093

三連コンボ 投稿日: 01/11/11 02:28

「ごめん、好きな人が、いるんだ・・・」
期待はしていなかったが、いざ言われるとやはり堪える。
「・・・ええっと、呼び出してごめんな、後藤。
 それじゃ俺、クラブあるから・・・」
俺は逃げるように走り去った。
どうしてもここにいたくなかった。
屋上に後藤を残して、部室へ走った。
空はやけに青かったことをなぜか憶えている。

一年生は、昨日までと違う”高校生”になることに喜んでいる。
電車の中で大はしゃぎしている奴らも見かけた。
しかし、新二年生にとっては学年が一つ上がり、クラスが変わるぐらいの意識しかない。
少なくとも、一年生のようにはしゃいだりはしないと思う。
しかし、物事にはよく例外がある。
「おっはよ〜!」
「ああ、おはよう」
真里はいつにもましてテンションが高い。
どんな些細なことにもはしゃぎ、雰囲気を盛り上げる。
小学3年生からの付き合いなので、そこそこ分かっているつもりだ。
「井ノ原さん元気?」
「うん、元気元気!」
真里には付き合って1年の、井ノ原さんという年上の彼氏がいる。
会社員で、俺も何度かお目にかかった。
「ところでさ、智哉ってまだ彼女いないんだよね〜」
「・・・またその話かよ」
このごろ、顔を合わせるたびに俺の交際関係に口を出してくる。
自分の幸福を自慢しているようにしか思えない。
「いつまでたってもごっちんに告白しないから彼女イナイ歴17年なんだよ〜?
 分かってる〜?」
状況が状況なだけに、非常に腹が立つ。
「おととい告白しました」
「えっ! マジで!?
 スゲー!
 で、どうだったの!?」
目を光らせて聞いてくる。
「ダメに決まってんだろ」
「あ〜、そうか〜。
 まあ、君にもそのうち春が来るって!」
そう言って、女友達の方へ走り去った。
どう考えても自分の幸福を自慢しているようにしか思えない。

「よお、智哉」
入れ替わりに後ろから准一が来た。
「おっ、准一か」
真里と同じで小学校3年からの付き合い。
同じ管弦楽部で、何でも一通りこなせる器用な奴である。
おまけにハンサムとくればもてないはずが無い。
当然幾度と無く告白されたわけだが全て断ったというとても罰当たりな野郎である。
茶髪でケンカ好きだがとても硬派と、少し変わっている。
「気のせいかもせえへんけど、お前暗いな」
小さい時は関西にいたそうで、関西弁が抜けていない。
「当たり前だろ、失恋のショックぐらいあるっつーの」
あの日は部室に戻ってから准一に一部始終を聞かれた。
「ま、お前にもそのうち春が来るって」
准一は校門に走り去った。
どいつもこいつも同じような事言いやがって。

俺はA組になっていた。
担任は筧利夫。
大声でオーバーな数学教師だ。
去年も俺のいたクラス持ってたよな・・・
真里も准一も同じクラスで、さらに後藤までがA組だった。
後藤は吹奏楽部で器量よし成績よし、運動ができて人気もある。
いわば校内のマドンナ、というやつである。
中学の時はファンクラブもあったそうだ。
今思えば、そんな相手にOKを期待すること自体無謀だったのだ。
おととい振られたばっかりの相手が同じクラスじゃやりにくそうだよな・・・
なんか人生最初の告白に失敗するとこれからのが全部失敗しそうで怖いな。
いささか憂鬱になりながらドアを開ける。

筧はまだ来ていない。
面倒くさがりの性分なので、ぎりぎりまで来ないのだろう。
「おはよう、小野君!」
吉澤が前から走って来る。
中学から同じだが、去年管弦楽部で初めて知り合った。
人なつっこく、無邪気な感じがする。
後藤と親友で、中学の時は後藤と同じくファンクラブができていたそうだ。
言葉が見つからずしばらく黙っていると、前の椅子をこっちに向け、そこに座った。
「どうしたの? 元気無いみたいだけど」

「いや、なんにも無いけど」
まさか、お前の親友に告白したらふられたので元気が無い、とは言えない。
「ふーん・・・ホントに?」
上目使いにこっちを見てくる。
うっ、ちょっと可愛いかも・・・
「ねえ、よっすぃー!
 ちょっとこっち来て!」
後藤が教壇の方で手を振っている。
「ん? 何?」
吉澤は立ちあがって律儀に椅子を戻し、「じゃ、またね」と言うと後藤のところへ走っていった。
後藤と一瞬目が合った。

諦めきれないや・・・

始業式はやけに疲れた。
体育館で1時間立ちっぱなしだったからだろうか。
昼前に学校が終わり、今日はそれでお開きとなった。
「おかえりー、お昼は?」
「食堂で食ってきた」
2階の部屋に上がり、脇にカバンを投げ出す。
「お久し振りです」
・・・何故女性が微笑んで床に正座している。

「あれ、智哉さん忘れちゃったんですか?」
女性の眼が潤みだす。
「従妹の石川ですよお」
「あっ、うん、そうそう、そうだよね」
思い出した。
なにしろ最後に会ったのが小学校6年の正月の時なのだ。
外見ではさっぱり分からない。
憶えている事といえば名前は石川梨華、年は俺より一つ下、ぐらいである。
親戚に会えるのは正月だけで、中学に入ってからは毎年大晦日から准一の家に遊びに行っていた。
「ああ、久し振り、石川さん・・・」
棒立ちのままとりあえず生返事する。
「梨華でいいです」
「ええっと、なんでここにいるの?」
「あ、ごめんなさい、ビックリしちゃいましたよね。
 うちってお父さんが海外に単身赴任してるんです。
 それでお母さんと暮らしてたんですけど、お母さんが自動車事故にあっちゃって」
またもや眼が潤んでいる。
「・・・ごめんなさい、ちょっと・・・」
いきなり彼女は泣き出した。
それからは嗚咽混じりの話で、非常に聞き取りにくかった。
3日前に母親が車に轢かれて入院し、半年は退院できなくなった。
父親はしばらく帰国する暇が無い。
高校一年生を一人家に置くのは不安。
あまり遠くに行くと不便なので、市内の親戚である我が家にやってきた、というわけだった。
話しているうちに彼女の嗚咽が弱まり、幾分落ち着いてきた。
「事情はよくわかった。
 ・・・とりあえず、よろしく」
俺は片手を出して、彼女の目を見た。
すると両手で俺の手を握り締めた。
「はいっ、こちらこそよろしくお願いしますっ!」

「智哉さん、朝ですよ!
 起きてください!」
・・・あれ、朝か。
そういえば、昨日はソファーで寝たんだったな。
石川さん、もとい梨華ちゃんがとりあえず俺のベッドで寝たから。
「・・・おはよう」
「早くしないと電車行っちゃいますよお〜!」
時計を一瞥する。
「7時半まわってる!」
ようやく事態の重大さに気付き、急いで跳ね起きて朝飯を食いだす。
よく見れば梨華ちゃんはすでにうちの学校の制服に着替えている。
「あれ? 梨華ちゃんってうちの高校だっけ?」
「言ってませんでした? 1年B組です」
急いで食事を終えると、自分の部屋に着替えに走った。

それにしても、同じ高校とは思わなかった。
この雰囲気だと、一緒に登校するんだろうな・・・
絶対に皆から冷やかされんだろうなあ。
適当に着替えてカバンをつかみ、下に降りる。
・・・案の定、梨華ちゃんはまだ居た。
「それじゃ、行こうか」
口早に声をかけると、手を引っ張って外に出た。
駅までの道は梨華ちゃんも知っていたので、案外早く電車に乗れた。
電車に乗ってしまえば急ぐ必要は無い。
急ぐ必要は無いが、ラッシュの電車は息苦しい。
「梨華ちゃん、大丈夫?」
満員電車の中でなんとか声を出す。
「ええ、大丈夫です・・・」
駅は二つなのですぐ着いたが、梨華ちゃんはえらく疲れたようだった。
「電車なの?」
「いえ、自転車通学のはずでした」
電車から降りて、話しかける。
「満員の電車ってあんまり乗ったこと無いんで・・・」
「よーお、智哉!」
背中の方から叫び声がする。
「お前もついに彼女ができたか!」
准一だ。
ちょっとうるさいよ。
「違うよ、従妹で昨日からうちで居候してんの」
「なんやビックリした。
 とうとうお前の長い冬があけたんやと・・・」
とりあえず准一を無視して話を進める。
「こいつは岡田准一って言うんだ。
 まあ、俺の腐れ縁だよ」
「よろしく」
「あっ、はい、はじめまして、石川梨華です」
梨華ちゃんはえらく丁寧にお辞儀をする。
「とりあえず、駅からでようか」
混雑する駅で立ち止まっていては迷惑なので、とりあえず外に出た。

とりあえずど素人さんが書かれるまでの暇つぶしにでもなればよいですが・・・

「梨華ちゃんはもうクラブとか決まってんの?」
准一は初対面で”梨華ちゃん”と喋りかけた。
「まだ決めてませんけど、多分テニスだと思います。
 中学のときもそうでしたから」
「ふーん、真里と同じなんだ」
「ほんまやな。
 梨華ちゃん、テニス部入ったら矢口真里って言ううるさい女がおるかもせえへんで」
准一は珍しく楽しそうである。
「梨華ちゃんって彼氏とかおるん?」
准一は色んな意味できわどい質問をする。
「そんな〜、彼氏なんて居ませんよ〜!」
真っ赤になって否定する。
「なんで〜?
 梨華ちゃんかわいいやん」
「えーっ? そうですかー?
 ちっちゃい時は太ってたんですよ」

校門まで着くと、梨華ちゃんは小走りに走っていった。
友人のところに行ったようだ。
「なあ智哉、あの娘かわいいなあー」
「・・・珍しいな、お前がそんなの言うの」
准一は今までに彼女をつくったことは無い。
ついこのあいだも、高橋とかいう中学生を泣かせたそうだ。
「従妹なんやろ、ええなー。
 あんな娘と同棲できるなんて羨ましいなー」
「馬鹿、同棲とか言うな。
 下宿だって」
「一緒に暮らしてるんやから同棲で間違いは無いやろ。
 まさか、一緒の部屋で寝てるんとちゃうよな」
「・・・なんか変だぞ、准一」

その日の授業は午前中で終わった。
「こんちわー」
ギターを持って部室へ入る。
部室にはすでに部長が居た。
部長は何故か血走る目で三味線を弾いている。
とりあえず、どう見ても不可解な行動を止めることにした。
「部長、部長」
肩を揺するが、一向に三味線は収まらない。
「あっ、やめといたほうがいいよ。
 後で何されるかわかんないから」
吉澤が部室に来たようだ。
「そういや馬頭琴の時に殴られたからな・・・」
飯田部長は高3で、チェロをやっている。
美人でいい人なのだが、時々どこから持ってきたのか分からないような楽器を狂ったように弾いている。
吉澤の影響で入ってくる生徒が多いが、飯田部長の影響で出て行く生徒も多い。

「小野君、音楽祭っていつだっけ」
「えーっと、確か6月の20日ぐらいだと思う」
管弦楽部では、毎年6月にある音楽祭で5、6曲演奏することになっている。
「やーあ、生徒諸君!
 元気にやっているかな!?」
急にハイテンションな声が耳に入る。
「あれ、筧先生」
「改めて、こんにちわ!
 筧利夫です!」
そんなことは知っている。
・・・何故手にギターを持っている。
「転勤された石黒先生に代わって、私筧が弦楽部の顧問となりましたー!」
「あの、管弦楽部なんですけど・・・」
一応反論してみる。
「痴れ者めが!
 お前らはギターとかチェロとかバイオリンとか、弦楽しかやってないじゃないか!
 という訳で早速弦楽部に変更してもらったんだよ!」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「それじゃ、弾きまーす!」
低い椅子に腰掛け、笑顔で足など組み始めた。

・・・うまい。
レットイットビーだけじゃ物足りなかったようで、イェスタデイまでやり始めた。
「どうだ、うまいもんだろー!」
反論できない。
「先生かっけー」
吉澤の口から言葉が漏れる。
「大学生の時にちょっとやってたからなー。
 あそこで三味線弾いてるのは部長か?」
筧の演奏に気付かない部長もすごいが、三味線に気付かなかった筧もすごい。
「はい、飯田部長です」
「おーい、部長!」
「・・・はっ、あい!」
部長は意味不明の声を上げる。
「6月の音楽祭な、吹奏楽部と合同でやることになったって部員に伝えといてくれ」
「えっ、本当ですか?」
思わず口に出した。
「ああ、向こうの新しい顧問がやけに張り切っててな。
 どうしてもやりたいって言ったから」
「吹奏楽部ってごっちんが居るんだよね」

日曜日、梨華ちゃんと共に叔母さんのお見舞いに行くことになった。
電車で数駅のところだ。
よく晴れていて、日差しが暖かい。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
間が持たないので、とりあえず話しかけてみる。
「部活はテニス部に落ち着いたの?」
「はい」
「ふーん、そうなんだ・・・」
また話が途切れる。
こんなことなら本でも持ってくればよかった。
「智哉さん」
ぼーっ、としているとお声がかかった。
「智哉さんって彼女とかいるんですか?」
いきなりそんなことを聞かれても困る。
「え、何?」
聞き返すと、顔を赤くして伏せてしまった。
「彼女、だっけ?」
「聞こえてるんじゃないですか・・・」
「・・・ええっと、彼女は居ないよ」
「えっ、そうなんですか?」
「まあね。
 というより今までに居たことが無い」
好きな人ができても、告白する勇気が無かったからだ。
ふいにあの時の後藤の台詞を思い出した。

『私、好きな人が居るんだ』

叔母さんには別段異常は無かった。
(怪我自体が異常だが)
大事が無いようで安心したが、梨華ちゃんは暗く沈んでいる。
「中澤先生も順調に回復していますって言ってたし、大丈夫だろ」
「・・・」
「轢いた人も心底反省してるみたいだし。
 そんなに気、落とさなくてもいいよ」
「・・・うっ、うっ・・・」
何が悲しいのかよくわからないが、とにかく悲しいのだろう。
声を漏らして泣き始めた。
昼間で本当によかった。
それでも、少ないとはいえ乗客からの冷たい視線が突き刺さる。
「あのさあ・・・泣いててもしょうがないんだから、泣きやもうよ」
一瞬泣きやみ、涙目でこっちの目を見る。
見られても困るので、ふっと目をそらした。
途端、彼女は一層激しく泣き出した。
視線がさらに冷たい・・・

「梨華ちゃん!」
向こうは大声で泣いているので、こちらも幾らか声を上げなければ聞こえない。
また一瞬泣きやみ、涙目で見てくる。
「・・・泣いてても仕方ないんだって。
 泣いてばかりいる弱い人間じゃだめなんだよ。
 それに・・・」
「それに?」
涙目で聞き返してくる。
調子に乗ってしゃべりすぎたようだ。
「それにさ・・・」
うわ、こっ恥ずかし・・・
「な、泣いてない梨華ちゃんのほうがかわいいと思う」
梨華ちゃんは急に真っ赤になり、顔を伏せた。
とりあえず、窮地は脱しただろう。
乗客からの視線も幾らかやわらいだようだ・・・って前のおばさんがにやつきすぎ。

「はーい、今日はここまで。
 明後日からは吹奏楽部と合同練習に入ります」
飯田部長が手を叩きながら喋る。
”あの”時以外はいたって普通の人である。
「それと、管弦楽部だけで2、3曲できるそうです。
 各自やりたい曲があったら明日、私に言って下さい。
 それじゃ、かいさーん」
「やりたい曲ねえ・・・」
これといって弾いてみたい曲と言うのは無かった。
好きな曲と弾きたい曲というのは違う物だし、なにより弾く気が無かった。
一人で帰っても何なので准一を目で探したが、見つからない。
「先帰ったのか・・・」
ギターを片付けて部室を出ようとした時、珍しく女性から声がかかった。
「ねーえ、一緒に帰ろうよー」
吉澤だ。
・・・男子部員の視線が非常に痛い。
「えーっと、俺と吉澤って同じ方向だっけ?」
「うん、そだよ」
「えー、あのー、うん、やっぱり俺一人で帰るわ」
「なんでー?
 一人じゃ怖いよー」
「いや、だから、いいって」

女子と帰宅するのは小学生の時以来であろうか。
いや、小学生の時もあっただろうか・・・
「小野君って、矢口さんと幼馴染なんだよね」
そういえば、真里が居た。
「幼馴染って言うより、たまたま学校が同じだっただけだよ」
「・・・小野君ってさあ、矢口さんと付き合ったりしないの?」
「え?
 ・・・真里に恋愛感情持ったことはないなあ。
 でさ、吉澤はその情報をいかに活用するの?」
「う〜ん、良い質問だよワトソン君」
あごに手を当てている。
誰がワトソン君だ。
「あいつは彼氏が居るんだよ」
「えっ!
 そうだったの・・・」
「それで、お前はそれを聞いてどうすんの?」
吉澤は、顔を夕日に向けると、呟くように言った。
「・・・別にいいじゃん。
 私が何思ってても勝手じゃん」

いつのまにか駅に着いていた。
「ところでさ」
切符を買いながら、黙っていた吉澤が唐突に口を開いた。
「うちの部だけで演奏するやつあったじゃん?」
「音楽祭のか?」
「そうそう、それで私ね、イェスタデイ弾きたいんだ」
「ビートルズの?」
「うん。
 それでさ、小野君と岡田君と私でやりたいんだよね」
「なんで俺らで?
 俺ら以外にもギターやってる奴居るじゃん」
「そうだけど・・・あんまり沢山でやっても大変だから」
「ふうん・・・あっ、電車来た」

とりあえず、座席に落ち着く。
「まあ、弾くのははいいとして・・・」
「ほんと?
 ラッキー!」
吉澤は車両の中でガッツポーズを取る。
「なんでイェスタデイなの?」
「んっと・・・私、好きな人が居るんだ」
当たり前と言えば当たり前である。
女子高生に好きな人が居たところで変なことではない。
だが、吉澤の台詞の一節が変に引っかかった。

『私、好きな人が居るんだ』

「ちょっと、小野君!」
真っ赤な顔で吉澤に肩を揺すられ、我に返る。
「うん、それで・・・?」
「ほんとに聞いてんの?
 ・・・それで、その人がイェスタデイ好きだって言ってたの」
「それで?」
「おしまい」
「つまりお前は、好きな男が好きな曲を、好きな男のために弾きたいわけだな」
「もぉーっ、そんなに好き好きいわないでよー!」
肩をバシバシ叩く。
「いや、そういうことなんだろ?」
吉澤は小さく頷いた。
「よっしゃ、それじゃあそいつのために一肌脱いでやるか!」
「頼むよ小野君!
 それじゃ、私ここだから」
そう言って、小走りに電車から降りていった。
しばらくするとふりかえって、手を振ってくる。
無意識に手を振り返した。

手を振るのは何年ぶりだろうか。
今日は吉澤のペースに乗せられっぱなしだった。

「イェスタデイ忘れてるな……」
家を探したが案の定無かった。
部室に置き忘れたようだ。
「まあ、明日持って帰ればいいか」
夕飯を食べて風呂に入る。
「それにしても、家に一人女の子がいるだけで緊張するなー」
梨華ちゃんが来てから異様に肩に力が入る。
「あー、気持ちいい」

「zzzzzz……」
風呂で居眠りすることはよくある。
ただ、この時は状況が非常に悪かった。
「あれ、なんで電気つけっぱなしなんだろ」
梨華ちゃんは誰もいないと思って、勝手に服を脱ぎ始めた。
もちろん、寝ている俺に意識は無い。

「(また風呂で寝たのか……)」
うっすらと意識が回復し始める。

ガチャリ

梨華ちゃんが体にタオルを巻いて入ってきた。
「うわっ!」
「きゃああああっっ!」
ほぼ同時に重なった。
腰にタオルを巻いてさえいない男の姿を見て平然としていられる女性はそうそういない。
おかげで意識は回復しすぎたぐらい回復した。
梨華ちゃんはすぐにドアを閉めると、脱衣所から慌てて出て行った。
「なにが起こったんだ……」

風呂から上がって、ゲームでもしようかと部屋に戻った。
「(げっ、梨華ちゃん……)」
部屋の真ん中で正座している。
「なんで梨華ちゃんがいんの?」
「あ、謝りたくて……」
「何を?」
先ほどの事故についてはしょうがないことだと思っていた。
何を謝られるんだ?
「だから、さっきの……」
「風呂?」
「はい……」
「別にいいよ、”事故”なんだし。
 プレステはどこかな……」
立ちあがって、プレステを引っ張り出す。
「替わりに、土曜日に私がおごります!」
「ふんふん、それで?
 えーっとCD、CD……」
「それじゃあ、CD屋さんに行きましょう!」
「うん、分かった分かった。
 コントローラーはどこいったんだ……」
「じゃあ私、お風呂入ってきますね」
梨華ちゃんは部屋を出て行った。
「あった!
 これでやっと遊べ…………」
ようやく事実に気付いた。

翌朝。
昨夜の約束を断ろうと心に決めた。
わざわざおごってもらうのは気が引ける。
しかし。
「なんて断ろうか……」
女の子の誘いを断った事は無い。
理由は簡単、誘われなかったから。
「おはよう……」
とりあえず下に降りる。
「あれ、梨華ちゃんは?」
母親の態度は無碍だった。
「朝連とかでもういっちゃったけど」
追いかける気にならなかったので、諦めて普通に家を出た。
(今日の晩ぐらいに言えばいいか)
「おーい、智哉!」
「なんだ、真里か」
すぐ横について喋りだした。
「なーんか相変わらず暗いねえ」
「俺は世間一般の人物」
「もう、おいらは幸せ過ぎて君の幸せを願いたいぐらいだよ」
聞かれてもいないのにノロケ話が続く。
駅までならまだしも、電車の中まで話し続ける。
「でさ〜、こう肩なんか抱いちゃって……」
一人で身悶えする。
「うまくいってるのは分かったか。
 だが大声で聞いてるほうが恥ずかしくなる話をするのはやめろ」
「まあ、おいらも分別ある大人だからこの辺でやめといてやるよ〜」
分別が無くてもやめろ。

電車を降りて真里と別れた。
その途端に。
「おはよう、小野君」
「おう、吉澤」
心なしか昨日より暗い。
さっき真里がいた位置に立って歩く。
しかし話は全く無い。
「……あのさあ」
「な、何」
「今一緒に居たのって矢口さんだよね……」
「そうだけど」
「二人ってさあ、その、何ていうか……」
吉澤が言わんとしていることが分かった。
「違う!
 断じてそんなことは無い!
 小学校から同じなだけだって!」
真里とは時たま噂が立つときがある。
ちなみに噂が立った相手は真里だけである。
「……ふうん、まあいいや」
とりあえず納得してくれたようだ。

「それでさ、今度イェスタデイやるじゃん?
 歌詞歌える?」
「歌詞ぃ?」
思わず高い声が出る。
「歌詞入れたほうがいいと思うんだ。
 英語の」
演奏の途中に歌った人は何人かいた。
しかしその人達は皆”歌がうまい”人たちで、俺は歌を絶賛された覚えなど無い。
「歌とかうまいやつに頼んでくれ。
 英語なんか喋れねえし、俺じゃ無理」
「演奏するの小野君と岡田君と私だけだしー。
 私が歌ってもなんか変だし、岡田君は発音以前の問題……」
「ひでえな、まあその通りだけど。
 第一、人前で歌えるかっつうの。
 お前が歌えばいいじゃん」
明らかに不快な顔をし始めた。
「音痴だしー。
 お願い」
顔の前で手を合わせてウインクなどする。
「……分かった分かった」
「やってくれんの!?」
途端に明るくなる。
「期待はするなよ」

「それじゃ、今日から練習しよっか」
吉澤はかなり前向きに検討している。
「今日はまるまる吹奏楽部との合同練習だから無理」
「じゃ、明日からだね」
「明日は休みだから学校じゃ無理だろ」
「それじゃ、図書館でやろうよ」
さっきからどこかからの視線を感じる。
あまり長時間吉澤といては身の危険が……
「分かった。
 んじゃ、そういうことで」
吉澤を振りきるようにして早足で歩く。
「お前はなにをやっとんねん」
「うわっ!
 ビックリした、准一か……」
「お前は究極のアホやな」
「なにがだよ」
「さっぱりきづいてへんな……
 もうちょっと自分で考えろよ」
「だからなにをだよ!」
呼びかけも空しく、先に歩いて行った。

テストが終わったら書ける書ける。(w
量産だけならできそうです。
誰かが読んでくれてるって嬉しいなあ……

「ただいまー」
俺が家に上がると、梨華ちゃんは二階に走って行った。
これじゃ断れない。
「なんなんだ……」
「聞いたわよ」
お袋がドアから顔を出す。
「何を」
「明日梨華ちゃんとデートに行くそうで」
「行かない。
 ちゃんと今日断る。
 デートじゃないし」
「ふーん、まあいいけど。
 あーあ梨華ちゃんかわいそうだなあ。
 せっかくの約束突然断られて。
 あーあーかわいそう」
言いながら皿洗いに戻る。
「明日は別に約束したから無理」
「誰と」
「……准一と。
 ゲーセン行くって約束したから」
「小学生じゃあるまいし。
 まあ断るんだったら自分でいいなよ」
「当たり前だっつうの」

それからずっと一階で梨華ちゃんを待ち構えていたが、晩飯になるまで降りてこなかった。
(ものすごい静かな食卓だな……)
今日は誰も喋ろうとしない。
いつもなら梨華ちゃんとお袋が話をして、俺が時たま話に入るのだが。
「ごちそうさまでした」
梨華ちゃんは食べ終わったらしく、皿を運び出した。
「あのさあ……」
さすがに言っておかねばなるまい。
「明日なんだけど、やっぱりおごってもらうの悪いからさ。
 行くのやめにしない?
 そんなに気にすることじゃないしさ」
「……でも明日私何にも無いですし……」
「実は、准一とゲーセン行く約束しちゃってさあ。
 ほんとごめんな」
「……」
まさに針のむしろである。
しばらく立ち尽くしていたが、結局俺は部屋に逃げた。

(嘘ついてまで断るんじゃなかったかなー。
 吉澤との練習を明後日に伸ばせばよかったんだし。
 いやいや、それだと吉澤に断らなければいけなかった)
苦しむ中、突然俺の携帯が鳴った。
「はい、もしもし」
「よっすぃーで〜す!」
「……」
戸惑いまくり。
「明日はお昼食べてからの方がいいと思うから、1時からね〜。
 それぐらいには食べ終わってるでしょ?」
「おう、そうだな」
「どうしたの?
 気分悪いの?」
「……いや、なんでもない」
「マジで?
 無理しない方がいいよ」
「大丈夫」
「それじゃ、明日ね〜」
頭がクラクラしてきた……

「おはようございます」
なんか梨華ちゃんものすごく沈んでるし。
「おはよう……」
「あら、大丈夫?」
お袋が台所から声をかけてきた。
「なんでもない……と思う」
「顔真っ赤ですよ」
梨華ちゃんが俺の額に手を当てる。
「熱ーい!
 ちょっときついんじゃないですか?」
「多分……大丈夫」
視界が霞がかってくる。
(ちょっとヤバイかもしれん……)
「智哉さん、大丈夫ですか!?」
最後の方は聞こえなかった。

さっきまでいた布団の中だ。
胃の調子が悪い。
右から洗面器が出てくる。
誰かが背中をさすってくれた。

吐いたらかなりすっきりした。
今度はティッシュが出てくる。
お袋にしては親切な応対だ。
「……って梨華ちゃん!?」
「大丈夫ですか?」
「ああ、まあ……」
「それじゃあこれ替えてきますね」
洗面器を持って部屋を出て行った。
(頭痛は悩みのせいじゃなかったのか……)

時計を見やる。
11時16分。
吉澤に断りを入れるのはまだ間に合う。
いくらなんでも電話くらいはしなくちゃいかんだろう。
携帯を取るために立ち上がる。
(だるい……)
だるさと闘いながら携帯を取ってくる。
番号は携帯にしか入っていないのだ。
(一年の時に聞いてないのに教えてきたんだよな)
「もしもし、吉澤?」
「どうしたの小野君」
「悪い、熱が出て行けない……」
「うそっ、マジ!?
 大丈夫?」
「今日中には多分治る」
「それじゃ、今からお見舞い行くから」
「別にいいって……」
「それじゃすぐ行くから!」
「だから別に……」
電話はすでに切れていた。

それから5分後、インターホンが鳴った。
(早っ!
 吉澤か……?)
「元気かー?
 元気なわけないけどねー」
「真里か……」
「そんなに嫌かいっ!」
「あ、矢口先輩こんにちは」
梨華ちゃんが部屋に戻ってきた。
「おはよ、梨華ちゃん」
「……で、なんでお前が俺が熱でたの知ってんの」
「梨華ちゃんから電話があったんだ。
 えらく慌ててたね。
 『大変なんですぅ〜』って」
「そんな風に言ってませんよー」
しばし歓談(俺を除いて)。
「矢口さん、今インターホン鳴りませんでした?」
「鳴った鳴った。
 早く出たほうがいいよ」
(吉澤……にしてはまだ早いな)
「おう、くたばっとんな」
「准一くん、入ってくるときはノックをしようね」
「そう怒んなって。
 おっ、真里もおるやん。
 やっぱり梨華ちゃんに言われたんやろ。
 『大変なんですぅ〜』って」
(みんな感想はそこかい)

「梨華ちゃん、こいつどうなん?」
俺に聞かずに梨華ちゃんに聞く。
「今日か明日には治ると思いますよ」
「しっかし、なんで智哉みたいな馬鹿が倒れたんだろね〜。
 馬鹿は風ひかないって言うし」
真里がお構いなしに肩を叩いてくる。
「うるせえ。
 疲れたんだよ」
「お前だけ変にはりきっとったからなー、ギター」
「まあ、イェスタデイ真ん中に決まったんだからな。
 吉澤に頼まれたんだし」
「吉澤さんって誰ですか?」
梨華ちゃんが質問したちょうどその時、インターホンが鳴った。
下から声が聞こえてくる。
「はーい、今開けますねー」
ドアが開く音がする。
「小野君二階!?」
(この声は……)
「それじゃあおいらはそろそろ家に帰るかな〜」
「俺も昼飯食うし」
真里と准一は突然立ちあがる。
「お前ら変だぞ、ちょっと待て!」
「「お大事にー」」
入れ違いに、階段を猛スピードで上る音が聞こえてきた。

「小野君!?」
勢いよくドアが開いた。
案の定吉澤だ。
肩で息をしている。
「大丈夫なの?」
カバンを放って、膝でこちらに寄ってくる。
「おう、大丈夫……」
「熱は何度出たの?」
「41度2分」
「大変じゃない!
 早く氷枕とか用意しないと……」
「もう37度まで下がってる」
「えっ、でも!」
混乱している吉澤のバックに梨華ちゃんが登場した。
「あの、お昼ご飯作ってきますね……」
吉澤を見て少し動揺したようだったが、すぐにドアを閉めた。
居たのはほんの数秒だったが吉澤は梨華ちゃんを一瞥すると、変に冷静な顔で向き直った。
「小野君」
「何だよ」
「今の女の子、誰」

「従妹」
「じゃあ、結婚できるってこと!?」
顔がアップになる。
「まあそうだけど……
 事情でうちで預かってるだけ」
「一緒に暮らしてるの!
 ほんとに!?」
至近距離すぎて唾が飛んできそうだ。
「嘘じゃないけど……」
吉澤はなにかまくし立てようとしたが、不意に黙った。
顔も遠ざかっていく。
「小野君」
さっきまで浮いていた腰を落ち着かせている。
「さっきから何だよ」
「あの子のこと、どう思ってるの?」
表情が切羽詰まっている。
「従妹」
「他には?」
「特に無し」
「そう……」
安堵の表情を浮かべる。
「梨華ちゃんがどうかしたか?」
吉澤の眉が動いた。

「……梨華”ちゃん”?」
(なんかものすごくヤバイこと言ったな……)
「ただの従妹に”ちゃん”ってつけるの」
「別におかしくないだろ」
「小学生ならともかく高校ぐらいなのに”ちゃん”つけるの」
またもや徐々に顔がアップになる。
「他にどう呼ぶんだよ」
「……小野君がどう思ってるか知らないけど」
吉澤は一つ間を置いた。
「女の子がただの従兄にこんなことするの?
 玄関出たり、看病したり、お昼ご飯作ったり!
 ただの従兄にそんなことすると思ってるの!?」
「……つまりは何が言いたいんだ」
「知らない!
 帰る!」
床のカバンを拾うと、部屋を出ていった。
(結局は何なんだ……)

数分後、お粥を乗せた盆を持った梨華ちゃんがやってきた。
盆を布団の脇に置く。
「飯は食えないのか」
「当たり前です」
かなりむくれている。
雰囲気が暗すぎる。
「それじゃ頂きまーす……」
お粥を食べようと盆をつかんだ。
「ダメです。
 無理しちゃいけません」
静かに続ける。
「私が食べさせてあげます」
それこそダメだろ。

心の訴えも効かず、梨華ちゃんは蓮華を手にとってお粥をすくった。
蓮華を顔の前まで持ち上げると、息を吹きかけ始めた。
(何もそこまでしなくても……)
息がかかった蓮華は俺の口の前に移動した。
(これを食えと?)
梨華ちゃんは真剣な目で蓮華(及び俺)を見ている。
(……食うしかあるまい)
味の方は普通だった。
多少お袋のより好みだ。
「……うまいな」
「そうですか……」
さっきと同じように息を吹きかける。
また口の前に。
食うしかあるまい。
何回か繰り返すと、蓮華を皿の縁に置いた。
「えっと、ごめんな本当に」
何に謝るのかよくわからないが、謝らなければいけない気がした。
「……さっきの人が吉澤さんですか?」
「そうだよ」
「……准一さんから聞きました」

『今日は一緒にゲーム行かれるはずだったのに、取りやめになっちゃって』
『えっ?
 俺は今日はなんも無いけど……』
『でも昨日は准一さんとゲームセンターに行くって』
『(ヤバッ)そうやった気もせんでもないというか……』
『……』
『……約束してません』

やばい。

今日はここまでです。

「嘘ついたんですね」
「……」
黙るしかなかった。
「他に約束があったんですよね」
「……あった」
「誰と、どこで、何をする約束だったんですか?
 そんなに私のこと嫌いなんですか!?」
いきなり声を張り上げる。
「違う!
 君との約束は最初から断ろうと思ってたんだ!」
「じゃあなんでもっと早く言ってくれなかったんですか?
 それに誰かと約束してたんでしょう!?」
「吉澤とギターの練習……」
「かぶっちゃったから私の方断ったんですね!
 私は吉澤さん以下なんですね!」
目は涙で一杯である。
「たまたまそうなっただけだ!
 君と吉澤を比べたりしてない!」

しばらく沈黙が続いた。
しかしすぐに、梨華ちゃんの嗚咽で沈黙は破られた。
次第に声は大きくなり、目から涙が零れ落ちてくる。
(どうすればいいんだ……)
困っている間に、梨華ちゃんはとうとう喚き出して俺の膝に顔を押し当ててきた。
「分かってたんです!
 吉澤さんと何にもないって分かってたんですけど!」
叫びながら泣いている。
「でも、負けてるって思ったんです!
 悔しかったんです!
 吉澤さんのほうが綺麗だったしかっこよかったし……」
それから先はよく聞き取れなかった。
深呼吸して、梨華ちゃんの頭に手を置いた。
「そんな風に思ってるなんて思わなかった。
 ……悪かった」
服を通して、涙が肌に接する。
梨華ちゃんが顔を上げた。
黙って泣いたまま、両腕をふさぐようにして抱きついてきた。
泣き方はかなり弱まったが、腕の力は弱まらなかった。
きつく抱きしめてくる。

吉澤は足元の石ころを蹴った。
石は大きく右へそれて、溝の隙間に落ちた。
(出て行かなかったらよかったかなあ……)
内心、感情的になって家を飛び出たことを後悔していた。
(梨華ちゃんだって本当にただの従妹なんだろうし。
 梨華ちゃんはどう思ってるか知らないけど……)
帰る間際、玄関で石川をおもいっきり睨みつけた。
そんな自分がどうしても好きになれなかった。
(……やっぱり謝ろう)
Uターンすると、吉澤はまた家に向かった。

突然、静かにドアが開いた。
「小野……君」
「あ……吉澤……」
廊下で吉澤が棒立ちしている。
「さっきのこと……謝ろうと思ったん……だけど……」
梨華ちゃんも気付いたようだ。
顔を少しひねる。
吉澤の目は潤み、肩は震えている。
「何よおぉーっ!」
それだけ叫ぶと、滑るように階段を降りていった。
部屋には口を半開きにした男と泣きやんだ梨華ちゃんが残った。

月曜日には熱はすっかりひいた。
「智哉さん、一緒に学校行きましょ」
「朝連は?」
「今日はお休みです。
 それじゃ行きましょう」
半ば強引に引っ張られる。
「音楽祭まであとどれぐらいですか?」
梨華ちゃんが電車に揺られながら尋ねてくる。
「一月弱。
 まだ全然できてないけど」
梨華ちゃんは楽しそうに微笑みを絶やさない。
(やば、吉澤)
電車を降りると吉澤がすぐ後ろから早足で追い抜いて行った。
(まさか、ずっと見てたのか……)

教室に入ると、友人達からの視線が俺に集まった。
(げっ、これは……)
俺の机には大きな模造紙が張られていた。
上部には”カップル朝の風景”とピンクの文字で大きく書かれていた。
中央には俺と梨華ちゃんが一緒に電車を降りてくる写真があった。
(あの野郎……)
「坂口ぃ!」
ダッシュで追いついてえりをつかみ、一発殴ってやった。
「痛てえな、何すんだよ!」
「お前が何やってんだよ!」
坂口は普通に付き合えばいい奴である。
ただ、新聞記者志望で取材と称しては校内の色恋沙汰を模造紙に書いている。
「あんなのやんの坂口しかいねえだろ!」
「俺は事実を報道しただけだ!
 何が悪い!」
「事実じゃねえんだよ!」
適当な所で坂口を解放してやると、准一が後ろにいた。
「坂口もあれやけど、お前ももうちょい気ぃつけろや」
「……分かってる。
 いままでばれずに済んだのもお前のお陰だけど、全部ばれたな……」
それまでは梨華ちゃんと住んでいる事は奇跡的に隠せていた。
「できるだけ変なことすんなよ!」
怒ったように自分の席に帰っていった。

吉澤は、クラブでも一向に口をきいてくれなかった。
こちらから話しかけたりはしなかったのだが、話しかけても無視されていただろう。
「またなんか変なことやったな」
「なんもやってねえよ」
親友にも、梨華ちゃんに抱きつかれたとは言えない。

今日からは本番通りの曲を弾く。
まだ十日以上あるが、飯田部長は練習好きで失敗嫌いである。
「えーっと次、吉澤さん、小野君、岡田君。
 弾いてみて」
部長がメモを読み上げた。
「あの、まだほとんどやってないんで今度でいいですか」
吉澤が手を上げて言った。
席は俺達とは少し間を置いている。
「大丈夫なの?
 まだ変更きくけど」
「はい、ありがとうございます……」
心なしか元気が無い。
「おい、ちょっと吉澤に聞いてこいや」
「何をだよ」
「イェスタデイ歌わなあかんやんけ、お前。
 もう歌えへんとヤバイぞ」
「……そうだな、聞いてくる」

「あのさあ、吉澤……」
「何」
目は楽譜に向いたまま答えた。
「歌詞教えてほしいんだけど……」
「CDに歌詞ついてるじゃん」
「吉澤が勉強した方がいいって言ったんだよ」
「知らないわよ!
 勝手に勉強すれば!」
吉澤は俺に背を向けて弾き始めた。
「……なに怒ってんだよ」
「怒ってないわよ!」
「普通はそれを怒ってるって言うの」
近くのパイプ椅子を引き寄せて腰掛けた。
「なんで怒ってんだよ」
「……この間”梨華ちゃん”と抱き合ってたでしょ」
相変わらず背を向けたまま喋る。
「もし抱き合ってたらどうする?」
「なっ、最低!」
「抱き合ってないって。
 それがどう関係あるのか聞いただけ」

「知らない!」
「……なんで教えてくれないんだよ」
吉澤が急に振りかえった
「私は小野君を……」
部長が立ち上がった。
「はーい、聞いて聞いて。
 明日から朝連がありますから、忘れないように。
 それじゃあ今日はこれまでー」
部員が椅子や楽器を片付け始める。
吉澤も、言葉を半端にしたままで立ち上がった。

正直、追いかけたくは無かった。
未練がましすぎると思ったからだ。
でもこれは未練じゃない、と言い聞かせながら走った。
追いかけなければどうにもならない。
それだけが理由だった。
「おーい、吉澤!」
幸い、立ち止まって振り向いた。
「あのさあ、俺、吉澤と仲悪くなりたくないんだ。
 虫がいいとは思うんだけどさ……
 また、気軽に話とかできるようになりたいんだ。
 ……人と仲が悪いっていいもんじゃないから」
太陽は沈もうとして、赤い光を辺りに撒き散らしていた。

パンッ

「痛って!」
左頬に痛みが走った。
世に言うビンタを食らったんだろう。
吉澤の目は真っ赤で、ビンタしかしていないのに息は荒い。
「私は、もっと早くそれを言って欲しかったの!」
わけが分からない。
「最低……」
呟くと、吉澤は俺の肩にもたれ掛かってきた。
(……なんか変だな)
気がつくと、吉澤は泣いていた。
肩が徐々に濡れていく。
声をかけてはいけない気がして、黙って立っていることしかできなかった。
吉澤の腕が俺の首に回った。
顔を上げて、俺に潤んだ目を向けた。
(おいおい……)
吉澤はゆっくりと目を閉じた。

こういうシチュエーションは過去に無かった。
いかに鈍感な俺と言えども、さすがに分かる。
テレビではすぐキスをするが、今の俺にしろと言う方が無理なお話である。
吉澤の顔は少しづつ近付いてくる。
(……すまん、吉澤!)
俺は代わりに吉澤を抱きしめた。
いきなりキスはできない。
夕日はほとんど沈み、グラウンドは赤紫に染まっていた。
耳になにか聞こえてきた。
吉澤を離して、首だけ振り返ってみた。
「お熱いねえー」
「おいおい、石川ちゃんはどうした?」
100メートル先にはテニス部とサッカー部の顔があった。
合計でゆうに30人は超えているであろう。
当然テニス部と言えば真里や梨華ちゃんもいるわけで。

こんなに冷や汗をかいたのは始めてだった。

その後吉澤を引きずるようにして駅まで連れて行き、無理矢理電車に乗せた。
電車に乗るまで吉澤はぼーっとしたままだった。
「……ありがと、智哉君」
「別に感謝されてもな……」
言ってから、吉澤の喋り方がおかしいのに気付いた。
(なんで小野じゃなくて智哉なんだ……?)
「じゃあね、智哉君」
吉澤はまだ少しぽーっとしたまま電車を降りて行った。
吉澤が降りると、急に車両が騒がしくなった。
大勢の生徒が隣の車両から移動してきたのだ。
(げっ、サッカー部……とテニス部もいやがる……)
「いやー、もてると辛いね、智哉君!」
サッカー部の副キャプテンが俺の肩を叩いた。
口は笑っているが、目がどう見ても怒っている。
(そういやこいつ前に吉澤のこと好きだとか言ってたな……)
他の数名からは明らかに敵意を持った眼差しを受けた。
男ならまだしも、かなりの女子からも痛い視線を受けた。
「智哉さん……」
ほとんど気配を感じさせずに、横から梨華ちゃんがやって来た。
何を喋るわけでもなく、ただじっと目を見ている。

敵意の眼差しに見送られながら電車を降りた。
同じ駅で降りるやつらは早足で通り過ぎて行く。
右にいる梨華ちゃんは今度は下を向いている。
(どうしよう……)
結局何もしないまま家に着いた。
「ただいま」
梨華ちゃんは何も言わずに二階に走っていった。
「またなんかやったんでしょ」
お袋の言葉には答えずに、俺も二階に上がった。

梨華ちゃんの部屋の前までやって来た。
目の前はドアで、先ほどからノックするべきか悩んでいる。
(どうやって切り出そうか……)
突然ドアが開いた。
「……何やってるんですか」
梨華ちゃんの顔はいたって不機嫌そうだった。
「いや、ちょっと謝ろうと思ってさ」
「何をですか」
俺は閉口した。
言う事を考えていないのだから当然だ。
「私は別に智哉さんに謝って欲しくなんかありません。
 ……智哉さんと吉澤さんが何してても私に関係ありません。
 そんなの知らないです」
梨華ちゃんは始終不機嫌そうな顔だった。
「……私宿題やるんでもういいですか?」
「……分かった、ありがとう」
礼を言う必要も無いかもしれなかったが、必要な気がした。

黒板に大きく張られた模造紙を取る気にもならなかった。
吉澤は女友達に囲まれて真っ赤になっている。
「准一、お前ならどうする……」
「……知らんわ」
一時間目の授業は筧の数学だった。
「何だこりゃあ!」
オーバーに驚いている。
「……これって小野と吉澤だな。
 おいおい羨ましいな、俺も高校生に戻りたくなってきたぞ〜!」
筧は模造紙を大事そうに丸めると、教室の隅に立てかけて授業を始めた。
「えーっと、これを小野と……吉澤」
いつもランダムに選ぶのだが、これには筧の意地悪さを感じずにはいられなかった。
まあ、そうは言っても授業中に暴れるわけにはいかないので、いやいやながら黒板の前に立った。
左にいる吉澤はすらすらと答えを書いている。
「おいおい、見とれてんなよ!」
後ろから暴言が飛んでくる。
ワンテンポ置いてクラスの爆笑。
わけの分からない気分で答えを書いた。

放課後になっても冷やかされ続けた。
吉澤と行くとそれこそ酷くなりそうなので、准一と部室に向かった。
「……なあ、智哉。
 俺はその場におらんかったからよう知らんけど、吉澤のやったことがどういうことか分かるな」
「まあな……」
「いかに鈍感なお前でも分かったやろ」
「でも直接はなんにも言われて無い」
「うっそ、紙にお前と吉澤がキスしたって書いてあったぞ」
「……」
部室に近付くにつれて、うるさくなってくる。
飯田部長の声だ。
「よっすぃーってさー、小野君と付き合ってんの?」
「やだなー、付き合ってませんよー」
妙に間延びした吉澤の声が続いた。
「でも圭織聞いたよ。
 昨日二人が校庭の真ん中で抱き合ってキスしたって」
「キスなんかしてません!
 ……第一好きでもなんでも無いですし、あっちが抱き付いてきたんです!」
「えーっ、ほんとに?」
「ちょっと気が緩んだだけで、あんなの嫌です!
 はっきりしてなくて、すぐ人に流される男なんて嫌いです!」
「こんちはー」
吉澤が言い終わったとき、准一がドアを開けた。

後ろから俺も続いた。
「あ……」
吉澤は立っていたらしく、すとんと椅子に腰を下ろした。
俺はあくまで淡々とギターの練習を始めることにした。
「部長、予備の弦ってありましたっけ。
 一応欲しいんですけど」
何故かつまらないことを聞きたくなった。
「あ、うんあるけど……」
部長は椅子から立ちあがって、弦を床に置いた。
「……さっきの聞こえてた?」
部長が見上げるようにして尋ねた。
答える気にはならなかった。
部長は済まなそうに吉澤を見ると、チェロを取って練習し始めた。
吉澤は顔を伏せたままで、女友達が声をかけるまで練習を始めなかった。

練習の途中、部長が吉澤に謝っているのを何度も見た。
「ほんっとごめん!
 何でもするからさ」
「……いいんです」
その日はイェスタデイの練習ができなかった。
「やけにうまいやんけ。
 イェスタデイ以外は」
准一の皮肉にも答えることはできなかった。
「はーい、今日はここまででいいから後は解散」
部長はかなり気落ちした声で言うと、そそくさと帰って行った。
准一も手早く片付けると帰ってしまった。
一人でギターを片付けていると、部室は俺と吉澤だけになった。
「あの、小野君」
呼び名は元に戻っていた。
「ごめんね、昨日は……」
「何にも迷惑しちゃいないよ」
こんなひねくれたことしか言えなかった。
「でも、黒板に張ってあった紙とか……」
「油断した俺も悪かったんだ。
 自業自得ってやつだ」

「あの、ほんとにごめんね……」
「怒ってねえって」
「でも」
「怒ってねえって言ってんだろ!」
思わず大声が出た。
「お前が俺のことを好きか嫌いかなんてのはどうでもいいんだよ!
 大体それが何なんだよ!
 ああっ!?」
大声を出すのはあまり好きではない。
俺は肩で息をしてただ立っているだけだった。
吉澤はうつむいたまま静かに泣き出した。
(どうしろってんだよ……)
俺はギターをつかむと、大股に部室を出た。

家に帰っても憂鬱になるだけだった。
梨華ちゃんは相変わらず口を利いてくれない。
従妹と喋れないのがどれだけの苦痛か分かった。
(イェスタデイか……)
ビートルズのCDを手に取る。
歌詞カードには日本語の訳が書いてある。
不意に一節が目に入った。

『彼女が何故行ってしまったのか、分からない。
 彼女は何も言わなかった。
 何か悪いことでも言ってしまったのだろうか。
 ああ、昨日に戻りたい』

あまり上手くない訳だった。
手の中で歌詞カードが潰れていた。

学校で梨華ちゃんや吉澤に会っても、何も話せなくなった。
梨華ちゃんは足早に行ってしまい、吉澤は絶対に俺と目を合わせようとしない。
坂口も険悪過ぎる雰囲気に気付いたのか、報道を自粛していた。
しつこく続けるようだったら殴り倒すつもりだったので丁度よかった。
「ちょっと小野君!?」
席に座ってぼーっとしていると、後藤が前に来た。
吉澤が後藤の肩を持って引き帰そうとしている。
「一年生の石川って子とどういう関係なのか知らないけど、なんでよっすぃーを傷つけたりするの?
 そんなことしなくてもいいじゃん!」
返答に詰まっていると、後藤は机を叩いた。
「なんか言いなさいよ!」
「もういいよ、ごっちん!」
吉澤が後藤の両肩を持って悲痛に叫んでいた。
後藤はかなり憤慨した様子で歩いて行った。
吉澤の背中は前より暗く見えた。

「いよいよ明後日は音楽祭です!
 みんな頑張ろう!」
飯田部長は今日から本格的にリハーサルを始めた。
「次、イェスタデイ。
 小野君たち、前出て弾いて」
もう、練習不足だから無理、とは言えない。
歌は家で少し練習してきたが、自信は皆無だった。
「うーん、なんかイマイチだねえ。
 声に全然張りが無いって言うか……
 演奏もあんまり揃ってなかったよ。
 ミスも結構目立ったし」
部長にボロボロに言われて、席に戻った。
「あっ、そうそう。
 小野君達は本番では一番最後になったよ」
「えっ、マジですか?」
准一が聞き返す。
「マジマジ。
 毎年うちのクラブががオオトリだから。
 ちゃんと練習しといてね」

家に帰るとお袋に呼ばれた。
「あんた、梨華ちゃんに何したの」
「何もしてない」
「だったらあんな風にならないよ。
 家に帰ってきたら晩ご飯とお風呂以外ずっと部屋にいるんだから」
お袋の言葉はとげとげしかった。
「だからなんでそれが俺なんだよ」
「見てたら大体わかる。
 あんた、この間来た吉澤さんとなんかあったんでしょ」
「知らねえよ」
二階に上がろうとドアを開けた。
「逃げるんだ。
 梨華ちゃんと吉澤さんから逃げるんでしょ」
お袋の言葉は痛烈だった。
「梨華ちゃんのお母さんね、思ったより健康状態がいいから7月には退院できるんだって。
 それまでになんとかしなさいよ」

「前よりは良くなってると思うよ。
 特に小野君の歌。
 でもね、まだまだミスが目立つよ。
 もう音楽祭明日なんだから、死ぬ気で練習して」
飯田部長の三度目のチェックが終わり、各自がまた練習を始めた。
(5時か……)
いつもならそろそろ帰っている時間である。
去年の音楽祭の前日は、7時までだった。
誰もがほとんど言葉を交わさずに必死で腕をふるっている。
「はーい、それじゃあ最後のリハいきまーす」
二年が弾くのは三曲。
俺の場合は吹奏楽部とのオーケストラ、ローリングストーンズのメドレー。
それにイェスタデイである。
オーケストラとメドレーは上手くできるのだが、イェスタデイはまともに誉めてもらった事がない。
練習不足がたたっているのだろう。
「それじゃイェスタデイ!」
飯田部長が声をかける。
もう7時12分。
恐らくこれで今日最後の練習だろう。
相変わらず吉澤に元気は無い。
合同練習でいる後藤からの視線も痛かった。
「Yesterday……」

「すごいじゃない!
 三人ともすごい上手くなってる!
 ちょっと揃ってないけど、それ以外だったら上手くできてる」
筧が立ち上がって拍手した。
部員も次々と拍手をくれる。
「それじゃあこれで練習終わり。
 各自、家でも練習するように!
 暗いから一人で帰るなよ!」
筧がハイテンションに喋ると、皆片付けにかかった。

とりあえず一区切りついたんで、一気にアップします。

『Yesterday,all my troubles seemed so far away……』
CDから流れる曲は、悲しさを背負っている気がした。
これ以上ギターを弾いても腕が痺れるだけで、悪影響を及ぼしかねない。
CDを聞いて雰囲気を確実につかむようにした。
急に吉澤の言葉が蘇った。
『それで、その人がイェスタデイ好きだって言ってたの』

イェスタデイは一年生の音楽祭でも弾いた。
吉澤が入ってきたのはその直後だった。
一度弾いた曲はまたすぐに弾けるだろうと思っていたが、意外と難しかった。
まだ基礎も十分できていないのに弾いたから忘れてしまったのだろう。
「智哉さん」
曲が終わる頃、梨華ちゃんが部屋に入ってきた。
急いでプレイヤーを切ると、梨華ちゃんは床に座った。
しばらく沈黙が続く。
俺は何を話したらいいのか考えるので精一杯だった。
梨華ちゃんの顔は思いつめていた。
「私、智哉さんのこと好きです」
誰が聞いても、告白だった。

「ずっと好きでした。
 小学校の時からずっと。
 お正月に会うたびに告白しよう、告白しようって思ってました」
全く、気付いていなかった。
妹のようには思っていたかもしれないが、恋愛の対象とは思っていなかった。
「何日か前、吉澤さんと抱き合ってるのを見て、ショックでした。
 全部見てたから、智哉さんがキスを断って抱きしめたのも分かりました。
 でもものすごく悲しくって悔しくって……」
表情は相変わらず思いつめたままだ。
「矢口先輩に相談したんです。
 先輩もその時ものすごく驚いてました」
そういえば、その日以来真里と何も喋っていない。
「”梨華ちゃんがあいつのこと好きなんだったら、ちゃんと告白した方がいいよ”
 そう言ってくれたんです。
 でも、私全然勇気が出なくて……
 ほんとはあの時、病気の時に告白したつもりだったんですよ。
 でもちっとも気付いてくれなかったんで……」
梨華ちゃんは少し笑った。
俺は馬鹿だった。
もっと早く気付くべきだった。
考えればすぐにでも分かりそうなことだった。
自分の情けなさに呆れ果てた。
「スッキリしました。
 自分の気持ちが言えて良かったです」
梨華ちゃんは満面の笑みでそう言った。
俺はまだ何も言えなかった。
「母のけがが早く治りそうなんで、7月にはここを出ると思います。
 それまでにお返事下さいね」
梨華ちゃんは立ち上がって、部屋を出ていった。

うちの学校では音楽祭は文化祭と同じぐらいの盛り上がりがある。
音楽祭、文化祭、体育祭と大イベントが年内に三つもあるので、生徒会には感謝している。
人の入りも文化祭に負けないほどである。
時たま有名人も来るそうだが、お目にかかったことは無い。
「あー圭織緊張してきたよ」
舞台の袖で、部長が胸を押さえている。
司会の生徒会長がマイクを持って喋っている。
「次は弦楽部と吹奏楽部です」
やおら飯田部長が皆を集めた。
全員の手を一点に集中させる。
「よーしみんな、気合入れるよ!
 頑張っていきまっ」
「「しょい!」」

ローリングストーンズメドレーは上手くいった。
いつも通りの気持ちでいけたのが幸いしたのだろう。
「ほら、みんな出て、次オーケストラだよ!」
飯田部長が手招きしている。
タイトルはよく知らないが、聞いたことのある曲ばかりである。
部長が最も重点的に練習したので、ミス一つ無く終えることができた。
客席からは盛大な拍手を貰った。
「よかったー、ほんとよかったー」
さっきから部長は”よかった”を連呼している。
よっぽど心配だったのだろう。
オーケストラが終わればあとは吹奏楽部と弦楽部がそれぞれ一曲づつである。
俺はギターを立てかけて、オオトリの歌を練習することにした。
「Why she had to go I don't know, she wouldn't say……」
「ああ、ほんとよかった……あっ!」
後ろから部長のひっくり返った声が聞こえた。
「これ、弦切れてるよ!」
部長の指は俺のギターを指していた。

舞台裏は一転して大騒ぎとなった。
立てかけておいたギターが倒れて、そのショックで弦が切れたらしい。
もともと切れかけていたのに、気付いていなかった。
今、ギターは俺と准一、吉澤しか持っていない。
予備のギターも弦も用意しなかったことを後悔した。
「おい、早よ取りにいけや!」
准一が急かす。
「もうすぐ吹奏楽部終わるぞ!
 そんな時間ねえよ!」
誰かが叫んだ。
吹奏楽部が終わり、全員舞台裏に帰って来た。
「いよいよ最後となりました、弦楽部で曲は”イェスタデイ”」
司会の声が変に癇に障った。

突然、吉澤が自分のギターを突き出した。
「……小野君、これ使って!」
鋭い目でこちらをじっと見つめている。
「使えねえよ、お前のだ」
「いいから早くして!」
吉澤の目は真剣だった。
「……分かった、ありがとう」

「吉澤ひとみは欠席です」
准一は司会に短く伝えた。
「えっ、じゃあ二人でやるの?」
「悪いですか?」
三年の生徒会長は准一の気迫に黙った。
大勢の観客に見られるのも3回目なので慣れてきた。
あとは全力を出し切るのみである。
俺は、”H・Y”と裏にマジックペンで大きく書かれたギターに全てを託した。

「もう、めっちゃ感動したよ。
 マジで泣きそうなった。
 それにしても後ろの男の人カッコよかったなー」
小川麻琴は親友のあさ美にそういうと、一つ間を置いた。
「でもなんであさ美のお姉さん出てなかったんだろうね」
「なんでだろ……お姉ちゃん頑張ってたのに……」
「……とりあえず、ここ出よっか」
麻琴はあさ美の独特の雰囲気に慣れきれていなかった。

「お疲れー」
飯田部長はそう言うと、ペットボトルを差し出した。
「ありがとうございます」
キャップを開けて一気に飲み干した。
准一が腰を浮かせている。
「ん、どこ行くんだ?」
「ちょっとトイレ」
しばらく座って休憩していたが、ギターが吉澤の物なのを思い出した。
(これ返さなきゃな……)
吉澤は長椅子に座っていて、近付くとこちらに振り向いた。
「吉澤」
ギターを差し出すと、吉澤は両手で受け取った。
「なんでギター貸してくれたの?」
俺も長椅子に腰掛け、壊れたギターを片付けながら尋ねた。
「……好きな奴に聞かせたかったんだろ」
吉澤も片付けていたが、手を止めてまた俺の顔を向いた。
「……好きな奴がいたから渡したの!」
「え?」
思わず間抜けな声が出る。
「私はぁ、あんたが好きなの!」

俺が固まるのを尻目に、吉澤は喋り続けた。
「高校入って、音楽祭見た時に好きになっちゃったの!
 私がこのクラブ入ったの誰のせいだと思ってんの」
吉澤は大声を張り上げているが、舞台裏は騒がしいから俺にしか聞こえない。
「病気の時に従妹の子と仲良さそうにしてたのが気に食わなかったの!
 それで……あの時はキスして欲しかったの!」
”あの時”がいつのなのかは十分分かった。
「高校になるまで本気で好きになった人なんていなかったの!
 だから私はぁ……」
終わりの方は涙声になっている。
「分かった」
俺は両手で吉澤の肩を持った。

後ろからは男子の奇声やらが聞こえたが、気にしなかった。
気にできないほど夢中だった、と言った方が正しいかもしれない。

「お取り込み中の所あれなんやけど……」
吉澤から顔を離すと、准一の足が目に入った。
「その長椅子どかすから立って、やってくれへん?」
顔がにやついている。
その後ろにはいつのまにか坂口が立っている。
右手にはカメラが握られていた。
「お前何撮ってんだよ!」
苦笑いしながら立ち上がった。
准一も苦笑いを浮かべている。
「ええやんけ、許したれや。
 どうせ隠す気無いんやろ」

「もちろん」

その晩、家に帰って梨華ちゃんに全て話した。
泣くことも無く、怒るようなことも無かった。
ただ、黙って話を聞いてくれた。
「ほんとにごめん」
「……そうですか。
 じゃ、私振られちゃったんですね」
梨華ちゃんはつとめて明るくしていた。
「でも、自分の気持ちを言えたからいいんです。
 いつか、智哉さんよりもずっと素敵な彼氏作りますから!」
涙目で笑みを作っていた。

「それじゃあ、音楽祭の成功と二人を祝して、カンパーイ!」
飯田部長が音頭を取ると、全員ジュースを飲み始めた。
弦楽部、もとい管弦楽部では、音楽祭の翌日に打ち上げをやるしきたりがある。
好き勝手にジュースを飲んだり菓子を食べたりして暴れる。
今年は吹奏楽部もいるから、例年より人数が多い。
「お前は幸せ者だな、このヤロー!」
「ちょっ、ジュースこぼれるって、ちょっとマジで!」
俺にはヘッドロックを食らいながら殴られるという暴力のオンパレードが始まった。
「おーい、酒持ってきたぞ!」
筧が赤い顔で叫んでいる。
「でも私たちまだ未成年ですよ」
「かったいこと言うなよー!」
ふらつく足取りで吉澤のコップに酒を注いでいる
(先に飲んでたな……)
ようやくヘッドロックから解放されて一息ついていると、吉澤が隣に座った。
コップの中身は無い。
顔は火照り、焦点が定まっていない。
「……お前酔ってるぞ」
「ともやくぅーん。
 愛の告白はぁー?」
「へ?」
「私は告白したけどぉー、智哉君まだ私にしてないじゃーん」
俺達の会話を聞いていたらしい飯田部長が立ち上がった。
「それじゃあここで、小野君に改めて愛の告白をしてもらいたいと思いまーす!」
(あの人も酔ってるな……)
見たところしらふは俺ぐらいである。
「ほらはよ立てや!」
准一の息も酒臭い。
さっきまで騒いでいたのが一気に静まり返る。
「えっと……好きだ」
「「うおおおお!」」
「「きゃあああ!」」
教室中が獣のような叫び声を上げる。
「「キース、キース!」」
期せずしてキスコールが起こった。
吉澤がとろんとした目で見つめてくる。
もうこうなったらやけだ。
「よっしゃー!
 お前ら見とけー!」

とある幸せな一日。

進んで書かれる方がいらっしゃらないようですので、続きを書いてみます。
いつ終わるか分からないので、いつ作者が消えてもおかしくありません。(w

「あっつーい」
少女はトランクを重そうに引きずっている。
「えーっ、なんで無いのよー!」
手提げ鞄から地図を取り出し、何回目かの確認をした。
頭上の空は大きく広がり、青々としていた。

始業式の長すぎる話からようやく解放された。
教室に入ると、ひとみが女子の輪から出てきた。
「やっぱ変わってないねー」
「一昨日会ったのに変わるわけないだろ」
俺が席につくと、ひとみは勝手に横の席に座った。
「ほらほら、さっさと自分の席に着けー」
筧が両手を振りながら入ってきた。
ちょうどひとみが腰を降ろしたときだったので、膨れながら自分の席に帰った。
筧は全員が席に着いたのを確認してから口を開いた。
「えー、皆校長の長い話によく耐えた!
 さぞかし苦痛だったろう。
 帰ってよし!」
たいして席に着いた意味も無いまま、皆てんでに立ち上がった。
「お前らは仲良しこよしやなあ」
准一がにやつきながら肩を叩いた。
「何が悪いんだよ」
「別になんにもないですよー」

殴ろうかと思っていると、後ろから声がかかった。
「なにしてんのーっ!
 早くー!」
ひとみが扉の横で大げさに手を振っている。
「ちょっと待て、すぐ行く」
俺が振り返ると、准一は手で合図した。
「はよ行ったれや。
 あんまり彼女待たせたら可哀想やで」
いくらか苦笑している。
ここは准一に甘えることにした。
「悪い悪い」
「早くしてよー」
ひとみは軽く左腕をつかむ。

「おい、小野」
後ろから誰かが呼んだ。
「よう、坂口」
「相変わらず仲いいねえ」
手の中でカメラをもてあそんでいる。
「撮らねえの?」
「公認だから撮る気がしないの。
 どっちも不倫して無いみたいだし」
「するかバカ!」
「へいへい、お熱いことで」
坂口は小走りに走っていった。

「いいねー、アツアツのカップルは」
駅のホームで真里が顔を出した。
「いいさいいさ、おいらも一夏のアバンチュールを過ごしたからさ」
「やぐっつぁんそれ意味分かってんのー?」
「あははー、ほとんどわかんない」
真里が頭を掻いた。
ひとみと真里は夏休みの間にいつのまにか仲良くなっていた。
同じクラスというだけでこんなにも仲良く慣れるものだろうか。
「やっぱおいらは、男は基本的に自分が一番なんだと思ってるんだと考えるんだよ」
真里が悟りきったような不思議なことを言い出す。
「みんながみんなそうでもないでしょ」
「えーっ、でもほとんどそうでしょ?」
「智哉は私のことちゃんと考えてくれるもんねー」
俺の腕をさらにきつく握る。
「まあな」
「なーにが”まあな”だよー。
 人のことは全然関心なかったくせにー」
真里が笑いながら茶化した。

よろしくお願いします。

松浦先に使わせてもらいます。
お気を悪くされたらスマソです。

「ただいまー」
帰るなり、お袋の声が飛んできた。
「悪いんだけど、駅まで行ってくれない」
「へっ?
 駅ならさっき行った」
「そうじゃなくて、ちょっと迎えに行って欲しいのよ」
「分かった」
面倒なことは早く済ませたかった。
鞄だけ降ろすと、俺は手ぶらで駅に向かった。
(誰だか聞いとけばよかったな。
 だれだろ。
 叔父さんが久し振りに日本に帰ったのか?)
駅の近くで知ってそうな顔を探す。
辺りを見まわすが、知ってる顔は目に入らない。
ふと、少し遠くから高い声が聞こえた。
「すいませーん、小野の家って知りません?」
「さあ、ちょっと知らないねえ」
中年女性独特の声が答えた。
「あーっ、智哉!」
さっきまで柱で見えなかった姿が手を振った。
真っ白のワンピースで、両手で重そうなトランクを引きずっていた。
嫌な予感が脳裏をかすめた。
「……あ、亜弥!?」
飛行機の低空飛行の音が響いて聞こえた。

「それにしても変わったねー」
「当たり前だろ、7年会ってないんだから」
亜弥の持っていたトランクは今俺が右手に持っている。
持たされたのだ。
「でもなんで今帰って来たんだ」
「しばらくは日本に帰ってもいいってコーチが言ってくれたの。
 それにしても日本ってこんなに暑かったっけ?」
「そりゃあカナダに比べれば暑いに決まってんだろ」
亜弥は小学四年生の時にカナダにあるテニスの名門校へ行った。
一年生の頃からその学校に熱烈に頼み込まれたそうで、4年頼み続けてようやく両親が許可したそうだ。
幼稚園と小学校が同じで、不思議と年少から同じクラスだった。
「それにしても、なんで俺が迎えに来なきゃ行けないんだ」
「決まってるじゃない。
 智哉のうちに泊まるから」
亜弥は微笑みながらさらりと言った。

「ちょっと待て、聞いてないぞ!」
「そんなの私知らないわよ」
「……そうじゃなくて、だから、なんで泊まるんだ?」
うちからそう遠くないところにちゃんと家があるはずだ。
「お父さんはイギリスの大会の審判。
 お母さんはフランスかドイツかの大会に出てる。
 無人の家に年頃の娘一人置けるわけ無いでしょ」
「親戚んとこ泊まれよ」
「むちゃくちゃ遠いんだもん。
 中国住んでる人とか居るし」
口をとがらせて即答する。
「母さん同士が仲がいいじゃない」
「お前、年頃の娘をこんな男がいる家に預けていいのか?」
「うーわ、智哉そんなこと考えてたの。
 エッチィー」
わざとらしく右手を口に当てる。
「違う!
 そういう心配は無いのかと聞いただけだ!」
「だいじょぶ。
 うちのお母さん智哉のことものすごい信頼してるから。
 それにさ……」
「それに?」
亜弥は急にうつむくと小声で呟いた。
「その方が私嬉しいから……」
「へ?」

ひとみは初めての彼女である。
それに間違いは無い。
いまさら間違いだったと言えば八つ裂きにされるだろう。
「幼稚園の時にぃ……」
「……あっ」
思い出した途端、冷や汗が流れた。

十年ほど前の話である。
ボールをただ投げ合う遊びが何故か園児の間で白熱していた。
ある日もボール遊びをしていると、亜弥が急に泣き出した。
『ボール来ないのー!
 ボールー!』
一人泣き出したくらいで無邪気園児が遊びを止めるはずはない。
その時、何を思ったか、かやの外にいたはず俺は全速力でボール遊びの輪に突撃した。
そして必死でボールを奪い取り、亜弥に手渡したのだ。
その直後にいじめっ子が数人やって来てボコられたが。
ボコられてもどうにか耐えていると、亜弥が寄って来た。
『智哉君、大人になったら結婚しようね』

亜弥は俺の初恋の相手だったのだろう。
今となっては思い出すことはできないが、小学四年生の時、俺は悲しかったのかもしれない。
あれから7年経って、俺の想いは変わった。
だから、ひとみと付き合っている。

「それでうんって言って、ほっぺたにチュって……
 キャー!」
亜弥は一人で身悶えしている。
「そのときのビデオもあるんだ。
 先生が撮ってたのもらったんだ」
先程から亜弥は跳ねたりして落ち着かない。
(最悪……)

「ただいま……」
家に着くと、俺のテンションはかなり下がっていた。
お袋が台所から飛んでくる。
「あらあら、亜弥ちゃん綺麗になったわね」
「そんなこと無いですよー」
俺は会話を無視して部屋に帰ることにした。
「何してんのあんた!
 亜弥ちゃんの荷物上まで運びなさい!」
お袋が階段を上がりかけていた俺に声をかける。
「何で俺なんだよ!」
「あ、いいです、自分でやります」
亜弥にしては控えめなコメントだった。
お袋はまだ何かぶつくさ言っていたが、適当な所で台所に戻った。
「私の部屋どこ?」
亜弥が荷物を抱えて歩いてきた。
「部屋か……
 お袋に聞いてくれ」
俺は早く自分の部屋に行きたかった。
亜弥の何故か残念そうな顔が見えたが、気にしないことにした。

階段を上るときも憂鬱なままだった。
(今日からあんな奴と暮らすのか……)
ちょうど部屋に着いた頃、携帯が鳴った。
「もしもし」
無意識のうちにぶっきらぼうに出た。
「あっ、小野君?」
低い声が聞こえた。
「ええっ、井ノ原さんですか?」
聞き覚えのある声に慌てて聞き返す。
何故真里の彼氏が俺に電話をかけるのか分からなかった。
「うんそう。
 ……ちょっと真剣に聞いて欲しいんだ」
「……なんですか」
とりあえず床に腰を降ろした。

「……実はさっき、真里とわかれた」
「ちょっ、何でまたいきなり!」
駅で真里が言っていたのを思い出した。

『いいさいいさ、おいらも一夏のアバンチュールを過ごしたからさ』

「仲良くいってたんでしょう?」
「俺は今、空港にいるんだ」
「……空港、ですか」
嫌な予感がした。
「シンガポールに転勤することになった」

真里が井ノ原さんと知り合ったのは2年前だ。
遊びに行った帰りに金を無くして困っている真里に、井ノ原さんがお金を貸したのだと聞いた。
それから何回か会い、気があって付き合い始めたそうだ。
もう真里から何回も聞いたから憶えている。
真里の家は小学校の5年生から母子家庭になった。
父親の浮気に耐えかねた母親が家を追い出したそうだ。
その分井ノ原さんを彼氏の他に父親とも思っているんじゃないだろうか。
「俺が有能ってことで転勤になったから喜ぶのが筋なんだろうけど……
 俺が言っても多分真里は無理について来る。
 あいつは俺のことを本当に思ってくれてるんだ。
 海外で引きずりまわすわけにはいかない」
「そんな……」
「だから、きつい言葉を言ってわかれた」
不条理だと思った。
「……真里は多分落ち込む。
 俺の代わりになれとは言わないけど、真里を励ましてやってくれ」
「井ノ原さん!」
電話はすぐに切れた。

井ノ原さんは前に真里から俺の携帯の番号を聞いたのだろう。
しかし俺は井ノ原さんの番号を知らない。
真里に聞いてかける気にもならなかった。
ショックが大きすぎた。
(どうすりゃいいんだ……)
チャイムが鳴った。
「はいはい、今開けます」
お袋ののんびりした口調が気に食わなかった。
ドアを開ける音がすると、ものすごい勢いで階段を上る音が続いた。
(ひとみか!?)
すぐにドアが開いて、小さい体が飛びついてきた。
(真里!)
「とーもーやー!」

しばらくすると真里はいくらか落ち着いたが、まだ泣きじゃくっている。
「それで最後に『俺達はあってなかったんだ』って」
(さっきの電話のことは言えないよな……)
「携帯かけなおしても繋がらないし……
 ちょっと聞いてんの?」
俺の顔をのぞき込んで来る。
とりあえず生返事をした。
「聞いてる聞いてる……」
「智哉なんか聞いてない?」
「なんで俺が聞いてんだよ……」
「……正直に言ってよ」
真里の目がいつになく真剣である。
「俺は正直者だけど?」
「絶対嘘ついてる。
 勘でわかるもん」
真里の勘は小学生の時から鋭い。
俺も准一もよく見抜かれている。

「何にも隠してないって」
俺は真里にばれないように立ちあがると、用も無いのに机をあさり始めた。
「おいらのこと嫌いになったからだよね……」
「……なんだよ暗いな。
 彼氏なんかまた作れよ」
普段は絶対に言わないような言葉だった。
「真里がくよくよしてんのなんて見たこと無かったなあ。
 いっつも明るかったから。
 そういう先入観があるのかもしれないけど、暗いのってお前らしくないんだよな」
真里が顔を上げた。
「ま、元気出せよ」
肩を軽く叩いた。
俺としては気が利きすぎているぐらいの台詞だった。
ひとみのおかげだろうか。
俺は特に意味も無くCDケースを開けると、無造作にCDをあさった。
「……ありがと」
真里の口調がいくらか戻っていた。
振り返ると、真里は少し気落ちしているようだったが笑っていた。

真里が出て行くと入れ違いに亜弥が部屋に入ってきた。
「へえー、こういう部屋なんだ」
手を後ろ手に組んで部屋を見回している。
「思ったより趣味いいじゃん」
「どんな部屋だと思ったんだよ」
「うーん、こんな部屋かなあ」
(どういう意味だよ)
亜弥は床に腰を降ろした。
とりあえず思っていたことを聞くことにした。
「お前今日どこで寝るんだよ」
「うーん、ここかな」
とんでもないことを言い出した。
「断る」
俺は無意味に立ち上がって窓に振り返った。
見事な秋晴れである。
「ええー、いいじゃん別にー」
「何でお前と寝るんだよ」
「智哉の横で布団敷いて寝るだけじゃーん。
 あっ、そんなこと考えてるんだ。
 やっぱりエッチー」
また右手を口に当てる。
「当然の考えだ!」

「あのさー」
「何だよ」
亜弥は膝を崩すと、視線を俺と同じ窓の外に向けた。
「私、智哉と結婚してもいいって思ってるんだー」
「はあ?」
場違いなセリフに途惑った。
「幼稚園のときからずーっと好きだったんだから」
直球の告白である。
「え?
 ……なんだ、あのほら、あのあれだ」
あまりにもどぎまぎしたので言葉があやふやになった。
それでもようやくまともに喋る。
「ほら、あの、俺彼女居るから」
「えっ、ほんと!」
急に大声を張り上げる。
「ちょっ、どんな人なの!?」
立ち上がって俺に詰め寄る。

「この女だって」
財布の中を開いて、亜弥に見せる。
中には、前に坂口に撮られたキスシーンの写真がある。
亜弥はしばらくじっと見ていたが、不意に顔を上げた。
「この人、なんて名前」
目がやけに見開かれていた。
「吉澤ひとみ」
「何部に入ってるの」
「弦楽部……お前なんでそんなこと聞くんだ」
「智哉とおんなじクラブじゃない!
 許せない!」
突然叫びながら部屋を歩き回り始めた。
「智哉って人がいいからすぐに騙されるのよ!
 ほらなに、なんで彼女なんか作ったの!」
立ち止まって俺の顔をじっと見た。
「騙されてるのよ、その吉澤に!」
まだ何か言いたそうだったが、荒っぽい調子で部屋を出て行った。

夕飯のとき、俺の向かいに亜弥が座っていた。
どう対処すれば良いのか分からなかったが、取り合えず座る。
亜弥は時計に向けていた目を一瞬俺に向けるが、すぐに視線は時計に戻る。
それからお袋がのんびりと晩飯を持って来た。
「亜弥ちゃんはなんでうちに来たの」
お袋がキャベツをつまみながら尋ねる。
「カナダの方でコーチが帰っていいって言ってくれたんです」
「うち以外にも友達の家あるでしょ?」
鼻から会話に参加する気は無かった。
やりとりも、聞いて聞かぬふりをして淡々と食べ続けた。
「智哉のこと好きですから」
飯粒が机に飛んだ。
お袋はにやにやしたが、すぐに苦笑いに変わる。
「残念だけど、こいつ彼女いるのよ」
「聞きました」
亜弥があまりにもはっきりと喋るので、この場から逃げ出したくなってきた。
用は無いが、席を立ってトイレに行くことにした。
「私が奪い取りますから」
お袋の嫌な視線が背中に突き刺さったが、構わずトイレに向かった。

晩飯が終わると、亜弥はすぐ風呂に入った。
「えらくもてるわね」
テレビを眺めていると、お袋が皿洗いをしながら話しかけた。
答えないでいるとお袋は更に喋る。
「亜弥ちゃんが智哉の部屋で寝たいって言ってたけど」
「やだ」
「こっちもすんなりオッケーできないわよ。
 人の子預かってるのに」
皿の重なり合う音がうるさい。
テレビの音量も上がっているので相当にやかましい。
リモコンを手に取ったところで、声がかかった。
「智哉ー、乾いてるタオル取って」
条件反射で振り返ると、風呂場から亜弥が顔をのぞかせている。
格好はと言えばバスタオルで前を隠しているぐらいだ。
「お前なにやってんだよ!」
慌てて目を戻した。
「なに言ってるの、タオル取ってよ」
机の上に置いてあったタオルをつかむと、乱暴に投げつけて部屋を出た。
亜弥の大声が聞こえたが、気にしてはいられなかった。

亜弥は梨華ちゃんがいた客間で寝ることになった。
しかし、安心したのも束の間で、朝早くから亜弥がやって来た。
「朝だよー、起きろー」
昨日のことなど何も無かったかのようである。
「何だよ、まだ目覚まし鳴ってない……」
寝ぼけているまま上半身をもたげる。
「朝はゆとりを持って行動したいじゃん」
「知らねえよ」
また布団を被ろうとすると、亜弥が布団を投げ飛ばした。
「ほらほら、さっさと起きて支度しなくちゃ」
引っ張られるように立ち上がる。
机に突っ伏していると、亜弥がパンを焼き始めた。
ほどなく軽快な音がする。
「ほら、パン焼けたから早く食べないと冷めるよ」
皿に乗ったパンが右側から登場する。
まだ眠たくて食べる気がしない。
顔を上げると、亜弥はどこか楽しそうにトーストにバターを塗っている。

眠たいので動作が緩慢になり、結局家を出るのはいつも通りの時間だった。
ようやく戻った意識で着替えると、亜弥が落ち着かない様子で待っていた。
「ほら、早く!」
勝手にドアを開けると、飛び出していった。
「ちゃんと一緒に行くのよ」
お袋の声も耳に入る。
仕方なく急いで外に出て亜弥を追った。
追いついたのは駅に着いてからで、改札の前で亜弥が待っていた。
「ねえ、どこのホームなの」
早口で言うと、俺の手を引っ張って改札を通った。
定期券はいつのまにか買っていたようだ。

「危なかったー」
どうにか電車に飛び乗って一安心していると、左腕が痛い。
亜弥が左腕をきつく握っていたのだ。
「お前、なにやってんだよ」
振りほどこうとしても、車内は混んでいるので簡単には離せない。
「あんまり暴れたら迷惑だよ」
変に微笑んでいる。

(ひとみにだけは見つかりたくないな……)
ひとみの乗ってくる駅に着いた。
勝手に緊張していたが、ひとみは乗り込んでこなかった。
「おい、もう離せよ」
「やだ」
もうすぐ学校の駅に着く。
「こんなの学校の奴らに見られたら嫌なんだよ」
「そうなったら吉澤さんと別れられていいじゃない」
無茶苦茶なことを言う。
「あのな、俺はひとみと別れるつもりは無い。
 俺はひとみを好きだし、ひとみも俺を好きでいてくれてるんだ」
亜弥は顔を伏せると、ゆっくりと手を離した。
駅に到着すると、足早に歩いて行った。
(分かってくれたか……)
「よう、小野」
背後から震える声が聞こえた。

「おう、秋本か」
振り返ると、サッカー部の副キャプテンが立っていた。
少し引きつった笑みを浮かべている。
秋本は二年にしてサッカー部の司令塔を務めている。
運動神経良し、ルックス良しで女子からの人気はかなり凄い。
成績も中の上で教師からの受けもいいが、嫌な噂も流れている。
一度好きになった女子は何が何でも振り向かせるという信条があるらしい。
そのため捕まりかけたことが何回かあるという。
もちろんこれは噂の域を出ないのだが、前にひとみを好きだといっていたのを思い出す。
秋本は俺の左側に並んだ。
「今の女、お前の彼女か」
声はさっきより震えている。
「そんなわけ無いだろ、俺の彼女は吉澤だよ」
かなり言葉を選んだつもりだった。
秋本はしばらく俺を睨んでいたが、改札を出ると目を前に向けた。
「あのさあ、憶えてないかもしれないけど」
「なんだ?」
「俺前に吉澤のこと好きだって言わなかった?」
目は真剣だった。

「いや、そうだっけ?」
この場はとぼけてやり過ごすことにした。
「だからさあ、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
ある程度は予想できた。
手のひらが汗をかいている。
「おい、智哉!」
かなり遠い後方から声が聞こえた。
「おう、准一」
「何やってんねん、今日朝練やぞ!
 遅れたら部長にしばかれんぞ!」
朝練の予定など無いはずだった。
しかし、この状況から逃げられるのなら何でも良かった。
もしかしたら本当に朝練があるのかもしれない。
「ごめん、また今度な」
急いで秋本に謝ると、全速力で学校まで駆け続けた。
校門に入ろうかという所で、准一が減速しはじめた。
「おい、早くしろよ」
追い越したので、振りかえって准一を急かした。
「ボケ、せめて俺に礼言えや」

「あんなん見とったら誰だって険悪な雰囲気やと思うわい」
万が一秋本に見つかったら困るので、部室に避難していた。
「いや、マジで助かった」
「もうええねんけどな。
 それよりお前、あの女誰やねん」
准一も同じ車両に乗り合わせたようだった。
「小学校の一、二年のときに松浦っていたの憶えてる?」
「なんかそんな奴おったな。
 テニスでアメリカかどっか行った奴やろ。
 ……お前、今の女、松浦なんか」
「そう」
まだまだ残暑は厳しい。
手近の楽譜をうちわ代わりにして顔を扇いだ。
「なんでお前のとこおんねん」
「……昨日、俺のこと好きだって言われた」
あえて質問には答えなかった。
それだけで理解してもらえるだろう。

「なんでお前は急にもてだすかなー」
准一も楽譜を手にとる。
「あとまだ離すことあるんだけど」
「なんやねん、今度は。
 また誰かに告白されたんか」
准一の表情は半ばやけに見えた。
「真里が別れたんだって」
「えっ、なんでやねん」
「井ノ原さんがシンガポールに転勤になって、別れようと思ったんだって」
「なんでそんなん知ってんねん」
「昨日電話もらったんだよ。
 真里を励ましてやってくれって」
「俺んとこはこんかったぞ」
准一は何故か深刻な顔をしていた。
「どうした」
「……詳しいことはわからへんけど、それはお前に真里の彼氏になれと言ってるんと同じやろ」
「……やっぱりそうか」

教室では、転校生の話題で持ちきりだった。
噂では金髪のカナダ人美少女が来ることになっているらしい。
「やっぱA組に来るみたいやな」
准一が小声で囁いた。
「ほらー、騒ぐな騒ぐな」
筧がいつものように両手を振りながらやって来た。
しかし、今日はいつものように静かにはならない。
「なんだ、もうみんな知ってるのかー。
 それじゃあ早速入ってくれ」
筧がドアの向こうに手招きする。
全く物怖じせずに亜弥が入ってきた。
まるで自宅のようにずかずかと歩いている。
途端に男子は色めき立った。
「おお、すげー美人!」
「無茶苦茶かわいいじゃん!」
(そうか……?)
俺は両腕に顔を埋めながら、怒号にも似た声を聞いていた。
亜弥が綺麗になったのは認める。
しかし、そんなに騒ぐほどの美人かといえばそうは思えなかった。
ふと、いつもの気配が無いのに気付いた。
ひとみがいない。

筧が黄色のチョークで名前を書いている前で、亜弥が自己紹介を始めた。
「はじめまして、松浦亜弥です」
またもや男子が湧く。
亜弥が喋るたびに男子の叫び声が起こるので、肝心の自己紹介はほとんど聞こえない。
聞く気は無かったが。
「ひとみなんでいないの」
隣の女子に尋ねてみた。
「小野君彼氏なのに知らないのー」
大袈裟に驚いた顔をされる。
「なんでいないんだよ」
「うーん、知らない」
誰にも連絡はしていないようだった。
喧騒の中、亜弥の自己紹介は終わった。
「えーっと、席空いてないんだよなー」
筧が頭をかいている。
「それじゃ、お前小野の家住んでるんだろ。
 小野の隣に机入れとけ」
それまでの話し声がやんだ。
少なくとも男子は一言も喋らなくなった。
代わりに、痛すぎる視線が四方から向けられる。
さっきまで特に熱狂していた右後ろの男子が尋ねてきた。
「小野って松浦さんの何なの?」
「いや、知り合い……」
「お前松浦さんに何をした!」
怒りのやり場が無いのか、そいつは派手に立ち上がると叫んだ。
「なんだよ、亜弥とは何もしてない!」

しまった。

その日の授業は散々だった。
理科の教師には
「Bまでいった?」
などと意味不明の問いかけをされ、体育の教師にいたっては
「もうした?」
などと言って親指と小指をくっつけている。
セクハラ以外のなにものでもない。
休み時間ごとに「俺の彼女はひとみだ」「亜弥とは知り合いなだけだ」と力説した。
おかげでどうにか疑いの目は免れることができた。
筧に聞いたところ、ひとみは熱で寝ているらしい。
「やっぱ亜弥ちゃんかわいいわ」
朝方の男子は昼休みになってもうるさかった。
「スポーツ万能で成績優秀でかわいかったらそりゃあもてるわな」
俺の机の半分を勝手に占領して弁当を食っている准一が呟く。
亜弥は留学していたので英語が流暢に喋れる。
おまけにカナダでの成績も良かったらしい。
体育のバレーではかなり目立つ活躍をしていた。
「准一もそれに近いものがあるけど」
「おーい、智哉ー!」
亜弥かと思って一瞬逃げかけたが、真里であることを確認して腰を落ち着けた。

「さっきカレー食べてきたんだけどさー」
一人ではしゃいでいる。
俺はほとんど弁当を食い終わっていたので、すぐに片付けた。
「智哉は愛想無いなー」
昨日別れたばかりとは思えない。
少なくとも落ち込んでいるようには見えなかった。
「それでさ、三本目のスプーンも落としたんだよ。
 マンガだよね、マンガ。
 もうめっちゃ笑っちゃってさー」
俺や准一はほとんど返事をしない。
亜弥は女友達と食堂に行ったようだった。
(助かった……)
「ちょっと、智哉も准一も聞いてんの?」
「聞いてる」
「聞いとるわ」
准一も明らかに聞いていなかった。
とりあえず二人して嘘をついた。
「それで、それが一万四千円だったのよ」
「ちょっと待て、真里」
准一が手のひらを前に突き出した。
「なに、どうしたの?」
真里は楽しそうである。
「お前、変やぞ」

真里の表情がいくらか強張った。
「べつに変じゃないよ。
 それでさ、文房具売り場なのに……」
「ちょっと待てや!」
准一が珍しく声を上げた。
「今日聞いてん。
 お前……井ノ原さんと別れたんやってな」
真里の顔から笑顔が消えた。
「智哉、なんで言ったの!」
真里は涙ぐんだ目で立ち上がった。
「なんで勝手に准一に言ったの!」
「准一だってお前の親友だ。
 違うか?」
「そうだけど……だから、なんでかなあ……」
立ち尽くしたまま手を泳がせている。
「別れてきついのは分かるわ。
 でもな、つらいんやったら無理せんでもええやんか」
「無理じゃないよ!
 なんなの……なによ、もう!」
いきなり立ったままで泣き出した。

「真里、ちょっと泣くなよ」
思わず慌てた。
俺は変なことを言った覚えは無い。
准一は疲れた顔で席を立った。
「なんで泣き出すかな……」
真里は制服の裾で目をこすった。
「俺なんか言ったっけ?」
「バカ!」
頭に平手が飛んできた。
頭上から勢いよくやってくる平手を避けきれるはずは無い。
少しうずくまる俺を尻目に、真里は席に帰っていった。

後藤は吹奏楽部ということにしてます。
音楽祭では合同で練習しただけ、ということにしました。
後になって小野と後藤の絡みを少しだけ入れたかったんで。
今見直したら確かに紛らわしいですね……
本来なら切腹して詫びるところですが、介錯人がいないのでほぞを噛みつつ断念しました。
(本当にほぞを噛もうとしたら筋肉痛になりそうなので、これも断念しました)
今回はたまたま後藤が出ます。

放課後、俺はひとみの家に見舞いに行くことにした。
「後藤、ひとみのとこ一緒に行ってくれよ」
教室を出ようとしている後藤を引き止めた。
後藤はぶっきらぼうに振り返ると、その調子で答えた。
「なんで。
 勝手に行ったら」
亜弥との噂を聞いているようだ。
「後藤も行くんだろ?」
愛想笑いはしたくなかったから、こちらも無表情になる。
「まあ、そうだけど……」
「ひとみの家行ったことないんだ。
 地図見ていくのって面倒くさいからさあ」
振られた女を相手に、かなり勇気を振り絞った方だ。
「何やってんねん、はよ帰ろうや」
後ろから准一が声をかけた。
「今からひとみの家行くんだ。
 先帰っとくか?」
「うーん……帰っても暇やから俺も行くわ」
途端、後藤が声を上げた。
「それじゃ、行こう」

駅に行く道々、後藤は楽しそうだった。
たえず満面の笑みで喋り続けている。
「岡田くんってどんなタイプが好き?」
唐突に尋ねた。
「いや、なんやろなあ……」
准一は腕を組んで悩む。
二人とも学校を出てからこの調子である。
俺の入りこむ余地は無かった。
「智哉は吉澤の家行くんはじめてやねんな」
質問攻めに困った准一は俺に話題を振った。
「そうだけど。
 家が最中屋だって聞いたぐらい」
「夏休みは二人でどこ行ってたねん」
「……ゲーセンとか公園とかかな」
「……どんだけ清い交際やねん」
准一は呆れた顔で俺の顔をのぞき込んで、溜息をつくように言った。
俺には今一つその言葉が理解できなかった。
「普通だと思うけどな……」

吉澤は昨日、駅を出てから調子がおかしくなった。
顔が熱くなり、意識ははっきりとしない。
どうにか倒れずに家についたが、夕食は喉を通らなかった。
妹のあさ美や二人の弟は、寝ている周りを心配そうに見守っていた。
中でも最も心配したのが父の裕介で、仕事中だというのに枕元に飛んできた。
売り物の最中に跡を付けるためのてこを持ったままだった。
「おい、大丈夫かひとみ!」
仕事場から二階へ上がってくるだけなのに、変に息切れしていた。
「父さん、危ないってそれ……」

チャイムが鳴った。
時間からすると、智哉や真希のはずだ。
「よっすぃー元気ー?」
真希がドアを開けて、枕元にすりよってきた。
すぐ後に智哉と、何故か岡田がついてくる。
「うん、もう大丈夫みたい」
「体大事にしなよー」
真希はハイテンションで喋りつづける。
「しかし、なんで急に熱が出たんだ?」
智哉が突然声を上げた。
「うーん、なんでだろね。
 きのう帰ってたらいきなりクラクラってきたんだけど。
 智哉のがうつったのかな」
「いつの話だよ」
智哉が安堵の表情を見せて笑ったところで、真希が後ろの二人に振り返った。
「先出てくれない?
 ちょっと話したいことあるから」

「えっ、俺まだほとんど話してない……」
ささやかな抵抗の声は無視され、結局部屋からつまみ出された。
「……どうする」
「まあ、帰るしかないやろ」
口には出さなかったが、なんだか徒労感が残っていた。
「失礼しましたー」
居間で茶をいれているおばさんに二人で声をかける。
「あれ、もう帰っちゃうの」
それまで座っていたおばさんは、煎餅を持ったまま立ち上がった。
取り合えず返答する。
「はい、元気そうだったんで」
”ひとみ”とは言えなかった。
おばさんはしばらく俺の顔を眺めたあと、呟いた。
「結構まともね」
「え?」
「いや、ひとみと付き合ってるんでしょう、あなた」
俺の顔を眺めたまま喋る。
「あ、はい、ありがとうございます」
あまりにも単刀直入に言われ、意味不明の言葉が出た。

「ただいま」
唐突に、玄関から女の子の声が聞こえた。
「あらあさ美、今日は部活なかったの」
「明日までないって言ったよ。
 ……あっ、どうも、はじめまして」
声の主は、居間に突っ立っている男二人を発見したようだ。
ゆっくりと頭を下げた。
中学生ぐらいで、体操服の袋と思われる物を手に下げていて、マジックで”吉澤”と書かれている。
ひとみに妹がいるのは聞いていたが、あまり似ていない。
ひとみとは対照的におとなしそうな雰囲気がする。
「どうも」
一言で返事を済ますと、おばさんがまた喋り出した。
「この人、ひとみの彼氏なんですって」
おばさんは俺を指差して言った。
妹はテレビの前に腰を下ろしながら答える。
「うん、なんとなく分かった。
 お姉ちゃん、地味な感じの人って言ってたから」
見かけによらず、思ったことは口に出すタイプらしい。

「それじゃ、ありがとうございました」
おばさんはまだまだ喋りたそうだったが、准一が強引に話しを終わらせて立ち去った。
ひとみの家は最中屋なので、玄関は店の裏にあたる。
玄関を出ると、小学生ぐらいの男の子が二人で蝉を捕まえていた。
ひとみの弟だろう。
俺達を見つけると、二人とも網を持ったまま動きを止めた。
「あっ、ひとみ姉ちゃんの男だ!」
大きい方の子が准一を指差して叫んだ。
一体何を聞いて育ったのだろうか。
「ちゃうって、姉ちゃんの男はこいつ」
准一は苦笑して俺を指差す。
途端に二人は不機嫌そうな顔になり、のぞきこむように俺の顔を見た。
「思ったよりぱっとしないなあ」
大きい方の子が不機嫌な顔のままどこで聞いたのか分からない言葉をまた口走った。
呆気に取られていると、小さい方の子が見当たらない。
突然、少し遠くから声が漏れるように聞こえた。
「おとうさーん、ひとみ姉ちゃんの彼氏いるよー!」
店の表に回ったようだ。
すぐに慌てた足音が続き、家の陰から軽装の和服を着た中年の男が登場した。
震える声で叫ぶ。
「ひとみの彼氏はお前か!」

見たところ、俺よりも地味そうな顔だった。
ひとみの父親らしい。
右手には小さなアイロンのようなものを持っている。
「はじめまして」
自分でも驚くほど冷静に挨拶した。
おじさんは数歩俺に歩み寄ると、眉間にしわを寄せて俺を睨んだ。
迫力はあまり感じられない。
足元では兄弟が渋い顔を真似ている。
口から唾を飛ばしながら口を開いた。
「ほんとに君は……」
しばしの沈黙。
「吉澤最中店へようこそ!
 店主の裕介って言うんだけど、これからよろしく!」
頬は無理矢理笑っていた。
目は泳いでいる。
おじさんはさっと右手を上げると、すぐ横の玄関から家に入っていった。
准一はいささかほっとした様子でもらした。
「変わった人やな……」

俺も聰くんと同じく大の甘党です。
いや、だからどうしたということなんですけどね。(w
それにしても、俺のは時期が丁度半年ずれてるんですよね……
そのへんはどうにかこうにか。

「もうそろそろ言ったほうがいいと思うよ」
「でも、やっぱり恥ずかしいし……」
こんなやり取りを過去何回も繰り返した事を、吉澤は覚えていた。
「岡田くんもててるしさあ……」
「でも、告白は全部断ってるって智哉から聞いたよ」
「えーっ、じゃあ私も断られるじゃーん」
真希はひどく失望したように顔を伏せた。
吉澤の熱は完治していたが、また酷いだるさに襲われた。
「とにかく、告白しなきゃ何にもならないじゃん。
 私だって智哉に断られたりしたけど、今付き合ってるもん」
「そんなこと言っても恥ずかしいし……」
吉澤の苛立ちは高まる一方だった。
「何でもいいから思いを伝えるのよ、思いを!」
「……分かった」
真希はようやく顔を上げた。

「それでさ、今日転校生が来たんだよ」
真希は一転して楽しそうに、学校の出来事を喋り始めた。
人事だと気にする様子はない。
「うっそー、どんな子?」
「えっとね、松浦さんって言うんだけど、カナダに留学してたんだって」
「マジで?
 かっけー」
「で、体育の時間とかもものすごい活躍してた。
 かわいいしね、男子とかすごい騒いでたよ」
「すごいね、その子」
真希は突然頭に手を当てた。
「それでねー、なんかあったんだよねー。
 あれ、なんだっけな」
ひとり言を言いながら思い出す。
「なになに、早速ファンクラブできたとか?」
高校ではよくファンクラブができていた。
「うーんと、そうそう、その松浦さんは小野君の家に住んでるんだってさ」
吉澤の手は反射的に携帯に伸びていた。

矢口は帰る道々、後悔していた。
夕日が背中を照らし、背の高い自分を道に映していた。
影のような背にはあこがれるが、いささかひょろ長いのは気に食わない。
「はあーっ」
いつもの人を引き付けようとする癖のせいか、溜息が大袈裟になった。
「矢口先輩、どうしたんですか」
「梨華ちゃん……」
振り返ると、いつのまにか左側に石川がいた。
「今日智哉とか准一とケンカしちゃってさあ……」
「なんでですか」
痛いところを突いてくる。
「話すと長いんだけどさあ……
 この間彼氏と別れたんだ」
「えーっ、あんなに仲良かったのに!」
少々オーバーな反応だったが、矢口と一緒にいては身についてしまう。
「それを智哉に言ったんだけど、智哉がまた准一にそれを言っちゃってさあ……」
「え?
 准一さんもお友達なんですよね」
石川は言った数秒後に慌てて両手を振った。
「あっ、ごめんなさい!」
「分かってくれたんならいいよ……」
矢口はまた溜息をついた。

石川は音楽祭の日以来、テニスに打ちこんだ。
おかげで腕はみるみる上達し、試合でも好成績をおさめられるようになった。
友人や家族は喜んだが、石川自身は今一つ気が晴れなかった。
智哉のことが忘れられないのだ。
友人の紹介で一回だけコンパまがいのものに参加したが、少しも面白くなかった。
人気はあったのだが、大した男はいなかったので勝手に帰宅した。
「梨華ちゃん?」
右下で矢口が手を振っている。
「どしたの、梨華ちゃん」
「あの、いえ、何でも無いです」
「だったらいいけどねー」
よりにもよって矢口に「智哉さんのことを考えてました」とは言えない。
「なんであんな奴が気になるのかなー」
矢口は何故か不満の表情をあらわしながら、荷物を背負いなおした。
「矢口先輩、あの松浦って人、テニス部に入るみたいですよ」
「うん、知ってる」
矢口の顔が幾らか険しくなった。

「智哉さんの家に住んでるって聞きましたけど」
「うん、そうみたいなんだよね。
 小学校の時にいたの憶えてる」
矢口の眉間は深くなる一方だった。
「近くに親戚がいないから智哉のところに泊まってるんだって」
「そうなんですか……」
「……あのさあ、なんで梨華ちゃんがそんなに深刻な顔してるの?」
自分のことは棚に上げた質問である。
「いや、そんなこと無いですよ。
 ハッピーハッピー!」
「……そうだね」
二人が改札を抜けてホームに降りると、丁度電車が来たところだった。

「うーわ、乗りすごした!」
准一は大声で叫ぶと、膝に手をついた。
目の前を夕日に照らされた電車が走り去って行く。
「どうせ間に合わないんだから、走るなよ」
「うるさいわ!
 お前も走れや!」
次の電車までは10分近くあった。
「くそー、日頃の行いはええはずやのになー」
「どこを観察したらそうなるんだ」
准一はホームの端まで歩くと、立ち止まった。
「告白されるのを片っ端から断っていいはず無いだろ」
「じゃあ全員付き合えいうんかい」
「そこまではしなくてもいいけど……お前も好きな人とかいるだろ」
「……まあな」
准一はポケットに両手を突っ込んだ。
ポケットは不細工に膨らむ。
「告白されるんじゃなくて、たまには告白しろよ」
「そんなん言うてもなあ……」

「お前、親友にぐらい教えてもいいだろ」
「……あのなあ、春に会うた人や」
准一は直接名前を言おうとしない。
春に会った人など山のようにいるだろう。
だいたいいつの春かが分からない。
「だから、誰」
「梨華ちゃんや梨華ちゃん!
 一年の石川梨華!」
「あー、はいはい、そういうこと」
准一は珍しくも顔を真っ赤にしている。
「なんで告白しないんだ」
「お前なー、告白したことあるんか!?」
言われてみれば、ない。
ひとみとは、向こうから告白されて付き合いはじめたのだ。
「まあ、俺やってそのうちちゃんと言うわ」
車掌が遠くで笛を鳴らすのが聞こえる。
電車はゆっくりとホームに滑りこんだ。

がらがらの座席に座ると、准一は口を開いた。
「お前、松浦とどういう関係やねん」
「どういう関係って……なんともない」
准一がいきなり声を荒げた。
「アホ、なんともない奴の家に泊まりに行くかボケ!
 なんで松浦がお前のこと好きなんか聞いてるんやろ!
妙にハイテンションである。
どうやら先ほどの告白が尾を引いているようだ。
「わからん」
「お前は人にあんなこと言わせといて言わんつもりか!」
俺の首に見事なヘッドロックがかかる。
本人は冗談のつもりかもしれないが、本気で痛い。
「分かった、言う言う!」
「はよ言えっちゅうねん」
取り合えず襟を正した。
「俺は覚えてないけど、幼稚園の頃キスしたらしい。
 俺から」
「はあ?」
准一の顔が歪んだ。
「それって……ファーストキスの相手やん」
「ビデオもあるらしい」

「そのこと、吉澤に言うてへんよな」
「当たり前だろ。
 明日学校で落ち着いて話す。
 今言っても騒がれるだけだし」
准一は両手を枕にして、両足を放り出した。
「お前はなんでキスしてん」
痛い質問である。
「あのなあ、ボールとってやったら亜弥が喜んで……」
「亜弥あ?」
「そこでは名前で呼んでたんだよ」
准一は関西の幼稚園に通っていたので、その頃はまだ俺と面識が無い。
「そんでどうした。
 松浦がお前の唇をかすめとったんか」
わけの分からないことを言い出す。
「俺からしたらしい……」
「なんやと!」
リラックスの姿勢を急に正した。
「それは、お前の初恋の相手は松浦やっちゅうことちゃうんか」
「そうだろうな……」
「知らんわ、もう」
准一はまた両足を投げ出した。

やはり、玄関の鍵はかかっていた。
矢口はポケットから鍵を出すと、ドアノブにさしこんだ。
家の中に人の気配は無い。
食卓の上には、珍しくカレーの入った皿がのっていた。
母親は食事を作らずに出て行くことが多い。
おかげで料理の腕は良くなったが、喜べるはずがない。
冷えたカレーを電子レンジに入れると、荷物を部屋に置いた。
母親とは一週間近く、まともに会っていない。
小学四年生のあの日から、まともな休みを取っていないのだ。

『真里、お母さん仕事見つかったよ』
『ほんと?
 やったじゃん!』
『ちょっとお母さん、忙しくなるけど我慢してね』
『分かってる!
 ……ああ良かった、お母さんと二人で暮らせるんだよね!』

レンジのベルが高く鳴った。

カレーの皿を両手で取り出す。
「あっつつつ……」
予想より熱くなった皿を炊飯器の側まで運ぶ。
カレーの入った皿に、上からご飯を乗せる。
今日の昼食もカレーライスを食べた。
ふと、昼間のことを思い出す。
あの時、智哉は純粋に自分のことを心配しているようだった。
准一だってそうだ。
いわば好意に対して、自分は大声で泣き出したのだ。
思い出せば思い出すほど、自分の情けなさが身に染みた。
謝って、許してくれるだろうか?
いや、それとも謝らなくとも良いのではないだろうか。
自分の気持ちに全く気付かなかった向こうは何も無いのか。
矢口は自分の両頬を叩いた。
だめだだめだ、逃げてる。
もう絶対に逃げない。
智哉に自分の想いを伝えるまでは、逃げられない。
ぱさぱさに乾いたご飯を口に入れながら、矢口は密かに決心をした。

亜弥が帰宅すると、智哉の母親は機嫌よく出迎えた。
亜弥の母は智哉の母と仲がよく、子供の幼稚園もわざわざ相談して同じところにした。
「テニス部見てきたの」
「はい」
智哉の母は先導するようにキッチンへ入ったが、亜弥は階段に足を乗せた。
「ちょっとカバン置いてきますね」
階段を上るテンポは何故か軽快になる。
智哉の部屋の前を通り、自分の寝室にカバンを置いてクローゼットを開く。
亜弥はファッションにこだわるほうではなかった。
カナダでは一日中制服とジャージですごし、私服はほとんど持っていなかった。
友人達が洋服代に大金をはたく理由が、亜弥には分からなかった。
しかし昨日この家に来てから、自分の服装がいやに気になる。
風呂場では鏡と30分以上向き合い、寒気がしてようやくあがった。
以前はこうではなかった。
亜弥自身、外見に気を使うことは重要なことではないと思っていた。
その分、急に観念が変わったことにかなり途惑っていた。

数少ない私服の中から、念入りに服を選んで部屋を出た。
階段の手摺に手をかける。
不意に、背後にあるのが智哉の部屋であることに気付いた。
振り返れば自由に入ることができる。
亜弥は一瞬考えると、踵を返した。
ドアノブを回し、部屋に一歩踏み入る。
智哉の部屋は昨日見たままだった。
亜弥は興味本意でCDの棚を開ける。
10枚以上のビートルズのCDが顔を出した。
(同じ曲ばっかり買ってなにがいいのかなー)
亜弥は本当に欲しいと思った物しか買わない。
自分が省エネ人間であると思っていたし、周りの評価もそうだった。
金をつぎ込んだものといえば、テニスラケットやシューズぐらいのものである。
次々と棚を開け閉めしていると、突然机の上の携帯が鳴った。
亜弥は一瞬飛びあがったが、すぐに机の携帯をのぞきこんだ。
吉澤からだ。
亜弥はなにも考えずに、携帯を手に取った。

吉澤は焦っていたのか、少し間を置いて叫んだ。
「智哉、亜弥ってだれよ!」
「私よ!」
反射的に返していた。
電話の向こうで吉澤の息が荒くなるのが聞こえたが、次の大声で息はかき消された。
「一体あなたはなんなの!」
「智哉の幼馴染!」
亜弥も声を張り上げて返す。
”幼馴染”の部分は一層大きい声だった。
「幼稚園から一緒なの!」
「なんで智哉の家にいるのよ!」
吉澤の声は離れていても十分に聞こえたが、亜弥は携帯を耳にぴったりとあてていた。
「ここしか来るところなかったのよ!」
大声を出すのは疲れる。
お互いに相手が喋っているときは呼吸に専念していた。
亜弥が喋り終わると吉澤の反撃はなく、受話器の息は落ち着いていった。
「じゃあ、分かったから、智哉に変なことしないでよ」
吉澤は智哉を信頼していた。
今更海外から帰ってきた女にまだ淡い思いを抱いているとは考えにくかった。
そもそも、智哉はなんとも思っていないかもしれない。
亜弥も幾らか落ち着いて答えた。
「なんで。
 智哉と結婚の約束したのに」
「へえっ!?」

「ちょっと、智哉は私の彼氏よ!」
「そんなの知らないわよ!」
亜弥は言いたいことだけ言うと、携帯を切った。
切る間際に吉澤のわめき声が漏れていたが気にしなかった。
携帯を机に叩き付けると、力強く階段を下りた。
階下の食卓では、智哉の母親が口を押さえて苦笑していた。
嫌な予感がよぎる。
「亜弥ちゃん、全部聞こえてたわよ」
亜弥はドアの近くで棒立ちになった。
「ちょ、あの、そうじゃなくて、違うんですよ」
まくし立てようとしたが、言葉がまとまらない。
母親は無視して苦笑している。
「お母さんから聞いてたから知ってたんだけどね。
 智哉の携帯で話してたの?」
亜弥は自分の顔が紅潮していくのが分かった。
「ちがっ、あの、そうなんですけど、お母さんは、だから」
しばらく言葉を羅列していたが、母親は苦笑するだけだった。

「ただいま」
暑かったせいか、喉が乾いた。
冷蔵庫に飲みかけのアクエリアスがあったはずだ。
食卓のすぐ側に冷蔵庫がある。
食堂のドアを開けて冷蔵庫に目をやると、その脇で亜弥が必死で何か喋っていた。
ドアの音で俺に気付いたらしく、こちらに顔を向ける。
真っ赤だった。
「あっ、ちょっと、智哉」
亜弥は慌てた様子で俺に数歩歩み寄った。
「なに」
「あの、さっき、部屋で、あの、私が出たんだけど」
「なんだよ、はっきり喋れよ」
聞き返すと、亜弥は口を少し開いたまま手を泳がせた。
しばらくそうしていたが、突然横を駆け抜けて食堂を出ていった。
お袋は苦笑している。
「なあ、なんかあった」
「さーあ、なんでしょうねえ」
お袋のすまし顔が癪に障ったが、アクエリアスを喉に流す方が先決だった。

「ちょっと、晩ご飯できたから亜弥ちゃん呼んできて」
時間が経って、晩飯ができても亜弥は下りてこなかった。
階段を上って客間の前に立つ。
客間は襖だから鍵はない。
静かに襖を開けると、亜弥はクローゼットの中をしきりにのぞいていた。
よっぽど熱中しているようで、気付く様子は無い。
「おい、晩飯できたぞ」
声をかけると、亜弥はすごい勢いでクローゼットを閉め、こちらに向いた。
顔はみるみる赤くなっていく。
「わ、分かったからでてってよ!」
亜弥は即座に襖に手をかけると、音を立てて閉めた。

亜弥は数分で晩飯を終えると、さっさと風呂に入っていった。
お袋は、亜弥が風呂に入るのを見届けるとこちらに身を乗り出してきた。
「智哉、あんたの彼女は誰なのよ」
突き上げるように俺を睨む。
「ひとみ」
いくらかたじろいだ。
母親を相手にたじろぐのは、我ながら情けない。
「そうでしょ」
お袋は俺を睨んだまま茶を一口飲んだ。
「じゃ、なんで亜弥ちゃんに気持たせたりするの。
 なんでスパッとふってあげないのよ」
もっともな質問だ。
俺も茶を飲んだ。

俺の彼女はひとみだし、ひとみのことは好きだ。
しかし亜弥に、嫌いだとは言えなかった。
確たる根拠はない。
だが、言おうとすると言葉はいつも喉の奥につかえてしまう。
お袋は俺から視線を外さなかった。
静かな我が家に、携帯の着信音が響いた。
俺の部屋から鳴るのが聞こえる。
「俺の携帯鳴ってるみたいだから」
安っぽい家に感謝しながら、食堂から出た。
(あれは生き地獄だ……)
部屋に入り、机に乗っている携帯を手に取る。
「もしもし」
「ちょっと、智哉?」
ひとみの声は不気味に静かだった。

「ん、なんだ?」
嫌な予感をかき消すために、不自然なくらい陽気に聞き返した。
そうでもしないと身がもたない。
「あのさあ、智哉の家に今、松浦って子がいるよね」
「……なんで知ってんだ」
「ごっちんから聞いた……」
トーンが異常に低い。
夏休みに一度、寝過ぎてひとみとの約束に遅れたことがあった。
その時ひとみは今のようにテンションが低かった。
その場は昼飯のおごりで事無きを得たが、今回はそうもいかなさそうである。
「夕方に電話したら……松浦さんが出たんだけど」
茶を飲んだはずだが、喉はからからだった。

「それってさあ、松浦さんの手が届くところに智哉の携帯が置いてあったってことだよね。
 どういうこと?」
「いや違う、俺の部屋に携帯置いてた」
「松浦さん、智哉の部屋で寝てるの!」
いささか裏返ったひとみの声が響く。
「違う!
 亜弥が勝手に出たんだ!」
「亜弥ぁ?」
明らかに敵意のこもった声だった。
「幼稚園からの付き合いなんだよ、一応。
 部屋で携帯鳴ってたから出たんだろ。
 亜弥って結構勝手な奴だからさ」
とりあえず、考えられる理由を述べた。
これでどうにか納得してもらえるはずだと思う。
唾を飲みこみ、喉を一時的に潤す。
ひとみはしばらく黙ったあと、いやに淡々と口を開いた。
「智哉と結婚の約束したって」
「え?」
「智哉と結婚するって言ってたよ、松浦さん」
唾を飲むと、余計に喉が乾いた気がした。

事実を否定するよりは事実に対する解釈をしたほうが効果的だ。
意を決して、舌を動かす。
「分かった、実を言うと約束をした。
 あっ、いや、違うぞ、幼稚園のときだ」
かなり覚悟を決めた告白だったが、反論はなかった。
「亜弥は両親が家を出てるからうちに来ただけだ。
 ほらあの、母さん同士が仲いいから」
間に耐えきれず、どうでもいいことを口走った。
ひとみが息を吸い込む音が聞こえた。
息はすすり泣く声に変わっていく。
「ちょっ、なんで泣き出すんだよ、おい!」
問いただしても、返ってくるのはすすり泣きだけだった。
しばらくすると、ひとみは静かに口を開いた。
「ありがと……」
「えっ……いや、どうもないって」
誰も見ていないが、作り笑いをしてしまう。
俺の方がよっぽどどうかしてそうだ。
「ほんとのこと言ってくれてよかった……」
安心のあまり携帯を落としそうになった。

「それでさ、明日からまた学校あるじゃん?」
「そうだな」
ひとみは機嫌を直して明るく喋り出した。
「私、弦楽部やめようと思うんだ」
当然のように言い放った。
「ええっ?」
「ほら、私が弦楽入ったのって智哉と会うためだったからさ。
 ギターも結構楽しいけどさ、ほんとはバレーしたかったんだ」
「バレーか……」
少し呆然として答えた。
(まあ、俺を目当てに入ってくれたのは喜ぶべきことなんだよな……)
「前も言わなかった?
 中学の時バレーやってたんだ」
「ああ、そういえば……」
聞いた覚えは微塵もなかった。
「だから、明日からバレー部入ろうと思うんだ」
「まあ、頑張れば追いつくだろ」
ようやく心が帰ってきた。
「サーンキュ、それじゃね〜」
電話はいたって陽気に切れた。

翌朝、亜弥は俺が起きる前に家を出た。
相変わらずお袋の視線は厳しかったが、気付かない振りをして出た。
登校途中は誰にも会わず、久し振りにのんびりと登校できた。
朝の爽やかな空気は気持ちいい。
校舎の窓からは朝日が差し込み、清廉な気分で教室に向かう。
教室は俺の心情に反して騒がしかった。
クラスの大半は黒板に集合していて、他のクラスの生徒まで混ざっていた。
大勢の頭からは白い紙が垣間見える。
紙には沢山の写真が張られているようだった。
さらに近付くと、誰かの腕に飛びついている亜弥と、くっきり写った俺の顔が目に入る。
丁度電車から出てくるところだ。
「やばい……」
清廉な気分はすぐに吹き飛び、こめかみを冷や汗が伝った。
油断し過ぎていたのだ。
「坂口!」
小柄な姿はどこにも見当たらない。
俺の声に気付いた生徒が振りかえる。
「おいおい、小野また不倫かー」
「いい加減にしとけよ、おい」
「吉澤は俺達に任せとけって」
人間は、人事だと勝手だ。

「おい、なんやねんこれ……」
教室に入ってくるなり、准一は呆れた声を出した。
「お前よっぽど死にたいねんな」
「死にたいわけないだろ!」
「見てみ、お前が心配かけるから俺の頭は真っ白や」
「茶髪だろ」
俺が椅子に座ると、准一も腰を下ろした。
「とにかく、言い訳を考えるんや」
准一は腕組みし、前傾姿勢になった。
「事実を否定してもしゃあない。
 どれだけ効果的な嘘をつくかがキーやな」
言いながら、顔を上げる。
「うわっ、吉澤!」
准一は椅子から落ちそうなほどのけぞった。
「え?」
何を見たのかは明らかである。
「智哉……」
振りかえると、目が黒板に釘付けになったひとみが立っていた。

一時間目の筧が来るまではひどかった。
ひとみは口を利いてくれない。
自分の席で女友達と話しこんでいる。
当然といえば至極当然だが。
亜弥は赤くなってトイレに駆けこみ、チャイムが鳴るまでは帰ってこなかった。
准一は「疲れるわ」とだけ言って、机に突っ伏して寝てしまった。
筧が来ても寝ていた。
始業のギリギリで真里がやってきた。
無言で手招きすると、真里は理解したようで来てくれた。
真里は近寄るなり俺の頭をはたいた。
「あんたバカ?」
「違う、あの写真は既成事実というやつだ」
「なぁに言ってんの」

早くよっすぃーのとこ行って謝りなさいよ。
矢口はそう言おうとしたが、口からは出なかった。
智哉が謝れば、吉澤は智哉のことが好きなのだから許すに決まっている。
そうなれば、吉澤は智哉と今まで通り仲良くなるわけだ。
そうなることを、矢口の心の奥ではかたくなに拒んでいた。
できれば避けたいことだと、無意識のうちに思っていた。
その時矢口はそういう自分に気付いていたが、その自分も否定したかった。

「な、な、なんじゃこりゃあ!」
筧は教室に一歩踏み入ると、バック転ですぐに廊下に舞い戻った。
体育の教師のほうがよほどむいていると思う。
筧は改めて教壇に上がると、俺達に背を向けて黒板の紙を熟読しはじめた。
「おい、小野……」
珍しくテンションが低い。
筧はこちらに振りかえって教壇を叩いた。
「授業はやめだやめ!
 小野と吉澤と松浦おまえらどうなってんだ!」
筧は鋭い口調で叫んだ。
顔は真剣そのものだが、どうしてもギャグにしか見えない。
「おいおい、どうなってんだよ」
「小野二股かー?」
「お前に吉澤と松浦はもったいないって」
教室はすぐに野次でうるさくなった。
いちいち反応していたらきりがないので、黒板の片隅を見つめた。
亜弥やひとみがどんな顔をしているのかは全く分からない。
筧は教壇に手を付いて喋り続けた。
「ここまでエスカレートすると、ちょっと問題がある。
 場合によっては三人のクラスを変えさせてもらうぞ!」
「おっさん、力みすぎやっちゅうねん」
准一がぼやく。
それと同時に椅子を引きずる音がした。
「ちょっと待ってください!」

「なんだ秋本。
 トイレか?」
後方の席で秋本が立ちあがったらしい。
(トイレなわけないだろ……)
「ええと、吉澤と小野は付き合ってないと思います」
教室は一瞬沈黙に包まれた。
しばらくして吹き出す声や秋本をとがめるような野次が飛んだ。
「いや、ちょっと聞いてくれ」
秋本は語勢を強めた。
教室はすぐに好奇の沈黙に戻った。
「吉澤は小野と付き合ってなくて、小野は松浦と付き合ってる。
 これだったら何もおかしいことは無いだろ?」
「でも、小野と吉澤は六月から付き合ってることは確実だ」
声は明らかに坂口のものだ。
いつの間に席についていたのか分からない。
「でも、夏休みの間に何があったか誰も知らないだろ?」
「そりゃあまあ……」
坂口がいささか気弱に返答する。
坂口が知らないことを他の生徒が知っていることはまず無い。
「昨日吉澤は休んでいたし、今日二人が話してるのを見た奴いないだろ」
秋本は勝ち誇ったように言った。
「ちょっと待てや、昨日智哉は俺と吉澤の家見舞いに行ったぞ」
突然、准一が顔をあげた。
教室中の静かな好奇の目は准一に集まる。
しかし、秋本は准一の方を見ようともせずに俺の方を睨んだ。
「小野、どうなんだよ」

「俺は……」
顔を上げて辺りを見まわすと、俺の顔にクラス中の視線が突き刺さっていた。
亜弥は赤い顔をしているが、懇願するような目でこちらを見ている。
ひとみは亜弥とは違い、ふてくされたように窓の外を眺めていた。
「どうなんだよ」
秋本は鋭い視線を弱めようとしない。

少なくとも、ひとみと俺は別れていないつもりだ。
昨晩の電話でどうにかなったと思う。
しかし、ここで付き合っていると言っても、状況は変わらない。
取り合えず別れたと言えば、この場はどうにか凌げる。
今は肯定しておいて、後で謝っておけばなんとかなるだろう。

「俺は……吉澤とは付き合ってない」

教室はすぐさま騒がしくなり、秋本は満足げな顔で椅子に腰を下ろした。
教室の奴らからはすぐに目を逸らしたから、ひとみや亜弥がどんな顔をしたかは分からない。
「つまり小野は、松浦と付き合っているということだな」
筧が言い聞かせるように、返事を促した。
「そうです」
俺は顔を少し上げ、黒板の端を見つめながら返した。
「なるほど……これ以上細かいことは詮索しないほうがいいな」
「できればそうしてもらいたいです」
俺は大袈裟にげんなりした様子を見せた。
筧は俺の態度に気付いたらしく、話題を亜弥に振った。
「松浦、本当だな」
亜弥の返事は聞こえてこなかった。
教室の野次では、赤面してうつむいているらしかった。
筧は何とも言わない亜弥に痺れを切らせたらしく、今度はひとみに尋ねた。
「吉澤、そうだな」
「そうです」
ひとみは即答だった。
声の調子から、不機嫌なのがよく分かる。
回りの連中はおどけて「怖えぇー」などと言っているが、声が引きつっていてあながち冗談ではない。
「岡田、何か知ってるか」
「知ってるわけないですよ」
准一も同様、気に食わない調子で答えた。
筧が腕組みをしたところで授業終了のベルが鳴り、教室はさらに騒がしくなった。

まずは、ひとみに事情を説明しなければいけない。
薄々勘付いているとは思うが、本当は別れていないことを明白にしておかなければどうなるか分からない。
立ちあがろうと顔を上げた途端、数人の友人が寄ってきた。
「おい、何で別れたんだよ」
真っ先に来た奴が薄笑いを浮かべながら尋ねてきた。
「何でもいいだろ」
「いいわけないんだよなあ、俺としては」
(てめえの事情なんか知らねえよ)
よっぽどそう言いかけたが、危ないところで踏みとどまった。
「別にいいじゃねえかよ、やめてやれよ」
急に、それまでとはトーンの違う声が横から入ってきた。
「何でだよ、秋本」
「理由聞くだけなんだから、なあ」
数人が反論したが、秋本はそいつらを有無を言わさず押し退け、俺の前の椅子に陣取った。
准一はトイレに行ったらしくいない。
俺は秋本と二人で向かい合う形になった。
まだ何も話していないが、一人がこんなにも心細いものだとは思わなかった。
「……小野」
秋本はローテンションで切り出した。
視線は厳しく、俺を見下げるようにしている。
「相談したいことがあるんだ」
「……なんだ」
「俺、吉澤と付き合いたいんだ」

秋本の目は真っ直ぐ俺を見据えていた。
「吉澤、今彼氏いないんだろ」
「さあ、知らねえ……」
俺は思わず目を逸らしたが、秋本は構わず俺の顔を見据える。
「一回告白したんだ、一年のときに」
「へえ……」
その話は坂口から聞いたことがあった。
秋本は当時から人気があったが、ひとみは告白されても特に嬉しいと思わなかったそうだ。
どちらかというと気障で嫌いだったらしい。
「断られたんだけど、今なら上手くいくような気がするんだ」
(しつこいな……)
秋本は自信に満ちた顔だった。
「やめたほうがいいんじゃないか、一回振られてるんだろ」
秋本の眉が少し上がる。
「あんまり言いすぎるのも、どうかと思うぞ」
「……そうか、そうだな。
 ありがとう、よく分かった」
秋本は薄気味悪い笑顔を浮かべると、ぎこちない動きで椅子を戻した。
「できれば、吉澤の携帯の番号教えてくれないか」
「何でだよ、自分で聞けよ」
「いいじゃないか、番号ぐらい。
 やらしいことで使わなきゃいいだろ」
(他にどんな用途があるんだよ)
俺は一応考えているように見せるためにうつむいて、間を置いて答えた。
「やっぱ、それは駄目だ」
俺が断ると秋本は一瞬むっとしたが、すぐにしょぼくれた格好で席へ帰っていった。

秋本が行ってからは誰も寄ってこなかった。
皆、遠まわしに恨みとも憐れみともつかない表情をして通りすぎるだけだった。
授業中も、どこからか見られている。
大半は関係のない奴だが、時たま亜弥が熱線のような視線を送ってくる。
ひとみは真面目くさった顔で授業を聞いているようだった。
休み時間ごとにひとみの席に行くが、そうなると大抵周りが冷やかし、ひとみは席を立つ。
かといって亜弥に近付いてもまずい。
結局、昼になっても二人と一言も話すことができなかった。
「なんかわびしいオーラが全身から出てんな」
准一は飯を掻きこみながら、器用に喋る。
返す言葉がなかった。
「飯食ってるようにさえ見えへんぞ」
そう言って、准一は空の弁当箱を片付け始めた。
俺の弁当は半分以上残っている。
ぽつりぽつりと弁当を食っていると、背後から喧しい足音がしてきた。
「おーい、元気かー、死んでないかー!」
足音は叫びながら、近付いてくる。
振りかえる気も起こらない。
足音は意味不明の掛け声を放って、俺の横を通り過ぎた。
どうやら宙に向かってキックをしたらしい。
「お前クソ元気やなあ」
准一は弁当をしまうと、呆れた様子で振りかえった。
「あんだけ元気なのは真里ぐらいだな」

「違う違う、智哉に元気がないの」
真里はキックで疲れたのか、ゆっくりと歩いてくる。
「そっれにしても、元気ないなー!」
「事情があるんだよ、事情が」
「なんだいなんだい、言ってみな。
 どうせよっすぃーと別れてないのに別れたことになってるからでしょ」
真里は俺の前にしゃがみこんで机に肘をついた。
「……なんで知ってるんだ」
真里は得意げに口の片方を吊り上げた。
「それぐらい分かるよ、あれだけ仲良かったんだから」
「ああ、そう……」
「それでだ!」
真里は人差し指を立て、俺の眼前に突きつけた。
やけに自信のある表情で、何かしらの期待が持てそうだった。
もしかしたら、ひとみに事情を説明してくれるかもしれない。
「それで、なんだ」
あくまで慎重に尋ねる。
「この際、別れたら」
「はあ?」

「待てよ、お前なんで……」
「だってさあ、言っちゃ悪いけど、そんなに仲良さそうに見えないもん」
真里は腰に手を当てて立ちあがると、伸びをしながら言った。
「夏休みの間にどれぐらい会ったの」
「一週間に3日ぐらい……」
「マジで?
 そんだけしか会ってないの。
 よっすぃー偉いわ」
「そんなに少ないか」
「無茶苦茶少ない」
真里は准一の椅子に腰掛けると、机に右肘を突いた。
「家とか行ったことある?」
「ない……けど」
真里は右手に顔を乗せると、溜息をついた。
「じゃあさ、一応聞いとくけど、したの?」
「なにを」
「だからこう……こういうさあ、男女の営みだよほら」
「ああ、はいはい……」
直言は避けていたが、真里は恥ずかしがるどころか堂々と話した。
「してねえよ」
真里は納得ずくの顔だったが、すぐに顔が歪んだ。
「……あんた本当に付き合ってんの?」

真里は苛立つ一方だった。
俺も真里の調子を見ていると、段々と腹が立ってきた。
「余計な世話だ」
「なによあんた、人の心配にはちゃんと応えなさいよ」
真里はむっとした顔になった。
「せっかく助けてあげてんのに、感謝しなさいよ」
「それが鬱陶しいんだよ」
その時の真里の言葉は冗談だったのだろうが、悪態をつかずにはいられなかった。
「ちょっと、鬱陶しいって……」
「俺の問題にいちいち口出しすんなって言ってんだよ。
 関係ねえだろ」
俺はふてくされて、真里から顔をそむけた。
真里は随分呆然としたようだが、ふいに立ちあがった。
様子を見ようと少し顔を向けた時、左の頬に平手が飛んできた。
「痛ってえ!」
「なに言ってんのよあんた!
 一人じゃなんにもできないくせにぐだぐだ偉そうにして!
 あんたからギター取ったらなんにも残んないくせに!」
真里は顔を真っ赤にして、声を張り上げた。
昼時で、幸い教室にはあまり人がいなかったが、それでも俺が恥ずかしくなるほど大声だった。
「それが余計な世話だって言ってんだよ。
 俺が別れても別れなくても関係ねえよ」
できるだけ声を抑えて返す。
それでも真里はボリュームを下げることなく、叫び続けた。
「あんた、誰のこと考えてんのよ!
 自分のことしか考えてないじゃない!
 よっすぃーのことも、私のことも全然考えてないからそういうことが言えるんだよ!」
真里の声は始業のチャイムと重なったが、鼓膜が痛くなるほどに聞こえた。

その日、俺はクラブが終わってから一人で学校を出た。
准一は「歯医者に行く」と言って先に帰っていた。
准一以外に相手がいない俺は、一人で駅まで歩き、ホームで電車を待った。
見上げると、向かいのホームの屋根から夕日が漏れている。
もう七時で、冬ならばとっくに日が暮れている頃だったが、空には夕日が浮かんでいた。
「智哉さん」
右から高い声音がする。
「ああ、梨華ちゃん、久しぶり」
梨華ちゃんは理由不明の笑い顔だったが、特に不自然だとは思わなかった。
「クラブですか?」
「うん、まあ……」
俺の返事と共に、電車がホームの端に見えはじめた。
話しかけることもない。
ただ黙って突っ立って、電車が来るのを待っていた。
なにもしなくても、しばらくすると目の前にドアが来て開く。
座席は全て埋まっていて、俺は梨華ちゃんと立つことになった。
俺はなんとなく、家に帰るまでなにもないことを祈った。
「そうそう、聞きましたよ。
 吉澤さんと別れたそうですね」
梨華ちゃんはあくまでも笑顔で話した。
「それ、誰から聞いた?」
「クラブで矢口先輩から聞きました」

「私が言うのも変ですけど、やっぱり合わないと思ったんですよ」
笑顔を崩すどころか、一層楽しそうに話し続ける。
「智哉さんとはちょっと違うタイプの人ですから、うまくいくのかなって思ったんですけど。
 吉澤さんって少し勝手な感じのする人だったんですよね。
 やっぱり智哉さんとは気が合わなかったのかなあって……あっ、すいません」
梨華ちゃんは沈黙の後困り顔になり、気まずそうに押し黙った。
「……いや、そうかもしれない。
 合わなかったんだ、多分」
目の前でドアが開いた。
どの駅かは判然としなかったが、とにかくドアを出た。
いつのまにか夕日は沈み、夜風が涼しかった。
「智哉さん、どうしたんですか!」
梨華ちゃんは間を置いて、電車を降りた。
そのすぐ後にドアが閉まる。
俺は目でベンチを探し、腰掛けた。
「あの、ごめんなさい、あんなこと言っちゃって」
梨華ちゃんは傍らに立ち尽くし、ひたすら謝っていた。
正直な話、梨華ちゃんの言うことは当たっているのかもしれない。
俺は誰かに一目惚れしたとして、自分のやりたいことをやめてまでその相手に近付こうとはしないと思う。
俺はそこまで情熱的にはなれない。
それに、付き合い始めてから、ひとみからひっきりなしにメールが来た。
俺はそれに返信するだけで、まるで自主性がなかった。
真里の言う通り、俺は誰のことも考えていなかった。
だから、これで良かったのだ。
物を考えない俺が付き合うには、あまりにもひとみは実直すぎる。

俺は謝りつづける梨華ちゃんを手で制した。
「もういい、いいんだ」
「でも、智哉さんに……」
梨華ちゃんは手をもんで、自分の指先を眺めていた。
「それよりさあ、梨華ちゃん。
 好きな人っている?」
「えっ、なんですかいきなり!
 びっくりしましたよ」
梨華ちゃんは急に慌てふためき、顔を赤くした。
「この間、友達から梨華ちゃんのことが好きだって聞いた」
「それ、誰ですか」
梨華ちゃんは俄然、いきまいた。
「それは言えないなあ」
「えーっ、なんでですか!
 そこまで言ったんですから教えてくださいよ!」
丁度電車がドアを開き、俺は逃げるように飛び乗った。

吉澤がバレー部の練習を見学して、部員に別れを告げて電車を降りた時には、すでに八時近くなっていた。
吉澤は改札に繋がる階段に足をかけた。
友人と話している時は、なにも考えていなかったが、一人で歩いていると学校での出来事が思い出される。
筧の問いに、智哉が「別れた」と言い始めたのだ。
嘘にしても、洒落にならない。
授業が終わると、友人が続々と近寄ってきた。
「ひとみぃ、ホントに別れたの?」
「ケンカとかしてたの?」
次から次へと尋ねてくる。
当惑した吉澤に、口うるさい友人が駆け寄ってきた。
「小野くん、あんまりひとみのこと好きそうじゃなかったしね」
吉澤は凍りついた。
質問していた友人たちは、一転して智哉の批評に変わる。
「そう言えば、あんまり仲良さそうにしてるの見たことないよねえ」
「クールって言うか、冷たいよねえ」
「告白したのって、ひとみなんでしょ。
 小野くん本当にひとみのこと好きなのかなあ」
吉澤は今にも立ちあがって友人たちを怒鳴りつけたかったが、無理に堪えた。
それからは休み時間の度に友人たちが寄り集まり、智哉の批判をし続けた。
亜弥の方を見ると、同様に囲まれ、照れながら何事か話している。
吉澤は智哉のことは、頑なに話さなかった。

智哉が自分のことを好きでいると思っていた。
しかしこうして一人で考えていると、智哉の言葉は嘘ではなかったのかもしれない。
智哉はどこか、自分に対して冷たかったような気がする。
岡田や矢口に見せるような顔は、自分にはしなかったような気がする。
そう思うと悲しかったが、泣き出すとそれを認める気がした。
坂口の言うことが正しければ、智哉は亜弥と付き合っている。
写真では亜弥が智哉の腕をつかんでいた。
智哉には亜弥の方がいいのではないか。
いや、自分が案じるまでもなく、すでに付き合ってしまっているのではないか。
考えれば考えるほど暗くなっていく。
先程から頭の片隅でちらちらと見えていたことが、次第に大きくなってきた。

改札の近くで誰かが突っ立っていた。
吉澤の高校の制服を着た男である。
男は吉澤の姿を見止めると、おもむろに歩み寄った。
「秋本くん、なんでこんなとこに居るの」
吉澤は、男が目の前に近づいたとき、そうつぶやいた。

秋本の顔は紅潮して、いやに照れくさそうだった。
「あのさあ、俺、吉澤のことが好きなんだ」
二回目だ。
以前は弦楽部の部室から出てくるところをサッカー部の部室に連れて行かれて、告白された。
秋本は何故か満足げに吉澤を見つめている。
吉澤はうんざりした。
「わたしね……」
「いや、分かってる、悪いとは思うけど」
(だったら言うなよな)
吉澤は悪態を噛み殺し、秋本の話を聞いた。
「あの時は好きな人がいるってことだったんだ。
 小野と別れたんなら、そんな相手いないだろ」
断る理由がない、ということだ。
「だったら、って言うのも変だけど、付き合ってくれないかな」
秋本は今度こそ、してやったりという顔だった。
吉澤は口の端を緩めた。
「いいわよ、付き合いましょう」

「私は智哉さん一筋ですよ」
電車の中、梨華ちゃんは恥ずかしがるでもなく、俺の隣の席でそう言った。
「それじゃあ俺の友達が報われないな」
「智哉さん、今彼女いないんですよね」
「まあね」
梨華ちゃんは俺の言葉を無視した。
俺は何故か情けない気分になり、通路に足を投げ出した。
「松浦さんと付き合ってるんですか」
「そんなわけないだろ」
言い方も、自然とぞんざいになった。
全体的にだらしなくなった俺は、梨華ちゃんの意図を発見することもできなかった。
「じゃあ、私が彼女になろうかなあ」
その一言で、俺の背筋は伸びあがった。
「俺の友達に言ったら泣いて喜ぶだろうな」
事実、准一なら泣きそうだった。
「智哉さん、智哉さんのことですよ」
はぐらかしも好を相さなかった。

「俺かあ……」
ぐったりした体を引き締めた。
「諦めきれないんです。
 智哉さんのことが」
梨華ちゃんは自嘲ぎみに笑った。
「しつこいですよね、私って。
 陰湿で暗くて……」
「そんなことないって」
思わず励まそうとしてしまう。
社交辞令なのかもしれない。
自分でも分からなかった。
「でも、好きなんです」
振り払うような声だった。
梨華ちゃんが、たまらなく健気な少女に見えた。
「俺は……」
土壇場で流されるのは俺の欠点の一つだ。
一瞬、梨華ちゃんの想いに負けた。
ふと、准一の顔が浮かぶ。
准一に好きな相手ができるのは、もしかして初めてじゃないだろうか。
異常にピュアな男だったのだ。
准一は、俺のように今一瞬、好きになったのではない。
数ヶ月、想っているのだ。
一直線なあの男のことである。
何年でも想っているかもしれない。

「ごめん、やっぱりだめだ」
吐き出すように言った。
「智哉さん、その友達に気を遣ってるんでしょう?」
「いや、違う……」
自然、小声になった。
「智哉さんって一瞬無愛想に見えるんですけど、ものすごく気を遣ってますよ」
「気なんか遣ってない」
精一杯の強がりを見抜かれているようで、狼狽した。
駅に着くまでがやけに冗長に感じる。
「知ってるんですよ、私」
なにを、とは言えなかった。
「その友達って、岡田さんですよね」
内心、飛びあがった。
声も出ない。
梨華ちゃんは俺を弄ぶように笑った。
「智哉さん、今さっき、一瞬私と付き合ってもいいなって思ったでしょう」
「なんでそんな……」
まともに喋れない。
「分かるんですよ、急に目そらしたり、体に力入れたりして」
俺のことは何もかも知っている気がした。
「付き合ってもいいな、って思っても友達に遠慮したのは、その友達と仲が良いからですよね。
 それで、親友の岡田さんかなって思いました」
降車駅ではなかったが、今開いたドアから飛び出したかった。

あれから秋本は吉澤の家までついて行った。
最後には「ご両親に挨拶したい」とまで言いだしたが、吉澤が無理矢理押し帰した。
「ただいまー」
吉澤はリビングまで歩くと、ソファーに全身をゆだねた。
「お帰りー、遅かったね」
ソファーの側でテレビを見ているあさ美が声をかけた。
あさ美が半分も言い終わらないうちに、二階から騒がしい物音が近付いてくる。
「お父さんだよ」
あさ美は呆れ顔で言って、テレビに戻った。
「ひとみ、無事か!」
案の定、裕介が血相を変えて部屋に飛びこんできた。
「お前、大丈夫か!」
裕介は必死の形相で近寄った。
「だいじょぶ、だいじょぶだって」
「じゃあお前、何でこんなに遅いんだ!」
「部活の見学してただけだって」
そう言っても、裕介は引かない。
「本当かおい、男に誘われたとか、そういうことはないよな」
気のせいか、裕介の顔からは血の気が引いている。
吉澤は一瞬ぎくりとしたが、平静を保っているふりをした。
「そんなわけないでしょう、早くあの子達と遊んであげてよ」
台所から、母親が声をかけた。
裕介も家中の絶対権力には逆らえず、弟たちの世話をするためにしぶしぶ二階へ上がった。

「そうかあ、岡田さんかあ」
梨華ちゃんは呟きながら、電車を降りていった。
夜道を歩くときも気が気じゃなく、落ち着かないまま家に着いた。
玄関をくぐると、お袋に冷たい一瞥を投げつけられた。
あくまで無視することにし、テレビをつけて椅子に腰掛ける。
「智哉」
お袋がトーンの高い声で呼ぶ。
「今日は亜弥ちゃん、喜んで帰ってきたわよ」
「へえ」
「ものすごく喋るのよ、ここで」
背後ではカレーか何かが煮える音がする。
「なんて言ったと思う?」
「さあ……」
テレビを見ながら、無機質に言った。
「あんたが吉澤さんと別れて、亜弥ちゃんと付き合ってるって」
「そう」
無感情に返事をして、席を立った。

しばらくして夕飯に降りると、亜弥はまだ来ていなかった。
俺が食べ終わっても食堂には来ず、風呂に入っている間に食っていたようだった。
風呂からあがると、俺は部屋に閉じこもった。
ギターをいじりながら、部屋の中を見まわす。
机の上の携帯が目に入った。
ギターを壁に立てかけ、立ちあがる。
俺は知らず知らずのうちに携帯に歩み寄っていた。
ひとみに電話をかけようと思えば、すぐにかけられる。
今ならまだ間に合う。
そう思ったが、どうしてもボタンを押すことはできなかった。
「智哉、入っていい?」
不意に、ドアの向こうで亜弥の小さな声がした。
「いいけど、なんか用か」
携帯を置くと、平静を装って床に腰を下ろした。
亜弥はゆっくりとドアを開け、床に座った。
「あのさあ」
声は、少し震えているようだった。
「吉澤さんと別れたって本当」

「本当」
途惑うことなく言えた。
だが、それがかえって気になった。
「でさあ、秋本くん、私と智哉が付き合ってるって言ったじゃん?」
「そうだな」
疲れていた。
そのため、返事も短絡的になる。
「本当は付き合ってないけど、秋本くんがああ言ったんだよね」
じれったくなってきた。
「それで、なにが言いたいんだよ」
亜弥は少し怯えたようだった。
「なんでもない」
小声でそれだけ言うと、部屋を出て行こうと立ちあがった。
「待てよおい、そんなに秋本の言ったのが気になんのか」
亜弥はさらに怯えた様子で、体を強張らせた。
「智哉はさあ……」
膝から床に崩れた。
「私のこと、好きなの」

「私は好きだよ、もう言ったけど。
 でさあ、秋本くんの言ったことが本当だったらいいなあって思った」
亜弥はいきなり饒舌になった。
「でもさあ、それって智哉が私のこと好きじゃなくちゃ駄目じゃん。
 智哉は私のこと、好きなの」
怯えた様子は吹き飛び、構えて俺を見据えていた。
「好きって言ったら、付き合うか?」
「そのために聞いてるの」
視線を外さず、口元だけ動かして答えている。
「そうだな……」
無意識に口から出た。
「付き合うか」

准一はしばらく手元の携帯を睨んでいたが、不意に目を上げた。
「なにやってんの、兄貴」
テレビを見ていた亜依は興味ありげに准一に近寄った。
「なんもないわ、どっか行っとけや」
「うーわ、かわいい妹にそれはないやろ」
亜依は動じる様子もなく、左右に回りこんで携帯を覗こうとした。
「だれだれ、誰にかけんの。
 智哉さん?」
「そうやそうや、だからさっさとどっか行けや」
「それやったらかけたげるわ」
亜依は携帯を取り上げ、素早く番号を打った。
准一は感心して見ている。
「よう智哉の携帯の番号覚えてんな」
「……よう聞くからな」
「なんやそれ、訳わからへん」
「なんでもええやんか、別に」

「もしもし」
携帯を取ると、いやに甲高い声がした。
「はーい、私は誰でしょー」
「……亜依ちゃん」
「正解正解ーってなにすんのよ兄貴、離しぃや」
「ああ智哉、俺やけど」
准一は携帯を取られていたらしい。
「なんだよ、いきなり」
亜弥は告白して、すぐに風呂に入った。
気分が少し昂揚している。
「えっとなあ、ちょっと教えて欲しいことがあんねんけど。
 あー、おまえはどっか行け、どっか。
 はよ出て行け、ほら」
妹を追い出しているようだ。
「それで、なんだよ」
「あんなあ、梨華ちゃんの携帯番号教えて欲しいねん」
「おお、告白するのか」
「まあそろそろな」
何故か誇らしげに聞こえる。

「でもなあ、勝手に携帯の番号教えていいか?」
「それもそうか……」
准一の声から生気が無くなっていく。
「自分で言ったほうが良いだろ」
「そうやな」
まともに返事もできない様子である。
「明日は休みだから、どっかに呼び出すとか」
「おう」
「テニス部は明日クラブ無いって言ってたし」
「そうやな」
「……切るぞ」
「ああ」
准一はテープレコーダーのようになっていた。

「おはよー」
遅くに起きると、亜弥は寝巻から着替えていた。
テーブルに新聞を広げている。
「おふくろは」
「分かんない。
 私が起きた時はいなかった」
椅子に座ると、亜弥は立ちあがって食パンの袋を開いた。
「食べるでしょ」
「いや、自分でやるって」
亜弥を押しのけて袋を開くと、食パンがシンクに弾け飛んだ。
「あーあ、やっちゃった」
亜弥は横から手を出し、食パンを拾い上げる。
「自分でやるって」
「いいから、ほら」
両手に何枚もの食パンを持って、勝手にトースターに入れた。

もう一度椅子に座ると、亜弥は新聞の経済欄を見ていた。
「経済欄なんか分かるのか」
「分かんない」
「だったら読むなよ」
「だって、智哉、新聞読んでるじゃん」
「関係ねえよ」
亜弥は俺の言葉を気にする様子もなく、平然と経済欄を見ている。
トーストが焼けた時、電話が鳴った。
「誰だろ」
亜弥が立ったが、電話は俺が手を伸ばせば届くところにある。
受話器を取り上げ、手で亜弥を制した。
「もしもし」
「ああ、智哉?」
「なんだよ、おふくろ今どこ?」
「病院。
 あんたも、亜弥ちゃんと一緒に早く来て」
おふくろは焦っているようだった。
「なに、なんかあったの」
「あのねえ……」
おふくろは随分と間を置いた。
亜弥は不安げに俺の肩をつかんでいる。
「陽子が手術することになったの」
おふくろは梨華ちゃんの母の名前を告げると、返事を待たずに切った。

陽子さんはおふくろの妹で叔母、その娘である梨華ちゃんは俺の従妹にあたる。
正月にしか会わないが、一応、親戚としての認識はある。
陽子さんが入院したのは、交通事故によるものだった。
入院した目的も、怪我をした両足の療養のためだ。
その怪我も予定より早く治り、7月には無事に退院して、梨華ちゃんと暮らしているはずだった。
電車の中、亜弥には「親戚が手術する」とだけ言った。
亜弥も俺の心情を察したらしく、病院に着くまで黙りこくった。
ナースステーションで訊くと、看護婦は手術室まで駆け足で案内した。
大きな扉の両側に、白いベンチが置いてある。
扉の上には『手術中』の文字が光っている。
ベンチに腰かけているのは、梨華ちゃんとおふくろだった。
「どうなってんだよ、おい!」
二人ともうつむき、梨華ちゃんは泣くのを堪えているようだった。
取り合えずおふくろの隣に腰掛けると、おふくろはこちらに顔を向けた。
「今朝ね、突然右足が痛み出したんだって」
「なんで」
「私もよく分からないけど、病院での療養が不充分だったって。
 傷口が完治しないうちに退院したから、その傷から菌が入った、みたいなことを言ってたわ」
よく見ると、おふくろは寝巻にコートを羽織っただけである。
朝早くから今まで、この姿でいたのだろう。
梨華ちゃんを見ると、同じようにパジャマの上にカーディガンを着ている。
「智哉さん……」
うつろな目で俺を見ると、立ちあがろうとした。

「石川さん!」
俺の隣に座っていた亜弥が、梨華ちゃんを押し戻した。
おおよその事情を把握したらしく、亜弥も顔が蒼白になっている。
テニス部の後輩をどうにか椅子に座らせると、その隣に腰掛けた。
「なにするんですか!」
梨華ちゃんは叫んだが、もう気力がないらしく、壁にもたれかかった。
同時に、双眸から涙が溢れ出す。
手で拭う様子もなく、涙は頬を伝って胸に落ちた。
「助かるのは……」
おふくろがつぶやいた。
「助かるのは1%以下だって」
おふくろの言葉を引き金に、梨華ちゃんは声を上げて泣き叫んだ。
亜弥はその隣でまごつくが、どうにもできない。
通路の壁から警備員が顔を出したが、すぐに引っ込んだ。
「智哉」
おふくろは懇願するような目で俺を見た。
希望の無い、地獄に仏を求めるような視線だった。

おふくろを一瞥してから、俺は立ちあがった。
向かいのベンチまで数歩歩いて、泣き叫ぶ梨華の首を抱きすくめる。
涙が顔や肩にかかるが、次第に弱まってくる。
「大丈夫だ」
そう言って少しきつく抱きしめると、梨華は泣き止んだ。
亜弥は呆然と成り行きを見ていた。
梨華は目に溜まった涙をパジャマの袖で拭いはじめた。
亜弥はハンカチを取り出して、梨華に貸す。
向かいの席に戻って梨華を見ると、昨日の晩、俺の心を見透かした女と同じだとは思えなかった。
おふくろは耳元でささやいた。
「あの子には、今はああしてあげるのが一番良かったわ」
おふくろはコートの襟を正すと、立ちあがった。
「どこ行くんだ」
「売店。
 コーヒーでも買ってくる」
二、三歩踏み出したところで、おふくろは振り返った。
「ありがと」

あさ美は、携帯の着信音で目が覚めた。
姉の携帯から軽快な電子音がしている。
あさ美は姉の吉澤と同じ部屋で寝ている。
一つの部屋を二人で使っているのだ。
電子音は吉澤の枕元でうるさく鳴っているが、吉澤が目覚める気配はない。
一度寝つくとなかなか起きないのうえに、休日の午前中である。
あさ美は渋々布団から這い出て、姉の肩を揺すった。
「お姉ちゃん、携帯鳴ってる」
吉澤はゆっくりと目を開き、布団をかぶり直した。
「出ないと切っちゃうよ」
「分かったよ、うるさいな」
あさ美が言うと、吉澤は手探りで携帯をつかみ、耳元に持ってきた。
「はい、もしもし」
寝起きで、声がいがらっぽくなっている。
「ああ、ひとみ……?」
遠慮がちに声をかけてきた。
「なんだ、秋本くんか……」
智哉からかもしれない、という希望があったが、秋本の一言で打ち砕かれた。
「あのさあ、今からそっち行っていいかな」
「そっちって、私んち?」

あさ美は側で聞き耳を立てている。
吉澤はあさ美に背を向けながら、訊きかえした。
「そっちって今、私、家にいるんだけど」
「うん、だから、家に行っていいかって……」
「何で来なきゃいけないのよ、別に来なくていいじゃん」
「……やっぱり、ご両親に挨拶するのは早い方がいいと思うんだ」
「挨拶って、まだ別にしなくていいって。
 じゃ、また」
吉澤は携帯を急いで耳からはずすと、すぐさま切った。
「ねえ、誰かうち来るの?」
あさ美は興味ありげに訊いた。
「誰も来ないよ。
 普通朝から来ないっつうの……」
「っていうかもう11時だよ」
吉澤が掛け時計を見上げると、針が11時を少し過ぎたところを指している。
「マジでー?
 そんな寝たっけなあ」
吉澤がつぶやきながら布団を這い出ると、あさ美は部屋から出ていた。

電車を降りると、昼下がりの日差しが一層暖かくなった。
梨華の家は、以前真里から聞き出していた。
駅を出ると、花屋が目に入る。
赤いビニールのひさしの文字は、かろうじて『新垣花店』と読めた。
「花か……」
花をプレゼントすれば、少しは成功率が高くなるかもしれない。
そう考え、准一は花屋に立ち寄った。
小中学生と見える少女が応対に出てきた。
「いらっしゃい」
「ああ、あの、ええ……」
「プレゼントですか」
「そうです、それ」
少女は林立する花の中で、手近で安そうなものを選んだ。
准一に値段のことが分かるはずもなく、無体に花束を受け取った。
「1050円になります」
准一は財布の中から二千円を取り出す。
少女は手際良く領収書を書き、お釣りと共に渡した。
「石川さんですか?」
「ええ、まあ」
少女はにやついた。
「月に一回ぐらいは来るんですよね、高校生ぐらいの人が。
 皆石川さん狙いなんですよ」
准一はむっとすると、少女に背を向けた。
「ありがとうございましたー」
少女のやかましい声が通りに響く。
「ませたガキやな」
小声で言うと、梨華の家へ一目散に向かった。

梨華に最も似合う色は白だと思っていた。
それだけに、真っ白な新築の家を見た時になると、梨華への理想はいよいよ高まってきた。
表札には間違いなく『石川』とある。
准一は気合いを入れ直し、インターホンを押した。
インターホン特有の、間の抜けた音がする。
数十秒待ったが、誰も出てくる様子がない。
「留守か……」
もう一度押したが、変化は無い。
准一は内心舌打ちをつくと、家の中を覗きこんだ。
カーテンが閉まっていて、人影もない。
しかたなく、准一は踵を返した。
駅まで歩くと、手に持った花束が足にあたる。
希望の象徴だった花束は、途端に邪魔くさくなった。
新垣花店を憎々しげに見てから切符を買おうとすると、花束が邪魔で財布が取り出せない。
花束を置く場所もなく、しかたなく片手で引っ張り出す。
その頃には心底花束がいらなくなり、家に帰って捨てることしか頭になかった。
花束を持って電車に入ると、隣に立つ女性の二人組が、横目で准一を見て笑っている。
「恥ずかしいよね、花持って電車に乗るのって」
「振られたのかなー、情けないよねー」
まさか車内で捨てるわけにもいかず、准一は歯を食いしばって、次の駅で降りた。
構内を見渡しても、なかなかゴミ箱が見当たらない。
ホームに捨て置くわけにもいかず、准一は花束を片手に、黙って電車を待った。
ゴミ箱がないんなら、さっきの電車に乗ればよかった。
准一がホームの床を蹴ると、前につんのめった。

二時頃、手術室のドアの上で光っていたライトが消え、ドアが開いた。
室内から女医と看護婦が一人ずつ出てくる。
その頃には梨華ちゃんもおふくろも落ち着いていて、医者に取りすがるようなことは無かった。
それでも梨華ちゃんは昂揚した様子で訊いた。
「母は、大丈夫ですか」
女医は叔母さんの主治医の中澤先生で、メスを取ったのも彼女のようだった。
「手術自体は成功や」
中澤先生はそう言うと、看護婦からカルテのような紙を手渡された。
それから、中澤先生はかなり遠まわしに、ややこしく説明した。
要するに、手術は成功だが、かなり体が弱っていて、何が起こるか分からない。
当然、入院してもらうしかない、ということをかなり回りくどく言った。
「最低でも3ヶ月は入院してもらわんと……」
先生は独特の関西弁で喋ると、おふくろの返事を待った。
「……分かりました」
先生と看護婦は、それを合図に、「それでじゃあまた、これで」と言って室内に戻った。
半端な結果だった。
これからの入院生活で、生きるか死ぬかが決まるということだ。
そういえば先生は、会話の端に『半身不随』と言っていた。
半身不随になる可能性が高い。
先生がいなくなると、梨華ちゃんは泣き崩れた。
亜弥が隣で支えるが、立ちあがれない様子だった。
俺も漫然と立っているしかなく、無為に二人を眺めているだけだった。
「智哉」
おふくろが俺の肩を叩いた。
「とりあえず、帰ろう」
そう言って、二人に近付いた。

「おじゃましまーす」
昼食を食べ終わると、麻琴が尋ねてきた。
あさ美の数年来の友人で、休日は大抵家に押しかけてくる。
あさ美はまだ朝食を食べていたため、吉澤が玄関に出た。
両親が共働きということもあって、吉澤とも親しい。
吉澤も麻琴が来るだろうという予測はついていたので、驚きもせずに迎えた。
「丁度昼ご飯食べたところだし、上がって」
「いや、ちょっと待って、ひとみさん」
麻琴は焦った様子で靴を脱ぐと、店に走り出した。
何度も出入りしているだけに、家の仕組みはよく知っている。
母はキッチンで、店には裕介しかいない。
麻琴は裕介の背後に近付くと、店の外をうかがった。
吉澤が近寄ると、麻琴は無言で店の前を指差した。
見ると、男が裕介と向かい合って、黙りこくっている。
秋本だった。
「あの人、結構前からずっとこうしてる」
吉澤も言うに言えず、黙るしかなかった。

「何の用かな」
裕介は変に下手の姿勢で訊いた。
「お父さんに、僕とひとみさんの仲を認めてもらおうと思って」
「へーえ、そう……」
裕介が他人事のように頷くと、秋本は語気を荒げた。
「僕は本気で、ひとみさんのことが好きなんです」
力を込めてそう言うと、裕介も顔を上げた。
「ひとみさん、彼氏?」
「いや、うん、そう……」
「へー、ハンサムだね」
「うん、まあ」
吉澤は気の抜けた返事しかできなかった。
「本当に、ひとみさんを好きなんです」
秋本は吉澤の気配に気付く様子も無く、身を固めた。
裕介はため息をつくと、てこで印をつけたばかりの最中を取り上げた。
「食べな」
「え?」
「ほら、いいから食べろよ」
秋本はぎこちない動きで最中を受け取った。

「おいしいです」
秋本は幾分力の抜けた声で答えた。
「それでさ、ひとみのことなんだけど、君の歳で本気はないと思うんだよね」
裕介はいかにも軽い調子で話し始めた。
「まだ高校生なんだろ。
 君は結構かっこいいんだし、もてるんだろ?」
秋本が黙っていると、裕介は最中をつまみあげ、ひとかじりした。
「第一、そういうことはひとみから聞くのが筋だと思うんだ。
 君から認めてくれって言ったって、ひとみがいなけりゃしょうがないよ」
「でも……」
「悪いけど、帰ってくれ」
裕介はてこを置くと、秋本を真っ直ぐに見た。
「君がどう思ってるかは、分かったから」
秋本は躊躇したが、しばらくすると「失礼します」と言い残して店を離れた。
裕介は吉澤たちに気付く様子もなく、また黙々と最中を作り始めた。

おばさんの手術が済んでから3時間ほどして、一反、おふくろが乗ってきた車で帰ることにした。
梨華ちゃんを一人で泊めるわけにもいかず、取り合えず今日はうちで一泊することになった。
「石川さん大丈夫?」
助手席の亜弥が、クラブの後輩に声をかけた。
「……はい、もう……」
沈んだ声だったが、はっきりと返事をする。
病院で泣き尽くしたようだ。
「時間はかかるけど、確実に治るみたいだからね」
おふくろが振りかえると、梨華ちゃんは小さく頷く。
「まあ、取り合えず今日はうちに泊まって、明日また病院行こう」
「……はい」
梨華ちゃんはまた頷いた。
「智哉、さっきから喋ってないけど、どうかした?」
亜弥は俺に振りかえって、横目で俺を見た。
「別に……」
「ふうん、ほんとかなあ」
曖昧な表情をして、亜弥は座席に座り直った。

家に着く頃には、夕焼けは沈みかけていた。
亜弥は真っ先に二階に上がり、俺も階段に足をかけた。
「悪いけど、今日は梨華ちゃんは亜弥ちゃんと一緒の部屋で寝てくれない?」
おふくろがさらっと言うと、梨華ちゃんは一瞬固まった。
「……分かりました」
「嫌?
 そこのリビングに布団敷こうか?」
「いえ、松浦さんのお部屋で寝ます」
梨華ちゃんは俺の後ろに立った。
「……智哉さん、階段早く上ってください」
「あ、ごめん」
思わず足が止まっていた。
「智哉、ちょっと」
おふくろは食卓の椅子に座ると、俺を呼んだ。
梨華ちゃんの横をすり抜けて食堂のドアを開けると、おふくろはどこからか煙草を取り出している。
「やめたんじゃなかったのか」
「今ぐらい、吸わせてよ」
電話の脇にあったライターを手に取り、火をつける。
天井は煙で一杯になった。
「吉澤さんとうまくいってるの?」

「なに言ってんの?」
てっきりおばさんの話を始めるのかと思っていたら、拍子抜けだった。
「最近話聞かないな、と思って」
おふくろはまた煙を吐き出した。
椅子に座ると、余計に煙臭くなる。
「別に……なんにもないけど?」
「嘘でしょ」
おふくろは机の隅の灰皿を寄せると、吸殻を落とした。
「おふくろ、隠れて吸ってただろ」
「あれ、なんで知ってるの」
「禁煙してたら、灰皿なんてどっかいってるだろ」
含み笑いをすると、おふくろはまた吸殻を落とす。
「まだ引きずってるんじゃないの」
煙はどんどん天井に充満していく。
「引きずってねえよ」
「また嘘」
「分かれたんだから、なんで引きずるんだよ」
「そんなの、私が知るわけないでしょ」
おふくろは火をもみ消すと、短くなった煙草をすいがらに捨てた。
そしてまた新しい煙草を抜きとって、火をつけた。
「煙草なんてね、簡単にやめられないのよ」

「ただいま」
准一が帰宅すると、亜依が真っ先に飛び出してきた。
「おかえりー……あれ、兄貴、告白しに行ったんやろ?
 やけに早いなあ」
「アホ、そんなんちゃうわ」
「でも昨日、梨華ちゃんがどうのこうの言うとったやん」
「おまえ……そんなん聞いてたんか」
「あんな大声で話したらおかんやって聞こえるわ」
准一は黙って部屋に入ると、中から鍵を閉めた。
亜依がすぐさま駆けよって、ドアを叩く。
「兄貴なにすんねん!
 ここは兄弟仲良く使う部屋やで!
 はよ開けえや!」
「うっさいな!
 どっかいけやボケ!」
「えーん、兄貴が今流行の引きこもりをー」
亜依はそれこそ隣の家まで聞こえそうな声で叫んで、キッチンかどこかに走っていった。

ポケットから携帯を取り出すと、無意識のうちに智哉にかけていた。
――やっぱり、電話で告白するほうがええかな。
駅前の花屋で買った花束は、駅のゴミ箱に捨ててしまった。
花屋のほうから例の中学生に見られていたのが、余計に腹が立つ。
「もしもし」
「あ、智哉?」
「なんだよ、いきなり」
「おまえ、いきなりはないやろ、いきなりは。
 今日は記念すべき告白の日やぞ」
「……あ、そうだったな」
「なんや、忘れとったんか、しゃあないな。
 ほんでな、今日行ったんやけど、梨華ちゃんおらんくて……」
「准一、ちょっと待て」
「ん、なんや?」
智哉は急に声を落とした。
「梨華ちゃんな、今俺んちにいる」
「な……アホ!
 ボケ、カス!
 おまえなんか二度と友達や思わんわ!」

「落ちつけバカ、よく聞けよ。
 梨華ちゃんのおばさんがなあ、今日いきなり手術だったんだ」
智哉はそれから、手術の経過と、今、かなり梨華ちゃんに元気がないことを言った。
「今から電話するのはやめといたほうがいいから、番号は教えない」
「……分かった。
 俺がおらん時に梨華ちゃんに手ぇ出すなよ」
「保証はできないけどな」
智哉は高い声で笑うと、「じゃあな」と言って電話を切った。
「はーあ」
床に寝転ぶと、亜依の携帯が頭に当たった。
まだ中学生のくせに、ストラップを何十本もつけた携帯を持っている。
見るからに、持ち運ぶのに不便そうだ。
振りかえって鍵の閉まっているのを確認すると、こっそり亜依の携帯を手に取った。
「えーっと……なんや、女の名前ばっかりやな、つまらん」
しばらくは女子の名前ばかりだったが、12番目に『堀田圭介』とあった。
「……誰やねん、こいつ」

どこかで聞いた名前だ。
亜依の小学校のアルバムを開くと、同じクラスに堀田の名前があった。
切れ長の目が小ずるそうに見える。
「堀田、堀田……」
思い出した。
亜依の学年で、唯一私立の中学に行ったやつだ。
塾の全国模試が5位とかで、俺が小学生の時から名前は聞いていた。
『堀田くんってなあ、めっちゃ勉強できんねんで。
 優しいし、ほら、この間児童会長なってんで』
数年前、亜依が楽しそうに話していたのを思い出す。
なんで、私立の中学に行ったやつの名前が亜依の携帯にあるのか。

不意に、俺の携帯が鳴った。
亜依の携帯を見ていた後ろめたさからか、かなり飛びあがった。
急いで亜依のストラップだらけの携帯を置いた。
「はい、もしもし」
「あ、岡田くん?
 ごとーだけど」
「……後藤?」

店は、6時には閉めてしまう。
それは裕介が夕飯だけでも家族で一緒に食べたいからだが、実際問題、夜に最中屋をやっていても売れない。
裕介がシャッターを閉めて食卓に向かうと、大抵子供たちがケンカをしている。
弟たちのいたずらをひとみが叱り、それでも次男あたりはいたずらをやめないから、その場は殴る蹴るの阿鼻叫喚と化す。
あさ美はそそくさとトイレかどこかに逃げ込み、難を逃れる。
そういうのがいつものパターンだったが、今日は違った。
「あれ、ひとみがいないな」
「ああ、二階」
あさ美は弟たちの暴れるのを気にも留めず、本を読みながら答えた。
裕介は不意に、昼間秋本が尋ねてきたことを思い出した。
「あさ美、智哉ってやつ、最近見ないな」
「そうだね」
あさ美は無機質に答える。
「お昼に、お姉ちゃんの新しい彼氏来たんでしょ?
 秋本って言うんだっけ?」
「なんで知ってるんだ?」
「麻琴から聞いた。
 お父さんが話してるのを、お姉ちゃんと二人で見てたんだって」

ひとみはすぐに下りてきた。
気のせいか暗い面持ちで、弟たちを一瞥しただけで椅子に座った。
裕介はトイレでいない。
キッチンからは、母親の鼻歌が聞こえてくる。
「ねえ、お姉ちゃん」
「ん?」
向かいに座っているあさ美が、本に目を落としたまま口を開いた。
「彼氏鞍替えしたって本当?」
あさ美はいかにも無関心そうに訊いた。
「ああ、秋本くんのこと……まこっちゃんから聞いたんだ」
「うん」
「そう……かな。
 一応秋本くんにはそう言ってるけど」
「……小野さんのこと、諦めてないんだ」
あさ美は読んでいた本を閉じると、傍らに置いた。
「なに言ってんの?」
「諦めてたら、そんな曖昧な答えかたしないよ。
 中途半端に付き合ってたら、秋本さんもかわいそうだよ」

「……そうだよね」
思わず溜息が出る。
「お姉ちゃん、目、逸らさないで」
あさ美は真っ直ぐにひとみを見ていた。
「いっつもそうだよ。
 お姉ちゃんは逃げてるんだよ。
 小野さんと別れたときも、逃げたんじゃないの」
「やめてよ!」
弟たちが、ひとみの大声に振り向いた。
「ひとみ、どうしたの?」
キッチンから母親の声がする。
「ううん、別になんでもない」
ひとみはまた溜息をついた。
「……お姉ちゃん、今からでも遅くないよ」
あさ美の言葉が胸に響いた。

夕飯はスパゲッティだった。
おふくろは疲れ果てて、飯を作る頃には机に突っ伏して眠ってしまった。
しかたなく、余っていたスパゲッティを茹でて、適当に盛りつける。
亜弥は二階から梨華ちゃんを連れて降りてきた。
「言ってくれればやったのに」
「どうだかな」
「あれ、おばさん寝てるんですか」
梨華ちゃんはおふくろの向かいに腰を下ろす。
「疲れたんだろ」
亜弥はその隣に座り、ミートソースの缶を開けた。
しばらく、黙々と食べ続けた。
その間もおふくろは熟睡していて、起きる気配は一向にない。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」
亜弥と梨華ちゃんが食べ終わり、皿をキッチンに運ぶ。
俺の皿も空いた。
皿を流しに置くと、亜弥はかたわらのスポンジを手に取った。
「智哉と石川さんは休んでていいよ」
それを聞いて、俺はリビングの床に座りこんだのだが、梨華ちゃんは亜弥となにか喋っているようだ。
突然、ポケットの携帯が鳴った。

さっき准一と話したとき、そのままポケットに入れたのだった。
「はい」
電話の向こうは、しばらく黙ったままだった。
「もしもし?」
「……あ、智哉?」
「ひとみか……なんだよ」
「会えるかな、今から……」
「なんで。
 もう話すことないんじゃないのか?」
「あるんだ、私には……」
ひとみは寂しげに言った。
「智哉、誰?」
亜弥は口調を強めて訊いた。
「ん、いや、友達」
「松浦さん、いるんだ」
「……まあな」
「……じゃ、そっちの公園で待ってるから。
 来れたら来て」
電話は切れた。

「智哉、誰だったの?」
梨華ちゃんと洗い物をしながら、亜弥が訊いた。
気付けば、梨華ちゃんもこっちを見ている。
「准一。
 今から会えないかだって。
 ちょっと行ってくる」
「……なんで岡田くんから呼び出されるの?」
「……知らねえよ」
携帯をポケットに突っ込んで、玄関まで出た。
亜弥が後ろを追ってくる。
梨華ちゃんはいない。
「吉澤さんでしょ?」
亜弥の声は震えていた。
「吉澤さんに呼ばれてるんでしょ?
 智哉、お人好しだからまた付き合うんでしょ?
 そしたら、私と別れなきゃいけないんでしょ?」
口を開いたら、家を出れなくなるような気がした。
何も言わずに立ちあがると、亜弥は両手で左腕をつかんだ。
「行かないでよ」
左腕が熱くなった。
思わずその場に座りこみそうになるのを我慢して、亜弥の両手を振り放した。
「悪い」
間髪入れず、ドアを開いて外に出る。
後ろ手にドアを閉めると、玄関で亜弥の泣き声が聞こえた。

「今から会えないかな」
後藤は淡々と喋り続ける。
「別にええけど……なんかあるん?」
「うん、ちょっとね。
 じゃ、今からそっちの駅前の公園行くから」
「ちょ、待って……」
後藤は一方的に喋ると、電話を切った。
「……なんやねん」
「兄貴ー!
 いい加減開けえや!」
いきなり、乱暴にドアを叩く音が聞こえる。
「分かった分かった、ちょっと待て」
鍵を開けると、亜依は部屋に駆けこみ、自分の携帯に飛びついた。
「兄貴、ちょっと、どっか行って」
亜依は座った目で俺を見据えると、携帯を抱えこんだ。
「はいはい。
 丁度俺も出るとこやったし」
「早く出て、早く!」
亜依は手で俺を追い払う。
部屋を出ると、有無を言わさず中から鍵を閉められた。

家を出ると、薄い三日月が空に浮かんでいた。
「あー、腹減った」
夕飯を食べていないせいで、腹が空いている。
准一は公園に向かう道筋で、コンビニに立ち寄った。
後藤は電車に乗って来るはずだから、時間はまだあるはずだ。
「いらっしゃいませ」
バイトの店員が投げやりな声を投げつけた。
真っ直ぐ歩くと、おにぎりや惣菜のコーナーがある。
准一はおにぎりをいくつか無造作に掴み取ると、左手にペットボトルのコーナーが見える。
ついでにお茶のペットボトルを手に取った。
棚を一つ隔てた向こうからは、しきりに菓子袋をかき分ける音が聞こえる。
見かねた店員がレジから声をかけた。
「お客さま、失礼ですが棚はできるだけ散らかさないで頂けますか」
「あ、すいません」
返事の声は女性だった。
かなり聞き覚えがある。
聞き間違いではないはずだ。
「おい、真里……」
准一が棚越しに声をかけると、棚の上から頭だけちらりと見えた。
「なんだ准一じゃん、どうしたの?」

「へーえ、ごっちんからわざわざお呼び出しですか」
「なんか、悪いことしたんかなあ」
真里は月明かりで顔を照らしながら、怪訝な表情をした。
一応、公園までついて来て物陰から様子を見ることになっているのだが、ここまで思ったことが露骨に見える奴では頼りない。
「悪いこととか、そういうんじゃあないでしょ」
「はあ?」
「まだわかんないの?」
「何が?」
「……智哉と一緒だね」
「ああ、智哉……まだお前が好きなん知らへんの、あいつ」
「え……なんで知ってんの!」
真里は呆然と口を広げて、准一の顔を凝視した。
「あほ、小学校の時からぼけーっとあいつばっかり見とったら誰だって分かるわ。
 確か後藤も知ってるで」
「嘘、ごっちんも知ってるの!」
「知らんのは智哉と吉澤ぐらいやろ。
 世にも鈍感なカップルやから」
そう言って、准一は大声で笑った。
真里がぼんやりと准一の横顔を見つめていると、不意に笑いが止まった。
「俺はお前を好きやったけどな」

「石川さん、もう大丈夫?」
亜弥はタオルで手を拭うと、石川に振り向いた。
「あ、はい、大丈夫です」
石川はリビングから答えた。
「まあ、時間さえかければ確実に直るみたいだしね」
「お風呂とかどうします?」
「おばさん寝てるし、智哉が帰ってからにしようか」
石川は椅子に座って、テレビを眺めている。
亜弥は向かいの席に座ると、頬杖をついた。
「ねえ、石川さん」
「はい?」
「智哉、どこに言ったと思う?」
振り向けば、亜弥の視線は石川に注がれていた。
「さあ……どこなんでしょう?」
「まあ、どこでもいいんだけどさ。
 問題は、誰と会ってるかってことなんだよね」
亜弥は溜息をついた。
「石川さん、智哉のこと好きなんでしょ?」

「ええ、まあ……」
自分でも驚くほど自然に言えた。
「やっぱり。
 まだ、告白してないんでしょ?」
「いえ、夏にしたんですけど、ふられちゃって」
「吉澤さんに負けちゃったのかー」
石川の表情が硬くなった。
「私もね、今一応付き合ってるんだけど、なんか智哉の気休めにしかなってなくてさあ」
「松浦さん、それで幸せですか……?」
「ちょっとね」
亜弥はそう言って、自嘲ぎみに笑った。
「馬鹿だよね、智哉は自分なんか好きじゃないって分かってるのに。
 ほんと、馬鹿だよね……」
亜弥は静かにうつむいた。
「ちょっと、トイレ……」
逃げるようにしてリビングを去っていった。
石川は一人取り残され、今にも泣き出しそうになっていた。

「ええ、まあ……」
自分でも驚くほど自然に言えた。
「やっぱり。
 まだ、告白してないんでしょ?」
「いえ、夏にしたんですけど、ふられちゃって」
「吉澤さんに負けちゃったのかー」
石川の表情が硬くなった。
「私もね、今一応付き合ってるんだけど、なんか智哉の気休めにしかなってなくてさあ」
「松浦さん、それで幸せですか……?」
「ちょっとね」
亜弥はそう言って、自嘲ぎみに笑った。
「馬鹿だよね、智哉は自分なんか好きじゃないって分かってるのに。
 ほんと、馬鹿だよね……」
亜弥は静かにうつむいた。
「ちょっと、トイレ……」
逃げるようにしてリビングを去っていった。
石川は一人取り残され、今にも泣き出しそうになっていた。

「うっそ、うっそだー!」
真里はどもりながらやっと大声を出した。
ふざけぎみに笑う。
そこまで来て、真里は准一が自分の歩幅に合わせて歩いているのに気付いた。
「ほんまや」
准一は相好を崩さずに話し続ける。
「今は石川が好きやけどな」
「ふーん……」
真里は素っ気無くうなずいた。
「やっぱり、真里のことは好きやったんかどうかわからへんわ。
 ……まあ、どうでもええ話やけどな」
「どうでもよくないよ」
返事はない。
「だって、私を嫌いになったってことでしょ?
 人に嫌われるのって、嫌だよ」
准一は口を閉ざした。
「なんで嫌いになったの……?」
「……分からへん。
 ……でもなあ、気が付いたらただの幼馴染になってた」
それから、真里も口を閉じた。

やがて、公園についた。
薄暗い公園には人気がなく、まばらに街灯の光りが当たっているだけだった。
「……私、やっぱり帰るね」
「ちょっと待てや。
 ここまで来て帰んなよ」
「だってさあ……ごっちんは准一を好きなんだよ?
 そんなの、告白するところ、見れるわけないじゃん」
真里は半ば叫びながらそう言った。
「……やっぱりそうか」
准一は大きく息をついた。
「なにがよ」
「いや、そうであって欲しくないな、とは思っててんけど、やっぱり後藤は俺のこと好きなんか」
「……だって、公園まで呼び出して、わざわざ言うことなんてそれしかないじゃん」
真里は入り口に振り向くと、一歩踏み出した。
「待てや、真里」
准一は真里の右腕をつかんだ。
「俺はもうお前を好きとちゃう。
 お前も俺を好きとちゃう。
 俺がさっき話したことは忘れてな、いてくれ、な」
「……いいじゃん、別にいなくても」
「不安やねん、なんか。
 告白されたことはあんねんけど、なんか、なんか今までのことが壊れそうな気がすんねん、お前がおらへんと」
真里は黙って振り返ると、植木の陰に立った。

「ごめん、待った?」
後藤はへらへらと笑いながらやって来た。
真里のいつも見ている笑顔だった。
「いや、別に……」
「うん、とりあえず、座ろ」
後藤はベンチに座り、隣を指差す。
准一も黙って横に座った。
「……岡田くんってさ、好きな人とかいるの?」
「うん、まあな」
「へー……」
会話は途切れた。
後藤は、硬派の准一には恋愛対象なんていないと思いこんでいたのだ。
「……あのさあ、岡田くん、私と付き合ってくれないかな」
後藤は手を組替えながら、隣の准一をちらちらと見た。
准一はじっと前を睨んでいたが、突然顔を上げた。
「ごめん、無理」

「ああ、うん、そう……」
後藤はせわしなく髪をかきあげ、指を組み、体を前後に揺らした。
「ごめんな」
「うん……」
後藤は絶え間なく動いていたが、准一は微動だにしない。
元のように一点を睨みつけている。
「ねえ……なんで?」
後藤は動きを止めて、准一の横顔を仰ぎ見た。
「なんで私じゃ駄目なの?
 私、岡田くんのためだったら、なんでもするよ。
 いくらでもイメチェンするし、家だって出るよ……」
「まだ高校生やろ、俺ら」
准一は後藤の言葉を阻むように言った。
「高校生がこんな恋しちゃいけないの?
 私、中学からずっと好きだったんだよ。
 2年の時さあ、初めて同じクラスになったんだよね、覚えてる?」
「後藤」
「5月に球技大会があって、私らサッカーだったよね。
 私がボール落としちゃって、励ましてくれたんだよ」
「やめろや」
「3年でまたクラス変わっちゃったんだよね。
 A組の安倍さんと付き合ってるって噂があってさあ、眠れなかったんだよ」
「やめろや、後藤!」
「嫌だよ!」

後藤の声は嗚咽混じりだった。
「やめたら、岡田くんどっか言っちゃうじゃん!」
「いや、俺は……付き合えへんねん」
准一は言い残して、立ちあがった。
「……じゃあな」
不意に、後藤が准一の前に立ちふさがった。
「なにすんねん……」
後藤の顔が目の前に迫り、准一の口は後藤にふさがれた。
後藤はすぐに顔を離した。
「あ、ごめんね……」
後藤はしばらく黙ってうつむいていたが、ふっと准一に背を向けた。
とぼとぼと公園から歩いていく後姿を、准一はぼうっと眺めていた。

真里は准一に断りもせず、黙って走り去った。

夕飯が終わって、裕介は居間でくつろいでいた。
そういえば、ひとみがいない。
「ひとみは? どっか行ったのか?」
「知らない」
あさ美は無愛想に答えると、本を持ってトイレに入った。
「待てよ、待てよ。
 おまえがトイレに入ると長いんだ」
あさ美は裕介の言葉など気にも留めずにすたすたと入ってしまった。
手持ちぶさたな裕介がテレビをつけると、いきなり後ろから息子たちの蹴りが入った。
「いってえ!
 なにすんだ、おい!」
息子たちは二人して意味不明の言葉を口走ると、再度裕介の背中を蹴り上げた。
裕介が適当にあしらっていると、疲れたのか床に寝転がってテレビを見はじめた。
年少の弟はうとうとしかけている。
「おい、まだおまえら風呂入ってないよな」
「うん、まだ」
裕介が訊くと、兄は鼻くそをほじりながら答えた。
「あさ美……はまだトイレか。
 そんじゃ、ひとみと風呂入ってこい」
「ひとみ姉ちゃん、いないよ」
「ん? あ、そうか……どこ行ってんだ、あいつ? 部屋か?」
「うんうん。
 なんか、携帯で誰かにかけて、どっか行った」
「……いつ?」
「晩ご飯の途中」
裕介の顔から血の気が引いていった。

亜弥は食卓に突っ伏したまま、顔を上げずに泣きじゃくっていた。
石川は気まずそうに横に座っている。
母親は起きる素振りも見せない。
「所詮さあ……私って身代わりだったんだよね、吉澤さんの」
亜弥は嗚咽混じりにつぶやいた。
「でも……智哉さんだって、なんとも思ってない人と付き合いませんよ、きっと」
「……そうかなあ」
落胆した声が響いた。
「……それでも、結局別れなきゃいけないんだよ?
 ちょっと好きかな、って思っただけで、ずっと付き合えるんじゃないんだよ?」
亜弥は赤い目で石川を見据えた。
「それにさあ、石川さんは不安じゃないの?」
「不安……」
石川は思わず繰り返した。
「石川さんも好きなんでしょ?
 だったら不安じゃないの?」
「……そりゃあ、そうですけど」
石川はふてくされるようにうつむいた。
「だったら、私の気持ちもちょっとは分かるんじゃないの?」
亜弥はすっかり泣き止んだようで、目の腫れもなくなっていた。
しばらく、二人とも黙ったままだった。
「……どうするの?」
亜弥は投げやりに訊いた。
「……行ってきます」
石川はゆっくり立ちあがると、食堂を出て行った。
取り残された亜弥は少しづつ顔を腕の中に埋めていった。

ひとみはまだ来ていなかった。
電車で来るんだから、そうは早くないだろう。
ベンチに腰掛けると、尻がひやっとした。
思わず溜息が出る。
広い公園ではないから、見渡せば全体が見える。
正面には砂場と滑り台。
その右にはブランコがある。
所狭しと遊具が押し込められていて、ロマンチックなムードはあまりしない。
それで月に照らされたブランコはムードがあるように見えた。
「なんで呼び出されるかなあ……」
最初電話があったとき、ひとみとまた付き合えると思った。
だが、段々公園に近付くにつれて、不安が気持ちの中に広がっていった。
まさかとは思うが、ひとみは本気で俺と別れようとしているのか。
思えば、ちゃんと別れた覚えはない。
そういえば、秋本はひとみに告白したのだろうか。
今のひとみなら、受けているかもしれない。
秋本は本気だ。
俺のように気持ちを曖昧なままにしようとしなかった。

道路脇から人影が現れた。
こっちに来るにつれて、段々とはっきりしてくる。
「……智哉?」
人影は遠くからでも聞こえるような声を出した。
小走りに駆け寄ってくる。
「ああ、来てくれたんだ」
ひとみは横に座ると、妙に肩をこわばらせた。
「なんだよ?」
自然と、ぶっきらぼうな言い方になる。
「ごめんね、こんな遅くに呼び出しちゃって」
ひとみは必死になっていた。
なにに対してかは分からないが、必死になって喋っていた。
俺と亜弥の付き合ってることが分かったときの冷たい視線は、なかった。
「あのさあ、結構寒いよね。
 なんか暖かい物買ってこようか」
ひとみは早々と腰を浮かせた。
「あ、お金は払うよ。
 呼び出しちゃったし、お礼ね」
踏ん切りをつけるように、急いでベンチを立った。
無意識のうちにその左腕をしっかりつかんで、引きつけていた。
「ちょっと、なにすんの?」
ひとみはベンチに腰を落とした。
「おまえ、なに必死になってんだよ」
いつのまにか、自分の声は震えていた。

「ちょっと、なに泣いてんの?」
ひとみはかえって驚いた顔でベンチに座りこんだ。
よく見れば、膝の上に涙の跡ができていた。
目を拭うと、手の甲に涙がこすりついていた。
「いや……」
自然と声が震えた。
ひとみは不安げな目をしている。
「いや……分からない」
そう言うと、ひとみはぷっと吹き出した。
頬に笑窪ができて、低い笑い声は段々大声になった。
「あははは、あーははははは!」
ひとみは腹を抱えて笑い出す。
「……なんだよ」
いつの間にか俺は泣きやみ、声も震えなくなっている。
「いや、だって……」
ほとんど笑い声で聞こえなかった。
「だって、なんだよ」
ひとみの笑い声はようやく収まりかけた。
「だってさあ、智哉全然変わってないじゃん」

「はあ?」
「だって、なんで泣いてるのか聞いて、分からないって答える? 普通」
ひとみはまた笑い出した。
「分からないんだから、仕方ないだろ」
「……ま、それもそうか」
「いきなり笑い出すなよ、気持ち悪い」
「いーじゃん、おかしかったんだから」
「大体、人が泣いてるのに笑うか?
 遠慮とかするだろ」
「智哉に遠慮するのって、変じゃない?」
「人には遠慮するもんだろ」
笑いながら言うと、ひとみは真面目な顔をしていた。
「だって、遠慮したら他人になるみたいじゃん」
「……他人?」
「そう」
言ったきり、ひとみは黙りこくった。
俺も言うことはない。
ただただ、ひとみの言葉を待っていた。
「……ねえ智哉、ギター弾いてる?」

「ギター?」
あれから弾いていない。
いろいろあって、弾いている余裕などなかった。
しばらくはクラブに行くのも忘れていた。
「私、弦楽部やめたじゃん?
 でもさ、ずっとギター弾いてるんだ」
ひとみは照れくさそうに笑った。
「別に隠すつもりはなかったんだけどね」
つられて、俺も薄ら笑いを浮かべた。
「また智哉のギター、聞きたいな」
声のトーンが低くなったのは、明らかだった。
「……なんで私がここに呼んだか、気付いてる?」
声はどんどん低くなる。
返事はあえてしない。
「私さあ、まだ諦めきれないんだよね、なんか」
俺もだ、と言おうとしたが、喉に張りついて言えない。
「なんかさ、いつでも引っかかっちゃうんだよね、なにやってても気になるし」
何度頑張っても、呼吸困難のように声は出てこない。
「付き合って欲しいんだ、もう一回」
声は出ない。
ひとみは俺の顔を下から覗きこんだ。

気が付けば、両手でひとみを抱きしめていた。
いつからか分からないが、長い時間そうしていたような気がして、腕を離した。
「……はあ」
口から息が漏れた。
ずっと息を止めていたようだ。
俺が息をつくと、ひとみはまた吹き出した。
吹き出し笑いはすぐに、けたたましい笑い声に変わった。
「……なんだよ、うるさいな」
「だって、普通抱き合ってさあ、キスとかしようって時に息継ぎする?」
「キス?」
ひとみはそう思っていたらしい。
「なんでキスなんかするんだよ」
「さあ……分かんない」
そうつぶやいて、ひとみは顔を寄せてきた。
「ちょっとお前、待てよ、おい!」
顔を引き離すと、体制が崩れた。
上体をのけぞらせると、ベンチから落ちそうになる。
それを見たひとみは、ここぞとばかりにまた笑いはじめた。
俺も自然と小さな笑い声が出た。
それからどうやって、家に帰ったかは忘れた。

とにかく、またひとみと付き合えるようになったことで、頭の中は一杯だった。

准一は公園を出てから、近所をうろついていた。
行くあてもなく、真里や後藤のことばかりを考えていた。
だから、そこに梨華が現れた時は、相当に驚いた。
「こんばんは」
気のせいか、目が赤い。
梨華は会釈すると、准一の横をすり抜けようとした。
「ちょっと、梨華ちゃん」
声をかけると、梨華はやはり赤い目で振りかえった。
「話あんねんけど、ええかな」
「すいません、急いでるんで……」
言いながら、足取りは重かった。
しきりに辺りを見回している。
「誰か探してんの?」
梨華は振り向いたが、返事はしなかった。
じとりと准一を睨みつけると、向こうへ歩いていこうとする。
「あんなあ、俺……」
梨華は立ち止まった。
「俺、梨華ちゃんのこと……」

 

「時間だぞ、おい、聞いてる?」
「うるさいなあ、聞こえてるって」
ひとみは鬱陶しそうに答えると、鏡台から立ちあがった。
「赤はあんまし似合わないな……」
「いいじゃん、別に」
赤いスカートについた埃を払うと、ひとみは玄関まですたすたと歩いていった。
「そういえば、准一くんと梨華ちゃんが結婚して、何年だったっけ?」
「5年」
「もう5年もたつのかー。
 梨華ちゃん未だに料理上手くならないのにな」
「あの下手さ加減は才能だろ」
そう言うと、ひとみは小声で笑った。
梨華ちゃんは二十歳で結婚してからずっと主婦だが、一向に家事が上手くないらしい。
結婚当時は熱意があったそうだが、今ではすっかり諦めの境地らしい。
料理はもっぱら准一がやっている。
准一が中華料理店で働いていなければどういう食事をするのか、検討もつかない。

「綾華は?」
「うちに預けてきた」
綾華ももう3歳だから連れて行ってもいいかと思ったが、本人が大層嫌がったのでひとみの実家に預けた。
運転席に乗りこむと、ひとみは先に助手席に座っていた。
そう広くない車庫から車を出す。
「亜依ちゃんと会うのも久しぶりだな」
「そう?
 一週間ぐらい前に会ったけど?」
「俺は2年ほど会ってないような気がするけどな」
「だってここ2年だから、足したら1年丸々ドイツにいたんじゃない?」
俺は大学を出てから、ビデオデッキを作る中小企業に入社した。
中小企業と言っても中の方で、それもそこそこ大きい。
俺は宣伝部に回され、大学でドイツ語をかじったと言うだけで、2年ほど常にドイツへ半出張状態だった。
最近はようやく国内の仕事が主になってきて、一段落ついている。
「新郎の名前ってなんだっけ?」
「堀田圭介くんでしょ」
「そうそう、堀田。
 准一ってまだ反対してるんだよな」
「絶対に認めへんって言ってた」
准一の怒る姿が目に浮かんだ。

会場に行く橋を渡っていると、右脇を2人歩いている。
一際背の低い女が俺たちに気付いた。
「あ、智哉じゃーん!」
恥ずかしくも人前で手を振っている。
仕方がないので車を寄せると、横には後藤がいるのが分かった。
「ひさしぶりだよね、元気?」
「乗せてやるから黙れ」
「相変わらず冷たいなー、幼なじみだよ、幼なじみ」
真里はそそくさと後部座席に乗りこんだ。
「後藤も早く乗って」
「うん、どうもありがと」
後藤も真里の隣に座る。
「さっき駅でばったり会っちゃってさー。
 最近ごっちんと会ってなかったからさー、びっくりしたよ」
「真里、おまえいいかげんにその早口治せ。
 おまえの相手をする園児がかわいそうだ」
「えー、うそー、そんなに早くないよー。
 これでも結構人気あるんだけどなー」
はた迷惑な保母である。

「そういえば、ごっちんっていつここに帰ってきたの?」
ひとみが振りかえった。
「大体一週間ぐらい前。
 手紙来たから」
「それで、試験は受かりそうなの?」
「五分五分かなあ。
 結構難しかったんだよね」
後藤はインテリアコーディネーターの資格を取るために、都内のど真ん中で専門学校に通っている。
その試験の結果を聞いたのだ。
「そういえば、やぐっつぁん彼氏できたんだって?」
「まあねー。
 職場恋愛ってやつ?」
真里は得意げに答えると、鼻を鳴らした。
「もう智哉を好きだったなんて過去の話さっ」
「そんな過去は封印しろ」
「いやーん、ダーリンのいけずぅー」
真里は狭い後部座席で体をくねらせる。
「やめろ、へどが出る」
「そういえば、その人もギター弾くんだって?」
「……えへへ、まあね」
真里は同じ台詞をはいたが、赤面するだけだった。

「よう」
秋本は手を挙げると、こちらをちらりと見た。
「元気そうだな」
「まあな」
秋本は高卒で司法試験を受けて、検察になった。
昔と変わらず、随分ともてているらしい。
「おうおう、元気元気?
 ドイツで女作ってきたんじゃないの?」
坂口は小走りに駆け寄ってきた。
大学を出た後新聞社に就職し、スポーツ新聞かと思えば、お堅い一流企業だった。
大学で相当頑張ったらしい。
「あっちの方に松浦とか、梨華ちゃんとかいるぞ」
坂口は口元を歪めてまたどこかへ走っていった。

「あれ?
 綾華ちゃんは?」
「ひとみの実家に預けてきた」
「なんだ、つまんないなー」
亜弥は自分が名付けに関わったとあって、綾華をかわいがっている。
「梨華ちゃん、綾華ちゃん来てないんだって」
「えー、マジですか?」
綾華の名前は『亜弥』と梨『華』からとっているから、二人は綾華にかなり愛着があるらしい。
「梨華ちゃん、料理はうまくなった?」
「この間、野菜炒めを作れるようになりました」
野菜を切れるのかどうかはなはだ疑問だったが、訊かないことにした。
「しかしなあ、亜弥もそろそろ相手見つけたほうがいいよな」
「余計なお世話」
亜弥は高三からアルバイトで始めたテニスのコーチをまだ続けている。
今ではヘッドコーチで、全国大会のお呼びもかかっているそうだ。
「おふくろも身を固めろって言ってたぞ」
「でも、別にいい人いないし」
そう言って、亜弥はテニスで鍛えた右腕をさすった。

ドレス姿の亜依ちゃんは綺麗だった。
新郎もなかなかの美形で、美男美女カップルだった。
准一は、親族席で不機嫌そうに腕を組んでいる。
岡田家の中でも、准一だけは圭介くんに冷たいらしい。
スピーチの順番が回ってきた。
准一は椅子を蹴倒すように立ちあがると、マイクの前で意味不明の言葉を喚きたてた。
スピーチは意味不明のまま終わり、拍手のタイミングもずれた。
「それでは、岡田准一様のご友人のスピーチです」
司会の坂口はちらっと俺を見た。
机に掛けてあったギターを手に取ると、周りの視線が集まった。
いつのまに用意したのか、マイクの前には折りたたみ椅子と踏み台まで用意されていた。
「えー、僭越ながら二人の前途を祝して、ギターの演奏を致します」
結婚式に合うような歌だと思えないことは分かっている。
でも、一番真剣に弾けるのがこの歌なのは、俺がよく知っている。
マイクの高さを下げ、椅子に座り、出だしを思い出した。

Yesterday all my troubles seemed so far away……

窓の外はひたすらに晴天だった。