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コンボ 投稿日:02/01/30 10:57 ID:mbLmaBcd

僕の友人で、木村という男がいるんですよ。
木村は新聞の写真班なんですが……ああ、これはこの間も話しましたか。
それにしても、世の中に写真班ほど鬱陶しい存在はありませんね。
少なくとも私はそう思いますよ。
安倍侯爵のご令嬢が玄関から馬車に乗るところを撮るために、邸宅の塀を乗り越えようとするような奴らですから。
まあ、そういう連中は一部だということは分かっていますよ。
しかし、どうも私は写真班に好意を持てない。
そこへくると、木村は実に誠実で礼儀をわきまえている。
まだ二十を出たところなんですが、多くの著名人に好かれているんですよ。
なかなか撮らせてくれないお偉方相手のときには、そこの部長は必ず木村を行かせるそうです。
その木村が、一月ほど前の昼下がりに石川公爵の邸宅に出向いたそうです。

石川公爵は有能な方ですが……頭が堅い。
木村はまず玄関で掃除をしていた使用人に尋ねました。
「すいません、石川公爵はいらっしゃいますか」
「旦那の写真を撮るのはやめたほうがいいよ」
使用人は苦笑しながら答えたそうです。
木村も公爵の前評判は聞いていましたから、頼む、と言って使用人に頭を下げました。
使用人はしばらく渋い顔をしていたそうですが、駆け足で家に入って行きました。
木村が玄関に突っ立っていると、ふと庭のほうから人影が現れました。
人影は遠くにありましたが、それが公爵のご令嬢だとわかると、木村は緊張して目を逸らしたそうです。
ご令嬢はお美しいことで有名です。
あなたも、石川梨華といえば美人で知られていることはご存知でしょう。
私なら、食い入るように見ていたかもしれません。
そこで目を逸らせたところが、木村の良いところの一つかもしれません。
ご令嬢は……梨華嬢はお一人で、玄関に歩み寄ってきました。
木村は必死で見ないように努めましたが、どうしても横目で見てしまいます。
梨華嬢は木村に近寄ると、笑顔で木村に話しかけました。
「お父様のご客人でいらっしゃいますか」
「あ、いや、そんな大層な者ではありません」
慌てる木村を尻目に、梨華嬢はさらに微笑みかけました。

丁度その時、使用人が玄関に石川公爵を連れてきました。
公爵は和服でくつろがれていて、とても上機嫌だったそうです。
公爵は玄関に棒立ちしている木村を見つけると、珍しくも笑いかけたそうです。
木村は一礼して、新聞社の名前を告げました。
「上がりたまえ」
公爵は言うと、笑顔のまま先導するように奥へと歩いていきました。
木村は途惑っていましたが、後ろから梨華嬢が声をかけました。
「どうぞ、お上がりください」
梨華嬢は木村の脇をすり抜け、公爵について歩いていきました。
木村はなお困惑していましたが、そばにいた使用人が耳打ちしました。
「旦那はご友人と会談されたばかりで機嫌が良いんだ。
 機嫌が良いうちに撮らないと、いつ怒り出すか分かったもんじゃないよ」
木村は慌てて靴を脱ぎました。

邸宅内は実に美麗で、きらびやかな装飾がいたるところに施されていたそうです。
公爵は木村が追いついたところで梨華嬢と共に振りかえり、おっしゃりました。
「ええと君、どこで撮りたいんだね。
 この格好で良いのかい」
「はい、もちろん結構です」
和服の石川公爵など、特種中の特種です。
何しろ、あの人は軍服の写真しかありませんから。
木村が幾分興奮した声で答えると、公爵は左手の扉を開けました。
部屋は和風で、綺麗な緑色をした畳の上には、高級な桐箪笥や美しい木目の肘掛が置いてありました。
公爵は腰を下ろすと、肘掛にもたれかかりました。
「こんなものでいいかね」
木村は感激しながら写真を撮ったそうです。
その間、梨華嬢は木村の脇についてじっと座っていたとのことです。

写真を撮り終え、木村は礼を言って立ち去ろうとしました。
すると、公爵は立ちあがって木村をひきとめました。
「待ちたまえ、君のような好青年に会ったのは久しい。
 新聞の写真班にあって、君のようにがつがつしていないのは珍しい。
 私はこれから用があって出るが、君はしばらくくつろいでくれたまえ」
もちろん、木村は断りました。
木村だって美しい邸宅にはいたかったでしょうけど、公爵のお家でくつろぐなどという大それたことは到底できません。
困っている木村に、公爵は続けました。
「まあまあ、取り合えず娘を置いていくから、休んでくれたまえ」
公爵は始終笑ったまま部屋を出て行きました。
木村も公爵にあそこまで言われて横柄に断るわけにはいきません。
しばらく畳に正座して呆けていましたが、梨華嬢が木村の肩を揺すぶりました。
「どうされました。
 お昼に致しましょうか」
木村は梨華嬢の声にもなかなか気付きませんでしたが、不意に振り返りました。
「あ、いえ、お昼は結構です。
 私はお暇させて頂きます」
木村はまだ昼飯を食っていませんでしたが、そう言うと立ちあがり、部屋を出ようとしたところ例の使用人と鉢合わせました。
「おや、帰るのかい」
使用人は少し驚いた顔をして、言いました。
「旦那の機嫌を損ねるような真似は止めたほうがいいよ」
そう言われると木村はどうにもできなくなりました。
「今から昼飯の時間だから、お嬢さんと食っていきな」
使用人はそれだけ言うと、食堂らしき部屋に去っていきました。
流石に昼飯を食うしかないと思い、木村は梨華嬢に先導されながら食堂に入りました。

「お名前は」
木村が椅子につくと、梨華嬢が尋ねました。
「木村と言います」
「木村さんですか……」
昼飯の内容は聞かされませんでしたが、公爵のお宅ですから、それなりのものが出たのでしょう。
梨華嬢は食事中、木村に話しかけました。
「木村さんは鈴蘭をお好きですか」
木村はいきなりの質問で呆気に取られましたが、必死に平静を保っている振りをして答えました。
「はい、花の中では特に好きです」
これは世辞ではなく、木村は植物になどには滅多に興味を示さないのですが、鈴蘭だけは好ましいと言ったのを憶えています。
「それでは、この後鈴蘭畑に参りましょう」
梨華嬢は当然のように言いました。
木村はまたもや呆気に取られ、梨華嬢の顔をぼうっと眺めていました。
梨華嬢は嫌がるでもなく、木村に微笑みかけたそうです。

食事が終わると、梨華嬢は立ちあがりました。
「それでは参りましょうか」
木村もつられて立ちあがり、食堂を出る梨華嬢について歩きました。
邸宅の裏には広く鈴蘭が植えられ、景色は壮観だそうです。
梨華嬢に連れられた木村は、鈴蘭を見て思わず立ち尽くしました。
「これは……」
鈴蘭は白に輝き、風でうねっていました。
光の反射は様々な方向になされ、白もまた様々な色合いを見せていました。

「私が生まれたとき、お父様が植えてくださったんです」
梨華嬢は静かに口を開きました。
「ここは、私の一番の宝物です」
梨華嬢の言葉もまともに耳に入らず、木村はただ見惚れていました。
梨華嬢は鈴蘭の中に歩いていきました。
白色の海に梨華嬢が入りこみましたが、木村の目には自然と、前からそうであったように見えたそうです。
梨華嬢は鈴蘭の中にしゃがみこむと、数本を摘み取りました。
そうして梨華嬢は鈴蘭の海から上がり、未だにみとれている木村に鈴蘭を差し出しました。
「どうぞ」
木村も声をかけられてようやく気付き、鈴蘭を手に取りました。
梨華嬢は木村の顔を見つめて微笑みました。
木村は何か気の利いたことでも言わなくてはと思い、その場で必死に考えました。
すると、自己主張でもするように手の中の鈴蘭が風に揺れました。
木村はふと思いつきました。
「梨華さんは鈴蘭のような人だ」
突然、梨華嬢は頬を赤らめてうつむきました。
木村は慌てふためき、何が何だか分からなくなりました。
「あ、あの……なにか失礼なことを……」
「いえ、木村さんは……」
梨華嬢はそこで言葉を切ると、押し黙ってしまいました。
「いや、その、本当に申し訳ありませんでした」
木村はとにかく頭を下げました。
「そうじゃなくて……」
木村はいよいよ分からなくなり、顔を上げて不思議に思いました。
「木村さんは鈴蘭が花の中で特に好きだって……」
木村は赤面しました。