044

L型 投稿日: 2001/03/24(土) 03:52

最近2年間つき合った彼女に振られた。
別に何てことはないと思っていたが、時間が経つにつれて
寂しくなり、会社の帰りに無理矢理同僚を誘って飲みに行った。
「おまえいくらなんでも飲み過ぎだぞ」
「いいんだよ、こんな時に飲まないでやってられるかよ」
散々愚痴をこぼして店を出る頃には終電の時間になっていた。
千鳥足で何とか電車に乗り、空いていたシートに座った。
寝過ごさないようにしなきゃなと思っていると突然右肩に重さを感じた。
(なんだよオレの肩を枕にしやがって・・・)横目で寄りかかってきた人間を見た。
オレの肩を枕に気持ちよさそうに寝ているのはこんな時間に電車に
乗っているには少し不自然な若い女の子だった。
(まぁいいか気持ちよさそうに寝ているし・・・)
彼女の僅かな重さを心地良く感じながらオレもいつしか眠りに落ちていた。

「あの、終点ですよ」
いきなり肩を揺すられた。
先程オレの肩を枕に寝ていた女の子がオレを見ている。
「あっ、そう・・・終点・・・!!」
もう一度眠りに落ちそうだったが、終点の一言で目が覚めた。
「どうもありがとう」
とりあえず女の子に礼を言うと電車を降りた。
久しぶりに完全に寝過ごしたな・・・明日も会社だしタクシー捕まえて帰らないと・・・
そんなことを考えながら駅のホームをトボトボと歩いていると
再び先程の女の子に声をかけられた。
「あの、もしかして寝過ごされたんですか?」
女の子がじっとオレの目を見ている。
「実はわたしもなんです・・・」

それが梨華との初めての出会いだった。

「そっか、オレもなんだ・・・お互い困ったね」
なんだか変わった子だなと思いながらも何故だかオレは立ち止まり
彼女の会話のペースに乗っていた。
「どうして電車の中ってあんなに眠くなるんでしょうかね」
そう言って彼女はクスクスと笑った。 オレもつられて笑った。
彼女はひとしきり笑い終わった後、まじめな顔してオレに質問を投げかけてきた。
「これからどうするんですか?」
上目遣いにじっとこっちを見つめる彼女、よく見ると腕に大きなバックを抱えている。
(こんな時間に荷物抱えて、もしかしたら・・・家出か?)
なんとなくだけど嫌な予感がした。
「仕方がないからタクシーで帰るかな」
明日も仕事がある、いささか酔いが醒めてきたオレは
いい加減に会話を終わらせてこの場を立ち去ろうと思った。
「・・・・・・」
さっきまでオレと目を合わせていた彼女が今は何故か思い詰めたように下を向いている。
(聞いたらまずいだろうな・・・でもこのままじゃ・・・)
ここで質問を返しては絶対にまずいと頭ではわかっていながらも
この時オレは訪ねずにいられなかった。

「君はこれからどうするの?」

「わ・・・わたしですか?」
彼女は再びオレと目を合わせた、心なしか声が震えている。
「わかりません・・・どこにも行くあてがないから・・・」
再び嫌な予感がした、
彼女の求めている答えとオレが言いたくないことは多分一致している。
「家はどこなの?」
「あの・・・家にはどうしても帰れないんです」
(やっぱり家出か・・・)
答えを先延ばしにするための質問が嫌な予感を確実なものへと変えた。
「でも両親がきっと心配しているよ」
「私のことを心配する家族なんていない・・・私は必要とされていないから」
さっきまで笑っていたのがまるで嘘だったかのように、
彼女の表情は暗く、沈みきっていた。
そんな彼女を見てもオレには「だったら一緒に来る?」の一言を言うことができなかった。
「「・・・・・・」」
ほんの少しの間お互いに沈黙が続いた。
突然、アナウンスが流れた。
「まもなくシャッターを閉めます、駅の構内にいるお客様は駅の外に出てください」
アナウンスを聞いたオレは歩き出そうとしたが、彼女はその場から動こうとしなかった。
「とりあえず話は後だ、ここを出よう」

オレはうつむいたままの彼女の手を引き駅を出た。

駅前のロータリーに出ると、近くのベンチに腰を下ろした。
「寒い?」
「平気です」
ベンチに座ってからも彼女はうつむいたままだった。
早くタクシーを捕まえないと帰りがさらに遅くなる、
だけども放っておくわけにもいかない。
「あのさ、一緒に来る?」
結局オレは言わないように、言わないようにしてきた言葉を結局言った。
「えっ・・・良いんですか?」
彼女は上目遣いに申し訳なさそうな顔でこっちを見ている。
「いいよ、そんなに広くはないけど客の一人くらいは泊めることができるから」
「本当に良いんですか、ご迷惑じゃ?」
彼女は何度も念を押している、
さっきまで面倒がっていたのが顔に出ていたかな、と少し後悔した。
「気にしなくていい、迷惑だったら誘わないから」
オレはできるだけ親切に言おうとしたが、うまく言えなかった。
「あの、よろしくお願いします」
それでも彼女に通じたらしくようやく笑顔が戻った。
そんな彼女を見てオレは人に頼りにされるのも悪くないなと思った。

話は解決したのでタクシー乗り場へ向かって歩きだした。
後ろからヒョコヒョコと彼女はついてきた、なぜか少し距離ができている
どうも荷物が重いのか足取りがおぼつかないようだ。
「ごめんな、気がつかなかった」
手ぶらだったオレは立ち止まると片手に彼女の荷物を掴んだ。
「すいません」
彼女が申し訳なさそうに頭を下げた。
彼女に謝られるとなんだか説教してるみたいで気まずかった。
「いいからほら、行こう」
気まずさを誤魔化すためオレは空いている方の手を差し出した。
「はい」

彼女は照れながらもうれしそうにオレの手を握った。

タクシーに乗ってからほとんど言葉を交わさなかったが、
手を繋いだままだったためなのか、沈黙が続いても先程までのような気まずさを
感じることはなかった、オレは特に何も考えずにただぼーっと外を眺めていた。
いつの間にか雨が降り出していた。
家に近づくにつれて雨足はだんだんと強くなってきている、
彼女もそれに気が付き窓の外の様子を眺めている。
そういえばまだ彼女の名前を聞いていなかったことに気がついた。
「そういえば、名前なんていうの?」
「梨華です」
そう、それで名字は?と聞こうかと思ったが止めた。
名前を聞いた時点で下の名前しか答えなかったのだから言いたくないのかもしれないし、
知ったところでトラブルの種にしかならないだろう、ならこちらが深く詮索する必要はない
それにさきからミラー越しにタクシーの運転手が何度もこちらの様子を
ちらちらと伺っているような気がしたからだ。
別に怪しいことをしているつもりはないが、傍から見れば
お互い名前も知らない男女が一つのタクシーに乗り同じ目的地を
目指すっていうのは十分怪しいものなのだろうなと思った。
結局、家に着くまでオレはそれ以上何も訪ねず、
梨華も自分から何かを喋ろうとはしなかった。

それでもタクシーから降りるまで、繋いだ彼女の手が離れることはなかった。

タクシーから降りると彼女の荷物を抱え部屋へと案内した。
恋人がいた頃はいくら文句を言われようが全く部屋の掃除などしなかったが、
別れた途端になぜか一生懸命掃除を始めた、もう彼女がここに来ることなどないのに。
でもそのおかげで今、突然の来客にうろたえることはなく、
別に無駄なことじゃなかったなと、この時初めて思った。
「どうぞ、汚いところだけど上がって」
オレはドアを開けると先に梨華を招き入れた。
「おじゃまします」
彼女は自分の脱いだ靴を整えると部屋の中へと入っていった。
「とりあえず紅茶でも入れるから座って」
「えっ、わたしがやりますよ」
「いいから座ってて、コーヒーのほうがいい?」
「紅茶でいいです」
彼女は言われるままにソファーに座った。
オレはお湯を沸かし、紅茶を入れる準備をした。
相変わらず彼女との間には必要以上の会話がない。
ティーカップなんて気の利いたものはなかったので
マグカップに紅茶を入れると彼女の前に差し出した。
「熱いから気をつけて」
「すいません、いただきます」
オレは彼女から少し離れたところに腰を下ろした。

時計を見ると既に三時近くになっていた。

「とりあえず、それ飲みながらでいいから聞いてほしいんだけど、
オレがこのソファーを使って寝るから、君は隣の部屋のベッドを使ってくれ」
「そんなの悪いです、わたしがソファーで眠りますから」
梨華は驚いて反論してきた。
「別に気にしなくていいよ、友達が来るといつもベッドを
譲ってソファーで寝てるから慣れてるし」
別にベッドで寝ようがソファーで寝ようが大した問題ではなかった。
「でも・・・」
彼女はなおも食い下がっている。
「いいから、それよりも明日も仕事なんだ、いいかげんに眠らないと
朝起きるのがつらくなる」
「すいません」
彼女が頭を下げた、そんな彼女の仕草をもう何度も見ているような気がする。
「すいません、すいません、ばかりだね、口癖?」
「そうみたいです、すいません・・・あっ」
彼女は真っ赤になって照れると俯いてしまった。
「すいませんを連発しないでくれ、何だか説教をしている気分になって困る」
オレは立ち上がると、彼女の肩をぽんっと手を置くと少し冗談まじりに言った。
「・・・はい、気をつけます」
彼女は多少はにかみながらもオレと目を合わせた。

柄でもないことを言ったなと、すこし後悔したが、
ようやく彼女に笑顔が戻ったので、どうでもよくなった。

「ここが洗面所で・・・これ買い置きで良ければ使って」
一通り部屋の中を案内した後、棚からの歯ブラシを出して渡した。
「ありがとうございます」
梨華は自分の後、同じように横で顔を洗い、歯を磨いた。
その間にオレはソファーの上のクッションを退かして、寝る支度をしていた。
「あのっ」
彼女が急に近づいてきた。
「何?」
オレはあくびをかみ殺して尋ねた。
「気にならないんですか? わたしの素性とか」
「どういうこと?」
「だって見ず知らずわたしを泊めて、よく考えたら危険だとか思わないんですか?」
「そういえばそうだね、知ってるのは名前くらいだし」
適当に相づちを打った。今彼女のことなど、眠たかったのでどうでもよかった。
「わたしのこと気にならないんですか? どんな人間かもわからないのに・・・」
「もしかしてオレが眠った隙に金目のものでも持ちさる人なの?」
オレは再びあくびをかみ殺した。
「そんなことしません!!」
彼女はオレの服の裾を掴んだ。
「ならいいじゃん、君のことは明日の朝にでも聞くよ、
 さっきも言ったけど明日も仕事なんだ・・・もう寝かしてくれ」
オレはゆっくりと裾から彼女の手を解いていった。
「また明日な、おやすみ」
「ごめんなさい・・・おやすみなさい」
彼女はまだ何かを言いたげだったが、結局何も言わず隣の部屋に行ってしまった。
もしかしてオレに話を聞いて欲しかったのか・・・まあいいか明日で・・・

オレはソファーに横になると5分もしないうちに眠りへと落ちていった。

生活習慣というのは恐ろしくも便利なもので、規則正しい生活をしていれば
目覚まし時計が無くても毎日決まった時間に勝手に目が覚める。
しかし昨日の夜更かしのおかげで、今朝は普段の約三十分遅れで目が覚めた、
今日オレの体内時計は正確ではなかった。

目が覚めた瞬間、うすうす寝坊したことには気がついた。
枕元の時計を見て自分の勘を確かなものだと認識すると、
急いで飛び起き、急いでシャワーを浴びた、徐々に頭が完全に冴えてくる。
どう考えても今から梨華を起こして一緒に朝飯を食べながら
悠長に話を聞くなんて不可能だった。
とりあえずスーツを取りにおそるおそる彼女の寝ている部屋に入る。
彼女は枕を抱え気持ちよさそうに寝息を立てて眠っていた。
このまま寝かせておこうと思ったが、ふと昨日の夜に彼女が言った言葉を思い出した。
「だって見ず知らずわたしを泊めて、よく考えたら危険だとか思わないんですか?」
泊めるのはともかく留守番させるのは危険かもしれない、オレが居なければ
彼女はここでやりたい放題できる、部屋の中の物を運び出したい放題だ。
しかし今から彼女を起こしてすぐに事情を説明して部屋から
叩き出すのも時間がかかるし、かわいそうな気がする。
なにより気持ちよさそうに眠っている彼女の寝顔を見ていると、
無理矢理起こす気にはなれなかった。
結局、通帳やカードなど本当に無くなったらやばいものだけ持つと、
テーブルの上にメモを残してアパートを出ることにした。

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おはよう
気持ちよさそうに寝ているので、起こさずに会社に行きます。
腹が減ったら冷蔵庫の中にあるもの適当に食べてしまってかまわないし、
風呂でも何でも自由に使ってくれ、
それからもしインターフォンが鳴っても電話が鳴っても無視してくれ。

出ていくのならオートロックだから鍵のことは心配しなくていい、
もちろんオレが戻ってくるまで居てくれても全然かまわない。

できれば目が覚めたら一度オレの携帯に連絡が欲しい
番号は090−XXXX−XXXX

家主より
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うちから駅まで走ったおかげで、なんとか無事遅刻せずに会社にたどり着いた。
会社に着いてからずっと携帯電話の気にしながら仕事をしている。
時間が経てば経つほどどうしても梨華のことが気がかりになってしまった、
しかもどんどん考えが悪い方へ向かっていく。
まだ起きていないのかもしれない・・・メモに気がついていないのかもしれない
ひょっとしたらもう出ていったのかもしれない・・・
結局、午前中の間彼女からの連絡はなかった。

12時を少し過ぎ、あまり気になるので早退してしまおうか定時まで会社に残ろうか
考えながらとりあえず飯でも食おうと会社を出て外を歩いていると携帯電話が鳴った。
あわてて取り出し画面を見ると、着信は自分の家からになっている。
「もしもし」
「あの、もしもし梨華です。今話をしても平気ですか?」
「昼休み中だから平気だけど・・・もしかして今起きた?ずいぶんよく寝てたな」
ずっと電話を待ちつづけたせいか、少し口調が不機嫌になってしまった。
「起きたのは2時間くらい前だったんですけど、お仕事中に電話したら
 迷惑かなと思ってお昼まで待ったんです」
淡々と話すその彼女の口調からはまったく嘘は感じられない、
彼女なりにこちらのスケジュールを考慮してくれたのだ。
「そっか勘違いしてた・・・ごめん」
勝手な思いこみとはいえ、自分のとった態度が恥ずかしくなり思わず彼女に謝った。
「いえいえ、それよりあの・・・」

彼女はあまり気にしていないようだが、それでもなぜか話しにくそうだった。

「どうした?何か困ったことがあった?」
「・・・メモを読みました、本当に戻ってくるまでここにいても良いんですか?」
電話越しでも梨華の声がすこし震えているのがわかる、どうやら心配なようだ。
「もちろん、嘘を書いたつもりはない、朝ゆっくり話をする間もなかったし
 オレが帰るまで居てくれてたほうがいい」
先程の負い目からか、できるだけゆっくり丁寧に彼女に言葉を返した。
「本当ですか?どうもありがとうございます、それからあの・・・」
彼女の口調が明るくなった、しかしまだ何か言いたげだ。
「どうした?」
まだ話が長くなりそうなので近くのベンチに腰掛けた。
「今日の晩御飯どうされます?」
「食わないで会社終わり次第まっすぐそっちに戻るよ」
「だったら泊めてもらったお礼にわたしが晩御飯を作って
 お待ちしても良いですか?」
彼女の意外な提案にオレは少し驚いた。
「いいけど、冷蔵庫の中にろくな物無いだろ?材料足りる?」
冷蔵庫を開ける音が聞こえた。
「はい、さっきも一度確認したんですけど、大丈夫だと思います」
「それならよろしくお願いするよ」
「料理得意なわけでもないんで、あんまり期待はしないで下さいね」
彼女の声はどこか嬉しそうだった。
「わかった、7時過ぎには帰れると思う。それじゃまたあとで」
「はい、お仕事頑張ってください、待ってます」

頑張って仕事を定時で終わらせて帰ろうと思いながらオレは電話を切った。

簡単に昼食を済ませると会社に戻り、残業を避けるために黙々と仕事をした。
三時を少し過ぎたところで携帯電話にメールが入ってきた。
----明日は会社休みだし、今晩良かったら一緒に飲みに行きませんか?----
同じ課の後輩からだった、同じフロアーにいるのだから
直接声をかけてくれればいいのにと思い、斜め後ろにある
彼女を席の方を振り返ってみると、そこには誰もいなかった。
そういえば今日は外回りだと先日彼女が言っていたのを思い出した。
----ごめん、今夜はどうしてもはずせない用事が入っているんで、また今度誘って----
彼女にメールを返した。それから5分もしないうちにまたメールが入ってきた。
----もしかして彼女さんとデートですか!? いいなぁ----
用事と言えばデートしか思いつかないのかな、この子は・・・
半ば呆れ、やれやれと思いながら再びメールを返した。
----彼女と別れたばかりでそんな相手いないよ----
すると今度は1分もしないうちに電話が鳴った。
「もしもし!? 安部ですけど、彼女さんと別れたって本当ですか!?」
メールと比べてずいぶん速いなと思った。
「ああ、振られちゃったからね」
「そうだったんですか、ごめんなさい、私知らなくって・・・」
急に彼女声のトーンが落ちた。
「気にしなくていいよ、オレから言わなかったんだから知らなくて当然だよ
 今日は大学時代の友達と飯食う約束してたから、また今度誘って」
梨華のことを正直に話すきにはなれなかったので、適当に誤魔化した。
「わかりました、今日はもう用事が終わったんですけど、会社に戻らなくても
 いいと言われているんでこのまま帰ります。それではまた」
「もう上がりか、うらやましいね、それじゃまた来週」
結局話の途中からずっと声のトーンが落ちたままだった彼女のことが
少し気にはなったが、ここで梨華を裏切って飲みに行くわけにもいかないので
放っておくことにした。

気がつくとやるべき仕事はまだたくさん残っていた、直帰の彼女がうらやましかった。

その後、特にこれといったトラブルもなく、仕事が順調に終わったので
定時には会社を出ることができた。折角早く終わったのだから何処かに寄って
何か買って帰ろうかとも思ったが、それで時間を費やしてしまっては意味がないので
まっすぐ家に帰ることにした。

「ただいま」
普段一人の時は何も言わないのだけれども、梨華がいるので何となく言ってみた。
「おかえりなさい、夕食もうできてますよ」
すぐに彼女が玄関まで出て、迎えてくれた。昨日とは違いおろしていた髪を
二つに分けて結んでいるせいか、心なし昨日より幼く見えた。
「何を作ったの?」
「シチューなんですけど・・・もしかして嫌いでした?」
彼女が心配そうにこっちを見ている。
「そんなことないよ、どちらかといえば好きだよ
 隣の部屋で着替えてくるから、食事の支度をしてもらえる?」
「はい、今暖め直しますから着替えたらソファーにでも座って待っていて下さいね」
彼女はキッチンに、オレは隣の部屋に向かった。
スーツを脱いで適当にシャツとズボンを選んで着替えた。
言われたとおりソファーに座ってぼーっとしていると、しばらくして
彼女が食事を運んできた。見た目も匂いも問題なさそうだ。
「いただきます」
彼女がテーブルを挟んで向かいに座ったのを確認すると、早速食事を始めた。
正直に言って彼女の作る料理に対して期待をしていなかったが、
実際に食べてみると思っていた以上においしく、かなり驚かされた。
「あの、どうですか?」
彼女はまだ自分の皿に手をつけずにこっちの様子を伺っている。
「うまいよ本当に、よくうちにあった物だけでこれだけのものを作れたな、
 すごいよ」
「本当ですか?・・・良かった」

オレのコメントを聞くと、顔を綻ばせながら彼女もようやく食事を始めた。

天気のことや、今日一日お互いどうしていたかなど他愛のないことを
話しながら食事は進んでいった。
オレは自分からまだ彼女自身のことについて聞くことを意識的に避けていたし
彼女もその話題に触れようとしなかった。

「ごちそうさま、本当においしかったよ」
「そう言ってもらえると嬉しいです。それじゃ洗い物やりますね」
食事が終わると、彼女は立ち上がろうとした。
「まだ座っていていいよ、洗い物はオレがやるから」
オレは彼女より先に皿をまとめると立ち上がった。
「いいですよ、わたしがやりますから」
「いいから座ってて、そのくらいはやるから」
彼女は嫌がったが、洗い物は自分でやることにした。
料理を作ってもらって洗い物までやらせるのは嫌だったし、
何より彼女の料理に感謝をしていたからだ。
「テレビでも見てな、洗い物終わったらお茶でも入れるから」
「わかりました」
彼女は渋々承知した。
それからしばらく、お互い何も喋らず、部屋にはテレビの音と
皿を洗っている音だけが響いていた。
いい加減にそろそろ彼女のことを聞かなきゃな・・・

一通り洗い物を終えると、昨日と同じように紅茶を入れる準備を始めた。
「熱いから、気をつけて」
彼女に紅茶の入ったマグカップを渡すと、ソファーに腰を下ろした。
「ありがとうございます」
彼女はマグカップを両手で持つとそのままじっと中の紅茶を見ている。
「もしかしてミルクと砂糖必要だった?」
自分が入れないものだからすっかり忘れていた。
「いいえ、別にそんなんじゃないです」
「じゃあもしかして猫舌?」
「はい・・・どちらかって言うと熱いの苦手なんです」
彼女は少し照れていた。
「そっか、別に急いで飲む必要はないから」
オレは何事もなかったように紅茶を飲み始めた。
「いえ、少しずつなら平気ですから」
そんなオレの様子を見て
彼女もふぅふぅと紅茶に息を吹きかけながら少しずつ飲み始めた。
「あの」「あのさ」
突然二人の声がほぼ重なった。
「いいよ、君から先に行って」
「そんな、いいですよ、先に言ってください」
お互い譲り合って一歩も引かない。
少しの間そんな状態が続いたが、結局彼女の方が先に折れた。
「あの・・・テレビ消してもいいですか?」
「いいよ別に、オレが見ていたわけじゃないし」
オレはリモコンを取るとスイッチをOFFにした。
「それだけ?」
「はい、それだけです」
彼女はまだ熱いのかマグカップを両手で抱えている。
「じゃ、オレの方の話をしていいかな?」
「はい」
彼女がじっと俺の目を見た。おそらく彼女は
オレが言おうとしていることに気がついている。

「昨日の夜も今朝もごたごたしていて聞きそびれたけど、
 そろそろ君のことを聞かせてもらえる?」

「そうですよね、わたしもそろそろ話さなきゃって思ってました」
そう言って梨華はマグカップをテーブルの上に置いた。

「わたしの家、お父さんはわたしが小さい頃に亡くなって、ずっとお母さんと
二人暮らしだったんです。 お父さんがいなくて寂しくなかったと言えば
嘘ですけど、お母さんと二人で本当に仲良く暮らしていたんです」
彼女は少し冷めた紅茶を一口だけ飲んだ。
「でも2ヶ月前にお母さんが交通事故に遭ったんです、警察の人はひき逃げ
だって言ってました。わたしは学校にいるときに連絡を受けてすぐに
病院に向かったんですが、間に合わなくて病室に着いたときにはすでに
お母さんは冷たくなっていました・・・あまりに突然のことでわたしは目の前に
ある光景を信じることができず、ただ呆然としてしまいまったく涙が出ませんでした

その後、わたしは親戚の人たちに助けてもらい、お母さんのお葬式をしました。
そしてその時になって初めて本当にお母さんがもうこの世にはいない、
自分はひとりぼっちになってしまったんだって実感して泣きました」

オレは黙って話を聞き続けた。
「お葬式の後、親戚の人たちは誰がわたしを引き取るかで話をしていました。
その結果、お父さんの兄にあたる、義剛おじさんがわたしを引き取ることになりました。
わたしは気持ちはありがたかったのですが、母と暮らしたアパートを出るのが嫌で
断ろうとしました。でもおじさんに『子供一人じゃ何にもできない、俺に任せろ』
って言われて結局お母さんの四十九日を終えた後、アパートを引き払っておじさんの家で
お世話になることになったんです。ちょうどおじさんの経営している牧場が
人手不足だと聞いて、わたしは学校を辞め、牧場を手伝うことにしました。
おじさんは凄く喜んでくれました。でもその頃からわたしはおじさんのことが
苦手になっていきました。仕事中何かとあるとおじさんはわたしの体に触れてくるし
それにわたしを見る視線がなんていうかいやらしい気がしてきたんです。
だけどもおじさんには自分の家族があるし、
それは自分の気のせいだって思いこもうとしました」
心なしか彼女の声が震えていた。

「でも・・・おじさんの家に住むようになって一週間目の夜、おじさんはいきなり
わたしが寝ている部屋に現れるとわたしに襲いかかってきたんです」

「わたしは体をよじらせて必死に抵抗しました、でもおじさんの力は強く
どうにもできませんでした。少しでも抵抗を止めると服を脱がされそうになり、
わたしはもうすべてが嫌になって、『止めてくれなかった舌を噛んで死にます』と言って
舌を噛みきろうとしました。するとあわてておじさんはわたしから離れました。
そして『そんなに俺が嫌か?そんなに俺を拒むのか?だったらこの家から出てけ!!』
とわたしに怒鳴り部屋を出ていきました。おじさんはきっとそう言えばどこにも
行く当てのないわたしがおとなしくなると思ったのかもしれません。
でもわたしは言われるままに荷物をまとめるとおじさんが様子を見に戻ってくる前に
家を出ていきました。それからわたしはおじさんが追ってこないかびくびく
しながら牧場から駅までの道をひたすら歩き、駅に着く頃には空が明るくなっていました。

最初はもとの町に帰ろうと思ったんですけど、戻ったところでもう住むところはないから
思い切って何処かおじさんの目の届かない遠くまで行こうと思い電車に乗ったんです。
何度も電車を乗り換えたんですが、連れ戻されるんじゃないかとずっと怯えてました。

行く当てのないまま、わたしは一日中ずっと電車に乗り続けて、気がつくと
外は真っ暗になっていて、全然見知らぬ所まで来ていました。これからどうしようって
ずっと考えてたんですけど、でも何も思い浮かばなくてそのうち眠ってしまい、
気がつくとあなたの肩にもたれかかってました。本当は気がついた時点で
すぐに起きるつもりだったんですけど、すごく居心地が良くてまた寝てしまい、
次に起きた時には終点で電車が止まってました。
わたしが起きたときあなたはまだ眠っていて・・・本当に気持ちよさそうに
眠っていたんですよ、だからそのままにしておこうかと思ったんですけど、
気がつくと周りの人はもうほとんど電車から降りちゃって二人だけになっていて
一人だけ置いてけぼりだとやっぱりかわいそうだと思って結局起こすことにしたんです。

そしたら起きた瞬間にすごく慌ててたじゃないですか、だからもしかしたら
寝過ごしたのかなって思って・・・もしそうだったこの人は朝までどこか一人で
過ごすかもしれない、一緒について行ってみようって思ったんです」

「そうだったんだ・・・ってことはタクシーでうちに帰るとは思わなかっただろ?」
「はい、そうですね」
「それでよくついてきたな・・・今更こんなこと言うのも何だけどあんたのやってる
ことかなり無茶だよ、もしかしたらひどい目に遭っていたかもしれないぜ」
「それはもちろん、話しかけた時点で危険だなと思ったらすぐに離れたと思いますけど
でもあのときあなたは下心とかじゃなく仕方なくでわたしを誘ってくれたじゃないですか
だからご迷惑だとは思ったんですが、へたに親切な人より安全だと思ったんです」
「あのときはだいぶ眠かったし、それに他に行くところがないって言われれば
いくらなんでもあそこに一人だけ放って帰れないだろ」
少し言い方がきつかったかなと思いつつ完全に冷めた紅茶を一気に飲み干した。
「・・・そうですよね、本当にありがとうございました、わたしもう行きますね」
いきなり彼女は立ち上がった。よく見ると今にも泣き出しそうな顔をしている。
「おい、ちょっと待って」
荷物を持って出ていこうとする彼女の手を掴んだ。
「行くって、どこか他に行く当てがあるのか?」
「ないですけど、もうこれ以上は迷惑かけられません・・・」
彼女のしゃくり上げる声が聞こえた、今にも泣き出しそうだ。
「・・・だったらずっとここにいればいいよ」

そんな彼女を見てオレはとっさに答えた。

「えっ?」
梨華は驚いた顔してこっちを振り向いた。
「気にしなくても、今更こうなったら一泊の予定が一週間になろうが
一ヶ月になろうがたいして変わらないよ、それにだいたいあんたまだ
16か17歳くらいだろ? 遠慮せず、ここにいてゆっくり今後のことは考えな」
「でも・・・本当にここにいいてもいいんですか?」
少し間をおいて遠慮がちに彼女が言った。
「こんなところで良ければな、素直に甘えとけ」
「・・・ありがとうございます」
彼女はオレの体にもたれかかると、我慢しきれなくなり声をあげて泣き出した。
「随分いろいろとあったようだけどこれからは
できるかぎり力になるから遠慮しないで言ってくれ」
彼女はオレのシャツに顔を埋めたまま頷いた。

オレは彼女の体をゆっくりと抱きしめた。

「すみません、取り乱しちゃって」
ひとしきり泣いた後、梨華は頭を下げた。
「別に泣きたいときは我慢しないで思いっきり泣けばいいと思う、
その方が後々すっきりするだろ?・・ほら」
傍にあったティッシュの箱を彼女に渡した。
「そうですね、少しすっきりしました」
そう言ってティッシュで涙を拭いながら彼女は微笑んだ。
「それからしばらくここにいるつもりならもっと肩の力を抜きな、
四六時中これじゃ疲れるだろ?遠慮しなくていいから」
「・・・はい」
そう言って彼女は再びしゃくり上げた。
「どうした?」
心配になって彼女の顔をのぞき込んだ。
「ごめんなさい、こんなに優しくしてもらって・・・つい嬉しくて」
「そうか、好きなだけ泣きな」
「ごめんなさい・・・泣き虫ですね、わたし」
そういってまたしばらく彼女は泣き続けた。

話が始まってから今までどれくらいが時間が経っただろうか、
「さて、アイスでも買いにコンビニに行こうか」
いいかげんに泣きやんだ彼女の様子を見て、大丈夫だと思い立ち上がった。
好きなだけ泣けばいいと言っておきながら、これ以上部屋の中で彼女に
しんみりとされるのは正直言ってつらかった。
「ちょっと待ってください」
「どうした?」
「わたし・・・泣いたばっかで顔腫れてるじゃないですか」
「そうか、別にわからないけど・・・それじゃオレ一人で行ってくるよ」
「えっ、一緒に行きます。ちょっとだけ待ってもらえますか?今顔を洗ってきますから」

オレの返事を聞く前に彼女は洗面所の方へと向かっていった。

「お待たせしました」
「おう」
玄関から先に梨華を出すと、部屋の鍵をかけた。
「今日は暖かいですね」
「ああ、昼間も暖かかったよ今日は」
隣を歩く彼女に相づちをうつ、まだ10時過ぎだというのに
他に歩いている人は少なかった。
「あの、手をつないでもいいですか?」
会話が止まった瞬間、彼女が聞いてきた。
「え?」
思わず彼女の方を向く。
「いえ、なんでもないです」
聞き返したことを拒否だと感じたのか、彼女は目線をそらした。
「別にいいよ、ほら」
顔をそむけた彼女の前に手を差し出した。すると彼女は一瞬驚いたが
すぐに手をつないだ。
「昨日気がついたんですけど、わたし、手つなぐの好きです」
「そう?」
「なんかいいじゃないですか」
「そうだな」
別に何とも思わないけど、と言おうとしたがあまりに彼女が嬉しそうな
顔をしていたので思わず話を合わせた。それに言われてみると確かに悪くない。
「手暖かいですね」
「そうか、そういえばそっちの手は冷たいな」
コンビニの明かりが見えてきたなと思ったところで急に彼女の手に力がこもった。
「一つお願いしても良いですか?」
「何?」
「これからはわたしのこと、ちゃんと梨華って呼んでもらえますか?
君とかあんたとか・・・二人称で呼ばれるのって好きじゃないです」
「いいよ、別にこれからは名前で呼ぶようにする」
「本当ですか?約束ですよ」

コンビニに入る少し手前のところで彼女と約束をした。

「何ですか?それ」
「酒のつまみ」
コンビニの中に入ってから何度か自分の欲しいものを見てこいと言ったが
梨華は自分のそばを全く離れなかった。
「それじゃこのあと帰ってから飲むんですか?」
「ああ、悪い?」
「全然悪くないですよ」
あわてて彼女は手を横に大きく振って否定した。
「オレはあんたと違って未成年じゃないからな・・・えっ?」
急に梨華が立ち止まったので、つられてオレも止まった。
「あんた・・・じゃなくて梨華です」
梨華は下唇を咬んだまま恨めしそうにじっとこっちを見ている。
「悪い、さっき約束したばっかだったな・・・梨華」
「はい、それでは早く次に行きましょう♪」
言い直した途端に彼女は機嫌が良くなり、オレの手を引っ張った。
「どれにするんですか?」
彼女が引っ張ってきた先はアイス売り場がだった。
「どれでもいいよ、好きなの選びな」
「もぅ、何言ってるんですか?自分がアイス買いに行こう、って言ってたくせに」
「そうだったな、どれにしようか」
それは部屋から外に出るための言い訳だった、と今更言う訳にもいかないので
適当に選んでカゴの中に入れた。
「梨華も選びな」

今度は意識したのでしっかり名前で呼ぶことができた。

その後一生懸命どのアイスにするか悩んでいる梨華を置いて雑誌でも見に行こう
としたら困った顔をされた。仕方なく彼女が選び終わるのを待ったが一向に
決まらないようだったので、彼女の目線の先にあったものを適当に選んで
勝手にカゴの中に入れ、レジへと向かった。
「優柔不断だろ?」
「はい・・・よく言われます」
「二つとも食べればいいだろ」
「そんなにいっぺんに食べれませんよ」
そんなやりとりをしながら買い物を終え、行きと同じように手をつないだまま
帰り道を歩いた。彼女は子供の頃から自分がいかに優柔不断だったかを延々と
話し続け、オレはただそれを黙って聞いていた。

部屋に帰ると、とりあえずテーブルの上に買ってきたものを並べた。
「さあ、どれを最初に食べる?」
「ええと、ちょっと待ってください、あっ」
「ストロベリーに決定な」
またここでも悩み出しそうな勢いだったので、勝手に一つ選ぶと後は冷凍庫にしまい
彼女用にスプーンと自分に酒とショットグラス、それからつまみを入れる皿を出した。
「あの、一緒にアイス食べないんですか?」
「オレは後でいいよ、はい」
彼女にスプーンを渡すと、自分が飲み始める準備を始めた。
「それなんですか?」
彼女が物珍しそうにこっちを見ている。
「ジンっていうんだけど、知らない?」
「はい、初めて見ました」
彼女にボトルを渡すと、珍しそうにラベルを見ている。
「英語で書いてありますけど、外国のお酒なんですか?」
「そうだよ」
「何か混ぜたりしないんですか?」
「別に何かで割ってもいいけど、オレはそのままの方が好きかな」
彼女の受け答えをしながらつまみとして買ってきたピスタチオを皿に移す。
「放っておくとアイス溶けるよ」
「そうですね、忘れてました」

あわてて彼女はアイスの蓋を開けた、オレは少しずつジンを飲み始めた。

他愛のない会話を続けながらも一杯、また一杯と飲み干すジンの量が増えている。
「そんなに飲んで大丈夫ですか?」
既にアイスを食べ終えた梨華は心配そうにこちらの様子を伺っている。
「別に、いつもこんな感じだから」
徐々に頭の中が痺れてくる。
「余計なお世話かもしれないけど、あんまり飲み過ぎない方がいいですよ。体に良くないですから」
「それもそうだな」
グラスを横にどけるとオレはテーブルに頬杖をついた。

「さて、とりあえず鍵渡しておこうか」
オレは立ち上がると隣の部屋に行き、机の引き出しから合い鍵を取り出した。
鍵には、くまのプーさんのキーホルダーがついている。
(そういえばこれアイツのだ…)
一瞬、はずしてしまおうかと考えたが、鍵は二つあるので結局そのままにしておく。
「私が合い鍵もらっていいんですか?」
「いいも何も鍵を持ってないとオレが出かける度に留守番だろ。ほら、なくすなよ」
鍵を彼女に渡した。
「このキーホルダーかわいいですね、こういう趣味があったなんて意外です」
「それ前につき合っていた彼女が置いていったものだから別にオレの趣味じゃないよ」
余計なことを言ったかなと思った。
彼女はじっとキーホルダーを見ている。
「そうですか…合い鍵にそのキーホルダーがついているってことは、ひょっとして一緒に暮らしたりしてました?」
ギクリとした。
どうしてこんなにも女の勘というのは鋭いのだろう。
「ああ、一緒に暮らしてたよ」
オレは正直に答えた。

そういえばアイツは今どうしているのだろう?

「別に気になるなら、そのキーホルダーはずしていいから」
「このままでいいです。私もプーさん好きですし」
梨華は鍵をポケットの中にしまった。

このまま色々聞かれても気まずかったので、話を変えることにする。
「それから、うちの電話番号だけど…手帳とか持ってる?」
「はい、ちょっと待ってて下さい」
彼女はバッグの中から手帳を取り出した。
「番号は、XX-XXXX-XXXXだから」
彼女はオレの言った番号をメモした。

「あの…」
「何?」
「家賃とか…お金のことはどうすればいいですか?」
隣に座っている彼女は心配そうにこっちを見ている。
「無職だろ?」
「はい、でもすこしなら貯金があります」
「そういうことはとりあえずバイト見つかってからでいいよ、貯金は何かの時のためにとっておきな」
「はい」
彼女は頷いた。
「あとは何が必要だっけ…そういえばこの辺りのこと全然知らないだろ?明日会社休みだから買い物を兼ねて案内するよ」
「本当に何から何までありがとうございます」
彼女は深々と頭を下げた。
「困ったときはお互い様だよ。もう夜も遅いし、そろそろ寝るか」
オレはソファーから立ち上がるとあくびをした。
「梨華はまた隣の部屋のベッド使って」
「ちょっと待って下さい、今日から私がこっちで寝ますよ」
彼女も慌てて立ち上がった。
「いいよ別にこれだって延ばせばベッドになるんだし」
「そうはいきませんよ、私が居候なんですから!!」
「そこまでいうなら換わるけど…居候って言い方は何か嫌だな、せめてルームメイトくらいにしておいて」
「ルームメイトですか?」
「そう、そっちのほうが聞こえがいいだろ?」
「そうですね」
ルームメイトという言葉の響きが気に入ったのか、彼女は微笑んだ。

翌日、梨華を連れて近所のファミレスに行った。
「ごちそうさまでした」
「ああ、それじゃ行こうか」
近所のファミレスですこし遅くなった朝食を済ませたあと、梨華と二人で駅まで歩く。
「今日も暖かいですね」
梨華が何か嬉しそうに話しかけてくる。
「そういえば、そうだな」
週末は朝方まで飲んでいることが多いので休日の昼間から外を歩くなのは久し振りだ。
「この商店街を抜けて真っ直ぐ行くと駅に着く」
あれこれ説明しながら、のんびりと駅前通りを歩く。
「結構にぎやかなところですね」
にぎやかというより、ただ単に混雑しているだけのような気もする。
目の前をお年寄りやパンクの兄ちゃん達が通り過ぎた。
オレたちは人の波を避けて歩く。
気がつけば今日も梨華と手をつないでいた。

「ここがK駅、ここからJRと私鉄に乗ることが出来る…梨華と初めて会った日、寝過ごさなかったら、ここで降りていたわけだ…」
駅に向かう階段の手前にはティッシュ配りの兄ちゃん達がたむろし、バスターミナルの手前では外国人が露店を開いてなにやらアクセサリーを売っている。
「大きな駅ですね」
梨華は珍しそうに辺りを見回している。
「ここが北口で…駅前で待ち合わせするときは、あそこなんかいいかもしれない」
オレは駅ビルの中にある本屋を指さした。
「本屋だったら時間つぶせるし、雨に濡れることもないからな」
「あの、ちょっとだけ寄ってみてもいいですか?」
駅ビルの前を通り過ぎようとすると、梨華は急に立ち止まった。
「いいけど、何か欲しい本でもあるの?」
「バイト探さなきゃいけないじゃないですか…だからそういうのが載ってる雑誌を買おうと思って」
「わかった、それじゃ行こうか」
オレたちは駅ビルに向かって歩きだした。

本屋に入ってすぐのところに梨華の探しているバイト雑誌はあった。
「これでいいんじゃないの?」
何種類かあるうちの一冊を手に取る。
(そういえば学生の頃はこの手のものをよく買ったな…)
ふと懐かしくなりページをパラパラとめくった。
沿線で探す、業種で探す、といった感じに分けられ様々な種類のアルバイトが掲載されている。
「それと同じのにしますね、ちょっと待ってて下さい」
そう言って梨華は、オレが読んでいる隙にもう一冊を手に取り、レジへ持っていった。

その後、そのまま駅ビルの中を二人で歩き、色々と見て回ったが、これといって彼女の目を引くものはなかった。
「ちょっとどっか店に入って休憩しようか?」
ふと立ち止まり梨華に問いかける。
「そうですね、ちょっと歩き疲れたかも、でも平気ですよ」
「別に無理しなくていいよ」
オレたちはエスカレーターを上がるとビルの一番上にある喫茶店に入った。
窓際の席に座ると、窓の外に沢山の人や建物が見える。
「今日はあの道を歩いてきたんだけど、わかる?」
「ええ、何となくですけどわかります」
ゆったりとした曲が流れる中、オレは窓の外を眺めながら、おおまかにどこに何があるかを梨華に説明した。
「私、もう少しだけこの辺を歩いてみたいです…案内してもらえますか?」
「ああ、ならそろそろ行こうか」
会計を済ませると、オレは梨華を連れて外に出た。

喫茶店の中で説明したうちの何カ所かを案内して、気がつくと辺りは薄暗くなっていた。
「だいぶ歩き回ったけど、大丈夫?」
「全然平気ですよ、とっても楽しかったです」
相変わらず通行人の数は多く、オレたちはしっかりと手をつないで歩いた。
「もうそろそろ暗くなってきたし、帰ろうか…でもその前にスーパーによって食料品とか日用品を買っておかないと…」
喧噪の中、梨華に話しかけながら、行きに通りすぎた商店街を戻る。
と、その時、前方からどこか見覚えのある女性がこっちに向かって歩いてくる。
(梨華を連れているし…今会うのはまずいな…)
思わずとっさに梨華の手を引き、近くにあった100円ショップに入ろうとしたが…遅かった。

「あら、久しぶりやないの」
むこうの方がこちらに先に気付いていたようで、お店に入るより一足先に呼び止められた。
「こんなところで会うなんて偶然ですね、裕子さん」
とりあえず、たった今気付いたかのように装う。
「なんや白々しい態度とって、私なんか100mも前からあんたに気付いてたわ」
「100mってまたおおげさな…」
裕子はジロジロと物珍しそうにオレたち二人を眺めている。
「ところで…最近別れたって聞いたけど、何…もう新しい彼女できたわけ?」
「…真里に会ったんですか?」
「ヘアサロンで偶然隣同士やって…いろいろと聞かせてもらったで」
「そうですか…」
裕子の口から真里の話が出たことに驚いたが、それ以上色々と聞く気にはなれなかった。
「話戻すけど、この子は?」
裕子の視線が梨華に突き刺さる。
「ええと、彼女は親戚の子で、ちょっと事情があってしばらくうちで預かることになったんです」
とっさに答えると同時に梨華の手を少しだけ強く握る。
一瞬梨華はオレの顔を見たが、すぐに状況を理解したのか
「そうなんです、先日この街に引っ越してきました」
そう言って、オレに話を合わせた。
「なんや、そうやったんか…てっきりつき合っているのかと勘違いしたわ」
とっさのアドリブが通用したのか、裕子は金髪をかき上げながら笑った。

このまま話し込むと色々つっ込まれそうなので、梨華の手を引くと、裕子の前からさっさと退散することにする。
「すいません、買い物の途中なので…今日のところはこのへんで失礼します」
「ちょーっと待ったぁ」
その時、いきなり裕子がオレの腕を掴んだ。
「ええと、なにか?」
「あのな、久しぶりで積もる話もあるし、飲みにいかへん?私、友達に約束キャンセルされてちょうど暇してたとこやったん…」
裕子は上目遣いでオレを見ている。
「いや、裕子さんのお誘いについて行きたいのは山々なんですが、彼女の身の回りのものとか買い揃えないとまずいので」
遠回しに断りの態度を示し、つられて梨華も無言で頷く。
「冷たいなあ…あんた明日も仕事休みやろ?あとまわしでええやん、そういえばこの子…名前なんていうん?」
「…石川梨華です、初めまして」
「梨華ちゃんか…ええ名前や、私は中澤裕子、裕ちゃんって呼んでな」
裕子が梨華にウインクをする。
「3人で梨華ちゃんの引越祝いしよ、な?」
裕子がオレと梨華の手を引っ張る。
こうなってはもう止められない。
仕方なくオレたちは彼女について行くことにした。

裕子に連れられ、オレたちは雑居ビルの3階にある居酒屋に入った。
「いらっしゃいませー」
入り口に愛想の良さそうな店員が二人立っている。
「お姉ちゃーん、3名様お座敷な」
そう言って、裕子は店員より先にどんどん店の奥へと進んでいく。
オレは入り口で立ち止まり、梨華の耳元で話しかけた。
「ごめんな、さっきは話し合わせてくれてありがとう」
「いえいえ、気にしないで下さい…それより中澤さんってどういうお知り合いなんですか?」
梨華もオレの耳元に顔を寄せ小さな声で喋る。
「ほらーそこの二人!!こっちやで」
今のうちに裕子のことを梨華に説明しようとしたが、間に合わなかった。
オレたちも言われるまま座敷に上がり、裕子とテーブルをはさんで向かいに座る。
「あんたはビールでいいとして、梨華ちゃんはどないする?」
「ちょっと待って下さい」
慌てて梨華はメニューを見回す。
「ええと、ウーロン茶でお願いします」
「ウーロン茶って何?お酒はいっとらんやん」
裕子は口をとがらせた。
「裕子さん、この子未成年なんで…」
「うっさい!!、真里には未成年でも飲ましてたやろ、あんたはだまっとき」
まだ飲み始めてもいないというのに、完全に裕子の独壇場と化してきた。
「梨華ちゃん、あんたいくつ?」
裕子はテーブルの上に身を乗り出した。
「17歳です。」
蛇に睨まれた蛙のように梨華はじっとしている。
「17か…若いってええなぁ…ってそれはさておき、私は15の頃から普通に飲んどったよ…お酒はな、早いうちから慣れとかないといかん、後々になって苦労するで」
そう言って、裕子は急にまじめな顔をする。
「そうなんですか?」
裕子の迫力にすっかり梨華は押されている。
「もちろんや、ここは裕子お姉さんがアルコール初心者でも飲みやすいのを梨華ちゃんのために選ぶから、それ飲んでくれるか?」
(断れないだろうな…)
先程から裕子のターゲットにされている梨華を少しだけ不憫に思った。
「…はい、よろしくお願いします」
「よーし、よく言った、梨華ちゃんのこと好きになってしまいそうや、あはははは」
梨華が気のせいか少し涙目になってオレの方をちらちらと見ている。
「お姉ちゃーん、とりあえず大生2つに青リンゴサワー1つ、大至急よろしくなー」
裕子が良く通る声で叫んだ。

裕子は一杯目のジョッキを空けると、今度はすぐさま
焼酎のボトルとお湯を注文し、一人でガンガン飲んでいる。
「どうした? 二人ともペース遅いで」
「そんなことないですよ、裕子さんのペースが速いんです」
裕子のヤジをかわしつつ、オレは目の前にあった枝豆に手をつけた。
「じゃあ、私が一気しちゃいます」
そう言って、梨華は立ち上がると片手を腰に当て、
勢いよく半分ほど残っていた青リンゴサワーを飲み干した。
「ぷはぁ」
「おお!! 梨華ちゃん、ええ飲みっぷりやわ」
裕子が拍手をする。
「大丈夫か?」
座り込んだ梨華の顔を覗き込む。
「平気ですよ、全然大丈夫です。おかわり頂けますか?」
あまり顔が赤くなってはいないが、どうも目がとろーんとしてきている。
本当に大丈夫なのだろうか?

「そういえば、お二人はどういったお知り合いなんですか?」
裕子に焼酎お湯割りを作っていると、唐突に梨華が口を開いた。
「見ていてわからん? 元恋人同士、ねっ、ダーリン」
そう言って、裕子はオレ向かって投げキッスをした。
「ええっ!?」
梨華は両手を頬に当てた。
「そういう冗談はやめてくださいよ裕子さん、はい」
焼酎お湯割りを裕子に渡した。
「ごめんごめん、本当はな…この人にナンパされたんやわ」
「それも嘘、そっちが酔っぱらってオレに絡んできたんじゃないですか」
焼酎だけ入ったグラスを呷った。 喉から食道にかけて熱くなる。
「初めてあったときにこの人、すごく酔っぱらっていて、
 たまたま隣の席で飲んでいたオレや友達に絡んできたんだよ」
梨華の方を向き、裕子を指さした。
「うわっ、何でそんな昔のこと憶えているかなぁ?」
「忘れませんよ、あの時オレだけ裕子さんに次の日の朝まで拉致られて、
 ずっと愚痴を聞かされたんですから」
「しゃあないやろ!! あの時はフリーで仕事始めたばかりで色々切羽詰まってたんやから」
裕子も負けじとグラスを呷る。
梨華は胸の前でグラスを抱え、オレと裕子のやりとりをじっと見ている。
「その後も、たまに会って話して飲んで…飲み友達ってやつやな」
と言って、裕子は残っていたお湯割りを飲み干した。

ごめん、ちょっとお手洗いに行ってくるわ」
裕子は立ち上がり座敷の外へと歩いていった。
「なんだか巻き込んじゃって悪いな」
裕子が完全に視界から消えたのを確認すると梨華に話しかけた。
「いえ、中澤さんって最初は怖い人だなって思ってたんですけど、
いい人みたいですね。
二人の会話を聞いててすっごく楽しいですよ」
「ああ、いい人だよ。だいぶ自己中見えるけど、あれで結構周りの人に
対して面倒見がいいんだ」
「それにしても中澤さん、すごいたくさんお酒飲みますね、
いつもああなんですか?」
「いつもまあ、あんな感じと言えばあんな感じだけど、
今日はやけにペースが速いかな」
グラスを口に運ぶ。
「こら!! 私がいない隙に私の悪口梨華ちゃんに言うてたやろ?」
思っていた以上に早く、裕子は座敷に戻ってきた。
「言ってないですよ、今日は裕子さん随分とペースが速いからどうしたのかな?
って話してただけです」
「ん、そっか……あのな、話を聞いてくれるか?」
オレはだまってうなずく。
「うちの事務所にな、みっちゃんっておったやろ? 
あの子がな仕事辞めてしまって今大変なんやわ」
やや眉間にしわを寄せ、怒ったような、困ったような顔を
浮かべながら裕子は話した。
「どうして平家さん辞めてしまったんですか?」
「何でも、実家の仕事を手伝わなきゃならんようになったんやて……
はあ、この忙しいときに参ったわ」
そう言って、裕子は前髪をかきあげながらまた一口グラスに口を付けた。

「あの、中澤さんの事務所って?」
やや裕子の雰囲気に押されながらも梨華が尋ねた。
「私な、フリーで化粧品のパッケージとか広告のデザインやっててん、
自分の事務所を持ってるんよ」
「自分で事務所持っているだなんてすごいですね」
「まあ……事務所言うても小さいところなんやけどな」
梨華の言葉に気を良くしたのか、裕子の表情が少しだけやわらいだ。
「でもまだ他にもアシスタントなら圭ちゃんや紗耶香がいるじゃないですか?」
裕子の事務所の女の子とは前に何度か会ったことがあった。
「あの二人は良くやってくれてんけど、やっぱ一人いなくなった分
ちょっときびしくてな、ここのところずっとあたふたしっぱなしや」
「アシスタントってどんな仕事をするんですか?」
梨華が再び口を開いた。
「とりあえず資料集めたり、電話の応対したり、まぁ色々と。
慣れてきたら少しずつデザインの仕事もやってもらうんやけどな」
「大変そうですね」
オレは呟いた。
「そんなことあらへん、要領の良い子ならすぐ覚えることばっかや。
圭ちゃんも紗耶香も、早く新しいアシスタント雇え!! ってうるさいんやけど、
求人広告出して新しいアシスタントを探すものも一労やしな……
なあ、あんた誰かいい子知らん?」

裕子の話を聞いているうちにピンときた。
「あの、ここにいい人材がいるんですけど、どうですか?」
と言って、梨華の肩に手をまわす。
「ええっ、私ですか!?」
梨華は両手でグラスを掴んだままキョロキョロと交互にオレと裕子の顔を見た。
「梨華ちゃんって学生やないの?」
「いやそれが…彼女ちょっと複雑な事情があって、
先日高校辞めちゃったんですよ」
オレは梨華との出会いや間柄をうまくごまかしつつ、
これまで梨華の身の上に起きたことを裕子に説明した。
裕子が梨華の顔を覗き込む。
「そっか、今まで随分苦労してきたんやな……ええよ、
うちは学歴気にせえへんし、梨華ちゃんが働きに来てくれるなら大助かりやわ」
裕子が両手でしっかりと梨華の手をにぎる。
手をにぎられたまま梨華は、じっとオレの顔を見た。
オレは梨華の顔を見て、小さく頷く。
少しの間梨華は黙っていたが、やがて、
「あの、よろしくお願いします」
そう言って、裕子に頭を下げた。

その後、裕子は梨華にスケジュールや、時給、更に細かく仕事内容など
を説明しながら飲み続け、最後に
「ほんなら月曜日から来てや、待っとるで」
と言って、オレや梨華が飲んだ分まで払うと、
颯爽とタクシーで帰っていった。

裕子がいなくなった後、オレたちは昼間に比べすこし人通りが
少なくなった道をアパートへと歩いた。
「最初の方に一気とかしてたけど、大丈夫だった?」
「平気でしたよ、ちょっと体が熱くなっただけで、仕事の話が出てからは
ずっと普通でしたから。実は私、お酒強いのかもしれないですね」
と少し自信ありげに言うと、梨華は胸の前で手をグーにした。
「じゃあ裕子さんに今度同じこと言ってみな、きっと
ぶっ倒れるまで飲ませてくれるよ」
「それはちょっと困ります……」
オレが少しいじわるく笑うと、梨華は慌てて手を開き、横に振った。

「そういえば、オレが勝手に梨華のバイトの話を裕子さんにして、
話がどんどん決まってしまったけど、本当は他にやりたいこととかあった?」
正直言って、次々と話を進める裕子の勢いに押され、梨華は
断るに断れなかったのでは? という不安があった。
「全然ないですよ、今の私ができることなんて限られてますから。
こんなすぐにお仕事見つかってラッキーだなって思ってます」
梨華はにこっと笑った。
「そう言ってもらえると助かる。断るタイミングを逃して本当は困ってた、
なんて言われたらどうしようかと思ってたからさ」
オレは大きく息を吐いた。
「でも私で本当にいいんでしょうか? それだけが心配です」
「大丈夫だろ、何も知らなくても、1からビシバシ鍛えるって
裕子さんも言ってたし」
「……そうですね、一生懸命頑張ります」
と言って、梨華は再び胸の前で手をグーにした。

「あの、私のほうがお風呂に時間かかりますから先に入って下さい」
アパートに戻ってきてすぐ梨華にそう言われ、素直にシャワーを浴びた。
頭を洗っていると少しふらふらしたが、徐々に酔いが醒めてくるのがわかった。

バスルームから出てくると、すでに梨華はテーブルに寄りかかり、
うつぶせになったまま眠っていた。
<今日は一日中歩いたし、酒も飲んだからな>
無理に起こさずそのまま寝かせてやろうと思い、抱きかかえて
ベッドに運ぼうとすると、突然、梨華の腕が首に絡みついてきた。
「……ずっと一緒にいて下さいね……」
「え?」
耳元で梨華の呟く声が聞こえたので聞き返したが、いくら待っても
返事はなく、スゥースゥーという寝息の音しか聞こえてこなかった。

<体は大人だったな……>
梨華をベッドに寝かせた後も、 腕にはまだ梨華を抱きかかえたときの
感触が残っていた。
<何を考えてるんだ馬鹿馬鹿しい……>
オレは棚からジンを出すとボトルのまま一気に呷った。

翌日、物音で目が覚めた。
バスルームからシャワーの流れる音が聞こえる。
ソファーから体を起こし、ベッドルームの方を見ると昨夜閉めたはずの
ドアが開いていた。どうやら梨華の方が先に目を覚ましたようだ。
昨日あれからしばらく一人で飲み続けたおかげで体が重く感じる。
オレはゆっくりと背筋を伸ばしながら、トイレに向かった。
幸いうちはこの手のアパートにしては珍しく風呂とトイレが別々になっていて、
梨華がシャワーを浴びていても気にせずトイレを使うことができる。
この部屋に引っ越してくる前、真里があまりにしつこく
『今度はバストイレ別々のところ!!』と言うのでここを選んだのだが、
こうしてみると真里と別れた今でもそれが十分役に立っている。

トイレから出た後、のどが渇いたので水でも飲もうとキッチンに立っていると、
梨華が体にバスタオルを巻き付けただけの格好で出てきた。
「……きゃっ、ごめんなさい!!」
梨華はオレと目が合うと慌ててベッドルームへと走り去った。
女がバスタオル一枚で部屋の中を歩くというのは、
なかなか良い光景だと思うのだが、実際その場にいると目のやり場に困ってしまう。
「なんだかなぁ……」
オレは誰もいないキッチンで一人呟くと、コップに水を入れた。

その後リビングに戻り、ソファーに座ったまましばらくぼんやりしていると、
着替えの終わった梨華が、肩にバスタオルをかけてベッドルームから出てきた。
「おはよう」
何事もなかったように声をかける。
「さっきはごめんなさい、てっきりまだ眠っていると思って……」
「別に気にしなてないけど、今度から気をつけてな」
「はい、気をつけます」
再び目が合うと、梨華は照れくさそうに笑った。

梨華が洗面所に行って髪を乾かしている間、オレは何気なくテレビをつけ、ニュースを見ていた。
髪を乾かし終わると、梨華は再びリビングにやって来て隣に座った。
「朝ご飯食べます? 私作りますよ」
「いや、まだオレ腹減ってないから、先に食っちゃっていいよ」
「そうなんですか? 実は私もあんまりお腹空いてないんです。
昨日食べ過ぎちゃったのかも……」
梨華が恥ずかしそうにお腹を押さえた。
「だったら後にするか」
オレは頭を左右に振り、コキコキと首の軟骨を鳴らした後、
コップに残っていた水を一気に飲み干した。

「あの、言い忘れてたんですけど、昨日はありがとうございました」
「え、何のこと?」
不意に梨華が礼を言ってきたが、オレには何の事だかさっぱりわからない。
「私のことベッドまで運んでくれたんですよね? 私、自分がテーブルに
寄りかかったまま寝てしまったの憶えてるんです」
「ああ、そのことか」
「それに、リビングで寝るって決めたばかりなのに……私がまたあっちの
ベッド使っちゃったから……」
と言うと梨華は下を向いて、人差し指でソファーのクッションを押した。
「オレが勝手に運んだんだから気にするなよ。梨華をベッドルームに
寝かした方が、こっちも起きてるのに好都合だったし」
オレはうつむいたままのでいる梨華の頭に触れると、乾いたばかりの髪をくしゃくしゃに撫でた。

「ところで今日はどうする? 昨日買い物できなかったから今日も
出かけようと思うんだけど?」
「もうすぐに出かけますか?」
「いやまだ早いから、昼過ぎくらいにしようと思うけど」
「だったら天気もいいし、お洗濯していいですか?」
「いいよ洗濯して。 昼までにまだ2時間くらいあるし」
テレビの上にある横長の液晶時計は、まだ10時を指したばかりだ。
「あの、もし迷惑じゃなかったら私の洗濯物とまとめて一緒に洗いましょうか?」
「何? オレの洗濯物も一緒に洗ってくれるの?」
「はい、私の洗濯物の量って少ないし、それにお洗濯好きですから。
でも、こういうのってやっぱりお節介ですか?」
梨華は上目づかいにこっちの様子を見ている。
「いやいやそんなことない、大助かりだよ。 それじゃ洗濯機の使い方とか説明するから付いてきて」
オレは梨華の好意にありがたいような照れくさいような思いで立ち上がると、
洗濯機の置いてある洗面所に移動した。

洗面所まで来ると、洗面台の向かいにある洗濯機のフタを開けた。
「とりあえず洗濯機の使い方なんだけど、全自動だから特に問題ないと
思う。それから脱水し終わった洗濯物だけど、バスルームの中に干して。
干した後、このスイッチを換気じゃなく乾燥にして放っておけば、
だいたい半日くらいで乾くから」
オレはバスルームのドアの脇にあるスイッチを指さした。
「外に干したりしないんですか?」
「急に雨が降った時とか困るし、下着ドロに遭ったら困るだろ? 
だから基本的にベランダには干さないかな」
「わかりました」
「洗剤は洗面台の下に入ってるから。それからこれがオレの洗濯物なんだけど……」
オレは洗濯機の上の棚から洗濯カゴを出すと、梨華に渡した。
「任せてください、ちゃんとお洗濯しますから」
「じゃ、あとよろしく。オレはクローゼットの中を片付けて梨華の荷物を
入れる場所を作るから、何かあったら呼んで」
一通り梨華に説明し終わると、オレはベッドルームに行った。

クローゼットを開け、自分の荷物をひたすら左側に寄せると3分の1
くらいのスペースが出来た。いらないものを捨てればもっとスペースが空く
だろうと思い、靴の空き箱などをクローゼットの中から放り出していると、
不意に奥から靴箱と同じくらいの大きさのグレーの箱が出てきて、オレは
久しぶりにその箱を開けた。

中身が何かはわかっている。 
昔、真里からもらった手紙や、アルバムに入った二人の写真だ。

しばらく箱の中を見ていたら少しだけ感傷的な気分になり、やがて
アルバムを手に取って写真を眺めていると、不意に梨華がやってきた。
「どうした?」
慌ててアルバムを閉じ、振り向く。
「今、洗濯物全部洗ってます。あとは脱水が終わるの待つだけだから、
こっちのお手伝いでもしようかなと思って」
「ここはオレ一人で大丈夫だから、リビングの掃除でもしてもらえる?」
別に後ろめたいことをしているつもりはないが、真里の写真を見ていた
ことがばれると、あれこれ聞かれそうなので追い返すことにした。
「わかりました、そうしますね」
と言って、梨華はこちらの様子を気にすることなく向こうに行ってしまった。
それからまた箱を開けて、しばらく手紙や写真を見た後、オレはその箱を
再びクローゼットの中にしまった。

昼過ぎに梨華が洗濯物を干し終えると、オレたちは軽く食事を済ませて外に出た。
「あれ? 駅前ってあっちじゃ……?」
アパートの裏手にある駐車場の前まで来ると、表の通りを指さし、
梨華が呟いた。
「そうだけど、よく考えてみたら結構荷物が多くなりそうだから、今日は車で行くよ」
「車持ってるんですか?」
「新車じゃないけどな、これだよ」
オレはレガシィワゴンの前まで来ると、ドアを開けた。

「白が好きなんですか?」
しばらく走っていると梨華が口を開いた?
「どうして?」
「車の色が白だから、そうなのかな? って思って」
「いや、たまたまだよ。この車は2年前に友達が海外に転勤することに
なって、もう必要ないからと言って、安く売ってくれたものだから」
「その前は車持ってなかったんですか?」
「この辺りだったら、なくても生活に不自由しないから、それまでは車を
持ってなかったよ。ただ、免許だけは昔から持ってたけどね」

ちょうど話が切れたところで、信号が赤に変わった。
「今日は運が悪いのかな? さっきから何度も赤信号で止まっている気がする」
「確かにいわれてみるとそうかも。でもいいじゃないですか渋滞ってわけでもないし」
「そうだな、急いでるわけでもないし、こんな日もあるな」
それからも何度か赤信号に止めらながら15分ほど郊外に向かって走り続け、
最初の目的地であるドラッグストアが見えてきた。

入り口でカートを取り、ドラッグストアの中へと入った。
ファミレス程度の大きさの店内には、薬から化粧品まで所狭しと陳列されている。
日用品のコーナーまで来ると、梨華は立ち止まり、シャンプーやリンスを
てきぱきとカゴの中に入れた。
「今日は随分と選ぶの早いな」
「これだけ種類があると、私の場合、考えだしたらきりがなくなるから、
前に使ってたのと同じのにしたんです」
と言って梨華は照れくさそうに笑うと、続いてムースやヘアワックスなどを
次々に選んでカートの中に入れていった。
梨華が必要な物を選び終わり、レジまで来ると、最後にオレが入り口に
あった特売品のトイレットペーパーをカートに入れて、あっけなくドラッグストア
での買い物は終わった。

駐車場に戻り、車のカーゴスペースに買ってきた物を積み終わると、オレは運転席に座った。
「他には何が必要?」
エンジンを掛ける前に、梨華に聞いた。
梨華は顎に人差し指を当て、何やら考え込んでいる。
「あの、洋服がほしいんですけど……明日からのアルバイトに着て行ける
ような服で、できれば何着か欲しいんで、あまり値段が高くないお店知り
ませんか?」
「洋服か……アルバイトにだったら何着て行っても平気だと思うよ、裕子
さんのところで働いている人みんなバラバラの格好してるから。ただ、
洋服代をいかに抑えるかが問題だな……ここから多分、車で1時間以上
かかるけど、アウトレットモールに行ってみるか? オレもまだ行ったことが
ないんだけど、多分あそこなら結構安く洋服を買うことができると思う」
「じゃあ、そこでお願いします」
「了解」
オレはキーを捻り、エンジンを掛けた。

今度は先程と違い、あまり赤信号に止められることもなく、さほど道が
混んでもいなかったので、思ってたよりも早くアウトレットモールに着いた。
アウトレットモールは、郊外の土地を贅沢に使った作りになっていて、
敷地が広い分、階数が少なく、2階建てになっている。元々人気が
あるのか、それとも休日のせいなのか、沢山の人に溢れていた。

オレはあまりの人の多さに、すこし嫌気をさしたが、梨華は楽しそうに
目を輝かせ、辺りを眺めている。インフォメーションでもらったマップを
参考に、とりあえず、いくつか女物の洋服が売っている店を見て回った
のだが、どこに行っても異常に混雑していて、通勤ラッシュに巻き込まれた
かのような錯覚を覚えた。

「今度はあっちを見てもいいですか?」
「ちょっと待て、すごい人だかりじゃないか?」
「人だかりができてるって事は、きっといいものがあるってことですよ。行きましょう」
梨華はオレの腕をつかむと、進んで人波をかきわけ、次から次へと洋服を探しに歩いた。
どの店でも、洋服を手に取って見るまではまだなんとか楽にできるのだが、
試着室やレジにはずらっと行列ができていて、服一着買うにも随分面倒だなと思った。
しかし、当の梨華はそんな状況をむしろ楽しんでいるようで、持ち前の
優柔不断さから何度も売り場と試着室の往復を繰り返し、その度に
オレに感想を聞いてきたものの、次々に洋服を買っていった。

帰りの車の中、梨華はこれでもかというくらい上機嫌だった。
「すごく楽しかったです」
「満足?」
「もう大満足ですよ。こんなにいっぱい洋服を買えると思ってなかったですから」
後ろのカーゴスペースには今梨華が買ったばかりの洋服が店の紙袋に入って並んでいる。
結局閉店間際までひたすら梨華の買い物につき合ったので、
なんだかよくわからない疲れで体中が重く感じたが、助手席で喜んでいる
梨華を見ていると、まあそれなりに良かったかなと思った。
梨華はアパートに着くまでずっと、今日一日の感想や、明日からのバイト
に関しての不安や期待を話し続け、オレはひたすら聞き役に回った。
この時間、まだ道路は混んでいたが、帰りの道のりが、行きの時よりやけに短く感じた。

翌朝、梨華の作った朝飯を食べ、普段より少し遅めに部屋を出た。
駅前まで来ると、サラリーマンや学生が慌ただしく行き来している。
「裕子さんの事務所は駅をはさんで向こう側にあるんだ」
と言ってオレは南口の方を指さした。
梨華はまだ裕子の事務所に行ったことがないので、今日は案内してから
会社に行くつもりだった。
「ここまでで大丈夫ですよ、中澤さんに住所をもらってますから。ここから先
一緒に行くと会社に間に合わなくなるんじゃ……」
「オレの心配だったらしなくても平気だよ。うちの会社フレックス制だから
遅れてもその分遅くまで仕事すれば問題ないし」

駅から続く大通りを5分程歩き、コンビニの手前で道を曲がると、右手に
濃いグレーの建物が見えてきた。
「あそこの5階だよ」
「えっ?でもあれってマンションじゃないですか?」
梨華はオレの顔とその建物をキョロキョロと交互に見つめている。
「そうだよ。事務所っていっても裕子さんのところはマンションの一室を
オフィス代わりにしてるから。さあ行こう」
まだいまいち状況を把握できていないような梨華の手を引くと、マンション
の中に入り、入り口のところにあるエレベーターのボタンを押した。
「私、事務所っていうものだから、会社が色々入っているようなビルを想像
してましたよ」
「裕子さんのところは使っている人数が少ないから、雑居ビルなんかに
事務所を置くよりも、かえってこういうマンションの一室を借りた方が都合いいんだよ」
「そうですか……なんだかすごく緊張してきました」
「大丈夫、みんないい人だから」
そうこうしているうちにエレベーターが来た。6、7人が乗れるほどのスペース
に一緒に乗ると、オレは5階のボタンを押した。

5階で降りると一番南側の角まで歩き、『ムーンライト』と書かれた黒塗りの
ドアの脇にあるインターフォンを押した。ピンポーンと小気味よいチャイム
の音が流れる。
「はーい」
少し経ってインターフォン越しに裕子の声が聞こえた。
「オレです。梨華を連れてきました」
「ちょっと待ってなぁ」
やがてドアが開くと中から裕子が顔を出した。
「おはよう。あんた、わざわざ梨華ちゃんをここまで連れてきてくれたんか」
「ええ、今日が初日ですから」
と言ってオレは梨華の背中を押した。
「おはようございます、中澤さん。今日からよろしくお願いします」
「おはよう、梨華ちゃん。こちらこそよろしくな、さあ入って」
裕子が梨華を部屋へと招き入れる。
「それじゃ、オレはこのへんで」
梨華が部屋の中に入っていくのを見届けると、オレは玄関に立っている
裕子に声をかけた。
「なんや、もう行くんか? 折角だからお茶でも飲んでいけばいいのに……」
「仕事ありますからまた今度にします。梨華のことよろしくお願いします」
「ちゃんとわかってるって、私にまかしとき」
と言って裕子は小さくウインクをした。

帰りがけ、行きと同じようにエレベーターに乗り一階まで行った。
「あれっ、どうしてこんなところにいるの!?」
「おっ、紗耶香」
エレベーターのドアが開くと、前に紗耶香が立っていた。
「オレの知り合いが今日から裕子さんのところで働くことになったんで、
挨拶ついでに送りに来たんだ」
「そういえば……その話、裕ちゃんから昨日電話で聞いたよ。
私より若いんだってね、その女の子」
「ああ、まだ若いから世間知らずな面があると思うけど、いい子だからよろしく
面倒みてやってくれ」
「うん、わかった」
紗耶香はピースサインをして微笑んだ。
「それにしても……すごい格好してるな、今日は引っ越しの手伝いでもあるのか?」
オレはまじまじと紗耶香の格好を見た。紗耶香は肩や胸など至る所に
ワッペンが貼られた派手なオレンジ色のつなぎを着ていて、頭には迷彩柄
のバンダナを巻いている。
「ひょっとしてこのつなぎのこと言ってる? これヒスから出てるやつだよ、
れっきとしたブ・ラ・ン・ドもの。真里と別れてもう若い娘のファッションには
ついてけなくなったんだね……かわいそうに」
と言って紗耶香はまるで同情するかのようにオレの肩を何度も叩いた。
「なんで紗耶香まで別れたこと知ってるんだ!?」
「知ってるよ。裕ちゃんが真里と会った次の日、事務所で一日中ネタにしてたもん」
「マジで? 裕子さんなんて言ってた? 詳しく聞かせろ!!」
「それは言えないよ、うちの企業機密だから。そろそろ行かなきゃ、またね」
紗耶香はオレと入れ替わるようにエレベーターの中に入るとボタンを押した。
「ちょっと待て、おい!!」
慌てて紗耶香を捕まえようとしたが、一足先にエレベーターのドアを閉められてしまった。

<……ったく裕子さん、紗耶香や圭ちゃんになんて言ってんだろ……まあいいか>
オレは気を取り直すと会社に向かった。

いつもより遅れて会社に着くと、週末の間に送られてきた膨大な量の
メールやFAXが待っていた。それら一つ一つに目を通し、必要な物には
返事を書いていると、あっという間に午前中が過ぎてしまった。
オレは梨華の様子が気になり、とりあえず手が空いたので裕子の事務所
に電話を掛けた。

「もしもし、こちら『ムーンライト』です」
「もしもしオレだけど、その声は圭ちゃん?」
「はい、私です。どうもお久しぶりです」
「あのさ、今日からそっちで石川梨華って子が働いていると思うんだけど、
代わってもらえる?」
「石川ですか? 今ちょっと紗耶香と一緒に外に出ちゃってるんですよ」
「昼飯でも買いに行ってるの?」
「いや、ヘアサロンに行ってるんですよ」
「ヘアサロン?」
「今、裕ちゃんが変わってくれって言ってるんで、ちょっと待って下さい」
すると突然、受話器の向こうの声が裕子に変わった。
「もしもし? 私だけど、梨華ちゃんならここにおらへんで」
「圭ちゃんから聞きましたよ、どうしてですか?」
「ちょーっとした用事でな、出かけてもらってる」
「用事って?」
「それは企業秘密や」
「何もったいぶってるんですか」
「男のくせにごちゃごちゃとうるさいなぁ……そんなこと帰ってから梨華ちゃん
に聞けばええやん。ま、聞かなくても何してたかわかると思うけど……」
裕子は明らかにオレをからかって楽しんでいるようだ。
「どういうことですか?」
「まあええやん、今忙しいから切るで、またな」
裕子はそう言って笑ったまま、一方的に電話を切ってしまった。

<いったい何だったんだ……>
梨華のことがまだ気にはなったものの、電話をかけ直したところで裕子が
素直に教えるとは思えないので、受話器を置くと机にうつぶせになった。

「お昼まだですよね、一緒に食べに行きませんか?」
オレが顔を上げると、机の前になつみが立っていた。
「あれ、安倍さん今日は弁当じゃないの?」
「今日は寝坊しちゃって、作ってこなかったんですよ」
と言ってなつみは照れ笑いを浮かべている。
「他の人たちも誘う?」
「みんなもうとっくに出ちゃって私たちしかいませんよ」
フロアを見渡した。何人か弁当を食っている人間はいるが、それ以外は
確かに出てしまった後みたいだ。
「そっか、じゃあ一緒に行こうか」
オレは両手を上に上げ背筋を伸ばすと、そのまま立ち上がった。

なつみを連れ街路樹が並ぶ表通りを歩いていると、そういえばこれまで
なつみと二人きりでメシを食ったことなどなかったことに気がついた。
折角だからたまには普段行かないようなカフェにでもいこうと思い、
いくつか店を見て回ったがこの時間どこも満員で、結局オレが普段
穴場として使っている、カウンターだけの洋食屋に向かった。
磨りガラスのドアを開け、細長い作りの店内に入ると、タイミング良く
2つ並んだ席が空いていた。イスに座ると、オレがハヤシライス、なつみは
海老フライランチを注文して、それらを待ちながら世間話をした。
「いつもこういうところでお昼は食べているんですか?」
と言ってなつみは店の中を見回している。
「そういうわけでもないよ。定食屋の時もあるし、ラーメン屋の時もあるし、
いろんなところに行くよ」
オレはグラスの中の水を一口飲んだ。
「私も今度から外食しようかな」
「なんで? 弁当の方がいいじゃん。昼飯代って結構バカにならないよ」
「確かにそうなんですけど、でも一人分だけお弁当を作るのっていうのも
逆にお金がかかっちゃうときあるんですよ。安く押さえようとするとつい
晩御飯の残りとかになっちゃったりして」
「安倍さんって一人暮らしだっけ?」
「そうですよ。実家は北海道ですから」
「一人暮らしだったら確かに自分で作ると高くつくってことはあるよな」
なつみの話に相づちを打っていると、やがて食事が運ばれてきた。
壁に掛かった時計に目をやり、まだ割と時間がある事を確認すると、
なつみに合わせてゆっくりと食事をすることにした。

「月曜日の仕事ってなんか憂鬱だよな」
他愛ない会話の中で、オレはふと呟いた。
「そういえば今日はいつもより遅く来てましたね」
「ああ、ちょっとした野暮用があってね」
オレがそう答えると、急になつみは眉間にしわを寄せ何やら考え込みだした。
「あの……週末とかは何されてました?」
「特にこれといったことはしてないよ。買い物したり、飲みに行ったりかな。安倍さんは?」
「私ですか? 私も買い物に出かけたくらいです」
と言ってなつみは、オレの顔をじっと見ている。
「どうした? オレの顔に何か付いてる?」
「ひょっとして……日曜日、アウトレットモールにいませんでしたか?」
「なんで知ってるの?」
思わずハヤシライスへと伸びたスプーンが止まった。
「やっぱりそうですか。私もあの日、あそこにいたんですよ」 
「だったら声かけてくれればよかったのに」
「そんなことできませんよ……デートの邪魔したら悪いじゃないですか」
「えっ?」
「見ちゃったんです。女の子と楽しそうに歩いているところを」
なつみは心なしか不機嫌な表情を浮かべ、懸命にご飯を口に運んでいる。
「別にデートしてたってわけじゃないよ」
オレは苦笑いを浮かべた。なつみの目から見ても裕子と同じく、
オレと梨華がつき合っているように見えたのだろうか。
「だってすごく仲良さげでしたよ」
「……よく見てたね。でもあの子はただの親戚で、そういう関係ではないから」
あれこれ詮索されると面倒なので、裕子の時に言い訳として使った嘘を再び使うことにした。
「そうなんですか?」
「ああ、頼まれて一緒に買い物に行っただけだよ」
オレはきっぱりとした口調で言った。
「本当ですか? なーんだ心配して損しちゃいましたよ」
「心配って?」
「いえ何でもないです!!」
なつみは大げさに手を横に振ると、いつもより甲高い声で笑った。

なつみとの食事が終わり会社に戻ると、午後からは週一で行われる定例
会議、それから新しい企画のリサーチや、マーケティングの人間との
打ち合わせなどが待っていた。残業などまっぴらなオレは、退社時間ぎりぎり
までにそれらすべてを終わらせると、足早にアパートへと帰った。

「ただいま」
玄関のドアを開けるとすでに梨華の靴があり、部屋の中からは野菜炒めか
何かのうまそうな匂いがした。
「おかえりなさい。私の方が早かったみたいですね」
靴を脱いでいると、梨華が玄関にやってきた。
「晩御飯作ってくれてるの?」
「あまり凝ったものじゃないですけど」
「気にしない気にしない。作ってもらえるだけありがたいよ」
靴が脱ぎ終わると梨華に顔を向けた。視線が梨華のすらっとした足もと
から、菜箸を持つ手、そして顔へと徐々に上がる。
「どうしたのその髪?」
と言ってオレはしばらく梨華を見つめた。今朝見たときは黒かったはず
の髪が、今はほとんど金色に近い茶色に変わっている。
「変ですか、これ?」
梨華は少し困ったような表情を浮かべながら、ばつが悪そうに指を自分の
髪に指を絡ませる。
「いや別に変じゃないけど……びっくりした」

オレはとりあえずリビングに行ってソファーに座り、もう一度梨華の髪をよく見た。
「ひょっとしてヘアサロンに行ったのって、この為?」
「どうして知ってるんですか?」
「どうしてって、梨華の様子が気になったから、昼頃裕子さんの所に電話
したんだけど……聞いてない?」
「そんなこと全然聞いてませんよ」
梨華がきょとんとした目つきで答える。オレは裕子さんとの電話のやりとりを
思い返し、一人納得した。聞かなくてもわかるとはこのことだったのだ。
「どうして仕事中に髪を染めることになったの?」
「決まり事なんです」
梨華がいきなりまじめな顔をして答えた。

「決まり事?」
「服装は自由でいいけど、髪は黒以外じゃないとダメだって、中澤さんが……」
とそこまで言いかけると、梨華は髪を染めるまでの経緯を簡単に説明してくれた。
オレが梨華を事務所まで送っていった後、梨華は緊張しながらも圭ちゃん
や紗耶香の前で自己紹介を済ませた。そしてさあこれから仕事だと思って
いると、突然裕子さんに、事務所の決まりだから髪を染めてくるようにと
言われ、紗耶香の案内でヘアサロンに連れて行かれたそうだ。
「そういえばあそこの人間ってみんな髪染めてたよな。料金は中澤さんが
出してくれたの?」
「はい。次回からは自己負担なんですけどね……でも、そこのヘアサロンの
店長さんと中澤さんが知り合いらしくて、次行ったときからは半額でやって
もらえるらしいです。一緒に来てくれた市井さんは染め直してましたよ」
「また紗耶香は髪の色変えたのか?」
「今はうすくピンクが入ったオレンジ色になってます。格好いいですよ」
「へぇ相変わらずだな。そういえばあいつ、水色にしたこともあるんだよ」
昔、裕子に呼び出されて飲んだときのことを思い出した。確かその時、
紗耶香は次の日パンクのコンサートに行くと言って張り切っていたのだった。
「あの……私の髪についてはどう思いますか?」
ふと気がつくと、隣で梨華は再び指に髪を絡ませ、つまらなそうにしている。
オレはあわてて取り繕うように梨華の頭を撫でた。
「さっきはいきなりだったから驚いたけど、いいんじゃないかな。
よく似合ってると思うよ」
「本当ですか? 今までこういう事したことなかったんで、ちょっと不安だったんです」
と言ってオレの袖を掴むと、梨華は嬉しそうに笑った。

梨華が髪の色を変えた翌日の午後、会社で取引先からのメールに
目を通していると携帯が震えた。スーツのポケットから出しディスプレイを
見ると、裕子さんの名前が出ている。

「どうしました今日は?」
「つれないなあ。用事がないと電話かけちゃいけないんか?」
「そんなことはないですけど、仕事中ですから長話はできませんよ」
右手をマウスに乗せ、パソコンのモニターを眺めたまま言った。
「そんなら手短に説明するわ。金曜日飲むんやけど、来れるか?」
「あの、いくらなんでもそれじゃ短すぎますよ。もう少し詳しく説明してください」
「長話できないって言うから短くまとめたのにしゃあないな……」
裕子さんの声が大きくなった。
「梨華ちゃんに一日も早くうちの事務所に慣れてもらおうと思って、
梨華ちゃんの歓迎会&親睦会やるから、あんたもどうやと思って誘ってるんや」
「……そういうことですか」
何となく乗り気になれない。
マウスから手を離し、モニターの脇にある卓上カレンダーに書かれた
金曜の日付を人差し指で押さえた。
「遠慮しておきますよ」
「なんや忙しいんか?」
「そういう訳じゃないですけど、オレが参加するべきではないと思うんで」

「どういうことや?」
「『どういうこと』って、そういうことは普通、仕事場の人間だけでやること
ですよね? 部外者が加わるべきじゃないですよ」
「そんな事気にしいへんでもええやん。圭ちゃんも紗耶香もオッケーだって
言うてるし、それに梨華ちゃんもあんたが来た方がきっと嬉しいで」
「別にオレと梨華が一緒に暮らしているからといって、常にワンセットでいる
必要はないと思いますが……」
日付の上にボールペンでバツを書いた。

「すいません、また今度誘ってください」
「わかった……無理に誘ってもしゃあないよな。でもな、もし気が変わったら
直前でもいいから連絡してな」

金曜日の夜は久しぶりに独りか……。
携帯を切ると同時に不思議な安堵を感じた。
両肘を机の上に乗せ、人差し指と中指でこめかみを何度も繰り返し強く揉む。
思えば梨華に出会ってから今日までの五日間、ひたすら慌ただしく時が流れていた。
おかげで真里と別れて以来常に感じていた孤独は無くなり、
馬鹿みたいに酒を飲むこともなくなった。
精神的にも肉体的にも良い傾向なのかも知れない。

でも漠然と、「これでいいのか?」 という気分が続いている。

それから三日後、仕事が終わり寄り道せずに真っ直ぐ家に帰ると、
玄関の電気は消えたままで誰もおらず、変に懐かしい感じがした。

「多分帰りが遅くなると思います」と言って、今朝梨華はバイトに出かけた。
きっと今頃裕子さんに沢山飲まされていることだろう。

リビングでコートを脱ぎ、ソファーに腰を下ろした。
急な打ち合わせで昼飯が遅れたため特に腹は減っていない。
まだジンのボトルは残っている。
とりあえず飲もうかと考えたが、たまには違うことをするのもいいかもしれない。
ジーンズとVネックのコットンセーターに着替え、その上にパタゴニアの
ナイロンジャケットをひっかけた。
レガシィワゴンにガソリンは満タン近く入っている。
オレは車のキーを握ると部屋を出た。

車に乗ってから30分間、混雑している都心への道は避け、国道20号を
ひたすら西に進む。次第に同じ方向へ向かう車は減り、二車線あるうちの
右側だけを選んで走り続けた。何も音楽をかけていない車内にはエンジンの排気音だけが流れる。
ふと、誰もいない助手席に目を向けた。
助手席前のグローブボックスには夏に真里がよく聞いていたHIPHOPの
CDが入っている。頭の中に重低音の効いたトラックがよみがえる。
あの頃の真里の声と一緒に。
思わず胸が詰まり、息苦しくなってウインドウを開けた。
冷たい空気が風となって入ってくる。
大きく息を吸って吐いてみたがまだ落ち着かない。
気がつくと路肩に車を止めていた。

うす暗い車内でハンドルの右側にあるデジタル表示の時計が10時15分を指し、
ライトグリーンの光を放っていた。
車のエンジンを切って外に出ると、街路樹の脇を通り抜け、近くにあるコカコーラの
自動販売機でアクエリアスを買った。
手が缶のまわりについた水滴に触れ、ひんやりとした感触が伝わってくる。
汚れを気にせずガードレールに寄りかかると、缶の飲み口を袖で軽く拭いてから
プルトップを開け、半分ほど一気に飲み干した。
空腹状態の胃に冷たさを感じる。
空を見上げると、道路を挟んで向かいにあるビルの先に曇りなく澄んだ月が見えた。

真里とは散々話し合い、その結果としてお互い納得の上で別れた。その後一度も
向こうから電話やメールは来ていないし、こちらからの連絡もしてない。
今更ヨリを戻したいとは考えていないはずなのに、なぜこんなにも気になるのだろうか。

気がつくとそばにあった街路樹に右の拳を打ち付けていた。
でこぼこした幹の感触、そしてじわりとした痛みが伝わってくる。
……まったくいい歳して何やってんだ。
答えの出ない苛立ちを感じながら、空になったアクエリアスの缶を踏み潰した。

車に戻り、乱暴にドアを閉めるとナイロンジャケットの裾が挟まった。
思わず舌打ちをして再びドアを開ける。
エンジンをかけた後、眉間を人差し指と親指で押さえ、目を閉じた。
しばらく間をおいてからハンドルに手を置き、トルク音でリズムを取りながら
ゆっくりと二,三度大きく深呼吸をする。
スカパラの『めくれたオレンジ』を大音量でかけて車をスタートさせた。
両サイドにあるスピーカー、カーゴスペースに置かれたウーファーが空気を震動させる。
ギアを上げ、いつもより強くアクセルを踏んだ。

大丈夫。オレは大丈夫だ。

部屋に戻ったのは1時過ぎだった。
リビングに梨華がいた。ソファーに座らずカーペットの上で膝を崩しテーブルに寄りかかっている。
「帰ってたのか?」
「帰ってたのか? ってもうこんな時間ですよ」
そう言って梨華は口をとがらせると、テーブルの上で手を組みその上にあごを乗せた。
「裕子さんのことだから梨華のことを朝まで連れまわすんじゃないかって思ってたんだ」
「そんなことないですよ。みんな12時には駅で解散しました」
ナイロンジャケットを脱いで梨華の横を通り過ぎた。ジャケットをクローゼットの中に片付ける。
「何かあったんですか?」
「ん?」
「中澤さんが何度も言ってましたよ。様子が変だったって」
「そんなことないさ。今日参加しなかったことを気にしてるだけだろ」
梨華と距離を置いて深々とソファーに座り、テレビをつけた。
見慣れない若手芸人が出ているバラエティ番組。面白くも何ともない。
「やっぱ何か変ですよ」
梨華が立ち上がった。オフホワイトのタイトなタートルネックにダークブラウンのコーデュロイパンツ。
先日アウトレットモールに行ったときに買ったものだ。細い身体のラインが浮き出ている。
「少し酔ってるのか?」
「酔っぱらってなんてないです!」
「そうか? 顔赤いけど」
オレはやれやれといった感じで肩をすくめると、ソファーを立ち上がりキッチンの棚から
ショットグラスとジンのボトルを取った。シーグラムの750ml瓶。中身はもう僅かしかない。
「私と目を合わせてくれないじゃないですか」
「気のせいだよ」
再びソファーに腰掛け、両膝の上に肘を乗せた。
「久しぶりに長い時間車で走ったからちょっと疲れたんだ」
グラスに注いだジンを一気に呷った。喉が灼け、それが全身に広がる。

「私がいると迷惑ですか?」
梨華は立ったままこっちをじっと見ている。
「どうしてそういう風に考える? そんなことあるわけないだろ」
「正直に言ってください」
「梨華のことを迷惑だなんてこれっぽっちも思っていないし、オレは何も変わっていない。
よく考えてみな、今朝の態度だって普通だったろ? 裕子さんに何て言われたかは
知らないけど、気にしすぎだよ」
梨華の目をじっと見ながら、親が子に向けるような慈しみの笑みを作り、できるだけ
ゆっくりと穏やかに話した。
「そうですか……私の勘違いだったならいいんです」
梨華は一応納得したのかオレのすぐ隣に腰を降ろした。
「今日は楽しかった?」
「そうそう、聞いてくださいよ……」
梨華は目を細め口元をわずかに広げてほほえむと、自分のために三人が開いてくれた
歓迎会がどんな様子だったかを身振り手振りをふまえ説明し始めた。
「……で保田さんが最後にタン塩を頼んだ後、カラオケに行ったんです」
「圭ちゃんと紗耶香はデュエットしてただろ」
「ええ、してましたよ。すごく上手にハモっててびっくりしました」
「あの二人さ、去年の夏にNHKのど自慢大会に出るとか言って毎晩のようにカラオケボックス
に通ってたんだよ」
「本当ですか?」
梨華は前かがみになって身を乗り出した。
「でもこれオレが言ったこと内緒な。鐘は最後まで鳴らせたんだけど、チャンピオンに
なれなかったからってあの二人の前じゃタブーになってるんだ」
といってオレは笑った。気がつけばつい先程まで悩み続けていたことなど忘れどうでもよくなっていた。
別に悩みをうち明けなくても、話し相手がいるというのはいいのかもしれない。
「腹減らないか?」
「うーん、少しだけ」
「冷凍庫にピザが入っているからそれでも食べようか」
オレは何となく気分が良くなり立ち上がった。
バラエティ番組はすでに終わっていたらしく、テレビには春から始まる新作ドラマのCMが流れていた。