1シーン前に刻まれた記憶の数字が頭の中で合致したのだろう。
男は札を出そうとする手を止める。そして、中を見ると予想通り万札が2枚と千円札が1枚。ピッタリだ。
と、男の考えていることは伝わってくる。
中身を見ていたんだ。
そんな言葉を言いたげに男は私を見た。
まるで詐欺にでもあったかのように、情けなく眉を「ハ」の字にして、口をポカンと広げていた。
私はその時も別に勝ち誇った気持ちにはならない。余りにも哀れで、同情の目を男に向ける。
「ウソだよ。あんた指名する時に名前見なかったの?入口前にちゃんと書いてあるから、帰りにでも見ていったら?」
入り口には手のひらサイズのポラロイド写真が貼ってある。それを見て、客は相手を選ぶ。
そのポラロイドの下の余白には名前が一言添えてあるはずだ。
「いや、君の口から聞きたいんだ。1万あげるから……」
男は万札1枚を差し出した。あらためて侮蔑の念を込めて、私は一度肩で息をする。
そしてそれを人差し指と中指で強奪するように素早く受け取った。
「サヤカ。上の名前は言わないよ」
「サヤカちゃんかぁ。いい名前だね」
人の本質の中の汚い部分を凝縮したような笑みを浮かべ、私はゾッとした。
「ありがと」
「本名?」
「んなワケないじゃん」
「ま、いいや……。サヤカちゃんは僕の2番目の好きな人になったんだから。これからもよろしくね」
2番目……。なんか具体的だな。
そっか、1番目は「月野うさぎ」か。
昇格ありがとう。
でもそんな地位はいらないから。
できればもう来ないでね。
男が服を着始める。
私の”偽愛”を受けたカラダを皺だらけのカッターシャツが包み込む。
時間が迫っていない限り、大抵の人間はこの動作は鈍い。
ある人は、幸せを噛みしめているのかもしれない。
ある人は、奥さんへの背徳感を募らせているのかもしれない。
ある人は、私のカラダの味を思い出しているのかもしれない。
このただ立ち止まるだけの数分間。私の最もキライな時の一つだ。
混沌とした感情の群れはひたすら私を刺激する。時にはカラダの外側に表出する。
目をつぶって、私はその内側からの猛攻に耐えた。
そして、思った。
私ってキライなことばかりやっている。
いつまでこんなことを続ければいいのだろう?
-2- マリア
「おつかれさま」
今日一日の仕事を終え、この店のマスターが声をかけてきた。
いつもあまり表情を変えずに言うこの言葉には感情が欠落しているようで、最初はゾッとしたものだ。
しかし、夜の猫のように妖しく光る目の向こう側の優しさを私は知っている。
”尊敬”なんて愚かな表現では決してないがそれに近いものを負の要因ながら感じている。
マスターといっても女だ。周りには男がもちろんいるがみんなこの女の指示を仰ぎ、従っている。
なぜ、この女が一番の権力を握ることになったのかわからない。
バックによほどの権力者がいるのか、それともこの女の過去に理由があるのかもしれない。
どういう理由にしても私にとっては断じて脅威の対象ではなかった。
この店の名は”マリア”と言う。看板はおろか店の内部のどこにもそんな名前は付いていない。
”マリア”はこの店ができる前の小さなパブの名前のことらしい。
名前に無頓着だったこの支配人は俗称としてこの店のことを”マリア”と呼んでいるというワケだ。
たまにパブと間違えて来る人もいたりして紛らわしいから、「名前を決めたら?」と提案したことがあったが敢え無く却下されたことがある。
「今日はどうだった?」
「いえ。別に……」
「ははは、野暮なこと聞いちゃったね。ごめんごめん」
”女だから”と舐められたくないのか、この支配人は常に髪をリーゼントにし、その髪の流れは常に固定されている。
宝塚の男役に出てきそうな出で立ちだ。
この支配人は「ケイ」と呼ばれている。もちろん偽名だろう。その由来をさりげなく聞くと、
「男みたいでカッコいいじゃん」
と言っていた。
口元にあるホクロを吊り上げるようにニヤリとする。本人は28と言っているがきっと二十歳前後の年齢だろう。
ケイは黒くて重い過去を背負っているというような翳を持っていて、すごく大人びた風采だ。だから28と言われても違和感はない。
しかし、私にはその奥にある隠し切れない若さが見えている。
ケイが28と言い張るのは他人、特に働き手の私たちに舐められたくないためだろうが少なくとも私にはバレバレだ。
「明日は入ってたっけ?」
私は首を縦に振る。
「久々に連チャン。ケイちゃん、それぐらい覚えといてよ」
親しみを込めてケイを私は”ちゃん付け”をする。
最初は「気持ち悪いからやめて」みたいなことを言っていたがまんざらでもないようで今は普通に受け入れている。
「サヤカも随分、小慣れてきたわね。結構結構」
ケイは成長した娘の姿を喜ぶような口調で私を誉めた。
実は”サヤカ”は本名だったりする。単純に他の名前で呼ばれることがイヤだったからなのかもしれない。
それとも、もしかしたら”サヤカ”という本名を捨てたい自分がいるのかもしれない。
この”マリア”はかなり人の流れは激しい。6ヶ月ももつ従業員なんて珍しい。
現に今、私より前に入っていた人たちは全員辞めているようだ。
”マリア”は何でもアリのソープとイメクラを合体させた不法な風俗店だ。
生や中出しは基本的にはノーとなっているが店のほうは黙認していて、それを知っている常連客は来るたびに思う存分出していく。
客がフロントで相手の指名と要求プレイのリクエストをし、私たちはそれを忠実にこなす。
もちろんエイズチェックはあるが結構曖昧で、もし感染させられたしたとしてもあまり文句を言えない立場にある。
客の種類も選ばない。
どんなに酔っ払っていようが、バックにヤクザが付いていそうな容姿の人間であろうがケイを含めた店側は差別なく受け入れる。
そのせいで危険はかなり高い確率で伴う。
Sをあそこに塗られて、通常のセックスでは到達できない頂点にイカされて頭がおかしくなった従業員も過去にはいたらしい。
こんな肉体的にも精神的にもリスクが大きい店なため、働き手はあまり長続きはしない。
こういう商売は得てしてそういうものなのかもしれないが、ここは特に従業員の入れ替わりが激しいところだろう。
それに最近、外国人が多くなってきた気がする。
あまり他人には興味はないし、パッと見では日本人かそうでないか区別がつかない人種だっているので
正確なことはわからないがそんな気がする。
客の大抵は日本人を選ぶ。理由は外人の免疫が少ないからということと、病気を恐れているからだろう。
外国の売春婦は実際に病気もちの人間が多いのは事実だから仕方がない。
だから、純日本人の一人である私は結構売れっ子だった。
他のお店で働いたことがないのでわからないが給料は高いと思う。相場は5万だが、もっと吊り上げても構わない。
それに店側にもいくらか払っているようだから、客にとっては5万プラスアルファを最低用意しなければならない。
私はこんな商売に身を染めているせいでお金の価値に鈍感な方だと思うが、それでも高いと感じる。
「別にお金に困っているワケでもなさそうなのにねぇ」
ケイは私の身なりを見ながら呟く。こんな低俗かつ因果な商売をしていて、決して派手になって、同じような子と遊び呆けたりしない。
そんな私を不思議そうに見つめていた。
ケイ曰く、こういう店で働きたい人間のタイプは二つに分類されるらしい。
一つは、ただ遊びたいだけの人。もう一つは、借金等で苦しみ、仕方なく働く人。
もちろん、遊びすぎて借金を作って働かざるを得なかった人もいるので、その境界線ははっきりしているわけではないが、
大方はその二つに分かれるらしい。
前者はどんどん派手になっていき、常におかしいくらいのブランドの服や宝石を身につけ、
遊びまくるため寝不足が重なりそれを隠すように化粧が濃くなってゆく。
後者はどんどん罪の意識が膨らみ、鬱に落ち込んでいく。
顔がやつれ、生きながら死んでいるような人間になったりするやつまでいるようだ。
最初、ケイは私のことを後者の人間だと思っていたらしい。
しかし、一向に罪悪感に駆られていく気配を醸さない私を見て、それも違うと思うようになったらしい。
かといって贅沢に足のつま先から頭のてっぺんまでブランド物を纏うような人間にもなっていないからケイは不思議に思っているようだ。
私は街中を歩けば、普通の人から見れば、こんな世界のことなど知りもしない年相応の若者のはずだ。
「それじゃあ、私帰るね。今日は疲れた」
「アンタいつもそれ言ってんじゃん。おつかれ」
社交辞令に近い雑談を終え、帰ろうとした時に一人の女が”プレイルーム”から乱暴に扉を開けながら飛び出してきた。
その突然の音に私とケイちゃんは反射的に目を向ける。その女の子は上半身裸のまま大きな涙をボロボロと流している。
体躯の割に大きな胸。釣鐘型でつんと尖っている。その頂上には小ぶりの桃色の乳輪と立っていない乳首がある。
私はその子を知っている。つい三日前に入ってきた新人だ。
名前は何て言ったっけ?と思いながらポラロイドが貼られた壁に目をやる。
ヒトミと書かれた汚い字がその子の下に書かれてある。
ああそうだ、ヒトミだ。やけに臆病に「ヒトミといいます……」なんて言ってた記憶がある。
「どうしたの?」
ケイはヒトミの元に駆け寄り、心配そうに眉根を寄せながら言った。でも、決してヒトミの身を案じて言っているワケではない。
ああ従業員がまた一人減っちゃうなあ、なんて店保身のことを考えているに違いない。
「だって、だって……できませんよぉ……」
声を詰まらせながら、ヒトミはケイに訴えていた。
私は17だ。法律では18以上で風営法には引っかからないと聞いたことがあるので18と言っても大丈夫だとは思ったが、
念のため20とウソをついてある。もちろんこの営業の存在自体が不法なため、所詮は気休めにしかならないのだが。
この子もココでは20と詐称しているだろう。実際は私と同じくらい、いやもっと下かもしれない。
すらっと伸びた肢体に、あどけなさの残る顔つきは将来美人になることを確約しているようだ。
そして、何といってもまだ性の混濁としたものに毒されていないような純潔な瞳が一番私の目を奪う。
これは決して20過ぎの女性には出すことのできないティーンズ独特のものだ。
ケイもヒトミが15、6であることをわかっていながら採用したに違いない。
この子よりもずっと大人っぽい私にさえ、私がまだ青臭い10代であることを知っているかのような扱いをする瞬間があるくらいだから
そういう識眼は優れている人間だと思う。
「おい、何やってるんだよ!!」
”プレイルーム”の内側から太い怒声が飛んできた。慣れているとはいえ、決して心地の良いものではない。
声から判断すると筋肉質で強面のあんちゃんってところか。
私はイヤな予感がした。
しかし、その予感に気付くのが遅かった。ケイは私の方をねだるように見ている。
私は肩で息をついた。
「特別料金……つけてよね」
「オッケー」
ケイは右の親指と人差し指で丸を作りウィンクをする。
私は持っていたバッグを投げるようにケイに預けて、その”プレイルーム”に入った。
-3- 幼なじみ
1ヶ月近くも干していない硬い布団にくるまり、私は穏やかに眠っていた。
誰かの声が揺らめきながら聞こえる。次元を超えた遠い世界から引っ張り出されるような不思議な感覚だ。
ワープとはこれの延長線上にあるものなのかもしれない。
「ん……」
抵抗とばかりに寝返りを打つも、徐々に目が覚めていく。
「起きよ〜よ〜」
私のカラダを揺さぶりながら相手は父親とキャッチボールをすることを約束していた子供のように幼稚に言った。
「もうちょっと寝かしてよー。昨日も遅かったんだから……」
「この不良娘が。夜遅くまで何やってんだか……」
私は薄目を開けて、視界に広がる相手の顔をゆっくりと確認した。
小さい顔にあどけない輪郭が残る顔の上には、厚めの化粧がのっていた。
アイラインや精巧に造られた眉の形は完璧でそれが逆に違和感を覚えた。
それに何といっても日本人の気質の全てを消し去ったような鮮やかな金髪が西洋の人形のように激しくカールされているのが目立つ。
「どっちが不良よ……たまにしか帰ってこないくせに……」
目を擦りながらゆっくりと腰を曲げる。脳にまで血液が流れていき、脳細胞が「起きろ」と命令してくる。
そんな中、相手は極端なダミ声をあげた。
「すっごい、香水くさい」
大げさに顔をしかめながら、鼻を抑えていた。
私は異常に反応した。脳内の活性物質が急速に活動し、みるみるうちに目が醒めていった。
「そ、そう?」
「強すぎ。布団にまで染みついちゃってるんじゃない?初めての香水?」
鼻をつまんでいるため、くぐもった声になっている。
「そうだ、寝ぼけてこぼしちゃったんだ」
「私は洗濯しないからね」
相手は呆れながら言う。
「自分でやるから。朝食食べた?」
「うん。ついでにサヤカの分も作った」
「ホント?サンキュ」
「だから早く起きて食べてってよね。学校行かなきゃ」
「食べとくから。私のことなんか気にしないで行けばいいじゃん」
「何を〜。それが作ってくれた人に言う言葉か?」
茶目っ気たっぷりに睨みながら、小さいカラダを懸命に伸ばし、私の腕を掴む。そして、布団からひきずり出した。
私は今、この幼なじみのヤグチマリと同居している。
年は私より一つ上の18歳。大学の1年生だ。
マリとは物心がつく前からほとんど一緒に行動していて、私たちのことを知らない大人には「仲の良い姉妹」とよく間違えられたものだ。
とは言っても、この17年間、ずっと一緒だったわけではない。
空白の年月を経て、今二人は一緒にいる。
トーストエッグに温められた牛乳がテーブルの上に置いてある。朝から強い方ではないので、この少量の朝食が丁度いい。
「牛乳入れてくれたんだ、珍しい」
鼻に洗濯バサミをつけながら牛乳を温めているマリを想像してふっと笑った。
「だって、賞味期限ギリギリなんだもん。もったいないでしょ」
マリは牛乳が嫌いだ。
だから牛乳は一度買うと全部私が飲まなければならない。
私も好きというほどではないので毎日飲むことはなく、大抵賞味期限ギリギリまで残ってしまう。
「マリは食べたの?」
テーブルの上には一人分しかない。そして、洗い終えた食器が台所の横の簡易食器置き場立てて並べられている。
「うん、もう行かなくちゃ」
「大変だね。大学生ってラクできるって聞いたことがあるんだけどなぁ」
トーストの焦げたミミの部分にかじりつきながら何の気なしに言うと、マリは少し過敏に反応する。
「そういう学校もあるけどね。ヤグチんところは特別に大変」
”特別”のところを強調していた。マリはぷーさんのパジャマからお気に入りのレモンイエローのワンピースに着替えていた。
この服は”勝負服”にできるほどかわいい。もし、サイズが合うのであれば絶対何回かは借りていただろう。
牛乳は砂糖がよく溶けていて甘かった。
台所に目をやると凹凸に刻まれたまな板を置くところにスティックシュガーが”L”の形をして置いてある。
マリが半分だけ入れてくれたのだろう。
朝の目覚めにはちょうど良い甘さだった。
日常の何気ない幸せを一滴、ポトリと垂らしてくれたことに感謝しながら、
小学生みたいに部屋をバタバタと行き来するマリを見ると、つい昔を思い出してしまう。
私たちが疎遠になったのは決してケンカをしたからではない。
年が一つ違うという運命上、必然だったのかもしれない。
マリは背が小さく、今も145センチしかない。
小学3年生の頃には身長は私のほうが大きくなり、二人で遊んでいると周りには、
私のほうが姉のように見られ、それが段々マリにとってはイヤになっていったようだ。
しかし、直接のきっかけはマリが中学生になったことだろう。
学校が違うようになってから1年間、私たちはほとんど会わなくなった。
ずっと積もり続けたマリの身長に対するコンプレックス、そして、中学生になって新しい友達が増えたことで、マリは私から離れていった。
私が中学生になった時、つまり1年後にはすっかり他人になった。
廊下ですれ違ってもお互い無視した。
幼なじみなんてたまたま近くに生まれただけであって、時の流れによって容易に淘汰されていく浅薄な関係なのかもしれない。
若干12ながらにしてそう思ったものだ。
再び、二人が近づいたのは私が高校を辞めてからだ。
高校はサルでも入れるような私立を選んだ。
同級生は授業を全く聞かず、ホントにサルのようにゴムのように伸び縮みする髪の毛をいじったり、
性に囚われた視線の交換をし合っていた。
高校一年の終わりごろになるとほとんど学校には行かなくなった。そんな中、両親が離婚をした。
もともと二人の関係は冷え切っていたし、私と二人も同等なくらい冷えていた、というかお互い嫌っていたので何のショックもなかった。
ただ、これは一つの転機になった。どちらに引き取られるかの選択を迫られた際、私は両者を拒絶した。
二人とも顔が安堵の色に染まっていくのを見て、ふふふと感情のない笑みがこぼれた。
その後、私は二人が逆に青ざめるような要求を持ち出した。一つは絶縁すること、そしてもう一つは多額の養育費の請求。
二人が青ざめたのは当然養育費の方で私が二つの要求をゆっくり口に出す変遷で、
顔色がカメレオンのように変わりゆく様はおかしくて仕方なかった。
結局、二人は私の要求を承諾した。
私は家を飛び出し一人暮らしを始めた。
それから二人が私の生活に介入することは今まで一度もない。当然通うことに何のメリットもなかった高校も辞めた。
私は少し大きめのマンションを借りた。二つ部屋があってベランダも台所も広い。
バスとトイレは当然セパレートで、リッチな大学生あるいは同棲したい学生が住むようなマンションだった。
半年間は絶縁金がしっかり振り込まれたがそれ以降はなくなった。しかし、それも私の予想の範疇で何のムカつきも感じなかった。
訴えたらいくらかは分捕れそうだったが質面倒くさかったので結局しなかった。
それに元々、テレクラなどの非合法バイトで結構お金を稼いできていたので、何とかなると思っていた。
そんな時、マリはどこから情報を仕入れてきたのか、ひょいと現れた。
唖然としていた私にマリは「よお」とまるで昨日まで毎日会っていたかのように、軽い調子で私に呼びかけた。
そしてすぐに「しばらく泊めてくんない?」と言ってきた。それはあまりにも自然で私も「うん」と言ってしまった。
昔のマリとは外見が随分昔とは違っていた。
優等生タイプで黒い髪をショートに決め、ほとんど髪型が変わることがなかったマリがパーマをかけて、
金に染め上げているという事実を目の当たりにするだけで驚きだった。
しかし、マリが今大学生だということを知って、中身はあんまり変わってないんだ、と察した。
私と違い、ちゃんと高校も卒業して、ちゃんと受験勉強して、ちゃんと大学に行ったのだと。
人の道の一番真ん中をちゃんと進んだ人間なんだ、あいかわらず優等生なんだ、と。
冷静に考えると、外見は変わるのは当たり前だ。金髪の大学生なんて……むしろ黒髪のままの大学生の方が少ないのかもしれない。
昔のイメージがあまりにも強い私は違和感を拭えることはできなくても、「仕方ない」と思うようになった。
最初からの予定だったのかはわからないが、マリは結局「泊まる」のではなく「住む」になった。
家賃も半額になるし、それにマリは一度疎遠になったとはいえ、別に喧嘩別れをしたわけでもなかったので、私は別にそれでよかった。
「じゃあ行くね」
マリには大きすぎるベージュのハンプトンズ…トートバッグを右肩に掛けながら、牛乳を飲んでいる私に声をかけた。
「今日何時に帰ってくる?」
私は大した意味もなく聞いた。
「今日?う〜ん、予定あるからどうなるかわかんない。御飯だったら作らなくていいよ。適当に食べとくし」
「彼氏んとこ?」
「まあね」
「いいなぁ〜」
マリは不思議そうに目をパチクリさせた。そしてすぐにちょっとだけ嘲笑するように唇の端を歪めた。
「ホントはそんなこと思ってないくせに」
「へへへ……」
私は見透かされたことが恥ずかしくて慌てて目を下にやり、少し焦げ付いたトーストをほおばる。
「じゃ、行ってくる!」
「ってらっさ〜い」
トーストを口に目一杯含みながら私はマリに手を振った。
扉が閉まる音を聞いて、私は「彼氏か……」とつぶやく。
私たちは幼なじみかつ同居人だが、お互いの生活をよくは知らない。
私が今のマリについて知っていることは、文学部の1回生であること、彼氏がいること、
マリ以外の家族は仕事の関係で京都に住んでいることぐらいか。
とはいえ、それらでさえも表面上のことにすぎず、
学校で具体的にどんな講義を受けているのかとか彼氏がどんな人間だとかはわからない。
少なくとも彼氏の写真ぐらいは見せてほしいものだけど、「見せて」と言っても見せてくれなかった。結構な秘密主義だ。
でもこれは私にとっても好都合だったりする。私が今やっている仕事を言う必要がないからだ。
別に頑なに秘密としているわけではないが言わないで済むならそれに越したことはない。
だからもし何らかの形でバレたとしても、私の表情が変わることはないだろう。
「それがどうかしたの?」で終わり。
それでマリが「不潔」と罵るのならそれでも構わない。
私たちはそんな関係なのだ。
一度離れた二人はもう昔とはどこか違っていた。表面上は近くにいる二人だけどその実、全然違う世界で生きている。
今はただ方向の違うベクトルがたまたま交叉しているだけなのかもしれない。
昔は今とは対照的に何でも話した。
今日見た夢だとか、クラスであったこととか下らないことから真剣な悩みまで包み隠さずマリに話した。
マリもそうだったと信じたい。
だから、マリだけが知っている私の事実は星の数ほどある。
再会した時、その夜にマリはいろんな昔話をしゃべりはじめた。
自然隆起した二人の間の障壁を壊そうとする思いが最初はあったようで、
楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったことを楽しげに話しあった。
私がどうしても思い出せないこともペラペラと喋りだすマリを見て、驚くとともに嬉しくもあった。
あの時、そんな話の流れの中でマリは思い出したように聞いてきた。
「サヤカは昔話していた夢をまだ見ているの?」
私はマリが何を指しているのかはすぐわかる。だって再会の日の前日も見ていたから。
あの時はしょっちゅう見ていた。今思うと、あまり見なくなったのはマリが来てからかもしれない。
「うん、しょっちゅう。でもよく覚えてるね」
「サヤカと語り合ったことは大体覚えてるよ」
「ありがと」
「じゃあ」
「うん?」
マリは一つ間を貯めて言った。
「じゃあ、サヤカは絶対彼氏を作らないんだね」
「そういうことだね」
私は素直にうなずいた。
-4- ヒトミ
マリが用意してくれた朝御飯を食べて、めざましテレビとエクスプレスをリモコン片手に交互に見た後、適当な小説とかを読み、また寝る。
昼寝には少し早い。”朝寝”といったところか。こういうことは久しぶりだった。
基本的にはマリが寝ている時間に私は働き、
私が寝ている時間にマリは学校に行くので本来顔を合わせるなんてマリの学校がない土日ぐらいしかない。
何とか昔のような深い関係になろうとしたのか、マリは私が朝に無理矢理一度起きることで一緒の時間を作ろうと提案した。
この案はマリ自身には何の被害もないものだったのでなんて身勝手なことだろうとは思ったが私はしばらくそれに従った。
マリに依存している部分がどこかにあったからだろう。
とはいえ、このルールももう過去の遺物になっている。
マリは彼氏ができ、朝帰りが多くなったからだ。帰らない日もできた。
土日ぐらいいてくれてもいいとは思うのだが、そんな私のささやかな願いは全く届かずにマリはほとんど彼氏のところにでかけている。
もうこの家はマリの寝床程度にしかならなくなっていた。
だから今日みたいにマリが起こすのはたまにしかなく、目を開けるとマリがいると、なんでマリがいるの?とさえ思ってしまう。
たまたま実行される約束に、活動を休止していた私のカラダは否応なく付き合わされる。
本当はマリの気まぐれのルールなんて付き合う必要はないのだが、なぜか妙な義務感に駆られ、マリの言うとおりにしてしまっている。
私は風俗以外に、カラオケボックスでバイトもしている。
こっちはいたって健全でただフロントに立って、客を部屋に入れるだけ。大した刺激も何にもない。
大抵は昼の1時から入って6時まで働き、それから漫画喫茶やインターネットカフェで時間を潰してから”マリア”へ行く。
収入的には、ほとんどお小遣い程度しか稼げないのでやらなくてもいいのだが、私はどうしても辞められなかった。
どこか違う世界に身を置いておきたいという気持ちがあるからだろう。
しかし、今日はそのバイトもなく眠ることに時間を費やした。
私は半分夢を見ることを期待した。
昔は毎日のように見た甘い匂いと身の毛のよだつ恐怖を含有させた夢を。
目が覚めたのは太陽が沈みかけた午後5時だった。
この部屋の西にある唯一の窓からオレンジ色の陽射しが布団と私を穏やかに突き刺し、私にとっての一日の始まりを告げる。
天国に誘われたような錯覚を覚えながら私は目を覚ました。
頭を2、3度振って、夢を思い起こして見る。
しかし、何にも浮かばなかった。
今日も見なかったのかな?
前に進むことができない自分の中身に向かってため息をついた。
周りがシーンとしているところを見るとマリはまだ帰ってきていないようだ。
そっか、彼氏んところだったっけ?
昨日のマリの言葉をおぼろげに思い出しつつ、私はとりあえずシャワーを浴びることにした。
戸張の降りた夜の道を私は歩く。
スカイブルーのラムレザーに幾何学柄のブラウスという派手でも貧乏臭くもない取り合わせで影を薄くする。
化粧も当然薄くした。
アーケードがついている商店街を突きぬけると、一転して華やかな歓楽街に出た。
そこではこの質素な身なりはやや浮いている感じがしないでもないが、私はこれ以上の派手な服をプライベートに着ることはしたくなかった。
最近オリジナリティと称した奇抜な服を見ると吐き気さえ覚える。
休息を忘れ疲弊した街を、非難するように足音を立てて歩いていると、
その先には閉まったヒットショップのシャッターを背もたれにして金髪を自慢気にたなびかせる3人の男が私を見ていることに気づいた。
私の足の爪元から頭のてっぺんまでを吟味するように眺め、獲物とばかりに乾いた唇を一度舌で舐めている。
「今暇〜?」
薄汚い橙色のヒップホップ系の服を着て、の〜んとした、ちょっとカッコツケも入ったような口調でナンパしてくる。
その時のヘラヘラ顔を見るとこいつらに顔の筋肉があるのか?と思ってしまう。
「仕事があるから」
吐き捨てた感じで言い、寄ってくる男達をハエのように払う仕草をすると、その手を一人の男ががしりと掴んできた。
「え〜、いいじゃん。さぼっちゃおうよ」
足蹴に断られたのが男のプライドに触れてしまったのか、少し恐喝めいた口調で私に言ってきた。
掴まれた手で一瞬苦痛を浮かべるがそれすら憎くなる。
私は大きく息をついた。
「いいけど……ココで遊ぼうよ」
そう言いながら掴まれていないもう片方の手でバッグを開き、名刺サイズの紙を見せた。
「ココで働いてるの。安いかどうか知らけど楽しめるは確実だよ」
その紙は”マリア”を紹介するチラシだった。”マリア”とも書かれていない、電話番号もないもので広告として成り立つのか?と思う。
とにかく見れば一目で風俗店の広告だとわかるもので、大した意味もなく私は一部だけケイからもらっていた。
男は私の手を離した。
「な、なんだ、風俗女かよ……」
後ろと前から同時に舌打ちする声がする。
「寄ってく?5万からだけど。特別4万にしてもいいよ。相場制なんだ」
「いいよ。やめとく」
男たちはさっさと退散していった。
その後ろ姿を見て私はまたふっとため息をつく。
男ってそんなもんだ。
しょっちゅう、風俗に行き、性欲を吐き捨てていくくせに、そこで働いている人間を最低の中でもさらに最低な人間だと思っている。
風俗に客として入る人間とそこで働く人間のどっちが低俗だろう?
どっちも変わらないはずだ。
別に認められたいなんて思っていない。
むしろ逆だ。ひっそりとその底辺の世界に隠れて棲みたいと思っている。
だけど、ココロの見えない部分から悔しい思いが滲み出る。
お店に着くと、いつも通りの薄暗い照明と一人の人間が迎えてくれた。
「おはようございます」
「おはよう、今日も時間きっちりだね」
今日もハードジェルをたっぷりつけたケイが本物かどうか定かではないロレックスをちらりと見て言った。
「今日はラクだといいなぁ」
低い声で唸ると、ケイは途端に謝るような仕草をして、
「昨日は本当にごめんなさいね」と妙におしとやかに言う。
私もそれを言わせたくて言ったようなもんだ。
それが単なる”フリ”の域を超えない仕草だとはいえ、言ってくれるのと言わないとではやはりどこか違う。
「ホント、香水一本使っちゃったよ。経費で落とせない?」
「ははは、私がおごるよ。ああいう客はめずらしいからね。専門店でやれっつーの、ったく……」
「でもお金は弾んでくれたからね。ところであの子は辞めたんでしょ?また忙しくなるなぁ。早く新しい子、採ってよね。ちゃんと日本人のね」
ケイは少し気難しそうな顔をした。そして顔を横に振った。
「どうしたの?」
「辞めてないよ。ていうか今入ってる」
親指を立てて、奥の部屋に指差した。
「マジで?」
「うん、何かとりつかれているように、『もう一度やらせてください』って頼むもんだから。
よっぽどお金に困ってるのかねぇ。とにかく私心配で心配で」
「心配そうじゃないじゃん」
「そりゃあ、だって……」
ケイは私の方をじっと見る。
私はため息をついた。今日これで何度目のため息だろう、とココロの片隅で思った。
「……じゃあ待機してるね」
「助かる!こんなことサヤカにしか頼めないから」
つまり、もし何かあったら私が身代わりになるっていうことだ。
「ケイちゃんがやればいいのに」
半分冗談、半分本気でポツリと言った。
「28にもなったオバサン、どうやったら代わりになるっつーのよ?」
「ケイちゃんは若いよ。磨けば……そうだなぁ、ハタチぐらいには見える」
ケイは一瞬目をそらした。無意識だろうけど鼻のてっぺんをポリポリと掻いていた。
多分、ウソがバレたときの癖なんだろう。私はあえて無視する。
「ま、もうすぐ終わるから……。大丈夫だとは思うんだけどね」
「とにかく、着替えてくるわ」
「うん」
私は一応支給されている上下ピンク色でミニスカートの服に着替えた。
「一応」というのは、当然客のリクエストに応えるためにセーラー服を着たり、ナースの服を着たりいろいろ変えるからだ。
着替えを終えるとケイの隣りに女の子がいた。
化粧のせいかで昨日や最初に出会った時とは少し顔が違うようにも見えたが間違いなくその子はヒトミだった。
「ああ、無事に終わったんだ」
私は安心して二人の元に駆け寄る。ヒトミはナイロン性の青い服に帽子を被っていた。
そして下はギリギリまで食い込み、恥部の形状がうっすらと見ているような特製の短パンだ。
つまりは漫画で良く見る警察官の露出度が大きいタイプ。
こんな服、警察官は絶対着ないはずなのになんで男という種のイメージ上には統一されて存在しているのだろう?
「ありがとう、サヤカ。無用の心配だったみたいだね」
ケイはテーブルに両肘をつけたラフな態勢で言った。
「うん、じゃ心おきなく稼がせてもらうわ」
トイレをしようと背を向けた時、
「昨日はありがとうございました」
と、ヒトミの高い声が響いた。
私は振り返る。
「いいっていいって。フレッシュさんにはキツすぎる依頼だったからね」
ウィンクをすると、もう一度ヒトミは深くお辞儀をしていた。
今日はいたって普通の日だった。
普通といってももちろんやることはやるんだけれど、あんまりキチガイなプレイを強要する人間はいなかった。
最初の人間はただセックスして終わりだった。キライなフェラチオはあったけどそれは仕事上仕方がない。
私は別にそういう肉体の快楽が欲しくてやっているわけでもないし。
次の人間は、短小包茎だったけど別に臭くはなかったし、フツーに終わった。
3人目の人間はどうやら彼女持ちみたいで私のカラダを愛撫している時に告白してきた。それを聞いていじわるく、
「彼女に悪いと思わない?」
と悪女たらしく侮蔑を込めて言うと、下半身だけ裸だった男はペニスともどもカラダ全体が萎縮した。
私は最初この男はMでそう意地悪く言いまくることによって快感を得る人間だと思ったので意外だった。
必死でなぐさめていると、突然私に襲いかかってきた。
がしりと掴まれた両肩の痛みに顔をしかめながら、逆上するタイプか?と思い、レイプシーンに移行する流れを滑らかに想像したが、
男は予想に反し、突然の自分の行動を自分でも驚いているようにハッとし、押さえつけていた肩を外し、
「ごめん」
と言ってきた。
「……いきなり……なんなの?」
動揺を全身に浮かべ、息を乱しながら私は尋ねた。襲いかかってくることはよくあることだったので実はそんなに動揺はない。
演技をかなり加味していた。
「実はお願いがあるんだ……」
気弱な調子のまま、男は私に口を開いた。
どうやら彼女は普通のセックスしか許さないようで、体位もほとんど正常位。
そんな彼女に不満があったようだ。確かにそんな女、私が男だったらイヤだなぁ、と思い、同情が小さいながらも生まれた。
結局今日の目的はいつもと違うセックスをしたいということだったので、69とかをやってあげた(これもキライなんだけど)。
どっちにしろ、全部私が主導権を握っていたので、気楽だった。
仕事を終えてシャワールームへ行き、カラダに付いた男の唾液や精液を洗い流す。部屋から出るとヒトミが待っていた。
「どうしたの?」
てっきり帰ったと思ったので、目の前に映るヒトミの姿を見て少し戸惑った。
それよりもこの世界の中で待ち伏せされるのは初めてだった。
「昨日は……本当にありがとうございました」
もともと伏せ目がちだった顔をさらに下げる。長い黒髪の先がヒトミの目の前に落ちる。
「もういいって。お金もたんまりもらえたし」
ヒトミの横をすれ違う。そして、震える肩をポンと叩いた。
「じゃあね」
「あの!」
ヒトミは顔を上げ、振り返り背中越しに叫んできた。「何?」と聞く私に、
「御飯……おごります……」
と言う。
私は眉をひそめた。そわそわと落ち着かない表情には全体的にうっすらと赤みを帯びている。
私は同業者とはほとんど付き合いがない。
そもそもヒトミを知っていたのも、たまたまケイに用が会ってケイの部屋を訪れると、ヒトミが面接を受けていたからだった。
「こちらは今度入ることになったヒトミちゃんです。みなさん仲良くしてやってね」
なんていう馴れ合いはここではない。
私の知らない間に、誰かが入り、名前も顔さえも見たことのないまま辞めていく人間だっている。
御飯を食べに行くなんていうのは少なくとも私には論外の世界だった。
「別にいいよ。私あんまりココの人たちと付き合わないようにしてるんだ」
「でも……私の気が済まないし……」
「いいって」
「いやです」
結構ガンコな子だ。そして、こういう子なら確かに辞めないかもねとも同時に思った。
「わかった。じゃあおごってね。ちょっと用意するから待ってて」
そういう主義ってだけで取り立てて理由も見つからなかった私は仕方なく付き合うことにした。
-5- 働く理由
時刻は朝の5時を過ぎている。
この付近でこんな時間に空いているのは24時間営業の牛丼屋かラーメン屋かコンビニぐらいしかない。
私たちはあまり人がいなさそうなラーメン屋に入った。
路地裏のさらに裏に構える”琥福”という名のこの店は夜の10時に開き、朝の7時に終えるというヘンなお店だ。
中に入るとやはり誰もいなかった。
こういう隠れたところにある店は得てして「誰も知らないおいしいお店」「玄人が好む通な店」みたいに思われがちだが、そんなことはない。
味も量も別に変わったことは何一つない。だから人が入らない。だから私は好きだったりする。
「嬢ちゃん、今日はめずらしく一人じゃないんだ」
店長(といっても従業員は店長と奥さんの二人しかいないみたいだけど)が私に声をかけてきた。
私は客の絶対数が少ないこともあって常連扱いされていた。
「まあね、卵入り焼豚ラーメン2丁……それに唐揚げつけて」
人の金でおごってもらうというのにあまり遠慮せずに言った。ヒトミの方に目を向けると、
「あの……私、卵結構です……」
とオドオドしながら言ってきた。
「キライなの?」
「いや、そうじゃないんですけど、毎日食べてるから……」
「ふーん、おじさーん!一つ卵抜きにして!」
と叫ぶとカウンターの向こうで「あいよー」という威勢のいい声が聞こえてきた。
「これでいい?」
そう尋ねると、ヒトミは無言のままゆっくりと頷いた。
別に明るいというわけではないが、”マリア”に比べればよっぽど照明が明るいこのお店であらためてヒトミを見ると、
そのかわいさにぞっとした。
肌はまだプルプルしそうなほど弾力があり、化粧の必要性は全くなさそうに思える。
この子は私よりも年下で今までこういう世界には足を踏み入れるどころか見ることさえ拒絶してきたに違いない。
この子はきっと純粋培養の中で育ったのだ。どこでどう間違って”マリア”に行き着いたのだろう?
出されたラーメン(途中まで作っていたのかものの3分で持ってくる)を食べる前にヒトミは背筋を伸ばして合掌し、
「いただきます」と言った。
「本当にありがとうございました」
ラーメンに口をつける直前にまたヒトミは言った。あんまり言うもんだから私はウザったくなりつつあった。
「別にいいって。でもこれからはもう助けてやんないから」
「はい……。頑張ります」
「まあ、あんなことは滅多にないから」
「だといいんですが。また同じことがあると、耐えられないかも。私あんなの……しないし……」
「しないワケないじゃん」
「いや。人前ではできませんよ……」
「その気になればできるもんよ、って食べ物食べながら話すことじゃないね」
ヒトミの代わりにプレイルームに入った時、なるほどね、と思った。
想像したヤクザ風の兄ちゃんじゃなかった。ネクタイもきっちりした細めのサラリーマン。
年は28歳から32歳の間ってところか。軟弱そうなカラダからは想像のつかないような酷い神経を有している。
ヒトミっていう純粋そうな子には決して耐えられないことだろう。
エリート風の男が求めてきたプレイはスカトロだった。
いろんなプレイはあるがこれはかなり理解出来ない部類だ。
精液と糞のこびりついた部屋に私は辟易しながらもその男のリクエストに従った。それからはあとくされなく終えた。
しまりのある筋肉をビシッとしたスーツで纏い、高そうな薄いメガネを2、3度かけ直す。
皺一つない身なりと、何かに常に飢えているようなギラギラした目から察するに、この男はエリートなのだろう。
明日のニッポンを支えるような人間がこんな最低の地で己の欲望に従順していく。そう想像させたことが一番吐き気をもよおさせた。
香水を目一杯かけてもまだ消えない糞まみれの異臭に私はできることならもうやりたくない、と痛切に感じた。
その一方で、久しぶりにココロとカラダが分離する悦楽に覚える自分がいた。
このごろはあまり目的に進むのではなく慢性的に働いていたことに気付く。
だから思い出させてくれたこの子に少しは感謝している。もちろん、礼を言う気はないけど。
私は音を立てながら麺をすすった。しばらく食べるのに夢中で無言が続いたがヒトミの方から口を開いた。
「あの……なんであそこで働こうと思ったんですか?」
この子なら絶対こういうことを聞いてきそうな予感を御飯を一緒に食べるということになってから感じていた。
ああいうところで働く理由は金と一元的に決まるが、それが必要な根幹の理由は人によって様々だ。
それはどれも究極的で、他の人との理由とは共通点は少ない。
「それって、何で数ある風俗店から”マリア”を選んだかってこと?それとも何で風俗店で働いているのかってこと?」
逆に意地悪く聞き返すとヒトミは少し困った顔をした。
「え〜っとどっちも……」
私は苦笑した。
「私あんまり自分のこと言いたくないの。ヒトミちゃんはわかるでしょ?」
「え?」
きょとんとした目を私に見せる。その目は少しさっきまで働いていたせいか淫靡の名残りを漂わせている。
「どうしたの?」
「え?いや……はい、そうですね。わかります」
ヒトミはドキマギしながら一度目をつぶったあと、静かに頷いた。
「私もあんまり言いたくないですから」
「じゃあ、なんでそんなこと聞こうと……あ、わかった」
「はい?」
「ケイちゃんに聞いてこい、って命令されたんでしょ?」
ヒトミの掴んでいた麺が箸からスルリと落ちる。つゆがピチャリという音とともに弾け、ヒトミの手についた。
しかし、ヒトミはそれさえも気づかない。
「正解か。ケイちゃんも姑息だね〜」
「いや。あの、それは……」
「別にヒトミちゃんが悪いワケじゃないよ」
「ち、違いますって」
その慌てっぷりからはどう考えても図星だ。
私はすごく恨みったらしく言っているがそんなに嫌悪感はなかった。別にケイをイヤな奴だなんて思ってもいないしもちろんヒトミにもそうだ。
ケイは私がどんな人間であるか興味をずっと持っていたし、いずれは聞いてくる予感はしていた。
まあ、こうやって間接的に聞いてくるとは思わなかったが。
「簡単だよ。エッチが好きだから」
私たち以外誰もいなかったから堂々と言った。
店の人ももう次の客が来ることをあきらめたらしく、中に入っていて姿は見えない。私が信頼されている証拠でもある。
「それだって……」
「それに何といってもお金がいっぱいもらえる。言うことないじゃん」
私は唐揚げを一つ食べた。ヒトミはやや呆然としている。
「大抵の人間はそうじゃないの?ヒトミちゃんはどうなの?」
ヒトミが「私は……」と言ってから間が空く。カウンターの向こうの換気扇の音が妙に耳に届く。
「ああ、別に言いたくなかったらいいよ。他人の動機なんてあんまり興味ないし」
私は麺をすする。相変わらず、上手いともまずいともいえない味だ。
「じゃあ、なんであのお店に……?」
「それは何となくかな?しいて言えば、ケイちゃんの人柄が好きだからかな?」
「え?」
ヒトミは驚いた表情を見せた。
ムリもない。”マリア”で働きたい人間はケイとはまずあの暗がりの中での対面する。
吊り上がった猫のような目が色の付いた照明のせいで無気味に光り、まず恐怖を覚える。
そして、ちょっとドスの入った(これは作っているらしい)声で再び恐怖を感じる。それにケイは一度こう脅す。
「カラダがどうなっても責任は取らないからね」
多分温室育ち(私が勝手に決めたことだが)のヒトミにはただ怖い人間にしか見えないだろう。
「ケイちゃんって見かけによらず、お茶目なところがあるんだよ」
さりげなくケイをフォローしておいた。
今後あの店で働くためにケイのことを忌み嫌っているようでは仕事の内容がどうとか言う前に辞めてしまうだろう。
「そ、そうなんですか?はぁ……」
ヒトミは理解し難いといった感じで曖昧に頷く。
「ま、温室育ちのあなたにはわからないかもしれないけどね」
さりげなくカマをかけてみる。
「そうですね……」
「あ、やっぱりそうなんだ?」
「は?」
「結構、ヒトミちゃんって裕福に育った人間でしょ?」
「裕福って?別に私、そんな風に思っていないですよ」
「ヒトミちゃんて両親から愛されてる?」
「……はい」
一瞬作った翳と静寂をすぐに消しながらヒトミは頷く。
「子供の頃、クリスマスとかにプレゼントもらえた?」
「はい」
「お父さんとお母さん仲いい?」
「……はい」
ヒトミの表情が少しずつ消えつつあることがわかった。目線が何かに押し潰されそうになったようにどんどん落ちていく。
「ごめんごめん、やめよう」
他人のことに興味はないと言っておきながら何質問しているんだろう?と思い、これ以上質問するのはやめた。
でもそんな矛盾に頭をかしげている心情をヒトミは感じることもなく、ただ無表情に私の喉元を見ていた。
「ま、まあでもそんなこと関係ないから。とにかく続ける気あるの?」
「…………」
「がんばれる?」
無言で内部の葛藤と闘っているようなヒトミを今度は少し諭すように聞いた。
ようやくヒトミは目線を上げた。
「はい。がんばります!」
ヒトミに感情の息吹が吹き込まれる。
「そんなに気合入れなくてもいいって」
耳元で大声をあげたので私は思わず自分の耳を抑えた。
そして、ほんのちょこっとだけヒトミがあんなところで働く理由を知りたくなった。
まあ、おそらく両親が借金をしているからという典型的悲劇パターンだとは思うが。
ガラガラガラと私たちの後ろから扉が開く音がした。別のお客さんが来たようだ。
どかた姿のおじさんと金髪の兄ちゃん。ココの近くで工事でもしているのだろうか。
「おじさ〜ん」
一向に店に現れない店長を大声で呼ぶと、目をしばたかせながら店長は現れた。
どうやら眠っていたようで少ない髪の毛が”ゲゲゲの鬼太郎”のようにピーンと数本立っている。
「ごちそうさま」
私はそのままお金を置いて、ヒトミを促して店を出ることにした。
別に恥ずかしいワケではないが、あんまりこういう人たちに注目されるのは気分がよくなかった。
「サヤカさん」
のれんをくぐってからすぐにヒトミは私の脇に肘打ちする。横を見るとヒトミは自分の財布を見せ、お札を出す仕草をした。
私はヒトミにおごってもらう約束だったということをすっかり忘れていた。少し赤面しながら手を差し出し、1500円をもらった。
そのまま、私たちは別れることになった。ヒトミはしばらく”マリア”に働くことになるだろう。
でももうこういう風に食事に一緒に行くことはないだろう。私が誘うことは絶対ないし、もし誘われたとしても断るつもりだからだ。
「じゃ、さよなら」
私は「またね」とは言わなかった。
「今度一緒に御飯食べる時は、本当の理由を教えてくださいね」
私の心根を翻すようなことを、ヒトミは深くお辞儀をしながら言った。
朝もやの中晴れ晴れとした顔を見せるヒトミに対し、私は二度とないと決めつけた食事の約束をされたようで「何?」と不快さを顔で表す。
「だから、あの仕事をしている理由、もっと付き合いが深くなったら教えてください」
「何言ってんの?」
「私、何となくわかるんです。サヤカさんて本当は性を売り物にする人間じゃないと思う。それにお金に執着があるとは思えないし」
私は取り立て屋の兄ちゃんみたいに腹立ち半分に顔をしかめた。
「それって、ケイちゃんの言葉?」
「違いますよ。確かにケイさんは同じようなことを言ってましたけど、私もそう思ってました」
「そんなことないって」
「そんなことないです」
ヒトミは”結構”ではなく”かなり”ガンコな人間だと修正した。私は一つ息をつく。
「わかった。じゃあ、今言うよ。だからもう外では会わないよ。もともとこういうのってキライなんだ」
「え?いいんですか?」
朝がもうすぐやってくる。世界にとっての一日の始まりを見られたことが私の口を軽くしたのかもしれない。
「一度しか言わないよ。私ね……」
ヒトミはツバを飲み込んでいた。2、3度大きくまばたきをしていた。
「愛のないセックスがしたいの」
どこまで信じてくれたのかはわからないが、これは私の紛れもない本心だった。
-6- 夢の中の少女
夢を見た。
不思議でもなんでもない、昔はいつものように見ていた夢だった。
そして、それは私が待ち焦がれていた夢。
私という人格を形成した大切な夢。
登場人物は二人。
私と私と背丈が同じくらいの少女。他の人間は今まで一人も出てきていない。
この世界は永遠に私とその少女だけ。
遠い彼方に少女がいる。次の瞬間消えるのではないかと思うくらい、存在が薄い。
だから私はまばたきをすることさえ恐れてしまう。
「なんで毎日出てくれないの?」
私は少女の透明に輝く瞳に向かって聞いた。
出会えたことの喜び。それとともに生まれる喜びの持続への欲求、消滅への不安。
真っ白な大地に真っ白な雲、そしてなぜか真っ白な空。
空際がはっきりせずに、どっちが天でどっちが地なのか次の瞬間、見誤ってしまいかねないような白一色の不思議な空間。
少女はその低く浮かんでいる真っ白な雲の上に座って、私を見下ろす。
ネグリジェのような軽そうな白い服を着て、黒いはずの長い髪が空を覆う色のない光に照らされて白く輝いている。
少女はその髪を風にたなびかせて私の方を見ながらフフフと笑っている。
「違うよ。サヤカが出て欲しくないって思っているからだよ」
ポツリとつぶやく声は私の耳を介さずに直接脳に届いたような強い振動をもたらす。
「私はずっと思ってる!だから!」
涙腺が緩んだのか、目の前の光景がぐしゃりと歪んだ。
「ホント?」
「うん!」
少女は背中には羽根があるのか、ふわりと宙を舞うように私の元にやってきた。
私と少女の距離は遠かったはずなのに、一瞬で私の目の前に現れた。
白なのか透明なのか判断の難しい輝く肌が私を狂わせる。
少女は口元を緩めるだけで無言のまま私を抱きしめた。
一連の静寂の中、パサッという長い髪が一度宙に浮き、また落ちる音を抱擁に溶け込まれていく中で聞きながら要求した。
「ね……え。キスして……」
「……うん」
少女は処女の匂いを浮かせながら、私の肩を一度掴む。
目と目が合って、私は更なる悦楽の境地に引きこまれる。
そのまま少女は私にキスをした。
柔らかい唇。私に巻きついた手。そして相手を通して感じる私の高なる鼓動。
ココロもカラダも存在の全てを奪われていく。
高揚しているのに羊水に包まれたような穏やかな眠りに身を沈めようしている、そんな不思議な感覚。
「どう?」
耳元で囁かれる甘くちょっと切ない声。
私は「感じる」と素直にうなずいた。
何のことはない。
ただのキス。ただのハグ。
私がいつもやっていることに比べればてんで薄い行為。
それなのに私は感じていた。
この子と最後までやったら、私はどんな境地に辿り着けるのだろう?
「……お願い……」
「何?」
「エッチしたい……」
柔らかい少女のカラダが一瞬だけ固まったような気がした。
少女はその私の願いを拒絶するように私から離れた。
「エッチはしたくない。カラダなんてキライだから」
抑揚のない声がいつも私を絶望に突き落とす。
少女は私を憎物の対象であるかのような蔑んだ目をする。
「でも……今はキスしてくれた……」
「別にキスしてないよ。サヤカがそう、勝手に妄想しているだけ」
「妄想……って」
「だってココは仮想の世界だもん。すべてはあなたが勝手にイメージしてるだけ。ホントはそんなもの存在していないの」
じゃあ、その甘い旋律を残す不思議な声も目に映る透明な肌も、このキスの感触も、触れたカラダの柔らかさも胸の高鳴りも、
そしてこうやって性の律動の感覚も全部ウソだって言うの?
口に出したりはしなかった。しかし、そんな私の思考を全て見抜いたかのように、少女は莞爾として笑った。
「私たちを結びつけているのはココロだけ」
再び少女は私を抱きしめた。優しくて柔らかくて、私の性感帯さえも揺さぶる。
でもこれも少女から言わせると”ウソ”で、私が妄想しているだけなのだ。
私は瞼に浮かんでいた涙を惜しまなく流した。無力に苛まれる涙だった。
「お願い、教えて。私はどうしたらいいの?どうしたらこんな気持ちから解放されるの?」
触れたい。
感じたい。
キスしたい。
ココロからそう思えるのはこの子だけ。
だけど、この子は許してくれない。
その存在自体を認めてはくれない。
「カラダはいらない。ココロが欲しい」
少女は同じようなことを繰り返した。
そんなの答えになっていない。だけど、私はうなずくしかなかった。
「せめて……名前だけ教えて……」
私は聞いた。知っているはずなのにまた聞いてしまった。
夢の中というのは時間という概念すらなくて、思考その他、物事が全て輪廻するのだろうか?
少女は微笑んだ。透明な光に抱合された微笑み。この笑みもウソだって言うのだろうか?
だとしたら、この夢の世界に真実なんていうものがあるのだろうか?
そして少女はゆっくりと口を開いた。
目が醒めるとカラダ中汗まみれだった。まだ夏には早いというのに下着はぐしょぐしょに濡れていた。
深呼吸してからおもむろにパンツの中を自分でまさぐる。
汗とは違うねっとりとした液体が手についた。その手を自分の鼻の頭に持っていく。
「やっぱり感じていた……」
少女に埋もれた私の存在が目に焼きついている。
何らかの究極の形に思えたことも、こっちの世界にくると途端に自嘲に変わる。
やっぱり私は日本一の変態だ。
同性にでももちろん異性にでもない。アニメオタクのような2次元のキャラにでもない。
私は無次元の少女に性欲を膨らませているのだから。
壁に掛けられている何の変哲もない時計を見ると、朝の9時を過ぎていた。
物音が全く聞こえないところから察するにマリはもう学校に行った、もしくは帰ってきていないようだった。
自分の愛液の匂いが鼻を襲う。
朝だというのに私は衝動が抑えられなくなる。ココロとカラダは離れられないことを再認識する。
絶対あの子の願いは叶えられないと思う。
「ごめん……」
誰に向かって呟いたのだろう?
自分でもわからないまま、カラダの疼きに任せてオナニーをした。
全身汗だらけのカラダは異常に感じ、目の前のシーツを噛みながら何度も喘いだ。
まだおぼろげに脳裏に残っている夢の中の残影を想起しながら、私は数分間の悦楽に溺れた。
そして、
「マキ……」
最後に夢の中の少女が言った名前を、淫らに喘ぐ吐息に紛れて呟いた。
-7- 三日月での出来事
マリはいなかった。
テーブルの上に置いてあるものが私が寝る前に見たものと同じだったこと、
布団がきっちり畳まれていることなどから考えて、マリは帰ってきてさえいないようだ。
そういう日もよくあるのだが、その時には大抵携帯に留守電、もしくはメールが入っている。今回はそれすらなかった。
まあ、メールを送ったのになかなか届かないということもあるので多分、そういうことだろうと楽観視した。
電話をしようとも一瞬思ったが、別に帰ってこないことが異常事態というほどでもないし、
もしかしたら朝からいろいろヤっているのかも?と頭をよぎったのでやめることにした。
私はマリのいないモーニングをいつも通り、穏やかに過ごした。
マリが帰ってきたのは正午を過ぎてからだった。
コンビニへ行って、鮭とシーチキンのおにぎりを一つずつ買って昼食を済ませたばかりだった。
もう十分ほどしたら出かける予定だった。
「お帰り」
目も合わさずに素っ気なく言う私に、
「ただいま」
と同じく素っ気なく返してくる。
いつもと違いトーンが低かった。朝帰りという負い目でも感じているのだろうか。
「遅いよ」と一言声をかけようとマリを見ると、その姿に違和感を感じた。
そしてその原因が服装であることにすぐ気づいた。
ほころびダブついたジーンズに白のジップアッププルオーバータイプのトレーナー。
ジーンズは似たようなものがいっぱいあるので何ともいえないがこの少し、もさっとしたトレーナーは見たことがなかった。
昨日の服装とは明らかに違っていたし、何よりマリの好みには合っていないような気がした。
おそらく彼氏のものなのだろう。全体的にマリのサイズより二周りも大きそうなサイズだった。
とにかく深く詮索することではないと思った。
どう見てもまだ食事を摂っていなさそうだったマリに、
「お昼御飯作ろっか?」
と訊ねる。しかし、マリは「ううん」と言った。
「眠いし寝る」
「学校は?」
「今日は疲れたし休む」
「あっそ」
淡々とした会話の中、すれ違うマリの顔を追う。どことなく沈んだ顔をしていた。
彼氏とケンカでもしたのだろうか?
単純な思考回路だけどそうとしか思えなかった。
「じゃあ行ってきま〜す」
支度を済ませ、隣りの部屋にいるマリに向かって声をあげた。
私が出かける時に、マリがいるなんてめずらしいことだったのでヘンな感じだった。
返事はなかった。多分もう寝ているんだろう。
昨日はオールナイトだったのかな?なんて下世話な想像もした。だけど具体的な想像はしたくない。
それは親とか姉妹とか近親のそういうシーンを見ると激しい嫌悪を覚える感覚と同じなのだろう。
「今日は早く帰ってくるからね!」
一応言ってはみたが、マリには届かなかったようで返事はなかった。
太陽がしっかりと大地を照らす時に歩くのは何て気持ちがいいんだろう。
空気が夜よりも軽くて、歩くたびにカラダをふわふわ浮かせてくれているような感じがする。
そして夜に行動することがどこか世の中を上から見ている神様からコソコソ隠れていることのように思え、恥ずかしくなった。
別に神様なんて信じているワケじゃないんだけど。
「おはようございま〜す」
と私は昼モードの笑顔で語尾の伸びた挨拶をする。
向こうからも「おはよう」と返事が来た。
「今日も暑いねえ」
「ホントホント。でもココは天国だべ」
赤い制服に紺のスカートを着た相手は笑っていた。
背が私よりも小さくてちょっとだけ太っている、この春上京してきた女の子。
あまりに純粋すぎて年上なのについ子供扱いしたくなる。こういう子は私の棲む世界とは無縁の子なんだろう。
大体、オナニーとかをするのだろうか?
そんなことを考えている自分に気づくと、私は自分の頭をゴツンと叩いた。
昼モードにまだ完全にはなっていない。
「どうしたの?」
フロントに立つ女の子―名前はナツミという―が心配そうに聞く。私は慌てて「なんでもない」と言った。
「今日もカッコいいね」
肩口まで伸びた髪をまとめてバレッタで止めた髪型、耳に左右1つずつピアスをつける。
私は年以上に大人っぽく見せていた。一方ナツミは濃淡のはっきりしない田舎臭い化粧をしていて子供っぽい。
いや、もしかしたら化粧すらしていないのかもしれない。
「サヤカって年下には見えないよ」
「私もナッチが年上には見えない」
そう言うと一緒に笑った。ナツミは「ナッチ」と呼ばれている。自分でも言っている。
最初はヘンな感じがしたがナツミの無意識の自己主張なんだろう。
しばらくするとすぐに慣れた。
「今日お客さん、いっぱい入ってる?」
私は受付フロントの内部を覗いた。盛況だったらクリップが付いた伝票が所狭しと並べられているはずだ。
「まあまあこれでも多い方やなぁ。カラオケブームも去ったからしゃあないわ」
ナツミに尋ねると、フロントの後ろにある厨房から一人の女性が顔を覗かせた。
この店の店長だ。髪の毛は基本的には黒くしなければいけない規則なのに自分は金髪。
そして、私たちには金髪を許さないという横暴な店長だ。
「ユウちゃん、もう来てたんだ」
「コラ!店長に向かってユウちゃんはなんや。”ちゃん”付けはやめぇや」
「じゃあ、ユウコ」
「それも却下。なんで17の小娘に呼び捨てにされなアカンねん」
眉間に皺を寄せて、ユウコは頬を膨らませる。
確か20代後半なはずだが年に似合わず、綺麗というよりかわいいと表現するほうが的確だ。
「そんな顔してるとまた皺が増えるよ、ユウちゃん。もう三十路なんだし」
「オイ!まだ28や。何言うとんねん」
振り上げる手を私はヒラリとかわし、
「じゃ、着替えてきま〜す」
と言いながら逃げた。
「おはようございま〜す」
ナツミの着ているのと同じ、赤色のはっきり言ってダサい制服に着替えた私はあらためて、
挨拶をするとそこにはナツミとユウコともう一人いた。
「お、カオリじゃん。ヒサブリ」
160cmをゆうに超える長身で、幻惑的な黒い髪の持ち主の女性が見えて、思わず声をかけた。
「久しぶり。元気にしてた?」
カオリはどこか抜けている少女で年はナツミと同じ二十歳。そしてナツミの幼なじみだ。
ちょっと前まではよくこのカラオケ”三日月”(スナックのような名前だけどいたって健全)
で働いていたが学校が忙しくなったのか最近は月に2、3回しか入っていない。
その2、3回にたまたま私と被らなかったことで2ヶ月近くもカオリとは会っていなかった。
今日も被っていなかったはずなので単に遊びにきたのだろう。
「それよりさあ、これ見てみ」
と、フロントの下に設置されたモニターを指差した。
ナツミもユウコもモニターを見ている。
「ちゃんと仕事してくださいよ」
呆れる私に聞き耳を立てずにナツミもユウコも釘付けになっていた。
ユウコはヨダレを垂らしかねないくらい卑猥な笑みを浮かべていた。
ナツミは恥ずかしそうに、でも興味津々らしく顔を手で覆い、「いやだべさ」と呟きながら、
指の間からしっかりとその目はモニターを捉えていた。
「どうしたの?」
モニターを覗く。そこには重なっている二つのカラダがあった。
このモニターは部屋を監視するもので、全ての部屋につけられている。もちろん、声は聞こえないし、画面も白黒だ。
「ありゃあ、やってるね」
私が普通に言うと、ナツミはこっちの方を見て、
「恥ずかしい」
と口を尖らせた。
「しかし、こんな真昼間っからお盛んだね〜。サボリ学生かなぁ」
ユウコが言うとナツミは、
「でもさあ、両方とも女だったような気がするんだよね」
と言った。
「マジ!レズ?」
私は一瞬ドキリとした。そして、マキの曇りガラスのフィルターがかかった顔を思い浮かべる。
ナツミは立ち上がり、フロントに置かれている”ルーム表”を見た。
この表にはどの時間に、どれくらい、どの層のお客が入っているかを書くことになっている。
「やっぱり、女二人だ」
ナツミはそれを見るなり言った。
「女っぽい男だったんちゃうん?」
モニターを凝視したままユウコは言う。男か女かはフロントの人が見て判断するもので、
当たり前だけど「あなたは男ですか?」なんて決して聞かない。
だから、男か女かわからない人種が増えている昨今、間違える時だって多々あるだろう。
「う〜ん、そうかなぁ。確かに二人とも女の子だった気がするんだけどなぁ」
首をかしげるナツミをよそにカオリは、
「おぉ〜、悶えてる悶えてる」
と、乾いた唇を濡らすように舌なめずりして言った。
「カオリもそんな恥ずかしいこと言わないでよ」
ナツミが言う。その言葉すら恥ずかしいのか?と私は苦笑し、その純粋さに少しだけ羨望した。
白黒で顔とかはよく見えなかったが、やっていることははっきりとわかる。
下になった女の子は下半身を脱がされ、上半身も胸の上までまくられて、乳首がツンと立っているのがうっすらと見える。
「結構乱暴な彼氏だよね」
私は言った。
上の男(ナツミは女と主張するがそうは見えない)は両の手首を乱暴に掴み、
下の女はイヤそうに首を何度も横に振っている。いや、そういうことが楽しいのかもしれない。つまり男が典型的Sで女がM。
イヤイヤと言いながら実はそうしないと萌えない人間たちだっているのだ。
男は女の下半身に顔をうずめはじめた。女のスレンダーな足が小刻みに痙攣しながら宙に浮く。
くびれた腰がはっきりと見える、かなりエッチな体型の持ち主だ。
ふとナツミを見た。イヤと言っていたナツミも結局はモニターを凝視している。
多分、彼氏もいないし、もしかしたらオナニーも知らない少女なんだろうけど、もちろん性欲はある。
今こうやって未知の世界を見るような視線を注ぐナツミの胸とかアソコとかを触ってみたくなった。もしかしたら濡れているかもしれない。
「しかし、汚らわしいよね。こんなコトして……」
ナツミは目は一点に集中させながら嘆息した。それを聞いて、隣りにいたユウコはモニターを見つづけたまま、
「エッチは崇高なもんやで。愛するもの同士がその愛を確認するために行う神聖なもんや」
と呆れ気味に主張した。
「でも……」
「だから、それを売り物するのは許せんねん。この子たちはおそらくお互いが好きなんやろう。
じゃあ、すばらしいことや。汚らわしいなんてことは絶対ない」
官能を堪能し、性情が血液の巡りを早めているはずのユウコから生まれる聖性の水を浸したような言葉に私は小さな憧憬の念を抱いた。
と同時にそれは私のことを100%否定していることだったので、えらく胸を貫いた。
もし、ユウコの保有する聖なる部分に触れたとしたら、私は跡形もなく溶けてしまうだろう。そんな日が来ないことをひたすら願った。
ピンポーンと市役所や郵便局の窓口でよく聞くような間延びしたチャイムが鳴った。
これはお店の前の扉に設置されたセンサーで、自動扉が開く直前、つまりお客が来る直前に鳴るようになっている。
「はいはい、お客さん来たで」
ユウコがパチパチと何度か手を叩いた。
「いらっしゃいませ〜」
最初に言ったのは私でナツミが後に続いた。
カオリは制服じゃないので、そそくさとフロントの奥にある事務室に入っていった。
そして、ユウコは相変わらず客に構わず、モニターを凝視していた。
それからは近年稀にみる忙しさになった。
別に夏休みってわけじゃないのに、平日昼間にこんなに客が入るのは珍しかった。
私がココを続けている理由の一つとしてラクなこともあったのに、この忙しさが続くようだとやってられない。
午後5時まで、私とナツミとユウコの三人でやっていく予定だったのだが手が回らず結局カオリの手も借りることになった。
後日談だが、ユウコはそこのところは義理固く、「いらない」というカオリを無視して、一日分の給料をカオリに手渡していたようだ。
いつもは暇なので分業制ではなく、私たち4人でフロントでお客を部屋に入れ、厨房でオーダーを作り、
各部屋に持っていくということを全部しなければならない。
今日は基本的には私がオーダーを持っていく係りになり、いろんな部屋を飛び回るようになった。
ある時、オーダーを持って行き終え、フロントに戻った時に、「ありがとうございました〜」というナツミの声が聞こえ、反射的に私も、
「ありがとうございました」
とただ適当に言った。
このセリフはもうほとんど条件反射だ。
「ナッチ、おつかれ」
お盆を脇に抱えながら充足感を胸に爽快な汗を拭い、ナツミに言う。
フロント業務につきっきりでほとんど足を動かさなかったナツミも汗をかいている。
別に太っているからというワケでもない。
「サヤカ、あれ」
厨房に入ろうとする私をナツミは呼び止め、入口の扉を指差した。
何?と言うまでもなくその方向に目線を向けると出て行ったばかりと思われるカップルの後ろ姿がガラス越しにあった。
「あのお客が……どうしたの?」
「ほら、さっきモニターで見てた……」
「あ、あのエッチしてた?」
「う、うん」
ここでもどこか恥ずかしげにナツミはうなずく。どんな人間だったのかこの目でちゃんと見てみたかったのでしまったと思った。
だからといって追いかけて顔を見るわけにはいかない。
「どんなカップルだったの?」
「それがねぇ、やっぱり両方女だったよ」
「は?」
後ろ姿を見る限り、身長を含めて体格差があった。だから一度後ろから見ただけでは普通の男女のカップルに見えた。
「ナッチって人を見る目ないからねぇ」
私はあまりプライベートまでナツミと付き合いはなかったがそれは正しいと思う。
ナツミはおっとりとした性格のせいか洞察力が人より劣っている気がする。
「何だべさ、それ」
「ナッチ以外見てないの?」
「うん。ユウちゃんたち、忙しそうだったからね。厨房から呼べなかった」
「ふーん。ともかく片付け行ってきます」
「ちゃんと消臭して〜なー」
厨房の奥からユウコの声が聞こえてきた。
「わかってま〜す」
私は消臭剤を片手にエッチしていた部屋に行った。
「なんやってん、今日は……」
ユウコのひどく疲れた驚き混じりの声。今日の忙しさを端的に表した言葉だ。
「大変だったねぇ。いやぁ、腰が痛い」
自分でいれたインスタントのコーヒーを幸せそうに飲みながらナツミは言う。
どうやら一段落したみたいで、休憩ルームで腰を落ち着かせる時間が作れた。
トラブルもほとんどなく、忙しいだけでその日は終わりそうだ。
そして、今日は夜の仕事がなくてホントに良かったと思った。こんなに疲れてるとまともに多種のペニスの相手はできないかもしれない。
カオリは時間がないらしく、つい10分前、一言私に声をかけたあと帰っていった。
「”昼一”からあんなことがあったから不吉な予感はしててん」
マイセンのスーパーライトをくわえながらユウコは言った。まだ火はついていない。
「あはは、また来るかもよ」
「なんで?勘弁してほしぃわ。絶対、あいつらやでこんなに忙しかった原因は」
忙しいのは嬉しいことなんじゃ?と思いつつも、口にはしない。
ユウコはこういう人なのだ。お店の繁盛なんて願っていない。ただ、ラクに暮らせればいいのだ。
逆にこういうとこういう組織とか金欲にへつらわないところが私は好きだったりする。
「変なカップルだったねぇ」
ジッポのライターでタバコに火をつけるユウコ。特有の油の匂いが場を包んだ。
「うん、それにね、ホレこれ見るっしょ」
ナツミはポケットの中から伝票を取り出す。
「あのお客さんの伝票?」
「うん、オーダー見て」
すると、頼んだものはアップルジュース二つに、ゆで卵が6つと書かれてあった。
「ゆで卵6つ?卵は1日2個までやで」
ユウコは健康志向の主婦のようなことを言う。
「うん、それにメニューにないベーグルまで頼んできたんだよ。そんなの普通の店にあると思う?」
「変なお客さんだね、確かに」
私は腕を組みながら首をかしげた。
「ところで、ナッチ。なんでまた来るかもと思うん?」
ユウコは聞いた。
「だって、これ忘れていったもん」
ナツミがポケットから取り出したのは携帯電話。私が部屋を片付けている時に見つけたやつだ。
「もしかして、例のカップルの忘れ物?」
ナツミは小さく首を縦に振り、ふと気付いたように今度は首を横に振る。
「だからカップルじゃないべ。女の子二人だもん」
「ナッチが言ったことがホントだったとしても、エッチしてたんならカップルだべ」
タバコの煙を吐き出しながらユウコは”ナツミ語”を言った。
「真似せんといてーな」
今度はナツミが頬を膨らませながら”ユウコ語”を言う。でもこっちは下手だった。
携帯電話が鳴ったのはナツミがいれてくれたコーヒーを飲み干した直後だった。
「ひゃあ!」とびっくり箱でも見たかのように驚くナツミ。発信源は手に持っていたカップルの忘れ物だ。持っていたナツミがそのまま出た。
「はい、もしもし。あ、はい……三日月です……はい……お預かりしておりますので……はい……はい……それじゃあ、確かに……」
電話を切るのを確認してから、私は聞いた。
「取りにくるって?」
「うん、今日はムリだけどあさってにだって」
「へえ。携帯をあさってまでほったらかすのか。めずらしい。あ、でもラッキー。あさって入ってるや」
私は好奇心に胸を膨らませながら言った。
「私も来なアカンなぁ、ゆっくりしてこようと思ってたのに」
ユウコは私よりも興味津々に言った。
「別にムリしなくていいよ」
「だって、レズカップルなんてそうはお目にかかれんで。楽しみやんか」
「来るのは一人だけかもよ。そうそうナッチ、その携帯の持ち主の名前教えてよ。万が一ナッチがいなかったときに当人が来たら困るし」
するとナッチはルーム表を見にフロントに走る。
「え〜っとねぇ、”ヨシザワ”さんだって、覚えといてね。おー、アレで16か。大人っぽいなぁ」
「下の名前は?」
「書いてない」
「ふーん……」
聞いたことのない苗字だった。おそらく生まれてこのかた、”ヨシザワ”という名前の人間と会ったことはないはずだ。
しかし、なぜかその名前は脳裏に深く焼きついた。
-8- 処女とソープ嬢
ナツミと一緒に御飯を食べに行くのは初めてだった。
基本的に私はカラオケのバイト仲間には隠している夜の仕事があったし、
ない日でもナツミと終わる時間が一緒になる日はほとんどなかったので、「じゃあ御飯一緒に食べない?」という流れになることはなかった。
今日もナツミが6時上がりで、私は7時上がりと終業時刻は違っていた。
しかし、6時に上がった時にナツミは「今日空いてる?」と私を食事に誘ってきた。
レズ疑惑事件があったからか、今日のナツミは何かヘンだった。
カラダをソワソワさせ、フェロモンというのか無臭の匂いを出しているようだ。
たまたま、夜は空いていたので断る理由も見つからずオッケーすると、ナツミは1時間タダ働きをしてくれた。
ユウコは一緒に御飯に食べ行く私たちに対し「いいなぁ」と羨ましげに呟いていた。
私たちは近くの「びっくりドンキー」に入った。ちょっと雰囲気のあるファミレスだ。
そこで私は定番のチーズハンバーグ定食、ナッチはそれにプラスしてミニパフェを頼んだ。
「今日はおつかれさま」
すぐに出されたお冷やで私たちはカンパイをした。疲れていたのでアルコールを飲みたい気分だったが、ナツミはもしかしたら、
「未成年だからお酒はダメ!」
と言う人間かもしれないと思い、自重した。
「ナッチは初めて?バイト仲間でこういうのって」
「うん、だから何となく嬉しいなぁ」
ナツミは手に持っていた水を一気に飲み干した。中の氷がコップのグラスと触れて、冷たい音を出す。
勢いついでに通りすがった店員におかわりを申し出ていた。
「ナッチってさあ、大学生だよね?学校行かなくていいの?」
週に5回ぐらいも、昼に働いているナツミを前から疑問に思っていた。
「うん、だって暇だもん。バイトしてた方が楽しいし」
「そんなもん?私の友達に大学生いるんだけど、大変そうだよ。毎日学校行ってる」
「へぇ〜、そんなのめずらしいと思うよ。周りだって暇を持て余しているみたいだし……ってあんまり周りはいないけどね……」
自嘲気味にナツミは言った。
ナツミは友達が少ないのだと察した。顔は結構かわいいし、男ウケしそうだが、何となく殻に閉じこまる性格のような気がする。
出会ってから数ヶ月。
未だにカラオケ店内以外では付き合いは皆無に近かった。
店内ででもナツミは自分のことを話したがらないせいか、会話がどこか抜けている感じがしていた。
ナツミはよく笑う。
しかし、その笑顔はほんのちょっと付き合えば―バイト中だけの関係程度でも―わかるくらい中身が何もなく、
空っぽの嘆きを咆哮しているだけにも見える。
地方(たしか北海道の室蘭という田舎町)出身だし都会の目まぐるしく動く人や情勢の流れに
ナツミは常日頃置いてけぼりを感じているのかもしれない。
それとカオリの存在が大きいのだと思う。
幼なじみとはそういうもので、依存度が強くなる分、周りに対して排他的にもなる。
私もマリという存在のせいで小学生、特に低学年の時代はそうだったような気がする。
私の場合は年齢が一つ違うこともあり、ずっと依存するワケにはいかなかったが、もしそうでなかったらこんな風になっていたのかもしれない。
別にナツミみたいにならなくてよかったとナツミを蔑んでいるのではない。
むしろ、ナツミみたいな純粋さを持っていたかったという方が私の本心に近い。
もちろんナツミの持つ”純粋さ”はそういう依存性から作られているワケでもないし、自閉的になるのはさらさらゴメンだが。
「サヤカ!」
それは突然だった。
チーズハンバーグ定食が二つテーブルの前に置かれ、一応上品ぽく、ナイフとフォークを器用に使っている時に、
ナツミは大きな声で切羽詰まった時のように私の名前を呼んだ。不意をつかれた感じになったので私はかなり驚いた。
「な、何?そんな大きな声を出さなくても聞こえるよ」
ナツミはナイフとフォークを天に向けながら真剣な目を私に向けた。
いつものカラの笑顔ではない。値段が高いタイヤキのように頭のてっぺんからお尻までしっかり中身が詰まっている。
何か意を決した風なナツミに呑み込まれるように、私の表情は驚きから緊張に変わる。
「どうしたの?ナッチ、変だよ」
「ねえ、サヤカ。サヤカって処女かな?」
こわばった瞳をさらにきつくする。
「はぁ?」
「彼氏とかいる?もしくはいた?エッチなことした?」
テーブルの横を横切るおじさんも気にせずにナツミはまくしたてた。
そのおじさんの耳に届いたらしく訝しい目を私に向けた。私は気になって仕方がなかったので一つ咳ばらいをし、おじさんを離れさせた。
「何?いきなり?」
ナツミに怪訝な表情で聞く。
「私ってやっぱ変なのかなぁ……だってナッチ……男の人と……その……ないし……」
ナツミは語尾をフェードアウトさせる。ナイフとフォークをテーブルの端に置き、両手を自分の胸に置いた。
びっくりドンキー特有のオレンジ色の暗い照明のせいで濃淡のはっきりしたナツミの表情は心底暗そうだった。
「別に変じゃないと思うよ。そういう子ってかわいいと思うし」
ナツミの緊迫した面持ちとは対照的に、私は平静に戻す。
カチャカチャと音を立ててハンバーグを6つに刻み、その一つをフォークで刺し、口に含んだ。
ナツミは私の方を見ずに、俯いていた。
年輪がきっちり入ったアンティークなテーブルにポタリと涙を落としているのを見て、私は少しハッとした。
「ナッチね……何かそういうのってなくって、すっごく怖いんだけど、ちょっと羨ましいなって思うところもあって……。
ほら……ナッチ、ちょっと太ってるっしょ?だからあんまり男の人にももてなかったし、
ちょっと気になる男の子がいた時もあったけど告白する勇気もなかったし……」
ナツミの弱々しい涙声に、不謹慎かもしれないけど少し苦笑した。
なんだか二人の関係がおかしかったのだ。
かたや、性を商売にするウリ女、かたや、キスの「キ」の字も知らないような純粋無垢な大学生。普通なら接点は見つからない。
そして、年は3つほどウリ女の方が下なのに、そっちが相談を受けている。
「セックスってね、やればいいってもんじゃないよ。本当に好きな人とやればいい。好きじゃなかったらしない方がいい」
人に何かを教えるということをほとんどしたことがない私には悩める子羊のように救いを求めるナツミをすごく愛しく思った。
つい、ナツミよりも何十年も長く生き続け、ある境地を開いた人間のような口調になる。
だけど出てくる言葉は私の生き方とは矛盾している。
ナツミは少し涙が潤んでいた。私は続ける。
「本当はね、純粋に育っているようなナッチが少し羨ましいんだ。だからこのまんまでいいと思うよ。ゆっくり大人になればいい」
「……」
ナツミは黙っていた。
二人の間に流れる沈黙に私は早く話題を変えようとユウコの恥ずかしいネタを口にしかけたその時、ナツミは噛みしめるように呟いた。
「何か、すごいね。何て言ったらいいのか……ココロの中に重くのしかかってくる……。サヤカって結構経験豊富なんだ……」
ココロの中を覗きこんだかのような言い様に私は少しドキリとした。
今までの生き方に対し、罪悪感を抱いているわけではないが、純粋な瞳の持ち主のナツミに中身を探られる、
とないはずの罪の意識をくすぐられる錯覚を起こす。
「結構……って、そんなにないよ。数回しか……」
本当は3ケタ行ってるけどね。
私の正体を知るとナツミはさぞ驚き、軽蔑するだろう。こんな年齢逆転の上下関係は上っ面だけの虚しいものだ。
軽蔑されることは慣れているけれど、ナツミにされるとちょっとココロに響くかもしれない。
ナツミは鼻を一度すすってようやく笑顔を見せた。いつもの空の笑顔とは違い、中身が詰まっているような気がした。
「ありがと。どこかすっきりした。やっぱりサヤカに相談してよかった。カオリにはできない相談だからね」
それで少し納得した。こういう相談は少し離れた関係にある人間にするのが一番気楽だ。ちょうど私たちはそんな関係であった。
「じゃあ、食べようよ。おいしいよ、このハンバーグ」
サイコロ大に切ったハンバーグが刺さったフォークをナッチに向けた。
すると、ナッチは目に溜まった涙をネイルアートなんてしたことのなさそうな自然色の爪で優しく拭い、大きく頷いた。
自分のハンバーグを二つに割り、その一つを大きく口を開けて食べた。
その大口の顔を見て、都会の男だったら引くかもね、と思った。
それからは楽しい会話が続いた。ナツミはしゃべればすごく楽しい子で、時に下らないギャグを言っては私を笑わせてくれた。
しかし、一度ウケると何度も同じことを言う子で、終いには自分で笑ったりもする。長くは付き合えない子だとも思った。
でもやっぱりいい子だ。年上の人間に使う言葉ではないのかもしれないけど、素直にそう思った。
午後9時を回ると、ナツミは時計を気にし始めていたので、
「じゃ、そろそろ帰ろっか」
と促すと、ナツミは「うん」と言った。
どうやら、9時半に室蘭にいる親に電話することになっているらしい。
携帯でしてもいいのだが、電話代が気になるようでどうしても自宅の電話を使いたいそうだ。
「じゃ、今日はありがとうね。又、あさって」
「うん、またあさって」
ナツミの後ろ姿が見えなくなるまで私は見送ろうとした。一度後ろ姿を見せたナツミだったがすぐに振り返る。
「どうしたの?」
「さっきの会話でさあ、気になったことがあって……」
「何?」
9時となれば、もうすぐ夏の気配が近づいてくるような季節とはいえ、あたりは真っ暗になる。
店や道路沿いに伸びる人工の光が霊のように浮き出して、私とナツミを照らす。
慣れているからどうってことはないが、原始人が見たらさぞ驚き、腰を抜かすだろう。
「お節介だったらゴメンね」
「うん、だから何?」
「サヤカの友達の大学生って何年生?」
「うん?え〜っと、今年入ったから1年生。ナッチと同じだよ」
ちょっと考えてから言った。ナツミは今年20だけど1浪しているからマリと同じ1年生のはずだ。
「学部は?」
「文学部だったかな?とにかく医学部とかとは違って何やってるのかイマイチよくわかんないところ」
「じゃあ、ナッチと一緒だ」
「へ〜、そうなんだ」
ナツミが文学部であることは初めて知った。
「忙しいってサークルのこと?」
「いや……勉強しなきゃとか言ってたから、学校のことだと思う」
あまりお互いの生活に介入していない二人でもそれなりの会話はするのだが、サークルという言葉は今まで一回も出てこなかったはずだ。
「う〜ん」
考えこむ仕草をするナツミ。
「それがどうかしたの?」
別に不安とかはなかったが、眉根を寄せて唸るナツミを見るとやはりちょっとは気になる。一歩近づく私に対し、ナツミは口を開いた。
「やっぱり、おかしいよ。どんな大学でも1年生の文学部なんてサークルとかバイトをしない限り、暇を持て余すもんだべ」
「でもマリ……って友達の名前なんだけど、『私は特別忙しい』みたいなこと言ってたし……」
マリが疑われているような感じがしてムカッとした。
ナツミの言い方はマリは私には言えない隠し事をマリは持っていると言っているようなものだった。
ナツミもそう小さな嫌悪感を持っている私に気付いたようで、
「変なこと言ってごめんね。別にそういうワケじゃないから」
とすぐフォローしていた。
「じゃ、あらためて。バイバイ」
手を振るナツミ。私も手を振って返した。
-9- 憂いの部屋
家に帰り、インターホンを鳴らしたが返事はなかった。ノブを回してみるとカギがかかっていた。
一人でいる時は大抵カギを掛けているので、当然と言えば当然なのだが、
それにも関わらず、カギがかかっているかどうかを確認してしまう。
ポケットから合いカギを取り出して、扉を開けた。部屋の中は真っ暗だった。
マリはどこか行ってしまったのだろうか?それとももう寝てしまっているのだろうか?
「た〜だいま〜」
間延びした調子で電気の点いていない部屋に向かって声をかけたが、反応はない。小さな部屋の小さな闇に私の声は吸収されていく。
玄関の照明を手探りで探し、点けた。下を見ると、マリのお気に入りの白の厚底ブーツが玄関の中央にどんと構えてあった。
最近、デートやショッピング等、外出の際には必ずと言っていいほど、このブーツを履いていたはずだから、
ちょっと近くのコンビニに行っているだけなのかもしれない。
そう解釈しても、心臓がいつもよりよく働き、呼吸が乱れる。
マリがいないことなんてよくあるはずなのに、今日は何かが違うと、脳の一部が警告を与えているようだ。
全身にじんわりと浮かぶ汗をできる限り拭い、しのび足で家の中に入った。
別にドロボウがいるとか考えたわけではないが、自然とそうやっていた。
寝室にしている部屋に足を進める。暗やみの中にしばらくいて目が慣れてきたおかげで最初は見えなかったものが見えるようになってきた。
布団がめくれあがっている。そしてそこにマリの姿はない。
どこに行ったのだろう?
布団はぬくもりがあった。つまり、ついさっきまではここで寝ていたことになる。
ということはやはりコンビニに買出しに行ったと考えるのが妥当だ。
そう何度も自分を納得させながら、部屋の真ん中にある蛍光灯からまっすぐ地面に向かって垂れ下がっている線を引っ張った。
2、3度チカチカと点滅してから、白い光を放ち、部屋全体を照らす。
やはりマリはいなかった。
存在は薄々と感じているのに、目ではその姿を捉えることができない。その矛盾に、
「いない……よね?」
と、か細い声でひとり言を呟く。
その瞬間だった。
「おかえり!」
「わっ!」
突然後ろから何かが飛び乗ってきた。
静けさが生む恐怖でドキドキしていた私はコナキジジイが現れたのだと思い、一気に恐怖の頂点に登りつめる。
なりふり構わず、背負い投げのようにその物体を投げた。
「うわっ!」
コナキジジイがやけに現実的な声をあげた。ドッスーンという音とともに地面が揺れた。
「だ、誰!?」
一歩退き、コナキジジイに向かって習ったこともないカンフーの型を作る。
そんな警戒の中、映った姿は長袖長ズボンのもさっとしたパジャマを着たマリだった。
「イタタタ……。まさか、投げ飛ばされるとは……」
マリは痛そうに腰を抑えていた。
「マリ……」
緊張がプツンと切れて、今度は安堵の汗が出る。
マリは顔をしかめながら笑っていた。寝癖がひどくメドゥーサのような頭をしているところを見ると、今日は外出はしなかったのだろう。
「ちょっと〜」
構えていた手をようやく下ろし、息をつく。マリは腰を抑えたまま立ち上がり、「ごめん」と反省したフリをしていた。
マリにコーヒーを入れてもらい、テレビを点けて私たちは落ち着いた。
画面には恋愛がどうとかがテーマのドラマが流れている。
見たことはないし内容は全くわからなかったが、オーケストラでも聞けそうな滑らかなBGMを背に、
一人の女性が男と自分とが肩を寄せ合いながら楽しげに映っている写真を物憂げに眺めているシーンを一目見て、
このドラマは恋愛ドラマなんだということは容易にわかった。
OLだったら見たくなくても次の日の話題についていくために、
こういう話に興味を持たなければならないのかもしれないが、私には一生無縁の話だろう。
「なんで、隠れてたのよ」
まだ若干の落ち着きに欠けていた私はコーヒーを一口つけてから恨めしそうに言った。ブラックだったのですごく苦かった。
「ははは、なんとなく〜。ちょっと面白いかな?って思って」
マリはボサボサだった髪を邪魔にならないように後ろでまとめていた。
「ずっと隠れてたの?」
「うん。でもサヤカ帰ってこないから1時間以上も暗やみで待ってたんだよ。
ホント待ってる間は何て惨めなんだ、って思ったよ。まあ、苦労は報われたみたいね」
マリの頭には驚きのあまりパニック状態になっている私の映像が映っているのだろう。ちょっと悔しかった。
「ったく……。ホントのホントに怖かったんだからね……」
コーヒーは砂糖とフレッシュをたっぷり入れた。マリも同じくらい入れていた。二人そろって甘党だ。
「サヤカってカッコよくなって大人っぽくなったけど、やっぱりそういうところって変わんないんだね。
昔っから怖がりで私の後ろにくっついていてばかりいたもんなぁ」
ニヤリと勝ち誇ったように微笑むマリの瞳には懐古的な色が浮かんでいた。
私の子供時代をよく知っているのはもうマリぐらいだろう。
長所も短所もマリの記憶の中にある。今もそんなに変わっていないはずだ。
「ま、性格だからね。仕方ないよ」
観念したように私は言う。
「覚えてる?夜の小学校の探検の話」
「うん。でもあんまり思い出したくない」
昔、二人だけで誰もいない学校を探検したことがあった。
最初は手を繋いで歩いていたのだが、ある時、いきなりマリが隣りで悲鳴を上げ、手を切って逃げ出した。
それから10分程度私は一人ぼっちになった。マリの悲鳴も手伝って、身の毛がよだち、力いっぱい泣き叫び、喚き散らした。
その後、それはマリが私を脅かすために仕組んだことだということを知り、2日間、私はマリを恨んだ。
あの時の恐怖といったら、今想像しても身が凍る。
「あの後が凄かったんだからね……。親からもすっごく怒られるし……。もうサヤカは脅かさないってココロに誓ったもんよ」
「じゃあ、何でやるのよ……」
口を尖らせながらブツブツ愚痴を言ったがマリは全く罪悪感がなさそうに、そんな表情をする私を楽しんでいた。
それからマリは昔話、ほとんどは私の”ハジバナ”を話しはじめた。
恥ずかしくて何度も「もう昔の話は止めようよ」と言おうと思ったが、マリのボサボサな金色の髪を指でくるめたり伸ばしたりして、
弄んでいる姿を見るとその口は閉ざされた。
私は気付きはじめていた。マリはただ恐怖にのたうちまわる私を見たくてこんなことをしたのではないのだと。
今日のマリはどことなく憂いに満ちていた。
部屋に入ったときの説明のつかない動悸は、
この部屋がマリが作ったどことなく淀んだものに侵食されていると直感的に気付いたからかもしれない。
マリはその憂いをはぐらかすために昔話に没頭しているように見えた。
それを止めることはマリの触れてはいけないものを露出するだけのような気がした。
だから私は付き合い、ただ笑った。
マリも笑った。
お互い、牽制し合いながら。
「ふぅ……」
一息ついて、マリは最後に言った。
「昔は良かったね」
「うん……」
私はただうなずくしかなかった。
昨日、マリの身に何かがあったことは確かなようだ。その”何か”も大体はわかる。でも調べる気は毛頭ない。
久しぶりにマリと私は同じ時間に布団を二つ並べて寝ることになった。時刻はまだ日が変わらない23時。なんて健全な乙女二人だろう。
輪っか型の電球が目線の先に見える。一度目をつぶると、その輪っかの形が黒い景色に現れていた。
この目の裏にある黒い世界は誰しもが持っている小さな宇宙なんだと思ったことがある。
端が見えない深遠な黒の中に電球の残影という星が散らばっている。
少し眼球を動かすと流星群となって動かした方向へ一斉に移動する。
私はその中に安らぎを見出だすことができる。
このままその世界を見つづけていれば、今日も健やかな眠りにつくことができるだろう。
しかし、今日はそんなわけにはいかない。
私は隣りにいるマリに声をかけた。
「今日は学校行ったの?」
「うん、行ったよ」
すぐにマリは答えた。
「その学校ってサークルのこと?」
「え?サークルは入ってないし……言ってなかったっけ?講義が1限から5限までみっちり入っててさぁ、大変大変」
「そっか。学校って楽しい?」
少しナツミの言っていたことが頭に残っていた。
「う〜ん、微妙。勉強はつらいだけだから……。でも友達もいるし……って今日のサヤカ、なんかヘンだね」
自分でもヘンだと思いながら訊いていた。きっとマリが優等生なんだということを確認したかったのだろう。
私の中にはマリの像があって、もう大分変わったとはいえ、その中心部分は残っているのだと信じていた。
それさえも破壊されているとなると、いたたまれない気分になるだろう。
マリの言葉を聞いて、変わっていない部分はしっかり残っていると感じはじめていた。
「ごめんね」
「ううん、別にいいよ」
マリは郷愁を含ませながら言った。お互いのことは詮索しないという暗黙の了解を破っている私を嬉しく思っているようだった。
「それでさあ、何で今日そのパジャマなの?」
今日マリが着ていたパジャマは長袖でどちらかというと春…秋用だ。
夏が来たからということで最近のマリは外出もできそうなTシャツとハーフパンツ、時には下着一枚でも寝ていたはずだ。
それなのにその長袖パジャマを棚から引っ張りだしてきたという極端の服の変化に違和感を覚えていた。
「うん、ちょっと最近冷え症気味なんだ」
「へ〜、そうなんだ。冷え症ねぇ……」
「最近大学のクーラーが効きすぎちゃってさぁ、毎日毎日手足ぶるぶるモンよ。
だから寝る時とかはできるだけ長袖にしたくって……。サヤカも気をつけたほうがいいよ。大人の女性って多いらしいから」
「ふ〜ん」
「ホント……」
マリはそれだけ言って一旦口を閉ざす。私が「何?」と促すと、ポツリとこぼした。
「ホント、大人にはなりたくないね……」
私は「うん」と同意するしかなかった。
「さて、寝よっか」
マリは電気を消した。私は電気をつけておく主義、というか電気がないと寝つきが極端に悪くなるのだが、仕方がない。
暗がりの中で、マリは手を私の布団に伸ばしてきた。
そして私の手を掴んだ。
小さくて柔らかかった。
「な、何……?」
首をひねり、マリを見る。夜に映える深青色の輪郭はマリのココロを投影しているかのようだ。
「今じゃあ、すっかり立場が逆転しちゃったね……。身長は元々だけど……精神的にも……」
「……そんなことないよ。見たでしょ?私まだまだ怖いの苦手だし……」
私の右手をつかんでいるマリの左手が震えていた。
小さくて子供みたいな手だったけど、昔っから私が感じていたマリの体温は少し安らぎをもたらしてくれた。
マリも私の体温から同じことを感じてくれればいいなぁ、と純粋に思った。
「サヤカはやっぱり彼氏作らないんだ」
マリは3mほど上の天井に向かって言った。だからその声は直接ではなく、天井に反射して私の耳に届いているようだった。
「うん」
私も同じようにして上を向いて言う。
「まだ、”マキ”の夢を見るの?」
そんな風な会話だから一言一言間が空く。
「うん、実を言うと昨日見た」
「そっか。じゃあ仕方ないね……」
「うん……」
私の脳外から、”マキ”という言葉が聞こえてきて、何かに押しつぶされそうになる。
そして、マキのことを想う―――
-10- マキへの慕情
――私は”マキ”の夢をマリに話したことがある。
はじめて見たのは小学3年の時。
最初はやけにストーリー性のある夢だなぁ、という程度にしか記憶に残らなかったのだが、
ことあるごとに同じ夢を見るようになってから、私はその中の登場人物が気になるようになっていった。
マリに話したのはその夢を見てから2ヶ月ぐらい過ぎてからだったと思う。
最初は取り合ってくれなかったが、毎日毎日、「今日もアノ夢を見た」と言っていると段々真剣に耳を傾けてくれるようになった。
ある日、夢の中の少女に名前を尋ねた。
興味と恐怖が混在しながら尋ねたことを覚えている。それくらい勇気が必要だった。
少女の口からは”マキ”と放たれた。不純物のない透明な結晶に包まれたような眩い一言だった。
眠っていた何かがココロの底から衝き動かされる。
きっとこの日から私は変わったのだと思う。
私は性を、時を、そして次元を飛び超えて恋をした。
初恋だった。その甘い響きは、幼心に永遠の淡い輝きになるものだと思っていた。
しかし、マキはそんな甘酸っぱい言葉が似合う人物ではなかった。
私たちを愚鈍な人間と言い放ち、私の存在を咎めつづける。
天使が着るような真っ白な服を着ながら、悪魔の視線でもって私にこう唱える。
「カラダから生まれる全ての感覚に意味はないの。視覚も聴覚も味覚も嗅覚も触覚も全部ウソ。
ココロだけが真実。だから、カラダなんて捨てて」
幻想的で魅力的な少女がささやく言葉は見えない鈍器でえぐるような不似合いなものだった。
夢の中の戯言だと最初は思った。
初恋だなんて考えること自体愚考だと思った。
目覚めてから、微かに残っている記憶を拾い集めて考えてみても意味がわからなかった。
しかし、深層心理でそれは正しいんだと叫んでいる自分を、繰り返し横暴的に見せられたせいか発見するようになる。
バイオレンスムービーを見せられて、底に眠っている自我の殺意の部分を強制的に揺り起こされた気分に近いものだろう。
虚実のどちらとも取れないマキの言葉は、その言葉の意義を頭では理解していないはずなのに、皮膚細胞の一つ一つに深く刻まれていく。
いや、むしろ理解していないからこそ、理論武装をする術もなくストレートに刻まれたのかもしれない。
やがて、特に夢から覚めたあとの数時間は、自分、マリ、両親、クラスメイトなど、
私を取り巻く全ての人間がヘドロのような汚濁に染まったものに見えるようになり、
火炎放射器かなんかで全てを焼却したいという衝動にさえ駆られた。
世界の全てに対する嫌悪感に蝕まれた私を心配するマリには、「ものすごい低血圧なんだ」と説明した。
朝が一番、その破滅的衝動がひどかったからちょうどいい理由だった。
一緒に登校途中、好きな人がどうたら、とかいう話になると私は一切の聴覚を麻痺させようと努力したこともある。
しかし、マリの当時から人より高かった声は抵抗空しく、私の脳に突き刺さる。
そんな私を、そして、マリをひたすら憎んだ。
ちょうどその頃は、世間では”洗脳”や”マインドコントロール”なる言葉がメディアに頻繁に登場してくる時だった。
テレビニュースでそんな言葉を何度も聞くうちに、きっと私も洗脳されているのだと思った。
ブラウン管越しのコメンテーターは、いかに洗脳が”悪”なるものかを解説し、
アナウンサーやタレントは大げさなくらい顔をしかめながら頷いていたが私はそんな一方向の結論付けに納得がいかなかった。
人間は生きていく上で、洗脳されたことのない人間なんていないわけで、それが悪いこととは思えない。
洗脳された人間が至福に身を寄せながら座禅をし、跳ね回ったり、
発狂したような大声を上げているシーンをモザイク越しに見て、私はきっとこの人たちは何かを排除できた人間なんだ、とうらやましく思った。
そんな風に常に葛藤が起こっている状態でいると、どうしようもない別の衝動に駆られる自分がいることに気づいた。
――私を真の快楽に導いてくれるのはマキしかいない、と。
その境地に達したのは肉体的に性に目覚める年齢でもあった。
私のクラスメイトの中にはすでに処女を喪失している子が数人いた。
私も情欲の律動から自分の手をパンツの中に入れ、まさぐる人間になっていた。
行為を終えてから生まれるのは後悔ばかり。ごく普通の自慰とマキへの罪悪感が津波のように繰返し起こった。
私は私を恨みつづけた。
それでも私はその行為を抑えつけることができない。自慰はどんどんエスカレートしていく。年の割には淫乱な少女だったと思う。
そのことに対し、マキはいつも何も言わない。
きっと咎められるのだろう、と覚悟していたのにむしろ微笑む回数が多くなったマキがいた。
目が覚め、夢から抜け出した後でいつもマキはどう思っているのかを聞きたくなる。
しかし、夢の世界はマキが全てを掌握していて、私がマキの気持ちを聞くことはマキが許可しない限りできない仕組みのようだ。
今度見たときは真意を聞こうと思っていてもいざ夢の中に踏み込むと全くその意志は通じない。
ちなみにマリに言ったのはここまでだ。
私は自慰行為に対して、恥辱ではなく自分の肉体に対する嫌悪で持ってマリに告白した。
マリは優等生の部類だったせいか、そういうことを当時はまだしない人間だったらしく、顔を真っ赤にしたのを覚えている。
確か「あんまり深く考えないほうがいいよ」と当時のマリははぐらかしていた。
それから1ヶ月して、マリは先に中学生になったので疎遠になった。今考えれば私がそんなヘンなことを言ったからかもしれない。
マリに自分の自慰を告白してからしばらくして、夢の中でマキは私に言う。
「ココロとカラダを分けてほしい。カラダはそっちの世界に置いて、ココロだけをあたしにほしい」
マキの言葉はこの時には周囲に決して溶け込まない絶対的なものになっていた。
従順にマキの言葉を受け入れようとする私がいた。
そんな中、私は初体験をした。
きっかけは2つ年上の中学生の男の子が告白してきたことだった。
告白されてからセックスに至るまで2日とかからなかった。
今はもうその男子の名前は忘れたが、ネチネチしていて、ずっと私を気にしているのに1ヶ月以上も声すらかけられない臆病者だった。
はっきり言って嫌いなタイプだった。
それなのにセックスに至ったのは愛情云々を度外視したセックスという行為自体に興味を持ちはじめていたからだろう。
その男子に震える声で勇気を持って、ただストレートに”好き”と言われ、私は”セックス”という言葉と直結させていた。
ちょっと人よりは早いのかもしれないけど、そういう存在が生活のトップに昇格しようとする時期だったのだ。
それともう一つ。その出来事は丁度、マキの存在を認め、ココロの抽出方法を模索しようと決めた翌日のことだった。
その予定が決まっていたかのような事項の連なりに、私は運命を感じ、きっと願望達成への道標が見つかるのだと思ったのだろう。
近くの公衆便所の汚物がこびりついた男子トイレでその行為は行われた。向こうも初めてだったらしくそのセックスはただ痛いだけだった。
処女膜は乱暴に破れた。
痛さに必死で耐えているなかで生まれた手や足の痙攣は決して快感からきたものではなかった。
その男の子はセックスという刺激的行為に溺れてしまったのだろう。
それからは今までの消極的な態度からは一変し、私の体調なんて無視して、己の欲望に任せて、ことあるごとにセックスを強要してきた。
手足をしばり、簡易的なSMプレイをしたり、友達を連れてきて3Pしてきたり、と段々正常じゃなくなる過程を経て、
この男の子には最初は持っていたはずの愛情を全て性の狂気に変えてしまっていたことに気付いた。
その事実をはっきりと認識した瞬間、普通なら嫌悪を覚えるのだろうけど私は全くの逆だった。
生まれたのは猛烈なオーガズム。”昇天”とはよく言ったものだ。
全身を作る細胞がポップコーンのように爆発し、脳を麻痺させ、強烈な電流がカラダ中を駆け巡った。
そしてカラダが精神の根っこが歪められた欲望の塊に支配されていく中、ココロだけが反比例するように自由に空を飛び回っていた。
そして、やっと気づいた。
――これがマキの求めているものなのだ、と。
幽体離脱とは本質は違うのかもしれないが、それに似た感覚だった。つまり、カラダとココロが一瞬だけ離れたのだ。
マキに確認はしないし、できなかったが、出会った頃のような全てを押さえつける冷たい瞳がどんどん力を失い、
柔らかさを帯びはじめたところを見ると、きっとこのままでいいのだろうと思った。
迷いから解放された気分だった。
中学三年間は援助交際のブームにも乗って、いろんな男の人とセックスをした。
2コ年下の童貞から父親とそんなに変わらない年齢のオヤジまで。
大学生のいかにも「俺は今セックス全盛期だ」と言わんばかりの軟派男とのセックスは熟達していて確かに気持ちよかった。
だけど、それもどこか違う。
やり方とかテクニックとかではない。
その頃には私は一つの結論を導いていた。
――セックスに愛がなければないほど、私はイクことができる。
それを決定的に認めたのは6つ上の男とのセックスの時だった。
長い髪を茶色のカチューシャでまとめた一見はヤサ男。
しかし、持っているシンボルは巨大で、子宮が壊れそうなくらい私のカラダを深く貫いていた。
テクも一品で、抑揚をつけながら徐々に激しくなるリズムが私のカラダを私のものじゃないかのようにし、
ココロは淫らに昇天に昇りつめていく。
そんな時だった。
「好きだよ」
荒い吐息の中から生まれたヤサ男の甘いささやきに、私の神経は急速にその活動をやめた。
飛んでいきそうだったココロは一瞬にしてカラダに戻り、ピストン運動をする男を冷ややかに眺めてしまったのだ。
汚いカラダをもっともっと汚していく。
まるで冷たい玩具を扱うようにカラダを壊していく。
それが究極に近づくほどカラダとココロが乖離していく。
私は男たちとのセックスに感じているんじゃない。
そうやって生まれるものはマキの願いに近づけるものであるということを知っているから感じているんだ。
――マキのために生きているんだ。
「彼氏なんて作らないほうがいいよ、あとでつらくなるだけ。サヤカが正解」
突然のマリの声に私はカラダをビクつかせた。
マリが最後に言葉を発してから何分経っただろうか。私はいつの間にか過去を追っていた。いや、マキを追っていた。
「そう?でもやっぱり羨ましいと思うよ」
ココロにもないことを私は言う。手は繋がれたままだった。
むしろ、その握る手は強くなっている。
「あ〜あ、私の夢の中にも”マキ”が出てきてくれないかなぁ」
その言葉で私は確信した。
マリは失恋をしたのだと。
-11- 失恋の残骸
開けっ放しの窓の向こうから聞こえるすずめの鳴き声に誘われて、私は目を覚ました。
今日もなかなかの天気のようだ、とその朝日に包まれた清々しい風景を見ることなく気付く。
それでなのか、私は低血圧気味のほうなのだが、今日は朝特有の気だるさに苛まれることはなかった。
こういう目覚め方が一番、人として最良なのかもしれない。
一度背筋を伸ばし、首をひねると隣りには珍しくマリがいた。こちらに小さい顔を向け、薄い寝息を枕に吹き付けながら眠っていた。
そして、すぐさま昨日の眠り入る直前のことを思い出す。
マリのこと、そしてマキのこと。昨日という夜は確かにあったのだと再確認する。
マリはさすがに手を離してはいたが、腕は私の布団に入れたままであった。
出された手を一度両手を使って触れ、その小ささと柔らかさを感じてから、マリの布団に戻した。
安心に包まれたスヤスヤとした寝顔だった。
化粧を落としていて、人前には決して見せられないようなボロボロの顔だったのに、私にはなぜか愛くるしく見えた。
ああ、幼なじみがいる。
当たり前のことをさも新発見したかのようにそう思った。でもそれはあながち間違いとも言い切れない。
昨日まで見ていたマリを私は、幼なじみのマリと見ていなかったような気がするからだ。
年を重ねるにつれて作られた透明な氷壁が、ゆっくりと融けていく。そんな感覚がきっとそう思わせたのだろう。
やはり、マリは特別な人なのだ、と改めて思った。
久しぶりの再会の時、「よお」と言ってきて、「よお」と返す。それだけでよかった。
そして、その日から二人暮しがはじまり、今まで続いている。
その間、こうやって二人で過ごすことに違和感はなかった。
時間とともに作られた秘密をお互いにたくさん抱えていながら、その秘密を詮索することなく、それでも結ぶことができる信頼の絆。
理由とか裏づけとかはいらない。きっと、一般で言うところの血の繋がりに近い感覚。
精神的な別れ、そして今、存在する”時の流れ”で生まれた秘密という名の歪み。
それらを包括して、私たちはお互いの存在を認め、敬ってきた。
だから二人は一緒にいられる。
そして、これからも一緒にいたいと思う。
あどけない寝顔を見ていると、マリのカギの開いたココロの内部をもう少し深く覗きたくなる。
それを見て、やがて認め、いつか私のココロも開いてマリとまた昔のような共有感覚を築く――。
それも可能ではないのか?
そんな淡い願いをした矢先だった。
ふと気づくと、融ける様子を見せない一つの壁があった。他の壁が融けてなくなるにつれて、その壁はどんどん浮き彫りになっていく。
黒くて硬そうで、熱しても叩いてもその形を崩すことはない。
その得体の知れない壁の正体を、昨日の夜を反芻しながら考える。
今回、マリは明らかに助けを求めていた。マリは一番頑なに閉ざしていた秘密の扉のカギをゆっくりと開けたのだ。
私はそのカチャリと開く、小さく透き通った音を見逃さなかった。
マリがどんな失恋をしたのかはわからない。こんなに傷ついているのだから、相当つらい別れ方をしたのだろう。
もしくは相当その彼氏のことが好きだったのだろう。
私は失恋の痛みというものを知らない。だからどういう風に慰めようか、と一度考えて、それは経験がないのだから無理だと悟った。
ふと不思議に思う。
マリが彼氏を頑固に隠そうとしていたのはどうしてだろう?
もちろん再会後の二人には秘密ばかりが間に存在していたから、隠すことはごく自然のことなのかもしれない。
しかし、こと彼氏に関しては時流とは関係のないところで意識的にひた隠しにされているところがあった。
そうだ。きっと、残った壁の正体はこれなのだ。
マリの彼氏に関しては次元の違った歪みとなっている。
マリは多分私を”妹のような存在”だと思ってくれているに違いない。
「サヤカに私の大事な彼氏を取られるかも」なんていう定番ドラマにありがちな感情を抱くはずがない。
――私が世の男に興味が全くないことはマリが一番よく知っているから。
好奇心という感情ではない。
いささか顔の知らないマリの彼氏に不信感を持った。そして、壊さなければいけない壁だと悟った。
いけないことと猛省しながら、私はマリのお気に入りであるベージュのハンプトンズ…トートバッグを開けてみた。
それは私がそういう詮索する人間ではないと知っている安心感とフられたショックもあってか
「中身を見てください」と言わんばかりにテーブルの横に無防備に置かれていた。
大学の講義プリントらしきものが最初に目に入った。
何枚か見てみたが、汚い走り書きでただ文字が羅列してあるだけで、どんなことをしているのかはよくわからなかった。
そのプリントをまとめて出して、バッグの中にちょっと手を入れてみると、シルバーの携帯電話と手帳に触れた。
後ろめたさが増幅する中、まずは携帯電話の中身を覗こうとしたのだが、「暗証番号を入力してください」と表示されてしまった。
マリの誕生日などを思い出して入力してみたが上手くはいかなかったので、あきらめた。
次に本皮ではなさそうな赤い手帳をパラパラとめくってみた。
手帳としての役割の一つである予定表みたいなものは書かれていずに昨日も一昨日もその前もずっと白紙だった。
どうやらマリは手帳は持っていてもあまり書き込まなかった人間みたいだ。
そういえば、小学生の時、大抵の人間は授業の時間割の紙をランドセルを開けたところにあるスペースに挟んでおいたものだが、マリは、
「そんなの、覚えればいいんだよ」
と勝ち誇ったように言っていたことを思い出した。
マリは生まれつきそういう予定を書き込むということはあまりしないようだ。
しかし予定表のページの次の全白紙だったところには数ページに渡って、日記のようなものがびっしりと書き連なれてあった。
書く時によって字の大きさも長さも違い形式なんて存在しない。
日付さえも書いていない”つれづれなるまま”の日記。
『トシヤの家に行ってエッチした。家に行くのは初めてだったけど、キレイだった。
私が行くからと急場しのぎで掃除をしたという感じではなさそうだ』
『トシヤの車に乗った。むちゃくちゃ高いらしいけど私にはわからない。ただ今まで乗ったどの車よりも座り心地は悪かった』
『トシヤと渋谷の街を歩いた。トシヤは背が高いから少しでも近づこうと、持っている一番高い厚底を履いていったら何回も転びそうになった。でも、トシヤの腕をつかんでいたから助かった』
『トシヤの車でエッチした。普通の路地に駐車してしたので、最初は恥ずかしかったが、だんだん気持ちよくなってきた。またやりたい』
『トシヤと一緒にエッチなビデオを見た。モザイクがかかっていてそれが逆にエッチっぽかった』
『トシヤの男友達に会った。みんなカッコよかったけどやっぱりトシヤが一番』
「ふぅ」と私は一度深呼吸をした。
全ての文に「トシヤ」という名前がつく。
”トシヤ”というのは彼氏の名前なのだろう。あまりこれ以上日記を熟読するのはさすがに気が引けたため、ページを飛ばした。
結局、手帳にも写真らしきものはなかった。
私は首を傾げながら、壁にぶらさげてあるクリップボードに目をやる。
そこには私とマリのじゃれあう写真が乱雑に貼られてある。私はこういうことはキライなのだがマリが、
「私たちの写真を貼ろうよ」
と一度だけした模様替えの時に提案し、半ば強引に写真を撮られたものだ。
私はその写真に小さな憂いを感じて息をついた。
そんなマリの性格上、彼氏との写真もしくはプリクラは絶対あるはずだと思っていたからだ。
肩透かしを食らった気分だった。
バッグの口を大きく広げてみた。他に目立ったものはピンク一色でできた無印良品のポーチぐらいだ。
確かこの下に手帳が入れてあったはずだ。
大丈夫だとは思うが念には念を入れるために私はそのポーチを一度取り出し、手帳を戻した。
左手で掴んだポーチの中身は単なる化粧道具だろうと思っていたが、その感触がどことなく違和感を感じた。
私は何の気なしに開けてみると、中にはリップグロスやマスカラ等予想通りの化粧道具の他に、
コンドームが4つとピル、そして”B”と彫られた白い錠剤が一緒に入っていた。
包装はなかったのでわからないがおそらくバファリンだろう。
私はこのバファリンをマリは頭痛薬ではなく鎮痛剤に使っているのだろう、と思った。
ピルと一緒に入っているということからそう推測した。
マリが起きた時には、私がマリのバッグを調べた痕跡は完全に隠していたはずだ。
マリも全く気付かず、跳ね上がった金髪をかきあげながら、
「ふぁよーっす」
と眠たそうに目をこすりながら挨拶をする。
「すっごい、髪」
私が笑うと、
「髪切ってこようかなぁ。あ、それと黒髪に戻そうかなぁ」
とマリは独り言のようにぶつぶつとつぶやく。
「うん、それがいいよ!絶対それがいい!」
私は大げさに激しく同意する。
「あ、やめた」
「なんで?」
「だって、サヤカが勧めるから。だからいや」
「何それ、あまのじゃく」
朝の夏に似合わない冷涼な空気の中、こんなテンポが良い会話が飛び交った。
こんな時間はマキの夢とは別にして幸せだと感じるものだった。
-12- 虚数の世界
先日とは違って今日はウマが合わないお客さんばかりだった。
”悪いことは続くもの”とは”マーフィーの法則”にあっただろうか?
とにかく今日、お相手してきた人間は、二度と会いたくない人ばかりだった。
「ケイちゃ〜ん、今日はもう早退した〜い」
一度”プレイルーム”を離れ、フロントにいるケイに向かって甘えた口調で愚痴を言うとケイは優しく頭をこづいた。
「コラ、わがまま言わないの。大切なお客さんでしょ?そういうお客ってお金をいっぱいもらえるんだから」
「まあそうなんだけど……でも聞いてよ〜」
「はいはい、あとでね。私も忙しいんだから」
本当にイヤなやつらだった。
最初の男はナインティナインの矢部のような変なウェーブがかかったサラサラヘアの軟弱そうな20代後半の人間だった。
要求は純粋なSMプレイ。
私が女王様で男が奴隷。言葉とムチで男を痛めつけた。背中にうっすらと内出血が表れた時、男は発狂したように悦楽の叫びを吐いた。
私はそれで終わり、と思い安心した直後に、いきなりその男が襲いかかってきた。
毒のような息を喉を震わせながら吐き、痛みで全身に浮いていた油汗を私の肌にこすりつける。
その時の目は弱者が虎の威を借りた狐のような下卑た獣の目だった。
想像だけどこの男は昔SMプレイでイタイ目にあったのだろう。その恨みつらみを私に向けてきた。
そしてフェラの強要。小さいくせに結構長持ちで髪の毛をがっしりと掴まれ何度も何度も前後に振られた。
当然のごとく顔射され、白濁液がべっとりついた頬に唾を吐かれた。
男は終始無言だった。終わった後も何も言わず、ただ万札を5枚、頭上からひらひらと舞い下ろし、私を蔑んだ。
乱暴に扱われたため抜け落ちていた何本かの髪の毛の上に万札が被さる。一瞬客だということを忘れてしばこうかと思った。
次の客はいたって、普通のオヤジ。なぜそうする?と思うくらいテカテカにポマードを塗りたくり、
ピッチリと9:1に横分けした黒い髪に、黒ブチのメガネを装着した鼻デカオヤジ。
肌は普段乳液をつけているかのようにツルツルしているが40代後半といったところだろうか。
このオヤジはまず私を正座させ、延々と説教をはじめた。
「何でこんなところで働いているのだ」とか「もっと自分のカラダを大切にしろ」だとか、じゃあこんなところに来てるあんたは何なのよ、
と言いたかったけど、私は「すみません」とただ謝った。
すると自分がまるで全知全能の神であるかのように満足そうに鼻の穴を広げていた。
これも推測だけどこのオヤジは同じくらいの年齢の娘がいて、全くこいつの言うことに耳を傾けなくて常日頃苛立っているのだろう。
叱りつけたいのだが、その不満を表立って言うと逆ギレされる。それが怖くてできない。
だからその不満の捌け口として私を利用している。
私を自分の娘に見立てて言いたいことを言っているっていうワケだ。
だけど、そんな精神的な部分とは別にこのオヤジは説教中もチラチラと私の少しはだけた胸の谷間を見ていた。
そして、狭い密室と赤いシェード、そしてほんの数十分前行われた行為の残り臭が漂うこの空間の中で、
妻とのセックスも飽和状態のオヤジの性欲が膨らまないわけがない。スーツの下からオヤジの一物が勃起しているのがわかった。
私が反省したように潤んだ目をする。それがオヤジを触発した。
残り10分になって愛撫をしてきた。時間のなさも手伝ってか、慌てた愛撫となりあまり感じることはなかった。
実の娘にもするのかよ、という軽蔑の目線を向けるもオヤジは気付かずにただ私の胸やアソコを揉んだり舐めたりしていた。
とにかく、すごく気が乗らない日だった。
今日扱った二人のお客が気に食わないということもあったけど、マリのことが不安でしかたないということも理由の一つだった。
ナツミの言った「どんな学校でも文学部の1年生は暇を持て余すもの」という言葉。あれは真実のような気がしてきた。
ナツミの言葉は純粋なココロがそのまま反映されているようでかなりココロに響くのだ。
それにナツミがどうこう言う以前から私の中でも「大学生は暇だ」という定説は中学生ぐらいの時からあった。
周りに大学生はいなかったがテレビなどで、大学生がコンパ(当時はコンパとは言わなかったかもしれないが)やらサークルやらばかりで、
授業なんてほとんど出ていない、みたいなドラマを見たからだろう。
『マリがしょっちゅう帰ってこないのは、決して学校に行っているのではなく、彼氏と遊んでいるから』
私は今そう思っているのだ。
幼い頃のマリを知っている私にはおよそ信じられないことだったけど、
あんなに落ち込むほどの彼氏に依存していたマリを見るとやはり認めないワケにはいかなかった。
プルルルッと部屋の扉の横に据え付けられたインターホンが鳴った。私はしまったと思った。
先にケイに電話して「今日はもう止める」と言おうと思っていたのに。このコールは十中八九新しいお客さんのお通りだ。
「はい、あの、ケイちゃん……」
「次のお客さんだよ、よろしく!衣装はとりあえず普通で!」
ケイちゃんは私がさっきから愚痴をこぼしていたので「帰りたい」と思っていることを察していたらしい。先に言ってすぐさま電話を切った。
あ〜あ、失敗したなぁ。
しかたない、あと一人だ。
私は無駄な気合を入れるため、一度自分の頬をパチンと叩いた。
インターホンが鳴ると3分ぐらいで客がやってくるはずなのだが、なかなかこなかった。
冷房が効きすぎなのか、ほんの少し空いた時間が私のココロに小さな風穴を開け、その中に冷気がすーっと入っていくような感覚を覚えた。
仕事場は6畳ぐらいの小汚いところ。ココに足を踏み入れた時、もう大分慣れたはずなのに、毎日のように嘔吐感を覚える。
なぜそうなるのかわからなかったけど、最近暇つぶしに読んだ数学書のコラムを見て、何となく理解した。
ココは”虚数”の世界なのだ。
実際にないものを人間の業が凝縮した概念だけで作り上げた異空間。
だからそのひずみの境界線をまたいだ時、カラダに異変を感じる。
これが嘔吐感の正体。
そしてすぐそれが止むのは、やがて私という実数のカラダにこの部屋の虚数が掛けられて私も虚数になっていくからだ。
どんな客も同じように虚数にさせられて、ようやくヴァーチャルセックスを楽しむことができるのだ。
「こんにちは」
数分後、やけに弱々しい声がようやく部屋に響いた。
「は〜い」
どうやらオヤジではなさそうだ。年齢で好き嫌いははっきりさせないけれど、
どっちかといえばオヤジの方が異常な性癖な奴が多いので少しだけほっとした。
扉をゆっくりと開かれる。
背は男の人にしては低そう。ちょっと茶髪。鼻がちょっと高く横顔ではかなり目立つ。
そして正面を向き、自信なさげにつぶやいた。
「はじめまして……」
私は唖然とした。事実であることを疑うように瞳孔は開きっぱなしになり、口は半開きのまま硬直した。
虚数の世界に浸されたカラダの中に不適当な抗生物質を注入されたように拒否反応を起こす。
相手は元から虚数だったのだ。
そして、虚数に虚数が掛け合わされて私は実数になった。
――現実にありえない事実。
私は視覚を否定する。
私は聴覚を否定する。
私は味覚を否定する。
私は嗅覚を否定する。
私は触覚を否定する。
――いつか、ココロとカラダを引き剥がしてやる。
カラダはこの腐った土壌の肥料にでもなればいい。
ココロはマキが住む世界に移動して、永遠にマキに捧げる。そして愛し続けてやる。
――その為に私は今生きている。
だけど、どうして…………。
どうしてあなたがそこにいるの?
「マキ……」
私は目の前の現実に向かって呟いた。
-13- 個人授業
「はい?」
相手は裏返った声をあげた。
「え?」
「あの……」
「あ……」
――違う。
マキがこんなところにいるわけがない。
私は首を意識的に強く振る。マキは肉体自体を憎む存在なのだ。この世界では生きられない人種なのだ。
「どうしたんですか?」
声も違う。
もっと高い声のはずだ。
顔もよく見ればちょっとだけ違う。といってもマキの顔はよく覚えていないが。
身長ももうちょっと低かったはず。
それに髪は腰の辺りまで伸びているはずなのに、この子は短髪だ。
そしてなんといっても、この子は男だ。
胸に目をやる。やはりあの大きくて柔らかい胸はない。
股間に目を落とす。何となくすでに勃起しているような不自然な膨らみがある。
――やはり「男」だ。
「あ、ごめん。ちょっとあまりにも若そうだったから。年いくつ?」
客に聞いてはならないことを聞いてしまう。やはりまだ動揺がココロを支配しているのか。
「え、え〜っと……ハタチです……」
すぐにウソだとわかった。変声期を終えたばかりのような高音と低音が混ざった声から察するに、どう考えても私よりも年下だ。
「ごめん、変なこと聞いちゃったね。今日は何をしたいの?」
「あの……いろいろ……テクニックを教えてほしくって……」
「テクニックってセックスの?」
「セックスもそうなんですけど……女のカラダのこととか……」
こういう客はこの店ではめずらしかった。
私は「ふ〜ん」と少年のカラダをジロジロと見回すと、いたたまれなくなったのか、少年は慌てた調子で口を開いた。
「あの……俺、そういうの知らなくて……。でも最近、彼女ができて、そしたら、
キスまでしちゃって彼女はその後も期待してるみたいなんだけど、俺どうやったらいいかわかんなくて……それで……」
「それでやり方を教えてほしい、と」
「はい!」
私はやれやれ、と呟きながら目をつぶった。その一方で私は抑えきれない胸の高鳴りが不整脈に波打っていた。
マキではない。
だけど、やっぱり似ている……。マキはこの世で生きている人間ではないはずだ。形のないココロだけを追い求めた存在のはずだ。
しかし、今目の前にはマキと似た人間が私の、そして彼女のカラダを求めている。似ているのに全く違う。
――対極の存在だ。
似ているとはいえ、この少年に向かって「マキ」と言ってしまったことに後悔を覚える。
そして今なお、今までの客にはない心境を抱いていることに自戒する。
「じゃあ、とりあえずリードしてあげるから。一通り、やってみよっか?」
私は誘惑する悪女のような艶やかな声を出したあと、少年を柔らかく抱きしめた。
緊張のせいかカラダが硬直している。ほのかに香る汗の匂いが、そこらへんのオヤジとは違いかぐわしかった。
汗はフェロモンの塊だということを初めて認識した。
私は少年の手をつかみ、ノーブラで乳首がうっすらと立っているのがわかるぴっちりしたTシャツの上に持っていった。
そして乳首を中心にさすらせた。
下を見ると、ジーンズの上から勃起しているのがわかる。
「……名前、ウソでもいいから……教えて……」
しばらく間があったが少年は「ユウキ」と答えた。
「ユウキくんか。いい名前だね。私のことはサヤカって言って……」
淫らな余韻を作りながら私はユウキの唇にキスをした。
確かキスはしたようなことを言っていたから私がファーストキスということはないだろう。
だけど、私はそのまま舌をユウキの口に入れると、その口から微かに喘ぎ声がした。
こんなに深いキスをされたのは初めてということを言っているような淫らな吐息だった。
一度10cmほどの至近距離で私たちは見つめあった。
「サヤカさん……」というユウキの鼻息混じりの声で私は表情を崩す。
赤らんだ頬を一度舐めてから、ジーンズのベルトを外し、ジッパーを下ろす。
露出したトランクスの前に着いているボタンを外す。
すると、細身のカラダ付きとは不似合いなほど、たくましく、そして、清潔な感じがするペニスが桃色に変色しながら反り返っていた。
私はそれを口に含み、やさしくしごく。
頭上ではさっきよりも大きなうめき声が生々しく聞こえる。カラダは口に入っているものと同じように硬直している。
しばらくしてユウキは射精した。
若さだろうか、ペニスが異常な速さと大きさで脈打ち、精液が飛び出している。私はユウキの精子をほとんど全部飲み込んだ。
生臭い、苦い、汚い。
だけど、ユウキの体温がしっかり包まれていたその液体は、そんな嫌悪感を払拭させる何かを持っていた。
「大丈夫?」
カラダ全体に汗が浮いていた。ユウキはそれを腕で拭いながら言った。
「う、上手すぎです……」
「そりゃあ、慣れてるからね。彼女にこれくらいのこと期待しちゃダメよ」
教育だなんて言っておいて、てんでそうなっていないことに気付いた。
もしかしたらユウキの彼女が同じことをやっても「サヤカの方が上手かった」と思ってしまうかもしれない。
そして、何でこんなにすんなりフェラチオをやってしまったのか、と思った。
キライだったはずなのに。
「じゃあ、今度は私を愛撫して」
私は半立ちでまだ透明な液が亀頭の先端に残っているペニスをティッシュでふき取りながら言った。エロティックな眼差しを向ける。
「う、うん」
ユウキは手を震わせながらTシャツを脱がしはじめた。
教えながらの愛撫は延々30分続いた。
一度射精したユウキの萎えていたペニスが再びはちきれんばかりに立っていくサマをモモの裏側を舐められている時に目撃した。
ハタチを超えた人間ならこうは簡単に復活はしない。
ユウキはどんどん上手くなっていくのが感部からの感覚でわかる。
暖かい舌でクリトリスをコロコロと転がした時に私はビクッと過敏に反応した。
すると、ユウキは一度私の目をみつめ、優しく微笑んだ後、そこばかりを攻めるようになった。私の性感帯をすぐに察したのだ。
やがて、私は指導の声を出さなくなった。いや、出せなくなった。
私はそんなに敏感なほうではないしユウキの愛撫も少しは上達したとはいえ、
まだ素人の域を超えていないはずなのに、この痺れる感覚はなんなんだろう?
私にとっての究極の前戯を終え、未だ居場所に落ち着けず、そそり勃つユウキのペニスを見た。
天井を向いたグロテスクな一物は安らげる場所を求めてユウキの荒い息遣いに併せて、先端が上下に揺れている。
私はそれを上の口にもう一度含んだ。
「サヤカさん……そっちじゃなくて……」
舌で亀頭を舐めまわしながら私は目線を上げ、「何?」と投げかける。
「下にいれたい……」
ユウキは感じながらも必死で言った。
私は一度狡猾な笑みを見せた後、ユウキの言葉を無視して、右手と口を巧く使い、最初よりも激しくしごいた。
「だから、サヤカ……さん……」
それ以上ユウキは言わずただ神経をペニスだけに集中しはじめた。男にしか出せない猛獣のような喘ぎ声が何度も何度も部屋中に響く。
やがて、ユウキは2回目なのに水鉄砲のように勢いよく射精した。喉の奥の方にまで当たった。
「はぁはぁ……。サヤカさん、どうして……?」
ユウキは自分の思い通りにならなかったことに対して、嫌悪というよりも不思議な気持ちで見つめてくる。
さすがに二回も大量の精液を飲みこんだので胃の中が少しギュルギュルと音を立てた。
「だって、これって練習なんでしょ?最後までさせちゃったら、彼女に悪いじゃん。童貞は好きな人に捧げなきゃ」
舌に残っているユウキの精液を指で触れ、中指と親指で擦りながら私は言った。
その手を自分の性器に近づける。下半身はまだイっていない疼きを覚えていた。
私のカラダとしてはすごい中途半端だったから、あとでオナニーしようと思った。
「サヤカさんってロマンチストなんですね」
”捧げる”という言葉がユウキにそう言わせたのだろう。
確かに自分にそういう部分が大きいのは認めるが、こんな場所で裸で性欲処理をした直後ではさすがに似合わない表現だ。
「そう?すごく現実的なことをしていると思っているんだけど」
「う〜ん、そうですね。じゃあ、リアリスティックなロマンチストってことで……ってあれ?矛盾してる?」
私は苦笑した。するとユウキも照れながら続いて笑った。
それからしばらくして私は、
「女のカラダの仕組みは大体覚えたでしょ?個人差はあるけど、性感帯なんてどこも似たようなものだし」
と、”今日のまとめ”のようなことを言った。
「はい、自信がつきました。ありがとうございました」
「愛撫はなかなか上手かったよ。同じことを彼女にしてあげれば、きっと喜ぶと思う」
「はい」
「でも一つだけ忠告」
「はい」
「フェラチオは強要しないほうがいいかもね。女の人で好きな人はあんまりいないと思うし」
「そうなんですか?結構気持ちよかったんですが……」
私は口惜しそうな表情を浮かべているのを見るとどこか滑稽でつい笑ってしまった。
ちらりと時計を見る。もうすぐユウキがやってきて1時間が経つ。
「じゃ、個人授業はこれで終わり。授業料は5万ね」
”個人授業”ってモロ、アダルトビデオだなぁ。
この部屋のどこかにカメラがつけられていて、録られていて、そんでもって売られたりして……。
そしたら、売れるかもね。あ、でも最後までやっていないから高くはないかも……。
そんな馬鹿なことを考えながら服を着ていると、ユウキは財布から万札を5枚取り出し、私に手渡そうとする。
ユウキのような私よりも年下の少年が5万円を惜しげもなく出すところを見ると変な違和感を覚えたので
あまり顔を見ないようにして受け取った。自分の財布に5万円をしまっている時にユウキは言った。
「お願いがあるんですけど」
「何?」
「最後にもう一度舐めていいですか?」
私の下半身をユウキは物欲しそうに見ていた。うつむき加減の顔は最初に初めて見たときよりずっと大人びて見え、ドキリとした。
「うん……」
私は細い声で頷いた。私の出した音の尾びれには、今まで出したことのないフェロモンがくっついているような気がして驚いた。
料金を追加しようとは微塵も思わなかった。
それにしても、私のカラダの疼きをユウキは知っていたのだろうか?知っていてそんなことを言ったのだろうか?
だとしたら相当なフェミニストだ。
ユウキは無駄のない動作で私のパンツを脱がし、下半身に顔をうずめ、私がさっき言った通りに優しく舐めはじめた。
そして、私はイった。
-14- リアルな白昼夢
――今日、夢は見たのだろうか?
人間は毎日、いくつもの夢を見ているらしい。
起きてからも覚えている夢というのはレム睡眠という浅い眠りの時かつ起きる直前に見た夢に限られるらしい。
それが本当だとすると今日も私は何らかの夢を見ていたことになる。
しかし、マキの夢はそれとは性質が異なるような気がしていた。
どんなに深いところにいる状態であってもマキは悪魔のような天使のような手で持って強引に引きずるように夢に現れる。
それは私の眠りのリズムを歪ませ、衝撃を与える。そのせいで起きたときも余韻が残る。
つまり夢が外力のせいで記憶に焼きついてしまう。そう解釈していた。
だからマキが出たことを忘れたのではなくて、マキは出てこなかったと考えるほうが正しいと思う。
リズムが崩れたようなココロの歪みは感じられなかった。
マキはどう思っているのだろう?今までも聞いたことのないマキの心情を私は今まで以上に知りたくなった。
「フロントの前であくびをしない!」
後ろからの怒声で私は背筋がピンと立った。振り返るとユウコが眉根を寄せながら私を見ていた。
「あ、ごめん。あんまり寝つけなくて」
カラダが重かった。重い鉱石のような塊がカラダ体中の皮膚のすぐ下に埋められているような気持ち悪さを感じていた。
食欲もなかった。マリがせっかく作ってくれた御飯と味噌汁をムリに食べると胃が拒否反応を起こして戻してしまった。
美味しいはずの白米や味噌汁の中のネギが私の内部に入ると毒に変質してしまうみたいだった。
マキに対する罪悪感だろうか?
少なくともユウキとの行為の間、私はマキの要求、そしてマキの存在を完全否定していた。
固有名詞を失った性的浮遊体だった私にユウキは「サヤカ」という命を吹き込んだ。
その瞬間、淫猥な自我が目覚める。それは「カラダとココロは決して離れることができない」ということを実践しているようなものだった。
ユウキは実数となった私の体をココロで持って貫いた。温かな桃色の突起物が私のカラダもココロも夢中にさせた。
だからこそ教えてほしい。マキはどう思っているのかを。
私を否定してほしい。そしたら絶対それに従順するから。
――「自信がつきました。ありがとうございました」
え?
声が聞こえた。
その方向は全くわからなかったけど、とりあえず考えられる方向に振り向く。
「ユウちゃん、何か言った?」
「ん?何も言ってへんで。ていうか”ユウちゃん”はやめぇや」
ユウコはアクビをしながら言った。私の緊張したココロとは対照的だった。
「ウソ。言ったでしょ?『ありがとう』って」
「何でアンタに『ありがとう』って言わなアカンねん……ってどうしたん?サヤカ?」
顔を青く変えながらユウコは尋ねていた。
そんなユウコを消え行く視界の端で見た。
目の前が白いペンキで塗りたくられていく。その間を割ってある感情の塊が、弓矢となって私の胸をまっすぐに刺し抜く。
痛みはない。ただ胸のあたりで刺された音だけがした。
私は意識を失った。そして別の意識が入り込んでくる。
ユウキの喘ぎ声がした。
ユウキの背中が見えた。裸だった。
私は傍観していた。
ユウキの下には長い髪を振り乱した女がいた。
私とは別の女。
顔の見えないその女に私はココロの底面をくすぐられる。
異様なリアルさがカラダの中に埋め込まれた鉱石の重みをさらに増してきた。
「サヤカ!」
気が付くと私は休憩ルームで寝ていた。
ひどく汗をかいていた。視界にはユウコとナツミの青白い顔があった。
白昼夢を見ていたことに気づく。
「大丈夫?」
ナツミのあまりの心配顔にこっちが逆に心配になった。私は立ち上がってナツミの頭をポンと叩き、「大丈夫」と笑顔で言った。
冷房によって冷やされた全身の汗が体温を奪っていく。
これは余韻なのか、胸にぽっかり穴が開いている気がする。そしてその穴に空気が通り抜けていく。違和感からその胸を抑えた。
私はユウキの幻聴を聞いていたことを理解した。
弓矢が胸に刺さった音を聞いたとき、その胸からは嘆きの声が発散された。
きっと弓の中に感情が込められていたのだろう。
私は認めたくなかった。それはマキを否定していることになるから。
だけどどんどん重力に押し潰されそうになっている自分のカラダはその感情を認める方向に進んでいた。
「もう帰ってもいいで。二人で何とかするから」
ユウコは私のカラダを危惧して、そう促す。
「違うって。ホント大丈夫だって」
何かをやっていないと私はヘンになりそうだった。まだ残っている白昼夢の残像を消し去る術はカラダを休ませることではない。
そう気づいていた。
「じゃ、フロント戻りま〜す」
私はやけに高い声をあげて、私は休憩ルームを飛びながら離れた。
私は弓矢の傷を癒すように、何度も何度もつぶやいた。
「私は認めていない」
「私はウソなんてついていない」
「私は…………恋なんてしていない」
――言葉の空しさが白昼夢をさらにリアルなものへと変えていく…………。
-15- 確信犯
それからは私のカラダに異変はなく、ユウコもナツミも心配そうな顔はしなくなっていった。
フロントから休憩ルームを覗く。ユウコがいつも通り腰を落ち着かせて、タバコをプカプカ吸っている。
ただ、今日は格段に上手そうに吸っていた。
「ホントにユウちゃんって客を選ぶよね」
私の耳下でささやいたナツミ。私は苦笑しながら同意した。
20分前、1組のカップルが来店した。腕をからめる男と女。
いちゃいちゃするのは日常茶飯事でもう慣れたものだが、癇に触れたのはその男女はどうみてもエンコー関係だったということだ。
父と娘ほどの年齢差の男と女が恋人のように振舞っている。
いや、恋人になりきれていないからこそ、”恋人らしい”仕草を大げさなほど見せつけているのだ。
そんな二人だったから私はエンコーなんだと確信した。
二人の間に万札が数枚プカプカと浮かんでいるような気がした。
「ホント、ナッチには信じられないよ。カラダを売るなんて……」
ナツミの脱力気味のつぶやきはたまたま近くに来ていたユウコの耳に届き、ユウコの逆鱗に触れることになった。
ユウコはそのカップルが入れた部屋にノックするだけで反応も待たずにズカズカと入り込んで、数分後、カップルを店から追い出した。
もちろん、そのカップルは怒り心頭のようだったが、出て行ったあとのユウコの顔は満足感でいっぱいだった。
「まだ、エンコーって決まったワケじゃないじゃん。単なる仲のよい父と娘なのかもしれないし」
それはないと感じていながら聞いた。
「ちゃんと聞いたで。援助交際ですか?って」
「な!」
ナツミがユウコのあまりのストレートな言い方に絶句する。
「否定せんかったからな。『当店では犯罪者の入店を固くお断りしております』って言って帰ってもらった」
いや、おそらくそんな丁寧口調で言ってはいないだろう。おそらく関西弁で本性丸出しで追っ払ったに違いない。
想像するとちょっと口に笑みがこぼれてしまった。
一仕事を終え、”勝利のタバコ”に酔いしれるユウコをまた見る。
なんて、自分に正直な人なんだろう。
自分の信念をはっきりとさせ、それ以外を盲目的に排除する。ガンコと言えばそれまでだが、その融通の利かないところは限りなく尊い。
彼女と付き合える男なんてザラにはいないだろう。
”お高い”というワケではなく、歩み寄りをしないユウコを認めてくれる大らかな人間というのがユウコと付き合う第一条件なのだ。
そんなユウコを尊敬の眼差しで見つめると同時に、いつかくるであろう悲しい予感にビクビクする。
私はいつかその信念に弾き返される日は来るだろう。
ユウコとどんなに親密になったところで、私の背負う過去、そして隠していることに触れた時、その関係はもろく崩れ去ってしまうだろう。
対処法なんてものはない。ただ、その日ができるだけ遠い未来であることを願うのみだ。
「さ、仕事しよ」
私はナツミに促した。
何となくユウコを見ることさえつらくなっていた。
今日は基本的に私がフロント業務でナツミがホールでドリンクとかを持っていく係りになった。
もちろん状況に応じては逆にもなるが基本にはこうだ。
ある女性が来たのはナツミがトイレに行っているときだった。
ワインのような真っ赤なノーショルダーのシャツに紺色のスカート、金色の髪を上手く束ねていてすごく大人っぽい。
背丈はカオリより少しだけ低いぐらいか。
一人で来る客はめずらしい。
たまにはいるがその大抵は世間の荒波に飲まれた結果ボロボロになったおじさんか、
時間を持て余している中学生ぐらいの男子、もしくは歌手を目指して歌いにくる希望に溢れた少女(ただしブサイク)とタイプは決まっていた。
この女性はどのタイプとも合わない。
「いらっしゃいませ」
私は見上げるように言った。
「1名様でしょうか?」
「いえ」
女性は辺りをフロントの向こう側を見る。
「実はおとといに携帯電話を忘れたんですが……」
その背の高く気品のありそうな立ち姿とは違い、声は少しこもっていて子供っぽかった。
「じゃあヨシザワさん?」
”ヨシザワ”という名前がパッと記憶から引き出されて口に出る。
「はい。ヨシザワヒトミです」
「え?」
ちょっと目の色を変える私をこの女性はめざとく見つけた。
「何か……ヘンでしょうか?」
私は「いえいえ」と慌てて謝った。
ヒトミという名前を聞いて私は敏感に、”マリア”で働くヒトミを思い出してしまっていた。
その女性は口元に静かな微笑をこぼしながら黒のサングラスを外した。
私はその顔に驚いた。えらく美人だ。そして”ヒトミ”の名前に恥じないほどの大きな瞳からは魔力にも似た不思議な光を放っていた。
驚きの表情をよそにその女性はにこりと微笑んだ。いや確か16歳なはずだから少女というほうが正しいのかもしれない。
私はなぜか”マリア”で働いているヒトミと比較してしまう。どちらも端正な顔立ちだが少し違う。
あっちのヒトミは守ってやりたいようなかわいらしさだが、
こっちのヒトミは絶対的な自信とともに年不相応なかわいらしさと綺麗さをミックスさせている。
「すみませんが免許証とか、身分証明証とかを見せてもらえませんか?」
「はい、高校生なんで……学生証でもいいですか?」
「え?高校生?」
目を丸くする。もっと大人びて見えたからだ。
「はい、見えません?」
ヒトミは実年齢よりも上に見られることに慣れているようで、目を細めて笑いながらそう言った。
「すみません。学生証でももちろん結構です」
つい自分より年上の人間に対するように話してしまう。ヒトミは財布の中から学生証を取り出して私に見せた。
都内に通う高校一年生のようだ。
その時ナツミが用を済ましてフロントにやってきた。ヒトミがいることに気付くとすぐに、「いらっしゃいませ」と声をかけていた。
ナツミとヒトミは目が合う。ナツミはすぐにわかったようだ。
「あ〜、ヨシザワさん?」
ヒトミは柔らかな笑みを浮かべながらうなずいた。ナツミは私のすぐ横に立ち、肘で脇腹をつつく。
それでヒトミはおととい、カラオケルームでエッチなことをしていた人間だとようやく思い出した。あの白黒のモニターに映っていた”男と女”。
私はヒトミを一目見てすぐにナツミの言っていたことは正しかったのだと感じた。
このヒトミが男に弄ばれる人間とは到底思えない。
つまり、ヒトミは女のカラダを弄んでいた人間――つまり私たちが男と間違えていた人間なのだ。
「二人とも美人ですね。お二人目当てでやってくる男の子とかいるでしょう?」
ヒトミは言った。
「そんな〜、いないですよ。美人だなんてそんなぁ〜」
ナツミがどこかのオバさんぽく右の手首を振って恥ずかしそうに応えた。
これが美人があまり美人じゃない人間に言う少し皮肉が入ったお世辞だとは気付かないのだろうか。
「いやいや、美人の上にどこか幸せそうな顔してますね。いいことあったんでしょう?」
ヒトミがナツミだけを見て言う。すると、ナツミは、
「え?いやいや、あはは」
と下手に口を濁していた。
毎日のように顔を合わせる人間は慣れてしまうとまともに見ることはなく、目に見える変化だけを追いがちなる。
ナツミとは毎日とは言わないが、バイトに入る度に会う。いつのまにかナツミを”空の笑顔しかしない”人間と捉え、
今日もその偶像を、一瞥したナツミの輪郭に結び付けていた。
ヒトミの言葉を受けて、ナツミをまともに見た。
確かに笑っている時間が長いような気がした。しかも、いつもと違ってそこには何らかの意味が含まれている。
ヒトミの言う通り、何かあったとしか考えられない。
私は携帯電話と学生証をカウンター越しに手渡した。
少し気分が悪かったのはヒトミがあまりにも落ち着き払っていて、浮世離れしている感じがしたからだ。
何か私のココロを全て見透かしているようで、気に食わなかった。
だから悪戯心に少し、その冷静なココロに動揺の雫を垂らしてやろうと思った。
「ありがとう」
ヒトミは軽く礼をする。それに合わせて私は言った。
「また、来てくださいね。あの恋人の方と」
私はちゃんとレズシーンを見てましたよ、という意味をこめた一種の侮蔑の目を送る。
しかしヒトミはそんな私をあしらうように長い首をさらに長くして笑った。
「はい。また”彼女”を連れてきますね」
そう言い残し、小さいバッグを肩にかけ、マッドフレームの高級そうな黒のサングラスを着けながらヒトミは店を去っていった。
ポーンという間延びしたチャイムが鳴り響く。今日はいつも以上の虚しい響きだった。
「サヤカ……?」
ナツミは負けた、という表情をしている私を不思議そうに見ていた。
「…………」
「どうしたの?」
「う〜ん、確信犯だったみたいね……」
また、ヒトミは”彼女”を連れてくるだろう。そしてカメラを意識しながら、私たちに見せつけるようにエッチをするのだろう。
その時、私は働いていたくないな、と思った。
-16- ナツミの変化
その日もナツミは私を食事に誘った。
今日は風俗の仕事はなく暇だったが「2時間ぐらいしか空いていない」とウソを言って断ろうとした。
しかし、「それでもいい」と言われてしまった。前回は自分を追いこんでいるふしがあったのに今日はない。
積極的なナツミは見ていてちょっと奇妙だった。
結局、私は断る理由を逸したこともあって2時間だけ付き合うことになった。
前回と同じようにナツミは私のバイトが終わるまで1時間ほど待ち、近くの24時間営業の喫茶店に寄った。
なかなかお洒落な店構えで店員の客当たりも良いとは思うのだがなぜか人が入らない不思議なところだった。
そこで、ベーコンのホットサンドを二人とも頼んだ。
正面に向き合った時、ナツミは純粋なままの笑顔を浮かべていた。
多分、私のような汚れた肉体では決して作ることができない笑顔だった。
ふとマリに近いと思った。正確に言うと昔のマリにだ。
「何か良いことあったの?」
私はナツミがいつもとは雰囲気が違うことをヨシザワヒトミが指摘して初めて気付いた。
あのヒトミはそういう人のココロを読み取ることができるのだろうか。
それからナツミの様子を観察したのだが、確かに違うナツミがいた。
自分の中にこもるようなところを一切見せず、客や私たちと接していた。
ナツミにとって笑顔とは自分の陰湿な部分を隠す武器のはずなのに、今日のナツミのそれはどう見てもココロからのもののようだった。
「へへへ〜、わかる〜?」
黒の無地のハンドバッグからナツミは携帯電話を慌てた手つきで取り出し、
その後ろを見せた。
そこにはプリクラが一枚貼られていた。
男と女がいた。一人はナツミだろうが顔にカラフルなペンで塗られていてイマイチ顔がわからない。
「あ、もしかして?」
ひらめきとともにナツミを見た。必死で堪えようとするもこみ上げる感情にはかなわなかったのか、表情を崩した。
「うん……おとといあんなこと言ってたんだけど……彼氏出来ちゃった」
申し訳なさそうに、ナツミは上目遣いをする。
「へえ〜、どうやって?ていうか早くない?」
「いやあ、それがさあ、サヤカと別れてからおウチに帰ろうとしたんだけどその途中にね、ストーカーに遭ったんだべ」
「ストーカー?」
「うん、私をずっと付けて来る人がいてね。電車の中でも、降りて歩いていても後ろにいたんだべ。
真っ赤なセンスの悪い帽子を被っていたから鈍感なナッチでもすぐわかった」
ナツミは怪談話をしているように私を脅そうとする。怖い話は苦手だし、ナツミはそういう雰囲気を作ることが上手いようだ。
私はちょっと怯える。
「それに一回パッと振り返ったらその赤い帽子の人はサッと後ろを向いたから、『ああ、ストーカーだ』って気付いたの」
「まさか、そのストーカーが彼氏になったとか?」
常識では考えられないがナツミはある意味私の常識外の人間だ。
「んなワケないよ。それで私ね、怖くなって走り出したの。一瞬後ろを見たらその人も走ってきて……」
「うん」
なぜか頭の中にはジョーズのテーマが流れてきた。私にとっては恐怖の象徴なんだろう。
なんて貧困な想像力だと嘆きながら、その頭に流れる音楽に怯えていた。
「曲がり角をぶつかったらバ〜ンと!」
私はツバを飲み込んだ。ナツミは自分の前で腕を組む。そして上を見上げる。
「王子様が現れたの」
「はぁ?」
「だから、王子様」
「それがコレ?」
私は携帯電話に貼られたプリクラを指差すと「コレ」と言われたことに一瞬だけ怪訝な顔をしてからナツミは大きく頷く。
「ま、つまり彼がね現れて……」
「なるほど。助けてくれて、それで付き合った……と」
「うん!」
「なんかドラマチックだね〜。月9のドラマの主人公みたいだ」
そう言うとナツミは照れていた。”月9”というのは完璧なお世辞で、正確に言うとチープな昼のドラマだと思った。
でもこういうほうがナツミらしい。
「どんな人なの?」
ナツミは「質問して」と言わんばかりの好奇に満ちた目で私に訴えかけてきたので、とりあえず聞いた。
「うん、優しくてカッコよくて、それで――」
「結構ひょうきんもの?」
私は口を挟んだ。
「うん、何でわかったの?」
私は再びプリクラを指差した。
「顔に落書きしてるでしょ?二人で撮った最初のプリクラなら思い出を大切にしそうなナツミだったら絶対何も書かないはず。
じゃあこれは彼がやったっていうことになる。こんなことやる男なんて結構なひょうきん者だろうし」
「へえ、なんかサヤカって探偵の人みたいだね〜」
「まあね、プロファイリングの勉強してるし」
「そうなんだ。カッコいい〜」
おいおい本気にしないでよ。大体「プロファイリング」って何なのか知っているのか?私だってよく知らないで適当に言った言葉なんだけど……。
そう呆れる私を無視してナツミはただ幸せそうに笑っていた。
どんなへりくつをこねたってこの微笑みの前には王水をかけたように溶けてしまう絶対的なものに思えた。
私はナツミの幸せを付き合いが短いとはいえ、ささやかに願っていた。
だから、こんな明るい顔をするナツミを無条件に微笑んで受け止められるはずだ。
だけど、私はかつてのナツミのように笑顔を”作っている”自分に気付いた。
それを知られたくなくて一度目をギュッと閉じ、底に湧いている鬱屈したものを押さえつける。
そうやって意味不明の葛藤と闘っていた。
「どうしたの?」
ナツミは不思議そうに尋ねると、私は「なんでもないと」と首を横に振った。
「もうエッチしたの?」
私は唐突に聞いた。ナツミは大げさに首を横に振る。
「まさかぁ、キスもまだだよ」
私は眉をひそめた。
「本当に付き合ってるの?出会ってまだ2日でしょ?」
「だって、それにプリクラも撮ったし、電話番号も交換したし……」
「告白は?したの?されたの?」
「いや、どっちも……」
「はあ?じゃあまだ付き合ってるって言えないんじゃ……?」
「でもねでもね、たまたま二人とも昨日予定なかったからデートしたんだよ。食事して映画行って……」
弁明みたいに早口で喋る。拳をグーに構えて力説をしている。
「それでキスは?されなかったの?」
「うん、でも最後に手を繋いでくれたんだ」
また嬉しそうにナツミは自分の小さな手を見つめながら言った。私はただただ呆れた。
きっとこの男も恋愛経験がほとんどない童貞クンなんだろうなぁ。でもそういうやつのほうがナツミにはお似合いかもね。
そして、もうちょっとナツミを心配しようと妙な母性が働いていた。
注文したホットサンドはいつの間にかテーブルに置かれていた。それに気づき、食べるともうホットではなくなっていた。
-17- 涙のキス
家に帰るとマリがいて驚いた。
時間的にはいてもいいから驚くべきことではない。
私が驚いたのは、すでに上下長袖のピンク色のパジャマに着替えていたことだ。
いや、もしかしたら着替えていないのかもしれない。今日一日ずっと同じ服を着ていた。
つまり外出を一秒たりともしていないということになる。
外出好きのマリにはあまり考えられないことだった。
「ただいま」という私の声にも後ろ姿が上下に揺れるだけで”窓際リーマン”のような物寂しさが見え隠れした。
右手にはマグカップを持っている。私はもう一度、今度は若干大きめに呼びかけると、マリはゆっくり振り向いた。
「おかえり」
そのマリの表情には隠そうとも隠すことができないくらいの翳が宿っていて、私は一瞬背筋が凍る。
いつもの明るいマリの全人格をひっくり返したような気がしたからだ。
失恋というものはこうも強力なダメージを受けるものなのだろうか。
一昨日よりも昨日よりもずっとその落ち込みかたは激しかった。それは明日も明後日も続くのだろうか。
そしてどんどん深い闇に落ちていくのだろうか?
「今日は外出しなかったの?」
マリはうなずく。
「学校行かなくてよかったの?」
またマリは無言でうなずく。
「体調悪いの?」
今度は首を横に振る。やはり無言で。
それからもマリはほとんど口を開かなかった。
活字がびっしりと埋まっている小説を手に持っているが、薄くよどんだ黒目は焦点が合っているとは思えなかった。
何となく違うと思った。一度、マリは失意のどん底に落ちている。
しかし、何かが別のさらなる深い底に落としたのだ。
そう思う理由は説明がつかない。言うなれば、幼馴染としての長い年月がそう唱えている。
「マリ……また、何かあったの?」
マリは反応した。ほんの少しだったけど、あごが上下に振れ、肩が揺れた。
「あったんだ……」
「…………」
「……別にムリすることはないから……。話したくなったら話して。昔みたいにさぁ……」
「…………」
「とにかく……早く明るくて元気なマリに戻ってね」
私はマキのことについて震えながら話した小学生のことを思い出しながら言った。しかし、マリは結局最後まで無言だった。
少し聞きすぎたかな、と思いながら風呂に入った。こういう時に詮索するのは愚かな行為だ。
再会してからはお互いのプライベートに関してはあまり追求しないようにしていたから余計にそう思った。
濡れた髪を完全に乾かす前に、私は寝床についた。
暗いところは苦手なので電気をつけて寝る。マリが先に寝ている日は暗い所で寝なければならないので苦痛だけど仕方がない。
逆に私が先に寝る時は電気をつけたまま寝て、マリが寝る時に消してもらうことになっている。
私が穏やかに眠りの泉に落ちていくときだった。
マリが音を立てずに私の近くにやってきて電気を消した。
私は「マリももう寝るんだ」と思うだけで目は開けない。
ほとんど意識がなくなりかけた時だった。
マリは私の布団をめくり、腹の上にのしかかってきた。体重が軽いとはいえ、
一瞬「うっ」とうめき声をあげる。すると、その声を閉じ込めるように、口に冷たい感触が走った。
それがキスだと気付くのに若干の時間がかかった。
落ちていく意識の底から上向きの力がカラダ全体を押し上げるように働き、私は目を開けた。
驚きという、目から火花が出るようなインパクトのあるものではなくボディブローのようなじんわりとやってくるような衝撃だった。
真っ暗でよくわからないが目の前にはマリの顔がある。
マリは私の胸のあたりを触っていた。カラダの表面を撫でているという感じだ。
「マリ、何してるの?」
状況がいまいち把握できていない私は「どいて」と嫌がることなく尋ねる。
目が慣れてきてマリの表情が徐々にわかるようになる。
暗がりの中というせいもあるが、寝る前に見た翳をさらに増したような表情だった。
カラダにようやく衝撃が走った。ここまでされておいて何て鈍感なんだ、と思った。
私は服を脱がされているのだ。そしてよくみるとマリも小振りで形のいい胸を出している。
「ちょっと、マリ!」
黒く渦巻く空気に一層の危機を感じ、私は必死で起き上がろうとするが、マリは私の腹に乗っているため、うまく抵抗できない。
結局そのままブラジャーまで強引に剥ぎ取られ、右の乳首をマリは高速にこすりはじめた。
カラダ中が乳首を発信源に熱くなっていく。
一瞬洩れそうになった喘ぎの声を私は唇を意図的に噛んで飲み込んだ。
熱が電流を生み、カラダの中を流れる。
それが手足に及ぶ前に私はかろうじて自由になっている左腕でマリの右腕をつかんだ。
マリはそんな私の抵抗にも屈することなく、顔を近づけ再びキスをした。
今度はさっきと違い獰猛なキスだ。小さな亀裂からこじ開けるように私の口に舌を入れてきた。
そのキスの味はなぜかしょっぱかった。
マリに対する嫌悪とかはなかった。
襲われているという感覚もなかった。
ただただ、今の状態を信じることができない。悪夢を見ているようだ。
次にマリは私のパンツに手を入れてきた。その手は一瞬で性感帯にまで到達する。そして、すぐにいじりはじめた。
キスされた時、私は若干感じていた。マリの手で少しだけ濡れたアソコが滑らかに弄られている。
キスで閉じられた口が離れたとき、私は思わず女の声を出した。
マリは上手かった。女同士だからどこが感じるかを知るのは簡単とはいえ、あまりのソツのなさだ。
「や……めて……」
ムダだとわかっていて私は必死の嘆願をした。男だったらこんな声で言われると逆に欲情を燃え滾らせることになるだろう。
マリも同じでより一層しつこく攻められると言った直後に思い後悔した。
しかし、マリは予想に反し、その言葉で動作を止めた。電池式のロボットの電池が切れたように、硬直した。
そして、私の胸に冷たい水が落ちた。
「マリ?」
時間が止まった感覚がして私はそのスキをついて逃げ出そうと思わない。
私もマリと同じように硬直してしまった。
「何でこんなこと……?」
私がそう聞いた瞬間だった。マリはアソコに伸びていた手に力を込めた。
そして、ブチッという音とともに、その手を私のパンツから出した。
「痛っ!!」
私は下半身のあまりの痛みに飛び上がった。
その力は上になっていたマリを飛ばした。ドッスンという音がする。私は立ち上がった。
マリは私の陰毛を毟り取ったのだ。しかも何本も同時に。
カラダをいろんな風にいじめてきた私だけど、この痛みは初めてだった。
「何すんのよ!」
数年ぶりに私は尻持ちをついているマリに怒りをストレートに向けた。
そして、丁度目の前に垂れ下がっていた部屋の電気の紐を私は引っ張った。
「何で、こんな―――」
電気は2、3度点滅した後に完全についた。その光は私とマリを照らした。
肌色になったマリのカラダを見て、私は絶句した。
マリは泣いていた。もう何日も泣いていたかのように頬に傷のような赤い線が3Dのように浮かび上がっていた。
しかし、私を絶句させたのはそれだけじゃない。
マリは全裸だった。
そして、そのカラダには無数の傷とアザが生々しく刻まれていた。
-18- 胸の烙印
「マリ……」
名前を呼ぶだけでそれ以上の言葉は出てこない。
目の前の現実が歪み、頭のてっぺんから手足のつま先まで震えが沸き立つ。 マリは決して目を合わそうとせず、
尻持ちをついた態勢のまま十字架に張り付けられたイエス…キリストのように感情を全て失ったまま裸の自分を晒していた。
マリの右手の下にはちりちりの私の陰毛が20本ほどある。
それを見て、まだひりひりする自分の陰部をさすりながら、マリの同じ部分を見た。
また、絶句した。
マリにその毛はなく性器がはっきりと見える。代わりにその部分は赤く染まっている。剃刀とかで乱暴に剃られた痕だった。
マリは何も言わない。逃げ出そうとしない。でもカラダ全体から訴えているような気がした。
「何が……あったの?」
マリはピクリと動いた。初夏の風が部屋に吹き込んだようで私とマリのカラダを掠める。
生ぬるい風だったがマリの刻まれた傷に染み込んだようで途端に苦痛の顔をする。
「誰にされたの?」
聞いてもムダなことを聞いてしまったとやや後悔しながらマリのカラダを凝視する。
マリに近づくムチで叩かれたようなネズミ腫れや、カッターで切られたような切り傷。
二の腕には縄で縛られたような痕、などキズが多種類ある。
そして何といっても一番目を見張るのが左胸の乳首の上にある焼きゴテのようなもので烙印された刻印だ。
肌が茶色くただれており、錨というか地図記号の漁港の文字をひっくり返した感じの痛々しい模様だった。
私は汚れたカラダを歯を食いしばりながら見続けた。
おそらく1人とか2人とかのレベルじゃないだろう。きっと二ケタ単位の人間にマワされたのだ。
「ねえ、マリ!」
横を見て私と目を合わさないマリの顔をつかみ無理矢理私のほうに持ってきた。顔はカラダに比べるとキレイだ。
おそらくレイプされたのはおとといだろう。外泊したと思っていたあの日だ。
それまでなぜ気付かなかったのだろう。
マリの顔と首から下は全く別人のように肌の色が変わっていた。間近にその肌を見て、ゾンビを見ているような気持ちに襲われた。
無理矢理合わせたマリの目はほとんど死人だった。その目から決壊したように涙がとめどなく流れている。
「サヤカぁ〜……」
理性を失ったようにツバを溜めた口からマリは声を出した。
言語障害者のごとく口元をきちんと動かさなかったためネバネバしたヨダレがとろろイモのように口から洩れた。
「マリ……どうしてこんな……」
「感じるよね?どんなにイヤだって、感じちゃうものは感じちゃうよね?」
マリは私の愛液と陰毛がこびりついた右手を狂った雌猫のように舐めた。
目には悲壊の色を帯びている。それは私のココロをえぐるような痛いものだったが、何の意志も有さない瞳よりはずっとマシだった。
私は小刻みに顔を上下に動かしながら「うん」とうなずく。
「私……悪くないよね……?何度も何度もイっちゃったけど……悪くないよね?」
「うん、悪くない!マリは何一つ悪くない!」
私は小さいマリのカラダを力の限り抱きしめた。触れた肌は普通は感じることがないゴツゴツした違和感でいっぱいだった。
長い嗚咽はココロの傷を表面上だけ癒しているようだった。
密着したカラダとカラダ。
感情の吐露を終えるとその肌触りに対してどことなく羞恥を覚える。しかし、マリはそんなことは考えていないようだった。
自分の中に湧く見えない敵と必死で戦っているように震えていた。
マリは犯された。
いくつもの傷をつけられた。
そして、それでもカラダに流れる性の衝動に、きっと男たちは罵詈雑言を浴びせたのだ。
「感じてるじゃん。好きなんだろ?」
頭の中で吐き気がしそうなダミ声が繰り返される。
貧困な想像力から生まれる簡単な方程式は残酷な過去に私を導いていた。
「ゆっくりでいいから……明日でもあさってでも、1週間後でもいいから、何があったか教えて……」
マリに耳下で囁いた。よく見ると耳たぶもただれている。着けていたピアスを強引に取られたのだろうか。
マリは一度胸で大きく息を吸ってから首を横に振った。
「今、言うから……」
どんな形にしろ、告白するつもりだったようだ。
深呼吸の間隔が小さくなる。そして、肩、腕、腰、そして胸の刻印と自分の傷を次々に触れていった。
現実に存在する残酷な事実を再確認するように。
しばらくして、お互いパジャマに着替えた。電気は中途半端だけど二つの蛍光灯の内、一つだけを点けた。
ぐちゃぐちゃになった布団を部屋の片隅に乱雑に寄せて、スペースを作った。
そこに二人は座り、一緒に温めたウーロン茶を飲んだ。床は板張りで冷たかった。
マリはゆっくりと毒を吐き出すかのように、時に苦悶な顔を浮かべながら吐露しはじめた――。
竹下通りからから東に歩いて10分のところにある公園で二人は会った。
マリはサルが木にぶら下がるように小さいカラダを懸命に使ってトシヤの腕に巻きつき、歩いた。
しばらくして、トシヤとマリは路地裏の薄暗いところに足を踏み入れた。
排水溝から洩れ出した水が地面を濡らし、厚底の靴の下でピチャピチャと音を立てる。
マリは幾分かの不気味さを感じたようだが、何の迷いもなく歩くトシヤにしがみつくだけでそんな恐怖は失せていた。
しばらくするとちょっとした広地に抜けた。草が高く生え、その内側に廃墟みたいに妖しげに建物が立っている。
とにかく周りに人の気配がしないところだった。
繁華しているところから少し歩いただけでこんな寂れた場所があるとは驚きだった。
「そこで、トシヤは別れようって言ったの……」
マリは胸のあたりをギュッと抑えながら言った。マリにとって、あまりに突然だった。
目の前が真っ暗になり、涙でぐにゃぐにゃになった。
トシヤは「理由は聞かないでほしい」と呟いたあと、背を向ける。マリはもうとっくに絶望の淵に落とされていた。
自重を支えられなくなるほど腰が抜け、トシヤに一層しがみついた。
でもマリが味わう絶望の淵はさらに深いところがあったのだ。
「何で?」と振り絞るように聞いたらトシヤは顔だけをマリの方に向け、笑ってこう言った。
「お前を好きなやつが俺の周りにはいっぱいいるんだ」
これが合図だったかのように突然の人影が現れる。
それも一人や二人じゃない。獣の群れから生まれる欲望の音色が不協和音を作って周りをかき鳴らす。
恐れおののくマリに向かってトシヤはこう吐き捨てる。
「正確に言うとお前のカラダが好きなやつなんだけどな」
四方八方からガサゴソと荒い息とともに物音を立てる群れが一斉に打ちひしがれていたマリに襲いかかった。
マリはなすすべなく数人の男に囲まれた。
そして―――。
目の前のマリは口を閉ざした。私から顔を背け、唇を噛みしめている。
腐敗したカラダをこれ以上壊されないように腕を巻きつける。
私はただ立ち尽くしていた。
続きは――言わなくたってわかる。
マリはそこで輪姦されたのだ。
必死で抵抗しても、ナイフでカラダを切り刻まれ、ライターで膝をあぶられたり、紐で腕を巻きつけられたりした。
そしてペニスで膣をえぐられた。何人も何人も。
そんな想像をさせるマリの失意のどん底に落とされた表情。
「何回も何回も中出しされちゃった……」
しばらくしてからマリは微かな嗚咽を含ませながら、口を開いた。またじんわりと涙がたまっていく。
「生理……きたの?」
マリは首を横に振る。
「まだ……あれから2日しか経っていないからわかんない」
「検査薬ならすぐ手に入るでしょ。買ってくるから」
マリは多分犯された後、この家に直行し、それから出ていないはずだからそんなものを買いに行ってはいないだろう。
「もし……できてたら……どうしよう……」
再びマリに震えが襲った。私はマリの左手をギュッと握った。
「大丈夫。精液って混ざり合えば妊娠しないって聞くし……」
根拠はあまり知らないけどそう聞いたことはある。レイプされたマリにこの言葉はなぐさめにはならないだろう。
だけど、こうしか思いつかなかった。マリは静かにうなずく。
私は一つ思ったことをすぐ口にする。
「そのトシヤってやつは――」
「違う!」
マリは異常な速度で反応した。
俯き加減だった頭を上げ、目を見開きながら私を見た。
そのあまりの豹変ぶりと迫力にマリ自身が驚き、握っていた左手を離し、「ごめん」と謝る。
「いいよ。とにかく明日病院に行こう。その傷……ちゃんとしなきゃ……」
胸の皮膚が爛れて作られた刻印を見ながら言った。
マリは承諾した。
私はレイプした顔の知らない男たちを、そしてトシヤを思い浮かべた。
剣を持った私はそれらを串刺しにした。その顔が苦痛を滲ませるまで何度も何度も貫いた。
きっと、トシヤはその輪姦した男たちの仲間なのだ。
マリのことがキライになって仕組んだのだ。いや、元々そのために近づいたのかもしれない。
マリもそのことに気付いている。
だけど、トシヤとの甘い日々をココロもカラダも忘れることができない。
99%そうだと知らされても1%はそうじゃないと過去の日々が囁きかける。
おそらくココロの全てをトシヤに傾倒させてきたマリなのだ。
どんな裏切りの言葉も「それは違う」と思えるエネルギーを蓄えていたのだろう。
しかし、一方で私に救いを求めている。
トシヤを何とかしてほしいと。
だからマリの吐露にはトシヤが裏切ったことをはっきりと表面に出していた。
私の中で憎悪のドス黒い炎が燃え立つ。
トシヤと会ってやる。
そして―――。
炎は目的を果たすまで永遠に燃えつづけるだろう。
-19- コンプレックス
昨日の夜の出来事があって私はイライラしていた。
朝目覚めても明るいマリはいなかった。それはもしかしたら昨日のことは全部夢だったのでは?という愚かな希望を打ち砕くものだった。
マリはカラダにもココロにも傷を負っている。
私はどれだけ癒せるだろう?
約束した病院に行くことをマリは今日になって拒否した。妊娠については不安ではあるけれど焦ってもしかたがない。
それよりもカラダの至るところの傷を何とかしてあげたかった。
もしこのまま放置しておいて、痕が残ったとしたら、今後別に好きな人ができて、
セックスしようとしても戦争の痕のようなおびただしい傷の数々に男の方は引いてしまうかもしれない。
それだけではない。
マリは一生そのカラダと付き合わなければならないのだ。
カラダの傷よりココロの傷の方が大事なのかもしれないけれど、
ココロがたとえ癒されてもカラダに忌々しい過去を想起させるようなものが残ってしまえば、
ココロは決して癒されることにはならないのだ。
あれ?
何を考えてるのだろう。
私はカラダとココロが乖離したいと思っている。それが非現実的なことと知りながら、求めつづけている。
でも今はひどく現実的に不可能だと否定している自分がいた。
「ココロとカラダは分離できないんだ」と。
そういえば、今日もマキが現れなかった。
目覚めてもう1時間が経っている。
私は起きるとすぐにマキのことを考える。
マキが現れた日はもちろんだが、たとえ現れなくても「何で出てこないの?」と夢の中のマキに訴えていたのに、今日はしなかった。
「忘れた」とするのであれば普通ならばごく自然な理由だろう。
でも、私とマキはそれは理由にならない。なぜなら二人はココロでしか繋がっていないから。
忘れることはマキとの関係を断絶することになるのだ。
どうしてだろう?
ジャムがたっぷり塗られた食パンを手に持ったまま呆然とした。
マリのことがあったからだろうか?
それとも――?
――何かが私の中で変わろうとしている。
わずかずつだけど確実に未来の道はカーブしている。
その先にあるのは私が思ってもみなかった世界。
きっと期待よりも不安が大きい。
私はマリに無理をさせたくなかったので家にいるように指示した。
「やっぱり精神的にもサヤカの方が上なんだよね」
マリは言った。
「どういうこと?」
「私さあ、サヤカにコンプレックスがあったんだ……」
私が出かける直前のことだった。
積年して重くなった思いを告白するようにゆっくり、そしてはっきりつぶやいた。
マリの傍にずっといてやろうと思っていたけれどマリは、
「仕事なんなら行ってきて。私は大丈夫だから」
と言ったので行くことに決めた。
マリは私の仕事の詮索はしないから詳しいことは知らないはずだ。
もちろん夜に出かける仕事かつ大層な収入を得られる仕事だということは知っているから、
まともな仕事ではないことぐらいは勘づいているだろう。しかし、ここまで汚れた仕事をしているとは思ってはいないだろう。
いつ暴露してもいいとは昔は思っていたが、レイプされたマリにとってこういう仕事をどう感じるようになるのか考えたとき、
私はもう言うべきではないと固く心に決めた。
「コンプレックスってコレ?」
私は自分の頭のてっぺんに手のひらをかざし、2度ほど手首を振る。
マリはうなずいた。
「私ね、サヤカに追いつきたくて大っキライな牛乳飲んだこともあったんだ」
「へえ、マリがねぇ」
マリの牛乳嫌いは筋金入りだ。小2の時なんか給食に出る牛乳を小1のクラスにいる私のところに毎日持ってきたほどだ。
「でもやっぱり続かなくて……へへへ……一度サヤカがキライになった……」
「…………」
「バカだよね、『私の方がお姉ちゃんなんだ〜』って感じで……。
でも身長だけじゃないんだよね、ココロん中もずっと私より大人だ。私、頼ってばっかりだ……」
「そんなことないよ。私、マリがここに来たときすっごく嬉しかった。それからずっとマリに頼りっぱなし。
昔も今も――マリは私のお姉ちゃんだよ」
私はマリの頭を撫でた。
「それ、子供扱いしてる……」
口を尖らせて私を見つめた。
そして、お互い笑った。
そこには純粋なものだけにはどうしてもならない――世間を知ってしまった大人としての汚れた部分がある笑顔だった。
「じゃ行ってくる」
「うん、サヤカ」
「何?」
「お仕事、がんばって」
「……うん」
私は性を商売にしている。
時にはレイプのシチュエーションでやったりもしている。
イメージと本番では違うとはいえ、私はマリが味わった屈辱を擬似体験し、お金に換金しているのだ。
チクリと胸の真ん中が蜂に刺されたような痛みを覚える。
――私はマリを裏切っている。
そんな背徳感がカラダを襲っていた。
ドアを開けると、ねっとりとした雨が降っていた。
-20- 油染みた驟雨
雨は何かを溶かそうとしているのだろうか?
誰かのために泣いているのだろうか?
それとも何かを告げる合図なのか?
油じみた驟雨がココロもカラダも滅入らせていた。
電車の中は湿度が高かった。
赤や紺の傘の先からポタポタと水が滴っている。
人一倍汗っかきそうな禿げたオッサンはもう何日も洗っていないような汚いハンカチで必死で広い額を拭っていた。
そんな日だったからか人の体温がムンと感じていた。
今日は休むべきだったと後悔した。
オレンジやスイカが腐ったようなオヤジの匂いに「気持ち悪い」と思うのではなく、小さな憎悪の炎がくすぶっていた。
アンタらと同じ男がマリを壊したんだと。
男という人類の半分の存在を敵対物として見つめていた。
ケイは相変わらずの調子で声をかけてきた。こんな時、ケイが女であって本当によかったと思う。
入ったばかりのころは私もエンコー慣れしていたとはいえ男の一物を乱暴に咥えさせられたりして、
それを単なる仕事としか見ていなく冷ややかに見守るケイを憎んだものだ。
そんな時、ケイが男だったら――その同類にそそり立つ下半身を見つめ、私はさらに憎しみを倍加させることになっただろう。
今のくすぶりはその時の気持ちに似ていた。
仕事場の部屋に入ったときから、私は心臓の鼓動が私というカラダを支配していた。
緊張とかではない――私のまだ微かに残っている清潔な部分がこの密室に拒否反応を示しているのだ。
私は水を口に含み、その得体のしれない動揺を溶かそうとした。
「こんちゃーす。よろしく」
その客は一見は気概のいい男だった。少しだけ染め上げた髪を上手くウェーブしていて、髪型だけみればホストっぽい。
鼻が低いので顔は中の中といったところか。背も平均より若干低めだ。
「雨の中いらっしゃいませ」
「ああ、雨やったらもう上がってたよ」
「そうなんですか。それならよかった」
男は私のカラダをジロジロと見る。
制服がきつめなため、自分のラインがはっきりと出ている。私は少し恥ずかしげに身をよじる。
「う〜ん、写真で見るより大人っぽい子やなぁ、立たんかもしれへんなぁ」
男はちょっと関西弁訛りを出しながらフレンドリーに話しかけてきた。
「そうなんですか?」
「俺な、ちょいロリコン入ってんねん」
若干の羞恥を持ちながら自分のことをロリコンと正面切って話す男に、私は逆に好感を持った。
「チェンジ……しましょうか?」
「いや、いいねん。別に専門っちゅうわけやないしな。それに今日は気分転換のつもりやったからな」
少し照れた時のくせなのか頬の辺りをポリポリと掻いていた。
「そうですよね。専門だったらこの店、来ないですもんね。みんなハタチ以上だし」
「でも、サヤカちゃんはそれより下やろ?」
カマをかけている言い方だと勘付いたのも経験からだろう。というかそういう客はかなりいる。
「いやいや、そんなことないですよ」
「ウソや」
「ホントです。でも若く見てくれて嬉しいです」
しばらく考えた様子を見せた後、諦めたように口を開く。
「そっか、俺の目も狂ってきたかな……。そんじゃあ、はじめていい?」
私は小さくうなずいた。
最初の客がこの人で良かった、と思った。
この店には歪んだ性癖の持ち主が来ることが多い。
この男も公言している通り、ロリコンという歪んだ性癖なのだろうが、その癖は私にとっては大したことではなかった。
男はコスプレも要求せず、私を純粋に裸にし、愛撫しようとしてきた。
性の玩具としてではなく一人の女性に接するように。
本当にロリコンなのかと思うくらいサド的な要素もなかった(ロリコンの大概はSだ)。
「君のおかげで、対象年齢上がりそうやわ」
私の胸を揉みしごいているときに男は言った。私は関西弁口調のこの男に合わせて「おおきに」と言う。
「俺、ホンマはこんなヤツやないねんけどな……」
「………………」
私は演技が入ったトロンとした目で見つめ、男の次の言葉を待つ。
「サヤカちゃんのカラダ見ていると、ヘンな気持ちにならんわ、やっぱ……」
「……というと?」
”ヘンな気持ち”というのは欲情のことだろうか。男は私の乳首をコロコロ転がしていた舌の動きを止める。
「ま、エエがな……」
男はためらいまじりにそうつぶやいた。その言動たちは理解できなかった。
しかし、これ以上私も詮索する必要もないし、したいとも思わなかったので何も言わないでいると、男は再び愛撫に集中しはじめた。
「ほな、そろそろしてもいい?」
男は私を仰向けにし、膝を開かせた。もう全裸だったので恥部が男の目にははっきり映っているだろう。
「はい」
「でも大丈夫なん?」
男の口からそんな言葉が出た。ためらいがそこにはあった。
「え?」
最初はわからなかったが、男が聞きたかったことをすぐ理解した。
「ああ。大丈夫です。今日は安全日です」
「………………」
「それに、もし何かあってもお客様には責任は取らせませんから」
「………………」
「大体、わかるのは数日後のことだし……そうなったら誰のかわからないわけですから責任を取らせようにも不可能です」
「……そっか、安心した」
しばらく間を空けて、男はあまり安心した顔色を見せずに言った。いつのまにか豊かな表情が消えていることに気づく。
少し緊張を帯びているようだが場慣れしていないからというわけではなさそうだ。
かといって理性が消え、凶暴な情欲男に変貌する様子もない。
しかし、それもどうだっていい。
男の一転して無表情になったところは気にはなったが、それ以外はあまり変わっていなかった。
最初に言ったとおり、性の対象外なため、あまり欲情していないだけなのかもしれない。
これなら楽勝――普通にセックスして終わるだろう。それこそ、社交辞令のような薄くて愛のないセックスになるはずだ。
そう。いつもなら楽勝になるはずだった。
しかし、今日は違った。
「そしたら、いれるで」
男が半立ちになっているペニスを見せたときに、再び拒否反応が起こった。
胃の中のものが逆流するとともに、頭の中では悲鳴が駆け回る。
幻聴だとはわかった。しかし、この悲鳴がマリのものだとわかったとき、狂いそうな昂ぶりが身を襲った。
「どうしたん?」
目に見えて震え、接触を拒絶しようとしている私を不審そうに見つめる。
その時私はその客が妖怪のような目で私を見ているように見えた。
その妖怪は私のココロをえぐろうとさらに手を伸ばす。ネバネバしていて妖怪の触手のように見えた。
「そんなに大きくないとは思うねんけどな」
恐怖に引きつった私を男は演技だと思ったのか腕をつかんで少し強引に引っ張った。私の中で何かが切れた音がした。
「うわあああ!!」
私は拳に近くにあった固いものを持って思い切りふり下ろした。
男の後頭部にあたり、前のめりになって倒れた。
「はぁはぁ……」
壁によしかかり横を見ると、鏡があった。裸になった私の全身を映し出している見える。
そこにはあるはずのないカラダ全体に渡った火傷のあとや、カッターで切り刻まれた傷、
そして、イカリの刻印が胸に焼きついていてその部分が特別熱かった。
「何これ?」
やがて、カラダの至るところにあった傷から激痛が走り出す。一つ一つが意志を持っているかのように痛みが激しく波打つ。
目の前に客が気絶している。
この客が私をこんな目に遭わせたの?
痛い。
苦しい。
死ぬよりもずっとつらい。
私は地の底から湧きあがるような絶望の悲鳴をあげた。
まだ頭の中で響き渡るマリの悲鳴と共鳴し、底の見えない奈落へと落ちていく―――
-21- 雨で霞むホテル街
小一時間経つと私は大分落ち着いた。
結局、そのまま私は仕事を休むことになった。とりあえずは謹慎だけど、おそらく解雇になるだろう。
別にこの仕事自体に特別の思い入れはなかったし、
それでよかったのだが、ケイの悲しくて「裏切ったね」と言わんばかりの目が私の心を刺した。
歓楽街を歩く夜の11時。
私にとってはあまり馴染みのない時間帯だ。
雨は客の男が言ったとおり上がってはいたが黒い雲の動きが早くてもう一度降りそうな気配もある。
街中は夜通し遊ぶような若者で溢れ、それぞれが明日なんて考えていない飢えた顔をしている。
道端に腰を据え、深遠な夜の空を灰色のフィルター越しに見つめていたり、道行くサラリーマンやOLの顔を物色している。
ある人はカツアゲ、ある人はレイプの対象に……。
こいつらは鬱屈したエネルギーの塊でできた廃棄すべき人間だ。
未来を見ることを拒絶し、刹那的な欲望と、何かあったら一気に燃え出しそうな物騒な衝動とが渦巻き、それを是として生きている。
きっとマリを襲った連中もこんな退廃的なムードから生まれた人種なのだろう。
自分だけが異物なのかもしれないとして少し歩幅が狭くなる。
離れたところから見たら私だけ浮いて見えるのかもしれない。
のろのろと頭を抱え、誰からも己の存在を隠すように歩く私にそんな人種が、君も同化しよう、と誘ってくる。
単なるナンパの裏側に、あんたも同じ穴のムジナなんだ、と私を弾劾するねっとりとした侮蔑の響きがあった。
身の毛がよだつ悪魔のささやきに私はバッグを振り回して追い払った。
ふと周りを見るとヤクでもやっている発狂人を見るように一般の通行人が冷ややかな視線を送っていた。
もしかしたら警察に通報されているかもしれないと思い、この場から立ち去るべく足を早めた。
どうやら私は異物には間違いないようだ。ただ、この嫌悪すべき若者たちよりもっとドス黒く煤けた”欠陥種”だ。
私は深呼吸をした。私の中の毒を空気で浄化させるように。
そんなことはムダだとわかっていても何もしないよりはマシだった。
とっとと、家に帰ろう。
ちょうど雨の匂いが再び世界を覆った。闇の空にぶ厚そうな雲がたちこめている。
私は足をさらに早めて自分の家に向かった。
周りは何も見ないでいこう――どんなにキョロキョロしたって私より最低な奴はいないのだから。
しかし、そんな思惑はある人間が壊した。
ホテル街の性のぎらつく欲情が空気を支配しているところだった。
あまりの慣れた匂いに私はその一人の存在を見て見ぬフリをすることができなかった。
「ユウキ……」
夏だというの寒さを覚えた。
ぽつりと天から降りてきた一滴の雫が頬を掠めた。
ユウキとその腕にしがみついたユウキよりもずっと背の低い少女が歩幅を合わせてゆっくりと歩いている。
私は二人が周りと比べて電球の数が少なく建物全体がアラビア風の少し不気味なラブホテルに入るのを目撃した。
二人とも緊張しているようだった。
ユウキは真正面で立ち尽くしていた私の存在に気づかなかったようだ。
ホテルに入るということに神経を尖らせていたようで周囲の様子など見渡す余裕もないといった感じだった。
ユウキの隣の少女は私とは似ても似つかぬ容貌だった。
胸もなく腰のくびれもほとんどない幼児体型をしていて、顔もそれに合わせた童顔。中学生、いやもしかしたら小学生かもしれない。
そして、翳を決して有さない純粋な瞳を持っていた。
とにかく外見も内面も私とはまったく異質の人間。
ユウキの好みってあんな感じの子だったのか……。
一瞬意識が遠のき、疲れがどっと出た。擦り切れたぼろきれのような深くて殺伐とした疲れだった。
何を考えてんだ、私?
湧出する疲弊の分子を払い落とすように私は腕を掻き毟った。赤い引っかき傷が4本、平行に皮膚に浮かび上がる。
ユウキは単なる客だったはずだ。ただマキに似ているというだけで他は他の客と何一つ変わらない。
ユウキは「彼女がいる」としっかり言ったのだ。それを私は今ただ目撃しただけだ。
私が教えたことをユウキは予定通り実行しようとしているだけだ。
ユウキなんて関係ない。
関係ない。
関係ない……。
そう自分に言い聞かせながら、深い絶望の沼に足が沈みこんでいく感覚を覚えていた。
雨は本格的に降り始めた。
そんな中、傘も差さずに30分ほど出入りのないホテルの玄関を呆然と眺めつづけた。
あまりに幼そうな彼女だったのでフロントで帰されるのでは?という淡い期待は段々と薄れていった。
-22- 母の葛藤
何という曲かわからない。
だけど甘い匂いを誘う旋律であることは本能的に読み取った。
そして、同時にやってくる足音が悪意に満ちたものであることも本能的に気づいていたのだろう。
ここまで感性が優れていたのは私の脳細胞がまだ未分化だったからだろうか。
足音の主が私を見つめる。
微かに口元が動いた。私の耳にもちゃんと届いたようだけど何て言っているかわからない。読み取る力がまだないのだ。
私はただ、その”愛さなければいけない人物”とその上に見える輪っか型の電球を眩しげに見ていた。
私は意味もわからないまま泣く。喜びとか苦しみとか悲しみとか――全ての感情を泣くという人間の一番の本能の部分でしか表現できない。
目の前の人には伝わっているだろうか。これは喜びの表現なんだと。
だからもっと愛してほしい。その瞳をもっと温かくして、もっともっと私を見つめてほしい。
ただ、近くに来てくれるだけで、私の中には愛が生まれる。そして、きっと向こうも―――
しかし、その人物の手が喉元に押し当てられたとき、真実の裏側を知った。
縦50センチ、横40センチの檻の中、私が自由に動き回れる空間。その中を通行許可証である笑顔を私に見せ通過してきた手。
大きくて柔らかくて、全てを包んでくれそうな手は間違いなく”母”のもの。
――もっとも私を愛してくれるはずの存在。
今その手は確実に死へと導いていた。
泣くことができなくなった。
苦しさから泣こうとしてもその感情すら止められてしまう。
必死で抵抗しようとするが、手も足も動かすことしか知らない私のカラダは抵抗とは程遠く、ただ空しく宙を掻くだけだった。
酸素がなくなる。脳細胞が徐々に死んでいくように真っ白な情景が目の前に広がる。
私を動かしているのは生きるという本能ではなく、
庇護する立場のはずの母の手が突然、破壊する存在に裏返りしたことに対する絶望的な憎悪だ。
そんな感情を脳裏に焼き付けたまま私は白の世界にココロもカラダも埋められていく―――
意識が戻ったときには地獄に追い詰めたその腕に抱かれていた。
汗ひとつ掻いていない。
さっきまでのことがウソだったかのように、母は笑顔で、「いい子ねぇ〜」と背中をさする。
あれは夢だったのだろうか?
いや、違う。もし夢が存在しているとするならば、この母の笑顔こそが夢で虚無的なものなのだ。
母が喉を締め付けたせいか、その日から気管支性肺炎を発症し、嘔吐と夜泣きを繰り返した。
母は手厚い看護をする一方で、時折人が変わったかのように私を屑のように痛みつける。
私の小さな世界に入ってきた母は私のぶよぶよとした腕をつねる。
黒目が大きい私の目をは虫類のような冷徹な目つきでえぐるように睨む。
この善と悪の繰り返しは何なんだ?
『”真実”は存在しない』
――それが私の得た、紛れもない”真実”だった。
「すごい寝汗……」
閉じられた目の向こう側で心配そうに私に向かって誰かが言った。
寝返りを打つと、背中がオネショでもしたかのように冷たかったので、異常に早く覚醒する。
そして、今のが夢だと気づいたのはそれから数秒後のことだった。
でも普通の想像を含んだ夢ではなくて、きっと――。
「シャワー浴びたほうがいいよ」
目をあけると、いつものマリがいた。あいかわらず夏だというのに長袖のトレーナーに腰を紐で縛る薄い生地の長ズボン。
季節感の外れた日常を見て、現実に戻ったのだと気づき、一瞬吐き気を覚えてから、ようやく落ち着く。
「うん、今何時?」
「朝6時。起こしてゴメン。うなされてたようだったから不安になって……」
「ありがと……。助かったよ」
マリは頭上の電気をつけた。2度ほど点滅してから私たちを照らす。
「”マキ”の夢?」
少し恐れているようにマリは聞いた。マリは私にとってマキとは大切な人物であることを知っている。
それなのにそんな風に聞くのは、私がマキにココロを傾倒させることがイヤだったからだろう。
それだけマリは今私を頼っている。
うれしいようで哀しい。
私は首を横に振った。
「全然違う夢。それだったらこんな汗かかないよ」
「そうだよね」
と言いながらマリはうなずいた。
そして、「シャワーを浴びてきたら?」と私を促した後、「私はもう一度寝る」と言った。布団にもぐろうとするマリを私は呼び止めた。
「今日こそ、病院行こうね」
布団の中でマリのカラダを揺さぶった。
「イヤ。ていうか行かなくて大丈夫だよ。傷も全部ちゃんと治りそうだし」
「ダメだって。全部完璧に消してもらうの。特にその胸……」
今は常に隠されている胸に禍々しく映える刻印を想像すると一番吐き気がした。
いくつもの傷があったがあれだけは何か劣悪な意志が込められていると思っていた。
あの忌々しい印を消したい――そう願っていた。
「大丈夫だって。人間の自然治癒能力を信じなさい!」
「何、小難しいこと言ってんの?絶対行くんだからね!」
マリは突然布団をめくり上げた。
暖かくて悲しい目をする。どこか空虚で高級チーズのようにところどころに穴が開いていたマリの言葉に急速に意志が吹き込まれる。
「じゃあ、このカラダの事情を医者にどう説明すればいいの?」
「え?」
「私……このカラダをいろんな人に見せなきゃいけないんだよ……。そんなのイヤだ」
静寂に私はカラダを浸した。
脳だけがフル回転でマリのココロを探ろうとしている。そして、浮かびあがるのは後悔の部分。
レイプされた人間が告訴に踏み切るのはほんのごく一部だと聞く。それは自分が晒し者にされるからだ。
よくは知らないが警察や裁判でどのようなことをされたのか公言しなければならない。
マリが法廷に立って苦渋に溢れた顔をしながらうつむき加減に告白するシーンを思い浮かべた。
周りは一部に30代くらいの女性の集団が真剣な眼差しで見つめる以外は数寄物顔でマリを目で舐めまわしている。
想像で幾人もの無関係の人間がマリを犯している。
ゾッとした。
貧困な想像の中ででも血の気が引いた。
「ごめん……」
私はココロから謝った。同じ女としてそんな単純な回路を解読できなかった自分を貶した。
本当はココロもカラダも同時に癒していかないといけないのだ。
「じゃあ、寝るね……」
小声でマリは言った。私はただうなずいた。
でも病院には行ってほしい。そんな強いココロをマリに持ってほしい。
純粋にそう思った。
シャワールームには小窓がついている。太陽の光はさすがに直接は入らないが窓のおかげで大分明るかった。
ベトベトした汗を洗い流していると爽快ガムを噛んでいるかのようにすーっと冷たく心地よい刺激が脳をくすぐる。
冷静さが徐々に生まれ、それが今日の夢のことを想起させた。
あれは私が創った妄想ではない。
おそらく過去に現実として起こり、記憶の一番深いところに眠っていたものが、何らかの原因で表層にまで蘇ってきたのだろう。
きっとこの記憶は立つことすらままならない、物心がつく前の私だ。
だから、通常の記憶の引き出しには存在しなかった。
――私は母に虐待されていた。
夢なんて曖昧なものを根拠にするのは間違っているのかもしれないが、それは真実だろうと私の中の何かが伝える。
そういえば私は低学年のころから離婚するまでずっと反抗期だった。
誰にでもある両親への反発心ではなく、陰にとじこめたような表出することのない悪しき反抗。
もし、私が表面上に出た半生だけを書き綴り、それを誰かに見せるとする。
そこで、私は聞く。
「私がこんな人間になってしまったキッカケはなんだったか?」と。
すると、見た人間全てがこう答えるだろう。
「マキの夢を見るようになったからでしょ?」と。
しかし、それを私は自信を持って否定できる。
私のこの現代社会に不適合のココロは決してマキのせいなんかじゃない。
――”先天性”なのだ。
きっと生まれる前からこんな人間だったのだ。
母はやはり自分の腹を痛めて産んだのだから一番私という人物を知りえた人間だったのかもしれない。
母には「私を抹殺するように」という社会適合者としての本能が働いたのであろう。
一方で我が子に対する母性本能も働く。二つの本能の対象が私という同じ生物に向けられている母は激しく葛藤する。
それが私にとっての善と悪を交互に繰り返させる。
これで今まで母が私を嫌っていた理由の説明が付く。
今回の夢でその考えは決定的になった。
シャワーを浴び終え、部屋に戻るとマリは数分間前のことをキレイサッパリ忘れてしまったかのようにすやすやと眠りに入っていた。
寝顔は幼くてかわいくて――どうしても姉というより妹のようだった。
私はマリに会えて――マリの幼馴染で本当に良かったと思う。
マリがいなければ今まで生きてこれなかっただろう。きっと喜びという感情を知らずに社会に抹殺されていたに違いない。
マリは私とこの世界をつなぐ掛け橋となってくれた。
だからこそ、マリが私の昔棲んでいた闇の世界に落ちていきそうな今の状態はどうしても許せなかった。
今度は私がマリを救う番だと思った。
マリの為に下手なりに料理を作ろうと小さな台所に向かうと冷蔵庫には「今日はゴミの日」と書かれた付箋紙が貼られていた。マリの字だ。
きっと私宛ではなく自分自身に書いたものだろう。その付箋紙を剥がして、私はゴミを集めた。
水色のゴミ袋にはいっぱいゴミが入っている。あまりにも多すぎて、上手く結べなかった。
私は二つに分けて捨てようと思い、もう一袋ゴミ袋を持ってきて、半分だけ入れ替えた。
その時私はゴミの中にヘンなものを見つけた。
黒色のビデオテープだ。ラベルは貼っていない。ヘンだと思ったのはケースからテープが10mほど表に出ていたからだ。
どうみても誰かが引っ張りだした形跡だ。私はビデオの横に置いてあるテープを見た。
3本が縦に並べられてあった。確か昨日も一昨日もずっと前も3本だったから、そこにあったものではないことは確かなようだ。
私は息を呑んだ。
あんな社会に身を置いている以上、どうしてもそっちのイヤな方向に想像させてしまったからだ。
そして、その推測が正しいとすると、マリが狂気に孕んだ行動に出たのに1日のタイムラグあった理由にもなる……。
30分後。
「おはよ」
眠い目をこすりながらマリはやってきた。
「あれから寝なかったんだ……」
「うん、シャワー浴びると頭が冴えちゃって寝る気にならなかったんだ」
「あ、ご飯作ったんだ。珍しい。結構凝ってんじゃん」
テーブルに所狭しと置かれたご飯や味噌汁やポテトサラダを見てマリは言った。
私が料理をするとしたら大抵パンで、和食なんてものは作らなかったから少し驚いているようだ。
「おいしいかどうかはわからないけど」
「うん、毒見してやるか」
「何よそれ。毒見って……」
ふてくされ気味に私が頬を膨らませると、マリは笑いながら椅子に腰掛ける。さっきのちょっとのケンカは忘れてくれているようだ。
少し私はほっとした。
「あ、そうそう、今日ゴミの日だったんだよね。ちゃんと捨てといたから」
言ってココロの中で少しガッツポーズ。ごく自然に言えた。
マリは冷蔵庫を一度見て、付箋紙がないのを確認したあと、「うん、ありがと」と言った。
ビデオテープはとりあえず私の通常使わないバッグの中に入れておいた。
-23- 陸を歩く魚
カラオケ店”三日月”は盛況でも不況でもない。
ただ夏休みだから昼の客は通常よりも多くほとんどが学生だ。
4、5人の部活帰りの生徒がただ騒ぐ部屋もあれば、若くて初々しいカップルが互いに似合わないラブソングを歌いあったりする部屋もある。
私は歌が好きだ。
ジャンルは何だっていい。人の生み出した旋律に合わせて喉を震わす時、尖っている全ての物、感情を丸くしてくれるような気がする。
もちろんカラオケでバイトしていたからって歌わせてくれるワケではないが、
人の音痴な歌声が部屋の扉を通ったときに聞こえたりすると、なんとなく顔をほころばせてしまう。
でも今日に限っては機嫌が悪くなってしまう。
カップルを見るたびにココロがズキンと痛む。
そして、思い浮かべるのは、マキ……いやユウキかもしれない……。
私は認めざるを得なかった。
ユウキに特別の感情を抱いていることを。
それを恋とは認めたくない。マキに似ているからその幻影を具体化されたものとしてユウキを見ているのだと信じたい。
そうしないと、私が今まで生きてきた数年間を否定することになる。
マキは出てこない。
出てくる予兆さえ見せない。
マキのことを考えるとき、私は不安でしかたがない。こんな感情初めてだ。
もしマキを忘れることがあるならば、それはきっと海から飛び出してしまった魚のように悶え、息絶えることだと思っていた。
しかし、今は「何とかなるのでは?」という気持ちがある。
陸に打ち上げられた魚の私はユウキという現実のエキスによってエラ呼吸から肺呼吸に替え、足を持ち、砂の上を歩いてしまったのだ。
あるとき、陸を歩く魚の私が海を振り返る。
そしてもう戻ることはできないと悟る。
私はマキを見捨てたのだろうか?
でもこのまま陸を歩き続けるわけにもいかないのだ。
足や肺を取り付けてくれたユウキなる媚薬はもう私の元から離れていて、手に入ることはない。
これ以上どこに進めばいいのかわからない。
やがて迫り来る突風や太陽の熱射から身を守る術を私は知らない。
だから、早くマキに出てきてほしい。そして津波でもなんでもいいから海岸に佇む私をさらってほしい。
海に戻して、私の足や肺を腐らせてほしい。
――そしてまたマキというココロに支配されたい。壊されたい。
「どうしたの?ちょっと顔青くない?」
気がつくとナツミが心配そうに私の顔を見つめる。私は、「なんでもない、考え事をしてただけ」と自分の頬を軽く引っ叩いた。
この店に勤め始めたのは風俗をやってから3ヵ月後。つまりもうすぐ4ヶ月になる。
ユウコは嘘ばかりで埋めた略歴を見て、騙されたのか騙されたフリをしていたのかわからないが、
私と二言三言言葉を交わすだけでその場で採用してくれた。
ココで働くことができて本当によかったと思う。クズな私でも少しだけ社会に役に立てているような気がしたから。
私やナツミやユウコは前と同じように食い入るようにモニターを見つめている。今日は暇そうだから、ずっと見ててもよさそうだ。
声が出ない画面からでもちゃんと聞こえてくるかのように下になっている女が身をよじらせる。
その上で女のカラダを弄んでいるのはあのヨシザワヒトミだ。
私が入ったとき、
「ヒトミちゃん、来てるよ」
ナツミは卑しそうに客の名前を”ちゃん”付けで言った。前みたいな恥ずかしそうな表情ではなかった。
私が不機嫌なのはもしかしたら入店するなり、その事実を言われたからかもしれない。
「でもヒトミってやつ、やるなぁ。いじめるだけいじめまくって常に自分が主導権を持ってるよ」
ヒトミは俗に言う”タチ”でもう一人の女は”ネコ”なのだろう。それにしてもこんなところでわざわざする必要もないのに、と嘆く。
本来、こういう至って普通のカラオケボックスでこんなことをすると、店長の勅命で退店も可能なのだろうけど、
いかんせんココの店長はユウコだ。
「止めさせましょう」と進言したとしても、「おもしろいからエエやん」と言うに決まっている。
結局1時間近く私たちはモニターを見ていた。その間、一組も客が来なかったので誰にも邪魔されることなく一部始終拝めることができた。
私は慣れているせいか、画面の切り替わらないモノクロポルノ映画を見た気分で、大した興奮もなかったがナツミはきっと濡れているだろう。
ちょうど私の耳の近くにナツミが顔を近づける状態になっていたため呼吸が速くなっていることが容易にわかった。
ことを終えて、ポケットティッシュで女の弄ばれていたアソコを拭いているヒトミを見て、
「ごちそうさまでした」
とユウコは舌で乾いた唇を舐めながら言った。
女の顔はモニターやカメラの解像度が悪いためよく見えないが、恍惚とした表情を浮かべているようだった。
ヒトミはカメラに向かってピースサインをすると、三人とも一度のけぞった。
カメラは巧妙に隠されてあるはずなのに、目は確実にカメラレンズを捉えていた。
もう一人の女もヒトミに促されるように恥ずかしそうにピースサインをする。
「最近のコっていうのはようわからんわ」
ユウコは肩をすくめてから、事務室の方に帰っていく。
「ああ、もう胸がドキドキしちゃってるよ」
ナツミがちょっとだけ息を荒げながら言った。
「ナツミはもうすぐ?」
何の気なしに言うとナツミは最初はよくわからなかったが、徐々に言っている意味を理解してきたようで、
「いやだ、もう〜。サヤカったら」
と私の背中を恥ずかしそうに叩いてきた。
「でも、これからそのお客さんとご対面っていうのが一番緊張するね」
ナツミが言った。
「うん。というワケで私は他の部屋を片付けてくる」
私はヒトミたちと会いたくなかったので、そう言ってフロントを去ろうとすると、ナツミが私の袖を引っ張った。
「何が”というワケ”よ。一人にしないで。サヤカもずっと見てたんだから。同罪なんだからね」
口を尖らせながら子供っぽく怒るナツミ。
何でイヤだと思っていたのに、ユウコやナツミに合わせて見物しちゃったのだろう、と少しだけ後悔する。
結局、言い返せなかった私はナツミの横に立ってヒトミたちを待った。
近づいてくる足音に合わせて、礼をしながら私とナツミは声を合わせて「ありがとうございました!」と言った。
そして、目を上げると、二人の少女がいた。
背の高めの金髪の少女と、その後ろに少し隠れるように立つ少女。
前にいるのはもちろんヒトミだ。充実そうに口を曲げた笑みは意味のない自信と優越感に溢れていて見ていて少し不快だ。
目線を少し変える。
そして、私は思わず口からこぼれてしまう。
「ヒトミちゃん?」
ヒトミの後ろに隠れている少女を見てそう言った。
-24- 二人の”ヒトミ” T
「え?」
「え?」
「え?」
3方向から全く同じ疑問符つきの音がほぼ同時に聞こえる。
「サヤカ?」
不思議そうに尋ねるナツミ。そして、ヨシザワヒトミはすぐさま笑みを戻す。
「まだ、2度しか会ったことのない客に向かって『ヒトミちゃん』だなんて、馴れ馴れしいですね」
そして、そのヒトミに背後に立つ少女は私と同じように唖然としていた。
「いや、馴れ馴れしいってあんまりいい言葉じゃないですね。そうじゃなくて、私すっごく嬉しいんですよ。あ〜、私日本語下手だなぁ……」
ヨシザワヒトミは慌ててそう付け加えていた。私は少しだけ我に返り、その声の方向を見る。
「すいません。つい、うっかり…………」
とりあえず笑う。上手く笑えたかどうかはわからない。
「んも〜、ビックリした。サヤカ、今日やっぱヘンだよね」
ナツミが隣で言う。
「サヤカさんって言うんですか。他に何かヘンなことあったんですか?」
ヒトミがナツミの方を見て尋ねる。
「それがね、数分間、宇宙と交信したみたいにボーッとしてたの、さっき」
ナツミは相手が客であっても気が少しでも許せる人間だという直感が働くと、急にタメ口になる。その相手が年上でも年下でも変わらない。
純粋といえばそれまでだが、少々失礼な気もする。
「宇宙と交信ですか?おもしろい表現ですね」
「他のバイトの子でしょっちゅうボーッとしてる子がいて、その時、私はそんな風に言うんだけど、サヤカもちょうどそんな感じだったんだよ」
「へえ、そうなんですか。でもサヤカさんってそういう人には見えないけどなぁ」
ナツミとヨシザワヒトミ――店員と客という離れた関係であるにも関わらず、ちょっとした友達と交わしているような軽いやりとりは続く。
私はそのヒトミの後ろに隠れるようにして立つ少女をちらちらと見ていた。
向こうも私のことに気づいているようだ。同じように私をちらちらと見ている。
そしてこうしてこんなところで出会ったという事実に対して、愕然としている。
だから決して人違いではないことを確信した。
そのヒトミの後ろにいる少女は、”ヒトミ”だった。
私と一緒に”マリア”で働いている新人のヒトミだ。
「おつりは1248円になります」
私を肴にした雑談を終え、ナツミがヨシザワヒトミに手渡す。
「ありがと、じゃ、また来るね」
そう言いながら出ようとするヒトミに対して、動こうとしないもう一人のヒトミ。一完歩でヒトミとヒトミはぶつかった。
「どうしたの?リカちゃん?」
ヨシザワヒトミは硬直しているヒトミに向かって眉をひそめながら言った。
「う、ううん、行こ。ヒトミちゃん…………」
我に返ったのか、今度はリカと呼ばれたその少女は、一瞬私の顔を再度見て、ヒトミの前に出て先に店を出た。
「ありがとうございました!」
ナツミはお決まりの言葉を言う。
しかし、私はそのお決まりができずに去り行く二人の少女の後姿を呆然と眺めていた。
-25- 二人の”ヒトミ” U
事実を理解するのは容易だった。
”マリア”で働く”ヒトミ”は偽名でおそらく本名は”リカ”なのだろう。
ああいう店では偽名を使うのが普通で私みたいに本名そのままを使うのは珍しいことだ。だからそれは別にヘンなことではない。
問題はリカがエッチするほど近しい人間の名前を使ったということだ。
調査したわけではないが、普通偽名を毎日のように使う時、身の回りにいる人間の名を用いたりはしないだろう。
私が”マリ”とか”ナツミ”とか”カオリ”とかいう名を語るなんて想像しにくいことだ。
おそらくヒトミには風俗店で働くこと自体を隠しているから、勝手に名前を使われたことで糾弾されることはないのだろう。
しかし、リカは仕事中、ヒトミという名前を何度も呼ばれる。
その時、ヒトミの顔を思い浮かべないのだろうか。そして、自戒の念に駆られないのだろうか。
事実は理解できる。しかし、理由は想像つかない。
ヒトミとリカがどれくらいの仲か私は知らない。
でもルームでの行為、そして受付の前に寄り添うようにして立つ二人はどう見ても犬猿の仲には見えない。
私はリカの気持ちを知りたくなった。
元々人の生い立ちとかには興味がない人間だったのに、最近はマリはともかくナツミとかリカとか妙に他人が気になる。
やはり私は変わったと認めざるを得ない。
”恋愛”という言葉にみんなが興味を覚え始める小学3、4年生の時も、何にも思わなかったし、誰が誰を好きになろうと関係なかった。
クラスメイトが親の金銭問題で自殺した時も、泣くことはおろか涙腺が緩むことさえなかった。そんな人間だったのに。
今日はナツミに誘われることもなかった。
ココ2回食事に誘われていたのであるかなぁ、と8割方思っていたので少し肩透かしを食らった気分だ。
終了時刻になった途端にナツミは
「じゃあ帰ります」
と、そそくさと着替えを済ませ、出て行った。
そういえば今日のナツミは、時間を気にする仕草を頻繁に見せていた。
ああ、なるほど。今日はデートなんだ。
初々しくていいなぁ。まだキスもしてなかったはず。
確か男の方も奥手なんだよね。今日あたりキスでもするかな。そしたら、最後までいっちゃうかもね。
だって臆病な人間ほど、ちょっとしたきっかけでやけに勢いづくことがあるから。
「サヤカ!お客さん!」
「ほえ?」
脇に固い感触が走ったので横を見ると、肘打ちするカオリがいた。
「あ、ああいらっしゃいませ!」
妄想を膨らませていたようだ。気がつくとフロントのカウンター越しに小さくてかわいらしい女の子が3人いた。当然、客だ。
「2名サマですか?」
「見ればわかるやん」
訂正。かわいい女の子じゃなくて、ただのガキ2人。顔は似ているし、背丈もちょうど同じぐらい。
もしかしたら双子かもしれない。
ちょっと関西弁が入った憎憎しい言葉とその言葉の主がどう考えても私より明らかに年下だったことでうっすらと額に青い筋が浮かぶ。
人数確認はマニュアルだ。それに「でもあとから1人くるので」と言う客もかなりいるので、当然すべきことだ。
しかし客と店員という立場なので、不快をあらわにすることはできない。
マックにある「スマイル0円」並のアホくささを前面に出した笑顔でその客たちの応対をした。
それから、名前と電話番号を書いてもらって、利用時間を聞いて部屋にいれた。
2人ともマリぐらいの背丈だがそのウチの一人は泣いていたようだ。
赤と青の縞模様で作られたやけに目立つ帽子を目深に被っていたのでよく顔は見えなかったが、
時折「ヒック」としゃっくりみたいな声を洩らし、鼻をよくすすっていたので、多分そうだと思う。
「ところでカオリいつからいたの?」
私はガキ2人を204号室に誘導してから、隣りにいるカオリに聞いた。
「は?ちょっと前に『おはよう』って言ったでしょ?ナッチと入れ替わりで」
「言ったっけ?」
私は首をかしげる。
「ちゃんと返してくれたじゃん。ちょっとサヤカ、今日おかしくない?ボーッとしてさあ」
「それはカオリの専売特許じゃん。とらないよ」
「何かそれって私を変人扱いしているみたい」
「自分では変人だと思ってないの?」
「何よそれ」
ふてくされた表情を見せるカオリに私は苦笑した。
「ヘンといえば、ナッチのことなんだけど……」
カオリはふと気付いたように口を開いた。そして、別に寝不足でもないのに目の下にクマが入った顔を私に向ける。
「ナッチがヘンなの?」
「うん」
迷うことなくカオリはうなずいた。
カオリとナツミは幼なじみで現在は同じマンションの同じ階に住んでいて(隣同士ではないようだけど)、しょっちゅう交流しているらしい。
昔、その話を聞いて
「同居すればいいのに」
と言ったことがあったが、
「一度大きなケンカをしたことがあってね」
とカオリは寂しげに言っていた。
幼なじみではあってもソリの合わないことがあるようだ。
もちろんマリと私にもあるけど、最初から同等の立場ではなかったので、上手くやっていけているのかもしれない。
ソリが合わないといってもお互いをまだ必要としている微妙な間柄なわけで、
それが「同じマンション、同じ階」という微妙な位置にいるのだろう。
それが二人にとって一番いいらしい。
「何がヘンなのか私にはわかんないけど、ほらナッチって今恋してるでしょ?」
きっとカオリもナツミに彼氏ができたことぐらい知っているはずだ。
私は単純に”恋をしたからナツミは変わった”と決め付けていた。
「うん、それはいいんだけど、やっぱり何か……違うっていうか……」
「大丈夫だって。ヘンっていってもあんなに明るいじゃん。私あんな明るいナッチ初めて見たけど、すっごくかわいいよ」
「うん……そうだけど……」
「とりあえず、ナッチは幸せそうじゃん。見守るしかないんじゃない?」
「う……ん……」
渋々納得した様子だったが、やはりカオリにはどこかモヤモヤしたものが残っているようだ。
私はナツミと付き合いは短い。そしてカオリは誰よりも長い。
信じる、と言われて従うのはカオリだろう。幼なじみにしかわからない違和感というものがあるのかもしれない。
少し、カオリの持つ”ヘン”なことを調べようか、と思った。
-26- 傷ついた少女
「204号室、生中2つ入りま〜す」
カオリはフロントに取り付けられているインターホンが鳴ったので受話器を取り、オーダーを受け付けた。
そして冗談ぽくエレガのような変な抑揚をつけて、厨房にいるユウコに向かって言った。
私もユウコの方をのぞくとユウコはレディースコミックを食い入るように見ていた。
「ユウちゃん、何見てるのよ」
「だから、ユウちゃんって言いなや」
ユウコはそう言いながら冷えたビアグラスを冷蔵庫から取り出し、ビー
ルサーバーで生ビールを入れ始める。
「これ、あたしが飲んでいいかな?」
舌なめずりするユウコに、「ご自由に」と私は投げやりに言い放つ。
そのオーダーは私が持っていくことになった。フロントの横を通ることになるのだがそこではカオリが宇宙と交信していた。
私は地球から解読不能の電波を飛ばしカオリをこっちの世界に引き戻す。
「このビールどこだっけ?」
「204号室」
204という数字だけを記憶に残しながら足を運ばせる。
ちょっと待て、と思ったのはその204号室の前に立ってからだった。
この部屋は確か私が入れた―――
ノックをする前に部屋の中を覗く。一応の防犯のために、部屋の中は外から覗き見えるようになっている。
「やっぱり」と口をこぼしながら、私はノックした。
「お、きたで。結構早いやん。暇やねんな」
そういう目の前の少女に私は冷ややかな目線を送る。さっき私がこの部屋にいれた2人のガキだ。
日本もここまで落ちたか、とアホな憂いを覚えながら、
「お客様、当店では未成年にはビール等アルコール類の販売は行わないことになっています。ご了承ください」
とできるだけ丁寧口調で言った。
「そんな、固いこと言わんといてーな。せっかく持ってきてくれたんやからアンタに悪いし、もらうわ」
めちゃくちゃだ。私は首を振り、
「このオーダー分は引いときますから」
と言って、部屋を出ようとする。
「ちょ、ちょ、待ってーな。この子傷ついてるんやからヤケ酒ぐらい飲ませてやってーな」
「あなたたち何歳?」
しつこい関西弁なまりのガキにもう一度冷たい目を送る。そして、おもむろにその横の少女を見た。
受付時には帽子を目深に被っていた少女だ。
一瞬覗かせた特徴ある八重歯を見て、私は目を丸くした。
――私、この子を見たことがある。
「傷ついてる……ってこの子……?」
誰だ?
私にこのくらいの年代と付き合う環境はない。しかし、確かにその顔を私は記憶の中に刻んである。
私はビール2つを片手に持ち替えて、もう一方の空いた手で指差した。
関西弁のガキは大きくうなずく。
「そや、昨日からずっと泣いてんねやで。飲ませてやってーな」
「もしかして……失恋?」
私の言葉に涙で頬を赤く染めた少女は過剰に反応する。
「そうや。だからな、エエやろ?ビール」
「ちょっと、もういいって。アイちゃん…………」
もう一人の今まで全くしゃべってなかった少女が俯いたまま口を挟む。
「アホ、あたしも飲みたいねん。もう一歩やねんから」
関西弁のガキに合わせるほど余裕はなかった。
「それとはコレとは別ですから。ジュースに替えてきます」
私はそう言って部屋を出た。
――思い出した……。
鼓動が高鳴る。
失恋という人の不幸を私は期待でもって見つめていた。ビールが二つ乗っているトレイが小刻みに振動する。
ビールがグラスからこぼれ出る。白い泡がビアジョッキの側面をゆっくり伝い、茶色のトレイにゆっくりと落ちていく。
あのコは確か、ユウキの―――
-27- ケイの部屋
仕事も終わり、私は”マリア”に行った。「おはようございま〜す」と自然に入るとケイがいて驚いていた。
「サヤカは謹慎中でしょ。働かせないよ」
「わかってるって、遊びにきただけ」
「……こんな店に遊びにくる人間なんて初めてだわ……」
ケイは呆れながらも嬉しそうだった。
私はケイの部屋(つまり事務室)に入り、熱いお茶をもらった。ケイ自身が淹れたものらしいが、はっきりいって渋くて不味かった。
一息いれてから、ヒトミがいるかどうか聞くと「いない」と言われた。
別に急ぐことでもないし、いたとしても何を聞けばいいのか上手くまとまっていなかったので、私はただ流した。
「それよりも、何があったか説明してよ」
私とケイを挟む木製の白いテーブルをトントンと指で叩きながらケイは言った。
「やっぱり昨日のことはサヤカらしくないし、今日は一転して元気そうだし……ホントよくわかんないわよ」
私はしばらく閉口した。そう聞かれることは覚悟していたけど、やはり一瞬気が咎められるところがある。
「今日の私、元気?」
「うん、通常の2倍ぐらい」
おかしな表現を使うケイについ表情を緩めてしまう。
「ちょっと体調が悪かっただけだよ。寝不足で、頭が混乱してて……。なんかよくわかんなくなってた」
言っててウソっぽいな、と思った。ケイは盲目的に信じたかどうかわからないけど、「そっか」とただうなずいていた。
「それよりさあ、ヒトミちゃんの携帯電話の番号教えてほしんだけど……」
「ヒトミの?なんで?」
「かけたいから」
当たり前のことを言うとケイは「う〜ん」と唸る。
「基本的には教えないことにしてるんだけど……」
と一旦釘を刺しておいてから、ケイは私に教えてくれた。あまり従業員間の連絡は好まないらしい。
「ありがと。でも何で教えてくれたの?」
「アンタら、仲がいいみたいだからね。ヒトミったらさあサヤカが謹慎って聞いて、『何とかしてください』って私に懇願してたし」
ケイは口を開けながらウィンクをした。少し気色悪かったがさすがに半年も付き合っていると慣れた。
「へぇ〜。まだ代わってやったことに恩義でも感じているのかな?多分、ケイちゃんが思っているほど仲良くないよ」
「ふ〜ん、サヤカはそうかもしれないけど、ヒトミは相当仲良くなりたがっているみたいだけどね」
部屋にとりつけられている電話が鳴った。
ケイは「はいはい」と言いながら重い腰を上げる。
その仕草はカラオケの店長のユウコにそっくりで本当にケイは20代後半かも、と一瞬思わせた(ユウコは確か来年で29だ)。
電話を終えたケイは申し訳なさそうに私を見た。
「どうしたの?」
そう私に言わせるまでずっとそんな顔を保つ。
「今入ってる子が生理痛がひどくて倒れちゃって……。代わりに入ってくれない?」
「……私、謹慎中なんだけど……」
「そんなの私がどうにかする!」
そんなに自慢気に言わないでよ。
私はヤレヤレと重い腰をう〜んと唸りながらあげた。あ、さっきのケイみたいと思った。
-28- プレイルーム
大丈夫だと思っていた。
昨日の原因はマリがあんな目に遭わされたからだろうけど、それは時が経てば自然と消えていくものだと思っていた。
現に今日の朝出かける時も、カラオケ店で性欲溢れるハイティーンのカップルを応対した時も、
そして、この”マリア”に入った時もいつもと変わらぬ私がいた。
だから、ケイのダメ元の願いも簡単に受け入れたのだ。
しかし、この”プレイルーム”に入ったとき、吐き気と動悸はやってきた。
カラダがこの場所にいることを拒絶している。
ヘドロのような液体がカラダを侵食させ、息苦しくさせる。ピンク色のシェードが網膜を襲い、
狂おしいほどの熱くて臭い匂いが鼻孔をとらえる。
汗が全身を包み、気持ち悪さが倍加する。
「どうしたの?」
店側の都合でチェンジとなってしまって少し不満気だったM字型のハゲオヤジが、
私の顔を覗きこもうとブリーフだけの汚らしい裸体がドスドスと音を立ててドアの前に立ち尽くす私の方にやってくる。
昨日の記憶を断片的に思い出す。私は客を力の限り殴った。そして、私も意識を失った……。
今日は若干の理性を持っていた。
どっちにしろ今の状況はヤバすぎる。やってくるのは客だ。これ以上”マリア”やケイを困らせたくないってわかっているのに、
数秒後近くにあるものを投げつける自分を想像してしまう。
私はひどく震えた全身のうち、右腕だけを何とか抑えつけて、バッグから財布を取り出した。
「あ、あの……これだけ払いますから……帰ってくれません……?」
私は財布に入っていた札を全部出して近づくハゲオヤジの前に掲げた。
しばらく考えこんだ後、オヤジはそのお金を受け取った。
「こんなこと初めてだよ……。金をもらえるお店なんて」
オヤジはニヤリと嘲笑的な笑みを浮かべる。口が歪んだもので淫欲を根幹としたいつもよく見る笑みとはまた違っていた。
「いいサービスしてもらったよ、って店長に言っておくよ」
オヤジは何か誤解しているようだ。ともかくオヤジは着替え終えたあと、部屋を出た。
私は急いで部屋の冷房を”強”にし、風速を”急速”にした。そして天井に取り付けられているエアコンの風にできるだけ顔を近づける。
全身の汗が急速に体温を奪っていく。
しばらくして、私はその場に腰から崩れ落ちた。客のいないこの部屋はまだマシだった。残る悪臭もピンク色の光も何とか受け入れられた。
疲弊したカラダを私はベッドを背もたれにしてカーペットの上に座り込む。
「お金いくら入ってたっけ……?」
とりあえず、入っていた札を全部渡した。10万ぐらいは入っていたことを思い出す。
それでも後悔よりは何とか場をしのいだ満足の方が大きかった。
落ち着いた後、私は部屋に取り付けられたインターホンからではなく、自分の携帯電話でケイに電話した。
「やっぱ、帰るね」
しかし、ケイは「ダメ」と言った。次の客が私を指名しているそうだ。私の写真をもう店内に貼ったのだろうか。
さすがに焦る。この場所で落ち着いたのがまずかったと後悔する。
「とにかく、私は謹慎中なんだから!もうイヤだから……」
悲壮感漂う私の気持ちもケイは全く察してくれない。それどころか、
「前にも会った客だと思うよ。絶対損はしないって」
と電話越しでも客がよく見せるような卑猥な笑みをしているケイを想像した。
「どういうこと?」
その返事はこなかった。そして、「切れた」と気づいた直後、目の前のドアが開いた。
何かをする前なら断ることは容易だろう。「体調が悪い」って言えばいい。
レイプ願望が強く、そう拒絶する私を掴まえて犯そうとしたりする人間でないことを願った。
「こんにちは」
という若い男の声。気弱そうだったので直感的に少し安心が芽生える。
「あの、今日は実は……」
申し訳なさそうに低姿勢で声をかける。しかし、その後の言葉は視覚に飛び込んできた情報で封印された。
ある意味、問題のある人間だった。
逃げようとする足がピタリと止まり、私の目は男の顔の一点に集中される。
「先日はどうも……」
「ユウキくん……」
マキと似ている顔が申し訳なさそうに立っていた。
-29- 灰色のエネルギー
夜の川岸には人がほとんどいない。
等間隔に設置された黄色灯が私とユウキの歩く、幅2mほどの小さな歩道を照らす。
その遠方はほとんど何も見えなくて、まるで光は私たちを死地へと導いているようだ。
文明という名目のもと、人の思い通りに汚してきた空気の隙間を割って輝く星たちがまばらに見える。
川は先日雨が降ったからか、そこそこの水量で流れているみたいだ。
その中で繁茂した藻の匂いが私とユウキを包み、強く意思表示をする。
夜の帳に埋もれたユウキのカラダの輪郭はぼやけており、それがどこかリアリティを乏しくさせ、私をほっとさせた。
私はユウキの半歩後ろに位置し、その後ろ姿とかろうじて見える鼻のてっぺんを不思議な気持ちで見つめる。
ユウキがあの虚空に包まれた部屋に現れた時、私は彼の名を一度つぶやくだけで、しばらくは何も言えなかった。
そして、つい3秒前に感じていた男の腐った匂いに対峙する恐怖さえ忘れた。
「ほか行こう」
他の言葉は何もいらなかった。
ただそれだけ言うとユウキは小さくうなずいた。ケイに適当な説明をしている時もユウキは何も言わずただ俯いていた。
視覚は夜の闇によって失い、嗅覚は水辺に浮かぶ藻の匂いに支配される。
二人のメトロノームのように正確にリズムを刻む足音だけが聴覚を刺激し、
少し離れた位置にいるユウキに触れることはできず、ただ空気を触っている。
事業を開き、不況の煽りを受け、金策にも失敗し、進む道を全て断絶されてしまい、
自殺に陥る直前の中年夫婦のように前を見ずに歩く私たち二人。
それは危ういバランスを保っており、少し違う行動をするだけで次元を歪ませ、二人の存在自体が弾けてしまうような気がした。
喧噪という言葉も静寂という言葉も永遠に似合わない夜のラブホテル街に自然と足が向く。
それぞれが二人だけの会話に執着し、他人のことなどほとんど気にとめない。
糸にならずに点在する淫靡的なまどろみたちは決して異質ではなく、他人から見れば私たちも同類なのかもしれない。
遠回りしたみたいだけど、このホテル街は私もよく行くところだった。
そして、昨日私はこの道を腐敗に汚染され、混乱していた精神状態の時に通った。
点でしか存在しなかった意識感情がレーザービームのようにある人間に向けられた。
一方通行の戸惑いと絶望の光線。
私には何の力もなく逆に闇に吸収されていく。
そんな記憶をすぐ近くの同じ対象物を見ながら思い出していた。
ユウキが足を止めたのは、予想通り私の記憶にしっかりとあったアラビア風の古めかしいホテルの前。
半歩後ろにいた私の方を俯き加減に振り向く。何か言おうとしていたようだが、私は一歩前に出て、ユウキの左手を掴んだ。
私たちは言葉を交わすどころか目も一度も合わせないまま、そのホテルに入った。
中は外とは正反対の少し近代的な様相を呈していた。
白色の壁には深海に住んでいそうな怪しげな青や金や紫に光輝く魚影と幾千万もの流星群が飛散しているシルエットが
人工の光によって鮮やかに作られていて、私は目を瞬かせた。
ベッドにはシルクだけで作られたような薄光りのする真っ白な布団とその上に、きちんと畳まれて置かれた2つの真っ白なバスローブ。
その横にはカラオケらしき機材と上にはミラーボールが申し訳程度に置いてある。
反対側には大きそうな浴室があり、間には大きなガラスがある。シャワーを浴びている様子などはベッドからはっきり見える。
おそらくマジックミラーにでもなっているのだろう。
「シャワー‥浴びてくる‥」
ユウキが重々しそうに口を開いた。少し悶々とした静寂の中、割って入ってきた久しぶりの言葉の縦波は過剰に私の鼓膜を震わせる。
私は掴んでいたユウキの腕をさらに強く掴んだ。今度はユウキが過敏に反応する。
目が合う。
深いユウキの瞳に吸い込まれそうになりながら、私はようやくユウキに笑みを見せることができた。
「ちょっと‥話そ」
言葉と同時に掴んでいた腕の力を緩める。しかし、目はユウキの目の奥を覗いたまま。
ちょっとした間の後、ユウキは私の目の圧力に怯えたように目を反らしてから無言でうなずいた。
二人同時にベッドに座ると柔らかすぎるスプリングが音をあまり立てずに伸縮する。
「お茶飲む?」と聞くとユウキは「うん、俺がやる」とベッドの脇に取り付けられた背の低い冷蔵庫から缶のウーロン茶を取り出す。
一つ私に手渡すともう一個の缶のプルタブを空け、半分ぐらいまでゴクゴクと飲み干す。
私はその間、乾ききっていた喉を潤す程度に口をつけた。水分は粘膜に吸収され、喉にはあまり行き渡らなかった。
「ふう」と一旦目を閉じ、一息ついてからユウキは重々しそうに口を開いた。
「昨日、このホテルに入ったんです」
私は両手に大事そうに持っていたウーロン茶を脇に置く。
「知ってる。見てた」
余韻とか後腐れとかを全く残さない断定的なもの言いがユウキを強く驚かせる。
「私が歩いていたら、ユウキ君とその横に小さくてかわいい女の子が腕を絡ませながら街を彷徨っているのが見えた。
それで二人とも緊張したように顔を強ばらせながらこのホテルに入っていくのを見た」
小さかったけど、語気が段々と強くなっていくのが自分でもわかった。口調もまるで小説の地の文を朗読しているような感じになった。
それには明らかに嫉妬心から来たものだ。
私は確かな根拠の元でユウキが次に放つ言葉を期待する。
私のシナリオは再会の瞬間から構築されている。
そして次の瞬間、私が製作した”ユウキ”という登場人物の台詞をユウキは一字一句間違わずに演じてくれた。
「あの子とは別れたから」
その時私はどんな顔を浮かべたのか、ココロの鏡で覗いてみる。テレクラに熟達した男が見せるような卑猥で狡猾な笑みだった。
「何で‥?」
その答えもきっと私のシナリオ通り。ユウキは一度下の唇を舐める。左眉だけをピクピクと痙攣させる。
「サヤカさんが忘れられなかったから」
『天使の絹衣を纏い、悪魔の牙を持つサヤカに俺は全てを奪われたんだ』
私の瞳を映す美しい虹彩の光がそんな葛藤を乗せて私の脳髄をくすぐる。
『それは私も同じだよ。
マキの顔を装いながら現世に降り立ち、愚物であるべきカラダを私の眼前に捧げたんだよ。
あの時、私を矛盾したオーラが包みこみ内部破壊を起こしたんだ。
ユウキはずっと信じてやまなかったマキという唯一の真実をいとも簡単にブチ壊した悪魔なんだ。
その代償をどう補ってくれるの?』
私の瞳から発散される光はどこまでユウキに伝わったかわからない。
だけどその後、ユウキはごく自然に私の首筋に手を回し、顔を近づけた。
キスの直前、ユウキの口から洩れる柔らかな吐息が私の唇に触れる。
この感触が何かが終え、そして何かが始まるスタートサイン。
夢でしか見られなかったマキの顔に私は何度も触れる。そこには確かにマキが見える。吐息が聞こえる。ほのかなカラダの匂いが薫る。
二つの舌が根元で出会い、お互いが作った唾液を交換する。そのまま私が下になってベッドに倒れこむ。
前とは違い、私は最初リードされた。耳や額、首筋、そしてもちろん口にとユウキは唾液を残しながら暖かくて柔らかい口を押し付ける。
キャリアウーマンチックな白のカッターシャツのボタンをゆっくりと外され、
表れたマシュマロパッドのホワイトブラの下を下からユウキの右手はまさぐり込み、突起した私の乳首を優しく愛撫する。
それは前回私が教えた通りの順番だった。
目が合った。
男の抑圧的にもなれる筋肉質の肉体に抱擁されながら、野生の獣の眼になりゆく自分をユウキの真っ黒な瞳で確認する。
高鳴る鼓動をお互いに感じ、その脈の波長が完全に一致した直後に、私は行動に出た。
柔らかい生地で作られたスラックスの下に膨らんだ股間を服越しに触れる。
愛撫していたユウキの右手は一度動きを止め、口からは小さな喘ぎ声が一瞬洩れる。
私は麻痺したかのように口の片端だけを淫靡に歪ませ、スラックスのジッパーを下ろし、トランクスのボタンを開けた。
ユウキは顔を少し離し、背筋を反る。
あどけない顔から大人の顔を含ませた不思議な表情。
窮屈そうにした、はちきれんばかりに勃起したユウキの息子は弓のようにしなりを作り、透明な液体を少し弾かせながら表れた。
私は左手の爪の長い人差し指で亀頭の側面を軽く掻く。すると頭上から「イタッ!」という声が聞こえるとともに、
先端から液体が火山のように飛び、溶岩となって裾野を下りる。そして掻いていた部分を暖かく濡らす。
ユウキは上体を起こしてベッドに倒れこんだ。
合わせて私が上になる。ペニスを口に含み、しごきながら、とっくに洪水になった自分のパンツをもう一方の手でその濡れ具合を確かめる。
ユウキの両腿が射精を耐えようと硬直した時、私は一度フェラチオを止め、顔を上げた。
絶頂の瞬間の茶色の目をするユウキの頭上の向こう側には、入る時に見た七色の光で作られた星や魚達が目に入る。
あまりの鮮やかさに私は再び目を奪われ、そして、自分のココロと対比した。
私のココロはどれだけの色に染められているのだろう?
きっと人よりもずっと色のない汚れたキャンバスで埋め尽くされているに違いない。
私は目という抹消器官から見る様々な色の優美さに憧れていたのだと思う。
しかし、どんなに目がその美しさをとらえても決してココロにまで染色することはない。
いつかその可能性をも否定した。カラダという存在の限界を感じ、私はマキという有りもしない存在を宗教のように陶酔していった。
ユウキを――いや、マキを見た。
ねえ、君は――ユウキの正体はマキなんでしょ?
実際に現れてくれるようになったから、私の夢の中には現れないようになったんでしょ?
マキは私に一つの道を与えているんだ。
私は本当のセックスを知らないから。
もし、私のカラダが求める最高のセックスというものがあるならば、それはきっとマキとココロを同化させて行うセックスだ。
カラダを単なる触媒にして雲の上で一心不乱にお互いの存在だけを求め合う。
――その儀式を行うための試験に今私は足を踏み入れる。
一度射精を済ました後でもなお、天に突き出るユウキのペニスを湿地帯に変わった俗物的なヴァギナでカラダの芯まで深く包み込ませる。
子宮の裏側のもっとも鋭敏なスポットに鍵と鍵穴のようにすっぽりと吸いつく。
私が上下に揺れると足の先から脳細胞まで突き上げる。
全身が麻痺した。神経は挿入部だけに集約され、
他の手や足や目や脳たちは盲腸のような全く意味のない進化の過程で不必要になったモノになっていく。
そう。
今、この感覚が人の究極の進化型なのかもしれない。
進化の過程の集団生活の必要性として作られた倫理や理性は究極的には邪魔になる。
欲望だけが自立し支配していく、そんな形。
幻覚と現実の両方をミックスした世界を見ながら私とユウキは頂点に達した。
残像だけが残る曖昧な意識に身を漂わせながら、
私の中の決してこの世には適合しないおぞましい化学物質がユウキの精子によって化学反応を起こし、
白なのか黒なのかわからない灰色のエネルギーがまばゆい昇天に変化していくのを感じていた。
-30- confession
夏なので7時を過ぎると太陽はとうに地上に昇っていた。
未知のエネルギーによって起こった内部の反応で私はどのように変貌したのだろうか。
太陽はどこまでこの姿を晒し者にするのであろうか。
眩しく光る朝もやに目を覆いながら、私は家路に着いた。
マリはもう起きていた。明色のカケラもない後姿が目に入り、私は途端に憂鬱になる。
しかし今、マリはテレビをつけている。テレビの向こう側には少なからず人がいる。声を出して、笑っている。
私以外の人間を見ているということだけでもマリのココロが癒えてきている証拠なのかもしれないと思い、ほっとすることに努めた。
「ただいま」と言うと、振り向いて「おかえり」とお決まりの言葉を発する。
それからは会話は途切れ、テレビの音だけが聞こえる数秒間。マリの背中の小ささだけが虚しく胸を拉ぐ。
先に口を開いたのはマリだった。
「遅かったじゃん。遊んでたの?」
思ったより軽やかだった。無理しているといえばそれまでだが、やはり気持ちが楽になる。
「うん、ちょっとね」
「誰と?」
「え?」
私は一瞬耳を疑う。私だって過去に何回か朝帰りはしていた。
そんな時もマリは少し意味深な笑みを浮かべることはあっても大して追求してこなかった。こんな問いかけは初めてだった。
「マリ‥ちょっと聞いて」
出方をうかがうような口調で呟くと、私をなじっているような目線で私を突き刺す――もう次の私の言葉を知っているかのように。
ユウキの顔を思い浮かべた。
あの表情や温もりがはるかな残像のように胸を打つ。一つの成就がココロの底を流れているのを感じていた。
「何?」
マリは表情を変えずに聞いた。私は深いため息をつく。
「私ね、彼氏できたの」
今のマリには”彼”という言葉でさえ大変な刺激物かもしれない。それを考慮した上で敢えて私は言った。
これからも二人暮しを続けていく以上、言わなければいけないことだと思ったからだ。気を遣って過ごすのだけは避けたかった。
それに、朝帰りをし”女の匂い”を散布している私を見て、付き合いの深いマリは気づいてしまったのでは?と思ったからでもある。
あの突き刺すような目はその考えを助長させた。
元々セックス三昧だったワケだからそんなことはないはずなのだが、やはり今回は過剰な意識があったのだろう。
「ふ〜ん、おめでと‥」
そこには最初に発した軽やかさはなかった。マリは感情を押し込めたように言う。
上手に描かれた弓なりの眉がピクピク痙攣を起こしたような動き方をしている。まるで戸惑いがその眉に集約されているようだった。
きっと今、マリの脳裏にはトシヤがいるのだろう。そういうことを想像するだけで私はぞっとした。
「ありがと」
以降、裏を孕んだ言葉のやりとりはピタリと止まった。ただ、テレビのスピーカーから流れる笑い声だけが無機質に場を包んだ。
私はとりあえずシャワーを浴びることにした。
ラブホテルでも起きた後にシャワーは浴びたのだが、自分の家のシャワーとはどこか違い、安心感をもたらしてはくれない。
きっとカラダが自分の家の浴室の匂い、大きさ、水の出る角度、水質に慣れてしまっているからだろう。
私はお湯の蛇口をひねらずにほとんど水のまま浴びた。冷たく尖ったような水が皮膚の穴一つ一つを刺激する。
いろんな意味で疲れたカラダが癒されていく。まるで聖水のようだ。
そんな安らぎが再びユウキとの出来事を甦らせた。
初めての愛の存在を噛みしめながら行ったセックスを終えた後、
ユウキは澄み切った美しい瞳でもって「俺と付き合ってください」と告白してきた。
二人とも裸のままシルクカバーの布団に入り、お互いのカラダの温もりを感じあっていた時だった。
「なんか、順番が逆だよね。エッチしてから告白だなんて」
私は言った。優しくトゲのない言葉は紛れもなく十代としての純粋なもの。
言った言葉がユウキのカラダや、夜が明け光が差し込んだせいで優美さを失った壁に反射して私の耳に届いたとき、
一瞬「今の誰が言ったんだ?」と思った。
それほど、こんな優しい気持ちを有している自分が不思議で仕方なかった。
純粋な性の獣に豹変したあとは、こんなにも優しい動物に生まれ変われるのだということを初めて知った。
私はユウキの唇に自分の人差し指をくっつけた。私なりの茶目っけめいた行動だ。
少しユウキは顔を赤らめ、私の指を邪魔そうにしながら「そうですね」と口を開く。
「私って最低な女だよ。それでもいいの?」
ユウキは「いい」と即答する。
「悪いことも数え切れないくらいやってきたよ」
「俺は今のサヤカさんが好きだから。過去とか未来がどうだとか考えるのは止めたんだ」
私の手を男の力でがっしりと握ってきた。拒否は断固許さないという横暴な意思だった。
腕に痛みと愛情を感じながら、その考え方は危ういね、と憂う――人はいつまでも過去を背負わなければいけない。
未来を見ていかなければいけない。現在なんて1秒すらないんだよ。
そんな変な思想に辿り着いてから、「そうか」と気づく。
ユウキはマキの代わりだから――時間という概念を知らない人間なのだ。
「いいよ、付き合っても。私もユウキ君が好きだから」
ユウキは顔色を明るく染めると私のカラダを強引に自分に引き寄せた。
筋肉が硬く突っ張ってはいるがまだまだ薄板のユウキの胸に私の頭は押し付けられた。
少しベトベトした皮膚の向こう側からユウキの鼓動が聞こえる。
昔母が子守唄を歌いながら私の背中をポンポンと叩いたあのリズムに似ていた。
きっとあの時の母も葛藤に苛まれながら、何とか私に愛の形を見せようとしていたのだろう。
それから私はユウキの年を尋ねると、ちょっとためらった後で「中学生。
15になったばかり」と答えた。少なくとも高校生だと思っていたから驚くばかりだった。
一応こっちの年齢も言うと同じように驚いてくれてちょっと嬉しかった。
「サヤカさんって本名なの?」
エッチな雰囲気ではなく、ただ寄り添いお互いの鼓動を安らぎの動脈として感じている時、ユウキはそう聞いてきた。私は「うん」とうなずく。
「イチイサヤカ。れっきとした本名」
「俺も本名。ゴトウユウキ。ありふれた名前だから困ってるんだ」
何に困るの?と思いつつ、その質問は口にせず、替わりに温かい胸元にキスをした。
シャワーを浴び終えて、居間に戻ってもマリは再び同じ状態でテレビの前に座っている。
人生の大半を終え、生きがいをなくした老婆みたいに腰を曲げ、焦点も合わさないで光る画面を見つめている。
私がシャワーを終えて近くにきていることぐらいわかるだろうに、全く反応しない。
二人の間には見えないガラスの壁があって、音とか気配とかを全てを遮断されているような錯覚を覚えた。
それを作ったのは私か、マリか――あるいは両方か。
時の流れは本当にマリを癒してくれるのだろうか。
彼女が落ちてしまった深い闇から救いの光を与える機会があるのだろうか。這い上がる力はあるのだろうか。
そんな鬱な気持ちに圧迫されそうになりながら、机の上に置かれた自分の携帯電話を手に取る。
チェックをすると留守電が2件も入っていた。
簡易留守録なのでセンターに繋がないでもメッセージを聞くことができる。
1件目はケイで、リカにも私の電話番号を教えておいたという内容だった。となると2件目は当然リカだ。
「あの…一緒に働いているヒトミです。今日会えませんか?連絡待っています」
2回聞かないと聞き漏らしてしまうぐらいの小声でメッセージが入っていた。
朝早くだったことも忘れて私はすぐさまリカに電話すると、リカは起きていたようですぐに出た。
二人が共通して知っている喫茶店で3時間後、落ち合うことにした。
一度ぐっすり寝ようと思っていたけど仕方がない。
白基調のTシャツに膝ほどの外用のスカートに着替え、いつもより若干濃い目の化粧を済ませたあと、家を出た。
一応マリに「行ってきます」と言ってはみたが返事はなかった。
-31- 喫茶店
夏の陽射しがあまりにも強いため、直射を受けている腕にはジンジンとした痛みとともに紫外線が吸収されていく。
出かけにガブ飲みした紙パックのお茶の分が汗となって肘から手首、そして指の爪の先まで伝う。
勤めているカラオケ”三日月”の前を通った。窓ガラスの向こうにいる赤色の服のバイト仲間を探すが誰もいない。
今日はまだ暇のようだ。フロントに突っ立っているのも疲れたので厨房の中にでも入っているのだろう。
そこから10分も歩けば”フランジ”という名の喫茶店に辿り着く。名前の由来はよくわからないが、機械の接合部分のことだろうか。
私はココに来ると大抵豚キムチチャーハンや、特製オムライスなどを注文する。
この店の定番というわけではないがゴハン系は特筆して美味しい。
カラオケのバイトの帰りには、家とは反対側の方向にあるにも関わらず、わざわざ足を運んでココで夕食を済ましたりもしていた。
リカもこの店のことを「知っている」と言ったので待ち合わせ場所にした。
この店の名前を出したのは私だ。どれだけの深い話になるのかわからないが、とにかくこみ合ったトークの戦場は自陣の方がやりやすい。
ドアの上に取り付けられた二つの青銅色の小さな鐘がぶつかり「カランコロン」と鳴る。ちょっと古めかしいこの音が私は好きだ。
ほぼ無意識に店全体を見回す。3組ほど客がいるが、どうやらリカはいないみたいだ。
「いらっしゃいませ、あら」
長いストレートの黒髪に白いスカーフを巻きつけているマスターの奥さんが私に向かって声をかける。
そんなに常連というほどでもないのだが、私の顔を覚えてくれていたようだ。
こういう客商売は数回来た客の顔はきちんと覚えないといけないのだろう。
ナツミの顔と名前が一致するのに3日かかった私には不適正な職業かもしれない。
「いつもと違う時間ね」
「はい、今日は待ち合わせで」
と言いながら、もう一度店を見回す振りをするがいないことは、わかっている。
わかっていても、やってしまうのは私だけじゃなくて、人間の習性だろう。
「今のところそんなお客さんはいないわよ」
奥さんは同じように店を見回して言った。
「みたいですね」
もともと店の人がフレンドリーに話しかけてくるようなアットホームな店ではない。奥さんとの会話はそれで終わりで、私はコーヒーを頼んだ。
4人が座れるテーブルに腰を掛けると、すぐに白一色であまりおしゃれではないカップに入ったコーヒーを奥さんが持ってくる。
ちょっと猫舌の私なので、慎重に口をつける。ここのコーヒーは初めて飲んだのだが結構美味しかった。
しかし、一杯600円は少々高い気がする。
壁に掛けられている中学の図画工作の授業時に描くような花瓶とりんごの絵を見ながら座ったがすぐに場所が悪いと思った。
入口に背を向けて座ってしまう体勢だったからだ。
「カランコロン」という扉が開く音を聞くたびに私は振り向くハメになる。
2度ほどその扉は開いたのだが、リカではなく、”振り返りゾン”をくらっていた。
だから、場所を替えようと思った。
顔を上げるだけで入ってくる客の顔を確かめられるように私は対面側の椅子に座り直そうとして立ち上がる。
その時、扉の鐘が鳴り、振り返るとリカがいた。
私はその容姿にはっと息を飲んだ。少なからず想像はしていたが、昼と夜とではこの少女は輝きが違う。
清楚なライトイエローのワンピースに身を包み、ストレートでちょっとだけ茶色がかった髪は、
そこら辺でブラつくギャルとはいるべきところが違うとさえ思わせてしまう。
そして、何より薄幸そうな翳を有する顔つきは、男だったらなりふり構わず抱きしめてやりたいかわいさなのだろう。
なぜこんな子が夜のコウモリさえも不気味がる都会の汚濁地に身を浸しているのだろう?
そして、なぜ昼になるとこうも清廉な少女に戻れるのだろう?
リカはすぐ私がいることに気づいた。ムリもない、私は半立ちの情けない姿でいたから。
「おはよう‥」
「お、おはようございます‥」
私はリカを促してこの喫茶店の奥の方へと移動した。
当初は待ち合わせ場所に使うだけで、別のもっと人気の少ないところに連れていく予定だったが、ココも十分人が少なかったし、
何よりあまりにも今日という日は太陽がまるでゴジラのように地上を焼き尽くす日で、
どっちかというと主に夜に棲息する私にはそれが耐えられなかったので、このままココで話すことにした。
リカはやや緊張気味に口元を震わせながら、やってきた店の奥さんにオレンジジュースを注文した。
「で、話って何?」
奥さんが離れるのを確認して私は対面に座るリカに聞く。すると、リカは少しきょとんとした顔を見せる。
「え? だって、サヤカさんの方から‥」
「用があるって言ったのは、そっち。私は電話番号を聞いただけ」
リカは同じことですよ、とでも言いたげにちょっと反抗的な態度を目で表す。
私は余裕ぶって優雅にアフタヌーンティーを飲む貴婦人のようにコーヒーを飲む。
出されてからもう大分時間が経っていたので、慎重にならなくてもいいぬるさだった。
「ま、話の内容は同じだと思うけどね。リカちゃん」
”リカ”の部分を強調して言うと、リカは過敏に反応した。
微妙に紅く頬を染める。私の視線がき裂の入った感情に入り込み、痛みを覚えたのか、胸の辺りを無意識に触れていた。
コーヒーソーサーには茶色の輪っかが作られている。その上にカップを乗せるとコトリと音がした。
やっぱ高貴な人間にはなれそうにはないな、と苦笑した。
「‥すいませんでした」
いろんなことを全部ひっくるめるようにリカは謝る。私は飄々とした顔で「何で?」と聞いた。
「だって、偽名を使って‥」
「私だって偽名だよ」
「え? ウソ? だってカラオケの店でも――」
「っていうのはウソ。本名」
リカはからかう私を柔らかく睨みながら唸る。ちょうどやってきたオレンジジュースを半分ぐらいまで一気に飲んだ。
どうやら相当喉が渇いていたようだ。
「でも、私みたいな人は少ないって。普通は偽名だよ。店に張ってある他の従業員の名前見た?
”ミルク”ちゃんとか”クルミ”ちゃんとか。どう見たって偽名じゃん」
「そうなんですけど‥」
渋い表情で私を見るリカに対し、私は目をコーヒーカップに落としながら言った。
「‥で、どうなの? 自分の恋人の名前を耳元で囁かれながら、男のアレを咥える気分は?」
コーヒーに映し出された自分の顔を見ながら、下卑た言い方をしたことに対して苦笑する。
私は真昼間から、私たちのいる腐敗した世界にリカを引きこむ効果を期待した。しかし、そんな必要はないのかもしれない。
リカは清純そうなカラダを纏いながら、その実、昼でも公然とエッチを見せつけるような人間なのだから。
リカは遠目でもはっきりわかるくらい顔を赤らめた。
「ヘンなことこんなことで言わないでくださいよ。男の‥だなんて‥」
リカは慌てながら周囲を見回す。私はちょうど店を一望できる位置にいたので周りには誰もいないことを知っていた。
さすがの私でも誰か人がいたら、そんなことを言ったりはしないだろう。
リカは少し額を伝った汗を補うようにストローに口をつけた。
しかし本当に恥ずかしそうだ。私からすれば見られているのを知っていながら、淫らなカラダを晒し、イっちゃうほうがよっぽど恥ずかしい。
「やっぱ、恋人なんだ。ヨシザワヒトミさんとは」
私はレズがどうとか、あまり偏見や先入観を持たずに聞いたつもりだ。
男は女、女は男しか好きになってはいけないという古代からの一般観念は持っていなかったから
ナツミみたいに嫌な顔をすることは決してない。
リカのストローを咥える口がピタリと止まった。二、三度瞬きして私を見つめるその瞳は戸惑いの涙を表面に湧出していた。
それは決してトゲのある言い方をし続ける私に対するものではない。
「どうしたの?」
思わず優しい声で聞いてしまった。
「‥恋人って言えるのかなぁ」
リカは物憂げに横を見る。相変わらず強い陽射しが外では放たれているようで、暗い眼差しは撥ね返される。
少し焦りながらリカは顔を元に戻した。
「言えるんじゃない? 別に女同士だってそんなにヘンなことじゃないよ」
「ううん、そういうことじゃなくって‥」
私は少し身を乗り出す。リカには聞く気マンマンの態度に見えたらしく、少しのけぞる。ちょっと私らしくないことをしたな、と反省する。
「別に言いたくなかったらいいよ」
リカは少し笑った。久しぶりの微笑みだ。暗い泉に埋もれていたところからちらりと垣間見えるような微かな光が私をほっとさせる。
リカは表情を小さく変化させるだけで人のココロをくすぐる能力があるようだ。
「サヤカさんっていっつもそんなこと言ってるけど、ホントはすっごく聞きたそうな顔してる」
「そう?」
今度は私が顔を赤らめる番。自分でも意識はしていたが、まさかリカに見透かされるとは思ってもみなかった。
リカは「はい」とうなずいたあと、その表情を闇に落とした。
「私はヒトミちゃんのことが好きなんです。でも‥ヒトミちゃんは私のことが好きかどうかわかりません‥」
出だしはまるで恋愛相談だ。
何でこんなことを言わせているのだろう? そして、何でリカは言おうとしているのだろう?
リカは刺さったトゲを一つ一つ抜くように痛みを時折浮かべながらぼそぼそと喋りはじめる―――。
-32- Mr.Moonlight
リカの両親が交通事故で突然命を失ったのは2年前。リカがまだ中学生の時だ。
一人残されたリカは叔父さん夫婦に預けられるが、相性は良くなかった。
もともと、リカの父とその叔父とは仲が良くなかったみたいだ。
リカはその夫婦と子供に、食事がないとか目には見えにくい虐待を受ける。
それでも私を引き取ってくれたんだ、と大抵のことは従うリカ。
決定的な嫌悪が生まれたのは、叔父さんがリカのカラダを求めてきたことだ。
吐露するリカは唇を噛んだ。苦痛に満ちた言葉たちが一旦停止する。
私も波長を合わせるように苦痛の表情を浮かべる。そこは飛ばしていいと言おうとした矢先、リカは再び口を開く。
「家出を決意したのは、叔父さんが私にちょっかいを出していることを叔母さんは知っている、という事実を知ったとき」
私の肩がビクリと震える。灰色に褪せたリカの瞳が私のココロを射抜く。
リカの叔母は叔父がリカに関係を強要していることを知っていながら、見て見ぬフリをしたのだ。
「理由はわからない」とリカは言う。
しいて言うなら、叔父と叔母の夫婦関係はもう長いことなくて、愛自体も皆無に近かったから。
叔父がすることに嫉妬さえも生まれなかったのだ。
しかし、女としての共鳴みたいな部分はあるはずだ。
男に陵辱を受け、泣哭する女を同じ女性として救おうとする気持ちは叔母にはなかった。
そこにリカは絶望を覚え、家出という行動を起こした。
街でリカは防御手段を知らない赤子のように見るもの全てに脅えながら見つかるはずもない出口を求めてさまよう。
しばらくは密かに貯めていた小遣いがあったから、食べ物は普通に食すことができた。
とりあえず風があまり当たらない民家の間とかを寝床にした。
最初は全く寝られずに夜から朝に変わる空をただぼんやりと眺めていたが、三、四日も経てば、寝つけるようになった。
しかし、二週間も同じような生活を続けていると資金も底をついてくる。
下着も替えなんてものはなく、カラダが異臭に満ちているのが自分でもわかる。
何度もリカは鼻に手の甲を押し当て、その体臭に顔を歪めた。
ひもじさから眩暈がする。だけど、家には帰りたくない。
警察官やパトカーを見ると叔父夫婦は捜索願を出していて私を探しているんじゃないかと思い、逃げ出す。
そうじゃなくても保護という形で捕まるかもしれない。
そう常に警戒心を抱きながらふらふらと歩くリカ。すれ違う人間はリカを汚い物を見るように卑俗的な目でねめかく。
そんな視線が段々怖くなり、さらに逃げ出す。人気のないところを探しながら、行く当てもなく路頭に迷う――そんな生活が続いた。
事件が、そして運命がやってきたのはある月が輝き、遠くで鳥が薄気味悪く鳴いている夜の一時。
公園のベンチの下で眠っているリカをある力が引っ張りだした。
女とはいえ、異臭が匂い立つリカを獲物とする人間はいないと思っていた。
しかし、それは甘かった。リカを女として見る奴がまだいたのだ。
それは今のリカと同じ放浪者。
社会の軋轢に飲まれ、家や家庭を失った人間から見ればホームレス歴2週間のリカはまだまだ社会の匂いが染みついている輝きを放つ者。
そして、男たちには俗世を離れた人間にも決して消えることのない性欲を保持している。
その捌け口をリカのカラダに求めた。飢えた獣のような目が6コ。
逃げなきゃ、と思うも虚しく、両手両足をざらついた手で掴まれ、一人の白髪の男が黒ずんだ顔に近づけてきた。
リカは自分の体臭をさらに上回る異臭に吐き気がした。その男は唇に噛み付いた。
男にとってはキスだったのかもしれないが、それはリカが今まで経験してきたキスとは全く異質のもので
何の魅力も感じられない粗暴的なもの。痛さがじんわりと感じていく中で血が唇から滲み出ているのがわかった。
「助けて」なんて叫ぶ気力もない。
一枚しかないパンツを男たちの手で破られ、倒されてベンチに後頭部を打ちつけた時に最終的な絶望を感じた。
朦朧とした意識の中、夜の空が視界の大部分を占める。想像を絶するほど遠くにある星は涙で掠れていった。
しかし意識が消える直前に、カラダ全身で味わっていた屈辱の感触が離れた。
疑問に替わる前に、耳からは乱闘劇がすぐそこで起こっていることを知らせる音が聞こえる。
目を開け、自由になった上体を起こすとそこには月の幻惑的な光に照らされて立っている人間がいた。
そしてリカを襲った男3人はその人間を中心に地べたに這いつくばっていた。
「そのヒーローがヒトミだったんだ」
聞き入っていた私が、ちょっと口を挟むと幸せそうにリカはうなずいた。
ヒトミは「大丈夫?」と言いながらやってくる。
腰砕けの状態のリカは立つことができずベンチを懸命に掴みながら立とうとする。
リカはその時逃げたかった。王子様の到来はリカに運命を感じると同時に、
現在の落伍者としての自分を見せたくないという感情が生じたからだ。
そんな思いも虚しく、ヒトミはリカの前に立つ。
そして手を差し延べてくる。
月の光だけが頼りの世界ではどんな華美な服を着ていても、黒を基調とした妖しげなものに替えさせられる。
ヒトミの服も皮膚の色もそうだった。
しかし、一つだけそんな世界に屈しないものが差し出されたヒトミの手にあった。
「あ‥」
二人同時に気づいた。ヒトミは一度手を引っ込めて、笑いながら舐める。
「相手の歯を殴ったからね」
舐めた口からポタポタと流れ落ちる血。倒れている男たちの返り血ではなく、紛れもなくつい少し前までヒトミの中を流れていた血だ。
月の光を喰い、不気味な赤色となって映えていた。
「う〜ん‥結構出てるね」
他人事のようにヒトミは言った。
尋常ではない――そう思い、引きつるリカは恐怖と絶望で使い物になっていなかったカラダを懸命に揺り起こしてヒトミのその手に触れた。
「手当て‥しなきゃ‥」
「大丈夫だって。舐めときゃなおる」
舐めて治る範囲の血の量ではない。蒼白なリカは自分の服をビリビリと引き裂いてヒトミの腕にきつく巻きつけた――。
「なるほど。王子様だね」
ナツミの時と同じく恋人のことを”王子様”と表現した。
誇張されているところはあるだろうけど、要するにヒトミは自分のカラダを傷つけてまでリカの窮地を救ってやった命の恩人というワケだ。
リカはうなずく。”王子様”という言葉を含羞なく受け入れたのはリカが自分で言ったとおりロマンチストで、
よほどヒトミが好きだったからだろう。
ヒトミは汚いボロ雑巾のようなリカを戸惑いなく受け入れた。それがリカにとって一番嬉しかったことだと言う。
「その時は、ヒトミちゃんが女の子ってわからなかったんですけど、後で女だって知って、戸惑うどころか逆に好きになっていって――」
その心状を何となくながら理解した。
リカにとっては、叔父、そして放浪者とことごとく性欲の対象にされた”男”という種は
自分の体内に精子をただぶっかけるだけに存在するものと当時は見えたのだろう。
そして対照的に”女”を求める意識が強くなったのかもしれない。
「しばらくいていいよ。殺風景な部屋だけど」
ヒトミは自分の家に連れていき、軽いノリで言う。
一旦拒否するも、ヒトミの優しさと美しさに、結局リカは甘えることになる。
ヒトミは一人暮らしで高校一年生。親はアメリカに住んでいて金持ちだから毎月、相当のお金が振り込まれるので金銭面には苦労しない。
リカはその家に彷徨える子羊として迷いこんだ。
同棲ではなく同居――もっと的確に表すのならば居候。
そんな二人はやがてカラダを重ねるようになった。
私とマリのような普通の友人の域を越えない同性の同居になれなかったのは出会いがあまりにも劇的で、
リカは悲劇のヒロイン、ヒトミはヒーローなる図式が即座に成立していたからだろう。
ここまで長々と聞いていて、私が知りたかったことはまだ一つとして到達していない。
なぜ、二人は恋人と言えないと思うのか。
なぜ、リカは”マリア”で働くことになったのか。
そして、なぜリカは”ヒトミ”の名を騙ったのか。
「で、それからどうなったの?」
そんな疑問を一切合財まとめて、そう聞いた。
リカはコップの下の外気とオレンジジュースとの温度差によって表面に作られた水滴を”∞”の形になぞる。
そして、私に催眠術をかけられたように、ゆっくりと喋りだす。
-33- SとMと恋人と
「ヒトミちゃんは私を”モノ”みたいに扱うようになりました」
私は無反応で細い肩を震わすリカを見つめる。
涙で潤んだ瞳の裏側にはリカ自身にもよくわかっていない感情が形成されているのだろう。薄いルージュを引いた唇が小刻みに揺れる。
「いや、元々そうだったのかもしれないです。エッチなことをヒトミちゃんはしょっちゅうしてきます」
一度、リカは息を大きく吸い込んだ。
場を包むコーヒーの苦味のある香りはリカに勇気を与えたのだろうか、一気にまくし立てるように喋る。
「でも、それは常に一方的で‥‥私からは決してヒトミちゃんのカラダに触れさせてもらえないんです。
ホントはヒトミちゃんの白く透き通った肌とか、潤んだ瞳とか乱れた髪とかを見てみたい。
それに‥悶え声とか立った乳首とか濡れたアソコとか‥そんな淫らに感じるヒトミちゃんを‥私に支配されるヒトミちゃんを見てみたい‥。
でもヒトミちゃんは激しく拒絶するんです。ちょっとそんな素振りをしようとすると私をより一層苛めます、行動や卑猥な言葉で」
私は黙ったまま、リカの言葉を記憶に留め、整理した。
ヒトミから放たれるオーラのようなものは触れたもの全てを圧倒する。
まだ2、3回しか会ってはいないが私はヒトミに対してそういうイメージを漠然とながら持っていた。
リカの話を聞いてそのぼやけたヒトミ像の輪郭が妙にくっきりとした。
ヒトミの性癖と言ってしまえばそれまでだろう。
サディスティックな欲望だけがヒトミを支配し、マゾヒスティックな部分は完全に遮断する。
後者の部分はヒトミにとって憎しみ以外の何物でもないのかもしれない。
「ある日、ヒトミちゃんが寝ている時に私はキスをしてしまったんです。
ヒトミちゃんが頑なに拒みつづけていたから、私がリードしたいって欲が反比例して生まれたんだと思います。
衝動に駆られて‥ホントどうかしてたんです、あの時の私は‥」
一度リカは私を見た。ちゃんと聞いているのか確認したかったのだろう。
聞いているよ、という意志として「うん」と頷くと、リカは過去への後悔からか力無く微笑み、再び目線を下に落とす。
「ヒトミちゃんはキスにも気づかずに眠ったままでした。だから服を脱がしてヒトミちゃんの胸に触れました。
真っ暗だったから色とか形とかはわからなかったんですけどとにかく柔らかくて温かくて‥どんどん理性がきかなくなりました。
自分の顔をヒトミちゃんの胸にうずめたりもしました。あんまりにも気持ちよくて、嬉しくて私はそのままその場で眠ってしまいました。
次の日、私は殴られました。その時のヒトミちゃんは‥もう前にも後にもない鬼のような形相でした。そして、全てが変わったんです‥」
口が止まったリカ。まぶたには涙が溜まっている。
店内の音楽や向こうにいる人のひそひそとした声が消え、リカの息を飲む音さえもはっきり聞こえるようだった。
今私の耳はリカの創り出す音だけのために機能していた。静寂に浮かぶ悲調の叫びが私のココロを急く。
汗ばんだ手を擦り合わせながら私は「どう変わったの?」と促した。積悪にもたれたリカは口重に話を再開する。
「‥ヒトミちゃんはより暴力的になりました。エッチしている時に殴ったり、手錠とか縄とか変な道具を使うようにもなりました‥。
今までそんなコトはなくて愛撫するときはずっと優しかったのに‥」
「‥‥」
「とうとうヒトミちゃんは私を性の奴隷にしてきました‥。見知らぬ男の人を連れてきて‥それで‥」
リカはそこまで言って唇を噛みしめた。ヒトミの狂態に怯えるリカに私は息を呑む。
口を閉ざすその先の言葉と連想させてマリが映し出される。リカもマリと同じように幾人もの男にレイプのようなことをされた。
でも決定的に違うのは―――
「リカちゃんにとってそれは裏切りなの?」
私の突然の問いかけにリカはハッと顔をあげる。その拍子に両方の目から温かそうな雫が2、3滴テーブルにこぼれ落ちる。
そしてリカはこれ以上落とさないようにゆっくりと首を横に振る。
私は「やっぱり」と音は出さずに口だけを動かした。
その行為は傍から見れば、残忍なことに見えるがヒトミというサディスティックの塊の人間にとっては、
恋人を他人を使ってレイプすることさえも愛情の一種なのだ。
リカは特にそれを知っている、というか思い込んでいるから完全に否定できない。だからヒトミから離れられることができない。
「じゃあ、”マリア”に働きはじめたのもヒトミの指示?」
リカはうなずき、
「どうせならもっと稼げるほうがいいね、って‥」
と小声で言った。
リカの言ったこの言葉は私の脳内でヒトミの声色に変換された。自分の恋人を貶める究極的なサディスティック行為。
その”恋人”であるリカは震えるカラダに”愛”と”憎”を刻む。どちらもヒトミにだけ注ぎ、葛藤し、両者衰えぬまま昇華している。
「リカちゃんが”ヒトミ”の名を使ったのはリカちゃんの意思?」
私はリカが首を縦に振るのを待った。リカは一度ツバを飲み込んで予想通りのことをした。
苦衷の中、底から沸き上がる震えは強さを増しているようで一生懸命カラダを強ばらせていた。
リカが”ヒトミ”の名前を用いたのは、ヒトミへの精一杯の抵抗とプライド、そして自分の葛藤を正当化するためだ。
一つは自分のカラダを”ヒトミ”とし、愚鈍な男たちに弄られるのは自分ではなく、ヨシザワヒトミなのだと偽る。
そして、”ヒトミ”という名の人間はこんな男たちに服従する卑しき存在なのだ、と罵る――そんな憎しみ。
もう一つは”ヒトミが性に屈し、マゾ的な部分を見せている”と自分のカラダを使って表現する。
そして、ヒトミにその”感じる”ことへの偉大さを示そうとする――そんな愛しさ。
ヒトミには何一つ伝わらないことだとしても、後に弾劾されるべきことだとしてもリカはそんな愚鈍な行動をやめるわけにはいかなかった。
ヒトミと偽ることで、”ココロはリカでカラダはヒトミなんだ”と強制的に分離させる。
本物のヒトミでは決して得られなかった快感と欲求を、”二人”で満たしていく。
その狂気じみた願望の本質は私と似ている。
人の関わりを避け気味だった私が出会ってからこうして今でも付き合いがあるのは
そういうインスピレーションをココロのどこかで感じていたからかもしれない。
ヒトミが求めているもの。
リカが求めているもの。
それはきっとお互いであるにも関わらず、その二つの欲求は競合しあい、反発する。
私は事情を聞いて慰める気はさらさらないし、もしあったとしても不可能だろう。リカにとってこの苦しみは一つの真実なのだから。
リカもそれを分かっている。真実は真実と認知しているならばそれを歪曲することはできない。
リカは私にきちんとした答えを求めているわけではない。ただリカの投げかけを受け止め、そっくりそのまま返すだけだ。
私はリカの震えが収まるまでずっと待つことにした。
約1時間後、リカは顔を見上げ、私に「もう大丈夫」という意志の笑顔を見せた。
それは偽りのものには違いなかったが、ココロに鬱積した苦渋を私に吐いたのだ。
その空っぽの笑顔の中には本物の喜びが埋まっていくことをただ願った。
私たちは喫茶店を出た。コーヒー一杯で長いこと居座っていた悪しき客だったにも関わらず、
奥さんは「また来てね」と言ってくれた。社交辞令とはいえほっとした。
昼が似合わない汚れきった二人がかんかんに熱せられて見えない蒸気が立ち昇るアスファルトの上を歩く。
ロールプレイングゲームの毒エリアを一歩一歩進むように前に進めば進むほど生命力が失われていく気分だ。
行く当てもなく歩いていたので、リカに「どこか建物入らない?」と言おうとして「リカちゃん」と呼びかけた。
すると、リカは私の方を向き、
「もし、まだ暇でしたら私の家に寄っていきません?」
と言ってきた。
「近いの?」
「電車で二駅ほどです。歩いてでも着きます」
私は少し考える。リカの家はつまりヒトミの家ということだ。ヒトミがいるかもしれない。
「ヒトミちゃんはいませんよ。昨日から出かけているんです。明日にならないと帰ってこないって言ってました」
見透かしたようにリカはこう付け加える。
「それじゃあ行こうかな。でも歩きはイヤだ。電車で行こう」
舌を出し、真っ青の空と強烈に照りつける太陽に目配せをし、暑さをアピールした。
リカは太陽の光を遮るように額に手をかざしながら「そうですね」と言い、微笑んだ。
昼下がりにふさわしい少女としての爽然さを巻きつけたような笑顔だ。
これは私にはもうできない笑顔で決定的にリカと私の違う部分だと思った。
そして、私たちは最寄りの駅に方向転換した。
-34- リカちゃん人形
交通量が多い国道沿いの高層マンションに私たちは入る。リカによると、昼はうるさいけれども、夜になったら結構静かになるらしい。
しかもリカたちの部屋は10階でその部屋からの車の騒音は遥か遠くの音にすぎないらしい。
「おじゃまします」
誰もいない部屋に向かって私は言った。別にヒトミがいるかも、と思って言ったことではない。そういう癖なのだ。
しかし、リカは「ヒトミちゃんはいませんって」と念を押していた。
部屋の中は結構汚い。台所に置かれたまだ洗っていない御飯茶碗と鍋。
リビングルームに入ると、ファッション雑誌や漫画本がライトグリーンの背もたれのほとんどないラブソファの上に散らかって置いてあり、
さらに向こうのテーブルにも同じように本、そしてなぜか綿棒が散らばっている。
ソファの反対側に秘書室にでもありそうな回転椅子が違和感たっぷりに置かれている。その上にも畳まれた服が山積みされている。
「ヒトミちゃんは結構きれい好きなんだけど、私が”散らかし屋さん”で‥」
「片付けるの手伝おっか?」
あんまり人のことは言えたものではないが、これはかなり汚い。
「すいません」と言いながらリカはピンク生地に幾何学的な模様が入ったバンダナを拾い、頭に巻きつけていた。
本来のかわいさのおかげか若くておしゃれな奥様のような雰囲気を醸し出していた。
私は床に落ちている下着などを拾い、適当なスペースに固めて置く。
この部屋がリカの性質で蔓延していることにやや驚きを覚えていた。
少なくともリカの前では絶対的な抑圧者であるヒトミの部屋だから、リカの匂いはほとんどないものだと思い込んでいた。
「この部屋のどこで寝てるの?」
私は呆れながらリカに聞いた。こんなに散らかっていては寝る場所なんてあるようには見えない。
「ああ、あっちです。もう一つ部屋があるので‥」
と言いながらリカが指差す方向には扉があった。どうやら2LDKのようだ。
特に理由もなく「見ていい?」と聞くと、リカは「いいですよ」とうなずいたのでその扉を開けた。
セミダブルのベッドが中央に構えてあるのがまず目に飛び込んだ。どうやらここで二人一緒に寝ているようだ。
また、部屋の端にはおしゃれのかけらもない白色のパソコンが置いてあった。
他にも大きなタンスがあったりして、そのせいか妙に狭く感じられた。
ピピッという音がして振り返る。どうやらリカがクーラーの電源を入れたようだ。
噴き出す冷気は埃っぽかったらしく、まともに顔に浴びたリカはゴホゴホとセキをする。
「使ってなかったの?」
「いえ、使ってるんですが最初はいつも汚い空気が出ちゃうんですよね」
「フィルターとか掃除すれば?」
「はい、今度」
こうやってあとあとに物事を延ばそうとする人間はえてして、部屋を汚すタイプだ。
今は私という来客が来ているから当然なのかもしれないが、リカの性格が垣間見えた気がして、少し顔が綻んだ。
そんな緩んだ顔をパチパチと軽く叩きながら、ここへ来てからずっと緊張をしていたことに気づく。
ヒトミがいないとわかっていてもその漂う気配に警戒していたのだろう。
もしかしたら、向こうの部屋を見たかったのもヒトミがいるのでは? と思っていたからかもしれない。
リカはとりあえず座るスペースを作ろうとソファの上に積み重なって置かれた雑誌をどかす。
しかし、その雑誌もすぐ横のテーブルの上に置いただけので、殆ど片付けにはなっていなかった。
そんな風に無意味にせわしなく動くリカを傍目に私はきょろきょろと散らかった部屋を眺めた。
黒くて無骨な17インチテレビの上の物体が目に入る。手紙ぐらいの大きさのフォトスタンドだ。
中にはリカとヒトミが小さい枠の中で寄り添うように頬と頬をくっつけながら微笑んでいる写真が挟まっている。
さらに周りを見渡すと、簡易的なクリップボードの上には同じように二人で映っている写真が部屋のアートとして8枚ほど貼り付けられている。
見れば見るほど戸惑う。ヒトミの狂気的な性質はまったくと言っていいほど感じられない。
女同士ということを除けば、どうみても幸せいっぱいの恋人同士。
そして、ここは聖なる愛の巣。散らばる物たちが至極平凡な生活感を漂わせる。
実際に目視する甘い情景と告白された辛い状況とのギャップを感じながら、私はカーペットに散らばる紙切れなどのゴミを拾ったりした。
一段落し、リカも落ち着きはじめると私はラブソファの中央に座った。一番最初にリカが作ってくれたスペースだ。
目の前のテーブルに積まれていた本の一番上を取ると、それは「プチバースディ」と書かれたローティーン向けの月刊誌だった。
表紙と裏表紙がピカピカとした素材で少女漫画のようなイラストと飾られた文字が所狭しに書かれている。
これだけで大分コストがかかっていそうだ。
「これってリカちゃんの趣味?」
表紙をリカに見せながら聞いた。リカはテレビのリモコンを手にとり、テレビの電源をつけようとしていた。
私が持っている雑誌を一瞥したあと言う。
「あ、はい。でもヒトミちゃんもたまに見てますよ」
リカは私が持っている雑誌を一瞥したあと何の気もなく言う。
「へぇ‥」
パラパラとめくると占いや運勢に多数のページが割かれており、
また彼氏のタイプだとかベストな髪型だとかのフローチャートが至るところで見られた。
リカもヒトミも16、7だとしてこの雑誌の対象年齢はもっと低いはずだ。
リカはともかくヒトミもこういうものを見て、今日のラッキーカラーは緑だとか信じたりするのだろうか。
「ねえ、リカちゃん‥」
私が呼びかけた時だった。玄関から鍵を開けている音がした。
「あれ、ヒトミちゃん‥帰ってきちゃった?」
リカは腰を浮かす。
「マジ‥?」
一度玄関の方を振り向き、顔をしかめながらリカと同じように腰を浮かす。
そのあと、隠れるところは? なんて慌てるがよく考えたらヒトミから逃げる理由は何一つないことに気づき、
来るなら来いという気持ちでソファにドスンと腰を据えた。
「た〜だいま〜。お客さん来てるの?」
ヒトミの声を聞いてソファから立ち上がり振り向く。
「こんにちは。お邪魔しています」
自分でもフシギなくらい礼儀正しく会釈をした。
「どうも。もしかして掃除手伝って‥って、ああ確か‥カラオケの‥」
ヒトミは一度部屋を見回してから私を見る。ワンテンポ置いて、ようやく私の顔に見覚えがあることに気づいたようだ。
少し眉を寄せ、目をパチクリさせて名前を必死で思い出そうとしている。
「はい、サヤカです。イチイサヤカ」
「そうそう、サヤカさん。もしかしてリカちゃんと友達だったんですか?」
「まあ、あんまり付き合いはないんですけど。今日はたまたま‥」
”たまたま”の部分を強調した。しかし、ヒトミは私の微妙な主張など気にも留めない感じだ。
「そうなんだ。何でリカちゃん、あの時言ってくれなかったの?」
ヒトミはリカの元に駆け寄る。バンダナの上から頭を撫でる。
そして、柔らかそうなほっぺを一度細い指で優しく突く。まるで小さな子供を扱うような行動だ。
ヒトミは至って正常の人間に見えた。レイプだとか、暴力だとかとは無縁の永遠の美少女。
「ほら、だって‥あんなコトした後だったから‥恥ずかしくって」
リカは恥ずかしそうに自分の指をいじりながらヒトミを見つめるがその目は淡い緑色に輝く。
それも欲求に全てを傾倒させたいという毒々しいものではなく、ただ純粋にヒトミに寄り添いたいという安らぎを求める少女としての目だ。
「あんなコト‥ってどんなコト?」
さらにリカは恥ずかしくなったのか顔が赤みを帯びてくる。ヒトミから目を離し私を見た。するとほぼ同時にヒトミも私の方を見た。
大きく私のココロさえも覗けるような大きな瞳。日本人らしく高くも低くもない整った鼻立ち。
口紅もつけていないのに淡い桃色をしている柔らかそうな唇。
全てが合わさって感じるのは絶対的な”美”の存在。
私は一瞬、その玉殊のように輝く容姿に吸い込まれそうになる。
しかし、その吸引を止めたのは当のヒトミだった。
完璧なる無表情の顔を上品かつ淫靡という常人には不可能な笑顔に歪ませる。
リカの言った通り、限りなくサディスティックで、支配的な至福感が漂っている。
「こんなコト?」
ヒトミは素早くリカの唇にキスをした。
深いキスだ。1秒、2秒、3秒‥と時計の針は時を刻む。まるで精気を吸い取るような濃厚なキスが目の前で起きていた。
唇が離れた時、リカはヒトミの甘くて黒い罠にはまったような恍惚な表情を浮かべていた。
その表情のまま私をちらりと見た。焦点の合わない瞳がゆらゆらと揺らめきながら私を刺す。
――驚いた。
キス一つでこんなにも変わるものなのだろうか。クーラーが効いていて涼しいはずなのに、汗がカラダの表面に滲む。
「リカちゃんったら風俗店で私の名前を使って働いているんですよ」
ヒトミは俯いているリカをよそに回転椅子に、背もたれを前にして座った。
あまり反応が強くなかった私に対し、口端を再び歪める。
「あ、やっぱり知ってたんですね」
「何が?」
リカの味方の立場を取っていたからか、余裕たっぷりのヒトミが気に入らない。顎をしゃくりながら私は軽くメンチを切る。
「リカちゃんが多種多様の男に抱かれている淫乱な女だってこと」
ヒトミも私のくすぶる感情に触発されたのか、強い口調を発する。
もう最初に見た”美”を包んでいる人間ではない。冷たい支配性が私を貫く。私の中にある小さかった火種が勢いを増す。
「あなたがやらせたんでしょ? リカちゃんは嫌がっているっていうのに」
語気が荒々しくなった。リカはその間に、「もういいから」と呟いたようだが私の言葉に消されてしまう。
「そんなことないですよ。私はリカちゃんの全ての気持ちを知ってるから。
リカちゃんって私だけじゃ飽き足らず、いろんな人と寝たいってずっと思っていたんですよ。だから紹介してあげたんです」
淡々と話すヒトミの言葉は非常識極まりない。
もし二人が恋人だったら――いやそれ以前に血の通った人間であれば到底ありえない言葉だ。
私はヒトミに向ける憎悪の目を強くさせた。普通に考えたらヒトミはリカを断じて愛してはいない。しかし――、
「リカちゃんが思うわけないじゃん。バカじゃないの?」
言った自分に強がりの部分が垣間見える。強がりは負けの前兆だ。
「嫌がってはいないよね? リカちゃん」
ヒトミはリカを見ながら立ち上がる。そして、今まで座っていたところに呆然と直立しているリカを座らせた。
糸をつけられた操り人形のようにリカはヒトミにされるがままに椅子に座る。ヒトミはその椅子をぐるんと回した。
半回転してリカのカラダは私と向き合う。そして、淡白な表情のまま首を縦に振った。
私は唇を少し噛む。敗北とは認めたくないが、ヒトミの余裕の仮面を剥がせることは到底不可能だと悟った。
”ヒトミは普通ではない”とヒトミと出会ったたった二、三回の歴史が常識を覆す。
「ところでどういう関係なんですか? リカちゃんとは?」
ヒトミの言葉に私はギクリと腰を浮かす。
ヒトミはどこまで知っているのだろう? 返答に窮し、ぎゅっと喉を締め付けたが、ヒトミは私の答えを待たずに、
「ちょっと待って」と言い残し、台所の方に向かい冷蔵庫を開け、鍋にいっぱいの水を張り、塩を少量加え、ガスコンロに火をつけた。
「へへへ‥ゆで卵‥。今無性に食べたくなって」
と言いながらヒトミは戻ってくる。
「リカちゃんから聞いてないの?」
「うん、あんまりリカちゃんの交友関係って知らないんですよ」
ヒトミは言った。
「リカちゃんのことを全部知ってるんじゃなかったっけ?」
「そんなこと言いましたっけ?」
「うん」
初めて勝ったような気がしてつい顔がほころぶ。
「そうですね。じゃあ99%知ってるって訂正してください」
そんな私をさらりと交わすヒトミ。続けて、
「でもまあ大体わかりますけどね」
ヒトミは私の背後にやってきた。ソファに座っている私は顔だけを後ろに向ける。
「ソープ嬢なんでしょ?」
私の反応を待つ前に後ろからソファを挟んで私の下半身に手を入れてきた。
自分の身に危険が及ぶなんて思ってもいなかった私がその咄嗟の行動に驚いている間に、
ヒトミの長くて細い指はきっちりパンツの中に入り込み、私の性器まで到達していた。
女とは思えない強い腕力で私の腰だけを自分の元に引き寄せる。ちょうどバックに入る前の”く”の字にさせられる。
「あ‥」
私は一瞬の喘ぎ声とともに、顔を上げた。
ヒトミは細く女性的な指を獰猛なヘビのように扱う。その荒々しさは、指だけでイカされた手練れたホスト風の男の顔を思い出させる。
確か3ヶ月前ぐらいのことだ。小さな屈辱と歪んだ快感が最終的に得たものだった。
それと今似ている。およそ女性が作る動きとは思えない乱暴さだ。
必死の抵抗の最中、私の視界にはリカの顔が映った。
キスの余韻なのか空疎に包まれたままの表情からは全く感情が読み取れない。
ただ生命のない壊れた人形がぼーっと私の下半身を眺めている。
きっとこのままだとあのホスト風の男にさせられたように最後までイってしまうのだろう。
リカの見ている前でそれだけはしたくなかった。だから私は喘ぎ声を隠すように、「やめろ!」と低く唸った。
すると、ヒトミはその動きをピタリと止め、入れていた指を抜いた。
性感が手や足などの抹消部を支配する直前のことで、軽く痙攣していた私は自重を支えられずに、ソファの前でひざまづいた。
「や〜めた」
荒い息を立てながら首を曲げる私に対し、ヒトミはこの空間を司る人間のように私を見下ろしていた。
まだ途中だったからかしびれはすぐに治っていく。私は立ち上がり、怒りに任せて、ヒトミの頬を拳を握り締めながら殴った。
「やめて、サヤカさん!」
手元で放たれる衝撃音と一緒に、後ろで座ったままリカは久しぶりに叫ぶ。
リカに対する罪悪感。
ユウキに対する背徳心。
支配されそうになった私のカラダに対する自虐。
そして何より、そんな場を悠然と作ってしまうヒトミに対する決定的憎悪。
いろんな情動が拳になってあらわれた。
しかし、ヒトミはそれすらもあざ笑うように、まったく表情を変えない。
私の拳は当たったのか? そう疑問に思いながら左手で右の拳に触れると痛みが走った。
私の拳が確実にヒトミの顔を捕らえていた証拠だ。
ジンジンと感じる右手の痛みと、何も変わらないヒトミの冷たい瞳――矛盾した空間に佇む私の胸の鼓動は異常に速くなる。
「サヤカさんのプライド、しっかり感じました。すみませんでした。予想通りリカちゃんとは違うみたいですね」
ヒトミは深く頭を下げ、謝罪した。
笑みはないとはいえ怜悧に固めていた表情が融けているところを見るとそれはココロからのものだと教えている。
「何のプライドよ‥」
「サヤカさん、恋人いるんでしょ? しかも最近できたアツアツの。私恋人持ちにはあんまり刺激を与えないようにしてるんです」
ユウキのマキに似ている甘い顔を思い出す。
その残像の向こう側で余裕そうに目を細めるヒトミには、会ったことのないはずのユウキの顔を思い浮かべているような気がしてゾッとした。
「それに今サヤカさんの周りってすっごくいろんなことが起きていますね。大変でしょうが頑張ってくださいね」
「‥なんでわかるの?」
ヒトミには私の背後で苦しむマリの顔さえ見えている――恐れや悔しさを押さえつけるように上の歯と下の歯を強く合わせた。
信じられないことだがヒトミには何かを見通す力があるようだ。
そういえば初対面なはずのナツミを一目見るなり「うれしいことがあった?」と言っていたことを思い出した。
「なんとなく。具体的なことはよくわからないですけどね」
ヒトミが私には絶対勝てない神のように見える。それは私が最初にイメージしたヒトミ像を超えたものだった。
「ただ、リカちゃんの考えていることははっきりわかりますけどね。例えば今は‥」
ヒトミは付け加える。私は「何?」と尋ねる。リカもカラダを乗り出す。
「リカちゃんは今、私とサヤカさんと3Pしたいって思ってるんです。どう? 変態でしょ?」
リカは赤面していた。
事実のようだ‥。
失望と絶望が私を打ちのめす。
リカ側に立とうとする少し前の私はもういなかった。
-35- 愛情と憎悪
ヒトミは私とヒトミとの間にあったラブソファの背もたれをポンポンと叩き、私に目を向けさせる。
「どうぞ、座ってください‥ってちょっと待ってください」
どうやら私がヒトミを殴った時にソファの位置がズレたようで、ヒトミは前のテーブルと平行になるようにして直した。
そして再び手のひらを見せ、私を座るように促した。
「ありがとう」も言えず、私はヒトミを警戒心でもって見つめる。
ヒトミがもう何もしないことは何となくわかってはいたが、ついさっき味わった屈辱が背中を見せることを多分にためらわせる。
そんな心情に気づいたのかヒトミはソファから離れ、リカに近づく。私はヒトミの横顔を見ながら腰を下ろした。
「大丈夫?」なんて声がリカから出る。ヒトミはそんな心配気なリカに「大丈夫」と言い、バンダナが巻かれた頭を軽く撫でている。
「ごめん」
私は殴った拳の痛みを感じながら言った。謝罪なんて気持ちは毛頭ないが殴ったことは事実だからだ。
「いや、全然大丈夫ですから。殴られるようなことをしたんですから。それよりも私に構わずくつろいでってくださいね」
まるでホームパーティーの主催者のような言い回しをした後、リカに「じゃ」と言い、隣りの部屋に行こうとする。
クーラーの音が静かになった。どうやら十分室温が下がったみたいだ。
しかし、私のカラダは火照っている。殺伐とした空間は私の緊張の糸を張りっ放しにする。
「あ、ヒトミちゃん!」
そんな糸をぷつりと切ったのはリカだった。リカは隣りの部屋のドアノブに触れようとしていたヒトミを呼びとめた。
ヒトミが振り返ると、「お鍋!」と台所の方を指差しながら叫んだ。
私もその方向に目を向ける。するとぐつぐつという音が聞こえてきた。どうやら鍋の中の水はもう沸騰しているようだ。
「ああ〜、忘れてた!」
ヒトミはヤケに低音の慌てた声を上げると同時に、台所に飛んでいった。
火を止めると同時に鍋からはモクモクと白い湯気が沸き立つ。
「これじゃあ、カチコチだよ‥」
がっかりとした様子でその湯気の中の卵を上から覗く。
そして、さらにがっかりと肩を落とし、涙を拭うように右の人差し指で目の下をこすっている。
ヒトミは湯切りしたあと、卵をボウルにいれ、それを右手に、左手には牛乳パックを持つ。
「リカちゃん、手伝って」と言うとリカは「うん」とうなずき、台所に向かった。
リカはコップを三つとヒトミの左手にあった牛乳を持ってきてテーブルの端に置く。
リカにはいつの間にかいつもの気配が戻っていた。テーブルに投影されたリカの顔は生きた笑顔だった。
「食べてってください。おやつなんです。小皿は今持ってきますから」
リカは前かがみになり、テーブルに置いてあった雑誌類を床に置きながら私に話しかける。
「リカちゃ〜ん、醤油どこだっけ?」
台所にまだいるヒトミから声が飛ぶ。
「あ、え〜っと下の戸棚の中」
「そうだっけ? う〜んと‥ないよぉ」
「あったって」
リカは再び立ち上がり台所へ向かう。そしてヒトミが探している戸棚を覗いて手を出して、「ほら」と醤油を見せた。
「端っこの方にあったんだ」
「うん」
二人は醤油とゆで卵4つと小皿3つを持ってやってきた。
私は今のやりとりにまた固めようとした真実が歪められた気がして唖然とする。
「どうしたんですか、サヤカさん? ゆで卵、キライですか?」
リカが不思議そうに尋ねる。
「いや、別に‥」
とりあえず口を濁した。数分前では想像もつかなかった光景が繰り広げられている。
少なくとも先ほどまでの全てを抑えつけるようなヒトミやそんなヒトミに魂を抜かれたように呆然とするリカはいない。
そんな二人を許容していた空間もいつの間にか冷房の効いた心地よいものに様変わりしていた。
そんな変化についていけない私は一人取り残されている感じがした。
リカは枕に近い花柄のクッションを持ってきて、そこに正座する。ヒトミも後からやってきて、回転椅子に座り、嬉しそうに袖をまくる。
「食べてってくださいね」
ヒトミは私の前に置かれた卵を見ながら言う。私は無言で頷いた。
「ヒトミちゃんたらおやつはゆで卵しか食べないんですよ。おかげで私も毎日ゆで卵生活」
リカは殻を向き、光沢のある白身を二つの親指でこすりながら愚痴混じりに呟いた。
「でもリカちゃんも結構好きになったでしょ?」
「元々キライじゃなかったよ。逆にキライになったかも? 飽き飽きしちゃって‥」
「そんなこと言ったって卵食べるのはやめないからね」
「わかってるって。ヒトミちゃんから卵をとりあげることがどんなことか私が一番よく知ってるもん」
ヒトミはゆで卵のてっぺんを箸で穴を開け、その中に醤油を数滴入れる。
染み込むのを確認してから大きく口を開き、一口でゆで卵を食べた。手元にはもう一個ある。
4つ持ってきたゆで卵のうち、2つはヒトミのものらしい。
なんだろう、この二人は‥?
甘い日常を見せられてつくづくそう思った。
リカはヒトミにとっては始終、奴隷にすぎない人間なのだと思っていた。
ヒトミは奇妙な能力でもってリカの存在を全て掌握していて、だからリカはヒトミから離れた時、
その魔法のような力が薄れ、ふっとつらくなるのだと。
しかし、それは違う。
ヒトミとリカは対等の恋人同士なのかもしれない。
主従関係が生まれるのは性欲が二人を支配したときだけ。普段の生活の中では二人はお互いを尊敬し合っている。
ヒトミはリカを掌握しているわけではない。だから、この部屋にはきちんとリカの匂いが含まれていたのだ。
そんなことがあるのだろうか――キチガイじみた性生活と恋人としての日常生活を分けることが。
私はリカを一瞥する。ゆで卵をビーバーが木を削る時のように前歯を使って細かく齧っていた。
滑稽な姿に思わず苦笑した。それを見たヒトミはリカの方を向き、同じように苦笑した。
穏やかにただその光景を見られることが幸せだというような恋人を見る目をしていた。
「ヒトミちゃん、私どうしても聞きたいことがあるんだ」
2つ目のゆで卵も同じようにして食べようとしていた。
「何ですか?」と至福の瞬間を邪魔されたせいか、スネた子供のように口を尖らせている。
幼稚すぎてさっきまでのヒトミとのギャップを感じる。もう戸惑いを超えてヒトミという個体が何者なのかすら怪しくなってきた。
それくらい混乱している。ヒトミにされたことの不快な色は違った色素を混ぜられ、ぼかされようとしていた。
「リカちゃんを愛してる?」
「はい、大好きです」
まるで私の問いを知っているかのような即答だった。キリスト教徒が神に誓う時のように背筋をピンと伸ばし、私を見つめていた。
「‥だってよかったね。リカちゃん」
脱力気味に私はリカに声をかけた。リカは言葉を出さずにうなずいた。何か言いたげな顔にも見えたが私は無視する。
私には理解できないことが多すぎて整理できていなかったから、今のリカの求める何かを私は拾い上げることさえできない。
考えれば考えるほどそれは愚慮だと感じる。
それくらい矛盾に満ちていた。そんな中、認めるしかない一つの真実をリカとヒトミを見交わしながら噛みしめた。
二人は愛情と憎悪を融合させた、れっきとした”恋人同士”なのだと。
-36- 二重人格
これ以上居ても迷惑だと思い、帰る旨を伝えた。
ヒトミは「せっかくだから夕御飯でも食べて行きません?」と誘ってきたが丁重に断った。
すると、ヒトミの提案でリカが最寄の駅まで送ってくれることになった。
小さい子供じゃないのだから、とは思ったがちょっとヒトミがいないところでリカと話したいこともあったので付いてきてもらうことにした。
帰宅ラッシュ時間に入っていて横の車道は混雑している。
窓の向こうに映るライトバンに乗った男性がイライラをハンドルにぶつけたりしていた。
私たちはその横の比較的幅が広い舗道されたアスファルトの上を、車の動く速さよりも速く歩いた。
リカは赤のミュールを履いてきたため高い音が鳴る。雑踏の中でも隣でリズムよく鳴る足音は妙に私の耳に届いた。
いつしか、私の中でも同じリズムを刻み、パタパタとした私の足音とリカの足音はぴったり重なっていった。
「今日はいろいろすみませんでした。それにありがとうございました」
角を曲がり大通りから離れた小道にさしかかった時に、リカがあらためるようにして言った。足の回転が遅くなり、足音が乱れる。
”すみません”は愚痴を聞いてあげたこととか、「今日はいない」と言っていたヒトミがすぐにやってきたことだろう。
ワザとなのか本当に偶然なのかわからないがどっちだって同じだ。ヒトミと出会ってしまったことは変わらないのだから。
しかし、何に対して”ありがとう”なのだろう?
「私、何にもしてないけど。ただリカちゃんの話を聞いただけ。そしてただ私が混乱しただけ」
深い意味は含ませずに言った。
しかしリカには、少しつっけんどんとしたものに聞こえたらしく、歩きながらうなだれた体勢で「すみません」と呟く。
「うん」
そんなちょっとした誤解を解くこともなく、私はただ相づちを打った。
無言のまま私たちは駅に向かう。足音だけがリカが私の後ろにぴったりと付いてきていることを知らせる唯一の情報となっていた。
再び、私とリカの足音が上手くハモる。そのことに気付き、意味もなく数えはじめること10回。
11回目はリカが立ち止まったようで、私の足音だけになった。12回目は私の足音までも消えた。
「どうしたの?」
振り返ると、リカの頭のてっぺんの生え際が見えた。
「‥‥」
「ねえ」
「‥私って二重人格なのかもしれません‥」
リカは突然顔を上げ、私を涙目で見る。
太陽の当たらない小道にいたせいか、リカの元々陰暗とした顔つきにさらに陰が塗りつけられている。どうやら本気で悩んでいるようだ。
「何でそう思うの?」
「だって、どっちもホントですから。私はヒトミちゃんを憎んでいるし、愛しています」
私は意図的に冷ややかな目線をリカに送る。リカが少し恐々としたように顔を引きつるのを確認してから、リカに近づき、肩を軽く叩く。
「いいんじゃない、それで」
リカは私の開き直った言い方に反抗する。
「何でですか? だっておかしいですよ‥そんなの‥」
私は昔に植え付けた記憶を掘り起こす。
「アンビバレントって知ってる?」
「アン‥ビバレント‥ですか?」
リカは首をかしげながら反復した。
「うん。両面感情って意味。ジレンマといったほうがわかりやすいかな。こういう感情は誰でも持ってるものらしいよ」
「どういう意味なんですか?」
藁にもすがる思いでリカは食いつく。私は再びくるりと振り返り、駅の方角に足を進める。リカは私より大きな歩幅でもって私の横に付く。
「つまり憎しみと愛ってのは表裏一体ってことかな?」
どこかの宣教師のような言葉を宣教師らしく言うと、横にいたリカから「え?」という声が洩れる。
「コインみたいなもの。物事に表があるならば絶対裏がある。その二つは決して引き裂くことはできない。
そこに愛があるなら確実に憎しみは表れる。同じ分だけね」
たとえば独占欲は一人を自分だけが手に入れたいという究極の愛の形の一つだ。
しかし、それは周りを徹底的に排除するという憎しみの形も受け持つ。
独占欲に限らずどんな愛情の形だって――愛情には必ず相反する憎しみがどこかに存在する。
その”どこか”とはその愛情を捧げる対象とその周辺もしくは自己に調和をとって注ぐものだ。
リカはきっとヒトミという存在を独占したいのだろう。愛があれば大小の差があるとはいえ必ず独占欲がある。
しかしヒトミはそれを満たしてはくれない。
誰かに浮気するという方法ではなく、リカからの接触を拒絶することで、リカは独占欲を徹底的に拒否されている。
つまり愛情の一つとしてもたらされるべきものの欠如が今のリカを混乱の渦に巻き込ませている。
リカは外がまるで見えない頑丈な箱に閉じ込められた状態にいるようなものだ。
そのため、リカは憎しみの対象をヒトミとリカ自身以外の誰にもぶつけることができない。
リカはヒトミに憎しみを向けることを問題にしているが、おそらくはヒトミよりも自分自身に憎しみを向ける割合が大きいのだろう。
よりネガティブになり、自分を虐げてしまう。
一方のヒトミはその箱から離れたリカには見えないところで自由に飛び回っている。
リカはヒトミに独占されていて、ヒトミは決してリカに独占されないという一方的な享受関係――
そこが他の恋愛とは違うところであって、ヒトミという絶対的な存在にもなりうる力を持つ人間が相手だからこその悲劇だ。
「だから、それでいいと思う。リカちゃんの本質は他人から見たらヒトミちゃんを愛してるってことに繋がっているように見えるよ」
「そうですかね‥」
リカは少し安心するようにビルとビルの間にある小さい空を見上げる。
夕陽のせいで赤茶色に焦げた空だった。その自然の輝きはリカの黒めの肌を赤褐色に帯びさせている。
リカは確かに二重人格になりうる要素をもってはいるが、私は少なくとも今はそうではないと思っている。
そもそも二重人格というのは無意識の中に抑圧され充足されずにいた欲求が乖離されて独立し別の人格を通して意識の表面に突出し、
その願望を充足させようとする状態のことだ。
だから”ヒトミを先導したい”という欲求を頭ごなしに抑圧され続けているリカはこのまま人格が独立することがあるかもしれない。
しかしその”先導したい”という感情が一人歩きしていない以上、リカは一つの人格を保っていると言える。
だが、ヒトミはどうか?
自分の恋人を男にマワさせたり、風俗に働かせたりさせるなんて、それがたとえ恋人が望んでいたことだとしても理解できない。
ヒトミは口では「愛している」と言う。そして、リカは「愛されている」と感じている。
だから恋愛関係は成立している。
しかし、実際はリカを確実に崩壊の一途に導いており、その危険性をヒトミは認識していながら推し進めている。
ヒトミはリカを愛し、そしてまた違った意味でリカを憎んでいる。
リカと違うのはそのベクトルが次元の違う形で存在していることだ。
つまりリカに向ける愛情と憎しみはその対象物が根本的に異なっているように感じるのだ。
ある意味二重人格だ。二つの反目する感情で持って、ヒトミはリカを締め付けている。
ヒトミが何を抑圧されているのかわからない。
愛情は世間一般とさして違わないが憎しみはもっとリカの深いところを突き刺していて、愛情と変換されるものでは決してない。
リカはそんな性質のヒトミに合わせているにすぎない。
どこからその憎しみが生まれるのだろう? やはりリカの何かがヒトミに憎しみを創り上げていると考えるべきなのだろうが、
私には想像もつかない。ヒトミにとってリカは単なる奴隷といってもいい存在なのに。
もちろん、それは私の思考の範疇内の解釈であって、
ヒトミから見ればその憎しみは十分愛情の裏返しいうアンビバレントなものなのかもしれない。
愛は憎しみよりも種類が豊富だから、私が認められない領域の愛の形を求めているのかもしれない。
サドとかマゾとかを超えた何かを――。
「ところでサヤカさんって本当に彼氏いるんですか?」
リカは少し落ち着いたのか、私の顔を覗き込むようにして興味津々に聞いてきた。
今まで自分のことばかり喋っていたので少しは話題を私のほうに移して抵抗しようと思っているようだ。
夕陽が大地によって遮られはじめ、いよいよ夜の気配を帯びてきた。
「まあね。つい最近っていうか昨日できたばかりだけどね」
「へえ〜、うらやましいですね。仕事のこと知ってるんですか?」
「もちろん‥ていうかお客さんだったんだけどね。妙に波長が合っちゃって‥」
「ますますうらやましいなぁ」
恋する乙女のような淡い輝きがリカの瞳に映る。
私は多分リカが思うほど幸せではないと思う。こうやってユウキと離れ、
ユウキのことを想う時、胸を掻き毟られるような焦燥に駆られる。
それは今ユウキは浮気しているのでは? という嫉妬めいたものではなく、ユウキという人間は現実に存在しているのか?
というキチガイめいたものが原因だ。
おそらく今こうやってユウキに向ける感情が私に存在していたこと自体が不可思議なことなのだろう。
私とユウキにはまだ1回のセックスでしか確固たる交わりはない。たった1回で全てをわかった気になるのは愚かなことだ。
しかし、セックスの意味を限りなく低いものとしてぞんざいに扱ってきた私は、例え回数を重ね、ユウキの存在を確かめ続けたとしても、
その不安は常に付きまとうだろう。
それに仕事はどうするべきか。頭の悩むところだったりする。
しかし、そうやって迷いながら進んでいくことこそが人並みの幸せとも言える。
私にもそういう普通の幸せを得る権利が与えられたのだろうか。それとも元々あったのだろうか。
今まで生き方と矛盾する感情の到来に戸惑いながら、期待している自分がいた。
「あ、電話」
リカは自分のサイドポーチから音が鳴っているのに気づくとチャックを開け、携帯電話を取り出した。
「もしもし、うん‥うん、隣りにいるよ。だってまだ駅着いてないもん」
どうやら相手はヒトミのようだ。
私は電話に夢中になりながら歩いているリカを心配しながら横について歩く。
このまま一人で歩いていると赤信号の横断歩道さえも渡ってしまいそうだ。
「え? うん、わかった。それじゃ‥」
少し寂しげにリカはボタンを押した。
「ヒトミちゃん?」
私はわかっていながら尋ねる。
二人だけの話だったら私はそのまま無視するつもりだったがリカの口ぶりや、
電話中、一瞬私のほうに目をやった仕草などから察するに私が関係していることは間違いないようだから、
電話の内容を聞いておきたかった。
「うん、ヒトミちゃんの携帯の番号をサヤカさんに教えてって‥」
「ああ、なるほどね」
私にも好都合だった。次にヒトミと連絡を取る時には、できればリカを通さないでおきたかったからだ。ヒトミもそう思っていたようだ。
しかし、わざわざ電話してくる必要はないのに、と思い首をかしげた。
リカが家に戻ったら私の電話番号を教えてもらい、私に直接かければそれで電話番号の交換は成立する。
これが一番、簡単な方法なはずだ。
私は自分の携帯電話を取り出す。
「じゃ、教えて」
「うん‥」
なぜか感情を押し殺したようにゆっくりとリカは数字を言った。私は言われた数字を打ち込んで通話ボタンを押す。
「もしもし。あ、うん。教えてもらったから。今日はありがとう。それじゃ‥」
ヒトミが出て、軽く礼を言ってからすぐ切った。
向こうは「リカちゃんをよろしくお願いします」と言っていたが、見送ってもらう立場にいる私にその言葉は少しおかしいだろう、と首をかしげた。
ふとリカを見ると、うつむきながら少し睨んでいた。小さな獣が弱いなりに精一杯の鋭い目つきをしているようだ。
日の当たり具合のせいか、リカの目の下にはクマみたいな陰ができている。
「どうしたの?」
臆することなく不思議そうに尋ねた。リカは「ううん、なんでもないです」と言い、目線を勢いをつけて反らした。
「あ‥」
私はリカの平らな横顔を見て思わず言葉を漏らす。
ヒトミが電話をかけてきた理由に気付いた。
ヒトミはリカのこんな些細なことでさえも広がる嫉妬の姿を私に見せつけたかったのだ。
まるで首輪をつけられたサルのようにヒトミは思いのままにリカを操っている。
「行きましょう。駅はこっちです」
「うん‥」
リカのピンと張った背中を見ながら私は歩きだす。
リカの感情を遠隔操作できるとアピールするヒトミの徹底した行動に私はため息をついた。
-37- 冷たいキス
家に帰ればそこには必ずマリがいる。
見慣れた道をとぼとぼと歩く私のココロに描かれるのは扉を開けた後に見えるマリの姿だ。
背中の折れ曲がったリストラ直後のサラリーマンのような姿が何度も何度も浮かんでは消える。
そんな風にして堆積されていく暗愁な気持ちも度を過ぎると、現実的なことを麻痺させるようで、
マリは「おかえり!」と快活な声で私を迎え入れてくれるという妄想がむくむくと膨らんでくる。
そんな架空の偶像に縋りつきつつも、一方でそんなことはレイプ事件以前にもなかったことだという現実的思考も当然残っており、
この相反する偶像が勝敗の決まっている闘いを起こし、私をさらに暗鈍とさせる。
「おかえり!」
しかし、扉を開けるとマリの笑顔と快活な声が、妄想を超えて私を迎え入れた。
その近寄ってくる小さな姿を足の先から頭のてっぺんまで見つめると、瀕死だったその妄想は、聖水を飲んだ勇者のように息を吹き返し、
しっかりと有形なものに変容していく。
「た、ただいま‥」
「グッドタイミング! ちょうど出来たとこだったんだ!」
「何を?」
「いいからいいから」
マリは私の背後に回り背中を押す。そのまま、ダイニングルームに連れて行かれると、料理が所狭しと食卓に並んでいた。
冷凍食品でかためられたお手軽料理のようだが、色彩が豊かでおいしそうだ。
「おいしそうでしょ?」
「うん」
「食べて」
「うん」
素直にうなずきながら目の前の椅子に座る。対面にはマリが薄いキャミソールの上にエプロンを着たまま座った。
身長に合わず足首までの長さのエプロンは私が愛用しているものだった。
「食べて」
「うん」
私は促されるままに目の前のカニクリームコロッケに口をつける。
「どう?」
「うん、おいしい」
お世辞ではない。他の料理に少しずつ口をつけてみたが全部結構おいしかった。
それは料理が上手いだけではなくて食卓の向こう側に座っているマリが笑っていたからというのもあるのだろう。
「ホントおいしいよ。特にこの肉団子」
片栗粉のせいでネバッとした団子を食べたあと、ごはん粒のついた箸を上げる。マリは肘を食卓につけたまま目を細めた。
まるで幸せの到達点であるかのように。
ふと細くて冷たい一筋の空気が鼻の頭を掠めた。それは奇妙な偏頭痛を起こし、私は眉間を寄せた。
「どうしたの? まずかった?」
心配気に身を乗り出すマリの顔とその周りの壁やテーブルが一瞬ねじれたように歪む。
声には電波障害のような雑音が入る。まるで傷が入った映画のフィルムのようだ。
「ううん、おいしいよ」
動揺を隠すように私は小刻みに首を揺らす。
目の前にいるマリはあまりにも純粋すぎて、その分やけに薄っぺらくて剥れやすいことにようやく気付く。
ここは幻想ではない。現実なのだ。
夢見ごこちにいたような気持ちが吹き飛ぶ。
台所の換気扇の音が聞こえる。
後ろのクーラーの音が聞こえる。
しかし、それ以外は私の食べる音しか聞こえない。マリは動く肖像画のように微かに目や口を動かすだけで全く音が生まれない。
何かが違うと思った。
マリは笑っている。過去を清算した穏やかな笑顔だ。それは私に不気味さを与えていた。
マリが味わった屈辱はこの先何があったって払拭できるものではない。
しかし、目の前にいるマリはそんな過去をたった半日で忘却の海に深く沈め、穏やかに昇る幸せという朝日を待っていた。
何かと似ていると思った。
その”何か”はすぐわかった。
今日のリカだ。ヒトミにキスをされて、その後、しばらく精気を奪われたかのように忘失と立ち尽くしていたリカと似ているのだ。
「ホント大丈夫?」
マリは笑顔を保ったまま、リカとマリの像を重ね合わせている私に聞いてきた。
奈落に突き落とされたマリは本来ならば自分の力で一歩ずつ崖を登っていくしかない。
しかし、マリは今、自分の力を使わずに”タケコプター”を使って一気に頂上に登ってきたみたいな――
まるで時空さえも飛び越えてきた人間のような感じがした。
「マリこそ‥何かあったの?」
漠然とした恐怖に引きつりながらも、私は笑顔を作って聞いた。
明らかに私の描く復活の過程とはかけ離れている。私は虚像の幸せを構築しようとするマリに動揺を悟られないように注意する。
裏技を使うには何か新しいことがなければならない。時間の流れに身を任せるだけでは決して見つからない。
「別に何にもないよ。でも‥」
「でも‥?」
「幸せのカタチを見つけたような気がするんだ」
マリは立ち上がった。そして平らげて空になった食器を下げようとする。
「どこで見つけたの? それでマリは立ち直っ――」
「お願いがあるの」
マリは慌て口調の私の言葉を遮った。神妙に表情を硬くして椅子に座っている私の元にやってくる。
1秒ほどの静寂。クーラーと換気扇の音だけが低い音を立てて鳴り響き、
心地良いはずの適度な冷気が、私の内部を凍らすまでに至ろうとしている。
「キスして」
独特のキーンとした張り詰めた流氷に亀裂が入る瞬間の音のような高い声。
マリは立っている。私は座っている。
しかし、身長差がある分、目の高さは近かった。やや高い位置にあるマリの瞳が有機的に輝く。
しかし決して透明にはきらめかずに、何か生きるためのパーツを一つ失ってしまったようなまどろんだ輝きだ。
マリはゆっくりと私の右手首をつかみ、エプロンの裏の自分の左胸に持っていった。
冷たい肌触りと体格相応の形の良い胸の弾力の向こう側で心臓が強く速く脈打っているのがわかる。
中指と薬指の先には皮膚に凹凸があることを示す感触が走る。例の錨の刻印だ。
皮膚が爛れたこの傷は一生治らないと知らせる深さとグロテスクさを有する。
驚嘆と狼狽から顔を背けた私の横顔に向かってマリは、凍りかけた内部を壊しかねない氷の亀裂の響きを再び発する。
「そしたら立ち直れるような気がする」
カラダ中の細胞がこの尖ったフレーズをリフレインする。私がこの数日間マリに対して切に願っていた言葉だ。
曖昧に逃げて、拒否するつもりだった気持ちがぐらつく。マリの心拍数が増していることが手から伝わる。
それは私だけに向けたマリの全衝動のしるしだ。
「今度は不意打ちとかじゃなくて‥きちんと目を見て、優しくしてほしい‥」
マリをもう一度まっすぐ見た。
盲目にその灰色の輝きを私に捧げている。
ほとんどの感情を排除し、ただ一心に見つめた結果、生じるのは天秤に乗っているかのような不安定な笑顔。
それは哀しいぐらい冷たく、私を不純物の入った黒い氷の世界に吸い込んでゆく。
よくテレビで”自己啓発セミナー”と銘打った集会に参加し、宗教にはまり、だまされていると傍目には見えるにも関わらず、
何の迷いもなく数百万単位の金をいかがわしく髭をたくわえたその宗教の祖に捧げる人間の顔に見える。
昔はその笑顔をブラウン管を通して見ると、少し羨ましいという気持ちがあった。
”洗脳”された人間は混沌とした鬱積を捨て、至福が全てを包み、その結果、安定しているのだと思っていたから。
しかし今は違う。目の前で、しかももっとも付き合いの深い人間が同じような状態に陥っているのを見ると、
安定とはかけ離れた、次の瞬間全てが崩壊してしまいかねない危うい状況なのだということに気付いた。
テレビの向こうに映る洗脳された人間はいくつもの環境から得て、いくつもの方向に糸を張り、支えるはずの自我を、
その宗教一つだけに向けている。
もしその全てを傾倒してきた教祖がまがいものだと気付かされる――つまり一方向の糸が切断されると自己を完全に失ってしまう。
まるで支点が砕けた天秤のように、残るものは何の存在意義のない魂。
――マリは何に全ての自我を置こうとしている?
それが”裏技”を使うための条件なのか?
もし、私がキスの要求を断ればマリはどこへ飛んでいく?
制御の効かなくなったタケコプターは光でも闇でもない世界に飛ばしてしまうのではないか?
自我が喪失し、調整の効かない性格破綻に陥るのではないか?
「ねえ、お願い‥」
マリの催促は砂漠で彷徨い喉が枯渇した人間がオアシスでようやく水を得た時のような驚くべき速さで脳内に吸収されていく。
無下に「できない」とは言えなかった。
それくらいマリは狂気に身を浸しているように見えた。
マリにとって私は自我の置き場所なのだ。たった一人のための絶対主といってもいい。
そしてそのたった一つの置き場所を失わないように強く深く、私を求めようとしている。
こういう立場に立ったことのない私はひどい重圧とともに狼狽した。
私自身、そういう絶対的な人間にはなれないタイプだと知っている。
マリの笑顔は私というまがいものの人間に全てを委ねた脆すぎる幻想なのだ。
しばらく悩む間もマリの鼓動は落ち着く様子を見せない。私も苦しくなり、
まるで心臓が水を求める魚のようにのたうちまわり、加速度的に鼓動を速めていく。
マリは”求める”といってもヒトミとリカのような性交関係を私に望んでいるわけではないはずだ。
現実とマリが創る幻想が交わり、競合する。空間が歪み、私は目をしばたかせる。
そして、その時に生じる亀裂の裂け目から映し出されるのは、遠い昔のマリとの過去だ。
物心がついた時から隣りにはマリがいた。二人の間に構築されているものは他者ではなく自己としての愛情。
本当の家族よりも深い血の濃さ。精神的遺伝子の同化。一心同体。双子のようなシンクロシニティ。
そんな歴史が私を”求める”全ての要因だ。
「一回だけだからね」
これが正解だとは思えない。しかし拒否したときのマリの予測できない変化が怖かった。
私はしぶしぶ願いを受け入れ、立ち上がると椅子がズズズッと床を引きずる音が聞こえた。
マリにしてみれば当然だったのか顔色一つ変えない。
目の高さが逆転する。マリの大きな目はまばたきさえせずに私の顔を見つづけている。
マリは顔を横に向け、私の胸のあたりに耳を押し付けるようにして抱きつく。短い両腕が私の背中で交差してくる。
私はマリの頭のてっぺんを一度撫でたあと、押し付けられたマリの頭に優しく腕を巻きつけた。
「サヤカってやっぱあったかいね‥」
「マリも‥あったかいよ‥」
私はマリの金に染められた髪の毛を梳く。
「昔はずっとこうやってサヤカの鼓動を感じながら生きていたのにね‥。いつの間にか忘れちゃってた‥」
「うん、そうだね」
頷くしかなかった。少し震えているのは過去への憧憬か現在への後悔かわからない。おそらくどちらともなのだろう。
震えが収まると同時にマリは顔を上げた。焦点がまとまっていない虚ろな目はキスを求める仕草の一つ。
肌はかなり荒れていた。ココ3ヶ月ぐらいで極端にボロボロになっていったのだと思う。
しかしよく考えると、その前がキレイだったかなんて覚えていない。
毎日のように寝食を共にしながら全然マリを見ていなかったような気がしてしまう。
私は今までマリのどこを見てきたのだろう? 今の私にはマリの笑顔の似顔絵を描くことはできない。
ただ目が二つに鼻が一つ耳が二つに口が一つの人間共通のデフォルトデータしか浮かばないのだ。
こんなコトがないときちんとマリを見つめられなかったことに後悔を覚える。
マリは目を閉じた。カールされたまつげが私に向かって伸びている。私は肩を強く握り、ゆっくり唇を近づけた。
細い呼吸を繰り返していたマリの唇を覆う。
私も目を閉じた。感覚はお互いの唇だけに集められた。さっきから響いていたクーラーや換気扇の機械音さえ耳の外側に押しやった。
欲望に満ちた男たちのとも、ユウキのとも違う、まるで感情が交換しあうようなキスだった。そして、なぜか異常に冷たかった。
弾力のあるマリの唇が名残惜しそうに離れる。マリの表情を知りたくなったのか目を開けた。
するとマリも目を開けていてこちらの瞳を覗いていた。
枝分かれのないマリの感情が私だけに注がれる、ピアツーピアの存在。愛情や友情とかとは違う。
無から生まれた純粋な、それゆえに凶器になるほど鋭く尖ったココロが見え隠れする。
世界中に私とマリしかいなくて、二人の共有感覚だけがその場を支配する。
どちらかが消えればもう一方も抹消されてしまう危うい空間だ。
この共有感覚が昇華して辿り着く先には永遠という言葉が待っている。
しかし、それはどこか漆黒に満ちていて恐怖にも姿を変えてしまうものだ。
私はココロのどこかに安全装置が備え付けられていたのだろう。
無意識にブラックホールのように私が”私”として認めるパーツの全てを吸い込もうとするマリの瞳から目を逸らした。
「これでいい?」
狼狽めいた口調で私は言った。不思議な戦慄が調子を硬くする。
「うん、ありがとう。何か目の前の世界が変わった気がする」
私とは正反対に柔らかさを乗せてマリは言った。顔や目は見ることができない。
見れば究極的に脆く儚い空間に逆戻りするような気がしたから。
しかし、多分マリはキス以前よりも吹っ切れた――レイプされた事実なんて記憶の最も深い部分からノミで強引に削り取ったような、
ひどくバランスの傾いた笑顔をしていることは想像がつく。
途端に後悔が訪れた。
いつの間にか、マリのまるで決壊したダムの奔流のような感情が私の精神の斜面をえぐり、異常をきたしていたのだ。
敢然としたつもりの行動は実はマリの思うがままの愚かなものだった。
もう後戻りはできない。
おぼつかない闇の中でマリは決して闇の中でさえも輝くことのない幻想の光を手に入れた。
例えそれが幻想だと知らされても、行き場を失った信者の残党と同じように手離すことはないだろう。
「お風呂入る?」
マリは聞いてきた。滲み出る幸福を噛みしめた満足感は私にとっては残忍以外何物でもない。
「ううん、今日はいいや。朝にでもシャワー浴びる」
私は平静を取り繕って言った。
「じゃあ私は入るね」
マリは部屋を出た。
マリが部屋からいなくなったことにほっとする自分を少し嘲りながら、一度深呼吸をした。
私ができることはマリを見守るぐらいしかないのだ。
マリはどんな幻想を持っていようと、その幻想が崩壊しようと、私には具体的な手助けはできない。
無責任かもしれないが、そう思わないと自分を支えられなかった。
カラダの中心を焼き付けるような罪悪感と闘うほうが幾分かはマシだった。
私は布団を敷いた。太陽の匂いがして生暖かい。マリが干したのだろう。
家には小さなベランダがあるが西向きで夕日のエネルギーを吸収してくれることになっている。夏だからそのパワーは偉大だ。
私は布団の中に入ってからすぐさま飛び起き、携帯電話を持ってきた。
しばし怖ぶる気持ちを抑えて電気を消し、布団にもぐる。真っ暗になった空間から携帯の液晶部分が光る。
私が突き落とされた闇に映える一筋の光。
その先にはある人の名前が電話番号と共に表示されている。
声が聞きたい。
できれば、会いたい。
焦燥感、寂寥感がムクムクともたげてくる。こんな感覚は初めてだ。
マリとキスなんかしたからか、恋人を持って初めての一人の夜がそうさせるのかわからない。
でもこの気持ちは夢でも幻でもない。真実だ。
生き生きと尾を左右に振る魚を掴む時のように携帯電話を両手でがしりと持ち、通話ボタンを押す。
6回もコールが鳴ってから恋人は出た。
この6回はとてつもなく長く感じ、焦りの汗が手のひらに滲んだ。
「もしもし」と言うと「もしもし」と返ってきた。
「元気?」だと聞くと「元気」と返ってきた。
誰にでも英訳できそうなくらいの幼稚な会話たち。
それでも、凍ったココロにゆっくりと確実に滴る温かいものを感じずにはいられない。
目を閉じると電波越しに映るユウキの顔が目の裏側に焼きついていた。
マキと似ていて――でもマキと似ていない温かい表情。
ユウキは私のことを本当に愛しているよね。
私は‥私もきっと愛している。
今真っ暗な部屋にいます。布団に染み付いた太陽のぬくもりだけが頼りであとは何にも見えません。
私って怖がりなんだ。だからホントは叫びたいんだ。目をつぶって逃げ出したいハズなんだ。
でもね、ユウキがいるから。
ユウキという”恋人”がいるから――
暗闇でもあんまり恐怖は感じません。
無言の数秒間に自分の気持ちを確かめるようにして、そんなまるで中学生の淡い初恋のような感情――
それは決して中学生時には味わえなかった永遠の輝き――が流れ込んできた。
ユウキには伝わっただろうか。
伝わらなくてもいい。でも私のココロに伝わったことだけは確かだ。私は生きているのだと知った。愛を知っている人間なのだと知った。
幸せだと思った。
「ねえ、サヤカさん」
静寂をユウキが破る。
「好きだから‥お願いがあるんだけど‥」
「何?」
私は予知能力があるわけではない。だが、なぜか言いたいことは言う前にわかったから驚きはしなかった。そして結論はもう出ていた。
「お店‥辞めてほしい‥」
「うん、辞めるつもり」
即答に向こうは驚いていた。でもすぐに「よかった」と安堵感を滲ませた声が聞こえてきた。
「だからね‥会いたい‥今すぐに」
私はぼやけた感じで言った。
「俺も会いたい」
ユウキははっきりと言った。
なぜかユウキと話していると”絶望”というキーワードが胸を襲う。
出会いは確かに普通ではなかったし、私の中には相変わらず”マキ”という少女がいることは事実だけど、それのどこが絶望なのだろう?
何かが私の月並みの幸せを邪魔しようとしているのだろうか。
とにかく世界の終わりが目の前に来ていて、その崖の近くで見つめ合っているような気がする。
一歩先さえも確実な幸せはない。
だから、私は”今”を弛まず大事にしている。
だからこそ、私はこんなにも刹那的にユウキを求める。
二人にあるのは”今”だけ。
――次の瞬間、闇に包まれ引きちぎられようと、後悔しないように、深く深くユウキを求める――。
私は電話を切って、急いで服を着替えた。
ちょうどその時マリがカラダに湯気を立たせながら風呂から出てきた。痛々しい肌が目に入ったため少し目を逸らす。
「どっか行くの?」
きょとんとした目をするマリ。
「うん、ちょっと‥」
レイプという事実、そして明らかにマリは私を虚無の光として縋りつこうとしている事実を眼前に突き立てられている状況で、
マリにきっぱりと言うことはできなかった。
「彼氏のところ?」
しかし、マリはすぐ察したように聞いてきた。少し演技じみた軽い調子だった。
私がためらいがちにうなずくと「いってらっしゃい」と優しい口調で言ってきた。
そこにどんな葛藤があったのかはわからないが、焦っていた私はそれだけで救われた錯覚を覚える。
「じゃ、行ってきます」
マリを一人にして私は家を飛び出した。扉を閉めるともう頭の中にはマリはいなかった。
ユウキと近くの公園で会った。
すぐに抱きついてキスをした。
私を取り巻く憎悪と愛情、現実と幻想を一切合財飲み込むようにしてほとんど無言のままセックスをした。
月と星が永遠に溶け込んだ闇の中で輝き、私の淫猥なカラダと不安定なココロを妖艶に照らしていた。
-38- ナツミとカオリ T
2週間が経った。
お盆は過ぎたが、残暑が厳しい。
外に出るたびに太陽に晒された私は犬のように舌を出し、体内の熱を発散しようと無意識に努力してしまう。
青々とした緑が時々清冽な風を受け、隣の葉と擦り合わせている。
その木々につかまっているセミたちは最後の力を惜しまなく出し続けている。
いつも通り、近くのコンビニに寄り、真ん中にバニラクリームが入ったカキ氷型の百円アイスを二つ買った。
店を出てしばらくしてから、ふと袋の中を確かめてみると木のスプーンが入っていなかったので、一度コンビニに引き返す羽目を食らった。
アイスはここ2週間、毎日のように食べていた。大抵、私はコーヒーシロップ、そしてマリはイチゴシロップのかき氷型アイスを食べる。
今日もそうだ。今、私はマリのアイスを食べるシーンを思い浮かべている。そのシーンは私の迷いを掻き消してくれるものだからだ。
今から4日前、マリの母親から電話がかかってきた。
どうやら両親がいる京都に遊びに来いと言われたようだがマリは「行かない」ときっぱり断っていた。
レイプの影響ではないと思う。
この2週間でマリは外出をするようになった。
私とキスした次の日、夜遅くに帰ってきたため起きるのが遅かった私は目覚めたとき、家の中にマリがいないことにすぐ気づく。
”マリは傷の痛手から外出はできない”という思い込みと”マリはこの家にいない”という事実が
寝起きのせいで脳が活動しきれていない状況の私を大きく混乱させた。
いくら小さいマリでもいるはずのない冷蔵庫やタンスの中を開けるなど、コントまがいなこともしてしまった。
家中をウロウロしている時、玄関の扉が開く音がしたので急いで向かうと半袖のTシャツを着たマリが立っていた。
「どうしたの?」
息を切らす私にきょとんと目をパチクリとさせるマリ。
「いや‥別に」
「散歩行ってきた。あとで食べよ」
マリはアイスを二つ入ったコンビニの袋を掲げながら恥ずかしそうに言った。
「うん」
ただ頷く私に対し、マリはその横をスーッと通り過ぎようとする。
「マリ」
私はただ名前を呼んだ。マリはアイスを片手に振り返る。
「何?」
「‥‥‥」
何を言うつもりだったのだろう? 「何?」と聞かれても何も言うことができなかった。
「どうしたの?」
「いや、何でもない‥」
夏風を巻きつけ、緑や青空の匂いを染みつかせたマリは見た目は変わらなくとも、どこか違い、輝いていた。
私はそんな姿に見とれてしまっていたのかもしれない。
マリは、「ヘンなの」と小首を傾げる。突然、背後の扉が「かちゃり」と小さな音を立てて閉まり私は思わず背筋を伸ばす。
どうやら半開きの状態だったようで、それを風か空気圧か何かが押し閉めたようだ。
脊髄反射した私をマリは悪意のない冷笑で迎える。
「ちゃんと閉めといてよ‥」
「ごめんごめん。突然サヤカが現れたもんだから、カギ閉めるの忘れちゃってた」
私は玄関のカギを閉めた。
「サヤカ」
その時マリが私を呼ぶ。
「何?」
「太陽って気持ちいいもんだね」
私はマリの腕を見た。そこには太陽のエネルギーを浴びた肌があった。
カラダの傷はもうほとんど消えている。
そして、半袖にスカートという格好は肌の露出を頑なに拒んでいたココロの傷も癒された証みたいなものだ。
私は救われた気持ちになった。それは「もう大丈夫だから」「お騒がせいたしました」と言っているようなものだからだ。
「そうだね」
この時ばかりはうだるような強烈な熱を放つ夏の太陽に感謝した。
その日は朝食代わりとしてそのアイスを食べた。ちょっと早く食べ過ぎたせいで頭がキーンと痛んだ。
頭をしかめる私を見て、マリが口を大きく開けて笑っていた。
そんなマリを見て、「苦しんでいるのに笑わないでよ」と口を尖らせながらも笑った。
マリの顔色はどうかとかを考えずにごく自然に笑えた。
それはマリが前の日の夜のような恐怖にも変わりそうな笑顔ではなかったからだと思う。
つららのように冷たく固くとがったココロが先端からゆっくりと融解するのを感じた。
もしかしたら昨日の夜は考えすぎだったのかもしれない。マリはもしかしたら私を媒介して本当の光を見つけたのかもしれない。
幻想だと思っていたのは、光ではなく、周りを取り巻く闇のほうだったのかもしれない。
夜という輪郭をかき消すことも可能な時間帯が私を悪い方向に導いていたのかもしれない。
全体を包む一日の”始まり”の雰囲気が私をそう思惟させた。
少しずつだけどレイプをされたというココロの傷は癒えてきている。
その治療薬が私とのキスだったのかどうかはわからないが、とにもかくにも快方の兆しが確認できたことは嬉しい以外の何物でもなかった。
だからマリが京都に行かない理由は、レイプされた傷痕が尾を引いているのではなく、両親との確執にあるようだ。
詳しい事情は知らないが、いろいろあったようだ。私はマリの父親と母親とは面識があるが、およそ癖のある人間には見えなかった。
しかし、親子には親子なりの軋みというものがあるのだろう。
私は深く追求するつもりはなかったが一言、
「両親、喜ぶと思うよ」
とだけ言い、マリに会ってあげな、と促してはみたが、
「サヤカも両親に会うっていうんなら会いにいく」
と毒気たっぷりに返されてしまった。
修復不可能までいった私の親子関係を見透かして言ったものだ。
当然私は会う気なんて全くないからそれ以上、マリに行くよう勧めることはできなかった。
「ただいま」
ドアを開ける私を台所の椅子に座っていたマリは私のほうを見ずに「おかえり」と言う。どうやら新聞を見ていたようだ。
「アイス買ってきたよ」
「うん、食べよ!」
マリは嬉々として新聞を畳んで立ち上がる。
私たちはあの日と同じようにアイスを食べた。シチュエーションは全く同じ。違うのはあの日より3時間遅いというだけ。
テーブルの反対側にはマリが赤い氷を美味しそうに食べている。
時々、舌を出して真っ赤に変わったのを見せて、「気持ち悪いね」と言いながらケタケタと笑う。
風鈴が音を鳴らす。扇風機が旋回しながら微かな音を立てる。そして、その風景の中でマリが笑う。
こんなありふれた、しかししばらくずっと味わうこともなかった光景は私の安定剤となった。
マリが季節に溶け、昔のようにただ純粋な笑顔を見せるだけで、これで良かったのか? という不安は薄れていく。
だから、無理をしてでもアイスを買ってマリと一緒に食べるのが日課になった。
私の身辺は大きく変わった。
この2週間で私はケイに”マリア”を辞めることを伝え、ユウコに”三日月”でもっと長く働かせてほしいと頼んだ。
「彼氏ができたから」
ケイには辞める理由を正直に伝えると、
「その彼氏が憎いね」
と冗談混じりにケイは言っていた。
聞くところによると、ケイは彼氏の存在を何となくながら察していたようだ。というかユウキの存在はケイも知っていたらしい。
最初にユウキと私が仕事上でエッチをしたときから私は客と接するもの以上の女としての甘い本能が湧出していたようで、
そんな私を見た時、ケイは私が辞めてしまう覚悟はしていたようだ。
私は見透かされたことが恥ずかしくもあり、感心もした。
「ま、今までそういう人間を何人か見てきたからね」
経験値を見せびらかすケイに私はただ負け顔を晒すしかなかった。
2度目にユウキに会った時、ケイはインターホン越しにヤケにニヤニヤしていたことを思い出した。
もうあの時私を見切っていたのかもしれない。
「別れたらいつでもおいで。面倒見てあげるわよ」
ケイの最後の言葉だ。皮肉が入っていていかにもケイらしい。
本当にケイには感謝している。もし、出会い方が違っていたら無二の親友になれたかもしれない。それくらい信用ができた人間だ。
そんな気持ちをケイに言ったとしたら気味悪がられるだろう。だから言わなかった。
「ありがとう」
「さよなら」
向こうもこちらも涙はない。
ただ、笑って別れた。
それだけで十分だった。
一方、ユウコは私のお願いに「カラオケも不景気やから」といささか渋りながらも「できるだけ入れてあげる」と言ってくれた。
しかし、どれだけの時間、”三日月”で働いたとしても今まで以上の収入は得られないだろう。
貯蓄が結構あるから当面は大丈夫だとはいえ、このままの生活水準を保っていけば、いつかは底を尽くわけだし、
ちゃんとした職でも探そうかな? と思った。
しかしまだ18にもなっていない小娘を正式に雇ってくれる職なんてあまりないだろうから、見つけるには時間がかかるだろう。
だから、当分はユウコにお世話になり、バイトという形でもう一つか二つ、探すことになるのだろう。
ユウキとはほとんど毎日のように会った。会うと必ずむさぼるようにセックスをした。
”マリア”を辞め、節約家になった私と中学生で全く収入のないユウキにとってはラブホテルの料金はかなり高額なため、利用できなくなった。
場所としては夜の公園が一番多かったが、川沿いに高く生える草むらの中や、ビルの非常階段、
神社の裏など誰も来ないようなところを狙ってセックスを繰り返した。
私が最初の女であるユウキは技術的にはまだまだ及第点だった。
体位はバラエティには富まず、正常位かバックぐらいしかなかったし、その一つ一つもお世辞にも上手いとはいえない。
しかし、私はユウキの甘くたるんだ喘ぎ声を聞くだけで、ただ笑うだけで、条件反射のように私の理性のタガは外れる。
虚無に満ちた私の愛情の部分を熱病のようなセックスが埋めていく。
幾人もの男と重ねたセックスとは明らかに異質なものだった。
私はセックス中、何度となくココロの中で「愛してる?」とユウキに尋ねた。しかし声に出すことはなかった。
「愛している」と返事が来ることはわかっているのに、愛を否定し続けた私は未だ臆病になっているのだ。
同じ理由で一般的なデートというものはしていない。会うと人気のないところを探し、セックスをする。そんな日々だった。
風俗店が出会いの二人にとっては普通のデートを繰り返すより、セックスをしていた方がお似合いだった。
性欲に溺れるくらいしかユウキを愛せる手段を知らなかったといってもいい。
ココロの連結が愛情だと頭ではわかっているのにそれだけでは決して満たされないのでは? という臆病な面が如実に表れている。
最近、オーガズムが頂点からゆっくり裾野を降りている後戯中に、そんな臆病な自分を叱責してしまっている。
ユウキもその満たされない欲求を渇望する私に気付きはじめていたようで、
私の汗ばんだ髪の毛をついさっきまで私の内部に潜り込ませていた手で優しく梳きながら、「やっぱまだまだだよね‥」
と申し訳なさそうに呟いた。どうやら私の悩みを自分のセックスが下手だからだと誤解したようだ。
「違う違う。逆だって。気持ち良かったから呆けてただけ」
私は慌てて取り繕ったが、いつかはこの悩みはバレるだろう。 だから次に聞かれたときは、映画見たり、食事したり、
遊園地行ったり‥と中学生みたいなデートをエスコートしてほしいと思い切って言おうかと考えている。
カラオケ店”三日月”に働くことが多くなった結果、ナツミやユウコに会う日が増えた。
ナツミは田舎臭さがすっかり消え、垢抜けてきた。
それは良い言い方では都会に馴染んできたとも言えるし、悪い言い方ではケバくなった。
髪を栗色に染め、眉は弓の形に整えられ、化粧がやたら上手くなった。カラダは全体も若干ながら細くなった。
化粧で隠されてはいるが、つるつるしていた肌もくすみかけているようだ。
それに何よりも、作っていたとはいえ、ナツミのトレードマークのようなものだった笑顔が見られなくなった。
「週何回してるの?」
私がそれとなく尋ねると、こちらを見ずに「3、4日」と欠伸まじりに答える。
疲れているせいなのか、聞くときも答えるときも何の恥じらいもない。ちょっと前のナツミを知っている者ならば信じ難い光景だ。
そんな様子を一番心配していたのは意外にもユウコだった。
ナツミの姿を見るたびに眉をひそめるユウコは私から言わせれば不思議な感じだった。
愛があるセックスに関しては万歳だったユウコ。
カオリや私とは時々セックス談義を交わすこともあるぐらいだったが、ことナツミがセックスを口にすると妙に顔が歪んでいた。
やはりナツミには純朴なイメージがあって、それを壊されるのは嫌なのだろうか。例えそうだとしても”らしくない”ことだと思った。
私は9時にバイトを終え(前より2、3時間ほど長くなった)、ナツミのことでカオリに電話をかけた。
カオリはもうほとんど”三日月”には来ていない。
いわゆる”幽霊アルバイター”になっていた。
「今家にいるから。暇だったら来てもいいよ」
と言われたので、遠慮なく行くことにした。
とはいえ場所を全く知らなかったのでユウコに尋ね、住所と地図を見交わし、大体の見当をつけてからカオリの家に向かった。
途中、マリに「ちょっと出かけるところがあるから先に寝てて」と電話した。
マリは不満そうに「え〜」と言ったがその後すぐに「早く帰ってきてね」と付け加えた。
甘く微笑むマリの姿を想像して、何か新婚夫婦みたいだな、と苦笑した。
ほとんど初めてのところだったが、駅の正面の改札口を降りたところに地図があって、それを見た瞬間大体の見当はつけることができた。
カオリのいるマンション――これはナツミのいるマンションでもあるのだが――は巨大な集合住宅の一つであり、
10階ほどのマンションが10棟ほど同じ形、同じ色をして立ち並ぶ。
その敷地に足を踏み入れると公園や駐車場があり、ある意味一つの町を形成していた。
マンションの間にある公園にはブランコやシーソー、砂場など公園と呼ぶものには絶対ありそうな遊戯は一通り揃っていた。
今はもう暗くて人影はないが、砂山の形跡から、つい先ほどまで遊んでいたことがわかる。
砂場に落ちていたフォーク型のプラスチック製スコップを手にとり、トンネル付きの山の頂上にぐさりと刺す。
童心に帰るとまではいかないが、砂の冷たさやざらざらした感触が少し優しい気持ちを連れてきた。
あまり覚えてはいないが、きっと私もこうやって遊んだのだろう。そして多分、隣にはマリがいたのだろう。
「さてと」
早くカオリに来てもらおうと思い、砂場にしゃがんでいた私は立ち上がり、上を見回した。
視界の左と右をマンションが聳え立っている。マンションのあちらこちらで輝く四角形の明かりは、闇夜の不気味さを際立たせていた。
携帯電話に指をかけたその時に、公園を取り囲む低い緑の垣根の間からガサゴソと音が立ち、私は飛び上がりそうになる。
暗がりの中、初めて踏み入れた大地での不穏な物音はやはり怖い。その正体は真っ白な毛を地面に垂らした目の青いネコだった。
かすかに鳴き声を上げながら私にそのサファイアのように輝く怪しい瞳を向けていた。どうやら飼い猫らしく、皮製の首輪が巻かれてあった。
ネコ、しかも飼いならされているはずの動物だとわかっているのに怖さは衰えを見せない。
私は狼狽を隠すように、じっとにらみながら、後ずさり、後ろのブランコを囲む丸パイプに腰を乗せる。
私とのにらめっこに飽きたのかネコは尻尾を向け、ゆっくりと去っていった。
私は少しほっとし、大きく一度深呼吸した後、カオリに電話をした。
しばらくしてカオリは公園にやってきた。椅子のようにしていた鉄パイプからジャンプするように立ち上がる。
ふと鼻をかくとパイプのさび付いた匂いが手に付着していることがわかった。それも少し懐かしい。
「ごめんね、カオリ」
「いいよ。よく迷わず来れたね」
「うん、結構わかりやすかった」
茶色の長い髪は夜のせいで全然目立たない。
カオリはつい最近髪の毛を茶色に染め、さらさらだったストレートヘアに軽いパーマを当てた。
それはナツミみたいに劇的な変化ではなく、ごく自然なものだったので昼に会っても全然違和感はなかった。
ナツミと同じ北海道生まれ北海道育ちとはいえ、カオリは根本的には都会気質なのかもしれない。
「こっちだから」
カオリは背を向けて私を誘導する。さっきまでいたネコだろうか、どこからともなく嬌声が聞こえ、私はカラダをビクつかせた。
こういうときは夜というのは嬉しいもので真横にいたカオリにそんな私の臆病な面を悟られることはなかった。
それからしばらく歩いた。中は結構ごちゃごちゃしていてカオリがいなかったら迷っていただろう。
カオリの家は5号棟の808号室。つまり8階。一方ナツミは810号室。
本当は隣同士の部屋にしたかったようだが、ナツミが入ったとき(ナツミは一浪なため、上京したのはカオリの一年後だ)、
カオリの両隣の家は空いていなかったためこうなった。
エレベーターを使って8階まで上がると向かいのマンションがまず目に入る。
隅には「6」という文字が書かれていた。おそらくこのマンションにも同じようなところに「5」と書かれているのだろう。
カオリの家に入る前にナツミの玄関の前を通り過ぎた。
今日のナツミはバイトは入っていないので、今家にいてもおかしくないのだが、扉にあるポストにチラシが挟まっているところを見ると、
外出しているようだ。
カオリはナツミが不在であることをわかっているようで、ナツミの家の扉など見向きもせずに素通りしていた。
「ここだよ」
カオリはそう言いながら、玄関の扉を開ける。近くにいる私を迎えに行くだけだったから、不用心にもカギはかけなかったようだ。
「お邪魔します」
誰もいないはずの部屋の奥に向かって言う。
「あれ?」
次の瞬間、ついそんな言葉を発してしまう。私は玄関の敷居を跨いだところで立ちすくむ。
そしてそのまま私は自分の腕をカラダの前で組んだ。
変にカラダ中の毛がよだったのだ。怖いというよりこそばゆい感じだった。
頭の中の明彩豊かな記憶の輪郭が白くぼやかされ、過去の忘れかけられた部分が追憶となって前面にせり出そうとしている。
眉間にシワを寄せピクピクとその近辺を震わす。
「どうしたの?」
カオリは自分の後ろに付いてこない私に気づくと、そう聞いてきた。
カオリの声で我に返った私は「なんでもない」と表情を緩めて言いながら、この不思議な感覚の正体は”郷愁”なのだと悟りはじめていた。
「ヘンな家だけどどうぞ」
「じゃ、もう一度お邪魔します」
私は中に入った。
マンションのしっかりした外装から予想されたことだが、8畳間のフローリング、キッチン、ユニットバス、
小さなベランダと一人暮らしをする上で、できたら欲しいものが一通り揃っているまあまあ普通の家だった。
この集合住宅は一人暮らし用から家族単位まで大小様々な部屋が並んでいるらしい。
カオリの部屋を見渡すと、私の口からは「へ〜」という感嘆の言葉しかしばらくは出てこなかった。
人が変われば家の雰囲気は変わるものだ、とつくづく思った。
家が綺麗なのは予想通りだったが、想像以上に個性的な風景が広がる。
部屋の真ん中にあるテーブルは形が中央がくぼんだひょうたん型をしていて、水色から青色へのグラデーションが鮮やかで際立つ。
あんまり普通のお店では売っていない、いい意味での”キワもの”だ。もしかしたら自分で色を塗ったのかもしれない。
テレビの上には”たれパンダ”の人形がなぜか直立して置いてあり、少し間抜けな感じがする。
その横の小さなサイドボードにはおそらく自作のメモ帳や同じく自作のカバーがかけられたコードレス電話が置いてある。
一つ一つの小物がやけに彩り豊かに装飾されている。
そしてなんと言っても目を見張るものは個性ある絵の数々だ。
木炭やポスターカラーで描かれた風景画が安そうな額縁に入って周りの白の壁にいくつも掛けられてある。
また部屋の一角には書きかけのキャンバスが木造りの三脚の上に置いてある。
素人目には誰でも描けそうな気がしないでもない稚作っぽい絵たちだが、それは眼力のない私の見方であって、
もしかしたら奥が深い作品たちなのかもしれない。それに、こうやって何枚もの絵が壁に並べられているせいか、
小さくて温かな美術館に入ったような感覚を覚える。
私はそんな壁を見回し見とれながら、きっとさっき身震いするほど感じた”郷愁”はこれなのだろうと感思した。
言うなれば、小学校の美術室。
私がまだマキに出会う前の人格とかココロがどうとかそういう概念を考えたこともなかった純粋な時代を私は無意識に反芻したのだと思う。
図画工作の授業には大したエピソードもなく、賞を取ったこともないし、ズバ抜けて絵が下手だったわけでもない。
たとえ図画工作の時間の記憶を物理的に強引に消し去ったとしても、
今の私には何の影響も生じないほどの無味乾燥なものであるはずなのだが、やけに懐古的な情緒として意識の前面にせり出されている。
「カオリが描いたんだよね?」
「当たり前じゃん」
「こういう趣味があったんだ」
背後にいたカオリに顔を向けながら言うと、カオリは表情を緩めながらあまり恥ずかしくなさげに、
「なんか恥ずかしいべ」とちょっと訛りを含めながら言った。
「でもホントすごいよ」
「一応、勉強中ですから」
「もしかしてカオリの学校って美大?」
「今まで知らなかったの? 言わなかったっけ?」
不思議そうに聞くカオリに私は正直にうなずいた。
「画家になるの?」
絵を描く職業が全て画家になるわけではないだろうが、私にはそれしか思いつかなかった。
「うーん。とりあえず、絵を描いて認められるように頑張ってる。まだまだだけどね」
一呼吸置いてカオリは微笑んだ。私は再び周りの壁に目を向ける。
純粋に感心した。もしかしたら自分の見つけた道を見つけ、しっかり歩いている同年代の人間を見たのは初めてかもしれない。
突然カオリが輝いて見えた。それは幻ではなく現実だろう。
「で、今日はどうしたの? ナッチのことだっけ?」
カオリは冷蔵庫から出した冷たいお茶をコップに入れて、ひょうたん型のテーブルに置き、座布団に座る。
「うん。最近のナッチをカオリはどう思ってるのかなぁ? って思って‥」
「どうって?」
私はナツミのことが心配であることを端的に告白した。
「別にそれで幸せっていうのならいいんだけど‥」
最後にそうため息混じりに言う。沈む語尾には”それでいいワケがない”と付加しているのがあからさまになってしまい、少し苦笑した。
「何かサヤカのイメージが変わったなぁ」
しばらく黙っていたカオリは私の相談をは的外れなことを嬉しそうに言う。
「イメージ?」
「うん。私、サヤカってもっと他人には無関心な人間だと思ってた。
働きはじめてから全然話し掛けてくれなかったし、目とかずっと睨んでいるみたいで怖くって‥」
「そりゃ、どうも‥」
カオリだって目は怖いよ、と言いたかったが言わなかった。しかしカオリが感じていたことは概ね正しいだろう。
私はずっと人と付き合うことは避けてきた。それはマキ以外の他者との接触なんて本質的には無意味なことだとみなし、
私はマキと届かない会話だけを交わしていたから。
しかし、自分が不思議でしかたない。
たとえ私に人間臭さが生まれたとしても、なぜこんなにナツミのことを心配しているのか?
ナツミを見たり話したり考えたりする時、私には根拠もない不安がおとずれる。
ナツミは都会の生活にようやく溶け込み、ただ”美しくなった”だけだ。
純朴なナツミを知っている私から見れば、その劇的ともいえる肉体的かつ精神的変化が危うく見えるだけで、
カラオケに来るナツミと同世代の客と客観的に比べれば、擦り切れ方は何ら変わりはない。
だから本来ならば「ようやく都会に慣れてきたね」と誉めてやってもいいくらいだ。
嫉妬?
それは違う。
私がずっと一人なら、常識的にはそれを考えてもよさそうだが、私にもつい最近恋人ができたのだからありえない。
大体、人の色恋沙汰への関心なんて私が最も遠いところにあるものの一つのはずだ。
きっと表面上には見えない何かが私のココロを乱しているのだ。
どうもナツミはある特殊な匂いを放っているような気がする。それは理屈では説明できない。
私の脳に黄色の点滅信号を与えるようなちょっと危うい色彩が刻まれている。
勘が鋭いというワケではないので自分のこのモヤモヤしたものを絶対的に信じることはできず、今まできた。
カオリは瞬間的な交信でもしていたのか、やや間を空けてから口を開く。
「前にもさあ、ナッチが心配なんて言っていたし、今も心配していることは確かなんだけど、
私はナッチにずっと過保護になりすぎてたって最近思うようになってさ。もうナッチも大人なんだし、
自分のやることに責任を持って行動ぐらいできるだろうから、あんまり口出ししないようにしたの」
カオリの口調にはナツミの成長を妨げたのは自分だと自嘲している含みがあった。
何も言わず、ただ呼吸を刻む私を一度見て、カオリは続ける。
「あの子ってずっと男の子のことを知らないで生きてきたんだよね。
それで突然、彼氏ができたんだから反動でのめりこむのも仕方のないことなんじゃない?」
カオリはナツミの保護者のような言い方をする。私は”反動”という言葉に大げさに反応した。
私がこんなに心配するのも、今までの生き方に対する”反動”なのかもしれない。
今まで―――それはマキの存在が全てだった。マキがいればそれでよかった。
マキが笑ってくれたらそれでよかった。生も死も、住む世界が違おうと関係ない。
もしマキが死の世界にいるのだったらそこに飛び込んでも良かった。あらゆる状況下においてマキという無の存在を欲した。
そういえば、最近マキは夢の中で姿を現さない。昔もよくマキが現れなくなることがあった。
その時は親を失った雛鳥のように慟哭し、現実界に見るもの全てがマキを邪魔するものだという憎悪に変えたものだが今回は違う。
マキの手を離したのは私の方からだからだ。ユウキという人間は今までの生き方の全てを否定させた。世界を180度変えた。
今まで存在自体をマキに律されてきた私は、ユウキの登場によりその呪縛付きの鎖から解き放たれようとしている。
しかし、それはいいことなのだと自分自身を納得できない自分がいる。
少なくともマキを想うとき、それは献身的な幸せがつきまとった。
マキがいなくなろうとしている今、私の精神は解放された分、自我の置き場を失い、亡者のごとく彷徨っている。
天秤にかけているのは”幸福な束縛”と”浮遊した自由”。
私は今その狭間に立つ不安定な状態だ。
この究極の選択のどちらを採るかは決まっている。マキはもう私を束縛するつもりはないのかもしれない。
それにそんな束縛に矛盾を感じつつある今、私はどんなに痛みを伴おうが自由を選択するしかないのだ。
結果生じるのは様々なものを完全否定した過去に対する”反動”。
そんな状態の私が自分の身を襲う不安などの感情を理解するのは不可能なことなのかもしれない。
ナツミを心配する理由はその反動に耐え抜き、自由が安定になったときにわかるのかもしれない。
もしくはその心配すること自体が愚かなことだったと気付かされるのかもしれない。
「考えすぎかな‥?」
私は頭を掻いた。カオリは「そうそう」と静かにうなずき、冷たいはずのお茶の表面を何故か一度フーフーと吹き、
熱そうにしながら口をつけていた。
-39- ナツミとカオリ U
それからしばらくカオリとたわいのない身の上話を互いにした。
どうやら今週中にでもカオリは”三日月”を辞めることをユウコに伝えるらしい。
少し寂しいことではあったが、周りの絵たちを見るとそれも仕方がないと思えてしまう。
「ナッチをよろしく」と言われて、私は無責任に「うん」と頷いた。
その後、カオリはナツミとの故郷でのこととか、自分の彼氏のこととかいろいろ喋ってくれた。
ナツミはやはり昔から内向的で、いじめられっ子で、友達はカオリだけという時期が長いこと続いたらしい。
中学、高校と時を重ねるに連れ、ナツミの交友範囲は少しは広がったが、カオリが一番の友達ということに変わりはなかったらしい。
一度はそれがウザったくて邪険に扱うこともあったようだが、二十歳となった今も、結局はナツミと今もこうして仲良くやっている。
「腐れ縁だね」と照れながら言っていたが、それはカオリがナツミに向ける母性本能の成せるものだろう。
同級生でありながら、カオリはすらっとした体躯と大人びた性格のせいか、ナツミを手の焼く子供のような少し異常な感情を向けている。
でも異常にしたのはカオリではなくてナツミの隠隠とした性格のせいだと傍から見る私は思う。
「多分、ナッチに外交的っていうか、男の子に話しかける勇気がちょこっとでもあれば、
すっごくもてたと思うんだけどなぁ。あの子ってかわいいし」
ナツミは小太りなほうだったが、顔立ちが整っていてかわいいのは確かだ。私は素直に同意した。
カオリは私よりも長い年月に渡って、ナツミの陰の部分を見てきた人間だから、
恋を成就させて「幸せです」と言いながら世の中を謳歌しているような状態に口を挟むワケにはいかないのだろう。
「ほらさ、『恋は盲目』って言うじゃん。ナツミは今その状態なんだよ」
巣立とうとする子に向ける親のようなちょっと憧憬の入った遠い眼差しを私に届ける。
いつもは的を得ない発言が多いカオリなのに今回ばかりは納得した。
「そうだね。そうかもね」
私はそう素直に口にすると、カオリは嬉しそうな顔をした。
それからカオリの今の生活のことに話が移る。
彼氏がいるようなことを言ったので、「どんな彼?」と突っ込んでみると「彼氏に関してはトップシークレット」と
何が”トップ”なのかよくわからないがともかくそう言い、どういう人間なのか口を割ろうとはしなかった。
ただ、中学生のようにポッと顔を赤らめている様子を見ると、ごく普通に幸せのようだ。
こうやってあらためてカオリと話していると、やはり私が生きてきた世界とは水と油のように混じり合えないものだと気づく。
正義感が強いのはナツミという弱者が傍にいたからだろうが、そのカオリなりに構築してきた正義というものに反する存在を、
排除しようとする意志が強いことが言葉尻からひしひしと感じられる。
私の生きてきた世界はカオリにはきっと今まで存在していなかったものだろうから、
もしその世界のことを見せたりすると激しい拒否反応を示すであろう。
ユウコほど頑固ではないだろうが、嫌いなものへの嫌悪感は人一倍ありそうだ。
聞くだけ聞くとカオリは「サヤカのことも教えてよ」と言ってきた。私は思わず顔が引きつる。
カオリが勝手に言ったんだよ、と言おうとしたが、しっかりと聞き入っていたため、いささか説得力に欠けるなぁ、と思った。
結局、私はカオリのリクエスト通り、自分の身の上話をした。
もちろんカオリにあまり刺激を与えないように、親と絶縁状態にあること、マリという幼馴染と一緒に同居していること、
そしてユウキという彼氏ができたことなどをかいつまんで言い、”マリア”で働いていたこととか、マキのこととか、
それにマリがこの前レイプされたこととかは言わないようにしたのでかなりしんどかったし、辻褄が合っていないような気もしたが、
カオリはそんなことに気づきもしないようだった。
どうやらカオリはあまり論理的に解釈しようとせず、直感的に物事を捉える人間のようだ。
「なるほど。サヤカが変わったのはそのユウキ君のおかげかな?」
カオリは私の話を聞いて、ただそれだけ言った。
「そんなに変わったかな?」
ちょっと照れくさくなって目の前の冷たいお茶に口をつける。そして上目でカオリの長い髪を見る。
「うん。めっちゃくちゃ」
カオリは大げさな手振りとともにそう言った。
きっとカオリはヒトミとはまた違った意味で鋭い感性の持ち主なのだろう。
優しいココロでもって、やんわりと人の中に入れる『北風と太陽』でいう太陽のような人間。それは芸術家としての才のような気がした。
「かもね、あいつのおかげかな」
私自身も自分は変わったと思っている以上、否定しても仕方ないから同意すると、「ヒューヒュー」と言い、私をはやし立てた。
最初は恥ずかしくなかったが、変な煽り方をするカオリを見ていると違う意味で恥ずかしくなった。
小一時間ぐらい経っただろうか。もうすぐ日が変わろうとしていた。
来る時に終電時刻を確かめておいたのだが最終電車にはまだ数本ほど余裕がある。
私は帰ることにした。「泊まってってもいいよ」とカオリは言ってくれたが、さすがに迷惑だと思い断った。
ついでにマリに『今から帰るね』とメールしておいたのだが返事は数分経っても返ってきていない。
おそらくマリはもう寝たのだろう。最近の生活サイクルからすると寝てしまっていても不思議ではない時間だ。
「じゃあね」
「うん、また来てね」
カオリの家に入る前に比べ、私のココロは随分と軽くなっていた。
ナツミは幸せなのだ。それは私がささやかに願っていたことだ。だから、深く考えることはない。
そう思えたからだ。
いや、それよりもカオリという友達ができたような気がしたのが嬉しかったのかもしれない。
カオリが言った通り、挙動不審で変なことばかり言うカオリを最初の頃は冷ややかに眺めていた。
仲良くしようなんて1ミリも思っていなかった人間とこうやって腹を割って(私は半分ぐらいしか割っていないが)話せたことで、
生まれた時から一緒にいたマリとはまた違った方向から私を支えてくれているような気がした。
マリだけじゃない。ナツミ、ユウキ、そしてカオリ。
私を取り巻く人間が増えている。いろんな角度から私を支えてくれている。
存在自体を否定していた私という特種がこの現実社会に居てもいいような気がした。
自分が意志を持ち、自分とは違った意志を持つ他者の存在を知り、その二つを互いに尊重し、上手く調和させていき、
ココロの糸を紡ぎ合う。その繰返しにより形成されていくのは小さな現実社会。
それを禍々しいものとみなしていた私はもういない。
”友達”の存在をなくしたくない。
この気持ちが後天性であってもかまわない。
だから、私の運命を司る者へ告ぐ。
――このまま私の糸を切らないで。
「カオリ」
玄関を閉める直前、私は向こうのカオリに声をかけた。「何?」と再び玄関の扉を開けるカオリ。
「夢、叶えてね」
今日、夢を教えてくれたことへの最大限の感謝のつもり。これに対し、少し困った顔をするカオリに今度は私が「何?」と尋ねた。
「やっぱり、サヤカらしくないね。でもそっちの方が好きだよ」
優しげに微笑んだ。私も「恥ずかしいよ」と苦笑混じりに微笑んだ。
その二つの笑顔を同時に曇らせたのは女の大声だった。廊下の端から発狂したような怒鳴り声が聞こえる。
「何? うるさいなぁ‥」
カオリが顔をしかめて、扉から顔を覗かせる。ドアの外側にいた私の目にはもうその女の顔をとらえていた。
「ナッチ‥」
ナツミが狭い廊下を千鳥足で歩いてくる。他人の家の扉やその反対側の壁にぶつかり、高そうなハンドバッグを振り回したりしている。
「きゃははは!!」
ナツミらしくない発狂した声に私は思わず耳と目を塞いだ。
「あの子、何やってんのよ‥」
カオリは心配そうにそうこぼしながら、サンダルを履き、ナツミに駆け寄る。
その時、ナツミは自分の家の隣、つまり811号室の扉の前に立ち、鍵穴に鍵を挿そうとしていた。
しかしふらついているため上手く挿せないでいた。
カオリはナツミのカラダを後ろからがしりと掴んだ。
「そこはナッチの家じゃないよ」
背丈がだいぶ違うせいで、カオリの顎がナツミの頭部のてっぺんに乗る。
「うわっ、お酒臭い」
ナツミの息がカオリの鼻孔に入ったようだ。カオリは顔をしかめる。多分、この時カオリはカラダの力が一瞬抜けたのだろう。
ナツミはカラダを目一杯動かし、拘束しようとするカオリを振り払おうとする。
狙ったわけではないだろうが、頭を上下に動かすと、乗せられていたカオリのアゴをクリーンヒットした。
「イタッ!」
どうやら舌を噛んだようだ。思わず手を離し、舌を突き立てながら自分の口を押さえる。
自由になったナツミは振り向き、勢いそのままにカオリを突き飛ばした。
カオリは部屋とは反対側の白い壁にぶつかり、そのまま腰が落ちる。
「イタタタ‥」
後頭部と腰を抑えるカオリ。しかし、その痛みにこらえる顔を蒼白にしたのはナツミの血走った目だった。
ナツミは811号室の扉を背もたれにしながら腰をかがめ、カオリの目の高さに自分の目を合わせじっと睨んでいる。
もし、カオリが腕か足を動かそうとするなら襲い掛かりそうな猟犬の目だ。
「ちょっと、どうしたの‥? ナッチ?」
「‥‥‥」
「ねえ‥」
「‥‥‥」
ナツミはカオリの問いかけに答えようとせず、ただ唸っていた。
痛みは吹き飛んだようで、カオリの両手の爪は下の冷たい地面を引っ掻いている。
まるでヘビに睨まれたカエルのようにカオリの身が凍ってゆくのが傍目からも容易にわかる。
「サヤカ!」
カオリの中の危険度ファクターがリミットを超えたのだろう。ナツミから目線を離さないまま、私に助けを求めてきた。
私もナツミがおかしいとわかっていたので行動は速かった。
勢いそのままにナツミのカラダに飛び込む。予想外の横からの攻撃だったのかナツミは私のほうを見ることはなかった。
ただ押さえつけるだけのつもりだったが、予想以上にナツミの足はもろく、私が体重を乗せると、自重を支えられなくなり思い切り倒れた。
硬いコンクリートの上に大きな音とともに叩きつけられる。
「だ、大丈夫?」
私はパッと上体を起こす。上になっていた私でさえも倒れた拍子の衝撃が腰に走っていたので下のナツミは相当な痛みが走っているだろう。
私は即座に心配になってナツミのカラダを押さえつけながら、その顔を見つめた。
「あ‥」
しかし、ナツミはそんな心配を全く無視していた。
張り詰めた空気の中、聞こえるのは私とカオリの乱れた呼吸と、ナツミの細い糸を引くような吐息。
3人の膠着状態は数秒続いた。
「‥んとにもう酔いすぎよ‥」
落ち着いたのか、カオリはただただ呆れながら前髪を掻きあげた。
ナツミは硬く冷えたコンクリートを普通のベッドのようにして穏やかに寝入っていた。
私は立ち上がり、お尻についた埃をパンパンとはたいた。
「カオリ、立てる?」
私はもう大丈夫だと思い、ナツミから離れ、カオリに手を差し出す。
「うん何とか」
「災難だったね」
背後のナツミは大きないびきをかき始める。驚いた私はさっと身構えたが、いびきだと分かりほっとする。
そんな様子をカオリは恐怖の色を肌に乗せたまま薄く笑った。
「しかしナッチにこんなに悪酔いするとは思わなかった。あのナッチがこんなに怖いなんて‥」
カオリはもう一度差し出した私の手をつかみ、立ち上がる。そしてバサバサになった髪を2回ほど手で梳く。
「人間って酔うと逆の性格が出ちゃうもんよ。ナッチのカラに閉じこまる性格がこんな風にしちゃったのかもね」
私とカオリは横にちらりと目を向けた。場所をわきまえず、健やかそうに眠るナツミはカラダの大きい赤ん坊のようだ。
「う〜ん」と口を動かしながら寝返りを打つと、足が811号室の扉に「ガン」と当たった。
はっとするが、反応はなかったのでほっと胸をなで下ろした。どうやら811号室の住人は不在のようだ。
「とにかく、こんな所で寝られても困るから運ぼっか。カオリの家でいい?」
「‥う、うん」
若干の間があったがカオリはゆっくり頷いた。
その後、二人でナツミをカオリの家に運んだ。
結構乱暴に扱ってしまったがナツミは全く起きる気配は見せず、途中大きなイビキをかくほど深く眠っていた。
ナツミを置いてこのまま帰ろうと思ったがカオリがそれを制した。
先ほどナツミが見せた正気の沙汰とは思えない目がカオリのココロを切り刻んでいるのだろう。少し怯えながら、
「今日は一日ココにいて」
と言ってきた。考えすぎだと諭そうとしたが、カオリは私の袖を強く引っ張り、「お願い」と必死に近い顔で私を見つめてくる。
それとなく時計に目をやる。まだ終電には間に合いそうだ。次にマリのことを考える。
もう私が傍にいなくても大丈夫だろうし、おそらくもう寝ているだろう。
「わかった。終電ももうないしね」
小さなウソを言いながら頷くと、カオリは小さく深呼吸しながら俯き、「よかった‥」と自分を安心させるように呟いた。
とりあえずナツミをちゃんと布団に寝かせようということになった。
今着ている服のまま寝させるわけにはいかなかったので、カオリの室内用の服を上下着せることになった。
大は小をかねるということで手足の裾を捲れば何とかなるだろう。
カオリが取り出してきたのは水色のチェック柄のちょっと子供っぽい服だった。
ナツミの上体だけを起こしてもナツミは目を覚ますとは思えない。それくらい深く意識を底に沈みこんでいるような眠り方だ。
時々吐く息に酒臭さがなかったら何と微笑ましいことか。
「せーの」
カオリと私は声を合わせて上の服を脱がせた。最近やせ始めたナツミだったせいかダボダボだった。
ナツミの上半身はブラジャー一枚の姿になる。
「わぉ」
カオリが変な声をあげた。
私はカオリが見ている先に目をやるとその変な声の意味がわかった。
「おお‥すげえ‥」
確か、ナツミの相手は女の子の扱いをよく知らない童貞クンだったはず。
いや、それは私がナツミの話を聞いて勝手に推測しただけだっただろうか?
どっちにしろ、今は週4、5回はヤっている人間なのだから、仕方ないか。
そんなことを考えながら、私はナツミのカラダの至るところにある赤い斑点の”愛の証”をちょっとだけうらやましそうに眺めていた。
「私たちに見る権利あるわよね‥」
ちょっと申し訳なさそうにカオリは私に同意を求める。
「うん、それと昨日何があったか聞く権利がある!」
力を込めて私は言った。
「しかし、すごいね‥。これって意図的につけたんだよね‥。カオリ、そんなのされたことないよ」
とカオリは言う。
「私も‥」
実はあるけど、少なくとも愛はなかったのでとりあえず口を濁す。
「うらやましいなぁ‥」
カオリはココロからそうつぶやいていた。
-40- ナツミとカオリ V
次の日、目覚めると、隣りでナツミはまだ寝ていた。
カオリは同時に目を覚ましたのかわからないが私が起きて顔を上げるなり、
「ん‥起きた?」
と声をかけてきた。
「うん、おはよ‥」
カオリはいつもうっすらと残っているクマをさらに目立たせている。
どうやら同時に目を覚ましたのではなく、あまり寝つけなかったようだ。睡眠不足が物凄く顔に出る性質らしい。
「何時?」
「7時。ご飯でも作ろっか?」
「うん。ご飯とお味噌汁と‥魚焼いて。あ〜、鮭がいいなぁ‥。それと目玉焼き‥あんまり焼きすぎないでね」
うつらうつらしているカオリからは次々と要求が来る。私は「はいはい」と呆れながら台所に向かう。
ふと振り返ると、カオリはまた静かに眠りに入ったようでカーペットに頭をこすりつけるような姿勢になっていた。
ナツミはベッドで相変わらず、アルコール臭い吐息を立てながら寝ている。
私は冷蔵庫を開けた。でも、中はほとんど空だった。あるのは、牛乳とお茶と食パンとバターと玉ねぎだけ。
「カオ…」
「何にもないよ!」と言おうとしたが、長い髪をカーペットに散らばらせながらぐったりと寝ているカオリを見て、口をつぐんだ。
もしかしたらようやくちゃんとした眠りに入ったのかもしれない、朝食にはまだ早いのかもしれない、と思いながら、冷蔵庫の扉を閉めた。
今日は晴れのようだ。
音を立てないように床に臥している二つのカラダをまたいで小さなベランダに足を運ぶと、
朝の穏やかな太陽がエネルギーを優しく地上に、そしてここに降り注いでいた。
8階から見る景色は私の家からいつも見る景色とは違っていて視界に飛び込む空の支配率は高い。
ぽつんぽつんと浮かぶ雲は厚みがあって、高度がまだ低い太陽の光を、受ける部分と受けない部分とにくっきりわかれている。
まだまだ夏は終わらないと訴えているような色の濃い朝だ。
ギシギシ軋むベランダの柵にカラダを凭れかけながら、朝食はカオリの言い分は全く無視してパンを焼こうと決めた。
材料を買いに行ってもいいのだが、コンビニが近くにあるか知らないし、あったとしても、さすがに鮭は置いていないだろう。
パンを焼くぐらいなら、二人が起きてからでもできると思い、このいつもと違う風景にしばらく身を置くことにした。
そんな気分にさせられたのは、このカオリの部屋に漂う”芸術”の風趣が私の中にもいくばくか吸収されていたのかもしれない。
あらためてこの部屋の持つ魔力の存在を感じていた。
ココはカオリの”世界”だ。
人はいろいろな”小世界”を融合、分離させながら自我を形成させていく。
学校には学校独自の世界があり、街には街の世界がある。
そして、一人一人にも世界を持つ。自分と学校等の場を含めた他者との世界を溶け合ったり撹拌させたりして生きている。
その個の”世界”は一人暮らしをすれば顕著に浮き出る。
だからもちろん、私とマリの家には私とマリがミックスされた世界があって、ナツミの家にもナツミの世界が形成されているだろう。
しかしカオリはその世界の濃度が違うのだ。
私たちのは、おそらくちょっとした因子の投入により、その世界の輪郭を変えてしまうだろう。
しかし、カオリの世界はよほどのことがない限り、変貌したりしない。
それは、夢、希望というものに溢れた人間だから。
絵という掛け値のないものに進んでいる人間だから、発散するエネルギーの桁数が違う。守るべき世界の重みが違うのだ。
そんな部屋に包まれながら安らかな祈りのような空や雲の自然色がココロの中を浄化させていく。
私は常にカラダとココロを緊張させ、刹那的に繰り返される自分の存在の有無についての葛藤と闘ってきた。
そして今は、束縛と自由を混合したうねりなどと闘っている。内面の闘いは結論を持たぬまま、闘いそのものへの怨恨だけを刻み付ける。
何て無意味な闘いたちだろう。
大体闘うことに意義なんてあるのだろうか。
今、その場にいることを信じ、敬い、穏やかに時を過ごせればいいのではないか?
ふと下を見ると車が行き交う人の群れがあり大地の上に敷かれたコンクリートの地面を揺るがしている。
ココはそんなせわしないところから一歩離れて、客観的に人類が造った破壊の果てを見下ろし、自然と物事を敬える落ち着いたところだ。
私はいつもより近い朝焼けに感謝の念を唱えたくなった。
そんな傍から見ると宗教に嵌ったとしか思えないことを誘起させる8階という景色に住むカオリやナツミがちょっとうらやましく思えた。
しばらくして、ナツミが目を覚ましたようで、「う〜ん」という唸り声をあげた。
その少女とは思えない低い声に私は振り返り、半開きにしていたベランダの扉とカーテンを開けた。
肩口や脇の下から光が細い線となっていくつも部屋に入り込む。
「おはよ。ナッチ」
「あれ〜、何でサヤカがいるの?」
ナツミは眩しそうに目を擦りながら尋ねた。ボサボサな茶色の髪は朝日に溶かされたようにさらに明るく映えて見える。
「おはよ」
隣に寝ていたカオリも顔を横に向け、ナツミに言った。
変な体勢で寝ていたせいか、ナツミと私のちょっとした会話で目を覚ましてしまったようだ。
「あれ? カオリもなんで‥ってあれ? ココ‥」
「私んちだよ」
カオリは首をコキコキ鳴らしながら呆れ半分、安心半分に言った。
「なんでナッチがここで寝てるの?」
ナツミは少し慌て気味に立ち上がろうとする。すると捲っていた裾がスルスルと伸びて、手と足を隠した。
そのせいでナツミはバランスを崩し、派手にこけた。
「イテテテテ‥」
おそらく昨日私が飛びかかったときに打ちつけた部分に当たったのだろう。
顔をしかめるナツミを見ていると、ナツミはさらに、
「うわぁ‥頭も‥。ふわぁ‥」
と頭を抑える。二日酔いの兆候だ。私は「バカだね」と愛情を込めて言った。
ふとカオリが気になって数秒顔を向けた。カオリの目の中にあった淀んだ色は薄れていた。
それは昨日ナツミに睨まれてからずっと有していたものだ。
やっとここにいるのがナツミなのだと認めることができたような大きい安堵感が感じられる。
私もそんなカオリを見て、今のカオリはいつものカオリだと、同じような安堵感を得た。
朝食は卵をゆで、それを粉々にしたものとコショウをまぶした玉ねぎを炒めたものを食パンの上に乗せ、
その上にさらにマヨネーズを乗せ、トースターで5分ほど焼いたものを食べた。
カオリの眠気まなこの中出てきたリクエストはカオリ自身も覚えていなかったようで何も反抗はしてこなかった。
ナツミは二日酔いの影響からかあまり口にしなかった。
「あ〜、イタイイタイ」と顔をしかめるナツミを見ながら、私たちは”権利”の実行をした。
「昨日、何があったの?」
ナツミは直接的な物言いに「へ?」と言いながら呆けている。
「『へ?』じゃないわよ。昨日私たちナッチの介護に大変だったんだからね」
「”介護”って寝たきりのおばあちゃんじゃないんだから」
ナツミは「や〜ね〜」とよく世の中のおばさんたちがするように手首を振る。
「昨日のナッチはそんなおばあちゃんよりも酷かったんだって」
と呆れる私に、
「ホントホント。あんなに酔っ払っちゃったナッチ初めて見たわよ」
とカオリが付け加えた。
するとさらにナツミは腕を組みながら首をかしげる。もう少しで90度になりそうな大げさなかしげかただ。
「全然覚えてない‥ってイタタタ‥」
頭がまだガンガンするようでナツミは幾度となく頭を抱えている。カオリは両手で顔を覆い、やけに大げさに苦笑していた。
「どういうこと? 飲んだことも覚えてないの?」
私は尋ねる。するとナツミは小刻みに「うん」とうなずく。
「昨日は誰とどこで何をやったの?」
「サヤカって何か警察の人みたい‥。あれ、昔同じこと言ったような‥」
どうでもいいことを思い出そうとするナツミに呆れつつ、同じ質問をもう一度するとナツミは口を開いた。
「彼に会って‥一晩中プレステしようってことになって、彼氏ん家で‥あ、思い出した。それからお酒呑んだんだった」
うれしそうに言うナツミ。
「それからは?」
「それからは‥あれ‥覚えてない‥。結構お酒呑んだんだっけ?」
「私たちに聞いたってわかるわけないっしょ」
「そうだよね。う〜ん‥」
ナツミは眉を寄せた眉間に人差し指を添えながらしばし唸る。私とカオリは顔を見合わせた。
「それから何があったか覚えてないの?」
「あ、そうだ! 『みんなのGOLF』したんだ! ってイタ‥」
再び頭を抑えるナツミ。
「そんなことはどうだっていいの! エッチしたの?」
「朝から何言ってんだべさ?」
呑気に恥ずかしくなるナツミ。イライラしながらもう一度、
「エッチ、し、た、の?」
と一文字ずつ力を込めて聞く。
圧倒されたのかナツミはのけぞり、答えた。
「やってないと思うけど‥。昨日はなんか妙にだるかったんだよね。
それで、『ナッチ、今日疲れてる』って言ったら『じゃあやめよう』って言ってくれたはずだし。あれ‥それ言ったの一昨日だっけ‥?」
「じゃあ、そのカラダ中のキスマークは何よ?」
カオリがナツミのカラダを指差す。ナツミは「へ?」と言いながらダボついたTシャツの首の部分をつまんで自分のカラダを覗く。
「うわ、何コレ? 昨日、蚊でもいたの?」
私とカオリは再び顔を見合わせたあと同時にナツミに向かって言った。
「どういうこと?」
-41- つぎはぎの笑顔
結局、私たち3人はナツミの彼氏がナツミが寝ているときにキスマークをつけたのだという結論に達した。
「そういえばちょっとSの気があるかも‥」
ナツミがそう言ったのでカオリが無理やりそういう風に解釈してきた。
男という種は「今日はエッチしたくない」と言われると無性にヤリたくなる人種だから、
酔っぱらって無防備なナツミについキスマークを浴びせてしまったのかもしれない。
よく考えればキスマークをつけることとセックスをすることは等価ではないワケで、
彼氏もセックスしたいという自分の欲望とナツミの気持ちとを両天秤にかけた結果、
キスだけをカラダ中に浴びせたという行為に出たのでは? と推測した。
あまり誉められた行為ではないが、可能性としては無くはない。
私もナツミも大体は納得した。まあ、詳しくはナツミがちゃんと彼に事情を聞くということで決着した。
でも念の為「ナツミの彼氏っていいヤツなんだよね?」と聞くと、大きくうなずき、
「ちょっとエッチがすごいけど‥。優しいよ」
とおのろけモードで言ってきたので私たちはとりあえずほっとした。
家に帰るとマリが迎えてくれる。
来る途中、いつものようにアイスを買った。
足取りは重かったがそれはちょっと前のようなマリの沈んだ表情を見るのがイヤだからというのではなく、
単純に朝帰りをしたからという理由だ。
”朝帰り”なんていうと少し下品なイメージがあるせいか、たとえ悪いことはしていなくても妙に後ろめたい気持ちに苛まれるものだ。
それに『今から帰る』というメールはしたが『やっぱり泊まっていく』というメールをし忘れていたことが罪悪感を膨らませているのだろう。
この2週間で家に帰らなかったのは一日としてなかった。
扉を開け、「ただいま」と言うとすぐに、マリは玄関先に常に神経を尖らせていたかのように即座に飛んできた。
「んも〜、なんで帰ってこなかったんだよ〜」
私は違う意味でドキリとした。
ピンク色のエプロン姿で、左手を腰につけ、右手にはオタマを持ちながら口を尖らせて私を睨みつける様は、
新婚の妻が夫の遅い帰りを愛情たっぷりに叱ろうとする様とシンクロする。
電話のやりとりなどから想像上で新婚カップルみたいだな、と思ったことはあったが、具現化されたのははじめてだ。
「ごめん、ちょっと友達が酔い潰れて倒れちゃって。その介護で一晩中つきっきりだったんだ。お詫びにコレ‥買ってきたから」
マリのへそあたりに目線を下げ、時折ちらちらとマリの顔を覗き見ながら、つい言い訳めいた口調で説明してしまう。
「いつも買ってるじゃん」
「ははは、そうだよね」
「ホント、寂しかったんだから」
マリは腰に手を当てながら口を尖らせる。
「うん、ごめん」
「帰ってこないんじゃないかと思ったんだからね」
「うん」
「ちゃんと電話してよね!」
「うん」
「約束だからね!」
語気は後になるにつれ、どんどん強くなる。13センチ下からのえぐるような視線が私を襲う。
朝帰りをした時に、新妻が夫にぶつけてくるのは嫉妬だ――マリは言葉どおりの”心配”以上にそんな嫉妬まがいの感情を私にぶつけてくる。
私たちは新婚カップルではないのに。
私は何にも反論できずにただ、マリの本気としか思えない形相に硬直していた。
口や喉は冷たくて甘いものを欲した。そしてそれは右腕にあるアイスだと気づいた。
そうだ――私は美味しそうに食べるマリを想起する。
マリは元気になったのだ。傷は癒されたのだ。私はその確信を毎日噛みしめていたのだ。
毎日マリが美味しそうに食べるイチゴのアイスは何よりの証拠―――
焦り気味に自分を納得させようとしている中、思考は空回りしたのか混乱をきたす。
眩暈とともに、突然この2週間の記憶がフラッシュバックした。
立ち直った証拠の笑顔の静止画が真っ白に光り、まるでつぎはぎのように断片的に目の前に現れては消える。
繋ぎ目は他の色が交わることのない深遠の黒が視界の全てを覆う。
――違う。
閃光のあとに残る黒の残滓は水を打ったような静まりをもたらし、私は瞠目した。
マリとその周りの机やテレビやクリップボードがまるで古びたポートレイトのように白黒に変わる。
マリは嗅ぎ慣れた記憶の底に染み付いた匂いを発し、私に時間軸の狂った混濁をもたらす。
その歪みの中で、マリがレイプされたという事実が悪意を成分とした光粒子となり、まぶたの裏を一瞬にして焼きつかせた。
無防備だった私は体内の細胞全てが泡立った。
「サヤカ‥聞いてる?」
古ぼけた映像の中心が裂け、現実に目の前にいるマリが不思議そうに聞いてきた。
何か言わなければと思ったが、この数週間で生まれた違和が細胞を支配している今、口は思うように動いてはくれない。
ただパクパクと酸素と窒素をもがくだけだ。
――私が見たのはマリの一部だけ‥‥つぎはぎだらけの笑顔だ。
私は事実を事実として受け入れていなかった。
何て愚かなのだろう。
あのアイスを美味しそうに食べる姿を無理やりにでも何度も反復させ、全てを良いほうに自己洗脳させてきただけだ。
マリはレイプされたという事実から立ち直ったのではない。忘れたわけでもない。
忘れようとしたのは私のほうだ。私はマリから、その重圧に押し潰されないように逃亡したのだ。
――マリの見つけた幻はやはり光のほうだった。
――いや、闇も光もマリが見つめるもの全てが幻だった。
そんな世界の中でマリは寄り添うものもなく彷徨っている。現実に確実に生存しているココロは一部でしかない。
それを私は自分の中で勝手に補完し、ココロの欠損したマリを正常な状態へと創り上げていた。
「サヤカ?」
マリはもう一歩身を乗り出して不安そうに私の名を呼ぶ。
私は首を横に振り、乾ききった喉や唇をわずかに舌に残っていた唾液で湿っしてから言った。
「うん。ホントごめんね‥」
時間がゆっくりと動き出す。マリは寸時に頬を緩める。青ざめた表情で瞳孔を震わす私に対し、マリはくるりと背を向け、
「ご飯、できてるから食べよ」
と言ってきた。その小さな後ろ姿を見ると昨日までの外見と若干ながら違うことにようやく気づいた。
「マリ‥髪切ったんだ」
少しだけど後ろ髪が短いような気がする。それに一時の金一色から栗色へと落ち着いたような気もする。
マリは跳ねるようにしてクルリと振り向いた。長めのエプロンがスカートのようにふわっと浮く。
「へへへ〜、わかる? さっすがサヤカだ」
ウィンクの後には何もかもを忘れた幸せそうな笑顔が浮かんだ。
私は合わすように微笑みを返したが、その裏では息をのんでいた。
人は成長という名の代償にあらゆる良いものや汚いものの混沌を抱えていくものなのに、
マリはそれを払拭させて、まるで10年前に戻ったような表情を見せている。
私は2週間、この何かを失った笑顔に騙されてきた。
本当はココロの底にはドロドロとした感情があるはずなのに、それを全く見せない。
これは演技なのだろうか。それとも私には想像もつかない力で凸凹になったココロの大地を更地に変えてしまったのだろうか。
さすがに時空を超えたような歪んだ事実にゾッとした。もう単純にその壊れた笑顔に吸い込まれるわけにはいかなかった。
ただその強制的に無垢になったマリをどう諭せばいいのかわからない。
現実に目を背けたのはマリも同じだ。傷つきたくない、と昏睡させている自我を無理やり揺り起こしたらどうなるかは想像がつかない。
――キスをしたのは失敗だった。
そんな後悔が津波のように押し寄せた。
またすぐに乾いてしまった唇を舐め、マリの弾力のある唇を見つめながら、あのキスの感触を思い出す。
愛情以外の要素が多すぎた冷たいキス。
結果は両者とも現実逃亡にしかならなかった。
キスをしたのも愚かだが、その結果に気付かずに2週間も暮らしてきたことはもっと愚かなことだ。
結局私は何の打開策も見つけられず、マリに従うがままに作ってくれた昼食を食べることになった。
食べている最中はマリの顔を見ないことにした。この雰囲気はあの時のキス後の感じと似ていた。
ピンと引っ張った緊張感が息を詰まらせる――マリのブラックホールのように時や存在を吸い込む瞳とそれに耐える私。
もしまともに見れば、私はどこかに飛ばされてしまう気がする。
「ねえ、サヤカ」
マリの作ってくれた野菜炒めを食べているときだった。マリは両肘をテーブルにつけながら口を開いた。
「何?」
綱引きで言うと一瞬力を緩められ、体勢を崩してしまった状態なのだろう。
私は顔をあげてしまう。マリの悟りを開いたような顔が瞳に映る。
「昨日サヤカが帰ってこなくってすっごく心配だった」
キャベツの芯は火が中まで通っていないようで、ゴリという音がした。それを私は無意識に飲み込む。
「ホントごめんね。メールしたつもりだったんだけど‥」
「でもね。そのおかげでやっと幸せって何なのか再確認できたんだ」
「‥‥」
「私にはサヤカしかいないんだって‥」
「‥‥それって‥」
私が口を開いた時に、マリは音一つ立てずにゆっくりと立ち上がった。
照明の具合のせいかマリの顔色が薄くなる。ぱっちりとした二重まぶたが下がって私を見下ろす。
「ずっと一緒にいようね」
ポツリと口にした他愛のない言葉が私の耳には地下牢で放たれたような特殊な響きを含みながら届いた。
それにはどこまで深い意味が込められているのかわからない――恋人同士だったら、結婚を匂わす言葉なのかもしれない。
中3の親友同士だったら、高校が違うところになっても二人の友情は変わらないよ、という意味なのかもしれない。
軽くも重くも取れる言葉だ。
一瞬にして目の前を真っ白な世界に変えた。
虹色に煌きながら、形を変えて渦まく何億もの光の粒子がエクスプレスに乗って私を意識の外に誘導する。
おそるおそる目を開けると、西陽らしき朱色の光線が建物の隙間を縫って差し込んでいた。
一瞬吹いた強い風には潮の匂いがした。空を邪魔するように建つ煙突付きの青レンガの家を見ると、
遠くに沈んでいた記憶に触れた感触を覚えた。
そんな景色の中央には公園の砂場でお城を作っている小さい女の子二人がいた。
薄汚れた水色のパーカーに紺の短パンを着た子と、オレンジが大部分のチェック模様のスカートと同色系のシャツ、
そして膝まである同色のルーズソックスのようなものを履いた子。
「ずっと一緒にいようね」
水色パーカーの子がオレンジの服を着た子に言った。
「え〜、それって大人になってもずっとそばにいるってこと?」
「うん!」
「それだとケッコンできないじゃん。イヤだよ」
「だってだって‥。あたし‥一緒にいたいもん」
いじける水色パーカーの子。
「イヤだよ。そんなこと言ってるともう遊ばないよ」
「イヤだ!」
パーカーを着た子は立ち上がり、作っていた砂のお城を踏みつけた。
「ああ!」
オレンジの服を着た子は泣き顔を見せ、すぐにパーカーの子を睨みつけ、頬をバチンと叩く。
「もう、遊んでやんないから!」
そう言い残して去っていく。パーカーの子は頬の痛みに唖然とする。ハッと気づくと涙が溢れ出したまま、その後姿を追っていく――。
「サヤカ?」
そう呼ぶマリの声と箸を落とした音で私は我に返った。マリはテーブルの向かい側にいたはずなのに、いつの間にか私の真横にいた。
「どうしたの? 顔色悪くない?」
マリが私の肩を揺さぶりながら心配そうに私の顔を覗きこむ。
私はその時、服の下で汗が浮かび、生地に吸収されていく感覚を覚えていた。
今のは‥誰なんだ? 何なんだ? どこなんだ?
数個のハテナマークが頭の回りを旋回する。
「う、ううん、なんでも‥。ちょっと交信してた」
「はぁ?」
ナツミとカオリとでしか通じない言葉をつい使ってしまう。
「いや、つまり考えごと。おいしいね、コレ」
箸を落としてしまったので、手で野菜炒めのキャベツの芯の部分を取り、口に入れた。
「そう? それなら良かった」
口とは裏腹にマリはまだ心配そうだ。
私は必死で笑顔を取り繕った。
しかし、さっきの幻覚が私の眼前でうろついていた。
その幽霊のように輪郭のぼやけた小さな顔がマリのほっとする顔と重なったり離れたりしていることに気付く。
やがて住み処を見つけ、マリの顔の中に吸収されるように存在が消えていく。
そんなことに深い意味は考えず、寝ぼけて朦朧とした意識を吹き払っただけなのだと思い、落とした箸を洗うために台所に向かった。
マリはやや首をかしげながらも再び元の椅子に座り、何も食べずにそんな私を意志の読み取れない薄い表情で見つめていた。
――私は何をすればいい?
何度も何度も頭の中でそう繰返し、何も浮かばないまま、その重圧に押し潰されそうになっている自分がいた。
ほとんど味がわからないまま、お腹は満たされた。
目の前の皿に何もないことに気付くと、一息ついてから「今日は私が洗うよ」と言った。マリは当然とでも言いたそうだ。まあ、当然なのだが。
お皿は6つ。鍋とかはもう洗われている。ものの3分も経たずに洗い終わるだろう。
台所に立ち、私は洗い始めた。水は冷たすぎず気持ちよい。
チャーミーグリーンの泡立ちがよくて皿についた汚れは食器用スポンジでなぞるだけで落ちていく。
「ねえ」
背後からの突然の声に私は驚く。
当然マリだ。声をかけられるまで水の音のせいか全く気配を感じなかった。
「な、何?」
台所に身を乗るようにしてのけぞりながら振り向く。
「今日って仕事ないんだっけ?」
マリは両手を後ろに組みながら前かがみで私と向き合っている。
「いや、あるけど‥」
「何時ぐらいに終わる?」
「何でそんなことを聞くの?」
お互いのことを干渉しない、という暗黙の了解は崩壊しつつある。
だからマリがそんなことを聞いたとしてもおかしいことではない。
しかし、私は昔の名残りからか、南米人なみの顔と顔が接近した奇妙な態勢での会話だったからか、そう尋ねてしまう。
「いや、あのね。今日二人きりで飲みに行かない?」
「飲むってお酒?」
「うん、私たちってそうやって一緒に飲みに行ったことって昔からなかったじゃん」
「昔は子供なんだからあるワケないじゃん」
「それもそうだ。っていうかまだ二人とも未成年だけどね」
マリはケタケタと笑う。
最初はバイトを口実に断ろうと思った。正直、ココロの欠けたマリと一緒の時間が増えることはつらいと思ったからだ。
しかし、それは単なる逃げだと考え直す。
どうしたってマリは私の隣にいる存在なのだ。これ以上逃げていても私もマリも何も前へ進めない。
お酒の力を借りることも一つの方法なのかもしれない。
「うん‥と、6時には終わるかな?」
本当は9時だったが、二人でまったりと飲むとしたら少し遅い時間だ。
私は代わってくれるバイト仲間を頭の中で何人かピックアップしながらそう言った。
「じゃあオッケー?」
「うん」
マリは「やった!」と無邪気に喜んでいた。私はそんなマリにほっとしそうになる自分を諌めた。
-42- 虚像の月
バイト中の大半は雑談で過ごしていた。客がほとんどいないのだから仕方がない。
ユウコもその閑散ぶりに諦め気味のようで、今いる私や私よりやや後に入ってきた女の子に積極的に雑談‥
というか猥談を持ちかけていた。
ユウコは基本的にはセクハラオヤジのようなことばかりを言う。
10分間ほど、私はユウコとマンツーマンでその他愛のない雑談に突き合わされていた。
そんな時、客が来たことを知らせる「ポーン」という音が久しぶりに鳴った。
チャンスとばかりにユウコの下を離れようとしたが、ユウコは
「あの子に任せとけばいいいやん」
と、私を引き止めた。逃げの口実にできなかった私はがっくりしながら、半分浮かしていた腰を落とした。
しかし、そのもう一人のバイトの子はすぐさまやってきて私に声をかける。
「何?」
「友達来てるよ」
「ん? 彼氏か?」
ユウコは邪魔をされた腹いせか囃し立てようとする。
「違いますよ。女の子」
「ああ、わかった」
私は急いでフロントに出た。
「よっ」
フロントの前の待合室の椅子に座っていたのは予想通りマリだった。
今日は6時に”三日月”の前で待ち合わせということになっていた。
ちなみに今日初めてマリにココで働いていることを言ったのだが、マリは何度か来たことがあったそうだ。
名前だけ言うとすぐに場所はわかった。
「早いじゃん」
カウンターの目の前にあるデジタル時計に目をやる。時刻は5時ちょっと前。
「だって暇だったし」
マリは子供みたいに足をぶらぶらさせて、おちょぼ口で言う。
「ふーん」
「それにサヤカの仕事っぷりが見たかったし」
マリは白い歯を見せて言った。大した意味ではない――私はそう自分を思いこませる。
「そっか。どうせだし歌ってく? タダで歌わせてあげるよ」
私はユウコがまだ奥にいることを確かめてから言った。
たとえユウコの耳に届いたとしても、厳格な性格じゃないから大丈夫だろうが一応そういう優遇は禁止となっているのでそうした。
しかし、マリは首を横に振る。
「だから、サヤカを見に来たんだって」
「‥‥‥」
ほんの少しだけ黙りこむと、マリは「どうしたの?」と聞いてきた。
私はなんでもないという表情をした後、ただ「そっか」とだけ言うと、お客が入って来たのでマリとの会話は中断となった。
しばらくしてバイトの子が「おはようございます」と眠たそうな顔でやってきた。
私が無理を言って3時間分だけ代わってもらうことになった子だ。
「おはよう。入ってくれてありがとう」
「ホントですよ。いきなりなんですもん」
「ホントごめん。今度機会があったら奢るから」
機会なんてなさそうな薄い関係だが私は手を合わせながらそう言った。
「はい、楽しみにしてます。それよりも、ちゃんと恋人と楽しんできてくださいね」
無垢に微笑む相手に対し、私は慌てた。私はこの子と代わる理由を「恋人に会うことになって」と言ってしまったのだ。
最近彼氏ができたばかりな子だったので、彼氏に会いたいと言えば、自分のことに投影したりして、理解してくれると思ったからだ。
計画通り、私の願いは受け入れてくれた。
「じゃ、着替えてきま〜す」
バイトの子は私の慌て様にも何も感ずることはなく、更衣室に向かった。
ほっとして顔を横に向けるとマリが目の前にいた。
「うわっ!」
「何よ、驚かなくたっていいじゃん」
目を丸くする私に細い目で冷静に返す。
「だって‥ちょっと仕事の邪魔だよ」
「私のこと恋人って言ったんだ」
「そういうわけじゃないよ。ただ‥あの子が‥」
私はニタニタと笑顔を向けるマリを見て思わず目を逸らした。
おそらくマリは私が彼女にウソをついたということはわかっている。わかっていて、あえてそこを突いてきたのだ。
「とにかく、そこにいても困るし、もうすぐ終わるから外で待っててよ」
「は〜い」
マリは間延びした返事をし、やや大股で店の外に出た。
しばらくして代わってくれる子が制服に着替えてやってきたので、まだ5時50分だったが私は帰らせてもらうことにした。
急いで制服に着替え、「おつかれさまでした」とフロントとその奥に向かって叫んでから店を出た。
マリは店の前にある料金表の立て看板を背もたれにして携帯電話をいじっていた。
「お待たせ」
マリは私の存在に気づくとパタンと折りたたみ式の携帯電話を閉じる。
「早かったじゃん」
「うん」
「じゃ行こっか」
足を一歩前に進めたその時にマリは私の腕を絡めてきた。私は抵抗しようとしてのけぞると、マリは下から鋭い視線で胸を抉ってくる。
「何警戒してんの?」
「だって‥」
「これくらい普通の女の子同士でやってるって」
マリはそう言うと「ほら」と横に目配せをする。そこには女の子二人がカラダを寄せ合いながら歩いている姿があった。
「あ‥」
「サヤカさんじゃないですか?」
その二人はリカとヒトミだった。向こうも私に同時に気づいたようだ。
「こんにちは」
リカは私に声をかける。少し動揺している私にマリは「知り合い?」と聞いてきた。いつの間にか腕はがっしりと巻きつかれていた。
「う、うん‥一応‥」
「バイト帰りですか?」
ヒトミは明らかに私とマリがベッタリと寄り添っている姿を興味深そうに見つめている。
「うん。二人は?」
「これからカラオケです」
リカは言う。
「建前ですけどね」
ヒトミが付け加えるようにして言う。リカは少し赤くなった。
「あんまりハメを外さないようにしてね。迷惑がかかるのはこっちなんだから」
私は早くこの場を離れたかった。ヒトミやリカにマリとのことを誤解されたくなかったのかもしれない。
あるいは、マリにヒトミやリカの関係を察知されたくなかったのかもしれない。
ヒトミは私が早く立ち去りたいと思っていることに気付いたらしく、
「大丈夫ですよ。ちゃんと後始末をしときますから」
と含羞なく言いのけた後で、すぐ「それじゃ」と私とマリに会釈してリカを引っ張るようにして”三日月”に入っていった。
「二人ともタイプが違うけど美人だね」
リカとヒトミを完全に見送ってからマリが口を開く。
「まあね」
「なんかいちゃいちゃしてたけど‥恋人同士なの?」
「わかんない‥。けど同居してるみたい」
「ふ〜ん。じゃあ、私たちとおんなじだ」
マリは不審な笑みを浮かべ、さらにカラダを寄り添ってくる。
”おんなじ”は”同居している”ことだろうが、それだけに掛かっているとは到底思えなかった。
あたりはそろそろ暗くなろうとしているがまだまだ明るい。
夕日はいくつものビルに囲まれているせいで見えないが、空はそのオレンジ色を鮮やかに映し出している。
行く道は仕事帰りの人々で溢れている。もしかしたらピタッと寄り添う私たちを好奇の目で見ていく人がいるかもしれない。
別に晒されるのは慣れてはいるが、誤解されるのは少々不満だ。
「どうしたの?」
マリは小難しい顔をしている私に尋ねる。
「ううん、別に」
「じゃ、行こ」
「うん」
私たちは計画していた店に向かった。
マリが「焼肉へ行こう」と提案してきたとき、私は幾分かほっとした。
「飲みに行こう」と言われて私はカクテルバーなどの瀟洒な店をイメージした。
そういうところに行くとなるとそれはマリがしたいのは”デート”なのだとはっきりわかる。
しかし焼肉だったら、周りはうるさいし、食べたら口が臭くなるだろうし、
ロマンティックのカケラもないところなので”デート”をするにしては不適当だ。私の悪い予感は外れたことになる。
私たちは近くの焼肉店”京城亭”に入った。
昔一度だけそこで食べたことがあったが、美味しいとか安いとかいう印象はない。誰と行ったのかも忘れた。
”行ったことがある”という事実だけが浮き出るようにして覚えている。
店の中は落ち着いていた。まだピークには早いのだろう。客はちらほらとしか見えなかった。
店員が大きな声で「いらっしゃいませ!」とマニュアルのような抑揚をつけて叫ぶ。
座敷と椅子とどちらがいいか、喫煙席か禁煙席かなどを聞かれたあと、私たちは4人用のテーブルに通された。
店の向こうの端っこでは10人ぐらいの団体がいるらしく、それなりに盛り上がっているようだが、この周りは落ち着いている。
私たちと同じように2、3人の組や親子連れがいるようだ。
椅子に座るなり、マリは肩にかけていたハンドバッグを横の椅子に置きながら、案内してくれた店員に「とりあえずビール2つ」と言う。
いいよね、と目で合図されたので、私は何も考えることなく頷いた。
店員は一瞬惑っていたがマリの方をじっと見てから納得したような顔をして去って行った。
「何あれ?」
そんな店員の背中をマリは訝しげに見つめる。
「多分、子供っぽく見えたんだろうね、マリが」
「‥んでじっと見たら納得したってか」
マリはヘソを曲げながら手を頬に添える。
「まあまあ、身分証明証見せてって言われないだけ良かったじゃん。未成年には変わりないんだし」
「う〜ん‥」
まだ納得しないマリ。でもよく考えたら、マリより年下なのに疑いもされなかった私のほうが可哀相なのではないか? と思った。
「さてと‥」
私はテーブルに肘をかけ、カラダの前で手を組む。マリはテーブルの端に立てかけられたメニューを広げている。
「サヤカと外食なんていつ以来だろう?」
「う〜ん、どうだろ?」
再会したときに、レストランで食事をした。もしかしてそれ以来では? と思いながら、それ以降の記憶を早送りする。
「私がサヤカん家に押し入ったときにご飯食べたじゃん。それ以来?」
「あ、やっぱり? 私もそうなんじゃって思ってたところ」
「じゃあ結構前だね」
「うん。1年ぐらいか‥」
私たちがいかに薄かったかを改めて感じる。
「おかしな関係だよね。幼馴染で同居もしてるのにお互いのこと何にも知らないんだもんなぁ」
「そうだね」
「サヤカは私のこと知りたい?」
焼肉の煙があちらこちらで立ちのぼり、ジュージューと音を立てる場はやけに濃い日常感をもたらしていた。
そのせいかマリの言葉を軽くとらえてしまう。
「う〜ん、いいや。今さら知って、すごいギャップがあったらイヤだし‥」
「ふーん」
マリは明らかに不満そうな表情を浮かべる。
横の『火曜日はレディースDay!』と手書きで書かれた紙に顔を向けるマリを見ながら、私はマリは重い意味を含めて聞いたのだと気づいた。
そして気付かなくてよかったと思った。
案内してくれた店員が生ビールを二つ持ってきた。泡の立ち方が全然違うところを見ると不慣れな新人が入れたのだろうか。
マリは持ってきた店員にメニューを指差しながら次々と注文していく。
途中、「サヤカは何か食べたいものある?」と聞いてきたが私は「任せるよ」と言った。
「じゃ、とりあえず乾杯しよっか?」
マリは店員が必死でオーダーを受け付けるリモコンを操作している中私に言った。
「うん」
「それじゃあ、二人のこれからに乾杯」
「乾杯」
二つのジョッキを重ねる。マリの手に持つジョッキからは泡がこぼれる。
それを見たマリは慌て気味にビールに口をつけた。
私はお酒が好きでもキライでもない。ジョッキの6分の1ほど飲んだあと、口から離す。
マリは「ぷはーっ」というオヤジのような声とともにドンと音を立てながらジョッキをテーブルの上に置いた。
見ると半分ほど飲み干していた。マリは結構お酒に強いようだ。
肉がやってくるとマリは目を輝かせた。横長の大きな皿の中央にはタン塩が5人前も盛られている。
「さて。食べよ」
割り箸を二つに割り、マリは即座にそのタン塩に手をつけた。
金網に乗せるとジューという音が立ち、赤色からこげ茶色に変色していく様をマリはツバを飲み、割り箸を行儀悪く動かしながら見る。
まだ赤いかな? と見ていた肉にマリは箸を伸ばした。
「まだ早いんじゃない?」
「いいって。肉は半生が一番!」
マリは小さな口を大きく広げ、タレに付けた肉をほおばる。
私がそんな様子を見つめているとマリは、肉を飲み込んだ後、「おいしい」と幸せ満面に言った。
それからは二人とも食べることに専念した。
食べている間は大したことは話していない。
先日見たドラマがどうとか、コンビニに売っている紙パックのお茶は不味すぎるとか、
今年の秋から冬にかけての流行りの服のこととか、お互いの生活に介入しない差し障りのない会話が続いた。
大抵はマリが話しかけ、私が反応するという繰り返されてきたパターンだった。
薄っぺらいものだと気付いていても、自分の内面を防御する必要がなかったことで気を張らずに済んだ。
マリはビールを中心にお酒を大分飲んだ。私の3倍は飲んだだろうか。
ともかく一度「飲みすぎなんじゃない?」と諌めたほどマリは大量に飲んだ。
化粧で白くなった顔が飲む前に比べ、随分と赤くなっている。口もロレツが回らなくなりかけていた。
「サヤカ、今日はありがとね」
一杯になった腹をさすり、箸を揃えて置いてからマリは言った。目の前にある網の上にはコゲしか残っていない。
私がそのコゲを下に落としている時だった。
「うん。美味しかった。また来よっか」
「うん、また二人でね」
ちらりと腕時計に目をやると時刻は8時を10分ほど回ったところだった。
周りは肉を焼いている音や酔っ払いの高らかな叫び声などが飛び交いうるさい。
「そろそろ出よっか?」
酔いがかなり回っているのか挙動不審に周りを見た後で、マリは言う。
「うん」
私は食べる前に着けた紙のエプロンを脱ぎ、隣りの椅子の上に置いた。
ここでの飲食代は二人で8千円だった。一人4千円か‥と考えていたら「私が奢るよ」とマリは言い出した。
「割勘でいいじゃん」と言ったら「私が誘ったんだから‥」と出そうとする財布を抑える。
そんなまるでサラリーマン同士のやりとりを店員の目の前でしてしまった。結局、マリの酔いに任せた強情さに押されて奢ってもらった。
店を出ると喧噪は深みを増していた。この歓楽街は当たり前だが夜が深くなればなるほど活気が増す。
人はなぜ夜を好むのだろうか。
今の先進した社会に生きる人間にとっては昼の輝く太陽は眩しすぎるのかもしれない。
夜のような少し存在がとぼけたところでないと自分を発揮できない。
それは臆病であり、卑怯だ。しかし、自分を偽っていないと――そして夜にその仮面を剥がさないと生きていけない。
夜の賑わいは歪んだ社会の象徴なのでは? と思う。
ふと隣りにいるマリを見た。マリはそれと似たような仮面を脱ごうとしている。
社会の最も腐った部分に身を浸されてしまった自分を解放しようとしている。
もっと夜が深くなってほしいと思った。
臆病であっても卑怯であっても私はそれに縋るしかなかった。
マリは大分飲んでいたためか、かなりフラフラとした足取りになる。私はその腕をつかみ、一緒に歩いた。
「うわ‥やべ‥まっすぐ進まない。へへへ‥」
マリはかなり酔っているとはいえ意識ははっきりしているようだ。思い通りに動かないカラダを逆に楽しんでいる。
”ほろ酔い”をちょっと超えたぐらいの周りには少し迷惑で、自分としては最上級に楽しい状態だ。
時折、「きゃははは!」と高い声を上げたり、いつも以上の大きな声を出しながら街中を進む。
途中、強面の男と肩がぶつかり、喧嘩を吹っかけられそうになったが、向こうもグダグタに酔っていたようで、大事にはならなかった。
また同じことがあったらイヤだな、と思った私はマリを連れて賑わっている街中を外れた。
「ねえ、あそこで休まない?」
先にはちょっとした広場があった。
マリはフラフラのカラダを支えるのが精一杯らしく、返事はなかったがどう見ても休憩すべきだと思い、その広場に向かった。
そこは待ち合わせ場所に使われそうなところで中央には噴水付きの人工池があり、丸い形の外堀に囲まれている。
ちょうどその掘の高さは椅子にするのにちょうど良かったので私はマリをそのタイルの外堀に座らせた。
おそらく昼時にはOLやサラリーマンがおにぎりや弁当を持参して、ここに座って雑談したりする場所なのだろう。
私は視界に入っていた自動販売機に行き、ウーロン茶を二つ買ってきた。
「はい」
少し吐き気があるのだろう。マリは蒼ざめた顔でそのウーロン茶を受け取るが、すぐには飲まず大きく深呼吸する。
「大丈夫? 吐きそうになったら言ってね」
「うん‥。でも大丈夫。吐きたくなったらココでするから」
とマリは後ろの池を指差す。
「それはまずいって」
池は少し汚れていて、生物らしきものはいない。私はマリの横に座った。
するとマリは頭を私の二の腕に凭れかけてきた。私はその小さな頭を優しく撫でる。
「もうマリとは飲みたくないなぁ」
ダランと前に落ちる前髪の向こうに見えるシャインリップが輝く唇を一瞥しながら私は呆れ口調で言った。
「だってだって‥。久しぶりだったんだもん」
マリは甘えた子供のような顔と声で口を尖らせる。ただ吐く息は少し臭い。
私は顔を背けようとするとマリは顔をさらに近づけてきた。私はものすごくイヤな顔をする。
「だからって飲みすぎだよ」
「だって酔ってないと、ちゃんと話せないもん‥」
マリはポツリと言った。注意していないと聞き取れないほどの小声だったが私は運良く拾えた。
「何?」
「‥なんでもない」
マリの身が硬くなるのを感じた。アルコールで少し火照っていた私のカラダが冷たくもない晩夏の風により急速に冷やされる。
そして、マリのカラダも私以上に冷たくなる。
美味しい物を食べて、飲んで、笑って‥そんな日常から一変した瞬間。
「‥なんでも‥なくないよ」
低いトーンが私の口から発される。マリの顔を見た。少し化粧の崩れた顔からは決然とした意志が見える。
きっとマリは酒の力を借りたかったのだと思う――次からの言葉を言うきっかけを作るために。
「私‥前に進みたい」
ちょっとした間のあとで、喉の奥を鳴らすような低い声が私のココロの底を揺さぶる。ついさっきまでの高らかな酔狂声とはてんで異質だ。
「前って?」
「このままだったらいつまでたっても止まったままだから‥」
「‥‥‥」
「ちゃんとスタートラインの確認をしようと思う」
声を呑む私に対し、マリは潤んだ瞳を向けた。息遣いさえ聞こえてこない。
時が止まったような静寂が私を硬直させる。
時間を動かしたのはマリだった。突然、私の頭をつかみ自分のほうに手繰り寄せてきた。
私はあまりに突飛なことだったので、身構えることもできずマリにカラダを預ける形になった。
そのままマリは抱きかかえるようにして強引にキスを奪ってくる。柔らかいとか温かいとか甘いとかそんな感覚はなかった。
ただ唇が押し付けられたという行為だけを理解した。
私は力一杯にマリを引き剥がし、叫ぶ。
「マリ! もうこんなことはしない‥って‥」
顔を上げ、マリから少し離れると私は絶句した。
仰向けになったマリは私の叫び声に耳を貸さずに煤けた空気の先にあるであろう遠い銀河をぼんやりと見つめている。
その姿は青白く、目は白く虚ろで生気が闇に溶け出しているようだった。
――何も変わっていない。壊れたままだ。
わかっていたことだが、あらためてそう思ってしまう。
いや、私はわかっていたのにわかっていないフリをしていたのだ。ここまで追い詰められていたマリを無視してきた自分を恨む。
「月ってキレイだなぁ‥」
マリはうわ言のようにボソリと呟いた。
マリの後頭部の向こうには、表面をくすぐる風により小さい波が生まれ、
ちゃぷんとかすかに音が立つ水面がある。その中には月が浮かんでいた。
ゆらゆらとした虚像の月だ。
目を空にやると、漆黒の空に斜め上半分が欠けた月が曖昧な微笑みを浮かべてぶら下がっていた。もう一度マリに目を向ける。
マリの目は潤んでいた。
きっとマリには彼方の月は後ろの虚像の月のように揺らめいているのだろう――この世界の全てが虚構であってほしい、と願わんばかりに。
「そういやあ、あの時も見えてたなぁ‥。あんな感じに‥」
まぶたに溜まっていた涙は薄紅色の頬を伝う。
私は胸に針を突きつけられたような感覚で聞いた。
「あの時って‥?」
「レイプされた日」
胸元を針ではなくのみでえぐられたような凄烈な言葉をマリははっきりと口にした。
マリがその言葉を口にするにはあまりにも残酷すぎる。マリはゆったりとした動作で自分の胸に手をやる。
そして、服越しにあのゴツゴツとした感触を確かめている。
マリはレイプという事実を認識し、自分を痛めつけている。涙はいつのまにか消えていた。
涸れたのではない。きっと涙という表面に出てくる生理現象なんて意味を有さないほどの自虐なのだろう。
「私‥忘れようとしてた」
「‥‥‥」
「でもできなかった」
「‥‥‥」
「だから死のうとした」
マリは左手をぶらんと宙にあげ、手首を返す。マリが私に何を見せようとしたのかはすぐにわかった。
「マリ‥」
「果物ナイフって手首の骨を突きとおすにはやわすぎなんだよね。ちょっと痕が残っただけだった」
私は一度目をつぶる。傷痕が物語る事実から背けたかったのではない。
ぼそりと口にしながら微笑むマリは乾きすぎていて、後ろの月と合わせて、虚像に見えたからだ。
どこまで痛めつければいいのだろう。
どこまで自分を追い込めばいいのだろう。
――マリはどこへ向かおうとしているのだろう。
「死んだら‥負けだよ‥」
私は目の前にあった手を両手で優しく掴む。冷たかった。
「ねえサヤカ‥」
マリは遥か遠方に目を向けたまま私を呼ぶ。
「何?」
「だったらずっと一緒にいてくれる?」
二つの声が重なるようにして聞こえてきた。共鳴したのか二次元の縦波を三次元に変える。
その声はマリと――今日幻覚の中で出てきたパーカーの子だということはすぐ気付いた。
そして、次の瞬間、その子が誰だったのかようやく気づいた。
あの幻覚は幼い頃のマリと私。
オレンジの服の子がマリで、水色パーカーの子は私。
私は昔、マリに同じように懇願した。
『それは昔サヤカが言った言葉なんだよ』
きっとマリはそう言いたいのだろう。
あの虹色の粒子が誘った世界はマリが作ったもの――私を狂った世界に引きずり込もうとする一アイテム。
昔の記憶という曖昧なものを私の脳内から引きずり出し、混乱させ、魔法をかけようとしているのだ。
マリは眩暈がするほどの内なる迫力に満ちていた。それは気圧すようなものでなく、引き込むような冷たいもの。
答えに窮する私からマリは目を離す。遠いリアリティのない世界が再び眼球に映っていた。
「私はレイプされた」
カタカナで表現されそうな感情の欠けた言葉は鋭い角部を有し、何の減衰もなくココロに突き刺さる。
「トシヤに裏切られた」
マリは私のほうを見ているが私を見てはいない。ただ私を媒介して、マリ自身の内面の影と向き合っている。
「ココロもカラダもボロボロ」
「‥‥‥」
「だからもうサヤカしかいない‥」
「マリ‥」
本当はマリは信じたくなかったのだと思う――レイプされたことも、彼氏に裏切られたことも。
しかし、その事実は確実に、そして残酷に記憶に埋め込まれる。
もし、それを単なる悪夢だと自分を防衛しても、その悪夢はある日突然、目の前の現実にせり出してくる――
一生涯をかけて、その現実を少しずつ噛み砕いていかなければならない。
「お願い‥ずっと私の側にいて」
幼い頃から蓄積された二人の思い出が甦り、感情の欠けた今の二人を晒しものにする。
突然マリに”生”の色が帯びた気がした。それは月の光を十二分に吸収し、何かが腐食されてできたものだ。
きっとつらさや悲しみなど感情の負の部分が昇華した形なのだろう。
「それは‥」
私は何か言おうとして口が止まる。喉から出かかった言葉はマリにとってあまりにも残酷だ。
――ずっと一緒にはいられない。
マリの願いはどこまで深いか、そしてどこまで破滅的なものであるか、私はマキとの経験を通して知っている。
マリが私に求めているのは、かつて私がマキに求めたものと同じようなものだ――生とか死とかは関係ない。
カラダなんていらない。ともすれば好きとか嫌いとかいう対人感情さえ、幸せとか不幸だとかいう自己感情さえもいらない。
ただ一緒にいる――それだけに全てを費やす。
その現実をマリは受け入れてくれるだろうか。
「ずっと一緒にいよう」とウソをついたところで、この場は何とかなるかもしれないが、
それは今まで通りの逃げであって明日以降の生活は何も変わらない。
私は声を呑みこみ、すぐにウソでも真実でもない都合の良い言葉はないか必死で探した。
気付くとマリの右手はポケットに入っていた。そして私が掴んでいた左腕はいつの間に逆に掴まれていた。
目には迫力のある悲しみと決心の文様が彩られている。
息を呑んだ。
何かが起こる――長い付き合いだからこそ感じられる直感が神経網を急速に伝播する。
――生とか死とかは関係ない。
しかし、直感は遅すぎた――。
「それが叶わないんだったら―――」
深遠の空をもがいていた透明な眼差しは恐ろしいほど冷徹に私一点に向けられた。
掴まれた右腕は振りほどくことができないほど強く握られている。そして、ポケットの中の右手がもぞもぞと動く。
マリは私やこの世界を炎のような昂然とした激しさではなく、月のエネルギーに満ちた青白いレーザー光の激しさでもって刃向かった。
マリは突然起き上がり、横にいた私に襲いかかった。無防備だった私はなす術なく、仰向けにされ肩を押さえつけられる。
「マリ!」
私は椅子代わりにしていたコンクリートに頭と肩をしたたかに打った。
しかし痛みを気にする暇はない。仰向けにさせられ、いきなり視界に広がった月を中心とした夜空をマリのカラダが邪魔をしている。
そしてマリが右手に力強く握られているものにぞっとする。
「マリ‥やめて‥」
「サヤカ‥どこにも行かないで‥」
マリは涙を口に含みながらそう哭し、右手に光る果物ナイフを私の眼前に突きつけ、威嚇する。
きっとマリの手首に残っている傷痕をつけたナイフと同じものだろう。
私の左手は空いている。押さえ込むには不十分な体勢だ。タイミングがよければそのナイフを持った右手は振り払える。
しかし、そんなタイミングをマリは許さない。
生きるために必要なものさえも削ぎ落とした鋭敏な感覚が私だけに向けられる今、不穏な動きは瞬時に捉えられるだろう。
「どこにも‥って‥」
「今日サヤカがいないって知ってすっごく怖くなった。もうサヤカは帰ってこないんじゃ? って思った。もうあんな寂しい思いはしたくない!」
「だからって‥こんなこと‥」
頬にはナイフの冷たい感触が走る。
「この2週間、サヤカのことだけを考えた。サヤカのことだけを想った。そしてわかった。
もう信じられるのはサヤカしかいない。笑顔を見せられるのはサヤカしかいないって!」
マリは私の目の前でナイフの刃の向きを変える。漆黒に淀む中で怪しげにキラリと光る。
「じゃあ‥なんでこんなことをするの?」
「どうせ断るんでしょ?」
「え?」
私はその目と言葉にマリに対する勘違いを指摘された気がした。
侮蔑の目は私だけじゃなく、きっとマリ自身にも向けられている。最後の言葉はマリのこれまでの葛藤が如実に現れている。
――生とか死とかは関係ない。
”ずっと一緒にいる”ための方法は一つだけ。
「‥‥‥」
マリの冷たい薄氷の意識が思考下に舞いこんでくる。
『サヤカを求めるとき、この生命という偶然の負荷でさえ邪魔なんだ』
マリは生きることが”現実”なのだと知っている。
その現実には耐え難い事実が刻まれていることを知っている。
全てを浄化し、幻想の世界に堕ちることを望むマリはその願いに反し、
濃密な真実というシリコンチップをボロボロに欠けたココロに埋め込まれている。
逆だったのだ――マリは深い闇に落ちたのではなく、闇に腐食されたカラダを持ったまま、光輝く”現実”で晒されていたのだ。
マリは現実世界に棲んでいる。しかし、カラダは醜く腐乱し、ココロはドライバーでその中心部を無理矢理ねじられた。
ここは自分の居場所じゃない、と半死体のカラダやココロは訴える――
求めるのはマリと私だけの桃源郷。色彩も濃淡もない、光も闇もない、生命なんていう負荷もない、無次元化された世界。
「だったら‥」
「マリ‥」
説得することも抗うこともできない。
マリは小さな唸り声とともにナイフを振り上げる。
空気を切り裂くような音が聞こえた。
ここまで追い詰められても自由なはずの左腕は言うことが聞かなかった。
ただ残忍なまでの透明な微笑と瞳の奥にある虚像の月を焼きつけながら目を閉じた。
眼球の裏には死の空白が広がっていく―――。
-43- We're ALIVE
真っ白となった生命は数秒経っても変わらず脈動を続けていた。
自由な左手の指の間に風が通りぬける。掴まれた右手首にはマリの食い込む爪の感触がある。
「マリ?」
目をゆっくりと開けるとマリが固くナイフを握った右腕を発信源にして震えていた。透明な結晶が再び頬を濡らしていた。
なぜマリが動作を止めたのかわからない。ただ、死ななかったことだけはわかった。
「マリ‥」
独り言のような呼びかけにもマリは反応しない。その小さなカラダは夜の闇の偶像として立ち尽くしている。
マリは一瞬未来を見たのだと思う。遠い未来ではない。ほんの数秒後の残忍な未来。
マリは歯を食いしばりながら何か耐えていた。
きっと「私を殺せ」という断末魔のような叫びがココロの底からマグマのように沸き上がっているのだろう。
もう振り下ろされることがないと確信した私は上体を起こし左腕をマリのナイフを持つ右手に触れる。
すると、硬直していた右手は呪いから解き放たれたように、だらんと下がり、ナイフを真下に落とした。
地面はタイル張りのコンクリートだったので、ナイフの削れるような音が闇夜を切り裂くように響く。
打ちひしがれるマリ。半開きの口からは上手く呼吸器が機能していないのか、闇をもがくような荒れた音が聞こえる。
目からは再び造られはじめた涙が直線を描いて落下する。
「大丈夫?」
その言葉に反応するように、マリはスローモーションで顔をあげる。
微かに口が私の名をなぞる。
苦しみという成分のみが純化した黒の水晶は透明な結晶の後ろ側で輝いていた。
皮肉にも狂おしいほど美しかった。見開いた瞳孔が小刻みに揺れながら殺意の対象だった私を優しく捉え、その名鉾の力をぶつけてくる。
いや、元々殺意なんてなかった――マリの行動は生きている以上自然の成り行きだったのだと思う。
もう一度「大丈夫?」と聞こうとした時だった。マリは顔はあげたまま、眼球を下に落とし、私から目線を外した。
震えていたマリの瞳孔が一瞬ピタリと止まると伝播したかのように私の目を含めたカラダが一瞬無意識に振動した。
私にナイフを向けた時のあの”生”の色が再び帯びたことに気付く。
――今度の直感は遅くなかった。
マリは次の瞬間、硬直していたカラダを唐突に奮い起こし、真下に落ちたナイフに飛び込むように上半身をかがめた。
私はそれより早く、地面にあるナイフを蹴飛ばした。
ナイフは地面を這うようにして、遠くへ転がっていく。マリは膝をつき、擦れる音とともに去っていくナイフを目で追っている。
私は乱れた呼吸を整えようと大きく息をつき、マリを見下ろしながら言った。
「死ぬのはイヤ」
「‥‥‥」
「だけど、死なれるのはもっとイヤ」
マリは拳を握り締め、一回地面のタイルを叩く。そして体内中の毒を絞り出すように叫んだ。
それは深手の傷を負い、もうどうにもならないことを知った負け犬の慟哭に似ていた。
マリの薄氷の意識はマリ自身によって砕かれている――そう思った。
私は同じように膝をつき、マリを起こし、マリの頭を私の胸にうずめるようにして抱きしめた。
「もっともっと泣いたっていいから――」
声にもならない声で私はマリの耳下に囁く。
聞こえたかどうかはわからないが、マリは私の胸に押し付けるようにして泣き喚きはじめた。
マリの悲しみに支配された感情が、ストレートに私のココロを射抜く。
――だから、明日には笑って。
ココロもカラダも壊れたマリの精神の深部にある核の声を探しながら、ダイヤの鑑定をするように言葉を選ぶ。
その揺らぐ声を聞き取ったとき、思考を一瞬麻痺させるほどの圧倒的な疼きを感じた。
マリは生命を完全否定していなかった。
その形にするとミクロンオーダーほどしかない小さな生きる力は最後の最後で発動した。
マリの温もりを感じる。マリの鼓動を感じる。それは私が幼い頃から当たり前のものとして感じてきたものだ。
マリも同じように私の温もりや鼓動を感じてほしい――そう願ってさらにきつく抱きしめた。
何分経っただろうか。
マリの引きつけを起こしたような慟哭も少しずつ翳りが見えてきた。荒い呼吸の中から「ごめんね」と繰り返していることに気付く。
私はマリの髪の毛をくちゃくちゃにするように強くなでる。その後、口をマリの耳下に近づけて、小さな子供をあやしつけるように言った。
「もう謝らなくていいから」
「‥‥」
マリは泣くのをやめないが、確実に耳には入っているだろう。目とは違って耳は閉じることができないのだから。
もしかしたら聴覚情報というのは視覚情報よりも大切なもので、ココロを最も揺さぶるものなのかもしれない。
「マリはかけがえのない友達だよ」
私は同じように囁く。マリはその震えるカラダを少しだけ鎮める。
「‥‥」
「大好きだよ」
「‥‥」
私は目を一度閉じ、マリの頭をなでていた手を止め、間を空けてからはっきりと口にした。
「でも、ずっと一緒にいることはできない」
マリは一瞬呼吸さえも止め、そのままゆっくりと顔を上げた。
禿げた口紅がついた口元から、音を出さぬまま「なんで?」と聞いてくる。私は少し汗でベトつくマリの前髪をかきあげて、微笑んだ。
「私たちは生きているから」
マリは表情を変えない。半開きの口がかすかに動き、細かく息を刻む。
この時その小さな口にキスをしたいという衝動に駆られていることに気付く。
あんなに拒絶していたはずなのに、と矛盾した自分に向かって苦笑した。
「死ぬなんていつでもできるから」
――生きるなんて無意味だ。
「せめて、その間だけでも苦しんだり笑ったりしないと」
――笑ったり泣いたりしなくていい。
「いつか自分を誇りたいから」
――全てを捨ててあなたの元へ。
「‥‥」
マリは意味がわからないのかただ、じっと私の目と口を見つめていた。
きっとこれらはマリだけでなく、私自身にも向けられたものだ。一つ一つの言葉がマキの存在を砕いていく。
「生きるっていうのは変わることなんだ」
大人になるということは純粋だったココロに不純物をあらゆる方面から混ぜられていくものだ。
しかし、それは罪なのだろうか、とも思う。
不純物の投入により、脆弱だったココロは悩み苦しみもがくことになるかもしれないが、
それを糧にすればいい。不純物は化学反応させていく。
それができるのが人間なのだ。
「ずっと同じところに立ち止まってはいけないんだと思う」
「‥‥‥」
「私たちにはいろんな人と会う義務あるんだ。成長するために、前に進むために。幸せになるために」
「‥‥‥」
「だからこそ人の周りには人がいるんだと思う」
「‥‥‥」
「きっと世界が二人だけだったら私たちはずっと止まったままなんだ」
マリは押し黙ったまま、枝分かれのない視線を私に向けていた。
私が口を止めると常に微かに舞う風の音が場を支配する。
キスを強要された時に感じていた無から生まれた純粋なココロは、生きてきた証の不純物と化学反応を起こし、凶器ではなくなっていた。
「‥だから‥」
マリは一度鼻をグズつかせてから口を開く。
「うん?」
「だから‥一緒にはいられない?」
高くて、ちょっと掠れた声だった。私は「うん」と頷く。
「人には永遠なんて言葉はないはずだから」
――この世界は永遠に私とマキだけ。
自分の過去と決別――すなわちマキを無意味な存在にしようとしていることに何の抵抗もなかった。
今、持っている感情が全てだった。それが積み上げてきた自分の中の真実とは混じり合えないものでも、私は”今”を選択した。
「これからいろんなことがあると思う。
彼氏を作って働いて、やがて結婚して、家族作って――そんな普通に生きていく中でマリと常に一緒にはいれないと思う」
「‥‥」
「だけどね‥やっぱり私たちは特別なんだ」
私はやっぱりマリが大好きなんだとあらためて思った。
この小さくてかわいくて幼いカラダを包み込んであげたい。
この血の繋がっていない親愛なる姉を守ってあげたい。
マリが好きというのは事実。
それはどんなことがあっても変わることのない絶対的なもの。
ココロというふわふわ浮かんだもので常に色とか形が変わるものなのに、
”マリの”という語句が頭についたらそれは私にとっては絶対的真実。
「幼なじみっていう関係はいくつになっても消えたりはしない。きっとどこかで繋がっている。絶対、また会えるようになってるんだ」
「‥‥」
「だから、別れたっていい。私は”別れ”と同じだけマリという人間と出会いたい。そして――時を越えて、笑い合いたい」
マリは少しだけ表情を変えた。私はそう口にしながら、再会したあの時を思い出していた。
きっとマリもそうなのだろう。私たちは物心がついた時から一緒だった。
だからあの再会は二人にとっての初めての”出会い”になる。
歯車が噛みあっていなくて、「昔のようにはいかない」と嘆き合っていた二人がこうして今まで一緒にいれたのも”繋がっている”からだ。
――だからマリも一生懸命生きて。
マリはポンポンと私の背中を叩く。私は精一杯だった力を緩め、少しマリから離れた。
「ごめんね‥」
マリは小声でしかなかった言葉を今はっきりと言う。私は首を左右に振りながら、「私は大丈夫だから」と笑顔を向ける。
するとマリはほっとしたような笑みを浮かべ、再び私の胸に顔をうずめはじめた。
しかし慟哭は伝わってこなかった。私のカラダとマリのカラダ――二つのカラダは一つになって空空寂寂と月夜の中に溶けていく。
永遠なんてないと言っておきながら、その穏やかな感覚は永遠のように感じられた。
ふとマリがクスクスと笑いはじめていることに気付く。
「どうしたの?」と聞くまでもなくマリは私から離れて、ゆっくりと立ち上がり、独り言のように言った。
「私たちだけじゃない‥か‥」
マリは両手を後ろに組み、遠い空を眺めていた。視線の先には夜空にまたたく輪郭のはっきりとした月。そして星さえも輝き出していた。
「うん」
「サヤカってそんなに彼氏のこと好きなんだね」
マリは少し意地の悪い顔を見せながら言った。掠れ声だけど確かにそう言った。
私には脈絡のない唐突なものに聞こえた。しかし、その意味深な顔をしばらく見ていると一つのことに気付く。
私が言ってきたことはユウキと別れたくないというための口実にもなりうるものなのだ。
「あ‥えっと‥」
もしマリがそう解釈してしまっているのなら、私が叫んできたマリへの答えは大層陳腐なものになっているだろう。
私は慌てた。しかし、次の瞬間、それは杞憂だということに気付く。
マリの意地の悪い顔には、嫉妬は含まれているようには見えなかったから。
それにあの永遠に近い穏やかな感覚が私を安心させる。
あの間、夜に沁みたカラダの中にマリのココロが流れ込んでいた。それは一番奥から掬い取ってきた穏やかなエキスだった。
「まあね」
そのおかげか私はうなずくことができた。実際ユウキという彼氏がいて、好きというのも事実だから。
いや、もっとユウキという人間の意味合いは強いのかもしれない。
生きるとは何なのか、という根本的なことさえ教えてくれた人だから、恋人という言葉だけでは収まりきれない特別な存在。
「マリとはまた違ったものをくれているような気がする。だから、今の私にはあいつが一番‥かもしれない」
「へへへ‥。のろけちゃって。フラれちゃったね、私‥」
マリははにかんだ。夜がどんどん深くなり、月や星の存在がさらに際立ってくる中、晴れ晴れとした姿に変えていく。
「そうなの‥かな?」
元々マリは同性の私に恋なんてしていないはずだ。ただ生命としての慈愛を私に投影していただけだろう。
でも”フラれた”って思えばいい。それでマリが生きる意味を得られるならば、間違ったままでいい。
「うん。あー、ショックだぁ〜。でもなんか、すかっとしてる。ヘンな感じ」
マリは自分の胸に手を軽く添え、鼻から大きく空気を吸いながら言った。
その小さなカラダが大きく見える。一線を超えたときの達成感がそう見せているのだろう。
「そうだ」
私はある閃きとともに呟いた。
もう一度、前進するために。死ぬ以外の未来を見つけるために。私たちが同じ時の中を生きていることを実感するために。
私はマリの小さな願いを思い出しながら立ち上がった。
「何?」
マリはスタスタとマリとは違う方向に歩み出す私を不思議がる。私は血肉を食らうことなく地面にひれ伏した果物ナイフを取ってきた。
「じゃあさ、ココからまた始めよっか」
「え?」
私はコンクリートにできる限りの長い直線を引いた。
もちろんヤワなナイフではちょっと白い跡ができた程度だったがそれなりに見える線ができた。
「これが私たちのスタートライン」
ナイフを二つ折りにして刃を閉じ、マリに渡す。
「ここからまた改めて一緒にスタートしよっか」
「サヤカ‥」
「この先同じ道は進めないかもしれないけど、ここから一緒にスタートしたことはどんなことがあっても絶対忘れないから」
手渡したナイフはしばらくマリの手のひらにある。
かなりキザなことを言ったかな? と思った私はいそいそと背中を向け、「なんちゃって‥」とつけ加えておいたほうがいいかも、と考える。
「じゃあ‥」
そんな時、後ろからマリの声が聞こえた。
「よーい、ドン!」
「へ?」
もう一度振り返るとマリは走り出していた。
「ちょ、ちょっと!」
「家に先に着いたほうが明日のご飯当番ね!」
「何だよ、それ!」
足はマリのほうが断然速い。私は小さくなる背中を文句を言いながらも嬉しそうに追いかけた。
まばらに輝く星たちはその美しさをさらに増していた。
-44- 平穏な一週間
この一週間の平穏な日々は何か風雲急を告げる前兆だったのだろうか?
あまりにも穏やかで、ただゆっくりと流れる白い雲を眺めるだけの時間が大半を占めた。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
客らしき2組のカップルの一人が私を見ることなく4本の指を私に向ける。
「4名様ですね。ではこちらにお名前と電話番号をお願いします」
今日、私がカラオケ”三日月”で働いているのは予定外だった。
ホントは今日もその穏やかな時間の延長線上にいる日になるはずだった。
まだ連絡を取っていないけど、ユウキと会ってセックスしてもよし。
マリと手の込んだ料理を作ったりしてずっと家に閉じこもっていてもいい。
もし二人とも用事があるのなら、一人で読書に耽ってもいい。
とにかくそんな何にも囚われないような日になる予定だった。
しかし、一本の電話がそんな安息の日を壊す。
正午前に目を覚まし、トースターにパンを入れて、あくびをしながらテレビを見ている時だった。
「ナッチが無断欠勤しよってん。代わりに入ってくれへん?」
ユウコは早口で私に懇願する。電話の向こうでは声が飛び交っていた。
今日はまあまあ忙しいようだ。
「電話したの?」と聞くと「出ない」と言っていた。私は最初渋っていたが、結局はため息をつきながら了承した。
ユウコとの電話を切った後、試しにナツミに電話を掛けてみたが、電源を
オフにしているのか圏外なのかわからないが「留守番電話接続サービスに接続します」と流れた。
私は怒気混じりに「無断欠勤しないでよ。今日は代わりに入っとくから」と入れておいた。
基本的にマジメなナツミが無断欠勤なんてちょっと前までは考えられないことだったが、最近のナツミを見ていると納得せざるをえない。
もしかしたら彼氏にそそのかされたのかもしれない。
「優しい」なんて当のナツミは言っていたがやはり私はその彼氏には良いイメージを持っていない。
一週間前の酔っ払って帰ってきた日から二日後、私とナツミはシフトが一緒になったのだが、
そのナツミは今まで以上に虚ろでまどろんだ表情を見せていた。
大きくてクリクリとしていた目は夜更かしが過ぎているからか瞼が腫れたように常に半目しか開いていない
。かわいらしいと思っていた笑うと目尻が一本引かれるところを私は久しく見ていない。
ユウコをはじめ、バイト仲間の間でも「ナッチどうしたの?」「何かヘンだよ」と囁き合っているようだ。
一度ユウコは私の目の前で「しっかりしぃや!」と一喝していたが、その言葉は何の影響も及ぼさず、
耳の中を右から左へと抜けていったみたいで、「うん」とうなずくその声は空疎に包まれていた。
それからはユウコも呆れたのか、態度を改めないナツミに怒鳴るところを私は見たことがなかった。
「バイト?」
支度をしようとする私にマリが声をかけた。
「うん、何か無断欠勤した人がいて。急遽」
「ふ〜ん。大変だね」
マリは起きたばかりでまだ血が循環していないのか、必要最小限の言葉で話を済まそうとしていた。
私はとにかく急ごうとTシャツにジーパンというラフな格好に着替え、半焼けした食パンを手に取った。
「じゃあ行ってくる」
「ねえ、サヤカ」
「いいとも」が流れていたテレビを消してマリは私に声をかけた。
「ありがとね」
軽く受け流そうと身を玄関の方に乗り出していたカラダをマリに向ける。
昼だというのに何か、夜の気配が染み出しているようだった。
”始まり”ではなく”終わり”――マリがはじき出した結論がたった5文字に凝縮されているような、深い言葉。
「何?
いきなり」
一瞬間前の眠たそうなマリはいない。
「幼なじみでいてくれてありがとう」
何気ない一言にのしかかる重みは私を大きく戸惑わせる。
「居候させてくれてありがとう」
「‥‥‥」
「傷ついた私を救ってくれてありがとう」
「‥‥‥」
「許してくれてありがとう」
「‥‥‥」
「そして、私をフってくれてありがとう」
「マリ‥」
マリはまばたきの回数を増やす。
「サヤカには数え切れないほど、『ありがとう』って言いたい」
「‥‥‥」
そしてマリは間を空けてから言った。
「サヤカが幼なじみでホントに良かった」
私は何も言えなかった。時間が差し迫っていることを忘れて、その場に立ち尽くした。
ヘンな話だがマリとの思い出が走馬灯のように流れた。
苦しみ、痛み、喜び、迷い――いろんなマリと共有した感情がフィルムとなって焼きつく。
私はそんな思い出をしっかりとポケットにしまいこんで、またマリに出会ったのだ。新しいマリはずっとずっと輝いてた。
「な〜んてね。一度言ってみたくって」
いじわるをした天使の顔をマリはする。入れてあったコーヒーをフーフーと吹きながら口に含む。私は肩を透かされた気持ちになった。
「ヘンなの」
内心を隠そうと私はぶっきらぼうな言い方をする。
「まあ、これが私なりの新たなスタートラインってことで。クサかった?」
「うん。何か、結婚式の父と娘みたいだった」
私は言った。ちょっとした照れ隠しが入っていた。
「じゃあサヤカが父親で私は娘?」
「ってことになるのか。それはイヤだな、そんなの」
いつの間にか、マリはプププと含み笑いをしている。
「どうしたの?」
「いや、ちょっと‥サヤカがこう口にくるんくるんの髭をたくわえている顔を想像しちゃって」
「何よ、それ」
私はふてくされたが、それを見てさらに想像を膨らませたのかマリはさらに笑った。
「人の顔で遊ばないでよね」
「ごめんごめん。でも想像させたのはサヤカなんだからね」
「はいはい。じゃ、行ってくる。今日のご飯当番マリだったよね。豪勢な料理、よろしくね」
「は〜い。行ってらっさ〜い」
マリは手を上げて見送ってくれた。
こんな日々がもうしばらくは続くと思っていた。
こうしてナツミの代わりに入ったわけだが、ユウコが私に電話をかけている時がピークだったらしく、
全体的には今日は全然忙しい日ではなく、ボーッと突っ立っていることが多かった。
もしかしたら私がヘルプに来なくても全然平気だったかもしれない。
「ごゆっくりどうぞ」
私の言うことにほとんど耳を傾けず、
やたら大きい声でぺちゃくちゃと喋っていた4人組がマイクと部屋番号の書かれたプレートを持ってフロントを去っていく。
私応対した客は、この組でちょうど10組目だ。
「どうや?」
去っていくのを見計らうようにして、ユウコはフロントに顔を覗かせた。
「ダメっしょ。あんまり食べそうにない」
カラオケ店と言っても近年の価格破壊によってルーム代だけでは大した収益は得られない。
オプションとしてのドリンクやフードをいかに頼んでくれるかが収益の焦点となっている。
当然、カップルなどはこんなところでご飯をがつがつ食べたりしないし、あまり”おいしい客”とはいえない。
それにさっきみたいなイマドキの若者は大抵近くのコンビニで食料を買い込んでくるから
(禁止はしているが注意をする程度しかできないため抑制力は小さい)、注文はほとんどない。
「まあ、昼間は週末ぐらいしか忙しくないやろうな」
ユウコはため息とともにそうグチる。
忙しくても暇でもユウコはため息を漏らす。そんなユウコがいとおしい。
何といったらいいのかわからないが、人間ぽい感じがするのだ。
エゴといったらキツイ言葉になるかもしれないが、それをもうちょっとやんわりとした、
誰にも影響を受けない――人が人であるための優しい理不尽――ユウコはそういう人間だった。
17時にバイトを終え、私は着替えを済ませたあとにユウコに尋ねた。
「それで‥ナッチはどうなるんですか?」
ナツミの話題は禁句のような雰囲気が蔓延していたが、私はあまり気にしないし今日はナツミの代わりに来たのだから、
それくらいは聞いてもいいと思った。
予想通り、ユウコは「ああん?」とヤンキーみたいな声をあげて、私を見る。
眉の間には年季の入ったシワがしっかりと作られていた。
「そうやなぁ‥。事情を聞いて、もししょーもないことやったらコレやな」
ユウコは爪の長い親指を立てた右手を首のところに持っていき、頚動脈を切る振りをする。私はツバを飲み込んだ。
「でも‥初めてだし‥」
「今回のことはともかく、ナッチのあの陰気臭い態度は前から気に入らんかったんや」
「はぁ‥そうですけど‥」
そう言われると私も言い返せない。
ここ最近はまるで未来がないかのような沈んだ表情ばかりがナツミの印象の全てだった。
私だってあの態度は許せなかった。
店員はこうあるべきだ! みたいなマニュアルを押し付けるつもりは私はもちろんユウコにもないだろうが、
ナツミはそれ以前に人として――生きる意思を失ってしまったような人間に見えた。
それはユウコが最も嫌う人種の一つだろう。
「まあ、その事情ってやつは十分考慮するけどな。ナッチは本当はイイコなんやから」
同調するように沈む私を見てか、ユウコは慌てるようにそうフォローした。
私はいつの間にか俯き加減だった顔を上げ、不思議そうな顔をする。
「どうしたん?」
どこかユウコらしからぬ曖昧な態度が気になった。最近、そういうところが目立つような気がする。
「いえ。じゃあ、帰ります」
私はユウコに挨拶をして別れた。
ナツミの家に行ってみようと思った。
行ったところでいない確率は高い。それにもし会ったとしても、何を話せばよいのかわからない。
「しっかりして」なんて言葉はもう幾度となくバイト中にかけているし、その言葉はムダだということもよくわかっている。
でも私は行く必要があった。
再び進展しようとする運命の芽が、まだしばらく続くと思っている平穏な日々の中に隠伏している。
それは萌芽にもなっていないごくごく初期のもので、実体さえつかめてはいないものだが確実に存在している。
認めようとはしない気持ちとは裏腹にその正体に怯えつつあることに気付く。
そして、その運命はナツミが握っているような気がした。
-45- 肩透かしの直感
土地勘は別に悪いというわけではないと思うが、迷ってしまった。
ナツミのマンションの近くまでは前も一人で来たし、実際カオリを呼んだ公園まではすぐに辿りつけたのだが、
それからどうやってナツミやカオリのマンションに向かったかが思い出せない。
それはこの集合マンションは同じような形をしていてインパクトが少なかったからだ。
一応、マンションそれぞれに番号が書かれてあり、
この番号とところどころに設置されている道案内の標識を頼りにすれば容易に見つかるのだろうが、
いかんせんその棟の番号が思い出せない。カオリに電話して聞けばいいのだろうが、
今日はカオリに会うつもりはなかった、というよりナツミに会いに足を運んでいることを誰にも知られたくなかったので電話はしなかった。
私は必死で記憶の糸をたぐりよせる。前に来た時はもっと夜の底にどっぷりと浸かっている時間だったので、
周りのイメージが少し違っていた。
右や左に立ち並ぶマンションの窓一つ一つに明かりが点いている。
どこの家庭も食卓が賑やかそうな時間だ。無邪気にはしゃぎまくる子供たち。
その様子をタバコを吸いながら優しい眼差しを見せるお父さん。エプロン姿で食器を洗いながら、「静かにしなさい」と叱りつけるお母さん。
凡庸でとりとめのない”家族”という単位がいくつもの窓から溢れている。
私には決して訪れることのない気がする幸せの黄色い光。
早く逃げたかった。平凡な幸せに包まれた人々が自分を見下ろし、蔑んでいる気がしたから。
私は深い闇に飲み込まれる直前の曖昧な暗さの中、足を早めた。
ある小道を通ったときに、赤のオープンカーが目に入った。これは前に見たとようやく記憶の一端と絡みついた。
するとぼんやりとながらカオリの家への経路が頭で作られた。これを頼りに私は適当にマンションに飛び込んだ。
5号棟と書かれている。その数字を見た時、同じく忘れていた二人の部屋番号も脳の中を流れた。
確かナツミが810室でカオリが808号室だ。
エレベーターで8階に昇り、そこからふと横を見る。
壁に「6」と書かれた棟のてっぺんの位置と空の角度が前に見た時と一致していたことで、記憶が確かだということを確信させた。
廊下はざらついた灰色のコンクリートでできていて、靴を履いているにも関わらず、冷えた感触が足から伝わってくる。
冬になれば、もっとそれを感じることができるだろう。足音が無機質に響く。
ナツミの家の前に来た。玄関の下の方にポストにはチラシがいくつか挟まっている。
扉の横にはスモークされた赤ん坊でさえ入れないほどの小さな窓が半開きになっている。
カオリの家の構造と同じはずだからこの向こうはバスルームだろう。
私はムダだとはわかっていながら、その半分開いた窓から中を覗こうとした。2、3度チャイムも鳴らした。
しかし、反応はなかった。カギが開いている可能性もあるのでノブを回してみたがカギはしっかりとかけられていた。
「やっぱり」と思いつつも、落胆している自分がいる。
十中八九いないと思いながら、こうして足を運ばせたのは”マリが私の運命を握っている”という直感以外の何物でもない。
”直感”というものはどこか超然としたものであり、理路を超えてもたらされる真実へのルートにもなるものだ。
これは別に特別な人間のみが持つものではなく、誰しもが生きていく中で何度かは訪れる。
その思考では結ばれない真実の存在を信じてここまできたのに、間違いだったことは何か自分の能力を否定された気がした。
だからこんなにもショックなのかもしれない。
最後にもう一度チャイムを鳴らしてみたが、誰に届くことなくドアの向こうに広がった音は虚しく消えていく。
少し悔しさの捌け口にでもするように軽くドアを叩いた。
早く家に帰ろう。マリに会おう。そして今日のこと――いや、今までのナツミやカオリのことを話してみよう。
拳から伝わるドアの冷たさを感じながらそう思った。
”マキ”のこともほとんど抵抗なく受け入れてくれたマリならきっと、この肩透かしの直感を受け入れてくれるだろう。
事情をよく知らないマリからは有用な言葉は何にも得られないだろうが、告白できるというだけで肩の荷が下りるような気がする。
そう思いながら、カラダを45度回転させた時に、二つの影が私の視界に入った。
髪がまた若干伸びたカオリと両手にスーパーの袋を持った男だった。
真っ赤な帽子を被っていて長身のカオリよりもさらに頭一つ背が高い。帽子のせいで顔はよくわからないが20代半ばぐらいだろうか。
「カオリ」
声を掛けたのは私だ。
晩夏と初秋をミックスさせた匂いが漂っているこの時期にはあまり似合わない冬仕様のロングコートを着たカオリは
私の顔を見ても表情を変えることはなく、両手を深くポケットに突っ込んだ態勢を保っている。
まるで、たまたま目が合ってしまった見ず知らずの人間のように扱われた気がした。私はカオリの隣りにいる男に軽く会釈した。
カオリと隣りの男はこっちのほうにやってきた。近づくにつれて、私とカオリは全く目が合っていないことに気づく。
私はカオリの大きな瞳を見つめる。
しかしカオリは私の存在を全く無視するように私の背後のカオリの家の扉を見ていた。
カオリは無言のまま私の横を通り過ぎていく。細い風が通路に吹き込んだようで茶色くて長い髪がフワッと浮いた。
横顔の輪郭のはっきりした顔立ちには柔らかい輝きはない。いつものカオリではないことを認識した。
確実に何かに対する嫌悪感を見せていた。
「カオリ!」
遠ざかるカオリに小さな恐怖を感じながら、私は急いで呼びとめる。
もし、このまま呼び止めなかったら、私が密かに感じていた友達という糸を溶かされてしまうような気がしたからだ。
切るならまだ何とかなるかもしれない。
でも溶かされたらそれは永遠に修復しない。
カオリは一瞬反応したがこちらを見ることはなかった。絡まない視線がカオリと私との間を実際の距離より遠く感じさせる。
「誰?」
代わりに男が私を一瞥した。そして、カオリに問いかけている。
しかしカオリはそれさえも無視し、家の鍵穴に鍵を挿そうとしていた。利き腕のはずの右手をポケットに突っ込んだまま左手を使っている。
その動作は当然ぎこちなく、鍵を入れるのにもちょっと時間がかかっていた。
私はその場に立ち尽くしたまま大きな声をあげる。
「ナッチが今日”三日月”を無断欠席したんだ。今も携帯、全然繋がんない。すっごく心配なんだ。心当たりない?」
鍵を回す手が一度ピタリと止まった。男は私の方を見ているが表情は薄暗さと帽子のせいで読み取れない。
しかし、カオリはすぐに鍵を回し、男に「気にしなくていいよ」とつぶやき、中に入ろうとしていた。
あからさまな無視をしつづける態度に今度は腹が立ってきた。
ナツミと何があったのかは知らないが、私を嫌う理由にはならないはずだ。
私は駆け寄り、閉めようとする扉に足を挟み、それを防いだ。
激痛が足から駆け上ってきたがそれより、カオリに何があったのか説明してほしいという半ば怒りの意志のほうが上回っていた。
「開けて!」
私は強引に閉めようとするカオリに逆らう。私のほうが若干力は強かったようで、扉は開く方向に動いた。
「何で? 何で私を―――」
問い詰めようと身を前に乗り出しながらカオリのほうに目をやると、私は絶句した。
ずっとポケットに入れられたままだったカオリの右手が私の目の前に現れていた。
その手には痛々しく包帯が巻かれていた。
「‥どうしたの?」
右手を見せたのは本意ではないようだ。恥ずかしそうに、そして、悔しさを滲ませながらコートのポケットに手を引っ込める。
「ケガしたの‥?」
包帯は何重にも巻かれているようで手が醜く膨らんでいるように見えた。
カオリはこんな状況にも関わらず私を無視しようとする。だから、私は強い口調で問い詰める。
「ねえ!」
「友達にやられたんだよ。カッターでバッサリとな」
語気が荒くなった私に上から被せるような低くて押し出す声が飛ぶ。私はカオリの後ろで生意気そうに見下ろす男を見た。
「友達って‥?」
「お前もさっき言ってただろ? カオリの幼なじみだよ」
「ナ‥ッチ‥?」
カラダの芯から震えが襲った。ウソでしょ? という狼狽を添えた思いに反し、カオリの色褪せた唇は信じることができない真実へと誘う。
「そうだ。そいつがやってきて突然暴れたんだ。カオリは大事な右手を傷つけられたんだ。そのせいでしばらく絵が描けないんだぜ」
「シンゴ‥もういいから‥」
背後にいたカオリがかすれた声で言った。
玄関のドアの向こうのわずかな光彩はカオリを照らし、沈黙に潜む轟然とした感情を浮かび上がらせる。
「ダメだ、こいつ信じてねぇよ」
男は嘲るように言った。しかし男の言うとおりだ。
態度や表情がどうであれカオリが「ナッチがやった」とはっきり言わなければ
私は決して突きつけられようとしている真実を認めはしないだろう。
「こっちに来いよ」
男は私を部屋に入るように促した。カオリはハッとしながら男のほうを見た。
「いいよな?」と尋ねる男に対し、カオリは無言で首を縦に振った。
男は私を部屋に連れていった。
カオリが玄関の扉を閉めるとカーテンがしっかり閉められているようで、何も見えなくなるほど暗くなったが、
私は前に来たときと同じ匂いを感じ取っていた。小学校の美術室に近い郷愁を引き連れるあの匂いだ。
ここはカオリの部屋――私たちのような部外者には侵すことができないカオリのエネルギーが作った世界なのだ、
と鼻から襲う優しい刺激で改めて認識した。
夢、希望、未来。
明確な道を持ち、その方向に疑いもせず進むからこそ生まれる煌々とした世界。
しかし、しばらくすると、前に来たときとの違和感を感じるようになった。
何滴かの毒素を垂らしたような――背けたくなるような刺激臭が優しさの一部に含まれていた。
そのことに気付こうとしているときに男は電気をつけた。
何度かのチカチカとした点滅は狂った歯車が軋みながら動き出すシグナル。
そして目に飛び込む情報は直感を小さく逸れて身を襲う真実。
部屋が泣いていた。
玄関に立つカオリが苦痛に滲む泣き声を微かにあげた。
四方の壁に立てかけられていた絵はぐちゃぐちゃに切り刻まれていた。
書きかけのキャンバスが”へ”の字に曲げられていた。
机の上にはノートや本がバラバラに置かれていた。
”世界”がゴジラの過ぎ去った後のように荒廃していた。
残されたのは――あの郷愁の匂いはもう過去の遺物であると告げる余韻だけだった。
-46- 過去形の部屋
リアルなものなんて何もない。
一つの”虚構世界”が目の前に広がっている。
夢があった。
希望があった。
未来があった。
全てが過去形。
全てがウソのよう――。
カオリの部屋は荒んだ異空間に変わっていた。過去だけが存在する虚しい世界。
部屋に残された夢の残骸は、昔は”美”だったもの。今は一転して醜く見える。
カオリが守ってきたものはこんなに脆いものだったのかと嘆く。
いや、あまりにも純粋すぎたから、その分、外からの攻撃にはなす術がなかったのかもしれない。
「ナッチがやったの?」
首を縦に振らないで、という切ない願望が声を不自然に高くさせた。
「だからそうだって言ってるだろ」
男が罵声に近い声を上げた。しかし私は無視して、台所の前で俯き気味に立っているカオリに一歩だけ近づいて、もう一度尋ねた。
「ナッチが‥やったの?」
カオリは顔を上げてから、ゆっくりとうなずいた。悲壊に満ちた目だった。
「そんな‥」
絶句するばかりだった。もう振り返ることはできなかった。
夢と希望を一瞬にして消え去った跡地は私でさえ正常に見ることができないのだから当のカオリの痛みの大きさは計り知れない。
「2日前‥ナッチが突然やってきて、お金が欲しいって‥」
カオリがボソボソとしゃべりだす。私はカオリに近づいて肩にそっと触れた。
「私が『あるけど理由がないと貸せない』と言うと、ナッチが机にあったカッターナイフを手にとって、突然暴れはじめた。
なにか、人間じゃない狂暴な生命がのりうつったように‥」
私と話しているはずなのにまるで独白をしているような言い方をするカオリ。
「暴れた‥って、また酔っていたの?」
あの自分の行動をするにも常に周囲の了解を得ないとできなかった田舎娘のナツミを知っていればいるほど信じられない。
でも、私はこの前の酔っていたナツミの凶暴な獣のような目を思い出し、きっとこの時と同じ状態だったのだろうと推測した。
カオリは無言のまま、包帯が巻かれた右腕を左手で優しく触れている。
まだ、傷跡が疼くのかもしれない。
私は肩で大きく息をついた。
「カオリ‥つらいのはすっごくわかる。でもナッチも酔ってたんでしょ?
だったら仕方ないとは言えないけど、多分ナッチ、今すっごく後悔してると思うし、あんまりナッチを憎まないで。
だってカオリが一番、ナッチの理解者なんだから‥」
カオリは私をキッと睨みつけた。予想外の動作に私は一歩引く。
「何?」
何かが違う、と頭の中で警告音が走る。カオリが被った傷はそんな浅いものではない。
ナツミとの過去さえもひっくり返すようなもの――そういう想像を超えた信号が駆け巡る。
カオリは重々しく首を横に振った。
「サヤカは何にもわかってない」
「え?」
「ナッチはもう昔のナッチじゃない」
「それってどういうこと?」
「‥‥」
「ねえ」
「‥‥」
ナツミへの怒りに任せて、いきり立とうとしていたカオリは、突然消沈し、再び口を閉ざしてしまった。
「ねえ、カオリ。どういうことなの、教えて?」
濃すぎる悲しみがリアリティを欠いたものにしていく。私の言っていることはどこか間違っている、と宣告されながら、
不可思議なオーラに埋もれ、私の存在がはき消されていく。
カオリは押し黙り、私を底知れぬ侮蔑で包んだ。
私は意識が遠のきそうになるのを、下唇を強く噛み、顔を紅潮させることで耐えた。
「お前なんかには言いたくないんだよ」
もう一度カオリに声をかけようとした時、後ろから先ほどカオリに”シンゴ”と呼ばれた男の声が聞こえた。
相変わらずの押さえつけるような言い方に私はムッとして、振り返る。
シンゴの身長を利用して抑圧的に見下す態度の周囲には、壊された世界があって一瞬吐き気を覚えた。
そのせいもあってか、それとも私が想像する”トシヤ”像に似ているからか、シンゴの行動、言葉、態度が全て憎憎しいものになっていく。
「誰だか知らないけどアンタは黙っててよ」
「カオリはなあ、言いたくないんだよ。ウリをやってる奴なんかにな」
「え?」
この男だけには屈しないように眉を吊り上げ、口をひきしめていた顔が一瞬にして戸惑いに変わり、口をポカンと開けさせる。
私は反射的にカオリを見た。シンゴが言ったことがカオリの耳に入っていないことを願っていたのかもしれない。
おそらくカオリがシンゴにそう言ったわけで、耳に届いても届かなくてもカオリは男が言ったことを知っているはずだろうに、
なぜかそんな愚かなことを願ってしまった。
「カオリ‥」
カオリは目を合わそうとしない。私という人格を拒絶してるように、呆然と立ち尽くす私の横を通りぬけ、シンゴに近づいた。
「どうして‥どうやって‥いつ‥?」
私は掠れた声でカオリの背中に問い掛ける。
カオリにとっては性を売り物にすることは最低の中の最低のことなのだということは何となくわかっていた。
だから、カオリには知られたくなかった。
「やっぱ、ホントだったんだ」
最終確認を済ませたと言わんばかりにカオリは重く長いため息をついた。
ナツミにされた仕打ちに対する憎悪、そして私の正体に対する憎悪。
カオリにはあまりなかった”悪”の面が表出する。
誰もが大人になるにつれて蓄積するまどろみの分子が人一倍少なかったカオリを私は尊敬していた。
だから一層、そんな一面を見せつけられると耐えられなくなる。貧血のような眩暈を覚え、私は一度目をギュッと瞑った。
カオリの視線から逃れたとしても、その夜の砂漠のような冷たいココロはしっかり私の核にぶち当たる。
眩暈に耐える中、今度は胸に圧迫感を感じた。
目を開けてから「あのね‥」と言い訳めいた口調でとりあえず切り出してはみたが、それ以上の言葉が出てこない。
言葉として形にならなかった音の滓が口の中で踊り、彷徨い、死んでいく。
両方の拳を握り締めた。何を言っても事実は曲げられない。この時ばかりは私がしてきたことの全てを恨んだ。
「出てって‥。もう会いたくない。サヤカのことなんて信じられない」
奥に鋭い嫌悪を含ませながら低くはっきりと言った。それは確実に私のココロをトゲのある紐で縛りつける。
「カオリ‥」
私はその場に立ち尽くした。足が床にベッタリと貼りついて動かない。
「ねえ、お願い‥。話を‥」
「出てってよ!」
カオリは脆弱な存在に成り下がった私を咽びに近い怒号で押さえつけ、近くにあった枕を投げつけた。
しかし若干逸れて隣りの台所のコンロの上に置いてあったやかんに当たった。
やかんは床に落ち、私の足に当たった。重い金属音が響いた。
痛みはなかった。だけど、涙に伏したカオリの目から放たれた私を拒絶する細い光線が正確に心臓を捉えていて、一瞬うめき声をあげた。
私は家を追い出された。
ドアの外側に寄りかかる。左足から冷たい感触が走る。片方だけ裸足であることにようやく気づく。
私はそのまま地面にへたり込んだ。うっすらとながら遠い空を越えて星が見えた。
頭の中では地鳴りのような轟音が鳴り響いている。
黒い夜空だった景色は白いフィルターがかけられて、その星の光さえ奪われた。何だか感覚が曖昧だ。
カオリのつらい言葉とそれに波長を合わせた私の奥底に眠る何かがそれを生んでいる。
明日というものが見えなくなった。
失いたくないと思っていた一つがいとも簡単に壊された。
泡沫のように飛び散る”失いたくなかったもの”の行く末を見送るとなぜだか笑みがこぼれた。
五感だけじゃない。
喜びや悲しみといった感情さえも麻痺しはじめたのだろうか。
「あははははは!」
高らかに深い夜を突き抜ける声は一瞬私から出されたものだとはわからなかった。
それは何かを掌握しようとしている不気味な響きを含んでいた。
私の口から放たれた意志のない死霊のような叫びはきっと私の中に向けられた合図。
――そして密かに顔を出すこの世界に溶け込むことのない”先天性”。
-47- 手紙と携帯電話
ふらふらと道の真ん中を覚束ない意識の中帰る。
ココロの核を打ち砕かれたようなショックを感じていた。
”マリア”で働いていたこと、そしてそこで多くの男たちに抱かれたことは何の後悔もしていない。
それなのにカオリの痛切な軽蔑に私は朽ち果てようとしていた。
カオリの慟哭が山なりのごとく脳内を駆け巡るたびに、声をあげて笑った。
笑えば笑うほど私は深い闇に落とされた。その闇の中で私は絶望という名の快感を覚える。
笑い終えた後は虚しさだけがココロを埋めていく。私が大切にしていた一本の糸は抵抗する余裕もなく簡単に溶かされてしまった。
カラダがどこか浮いている。晩夏の風、葉の音、舗装された道、壁、信号機。
道行く先にある全ての物体が私に対し拒否反応を示す。まるで異物を混入されたかのように。
家に帰る途中、ナツミにほぼ無意識に電話をしていた。
別にカオリにしたことを糾弾しようとしたわけではない。
帰り道はカオリの悲しみなど忘れ、私に対する非難のみが記憶を支配していた。
求めているのはきっと短いながらも親しみの一つになっていたナツミの声。
カラダもココロも宙ぶらりんで、全てに拒否された状態で私はナツミに助けを求めたのだろう。
しかし、もう昔のナツミはいない。
だから声と言っても慰めの類いではなく、
きっと抉られたココロの傷を自ら深くするための声を求めているのだ――喜びや悲しみは麻痺していた。
おそらく繋がらないだろうと思っていたが、意外にも「プルルルッ」と向こうの携帯に繋がった音が聞こえてきた。
若干の緊張でもって私は携帯電話を強く握り締める。
最初に何て話そう?
ナッチ大丈夫?
私の正体知ってる?
『何だべ?』
ナツミに向ける言葉を考えている時、頭の中でナツミの声が聞こえた。
その独特のイントネーションは私がナツミに描く理想像から放たれたもの。
息苦しいくらいの純粋さに対し、私はまだ繋がっていない電話に向かって呟いた。
「実はね、私、風俗でずっと働いていたんだよ」
別に届いたわけでもないのに言ったあと、さらに胸がプレスをかけられたような苦しみを味わう。
別に恥ずかしくないと思っていたことが、いつの間にか必死で隠さなければいけない秘密になっていた。
こんな言葉を吐き出すことは、ずっとずっと重いものになっていた。
長いコール音は死刑執行のカウントダウン――直感だがナツミもカオリと同じく私が風俗嬢だったことを知っているような気がした。
こういうくだらない直感はほとんどの確率で当たるものだ、と出る前から半ば結論づけてしまう。
何パターンかの簡単なシミュレーションが頭の中で繰り返される。
しかしどれにしろ、別離のベクトルに向かうことには変わりなかった。
どうせだから、出る前に切ってしまおうか、という思いに反し、指はボタンを押してくれない。
結果は私の想像外の形で表れた。
「もしもし」
聞こえてきたのは明らかに男の声。一瞬番号を間違えたかと思ったが、携帯に登録した番号からかけたはずで、間違うはずがない。
一度、電話を耳から外し、画面に”ナツミ”の文字があることを確認したあと、おそるおそる尋ねた。
「‥もしもし‥あの‥ナッチは?」
「ナッチ? ああ、こいつのか‥」
どうやら彼氏が間違えて電話を取ったようだ。口ぶりからいって、ナツミは近くにいるようだ。
「ナツミさん、います?」
「で、どちらさん?」
私の問いかけを無視して、向こうは欠伸混じりに聞いてきた。どうやら眠っていたところを起こしてしまったようだ。
「サヤカです。イチイサヤカ」
「は〜い、ちょっと待ってね。ってイチイさん?」
ガサゴソとした音が聞こえる。どうやら体勢を変えたようだ。
「はい。そうですが‥」
鼓動が不意に高鳴る。何となく予感はしていたのかもしれない。
「ふ〜ん‥」
そう意味深な言葉のあと、声が途切れた。私はカラダ中を舐めまわすように見られている感じがした。
「あの‥ナッチを‥」
「そんなことよりさぁ、今から会わない?」
「は?」
「仕事にしてるぐらいだからエッチ上手いんだろ? 俺にテクを教えてよ」
身の毛がよだった。
この男は私とは面識がないはずだ。だから私のことを知るには全てナツミからの情報のみということになる。
つまり男がその事実を知っているということはナツミにも知れ渡り、
なおその事実を自分の胸の中で留めず、彼氏にも打ち明けたということだ。
――ナツミの声が聞きたい。
きっと返ってくるのは慰めではなく罵倒だろう。それでも私は欲しかった。だけどナツミはそれすらも拒絶した形になった。
「あの‥ナッチは横で寝てるんですか?」
感情を押し殺して尋ねる。事を済ませた後であることは容易に推測できた。
「ああ、それより俺と―――」
「ナッチに『さよなら』って伝えておいてください」
向こうの反応を待たぬまま、私は電源を切った。
夜より深いため息をつく。淀んだ空を割ってぼんやりと輝く星を見つめながら、奥歯を噛みしめて涙を必死で堪えた。
ナツミが変わってしまったのは彼氏のせいだとはっきりわかった。しかし、そんなことはもうどうだっていい。
私に問い詰めたりせず、軽軽しく私の素性を彼氏に伝えたナツミに私は裏切られた気がした。
でもそれはお互い様だ。きっとナツミも裏切られた気がしているのだろう。
私は握っていた携帯電話を思い切り、横のコンクリートの壁に投げつけた。ナツミが憎かった。
ついさっきまで電話していた彼氏のことが憎かった。そして何より電話をしてしまった自分が憎かった。
携帯電話のパーツが飛ぶ。私はそれを拾い、ボタンを押したりしてもう壊れてしまったことを確認する。
そして、もう一度壁に投げつけた。携帯電話は無残にもバラバラになった。
カラダにぶつかる風が重みを増していた。一段と寒く感じた。
家までの道のりは果てなく長かった。憎しみを携帯電話にぶつけたとしても何の緩和にもならない。
自分がいかに愚かなのかを増殖させるだけだった。
身もココロもボロボロになった気がした。早くお風呂に浸かって、眠りたい。できればマリに優しくされたい。
マリ?
自分の家のドアノブに手をかけた時、暗い光が網膜を襲った。この世のものとは思えないおぞましい光。
私はその光の粒子を潰そうと頭を振った。
この予感だけは外れてほしい――ひたすらそう願った。
一度手に掻いた汗でノブを滑らせた。いつも以上に強く握り締め、ノブを回すもカギがかかっていた。
隣りにあるチャイムを鳴らした。ドアの向こう側で確実に鳴り響いている。しかし、それ以外の音は全く聞こえない。
私はバッグからカギを取り出して開けた。部屋は暗い。気配すら感じない。自分の鼓動で張り裂けそうになる。
暗いのは怖い――だけど今日怖いのはそれじゃない。
部屋の真ん中にある電気を点ける。
すぐ下に目をやると、美味しそうな料理が置いてある。そしてその中央には携帯電話があった。
ピンク色で味気のないストラップが付いたマリのものだ。
私は一縷の期待を持った――ココに携帯が置かれているということはマリはちょっと外出しているだけなんだという期待。
それを覆すものが横にはあった。置かれた真っ白なA4サイズの便箋だ。
私はそれに触れ、後ろを見ると文字が書かれてあった。
「マリ‥」
力なくマリの名を呟く。一番下にはマリの名前が書かれてあった。
真ん中には小さい字で書かれた短い文章。
『突然だけど親元に帰ることにしました。
ずっと考えていたんです。このままサヤカに甘えちゃいけないって。
ちゃんと巣立たなくっちゃって。
本当は朝言おうと思ってたんだけど言えませんでした。ごめんね。
離ればなれになっちゃうけど、何があってもサヤカはずっと大切な妹だよ。
だから、私のことも姉と思ってくれたらうれしいな。
自分勝手でごめん。ありがとう。さよなら。
またどこかで絶対に会おうネ』
紛れもないマリの字だった。
一瞬、生まれた期待。そしてそれを反転させる別れの言葉。天国と地獄を同時に見せられたような気がした。
永遠のような”不在”が重く背中にのしかかる。私は卑屈な赤茶色の淀んだ血管を絞り出すように叫んだ。
ふとマリの携帯を手に取った。電源は入っていない。ボタンを押しつづけ、「ピー」という長めの音を鳴らす。
私はそれからすぐにメモリーをチェックした。
前みたいに『暗証番号を入力してください』と表示されることはなかったが、それ以上の絶望が表示された。
『メモリダイヤルには何も登録されていません』
それからメールや送受信履歴を調べたが、全て消去されていた。
私は無理だと悟りながら、家の電話を使って、マリの携帯に電話した。
予想通り「利用停止」とアナウンスされた。
これは期待をもたせるものではなく、決別の証だったのだ。
「自分勝手すぎるよ‥」
書き置きを持つ手を震わせながらつぶやいた。そして、昨日私が出かける直前にマリが言った『新しい私』という言葉を思い出した。
あれは今向けた言葉ではなく、遠い未来を見ていたのだ。なぜマリの心境に気付くことができなかったのかと深い後悔を覚える。
手紙の中の「何があっても」という下りを何度も噛みしめる。
するともしかしたらマリは私がソープ嬢だということを知っていたのではないか、と思えてきた。
マリはずっと知っていて耐えていたのかもしれない。
もしくはカオリやナツミと同じようについ最近知って、私と一緒に居るのがイヤになったのかもしれない。
――もしそうであったのならつらすぎる。
何度も何度もマリの字を眺めた。頭の中で100回繰り返し読んだ。
ホントは叱ってほしかった。
そして、できればその事実を抱きしめて、洗い流してほしかった。
でも、そうさせてくれなかったのはマリもその事実に耐えられなかったのだろうか。
様々な感情が二人の間を交錯する。
ちょっと昔と、ずっと昔。昨日と明日。いろんな時間軸が飛び交ってわけがわからなくなる。
再会後はお互い、昔とはどこか変わっていることに気づき、今の生活の干渉を避けた。
同居というより共同生活というちょっと冷えた言葉がふさわしかった。
やがて、マリのレイプを契機に、少しずつ二人に昔の面影を踏襲するような親密関係が生まれてきた。
しかし、二人が考える親密さはやはり少し違っていた。
マリは私に狂気的な連結を求めた。
私はマリに友情の範疇内での究極の関係を求めた。
多分、この微妙なすれ違いはしばらく続くだろうと思っていた。
だけど、いつかお互い歩み寄ったりして、その小さなズレも埋められるものだと思っていた。実際、埋められてきていると実感していた。
私が甘かった。
もしかしたら、小さいと思っていた”感情の不一致”は思いの外、大きかったのかもしれない。
大体、レイプがきっかけで昔のような関係になろうとしたこと自体が人として狂っているのだ。
カラダ中の力が抜け、腰がストンと落ちた。涙はあまり出なかった。まだ現実のものとして受け入れられなかったのだろう。
別れは必ずある。しかし、まさかこんな目の前に迫っていたとは思いもよらなかった。
自分で言っておきながら、いざ直面するとそれは絶望に近い後悔に変わる。
一体なぜ別れなければならなかったのか?――そんな疑問を何度も頭の中で繰り返す。
その答えの根源を私はおぼろげに見出した。私はあることを思い出す。
これは何でこうなったのかを解決するものになるとは思えない。だけど、悲しみや憤りへの対象という荒んだ探究心が私を動かした。
持ってきたのは私の古めのもう使っていない殿堂入りのバッグ。中には最近入れておいた中身の知らないビデオテープ。
だけど、内容は99%わかる。
私はテープをビデオデッキに入れた。
そして、再生ボタンを押す――。
しかし、テレビの画面に黄色の光が現れた直後にその映像を消した。
事実を目で認識するのがとてつもなく怖い。
「何をやってんだ、私は‥」
そう呟き、目を強く閉じてから私は唸った。
生きのびる手段を失った手負いの獣のように低く低く声を押し上げながら後悔を噛みしめた。
頭の上の電気はつけっぱなしのままテーブルに額をつけた。
白夜のような明るい夜は虚しさだけを抽出して私を晒しモノに照らし出しているようだった。
-48- 喪失の朝
ほとんど寝つけないまま朝を迎えた。
朝といってもまだ6時。秋も近いせいで、スズメの鳴き声や朝日の光など朝らしい因子はまだ窓からは飛び込んでこない。
腰と額が痛い。昨日一晩中、テーブルに額をつけていた証拠だ。
油が浮いているのか頬や鼻のてっぺんが気持ち悪くて手の甲でゴシゴシと拭った。
ふと目の前にマリの書かれた便箋が映る。
夢ではないのだと改めて悟る。それでも中身が変わっているのでは?
と思い、目を擦ってからもう一度見る。そして又絶望の淵に落とされる。
最悪の朝だった。
しかし、昨日に比べて身体に少し変化があることに気づいた。
今自分がいるところから一歩前にカラダがあるみたいな感じがする。
幽体離脱が常に行われているような感じ。
究極的に打ちのめされた気分になるとココロは自分のカラダに居座ることさえイヤになるのだろうか。
「お腹すいた‥」
ひとり言。誰の耳にも届かない。私はマリが作ってくれたであろう料理を見た。
そして最後の会話で私が「豪勢な料理をよろしく」と言ったことを思い出した。
「これが豪勢かよ‥」
鼻をすすりながら呟いた。もちろん誰の耳にも届かない。
ご飯と味噌汁とキャベツの千切りと冷凍食品のほうれん草とサバの味噌煮の缶詰。
私はキレイに形が整えられたほうれん草を醤油もつけずにつまんで食べる。
「おいしくない‥」
例え、それが手作りであっても同じだっただろう。何度も何度も咀嚼して飲み込んだ。
冷蔵庫に「今日はゴミの日」とマリの字で書かれた大きめの付箋紙が貼られているのを見つけた。
さらに周りを見渡すと台所にはマリ用のお茶碗が二つ洗っていないまま置かれていた。
壁にはマリが刺した画鋲が七つ、北斗七星の形を作っていた。
机にはマリが買ってきたセンスの悪いヤジロベーが置いてあった。
そして、壁にかけられたクリップボードにはマリと私がじゃれ合っている写真が貼られていた。
この部屋の全てにマリの残した面影がある。ぬくもりがある。
でも肝心のマリがいない。
マリは巣立ったのだ。
これはマリも使った言葉だ。この言葉を丸々信じようと思った。ちょっとウソっぽいけど、盲目的に信じようとしないと私は前に進めない。
一生繋がらなくなったマリの携帯電話にもう一度電話をかけた。利用停止のコールが鳴る中、私は叫んだ。
「マリー! バカやろう!」
マリのココロに届いてほしい。
私のいないところで何とか幸せになってほしい。
そして、またマリと笑って出会いたい。
ココロからそう願った。
電話を切り、親機に置こうとした時に、その液晶部分が点滅していることに気づく。
どうやら留守電が入れられているようだ。再生ボタンを押すとキュルキュルと音を立てた後に、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「携帯に電話したんやけど、つながらんかったからこっちに電話しました。何時でもいいから電話してくれへん?」
ユウコの独特の関西弁は昨日も会っていたというのにひどく懐かしさを覚える。
そしてその次には虚しさが流れ込む。
自分のペースを乱したくないユウコから「何時でもいい」なんて言葉が口に出ること自体おかしい。
それと口調の端々から漏れる重々しさを加味して、ああ終わったな、と悟ったのだ。もう諦めがカラダを支配していた。
「もしもし、ユウちゃん」
液晶部分に表示されていたユウコの電話番号に電話した。
普段は起きていそうにない時間だったが、ユウコはすぐに出た。まるで右手に携帯電話を常に持ち構えていたかのように。
「サヤカか。おはよ‥」
いつもの『”ちゃん”付けするのはやめーや』という、イヤそうに、だけど嬉しそうに言うユウコではなかった。
「おはよ。ごめんね、こんな時間に」
「いや、いいんや。あたしが言ったことやしな‥」
「うん、それで何?」
ちょっと間が空く。
「アホなことを聞くかもしれんけどな」
「うん」
「サヤカ‥」
口が止まった。いつもズカズカと言いたいことを言いまくるユウコがこうしてためらいを見せる。
少し前の私を誠実でいい子と思ってくれていたから後ろめたいのだろう。
ちょっと嬉しかった。だけど、次に続く言葉がわかっていることをこれ以上、もったいぶらせるのはイヤだった。
「辞めるよ。ユウちゃんを騙してたようなもんだし」
電話の向こうでは驚きの吐息が聞こえた。
「そ、それじゃあ‥」
「うん、私はウリをやってる最低な女だよ」
ユウコは常日頃「性を売り物をする人間は最低だ」と言っていた。
これはユウコのポリシーでどんな人間であろうと、その考えを覆すことができない屈強たるものだ。
それを知っているから、いつもココロがチクリと痛んだ。
ユウコたちと仲が良くなればなるほどその痛みの強さは大きくなっていた。
だから、もう潮時なんだ。
そう正当化するように言い聞かせながら私は自分を卑下する言葉を発した。
ユウコは押し黙っていた。葛藤が向こう側で繰り広げられているのがわかる。
そしてその葛藤の結論がどちらに傾くかということも。
「何も言わなくていいから聞いて」
私は言った。ユウコは小声で「うん」と言った。
「ホントはちゃんと会って言いたかったんだけど、ユウちゃんにめぐり会えて本当によかった。
親とは絶縁して、エンコーしまくって、風俗で働いて‥って影の道をコソコソと歩いていた人生の中で、
ユウちゃんやカオリやナッチと会えたことは一筋の光を与えてくれてるみたいに感じていたんだよ」
「サヤカ、あたしはな‥」
「だから、何も言わなくてもいいから‥。ユウちゃんがどんな人間かだなんてよく知ってるよ。
どんなにお涙頂戴のドラマを語ったところでユウちゃんの気持ちは揺らがない。
だけど、どうしても言いたいんだ。ありがとう、そして、さよならって」
マイペースだから、わがままだから、社会のしがらみに屈していないから、
そして性を売り物にすることが何よりもキライな人だからスキだったんだ。
そして、羨ましかったんだ。
「‥サヤカ。すまんな‥」
ユウコは涙を浮かべているのだろうか、ユウコらしからぬモゴモゴとした口調だった。
「うん、ありがと。さよなら」
余韻とか全てをスパッと切断したくて、私は突然、電話を切った。向こうは驚いているかもしれない。
だけど、もしかしたら納得しているかもしれない。どっちにしろ、もう電話はかかってこないだろう。
私は自分に向けた怒りに任せて電話の横にあったホッチキスを鏡に向かって投げた。
私の全身をそっくり映し出していた鏡は無残にヒビが入る。
ちょうど私の顔の眉間あたりからそのヒビが入っていて、それがまるで”サヤカ”という人物の崩壊を示しているようでおもしろかった。
――みんな消えていく。
そして割れた鏡を見て、自分ももうすぐ消えるのではないか? と思った。
もうこの大地で生きていくには、大切な人を作りすぎ、そして作った分と同じだけ失った。
私は元に戻らなければならない。あの生死さえ、性差さえ、次元さえ超えたあの子の元へ―――。
ハッとした。
私の脳裏に浮かんだのはあの子ではなかった。将棋倒しのように私の元を離れる流れの中で、
投げやりな気持ちは勝手にその倒された中に入れてしまっていたのだろうか。
もしかしたらムダなのかもしれない。しかし、これが本当に最後の望みである以上、賭けなければいけない。
運命を握る存在に挑戦する。
一時、私は一日に何度も電話をかけていた。だから電話番号は自然と記憶されていた。
生きることを教えてくれた人に、愛することを教えてくれた人に――。
私はユウキに電話をかける。
-49- 運命を握る者
夕闇は幾重にも色を重ね、何もかも夢のように濃くぼやけて浮かび上がる。
穏やかな眠りに入る直前の街は優しいオレンジ色に燃やされた絵画のようなとぼけた情景。
私たち二人はその中心に単色で立ち、ダークグレーの影がずっと後ろにまで伸びている。
有限でありながらぼかされ、遥か先まで続いて見える道をほとんど言葉を交わさずに歩く。
その間、ずっとユウキの顔は見れずにいた。繋がった手の感触と、歩調の違う足音だけがユウキが隣りにいることを教えてくれる。
手を繋いでから何分経ったのだろう。電話をかけた時以上に汗ばんでいて気持ち悪い。
しかし、今ここで離したら永遠にこの手を握れることができないような気がして私の方から離すことはできなかった。
ユウキといると、どうしようもない幸せを感じ、それがとてつもなく希薄なものに感じる。
その先に見えるものはユウキが私の”恋人”という存在になってからずっと付きまとっていた”絶望”の二文字なのだろうか?
ユウキは今何を考えてる?
手を離したい?
お腹減った?
次どこ行こう?
キスしたい?
エッチしたい?
ユウキの気持ちの100分の1もわからない。
どんな過去を背負い、今何を思い、どんな方向を見つめている? 私のことをどこまで深く思っている?
「愛してる」という言葉だけではわからない。
キスやセックスという行動があってもわからない。
頭を糸ノコギリで真っ二つにして、脳の中を覗いてみたい。
ユウキの全てを掌握したい。
私の狂気だったココロは今ユウキというカラダに吸収され、乱暴ながらも飼われている。
母が恐れ、壊そうとした私という特種は、一人の男によって再び変異を起こした。そして、この社会に生きる道を誘導してくれた。
――ほんの少し前まではそう思っていたのに。
ユウキもナツミやマリのように運命に逆らうことなく私が結びつけた細い糸を切断してしまうのだろうか。
その予感がずっとさまよう幸せの裏側にあった絶望なのだろうか。
手をさらに強く握った。ユウキは顔を少し歪めて私を見る。
ユウキの顔を見たのは随分前のように感じてしまう。
朱色の景色に包まれる中、ユウキの瞳は哀しいほど強い光を蓄えていた。
しかし、その光は決して私には向けられない。虚空の輝きが私との距離を遠ざける。
そんなユウキの表情を見なかった振りをするように笑顔を見せるとユウキは手をさらに強く握り、私の顔を歪ませた。
ユウキも私のことを同じように見ているのだろうか。そして感じているのだろうか――この手が離れたとき、全てが変わってしまうことを。
運命は私を奈落に落とそうとしている。抗おうとすることは不可能だということを唱えている。
そして、その運命を握っている人間はきっと――。
「俺の家に行こう」
縋るようにして電話をかけた先にはやや緊張気味に声を震わす野太い声があった。
黒い澱に浸蝕された部屋に吸収されようとしていた私に”幸せ”という名の塊が入りこみ、カラダの中を駆け巡る。
受話器を強く握る手からはじんわりと汗が滲む。
「家‥って?」
「母さんや姉ちゃんに紹介したいってことなんだけど‥」
「え?」
一瞬耳を疑った。カラダには微電流が走る。
別に結婚がどうとかいう年齢ではないから、家族にちょっとした宣言をしたいだけなのだろう。
「イヤってんのならやめるけど。あ、別に結婚とかってわけじゃないから」
ユウキは少し慌てた口調で付け加える。
「わかってるよ。それくらい」
私は苦笑した。
そして、その後に「いいよ」と承諾した。
でもユウキはお母さんやお姉さんに私のことを何て言っているのだろう。
まさか、「ソープ嬢です」と言ってはいないだろう。そこら辺を後で聞いて口合わせをしておかなければとすぐに思った。
私がユウキの家族に会うことを決めた理由は、ユウキの全く知らないところにあった。
ユウキが”姉ちゃん”と口にしたとき、私は長い間眠っていた私が傾倒していたある種の”宗教”が覚醒していた。
これがカラダに流れた電気信号の正体。
――マキだ。
顔が似ているというだけでそれ以外に結びつくものは何もない。
だからこそ、確かめたかった。これは偶然なのか必然なのか。
「んじゃ、決定。よかった」
ユウキはほっとしたような声でそう言った。
私は純粋に紹介しようとしているユウキに罪悪感を覚え、決断は早かったと少し後悔する。
その一方で、脳裏によぎるマキの姿を恐怖と憧憬でもって迎えていた。
それはいつもよりずっと具現化された”人間”としてのマキだった。
――マキとユウキは関係があるのか?
もしないのならそのままでいい。
もうマキは私の夢の中に出てくる気配すらないのだから、そのまま記憶の海に沈めてしまえばいい。
きっともう出てくることはないだろう。
しかし、もし関係があったならば?
わからない。
この数奇な運命から考えても、偶然とは思いにくい。
だからきっとユウキと巡り合わせたのはマキの意志になるだろう。しかし、その肝心の意図がわからない。
ユウキとの出会いは、マキを忘れる機会を増やした。マキの存在自体を不要とさせた。
どう考えてもマキにはデメリットしかない。
ホントのことを言えば真実は知る必要なんてない。
知らないほうが良いことがこの世界にはたくさんあることを私は身をもって知っている。
関係はないんだ、と思い込めばそれでいい。
このままずっとユウキのぬくもりを感じながら生きさえすれば、それは今の私にとっての一つの幸せの形だ。
だからユウキとマキの因果なんてはっきりしなくたっていいのだ。
「じゃあ、今度の日曜日とかはどう?」
ユウキがこう話を進めようとしたからかどうかはわからないが、
次の瞬間、突如として熱い綿でも詰め込んだように胸の辺りが苦しくなった。
呼吸の仕方を忘れたかのように荒く酸素を求めてしまう。
私は受話器から口を離し、昨日のマリの不在に対する苦しみを耐えている時と同じようなうめき声をあげた。
これは拒絶反応なのだと思った。
私の中の正常な部分が「断れ」と唱えているのだ。
まだ断ることはできる―――この胸の苦しみの延長線上には真実への扉がある。
錆び付いた禁断の扉だ。開こうとする好奇心がこの苦しみを創り出しているに違いない。
断る理由なんていくらでもある。
恥ずかしいとか、もっと一人前になってからとか付き合ってちょっとしか経っていないカップルは普通そんなことはしないよとか――
きっと言えばユウキも止めてくれるだろう。口ぶりから言っても強引に事を進めようとする気はないようだ。
幸せを得る一番の近道はユウキのことだけを思い、他の全てを忘れることだ。
ココロの中でそう呟き、胸の辺りをぎゅっと締め付けた。
胸のある異物はさらに熱を増やし、私のカラダ全体に変調をきたそうとしている。
それも「やっぱいやだ」と言えば万事解決する。私はユウキとの関係を守るために前に進むのを止めるんだ。
そう思い聞かせた。
「サヤカさん?」
沈黙の電話から出たきょとんとした声がユウキから私へと伝播する。
「あのね‥、ユウキ――」
断ろうとした瞬間、私の中の何かが弾けた。
将棋の理詰めのような長い熟考の末の結論により自分のココロの置き場所を探し出した瞬間だった。
私のココロは思っていたところとは正反対の位置に頓挫する。
勝負に勝つ瞬間、将棋盤をひっくり返されたように今までの苦労は全く無意味になる。
しかし、それは不思議なくらい自然な流れだった。
「何?」
「‥‥いいよ」
口はそう動かしていた。ほとんど私の意識とは無関係だった。だけど、その後に尾を引く感覚はなかった。
これが正しい選択であったかのように、全ての苦しみがすーっと消えていく。
胸のシャツをつかんでいた右手をゆっくり離す。力が上手い具合に抜ける。妙にこの喪失の部屋に安らぎを感じる。
口元からスースーと呼吸をする音が聞こえた。痛みはあるがその痛みは苦しみにはなっていないことに気付く。
もしかしたら関係があってほしいのかもしれない。私の凄惨な先天性が荒波を求めているような気がする。
こんな風にマキとユウキとの因果を考えたとき、私自身の意志すら混乱してしまう。
そして私の意志とは無関係のところで私の行動が決定してしまう。
私はそれらを”運命”という言葉で一纏めに括り、全てを見えない存在に委ねた。
それが妙に心地良かった。
約束の日曜日、私はユウキの家に向かった。ユウキは駅まで迎えに来てくれた。会ってすぐに、
「ちょっと化粧濃くない?」
と冷やかされた。そんなつもりはなかったが無意識に濃くしてしまったのかもしれない。
ユウキは私の女としての繕いを見て、少し嬉しそうだった。
東京の下町にユウキの家はあった。
そこは情緒溢れる住宅街で、雑踏や喧噪とは程遠く、少し鼻に神経を集中させれば郷愁の匂いさえ鼻孔をくすぐってくる。
家ではユウキのお母さんが待ち構えていた。
玄関の扉を開けるなり、さすが下町の人と言うべきか「いらっしゃい」という大きな声で私を迎える。
慣れていないせいで私を歓迎していない抑圧的な感じもしたが、
目が合うなりお母さんは優しく微笑んでくれ、その第一印象を消してくれた。
ユウキの家にはお父さんがいない。聞けば数年前事故で死んだそうだ。
お母さんはその後、子供3人を母の手一つで育ててきたのだから逞しい母親だ。
「この人がユウキの彼女?」
台所の暖簾をくぐって一人の女性が現れた。真っ黒の髪が肩口まで伸びている。
顔立ちは目なんかはユウキと似ているがユウキとマキほどは似ていない。
私はユウキを誰? という目で見つめる。
「俺の姉貴。うるさいだけのただのババァ」
フッと鼻で笑う仕草で私にお姉さんを紹介すると、その姉はユウキに飛び掛かりヘッドロックをした。
ユウキを「ギブギブ!」と畳をバンバン叩くと、お姉さんは離れる。
「どうだ」と言わんばかりの勝ち気に溢れる姉に対し、ユウキは私に、
「ね、ただのババァでしょ?」
と耳打ちしてきた。私はお姉さんの額にうっすらと青筋が浮かんでいそうな表情を見て、少し青くなりながら力なく苦笑した。
それからは一家団欒。久しぶりに私は家族を感じて楽しかった。かといって母や父と復縁しようなんてことは微塵も思わなかったが。
午後3時という世間一般ではおやつの時間に夕食を摂ることになった。
お母さんは仕事があるので日曜日はこの時間に食べることが多いらしい。
最初は当然、私たちの話。世俗的な好奇心に任せるようにどんどんと質問がお母さんとお姉さんから飛ぶ。
私たちはあらかじめ話し合ってユウキのナンパで私と出会ったということにした。
ナンパと言うとあまり聞こえは良くないかもしれないが、あまり美しい出会いのシチュエーションを想定すると歯が浮くし、
実際よりはずっと健全な出会いなのだからちょうどいいかな、ということでそうなった。
「どんなところに惚れたの?」と聞かれ、「顔です」と即答した。一応、事実なのだから仕方がない。
でもココは「男っぽいところです」とか性格の面を言ったほうが良かったのかもしれない、と後悔した矢先、
「正直な人だね」とクスクスと音を立ててお姉さんは笑ってくれた。
しばらくして私に質問する機会が巡ってきた。
「お姉さんてもう一人いるんですか?」
ほうれん草のごま和えを食べている時に私は聞いた。ほうれん草もそうだが、肉じゃがやエビの天ぷら等は全て美味しかった。
「はい、もう結婚していてたまにしか帰ってこないんですが」
「じゃあお孫さんは‥」
「はい、一人。この子なんかよりはずっとかわいいです」
一段と幸せそうな顔をするお母さん。”この子”と呼ばれたユウキをちらりと見たが私たちの会話に乗ろうとはせず、
黙々と味噌汁に口をつけていた。
「へぇ〜、いいですね」
どうやらマキとは何にも関係なさそうだ。
そう落胆のような安堵のような複雑な心境になった私をお母さんは次の言葉で再び吊り上げた。
「ホントはもう一人いるんですけどね」
「え?」
「え?」
私と隣りであぐらをかいて座っていたユウキが驚きの声を同時にあげた。
「そ、それって隠し子ってコト‥? どっか他の家で隠し持ってんの?」
一度舌を噛みながらユウキは言った。お母さんはそんなユウキの頭をテーブルを跨いでごつんと叩く。
「いってぇな! 何すんだよ!」
さっきのお姉さんといい、お母さんといい、どうやらこの一家は暴力歓迎のようだ。
「何バカなこと言ってんの?」
お母さんは箸を揃えてテーブルの上に置いた。
「あ、そっか‥」
お母さんの目線は私にもユウキにも向けられていなかった。その視線の先を追ってユウキは何か気づいたようだ。
私は無意識にお母さんと同じように箸を揃えて置いた。
「生まれてしばらくして、事故で死なせてしまったんです。私の不注意でした」
今までにない静粛なお母さんの声。私はそのお母さんが見ている方向に顔を向けると、仏壇が目に入った。
扉は閉じられている。しかし、きっとその中にはお父さんと、今お母さんが言った”事故で死んだ人”が祀られているのだろう。
楽しかった団欒はお通夜のような雰囲気に包まれた。
私はめくるめく運命の糸をたぐりよせる。絡み合った糸がするするとほどけていく。
冷たい汗が汗腺を埋め、表出する。脳内には錆び付いた扉が焼きついていた。私はそれに手をかける。
「その子の名前、何て言うんですか?」
お母さんの顔色をうかがうように尋ねた。隣りからユウキの「え?」という呆けた声が聞こえた。
しかし、当のお母さんは私の問いはまるで予想通りであったかのように表情を変えずに口を開いた。
「マキと言います」
胸の中で血が熱く沸き立ち、逆流するような感覚を覚えた。
-50- 白い影
頭の中では玉のようなものが音を立てずに廻っている。頭を拳で強く叩いても止まらない。
きっとこれは運命のルーレット――。
沈みゆく太陽に焼かれた空気が私たちを取り囲む。密度が薄く、世界をふわふわとさせる。
長い沈黙は突然終わりを告げた。しびれを切らしたとかではなくごく自然にユウキが口を開いた。
「しかし、今日の母さん変だったなぁ」
目を横にやるとユウキが不思議そうに首をかしげていた。
「やっぱり緊張してたのかなぁ? サヤカさんは緊張した?」
「え? あ、うん‥。かなり‥」
声の出し方を忘れてしまったように私からは片言の声しか出ない。
「やっぱそういうもんなんだね」
しみじみとユウキは言った。
ユウキの家を出てから1時間以上手は繋がれたまま。汗もじっとりにじんでいて気持ち悪い。
しかし私もユウキも離そうとは思わない。一種の強迫観念に守られながら。
夕焼けがゆらゆらと空気を曲げ、景色をオレンジ色に染めていた。
細長い雲が夕陽の4分の1を覆っていて、「何となく”パックマン”みたいだね」とユウキは表現する。
どうやら古いテレビゲームのキャラクターのようだ。
そんなとぼけた風景ももうすぐ終わる。陽が落ち、闇が幾重にも塗り重ねられてやがては夜を迎える。
そんな消え行く直前の儚さを持っている景色だからこそこんなにも美しいと思うのかもしれない。
「マキちゃんのことを口にする母さんなんて久しぶりだったんだよ」
1日のサイクルに小さな畏敬を感じ、その重みに浸かろうとした時、ユウキは再び訪れようとしていた静寂を破る。
”マキ”という言葉に一瞬ビクついた。手ががっしりと繋がれてるためユウキにもその動揺は瞬時に伝わる。
「どうしたの?」と聞かれ、「なんでもない、突然声をかけるもんだから」と苦しまぎれに答えた。
私以外の人間から”マキ”という名前が出るのは、マリ以外はほぼはじめてだった。
そのマリから出たのも記憶に久しい。思い慣れているのに、聞き慣れていない名前にひどい違和感を覚える。
またしばしの沈黙が流れた。子供たちのはしゃぐ声が遠くから聞こえてくる。
私たちの横をチリンチリンと鈴を鳴らしながら自転車が通りすぎていく。
日常のありふれた音がやけに自己主張を始めていた。
そんな音たちに混じり、路上にはないはずの音が耳の裏を掠めていることに気付く。
ほんの少し前、ユウキのお母さんの横で聞いていたカチャカチャと皿が擦れあう音と、水道水がコップを打ちつけている音だ。
私は郷愁というちょっと胸を締め付けられる言葉に包まれながら懐かしく思い出す。
夕ご飯をご馳走になった後、私はお母さんと一緒に食器を洗うことになった。
花嫁修業をしているみたいで恥ずかしかった。
手伝いをしたのはお母さんにいいところを見せようとしたのでは決してなく、
ユウキと離れたところで何とかマキについて聞き出したかったからだ。
平らなお皿を私の家と同じチャーミーグリーンで洗いながら隣にいるお母さんに話し掛けた。
「何でマキさんのことを私なんかに話してくれたんですか?」
私から”マキ”の話題を引っ張り出すのは不自然な気はした。
案の定、お母さんは皿を拭く手を止めて、私をちょっと不思議な目で見た。
しかし、訝しさに変わることはなくすぐに再び手を動かしながら、遠い目をして言った。
「何ででしょうね‥。いつもはあんまりマキの話はしないことにしてるんですが、多分‥」
「はい」
「サヤカさんが‥マキに見えたんです」
「え?」
茫然とした。お母さんは私の頭の中を覗いたのだろうか。それとも血やDNAがそうさせたのだろうか。
表情の固まった私を見て、お母さんは慌てて付け加える。
「いや、ははは。何バカなこと言ってるんでしょうね、私‥。
サルみたいな顔しか覚えていないし、もし成長したとしても多分、
あなたみたいなかわいらしい顔じゃなくて私やユウキみたいな顔になるはずなんですけどね。気を悪くしたのならごめんなさい」
「いえ‥別にいいです‥」
優しそうな表情に変わろうとするお母さんに対し、私は真顔のまま答える。
もっとお母さんに私の瞳を覗いて欲しかった。そして、その奥に棲むマキと会話をしてほしかった。だから、じっとお母さんを見つめた。
しかし、お母さんは私の顔を見るのを避けるようにテレビの前で一家の主のようなふてぶてしい態度で
横になっているユウキを一瞥して笑った。
「あの子ってホント、手に負えない不良息子だったんです。
殴り合いのケンカをしたり、変なところに行ったりもしてたみたいだし‥。
だから今日彼女を連れてくるって聞いて、あんなバカを好きになってくれる人なんだから、
ロクな子じゃないと思って結構身構えたんですよ。っていうか追い返してやろうって気持ちも半分ありました」
私もお母さんも同時に顔がほころぶ。しかし、すぐお母さんはその顔に灰色の影を落とした。
「でもサヤカさんが一瞬マキに見えて――。いや、ホント一瞬だったんですよ。
でもそしたら追い返そうなんて気持ちがパーッとなくなって‥バカですね、私」
お母さんの目に光るものがあった。それは遠い記憶の彼方に押し込めていたマキへの罪悪感だろうか。
私は「ありがとうございます」と口を挟んだ。
その意味を言った当人でさえわからなかったし、当然お母さんもそうだったみたいだがなぜかその時はその言葉が最適のような気がした。
「これからもよろしくお願いします」
お母さんは仰々しく頭を下げていた。
私は答えられず、顔を上げるように促すしかできなかった。
しかし、その行為がお母さんには返事と取ったみたいで、「はい」という返事を催促されることはなかった。
ユウキの家を出るとちょうど夕暮れ時。駅までユウキが見送ってくれることになった。
ものの15分で着く距離に駅はあったが、私の提案で周辺をブラつくことにした。
「ユウキの生まれ育ったところを見てみたい」
というのが表立った理由だったが、本当はそうではなく、この手を切りたくなかったからだ。
家を出た瞬間から不思議な眩暈を感じていた。
まるで頭の中でルーレットが廻っているみたいで、玉が音を立てずに動いている。その幻の玉が三半規管を狂わしている。
そんなカラダの変調を感じている中でも私はマキのことを考えつづけた。
私の中にはマキがいる。存在を確認しただけでカラダが引き剥がされそうになる。
マキはなんで私の夢に現れたのだろう?
マキを思うとなんでこんなに苦しいのだろう?
マキは一体何者なんだろう?
全ての思考に”マキ”が付く。
「ユウキが好き」
私は自分の耳にしか届かないような小声で呟いた。隣りのユウキは気にすることなく前を見つめている。
何度呟いても私は否定しない。私はユウキが好きだ。
しかし、そもそも”私”とは何なのだろう? という疑問が確固たる事実に小さな亀裂を作る。
”私”とは‥‥手があって足があって頭があって――肉体的な意味で自分を主張するのはたやすい。
だが、精神に目を向ければ”私”の境界線はいささか乏しくなる。
”私”の中には私じゃない人間がいる。自分では制御できない存在が私という個を操っている。
それには言うまでもなく”マキ”という名前が付けられている。しかも十数年前にしっかり現世に存在していた人間なのだ。
ユウキの家に入る前と後の違いはマキが幻から現実に変わったことだ。
それは私にとって思ったより大きなことだった。
ユウキが好き――でも、それすらマキという人間が関わっているのではないか?
私の感情でありながら、その感情に自信を持てなくなる。
儀式を行うための試験――私はユウキとはじめてセックスしたとき、そう思った。
ユウキは私とマキを結びつける単なる触媒なのだと思った。
あの時と今とではユウキへの存在価値は全く違う。
私はマキが現れなくなったのはあのセックスをしてからだということを思い出した。
出てこないマキの存在をやがて忘れ、ユウキを触媒ではなく、そのものの価値として求めた。
つまり、マキがいなくなったからこそユウキを愛するに至ったということだ。
もしマキが現れつづけていたら、今もずっとユウキは触媒のままだった?
「‥‥」
私は一つの信じたくない事実にぶち当たる。
――私はマキに操られている
ユウキが現れてから今に至るまでの私のココロの変化は全てマキの思惑通り。
今持っているユウキへの好意なんてイミテーションで、今の自分はマキに騙されてできたレプリカな存在なのではないか?
違う――何度も何度も薬漬けで思考回路がぐちゃぐちゃになったヤツみたいに頭を振った。
「どうしたの?」
夕焼けに照らされたユウキの血色のいい肌が濁っていく。一瞬、緩んだ手に慌てて力を込めた。
「ううん、何でも。ちょっと疲れたかな‥。さすがに」
愛しかった。ユウキの声が、顔が、ぬくもりが。
ユウキと出会い、生まれた早鳴る鼓動やキスの味、セックスをした時の快感は紛れもなく本物だ。
ユウキは触媒なんかじゃない。私が身を委ねられる唯一の存在なんだ。
ユウキが好きになったのはマキに操られていたからじゃない。
マキなんて関係ない。
関係ない!
関係ない!!
「危ない!」
どこからか悲鳴が飛んだ気がした。
最初はユウキの声だと思った。どうしたの? と慌ててユウキを見るがユウキはそっちこそどうしたの? と言っているような顔をする。
じゃあ、どこの声だろう? と思った直後、向かってくる巨大な塊を目撃した。ユウキはまだ気づいていない。
「あ‥」
あまりの突然のことに声が出ない。
オレンジの世界を突き破るヘッドライトの光が私とユウキを襲う。
青の中型トラックが明らかなオーバースピードで私たちに飛び込んできた。
フロントガラスが見え、その向こうに一人の男がいた。怯えた目つきでハンドルを強く握っている。
私とそのトラックの運転手と目が合う。
この運転手の意志かどうかはわからないが、トラックは確実に私たちを狙っていることにやっと気づいた。
「危ない!」
そう叫んだ時はもうトラックは目の前だった。
私はまだ状況が飲み込めていないユウキを前方に突き飛ばした。
トラックは私たちの間を通り抜けて、先にある壁にぶつかった。
受身の下手な私は無防備なままコンクリートの地面に頭を打ちつけてしまう。
火の飛び出るような音と衝撃の次には有り得ない静寂が訪れた。
私は打ちつけた頭を押さえつつ、その痛みがないことを不思議に思いながらゆっくりと目を開ける――。
なんでだろう?
さっきまでオレンジ色の空が広がっていたのに。
もう夜になってしまったのだろうか?
いや、夜っていうのは黒い空だったはず。
なのになんで今、空は白いのだろう?
いや、大地も白い。その境界線がわからない。目に飛び込んだのは次元なんてないような一種の亜空間。
「こんにちは」
背後から余韻を引き連れた声がした。すぐに私は振り向く。そして見たのは透明に近い白い影。誰なのかはすぐにわかった。
「マキ‥」
久しぶりに見たマキは相変わらず美人でやっぱりユウキに似ている。マキは震えている私を柔らかく抱きしめた。
母の温もりに触れる赤子のように安らかに溶けていく。私は力なく呟いた。
「どうして、今ごろ‥」
――私はあなたを忘れたはずなのに。
「ありがとう」
マキは言った。するとなぜだか涙がこぼれた。マキがユウキと私を引き合わせたのだと今はっきり思い知らされる。
「なんで‥なんでユウキと‥」
そこまで言うと私の口を静止させるようにマキは私の耳を噛んだ。そしてささやいた。
「復讐」
悪魔のねっとりとした口調がマキのおそろしさを増幅させる。
今まで幻の存在だったマキが急に生々しく感じ、溶け出していたカラダが一瞬にして凍りついた。
「やっぱり、マキが私とユウキを引き合わせたの?」
マキはうなずき、
「もうすぐ全てが終わる」
と愉しげに言った。
汗が冷たい。こめかみのあたりから浮かび、頬に伝わる。
「全てって‥。ずっとあなたが願ってきたこと?」
マキはまた静かにうなずいた。それが何でマキの欲求を満たすことになるのだろうか。
「わかんない‥」
マキは静かに笑った。
「わかんない‥」
爪の先まで透き通った肌に私は狂いそうになる。
「わかんない‥」
マキがいる。
それだけで私は全てを変えさせられる。
ユウキと培ってきた愛という無形の結晶を全く異なるものに変化させていく。
絶望という名の快楽に――。
気が付くと埃まみれの世界が広がっていた。
横にはトラックが壁にぶつかっている。
中にいるドライバーはフロントガラスに頭を打ちつけたのかハンドルを抱え込むようにしてぐったりと意識を失っている。
目の前にはユウキが頭を押さえながら「う〜ん」と唸っていた。どうやら軽く打ちつけたようだが無事のようだ。
え? 頭を押さえている?
私は慌てて自分の左手に目を落とした。
汗ばんでいるのはついさっきまで何かに追われるようにユウキと手を握っていたからだ。
手を離してしまったのだとようやく気づいた。
何かが変わる予感は姿を変えていく。
頭の中でグルグルと廻っていたルーレットの回転が遅くなる。
立ち上がろうとするが、うまく腰が持ち上がらない。目の前の事故に腰を抜かしたのか?
いや、違う。
下半身から滾る血脈の流動は昔、良く感じていた情動だ。
取り返しのつかないことをしてしまった気弱な人間のように自分自身に怯える。
発狂しそうになる口を唇を噛んで抑える。
おそるおそるユウキとさっきまで繋いでいた左手を自分の陰部に入れてみる。
濡れていた。
ビクンとカラダが刺激により揺れる。抑えた口内にネバついた液が蓄積されていく。鼓動の高鳴りが呼吸さえも圧迫する。
マキと再会し、カラダが反応したのだ。
ルーレットの回転が止まる。玉はいつの間にか消えていた。誰かが途中で玉を取ったのだ。
運命は結論を急がない――まるでそう言っているかのようにその手は大きく私に存在を誇示していた。
私はその手の主を見上げる。色のない光に包まれてその主は微かに笑った。
さっき白の世界で会った人。
私のかつては全てだった人。
だけど無だったはずの人。
今はすぐそこにいる―――現実と幻想の境目を曖昧にして。
私は目の前にいるはずのユウキを遠い意識の外に押しやり、恥部に触れていた指をさらに奥に潜り込ませる。
そして悶えた。
マキを想いながら。
ユウキを壊しながら。
-51- マキvsサヤカ T
感覚が狂いだす。
細胞一つ一つが腐食していく。
ゴクリと飲み込んだ最後のツバは心臓に粘つき、鼓動を弱める。
呼吸ができない。重い塊がカラダを締め付ける。
まるで何千本もの触手を持つ怪獣が全身を縛り上げられていくみたいに。
私は表情を変えずに笑った。それを人が定義する”笑う”とは異質なものなのかもしれない。
しかし、私はそれを”笑う”であると敢えて言う。
生命の根源を求める旅の果てに辿り着いた所は白い平坦な地平線。圧倒的な虚無の地。
人はどこから生まれどこへ逝く? その答えをこの無の地平線が教えてくれているような気がする。
きっと”生”と”死”の本質は同じものなのだ。
時系列なんてない。時間を決めた愚かな人間たちが”死”を恐れ、”生”ばかりを敬ったために、間違った概念がDNAに刻まれてしまった。
死への道程――それは本来ならば面白いくらいあっけないものだ。
”生”にしがみつかなければ下流の流れのように穏やかに流れ落ちてくれる。
しかし人は抵抗する。一生物としての役割を壊し、必死で”生”にしがみつく。
決して死ぬのではない。元に戻るだけなのだ。不毛な”生”から解き放たれるだけなのだ。
完全な静寂が虚空に佇む私と同化しようとする。
このまま私は無になろう。
ずっと昔から誘ってくれたマキに感謝し、恨みながら消えていこう。
だが、薄れ行く意識の淵で脳幹の中枢を揺さぶるメッセージが響いてくる。それは現世から身を切り離そうとした時にやってくる。
「ユウキです‥。あれから具合はどうですか? 心配しています。電話ください」
私はゆっくりと目を開ける。ぼんやりと天井の白色灯を見つめ、光がまだ自分の虹彩に潜んでいることを実感する。
なんで邪魔をするの?
壊れたCDのようにユウキの声は同じ場所をぐるぐると回り続けた。
ほとんど全てが砂に戻っていく私を構成する結晶体の中で、一つだけがまだ形となって輝いている。
これは私が”人間”として表現できる唯一の存在。
ゆっくりと首を横に傾けると、電話があった。チカチカと点滅している部分が見えた。内蔵されたテープにはユウキの声が入っている。
ユウキの家に行ってから2週間ぐらい経っていた。
私は毎日のようにかかってくる電話を断り続けた。おそらくその全てがユウキだったのだろう。
一度だけ出て「軽い病気だから、治ったらこっちから電話する」と言っておいたがあまり信用してはいないようだった。
「見舞いに行くから住所教えて」と言ってきたが「大丈夫だから」と拒否した。
それからは出ることさえも拒絶した。
ユウキも何となく私たちの間に漂う不穏な空気を感じ取っていたのだろうか、電話の声は常に不安そうだった。
電話なんてコードから切ってしまえばいい。そしたら電話の中にこれ以上ユウキの声が入ることはない。
それができない限り、現世から離れることなんてできやしない。
そうわかっていたのに私はなぜかできなかった。ずっと死体のようにベッドにカラダを預けていた。
点滅する光に私は何かを求めているのだろうか。
いや、違う。電話を壊し、点滅さえ消したとしてもムダだということを私は知っているのだ。
例え耳を突き破らなくてもユウキの声は記憶の殻を破って全身を駆け巡る。
視覚でとらえた信号は単なる象徴であって、その根幹は私の脳内にあるのだ。
しかし、それももうすぐなくなるだろう。唐突にやってくるユウキの声はその間隔が広がっている。
現実に引き戻す因子はやがてフェードアウトしていく。そして、現実から全ての手を離す。
ご飯もロクに食べていなかった。風呂も全く入っていなかった。決して進むことのなく佇む潮流を淀んだ瞳で見つめた。
私はハイエナのようにオナニーに没頭した。数日前に私の中から飛び出した愛液の腐った匂いが部屋中を埋める。
目の前に無波長の光がまたたく。その先には半透明に輝くマキが目だけが強力なエネルギーを発し、私の前に立ち尽くしていた。
こっちの世界にほんの少し足を踏み入れたのか、それとも私がマキの棲む夢の世界に踏み入れたのか曖昧だ。
私がずっと感じていた予感。
階段を転げ落ちるようにプログラムされた私の運命。
その運命を司る人間は多分このマキだったのだろう。
そのことに気付いたのはあのトラック事故の時だ。
ユウキと手と手が離れた瞬間に空いたほんの小さな隙間を縫うようにして、その事実が脳細胞に痛みとともに刻まれた。
多分、私は知っていたのだと思う。
というか今までの私の半生を思い起こせば、”運命”という言葉を記憶の中に投げかけたとき、確実にマキの名を連想させていたはずだ。
しかし、ユウキに出会ってから――ユウキとセックスをしてから私はマキの存在を一切拒絶していた。
あれは夢という妄想の範囲を超えない、私の記憶にあるマキの過去は全て幻なのだ、と。
できるはずもない記憶の抹殺を私は無意識に遂行していた。
そう。できるはずがないのだ。マキは私のココロの全てを司っているのだから。
私は目の前のマキに尋ねる。最近のマキは存在が濃い。それが現実と夢との境界線を曖昧にさせている。
私の唯一残っている生命の結晶体が動く。
それは万華鏡のようにくるくると模様を変え、たった一つの存在を幾千にも見せ、マキと闘おうとしていた。
「忘れていて恨んでる?」
マキはゆっくり首を横に振り、囁く。
「思い出してくれたから」
「うそつき」
マキに憎しみを込めてそう言った。
私がマキのことを忘れるくらいまでユウキに陶酔したこと、
ナツミやカオリのおかげで生きることに確かな手ごたえを感じていたこと、マリと目と目が合って、二人だけの共有世界に誘われたこと。
これらは全てマキの願いに背くことだった。生きることに意味を有し、カラダもココロもマキの呪縛から逃れようとした行為たち。
だからマキは私に報復をしたのだ。
マキは生きる糧となる友人たち、つまりマキにとって邪魔になる人物を私から奪うことにした。
しかもたった数日で。一気に消し去ったのはそれのほうが私の絶望を誘うのに効果的だったからだろう。
そこまで考えたかどうかはわからないが。
マキは「ふふふ」と笑う。
ユウキとそっくりの顔でユウキは絶対見せない歪んだ表情。
恐怖にも甘美にもなる理解を超えた笑みが私を惑わし続ける。
それがココロを捧げるものへとつながるのだろうか。私には思考下ではわからない。ただ第六感が真実として結びつける。
「マキなんて‥ダイキライ」
こんなにもマキを恨みながら私は愛に近い感情をマキに求めている。
「ダイキライ」
口にする虚しさが私の腐食した性欲を溢れさせる。
「ダイキライ」
真実は常に――、
「ダイスキ‥」
真実は常に裏側を持つ。
目の前で怪しく浮かぶ幻覚を私は抱きしめた。手には感触がない。
おそらく視覚にもマキの情報は伝わっていないのだろう。幻というココロでしか、見たり触れたりできない存在なのだから。
やはりココは夢の世界なのだ。何もかもが偽りの形をしている。
だけど、この性の欲望だけは狂ったように溢れ出す。それだけが唯一の真実。
おかしな世界だ。
腐っていくカラダの中で感じることだけが神経を這いずり回る。そもそも感じるって何だろう?
「ん‥」
私は痛みを感じながら、性玩具や皮と骨だけの指などをアソコに入れた。
水もロクに飲んでいないのに、放尿をした。栄養分がほとんどない透明な液がシーツを染めていった。
頭を掻き毟り、指の間に散らばる髪の毛を食べた。
理性なんてほとんどない。
全人格を壊しながら私はマキを求めようとした。
それでも闘いつづけていた結晶体だけはボロボロになりながらもマキを拒絶していた。現実に生きる”人間”としての最後の砦だ。
このカケラが砕け散ったとき、マキの願いが叶う。
つまりカラダは腐り、枷が外れたココロがマキの元へ飛び込む――不可能としか思えなかったことがもうすぐ叶う。
私の一部のカケラは何を抗っているのだろう? マキに埋もれればラクなはずなのに。待っているのは痛みも苦しみもない永遠だ。
マキは恍惚に歪む私を包み込む。抵抗する最後の結晶を砕こうとしているのだろう。
触れることもできない見ることさえ危うい人間に抱かれ、私はより一層の性動に蝕まれる。
頭の中はマキで埋め尽くされる。まだこの部屋に微かにあったマリの匂いさえ私は消し去ろうとしていた。
そんな時だった。このまま快楽と憎悪を繰返し、やがてはどちらも朽ち果て同化されると思っていた流れをストップする力が働く。
それは現実世界の最後の刺客――マキにとっては皮肉な外力。
「ピンポーン」
私が住む部屋全体に響きわたるドアチャイム。
幻の中にしては有り得ないリアリティのある音だった。
一体、何で鳴るのだろうと思った。ここはマキが棲む仮想空間のはずだ。
つまり、存在しうるのは私とマキしかいないはず。だから外力が表れたことに大きな違和感を持った。
マキとの世界に没頭し、カラダは朽ち果てていきたかったのに。それともマキが何か事情があって鳴らしたのだろうか。
私の前に様々な色が付く。ふと現実に戻された気がした。
もし、集金やセールスマンだったらどうしよう? 助けを乞おうか。私を壊そうとする人がいます。私の中にいます。だから助けてって。
「ははは‥」
自分の愚考に苦笑した。口元を歪めるも上手く声が出ず、掠れた息だけが聞こえる。自分でも不気味だと思った。
私はのぞき穴から玄関の向こう側にいる世界を覗いた。
その中心に立つ人の頭を見つけたとき、胸が張り裂けそうになる。
白のカッターシャツや肩の感じ、鼻の形は忘れようと努力していた人間。
「ユウキ!」
私はドア越しに叫び、条件反射でドアを開けた。風が一気に部屋に飛び込んでくる。
ちょっと冷たくて私のカラダがスパッと切れた感じがした。そして穏やかな太陽の光は今が朝であることを告げる。
「どうして?」
狼狽気味に私は尋ねた。抜け殻の死体のようだったカラダが身震いするようなものに満たされる。
ユウキの顔を想像ではなく現実に見据え、血管にアドレナリンが沸き立つ。
天地がひっくり返ったような感情を懸命に喉の奥に飲み込む。
「元気? 会ってくれないから心配して‥」
「どうしてここがわかったの?」
私はユウキに自分の住所を教えていないはずだ。ユウキは小さな罪悪感からか一瞬ためらった後、口を開く。
「”マリア”の人に聞いたんだ」
”マリア”とは一瞬何なのか、考えてしまう。が、すぐに記憶の糸は結ばれた。
「ケイちゃん?」
「え〜っと‥ちょっと目が離れてて吊り上がった人」
「ケイちゃんだ」
私の頭にはケイの像が結ばれる。もう1ヶ月以上も会っていないだろうか。
ユウキの言う通り、目が離れてて、目元が吊り上がっていて、何となく怖い。
でも、そこから発する眼差しは明るく優しい。
「その人、言ってました。最初の略歴を書くときに普通の人なら本当の住所を書いたりしないんだけど、
サヤカさんなら絶対書いてるって。バカ正直だからって」
ユウキが言った言葉そのままに頭の中のケイが口を動かす。
「バカ正直ね‥」
「入っていい?」
私は少々戸惑った。
しかし、こわばった瞳が私の瞳を射抜き、今の私の状態を知られたくないという気持ちをまだ微かに残っていた歪んだ恋心が上回った。
「いいよ」
ユウキはこの異臭漂う空気を何と思うだろう?
そして二人だけの空間に危険分子が入ることをマキは何と思うだろう?
ユウキが来たのはマキの計算通りなのか?
いろんなことを考えると、やがては可笑しくなる。やはり感情の制御が壊れているのは変わらない。
私はユウキを中に入れた。
-52- マキvsサヤカ U
「へえ、ここがサヤカさんの家か‥」
ユウキは部屋をぐるりと見渡して、感心したような狼狽したような声を出した。
久しぶりに電気をつけ、私は目が眩むがすぐに慣れる。この部屋の空気が澱みすぎているせいか、思ったより暗く感じた。
「汚いでしょ?」
ユウキは埃を吸ったように顔をしかめながら「はい」と即答した。
しかし、すぐにフォローするように、
「いや、病気だったんでしょ?」
と言う。
私は小さくうなずいた。病気といえば病気だ。でも精神科の医者にでも治せない不治の病。
キョロキョロと挙動不審のユウキの背中に焦点を合わせ、本能から沸く動悸と闘う。
壊れたカラダが少しずつ修復しようとしているのか神経網に電流がゆっくり流れる。
ユウキは振り返りながら口を開く。
「じゃあさあ、俺今日掃除するよ」
「いいけど、今日学校は?」
私はユウキの全身の姿を見回す。ユウキはカッターシャツの下には黒のズボンを穿いていた。
どこからどう見ても学校をサボってきたとしか思えない。
「俺は不良学生なんだぜ」
ユウキのお母さんが言った言葉を思い出す。それを踏まえてのことだったのだろう。私はそのカッコつけた言い方に苦笑した。
「じゃあ‥」
ゆっくりしてって――と言いかけて、私は口をつぐむ。
ベッドに滲むオナニーの痕を思い出したのだ。
そして、さらに私のカラダにはその異臭がこびりついているのではないか? と思い、急激に恥ずかしくなった。
ユウキの横を通り抜け、台所に走り、室内換気扇をつける。そして隣りの寝室には絶対行かせまいと誓った。
近くにあった冷蔵庫を一瞥する。
中には何が入ったいたかあまり覚えていないが何かはあるだろう、
少なくとも冷凍庫に入っているものは食べられるだろうと思いながら「何か食べる?」と近くにいると思っていたユウキに向かって聞いた。
ユウキは私が思っていたよりも遠くに立っていた。周りを見回していた位置にそのままいただけなのだが、私には至極遠く感じた。
そしてユウキは私とは違う一方向を見つめていた。
体は私に向けられているのに顔は横に向けている。
そしてその横顔は口をやや半開きにして呆然としている。
まるでユウキのカラダが部屋の電気がついているのになぜか漂う薄闇に飲み込まれてしまったように。
「ユウキ?」
本当はそんなに大したことではないのかもしれない。
ただ石造の如く硬直したユウキからは一瞬とはいえ、生命が抜け出てしまったように見え、重い衝動が私のココロの深奥を突き上げてきた。
この部屋はユウキに拒絶反応を起こしている――そう感じた私は現状に捉えようのない危険を察知し、
共に生まれた焦りを引き連れるように、ひっくり返った声で「ユウキ!」ともう一度呼びかけた。
ユウキはさっと私に顔を向ける。
「え?」
「どう‥したの?」
「何が?」
私の意味不明の危惧など気にもしない感じでユウキはとぼけた声を出し、すぐに焦点を私に戻す。
「いや‥」
私は焦燥がさらに背中をせり上がってきているのを感じつつ、読み取れないユウキの瞳を見据えた。
「‥‥」
「‥‥」
「‥サヤカさんこそ‥どうしたの? 変な声出して‥」
「え? いや、私?」
ユウキは私の不安を鏡面反射しているような顔をする。
ユウキが不安そうにしているのは私がそうだからだ――錯覚かどうかわからないがそう解釈すると少しココロの影が消えていく。
「別に‥なんでもないよ‥」
「具合、やっぱ悪い?」
ユウキは一歩近づき、私の顔を覗きこむ。その一歩がやけに遠く感じられた距離をぐんと近づけた。
「いや、そうじゃなくって‥ははは、なんだろね‥」
「‥‥」
「とにかく、座って」
「うん」
私はようやく電気をつけ、近くにあった椅子の背もたれを手前に引き、ここに座るように促すとユウキはやってきて腰を落ち着かせた。
一度ユウキの肩をポンと叩き、今腹が減っているかを聞かずに冷蔵庫に向かう。
ユウキは座りながら私の動向を見て、立ち上がった。
「サヤカさんが座ってて。おかゆでも作るよ。 ヘタだけど‥」
「いや、いいって。もう大丈夫なんだから」
冷凍庫を開けると氷と霜以外何もなかった。冷気をまともに顔に浴びながらどうしよう、と困惑している時、後ろから声がした。
「じゃあ、食器でも洗うよ」
ユウキは台所に目を向けながら、白シャツの袖のボタンを外そうとしている。
「ダメ!」
はっとしたと同時に私はほとんど無意識に叫んでいた。頭の中にはマリの姿が浮かぶ。
台所には洗っていない食器はマリが出ていってからそのままにしてあった。
私はこの台所にマリの面影――エプロンを着た小さな後ろ姿でも重ね合わせているのだろうか。
「ご、ごめん‥」
ユウキは意味もわからなかったようだが私の威圧に押され、とりあえず謝っていた。
私は大げさに叫んでしまったことに対してまた羞恥を覚える。
だけど、それは嬉しいことでもあった。マキのことが全てだったはずの私に、マリを想う部分が残されていることを教えてくれたからだ。
ふとユウキを見ると、どことなく苦虫を噛み潰したような顔をしながら屹立していた。
ユウキと関係のないところで仄かに嬉々とした感情を抱いた私はそんなユウキを見て大きな罪悪感を覚え、慌てて場を取り繕うとする。
「あ、いや‥私のほうこそ‥」
「‥‥」
沈黙が流れた。ラジオ番組での無音のように気まずい雰囲気が覆う。
噛みあわない会話。
重ならない感情。
1週間の空白はこうも二人を分断させるものなのだろうか、と憂う。私は息を大きくつく。
二人の間にはお互い見えない壁がいつのまにか構築されていた。
何を言ってもその思いの一部分しか伝わらない。このまま手を拱いていれば二人は確実に引き剥がされる。
しかし、私はまだ諦めていなかった。聳える壁を壊す言葉を思いつく。それはあまりにも単純で誰もが知っている言葉だ。
「ユウキ‥」
唇が暗紫色の食肉花のように貪欲に動く。
「私のこと‥好き?」
上目遣いから見えるユウキの顔は赤みを帯び始める。自分はなんて卑怯な女なのだろうだと思った。
そこで「はい」と言わせて、この2週間で生まれた空白や今までのちぐはぐなやりとりの全てを納得させようとしているのだ。
愛情が偉大だなんて決して思わない。ただ、愚かで脆い人間という種には愚かで脆い言葉が有用であったりする。
「‥うん‥」
静かにうなずくユウキ。内部に残存していた唯一の結晶体が輝きを増し、四方八方に光を撒き散らす。
性の奴隷としてのみが人としての価値だった私がユウキに与えられる唯一、最大の行為――。
私はユウキに近づき、抱擁し、キスをした。
男のカラダにしては小さいけれど、なかなかの筋肉質でカラダというより岩を抱きしめている感じがした。
そして唇からはしばらく感じたことのなかった生命のゆらぎを吸い込む。
長いキスの後、ゆっくりと唇と唇が離れる。
数センチの間は唾液が架け橋のようにくっつき、やがて重みに耐えかねるように二人の間に落ちた。
「サヤカ‥さん‥」
ユウキの表情がトロンと溶けている。まるで魔女の魔法によって狂わされたかのように。
「ありがと‥。ご褒美‥」
私は腰を下ろし直立しているユウキの下半身に顔を持っていき、ジッパーを下ろした。
トランクスの間から現れるのはそそり立つ白桃色のペニス。
グロテスクな曲線が眼前に聳えると、私は至神なものを見るように崇めながら口に含んだ。
顔を上下に揺らし、ちょっとだけ歯を立てたりしながら、懸命にしごいた。
男の情けない淫声を耳奥で感じ取ると、さらに動作を速める。
ユウキの腿に力が入ったことに気付いたと同時に、私は上から頭を掴まれる。
ちらりと見上げると射精を必死で堪えているユウキの顔があった。
そして、その顔をマキと重ね合わせた。
「マキ‥見てるんでしょ?」
ドクドクと人とは別の生き物のように活動しているペニスを含んだ口の間から声を洩らすように言う。
この部屋にはマキの幻影が色濃く残っている。きっとこのフェラチオの最中にも近くにマキはいる。
ユウキはただ下半身に神経を集中させていたせいか、私の声は聞き取れなかったようだ。
マキは現れない。ユウキの昇りゆく表情を虚ろに見つめ、マキを召喚する。
ねえマキ。こんなシーンを見てどう思っているの?
実の弟があなたの目の前で私と性を交換しあっている。
ああやって引き剥がそうとした私たちの関係は、こうやって修復しようとしている。
あなたという高い障害を乗り越えて、前以上に愛の偉大さを感じている。
もうきっとマキが何をやってもムダなんだ。何をしようと私たちは乗り越え、その想いを強くしてしまう。
嫉妬しない?
こうやって私は今カラダもココロもユウキだけに捧げているんだよ。
たった一人の登場がこの2週間の無への道筋をぐちゃぐちゃにした。
きっとユウキは現実世界の使者なのだ。ユウキはこうしてまだ私を愛している。
その事実が私の”人間”の部分を復活させる。そしてこれはおそらくマキの計算外のことだ――そういう確信がさらに私を活性化させる。
私は生きている。決して全てを失ったわけではない。
ケイが――もう会うことはないかもしれないけれど、遠くで私を見守っている。
この部屋にはマリが温もりが残っている。
何十年先かわからないがマリと縁側で昔話に花を咲かせる可能性だって十二分にある。
私はマキへの想いに馳せながら続けたオナニーの間もマリの存在を噛みしめていた。
これはどれだけカラダが朽ち果てようとも変わらぬココロの一部分だ。
マリだけではない。思い出の中には優しくしてくれたカオリやナツミやユウコがきっといる。
マリが好き。ナツミが好き。カオリが好き。ユウコが好き。ケイが好き。
ユウキが好き――引き合わせたのは確かにマキの陰謀なのかもしれない。
しかし、別離を宣告されたからって、私がみんなに馳せる感情だけはマキが侵すことのできない領域。
――”別れ”と同じだけマリやみんなと出会うんだ。そして時を越えて、笑い合うんだ。いつか、きっと‥‥。
「イ、イク‥」
ユウキは掴んでいた頭をさらにガシリと掴んだ。そして、次の瞬間、口内で生暖かいものが発射された。
口の粘膜に粘着質の臭い匂いがまとわりつく。私はその一部を吐き出し、自分の手の平で掬った。
白くて暖かな精液。目の前で徐々に萎もうとしているペニス。恍惚とした表情。
全ての持ち主はユウキで、全てを私に捧げている。じんじんとユウキのココロの律動を感じる。
「あんまり‥量ないね‥」
手に付着している精液を舐めてから少しいじわるく言った。
「うん‥。寝起きだから‥かな?」
「朝って出ないもんなんだ」
「少なくとも俺は‥」
申し訳なさそうな顔をするユウキ。私は立ち上がった。
腰がふるふると震えているところを見るとユウキは全精力を出し切ったようだ。
その様子を小鹿が必死になって立っている様子と重ね合わせたせいですごくかわいらしく見えた。
「もう一度キスしていい?」
私は卑した目でユウキを見つめる。ユウキは私の手と目を交互に見てから引きつった。
その時の私は性に溺れた悪女に見えたのだろう。実際そうだ。
今は性の奴隷にでもならないと生きることを確かめられない仮死状態だ。だからこそ私はユウキを淫欲の色に染め、精気を奪う。
「ははは。そうだよね。精液を含んだ口とキスするってのはイヤだよねぇ」
私は手に付着していた精液を舐め回し、飲み込んだ。臭さとともに悪女の面が倍加されていく。
「う、うん‥」
少し表情を緩め、スキを作るユウキ。
私はにこりと歪んだ笑みを見せるやいなや、咄嗟にユウキに抱きついた。
「うわっ!」
ユウキを意表をつかれたせいで自重を支えられず、私に抱きつかれたまま後ろに倒れた。
その間にしっかりとユウキの唇を奪った。キスというより私の口の中にあった白い液体をユウキの口に流し込む動作だ。
唇の表面を舐めまわすと私の下半身が淫乱に再び疼きはじめようとする。
しかしユウキの方はというとやや頭を打ちつけたようで「イタタタ‥」とつぶやきながら後頭部を押さえていた。
それを見ると少し情動が潮のように引いていく。
「大丈夫?」
私は顔を離し、心配そうにユウキの頬に手を触れる。
ユウキは口の中に入った自分の精液を毒でも飲んだかのようにセキ込みながら吐き出そうとしている。
「大丈夫‥じゃないですよ‥」
「ごめんね」
罪悪感を含まぬまま謝ると、ユウキは無理の上から不意に笑った。
その微妙さが何とも可愛げがあり、愛情が溶けているように見えた。
私はシャワーを浴びることにした。その間ユウキには「テレビでも見てて」と言っておいた。
私はお湯を全く出さずに冷水を浴びた。シャワーの穴一つ一つから出る水の線が私の皮膚にぶつかり、吸収されていく。
カラダを洗ったのは2週間ぶりだ。
私はこびりついた汚れが落ちてゆく中、不思議な高揚感を感じていた。
今まで眠っていた感情の燻りを沸々と湧き立たせているようにゆっくりゆっくり熱感が広がる。
おそらくこれからユウキとセックスをするのだろう。何かあったら二人はセックスをすればいい。
悲しいけどそれで全てが収まる。肉体でしか語り合えない情けない関係。
初めてユウキとセックスしたときのような緊張感がむくむくともたげてきた。まるで純情な乙女のような衝動に苦笑する。
しばらくして、この小一時間の出来事を思い返した。
玄関のドアを開けた時、マキが作り上げてきた私とマキだけが存在しうる世界に様々な生の息吹が吹き込まれた。
朝の光、鳥のさえずり、冷たい風、そして、ユウキなる存在。
そして連鎖反応のように私の記憶からマリやナツミやカオリなどとの思い出が甦る。
これらはマキが作ろうとした世界を壊す決定的な因子なのだと改めて確信した。マキの報復に私は耐えたのだ。
ユウキをマキとは無関係に愛せたのだ。
私は浴室に備え付けられた鏡をのぞきこんだ。お湯を出していなかったので湯気でくもることはなかった。
鏡に映る自分の瞳を覗いた。まるで催眠術にかけられたかのように急速にその瞳に吸い込まれた。
全ての雑音が消え、光さえも遠のいてゆく。
「マキ‥私の勝ちだね」
確信をもって私は口にした。その声は直接、自分の脳に響く。
すると、すぐに返ってこないはずの反応が同じように自分の脳に直に届けられた。
「違うよ。サヤカはユウキのことを愛してなんかいない」
抑揚のない声。
私の顔に冷たいものが滴る。シャワーの水滴ではなく、私の内部から湧き出た塩気のない汗だ。
抑揚のなさは感情のなさではない。とてつもない負の感情を奥にぎゅっと閉じ込めたそんな声だった。
こんなマキは出会って今まで一度たりともなかった。シャワーがどんなに皮膚の表面を洗い流しても次から次へと汗が滲んでくる。
私はシャワーを口に含み、吐き出して、口の中を潤してから聞いた。
「どういうこと?」
「サヤカはあたしを消し去ろうとしているだけ。ユウキのことなんて一つも考えていない」
「そんなこと‥」
「あたしにはわかる」
「‥‥」
「サヤカはあたしを憎んでいるだけ」
「そんなこと‥ない‥」
唇が震えながら動く。反論は弱々しかった。マキの静かな圧倒が一度固めた思いを簡単にあやふやなものに様変わりさせる。
「嬉しいよ」
「何で?」
ツバをゴクリと飲み込んで聞いた。
「憎むってことは想うってことだから」
「‥‥」
「だから、このままあたしを憎んでね。そしてユウキを壊して」
マキのさっきまでの閉じ込められていた感情が少しずつ表出する。にじみ出るのは濾過されて出てきたような純粋すぎる悪意。
「どうしてユウキを憎んでるの?」
私は”復讐”という言葉を思い出し、マキに尋ねる。脳内に像を結んだマキは狡猾な笑みを含ませながら言った。
「ユウキがあたしを殺したから」
-53- マキvsサヤカ V
「どうしたの? サヤカさん?」
心配そうに顔色を窺うのは現実に存在するユウキ。テレビの電源はついていなかった。
「うん、ちょっと冷水浴びまくってたからカラダ冷えちゃった‥」
私は何とか平静を装う。
「もう寒いんだから。大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。それより、ユウキも浴びる? シャワーだけど」
「俺はいいよ。面倒くさいし。それよりさ、どうせだからメシでも食べに外行かない? 体調悪いんならやめとくけど‥」
ユウキの調子はどことなく軽かった。空白の2週間などまるでなかったかのような振る舞いは逆に不自然な気がした。
「うん、いいよ。行こ」
頭で鳴り響くマキの最後の言葉を追っ払いながら私は言った。
タンスから長袖の青と白のストライプが入ったシャツと1980円の安物ジーンズを引っ張り出して、ロクに化粧もせずに出かけた。
ユウキにはこのまま学生服を着せて外出させるのはマズい気がしたので、緑色の古物ジャケットを貸してあげた。
上背が私と同じぐらいだったのでぴったりだった。
太陽の光がまぶしい。夏はもうとうに過ぎてしまったのでそのパワーは衰えているのだろうが、
あらゆる生の光から遠ざかっていた私にとっては十分強いものだった。
いろいろと周りをうろついた結果、私たちは家の一番近くにある喫茶店に入った。
装飾などがあまりされていなく、塗装が剥がれた部分もあり、
不気味な感じがするお店だったので私は今まで一度も足を踏み入れたことはなかった。
テーブルに座り、横に立てかけられていたメニューを見る。私はエビピラフ、ユウキは豚しょうが定食を注文した。
店員が離れるとユウキは目の前のグラス一杯に入った冷水を一気に飲み干した。
「とにかく、元気そうでよかったよ」
「ありがと。ユウキのおかげだよ」
「うん‥」
逆にユウキが元気じゃなくなっているような気がした。
「どうしたの? 何か私にエネルギーを吸われたみたい」
ヘンに笑顔を作る。
「いや、疲れただけだよ。だって朝っぱらから‥」
「ははは、そうだね。本当にエネルギー吸っちゃったんだ、私」
ユウキも笑顔を返す。私に合わせたのかぎこちない笑顔だった。
しばらくしてエビピラフがやってきた。
ユウキの豚しょうが定食がくるまで待とうと思ったのだが、ユウキの「食べていいよ」という言葉に私は遠慮なく甘えた。
エビピラフは案外おいしかった。量もまあまあ。値段も普通。
それに内装はごく普通に綺麗な店だったので外の雰囲気で判断するものではないとつくづく思った。
「あの家にはサヤカさん一人で住んでるの?」
その問いに一瞬喉を詰まらせた。ふとユウキを見ると、空のグラスを両手で持ち、中指や人差し指を動かしている。
少し焦れているような仕草だ。
マリを思い浮かべ、ユウキのやけに真剣そうな顔から目を逸らさぬまま私は首を横に振った。
「今は一人。前に幼なじみと住んでたんだ。その子は今は実家に帰っちゃったんだけどね」
ユウキは「ふーん」と唸り、背を少し丸める。
そして空になっていることに気づいていなかったかのようにグラスに口をつけた。
底の方で僅かに残っていた水滴がグラスの側面を伝い、ユウキの口に入る。
その後すぐに豚しょうが定食がやってきた。ユウキは持ってきた店員に水のおかわりを頼んでいた。
「でもどうしてそんなこと聞くの?」
「いや、一人暮らしにしては何かヘンな感じっていうか‥。食器とかが多かったし‥」
しどろもどろに説明するユウキを見て、私は男と同棲していると疑われたのでは? と思った。
「マリって言うの。その幼なじみの女の子」
”女の子”の部分を強調して言った。ユウキは「ふ〜ん‥」とつぶやき、それからはあまり興味がないような顔をした。
でもその胸は鼓動を早めているのが手元の小刻みな震えを見ればわかる。
顔とカラダの態度の違いに私は表には出さずに苦笑した。
ユウキは豚しょうが定食をがつがつと食べはじめた。私もまだエビプラフが残っていたので、それを食す。
しばらくは何も言葉を交わさなかった。
口を開いたのは私がエビピラフを食べ終わった後。
ただ男らしく口いっぱいに食べ物を詰め込んでいるユウキを少し微笑ましく見つめながら私は言った。
「お母さんたち元気?」
ユウキは口を動かすのをやめる。一瞬間の静止の後、私を見る。
「何かすっごくいいお母さんだったから忘れられなくて」
少し驚いた顔をするユウキを見て私は慌てて付け加えた。
ユウキは手に持っていたお皿を置いて、口の中に入っているものを飲み込んだ。
「今、ケンカ中」
つっけんどんに突き放すユウキ。親子ケンカに他者が口出しするのはどうかとも思ったが敢えて私は聞いた。
「何かあったの?」
少し淀むユウキ。私は身を乗り出す。ユウキは圧力に耐えかねたように重々しく口を開く。
「最近の母さんヘンていうか、しょっちゅうマキちゃんの名前出すようになったんだ」
私はピクリと眉を痙攣したように動かした。
「マキちゃんって覚えてる? 俺が生まれる前に亡くなった年子の姉キ」
「うん」
私は動揺を隠すように静かにうなずき、
「確かお母さんの不注意の事故で‥」
と付け加える。
その時私は目をしばたかせた。元々照明を少し落としていた喫茶店だったが、もう一段階暗くなったような気がした。
しかし、ユウキは何も気付いていない。気のせいか、と思った直後、ユウキの後ろに昇る薄い光を見つけた。
そのシルエットはマキの像をおぼろげに縁取る。明らかに私を見下ろしている。
きっとこの光は私しか見ることができないのだろう。私は一筋の汗を掻いた。
ユウキは背後のマキや私の焦燥に気を止めずに口を開く。
「そう。で、母さん、ポツリと洩らしたんだ。マキちゃんが死んだのは7月10日だ、って」
「7月10日って‥」
「俺の誕生日」
ご飯を食べながら淡々と言うユウキ。私は思わずツバを飲み込んだ。
「それってユウキの生まれた日にマキっていうお姉さんが死んだってこと?」
私はユウキの頭上の薄いオーロラのような怪しげな光を見る。その目線の下でユウキはうなずいていた。
「よく考えれば俺の誕生日ってまともに祝ってもらったことなかったんだよね。
最初は俺が男だからと思っていたけど、多分、それはマキちゃんの命日だからだったんだ」
「そうなんだ‥。ショック?」
「ショックってほどもないけど。だからって今頃言わなくたっていいのにって思って、キレちゃった。で、今はケンカ中」
再びユウキは身をかがめて豚肉を食べ始めた。私の目はマキの光を射抜く。
「こういうこと?」
口に出していない。ココロでもって聞いた。光がゆらゆらと揺れる。
「だからってユウキを恨むのはお門違いってもんよ。不可抗力じゃん」
また光が揺れる。今度は横に揺れた。その動き方は――否定しているってこと?
「どういうこと?」
答えを確認する前に、ユウキがピクッと動き、私は異常に反応した。
「どうしたの? サヤカさん?」
私は「何でもない」と慌てて言う。ユウキはポケットから携帯電話を取り出した。
どうやら電話がかかってきたようだ。誰からかかってきたのかを確認すると、今度はユウキのほうが顔色を変えた。
「どうしたの?」
今度は私が尋ねる番。
「いや‥ちょっと‥」
ユウキは席を外し、私の背中側にあるトイレに走っていった。
ヘンな奴、と思いながらユウキを見送る。
そして顔を元に戻すと薄かった光が少し強さを増して、ユウキが座っていたところまで侵入していた。
「で、どういうことなのよ?」
濃淡が目立ってきたせいかマキの顔の部分にに輪郭や目鼻の形を作る。私の目線は口もとの笑みに集中した。
「笑っているの?」
「‥‥」
無言の口はさらに歪つに曲がる。
「なんで、笑ってるの?」
その笑みは明らかに祝福ではなく蔑み――マキは私から目を離し、斜め後ろにやる素振りをした。
私は思わずその方向に顔を向ける。トイレがあった。眉を寄せながら、また顔を戻す。
「意味わかん―――」
マキは笑っていた。先ほどよりも数段卑しい笑みだった。
そして、マキの言わんとしていることの末端が私の脳裏をかすめた。
「ま――」
まさか、と口元が震える。
「‥‥」
マキはなぜ、こんな一連の微かな動作だけでそういう考えに至ったのかわからないが、ともかくその疑惑はみるみるうちに浸透していった。
マキは口元を動かした。読唇術は備わっていないが、元々ココロの中での会話だったからか何を言ったのかわかった。
「ユウキヲコワシテ」
きっとこれは最終命令。
腿のあたりのジーンズをギュッと掴む。何かにしがみついていないと自我をコントロールできない気がした。
「ごめんごめん。クラスのダチからで‥」
ユウキがそう言いながらやってくる。そしてマキがいる対面の席に座る。
マキとユウキが重なった。薄い光に覆われて、ユウキが口を開く。
「学校さぼったのバレたみたいなんだ。参っちゃうよ。また母さんと喧嘩かなぁ」
「‥‥」
「まあ、もう慣れちゃったけどな」
「‥‥」
「そうそう、そのダチってさ、金髪でさあ、まったく似合っていないんだ」
ユウキは残っている食べ物に口をつける。私はユウキの言うダチの話題に触れることなく聞いた。
「新しい彼女から?」
静かで重いトーンが空気を面で押す。
人の介入しない秘境の地の中心に存在する澄んだ泉に私は一滴の毒を落とした。
透明な泉は波紋を広げながら黒く汚染されていく。
レコードが切れたのか喫茶店の中を流れる70年代後半のブラックミュージック調の音色がパタリと止んだ。
ユウキは驚愕の顔のまま不自然に固まっていた。それが1秒、2秒と続いた気がした。
「な、何言ってんだよ‥」
明らかに浮き足立っていた。ユウキの反応する目、口元、手、そして滴る汗の全てが真実と嘘とを分別している。
「今日はホントは‥別れを言いに来たんじゃないの?」
あからさまに目を逸らすユウキ。
「ねえ、ユウキ‥」
「‥‥」
「正直に答えて」
よく考えれば、「私のことが好き?」の問いかけに即答では返ってこなかった。
ウソをつくかつくべきじゃないかの葛藤がずっと見えていた。
更なる長い沈黙。
店内に流れていた音楽は一向にかかってこない。
ホントは普通にかかっているけれども、私の耳がユウキの言葉だけを受け入れるように他の音を抹殺しているだけなのかもしれない。
ユウキは肘を伸ばし、自分のカラダを硬直させた。そして、目線をテーブルへ落とした。
「お、俺‥好きな人ができたんだ」
仕草や間の開け方が怖いくらいリアルに聴覚を刺激する。やっと言えた、というようなホッとした吐息がすぐ後に吐かれた。
「告白‥したの?」
「‥‥」
ユウキは私を見ぬまま頷く。
「エッチは‥したの?」
「‥‥」
ユウキのカラダは再び硬直する。
「ねえ」
「うん‥さっき‥。ここに来る前‥」
できればこのつぶやきが私の耳に届かないように、と願っているかのようなか細い声だった。
先ほどのフェラチオを思い出す。精液が少なかったのは朝だからだけではなく、一度済ませたからなのだ。
「どんな子? 前の彼女?」
そんな生々しい事実を突きつけられても、私は落ち着いていた。
発狂したり、ユウキを咎めるとかという気持ちも湧いてこない。感情を抑えようとする理性さえも必要がなかった。
ただ、おもむろに事実を吸収しようとしている無の状態だ。私の中身はどこへ行ったのだろう?
ユウキは少し意外という顔色を僅かに浮かべてから、首を横に振る。
「もうあの子は関係ないよ」
「ふ〜ん‥」
「と、とにかく! サヤカさんが心配で来たのはホントだから!」
ユウキはこれが見苦しい言い訳になると自分でもわかっていたのだろう。
罪悪感を言葉の端から滲ませながら叫んだ。椅子を引いて立ち上がりながら、悲痛に顔を歪めていた。
その痛みは私ではなく、自分に向けられている。なんて俺は愚かなんだ、と。
本来なら会うことを拒んでいた私にも非があるのかもしれない。しかし、ユウキの目に私を咎める色彩はなかった。
私は馬をなだめるかのように両手を使って座るように促す。
「うん、わかってる。だからわざわざケイちゃんに尋ねてまで家を探してくれたんだよね」
「‥うん」
ユウキは力が尽きたようにストンと腰を落とした。
「ユウキって男らしいよね。ユウキが会おうとしなければ私たち自然消滅だったのに。きっぱりケリをつけないと気が済まなかったんだ」
ユウキは大きく首を縦に振った。涙が目に溜まっていた。男らしいと言ったばかりなのに女々しい奴だと苦笑した。
「ごめん」
何度も謝るユウキ。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
「うん」
ユウキはどんなことでもやるといったような顔つきをする。いつの間にか薄い光はなくなっていた。
「あと一回だけデートしない?」
「え? でも‥」
「彼女には迷惑かけないから。当たり前だけどキスもエッチもしないから」
「‥‥」
ユウキは少し考え込んだ。そして後ろめたさに押されるようにうなずいた。
「んじゃ決まり。ということで、ユウキがここを払っといてね。手切れ金ってことで」
私はそそくさと立ち上がり、店を出た。涙が目のすぐ近くにまで来ていた。
その雫をユウキの前では落としたくないと思ったわけではない。きっとこの涙が意味するものをユウキに勘違いされたくなかったからだ。
太陽は弱いなりに私のカラダを刺す。だけど、その熱さを感じない。
足音も風の音も、自転車が横切る音も何も聞こえない。結局、涙は落とすことなくカラダの内部に逆戻りした。
そのままよそ見することなく、一目散に自分の家に戻った。
途中、誰かにすれ違ったとしても挨拶はおろか、その存在を確認することもなかっただろう。
玄関の扉を閉める。外気が遮断され、目の前に広がる私とマリの世界に私が溶けていく。
ユウキの言葉、仕草がぼんやりと甦り、一つ気づいた。
私が一人で住んでいるかどうか聞いたのは男との同棲の疑いに嫉妬したわけではなく、そうであってほしいと願っていたのだ。
それだとお互いが裏切ることになりユウキの罪が少しでも軽くなるから。
しかし、それでも憎悪のエネルギーは生まれなかった。信管が濡れた花火のように導火線を昇ってきた火は爆発寸前に消沈する。
私はわかっていた。空洞になったココロにはやがて形の変えた憎悪が埋め込まれることを。
「こんなにココロが穏やかなのはマキのせい?」
誰もいないはずの空間に向かって呟く。
「‥そうだよ」
一瞬、間があってからマキは現れ、答えた。
「フフフ‥」
沸々とココロの底から笑いがこみ上げてきた。背もたれにしていた玄関の扉に何度も後頭部を打ちつけた。
それが刺激になってどんどん意味不明な感情が表に出た。
決して私から感情が消えたのではない。ユウキの裏切りに感情は爆発せず、別のものへと手を伸ばしていたのだ。
その間の空白がこんなにも私を穏やかにさせていたのだ。
辿り着いた先は最深と思っていた部分よりもっと深い潜在領域。私が気付いていなかった領域に導火線はつけられていた。
ユウキの前で浮かんだ涙はその変貌する私に対するものなのだ。しかし、この世界はそれすらも拒絶した。
しかし、それでいい。内部に戻った涙は潜在部分の肥料になる。
「マキって結構ウソをつくんだね」
「‥‥」
無言が私を狂わせる。そしてとうとう冷たい火花が脳細胞に散った。
「あははは! バッカじゃないの? これのどこが復讐? どうして私を冷静にさせる必要があるの?」
幻が揺らめいていた。声は聞こえない。どんどんおかしくなって対照的に大声を上げて笑い出す。
「マキはそれで満足なの? 私はユウキと笑いながら別れただけだよ。それがどうしてユウキを壊すことになるの?」
「‥‥」
「どうして、私にユウキを殺させない? もし私がマキだったら絶対あの場でナイフかなんかでユウキの心臓を刺していたね。
ねえどうして何も命令しないの?」
マキは答えることなく立ち尽くしていた。私はただ薄い光の存在感を頼りに会話をしているだけだ。
それでもマキの狼狽は肌で感じ取ることができた。
「じゃあ、私が答えてあげる。もう、マキは私のココロをコントロールできないんだ」
揺らめきが大きくなる。
「今はっきりわかった。マキは私の一番奥底の部分にまだ行き届いていなかったんだ。
そして、その部分に私は先に辿り着いた。そんな私をマキは恐れている。だから今ウソをついたんだ」
私は横にあった透明のビニール傘を手に持ち、その先の部分を幻に向かって突きつけた。
幻の目の部分が大きく見開かれる。
100mを全力で走りきった後のような汗が顔面に浮かぶ。右目に汗が入り、痛さから閉じる。そんな時に私は叫ぶ。
「もうマキの思い通りにはならない! もう私のココロをコントロールできやしない!」
発狂したような声とともに、何度も何度もマキのカラダを突き刺す。
感触は当然ないが、幻が歪む様を見て、マキは痛みを感じているのだと思った。
傘を幻を真っ二つにするように上から下に振り下ろすと、一瞬パーッと強く光り、飛散しながら消えた。
最初は死んだのかとも思ったが、幻がどう変形しようとそれは”死”にはならないだろう。
それにそんな簡単に死ぬような存在なら私に棲みついたりしないだろう。
私は最後に幻のあった場所に向かって唾を吐き捨てた。
傘を横に投げ捨てリビングルームに行き、電気をつける。
さっきまでの腐りきった雰囲気は消えていた。出口を見つけ、汚濁した流れはそこに吸いこまれるように道を作っている。
残るのはきっと生きる要素の詰まった部屋。
私はマリとの写真が貼られているクリップボードに目をやり、一枚取った。
顔と顔を寄せ合い、微笑んでいるちょっと前のマリと私。
作られた過去に縋ったっていい――そう思いながら、目を細めた。
私は今、生きているんだ。
そして、今まで生きてきた中で私はいろんな人を好きになったんだ。
私がどんなに社会不適合な欠陥種であっても、生きること自体がマキの張った罠であっても、その事実は変わらない。
”生”を敬って何が悪い? 私はどうせ愚かな生物なんだ。社会を裏切ろうが、世界を司る神を裏切ろうが関係ない。
ユウキを好きになった気持ち。
それは紛れもなく私のココロなんだ。
だから葛藤し、ユウキにはあまりにも不釣合いな自分を卑下してきたんだ。
そしてユウキに愛されたくて必死だったんだ。
「ねえ、マキ」
ココロの中でしぶとく生きているであろうマキに対し、私はつぶやいた。
私はユウキを壊したりしないよ。できないよ。
少しでも生きるってのが何なのか教えてくれた大切な人なんだ。
人は愛をどんな形で裏切られても、どこか優美なところを見つけようとしてしまうものなんだ。
過去の記憶が「会えてよかった」と言ってくれている。
だから私はユウキを壊したりはできない。
1年間しか生きられなかったあなたにはわからないでしょうけどね。
これからもあなたが私に棲みつくつもりなら教えてあげる。
絶対ココロを捧げたりしない。
過去に支えてくれた人が――ユウキやマリやナツミたちがいる限り。
私はそんな人たちのためにあなたが憧れた私の性悪なエネルギーを費やしてみせる。
だから、早く別の人を探したほうがいいよ。
もうユウキを憎むことはないから。
模造であってもいい。このココロは離さないから。
私はビデオデッキからテープを取り出した。
――これはきっと私の”償い”の第一歩。
制御のなくなった運命は加速をはじめる。
-54- Declaration
その日、ヒトミに電話で呼ばれた。
私もかけようと思っていた。
しかし携帯電話を壊してしまい、電話番号を思い出せなかったら事前に連絡はできなかったので、
明日にでもいきなり訪ねてみようと思った直後のヒトミからの電話だった。
どうやらヒトミはリカを通じてここの電話番号を調べたらしい。リカは”マリア”、つまりケイから聞き出したようだ。
ともかくほぼ同時に会いたいと思っていたようだ。二人の間に意思疎通が事前に行われていたような奇妙な感覚に襲われた。
これは一種のテレパシーなのだろうか。
少し建てつけが悪いのかドアの軋む音が微かに聞こえる中、ヒトミは現れた。
人と会うのにココロの準備など要らないようで、余裕の笑顔が優雅な怠惰さをたたえるように醸されていた。
「お久しぶりです」
ヒトミの目は常に突き刺すような明るさのない光を有し、私をココロまで射抜く。
侮蔑のような嘲笑のような――だけど、それは自分にも向けているような共感を持った五感を麻痺させる尊い眼差し。
ヒトミも感じているのかもしれない。
――私とヒトミはある共通点を持っていることを。
ヒトミは”今”を否定しているようなところがある。
時が経ち、1年後が”今”になっても、10年後が”今”になってもおそらくヒトミはその”今”を否定するのだろう。
――そんな永遠の反逆者。
きっと世界にどんな異変が起きようと何の関心も持たずただ思うがままに生きていくのだろう。
ヒトミは間違いなく、人そして社会の不適合者としての性質を持っている。
しかも、私より数段上級の世界を牛耳ろうと思えば可能な支配者クラスだ。
「とりあえず上がってください」
私の凝視にも不思議がることも、そして当然臆することもなく、そう言うヒトミ。
私が「うん」と返すと、ヒトミは「どうぞ」と言いつつ、私を中へと誘導した。
来客用のスリッパをパタパタ鳴らしながら、居間に入る。
リカの「お気に入り」らしいアフロ犬が戸棚のガラス戸の向こう側に幽閉されているのが目に入ったがリカ自体の気配は感じられない。
さらに向こうの部屋にいるのかもしれないが、今回は特にリカに用はなかったし、その所在を聞くことはしなかった。
「辞めたんですってね」
お茶の入った何の変哲もないガラスコップをテーブルに置きながら言った。
ヒトミは私をソファに座らせ、そのままテーブルを挟んだ回転椅子に座る。
「リカちゃん、泣いてましたよ」
私はやっと”マリア”のことだと気づく。無言のまま、首をコキコキ鳴らす。
ヒトミに魂を持っていかれそうな感じだ。目を細め、口をすぼめ、できるだけ身を小さくして、その吸引に耐えうる格好をした。
「‥‥」
無言の私に対し、ヒトミはその大きな目を瞬き一つさせずにじっと私の目の奥を覗いていた。
重い沈黙に私は胃が捩れるような感じに襲われる。
「別にリカちゃんとはそんなに付き合いないんだけど」
私は横のクローゼットに顔を向けながら口を開いた。
そして大きく息を吸い込みながら、ヒトミと向き合っている間は、呼吸を忘れていたことに気付く。
「リカちゃんはそうでもなかったみたい。ずっとグチってましたもん。『なんで辞めるかなぁ』って。私、嫉妬しちゃいました」
言っていることと全てを見通したような表情との相違が私を愚弄したのだと思わせる。
ヒトミに嫉妬なんて感情があるとは到底思えない。
「ところで何で私を呼び出したの?」
私は聞いた。
「別に。ただサヤカさんが私と話したがっているような気がして。私も忙しいから、今日を過ぎるとあんまり暇がないんですよ」
首筋に冷たいものが走った。まるでヒトミのあやつり人形になったみたいだ。
もしかして私の今こうやって内に抱えている意志はすでにヒトミに委ねられたものなのかもしれない。
この感覚はマキとは違う。マキは私を縛り付け、一宗教のようにココロから変えようとした。
ヒトミは高い位置から見下ろし、自分の視野内で自由に躍らせる。掌で孫悟空を泳がせた釈迦のように。
そんな感覚から逃れたかったからか私はあるアイテムを自分のバッグから取り出した。
一本の黒いビデオテープだ。二人の間にあるテーブルに置いた。
「ビデオデッキ、あるよね?」
眉の辺りをピクリと動かすヒトミ。
「普通の‥VHSぐらいなら」
取り出したのは前にゴミ袋に入っていたテープだ。
中身は想像がつくが、まだ見ていない。
なぜヒトミに見せたいのかわからない。
マリはもういないのだから家で一人で見てもいいのだが、なぜかその気にはならない。
かといって信用のできない人間と見るわけにはいかない。
そう考えていくと、一番最初にはケイの名前が浮かんだが、次に浮かんだのはこのヒトミだった。
ちゃんと話したことは一度しかないヒトミを私は断じて信用していない。
むしろ脅威の対象だ。
それなのに、二番目に浮かんだという自分の思考回路が理解できなかった。
しいていうならその私の内部で起こっている思考外の意図を知りたくて、私はヒトミを選んだのかもしれない。
そしてその意図こそ私を変貌させる重要な要素のような気がした。
ヒトミに少し動揺の色が浮かんだことは、少し意外だった。
もうすでにテープの内容に感づいたのかもしれないが、そのことで意外と思ったのではない。
例え内容を感知したとしても、感情が希薄なヒトミに動揺なんて起こるとは思えなかったからだ。
私はビデオテープをデッキに入れる。テレビの電源を入れ、本体の「ビデオ入力」のボタンを押す。
一度後ろを向き、ヒトミの様子を確認する。ヒトミはただ無言で私の動作を見送っていた。
「押すよ」
反応を待たずに再生ボタンを押す。
10秒ほどの乱れた映像と雑音の後に発色の悪い画像が飛び込んできた。
暗闇に埋もれた画像の中心には人影がいくつも蠢いている。
懐中電灯らしき光がその中央を照らす。
スピーカーからはガサゴソという音とともに、四方から飛び交う野獣のような男たちの声と、一人の女の高い声。
それは限りなくなじみのある声。
想像通り。
吐き気がするぐらい予想と合致する悪魔の光景。
私はとてつもない狂気にカラダが支配されていくのを感じながら震えるカラダを両方の腕でがっしり押さえつけ、その画面をにらみつけた。
虹彩に事実をしっかりと焼きつけ、自分の奥底に眠る存在を起こすために。
悲鳴が出るたびに女の頬が叩かれる。
懐中電灯は3つに増え、やっていることがわかる。
マリの顔があった。
シャツはもうビリビリに破かれていた。ブラジャーは引きちぎられ、右の乳首が露わになっていた。
下半身はもう裸だった。そして、男たちの実験動物を眺めるような冷ややかな姿があった。
一人の男が立っているマリの右の乳首を噛む。マリは声をあげた。顔が離れると乳首からは血が垂れていた。
「もう、あんまり声出すんじゃねえぞ!」
男の野太い怒号が聞こえてきた。
それでも悲鳴を止めないマリに、また別の男がマリの頭部側からマリの喉を締め付け、何かしら耳元に囁く。
おそらく「喚くと殺す」というような脅しの言葉だったのだろう。
マリは口に泡を立たせながら、必死で小さくうなずく。
男が手を離すとマリは「ゴホゴホッ」と咽ながら懸命に呼吸を再開していた。
「おい、俺らの顔映すなよ!」
撮影者に向かって声が飛ぶ。映像が誰かの手によってブレる。焦点がマリに再び合った時にはブラも取られ、完全な裸体になっていた。
「なんだ、こいつこっちの乳首、ちょっとヘンだぞ」
ネックレスがダランと首から垂れ下げている男がマリの右の乳首を爪で引っ掻きながら言った。
「それがこいつの一つのチャームポイントなんだから許してやってくれ」
画面外からえらく冷静な声が聞こえた。
マリはその声に反応したように、ほとんどムダと気付いていながらそれでも抵抗しようともがいていたカラダや手足を固まらせる。
「ホント小せぇよな、コイツ。俺にも早く入れさせろよ!」
いろんな怒声と飢えた声が飛び交った。
その後、マリの性器に大小様々なペニスがインサートされた。
昔、3日間だけ付き合った男と一緒に見たエロビデオとは違い、その結合部にはモザイクなんてかかっていない。
カラダをよじらせ、抵抗するも、手足はがしりと抑えられ、ペニスはマリに合体したまま離れない。
やがて無意味だと悟ったのか、感じるカラダをビクつかせるだけで、抵抗は全くしなくなる。
「しかし上手いし、イイ声出すよなぁ」
「まあな、俺が調教したんだから」
マリは脱力したカラダを少し硬直させ、「あ‥」と口を動かした。
絶望のさらに底を見たような深青色の唇が見えた。しかし、次の瞬間、髪の長い男がその唇を襲った。
マリに涙の色が光る。その奥でまどろむ瞳はいつしか一方向だけになっていた。
その先にいるのはおそらくトシヤだろう。同じくマリが目ざとく反応した言葉たちの主はトシヤなのだろう。
私は唇を噛みしめ、発狂しそうになるのを必死で抑えた。振り下ろしそうなる腕を必死で抑えた。
やがて画面はマリのカラダを離れ、印鑑を長くしたような棒に焦点を合わせた。
軍手の上からペンチらしきものを使ってその棒を持っている。
「今から儀式を行いま〜す」
オカマみたいな口調でカメラを持つ人間が言った。画面外からケタケタと笑う男の声が四方から飛び交う。
私は何が始まるのか気づいた。頭からずっと離れなかったマリの傷ついたカラダ。それを象徴している胸の―――
「ぎゃああああ!!」
今までにない大きな悲鳴がテレビのスピーカーを震わす。
意識を朦朧とさせていたマリが叫んだ。マリから発したとは思えない猛獣のような叫び声だった。
画面に映っているのは、左胸からプスプスと煙が立ち昇っている絵。
火葬場で死体が焼却されているときに、上から立ち昇る灰色の煙と似ていた。
目からも口からも鼻からも液体がこぼれている。
そして煙の出所からは原爆の被害を被ったように真っ赤にただれた肌がある。船の”錨”のような悪しき刻印。
「うわあああ!」
私はとうとう叫んだ。自分の左胸に痛みが生じ、ギュッと抑えた。
手元にあるガラスコップを手にとり、テレビに向かって投げようとした。
その時、画面がプチンと切れた。
振り上げた手をピタリと止める。中に入っていた冷たいお茶がちゃぷんと揺れ、腕に零れた。
雫が肘まで伝わっていくのを感じながら、横を見ると、リモコンを片手に私を見つめるヒトミがいた。大きい目を細くしていた。
私は瞼に溜まった涙をぬぐい、はっきりとヒトミの顔を捉えた。目はあいかわらず乾いている。
私と同じ感情が社会不適合者のヒトミの中に流れているようには見えない。
だけど、今、確実にヒトミは画面を消したのだ。
これ以上見ることを拒絶したのだ。
「私のテレビなんですから壊さないでくださいよ」
声に震えはない。相変わらず感情は流れていない。しかしそれでも私には少し言い訳ぽく聞こえた。
「‥‥」
私は無言のまま、コップを元に戻す。
「こんなの、私に見せて何しようって言うんですか?」
ヒトミは低いひび割れた声で立ち上がり、ビデオテープを取り出そうとする。乱れた息を私は整える。
「‥この女の子、見覚えない?」
ヒトミはすぐ気づくと思っていたので少し予想外だと思いながら誘導する。
私の問いかけにヒトミは思い出したようだ。ほんの一瞬だけ驚きの表情を浮かびかける。
「ああ、あのカラオケに入ろうとした時にすれ違った‥」
しかし、すぐにその感情は仮想であったかのように、淡い色に瞳を変える。
何がヒトミを頑なにそうさせるのだろう。ビデオを見て、一瞬、ヒトミのココロに熱されたものが埋め込まれたはずだ。
しかし、それをすぐに凍結させた。
「うん。私の親友。ついこないだまで一緒に同居してた」
「なるほど‥。幼馴染でしたよね。同居してたんですか」
「うん」
ヒトミは取り出したビデオテープを一度見る。
「ますます理解できない。この子に悪いと思わないんですか?」
「マリは‥その子は、信じていた男に裏切られてレイプされたんだ。このビデオはゴミ袋に入っていた。
きっと、マリに送りつけてマリが捨てたんだと思う。わからないけど多分脅しかなんかに使われたのかもしれない‥」
「それで‥大事な幼なじみが痛めつけられる様を、無関係な私に見せて何をするって言うんですか?」
「探してほしい。首謀者を――マリの彼を演じてた奴を」
ヒトミに再び冷徹な色が帯びる。
どんなに熱せられたものであっても一瞬にして冷え固まらるチカラを持つ幻の霊獣のような生物を思わせた。
ヒトミは私の意志が入った言葉をエサにし、本来の狂気のココロを芽生えさせたようだ。
私はそれを敏感に察し、思わず身構えた。
――怖い。
――そして、憧れる。
「ヒトミってそういう世界に詳しいんでしょ?」
口元を少し震わせながら懸命に言う。
リカを”マリア”に紹介して働かせたのはヒトミだ。
その紹介相手がケイかどうかはわからないがとにかくそっち方面に顔を広げているということだ。
それとヒトミの能力はどれほど確実性のあるものか、有用性のあるものかどうかわからないが、
きっと何かの役に立つような気がしていた。
ヒトミは私の問いに何も答えない。
私の業火に満ちた目を何の熱いものも流れていない氷で作られた彫像のようにさらりと受け流している。
一瞬垣間見せたように見えた同情や良心みたいな感情はもう面影さえない。
「探してどうするんですか?」
ヒトミの言葉を受けると、脳裏にはユウキの顔がはっきりと浮かんだ。
ユウキの作る笑顔とか声とかが「幸せ」の二文字を縁取っている。私はそれに溺れようと飛び込もうとした。
しかし、私がユウキの元へと行き着く前に、奥底に潜む凄絶な魔物がその二文字を、
そして必死にその文字を守ろうとしていたユウキを一瞬で飲み込んだ。
きっとこれが母が恐れ、破壊しようとした自己と他者を同時に壊そうとする私の先天性。
幸せではない何かを求める――”人”としては狂った何かを。
魔物に襲われ苦しんでいるユウキを諦観した。私には救うことはできない。なぜなら襲っているのがある意味”私”なのだから。
「ごめんね」とつぶやくと、脳内の映像は真っ暗な中で点滅する小さな光だけになる。
その点滅間隔は段々と遅くなり、最後にはほとんど停止した状態になる。
脳内にあったヒーローとしてのユウキは息絶えた。
残骸だけが残った荒廃地に猛る魔物。きっとこの存在こそがマキの求めるものだったのだろう。だから私に棲みついたのだ。
――マキが導いてくれたその眠れる力を利用させてもらうよ。
私は一度薄気味悪い微笑を浮かべた後、はっきりと言った。
「殺す」
ヒトミは「OK」と言い、微笑んだ。
『やはりサヤカさんは私と同種みたいですね。
この世界に求めるのは愛ではなくて憎しみ。
愛は憎しみを増幅させるスパイスにすぎない。
擬似でつくられたプラスティックのような脆くて馬鹿馬鹿しい世界に必要なのは憎悪だけで塗り固められた、エゴとエゴの戦争。殺戮。
敵を、そして、自分を殺すこと。
私は手伝ってあげます――』
不思議な魔力が私を凌駕し、そんな意識が脳のキャパシティを超えて雪崩のように舞い込んできた。
今まで培ってきたものが全て溶かされ、無意味なものになっていく。
生まれて、成長によって作られた愛情、友情が歪み、形を変えていく。
残るのは人間――いや、”イチイサヤカ”という生物になる前の本質部分。マキさえも近づけなかった絶対領域。
つまり、母が恐れたもの。
ヒトミという悪魔に魂を売った証だ。
-55- 壊れたパンドラの箱
「どうしたの、サヤカさん?」
声が聞こえる。
「具合、悪いの? あ、もしかして風邪引いた?」
心配そうに見つめる愛しい顔。
この人は私の彼氏?
顔を見るたびに、声を聞くたびにカラダがそわそわする。内部に温かいものが流れる。
触れたい。
キスしたい。
セックスしたい。
私は濡れた髪の毛の襟の部分に触れながらそんなエスを抑制した。
昔、夢の中で思っていたマキに対する感情がストレートに横に座る男の子に向けられる。
未だに私は二人の姿を重ね合わせている。
「それじゃあ、早く食べないと。のびちゃうよ」
目の前に置かれた天ぷらソバを見ながらユウキは言った。
「うん、そうだね」
このままのびてしまったらおいしくない。
二人を繋ぐ糸もゴムみたいに伸びればいいのにと思うけど、やはりそれだとマズいのだろうか?
私とユウキは最後の旅行をすることになった。
普通に渋谷や原宿でデートするのでは今のユウキの彼女に見つかってしまうかもという危惧をふまえて、私たちは遠出することにした。
羽田から飛行機で60分。場所は伊勢のアドベンチャーワールド。
夏休みももうとうに過ぎた平日ということもあって、今日一日までは雨の降る心配がないにも関わらず、お客はまばらだった。
生活にしがらみのない大学生同士のカップルがほとんどだった。
そんな中、私たちは浮いているだろうか?
それとも同じように暇を持て余している大学生に見えるのだろうか?
ユウキはずっと渋っていた。私の提案した”最後のデート”は常識では考えられないと思う。
別れ話を持ちかけられて、受け入れてからデートを申し込んだのだから。
何か裏があるのでは? と考えることはごく普通のことだ。
「今の彼女に暴露されるのでは?」とか「無理心中を謀ろうとしているのでは?」とかユウキは疑ったに違いない。
だけど、私はこれっぽっちもそんなことは考えていなかった。
きちんと決別したい。
その確固たるものが欲しかった。今は疑心暗鬼でも構わないから、最後には私を理解してほしいと願った。
あらゆる時の流れが穏やかに過ぎていった。
お子様レベルのジェットコースターに乗ったり、サファリパークでライオンを見たり、1歳になったばかりのパンダを見たり、
毎日の生活にはない存在の繰返しが私たちを普通の恋人同士にさせた。
それこそ甘くて柔らかい水分を含んだかけ値のないものに包まれたように。
入場口を入ってすぐ前に置いてあったしおりを開く。あと10分でオルカショーが始まるようだ。
ここの名物の一つらしく、他にもイルカショーやアシカショーがあるみたいだ。
この時間を逃すともう今日は行われないらしいので私たちは急いだ。
何のわだかまりもなく手を繋いだ。乾いた手のひらが握ると少しだけ汗ばむ。
「ところでオルカって何?」
「さあ、でも見たところシャチみたいなやつじゃない?」
ユウキはしおりに描かれている絵を見てそう言った。しおりのトップページにはシャチのような動物の絵が描かれてある。
人はやはりまばらだった。段差がついたカラフルな椅子がショーが行われるでかい水槽を取り囲んでいるのだが、
その6列目より前に座ると水を被る可能性があるらしく「注意」というプレートが貼ってあった。
点在する人たちは、きちんと「注意」に従っていたが、私たちはあえて一番前に座った。
黒のウェットスーツを着たお姉さんがショー開始の宣言をし、何やら説明をしている。それが終わると少しの間、待たされた。
私はじっと水面下を見た。汚れているので何が起こっているのかまではわからないが、
水面が静かに波立つ動きを見るに何かが動いているということだけはわかった。
「わっ!!」
その瞬間、突然現れた巨大な生き物が前の丘に飛び出してきた。
しおりに描かれた絵とそっくりだった。オルカだ。それは私たちの想像をはるかに超えた大きさで、私とユウキは目を丸くしてのけぞった。
ぽつんぽつんといる観客のそれぞれからどよめきが湧く。
オルカは従業員のお姉さんの指示で会場の真ん中に浮かぶボールに向かってジャンプしたり、
お姉さんを鼻に乗せて、ものすごいスピードで水槽内を周遊したりといくつもの芸を披露した。
私たちはそのパフォーマンスに見とれた。二人の交錯する思いを少なくとも表面上は払拭されていくのを感じていた。
最後の方にはオルカのジャンプした拍子に飛び散った水をモロに被った。
髪の毛や服がびしょびしょになった私たちはお互いを見合わせて、ただ笑った。
ユウキも私も一点の曇りもないものであったと思う。
周りから見れば、将来が少なくとも明日ぐらいはある甘いカップルだったと思う。
空腹も忘れ、様々なショーに感動した後、私たちはそのパークの中にあるソバ屋に入った。昼飯でも晩飯でもない中途半端な時間だった。
若干料金が高めの天ぷらソバを注文し、5分程度でやってくると、二人は競うように音を立てて食べはじめた。
しかし、途中、ふっと虚しくなって私は動かしていた箸を止めた。
「どうしたの? サヤカさん。具合、悪いの? あ、もしかして風邪引いた?」
ほんの一瞬、今日のような日々が永遠に続くと思ってしまった。
しかし、次の瞬間にそうではないと現実の声が届き、私は虚しくなったのだ。
「早く食べないと。のびちゃうよ」
「うん、そうだね」
緩やかな時間の流れは少しずつ速さを増す。やがて見えてくるのは情けないゴール。
タイムリミットが設けられ、カウントダウンが頭の中で刻まれた。
あと、30分もすればここを離れなければならない。それは忘却の擬似カップルの終幕を意味する。
ユウキがソバを食べ終わり、見つめあった後、お互い無言のまま店を離れた。
「ありがとうございました」という店員の溌剌とした声はやや鬱陶しかった。
出てすぐにユウキの右手に軽く触れた。皮膚のすぐ真下には温かな血が流れている。
私たちはまた見つめあった。
ユウキは声を呑む。きっと向こうから言ってくることはないだろう。
だから私が言わなければ、この空間は永遠と成り得るのでは? と再び錯覚した。
しかし、錯覚はちょっとしたことで一瞬に崩壊する脆いもの。
二人の空間に流れた冷たい風が私たちをさらっていき、ゴールテープを切る。
「ユウキ」
「‥はい」
「ありがとう」
あらゆる感謝の念をこめて私は言った。
出会った場所は最悪だった。
キスは数え切れないほどした。
セックスは貪るようにした。
きっと自慢できるカップルではなかったと思う。
だけど、この最後の瞬間だけはいつか誰かに自慢してほしい。
私という個は忘れてもいいから、この共有しあった綿菓子のような柔らかい恋愛感覚だけは忘れないでほしい。
「ありがとう」
ユウキも言った。斜めからやってくる太陽の光に照らされて、影の消えた肌が私を安心させた。
「ココで別れよう。私は暇だし電車でのんびりと帰る。ユウキは来た時のように飛行機で帰って」
ユウキは無言でうなずいた。もうきっとその声変わりをしたばかりの特徴ある声は聞けないのだろうと確信した。
同時に最後に聞いた言葉が「ありがとう」で良かったと思った。
ユウキは去って行った。
私はただ見送った。
瑟瑟とした悲しい音色が耳を襲った。
背後の太陽が目の前に弧影を作った。
私ははじめて自分でハサミを持ち、結ばれていた糸を切ったのだ。切れ味はスパッとしていてそれがちょっとすがすがしかった。
「マキ、さよなら」
ユウキの後ろ姿がマキに見えたのでそうつぶやいた。もう自分のココロを飛び出したのだと思った。
そっか、最後の別れはマキだったのだ。
マキが仕組んだ”別離”のプログラムの顛末は自分自身だったとは何て皮肉なのだろう。同情しつつも笑いがこみ上げてくる。
もうユウキとのほのかで柔らかい余韻はそんな不気味な笑みによって掻き消されつつある。
なんて薄情な人間だろう。
そう思うと、さらに笑いがこみあげた。今度はマキだけでなく自分にも向けられたおぞましい笑いだった。
ユウキの姿が完全に視界から消えてから私は歩を進めた。
午後11時。
いつもの喧噪が夥しい街に着いた。
雨の匂いが微かに立ちこめる中を赤や緑のネオンライトが飛び交い、人々は飢えた目で獲物を探している。
寝ることの忘れた街並にやや惨苦する。そんな強欲蠢く私の生活領域に入ると怖いくらいにユウキのことは忘れた。
自分の家に戻り、最低限の荷物をセンスのカケラもないバックパックに詰めて、すぐ私はいつもの街に飛び出した。
悶々とした思惑が飛び交い、淀んでいる空気とは対照的に下の地面は純粋に冷えていた。
その場所に着いた時は1時を回っていた。
電話はかけていない。いるかどうかもわからない。だけど、私には黒く煤けた運命の糸の存在を感じていた。
そして、その糸に引っ張られるようにしてここに来た。
「ピンポーン」
夜には不似合いな機械音が鳴る。隣りの住人から苦情が出るかもしれない。目の前の扉がガチャリという音とともに開いた。
「こんにちは」
臆することなく私は相手に向かってにらんだ。
「どうも。来るような気がしてました」
私の視線の威圧を相手はさらりと受け流す。相変わらずだ。どんなことをしてもこいつはココロからは驚くことはない。
常に先が見えているからだろうか。
「しばらくよろしくね」
「トシヤを殺すまでね」
ヒトミはゲームを始めるかのように愉しげに言った。
私は何が飛び出るのかわからないパンドラの箱を開いた。
しかし、残るものは”希望”ではなく”絶望”なのだろう。
わかっていながら私は開けた。
加速度を増した運命に身を任せながら。
(前編 完)