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IEEE1395 投稿日:2002/04/10(水) 10:05

あなたはなぜお兄さんなの

「お兄ちゃん、朝ご飯できたよ〜」

階下からあさ美の声が聞こえてくる。
俺はまだぼうっとする頭をはっきりさせようと、
顔をぺちぺちと叩きながらベッドから飛び降りた。

リビングに下りてみると、もう既に親父もお袋も座っていて、
親父は新聞を眺めながら味噌汁に手を伸ばそうとしている。

またこぼすんだからやめとけよ……

そんなことを思っていると、案の上親父は茶碗をひっくり返した。

「うおっ!」

うおっ!、じゃねえよ、うおっ!じゃ。全く、何回やりゃ気が済むんだよ。
片付けるのはあさ美なんだから、仕事増やしてやるんじゃねえよ。

そんなことを考えていると、親父が俺に向かって言ってきた。

「おい、ムネ!何ぼうっとしてるんだ!早くふかないか」

「何当然の様な顔してんだよ。なんで俺なんだよ。
朝っぱらから寝ぼけてんじゃねえぞ」

当然のことながら、ムネというのは俺のことである。
本名は鈴木むね男。
『オ』まで言うのが面倒なのか、親父もお袋も『ムネ』と呼ぶ。
まあ別にどうでもいいんだが。
何でも俺が生まれたその日から『ムネ』と呼んでたらしい。
だったら最初から『ムネ』にしとけばいいと思うんだが、
親父曰く、『語呂が悪い』らしい。
因みに妹は『あさ美』。どちらも平仮名と漢字混じりの名前なのだが、
その辺も親父に聞いたところ、『平仮名があると萌えるだろ』
と言われた。多分俺が親父のことをうさんくさく思うようになったのは
それを聞いた後からだろう。
大体、親父は純一郎、お袋は真紀子、と全く関係がない。
世間では親の名前の一部を取ったりすることが多いらしいが、
この二人には関係がないらしい。

そんなことを考えていると、親父の声が聞こえてきた。

「全く、お前は本当に役にたたんやつだな。
おーい、あさ美。ちょっとここ、ふいてくれ」

俺が役に立つか立たないかはどうでもいいが、なんで自分でやらねえんだよ。
あさ美にやらせんじゃねえよ。

「分かったよ、ったく。てめーじゃ何もできねえんだな」

俺はそうはき捨てながら、親父がこぼした味噌汁をふき取った。
次に言うことも分かっていたので、茶碗をあさ美のところに
持っていって新しいのを入れてもらう。
それをテーブルに置いてやると、流石に新聞を脇において
味噌汁を飲み始めた。

そうこうしていると、ようやく自分の分を用意したあさ美が
俺の隣にやってきた。

「おはよう、お兄ちゃん。お父さん、またこぼしたんだ」

「ほんとだよ。学習って文字が辞書にないらしい」

それを聞いた親父がなぜか反論してきた。

「何を言うか。反省だけなら猿でもできるんだ」

「じゃあその反省すらできないてめえは、立派に猿以下だな」

「なんだと、この野郎」

「ちょっとやめてよ、二人とも。
大丈夫だよ。お父さんがこぼすこと考えて、いつも多めに作ってあるんだから。」

「……そ、そうだぞ。大丈夫なんだ」

流石の親父もあさ美の言葉を聞いて言葉を無くしたらしい。
あさ美の辞書は学習って言葉だらけのようだが、何もそこまで
学習することもないと思うんだけど……

「今日は二人の好きななめこを使ってみたんだけど。
どう、おいしい」

「ああ、うまいぞ」

俺も黙ってうなずいた。親父はあさ美に言われると途端に素直になる。
でも、あさ美の作る料理は本当にうまい。
うちは共働きのため、というよりは二人の怠慢のせいだと思うのだが、
あさ美が小学校に入った時から料理はあさ美がしている。
もう7,8年もやっていて、それでうまくなった、というのが普通なんだろうが、
あさ美は初めて作ったときからうまかった。
お世辞でもなんでもなく、その辺のレストランには負けないだろう。
おかげで俺はちょっとした外食恐怖症になっている。
それぐらいうまい。
皆の好みが分かっているからなおさらうまいのだろう。

朝食を終え、俺はあさ美の作ってくれた弁当を携えて家を出た。
ちなみに、親父もお袋もあさ美の弁当を持っている。
だからあさ美の仕事は朝から四人分の朝食と弁当を作ってることなのだが、
ちょっと前までは親父のこぼした味噌汁をふく、というのが
そこに入っていた。最近では俺の仕事になっている。

そんなことを考えながら歩いていると、後ろからあさ美が声をかけてきた。

「お兄ちゃん、ちょっと待ってよ」

「おう、あさ美か。今日は早いんだな」

俺の高校は電車で30分ほどかかるのだが、あさ美の中学は歩いて10分程度だ。
あさ美は俺が家を出た後、後片付けやらをしてから学校に行っている。
だからあさ美と一緒に歩くことはめったにない。

「うん。今日から試験だから」

「ふーん。あさ美でも早く行って勉強するとかするんだな」

「ううん。友達に教えて、って頼まれちゃって」

あさ美らしい、と俺は思った。
あさ美はなぜか非常に頭がいい。
親父の血が混じっているとは到底思えない。
本当に俺の妹なのか、と疑いたくなるくらいである。
だから試験と言っても改めて勉強しなおす必要もないのだが、
できの悪い友達に教えろと言われて断りきれないのだろう。
それを喜んでいるらしいところもあさ美らしい、と思う。

その後、とりとめもない話をしながら俺達は歩き、
途中でなぜか北方領土の話になり、『別にソ連にくれてやればいいじゃん』
と言った俺に対してあさ美が猛烈に異を唱える、という一幕もあったのだが、
(ついでに『ソビエトじゃなくてロシアだよ。
どこかの馬鹿なアイドルみたいな間違いしないでよ』
などとつっこまれたりもしたのだが)
ともかく、俺達は分かれてそれぞれの学校へと向かった。

俺が学校から帰ってくると、あさ美は既に帰っているようだった。
まあ試験期間中だから終わるのも早かったのだろう。

「ただいま」

俺がそういいながら家に入ると、奥の方からぺたぺたと
スリッパで走りよってくる音が聞こえてきた。

「お兄ちゃん、お帰り〜」

「おう、ただいま」

「私今日、ケーキ作ったんだけど食べる?」

「おう。食う食う。ちょっと腹も減ってたし」

俺は嬉々として返事した。俺は甘いものは割りと苦手な方で
あんまり食べないのだが、あさ美のは別だ。
そういうところもちゃんと分かってて、食べやすい甘さで作ってくれる。

「じゃあお茶入れるよ。その間に着替えてきたら」

「ああ、分かった。サンキューな」

俺は制服を着替えるために階段を上る。
あさ美はもう試験が始まってるけど、うちはまだだ。
と言っても学校の試験の時期なんて何処も似たようなもので、
うちの学校の試験は明後日からだったりする。
あさ美は頭がいいから特に勉強する必要もないのだろうが、
(だいたい試験期間中にケーキ焼いたりする奴もいないだろう、普通は)
俺は残念ながら頭はよくない。
試験のたびにいつも苦労している。
今回の試験も英語と数学は特に頑張らないと、前回の試験が悪かった分、
進学にもひびくことになる。
どう考えてもあさ美と同じ血が流れているとは思えない。

食べたら勉強始めよう……

着替え終わって階段を下りる俺の鼻腔を、コーヒーの香ばしい香りがついた。
それに混じってチョコレートの香りもただよってくる。
多分カカオパウダーなのだろう。
俺はカカオは好きなのだが、チョコレートは嫌いだ。
そんな性格。あさ美も苦労してるんだろうな。

食卓についた俺の前にコーヒーが置かれる。
もちろん、ブラック。それもアメリカンではなく、烏よりも
真っ黒なぐらい濃いやつだ。
俺が一度、癖で『なしなし』と言ったらあさ美は妙に気に入ったらしく、
それ以来ずっとそう呼んでいる。
まああさ美のことだから、外では言っていないと思うのだが。

ぼーっとその『なしなし』を啜っていると、あさ美がケーキを
運んできた。ティラミスだ。
なるほど、確かにカカオは使うがチョコレートは使わないな。
その下のカスタードクリームも甘いものが好きな人には
食べられないぐらい甘味が抑えてあるだろう。
だが、俺にはそのぐらいでちょうどいい。
カカオパウダーの香りと、ほんのり漂ってくる、といった程度の
カスタードクリームの甘味、そしてそれを抑え包み隠してしまう
くらいのカカオの苦味。
それがこのケーキの醍醐味なのだと思っている。
もっとも、外では絶対に食べられないが。

俺はスプーンを手にとり、少し口に運ぶ。
程よい苦味と香りが口内を瞬時に支配する。

うん、うまい。

しかし、今日の心なしかちょっと甘味が強いかもしれない。

そんなことを思ってると、あさ美が不安げな顔をして声をかけてきた。

「ごめん。お砂糖、多すぎたかな」

「そんなことないよ。うまいよ、あさ美。
俺、お前のおかげで甘いものも少しずつ食べられるように
なってきた気がするよ。」

「ほんと!よかったぁ」

そう言ってあさ美は満面の笑みを浮かべる。
ったく、ほっぺをプ二プ二したいくらい可愛いぞ……

「しっかし、お前って試験期間中でもケーキ焼いたりする
余裕があるんだな。羨ましいよ」

「? 別に今日は焼いてないよ」

うん?ああ、そうか。ティラミスは確かに『焼く』わけではないんだな。

「そういう意味じゃなくてさあ。普通の奴は今ごろ必至で
勉強してるんだぜ。ケーキ作ってる暇のある奴なんていないだろ」

「えっ、駄目、だったかな……」

あさ美は伏し目がちにつぶやく。
まったく、そういう意味じゃないんだってば!

「そうじゃないよ。ケーキはおいしかったし、嬉しいよ。
ただ、お前は勉強しなくて大丈夫なのかな、って思ってさ」

「あ、うん。それだったら、これからまこっちゃんが来て、
一緒にやろうってことになってるんだ」

まこっちゃん??誰だそれ。
まあ一緒にやる、ったって本当はあさ美がそいつに教えてやる
だけなんだろうけど。

首をかしげる俺をみて、慌ててあさ美は付け加える。

「小川麻琴。同級生だよ」

「誠?男か?」

ちょっと俺の目が険しくなった(のだろう)、あさ美はさっきよりも
慌てている。

「ち、違うよ。女の子。『あさ』に『こと』って書くんだ」

「ふうん、そっか。まあ頑張れよ」

あさ美のその答えに安堵しつつ、俺はそう言った。

あさ美のケーキを食べ終わった後、俺は2階の自分の部屋で試験勉強をしていた。
その後、トイレに行こうとして階下に下りた俺の耳に、話し声が聞こえてきた。
多分さっき言ってた、『まこっちゃん』のものだろう。
それとは対照的に、あさ美の声はまったく聞こえてこない。
たぶん、その子がすごく明るくて元気なこなのだろう。

用を終えて部屋に戻ろうとした時、あさ美が部屋をでてきた。

「ん、どうした?」

「うん、ちょっと。晩御飯の買い物してくる」

「そうか、気をつけてな。あの子はまだいるのか」

「待ってるから、行ってきたらって言われたから」

そう言い残すと、あさ美は出て行った。

部屋に戻ってしばらくすると、ドアをノックする音が聞こえてきた。

ん、やけに早くないか。あさ美のことだから、晩御飯なにがいい、
とか聞きにきたのかな。

そう思って、俺はドアに向かって声をかけた。

「あさ美か〜、随分早いな。入っていいぞ」

俺がそう言うと、

「失礼します」

という聞きなれない声とともにドアが開いた。

ドアから顔をのぞかせているのは、あさ美と同じくらいの身長の女の子で
あさ美よりはややグラマラスな感じがする。
髪は割りと短めで、少しウェーブがかっている。
意思の強そうな瞳と、その真っ黒な髪がその子の年よりは随分大人びた
雰囲気に非常に似合っている。
ちょっぴり薄めの口紅をしているのが、さらに拍車をかけている。
この子なら真っ赤な口紅なんかも似合うかもしれない、
まあ最近の流行ではないけれど。

正直俺は、凄く綺麗な子だな、と思った。

「あ、あの……」

「えっと。麻琴さん、かな」

実際あさ美からそう聞いている訳だし、これで違ったら
こんなに悠長に話している場合ではないのだが、いきなり断定的に
尋ねると萎縮するかもしれない、と思った俺はそんな風に聞いてみた。

「はい、そうです。あさ美ちゃんから聞いてますか」

「君が来る、ってことだけね。でも同級生というのにはちょっと驚いたけど」

俺がそう言うと、彼女は意味が分からない、という顔をしている。
俺は正直な感想を彼女に伝えた。

「最初入ってきた時、随分大人っぽくて綺麗な子だな、って思った。
だから、あさ美と同じ年だ、っていうのがちょっと信じられなくてね。
でも話しぶりとか見てると、年相応なのかもね」

俺がそう補足すると、彼女は顔を真っ赤にしながら答えた。

「そんな、綺麗だなんて。ありがとうございます。
でも、お兄さんも格好いいですね。
あさ美からいろいろ聞いてたんですけど、実際に見ると
本当に格好いいなあ、って思いました」

「ありがとう。あさ美から、ってあいつ、俺のことなんか言ってたんだ?」

「もういっつもですよ。いつもいつもお兄さんの自慢ばっかり。
だからどんな人なのかな、って凄く興味があって。
クラスのみんなにも、私が一番仲がいいんだから、お兄さん見てきてよ、
なんて言われてるくらい。
だから、明日なんて言おうかな、って思って」

あさ美が俺のことを自慢している、ってところまでは俺もちょっと
嬉しかったがその後の話には流石に驚嘆した。

「ちょ、ちょっと待って。何、俺はあさ美のクラスで
そんなに有名人なわけ?」

「有名も何も、あさ美、みんなにそう言ってますから。
先生とかも知ってますよ。だからみんな興味津々、って感じで。
あさ美って、すごくおっとりしてるし、性格もすごくいいから
みんなから好かれているんですけど、ちょっと独特の雰囲気があるからか、
『家に連れていけ』みたいにきつく言ったりできないんですよ。
今日なんかも、私があさ美に教えてって頼んだら『じゃあうちにおいでよ』
って言われたから来たんですけど、そうじゃなかったら来なかった
と思います」

彼女のその言葉を聞いた俺は、ちょっと不安になったので聞いてみた。

「あさ美って学校でハブられてるのか?」

多分無意識のうちに語気が強くなったのだろう、彼女はあわてて否定した。

「ち、違いますよ。そんなことないです、ぜんぜん。
みんなと仲良くしてますよ。
ただ、彼女は優等生だし、迷惑かけちゃいけない、みたいな雰囲気が
漂ってるというか。うーん、なんて言えばいいんだろう……」

そうやって必死に言葉を探している姿は可愛かったが、そのままにしておくのも
可哀想なので、俺は言った。

「大丈夫だよ、怒ってるわけじゃないから。
ただ、いじめられてたりしたら、と思ってね。
君の言いたいこともだいたい分かったし」

「そうですか、よかったぁ」

そういって彼女は満面の笑みを浮かべた。こういう無邪気な笑顔ができるところは、
やっぱり14歳なのかもしれない。
ちょっと落ち着いたのか、彼女はまた口をひらいた。

「でも、お兄さんってあさ美の言ってたとうりの人ですね。
すごくやさしくて、気を使ってくれて。
あと、声がすごくやわらかくって、それがまた格好いいです」

「そう?ありがとう。
でも君って大人だね。
声がやわらかい、なんて言われたのは初めてだよ」

「それもずっとあさ美に言われてたんです。
今日聞いてやっと意味が分かりましたよ」

あさ美がそれほどまでに俺のことを友達に喋っている、というのには驚いたが、
言ってること自体はあさ美らしい、と思った。
確かに同年代の子たちにはあさ美の言うことは少し難しいかもな、
などと思っていると喋り続けている彼女の瞳が飛び込んできた。

「……って、聞いてます、お兄さん?」

「ごめん。なんだっけ」

彼女はもうすっかり最初の緊張も解けたのか、実によく喋っている。
ともすれば聞き逃しがちになる性格の俺には、正直つらい。
だが、明るく楽しそうに話す彼女を見てるのは楽しかった。

「それで、あさ美ったら、コーヒーに何もいれずにそのまま飲みだしたんですよ。
どうしてだと思います?」

「さあ、どうしてだろうね」

急に水を向けられた俺は内心どきりとしたが、勤めて冷静を装い、
今まで話を聞いていた振りをしながらそう返した。

「それが、『お兄ちゃんが甘いもの苦手だから』って言うんですよ」

「ああ、まあ確かに俺は苦手だけどね」

「でもそれってあさ美には関係ないじゃないですか。だからそう聞いたんですよ。
そしたら、『お兄ちゃんに合わせようと思って。だいぶ慣れてきたよ』
って言われて。流石にちょっとびっくりしましたよ」

「そ、そうなのか。それは知らなかったよ。
あいつ家では砂糖とミルク入れて飲んでるから」

「へえ、そうなんですか。じゃあ何でですかね……
あ、あさ美のことだから、こっそり練習しといていきなり、とか考えてるんですかね」

「いや、そこまで俺には分からないよ、流石に。
でもあさ美って学校じゃそんなイメージなんだ」

「ええ。もう学校じゃ、あさ美の前で兄弟の悪口とかはタブーですからね」

俺は学校と家とで随分違うあさ美の様子を聞かされて、ちょっと驚いていたが、
彼女はそれまでとは比べ物にならないぐらい俺を驚かすようなことを言ってきた。

「ところでお兄さん。キス、しませんか」

「ちょっと待ってよ。何いきなり無茶なこと言い出すんだよ」

俺は慌てて拒否した。あさ美の友達とそんなことになるなんて、
さすがにできない。だが、彼女はさらに追い討ちをかけてくる。

「いいじゃないですか。彼女、いないんですよね」

「え、う、うん。いや、いるよ。うちの学校の同級生の子と付き合ってるんだ」

とりあえず何でもいいから理由の欲しかった俺は、とっさにそんな嘘を
ついてみた。

「うそ!」

「本当だって。どうして君がそんな風に言えるんだよ」

「だってあさ美から聞いています。お兄さん、彼女いないって」

なんであさ美はそんなにも俺のことを話してるんだ……
少々あせりながらも、俺はもうちょっと嘘をついてみることにした。

「それは、あさ美がそう思ってるだけだよ。考えてみたら、あさ美に
彼女の話したことなかったし」

「じゃあ、本当にいるんですか」

「だから、さっきからそう言ってるじゃん」

「だったら、電話してください」

「いいっ!いや、その。うちももうすぐ試験だしさ。うん、そう。
だから、今日も電話してくるな、って言われてるんだよね」

うん、我ながら完璧な言い訳だ……どこがだよ。そんなこと言う奴
いるわけないじゃん。

案の定、彼女は言い返してきた。

「そんなこと言う人いるわけないじゃないですか」

これ以上どう頑張っても嘘は吐き通せないと悟った俺は、仕方なくあやまった。

「ごめん、嘘だよ。確かに俺には彼女はいない。
でも、それと俺が君とキスするのは関係ないだろ」

「おおありですよ!」

彼女はまじめな顔をしてそう言う。そういう顔をしていると、
ますます大人びて見える。とてもあさ美と同い年とは思えない。

「何で?」

「惚れちゃったからです」

その答えは多少予想しないでもなかったものではあるが、こうもあっけらかん
と言われるととまどってしまうのは何故だろう。

「いや、惚れたって。ちょっと話しただけだしさ。
君は俺のことなんて全然しらないだろ」

俺は常識的な答えを返した。相手のこと何も知らないのに……
ドラマなんかではよくある台詞だ。

「そんなの関係ないですよ。これから知っていけばいいんですよ。
それに、実は私、あさ美からいろんなこと聞いてはいるんですよ」

それを聞いて、俺はいい答えだな、と思った。
俺も誰かに一目惚れした時にはきっと同じように言うだろう。
だからといって了承することはできないが。

俺は、ちょっと前からの疑問をぶつけてみることにした。

「だいたい、なんで俺なわけ?」

「かっこいいからですよ」

「そ、そう? それはありがとう」

「それに、大人だし。さっき喋ってても、私に対する気遣いが分かったから。
優しい人なんだな、って思って」

まあ、優しい人ってのはよく言われることだ。
それで得したことは一度もないのだが。

ただ、これ以上話していてもどうしようもないと思った俺は、
はっきりと断ることにした。

「そんな風に言ってくれるのはうれしいよ。
君はすごく可愛いし、時々する大人っぽい顔もすごく綺麗でセクシーだよ。
君を見て性欲が湧かない、と言えば嘘になる。」

あまりにも本音を語ったため、ちょっと嫌な言い方もしてしまってはいるが、
彼女はそれを聞いても眉をひそめたりはしなかった。
ただ、首をかしげていた。

「じゃあ、なんで……」

「だからと言って君とは付き合えない。
それは俺は君の事を愛していないから。だから遊びで君と付き合ったり
抱いたりはできないよ」

「そんなの、分かんないじゃないですか」

彼女は、ちょっと目に涙を溜めながらヒステリックにそう叫ぶ。

「とりあえずえっちしてみて、それでお互いのことが分かり合えるかも
しれないじゃないですか。
それをいきなり否定してしまうなんて、あんまりですよ」

「確かにそうかもしれないね。でも、俺はそういう方法をとりたくないんだ。
それは、君があさ美の友達だから、というのも理由の一つではあるんだけどね」

「じゃあ、えっちはいいです。でも、キスぐらいいいじゃないですか」

彼女の瞳は溢れ出る洪水に耐え切れず、決壊を起こしてしまっている。
床に落ちたそのしずくが、ピンク色の絨毯を真っ赤に染めた。

「セックスもキスも同じなんだよ。キスの方が軽い、ってわけじゃないんだ。
寧ろ、キスの方が重いかもしれない。分かんないかな、そういうのって」

彼女は何も言えずに震えていた。俺は、つとめて甘い(と彼女が表現した)
声をだして、彼女をなだめようとした。

「それに、君は俺のこと優しい人だ、って言ったでしょ。
だったら、今君とキスしないことは優しさなんだって思って欲しい」

そう言って俺は彼女の頭をなでてやった。
5分ほどそうしていただろうか、すっかり落ち着いた彼女が突然声をあげた。

「あっ!」

「ん、どうしたの」

「泣いちゃったから、コンタクト落としちゃったみたい」

そういって彼女は上目づかいにはにかんだ笑みをみせた。
この時俺は、キスしてあげれば彼女を慰めてあげられるかな、
と少しだけ思った。

「もう、しょうがないねえ。どの辺?」

そう言いながら俺がかがもうとした時、彼女は素早く動いた。
両手を俺の首に絡ませ、後ろで組んで離れないようにした上で
唇を重ねてきた。
その上、喋っていたせいで少し口を開いていた俺の中に
ねじ込むように彼女の舌が入り込んでくる。

「……っ」

俺は必死で声を出そうとしたが、彼女の口にふさがれまともに動かせなかった。
そのままさらに彼女は舌を侵入させてくる。
女性経験のなかった俺には衝撃的であり、その甘さは俺の脳を
麻痺させるのには十分だった。

その永劫に続くかと思われた時間を破ったのは、俺の後ろで響いた
ガシャーン、という派手なガラスの割れる音だった。

それこそドラマのような登場に、俺も麻琴ちゃんも慌ててドアの方を見た。
当然のごとく、そこにはあさ美が立っていた。
ただ、想像と違うのはあさ美の顔が笑っていたことだった。

肩をわななかせながら。
目に少し、涙をためながら。

その涙をこぼすことなく、あさ美は言った。

「ただいま。帰ってきて部屋のぞいたら、まこっちゃんいないんだもん。
ちょっとびっくりしちゃったよ」

勤めて明るい声をだそうとするあさ美の態度に、俺も彼女も
何も言い返せなかった。

「でも、なんかお兄ちゃんの部屋から声が聞こえてきたから、
二人で話でもしてるのかな、って思って」

何も言い返さない俺たちを気にすることなく、あさ美は続ける。

「それでちょっと喉も渇いたし、ジュース持ってきたんだけど、
落としちゃった。ごめんね」

あさ美は相変わらず笑おうとしているが、それも限界だった。

「ねえ、これから晩御飯の用意をしようと思ってるんだけど、
まこっちゃんも食べていくでしょ?
用意してるから相手できないけど、お兄ちゃんと話しててよ」

そう言いながら、あさ美の目から涙がこぼれ落ちる。

「あ、あれ。おかしいね。なんで私泣いてるんだろうね。
せっかくまこっちゃんが遊びに来てくれたのに、悪いよね」

流石に耐え切れなくなった俺は、何を言えばいいのか必死に考えていた。

「あさ美、あのさ……」

「お兄ちゃん。お兄ちゃんも、女の人と付き合ったりするよね。
勿論キスもするだろうし、それ以上のことも。
それって普通のことだよね。なんで私、こんなに驚いちゃったんだろうね。
それがまこっちゃんだった、ってだけなのに。
いいと思うよ、私は。
まこっちゃん、凄く綺麗だし、大人っぽいし。
お似合いのカップルだよ」

結局俺も彼女も何も言えなかった。
正確には、彼女が一言だけ。
これから晩御飯の用意をする、と言って階段を下りようとしたあさ美に対し、
「ごめん。やっぱり私、帰るから」
と答えるのがやっとだった。

「遠慮なんてしないでいいのに」

そういう言うあさ美の笑顔も、俺たちには
鈍器でなぐられているようにしか感じられなかった。

結局その後は、あさ美とは何も話さなかった。
ちょっと疲れているので、先に寝ます……そう書かれたメモを眺めながら、
俺は久しぶりにうまい、と思えないあさ美の料理を食べた。

次の日からは、あさ美は何事もなかったように一緒に食卓に着いた。
もともとあまり喋らなかった方なので、両親はあまり気に留めていなかった
かもしれないが、俺にはますます喋らなくなったように感じられた。

そう思うのは、俺の態度の裏返しなのかもしれない……

そう、明らかに俺は話さなかったし、あさ美とも目を合わさなかった。
合わせられなかった。

あさ美のことを考えて、夜寝られないことが多くなった。

俺は、学校でもあさ美のことばかり考えていた。
学校では試験が始まっていたが、まったく身が入らなかった。
事実、世界史と物理の試験があったのだが、俺は白紙で出した。
いや、白紙ではない。
教諭に呼ばれ、その場で自分の名前だけ答案用紙に書かされたから。

ここ三日間、俺はあさ美のことばかり考えていた。
そのため、試験勉強もまったくしていなかったのだが、
そんなことはどうでもよかった。
次に赤点をとるわけにはいかないはずの、数学や英語さえ、もうどうでもよかった。

ただ、つらかった。

その日の夜、食卓であさ美の顔を眺めながら、俺は一つの結論に達した。
ちゃんと話そうと。

あさ美は後片付けをしていたので、俺は一旦自分の部屋で寝転んでいた。
やっぱりいざ話すとなると、緊張するし、怖気づきそうにもなる。

ドカッ!

でもこのままじゃいけないんだ。俺にとってあさ美は……

俺は柱を殴りつけながら、心を奮い立たせようとした。
もう一発殴る。
部屋には、先程よりは小さい音が響く。

これでいい。二度の痛みは、恐怖感をなくしてくれる。
一度目の痛みに対する恐れから、二度目の音は小さくなったのだ。
今の俺には、柱に対する恐怖感しかない……

そんな、子供のような理屈をつけていると階下からあさ美の声が聞こえてきた。
どうやら、片づけを終え、風呂に入ろうとしているらしい。

俺が慌てて階段を下りていくと、ちょうど自分の部屋に戻ろうとしていた
あさ美と目が合った。

「なあ、あさ美。ちょっと話したいことがあるんだ」

俺がそう言いうと、あさ美は背中で答えてきた。

「大丈夫よ、私にはないから」

そう言って歩いていく。俺はあさ美の背中を追いかけながら言った。

「頼む、聞いてくれ。大事な話なんだよ」

だが、あさ美は何も言わず、そのまま歩いていく。
そして部屋のドアを開け、中に入ろうとした。

このままだとあさ美と話せない。
そして、今話せないともう、この先どうしようもなくなる。

そんな風に思った俺は、
「あさ美!」
と叫びながら、あさ美を後ろから抱きしめた。

意外なことに、あさ美は何も言わなかった。
拒絶されるかと覚悟していた俺は、少し腕の力を緩めながらつぶやいた。

「好きだよ、あさ美。愛してるよ」

相変わらず、あさ美は何も言わない。
ただ、その体が少しこわばっているのは感じられた。

「お前じゃなきゃ、だめなんだよ。俺には、お前以外に女の人なんていらない。
母さんは別だけど、それ関係ないだろ」

俺がそう言うとあさ美は振り向こうとしたので、俺は絡めていた腕を解いた。

「うそ!」

「うそじゃない。ずっと前から思っていたことだよ。
やっと分かったんだ」

「じゃあまこっちゃんは、何なのよ。あんなにキスしてたじゃない!」

「ああ、したよ」

俺は一切言い訳せずにそう答えた。

「! 言い訳もしないんだ。あれは遊びだ、とでも言うつもりなの?」

「そんなこと言うつもりはない。キスをしたのは事実だ。
でも、俺が愛してるのはお前だけだよ」

「なによそれ!全然わかんないよ。そんなのおかしいじゃない!」

普段めったに感情を露出しないあさ美が、これほどまでにヒステリックになってるのに
俺は多少驚きはしたものの、だからと言って言葉を選びはしなかった。

「そうだね。だからちゃんと断るべきだったんだ。
俺はあさ美が好きだから、キスはできないって……」

あさ美はまっすぐに俺を見つめ続けている。俺はその瞳にひるむことなく答えた。

「最初にキスしよう、って言ってきたのは彼女だよ。
それで、いろいろあった後、ああいうことになった。
俺はあさ美のことを言うべきだったんだろう。
でも、俺はその時はまだ自分の気持ちがよく分かってなかったんだ。
もっとも、もし分かってたとしても言えなかっただろうけど……」

俺は、彼女からされたとか、不意をつかれたからさえぎれなかった、
などとは一切言わなかった。言うつもりもなかった。
たとえそれが真実でも、あさ美の前で言い訳がましいことを言いたくなかった。
それに、言い訳は言葉の真実味をなくさせる、とも思っていたから。

ちょっとの間、あさ美は黙って俺の言葉の意味を考えていたが
改めて口を開こうとした。と、その時、

ピポー、ピポー、ピピピピピポー

ちょっと間の抜けた音が響いてきた。あさ美の携帯の呼び出し音だ。
携帯は相変わらずそのフレーズを繰り返してる。

ポー、ポー、ポー、ピッピッポッ

着信音のリズムが変わった時、俺はあさ美に言った。

「携帯なってるぞ。出なよ」

あさ美は画面で誰からか確かめ、多少顔をこわばらせつつ電話にでた。

「もしもし」

あさ美は音を小さくしてあるらしく、相手の声はまったく聞こえてこない。
周りに全部筒抜けになる俺の携帯とは正反対だ。

「何?」

あさ美は短く、冷たく答えた。相手の様子は分からないが、
おそらくちょっと驚いているだろう、そんな声だ。

「いいよ、別に。私とお兄ちゃんは別に付き合ってるわけでもないし。
キスしようが何しようが勝手でしょ。
私の許可とる必要もないよ」

あさ美はそう言い返す。どうやら電話の主は麻琴ちゃんらしい。

そう思いながら眺めていると、ちょっとあさ美の様子が変わった。

「そ、そんなこと……」

そう言って、少し顔を赤らめている。といっても語調は弱く、
怒っているというわけでもない。
何を喋ってるのか猛烈に知りたい俺を尻目に、あさ美は喋っている。

「え!」

「本当に?だってそんなこと、一言も言わなかったじゃない」

「ううん、お兄ちゃんはなにも」

いきなり俺のことを言い出すので、少し俺は戸惑ったが、
もしかしたら彼女があのことをちゃんと説明してくれているのかもしれない、
とちょっと無理な期待をして待っていた。

「そう、だったんだ……分かった、ありがとう。
お兄ちゃんと話してみるよ」

あさ美の語気が少し弱くなった。
俺はそれを聞きながら、助かったのかな、などと思っていた。

「ううん、いいの。ちゃんと聞こうとしなかった私も悪いんだし。
それより、ちゃんと話してくれてありがとう」

その言葉をきいて、俺は彼女の成功を確信した。
だが、あさ美はまだ話している。

「? 何?」

そう言いながら怪訝そうな顔をする。もうすっかりいつものあさ美に
もどっている。と、

「ちょっ、なんてこと言うのよ」

そう言いながら顔を真っ赤にして、あさ美は電話を切った。

電話を置いて、あさ美は俺の方をみた。
先程までのヒステリーはどこへやら、いつもの穏やかなあさ美に戻っている。

「まこっちゃんだったよ」

「ああ」

「お兄ちゃん。ごめんね。私、お兄ちゃんの話聞こうとしてなかった。
でも、お兄ちゃん、何度も断ったんだってね。
キスしちゃったのも、まこっちゃんが強引にしちゃったからなんだよね」

「うん、まあ」

「そう言ってくれればよかったのに」

「言い訳したくなかったしね。それに、なんだか彼女を悪者にするみたいで」

俺がそう言うと、あさ美はちょっと声を漏らして笑った。

「まこっちゃんの言ったとうりだ」

あまりよくは分からないが、彼女は多分俺が彼女を言い訳に使っていないことを
見抜いていたのだろう。そしてそれをあさ美に指摘したのかもしれない。

「ごめんね、お兄ちゃん。あと、ありがとう。
私のこと、好きだって言ってくれて」

流石に俺も振り返って恥ずかしくなった。多分、真っ赤な顔をしているだろう。

「私も、お兄ちゃんのこと、大好きだよ。
だから、まこっちゃんに嫉妬してたんだね」

あさ美はそう言って笑った。
そして、俺の人生二度目になる言葉を言ってきた。

「ねえ、お兄ちゃん。私も、キス、したいな」

「ああ。俺もしたいよ」

そう言って、俺は彼女から学んだキスをした。
最初は唇を重ねるだけだったが、徐々に舌をからめ合わせていく。

終わって離れると、あさ美はとろんとした目でこう言った。

「なんか、ちょっと不思議な感じ。でも、気持ちよかった」

「ああ。そうだな」

「ねえ、まこっちゃんと私、どっちが気持ちよかった?」

あさ美がいたずらっぽくそんなことを聞いてきたので、俺もちょっと
意地悪をしてみたくなった。

「そんなこと、聞くまでもないだろ」

「だめ、ちゃんと答えてよ〜」

「麻琴ちゃんだよ」

「え〜、お兄ちゃんの意地悪〜」

そう言ってあさ美は頬を膨らます。
俺はそんなあさ美に、もう一度軽く口づけをした。

「まこっちゃんさぁ、最後にこんなことも言ってたんだよ」

「ん、何?」

「『ちゃんとコンドーム使いなさいよ』って」

そう言ってあさ美は顔を真っ赤にした。だが、俺は首を横にふった。

「そっか、彼女らしいね。でもそれはだめだよ。
確かにコンドームは避妊率は高いけど、それでも0じゃない。
もし妊娠しちゃったら、お前も苦しむし、生まれてくる子も可哀想だ」

俺がそう言うと、あさ美はどこか納得したような、それでいて
ちょっとがっかりしたような顔をする。
それを見ながら、俺は続けた。

「でも。いれなきゃ絶対妊娠しないし、それならいいかもな」

そう言って俺はにやりとした。途端にあさ美が叫ぶ。

「あー、なんかお兄ちゃん、いやらし〜」

「何言ってんだ、男はみんなこんな顔するの」

「そんなことないよ。そんないやらしい顔するの、お兄ちゃんだけだよ」

そう言ってあさ美は笑う。俺も笑った。

「はあ、なんか久しぶりに笑った気がする」

「ああ、俺もだよ。ここんとこ、ずっと寝られなかったんだぜ」

「ふふふ。でも、もうすっきりしたよ。お兄ちゃんもそうでしょ?」

俺は黙ってうなずいた。今までもやもやしていた気分が嘘のように
雲散霧消して、生まれ変わったような気がする。
今の俺の中には、あさ美に対する思いだけしかない。
今日の白紙の試験を別にすれば……

「じゃあ私、お風呂に入ってくるよ」

「おう。悪かったな、邪魔して」

「ううん、よかった、邪魔してくれて。
でないと私、一生苦しんでたかも。それと、さぁ……」

あさ美はそう言って一息ついた。

「お風呂からあがったら、さっきの続きしようね」

そう言ってあさ美は俺に背を向け、部屋に入っていった。
俺はその時のあさ美の大人っぽい笑顔にどきどきするばかりだった。

あれからどれくらい、たったのだろう……

俺は有名な歌をなんとなく口ずさんでいた。
残念ながら、沈む夕日は一つと数えたことはなかったが。

正確には、2年と3ヶ月たった。俺は高校を卒業し、大学に入った。
あさ美も中学を卒業して、今は俺の通っていた高校へと進学した。
お互いに、ちょっと大人になったかな、などと思う。

あれから、あさ美は麻琴ちゃんとますます仲良くなり、
よく家に連れてくるようになった。
ついさっきも、夕食を一緒に食べて話をしていたところだ。
親父はいつも俺に「あの子なかなか可愛いねえ」などと言うのだが、
よっぽど間が悪いのかそのたびにお袋に聞かれ、咎められている。
……スリッパで頭をどつかれながら。

最初あさ美が彼女を連れてきた時は、いろんなことがあったせいで
俺は気まずい思いをしていたのだが、彼女の方はスパッとあと腐れなく
断ち切っていたようで、終始ニコニコとしていた。
構えていたのが馬鹿だったのか、と思わせるぐらいに。

あさ美も普段と変わらない様子だったし、俺の心配も杞憂だったのだろう。

何度目かの家に来た時、彼女は笑いながら言ったことがある。

「お兄さんって、かっこよかったからキスしちゃったんだけど、
あの後思い知らされた気がするんだよね」

そう言って彼女は俺とあさ美を見比べた。
訳の分からない俺たちは、とりあえず聞き返した。

「思い知らされるって、何を?」

「私は、お兄さんが好きだったんじゃなくて、あさ美に嫉妬してたんだなって」

俺たちはお互いに顔を見合わせた。
あさ美も俺と同じような顔をしている……たぶん。

「なんで? 嫉妬って?」

「だって、あさ美ってばすごくお兄さんに愛されてるんだもん」

そう言いながら彼女は笑う。
俺には、その細めた目が羨望の眼差しのように思えた。
嫉妬じゃなくて、俺たちのことを見守ってくれるような、そんな気持ち。

ふと隣に目をやると、あさ美は顔を真っ赤にしている。

「そ、そんなこと……」

「あれ、何。ちがうんだ?」

彼女はそう言っていたずらっぽく笑った。
見る人を元気付けるような、明るく可愛らしい笑顔。
俺は、あさ美がいなかったら惚れていたかもしれないな、と心底思う。

「ああ、愛してるよ」

俺も、彼女ほど上手ではないがちょっと微笑んだ。
あさ美がますます顔を赤くするのが想像できたから。
案の定、あさ美は湯気が出そうな顔をしている。

「あっ、そうだ。あさ美、ちゃんとコンドーム使った?」

彼女はさっきまでと変わらない調子でとんでもないことを言い出す。
あさ美の血管がいよいよ切れてしまうかと心配してみていると、
どうやらあさ美はちょっと怒っているらしく、逆に冷静な顔になった。

「使うわけないでしょ!」

「ちょっと、だめじゃん。ちゃんと使わなきゃ。赤ちゃんできたらどうするの」

「そうじゃなくて。何もしてないってことだよ」

「そうなの? あの電話のあと、そういうムードにならなかったんだ?」

彼女は結構鋭いところをついてくる。
結局俺たちは何もしなかった。
二人でいろいろ話し合って、そう決めたのだ。
もっとも、あさ美とキスをしたのは事実だし、割とあさ美はそういう気になってもいた。そう言う意味では、彼女の言葉も間違ってはいない。

「ならなかったと言えば嘘になるけど……」

「けど?」

「でも決めたんだよ。話し合って。私達はしないでおこうって。
それがお互いのためにもいいんじゃないかって」

あさ美がそう言う。普段とは違う、意思の強い目で。
時折あさ美が見せる、俺が一番好きな顔。

「そっか、そうなんだ。それもいいかもね。
私だって何も、無理矢理やれっていってるんじゃないんだからね。
でも、……」

そう言って彼女は一旦口を閉ざす。
彼女の目を見ていた俺は、なんとなくだけど次の言葉が予想できた気がする。
あさ美の反応を期待してあさ美の方を見ると、あさ美は少し不安げな顔をしている。

「でも、何?」

「でも、キスくらいはしたんでしょ?」

俺の想像通りの言葉を聞いて、あさ美はまた無言で顔を真っ赤にする。
あれじゃあ、答えを言っているようなものだ。

「やっぱり。あさ美もそういうこと興味あるんだね〜」

そう言って、またあの笑顔をする。やっぱり可愛いな、と思う俺。
ごめんな、あさ美。

その後も、麻琴ちゃんのからかいは続き、話がエスカレートして
自慰行為の話になったりして俺まで顔を赤くする、などということもあったが
ともかく三人ともあのことを引きずっていないことは確認できた。

彼女も家に何度も遊びに来たし、今でも来ているのだが、もう何もしていない。
彼女の笑顔に参ってる俺はいるけど。
でも、これって浮気じゃないよな、あさ美?

そして、今日、5月7日。あさ美の誕生日。
俺は、台所で朝食を作っているあさ美のところにいって言った。

「あさ美おめでとう。今年で16だな。」

「あ、お兄ちゃん。覚えててくれたんだ」

「あたりまえだろ。忘れるわけないじゃないか。」

「ありがとう、お兄ちゃん。……ねぇ、プレゼント頂戴?」

「ん、いいけど。何か欲しいものがあるのか」

俺がそう尋ねると、あさ美はちょっと上を向きながら目を閉じた。

「まったく、朝っぱらから何考えてるんだ……」

そう言いつつも、俺はあさ美の肩に手をまわす。
そして、互いの唇が触れようとしたまさにその時、親父の声がした。

「おーい、あさ美。ちょっといいか」

俺とあさ美は素早く離れた。何事もなかったような顔をする。

「お前、今日誕生日だろ。とりあえずおめでとう。
でだ、お前が16歳になったら言おうと母さんと決めてたことがあるんだ」

「おい、親父。なんだよとりあえずって」

「お前は黙ってろ。聞きたきゃ聞いてろ。実はな……」

親父はそこで少し大きく息を吸い込んだ。

なんなんだ、この間は。いつもの親父らしくないぞ。
もしかして、結構まじめな話なのか?
仕方がない、ちょっと黙って聞いてることにしよう。

そう思ってると、親父が口を開く。

「お前はな、俺の子供じゃないんだ」

!!
俺は驚いてあさ美の方を向いたが、あさ美も眼を見開いて、
口もだらしなくあいている。
あいた口がふさがらないとはこういうことを言うんだろうか。

「おい、朝からふざけてんじゃねえぞ!」

「こんなこと、冗談で言えるか!実はな……」

そう言って親父は話し出す。
確かに、冗談で言えるようなことではない。

親父の話によると、あさ美は親父の友人の子供らしい。
あさ美が幼い時に交通事故にあい、母親は即死。
父親、それが親父の友人の友人なのだが、彼は病院に運ばれる途中で
出血多量によりなくなったらしいのだが、その搬送途中に
遺言としてあさ美を引き取って欲しいと親父に頼んだらしい。
親父とお袋は、あさ美に引け目を感じさせないためにあさ美を実の娘として
我が子、つまり俺のこと、と同等に育てたらしい。
……俺より扱いがいいような気がするのだが。

そして、16歳のの誕生日に真実を伝えよう、と二人で決めていたらしい。

まったく、なんでそういう大事なこと、もっと早く言わないかねえ。

俺はあさ美の方を向いて目くばせする。
あさ美もこっちを向いて小さく頷いた。
そして二人で親父の方へ歩いていく。
俺は親父に向かって言った。

「親父!」

ガコッ

次の瞬間、俺とあさ美の正拳が親父の顎を的確に捉える。
親父はたまらず吹っ飛んでしりもちをつく。

一瞬の間何が起こったのか理解できなかったようだが、
片手を突き出している俺たちを見て、状況を察したのか、怒鳴りだした。

「お、お前ら。いきなり何をするんだ!」

「ふざけるな!てめえ、言うのが遅すぎるんだよ!」

「そうよ。私達がどんな思いしてきたと思ってるの!」

俺たちは口々に叫んだが、親父はどういうことか理解できないらしい。

「な、何を言ってるんだ?」

もう一発殴ろうとしているのか、親父に歩み寄っていくあさ美を
手を上げて制し、俺は静かに言った。

「決めた。」

あさ美も親父も、どういうことかと黙って俺の方を見ている。

「あさ美は今日で16になったし、俺はとっくに18だ。
だから……俺たちは結婚する。文句ねえよな、親父」

親父はいきなりの俺の言葉に少し動揺したようだったが、あさ美の顔を見て
理解したようだ。
あさ美はというと、目にいっぱいの涙を溜めている。

「そうか、そういうことだったのか。だからお前達……」

「?」

「さっきキスしようとしてたのか?」

「なっ!」

さっきはとっさに離れたつもりだったのだが、親父はちゃんと見ていたらしい。
それを完全にスルーして、話しかけてきたとは……

あさ美の方をみると、あさ美も俺の方を見ている。
よし、決まりだ。とりあえずもう一発殴ろう。

ところが、親父はそれを察したのか、手で制止しながら慌てて謝ってきた。

「すまん、悪かった。別に覗き見するつもりじゃなかったんだ」

あまりの親父の慌てっぷりに、俺もあさ美も拳を下ろして大笑いした。
どうやら随分効いていたらしい。

ひとしきり笑った後、あさ美が口を開く。

「じゃあ、今日の夜はお赤飯でも炊こうかな」

「うん、それがいいな。どうせなら鯛でも買ってきたらどうだ?」

「あのなあ、何で祝われる当人が自分でやんなきゃなんないんだ。
ちょっとぐらい娘のためにしてやろう、とか思わねえのかよ」

「いいの、お兄ちゃん。私はみんなが一緒にいてくれるだけで、十分なんだから」

そう言ってあさ美は笑う。
まったく、お前には参ったよ。

「そっか。お前がそう言うんならそれでいいかもな。
あ、麻琴ちゃんでも呼ぶか?」

「ううん、今日は家族だけですごしたいな。だめ?」

「いや、それで構わないよ。
まあ、彼女に言ったら喜び勇んでコンドーム買ってきそうだしな」

「あの子ならそうかもしれないな」

親父がそう呟く。なんだ、親父にもそう見えてたのか。
やっぱりそういうイメージなんだな、彼女って。

「俺はそんなことしないぞ」

親父が何故か偉そうにそんなことを言う。
別に偉ぶって言うことでもないんだが……

「そんな奴、いねえよ!」

俺がそうはき捨てると、親父とあさ美もうんうん頷いている。

「それもそうだな」

……その夜、お袋が大量のコンドームを持って帰ってきた時には、
三人とも引きつった笑いしかできなかった。

「ありがとう、お母さん」

あさ美の引き絞るように出した小さな声は、無残にも静寂へと溶け込んでいった。

……静けさや、あさ美ささやくコンドーム……

エピローグ

俺はテレビを見ていた。そこには、社民党の辻本議員が映っている。
要するに、議員辞職の記者会見ってやつだ。

あさ美ってすげえな……

俺は思わずにはいられなかった。

俺とあさ美は、親父の衝撃的な告白の日に入籍した。
法律上は問題ないが、あんまり16歳になってすぐ結婚っていうケースは
ないらしい。まあそれはそうだろう。

その後、俺は政治家になり、あさ美は俺の秘書として働いてくれている。
あさ美のおかげで北方領土に宿泊施設を建てたりもできた。
背後で色々と画策していたのがバレて、証人喚問に呼び出された時も、
その席でも俺はあさ美に事前に教えられていた通りに答えたおかげで
波風もあまりたたずに話をすすめることができていた。

しかし、そこにやってきた辻本議員が根拠もなくめちゃくちゃな罵倒を
しはじめたので、流石に腹が立った俺も、つい叫んでしまった。

「嘘とはどういうことですか。撤回していただきたい!」

これが悪かったようで、俺の評判も悪くなった。

家に帰ると、あさ美がテレビを見ながら呟いていた。
俺が罵倒された、あのシーンだ。

「辻本……殺す」

で、何をどうしたのか知らないが、彼女は公金を横領したとかなんとかで
議員を辞めることになった。
本当にやってたのかやっていないのかは知らないが、そういう話に持っていった
のはあさ美なのだろう。

確かにそんなことができるぐらい凄くなってはいるが、俺の横にちょこんと座っている
あさ美は昔のあさ美となんら変わらない。
ちょっとボーっとしているようで、案外しっかりしている。
ほっぺも相変わらずぷにぷにだ。

そんなことを思っていると、あさ美が俺の二の腕をつつく。

「ん、どうした、あさ美?」

「ねえ、お兄ちゃん……キスしよ」

そう言ってあさ美は頬を赤く染める。
本当に、あの頃と変わっていない。
俺はそんなあさ美を抱きしめながら思った。

あさ美、俺はお前がいてくれればそれで十分なんだよ。
ムネオハウスなんて、いらないんだよ。
議員だって、辞めたって構わないんだよ。

エピローグ・終