〜You and I〜
―You and I,DREAM A LITTLE DREAM OF ME.
-1-
都内某所のコンビ二。夕方6時、この時間帯は近くの学校帰りの学生たちが、集まってる。レ
ジは休みな動く。そのレジを扱う少女は2週間前に入ったばかりだ。だが、ごったがえす客に
慌てることもなく、ただ機械的に仕事をこなしていた。そのうち客足が途絶えるとレジをほかの
店員に任せ、弁当類の入れ替えを始めた。少女は腕時計を見る。あと1分で7時だ。7時。そ
の時、自動ドアが開いて一人の少女が入ってきた。長身でスタイルもいい黒髪の美少女だ。
「(…また?)」
弁当を代えながらため息をつく。ここ一週間、その美少女は毎日やってくる。しかも絶対に彼
女の周りをうろつくという奇妙な行動を取るのだ。少女はそれが不思議でそれでいて怖かった。
そう思いながら仕事をしてると案の定、美少女は来た。ただいつもと違ったのは…
「石川先輩?
ですよね?」
-2-
そう聞かれた瞬間、石川は血の気が引いていくのを感じた。鼓動が激しく鳴る。目の前が真っ
白に…なる。
「…川さん…し…川さん。石川さん!」
店長に呼び起こされて気がついた。弁当コーナーのまん前でおよそ1分ほど気絶していたらし
い。起きて周りをうかがうが、先ほどの少女の姿はすでになかった。
「大丈夫かい?
なんなら帰ってもいいんだよ。」
「いえ、大丈夫です。すいませんでした。」
そういって石川は仕事に戻った。少女の着ていた学生服で彼女は不安を覚えた。
―夜10時、仕事を終えて店を出ると、止めておいた自転車にまたがり石川は家路についた。
しばらくこいでいるとマンションが見えてきた。彼女はこの春から実家の神奈川を離れて都内の
通信制の高校に通っている。彼女の両親は最初はいい返事をしなかったが、最終的には彼女
の意見をのんだ。それは両親に「ある自負」があったからである。彼女は中学3年の頃に「傷」を
負ったせいで病気になってしまったのだ。それをわかってあげられなかったというのが、申し訳
なかったのだ。そんなわけで両親は判断を彼女に委ねた。彼女自身で「傷」から立ち直ることを
期待したのだ。
-3-
だが治りかけていたはずの傷は、思わぬところで開きかけていた。
「(…あの子。私を知ってる。)」
コンビニでの出来事を思い出しながら彼女は、オートロックを解除して自分の部屋に帰っていっ
た。
―夢。いや、「傷口」だ。外の闇に包まれる部室。そこの窓から見えた満月。ただの獣の目にし
か見えない中年の男の目。信頼してたはずだった。押さえつけられる両腕。ふさがれる口。乱
暴に身体を舐め回す舌。それと同時にかかる荒い息。押し込まれる指先。男の耳に噛み付く自
分。男から逃れる自分。逃げる。いつもは恐怖を感じさせる闇が彼女を包み隠す。包み隠す。
「!」
時計は朝の4時を回っていた。着ていたTシャツが寝汗で濡れる。夢の余韻に嗚咽する。こみ上
げてくるものを抑えられずにトイレで吐く。服を脱ぎ捨て生温いシャワーを全身に浴びる。鏡の前
に立つ。やせ気味の身体。そのくせ乳房はふくよかだ。嫌悪感が襲う。昨日のあの少女との出会
いは確実に「傷」をひろげた。だが不思議と怒りはなく、ただ恐怖感が彼女に巣食った。
「…恐い。」
-4-
その日の夜10時すぎ、石川はコンビニのバイトを終えてマンションに戻ってきた。自転車を置
きマンションの入り口に向かうと、さっきはなかった人影が見えた。思わず警戒する。恐る恐る
見てみると…「あの」少女だった。少女が石川に気づいて駆け寄ってきた。その呼吸は、なぜか
乱れていた。石川は恐る恐る少女に聞いた。
「……どうして、ここが?」
「ハァ、ハァ…追っかけたん…ハァ…ですよ。」
石川は驚いて目を丸くした。
「何で…そうまでして…。」
荒くなった呼吸を整えて少女は言った。
「…どうしても、確かめたかったんですよ。あなたが…石川梨華かって…。」
「…どうして?
…あなた一体、誰なの?」
そういうと少女は少し顔色を曇らせた。
-5-
「…覚えて、ないんですね…。」
石川は静かにうなずく。
「神奈川の中学…通ってましたよね。今、私そこの3年なんです。…吉澤っていいます。」
『神奈川の中学』その言葉に石川は大きく動揺した。「傷」の原因になった『神奈川の中学』に通
っていたあの頃…。身体が震え、再び吐き気が彼女を襲う。口を抑えて嗚咽を止めようとするが
「恐怖」がそれを止めさせない。吉澤は石川を心配して手を伸ばし触れようとした。
「!
…大丈夫ですか?」
「…っ! 触らないで!
お願い!」
吉澤の手を振り払って石川はマンションに入り自分の部屋に戻っていってしまった。
「先…輩…。」
吉澤はただ呆然とすることしかできなかった。
-6-
吉澤を振り払ったあとのことが思い出せない。あのあと石川は、結局吐いてシャワーを浴びて
夢も思い出せないほど深い眠りについたのだ。せっかく戻りかけていた体重を二日で5キロも
落とした。起き上がった石川は、時計を見る昼の12時を少し回っている。およそ半日も寝たこ
とになる。
「(…お腹すいた。)」
そう思い冷蔵庫を覗いてみるが何もなかった。
「(せっかくの休みだっていうのに…。)」
ため息をつきながら財布を取り出し彼女は買出しに出かけた。買い物をしながら吉澤のことを
思い返した。
「(私と同じ中学の後輩かあ…。でも私はあの娘を知らない。覚えてないだけ?)」
そうこうして買出しを終え、再びマンションに戻ってきた。メールボックスを開けるとダイレクトメ
ールがたまっていたため床一面に散らばった。慌てて片付けていると一枚の名刺ぐらいの大き
さの紙が混ざっていた。見ると、(090−○○○○−○○○○ 吉澤)
と書かれていた。石川は
とりあえずそれを財布に入れておいたがかけることはなかった。
-7-
あの日以来、吉澤はコンビニにもマンション前にも現れなかった。彼女が現れなくなってから2
週間ほどたった日曜日。石川は公園で散歩をしていた。たまにはこういうことでもしていないと
余計なことまで考えてしまうからだ。公園内をひとしきり歩いて木陰になっているベンチを見つ
けて座った。さすがに日曜ともなると老若男女のカップルや子どもを連れた家族が多く見られ
る。若いカップルを見ながら石川は、もしかしたら存在していたかもしれない自身の未来を重
ねた。でも、今の彼女にはそれは困難だった。彼女は人に触れることができないから…。恐い
のだ、触れられることが…。そんなことを考えていると急に辺りが暗くなった、おそらく通り雨だ
ろう。石川は慌てて家路についた。と、その時石川の頭上に傘がかかった。驚いて見ると吉澤
だった。
「…あ。」
「2週間ぶりですね、先輩。送りますよ。」
石川は断る理由もないし、吉澤の笑顔に負けて素直に送ってもらうことにした。
-8-
歩きながら二人は全く言葉を交わさなかった。何を話せばいいのかもわからない。結局互いに
一言も出ないままマンションが見えてきた。石川は歩いてる最中もずっと下を向いていたのだが
マンション前にさしかかったときにはじめて吉澤のほうを見た。
「!」
「…どうかしました?」
吉澤は体半分を雨でぬらしていた。吉澤は石川に気を使い石川の全身が入るようにしたため自
分の体を半分外に出していたのだ。
「ご、ごめんなさい。私…」
「あ、謝らないでください。たいした事じゃないですから。」
「ううん、せめて服だけでも乾かしてって…。」
そういって石川は吉澤に嘆願した。吉澤は下手に気を使わせたくないためためらった。
「いや、ホント…。大丈夫ですから。」
「…お願い。」
「……。」
「……。」
吉澤は結局石川に根負けして素直に従った。
-9-
「8Fだから…。」
「えっ?
乗らないんですか?」
エレベーターの前で、吉澤は石川に聞き返した。
「うん。密室…ダメなんだ。」
そう言って階段の方へと石川は向かった。吉澤は、歯がゆくなり石川を追いかけた。
「無理に合わせなくてもいいんだよ…。」
「大丈夫ですよ。これぐらい平気ですよ。」
そうこうして8Fにつき、石川の部屋までやってきた。かぎを開けて石川は吉澤を中に通した。
「どうぞ。」
「あ、おじゃまします…。」
通された部屋は2LDKで狭くはなく、家具は最低限のものしか置かれていない。リビングには
TVや電話そして小さなテーブルが置かれていた。いたってシンプルだ。石川は隣の部屋から
大きめのTシャツとジャージを持ってきて吉澤に渡した。
「乾かしてる間は、コレ着てて。じゃ、お茶入れるから…。」
「あ、ハイ。」
そう言って吉澤は石川に見えないように素早く着替えた。少しすると石川が、お茶を持ってきた。
-10-
「紅茶、飲める?」
「あ、ハイ。」
石川はテーブルにお茶を置いて、クッションを取り出して吉澤を座らせた。
「じゃ、コレ乾燥機にかけてくるから…。」
「あ、ハイ。」
石川が乾燥機の方へ行っている間に、吉澤は思わず大きくため息をついた。
「(何、緊張してんだろ…。さっきから同じ返事ばっかだし…。)」
それをほぐすために紅茶にガブついた。
「今、かけてるから…。」
そう言って石川が戻ってきて吉澤の前に座った。沈黙。部屋に乾燥機の音だけが響く。
「ゴメンね…。」
「えっ?」
「電話番号入れていったでしょ?
私、かけなくって…。」
「…あ。いや、こっちこそできすぎた真似しちゃって…。」
再び沈黙。少し間を置いて石川は、恐る恐る聞いた。
「……私のこと、どこまで知ってるの?」
-11-
「えっ?
どこまでって…。」
不意の質問に思わず吉澤は戸惑った。
「答えて!」
思わず声が高くなった。石川はハッとして顔を伏せた。しばらくの沈黙のあと、吉澤は口を開い
て話し始めた。石川はそれを聞いた。
「…初めて、初めて先輩の事を知ったのは、私が中1の頃、だったかな…。夏のテニスの地区
予選でウチの学校が、10年ぶりに全国大会にいけて、それで優勝まではいかなかったけどベ
スト8ぐらいまでいって…。先輩、表彰されてたじゃないですか。それで知ったんです。」
石川は記憶の糸をたぐるようにそれに聞き入った。それを見て吉澤は再び話しはじめた。
「それ以来、自分の部活の終わりにちょこちょこ見に行ってました、先輩のこと。なんていうか…
気になっちゃって、先輩一人で残って練習してましたよね?」
「見てたんだ…。」
石川は恥ずかしそうに言った。しかしそれを聞いて「ある不安」に襲われもした。
-12-
「ハイ、こっそり…。大会が終わってもほとんど練習してましたよね?」
「うん、なんか次の年で最後だったし…。前のより成績落としたくなかったし、もっと巧くなりたか
ったから…。」
「そういうわけで、秋、冬、そして次の春って先輩のことほぼ毎日見てたっけ…。なんか、私、バ
レー部だからテニスの事よくわかんないんだけど…。なんか、惹かれていたのは確かですね。」
「そう?」
「ハイ、だから…だから先輩が最後の夏の大会でられなかったのは、残念だったかな…。」
そう吉澤が言うと石川の表情は沈んだ。そして「傷」がまた開こうとしていた。だが石川はそれを
覚悟していた。こうなることは覚悟して今こうしているのだ。話を中断している吉澤に続けるよう
に言った。
「確か、体壊しちゃったんですよね。大会の日の直前頃に…。」
「うん…。」
「傷」が再び開き始める。
-13-
―フラッシュバック。「あの満月」が彼女を見つめる。石川の体が震え始めた。やはり、「傷」を
抑えるのはまだまだ難しかった。吉澤が、そんな石川の異変に気づいた。
「…先輩?
顔色が悪いですよ。横になったほうが…。」
「えっ…。大丈夫、だよ…。」
声が震えてしまった。気分が悪くなってきたのも確かだった。吉澤は戸惑った。
「…もう、帰ったほうがいいのかな…一人のほうが楽でしょう?」
吉澤は気を使ったつもりだったが、石川は、吉澤に悪いと思い、引きとめようとしたができなか
った。
「ゴメン…ゴメンね。」
吉澤は、後ろ髪を引かれながらも帰っていった。石川は自分で自分が嫌になった。その日の夜
石川は涙が止まらなかった。
-14-
次の日、吉澤は部活に参加していた。だが、今いち乗らない。昨日のことが頭の中で反芻する。
そんな吉澤に、監督である教師から檄が容赦なく飛んだ。
「コラ、吉澤!
ちゃんと参加しろ!」
「ハ、ハイ!」
やれやれ、と思いながらも吉澤は再び練習し始めた。
「(先輩の顔…見たいなあ…。)」
そのころ石川は…コンビニでバイトに励んでいた。とりあえずは、バイトに集中することでイヤな
ことが忘れられる。今の彼女にとっては必要不可欠な時間なのだ。
「(昨日は、本当に悪いことしちゃったなあ…。)」
二人はお互いにそれぞれの時間を過ごした。
―夜。バイトを終えた石川は、帰るため自転車の鍵を解いてた。そのとき、声をかけられた。振
り向くと同じバイト仲間のシバタという青年だった。彼もこの春から、石川と同じくバイトで入ってき
た。大学生だ。背は170センチくらいで、見た目はそこらへんのちょっと軟派な感じの青年だ。石
川は無意識に警戒しながら返事をした。
-15-
「何ですか?」
「あっ、その…さあ。今、付き合ってるヤツとかいるの?」
それを聞いて石川はやな予感がしたが、逃げるわけにもいかないので、とりあえず正直に返事
した。
「いませんけど。」
「そ、そう?
じゃ、じゃあ…おれと、付き合わない?」
いやな予感が当たってしまった。困惑はしたが、あいまいに返事をするのも石川の性格上、許
さないのできっぱりと返事した。
「ごめんなさい。私、シバタさんとは付き合えません。」
「…そっか…。ま、仕方ないよな。うん、じゃ。」
そうやってシバタは帰っていった。石川はそれを見送り、自分も自転車にまたがり帰ろうとした。
その時、物陰に人の気配を感じた。見ると、吉澤だった。そんな彼女と目が合った。石川が声を
かけようと一歩踏み出した途端、吉澤はなんと踵を返して逃げていってしまった。
「待って!」
-16-
吉澤の足は速かった。いくら離れていたとはいえ、石川は自転車なのに追いつけないほどだっ
た。そんなこんなで結局、石川は吉澤を見失ってしまった。石川は、仕方なくとりあえず家に帰
ることにしたが、ひどく落胆した。その理由は、石川自身でも全くわからなかった。
「(どうして?)」
一方、なぜか逃げ出してしまった吉澤も、戻るわけにも行かず家に帰るため神奈川方面の電
車に乗っていた。
「(何やってんだろ、私。あ〜、自分にムカツク!)」
電車を降りたあとも、まして家についたあとも、吉澤の自身に対するムカツキは取れなかった。
「何故、逃げたのか?」それは吉澤自身もわからなかった。ただ、石川と目が合ったあの時、い
てもたってもいられないほどの「怒り」というか「嫉妬」にも似たような感情が彼女の中に、瞬時に
渦巻いたのだ。
「あ〜〜〜、もう!
寝よ、寝よ!」
そう一人で叫んで吉澤は部屋の電気を消し、布団をかぶった瞬間、ケータイが鳴った。
-17-
とりあえずディスプレイを、のぞいてみたが自分でかけたことはない番号だった。ただ、「03」か
ら始まっていたので、もしやと思い、出ることにした。
「…もしもし。」
【あっ…。】
「!
…先輩?」
受話器の奥で、漏れた声の特徴ですぐに石川とわかった。ただ、さっきのことがあった為か、な
かなかお互いしゃべり出せなかった。しかし、吉澤は自分で招いたことだ、と半ばやけ気味に石
川と話し始めた。
「先輩?
いっやあ〜、嬉しいなあ〜、やっとかけてきてくれたんですねえ〜。逃げた甲斐があっ
たってモンですよ〜、ハハ…。」
【……。】
どうやらハズしたらしい。再び沈黙が訪れる。吉澤は、落ち着いて再び話し始めた。
「…さっきは、逃げちゃってスイマセン…。」
【…ゴメン。】
「あ、謝らないでください!ホントに、悪いの全部、私のほうだし…。」
吉澤は心底、自分の行動に腹を立てた。自分だけならまだしも、石川をも混乱させているから
だ。吉澤は、大きく息を吸い、大胆なことというか突拍子な事を言った。
-18-
「今度の日曜どっか一緒に行きませんか?」
何言ってんだ?そう思いながらも、これは吉澤の素直な言葉だったりする。混乱した末に出た
言葉ではなく、前々から望んでいたことだった。
【…いいよ。】
「ほ、本当ですか?」
【うん、どこ行く?】
「えっ…うう、あ、えっと…。静かなところがいいなあ。」
【私は、公園でゆっくりお弁当でも食べながらお話したいなあ。】
「そ、そうしましょう。」
【お弁当は、私作るから。】
「えっ、悪いですよ。」
【いいの。私、お弁当つくるの好きだから。】
「…じゃあ、お任せします。日曜の朝10時に向かいに行きますから。」
【うん。待ってるから、じゃあ。】
そう言って石川が、電話を切った。吉澤はしばらく放心状態だった。喜びと戸惑いでボーっとし
てしまっていた。ただ、石川の声が、いつも以上に、弾んでいたのを思い出して、新たな発見
のようなものに心が躍ったのは確かだった。
「あんな風に、しゃべるんだ。」
-19-
―日曜日。吉澤は、約束どおり10時きっかりに石川のマンションに着いた。インターホンに番
号を入力して、呼び出しボタンを押した。しばしの間があって、石川が出た。
【はい?】
「あ、先輩?
吉澤です。今、下にいますから。」
【わかった。今、行くよ。】
1分ぐらいして石川が降りてきた。その服装は、いつものジーンズ姿ではなくて、白のワンピー
スというかわいらしいものだった。吉澤は思わず見入った。
「おはよう。じゃ、行こうか?」
「・・…。えっ、ああ、は、はい!
あっ、荷物持ちます。」
吉澤は、そう言って石川の持っていた2つの荷物のうちの重そうなほうをすかさずとって持つこ
とにした。
「あ、いいよ。重いよ。」
「大丈夫ですよ。体力には自信あるんで。」
「…ありがとう。」
「さっ、行きましょうか。」
二人は、とりあえず駅に向かい電車に乗って、隣町の公園に行くことにした。
-20-
電車に揺られて20分ほどで、二人は目的の公園についた。その公園は、広く一面が緑でサイ
クリングロードや湖もあった。二人はしばらく散策した後に、丘に登りそこに立っている大きな木
の陰にシートを広げて腰を落とした。しばらく風にあたって二人は黙っていた。そんななか、石川
が口を開いた。
「…ちょっと早いけど、ごはん食べようか?」
「そうしましょうか。」
吉澤は、そう言って体を起こした。石川は、大き目のランチボックスを開けて弁当箱を出し始め
た。一面に並べられた弁当の中身は、見た目も色使いも大変よく吉澤は目を丸くして感嘆した。
「うわあ〜〜。すごいっすね。おいしそ〜。」
「口に合えばいいんだけど…。」
そう言いながら石川は紙皿と割箸を吉澤に渡した。吉澤はいくつかのおかずをそれに盛って食
べた。
「…どう?」
「おいしいですよ。」
吉澤の返事は、あっさりしていたが箸が進んでいる様子を見て、石川はそれがうそでないとすぐ
にわかった。石川も食べ始めた。食べながら二人はわずかではあったが会話を楽しんだ。少し
早めの昼食は、二人の空腹だけでなく心も満たしていった。
-21-
昼食を済ませた二人は、しばらく公園内の人々を、目で追っていた。ちょうどその時、ベンチに
座っていた一組のカップルが、いちゃつき始めたため、2人はなんとなく気まずくなってしまった。
吉澤が苦笑いをしながら石川のほうを向いた。
「…場所、変えましょうか?」
石川はそれに静かに頷き、二人は立ち上がり荷物をまとめて再び公園内を歩き始めた。しかし
休日ということもあってか、なかなか人の少ないところが見つからない。その時、吉澤はボートに
目をつけた。
「先輩。ボート乗りませんか?」
「えっ?
でも、私漕ぐの下手だし…。」
「私が漕ぎますよ。結構、得意なんです。行きましょう。」
「うん。」
そうして二人は、ボート乗り場に行き、ボートに乗り込むことにした。吉澤が荷物を持って先に乗
り込む。吉澤は、一瞬石川に手を伸ばしかけて、引っ込めた。石川は他人に触れられるのが苦
手だというのを身をもって経験したからだ。なので、できるだけボートに乗りやすいように努めた。
石川は、その気使いに感謝したが、そんな自分が嫌にもなった。そうこうして2人は、なんとかボ
ートに乗り込んだ。吉澤は、漕ぎ始めた。
-22-
しばらく漕ぎつづけて大体、湖の真中らへんについてとりあえず吉澤は漕ぐのをやめた。
「ふう。よいしょっと。」
「…漕ぐのうまいね。私なんて腕力ないから…。」
「コツさえ掴めばこんなの楽勝っすよ。」
2人は、しばらくそんな会話を続けていた。石川が、何気に湖に手を入れて水の冷たさを感じて
いる。そんな石川を、眺めて吉澤はそっと石川に聞いた。
「…先輩。この前の続きなんですけど…その…先輩、中3の夏ぐらいから学校来なくなりました
よね…。どうしてですか?」
聞くべきではなかったかもしれない。吉澤は言葉を出した後に、遅すぎる後悔をした。石川の表
情が曇っていくのが手にとるようにわかった。
「……それは。」
石川は言葉に詰まった。今の事態はある程度予想はしていたが、やはり現実のものとなると行
動に移すのは困難だ。
「病気に…なっちゃったの…。それは、知ってたんだっけ?」
「ハイ…。入院してたんですよね…。」
「どんな病気か、知りたい?」
まっすぐでそれでいて酷く潤んでいる石川に見つめられ思わず吉澤は固まってしまったが、静か
に頷いた。知らなければ前には進めないのだ。
-23-
「私さ…あの時、拒食症になっちゃったんだ。程度は低かったけど…。」
「…そう、だったんですか…。ごめんなさい、思い出させて…。」
「いいの!
謝らないで…こうでもしていかないと、前に進めないような気がするの、だって家族
にだってまともに話さなかったんだもん…。」
それを聞いて吉澤は驚いた。そして今生まれた疑問をすぐさま石川にぶつけた。
「家族には、まともに話していないのに…私に話しちゃっていいんですか?
私なんかに…。」
吉澤は言葉に詰まった。また空気がおかしくなっていく。石川は再び口を開いた。
「わからない…。でも、あなたなら…。」
石川はそれ以上は、何も言わなかった。
「もう、帰りましょうか。」
吉澤は、ボートを漕ぎ始めた。そうして二人は公園をあとにした。帰りの電車では一言も発っせ
なかった。そうこうして石川のマンションまで戻ってきた。石川が玄関に向かって歩き始めた。
「…先輩!」
「何?」
「また、どこか行きましょう。」
石川は言葉は発さなかったが、笑顔でそれに頷いた。
-24-
卒業式の終わった後の体育館。椅子とかはそのままだ。校長先生が壇上に立っている。一人
の生徒がゆっくり壇上に上がってきた。その顔は少しだけやせこけていた。校長先生がその人
に卒業証書を渡した。それをもらうとその人は振り返って出口に向かって歩いてきた。私は出口
の外側にいる。出口を開けてその人が出てきた。私はその人に言葉をかけた。
「卒業おめでとうございます。」
その人は私に気づくとびっくりしてそそくさと玄関のほうに向かっていってしまった。その人は…
先輩は、あの時の事を覚えていない。でも私は忘れない。忘れられない。何故だかはわからな
いけど……
「んっ…。」
吉澤は目を覚ました。
「懐かしいなあ…。」
そう1人でつぶやいて、吉澤は起きた。昨日は、石川と初めて出かけた。後味の悪いこともあっ
たが最終的には、またどこかに行く約束ができたので吉澤は満足できた。が、やはり石川の過
去について踏み込むべきなのかどうかがわからなかった。ただ、家族に話せなかった事を自分
に話してくれた石川……
「(私、先輩の力になれるのかな…。)」
吉澤は、そう思いながら学校へ行く準備を済ませて家を出て行った。
-25-
初デート?をしてから3日後の夜。吉澤のケータイが鳴った。石川からだ。
「もしもし。」
【こんばんわ。今いい?】
「はい。」
【日曜日、空いてる?】
「はい。」
【もし良かったら映画でも行かない?】
「はい。いいですよ。じゃ、また前みたいに迎えに行きますから。何時に行けば?」
【前と同じく10時に来て。】
「はい。わかりました。じゃ、日曜日に。」
【うん、待ってるから、それじゃ。】
「はい。」
会話自体はあっさりしてたものの吉澤は、内心むちゃくちゃ嬉しかった。なぜなら石川のほうか
ら積極的に誘ってきてくれたからだ。吉澤は枕に顔をうづめた。
「くうぅ〜〜〜〜っ!
先輩…カワイイ!」
-26-
―日曜日。天気はあいにく雨だが、もちろん吉澤は気にしない。前と同じように石川のマンショ
ン前に来た。石川はすでに玄関前で待っていた。一週間ぶりでも、吉澤には、それがひどく長く
感じた。
「先輩、おはようございます。」
「おはよう。じゃ、行こう。」
「は〜い。」
二人は、傘をさしながら並んで歩いた。とりあえず目的の映画館につくまでちょっとだけではあっ
たが会話をしたりもした。そうこうして、映画館についた。リバイバル上映の作品のためか映画
館の中の人の姿はまばらだった。二人は最前列より少し後ろの中央に並んで座った。しばらく
すると、明かりが落ちて映画が始まった。二人はすぐ映画に引き込まれていった。その映画は
そこらへんにありふれている恋愛物のそれとは一味違って吉澤もすぐ引き込まれていった。そ
うこうして映画が終わり、スクリーンが幕で閉じられ、館内に再び明かりが点いた。
「…おもしろいですね。私、普段あんまり映画見てないから、あんまし偉そうには言えないですけ
ど…。」
「私…映画館来たの久しぶりだったし…映画って好みがあるでしょ?
不安だったけど…そう言
ってくれると嬉しい。って私の映画じゃないんだけど。」
石川はそう言いながらテレ笑いをした。吉澤もそれにつられて笑顔になった。
-27-
二人が映画館を出ると雨がやんでいた。
「晴れましたね。」
「うん。」
「ゴハン、食べに行きましょう。」
「うん。」
二人はしばらく歩いてレストランに入った。店員に案内されて二人は席に着いた。すかさずメニ
ューを渡された。しばらく二人はそれを見た。
「何にしようかな〜。」
「うん。」
「…よ〜し決めた。先輩、決まりました?」
「うん。」
それを聞くと吉澤は店員を呼んだ。吉澤はオムライスを、石川はラザニアをそれぞれ頼んだ。
20分ほどして料理が来た。
「いただきま〜す。」
そう言いながら2人は食べ始めた。別にお互い食べることに夢中になっているわけでないのだ
が、どうにも2人とも料理を食べ終わるまで会話ができなかった。水を飲みながら吉澤がようや
く口を開いたがそれはホントにそっけないものだった。
「…そろそろ出ましょうか?」
-28-
レストランを出たあとも、2人はなかなか話し出せなかった。人間とはホントに不思議なところも
ある。さっきまでは順調に話せていたのに、今はこうだ。ここで下手に話そうとしても結果は目
に見えている。そのためなのか2人は、ますます態度が硬化していった。
「(う〜。話し出せない…。どうしてだろ?
私が、緊張しすぎてるからなのかな?
ホントは、もっと
先輩と話したいのになあ…。)」
「(自分から誘っておいて話さないなんて…。どうしよう、どうしよう…。)」
2人は、お互いに同じことで葛藤しながら街を歩き続けた。2人の葛藤は続く。
「(…そういえば、私って…名前…呼ばれたことないよなあ。うう…なんか、ヤダ。名前、呼んで欲
しいなあ…。)」
そう思いながら吉澤は一瞬ではあったが、石川に視線を移した。
「(…あ、こっち見た…。どうしよう。やっぱり、私から話し掛けていかなきゃいけないんだよね…。)」
そんなこんなで2人は、歩きつづける。そしてようやく口を開いた。
「先輩。服、見ましょうか?」
口を開いたのは吉澤だった。
「(私ってダメだなあ…。)」
自分のふがいなさに、石川は苦悩した。
-29-
2人は、いろんなショップを巡った。キャミソールなど夏に向けての物を買った。ひととおり服を
見終わり、2人は雑貨屋に入った。その店には、アクセサリー類が所狭しと並んでいた。2人
は、それを丹念に眺めた。
「先輩、コレ似合うんじゃないんですか?」
「えっ?」
そんな石川に、吉澤はカチューシャを見せた。うさぎの模様が入っている。悪く言えば少々、子
どもっぽいかもしれない。が、吉澤の嬉しそうな顔を見て石川は、照れながらも、それを受け取
った。そして付けてみた。
「似合う?」
「(カ、カワイイ…。)」
そう思いながら吉澤は、首を縦に振って答えた。思わず頬が熱くなった。
「じゃあ、買おう…かな。」
「…あ、あの…私が買います。先輩に。」
「えっ?
いいよ、悪いよ。私のものより自分のもの買わなきゃ。」
「お願いです!」
吉澤は石川に懇願した。石川は、しばらくとまどったが、吉澤があまりにも必死なので結局折れ
た。吉澤は、それを清算して石川に再び渡した。吉澤の優しさというか自分への気遣いに石川
は、少々心が和んだ。
-30-
石川のマンションへの帰り道、会話は相変わらず乏しかったものの2人は、満足していた。別に
無理に会話を繕わなくてもいいのだ。石川は吉澤に対してそう思った。そして吉澤も同じくそう思
った。そうして、2人は石川のマンション前へと着いた。
「今日はホントに楽しかった。カチューシャ…ありがとう。嬉しかったよ。」
「私もホントに楽しかったです。…先輩。」
「ん?
なに?」
「あ…その…ま、また電話して誘ってください。もっと先輩とどっか行きたいんで。それじゃ。」
「うん、絶対に電話するから、じゃまた今度。」
「ハイ!」
吉澤は元気良く手を振って駅のほうへ向かった。吉澤は、石川の姿が自分の視界から消えるま
で手を振りつづけた。石川も手を振返した。石川はそんな吉澤に、また心を和ませた。吉澤は帰
りの電車で今日の余韻を楽しんでいた。でも、少々心残りもあった。
「(今日気づいたけど、私って、名前…呼ばれてないんだよなあ。ちょっと悲しいかも…。)」
石川は吉澤の名前を呼んだことはない。別に呼びたくないわけでなくただ単に、呼ぶ機会がない
だけなのだ。吉澤もそれはわかっているのだが、ちょっとブルーになった。
-31-
毎日が蒸し暑い。もう7月だ。映画を見に行って以来、毎週ではないが石川と吉澤は、暇を見つ
けては、ショッピングなどに繰り出していた。
「ふあ〜、暑いっすね。」
「うん。」
吉澤と石川は、そう言いながらベンチに腰掛けた。数えてみると今回で初めてのデート?から5
回目になる。相変わらず会話は少ない。それに最初のデート以来、石川の過去については話し
ていない。吉澤も聞きたくないわけではないのだが、今のこの関係が壊れるかもしれないのが、
非常に恐かった。石川は聞かれない限りは、話そうとしなかった。2人の関係はかなり微妙とい
えば微妙なのだ。
「先輩。夏休み入ったらもっと遊べますね。」
「うん。もっと遠いトコまで行ってみたいね。」
「遠いトコかあ…私は先輩と一緒にいれればいいんだけど…。」
「えっ?
なあに?」
吉澤が、少々口ごもったため石川は「一緒にいれればいい」が、聞き取れなかった。吉澤は思
わず出た言葉に、自分で恥ずかしくなってしまった。
「えっ?
な、なんでもないっすよ。(ついつい本音が…って、やっぱり私って先輩のこと…。)」
吉澤が石川に目を移すと、石川と目が合った。2人の視線が絡まった。
-32-
石川を見つめる吉澤。その吉澤を見つめる石川。二人は見つめ合ったまま視線を外すことが
出来なくなってしまった。互いに見つめ合う2人も街の中では、ただの風景の一つでしかなかっ
た。おそらく1分ほどその視線は、外れなかった。その時、吉澤の買った服が入っていた紙袋
が落ちた。その瞬間、視線は外され、吉澤は慌てて紙袋を拾い上げた。
「ハハ…。落としちゃったよ。」
ひとり言のように吉澤は言った。石川もなんとなく口を開いた。
「…そろそろ行こうか。」
「はい。」
2人は立ち上がって再び街の中を歩き始めた。
「(ふあ〜、たまたまだったけど…あんなに長い間見つめちゃったよ。顔、赤くなってなきゃいいん
だけど…。)」
「(あんなに見つめられたのってはじめてかも…嫌だったかな…。)」
相変わらず消極的に2人は、考えていた。性格のせいなのか。それともお互い嫌われたくないと
いう気持ちのせいなのか。おそらく本人たちすらわかっていない。いや、わかっていても案外、無
意識のうちにその考えを消してしまっているのかもしれない……
「(今日こそ歩を進めるべきなのかな…。)」
「(何だか苦しいな…。前に進みたい…。素直になりたい…。)」
-33-
2人は街中を歩く。時に足を止めてあーだこーだ言ってみたり、ここぞとばかりに吉澤もハジけ
て石川を、笑わせたりもしてみた。5回目のデートということもあってか、吉澤はかなり頑張って
石川を楽しませようと試みた。そんな吉澤にのせられてか石川も少しずつではあったが、口を
開く回数がいつもより増えていった。
「あ〜、先輩。ちょっと、お腹すきませんか?」
「う〜ん?
ちょっと、すいたかも。」
「ちょっと待っててください。」
吉澤は、そういって石川にいったん荷物を任せてクレープ屋の方へと走り出した。しばらく待っ
ていると、できたてのクレープを持って吉澤が戻ってきた。
「お待たせしました!
はい、ど〜ぞ。」
「ありがと。いくら?」
「なあ〜に、みずくさい事言ってんですか。おごりですよ、お・ご・り。」
「えっ、でも…。」
「心配しなくても、今度はじゃんじゃんおごってもらう気ですから。」
吉澤のそんな言葉に、石川は思わず吹き出した。今まで吉澤の前で笑ったことがないわけでは
なかったのだが、見せたことのないような笑顔に初めてなった。石川は、吉澤が今に自分にとっ
ては、とても大切な存在なのかも知れないという思いが、一瞬ではあったが頭をよぎった。
-34-
夕日があたりを真っ赤に染め上げた。吉澤と石川は、石川のマンションへと戻ろうとしていた。
「うわ〜、真っ赤っかだよ〜。明日は晴れですね。」
「うん。」
今日の吉澤と石川は、お互いいつもよりも別れるのが惜しくなっていた。具体的な感情ではない
のだが、確かに2人には何らかの感情が芽生え始めていた。
「じゃあ、また今度…あっ、そうだ。」
「なあに?」
「夏休み入る前に、部活の合宿あるんで…来週再来週は、お出かけ…出来ないんですよ…。」
「そう、なんだ…。でも、夏休み入れば、また会えるんでしょ?」
「もちろんですよ!
ただ、2週間も会えないのはちょっと寂しいかな…なんて。」
「…ねえ。」
「はい。」
「夏休み…どこ行きたい?」
「…ん〜〜〜〜。
(どーしよ、どーしよ。) …お泊り…。」
「えっ?」
「先輩の家、お泊りしてもいいですか?」
-35-
その日の夜、吉澤は自分の部屋のベッドで床につこうとしていた。そうやって今日の出来事を思
い返した。
「先輩の家、お泊りしてもいいですか?」
かなりの勇気を振り絞って吉澤は希望を口にした。正直かなり恐いものはあった。石川の自分
に対する思いというか、どこまでのものと思っているのか明暗がつくこともある種、意味するから
だ。吉澤の額がうっすら汗をかいた。その返事は、案外早かった。
「いいよ。」
「ほ、本当ですか?」
「うん。」
「(う〜〜〜〜。先輩、笑顔だったし、とりあえず嫌われてないんだよね。)」
相変わらず消極的な考えだったりするが、吉澤は純粋に嬉しかった。それ以外は、その時点で
は深く考えてはいなかった。考える余地もないほど舞い上がってしまったのだ。
一方、石川は……
-36-
床にはつかずに、取り込んだ洗濯物をたたんでいた。それでも思うのは、今日の出来事だが。
「(お泊りかあ…。初めてだなあ。妹みたいだなあ。)」
石川は吉澤を「妹」のように思っている。吉澤自身が聞いたら、どう思うかは定かではないが、
あまり素直には喜ばないのかもしれない。でも、石川にとっては必要であることは間違いがな
いのだ。
「よし、と。」
石川は洗濯物をたたみ終えると、電気を消して布団にもぐりこんだ。最近は、悪い夢も見なくな
った。吉澤のおかげなのだろうか。それは石川もなんとなく感じていた。
「(今年の夏は…楽しめそう。)」
石川はそう願いながら、ゆっくりと目を閉じた。
石川と吉澤。この2人は、間違いなくお互いを必要としている。本人たちに現時点での自覚はな
いが……
-37-
―7月下旬。吉澤は石川のマンションへと向かった。待ちに待った「お泊り」だ。この日を思えば
合宿なんて全然耐えられた。石川のバイトが終わる午後10時に合わせて家を出て石川のマン
ションに着いた。しばらく待っていると、遠くから自転車をこぐ音が聞こえてきた。石川だ。3週間
ぶりだっただろうか。吉澤は笑顔で駆け寄った。
「せんぱ〜い。」
「こんばんわ。
……待った?」
「いえ、今来たばっかです。」
「じゃ、入ろっか。」
「ハイ。」
石川が自転車を置いてくるのを待って、2人はマンションへと入っていった。石川が部屋の鍵を
開けて、先に吉澤を入れた。久しぶりの石川の部屋に、吉澤は心が躍った。
「(先輩のニオイだあ〜。)」
「なんか飲む?」
「あ、はい。いただきます。」
「ちょっと待っててね。」
石川はそう言って台所のほうへと向かいながら吉澤に声をかけた。石川も久しぶりに吉澤に会
えたせいなのか嬉しかった。ただ、この「お泊り」が2人にとって重要な転機になることをその時
点では、2人はわからなかったし、わかるはずもなかった。
-38-
2人は紅茶を飲みながら、3週間分の穴を埋めるように話し出した。2人っきりのせいだからで
あろうか。いつになく話が弾んでいた。ふと時計を見ると、もう午前1時を少し回っていた。
「…もう1時だ。」
「寝ましょうか?」
「あっ、お風呂入る?」
「あっ、先輩。先、どーぞ。」
「じゃ、布団出しとくから。」
そう言って石川は、立ち上がって隣の寝室に行った。吉澤も手伝おうと立ち上がってついていっ
た。寝室は、リビングと同じフローリング張りだった。立つとひんやりとした。それを足に感じなが
ら、吉澤は部屋を見回した。入って左のほうにベランダへ抜ける窓があって正面にはクローゼッ
トがあった。右のほうには押入れがあって石川は布団を出し始めていた。吉澤は慌てて手伝い
に入った。
「あっ、いいよ。1人でも大丈夫。」
「いいですってば。」
そう言いながら二組の布団を出し終えると、石川は浴室のほうへ行った。しばらくすると水のは
じく音が浴室から聞こえてきた。吉澤は布団に倒れこんだ。
「(…私、先輩のこと、やっぱり…。)」
-39-
「お風呂、空いたよ。」
「あ、ハイ!」
しばらくして風呂場から出てきた石川に声をかけられ吉澤は我に帰った。考え事をしてたせいだ
ろう。吉澤は浴室に向かった。ひととおり全身を洗い終えて、吉澤は湯船に肩までつかった。そ
れでも思い浮かぶのは石川ばかりだった。そんな自分を、吉澤は笑った。
「(ビョーキだね。恋の病だ…。)」
自分は石川が好き。それを、ようやく吉澤は素直に思った。
「お湯加減、良かった?」
「はい。」
わしわしと頭を拭きながら吉澤は答えた。そうしながらストンと石川の布団の隣の自分の布団
に座った。しばらく吉澤の頭を拭く音が部屋に響いたあとで、石川が言った。
「…じゃ、もう遅いし、寝ようか。」
「はい。」
石川が部屋の電気のスイッチに手を伸ばし明かりを消した。
「おやすみ……。」
「おやすみなさい、先輩……。」
2人は眠りに入った。しかし、吉澤は隣で寝ている石川が気になって、なかなか眠れそうになか
った。石川の顔を、ずっと見ながら吉澤は眠りに入っていった。
-40-
「…おはよう。朝だよ。」
「んっ……おはようございます。」
石川が布団の上から、肩を揺らして吉澤を起こした。朝から石川を見れて、吉澤は何だか妙に
嬉しくなった。とりあえず、顔を洗ってリビングのテーブルの所へ行くと、焼き魚・ご飯・味噌汁な
ど定番の朝食がすでに用意されていた。吉澤は、目を輝かせて言った。
「うは〜、スゴイっすね。おいしそ〜、いただきまぁ〜す。」
「どうぞ。」
石川も吉澤の嬉しそうな顔を見て、思わず笑顔になった。2人は、あっという間に朝食を平らげ
た。石川が食器を洗い始めた。
「あのぉ〜、手伝わなくていいんすか?」
「いいの、お客さんなんだから。」
石川は吉澤に背を向けたまま言った。その声は、嬉しそうだった。そんな石川の後姿を見て吉
澤は、「ギュってしたいなあ」と何度も思い、その衝動と戦いつづけた。石川と会って間もない頃、
何かに震える石川に触れようとした時、激しく拒絶された。おそらく自分に限ったことではないの
であろうと、吉澤はわかってはいたが妙に悲しくなったのは事実である。石川は他人に触れられ
たくないのだ。
「(どうして…なんだろう。)」
吉澤は漠然とそう思った。そして、なぜなのかを知りたくなった。
-41-
午前中は、ひたすら他愛のないことを話し合った。それでも吉澤には、十分すぎるくらい幸せだ
った。そう思っているから、余計に石川の気持ちというものが気になってしまうのも事実だったり
する。時たま、吉澤はそうやって考え込んでしまうためか、ついつい石川の顔を、見つめっぱな
しになってしまったりする。そんな石川と目が合ってしまうと、お互いしばらく沈黙が続いてしまう。
午前中は、そんな感じで過ぎていった。
お昼が近づき、お腹がすきだしてきた。石川が冷蔵庫を開けて声をあげた。
「あっ!」
「ど、どうしたんですか?」
「買出し…するの忘れてた。」
そんな石川に、吉澤はちょっと笑ってしまった。
「あ、もお〜。笑わなくてもいいじゃん。」
「す、すみません。つい…。
(かわいすぎだよぉ〜。)」
吉澤は顔を手で覆った。笑顔を隠すためでなく、赤くなってしまっている表情を隠すためだ。そ
れだけ、顔に出るくらいに反応してしまうのだ。
「…買出し、行きましょうか?」
「うん。」
そうして2人は、買出しに出ることになった。
-42-
買出しのため外に出た2人を、夏の日差しが照らした。
「うひゃ〜、あっついなぁ〜。」
「ホント……。」
2人はそう言って近所の大型スーパーへと向かった。スーパーの中は、冷房がきいていたが肌
寒いくらいだった。2人はカゴを取って買い物を始めた。
「お昼、何食べたい?」
「えっと、冷やし中華とか…麺類がいいっすねぇ〜。」
「そう。」
石川は生麺をいくつか取った。
「インスタントでもいいですよ、先輩。」
「いいの、作るのが好きなんだから。ね。」
吉澤の頬がカァッと熱くなった。吉澤は、そんな自分に少々呆れた。
「(…ハマリ過ぎだな…。ホント。)」
「どーしたの?
行こうよ。」
「あ、はい。」
吉澤は、少しだけ離れたところにいる石川を急いで追いかけた。そうこうして、買出しの時間は
過ぎて行った。
-43-
石川は慣れた手つきで、冷やし中華をあっという間に完成させてしまった。吉澤は石川の料理
の腕に、ただただ脱帽した。石川が完成した冷やし中華を、早速運んできた。
「いただきます。
(…お、おいしい。) うまいっす!」
吉澤は満面の笑顔で石川に言った。石川はその笑顔を見て、微笑み返した。
「ありがと。嬉しい。」
「ホント、先輩って料理うまいですね。私もたまにするんですけど、どうにもうまくいかないんです
よね〜、材料切るところから、すでにもうやばくて…。」
「私だって、最初はそうだったよ。でも、毎日の積み重ねだよ。…晩御飯、一緒に作ろっか?」
「はい!
是非是非。」
そうやって会話をしながら、吉澤はふっと思った。この雰囲気のまま過ごしていくか、それとも、
そのうち聞きたいことを聞いてみるか…。仮に聞いたとして、今のような状態に再び戻れるのだ
ろうか?
不安が大きく感じられた。
―夜が近づいてきた。
吉澤と石川は、昼間の約束どおり一緒になって晩御飯を作っていた。石川は、吉澤に丁寧に切
り方のコツなどを教えていた。
-44-
「こう…ですか?」
「そうそう。ねっ? 慣れれば簡単でしょ?」
「そうかもしれませんね。」
石川の丁寧な指導で、吉澤は非常にうまく野菜の皮を切っていった。今日の晩御飯は、カレー
だ。簡単といえば簡単だが、石川はかなり凝って作っていった。吉澤は野菜を切るのにひたす
ら専念した。そうこうして2人は、ようやくカレーを完成させた。
「(初めての共同作業…なあ〜んてね…。)」
「いただきます。」
「いただきまあ〜す。」
2人の夕食の時間はそうやって過ぎていった。吉澤は、食べながらこのあとの事をひたすら考え
ていた。
―聞くべきか、聞かぬべきか。
夜10時。2人は交互に風呂に入って。TVを見ていた。今日は、石川が吉澤の後に入っていた。
その間、吉澤はひたすら考えていた。聞くべきなのだろうけど…今のような楽しい雰囲気が壊れ
るのが怖い。それが、吉澤を止めていた。
-45-
しばらくして石川が、風呂から上がって台所のほうへと行った。吉澤は、それを目で追った。
「なんか飲む?」
「…はい。」
石川はグラスに飲み物を注ぐと、吉澤のほうへと持ってきて座った。
「はい。」
「ありがとうございます…。」
2人は、グラスに口をつけ、とりあえずはTVに見入っていた。石川は、TVを見ていたが、吉澤は
全然見ていなかった。いまだに聞くべきかどうかで葛藤していた。そうこうして一つの番組が終わ
った。石川が、吉澤のほうを見た。吉澤の目は、完全に空を泳いでいた。石川が声をかけた。
「…どうしたの?
具合、悪いの?」
「あっ…いや、大…丈夫ですよ。もう…寝ましょうか?」
吉澤はこれ以上起きていたら、自分が何を言ってしまうかわからなかった。ので、眠りたかった。
吉澤は、リモコンでTVの電源を切ろうとした。その時、同じ事をしようとした石川と手が触れ合っ
てしまった。石川は、無意識に拒絶を起こし、手をすばやくひっこめた。吉澤は、仕方ないとは思
っていた。頭の中では…しかし…
「どうして…なんですか?」
-46-
吉澤が、石川に見せた事のないような怖い目で、石川を見て言った。
「えっ…。どうしてって…。」
石川は、吉澤の突然の変貌振りに、少々戸惑った。
「…どうして、触れる事…できないんですか?」
吉澤の口調は、落ち着いてはいたが、感じた事のないような威圧感みたいなものを石川は感じ
た。聞いている事の答えは・・・それを話す事は、吉澤に自分の過去を教える事である。ズキリと、
目には見えない傷が石川の中で、音を立てて忌まわしい記憶として再び開き始めた。石川の視
線が、吉澤を捕らえる事が出来なくなり、石川は再び傷を目の当たりにした。ふっと肩の力が抜
けて石川は、過去を話し始めた。それは、石川の意志をすでに超えていたのか。いや、石川自
身がどこかで望んで、自らで封じ込めたのだ。それを、今解き放ち始めた。
―1年前の夏の夜。石川とその他のテニス部員は、その日の練習を終えて、後片付けを始め
ていた。そんななか、テニス部の顧問が部長であった石川に言った。
「あ〜、皆が帰った後、話がある。わかったな?」
石川は何の躊躇もなく素直にそれに答えた。その時は、そんな事なんて全く予想もつかなかっ
た。何より、その教師を一教師として「信頼」していた。
-47-
石川は顧問に言われた通り、皆が帰った後の部室で1人待っていた。
「(今日、あんまりサーブとか決まんなかったから、怒られるのかな…嫌だなあ。)」
そう思いながら、石川は顧問が来るのを待っていた。しばらくして、ようやく顧問が部室に来た。
「先生、話って何ですか?」
「あっ、その、な。……。」
顧問が黙り込んで、石川へと一歩また一歩と、にじり寄ってきた。その不可思議な行動に石川
はあとずさりした。そして、にわかに恐怖心が沸いてきた。少し下がって、部室の真中に置いて
あるテーブルで、それ以上下がれなくなった。次の瞬間、顧問が電気を消して石川の口にタオ
ルを無理やり押し込んだ。そして、そのままテーブルへと叩きつけるように押し倒した。
「…っ。いっ…やぁっ…!」
押し倒されたときの痛みとあまりに突然の出来事に、石川はかなり混乱した。口の中に押し込
まれたタオルが、吐き気を覚えさせた。それとともに、恐怖が一気に石川の体中に、広がり始
めた。そんな石川の着ていたTシャツの中に、顧問が手を滑り込ませた。
「!
…んんっ…!」
石川が口にタオルを押し込まれたまま、大きく声を出そうとしたが、ムダだった。それはまったく
声にもなっていないほどの小さな叫びでしかなかった。
-48-
Tシャツの中に入った顧問の手が、石川のブラジャーを乱暴に引き剥がした。石川の体がガタ
ガタと震えだし始めた。顧問は、それに躊躇する事はなく、己の欲望を満たそうと、石川の乳房
を乱暴にもみ始めた。そして、舌で弄び始めた。石川は抵抗したかった。が、体が、思うように
動かない。されるがままにされてしまっていた。聞こえてくるのは、荒い中年男の獣のような息づ
かいだけだった。視線を泳がせると、部室の窓から満月が見えた。恐ろしいくらいに、蒼くて、綺
麗で…。少しの間だけ我を忘れた石川を、再び現実が呼び戻した。顧問の手が石川のジャージ
の中へと入り、一気に石川の秘部を触り始めた。石川はただ恐怖する事と嫌悪感に襲われた。
次の瞬間、顧問の指が石川の秘部をつき始めた。それは、酷く乱暴で、快感とは程遠いものだ
った…。次第に石川が、我を取り戻した。そして、怒りが彼女を突き動かした。石川は渾身の力
をこめて顧問を殴りつけた。それはスキだらけだった顧問にうまくあたり、石川は一瞬のスキを
ついて部室を逃げ出した。石川は闇の中を、一心不乱に走った。何も考えずにただ必死に逃げ
た。家に着くと誰の目にも触れないように、真っ先に部屋へと入り、服を着替えて、部屋の中で
ひたすら脅えていた。苦痛のあまりの大きさに、涙なんて一粒も出なかった。
部屋の窓から見上げると、さっきと同じ月が見えた。石川はそれをひたすら朝になるまで見つめ
つづけていた。
-49-
「……。」
石川の話を聞いた吉澤は、かなり動揺していた。ほんの少しだけ、想像した最もありえないと思
っていた話を、石川がしたからだ。吉澤は、完全に言葉を失っていた。それに構うことなく石川は、
再び話し始めた。
「その日以来、学校に行けなくなった。ご飯だって食べられなくなって…それで入院したの…。3ヶ
月ぐらい入院して…学校には、単位取るために少しだけ行った程度。それ以外は、ほとんど家で
過ごしてた…。12月ぐらいになって…わた、し…を…レイプ…した…あいつ…が。」
石川の唇が、体が再び震えだした。再び記憶が石川を震えさせた。
―1年前の12月。珍しく雪が降っていた。石川の家に、一本の電話がかかってきた。その相手
は、あの顧問だった。石川は、震えを必死で押さえながら何とか話した。
「も…もしもし…。」
【…話があるんだが…。会ってくれないか?】
「!」
石川は、身勝手すぎる突然の要求にかなり腹を立てた。人通りの多い街中で話す事を約束し
て、石川は顧問と会った。最初、顔を見たときかなりの吐き気に襲われたが、何とかこらえた。
-50-
顧問は石川と顔を合わせるなり、いきなり頭を下げた。
「あの時は…本当にすまなかった。どうか…してたんだ。今日は、その事を謝りたかった。知っ
ているだろうが、俺には家族がいる。どうか、黙っていてくれないか?
俺はこんな事で家族を失
いたくないんだ。頼む!」
「……。」
あんまりの身勝手な言い分に、石川は呆然としていた。レイプした事を「こんな事」で、済ませよ
うとしている顧問に、殺意すら覚えた。だが次に顧問は、さらに信じられない行動に出た。バッグ
の中から、茶封筒を取り出し、石川の前に差し出した。
「50万入っている。受け取ってくれ。」
「……。」
石川はそれを、払い落とし顧問に向かって言った。
「いりません。こんな……もう、二度と私の前に現れないでください!」
石川はそれだけ言うと、ダッフルコートのフードを目深にかぶりなおし、その場を逃げた。家に帰
り、自分の部屋のベッドで、声を殺し、枯れるまで泣き続けた。悔しくて仕方がなかった。気がつ
くと、朝になっていた。
話し終えた石川の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。吉澤は、それを止める事が出来
ず、そんな自分を呪った。石川のすすり泣きが、部屋のなかに響いた。
-51-
石川はしばらく泣き明かすと、泣き疲れてか眠ってしまった。吉澤は結局どうする事も出来ず、
隣の部屋からブランケットを引っ張り出して石川にかけてあげることぐらいしか出来なかった。
そのまま電気を消した。月明かりによって、石川の顔がうっすらと照らされていた。吉澤はそれ
を見つめながら苦悩した。2時間ぐらいは、それが続いた。
「(私に…何が出来んのかなぁ…。)」
想像以上に深刻なモノだった石川の過去。吉澤は戸惑っていた。それでも、確かに自覚できる
のは、自分は石川が好きで好きでしょうがないという、それだけだ。
「(それだけ……。でも…。)」
吉澤は意を決してか、ゆっくりと垂れていた頭をあげ、寝ている石川の方へとゆっくり近づいた。
そして、四つん這いの格好で、石川の真上にかぶさった。石川の顔の真横に、両手をつき、膝を
石川の腰の真横辺りの置いた。そして、石川を見上げた状態で、石川を呼んだ。起きるまで何
回も。
「先輩……。」
「!
……。」
石川は、さすがに最初は驚いた。が、すぐに落ち着いて吉澤を見つめ返した。長い沈黙が続い
た。
-52-
吉澤が手をゆっくりと石川の顔の辺りに近づけた。石川は黙っている。吉澤は、石川の頬に自
分の手を触れた。
「っ……。」
石川が途端に震えだした。吉澤は慌てて手を離そうとした。
「や、やめ…ないで…お願い…。」
震えながらも何とか声を出し、石川は吉澤に懇願した。
「でも…。」
「お願い…もう、過去からは……助けて……。」
悲痛な言葉に吉澤は、一瞬動けずにいた。しかし、石川が望むなら。吉澤は再び手を近づけて
石川の肩に触れた。再び石川は反射的に拒絶を示したが、その目は続ける事を望んでいた。
吉澤は半ばヤケ気味に、石川をギュッと強く抱きしめた。石川は相変わらず震えを抑えられず
にいた。しかし、必死にそれをこらえて自らも吉澤の背中に手を回した。
「!
……先輩……。」
2人はそのままの姿勢でしばらく抱きしめあった。吉澤は、石川の胸の辺りに頭を置いて石川
の心音を聞いていた。石川は、もう震えてはいなかった。少しだけ前に進めたのかもしれない。
石川は思った。
-53-
石川は吉澤に抱きしめてもらった事で、少しずつだが「傷」をしっかりと受け止め始めていた。
朝が近づき、部屋も少しづつ日で明るくなっていった。吉澤は、石川の胸の辺りに頭を置いた
まま、いつの間にやら眠っていた。その寝顔は、とても安らかだった。石川はそれを見て、少し
だけ口元を緩めて笑った。何気に吉澤の前髪を一撫でして、少しの間だけ目を閉じて眠った。
―朝。部屋の中がすっかり日で照らされ否応なしに体が覚醒した。吉澤は目を覚ました。
「っ…。」
目を覚まして、音のする台所のほうへと視線を移すと石川がいた。その姿を見て、吉澤は昨日
の出来事を思い出し、悲しくもなり、嬉しくもなった。自分の手を見る。
「(感触が…残ってるよ。)」
カァッと、急に熱くなってしまった。そんな吉澤に、石川が近づいた。
「起きた?
じゃあ、朝ご飯食べよっか? ひとみちゃん。」
「…はい、顔洗ってきます。」
吉澤は洗面台まで行き顔を洗った。顔を上げて自分の顔を見て、物思いにふけった。
「(ん?
…先輩、確か『ひとみちゃん』って言った、よね。…嬉しい。)」
吉澤は、思わずガッツポーズをとってしまった。昨日以上に、石川のことが大好きになっていた。
-54-
2人は、朝ご飯を食べていた。TVをつけてニュースを見ているためか、あまり会話はしない。し
かしお互いに、ちらりちらりと顔を見ていた。朝ご飯を食べ終わり、2人は食器を洗いながら今
日のことを話していた。
「先輩。今日、どっか行きましょうか?」
「うん。でも…お昼から、雨降るかもよ。」
「う〜ん。大丈夫ですよ。…公園、行きましょうか。」
「うん。」
2人は、食器を洗い終えると、さっそく外に出た。とりあえず折りたたみ傘をカバンに忍ばせた。
今のところ天気は良い。とても雨が降りそうには思えないほどだった。2人はそうして初めて2人
で行ったあの公園へと着いた。あの時よりは、あまり人がいなかった。2人は、公園内を歩き始
めた。しばらく歩いて、ベンチに腰掛けた。沈黙。
「…あの。」「…ねえ。」
「……。」
同時に言葉が出てしまい2人はまた沈黙した。しばらくして吉澤が口を開いた。
「…先輩。」
吉澤がじっと石川を見つめた。石川は動けなくなってしまった。目に映るのは吉澤の熱っぽい目
だった。
-55-
石川は、思わず固唾を飲んでしまった。吉澤がしばらく石川を見つめて、何かを言おうとしたそ
の時、雨が降ってきた。しかもかなり強めの雨だった。2人は、素早くベンチを離れてカバンから
折り畳み傘を出して、近くの丘の上の大きな木の下へと移動した。傘は1つだけだったため、な
んだかんだで2人は、少々濡れてしまった。吉澤は優先的に石川を傘に入れたため頭が酷く濡
れていた。石川がすかさずハンカチを取り出して、吉澤の頭を撫でるようにして拭いた。すると吉
澤が、石川のハンカチを持った手を掴んだ。
「あ……。」
「先輩……。」
再び2人は見つめ合う。石川の胸がどんどん高鳴っていった。吉澤も例外ではない。
「好きです。先輩の事が…大好きです…。」
「…ひとみちゃん。」
告白した瞬間、吉澤は顔を赤らめて目をそらした。石川は嬉しかった。こんなに想われた事は、
今までなかったし、こんなに自分を大切にしてくれる人もいなかった…。石川は顔をそむけてい
る吉澤の頬に触れ、顔を自分のほうへと向かせた。
「私も、大好きだよ…ひとみちゃん。」
「先輩。」
吉澤は、たまらず石川を抱きしめた。石川も吉澤を抱きしめた。2人は雨が弱くなるまで抱きし
めあっていた。
-56-
降り出した雨が弱くなり始めた。
「雨、弱くなりましたね…。」
「うん。」
2人は互いにゆっくりと体を離した。それぞれの体温がまだ体に残っている。そろそろ正午では
あるが、2人は昼食を用意してこなかった。
「帰ろうか…。」
「はい。」
2人は、1つの折りたたみがさに2人で入って家路へと着いた。ただでさえ大きくない傘に、2人
で入ったものだから、なんだかんだで家に着く頃には、体がほとんど濡れてしまっていた。2人は
石川のマンションに着くと、さっそく風呂に入った。吉澤が先に入り終わりリビングに座り込んで、
再び雨が降り始めた外を窓から眺めていた。そうしながら、公園での事を思い出していた。
「(先輩……気持ちが伝わったんだ。)」
お互いの気持ちを伝え合い、抱きしめあった。石川を好きになり始めてから、ずっとどこかで願
っていた。夢に終わるかもしれないと不安に思ったことさえあった。でも、現実になった。
「(ずっとそばにいたい。)」
吉澤は、石川を想いながらそう誓った。
-57-
「ほら、ちゃんと拭かなきゃダメだよ。」
考え事をしてたため、吉澤は風呂から上がった石川に気づいてなかった。石川が、そう言いな
がら、膝をつき、座っている吉澤の頭を拭き始めた。吉澤はそれにされるがままになった。とい
うか何となく動けずにいた。何となく顔をそむけてみたが、少し下に目線をやると、キャミソール
風のワンピースのようなものを着ている石川の胸元が、思い切り視界に入った。一瞬だけそれ
に見入ってしまった。が、すぐに我に返った。
「(わわわわわわわわわわ。)」
吉澤は顔を真っ赤にして、思わず目を閉じた。しばらくして石川が、吉澤の頭を拭く手を止めた。
「これで風邪ひかないね。」
「あ、ありがとう…ございます。」
吉澤は顔を下に向けたままそう答えた。
「ひとみちゃん…どうしたの?」
石川が下を向く吉澤を不思議がって、その顔を覗き込もうとした。次の瞬間…吉澤は石川をい
きなり抱き寄せた。
「ひ、とみちゃん…。痛い、よ…。」
「っ!
…ご、ごめんなさい。つい…。」
吉澤は石川を離した。
-58-
吉澤は石川から離れると、それ以上何も言えなくなってしまった。石川に背を向けたまま何も言
えずにうつむいた。
「(……何やってんだろ。調子乗りすぎだ……。)」
吉澤は、そう思いながらため息をついた。部屋の中に、雨音が響いた。次の瞬間、吉澤は後ろ
から突然抱きしめられた。石川だ。肩の辺りから石川の褐色の腕が伸びて、吉澤を優しく包み
込んだ。石川から抱きしめてきたのだ。いきなりの事に吉澤は、一瞬呆けた。
「先…輩。」
「いや?」
「い、いいえ!
…出来れば、もう少しこうしてたいです…。」
石川も過去を吹っ切って、少しでも好きな人に触れようと健気に考えて行動したのだ。吉澤も何
となくだがそれを察した。しばらくして、吉澤は振り向いて石川のほうを向いた。石川はとりあえ
ず吉澤の肩から手を下ろし、目線を合わせながら座った。石川の目には、吉澤が、その吉澤の
目には石川が。それぞれの顔が、お互いの瞳に映っていた。
「あの…キス、してもいいっすか?」
「!
…いいよ。」
石川は、吉澤が突飛なことを言ったので、一瞬目を丸くしたが、次の瞬間、すぐに笑顔になって
返事した。
「…じゃ、じゃあ…。」
-59-
吉澤と石川は膝立ちの状態になった。吉澤が石川の肩に両手を置いて、少しだけ自分の顔よ
り低いところにある石川の顔を見るために少しだけうつむいた。その時、石川が吉澤のほうを
見上げた。吉澤がコクリとツバを飲み込んだ。
「……。」「……。」
しばらくの沈黙のあと、吉澤が唇を石川の唇へと近づけた。石川が目を閉じた。吉澤も唇がつ
くかつかないかの所で、ようやく目を閉じた。そうして2人の唇が重なった。石川の唇は吉澤の
想像以上に柔らかくて暖かかった。自らの唇でそれを確かめた。一分は経っただろうか。吉澤
はゆっくりと石川から顔を離した。それにあわせて石川が目を開けた。吉澤はそれを見つめる。
「は、初めてなんです…キス…。」
吉澤は、顔を赤らめて石川に照れくさそうに言った。
「……私もだよ。」
「!
…マジっすか…いやぁ…嬉しいなあ…。」
思ってもみなかった石川の言葉に吉澤は素直に喜んだ。そんな吉澤に石川が言った。
「…ね、抱きしめて。」
「ハイ!」
吉澤は満面の笑みで石川を抱き寄せた。2人はそのまま昼食も食べないで、手をつないで昼寝
をした。長いような、短いような時間が過ぎていった。
-60-
―蒼い月。暗闇で泣いている自分。抑えても止まらない吐き気。底なしの恐怖。
「!」
石川は目を覚ました。夢だ。隣には吉澤が寝息を立てて寝ていた。身体が寝汗で濡れている。
石川は体を起こした。雨はやんでいた。部屋の中に真っ赤な夕日が差し込んでいた。まだ夕方
の4時だ。寝汗が冷えたせいなのか、それとも拭いきれない恐怖のせいなのか、鳥肌が立って
しまった。
「(寒い…。)」
石川は身体をさすった。
「ん…先輩?
…寒いんですか?」
夕日のせいか吉澤が目を覚まし、石川に話し掛けた。
「んっ…大丈夫。寝汗かいちゃったから。」
「…はぁ。……ご飯作りましょうか。汗かいたならシャワー入ってていいっすよ。私、作りますから。」
「ありがと…。」
石川は素直に吉澤に従って、シャワーを浴びに部屋を出た。脱衣所で着ていた白のワンピース
を脱ぎ捨てた。その下の下着も脱いだ。あらわになった鏡に映る自分の裸体を、石川はじっと見
つめた。褐色の肌、細い腰、豊満な乳房…。それを凝視した。ほんの前なら無意識に嫌悪感すら
覚えた。
-61-
吉澤が食事を作り始めた音で、石川は我に帰り浴室に入って身体を洗い湯船に浸かった。薄
暗い浴室の天井を見つめて石川は、物思いにふけった。1年前の過去から、自分は少しづつ
ではあるが立ち直ろうとしている。正直言って、立ち直れるなんて夢にも思っていなかった。一
生背負っていくしかないんだ、とあきらめていた。でも、今は違った。吉澤と出会い、そして惹か
れてから、間違いなく良い方向へと進み始めた気がする。吉澤がいなかったら自分は今どうな
っていただろう。今はあるはずもない事を想像しながら、石川は
また恐怖に包まれた。
「先輩、ご飯できましたから。」
浴室の外から吉澤に声をかけられ石川は再び我に帰った。
「うん、今上がるから。」
石川はそう言って湯船からあがり、身体を拭き、服を着てリビングへと向かった。そこには吉澤
がいた。テーブルの上に、作った夕食を並べていた。石川に気づくと吉澤は子どものように笑顔
になった。そんな風に笑いかけられて石川もニッコリと微笑み返した。
「じゃ、食べましょうか。」
「うん。」
そうして2人は食べ始めた。外はすっかり暗くなり始めて、夜が近づいてきた。
-62-
石川はあまり箸が進まなかった。それは吉澤の料理がまずいわけではなく、昼寝したときに見
た夢がまだ頭の中に残っていたからだ。吉澤がそんな石川を心配して声をかけた。
「…口に合いませんか?」
「ううん。おいしいよ。」
「…そう、ですか。具合が悪いんなら無理に食べなくてもいいですよ。」
「ごめんね…でも、本当に大丈夫だから。」
石川は吉澤を心配させまいとして、夕ご飯を全て食べきった。食器洗いは石川だけでやる事に
した。
「じゃ、お風呂入ってきます。」
「うん、ちょっとぬるくなってるかもしれないから。」
「大丈夫ですよ。」
吉澤は笑顔でそう言いながら、浴室のほうへと行ってしまった。石川はそれを見送ると、再び食
器を洗い始めた。そうして食器を洗い終わり、石川はリビングに座り込んだ。浴室のほうから水
の跳ねる音がした。それを聞きながら、石川はまた眠りについてしまった。ほんの一瞬の出来事
だったと思う。蒼い月。石川は夢の中で恐怖した。しかし、それはすぐに覚めた。
「…んぱい、先輩…。」
吉澤の声で現実に引き戻された。
-63-
目を覚ました石川の目に、心配そうに石川を見る吉澤が映った。石川は再び大きな恐怖に襲
われ、たまらず吉澤に手を伸ばし抱きついた。吉澤もそんな石川を力強く受け止めた。そうさ
れて石川は途端に泣き出した。急にもろくなってしまった。
「先輩…大丈夫ですよ、私が、ついていますから…。」
「ごめんね…ごめんね…。」
石川は、吉澤に抱きつきながら、ただ繰り返し謝っていた。謝ることなど何一つもないのにだ。
混乱している。吉澤は石川を立たせると隣の部屋へと連れて行った。
「先輩…疲れてるんですよ。とりあえず、寝ておけば…。」
「いや!
眠りたく…ないの。夢を、見たくないの。」
「先輩…。」
「怖くて、怖くて…どうしようもないの。私…私…。」
石川は、突然の事に完全に混乱しきっていた。無論、吉澤も例外ではないのだが……
吉澤はそんな自分に苛立った。
「…先輩。」
吉澤はつぶやいた。それに反応して吉澤のほうを向いた石川に、すかさずキスをした。
「(馬鹿だ…。)」
吉澤は自分自身を見下した。すぐに唇を離した。
-64-
「すいません…。」
「…謝らないで、混乱させて…ごめんね。」
それっきり2人は何もしゃべらなかった。ただ、手をつないでずっと布団の上に横になっていた。
お互いに天井を眺めていた。
「…あっ。」
どのくらい時間がたったのかは、正確にはわからないが、吉澤は眠ってしまっていた。慌てて身
体を起こして、石川のほうに目を向けた。
「先輩…。」
「いいよ、眠ってても…私は、大丈夫だから。」
「……。」
吉澤はまた自分に腹が立った。あまりにもふがいない、そんな気がしてやまなかった。再び沈黙
が訪れ、部屋の中に雨の降る音が響いた。
「(…雨。また降ってきた…。)」
時計に目を向けると、もう朝の4時だったが、雨雲のせいで外はまだ暗かった。吉澤は握ってい
た石川の手を、さらにギュッと握って言った。
「先輩……外、行きませんか?」
-65-
「……いい、けど。」
「屋上、行きましょう。」
「でも、なにしに?」
「なんとなく、ですよ…。」
そう言って吉澤は立ち上がり、石川も立ち上がった。傘を一つだけとり、2人は屋上へと向かっ
た。吉澤が屋上へのドアを開けた。当然といえば当然だが、誰もいなかった。吉澤は石川を引
き寄せて傘を開いた。そして外へと出た。
「……。」
「…ひとみちゃん?」
吉澤が履いていたサンダルを脱いだ。
「何してるの?」
「えっ…気持ちいいですよ。なんか落ち着くんです…。先輩も脱いだらどうですか?
嫌な事…忘
れられますよ、少しの間だけでも…。」
吉澤はそう言ったかと思うと、石川に傘を持たせて、雨の中に入っていった。
「ひ、ひとみちゃん!?
風邪ひくよ。」
「少しだけ!
…少しだけ、このままでいさせてください…。頭、冷やしたいんで…。」
石川は何も言えず立ち尽くしていた。屋上から見える青白い町並みをただ眺めていた。
-66-
少なくとも30分ぐらいはたった。吉澤は依然として雨に打たれていた。石川は再三、戻ろうと言
ったにも関わらず、吉澤は全くそれを聞き入れなかった。「もう少しだけ」それの繰り返しだった。
とうとう石川が、たまりかねて吉澤のほうへと駆け寄った。
「ひとみちゃん!
もう…本当に、体壊しちゃうよ…。部屋、戻ろうよ。ねっ?」
すっかり濡れている吉澤の髪が、吉澤の顔を覆い隠しているため、石川は吉澤の表情を読み
取る事が出来なかった。
「先輩…。」
「なに…?」
「怖いんでしょ? その…過去…が…。」
「…うん。」
「わかってやれないって、ツライです。」
「…ひとみちゃん。」
「私は、先輩の事、好きですから…だから、一緒に乗り越えていきたいです。」
吉澤はそう言って石川を抱きしめた。石川の手から傘が落ちた。その瞬間、石川は吉澤の苦悩
を肌で感じた。石川は吉澤を抱き返した。
「ごめんね…ごめん。私のせいで…。」
「一緒に、乗り越えていきましょうよ。私は先輩が望むならそばにいますから…。」
吉澤が石川の耳元で、消え入りそうな泣き声で言った。
-67-
そうこうして吉澤はようやく石川に連れられて部屋に戻ってきた。全身が雨で濡れてしまってい
た。夏の雨だといっても冷たいのに変わりはなく、吉澤の体は冷え切っていた。石川はとりあえ
ず吉澤を風呂に入らせた。
「ちゃんと肩までつかってね。」
「……。」
吉澤は返事を首を縦に振ってした。30分ほどして風呂から上がってきた吉澤に石川は暖かい
紅茶を飲ませた。吉澤は何も言わずそれを飲み干した。
「ひとみちゃん?」
吉澤は何も言わなかった。一瞬、顔を上げて石川のほうを見たと思った途端に、ふっと力が抜
けて後ろのほうに崩れこんでしまった。
「!」
石川が慌てて吉澤に近寄り、額に手を当ててみると、案の定、酷い熱を出していた。
「ひとみちゃん!
しっかり…。」
その声で、吉澤はふっと力なく目を開けた。
「す…ぃません…。」
ちょっとだけ笑いながら吉澤はそう言ってまた目を閉じてしまった。
「大丈夫だから。」
石川はそう言って吉澤を抱きしめると、さっそく看病を始める事にした。
-68-
石川は吉澤を、なんとか引きずりながらも隣の寝室に運んで、布団の中に寝かせた。そして氷
枕を作って頭の下にひいた。
「あっ……。」
吉澤が再び目を開けた。高熱のせいであろうか、小さい子どもみたいに泣き顔になっていた。
石川はそんな吉澤の頭を撫でながら優しく言った。
「今、ご飯作るから。それ食べて薬飲めば治るから。」
吉澤はコクコクとうなづいて再び目を閉じた。石川は吉澤の脇に体温計をはさんで熱を計った。
「39度5分…か。」
思ったより高かった。石川は手早くおかゆを作って、風邪薬を取り出した。吉澤を起こしておか
ゆを食べさせる事にした。
「…味、わかんない…食欲が…。」
「それでも食べなきゃ、はい。」
そうして石川は、吉澤に何とかおかゆを食べさせた。これで薬さえ飲めば、少しは良くなるはず
である。
「苦っ…。飲めない…。」
「あ〜んして…はい、お水飲んで。」
吉澤は薬を飲み干すと深い眠りについた。
-69-
吉澤は夢を見た。
石川と初めて会ったあの体育館だ。いつもは現実に起こったとおり、石川に声をかけると石川
が逃げ去ってしまう夢だったが、今回は違った。吉澤はいつもどうり夢の中で体育館を去ろうと
している石川に声をかけた。
「先輩。」
いつもならこのあと石川が逃げ去っていくのだが、少し雰囲気が違った。石川と目が合った瞬間
情景が変わった。石川の服装も髪型もそして吉澤自身も今の姿に変わったのだ。夢の中で吉澤
は驚いた。石川がそんな吉澤の手を掴んだ。変わった情景を良く見てみると最初にデートしたあ
の公園だった。夢の中だからだろうか少し違った雰囲気も感じられたが、ほとんどあの公園その
ままだった。それを眺める吉澤を石川がさらに引っ張っていった。声を出して問いかけようとしても
夢の中であるためか声が出せなかった。それでも何とか振り絞って出してみた。
「せ…先輩、ど、こ行くんですか?」
石川は振り向かなかった全く声が届いていない風だった。夢だから仕方がないのだろうと、吉澤
はあきらめた。次の瞬間、突然目の前が真っ暗になった。
「!
(苦しい……。)」
水の中だった。石川の姿が消えていた。水の中で吉澤は一人もがき苦しんだ。次第に力が抜け
ていった。夢の中で目を閉じた。
-70-
「うっ……。」
吉澤は苦しそうに声を出して目を覚ました。体中汗をかいてて気持ちが悪かった。
「ひとみちゃん?」
すぐそばで洗濯物をたたんでいた石川が、目を覚ました吉澤のほうへと近寄った。
「ひどい汗…ちょっと待っててね。」
石川はそう言って寝室を出ていった。吉澤は天井を見つめた。少しだけ頭痛が和らいでいた。
石川が戻ってきた。洗面器に水を汲んで持ってきた。石川は掛け布団をよけた。
「じゃ…脱いで。」
「!?
ほえ! は、恥ずかしいっすよ…。」
吉澤は具合悪いながらも必死にリアクションした。
「だめ!
今日は、お風呂入れないんだから。」
石川はそう言って吉澤を抱き起こすと、寝汗ですっかり重くなってしまっていたTシャツを脱がせ
た。吉澤は胸の部分を隠した。
「じ、自分でやります…。」
「いいよ。はい、タオル。」
石川は水で固く絞ったタオルを吉澤に手渡すと、着替えのTシャツを出し始めた。吉澤はその間
に素早く上半身を拭いた。胸を隠しながら石川に言った。
「終わりました…。」
-71-
「はい、新しいTシャツ。」
石川がそう言って吉澤に手渡した。吉澤がそれを着ようと後ろを向いた時、石川が言った。
「背中…拭いた?」
「へっ、ああ…拭いてないです…。せ、先輩!?」
石川が吉澤の背中を拭いた。
「ちゃんと、拭かなきゃね…。」
「あ、ありがとうございます。」
石川の献身的な看病に、吉澤はひたすら感謝の念を覚えた。そうして石川が吉澤の背中から
手を離した。
「はい、少しはマシになったでしょ。」
「ええ、ありがとうございます。」
吉澤はそう言いながらTシャツを着終えると石川のほうを振り向いた。後ろを向いて洗面器にタ
オルをつけている石川をたまらず後ろから抱きしめた。
「どうしたの?」
「ふふっ…なんか抱きしめたい気分だったんですよ。」
吉澤は石川を後ろから抱きしめながらそう言った。石川の心音が、胸にわずかに感じられた。
-72-
吉澤はようやく石川から離れた。石川は吉澤を布団に入れて、掛け布団をかけた。
「そうだ、言い忘れてたけど…今日、バイトなんだ。なんなら休むけど…。」
「いいですよ、もうだいぶ良くなりましたし、急に休んだらお店にも先輩にも迷惑かかっちゃいま
す。だから行ってきてください、仕事。」
「…わかった。ご飯作っておくから、食べてお薬もちゃんと飲んでね。」
「はい、ありがとうございます。…先輩。」
「ん?
なに?」
エプロンを取っていた石川に吉澤が声をかけた。
「えっと…。」
なかなか言い出そうとしない吉澤に、石川が近づいた。
「早く言いなさ〜い。」
石川がふざけ口調で言った。近づいた石川の顔に吉澤は力なく手を添えた。その手はすぐに地
に落ちた。
「……。」
石川は無言で吉澤の前髪を撫で上げて、あらわになった額に軽く口づけた。
「じゃ、行って来るね。」
石川は吉澤に優しく微笑んでそう言った。
「はい。」
-73-
石川が寝室を出て、玄関が閉まる音が聞こえた。吉澤はしばらく布団の中に入っていたが
おな
かがすいたので起き上がってリビングへと移動した。テーブルの上には石川が作って
いってく
れたおにぎりが置いてあった。吉澤は座って食べ始めた。
「(ん〜、うまい。先輩はお料理得意だなあ〜。)」
そんなことを思いながら、吉澤はあっという間におにぎりを平らげてしまった。石川の言う事を素
直に聞いて、風邪薬を飲んで再び寝ることにした。
「(先輩帰ってくるまであと5時間…あと5時間…。)」
親の帰りを待つ子どものように、吉澤はひたすら時間が過ぎるのを待ちつづけた。しばらくする
と薬の作用で眠ってしまった。
「…う〜ん。」
吉澤は目を覚ました。部屋は真っ暗だった。隣には石川が眠っていた。時計に目を移すともう夜
中の3時だった。
「(あ〜あ…今日は全然話せなかったなあ…。)」
そう思いながら吉澤は落胆した。が、隣で眠っている石川の顔を見ていると、そんなものも一気
に吹き飛んでしまっていたりする。
「(明日はウンと楽しみましょうね、先輩。)」
吉澤は石川の額に軽くキスをして再び床についた。
-74-
―翌日。今日はお泊り最終日だ。吉澤は明日からまたバレー部の合宿に参加しなくてはならな
いのだ。とりあえず2人は朝食を済ませて、朝のニュースを見ていた。
「先輩。」
「なあに?」
「あの…下手にどっか行くよりも、今日はずっと2人で家にいませんか?」
「そうだね、バイトも休みだし。いいよ。」
「ありがとうございます。」
そうして2人は家で過ごす事になった。吉澤はさりげなく石川の隣へと近づいた。
「…どうしたの、ひとみちゃん?」
「い、いや…その少しでもそばにいたくて…。」
「…じゃ、はい。」
石川はそう言って自分の太ももをポンと叩いた。
「へっ?
ひ、膝枕…すか?」
「嫌ならいいけど。」
「いや、嫌じゃないです。じゃ…お言葉に甘えさせて…。」
吉澤はそう言って石川のももの上に頭を置いた。石川のももは見た目は細いながらもなかなか
心地よい感触だった。
「(ほえ〜。)」
-75-
吉澤は石川の太ももの感触を堪能した。
「…ひとみちゃん。」
「は、はい。なんですか?」
「耳…掃除してる?」
「えっ…き、汚いっすか?」
「汚くはないけど…何となく、したいなあって…。」
「じゃあ、やっちゃってください。」
「わかった…」
そう言って石川は耳かきを取り出すと、吉澤の耳をつまんだ。
「じゃ、こっちから…。」
数十分ほどして、石川が言った。
「よし、と…じゃ、反対も。」
「はい。」
吉澤は体を一旦起こして、石川の体のほうに顔を向けて、再び横になった。石川が再び耳掃除
を始めた。吉澤は呼吸で規則的に上下する石川の腹部を眺めていた。
「…とみちゃん。ひとみちゃん。終わったよ?」
石川に呼ばれて吉澤は目を覚ました。いつのまにかうたた寝をしていたみたいだ。穏やかな時
間が流れていた。
-76-
「先輩。」
「何?」
昼食のパスタを茹でている石川の後ろから吉澤が声をかけた。石川が振り向かないでそれに
返事した。
「あの〜、すっごく抱きしめたいんです…。」
「……。」
石川が手を止めた。そして振り向いた。見てみると吉澤の頬が紅潮してた。どうやら自分で言っ
て自分で恥ずかしくなってしまったらしい。石川はそんな吉澤に顔を寄せて、自分からキスをした。
今までの
石川では考えられないくらい大胆だった。石川がゆっくり顔を離した。
「あ…抱きしめたかったんだっけ…。」
「……。へっ、いや。
(まさか急にされるとは…。)」
吉澤は石川の大胆な行動に驚いたが、嬉しくもなった。そのとき、パスタを茹でていた鍋が吹き
こぼれた。石川は再びそちらを向いて火を止めた。吉澤は、その間に再びテーブルの方へと戻
っていった。
「…おいしい?
アラビア―タって作るの初めてなんだけど…。」
「…えっ? お、おいしいです。辛いの好きですから。」
「どうしたの?
ボーっとしちゃって?」
吉澤は心の中で苦笑した。口で言うにもくさい事だが、石川がどんどんめまぐるしいほどに綺麗
になっていくのに吉澤は驚いているのだ。
「(恋の力ってやつなのかな……。)」
-77-
昼食を食べ終わった2人は食器を洗い終えて、とりあえずリビングに腰を下ろしていた。こんな
ことをしている間にも、2人でいられる時間は、どんどん過ぎていく。それを、焦っているわけで
はないはずなのだけど…いや、焦っているのだ。
「先輩……。」
吉澤はそう言って石川を呼んだ。
「なに…?」
石川が吉澤のほうを見た。そうやって石川の目に見つめられるたび、吉澤はドキリとする。驚く
ぐらいに鋭くて…でも、とても綺麗なその目に。魅了されるのだ。そんな吉澤も石川を見つめ返
した。言葉なんかいらない。2人の唇が近づいて重なった。吉澤が唇を重ねたまま石川を抱き
寄せた。
「(ホント、華奢だな…。)」
吉澤はそう思って思わず口元を緩めた。石川がそれに気づいて顔を離した。
「なに?」
「…なんでもないです。」
吉澤は口元を隠してそれをごまかした。その態度に一瞬、石川が頬を膨らませた。そんな態度
がまた愛くるしくて吉澤は再び石川にキスをした。今度は少し長い、それでいて濃厚なキスだっ
た。吉澤は石川とそうしながらひたすら思った。
「(もう…離したくない…。)」
-78-
吉澤は、石川の首筋にキスした。
「あっ……。」
石川が声を漏らす。それだけして吉澤はためらった。下手に事を進めて石川の『傷』が、再び開
いてしまったら…吉澤は、今した事を後悔した。
「(もうちょっと…考えなきゃ…。)」
吉澤は、石川から少し身体を離した。
「…ひとみちゃん?
どうしたの…頭痛いの?」
「いや、そうじゃないです…。」
「……。」
なんだか急に気まずい雰囲気になった。数分前の出来事が、夢のようにも思えるぐらいだった。
「ひとみちゃん…」
石川が吉澤を呼び、自分のほうへと顔を向けさせてキスした。吉澤は、石川をそのまま床に倒
した。
「先輩…」
「いいよ…ひとみちゃん。」
石川のその言葉で、吉澤は再び石川の首筋にキスした。石川の口から熱い吐息と声が漏れた。
-79-
吉澤は石川の胸に顔をうずめた。石川の心臓の音が、いやという位はっきり聞こえた。吉澤は
石川の胸元に軽くキスを繰り返した。
「はっ…あ…。」
石川が吉澤をきつめに抱きしめた。吉澤は、直接石川の乳房に触れた。
「んっ…。」
石川もそれに合わせたかのように声を漏らした。次第に、吉澤と石川の体温が上がっていき身
体が汗ばみ始めた。
「先輩……。」
吉澤が、石川を呼んで顔を向けさせた。そのまま額の辺りに軽く唇を当てて、吉澤は石川の下
腹部に触れた。石川は、声を出さずに身体を震わせた。吉澤は指でその熱さを感じた。どんど
ん熱くなっている。しばらく指先にその熱を堪能させた後、吉澤は直接触れた。ぬるりとした感
触。
「先輩……。」
吉澤は再び石川のほうを見た。石川は、吉澤に抱きついた。それを合図に、吉澤は指を挿入
した。途端に、石川の身体が強張った。しかし、すぐに戻った。何度も何度も吉澤は奥を突いた。
そのたびに石川から声が漏れた。少し悲鳴にも近い喘ぎに吉澤は一瞬手を緩めかけたが、石
川がそれを拒んだ。そうして石川は、絶頂に達した。吉澤も力なく崩れた。部屋に中に、2人の
荒い吐息だけが響いた。
-80-
―その日の夜。2人は寝室にいた。今日でお泊りは最後だ。寝て起きたら、吉澤は帰らなくては
いけない。石川は髪を拭き終えて、タオルを置いて言った。
「じゃ、寝ようか。」
「…一緒に、寝ませんか?
最後だし。」
「うん、いいよ。」
石川は快く受け入れた。そうして布団に入って一時間ほどたった。
「…先輩…?」
「なに…?」
「あ、寝てましたか…もしかして。」
「ううん。眠れない…。」
「あ…の、唐突ですけど…これからも、ずっと先輩といたいです。大好きですから、先輩の事。」
「ひとみちゃん…私も、ずっとず〜っと一緒にいたい。」
「ずっとそばにいます。先輩が望むなら…ずっと、ずっと…。」
2人は互いの手を握り締めて、目をつぶった。ずっと一緒に。それだけを願って。
―翌日。
「それじゃ。一週間後、会いましょう。」
吉澤はそう言って石川に唇をそっと寄せた。
「…うん。一週間後に、また。」
そうして吉澤は石川のマンションを後にした。
-81-
石川と離れて1週間。吉澤は、合宿を終えて、早々と家へと帰ってきた。
「ただいま〜、暑いよ〜。」
「おかえり、ひとみ。」
「ちょっと、今からでかけてくるから。」
「夕ご飯は?」
「あ〜、いらないや。」
そう言って吉澤は、シャワーを浴び終えると、早速玄関のほうへと向かった。
「じゃ、行ってくるから。」
そう言って吉澤はドアを開けて出て行こうとした。吉澤の母が言った。
「あ、ひとみ…。」
「んっ?
なに?」
「気を…つけてね。」
「うん。行ってきまぁ〜す。」
電車に乗って、吉澤は石川の家の近くにある駅に着いた。足取りは軽かった。
「(1週間ぶりかぁ〜、早く会いたいよ〜。)」
吉澤は、石川に会いたい気持ちを、胸いっぱいにしながらひたすら歩いた。そうして横断歩道へ
と差し掛かった。その直後に、吉澤は目の前が真っ暗になった。
-82-
吉澤と離れて1週間。石川は、それなりに寂しさを感じながらも、バイトや学業に専念していた。
1週間の間、連絡はお互いとらなかった。他人が聞いたら笑われそうだが、とらなくてもお互い
何処かで、つながっているような、そんな感じがしてた。今日、吉澤は合宿から戻ってくる。
―夜7時。石川は、部屋で吉澤を待っていた。約束の時間を少し過ぎていたが、石川は怒るで
もなく、ただ吉澤を待ち続けた。待っている間、石川は妙な胸騒ぎが止まなかった。
「(もしかしたら…疲れて寝ちゃったのかな…。)」
石川はそう思いながら、時間がたつのを待った。
―夜8時。石川は一回だけ吉澤の携帯に、かけてみる事にした。5回コールして、ようやくつな
がった。
【はい……。】
その声は、吉澤の声ではなかった。中年の女性の声だった。石川はとりあえず聞いてみた。
「あの…私、吉澤ひとみの知り合いなんですけど。」
【……。】
その中年の女性は、一瞬間を置いて、ゆっくりと石川に話し始めた。それを聞いて石川は、呆然
とした。
「ひとみちゃんが…死んだ…。」
-83-
石川は病院にいた。受付で場所を確認して、急いでそちらへ移動した。ドアを開けると、白いベ
ッドを囲んで、吉澤の両親と弟2人が立っていた。石川は、両親に会釈してベッドのほうへと近
づいた。ベッドに横たわっている吉澤の顔にかかっている白い布をずらした。吉澤の血の気の
ない顔がそこにあった。恐る恐るその顔に触れると冷たかった。石川は、吉澤の死をそこでよ
うやく受け止めた。受け止めたはずなのに、涙は出なかった。その後の、記憶はない。起きた
のは、その病院の一室だった。あのまま倒れてしまったらしい。一向に涙は出ない。出したとこ
ろで、ど
うにもならない。吉澤の母親が、石川を訪ねた。石川は聞いた。
「何時に…ひとみちゃんは…?」
「夜7時過ぎに、信号無視のトラックに跳ねられて…。」
7時過ぎ―胸騒ぎの原因がわかった。吉澤が事故に会った場所は、石川の家のすぐ近くだった。
吉澤は、石川に会いに行く途中に事故に遭ったのだ。そう思うと
石川は、いたたまれなくなった。
吉澤は自分に会いに来なければ。そんなことを考えても、もう吉澤は帰ってこない。永遠に、戻っ
てこない。
―翌日。石川は吉澤の告別式に出ていた。吉澤は石川の事をよく家族に話していたらしく、石
川は火葬場まで同行させてもらえた。火葬の間、石川は外に出て、煙突から立ち上る煙を眺め
ていた。相変わらず涙は出なかった。心に、ぽっかり大きな穴が開いたそんな気分だった。
-84-
吉澤の遺骨を、石川は無表情に拾った。やはり、涙は出ない。悲しいとは思っている。でも、出
ない。石川は、もうそれ以上考えるのを押し殺した。そうして吉澤の遺骨全てが骨壷に入れられ
木箱に入れられた。石川は、吉澤の両親に頼んで、吉澤の遺骨を分けてもらった。
「これからも、ひとみの事忘れないでいてね…。」
「はい。絶対に、忘れません。」
そうして石川は、吉澤の遺骨を携えて家路に着いた。家に着くと、いつぞやかのデートで一緒に
撮った写真を、写真たてに入れて骨壷の隣において、手を合わせた。写真を撮ったあの頃は、
こんな事が起こるなんて夢にも思っていなかった。あまりにも、突然すぎた。
「ひとみちゃん…。」
石川はつぶやいた。
吉澤が死んで1週間たった。石川は、あいかわらず涙を流さなかった。そんなもんだから、石川
は自分に対して嫌悪感に近いものを持った。どうして泣けないのか。それは、やはり吉澤が死ん
だという事を、何処かでわかりたくないからなのかもしれない。
―深夜。石川は、布団の中で何度も寝返りを打った。夢なのか声が聞こえた。
「先輩……。」
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「!」
石川は、目線を闇の中に向けた。確かに吉澤の声が耳に入った。夢なのかもしれない。でも、
夢でもいい。石川は、そう思った。口を開いて、石川も声を出した。
「ひとみちゃん? いるの?
ね、来てよ。一緒に…寝ようよ。」
そう言って、石川は掛け布団を開いて誘った。闇の中に、気配は感じる。しばらくして布団の中
に入ってきた。暖かい感触が、石川の腕に触れた。なつかしい匂いが、石川の鼻をついた。吉
澤だ。石川は抱きしめた。だが、顔が確認できない。見ようとしても、暗くて全くダメだった。かと
いって電気をつけて、夢だったら醒めてしまう。それは嫌だった。しばらくして、石川は抱き返さ
れた。その時、石川はそれが吉澤であるという事を確信した。そう思った途端、堰を切ったかの
ように、涙があふれてきた。石川は、とうとう泣いた。
「ひ…とみ、ちゃん…うっ…。」
「……。」
向こうは何も言わない。ただ石川を抱きしめていた。しばらくして、ふっと石川から離れた。
「いやっ!
…行かないで…私も一緒に…。」
「…ダメですよ、先輩は、生きてください。」
石川の頭の中に、吉澤の声が直接響いた。
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「置いてかないで…ひとみちゃん。」
「私は、もう先輩のそばにはいれないけど、見守ってますよ。先輩、生きてください。私の分も…。」
「ひとみちゃんなしで…どうすればいいの?
生きてけないよ…。」
「先輩なら、大丈夫って…信じてます。」
「いやっ!
待って…ひと…」
石川の口を、吉澤らしき存在が塞いだ。それが2人の最期のキスだった。
「強く…生きてください。約束です。そうそれば、また会えますよ…。」
暖かい手が、石川の頬の涙を拭った。途端に、吉澤の顔が一気に視界に現れた。優しい笑顔。
石川を見つめる大きな瞳。
「約束…。ひとみちゃ…」
――梨華…さようなら
「!」
石川は目を覚ました。部屋の中はすっかり明るくなっていた。朝だ。吉澤の姿は、なかった。当
たり前なのだが…。でも夢でもなかったように思えた。昨日まであった胸のつっかえは、すっか
り消え去っていた。顔に涙の跡が残っていた。どうやら泣いたのは確かのようだった。
「生きてください…か。」
吉澤の言葉を、石川はつぶやいた。その顔は笑顔だった。何かを決意したかのように、石川は
起き上がった。
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石川は公園に来ていた。吉澤と初めて来た。そして、初めてお互いの気持ちを伝え合った公園
だ。公園内をしばらく散策したあと、石川は吉澤と初めてキスした大木の下へと来ていた。大木
に触れて、石川はあの時の事を、思い返した。昨日の出来事のように鮮明に頭の中を巡った。
吉澤の綺麗な瞳が、熱い唇の感触が…すべて覚えている。いつかは、忘れてしまうのかもしれ
ない。それでも、吉澤への気持ちはいつまでも消えないのかもしれない。それほど石川にとって
は、吉澤の存在は大きかった。石川はしゃがんで大木の下に、穴を掘り始めた。ひととおり掘り
終えて石川は吉澤の遺骨の入った骨壷を取り出した。下手に自分の部屋において置くよりは、
此処に埋めておいたほうがいいと思っての事だ。
「2人の思い出の場所…だもんね、ひとみちゃん。」
そう言って、石川は穴の中に骨壷を置いて、上から再び土をかぶせた。石川は、立ちあがった。
石川のその目は、少し前までの悲しげな目ではなかった。前へ進んでいこうという力強い目だ。
石川は、歩き始めた。生きていこう、そう思いながら。
それからの石川は、時には弱さが出てしまうこともあったが、確実に強さも持ち始めていた。春・
夏・秋・冬と何度も季節は繰り返されて、石川は年を重ねた。25歳で、結婚をした。相手は、石
川の全てを分かった上で、石川受け入れてくれた。子どもを2人授かり、平凡ではあったが、良
い人生を歩んでいた。時がたっても石川の心から、吉澤の存在が忘れ去られる事はなかった。
-88-
吉澤が死んで70年経った。すっかり年老いた石川は、病院のベッドで一時危篤状態に陥った。
死が近づいてきた。だが、怖くはなかった。後悔なく生きていたからだ。石川はベッドの中で、死
を待っていた。布団の周りを、娘夫婦や孫たちが囲んでいた。石川は、彼ら1人1人の顔をしっ
かりと見て、はっきりとした口調で最期の言葉を言った。
「ありがとう……」
石川は目をつぶり、永遠の眠りについた。逝く最後の瞬間に思い出したのは、あの頃の吉澤の
笑顔だった。身体が重くなったと思った瞬間に、一気に力が抜けた。
―私…精一杯生きれたよ、ひとみちゃん…
まばゆい光の空間の中を、石川は歩いていた。気がつくと、15歳の身体になっていた。身体が
うんと軽くて何でも出来そうな錯覚に襲われた。
(何処に行けばいいんだろう……逢いたい……。)
何となく光の奥に、引き寄せられて、石川は走り出した。すると、急に周りに草原が広がった。
風で髪の毛が吹き乱された。その髪を直していると、急に人影が目に入った。それは…
「…待ってましたよ。さ、行きましょうか。」
吉澤がいた。あの頃と、何ら変わらない笑顔で石川に手を差し伸べた。
「うん。」
2人は手をとりあって、光の中へと消えていった。
―You and I,DREAM A LITTLE DREAM OF ME.
-完-