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コンボ 投稿日:2002/03/27(水) 20:19
女性が暖簾をくぐった。
「鴨南さんですよ」
「そうか、分かった」
克巳が厨房に向かって言うと、主人は鴨南蛮の用意を始めた。
女性は克巳を一瞥したが、すぐにカウンターに腰を下ろした。
「何にします」
礼儀で、克巳は聞いた。
「鴨南蛮」
女性は短く答え、革のショルダーバックから文庫本を取り出した。
ほどなく、女性の前に鴨南蛮が置かれる。
女性は静かに文庫を片付け、箸立ての割り箸で鴨南蛮をすすり始めた。
平日の昼間には必ず、この女性がやってくる。
そして飽きずに鴨南蛮を注文するのだった。
克巳がこの店で働き始めたのは一年前、十七歳の時からだったが、丁度その頃から女性も店に来るようになった。
店は昼時になってもそれほど混むわけではなく、克巳は暇なとき客にあだ名をつけていた。
例えば、昼過ぎにくるスーツの男は『スーパーマン』。
肩幅が広い上、頻繁にかかってくる電話の内容が明らかに新聞記者のそれだった。
同じ頃に来る女性は、『お雛さま』となっている。
背が低く、ちょこんとした姿は雛壇に座っているようだった。
さらに化粧が濃く、服は少し派手な物を着ている。鴨南さんが初めて来たとき、彼女は今と全く同じだった。
憮然と暖簾をくぐり、カウンターに腰掛ける。
「鴨南蛮」
そして文庫を読み始める。
顎にほくろがあり、髪は薄く茶色に染めている。
キャリアウーマンといった風貌で、鴨南蛮を食べる姿はどこか不自然だった。
克巳は最初、あだ名を決めあぐねた。
次に来たとき決めればいいか。
そう思い、鴨南さんを気に留めることもなかった。
翌日も、鴨南さんは来た。
「鴨南蛮」
それだけ言うと、無愛想に文庫を読み始める。
お雛さまなどはしきりと克巳に話しかけ、カウンターは唾だらけになる。「ごちそうさま!」
その日もお雛さまは大声で言うと、笑顔をふりまきながら鴨南さんの横を通り過ぎた。
鴨南さんは気にするでもなく、肉の一切れを口に運ぶ。
見るからに、マイペースな女性である。
淡々と食べ終わると、レジに向かって席を立った。
「あの人、彼氏とかいるのかなあ」
鴨南さんの隣に腰掛けているスーパーマンが克巳に話しかけた。
「知ってるわけないじゃないですか」
「でもあの人、綺麗だよなあ」
スーパーマンは鴨南さんの後姿を見送ると、月見蕎麦をすすった。
「仕事に生きてる感じだよなあ」
お雛さまほどではないが、よく喋る。
携帯での会話も大声で、克巳は時々注意をする。
「無口だよなあ、本当」
「結婚とか興味ないんじゃないですか」
克巳は当てずっぽうで言った。
「それがさあ、読んでる本を覗いたんだ、この間」
スーパーマンは常に他の客を観察しているようで、克巳などよりよっぽど客のことを知っている。
「どんな本だったんですか」
覗き見はどうかと思ったが、好奇心が先に立った。
スーパーマンは短く咳き込んでから、苦々しい顔で言った。
「それがさあ、ハーレクイーン読んでんだよ」店は七時には閉まるが、夜もそこそこ客が入る。
日曜だというのに、サラリーマン風の男が数人、カウンターに陣取って蕎麦をすすっていた。
この時間帯に来る面々はよく来るわけではない。
克巳にとって馴染みの薄い客ばかりだった。
男たちは一心不乱に丼にかじりついていた。
そこで、ドアが開いた。
「らっしゃーい」
克巳は机を拭きながら、横目で入り口を見た。
男女の二人組。
珍しくもないが、克巳は手を止めた。
鴨南さん。
男の方は見ない顔だったが、女性は明らかに鴨南さんだった。
二人は克巳の背後の机に向かい合わせに座った。
厨房に入ると、主人が珍しく顔を出していた。
「あれ、鴨南さんじゃないか」
「そうですよね」
二人は親しげに話している。
男性は鴨南さんに案内されたらしく、蕎麦屋に連れてこられたのが意外なようだった。
遠目から見ても、男性は鴨南さんの恋人だった。
しばらくして、克巳は注文を取りに行った。
「ご注文の方、お決まりですか」
「それじゃあ俺は、きつね蕎麦」
男性は品書きを眺めながら、克巳に言った。
鴨南さんも品書きを見つめて、間を置いた。
「じゃあ私もきつね蕎麦で」翌日、鴨南さんはいつもの通りに来た。
昨日の晩に来たことなど気にしていない。
鴨南さんらしかった。
「鴨南蛮」
そう言ったとき、克巳と目が合った。
鴨南さんは途惑うでもなく、すぐにハーレクイーンを読み始めた。
「鴨南蛮一丁です」
「やっぱり鴨南蛮か」
主人は何が嬉しいのか、笑いながら鴨南蛮を作り始めた。
「お待ちどうさまです」
克巳が鴨南蛮を置くと、鴨南さんはハーレクイーンから急に目を上げた。
箸立てから割り箸を取り上げ、しばし丼を見つめる。
そうしてから、おもむろに鴨南蛮をすすり始めた。
鴨南さんは蕎麦と具を食べ終わると、丼を持ち上げて汁を飲み始めた。
空の丼を机の上に下ろし、一つ、息をついた。
鴨南さんは立ちあがり、椅子をカウンターの下に押しこんだ。
「ごちそうさま」
克巳が声に気付いて立ちあがったときには、もう鴨南さんはレジまで歩いていた。