『夢のあとに』シリーズ

 

もんじゃ焼き

 

10:00
「ジリリリリリ・・・・・」
いつもの朝。いつもの目覚ましの音で中澤は目がさめた。
「う・・・頭痛い・・・昨日飲み過ぎたかな?」
中澤は目覚ましを止めると、時計に目をやった。
「うぁ!遅刻や遅刻!やっばー」
時計を放り投げて、ベッドを飛び出す。いつもの朝なのにいつもでないガランとした部屋。
中澤はようやく思い出した。
「あ・・・そうやった・・・もう、いいんやった。もう、終わったんや」

一息「ふう」とため息をついて、閉めきったカーテンの隙間から外を覗く。
「ええ天気やなぁ・・・」
ガランとした室内を見回す。いくつものダンボール箱が積み重ねられていた。
いつもなら急いでスタジオへ向かわなければならないのに、今日は時間があまっていた。
いや、「今日から」時間は「余りすぎて」いた。
また一息「ふぅ」とため息をついた。

「モーニング娘。が終わってしまうとはなぁ・・・」
そう言って中澤はベッドに横たわった。目に少し涙を浮かべながら。
「いや、いつかは終わるとは思っていたんやけど・・・いざその時がくると・・」
色んな思いが頭の中を巡った。
突然の解散。
中澤には、今、やる事が何もなかった。
ただ一つ、東京を去る準備以外は。

中澤は東京から引っ越すのに、加護と一緒に加護の父親のトラックに便乗させてもらう事になっていた。
つまり、加護も帰郷するのだ。
「あいぼんに電話しなきゃ・・・」
電話を取ろうとするが、体が言う事をきかなかった。
まだ、未練があった。加護に電話してしまえば、帰郷が決定的になるような気がした。
(何かやり残しは無いん?このまま帰っていいん?)
中澤は自問自答を繰り返した。でも、頭に浮かぶ事は「娘。」をもっと続けたかった。
それだけだった。

また、涙が出てきた。
いくら考えても、もう「娘。」は戻らない。
過去になってしまった自分を取り戻したかった。
しかし、それは叶わない。
「今さら帰っても何をすればいいんやろ・・・」
帰りたくなかった。

「ピンポーン」
チャイムが鳴った。
(まさかあいぼん・・・もう向かえに来たんやろか?)
中澤は不安を覚えつつ、涙に濡れた顔をタオルで拭いて玄関に向かった。
ドアの覗き窓から外を見てみると、そこには保田が立っていた。
(圭ちゃんか・・・・ほっ)
中澤は鍵を開けドアを開いた。

「やっ」
保田は元気そうだった。というか、中澤とはあまりに対照的に明るい顔だった。
「一週間ぶりだね」保田はそう言った。
「そうやね。なんや、すっごい久しぶりのような気がするわ」
中澤は疲れた声で言った。笑顔も無理やり作っていた。
「あ、入っていい?」
「あ、いいよ。ごめんごめん」
保田を招き入れて中澤はドアを閉めた。

保田は部屋に一つしかない椅子に座った。
「あれ・・・裕ちゃん、やっぱり帰っちゃうの?」
「まあ・・・そうやなぁ・・・ここに居ても仕方無いし」
中澤は冷蔵庫のドアを開け、ジュースを取りだし保田に渡した。
「残念だったよね、娘。」
「そうやな。ほんま・・・ま、仕方無いねんけどな」
中澤はベッドに腰掛けた。

「結局、芸能界に残ったのって・・・・」
「真希と矢口だけ・・・やな」
中澤はうつむいてそう言った。実のところ悔しかった。
後藤と矢口が残るのには異存は無かった。
でも、自分は残れなかった。それが口惜しかった。
「それがね・・・・」
保田は勿体ぶって話しはじめた。

「真希の紹介で、なんとか私も残れそうなの」
保田はトンデモ無い事を口走った。
「ほ、ほんまか?」
「まだ本決まりじゃないんだけどね。なんとかなりそう」
「そっか・・・」
(コイツ、イヤミ言いにきたんか?)
中澤はショックだった。
後藤や矢口は納得がいった。でも・・・保田。
歌がウマイのは認めてはいたが、保田なみの実力は自分にもある、と信じていた。
中澤は肩を落として深くため息をついた。

「あ・・・・じゃ、私帰るね」
保田はそう言って立ちあがった。
「あ、そか。何もおもてなしせんと、すまんね」
「そんな事ないよー。じゃね」
早く帰れもてなしするわけ無いやろ・・・そう心に思った。
保田は帰っていった。
中澤は卑屈になる自分がイヤだった。でも、自分をコントロール出来なかった。

ベッドの上にある枕を壁に投げつけた。
そんな事しても何もならない事はわかっていた。
また、涙が溢れてきた。
「・・・・なんで私はダメなんや?」
ベッドに潜りこんだ。そして泣き声を聞かれないように顔を押し付けて泣いた。

1時間も過ぎただろうか?
中澤は何もする気も起きずそのままベッドにうつぶせになっていた。
電話が突然鳴った。
(また保田か?出るのいやや)
少しばかりほうっておいたが、一向に電話は鳴り止まなかった。
しぶしぶ、電話をベッドに引きずり寄せて、受話器をとった。

「あ、こんにちは。加護ですけど・・」
中澤はギクッとした。もう、帰る事が決定したか・・・。
「あ、あいぼん、もう少し待ってくれんかな?」
話しも聞かずに自分から話しを終わらせようとした。
「え?・・・・帰る事ですか?」
来た・・・中澤は思った。なにか言い訳をしたかったがなにも思いつかなかった。
「・・・・あの、帰る前にですね、安部さんの所へ一緒に行きません?」
なんや、そういう事か・・・中澤は胸をなでおろした。
「ええよ。今日行く?どうせヒマやし・・・」
自分で「どうせ」なんて卑屈な言葉を使った事にびっくりした。

「そうですね、じゃ、今日行きましょう」
「ほな、今からあいぼんのとこ行くわ。ええか?」
「はい。じゃ、待ってますね」
電話を切った。とりあえずは延命したかな?と思った。
帰るか残るかで決心がつかない自分にいらだっていた。
しかし、残るには家賃をおさめなければならない。
今、中澤にはそんな余裕は無かった。

中澤は重い腰をあげ、鏡を見た。
「なんて顔してるんや・・・」
自分でも酷い顔だと思った。泣き崩れて、目は腫れて、そして死んだ目をしていた。
急いでメイクをはじめた。
いくらメイクをしても、悲しい顔は隠せなかった。
顔に後悔と不満が如実に表れていた。

家を出て、電車を乗り継いで加護の住んでる所までやって来た。
「あいぼん、ウチの顔見て驚くかな・・・」
ドアをノックした。加護が出てきた。
「あ・・・中澤さん」
案の定驚いた顔をしていた。無理もないな、そう思った。
何も言い出せない加護に「さ、行こか」と言った。
加護は何も言わずに中澤と共に歩きだした。

「・・・・安部さん、元気ですかね?」
加護がやっと口を開いた。
「なっちなぁ・・・元気だといいんやけどな」
中澤と加護は安部の入院する病院の前で立ち止まった。
「安部さんが収録中に倒れた時は本当に驚きました・・・」
「そうやな・・なっちも色々あったからなぁ・・・限界だったんやろな」
「安部さん、青い顔して・・思い出すと怖くなります」
「あの時はみんなどうしていいか分からなかったもんな」
(あれが原因で娘。が崩壊していったんや・・・)
中澤は思っていても口に出せなかった。
口に出したら安部を攻める事になってしまいそうだった。

「えっと・・・安部さんの部屋は・・ここですね」
“元”マネージャーに教えてもらった部屋に着いた。
「なんか・・・会いづらいですね」
加護は苦笑いしながらそう言った。
中澤も会いづらいのは同じだった。
安部が倒れてから会うのは初めてだった。
「娘。」の解散も安部の耳に届いてるのは間違いない。
安部のいない間に解散してしまった自分たちはどんな顔をして会えばいいのだろうか?

ドアを開けた。病室には安部が一人でベッドの上に座っていた。
安部は外を見ていてこちらからは表情が見えなかった。
挨拶をしようと思ったが声が出なかった。加護も同じだった。
安部がこっちを向いた。
顔は痩せて、頬はこけていた。

「あ!裕ちゃんにあいぼん!ひさしぶりー」
思いのほか元気な声で安部はしゃべった。
中澤は少しほっとした。安部の表情は明るかった。
「ひさしぶりやな、なっち。調子はどうや?」
「ここんとこ凄くいいよ。少ししたら退院できるかも」
安部は、にこっと笑顔で答えた。その顔には中澤のような曇りは一切無かった。

「ま、そこに座ってよ」
安部は椅子を勧めた。中澤と加護はそれぞれに椅子に腰掛けた。
「なっち、痩せたなー。昔のなっちに戻ったんちゃう?」
「痩せたかなー?可愛くなったかしら?」
安部は無邪気に笑ってみせた。中澤にも笑みがこぼれた。

「娘。解散したんだってねぇ」
安部は躊躇せず言い放った。中澤の笑顔が凍った。
加護は何も言えずうろたえるばかりだった。
「どうしたの・・・?裕ちゃん?」
中澤はどう返答して良いのか分からなかった。
頭の中で言葉を巡らせても適切な言葉が思い浮かばなかった。

「あれ?もしかしてなっちの事気にかけてくれてる?」
安部は無邪気にそう言った。その言葉には嫌味は無かった。
「もう、終わった事じゃん。気にしても仕方無いよ」
安部は変わらず笑顔のままだった。
中澤は顔をうつむけた。
「なっちが倒れた・・・って記憶無いんだけど、その後大変だったみたいねぇ」
安部はそう言って窓の外に目をやった。中澤の目を見ないようにしているようにも見えた。

中澤には、安部が「娘。」が解散した事について説明を求めているように見えた。
中澤はゆっくりと、言葉を選びながら話しはじめた。
「なっちが倒れた後・・あのな、娘。の中で内紛が起きてん」
「いつもの事やと思ってたけどな、今度ばかりは根が深かったんや」
「現場の人達とお偉いさんとでもモメてな・・・その、なんや」
「なっちが倒れた事を公表するのか、とか、なっち無しで娘。はどうするんや、とか」

安部はまだぼんやりと外を眺めていた。
「その・・・メンバー達もいい加減疲れてたんや」
「そのうち・・・番組収録ボイコットするヤツらも現れて・・・」
「局の方からクレームが来たりしてな・・・」
「レコーディングとかも出来なくなってな」
「その・・・結局、潮時じゃないかって」

安部は外を眺めたまま、中澤の言葉を遮った。
「みんな・・・勝手だよね」
安部の言葉は中澤にとって重くのしかかった。
それ以上、中澤は言葉を続けなかった。
静かな病室に沈黙が訪れた。

「あの・・・」
加護が沈黙を破った。加護はいつになくおどおどした表情で安部に話しかけた。
「安部さんは退院したらどうするんですか?」
安部はやっと顔を中澤達に向けて、穏やかな顔で話し始めた。
「なっちはね・・・まだ諦めてないよ」

「諦めてないって?」
加護は身を乗り出して問いただした。
「だから、芸能界を諦めてない」
「退院したら復帰するよ」
そう答えた安倍の顔には自信と希望が満ち溢れていた。
そして、安倍は嬉しそうな顔をして、中澤の方を見た。

安倍の影のない笑顔に見つめられて、中澤は少し困った顔をした。
「復帰って・・・どうやって?」
「モーニング娘。は解散したんや。ウチらはクビ。行くところが無いんや」
「もう、事務所も無いしマネージャーもいないんや」
中澤はそう答えた。自分に言い聞かせてるようでもあった。
安倍は笑顔のまま顔を上に上げ、天井を見つめた。

「大丈夫だよ。なんとかなるって」
安倍は中澤の言う事など意にも介さず、そう答えた。
天井を見つめる安倍の目は輝いていた。
中澤は、悲しそうな目をして安倍を見つめた。
「なんとかって・・・」
そこまで言って中澤は言葉に詰まった。安倍の自信たっぷりの顔を見てると、自分の方が間違っているように思えた。

安倍は突然顔を中澤達に向けると、身を乗り出すようにしてこう言った。
「ね、裕ちゃんとあいぼんも一緒にやろうよ」
中澤と加護はその言葉を聞いて顔を向け合った。
あまりにも突拍子も無い発言に困惑を隠せなかった。
「一緒に、ってなぁ・・・簡単に言うんやないよ」
中澤は安倍の方に顔を向け、そう答えた。

安倍は相変わらず中澤の発言を気にせず、言葉を続けた。
「ほら、やっぱ三人の方が良くない?タンポポもプッチも最初そうだったし」
「裕ちゃんとあいぼんが一緒ならきっと楽しいだろうし」
「裕ちゃんはすっごく頼りになるし。あいぼんは才能あるし」
「私一人でやるよりずっとイイと思うよ」
「ね?どう?二人だってこのまま辞めたくないでしょ?」
中澤と加護はまた顔を向け合った。

「このまま辞めたくないでしょ・・・」この言葉に中澤は動揺した。
安倍の言う通り、中澤はこのまま辞めるのはイヤだった。
しかし、中澤は自分に言い聞かせてきた。現実をよく見ろ、と。
復帰すると言っても事務所に所属して無い。もちろん仕事も無い。
ましてや「娘。」解散の時にどこからもオファーが無かった。つまりクビ。
「娘。」解散したために収入は無くなった。
事務所が借りてくれていたアパートも、そのうち返さなければならない。

いや、アパートは家賃をおさめればそのまま居ていい事にはなっている。
しかし、収入の無い状態で、少ない貯蓄だけでどこまでもつのだろう。
家賃だけで無く光熱費や食費だってかかってくる。生活するだけで精一杯だ。
大体、“元”モーニング娘。の人間を他の事務所が受け入れてくれるだろうか?
仕事も無い状態でどこまで耐えられるのだろう。
中澤には年齢の事もあって後戻り出来ない崖っぷちに居た。

「どうしたの?裕ちゃん」
安倍の声で中澤は我に帰った。
安倍は不思議そうな目で中澤を見つめていた。
「そんなん・・・復帰なんて・・・出来るんやろか?」
中澤は自分の出せなかった答えを安倍に投げかけた。
「出来るって!心配無いよ」
中澤は安倍の答えを疑問に思った。どこからそんな自信が出てくるのだろう。
そして、安倍の自信が羨ましかった。

「けどな、住む所だってどうするんや?お金の事とか・・・・」
中澤は自分の考えていた現実を安倍に話してみた。
「一緒に住めばいいよ。それならお金だって少なくて済む」
「なっちの貯金も合わせればなんとかなるよ」
安倍はそう言って中澤に向かってピースサインをした。
中澤は安倍の指先に目をやった。小さな手。大きな自信。
中澤はふと自分の手に目をやった。小さな手。大きな絶望・・・。

面会終了時間が迫っていた。
加護が中澤をひじをつつき、「時間・・・」と小さな声で言った。
中澤はそろそろ話しを切り上げて帰ろうと、椅子から立ちあがった。
「なっち、そろそろ時間やねん。ウチら帰るわ」
加護も中澤に合わせて立ちあがった。
「あ、もう時間かぁ・・・病院にいると時間長くって」
そう言って安倍は笑いながら、ベッドから立ちあがった。
病院備え付けの飾り気の無いスリッパを履き、安倍は中澤たちの方へ歩いてきた。

「外までは見送り出来ないけど・・」
そう言って安倍は中澤に手を差し出した。
「なんや、握手かいな。なんか変な感じやな」
中澤と安倍は握手をした。続いて安倍は加護に手を差し出した。
加護は安倍の手を少し見つめてから、握手をした。
「じゃ・・・・」
中澤たちは安倍に背を向けドアの方に歩き出した。

「まだ終わったわけじゃないよ!」
「負けたくないよ!」
安倍は突然大声で中澤たちに向かってそう言った。
中澤と加護はびっくりして安倍の方を振り向いた。
安倍はじっと、中澤たちを見詰めていた。手を強く握りながら。
中澤は安倍の気迫に押しつぶされそうだった。

「そ、そうやな・・・」
中澤の精一杯の答えはそれだけだった。
中澤も負けたくなかった。しかし、どうすれば良いのだろう?
「じゃ・・またな」
中澤は安倍にそう言ってドアの方を向いて歩きだした。
中澤は安倍の方を振りかえらなかった。いや、振りかえれなかった。
安倍を見ていると、自分があまりにも情けなく見えた。

病院を出て中澤と加護は駅に向かって歩きはじめた。
二人ともしばらく無言だった。
中澤の頭には色んな思いが浮かんでは消えていた。
そして
『まだ終わったわけじゃないよ!』
『負けたくないよ!』
安倍の言葉が頭の中をグルグルと駆け巡った。

「安倍さん、なんか印象変わりましたね・・・」
加護が話しかけてきた。中澤は一瞬立ち止まり、加護の顔を見た。
そしてまた前を向いて歩きだした。
「そうやな・・・痩せてたし」
安倍は、そう、丁度「真夏の光線」の時の安倍の姿に逆戻りしていた。
ただ、髪は伸び放題でかなり痛んでいてボサボサだった。
肌も荒れていてツヤが無かった。
ただし、目は輝いていた。眩しい程に。

「なんか、穏やかな感じになりましたね」
加護は続けてそう言った。中澤は前を見たまま、
「そうやな・・・」
とだけ答えた。
確かに、以前の安倍にあったトゲトゲしい雰囲気は微塵も感じられなかった。
柔らかい、穏やかな笑顔だけが印象に残った。
倒れた事がきっかけで安倍の中に何か変化があったのだろうか?
中澤は安倍の無邪気な笑顔を思い出していた。

また無言のまま歩きつづけた二人は、駅に着いた。
二人はそれぞれ別々の方向に帰るため、別々の電車に乗る。
ならんでそれぞれの切符を買い、改札を通って上り線下り線の分かれるところまでやって来た。
中澤は立ち止まり、加護の方を向いて別れを告げた。
加護は小さく頷いて、自分の向かう方向を向いて歩きだした。
が、ニ、三歩歩いて立ち止まり、中澤の方に振りかえった。

「中澤さん・・・安倍さんの言った事どう思います?」
加護は中澤の顔色を伺うような表情をしながらそう言った。
中澤は言葉に詰まった。加護を見つめたまま、動けなくなった。
「私は・・・やってみたいです」
そう言って加護は振り向き、走り出して行った。
加護は中澤から見えなくなるまで一度も振り向かずに走って行った。
中澤はその場に立ち尽くしていた。

中澤は家に着いた。カギを開け、ドアを開け、部屋に入る。
バッグを床に放り投げ、自分はそのままベッドに横になった。
電気はつけていなく、部屋は真っ暗だった。
カーテンの隙間から覗く外の薄暗い明かりだけだった。
中澤はボンヤリと何も見えない天井を眺めていた。
「もう一度、か・・・・」

中澤はしばし天井を眺めていたが、ふと起きあがった。
真っ暗ではあるが目が慣れてきて見えなくは無かった。暗いままの方が良かった。
冷蔵庫を開け、残り少ないビールを取りプルタブを開けた。
ビールに口をつけたままリモコンでテレビの電源を入れた。
そのまま椅子に座り、ボンヤリとテレビを見ていた。
『まだ終わったわけじゃないよ』
『負けたくないよ』
『私は・・・やってみたいです』
安倍と加護の言葉が頭の中でエコーしていた。

中澤は突然、テレビに気を取られた。
「ごっちん・・・」
後藤がテレビに映っていた。後藤のソロ・デビューのためのプロモーションで歌番組に出ていた。
インタビューを受けている後藤。それをブラウン管ごしに眺める中澤。
ほんの少しの間で立場はあまりにも違っていた。
『モーニング娘。の解散、本当に残念でしたよね』
『はい、本当に・・・。もっとやっていたかったです』
『娘。は私にとって居心地のイイ学校みたいな・・』
『メンバーはみんな家族みたいで楽しかったです・・本当に残念です』

「ウソつきっ!」
中澤は突然大声を出して、ビールの缶をテレビに投げつけた。力いっぱい。
涙が溢れてきた。手は震え、全身から汗が出てきた。
「ごっちんがボイコット先導したんやないか!」
声が枯れんばかりの大声で怒鳴った。
「あんたのおかげで・・・」
今度は逆に囁くほどの声でつぶやいた。

中澤はその場にうずくまった。
「ごっちん・・なんでや?なんで裏切ったん?」
声を震わせながら中澤はテレビの中の後藤に話しかけた。
テレビの中では後藤のソロ曲が流れていた。後藤は満足そうに歌っていた。
中澤は両手で耳を塞いだ。後藤の声は聴きたくなかった。
「う・・・・うぅ・・・」
中澤は呻き声をあげて泣いた。

―――
薄暗いロビーには3人しか人がいなかった。
壁にもたれて立つ番組スタッフ。下を向いて動かない。
腕を組んだまま狭いロビーの端から端まで行ったり来りするマネージャー。
冷たくて固い長椅子に座り、じっとガラスで出来た自動ドアから外を眺める中澤。
3人には会話はいっさい無かった。ただ、沈黙。
マネージャーの足音だけがロビーに響いていた。

中澤が見つめる外で、たった今4人を乗せてきた救急車が走り去ろうとしていた。
音も無く静かに発進する救急車。
救急車が行くと中澤はあたりを見回した。
外はもう暗く、ロビーの中は事務的な蛍光灯の明かりだけで薄暗い。
入り口の近くには小さな小窓があり、そこから誰もいない事務室らしき部屋が覗ける。
タイル張りの冷たい壁。色は淡いブルー。
ロビーから伸びる広めの廊下の先には観音開きの大きくて地味な扉。

程なくして、一つの扉が開いた。扉の中からは薄いグリーンの術衣を着た男が現れた。
3人はいっせいに男に注目した。壁にもたれていたスタッフはスッっと立った。
マネージャーが足を止めた。中澤は・・・動かなかった。
マネージャーが最初に口を開いた。
「どうなんでしょうか・・・」
術衣の男は答えた。
「命に別状はありません」
3人とも緊張が解けて、ホッっと力を抜き、顔を見合わせた。

「ただ・・・」
男は続けた。3人の緊張がまた一気に高まった。
「入院が必要かと思われます。絶対安静です」
マネージャーが顔を曇らせた。
「入院、ですか・・・原因はなんなんですか?」
「過労と極度の精神衰弱・・・それに、肺炎です」
男は表情一つ変えずにあっさりと言い放った。
「おそらく、風邪をひいたまま無理をしたんでしょう。それが悪化して」
マネージャーの顔がどんどん険しくなっていった。

「どの位・・・入院が必要なんですか?」
マネージャーはだんだん声が大きくなっていった。
「経過にもよりますが、一ヶ月・・・それ以上」
「そ、そんなに?」
マネージャーの声はついにはロビー中にこだまする位の大きさになった。
中澤は・・・ただ、黙って聞いているしかなかった。

中澤が楽屋の扉を開けると、部屋の中央にある大きなテーブルの周りにバラバラに人が座っていた。
それぞれは下を向いたまま押し黙っていた。いつもの騒がしい楽屋とは別世界だった。
一人が中澤に気が付いた。
「裕ちゃん・・・どうだった?」
そう言って矢口は椅子から立ちあがった。
その場にいる全員が中澤を注視した。
中澤は黙ったまま開いている椅子に腰掛けた。

「なっちはな・・・一ヶ月以上の入院が必要なんやと」
中澤がそう言うと、ザワザワと全員が騒ぎ出した。
「何で?そんなに酷いの?」
矢口は椅子に腰掛けて、中澤に聞いてみた。
「過労と精神衰弱、それと肺炎やて」
中澤は鎮痛な面持ちで矢口に向かって話した。ザワザワはより一層大きくなった。
「肺炎・・・・マジで?」
矢口は信じられない、といった顔で中澤を見つめた。

「どうするの・・・コンサートまであと一週間しかないよ?」
テーブルに肘をついて顔の前で手を組んでいる保田が言った。
「どうするって・・ウチらはどうしようも無いやろ」
中澤は保田を見ながら答えた。
「新しいアルバムのレコーディングだって・・まだ途中なのに」
後藤も口を開いた。手をひざの上に乗せていた。
「事務所が決めるやろ。どうするかは」
中澤にはそうしか答えられなかった。

時間も遅いので今日のところはお開きになった。
中澤は全員が出たあと、最後に楽屋を後にした。
迎えの車のある駐車場へ出たら、出入り口に矢口が待っていた。
「裕ちゃん・・・なっち大丈夫かなぁ」
矢口は中澤の顔を見てそう言った。なにか、安心出来る言葉を期待しているようだった。
「大丈夫やろ。心配すな」
中澤は心にも無い事を言った。

翌日、全員は事務所からこれからの事を聞かされた。
コンサートは延期。
アルバムの発売も延期。
テレビ番組は安倍不在を悟られないように、二組に分けて別々に収録する。
二組はメンバーを入れ替えつつ交代で番組に出演する。
後藤、保田を中心とするグループと、中澤、矢口中心のグループの二つに分かれる。

「なんでこんなに小技使うんや?」
中澤は不思議だった。しかし、事務所の決定には逆らえなかった。
むしろ、どうどうと安倍の入院を公表してもいいんじゃないか、と思った。
それで「娘。」の人気が激減するとも思えなかった。
「しばらくの間、バラバラに行動するんか・・・」
中澤は何か不安だった。

公表するまでも無かった。数日もすると、マスコミにすっぱ抜かれてしまった。
「安倍なつみ、重体で入院!再起不能か?」
それを見た中澤は驚きを隠せなかった。
「再起不能ってなんや!アホかー!」
記事を読むと、安倍入院の記事と、小さく「娘。」解散か?という書きこみを発見した。
「なんでやねん!どうしてそうなるんや?」

安倍入院が知られてしまった事務所は、一度全員を呼び出した。
そこで聞かされたのは、健康上の理由、という事で安倍を脱退させるという事だった。
中澤は納得いかなかった。
「そんなんひどいじゃないですか!」
矢口が加担した。
「ちょっと強引すぎますよ」

「なっちだけの娘。じゃないでしょ?このままだと全滅しちゃうよ?」
そう言ってきたのは後藤だった。
「なっち一人のために色々ありすぎだよ・・・・」
保田が加担してきた。
中澤は激怒した。二組に分かれている間に深い溝が出来てしまっていた。
「なんやねん!おまえら!仲間見捨ててもいい言うんか?」

「今までだって脱退はあったじゃん。別に騒ぐほどの事でもないんじゃ?」
飯田が割って入ってきた。
中澤はますます激高した。
「なんやねん!なっち本人の意思じゃないやん!」
「なっちが居なくなれば清々するんじゃない?」
保田が言った。
中澤はキレた。

中澤が安倍をかばうのには理由があった。
もちろん、オリジナルメンバー、という事もあったのだが、
中澤には安倍に対して負い目を感じていた。
安倍はその性格や言動からメンバーにたびたび嫌がられてきた。
安倍はメンバー内から孤立していた時もあった。
中澤はリーダーとして、メンバーを統率しなければならない立場にあった。
メンバー内の平穏のために、安倍を犠牲にしなければならない事が、たびたびあった。

それでも安倍は中澤を信用して慕ってきた。
中澤は他のメンバーの前では冷たくあしらうしかなかった。
そうでもしないと、メンバーが中澤に反乱を起こしそうだった。
悲しげな安倍の顔・・・・。
中澤は自分を慕ってくれている安倍を裏切ってしまった。

「やすだぁ!もう一度言うてみい!」
中澤は今にも殴りかからんばかりの勢いだった。
「裕ちゃん!やめなよ!ちょっとムキになりすぎだよ!」
矢口が叫んだ。
しかし、収まらなかった。収まらなかったのは中澤ではなかった。

「裕ちゃんも事務所もなっちをかばいすぎだよ!」
保田もアツくなって暴走しはじめた。
「私がなっちにいじめられてた事知ってるでしょ?なっちの味方するなんて最低!」
後藤が叫んだ。
「裕ちゃんどうして?裕ちゃんだってなっちの事あんまり良く思ってなかったじゃない!」
飯田が叫んだ。

(違うんや!それは違うんや!)
中澤は飯田の言葉に対してそう思った。しかし、口に出せなかった。
(ウチはなっちを裏切ったんや!裏切りはもういやや!)
中澤は黙ってしまった。矢口が中澤の手を掴んだ。
「裕ちゃん、やめよう・・・」

睨み合ったまま沈黙が続いた。
この状況に耐えられなくなった辻が泣き出した。
「今日はお開きにしようや・・・」
中澤は力なくそう言った。
保田、後藤、飯田の視線が痛かった。まるで、以前の安倍を見るような目だった。
そして、三人は中澤に背を向け、ドアに向かって歩いた。
ドアを最後に出た後藤は、力いっぱいドアを閉めていった。
渾身の怒りがこもっていた。

「裕ちゃん・・・やりすぎだよ」
部屋には矢口と中澤だけが残った。
中澤は後悔した。ここまでまとめて来たメンバーを自分の手で破壊してしまった。
「そうやな・・・」
中澤はどうしたらいいのか分からなくなってしまった。

中澤は一晩考えて、結局後藤達の意見をのむ事にした。
自分が嫌いになった。最低だと思った。
(また・・・・裏切ってしまう・・・・)
後藤達にそれを伝えた。後藤達は了解した。
「事務所の決定だし・・・また、みんなでやり直そうよ」
後藤はそう言って笑った。中澤は笑えなかった。

しかし、事はこれで収まらなかった。
生放送の番組に、後藤、保田、飯田、辻、そして吉澤の五人が現れなかった。
混乱する現場。平謝りするマネージャー。
連絡もとれず、家にもいない。
仕方無く、番組は中澤、矢口、加護、石川の四人だけで出演した。
しかし、四人の表情は今にも泣きそうだった。
全国に「娘。」の崩壊を放送してしまった。

中澤は後日、スタジオに現れた後藤に問いただした。
ただ・・・怒っているというわけでは無かった。
ただただ、どうしてなのか聞きたかった。
後藤は言った。
「もう、娘。は解散した方がいいんじゃないの?」
中澤はそれでも冷静さを保った。そしてなぜかを聞いてみた。
「私は・・・他の事務所から誘いが来てるの」
「そっちに移籍しようと思ってて。でも、娘。が残ってると色々、ね」
中澤はそこまで聞いてさすがにキレた。

「なんや?自分の都合しか考えてないやんか!」
中澤は怒鳴った。後藤は少しばかり動揺した。
「でもね、ののちゃんとか、ひとみちゃんも、もう嫌気がさしてるみたいだし」
後藤はそう言った。中澤は目の前が真っ暗になった。
「もう、ダメだよ。私達」
後藤の言葉が中澤に突き刺さった。
―――

空が明るくなってきた。
新聞屋のバイクの音が静かな街に響いていた。
鳥のさえずりが聞こえる。
今日も晴れそうだ。
テレビは何やらさわやかな番組を映していた。
中澤は一人、ぼんやりと考え事をしていた。

「負けたくない・・・・か」
安倍の言った言葉を中澤は繰り返し繰り返し口にした。
今の中澤はただの敗者だった。後藤は勝者だった。
「まだ終わったわけじゃないよ・・・か」
ここで終わらせれば敗者確定である。
「もう一度・・・・」
決着はまだついたわけじゃない。

中澤はもう一度やってみようか、と思った。
しかし、自信が無かった。自分自身に。
安倍は可愛い子だ。中澤自身それは認めていた。
加護はセンスがいい。強いし。
なにより二人ともまだ若い。
自分はこの二人と並んでいいのだろうか?

「二人を・・・売りこんでみようか」
中澤は自分がマネージャーとしてやっていく事を考えた。
ツテも無い貧相なマネージャーだけど、タレントの気持ちはよく分かってる。
それよりも何よりも、中澤は安倍の期待を裏切りたくなかった。
もう、ニ度と安倍を裏切る事はしたくなかった。
安倍の期待とは少し違うけど、安倍の夢を後押ししてあげる事は出来そうだ。
中澤は決心した。

太陽が空高く上がってきた。今日もいい天気だ。
中澤は安倍のいる病院へ向かった。
自分の決心を安倍に話すために。
安倍は喜んでくれるだろうか?
少し不安だった。

安倍は昨日と変わらず明るい笑顔で迎えてくれた。
「裕ちゃーん、ひさしぶりーなんつって」
中澤は少しほっとした。
中澤は昨日と同じ椅子に座った。安倍は今日はベッドではなく、加護の座っていた椅子に座った。
「あのね、裕ちゃん。退院できそうだよ」
安倍は満面の笑みを浮かべながらそう言った。
「お医者さんにね、無理に・・・あ、いやいや。頼んでね。早く出られそう」

「そうなんか・・大丈夫なんか?」
中澤も笑顔で答えた。作り笑顔ではない笑顔で。
「大丈夫だよ!めっちゃ元気だし。病院は退屈だしー」
そう言って安倍はケラケラと笑った。
いい雰囲気だった。
中澤は昨日の話を切り出した。

「昨日の話なんやけどな・・・ウチも、もう一度やってみよう思ってるねん」
安倍は中澤の顔を覗きこんだ。
「ほんと?」
「ほんまや。でもな・・・ウチはなっちとあいぼんのマネージャーやりたいねん」
「マネージャー?」
安倍はちょっと不満そうな顔をした。中澤は続けた。
「ウチがマネージャーなら二人もやりやすいやろ。どや?」

「えー?でも、裕ちゃんがそういうなら・・」
安倍はちょっと不満そうだが、納得してくれた。
「でも、色々やる事あるねんで。まず、受け入れてくれる事務所捜しからやな」
「そうだねー。やぐっつぁんにも相談してみようよ」
「そやな」
中澤は後藤には何も相談したくなかった。矢口なら、協力してくれそうだ。

安倍は立ちあがって背伸びをした。
「なっちが退院したら、裕ちゃんと一緒に住んでいい?」
「あぁ・・もちろんや」
中澤はちょっと不安だったが、安部を受け入れる事にした。
「家賃は折半やぞ」
「わかってるって。あはははは」
安倍の表情には不安という文字はどこにも無かった。

「じゃ、そろそろ行くわ」
中澤は立ちあがった。
「え?もう?」
安倍は寂しそうな顔をした。
「そうと決まったら色々準備せなアカンやろ。時は金なりや」
「あはは・・・大阪商人だね」

「やぐっつぁんにはなっちが電話しておくよ」
「ああ、そうしてや・・・じゃ」
中澤はそう言って帰ろうと歩き出した。
「一人ぼっちは寂しいよ・・・」
安倍は帰ろうとする中澤にそう言った。中澤は振りかえった。
安倍は悲しそうな顔で中澤を見つめていた。
中澤は安倍に歩み寄って、安倍を抱きしめた。
「一人ぼっちじゃないで」

翌日、中澤は「娘。」時代にもらった業界名簿にのっている芸能プロダクションに片っ端から電話してみた。
「捨てずにとっておいて良かったわぁ」
元モーニング娘。の安倍なつみ&加護亜依の二人による新ユニット。
マネージャーとして中澤裕子も一緒に受け入れてもらう。
ユニットの名前はまだ決まっていない。
いや、名前なんか何だっていい。とりあえずスタートラインにつくのが先だ。

だが、プロダクション側の反応は芳しくないものだった。
「それはちょっと・・・」
「ウチでは無理ですねぇ」
中澤は挫けなかった。次から次へと電話してみる。
「今さら?」
「冗談でしょ?あはは」
だんだん辛くなってきた。

「安倍さんはまだ入院しているんでしょ?それじゃ話にならないよ」
もっともだった。安倍がいつ退院するかも分からないのに先走りすぎている。
中澤は電話を止めた。

「ピンポーン」
中澤が安倍との共同生活のために部屋の片付けをしていると、チャイムが鳴った。
「誰や?」
中澤は玄関に向かい、覗き窓から外を見た。
中澤はびっくりした。急いでカギを開け、ドアを開けた。
「えへへ・・・逃げてきた!」
そこには大きなバッグを抱きかかえて立つ安倍がいた。

とにかく中澤は安倍を部屋に入れた。
「はぁ〜疲れた」
安倍はバッグを床に置くと、そのまま床に座り込んだ。
中澤は立ったまま、突然の事に焦っていた。
「なっち、もう退院したんか?」
安倍は中澤を見上げながらこう言った。
「ま、ね。ちょっとフライングだけど」
安倍はいたずらっぽく笑った。

「なっちの荷物、こっちに持ってきてアパート引き払わないと」
安倍はバッグを自分の前に置いて、中を開けてごそごそとやっていた。
「持ってきてって・・・」
「ん?そんなに沢山は無いよ。娘。が解散した時に、事務所の人に頼んで実家に送ってもらったし」
呆然とする中澤を構いもせずに安倍は続けた。
「さっきアパート行ってきた。残ってるのは服ばっかりだよ」
中澤は開いた口が塞がらなかった。

「とにかく、これからよろしく」
安倍は笑顔で中澤に言った。
中澤は呆れ顔をしながら頷いた。
「病院に居るときから段取りしてあったから。明日には全部お引越しできるよ」
中澤は安倍の言葉に驚きを隠せなかった。
(なんちゅうヤツや・・・・)
中澤はため息を一つついた。

夕方になると、学校を終えた加護がそのままの足でやってきた。
「安倍さんに電話もらって・・・」
加護は制服のままだった。
「きゃー。あいぼん可愛いじゃん」
安倍は上機嫌だった。いや、異常なハイテンションだった。
「じゃ、新しい門出を祝ってかんぱーい!」
安倍は缶ジュースで乾杯をした。
加護も中澤も安倍には圧倒されっぱなしだった。

夜も更け、ひさしぶりに沢山呑んだ中澤は良い気分だった。
加護は大分前に帰った。安倍はジュースだけで酔ってる中澤以上にゴキゲンだった。
ひさしぶりに色々話した。
「娘。」が増員増員を繰り返し、メンバーが増えれば増えるほど中澤と安倍は話す機会を失っていた。
中澤は酔いも手伝ってかかなり眠くなってきた。

「もうそろそろ寝ようや」
中澤は安倍にそう言って、毛布を引っ張り出してきた。
「なっちはベッドで寝や」
中澤は毛布に包まると床にゴロンと寝転がった。
「裕ちゃん、いいよぉ。裕ちゃんのベッドじゃん」
安倍は中澤に気を使ってそう言った。
「ええんや。ウチ、床で寝るの好きやねん」
中澤は安倍に背を向けたままそう言った。
「裕ちゃん・・・・ありがとう」
安倍は中澤のベッドに入った。

次の日、中澤は安倍とともに引越し作業におわれていた。
とは言っても安倍の部屋はほとんど片付いていて、服や生活用品だけが残っていた。
安倍は「娘。」時代をすごした部屋に別れを告げるのが少しツラそうだった。
安倍は最後に部屋を出るとき、ポツリと寂しげな顔でつぶやいた。
「さようなら、過去の私」
中澤は黙って見ていた。

夕方頃、中澤の家で新しい生活の準備をしている時、突然電話が鳴った。
中澤は荷物に埋もれた電話を取りだし、受話器をとった。
「あ・・・裕ちゃん?」
声の主は矢口だった。矢口とも解散した後一度も会っていないかった。
「あのね、新しい事務所の件だけどね」
「ちっちゃい所だけど、ぜひ、って所が見つかったよ」
心なしか矢口の声は沈んでいるようだった。
「連絡先教えとくね」

中澤は矢口の紹介してくれた事務所に連絡した。
早速、明日挨拶に行くことになった。
加護にも連絡し、明日新ユニットで新事務所に行くこととなった。
「以外に早く見つかったね」
安倍はとても満足そうだった。
中澤は復帰について思い悩んでいた自分がバカらしく思えた。

10:00
「ジリリリリリ・・・・・」
いつもの朝。いつもの目覚ましの音で中澤は目がさめた。
「う・・・頭痛い・・・昨日飲み過ぎたかな?」
中澤は目覚ましを止めると、時計に目をやった。
「裕ちゃんのねぼすけっ」
安倍の甲高い声で中澤は目がさめてしまった。
「なんや、なっち。もう起きてたんか」

中澤と安倍は加護と落ち合い、新事務所へ向かった。
新事務所はビルの一室にあった。
矢口が小さい事務所だけど、と言っていたが、本当に小さいところだった。
でも、そんな事は関係無かった。とにかく、再スタート出来るのだから。
三人は新事務所へ入っていった。

新事務所の人達は暖かく迎え入れてくれた。
中澤はほっとした。中澤も専属マネージャーとして受け入れてもらえた。
そこでこれからの計画を話しあった。
まず、デビューシングルを録音する事。
デビュー曲のプロデュースは事務所の人にお任せした。
それからテレビやラジオに売りこみを始める。
まずは、デビューシングルだ。

レコーディングスタジオにも挨拶をしてくるよう、事務所の人に言われた。
三人は事務所を出て、教えられたスタジオに向かった。
「なんだか、怖いぐらいだね」
電車の中で安倍は言った。中澤も同じ意見だった。
怖いぐらい上手くいっていた。
何もかも順調だった。

電車を下りてスタジオに向かう途中、安倍は突然立ち止まった。
「なんや?どうした?」
中澤は安倍の顔を見て驚いた。血の気が失せて青かった。
「なっち!大丈夫か!」
「大丈夫・・・少しだけ休もう」
安倍は苦しそうにそう言った。
とりあえず近くの喫茶店に入って休む事にした。

安倍は喫茶店のテーブルにしばらくうずくまっていた。
中澤と加護は注文したジュースも飲まず、ただ黙っていた。
安倍はしばらくして顔を上げた。
「もう、大丈夫・・・さ、行こう」
安倍の顔はまだ青かったが、少しばかり回復したように見えた。
「ほんまに大丈夫なんか?」
中澤は心配だった。まだ退院して日が浅い。無理は禁物だ。
「大丈夫だって」
安倍は力なく笑った。

三人は喫茶店を出てまたスタジオに向かって歩きだした。
中澤は安倍の様子をじっと見ながら歩いていた。
加護は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
安倍は、苦しそうな顔をしながらただ前だけを見て歩きつづけた。

スタジオに着き、関係者の人達に挨拶をした。
安倍の顔色はまだ優れなかったが、苦しそうな表情は消えていた。
中澤は終始安倍の体調を心配し、声をかけた。
安倍は、大丈夫だから、とだけ答えた。
中澤は不安だった。

スタジオを立ち去ろうと廊下を歩いていたら思わぬ人物と偶然出くわした。
「ごっちん・・・・」
中澤の表情が一気に硬くなった。保田も居た。
「あ・・・・おひさしぶり」
後藤と保田は気まずそうに挨拶した。
「うちら、再デビューする事になったんや」
中澤は後藤を見つめながら言った。

「そうなんだ・・・がんばってね」
後藤はまったく興味なさそうに言った。
「ごっちん、おひさしぶり。お互いがんばろうね」
安倍が間に割って入ってきた。そして、握手を求めて手を差し出した。
「じゃ・・・・」
後藤と保田は安倍を無視して歩き去った。
安倍は、手を差し出したまま下を向いていた。

スタジオを出て帰り道、安倍は中澤に話しかけた。
「裕ちゃん、私、ちょっと用事があるの・・・先に帰ってて」
中澤は心配だったが了解した。
「じゃ・・・ごめんね」
安倍はそう言って人ごみの中に消えて行った。
中澤と加護は安倍が見えなくなるまで安倍を見ていた。

家に帰って来た中澤は一人、ビールを飲んでいた。
安倍や加護と分かれてからもう大分時間がたっていた。
中澤は安倍が心配だった。
テレビを見ているものの、頭はテレビの事なんか意識してなかった。
これからが少し不安になった。

随分待っても安倍は帰ってこなかった。
(まさか、何かあったんじゃ・・・・)
中澤は心配でいてもたってもいられなくなった。
その時、電話が鳴った。
中澤は心臓が飛び出そうな位びっくりした。
嫌な予感・・・・。
中澤は恐る恐る受話器を取った。

「あ・・裕ちゃん起きてた?」
電話の主は安倍だった。中澤は力が抜けた。
「なっち・・・早よ帰ってきてや」
中澤は心配で仕方なかった。
「うん。でも、もう少しかかりそうだから」
「先に寝てていいよ。カギ持ってるし」
安倍の声はイマイチ元気が無さそうだったが、しっかりしていた。
中澤は少し安心して、電話を切った。

「プルルルルル」
電話の呼び出し音にびっくりして、中澤は目がさめた。
真っ暗な部屋のなか、手探りで電話を探して受話器をとった。
「はい・・・もしもし?」
「あ・・・裕ちゃん?」
電話の主は矢口だった。声は心なしか震えていた。
「矢口かぁ。こんな夜中になんの用やねん」
中澤は少し不機嫌そうに答えた。

「裕ちゃん!今すぐ病院に来て・・・・」
矢口は泣き出しそうな声でそう言った。
「病院?なんや一体・・・」
「なっちが・・・・階段から落ちて・・・」
中澤は驚いた。矢口の言ってる事が理解出来なかった。
「階段?落ちた?」
「とにかく、すぐ来て!」
矢口は困惑しているようだった。
中澤は着の身着のまま家を飛び出した。

中澤が病院に到着し、中に入ると矢口がいた。
矢口は今にも泣きそうな表情をしながら、ロビーの長椅子に座っていた。
中澤の姿を見ると矢口は立ちあがり、中澤に歩み寄った。
「裕ちゃん・・・なっちが・・」
矢口は冷静さを失っているようだった。
「何があったんや?」
中澤は矢口に問い掛けた。

「警察から私に電話があって・・・なっちが階段から落ちたって」
「ケガはどうなんや?」
中澤は矢口に聞いてみた。
「分からない・・・・全然分からないよ」
中澤は、そうだろうな、と思った。
矢口が電話を受けたときには安倍はもう病院だっただろう。

「階段って・・・どこの階段や?」
「駅の階段だって・・・・」
駅。阿部は帰り道だったのだろう。
しかし・・・なぜ?
確かに昼間、安倍は調子が良く無さそうだった。
自分から落ちたのだろうか?
足を滑らせて?

「裕ちゃん・・・どうしたらいいんだろう」
矢口の声に考え込んでいた中澤は我に帰った。
「どうもこうも・・・」
「あいぼんとか、ご両親にも連絡しないと・・・」
「そうやった・・・」
中澤は現実に引き戻された。
ツライ、ツライ連絡をしなければ・・・。

ガチャ、という音がして奥から術衣の男が出てきた。
いつか見た風景だった。
しかし、違ったのは男の表情が険しいのと、術衣が血まみれだった事だ。
「お知り合いの方ですか?」
男はゆっくりと、静かにしゃべった。
「ご家族の方は・・・」
中澤は、彼女の家族は北海道にいる、と答えた。
「そうですか・・・ご家族に連絡してください」
中澤はその言葉を聞いて絶望の予感がした。

「ど・・・どうなんですか?」
矢口か男に問い掛けた。男はため息を一つついた。
「頭を酷く打っていて・・・脳に大きな傷がついています」
矢口はそれを聞いて一歩後ろに下がった。
「命に別状は無いのですが・・・意識が戻るかどうか」
矢口は両手で口を押さえた。
「それって・・・植物人間?」
中澤が男に問い掛けた。
「そういう事です」

中澤はその場に倒れこんだ。
「裕ちゃん!」
矢口が中澤の体を体全体で倒れないように支えた。
中澤は目の前が真っ暗だった。頭の中は真っ白になった。
「裕ちゃん!裕ちゃん大丈夫!?」
矢口の声が病院の狭いロビーに鳴り響いた。

矢口に支えられて、中澤は長椅子に座った。
中澤は両手で顔を押さえた。止めど無く涙が出てきた。
「裕ちゃん・・・・」
矢口は中澤を支えたまま、下を向いていた。
中澤にはもう、何も頭に浮かばなかった。
ただただ、泣きつづけた。
泣くしか出来なかった。

泣くだけ泣いて、もう涙も枯れてしまった。
中澤は冷静さをやっと取り戻していた。
「矢口・・・すまんな・・・もう大丈夫や」
中澤はそう言って矢口の体を起こした。
矢口は下を向いたまま押し黙っていた。
「矢口、もう帰りや。明日も仕事やろ?」
「後はウチが居るから・・・」
中澤は矢口を気遣って帰るよう促した。

矢口はタクシーに乗って帰っていった。
一人で居るロビーは寂しくて、恐ろしく寒かった。
「ご両親に電話せな・・・」
中澤は重い腰をあげてロビーにある公衆電話に向かった。
受話器を上げた。手が震えた。受話器を持っていられないほどに。
受話器を置いた。震えは全身にわたった。
「寒い・・・・怖い・・・」
中澤は両手で体を押さえ、その場にうずくまった。

電話は病院関係者の人が代わりにしてくれた。
中澤は電話の間、両手で耳を押さえていた。聞くのが怖かった。
「病室に・・・・どうぞ」
看護婦が中澤に話しかけた。中澤は安倍の姿を見るのが怖かった。
しかし、中澤は現実を直視しなければならなかった。
看護婦につれられて、病室に入った。

安倍の居る病室は眩しかった。暗いロビーから入ると目の前が白くなるほど明るかった。
中澤が入ると、看護婦は静かにドアを閉めて出ていった。
病室の真ん中にはベッドに寝ている安倍が・・・。
中澤は恐る恐る近づいていった。
安倍は・・・何もなかったかのように眠っていた。
本当に、静かに。

顔にはガーゼが貼られていた。顔に傷を負ったのだろう。
それに大きなアザ。
中澤は顔を近づけてみた。
安倍の顔には大量の血を拭いた後があった。
中澤はそれを見て後ずさりした。
そしてそのまま、床に座り込んでしまった。

中澤はそのまま呆然と安倍を見つめていた。
中澤は今にも安倍が起き上がってくるような気がした。
そして、またあの甲高い声で騒がしくしゃべりまくるような気がした。
そう願っていた。
しかし、安倍はいつまでも静かなままだった。
病室は、機械の不気味な音以外は何も音が無かった。

「すみません・・・」
看護婦の声で中澤は我に帰った。
「警察の方が、お見えになってます」
中澤は立ちあがった。そして、ドアに向かって歩いた。
看護婦がドアを押さえていてくれた。
中澤は廊下に出た。

「このたびは・・・」
スーツ姿の中年男と、警察の制服を着た若い男がいた。
中澤は二人に一礼した。
中澤と二人はロビーに移動し、長椅子に座った。
「さて・・・」
中年男は中澤を見ながら話しはじめた。

「実はですね、安倍さんが転落としたあと、奇妙な電話がありましてね」
「女性の声なんですが・・・安倍さんが突き落とされたのを見た、というんです」
「名前も名乗らずすぐ切られてしまいまして」
「なにか心当たりございませんか」
中澤は驚いた。突き落とされた?
そして匿名の電話。
中澤は何が何だか分からなかった。
「すみません・・・なんも分かりませんわ」

「そうですか・・・何かありましたらここへ電話してください」
中年男はそう言って名刺を手渡した。そして立ちあがった。
「じゃ・・・」
中年男と制服警官は中澤に一礼をして、立ち去った。
中澤は二人を見送った後、病室に向かった。
病室に入ると、椅子をベッドの横に置いて、座った。
「なっち・・・・何があったんや」

いつのまにか朝になっていた。
中澤は安倍の横に座り、ずっと考えていた。
突き落とされた?誰が電話を?
だが、考えても結論は出なかった。

ドアが突然開いた。そこには息を切らして泣き顔の加護がいた。
加護は中澤に抱きついた。そして、大声を上げて泣いた。
中澤は黙ってそっと抱きしめた。
加護は泣きつづけた。

あまりに取り乱す加護を見て、中澤は加護を家に帰した方が良いと思った。
「あいぼん・・家に帰り」
中澤がそう言うと加護は首を大きく横に振った。
「あいぼん・・・ウチかてツライんや」
中澤がそう言うと、加護は少し間をあけて、小さく頷いた。
中澤は加護を外に連れて行き、タクシーに乗せて帰らせた。
「あいぼんにはツラすぎる現実やろな・・・」
中澤は病室に戻った。

中澤はまた、安倍の横に座り、安倍の顔を見つめていた。
「突き落とすなんて・・なんの恨みがあるんや?」
「恨みがあったにしてもヒドすぎるやろ」
「あの時、なっちを一人にしなければ・・・」
「ウチが付いていれば・・・」
中澤は後悔の思いしかなかった。
何も出来なかった自分が悔しかった。

病室の外の廊下は昼間という事もあって騒がしかった。
しかし、病室は静かだった。外の音がかすかに聞こえる程度だった。
中澤は眠る事も忘れ、じっと安倍を見つめていた。

突然、外の音が大きくなった。ドアが開き、そこから音が入ってきた。
中澤はドアの方を見て驚いた。意外な来客だった。
「ごっちん・・・・・」
後藤は何も言わずドアを閉めて、ドアの入り口近くから動かなかった。
中澤に近づくのを避けているように見えた。
後藤の顔は青ざめていた。目にはうっすらと涙を浮かべていた。
二人とも無言だった。

「裕ちゃん・・・・ごめんね」
後藤が口を開いた。中澤は黙って後藤を見ていた。
「ごめんね」
後藤は謝ってばかりだった。中澤は何が言いたいのか分からなかった。
「何があったんや」
中澤はやっと口を開いた。
「私・・・怖かった」
「怖くて・・・逃げた」

中澤は黙ったまま、後藤の話をじっと聞いていた。
「目の前で倒れているなっちを見て・・・恐ろしくなった」
「すぐに助けてあげれば良かった・・・・」
どうやら、後藤は「その時」現場に居たようだった。中澤はまだ黙っていた。
「ごめんね」
「すぐに警察に言えば良かった・・・・」
「やぐっつぁんが・・・」
そこまで聞いて中澤は立ちあがった。
「矢口?矢口が突き落としたんか?」
後藤は小さく頷いた。

中澤は全身の力が抜けてよろよろと椅子に座り込んだ。
何も言葉が出なかった。
両手で頭を抱え込んだ。
後藤はまだそこに立っていた。

「何でなんや・・・」
中澤が口を開いた。
「警察に電話したのはごっちんか?」
後藤は頷いた。
「見たんやな。突き落とす所を」
後藤は頷いた。
「間違いなく矢口だったんか?」
後藤は頷いた。
沈黙。

また、外の音が急に聞こえてきた。ドアが開いた。
後藤と中澤はドアを見た。中澤は立ちあがった。
「矢口!」
中澤は入ってきた矢口に飛びかかった。
後藤は困惑してよろよろと中澤をよけた。
中澤は矢口の胸倉を掴んだ。
「ナンなの裕ちゃん!」
矢口は叫んだ。
「何て事したんや!」
中澤は怒鳴った。

矢口は中澤の手を振り払おうと必死に抵抗した。
「なぜなっちを突き落とした!」
中澤は力いっぱい矢口を掴んでいた。どうしようもない怒りが込められていた。
矢口は黙って中澤の手を掴み、引き離そうとしていた。
「自分、何したんか分かってるんか!」
中澤は怒りで手が震えた。

「裕ちゃんなんかに私の気持ちが分かってたまるか!」
矢口が突然叫んだ。中澤はひるんで手の力を弱めた。
矢口は中澤の手を振り払った。
「なっちが私に何をしてきたと思ってるの!」
「私が娘。に入りたてのころ、どんなに酷いいじめにあったと思ってるの!」
「裕ちゃんは見て見ぬフリしてたじゃん!」
「私がどんなに苦しかったか分かるの!?」

矢口はその場に座り込んでしまった。
「そんな・・仲良かったやんか」
中澤は矢口を見下ろして言った。
「仲良かったなんて嘘!私はなっちのイジメから逃れるためになっちに取り入ってただけ!」
「なっちの味方のフリをしてた!自分を守るために!」
矢口は大粒の涙をぼろぼろと流し始めた。
「突き落とす事はないやろ!」
中澤は矢口に言った。
「こんなに酷いケガになると思ってなかった・・・」

矢口は顔を涙でグシャグシャにしながら話した。
「私はただ、押しただけ。転んで足でもケガすればイイと思ってた」
「でも、なっちは・・・受け身も取らずにそのまま落ちた!」
「なんの抵抗もせず、頭からまっさかさまに落ちて行った!」
中澤は思い出した。安倍が調子を崩していた事を。
安倍は、すでに意識が朦朧としてたのかもしれない。
だから、押しただけで簡単に落ちてしまった・・・。

「こんな事になると思ってなかった・・・」
「怖くなった・・恐ろしかった・・・・」
矢口は下を向いたままだった。
中澤は何も言えなかった。あまりの事の酷さに、呆然とするしかなかった。
後藤はただ、泣きつづけていた。

「私は、なっちの影にずっと怯えて暮らしてきた」
「私にとってなっちは恐怖そのものだった」
矢口はそう言うと黙ってしまった。
病室はあまりにも静かだった。
安倍は何も知らず、眠り続けていた。
病室の床に、矢口の涙が一つ、また一つ落ちて行った。

エピローグ

10:00
「ジリリリリリ・・・・・」
いつもの朝。いつもの目覚ましの音で中澤は目がさめた。
中澤は目覚ましを止めると、時計に目をやった。
部屋を見渡すと、もう、ほとんど全ての物が片付けられていた。
安倍の甲高い声も聞こえない。
中澤はようやく思い出した。
「あ・・・そうやった・・・もう、いいんやった。もう、終わったんや」

「いや!終わったんやない!」
中澤は頭を横に振った。
「これから再スタートなんや!」
中澤は自分に言い聞かせるように大声で言った。

安倍の一件で再デビューは見送りとなった。
中澤も、もう復帰するつもりは無かった。
主人公のいない物語を続けるつもりは無かった。
しかし、中澤は後悔も絶望もしていなかった。
ただ、前だけを見ていた。

安倍は両親の希望で北海道の家に近い病院に移される事になった。
中澤と加護は、病院までお別れを言いに来ていた。
病院の前には、安倍を乗せていく車が止まっていた。
ドアが開き、安倍がストレッチャーに乗せられて出てきた。
二人は安倍に歩み寄った。

「安倍さん・・・今度遊びに行きます。それまでに元気になってくださいね。約束ですよ」
加護は安倍の手を両手で握ってそう言った。
「なっち・・・・ごめんな」
中澤はそれしか言えなかった。
安倍は何も答えてくれなかった。
しかし、少し笑ったように見えた。
安倍を乗せたストレッチャーは二人を離れ、車に乗せられた。
安倍の両親もそれに続いて乗りこんだ。
中澤と加護は両親に深く一礼した。
ドアが閉められ、車は走り出した。
二人は、いつまでも車を見守っていた。

「ふぅ、やっと片付いたわ」
中澤は何も無い自分の部屋を見てそう言った。
「ごっちん、わざわざ手伝いに来てもらって・・・すまんかったな」
中澤はタオルで汗を拭きながら後藤に話しかけた。
「いや・・・」
後藤は暗い顔をしていた。悲しそうだった。

中澤のアパートの前には加護の父親のトラックが止まっていた。
加護と加護の父親はすでに乗車し、出発の時を待っていた。
中澤と後藤はトラックに向かって歩きはじめた。
「裕ちゃん・・・・ごめんね」
後藤が下を向いたまま言った。
「ええんや。もう終わった事や」
中澤は笑顔で答え、後藤の頭を手で軽く叩いた。
「裕ちゃん・・・帰ったらどうするの?」
「そうやなぁ・・・もんじゃ焼き屋でも始めるか」
「裕ちゃんが料理するの?なんだか危なそうだね」
後藤は目にいっぱいの涙を溜めながら笑った。精一杯。

「じゃ・・・元気でな」
中澤は後藤に別れを告げてトラックに乗りこんだ。
トラックはゆっくりと走り始めた。
後藤はトラックをじっと見ていた。
中澤は窓を開けて顔を出し、遠ざかる後藤に叫んだ。
「ごっちん!みんなの分までがんばるんやぞ!」

トラックは首都高に入った。いつもながら混雑していた。
中澤は窓の外の景色を眺めていた。もう、見ることは無いであろう東京の景色。
『まだ終わったわけじゃないよ!』
『負けたくないよ!』
安倍の声が頭のなかでグルグル回った。
「そう、まだ終わったわけじゃないんや・・・」
そう、中澤はつぶやいた。

首都高を抜け、東名高速を西へ進む。
中澤は忘れていた事を思い出した。
「あ!不動産屋さんにカギ返すの忘れてたぁ!戻ってや〜!」

 

第2章 とんかつ

 

「ふぁ〜あ」
小さな口を目いっぱい開いてアクビをした。
それにしても、アクビは今日これで何回目だろう。
朝起きてからヒマにまかせてアクビの回数を数えて見たが、あまりに多くてもう飽きてしまった。
あー!退屈退屈退屈!」
何もやる事が無い。今日も昨日も一昨日も、同じ。
こんなに元気なのに、どこへも行けない。

「退屈だー!」
ベッドの上に座って、足をじたばたさせる。
テレビはいつも同じだし、漫画だって全部暗記してしまうほど読んだ。
誰も遊びに来てくれないし、電話しようにもテレホンカードはあっという間に使いきってしまった。
「ヒマ〜」
ベッドを飛び降りて窓の開ける。さわやかな風が部屋に入ってくる。
窓の外を見ても毎日同じ風景。

ドアを開けて、ピンクの服を着た看護婦が入って来た。
「やば・・・また怒られちゃう」
ベッドに飛び乗り、フトンの中に隠れる。
寝たふり。
「見え見えですよ」
看護婦はケラケラ笑いながらそう言った。
そしてベッドに近づく。
勢い良くフトンをめくる。

「安倍さん、また騒いでましたね。あちこちから苦情来てるんですから」
看護婦は可愛い顔なのに鬼みたいに怒る。
「えへへへ・・・」
とりあえず笑って誤魔化してみた。
「笑って誤魔化さないで」
看護婦の顔は鬼を通り越して大魔神になってきた。
「だって・・退屈なんだもん」

「あのね・・気持ちは分かるけど、ここは病院なの」
看護婦の顔は少し優しくなった。
「もうすぐ退院なんだから、静かにしてて」
看護婦はそう言うとため息をついた。
「はいはーい」
また今日も同じ説教をされてしまった。

看護婦はふとんを安倍にかけて、部屋を出て行った。
もうすぐ退院、もう何日もそう聞かされてる。
もうすぐっていつ?
このまま一生ここに居るわけじゃないでしょうね?
「退屈・・・・・・」
ベッドに寝たまま天井を見つめた。
天井は白かった。

「あー、髪の毛切りたいな」
自分の髪をいじる。枝毛だらけでぼさぼさ。
もう、肩を通り越して背中の真ん中あたりまで伸びてる。
「自分で切ろうかな?」
と、思ったけど止めた。ハサミも無いし。
「脱走したいな・・・」
早くここから逃げたい。

ベッドを飛び降りる。
この部屋に一つしかない鏡を見る。
自分の顔が写ってる。顔を近づけてよく見てみる。
顔についてた傷やアザはすっかり消えた。
「ん〜、可愛い」
ややうつむいて頭の上を見てみる。
手で髪を掻き分けて、大きな傷跡を見る。
「ま、大分綺麗になったかな」

それにしても何でこんな大きな傷がついたのだろう。
気がついたら病院のベッドで寝てた。
自分を見た看護婦がこの世の一大事みたいな大げさな顔をして医者を呼んでた。
周りに人だかりが出来て、みんな凄く興奮してた。
親も飛んできて、涙流しながら感激してたっけ。
何があったのか、全然覚えてない。

覚えているのは、「娘。」の番組収録中に急に気分が悪くなった事。
そこから何も覚えてない。
親に何があったのか聞いても悲しい顔をして教えてくれない。
ただ、「娘。」が解散してしまった事だけは教えてくれた。
テレビを見てて後藤が一人で歌歌ってるの見て、本当のことなんだと悲しくなった。
取り残された気分だった。

中澤に連絡を取ってみようと思って電話してみたが、
「現在使われておりません」
と言われていまった。
矢口にも連絡してみた。携帯は繋がらなかった。
矢口の家に電話したら、安倍と言う名前を聞いて突然切られてしまった。
みんな何してるんだろう?

またベッドに座り、色々考えてみる。
「娘。」が知らないウチに解散したのはちょっとショックだった。
それよりも、誰も連絡してくれないのはもっとショックだった。
当然見舞いにも来ない・・・。
安倍は一人ぼっちだった。
寂しかった。

「娘。」に居たときから良く一人ぼっちになった。
なぜだか自分には分からなかった。分かればとっくに直してる。
その理由も誰も教えてくれなかった。教えてくれれば直したのに。
一人ぼっち、孤独な時は良くあった。
でも、孤独は嫌い・・・。
一人は嫌。

「あー!退屈退屈!」
また足をバタバタさせた。
騒いでたのは退屈なだけじゃない。
じっとしてると悲しくなってしまうから。
余計な事ばかり考えてしまうから。
イヤな思い出ばかりがよみがえってくるから。
安倍は騒ぐことで自分の呪縛から逃げようとしていた。

「安倍さん!」
また看護婦がやって来た。安倍はふとんを頭からかぶって隠れた。
「騒いじゃダメって言ったでしょう・・検診の時間ですよ」
毎日同じ検診。良くなったのかまだ悪いのかも教えてくれない。
早くここから出たい。
ここから出て・・・どうしよう?
何をすればイイんだろう?

事務的な検診が終わってまた一人ぼっち。
テレビをつけてみる。華やかな世界が映る。
自分もあそこに居たはずだった。
「ふぅ・・・」
ため息をついた。
テレビの中の世界に居たかった。たとえ、一人ぼっちでも、今よりはマシ。
それは、自分の存在がそこにあったから。

もう一度、あの世界に戻りたい。
なんとかして・・・。
自分の存在を証明出来るのは、あそこだけ。

逃げてしまおう。もう一度やりなおそう。

逃亡戦略を練った。
と言っても、走ってタクシーに逃げ込むだけ。
家族に見つかれば病院に逆戻り必至。
家族のいない時間にウチに帰って荷物まとめよう。
カギのある場所は知っている。
その後は・・・。

安倍は東京に居た。大きなスーツケース一つ持って。
とりあえず、住む所を捜さなくてはならない。
不動産屋をめぐる。しかし、家出少女に簡単に貸してくれる所なんて無かった。
歩きつかれて、公園のベンチに座った。
思いきって出てきたのはいいけど、今後どうするかまったく考えてなかった。
でも、帰る事だけは絶対に嫌だった。

「あれ・・・安倍さん?」
ベンチに座って考え込む安倍を見て声を掛けてきた人がいた。
安倍はボーっと前を見ていて気がつかなかった。
足音がだんだんと近づき、すぐ横で止まった。
「安倍さん?ですよね?」
安倍はやっと気がついて声のする方を見た。

「あれ・・ののちゃん」
安倍は特に驚きもせずに声の主に答えた。
「何やってるんですか?こんな所で」
辻は学校の制服を来ていた。下校途中だったようだ。
「何やってるって?何やってるんだろうね」
安倍は自分でも一体何やってるんだろう、と思った。
やりたい事は決まっているけど、今は何をやっているのか分からない。

「そんな大きなスーツケース・・・家出とかじゃないですよね」
辻はスーツケースを指差しながら言った。
安倍は苦笑いしながら答えた。
「ぴんぽーん」
辻はあっけにとられた顔をした。
「え〜?どうしたんですか?」

安倍は事の顛末を辻に話した。
「はぁ・・・そうなんですか」
「大変ですね」
辻はそういって心配してくれた。安倍は思った。
(相変わらずボケた子だなぁ。気が付け!)
安倍は辻の顔を見つめていた。
「私の顔になんかついてます?」

「いや、そうじゃないんだけどね・・・」
安倍の気持ちは辻に通じてなかった。
ここはハッキリ言った方がいいのかな?と安倍は思った。
なにせ相手は辻だ。
「へへへ・・・・」
辻は安倍の気持ちを知る由も無く、意味不明の笑いをした。

安倍は思った。
(泊めてくれ、なんてやっぱりずうずうしいかな)
安倍はまだ辻を見つめていた。
「あ!」
辻は突然何かを思いついたようだった。
やっと気がついてくれた?安倍は安心した。

「そういえば、さっきおいしいアロエヨーグルト買ったんですよ。食べます?」
安倍は頭をかかえてしまった。
「いいよ・・・・ありがと」
このままこうしていても仕方が無い。
安倍は立ちあがった。

「安倍さん、私の家で良かったら泊まっていきますか?」
安倍は辻の言葉で動きが止まった。
「ほ、ほんと?」
なんとなくワザとらしい笑顔で安倍は答えた。
「あ、嫌ならイイんですけど・・・」
おいおい、と安倍は思った。
「嫌なんかじゃないよぉ。お願い!泊めて」
安倍は辻に両手を合わせて頼んだ。

さすがに路上で寝るのはいくらなんでも危険。
安倍は辻の家に泊めてもらえる事になった。
「あ〜、でも、私の部屋ベッド一つしかないんですけど」
辻は心配そうにそう言った。
「床でいいからさ・・・」
二人は駅に向かって歩きはじめた。

駅について、階段の前で安倍は突然立ち止まった。
辻は何かと思い、安倍の方を見た。
安倍は階段を見上げながら、青い顔をしていた。
「どうしたんですか?」
辻の言葉も安倍には聞こえなかった。
何がなんだか分からないが、安倍は何かの恐怖に襲われていた。

「階段は・・やめよう」
安倍は小さな声で辻に言った。
「階段通らなきゃ電車に乗れませんよぉ」
辻は困った顔をして答えた。
安倍はどうしても階段の所から動けなくなっていた。
足が震えてきた。
辻が安倍の手をひっぱるが、安倍は硬直して動かない。

「タクシーで行こう!タクシー。ね」
安倍はそう言った。動揺しているようだった。
「お金はあるからさ」
安倍の勢いにおされて辻は手を離した。
「分かりました・・そうしましょう」
安倍と辻は駅の階段を背にして歩き始めた。

なんであの階段の前で止まってしまったんだろう・・・
安倍はそんな事を考えながら歩いていた。
階段は病院にもあったし他の駅の階段は別になんともなかった。
あの階段に近づきたくなかった。
何か一瞬、見えたような気がした。
過去の記憶なんだろうか?

「ののちゃん・・解散してから、私の噂聞いた事ある?」
安倍は過去に何があったのか聞いてみたかった。
「聞いた事ないですよ」
そうなんだ。やっぱり何も無かったんだろう。
「でも・・亜依ちゃんが、安倍さんと再デビューするって電話してきた事が」
「再デビュー?」
やっぱり何かあったんだ。知りたい。

タクシーをつかまえて、乗りこんだ。
「そ、それで?」
「いや・・・それっきり連絡してません。すみません」
「でも、安倍さんはここにいるし、亜依ちゃんもデビューしてないし」
「何かあったんですかね?」
辻は本当に何も知らないようだった。
「家に帰ったら亜依ちゃんに電話しましょう」
辻の言葉に安倍は頷いて答えた。

二人は辻の家に着いて、家に入った。
安倍は辻のご両親に挨拶し、辻の部屋に入っていった。
「さて・・・亜依ちゃんに電話してみます」
辻はそう言って電話しはじめた。
安倍はスーツケースの中身を出しながら、辻の様子を見ていた。

「・・・・あ、亜依ちゃん?」
どうやら電話に出たようだった。安倍は手を止め、辻に注目した。
「おひさしぶり〜元気?」
世間話から始まった。
安倍は自分の話題が出てくるのが怖かった。
でも、何があったのか知りたかった。

「・・・・・・あのさ、ののちゃん」
かれこれ1時間近く世間話が続いていた。
「あ!そうだった・・・」
辻は安倍の声にやっと気がついたようだった。
「ちょっと変わるね」
そういって辻は受話器を安倍に渡した。
安倍は、手に汗を握りながら受話器を耳につけた。

「こんにちは」
ごく普通の挨拶をした。
「・・・・・・安倍さん?」
電話の向こうの加護はかなり驚いた様子だった。
「おひさしぶり」
安倍の声に加護は無言だった。
「加護ちゃん、どうしたの?」
安倍は加護が何もしゃべらないのが疑問だった。

「あ・・・おひさしぶりです」
加護はやっと話し始めた。声は心なしか緊張しているようだった。
しばらく沈黙。
「あのさ、私ね」
安倍は自分の事を話し始めた。
病院で目がさめた事。何も覚えていない事。駅の階段で気分が悪くなった事。
加護は黙っていた。

「で・・・私に何があったか知りたいの」
安倍は単刀直入に聞いてみた。
加護はしばらく黙っていた。
「わ、私もあんまり詳しくは知らないんです」
加護は、ゆっくりと加護の知っている事を話し始めた。
三人でデビューしようとした事。安倍が階段から落ちた事。
矢口の事も。

安倍は加護の言葉を聞いてショックを隠せなかった。
手が震えてきた。
「そうなんだ・・・」
それしか言葉が出てこなかった。
安倍は黙って辻に受話器を渡した。
辻は受話器を受け取って、加護と話し始めた。
安倍は・・・うつむいていた。

安倍がショックだったのはただ一つだった。
ずっと友達だと信じていたのに・・・。
矢口の行動が信じられなかった。信じたくなかった。
ただ、加護はその理由までは知らなかった。
加護が知っていたのは事実だけだった。
安倍は・・・理由を知りたくなかった。

辻は電話を切った。
「安倍さん・・・何があったんですか?」
辻はまだ何も知らなかった。
「いや、いいの。気にしないで」
安倍は辻に答えた。
「そうですか・・」
辻は元気の無い安倍にそれ以上聞こうとはしなかった。

夜になり、二人はふとんに入った。
辻の両親が安倍のためにふとんを用意してくれた。
電気を消し、部屋は真っ暗になった。
「おやすみなさい」
辻はそう言って眠りに入った。
安倍は眠れなかった。
矢口の事を思い出していた。

安倍は真っ暗な天井を見つめていた。
矢口は友達だった。
安倍には「娘。」の中で中澤と矢口は信頼していた。
いや、友達だと思っていた。
「私が友達だと思っていただけなのかな・・・」
安倍は寂しくなった。

安倍は孤独を感じた。
「一人ぼっちは嫌・・・・」
矢口が自分を裏切ったなんて信じたくなかった。
嘘でもいいから友達でいて欲しかった。
矢口は今どこに居るのだろう?
矢口に会いたい。

矢口に会ったらなんて言えばいいんだろう。
どんな顔をして会えばいいんだろう。
もう、過去の関係では無くなってしまった。
でも・・・
矢口は良くしてくれた。たとえ嘘だったとしても。
何か自分に問題があるなら、謝りたい。
これ以上みんなが自分から離れて行くのは嫌。

辻は何かの物音で目がさめた。
真っ暗で何も見えない部屋。辻は電気を付けた。
安倍の寝ているはずのふとんはもぬけの殻だった。
辻は部屋の隅を見た。
安倍は、部屋の隅で小さく固まって座っていた。
安倍は、泣いていた。

「安倍さん・・・・」
辻はベッドから出て、安倍のそばに寄った。
安倍は膝を両手で抱え、顔を膝にうずくめる様にして泣いていた。
辻は安倍の肩に手をかけた。
「どうしたんですか・・・」
安倍は囁いた。
「一人ぼっちは嫌・・・・」

辻は安倍を両手で抱いた。
「一人ぼっちじゃないですよ」
安倍は何も言わずに子供の様に泣いていた。
「一人ぼっちだと思ってるのは自分だけです」
安倍はやっと顔を上げた。
「でも・・・みんな離れていっちゃった」

「離れていったんじゃないですよ。みんな・・・それぞれ事情があるから」
辻は安倍をなだめるようにして言った。
安倍は辻の顔を見ていた。
「なっちは・・・嫌われ者なのかな」
安倍は寂しそうに言った。
安倍はまるで親に泣きつく子供のようだった。

辻は返答に困った。
実際、安倍は好かれているワケでは無かった。
しかし、メンバー全員が嫌っているワケでも無かった。
辻はしばらく黙って考えを巡らせた。
安倍は、何かにすがるような目つきで辻を見ていた。

「安倍さんの方から心を開いていけば・・・みんな戻ってきます」
辻の言葉に安倍は驚いた様子だった。
安倍は少しうつむき、また顔を上げた。
「そうだよね・・・」
安倍はやっと安堵の表情になった。辻はほっとした。
「なっちは・・・嫌な娘だったよね」
安倍の言葉に辻はぎょっとした。

言葉に詰まる辻を見つめながら安倍は続けた。
「隠さなくていいよ・・・自分でも分かってきた」
「ののちゃん・・・ありがとう」
安倍はそう言うと突然立ちあがった。
「さ、寝よ」
安倍はふとんに入って、掛け布団の中に顔を隠した。
辻はあっけにとられたが、何も言わずベッドに入った。
電気を消した。
「安倍さん・・・一人ぼっちじゃないですよ」
安倍のすすり泣く声が聞こえた。

朝が来て、明るい日差しがさしこんで来た。
辻は目覚まし時計のけたたましい音で目がさめた。
部屋を見回すと、ふとんが綺麗にたたんでおいてあった。
安倍はいなかった。
「安倍さん?」
辻は驚いてベッドから飛び降りた。

ドアが開いた。
「あ、おはよう」
安倍が何も無かったかのように入って来た。
辻はほっとした。
「居なくなったと思ってびっくりしましたよぉ」
「いや・・トイレトイレ。あは」
安倍は頭をかきながらテレ笑いをした。
目が腫れていた。

「あのさ・・ののちゃん、お願いがあるんだけどさ」
安倍は着替えようとする辻に話しかけた。
辻は着替えをしつつ、安倍の話しを聞いた。
「今日、お休みできないかな?」
辻は驚いた。が、理由を問いただしてみた。
「あのさ・・・やぐっつぁんに電話して欲しいの」

「でね、呼び出して欲しい・・」
「なっち、やぐっつぁんに会いたい」
「でも、不安だからののちゃんにも着いてきて欲しいの」
辻は少し困ったが、無理な願いでもないので了承した。
「ごめんね」
安倍は両手を合わせて辻に謝った。
辻は母親に学校を休む旨を伝えに部屋を出ていった。

部屋に残った安倍は一人覚悟を決めていた。
どんな事になっても後悔しない。
どんな話があっても驚かない。
すべて・・・現実を受け入れよう。
現実から逃げないようにしよう。
矢口に聞きたい事は山ほどあった。

辻が部屋に戻ってきた。
「お休みしました。電話はいつします?」
安倍はしばらく考えて答えた。
「やぐっつぁんが出かけたりすると会えなくなるから・・・今しよう」
辻は小さく頷いて、電話に手をかけた。
「あ、やぐっつぁんの番号はね」
安倍は自分の手帳に控えてあった矢口の家の電話番号を辻に見せた。
辻はひとつひとつ確認しながらゆっくりと電話をかけた。

安倍は緊張の面持ちで電話をする辻を見ていた。
何度となく「やっぱりやめよう」と言葉が出そうになるのを必死に堪えた。
「もしもし・・・」
電話に出たようだ。
安倍は緊張がピークに達した。
「矢口さん?辻ですけど」

「あのですね・・・ちょっとだけ時間作れますか?」
辻は落ち着いて話をすすめていった。
安倍は急にバタバタと辻にサインを送った。
自分を指差し、口に人差し指をつけた。
「なっちの事はしゃべらないで」
小声で辻に言った。矢口に存在を気づかれたら出てきてくれないかもしれない。
「え?なんですか?」
辻は大きな声で安倍に聞いた。当然電話口の矢口にも聞こえただろう。
安倍は焦った。

安倍は辻に手から受話器を取り上げて、手で会話が聞こえないようにおさえた。
そして小さな声で辻に自分のことは内緒にしておくように言った。
「あ・・・すみません」
安倍は辻の言葉を聞いて受話器を返した。もう一度「しーっ」というポーズをして。
辻は電話を続けた。
「え?あはは・・・えーと、お母さんです」
やっぱり聞かれた。普通お母さんに敬語使うだろうか?
安倍は矢口が気づかないようにと祈った。

「じゃ・・一時に」
辻はそう言って電話を切った。
矢口は会うことを約束してくれた。
「会ってくれるそうです」
辻の言葉に安倍はますます緊張を高めた。
「うん・・・ありがと、ののちゃん」
安倍はこれでいいんだ、と自分に言い聞かせた。

安倍と辻は早めに家を出て、待ち合わせ場所の見えるレストランで昼食をとった。
安倍は待ち合わせ場所を見ながらコーヒーを飲んでいた。
食欲が無かった。緊張で何か口にすると戻しそうだった。
本当に矢口は来てくれるのだろうか?
安倍の顔を見てどんな反応をするのだろうか?
逃げたりしないだろうか。
安倍は不安でたまらなかった。

時間になった。安倍と辻はレストランを出て待ち合わせ場所に行った。
安倍は帽子を深くかぶり、すぐに安倍と分からないようにしていた。
「あ・・・・」
辻が何かを見つけたようだ。
安倍は手に汗を握った。周りを見ることが出来ない。
安倍は下を向いて押し黙っていた。

下を向いている安倍には声だけが聞こえていた。
色々な騒音と通りすぎる人達のざわめき。
そんな中でハッキリと一人の声だけが聞こえた。
「おひさしぶり」
以前の明るい声では無く、沈んだ暗い声だったが、誰かはハッキリと分かった。
「こんにちは」
辻の声が聞こえた。

安倍はまだ前を向けずに下を向いていた。
「元気だった?」
「はい・・・おかげさまで」
何てこと無い会話が続く。
安倍は逃げ出したくなった。

会話が止まった。
下を向く安倍の視界に小さな靴が見えた。
「安倍さん・・・・」
辻の声で安倍はようやく顔を上げた。
目の前に辻がたっていた。
その肩越しには矢口が居た。

安倍の目は辻ではなく矢口に向けられていた。
矢口は安倍の顔を見るなり顔が強張った。
そして下唇を噛み、下を向いた。
沈黙が続く。
辻は、二人の間からよけた。
安倍は意を決して一歩、矢口に近づいた。
矢口は下を向いたままだった。

「おひさしぶり」
安倍は矢口に声をかけた。矢口は無言だった。
「会いたかったよ」
安倍はゆっくりと話し始めた。
「収録の時なっちが倒れて以来だね」
安倍はそう言った。矢口は顔をあげて驚いた顔をしていた。
「なっちね、気がついたら病院にいたんだ」
「娘。が解散したなんて全然知らなかったんだよ」
安倍の言葉を聞いて矢口はポロポロと涙を流し始めた。
「ごめん・・・ごめんね」

「そうだよ!」
安倍は強い口調で言った。矢口はビクッと肩を震わせた。
「電話もしてくれないなんて・・寂しかったんだよ」
「毎日退屈だったんだから」
安倍の言葉に矢口はますます泣き出した。
「あの・・場所変えましょう」
辻が提案してきた。安倍は小さく頷いた。
「矢口さん・・・」
辻は矢口の手を引っ張った。
三人は近くの公園に向かって歩き出した。

途中自販機で缶ジュースを買い、三人は公園についた。
噴水の見えるベンチに三人並んで座った。
安倍はまっさきにジュースのフタを開けて口をつけた。
矢口はジュースを両手で持ったまま黙っていた。
噴水の音だけが聞こえた。

「本当に何にも覚えてないの・・?」
矢口が口を開いた。下を向いたまま。安倍は黙っていた。
またしばらく沈黙。
辻は重々しい雰囲気に耐えられず、立ちあがった。
「ちょっと・・散歩してきます」
矢口も安倍も何も答えなかった。
辻は一人で歩いて行った。

「なんで娘。は解散したの?」
安倍は矢口の質問を無視して聞き返した。
「それは・・・・」
矢口は下を向きジュースの缶を持ったまま話し始めた。
「それは・・・分裂したから」
「それは知ってるよ。本当のところはどうなの?」
矢口の言葉を遮って安倍は言った。矢口は驚いて安倍の顔を見た。
「誰が何のために?」
安倍の鋭い質問に矢口は戸惑った。
「正直に教えて欲しいの。どうしても。お願い・・・」
安倍は矢口の目を見て言った。

矢口は安倍の目から顔をそむけた。
矢口は黙ってしまった。
「なっちは・・・やぐっつぁんは友達だと信じてるよ」
「たとえ、何があっても・・・・」
「いや、嘘でもいいから・・・友達でいて欲しいの」
矢口の手に力が入った。ジュースの缶を潰しそうなほどに。
「なっちは、嫌な人だよね。ごめんね」
安倍はそう言うと立ちあがった。
そして矢口の前に立った。

安倍は突然矢口の前で土下座した。
「本当・・・ごめんね」
矢口は驚いて缶ジュースを手から離した。缶は地面に落ちた。
顔を上げない安倍に矢口はベンチから離れ、安倍の両肩を掴んだ。
「お願い・・・やめて」
矢口の言葉を聞いて安倍は立ちあがった。
「座ろう・・・」
矢口はそういうと安倍の手を引いた。
安倍は言われる通り座った。
矢口も元の位置に座った。

「分裂したのはね、あらかじめシナリオがあったの」
矢口はようやく話し始めた。
「首謀者は・・ごっちんと圭ちゃんと私」
「他のメンバーは何も知らなかった」
「もちろん裕ちゃんも・・・裕ちゃんはまんまとハメられた」
安倍はそこで口を挟んだ。
「一番の中心は誰なの?」
矢口は答えた。
「それは・・・ごっちん」
「というより・・・ごっちんの今の事務所」

「事務所って・・・」
安倍の言葉に矢口は小さく頷いた。
「なっちが倒れた後に、ごっちんに事務所が接触したの」
「あのね・・・さやかが戻ってくるの」
安倍はそれを聞いて驚いた。
そしてしばらく考え、安倍は言った。
「プッチ?」
矢口は小さく頷いた。

矢口は続けた。
「プッチモニを復活させる、と言う話でごっちんを説得したみたいね」
「で、ごっちんは圭ちゃんに話して・・・」
安倍は納得がいかなかった。
「よっすぃーは?なんでプッチ復活のために娘。解散させるの?」
矢口は安倍の質問に答えた。
「よっすぃーは・・事務所の決めた後釜だから」
「あの二人はオリジナルでやりたかったみたいね」
「一旦卒業したさやかとユニット組むには二人も卒業するか解散させるしかないでしょ」
「二人いっぺんに引き抜いたら事務所どうしで揉めるだろうし」
「なによりプッチモニで再デビューするには娘。が残ってたら具合が悪いでしょ」

「ひ・・・ひどいよ!」
安倍は大きな声で言った。矢口は動ぜず、話を続けた。
「新事務所で、ま、名前は違うだろうけどプッチモニでデビューするためだったわけ」
「ごっちんと圭ちゃんにとって、プッチモニは娘。以上に大切な存在なんだろうね」
安倍はそこまで聞いてがっくりと肩を落とした。
「あんまりだよ・・・・」
安倍は寂しそうに言った。

「で・・・やぐっつぁんは?」
安倍は矢口を顔を見て聞いてみた。
矢口はしばらく黙った後話し始めた。
「矢口は・・・・ソロデビューって事で誘われたの」
「それだけで?ごっちんの味方したの?」
安倍は鋭く迫った。安倍は納得いく答えが欲しかった。

矢口は黙ってしまった。
「どうしてなの?」
安倍はもう一度聞いてみた。
矢口は下を向き、声を震わせながら話し始めた。
「娘。で居る間はね・・・なっちという大きな壁があったの」
「なっちの存在が大きすぎて、矢口はいつもなっちの影になってた」
「娘。解散してソロデビューすれば、なっちという壁を超えなくても良かった」
「なっちは・・・重圧だった」
矢口はそこまで言って口を閉じた。

安倍は矢口の言葉に声を失った。
二人ともうつむいていた。
沈黙が続く。
安倍は何を言っていいのか分からなかった。
覚悟はしていたつもりだった。
だが・・・やっぱり聞きたくない言葉だった。

「で・・・・」
矢口が口を開いた。安倍はうつむいたまま聞いていた。
「ごっちんと圭ちゃん、矢口の三人で分裂を装った」
「他のメンバーは何も知らなかった・・裕ちゃんも」
「裕ちゃんはシナリオ通りに騙されてくれた・・・」
安倍はそこまで聞いて突然立ちあがった。

「ひどいよ!」
安倍は叫んだ。
「自分勝手すぎるよ!他のみんなは被害者じゃない!」
矢口は安倍の叫びにも動じなかった。ただ黙ってきた。
「プッチが大切なのは分かるよ。でも、娘。を大切にしたい人だっている!」
安倍は肩で息をするほどに興奮していた。

「やぐっつぁんも、なっちが壁だったって・・同じ立場だったじゃない!」
「それは違うの・・・立場は違ったの。なっちが気づかなかっただけ」
矢口は興奮する安倍とは対照的に静かに話した。
「なっちがいるかぎり矢口は日陰のままだったの」
矢口は下を向いたまま言った。
「だからなっちを突き落としたの!?」
安倍は興奮して言った。
言ったあと、言ってはいけない事を言ってしまったと思った。

矢口は顔を上げて安倍を見た。
その目は涙でいっぱいだった。
「ごめん・・・ごめんね」
矢口はそれだけ言ってまた下を向いた。
安倍は矢口を見て黙っていた。
「矢口は・・・最低」
矢口はそう言った。

安倍は矢口を責めてしまった事を後悔した。
何があっても・・・友達で居て欲しいと言ったのは自分だ。
それなのに・・・。
安倍は矢口の隣に座った。
座って考えた。

「なっちは・・・一度死んだんだよね」
安倍は話し始めた。
「今のなっちには・・・過去が無いの」
「一からやりなおしってとこかな?」
矢口は泣いていた。
「今のなっちには何も無い・・・これで対等の立場になれるかな?」
安倍は矢口に聞いてみた。
矢口は黙っていた。

「やぐっつぁん・・・わがままかもしれないけど、もう一度やりなおしたい」
「過去に何があったとしても・・友達でいて欲しいの」
「お願い」
安倍は矢口の方を向いて言った。
「やぐっつぁんは・・・なっちにとっては大切な人だから」
安倍は矢口を見つめていた。
「お願い」

「矢口は・・・」
矢口はうつむいてまま話しはじめた。
「矢口は・・・取り返しのつかない事をした」
「そんなつもりは無かったとはいえ・・なっちを殺してしまう所だった」
「矢口はあの瞬間を忘れられない。今でも毎日夢に出てくる」
「芸能界も追い出された・・・でも、そんな事はもうどうでもいい」
「矢口は・・生きていくのがつらかった・・・」

安倍は立ちあがって矢口の前に立った。
「なっちは生きてるよ?ほら、こんなに元気だよ?」
そう言って安倍はぴょんぴょん飛び跳ねてみせた。
安倍はしゃがみこんでうつむく矢口の顔を覗きこんだ。
「やぐっつぁん・・・もう忘れてよ」
「すぐには忘れられないかも。でも、現実になっちは生きてるし」
「ねえ・・・もう一度やり直そうよ」
「お願い」

矢口は小さく二回、三回と頷いた。
安倍は矢口の肩に手をかけた。
「ありがとう・・・やぐっつぁん」
矢口は両手で顔を覆った。
「ごめんね」
安倍は立ちあがった。
「やぐっつぁん・・昔のように明るいやぐっつぁんに戻ってよぉ」
「ほら・・・元気出してー」
安倍は力いっぱいの大声を出した。

辻が散歩から戻ってきた。
泣く矢口に騒ぐ安倍。
状況がつかめない辻は戸惑った。
地面にころがる缶ジュースを黙って拾う。
「あ・・おかえり」
安倍が気がついた。
辻は小さく頷いた。

「なっちはね・・やぐっつぁんの明るさに救われてたんだから」
「だから・・・笑って」
安倍の言葉に矢口は顔を上げた。泣き顔のままで。
辻もフォローすべきだと思い、言葉をかけた。
「わ、私も・・・矢口さんのあかうさにすすわれてました!」
安倍は辻の言葉に驚いた。
「何言ってんの?・・・ののちゃん」
辻の顔は真っ赤になった。
矢口の顔に笑みがこぼれた。

「ふぅ・・・なんとかカタチになったかなあ」
安いアパートの一室。
一つの部屋にはベッドやテレビ。
もう一つの部屋にはリサイクルショップで買ってきた古いデスクと椅子。
首から掛けたタオルで汗を拭く。
「暑い・・・」
電気屋さんがまだ来ていないのでエアコンがまだ無い。
ひとつだけある扇風機の前に座る。
「暑いわ・・・ほんま暑い・・死んでしまいそうや」
窓から入ってくる日差しは暑さを増長していた。

「あ゛ー」
扇風機に向かって声を出してみる。
いくら扇風機を「強」にしても暑い風が強くなるだけだった。
立ちあがってもう一つの部屋に行った。
デスクと椅子。デスクの上には秋葉原でさんざん値切って買ったFAX付き電話。
壁にはこれも中古のホワイトボード。
ホワイトボードには一つだけ予定が書きこまれていた。
「あいぼん上京」

「プルルルル」
電話が鳴った。焦って受話器を取る。深呼吸をして声を出す。
「はい!中澤エージェンシーですっ」
明らかに作り声と分かるトーン。
「あ・・・加護ですけど」
「なんや、あいぼんか」
声のトーンが急に下がる。

「どうしたん?支度はすんだんか?」
中澤は上京の準備が出来たのかどうか聞いてみた。
「あ、それは完璧です。それより・・・」
「ん?なんや?」
中澤は出来れば早く電話を切りたかった。この部屋は暑いからだ。
「あの・・安倍さんから電話がありました」
中澤の手から汗を拭いていたタオルが落ちた。
「なんやて?」
両手で受話器を持ち、強く耳に押しつけた。

「安倍さんから、電話が、ありました」
加護は今度はゆっくりと、はっきり聞こえるように言った。
「安倍って誰や?」
中澤は混乱していた。
「なっちか?」
「はい・・ののちゃんの家にいるみたいです」
加護の言葉に驚く中澤。
「ほんまになっちなんか?」

「本当ですってば」
中澤は加護の言葉が信じられなかった。
色々な思いが中澤の頭をかけめぐった。
「中澤さん?」
加護の声で我に返る。
「あ・・いつ電話が来たんや?」
「昨日です。昨日の夕方に」

「なんで早く教えてくれへんかったんや」
「だって・・昨日なんども電話したんですよ」
中澤は思い出した。昨日は引越しと業界関係者への挨拶まわりで忙しくて電話に出るひまが無かった。
「す、すまんかった・・それでなんて?」
加護は昨日の電話の内容を話した。
安倍が何も覚えてない事。何があったのか説明した事。
「元気そうでした」
加護の言葉に中澤はなんとも言えない気持ちになった。

中澤は決して安倍の事を忘れたわけではなかった。
いや、むしろ一時も忘れていなかった。
何も言わずお別れしてしまった安倍。
連絡もとらずに居た自分。
安倍が戻ってきた事は素直に嬉しかった。
しかし複雑だった。今までの事をどう説明すればいいのだろう。
今、安倍はどんな気持ちなのだろう。
もし、立ち直れないようなショックを受けていたらどうしよう。

「で・・ののちゃんに中澤さんの新しい住所教えておきました」
「そうか・・ありがとな」
中澤は加護との電話を切った。
そのまま、辻の家に電話をかけてみた。
辻と安倍はいなかった。
帰ってきたら連絡をくれるようにお願いした。
加護を疑うわけでは無かったが、安倍が辻の家に居ることは確認できた。
中澤は電話を切ると扇風機のある部屋に戻った。

「なっち・・・どこにいるんや」
中澤は安倍に会いたかった。会って話したかった。
いても立ってもいられなかった。中澤は立ちあがって着替えて出かけようとした。
だが、加護の言葉を思い出した。
「ののちゃんに新しい住所教えておきました」
今出かけて行っても会える可能性は低いだろう。
待っていたほうがいいかもしれない。

「ピンポーン」
インターホンが鳴った。中澤は焦ってドアの方へ走った。
「落ち着け」
自分にそう言い聞かせてカギを開ける。
思うように手が動かずになかなかカギが開かない。
カギが開いた。ドアを開けた。
「こんにちは・・」
そこに立っていたのは電気屋さんだった。

待てど暮らせど安倍はあらわれない。
外はもう暗くなっていた。
エアコンの「ブーン」という音だけが部屋に響く。
電気屋さんはとっくに帰った。
それから何度と無くインターホンが鳴ったが新聞やらNHKやら宗教やら・・。
もう、今日は無理だろうか。
電話は来るのだろうか。

「ピンポーン」
またインターホンが鳴った。
「こんどは何やろ?」
中澤は半ば今日は諦めていた。
ゆっくりと立ちあがり、落ち着いてカギを開ける。
ゆっくりとドアを開ける。
そこには、辻が立っていた。
その後ろには安倍と矢口。
中澤は挨拶するのも忘れてドアに手を掛けたまま固まった。

中澤の視界には辻は見えていなかった。
その後ろの・・・安倍だけが見えていた。
何か言わなきゃ、と思うが声が出ない。
「こんばんわ」
辻が挨拶をしてきた。
固まったままの中澤。
「裕ちゃん・・・固まってるよ」
そう言って安倍はケラケラと笑った。以前のように。
何も変わらずに。

中澤の目から突然涙が溢れてきた。しかし、声が出ない。
中澤は泣き顔になる自分を見られないようにと下を向いた。
自分でも分からない。なぜか涙が止まらない。
安倍が近くに寄ってきて、そっと中澤の肩に手を掛けた。
「ただいま・・・」
中澤はもう恥ずかしがらずに安倍に抱き着いて、泣いた。
声をあげて泣いた。

「よーしよし」
安倍は笑顔で中澤の頭を撫でた。
辻は二人の過去に何があったのか知らなかった。
だが中澤がこんなに泣くのを初めて見た辻は、過去によほど何かあったのだろうと感じていた。
矢口は、負い目を感じていた。
一人だけ少し離れて二人を見ていた。
矢口は、苦しかった。

矢口は少しずつ後ずさりしていった。
このままどこかへ消えてしまいたかった。
辻が後ずさりする矢口に気づいて声を掛けた。
「矢口さん?」
そこ声に反応して安倍と中澤が矢口を見た。
矢口は三人の視線に押しつぶされそうだった。
「やぐっつぁん・・・」
安倍が声をかけた。矢口は反射的に声が出た。
「ごめんね」

「それはもう無しって言ったでしょ」
安倍は矢口に言った。中澤は事情がわからずきょとんとしていた。
それでも後ずさりする矢口の手を辻が捕まえた。
中澤はようやく口を開いた。
「どういう事や?何があったんや?」
「ま、色々・・・中入っていい?」
安倍の言葉に中澤は頷いた。

中澤の部屋に入ってそれぞれに座る安倍と矢口と辻。
中澤は冷蔵庫からペットボトルのジュースを取りだし、コップに注いで三人に渡した。
「で・・・何がどうなってるん?」
中澤は自分のベッドの上に座った。
安倍は、これまでのいきさつを話し始めた。
時々矢口の顔を見ながら。

「そうなんか」
一通り黙って聞いた中澤はそれしか言えなかった。
中澤自身は矢口をとても許せなかったが、被害者本人が許したのだ。
少し複雑だった。
「でさ・・・話し変わるけど、裕ちゃん事務所始めるんだって?」
安倍は唐突に話題を変えてきた。以前からそうだ。
変わらぬ安倍に中澤は嬉しかった。
「そうなんや・・と言っても所属タレントはあいぼんだけなんやけどな」

「なっちも入れて!」
安倍は中澤に言った。中澤は困った。
以前は事務所があり、自分はマネージャーだった。
しかし今度は経営者である。気軽にOKするわけにもいかない。
安倍は返答に困る中澤をじっと見ていた。
安部の目は・・・いつかのように輝いていた。
「分かった・・・」
中澤は安倍の気迫に押されてOKしてしまった。

「でね、やぐっつぁんとののちゃんも一緒に」
安倍は言った。困った事に思いつきで言うところまで以前と変わってなかった。
「いや・・矢口は業界から追放されたから・・・」
矢口は静かにそう言った。
「私も、ちょっと無理です」
辻も断った。
安倍は寂しそうだった。
中澤は安倍の寂しそうな顔を見て考えた。

「実はな、ウチはまだマネージャーがおらんねん」
「ウチは社長やから、ずっとタレントに付いて回るワケにいかんのや」
中澤はそう言って矢口の方を見た。矢口は動揺していた。
安倍も辻も矢口に注目した。
「追放って、アイドルとしてやろ?」
中澤はさらに言った。
矢口は下を向いてしまった。

「それ名案!一緒にやろうよ」
安倍は矢口の腕を掴んで言った。
「裕ちゃん・・・矢口でいいの?本当に」
矢口は顔を上げて中澤を見ながら言った。中澤は小さく頷いた。
「給料安いけどな」
そう言って中澤は笑った。

「で・・あのさ・・・」
安倍はさらに何か話す事があるようだった。
中澤は安倍を見た。
「裕ちゃん、ここに同居させてくれない?」
中澤は安倍の言葉にやっぱり、と思った。
「家賃は折半でいいからさ」
どこかで聞いたような言葉だった。
「ええよ」
中澤は簡単に答えた。

三人が帰った後、中澤は部屋に一人で居た。
安倍は早速明日からやってくると言った。
矢口はとりあえず連絡するまで待ってもらう事になった。
中澤は一人、テレビを見ていた。
中澤はやはり複雑な心境だった。
しかし、安倍が矢口を許したのなら、自分も矢口を責めるのはやめようと思った。
矢口を責めたらとりあえずでも仲直りした二人に亀裂を作りそうだった。

明日やってくる安倍のためのスペースを作ろうと中澤は部屋を片付け出した。
片付けながら、以前の出来事を思い出していた。
中澤は「あの」時と同じ状況になった事に不安を感じていた。
頭を横に何回も振った。
「前とは違うんや・・・」
それでも不安だった。
今度こそ・・一人にはしないようにしよう。
いや・・・矢口と二人にもしないようにしよう。

「ピンポーン」
朝早くから訪問者。
「誰やぁ・・・まだ7時やぞ」
寝ぼけながらも玄関に向かい、ドアを開ける中澤。
ドアを開けると安倍が立っていた。
「裕ちゃん、おはよー」
安倍の甲高い声が中澤の頭に響く。
「もう少し小さな声で・・・なんでこんな朝早く来たんや」
安倍はちょっと困った顔をした。
「ののちゃん学校行っちゃうから」

「そうか・・・」
中澤は頭をかきながら部屋に戻っていった。
「裕ちゃん入っていい?」
安倍はそういいながら部屋に入って来た。
「もう入ってるやんか」
「あはは」
安倍は笑いながらスーツケースを床においた。

「裕ちゃん、あいぼんの売りこみは済んでるの?」
安倍はスーツケースの中身をごそごそとやりながら話した。
中澤は部屋の片付けの続きをやっていた。
「まぁ・・・」
気のない返事をする中澤。
「どうしたの?なんか問題あり?」
安倍は突っ込んで見た。
「うーん・・・」
中澤は手を休めずにそのまま答えた。

「そのなぁ・・・あいぼんだけじゃ難しいかも、と」
「言われたの?」
安倍はスーツケースのものを出して勝手に部屋に収納しだした。
「ユニットなら?」
「ユニットならいいかもなぁ。でも、それならまたお願いしにいかないとな」
中澤は手を止めて安倍を見て話した。
「ユニット・・・」
安倍は自分を指差して言った。

中澤は加護と安倍だけのユニットはやりたくなかった。
それこそ過去の繰り返しになりそうだから。
「だめかなぁ・・・」
安倍は難しい顔をする中澤を見て言った。
「いや・・そうやなくて」
中澤はどう説明していいのか迷った。

「ユニットは・・・三人がイイやろ?」
中澤は苦し紛れに言った。
「そうだけど・・あと一人は誰?」
安倍の突っ込みに中澤はますます困ってしまった。
「うーん・・・」
中澤は考え込んでしまった。
安倍は中澤の答えを待っていた。

「あのさ・・・」
安倍は中澤の顔色を伺いながら話し始めた。
「よっすぃー」
「じゃダメ?」
中澤は安倍の顔を見た。安倍は媚びるような目をしていた。
「・・・なんでや?」
中澤は安倍に理由を聞いてみた。

「いや・・・・」
安倍は中澤から目をそらした。
中澤は安倍がなぜ吉澤を選んだのか不思議だった。
「ふーん・・・よっすぃーか」
まんざらでもない顔をする中澤。
「でしょ?」
安倍は嬉しそうな顔をした。

「そうやな・・・でも、本人に聞いてみないとな」
「そうだね」
安倍は自信がありそうだった。
「電話してみる?」
安倍は中澤を急かした。
「もう学校行っとるやろ・・夕方にしよう」
中澤は事を落ち着いて進めたかった。

夕方まで買出しや部屋の片付けをした二人。
安倍は終始上機嫌だった。
中澤はずっと考えていた。これからの事を。
加護、安倍、吉澤でユニット。どうだろう?
「娘。」時代には無かったユニット。面白いかもしれない。
それと・・・なぜ安倍が吉澤を推したのだろう。
中澤は理由を再度聞きたかったが聞かない事にした。

「そろそろ」
安倍は中澤に電話を促した。
「あ、そやな」
そう言うと中澤は事務所という名前の部屋に行き、電話をとった。
安倍は中澤について部屋に入り、座ってやりとりを聞いていた。
「おひさしぶり。中澤です」

中澤は吉澤に電話で芸能界復帰と新ユニットについて説明した。
意外に電話は短く終わった。中澤は電話を切った。
「どう?」
安倍は中澤が電話を切ったと同時に話しかけた。
中澤はウィンクしてみせた。
「OKや」

安倍はほっとしたような顔をした。
「さあ、これから忙しくなるわ」
中澤は背伸びをして言った。
「そうだね」
安倍はそう言ってホワイトボードに目をやった。
加護は・・・明日やってくる。

「楽しみだね・・・」
安倍はホワイトボードを見たまま遠い目をした。
「そうやな」
中澤は安倍を見ていた。
中澤から見て安倍は何か考えがあるように見えた。
それが何かは分からないし、聞くつもりも無かった。

安倍と中澤は駅の改札口に居た。
二人とも改札の中を目を凝らして見ていた。
遠くに見える大きなスーツケースを持った加護。
安倍は力いっぱい手を振った。
加護が近づくと安倍は大きな声を出した。
「あいぼーーーん!」
そしてまた手を振った。

手を振ろうとするが両手でないとスーツケースを引っ張れない加護。
それを見て中澤は吹き出した。
「可愛い」
安倍はつぶやいた。
スーツケースが引っかかって改札から出てこない加護。
中澤と安倍は笑いながら顔を見合わせた。

「おひさしぶり」
やっと出てきた加護に安倍はまっさきに駆け寄っていった。
加護は緊張の面持ちをしながら安倍に小さくお辞儀をした。
中澤がゆっくり加護に近づいた。
「お疲れさん」
中澤はそう言って加護のスーツケースを持ってやった。

駅を歩き出す三人。
「あいぼん、あのな」
中澤は加護に話しはじめた。
「ユニット組むことになったんや」
加護はそれを聞いて驚いた顔をしていた。そして、安倍の顔を見た。
「よろしくね」
安倍は言った。加護は小さく頷いて中澤を見た。
「もう一人・・・よっすぃーも」
加護は更に驚いた顔をした。
「びっくりした?」
安倍が笑いながら言った。

「よっすぃーとね、やぐっつぁんが後から合流するから」
安倍の言葉に目を白黒させる加護。
加護は中澤を見た。何か言葉を待っているようだった。
「まぁ・・そのな、色々な」
中澤はお茶を濁した。
というより、中澤自身説明出来なかった。

加護の荷物を片付けた三人は矢口との待ち合わせ場所に向かった。
電車に乗り駅から歩いて待ち合わせ場所へ。
移動の間、加護に今までの説明を安倍と中澤の二人でした。
安倍の説明には中澤もはじめて聞く事もあった。
なぜユニットにしたのかは説明しなかった。
加護の自信を打ち砕くような気がした。
加護は何も言わず聞いていた。

待ち合わせ場所の駅の改札口についた三人。
「裕ちゃん」
声のするほうを向くと矢口と吉澤がすでに待っていた。
ゆっくりと近づく三人と二人。
「おひさしぶりです」
吉澤はそう言って頭をさげた。
「元気だった?」
安倍が吉澤に話しかけた。吉澤は笑顔で答えた。
「それはもう」

和気藹々と話しながら中澤の家に向かう五人。
ただ、加護と矢口の間には距離があった。目を合わせない二人。
中澤は二人に気づいてはいたが無理はさせないようにした。
加護は安倍のようにはいかないだろう、中澤はそう考えていた。
矢口と安倍が本当に和解したと感ずれば加護も分かってくれるだろう。
きっと時間が解決してくれる。

中澤の家に着いた五人。部屋に入ると途中寄ってきたコンビニで買ったお菓子やジュースを広げる。
五人も入るとさすがに部屋が狭く感じた。
そこで再会と今後のお祝いを兼ねてジュースで乾杯した。
「娘。」が戻ったようだった。人数は大分足りないが。
中澤は嬉しかった。楽しかったあの頃が少しだけ戻ってきた。

とりあえず今日は騒いだだけで終わった。
中澤と安倍を残して三人は帰っていった。
中澤は矢口にマネージャーとして加護を送るように命じた。
矢口にはやりづらいだろうがやってもらわねば困る。これからの為に。
三人を見送って部屋に戻る中澤と安倍。
「さて・・これから勝負や」
中澤は気合を込めて言った。
安倍は大きく頷いた。
「がんばろう」

次の日になると全員でレコード会社に挨拶に行った。
そこでこれからの打ち合わせ。話は意外にトントン拍子に進んで行った。
レコード会社を出ると中澤は矢口にこれからの行動を説明して、後をまかせた。
中澤は自分の部屋に戻って各所に売りこみをした。
元「モーニング娘。」という話題性も手伝ってプロモーションは上手くいきそうだった。
滑りだしは順調そのものだった。

それからというもの忙しい毎日が続いた。
テレビにラジオにどんどん出演した。シングルの発売まで全力疾走だった。
中澤は忙しさのあまりしだいに打ち合わせが多い矢口以外とは疎遠になりつつあった。
安倍は同居していたものの、帰ってくると疲労ですぐに寝てしまっていた。
中澤は少しばかり不安だった。しかし、自分は社長であって立場が違う。
これは仕方ない事だと自分に言い聞かせた。

中澤は雑誌やテレビを念入りにチェックしていた。
マスコミの評価はかなり好感触だった。
中澤はかなり手応えを感じていた。
しかし、以前再デビューしようとしたときの事を思い出して時々不安になった。
安倍が帰ってくると中澤はそれとなく体調を聞いていた。
「全然元気だよ。すごく充実してるし、今最高に楽しいよ」
安倍はさらっと言った。
まったく不安の無さそうな安倍に中澤はほっとした。

ただ、気になっているのは最近静かになった後藤の存在だった。
まるでこちらと歩調を合わせているかのように影が薄くなった後藤。
しかし後藤の事務所は油断できない所だった。
中澤はきっと何か策略があるんだろうと考えていた。
「でも・・今回はウチが頂きます」
中澤はデビューシングルの発売日が書かれたカレンダーを見て言った。
後藤はもちろんライバルが少ないときを選んだ。
きっと上手くいく。

デビューシングルの発売日が迫ってきた。
中澤を残して全員はレコード会社のスタッフとともにイベント回りで各地を旅していた。
残った中澤は毎日矢口から報告を聞く以外はずっと一人で仕事をしていた。
何本もかかってくる電話が中澤の自信を加速させていった。
その電話の中に意外な人物からのものが混じっていた。
「はい、中澤エージェンシーです」
いつものように電話を受ける中澤。
「あ・・中澤さんですか?」
声の主は女性だった。
「はい、そうですが」
「私、安倍なつみの母でございます・・お世話になっております」
中澤は電話の主に驚いた。

以前の再デビューに挑戦した時からずっと中澤の悲願だったデビューシングルが発売された。
中澤はこの日ばかりは矢口とともにイベントに同行してまわった。
どのイベントも盛況で中澤はしっかりとした手応えを感じていた。
すべてのイベントを終えてようやく五人がゆっくりと話す時間が出来た。
ひさびさに中澤の部屋に五人が集合した。
中澤は記念すべきデビューシングルを四枚用意しておいた。
それを、一人一人に声をかけながら手渡した。

「よっすぃー、突然の呼びかけに応じてくれてありがとうな。感謝してる」
吉澤は小さく頷きCDを中澤から受け取った。
「矢口、ご苦労さん。表舞台に立てないけど矢口無しでは出来んかった」
矢口は以前の矢口とは違う大人の笑顔でにこりと笑い、CDを受け取った。
「あいぼん、長かったな・・・やっと、やっとやな」
加護は中澤と同じ万感の思いをこめてCDを受け取った。
「なっち・・・」
中澤はそれ以上言葉が出なかった。
安倍はにっこりと笑ってCDを受け取った。何も言わず。
「さあ・・・ようやくここまで来たで」
中澤は自分に向かってそう言った。

デビューシングルの発売週の結果をレコード会社の担当者から電話で教えてもらった。
中澤は電話を切ると静かに握りこぶしを握った。
「やった・・・」
シングルは初登場1位だった。
確かに強力なライバルのいない時期をわざわざ選んだ。
それでも、初登場1位はみんなの自信になる。
今日はパーティーでもやろう。矢口に連絡を入れた。

「では、初登場一位を祝して・・かんぱい!」
中澤の音頭で五人で乾杯をした。
今まで以上の大騒ぎ。特に安倍と矢口。
安倍は自分が倒れてから何も知らずにいた。
その間に「娘。」は解散した。安倍は一度病院を抜け出して復活を試みるも失敗した。
安倍本人は何も記憶していなかった。
しかし安倍はなりふり構わずもう一度復活にかけてきた。
安倍の悲願の夢がやっと実現した。

矢口は安倍の一件以来ずっと姿を隠してきた。
中澤がひさしぶりに会った時には後悔だけが顔にあった。
しかしマネージャーをやるうちにだんだん明るさが戻ってきた。
矢口の苦しみはすべて安倍に起因していた。
しかしその安倍の復活と、和解、安倍へのサポートなどをする事で徐々に胸のつかえが取れたようだった。
中澤には矢口は安倍を支える事で過去の罪を贖い、自分も救われているように見えた。
矢口は大人になった。

「あ・・・」
加護が突然に何かに気がついた。
中澤は加護の視線の先を見てみた。
テレビの芸能ニュースに「プッチモニ復活」の文字が・・。
中澤は急いでリモコンを手に取り、ボリュームを大きくした。
音が大きくなった事で全員がテレビに気がついた。
「え・・・嘘・・」
吉澤がぽつりと言った。

テレビに注視する吉澤。
中澤は吉澤の表情を見ていた。
テレビはプッチモニの復活の予定があり、後藤と保田がそれにむけて準備している事を告げていた。
そして、市井が戻ってくる事も。
吉澤の表情は見る見る青くなっていった。
中澤はぽつりと言った。
「ごっちんが静かだったのはこういう事だったんか」

テレビの芸能ニュースは続けて自分たちのユニットの話題にうつった。
デビューシングル初登場一位と。
しかし、五人の雰囲気は暗かった。
がっくりと肩を落とす吉澤。
それもそうだろう。吉澤だってプッチモニの一員だったハズだ。それが蚊帳の外。
「よっすぃー」
安倍が吉澤の肩に手をかけて声をかけた。
「元気出して・・今はこっちの仲間じゃない」

テレビはさらに二つのユニットの比較をはじめた。
加護が中澤の手からリモコンを取り、テレビを消した。
その様子を見ていた中澤に加護が言った。
「比較されたくありません・・私達は私達です」
「そうだよ」
安倍が加護の言葉に続いた。
「私達は全然別のユニットなんだから」
吉澤と矢口は黙っていた。

すっかり白けてしまったパーティーはお開きにする事になった。
加護と吉澤、矢口を玄関まで送る中澤と安倍。
「あのさ、裕ちゃん」
先に部屋を出た加護と吉澤に聞かれないように矢口が小声で中澤に話しかけた。
「これさ・・どうする?」
矢口が手帳を開いて見せた。中澤は手帳を覗きこんだ。
手帳には明日のラジオの生放送のゲスト出演の予定が書いてあった。
もう一人ゲストが・・・後藤だった。
「ま・・今更キャンセル出来んしな。同時に出るかどうかも分からんし」
矢口は中澤の言葉を聞くと小さく頷いて手帳を閉じた。

「ただ・・何かあったら頼むわ。特に・・・よっすぃー」
中澤は小声で矢口に耳打ちした。
矢口はもう一度小さく頷いた。
「じゃ」
矢口はドアを閉めて帰っていった。
中澤と安倍は部屋を片付け、寝る準備をした。
プッチモニ復活を聞いても冷静だった安倍。
もしかして知っていたのだろうか?
中澤は安倍に疑問を持った。

中澤は一人で事務所で仕事をしていた。
時々時計をチラリと見ては時間を確認していた。
「そろそろやな・・・」
中澤はラジオのスイッチを入れた。例の番組を聞くためだ。
昨日の異様な雰囲気の吉澤と安倍が心配だった。
なにせ生放送だ。編集出来ないような事言わなければいいが。

中澤は昨日の夜から今朝の安倍の様子を思い出していた。
安倍はずっと何事も無かったようだった。後藤の事など何も気にしていないようだった。
中澤にはむしろ不気味に思えた。
いや、思い過ごしかもしれない。
安倍はすでに成功を収めている。今更騒ぐことも無い、と思っているのかもしれない。
ラジオが始った。

パーソナリティの声が聞こえる。中澤はラジオに集中した。
「今日のゲストは・・・」
後藤と三人は同時に出演していた。中澤は焦った。
しかし、安倍と加護の声は冷静だった。心配していた吉澤は声が暗かったが問題無さそうだった。
しばらく番組を聞いていた中澤はだったが何も問題無く進行しているのでひと安心だった。
中澤はデスクから立ちあがり、コーヒーを飲もうとお湯を沸かしに流しへ行った。

お湯をインスタントコーヒーの入ったカップに注いでスプーンでかき混ぜながら部屋に戻ってきた。
ラジオはプッチモニの復活についての話題になっていた。
後藤のコメントが続く。中澤は思いのほか静かなラジオを立ったままコーヒーを口にして聴いていた。
「で・・・そのために娘。を解散に追いやったわけ?」
安倍の声が聞こえた。かなり大きな声で。
中澤はその場で凍り付いた。
「全部・・・仕組んだんでしょ?」
安倍の声は続いた。

しどろもどろになる後藤。
「私・・ごっちんは友達だと思ってたのに。何も言ってくれないなんて」
吉澤の声が続く。
「私はプッチモニじゃなかったの?私は何だったわけ?」
かなり興奮ぎみの吉澤。
中澤はカップをデスクに乱暴に置いて電話に手をかけた。
「矢口・・・」
しかし、電話は繋がらなかった。留守番電話になってしまう。
「自分のために娘。全員を騙したの?」
安倍の声は冷静だった。怖いぐらいに。

中澤は何度も矢口に電話を繰り返した。しかし何度やっても同じ事だった。
「やめて!」
ラジオから矢口の声が聞こえた。かなりマイクから遠くてかすかに聞こえる程度だったが。
中澤は矢口の声を聞き逃さなかった。電話を置いた。
しかし安倍と吉澤は止まらなかった。
困惑するパーソナリティ。
もはや何も言い返せず黙る後藤。
中澤はデスクの椅子に倒れこむように座った。

「私は何だったの?答えてよ!」
吉澤は今度は逆に涙声になった。
「嘘吐き!」
吉澤の声は叫びに変わっていた。
「なっちとやぐっつぁんの人生メチャクチャにして・・・そこまでして自分の思い通りにしようとするなんて」
安倍の冷たい声が聞こえた。
ラジオは長いCMに入った。
中澤は両手で頭を抱え込んだ。
考えられた最悪のパターンになってしまった。

長いCMがあけるとパーソナリティ一人だけになっていた。
中澤はラジオを消した。
頭を抱え込んだままデスクに蹲った。
電話が鳴った。
電話は今のラジオに対する問い合わせの電話だった。
中澤は混乱してどう応対していいのか分からなかった。
なんとか誤魔化すしかない。
問い合わせの電話は息つくまもなく次から次へとかかってきた。

電話の応対に疲れた中澤は逃げ出したくなった。
「いや・・ウチは社長なんや。逃げ出すわけには」
中澤は顔を横に大きく振って気を取りなおした。
また電話が鳴った。中澤は深呼吸して電話を取った。
「裕ちゃん」
電話の主は矢口だった。
「ごめん」
矢口はポツリと言った。中澤は少し考えた後答えた。
「いや・・ええんや。今日はもう終わりやろ?帰って休めや」
「矢口は気にせんでええから」
中澤は電話を切ろうとして最後に矢口に聞いた。
「あ、そうや・・ごっちんは?」
矢口は暗い声で答えた。
「泣いて・・倒れそうで・・マネージャーさんに抱えられながら帰った」

問い合わせの電話ももうかかってこなくなった。
中澤は仕事をやめて、雑誌を見ながらくつろいでいた。
しかし頭の中に雑誌の事など無かった。
ペラペラとページをめくり、時折時計に目をやる。
中澤は安倍の帰りを待っていた。
安倍に聞きたい事があった。

鍵を開ける音がしてドアが開いた。
中澤は雑誌をベッドに投げ捨て、玄関へ走った。
「ただいま・・・」
安倍は中澤を見て言った。
「おかえり」
中澤はその場に立ち止まって部屋に入っていく安倍を見ていた。
安倍の表情はいつもと何も変わらなかった。
中澤も追って部屋に入っていった。

バッグを投げ捨て、疲れた様子でクッションの上に座る安倍。
中澤は安倍の後ろから立ったまま声をかけた。
「なっち・・聞きたい事があるんやけど」
「何?」
安倍は振り向いて答えた。いつもと何も変わってなかった。
「なっちはどこまで知ってるんや?娘。の解散について」
安倍は前を見ながら話した。
「全部・・・やぐっつぁんから聞いたの」
中澤は更に続けた。
「ごっちんの事も?」

安倍は何も言わず小さく頷いた。中澤は続けた。
「プッチ復活も事前に知ってたんやな?」
安倍は小さく頷いた。
「それは・・・いつ頃や?」
安倍は前を向いたまま答えた。
「裕ちゃんと会う前」
中澤の胸はどんどん高鳴っていった。
「じゃ・・・よっすぃーを推薦した時にはもう知ってたんやな?」

安倍は小さく頷いた。
「知っててよっすぃーを入れたんか?なぜ?まさか・・・」
中澤は少し焦りだした。冷や汗が額から出てくる。声が震えてきた。
「まさか・・こうなる事を分かってて?最初からそのつもりだったんか?」
安倍は小さく頷いた。
中澤はその場に座りこんだ。そして力の無い声で安倍に言った。
「最初からごっちんに仕返しするつもりだったんか」
安倍は小さく頷いた。

中澤は目の前が真っ暗になった。
「矢口も・・あいぼんも・・ウチも全部そのためなんか?」
安倍は少し黙った後答えた。
「あいぼんと裕ちゃんは違うよ」
中澤は安倍の言葉を疑った。
「矢口は・・・利用したんか?」
安倍は小さく頷いた。
中澤は首を項垂れ、両手を床に付いた。

「ごっちんはね」
安倍はゆっくりと話し始めた。恐ろしいくらい冷たい声だった。
「許せないよね。すべては・・あの子がいけない」
中澤は下を向いたまま聞いていた。
「やぐっつぁんはね・・なっちを突き落としたんだよ?裕ちゃんも知ってるくせに」
安倍は更に続けた。
「二人とも・・なっちをずっと騙し続けて、それだけじゃ飽き足らず破滅に追いやろうとしたんだよ」
安倍は急に立ちあがった。
「許せない!ずっと信じてたのに!」
安倍は精一杯の大声で叫んだ。

「許せない!」
最後にそう叫ぶと安倍は中澤の横をすり抜け、走って外に出て行ってしまった。何も持たずに。
「なっち!」
中澤は焦って安倍を追いかけて外へ出た。
しかしアパートを出たところで立ち止まった。
完全に見失ってしまった。
中澤は呆然とその場に立ち尽くしていた。

しばらく中澤はその場に立っていたがこうしていても仕方が無いので部屋に戻る事にした。
安倍を捜そうにもどこへ行ったのかまったく見当もつかない。
無闇に捜しまわるよりも待っていたほうが賢明に思えた。
部屋に戻った中澤はカギをかけず、ベッドに腰掛け、安倍の座っていたクッションを見つめていた。
中澤はどうしていいか分からなかった。
これから先・・・上手くやっていけるのだろうか。

中澤はふと立ちあがり、電話を手に取った。
電話で誰かに話しを聞いてもらいたかった。一人は苦しかった。
中澤は番号を途中まで押して思いとどまった。
中澤はマネージャーであり右腕でもある矢口に電話をかけようとしていた。
しかし・・・矢口になんて説明したらいいのだろう。
安倍の言った事を矢口に伝えていいものだろうか?
中澤はとりあえず安倍が見つかるまで何も言わないよう決めた。

中澤が気が付いたら朝になっていた。電話を握りベッドに座ったまま眠っていた。
中澤は電話を置いて立ちあがり、家中をくまなく見て回った。
安倍はやはり帰っていなかった。ドアも閉まったままだ。
中澤はデスクの椅子に座って考えた。安倍はどこへいったのだろう。
今日は上手い事にオフだった。助かった、と中澤は思った。
しかし一日だけのオフである。なんとか今日中に見つけなければ明日大変な事になってしまう。
中澤は加護に電話をかけた。
矢口にも吉澤にも事情を話せない。
加護なら・・いつも中立の立場だった加護に協力してもらう事にした。

電話に出た加護に事情を話す中澤。なんとか矢口や吉澤の部分を隠しながら。
「そうですか・・で、何をすればいいんでしょう?」
中澤は加護の質問に答えた。
「留守番してて欲しいんや。ウチが捜しに行ってる間に帰ってくるかもしれんし」
「分かりました」
加護はそう言って電話を切った。
加護がやってくるまで中澤は安倍がどこへ行ったのか考えていた。

しかし考えても何も思い付かない。
安倍はバッグも持たずに飛び出していった。お金だってそんなに持っていないはずだ。
中澤は一つ思い出して電話をかけた。辻の家だ。
辻に電話が繋がって安倍が行ってないか聞いてみた。
「ええ・・来ました・・泊まっていきました」
やっぱり・・中澤は思った。
来ました?

辻は昨晩の出来事を話し始めた。
「突然現れて・・驚きました」
「凄い思いつめた顔をしてて・・泣いてました」
「何かあったんだな、と思って何も聞かずに泊めてあげました」
「家にいる間、ずっと黙ってて・・一生懸命インターネットで何かを捜していました」
「朝起きたら・・いなくなってました」
「何があったんですか?」
辻の質問に中澤は答えられなかった。
適当に誤魔化して電話を切った。

「もう出て行った後だったか」
中澤はがっかりした。昨晩のうちに電話しておくべきだった。
それにしても何かを捜していた?何だろう。
中澤は安倍の捜していたものがヒントだと思った。
玄関チャイムが鳴り、加護がやってきた。
加護を招き入れ、安倍が辻の家に泊まった事を話した。
何かを捜していた事も。

「もしかして」
加護は何かに気づいたようだった。中澤は身を乗り出して加護の言葉を聞いた。
「あの・・・確か公開生放送が」
中澤は加護の言葉が良く分からなかった。
「なんや?なんの放送や?」
加護は困った顔をして答えた。
「ラジオの・・ゲストが後藤さんで」
中澤はやっと加護の言っている意味がわかった。加護は続けた。
「時間とか場所は覚えてないですけど、昨日しきりに宣伝してましたよ」
そこまで聞いた中澤は電話を手に取った。
「昨日の局なんやな?」
加護は頷いた。

中澤は出かける支度を整えた。加護が心配そうに見ていた。
「あの・・でも自信がありません」
「可能性はあるやろ?闇雲に捜すよりはええ」
中澤はそう言って加護に携帯電話を渡した。
「ええか?電話はこの電話だけ出ればええ。中澤って表示が出たら出るんや。他は出んでもええからな」
加護は小さく頷いた。
「なっちが帰ってきたらすぐに連絡するんや。頼むわ」
中澤は不安そうな加護を置いて部屋を出た。

タクシーに乗り会場についた。会場は観客でいっぱいだった。
人ごみの中に入り人を掻き分けながら進む中澤。
回りの人達が訝しげな顔で中澤を見た。
中澤はそんな事は何も気にしなかった。いや、それどころではなかった。
あたりを見回しながら進む。安倍らしき人物はなかなか見つからなかった。
中澤はふとステージの上を見た。
パーソナリティと後藤がテーブルを挟んで座っていた。
何事も無く番組は進行していた。

遠くから見た後藤の顔は青ざめているように見えた。
ときおりキョロキョロと辺りを不安そうな顔で見回していた。
声も無理しているのがありありと分かった。
昨日のショックをまだ引きずったままなのだろう。
中澤は少し後藤の事が可愛そうに思えた。
後藤は事務所に踊らされたようなものだ。
後藤も安倍も矢口も・・・そして自分もこの業界に振り回されているのだ。

安倍を捜しながら中澤は考えた。
もう、この業界を去る潮時なのかもしれない。
みんなが傷ついてきた。もうこれ以上誰もツライ思いをしてもらいたくない。
ここの所の騒ぎで疲れているのか退廃的な考え方しかできない。
中澤は自分が弱気になっている事に気が付き自分を戒めた。
「あかん・・・ウチがそれじゃあかんのや」
中澤はつぶやいた。

人ごみを掻き分けて進む中澤に周りからブーイングが起こる。
中澤は意にも介さず進む。
どうしても安倍を無事につれて帰る理由が中澤にはあった。
会場の警備員が中澤の行動に気がついた。
中澤を追って人ごみを掻き分けて警備員が近づいてくる。
中澤は警備員の存在に気がつかなかった。

前へ行けば行くほど人が多くて身動きが取れなくなってくる。
中澤は精一杯背を伸ばして前の方を見てみた。
背が低い中澤はにはよく見えない。足が痙攣しそうなほど爪先立ちをして前を見た。
前の方に安倍らしき服装が見えた。
中澤はそれを確認するとまた人ごみを掻き分けはじめた。
力いっぱい人を押しのけていった。

さすがに疲れてきて息が切れてきた。
中澤の不審な行動に周りの観客がザワつきはじめた。
警備員は足を早めた。前から後ろから近づいてくる。
中澤は夢中で安倍の方に近寄っていった。
あと少し・・手が届きそうな所までやってきた。
中澤は確信した。間違いなく安倍だ。
手を伸ばした。安倍の服の裾を掴もうとした。
「お客さん、すみません」
中澤の手を警備員が掴んだ。

中澤は初めて警備員の存在に気がついた。
もう一人の警備員もやってきた。羽交い締めにされる中澤。
安倍に伸ばした手が虚しく宙を切る。
中澤は精一杯の声を出した。
「なっち!」
安倍が振り向いた。やはり安倍だった。
安倍は・・・凍り付くような目をしていた。

安倍なつみの存在に気がついた観客が騒ぎ出した。
安倍は中澤から顔をそらし、ステージに顔を向けた。
ステージの上の後藤が騒ぎに気がついて客席を見た。
安倍と後藤の目が合った。
中澤は警備員に負けじと力の限りもがく。
「なっち!」
中澤の声は安倍に届かない。

「いやぁぁぁぁぁぁ!」
突然のステージ上からの叫び声。
後藤が真っ青な顔をしながら立ちあがった。
観客の目がステージ上に集まる。
パーソナリティがあっけにとられて黙ってしまった。
後藤はテーブルの上に置いてあるマイクを手に持ち、力いっぱい客席の安倍に向かって投げてきた。
ケーブルがいっぱいに伸びてマイクはステージの端に落ちた。
スピーカーから「ゴトン」と大きな音がした。

会場は大混乱になった。慌ててスタッフが飛び出してくる。観客は逃げ出そうとパニックになる。
後藤はテーブルの上にあるものを次々に投げつけてきた。
後藤の錯乱する姿に中澤はあっけにとられてしまった。
スタッフが後藤を捕まえて押さえ込んだ。
それでも安倍を睨みながらもがく後藤。
スタッフに引きずられながらステージから消えていく後藤。
後藤は壊れてしまった。

中澤はあまりの事に唖然としていたが、同じく唖然とする警備員が手を離している事に気が付いた。
中澤は警備員から逃れ、まだそこに立っていた安倍の腕を掴んだ。
「なっち!帰るんや」
安倍は反応しなかった。
「なっち!一緒に帰ろう」
安倍の腕を力いっぱいひっぱる中澤。
「なっち・・みんな待っとるんや・・帰ろう」
安倍はゆっくりと振り向いた。安倍の顔は笑顔だった。
いつか見た、屈託の無い笑顔だった。

そしてゆっくりと地面に崩れ落ちる安倍。
中澤にはスローモーションのように見えた。
安倍は地面に横になった。
中澤は安倍の手を離し安倍の体の抱きかかえた。
「なっち!」
中澤の声は周囲の混乱でかき消された。

「あ・・あいぼんか?」
中澤は携帯電話で家にいる加護に電話をかけていた。
「ラジオ聞いてました・・何があったんですか?」
加護の声は震えているようだった。
「安倍さんは?居たんですか?」
中澤は加護の話しは聞かずに一方的に話した。
「あいぼん、お願いがあるんや。矢口とよっすぃーを家に呼んでくれんか」
「ウチも少ししたら行くから」
中澤の沈んだ声に気づいたのか加護は何も聞かず小さな声で「はい」と答えた。
「頼むわ。みんなに話さなきゃならん事があるんや」
中澤はそう言って電話を切った。
中澤は電話をポケットに入れて長い廊下を歩き出した。

とある部屋についた中澤はドアを開けて中に入った。
部屋の真ん中にはベッドがあった。殺風景な部屋。
中澤は静かにドアを閉め、ベッドの横にある椅子に座った。
しばらく下を向いて黙っていた中澤。
顔を上げてベッドに横たわる安倍の顔を見ながら小さな声で話し始めた。
「なっち・・・ごめんな」
安倍は眠っていた。

「ウチはな、こうなる事知ってたんや」
「黙ってて・・ごめんな。でも、言えんかったんや」
「なっち、矢口を恨まんといて」
「あの子はなっちを支える事で自分も救われてたんや」
「なっちが許してやらんかったら矢口は一生救われないんや」
「しかし・・・なんで相談してくれなかったんや」
「ウチはなっちにとって信用出来ん人間だったんか?」
「復讐は出来んけど・・何かもっとイイ方法があったんやないか?」
「なんで相談してくれへんかったんや」

「色々あったけど、娘。結成の時からずっと一緒だったやんか」
「一緒に苦労してきたやんか」
「でも・・最後まで心開いてくれへんのか?」
中澤の目から涙が溢れてきた。
「どうして・・相談してくれなかったんや」
中澤は両手で顔を押さえた。
「なっち」
中澤は安倍の眠るベッドの端に顔を埋めて泣いた。

中澤はしばらく泣いたあと、涙をハンカチで拭い立ちあがった。
「なっち、もう行かなあかん・・みんな待ってるんや」
「なっちをみんなに会わせるわけにいかんのや。特に矢口には」
「落着いたら、みんなで会いにくる。それまで我慢してや」
そう言って中澤は振りかえり、ドアを開けて廊下に出た。
中澤はうつむいたまま静かに歩いて外へ出た。

部屋に着いてドアを開けると部屋の奥から加護が飛び出してきた。
「中澤さん・・・」
それだけ言って中澤の顔を見つめる加護。
中澤は何も言わずドアを閉めて部屋に入った。
さらに矢口と吉澤も出てきた。二人とも無言だった。
中澤は何も言わず三人と目を合わさずにデスクのある部屋に入って椅子に座った。
三人も追って部屋に入った。

「裕ちゃん、あいぼんから聞いたよ」
矢口が中澤に話しかけてきた。
「なっちは?」
「まあ、座れや」
中澤は矢口の質問を遮った。三人はそれぞれに座った。
「で、なっちは?」
矢口はイライラしているようだった。中澤はそんな矢口を無視して話し始めた。
「今まで隠しててすまんかった・・・落着いて聞いてや」

「なっちは時間切れなんや」
中澤の言葉に顔を見合わせる加護と吉澤。矢口は興奮ぎみに中澤に言った。
「なにそれ・・どういう事?」
「落ち着けや・・矢口」
中澤の言葉に矢口は不満そうな顔をしながら深呼吸をして深く座った。
「なっちが意識取り戻したのはほんまに奇蹟だったんや」
「医者もお手上げの状態だったんやから」

「奇蹟的に復活したなっちをな、ご両親は病院から出す気はなかったんや」
「なっちは・・・いつ元に戻るか分からん状態だったんや」
「それは・・いつ意識が無くなってもおかしくないって事ですか?」
加護が割って入った。
「そうや」
「でも、なっちは病院を抜け出してきてしまったんや」
「ご両親はそれは必死になっちを捜したんや」

「でもなかなか見つからなくてな・・つまり、ウチらと一緒だったわけや」
加護は泣きながら下を向いた。吉澤は目を閉じて唇を噛んでいた。
「ご両親はテレビで歌うなっちを見たんや」
「それでウチに電話があってな」
「テレビで歌うなっちは幸せそうだと」
「いつかは元に戻ってしまうんなら・・・いっそ」
中澤は涙声になってきた。
「いっそ、最後まで輝かせてあげたい、と」
「中澤さん、よろしくお願いします、と」
中澤の顔は涙でいっぱいになった。

しばらく沈黙が続いた。
加護は声を出して泣いていた。吉澤は押し黙っていた。
矢口は下を向いたままだった。
「なっちは・・時間切れなんや」
中澤はもう一度言った。
「黙ってすまんかった・・言えへんかったんや」
「ほんまに・・・ごめんな」

矢口は立ちあがった。
「何で言ってくれなかったの?矢口はマネージャーなのに」
興奮する矢口はデスクの前まで来て、デスクに両手をついて中澤を睨んだ。
「何で!答えて裕ちゃん!」
中澤は涙目になりながら矢口を見つめた。
中澤は答えられなかった。どういう風に言っても矢口を苦しめる事になるからだった。
加護が立ちあがり矢口の両肩を掴んでひっぱった。
「矢口さん・・落ち付いてください」
「今は・・それよりも、これからどうしたらいいか考えましょう」
加護は中澤の気持ちを理解しているようだった。

矢口は不満そうだったが加護に言われて元の場所に座った。
「これから・・・どうするの?」
矢口は社長である中澤の指示を仰いだ。
「とりあえず、今日マスコミにFAX流しとく」
「安倍なつみは健康上の理由で引退・・・ってな」
中澤の言葉に矢口が反論した。
「引退って・・・しばらく休養じゃダメなの?」
「いつ戻るか分からないじゃない!一回は戻ったんだから!」
矢口の言う事はもっともだった。しかし、中澤はあえて引退という言葉を使った。
「いつ戻るのか分からんのやぞ・・もしかして50年後・・あるいは」
中澤の言葉に加護が割って入った。
「中澤さんらしくないですよ・・・」

中澤は正直安倍が戻ったとしてももうこの業界に居させたく無かった。
娘。結成当初から身を削るようにしてきた安倍を中澤はもう見たくなかった。
結婚でもして普通に幸せに暮らしてもらいたかった。
表面的には明るく振舞っていても、内では一人で苦しむ安倍を中澤はもう見たくなかった。
どうしてそんなに業界に拘るのか?
中澤はとうとう安倍に聞けなかった。

「安倍さんが戻ってきて・・一番喜んだのは中澤さんじゃないですか」
加護は手で涙を拭きながら言った。
「なっちがやり直す勇気をくれたんだって・・言ってたじゃないですか」
「安倍さんは・・・このユニットにとって無くてはならないものじゃないですか」
加護は中澤とずっと一緒に復活計画を練ってきた。
一番中澤の心境を理解している人間だった。
「安倍さんは、私達の復活の象徴だったじゃないですか」
加護の言葉に下を向いてこたえられない中澤。
いつのまにか自分は別人になってしまったのだろうか?

「裕ちゃん・・長期の休養って事にして」
矢口が念を押すように中澤に言った。
「私からもお願いします」
吉澤も矢口を援護した。中澤は反論出来なかった。
「分かった・・・長期休養って発表するわ」
中澤は折れた。

「で・・明日からの仕事はどうするの?活動休止?」
矢口はさらに中澤に意見を求めた。
「それはあかん。テレビレギュラーももらえそうなのに今休止したら・・」
中澤はため息をついた。
「なっち抜きでやるんや」
中澤の言葉に動揺する三人。
「そんな・・」
加護はつぶやいた。

中澤は三人に仕事を休止させたくない理由は別にあった。
特に矢口に。
安倍の事で苦しむ矢口をこのまま休ませたら一人で酷く悩むだろう。
もともと安倍がこうなってしまった原因は矢口にある。
だから仕事をさせて考え込む時間を与えない方が得策だと考えていた。
「明日から二人でやるんや」
中澤は強く言った。

矢口と吉澤は唖然としていた。
「分かりました」
加護だけが中澤に答えた。
「吉澤さん、安倍さんが戻ってくるまでがんばりましょう」
加護は吉澤に向かって言った。吉澤は小さく頷いた。
「矢口・・大変だとは思うけど頼むわ」
中澤の言葉に矢口は何も答えなかった。

「じゃ、そういう事で・・今日は解散や」
中澤はそう言って立ちあがった。
「待ってよ!なっちの居場所は教えてくれないの?」
矢口も立ちあがって中澤に言った。
中澤は黙って首を横に振った。
「何で?何で!」
矢口は怒った。加護が立ちあがって矢口の手を掴んだ。
「帰りましょう・・矢口さん」

「分かってくれや・・ウチかてツライんや」
「ごめんな」
中澤は矢口に対して深く頭を下げた。
矢口はそれを見て少し困った顔をして吉澤と加護の方を向いた。
「明日は10時だからね・・」
矢口はそう言って部屋を出て行った。吉澤が後についていった。
そして部屋を出て行こうとする加護を中澤は呼びとめた。

「すまんな・・あいぼん」
中澤の言葉を聞いて加護は笑顔で答えた。
「中澤さんの事だから何か考えがあるんだと思っています。信じてますから」
力の無い笑顔だった。
「じゃ・・」
加護はそう言って部屋を出て行った。

中澤は少し一人で休んだあと、出かける準備をした。
後藤に会いに行くために。それと、社長として謝罪をしに。
過去に何があったとしても自分の所のタレントが迷惑をかけたのだから。
個人的な感情は殺していた。
中澤は自分が社長で責任ある立場だと自分に言い聞かせて部屋を出た。

タクシーに乗り中澤は病院に着いた。
病院に入り後藤のいる部屋を書いたメモを手に廊下を歩く中澤。
「あ・・中澤さん?」
誰かが声をかけた。中澤は声の主をキョロキョロと捜した。
「あ・・こんにちは」
中澤は声の主を見つけて挨拶した。後藤のマネージャーだった。
「このたびは・・ほんまにすいません」
中澤は深く頭を下げた。

「いえ・・御気になさらずに」
マネージャーはそう言った。
「後藤は・・少し前から様子が変でしてね」
「まあ、こうなったのも無理をさせたウチにも問題があるんで」
マネージャーの言葉に少し驚く中澤。
「様子が変?」
マネージャーは中澤の言葉に頷いた。

「ええ。まあ・・口で言うより本人にお会いになればわかるとは思いますが」
「では・・急用があるんで。失礼します」
マネージャーはそう言って中澤に一礼した。
中澤も頭を下げた。
歩き去るマネージャーを中澤は見送った。
「会えば分かる?」
中澤はマネージャーが見えなくなると振りかえり廊下をさらに歩いていった。

中澤は後藤の部屋の前に着いた。さっきのマネージャーの言葉が引っかかっていた。
「会わないほうがええんかな・・・」
躊躇する中澤。しばらくドアの前で立ち止まっていた。
「あかん。ウチは責任ある立場なんや」
中澤は深く深呼吸してドアを開けた。
部屋の中は意外に静かだった。
中澤は静かにドアを閉めた。

部屋の真ん中にはベッドがあり、後藤がベッドの上に座っていた。
呆然と前だけを見つめる後藤。中澤は声をかけるのを躊躇った。
後藤のマネージャーの言っていた事はこれなのだろうか?
呆然とする後藤。身動き一つしない。
中澤はゆっくりと近づいていった。勇気を出して声をかけてみた。
「ごっちん」

後藤は中澤の声に反応して突然中澤の方を向いた。
あまりに急な動きだったので中澤は驚いて立ち止まった。
「いやぁぁぁぁぁ!」
後藤は突然叫び出した。中澤は驚いて後ずさりした。
後藤は立ちあがり、ベッドを降りて部屋にあるものを手に掴んだ。
そしてそれを中澤に向かって投げてきた。
中澤は飛んできたものをよけながらさらに後ずさりした。

次々に色々なものを投げつけてくる後藤。
両手で頭を押さえ姿勢を低くする中澤。
「ご・・ごっちん!どないしたんや」
中澤の声は後藤には届かない。
「いやぁぁぁぁ!来ないで!来ないでやぐっつぁん!」
中澤は後藤の言葉に驚いた。頭を低くしたまま中澤も大声で叫ぶ。
「ごっちん!ウチが誰かもわからへんのか!」
飛んできたものが中澤に当たり、中澤は顔を下に向けた。

そして突然静かになった。
中澤は恐る恐る顔を上げて見た。
後藤は部屋の隅で小さくなって座っていた。
中澤はゆっくりと後藤に近づいていく。
後藤は泣きながら小さな声でなにか呟いていた。
中澤は後藤のすぐそばまで近づいて後藤の言葉を黙って聞いた。
後藤は目にいっぱいの涙を溜め、じっと床を見つめていた。

「もう許して・・やぐっつぁん」
「後藤が悪かったよ・・・全部」
「後藤が事務所に唆されなければこんな事にならなかった」
「だから・・許してください」
「お願い・・・」
中澤は後藤の言葉を聞いて唖然とした。
矢口?

後藤は両手で耳を塞いで震え始めた。
「また・・電話・・やぐっつぁんからだ」
「もうやめて・・・」
中澤は震える後藤を見つめていた。
「もう来ないで・・・やぐっつぁん・・・お願い」
中澤は立ちあがった。そして俯いたまま部屋を後にした。

中澤は俯いたまま廊下を歩いていた。顔には苦悩の表情が浮かんでいた。
後藤を追い詰めたのは矢口だった。
安倍と吉澤はとどめを刺したにすぎない。
マネージャーの言っていた「様子が変」とはこの事だった。
すべての発端は後藤にある、と矢口は言いたいのだろうか。
それとも安倍の事を思うばかりに後藤を攻撃したのだろうか。

中澤はふらりと目に付いた居酒屋に入った。
ツラくて酒でも飲まないといられなかった。
一人でカウンターの端に座り酒を煽る中澤。
「なんで・・・こないになってしまったんや」
中澤はうっすらと涙を浮かべて一人呟いた。
「みんな・・仲良かったんや無かったんか?」
モーニング娘。時代を思い出していた。

ずいぶん酔った中澤はふらふらとした足取りで部屋に帰ってきた。
もう随分遅い時間になってしまった。
真っ暗な部屋に入ると電話機の留守電のマークがちかちかと点滅していた。
中澤は電気を付けて、留守電のメッセージ再生ボタンをおした。
バッグを投げ捨てて、メイクを落としに洗面所に向おうとする。
「裕ちゃん・・ごめんね」
メッセージの声で中澤は立ち止まった。
間違い無く矢口の声だった。

メッセージはそれだけだった。中澤は酔っている自分の耳を疑った。
もう一度留守電の再生ボタンを押す。
「裕ちゃん・・ごめんね」
もう一度聞いても矢口の声だった。
中澤は悪い予感がした。
「まさか・・」
中澤はそのままの格好で靴も履かずに部屋を飛び出した。

酔っている中澤は思うように走れなく、何度も転んだ。
膝や肘にスリ傷を作りながらも走る中澤。痛みは感じなかった。
「タクシー!」
大通りまで走ってきた中澤はタクシーを大声で呼びとめた。
「運転手さん・・・急いでや!」
中澤はタクシーの中でひたすら祈った。

中澤を乗せたタクシーは病院に着いた。
支払いをすませ、緊急外来の入り口へ急ぐ。正面はもう閉まっている。
自動ドアが開くのがもどかしく、両手で無理やりこじ開ける。
「ちょ・・待ってください!」
入り口近くに居た係員が中澤を見て飛び出してきた。
中澤は係員には目もくれずに全力で長い廊下を走る。
エレベーターを待っていられない中澤は階段を駆け上がっていく。

アルコールのせいで息が上がる。苦しい。
それでも中澤は全力で走った。
ある一つの部屋の前に着くと中澤は力いっぱいドアを開けた。
真っ暗な部屋。
中澤は手探りで電気を探して、スイッチを入れた。
急に部屋が明るくなった。
部屋の真ん中にはベッドがあり、安倍が寝ていた。
その脇にはベッドに蹲る小さな体があった。

中澤はベッドに駆け寄った。
そして小さな体を引き起こした。
「矢口!」
小さな体は手首から流れる血で真っ赤に染まっていた。
白いベッドのシーツや床にもおびただしい血が・・・。
「矢口!しっかりせえ!」

静かに眠る安倍の胸元あたりにメモが置かれていた。
中澤はメモを読んだ。
「全部ヤグチが悪い みんなごめんね」
そう走り書きされていた。
「矢口!しっかりするんや!」
中澤は矢口の体をゆすった。矢口の首は力なく揺れた。
「矢口!目を覚ますんや!」
中澤は矢口の頬を平手で殴った。何回も。
「矢口・・・矢口まで・・なんでやぁ」
泣きながら中澤は矢口を抱いた。矢口は冷たかった。

「何て事したんやぁぁぁぁぁぁ!」
中澤の絶叫が静かな病院に響き渡った。
安倍は静かに眠っていた。

 

第3章 夢のあとに

 

「お疲れさまでしたー」
番組収録が終わり、スタッフが撤収を始める。
タレントもそれぞれ帰り支度を始める。
「あ・・・このアトひま?」
ジャニーズのなんとかと言う名前も知らない人が声をかけてきた。
「何か?」
「いや・・食事でもどうかと思って」
「すみません・・まだ仕事があるんで」
「あ・・そう。ごめんね。また」

帰ろうと楽屋へ歩き出す。肩越しに後ろで話す声が聞こえる。
「加護ちゃん固いんだよなぁ」
「しっ!聞こえるぞ」
十分聞こえているが何の反応も示さずそのまま歩いていった。
そして楽屋へ行き、帰り支度をした。
マネージャーの運転する車に乗り、家へ帰った。
仕事はもう終わりだ。

家に着いてテレビを見ながらくつろぐ。
テレビではCD売上ベストテンみたいな番組をやっていた。
「今週の一位は・・・」
「加護亜依さんです!」
「三週連続おめでとうございます」
それを見ても加護は何の反応も示さなかった。
退屈そうにテレビのチャンネルをころころ変えていた。

たとえCDの売上が一位でも、沢山の番組にレギュラーとして出ても、
ドラマや映画の主役の依頼があっても、
加護は退屈だった。
加護は一人だった。
何も楽しくなかった。

テレビの上に置いてあるフォトスタンドを手にとって見る。
写真には左から加護、吉澤、矢口、中澤、安倍が写っていた。
ため息を一つつく。
そんなに時間がたっていないのに、まるで大昔のように感じた。
みんな、いなくなってしまった。

加護も本当はもう芸能界など引退したかった。
加護にとって悲しい思い出しか残っていない。
しかし加護は思い十字架を背負ってこの業界に居続けなければならなかった。
少なくとも加護自身はそう思っていた。
安倍、矢口、後藤という十字架を背負っている。
加護は自分にそう言い聞かせていた。
そして、中澤の分も。

―――
加護は寝坊した。走ってテレビ局へ急ぐ。
「ああ・・もう10時半!」
雨が降っていて傘をさしながら走る。パシャパシャと音を立てながら急ぐ。
息を切らしながらようやく待ち合わせ場所までやってきた。
待ち合わせ場所には一人、吉澤が傘をさして下を向いていた。
「す、すみません・・今朝頭痛が酷くて」
大嘘だった。昨晩プレステのやりすぎが寝坊の原因だった。
吉澤が加護に気がついた。
「おはよう」

「おはようございます・・」
加護は申し訳なさそうに言った。
加護は一人足りない事に気がついた。
「あれ・・矢口さんは?」
「それが・・まだ来てないの。何度も電話してるんだけど、出ないよ」
吉澤は手に持った携帯電話を見せながら言った。
時間に厳しい矢口が遅刻なんて珍しい・・加護はそう思った。

「昨日の事とかで何かあるのかなぁ」
吉澤がポツリと言った。
「あ・・昨日の・・・安倍さんの話しかぁ」
加護はそう答えた。
そして二人は雨の中、じっと矢口が現れるのを待っていた。

しかし待てど暮らせど矢口は現れなかった。
「中澤さんに電話してみようか」
吉澤が沈黙を破って話した。携帯電話で中澤に電話をかける吉澤。
加護その様子をじっと見ていた。
吉澤は何も言わずに電話を切った。
「ダメ・・留守電になっちゃうよ」
二人はそろってため息をついた。

「雨も酷くなってきたし、中で待ってようか」
吉澤はそう言ってテレビ局の入り口を指差した。
加護は小さく頷いて、吉澤と共に中に入っていった。
傘をたたみ、がらんとした広いロビーの隅にある長い椅子に座る。
そこでまた二人で黙って矢口を待ち続けた。

「収録って何時からだっけ・・」
加護がふと思い出して吉澤に話しかけた。
「もう始ってる・・・」
吉澤が時計を見ながら話した。
二人は顔を見合わせ、またため息をついた。
「どうしたらいいんだろう」
吉澤の顔色に焦りが出てきた。

ずっと待ち続けたが結局矢口は現れなかった。
困った二人は何度となく電話を繰り返す。しかし誰も出ない。
「どうしよう」
吉澤が困った顔をして加護に言った。
「中澤さんの家に言ってみる?」
吉澤の提案に加護は頷いた。
二人は立ちあがり、中澤の家に向った。

中澤の家に着いた二人。
「あれ・・・」
ドアに手をかけた吉澤はカギがかかっていない事に気がついた。
吉澤と加護は顔を見合わせた。
「こんにちは」
吉澤がゆっくりと部屋に入っていく。加護もそれについていった。
部屋の中は静かだった。

部屋の中には誰もいなかった。しかし中澤のバッグは部屋に残されたままだった。
中澤の携帯電話もそこにあった。
吉澤と加護の二人はどうしたらいいのか分からず、とりあえず座って待ち続けた。
突然、中澤の携帯電話が鳴った。
「びっくりしたぁ」
加護は中澤の携帯電話を手に取った。
画面にはレコード会社の人の名前が表示されていた。
「ど、どうしよう」
加護は焦って吉澤の顔を見た。

「どうしようって・・・とりあえず出る?」
吉澤はそう言って加護の手から電話を取った。
「もしもし・・」
吉澤は電話に出た。
加護はじっと様子をうかがっていた。
「あの・・・私、吉澤です」
吉澤は事情を説明した。
「え・・・何ですか?」
吉澤の顔が曇った。
「自殺!?」

「はぁ・・・はい・・分かりました」
吉澤は力の抜けた返事をして電話を切った。
「なんだって?」
加護は身を乗り出して吉澤に聞いてみた。
吉澤はうつろな目をしながら答えた。
「矢口さんが・・・矢口さんが・・・」

話しの内容を聞いた加護は呆然としていた。
「そんな・・・」
ずっと中澤や安倍と共に行動してきた加護には理由は十分に理解出来た。
それだけにやりきれない気持ちだった。
中澤が矢口に神経質になっていた事も理解できた。
「中澤さんは?」
「それが・・病院から居なくなって・・それきりだって」

「え・・・?」
信じられないといった顔の加護に吉澤は続けた。
「居場所もわからないし連絡もとれないって」
「とりあえずレコード会社の人がどうするか検討するから自宅で待機しろって」
吉澤は涙目になりながら言った。
「加護ちゃん・・・どうなっちゃうんだろう?」
加護は何も答えられなかった。

それから一周間ほど自宅で加護は待っていた。
中澤から突然の連絡があった。
「あいぼん・・ごめんな」
「大手のプロダクションにアトをお願いしておいたわ。ごめんな」
加護の話しを一切聞かずに一方的に話しをして電話を切った中澤。
中澤からの連絡はそれきりだった。
加護は大手のプロダクションに移籍した。
加護だけ。
―――

「中澤さん・・どこへいっちゃったの?」
加護はフォトスタンドの写真を見ながら寂しそうに言った。
「中澤さんと一緒だから、この世界に戻ってきたのに」
「一人にしないでよ・・」
加護は苦しかった。
それでも芸能界に居続けなければならなかった。
中澤が戻ってきたときに居場所が無いと困るだろう。
加護は中澤が戻ってくると漠然と信じていた。

ひさびさのオフの日。
加護は一人で電車に乗って遠くまで出かけて見た。
ただただ、現実から逃避したかった。
適当な駅に降り、街をブラつく。
ショーウィンドゥに写った自分の顔は悲しそうだった。

喫茶店に入る。
ぼんやりと窓から外の景色を眺める。
街を行く人々は楽しそうに見えた。
友達と恋人と歩く人々。
今の加護には友達と呼べる人も恋人と呼べる人もいなかった。
「いいなぁ・・・」
加護は普通の生活が羨ましかった。

「いらっしゃいませ」
窓の外を見つめる加護のところに店員がやってきた。
気にもせず外を見つめる加護。
ガタン、という音がして加護の服に水がかかった。
驚いて自分の服を見る加護。
「す・・すみません!」
店員は焦って頭を下げた。

「今、お拭きしますから」
店員は顔を上げてふきんを取りに行った。
加護は唖然とした顔で店員を目で追っていた。
すぐに戻ってくる店員。
「ほ、本当にすみません・・・」
水をこぼしたくらいで悲しそうな声で話す店員を見て加護は声をかけた。
「梨華ちゃん?」

「はい・・石川梨華です・・申し訳ありません」
夢中で加護の服を拭き続け、まだ気づかない石川。
「あの・・私・・加護亜依」
自分を指差しながら加護は言った。
「加護さんですか・・すみません」
加護はため息をついた。

「梨華ちゃん・・私だって!」
加護は大きな声で石川の耳元に向って言った。
驚いた石川は顔を上げて加護の顔を見た。
「はい・・ってあれ?」
唖然とする石川を見て加護は飽きれてしまった。
「相変わらずだね」

「何してるの?」
加護は石川の手からふきんを取って自分で服を拭いた。
「何って・・バイト・・」
石川はまだ驚いた顔をしたままだった。
「久しぶりだね。元気だった?」
加護は拭き終わったふきんを石川に手渡した。
「元気だったけど・・何でここにいるの?」
石川はまだ状況を理解出来ていないようだった。

「何時にバイト終わるの?」
加護はひさしぶりに会った石川とゆっくり話しをしたかった。
「えと・・もう少しで終わる」
「じゃ・・待ってるね」
加護はそういうとメニューを手にとった。
「オレンジジュース下さい」

石川のバイトが終わったので二人は店を出て石川の家に向った。
道中、他愛の無い会話をしながら歩いた。石川の家はさほど遠くなかった。
加護はごく普通の他愛の無い会話がとても楽しかった。
タレントではない加護亜依として扱ってくれるのが嬉しかった。
二人は石川の家についた。

石川の部屋にあがり二人で座った。
「梨華ちゃんバイトしてるんだ・・凄いね」
加護は石川の母親に貰ったジュースを飲みながら言った。
「凄くないよ・・これで5つめだし」
「5つめ?」
「私ってドジばっかりで・・」
石川の言葉を聞いて加護は吹きだした。
「梨華ちゃんらしいや」

「でも・・いいなぁ」
加護は少し寂しそうに言った。
「なんで?亜依ちゃんの方が凄いじゃない」
石川は言った。加護はそれを聞いて悲しそうな顔をした。
「何にも凄くない・・・」
「何にも良くない・・・」

石川は加護の表情を見て言った。
「どうしたの?何かあったの・・・?」
加護はますます悲しそうな顔になった。
「ツライよ・・・逃げ出したいよ」
加護の言葉に石川は驚いた。
「何で?」

「だって・・いつも一人だもん」
「自由も無いし。誰も私の気持ちなんて理解してくれない」
「誰にも何も相談出来ない・・・」
「私も普通に学校行って普通に遊んで普通に恋でもしてみたいよ」
石川は加護の話しを聞いていた。
「私はみんなと楽しくやりたかったのに、一人だけ残っちゃった」
加護は黙ってしまった。

石川は悲しげな加護の顔を見つめながら話した。
「でも・・・亜依ちゃんはみんなの希望でもあるんだよ」
「モーニング娘。だった私達の誇りでもあるんだよ」
石川の言葉を遮って加護が話した。
「そんなの勝手だよ・・・」
「私はもう辞めたい!こんな思いはもう沢山!」
そう言って加護は泣き出してしまった。

石川は泣きじゃくる加護をそっと抱いた。
「そんなにツライの?」
加護は泣きながら頷いた。
「可愛そうな亜依ちゃん・・・私が何かしてあげれればなぁ」
石川はため息をついた。
「元気出して・・・亜依ちゃん」
それでも加護は泣き続けていた。

「私で良かったら、いつでも相談にのるから」
石川は加護の頭を撫でてやった。
「亜依ちゃんがこんなに泣くなんて・・」
石川は泣き止まない加護に困ってしまった。
「どうしたらいいんだろう・・」
石川は途方に暮れてしまった。

加護はしばらく泣いたあと、急に静かになった。
そして石川の手から離れた。
「ごめん・・・梨華ちゃん」
石川は首を横に振った。
「ずっと気を張ってて・・・泣くのは久しぶり」
「梨華ちゃんの顔見たら・・気が緩んで」
「もう、すっきりした。ありがとう」
加護はそう言ってにっこり笑った。

「私で良かったら・・いつも泣きにきて」
「あ、それも変か」
石川はテレ笑いをしながら言った。
「うん。ありがとう」
加護の顔に元気が戻った。

「あ、そろそろ帰るね」
加護はそう言って立ちあがった。
「え?もう?」
石川は少し寂しそうに言った。
「うん・・ごめんね。また来るから」
「忙しいんだろうね・・・がんばって!」
石川はそう言ってガッツポーズをしてみせた。
加護は小さく頷いて、石川の部屋を後にした。

電車を乗り継いで、加護は東京まで戻ってきた。
電車の中で石川の姿を思い出していた。
「私もバイトとかしてみたいな・・・」
叶わない夢じゃないのに、遠い夢に思えた。
加護は迷っていた。このまま芸能界に居るべきか。やっぱり辞めるべきか。
「中澤さん・・・どうしたらいいんでしょう?」
加護は中澤の返事が欲しかった。

電車を降りて駅を歩いていると見なれた後姿に気がついた。
加護は走ってその背中を追いかけた。
「吉澤さん」
ようやく追い付いた加護は吉澤の真後ろで声をかけた。
吉澤は振り向いた。
「あー。加護ちゃん」

少し息をきらす加護。
「どこ行くの?」
吉澤は加護の方に向き直った。
「ごっちんの所・・・一緒に行く?」
加護は少し驚いた顔をした。そして少しうつむいて考えた後答えた。
「行く・・・」
二人は並んで歩き始めた。

二人は歩きながら色々話した。
「加護ちゃんどんどん凄くなってくね・・もう雲の上の人みたい」
「そんな事ない・・・ツライ」
「そうなの?」
「それより、吉澤さんは?何してたの?」
「私はまともに学校へ行ってるよ」
「そうなんだ・・いいなぁ」
「で、ごっちんの所に毎日通ってる」
「毎日?」
「そう」

加護は吉澤の顔を不思議そうに見ていた。
「やっぱりね・・友達だし」
「一番仲良くしてくれてたし・・・」
「こんな事になっちゃって・・見捨てられないよ」
加護は後藤の噂は聞いてはいたが実際今の後藤を見るのは初めてだった。
「そうなんだ・・・」
それきり二人は黙って歩き続けた。

二人は病院に着いた。
そのまま黙って長い廊下を歩いて後藤のいる部屋までやってきた。
吉澤がドアを開ける。加護は深呼吸をして心の準備をした。
そして吉澤の背中に隠れるように部屋に入った。
後藤はベッドの上に座っていた。
そしてまっすぐ壁だけを眺めていた。

「おはよう、ごっちん」
吉澤は何も無かったかのようにベッドの横にある椅子に座った。
加護はそのまま入り口に立っていた。
「今日はね・・テストがあったんだよ。勉強してなくって・・」
吉澤は何も言わない後藤に話しかけた。
後藤は吉澤の声にも反応せず、ただ壁を見つめていた。
吉澤が振り向き、加護に言った。
「どうしたの?こっちおいでよ」

加護は動けなかった。
正直、呆然と壁を見つめる後藤が怖かった。
「ずっと・・・こうなの?」
恐々とした口調で加護は言った。
「そう・・・ずっと。私が来るようになってからはずっと」
吉澤はさらりと言った。
「どうしたら元に戻るんだろうね・・・」
吉澤は寂しそうだった。

「さ・・そろそろ行くね」
吉澤はそう言って立ちあがった。
「また明日来るね」
吉澤は後藤にそう言って振り向き加護の方に歩き出した。
後藤は何も言わなかった。ただ壁を見つめていた。
「さ、行こう。加護ちゃん」
加護は吉澤に諭されて部屋を出た。
吉澤がドアを閉めるまで後藤を見ていた。
後藤は微動だにしなかった。

「じゃ、またね」
最初の駅まで戻ってきた吉澤は加護に向って言った。
「はい・・また」
加護は暗い声で答えた。
一度帰ろうとした吉澤だったが元気の無い声を聞いて立ち止まった。
「加護ちゃん・・・がんばって」
吉澤の声に顔を上げて加護は答えた。
「ありがとうございます・・・でも」
「でも?」
「後藤さんを見たら悲しくなってきて」
加護は下を向いた。

吉澤は加護の目の前まで戻ってきた。
「加護ちゃんは気にしないで・・・」
吉澤は加護の手を取った。
「いつかまた、みんなで一緒にやれる日がくるよ」
「だから・・今はがんばって」
吉澤の言っている事は嘘だと加護は思った。
しかし加護は吉澤の言葉に頷いた。
「はい・・みんなを待ってます」

「じゃ・・また連絡するね」
そう言い残して吉澤は行ってしまった。
加護はしばらく吉澤の姿を追っていた。そして見えなくなったところで自分も歩き出した。
吉澤の言葉は吉澤の精一杯の嘘だろう。加護は思った。
どうやったらみんな元通りになるのだろう。
いや・・・絶対に戻らない。
そう思うと加護は悲しくて泣きたかった。

次の日、加護は仕事の合間を見つけて後藤のいる病院へ一人でやってきた。
恐る恐るドアを開ける。
ドアの隙間から見えた後藤は昨日と同じだった。
音を立てないように静かに部屋に入った。
そしてゆっくりと後藤に近づいていった。
後藤は壁を見つめていた。
「後藤さん・・」
加護は声をかけてみた。

しかし後藤は何の反応も示さなかった。
しばらく沈黙。
加護はあまりの静けさに耐えられなくなり、立ちあがってテレビに向った。
テレビの電源を付け、またもとの場所に戻る加護。
加護は後藤の表情をじっと見ていた。
静かな部屋にテレビの音だけが響いていた。

突然、後藤の表情が変わった。
加護は驚いて身を乗り出した。
「後藤さん?」
加護の声には反応しない後藤。
後藤の目の先にはテレビがあった。
加護はテレビに視線を移した。
テレビには市井と保田が写っていた。

加護は立ちあがってテレビの前まで行った。
テレビのボリュームを上げた。
市井と保田でデビューする新ユニットのインタビューだった。
加護はテレビの内容に驚いて声が出なかった。
「後藤さんをおいて・・・?」
加護は後藤の方へ振り向いた。

後藤は涙を流しながらテレビに見入っていた。
加護はとっさに後藤にかけより、両手で肩を掴んで後藤を揺すった。
「後藤さん!後藤さん!」
加護は何度も叫んでみたが後藤は加護にまったく反応しなかった。
ただただ、後藤はテレビを見て泣いていた。
加護は手を離してまたテレビのところへ行き、電源を切った。
後藤は泣き続けていた。

「時間だ・・・もう行かなきゃ」
加護は後藤のそばに寄った。そして後藤の涙を拭った。
「また・・来ますから」
そう言って加護は部屋の出口へと歩いていった。
そしてドアを閉めて部屋を出た。
出るまぎわに見た後藤はまだ泣いていた。
ずっと何も映っていないテレビを見つめながら。

加護は仕事に急いで戻った。
仕事をしながらボンヤリと後藤の事を考えていた。
後藤が泣いたのは復活への兆しなのだろうか?
しかし、後藤をおいて再デビューを果たしてしまった市井と保田を見てどう思うのだろう。
加護は複雑だった。
もしかしたら復活しない方が後藤のためのような気がした。

仕事の最中に加護の携帯電話が鳴った。
加護はすぐには出れなかったが、休憩をもらって携帯電話を見た。
吉澤からの電話だった。すぐにかけなおす。
吉澤はすぐ電話に出た。
「あ・・・加護ちゃん?」
吉澤の声は震えていた。
「あのね・・ごっちんが」
加護は吉澤が何が言いたいのか分かっていた。
「泣いたの?」
加護は吉澤より先に言った。

「なんで知ってるの?」
吉澤は不思議そうだった。
加護は自分が現場に居合わせた事を話した。
「そうだったんだ・・・」
吉澤は悲しげな声で言った。
「今も泣いてるの?」
加護は聞いてみた。
「うん・・・ずっと」

吉澤は涙声になってきた。
「可愛そうだよね。あんまりだよね」
「悔しいよね」
吉澤はそんな言葉ばかりを繰り返していた。
加護は何も言えなかった。
加護は吉澤よりも後藤の無念さは分かっているつもりだった。
娘。を解散させてまでプッチモニに賭けてきた事を知っていたからだった。

吉澤は涙声になってきた。
「可愛そうだよね。あんまりだよね」
「悔しいよね」
吉澤はそんな言葉ばかりを繰り返していた。
「こんなになるまでプッチのためにがんばって来たのにね」
加護は何も言えなかった。

加護は電話を切った。そして仕事も終わらせ帰り支度をしてスタジオの外へ出ようとしていた。
出口が見えてきたところで誰かが入ってくるのが見えた。
加護は立ち止まった。
「い・・市井さん」
向こうも加護に気がついたようだった。
「加護ちゃん?お久しぶり」
市井はごく普通に挨拶をしてきた。

加護は挨拶をしようと思ったが声が出なかった。
後藤の泣き顔が頭をよぎった。加護は市井から目をそらした。
「どうしたの?」
市井は不思議そうに加護をみつめた。
加護はしばらく黙ったあと、ゆっくりと口を開いた。
「どうして・・どうして後藤さんをおいていったんですか?」

市井は驚いた顔をしたあと、困った顔をした。
「おいてってんじゃなくて・・・」
「じゃなくて?じゃ、なんで二人だけでデビューしたんですか?」
加護は市井の言葉を遮るように言った。
「後藤さんがどんな思いしてきたのか・・知ってますか?」
「今、後藤さんがどんな状況が知ってるんですか?」
加護は興奮ぎみに話した。

「知ってるよ」
市井はさらりと言った。
興奮する顔とは対照的に冷静そのものだった。
「じゃ、なんで?後藤さんは利用されただけ?」
市井は加護の言葉にぴくりと反応し、加護に一歩近づいた。
「利用なんてするわけないでしょ!」
市井は初めて感情をあらわにした。

「じゃ、なんでですか?教えてください」
加護は顔を上げて市井を睨んだ。
市井は悲しそうな目をしながら加護を見つめた。
「今のごっちんをどうしろと言うの?」
市井の言葉を聞いた加護は目を伏せて俯いた。
「あの状態でデビューさせろっていうの?」
加護は震えていた。

「でも・・・でも!」
加護の目から涙が出てきた。
市井はさらに一歩近づいて、加護の肩に手をおいた。
「ごめんね・・でも分かって」
「分かりません!」
加護は市井の手を振り払った。
「悔しいです・・」

「市井さんは分からないんです・・市井さんたちの復活のためにみんながめちゃくちゃになってしまった事が」
「中澤さんや安倍さんや矢口さんがどんな思いだったか分かりますか?」
「それなのに・・後藤さんまで見捨てるなんて」
「対立したりしたけど、みんな思いは同じです」
「もう一度やり直したいんです」
「何もかも全部元に戻したいんです」

涙目になって訴える加護を見て市井は少し困った顔をした。
「ごめんね」
そう一言言い残して市井は加護の横を抜けて行ってしまった。
加護はそのままそこに立っていた。
手には力いっぱいの握りこぶしを作って。
「悔しいよ・・中澤さん」

加護は夢中で後藤のいる病院に向った。
病院に着くと廊下を全力で走り、力いっぱいドアを開けた。
部屋には呆然とする後藤と吉澤が居た。
吉澤はドアの音に驚いて加護の方を向いた。
「加護ちゃん?どうしたの・・・」
加護は吉澤のところまで歩いてきた。
「悔しいよ!」
力いっぱいの大声で叫んだ。

加護は後藤の座っているベッドに飛び乗った。
そして両手で後藤の肩を掴んで揺さぶった。
「や・・やめなよ」
吉澤が加護の手を掴んで止めにはいった。
吉澤の言葉を無視して加護は夢中で後藤を揺さぶった。
「後藤さん!悔しくないの!?」

何度も何度も後藤を揺さぶった。
「目を覚ましてください!」
そして加護は後藤を抱きしめた。
「悔しくないんですか?」
加護は後藤の胸に顔を埋めて泣いた。
「私は悔しいです・・・」

「泣かないで・・・加護ちゃん」
その声に驚いて加護は顔を上げた。
後藤は呆然と壁を見つめたままだった。
吉澤も驚いてその場に硬直した。
後藤は壁を見つめたまま言った。
「後藤も・・悔しいよ」

後藤はゆっくりと視線を加護にうつした。
「ご・・・後藤さん」
加護は硬直していた。
「幽霊でも見るような目で見ないで」
後藤はゆっくりと話した。
喜ぶべきなのに、加護は驚きのあまり何も言えなかった。

「よっすぃーに加護ちゃん・・・本当にごめんね」
硬直して動けない吉澤と加護を見ながら後藤は言った。
吉澤は無言で首を横に振った。
「迷惑ばかりかけて・・・」
「こうなったのも自業自得だよね」
後藤は寂しそうな顔をして言った。
加護は俯き何も言えなかった。

「プッチをやり直すのが後藤の夢だったんだけど・・もうそれもダメだね」
後藤はそう言って下を向いた。
吉澤は突然立ちあがった。
「まだ・・諦めちゃいけないよ」
後藤は吉澤の方を向いた。吉澤は続けた。
「プッチはもう一組あるじゃない・・・」

「でも・・よっすぃーや加護ちゃんに迷惑かけて今さら」
後藤の言葉に吉澤は答えた。
「それはもう終わった事じゃない。ね、加護ちゃん」
加護は少し悩んだ後、小さく頷いた。
「一緒にもう一度やろうよ」
吉澤は言った。

「でも・・もう事務所も受け入れてくれないだろうし」
「こんなに騒ぎが大きくなっちゃって・・・・」
後藤がそこまで言ったところで加護が顔を上げた。
「それなら・・私のところにお願いしてみます」
それを聞いた吉澤の表情が明るくなった。
「みんなで・・・もう一度やろうよ」

吉澤と加護の視線が後藤に集まった。
後藤は複雑な表情を浮かべながらも小さく頷いた。
「良かった」
吉澤は嬉しそうだった。
加護は一つ心配があった。
「あの・・・私プッチモニじゃなかったんですけど」

「関係ないよ!一緒にやろうよ」
吉澤が間髪入れずに答えた。
加護は嬉しかった。
やっと孤独から解放されたからだった。
「早速、相談しに行ってみます」
加護はそう言ってベッドから飛び降りた。
「え・・・今から?」
吉澤は驚いた顔をしていた。

「今から」
加護はそう言って後藤の顔を見た。
後藤の表情はまだ複雑そうだった。
「後藤さん」
加護の言葉に驚いたように後藤反応した。
「え?なに?」
「全部リセットして・・最初からやり直しましょう」
加護はそう言って部屋を飛び出した。

加護は急いでマネージャーに携帯で連絡をとった。
マネージャーはまだ事務所で仕事をしていた。
事務所まで急いで行き、マネージャーのところまで行った。
マネージャーはかなり驚いた様子だった。
「どうしたの・・急用みたいだけど」
加護は息を切らしながら言った。
「私にユニットやらせてください」

マネージャーは俯いて黙ってしまった。
加護は不思議そうにマネージャーの顔を覗きこんだ。
「ダメ」
「な、なんでですか?」
「亜依ちゃん・・あんたは今が旬なの。今はソロの方がいい」
加護はマネージャーの言葉に納得がいかなかった。
「でも・・・どうしてもやりたいんです」

マネージャーは困った顔をした。
加護は訴えるような顔をしながらマネージャーを見つめた。
「ユニットって・・・誰と?」
マネージャーの質問に加護は答えた。
「あの・・吉澤さんと後藤さんです」
「吉澤と後藤?誰?」
加護は答えた。
「モーニング娘。の・・・」

マネージャーは表情を曇らせた。
「ダメダメ」
「ど・・どうしてなんですか?」
マネージャーはため息を一つついた。
「モーニング娘。は呪われてる」
「メンバーに問題ばかり起きてるしね」

「そんな・・・」
加護はマネージャーの言葉にショックを隠せなかった。
マネージャーは続けた。
「意識不明になったりおかしくなったり自殺したり」
「おまけに中澤さんは失踪しちゃうし」
「もう過去の事は忘れなさい」
加護は突然立ちあがった。
「酷い・・・・」

「酷いです・・・」
加護はそう言って泣きながら部屋を飛び出した。
「ちょっと!亜依ちゃん!」
マネージャーの声が背中に聞こえた。
加護は全力で走った。
事務所を飛び出して駅へ走っていった。

加護は無我夢中で石川の家に向った。
後藤と吉澤の元には戻れなかった。
二人になんて説明すればいいのか分からなかった。
石川の家の玄関チャイムを押すと石川が出てきた。
「あれ・・・どうしたの?」
加護は石川に飛び付いて大泣きした。
「亜依ちゃん・・・」
石川は何も言わずに加護を抱きしめた。

「もう・・・嫌!」
加護は泣きながら叫んだ。
「どうしたの?何があったの?」
石川は穏やかな声で加護に聞いた。
「私はどこにも行けない・・行きたくない!」
「梨華ちゃんお願い・・・ここにいさせて」
石川は小さく頷いた。
「いいよ」

「ほんまにすまんなぁ・・・・」
「いいって。いつまでもここに居てよ」
まだ小さな子供を抱いて石黒は言った。
「気にしないで」
そう言って子供を抱いたまま別の部屋に石黒は行った。
「はぁ・・・」
毎日ため息ばかりが出てきた。

「いつまでもここに居るわけにいかんしなぁ・・・」
「どないしよう・・・」
またため息をついた。
「今さらどこに行けばいいんやろ」
考えても考えても何も思い浮かばなかった。
嫌な思い出ばかりが頭の中を渦巻いていた。

「ピンポーン」
玄関チャイムの音がした。
中澤は自分の存在が気づかれるのを恐れた。
部屋の中で息を殺して聞き耳をたてる。
「何してるんやろウチは・・・」
中澤は自分が情けなかった。

石黒が玄関に行きドアを開けたようだった。
話し声が聞こえる。その声は小さくてイマイチ聞きづらかった。
中澤はそのまま息を殺してじっとしていた。
どたどたと物音がして、声が近づいてきた。
「こっちへ来る・・」
中澤は思わず部屋のドアから見えないようソファーの影に隠れた。

ドアが開き、声の主は部屋に入ってきた。
聞いた事がある声だった。
「裕ちゃん?」
石黒の声が聞こえた。
中澤はそっとソファーの上から顔を出してみた。
「裕ちゃん・・・何やってんの?」
そこには福田と飯田が立っていた。

中澤はあっけにとられ、そのままそこに居た。
「いつまでそうしてるの・・・」
福田が呆れ顔で言った。
中澤は我に帰り、立ち上がった。
「なんで?なんでここにおるんや?」
三人は顔を見合わせて吹きだした。
「ここは私の家なんだけど」
石黒がいたずらっぽく笑った。

「そうか・・・あんたが・・」
中澤は誰が居場所を教えたのか良く分かった。
「ま・・座って」
石黒の言葉にソファーに座る。中澤も一緒に座った。
「おひさしぶり。元気だった?」
福田は言った。
「あぁ・・・まあ」
中澤は気のない返事をした。

「何しにきたんや?」
中澤は福田と飯田に聞いた。
「それなんだけどね」
福田はもったいぶって話し始めた。
「裕ちゃん、いつまでこうしてるつもり?」
中澤は何も答えられなかった。

「いつまで・・・雲隠れしてるつもりなの?」
「せっかく始めた会社も放置したままで」
福田の言葉に中澤は何も言えなかった。
「昨日ね・・石川から電話があってね」
飯田が口を開いた。
「加護が、石川の家に逃げ込んでるみたい」
飯田の言葉に中澤は驚いた。
「逃げ込んだ?」

「一人で、随分苦労してたみたいよ」
飯田は言った。
それを聞いた中澤は肩を落とした。
「そうなんか・・・」
福田が中澤の肩を叩いた。
「一番頼りにされてた人が逃げちゃダメじゃない」

中澤は自責の念でいっぱいだった。
あの時、加護だってつらかったはずなのに、自分だけ逃げ出してしまった。
中澤はますます肩を落とした。
「で・・・・」
福田が続けた。
「いつまでこうしてるの?」
「事務所は・・そのままになってるんでしょ?」

中澤は福田と飯田の言いたい事はわかった。
しかし、決心がつかなかった。
「この四人てさ・・・一人足りないよね」
福田は続けた。
「みんな聞いたよ。何があったか」
「でも、また元に戻るかもしれないんでしょ?」
「戻ったらどうするんだろうね」
「きっと、またこっちに来るだろうね」
「まっさきに裕ちゃんの所に来るだろうね」

中澤は福田の顔を見た。
そしてすぐに下を向いてしまった。
「ウチは・・・どないしたらええんやろ?」
中澤の言葉に飯田が答えた。
「決まってるでしょ」
飯田は立ちあがり、中澤を無理やり立たせた。
「さ、行きますよ、中澤社長」
そう言って飯田は力づくで中澤をひっぱった。

「ちょ・・ちょっと」
中澤は焦った。
「心配しないで。かおりも協力するから」
飯田はにっこり笑った。
「かおりが一緒なら安心だね、裕ちゃん」
福田がいたずらっぽく笑う。
福田と飯田に羽交い締めにされて中澤は部屋から廊下に引きずり出された。

「ちょっと待てぇ!」
騒ぐ中澤を見て石黒が大笑いしながら言った。
「裕ちゃん、いつでも遊びに来てね」

中澤は福田と飯田に連れられて行った。

「カギもかけないで出て行っちゃうなんてねぇ」
福田はそう言うとバッグからカギを取り出した。
「なんであんたが・・・」
中澤は不思議そうに福田を見つめた。
「彩っぺに話し聞いて、レコード会社の人に問い合わせたんだから」
福田はあきれた顔をした。
「大変だったんだから」

福田がカギを差し込んでドアを開けた。
中に入るとあのときのあのままだった。
中澤の頭に過去の記憶が蘇ってきた。
投げ捨てられたバッグ。
安倍の座っていたクッション。
すべてそのままだった。
中澤は胸が苦しくなった。

中澤は思わず留守番電話を見た。
メッセージが沢山入っていた。
関連各社からのものや、吉澤や加護の録音もあった。
ずっと古い録音まで遡っていく。
夢中で留守電を再生する中澤を福田と飯田は黙って見ていた。
「裕ちゃん・・ごめんね」
その声を聞いて中澤はその場に座りこんだ。

「裕ちゃん・・・」
福田が中澤の肩に手をかけた。
「もう、仕方無いよ・・悔やんでも矢口は戻ってこないよ」
福田の言葉を聞いて大粒の涙を流す中澤。
「お葬式にはみんな来てたよ・・・」
飯田が悲しそうな顔をして言った。
「なっちと後藤の二人を除いてね・・・さやかも来てた」

「加護がね・・・ずっと最後まで裕ちゃんが来るのを待ってたんだよ」
飯田が続けた。
中澤は俯いたまま泣き続けた。
しばしの沈黙。
福田は飯田を見て首を横に振った。
「もう終わっちゃった事なんだよ」
「このまま泣き続けてもなにも始らないよ」

「そうだね」
飯田は急に声を張り上げた。
そして泣き崩れる中澤に向って言った。
「裕ちゃん、しっかりして」
「まだ裕ちゃんにはやらなきゃならない事がいっぱいある」
「裕ちゃんを待ってる人がいっぱい居る」
「もう一度やり直そうよ」

「私とかおりの二人でサポートしていくから」
福田が言った。
「さ・・・立って」
福田は中澤の手をひっぱった。
中澤は顔を手でおさえながら小さく頷き、立ちあがった。
「ごめんな・・ほんまにごめんな」
中澤の言葉に福田は首を横に振った。

中澤は福田に手を引かれ、デスクのある部屋に移った。
そして福田に促されてデスクの椅子に座った。
そして俯き、しばらく目を閉じた。
中澤の耳にずっと付いて離れなかった言葉が蘇ってきた。
「まだ終わったわけじゃないよ!」
「負けたくないよ!」
中澤は目を開けた。

「さて・・・」
中澤の目を見た福田は和らいだ顔で話し始めた。
「復活に向けて、色々やらなくちゃね」
中澤は小さく頷いた。
「とりあえず・・挨拶まわりと、加護を連れてこないと」
飯田が言った。
「心配ないよ。一時休業って事になってるから」
中澤は飯田に向って頭を下げた。
「すまんな・・かおり」

飯田はにっこり笑った。
「役得だね」
「かおりがメディア関連のプロデューサーなんてね。世の中分からないね」
福田があきれたような顔をした。
「小さいとこだけどね。それなりに楽しいよ」
「根回しは任せておいて」
飯田は得意げに言った。

「じゃあ、とりあえず加護ちゃんを迎えに行きますか」
福田が言った。
「そうだね。あんまり時間もないし」
飯田が答えた。
中澤も頷いて立ちあがった。
「善は急げや・・・行こや」

電車に揺られて石川宅に向う。
中澤は石川の家が近づくにつれて不安になってきた。
加護は・・・どんな顔するのだろう。
置いて逃げてしまった自分を恨んでいないだろうか。
加護は自分を受け入れてくれるのだろうか。
中澤はまた逃げ出したい気持ちになった。

石川の家に着いた。
玄関チャイムを押した。
出てきたのは石川だった。
「こんにちは」
福田と飯田が挨拶をした。
中澤はなんとなく二人の影に隠れていた。
「迎えに来たよ」
飯田が言った。

「あ、はい。どうぞ」
石川はそう言ってドアを大きく開けて三人を招き入れた。
三人は石川に続いて歩いた。石川は部屋のドアを開けて、手で押さえて三人を先に入れた。
部屋の中では二人が座ってゲームを夢中でやっていた。
部屋の入り口からは背中しか見えなかった。
ドアが開いた事に片方が気づいた。
「あ・・・こんにちは」

もう片方はまったく三人に気がついていなかった。
「どうしたの・・ののちゃん、やっつけちゃうよ」
加護はゲームに夢中だった。
辻が加護の肩を掴み揺すった。
「亜依ちゃん・・・」
「ちょっと待って!」
加護の姿を見た三人は笑いだした。

笑い声でようやく気づいた加護が振り向いた。
加護は驚いてコントローラーを手から離した。
「な、中澤さん?」
加護はそう言うと突然立ちあがった。
そして少しずつ中澤に歩み寄った。
中澤は加護の顔をしっかりと見ていた。

福田が中澤を肘で突付いた。
中澤は福田に諭されて加護に話しかけた。
「迎えに来たで。あいぼん」
中澤がそう言うと加護は突然泣き出した。
そして、中澤に抱き付いた。
「ごめんな・・・」
中澤は加護を抱きしめた。

「泣いてるかと思ったらゲームに夢中とはね」
飯田が呆れ顔をして言った。
「まぁ・・・あいぼんらしいやないか」
中澤は加護の頭を撫でていた。
加護は中澤から離れた。
「中澤さん・・色々言いたい事もありますけど、もういいです」
「言いたい事ってなんや?」
中澤は加護に責められると覚悟した。
「いや、いいです。中澤さんが戻ってきてくれてすべて忘れました」
加護はにっこり笑った。

石川と辻に別れを告げ、四人は事務所への帰り道だった。
「あの・・・」
加護が中澤に話しかけた。
「どうしても行きたいところが」
中澤は加護に聞いた。
「行きたい所?」
加護は答えた。
「後藤さんの所へ・・・」
中澤は驚いた。
「ごっちんの所?」

「はい」
加護が答えた。
中澤はなぜ加護が後藤の所に行きたがっているのか不思議だった。
中澤の顔を見て加護が言った。
「後藤さんは、復活しました」
「私、後藤さんと吉澤さんと一緒にやりたいんです」
中澤は思わず声が裏返った。
「復活?」

加護は今までの経緯を中澤に話した。
中澤は大きなため息をついた。
「そうなんか・・・」
市井と保田のデビューはテレビで知っていた。
その時は後藤のことは気にかけなかった。
後藤は壊れていたから。
市井の言う事はもっともだと思った。

中澤は黙ってしまった。
後藤の本心はどうなのだろうか。
本気で市井と対峙するつもりなのだろうか。
「中澤さん?」
加護の声で我に返った。
「あ・・・いや、ごっちんの所へ行こか」
中澤は後藤に本心を問いただしてみたかった。

加護の案内で後藤のいる病院までやってきた。
部屋へ行くと後藤と吉澤が居た。
後藤は椅子に座っていて吉澤と談笑していた。
「裕ちゃん・・・」
後藤は中澤の顔を見ると少し緊張した面持ちになった。
そして加護の顔を見て言った。
「おかえり」

「梨華ちゃんから聞いてるよ。気にする事なかったのに」
吉澤が笑顔で言った。
「石川はあちこちに喋りまくってたんだね」
飯田の言葉に吉澤が答えた。
「梨華ちゃんらしいですよね」

中澤は後藤の元に歩み寄った。
「ごっちん・・大丈夫なんか?」
後藤は不思議そうな顔をして答えた。
「なにが?」
「いや・・・その・・・体調とか」
「体調はいいよ」
中澤はどう質問していいのか分からなかった。
後藤はどこまで記憶があるのだろう?

中澤は話題を変えた。
「ごっちん、ウチらと一緒にやってみるか?」
後藤は頷いた。
「あいぼんとよっすぃーと・・・」
中澤はどうしても市井の名前を出せなかった。
後藤は頷いた。
「本気でやる気あるんやな?」
後藤は頷いた。

中澤は後藤のはっきりとした態度に逆にうろたえた。
安倍や矢口のことが頭の中で蘇ってきた。
本当にこれで良いのだろうか?
中澤が迷っているのに気づいたのか、福田が中澤のそばによって話した。
「裕ちゃん、がんばろうね」
飯田も続いた。
「善は急げ、でしょ?裕ちゃん」

中澤は加護の顔を見た。
加護の顔は良い返事を期待しているようだった。
中澤は加護の期待を裏切ることは出来なかった。
中澤は後藤に向って言った。
「早く退院するんやぞ」
後藤はぎこちない笑顔で答えた。
「大丈夫だよ」

後藤が退院してくるまで中澤を中心に復活への準備が急がれた。
中澤は今度は自分でタレントに付いて回る事にした。
そのためにユニットは一つだけに絞る。
中澤はもうなりふり構っている場合ではないと思った。
都合三回目の復活になる。
もう、失敗は許されないだろう。

「二度ある事は三度ある」
「三回目の正直」
こんな言葉が中澤の頭に思い付いた。
どちらにしろ三回目というのは区切りのようだ。
今度失敗したらもう戻って来ない、と心に決めた。

後藤不在のまま、デビュー曲の詳細が決まっていった。
メインは加護の希望で後藤になった。
肝心のメインがレコーディングに参加出来ない。
イベントやテレビなどの予定は未定のままだった。
中澤は後藤の元へ行った。
これまでの状況を説明するために。

「よっすぃーから全部聞いてるよ」
後藤は笑顔も見せず、淡々と答えた。
「今日、退院の許可が出たから」
中澤はようやくメドが立ちそうな事に胸をなでおろした。
「裕ちゃん」
後藤は向き直って真剣な表情をした。
「デビュー曲の発売日は・・市井ちゃんのユニットと同じ日にして欲しい」
中澤はその言葉を聞いて驚いた。

「本気なんか?」
中澤は問いただしてみた。
後藤は頷いただけだった。
「分かったわ」
中澤はそう言って立ちあがった。
「じゃ」
中澤は後藤に別れを告げた。

市井と保田のユニットと同じ日にシングルを発売するには絶対的に時間が足りなかった。
中澤は福田や飯田と協力しながら必死に根回しをすすめた。
準備不足で負け戦になるのは避けたかった。
やるからには市井達をどうしても超えたかった。
鳴り物入りで復活してきた市井。
スキャンダルにまみれた自分達。
果たして勝てるのだろうか?
中澤は時々不安で眠れなかった。

後藤がようやく退院してきた。
中澤は後藤、加護、吉澤の三人を連れてスタジオへ向った。
後藤の顔に笑顔が無かった。
中澤はそれがとても気になった。
本当に再デビューなんて出来るのだろうか。
中澤の不安はますます加速していった。

スタジオに入った。
廊下を歩いていると市井と保田にばったり遭ってしまった。
険悪な雰囲気。
中澤は挨拶だけして素通りしようと考えた。
「こんにちは」
まるで他人のような挨拶をして通りすぎようとした。
「中澤さん」
加護が中澤を呼びとめた。

中澤が振りかえると後藤が立ち止まったままだった。
ここで揉め事を起こすのはまずいと中澤は思った。
中澤は後藤の元まで戻って手を掴んだ。
「時間が無いんや・・」
後藤は下を向いたまま動かなかった。
市井と保田が後藤に近づいた。

「後藤?いつ退院したの?」
市井が後藤に話しかけた。
後藤は黙ったままだった。
加護と吉澤も後藤の元に来た。
「早くいきましょう」
加護が言った。

吉澤が後藤の手を掴んだ。
何も言えない吉澤。
中澤と吉澤に両手を掴まれた後藤は下を向いたままで、市井の顔を見ようとはしなかった。
「行くで、ごっちん」
中澤は強く後藤の手を引っ張った。
後藤はようやく歩き出した。

「後藤・・・」
寂しそうな市井の声を聞いて後藤はまた立ち止まってしまった。
そこに居る全員が後藤の動向に注目していた。
「い・・・市井ちゃん」
後藤がようやく口を開いた。
「なんで、後藤を見捨てたの?」

市井は驚いた顔をした。
「見捨てたって?」
加護が割って入った。
「見捨てたじゃないですか!」
「やめ!あいぼん」
中澤は加護を制止した。

「見捨てたなんて・・・」
市井は寂しそうな顔をした。
「だって退院したのも今知ったんだよ?」
後藤は黙ったままだった。
「ちゃんと連絡してくれれば」
「連絡すれば?」
吉澤が市井に聞き返した。

「少し待って後藤とやり直すつもりだったのに」
市井の言葉に吉澤が言った。
「今さら・・・」
「後藤はどうなの?」
保田が後藤に聞いた。
全員が後藤の返事に注目していた。

「ご、後藤は・・・」
後藤は言葉に詰まった。
後藤は迷っているようだった。
中澤は後藤の表情を見てみた。
後藤は涙を流していた。
中澤が顔を覗いている事に後藤が気づいた。
後藤は何かを訴えかけているようだった。

「どうしたらいいんだろう・・」
後藤が中澤に小さな声で話しかけてきた。
市井と保田。
吉澤と加護。
後藤はどちらかに決めることが出来ないようだった。
どちらも、後藤にとって大切なものなのだろう。

中澤は黙って考えた。
後藤がどちらを選んでも誰かが傷つく。
もう、誰かが傷つくのは沢山だ。
どうするのが一番いい方法なのだろう。
中澤は全員の顔を見回してみた。
そして思いきって市井に話しかけてみた。

「みんなで一緒にやり直す、ってのはどうや」
「え!?」
吉澤や加護の驚く声が聞こえた。
市井は黙って考えていた。
「もう一度、モーニング娘。として」
中澤の言葉に後藤が言った。
「そうしたい」

「そうだね・・・」
市井が言った。
中澤は吉澤と加護の顔を見た。
吉澤はかなり驚いた顔をしていた。
加護は驚いてはいたが、中澤の顔を見て小さく頷いた。
後藤が言った。
「みんなで・・やりたいよ」

結局すべての話しが流れた。
加護、後藤、吉澤の三人のユニット、市井と保田のユニットは解散した。
そして石川と辻が呼び出され、飯田は仕事を辞めた。
中澤の元に集まって全員で再デビューする事になった。
元の事務所と交渉の末、「モーニング娘。」の名称使用の許可を得た。
もう一度、再出発だ。

中澤は社長であるので、もう「娘。」としてはデビューを取りやめた。
少し寂しかったが、一番いい選択であったと自分に言い聞かせた。
ものすごい勢いで時間が流れていったような気がした。
失ったものはもう戻ってこない。
中澤はツライが現実として受け止めなければなからなかった。

多忙の中、中澤は花を持ってある場所にやってきた。
風の強い日だった。
中澤は髪をおさえ、その場所にしゃがんだ。
そして花をそえて、線香に火をつけた。
両手を合わせてしばらく目を閉じた。
「矢口・・・見守っててや」
中澤は立ちあがった。

中澤が去ったあと、一人の女が同じ場所へやって来た。
大きなスーツケースをかかえて。
強い風のせいで落ちてしまった花をしゃがんで拾い、またもとの場所へ置いた。
そして同じように手を合わせた。
女は目を開けて立ちあがり、ぽつりと呟いた。

「なっちはね・・・諦めてないよ」