保田圭2011
2011年秋のある日。
テレビ麻火・特別スタジオの楽屋のソファで保田圭はひとりでくつろいでいた。
今年30歳。
モーニング娘。を卒業して、もうすぐ9年になる...。
特別スタジオの楽屋はいわゆる楽屋というイメージとはかけ離れている。
部屋は広く、広い窓からは眺めの良い景色が広がっている。
調度品ひとつとっても品良くそれなりのものが使われていて、まるで高級ホテルの一室のようだ。
さっきまですすっていた紅茶もありがちなティーバックなどではなく、局内にある専門の喫茶店から運ばれた本格的なものだ。
さすがは局の看板番組のための施設だ。
(でも、ちょっとゆったりしすぎだなあ)
ゆったりとした高級ソファに身をうずめていると少しずつ眠くなる。
これから収録なのに...。
日差しも空調も心地よく、ついまぶたが重くなる。
(疲れているのか、それともトシかな)
目を閉じたまま苦笑する。
(最近はずいぶん余裕をもったペースで仕事をしているのはずなのに...)
娘。にいた頃は殺人的なスケジュールでも充分こなしていけた。
「あのころは若かったなあ」
無意識に独り言がこぼれ落ちる。
(ああ、ほんとにトシだわ)
また、苦笑。
最近多くなった。
本当に寝入りそうになったとき、ノックが響いた。
(時間ね)
目を開くとソファから立ち上がり、手早く髪の乱れを直した。
眠気が完全に消えている。
どんな状態からでもすぐにスタンバイ状態になれる。これは変わらない。
「はい」
声をかけると、ドアが開いた。
スタジオ入りの指示かと思ったが、違うようだ。
なぜか3人の男が、申し訳なさそうに部屋に入ってきた。
「あの...」
一番若い男が口を開いた。今日一日世話をしてくれている番組のスタッフだ。
まだ新人らしいその青年は、ほとんどおびえたような様子で、青い顔をしている。
「どうかしたんですか?」
「す、すいません実は...」
そこまでいって黙り込んだ。
沈黙が部屋を支配している。
余程のことらしい。
先を促すように、勤めてやさしい笑顔を見せた。
「はい?」
青年はその笑顔に救われたように、意を決して先を続けた。
「な、中澤さんが遅れておりまして...」
自分の表情が曇るのがわかる。つい悪い想像をしてしまう。
いままでいろいろあったから。いろいろありすぎたから...。
「まさか、事故か何か...」
「いいえ、そ、それが...」
青年は再び口篭もったが、今度の沈黙は短かった。
意を決して言った。
「あ、あの。寝坊されたようで...」
「え...」
思わず笑い出した。次第に大きな笑いになってゆく。
身体を折って声を出して笑う。涙が出るほどに。
「あの人らしいね」
笑いながら、何とか言った。
相手が怒り出すのではないかと恐々としていた青年はその姿を呆然としてみている。
「今日のゲストが私たちだから、つい油断して深酒でもしたんでしょう」
きっとそうだ、と思う。
あの人は変わっていない。きっとそうだ。
「私、今日のお仕事はこれだけだから、時間大丈夫ですよ。待ちましょう」
また、笑いかけた。
青年はようやく笑顔を取り戻すと、もう一度鄭重に謝罪しスタジオに戻っていった。
(私、怖がられてるなあ)
さっきの青年の様子からそう感じた。
今も昔もね、と思ってまたつい苦笑した。
部屋に残っている2人の男が怪訝な顔で見ている。
慌てて表情を戻した。
1人は自分のマネージャーだ。
もう1人は...。
面識はあるはずなのだが、不意には思い出せなかった。
(誰だっけ、この人)
平静を装いながら、記憶をたどる。
思い出せない。何度か会っているはずなのに...。
助け舟に期待してマネージャーを見る。
目が合った。
露骨にそらされる。
やれやれ。
でも、いつものことだと表情に出さずに思う。
マネージャーの多賀は娘。を卒業して数ヵ月後から担当になった。
もうずいぶん長い付き合いになるのだが、未だに意思の疎通に問題がある。
ツーカーの仲などというには程遠い。
そもそも、多賀は気乗りがしないまま、ずるずると担当を続けている。
仕事に対する情熱のようなものはまるで無く、ただベテランゆえにソツなくこなしているようだ。
もっとも、それで充分だ、とも思う。
多賀は担当が決まったとき、相当にごねたらしい。
自分はこれから売り出す若手アイドルが得意であるから他の担当にして欲しい、と。
確かに一世を風靡したモーニング娘。のOGはプロモートしづらいのは間違いない。
だが、多賀が担当を渋った本当の理由は周囲が教えてくれた。
多賀が素人同然の新人の女の子に手を出したのは一度や二度ではないらしい。
つまり、それが出来なくなることに抵抗したのだ。
多賀は20歳を越えた女には魅力を感じない、とうそぶいているという。
担当が決まった頃、21歳だった。
心底、ほっとした。
禿かけて脂ぎっていて、ガリガリの癖に腹だけ出ていて、常に女の子を毒牙に掛けんと狙っている男...。
いくらなんでも、こちらから願い下げだ。
娘。卒業後に娘。たちと仕事をしたときに、若い娘。たちをギラギラした目で見る多賀を無言で威嚇したことも何回もあった。
最近事務所に入ってくる新人たちとも、なるべく接点を持たせないように気にかけている。
もちろん、多賀はそれが気に入らない。
冷え切った関係での二人三脚をずっと続けてきた。
しかし、それで現在がある。
そりが合わないからといって、感謝していないわけではない。
「あの...」
"もう1人の"男が口を開いた。
「あの、すいません。うちのタレントも遅れておりまして...」
(そうだ、この人あの娘のマネージャーだ)
やっと思い出した。
「本当に申し訳ないのですけれど...」
おずおずと機嫌をうかがうように言う。
最近こんな対応をされることが多い気がする。
気を使っている、というよりも、単に事を荒立てないようにしている感じ...。
まるでこちらを気難しい相手と決め付けて、トラブルが起こればその気難しさが悪いのだ、といいだしそうな...。
上目遣いの小太りの小男に、不快さを気取られないように、また笑顔を作った。
「こちらも寝坊ですか?」
冗談めかして言う。
「め、滅相もありません」
小男は突然噴出した汗をハンカチでぬぐいながら、意味不明なジェスチャーを交えながら言い訳をはじめた。
「昨夜長野で仕事がありまして、急いで車で移動しているのですが、事故渋滞とかで...」
「あなたはご一緒じゃなかったんですか」
「は、はい、私は兼任でして、他のタレントについていたものですから...」
「...そうですか。幸い司会者も遅れているようですし、収録にはきっと間に合いますよ」
「本当に、申し訳ありません」
小男は、滑稽なくらい何度も頭を下げて、部屋を出て行った。
つい、とそれに多賀が続く。
一言も発しなかった。
これもいつものことだ。
(兼任のマネージャーか)
一人になった部屋で、再びソファーに埋もれて、溜息をついた。
(扱い、悪いなあ...)
自分は恵まれているのだ、と思う。
おそらく現在では、一番恵まれているのだろう。
(生き残り組も苦労している...)
娘。の絶頂期の頃から、将来に対する不安はあった。
アーチスト、などとおだてられていても、所詮はアイドルだ。
将来の居場所は自分で確保するしかない、と娘。の誰もが自覚していた。
しかし殺人的なスケジュールと与えられる高いハードルのせいで、誰もが余裕を無くしていた。
漠然とした不安。それについて考える時間は、あまりに限られていた。
ほとんどの者が、流されてしまった。
(私も一人になって、苦労したなあ...)
そう思うと、なんだか泣きたくなった。
もちろん涙など流さない。腫れた目で収録などできない。
(あの頃は、思うままに泣いていたけど...)
懐かしく思う。
いつも一緒にいた娘。たち。
家族以上の存在だった。
自分は最後の卒業生になった。
その一年後、娘。自体も解散した。
卒業直後は話題性もあって、良く娘。たちと一緒の仕事になった。
しかし、娘。解散後はだんだんと会うこともなくなっていった。
(今日は久しぶりに会えるの、楽しみにしていたのにな...)
裕ちゃんと、「あの娘」。
遅刻者たちは、まだ到着しないようだった。
(退屈だなあ)
どれくらい時間が過ぎただろう。
ずっと楽屋で1人で過ごすのも飽きてきた。
テーブルの上の半分残った紅茶も、すっかり冷めてしまっている。
その横にある台本に手を伸ばす。
台本といっても、ほんの簡単なものだ。
司会者がゲストにふる話の内容が、あらかじめリストアップされている。
あとは本番の展開次第、ということだ。
「裕子の部屋」
テレビ麻火の看板番組「徹子の部屋」の後番組として数年前に始まった。
猫柳徹子の病気療養による降板で、慌てて作られた番組だった。
誰もが中澤裕子の起用に驚いた。
中澤は、モ娘。卒業後、しばらくは順調だったが、徐々に仕事が減っていき、この頃にはすっかり落ち目になっていた。
そもそも、対談番組の司会が勤まるほど、中澤には能力がなかった。
それでも後任に決まったのは、猫柳の降板があまりに突然だったからだ。
人気・実力のあるタレントはスケジュール調整がつかなかったり帯番組をやりたがらず、結局この番組枠は捨てられた。
しかし、スポンサーの希望で同系統の後番組をやることになり、いわば捨てゴマとして起用されたのだった。
これで視聴率がとれずに番組が終了しても、全て中澤の未熟さのせいに出来る。
(悔しかっただろうな)
その時の中澤の気持ちは容易に想像できる。
中澤など消えてしまっても、誰も気にしないような存在になっていたのだ。
まったく期待されていなかった。
しかし中澤はふんばった。
最初こそぼろぼろになり、1クール目の半ばで生放送から録画形式に切り替えられた。
そのあたりから、だんだんと中澤は実力を発揮し始めた。
絶望的に落ち込んだ視聴率は徐々に盛り返し、1年後には「徹子の部屋」の全盛期に迫るまでになった。
気難しいベテラン俳優から、間の悪い新人コメディアンまで、どんなゲストからもその魅力を引き出す力は誰にも負けないほどになっていた。
気まぐれな世間は、これまでもそうだったかのように中澤を誉めそやした。
中澤はようやく、確固たる自分の居場所を手に入れたのだ。
土壇場の大逆転だった。
(どれほどの苦しさの中で...)
それを手に入れたのだろう。
誰も座っていない椅子に何度も同じ質問をしつづけたのだろう。
1人きりの部屋で、鏡を相手に相槌を打ちつづけたのだろう。
その姿をまるで実際に見たかのように思い浮かべることができる。
忙しさにかまけて、オンエアは数回しか見たことがない。
そのせいもあって、見る度に、中澤の成長振りには驚かされた。
「保田さん、『裕子の部屋』に出てもらえませんか?」
娘。卒業生同士ということで何度かオファーがあったが、いつもタイミングが悪くて断るしかなかった。
今回、ようやく出演できるのも、この番組を中心にかなり無理にスケジュールを調整したからだ。
(それなのに、遅刻なんかして)
でも、腹は立たない。
そういう人だったな、と思う。
ずっと年上なのに、どこか甘えている。
それは、身内だけに...。
今回の収録の後、中澤は数日間休みをもらえるそうだ。
休み前、最後のゲストが身内同然の相手なので一足早く気が抜けてしまったのだろう。
(今でも身内として甘えてくれるなら...)
まあ、いいか。
それは嬉しいことだ。
それにしても遅い。
だんだん不安になってきた。
今では当代きっての人気司会者として他の仕事も順調だから、少しの失態ならスタッフも多めに見てくれるだろう。
しかし、もう収録開始の予定時間を1時間近く過ぎてしまっている。
番組に穴をあけては、さすがにただではすまない。
(外が騒がしい...?)
どうやら動きがあったらしい。
マネージャーの多賀がノックもせずにドアを開けて顔をのぞかせた。
「来たよ」
それだけ言って、ドアを閉めた。
今日はじめて聞いた多賀の声だった。
ソファから起き上がり身支度を整えようとしたとき、ノックが聞こえた。
「はい」
つい、反射的に答えてしまった。
(しまった)
まだ髪も整え直してない。
ドアが開けられ、1人の女性が中に入ってきた。
長い黒髪を振り乱し、衣服も少し乱れて、なによりひどく息を切らしている。
相当急いでここに来たのだ。
「おはようございます。遅れて申し訳ありません、保田さん」
乱れた息を一度止め、しっかりした発音で一息にそういった。
「いいえ」
今日何度目かの愛想笑いを浮かべる。
しかし、相手はそれが愛想笑いであることを知り尽くしているように、緊張を解かない。
直立不動で立ったままだ。
いや、息をするたびに肩がほんの少しだけゆれている。
「まあ、座って。裕ちゃんも遅れているの。収録はまだできないよ」
向かいのソファに座るように促した。
ゆっくりと息を整えながらソファの前まで歩き、浅く座ると、もう一度頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした」
詫びてはいるが、態度はなんとも頑なだ。
(この娘、変わってないなあ)
「気にしないで」
今度は自然に笑みが出た。
だが相手の表情はこわばったままだ。
必死で上がった息を押さえつけようとしている。
勤めて優しく、話し掛けた。
「久しぶりね、新垣。大丈夫?」
「大丈夫です」
新垣里沙はまったく緊張を解かずにこちらを見つめつづけている。
(頑固だよなあ)
本当に、そう思う。10年前、始めてあった頃とまるで変わっていない。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
モーニング娘。はメンバーの追加・卒業を繰り返す珍しいグループだった。
卒業するメンバーはほとんどの場合、本人の希望での卒業であり、それぞれが笑顔で送り出された。
しかし追加されるメンバーは、当然それまでのメンバーと面識はなく、追加時には必ずいくらかの軋轢を生んだ。
それが一番大きかったのは第1期のメンバーと第2期のメンバーだったと思う。
第1期、つまりオリジナルのメンバー5人、中澤・石黒・飯田・安部・福田は、オーディション落選組である。
それが集められ、インディーズCDの手売から始め、ついに全国区で人気を得るまでになった。
一番苦労したのはこの第1期なのは確かだ。
そこに突然メンバー追加が告げられた。第1期としては面白いわけがない。
第2期として自分・市井・矢口が入っていったとき、そのあまりのギスギスした雰囲気に愕然とした。
カメラが回っているときと回っていないときでまるで違う。
苦労して築いてきたものを横から掠め取る泥棒...。
第1期のメンバーは、第2期の追加メンバーをそんな風に見ていたようだ。
敵視でもあり、蔑視でもあったのだろう。
しかし娘。の人気が急上昇することで多忙になり、きついスケジュールをこなす中で、だんだんと「同志」としてお互いを見るようになっていった。
皆、へとへとになりながら、がむしゃらに頑張った。
遂にオリコンで1位をとったとき、全員で抱き合って泣いた。
ようやくひとつになった。
そう思った。
しかし、メンバーの予想に反して再び追加が発表された。
第3期はただ1人、後藤だけだった。
『稀に見る逸材』といわれた後藤は、常識はずれだった。
挨拶もろくにしない。そもそもやる気があるのかないのかわからない。
「あいつは『逸材』だからさ」
誰かが後藤に腹をたてると、他のメンバーはそう耳打ちして諌めた。
後藤は瞬く間に娘。の顔になった。
初のミリオンヒットは後藤の加入のおかげといわれた。
ないがしろにはできない存在になったのだ。
やがて、後藤の性格がメンバーにもわかってきた。
クールな外見に似合わず、だれかれ構わず甘えてしまう。それが後藤だった。
傍若無人にみえる振る舞いも、許してもらえることを期待した甘えだった。
傍若無人な振る舞いをしたいのではなく、それを許して欲しいのだ。
フロントメンバーであろうと後藤なりの努力をしていることもわかってきた。
ゆっくりと後藤もまた娘。に溶け込んでいった。
そして翌年、4期の追加が行われた。石川・吉澤・辻・加護の4人だ。
(なんだ、この娘たちは)
メンバー誰もがそう思った。
歌もダンスも問題外だった。
なにより仕事への気持ちの入らなさはひどかった。
「遊んでいるんじゃないんだから」
メンバーもスタッフも口を酸っぱくして叱った。だが直らなかった。
しかし、先輩メンバーとの軋轢はほとんどなかった。
4期の甘さを許してしまう後藤の存在が、緩衝材になっていたからだ。
4期のメンバーはそれぞれが人気がでたが、娘。の実力への評価は徐々に落ち始めた。
これは狙いであったかもしれない。
スーパーグループ、といわれた娘。は、急速に庶民的アイドルの方向に走り始めた。
(もう娘。はアーチストとはいえない路線になったんだ)
アーチスト志向の高いメンバーはそう感じ、自分の将来を模索し始めた。
ほとんど危機感を持たぬまま、それでも4期のメンバーは厳しいレッスンの中、少しずつ実力をつけていった。
更に翌年、5期の追加があった。紺野・高橋・小川・新垣のまた4人だ。
もはや年中行事と変わらない。皆、慣れてしまっていた。
小柄で年少の5期メンバーを見て、1期、2期は正直のところげんなりした。
(4期と同じじゃないのか...)
しかし、初期レッスンの後、合流してからそうでないことがわかってきた。
4人とも荒削りで、完成度は予想よりもさらに低かった。
しかし、全員が必死で先輩メンバーにくらいついてきた。
4期が良い反面教師であったかもしれない。
努力しなければ、追いつかなければならないという思いが、既にオーディション合格直後から4人の中に強くあったようだ。
だんだんと4人は実力を発揮し始めた。
それぞれにファンもつき、娘。人気は安泰に思えた。
そしてその翌年の6期の追加があった。
そのメンバーについて面識はあまりない。
自分の卒業と入れ替わりのように、6期のメンバーが入ったからだ。
自分は最後の卒業生であり、6期は最後の追加メンバーだった。
この追加が、娘。の致命傷になった。
やがて1年を待たずに、解散を余儀なくされる。
「うまいときに逃げたね」
心無い人から、その頃よくそういわれた。
(4期は私たちに似ている)
4期のメンバーと合流したころからそう思っていた。
がむしゃらさ、生真面目さが似ている。
なれない世界で、右も左もわからないのに必死でがんばっていた。
(それに新垣は私に似ている)
初対面から、そう感じた。
新垣は、メンバーに溶け込もうとしなかった。
4期のメンバーが入った頃、番組の企画で占いをしたことがあった。
血液型占いだった。
その時は収録に欠席したのだが、こんな内容だったらしい。
モーニング娘には、過去いちどもB型のメンバーはいませんね。
B型はマイペースですから、集団での行動に向きません。
だから、紺野さん、新垣さんの加入によって、和が乱される可能性が高いんです...。
(そんなばかな)
番組では感心して見せたが、みな信じていなかった。
それではこの世には4パターンの人間しかいなくなってしまう。
しかし、この占いは的中してしまった。
高橋と小川はすぐにメンバーに打ち解けていったが、紺野と新垣は折り合いが悪いままだった。
占いはこうもいっていた。
加護さんは唯一AB型ですので、B型の二人と他のメンバーの橋渡し役になれるでしょう。
これは半分だけ当たった。
加護は紺野とは気が合うようだった。
加護を媒介として紺野も他のメンバーに近づいていった。
ひとり、新垣だけが孤立していた。
我が強すぎるのだ。
信じたことは絶対譲らない。
他人とペースを合わせることをしない。
そんなところが、娘。に入ったばかりのころの自分に似ていると思う。
違うのは、自分は徐々に変わっていったが、新垣は遂に我を貫いてしまった、というところだ。
年長のメンバーはそれを性格ととらえて、必要充分に新垣に接していた。
しかし年少者はそう割り切ることは出来ないようだった。
事あるごとに衝突が起き、ますます新垣は孤立していった。
それがいじめにまで発展しないように、常に目を光らせる必要があった。
図らずも、一番自立心の強い新垣が、一番手のかかるメンバーになってしまった。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
新垣里沙はじっとこちらを見つめつづけている。
それが礼儀であると勘違いしているようだ。
そう信じてしまったら二度と変えることが出来ない。
よく言えば純粋、悪く言えば常軌を逸した頑固...。
それが新垣の本質であるらしかった。
初めて会った頃は小柄で華奢だったが、今では自分より頭ひとつほど背が高い。
年齢も既に23歳だ。
(でも、中身は変わっていないんだなあ)
部屋には、気まずい静寂が続いている。
(どう話し出そうかな)
思えば、娘。にいた頃から、新垣を前にしてよくあった悩みだった。
入れたての2杯のミルクティーを丁寧に置くと、ウエイトレスは軽く会釈してから音も立てずに出ていった。
まず、自分が口をつける。
そうしないと新垣は決して飲もうとしない。
窓の外の景色を眺めながら、新垣がカップを置く気配を待った。
「もう落ち着いた?」
「え、ええ」
気まずい沈黙を、とりあえず新垣の息が上がっていたせいにした。
「今日は『裕子の部屋』にご一緒させていただいて、本当にありがとうございます」
新垣が深々と頭を下げた。
「...私、何回か出してもらえるようにお願いしたんですけど、断られちゃって...」
「...そうなんだ」
初耳だった。
「どうなの、最近は?」
わざと先輩ぶった口調で聞いてみる。
「はい...」
新垣は、ちょっと迷った後、答えた。
「とても保田さんのようにはいきません」
かしこまった様子から、追従ではなく本当にそう思ってくれているとわかる。
実力主義のニヒリスト、新垣のそんなところも変わっていない。
「なあに、言ってるの」
返答に困って、大仰にそう言ってみる。
「もっと上を見なきゃだめよ。私なんて、まだまだ」
「でも...」
新垣は遠慮がちにさえぎった。
「娘。の卒業生の中で、一番歌で成功しているのは保田さんじゃないですか」
「そう言ってくれるのはうれしいけど...」
「娘。だけじゃなくても、バラードなら今は保田さんが一番でしょう」
「...ありがとー」
ニタリと笑っていってみる。
わざとらしい笑いにつられて、新垣もやっと少し笑った。
世間の評価は移ろいやすすぎて、あてにならない。
それでも今、バラードの第一人者として認められているのは、素直にうれしい。
それを、気にかけていた後輩が言ってくれるのもうれしい。
「幸い、忙しくしてるよ」
「そうですよね。自分でかけなくても、保田さんの歌を聞かない日は無いですよ」
「それは、大げさだよ」
「ホントですって」
ようやく緊張が解けてきたようだ。
新垣は無口に見られがちだが、気を許した相手には良く喋る。
ひとしきり、取り止めの無い話の後...。
「でも忙し過ぎるときもあってね。なかなか子供に会えなくて寂しいときもあるよ」
つい、考えずに言葉が出た。
新垣の表情が曇る。
(しまった...)
もう遅い。言葉は取り戻せない。
新垣は、娘。解散後、短期の休業を経てソロデビューした。
そのときでもまだ15歳だった。
元モーニング娘。として、最初の数曲はそれなりに注目された。
しかし1曲ごとにCDのセールスは振るわなくなり、最近ではほとんど新曲も出していない。
それでも新垣はかたくなに仕事を歌手活動に限定しているという。
タレントとして芝居やバラエティ番組の依頼もあっても、全て断ってしまっているらしい。
娘。解散のとき、新垣はこう宣言した。
「私は歌手でありつづけます」
その宣言に、忠実であろうとしているのだろう。
自分の言葉で自分を縛り付けてしまう。
それも、新垣らしい。
だが、CDのセールスが伸びない以上、歌手としての評価は下がる一方だった。
いくつも所属事務所を転々とした。
新垣が結婚したのは20歳のときだ。
いわゆる『できちゃった婚』だったらしい。
相手はその頃、少し売れたバンドのギタリストだった。
その頃の新垣には会っていないが、まるで熱に浮かされるように相手にのめりこんでいると、人づてに聞いた。
生真面目な新垣の、初めての恋愛だったのかもしれない。
しかし、相手の評判はすこぶる悪かった。
結婚生活はすぐに破綻した。
バンドは売れなくなって解散し、新垣と幼い子供は無職になった夫の暴力にさらされた。
女性問題もあったらしい。
やがて離婚になった。
そんなときばかり、マスコミは新垣を話題にした。
そしてまた、すぐに見向きもしなくなった。
子供は新垣が引き取った。
女の子で、2歳になるはずだ。
現在では、経済的理由もあり、施設に預けているという。
「子供がいると大変ですよね」
目をそらして、新垣が言った。
「そうね」
何気ないふうを装って、答える。
「本当は、なんでもしなきゃ、いけないんですよね」
新垣の顔が、苦悩にゆがむ。
「...」
「責任がありますもんね。親として。いつまでも自分のことばかりじゃ...」
ずっと、そう悩みつづけてきたのだろう。
身近に相談できる相手がいないのかしれない。
顔をそむけたまま、新垣は続けた。
「わかってるんです、本当は。このまま続けていても無理だって。だけど、私、どうしてもあきらめられなくて。離婚して、施設に預けて、子供には本当に申し訳ないんだけど。私...」
「そうよね」
無理やり遮った。
「こんな仕事、続けてるとね。二人ともママ失格よね」
冗談めかしてみる。
そんな落とし方か。
自分に失望する。
「私も、何日も会えないときも多いしね」
「...そうですか」
新垣がようやくこちらを見た。そして言い放った。
「私、どんなことがあっても、2日に一度は娘に会って抱きしめてやることにしてるんです」
失礼にもほどがある、といえるだろう。
だが、思わず口をついて出てしまったその言葉は、今の新垣を支える小さくても譲れない誇りなのに違いない。
「...」
新垣の顔に後悔の色が浮かんだ。
「それは、いいことね」
笑顔で言った。
笑顔を続けるしかない。
突然、ノックの音が響いた。
正直のところ、救われた思いがした。
返事をすると、スタッフの青年がドアを空けた。
「お待たせしました。中澤さん、玄関に到着したそうです。スタンバイ、お願いします」
「はい」
答えを確認すると、青年は慌しく走り去った。
「さあ、1時間半の大遅刻おばちゃん来たよー。どんな嫌味をいってやろうかねえ」
伸びをしながらそういうと、新垣が吹き出した。
二人で鏡に向かい、メイクを直そうとしていると、またノックがした。
「はい?」
ドアが開いた。
中澤裕子が立っていた。
「な...」
その姿に、思わず椅子から立ち上がる。
新垣も立ち上がり、目を丸くして中澤を見つめている。
#6
「あんた、なによそれは」
「やっぱ、だめ?」
「...」
中澤裕子は、対談番組の司会者らしく、髪を結い上げ、淡橙色のスーツでシックに品良くきめていた。
だが...。
顔だけは、まるで子供が母親の化粧道具を悪戯をしたような、幼稚園児の塗り絵のような滅茶苦茶なメイクをしていたのだ。
「な、なんなの、一体?」
「ごめんよおおおおおおお」
飛び掛るように抱き付いてきた。
「何、だから何ッ」
「今日圭ちゃんたちがゲストだったから、つい油断して昨日深酒しちゃって...」
「やっぱりか、あんたはッ」
「朝起きたら、顔がむくんでたのよ。どーにもなんないのよッ」
「...」
「あきれんといてッ。あたしがどんな想いでメイクしたと思ってん。必死やで必死」
「...逆切れかいッ」
「懐かしなぁ、その表現」
「その顔で家から来たんですか...?」
おずおずと新垣が聞いた。
「おー。まーな。タクシーのおっちゃんにじろじろ見られてん」
「...」
「なんや、なんか文句あるんか?」
「あ、いぇ」
と、突然今度は新垣に抱きつく。
「文句、あるんやったなあああ。ごめんよおおおお」
「???」
「スタッフがあんたの出演希望断ってたんやなあ。今回始めて知ったんやあ。知らなかってんやあ。堪忍やあ、新垣ぃぃ」
抱きつかれたまま、新垣は固まっている。
「...裕ちゃん、あんたねー」
「なに」
「大遅刻したのを、そのふざけたメイクとハイテンションでうやむやにしようったってそうはいかないよ」
「ちっ」
こちらを睨み付けると、新垣を放して、腰に手を当てて仁王立ちになった。
「ばれちゃあしょうがねえ。さあ、許せっ」
胸をそらして言い放った。
新垣が吹き出した。
つられて笑ってしまう。
中澤も笑う。
「一件落着やな」
いつのまにか、ここは娘。時代の楽屋だ。
プロデューサーが来て、中澤の顔を見るとひとしきり笑ってメイク直しを厳命して出ていった。
「まあ、この顔じゃ出れんわな」
そう言うと中澤は、ピリピリと自分のメイクをはがし出した。
「!」
「びっくりした? これ簡単にはがれるパーティグッズの化粧なんよ」
「あんた、そんな物まで用意して...」
中澤はぺろりと舌を出した。
「だってさぁ、怖かってん。二度寝してしもうて。圭ちゃんも新垣も何年かぶりに会うのにさあ、怒っとりゃせんかって」
「怒る気も失せたよ...」
「せやろっ、せやろっ」
剥がしたパック状のメイクの残骸を、指で回してはしゃいで見せる。
「...子供だよ、裕ちゃん」
「あ、嫌味やぁん。二人とも子供いるからって、ずーっと一人モンのあたしに、嫌味やぁん」
「もー、怒ってないからテンション下げてよ」
「下がらへぇんっ、下がらへぇんっ」
今度は二人ともに抱きついた。
「...裕ちゃん?」
「中澤さん...」
「...うれしいの...」
二人の頭を、ぎゅっと抱きしめた。
「...へへへ、ごめんね。うれしくてうれしくて。ようやく娘。のメンバーが来てくれてさ」
薄く浮かんだ涙を、指でぬぐった。
「娘。のメンバーだった娘で出てくれるのは高橋と吉澤以来やし。あの頃は私も一杯一杯でさあ。ちゃんとできなかったし」
高橋と吉澤が『裕子の部屋』に一緒に出演したのは、まだ番組が始まって間も無い頃だ。
オンエアを見た。
(あれはちょっと可哀想だったな...)
「なのに、遅刻かい」
「...許すゆーたやん」
「この部屋広いやん。椅子並べて、一緒にメイクしよ」
完全に中澤のペースになった。
懐かしい雰囲気だ。
「娘。の頃みたいですね」
新垣が言った。
中澤のペースに巻き込まれて、元気になったようだ。
新垣たちが娘。に加入したのは、中澤が卒業した後だ。
しかし、同じハロープロジェクトのメンバーとして、何度も同じステージに立っている。
中澤だけは卒業後も、娘。解散のときまで現役メンバーと近い距離にいた。
「おー。むくみも取れとる取れとる」
「そりゃあ、そうよ。今何時だと思ってんの」
「すまんのぉ」
「みんな、自分でメイクするんだね」
「まーかせろ。年期入っとるからね。新垣、やったろか」
「...いえ、いつも自分でやってますから」
新垣にはメイクスタッフを頼む余裕は無いのだろう。
「そりゃやだわ。あんなもん見せられちゃ」
さっきのパーティグッズのせいにしてみる。
「なにおう。見せてやるワイ。わしの実力」
中澤は大げさなアクションで、自分の頬にファンデーションを塗り始めた。
「新垣、圭ちゃんの方が先輩やから、ようけ映すけどええな」
「はい、それは、もう...」
「正味40分くらいの番組やから、圭ちゃん21分、新垣19分くらいやな」
「えー、そんなもんかい。私22分、新垣18分!」
「あんた21分30秒、新垣18分30秒でどうや」
「しょーがない、その辺で手を打つか」
「(後でスタッフに言って、編集で逆にしてやるからな)」
「(...わーい)」
「そこっ、密約しないっ」
急がなければならないのに、ついつい無駄話に花が咲く。
話が途切れたとき、中澤が向き直り、かしこまっていった。
「今日は本当に来てくださってありがとうございます」
「こちらこそ」
「こちらこそ、ありがとうございます」
「台本にもお願いとして書いてあるし、分かっているとは思うんだけど...」
「...」
「圭ちゃんが私や新垣の話をしたり、新垣が圭ちゃんの話をするのはいいんだけど、他のメンバーについては極力触れないでください」
触れられないメンバーの件がある。
そのメンバーだけ、話題から外すのは不自然だ。
だから、いっそのこと他のメンバーの話もしないで欲しい、ということだ。
「...」
黙ってうなづいた。
「そしたら、私先にいくわ」
先にメイクを終えた中澤が席を立った。
「すぐに呼びに来させるからな、ちょっと待っとってな」
手を振りながら、ドアに向かった。
「OK」
「はぁい」
ふと、中澤がこちらを見ているのが、鏡に映っているのに気付いた。
こちらが気付いたことに、中澤は気付いたろうか。
すっ、と部屋を出ていった。
(裕ちゃん...?)
見間違いだろうか。
ほんの一瞬だったけれど...。
それは、今まで見たことが無い表情だった
恐ろしいほどの、憎悪に満ちた...。
#7
収録が始まった。
いつものテーマ曲。
いつものように画面は、花瓶の花から司会者へ。
「皆様、こんにちは。『裕子の部屋』の時間です」
いつもと同じオープニングだ。
「今日は私にとって特別なゲストをお迎えしています」
軽い会釈の後、中澤は話し出した。
「もう10年前になります。私がモーニング娘。というグループに所属していた頃、一緒に苦楽を共にしました、保田圭さんです」
カメラがこちらを捕らえる。
タイミングを外さないように、なるべく優雅にお辞儀をする。
「保田圭です」
「そして、もうひと方。私がモーニング娘。を卒業した年に、追加メンバーとして入られた、新垣里沙さんです」
カメラが新垣の方を向く。
すかさず、お辞儀をする。
「新垣里沙です。よろしくお願いします」
「さて、モーニング娘。は...」
中澤がモーニング娘。について説明を始めた。
娘。解散からもう8年が過ぎている。
移り気な世間の人々のほとんどは、とっくに娘。を記憶の片隅に追いやってしまっているのだ。
現在の中澤の話し方は、大阪弁のアクセントは残っているのに、不自然さがまるで無い。
娘。の頃は大阪弁が前に出ると、真面目に司会をしていてもコントのようにしかならなかった。
今ではむしろ、エレガントにすら感じられる。
計算しつくし、鍛錬を極めたものなのだ。
「保田さんは、本当に今ご活躍で...」
「いえいえ、まだまだです」
「ところで、新垣さんは...」
流れるように、二人に均等に話題を振ってゆく。
不遇時代、理不尽な出来事、新垣の離婚のこと...。
辛い話題も取り上げなければ嘘になる。
しかし、話し手は不快も苦痛も感じることなく、むしろ進んで話してしまうようだ。
そして、結論はいつも前向きでさわやかだ。
これが話術というものか。
見事なものだ、と思った。
「昨年のニューヨークでの公演はいかがでしたか?」
「はい」
「大成功だったとお聞きしておりますが。おめでとうございます」
「ありがとうございます。でも、力不足を痛感しました」
「あら、バラードの保田圭ともあろうお方が」
「そんな、もう、いえ、そんなことはありません」
「バラードの曲というとあなたの声が思い浮かびますね」
「ありがとうございます」
「それではここで、皆さんには保田圭さんのニューヨーク公演の中から一曲お聞きいただきたいと思います」
一度だけ休憩が入った。
「すまんなあ、普段はもうちょっとゆったり収録できるんやけど」
「大丈夫、ね、新垣」
「はい。中澤さん、ホントにお話上手ですよね。どう話そうか困ってたことも、自然に話せました」
「そうかぁ、よかったよかった」
スタッフの一人が駆け寄ってきて、小声で告げた。
「あの、多賀さん、急用とかで先に帰られました」
またか。
まあいい。不良マネージャーの素行には慣れている。
「再開しまぁす。スタンバイお願いします」
「はぁい。よっしゃ、もうひとふんばりや、いくで」
収録中と休憩中のギャップも凄い。
セットに戻ると、エレガントな中澤裕子がにこやかに座っていた。
「お疲れ様でした〜」
収録は順調に終了した。
中澤と新垣がスタッフのところを回り、改めて遅刻を詫びる。
なんとなく一緒に頭を下げて回る。
「なんか、すまんのう」
中澤が笑った。
楽屋に戻り帰り支度としていると、中澤がやって来て遅い昼食に誘った。
「どう? 遅刻のお詫びにご馳走するよ」
まだまだ、話したいことがたくさんある。
「いいねえ」
「はい、ぜひ」
新垣もうれしそうにうなずいた。
そのとき、携帯がメール着信を告げた。
多賀からだった。
『至急 収録終了後、急ぎ事務所に戻れ』
クビにしておけば良かった。
本気でそう思った。
「残念やなあ」
「ホント、電話するね今度」
「おう」
「お疲れ様でした〜」
「お疲れ様〜」
中澤と新垣は、中澤の車を停めてある、関係者用の地下駐車場に消えていった。
中澤の事だ。運転しながら新垣に子供を見せろと迫るに違いない。
もちろん、新垣の子供にもご馳走するためだ。
強引な中澤も、困惑する新垣も、側で見ているのはなぜかとても楽しい。
娘。時代には毎日のように見ていた光景だ。
「ふう」
溜息が出た。
何かものすごく損をしたような気がする。
しかし、多賀からの急な呼び出しというのは珍しい。
(何事だろう)
とりあえず、ワンフロア上の関係者用のタクシー乗り場への階段を昇った。
大きなガラスドアから、タクシー乗り場に出ようとしたとき...。
「ヤッスー」
背後から声をかけられた。
毎日のように聞いている、でも懐かしい声。
振り返ると、あの笑顔があった。
#8
「ヤッスー」
「くぉら、せめて『圭ちゃん』と呼べっ」
「へへへへへ」
吉澤ひとみは、相変わらずの屈託の無い笑顔を見せた。
「久しぶりだね」
「久しぶり〜、圭ちゃん、冷たいんだから」
「ごめん、ごめん。しかし、凄いカッコだね、そりゃ」
吉澤は、赤い全身タイツにわけのわからない飾りが山ほどついた衣装を着ている。
「コントの収録中にさあ、撮影機材壊れちゃって、休憩になっちゃったんだ」
「こんなカッコなら、スタジオに居なさいよ」
タクシー乗り場への出口は、正面玄関にも近い。人通りも多い。
「あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
吉澤が周囲もはばからず、絶叫した。
「なんて冷たい人なの。『裕子の部屋』の収録が終わったって聞いたから会いに来たのに〜」
「えっ」
「もう帰ったって言われたから、慌てて追いかけてきたのに〜」
「ご、ごめんごめん」
「許せな〜〜〜〜〜〜い」
そう言いながらも、吉澤は言葉とは逆にニコニコと笑っている。
「よ、吉澤も『裕子の部屋』出たんだよね...」
「なに話そらしてんの〜」
「あ、いや」
「...あの時はね〜、悔しかったな〜。高橋に随分差ァつけられちゃってたしぃ」
そういいながらも、ニコニコ笑っている。
「そう、これこれっ」
吉澤は右手を突き出して見せた。
滅茶苦茶な衣装に不似合いなカジュアル・ウオッチは、2年ほど前に贈ったものだ。
「あ、してくれてるんだ」
「うん。いっつも付けてるよ。ちゃんと御礼言えてなかったから、絶対今日会って言いたかったの」
そういって、一層うれしそうに微笑んだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
吉澤ひとみは、娘。解散後、マルチタレントとしてソロ活動を開始した。
当初はCD発売やドラマ出演もあったが、振るわなかった。
次第に芸人のような活動が増えていった。
現在では、一把ひとからげの芸人たちとバラエティ番組に出ていることが多い。
「ヨシザワ、おまえホントに元モーニング娘。なのかよ」
「ヨシザワ、元アイドルのなれの果てだよな」
意地の悪い共演者にそんなことを言われているのを何度も見た。
それでも吉澤は、言い返したり、逆らったりはほとんどしない。
いつでもニコニコと笑っているだけだ。
チープなゲームに参加して、粉まみれになったり、びしょぬれになったりしても同じだ。
ただニコニコと笑っている。
バラエティ番組でリアクションの悪いタレントなど、すぐに飽きられてしまいそうなものだが、吉澤の場合は違うようだ。
その何やらフワフワとした存在感が視聴者に受けが良いらしい。
なんだかんだで、それなりの人気、というものをキープしている。
そして今、テレビ番組などで、単に「ヨシザワ」といえば吉澤ひとみを指すようになった。
元娘。の中では、もっともコンスタントに活躍してきた一人といえる。
最近では、子供番組のダンスコーナーを持って、小さな子供にも人気がある。
数年前、『裕子の部屋』に高橋愛と二人で出演したのは、高橋愛が曲をヒットさせた直後だった。
元娘。の成功者とそうでないもの。
そう言った見せ方をしたいという意図がありありと見えた。
中澤も不慣れだったせいもあったのだろう。
終始、高橋を持ち上げ、吉澤を貶めるような内容になってしまっていた。
それでも、吉澤はニコニコと笑っていた。
その時、高橋と吉澤はお揃いの時計をしていた。
それは娘。解散時にプロデューサーのつんくから贈られた腕時計だった。
有名なブランドに特注された、解散時のメンバーだけに贈られたものだった。
先に卒業した娘。たちは、ずいぶん羨んだものだ。
「宝物ですね」
中澤にそう問われると、吉澤はうれしそうに答えた。
「いつでも肌身はなさず持っている、いちばんの宝物です」
それから数ヶ月後、生放送のバラエティに吉澤が出演したときの事だ。
ドッキリと称して、出演者に秘密の企画が行われた。
出演者の私物を小型のプレス機にかけて壊してしまうというくだらないものだった。
吉澤は、楽屋においてあった解散記念の腕時計を、プレス機にかけられた。
「やめて!」
吉澤は絶叫した。
しかし、二人の男性タレントに押さえつけられて、身動きすらとれなかった。
「お前にはもったいないんだよ、こんなもの」
司会者のタレントは、へらへらと笑いながら、プレス機を操作した。
耳障りな金属音と共に、腕時計は砕け潰れた。
吉澤は呆然とその光景を見ていた。
声も出せなかった。
「うぜぇんだよ、お前」
突き飛ばされ、ステージ上にへたり込んだ。
起き上がる事もできなかった。
観客から、同情の声が上がった。
やがて大きなブーイングとなった。
適当な司会者のコメントの後、CMになった。
CMが空け、何事も無かったように別のコーナーが始まった。
そこに吉澤の姿は無かった。
偶然、その放送を地方で見ていた。
画面に映った微笑みを失った吉澤の顔に、打ちのめされる思いがした。
すぐにも、吉澤の近くに行きたかった。
しかし、ライブツアーのリハーサルの最中で、どうする事もできなかった。
空き時間に何度電話しても、コール音だけが空しく響いた。
翌日、ステージ当日だったが、時間をもらって店を探した。
そのとき自分に買える精一杯のもので、吉澤に似合いそうなものを探した。
カードにメッセージを書き、配送してもらった。
数日後、吉澤から電話があった。
「ありがとう、うれしいよ〜」
電話の向こうの声は、いつもの明るい吉澤ひとみだった。
吉澤の腕時計を壊した企画は、吉澤本人にも、吉澤の事務所にも無断で行われたものだった。
事務所は完全に怒ってしまい、裁判沙汰になりかけた。
結局、吉澤本人の希望で、全て水に流される事になったのだそうだ。
責められるべき者たちが不平面で居る中、吉澤一人がニコニコと微笑んでいたと人づてに聞いた。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
「いっつも、うちの子、あんたのダンスの見てるんだよ」
「あ〜。見てくれてるんだ。うれしいなぁ〜。いくつだっけ」
「ひとつ半。男の子」
「写真っ、写真を見せろぉ」
「あ、持ち歩いてないんだ、私」
「え〜、冷たいママだなぁ」
「...そうかな」
不意に、新垣が言った言葉が胸をよぎった。
「ヨシザワさ〜ん、そろそろスタジオにお願いしま〜す」
番組のスタッフだろう。声がかかった。
「ちぇ、もうかぁ」
「じゃあね、よっすぃー」
懐かしい呼び方でいってみた。
「またね、ヤッスー」
「くぉら、『圭ちゃん』と呼べい」
げんこつを作って、選手宣誓のように突き出して見せた。
吉澤も真似して、腕を突き出して見せると、手を振ってから階段を駆け上がっていった。
最後まで笑顔のままだった。
辛い事や悲しい事は、あの時だけではなく、今でもたくさんあるはずだ。
でも、いつも、吉澤は笑顔のままだ。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
「遅いぞ、なにやってたんだ」
事務所に帰りつくと、多賀が怒鳴りつけてきた。
無視してタクシーの領収書を多賀の机に放り投げた。
多賀は、塩をなめたような顔でそれを拾うと、未整理の書類の上に放った。
「急になに? 久しぶりに昔の友人に会えたのに」
食って掛かりたいような気もあったが、冷静に聞いた。
呼び出しがかかったおかげで吉澤にも会えたが、それは黙っておく。
こちらの不機嫌を意に介さず、多賀は話し始めた。
「明日から10日間の予定で渡米する予定...」
次のシングルのレコーディングと、プロモーションビデオ撮影の予定だ。
「それから、帰国後のプロモの予定...」
テレビ、ラジオなどに集中的に出演する予定になっていた。
「全てキャンセルした」
#9
「どういう事!」
思わず、声を荒げて机を両手で叩いた。
事務所スタッフの何人かが、驚いてこちらに集まってきた。
多賀がうるさそうに手を振って散らせる。
今回のロサンゼルスレコーディングは、前回のアルバムに協力してもらった現地のスタッフ、アーチストに招かれてのものだ。
『本物』を知る有能な人たちに認められ、とても光栄に思っている。
シングル予定曲『未来へ』はアルバムからのシングルカットだ。
この曲は、現地アーチストから提供してもらったものだ。
表題曲ではなかったが好評で、自分でも気に入っていた。
アルバムバージョンでは英語だったが、シングル向けに日本語詞をつけてもらった。
この曲はきっと自分の代表曲になる。
そんな予感があった。
「勝手にそんな事...」
「社長の了解は取り付けてある」
「そんな...私、なんにも聞いて...」
「詳細な話は、会議室でする。お偉いさんが集まってる」
「えっ」
多賀はこちらの返事も待たずに、資料のファイルを持つと歩き出した。
仕方なく、後に続く。
会議室の扉には『重要会議 関係者以外立ち入り禁止』と書かれた紙が貼られていた。
ノックをして、多賀と共に部屋に入った。
「失礼します...」
会議室は、重苦しい雰囲気だった。
なによりも、社長や重役たちが目の前に並んでいる事が圧迫感を与えてくる。
こんな事は、昨年のニューヨーク講演以来だ。
あの時は事務所始まって以来の大きな仕事だった。
では、今回は...?
社長は一見したところ、ただの人の良さそうな中年紳士と言った感じだ。
しかし、業界では知らないものはいない敏腕プロデューサでもある。
「納得いかないようですね」
ぎこちないこちらの様子を見て、にこやかに話しかけてきた。
「でも、現在のプロジェクトを中断するに足る、素晴らしいプロジェクトですよ」
「今度こそ、世界に通用するものをやれるよ」
重役の一人が言った。
肯定的な意味で言ってくれているのは解かっているが、ちくりと胸に刺さった。
(やっぱり、あのニューヨーク公演は誰も満足していないんだ)
「まずは、本人に曲を聞いてもらおうと思います」
そう言うと、多賀はメモリマンをテーブルに滑らせてよこした。
ヘッドフォンのみのウォーキングステレオだ。
「聞け」
しぶしぶメモリマンを拾い、耳にセットした。
リモコンのスイッチを入れた。
ゆったりとした前奏が始まった。
不思議な旋律だった。
やがて、歌が始まる。
女性のようだ。
聞いた事の無い言語だ。
(なんだろう、この歌は...)
胸が締め付けられる思い。
悲しさ、せつなさ。
空しさ、絶望。
それだけではない、何か。
希望? それとは少し違う。
魂がゆすぶられるようだ...。
涙が流れそうになった。
心を奪われた。
やがて、曲が終わった。
しばらく、口も聞けなかった。
たまりかねて、重役の一人が聞いた。
「どうかね」
「この曲は、一体...」
「ハルギスタンという国を知っているか?」
聞いた事がある。
中央アジアにある、荒地ばかりの貧しい国だ。
この10年の混乱でたくさんの難民が雪崩れ込み、元の国民の10倍にもなっているらしい。
「そこの難民たちの間で、自然発生的に生まれた曲らしい。歌っているのはイスラムの歌手だ」
「じゃあ、これはイスラム語...?」
「いや、それが奇妙な事に、エスペラント語なんだ」
多賀が説明を引き継いだ。
「タイトルは『祈り』という意味だ。これもエスペラント語だ」
エスペラント語。
確か世界共通言語を目指して人為的に作られた言葉だ。
(昔、誰かに聞いたな...)
「この曲に賭けよう、保田。それだけの価値はある」
多賀が、じっとこちらを見つめていった。
「せっかくロスにできた人脈を無くすかもしれんが、この曲を聞けばきっと解かってもらえる」
考えるまでも無く、頷いていた。
(私は、この歌を歌いたい)
打ち合わせは深夜にまで及んだ。
これからの予定、計画が説明され、煮詰められた。
中でも、仰天したのは多賀の決意だった。
「俺は手続きが出来次第、ハルギスタンに飛ぶ」
権利関係の調査もある。
しかし、何よりもこの曲が生まれた土地へ行きたいのだという。
ハルギスタンは危険な国だ。
難民キャンプでのテロも珍しい事ではないという。
通常の旅行では行けない国に指定されている。
そんな事は眼中にないようだ。
これほど熱意を持って事に当たる多賀を始めて見た。
「私も行きたい」
思わず、そう言ってしまった。
この歌の生まれた所へ...。
多賀や、社長たちが慌てて諌めた。
「あなたは大事なアーチストです。それにプライベートでは母親でもあるのですから...」
「...」
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
自宅のマンションに帰りついたとき、深夜2時をまわっていた。
全く疲れは感じない。
むしろ、興奮状態が続いていた。
(いかん、いかん)
胸に手を当てて、深呼吸した。
(アーチストはここまで、ママに変身)
なるべく音を立てずに、マンションの鍵を開けた。
足音を忍ばせて部屋に向かう。
ドアを開け、電気はつけずに廊下の明かりを頼りに中を覗く。
一人息子の真は、ベッドの中で安らかな寝息をたてていた。
(しーん、ちゃん)
声を出さず、口だけを動かして呼んでみる。
無論、真は気付くわけも無く、すやすやと眠りつづけている。
抱きしめたい衝動に駆られるが、思いとどまる。
起こしては可哀想だ。
予定が全て覆ってしまったため、数日間は連絡待ちの自宅待機となった。
(ひさしぶりに、ずっと一緒にいられるなぁ)
しばらくその可愛らしい寝顔を眺めると、満足してドアを閉めた。
自分の部屋に向かおうとして振り返ると、そこに夫が立っていた。
「あ...びっくりした」
「...おかえり」
「遅くなっちゃった。急に次の曲の会議になっちゃって。まだ起きてたんだ」
「話があるんだ」
ぶっきらぼうに夫は言った。
「俺たち、別れないか」
「え...。なんて言ったの?」
「離婚しようと思うんだ」
なにを言われているかわからなかった。
しばらくして、ようやく言葉の意味を理解した。
眩暈に似た感覚が襲いかかってきた。
#10
『そそれそれそれ、ヨシザワだーんす』
小さな子供たちに囲まれて、吉澤ひとみが歌いながら踊っている。
『そそれそれそれ、ワンツー、ワンツー』
単純なリズム。
単純なメロディ。
単純な歌詞。
単純な振り付け。
30人くらいだろうか、子供たちのほとんどは上機嫌で吉澤と同じダンスを踊っている。
中には恥ずかしがったり、むずかったりして踊らない子もいる。
それをひとりずつみつけては、吉澤が踊りながら微笑みかける。
まるで魔法にかかったように、子供たちは微笑を返して楽しそうに踊り始める。
子供たちの周囲には同じ振り付けで踊るダンサーたちがいる。
彼らは無表情に淡々と踊りつづけている。
まれに吉澤の手の届かないところで、踊りの輪から脱げ出そうとする子がいる。
そうした子は不思議なほど険しい顔をしている。
途端にダンサーは、優しいお兄さん、お姉さんに変身する。
その子を抱きとめ、微笑みながらマン・ツー・マンで踊りを見せる。
逃げ出そうとした子は、その動きをじっと見つめ、やがて微笑み、踊り始める。
(この子達は愛情に飢えているのかしら)
(だから、微笑を見せられたり、抱きしめられたりするとあっさり言う事をきいてしまうのかしら)
ふと、そんなふうに思う。
『そそらそらそら、ワンツー、ワンツー』
段々と曲のペースが上がって行き、ついて来れない子供たちが暴れるような滅茶苦茶な踊りになってゆく。
『そそらそらそら、そそらそらそら』
突然ホイッスルが鳴り、音楽が止まる。
『はいっ、ポーズ!』
子供たちはカメラに向かって、思い思いのポーズを見せる。
カッコつける子。
おどけて見せる子。
なにもしない子。
『また明日ぁ〜』
吉澤が、にこやかに手を振る。
子供たちがうれしそうに飛び跳ねている。
画面が変わってアニメが始まった。
テレビのスイッチを切る。
突然、部屋が静寂に包まれた。
がらんどうの中に一人ぼっち。
寂しさが押し寄せる。
泣き腫らした瞼が熱い。
「いきなり、と言う事は無いだろう。僕は前から言ってきたはずだ」
(どういうことなの)
「真の世話をほとんど僕がしているというのは、別に問題じゃない」
(申し訳無いと思ってるわ)
「正直、君の真に対しての愛情を感じないんだ」
(どうしてそんなこというの)
「仕事が大事なのはわかる」
(あなたや、真の方がずっと大事)
「君には母親として足りない部分があると思う」
(私はどうすればいいの)
「真を連れて僕の実家に戻る。ここは元々君のマンションだからね」
(あなたと、生まれてくる真と住むために手に入れたのよ...)
「しばらく別居しよう。ただこれだけは覚えておいてくれ」
(...)
「僕の気持ちは、もう完全に冷えてしまったんだ」
「私は真の母親よ!」
声を限りに、泣き叫んだ。
返ってきたのはただ、凍りつくような視線だけだった。
夫は子供を連れて、夜明け前に出ていった。
取り付く島も無かった。
ずっと自分は幸せだと思ってきた。
ずっと愛されていると思ってきた。
ずっと充分に愛せていると思ってきた。
なにもかも、一人よがりの勝手な思いこみだったのだろうか。
いつの間にか陽は傾いている。
カーペットにうずくまったまま、もうどれくらいこうしているのだろう。
一人ぼっちの部屋を見回す。
壁に掛けてある写真に目が行った。
出会った頃、結婚式、新婚旅行、出産直後の母子写真...。
どこの家にでもある、幸せな写真で満ちている。
抗菌のカーペットも、全ての角が丸い家具も、真のために買い換えたものだ。
部屋が夕闇色に染まってゆく。
虚しい。
何もかもがもう、虚しくなった。
意を決して、受話器を取った。
短縮ダイヤルを押す。
数回のコールの後、多賀が出た。
「私、ハルギスタンに行くわ」
『なんだって?』
そう叫んだ後、電話の向こうで多賀はしばらく絶句した。
『冗談だろう。ダンナや子供はどうするんだ』
「...もういいの」
『え?』
「...もういいの」
長い沈黙が続いた。
やがて、多賀は溜息をつくと諦めたように言った。
『...社長を説得してみる』
「...ありがとう」
受話器を置いた。
また、カーペットの上に座り込む。
テーブルの上に、事務所から借りてきたメモリマンが投げ出してあった。
手を伸ばし、耳にセットして、ボタンを押す。
『祈り』のゆったりとしたメロディーが流れ込んでくる。
不意に苛立ちが心に充満した。
メモリマンを引き剥がし、クッションの上に叩きつけた。
何をしているのだろう。
何をしたいのだろう。
何をすればいいのだろう。
どこへ行けばいいのだろう。
(私はどうすればいいの)
壁には一枚だけ、家族のもので無い写真が飾ってある。
それは、娘。の卒業記念に撮ってもらったものだ。
もう9年前になる。
自分を中心にして、
飯田圭織、
安倍なつみ、
矢口真里、
後藤真希、
石川梨華、
吉澤ひとみ、
辻希美、
加護亜依、
紺野あさ美、
高橋愛、
小川麻琴、
そして、新垣里沙...。
13人のモーニング娘。
みんな元気一杯で、みんな笑顔で写っている。
(あの頃に帰りたい...)
また頬に涙が流れた。
(みんなに会いたいな...)
#11
卒業写真を手にとって見つめる。
ひとりひとりの顔を指で差してみる。
みんな、本当に良い笑顔だ。
飯田圭織の上で指が止まった。
お決まりのピースサインを頬に押し付けて、おどけて笑っている。
けれど彼女の笑顔は、きっと心からのものでは無かったのだろう。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
娘。卒業を最初に相談した相手はプロデューサーのつんくだった。
電話でアポをとり、スタジオに押しかけて時間を作ってもらった。
真剣な顔で話を聞いてくれたつんくは、話が一区切りつくとテーブルに突っ伏して、笑った。
「ついに来るべき時が来たかぁ」
「お前のパートは厄介やからな、後の再編成が大変や」
「あの...、高橋と小川はいけると思います」
「...やっぱりな。やっぱりそんな事、考えとったか」
娘。を卒業してソロを目指そうと思ったときから、自分のパートの後任が気にかかっていた。
かなり難しい部分を任されていたからだ。
後輩たちを観察して、高橋愛と小川麻琴に目星をつけた。
時間を見つけては、二人に練習と称して自分のパートを歌わせた。
二人は何か感じるところがあったのだろう。怪訝な顔をしながらも、一生懸命やってくれた。
苦戦しながらも、遂には二人ともがマスターした。
(これで安心して卒業できる)
それはかつて福田明日香が自分にしたのと同じことだった。
「いい時期やと思うよ」
つんくに反対されるのではないかと、怖る怖る相談したのだが、意外にもあっさりと賛成してもらえた。
「それにな、今お前にいい話が来てるんや」
驚いたことに、ある事務所から移籍の誘いが来ているのだという。
「お前が何も言わなんだら、こっちで勝手に断っとったとこやけどな」
それは規模は小さいが、良く名の知られた中堅の事務所だった。
「ここの社長さんは、切れ者やし、ええ人やで。いい所から声がかかって良かったな」
つんくは自分のことのように喜んでくれた。
「それにここは、専属の凄いボイストレーナーがいてな。至れり尽せりや」
「絶妙のタイミングや。運命やで、これは運命」
そう言って、つんくは優しく笑った。
「どうしてそんな事言うの!」
飯田圭織は絶叫した。
大きな両瞳から、大粒の涙が溢れ出た。
それは都内のホテルの一室だった。
テレビ番組の収録の都合で、メンバー全員がそこに泊まっていた。
つんくに相談した数日後のことだ。
事務所も卒業を諒解してくれた。
翌日の収録終了後、メンバーに発表することになっていた。
最初に聞いた部屋割りでは別のメンバーと同室だったが、頼んで替わってもらった。
やはりリーダーである飯田には、一足先に自分の口から言っておきたかったのだ。
部屋に二人きりになったとき、卒業のことを切り出した。
飯田はこちらが思っても見ないほど取り乱した。
「ずっと一緒にやっていこうって言ったじゃない!」
「それは...」
そう言ったのは、嘘ではない。
だが、それはモーニング娘。で、ということではなかった。
永遠に娘。でいられるわけではない。
いつまでも『盟友』のような関係でいたい、という意味のつもりだった。
「娘。には圭ちゃんが必要なの!」
「それはうれしいけど...」
「あなた、サブリーダーじゃない!」
「それは...」
「私にも、みんなにも、圭ちゃんが必要なの!」
「...」
飯田は、隣の部屋に聞こえてしまうのではないかと思うほど、大声で泣き喚いた。
深夜まで話し合ったが、いつまでも並行線のままだった。
「もういいよ」
突然、飯田が言った。
感情を押し殺した低い声だった。
「カオリ...」
「明日の収録があるから、もう寝よう」
そういうと、明かりを消してベッドに潜り込んだ。
「カオリ、私...」
何度か話し掛けたが、答えは無かった。
翌日、収録が終了するとメンバーがホテルの一室に集められた。
「大事な発表があります」
飯田はリーダーらしく、メンバーの前でそう話し始めた。
「ずっと私たちと一緒にやってきた保田圭さんが、娘。を卒業することになりました」
メンバーはざわめいた。
高橋と小川は、予期していたのだろう。
やっぱり、というように頷いた。
年少の新垣や、加護、辻などは、始めはびっくりしたような顔をしていた。
やがて、すがり付いてきて、手がつけられないほどに泣き出した。
「なんだよう。いつもおばちゃん呼ばわりして、いじめるくせに」
そんな風に冗談めかしてみても、一向に泣き止まなかった。
「もう言わないよぅ。もう言わないから、やめないで」
加護が泣きじゃくりながら、変な駄々をこねた。
「なんだよ、そりゃ」
思わず、そっと抱きしめた。
今日は泣かない、と決めていたのにやはり駄目だった。
つられてつい、涙がこぼれ落ちた。
「うわああああああああああああああああん」
突然、ひときわ大きな泣き声がして、背後から抱きつかれた。
後藤だった。
「なんだよ、あんたまで」
後藤は何か言おうとしていたが、しゃくりあげてまるでわからなかった。
二人で抱き合って、泣いた。
吉澤は、無言だった。涙をこらえているらしかった。
石川は、何か言いかけたが、途中で耐えかねて、ぼろぼろに泣き崩れた。
紺野は、ずっとこちらを見ていたが、その大きな瞳からは絶え間無く涙が流れていた。
「水くせーよなー、ひとりで決めちゃってさー」
矢口がそっぽを向いて言った。
少し泣いていてくれたように思う。
安倍だけが、穏やかに微笑んでいた。
大丈夫だよ、というように何度も頷いて見せた、
何度も仲間の卒業を見送ってきたのだ。
もしかしたら、何も言わなくても気付いていたのかもしれない。
引退ではなく、移籍・ソロ転向である事を説明すると、ようやく場が落ち着いた。
やがて口々に、祝いの言葉を言ってくれた。
「おめでとう、圭ちゃん」
「おめでとう」
「おめでとうございます。保田さん」
ふと、飯田を見た。
「おめでとう。圭ちゃん」
そう言って、微笑んだ。
けれど、その微笑はいつもとは違っていた。
あの日溜りのような、温かさがなかった。
その事は卒業してゆく自分にとって、一番の心残りになった。
#12
卒業発表から、瞬く間に時は過ぎた。
卒業のステージは、ツアー最終日の武道館に決まった。
メンバーと過ごす時間は、それまで以上に大切なものになった。
今までと良く似た1日が過ぎるたびに、カウントダウンは進んだ。
そして、その日が来た。
いつものように組んだ円陣で、いつものように飯田の言葉から始まった。
「今日は13人での最後のステージです。大切にがんばりましょう」
そして、いつもの掛け声。
「がんばって、いきまっ」
「しょい!」
13人での最後の掛け声。
「泣くなよー、圭ちゃん」
安倍が背中を突つきながら言った。
「泣くもんかい」
そう強がって言ってみた。
(ダメだろうなあ)
(きっと泣いちゃうよなあ)
そう思っていた。
そうは、ならなかった。
オープニングが始まった。
観客のどよめきが起こる。
重低音の激しいリズム。光が交錯する、眩いステージ。
娘。たちがステージに上がる。
どよめきが、大歓声に変わった。
音楽が突然、聞きなれた前奏に変わる。
歓声が、一際高くなって押し寄せる。
体の一部になっているその曲を、全力で歌い踊る。
歌が、
ダンスが、
ハーモニーが、
仲間とのアイコンタクトが、
ステージを走ることが、
頭の上で大きくする手拍子が、
観客への投げキスが、
なにもかも全てが、かけがえの無い価値のあるものだった。
泣いている暇など無い。
悲しみや寂しさなど、ひとかけらも感じない。
全ての力をステージに叩きこんだ。
1曲、1曲、歌いなれた歌が駆け抜けて行く。
けれどその歌を、明日からはもう歌うことは無い。
このパートのソロも、
このパートのハーモニーも、
このポジションで踊る事も、
今日が最後だ。
やがて、最後の曲を迎えた。
2度のアンコールに応えた。
そして、卒業して行くものへのコールが起きた。
ヤスダ、ヤスダ、ヤスダ、ヤスダ、ヤスダ...
広大なステージの中に、ピンスポットを浴びてひとりで立った。
心からの感謝を、笑顔で言う事が出来た。
笑顔でさよならと、ありがとうとを言う事が出来た。
そして明日からの12人の娘。たちが、花束を持ってステージに上がった。
ひとりひとりと、抱き合った。
これほどの充実した1日が、それまでにあったろうか。
最後にして、最高のステージになった。
この日は、人生最良の日だった。
こうして、娘。メンバーとしての最後の1日が終わった。
移籍した事務所の社長はつんくが言った通りの好人物だった。
「いやあ、良く来てくれました」
始めて挨拶に行ったとき、手を取ってそう言ってくれた。
「あなたはきっとすばらしい歌い手になる方だ。うれしいですよ」
社長の人柄からか、事務所はアットホームな雰囲気だった。
スタッフも皆、歓迎してくれた。
つんくの言っていたボイストレーナーは確かに「凄い」人物だった。
「このヘタクソ、ボケ!ふざけてんのかッ」
初対面の挨拶もそこそこに始めた最初のレッスンで、滅茶苦茶に罵り倒された。
偏屈な老人、といった風情のトレーナーは、信じられないほどの毒舌家だった。
(こりゃ、「凄い」わ)
「お前、モーニング娘。とかで一番歌がうまいとか言われて、いい気になって変な癖ついてんだよ」
さすがにカチンと来たが、逆らえなかった。
老トレーナーの指示は的確で、短期間に驚くほど自分の歌は変わっていった。
移籍の数ヶ月後、始めてのシングル発売に漕ぎ着けた。
蓋を開けてみると、売上は予想を遥かに下回った。
「結果とは売上だけの事ではありません。気長にがんばりましょう」
落ち込んでいると、社長がそう言ってくれた。
「そう簡単に売れるかよ。ヘタクソなんだからよぉ、甘えんな」
老トレーナーには、相変わらず罵られた。
「食うに困らねえくらいは売らねえとな」
この頃マネージャーになった多賀は、いきなりの不振に不満気だった。
この頃は、歌番組への出演依頼が多く舞い込んだ。
娘。卒業生である、という事の話題性での依頼なのは明らかだった。
歌い手として認められている感じがしないのは、寂しく悔しかった。
娘。と同じ番組に出る事も多かった。
収録前によく、娘。の楽屋に顔を出しに行った。
「圭ちゃ〜ん」
必ず後藤が待ち構えていて、抱き付いてきた。
「今度はねぇ、こうゆうの」
「おー、すごいすごい」
辻と加護が、並んで新曲の振り付けを見せてくれたりもした。
自分の知らない娘。の新曲の話題は、やはり少し寂しかった。
新垣は相変わらずぽつんと一人の時が多かった。
安倍や石川が気に掛けて、かまってやっている時があるくらいだった。
「よう、元気かぁ」
頭を撫でてやると、照れながらも嬉しそうに笑った。
まず後藤に抱き付かれ、辻や加護と遊んでやり、何人かのメンバーと話し、帰りがけに新垣の頭をなでる。
これが、娘。の楽屋に遊びに行った時の、お決まりのパターンになった。
時折、飯田と話す事もあった。
表面上はお互いに、なんら変わりなく接しているように見えたろう。
しかし、以前とはやはり何かが違っていた。
あの夜出来た溝を、埋める事が出来ないままだった。
ある日のこと。
「ナイショだよ」
じゃれ付いて来た加護が周囲の隙を見て、そっと教えてくれた。
「娘。また増えるの」
年が改まって2003年、モーニング娘。は15人になった。
15人での初の娘。の新曲は、当たり前のように1位を取った。
ほぼ同時期に出した自分の新曲は、またも不振だった。
(凄い娘たちだなぁ)
6期メンバーの3人には舌を巻いた。
4期、5期と小粒な追加が続いたが、6期は言ってみれば全員が『後藤タイプ』だった。
3人ともまだ中学生だったが、歌もダンスもルックスも抜群だった。
即戦力として申し分なく、曲は安倍・後藤に加わり5トップ体制になった。
6期はあっという間に人気が爆発し、娘。の顔になった。
後藤の時のように。
ある日、娘。の楽屋に遊びに行くと、待ち構えていたのは後藤ではなく6期メンバーだった。
「はじめまして」
3人は並んで、礼儀正しく挨拶した。
「新メン、いいねぇ」
「そうでしょ、いいでしょう」
そう答えたのは、飯田だけだった。
娘。の楽屋らしからぬ、どこか重く嫌な雰囲気があった。
変に元気の無い辻・加護をくすぐって笑わせ、新垣の頭を撫でてから楽屋を出た。
珍しく、後藤が後をついてきた。
「あのね、圭ちゃん」
「うん」
「新メンとみんな、あんまりうまく行ってないの...」
「そう...」
メンバー追加時には大なり小なり、常にあったことだ。
増してや今回の3人は『実力者』だ。プライドも高いのかもしれない。
「あんたが入った時の事、思い出しなさいよ」
「?」
「いっぺんに後藤が3人入ったようなもんでしょ、そりゃもめるわよ」
後藤は口を尖らせてむくれ、やがて笑った。
「そっかぁ」
その後、数ヶ月は娘。たちと顔を合わすことはほとんど無かった。
その間に出た娘。の新曲はまたも大ヒットとなり、自分の新曲は更に売上を落としていった。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
「保田さん、これ...」
いつものように事務所に行くと、スタッフの一人が緊張した面持ちで雑誌を手渡した。
どこで手に入れたのか、それは発売2日前の芸能関係の週刊誌だった。
その表紙には驚くべき文字がケバケバしい字体で書かれていた。
『15人組アイドルの新メンバーの許されざる行状』
慌ててページをめくると、トップのグラビアにその写真はあった。
ホームパーティであるらしい。
喫煙。
飲酒。
男と絡んでいる猥雑なものまであった。
眼の辺りを黒線で隠しているが、間違いなくそれは6期メンバー3人だった。
(なんてこと...!?)
携帯を取りだし、娘。の誰かに連絡を取ろうとした。
しかし、その時出先から帰ってきた多賀の言葉に、思わず手が止まった。
「モー娘。の新メンバーなぁ。薬物で3人ともお縄だとさ」
大変な事になった。
未成年とは言え、芸能人である。
6期メンバーの補導・逮捕はあっという間に世間に知れ渡った。
3人は娘。から除名となった。
喫煙や飲酒だけならまだしも、薬物が絡んでいるのだ。
娘。自体もまた、ただでは済むわけが無かった。
当面は活動自粛と発表された。
娘。たちとは連絡が取れなくなった。
おそらく事務所の指示で外部との接触を避けたのだろう。
他のメンバーもまた、薬物汚染が疑われていた。
取材が卒業メンバーである自分や、中澤裕子や市井紗耶香に殺到した。
「今回の事は残念ですが、娘。のメンバーを信じています」
そう繰り返すしかなかった。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
ある日全くの偶然に、飯田圭織と出会った。
録音スタジオなどが多く入っているビルの廊下だった。
廊下には他に人影は無かった。
飯田は変装していたが、すぐにわかった。
「大変な事になっちゃったね。大丈夫?」
「心配しないで。私たちは大丈夫」
飯田はそう言って、少し笑った。
無理に笑っているのがありありとわかり、痛々しかった。
「なにか私に出来る事は無い?」
そう聞いたが、飯田はただ静かに首を横に振っただけだった。
「それじゃ...」
突然に話を打ち切ると、飯田は行ってしまった。
追いかけたかったが、見えない壁のようなものを感じて出来なかった。
この短いやり取りが、二人きりでした最後の会話になった。
#13
「あ、始まる」
スタッフの一人が言った。
事務所に居る全員が、テレビの前に集まっていた。
その日、モーニング娘。についての会見があると発表されたのは、当日の朝の事だった。
昼のワイドショーの時間帯だった。
各局は予定を変更して生中継をしているようだ。
今見ている局以外でも、同様の映像が流れているはずだ。
既に除名されている3人に付いては会見があった。
今回は娘。の今後についての会見になるのだろう。
耳障りな音楽が流れた。
『モーニング娘。緊急会見』というテロップが品の無い字体で大写しになった。
あまりのチープさに、誰かが舌打ちをした。
カメラは、すし詰めの記者席と、無人の会見席を映していた。
やがて、会見場に現れた人物を見て愕然とした。
チーフマネージャーと事務所スタッフに挟まれて、飯田圭織が現れた。
飯田は質素なスーツ姿で、しっかりとした足取りで歩き、一礼すると席についた。
実質的に、飯田ひとりで会見に当たるらしかった。
「今回の件ではモーニング娘。のメンバーが多大なご迷惑をおかけいたしました」
スタッフに促されて、飯田が話し出した。
「こころから、お詫び申し上げます」
そう言って3人は一度立ち上がると、頭を下げた。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
再び席についた飯田が話し始めると突然記者の一人が遮った。
「待ってください。なぜあなたなんですか?」
「そうですよ。もっとしかるべき人が会見すべきでしょう」
会見場はざわめき、怒声をあげるものもいた。
「私はモーニング娘。のリーダーです」
ざわめきの中で飯田がいった。
「事務所にお願いしてここに参りました。今日は私が会見に当たらせていただきます」
ふざけるな、と罵る声がしたが、飯田は冷静に続けた。
「既にご存知と思いますが、プロデューサーのつんくさんは、今回の件の心労で入院中です」
仮病じゃないのか、と記者の誰かが言った。
「本来は、事務所社長が会見に当たるべきなのですが、今回は私が参りました」
だから、どうして、とまた別の誰かが言った。
「私はモーニング娘。のリーダーだからです」
飯田は繰り返した。
嘲笑が起きた。
記者の一人が手を上げ、立ち上がって訊ねた。
「今回の騒動ではあなたたちにも薬物使用の疑惑がもたれている事は知っていますね」
飯田は頷いた。
「だったら、あなた自身の口から、釈明が聞けるというわけですか?」
飯田は、答える変わりに同席しているスタッフに何かを指示した。
会見場に居るほかのスタッフが、コピーの束らしき物を記者に配り歩いた。
「お配りしている物は、現在のメンバー12人の警察病院での薬物使用検査の結果のコピーです」
大きなざわめきが起きた。
「もちろん、全員薬物使用の疑いはありません」
「そこまで、するのか?」
テレビを見ている事務所スタッフが、驚きの声を上げた。
「こんなものは、いくらでも細工できるんじゃありませんかね?」
品の無い中年記者が立ち上がると、受け取ったコピーを叩きながら怒鳴った。
飯田はまっすぐに相手を見据えると、毅然としていった。
「これは公的な証明です。信用できるかどうかは常識の範疇でおわかりいただけると思います」
ちっ、と舌打ちすると中年記者は乱暴に座った。
ざわめきの中、飯田は続けた。
「モーニング娘。は現在活動を休止中ですが、明日より活動を再開いたします」
突然の発言に、一瞬静寂が訪れた。
「また、7月のツアー最終公演を持ちまして、解散する事になりました」
「どういうつもりなんだ」
「即時解散すべきじゃないんですか?」
「メンバーだった人間から逮捕者が出てるんだぞ」
再び会見場はざわめきと罵声に包まれた。
「私たちは多くの方に応援していただいてここまでやってきました」
飯田は、ひるむ事も高ぶることも無く冷静だった。
「きちんと最後にお礼とお別れを言いたいのです」
「そんな事が許されると思ってるんですか」
「思いあがるな」
「社会的影響というものを少しは考えてはどうなんですか」
飯田の言ったいくつかの言葉は、怒声の中にかき消されてしまった。
これでは単なる吊るし上げではないか。
ただ流れに乗ってマスコミは娘。を潰そうとしている。
これが正義などであろうはずが無い。
もし今でも、自分が娘。であったなら。
こんな場所に彼女ひとりで行かせはしなかったものを。
例え、何の役にも立てなかったとしても、絶対にひとりきりで行かせなどしなかったものを。
「飯田さんは、立派ですね」
社長がそう言ってくれた。
うれしかった。
涙が流れそうになったが、こらえた。
たったひとりで戦い続ける、飯田圭織の姿を見失わないために。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
翌日からまた娘。たちは、以前のように殺人的なスケジュールで動き出した。
違っているのは過ぎて行く時間が、解散までのカウントダウンであると言う事だ。
残りわずかな時間を、娘。たちがどれほど大切に思っているか、楽屋を訪れた時に知った。
甘えてくる後藤も、はしゃいでいる辻や加護も、ひとりきりの新垣も居なかった。
そこに居たのは、娘。として結束した12人だった。
それは、ついにたどり着いた『娘。』の完成形と言って良いのかもしれない。
そこに自分の居場所が無いのは寂しかったが、そんな娘。たちが堪らなく誇らしかった。
マスコミの娘。バッシングは相変わらず続いた。
最後のツアーは、様々な嫌がらせを受けたらしい。
右翼団体の街宣車までが妨害に現れた事があったという。
しかし、それらを退けたのはスタッフでも警察でも、一部の過激なファンでも無かった。
一般の多くの人たちが、娘。を支持し力を貸してくれた。
再びたくさんの応援を受けながら、娘。たちは全国を回った。
感謝と別れの言葉を言うために。
やがて、最後の日が訪れた。
最後のステージは、やはり武道館だった。
何度目の公演になるのだろう。
娘。の初期にメンバー誰もが夢見た舞台で、夢が終わろうとしていた。
チケットを手に入れられなかった数万もの人々が、武道館の周りに集まった。
その時の娘。の姿をどう言い表せば良いのだろう。
アイドルなどではない。
アーチストというものとも違う。
唯一の特別なもの。
娘。という全くオリジナルな存在。
2003年初夏。
モーニング娘。は純粋な炎として燃え上がり、そして燃え尽きた。
娘。としての全てが終わり、メンバーはそれぞれの道を歩き始めた。
そのわずか1ヶ月後に、あの忌まわしい『事件』が起こった。
元娘。たちは打ちひしがれ、ある者はこの世界から去った。
残った娘も、立ち直るには時間が必要だった。
事務所は解散し、継続して所属していた元娘。たちは散り散りになった。
つんくもまた衝撃から回復することなく、全てを整理すると世間から姿を消してしまった。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
飯田圭織は娘。オリジナルのメンバーだ。
安倍なつみとただ二人だけが、娘。の結成から解散までを経験した。
そして2代目にして最後のリーダーでもある。
いつでも明るく優しかった彼女は、常に娘。の精神的な支えであったように思う。
解散直前の悲惨な状況において、多くの人が娘。を支持してくれた。
それは、会見での飯田の真摯な姿と決して無関係ではなかっただろう。
訳知り顔の評論家は事務所の作戦勝ちなどといっていたが、それは勝手な憶測に過ぎない。
絶対に飯田を行かせまいとしていた娘。の事務所の社長がついに根負けしたのは、会見の日の朝だった。
前夜から説得を続けていた飯田の表情は必死であったという。
自分はリーダーであるから、というのが飯田の主張だった。
彼女は、最後のリーダーとして娘。の存在とメンバーを守りきった。
飯田は『事件』の後、音信不通となった。
連絡がつきづらくなったメンバーは他にもいたが、完全に行方がわからなくなったのは飯田だけだった。
心配した安倍や紺野が何度か飯田の実家を訪ねたが、家族も何も知らされていなかった。
飯田の消息は3年以上経ってから突然知れた。
彼女はフランスに渡り、パリでモデルになっていた。
元々素晴らしいプロポーションの持ち主だったが、その姿は更に洗練されていた。
鋭角的なシルエットは、同性でも見とれるほどに美しかった。
25歳の遅咲きのモデルは有名なデザイナーたちに愛され、活躍していた。
彼女が何を思い、何も告げずにフランスに渡ったのか。
なぜモデルになる事を選んだのか。
正確なところは何もわからない。
彼女は日本やフランスのマスコミ取材を一切断っていた。
公の場に出るのは、ショーに出演する時だけだった。
自分にとって飯田は、娘。時代に唯一本気でケンカをした事のあるメンバーだ。
本当に心を許すことができたのは、彼女だけだったかもしれない。
今思えば、彼女の事がとても好きだった。
彼女もそう思っていてくれたような気がする。
卒業を告げた、あの夜までは。
今でも、飯田圭織の姿を目にすることがある。
ファッション関係の雑誌や番組のパリコレクション特集の片隅に、時折その姿はある。
今年30歳になったはずの彼女は、相変わらず美しい。
しかし、モデル特有のきついメイクや鋭い視線を見るたびにいつも思う。
まだ、許されてはいないのではないか、と。
#14
娘。の解散時の騒動も、その後の『事件』も自分の心に暗い影を落とした。
それを言い訳にはしたくないが、気持ちが歌から離れ、何をすれば良いのかわからなくなってしまった。
「まぁ、休めや。そんな時もある」
トレーニング中に、始めて老トレーナーに優しい言葉をかけられた。
余程、酷い状態だったのだろう。
『事件』から数ヶ月が過ぎ、復帰した矢口真里や高橋愛が、ソロで活躍し始めた。
特にロック歌手に転向した矢口は、最初の曲からヒットを飛ばし、魅力と実力をみせつけた。
自分の曲は相変わらず売れなかった。
「給料制に変える事を考えてみませんか?」
ソロになって2年目が終わろうとしていた頃、社長が遠慮がちにそう言ってくれた。
曲が売れず、仕事も徐々に減り始めていた。
確かに、最初の契約の歩合制では、収入が心もとなくなっていた。
「いいえ、できればこのままでお願いします」
決してプライドから断ったのではない。
心遣いはうれしかった。
普通なら契約を打ち切られても仕方が無い結果しか残せていないのだ。
なおさら、働いた以上に貰うわけには行かない。
娘。時代の蓄えだけでもしばらくはやっていけそうだった。
それでも生活のレベルは落とさざるを得なかった。
気に入っていたマンションを引き払い、安いワンルームに引っ越した。
滅多に使わなくなった車も処分してしまった。
(このまま続けていて良いのだろうか)
社長もスタッフも、売り出すために努力してくれている。
しかし、良い結果が出せるかどうかは結局自分にかかっているのだ。
ソロなんて最初から無理だったのではないか。
自分はとんだ勘違いをしていたのではないか。
そんな思いに囚われることが多くなっていた。
(歌が歌えれば良い)
それはCDを出すような歌手ではなくても良いのではないか。
例えば、現在でもそれが職業として成り立つのかは知らないが、場末のバーの歌手のような...。
歌を生業に出来れば、それで良いのではないか。
それで自分の人生は幸せなのではないか。
自分は達観したのだと思い込みたかった。
けれども、それが逃げ口上でしかない事は、わかりすぎるほどわかっていた。
無為に数年が過ぎた。
老トレーナーの死は突然に訪れた。
自宅で脳卒中で倒れ、そのまま還らぬ人となった。
彼が80歳に手が届こうという年齢であると知り、驚いた。
彼は家族は無く、寂しい葬儀になった。
「音楽に捧げた人生でしたよ」
社長はそう言って泣いた。
そして、教えてくれた。
「実はあなたを気に入って、是非うちの事務所にと望んだのは彼だったんです」
信じられないような話だった。
涙が止まらなかった。
いつも怒鳴られてばかりだった。
尊敬はしていたが、好きにはなれないままだった。
老トレーナーが認めてくれたから、今の自分には居場所がある。
それなのに、自分はその事を全く知らず、考えた事も無かった。
老トレーナーは、昔歌手だったそうだ。
実力はあったものの、機会に恵まれずに売れなかった。
その後、作曲家なったが、やはりヒットとは無縁だったらしい。
それでも彼の周りに人が集まったのは、その実力と音楽に対する姿勢に多くの人が感化されたからだろう。
自分もそのひとりであるのは間違い無い。
なぜ、自分を見つけ出してくれたのだろう。
それは不思議だった。
確かなのは、亡くなるより前に老トレーナーを納得させるだけの歌手に自分がなれなかったと言う事だ。
二人目の『育ての親』までも失ってしまった。
完全に迷子になった。
どこへ向かえば良いのか。
どうやって歩けば良いのか。
導いてくれる人はもういない。
だが、進まなければ。
強迫観念のようなものだけが、自分を動かすエネルギーだった。
後ろ向きの思考に囚われた者に、幸福も幸運も訪れはしない。
相次いで家族を亡くし、天涯孤独の身になった。
喉を患い、長期の休業を余儀なくされた。
復帰後も相変わらずセールスは振るわなかった。
仕事もトレーニングもしない日が増えた。
何をするでもなく、日がな一日公園のベンチで過ごす事もあった。
元娘。であることも、ソロ歌手である事も関係無かった。
誰からも声を掛けられる事は無かった。
世界中で、自分の事を覚えているものは誰も居なくなってしまったような気がした。
「保田圭さんですよね」
ある日、公園のベンチに座って、昼寝する野良犬を眺めていた時。
突然、見知らぬ青年から声を掛けられた。
「僕、ファンなんです。サインしていただけませんか?」
そんなふうに声を掛けられるのは久しぶりでどぎまぎしてしまった。
差し出された手帳にサインする手が少し震えている気がして、恥ずかしかった。
「いやあ、うれしいなぁ」
受け取った手帳のサインを見つめて、青年はそう言って笑った。
それが出会いだった。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
「ねえねえ、圭ちゃん、あの人と付き合ってるの?」
ある日、近所に住む世話好きのおばさんが、そう声を掛けてきた。
彼と出かけた日の、帰り道の事だ。
適当に答えを濁したが、おばさんはこちらの反応などお構いなしに、話し始めた。
二人を見かけるたびに、話したくてしょうがなかったらしい。
「あの人ねえ、最初圭ちゃんの事、何にも知らなかったのよ」
「えっ」
「圭ちゃんの事をいろいろ聞くからさぁ、興信所の人かと思っちゃったわよ」
「...」
「元モーニング娘。で歌手の保田圭ちゃんよ、っていったら、きょとーんとしちゃって」
「はぁ」
「なんか話し掛けるきっかけが欲しかったのよね、きっと」
彼は、元娘。であることも、歌手である事も本当は知らなかった。
ただ、ひとりの女性として自分を見つけてくれた。
心が軽くなった。
「なにか良い事がありましたか」
久しぶりに事務所に呼び出されて行くと、社長がそういった。
「えっ、いえ、私なんか変ですか?」
「いやいや」
社長はそう言うと、テーブルの上に二つあった資料袋のひとつを引っ込めた。
「これは彼氏ができたな、と思いましたねぇ」
ずっと後になって、社長はこの時の事を話してくれた。
「実はあの時、引っ込めたのは見合い写真だったんですよ」
いい、笑い話になっている。
テーブルに残った資料袋から、社長は楽譜を取り出した。
丁寧に手書きされたそれは、古いものらしくかなり変色していた。
「是非、あなたに歌っていただきたいのです」
「...バラードですね」
随分と古臭い感じの曲だった。
だが、ストレートで何のテライもない。
素敵な曲だ、と思った。
歌詞も飾り気が無く、好きな感じだった。
「ずっと探していて、ようやく見つけ出したんです。いかがですか」
社長は祈るような目で、じっと見つめた。
「もちろん、歌わせていただきます」
断る理由はどこにも無かった。
楽譜のサインは、亡き老トレーナーのものだった。
試しに、歌ってみた。
難しかった。
途端に老トレーナーに与えられたいくつものアドバイスを思い出した。
もしかしたら老トレーナーは、この歌を歌う者を探していたのではないか。
その眼鏡に適ったのが、自分だったのではないか。
そんな思いが強くした。
(これは私の歌だ)
そんなふうに思ったのは始めてだった。
ひたすら、曲の習得に没頭した。
ようやく、自信を持って歌えるようになったと社長に報告したとき、3ヶ月が過ぎていた。
社長はその間何も言わず、自分を信じて待っていてくれた。
この曲に対する社長の思いが伝わってきて、再び背筋が伸びる思いだった。
レコーディングにも社長は現れた。
OKが出た時、男泣きに泣いてくれた。
「よくやってくれました。やはり、あなただったんです。あなただったんですよ」
それが、自分が出す事の出来た『結果』だった。
セールスなど、もうどうでも良かった。
社長はこの曲のために、久しぶりに大きなキャンペーンを張ってくれた。
どこでも好評だった。
この曲を自分が歌えることが、その歌を聞いてもらえる事が何よりうれしかった。
「こりゃあ、今回は行けるんじゃねぇか」
多賀がニタニタしながらいった。
そしてこの曲が自分の人生の流れを変えた。
週間ランキングで、圧倒的な枚数で1位を取ったのだ。
#15
『無欲の勝利やなぁ。おめでとう』
『圭ちゃんおめでとう。とうとうやったね』
『圭ちゃんすごーい。尊敬しちゃうよ』
『保田さんおめでとうございます』
元娘。のメンバーや、友人、知人から電話やメールがたくさん届いた。
現金なものだ。
つい先日までは引け目を感じて顔を合わせたくないと思っていた人たちに、会いたくて堪らなくなった。
しかし、曲のヒットと共に、娘。時代のような多忙な日々が始まった。
休日はおろか休憩時間を取る事すらままならない状態だった。
自由な時間はなくなったが、充実した日々が続いた。
彼とも、会う時間がなかなか取れなくなっていった。
今回の曲を習得するまでの長い時間を、彼は精神的に支えてくれた。
成功と共に一緒に過ごせる時間が激減したのは皮肉だった。
それでも彼は、毎日のようにメールや電話で励ましてくれた。
今は何も考えず進もう。
そう決めた。
1年あまりが過ぎた。
続けて出した曲も受け入れられ、歌手として確固たる地位を築く事に成功しつつあった。
その年、受け取った歌唱印税は、ソロになってからの全ての収入をも上回った。
久しぶりに彼を食事に誘った。
彼は歌唱印税の明細を見て眼を丸くした。
「凄いねぇ。僕の年収の10倍近いよ」
「凄いでしょ」
上機嫌で、ワインを傾けた。
「これね、私、ぱーっと使っちゃおうと思うの」
彼は驚いて、ワインをむせ込んだ。
「...そ、それはあんまり良くないんじゃないかな」
「ねぇ、見て見て」
一冊のパンフレットを彼に差し出した。
それは超高級マンションのパンフレットだった。
さすがに普通なら手が届かない。
だが、オーナーが社長の知り合いで、特別に安く提供してくれると約束になっていた。
「これ、買っちゃおうかな〜って。凄いでしょ。都心で6LDKよ」
「す、凄いねぇ」
「...ねぇ」
「まさか、一人で住めなんて言わないよね」
彼は、再びむせ込んだ。
そして、その次の週。
似合わない盛装に身を包んだ彼に呼び出された。
ラフな彼には不似合いな、高級フランス料理店だった。
緊張のあまり、彼はプロポーズの言葉を何度もやり直した。
見て見ぬ振りのボーイも、笑いを堪えるのに必死の様子だった。
最初は真面目に聞いていたのだが、とうとう吹き出してしまった。
これは結構高くついた。
「君、あの時笑ったろう」
結婚後、ちょっとした意見の食い違いがあると、彼は決まってこの事を持ち出した。
「男が一世一代の台詞を言おうって時に、笑うのはどうかと思うね」
これを言われるとぐうの音も出ず、彼の意見に従うしかなかった。
部屋のカーテンも、応接間のソファも、そんなふうにして彼の選んだ物になった。
結婚、そして妊娠。
「アホか、お前は」
多賀は、呆れ果てたように言った。
「これからって大事な時期に、何考えてんだよ」
確かに、歌手としてようやく上り調子になってきたのだから、もう少し時期を考えるべきだったかもしれない。
けれども、プライベートも大切にしたい。
正直のところ、もうあまり若くは無いという焦りも確かにあった。
「ちょっと無計画だったかも知れませんね」
社長は困ったように笑って、それでも1年間の育児休暇をくれた。
休暇の前に出した曲は、親子愛がテーマだった。
あざと過ぎる気もしたが、ありがたい事にこの曲もヒットした。
休暇に入り、やがて出産。
男の子だった。
真、と名付けた。
平穏で、幸せな日々が続いた。
休暇が8ヶ月目に入ろうとした頃。
突然社長から電話があった。
「約束とは違うのですけど、是非復帰していただきたいんです」
それは、ニューヨーク公演の依頼だった。
数年前に起こったマンハッタンの戦いで、マンハッタン島を中心にニューヨークは廃墟になってしまった。
その後、復興が急ピッチで行われるなか、新しいコンサートホールが完成した。
こけら落としに世界中から歌手が招待されることになった。
その一人に選ばれたのだ。
思ってもみない、大きな仕事だった。
「真はまだ、4ヶ月なんだよ」
夫は反対した。
「わかった、断る」
すぐにそう決めた。
海外は年々危険になっている。
真を連れていくわけにも、置いて行くわけにも行かない。
しかし、あっさり決めると夫はかえって気になって仕方なくなったらしい。
「本当に良いの? 凄いチャンスなんだよね」
一日に何度もそう聞いてきた。
「じゃあ、あなたが決めて」
結局、幼い真を夫に預け、渡米する事になった。
2週間のオープニングセレモニーの一日を、日本代表として任された。
米内外のビッグネームと肩を並べるのだ。
震えるほどの緊張感だった。
真新しいコンサートホールで、思いきり歌った。
完全燃焼だった。
最高の自分を出す事が出来た。
しかし、それでもまるで足りなかったのだ。
アメリカのマスコミは、好意的に取り上げてくれた。
しかしそれは遠く日本から祝賀に訪れた者への礼儀のような物だった。
プライドが粉々に打ち砕かれた。
おかげで、いつの間にか自分がどこか高慢になっていたことにも気付いた。
それが一番の収穫だったといえるかもしれない。
日本ではニューヨーク公演は、実際の成果以上に報道された。
国際派というわけのわからない呼ばれ方をして苦笑した。
海外での活動を過大評価するのは、相変わらずだ。
「まあ島国根性ってやつさ。利用しない手は無いよな」
多賀がそう言った。
社長もおそらく、この事を見越して海外遠征を決めたのだろう。
帰国後の仕事は順調だった。
順風満帆。
何もかも全てが、良い方向に向かっている。
そう思いこんでいた。
いつの間に、日付は変わっていた。
明かりを灯していないのに、部屋は窓からの光でほのかに明るい。
それが、月明かりでも星明かりでも無く、街の明かりである事がなぜかとても悲しい。
ひとりで過ごすには、この部屋は広すぎる。
でも、もうひとりになってしまったのだ。
いや、むしろ自分で、それを選んだのではないか?
方法はあったはずだ。
無理やりすがりつく事も、夫の実家に押しかける事もできた。
それをしなかった、自分は...。
カーペットの上には、メモリマンが転がっている。
これが、自分の選んだ物。
これを、選んだのだ。
拾い上げて、耳にセットしようとした。
だが、また投げ捨てた。
どうしても、聞く気になれない。
ふと、卒業写真に目が行った。
(そうだ、みんなに会いに行こう)
そうしよう。そうしなければ、多分...。
もう、一歩も先に進めない。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
『珍しいですね、保田さんから電話くれるなんて』
紺野あさみは、一回目のコールが終わらないうちに電話に出た。
深夜にも関わらず、元気で大きな声だ。
「ごめんね、こんな時間に」
『なぁに言ってんです。これからが私の時間ですよ』
はきはきと、早口で話す。
目の前にある卒業写真の紺野は、いかにもおっとりとした顔で写っている。
ずいぶん変わったものだ。
「ちょっとお願いがあるの」
『これまた珍しい。はい、なんでしょう』
「私、ちょっと長めの休暇をもらったの」
『へええ。そりゃあ、うらやましい』
「でね、久しぶりに娘。のメンバーに会っておこうと思って」
『それは、それは』
「でね、連絡先がわからない人がいるの。わかったら教えて欲しいんだけど...」
『いいですよ、誰のですか?』
写真を見ながら、連絡先を知らない元娘。の名前を告げてゆく。
『ずいぶん多いですねぇ。保田さん、付き合い悪い方ですよねぇ』
「...」
『私、今ちょっと忙しいんですけど、これ急ぎます?』
「ううん、わかっている娘から先に会ってくるつもり」
『じゃあ、明日にでもまとめてメールしますよ。最初は誰に会うんですか? 私?』
「しょっちゅう会ってるじゃないの」
最近の紺野は、いつもこんな調子だ。
「後藤真希に会ってくるわ」
『......後藤さん、ですか?』
思ってもみない名前だったのだろう。
紺野は、しばらく黙り込んだ。
そして、言葉を選ぶようにゆっくりといった。
『...後藤さんは、止めた方が良いんじゃありませんか』
「...いいえ、会ってくるわ」
会うのが一番、辛い娘から始めよう。
#16
電車の乗客は、一駅ごとに少なくなっていった。
乗車した時にはつり革まで一杯だったが、イスに座っている人ももうまばらだ。
終点が近い。
となりの車両から通路越しに、中年の女性がふたりでこちらを見て、何かひそひそと話している。
今日は地味目なスーツとパンプスに、サングラスをしているくらいだ。
変装というほどのことはしていない。
保田圭であることに、気付いているのだろう。
そして、この電車に乗って、菓子折りと花束を膝に乗せている。
誰を訪ねていくのかも、察しが付いているのだろう。
蔑むような目でこちらを見ている。
滑稽な人たちだ。
なにを蔑むというのだろう。
やがて、電車は終点に着いた。
赤牟駅は、最近建て直したらしく、近代的で大きい。
ホームに降り立った乗客は、ほんの十数人ほどだった。
皆一様に、うつむき加減で足早に歩いてゆく。
まるで、誰かに見咎められるのを怖れるかのように。
改札を抜けると駅前広場に出る。
芝生と花壇が広がっている風景は、まるで欧米のどこかの観光地のようだ。
よく整備された広場は美しいが、閑散としていた。
広場から伸びる国道に繋がる道に、表示板が出ている。
『赤牟療養所』と。
数分ほど歩くと、正門についた。
大学か研究所を思わせる、大きくてシンプルな門だ。
しかし、その両脇にある守衛所と周囲を囲む高い塀が、刑務所を思わせる。
赤牟療養所は、千葉県赤牟市にある日本最大の療養所だ。
広大な敷地にいくつもの施設が点在している。
精神を病む人にとって、最も良い治療を受ける事が出来る場所とされている。
世界有数の大型施設だ。
ここに後藤真希が移されたのは『事件』直後の事だが、ここを訪れるのは始めてだ。
不意に、あの時の後藤を思い出した。
まるで子供の頃見た悪夢のように、心にこびりついて離れない記憶。
怖ろしさから体が震え、帰りたくなる。
(何、考えてるの)
意を決して、歩き出した。
ずっと逃げていた場所へ。
守衛がにこやかに会釈した。
勤めてそうしているのだろう。
平静を装って、会釈を返す。
しばらく歩くと、総合案内所がある建物があった。
後藤の病室を教えてもらった。
後藤の病室は、さらに数分歩いた場所にあった。
病室というよりも、どこかの避暑地の別荘のような、洒落た感じの建物だった。
建物の中も、病院という感じはしない。
ただ、ドアの前にある名札だけが、ここがあくまでも療養施設であることを物語っていた。
後藤の名札を掛けたドアを見つけた。
軽く深呼吸をすると、ほのかに消毒液のにおいを感じた。
少しの躊躇の後、ノックした。
「はい」
返事と共にドアを開けたのは、後藤ユウキだった。
後藤真希の実弟。
そして現在では、彼女のただひとりだけの家族だ。
「保田さん」
ユウキは驚いたようだった。
どうして、突然。
どうして、今頃になって。
ユウキの顔に、そんな表情が浮かんだ。
不快感と共に。
しかしそれはすぐに消えた。
「どうぞ」
穏やかな顔になって、ユウキは病室に入るように促した。
何も聞かない。
何も咎めない。
それはかえって、辛く感じた。
「あの、これ」
花束と菓子折りを差し出した。
「すいません」
ユウキは受け取ると、小さなテーブルの上に置いた。
意外と広い部屋だった。
壁やカーテンの色は白を基調としているが、わずかにベージュがかっているようだ。
気持ちが落ち着くように、工夫されているのだろう。
部屋には、数脚の椅子とベットがある。
療養所のベットとは思えない、キングサイズくらいの大きさがあった。
清潔な白いシーツで覆われているそれにはしかし、拘束衣を取りつけるらしい治具が付いている。
ベッドの真ん中に、後藤真希は丸くなって、ちょこんと乗っていた。
薄いピンクがかったパジャマを着ている。
彼女はもう26歳になるはずだが、自分の記憶にあるどの時点の後藤よりも幼く見えた。
体も、ふたまわりほど小さくなってしまったようだ。
あまり陽に当たらないのだろう。
肌の色は抜けるように白い。
その可愛らしい顔には、幾条もの傷跡が痛々しく残っている。
何度も手術が施されたのだろう。
あの時に比べれば、ずいぶんと良くなっているようだ。
それでもあまりに深すぎる傷は、白く浮き上がるかのように顔全体を覆っている。
うずくまるように座った後藤は、何も無い空間を見つめている。
そして、薄く微笑んでいる。
「座ってください」
ユウキが、椅子を勧めてくれた。
窓際まで歩き、そこにあった椅子に座った。
後藤真希は、何の興味も示さない。
ただ、何も無い場所の何かを見つめ、微笑んでいる。
「いただきます」
ユウキは、菓子折りを丁寧に開けると、ひとつ取り出した。
そして、ベットのところまで行くと、姉の手を取り、てのひらの上にそっと乗せた。
「よかったね。保田さんが来てくれたよ」
「ねえ、覚えてる? これ好きだったでしょ」
思わず、話しかけてみる。
後藤真希は答えない。
何も反応しない。
それは、まだ娘。だった頃。
誰かが差し入れてくれた菓子折りだった。
どういうわけかそれを気に入った後藤は、珍しく人の分まで食べてしまった。
食べ損ねたメンバーが、ふざけて後藤を追い回した。
逃げ回りながら、後藤は照れくさそうに笑っていた。
不思議なほど強く、印象に残っている。
その菓子折りと同じものを探して買い求めてきた。
後藤のために、何か出来る事。
そう思っても、こんな事しか思い浮かばなかった。
自分の無力さに、泣きたくなった。
ベッドの上の後藤が、少しだけさっきより笑ったように見えた。
そして、てのひらの上の菓子を、ゆっくりと握りつぶしてしまった。
ユウキは何も言わず、姉のてのひらに付いた菓子の残骸を丁寧に拭き取った。
「すいません」
「...いいえ」
「あおおおおあおあおおあおおうあおあいあああ」
突然、後藤が大声をあげた。
それは、怖ろしい声だった。
地獄の底から響くような、到底人間の物とは思えない叫びだった。
耳を覆いたくなった。
だが、そんな事をしても何にもならない。
これが、今の後藤真希なのだ。
逃れようの無い、これが現実なのだ。
そしてまた突然、後藤は黙り込んだ。
何も無かったように、さっきとは違う空間を見つめている。
わずかな微笑をたたえて。
「わかってるんですよ」
姉を見つめたまま、静かにユウキが言った。
「あなたが来てくれた事、わかってるんです」
(後藤...)
声を掛けたかったが、言葉が出なかった。
涙が溢れ出して、後藤の姿を隠してしまった。
#17
「おはよー、圭ちゃん」
「おはよう、後藤」
「ねーねー聞いてよー」
「くるしいくるしいっ、朝から抱きつくなっ」
「おかーさんがねー、げんこつでぶつんだよー」
「なんだそりゃ」
「あのね、今日ね、ユウキがね、仕事で朝早く出かけたの」
「うん」
「でね、あたしユウキの服着て、ご飯食べるテーブルんとこ座ってたの」
「へ」
「おかーさん台所でね、ご飯作ってて、ちょっと振り向いてあたし見てね」
「うん」
「『ユウキ、なにやってんの、早く出かけなさい』って」
「あはははは、あんたらそっくりだもんね」
「でね、あたし黙って座ってたの」
「うん」
「そしたら、おかーさんまた振り向いて、あたしだって気がついたの」
「うん」
「あたし、へへへーって笑ったら、おかーさん、いきなりげんこつで、ごーんって」
「あはははははははははははは」
「ひどいよね、ふつう笑うよね」
「あはははははははははははは」
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
「お客さん、大丈夫?」
遠慮がちな声で起こされて目が覚めた。
自分がどこにいるのか、しばらくわからなかった。
(そうだ。電車で帰る気になれなくて、ハイヤーを呼んだんだ)
起こしてくれたのは、運転手だった。
「やだ、私いま、昔の夢見てて。笑ってました?」
運転手は気の毒そうに答えた。
「いや、泣いてたみたいだったよ...」
ルームミラーに、自分の顔の上半分が映っていた。
涙の跡が、一筋ついていた。
あれはいつだったろう。
娘。時代のいつか。
心にたくさん残っている、後藤のかわいい記憶のひとつ。
後藤との楽しかった想い出は、時々現れては胸を締め付ける。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
「お忙しいのに、今日はありがとうございました」
病室を出る時、ユウキはそう言って深々と頭を下げた。
言外に、再訪を拒む雰囲気があった。
それも当然かもしれない。
8年間、一度も訪れていないのだ。
ユウキはその間、どれほど苦しんできたのだろう。
気まぐれのように訪れた見舞い客が、不快でないわけが無い。
元娘。であの病室を訪れるのは、吉澤ひとみだけだとユウキが教えてくれた。
吉澤は、今でも数ヶ月に一度は見舞いに来るそうだ。
初耳だった。
吉澤の事も。
他の元娘。たちが自分と同様である事も。
まるで後藤真希が存在しなかったかのように、ずっと背を向けてきたのだから。
突然の凶報に、元娘。たちがひとつ場所に会したのは、娘。解散から一ヶ月ほど過ぎた時だった。
都内の救急病院で、海外留学中の福田明日香を除く全員が、顔を揃えた。
少し遅れて、後藤の家族も駆けつけた。
表には、早くも事態を聞きつけたマスコミが、まるで病院を包囲するかのようにたかっていた。
深夜の待合室で、皆、暗い顔で自分の足元を見ていた。
信じたくない、という思いで一杯だった。
これが悪い夢であってくれたら、と。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
後藤真希は、娘。解散後すぐに、歌手としてソロ活動を開始した。
娘。のエースだった後藤は、やはり一番の注目株だった。
解散後すぐに出した曲は、当然のようにヒットした。
多忙な日々は、娘。時代から途切れることなく続いていた。
この頃、後藤は何かに怯えていたらしい。
事務所が付けてくれた他に、自費でボディガードを雇った。
3人のいかつい男に守られた後藤は、以前に比べてあまり笑わなくなっていたという。
後藤が感じていた恐怖は、具体的な何かではなく、予感のような物だった。
周囲の誰もが、完全にソロになってナーバスになっているのだと思いこんだ。
だから、何の対処もしなかった。
仕事の関係者も、家族も、友人も、そして元娘。のメンバーも。
まさか、本当にあんな事が起きるとは、思いもしなかったのだ。
凶行は短時間で行われた。
それは、後藤がテレビ局の通路を移動中の時だった。
突然現れた男が、ボディガードの隙を突いて、後藤をさらった。
悲鳴をあげる余裕すらなかった。
男は、後藤を抱えたまま、掃除用具などが置かれている部屋に入り、中から鍵を掛けた。
更に、扉が開かないように、速乾性の特殊な接着剤で固めてしまった。
ボディガードがすぐに扉に取りついて蹴破ろうとしたが、容易には開かなかった。
鉄の扉越しに、後藤の悲鳴が聞こえた。
すさまじいまでの、悲鳴だった。
ボディガードの一人は、恐怖に駆られて逃げ出してしまった。
残ったボディガードと周囲に居た男たちがドアを破ったのは、3分あまり後の事だった。
そこで見た光景は、身の毛のよだつようなものだった。
部屋中が、血の海だった。
壁も、床も、整理して置かれている掃除道具にも、大量の後藤の血が飛び散っていた。
男は、右手に凶器のナイフを持っていた。
刃渡り30センチを超える、刀のようなナイフだった。
そして左手には、髪をつかんで後藤をぶら下げていた。
後藤はもう、悲鳴を上げることも出来なくなっていた。
ぐったりと、ぶら下がっていた。
顔が無い。
ドアを蹴破るのに協力した警備員が、その時そう思ったという。
後藤の顔は、ナイフでめちゃめちゃに切り裂かれてしまっていた。
顔があるべきところには、血にまみれた塊のような物があるだけだった。
誰もが凍り付き、身動きが取れなかった。
男は、それを見て満足げに笑った。
そして、もう動かなくなった後藤の頭に、2度ナイフを突き立てた。
鮮血がほとばしった。
緊急治療室に、後藤の家族だけが通された。
「お願いです、私も」
後藤を一番可愛がっていた市井紗耶香が願い出たが、病院のスタッフはかぶりを振った。
「紗耶香」
中澤が抱きしめるようにして、市井を下がらせた。
わがままで、後藤の家族を足止めするわけにはいかない。
市井は中澤の腕の中で、体を震わせてうつむいた。
家族が緊急治療室に入った直後、病院の廊下に悲鳴が響いた。
後藤の母親の声だった。
「真希!」
堪えかねて、市井が走り出した。
他の元娘。たちも後に続いた。
制止を振り切って治療室に飛び込んだ。
元娘。の15人がそこで見たもの。
それは、突然目の前に現れた地獄だった。
後藤の母親が恐慌をきたして、後藤に取りすがろうとしていた。
ユウキが必死でそれを押さえていた。
その向こうに、後藤はいた。
ベッドの上で暴れている。
ベッドは血まみれだった。
後藤の顔は失われていた。
そこには、ただ血にまみれた何かがあった。
取って付けたように、見開かれた二つの眼球がらんらんと輝いている。
それは、怖ろしい狂気に満ちた輝きだった。
暴れるたびに血が飛び散り、皮膚の一部や肉片までがベッドの上に落ちた。
「安静剤を!」
「これ以上は危険です!」
「いいから射て! これ以上暴れたら、組織が崩れてしまう」
看護婦が抑えつけようとするが、後藤は信じられない力で振りほどき暴れ続けた。
医師も看護婦も、後藤の血を浴びて紅く染まっていた。
「真希...」
愕然としてその光景を見ていた市井が、突然卒倒した。
続いて紺野が、意識を失って倒れた。
我に返った中澤と飯田が、慌てて二人を室外に連れ出した。
「君たち、外に出なさい!」
医師が鋭い声で命じた。
それが引き金になり、元娘。たちは治療室から我先に逃げ出した。
ある者は廊下で座り込んで泣き出し、ある者は洗面所に駆け込んで胃の中のものを全部吐き出した。
治療室を出ようとして、吉澤が、ひとり立ち尽くしていることに気が突いた。
吉澤は、瞳を見開いて後藤を見ていた。
凍り付いたように、身動き一つしなかった。
「吉澤、外へ...」
抱きかかえて連れ出そうとすると、弱々しく抵抗した。
治療室を出る最後まで、後藤を見ていた。
吉澤を押し出してから、最後にもう一度だけ振り向いて後藤を見た。
(化け物だ...)
(後藤が化け物になってしまった)
そう思った。
そう思ってしまった。
短時間にたくさんの書きこみ、ありがとうございました。
おおむね肯定的に評価していただき、正直のところ胸を撫で下ろしています。
しかし、ご覧いただいた中には不快に感じた方もいらっしゃると思います。
改めて、お詫び申し上げます。
暴力が関わる物語で、暴力を描く必要があるのか。
残酷な物語で、残酷な描写をする必要があるのか。
アマチュアであっても、非常に悩む問題です。
ましてやこの小説は、実在の人物をモデルにした未来の物語ですし...。
それでも、今回は表現すべきと判断しました。
その是非は、お読みいただく方それぞれに判断していただくしかありません。
相変わらず時間の確保が難しい状態ですが、読む価値のある小説を書いていきたいと思っています。
これからもよろしくお願いいたします。
そして...
>>361
しまった。それをここで言われてしまっては...。
伏線の作り方として失敗していたと言う事ですね。反省。
日々、反省です。
では >>354 の続きです。
本節は、4分割になりました。
#18
「モーニング娘。は、夢を売る商売やで」
「娘。そのものが夢みたいなもんや」
つんくは娘。たちに、口癖のようにそう言っていた。
しかし、待っていたのは予想だにしない悪夢だった。
「一体、何をやっていたんやろうなあ」
姿を隠す前に、つんくはそう言っていたという。
「俺のしてきたことは、なんやったんやろ」
つんくたちは、所属アーチストやスタッフに出来る限りの事をして、事務所を閉鎖した。
そしてその後、多くの関係者がこの世界から去った。
つんくは、自分を責めたのだろうか。
もしも、娘。など無かったならば、と。
それは、間違いだ。
娘。があったからこそ、後藤の輝ける青春があった。
後藤は、絶対につんくを恨んだりしないだろう。
それはつんくにもわかっていたはずだ。
それでもきっと、つんくには堪えられなかったのだ。
あんな形の、夢の終焉は。
つんくは、消息不明になった。
誰一人、彼の行方を知る者はいない。
『事件』が残した傷跡は、容易には消えなかった。
元娘。の中にもソロ活動を断念し、引退する者がいた。
移籍して活動を再開した者も、心の傷を引きずったままだっただろう。
世間の好奇の目も、彼女たちを確実に傷つけたはずだ。
不遇時代だった自分は、仕事をキャンセルしてもらい家に引きこもった。
何とか立ち直ろうと、もがいていた。
しかし、考えるのは後藤の事ばかりだった。
可愛かった彼女と、おそろしい姿の彼女が、交互に意識の中に現れた。
そして、自分を責めている気がした。
時折、事務所のスタッフが尋ねてくれた。
「絶対にあなたには誰にも危害を加えさせません。安心して、出来れば早く復帰してくださいね...」
心遣いはうれしかったが、それはまるで見当外れだった。
決して自分が、後藤のような被害者になる事を怖れていたわけではなかった。
自分の事などどうでもよかったのだ。
ただ、後藤真希の存在が、自分の中で壊れて行くのが苦しくてたまらなかった。
後藤の可愛らしい顔の記憶が薄れ、あのおそろしい姿にすりかわって行くような気がした。
いつしか、ひたすら後藤の痕跡を自分の中から消そうとするようになっていた。
なんとか仕事に復帰したが、決して立ち直れたわけではない。
常に無理やりに、後藤の記憶を追い出そうと、忘れようとあがいていた。
それは、簡単な事ではなかった。
後藤は、あまりにも深く自分の中に入り込んでいた。
後藤真希という存在は、すでに自分の人生の一部だったのだ。
自分の中にある後藤の記憶に、怯える日々だった。
幸せなはずの記憶さえも自分を脅かすようになっていた。
後藤を怖れた。
後藤の存在は恐怖だった。
怖らく、他の元娘。たちも同じだったのだろうと思う。
それはあまりにも哀しく、あまりにも辛い事だった。
後藤の家族は、不幸のどん底に落とされた。
興味本位の世間やマスコミが、彼らを苦しめた。
看病疲れもあったのだろうか。
後藤の家族は、次々と亡くなった。
ついには後藤の家族は、ユウキひとりになってしまった。
彼は定職につかず、細々とアルバイトをして自分の生活費を稼いでいるという。
そして、姉を守り続けている。
治療費は、事務所閉鎖時に受けた心づけと、国からの援助で賄っていると聞いた。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
犯人は、凶行のその場で取り押さえられた。
その男は、変質者でもストーカーでもなかった。
男は金で雇われていた。
関係者を打ちのめしたのは、男を雇ったのが除名された6期メンバーのひとりだった事だった。
娘。解散の直前。
6期メンバーが除名されるきっかけになった写真を週刊誌にリークしたのは後藤ではないかという憶測記事が出た。
娘。のセンターを奪われることを怖れたためであると。
それは根も葉もない記事だった。
しかし、それを信じて逆恨みをしたのだ。
実際に写真をリークしたのは、他の6期メンバーのひとりだった。
彼女はまともになりたくて、苦しんでいたのだろう。
しかし、その行動が招いたのは最悪の結果だった。
裁判には長い時間がかかった。
暴行を持ちかけた除名メンバーは、未成年だった事もあり短期間少年院に入っただけだった。
彼女のその後は知らない。
実行犯の男は、最高裁まで争った。
男は、自分が異常者ではないと主張した。
精神鑑定でも、正常と判断された。
男は、あのような犯罪を犯せば、犯罪者としてカリスマ的な存在になれると思いこんでいた。
喜んで後藤を手に掛けたのだ。
その点では異常者としかいいようがない。
反省の色を認めず。
情状酌量の余地なし。
事件は残虐で極めて悪質。
初犯の殺人未遂としては異例に重い、無期懲役に確定した。
一生を塀の中で過ごす事になった男は、当てが外れて法廷で暴れた。
(こんなくだらない者たちのせいで...)
犯罪者たちがどうなろうと、さして興味は持てなかった。
ただ、後藤真希という存在が奪われてしまった事が悔しく、堪えがたかった。
後藤はもう、大好きな歌を歌う事も無い。
子供じみた悪戯をしてはしゃぐ事も無い。
誰かに恋して、身を焦がす事も無い。
後藤真希は、いなくなってしまった。
そう思っていた。
それは間違いだと、彼女が気づかせてくれるまでは。
地面すれすれの漆黒のロングコート。
立てた襟にサングラス。そしてボルサリーノ。
その姿を見て、それが吉澤ひとみとわかる人はあまりいないだろう。
渋滞に巻き込まれ、マンションに着いた時はもうずいぶん遅い時間だった。
住民が中からロックを外さなければ、マンションの中には入れないようになっている。
吉澤は玄関ホールの隅で待っていた。
「おかえり、ヤッスー。携帯は持ち歩けよ」
会うなり、白い息を吐きながら、吉澤は静かにそう言った。
携帯は、診療所の規則でスイッチを切ったまま、バッグの中だった。
「ずいぶん待っちゃったよ」
「ごめんね」
「コンちゃんが電話くれたよ。心配してた」
「そう...」
「ごっちんに会えた?」
「うん」
「元気だったでしょ?」
「うん」
「相変わらず、可愛かったでしょ?」
「うん...」
堰を切ったように、涙が溢れ出した。
こらえようとしても、止められなかった。
吉澤が、優しく抱きしめて頭を撫でてくれた。
周囲もはばからず、まるで子供のように声をあげて泣いた。
「大丈夫?」
しばらくして、吉澤が訊いた。
「...」
「じゃ、あたし行くね」
「あ、待って。あがって行って」
吉澤は首を横に振った。
「これから仕事なの。ごめんね。...大丈夫だよね?」
一緒に居て欲しかったが、仕方なく頷いた。
「じゃあね。おやすみ」
吉澤は、肩を優しく叩くと、歩き出した。
しかし、数歩歩くと立ち止まり、振り返ってまっすぐこちらを見た。
何かを迷っているようだった。
しかし彼女は、意を決して叫んだ。
「笑えよ、ヤッスー!」
「吉澤...?」
「泣いてたって、何にもなんないんだよ。何にも変わんないんだよ」
「...」
「だから、哀しい人が笑えるように、笑えよ」
「...」
「笑えよ、ヤッスー! 笑え!」
最後は泣き声だった。
サングラスとコートの襟の隙間から、大粒の涙が見えた。
ずっと気付かなかった。
吉澤ひとみの笑顔の理由。
哀しい人のために。
いつか哀しい人と、共に笑いあう日のために。
願いを掛けた笑顔。
それが、吉澤ひとみの笑顔。
吉澤はきびすを返すと、今度こそ本当に歩き出した。
もう振り返る事は無かった。
足早に去って行くその背中に向けて、拳をあげた。
選手宣誓のように。
ねぇ、後藤。
あんたが娘。に加入したばっかりの頃の事、覚えてる?
あんた、ホント気ままでさ。
先輩メンバーが、みんないらいらしてたんだよ。
それなのに、あんた、全然気にしてなくてさ。
私、はらはらしてたよ。
でもなんか、面白かった。
あんた、仔猫みたいに自由でさ。
仔犬みたいに、ひとなつこくてさ。
すぐにみんな、あんたのこと可愛がるようになったね。
あんた、ホントに不思議な娘だよ。
側にいるだけで、なんだか幸せな気分になれたよ。
ずいぶん長い時間、一緒にいたよね。
楽しかったよ。
ホントに、楽しかった。
私が娘。を卒業しても、あんたがじゃれついてきてくれて、すごくうれしかったよ。
哀しくて、辛いめにあわせちゃったね。
何にもしてあげられなくて、ごめんね。
あんたの事、怖いなんて思って、ごめんね。
後藤はひとりしかいないのにね。
どうして違うなんて思ってたんだろうね。
おかしいね。
おかしいよね。
8年も空白が出来ちゃったよ。
ごめんね。
許してくれるよね。
そうだよね。
私、もうじきハルギスタンって国に行くんだよ。
危険な国らしいけど、大丈夫。
ちゃんと無事に、元気に帰ってくるからね。
そうしたら、また会いに行くね。
あんたの弟は、きっと嫌な顔すると思うけど、それでも行くからね。
待っててね。
また、一緒の時間を過ごそう。
また、家族みたいになろう。
いいよね、後藤。
いいよね。
おかえり、後藤。
私の人生に。
ただいま、後藤。
あなたの人生に。
#19
>>>> 多賀からのメール
待機、あと5日に延長。
準備難航中。
連絡待て。
>>>> 社長からのメール
多賀君からハルギスタン行きを希望している事を聞きました。
私は、反対です。
今度お会いしてお話ししましょう。
また連絡します。
>>>> 紺野あさ美からのメール(2通目)
さっきのメールで書き忘れたので、追伸です。
人を訪ねるのなら、相手の事を良く思い出しておくこと。
特に訪ねる相手の子供の名前を忘れてるなんてサイテーです。
もういい大人なんだから、そういうところもちゃんとしてくださいね。
(紺野め。ナマイキな。最近言いたい放題じゃないの)
(大体、失礼よ。子供の名前くらい覚えてるわよ)
(なっちのところの子は、え〜と......)
(......)
(......)
(年賀状で調べとこう。ま、今回は感謝しとくか)
>>>> 紺野あさ美からのメール(3通目)
今日、3通目です。
検索屋さんから結果が来たので、取り急ぎ。
市井紗耶香さんについて、検索を依頼していました。
評判のいいところに頼んだのですが、結果は残念ながら Not Found でした。
それから、言い忘れていたのですが、今年になって福田さんから電話をもらいました。
さっきかけてみましたが、今は連絡がつかないようです。
念の為、電話番号です。
福田明日香さん(自宅) 5XXX-XXXX
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
はい、福田です。
現在、長期海外出張中です。
帰国は来年早々の予定です。
モントリオール支部に居ますが、外出が多いので連絡はメールでお願いします。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
(出張中かぁ)
もう何年、福田明日香に会っていないだろう。
そういえば、就職先も知らない。
(また、冷たいとか言われそうだなぁ)
受話器を置くと、その瞬間にコールが鳴った。
(あれ、ひょっとして明日香、帰ってきてるのかな)
慌てて受話器を取った。
「もしもし、保田さんのお宅でしょうか?」
「はい」
「あ、保田? ねぇ今夜にでも会えない?」
「...彩っぺ?」
石黒彩は、娘。初代のメンバーだ。
そして、娘の二人目の卒業生でもある。
彼女と共に娘。として過ごしたのは1年半あまりだが、共に苦労した忘れ得ぬメンバーだ。
特徴的な、ややつり上がった大きな目に、鼻ピアス。
一見、きつそうに見えるが、娘。の中で一番優しい性格をしていたのは彼女だろう。
「彩っぺは、おかあさんみたいだね」
いつか、後藤がそう言っていた。
「だって、何にも言わなくても後藤の事わかっちゃうんだもん」
いつも、優しく包み込むように近くにいる。
彩は、そんな暖かな存在だった。
娘。卒業の理由は、服飾デザイナーになる夢をあきらめきれない、ということだった。
しかし彼女は、卒業後しばらくして結婚し、家庭に入った。
そのために、結婚が本当の理由だったのだろうと取り沙汰されたりもした。
もちろん、真実は彼女しか知らない。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
「へぇい、保田ァ」
約束の時間を15分も過ぎて、彩は現れた。
彩が指定した、レトロ趣味なスカイバーだった。
「遅ォい。自分から呼び出して、遅刻?」
「すまん、すまん。あ、あたしも同じのを」
大袈裟に謝る仕草をしつつ、隣のカウンター席に納まった。
豊かな髪は、相変わらずきつめに染めている。
上品だが、派手な色のスーツを着込んでいる。
とても小学生の子供を持つ母親には見えない。
だが、彼女が子煩悩な良い母親だと、誰もが知っている。
「久しぶりだねぇ」
「ホントに久々。...ねぇ、保田、どうかした?」
「えっ」
「何か変だよ。何かあったの?」
自分の言葉に自信を持って、彩はそう訊いてきた。
そして心配そうに、顔を覗き込んでくる。
(久々に会っても、そうなんだなぁ)
取り繕ってみても、彩には通じない。
まるで見透かすように、相手の心を言い当てる。
娘。の頃から、ずっとそうだった。
(いっちゃおうか)
一瞬迷った。
覗き込んできた彩と、目が合った。
大きくてきれいな瞳が、今にも泣き出しそうに、潤んでいる。
(いっちゃおうかな)
夫と子供の事。
ハルギスタン行きの事。
そして、後藤に会ってきた事。
(...ダメだね)
話すべきではない。
彩には辛い話は、するべきではない。
「今日は、どうしたの? 急に電話くれて」
無理やり話題を変えた。
そうとわかるように。
「そっか、話したくないか...」
彩は、視線をそらすと寂しそうに言った。
「...大丈夫だよ」
「...」
「私は、大丈夫だよ」
「...そう」
「なんか、寂しいわ」
彩は、カクテルに唇をつけたまま呟いた。
「さぁ楽しく飲もう。久しぶりじゃないの」
「...ごめん」
「ん〜」
「楽しい話じゃないんだ」
「そか、...いいよ。話して」
彩の顔を見ずに、カクテルグラスを見つめていった。
彩がこちらを見ているのがわかる。
迷っているのがわかる。
やがて、迷いを断ち切るように、彩は大きめの声で話し出した。
「裕ちゃんの事なんだけど」
「裕ちゃん?」
意外だった。
中澤裕子の話とは、思いもしなかった。
「あんた、新垣ちゃんと『裕子の部屋』出たでしょ」
「...うん」
「その日、裕ちゃん遅刻してきたでしょ」
「うん。深酒して寝坊したって言ってた」
「あたしね、一緒だったの。前の晩、一緒に飲んでたの」
「...」
「裕ちゃん、荒れちゃってね、すごく」
「...どうして?」
彩は、少しためらった後、続けた。
「あんたに会わなきゃいけないから」
殴られたような衝撃だった。
愕然として、グラスを落としそうになった。
中澤は、再会を喜んでくれていたのではなかったか。
そして、思い出した。
鏡越しの、あの視線。
憎悪に満ちた、あの視線。
中澤はやはり、自分を見ていたのだ。
「誤解しないで」
彩は慌てて付け足した。
「裕ちゃんは、あんたの事、すごく大事に思っているんだ」
(じゃあ、何で...)
聞きたかったが、声が出なかった。
彩は、その様子を見て、なだめる様にゆっくりと話した。
「ごめん。変な言いかたして。裕ちゃんはね、自分にいきどおっちゃってるんだ」
「...」
「裕ちゃん、ずっと歌で成功したかったのよね。ずっとがんばってた。でも、駄目だった」
「...」
「だから、あんたが成功して、すごくうれしいんだけど、すごくうらやんじゃってる」
「...」
「...憎むくらいにね」
「...」
「自分の気持ちをどうにも出来ないみたい」
「...ごめん。こんな事、話しちゃいけない事だよね。ごめん」
彩は椅子ごと背を向けた。
肩がわずかに揺れている。
泣いているのがわかる。
その夜からずっと、悩み続けてきたのだろう。
彩の一番の泣き所は、多分優しすぎる事だろう。
彼女の心の容量は、きっととても小さいのだ。
優しすぎる彼女は、時に他人の悲しみでその心を一杯にしてしまう。
そしてその苦しみに、堪えられなくなってしまう。
中澤は、きっと酔いに任せて自分の気持ちを彩にぶちまけてしまったのだ。
それを彩は、ダイレクトに受け止めてしまったのだろう。
そして、堪えられなくなってしまったのだ。
そうならば、中澤もきっと自分の気持ちに苦しんでいるのに違いない。
「わかったよ」
明るい声を作ってそう言うと、彩は振り向いた。
「じゃあ、もっともっと裕ちゃんに憎まれるような、すっごい歌手になるわ」
笑って言った。
本当は泣きたかった。
「そう」
そんな気持ちをきっと見抜いているはずの彩はしかし、優しく微笑んでうなずいた。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
羽田空港から、新千歳空港へ。
そこから室蘭へは電車を乗り継がなければならないが、今回はレンタカーを借りてみた。
今年はまだ、雪が降っていない。
年々初雪が遅くなっていると聞いた。
地球温暖化は確実に進んでしまっているのという。
人々が狂い、世界が狂い、地球が狂っているといったのは、確か有名な環境活動家だ。
未来は閉塞感に満ちている。
いつからこんな時代になったのだろう。
それでも、ほとんど変わらずに暮らし続ける自分や周囲に、不思議さを感じる。
もっとも世界の行方はおろか、自分の歩く道にさえ迷いがちだ。
だからこそ、自分の道を見つめるために、娘。たちに会おうとしている。
そのために、ここまで来た。
彼女に会うために。
やがて、目的地に着いた。
交通量の多い国道沿い。
郊外型大型店舗の電気店と紳士服チェーン店の間。
もう昼時をずいぶん過ぎているのに、広い駐車場は半分近くが埋まっている。
レンタカーを駐車場に止めた。
家族連れが多い。
ずいぶん繁盛しているようだ。
(ホントにあるんだ...)
本人にも聞いた。
テレビや雑誌の取材も見た事がある。
しかし、実際に目の当たりにすると、何やらおかしさが込み上げる。
(笑ったら、怒られちゃうな)
巨大な看板には堂々とした毛筆で、『お食事処なっち』とあった。
#20
安倍なつみは、娘。の初代メンバーだ。
飯田圭織と共に、結成から解散までを経験した。
のんびり屋で、ちょっとうっかり者。
いつでも明るく、いつでも元気。
安倍は、娘。のムードメーカーだった。
結成当初から解散まで、なつみはずっとフロントメンバーだった。
当初は、福田明日香とのツートップ。
福田卒業後は、しばらくはひとりで。
後藤真希加入後は、二人が最強のフロントコンビになった。
娘。解散後、彼女はしばらく休養期間に入った。
数ヶ月かけて充電し、マルチタレントとして復帰する予定だった。
移籍先の事務所も決まり、第2のデビューの準備は着々と進行していた。
しかし、あの『事件』が起きた。
安倍は復帰を断念し、そのまま引退となった。
故郷である室蘭に帰り、以来ずっとその地を離れていない。
しばらく後、彼女は婚約した。
相手は、曽根崎幸仁という会社員だった。
北海道に仕事できた時に、紹介された。
年は彼女より二つ上と言う事だったが、なにやら頼りない印象を受けた。
色白でおとなしい曽根崎は、元気な安倍とはあまり似合わないように思えた。
この結婚は、ずいぶん反対されたらしい。
それというのも、曽根崎幸仁が勤めていた水産加工の会社が結婚直前になって倒産したからだ。
二人は話し合い、一緒に飲食店を始める事にした。
しかし、その費用のほとんどを安倍が出す事に、周囲は不安がった。
反対を押し切って彼女は結婚し、曽根崎なつみになった。
幸仁は猛勉強して調理師になり、ついに二人は小さな店を持った。
『お食事処なっち』
その店名は、客寄せには充分だった。
まだ娘。の記憶も新しい頃だ。
物珍しさとなつみ見たさに、多くの客が押し寄せた。
いつまで続くだろうか。
周囲は心配した。
だが二人は、努力を続けて店を盛り立てた。
次第に、料理を目的に来る本当の意味での常連客が付き始めた。
安くて旨い店として『なっち』は有名になっていった。
やがて、小さな店ではやってくる客を捌き切れなくなった。
そしていったん店を閉じ、改めて現在の場所に大きな店を開いた。
味が落ちるのではないか。
違う店になってしまうのではないか。
店のファンは心配したらしい。
しかし二人は努力を止めず、満足のいく味を提供し続けている。
今では、『お食事処なっち』は有名なグルメスポットだ。
『なっち』という名前も、元娘。の安倍なつみの愛称というよりも、店の名前としてもう一人歩きしている。
大手の商社から、チェーン店化の話もあったらしい。
素晴らしく良い条件だったそうだが、幸仁はきっぱりと断ったそうだ。
「それはもう、『なっち』ではありませんから」
なつみの選んだ相手は、頼りない外見とは全く違う硬骨漢だった。
今日はしっかりと変装してきた。
これなら、なつみの目の前に立ってもすぐにはわからないだろう。
今日はなつみは店に出ているだろうか。
もしも、彼女がオーダーを取りに来たら最高だ。
いきなり変装を解いて、驚かせてやろう。
そんな子供じみた悪戯に、いつになく夢中になる。
ひさしぶりになつみに会える。
その事が、心を浮き立たせている。
扉を開けると、店内の賑わいが聞こえてきた。
入ってすぐは、小さな待合所になっている。
混雑時には、客がここで待つのだろう。
駅の待合所のような、質素な作りだ。
そこに、大きな垂れ幕が下がっている。
『特盛セール実施中 通常\200 → \100』
なんとも庶民的で、良い感じだ。
幸い、空いてきている時間帯だ。
待合所の席には、誰もいない。
案内を待つ間、座っていようと思ったその時。
悪戯の計画は、あっさりと破られた。
「圭ちゃ〜〜〜〜〜〜〜ん」
広い店内の一番奥、厨房への通路らしきところ。
そんな遠くから、こちらを見つけたなつみが大声をあげた。
(な、なんで?)
なつみは、トレーを抱くようにしながら、こちらに走ってくる。
「ど〜〜〜したの〜〜〜〜〜〜」
満面の笑顔と、大きな声に、客たちが何事かと驚いている。
(は、恥ずかしいって...)
元気良く、駆けて来る。
だんだん、近づいてくる。
(止まれ止まれ、そろそろぶつかるって...)
(あれ、ぶつかんない...)
遠近感が狂った感じ。
やがて、目の前に立ち止まったなつみは、最後に会った時よりもずっとふくよかになっていた。
「わぁお、なっちの特盛だぁ」
「...久しぶりに会っていきなり、失礼だべさ、この人は」
なつみは、膨らんだ頬を更に膨らませて見せた。
周囲の客が、どっと笑った。
「どうしたの、突然、電話も無しにさぁ」
「今朝、家の方に電話したんだけどさ、誰も出なかったよ」
「留守電になってなかったべか」
「なってなかった」
「ごめ〜ん。仕込みがあるから朝早くこっちに来ちゃうんだ」
「で、どうして室蘭へ?」
「うん。なっちに会いに」
「うれしいべさぁ」
つい、通路に突っ立ったまま話しこむ。
「あ、圭ちゃん、お昼、食べた?」
「まだ。ご馳走してもらうのアテにしてきた」
「ご馳走、するべさ、するべさ」
なつみは、奥まった席を選んで案内してくれた。
その席は中2階のように一段高くなっていて、窓から街の様子が良く見えた。
「ここ、一番いい席だよ。空いてて良かった」
「うん、良い眺めだね」
「で、ご注文は?」
「う〜ん」
卓上のメニューを手にとって、考えるふりをする。
どれでも構わない。
どれでも美味しいに、決まってる。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
食事の後、裏にある事務所の応接室に通された。
質素で飾り気の無い事務所は、きれいに整頓されていた。
娘。時代のちょっとズボラな彼女からは考えられない。
なつみも良き妻に、そして良き母になったのだ。
しばらくひとりで待つと、夫の幸仁が挨拶に来た。
「お構いも出来ませんが」
「いいえ。美味しく頂きました。本当に美味しかったです」
幸仁は、嬉しそうに笑った。
もうすっかり、骨の髄まで料理人なのだろう。
「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ。すぐなつみ、来ますんで」
頭を下げると、慌ただしく去った。
やがて、なつみがトレーの上に、二つのコーヒーカップを載せて現れた。
「うちの店は、コーヒーも自慢なんだよ」
香りを楽しみ、一口すする。
「おいしい」
「だべ?」
「あ、ねぇさっきなんで変装してるのにすぐにわかったの?」
そう訊くとなつみは呆れたように笑った。
「圭ちゃん、おマヌケ」
「なによう」
「娘。の頃、そんな格好で、何度も一緒に出かけてるべさ」
忘れていた。
おめでたい。
ふと見ると、部屋の入り口から小さな女の子が覗き込んでいる。
手招きすると、元気良く駆け込んできた。
そして見知らぬ訪問者を、珍しそうに見上げた。
「きゃー。なっちのミニチュアだ」
「あははは。良く似てるって言われる」
「なつきちゃん、だよね」
「あ、なつきの名前、覚えててくれたんだ」
「と、当然でしょ」
「なつき。こんにちは、は?」
「こちはぁ」
元気に叫ぶ。
あまりの可愛らしさに、思わず抱き上げた。
「なつきちゃんは、いくつ?」
「なつきじゃ、ないよぉ」
「ん〜。じゃあ、あなたはだあれ?」
「ちびなっちだよぉ」
ちびなっちは、誇らしげに胸を張った。
抱っこされた状態が気に入ったのか、ちびなっちは膝の上に落ち着いた。
「ごめんね。重くない?」
「体重はママと似てないもんねぇ」
「んまぁ。憎たらしい」
「きゃははははははは」
わかっているのか、いないのか。
ちびなっちは、楽しそうに笑った。
「今日は、子供はどうしたの」
「うん。ダンナとダンナの実家」
「連れてくれば良かったのに。会いたかったよ」
「うん、でも今回は強行軍だから」
つい、微妙な嘘をついてしまった。
「強行軍?」
「北海道、岡山、滋賀を回るの」
「?」
「ちょっと、長めの休暇もらってさ。急にみんなに会いたくなっちゃって」
「みんな? 娘。の?」
「そう」
「いーなー。もうみんなに会ったの?」
なつみは、本当に羨ましそうに、身悶えした。
「なっちで何人目かなァ」
「誰、誰に会ったの?」
「最初はね、新垣」
「新垣ちゃん。懐かし〜。元気だった?」
「うん。それから、裕ちゃん」
「裕ちゃん! 懐かし〜」
「新垣と二人で『裕子の部屋』の収録でね」
「わぁ『裕子の部屋』出たんだ。見るべさ。絶対見るべさ」
「うん、見て見て」
「裕ちゃん、相変わらずだった?」
「相変わらず。前の日に深酒して遅刻してきたんだよ」
「あはははは。そんなとこまで相変わらずなんだ」
「それからね、吉澤」
「うわぉ、よっし〜〜〜。会いたぁい」
「それから、後藤」
「......そう」
「それから、昨日の夜、彩っぺにも会ったよ」
「そう」
急になつみは元気を無くした。
「ねえ、なつき。ちょっとお外で遊んでおいで」
なつきは、突然の母の異変に驚いたようだった。
部屋を出されまいと、小さな手で服の端を握り締めた。
「なつき」
「なつきちゃん。ごめんね。お願い」
「ちびなっちだよぉ」
なつきは小さな声でそう言うと、膝から降りてとぼとぼと部屋を出ていった。
やはり後藤の話はするべきではなかったのだろうか。
なつみもまた、あの夜、あの場所に居たのだ。
自分とて、ようやく数日前になって後藤の事に向き合えるようになったばかりではないか。
それを突然、なつみに強要するのは酷というものだ。
しかし、なつみの想いは全く別のところにあった。
「後藤、どうだった?」
「うん...」
なぜか、返答に詰まってしまった。
なつみの春色の瞳が、いつの間に鈍色に変わっていた。
そして、窓の外を見ながら、抑揚の無い声で言った。
「私ね、ざまあみろって思った」
「なっち...?」
「あの時、ざまあみろって思ったんだ」
#21
「どうしてだろうね」
なつみは、窓の外を見たまま続けた。
まるで魂を抜き取られてしまったように、無表情に。
まるで誰かに操られているかのように、淡々と。
「みんな、後藤のために泣いていたのにね」
「...」
「あの時、気づいたんだ。ずっと憎んでたんだなって」
なつみは、ほんの少し顔をゆがめた。
「後藤の事、好きだと思い込もうとしていたんだなって」
なつみの顔が、醜く歪んだ。
「最低だね」
「なっち...」
「あの時だよ。あんな可哀想な姿を見て、ざまあみろって思ったんだよ」
「...」
「最低だね」
「私ね、なっち」
「...」
「あの時、後藤が化け物になってしまったって思った。そんなふうに思った」
「...」
「でも、そうじゃないよね」
「わかってる」
「...」
「後藤はかわいい女の子だよ」
「...」
「わかってる」
「私が言いたいのはそういう事じゃなくて」
「わかってる」
「...」
「あんな状況だったからって、言いたいんでしょ?」
「...」
「あんな状況だから、本音がでたんだよ」
「...」
「圭ちゃんは後藤の事、化け物みたいに思っちゃたんだね」
「...」
「私は、ざまあみろって思った」
「...」
「本音が出たんだよ」
「ねぇ、なっち」
「...」
「今でも、そう思ってるの?」
驚いたように、なつみは顔を上げた。
そして、ほんの少し笑った。
あざ笑うような、醜い笑いだった。
「どうなんだろ」
「今はそう思っていないよね」
「...」
「そうでしょ、なっち」
「...」
なつみはまた、窓の外に視線を移した。
その目は、救いを求めるような哀れな色になった。
視線の先には、裏庭でしゃがみ込んで植木鉢を覗く、ちびなっちがいた。
水平飛行に入り、ベルト着用のランプが消えた。
その途端、若いパーサーがやってきて言った。
「あの、保田圭さんですよね。サインいただいて良いですか」
「はい」
差し出された大きめの手帳の1ページに丁寧にサインする。
パーサーが食い入るように覗き込んでいる。
「本当は規則で禁止されてるんですけど。すいません」
「いいえ」
笑顔で、手帳を返す。
「ずっと応援してます。ありがとうございました」
「ありがとうございます」
彼女は大事そうに手帳を抱えると、踊るような足取りで去った。
彼女の先輩らしいパーサーが苦笑いで見送っている。
目があった。
詫びるような会釈に、笑顔で会釈を返す。
彼女に与える事の出来た小さな幸せに、きっと自分は満足すべきなのだろう。
数十秒の出会いの中で、彼女の笑顔しか知らない。
けれど若い彼女の心にもきっと、これまで生きてきた間に受けたいくつもの傷があるはずだ。
しかし、彼女は笑顔だった。
哀しみをあからさまに顔に出して生きている人間などいない。
それは、自分も同じ事だ。
きっと誰もが笑顔の下に、悲しみや苦しみを隠している。
そして、闇の部分も。
中澤裕子の心の闇。
曽根崎なつみの心の闇。
嫉妬や羨望。
醜い心に囚われて苦しむのは、その人が心正しく生きようとしている証拠だと思う。
なぜなら、その人が向き合っているのはきっと自分自身なのだから。
中澤裕子が憎んでいるのは、きっと保田圭ではない。
嫉妬に胸を焦がす、自分自身の心だ。
曽根崎なつみも同じ事だ。
あの夜、あの一瞬、後藤真希の不幸を喜んでしまったのは本当かもしれない。
けれど今、彼女を苦しめているのは、その一瞬の自分自身だ。
もうどこにもいない、幻の自分自身だ。
中澤の事は、時間が解決してくれるかもしれない。
二人が近い距離にいれば、中澤の心は変わっていくのかもしれない。
だが、なつみと後藤の場合はどうだろう。
二人が再び出会う事で、なつみの心は変わるだろうか。
囚われた闇から、抜け出す事が出来るだろうか。
室蘭と赤牟は、遠すぎる。
なつみと後藤の距離は、遠すぎる。
けれど、いつか二人の距離がゼロになる日が来ると信じたい。
そこには、闇を追い払う光があると信じたい。
ねぇ、後藤。
あんたの事、とても憎んでしまった人がいるんだ。
その人は、ほんの一瞬、あんたの不幸まで喜んでしまった。
その人は、ずっとずっとその事で苦しんできた。
どうする。
後藤なら、どうする。
許してあげてくれるよね。
救ってあげてくれるよね。
だってその人は、あんたの事とても愛しているんだから。
そうでなければきっと、あんなにも苦しみはしないから。
抜け出せない心の闇の中で、ずっとさまよい続けている。
そんな人を、見捨てたりはしないよね。
後藤なら、きっとそうだよね。
私、何にも出来なかった。
救ってあげる事が出来なかった。
私、その人の事、大好きなのに。
その人が苦しんでるのに、どうする事も出来なかった。
哀しいよ。
苦しいよ。
どうすればいいのか、わかんないんだ。
おかしいね。
いい大人なのに。
何にも出来ないなんて、情けないよね。
私じゃ、駄目なんだ。
きっと、駄目なんだと思う。
ねぇ、後藤。
お願いがある。
いつか、もっと時が流れたら。
その人があんたと会う日が来るのかもしれない。
もしも、その時が来たなら。
微笑んであげて欲しい。
それだけでいいから。
それだけで、きっとその人は救われるから。
お願いだよ、後藤。
お願いだよ。
#Special Episode "Holy Day"
オレンジとパープルのチェック柄。
生地は厚手のフェイクファー新素材。
普通なら着られないような妙なスーツ。
それを後藤真希は、さりげなく着こなしている。
冬のオープンカフェ。
しんしんと冷えて、吐く息が白い。
テーブルの向かいに彼女は座っている。
しっかりとした、流行りのメイク。
シンプルな、ネイルアート。
何気なく、どこかを見ている。
大人びた横顔。
今までに見た事の無い、大人びた横顔。
ポケットからシガレットケースを取り出した。
ケースの底を叩くと、器用に1本のシガレットを飛び出させる。
それを咥えようと、口を開けて顔を近づける。
咎めるような視線に気づいたのだろう。
動きが止まる。
シガレットの直前で口を開いたまま、こちらを見た。
そして笑った。
愛想笑いが半分。
苦笑いが半分。
悪戯を見咎められた子供のような、そんな表情。
子供のような、表情。
『なによう、圭ちゃん』
『いいでしょ別に。あたしもう26歳なんだよ。もう歌手じゃないんだしさ』
『圭ちゃんとこまで、煙、飛ばさないってば』
そして、不意に諦める。
『いいですよ〜だ』
指でシガレットをケースに押し戻してふたを閉じた。
『はいはい、タバコは良くないですよ』
開き直るように言う。
そして、テーブルの上のシナモンティーに手を伸ばす。
良く考えもせず、オーダーを真似した。
案の定、口に合わないらしい。
一口すすって、無遠慮に顔をしかめる。
自分の好きな物をオーダーしなおせばいいのに。
『いいよ、これで』
些細な事で意固地になる。
娘。時代から、そうだった。
再び、まずそうにすする。
そして溜息をついた。
『ねぇ、圭ちゃん』
後藤は、視線を合わさない。
テーブルの端を見つめている。
言いにくい事を切り出そうとする時の、後藤の癖。
娘。時代から、そうだった。
『なっつあんの事で、悩んでるんでしょ』
『なっつあんがさ、あたしの事、憎んでたってさ』
後藤は突然こちらを見た。
視線が合う。
澄んだ瞳が、真っ直ぐに見つめてくる。
『それって、当然じゃん』
『だって、娘。を最初からずっと引っ張ってきたのは、なっつあんなんだし』
『急にあたしがポンと出てさ、うまいコトいっちゃったからさ』
『そりゃ憎むって。当然だよ』
『でも圭ちゃん、心配要らないよ』
『あたし、なっつあんの事、大好きだし』
『なっつあんも、あたしの事、大好きだし』
『あたしとなっつあんは、愛憎入り混じる複雑な仲なの』
そう言って後藤は、笑った。
『もう解散から8年かぁ』
後藤は空を見上げていった。
ここに空など無いのに。
見上げる物など、何も無いのに。
『おかしいね。時間がたつとさ、忘れちゃうんだね』
そして笑った。
おかしそうに。
『だって、あたしたちが『愛憎入り混じる仲』って言ったの、なっつあんなんだよ』
『娘。の頃から、ずっとずっとそうだったんだよ』
『あたしがあんな事になって、なっつあん、混乱しちゃったんだね、きっと』
『可哀想。でも、大丈夫』
『なっつあんは、きっと大丈夫』
『可愛い子供と、素敵な旦那様がいるんでしょ?』
『だったらさぁ、圭ちゃんの方が危機的なんじゃない?』
『人の心配してる場合じゃないじゃん』
『こら、聞いてるか、保田圭』
『無口だね、圭ちゃん』
『やっとマトモなあたしに会えたから、口を開くのが怖いんでしょ』
『なんか、やだなぁ』
『仕方ないけどさ』
『他の娘。たちだって大丈夫だよ』
『圭ちゃんが心配することないって』
『かえって、大きなお世話かもしんないよ』
『もう、すっかりヘコんじゃってさぁ』
後藤は椅子から立ちあがった。
そしてテーブルを回りこんで歩き、すぐ隣に立った。
『よしよし、後藤が抱きしめてあげよう』
抱え込むように頭を抱きしめた。
彼女の胸に、右の頬が当たる。
けれど。
何の感触も伝わっては来ない。
何のぬくもりも伝わっては来ない。
これが夢だとわかっている。
今、自分はハルギスタンにいる。
軟禁されたホテルの、硬いベッドの上で眠っている。
目覚めれば、2011年12月24日。
この日は生涯忘れ得ぬ日になるのだろう。
『大変だね、圭ちゃん』
後藤は手を離して1歩下がると、微笑んでいった。
それは、哀しそうな微笑みだった。
『でも圭ちゃんならきっと大丈夫だよ』
『そんな顔しないで』
『しっかりね』
そして後藤は、はじけるような笑顔を見せた。
『圭ちゃんは、この先もずっと生きていかなきゃいけないんだから』
「ちょっと、それ、どういう事?」
思わず、口を開いたその時。
後藤の姿も、テーブルも椅子も、何もかもが掻き消えた。
闇の中に、ただひとり残された。
神様。
今日はクリスマスイヴです。
お願いです。
プレゼントをください。
どうか目が覚めても、忘れさせないで。
どうかこの夢を、永遠に心の中に。
#Special Episode "Mission"
「紺野、ホントにここでマチガイないのか?」
「住所も表札も、間違いありませんよ」
「でっけー家だなぁ」
アタシ、吉澤ひとみと紺野あさ美は、保田圭のダンナの実家の前にいた。
それは、とんでもないゴーテーだった。
門だけでも、アタシの住んでる部屋よりきっと広い。
でっけーお寺みたいな、すんごい家。
「なんでなんで? ヤッスーのダンナって、すごいおぼっちゃま?」
「ここの家は、相当な資産家らしいですけどね」
「たしかダンナってサラリーマンだよな?」
「自宅勤務で設計の仕事をしてるそうですよ」
「はたらかんでもいいくらいの家じゃん」
「でも、大学を出てすぐに独立したそうですよ」
「へぇ。今日はいるのかな?」
「確か毎週月曜日は出社するって保田さん言ってたから、多分留守でしょう」
ふうん。くわしいね。
なかよしなのね、ヤッスーと。
ふん。
「まぁ、いねーってのはツゴウがいいかもな」
「いいんですか? 保田さんの旅行中に勝手な事して」
「こら、紺野」
「なんです?」
「オメーのクッキーのトモダチによれば...」
「クラッカーですよ」
「にたようなもんだろ」
「全然違います」
「...」
「クラッカーです」
か、かわいくねぇ。
「おうっ。そいつによれば、来週には週刊誌にヤッスーの記事が出ちまうんだろ」
「ええ、多分」
「だったら、ケータイスイッチオフまんまのヤッスーをまってらんないだろ」
「まぁ、そうですけどね」
「なにがなんでも、もどってもらうんだ」
「でも」
「子供がもどったら、もどらんわけいかんだろ」
「まさか、誘拐する気ですか」
「だ〜から。実家にハナシつけんのさ」
「かえって、こじれないかなぁ」
ニエきらんヤツ。
ノロマはなおったんじゃなかったんか、コラ。
もうじきヤッスーのリコンキキの記事が出ちまうかもしれんのに。
そもそも、そのこと電話で教えたのはオメーだろ。
「ところで吉澤さん」
「なんだ」
「質問があるんですけど」
「おう、なんだ」
「質問1。いつも『コンちゃん』なのに、なんで今日は『紺野』なんですか?」
「久々にオトコマエ・モードだからだ」
「質問2。自分で自分に『男前』って、恥ずかしくないですか?」
「ゼンゼン」
「...」
「おわりか?」
「質問3。どうして私を連れてきたんですか?」
「オマエは、頭もまわれば口もまわるからな」
「はあああっ」
なんだよ紺野。
そのコレミヨガシなタメイキは。
「要するに吉澤さん、何にも考えてないんですね」
ぐっ。
コノヤロー、はっきりと。
ああ、そーさ。
アンタがたよりさ。
どうすりゃいーのかなんて、わかんねーよ。
へんっ。
「で、これが重要なんですけど」
「なんだよ」
「質問4。保田さんと何があったんです?」
「...なんにもねーよ」
「...」
「なんにもねーっての」
なんだよ、その顔は。その目は。
そんなジットリした目で見んなってーの。
トロイのなおっても、そんなとこは変わってねーのかよ。
変なプレッシャーかけてくんな。
こないだ、いいてーこと、いっちまったからな。
ちっとばかしキマズイのさ。
だから、ヤッスーのためになにかしたいんだ。
いいだろ、そんなの別に。
オメーは、ヤッスーのホゴシャか。
「とにかくよぉ、時間がねぇんだ」
「...」
「ヤッスーが『なっち』でウマイもん食ってる間に、なんとかしなけりゃ」
「...」
「週刊誌のこともあるけど、リコンしかけてんだぜ」
「...」
「なんとかしたいだろ、紺野だって」
「...」
「ま、いいか。真ちゃんにも会いたいし」
え、あったことあんの?
と、トツゼン。
紺野のヤツ、いきなりインターホンを押した。
ピンポ〜ン。
び、びっくりした。
ええ、おい。
いいのか?
『はい』
若い声がこたえた。
ダレだろ。
お手伝いさん?
「こんにちは。私たち保田圭さんの友人で、吉澤と紺野といいます」
『はい?』
「折り入ってお話があります。ご家族の方にお取次ぎください」
『はぁ。しばらくお待ちください』
「な、なんか作戦、思いついたの?」
「なんにも」
「ないの?」
「ありませんよ」
なんだよ、そのおちつきようは。
なんだよ、そのクソドキョーは。
コワっ。
紺野、コワっ。
いがいと、あっさり中に入れてもらえた。
さっき出たのは、やっぱりお手伝いさんだった。
というより、メイドさん。
たぶん、つけてるエプロンはみんなでオソロなんだろうな。
あるんだねぇ、メイドさんのいる家。
マンガの中だけじゃなくて。
アタシと紺野は、メイドさんの後にくっついて歩いた。
すごいゴーテー。中もすごい。
タテモノもお寺みたい。
庭なんて広い広い。
どっかの公園みたいで、すごくきれい。
こりぁ、見物に金取れるよ。
ま、そんな必要もないほど、金持ちなんだろ〜けど。
庭のまんなかにもうひとりのメイドさんがいた。
やっぱり、おんなじエプロンをつけてる。
ひとりの男の子と遊んでいる。
年は、ひとつ半くらい?
と、いうことは...。
「真ちゃ〜ん」
紺野のヤツ、そう言ってとつぜんかけ出した。
それを見て、メイドさんがあわててる。
そりゃそうだよ。
フシンジンブツだ、どー見ても。
ところが、なんと。
男の子、紺野にむかってうれしそうに手をたたいてるじゃんか。
あはは。
まちがいない。
真ちゃん、だね。
ヤッスーによく似てる。
むくれるとかわいくないタイプだな、キミ。
紺野、真ちゃんの目の前で立ち止まった。
それから、芝生に正座して、真ちゃんに笑いかけた。
真ちゃん、ぺたりと紺野にくっついた。
なついてるなぁ。
うらやましいなぁ。
「こんちゃ...」
「そう、コンちゃんだよ。覚えててくれた〜?」
うれしそうに紺野、真ちゃんを抱きしめた。
いいなぁ。
アタシも、アタシも。
「真ちゃん、はじめまして〜」
明るく、ごあいさつ。
ところが、まぁ。
急にキビシー顔になった真ちゃん。
顔をそむけて、紺野にギュッとしがみついた。
「あらら、あははは」
笑うなよ、紺野。
あ、メイドさんも笑ってる。
ひどい。
こら、真ちゃん、こっち向け。
おおい、なんか、泣きたくなってきたぞ。
あ、そうだ。
アタシにはあれが、あるじゃない。
「ねぇ、真ちゃん、見て見て」
ちょっと下がって、お庭のまんなか。
さぁ、はじめるよ〜。
「そそれそれそれ、ヨシザワだ〜んす」
あ、ハンノウした。
こっち見た。
「そそれそれそれ、ワンツーワンツー」
真ちゃん、紺野からはなれて、こっちを見てる。
めずらしそうに。
おもしろそうに。
「みんなそろって、ヨシザワだ〜んす」
あ、おどりだした。
いいぞ、いいぞ。
「テとテ、アシアシ、ワンツーワンツー」
ノリノリじゃん、真ちゃん。
やるねぇ。
もうね、歌っておどっちゃうもんね。
テレビサイズじゃなくて、フルコーラスだ。
って、この歌どっちでもあんまり変わんないんだけどさ。
真ちゃん、ガンガンおどる。
さすがに正確なフリはむり。
でも、元気でいいぞ。
オッケー、オッケー、気持ちが大事。
「はいっ、ポーズ」
最後のポーズも決まった。
やったね、真ちゃん。
ダンスで母をこえる日は近いね。
もう、こえてるか?
「真ちゃん、上手〜」
紺野、手を叩いた。
メイドさんたちも、拍手。
真ちゃん、たたたっとアタシのとこにきて、ぺたりとくっついた。
わお。
やったね。
抱きしめちゃうもんね。
「やったぁ。真ちゃん」
真ちゃん、ゴキゲンで笑ってる。
かわい〜。
「ねっ、真ちゃん。紺野よりヨシザワのほうがいいでしょ」
「は、張り合ってたんですか?」
あきれきったって感じで紺野が言った。
メイドさん、また笑ってる。
ちぇっ。
紺野、アンタなんかキライ。
赤面しちゃってる、アタシもキライ。
なんて、やってたら...。
「くしゅん」
真ちゃん、くしゃみした。
「まぁ、たいへん。汗かいちゃったのね」
後ろから声がした。
ふりかえって見ると、ひとりのキモノ姿のおばあちゃんが立っていた。
「あ、お邪魔しております。一度お会いしています。紺野です」
紺野、あわててあいさつした。
「はい、こんにちは。覚えてますよ」
「よ、吉澤です」
「はじめまして」
アタシより、ちょっと背が低いくらい。
かなりのお年に見えるのに、腰なんてゼンゼン曲がってない。
にこやかに笑ってるけど、なんか迫力あるなぁ。
この人がヤッスーのおシュートメさん?
正直、こえーや。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
真ちゃんは、おひるねのお時間。
汗をふいて、きがえて、あったかい部屋のゆりかごの中。
アタシたちは戦いのお時間。
なんとしても、真ちゃんをヤッスーのところにもどしてもらわなきゃ。
応接間に通されて、なにやら高そうなお茶をいただきながら。
紺野は期待通りのネツベンをふるった。
いきなり、どなられるんじゃないか、とか。
おいだされるじゃないか、とか。
アタシ、びくびくしてた。
でも、おシュートメさんは、じっと紺野の話を聞いてくれた。
きっと子供にしか見えてない小娘の話を、シンケンに聞いてくれた。
さすがだねぇ、ばーちゃん。
一味ちがうよ。
でも、紺野の話を聞き終わった時。
ばーちゃんの出した答えはこうだった。
「これは家族の事ですから、家族で解決します」
「そんなぁ」
思わず、大声でさけんじまった。
そりゃないよ。
紺野、がんばったじゃん。
わかってくれよ。
「それはごもっともですが...」
紺野も、くいさがろうとした。
「週刊誌の事は心配要りません」
「えっ」
「もう手は打ってありますから」
「えええっ」
「連中、ジャーナリストでもなんでもないもの。欲しい物をあげればね」
「お金、ですか」
「ええ。単純で簡単な方法だわ。たいがい確実だしね」
金持ちの考え方だよなぁ。
ちょっと、ヘコむな、なんか。
「でも、このままじゃ保田さんは...」
紺野は、まだがんばろうとした。
でも、ばーちゃん、笑ってそれを止めた。
「圭さんは、本当に良いお友達がいるのね。うれしいわ」
「は、はぁ」
「おそれ入ります」
「あの子たちね。結婚して以来、ろくに喧嘩もしたことないのよ」
「はぁ」
「付き合っていた頃にも喧嘩らしい喧嘩をした事、無かったみたいなの」
「そうなんですか」
「今回の事は、良い経験になると思うの」
「えっ」
「夫婦なんてね、所詮は他人同士なんだから。問題を乗り越えていく方法を学ばなきゃね」
かっけー、ばーちゃん。
いいこというねぇ。
なんか、重みがちがうよ。
「女手ひとつで育てたせいか、優しくなってくれたけど、逆境に弱くてね」
そう言ってばーちゃんは、ちょっとこまったような顔をした。
ふうん。ヤッスーのダンナはそういう人ですか。
「圭さんは、しっかり者だと思ってたけど、意外とおっちょこちょいよね」
あはは。
ばーちゃん、わかってるぅ。
「それに、頑固だわ」
うん。
そのとーり。
「家族か歌か、どっちかしか選べないと思っているのね」
「そうかも知れません」
紺野、シンミョーな顔でうなずいた。
「ひとりで悩んでるんでしょうね、今頃きっと。可哀想に」
「はぁ」
「でも心配していただかなくて大丈夫ですよ。なんとかしますから」
「...はい」
「真は、たったひとりの大事な孫ですしね」
「はい」
「それに圭さんは、私の大事な娘なんですからね」
ばーちゃんはサラリとそういって、にこりと笑った。
あはは。
もうね。
なんなのよ、このうれしさは。
こら、紺野。なに泣いてんだよ。
つられて涙、出ちゃうじゃんかよ。
なんだよ、ヤッスー。
心配いらないじゃんかよ。
しあわせじゃんかよ。
ばかー。
早く帰ってこい。
ばーちゃんとこに、真ちゃん、むかえにこいよ。
「あ、でもね」
急に、ばーちゃん暗い顔をした。
「週刊誌から買い取った写真に気になるのがあって」
「どんな写真ですか」
「それが...」
「見せていただけますか?」
ばーちゃん、迷いに迷ってる感じ。
でも、しばらくしてから席を立って、袋をもってもどってきた。
「いけない事かもしれないけど、御存知でしたら教えて」
「はい」
「圭さんの男友達だと思うのだけれど、この方がどういう方か」
「へっ!? は、はぁ」
男友達?
まさか、浮気の現場写真?
ゆるされん。
ヤッスー、そりゃいかんぞぉ。
でも、その写真を見たとたん。
「ぶひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
なんだよ、紺野。
その笑いかたはよ。
まあ、しゃーねえか。
だって、それに写っていたのは...。
マンションの入り口。
泣きくずれるヤッスーをやさしくだきとめるロングコートのオトコマエ。
アタシ、吉澤ひとみだったってわけさ。
ちぇっ。
ちゃんちゃん。
#Special Episode "The Drowned Globefish"
吉澤ひとみは庭に出て、夢中になって1歳半の幼児と遊んでいる。
私たちの共通の先輩であり友人である、保田圭の一人息子、真だ。
子供相手の仕事もしているのに、友人の子供は珍しいのだろうか。
不思議なくらいはしゃいで、一緒に遊んでいる。
私、紺野あさ美は、応接間で、保田圭の義母の話に聞き入っていた。
彼女は、実に聡明な女性のようだ。
もう老人と言って良い年齢に見えるのに、話にいささかの淀みも無い。
理路整然とした話を続けている。
彼女に会うのはこれが2回目だ。
初対面は、保田圭のマンションだった。
保田に届け物をするために訪れた時、彼女は孫の顔を見にふらりと立ち寄っていた。
なんだか、気まずい雰囲気だった。
あまりうまくいっているようには見えなかった。
けれど、つい先刻、彼女は吉澤と私に言った。
保田圭は自分の娘だと。
その言葉は私たちを感動させたが、本心なのだろうか?
目の前の彼女からは、何も窺い知る事が出来ない。
彼女は淡々と語る。
決して裕福とは言えない家に生まれ育ったこと。
まだ少女といって良い頃に、無理やり結婚させたれたこと。
長い時間をかけて、夫と心を通じ合わせたこと。
なかなか子供が出来ず、夫と諍いがあったこと。
ずいぶん高齢になってから、ようやく子供を授かったこと。
まだ子供が幼いうちに、夫を病気で失ったこと。
夫亡き後、夫の起こした会社を女手ひとつで支えてきたこと。
「こんな話、退屈かしら?」
私は、微笑を作って首を横に振った。
お世辞ではなく、彼女の生い立ち話に興味をそそられた。
けれど、なぜそんな話を、私のような会って間も無い人間にするのだろうか?
ただ話し相手が欲しいだけなのだろうか?
そんな暇な人とは、とても思えない。
現実に彼女は今でも会社の会長であり、現役の経営陣の一人だという。
多忙な日々を過ごしているはずなのだ。
私の表情から、私の疑問を読み取ったのだろうか。
彼女は少し笑うと溜息をつき、そして言った。
「こういう話、本当は圭さんに聞いて欲しいのだけれどね」
「...そうですか」
なるほど、そういうことか。
私は、保田圭より7歳年下だが、彼女から見ればそれは微々たる差なのだろう。
私はどうやら、彼女の息子の嫁である保田の代わりに話を聞かされているらしい。
別に構わない。不愉快でも、退屈でもない。
むしろ楽しい。
けれど、代役で彼女の心は満たされるのだろうか?
保田圭は、現在国内でも特に評価の高いアーチストだ。
バラードの第一人者とされている。
当然ながら、常に多忙であり続けている。
しかし最近、家族と過ごすために仕事のペースを落とし始めたといっていた。
それでも、保田の夫は不満だったらしい。
妻一人を家に残し、ここ、自分の実家へと子供と共に来てしまった。
それくらいだから、保田が義母とゆっくり話す時間など、きっと無かったのだろう。
彼女はずっと寂しい思いをしてきたのだろう。
大きな会社を支えるのは大変なことだろう。
女手ひとつでの子育ても大変だったに違いない。
八面六臂の活躍をする彼女を周囲は勝手なイメージを作って見ているのではないだろうか。
そして、彼女と距離を置いているのではないだろうか。
私には、彼女は愛情豊かな女性に思える。
しかし、状況が彼女の愛情を一方通行なものにしてしまっているのではないのだろうか。
寂しさを紛らわせるために代役が必要なら、喜んでなろう。
素直にそう思えた。
「圭さんは旅行に出ているのね」
「はい」
彼女は突然話題を変えた。
「大丈夫かしらね」
「私、週刊誌の尾行とか心配してたんですけど...」
「それはもう有り得ないわ」
「はい。おかしいとは思ったんです。この家の周りも何も無かったし」
そう言いながらハンドバッグから出した『装置』が何であるか、彼女はひと目でわかったらしい。
「あら、あなたでしたの。誰かがシステムにジャミングを掛けてると思ったわ」
「あ、干渉しちゃいましたか。すいません」
「いいえ、大丈夫だったわ」
やはり彼女はただ者ではない。
そして、この家もただの日本家屋ではない。
「なるほど。『それ』で週刊誌の件を御知りになったんですね」
「鋭いわね。当りよ」
彼女は笑った。
そして内緒話をするように、顔を近づけて続けた。
「私が圭さんのこと心配しているのはね。圭さんが昔の友人を訪ねているからなの」
「えっ」
「人は変わるわ。ほんの数日会わないだけでも。長い時間会っていなければ、なおさら」
「そうですね...」
「嫌な思い、していなければ良いのだけれど」
「......」
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
保田圭から、元娘。たちの連絡先を尋ねる電話がきたのは、3日前の深夜だ。
連絡先は、手元のデータベースにあったから、すぐに教える事も出来た。
けれど、実際にメールで返信したのは翌日の事だ。
その間に、現在の元娘。たちについて、プロの検索屋に検索を依頼した。
『検索屋』といわれる商売が成立して数年になる。
彼らは、いってみればネット上の興信所だ。
ネットは、この10年で予想をはるかに越えて驚異的な発展をした。
現在では絶対必要不可欠な、情報網であり、通信網であり、流通網だ。
そして監視網でもある。
ネットに足跡を残さずに生活するのは不可能に近い。
検索屋は、様々な合法・非合法な手段を用いて個人の情報を掻き集める。
プライバシーは既に存在しなくなってしまったといっても過言ではないかもしれない。
保田は翌日、後藤真希に会いに行くと言っていた。
できれば、止めたかった。
現在の後藤の状況は詳しくはわからないが、回復しているとは思えない。
脳機能の重度の損壊は、回復する方法が無いはずだ。
翌日、直接会いたかったが、外せない仕事があった。
やむなく、吉澤ひとみに連絡した。
吉澤は驚き、とりあえず保田のマンションに行くと言って電話を切った。
そこでどんなやり取りがあったのかはわからない。
少なくとも、保田と後藤との再会は決して穏やかなものではなかったのだろう。
先刻見た写真の様子からは、そう思える。
その翌日の朝、保田から電話があった。
吉澤に連絡をしたことについて、礼を言われた。
そのときの保田は、穏やかに話していた。
後藤について聞いたが、その事についてはあまり話さなかった。
ただ、いつか自分で見舞いに行って欲しいといわれた。
そんな日が来るだろうか。
その時、保田は地方にいる元娘。達に会いに行くと言っていた。
その旅行の計画を聞き、手元にある検索結果を教えようかどうか迷った。
結局、教えなかった。
知らない方が良い事もある。
それに、検索の結果が常に正しいとは限らない。
訪ねる予定の3人の元娘。たち。
曽根崎なつみ。旧姓・安倍なつみ。
彼女については、何も悪い結果が引っかかって来なかった。
最初に尋ねるのが彼女なのは幸いだ。
彼女は保田の親友でもあるし、きっと保田を癒してくれるだろう。
保田は後藤真希との再会で深く傷ついていると思えた。
しかし、後の二人は...。
信じたくない、と思う。
検索の結果は間違いだと思いたい。
けれど、そう断定する要素もまた、どこにも見つからなかった。
この旅を止めたい衝動に駆られた。
けれど、止める口実が見つからなかった。
迂闊にもその時まだ、保田圭本人について検索していなかったのだ。
電話を切ってすぐ、検索屋に保田の検索を依頼した。
結果の報告はとりあえず12時間後に指定した。
しかし、いつまで待っても連絡は無かった。
何度か利用した事のある検索屋だったので安心していたのだが。
前金のクレジットを持ち逃げしたのか。
それとも、どこかに察知されて圧力でもかかったのか。
予備の検索屋に依頼していなかった事を後悔し始めた頃、1通のメールが届いた。
知り合いのクラッカー『レムス』からだった。
レムスには、私が保田圭ファンのOLだという偽の個人情報を流してある。
メールには、暗号化されたバイナリファイルが添付されていた。
ファイルには保田の近辺を調べ上げたデータと、彼女を中傷しようとする記事の案が入っていた。
週刊誌の編集部のデータベースに浸入して、盗み出してくれた物だった。
すぐに保田圭に連絡しようとしたが、既に旅立った後だった。
そのしばらく後、コール音が鳴った。
吉澤ひとみからだった。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
「保田さんは、きっと大丈夫ですよ」
何の根拠も無かったが、そう言った。
そうね、と保田圭の義母はうなずいた。
そして言った。
「あなた、圭さんに似ているわね」
「そうでしょうか」
思ってもみない言葉に、なぜか不服そうな顔をしてしまった私を見て、彼女は笑った。
そして、冗談よ、と付け足した。
#22
岡山空港から岡山市街まではシャトルバスが運行されている。
空港自体が山中にあるようなものなので、バスから眺める風景はのどかで美しい。
しかし、今回は最終便での到着だったので、もうすっかり暗くなってしまっていた。
窓は、ただ鏡のように車内を映し出している。
そこに映る自分の顔は、なんだか急に年をとってしまったようにみえた。
バスを降りてから、予約していたシティホテルに向かった。
歩いてすぐの距離だったが、足取りは重く、ひどく遠く感じた。
『保田圭』と本名で予約していたのにも関わらず、従業員たちは驚いた様子だった。
フロントでも、案内された部屋でもしつこく話しかけられた。
ひとりで旅をするのが、こんなにわずらわしいとは思わなかった。
忍耐強く対応して、やんわりと部屋から追い出した。
ようやく部屋にひとりになると、溜息が出た。
何のために旅をしているのだろうか。
考えに沈んだ。
元娘。たちは、それぞれ別の道を歩き始めてもう随分になる。
今更会う事に、何の意味があるのだろう。
自分は、この旅に何を期待していたのだろう。
ふと、空腹である事に気付いた。
そういえば、夕食を摂っていない。
あまり食欲も無い。
何よりルームサービスを頼んで、またわずらわしい思いをするのも嫌だ。
シャワーを浴びて、早々に休む事にした。
なんだかとても、惨めな気分だった。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
翌朝、備え付けの目覚まし時計が鳴るよりも早く目が覚めた。
朝食は、持ち合わせていた携帯用のシリアル食品で済ませた。
午前9時を回るのを待った。
その頃ならばもう夫を送り出して、比較的自由がきく時間だろう。
時間が来て、電話を掛けた。
待っていてくれたのか、僅かなコールの後に受話器が取られた。
『はい』
「もしもし、小川さんのお宅でしょうか?」
『は、はい、小川です。保田さんですか?』
「はい、保田です」
『ホントにホントに、保田さんなんですか?』
小川麻琴は、少し裏返った声でそう言った。
思わず、苦笑した。
「ホントにホントに、保田圭ですよ」
『ホントにホントに、岡山まで来てくれたんですか?』
「ホントにホントに、岡山のホテルからかけてますよ」
『ホントにホントに、うちに来てくれるんですか?』
「ホントにホントに、お邪魔するつもりですよ」
『うれしい』
東京を出る前に連絡が付いたのは、小川だけだった。
翌々日に会いたいと告げると、こちらがたじろぐほどに驚いていた。
小川にとって自分は、かつて同じグループに所属した先輩という以上のものであるらしい。
現在の自分は、娘。メンバーの頃の保田圭とは、彼女の中では繋がらないのかもしれない。
『夢みたいです』
「大袈裟ねぇ」
いつの間に、笑っている自分がいた。
小川麻琴は娘。の第5期メンバーだ。
自分が所属していた期間では、最後の後輩のひとりだ。
5期メンバーの4人は小粒な感じがして、正直のところ少し失望したものだ。
しかし、4人が4人とも必死の努力を続け、実力をつけた。
特に歌においては、高橋愛と小川麻琴が5期の双璧だった。
自分の卒業の時、この二人ならばと思いパートの引継ぎをプロデューサのつんくに相談した。
二人は、それぞれの歌い方で引き継いだパートを歌った。
それを聴くのは、とてもうれしく、楽しかった。
娘。解散の頃には、二人は歌唱力では娘。随一といわれるまでになった。
しかし、あの『事件』が小川の運命を変えてしまった。
高橋は、数ヶ月の休養の後に事務所を移籍して再デビューした。
小川も、その予定だったのだが、彼女の親族が復帰に強行に反対した。
犯人逮捕前の『事件』の報道の中には、信じられないほど無責任な物もあった。
元娘。のメンバーは次々と襲われるだろうなどと、予言者を気取ったタレントもいた。
次に誰が襲われるかと、こじつけの理由で予測をたてた番組すらあった。
そんな馬鹿げたものを信じたとは思えないが、不安を煽る要素ではあっただろう。
結局、小川は本人の意思に反して引退させられ、故郷の新潟に帰った。
この時、小川はまだ15歳だった。
娘。加入以来、全力疾走を続けてきた彼女には、あまりにも辛く重い挫折だっただろう。
それからの小川はずいぶん荒れたらしい。
定時制の高校に進んだものの、すぐに辞めてしまった。
悪い仲間が出来てしまい、何度も問題を起こしている。
そのために引退していても、マスコミの恰好の餌食になってしまった。
ある事無い事を書きたてられ、また世間に背を向ける悪循環に陥った。
小川を救ったのは、佐伯高志という高校生との出会いだった。
小川と同い年の彼は優等生で、とても不良少女と付き合うような少年ではなかったらしい。
周囲に反対されたが、二人は隠れて交際を続けた。
やがて小川は悪い仲間から抜け出し、少しずつ本来の彼女に戻っていった。
佐伯が東京の大学に進むと小川も上京し、一緒に暮らし始めた。
間も無く、二人は結婚した。
佐伯はまだ大学生だったので、式も挙げる事が出来なかった。
記念になったのは婚礼衣装での写真だけという、ささやかな結婚だった。
その写真から作られた葉書をもらった。
ウエディングドレスの小川は、娘。時代にも見せた事が無いような、幸せ一杯の笑顔だった。
そして、子供を授かった。
誕生の知らせも、写真付きの葉書で届いた。
一朗と名付けられた可愛らしい男の子は、二人の面影を宿していた。
佐伯は大学卒業後、大手の電気機器メーカーに就職した。
優秀な技術者であるらしい。
半年ほど前に岡山ある研究施設に転属になり、一家で引っ越した。
小川は夫婦別姓を選択したので、現在でも名前は小川麻琴のままだ。
『事件』の夜以来会っていないので、8年ぶりの再会になる。
電話で説明された通りに、バスに乗った。
平日の昼間なので、あまり乗客は居なかった。
久しぶりに、ゆったりとした時間を楽しんだ。
住宅地が続くが、東京とは違うのんびりした雰囲気があった。
指定されたバス停で降りると、小川の住まいは、すぐ目の前にあった。
会社の社宅だというその建物は、シンプルな造りの集合住宅だった。
張り出しの螺旋階段を昇ろうとしたとき、3階から身を乗り出している人影に気付いた。
小川麻琴だった。
「保田さん!」
小川は満面の笑みで手を振り、螺旋階段を駆け下りてきた。
やがて目の前に立った小川は、嬉しげにぺこりと頭を下げた。
「お久しぶりです」
「ホント、久しぶりね」
幸せに齢を重ね、歳月が過ぎた。
24歳の小川麻琴は、そんな感じがする女性になっていた。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
挨拶もそこそこに、部屋に上げてもらった。
社宅なのであまり広くは無いが、3人家族ならば充分だろう。
それに、機能的に生活できるように工夫して使っているようだ。
何よりも清潔で居心地が良かった。
二人でテーブルを挟んで座った。
この8年の間に、お互いに結婚し子持ちになった。
しかし、歳月の隔たりはあまり感じなかった。
まるで、ほんの数ヶ月まで会っていたような気がした。
しかし、小川の方はそうではなかったようだ。
「なんだか、夢みたいですよぉ」
小川は、小さな女の子がするように、腕を寄り合わせて言った。
「保田さん、なんですねぇ」
「何よ、それ」
思わず、吹き出した。
「娘。の頃は、ほとんど毎日一緒にいたじゃない」
「でも、もう今の保田さんはテレビの中の人って感じで...」
「あんただって、テレビ出てたじゃない」
「まぁ、そうなんですけど。今はただの人ですからねぇ」
そんなものだろうか。
「いい奥さんになったね、小川」
「え〜、なんでですか?」
「すっごく綺麗にしてるじゃない、家の中」
「えへへ、実は、おととい電話もらってから大急ぎで掃除したんですよぉ」
「そうなの」
「押入れの中とかは、見ちゃ駄目なんです」
「ははは」
「普段は、こんなに綺麗じゃないです」
「子供、男の子だよね。一朗君だっけ?」
「ええ。名前、覚えててくれたんですか」
「当然」
「ありがとうございます」
「男の子がいたんじゃ、大変よね」
「ええ、もう」
「今日は、どうしてるの?」
「ええ、遊びに出ちゃってて、多分夕方まで帰らないですよ」
「え? まだ4歳くらいだよね」
「ええ」
「大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。いつもの事だし。東京と違ってこの辺はのどかだし」
「そう...」
(もし、真が4歳くらいになっても...)
(ひとりで遊ばせるなんて、絶対嫌だな...)
(何考えてるの...)
(もう、母親じゃないのに...)
(私には、母親でいる資格なんてないのに...)
「最近、どうです? 仕事の方は?」
「うん、順調だよ」
「すっごいですよねぇ。出す曲全部ヒットじゃないですか」
「ありがとう。でもここまで来るのは苦労シマシタヨ」
「でも、その甲斐はありましたよねぇ」
「うん。やめないで良かったと思っている」
「そうですか...」
「私も不遇な時代、長かったからね」
「でも、今は...」
「うん。小川も今は、幸せでしょ?」
「ええ...」
少しためらいがちに返事をした後、小川は思いなおしたように笑って見せた。
「平凡でも、幸せですよ」
「幸せなのが、一番よね」
「ええ」
「でも正直言って、あんな事が無ければって、時々思います」
「...」
「後藤さん、どうでした?」
「うん。傷跡は随分綺麗になってた」
「でも、あの夜みたいなんですか?」
「ううん。ずっと、良くなってたよ」
「...そうですか」
「いつか、小川も会いに行ってあげて欲しいな」
「...そうですね」
小川は、うつむいて少しの間黙り込んだ。
やがて、顔を上げていった。
「ええ、いつかきっと」
壁に立てかけてあるギターケースに目が行った。
「旦那さんの?」
「いいえ。私のです」
「小川、ギター弾くんだっけ」
「娘。の解散のちょっと前から練習してたんです」
「へえ。知らなかった。聴きたいなァ」
「ダメなんですよ。ここ、楽器は禁止で」
「あ、そうなんだ」
「もうずっと、ただの飾りです。もう弾けなくなっちゃったかも」
「?」
突然、ドアが開く音がした。
振り向くと、玄関に男の子が立っていた。
汚れたトレーナーに、短パンをはいている。
男の子は、無言のまま上がってくると立ち止まり、じっとこちらを見た。
小川の面影がある。
「一朗君、よね?」
確認しようと、小川を見た。
小川は、なぜか蒼白な顔をしていた。
「どうしたの?」
「...」
「一朗君、だよね?」
今度は、男の子に訊いて見た。
彼は、ほんの少し頷いた。
しばらくの間、一朗は何も言わず、じっとこちらを見つめていた。
そして突然、着ていたトレーナーを脱ぎ捨てた。
その姿に、凍り付いた。
あらわになった上半身は、おびただしい数の傷跡とあざに、痛々しく覆われていた。
#23
「この子、よく転ぶもんですから...」
小川は、あまりにもありがちな言い訳をした。
それはテレビの報道番組でよく聞く、虐待を続ける母親の言い訳と同じだった。
「一朗君」
名前を呼ばれても、一朗は応えない。
ただ、無表情にこちらを見つめている。
救いを求めるわけでもない。
何かを訴えるわけでもない。
ただ、無表情に見つめている。
だが、彼はトレーナーを自ら脱ぎ捨てた。
見知らぬ客の前で。
母親の前で。
それが、なんらかのサインであることは間違い無い。
「...大丈夫?」
微笑みかけてみた。
けれども、一朗はただ見つめ返しているだけだ。
哀しみも苦痛すらも感じていないようにみえる。
ただ、ひたすらに見つめ返しているだけだ。
「すいません、保田さん」
一朗の姿を隠すように、小川が一朗との間に割って入ってきた。
「今日はお引き取りください。一朗を病院に連れていかないと...」
そして、頭を下げた。
「すいません。せっかく来ていただいたんですけれど」
「待って。今したケガには見えないけど」
伸び上がって、小川越しに一朗を見た。
その痛々しい傷やあざは、少なくとも今日付いたものではないように見えた。
「どう言うこと? 説明して」
小川は蒼白な顔のまま、視線をそらしてうつむいている。
一朗を傷つけているのは、母親である小川だと確信した。
「これは、ただのケガじゃない。遊んでいてするようなケガじゃないわ」
小川を問い詰めた。
許せない、と思った。
ひとりの人間として。
ひとりの母親として。
「何を言ってるんですか」
小川は視線を落としたまま抗議した。
「変な事、言わないでください」
「ねぇ、一朗君」
小川を押しやって、一朗の前に立った。
「その傷、どうしたの?」
一朗は、相変わらず無表情に見つめ返すばかりだ。
「いいかげんにしてください」
小川がもう一度割って入った。
「もう、帰ってください」
「小川ッ!」
怒りがこみ上げた。
思わず、小川を突き飛ばしてしまった。
小川は、床の上にうずくまった。
彼女は激昂するだろう、と思った。
つかみかかってくるかもしれないと、身構えた。
しかし、小川はうずくまったまま、静かに繰り返した。
「もう、帰ってください」
一朗はただ、その光景を無表情に見つめている。
呆然とドアの前で立ち尽くして、どのくらいの時間が過ぎていたのだろう。
ふと我に返って、乱れた髪を撫で付けた。
押し出された時に、乱れたらしい。
小川は哀願するように、帰って欲しいと繰り返した。
たいして強くない力だったが、とうとう家の外に押し出されてしまった。
一朗は何を知らせたかったのだろう。
なぜ、何も話してはくれなかったのだろう。
もしも彼が、なにか言ってくれたなら、もっと強く出る事も出来たのに。
小川が虐待をしているのは、間違い無いと思う。
いや、もしかしたら、彼女の夫なのかもしれない。
両方の可能性もある。
だが、なぜ?
夫の事はわからない。
しかし、小川は幸せな生活をしているのではなかったのか?
不意に、部屋にあったギターを思い出した。
弾くことの出来ないギター。
けれども、小川は処分する事も無く、部屋に飾り続けている。
それは、小川の未練を現しているのではないだろうか。
娘。時代、小川はひたすらに努力を続けていた。
そして、誰しもが認める実力を手に入れた。
未来は、彼女の味方のはずだった。
しかし、『事件』により突然に引退させられてしまった。
小川に何一つ落ち度があったわけではない。
それなのに、せっかくつかんだ夢を奪われてしまった。
その想いが、彼女の心を悪魔に変えているのだろうか。
どんな幸せも意味の無い物にしてしまったのだろうか。
もちろん、例えそうだったとしても許される事ではない。
このままにして良いわけがない。
取り返しのつかないことになってからでは遅い。
警察に通報すべきだろうか。
専門家を探して、相談すべきだろうか。
どうにかして、あんな事は止めさせなければ。
自分ならば...。
自分ならば...?
何が言えるだろう。
家族を捨てた自分に、何が言えるだろう。
歌のために危険を承知で、異国へ旅立とうと考えているような女に。
妻失格。
母親失格。
そんな女に、何が言えるだろう。
いいや、それは違う。
それは、自分自信をごまかすための言い訳だ。
そんな口実にこそ、意味が無い。
もう一度、ドアを開けなければ。
もう一度、そのドアの向こうにある現実と向き合わなければ。
けれども、どうしても勇気を奮い起こす事が出来なかった。
そこから逃げ出してしまった。
螺旋階段を、駆け下りた。
バス停の前に立った。
息を整えた。
何も無かったかのような顔をした。
これは、過ちの繰り返しだ。
大切な人の苦難に背を向ける、過ちの繰り返しだ。
冬に向かう風が、撫で付けた髪を滅茶苦茶にして去った。
まるで罪深さを、責めたてるかのように。
2005年の『Strange War』により、琵琶湖東岸は壊滅した。
その跡に建つ『倭市』は、徹底的な都市計画により造られた500万人都市だ。
国家の威信をかけて、わずか5年で復興した。
その姿は、子供の頃に見たSF映画の未来都市そのものだ。
計画的に立てられた高層ビル群は美しいが、そのデザインは馬鹿馬鹿しいほどSF的だ。
遠くから見ると、生活感などまるで無いように見える。
けれども、近づくにつれ、そこに市民の生活があることがわかる。
計画的に造られた高架歩道には、たくさんの人が行き交っている。
ガラス張りのビルの中は、買い物客で賑わっている。
見上げるレールラインには、市民の足としてリニア・モノレールが行き来している。
その乗り換えステーションに、リニア新幹線は静かに滑り込んだ。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
『Strange War』は、文字通り『奇妙な戦争』だった。
日本は、そして世界各国は、どこを相手に『戦争』をしたのか現在でも解からない。
各国の首都や主要都市が狙われた。
アメリカは、ワシントンDCと共に、ニューヨークが襲撃された。
ユーロ各国の首都も、瓦礫の山と化した。
アジア、中東、アフリカ、南アメリカの有力な国の首都も、目標になった。
同時に現れた『エイリアン』は、実に32機にのぼった。
この招かれざる異邦人は、空挺戦車という兵器に分類されるのだそうだ。
一般にいう空挺戦車は、航空機からパラシュート降下させるだけのものらしい。
エイリアンは、それとは全く異なっていた。
自ら飛行し、目的地に着陸後に地上兵器になる、他に例の無い無人兵器だった。
日本に向かったエイリアンも、最初の目標は首都東京だったという。
しかし、僅かに10分ほどのタイムラグがあり、日本、他数ヶ国に対しては奇襲にはならなかった。
各基地から緊急発進した自衛隊の戦闘機が、エイリアンを太平洋上で迎撃した。
激しい攻撃にエイリアンは東京湾に入る事が出来ず、西に進路を変えた。
そして、琵琶湖上空に差し掛かった時、ミサイルの直撃を受けた。
エイリアンは、琵琶湖畔に墜落し、全ては終わったかに見えた。
しかし、これは始まりだった。
エイリアンは航空機としての殻を捨て、中から本体が這い出してきた。
それは、6本足の、巨大だが不細工なロボットだった。
次の瞬間、信じられない事が起きた。
とてつもない敏捷さで、エイリアンが動き出したのだ。
エイリアンは、無差別にレーザー砲を乱射した。
瞬く間に、街は瓦礫となり、死者の山が築かれた。
警察では相手にならず、混乱の中、自衛隊の地上部隊の展開は間に合わなかった。
戦闘機からのピンポイント爆撃でエイリアンが沈黙したのは、2日後の事だった。
琵琶湖東岸は、滅茶苦茶に破壊されてしまった。
たった1機のエイリアンのために、死者・行方不明者は、日本だけでも250万人を越えた。
世界全体での犠牲者数は、現在でもわからない。
未曾有の大殺戮だった。
混乱の終息後、エイリアンは徹底的に解析された。
しかし構成部品も、ソフトウエアも、何もかもがその出自を突きとめられなかった。
どこから来たのかわからない無人兵器。
『エイリアン』という名は、この時に付けられた。
誰が、何のために、この『戦争』を起こしたのか?
結局、6年経った今でも何ひとつ解かっていない。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
巨大都市ヤマトシティから、車で約1時間半ほど。
伊吹山地にある、別荘地のログハウス。
矢口真里は、そこにいるはずだった。
#23-3
2005年の『Strange War』により、琵琶湖東岸は壊滅した。
その跡に建つ『倭市』は、徹底的に都市計画が練られた超近代的な巨大都市だ。
国家の威信をかけて、復興にむけての建設が今も続いている。
景観も計算し尽くされ、計画的に建てられた超近代的なビル群は美しい。
街のそこここにまるでテーマパークのように趣向が凝らされていて、訪れる観光客も多い。
しかし、一歩順路を外れれば、そこには今も『戦争』の無残な爪跡がある。
復興という名の建設ラッシュは、いつまで続くのかすらわからない。
混沌の街に、リニア新幹線は静かに滑り込んだ。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
『Strange War』は、文字通り『奇妙な戦争』だった。
日本は、そして世界各国は、どこを相手に『戦争』をしたのか現在でも解からない。
各国の首都や主要都市が狙われた。
アメリカは、ワシントンDCと共に、ニューヨークが襲撃された。
ユーロ各国の首都も、ほとんどが瓦礫の山と化した。
アジア、中東、アフリカ、南アメリカの有力な国の首都も、目標になった。
同時に現れた『エイリアン』は、実に32機にのぼった。
この招かれざる異邦人は、空挺戦車という兵器に分類されるのだそうだ。
一般にいう空挺戦車は、航空機からパラシュート降下させるだけのものらしい。
エイリアンは、それとは全く異なっていた。
自ら飛行し、目的地に着陸後に地上兵器になる、他に例の無い無人兵器だった。
日本に向かったエイリアンも、最初の目標は首都東京だったという。
しかし、僅かに10分ほどのタイムラグがあり、日本、他数ヶ国に対しては奇襲にはならなかった。
他国からの情報提供を受け、エイリアンを太平洋上で捕捉した。
各基地から緊急発進した自衛隊の戦闘機が、エイリアンの迎撃に向かった。
激しい攻撃にエイリアンは東京湾に入る事が出来ず、西に進路を変えた。
そして、琵琶湖上空に差し掛かった時、ミサイルの直撃を受けた。
エイリアンは、琵琶湖畔に墜落し、全ては終わったかに見えた。
しかし、これは始まりだった。
エイリアンは航空機としての殻を捨て、中から本体が這い出してきた。
それは、6本足の、巨大だが不細工なロボットだった。
エイリアンは突然、とてつもない敏捷さで動き出した。
動き回りながら、無差別にレーザー砲を乱射した。
レーザー砲の威力は凄まじく、飲み込まれた人々は街並みごと蒸発してしまった。
警察ではとても相手にならず、混乱の中、自衛隊の地上部隊の展開は間に合わなかった。
もはや周囲への影響をかえりみる余裕も無く、戦闘機からのピンポイント爆撃が繰り返し行われた。
エイリアンが完全に沈黙したのは、2日も経った後の事だった。
琵琶湖東岸は、滅茶苦茶に破壊されてしまった。
たった1機のエイリアンのために、死者・行方不明者は、20万人を越えた。
世界全体での犠牲者数は、現在でもわからないという。
未曾有の大殺戮だった。
混乱の終息後、エイリアンは徹底的に解析された。
しかし構成部品も、ソフトウエアも、何もかもがその出自を突きとめられなかった。
どこから来たのかわからない無人兵器。
『エイリアン』という名は、皮肉を込めてこの時に付けられた。
誰が、何のために、この『戦争』を起こしたのか?
結局、6年経った今でも何ひとつ解かっていない。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
巨大都市ヤマトシティから、車で約1時間半ほど。
伊吹山地にある、別荘地のログハウス。
矢口真里は、そこにいるはずだった。
#24
矢口真里は、娘。の第2期メンバーだ。
市井紗耶香と、自分の3人が同期だった。
3人は、娘。始めての追加メンバーだった。
厳しいオーディションを勝ち抜いて娘。に加入した。
加入してみて、思い描いていたものと現実とのギャップに3人とも愕然とした。
初代のメンバーからは、決して歓迎はされなかった。
むしろ、その軋轢に苦しんだ。
そのせいで3人で固まっている事が多かった。
寄り集まっては、先輩メンバーの悪口を言っていたものだ。
もしも娘。が成功する事が無かったら、本当に憎み合ったまま終わっていたかもしれない。
けれども、瞬く間に多忙になり、全てのメンバーが全力で突っ走るしかなくなった。
そんな中で、段々と同志としての気持ちが芽生えていった。
娘。の団結力の強さは、この頃から作られ始めたのかもしれない。
矢口は、メンバー中最も小柄だったが、最もパワフルだった。
疲れ知らずの彼女は、小さな体でステージ中を跳び回った。
娘。解散の時まで、そのパワーは途切れることなく発揮された。
解散の後、矢口は半年ほどの準備期間を取って再デビューした。
スケジューリングに余裕があったため、『事件』にはあまり影響されずに済んだらしい。
再びステージに立った矢口に、観客は度肝を抜かれた。
最も驚いたのは、ずっと一緒にいた元娘。たちだっただろう。
自分を含めた数人の元娘。は、再デビューの出発点となるライブに招待され、仰天した。
ステージ上にいたのは、知っているつもりになっていた矢口とは全く別のアーチストだった。
本格的なロッカーに転向した矢口のボーカルは、凄まじいものだった。
パワーもテクニックも、海外のロック・アーチストにも決して引けを取らない。
矢口は誰にも秘密にして、とんでもない隠し玉を準備していたのだ。
観客は魅了され、一気に人気は爆発した。
『事件』で元娘。はマイナスイメージを持たれていたが、そんな物はあっさり一掃してしまった。
歌手として活動を続ける元娘。のほとんどが低迷する中、矢口だけは例外だった。
たちまち、トップアーチストの座を獲得した。
活動は日本だけにとどまらず、アジア全域での支持を得た。
欧米の大物ロック・アーチストと競演し、『本物』ぶりを見せつけた。
しかし、成功すればそれを羨む者が、必ず現れる。
足を引っ張ろうとする物が、必ず現れる。
しばらくすると矢口は、週刊誌で中傷記事を書かれるようになった。
まさか、とつい思ってしまいそうになるものから、とんでもなく馬鹿げた記事まで。
成功すればするほど、矢口はスキャンダラスな人物像を作られるようになっていった。
世間もあっさりそれを受け入れた。
「スキャンダル女王、矢口で〜す」
矢口は、まるでそんな状況を面白がっているかのように、自分で茶化して観客を笑わせた。
それでも、いわれの無い中傷には、きっちりと反論してみせた。
しかし、だんだんとスキャンダル記事に対して沈黙を守るようになっていった。
週刊誌はその沈黙を取り上げ、やはり真実だったと書きたてた。
それにもまた、矢口は無反応になっていった。
やがて、矢口は突然に世間から姿を消した。
当初事務所は、次のプロジェクトの準備のため休業と発表した。
しかし、そのまま復帰することなく、4年以上の時間が過ぎようとしている。
気紛れな世間は既に、矢口真里というロッカーが存在していた事すら忘れ去ってしまったようだ。
ヤマトシティ・セントラルホテルの最上階の最高級スウィートルーム。
普通に一泊の予約を入れたはずなのに、用意された部屋はとてつもなく豪華なものだった。
2フロアをほぼ占領して、たった一室のために使っている。
ひとりどころか、30人くらいで泊まっても窮屈には感じないかもしれない。
調度品も最高級の物を揃えてあるそうだ。
三方の壁のほとんどが窓になっていて、まるで展望台のようだ。
窓際には、観葉植物が並べられ、ジャグジーバスが泡をたてている。
映画でしか見た事が無いような、素晴らしい部屋だ。
普段ならば馬鹿馬鹿しくて絶対にしない類の贅沢だ。
しかし、断るのも面倒で、この部屋に泊まる事にした。
一泊いくらなのか想像も出来ないが、支払いはカードだから、まさか払えないと言う事も無いだろう。
出された夕食も、呆れるほど豪華な物だった。
高級な料理が、とても食べきれないほど並べられた。
普段ならば、おいしく頂いたかも知れない。
しかし、何を食べても、まるで砂を噛むように味気なかった。
こんな気分の時は、さっさと寝てしまうに限る。
シャワーを浴びて、持ってきていたパジャマに着替えた。
部屋に用意されていたシルクのネグリジェは、袖を通す気にもなれなかった。
ベッドに入ろうとしたが、不意に気が変わって止めた。
天涯付きの高級ベットに入るのが、ひどくふざけた事に思えた。
用意されていたシャンパンを開けた。
わざとシャンパングラスではなく、洗面所用のコップに注いで飲んだ。
どうせこれも高級品なのだろうが、どうでも良かった。
手っ取り早く酔っ払って、寝てしまいたかった。
広い窓から、シティの中心部を見下ろした。
高層ビル群は、彩やかな光に包まれて美しかった。
街中には、様々なネオンサインが輝いている。
気の早いことに、クリスマス向けのイルミネーションも混じっているようだ。
矢口真里は、自他ともに認める『街っ子』だった。
山中のログハウスより、ここから見える風景の方が遥かに彼女にふさわしい。
どうして矢口真里は、そんな彼女にそぐわない場所にいるのだろう。
たったひとりで。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
紺野あさ美からのメールの中に矢口の住所を見つけた時、飛び上がるほど嬉しかった。
紺野は、お得意の検索屋を使って探し当てたそうだ。
検索屋は非合法な手段も使うらしい。
普段ならば決して感心はしないが、今回は感謝の一言しかない。
メールには、住所とメールアドレスしか書かれていなかった。
あらかじめ電話で約束を取りつけておきたかったが、電話自体が無いらしい。
仕方なく、メールだけを出しておいた。
メールは携帯端末に転送されるように設定しているが、未だに返事は来ない。
矢口にはどうしても、一度会って礼をいいたかった。
喉の病気を患い手術を受けた時、術後すぐに矢口は病室を見舞ってくれたそうだ。
その時はまだ麻酔から覚めず、眠ったままだった。
矢口は病室にしばらく居たが、見舞いの花束だけを置いて帰ってしまった。
目覚めてから、看護婦が教えてくれた。
その直後、矢口は世間から姿を消し、連絡が出来なくなってしまった。
なぜ、矢口は姿を消したのだろう。
自分には、その理由は想像もつかない。
矢口真里も変わってしまっただろうか。
もう、友人であった頃の矢口ではなくなってしまっているだろうか。
それでも、構わない。
見舞ってくれた礼をいいたい。
麻酔で眠ったままで、話が出来なかった謝罪がしたい。
それを矢口がどう受け止めようと別に構わない。
ただ、ずっと引きずってきた思い残しを無くしたい。
ただ、それだけだ。
チェックアウトでひと悶着あった。
ホテル側は、宿泊費を受け取ろうとしなかった。
有名人特権とやらを、無理矢理使わされるのは不愉快極まりない。
散々もめた挙句、正規の料金を払う事を認めさせた。
カードの明細の料金を見て、やはり昨夜のうちに断っておけば良かったと後悔したが。
「なんだよ、芸能人だからって金払えよ」
フロントでもめている最中に、背後から罵声を浴びせられた。
振り返ると、太った中年男がニヤニヤと笑っていた。
自らの正義漢ぶりに酔っているらしい。
その男の頭の中では、芸能人がフロントでもめていたら、それは支払いをしないための交渉しか有り得ないのだろう。
きっとこんな男は、自分が愚かな偽善者である事にすら気付かずに一生を終えるのだろう。
本人は幸せだろうが、関わった者は、堪ったものではない。
もっともこんな馬鹿者が現れてくれたおかげで騒ぎを怖れたホテル側が折れたのだから、感謝しなくも無いが。
男は、ホテルマンに丁重に追い払われて、不服気に立ち去った。
「今日はどちらに行かれるご予定なのですか?」
フロントが、癇に障る猫撫で声で訊いてきた。
例によって忍耐力を試されているような気分になりつつ、作り笑顔で応えた。
「伊吹山にある別荘地まで行きたいんですが...」
矢口真里のログハウスがあるはずの住所を見せると、フロントは眉をひそめた。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
ヤマトシティの中心部の交通は、全てクリーンな機関で行われている。
市内交通の要はリニアモノレールで、もちろん電気機関だ。
車も全て電気自動車で、ガソリン車は市内に入る事も許されていない。
しかし、伊吹山中にまで行くためには、電動車では無理らしい。
シティの外れにあるタクシー会社の車庫まで出向いて、ガソリン車を出してもらわなくてはならなかった。
有り難くも、ホテルがサービスに車庫まで送ってくれる事になった。
用意された電気自動車がリムジン型だったのには辟易したが、もう文句をいう気も起きなかった。
ヤマトシティの道路は、徹底的な都市計画の上に造られている。
しかし、京都のように碁盤の目状に直線道路が交差しているわけではない。
心理学も取り入れた交通科学の上に造られた、最も効率良く、最も事故が起き辛い造りなのだそうだ。
それぞれの道ひとつひとつが、計算し尽くされたものであるという。
リムジンの中から見るシティの様子は、日本の景色とは思えない。
様々な超近代的な高層ビル群や、効果的に配置された緑は、眺めているだけでも飽きがこない。
景観を損ねる看板や広告などは、シティの中心部には一切無い。
世界一美しい街というふれ込みも決して嘘ではないだろう。
シティの外れまで来ても、観光客が広い煉瓦造りの歩道を楽しげに歩いている姿が多く見られた。
シティ全体に、観光客が溢れているようだ。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
車庫に着くと、あらかじめ連絡しておいてもらえたらしく、すぐ車が出てきた。
シティの中を走る丸っこい電動自動車ではなく、見なれたタクシーの姿になぜかほっとした。
「どうも。運転させていただきます、土橋です」
やたらと体格のいい初老のドライバーは、わざわざ車から降りて挨拶した。
濃い色のサングラスをかけているせいか、運転手というよりヤクザ者の様にみえた。
1時間半程度の時間とはいえ、正直のところ二人きりになる事に不安を覚えた。
しかし、今更断るわけにもいかない。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
なにか諦めにも似た気持ちで、車に乗り込んだ。
「発車します」
タクシーは、まるで滑るようにスムースに動き出した。
粗暴そうな見かけとは違い、土橋ドライバーの運転は実に丁寧だった。
#25
車庫を出てしばらく走ると、工事現場にあるような壁が道の両側に現れ、延々と続いた。
両脇の風景が全く見えないまま、タクシーは緩やかな斜面を登り始めた。
「しかし、いま時分あの辺りに行くのは珍しいなぁ」
土橋ドライバーは、ルームミラーでちらちらとこちらを見ながら言った。
「もうじき雪が降りますからねぇ。ほとんどの別荘は無人のはずだなぁ」
「そうなんですか」
「まあ、別荘地までは道路も通れるけどねぇ。もう少し先に行くと冬の間は閉鎖されちゃうし」
「でも、これから会う人、ずっとそこに居るはずなんです」
「ずっと?」
「ええ、もう4年くらい」
「そりゃ驚いた。冬場もなの?」
「ええ、多分」
「発電機とか、大きいのがあれば大丈夫なのかなぁ。何か事故でもあったら、大変だと思うけどねぇ」
「はぁ」
「さっき、4年前からっていった?」
「ええ、それが何か?」
「それも、ちょっと不思議な感じだなぁ」
「不思議、ですか」
「だって4年前っていったら、倭市はやっとサラ地になって復興が始まった頃でしょ」
「...そう、ですね」
「相当不便だったと思うけどねぇ。なんでまた、そんな頃に」
「さあ。私、その人がここに来てから、始めて会うんです」
「そうですかぁ。まあ、人それぞれ、事情があるんでしょうけどね」
「...」
道の両脇の壁が、突然途切れた。
車窓から見える景色は、もう山中のそれになっていた。
「あれ、何だと思います?」
土橋が、一瞬だけ顔をそちらに向けて窓の外を示した。
時折、木立が途切れ、下方に平坦な土地が広がっているのが見えた。
そこには小さな建物が、見渡す限り、驚くほどたくさん規則的に並んで建てられていた。
「あれ、仮設住宅ですか?」
「うん、当たり」
「今でもあんなにあるんですか?」
「あそこに5万人くらい住んでるらしいよ」
「そんなに」
「知らなかったでしょ。シティ周辺になんで民間空港が無いと思う?」
「...さあ」
「あれを見せたくないんですよ。だから空路......飛行機の通り道ね、それもこの上から外したらしい」
「まさか」
「ちょっと信じられない話でしょ。確かに、よくまあ、そんなところに気が廻るもんだと呆れるよねぇ」
「倭市の復興が始まった時、ちょっと揉めたよね」
「そう、でしたっけ」
「忘れちゃった? この辺りの土地をいったん国が接収するっていって騒ぎになった」
「あ、その事ですか。覚えてます」
「反対運動も尻つぼみになって、結局、国に丸め込まれちまった。権利を主張すべき人たちがあらかた死んじまってたからねぇ」
「...」
「お陰で復興はスムースに進んで、復興景気で平成不況からも脱出。めでたしめでたし」
「...」
「なんか、納得いかないよねぇ」
「...」
「大勢の犠牲者からかっぱらった土地の上に、ヤマトは建ってるわけさ」
「...」
「大戦後の朝鮮戦争特需、バブル期には地上げやら何やら、この国の好景気はいつも誰かを踏みつけて実現してやがる」
「...」
「日本人はおとなしい羊みたいだなんていうけど、俺に言わせりゃ豚だね」
「...」
「権力者に自分の肉を食われてる事にも気付かない、哀れな豚」
「...」
「まあ、こんな事は日本だけじゃないのかもしれないけどね」
「あの仮設住宅に住んでるの、どんな人かわかる?」
「...さあ」
「ほとんどが、建設労働者。半分以上が外国人」
「えっ」
「被災者じゃないんだ、今住んでるのは。まぁ、飯場みたいなもんだねぇ」
「そうなんですか」
「外国人就労チケットって出来たでしょう。ほとんど、あれで入ってきた連中」
「何万人も、いるんですか?」
「確か、全国で10万人近くいるらしいよ。ヤマトには、3万人以上っていったかな」
「そんなに...?」
「ああ。建設現場で働いてるのは、外国人、多いよ」
「でも、どうしてそんなに外国の人がいるんですか」
「誰もきつい労働をやりたがらないから」
「えっ」
復興で雇用が生み出されて、全国から職を求めて人がヤマトシティに集まってきた。
しかし、景気が回復し、別に働き口が出来た途端に、ほとんどの人は肉体労働を嫌い始める。
復興のための労働力を確保するために、外国人就労チケット制度が出来た。
就労チケットは、一年毎に更新される。
倭市の外国人労働者も、復興が完了すれば以後はチケットは更新されなくなり、日本に居られなくなる。
つまりは使い捨てさ、と、土橋は吐き捨てるように言った。
「でもまぁ、偉そうな事は言えんのだけどね。俺もその口だから」
「土橋さん、も?」
「ははは、名前を覚えてくれましたか。こりゃあ、どうも」
「ここの人じゃないんですか」
「元々は東北でね。ちょっと名の知れたゼネコンの、ちょっと偉い人だったんだけどね」
「...」
「上の方がバカやってくれて、会社が傾いちゃいましてね。リストラされるかと思ってたら、会社自体なくなっちゃった」
「...」
「で、無職。女房子供に逃げられて、どうしようかと思ってたら『戦争』騒ぎでね。俺も救われた口ってわけ」
「...」
「食うにも困ってたからねえ。大喜びでヤマトに来たよ。去年まで工事現場で働いてた」
「...」
「でも、肉体労働がしんどくなって、タクシーの運転手の募集見て飛びついたんだ。何を偉そうな事、言ってんだろうね」
土橋は自嘲気味に、ははは、と笑った。
「外国人にしんどい事押し付けて、自分はのうのうとしてる。まあ、嫌われる日本人の典型だね」
「そんなにたくさん、外国の人がいるなんて、思ってもみなかった」
「東南アジア、中央アジア、中東なんかが多いね」
「中央アジア...」
「ああ、アフガニスタンとか、ハルギスタンとか」
「ハルギスタン...」
「あの国は元々貧しいのに、周辺の宗教戦争やら民族紛争やらで、とばっちりを受けてるからね」
「...」
「実際にはハルギスタン人じゃないのに、難民やら、逃亡兵やらも紛れて入り込んでるらしいよ」
「ちょっと怖い感じですね」
「怖い、か」
「ええ。治安とか悪くなってるんじゃないですか」
そういうと、土橋は馬鹿にしたように、ふん、と鼻を鳴らした。
「外国人は危険、か。俺が工事現場に居た頃にも、気の良い連中はたくさん居たよ」
「...」
「連中にとっちゃ、ここはパラダイスさ。居られなくなるような妙な真似、するわけがねぇ」
「...」
「安い賃金でこき使われても、自分の国にいるよりよっぽど稼ぎになる」
「...」
「なにより命の心配をせずにゆっくり眠れる。天国みたいな場所だろうよ」
「...」
「日本人の方がよっぽど性質が悪いのが多い」
「...」
「ニュースで見なかったか。ついこの間も外国人労働者を寄生虫呼ばわりして、集団暴行したガキどもが居たろう」
「...ええ、見ました」
「金まで盗りやがって、どっちが寄生虫なんだ」
「...」
「何人か死なせちまいやがって、その人だって国には仕送りを待っている家族だって居たろうに」
「...すいません。恥ずかしい事を言いました」
「ああ、いや。すいません、つい。お客さん相手に、偉そうな事を。申し訳無い」
土橋は、首をすくめて頭を掻いた。
「でもねぇ、そんなふざけたガキどももいるけどね...」
「...」
「一方じゃ、着の身着のまま来ちまった外国人労働者を、一生懸命助けてる高校生ボランティアもいる」
「...」
「そういうのには、頭が下がりますね、ホントに。まだ捨てたもんじゃないなって思いますよ」
「...そうですね」
まばらに、別荘らしき建物が目に付くようになった。
やはり、無人の所がほとんどのようだ。
冬が近い山中はうら寂しく、ほとんどの樹が既に落葉してしまっている。
森の道を、落ち葉を巻き込み飛ばしながら、タクシーは進んだ。
「去年、ヤマトで復興祭ってやったんですよ。もうこの街は立ち直りましたってね」
「ええ、知ってます」
「でも実際はとんだハリボテだ」
「...」
「無理し過ぎだよ。ちょっとおかしいよね」
「復興祭の時も、私、来たんです」
「ああ、そうでしたか」
「でも外国の人、あまり多いようには思えなかったですね」
「連中、シティには、あまり入らないように言われてるからね」
「えっ」
「外国人労働者がいれば、いまだに復興途中ってイメージを持たれちゃうからね。制限されてるらしいよ」
「...」
「観光の事も気にしてるんだろうけどね。それ以上に...」
「それ以上に?」
「忘れたいんだろうね、みんな」
「何を」
「あの『戦争』があった事を」
「...」
「ニューヨークもそうでした」
「ニューヨーク?」
「ええ、去年行ったんです。立派な建物がたくさん出来てました」
「そう」
「きっと、あの『戦争』に巻き込まれた都市は、みんな同じなんじゃないかしら」
「...」
あの、信じられない恐怖から逃れたい。
きっと世界中の人々がそう思っているのではないか。
けれど...。
「でもね」
「...はい」
「本当に忘れてなかった? あの『戦争』の事」
「...」
「ヤマトに居てすら、ややもすると忘れちまう。喉元過ぎれば、なんとやら」
「そうですね」
「ホント、死んでいった人たちは浮かばれないよね」
「...」
「ああ、しかしニューヨークかぁ。うらやましいなぁ。観光ですか?」
「いいえ、仕事でした」
「仕事でも良いじゃないですか。田舎者なんで、海外なんて行った事無くてね」
「そうなんですか」
「どんな関係のお仕事なの?」
「...」
「あ、いや、別に無理に聞く気は無いんですけどね」
「いいえ、ちょっとショックなだけ」
「ショック?」
「ちょっとは有名になれた気はしてたんだけどなァ」
「有名? あなた、芸能人か何か?」
「ええ、まぁ」
「申し訳無いなぁ。わからなくて」
土橋は、ルームミラーで、こちらを凝視した。
「いいえ、私なんて、まだまだという事です」
「ははは。申し訳無い。名前を教えて下さいよ。仲間に自慢しますから」
「自慢になるかしら」
「さあ」
「あ、ひどいなあ。私、保田圭っていいます」
「えっ。保田圭って、歌手の?」
「ええ。あ、知ってます?」
「ああ、それでニューヨーク。復興祭も。どっちもネットラジオで聴いてましたよ、生で」
「えー。本当に?」
「本当に。いつも運転しながらでラジオばっかりだから、顔は覚えられなくてね。そうですか、あなたが」
「自慢になる?」
「そりゃあ、もう」
「なんだか私、ちょっとへこんでたんだけど、土橋さんのおかげでちょっと元気になれたわ」
「それはそれは」
「土橋さんねぇ、私の知り合いに似てるの」
「へぇ」
「その人も、相手が誰であれ言いたいこと言って、しかも、すっごい毒舌で...」
「おいおい」
「でも物知りで、正義感が強くて、いろんなことに絶望してるけど...」
「...」
「でも、希望を捨ててない」
「ははは、そんな大したもんかねぇ」
土橋は、少し照れたような顔をした。
「で、俺に似てるっていう、そのおっさんは、どういう知り合いだね?」
「おっさんじゃないわ」
「ん?」
「24歳の女の子」
その答えが余程おかしかったのか、その後ずっと土橋は笑い続けた。
「そりゃひでぇ、可哀想に、あんまりだぁ」
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
タクシーは、一軒のログハウスの前の道に止まった。
そこが、目的地だった。
「ちょっと見てきなよ。もし留守だったら会社に掛け合ってタダで乗っけて帰ってあげるから」
土橋はカードで精算しながら、そう言ってくれた。
しかし、その必要は無かった。
土橋もすぐ、ログハウスの入り口にいる小柄な人物に気付いた。
「あの人かい」
「ええ」
「そいつは良かった」
「それじゃ、俺に似てるっていうオヤジギャルによろしくね」
「どうもありがとう」
とうに忘れ去っていた大昔の流行語を残し、土橋のタクシーは走り去った。
旅行鞄を持って、ログハウスの入り口まで歩いた。
その間、矢口真里は、まるで人形のようにじっと動かないままだった。
矢口は、まるで時が止まっているかのように変わっていないように見えた。
相変わらず小柄で、歳よりもずっと若く見える。
化粧っ気は無く、ブルゾンとジーンズを着ている。
髪だけは、見慣れていた金色から、本来の黒に戻していた。
「久しぶり」
ようやく矢口の目の前にたどり着くと、そう声をかけた。
ただ、感謝と謝罪の言葉を伝えられればいい。
それを矢口がどう感じようと、別に構わない。
そんなふうに思っていたはずなのに、懐かしい顔を見たとたん、暖かい言葉を期待していた。
けれども矢口は、ただ呆然とこちらを見つめ続けるだけだった。
まるで亡霊でも見ているかのように。
やがて、なんとか聞き取れるような小さな声で、呟くように言った。
「何しに来たの?」
#26
「タクシー帰っちゃったし、今夜は泊めてね」
返事も待たずにずかずかと上がり込むのを、矢口はただ眺めていた。
矢口のログハウスは、別荘としては小さな物なのだろう。
それでも、一人で住むには、充分な広さのようだった。
部屋は二つしかない。
ひとつは暖炉付きのリビングで、随分と広い。
機能的に見えるキッチンが付いている。
キッチンの隅にある金属の扉は、大型の冷蔵庫のようだ。
部屋の真中には、木製の丸テーブルがある。
椅子は一脚しかなかった。
もうひとつの部屋は、寝室だった。
きちんと片付けられたシングルベッドとクローゼットの他は、何も無い。
バスルームとトイレは、ユニット化された簡素な物が据え付けられている。
無遠慮に家中を見て廻るのを、矢口は玄関のドアに寄りかかって眺めていた。
「優雅だねぇ。こんなところに一人暮しなんて」
そう言ってはみた。
しかし、実際はあまりにもさっぱりし過ぎていて、何か異様な感じがしていた。
とても女性の一人暮しには見えなかった。
「椅子無いの? 椅子椅子っ」
相変わらず黙ったままの矢口が、寝室のクローゼットの中から椅子を出してきた。
クローゼットの上の方にある物を取る時に使っているのだろう。
「あ、私やるよ」
小さな矢口には、椅子一つ運ぶのも大変そうだったので、慌てて手を出した。
椅子を向かい合わせて置いて、それに座った。
少し躊躇してから、矢口も向かいに座った。
それからしばらくは、愛想笑いばかりしていた。
他愛の無いおしゃべりは、ずっと空回りした。
矢口は、相槌さえ打たずに虚ろにただ見詰め返しているばかりだった。
当たり障りの無い話題は、すぐ尽きてしまった。
沈黙が怖くて、切り出した。
「ねえ、矢口。今日はね、謝りたくて来たんだ」
「...」
「あんた、私が入院した時、お見舞いに来てくれたじゃない。でも私、麻酔から覚めてなくて」
「...」
「その後、連絡取れなかったからさ。ずっと気になってたんだ」
「...」
「ありがと。来てくれて。ごめんね。眠ったままで」
矢口は、返事もせずに沈黙を守り続けた。
「ねえ、矢口」
「...」
「もし答えたくなければいいんだけどさ」
「...」
「どうして、ここに一人で住もうと思ったの?」
言葉を選んで怖る怖る訊いた。
訊いてはみたが、きっと答えてはくれないだろうと思っていた。
けれども矢口は、すぐに答えた。
ぽつりと呟くように言った。
「あたし、裏切られたんだ」
「裏切られた?」
思ってもみなかった答えに、驚いて問い返した。
「誰に?」
「...」
矢口は、また黙り込んだ。
じっとこちらを見つめたまま。
しかし、ずっと無表情だった彼女の顔が、微かに何かの感情を示していた。
それが怯えである事に気付くのに、しばらく時間がかかった。
矢口は、怯えていた。
「矢口...」
バイタリティの塊。
いつも、小さな身体に収まりきらないエネルギーを持て余している。
そんな記憶の中の矢口と、目の前にいる彼女は、あまりに違いすぎていた。
締め付けるような沈黙が続いた。
これ以上、苦しめてはいけない。
追い詰めてはいけない。
こんな話題を終わらせなければならない。
そう思っても、避けて通る事は出来なかった。
どうしても知りたかった。
何が自分から、この大切な友人を奪い去っていったのかを。
「矢口、お願い教えて」
「...」
「誰が、裏切ったの?」
矢口は、ただじっと見つめ返すばかりだった。
まるで人形のように。
けれども、やがて諦めたように、口を開いた。
全ての神経を耳に集中しなければ聞き取れないような、小さな声だった。
「何て事、無い話だよ」
「...」
「別に気にしてなんて無かった」
「...」
「ちょっとした小さな裏切り。ひとつひとつは」
「...」
「でも、そんな事が何度もあった」
「...」
「そのうち周りに、信じられる人が誰も居ないって気が付いたんだ」
「...」
「あの時、圭ちゃんが寝ててくれて良かったよ」
「...」
「あたし、あの時きっと、ちゃんとさよなら言えなかった」
途切れ途切れに、とても小さな声でそう言った。
そしてまた、黙り込んだ。
沈黙が続いた。
絡まない視線で、どのくらい見詰め合っていただろう。
再び人形のようになってしまった、虚ろな矢口と。
どうすれば良いのかわからずに、狼狽する自分と。
「ねえ、矢口」
「...」
「私は裏切ったりしないよ」
「知ってるよ!」
矢口は大声で怒鳴った。
突然の事に、椅子から飛び上がらんばかりに驚いてしまった。
それを無視して、矢口はヒステリックにまた怒鳴った。
「圭ちゃんがそんなヤツじゃ無いって事くらい、わかってるよ!」
「矢口...」
「でも怖いんだ...」
「...」
「怖いんだ」
小さく呟くと、矢口は席を立った。
逃げ出すようにテーブルを離れ、よろよろと窓際まで歩いて背を向けた。
立ちあがって、足音を忍ばせるようにして矢口に近付いた。
繊細な硝子細工に触れる様に、そっと肩に触れた。
矢口はびくりと身を固くした。
ゆっくりと、こちらを向かせた。
上目遣いに見ているその目は、やはり怯えていた。
壊れてしまいそうに弱々しかった。
矢口は震えていた。
どうして良いかわからずに、抱きしめた。
そっと包むように。
壊してしまわぬように。
けれども、そうされる事すら、今の矢口には苦痛なのかもしれなかった。
矢口は声を押し殺して、すすり泣いていた。
小さな裏切りと矢口は言った。
けれど、きっとそれは嘘だ。
普通なら、堪え難いような裏切り。
それが立て続けに矢口を傷付けた。
矢口はとても強いから、ずっとずっとそれに耐え続けて来たのだろう。
そして、とうとう堪えられなくなってしまった。
信じていた者たちに、何度も裏切られた。
裏切られるのが怖くて、全てから逃げ出してしまった。
そうに違いない、と思う。
側に居てあげたかった。
側に居なければならなかった。
知らなかった、という言い訳は通用しない。
知るべきだった。
知らなければならなかった。
彼女の友人だというのならば。
どう後悔しても、追いつかない。
矢口真里は、苦しみ、哀しみ、傷付き、こんなにも疲れ果ててしまった。
かける言葉すら見つからないまま、ただそっと抱きしめ続けた。
腕の中で震えて泣き続ける彼女が、見かけよりもずっとずっと痩せてしまっている事に気付いた。
「飲むのだぴょ〜〜〜ん」
「きゃははは、違う違う」
「え〜〜〜。こんなんだったよぉ」
「違うって。もっと足をこう...。あれ?」
「出来てないじゃん」
「あれぇ?」
「出来てないよ、矢口」
「おかしいなぁ」
「体固いねぇ。年には勝てないねぇ」
「え〜〜〜。あたしまだ二十代なのにぃ」
「おっ。この期に及んでケンカ売るか、こら」
「やるかっ」
「やるかっ」
「お昼やっすみぃ〜」
「だからぁ、違うって」
「違わないでしょ」
「違う違う」
「飯田圭織は、こうでしょ」
「あ、それなら正解」
「ひっどおい、矢口」
「ひっどおい、圭ちゃん」
「せいっしゅん〜っのイロハっ、かっなっでっよおっ」
「矢口、違〜う」
「合ってる。ぜ〜ったい、合ってる」
「ダメダメ、全然ダメ」
「どこがよぉ」
「そんなにちっちゃいプッチはいない」
「にゃ〜にぃ〜お〜」
「いたたた、おしり打ったぁ」
「もう、飲みすぎ矢口」
「まだまだまだまだ、飲むぞぉ〜」
「はいはい」
「はい、イッキッ」
「あたしかいっ」
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
夜明け近くまで、二人で飲んで騒いだ。
同じベットで目覚めると、もう昼近くになっていた。
二日酔いのひどい顔を、お互いに指差して笑った。
十代の女の子のように、じゃれあってブランチを作って食べた。
ヤマトシティのゲートまで、矢口が車を出してくれた。
これから一緒に旅行に出かけるみたいに、はしゃいでおしゃべりをした。
けれどもいつしか、二人とも口数は減っていった。
ゲートのロータリーに着いた時には、黙り込んでいた。
「じゃあ、また遊びに来るね」
そう言うと、矢口は何かを言おうとした。
何を言いかけたのかはわからない。
何も言わせないように、ふざけたふりをして矢口を抱きしめた。
両手で髪をくしゃくしゃにした。
「そんじゃあ、お邪魔さぁん」
そんなふうに、笑顔で別れた。
無理矢理に、笑顔で別れた。
++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++ ++++++++++
立ちあがる事すら出来ないほど疲れ果てた者は、どうすれば良いのだろう。
友人を苦しみから救いあげる力を持たない者は、どうすれば良いのだろう。
今夜もヤマトシティは、美しい光に包まれる。
哀しい現実は、追いやられて闇の中にうずくまる。
けれども、それが現実である以上、決して消え去る事は無い。
どんなに目を背け続けたとしても。
[unfinished]
おまけ
#Sukatan Episode "Battle"
2011年、ついにエイリアンが再び現れた。
エイリアンは圧倒的に強かった。
マシンガン・チャーミー率いるバンディット団の強襲も失敗に終わった。
警察も、自衛隊も、多国籍軍も、ヒーロー戦隊もかなわなかった。
ましてや、湯けむり探偵・加護には成す術が無かった。
人々が絶望した時、巨大な人影が現れた。
それは、娘。解散以後も欲望のままに喰らい続け、巨大化した辻希美だった。
辻は空腹で不機嫌だった。
腹立ちまぎれに必殺の張り手をくらわした。
エイリアンは堪らずに、ひしゃげて潰れ、崩壊した。
日本中が、世界中が歓喜した。
辻は、名誉都民になった。
国民栄誉賞とノーベル平和賞も受賞した。
しかし何よりうれしかったのは、お礼に贈られた大型タンカー一杯の世界のおいしい食べ物だった。
めでたし、めでたし。
はい、おしまい。