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153です 投稿日: 2001/07/09(月) 21:57

仕事帰り、重い足取りで繁華街の雑踏の中を歩く

大学を卒業(で)た後、夢を諦めそこそこ有名な企業に就いた。
金銭面こそある程度飽和してはいるが、やはり失った物は大きく、
そこには何の刺激もないつまらない日々が待っていた

大学出とはいっても2流大学で、やり甲斐のあるまともな仕事は
やらせてもらえないというのもあるだろう

まるで数千キロ先までが見渡せてしまう、
しかし決して終わりの見えない平坦な一本道

そんな道を、夢も希望も見失ったままただひたすら歩いていく

例えばこれが四方を水平線のみに囲まれた大海原だったとして、
いっそのこと巨大な客船と共に氷山に激突し海の藻屑と消えた方がどれほど楽か

辺りを見渡せば道沿いにコンビニが点在している
売っているのは使い捨てのライター、使い捨てのカメラ
更にコンドームや生理用品なんていう自分には不要なモノばかり、ばかり…

所詮それは使い捨ての夢…

いっそ、死んでしまおうか…
けれどそんな意気地もない、どうしようもない…

しかし彼女、市井紗耶香は、そんなオレの人生を変えてくれた

その日も会社での雑務で上司に散々扱かれ、
重い足取りのまま疲れ果てて帰路に着いていた。

ふと、かつて諦めた夢を指折り数えてみる

子供の頃夢見た宇宙飛行士
少年期に憧れたプロサッカー選手
そして、プロのミュージシャン

どれも志半ばで、まるで今目の前で折り曲げられた3本の指のように
自らの手で夢の首根っこをへし折ったんだ…やりきれない気持ちに陥る

彼女を見つけたのは、駅前の公園の噴水の縁に腰掛け、
そんな風に物思いに耽っていたときだった。

ジャラーン…

ふと物音に気付き顔を上げると、丁度、斜向かいのベンチに腰掛けて
ギターをいじっている女を発見した。

目深に被ったニットの帽子、デザインジーンズにレザーのジャケット
という服装のため推測の域を出ないが、確かに女性の体つきだった。

(女の似非ストリートミュージシャンか…)

最初は、ヤケにか細いその華奢な身体やファッション性から推測して
その程度の認識でしか見ていなかった。

古風な考え方ではあるが、妙に小綺麗でおしゃれに着飾った格好しているヤツ
なんてストリートミュージシャンと認めたくなかったし、
そんな面で飽和してるヤツに、音楽に変換するほどのやり場のない
不満や怒りがあるとも思えなかったからだ。

自分の信条として「音楽とは怒りだ」と思っていたのだ。

だけど、チューニングを終え、コホンと1つ咳払いした後に
彼女が唄い出した唄に思わず聞き入ってしまった。

…!!

その唄は社会への怒りや不満などを唄ったモノで、
荒削りでこそあったけれど共感できる詩だった。

しかし本当にひかれたのはそこじゃなかった。

右耳から左耳へすり抜けていってしまうようなそんな軽い歌声ではなく、
鼓膜を振動させたあと、決して消えることなく心にまで直接響いてきた
彼女のその独特の歌声。

真っ直ぐで、静かで、
そしてそれなのに、何よりも力強かった。

そんな歌声の持ち主がどんな人間なのか知りたいという一心からだったと思う、
だからひとしきり歌い終えた彼女を思わず凝視していたのだ。

気がついた瞬間にはすでに彼女とバッチリ目が合っていた。

『目は口ほどにモノを言う』という。
だからか、人は先ず感情が1番目に表れ易いという相手の目を見て
様子を探るという。恐らく、だからそうしていたと思う。

しばらくの間、2人見つめ合ったままで時が流れていった。

「…何か用?」

先にしびれを切らせて声を発したのは彼女の方だった。
やはり声からするに女性だ、それもけっこう若そう。
目深に被ったその帽子の下から覗く表情は少し警戒しているように見えた。

まぁスーツを着て斜向かいに腰掛けたまま数十秒も黙って自分を見つめている
オトコはどう見てもオーディエンスには見えないだろうから仕方がない。

「…あ、え、その」

声を掛けられて何故だか焦ってしまった。

それはきっと彼女の声が歌声と同じだけ…いや、それ以上に真っ直ぐで力強く、
オレの心に届いたからだったに違いない。

「ナンパならお断り、オトコに興味なんて無いから」

それに、そのつっけんどんな語りぐさは、歌声よりもずっと、尖っていた。
とにかく何故だかオレはその声だけで彼女に既に夢中になってしまっていた。

「いや、ただ…いい歌声だと思って」

彼女は特に表情を変えるでもなくしばらくいると、何事もなかったかのように
次の曲を唄い出した。今度も先程と同じ、胸に響くメッセージソングだった。

それが彼女、市井紗耶香との出会いだった。

まわりを見るとほんの2〜3人だけれど聴衆が集まってきていた。

「ねぇキミ、いつもここで唄ってるの?」
ベンチに腰掛けたまま2曲目を歌い終えた直後の彼女に訊ねてみた。
彼女の唄がもっと聞きたい、その一心からの質問だった。
すると5〜6秒ほど何らかの疑いの眼差しを向けたあと、
オレの目を真すっぐに見つめたあと彼女は再び口を開いた。

「そんなことアナタに関係があるの?」
彼女は相変わらず愛想なくそう言うと、ギターをしまい込み始めた。

「もう唄わないのかい!?」
彼女は反応を見せないまま立ち上がるとギターを肩に掛けて駅とは
逆の方向に歩き出した。オレは思わずその後ろを追いかけていた。

その肩に掛けているキャリングケースはよくありがちな黒の化学繊維
で出来た様な安っぽいものじゃなくて、その表面をレザーで覆われた
ハードタイプのケースだったのでその華奢な身体にはひどく重そうに見えた。

自分でもおかしなヤツだとは思うんだけれど、何故か彼女の後を
断りも無しに付いていっている。やはりあの歌声をもう一度聞きたい。
その一心で後をついていっているんだと再自認した。

実際問題、例えあの目深に被ったニット帽の中の顔が目も当てられない
ほどの不細工でもそれはそれでよかった。歌声があんなに美しいのだから
それ以上は望まない。

「そのケース、あんまり見ない代物だけど特注品かい?」
必死で後を追いながらも、前を行く彼女が無口なままだから
ついつい間を埋めるために、普段はあまりお喋りではないのに
あまり意味のないことを口にしてしまう。

2人が歩いているのはちょうどガード下で、電車も車も走って
いなかったから、静かな空間にオレの声と彼女のブーツの音だけが
無機的に響いていた。だからこそ彼女が付きまとうオレを巻こうとして
次第にその足を早めているのがよく分かった。

そうか、きっと今のオレは彼女から見たらストーカーに見えるんだ。

「曲は自分で書いてるの?」「ギター、誰に習ったの?」
と、ストーカーではなく、純粋に唄を聞かせて欲しいんだというコトを
主張すべく矢継ぎ早に音楽に関する質問を浴びせてみるが、
それでも一向に返事はない。それどころか彼女の足並みは早まる一方だった。

しばらく歩くと彼女はガードを挟んでさっきの公園のほぼ反対側にある
もう一つの公園へと入っていった。

そこはとても閑散としたところだったけど、夜ということも手伝ってか
どこか閉鎖的な雰囲気が漂っていて、人の姿はほとんど見受けられない。
噴水があり沢山の人達が往来する先程の公園と比べると全く別の場所へ
来たように思えた。

その公園のほぼ真ん中には敷地全体にまるで傘を差すように大きく枝を広げた
大樹が一本生えていて、彼女はその根本でその歩みを止めた。

「…だから、ナンパならお断りだって言ってるでしょう」
振り返り様に彼女は少し苛立った様子で言い放った。

「いや、オレはただキミの唄が聞きたくて…」
「もうっ!言い訳してもムダなんだから!
 アンタみたいな言い訳して言い寄ってくるヤツには
 もうウンザリなのよ!!」
彼女はオレの言葉を全て聞くまでもなく突然に怒鳴りだした。
それはまるで今日日の女子高生が、別れを告げてからもしつこく
付きまとってくる元彼を罵倒でもするかのようなヒステリーな言い方だった。

「確かに勝手についてきたことは悪かったと思うけど…」
「アタシはね、アンタたちが思ってるようないい人間じゃないの!
 辛い現実から逃げ出した卑怯な人間なのよ!!」

やはり必死のいいわけも聞き入れられなかった。
それどころか、彼女は肩を震わせてすすり泣き始めたのだ。
震える手で投げ捨てた帽子の下から現れたその白い頬には
キラリと光る一筋の涙が伝っていた。

「……??」
一体彼女が何を言っているのか、そして何故泣いているのか。
全く理解できなかったし、想像すら出来なかった。

ただ分かっているのは、彼女が多くの男性から何事か言い寄られ、
見ず知らずの男の前で涙を流すほど精神的に参っていると言うことだった。

どうしていいか分からなかった。
けれどその時は彼女を抱きしめてやるべきだと思った。

近くへ寄っていっても何の拒否反応も示さない。
さっきまでの彼女が嘘のようだった。

そっと肩を抱いてやると、それは折れそうなくらい細く頼りなかった。
そして彼女はオレの胸に顔を埋め、声をあげて泣き始めた。

しばらくの間そうしていた。

夜空に光る欠けた月が彼女の濡れた頬を優しく照らしていた。

近くにあった自販機の前に立ち、どのボタンを押そうかと悩む。
人のカラダは思いっ切り泣いた後に何を欲するのかなんて有名な
生物学の権威でもない限り分かるわけがない。とりあえずポカリ
でいいかと思い、自分の分も含めてスマートな缶の方のボタンを
間隔を開けて2度押す。

ゴトン、ゴトン、と音を立てて現れたその水色と白のストライプが
綺麗なアルミ缶には夜の大気のせいで水滴がビッシリとついていて
ひんやりととても冷たかった。

排出口に手を突っ込み、液体の冷たさを指先に感じながら缶を取り
上げ振り返ると、大樹の根本に重たそうなギターケースを抱えたまま
腰を下ろした彼女がいた。

彼女は泣き腫らした目のまま濡れた頬を懸命に手の甲で拭っていて、
見知らぬ人間の前で大泣きしたことが恥ずかしいのだろう、その仕草
をそれでもさり気なく気丈に振る舞っているつもりらしい。あれだけ
散々泣いておいてそれもないだろうと思ったが、敢えて口には出さなかった。

「…これ、よかったら」
事前に拾っておいたさっき彼女が投げ捨てたニット帽と一緒にそっと
水滴の滴り落ちる缶の片方を差し出すと、彼女は少し躊躇った後、
何とも言えない様な複雑な表情でそれを受け取った。

オレはオレで自分の分を開封して口を付けたけれど、彼女は一向に
手を着ける様子がないので彼女の隣に腰を下ろすことにした。

彼女の頬も瞳もすっかり乾いたらしく、さっきまで深く被っていた
ニット帽のせいでペタンとなってしまった髪を頻りに手で触って
気にしている様子だ。

こんな体験はもちろん初めてなものだから何を話していいものかと
戸惑う。色々と訊きたいことはあったのだけれど、特になぜ急に泣き出した
のかを訊くべきなのかと考えながら2度3度と缶に口を付けていると、
口調こそまだ強張ったままだが彼女の方が先に口を開いた。

「…あんなコトしておいて悪いんだけど、
 アナタとはお付き合いできないよ…」
「…!?」

少しうつむいた彼女の横顔を何となしに見ていたもんだから、
そのいきなりの突拍子もない発言に思わず口に含んだ飲料を
彼女の方に吹き出してしまった。

「ご、ごめん…今、何て!?」
「…だって、アナタもそうなんでしょ」

オレがその問いかけに答えられず唖然としていると、彼女は取り出した
ハンカチで飛び散った水滴を拭き取りながら色々と話してくれた。

先ず、彼女の名前は「市井紗耶香」というのだというコト。

彼女はかつてアイドルグループに所属していて、そしてそのグループとは
違う音楽性を目指すために脱退し、そしてストリートで唄うようになった
と言うこと。そしてそれが原因でこの辺りで唄うようになってから
見知らぬ男数人に言い寄られて困っているということ。

「…それ、一体なんてグループ?」
「…え!知らないの?」

『モーニング娘。』

どちらかと言えば流行には疎いタイプだ。けれど、そんなオレでもその
グループは知っていた。といっても知ったのはごく最近だったし、彼女
市井紗耶香がメンバーだったということは全くもって知らなかった。

「…アタシ、てっきりそれを知ってて
 言い寄ってきたのかと…ごめんなさい」

先程までよりも少し優しい口調になったのだけれど、彼女は少し申し訳
なさそうな顔をしてまたうつむいた。まぁ普通の人間ならそう思い込ん
でも仕方がないのだろう、単にオレがその辺のコトについて無知すぎた
だけなのだろうから。

「いや、いいんだ…それより、
 これからも君の唄、聴きに来ていいかな?
 君の唄、好きなんだ」
「…いいけど」
「…けど?」

「…もう、ストリートで唄うのやめようかって…」
彼女のギターケースを抱えた腕に力が入るのが分かった。

「…昔やってた仕事があんなだから、付きまとってくる人がいるでしょ?
 だから毎回唄う場所を変えてるの。でもなんか最近疲れちゃって…
 それに音楽はストリートじゃなくても出来るし」
「そんなのダメだ、キミの唄をどこかへ閉じこめておくなんて勿体ないよ」
「…でも」
少し土が付いたままのニット帽を力無く握りしめる。

「…じゃあ、オレがキミを守ってやる」
「…!?」
「キミが唄っている間、オレがずっとついていてやる
 そうすれば問題ないだろ?…な?」
「…うん」

「ジュース、飲めよ」
彼女の手からすっかり水滴の落ちきった缶を取りあげ
開封して差し出した。
「もう温くなっちゃったぞ」

「…ありがとう」

そう言って少しだけ微笑むと、
彼女はおいしそうにそれを飲み干した。

結局のところ、あんなにもまわりに対してある種のバリケードのような
ものを張っていた彼女がオレの前で大泣きしたのかは分からなかった。
けれど、それからというもの、オレは会社帰りに毎日この公園へやってきて
彼女が唄っている間ずっとオーディエンスとして彼女の側に
ついていてやった。

確かに彼女の言ったとおり、少し目を離していると彼女に言い寄ってくる
男がいるのは確かだった。(まぁミーハーな女やそうでない様な女も結構
いたのだけれど)帽子を目深に被っていても判るヤツには判るらしい。

そんな時は、いかにも親しげに、まるで彼女の恋人であるかのように
振る舞って近寄っていくと、たいていのヤツの場合は去っていった。

しかしその事件が起こったのは、
そんなことが日課になっていったある日のことだった…

オレはいつの間にかちょっとした『モーニング娘。通』になっていた。

あれから、彼女が在籍していたというグループについて特に調べたりした
わけではないんだけれど、人間の脳とは一度その存在を強く認識すると
それにまつわる情報というモノは勝手にアタマに入ってくるようで、その
対象に対する反応感度も上がるらしい。

街を歩けば『なぁ、昨日のTVのゴマキ見た?超カワイくね〜?』
会社にいても『いや〜課長、あいぼんのスマイルには敵いませんよ!』
等という意味不明な単語が連続して出てくる不可解な会話が多く耳に
つくようになった。(まぁ以前からそういう会話は社会を飛び交って
いたのだろうけれど)

更に、普段あまり話をしないような会社の同僚に熱狂的なモーニング娘。
ファンがいることに気が付き、そいつにムリ言って『市井紗耶香』について
色々と訊ねた。彼は偶然彼女のファンらしく、まぁ訊いてもいないことを
延々とのべつくまなく話してくださりやがったお陰で色々と知ることが出来て
『市井紗耶香』に関してはかなり詳しくなった。

とはいえ『通になった』と言っても元の認識レベルが低かったものだから
それもたかが知れていて、メンバーの名前と顔が一致しないと言う世の
中年サラリーマンと同等の認識でしかなかったのだけれど、

『モーニング娘。卒業後の市井紗耶香』

に関してだけならばきっと今のオレは十分な『通』と言えるのだろう。
何せ毎日のようにいっしょにいるのだから。

ただ、彼女は

「…アタシは孤独」

ってなフレーズが口癖だとしても不思議でないくらいにドライな人間だ。
笑っているところもあまり見たことがない。

だから、この前オレの前で泣いた日の事はともかくとして、彼女は路上で
ギターをかき鳴らしている間はもちろんのこと、それ以外でもあまり多く
を語らない。だから『通』とはいえど、オレは彼女について多くの知識を持たない。
けれど、それでも自分について幾つかのことを話してくれた。

ソロデビュー目指して、音楽の勉強中だということ。
今は実家を離れて都内で独り暮らしをしているということ。
その生活費は事務所が捻出してくれているということ。

でもこちらから何か突っ込んだ事を訊ねようとすると
いつも何となくはぐらかされてしまう。

だからこそ余計にいつもクールであまり笑わない彼女が、何故あの日に限って
見知らぬ男…つまりオレの前で泣き崩れたのかという疑問がアタマから離れな
かった。ファンの男どもに言い寄られていたという理由だけでそうなったとも
考えにくい。

あれからというもの、彼女は唄う場所を駅前の噴水がある公園に固定していた。
そして彼女が唄うとき、オレはオーディエンスの1人としてではなく、
パートナーとして側についていてやっていた。

パートナーといっても特に何をするわけでもない。彼女が腰を下ろした
場所から3メートルほど離れ、彼女とオーディエンスの作る輪の邪魔に
ならないようにただ黙って傍観している、といった感じだった。

−ただ『傍観』といっても、音楽というのはその輪から離れた所で聴いて
 いても十分に耳に心に届くもので、オレはその輪の中に確かにいた−

そして今日もいつものように待ち合わせの約束をする。しかし会社
勤めのオレと現在、形式(かたち)的にはプータローである彼女と
では生活のリズムが全く違う。そんな2人の落ち合い方はこうだ。

会社を終えるとまず彼女にメールする。そこで『今日はやるのか?』
とか『どこで唄うのか』とか『どれくらいの時間やるのか』と大体の
『打ち合わせ』をしておいてあとは現地で落ち合うといった具合だ。

まぁ至って普通だけれど、相手が相手だけに
そんな基本的なことが大事だった。

ピ〜ピ〜ピ〜ピロピロ〜リ〜♪

夕方、もうすっかり陽の落ちた街を公園へと向かって歩いていると、
突然こもった電子音がどこからか流れる。聞き慣れないメロディーの
発信源は自分の上着の内ポケット。そうか、そう言えばメール専用に
着信音を設定したんだ。

「 もうすぐ着く 市井 」

彼女からだった。女が送ってくるメールとは思えないほど地味で質素な
内容だったけれどいつものことなので特に気にもかけない。彼女の
ケータイ番号は知っているが彼女と電話をすることはなかった。あまり
電話が好きでないのか、自然とメールでのやり取りが主になった。

ところで先程の曲は『夢の中』という曲らしい。

例の同僚の彼(彼は自分のことを『モーヲタ』と称しているが、その単語
自体がオレには意味不明なので無視してやった)に勧められて…というか
ムリヤリにDLさせられてしまったので仕方なく使ってみることにした。

ただでさえ電子音というのは不快なのに、着メロとして人気がある曲は
雑踏の中でも判別できるようにチャラチャラした曲が多い。そういった
類の音が苦手だったオレは、彼が勧めた例のアイドルグループの楽曲は
正直いかがなモノかと思ったんだけれど、意外や意外、聞いてみれば
それは秀逸な楽曲で、着メロ特有の刺々しさもなく、サビにおけるその
表と裏のメロディーの二重奏は逆に安堵感さえ受けるものだった。

公園の噴水の縁に腰掛けて、公園の端の方で既に歌い始めているほかの
路上ミュージシャンの歌を聴いていると、その目線の先の方からギター
ケースを抱えた彼女がやってきた。

「待った?」

今日の彼女のスタイルは黒い細身のシルエットパンツに、ほとんど無地の
スウェットパーカとローテクスニーカー。ショルダータイプのバッグと
ギターケースを肩に掛け、そして頭には決まってあのニット帽だ。

「少し待った」

別に付き合っているわけでもなく、特に気を使うこともないので正直に言う。
2人は割とそんなドライな関係だった。互いの呼称もオレが「キミ」で、
彼女が「アナタ」といった具合だ。すこしドライ過ぎる気もしたけれど、
彼女はこういう人なんだとムリヤリに納得させていた。

「ごめん」
「いいよ」

彼女はとてもスレンダーで華奢な体つきをしている。その肩にかけたレザー
のギターケースは特注品でこそあるんだけれど、実際に持ってみるとそう
大して重くはない。だけど、彼女の17才という年齢や彼女が持つ繊細な
雰囲気も手伝ってか、それが彼女に属していると途端にやけに重たそうに
見えてしまう。

「さ、始めようか」

彼女はおもむろにケースを下ろし、中からギターを取り出す。しかし彼女は
他の路上ミュージシャンのようにギターケースに小銭を入れてもらうような
事はせず、あくまで唄を聴いてもらうだけ。だから彼女のギターケースは
いつも閉じている。

チューニングを終えるとおもむろに歌い出す。

いつもはもっと激しい内容の曲が多かったのだけれど、最近の彼女は
どういう風の吹き回しかスローなナンバーを選曲することが増えた。
今日の1曲目も失恋の寂しさを切々と唄った某有名アーティストのカバー曲だ。
彼女の声質によく合っていて、ダイレクトに心に響いてくる。

最近、少しずつだけれど聴衆が増えてきている。いつもオリジナルやカバー
も含めて大体10曲ほど唄うのだけれど、全て唄い終わる頃には流動的とは
いえ10人ほどが残っている。それぞれ体育座りしたり、立ったまま腕組み
したり、とそれぞれ思い思いのスタイルで彼女の唄に聴き入っていた。

この聴衆は彼女の正体を知っていて集まってきているのか、それとも純粋に
ストリートミュージシャンとしての評判を聞きつけてやって来たのか、その
辺は定かではないが、多くの人に聴いてもらえるということはいいことだ。

今日は週末ということもあって4曲目を終える辺りで既に聴衆は10人を
超える聴衆が集まっていて、終える頃には20人ほどの人が残った。

残った聴衆の内の何人かが、あの時のオレと同じ様に彼女の唄に感銘を受けた
様子で頻りに何か話しかけていたけど、それでも彼女はいつも通りドライに
対応していた。

毎度毎度そんなことがあるので、端から見ていたオレでさえも引き上げるのが
どこか名残惜しかったけれど紗耶香はさっさとギターをしまい込むと引き上げ
ていってしまった。

オレも急いで彼女の後を追った。

最近は、彼女が唄い終えて帰宅する時は一緒に付いていく事にしてる。

もちろん『彼女を守ると言った以上はそこまでするべきだろう』
と思ったのもあるのだけど、実際は家へ帰ってもヒマだし、
彼女がどんな所に住んでいるのかをなんとなく知りたかった
のもあったからだ。

勝手だとは思ったし、彼女が少し迷惑そうな顔をしていたのだ
けれど、コレばっかりは男として引くわけにはいかないだろう。
彼女はまだ若干17才の少女だ。もし彼女に何かあったら大変だし、
そしたら彼女の唄声も一生聴けなくなってしまうかも知れない
のだから。

しかし何故か彼女はいつも自分が住んでいるというアパートの
前までいっしょにいくことを許さなかった。

この街の真ん中には、その人口以上に発展した駅周辺のショッピング
モールへと続く大通りがある。そしてその通りを少し下った辺りを
曲がるとそこには、山の手の暮らしとでもいうのか、キレイに舗装
された道やきっちりとマス目調に区分けされた住居が建ち並び、
正に閑静な住宅街と呼ぶに相応しい街並みが広がっていた。

『オレもこんなとこに住みたいなぁ…』なんて呑気に考えながら
2人並んで歩く傍らを流れる水路沿いには、街頭が等間隔で立ち
並んでいて、チカチカと点滅を繰り返す幾つかの切れかけた電球
に季節の昆虫達が光を求めて集まってきていた。

「今日はいつもよりも人が多かったな」
「…そう?」

彼女は別に聴衆が何人集まろうと関係ない様子だ。
唄う自分がいて、唄う場所があればそれでいいらしい。

「なぁ、いいかげん帽子とれば?」
彼女はもう辺りはすっかり暗くなっているのにも関わらず
ニット帽をしっかりとそして深々と被ったままだ。

「もうまわりに人いないし、どうせオレがついてるんだし」
「…ダメ、念のために」
正直、彼女は過ぎるほどに用心深い。よくよく考えてみればまだ
数えるほどしか彼女の顔の全体像を見ていない気がする。

「おい、オレのことが信用できないってのかよ!」
冗談ぽく少し躍起になって彼女に食い下がると、彼女はその三文役者の
大根芝居に苦笑いしながらおもむろに帽子を取った。

「わかったよ、コレでいいんでしょ」
仕方なく渋々と、といった様子を振る舞ってはいるけれど、公園で
唄っている時はそのニット帽を脱ぐことはないので、ここへきて
やっと脱いで清々とした様子だ。

チカチカとした街頭が露わになった彼女の横顔を質素に照らし出す。

人間観察が別段キライじゃないオレも、初めて会ったあの日は何やら
色々とあって彼女のことを深々と観察できなかったんだけれど、やはり
マジマジと見るとアイドルをしていただけのことはあって肌は白く透き
通るように綺麗で、なんというのだろう「もち肌」とでも言うべきか、
指先で突つけば程良い弾力で跳ね返してくれそうな様子だった。

それに、あまり笑わない彼女だったけれど、それでもくだらない世間話
なんかをしているときにふと見せるその柔らかな表情には多分に愛嬌が
あり、年齢よりも少し幼く見えたりしたな、と思い返したりしていた。

「…なにヒトのことジロジロ見てんの?」
「…え、いや、なんでもない」

ただ純粋にその行為を指摘されただけなんだけど、無遠慮に見てしまって
いた自分がどこか後ろめたくて慌てて視線をそらす。

「今日…風強いね」

そう言って肩まで寸足らずといった感じのセミロングの髪をかき上げる。
腕につけた、控えめだがとても高価そうなシルバーのアクセがジャラリと
音をたててギラリと光った。

「サンキュ、ココでいいよ」

住宅街のメインストリートを月の出ている方へとしばらく歩いた
この場所で、彼女はいつもと同じセリフを吐いた。
もう一つ曲がり角を曲がった先に彼女の自宅があるらしいのだけれど、
彼女はいつもココから先へはオレの侵入を許さない。

人間、拒まれると強要したくなるもので、彼女の自宅を見てみたいのは
山々なのだが、かといってココで無理についていってしまっては公園で
彼女にしつこく言い寄ってくる輩と何も変わらないコトになる。

「じゃ、またな」
「うん…じゃね」
いつもと何ら変わりない様子で、本日の分の別れを告げ、明日再会する
コトの約束をする。いつもならココでお別れだった。

でもこの日は何かが違った。オレは何かに突き動かされるように彼女の
後を尾けた。それは彼女のその不可解な行動がきっかけだったと思う。

彼女は一度去りかけてからこちらを振り返った。

「…あのさ」
彼女はうつむいたまま何か言いたげにしているのだけれど、
ハッキリしない様子だ。なに?と訊ねても芳しい返事はない。

「ううん、なんでもない…じゃね!」

そしてそのまま次の路地へと入っていく彼女の姿を見送った後、
オレは一旦帰るような素振りを見せてからUターンして後を追った。

下手なTVドラマの刑事の尾行みたく電信柱の陰なんかに隠れながら
歩いてたんじゃ、近所の人に怪しまれて飛んできたパトカーにご用と
なるのがオチだろうから、あくまでも一定の距離を保ったまま彼女の
遙か後方を足音控えめに歩いていく。

彼女が入った路地の先には先程と変わらず住宅街が広がっていた。

後を尾けてしばらく歩いていると、彼女はふと4階建てのアパートの前で
立ち止まり、小さく首を振って辺りを警戒している様子だ。見つからない
ように今度は電信柱の陰に隠れた。

(…こんないい所に住んでるのか)

例の同僚の話によると、彼女が所属していた事務所は色々と酷なことを
することで有名らしいけれど、やはりさすがは事務所の看板アイドル
だっただけのことはある。彼女に対するアフターケアーは案外としっかり
している様だ。

そしてその荘厳な佇まいのアパートを見上げてはしきりに感心していると、
おもむろに歩き出した彼女はそのままアパートの脇の小さな路地へと早足
で入っていった。

てっきりこのアパートが彼女の住まいだと思い込んでいたものだから少々
面食らった。そのまま慌てて追いかけていくと、そこから先は今までの
住宅街とはガラッと様相が変わり、ごく普通の、どこにでもあるような
下町が広がっていた。

そして彼女は先程のアパートとはあまりにも大違いなボロい安アパートに
入っていった。

一体全体どういう事だ。現在レッスンまで受けさせてくれているという
ご親切な事務所が用意したというアパートがココであるということは考え
にくい。ましてやその服装や装飾品などから分かる通り、物理的に大変
満たされた生活を送っている様子の彼女には不釣り合いだ。

しかし、誰か知り合いの家を訪ねてきたのだとすれば納得がいく。こんな
時間に用事があるとすれば、余程の大親友だろうし、そうでなければ付き
合っているオトコの家だということも考えられるのだ。

ここまで尾けて来ておいて今更だが、気付かれていないとはいえ自分が
あまり誉められたことをしていないということに気付き引き返すことにした。

それに、何故か彼女にオトコがいるかもしれないと考え始めると急に現実に
引き戻されたような気持ちになった。別に彼女のことを女性としてどう
思っているのかとかはあまり考えたことがないのだけれど、かつてアイドル
であったことや、彼女をシンガーとして尊敬すらしている事も含め、
心のどこかで彼女のことを生身の人間として見ていなかったのかも知れない。

まぁそれでも彼女の歌が毎日聴けるのならそれで幸せだ。
そう思って踵を返しその場を立ち去ろうとしたその時だった。

キャァーーッ!

突如、静かな夜の街に彼女の悲鳴が響き渡った。

キャーッ!!

背にした建物の中から悲鳴が聞こえた。
あれは確かに彼女の声。
ただならぬ様子に何事か分からぬまま、建物へ駆け込んだ。

一階を見回す、しかし彼女の姿はない。
その時だった『助けて!!』と声は二階からした。
そのまま二階へ駆け上がると玄関前のせまい通路で見知らぬ男に
羽交い締めにされた彼女がいた。電球はついていないため男の
人相は分からなかった。

「なぁ、どうなんだよ!なぁ、ハッキリ言えよ!」
「イヤだ、放して!!」
男は何やらひどく興奮した様子だった。それでも彼女は必死で
振りほどこうとしているが、後ろから羽交い締めにした男の腕は
決して離れない。それどころか男の手は体中をまさぐるように
動いていて、身動きを取れない彼女の顔は苦痛に歪んでいる。
「なぁ紗耶香ぁ…」
男の荒い息づかいがこちらにまで聞こえてくる。
「お願い!…誰か助けて!!」

「…!!」
気が付くとオレは既に駆け出していて、男がこちらに気付く前に
飛びかかっていた。

飛びかかってから、男が逃げ出して行くまではあっという間の事
だったと思う。ただオレには全てがスローモーション映像のように
感じられた。

度胸や根性が溢るるような、決してそんな類の熱いハートを持った
男じゃない事は自覚している。だけどオレはもう無我夢中で男に
飛びかかっていて、男をムリヤリ彼女から引き剥がした。

そしてその後もみ合いになって、男を押さえ込もうと必死だった。
だけど相手の男の方が力が強く、男はオレを突き飛ばすとそのまま
何か捨て台詞を吐いて逃げ出していった。

彼女の姿を探す。すると狭い通路の隅っこの方にうずくまるように
して彼女は小刻みにその細い体を震わせていた。
「…大丈夫か?」
そう言うと同時に肩に手を置くと、彼女は瞬間身体を強張らせた。
「イヤッ!!」
その反射的に突っ張った彼女の腕に突き飛ばされて尻餅を突く。
その衝撃で、もみ合いになった時に殴られた顔面や脇腹がズキズキと痛む。
骨が少しヒビ入ってるかもしれない。

「オレだよ、オレ…安心しろ、ヤツは追っ払ったから」
今度はゆっくりと、より注意して優しく背中に手を置いた。
今度は言葉をかけてからゆっくりと手を置いたので突き飛ばされることは
なかった。ただ、置いた手からは依然震えが伝わってきた。

背中を軽くさすってやる。こうすると人間は幼児期の母親とのスキンシップ
を思い出して安心するのだという。次第に彼女の震えも収まってきたようだ。
「…大丈夫か?」
再び声を掛けた。

……ヒック…ヒック…

振り返った彼女の目には、また涙が溢れていた。

「…こわかった……アタシ…アタシ…」

ヒザを抱えたまま上目づかいでオレに訴えてくる彼女はまるで
母親に捨てられた少女のように孤独に打ち震えているように見え、
そして同時にそれは彼女の等身大の姿であるように思えた。

そのままオレはその場にしゃがみ込み、肩を優しく抱いてやった。
彼女は…紗耶香は、あの時と同じようにオレの胸で泣いた。

結局このボロアパートは友人の部屋でも彼氏の部屋でもなく彼女の自宅
アパートで、嗚咽の止められない彼女を部屋まで連れて行くのは大変だった。

肩を貸しても足は一向におぼつかないままだったし、彼女がそんな状態
なもんだからバッグの中から部屋のカギを探し出すのにも一苦労した。

「…またアナタの前で泣いちゃったね」
彼女は恥ずかしそうに笑いながら台所に立っていた。
「でもまぁ、もう泣くことはないと思うし」
ガスコンロでお湯を沸かしながら冗談っぽく言った。

『…よかったら…上がっていけば』
やっとたどり着いた玄関先で、泣き腫らした目のまま言った彼女の言葉に
甘えて部屋に上がらせてもらった。ゴメンね汚い部屋で、と彼女は遠慮して
いったけど、予想通りというかお世辞にもキレイな部屋とは言えなかった。

けれど整理整頓が出来ていなかったりゴミが散乱している訳ではなくて、
アパートの外観から想像が付くとおりに部屋の内装そのものがかなりの
年期を感じさせていて、もう清掃だけでは誤魔化しようのないほどだった。

コーヒーが切れているらしく、こんなものしかないけど…と言って申し訳
なさそうにお茶っ葉の袋を取り出した彼女に「コーヒーのがいいなぁ…」
などと言えるわけもなく、有り難く頂戴することに。

トクトクと湯を注ぐ音がする。
「お待たせ。ゴメン、湯飲みがなくって」
しばらくしてお盆にマグカップを2つ乗せて来て持ってきた彼女は、
それを熱そうにしながら手に取り、それぞれ2人が座るテーブルの位置に
置いた。白い湯気が天井に向かって蕩々と登っている。

「部屋は汚くてもこんなきれいなマグカップはあるんだな」
「…あ、嫌味なコト言うなぁ」
「暴漢よりはマシだろ?」
「尾行してたクセに…」
「…な!?」
「…図星だ」
あははと声を出して笑いながら2人してお茶をすすった。

目尻を下げて柔和な表情の彼女…そういえば彼女のまともな笑顔を
初めて見た気がする。
(…こんな顔して笑うんだ)
お茶は少し熱すぎたけど、これはこれで美味しかった。

しばらくの間、2人で無言のままお茶をすすっていた。

そして丁度さっきの出来事の経緯なんかを含めて、色々と聞きたいことを
オレが訊ねようとしていたときだった。彼女の方から告白を始めた。

アナタには色々と見られちゃったからね…素直に白状するよ…

実は、ソロデビューに向けてレッスン受けてるとか、
事務所がバックアップしてくれてるってのは真っ赤なウソ…
今は昼間アルバイトをしてて、このアパートの家賃も含めて
生活費は娘。時代の少ない貯金と併せて払ってるの

でもそろそろ貯金が尽きちゃいそうで、そのうち路上で
歌えなくなっちゃうかも…ま、それはいいんだけど…

本当はね、娘。にいながら音楽の勉強したかったんだ…
でもね、そのための時間をとるために仕事を減らして欲しいって
事務所にお願いしたの…まぁ結果は当然失敗だったの
『それは出来ない』って…

分かってたコトだったけどね、やっぱりショックだった
自分の我を通すと、変わりに何かを失うんだって…
でも心構えなんてぜんぜん出来てなかった…
モーニング娘。として、仲間と楽しく過ごす時間を無くしたの
…かけがえのないことだったのに

アタシの望みは、ただ自分の作った歌を娘。のみんなで歌えたら
どんなに幸せだろうって、ただそれだけなのに…

それなのに………

そこまで話すと彼女は言葉を詰まらせた。肩を震わせた彼女は
しばらく声を出さずに泣いた。頬からこぼれ落ちた涙が
ジーンズに幾つかのシミを作っていた。

彼女は事務所を事実上クビになった後、仕事で休みが取れない
メンバー達とは全く会うことは出来なかったそうだ。今でも
かろうじてメールのやり取りをするぐらいらしい。

そして実家へ帰って母親と暮らす予定だったらしいが、しかし
そうもいかなかった。不幸や悲しみというモノはいついかなる時も
容赦なく襲ってくるものだ。

彼女の精神的ダメージを決定づけたのは、母親の死だった。

大切な仲間との大事な時間を引き裂かれた悲しみに打ちひしがれる
間もなく、人生で最も悲しい出来事が彼女を襲った。幼い頃から
女手ひとつで育てきてくれた母親の存在は、彼女の中ではとてつもなく
大きなだったに違いない。そしてきっと心に出来たその空洞は何物でも
埋めることは出来ないだろう。

しかし気丈な彼女はしばらくして、以前から作っていたデモテープを
再デビューのために各レコード会社に持ち込んだりしたという。
しかし結果は芳しくなく、志半ば断念したのだそうだ。

そして現在、スポットライトと大歓声を浴び大勢の観客の前で歌い踊って
いた彼女の舞台は路上となった。しかも誰にも知られたくないとその顔を
隠してひっそりと自分の孤独を歌い続けている。

彼女はそんな自分を負け犬だと罵った

…オレはそんな彼女の姿に自分自身を重ねた
ミュージシャンを目指していたオレ、しかしオレはもう…

「それに自業自得だよね…」
頬を濡らしたまま、彼女は自嘲気味に笑った。

彼女にかけるべき言葉が見当たらなかった。そんな辛い経験をしても
なお、彼女は気丈に振る舞っていた。オレはそれにまんまと騙されて
てっきり彼女はとても強い人間だと思い込んでいた。

しかし、あの日見ず知らずの男であるオレの前で泣いた彼女や、
今し方暴漢に襲われ恐怖に震えていた彼女が本当の彼女なのだ。
ただ笑顔を仮面で隠して、その下で泣いていたんだ…

オレはしばらく考え込んだ。何か彼女のために出来ることはないのか。
そして、見つけたような気がした…それは彼女の笑顔を取り戻すこと

「…オレの家で一緒にに暮らさないか?」

「…!?」
いきなりのことに、それまでうつむいてマグカップの中の緑色を見ていた
瞳が、大きく見開かれたままこちらを見つめている。

「今日のストーカー男も取り逃がしたし…
 あんな形で知り合った以上さ、このままほっとけないだろ…」
「…でも」
彼女はまた視線をマグカップへと戻す。
オレも少し底に残っていたお茶をすすりきってテーブルの上に置いた。

「オレは君の歌が好きだ、だから君の唄を埋もれさせたくはない
 だからキミは唄ってくれ…キミのことはオレが守るから
 プロでもなんでも目指せばいい…」
「…でも、アナタにそんな義理はないよ…」

「いいや、大切なのは君の唄だけじゃないんだ…」
さっき、冗談を言い合った時に初めて見た彼女の笑顔。
思い返せばオレはずっとそれに惹かれていたのかも知れない。

「…今日、君の笑顔を初めて見た…それで…
 その…君のその笑顔を守りたいと思ったんだ…」
言葉こそ途切れ途切れだったけれど、オレはただ真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。

「……アナタの前で3度目の涙は見せないって、
 さっき決めたばかりなのに…もうこれで4度目だね…」

視線に答えてくれたその瞳からは止めどないほどに涙が溢れていた。
必死に拭っていても止めどなく溢れ出してくる。

「…手のかかる女だけど、それでもいいの?」

オレはゆっくりと頷き、今までで一番の笑顔を見せた彼女を
ゆっくりと抱きしめた。3度目の彼女の体温を感じた。

開け放たれた窓からは月明かりが差し込んでいて、
初めて会ったあの夜のように彼女の横顔を照らしていた。

−こうして、紗耶香とオレの同棲生活は始まった−


 第1部 −完−