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ど素人 投稿日: 01/11/24 00:07
その日、会社員の幸雄はいつものように午後八時ごろに自宅に帰りついた。
彼は半年ほどまえに結婚したばかりでその暮らしはいまだ幸せに満ちていた。「ただいま〜。…お〜い、なつみ?」
いつもなら玄関先にまで迎えに来てくれるはずの愛する妻の姿がない。
(買い物にでも行っているのだろう)
彼はそう考えて一人でリビングでテレビをみていることにした。…二十分ほど経っただろうか。
幸雄はふと気配を感じて廊下のほうを向いた。そこには妻のなつみがスッ…と
台所の方へ通り過ぎていく姿が見えた。「なつみ?どこいってたんだよ、もう八時半だぞ?」
「…買い物」
消えるような声でなつみはそれだけ言った。
なんだろう?声にいつもの太陽に真っ直ぐ伸びてるひまわりのような元気さがない。
「続いてお天気の……プッ」
幸雄はリモコンでテレビを消してなつみの後を追った。そこには台所の壁を呆然と眺めながら立ち尽くしているなつみの後ろ姿が見えた。
なつみの服は体中ドロだらけで、肘と手の甲が深くすりむけているのが後ろからでも確認できた。「ど、どうしたんだ!?」
幸雄は妻が強姦されたのではないか、と考えたがそれにしては衣服の乱れはない。
「…なあに?」
なつみがゆっくりと振り返った。はいているジーンズの両膝が破れ、深い傷が見えている。
額にも五センチ程の切り傷がある。「なあにって…どうしたんだよその怪我…?」
「…ああ…ころんだの、駅の階段で」
なつみの背後に買い物袋にはいった割れた卵や潰れたトマトなどが見えた。
「だ、大丈夫かよ…病院に行かなくて…?」
幸雄は尋ねた。
「…平気。それより話があるの…」
なつみは終始無表情のまま答えた。普段笑顔がトレードマークの彼女にしてはおかしかった。
「平気ってお前…」「…いいから」
なつみにうながされ幸雄はなつみと一緒にリビングに向かった。リビングについたなつみは幸雄をソファーに座らせ、自分も座った。
「な、なんなんだよ?」
無表情でうっすら笑みを浮かべてこっちを見ていたなつみは幸雄の手を取り自分のお腹にあてた。
「…なに?」「今日…お医者さんに行ったの…三ヶ月目だって…」
幸雄はポカン、と口を開けた。そしてようやく意味を理解した。
「ほ、ほんとか…?」
なつみは微笑を浮かべたままコクリ、とうなづいた。
「そ、そうか…!」
幸雄は念願だった子宝に笑顔になった。だがすぐに真剣な表情になった。
「だったらなおさら病院に行ったほうがいいよ!」
しかしなつみは幸雄の言葉を止め、言った。
「大丈夫よ。転んだ後に診てもらった。母子ともに異常ないって」「そ、そうか!」
幸雄は安著の息をついた。
結局その夜はなつみがどうしても必要ないと言い張るので病院には行かなかった。
幸雄はますますの幸せに満ちて眠りにつくのだった。翌日。
「おはよう」
幸雄は頭をぼりぼりかきながら台所で朝食を作っているなつみに向かって言った。
「おはよ」
その笑顔はいつもどおりのなつみの笑顔だった。
(昨日は驚きでどうかしちまってたのかな……ん?)
幸雄はなつみの腕を見た。続いて肘と額を見た。「…おい…昨日の傷…もう治ったのか…?」
恐る恐る尋ねた。「…ん?もともとたいした傷じゃなかったのよ」
なつみはニコリ、と笑った。
「はい」
なつみが次々と皿を食卓に並べる。
「…おい。朝からステーキかよ?」
そこには厚いステーキがドン、と大皿の上に乗っていた。
「…俺は味噌汁だけでいいよ…」「そう?じゃあたしもらう〜」
そう言ったなつみは大皿に乗ったステーキを自分の方へ持っていった。
「…………………」
なつみは次々とステーキをナイフで切り、口に運ぶ。
「だって子供と二人分だもん。いっぱい食べなくちゃ。でしょ?」
そう言っていつものようにニコリ、と笑った。
〜妊娠四ヶ月目〜
会社が休日のその日、幸雄は買い物をすませて家に戻った。
そこには見知らぬ女性がいた。「助産婦の中澤さん。色々考えたけど自宅で出産することにしたの」
なつみが説明すると中澤と呼ばれた女性はペコリ、と頭を下げた。「じ、自宅って…ここで?」
「そう。決めたの」
なつみは平然と答えた。
「病院のベッドで産むなんて嫌。病気じゃないんだから自然な形で出産したいの」「ちょ、ちょっと待てよ!あのな…」
幸雄は慌てて続けようとしたが中澤がそれを遮った。
「心配あらへんよ。産婦人科の先生とも電話で連絡とりあうし。初めてみたいやから
旦那さんが心配するのも無理ないけど産むのは奥さんなんやで」「は、はぁ…」
そこまで言った時ピンポーン、とチャイムの音がした。
「…お聞きしたい事があります」
ドアの前に立っていたのは三十代半ば、といった感じの目つきの鋭い男だった。
その男は胸元からなにかをとりだして見せてきた。それは警察手帳だった。
「…実は駅前の三丁目の交差点でひき逃げ事故がありまして。目撃者を探しています。
…先月の21日。火曜日の午後八時ごろです。なにか心当たりは?」
幸雄はその日の事を思い出してみた。
「…それなら僕は見てませんよ。勤め先は駅とは逆方向ですし…」
後ろからなつみが恐々とこっちを見ている。
「そうだ、なつみ何か知ってるか?」「いえ…なにも」
なつみはうつむいたまま答えた。誰にでも笑顔で話し掛ける彼女にしては珍しい答え方だった。
「…あの、ひき逃げにあった人っていうのは…近所の方ですか?」
幸雄はふいに聞いてみた。なぜか刑事は苦い顔をして答えた。
「…それがわからないんです…」
「…は?」
「…実は被害者を探してるんです」
「…被害者を?」
幸雄にはサッパリ意味がわからなかった。
「…一度は現場から逃げた加害者がその翌日に怖くなって自首してきたんです。だが
その日その事故に該当するような届は出ていなかった。…加害者の話ではその車は事故時、
時速80キロは出していて車のバンパーやボンネットは人をはねた衝撃で大破している」「つまり事故は確かにあったと?」
「そういう事です。だが即死か瀕死の重傷のはずの被害者が…行方不明なんです」
その時ふと幸雄はある事を思い出した。
「なつみ…お前が怪我して帰ってきた日…確か火曜日だったよな?」
「…そうだった、かな?」
「そうだよ、妊娠がわかった日だよ!俺あの日会議があったから覚えてるんだよ!」
「…………………」
「お前…あそこ通っただろ?…ひょっとしてお前のあの時の傷…」
その時なつみの体に異変が起こっていた。刑事や幸雄には見えないように後ろで組んでいた
手の肘の部分に黒いあざのようなものがみるみる広がっていっていた。「…転んだって言ったでしょ?即死するぐらいの傷で歩いて帰ってこれるわけないじゃない?」
あざはますますひろがり、皮膚が裂け、血が流れ始めたが刑事や幸雄からは見えない。
「変なこと言わないでよね」
そう言って笑った時、流れ出た血がフィルムの巻き戻しのようになつみの体の中に
戻っていった。裂けた皮膚は何もなかったかのようなスベスベの肌に戻りあざも急速に
収縮していって、消えた。「そ、そうだよな…」
「…ありがとうございました」
これ以上はなにもつかめない、と判断した刑事は礼を言って立ち去った。
「ご苦労様でした」
なつみは刑事の後ろ姿に向かってニコリ、と笑った。
〜妊娠六ヶ月〜
「男の子かな、女の子かな?」
「どっちにでも似合うように黄色の服にしよ?あ、これ可愛い〜!」
二人はデパートで新しい家族のための買い物をしていた。
その姿は依然よりもますます幸せにつつまれているように見えた。「……………!!」
「…なつみ?」
なつみの顔色が急に悪くなる。
「ど、どうした?陣痛か?」
「ま、まだ六ヶ月よ…つ、つわり。トイレ行ってくるね…」
「お、おい!大丈夫か!?」
なつみは幸雄の声には答えずトイレに向かった。
トイレの個室の中でなつみは苦しんでいた。なつみの肘から、額から、手の甲からあざが
ひろがり、皮膚が裂け、血が流れ落ちる。いや、それはすでに流れ落ちるというレベルでは
なく吹き出す、というほどの量だった。「…ぐっ…くうう…ああ…う…!…」
なつみは声を殺して一人うめいた。
床に崩れ落ち、壁をかきむしる。「ううう…あああ…」
なつみは両目をつぶり集中する。
「ううっ…」
すると肘の傷から血は止まり、皮膚は元通りになろうと動き出す。
なつみはさらに集中し額と手の甲の傷も元通りにしようとする。「お・待・た・せ〜」
「ああ、大丈夫だった?」
そこにはいつもの飛び切りの笑顔の妻が居た。
傷はもうどこにもなかった。〜妊娠八ヶ月〜
雨が降っていた。
幸雄はふとなつみの事が心配になり会社を早引けして家に帰った。「…………!!」
玄関先から中の廊下にまでおびただしい量の血がついている。
幸雄は傘を投げ出しリビングに飛び込んだ。「なつみ!!」
そこには体中から血を流しながら倒れているなつみの姿があった。
「な、なつみぃ!…ど、どうしたらいいんだ…す、すぐ救急車呼ぶからな!!」
幸雄は近くにあった受話器に飛びついた。
「…待って!」「なつみ!?大丈夫なのか!?」
「ひ、一休みすれば平気だから…」
「なに馬鹿なこと言ってんだ!!」
「私の体の事は私がよくわかってるから!!」
いつものなつみからは考えられない程強い声だった。
「病院は駄目…中澤さんを呼んで…」そう言ったきりなつみは気を失った。
「また階段から落ちちゃったんだぁ…今度は歩道橋から。気を付けてたんだけど足、
踏み外しちゃって…なっち馬鹿だよねえ…」幸雄はなつみがあまりにも嫌がるので救急車は呼ばなかった代わりに幸雄が傷口を
拭いてやっていた。肘、額、手の甲、両膝……「おい…これ…前の時と全く同じ場所じゃないのか?」
しかも以前よりも傷が深くなっているような気がする。『ピンポーーーーン』
「…あ、中澤さんきたみたい…」
「あ、ああ…」
幸雄はドア開け中澤を迎え入れた。「なにがあったんや!?」
「それが…階段で転んだらしくて大怪我を…」
「ちっ!」
中澤は舌打ちをした後リビングに駆け込んだ。幸雄も後に続く。
「…なんや。大怪我言うからどんな事になっとるか思うけど…」
「……傷が…!」
なつみの傷は全て消えていた。先ほどまで血まみれになっていたというのに。
「…赤ちゃんには異常ないみたいやな。安心しいや」
なつみのお腹を触っていた中澤が笑顔で言う。「そ、そんな…馬鹿な…」
「だから大丈夫だって言ったでしょ?あんな傷、我慢してれば平気なの。なっち我慢するの
得意なんだから」「……でも」
「もう。心配しすぎなのよ男の人は〜。血を見たくらいで騒いでちゃ赤ちゃんなんて
産めやしないよ。ねえ中澤さん」「ははっ。そうやな」
二人は顔を見合わせて笑っていた。
幸雄はただ呆然と立ち尽くしていた。〜妊娠九ヶ月〜
その日も会社を早引けさせてもらった。家路に急ぐ幸雄に一人の男が近づいてきた。
「お久しぶりです」「あ、刑事さん…なんですか?」
「ちょっと御同行願えますか?」
警察所内の一室に幸雄は通された。
「なんですか?妻と一緒に居てやりたいんですけど…」「実は…加害者の証言により被害者はあなたの奥さんに非常に似ているという事なんですよ」
「はあ?」
「…被害者の服装…ジーンズに赤いウインドブレーカー。この同じものはお持ちですよね?」
「…ええ」
「…これが被害者のモンタージュです」
刑事が差し出した紙に書かれている女性は顔はなつみの面影は少しだが、それ以外は
なつみそのものだった。「…………………」
「あの日奥さんは怪我をしていたそうですね?その怪我していた場所をこの用紙にチェック
してもらえませんか?」
刑事が差し出した用紙はごく簡単な人間の絵が書かれたものだった。「…………………」
幸雄は言われたとおりにその人間の絵の額、肘、両膝、手の甲などにチェックをした。
「おい、後藤君」
後藤と呼ばれた白衣を来た女性に刑事はその用紙を渡した。
「…交通事故の典型的な傷ですね。人が車に接触した場合まずバンパーで両膝を打撲し、
ボンネットで腰か肘をぶつけ、道路に落下して頭部を傷付けます。
…今回の場合車の損傷部分と傷の部分が全く一致してますね」
彼女は淡々と言った。
「し、しかし即死するほどの事故だって聞きましたよ!」
幸雄は叫んだ。
「そうです…だが奥さんは今も元気に暮らしている。出産も間近だ」
刑事はそこまで言って言葉を止めた。
「…これを見てもらえますか?」
くるりとこっちを向いたその右手には一本のビデオテープが握られていた。それは事情聴取の場面だった。
「彼女が事故の加害者です」
刑事がつけたした。一人の女が震えながら語っている。
「そ、そしたら女の人目の前に居て…ボンネットに当たって…20メートル位吹っ飛んで…
あ、頭とか陥没してて…!腕もちぎれたみたいに曲がってて…血まみれでさ…そんで…!
あ、あたし見たのよ!その女さいきなり起き上がって!!」その女はバン!、と取り調べ用の机を叩いた。
「か、陥没した頭が元に戻って…!う、腕も元に…その女!服についたドロだけ払って…!
平気な顔して歩いていったのよ!本当よ!!嘘じゃない!あたし見たのよ!!
け、刑事さん助けてよ!あいつは怪物よ!きっと仕返しにくる!きっときっときっときっと…」彼女は狂ったように近くの刑事にすがりついていた。
幸雄の思考は停止してしまった。
外では雪が降っていた。帰りついた幸雄はリビングで愛する妻を見つけた。
なつみはまるで少女のようにすうすうとソファーで寝ていた。「……ん。あ、おかえりなさい…」
夫に気付いたのか、なつみは起き上がろうとする。
「あ、そのままでいいよ」
幸雄はソファーの前に座った。
「…聞いてくれないかな…」
彼は重々しく言った。
「…なに?」「…あの」
「…なによお」
なつみは険しい幸雄の顔がおもしろかったのかフフッと笑った。「…お前あの日本当は事故にあったんじゃないのか?」
それまで笑っていたなつみは急に無表情になった。
「あって…ないよ」「じゃあ教えてくれ!君になにがあったんだ!?あの日から君の体にはおかしな事ばかりじゃ
ないか!?」「…………………」
「教えてくれ…君に何があったんだ…?」
なつみは黙っていた。幸雄も黙っていた。だがその沈黙は意外なもので破られた。
「……うっ」
なつみがうめいた。
「…なつみ!?」
幸雄が駆け寄る。
「じ、陣痛が始まっちゃったみたい…」「陣痛が!?」
「な、中澤さんを呼んで…」
中澤は慌しくやってきた。幸雄は指示されたとおりにどんどん産湯用のお湯を沸かす。
「うん。元気な赤ちゃんやで。…ほら教えた通りに呼吸して」
中澤はなつみの腹を触りながら言った。なつみはスーフーと呼吸を始める。
「そう、その調子や」「ほら、もう少しや!頑張りい!」
もうお産が始まって30分が経とうとしていた。
幸雄はただ母子の安全だけを願ってなつみの手を強く握りしめていた。「あと一息や!ほらあ!!」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
その時部屋にホギャアホギャアという声が響き渡った。
「よっしゃ!ようやったで!元気な赤ちゃんや!!」
「なつみ!見ろ…元気な…元気な男の子だよ!…よく…よく頑張ったな…」
なつみは汗の残る顔でニコリ、と笑った。その目には涙が光っていた。
「ほ〜ら。お母さんやで〜」
産湯を使わせた中澤がなつみに赤ん坊を渡す。
「………………」
なつみは両目をつぶって赤ん坊をただ、抱き寄せた。
「……頑張ったわ、あたし…」
幸雄はうんうんと頷く。
「…ずっと我慢してたの…我慢して…頑張ったの…」
「…でも…もう…駄目…」
なつみの体がガクリ、と落ち、赤ん坊を中澤に渡した。
「なつみ…?どうしたんだよ…?」
「あたしね…車にはねられたの…」
なつみは目に涙を溜めながらポツリポツリと語り始めた。
「…死んだと思った…でも…妊娠してたから…子供産みたいって思って…」
「…ここで死ぬわけにはいかないって…我慢…したの…」
「…そしたら傷が…我慢…できたのよ…」
なつみは苦しそうに息をついた。
「わかった…わかったからもう何も言うな…」
幸雄はなつみの言葉を止める彼の目からは涙が溢れていた。
「…この子…幸せにしてあげて…あたし……もう………なんにもできないから…」
大粒の涙を流すなつみの声はもう消えてしまいそうだった。
「一緒に…育てたかった…幸雄さんとふたりで……」
なつみの肘からあざが広がり皮膚が裂け、血が流れだした。
「何言ってんだよ…一緒に…一緒に育てていくんだろう……?」
額からも両膝からも傷が広がり始める。
「幸雄さん…ごめんなさい……もう我慢…できない……」
幸雄の手を握り締めていたなつみの手がスルリ、と床に落ちた。
同時に全身の傷が決壊したダムのように開きだす。「…幸雄さん…あり…が…とう…」
なつみは最後にニコリ、いつものように笑った。
その姿は天使よりも美しかった。『end』