143

コンボ 投稿日:2002/04/03(水) 10:25

高速道路から見下ろす大阪の夜景は、賑やかだった。
今までに見たことの無い無数のネオン。
康一が見たことのあるのは、水平線の近くで瞬く漁船の光だけだった。
光は横目に流れていく。
バイクの時速は80キロを越えようとしていた。
「今どの辺り?」
「さっき泉南って書いてた」
美貴は康一の腰につかまりながら叫んだ。
コートの腕が康一のジャケットをつかんでいる。
大阪は思ったよりも暑い。
夜中だが、春先である。
厚手のコートを着こんでくる必要もなかった。
コートからは潮の匂いが漂っていた。

今年の夏も去年より暑いらしい、という天気予報を見てきただけで、余計に暑く感じる。
康一は木陰に入って訊きかえした。
「東京から?」
「おう、親父が言っとったわ」
康一が訊くと、忠勝は制服のシャツをひらつかせながら答えた。
「女子らしいわ」
「まあ、おじさんが嘘つくとは思えへんしな」
七月の初旬だというのに転校生が来るのは不自然だったが、教師の言うことなら間違い無いだろう。
「なんで嘘つかなあかんねん」
背中に家々の屋根が照り返す日の光を浴びて、二人はぐったりしていた。
坂道を登る姿も元気がない。
「名前は?」
康一は気を紛らすために口を開いた。
「誰の名前やねん」
「アホ、転校生のしかないやろ。
 暑さで狂っとる場合ちゃうぞ」
口に出すと、余計に暑く感じる。
「ええっとなあ、藤、藤原やったっけな。
 下の名前は二文字やったと思う」
「全然憶えてへんやんけ」
忠勝は康一の言葉に毒づく気もなかった。

康一は教室の前で忠勝と分かれた。
康一の担任は忠勝の父親であるため、忠勝はどうしても別のクラスでなくてはいけなかった。
一人教室に入ると、輪になっている一団から誰かが歩み寄ってくる。
「榊原くん」
呼ばれて、康一は振り向いた。
「なんやねん、吉澤か」
「ちょっとね、昨日徳川先輩に伝えてくれって言われたの」
「なにを」
康一は椅子に座り、机にへばりついた。
「たぬきのおっさん顔に言われることなんかないって」
「うわ、ひどい。
 徳川先輩に言うよ」
「言えよ」
吉澤は笑いながら言ったが、返答は冷たかった。
康一もさすがに愛想がなさすぎたと思い、言葉をつないだ。
「ほんで徳川先輩がなんやねん、伝えるんやろ」
「ああ、うん……」
吉澤は口篭もると、康一に背を向けようとした。
「ちょっと待てよ、なんかあるんやろ」
「ごめん、なんでもない……」
半ば消え入った声でそう言うと、吉澤は輪の中に戻った。

担任の本多は昔からの知り合いである。
学校では建前で敬語を使っているが、忠勝の家に行く時などは気兼ねしない。
忠勝は幼稚園からの付き合いだが、これは大して変わった事ではない。
それほど大きくはない漁業の町なので、幼稚園から高校まで一つずつしかない。
この高校も全校生徒が150人余りで、およそ50人の一年生はその全員が、互いに幼馴染だった。
それでも康一は女子とのつながりが薄く、名前もまともに憶えていない。
「藤本美貴です」
言うと、美貴は頭を下げた。
転校生の名前を覚えようとも思わなかった。
「藤本のお父さんは画家で、一度立ち寄ったときにここから見える海が気に入ったそうだ」
誰からともなく、低くうなる。
「はい、なんか質問のある奴は手を上げろ」
本多が言うと、クラスの男子が喚き散らした。
「藤本さんって彼氏いるんですか」
「スリーサイズはどんくらいですか」
「体重何キロですか」
美貴は大多数の男子に好かれたようだった。
康一は心中毒づきながら、耳に手で蓋をした。
「趣味はなんですか」
耳を閉じる間際、その声だけが滑りこんだ。
「バレーボールです」

女性を嫌いなわけではないが、無意識のうちに避けているのが自分でも分かった。
それは多分、小学生の時に女子とあまり接しなかったからだと、康一は思っている。
小学校の高学年に、康一は女子を意識してあまり喋らなくなった。
というよりも、吉澤を意識した。
五年生に上がってから突然、自分が吉澤を好きだと、はっきりと分かった。
それからは、どうしても女子と仲良くはできなかった。
ひとみと呼んでいたのを吉澤に変え、他の女子もそうした。
康一は吉澤を避けたが、吉澤は康一に変わりなく接した。
それでも、中学に上がると榊原くん、と呼んだ。
そのまま中学に上がり、高校生になった。
次第に、吉澤を意識することもなくなっていった。
ただうっすらと、あの時吉澤を好きだったな、としか思っていない。
中学に入ってからは同じバレー部ということで、接する機会が多くなった。
しかし素直に楽しく喋ったり、練習したりということができなかった。
何度もそうしようとは思ったが、大抵吉澤におかしいと言われる。
だから新しい転校生に、無意識に転換点を求めた。

放課後体育館へ行くと、すでに女子が来て、ネットまで引っ張り出していた。
康一はほとんど毎日最初に来るので、こんなことは珍しかった。
「早いなあ、なんかあったんか」
部室で忠勝に話しかけると、忠勝は靴を履きながら視線を女子の輪の中に向けた。
「あれやろ、お前のクラスの転校生」
「ああ、藤本美貴」
輪の中には藤本美貴の姿があった。
「なんや、女子の名前覚えてるんか」
忠勝がふっと顔を上げた。
「転校生の名前ぐらい覚えるわ」
康一は平静を装ったが、内心自分でも不思議だった。
「本多くーん、榊原くーん」
数名の女子が、大声で二人を呼んだ。
忠勝はすぐに駆け寄ったが、康一はわざと歩いていった。
女子の一人が忠勝を捕まえると、美貴の目の前に押し出した。
「えーっと、一年で一番上手い本多くん」
女子が紹介すると、忠勝は照れ笑いを浮かべた。
「どうも、はじめまして」
ぎこちない様子で挨拶すると、皆は笑った。
美貴も笑いながら返す。
「えー、それで」
先程の女子は康一を見つけると、指差した。
「あれが次に上手い榊原くん」
美貴が見たときには、康一はすでに踵を返していた。

その日、康一はひたすら練習に打ち込んだ。
元々真面目な性分ではないが、美貴たちが騒ぐのを見ると、無性に腹が立った。
サーブの練習が一通り終わって休憩に入った頃、忠勝は康一に訊いた。
「なんで今日だけそんな真面目やねん。
 変やで」
「なんでもええやろ」
康一は平均台に座りながら答えた。
「康一らしくもない」
ペットボトルを一本飲み終えたところで、美貴が二人に駆け寄って来た。
康一は空のペットボトルをゴミ箱へ無造作に放りこむと、体育館を出た。
「多分トイレやろ」
忠勝は訊かれてもいないのに答えた。
美貴は体育館の出入り口をしばらく見ていたが、不意に視線を忠勝に向けた。
「それじゃ本多くん、榊原くんが来たら私たちの所に一緒に来て」
「分かった」
忠勝が返事をしても、美貴はしばらくそこに佇んでいた。
「座ってもいいかな」
「いいけど」
理由を訊く気にはなれなかった。
美貴は平均台を見ながら慎重に腰を下ろしていった。

「そんなに気い、使わんでも大丈夫やって」
忠勝が言うと、美貴は笑いながらようやく座った。
「バランス感覚悪いんだ」
「運動神経良さそうやけどな」
美貴は笑っていたが、そこで急にうつむいて口をつぐんだ。
忠勝としても話しかけることは無い。
康一が帰ってくればどうにかなると思ったが、休憩が終わるまでは康一は来ないだろう。
「本多くん」
美貴は勢いよく顔を上げた。
「私って綺麗かな」
美貴の顔は真剣だった。
冗談を言うわけにもいかず、忠勝は真面目に答えた。
「綺麗なんとちゃう」
「そう」
美貴は微笑んだ。
微笑むと、美貴は立ちあがってまた女子の輪に戻った。
忠勝は呆然としていたが、顧問の吹いた笛の音で立ちあがった。
丁度、出入り口からは康一が出てきた。

それからは、女子対男子の試合が行われた。
翌日からは期末テストに入るため、クラブは無い。
テストの前日には、いつもこうして紅白試合があった。
男子部員は丁度五人だが、女子の部員は九人いた。
男子は壁際で雑談をしていたが、女子はネットの近くで奇声を上げていた。
「なあなあ、藤本ってかわいくない?」
いきなり、一人が喋り始めた。
「めっちゃかわいいと思うねんけどさあ、康一どう思う」
康一が女子とあまり接さないことを知っていての質問だった。
「直人、藤本のこと好きなんか」
康一は、付き合いで直人が惚れっぽいのを知っていた。
そして、こう訊くと大抵顔を赤くして照れるのも知っていた。
「まあ、なあ」
直人は康一の思った通り、顔を赤くした。
「ほんで、康一はどう思うねん」
直人がこうして第三者の意見を求めようとするのも、いつものことだった。
「さあ、女子はどうでもええから」
無愛想な顔で言うと、もう一度女子の一団を一瞥した。

「決まったよー」
数人の女子が、康一たちに向かって叫んだ。
直人などは張り切ってネット近くまで走ったが、康一は最後尾についてのろのろと歩いた。
女子は美貴もやるらしく、直人とジャンケンをはじめた。
直人が勝ってボールを選んだらしく、女子たちはコートに向かって歩いていった。
逆側のコートに陣取ると、向かいでは一塊になって何事か喋っている。
今度も制服の美貴を中心に笑っていたが、吉澤だけは浮かない顔をしている。
「さっさと始めるぞ」
忠勝が怒鳴ると、女子も分散していった。
相変わらず吉澤だけは沈んだ顔をしていた。

最初の2セットは女子が取った。
美貴は、想像よりもはるかに動きがよかった。
制服で体操服の女子部員と同等に動きまわり、ネット際の競り合いでは必ず勝つ。
男子も発奮したが、体が追いつかなかった。
康一は元より本気だったが、直人などはかなり甘く、些末なミスでボールを落としている。
美貴もそれにつけこみ、直人のいる方向にばかりボールを打つ。
女子が24点目を取ったとき、男子は9点だった。
紅白試合に負ければどうなる、というわけではなかったが、康一は必死になっていた。
あんな鬱陶しい奴らに負けるわけにはいかない。
さすがに事態をかんがみた忠勝が、直人のすぐ横に来た。
直人は後ろの二人に挟まれるように移動し、ようやくまともにプレーできるようになった。
だが、遅かった。
13点まで巻き返したとき、美貴がネット際に来た。
康一もネットまで走って、飛ぶ。
同時に、それまで康一がいた場所はがら空きになった。
康一は両手ではじき返したが、ボールは自分の後方まで跳ねて、忠勝の右手のすぐ先で着地した。
「悪い」
忠勝は肩で息をして、ネットまで歩み寄った。
「いや、忠勝の方が近かったのに、俺が行ったんがあかんかった」
立て続けに3セット取られた。
今までにそんなことは一度も無かった。
「直人、お前がちゃんと動かんから負けてんぞ」
直人は他の部員に文句を言われている。
返す言葉も無いようで、うつむいたまま黙りこくっていた。

横目で向かいのコートを見ると、女子部員は部室へ歩いていた。
紅白試合では負けた方がネットやボールを片付けることになっている。
康一は足元のボールを手にとって、籠に入れはじめた。
忠勝らは四人でネットを片付けている。
康一が籠を引っ張って行くと、籠の中にボールが飛んできた。
「手伝うよ」
用具入れの傍に、吉澤が立っていた。
康一は一瞬見たが、すぐに籠を引っ張ってボールを入れた。
「なに怒ってんの」
吉澤は歩きながらボールを拾うと、籠に向かって投げつけた。
狙いは外れなかったが、動いた康一の背中に当たった。
「あ……」
吉澤は棒立ちになったが、康一は振りかえりもせずにそのボールを籠に入れると、用具入れまで歩き出した。
「ねえ、ほんとになに怒ってんの」
康一は籠を置くと、駆け寄る吉澤を無視して部室までUターンした。
顧問は用具入れの鍵を閉めると、そそくさと体育館を出た。
二人の他には誰もいない。
康一は一言も話さなかった。
体育館を出ようかという時、嗚咽の声がした。
すぐに止んだが、反芻のように何度も起こっては止む。
うんざりしたが無視し通すこともできず、康一は振りかえった。

吉澤は泣きながら歩いていた。
「なんやねんいきなり」
「ごめん……」
嗚咽の間に一言ずつ喋るのが精一杯の様子だった。
康一が立ち止まると、吉澤も立ち止まってしゃがみこんだ。
「ほんとごめん……先行ってて」
「アホ、そう思ったらとっくに先行ってるわ」
康一は吉澤を見下ろしながら、外を見まわした。
こんなところを見られたら、さらに話がややこしくなる。
幸い人影は見えず、皆は部室まで行ったようだった。
「話してもいいかな……」
吉澤は小声で呟いた。
「別に」
「……試合が始まる前に、みんなに言われた」
「なにを」
相槌を打つのが礼儀のような気がした。
「最初に、榊原くんが私のこと好きやって」

「へえ」
返答に困ったが、それから先が聞きたかった。
途惑ったが、気が付けば自分は小学六年生に戻っているようだった。
淡い期待が頭をかすめる。
「私は違うって言ったよ、榊原くんに迷惑かかるから」
期待とは違ったが、予想通りではあった。
「それだけか」
語調も強くなった。
「……それで、そのあと亜弥が藤本さんは榊原くんのこと好きなんだよねって」
亜弥とはバレー部の女子である。
「なんか、実はちょっと思ってたんだよね、そうじゃないかなって」
冗談に違いない。
女子が突飛な冗談を言い合うのは、康一にも分かっていることだった。
思わぬところからの不意打ちだった。
「藤本さんもそうなんだって。
 一人だけ最初に耳塞いでたのが気になったんだって。
 性格もいいみたいだし、バレーも上手いし」
言ってるうちに、吉澤の言葉は震えてきた。
「だからさあ、付き合ってあげてよ、藤本さんと」
「付き合えるわけないやろ、そんないきなり」
「榊原くんも気になってたんでしょ」
「なんでそんな……」
「本多くんと話してるときも名前覚えてたし、なんか見てる時の目が違った」
吉澤は立ちあがると、体育館を出た。
しばらくすると、一際大きな泣き声が聞こえた。

文化祭になると、康一は途端に暇になる。
クラブは一斉に休みになって、強引にクラスの手伝いをさせられることになる。
そうなると、大抵康一は学校を抜け出して海辺に行く。
授業の時間まで手伝わされるのは仕方がないが、放課後になると自転車でバイクの店か海辺に行く。
生徒が少なければ教師も少なく、監視の目が届くはずもなかった。
康一たちバレー部がいなくなるのは日常茶飯事で、すで教師も黙認していた。
その日は忠勝が同行し、二人は学校から歩いて十分ほどのバイクの店へ向かった。
「ちゃーす」
「なんや、昨日も来たやんけ」
レジから声が返ってくる。
「いいじゃないすか、酒井さんやって寂しいんでしょう」
「まあな」
酒井は突き出た腹を揺すると、人の良い笑顔を見せた。
忠勝は早速壁際にある赤いバイクを見つけて、目を輝かせた。
「うっわ、すっげー。
 あれなんすか、あの赤に白の線入ったやつ」
「あれな、あれはこれ」
酒井はレジスターの横に掛けてあったカタログを取り上げ、二人の前に広げた。
見開きの一面に、車体が光っている。
「新しいカタログ出たんすね」
康一も興味深げな視線でカタログを覗きこんだ。

「めっちゃ欲しいわー」
忠勝はすがるように酒井を見た。
「アホ、これクソ高いねんぞ。
 700万や、700万」
「うっそ、700万ドル?」
「余計高いわ」
赤のバイクは店内でも際立っていた。
同じ赤でも、比べると驚くほどくすんで見える。
サイドに入った二本の白い線がさらに格差を作っているようだった。
「こんな値段でも、買う奴は山ほどおるからな。
 俺やってほんまは売りたないからあんなとこ置いてんねん」
酒井がレジにもたれかかったとき、出入り口が開いた。
「ただいまー」
近くの中学の制服を着た少女が、鞄を片手に入ってきた。
髪は後ろで一つに束ねている。
康一と忠勝を見ると、慌てて頭を下げた。
「こんにちは」
逃げるようにして店の奥に走り去る。
「最近、あさ美が妙に色気づいてなあ。
 好きな男でもできたんちゃうかな」
酒井はさらにレジにもたれかかり、溜息をついた。
「部屋入れてくれへんし、なんか隠してるみたいやねんなあ」
「それって、普通ですよ」
忠勝が言っても、酒井は聞こえないようだった。

店を出ても、まだ夕日さえ見えていない。
「海行こか」
康一が言うと、忠勝は無言で歩き出した。
海と言っても、店の向かいは道路を挟んですぐに浜辺である。
砂の盛り上がったところから海を見渡すと、所々漁船が見える。
青い水平線に浮き沈みしている漁船は、康一にとって馴染みが深かった。
二人の祖父が漁師で、しかもまだ現役である。
沖に連れて行かれるのは、よくあることだった。
それより少し手前には、幾人かのサーファーがいる。
ほとんどが上手く白い波に乗っているが、一人波が来るたびに沈んでいる。
それでも見栄を張っているようで、波打ち際に流されまいと、波と奮戦している。
忠勝はその姿が沈むたびに笑っている。
灯台の根元では、誰かが海釣りをしている。
それも数人だが、数分の間隔で魚が釣れている。
釣り人に混ざって、一人絵を描いている。
「あそこに絵描いてる人おるな」
康一は呟いたが、波にかき消された。
立ちあがると、忠勝はようやく笑うのを止めて康一を見上げた。
「どうしてん」
「ちょっと、あっちの方行ってくる」
「分かった」
あっさりと返事をすると、腹を抱えてまた笑い始めた。

絵描きは釣りをしているおじさんたちと仲良く歓談していた。
康一が近付くと、真っ黒な口髭を動かした。
「釣り……じゃないな」
見かけより声がかすれて、老けている。
康一は黙って、絵描きの横に腰を下ろした。
「美貴は学校に馴染んでるかい」
脈絡のないことを、自然に口に出した。
美貴の画家の父親なのだろう。
外見と鞄で高校一年生と判断して話しかけたのだろう。
美貴の名は校内に知れ渡っていた。
期待のアタッカー藤本美貴の名で、他校にさえ知られていた。
絵描きはそれを見越したうえで尋ねたのだろう。
「ええ、多分」
康一は素っ気無く返事をした。
絵描きのキャンバスを覗きこむと、人が何人か描かれていた。
例の下手なサーファーが、中央に描かれていた。
仰向けになって水面にひっくり返っているところだった。
他のサーファーは上手に波乗りしている。
海面を見ると、あのサーファーはやはりボードの上で転んでいた。

夕日が出るまでに帰ることになった。
海沿いを並んで歩くと、海からの風が吹き付けてきた。
髪や服は無造作に波打つ。
「なあ、康一」
「なんや」
忠勝の声が少し上ずっていた。
康一との会話で緊張することはまず無いはずだった。
「俺な、藤本のこと好きやねん」
「俺に告白するんとちゃうねんから、そんな緊張すんなや」
忠勝はそれでも落ち着かないようで、しきりに右手で肩や首を触った。
「でもなあ、藤本は彼氏の誘い全部断ったらしいで。
 野球部の鳥居も振られたらしい」
「でも俺な、ちょっと自信あんねん」
忠勝はようやく肩を触る手を止めると、悠々と話し出した。
「藤本が転校してきた日にな、「私って綺麗?」って訊かれてん」
「口裂け女か」
康一は吐き捨てるように言うと、忠勝に疑いの視線を向けた。
それを察したように、忠勝が返答する。
「ほんまやぞ、お前がどっか行っとったとき
 これは明らかに愛の告白やろ」
「まあ、なんでもええけど」
忠勝が夢見心地になろうがなるまいが、どうでもよくなっていた。

12月に入っても、忠勝が藤本に告白したという知らせは一向に無い。
それどころかまともに話すことも少なく、何度か俺に「告白する」と漏らすのだが、結局は果たせずにいるのだった。
2学期の終業式になっても、踏ん切りがつかないのか、藤本を呼び出すこともできなかった。
「どうすんねんお前」
帰り道、忠勝に訊くと、背中を縮めた。
「今度冬合宿があるやろ」
忠勝は、思い出したように言った。
忠勝の言う通り、大晦日から年始までの一週間、学校での合宿がある。
その時に告白しようというのだろう。
ただ、女子は親が心配して合宿に行かせないところもある。
「藤本がこんかったらどうすんねん」
「休みのうちに公園とかに呼ぶわ」
「できるんか、そんなこと」
学校でもろくに会話できない奴が、そう簡単に呼び出せるとは思えない。
「まあ、合宿まで待とうや」
忠勝は気楽な声で言うと、気の抜けた笑顔を浮かべた。

藤本は来た。
が、忠勝が話しかける様子は無かった。
夕方になって、一日目の練習が終わった。
忠勝は相変わらずよそよそしい。
「お前、どうすんねん」
「分かってるって、そんな急がせんなよ」
忠勝は気楽な足取りで教室に向かって行った。

直人たちは事務室からテレビを引きずってきた。
器用に配線し、すぐにスイッチがつく。
年越しのバラエティー番組が、大きな音量で流れている。
直人たちほとんどの部員はテレビにかじりついて騒いでいる。
顧問もこれを許したらしく、早々に引き上げた。
明日まであと30分もない。
康一はテレビに背を向けて、忠勝から借りたマンガを眺めていた。
「榊原くん、ちょっといいかな」
美貴は青い横筋の入ったパジャマに、カーディガンをかけていた。

明るい月が出ていた。
康一は運動場の近くまで連れ出された。
美貴と二人きりなのは勘弁してほしかったが、煮え切らない忠勝に代わって言ってしまおうと思い、ついていった。
校舎には、沢山の窓が張りついている。
開いた一つの窓からは光が漏れ出していて、直人の騒ぐ声が耳に入る。
美貴はプランターに腰掛けた。
「榊原くんはさあ、なんで私のこと嫌いなの」
先手を取られた。
康一も隣に腰掛ける。
「別に嫌いじゃないけど」
「避けてるじゃん、私のこと」
美貴は寂しげな声で言うと、肘を膝に置き、手の上に顎を乗せる。
自然と前のめりになり、美貴の横顔が月でくっきりと照らされた。
その横顔が吉澤に似ていた。
もちろん、顔が似ているのではない。
ただ、そういう漠然とした寂しい雰囲気の、もっと細かい部分が吉澤と共通していた。
「吉澤……」
意識せずに、口から出た。

「ひとみか……」
美貴も小声でつぶやいた。
「やっぱり好きなんだよね」
美貴は顔をそむけた。
「榊原くんはひとみを好きで、ひとみは榊原くんを好きなんだ。
 羨ましいんだ、ほんと。
 時々、榊原くんはひとみが好きだから私を……」
「やめろよ」
美貴は途端に言葉を切った。
表情は伺えないが、震えているように見える。
「私は榊原くんを好きなのに」
予想だにしなかった答えではない。
ただ、やはりどこかで「そんなこと、あるわけがない」と思っていたに違いないのだ。
「忠勝に言うたら喜ぶやろな」
「……本多くん?」
「おう」
美貴は対した感動も無く、寂しげな顔を見せた。
「榊原くんは私のことどう思ってるの」
気の利いた台詞が浮かぶはずも無く、黙るほかは無かった。
「付き合っても、いいか駄目かだけ言って」
直人が大声でテンカウントをはじめた。
「俺はなあ……」
自分が考えている気は全くせず、他人事のように答えた。
「付き合おか」

「どういうことやねん、康一」
忠勝が家にやって来たのは、合宿が終わった翌日の朝だった。
「なにが」
「とぼけんなよ」
忠勝は康一を睨みつけると、海辺まで連れて行った。
海岸につくまで、終始忠勝はイライラしていた。
小高い所からそら寒い海を見渡すと、田舎臭い漁船が寒風の中を走っていた。
康一は漁船の田舎臭い所に親しみがあって、好きだった。
「お前、藤本と付き合ってるんやってな」
砂浜に腰を下ろすと、忠勝は案外静かに切り出した。
「合宿の時に告白されて、付き合い始めたんやってな」
「……誰から聞いてん」
「松浦」
確かに、松浦亜弥が藤本と最も親しそうだった。
「昨日の帰りに松浦に訊いたら、あっさり言うたわ」
無理もない。
口の軽いのが特徴のような奴だ。
「言うたんか、ちゃんと」
「言うたよ、最終日に。
 当然あかんかったよ」
忠勝はうつむくと、いきなり康一に飛びかかった。
「お前、俺が藤本のこと好きやって知ってて、なんで付き合うんや!」
「付き合うんまでお前に気ぃ遣わなあかんのか!」
康一は忠勝を跳ね飛ばすと、地面に押しつけた。
「俺はなあ、この間やっとなあ、藤本を好きやって分かってん」
息を整えたつもりだったが、言葉は切れ切れだった。
忠勝はしばらく寝ていたが、無言で康一を押しのけて、ゆっくりと帰って行った。

酒井は最初、康一の砂だらけになった姿を見て驚いたようだったが、引出しから黙って鍵を取り出した。
「これはあれの鍵や」
酒井は顎でバイクを指した。
赤い地に白いラインが二本。
キーホルダーにも同じデザインが施されている。
「免許持ってるんやったら、運転できるわ。
 いつでも出したる」
酒井はコーヒーを一口啜り、鍵を康一の目の前に放り投げた。
それから、康一はぽつりぽつりと事情を話し始めた。
聞いていくうちに酒井は苦笑し、コーヒーを啜る回数も増えていった。
「これ、ほんまに勝手に使っていいんですか」
話し終えたときには、康一はすっかり落ち着いていた。
「もちろん、ええよ。
 そんでなあ、この間悪いとは思ったけど、あさ美の日記が台所の机にあったんよ」
「見たんですか」
酒井は無言でうなずいた。
「どうやら、康一のことを好きらしいねん」
「えっ、そんな、そうやったんですか」
酒井は慌てる康一を楽しんでいるようだった。
「康一やったらええけど、まあ、彼女できたんやったらしゃあないわな。
 これはあさ美には言えんな」
最後に、酒井は少し落胆した顔を見せた。

数日すると、忠勝は自ら康一に謝りに来た。
「やっぱり、俺は悔しかっただけやったんやわ、あの時は」
言うと、忠勝は笑いながら、今度は松浦が好きになったと言った。

2月14日、康一は三つのチョコレートをもらった。
本当は他にもあったのだが、意味のあるものといえば三つしかなかった。
中学校と高校の分かれ道で、あさ美が駆け寄ってきた。
「あの、榊原さん、これ」
差し出された正方形の箱は、青い包装紙で包まれていた。
ほとんど赤いリボンで結ばれていて、手紙が挟んである。
「もてんなあ、榊原」
通りかかった直人が笑いながら冷やかした。
康一は急いで鞄に突っ込んだが、学校に着くまでに手紙だけ抜け出して読んだ。
「よう、康一」
後ろから忠勝が肩を叩くと、康一は驚いて手紙を取り落としそうになった。
「なんやねん、その手紙」
「なんもないわ、さっさと行け」
「お前どんだけ怪しいねん、見せてみろ」
忠勝は右手で手紙を取り上げると、さっと目を通した。
「なんやねんこれ、あさ美ちゃん?
 『小学校の時から好きでした』って、お前もてんなあ」
「うっさいわ」
忠勝は笑いながら先に歩いていった。

靴を履き替えていると、いきなり目の前がふさがった。
「だーれだ」
「次もう俺ら高二やぞ、小学生ちゃうねんから」
「いいじゃん、別に」
美貴は康一の目に当てた手のひらを翻すと、鞄の中を探った。
「はい、これ」
赤いラッピングをした、円筒状の物を突き出す。
「一応ね、手作りなんだ」
笑いながら鞄を閉じる。
「うん……サンキュー」
康一は一通り眺めると、鞄の中に入れようとした。
しかし、あさ美のチョコとぶつかって入らない。
「どうしたの」
美貴は鞄を覗きこんだ。
「あーっ、なにこれ、誰からもらったの!」
勝手に青い箱を取り出すと、叫びながら手紙を取り上げた。
読みながら、さらに叫び続ける。
「なにこれ、うわーっ、告白されてんじゃん!」
「静かにしろよ、ちょっとは」
結局美貴は騒ぎながら教室に入っていった。
中学生だから、冗談の域を出ていないと思ったのだろう。

机の中には何かあった。
黄色い、カマボコ型の小さな箱が無造作に入ってあった。
美貴に見つからないように鞄で隠して蓋を開けると、四角形のチョコが入っている。
レーズンが入っているようだった。
箱からラム酒の匂いがする。
「誰やろ……」
手紙も何もなかった。
ただ、義理をわざわざ机の中に入れるだろうか、とは思った。
「……吉澤か?」
自分が大多数の女子に好かれているとは思えない。
むしろ、無愛想だと言うことで相手にされることは少ない。
とすれば、心当たりは一つしかなかった。
ふと、康一の頭に、しゃがんで泣きこんでいる吉澤が写った。

「私は違うって言ったよ、榊原くんに迷惑かかるから」

「迷惑ねえ……」
吉澤の席を見ると、頑なに康一から目をそむけて話していた。
康一は箱を尻のポケットに入れると、そ知らぬ顔で鞄を閉じた。

終業式の帰り、忠勝は亜弥に告白し、成功したようだった。
康一は亜弥と仲良く帰っていく忠勝を見送ると、誰もいない教室で美貴を待った。
部の顧問に呼び出されているらしい。
自分の席に着き、肘をつく。
窓からは暖かそうな光が差しこんでいる。
帰途に着いている生徒たちの話し声が、耳に入った。
突然、ドアの開く音が間に入る。
振り向くと、吉澤が鞄を片手に呆然と立っていた。
「まだ、いたんだ……」
つぶやきながら、自分の席に駆け寄って横に掛けられた紙袋を取り上げた。
心なし、動作がぎこちない。
「なあ、吉澤」
呼びかけると、吉澤はびくっと振り返った。
「なに……」
「バレンタインの時に、机の中にチョコ入れたん、吉澤やんな」
「……そう、だよ」
しばらく、お互いに黙っていた。
が、すぐに吉澤が康一から視線を外した。
「行ってもいいかな……」
「ああ……」
吉澤は教室から飛び出して行った。

「ひとみ?」
廊下から美貴の声がした。
すぐに美貴が教室に入って来る。
「なにやってたの、今」
血相を変えて、康一に詰め寄る。
「吉澤は忘れ物取りに来ただけや」
「そんなの、教室から走って出て行くわけないじゃない!」
「ちょっと話しただけや」
康一は美貴の剣幕にたじろいだ。
「……康一ってさあ、なんで私と付き合ってるの?」
美貴は康一から目を逸らした。
「大晦日にさあ、吉澤って言ったじゃん?
 私がひとみに似てたから、付き合ってるんじゃないの」
「そんなこと……」
「だって、そうじゃん。
 私がひとみと似てるかどうか知らないけど、ほんとは私を好きなんじゃなくて、ひとみが好きなんでしょ」
否定はできなかった。
「馬鹿みたい……」
美貴は足音を立てて教室を出て行った。

ポケットには、例の鍵が入っている。
赤に白の線。
「乗るか、もうすぐ夜やぞ」
「分かってます」
不安だったが、康一の言うまま、酒井はバイクを外に引っ張り出した。
康一が鍵を回すと、快いエンジン音がする。
「バレンタインの時に、あさ美を振ったやろ」
「すいません」
「いや、別に構わんけど、あいつがまだお前のこと好きらしいねん」
確かに、一途な感じはする。
「今度、諦めるように言ってくれへんかな」
「分かりました」
康一はまたがりながら返事をした。
「気ぃ付けろよ」
酒井は店に入り、後ろ手にドアを閉めた。
微かな動きがハンドルから感じられた。

町を一周したが、どこからも海が見えた。
漁船は今日も海に繰り出し、真面目に働いている。
夕日も沈みかけ、船のライトが水面を照らしているにもかかわらず、人工的な感じがしない。
自然と大海原になじんでいる。
二周目の途中、公園に差し掛かったとき、街燈の下に人影が見えた。
服の上にカーディガンを羽織って、自販機の前に立っている。
「美貴……」
「なにやってんの、こんなとこで」
美貴は半ば呆然とした。
「乗れよ」
自然と口を突いて出た。
「どこ行くの」
美貴も途惑いがなくなったようで、自販機から缶コーヒーを取り出して答えた。
「どこでも」
美貴は康一に背を向けた。
「ちょっと待ってて」
康一は黙ってハンドルにもたれかかる。
下半身が窮屈だった。
ポケットには箱が収まっている。

「大阪行こうよ」
美貴はコートを着こんできた。
バイクの後ろにまたがり、康一の横腹につかまる。
康一は無言でうなずくと、アクセルを捻った。

泉南を過ぎた辺りで、パーキングエリアに止まった。
「あー、疲れた」
美貴は真っ先に降りると、自販機の前に立った。
康一は黄色い箱を取り出し、チョコを口に運んだ。
ラム酒の味が口に広がる。
冷蔵庫で大事に保管したのだ、腐っているはずはない。
右足がバイクの白線に当たった。
走ったせいで、かなり黒っぽくなっている。
自分がなんのために走っているか、分かってきているような気がする。
美貴を後ろに乗せ、大阪までなんのために走って来たのか。
美貴もそろそろ分かってきているだろう。
「なに食べてるの」
「チョコ」
美貴は缶コーヒーを飲み干し、ゴミ箱に投げ捨てた。
「行こか」

まだいくらか、金は残っている。
もう少し走ってから、美貴と別れることにしよう。