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コンボ 投稿日:2002/03/26(火) 14:47
僕が翻訳家を目指し始めたのは、高校生の時にとある本を読んでからのことだ。
中沢裕子が翻訳した『朝焼けの子供たち』という小説がある。
イギリスの無名作家が書いたものだが、それを、当時大学生の中沢がアルバイトで翻訳した。
『朝焼けの子供たち』は特に目立つわけでもなかったが、中沢はバイトをきっかけに翻訳家となった。
僕は図書館でその本を手に取った。
夏休み、日本の国際化についてのレポートを書くために、珍しく図書館に足を運んだ。
僕は入り口に近い、海外小説の棚に近付いた。
目当ての本があったが、慣れないせいでなかなか見つからない。
「何をお探しですか?」
いきなり、横合いから声をかけられた。
驚いて振り向くと、司書のエプロンに『後藤真希』という小さなプレートをつけた若い女性が立っていた。
その時十七だった僕と同じぐらいに見える。
確か、入り口に夏休みだけの体験司書を募集する張り紙があった。
女性はそれに応募したのだろう。
僕は探している本の書名を告げた。
女性は「あー、その本かー」と言うと、側の棚を探り始めた。
体験司書だというのに、手馴れた様子である。
「すいません、その本貸し出されてるみたいです」
予約も夏休み一杯まで入っているという。
特に有名な本で、同じ高校の奴らが先に申し込んだのだろう。
他にあての無かった僕は困って、棚の間に立ち尽くした。女性はぼうっとしている僕に見かねたようで、側の本を手に取った。
背表紙には『朝焼けの子供たち』とある。
「そこの高校の方ですよね」
「ああ、はい」
やはり同じ高校の生徒がかなり来ているようである。
女性はその本を薦めた。
「私の大好きな本なんです」
レポートのために読む本は何でも良かったため、僕はその本にした。
女性が熱心に薦めたこともあったが、女性が「大好き」だと言った本を読んでみたかった。
早速僕は家に帰ってから、読み始めた。
平素から読書をしない僕は、一冊読み終えるのに平均で二週間ほどかかる。
が、僕は『朝焼けの子供たち』を二日で読んだ。
分厚い本でもなかったが、僕にしてみれば異例の早さだった。
それほど、この本は面白かった。
読み終わった日のうちにレポートを書き終え、僕は図書館に行った。
例の女性が返却のカウンターにいる。
僕が本を置くと、女性は口を開いた。
「もう返却ですか?」
「はい、面白かったです」
「よかった」
女性は微笑んだ。それから夏休みの間、僕は海外小説にのめりこんだ。
『朝焼けの子供たち』が面白かったからだが、特に、登場する少女が瑞々しかった。
それがまるで後藤さんのように見え、僕は中沢裕子の本を読み漁った。
毎回、後藤さんから本の案内をしてもらった。
夏休みの終わりに近いその日、後藤さんに貸し出しの手続きをしてもらっている時だった。
「体験司書っていつ終わるんですか」
後藤さんと僕は同じ年だったが、何故かお互いに敬語だった。
「明後日で最後です」
相変わらず後藤さんは笑っていた。
明後日になれば、容易に会うことはできない。
僕は意を決した。
「あの、後藤さんって彼氏とかいますか」
「彼氏とか?」
「ああいえ、彼氏です」
後藤さんは言葉の端々にうるさい。
「彼氏は……今はいません。
中学の時はいましたけど、すぐ別れました」
言わなくてもいいことまで言っている。それから五年経ち、僕は真希と結婚した。
あれから大学生になり、僕はイギリスに旅行した時に見つけた小説を翻訳し、出版社に持ちこんだ。
対応に出た和田さんは厳しい人だったが、不機嫌な顔で「面白い」とだけ言って、仕事をくれた。
僕は念願の翻訳家になった。
真希も目標は翻訳家だったが、今はエッセイストになって、それなりに楽しんでいる。
お互い、文学者になるという夢は果たした。
思えば、真希に会わなければ僕が文学に携わることになることはまず無かっただろう。
真希は文学の楽しさとともに、色々なものを僕に教えてくれた。改めて、ありがとう。
余談だが、数日前に中沢さんに会った。
雑誌の対談という企画で、僕が中沢さんの本が好きなことを知った和田さんが設定してくれた。
僕は最初からずっと緊張していた。
「兄ちゃん固くならんでもええって」
四つしかかわらないのに、中沢さんは僕を『兄ちゃん』と呼んだ。
中沢さんは気さくな人で、時間はすぐに過ぎた。
対談が終わりに近付いた頃、僕は中沢さんに尋ねた。
「僕は『朝焼けの子供たち』が好きなんですがね」
「あれは私も気に入ってんねん」
中沢さんは煙草を灰皿に押しつけた。
「あれはモデルとかあるんですか」
『朝焼けの子供たち』は、原文とは話が少し変わっている。
大幅に変えているわけではなかったが、登場する例の少女の描写がいやに詳しくなっていた。
「ああ、あれな。
おるで、モデル」
中沢さんは懐かしむような目つきで新しい煙草に火をつけた。
「学生のときに、出版社に編集長の娘っちゅうんが来ててん。
めっちゃかわいくてなあ、出版社に出入りしてたら仲良くなったわ」
「どんな人だったんですか」
「恥ずかしいねんけどな、私のファンやってん。
ほんでなあ、登場人物の少女とかぶったんやな、なんか。
時々物憂げになるとことか」
「今でも会ったりしてるんですか」
「まあね」
中沢さんは苦笑した。
「あんたの嫁さん、私の知り合いやからな」