073
名無し娘。 投稿日: 2001/06/15(金) 01:07
マンションの一室。男が顔を真っ青にし、壁に背を着けながら「誰か」に
懇願している。
「う・・・うわぁぁぁ!!」
「俺が悪かったよ・・・あ、あいつの嫉妬する顔が面白くて、
ただそれだけで・・・あの女にはなにも・・・」
その言葉を聞いているのかいないのか、男が話し掛けている「誰か」は、
男に一歩近づいた。
「・・・ひぃっ!・・・」
ビシュッ
「・・・かお・・・り・・・」僕は今日こそは逃げ出そうと思っていた。大学の先輩との飲み会から。
「ホレ行けグッと!それそれ!!」
先輩達は半ば強引に僕に酒を進めた。
仕方なく僕はジョッキのビールを飲み干した。
「・・・プハーツ!・・・って、もーっ止めて下さいよ先輩!
僕は下戸だって言ってるでしょ!?」
「おいおい、二十歳にもなってまだ童貞じゃサマにならんぞお前」
「ほっといて下さい!」
「まぁそれはそうとホラ、この間言った件・・・俺の妹だがよ、
会ってみる気、まだならねーかな?あいつがあんな本気になったの
初めて見たんだよ・・・先月お前が俺んち来た時よ、アイツ一目惚れ
しちまったらしくて・・・お前スゲーいいヤツだし、お前なら、
思ったんだけどな・・・」
幾ら先輩の妹さんと言え、そう簡単に返事する事は出来なかった。僕がそうやって返事に困っていた時、先輩の友人が飛んできた。
「ちょっとちょっと大変だぞ!となりのマンションで殺人があったんだって!」
「内臓が散乱してるんだと。見てきたやつが便器とお友達してる」
「で、捕まったのか犯人は?」
「いや、それがまだみたいでさ。警察犬連れたお巡りさんが
近所を捜索してるよ」
「げげーっ、物騒だなー。早く帰った方がいいんかもなー」
どうやら殺人事件があったらしい。とは言ってもその時の僕は、
あくまでも自分と関係のない話だと思い、さらりとその話を聞き流していた。
しばらく後、僕は居酒屋を出て、夜の街を歩いていた。
そう、その時だ。「彼女」と出合ったのは。真っ直ぐビル街を通り抜けたと思った瞬間、「彼女」が
角から出てきたのだ。予想もしない所から人が出てきたのだから、
当然僕と「彼女」はぶつかってしまった。
「あっ!!す、すいませ・・・」
僕の方を見た彼女の長い黒髪、絶対に忘れはしないだろう。
そして、大きく、何かしらの強い意志すら
感じられる瞳も。その瞳を見た時、思わずゾクッとしてしまった。
しかし僕は彼女の目に吸い込まれそうになりながら、彼女の手に異常が
あるのを発見した。「彼女」の手からは血が流れていた。綺麗とも言えるほど
その血は赤かった。「その手、怪我・・・」
「そこで・・・野良犬に噛まれたの・・・」
彼女は先程まで瞳の印象とは打って変わって、
俯いたまま静かに言った。「イゾルトー!!イゾルトー!!」
深夜のビジネス街に響く声。叫んでいるのは警察犬を
連れて殺人犯を捜索中の警官。
「どうしたんだ?」
「警察犬が一頭いなくなって・・・」
「何だ!?こっちは逃げた犯人探しで手一杯なんだ!
逃げた犬なんか放っとけ!」
「いやぁ、それがアイツ何か嗅ぎ付けたらしくて
すごい勢いで走って行っ・・・!!
へっ・・・イ・・・イゾルト!?」
「う・・・うわぁぁぁぁ!?」
警官たちが見つけたもの、それは、
バーの看板の上に、まるでオブジェのごとく乗せられた、
血まみれの警察犬の頭だった。僕は彼女を近所の小さな街医者まで連れて行った。
連れて行く間、彼女は一言も発さなかった。
そして、病院の前まで来て、僕が医者に話をつけてくると
言った時、彼女はやはり何も言わなかった。ただ、その表情には
拒否を意味する感情が込められていた。それに今更ながら気付いた僕は
結局自分のアパートまで連れてきてしまった。「・・・はいっ!」
「・・・どうも・・・ありがとう・・・」
僕は一応の応急処置を施した。とは言え素人の仕事だ。次の日こそ
医者の所に行ってもらわないと、と思い自分の方から話し掛けてみた。
「明日は必ず病院に行ってくださいね。そうそう、家はどこです?
送りますから・・・」
やはり彼女は何も言わなかった。すでに彼女が自分の方から喋る
タイプではないと分かっていた為、僕の方からどんどん話し掛ける事にした。
「さっきは引き下がったけど今度はダメですよ。家の方が心配しますからね」きっと僕はその時少しばかり浮かれていたのだろう。
台所で酔いを覚ますための水を飲みながらも僕の顔はにやけていた。
「早くしないと終電でちゃうナー・・・」
自分で思い出すだけでも恥ずかしい。明らかに「今夜は逃がさない」
という、狼の意気込みが丸分かりの言葉だ。
「おまけに殺人犯がウロついてるし・・・
キミみたいな綺麗な人だったら余計に・・・」
続きを言い終える前に僕は飲んでいた水を噴出しそうになった。
いつの間にか、彼女の手が後ろからするりと伸び、僕の体を
抱いていたのだ。「・・・!?・・・」
一瞬何事かと思った。が、次の彼女の言葉が、その行動の意味を語っていた。
「いくところが・・・ないの・・・」
その言葉を聞いて、僕はしばらく動けなかった。時計を見ればもう1時。言うまでもなく、彼女は僕のアパートで
一晩を過ごす事となったのだが、いくらなんでもさっき会ったばかり
の男女が、同じ屋根の下寝るのはマズイだろうと思い、その場しのぎで
カーテンを敷居代わりにし、眠る事にした。
僕が寝間着に着替えている最中。ようやく「彼女」が名前を言ってくれた。「わたし、『カオリ』っていいます・・・」
「僕は、○○大学の××って言います」
「ごめんね無理ばかり言って・・・でも・・・
優しいんだね・・・見ず知らずのわたしなんかに・・・」
カーテン越しに見えるのは「カオリ」の艶かしい体のライン。
僕はいい歳こいて思わず赤面してしまった。「い、いやぁ、やっぱり・・・『カオリ』さんみたいな
女(ひと)からあんな頼まれ方したら断れないっす・・・」
喋り方までおかしくなっている。もしかしたら、僕はこの時点で
彼女の術中にはまっていたのかも知れない・・・。そう、幼い頃からひどい内気で、フォークダンス以外
異性の手も握った事のない僕が、突然知り合った女の人と
一つ屋根の下にいる・・・。こんな事故郷の親父が知ったら
赤飯炊いて喜ぶだろう。そうやってあれこれ考えたものの、やはり、眠れない。
僕はどうしても「カオリ」が気になり、声を掛けてみた。
「カ、カオリさん・・・?寝ちゃったんスか?」
結局声をかけるだけでは収まらず、ちょっと見るだけなら・・・
と思い、カーテンを開けてみた。カーテンの向こう側には、
手当てした傷口を抑え布団に突っ伏している彼女がいた。「!!カオリさん!?もしかして、傷が痛みますか!?」
僕はすぐさま彼女の手を握り、彼女を起こした。
そして彼女の体がこちらを向いたと思った時にはすでに、
彼女は両手を僕の首に回していた。
「! カ、カオリさ・・・!?」
彼女の顔が目と鼻の先にあった。こんな時、
全く喋れなくなる自分が情けない。
「あっ、あのボッ・・・ボクは・・・ボクは・・・
そっそんなつもりでは決して・・・ホントに・・・」
必死で拒んだつもりだったが、目の前の、彼女の潤んだ瞳を見て、
僕は彼女に抗えなくなった。そして、僕は、彼女を、受け入れた・・・。翌日、大学に行ってはみたものの、どうにも体がだるい。
「どうしたい?元気ないな?二日酔いか?」
友人も心配して聞いてきた。
「はは・・・二日酔いするほど飲めないよ・・・」
(おかしい・・・まるで自分の体じゃないみたいだ・・・
おまけに・・・昨夜の記憶がまるでない・・・あるのは、体中のそこかしこ
にある、カオリさんの感触だけ・・・)
その日僕はなんとか一日乗り切った。そして家に帰り、横になろうと思ったが、
テーブルの上には夕食が並んでいた。彼女が作ってくれたのだ。
しかし、用意された夕食は一人分。
「・・・カオリさんのは・・・?」
「ちょうど中途半端な時間に食べちゃったから今はいらない・・・」少し不思議に思ったが、本当に不思議に思ったのは彼女の手を見た時だった。
(治ってる!?一日二日じゃ治らないような怪我だったのに!?)
そんな疑問を抱いた僕に気付いたのか、珍しく彼女の方から聞いてきた。
「どうかした?」
「いや・・・いいんだ・・・いただきます・・・」次の瞬間には、これを不信に思う感覚や興味が、
多分脱力感からだろう、すぐに消え失せていた。
食事を口に運ぶ作業さえ辛く感じるくらいに・・・。
しかし、それとは無関係に、僕は毎日彼女を抱いた。それでも僕は残り僅かな正常な意識で、ついに病院へ検査に行った。
「脈拍も血圧も異常だよ!?一体何をやったら君みたいな
若い者がこんなに・・・とにかく、入院の手続き取って下さいよ!?
いいですね!?」
「出来ません・・・」
「な、なんだって!?君、そこまで衰弱して何を言っとるんだね!?
金の問題じゃないんだぞ!こら!聞いとるのか!・・・」僕は医者の再三の注意にも耳を傾けなかった。自分でも体が異常な状態
なのは分かっていた。だが、一番異常だったのは、それを分かって尚
入院を拒んだ自分の意思だった。いや、意思と言うより感覚なのだろうか。(彩と関わって以来、僕の体は分刻みに衰えていく・・・・・・
だけど・・・いやだ、そんな事信じたくない!!)
彼女の大きな瞳がそんな考えを起こす。
僕がふらつく体を何とか保ちながら病院の帰り道を歩いていると、
先輩が偶然僕を見つけ、話し掛けてきた。「おい!お前・・・」
「せ・・・先輩・・・」
「どうしたんだ・・・?こんなにやつれちまって・・・
なぁ、大学のみんなも心配してるんだぞ!?」
「・・・・・・もう、僕には構わないで下さい・・・」
夢か現実かも分からない、朦朧とした意識の中、
僕はふらつく足取りでアパートに帰った。やっぱりテーブルの上には一人分の食事。
「また、僕の分だけ・・・?君がここへ来て一度も
一緒に食事を取った事がないね」
「・・・・・・そうかな?」
「夕方・・・外出した?」
「・・・え?・・・・・・
ううん。ずっとここにいたけど・・・なんで?」
「・・・異変を感じた僕が逃げると思ったのかい?
心配しなくたっていい・・・。今の僕には自分から君を失う勇気はないよ」
もう僕は、彼女の存在がどういうものなのか、薄々感じていた。
「そしてその気持ちが一晩一晩生命を短くする魔性の妖力のせいだとも
・・思いたくないんだ・・・」
そして彼女もこちらの気持ちが分かったのか、
僕の思っていた通りの事を話し始めた。
「君、本当に優しいんだね・・・
これまでの男(ひと)はカオリに生気を奪われる事に気付いて
逃げる事はしても・・・君みたいな献身はなかったな・・・
でも君の場合、その優しさや内気さは時として狂気と化す事を
覚えて・・・いや・・・その必要はもうないね・・・だって、
君は今夜・・・・・・死ぬんだもの・・・・・・」彼女は至って無邪気な顔でそう言った。それが当然の事のように。
そして僕もまた、そんな彼女に対し、ただため息しか出せなかった。
そんな僕を見ても、彼女は淡々と話し続けた。「・・・この間、○○と初めて会った日に死んだ人ねぇ、
他に女が出来て、恋人をまったく面白半分に棄てたの・・・
結果、彼女は自殺したの・・・」その時の彼女の顔は今でもよく覚えている。
うっすらと笑顔を浮かべながら話していた。大きな瞳を
相変わらず輝かせ、ぽってりとした厚めの唇は、怪しく濡れていた。「その前の人は、必死に告白した女の子の気持ちを逆手に取って、
その気もないのに三年間も焦らしてたし・・・それから・・・」「・・・君はいったい・・・何だ・・・?」
僕は、ついに、彼女に尋ねた。ずっと開けたくて開けられなかった
最後の扉を開いたのだ。すると、カオリは笑顔を保ったままこう言った。「・・・私は・・・『カオリ』・・・『女』・・・それだけ・・・
悔しくて・・・恋しくて・・・切ない心が・・・カオリを創るの」彼女がその言葉を言い終わった瞬間、僕の頬に一筋の線が引かれた。
赤い線が。血だ。彼女の仕業なのか・・・?彼女の方を見ると、
彼女はただにっこりと笑っていた、が、瞳の中は吸い込まれそうなほど
黒く、深く、そして冷めていた。それを見て、
ようやく僕は現実に戻る事が出来た。「可哀相な女性(ひと)だ・・・あなたは・・・女の弱さ、そして
優しさの集合体(かたまり)・・・」
ガッ
「うっ!!」一瞬の内に、彼女の手は僕の首を掴んでいた。
「う゛ぅっ・・・」
そのまま僕は本棚に体ごと押し付けられた。
「うふふっ、どうする?あの男みたいに内臓を引きずり出そっか?
それとも犬みたいに首をねじ切ろうか?」彼女の表情はあくまでも笑顔のまま。だがその手には明らかに女性には
ありえない力が加わっていく。僕は遠くなる意識の中懇願した。「き・・・きみが・・・人殺しだなんて・・・・・・
やめてくれ・・・頼む・・・ううっ・・・」それでも尚、彼女は僕の首を絞め続けた。
「・・・命乞いならもっと上手にやったら?」
そう言うと彼女はトドメとばかりに、更に力を強めた。
「ぐうぅっ!・・・」
(殺されるのか・・・?僕は?彼女に・・・?
いや、それでもいい・・・彼女なら・・・彼女になら・・・)僕は、恐らくこれが最後の言葉になるであろうと思い、
余力を振り絞って声を出した。「カオリ・・・・・・僕で最後にして・・・くれ・・・」
「・・・・・・」
その言葉を聞いて、カオリの表情に変化が起きた。あれほど
崩れなかった冷めた笑顔が消え、まるで何かを哀れむかのような
顔になったのだ。「愛せないなら・・・仕方ないよ・・・でも一番悲しくない
方法を・・・とって欲しいだけ・・・」言いながら、カオリの目には涙が浮かんでいた。最初で、
最後の涙。ずっと暮らしてて、初めて見る涙。
彼女は言葉を続けた。「みんなあなたみたいでいてくれたら・・・カオリは、おだやかな
優しいままでいられるのに・・・」次の瞬間、彼女の身体は空中に四散して、あっと言う間に消えた。
僕はそのまま本棚に背中を預けたままへたり込んでしまった。
一瞬何が起こったのか理解出来なかった・・・。
ただ、異様なまでの体の気だるさと、口の中の血の味と、
首の痛さが現実だったのを覚えている・・・。次の日、僕は病院にいた。今回は自らちゃんと入院した。
もう、彼女の呪縛はないのだから。そう、切なくて、悲しい、
愛の鎖。
僕は一人きりの病室の中、窓から秋の空をぼんやり眺めていた。(カオリがなぜ僕のところへ来たのか。僕なんかの事を慕ってくれる
女の子がいるって事だろう・・・誰・・・!?・・・優しさや
内気さは時として凶器と化す。生半可な遠慮は優しさじゃない
って事かい?確かにカオリ・・・君を失いたくなかった時の
自分の気持ちを考えると、残酷な事だと思うよ・・・
それから、二度とそんな事はないだろうけど、もし・・・もしも
また君に会えるというなら必ず伝えたい・・・)
(優しい君が、好きだ)コンコン。ドアをノックする音が聞こえた。
「・・・は、はい?」
ガチャ。
「よーお!!○○!!」
「せ、先輩!」
正直驚いたが、一人で寂しかったのも事実。思わず歓喜の声を
上げてしまった。「ほら、心配して損したなぁ。ピンピンしとるぞ!!
照れないで入って来いよ!」先輩は後ろを向いて誰かに話し掛けていた。誰だろう?
他の先輩?友達?しかし、僕の予想は外れた。「どうしても来るってきかないもんだからな・・・妹だ。
前に一度会ってるよな?ほら、挨拶して!」そう言われ、おどおどしながら参拝の妹は顔を上げて挨拶した。
「飯田、圭織です・・・」
僕の前に現れたのは、長い黒髪の、純朴そうな
少女だった。そう、「カオリ」と同じ名前、そっくりな顔。
ただ、その表情は、あの「カオリ」のように憂いを帯びては
いなかった。いや、そんな事はあってはいけない。「先輩の後輩の、○○です。よろしく」
僕が、そうはさせない。その時、僕はそう心に誓った。
終