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S.A.S 投稿日: 2001/02/25(日) 23:51

母が死んでから3年。父は5歳年下の女性と再婚した。
その女性は母が死んで落ち込んでいる父をずっと励ましてくれていたらしい。
それがいつしか、互いに惹かれ合うようになり・・・。
もちろん僕はこの結婚に対して反対などしていない。むしろ、祝福している。
父は十分すぎる程、立派な人だったし、その父が選んだ女性なのだから
きっと素晴らしい人だと思う。
ただ一つ気になるのは、相手の女性もこの結婚が再婚であり、既に子供が一人
いるということだ。父は「大丈夫さ。きっと上手くやっていける」といってくれたが
果たして大丈夫だろうか。

父が一度、相手の女性とその子供と一緒に食事をしようといいだした。
反対する理由もなかったので、僕は承諾した。
しかし、新しい母親と新しい兄妹(5歳年下らしい)と対面するというのは
非常に緊張する。
少し洒落た高級料理店には予定より早めについた。相手側もまだ来ていない。
緊張を紛らわすために僕は、父に断りを入れて、洗面所にいくことにした。
冷たい水で軽く顔を洗う。少しリラックスできたようだ。

洗面所をでると、父が声をかけてきた。
「おい、早くこっちに来い」
どうやら相手側がもう来ているようだ。僕は軽く服装と髪をチェックして
テーブルに近づいた。新しい母の顔が見えた。
綺麗でとても優しそうな人だった。死んだ母とは全く違うタイプの女性だった。
死んだ母を花に例えたら ヒマワリ だが、この女性を例えるなら スミレ だろう。
「初めまして。父がいつもお世話になっています」僕は丁寧に挨拶した。
「こちらこそ、初めまして。瞬君ね?お父さんからいつも聞いているわ」
にっこりと笑いながら新しい母は言った。
「ほら、亜依もちゃんと挨拶しなさい」そう言うと、隣にいた少女
(僕は母となるその女性しか見ていなかったので、その隣にいた小さな少女には
まったく気づかなかった)の肩をそっと叩いた。
「初めまして〜。亜依って言います!お兄ちゃんよろしく!」
とても元気なその声は聞き覚えがあった。そして、その少女の顔を見て愕然とした。
モーニング娘の加護亜依じゃないか・・・。

その日の食事はほとんど喉を通らなかった。あまりの出来事に混乱していたからだろうか。
父達の会話にも曖昧に返事をしていただけなので、内容とかは全く覚えていない。
でも、どうしても僕には忘れられないことがある。

その時僕は他の料理と同じくデザートのショートケーキにも全く手を付けていなかった。
しかし、早々にそれを食べ上げた亜依が、僕のケーキをチラチラと見ているのが目に入った。
僕は「よかったら食べる?」と、ショートケーキの皿をすっと亜依にあげた。
すると亜依は「ありがと〜、お兄ちゃん」と、満面の笑みで答えた。

その亜依の笑みが僕の恋の始まりだった・・・。

僕が新しい家族で過ごすようになって一ヶ月が過ぎようとしている。
きわめて順風満帆といえる。新しい母も大変優しく、父も以前より
元気になった。それになにより、亜依が僕に大変なついている。
母は僕と2人っきりになったとき
「亜依はね、小さい頃からずっとお兄ちゃんが欲しいって言って私を
困らせたのよ。私達家族の中で一番結婚を喜んでいたのはきっとあの娘よ」
と、嬉しそうに僕に話してくれた。僕も一人っ子だったので兄妹は欲しかった。
しかも、その兄妹が可愛い妹なのだから願ったりかなったりだ。

僕は部活でいつも遅く(仕事をしている亜依よりも遅い)帰ってくる。
クタクタに疲れて家にたどりつくと必ず亜依が玄関で待ってくれている。
「お兄ちゃん、おかえりー!」
そう言うと亜依は左手で僕の鞄を持って、右腕を僕の左腕にからめてくる。
亜依はまだまだ小さいから僕の肩ぐらいまでしかない。そんな亜依は僕を
見上げるようにしてから
「今日の晩ご飯ね〜」 と嬉しそうに話し出す。疲れ切っていた僕はそんな
亜依を見ていつも元気を取り戻した。

その日はテスト期間中ということもあって部活は早めに終わり、僕は
午後6時頃には家についた。いつもだと足音(亜依にはわかるらしい)
で亜依が僕が帰ってきたことに気づいて出迎えにきてくれるが、今日は無い。
今日は確か5時まで仕事だったな・・・。思い出して僕は一人寂しく自分
の部屋に向かった。家には母しかおらず、2人でテレビをみながら父と亜依
の帰りを待っていた。父は7時に帰ってきた。亜依はまだだ。仕事が長引い
たのだろうか?両親が(もちろん僕も)心配しだしマネージャーさんに電話
しようとしたとき、電話が鳴った。電話の相手は亜依だった。
母が亜依と話している。安堵した母の表情を見て、僕も安心した。どうやら
亜依は大丈夫のようだ。母が電話を切ると、父がすかさず母に質問をあびせた。
「どうした?亜依は大丈夫なのか?」
「ええ。なんでも仕事が長引いた上に、テレビ局にファンが殺到して、帰るに帰
れない状態らしいの・・・」
ストーカー行為などが非常に危険視される現代において、狂信的なファン程怖い
モノはない。タクシーなどで帰ろうとしてもファンは追跡しようとしてくるので
油断できない。わが家ではこういう時は父が車で迎えに行くことになっている。
「ああ・・・。よりによってこんな時に車を修理なんかに出すんじゃなかった・・・。」
運悪く、この日は父の車を修理に出したその日だった。
「どうしましょう・・・。亜依は明日は学校だしそんなにゆっくりもできないわ」
困り果てている両親を見て僕は
「僕が迎えに行くよ。いいでしょ?」
といった。僕は250ccバイク(ホンダのホーネット)を持っている。それはバイクの中型
免許を取得すると同時に買った。暴走行為や走り屋のような真似はしておらず、普
通にバイクを運転するのを今は楽しんでいる。
両親は全面的に僕を信用してくれていたので承諾してくれた。
「よろしく頼むぞ。外は暗いから安全運転でな」

亜依の分のヘルメットも持った僕は、夜の街をバイクで走り出した。

テレビ局についたのは家から出て30分ほどした時だった。テレビ局の裏側に回り、
バイクを止めた。僕はどこから入って良いのかわからなかったので取りあえず堂々
と正面から入っていった。すると、警備員がすかさず駆け寄ってきた。モー娘。の
ファンと思われたのだろうか。
「なんのようですか?」鋭い視線で僕の全身を舐めるように見ながら警備員が聞い
てきた。父が事前に電話をいれてくれていたので、そのことを警備員に告げた。
警備員は訝しげに僕を一瞥し、携帯でどこかに連絡をした。警備員は一言二言、携帯で
会話を交わすと僕に
「ついてきて下さい」
と言って、スタスタと局内に入っていった。

警備員についていってる間、亜依の話からでしか聞いたことのないテレビ局に実際に
いるということに、緊張しながらも少々興奮していた。
キョロキョロと見たこともない風景に気を取られていた僕は時間が経つのを忘れていた。
気づけば警備員は立ち止まっていた。
「こちらです」
そういうと、来たとき同様スタスタと立ち去っていった。

この部屋に亜依が待っているというのだろうか・・・。僕は トントン と軽くノックした。
「は〜い」と聞き覚えのある可愛い声が聞こえてきた。亜依の声だった。
僕は一安心し、ドアを引いた。
しかし、目に入ってきた光景に僕は絶句した。
そこにはモーニング娘。が全員揃っていた。
挙げ句に彼女達の20の瞳が部屋に入ろうとした僕に集中していた。
完全に僕は固まってしまった。

「あ・・・・」そう言って僕は完全に固まってしまっていた。しかし、亜依が
「お兄ちゃん!」と言って飛びついてきたおかげで金縛り状態から抜け出すことが出来た。
(もし、亜依のこの行動が無ければ僕はずっとあのまま固まっていたかもしれない)亜依は
僕が学校から帰ってきた時に玄関でするように、右腕を僕の左腕に絡めてきた。亜依のおかげ
で僕は落ち着きを取り戻すことが出来た。疲れ切っているときや、混乱して頭が真っ白なとき
でも亜依がそばにいるだけで、僕は正常な状態に戻ることが出来る。

「今日はお兄ちゃんが迎えに来てくれるって聞いてびっくりしちゃった」
亜依は本当に嬉しそうに言ってきた。僕は返事をする代わりに亜依の頭を軽く撫でてやる。
(これをしてやると亜依は目を細めてすごく喜ぶ)しかし、このほのぼのとした雰囲気も
長くは続かなかった。
「えーー!これが加護ちゃんのお兄さん!?」という声をきっかけにして一斉に他のメンバー
が騒ぎ出した。(ちなみに、後で亜依に聞いたところによるとこのきっかけの第一声は矢口さん
だったらしい)僕は10人の女性に囲まれて動物園のパンダのように ジロジロと見られた。
「へ〜、これが噂の亜依ちゃん自慢のお兄さんかぁ」 「思ってたよりずっとかっこいいね〜」
みんなが同時に話しているので誰がなにを言ってるか全くわからないがどうやら第一印象は
いいようだ。助けを求めて亜依を見ると、亜依はなにやら自慢げにしている。メンバーの話を
聞く限り、亜依は僕のことをよくメンバーに話しているようだ。可愛い妹に自慢にされているの
だから悪い気はしない。僕ももし亜依のことを話して良いなら会う人会う人全員に自慢したいく
らいだ。(もちろん、妹が国民的アイドルなんて口が裂けても言えないが)

「亜依ちゃんはいいな〜。私なんてお姉ちゃんだけだもん」
亜依と同じくらい小さい女の子が言った。この娘のことはよく知っている。
もちろん実際に見たのはこれが初めてだが、亜依が写真を交えながらこの娘との事をよく話してくれる。
「辻は自慢の家庭教師がいるでしょ」そう一番の背の高い女性(飯田さんに違いない)から言われると、
辻ちゃんは顔を赤らめて照れた。そういえば最近、辻ちゃんには自慢の家庭教師が出来たっていうこと
を亜依から聞いたような気がする。
「彼女はいるんですか?」突然、後藤真希が聞いてきた。とても中学生とは思えない容姿にドキドキしてしまった。
しかし、この質問に対する周りの反応に僕はさらに困ることになってしまった。
あれだけ騒いでいたメンバー達が静かになり興味津々といった感じで僕の答えを待っているのだ。
亜依の方をチラッと見ると、亜依は亜依で深刻そうな表情で僕を見つめている。僕の左腕を絡めている力も
心なしかさっきより強くなっている。僕は特に嘘をつく理由もなかったので正直に答えることにした。
「いや、いないですよ。特にそういうのは興味が無くて」僕のこの返答がきっかけで
「えーー、嘘だー」 「もしかしてホモとか?」 「もったいな〜い」 などとみんなはまた騒ぎ始めた。

亜依の方を再び見ると、亜依はとても嬉しそうだった。腕の力も安心したせいか弱まったようだ。
やはり兄の交際相手がいるかどうかとかは気になるものなのだろうか?確かに亜依にそういう相手が
いるかどうかということは僕も気になる。しかし、日頃から亜依はそういう人はいないと明言して
いたし、そういう心配はしなくて済んだ。(しかし、好きな人はいるらしい。これはいくら聞いても
教えてくれない)
僕は無難に事が済んだことに安心した。しかし、この平安も長くは続かず再び困難が押し寄せてきた。
「じゃぁ、じゃぁ、もしこの中で彼女にするとしたら誰がいい?」
亜依と同じくらい背の低い女性が聞いてきた。(僕と同い年の矢口さんだ)
再び周りは静寂に包まれ視線が僕に集中した。左腕に対する力も再び強まった。

僕は正直、モーニング娘。は好きな方だと思う。ASAYANもリアルタイムで見てたし結成当時から知っている。
しかし、「彼女にするなら誰か?」などと考えたこともなかった。誰か特定のメンバーのファンというわけでは
なく、モーニング娘。という一つのグループが好きだったからだ。
しかし、この矢口さんの質問で初めて考えさせられることになった。
(僕はこの10人の中から選ぶとしたら誰にするんだろう)
パッと見た感じでは後藤真希、安倍さんあたりが綺麗所だと思う。でも、亜依から聞いた話やテレビで見た
感じからすると後藤真希は遠慮しておきたい。とりあえず、頭の中で安倍さんを○にしておいた。
後藤真希は△だ。次に視線を動かすと初期メンバーが目に入った。飯田さんと中澤さんだ。
中澤さんは最近綺麗になったと思う。エルセーヌのCMに亜依も一緒にでていたのでよく見ていた。
しかし、年の差という壁はやはり大きい。中澤さんは×だ。飯田さんは髪を染めてしまったのか・・・。
僕からすると、あの長くて綺麗な黒髪がすごく魅力的だったのだが。残念だ。飯田さんは△。

と、最初の4人を簡単に評価した時点で気づいた。(仮に全員を評価したとしても、
その結果をここで言うわけにはいかないじゃないか!)亜依はこれからもずっとこのメンバーと共にやっていくの
だし、僕も今回のようにまたメンバーの人と会う機会も出てくるかもしれない。亜依のためにも僕自身のために
もここは無難にやり過ごさなければいけない。ここは一つ、メンバーの中でも人気のないと言われている
保田さんの名前をだしてみようか。そうしたら荒波もたたないだろう。しかし、保田さんの名前を出したら
露骨に逃げてると思われるのではないだろうか。そうすると、保田さんを酷く傷つけてしまう結果になるかも
しれない・・・。そんなことを延々と考えていると(それでも実際には数秒だったが)
不意に亜依が目に入った。さっき以上に深刻そうな表情をしている。(そっか・・・。亜依も10人の中に
入ってるんだ)初めてその事実に気づいた。もし、亜依を彼女にしたらどうなるだろう。

亜依がもし、彼女になったら・・・。考えを巡らしてみたが、いまいち想像できない。
亜依とは一緒に暮らしているわけだし、そこらのカップルよりも一緒に過ごしている時間
は長いかもしれない。(もっとも、亜依の仕事が忙しい上に、僕らの間はあくまで兄妹だが)
今となっては亜依は僕にとってそばにいて当然の存在、いわば空気のような存在になっている。
それだけに恋人になったらなんて考えられない。

亜依のことに考えを巡らしていると(さっき同様、一瞬の間だ)ふと、僕の左腕に対する力が
弱まったような気がした。違和感を覚えた僕は亜依の方に再び目を向けた。すると、亜依の顔は
青ざめ、目の焦点があっていなかった。気づいたときには僕に絡めていた腕がほどけ、背中から
倒れようとしていた。僕は反射的に亜依の背中に手を回し支えてやる。あと、コンマ数秒おくれて
いたら危なかった。
「おい、亜依大丈夫か!?」 僕はゆっくりと亜依を背中から倒してやり、僕の膝を枕にして楽
な姿勢にしてやった。亜依からの返事はなく、意識はないようだ。
「え、加護ちゃんどうしたの!!」 こんなときには少々耳障りに思える矢口さんの声が部屋に響く。
まるでさっきと同じで、矢口さんの声をきっかけにまたみんなが騒ぎ始める。
僕は周りの喧噪は無視して亜依の口元に耳をやる。変な気持ちではなく、呼吸をしているか確かめる
ためだ。ちゃんと息はしていた。しかし、安心はできない。
サッと周りを見渡し、一番落ち着いていそうな人を捜す。医務室の場所を聞いてとりあえずそこに
亜依を移さなければならない。以外にも最年長の中澤さんはオロオロするばかりで頼りなさそうだ。
誰か他に・・・。
「息はちゃんとしてる?」背後から急にかけられた声に僕はビクッとした。
振り向くと、落ち着いた表情の(同時に真剣な表情の)保田さんがいた。

 僕は驚いたことを悟られないように、落ち着いて保田さんに答えた。
「はい。息はちゃんとしてます。医務室に早く亜依を運びたいんですが」
「そうね。見たところ多分軽い貧血だと思うけど安心はできないし」
そう言うと、後ろに振り返った保田さんは
「後藤、あんた加護運ぶの手伝いなさい。それとなっちは加護の荷物もってきて」
的確な命令を次々と出していった。
「加護は軽いから一人でも運べるかもしれないけど一応、大事をとって三人で運ぶこと
にしましょ。後藤は私の側にまわって。お兄さんは私達の反対側ね」
またもや保田さんの的確な指示により亜依を安全に運べる形になった。
(参考画像 http://www.suncrea.com/topic/image/okyu50.gif

 僕たちは保田さんの先導により無事、亜依を医務室に運ぶことができた。
医務室の先生によると、保田さんの言ったとおり過労による軽い貧血ということだった。
後遺症はもちろんなく一晩寝て、明日に栄養のあるものを食べれば大丈夫とのことだった。
僕は胸をなで下ろし、最後まで付き添ってくれた保田さんに何度もお礼を言った。
「いいっていいって。それより、これからも亜依を大切にしてあげなさいよ」
そう言って保田さんは帰っていった。その保田さんの後ろ姿は本当に格好良かった。
(今、「誰を彼女にする?」と聞かれたら間違いなく「保田さん」と答えただろう)
他のメンバは亜依を心配しつつも時間が時間だったのでみんな帰宅していた。亜依の枕元には
辻ちゃんが置いていった可愛いぬいぐるみがある。
 僕は家に電話し、母に事情を説明した。父にこのことが耳に入ると大騒ぎするので(父は
亜依を実の息子である僕以上に可愛がっているように思える)仕事の都合で局に泊まって
いく、ということにした。僕の二人目になるこの母は父とは違い柔軟性がある。しかも
嬉しいことに父と同様に僕のことを信頼してくれている。母は
「亜依をよろしくね。学校の方には私がちゃんと言って置くから」
そうとだけ言うと、電話を切った。

  母との電話を終えた僕は、亜依が寝ているベッドのそばの椅子に座った。
亜依はよく寝ている。心なしか、さっきより顔色がよくなっている。
亜依の細くて小さな左腕には点滴の針が刺さっており、点滴からポタポタと落ちてく
る栄養分が亜依の体内へと入っていっている。
 こうして寝ている亜依は本当に可愛い。もちろん、起きているときでも可
愛いがそういう時の亜依はこういう純粋な可愛さではなく、女の色気が見え隠れ
するのだ。(まだ13歳だというのに)そういう趣味のない兄の僕でさえたまに、
亜依の色っぽさにドキッとするときがある。しかし、今はそんな様子のかけらもなく
スヤスヤと寝ている。僕は亜依の頭を優しく撫でてやる。起きているときならば、
いつも目を細めて喜ぶ行為も今はなんの反応もない。
 僕は亜依の頭を撫でながら考えていた。亜依は貧血を起こすまで頑張ってたのに僕は
気づいてやることすらできなかった。中学生の亜依は仕事と学校の両立のために毎日
休む暇もない。しかし、毎日が楽しいと亜依はいつも言う。そのときは「そうなんだ」とそ
のまま受け止めていたが、亜依の細くて小さな手を見た今、とてもそんな風には思えない。
なんといっても亜依はまだ13歳、中学生になったばかりなのだ。休み無しにずっと勉強と
仕事というハードスケジュールは続けられるはずがない。そしてその結果が今日の亜依の
過労での貧血だ。「ごめんな・・・亜依、守ってやれなくて」僕はそう呟くと
僕は亜依の小さな右手を握った。ひんやりと心地よい冷たさだった。

どれだけそうしていたのだろう。気づけば夢を見ていた。
自分が今、夢を見ているというというのがはっきり認識できているという類の不思議な感覚だった。

『お兄ちゃんは果物のなかで、なにが好き?』
亜依が僕の部屋に遊びに来て、のんびりと雑談しているときのことだった。
「果物?スイカ以外なら大体好きだよ」
スイカは小さい頃から僕の苦手な食べ物の一つだった。
『う〜ん。"だいたい"じゃわからないよ。なにか一つにして』
亜依は執拗に迫ってきた。こんなどうでもいいようなことになんでムキになるんだろうと
僕は思ったが、深くは考えずに亜依の質問に答えた。
『そうだな〜。一つに絞るとしたら、イチゴかな。特に大きくて甘いのがいいな』

そこで夢は途切れた。

夢が途切れ、目が覚めた。といっても、ボーッとしているので意識はまだはっきりしていない。
なにやらと、唇に触れるているものを感じた僕はうっすらと目を開ける。
そこには亜依の顔があった。そして、僕の唇には亜依の唇が触れていた。つまり、僕と亜依はキスを
していた。(あぁ、まだ夢の続きか・・・。それにしても質の悪い夢だな)
夢だというに亜依の唇がイチゴの味だというのを妙にリアルに感じ取れた。
(そういえば最近、亜依はイチゴ味のリップクリームを使うようになったな)
そんなことを考えながら目を閉じると、意識は再び闇に落ちていった。

「・・・ちゃん。おにいちゃん!お兄ちゃん!」
軽く肩を揺さぶられて、僕は目を覚ました。
目を開けると、ベッドの上で上半身を起こした亜依がいた。
う、すっかり眠り込んでしまってたようだ。なにやら変な夢も見てたように思えるが、
とりあえず今は亜依の状態が心配だった。
「亜依、大丈夫か?痛むところとかないか?頭はボーっとしたりしないか?」
慌てて起きた僕は立て続けに亜依に質問を浴びせかけた。
亜依は満面の笑みを浮かべて
「うん。もうすっかり大丈夫!」
と元気よく答えた。医務室の先生に来てもらい、亜依の状態を見てもらった。
亜依が先生に診断されている間、時間を確認してみると7時半を回ったところだった。今日は僕も亜依も学校がある。亜依は仕事との兼ね合いのために久しぶりの学校だし、僕も今はテストにむけての準備期間中だから遅刻するわけにはいかない。バイクで一度家に帰り、そこから再びバイクで学校まで送ってやれば間に合うなと考えていると。
「お兄さん、いいかしら?」
と医務室の先生に呼ばれた。亜依の診断が終わったようだ。
結果は亜依の言うとおり全く大丈夫とのことだった。点滴とたっぷりの睡眠、そして何より13歳という若さのおかげらしい。亜依のベッドの方を見てみるとカーテンで閉ざされ
その向こうではなにやらゴソゴソと亜依が動いていた。普段着に着替えているのだろう。亜依の着替えを待ちながら先生と今回のことについて話した。先生のありがたいお話
(栄養のあるものをたくさん食べさせろ、たっぷりと休養させろ、無理はさせるな、などなど・・・)を聞いている間に亜依の準備も終わったらしく、先生に丁寧にお礼をしてから医務室を辞した。

入ってきたとき同様、テレビ局の裏側から出るのでその方向に向かった。
しかし、慣れていないために僕はとまどってしまった。そのとき
「ふふ、こっちだよ」
と言って亜依が僕の手を握って先導してくれた。亜依のペースに合わせてゆっくり歩きながらその横顔を見てみると、いつもの元気な(そして、少し得意そうな)笑顔だった。

「学校間に合いそうか?」
「う〜ん、ちょっと厳しいかな。でも大丈夫だよ。
 先生に言い訳するの亜依、上手だから」
と、全然自慢にならないことを亜依は言う。
時間は8時にならとうしている。確かに一度家に帰ることとかを考えるとギリギリという所だろう。
「そっか・・・。亜依が言い訳しないですむように頑張ってみるよ。」
「うん。ありがと。でも、安全運転でね!」

ようやく昨日警備員の人に連れられて入ってきた扉が見えてきた。
昨日は慌ただしい一日だったので緊張して警備員の人と歩いていたのが
だいぶ前のことのように思える。

扉を抜け、バイクを止めた所に向かった。よかった。バイクは無事だった。
「そういえば、今日は何時に帰ってこれそうだ?母さんに亜依の好きなもの作っておくよ うに言っておくよ」
最近、亜依の仕事が忙しくて家族一緒にご飯を食べる機会がない。亜依に聞くと現場で配られるお弁当ばかり食べているらしい。だから今日くらいは亜依の好きな母さん特製のハンバーグでも作ってもらおうと思っていたのだ。
しかし、亜依の返事は予想外のものだった。
「・・・ごめん。今日は学校が終わったらすぐに仕事が入ってるの」
亜依はさっきまでの笑顔とは打って変わって悲しそうな表情になった。
しかし、ここで僕まで暗い表情になるわけにはいかない。
「じゃ、今日はダメっぽいから明日にするか」
ポン、と亜依の肩に手を置いて言った。
「多分それも無理・・・。今週は仕事がたくさん入ってるから、家でご飯食べるのは無  理だと思う」
肩に置かれた僕の手に、自分の手を重ねながら亜依はそう言った。

「でも、亜依は大丈夫だよ。昨日はぐっすり寝れたもん。それに危なくなったらお兄ちゃ んがまた助けてくれるし」
そう言って、亜依が微笑んだ。
こういう風に亜依が笑うときは相手を心配させまいと、強がっているときだ。
昨日の亜依が倒れたときの想いが再び込み上げてくる。
僕は考えた。こんな時どうすべきだろうか・・・。
その時、なぜか死んだ母のことを思いだした。

母は花に例えるとヒマワリのような人だった。
いつも元気で明るくて、周りにいる人も母に連れらて元気になるような
雰囲気を持っていた。
僕はそんな母がとても好きだった。いつも母にベッタリと付いていて甘えていた。
しかし、僕が小学校の低学年の時、母は重い病にかかった。
それからというもの、僕は母にすがっていつも泣いていた・・・。
母は病にかかってからというもの外出許可などは滅多におりなかった。
しかし、一度だけ条件付きで許されたことがあった。
いつも泣いてばかりの僕を励ますためだったのだろう。

・・・・・・

「どうしたの、お兄ちゃん?学校遅刻しちゃうよ?」
すっかり考え込んでいた僕に亜依がクイクイッと袖を引っ張りながら言った。
亜依の方を見ると、死んだ母の顔が一瞬かぶったような気がした。
僕はその手を握った。亜依は少し驚いたようだった。しかし次に僕が亜依に言った
ことのおかげで、その驚きはあって無いようなものだったようだ。

「亜依、学校さぼってデートしよう」

僕らはとりあえず、朝食をとるために近くのファミレスにバイクで移動した。
僕の学校には、『妹が倒れたので看病のため欠席する』と電話で伝えて置いた。
入学して以来、一度も欠席したことがなかったのであっさり信用してもらえたようだ。
亜依の学校の方には『体調がすぐれないので欠席する』と、伝えた。

亜依はモーニングセットのトーストを美味しそうに食べている。
「亜依、僕のも食べていいぞ」
おかわり自由のコーヒーを飲みながら言うと
「へへ、太っちゃうからいいよ」
「そんなことないよ。育ち盛りなんだし」
「ほんと?う〜ん。じゃ、少しもらうね」
そう言うと亜依は僕のサラダとハムエッグを食べはじめた。
それにしても美味しそうにたべるな・・・。こうやって亜依が美味しそ
うに食べるのを見ているだけで僕自身もお腹が膨れてくる気がした。
僕は亜依とは逆に、まずいコーヒーに少し顔をしかめながら、
さっきのことを思い出した。

「亜依、学校さぼってデートしよう」
そう言ってから、勢いに任せた自分の発言に愕然とした。
亜依は仕事の都合上、学校にいけない時が多い。だから、亜依は学校に行ける日を
凄く楽しみにしている。友達も多く、勉強もそんなに苦ではないようだ。
そんな亜依に、「学校をさぼろう」と言った挙げ句、「デートしよう」などと
誤解の与えるようなことを言ってしまった。亜依の様子をうかがうと、ぽかんと
したまま微動だにしない。
「おい、亜依?」
ペシペシと亜依の頬を軽く叩いてみたが反応が無い。相当ショックだったのだろうか。
「いや、亜依。なんていうか・・・気にしないでくれ。
 さっきのは軽い冗談みたいなものだから・・・」
慌てて、僕はフォローした。しかし、亜依は僕のフォローは全く聞いていなかったよ
うだ。亜依は僕と繋いだ手をさっきよりもギュッと強く握って言った。
「お兄ちゃん、デートにつれてって」

・・・・・

「お兄ちゃん?」
さっきのことを回想していた僕に亜依が話しかけてきた。
「どうした?」
「うん。デートのことなんだけど、行き先とか決まってるの?」
「あぁ、決まってるよ。亜依が喜んでくれるかはわからないけど」
「亜依は・・・お兄ちゃんと一緒ならどこでもいいよ」
少し顔を赤らめながら、でも真剣に言ってくれる亜依が愛おしい。
本当に亜依と家族になれて良かった。

ファミレスについて40分ぐらいが経った。
僕も亜依も美味しい朝食と、少しまずいコーヒーを堪能できた。
「さて、そろそろデート場所にいくか」
「うん!でも、場所はどこなの?」
「それは着いてからのお楽しみだよ」
「えー!教えてよ〜」

行き先は最初から決まっていた。母さんが病気にかかってから一度だ
け連れていってくれた、あそこだ。
場所を聞き出そうとする亜依を適当にあしらいつつ、僕らはファミレスを後にした。

ここから、30分程バイクで行けばあそこに着くはずだ。

予想通り30分程バイクで飛ばすと、目的地に到着した。
僕が亜依とのデート(?)の場所に選んだのは都心から離れた郊外の遊園地だった。
ここに来るのは実に8年ぶりになる。それにしても、ここはあの頃と全く変わって
いない。8年前のままだ。ジェットコースターや観覧車も最近の遊園地にあるような
大きく、綺麗なものではない。赤錆が浮き、今にも崩れそうな雰囲気すらある。
こんな寂れた遊園地でありながら、挙げ句に今日は平日だ。客などほとんどいない。

駐車場にバイクを止め、僕らは入場ゲートのあるところに向かった。
「お兄ちゃん、デートの場所ってここ?」
「うん。ディズニーランドとかの方が良かったか?」
「ううん。ああいう人がたくさんいるとこもいいけど、
 ここみたいな遊園地も好きだよ。貸し切りみたいだもんね」
「そっか・・・」
亜依の心遣いが嬉しかった。

入場切符売り場の受付には若いお姉さんではなくパートのおばちゃんの様な人がいた。
「学生二枚下さい」
「はいよ。創立記念日かい?いいね〜」
おばちゃんは疑ったりもせずに切符二枚とお釣りをくれた。
そして、僕の後ろにちょこんと控えていた亜依を見ると
「おや、可愛い彼女だね。大事にしてやりなよ」
そう言って、僕にニヤリと笑いかけてきた。
亜依はそれを聞いて顔を赤らめて照れているようだった。

気の良いおばちゃんに礼を言って、僕らは遊園地の中へと入っていった。

いざ、遊園地の中へと入ると外から見たとき以上に寂れていた。
しかし、亜依にとってはそれがかえって新鮮に感じたようだ。
いつも以上にはしゃいでいる。
僕は亜依のせがむまま、色々な乗り物に付き合った。

まずは遊園地の定番とも言えるジェットコースターだ。
赤錆の浮いた、朽ちかけのジェットコースターはガタンゴトン!
最新の遊園地では味わえない音と揺れを演出し、死の恐怖を思い知らせてくれた。
亜依はこのジェットコースターが気に入ったらしく、僕はこの後、3回も乗る
はめになった。

ジェットコースターの次は、これまた定番のコーヒーカップだ。もっともこれは
調子に乗ってグルグルと回しすぎたため一回目にして亜依も僕も気分が悪くなり
ジェットコースターのように何度も乗ることはなかった。

その後も、色々な乗り物で遊んだ。客は本当にまばらで、人目を気にすることなく
2人ではしゃぎまくっていた。
怪しいゲームコーナーには、昔なつかし『平安京エイリアン』や『スパルタンX』等があり、50円をつぎ込んでやりまくった。しかし、このゲームコーナにはレトロゲーばかり
ではなく、最近のゲームセンターには定番のUFOキャッチャーもあった。

「亜依、なんか欲しいのあるか?」
「え、なんでもいいの?」
僕はUFOキャッチャーに関しては、かなりの自信を持っていた。
一時期、はまりまくって部屋中にぬいぐるみがあふれたときもあった。
(今は、友達にあげてしまってほとんど無いが)
「じゃあ、あのスヌーピーがいいな」
中央付近にある可愛いスヌーピーのぬいぐるみを指さして亜依は言った。
位置的に悪くない場所だ。ぬいぐるみの角度も悪くない。
「OK。見てろよー」
そう言って僕は本気モードに入った。上下ボタン、左右ボタンを押して
アームを自分の身体の一部のように操る。まず左右の位置を決めた。
(よし、バッチリだ!)
ブランクを感じさせない自分の手腕にほれぼれした。しかし、この自惚れが
仇になったのだろうか。上下の位置を決めるときにミスをした。スヌーピー
のある位置より、少し奥の方に行ってしまったのだ。
「あ、しまった!」
気づいたときには遅く、アームは既に落下し始めていた。
何もとれないと思っていた僕はさっさとあきらめて財布から小銭を取り出し、
リベンジしようとしていた。
「あ、お兄ちゃん!なんかつかんでるよ!」

予想に反して、アームは景品をつかんでいた。
もちろん、スヌーピーではない。運良く、スヌーピーの奥に隠れていたものを
つかめたようだった。正体のわからないその物体は途中で落ちることなく無事、
手に入れることができた。
亜依が景品取り出し口から、取ったぬいぐるみを見てみると、
なんとそれはゴンタ君だった。
http://www.asahi-net.or.jp/~IA3T-KND/gonta02.jpg
僕は小さい頃によく見ていたから知っているが、さすがに亜依はこのキャラク
ターを知らないだろう。
「ごめんごめん。失敗しちゃったな。もっかいやるから。
 今度こそ、スヌーピー取ってやるから」
そう言って、再び小銭を入れようとした僕の腕をそっと亜依は握った。
「亜依はこの人形でいいよ。お兄ちゃんが初めて取ってくれた人形だから
 大切にするね」
そういって亜依は嬉しそうにギュッとゴンタ君を抱きしめた。
その亜依の姿を見て、僕はドキッとしてしまった。
今までにないくらい可愛く思えたからだ。

ドキドキしたこの状態を知られるのが恥ずかしかったので
僕は照れ隠しのつもりで言った。
「・・・こんな人形くらい、いつでも取ってやるよ」
「うん。お兄ちゃん、ありがと!」
亜依はまだ嬉しそうにゴンタ君を抱きしめていた。

ゲームセンターを出て、軽く昼食を取った。安っぽい焼きそばやたこ焼きが
やけに美味しかった。亜依はデザートとしてソフトクリームを食べている。
昼食の後は、ブラブラと園内を歩いた。もちろん、おもしろそうな乗り物などが
あればそれに乗ったりもした。
(しかし、食後というだけあってハードな乗り物は避けたが)

客もまばらで、従業員ものんびりとした雰囲気だったから油断していたかもしれない。
僕は亜依がどういう立場なのかということや、自分達が学校をサボってここにいるということをすっかり忘れていた。それだけに、事件が起きた時はかなり自分の不手際を悔やんだ。

「ちょっと君たち」
そう背後から声をかけられ、何事かと振り向くとそこには中年の女性が立っていた。その女性を見た瞬間、イヤな予感がした。鋭い視線で僕らをチェックし、コツコツと近づいてくる。
「私はこういうものだけど、学校はどうしたの?住所と電話番号教えてくれるかしら」
警察手帳を見せられた時点で予感が見事的中したことを思い知った。
頭の中で警報が鳴り響く。僕はともかく、亜依はモーニング娘。の一員だ。学校サボってこんな所に来てるのがばれたら間違いなくスキャンダルの種になるだろう。しかも、血の繋がってない兄がいることまでばれてしまう。亜依をあの後藤真希の二の舞にするわけにはいかない。とりあえず、亜依だけでも逃がすかなどと考えていると、
「おばさん、後ろ!!」
と、大きな声が響いた。その声に反応して警察のおばさんは後ろを振り向く。
何事かとおばさんの背後を見ようとした僕の腕を誰かがきつく引っ張った。

「お兄ちゃん、早く!」
亜依だった。
僕は亜依に引っ張られるまま、一緒に逃げた。
「こら!待ちなさい!!」
気づいたおばさんが、必死の形相で追いかけてくる。
「いくぞ、亜依!」
いつの間にか亜依に引っ張られていたはずの僕が、逆に亜依を
引っ張っている。亜依も女の子とは言え、現役中学生だ。
なかなかいい脚を持っている。僕の早いペースにも負けずに付いてくる。
(もっとも、亜依の安全を最優先させてから走っていたが)

若さの勝利か、角を曲がったところでなんとかおばさんを振り切ることができた。
しかし、ホッとしたのもつかの間、そこは行き止まりだった。
古びた観覧車がそびえ立ち、僕たちの行く手を塞いでいるのだ。
「待ちなさーい!!」
先ほどと同じ、鬼気迫るような声が聞こえてきた。
相手も思ったより速いようだ。
やばい・・・。
完全に追いつめられた。前には観覧車、後ろは鬼婆。
絶体絶命だ。

どうしようかと悩んでいると、亜依が観覧車の係りのおじさんの所に駆け寄った。
「おじさん、変なオバサンに追いかけ回されてるの!かくまって!」
亜依は両手をギュッと握りしめ、目をキラキラさせている。
これはいつぞや見た、 「VTRお願い!」 のポーズに似ている。
亜依のお願い攻撃が効いたのか、おじさんは快く引き受けてくれた。
「おうよ!まかせろ。さっ、この観覧車に乗りな」
そういうと、おじさんはギギッと鈍い音を立てて観覧車の扉を開けた。
僕と亜依は観覧車に乗り込み、外から見えないように屈み込んだ。
間一髪、乗り込んだ瞬間に警察のおばさんはやってきた。
「確かに、ありゃ変質者に違がいねぇや」
鬼のような形相のおばさんを見て、おじさんは亜依の言っていたことを確信
したようだ。

おばさんがおじさんに詰め寄って何か聞いている。しかし、観覧車はどんどん高度を上げていき2人の会話は全く聞こえない。
「ふ〜、危なかった・・・」
僕の心臓は未だにドキドキしている。
こんなスリリングな一時を味わったのは久しぶりだ。
「へへへ、でも結構面白かったね」
僕の正面に座った亜依は満面の笑みを浮かべて楽しそうだ。
「おいおい、捕まったら一大事だったんだぞ。怖くなかったのか?」
「うん。亜依は全然怖くなかったよ。だってお兄ちゃんが必ず助けてくれるって
 信じてたもん」
臆面もなく亜依は言ってくる。実際、僕は助けるどころか亜依に助けられっぱなしだったのだが。

観覧車はドンドン高度を上げていく。
おじさんも、おばさんも、豆粒のようだ。
僕は外の景色を眺めた。さっきまで亜依と2人ではしゃぎ回っていた遊園地が一望
出来る。ここから見る景色は前来たときと、全く変わっていなかった。

前に(といっても8年近くも前になるが)この遊園地に来たときも2人だった。
しかし、その時は今回のように2人ではしゃぎ回るような事はなかった。
僕が一人で走り回り、母にねだっては色々な乗り物に乗せてもらっていた。
母は病気のため僕といっしょに乗ることはできなかった。ベンチに座り
楽しそうに乗っている僕を優しく表情でながめていた。

ただ、この観覧車だけは違った。大して揺れるわけではなく身体に負担も少ないこの
観覧車だけは母と一緒に乗ることができた。僕は未だにその時のことを覚えている。

母の隣に座った僕は、嬉しくなってずっと喋っていた。

なんてことのない学校での話や、テレビ番組の話。
普段、病院にいる母と話す機会がなかなかないため僕は
ここぞとばかりに母と話した。母はそんな僕の頭を優しくなでながら
僕が疲れて話し終わるまで聞いてくれた。
しかし、話し続けていたせいか時間はあっという間に過ぎ去った。
『お母さんの病気がなおったら、また来ようね』
僕は最後に母と約束して観覧車から降りた。

結局、観覧車での約束は果たされることが出来なかった。
その後、母の様態は悪化し遊園地どころか、病院から外出することすら許されることが
なかったからだ。

「お兄ちゃん?」
昔の思い出に浸っていた僕は亜依の不安そうな声で現実に引き戻された。
「ど、どうした?」
「それはこっちのセリフだよ。その・・・お兄ちゃん泣いてるよ?」
亜依に言われて初めて気づいた。
僕は泣いていた。ボロボロと涙を流して。

「あれ?おかしいな。なんでだろ」
僕は必死に涙を拭う。しかし、拭いても拭いても涙はあふれてくる。
母と居た時の思い出は楽しかったことも、悲しかったことも全部忘れよ
うと胸の奥に閉まった。楽しい思い出でも、悲しい思い出でも思い出すと
辛くなるから。
しかし、この遊園地に来たことで今まで胸の奥に閉まっておいた昔の思い
出が一気に開放されてしまった。

僕は嗚咽を漏らして泣いていた。

その時、僕の頭を暖かくて柔らかいものが包み込んだ。
僕はびっくりして目を開けると、そこには亜依がいた。
亜依が僕の頭を胸と両手で優しく抱えてくれていたのだ。
昔、泣いている僕を包んでくれた母のように・・・。

「なにがあったか知らないけど、思いっ切り泣いていいよ」
亜依は何故泣いてるのかなどと聞かずに、優しくそう言ってくれた。
僕は亜依の前だということも、忘れて亜依の言う通り思いっ切り泣いた。

僕は亜依を精神的苦痛から助けてやるためにここに連れてきたつもりだった。
しかし、それは違った。助けを求めていたのは僕の方だった。
死んだ母の雰囲気を持つ亜依にいつの間にか助けを求めていたのだ。

そんな僕を観覧車から降りるまで亜依は優しく抱きしめてくれた。